#秦野名水利活用指針
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harasatoshi1977 · 4 years ago
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皆さまこんにちは。 先日は秦野市の本会議場で一般質問をさせていただきました。 1 図書館活用の将来像について 町の本屋さんと連携した読書ポップの推進の意見を述べさせていただきました。 また、GIGAスクール構想の中でのデジタル教科書・電子図書館・デイジー教科書について研究の回答をいただきました。 秦野市の庁内研修『次世代アカデミー』歴代参加者90名の中に図書司書さんがいないことの問題を指摘させていただき、全国の開かれた(横須賀市・呉市)議会図書室の事例を紹介させていただきました。 また、小学校の図書室はPOSシステムで管理していくことが必要である旨も強く要望させていただきました。 2 秦野名水の利活用について 本市の貴重な資源を『宝の持ち腐れ』としないためのブランド保全、活用について質問させていただき、『秦野名水利活用指針』での評価、ブランドとしての普及効果をふまえて推進していく旨のご回答をいただきました。 また、新規井戸への補助は必要水量の確保に不確定要素があるとの事なので災害協力の観点から既存の井戸整備への補助を認定農業者を主軸に調査・検討をしていただく回答をいただきました。 上記2点を質問させていただきました。 本日も一般質問が行われております。 ☕休憩中の投稿です♪ #一般質問#図書館#本屋#連携#読書ポップの#GIGAスクール構想#デジタル教科書#電子図書館#デイジー教科書#次世代アカデミー #歴代参加者90名 #図書司書さんがいない #議会図書室 #小学校の図書室 #POSシステムで管理 # 秦野名水の利活用について #宝の持ち腐れ #秦野名水利活用指針 #新規井戸への補助 #不確定要素 #災害協力の観点 #既存の井戸 #整備への補助 #認定農業者を主軸に #休憩中の投稿 https://www.instagram.com/p/CMloNPhDGTQ/?igshid=16c3mzj1cctve
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xf-2 · 5 years ago
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日中戦争には分かりづらいことが多い。「冀東防共自治政府」といって、理解できる人がいまどれくらいいるか……。宣戦布告がなされなかったため、正確には「戦争」ではなく「(満洲、支那)事変」だったのをはじめ、日本の中国侵略の過程が複雑だったことが原因だ。例えば、当時の日本軍のスローガンは「暴支膺懲」。「暴戻支那を膺懲する」の略で、「暴戻」とは乱暴で人道に外れていること、人民をいじめることだ。1937年8月15日に日本政府が発表した声明は、「帝国としては最早隠忍其の限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」となっている。要するに政府や軍を懲らしめて正道に戻すというイメージで、建前では、敵は中国国民党軍や共産党軍であって、中国の民衆ではなかった。
