2023年3月30日(木) 出張旅行記その123 後編 【1月27日】 なんとか出国審査にたどり着いた店主。しかし,そこに待ち受けていたものは... うわー。なんじゃこの列は。ここはそうサクサクとは進みません。 迫る搭乗時刻。 スタッフにチケットを見せて場合によっては優先させてもらおうと思いましたが,その肝心のスタッフを見つけることができません。 あ!と思い声をかけてみたら,違う航空会社だから何にもできないと言われてしまいました。 ですよね。 さらにですよ!店主が並んでいる列,なぜか2列になっているんです。出入国審査の列で2列に並ぶのって,初めて体験しました。アリエナイ。 案の定,強い者が先にどんどん進み出します。挙げ句の果てには,他の列から加わる者まで。ちょっと〜! 店主の前に並んでいた若者が,その前に並ぶ家族に交渉し始めました。大阪便に乗る予定なのだが,搭乗時刻が迫っている。先に行かせてもらえないか。 お母さん一瞬悩んで,若者に譲りました。店主もよっぽど便乗しようかと思いましたが,お母さんの一瞬悩んだ顔を見たら,これ以上はお願いできないなと思いました。 どうやら,他の列にも大阪便で焦っている者が数名いるようです。仲間です。何も助け合えないけど。 しかし,この湧き上がってくる苛立ち。ここで焦っている者たちは皆被害者です。 完全に航空会社のミスだといえます。チェックインカウンターでもそうでしたが,行列を捌くスタッフがいないために,混乱が生じているようです。 そのスタッフが足りないのは,テト(ベトナム正月)のためでしょうか。 やはりテト,恐るべし! 出国審査が終わり,手荷物検査の列に並んでいる間に搭乗時刻が過ぎてしまいました。 もうヤケクソです。乗り遅れていたら,その時はその時です。西洋人に負けないくらい自己主張しようと思います。 注意深く放送を聞いていましたが,どうやらFinal Callはかかっていないようです。ということは,まだ間に合う? 検査を終え搭乗口に急ぐと,スタッフの女性が落ち着いて応対してくれました。い,いいの?こんなに落ち着いていて。 席に着くと周りは空いていました。どうやらここは,プレミアムエコノミー席のようです。 そして,店主が搭乗してからも数名の乗客が乗り込みます。 こうして飛行機が遅延していくんだな,と知りました。 途中本当にハラハラしましたが,おかげでプレミアムにアップグレードしてもらえたのは,ラッキーです。 ここにはスパークリングワインがあるのです。行きのエコノミーで注文したら,白ワインが出て来ました。Ice?と訊いてきたのでてっきり冷たいものだと思って頷いたら,まさかの氷が入っていました。 よく考えたら,スパークリングワインを常温で飲まないですよね。それならIce?と聞かれたら氷を考えて当然です。 氷入りのワインもなかなか乙なものでしたが,やはり飛行機の一杯目はスパークリングがいいです。 さあ,離陸です。 【お知らせ】 海外出張から帰ってきちゃいました。現在、通常営業しています。 ご来店、心よりお待ちしております。 【身体のセルフケア】 2023年4月22日(土) 16:30~18:30 上福島コミュニティーセンターにて 詳細、お申込みはメッセージにてご連絡ください。 #カフェ #バー #東南アジア料理 Cafe & Bar ສະບາຍດີ(#サバイディー ) 大阪府大阪市福島区鷺洲2-10-26 📞06-6136-7474 #osaka #fukushimaku #cafe #bar #福島区グルメ #福島区ランチ #福島区バー #ラオス #ベトナム #チキンライス #ベトナム旅行 #ベトナム旅 #ノイバイ空港 https://www.instagram.com/p/CqZw5vRSfFS/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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A place for smiling faces
カウンター、その148
笑顔と笑顔の交歓場所 😃
サケトメ��� 百春
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Cafe じみへん
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SAAWAAN BISTRO
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Sunny
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千串屋 東中野店
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vivo daily stand 東中野店
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メビウス
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カフェ・ベローチェ 四谷三丁目店
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スターバックス・コーヒー TSUTAYA 馬事公苑店(閉店)
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中華そば 共楽
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BERG
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ステーキガスト 岩槻インター店
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おにぎりこんが 羽田空港国際線ターミナル店
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TOKYO豚骨BASE ペリエ海浜幕張店
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山形田
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魚金 本店
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music shed YES!
ごっつい 下高井戸店
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松波ラーメン店
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ダブル エックスワイズィ バー
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銀座梵天
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つけめん 満を持して
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Live Performance Bar un.10
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久しぶりのテキサス。11年振り。まだPjが修士を取り終えたばかりで、PimmyがAustinに住んでいた時に、Austinに行ったのが最後。今回は、Austinより少し南のSan AntonioでAARの年次会議があるので参加。仲間で出す本の会議や、来夏ローマの世界哲学会議の準備会合、自分の発表、研究者仲間内の夕食会などは全て月曜日に上手くスケジュール調整できてしまったので、金曜日から土日は遊ぶ。Dallasから飛んできたPimmyと空港で集合して、早速、テキサスといえばBBQ。巨大ベビーバックリブを食す。
SanAntonioはメキシコとの領土争いの時に、Rooseveltが拠点とした場所。今回宿泊したMengerホテル内には、Rooseveltがメキシコからの独立のために中心的に戦った12名のカウボーイを集めた酒場、Menger Barがある。彼らが戦闘拠点としたAlamoという場所は、元々はスペインからのミッションが立てた修道院。そこに立てこもってアメリカ人が戦ったので、テキサスがアメリカの一部になっている。Texas prideの中心地でもある。
Mengerでは4泊するので、角部屋のAlamoが見える良い部屋をあてがってくれた。土曜日は朝、ダラダラしながらUNESCO遺産になっているカトリック修道院の午後からの半日ツアーに申し込む。BrunchをTexmexで有名なレストランへ歩いて行く。San AntonioはRiverwalkといって川沿いの道が整備されており、川に沿って街が形成されようとしている。ここ二十年位でwalkable cityへ改造していっている。世界遺産は、スペインのミショナリーが建てた教会や共同生活場所。フランシスコ会や、ベネディクト会が主に来ていたらしく、イエズス会の強欲的ながめつさから思うと、フランシスコ会やベネディクト会は少し性格が異なる。アメリカンインディアン達を教化していくと同時に、機織り、鋳造などの技術も伝授したらしい。見物の後はJazzバーへ。満席といって断られたので、適当に夕食を取っていると、受付のボーイがわざわざ探しに来てくれた。ノーショーだから、席を半額で売りたいという。店にしたら二重の商売だが、有り難く、半額なだけにショーの半分だけを聞く。やっぱり、アメリカのJazzは良い。身体に音楽が染み込んでいるのが良く分かる。でも、この日は良く歩いて、Pimmyによると27000歩も歩いたらしい。
日曜は、またダラダラして、Pimmyが行きたかった有名なパン屋カフェに行く。注文が届くのが遅いと文句を言ったら、注文していなかった私の分のホットチョコレートもサービスでくれた。お昼過ぎにはPimmyを見送り、学会発表準備の結論部分を練る暇もなく、Yale時代の教え子、WayneがAustinから車をぶっ飛ばして2時間もかけて会いに来てくれる。
Wayneはずば抜けて優秀だった。お母さんが大好きな甘えん坊の次男坊。お兄ちゃんと一緒に日本を訪ねてくれた時は、二人を山梨ドライブへ連れ出した。暫くお互いに忙しく、全然連絡を取っていなかったのだが、NYにいる時に、そういえば、WayneってAustinにまだ住んでいるの?とダメモトで聞いてみたら、なに~!!!って感じで会いに来てくれた。金土日は、彼女の誕生日で小旅行中だったのに、彼女をAustinの家に連れて帰ってから、わざわざ来てくれた。ありがたい。
Wayneは、この4年ほどFacebookで働いていたらしいが、12月からはAI関係会社で決算状況をAI判断させるサービスを提供するらしい。Facebookでも、決算関係プログラムを統括していたらしい。コロナ禍で相次いでお父さま、お母さまを心筋梗塞で亡くされたらしい。もう2年前だよマキ。。。ようやく、立ち直ってきたとこなんだよ。。。と。そんなWayneを見ながら、私の方が大泣きする。毎週のようにお母さんやお兄ちゃん、お父さんの話をしては嬉しそうにしていたWayne。無邪気さが無くなり、急に大人っぽくなったと思ったら、苦労していたんだ。お兄ちゃんがいて良かった。。。と。そして、ボストン出身の彼女はお父さんが脳腫瘍宣告を受けて3ヶ月で亡くなるなど、若いカップルは、私の知らない間に、大変なコロナ時代を過ごしていたらしい。人に会わなくて良かったから、本当に助かったねと、段々、昔の無邪気な笑顔に戻る。
