#米州地区総支配人
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tetsuyasogo · 10 months ago
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ari0921 · 2 months ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和六年(2024年)10月29日(火曜日)弐
    通巻第8480号
中国の『国防七大学』OBが中国軍のなかに新派閥形成
  台頭する理工系エンジニアのテクノクラート集団
*************************
 中国の『国防七大学』とは北京航空航天大学, 北京理工大学, 南京航空航天大学, 南京理工大学, 西北工業大学,哈爾浜工業大学、哈爾浜工程大学をさす。
米国はこれら七校が中国の軍需産業と密接に結びついているため、交流を禁止しているが、日本の大学のなかには相変わらず、無頓着に交流し技術提携関係を持続している。
日本の国公私立大学計45校が、中国人民解放軍と関係があり、軍事関連技術研究を行う国防七大学と大学間交流協定を結んでいる。しかも9校は共同研究の実績がある。
 これら七校の出身者が、最近、軍エリートとして新興の派閥を形成している。
 習近平は最近しきりに「軍民融合」というタームを使う。そのうえ19回党大会のあと、「軍産幹部」をつぎつぎと上位に昇進させており、2022年の第20回党大会以降は、副大臣クラスで「軍産エリート」たちの存在感が高まっている。まさしく中国共産党内の潜在的な新興派閥である。
 トウ小平はベトナム懲罰戦争を仕掛けたが、ボロ負けした。階級章が曖昧で、命令系統がわからず、武器は旧式だった。にもかかわらずトウ小平があえて戦争を仕掛けてた理由は、戦争に打って出ることで軍をトウ小平主導のもとに整合させるという隠された目的があった。
 以後、しゃかりきとなって推進したのが『軍の近代化』だった。ハイテク武器の開発、軍の効率的運営、海軍の充実。そして地方軍閥をなくし、軍のシステムを総政治部、総参謀部、総装備部、総後勤務部の四つにはっきりと統合した上で、陸海空の三軍と七大軍管区にわけ分割統治を謀った。
 「中国海軍の父」といわれたのが劉華清だった。彼は党小平の信任厚く、人民解放軍海軍司令員(司令官)、第14期中国共産党中央政治局常務委員、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを務めた。最終階級は上将。
 江沢民は軍歴もなく軍人のだれもがせせら笑っていた。なぜこんなエンジニア出身の党官僚が軍に命令する権利を持つのか、と憤懣やるかたがなかった。そこで江沢民は懐柔策にでて軍人のアルバイトを黙認し、江沢民に忠誠を誓う胡麻擂り軍人にばんばんと上将(大将)辞令を乱発し、手なづけた。よって軍は腐敗した。
 習近平は、おそるおそると軍の改革に手をつけ四大総部体制を掻きあらして十五の局として再編、ついで七大軍管区を五大戦区に転換した。
さらにロケット戦略軍を新設し、理工系エンジニアを大量に採用し、ハイテク兵器の開発功労軍人を矢継ぎ早に昇格人事をおこなった。宇宙航空関連の軍人が、軍内でエリートと見做されるようになった。
ということは並みの軍事訓練をうけてきた兵隊からすれば体力も戦闘経験もない頭でっかちが、軍エリーとなっていくことに強い反発と嫉妬、怨念を抱いた。
 ▼とはいえ、国防軍事産業は閉鎖的社会である 
 新派閥は理工系、数学とコンピュータに強い教育的背景と防衛産業の運営モデルを通じて人間関係のネットワークが形成され、相互信頼、ならびに同質性が育まれる可能性が高いため、結束力が異様に強い派閥となった。
 コンピュータの軍事エリートが世界最大のハッカー軍団を取り仕切っていると推測される。
この『軍産エリート集団』は共産党中央委員会のなかに独自の軍産複合体閥を形成し、幹部が資源配分、政策立案、規制、現地調整、意見伝達などで重要な役割を担い、防衛産業の発展を統括している。
2024年6月には黄強(元国防科学技術委員会書記長、国防科学技術局副局長)が吉林省党委書記に任命された。異例の出世である。遼寧省の赫鵬、黒龍江省の徐勤と並んで、中国東北部の主要軍事産業基地の省党委書記3人全員が防衛産業出身者となったのだ。
 習近平氏は近防衛産業の発展と拡充を強く支援しており、防衛産業出身の幹部昇用が目立つことは述べたが、これら新エリートのほとんどは国防七大学を卒業している。
 しかし基本的な特質を述べれば、中国の防衛産業は閉鎖的な社会で、より広範な官僚制度を特徴付ける「ブロック論理」(日本で言うところの「省益」は防衛産業に��存在し、研究開発は特定の防衛企業または研究部門に限定される。セクト主義だ。
さはさりながら共産党のピラミッドの頂点である中央委員会メンバーのうち、防衛産業出身者は21名となった。第20期中央委員会では、劉国忠、張国清両副首相、馬星瑞新疆ウイグル自治区党書記、袁家軍重慶市党書記の4名が政治局に昇進した。習近平をのぞく政治局23名のうち、軍エリートは四名である。
 国務院人事をみても、多くの省庁が軍産関係者を重要な役職に据えている。
20期中央委員会では、国務院内の軍産資源や関連産業部門を実効管理する人物として、張国清副首相(工業担当)と劉国忠副首相、呉正龍国務委員、金荘龍工業情報化部長、懐金鵬教育部長などがいる。
 地方レベルでも21人の軍産幹部が14の省、直轄市、自治区で党書記または省長を務めた。
就中、東北三省である。遼寧省、吉林省、黒竜江省の重工業地帯は、ずばり日本の満州国建設時代に鉄鋼、造船、機械工業を育成発展させて基盤がある。
この三省が中国軍事産業にとって不可欠な研究企業や研究所の本拠地である。例えば、黒龍江省にはハルビン航空機工業集団(HAIG)、遼寧省には大連造船工業集団(DSIC)、ついでにいえば陝西省には中国航天科技集団(CASC)の第四研究所と第六研究所がある。
 中央委員会の軍産関係者の人脈を分析すると、多くが学歴や職歴を共有していることも分かる。学閥もまた習近平が清華大学閥を形成しているように中国の人脈地図に於いて重要である。
全国人民代表大会副主席の張清偉がこのネットワークの中心人物とされる。張清偉は航空宇宙分野で長いキャリアを積んできた。このため、航空宇宙分野の役人のほとんどつながりを持つ。重慶市の袁家軍・党書記、新疆ウイグル自治区党書記の馬興鋭、中央軍民融合弁公室の雷帆培副主任、工業情報化部長の金荘龍は副官を務めたことがある。
もう1人の中心人物は、副首相の張国清だろう。国務委員の呉正龍と陝西省長の趙剛は、一緒に仕事をした経験があり、張と呉は2013年から2014年まで中国共産党重慶市委員会で一緒に働いていた。
ただし中国共産党の最高機関である政治局常務委員に昇格した軍産関係者はいない。党の活動歴がないうえ、習近平のとの個人的な絆が薄いからだ。
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xf-2 · 1 year ago
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自民党の谷垣禎一元総裁(78)の自宅を訪ね、岸田文雄内閣の支持率がなぜ上がらないのか、一杯やりながら率直に質問をぶつけてみた。岸田首相の外交面の成果は、知らぬ間に立ち消えになってはいませ��か。
「確かにね。今回のウクライナ戦争で存在感が高まっているグローバルサウス(新興国・途上国)の取り込みなどは、日本の強みを生かしてよくやっている。彼らの一部には、西側の先進国に『あいつらは今も上から目線だ』と腹を立てている国が多い。事実上の『一強』となった米国や植民地支配の過去を抱える英仏に対し、『西側リベラリズムのおごり』と批判する国さえある。その中で、日本は独自のODA(政府開発援助)を駆使して努力を重ね、『欧州はうんざりするが、日本は違う』と評価も集めた。首相はここをうまくすくい、西側とつなぐ役割を果たしている」
ただ、今後はこの外交でも、首相にとって厳しい難局面が待つと説く。
「この戦争が終わったとき、どう新しい国際秩序を作っていくのかが焦点となる。そこでは、日本がすごく損な立場になるわけにはいかない。日本は必ず、それなりの地位を占めなければならない。国内では国民生活に目配りしながら、対外的にはこの難題に挑まなければならない。岸田さんに限らず、自分が首相になりたいと狙っている人にとっても、答えを出すのは簡単ではないはずだ」
テーブルには『野菜の揚げびたし』が登場した。パプリカとカボチャ、なすを素揚げして、甘辛いマリネ液にしっかりしみこませている。香ばしい夏野菜の香りと甘さが、冷えた久保田によく会う。
谷垣さんが「水内さんは産経新聞だからこっちが好きかな」といいながら、テーブルには白い陶器に「中華民国立法院」と書かれた蒸留酒「白酒(バイジュウ)がやってきた。テーブルには、「中華人民共和国」と書かれた「貴州芽台酒」も登場。「酒に国境はありませんよ」と酒巻俊介カメラマンが笑ったが、私はなんとなく中華民国を注ぐ。
食卓には、台湾からいただいたという白酒も登場した=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 食卓には、台湾からいただいたという白酒も登場した=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 谷垣さんに「一気に飲み干すんですよ」と言われたが、アルコール度数は50度! しかし、独特の香ばしい匂いがさわやかだ。昨年、谷垣さんのインタビュー連載を担当し、今回同席した豊田真由美記者は「食道の位置が分かる」とむせながら飲んでいる。
「この前、フランスのマクロン大統領がNATO(北大西洋条約機構)の東京事務所開設に反対したでしょ。私は心理がよくわかるんですよ」
谷垣さんが語りだした。 「海洋国家の道を選ぶか、大陸のつながりを大切にするか。各国が個別の事情を抱えていますよね。英国は海洋国家の道を選び、EU(欧州連合)から抜けた。残った独仏を中心とするEUはどうするか。陸続きの中国に経済などの利益を全部取られては大変だ。中国とうまく付き合いつつ、必然的に、カザフスタンなど中国の周辺国とも協力する。フランスがNATO日本事務所に反応した背景は、ここまで見なければならないと思うんです」
谷垣さんも白酒をなめる。
「日本もずっと、2つの選択を迫られていたでしょう。海洋国家としてアングロサクソンと組むか、大陸につながるところと組むか。日本では明治以降、右翼を中心に、中国や韓国と組んで欧州に踏みにじられない大義の旗を立てろという議論があった。しかし、当時は日英同盟を選び、今は日米同盟。アングロサクソンと組む流れを継いでいる」
「韓国も、似たような選択を迫られてきましたよね。北朝鮮との関係強化を図った文在寅(ムン・ジェイン)前大統領は、日本でいえば、沖縄県の米軍普天間飛行場の辺野古移設にブレーキをかけた鳩山由紀夫元首相の言動に近いと思っているんですよ。韓国では『北と南の連携を強くしていこう』という訴えが国民の喝采を浴びる面もあるでしょう。ただ、今の時代に文政権みたいな道をとるとあまりに支離滅裂になる。尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が誕生したのは、日本にとっても本当によかった‥、ああ、すっかりいい気になってペラペラしゃべっているなあ」
谷垣さんが車いすを少し動かしながら話題を変えた。
「最近は新聞を読みながら、私と同世代の方の回顧録をよく読むんですよ。私たちの世代は一体何を残したか-と考えながらね」
谷垣さんは昭和20年生まれだ。
「例えば歌手の加藤登紀子さん。読売新聞で連載していたが、彼女は私の1歳年上で、東大の五月蔡でシャンソンの『赤い風船』を歌っているのを聞いたことがあります。彼女と政治的立場は大きく異なりますが、同じ時代の空気を吸ってきた。���う1人挙げれば、ピアニストの山下洋輔さん。彼は麻布高校の先輩で、文化祭でピアノを弾いていたのを覚えている。ジャズという日本でまだ珍しかったやり方に挑んでいた」
「もう1人、倉本聰さん。彼は喫茶店でアベックのすぐ横に座り、会話をじっくりと聞きながらシナリオを練ってきた。テレビをどう活用するのか、一生懸命考えてきたんですね。戦後日本の可能性を開くためさまざま頑張ってきた」
「逆にいえば、そうそうたる大会社に行き、少し前まで『半導体は日本だ』と頑張った友人がいた。しかし、今は見る影もない-。俺たちの世代は何をやってきたんだろう。私とすべてジャンルは異なるが、この年になって、じっくり考えるんですよ」
日本酒のグラスを手に語る自民党の谷垣禎一元総裁=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 日本酒のグラスを手に語る自民党の谷垣禎一元総裁=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 少し遠い目をする谷垣さん。自らも、政治の中枢で時代を動かしてきたじゃないですか。
「自分のやってきたことはこんな副作用を生んでいたのかと考えるものばかりですよ。自分の思った通りになったことは絶対ない。ほとんど、予期しないことが起きている。例えば難民の問題。私は議員になりたての頃、自民党法務部会の副部会長としてこの問題に取り組みました。当時は無制限に外国人を入れるととんでもないという議論があり、入国には『職業訓練』という形を取り入れたが、今から思えば、物の見方が足りなかったと自省することが多い。『こんなこと考えもしなかった』という問題が次々と起きてね」
もう一例として挙げたのが、女性の社会進出の遅れだ。
「私は昭和20年生まれだから、現行憲法の『男女同権』は素晴らしいと教わった。しかしその私が何をやってきたかといえば、政治家の傍らで、家事は全部女房に押しつけた。家事はやってみると結構大変ですよ。こんなこと言ったら、あの世の女房に怒られるかもしれないが、専業主婦じゃない人が家事に取り組むのは大変だ。今は働く女性が圧倒的に増えたでしょ。亭主と女房がどっちも働いているのに、家事は女房だというんじゃね。子育てしながら政治に携わる上川陽子外相や加藤鮎子こども担当相は相当優秀ですよ」
子供2人を育てる豊田記者が「家事をしない人と結婚できませんよ」と合いの手を入れる。
「でも、少子化対策って、政府の政策でこなせるものなんですかね」
シャッターを切っていた酒巻俊介カメラマンが尋ねた。(聞き手 水内茂幸)
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mxargent · 1 year ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつて��なにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森��拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤���煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠��冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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kyotoenshinkangaeru · 1 month ago
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京都の真下にトンネル掘って北陸新幹線って本気?