 1931年の柳条湖事件で始まった「満洲事変」は33年5月、「塘沽停戦協定」で表面的にはいったん終結。その際、関東軍の要求で冀東(河北省東部)を非武装地帯とし、中国軍の立ち入りを禁止した。これは、日本の軍部が華北地域を満洲同様、中国から切り離して事実上領有しようという「華北分離工作」の始まりだった。冀東は九州と同じぐらいの面積で人口約625万人。そこに日本の傀儡政権として35年11月に誕生したのが冀東防共自治委員会(のち冀東防共自治政府に)だった。通州はその本拠地で、主席は中国国民党で蒋介石の通訳などをしていた早稲田大卒の「日本通」殷汝耕。37年7月29日の通州事件は、味方であるはずの冀東政府の治安部隊・保安隊が「兵変」を起こし、日本軍駐留部隊や特務機関、在留日本人を襲撃、虐殺したとされた。被害者は本編にあるように200人以上。公式戦史に近い「戦史叢書」などは「223人」としている。うち半数以上が反乱を起こした兵員について、事件に最も詳しい広中一成「通州事件」は、保安隊などの計約7000人としている。
「通州保安隊の叛乱鎮圧」「北平本社特電(廿九日發)廿九日通州城外冀東保安隊二百名は突如叛乱を起しわが軍に対し射撃を加えたのでわが部隊は応戦追撃を加へこれを鎮圧した」。事件を伝える東京日日新聞(東日)の第1報、37年7月30日朝刊2面のベタ(1段)記事だ。第2報の31日夕刊は1面トップで「通州の保安隊暴動化」の見出し。「冀東保安隊の叛乱は丗日午前にいたり遂に暴動化し通州城内もこれら保安隊に蹂躙され、冀東政府並にわが出先機関との連絡全く途絶し一説には城内にあったわが少数部隊並びに細木特務機関は全滅したと伝えられる」と報じた。対して朝日新聞は同じ夕刊で「通州邦人の安否憂慮」という段階。以前から東日は陸軍寄りといわれており、その差が出たのかもしれない。
 以後、報道はセンセーショナルにエスカレートする。見出しだけ見ても「鬼畜も及ばぬ残虐」(東日7月31日号外)、「恨み深し!通州暴虐の全貌」(朝日8月4日夕刊)、「宛(さなが)ら地獄絵巻」(同)、「敗残兵なほ出没 宛然!死の街」(朝日4日朝刊)、「人生の悲劇をこゝに あゝ鬼畜残虐の跡」(東日5日朝刊)…。本編の安藤利男記者の脱出後の手記が朝日、東日両紙に載っているが、「縛り上げて刑場へ 血に狂ふ志那兵 死の通州脱出談」(朝日8月2日朝刊)、「“死の通州”脱出血涙手記 “邦人虐殺”の銃口下 近水楼屋根裏の恐怖」(東日3日夕刊)とおどろおどろしい。これには理由もあった。
新聞にとって”戦争は儲かるもの”
 37年7月7日の盧溝橋事件は現地の交渉で収まりそうになったが、あくまで強硬姿勢をとる関東軍と陸軍中央多数派の圧力で部隊増派が決定され、7月28日に中国軍への総攻撃が始まった。通州事件が起きた29日、日本の陸軍当局は東京の新聞・通信社の編集局代表を内務省警保局に招致。陸軍省新聞班斎藤少佐が31日の官報で新聞紙法第27条(「陸軍大臣、海軍大臣及び外務大臣は、新聞紙に対し命令を以て軍事若しくは外交に関する事項の掲載を禁止し又は制限することを得」)の発動を公布することを通告した。「27条の発動に依って報道機関の使命を阻害せんとの意思は毫もなく、唯、時局を認識の上、国家的協力を俟つものであり、許可ある範囲において、更らに一層の世論昂揚を希望する」と述べた(「日本新聞年鑑」)。報道の取り締まりが強化され、記事は「世論昂揚」するものでなければ載らなくなりつつあった。そして、よく知られていることだが、新聞にとって“戦争はもうかるもの”だった。出征した家族や友人らのわずかな消息を求めて紙面に目をこらす。日清、日露戦争でもそうだったが、「満州事変」でも新聞各紙は部数を大幅に増やしていた。「またチャンス」と考えた新聞人は少なくなかったはずだ。
軍と密着の同盟通信・安藤記者の決死の脱出劇