今度はいつ会えるのだろう。お兄ちゃんの側に住みたいからと、お兄ちゃんが家を買ったGeorgia、Atlantaに引っ越すらしい。それと同時に転職。彼女は、もうずっとオンラインでの仕事なので、どこに住んでも同じ。彼女ができた時は嬉しく、私にまで報告してくれたっけ。僕は未来に希望を抱いていたいんだよ、マキ。と微笑む。心優しいWayneは、昔のWayneのまま。そして、人生は色々あるね。疲れる。。。と溜息をつく。
Wayneだけでなく、今回はTianyuやYui、Tucker先生と、ほぼ10年程度会っていなかった友人達と再会できた。彼らは、まるで昨日までと変わらない。普通に、つい昨日も会っていたような感覚なのだ。人生の生き方やスタンスが変わらない。結婚やら何やらで人格が変わるように感じる人間は、やっぱり、元々が底浅い人なのかなぁなどと思う。本質は、変わらないでいてほしいが、それが変わったように感じさせる時点で、人間として底浅いっていうことなんだろうな。主体的に人生を生きていないで、周りに流されるバカの証拠でもあるが。。。それに気付かない、気付けないのだとしたら、家族といえど、もうアホすぎて付き合いきれんやろ。。。とも改めて思った。
世界中散らばっている若い友人達。私はなんて幸せ者だろう。Wayneは別れ際に、マキは何も変わっていない。マキはマキのまま。安心した。というかホッとした。Yaleを思い出した。と、ボソボソ恥ずかしそうに言っていた。ちゃんと言語化できているだけ偉い。やっぱり、Wayneはお母さんに可愛がってもらっただけに、性格が可愛いのだ。私はWayneのお姉さんを自負していたが、また、思い出した。お姉さんを自負している分、彼らみたいな良い人間達の精神的拠り所になり続けて上げられるようにと。
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アフタヌーンティーのお話🫖
この時期は街がクリスマスソングやイルミネーションで溢れていてとても好きなシーズンです✨✨✨
��んだか楽しい気分になりませんか⁉️
今年は初めてクリスマスマーケットのマグを買いました❤️
今週末には都ホテルでクリスマスアフタヌーンティー🎄にいくイベントがあります❣️
「アフタヌーンティー」だけでも嬉しいのに「クリスマス」が足されたらもう嬉しすぎます✨✨✨
私の主催する会ではアフタヌーンティー多めです😆
美味しいお茶と楽しいおしゃべり、スタンドに乗った美味しい素敵な食べ物❤️アフタヌーンティーってとても好きです✨
そういえば今年の流行語で「ヌン活」という言葉が出ていましたね😆
私の好きなアフタヌーンティー🫖
ヒルトンシーホークの【バー&ダイニング CLOUDS】天空のアフタヌーンティー
西中洲の星期菜の香港アフタヌーンティー
グランドハイアット福岡「バー フィズ」のアフタヌーンティー
太宰府のカルティアのアフタヌーンティー
一番好きなのは福岡三越のフォートナム アンド メイソン のアフタヌーンティー🫖かな。
アフタヌーンティーではないのですが、東京に行った時は銀座のマリアージュフレールに寄ります。そして銀座三越のラデュレにも。
ティーサロンってなんだかとっても惹かれる場所です❤️
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The New Yorkerのハミルトン特集翻訳
The New Yorkerの2015年のハミルトン特集の翻訳してみた。1万7千字ぐらいなっちゃってますが。。。できてすぐの記事なので、のちの評価の俯瞰はないのですが、創作過程とミランダのキャリアがわかる記事です。締めがエモい。
【このカッコが私の注釈です。例のごとく誤訳マシンなので気になる人は原文を読もう!】
ハミルトンについてのすべて
The New Yorker, FEBRUARY 9, 2015 ISSUE
レベッカ・ミード
2009年4月、作家・作曲家・パフォーマーのリン=マニュエル・ミランダは、ホワイトハウスからの連絡を受けた。新しい大統領とファーストレディが「アメリカの経験」をテーマにしたライブ・パフォーマンスを企画し、ミランダは招待されたのだった。当時29歳だったミランダは、前年に彼が作曲・作詞したブロードウェイ・ミュージカル「イン・ザ・ハイツ」に出演していた。ワシントン・ハイツを舞台に、サルサとメレンゲをラップやヒップホップと融合させた音楽と、ブロードウェイにありがちな展開を効果的に混ぜた物語だ。「ハイツ」はベスト・ミュージカル賞や作曲賞などのトニー賞を受賞し、後者の受賞の際には「Sunday in the Park with George」を引用した快活なラップを披露した。“Mr. Sondheim / Look, I made a hat! / Where there never was a hat! / It’s a Latin hat at that!”(そしてタキシードのポケットからプエルトリコの旗を取り出した)ホワイトハウスはおそらくミランダからラテンアメリカンの経験を期待していたのだろう。「イン・ザ・ハイツ」からの曲でも良いと提案された。
ミランダはもっと違うことを考えていた。数ヶ月前、彼と彼のガールフレンド、ヴァネッサ・ナダルは結婚し、メキシコへ新婚旅行へ出かけた。プールの浮き輪に揺られながら、彼は気まぐれに読書を始めた:ロン・チャーナウによる800ページ超の、アレクサンダー・ハミルトンの自伝だった。ミランダはハミルトンの初期の人生に魅了された。婚外子で、セント・クロワ島で極貧のうちに育った。父に捨てられ、幼い頃に母を亡くし孤児となり、ハミルトンは青年期に自力で革命の熱気高まるニューヨークに移民した。雄弁で筆の早い文筆家で、フェデラリスト・ペーパーの2/3を執筆した。独立戦争でジョージ・ワシントンに仕えた後、アメリカ初の財務長官となった。のちに、不倫問題が明るみになり、政界初のセックス・スキャンダルにより悪名を集めた政治家となった。その後閣僚に入ることはなく、50代になる前に死んだ。個人的不和が修復不可能となったために、決闘で副大統領のアーロン・バーに殺されたのだ。
ミランダはハミルトンの波乱万丈な人生、才気、言語の巧みさ、そして自己破壊的なまでの頑固さを、独特のレンズを通して眺めた。それは、ヒップホップの物語、移民の物語としての視点だ。ハミルトンは彼の父、ルイス・ミランダJr.を思い起こさせた。プエルトリコの地方で生まれ育った若く野心的な男で、18歳になる前に大学を卒業し、ニューヨーク大学で学業を治めるためにニューヨークに移住した。ルイス・ミランダはエド・コッホ市長のヒスパニック関連の特別顧問をつとめ、その後政治コンサルト会社のMirRamグループを設立し、フェルナンド・フェラーなどの顧問を行った。高校の夏休みには、リン-マニュエルも父の会社で働いた。のちに、彼はエリオット・スピッツアーの2006年の知事選などの、MirRamグループの顧客の政治広告のための宣伝曲を書いた。チャーナウの1800年選挙の描写はーー現代の政治キャンペーンの起源だーーミランダの政治キャンペーンに対する内部の視点と共鳴した。ハミルトンと同胞たちが行った政府の目的に対する議論は、MSNBCとFOXの対立のごとく今も活きている。
ミランダはまた、ハミルトンのなかにトゥパック・シャクールを見た。西海岸のラッパーで、1996年に射殺された。シャクールは複雑な、社会派の歌詞を書いた。ミランダは特に“Brenda’s Got a Baby,” に魅了された。21歳の娼婦になった女の子が暴行者のこどもを産む物語を描いたヴァースだ。シャクールはまた極端に気難しく、気に入らないラッパーのことを公に罵倒した。ミランダはハミルトンの中に同じ言語的才能と、これまた似たような、致命的な、引き際の知らなさを見た。これらはハミルトンの物語の中でとてもドラマティックな要素だった。彼がのしあがるために必要だった性格が、彼を転落させると言う点だ。ホワイトハウスのイベントの主催者が電話した時、ミランダはハミルトンについてのラップを提案した。彼らは了承した。
5月の夜、ミランダと他のパフォーマーたちはーージャズベーシストでボーカリストのエスペランザ・スポルディングや、ジェームス・アール・ジョーンズがいたーー大統領に紹介された。ミランダは彼に空港で買った”Dream from My Father”にサインを頼んだ。ステージで、ミランダはハミルトンのコンセプト・アルバムに取り組んでいると発表した。「ハミルトンはヒップホップを体現していると思う」と彼は言い、人々は笑った。まだ一曲しか書いていないとは言わなかった。ミランダはハミルトンが「言葉が違いを見せる」ことの体現��していると説明した後、ハミルトンの最初の20年の人生を4分の複雑な歌詞で要約して見せた。華奢で、黒く短い髪で濃い髭のミランダは跳ねるようなエネルギーをまといながら、ステージを歩き回り、ラップした“the ten-dollar Founding Father without a father / Got a lot farther by working a lot harder / By being a lot smarter / By being a self-starter.” 彼のパフォーマンスは観客から歓喜の呟きを引き起こし、オバマ一家は熱狂した。(ミランダは後から、大統領の最初のリアクションは「ティモシー・ガイトナー【オバマ政権の財務長官】も見るべきだったな」というものだった、と教わった。)
6年後、その歌は、2月17日からパブリック・シアターで開幕した「ハミルトン」のオープニング・ナンバーとなり、ミランダがタイトルロールをつとめた。ヒップホップに根付いているが、R &B、ジャズ、ポップ、ティン・パン・アレー【ブロードウェイの音楽を起因とした商業ポップス】、現代ブロードウェイの合唱などを包括した。「ハミルトン」は歴史と文化の再イメージ化の到達点である。ミランダの語りの中では、成り上がりで向こうみずな移民の物語は、アメリカの物語となる。ハミルトンが自ら宣言するリフレイン“Hey, yo, I’m just like my country / I’m young, scrappy and hungry / And I’m not throwing away my shot,”は、その戯曲家にも言えることだ。ミランダは自分のツイッターのアイコンをハミルトンの10ドルの肖像に、自分のニッと笑った口、黒い眼、あごひげを抜めなく重ねている。
「ハミルトン」はアメリカの歴史を現代の設定に置き換えたものではない。ミランダの建国の父たちはヴェルヴェットのフロックコートと半ズボンを着る。フーディやジーンズではない。デヴィッド・コリンのセットは、裸のレンガに木の足場。暖かな照明は蝋燭の光を思い起こさせる。ロープと金具の固定具で飾られたステージは、船の建設ーーそして建国、または18世紀のニューヨークの構築ーーを思い起こさせる。
ミランダはアレクサンダー・ハミルトンを眩いばかりの焦点を持って描き出す。多才で、抑えるのがやっとの怒り。ハミルトンは条約を書く時歩き回り独り言をいうことで知られていたが、舞台ではラップでの独白は驚くほどの自問で彩られる。「死のことを思い出の様に想像する/いつ掴まるか/眠りのうちか/7フィート目の前か/逃げるか受け入れるか」“I imagine death so much it feels more like a memory / When is it gonna get me? / In my sleep? / Seven feet ahead of me? / If I see it coming do I run or do I let it be?”ミランダは閣僚会議を、囃し立てるサポーターたちに囲まれたラップバトルに置き換える。州の債務を補償するために設立を目指した国立銀行ーーハミルトンの先見的な発明だーーに関する議論は生き生きしたやりとりを生む。ハミルトンは悪意を込めてトマス・ジェファソンを貶す。“Always hesitant with the President / Reticent—there isn’t a plan he doesn’t jettison.”