小浜・京都ルートの概要  図1に通称「小浜・京都ルート」の最新の建設ルート案を示します。総延長は約140kmで設置駅は小浜東、京都、松井山手、新大阪が予定されています。区間の約8割がトンネルで、多くは大深度地下利用法の適用される地表下40m以深を通る計画です。京都府の最北部は「原始的な自然をはじめ、京都の歴史・文化を支えた豊かな自然環境が残る地域」として2016年に丹波高原国定公園に指定された由良川と桂川の源流域を縦断し、国道162号線沿いを南進し京都市内に至ります。京都駅への接続方法は2024年8月に3案が公表されました。建設費は3.4-5.3兆円、工期も25-28年となる見込みです。2016年のルート決定時に想定した建設費2.1兆円、工期15年と比べ、いずれも倍増しています。
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北陸新幹線構想と「小浜-京都ルート」決定の経緯  北陸新幹線は東京都から上信越、北陸地方を経由して新大阪まで到達する構想が1973年に立てられた高速鉄道で、国費によって整備がされる5つの整備新幹線の1つとして位置づけられています。長野オリンピックを経緯に1997年に長野まで延伸されましたが、その後長らく建設が凍結されていました。18年後の2015年に長野―金沢間が開通し、2024年3月に金沢―敦賀間が開通しました。 敦賀―新大阪間をどのルートにするかは長らく関西広域連合で議論された結果、米原まで延伸して東海道新幹線に接続する案、通称「米原ルート」とすることが決定され、2013年に政府に公式に要望を提出していました。  ところが安部政権下、敦賀・新大阪間延伸に関して沿線議員で主に構成される与党プロジェクトチーム(以下与党PT)が2015年に発足すると、展開が急変しました。2016年国土交通省は候補として「舞鶴ルート」、「小浜・京都ルート」、「米原ルート」の3案について所用時間・建設費用・費用便益比等を提示しました。表1に示すように、米原ルートは距離も最短で工期も短く、費用便益比(建設がもたらす便益を建設費用で割ったもので事業の公共性の重要な指標)も最高でした。しかし与党PTは小浜・京都ルートを採択しました。公表されている理由は「北陸と関西の間の移動の速達性、利用者の利便性等を総合的に勘案し、当該ルートが適切である」のみです。この際発表された小浜・京都ルートの工期は15年、建設費は2兆1千億、便益を建設費用で割った費用便益比は1.1でした。費用便益比は1を切ると赤字となります。1.1という数字は公共工事としては異例に低い数字でした。
米原ルートが採択されなかった理由  米原ルートが採択されなかったのは、JR西日本とJR東海の利益相反が理由と推測されます。JR西日本は北陸方面では新潟県の上越妙高までが管轄であり、従来運行していたサンダーバードはJR西日本のものでした。米原ルートの場合、北陸新幹線の旅客は米原で東海道新幹線に乗り換えて新大阪に向かうのでJR西日本の利益が目減りしてしまう一方、小浜・京都ルートではJR西日本の利権は保たれます。
小浜・京都ルート建設が起こす環境問題  小浜・京都ルートはトンネル工事により、膨大な量の残土が出ます。山岳区間では、4-7kmおきに斜坑が掘られ残土が運び出されます。小浜から京都の京北地域にかけては岩盤中のヒ素濃度が本州でも突出して高く、環境汚染対策の必要な「要対策土」が建設残土の3割を占める見込みが2024年11月に発表されました。これらの有害な土壌が谷を埋め立てるような通常の最終処分がなされると、建設地域は土砂災害と環境汚染のリスクを抱えることになります。現在建設中のリニア新幹線、北海道新幹線でも「要対策土」は中間貯蔵、最終処分を巡って建設地域に紛争と多大な負担をもたらしていいます。工事関係の大型車両の交通が山間部の生活や観光に与える被害も甚大です。  市街区間では大深度地下利用法に基づき地表下40m以深にトンネルが掘られます。設置される立坑は直径30mに及ぶもので、重機の出し入れ、残土の運び出しが行われます。25年以上にわたる工事を考えると立坑周辺の生活環境は大幅な悪化するでしょう。京都の街中から大阪までは、地下水面が高いため、地下水面より下をトンネルが通ることになります。京都市内では阪急電鉄、地下鉄東西線の建造時に地下水面が低下し、多大な影響が出ました。  伏見の酒造組合は、環境アセスメントの開始時に、工事が伏見の地下水取水に影響を及ぼさないよう配慮することを要望しました。現在提案されている3案のうち、京都駅東西案は地下水への影響が不可避です。南北案は駅の設置深が20mと浅いため地下水���スクは東西案より低いものの、用地買収を伴い、駅南北でも地主の認可が必要です。東西案、南北案いずれも工事期間中の京都駅周辺の利便性は悪化することになります。桂川案は伏見への悪影響回避のための新案ですが、京都駅から在来線に乗り換えて2駅と、利便性が低いです。
地下トンネルの安���性の懸念  トンネルは地震による断層のずれに対し無力です。東海道線の丹奈トンネル掘削は1918年から16年かかった大工事でしたが、工事中に発生した北伊豆地震により丹奈断層で2.4mの横ずれを起こしまました。今まで新幹線が地震で過酷な災害を免れてきたのは、断層をなるべくトンネルで横断しないよう設計者が配慮してきたためです。今回は大深度地下利用法が建設の前提となっているため、危険地帯を回避する術がありません。トンネル内を260km/hで走行する新幹線では大惨事が懸念されますし、地表下40mでは緊急避難や救護活動も困難です。国土交通省は東海動新幹線の有事の際の代替性を主張していますが、東海道新幹線に有事の際に北陸新幹線は無事である可能性が高いとは考えにくいです。
過小な便益  北陸新幹線の小浜・京都ルートを建設した場合、新大阪��沢間の所要時間は全線サンダーバードを利用していた時の2時間27分から1時間19分に短縮されると2016年国土交通省は試算しました。大深度地下駅へのアクセス時間を差し引くと1時間弱の短縮となります。元々所要時間が短かったため、新たな経済効果をもたらすかは疑問です。2016年の便益試算にはなんとか水増ししようとする痕跡が見られます。2046年の旅客数を現在と同じと見積もっていますが、大阪府、京都府、福井県の2050年の人口は現在の8割程度に減少する見込みです。さらに非現実的なことに、中京圏の旅客が名古屋から東海道新幹線経由で京都まで来て、そこで北陸新幹線に乗り換え北陸に向かう想定となっています。
環境アセスメント準備書は2024年内に公表予定  国土交通省は詳細ルートと同時に図3に示すような日程案を公表しました。ここでは環境アセスメント準備書が令和6年中に公表される見通しとなっています。準備書が公表されてから1か月半が環境アセスメントに対して国民が意見書を提出できる最後の機会になります。また最短で令和7年度中に工事認可・着工を目指すことが示されました。
詳細ルート発表に対する各首長の反応  松井孝治 京都市長は8月20日までの京都新聞の取材に対し、地下水保全、残土処分、建設地周辺の交通渋滞、財政負担などの課題を挙げ、「私は京都市長なので、市民にとっての便益と負担を考えないといけない」、「現時点では極めて慎重な姿勢にならざるを得ない」と回答しました。一方西脇京都府知事はまだ公的にはコメントしていません。  西脇隆俊京都府知事は8月9日の定例���見で、沿線自治体の事業費負担は地元の受益に応じたものにしてほしいと改めて国に伝えたと説明した一方、受益をどう計算するかは「きちっと数字が出せるかはノーアイデア」。延伸の費用対効果については「国と鉄道・運輸機構が考えるべきことで、私どもは言及する立場にない」と発言しました(8月21日毎日新聞京都版)。  吉村洋文大阪府知事は8月7日の福井新聞の報道において、「乗り換えなしで大阪まで一日も早くつなぐことが重要」とし、与党や沿線自治体などが合意している小浜・京都ルートを支持しました。ただ、国土交通省の新たな試算で当初想定より建設費が倍増し工期が延びる見通しとなったことに「国からきちんと見解が示された時点で、小浜・京都ルートが着実に実現できるのかを関係者間で深く議論すべきだ」と指摘、「米原ルート」の再考を求める石川県などの声については、無視はできないとの見方を示しました。 杉本達治福井県知事は8月8日の毎日新聞福井版の記事によると「来年度の認可・着工に向けて新たな局面に進んだものと受け止めている」とのコメントを出しました。杉本知事は駅位置やルートの案について「政府・与党が環境アセスメントや事業推進調査を進めてきた成果」と評価。「施工上の課題や対策について、地元に丁寧に説明した上で、年末までにルートを決定し、来年度の認可・着工を実現していただきたい」と要望しました。
各新聞社の社説  京都新聞は8月12日、「北陸新幹線の延伸 前提崩れた京都縦断、見直せ」と題する社説を掲載しました。京都を縦断する北陸新幹線「小浜ルート」の延伸計画は、前提が大きく崩れた。このまま押し決めれば、京都の自然や財政に多大な負荷をかけ、地域に深刻な亀裂が生じかねない、と論じました。  朝日新聞は8月22日、「北陸新幹線延伸、着工ありきは許されぬ」と題した社説を発表しました。公共工事の是非を検討する出発点は、建設にかかる費用と工期の長さであり、その見通しが従来の見通しから大幅に上ぶれするのなら「着工ありき」で突き進むことは許されない、と論じました。  産経新聞は8月20日、「人口減少などで社会情勢は急速に変化している。工期や費用の前提が大幅に変わった現実を踏まえて柔軟に延伸案を検討できるよう、国はもっと説明を尽くすべきである」と論じました。
米原ルート再考を求める動き  日本維新の会、教育無償化を実現する会は2024年6月18日、国土交通大臣に対し、米原ルートの再検討を求める提言書を提出しました。巨額の事業費や難工事、環境アセスメントの遅れ、着工条件を満たすかなど、小浜・京都ルートは不透明性が高いして、建設費が安く、工期も短い米原ルートへの変更を求めています。  石川県議会は2024年6月20日、現行の小浜・京都ルートとは異なる「米原ルート」の再考を求めることを賛成多数で決議しました。決議では、地下を通るとされる京都府での地盤沈下や残土処理��課題などに触れ、「(小浜の)先行きは全く不透明」と指摘していました。
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yotchan-blog · 2 months ago
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2024/10/17 9:00:25現在のニュース
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shintani24 · 3 months ago
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2024年10月5日
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インタビューに応じる中村敦夫氏=2022年8月29日午後、東京都内、藤田直央撮影
旧統一教会追い50年、中村敦夫さん「安倍氏への忖度で右往左往」(朝日新聞)2022年9月18日
「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」は日本の社会や政治に何をもたらしてきたのか。ニュースキャスターや参院議員も務め、約50年前からこの問題を追う俳優の中村敦夫氏(82)に聞いた。
 ――統一教会に関心を持ったきっかけを教えてください。
1970年代からです。全共闘(全国の大学に広がった学生運動)が崩壊し、オイルショックが来て、高度経済成長期にモーレツに働いたサラリーマンも報われない。欧州では環境やジェンダーフリーなど新たなテーマが出ていましたが、日本では左右の境がぼやけ、社会の連帯が薄れていました。
私は72年からテレビの時代劇で「木枯し紋次郎」を演じるなど俳優として忙しかったのですが、���督としても社会問題をテーマに映画をつくりたかった。時代を象徴する題材はないかと探していたら、駅前や大学の構内に黒板を持ってきて、懸命にオルグ(勧誘)しているグループがいるわけです。
それが統一教会系の学生組織の原理研究会でした。統一教会について調べると、朝鮮半島を植民地支配した日本は韓国に貢ぐべきだとか、でも反共産主義で岸信介元首相とつながっているとか。支離滅裂に感じましたが、世間はそういうことをあまり知らない。80年代にはバブル景気に向かう日本に浸透し、信者が霊感商法にかり出されていきました。
ワイドショーで批判をしたら…
 ――中村さんが教団と明確に対峙したのは、93年にテレビで批判してからですね。
合同結婚式に日本の芸能人が参加し、マスコミが盛んに取り上げていた頃です。ゲストで出た民放のワイドショーで意見を聞かれ、教義や活動がいかがわしいと言ったら、名誉毀損(きそん)罪で刑事告訴されました。そこで統一教会を追及��てきた学者や弁護士、ジャーナリストと一緒に記者会見して反論しました。
ややこしい団体だから触れない方がよいという空気が一般的でしたが、私ががんがん反撃を始めると正面から反論してもいいんだいう感じになって、みんながついてきてくれました。わかっていることを何とか形にしたいと、マインドコントロールをテーマにした小説も書きました。
 ――当時、どうしてぶれずに批判できたのですか。
私は表現者であり、言動のモチベーションは不正や不公平に対する怒りにあるからです。今でも統一教会の問題で信教の自由を持ち出す議論がありますが、宗教の話ではありません。マインドコントロールを駆使した「不安産業」といえるでしょう。高額な商品をほとんど人件費なしで売らせ、買わせる。被害者を支援する弁護士や牧師たちとやり取りし、信者や元信者にも会って確認しました。
政治思想には一貫性が必要ですが、これもころころ変わっているようにみえます。反共と言いながら、創始者の文鮮明氏は91年に訪朝して金日成主席と会い、関連企業が北朝鮮に進出しました。90年代半ばからは国会議員をめざしましたが、当選したらこの問題も引き続き追及しようと思っていました。
 ――98年の参院選東京選挙区で無所属で初当選すると、最初の国会での質問で9月に法務委員会で問題を取り上げています。92年に実現した文氏の入国を認めるよう、日朝国交正常化を唱えていた自民党の金丸信副総裁が法務省に働きかけた件をただしました。
99年に東京で合同結婚式が予定され、文氏がまた来るかもしれないという情報がありました。文氏は82年に米国で脱税で有罪となり、日本政府の上陸拒否事由にあたっていたのに、92年は入国を認めた。前例とするのかと法務省に聞いたら、「諸般の事情を総合的に考慮した上、慎重に検討する」という答えでした。
 ――公安調査庁に対して、教団や関連団体から国会議員に秘書が何人派遣されているか把握しているか、とも質問しています。
私に届いた投書の中身がリアルだったので、ただしました。「種々社会的な問題を引き起こしていることは十分承知しており、大いなる関心を持って統一教会という団体の動向については広く情報を集めている」と言いながら、秘書派遣については「把握していない」という答弁で、大丈夫かと思いました。
統一教会に食い込まれた国会議員は、国家を危うくしかねないとの自覚を持つべきです。私は当時の小渕内閣で外相になった高村正彦衆院議員が80年代末に関連企業から車を提供されていたこともその際に指摘し、罷免を求めました。
 ――高村氏は2018年まで自民党副総裁を務めました。朝日新聞の今年8月の取材に対し、80年の衆院選で初当選以来、教団から選挙で支援を受けていたが、車の提供を知ってすぐ返却した上で関係を断ち切ったと述べています。