 安藤記者が所属していた同盟通信は、現在の共同通信と時事通信の前身。事件前年の1936年1月1日に発足していた。通信社の新聞聯合社と、広告業と通信社業を兼ねていた電報通信社(電通)の報道・通信部門が統合。「諸外国にならってナショナルエージェンシー(国を代表する通信社)を」という政府の意向に沿った国策通信社だった。国内外80支社局と延長7000キロの専用電話線を持ち、敗戦時の社員・雇員は約5500人。その機能が報道だけでなかったことは「共同通信社50年史」も認める。「外務省や軍が同盟の人事に関与したり、同盟に仕事のやり方を指導・注文するのは日常茶飯事だった。同盟の側も外務省や在外公館に対し、同盟出先の事業拡大などのための資金援助をしばしば要請していた」「同盟のイメージは国家機関に限りなく近い」。里見脩「ニュース・エージェンシー」は「『日の丸の翻るところ同盟あり』をスローガンに約1700人もの社員が国外で活動した通信社は他になく、その評価はともかく、世界最大の規模を保持したのは確か」という。
 同盟は「満洲」と合わせた中国大陸に約30カ所の総局・支局があったが、盧溝橋事件後、陣容はさらに強化された。「通信社史」は「(同盟)創業の翌年―昭和十二年七月―には日華事変に直面し、それが空前の大動乱に発展していく過程において、目覚ましい活躍を演じた」「日華事変の報道こそは、『同盟』がそのあらゆる人的・物的能力を傾倒したものであった」と書く。7月30日北平(現北京)発の同盟電は通州の模様を報じた後、「同地にありし各社の従軍記者も昨日来ほとんど消息を絶ち、その安否が気遣われている」と伝えている。「通信社史」にも「通州の反乱事件では、たまたま天津から北京に帰任の途中にあった安藤利男記者が捕らえられ、まさに射殺されようとする寸前、刑場から劇的脱走を試み、成功したという一幕もあった」と、本編を裏書きする記述がある。
今も確定しない「通州事件」の引き金
 冀東政府主席の殷汝耕���、当時面談した朝日新聞記者の���崎秀実(ゾルゲ事件で死刑)が「一世の風雲児」と評価した人物。事件後、主席を辞任。冀東政府は北京で同年12月に成立した王克敏を行政委員長とする中華民国臨時政府に合流して消滅した。戦後「漢奸」とされ、本編に書かれたような最期を遂げる。しかし近年、その政治理念を再評価する動きもある。当時の親日政権の研究を続ける関智英・東洋文庫奨励研究員は、殷を「孫文に先んじて大アジア主義を提唱するなど、多面性がある」とし、冀東政府についても「日本の影響下に成立しながら、日本からは独立した存在たらんとした」として、日本の傀儡という単純な見方には収まらないとの見解を示している。
 事件の原因については諸説あり、いまも確定していない。日本軍の総攻撃の中で「関東軍の飛行隊がその際、冀東政権の保安隊兵舎を誤爆した。冀東保安隊は、日本軍が自分たちを攻撃したものと早合点して、日本軍や居留民に対する襲撃を開始した」(古賀牧人「近代日本戦争史事典」)というのが、最も多くいわれる説だ。また、冀東保安隊と国民党軍の間に「通謀」や「密約」があったとする見解も目立つ。東日7月31日朝刊には「冀東政府保安處長張慶余が潜入した廿九軍敗残兵の煽動に乗せられ」とあり、当時から公然たる事実になっていたことが分かる。その張慶余(正確には保安隊第1総隊隊長)は1982年に回想録を発表。「中国国民党第29軍とかねてから接触し、『日本打倒』の密約をし、『通州決起』となった」と告白した。しかし、これにも疑問の声がある。ほかにも、29軍が日本軍との戦闘で大勝したというデマ宣伝を国民党がラジオ放送で繰り返し流したのを信じたという説も。「戦史叢書」は「かねてから抗日戦線参加の工作が進められていたが」「関東軍飛行隊が保安隊兵舎を誤爆したのを憤激し、かつ、第二九軍戦勝の宣伝を信じて反乱を起こし、冀察当局から賞与を得ようとしたものであった」と3つを組み合わせて原因としている。