「ハミルトン」が初のアフリカン・アメリカンの大統領在職期間に創られたのは偶然ではないようだ。このミュージカルは国の誕生を意外にも、しかし必然的に、軽く描き出す。エリートの白人による荘厳な所業としてではなく、全てのアメリカ人の創造の物語として描いている。トマス・ジェファソン、ジェームス・マディソン、そしてジョージ・ワシントンはアフリカン・アメリカンによって演じられる。ミランダはまた、女性たちにも重要な役割を与えている。ハミルトンの妻イライザ・スカイラー(フィリッパ・スー)や義理の姉アンジェリカ・スカイラー(レネー・エリーズ・ゴールズベリー)だ。3人目の妹が加わったジグザグのハーモニーはまるでデスティニーズ・チャイルドのようだ。ミランダは建国の父たちを高尚な政治家とではなく、孤児や、無鉄砲な革命家として、時にはケチなライバルとして、極端に不安定な機運、機会、リスクを抱えて生きる。この瞬間の業績と危機はーー国の境の島で生まれた、移民の息子、父無し子の大統領の時代に生きる今にとってーー、決して時代の遠い出来事ではない。
今年でパブリックの芸術監督就任10年目を迎えるオスカー・ユスティスは、「ハミルトン」はここ数年で���もエキサイティングな作品だというーーたぶん、1992年に彼が依頼し、プレミアのプロダクションを監督した、トニー・クシュナーの「エンジェルス・イン・アメリカ」以来の。彼はミランダのこの作品と、シェイクスピアの初期の史劇であるヘンリアド【リチャード2世、ヘンリー4世第一部・二部、ヘンリー5世を一塊としてみる言い方】との関係をみた。「リンがしていることは、国の市井の声を韻文に昇華しているということだ。それがヒップホップのしていることだし、強弱韻文がしてきたことだ。リンは彼の国の創造の物語を、現在のわたしたちのこの国がしているのと同じように語っている。韻文の形で、シェイクスピアは英国の物語をグローブの観客たちに語り、英国を英国たらしめる手助けをしたーー英国人としての意識を持つことに貢献したのだ。それをリンは「ハミルトン」でやっている。彼は建国の物語を『私生児の、移民の孤児』の目から、有色人種の目を通して語りこう伝える、『ここは俺らの国だ。俺たちのものだ』と」。
10月の晴れた日、ミランダと彼のコラボレイター、「イン・ザ・ハイツ」と「ハミルトン」の演出家トマス・カイルは、パブリック・シアターを出てニュージャージーのウィーホーケンにあるハミルトン公園に向かった。「ハミルトン」を考えついて数年の間に、彼は数個のプロジェクトに携わった。チアリーディング映画のミュージカル化「Bring It On: The Musical」を共作、2012年にブロードウェイで上演された。「モダン・ファミリー」と「ママと恋に落ちるまで」に出演。即興ヒップホップ・コメディ・グループのFree Style Love Supremeとして、ジョーズ・パブやその他でパフォーマンスし、去年の秋にはTVシリーズが放送された。その間中もずっと、製作中の作品のために歌を書き、歴史書を読み続けた。2012年、彼は「ハミルトン」のコンサート・プロダクションをリンカーン・センターのアメリカン・ソングブックシリーズで上演した。タイムスでは、スティーブン・ホールデンが「ゲーム・チェンジャーとなることは明らか」と称えた。
ミランダはミュージカルに取り組みつつ、ハミルトンの膨大な手紙や出版物を読み、独立戦争の名残の残るニューヨークのさまざまな場所を訪れた。パール・ストリートにあるフランシス・タバーンは、英国軍に敗北した後のジョージ・ワシントンが将校たちと涙の別れを告げた場所だ。しばらく、ミランダは西162番街のモリス=ジュイメル・マンションで執筆する許可を得られた。国の歴史的な建築物で、マンハッタンで現存する中では一番古い建物だ。ワシントンは邸宅をハーレム・ハイツの戦いでの司令部として使用し、のちには副大統領のバーの居住となった。「アメリカ金融博物館の館長に会ったんだけど、彼は建物の表札を見せてくれて『ここはトマス・ジェファソンのニューヨークでの家だったんですよ』って教えてくれたんだ」とミランダは言った。「僕たちはこの大騒ぎの地層の上にいるっていうのが良いんじゃない?」ロン・チャーナウはホワイトハウスのパフォーマンスの数ヶ月前にミランダと出会い、作品の歴史監修となった。「リンは無駄な発明はしなかったよ」とチャーナウ。「まずは史実に忠実にしようと努めた。それでもし事実から逸脱しなきゃいけない時は、大体納得がいく理由があるのがわかるんだ。彼に尋ねたんだ、『もし歴史的に間違ってたら指摘したほうがいいか?』と。彼は答えた。『もちろん。歴史家にもこの作品を尊敬してほしいからね』」
ウィーホーケンへの小旅行はミランダにとっては初めてだった。決闘はここで、1804年の7月に行われ、バーはハミルトンを撃ち、彼はその負傷が元で翌日に死んだ。当時、決闘はニューヨークでは禁じられていたが、ニュージャージーでは許容されていた。「ハミルトン」では3つの敵同士による3つの決闘がドラマ化され、そのうちの2つが致命的なものである。死者の中にはハミルトンの息子フィリップを含む。「決闘は現代の仲裁裁判みたいなものだったんだ」とミランダは驚きを含めながら言った。「まるで『おい、納得できないんだったら、ニュージャージーの広場に行くぞ。武器と医者を連れてこい』みたいなノリだよ」
台本を作る中で数年を費やしてもなお、ミランダはハミルトンの最期の瞬間をどう描けばいいかわからなかった。さまざまな困難があったが、歴史の記録が曖昧だったことが一つの理由だ。バーはハミルトンを最初の一撃で撃ったが、のちにハミルトンの行動がー銃を確かめる様子や、眼鏡をかけていたという事実がー自分を本気で殺しに来たことを示していたと主張した。ハミルトンはしかし、多くの手紙の中で、彼はバーを外して撃つつもりであるーーショットを投げ捨てるつもりだーーということを示唆していた。目撃者はのちに、ハミルトンは空に向かって撃ったと証言した。
5月のワークショップ・プロダクションでは、ミランダはハミルトンに決闘の準備のラップを与えた。「目に日が入り思わず目が眩む/私のニューヨークがゆっくり立ち上がるのを見た」“The sun is in my eyes and I’m almost giddy / As I watch it slowly rise over my New York City”ーそしてバーを殺すか殺すまいかと考えあぐねた。音楽的にも歌詞的にも、この歌はミランダが捉えようとした賭けを捉えることはできなかった。 ハミルトンがバーに対して持っていた誠意の欠如への不信は、国の不透明な行く末への恐怖と重なった。その歌は、ハミルトンの柄にもない躊躇と、バーの柄にもない積極性がもたらす、避けられない悲劇への予感を表現することができていなかった。ミランダは再び歌を作り変えつつも、リハーサルへの心配もしていた。彼は言う。「存在しないもの、どうしても現れてこないものがあるのに、役者たちが部屋に入ってきちゃって『うわー!』ってなる」。カイルはミランダに締切を設けて、全ての歌の草稿に反応した。彼がいうに。「プレッシャーがある時のリンの反応はもっと多くのものを生み出す起爆剤なんだよ」
バーとハミルトンの危険を孕んだ関係は、ミランダのショウの肝だ。オープニング・ナンバーでバーはハミルトンのことを「私生児、孤児、売女の子でスコットランド人」と紹介する。この歌詞はジョン・アダムスのハミルトンに対する侮蔑に由来している。バーは特権を持って生まれた。父はプリンストン大学となる学校の学長で、母方の祖父はジョナサン・エドワーズ【著名な神学者でプリンストン学長】だった。ただ、ハミルトンと同じく、彼は若くして孤児となり、法律を学び、政治の世界へ足を踏み入れていった。ミランダの語りでは、彼らはお互いの反転図だった。ハミルトンの熱心なまでの無鉄砲さはバーの冷たい慎重さと対を成している。「ハミルトンは失うものもない孤児だけど、バーは失うものしかない孤児なんだ」とミランダは言う。
バーをハミルトンの引き立て役とすることは、史実に沿うばかりでなくミュージカルの前例からも必然だった。「ジーザス・クライスト・スーパースター」はユダが物語を語る。ミランダは宿敵の視点からハミルトンを見せるというアイディアに魅せられた。スティーブン・ソンドハイム(2009年の「ウエストサイド物語」のリバイバルの時、劇をスペイン語に訳すためにミランダを採用した)はミランダが払うミュージカルの歴史に対しての尊敬の態度を称賛した。「現代の劇作曲家の多くはあまりこの業界の歴史に興味を払わない。でもリンはミュージカルシアターがどこから来たのか知っている。ミュージカルがどこから来たかを大事にしている」。ミランダはハミルトンの初期の曲を数年前、ソンドハイムに披露している。「圧倒されたよ。素晴らしいと思った」ソンドハイムは言う。「とても新鮮で、念が入っていて、舞台的だと思う」
ミランダはソンドハイムのように、音韻構成と音楽のフレーズの組み合わせに注意を払っている。だが「ハミルトン」を作曲する際、商業的ブロードウェイ音楽からもインスピレーションを得た。「”レミゼ”的な音楽を作りたくてね。テーマを再登場させるのに賢い手が必要だった」彼は言う。「涙腺に直接響くと言う点では、あの作品の上を行くものはないよ」。「ハミルトン」はまた、ミュージカルの先人たちにもちょっとしたリスペクトを払っている。アーロン・バーがハミルトンや未来の革命家たちに怒りを鎮めるように忠告するせりふは、「南太平洋」からの引用。“I’m with you but the situation is fraught / You’ve got to be carefully taught.” 「これはロジャー&ハマースタイン的レイシズムの引用」ミランダは言う。ちょうど車はニュージャージーに向かうリンカーントンネルを通ったところだ。クリストファー・ジャクソン(彼は「イン・ザ・ハイツ」でも出演した)演じるジョージ・ワシントンは、自分のことを皮肉っぽく語る(“The model of a modern major general / the venerated Virginian veteran whose men are all / Lining up, to put me on a pedestal.” )が、これは「ペンザンスの海賊」からの引用で、ミランダ曰く、ギルバート&サリバンの改善である。「mineralは一番ベストな韻じゃないっていつも思ってたんだよね」
ミランダのスコアは音楽のジャンルに対しても意味を込めた。キング・ジョージが去りゆく植民地に歌う曲は“You’ll Be Back”。ブリティッシュポップ的なーーただしハープシコードでーーウィットと美しい旋律に満ちた悪意。(“When push / Comes to shove / I will send a fully armed battalion / To remind you of my love,” と高慢な王を演じるブライアン・ダーシー・ジェームズ【オフ・ブロードウェイでの時は彼がジョージ3世を演じた】は歌う。)ミランダはハミルトンとジェファソンの世代の違いを、音楽で表現する。ジェファソンはハミルトンよりも一回り以上も年上なので、ちょうどパリから帰ってきた彼に屈折したジャズナンバー “What’d I Miss?” を与える。ジェファソンはラッパーのダヴィード・ディグスが演じる。彼は「ハミルトン」のために、国際ツアーを延期しなければいけなかった。彼は言う。「リンは普段滅多に交わらない世界の交差点に存在してるんだよ。ラップ音楽の熱心なファンで、とても優秀なラッパーでフリースタイラー。そして偶然にもミュージカルシアターと非常に親密な中で育った。その全部がオーセンティックに感じるんだ。」