それでも、外国に本拠がある集団とそこまで深い関係にあった政治家を外相にするなんて、国家の体をなしていない。上に立つ政治家たちがそうだから、官僚も答弁に困っていました。やはり岸元首相以降、自民党内の一部には特別な存在だから、調べてはいても忖度して何も言えないのではと思いました。
目先の票につられる政治家の危うさ
 ――新党で臨んだ2004年の参院選比例区では議席を得られず、政界を離れました。その後、国会で教団の問題はあまり取り上げられていません。
国会議員の頃は小会派で質問時間が短く、政府答弁ものれんに腕押しで反響が広がりませんでした。環境問題など他にもやりたいことも山ほどあった。マスコミも悪いですよ。合同結婚式で騒いだけど、オウム真理教の問題に関心が移り、年中ある統一教会の被害者の集会にほとんど取材に来なくなりました。その間に統一教会はより目立たないように、深々と政治に入り込んでいきました。
 ――具体的には、教団はどのようにして政治家との関係を深めたと考えますか。
やはり選挙です。政治家にとって選挙が一番大変だということは私も経験しました。後援会ががっちりあり、人を集めて態勢を組めるのは代々の世襲政治家ぐらいで、ほかは選挙のたびにあたふたとあちこちにお願いする。そんな中で信者がボランティアで入り慣れた手つきで動いてくれれば、こんな便利な人たちはいません。
選挙で世話になった政治家なら、講演会やパーティーに来てくれ、祝電を打ってくれ、と言われると断れず、広告塔になってしまう。目先の票��え手に入ればと思うから、その危うさが分からない。だから「電報を打ってくれと言われりゃ打つ」といった自民党の二階俊博元幹事長のような発言が出るんです。
 ――いま、安倍晋三元首相を殺害した容疑者が教団に家庭を壊されたと恨みを持っていたということで、教団がまた注目されています。この状況をどう考えますか。
安倍氏は小泉内閣の官房長官の頃に友好団体の集会に祝電を送り、霊感商法の被害者の弁護士らが抗議しています。首相を務めた後、最近になっても友好団体の集会にメッセージを送っていた。祖父の岸元首相からの三代にわたるつきあい、派閥の選挙マシンとしての実用性はあったのでしょう。
しかし、あれほど愛国心を唱えながら、なぜ日本で高額献金など社会問題を引き起こしてきた集団とつながり続けていたのか。指導者として論理的な政治思想があったのか。安倍氏を忖度してきた集団が政界で右往左往している。政治家が劣化したことで、国の能力が劣化している。国民は今回の事態をきっかけに、日本はとんでもないことになっていると気づき始めているんじゃないでしょうか。(聞き手 編集委員・藤田直央)
1940年、東京都生まれ。98年の参院選で東京選挙区から無所属で立候補し初当選、04年まで1期務めた。最近は各地で原発問題の朗読劇を催す。作家でもあり、旧統一教会をモデルに94年に書いた小説「狙われた羊」が今年再版予定。
コメントプラス
藤田直央(朝日新聞編集委員=政治、外交、憲法)【解説】 書きました。お元気でした。時代劇「木枯し紋次郎」は私が生まれた頃。合同結婚式でテレビが賑っていたのは大学生の頃で、原理研の人たちがキャンパスにいました。
匿名での脅しは多かったそうですが、むだな公共事業など他にも社会問題を追及していて、統一協会とは限らないから、とあまり話されませんでした。
ぶれずに批判できたのは、「私は表現者であり、言動のモチベーションは不正や不公平に対する怒りにあるからです」。後輩として肝に銘じました。
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sakumakou · 11 months ago
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20240110
0110 きままなTV・メディア情報です
「NHK予算、570億円赤字 受信料値下げで2年連続」(時事) 
「NHK、旧BS 103chで能登半島地震関連ニュースを放送へ」(Impress)
「NHK前会長が現執行部を痛烈批判『内部抗争に手を貸す』次期経営計画パブコメで」(産経)
「NHKのBS配信問題、前田前会長『冤罪デッチ上げ』と意見…記者会見で現会長ら反論」(読売)
「活動休止発表の松本人志、CX14日放送『ワイドナショー』出演を決定」(ニッカン)
「〝テレビの顔〟影響甚大 各局対応に追われる」(産経)
「パナとアマゾン『スマートTV』共同開発…視聴履歴をAI分析・好みに合わせ番組提案」(読売)
「J帝国崩壊を象徴する『どうする家康』の失速 2024年はTVの予定調和が壊れる年に?」(新潮)
「『ちゅ~るスタジアム清水』2軍参入『ハヤテ』本拠地ネーミングライツ CMでおなじみ」(SANSPO)
「浦和、チアゴサンタナ獲得決定的…清水のブラジル人FW、3季連続2ケタ得点」(報知)https://hochi.news/articles/20240109-OHT1T51266.html?page=1
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kanglo · 2 years ago
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第60回記念シン-サステナ塾(2023年5月19日)この8年間で学んだことを振り返って/渋谷にてリアル開催(懇親会あり)※旧塾生のみなさんもお集まり下さい! https://sustainajuku20230519.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/514313667534976 美しい地球を不毛な惑星にしないために、共に学び、共に行動する場、それがサステナ塾です。 Be the change you want to see in the world. あなたが見たいと思う変化に、あなた自身がなりなさい - Mahatma Gandhi(マハトマ・ガンジー) 【ダイジェスト版動画】第59回シン-サステナ塾/特別シリーズ「人生の真実シリーズ③/3」なぜこの時代に生まれてきたのか(2023年3月17日) https://youtu.be/Uvt5cMsq2Sk 【ダイジェスト版動画】第58回シン-サステナ塾/特別シリーズ「人生の真実シリーズ②/3」働くとは何か(2023年1月20日) https://youtu.be/8jw6qHFC5E4 【ダイジェスト版動画】第57回シン-サステナ塾/特別シリーズ「人生の真実シリーズ①/3」人生の目的とは何か(2022年11月18日) https://youtu.be/tYvC9xKt9lk 【ダイジェスト版動画】第56回シン-サステナ塾/特別シリーズ「命(いのち)を考える③命の活かし方」(2022年9月16日) https://youtu.be/MFp0T0q3kKU 【ダイジェスト版動画】 第55回サステナ塾/特別シリーズ「命(いのち)を考える②命の尊厳とは」(2022年7月15日) https://youtu.be/n6JJZqphbdc 【ダイジェスト版動画】 第54回サステナ塾/特別シリーズ「命(いのち)を考える①命とは何か」(2022年05月27日) https://youtu.be/GMtpT0UzV7A ーーーーーーーーー ■開催日時: 2023年5月19日(金)19時~21時 ※終了後にいつもの「魚民」で懇親会あり ■開催場所: 東京都渋谷区神南1丁目19-8 勤労福祉会館 2階 https://www.kokuchspace.com/p/b00ae591486832364617df30c134bf1f5df81da52f5d97346edb8a2a062ee6e3/ ■サステナ塾チケット総合(Peatix): https://sustainajuku.peatix.com/view ■参加費(下記は1回分のチケット料金です): 塾 生(一般)2000円(学生)500円 初参加(一般)2500円(学生)1000円 *会場でのお支払いも可(領収書ご用意します)※事前にお申し出ください。 *当日のキャンセルは、ご遠慮ください。 *一度でもサステナ塾にご参加いただいたことがある方は塾生となります ■開催方法:会場でのリアル開催 ※Zoomでの開催は今回は行わない予定です。 ■参加方法(チケットを購入下さい): ①Peatix経由: https://sustainajuku.peatix.com/view ②問い合わせフォーム: https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeayilkIVEuMZERZh2_EkEQIY4589ZpHXyO6KyTANxOziZ4_Q/viewform ※振込先をメールでお送りします。 ※当ページにも参加ボタンを押しておいて下さい。 ※入金後の前日までのキャンセル連絡は、返金対応致します(銀行振込の場合は、手数料を差し引かせて頂きます) ※入金後、当日のキャンセルの場合は、ご返金は出来ません。あらかじめご了承下さい。 ■サステナ塾アーカイブ(過去のサステナ塾の記録映像集:有料コンテンツ) https://vimeo.com/ondemand/sustainajuku ■塾長:森夕花(もりゆうか)プロフィール: 横浜生まれ。ドイツのフライブルクに留学中、フライブルグ市の行政と市民による持続可能な世界を目指す社会システムに出会う。その後、ユーゴスラビア紛争で、ドイツに逃れた難民の方々と出会い、罪のない人々の深い悲しみに触れ、生きるとは何か、幸せとは何かを考える大きなきっかけとなる。帰国後、戦争や内乱に巻き込まれ傷ついた子供達を救済するためのNGOドイツ国際平和村の存在を知り、世界の平和と心の癒しに携わることが自分自身の使命と感じ、ヒーリングセンターアルケミストで研鑽を積み、2001年から2008年まで同センターで、ヒーラーとして人間と動物の癒しに携わりながら、講師として後進の指導にあたる。2003年から自らの内面の探求のため、十数回、インドのアシュラムを訪れ、ヒンズー教の聖者より宇宙の真理の教えを受け、様々な神秘的な体験をとおして見えない世界の存在を確信する。また、心理学、仏教の禅、認知行動学、ジョーティッシュ(インド占星術)、メディカルハーブ、中医学などのホリスティック医学を学び研鑽を積む。 2015年1月、カングロ株式会社 執行役員に就任(2017年1月同社取締役に就任)。ライフコーチの他、アリゾナ州セドナにおいて『ビジョンクエスト(自己探求)ツアー』、茨城県常陸の国の『マインドフルネス古民家合宿』など、自然と宇宙との繋がりを取り戻し、古の叡智と共に暮らす生き方を体験し、それぞれが人生のMISSIONとVISIONを思い出す旅の案内人としても活動している。 ■世話人:楠 徳生(くすのきのりお): 合同会社JOLLAB代表。 ビジネス心理コンサルタント、Re3コーチ。長年IT系のプロジェクトマネジメントに従事している中、様々なストレスから体を壊したり、うつになってしまう人間を多く見てきた。その経験から、単なる管理手法でなく人間の心に関するアプローチの必要性を感じ様々な心理学的手法研究してきた。また以前オタク、変人、病人しかいないチームで日本初の画期的プロジェクトの大成功を納めたことをきっかけに、まわりにいる人間が無関係の「他人」や競争すべき「敵」でなく、協働し、自分が能力を発揮したり、足りない部分を補い助けてくれる「資源」であるという世界の見方に至る。現在そのことを伝え、楽しく成長する組織作りをお手伝いするために資源の再認識を行う「Re3」グループコーチングや、学校教育に活かしアクティブラーニングに関するコンサルティングを実施している。神奈川県藤沢市在住。 ■代表世話人:【藤井啓人(ふじいひろと)】 茨城県東海村出身。高卒後、上京し新聞配達をしながら予備校に通い筑波大学に入学。4年間、体育会硬式野球部に所属し選手と2軍監督を経験。1992年に株式会社リクルート入社。12年間、組織・人事コンサルティング事業に従事し、約2000社の企業の変革に携わる。社内表彰制度で全国MVP・部門MVPの受賞計8回。2004年に独立し、事業再生コンサルティングのマネジメントリコンストラクション社を設立。2010年5月カングロ株式会社 代表取締役に就任。独自のサステナビリティ・イノベーティブ・コンサルティング事業を開始。米国で「今最も羨望の注目を浴びる企業」とされるオンライン・リテーラーのザッポス社のハピネス経営、「社員をサーフィンに行かせよう」「レスポンシブルカンパニー」の題材となっているアウトドア用品メーカーの米パタゴニア社を研究し続け、約1000社3000名のビジネスパーソンにセミナーや勉強会等でその真髄を伝えている。2013年には西アフリカのナイジェリア連邦共和国にて合弁会社を設立し、水問題、エネルギー問題、食糧問題、環境問題を日本のテクノロジーで解決するソーシャルビジネス事業も行う。実地の中から発信される指南は、斬新・先駆的でかつパワフルであり、魂を揺さぶるものとなっている。2013年以降、システムD研究会、自転車事故防止委員会、セブメディの会を設立。2015年より同士と共に「懐かしい未来プロジェクト(HOOPS!)」「サステナ塾」を開始し、持続可能な地域社会の実現のために人間本来の役割を思い出すためのあらゆる「体験」の場と機会を提供している。自転車のある生活をこよなく愛し、年間約1万kmを走破する。マラソンランナー、トライアスリート。趣味はゴミ拾い、ベランダ菜園 ---------------------------- 【ダイジェスト版動画】第53回サステナ塾「生命科学の世界を視る③DNAは宇宙の仕組み」(2022年3月18日) https://youtu.be/V5-OiBNiKx4 【ダイジェスト版動画】第52回サステナ塾「生命科学の世界を視る②オートファジーメカニズムの発見が人類にもたらすもの」(2022年1月21日) https://youtu.be/44uaxrmloeM 【ダイジェスト版動画】第51回サステナ塾「生命科学の世界を視る①生命の生き残り戦略としての動的平衡」(2021年11月19日) https://youtu.be/6D4HvtzIvnw 【ダイジェスト版動画】「地球はこれからどうなっていくのか?」第50回記念サステナ塾~私たちの地球を知る(5回シリーズ)(2021年9月17日) https://youtu.be/Sg-f7jEnMpE 【ダイジェスト版動画】ナウシカはなぜ墓所を破壊したのか?「私たちの地球を知る❷」第49回サステナ塾の50回開催記念シリーズ(2021年7月16日) https://youtu.be/QrJdhP9rons 【ダイジェスト版動画】地球は本当に生きていた(ガイア理論進化版)50回開催記念シリーズ「私たちの地球を知る❶」第48回サステナ塾(2021年5月14日) https://youtu.be/yIfq2rPWZoc <サステナ塾VTR> https://youtu.be/avSh5flzx94 ■主催:サステナ塾 https://www.facebook.com/sustainajuku ■協力:カングロ株式会社 https://www.kanglo.co.jp/ SSPC(SDGs超実践者委員会)、HOOPS!、イノベーションサロンZ、システムD研究会、セブメディの会、自転車事故をなくすっぺ委員会、フィロアーツ研究会、ショックコヒーレント・イノベーションクラブ
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alaephoenicis · 3 years ago
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クラウス・シュワブ博士、または「外交問題評議会(CFR)は如何にして、心配せずに核爆弾を愛することを私に教えたのか」 Dr. Klaus Schwab or: How the CFR Taught Me to Stop Worrying and Love the Bomb
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注:このタイトルは、「ストレンジラヴ博士」が登場するスタンリー・キューブリックの映画 『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか (原題:Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)』 のパロディになっている。
Johnny Vedmore著
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世界経済フォーラムは、単にクラウス・シュワブの発案によるものではなく、実はCIAが資金を提供したハーバード大学のプログラムから生まれたもので、ヘンリー・キッシンジャーが率い、ジョン・ケネス・ガルブレイスと「本物の」ストレンジラヴ博士であるヘルマン・カーンによって実現に向け推し進められたものだった。これは、クラウス・シュワブを採用し、世界経済フォーラムの設立を手助けし、「心配せずに核爆弾を愛することを教えた」、実在の人物にまつわる驚くべき物語である。
記録にある「世界経済フォーラムの歴史」は、あたかもヨーロッパで作られた組織のように創作されているが、そうではない。実は、クラウス・シュワブは、ヨーロッパを拠点とするグローバリストの組織を作るために、アメリカのエリート政治家チームを影で操っていたのである。クラウス・シュワブの歴史に詳しい人なら、彼が1960年代にハーバード大学に入学し、ヘンリー・A・キッシンジャー教授(当時)と出会い、生涯の友となることをご存じだろう。しかし、世界経済フォーラムの歴史書に書かれているほとんどの情報がそうであるように、あなたには全容が語られてはいないのだ。実は、キッシンジャーはハーバード大学の国際セミナーでシュワブを勧誘するのだが、このセミナーはアメリカの中央情報局(CIA)の資金援助を受けていた。この資金提供は、クラウス・シュワブがハーバードを去った年に発覚したが、その関連性はほとんど知られていなかったー今迄は。
私の調査では、世界経済フォーラムはヨーロッパが作ったものではない痕跡が見つかった。実際には、ケネディ、ジョンソン、ニクソンといったアメリカ政治の時代における公共政策の大立者たちから発せられた活動である。この3人は全員、外交問題評議会とそれに関連する「円卓」運動、および中央情報局(CIA)のサポート役と繋がりがある。
キッシンジャーを含む3人の極めて強力で影響力のある人物が、クラウス・シュワブを社会・経済政策の構築を通じて、アメリカ帝国と連携した完全な世界支配という最終目標に向けて導いていたのである。
さらに、そのうちの二人は、世界的な熱核戦争(Thermonuclear War)の脅威を常に作り出す中核を担っていた。私は、この二人をこの時代の地政学という広い文脈で考察することによって、1960年代にどのように彼らの道が交差し合流したのか、CIAが資金提供したプログラムを通じてどのようにクラウス・シュワブを勧誘したのか、そして彼らがいかに世界経済フォーラム創設の真の原動力となったのかを明らかにする。
ヘンリー・A・キッシンジャーについて
ハインツ・アルフレッド・キッシンジャーは、1923年5月27日、ドイツのバイエルン州で、ポーラ・キッシンジャーとルイス・キッシンジャーの間に生まれた。一家は、ドイツの迫害を逃れて1938年にアメリカに渡った多くのユダヤ人家族の一人であった。キッシンジャーは15歳の時、ロンドンへの短期移民を経てアメリカに到着し、ファーストネームをヘンリーに変えることになる。一家は当初アッパーマンハッタンに定住し、幼いヘンリー・キッシンジャーはジョージ・ワシントン高校に通うことになる。1942年、キッシンジャーはニューヨーク市立大学に入学するが、1943年初頭、アメリカ陸軍に徴兵される。1943年6月19日、キッシンジャーは米国に帰化。彼はすぐに第84歩兵師団に配属され、伝説のフリッツ・クレーマーによって、師団の軍事情報部門で採用され、働くようになる。クレーマーは、バルジの戦い��キッシンジャーとともに戦い、その後、戦後のアメリカ政治に大きな影響を与え、ドナルド・ラムズフェルドなどの未来の政治家に影響を与えることになる。ヘンリー・キッシンジャーは、2020年に書かれた『ニューヨーカー』の記事「The Myth of Henry Kissinger(ヘンリー・キッシンジャーの神話)」で、クレーマーを「私の形成期に影響を与えた最大で唯一の人物」と表現している。
その記事を書いたトーマス・ミーニーは、クレーマーを次のように評している:
「ニーチェの火付け役で、自己パロディーの域に達しているクレーマーは( 弱った目を酷使するために、良い方の目には片眼鏡をつけていた )、ワイマール時代末期、共産主義者や茶シャツのナチスと街頭で戦ってきたという。政治学と国際法の博士号を持ち、国際連盟でキャリアを積んだ後、1939年にアメリカに亡命した。彼は、キッシンジャーに「利口な知識人とその無血の費用対効果分析を真似しないように」と警告した。キッシンジャーが「歴史に音楽的に同調している」と信じていた彼は、「『計算』しない場合にのみ、あなたは小市民と区別される自由を本当に手に入れることができる」と彼に言ったのだ」
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ヘンリー・キッシンジャー、クラウス・シュワブ、テッド・ヒース(1980年世界経済フォーラム年次総会にて)
第二次世界大戦中、キッシンジャーはアメリカの防諜部隊に所属していたが、軍曹に昇進し、平和宣言後も長年にわたって軍の情報部予備軍に所属することになる。この間、キッシンジャーは、ゲシュタポやナチスの幹部など「妨害行為者」のレッテルを貼られた者を追い詰めるチームの指揮を執っていた。戦後、1946年、キッシンジャーは欧州司令部情報学校の教師に任命され、正式に軍を去った後も民間人として働き続けることになる。
1950年、キッシンジャーはハーバード大学で政治学の学位を取得。ウィリアム・ヤンデル・エリオットに師事する。彼は、後に6人のアメリカ大統領の政治顧問となり、ズビグニュー・ブレジンスキーやピエール・トルドーなどの指導者にもなった。ヤンデル・エリオットは、多くの弟子たちとともに、アメリカの国家安全保障体制と、イギリスのチャタムハウスやアメリカの外交問題評議会に代表されるイギリスの「円卓会議」運動とをつなぐ重要な役割を果たすことになる。また、大企業、政界のエリート、学界が共有するグローバルな権力構造を押し付けようとするものであった。キッシンジャーは、その後もハーバード大学で学び、修士号と博士号を取得するが、この時期すでに、FBIのスパイとして採用されることを希望していたとされ、諜報機関への道を歩んでいた。
1951年、キッシンジャーは陸軍作戦研究所のコンサルタントとして採用され、そこで様々な心理戦の訓練を受けることになる。このような心理戦への意識は、この時期の彼の博士課程での研究にも反映されている。ウィーン会議とその帰結に関する彼の研究は、熱核兵器をその手始めとして登場させ、退屈な仕事を少し面白くすることにもなった。1954年、キッシンジャーはハーバード大学の短大教授になることを希望していたが、代わりに当時のハーバード大学の学長、マクジョージ・バンディ(ウィリアム・ヤンデル・エリオットのもう一人の弟子)がキッシンジャーを外交問題評議会(CFR)に推薦してきた。CFRでキッシンジャーは、核兵器に関する研究会の運営を始めることになる。1956年から1958年にかけて、キッシンジャーはロックフェラー兄弟基金(この時期、ロックフェラーはCFRの副会長)の特別研究部長にも就任し、国防に関する複数の委員会を指揮してレポートを作成し、国際的に注目されることになった。1957年、キッシンジャーは、CRFのためにハーパー&ブラザーズから出版された「核兵器と外交政策」を発表し、熱核戦争を制定させる主要人物としての地位を確立することになる。
1966年12月、ジョン・M・レディ国務次官補(欧州担当)は、「欧州政策の形成」のために22名からなる顧問団を結成することを発表。この諮問委員会の最も著名な役者は以下の5人であった。ハーバード大学代表ヘンリー・キッシンジャー、ワシントン外交政策研究センター(フォード、ロックフェラー、カーネギーの資金で運営)のロバート・オスグッド、ロックフェラーのスタンダードオイルのメルビン・コナン、コロンビア大学のワーナー・シリング、同じくハーバード大学のレイモンド・ヴァーノンである。このほか、外交問題評議会のメンバー4人、フォード財団のシェパード・ストーン、あとはアメリカの有力大学の代表者という顔ぶれ。
この委員会の結成は、英米の帝国主義者がヨーロッパの政策を自分たちの思うように決定できる世界経済フォーラムのような組織を制定させようという「円卓会議」のアメリカ支部の意図を示すことわざの礎石の敷設と考えることができるだろう。
戦後のヨーロッパは重要な発展途上にあり、強大なアメリカ帝国はヨーロッパの再生とその若い世代のアイデンティティの出現にチャンスを見いだしつつあった。1966年12月下旬、キッシンジャーは「西ドイツにおける最近の州選挙はナチズムの復活を示すものではない」と宣言する声明に署名した29人の「アメリカの対独権威」の一人となる。この文書には、ドワイト・アイゼンハワーなども署名しており、ヨーロッパが再出発することを示すもので、ヨーロッパの戦争の惨禍を過去のものにし始めるという意味が込められていた。この文書の作成に関わった人たちの中には、すでに海外からヨーロッパの政策に影響を及ぼしていた人たちがいた。特に、キッシンジャー、アイゼンハワーと並んで署名したのが、当時外交問題評議会の代表でもあったハンス・J・モーゲンソー教授である。モーゲンソーは、「科学者対権力政治」という論文を書き、「政治的、社会的問題の解決策としての科学技術への過度の依存」に反対したことで有名である。
1967年2月、ヘンリー・キッシンジャーは、ヨーロッパ大陸で100年に及ぶ戦争と政治的混乱の原因を作ったのは、ヨーロッパの政策決定であると指摘する。ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された「フラー調査」と題する記事で、キッシンジャーは、レイモンド・アロンによる著作『平和と戦争:国際関係論』がこれらの問題のいくつかを解決していると述べている。
ヘンリー・A・キッシンジャー教授が、ヨーロッパの政策形成にアメリカが関与することは、将来の世界の平和と安定に不可欠であると認識していたことは明らかだった。この頃、キッシンジャーはマサチューセッツ州ケンブリッジにあるハーバード大学を拠点にしていた。ここで、後に世界経済フォーラムの創設者となる若き日のクラウス・シュワブ氏が、キッシンジャーの目にとまることになる。
キッシンジャーは、国際セミナーの事務局長であり、シュワブもハーバードでの生活を回想する際によく口にする人物であった。1967年4月16日、ハーバードのさまざまなプログラムが、中央情報局(CIA)から資金提供を受けていることが報じられることになる。その中には、ヘンリー・キッシンジャーの国際セミナーへの13万5千ドルの資金提供も含まれていた。キッシンジャーは、この資金提供��アメリカの情報機関からだとは知らなかったと主張している。キッシンジャーの国際セミナーへの資金提供に対するCIAの関与は、文理学部長だったフランクリン・L・フォードのアシスタント、ハンフリー・ドーアマンによる報告書で明らかになった。1967年に書かれたドーアマンの報告書は、1961年から1966年までのCIAの資金援助に焦点を当てたものだったが、キッシンジャーの国際セミナーは、CIAが資金援助したハーバードのプログラムの中で最も多くの資金援助を受けており、1967年まで継続されることになった。クラウス・シュワブは 1965年にハーバード大学に着任した。
1967年4月15日、ハーバード・クリムゾン紙は、CIA Financial Linksと題する記事でドーアマンの報告書について、「援助には何の制約もなかったので、政府が直接研究に影響を与えたり、その成果が発表されないようにすることはできなかった」とする著者不明の記事を発表。「いずれにせよ、もし大学がCIAの研究助成金の受け取りを拒否するなら、影の組織は別の協定を通じてその申し出をするのに問題はないだろう」と淡々と締めくくっている。
これは証拠としてクラウス・シュワブがキッシンジャーによって、ハーバード大学でCIAが資金提供したプログラムを通じて、彼の「円卓」帝国主義者の輪に引き入れられたことを示している。さらに、彼が卒業した年は、それがCIAが資金提供したプログラムであったことが明らかになった年でもある。
このCIAの資金提供によるセミナーで、シュワブは極めて人脈の広いアメリカの政策立案者と知り合い、後に最強のヨーロッパ公共政策機関となる「世界経済フォーラム」の創設に協力することになる。
ジョン・K・ガルブレイスについて
ジョン・ケネス・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith、しばしばケン・ガルブレイスと呼ばれる)は、カナダ系アメリカ人の経済学者、外交官、公共政策立案者、ハーバードの知識人である。彼がアメリカの歴史に与えた影響は並大抵のものではなく、1960年代後半に彼が行った行動だけでも、その影響は今日でも世界中に及んでいる。1934年9月、ガルブレイスは、まずハーバード大学の講師として、年俸2,400ドルで教壇に立った。1935年には、ハーバード大学の12の寮の一つであるジョン・ウィンスロップ・ハウス(通称ウィンスロップ・ハウス)のチューターに任命される。この年、最初の教え子にジョセフ・P・ケネディJr.が加わり、2年後の1937年には弟のジョン・F・ケネディがやってくる。
カナダ人のガルブレイスは、1937年9月14日にアメリカに帰化。その3日後、彼はパートナーのキャサリン・メリアム・アトウォーター(Catherine Merriam Atwater)と結婚。その数年前、彼女はミュンヘン大学に留学していて、ミットフォードと同じ下宿に住んでいたが、その時のボーイフレンドがアドルフ・ヒトラーだった。結婚後、ガルブレイスは、東欧、北欧、イタリア、フランス、そしてドイツを広く旅行した。ケンブリッジ大学で、経済学者ジョン・メイナード・ケインズの下で1年間研究することになっていたが、ケインズが突然心臓発作を起こしたため、新妻の説得でドイツに留学。1938年の夏、ガルブレイスは、ヒトラー政権下のドイツの土地政策について研究することになる。
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ジョン・ケネス・ガルブレイス: チャーリー・ローズとのインタビュー映像
翌年、ガルブレイスは、当時「ウォルシュ・スウィージー事件」と呼ばれた、ハーバード大学を解雇された2人の過激派教官の米国内のスキャンダルに巻き込まれた。この事件で、ガルブレイスはハーバード大学から解雇された。