90年代初期のポップ音楽ーーミランダの青春時代のサウンドトラックだーーが、スコアの中に織り込まれている。聴衆はフージーズやモブ・ディープ、ブランド・ヌビアンの要素を聞きつけるだろう。作品はノートリアスB.I.G.ことクリストファー・ウォレスにさまざまな形で言及している。ニューヨークのラッパーで、1997年に24歳で射殺された。ハミルトンが自己紹介する時、自分の名前のスペリングをテンポに乗せて歌うが、これはウォレスが“Going Back to Cali.” でしたことだ。ミランダは特に楽しんだのは“Duel Commandments”において、ウォレスのドラッグ取引入門の曲“The Ten Crack Commandments”のリフを使った部分だ。この歌は作品の最初の決闘で現れる。ここではハミルトンとバーは敵手のセコンド同士だった。5月のワークショップでは、ミランダはハミルトンとバーの決闘でもこのカウンティングの構造を用いることにした。演出家のカイルが説明する。「ハミルトンとバーの決闘のために準備をする必要があった。ハミルトンは死ぬことになるからね。だから構造的にもその下準備が必要だって僕らは思ったんだよ。同時にヒップホップファンが愛する何かを入れることは、15年前にビッギーが言ってたようなことを、ずっと昔のやつらもやってたってことを表してるんだ。」ミランダは頷く。「これは不法な行為についての曲で、それがどう行われているかについての歌なんだ」彼は言う。「そして僕らも彼も両方ともモーゼからの盗用した構造で作っている」
ウィーホーケンの柵に囲われた広場についてから、ミランダとカイルは不毛にもハミルトンが倒れた方向の手がかりを探した。1806年の初めには決闘のハミルトンの立ち位置に大理石のオベリスクが建ったが、数年のうちに壊された。のちに、崖の尾根に列車のレールが敷かれ、決闘場を根こそぎ無くしてしまった。最終的にミランダとカイルは1919年にハミルトンの胸像が立っていた柱を見つけた。 42番街の向かいにあるそのメモリアルは、驚くほど小さかった。ジェファソンやワシントンなら全身の像が建っていただろう。
メモリアルは閉じられた門の向こうにあった。ミランダが低い壁を登って崖の端から見下ろすと、茂みと木々の間から、下にあるアパートメントの建物が見えた。「こんなに手入れされているとは思わなかった。歩いて入れる林を想像してた。頭の中では、僕が生まれ育ったところの林みたいに、鬱蒼として隠れたところを考えてたよ。その想像がこれに置き換わることはないかな」ミランダは携帯電話でハドソン川の向こう側にあるマンハッタンを撮った。「聖地巡礼」、のちにそうツイートした。
「イン・ザ・ハイツ」の作曲家はワシントンハイツではなく、そこから30ブロックほどアップタウン側の、インウッド・ヒ��・パークの近くで育った。マンハッタン最���の自然の森が���るところだ。ミランダは2人姉弟の末っ子。姉のルツ・ミランダ-クレスポはエンジニアとして鍛錬し、今はMirRamグループのCFOである(リン-マニュエルの珍しい名前は、プエルトリコの作家ホセ・マニュエル・サンティアゴのベトナム戦争に関する詩“Nana Roja Para Mi Hijo Lin Manuel”から取っている。ルイス・ミランダが10代の頃に読み、将来のために取っておいた名前だ)。母は、プエルトリコで生まれたが赤ん坊の頃にすぐニューヨークに移民した、病院の心理士だ。 エドムンダ・クラウディオは住み込みの乳母で、プエルトリコから来た親戚。ミランダは彼女をアブエラ(おばあちゃん)と呼んだ。「うちの両親はずっと働き通しで、週末しか会わなかった」と彼は言う。「父と僕はアクション映画を見に行って、卓球やビリヤードで遊んだよ。同じ家に住んでるのに、週末だけ遊びに来る人みたいだった」
夏には、彼と姉はプエルトリコに行き祖父母の家に滞在し、言語の上達に努めた(ミランダのスペイン語は流暢だが、ネイティブスピーカーのそれとは違う)。子供たちは学問の面でも文化の面でも、多くを期待されていた。ルイスは彼らにサルサの踊り方を教えた。「僕にとっては、踊りを教わったことは本当に本当に大事なことだった」彼は言う。家族は経済的にはさまざまな背景があった。ミランダの父方の大おじはプエルトリコ独立党の創設者だったが、基本的には親類は労働者階級だった。5歳の時、ミランダはハンター高附属小学校の試験を受けたが、そうしたのは近所では彼だけだった。「プエルトリコ人の父にとってどんなことだったか、僕には想像もつかない」彼は言う。「僕の友達はみんなユダヤ系だった。ハンターに行くのはそうだからね。僕は学校ではリンで、家ではリン-マニュエルだった。学校と家では別人だった。友達はみんなアッパー・ウエスト・サイドやアッパー・イースト・サイドに住んでいて、僕は彼らのナニーたちとはスペイン語で話してた」
ミランダは6歳の時にピアノレッスンを受け始めた。「先生がリサイタルを催した。子どもたちがそれぞれ何曲か弾くんだ」ルイス・ミランダは思い返す。「リン-マニュエルが最初の曲を弾いて観客が拍手して、2曲目を演奏する。その時彼は『これもできる、これも知ってる』っていう感じになっちゃって。ピアノから引きずり下ろさなきゃならなかった。彼は拍手が大好きだからね」。彼のショーマンシップは時に宿題にも現れた。3年生の時の宿題、ジーン・メリルのThe Pushcart War(手押し車戦争)についてのレポートとして、彼は家族を巻き込んで本の中の出来事を再現したショートビデオを提出した。その中で彼はニュースキャスター風のスーツを着て、気取ったナレーションをした。「賢い子どもたちの中での必要通貨はファニーなこと。ファニーになれるなら大丈夫。だから僕はとても楽しい」(ミランダは今でも友人や家族を彼の創作意欲に巻き込んでいる。企業弁護士のナダルと2010年に結婚した時も、招待客を巻き込んで「屋根の上のバイオリン弾き」の”To Life”の寸劇で彼女を驚かせた。40万人がYouTubeでその様子を見ている)
両親はミュージカルの愛好家だった。「たくさんパーティをしたけど、流している音楽はほぼラテン音楽だった。サルサやエル・グラン・コンボ」彼は言う。「でも掃除の時の音楽はいつもキャスト・アルバムだった」ブロードウェイに頻繁に行くほどのお金はなかったが、ミランダは”聖なる3作”「レミゼ」「ファントム」「キャッツ」に連れて行ってもらった。「7歳の時にレミゼを見に行ったのを覚えてる。フォンテーヌが死ぬところで泣いて、少し寝て、ジャベールの自死のシーンの時にはまた起きてた。あのショウを体験するにはすごくいい方法だったと思う。『キャッツ』を見たときは、花道を走り抜ける猫たちに触れられたのを覚えている。『ファントム』を見たときは『うわマジか!』て感じだったね。だって醜い作曲家が自分の意志を世界に押し付ける話だろう。親近感が湧いた。」
ミランダは音楽を正式に勉強したことはない。ピアノレッスンは小学校を卒業するころには行かなくなっていた。ただ、ベッドルームのキーボードで、趣味としての音楽は続けた。高校で、彼はミュージカル演劇を始めた。9年生の頃、「ペンザンスの海賊」でシニアの生徒を負かして役を得た。「まだあの時の拍手を覚えてるよ。僕の人生で一番お気に入りの歓声だ」彼は言う。最終学年では、「ウエストサイド物語」を監督した。「シャークスにはラティーノがいなくて。いろんな濃さのブラウンと、アジアンの生徒たちだった」ミランダは思い返す。「だから父に来てもらって、シャークスのアクセントをつけてもらった。他の子たちにどうやってラティーノになるか教えたんだ。学校では全然ラティーノとしての自分は出してこなかったから、『ウエストサイド物語』はそのための方法だったね」ミランダが『ウエストサイド物語』の作詞家ソンドハイムと初めて道を交えたのはハンター高でだった。ソンドハイムは、同級生の父親(彼が生徒のためにアレンジを頼んだのだった)の友人だった。「彼はどうやってショウができるのかについて、素晴らしい話をしてくれた」ミランダは言う。「彼は僕らに、どうやってオープニング・ナンバーと台詞を書いたか教えてくれたーー歌詞に載せて歌い始めたーーでもジェローム・ロビンスは『いや、全部踊りで行こうと思う』と言ったんだって。すごく印象的だった。その時が初めてミュージカルが本当に作られるのか見た瞬間だった」
1997年、17歳の誕生日の時、ミランダは『レント』をブロードウェイで見た。「僕は思ったよ、これならできる!って。今のことをミュージカルにしてもいいんだ」。彼は学校の文化祭で20分ほどのミュージカルを描き始めた。MSNBCのブロードキャスターで、その時ハンター高の生徒だったクリス・ヘインズは、ミランダの初期作品の「ニ長調の悪夢“Nightmare in D Major” 」を演出した。ヘインズが思い返す。「主人公の名前はディランで、悪夢の中にいる。彼の過去から愛は奪い去られ、その途中で邪悪な豚が出てくる。悲しいバラードがあって、忘れ去られた恋愛に関する歌なんだけど、今でも歌えるよ」ヘインズによると、ミランダは自分の才能に気づいていた。「それが彼の力だったと思うんだよ。自信と自尊心が彼のカリスマの一部なんだ。変に謙虚ぶらないんだよ。遠くから眺めてて、想像したよ、『あいつ、自分のことをなんだと思ってるんだろうな?』答えは、”世代に一つあるかの音楽の天才”だ」
ハンター高を卒業した後、ミランダはウェズリアン大に行き、高校の頃の作品を再演した。「天国での7分間」という作品で、7年生のファースト・キスに関するミュージカルだ。「ウェズリアンはハンターに似ていて、頭にある馬鹿げたアイディアにを具現化することができるんだ」彼は言う。2年生の頃、ミランダはラティーノ文化センター兼寮のラ・カーサに移り住んだ。そこには8人の移民一世の生徒たちがいた。「この時が初めてラティーノの友達ができた時だった」彼は思い返す。「初めてマーク・アンソニー絡みのジョークと‘The ThunderCats’とか馬鹿げたアメリカ文化に関するジョークが、同時に通じる瞬間だった。『レント』が僕にミュージカルを書く許可を与えたみたいに、自分のホームについて書く許可が与えられた瞬間だった」
2年生の頃、彼はワシントン・ハイツを舞台にしたミュージカルを書いた。ラテンミュージックとヒップホップで近所の音を再現した作品だ。ラテン音楽も、ヒップホップも、それまで作曲したことがなかった。苦しい三角関係を取り上げたストーリー自体に新鮮味はなかったが、2000年の春に作品が上演されたとき、ミランダはヒップホップが席にいる観客との距離を縮めることに気づいた。「ラテン音楽とヒップホップの融合は強い効き目がある。このグルーブには何かがある。」
後の大学の二年間には、彼はそのミュージカル(初期の「イン・ザ・ハイツ」)の台本は棚にしまった。しかし、演劇関係の学生のあいだで評判は回って行った。2002年、ミランダの4年生でのプロジェクト“On Borrowed Time”がウェズリアンの劇場で上演されていた。2年上の卒業生トマス・カイルは劇団の立ち上げの手助けをしていて、劇場に立ち寄っていた。「イン・ザ・ハイツ」を気に入っていた彼は“On Borrowed Time”にはあまり興味がなかった。終了後ミランダと握手をして、横柄にも、「楽しめよ」と告げた(二人はいまだにこのフレーズを週に何度かお互いに言い合っている)。一ヶ月後、ミランダとカイルはニューヨークの西14番街にあるドラマ・ブック・ショップの地下で待ち合わせ、5時間話し込んだ。「『イン・ザ・ハイツ』のことを二年間ずっと考えてたから、話をはじめたら止まらなかったよ」カイルは言う。
ミランダがウェズリアン大を卒業した後、父は彼をロー・スクールに行かせたがった。ルイス・ミランダはルーベン・ブラデス【作曲家でサルサ歌手。アメリカに亡命する前はパナマで弁護士をしていた】を引き合いに出し、大成する前に法律の学位を取って保険をかけておけば、と説得した。そうはせず、ミランダはハンターに戻り、7年生の英語の代用教師となった。「文法の授業をしたね。僕たちの頃はやらなかったんだけど。だから子どもたちに教えるために文法を勉強した」。同時に彼は「イン・ザ・ハイツ」の制作に取り組んだ。数ヶ月の間、彼とカイルは役者を交えて素材を試した。ミランダはボデガの店主でナレーターのウスナビを演じることにした。「この契約でいちからラップを習ってくれる人が見つからなかったから、僕に回ってきたようなもんだね」