ガルブレイスは、降格してプリンストン大学で働くが、まもなく国家資源計画委員会から、ニューディール政策の支出や雇用プログラムに関する検討委員会の一員にならないかという誘いを受ける。このプロジェクトで、彼は初めてフランクリン・D・ルーズベルトに出会う。1940年、フランスがナチスの軍門に下ると、ガルブレイスは、FDRの経済顧問であったロークリン・カリーの要請で、国防諮問委員会のスタッフに加わった。しかし、この委員会はすぐに解散となり、ガルブレイスは価格管理局(Office of Price Administration, OPA)に任命され、価格統制を行う部門を指揮することになった。1943年5月31日、彼はOPAを解任される。フォーチュン』誌は、早くも1941年からガルブレイスのヘッドハントを試みており、すぐに彼をライターとして自社のスタッフに迎え入れた。
ガルブレイスにとって最大の転機は、1945年、ルーズベルトの死去の翌日だった。ガルブレイスは、ニューヨークからワシントンに向かい、ロンドンに派遣されて、戦時中の空爆による経済効果全般の評価を任務とする合衆国戦略爆撃調査局の部門長に就任。彼がフレンスブルグに到着した時には、すでにドイツは連合軍に正式に降伏しており、ガルブレイスの当初の任務は変更される。ジョージ・ボールに同行して、アルベルト・シュペーアの尋問に加わることになったのだ。この一手で、ガルブレイスは、価格設定に関する統計や予測を扱う政策顧問から、ナチスの高位戦犯の共同取調官になった。シュペーアは戦時中、ナチスドイツ国防軍の組織、整備、武装の中心人物である軍需・戦争生産大臣をはじめ、さまざまな要職に就いていた。
その後、ガルブレイスは、広島と長崎に派遣され、原爆の影響を評価することになる。1946年1月、ガルブレイスはアメリカ経済史の決定的な瞬間のひとつに関与。彼は、クリーブランドで開催されたアメリカ経済学会に参加し、ハーバード大学のエドワード・チェンバリン、テキサス大学のクラレンス・エアーズとともに、フランク・ナイトやその他の古典派経済学の主要な提唱者たちと討論することになった。この大会は、戦後のアメリカを支配することになるケインズ派経済学の登場を告げるものだった。
1946年2月、ガルブレイスはワシントンに戻り、経済安全保障政策局の局長に任命される。1946年9月、ガルブレイスはここで、ウィリアム・バーンズ国務長官のためにドイツの復興、民主化、そして最終的には国際連合への加盟に対するアメリカの政策を概説する演説を起草する仕事を任された。ガルブレイスは、当時「冷戦派」と呼ばれていた政治家たちに反対し、1946年10月に職を辞し、『フォーチュン』誌に復帰。同年、大統領自由勲章を受章している。1947年、ガルブレイスは、エレノア・ルーズベルト、アーサー・シュレジンジャーJr、ロナルド・レーガンらとともに、「アメリカン・フォー・デモクラティック・アクション」という組織を設立。1948年、ガルブレイスは、ハーバード大学に戻り、農業林業と土地利用政策の講師を務めることになる。その後、ハーバード大学の教授に就任。
1957年になると、ガルブレイスはかつての教え子で、当時マサチューセッツ州の��級上院議員だったジョン・F・ケネディと親密な関係を築き始めた。翌年、ガルブレイスの著書『ポーランドとユーゴスラビアへの旅』を手にしたJFKは、ガルブレイスを「学界のフィリアス・フォッグ」と公言し、社会主義計画を間近で検証した。ガルブレイスは1958年には『豊かな社会』を出版し、「常識」や「依存効果」といった言葉を生み出し、高い評価を得ている。ガルブレイスがハーバード大学のポール・M・ウォーバーグ経済学講座に就任したのもこの頃で、若き日のクラウス・シュワブに紹介されたのが、この講座だった。
1960年には、ガルブレイスはケネディ陣営の経済アドバイザーとなった。ケネディが大統領に当選すると、ガルブレイスは新政権のスタッフとして働き始め、ロバート・S・マクナマを国防長官に推薦した人物であることは有名な話。1961 年、ケネディはガルブレイスを駐インド大使に任命。同年末には大統領の要請でベトナムに赴き、テイラー・ロストウ報告書に対するセカンド・オピニオンを与えた。ケネディはガルブレイスの助言でベトナムから軍を撤退させ始めることになる。
1963年、ガルブレイスはケネディからのモスクワ大使就任の打診を断って帰国し、ハーバード大学に戻った。ケネディが暗殺された日、ガルブレイスはワシントン・ポスト紙の発行人キャサリン・グラハムと一緒にニューヨークにいた。ガルブレイスはそのままワシントンに向かい、新大統領の議会合同演説の原案作成を担当。JFK暗殺の翌年、ガルブレイスはハーバード大学に戻り、有名で非常に人気のある社会科学のコースを開設。そこで10年間教え続けた。その後、ジョンソン大統領の顧問という地位は維持されたが、残りの期間を経済学に特化した最後の学術雑誌の執筆に費やした。
1965年になると、ガルブレイスは大統領に演説や手紙を書き送り、ベトナム戦争反対をますます声高に主張。この亀裂はジョンソンとの間にも残り���ガルブレイスはついにAmerican for Democratic Actionの会長に就任し、"Negotiations Now!" というベトナム戦争反対の全国キャンペーンを展開。1967年、ユージン・マッカーシー上院議員がガルブレイスに説得され、来るべき予備選挙でジョンソンの対抗馬として出馬したことで、ガルブレイスとジョンソンの亀裂はさらに拡大。ロバート・F・ケネディもガルブレイスを自分の選挙運動に参加させようとしていたが、ガルブレイスは故JFKと親交があったものの、ロバート・F・ケネディの独特のスタイルにはあまり乗り気でなかったようだ。
1960年代後半になると、ガルブレイスとキッシンジャーは、ともにアメリカにおける一流の講演者、作家、教育者として知られるようになった。また、二人はハーバード大学のOBでもあり、ガルブレイスはポール・M・ウォーバーグの経済学教授、キッシンジャーは行政学の教授として、アメリカと新興の新欧州双方の外交政策づくりに力を注いだ。1968年3月20日、カリフォルニア大学サンディエゴ校で開催される「マンデヴィル講演シリーズ」と呼ばれる春のセッションの最初の講演者が、キッシンジャーとガルブレイスであると発表された。ガルブレイスは「外交政策:冷静な議論」、キッシンジャーは「アメリカとヨーロッパ:新しい関係」というタイトルで講演した。
キッシンジャーは、クラウス・シュワブをハーバード大学のJ.K.ガルブレイスに紹介し、1960年代も終わりに近づくと、ガルブレイスはシュワブの世界経済フォーラムの実現に協力することになる。ガルブレイスは、ハーマン・カーンとともにヨーロッパに飛び、シュワブがヨーロッパのエリートにこのプロジェクトを支持するよう説得するのを手伝った。第1回「ヨーロッパ経営者シンポジウム/フォーラム」(WEFの前身)では、ガルブレイスが基調講演者となった。
ハーマン・カーンについて
ハーマン・カーン(Herman Kahn)は1922年2月15日、ニュージャージー州バイヨンヌで、イェッタとアブラハム・カーンの間に生まれる。ブロンクスでユダヤ教の教育を受けて育つが、後に無神論的な信念を持つようになる。1950年代を通じて、ハドソン研究所で核抑止力の概念と実用性に関するさまざまな報告書を執筆し、それが後に軍の公式方針となる。また、放射線小委員会などの公聴会のための報告書も作成。冷戦初期のヒステリーの中で、カーンは知的、倫理的、道徳的に「考えられないことを考える」余地を与えられることになった。カーンはゲーム理論(合理的観念を持つ者同士の戦略的関わり合いにおける数学的モデルの研究)を応用し、熱核戦争に関する潜在的なシナリオと結果をウォーゲーム化した。
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ガルブレイスとキッシンジャー、そして広くアメリカの政治体制にとって、ヨーロッパは世界の安定だけでなく、一般的なアメリカの覇権に対する主要な脅威であった。戦後のヨーロッパの相対的な安定は、熱核の対立によるものと認識され、キッシンジャーは非常に早い時期からこの動きを認識し、アメリカの覇権のために状況を操り始めた。熱核抑止に関連する複雑な力学を理解しようとし、それが政策決定にどのような影響を与えたかは、ヘンリー・キッシンジャー一人の問題ではない。ハーマン・カーンは同時期の熱核戦略計画の第一人者であり、キッシンジャーは50年代半ば以降、同じ主題に関する仕事でカーンと何度も顔を合わせていたようだ。ハーマン・カーン(左)とジェラルド・フォード、ドナルド・ラムズフェルド
1960年、カーンは熱核戦争のリスクとその後の影響を研究して『戦争と抑止の性質と可能性』を出版。ランド社は、カーンの著作で議論された抑止力の種類を次のように要約している: 直接攻撃の抑止、敵が米国への直接攻撃以外の非常に挑発的な行為に関与することを抑止するための戦略的脅威の使用、そして、最終的には潜在的侵略者が、防衛者または他の者が軍事的または非軍事的な限定的行動によって侵略を不採算にすることを恐れるが故に抑止される行為。
翌年、プリンストン大学出版局からハーマン・カーンの代表作『熱核戦争について』が初出版される。この本は、近くて遠い将来の世界政治に大きな影響を与え、アメリカの制定派政治家たちを、最悪の事態を想定した熱核シナリオに対抗するための外交政策を具体的に打ち出すよう駆り立てることになった。イスラエルの社会学者で「コミュニタリアン」と呼ばれるアミタイ・エッツィオーニは、カーンが恐るべき著作を発表したとき、「カーンは、自由恋愛の提唱者がセックスに対して行ったことを核兵器に対して行った」とした。
カーンの複雑な理論は、しばしば誤った言い換えがなされ、そのほとんどが一文や二文で要約することは不可能であるが、それは熱核戦争に関する彼の考え方に象徴されている。カーン氏の研究チームは、さまざまなシナリオ、絶えず進化するダイナミックな多極化する世界、そして多くの未知なるものを研究していた。
熱核戦争については地政学だけでなく、文化にも即座に、そして永続的に影響を与え、数年のうちに非常に有名な映画によって表現される。1964年、スタンリー・キューブリック監督の名作『Dr.ストレンジラブ(奇妙な愛)』が公開され、その瞬間から、そしてそれ以来、カーンは「本物のストレンジラヴ博士」と呼ばれるようになった。この比較について質問されたカーンは、Newsweek誌に「キューブリックは私の友人です。彼は、ストレンジラヴ博士が私であってはならないと言ったんだよ」 と言っている。しかし、スタンリー・キューブリックの描く古典的キャラクターと実在の人物ハーマン・カーンの間に多くの親和性があることを指摘する人もいる。
1966年7月に外交問題評議会に寄稿した『ヨーロッパにおける我々の選択肢』というエッセイの中で、カーンはこう述べている。
既存の米国政策は、一般に、ヨーロッパの安全保障の手段として、西ヨーロッパの政治的、経済的、そして軍事的な統合または統一に向けられてきた。統一は西側諸国全体、あるいは世界の政治的統一に向けた一歩であると考える者もいる。ヨーロッパにおける国家間の対立は、近代史を根本的に破壊する力であり、その抑制や、より大きな政治的枠組みへの統合は、将来の世界の安定に不可欠であると考えられてきたからである。
この発言は、将来のヨーロッパとアメリカの関係において、ヨーロッパ連合を作ることが望ましい解決策であることを示唆している。さらにカーンにとって望ましいのは、米欧の統一超国家を作ることであった。
1967年、ハーマン・カーンは20世紀を代表する『紀元2000年 : 33年後の世界』という未来派作品のひとつを執筆。
アンソニー・J・ウィーナーとの共著であるこの本で、カーンとその仲間は、2000年の終わりに技術的に我々がどのような状態にあるかを予測した。しかし、カーンの『紀元2000年 』のすぐ後に、同時に発表されたもう一つの文書がある。それは、『教育政策研究プログラムのための補助的試験研究:最終報告書(Ancillary Pilot Study for the Educational Policy Research Program: Final Report)』と題された文書である。これは、カーンが『紀元2000年 』で描いた未来社会をどのように実現するかを描いたものである。
「意思決定者の特別な教育的ニーズ」という項目で、この論文は次のように述べている。意思決定者を明確に教育し、実質的に国家の運命を計画したり、より民主的なプロセスで策定された計画を実行することができるようにすることは、非常に真剣に検討されるべきである」。この手順の一面は、共有の概念、共有の言語、共有の類推、共有の参照...を作り出すことであろう。さらに同項で次のように述べている。「ヨーロッパの人文主義的伝統の精神に基づく普遍的な再教育は - 少なくともその包括的な指導者層にとっては - 多くの点で有用であろう。」
先に述べたレトリックを研究し、その意味を読み解くと、この文書の中でハーマン・カーンは、社会の中の特定のグループだけを潜在的リーダーとして養成し、権力のためにあらかじめ選ばれた少数の人々が、社会として共有すべき価値観を定義できるようにして、民主主義を破壊することを提案しているのである。ハーマン・カーンも、世界経済フォーラムの「ヤング・グローバル・リーダー」制度には賛成するだろう。
1968年、ハーマン・カーンは、ハドソン研究所では何をしているのかと記者に聞かれる。という記者の質問に、「私たちは神の視点を持っている」と答えている。大統領の見解だ。壮大。天空的。グローバル。銀河的。エーテル的。空���的。総体的。メガロマニア(誇大妄想)は職業病の定番だ」。この後、ハーマン・カーンは椅子から立ち上がり、空に向かって指を指し、突然「メガロマニア、ズーム!」と叫んだと言われている。
1970年、カーンはガルブレイスとともにヨーロッパを訪れ、クラウス・シュワブによる第1回ヨーロッパ経営シンポジウムの募集を支援。1971年には、後に世界経済フォーラムとなる政策立案組織の歴史的な第1回会合で、ジョン・ケネス・ガルブレイスの基調講演を中央舞台で見ることになる。
1972年、ローマクラブは「成長の限界」を発表し、2000年までに世界人口のニーズが利用可能な資源を上回るだろうと警告を発した。カーンは晩年の10年間をこの考えに反対することに費やした。1976年、カーンは、資本主義、科学、技術、人間の理性、自己鍛錬の可能性は無限であるとする、より楽観的な未来予想図『次の200年』を発表。また、『次の200年』では、地球の資源が経済成長に限界を与えることはなく、むしろ人類は「太陽系のあらゆる場所、おそらく星々にもそのような社会を作り出すだろう」と予測し、悪質なマルサス的イデオロギーを否定している。
(ALAE P.💬ここからが本題という感じ…)
シュワブの3人の恩師
カーン、キッシンジャー、ガルブレイスの3人は、それぞれ熱核抑止論、外交政策立案、公共政策決定に関して、アメリカで最も影響力のある人物となった。この3人のキャリアは、ヨーロッパと冷戦に焦点を当てたものだったが、この時代の他の重要な出来事における彼らのさまざまな役割は、いずれも他のもっと破壊的でよく隠された出来事から研究者の目を容易にそらす可能性を秘めていた。
この3人の強力なアメリカ人は、多様な形で互いに結びついていたが、特に、キッシンジャー率いる22人の顧問団が「ヨーロッパ政策の形成」のために設立された1966年から、世界経済フォーラムが設立された1971年までの間に、ある興味深い、注目すべき糸がこの人々を結びつけていた。3人とも英米帝国主義の「円卓」運動のアメリカ支部である外交問題評議会のメンバーだった。キッシンジャーは、卒業後すぐに米外交問題評議会(CFR)にリクルートされてすでに深く繋がっており、ガルブレイスは、1972年に「極めて公然と」CFRの会員を辞めたと言われている。CFRは退屈だとし、あるジャーナリストに対して、「ほとんどの議事は『このまま座っていていいのだろうか』と疑問に思うほど陳腐さのレベルは根深い」と語った。ガルブレイスがCFRのメンバーになった時期は明らかではないが、1958年7月には早くもCFRの機関誌『外交問題』に「インドのライバル経済理論」が掲載されるなど、CFRの出版物を執筆していた。また、カーンは、国務省の公式顧問として働きながら、1966年7月に「ヨーロッパにおける我々の選択肢」、1968年7月に「交渉が失敗した場合」という作品を書き、CFRを通じていくつかのエッセイを発表していることが確認できる。
1960年代以前、この格別に影響力のあるアメリカの3人の知識人は、それぞれ戦後のヨーロッパの問題を理解し、戦争で疲弊した大陸の将来を描くことに深く関わっていた。
ガルブレイスは、第三帝国時代のドイツの政策研究などヨーロッパを広く旅し、ヒトラーのドイツが崩壊した後は、同じようにソビエトのシステムを研究していた。ガルブレイスは、後に大統領となるジョン・F・ケネディに幼少の頃から影響を与えたことは言うまでもないが、彼の推薦でJFKがベトナムからの撤兵を開始するほどの力量を持っていた。ケネディがダラスで暗殺された時、ガルブレイスは次期大統領の最初の演説を起草することになるが、ガルブレイスはすぐに傍流へと追いやられた。1960 年代の混乱の中で、ガルブレイスはヘンリー・キッシンジャーと親しくなり、二人ともハーバード 大学教授で外交問題評議会(CFR) のメンバーであり、ヨーロッパを安定させ、ソ連の侵略からヨーロッパを守る、という同じ目標を持っていた。
ガルブレイスとキッシンジャー、そして広くアメリカの政治体制にとって、ヨーロッパは世界の安定だけでなく、一般的なアメリカの覇権に対する主要な脅威であった。戦後のヨーロッパの相対的な安定は、熱核の対立によるものと認識され、キッシンジャーは非常に早い時期からこの動きを認識し、アメリカの覇権のために状況を操り始めた。熱核抑止に関連する複雑な力学を理解しようとし、それが政策決定にどのような影響を与えたかは、ヘンリー・キッシンジャー一人の問題ではない。ハーマン・カーンは同時期の熱核戦略計画の第一人者であり、キッシンジャーは50年代半ば以降、同じ主題に関する仕事でカーンと何度も顔を合わせていたようだ。
カーンはキッシンジャーに、政治家や政策立案者が渇望する将来の出来事を比較的正確に予測する能力を提供した。カーンは、そう遠くない将来の技術進歩に関する正真正銘の預言者であり、彼の仕事は、しばしばストイックで人間の感情を排除してはいたが、時の試練によく耐えてきた。カーンとキッシンジャーの目標は1960年代半ばから後半にかけて重なり、この時期にカーンが行った脅威の評価がより楽観的になると、キッシンジャーはカーンの仕事が世界の人々に新しい未来を提供するための基本的なものであると考えるようになる。
しかし、キッシンジャーの未来像は、自由で公正な社会が共に「勇敢な新世界」へと進むというものではなく、キッシンジャー自らの外交問題評議会CFR主導による制定派の視点によって歪められた世界イメージを作り出そうとするものであった。キッシンジャーは、真の政治家として自己を再ブランディングしようとしたが、外国の民主的プロセスを破壊するだけでなく、最終的にはグローバリスト・アジェンダの利益のためにアメリカのシステムを弱体化させ続けることになったのだろう。シュワブがキッシンジャーに将来のグローバリストの指導者になる可能性を見出されたとき、このまだ若かったドイツ人はすぐにガルブレイスとカーンに紹介されたようだ。これは、カーンが、一般的な教育モデルとは別に、リーダーシップの潜在能力を持つ個人を特別に訓練する必要性を指摘したのと同じことである。
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世界経済フォーラムの設立総会で講演するクラウス・シュワブ(1971年)
クラウス・シュワブは、ハーバード大学を卒業したその年に、エッシャーウイス社をスルザー社に売却したばかりのピーター・シュミットハイニーに声をかけられた。シュワブの父オイゲン・シュワブは、第二次世界大戦中、エッシャーウイスのラーヴェンスベルク工場を経営し、ナチスの原爆用重水タービンの製造に極秘に携わっていたのだ。シュワブは、あるインタビューの中で、シュミットハイニーに呼び出された時のことを語っている:「君は今ハーバードから来て、近代的な経営手法を知っているから、統合を成功させるために手伝ってくれ」。しかしクラウスはそのインタビューでは、スルザー社とエッシャーウイス社の合併に協力し、スルザーAGという新会社ができたことには言及しなかった。シュワブが取締役を務めるこの会社は、南アフリカのアパルトヘイト政権の違法な熱核兵器開発計画に協力し、国際法を破ることになる。
クラウス・シュワブは、熱核戦争の最も重要な専門家たちの影響圏を離れるてすぐ、ハーバード大学を出て同じ年のうちに、熱核爆弾技術を専制政権に伝播することを扱う会社の合併の責任者を務めることになったのだ。
多くの人は、恐ろしい絶滅のシナリオを描いたりしないし、アパルトヘイトの南アフリカが歴史のこの時点で核兵器を手に入れることが、起こりうる最悪の事態の1つであると信じているかもしれない。しかし、ハーマン・カーンの熱核災害シナリオは、「災害や妨害工作、事故がない限り、主要な核保有国が侵略行為として熱核兵器を発射する勇気は当面ない」と、全くの天才に信じさせてしまったのである。実際、制定派の考え方は大きく変わり、ハーマン・カーンなどは、あるシナリオでは、フランスのような国を核保有国にすることは、地域的にも世界的にも安全保障に大きな利益をもたらし、米国の防衛費削減にも役立つと助言するようになっていた。
熱核戦争はもはや戦略的防衛政策の全てでも終結でもなく、1960年代も終わりかけの時期に、熱核による終末の恐怖を引き起こしていた当人たちが、本当に心配するのをやめて、核爆弾を愛するようになったのです。
注意:堕落した先駆者
世界経済フォーラム設立の真のブレーンは、クラウス・シュワブなのか?
キッシンジャーがシュワブを勧誘するために利用したセミナーに、CIAが関与していたことをどう考えればいいのだろう?
外交問題評議会(CFR)のような組織の背後に潜む権力者が、グローバリストの政策立案組織の真の創設者だったのだろうか?
世界経済フォーラムは、単にヨーロッパを統合するためのものだったのか?
それとも、キッシンジャー、カーン、ガルブレイスといったCFRの大物たちが設計した新世界秩序が意味するところは、ヨーロッパとアメリカ、そして残りの超国家の統合なのだろうか?
この3人の権力者は、それぞれ自分の知的欲求の反映をシュワブの中に見出していた。クラウスは、テクノクラート運動が始まった10年代の後半に生まれ、戦後の世界で形成期を迎えた最初の世代の出身である。カーンの未来予測は、人間の驚異を表現するだけでなく、その予測をできるだけ早く、結果がどうであれ、現実のものとするためのプロジェクトでもあったのだ。
1964年、クラウス・シュワブは、自分のキャリアをどうするか決めかねていた。彼は26歳で、自分の進むべき道を探していたが、その方向性を家族から見出すことになる。彼の父、オイゲン・シュワブは、第二次世界大戦中、ナチスの原爆投下作戦に参加し、歴史の「間違った側」にいた。オイゲン・シュワブ氏は、息子に「ハーバードでこそ、本当の力を発揮できる」と語っていた。戦後の分裂したドイツでは、熱核戦争の脅威が日常的に叫ばれ、人々の心理に大きな恐怖を与えていた。当時、ハーバード大学は、冷戦時代の欧州政策において中心的な役割を担っていた。
ハーバード大学在学中、シュワブはキッシンジャーの「国際セミナー」に参加していた。このセミナーは、CIAが資金を提供し、そのパイプ役として知られてい��。このセミナーで、クラウス・シュワブは、差し迫った核の恐怖を利用するなど、あらゆる方法でヨーロッパの公共政策に影響を与えようとする人物たちと知り合った。そして、カーン、キッシンジャー、ガルブレイスの3人は、このプロジェクトに信頼性を与え、世界経済フォーラム設立のためにシュワブを支援した。シュワブ一人ではヨーロッパのエリートに自分の意図するところを説明するのは容易でなかったので、彼はカーンとガルブレイスをヨーロッパに連れてきて、他の重要なプレーヤーにプロジェクトの一員になるように説得。ガルブレイスはフォーラムの最初の基調講演者となり、カーンの参加も大きな関心を集めたが、第2回世界経済フォーラムは大物の参加なしでは失速し、クラウス・シュワブはフォーラムの第3回年次総会に観衆を集める何かが必要であることを理解していた。
1972年、ローマクラブの創設者アウレリオ・ペッチェイは、ローマクラブの依頼で、過剰人口に対してマルサス主義的なアプローチをとった「成長の限界」という本を出版し、物議をかもしたことがあった。この本は、世界の経済成長の持続可能性に疑問を投げかけるもので、ペッチェイはシュワブから1973年の世界経済フォーラムの基調講演に招かれることになる。このきわどい広報戦略は、シュワブとその組織にとって大きな利益をもたらした。それ以来、このフォーラムは、規模、スケール、パワーともに大きくなっていった。しかし、すべての始まりは、CIAが資金を提供し、シュワブが運営する講座であった。
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アウレリオ・ペッチェイ(右端)、1975年ローマクラブ会議(パリ)にて
シュワブは単なるテクノクラートではなくなっている。彼は、自分の肉体的・生物的なアイデンティティーを未来のテクノロジーと融合させるという意思を強く打ち出している。スイスの山奥のシャレーでエリートたちと密談する、悪の絆のような生きた悪役の戯画となった。我々が持っているシュワブのイメージは決して偶然ではないと思う。戦後、西洋文化において非常にユニークなことが起こった。政府が主流メディアをツールとして使い始め、軍事級の心理作戦で大衆をターゲットにしたのである。支配的な制定派は、紛争シナリオのドラマを映画のようなメディアと併合させることは極めて有効で、場合によっては殆ど自己増殖的なプロパガンダを作り出することを発見した。スタンリー・キューブリックの『ストレンジラヴ博士』のような映画は、人々に熱核災害のシナリオ計画のばからしさを理解させるには素晴らしい手段であった。
しかし、権力や富を求める人々、つまりクラウス・シュワブの言うところの社会の「利害関係者(競合権利者・ステークホルダー)」からは注目されることになる。これは非常に重要なことで、極端な富と権力の���影は、社会の「ステークホルダー」を引きつけ、世界経済フォーラムのテーブルに呼び寄せることになるのです。クラウス・シュワブ氏の主要なイデオロギー商品である「ステークホルダー資本主義」は、こうした「ステークホルダー」を取り込むことで、真の民主的プロセスからあらかじめ選ばれた少数のリーダーグループによる統治システムへと権力を移行させるだろう。彼らは、ハーマン・カーンが予測したように、前世代によって定められたアジェンダを継続するよう訓練されている。彼らがすべてのカードを握る一方で、庶民には幻の疑似民主主義プロセス、貧困、そして常に不条理な心理作戦が残され、私たち全員の注意を常にそらすことになる。クラウス・シュワブはやがて、ハーマン・カーンが最も悲観的な予測の中で恐れてきた通りの人物になる。ローマクラブが「成長の限界」レポートを発表すると、ハーマン・カーンはその結果に反論し、その悲観論に反対する。同時に、クラウス・シュワブはそれを自分の計画の中心に据え、ダボスでの彼のフォーラムでその創設者を基調講演者として招いたのである。
現在の地政学的状況は、冷戦時代の東と西の構図に回帰しているように見える。最近のウクライナでも、主要メディアは60〜70年前と全く同じような核の話法をまたもや繰り返している。私が思うに、冷戦時代のレトリックに戻ったのには、非常に明白な理由があるのだろう。それは、クラウス・シュワブとその支持者たちがアイデア不足であることを示す、非常に明白なサインである。彼らが、自分たちが安全だと感じ、最も重要なこととして熱核戦争に対する大衆の恐怖を引き起こすような地政学的パラダイムに戻ろうとしているように見えるのだ。イデオロギー運動は独自のアイデアを使い果たすと、この繰り返しサイクルが常に起こる。1960年代後半から、クラウス・シュワブはハーマン・カーンが予言した世界を作ろうとしているが、カーンの未来像はかなり正確ではあっても、半世紀以上前のものである。シュワブのテクノクラート運動は、革新的なテクノロジーの開発に成功し、1967年に作られたビジョンに向かって私たちを前進させることにかかっているのだ。カーンの予測をもっと詳しく調べてみると、シュワブが推進するあらゆるアイデアは、ほとんどすべてカーンの『紀元2000年』、そして60年代後半にさかのぼる未来の姿の予測文書に基づいていることがわかる。しかし、シュワブが無視しているように見えるのは、カーンの予測の多くは、将来の技術的進歩から生じる危険への警告と結びついたものであるということである。
シュワブは人生の終盤にさしかかり、明らかに世界的な災厄をもたらす可能性のある急進的な未来派アジェンダを必死に推進しているようにみえる。私は、世界経済フォーラムが必然的なる崩壊を前に、その拡大が最大レベルに達しようとしている、と考えている。なぜなら、やがて自分たちの国のアイデンティティを愛する人々が、自分たちの特定の文化に対する直接的な脅威に立ち向かい、彼らはグローバリストの支配に反撃するであろうから。端的に言えば、いくら洗脳を施したとしても、すべての人をグローバリストにすることはできないのだ。国家の自由とグローバリズムの支配の間には自然な矛盾があり、両者は完全に相容れないものである。
最後に実にしっくり来る考察として、ハーマン・カーンはシュワブがハーバードを去るのと同じ年に、とても重要なことを書いている。前述のハドソン研究所の『教育政策研究プログラムのための補助的な試験的研究:最終報告書』と題する1967年の文書の中で、カーンはこう書いている。
「われわれの技術的達成、さらには経済的達成は、さまざまな恵みをもたらすものであることがますます明らかになってきている。進歩を通じて、大量破壊兵器の蓄積、増強、拡散、プライバシーと孤独の喪失、個人に対する政府や私的権力の増大、人間のスケールと視点の喪失、社会生活や心理生物学的自己の非人間化などの問題が生じている。危険で、脆弱で、欺瞞的で、あるいは劣化しやすい管理・技術システムの中央集権化の拡大、悲惨な乱用の危険性をはらんだ他の新しい能力の創造、そしてあまりにも急速あるいは激変しすぎてうまく適応できない変化の加速化。おそらく最も重要なことは、誤りを犯しやすい人間に安全を任せるには、あまりにも大きく、複雑で、重要で、不確実で、包括的な選択を迫られることであろう。」
著者:ジョニー・ヴェドモア
ジョニー・ヴェドモアは、ウェールズのカーディフ出身。完全に独立した調査ジャーナリストであり、ミュージシャンでもある。 彼は、他のジャーナリストが見落としている有力者を暴き、読者に新しい情報をもたらすことを目的に活動をしています。 ジョニーに協力したい方、または情報をお持ちの方は、johnnyvedmore.com、または [email protected] までご連絡ください。
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tetsuyasogo · 7 months ago
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March 26, 2015: Commencement Speech at Wasada University Dept. of Industrial and Management Systems Engineering.