作品は最終的に数人のブロードウェイ・プロデューサーの目に留まった。「アベニューQ」などを手掛けることになるケヴィン・マクコラムもその一人だ。「彼は『なんの話かわかってきたらまた来な』て感じだったね」とミランダは言う。(マクコラムは「ハイツ」のブロードウェイでのプロデューサーとなった)2004年、ミランダとカイルは若き戯曲家キアラ・アレグリア・ヒュデスを雇い、脚本を書き直した。ヒュデスは大胆な書き換えをした。三角関係をなくし、ウスナビを謙虚ながらもカリスマのあるアンカーとして中心に据えた。【ハイツのメイキング本曰く、ベニー、ニーナ、リンカーン(ニーナの兄)の三角関係をなくしたのはプロデューサーの提案だったそうです】ミランダの愛するホームを描いた物語の中心だったロマンスは、二次的な要素になった。
2007年、数回のワークショップを経て、作品はオフ・ブロードウェイで上演された。翌年ブロードウェイに移った。いくつかの感情的・ストーリー的矛盾はあったが、その独創性と中毒性は多くの賞賛を得た。タイムスのチャールズ・イシャーウッドはこう書いた「『イン・ザ・ハイツ』は+サルサ・フレスカ−(セックス、ドラッグ、病気)のアップタウン版『レント』である。」
ミランダは動きの中で作詞をしている。アパートメントの近くのフォート・タイロン・パークを散歩しながら。または181番街からダウンタウンにゆく地下鉄の中で。彼のiTunesのフォルダはミュージカルのかけらでいっぱいだ。”Battle Loop”、”Burr-Hamilton Loop”はLogic Proで作曲した。「いいなとか面白いなとか、キャラクターに話してほしい片鱗とかを思いついたら8から16小節ぐらいの音楽をまず書く。そしてヘッドフォンをつけて出掛けて、犬の散歩をしながら独り言を言ってる」。時には作曲中の節をボイスメモに吹き込みながら、他のものをループで聞く。アーロン・バーを象徴する”Wait for It”のリフレインは夜地下鉄に乗りながら思いついた。「ダンボでやってる友達の誕生日パーティに行く途中だった。メロディをiPhoneに録音して、15分パーティに出て、帰りの電車で後の部分を作曲したよ」
長い間、ミランダはハミルトンか、アメリカの歴史の中では悪役となることの多いバーか、どっちを演じたいか決めることができなかった。ハミルトンの死後、バーは南西部で謀反を画策したとの疑いをかけられた(最終的には無罪となったが)。ミランダは多くの歴史家とは違い、バーに同情的だ。「バーには同じぐらい親近感があるよ」彼は言う「バーはハミルトンと同じぐらい賢くて才能があった。それにハミルトンと同じぐらい失ってきた。ただ、だからこそ、ハミルトンが前に進むところでバーは一歩引いてしまった。人生の中で、自分がハミルトンのようだと思うのと同じぐらい自分はバーだったと思う。誰しもこう言うことがあるだろう、友達や仲間が自分を通り過ぎて、成功したり、結婚したり、家を持ったりする。自分は一文なしで、独身で、仕事もなくもがいているのに。そして自分に言い聞かせる、『機会を待て』と。」ミランダは最近35歳になった。「ハミルトンがこの歳に達成したことを考えると、すごくバーみたいな気持ちになる。それか、ポール・マッカートニーと比べたりとか。ソンドハイムとか。ガーシュインとか。アウトキャストとか。彼らの業績を考えると驚いてしまう。」
最終的には、キャリアの面を見通した打算が勝った。「ハリウッドから連絡があると、大体は白人の主人公の友人役。もし主人公を演じたいなら自分で機会を見つけて、自分で書くしかない。ジョン・レグイザモもおんなじことを言っていた」(パブリックでは、バーは最近のNBCのドラマシリーズ”SMASH”に出演したレスリー・オドムJr.が演じている)ハミルトンを演じることは、ミランダいわく「本当の自分よりも生意気に、賢く、衝動的にならなきゃいけない。2時間半は自分の手綱を外さなきゃいけないね」
トマス・カイルはミランダが最終的にハミルトンを選んだことには驚かなかった。彼いわく「ハミルトンが自分を時限爆弾のように感じてるのは、リンの性質ととても合ってる」。「ハイツ」のブロードウェイ公演のリハーサルの時に、開演前に死んでしまうという迷信的恐怖を発達させた。「いつもジョークを言ってたよ。『無名の作曲家、マンホールに落下』『無名の作曲家、バスに轢かれる』」ミランダはいう。「ハミルトンの『死はいつも思い出のように感じる』と言う歌詞を書いた時、『ああこいつのことは知ってるな』って思ったよ」
親友となったキアラ・ヒュデスいわく、「ハイツ」は自伝的処女作である。「これが僕だ、これが自分が来た場所だーそれを爆発的なエネルギーで表現する必要があった」。対して「ハミルトン」は、彼女いわく、ミランダが大人として書いた初めての作品である。そしてこの作品も、彼のさまざまなアイデンティティと強く関わっている。「彼はプエルトリコで、彼はニューヨーク、彼はヒップホップで、彼はブロードウェイ。彼は異なる世界の全てだと言うこと。それを一つの部屋に全部持ってくると、人々は熱狂するって彼は気づいた。だってそれはこの国そのものだから。」
パブリックシアターのミランダのチームは、このショウがヒップホップミュージカルと表現されるのを好まなかった。それも妥当な反論だろう。色々なジャンルを含んでいるから。また、戦略の面でもそうだった。そういったカテゴライズは聴衆の興味を限定する恐れがあった。特にブロードウェイ(最終的にそこを目指していた)では。(「ハミルトン」は2014年の終わりにはパブリックでソールド・アウトし、2回公演を延長した)
ヒップホップは音楽シーンでは世代を制覇しているが、ブロードウェイでは影響が小さい。3年公演が続いた「イン・ザ・ハイツ」以外で試みがあったとしたら、去年の“Holler if Ya Hear Me”(トゥパックの歌詞を元にしたミュージカルで、6週間の公演だった)が唯一だろう。「ハイツ」のプロデューサーで「ハミルトン」に大金を注ぎ込んだジェフリー・セラーいわく。「誰も一晩中ずっとヒップホップを聴きたいわけじゃないし、こっちもそうするつもりはない。『ハイツ』を三年間公演したけど、もしヒップホップミュージカルと言われていなかったら、もっと長くできてたと思う。美しくて感動的なショウだったからね」
「ハミルトン」宣伝の障壁は音楽の認識だけではなかった。セラーは観客たちが「誰がアメリカの官僚についてのショウを見たいんだ?」と言っているのが想像できた。同じ問題は、2010年のブロードウェイ作品“Bloody Bloody Andrew Jackson”でも起こった。7代目大統領についてのエモ・パンクミュージカルだ。評価は高かったが、興行面で振るわず四ヶ月の公演を終えた。
セラーの警告に反して、ミランダの独立戦争についてのラップ・ヒップホップを作曲する才能は、アウトキャストを聞いたこともないであろう聴衆に受け入れられた。戯曲家のジョン・ゲールは去年の春、友人にワークショップ公演に誘われた。「ショウを見ながら、こんなに生を感じたことはなかった」ゲールはいう。「ドアを開けて新鮮な風が吹き込む時のあの爽快な気持ち。彼はハミルトンの精神をとらえ、ロン・チャーナウの本の空気をとらえ、時代の精神をとらえた。おかしなことだが、それを優雅さと注意深さと統制と、狂気を持ってしてやり遂げた」。ミランダのヒップホップ・フリースタイラーとしての才能の証明はまた、新しい観客も捉えたようだった。ブルックリンを拠点にしたパフォーマンスアーティストのレモン・アンダーソンは「ハミルトン」をこう表現する。「劇場に行ったこともないコミュニティが、これを見にくる。いつも自分達の文化圏のみんなに言ってるんだ、『ラップの観点からもこんな歌詞が凄いショウはないよ』って」。ミランダと「ティモシーの小さな奇跡」で共演したコモンは言う。「ランチタイムにセットでフリースタイルをした時のことをいつも思い出すよ。『うわ、こいつは凄い才能があるな』と思った」
ミランダの作品はオペラのように歌い通しなので、キャラクターがラップに移っても違和感がない。「ハミルトン」のジェファソンを演じるダヴィード・ディグスは、そのことをアメリカをステージで表現したものだと言う。「それがお互い会話する唯一の方法なんだよ。それが大事だと思う。いつも省かれてきた自分達を、歴史の一部として見ることができる。ラップは僕たちの世代の声なんだ。有色人種の人々の声だ。それがこの作品の中にただ存在して、特異な扱いをされないと言うことが、歴史は僕たちのものだと言う感覚をもたらす。」威厳に満ちたジョージ・ワシントンを演じるクリストファー・ジャクソンは、低く響くヒップホップのビートに乗せるラップから、朗々とR&Bバラードまでを歌い上げる。彼いわく、この作品は奴隷制の構造とその悪影響について潜在的に批判している。「ブロードウェイの観客は説教されるのは嫌いだから。多人種のキャストにすることで、有色人種である我々役者たちがキャラクターを演じると言うことだけで、追加的な文脈を加えることができる。」
「ハミルトン」のリハーサルは、タイムズ・スクエア近くの貸スタジオで行われた。12月初旬のある午後、キャストは”My Shot”に取り組んでいた。独立戦争前夜の活気に満ちたナンバーだ。出演者ほとんどが出てくるヒップホップダンスを、振付師のアンディ・ブランケンビューラーが振り付けていた。ミランダの音楽は、今やアレックス・ラカモアによってオーケストラ化され、力強いクレッシェンドを作り上げていた。彼もブランケンビューラーと同じように、「イン・ザ・ハイツ」からの付き合いのベテランだ。若き俳優アンソニー・ラモスが、舞台の向こう側から怒りを込めて突進する。彼はハミルトンの親友��、奴隷所有者の息子のジョン・ローレンスを演じている。独立戦争の頃、ローレンスは奴隷たちを兵士としてリクルートし、勝利のあかつきには身分を解放すると約束し、黒人連隊を作ろうとした。彼は1782年の終戦間近に戦死する。“Don’t this shit make my people wanna rise up!” とラモスは歌い、反乱者たちのコーラスをリードする。
役のために髪を肩まで伸ばしていたミランダは、心配そうな空気を纏い、目は疲労に縁どられていた。11月の初めに、長男セバスチャンが生まれていた。それにも関わらず、ミランダは役としていきいきを動き回っていた。あるときはアンサンブルとダウンステージを踏ん反り返って歩き、指を頭の上に高く上げる。まるで銃を撃つように。次の瞬間にはパソコンやスマホに何かを打ち込む。「頭の中のアプリがたくさん開いてる。台本、振付を覚えること、ツイッター。それからニュース」
その午後、ニューヨークでは、大陪審は警官のダニエル・パンタレオを殺人罪では起訴しないことを決めた。ステタン・アイランドのエリック・ガーナーは、去年の夏単本のタバコを売っていたことで逮捕された際、首を絞められ死んだ。その1週間前はミシシッピのファーガソンで暴動が起こった。これもまた大陪審がアフリカン・アメリカンのマイケル・ブラウンを射殺した白人の警官ダレン・ウィルソンを起訴できなかったことがきっかけだった。「『立ち上がれ』と僕らは叫んでいるけど、多くの人も同じように思っている」ミランダは言った。
2009年、ミランダのホワイト・ハウスパフォーマンスのあと、パーティはロビーのレセプションエリアに移った。そこではDJがヒップホップを流していた。ミランダは驚いた。アメリカはついに昔の人間ではなくて、自分達と同じ時代を生きる人間が大統領をしてるんだと思った。もしここ最近の社会がその包括の約束を裏切る辛い証拠だとしても、ミランダはまだ言葉の力を示すことができると思った。デモの参加者がマンハッタンでのデモを始めた時、ミランダは”My Shot”からの歌詞を呟いた。“If we win our independence / Is that a guarantee of freedom for our descendants? / Or will the blood we shed begin an endless / Cycle of vengeance and death with no defendants?”