2015-03-30 | PRESS RELEASE
NTN'S SOGO DELIVERS COMMENCEMENT AT WASEDA UNIVERSITY
TOKYO, JAPAN – In front of a crowd of graduates, parents and faculty, Tetsuya Sogo, CEO of NTN Americas Region, delivered the commencement address to the 2015 graduating class of Waseda University’s Department of Industrial & Management Systems Engineering on March 26, 2015, in Tokyo, Japan.
“It is an honor to be asked to deliver the commencement address at your alma mater,” said Mr. Sogo, a 1982 graduate of Waseda. “I believe it is important to provide insights to new professionals that can help them see how the education they just received will be the foundation of a successful career.”
Mr. Sogo focused his remarks on his experience in a global marketplace, and how the education he gained from the School of Creative Science & Engineering still helps him today. His main message, though, was that their education does not end with their graduation, they just need to change how they learn.
“Students learn theory in the classroom. Now it is time for them to go out into the world and learn through action,” Sogo said of the speech. “Action will serve them well not only with their practical knowledge of how things work, but also gaining the respect of their peers. The sooner they can learn this, the sooner they can establish themselves as growth minded leaders.”
Sogo has proven his support for this ideal through two initiatives. First, he has been establishing a Learning Organization culture at NTN in the Americas. Training and education reimbursement are available to inspire growth in all employees. Additionally, he has provided internship opportunities in all departments to help students in their education transformation.
2015年3月26日:
早稲田大学卒業式 - 祝辞 -
(創造理工学部 経営システム工学科)
<式次第> 
15:30 - 17:30 (63号館2階01教室)
一、開会の辞
一、学科主任挨拶
一、学士学位授与
一、修士学位授与
     経営システム工学専攻
  経営デザイン専攻
一、経営システム工学科
優秀学生賞授与
一、日本経営工学会
優秀学生賞授与
一、経営システム工学専攻
優秀学生賞授与
一、経営デザイン専攻
優秀学生賞授与
一、来賓祝辞(十河)
一、乾杯
一、校歌斉唱
一、閉会の辞
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ari0921 · 8 months ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)5月11日(土曜日)弐
   通巻第8249号
中国の軍配備は対外戦争だけに備えているのか?
  孫子の兵法なら中国の分裂を策するのが最も効果的である
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 AI時代、生成AIとチャットGPTの開発競争とは、実質的に第三次世界大戦である。「AIを確立した国家が世界の覇者となる」というのはプーチンの預言だが、開発現場のエンジニアには技術の視野狭窄に陥って、機を見て森を見ない状況にある。
 とりわけ米国の開発企業にむけて唸るような投機資金の流入をみていると、現場にある発想は人類への貢献より、カネではないか。オープンAI、AI-X、エヌヴィディアなど、この先端分野の企業はすべてがアメリカ発である。
孫子の肯綮とは、「百戦して百勝するは、善の善なる者に非ざるなり、戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」(百戦百勝はかならずしも最善ではない。戦わずして敵を屈服させるのが最善だ)
 この基本原則を台湾統一にあてはめると。。。。
「上策」はTSMCをそのままのみ込む
「中策」が軍事小競り合いと武威の継続。心理的降伏。
「下策」は軍事衝突、しかしシナ兵は戦わない
中国はいまモラルを引締め、国内矛盾のすり替えに「祖国統一」を呼号している。
 西側はAI規制のルール作り乗り出した。日本も遅ればせ『セキュリティクリアランス』法が成立した。
ところが、まったく非協力的なのが中国とロシアである。アメリカはハイテクを中国に渡さない政策に狂奔してきたが、結果は『ザル法』だった。7ナノ半導体が中国に渡っていた。
なにしろ相手はスパイと模倣、不法盗取が得意技の国なのである。日本製部品はかれらの兵器に使われ、また新幹線も鉄鋼もリニアもみごとに盗まれた。
 AIは、いまや自動翻訳からロボット分野で革命的な進歩をもたらし、半導体、EVで中国の追い上げは凄まじい。特許の出願件数(特許成立件数ではない)では、中国がアメリカを抜いている。
 一方で、アメリカが分裂を深め、シン南北戦争に突入する危機が日増しに増大している。その兆しが不法移民、LGBT、BLM、中絶、銃規制、同性婚、そしてイスラエル支援か否か、をめぐって鮮明な対立を産んだ。
アメリカの分裂は中国とロシアに裨益する。過激な社会運動へ迂回路を通じて中国からの資金が入っていることは周知の事実だが、金融面での中国銀行への締め上げはようやく効果を見せ始めた段階である。
 ▼中国を七つに分裂させるという壮大な戦略を西側は立案すべきではないのか
 さてそうであるとすれば、西側が策すべきは中国を分裂させる戦略であろう。もとより李登輝元台湾総統は「七つに分裂する」と主張されてきた。チベット、ウイグル、南モンゴルに旧満州は別の国であり、ほかに華北(北京圏)、華中(上海圏)、華南(広東圏)に分かれる。合計ななつ。
 語呂合わせで言えばユーゴスラビアは七つに分裂した。スロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビア、コソボ、モンテネグロ、北マケドニア。
 ソ連は15に分裂した。
 ロシア、ベラルーシ、ウクライナというスラブ枢軸とモルドバ、「バルト三国」(エストニア、ラトビア、リトアニア)、カフカスのグルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、そして中央アジアイスラム圏五ヶ国(トルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン)に。
 筆者は上記七分裂のシナリオに加えて蜀(四川省)、広西チワン自治区、雲南省も歴史的には別の国であり、香港、マカオ、それに事実上の独立国家たる台湾を加え,さらに細分化した地域に分かれると、シンガポールが「飛び地」で加わって緩やかな中華連邦となるとシミュレーションして『中国大分裂』(文藝春秋、絶版)を上梓したことがある。
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xf-2 · 3 years ago
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独占:アフガニスタンが崩壊する前に、バイデンはガニーに「認識を変える」ように圧力をかけた
ワシントン、8月31日(ロイター)-タリバンが国の支配を掌握する前の米国大統領ジョー・バイデンと彼のアフガニスタンの対応者との間の最後の電話で、指導者は軍事援助、政治戦略およびメッセージング戦術について話し合ったが、バイデンもアシュラフ・ガニーも気づいていないようだったロイターがレビューした記録によると、国全体が武装勢力に転落するという差し迫った危険に備えて、またはその準備をしている。
男性は7月23日におよそ14分間話しました。8月15日、ガニーは大統領官邸から逃げ出し、タリバンはカブールに入りました。それ以来、数万人の絶望的なアフガニスタン人が逃亡し、13人の米軍と数十人のアフガニスタンの民間人が、熱狂的な米軍の避難中にカブール空港での自爆テロで殺されました。
ロイターは大統領の電話の記録を検討し、会話を認証するために音声を聞いた。資料は、配布を許可されていない情報源から匿名を条件に提供されました。
呼びかけの中で、バイデンは、ガニーがアフガニスタンの渦巻く状況を制御する計画を持っていると公に予測することができれば、援助を提供した。「計画が何であるかを知っていれば、私たちは近接航空支援を提供し続けます」とバイデンは言いました。呼びかけの数日前に、米国はアフガニスタン治安部隊を支援するために空爆を実施した、とタリバンはドーハ和平協定に違反していると述べた。
(また読んでください:米軍はアフガニスタンを去りました。今何が起こりますか?)
米国大統領はまた、ガニーに、今後の軍事戦略のために強力なアフガニスタン人から賛同を得て、その努力を担当する「戦士」を置くように助言した。これはビスミッラー・ハーン・モハマディ国防相に言及している。
バイデンは、米国政府によって訓練され資金提供されたアフガニスタン軍を称賛した。「あなたは明らかに最高の軍隊を持っています」と彼はガニーに語った。「あなたは70-80,000に対して30万の武装勢力を持っており、彼らは明らかにうまく戦うことができます。」数日後、アフガニスタン軍はタリバンとの戦いをほとんどせずに、国の州都を越えて折り畳み始めました。
呼びかけの多くで、バイデンは彼がアフガニスタン政府の「認識」問題と呼んだものに焦点を合わせた。「世界中で、そしてアフガニスタンの一部で、タリバンとの戦いに関して物事がうまくいっていないという認識をあなたに話す必要はない」とバイデンは言った。「そして、それが真実であるかどうかにかかわらず、別の絵を投影する必要があります。」
バイデンはガニーに、アフガニスタンの著名な政治家が一緒に記者会見を行い、新しい軍事戦略を支持する場合、「それは認識を変え、それは私が思うにひどく変わるだろう」と語った。
アメリカの指導者の言葉は、彼が23日後に来る大規模な反乱と崩壊を予期していなかったことを示しました。「私たちは、あなたの政府が生き残るだけでなく、維持され、成長することを確実にするために、外交的、政治的、経済的に懸命に戦い続けるつもりです」とバイデンは言いました。
ホワイトハウスは火曜日、電話についてコメントすることを拒否した。
呼びかけの後、ホワイトハウスは、アフガニスタン治安部隊と議会からアフガニスタンへの資金を求める政権を支援するというバイデンのコミットメントに焦点を当てた声明を発表した。
ガニーはバイデンに、「軍事的解決策のバランスを取り戻す」ことができれば平和があると信じていると語った。しかし彼は、「私たちはスピードを持って行動する必要がある」と付け加えた。
「私たちは、タリバン、完全なパキスタンの計画と後方支援、そして少なくとも10〜15,000人の国際テロリスト、主にパキスタン人で構成される本格的な侵略に直面している」とガニーは述べた。アフガニスタン政府当局者と米国の専門家は、グループの復活の鍵としてタリバンに対するパキスタンの支援を一貫して指摘している。
ワシントンのパキスタン大使館はそれらの主張を否定している。大使館のスポークスマンはロイター通信に対し、「明らかに、パキスタンから渡るタリバンの戦闘機の神話は、アシュラフ・ガニー氏が主導と統治を怠ったことを正当化するための言い訳と後付けである」と語った。
ロイターは、この話についてガニーのスタッフに電話やテキストで連絡を取ろうとしたが、成功しなかった。アラブ首長国連邦にいると信じられているガニーからの最後の公式声明は8月18日に来た。彼は流血を防ぐためにアフガニスタンから逃げたと言った。
呼びかけの時までに、米国は、バイデンが前任者のドナルド・トランプによって設定された5月の日付から延期したアフガニスタンからの計画された撤退に十分に取り組んでいた。米軍は7月初旬にバグラムにあるアフガニスタンの主要空軍基地を閉鎖した。
2人の大統領が話したように、タリバーンの武装勢力はアフガニスタンの地区センターの約半分を支配しており、治安状況が急速に悪化していることを示している。
アフガニスタンは、農村地域を保護するために戦うのではなく、主要都市である「人口密集地」の保護に焦点を合わせ始めるという軍事戦略の転換を約束していました。バイデンはその戦略を承認して言及した。彼は、そうすることは、地上だけでなく、アフガニスタン政府に対する世界の支持を強化するために必要とされた国際的な「認識」にも役立つだろうと述べた。
「私は軍人ではないので、計画が正確にどのように見えるべきかをあなたに伝えていません。あなたはより多くの助けを得るだけでなく、変化する認識を得るでしょう… 」とバイデンは言った。
ガニーは、バイデンに「あなたのサポートの保証は、私たちを真剣に動員することを可能にするのに非常に長い道のりを行く」と保証した。
バイデンがガニーに電話をかけた後2週間強で、タリバンはいくつかの州のアフガニスタンの首都を占領し、米国は国を守るのはアフガニスタンの治安部隊次第であると述べた。「これらは彼らの軍隊であり、これらは彼らの州都であり、守るべき人々である」と国防総省のスポークスマン、ジョン・カービーは8月9日に言った。
8月11日、米国の諜報報告は、タリバーンの戦闘機が30日でアフガニスタンの首都を孤立させ、おそらく90日以内にそれを引き継ぐことができることを示した。代わりに、落下は1週間以内に起こった。
バイデン-ガニーの呼びかけはまた、アフガニスタン政府を悩ませた持続的な政治的争いを強調した。
バイデンが記者会見にアフガニスタンの元大統領ハミド・カルザイを含めるように彼に頼んだとき、ガニーは押し返した。「カルザイは役に立たないだろう」と彼は言った。「彼は反対であり、時間が重要であり、私たちはすべての個人を連れてくることはできません…私たちはカルザイ大統領と何ヶ月も試みてきました。前回110分間会いました。彼は私をのろい、私を米国の怠け者だと非難していました。」
バイデンは返答する前に一時停止した:「私はそれについての判断を保留するつもりです。」
カルザイは、彼の側近の1人に電話やテキストを送っ��にもかかわらず、コメントを求められなかった。
トップスタッフとの2回目の電話
その日の後半、米国大統領を含まないフォローアップの電話で、バイデンの国家安全保障補佐官ジェイク・サリバン、マーク・ミリー将軍、および米国中央軍総司令官フランク・マッケンジーがガニに話しかけた。ロイターはまた、その呼びかけの写しを入手した。
この呼びかけでも、焦点となったのは、アフガニスタンの地上での出来事に対する世界的な認識でした。統合参謀本部議長のミリーは、ガニに次のように語った。「米国、ヨーロッパ、そしてメディアのようなものに対する認識は、タリバンの勢いの物語であり、タリバンの勝利の物語である。そして、私たちは集合的に実証し、その認識、その物語を好転させるよう努める必要があります。」
「ここで時間が私たちの友達だとは思わない。迅速に行動する必要があります」とマッケンジー氏は付け加えました。
マッケンジーのスポークスマンはコメントを控えた。ミリーのスポークスマンは、出版時間までに返答しなかった。
ワシントンのアラム・ロストンとナンディタ・ボースによる報告。ロニー・グリーンとヘザー・ティモンズによる編集
私たちの基準:トムソン・ロイターの信頼原則。
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kubotty · 4 years ago
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音楽のススメ363
本日はKid Oryからの繋がりで、米国よりJelly Roll Mortonをご紹介していきます。
Jelly Roll Morton(ジェリー・ロール・モートン)とは、1885年米ルイジアナ州生まれのジャズ・ピアニスト・作曲家。
裕福なクレオール人コミュニティで育ち、14歳からピアニストとして仕事を始め、トニー・ジャクソンと並び、20世紀初期のストーリーヴィル地区でとりわけなの知られたピアニストだった��若い頃から南米ツアーを行い、「キング・ポーター・ストンプ」「ニューオーリンズ・ブルース」「ジェリー・ロール・ブルース」など多くの名曲を残す。
その後1926年に当時米国で最もメジャーだったビクターと契約して、Red Hot Peppersの録音。これは1920年代のジャズの古典的名盤として現在に到るまで多大な影響を与えている。当時キッド・オリー、オマー・シメオン、バーニー・ビガード、ジョニー・ドッズ、ベイビー・ドッズといったニューオーリンズ・ジャズの名人たちと多数コラボレーションを重ねた
1928年にNYヘ移住るすも世界大恐慌の影響もあり、不遇の時代に。その後ワシントンDCへ引っ越してバーの支配人になるもうまくいかなかったが、モートンの演奏に興味を持った民俗学者アラン・ローマックスにより米国議会図書館にモートンの演奏とインタビューが録音され、これらは後にジャズ音楽史の歴史的資料として貴重なものとなり後にグラミー賞を受賞。
ある日彼は店でオーナーの友人と喧嘩になりナイフで刺されて頭と胸に重症を負い、その傷の後遺症による喘息が悪化し、1941年に死去。
自己顕示欲が強く、自慢話を得意にする派手な性格だったがゆえぬ、自分の名刺にジャズとスウィングの創始者と書き、そのために自分の年齢や自身の作曲した年を偽ったりまでしていました。そんな性格が災いし周りから総スカンを食い、喧嘩で刺されましたが、彼の優れた作曲能力、ピアノの演奏から生み出される音楽は間違いなくジャズの歴史上最も偉大な遺産のひとつとされています。 ちなみに映画「海の上のピアニスト」では彼をモデルにした自己顕示欲の強いピアニストが出てくるそうなので、もう一回見てみようかな。
本日は彼の初期の名作「キング・ポーター・ストンプ」を。非常に音がいいので、これがもしかしたら米国議会図書館に所蔵されているものでしょうか?
Jelly Roll Morton / King Porter Stomp (1926)
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cuttercourier · 4 years ago
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[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきた���、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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cardamomoespeciado · 4 years ago
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世界の要人が丸裸!中国が集めていた驚愕の個人情報
 (福島 香織:ジャーナリスト)  中国・深圳に拠点を置く国有系企業「振華数拠信息技術有限公司」(以下、振華データ)が世界の政界財界関係者、軍事関係者を含む240万人分の個人データを集めていたことが明らかになり、世界を震撼させている。すでに多くの専門家がそのデータの分析を進めており、データの入手方法や入手目的などについて議論が交わされている。 ■ 世界の要人、軍事関係者の個人情報を収集  オーストラリア放送(ABC)、英国デイリー・テレグラフ、インドのインディアン・エクスプレスなどが9月14日に報じたところによれば、北京大学滙豊商学院(深圳)で教鞭をとった経験がある米国人経済学者、フルブライト大学(ベトナム)のクリス・バルディング教授が、偶然このデータベースを発見し、告発した。  問題の振華データは2017年に設立したばかりで、深圳のハイテク産業が集中する同市南山区に本部を置いている。業務は海外のさまざまなデータを収集・分析し、中国国内機構に提供するというもので、オフィシャルサイトでもそのように説明されていた(この騒動が表沙汰になった後は、同社の公式サイトは封鎖されている)。  振華データのデータベースは通称「海外核心情報データベース」(OKIDB:Oversea Key Information Database)と呼ばれ、大きく人物データベース、機構データベース、コンサルティングデータベース、関連データベースの4つにわかれている。公式サイトでは、240万人分のデータがあると説明されていた。  このうち人物データベースには、全世界の軍部、政界、ハイテク業界、メディアの関係者、民間組織リーダーなどのデータがそろっており、彼らのツイッター、フェイスブック、LinkedIn、インスタグラム、TikTok、ブログなどの資料を合わせて個人カルテが作成されている。
 さらに機構データベースでは、世界各国の核心的機構についての情報があり、それが人物データベースとリンクされている。  報道を総合すると、振華データは中国政府および中国共産党、人民解放軍を主要顧客とし、世界の著名人の個人資料データベースを作ることを請け負っているという。  ネットセキュリティー専門家たちが、バルディング教授が入手したデータを調べたところ、米国のトランプ大統領、英国のボリス・ジョンソン首相、日本の安倍晋三前首相、オーストラリアのモリソン首相、インドのモディ首相など世界の要人および軍人、ロイヤルファミリー、財界人、芸能人らの詳細な個人資料が含まれていることもわかった。また知名度は比較的低いが、経営者、学者、社会運動家、犯罪者などの個人情報もあったという。 ■ 振華データは政府との関わりを否定  振華データの親会社は国有企業の振華電子集団で、本部は貴州省貴陽にある。貴州省といえば、ビッグデータ産業の新聖地として習近平の肝煎りで「貴安新区」が2014年に制定されたことを思い出す人がいるだろう。振華データの王雪峰CEOはもともとIBMに勤務し、かつて中国のSNS微信上で「データを利用した情報戦」を支持する発言をしたことがある。  BBCが振華データのサイトを通じて関係者に連絡をとったところ、「メディアの報道は無から有を作り出している」と述べて報道内容を全面否定した。またインディアン・エクスプレスによると、ニューデリー駐在のある中国外交官が匿名で「中国が、かつて企業や個人が保持している個人情報の提供を要求したことはないし、これからもしない」とコメントしている。ただし中国当局と振華データとの関係についてはノーコメントだったという。  当社は一民間企業であり、中国政府とも人民解放軍とも無関係であり、一般の商業行為に従事しているだけであり、メディアが歪曲して報道している、というのが振華データとしての公式の立場である。
■ ダークウェブサイトからも情報を入手か
 バルディング教授は昨年(2019年)、中国の大手ハイテク企業ファーウェイのリサーチを行う過程で、このデータベースを偶然見つけたという。最初は中国共産党の監視対象である運動家・活動家のデータだと思っていたが、調べていくうちに、対象が全世界の多種多様の要人であることに気付き、中国のネット監視やデータ収集能力、インテリジェンスへの投資とその影響力を過小評価してはならないと考え、告発を決心した。
 バルディング教授は振華データ関係者を通じて、データベースの複製を手に入れ、オーストラリアのネットセキュリティー企業「Internet 2.0」のロバート・ポッターCEOの協力を得てデータの中身を分析した。さらに世界各国、メディア、ジャーナリストに資料を提供し、報道するよう求めた。個人ブログサイトでも9月14日に声明を発表した。
 資料のほとんどは、ツイッターやフェイスブックなどの公開情報をもとに収集したものだったが、住所、電話番号、生年月日、職業履歴や家族構成、銀行口座の番号のみならず、中には銀行の取引記録や、診療カルテなど、非合法に入手したと思われる情報も含まれていたという。
 台湾・国防安全研究ネット作戦コンサルタント安全研究所の曽怡所長が米国の政府系放送局「ラジオ・フリー・アジア」の取材に答えて、こうしたデータはダークウェブサイトを通じて入手した可能性がある、と指摘していた。ダークウェブサイトとは、閉じられたネットワーク上に構築された匿名性の強いサイトで、ハッカーたちがコンピュータウイルスやハッキングツール、あるいは麻薬や犯罪に絡む取引をしており、一部国家のインテリジェンス機関関係者も出入りしているという。特定の対象者に対するハッキングや情報収集にからむ取引もダークウェブサイトで行われているとされる。
■ 中国の情報収集力に世界が驚愕
 ABCによれば、振華データのデータベースは軍関係者の資料がきわめて興味深いという。例えば米国空母の軍官に関しては、特別に詳しい記述がある。このことから、このデータベースの主要ユーザーは人民解放軍だとみられている。
また個人単体の情報だけでなく、人によっては人間関係も詳細に書き込まれている。たとえばボリス・ジョンソンの資料には、彼の大学時代の友人や密接な関係をもつ人間の名前、来歴などもあったという。
 国別で言うと、米国人が5万人以上、英国人が4万人、オーストラリア人が3.5万人、カナダ人が5000人、台湾人2900人、日本人も500人以上が含まれている。
 またデイリー・テレグラフの調べでは、データベースには英国や米国の軍艦がいつどこに停泊するかといった情報も収集されていたという。さらに英国の国防・情報・航空宇宙関連企業、BAEシステムズのロジャー・カー会長の個人情報や、英国の宇宙産システム関連のサイトからダウンロードされた資料などもまとめられていた。
 ほとんどがネットの公式情報の寄せ集めとはいえ、通常の手段では入手できない情報も多数含まれており、中国の情報収集力とデータベース構築力に世界が驚愕している。
 英国保守党のボブ・シーリィ議員は「振華データのこうしたやり方は、個人の弱点を探し出すためだろう」とデイリー・テレグラフにコメントしていた。
 振華データの情報収集のやり方は、かつて問題視された選挙コンサルティング企業ケンブリッジ・アナリティカの強化版、という指摘もある。ケンブリッジ・アナリティカは、2016年の米大統領選や、英国のEU離脱(ブレグジット)を問う国民投票で勝利側が利用したコンサル企業として一躍注目されたが、フェイスブックを利用した情報収集のやり方にプライバシー侵害の疑いがもたれていた。ロシアンゲートの情報操作に関わったとの疑いがかけられたこともあり、2018年5月に破産申請し、業務停止している。
 フェイスブックのスポークスマンはBBCに対し、振華データの情報収集のやり方は、フェイスブック利用規則に違反しており、たとえ公開資料であってもこのような使い方は許されない、とコメントしている。ツイッターも「振華データとはなんら情報共有協議をしていない」と語っている。
■ 「政府による個人情報収集」を誰も止められない中国
 振華データのデータ収集のやり方は、たとえ営利目的の民間企業であっても当然問題があるのだが、やはり中国共産党政権下での国有系企業であるという点が、最大の懸念だろう。西側民主主義国家であれば、情報収集についても政府とメデ���アが牽制し合い、監視し合う関係にある。だが中国の場合、党と政府とメディアは一体であり、情報の悪用を世論によって監視する仕組みがない。
 理屈上は、政府がダークウェブから個人情報を収集すれば、メディアがスキャンダルとして暴き、世論によってその行為を正すことができる。逆にメディアが個人情報を違法に収集すれば、プライバシー侵害としてコンプライアンスとモラルを問われることになろう。
 シドニー科技大学の馮祟義教授はABCに対し、「中国には、ネット企業を含めていかなる企業も、すべての持ちうる個人情報を政府に提供することを義務付ける法律がある。中共(中国共産党)政権は統一戦線戦略を継続している。もし、あなたの個人情報が中共政権にわたり、あなたが反共的な思想の持ち主であるとわかれば、あなたを攻撃したり孤立させたりできるし、もし親共的な人物であると思えば、取り込む対象となり、党の代理人としてリクルートされるかもしれない」と語り、中国における個人情報データベースの脅威と影響力を指摘した。
 バルディング教授は、こうしたデータベースの存在は、中共中央と人民解放軍が民間ハイテク技術産業を利用して「超限戦」(非軍事的な要素を組み合わせた新しい戦争)の準備を進めていることの証左だと指摘している。こうしたデータベースが何をターゲットにしているかを調べていけば、中国のサイバー戦や国際社会における敵意の方向性がより明確にわかる、という。そう考えると、このデータベースがはらむ脅威はケンブリッジ・アナリティカどころの問題ではない、とも主張する。
 米国は国家安全を理由に、周辺国にも中国のインターネットや中国の科学技術を利用しないよう呼び掛け、ファーウェイはどこからも半導体供給を絶たれてついにスマートフォン事業撤退か、といった崖っぷちに追い詰められている。
 ファーウェイ製品には日本にもファンが多く、民間企業を政治的理由でここまで追い詰めなくとも、という同情論も耳にするが、振華データの問題をみると、中国企業に個人情報を預けることの恐ろしさを再認識させられる。
 やはり私たち西側の自由社会の住人は、中国共産党政権に支配されたハイテク企業とは共生できないのだ。
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