午後のリハーサル室は静かだった。ミランダとジャクソンはカイルと別のシーンに取り組んでいた。1776年の8月、絶望的なブルックリンの戦いの後の、ワシントンとハミルトンの出会いのシーンだ。”Right Hand Man”の中で、ワシントンはハミルトンを召集し兵士としてでなく秘書として働くようにオファーする。“Head full of fantasies of dying like a martyr? / Dying is easy, young man. Living is harder.” ハミルトンは反論する。彼は連隊の指揮権が欲しいのだ。
カイルはミランダにハミルトンは何を考えているのか尋ねた。「保身モードになってる。ワシントンが正直になるまでは」とミランダは返答した。「『ゴッドファーザー』でアルパチーノが列車の音を聞いて、行くか行かざるか、と考えているところみたいな感じ。警察署長とソロッツオのところに行くか?それとも、ディナーに行くか?」ハミルトンは、ミランダが言うには、「勝利のための生贄」になる決心をしていた。戦場を離れるのはいつも最後だった。今やハミルトンはワシントンの側に着くことの将来の利点を素早く計算していた。この計算は一小節で示される必要があった。「この瞬間、彼はいう。『これをのしあがる手段にしよう』と。『戦場で成り上がると思っていたが、この方法で行くしかない』」
数回歌を繰り返して、ミランダはワシントンへのハミルトンの返事を考え出した。“I am not throwing away my shot.” 数曲前では、ハミルトンの戦場で命を投げ出す決意を示すフレーズだった。今ここでは、彼の人生よりも続くレガシーを築くチャンスを掴んだ瞬間を示すものだった。台本では、ワシントンはハミルトンを一言で遮るーー「息子よ」ーーこれはワシントンの若い部下に対する親心が現れている。(チャーナウは、ハミルトンは根拠なくワシントンの私生児であると噂された、と書いている。)だがジャクソンの「息子」の言い方はまた、ヒップホップ風の、ブラザーフッドや対等さもまた示している。
ミランダとジャクソン、そしてカイルは台詞を繰り返し、ワシントンのハミルトンの新しい目的に対する理解をどう表現するか探っていた。兵士から未来の政治家になるハミルトンの変化を聴衆に感じ取ってもらいたかった。ミランダは自分の原稿を確認した。「息子よ、じゃなくてシンプルに『いいぞ』と言った方がいいかな?」と言った。「『いいぞ』ってことは『お前を雇うぞ』てことだし。それでハミルトンは新しい才能が開花するんだから」
ミランダの台本はまだ草稿状態だった。ハミルトンの死のページは「新曲製作中」と書いていた。数週間後、まだミランダは旋律に悩んでいた。「最後の瞬間ハミルトンは何を考えるだろうか?」彼は言った。「トミーが筆を置けと言うまでずっと考え続けるだろうね」続けて、「目の前のバーは、彼が10代の頃から知り合いだ。そのことを考えるだろう。たくさんの子供たちと共に置き去りにすることになる妻のことを考える。負債と、それに対する罪悪感について。でも彼はクリスチャンだったし、また会うことができる息子がいる。ジョージ・ワシントンともまた会える。たくさんの愛する人が、彼を向こう側へと呼んでいる。弾丸が銃を離れるまで、そのことを表現する時間がどれだけあるのか」
決着はほとんど最後の瞬間に訪れた。元旦の早朝のこと。眠る赤ん坊の息子を胸に置いて彼はベッドに横たわっていた。隣ではナダルが寝ている。長いことなかった静かな時間だった。静寂。彼は考えた。それは「ハミルトン」でまだ演奏していないものだった。何も音楽がないのはどうだろうか。犬の散歩に行く。この時はヘッドフォンは家に置いていった。時々ノートにメモするために立ち止まった。次の日の朝5時まで起きて、ハミルトンの最後の瞬間をついに聴いた。
3週間後、パブリック・シアターでプレビューが始まった。ロビーにはニューヨーク・ヒストリカル・ソサエティから借りた、バーとハミルトンが向かい合わせで銃を引く銅像が立っていた。舞台では、ミランダのキャストは慣れない衣装を着て心地よく、観客の祝福を楽しんでいた。宝石に飾られたキング・ジョージの尊大な忠告は笑いを呼び、“Duel Commandments”でのビッギーのオマージュは喜んで迎えられた。「レ・ミゼラブル」“One Day More” のスタイルを恥ずかしげもなく拝借した一幕の最後は歓声��迎えられた。ハミルトンの自慢の息子、フィリップの痛ましい死は、観客の涙を誘った。
2時間半の音楽の嵐の後、バーとハミルトンの決闘の瞬間が訪れた。バーが致命的な銃弾を放った後、ハミルトンは長く思い描いた死が訪れたことに気づくと、音楽は消えた。黒の喪服に身を包んだミランダはラップではなく、詩を語った。彼の最後の思考と感情のひらめきはもはやビートや旋律にはつながれていなかった。「誰かが私のために歌う旋律を書く/アメリカ、素晴らしき未完成の交響曲/あなたが私を呼んだ」と静かに語った。ハミルトンは妻や友人たちを思い、思考は飛び交い、昔の歌を歌う。言葉はばらばらになり、儚く浮かび上がる。彼はよろめき、そして静寂が落ちた。◆
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2024年8月17日
広島は名古屋戦で、J1のアウェイでの今対戦では2014年4月(5-2)以来の勝利(2-1)。敵地での今カードで複数得点を記録するのも2014年以来で、2015~2023年までの合計8試合での総ゴール数は2点だけだった。克服。(OptaJiro)
荒木隼人選手/シュートをすかしてしまったが、点になった。
……ゴール。おめでとうございます。
荒木●いやあ、あれは本当にもう。みんなを騙しましたね(笑)。すかして、相手に当たって入った(笑)。まあ、それは良かったです。
……すごく慎重に、当てに行ったかな。
荒木●そうですね。俺もめっちゃ慎重に当てに行って、なのにすかして、相手に当たって入りました(笑)。何があるのか、わからないですね(笑)。ただ、点が入らない時は、相手に当てて決める。そこは、ムツキに教えたいところです(笑)。
……守備について。
荒木●非常にいい守備ができているし、辛抱強くやれている。今日は最後に失点してしまいましたけど、そこまでは完璧に仕事はできた。
……パトリック選手を完全に封じていた
荒木●彼はすごく特徴がある選手ですけど、抑え込むことができたのかなと思います。まあ、怪我をしたことによって、自分としても新しい取り組みができましたし、ケガをした期間に体重も増やして体脂肪も落として、すごくいいコンディションでやれている。
……身体の管理について。
荒木●食事やトレーニング方法とかは、よりこだわっています。ケガのとき、体重が増えてしまう人もいるんですけど、そうじゃなくてケガしたときに筋トレしながら、体脂肪をどうやって減らすのかっていう取り組みをしていて、それがうまくいったのかなって思ってます。
……身体のキレも出ている。
荒木●それはすごく感じます。それにケガの部分が痛みもなく、(ケガのところも)慣れてきたのが一番大きいかなと思います。
……5連勝です。
荒木●やばいっすね、5連勝は。まだまだ続けていきたいなと思うんですけど。次の試合は、次こそは失点0で抑えれるように頑張りたいなと思っています。失点シーンは相手のポジションと選手が変わって押し込まれる時間が多かった。あそこでどうにか押し返せるように、ボールを奪った後にもう少し前への力をかければよかったかなと思います。
……2位浮上です。
荒木●やるしかないと思う。慢心もなく、しっかり見つめ直して、一試合一試合やりたいなと思ってます。
加藤陸次樹選手/ゼロトップシステム
……素晴らしいゴールでした。
加藤●ありがとうございます。
……ああいうポゼッションで相手をゆさぶり、クロスからのゴールという形は、広島ではそんなにないシーンだった。綺麗でしたね。
加藤●そうですね。あの時間帯はずっと広島がボールを持っていたし、選手全員がボールを出して動いてっていうプレーを繰り返していた。僕はゴールの前でちょっとウロウロしてただけ。いい形でボールを運んでもらって、中野もめちゃくちゃ良いクロスを上げてくれた。
……中野選手のクロスは、本当に素晴らしかった。
加藤●パスが出るとも思っていなかった。自分でシュートを打つのかなって思っていたんでね(笑)、パスを出してくれたことは、中野に感謝しています。
……前線3人の関係性がよかったですね。
加藤●僕も生粋の1トップっていうキャラじゃないから。それは全員がわかっている。あの形は、誰が前にいってもいいゼロトップみたいな形ですね。それがうまく、流動的にできている。(その形が)チームとしてはまってるのも事実ですし、この形でやっても全然、問題ないのかなと思います。
……一つのオプションができましたね。
加藤●はい。全員が走れるし、その良さをここ数試合は出せているかなと思います。
……これで2位になりました。
加藤●すごいですね。いやあ、この勝ちは大きいですね。勝負の夏場だと思うんで、この勢いをそのままにして、とにかく勝ち続けてトップを目指したい。
満田誠選手/勝つことしか優勝の道はない
……お疲れ様でした。よく走ったね。
満田●前半、自分にチャンスが何個かあった。それで決めていれば、もっと楽な展開にできたのかなって思う。でも後半、セットプレーからの流れで1点を取ることができたのは、相手にとっても自分たちにとっても、すごく大きなことだったなって思います。
……3トップっていうか、ゼロトップなのか。
満田●3人のコミュニケーションも取れていたし、攻撃も守備も流動的に動けてたのかなと思う。相手にとっても、すごくいやな展開だったのかなって思います。
……やりやすい。
満田●サイドに入ったときなどで、動き出す選手が多ければ多いほど相手も捕まえにくい。距離感よく攻めていたので、裏に抜ける展開も何回か作れた。
……PA内で切り返しからのシュートが出たり、いい意味での「遊び」の部分もでてきた。
満田●前半のシーンですね。最初は打とうかなと思ったんですけど、相手のGKはランゲラック選手で(タイミングをずらさないと)止められちゃうかなと思った。相手DFも遅れて(自分のところに)きたんで、切り返して落ち着いて流し込もうと。ただ、うまく足に当てることができなかった。あれは自分の課題なので、練習しようかなと思います。
……加藤陸次樹選手や松本泰志選手と何か喋っていた?
満田●特にはないですけど、2人もとにかく走れる。自分が2人の分も走って、逆に他の2人も、他の選手の分も走るっていう気持ちがあるから、流動的に守備もできているのかなって思う。それを継続して90分通してできればいいですし、交代で入ってきた選手も引き継いでプレスできれば、相手にとっても90分間、プレスかけられたりできる。そうされると相手は嫌だと思うので、そこは自分たちがやっていければいいのかなと思います。
……前半、FWの位置にいることが多かった。
満田●別に意識はしてなかったですけど、相手もマンツーマンだったので、捕まえにくいようにポジションを取ろうっていうのは意識していました。相手もポジションが変わることで難しさはあったと思う。陸次樹くんと泰志くんだったら、シャドーも前もできる。ドグやピエロスのときより、流動的にポジション変更とかもしやすいのかなって思う。そこは別に、そんなに意識してやってたわけではないです。
……これで2位。
満田●自分たちは上しか見てないですし、他のチームが勝とうが負けようが自分たちは勝つことしか、優勝への道はない。次は天皇杯・愛媛戦もあるし、そこに向けてまたいい準備ができればいいのかなと思います。
ミヒャエル スキッベ監督/クラブ全体で穴を埋めた
スキッベ監督●今日は本当にたくさんのお客さんが来てくれた。素晴らしいスタジアムで、Jリーグの中でも素晴らしい試合ができたことを嬉しく思います。
今日の自分たちのパフォーマンスに関しては、試合をしっかりコントロールできたし、アグレッシブに前からボールを奪いにいっていたっていうところも含め、非常に満足しています。
前半、ランゲラックに止���られてしまったり、バーに当たったりしたシュートもありました。が、後半の立ち上がりで点が取れたことで、自分たちがしっかりとゲームを握ることができました。終了間際、名古屋に得点を奪われたわけですけれども、そこでまた少し、緊張したというか、緊迫した試合になったと思います。が、それでも自分たちの方がゲームを握っていたと思います。
自分たちが夏の移籍で失ったガクとタクムのポジションの穴をクラブが一丸となって穴を埋めた。それ故の形が、今日は見れました。まだまだ自分たちも上で戦っていけるだけの力はあるんじゃないかと思います。
……今シーズンはセットプレーから非常に多くの得点が取れてますが、そこについて。
スキッベ監督●まずトレーニングで、セットプレーを割と重点的にやるようにしました。得点できたところも、キックオフから素晴らしいビルドアップ、そこからFKをとれたことが繋がった。狙いを持ってやることによってセットプレーからの得点数が増えることになりました。
……2位になりましたが、いかがでしょうか?
スキッベ監督●この現状は嬉しく思いますし、素晴らしいこと。ただ、次の試合は別の大会(天皇杯)の愛媛戦なので、こちらの方も同じようにやりたいと思います。
……ACLの組み合わせと日程が決まりましたが。
スキッベ監督●シドニーは非常に好きな街の一つなので、ぜひ行きたいと思ってます。香港はトランジットでしか行ったことなかったので、本当に楽しみです。フィリピンに行くことも大冒険になる。もちろん旅行に行くわけではないので、その場所の空気を楽しむだけではなくて、しっかりサッカーをやってきたいと思います。
……満田選手の評価について教えてください。
スキッベ監督●彼がここ最近見せている成長に関しては非常に満足しています。彼が持っているアグレッシブさがまたさらに磨きがかかってきた。これを続けていけるのであれば、間違いなくJリーグ、日本の中でもトップになれるぐらいの攻撃的選手だと言えるんじゃないでしょうか。
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この前ナイキの帽子被ってる子がいて、その帽子にナイキのマークとJUST DO ITって書いててうわっ、すげーキャッチーな言葉だなと思った。
ナイキのスローガンがJUST DO ITだったの完全に忘れてました。
1988年に誕生してるんですね、このキャッチコピー。
毎日がはじまりの日だ
毎日が新しいなにかに挑戦するための日だ
手に入れた力を証明するための
すべて出しきるための
理想に近づくための
チャンス
プレイで自分を表現するための
そして
もう一度スタートするための
毎日が最高のチャンスだ
ナイキのCMって、短い時間のなかでしっかりストーリーがあってかっこいいですよね。
サッカーのCMはすごい印象に残ってる。
これも当時かっこいいなと思ってみてました。
いやこれね、なんで赤外線センサーのある所に髪の長いダービッツが行くんだよって、もっと短髪のやつおるやろ、��て見てました。完全に作戦ミスってるわって。ファン・ハール(このチームのボス)しっかりしろって。
けど、今見るとめっちゃ良いですね。
髪にジジってセンサーが触れて、そこからいっきに展開していく感じ。
中田のやってる胸トラ練習したなー。
空港で絶対やっちゃいけないやつ。
ロナウジーニョってボール一個あればずっと遊んでそう。
昔はこの『Joga Bonito』(美しくプレイしようという意味)をビデオでスロー再生しながらリフティングとか選手のやってるプレイ真似してたんだよなぁ、懐かしい。
ロナウジーニョのバー当てなんてサッカーしてる人絶対やったことあると思う。めっちゃムズいからね。4回連続ってすごい。CGとか言われてたりしてたけど、ロナウジーニョならやりかねないと思わせるところはさすが。
最後のアンリが出てくるストリートサッカーのプレイ、何十回見たか。
とにかくやれ!!!!
DO IT !
JUST DO IT !
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チーズ工房の数が年々増えている。農水省によると国内工房数は2022年度で346カ所に上り、10年間で1・9倍となった。フレッシュタイプや白カビタイプなど多様な種類の国産チーズを楽しみたいという消費動向に応える。近年では、チーズの食べ方などを消費者に直接提案できる飲食施設を備える動きもある。
工房数は12年度は186カ所、17年度は306カ所と年々伸びている。日本チーズ協会によると、これまで工房が多かった北海道以外でも設立が活発化し、「すでに全都道府県に工房がある」という。
作り手や地域の個性が出やすいチーズ工房では、スーパーなどでは入手しにくい青カビやウォッシュ、ヤギの乳を使用したシェーブルなどさまざまなタイプのチーズが提供される。同省は、食の洋風化で「チーズの消費機会が増えると同時に、多様なチーズを楽しみたい消費者が増えていることが工房の増加につながっている」(牛乳乳製品課)と指摘する。22年度のナチュラルチーズの消費量は約20・5万トンで、12年度と比べ18%増えている。
滋賀県東近江市の古株つや子さん(40)は、22年末にチーズ工房「Lactoserum(ラクトセロム)」を立ち上げた。工房にはカフェ兼バー「Y-s(ワイス)」を併設し、チーズを使った洋菓子や、バーで提供するお酒に合うチーズも提案。古株さんは「消費者の声をじかに聞くことで、自分が作りたいチーズだけでなく、要望に合わせたチーズ作りにもつながっている」と話す。来店者からは、口当たりが良く、生乳の風味が感じられる比較的癖のないチーズが人気を集める。こうした要望に応え、フレッシュ、白カビ、ウォッシュなど多様なナチュラルチーズを提供する。
「新潟にもおいしいチーズ」広めたい
印章製造大手の大谷(新潟市)は、今夏からチーズの製造・販売を本格化させる予定だ。子会社の社会福祉法人が、障害者の雇用創出へパンやチーズの製造・販売に20年に着手。チーズは小規模設備で不定期に製造していたが、大谷が設備を増強し製造に乗り出す。
同社は「新潟県にもおいしいチーズがあることを広めたい」と、県内では珍しいカマンベールなどの熟成系チーズを主に製造する考え。同社のパン販売店に加え、道の駅や空港でも販売する予定だ。
同協会は年内に、工房の衛生面やチーズの食味などを審査し、基準を満たした場合に認証マークを付与する制度を始める。チーズ製造者の意欲や技術の向上につなげると同時に、衛生面などの客観的な評価で消費者の安心感を醸成し、需要拡大を後押しする。(森市優)
「チーズ工房」10年間で倍増、340超に 〝豊富な種類〟ニーズつかむ(日本農業新聞) - Yahoo!ニュース
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2023年3月30日(木) 出張旅行記その123 前編 【1月27日】 ホテルを出発した送迎車は,夜のハノイの町から空港に向けて走ります。道は混むこともなく,快適です。 さらば,ベトナム。いろいろあったけど,本当に楽しかったよ。そして,周りの人たちに本当に助けられたよ。ありがとう、また来るね。 空港までの道は割と空いていたのに,送迎車の降り場は混んでいました。ドライバーが勘よく空いているスペースを見つけ,降ろしてくれます。予定時刻よりも早く,出発3時間前には到着しました。 ありがとう。お礼を言って,別れました。 見送りの人はここまでのようで,パスポートとチケットを見せないと建物の中には入れません。パスポートとチケットを持ってさらにキャリングケースを持とうと苦戦していると,通行人が手伝ってくれました。ここでも助けられる店主。ありがとうございます。 構内に入り,びっくり。いえ,外の状況から薄々予想できましたけど。ものすごい人です。ほとんどがベトナム人のようで,東京行きが特に混んでいるみたいです。 チェックインカウンターの場所を確認し,多分ここかな?という列の最後尾の人に訊きます。 大阪へ行かれますか? そうです,と二人の若い男女のベトナム人。よかった。彼らの後ろに並び,スマートフォンで出張記録を書き始めます。こうして時間を潰せるのは,本当に助かります。 しかし,ほとんど進まない行列。1時間近く経ったころでしょうか。前に並んでいた二人が,違うところに並んでいたと列を離れて進み出します。慌てて二人を追いかける店主。チェックインカウンターにかなり近づきましたが,それでもまだまだ人は多いです。 さらに時間が経ち,搭乗時刻まで1時間を切った頃。前の二人はどこかへ消えてしまいました。あれ?隣の人に聞くと,隣のお兄ちゃんは名古屋へ行くと言います。 うーん。ちょっとやばいかな。店主も列を離れ,スタッフを探します。運よく見つけたスタッフにチケットを見せて聞くと,彼も忙しそうでしたが,18番のカウンターへ行くように教えてくれました。 あ!先ほどの二人もここにいます。 カウンターの男性にPCR陰性証明を渡し,ベルトに荷物を載せます。総重量45kgちょっと。 セーフ! 最大重量46kg以内になんとか抑えました。 いよいよ出国審査です。 【お知らせ】 海外出張から帰ってきちゃいました。現在、通常営業しています。 ご来店、心よりお待ちしております。 【身体のセルフケア】 2023年4月22日(土) 16:30~18:30 上福島コミュニティーセンターにて 詳細、お申込みはメッセージにてご連絡ください。 #カフェ #バー #東南アジア料理 Cafe & Bar ສະບາຍດີ(#サバイディー ) 大阪府大阪市福島区鷺洲2-10-26 📞06-6136-7474 #osaka #fukushimaku #cafe #bar #福島区グルメ #福島区ランチ #福島区バー #ラオス #ベトナム #チキンライス #ベトナム旅行 #ベトナム旅 #ノイバイ空港 https://www.instagram.com/p/CqZv1b1y-b-/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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2024/4/30 7:59:08現在のニュース
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JR切符で地元バスも 岩手で「ライバル」が過疎化へタッグ(毎日新聞, 2024/4/30 7:31:56)
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2/27-28
二連休の初日、昼の便で高松に向かう。一人で静かにはしゃぎ気味で、窓から通り過ぎていく瀬戸内海の様子を撮影したりしていた。
着いて早々念願だった洋食屋へ行き、素晴らしいお店の空気感に感動。店主とその奥さんなのか、あんなに忙しいのに人当たりが柔らかすぎる。尊敬する。さらに最高な喫茶店への再来を果たし、ぶらぶらしていたらチェックインの時間に。近くのコーヒーショップに行ったら、店主さんとひたすら喋り倒していた。島の美術館がもたらす賑わいををここで暮らしている人たちは実際どう思っているのか、という話が面白かった。その温度差というのは、きっとどのローカルの地でもある話なのだろうと思いながらも、もっとここにいる人たちを巻き込みながら何かできないのかと、薄く考えたりした。
宿の作業スペースが思いのほか広くてきれいだったので仕事を少し片付け、こっちにちょうど出張中である友人の仕事が終わるのを待って居酒屋へ向かう。6年前に行った居酒屋が名前を変えて生き残っていた!うれしい。友人はお酒を飲まないので、私だけビール。ここ最近心許せる人と話していなかったから、どんどん言葉が溢れてくる。圧倒的に自分が発している時間の方が長くなってくると居た堪れなくなるが、お酒も入ってべらべらとこれまでのことを喋り倒してしまった。
お店から出たらコミュ力高めなナンパをされ、それとなくスパッと断り、友人が出張のたびに通っているという喫茶店兼バーに。パーフェクトデイズや美術館の話、次は高知県に行く話とかをして、そういえばもう2月が終わるんだなと急に焦る。ひとまず、契約は更新して4月まで働こうかなと思う。
⇩
高松でおそらく一番安い宿にしたのだけど、ドミトリーから洗面台が近すぎてドライヤーの音やカーテンの音で目をさます。次は個室の宿にする。私はいつまで「最安値」を必然的に選びながら生きていかないといけないのだろう。最安値がちょうどいいこともあるのだけど。
うどん屋で調子に乗って天ぷらを3つ(かぼちゃ、高野豆腐、じゃがいも)乗せてしまい、腹パンに(席についてから芋がダブってるのに気づいた)。そのまま歩いて、友人と待ち合わせしている喫茶店へと向かう。昼休憩に入った友人と合流し、我慢できずトーストを頼む。ばかである。この喫茶店も接客が素晴らしく、コーヒーはハンドドリップで濃いのに350円。雑誌も豊富に揃え、店内の雰囲気も茶色くて落ち着く、要するにパーフェクト。
本屋と古本屋をはしごしてたら、とても好きなデザイナーさんが夫さんと本屋に入っていくのを発見!!香川在住とは知っていたけど、なんだか縁起がいいね。サイゼリヤで時間を潰す。その一階にあるスーパーで買い物をするが、野菜以外は少し高め。たんまり買って、急いで港へ向かう。なんとか最終フェリーに乗り込んだ。島はすっかり暗くて、星がよく見えた。
...
『さびしさについて』高松の本屋さんで購入した。去年からさびしいと感じることがとても増えたように感じる。原因はいくつかあって、打ち込めることがいまいちない・時間的精神的な余裕がある程度ある・一人で暮らし働いている・まわりに友人がいない・二人で生きている人が周りに増えた、などがあげられる。このさびしさとどう付き合っていくかは、今大きな課題として私に立ちはだかっている。さびしさを打ち消すくらい何か他のことに打ち込むか、そのさびしさに素直になるか。各々のさびしさについて、延々と話してみたい、誰かと。
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エストニアは、東大で集中講義をしにきてくれたRaud先生の故郷。人口が少ないエストニアでは、先生の名前を言うだけで、知識層の人々は、おぅお前はReinの知り合いなのか。。。と驚嘆してくれる。彼の父、祖父と、みんな知識人で、彼の妻も作家。日本に住んだ二週間、先生は早稲田での講演とかもあったのだけど、もう泣きそうな位にホームシックになっていた。サンタさんみたいな体格を震わせて、涙をジーンと浮かべながら、家族が側にいないって辛い。。。とぼやいては大酒を飲んでいたっけ。先生はロシア語なども含めて二十ヶ国語位はペラペラしゃべる。早稲田では日本語で講演してくださった。それも、道元について。そんな、先生が愛してやまないエストニア。歴史はやばい。常に隣国ロシアの脅威にさらされている。タリンなんて、サンクトペテルブルクの目と鼻の先である。KGBの抑圧時代も含め、自由について敏感な国でもある。KGB時代の、知識層をターゲットにした独房には、建物に入っただけで寒気がして、独房にまでは行けなかった。そう。ワシはヒヨイ。
国会議事堂と大統領府のピンクの建物は、ブエノスアイレスのカサデローザを想起させる。独裁者が出る国って、なんでピンクに塗りたがるんだろうか。。。ピンクが好きなワシは、なんとも真綿で首を絞めていくような政権の象徴としてピンクが国家権力の象徴的建物に使われている事に脅威を覚える。そして、その前には、ロシア正教の教会である。きゃー。ロシア。。。の香り。
エストニアは、まるで絵本の世界と、デジタル最新世界が同居した国。寒いだろうに、近代建築は、透明性と自由を尊重したい為か、ガラス張りの建造物が多い。左は旧市街を見渡す丘からの絵本の眺め。右はワシのホテルがある港湾地区の開発地域の眺め。
そして、ワシの初日の遅い昼食兼早い夕食は、北朝鮮の方と思わしき怪しい、とても怪しい一軒家の韓国料理屋に行ってみる。温かい、辛さも哀しみも苦しさも、ぜーんぶ味わった末の優しい包容力があるんだけど、苦労してきたであろう話さなくてもお人柄が忍ばれる店主のおっちゃん。片言で、ワシ、イルボンやねん。。。と言う。途端に破顔になる。エストニアというよりも、どこからどう見てもロシア人の奥さんが作ってくれた手作りのキムチと、カッペリーニを使ったカルグクスをいただく。丁寧に牛肉でダシを取ってあり、優しい味わい。一口、スープを口にしただけで、なんか涙。老夫婦の辿った人生は、いかなるものだろう。途中、ロシア語を話す背の高いスーツ姿の老人が見える。ロシア語で静かに話し込む。ワシは彼らのロシア語を、コロナ中に練習していたカタコトロシア語を思い出しつつ、何故か郷愁に浸る。不思議な空間。もう絶対、おっちゃん、スパイやったんでしょ。。。と思うし、別にそれを分かる人には分かる感じで、良いですって感じ。奥さんも落ち着き払っている。そして、大きなお屋敷の一画で経営する韓国料理屋を後にして、ワシは人生を思う。人生の深さや重みを知っている人は、おしゃべりで寡黙だ。人生とはパラドクスだからだ。ワシも超おしゃべりだけど寡黙である。
そして、エストニア国立劇場で、バレーではなく、ベルリンを舞台にしたミュージカル、キャバレーを鑑賞。バレェにしようか悩んだんだけど、エストニア語と英語の字幕ですっていうのに惹かれてしまう。ワシってやっぱ、オタクかも。。。そして、もともとドイツ人が書いたスクリプトで、ドイツ語、フラ語、英語がポロポロでてきて、めちゃくちゃ、左脳言語野が刺激される。視覚的には、エストニア語と英語の同時字幕なので、ワシ、もう大興奮。休憩に思わず、普段は行かないバーに行ってオレンジジュースを飲まないとやってらんない始末。
話の内容は、ドイツ批判である。エストニアでナチ批判のミュージカルを、すぐ隣で戦争していて、ドイツは戦争支援で大量の兵器を送っていてという現実の中で、ミュージカルは、当に、ドイツの狭小な国民性。長いものに巻かれてしまう権力に弱く、従ってしまう弱い市井の人々。そして、一番悲しいのが、政治なんて全く関係無いと思っていた人々が一番影響を受ける被害者になること。今の状況、反映しすぎてて、ワシ、ドイツに帰りたくなくなる。ドイツ好きな奴って何を見ているんだろう。何がドイツを好きにさせるんだろうか。ドイツ人のクッセー体臭か。料理の不味さか。あるいは、白人だから良いのか。むしろ、何も、見ていないから、平気でドイツ好きーとか言っているんだろうな。つーことは、そういう無知な人々が、一番、有事には被害者になるんだろうな。。。そして、ワシは情報収集家なので、貧しい雑草なんだけど、色々と頑張って嗅ぎ回って、なんとかかんとか、危機一髪で逃れられる類なんだろうなぁ。。。と思う。
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Trip to Shenzhen, November 2023 - Day 1: Craft Beer Pub crawl
Finally, the main part of my trip! Craft Beer pub crawl.
いよいよ旅行のメイン!クラフトビールパブを巡ります。
COCO Parkに到着した時点ではスマホの充電がほぼ0。
深圳の街中では、レンタルバッテリーサービススタンドみたいなのはあるのですが、残念ながら私のAlipayでは登録できず。
ラッキーなことにスタバの中に電源コンセントがある席を発見したので一旦充電休憩し、この建物のの中に入っているクラフトビールのお店へ訪問します。
電源がないと、文明の利器もただの文鎮。(この旅2回目)
◾️No.18 Brew Pub(18號酒館 福田星河COCO Park店)
📍广东省深圳市福田区福田街道福安社区福华三路269号星河COCO ParkF1
中国の各地にもいくつか店舗のあるブリューパブ。中国系では珍しくInstagramのアカウントがある(な、と思ったら、2022年4月で更新が止まっていた...結局中国の人はweiboか小紅書しか使わないのよね)し、UNTAPPDのブルワリー情報もありました。
メニューの1ページ目。いい言葉ね。
Instagramのプロフィールによると、
Founded in Wuhan, 2013. We are one of the first Chinese craft breweries, aimed at bringing the beauty of craft beer to the wider audience of China. (2013年武漢に設立。中国初のクラフトビール醸造所のひとつであり、クラフトビールの素晴らしさを中国のより多くの人々に伝えることを目的としている。)
とのことなので、かなり老舗みたい。
メニューはこちら。いろいろあります。味わいがチャートになってるので、初めての人でもわかりやすいね。
だがしかし、私はとにかく酸っぱいビール信者なので、酸っぱいビールをチョイスします。
🍺 NO KPI / Session Hazy IPA
ふつうに美味しい〜!いい感じのグレフル感で飲みやすくておいひー!まだちょっと明るので、こういう軽めのやつ最高。
香港でも韓国でも、普通のレストランはあんまり英語が通じない中、クラフトビール屋の店員さんはほぼ英語が喋れるので、旅行中も重宝していたのだけど、深圳はクラフトビール屋さんでも全然英語通じないのね...さすが内需だけで十分生きていける国...観光客も来ないから、英語が使える必要がない... というか、授業でも英語の授業って無いのかな。
お次は酸っぱいやつが飲みたかったので、メニューにある「Say Hi Lake / Cider」か「Cola Sour Ale」が飲みたかったのだが、売り切れとのこと。
お店のお兄さんに「何かおすすめある?」と聞いてみたら、テイスティングでこれをくれた。飲んでみたら良さげだったので注文。
🍺 Shan's Opinion / たぶんGose
Brewpubということで、バーの2Fに醸造設備があるみたい。こっちのビール��ここで作ったやつ(っぽいことを言っていた)
オンタップのもの全部が全部ここで作られているものじゃないみたいだけど。
ちょっと梅ジュースっぽい味。メニューに名前が書いてなかったので別のお姉さんに聞いてみたところ、「Shan’s Opinion」っていう名前らしい。UNTAPPD見てみたけど出てこず。
ちなみにこのお店、席数はテラス席を足して100席あるか無いかくらいなのに、めちゃくちゃ店員さん多いしワシワシ動いてる。そんなに人数いるか…???苦笑
最初にテーブルについてくれたメガネのお兄さんは、言語が通じないながらもわずかな英語のワードを駆使して説明してくれたり、モバイルバッテリーをバックヤードの電源コンセントで充電してくれたり、めちゃくちゃいい人だったんだけど、その後にカウンターに入った女子がクソすぎた。
お腹空いてたのでタコスも頼んだんだけど、出てくる気配もなく、ビールも飲み終わってしまったので2杯で退散。
お店を出て、COCO Parkからを出て、
隣のブロックのショッピングモールに移動。
移動、またAlipayでシェアサイクル借りてみたんだけど、普通に決済できたので安心して次のお店へ。
◾️RICHKAT BREWERY 猫员外精酿啤酒馆(领展中心城旗舰店)
📍广东省深圳市福田区福华一路3号领展中心城L1层RL1018号
隣のブロックにあるショッピングセンターにあるクラフトビールやさんにきました。いちおうUNTAPPDにも醸造所情報はありましたが、公式Webサイトも落ちているので詳しいことは分からず。
バーはこんな感じ。ネオンたくさんで可愛い。
結構広いです。全部入れたら200席くらいあるんちゃうかな?
平日なので、まだまだお客さんは少ないです。
メニューはこちら。猫かわいい。
隣の席のカップルは、このめちゃくちゃでかいビアカクテルのサーバーっぽいやつを頼んでました。
ここのバーもさっきと同様で、店員さんは英語全く分からない様子。メニューを指さしながら、身振り手振りで注文するしかない状況。
(追記)東洋経済の以下の記事を読む限り、日本よりも中国の方が早い段階で義務教育での英語はスタートしていたらしい。何でしゃべれんのや...?
何回もやりとりをするのがめんどくさいので、2杯いっきに注文。
🍺 果茘番番 Guava&Lychee Gose(左)
🍺 沖浪 Second Wave / West Coast Pilsner(右)
両方とも330mlを注文。会員かそうじゃ無いかで値段が違うようで、私はもちろん会員じゃ無いので、左が38元(=約760円)、右が28元(=約560円)でした。
お腹空いてきたのでルーローハンも注文。
フラッシュ焚いてみるとめちゃくちゃレトルト感あるな。もうちょっといいつまみ出してくれよ、というのは期待してはいけない。
街のイルミネーションショーが始まったっぽいのでテラスへ。
なぜか店員さんも外に出てきて写真撮ってた。毎日やってるんじゃないのかな?謎。
ここでまたトラブル発生。
Alipayでの自転車レンタルは問題なかったのに、なぜか飲食店での決済ができない問題が発生。しかも「さっきのお店では払えたのに、今回のお店では払えない」パターン。財布の中の現金をかき集めて、何とか支払い。
街中でのパブクロールは終わったので、一回ホテルに帰ります。
こういうのみると、今の中国はほんとに活気と勢いがあることを実感。日本は元気なくなってきちゃったよね。。。。そして、海外の人が渋谷のスクランブル交差点とか歌舞伎町とか行きたがる気持ちがわかるわ。キラキラした街みるの楽しいよね。
ホテルに戻り、充電をし、もともと行こうと思っていた南山区のビアバーに向かいます。X(旧Twitter)でフォロワーさんにおすすめのお店を教えていただいたので、そこの住所をホテルマンに伝え、タクシーで向かうことに。
タクシーからさっきのでかいビルが見えます。摩天楼。
思えば遠くまでやってきました。
南山エリアのハズレのハズレ、住宅街みたいなところにきました。
◾️白頭山麦酒商店(白头山麦酒商店)
📍广东省深圳市南山区望海路1099号双玺花园一期128号
ボトルショップ兼ビアバーみたいな感じ。
置いてあるビールの8割が知らない中国のやつ...!!海外ものもいくつか置いてあるので、深圳のクラフトビールマニアに人気なのかもしれない。
ここで再度トラブル発生。
さっきホテルから出してもらったタクシーでも、Alipayが全然使えなくて、何とか財布の中の現金をかき集めて支払って(88元くらい)、ここのお店でもギリギリ現金残ってるくらいの値段のビールを選んだのだが、またAlipayも使えず、現金での支払いも受付できない、ということで......
お店のお姉さんが「ニホンダイスキ!ニホンジンアリガトウ!」と言いながら、ビール持って行っていいよと言ってくれたので、お言葉に甘えていただいてしまった...
(追記)帰国後、この時にいただいたビールを飲んだのだが、ものすごい色でものすごいジュース的な味わいのキウイのビールでした。
BUBBLE LAB BREWERYという浙江省の醸造所のもの。
「GOSE」って書いてあるけど、ゴーぜ感はゼロの謎ビール。笑
🍺 KIWI MIRACLE TRIBE GOSE / BUBBLE LAB BREWERY
Alipayが使えなければ、充電があっても電波があっても、文明の利器はただの文鎮......(今回3回目)
ここでどっぷりと疲れてしまい、本当はもっと南山のクラフトビールバーを巡るつもりが、もうホテルに帰ることに。現金もない、Alipayも使えない、クレジットカードも受け付けてくれない、そんな私はお店に行っても何もできないのです...
悲しみの帰宅。
◾️おまけ
本当はもっと巡りたかったビアパブたち。南山区に集まっているようなので、次、万が一、深圳に行く機会があれば行ってみます。。。ビザが必要な間は多分行かない。。。
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