 ほかにも、保安隊に中国共産党軍の兵士が入り込んで謀略工作を行った結果だとする見方もある。興味深いのはアヘンを理由とする説。冀東防共自治政府は、「冀東特殊貿易」と呼ばれた低関税による密貿易と、アヘンの精製・売買で膨大な利益をあげていた。江口圭一「日中アヘン戦争」に登場する日本人麻薬製造技師は「冀東地区こそ、満洲、関東州などから送り込まれるヘロインなどの密輸基地の観を呈���始めたのである。首都は通州に所在したが、この首都郊外ですら、日本軍特務機関の暗黙の了解のもとに、麻薬製造が公然と行われたのである」と語っている。売買には多くの朝鮮人が関わっていた。この麻薬汚染に憤った中国の民衆が襲撃に関与したという見方だ。保安隊の襲撃は周到な計画の下に準備されていた。広中一成「通州事件」は事件の背景について、「保安隊員らがもともと抱いていた抗日意識、または、軍統(蒋介石直属の謀略機関)や中国共産党による謀略工作が大きく影響したと考えた方が自然だろう」と結論づけている。
「南京虐殺」と「通州事件」 無視できない関連性
 近年、通州事件を「通州虐殺事件」として、約4カ月半後に起きる「南京虐殺」と関連づける主張が見られる。特に2015年に「南京大虐殺文書」がユネスコの世界記憶遺産に登録されてから、対抗するように、「通州事件関係資料を世界記憶遺産に」というキャンペーンが始まっている。これに対し、大杉一雄「日中十五年戦争史」は「現在、通州事件を『南京大虐殺』と対抗させてとりあげる向きがあるが、両者はその規模も性格もまったく違うことを認識すべきである」とクギを刺している。江口圭一「盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」は「通州事件は南京大虐殺否定論者による免罪符のように利用されている」と指摘。「通州保安隊その他による日本人・朝鮮人・女性・幼児にいたる無差別虐殺は容認できるものではない」としつつ、事件の評価・位置付けには3点の留意が必要と述べる。(1)日本の中国侵略の拠点とされた通州で発生した(2)アヘン・麻薬の密造・密輸の大拠点だった(3)日本軍の守備責任――で、(3)は保安隊が日本軍の統制下にあったことを指している。
 どちらの見解もその通りだと思うが、その上でも通州事件には、南京虐殺との関連を無視できない点がある。南京陥落当時、上海派遣軍と中支那方面軍の兼任参謀だった長勇中佐(昭和陸軍の「皇道派」に属し、最後は沖縄防衛の第32軍参謀長として1945年6月23日、牛島満司令官とともに自決)が1938年に旧知の田中隆吉中佐に語ったところによると、投降してきた中国兵30万人について、軍司令官に無断で殺害命令を出した際、「自分は(支那)事変当初通州に於て行われた日本人虐殺に対する報復の時期が来たと喜んだ」という(田中隆吉「裁かれる歴史」)。津田道夫「南京大虐殺と日本人の精神構造」は、「南京アトロシティーズを通州事件の報復だなどというのは、当時の現地軍高級将校の思考構造をよく示している」と指摘するが。
 橋川文三編著「日本の百年7 アジア解放の夢」は「���のときの通州守備隊は、その後華中作戦に転じ、報復心にもえて南京虐殺に参加したといわれる」と書くが、はっきりしたことは分からない。古屋哲夫「日中戦争」は、事件は「反日感情が日本の勢力圏でも広く浸透していることを示すもの」との見方を示している。実際、前年36年11月には、綏遠省(現内モンゴル)で、日本の傀儡勢力の軍が中国軍に敗北した「綏遠事件」が起き、中国の民衆が熱狂。抗日の気運が盛り上がった。
いつの間にか書き換えられた「保安隊の邦人虐殺」の報道
 当時の新聞紙面を見ると、この時期から、戦争が人々の日常の中に入り込んでいっているのが分かる。この年8月に「国民精神総動員運動」が始まったこともあり、各新聞社は競って前線の兵士への慰問袋の提供を読者に訴え、その反応を連日紙面に掲載した。「千人の女性に一針ずつ赤い糸で縫ってもらった白木綿の布を身に着けると弾に当たらない」という言い伝えの「千人針」が、街頭で普通に見られるようになった。「愛国行進曲」や「海ゆかば」などの「国民歌」「国民唱歌」が作られて人々に歌われ、映画の冒頭に「挙国一致」「銃後を護れ」のタイトルが入るようになった。
「満州事変」勃発からしばらくは、日本兵も「銃後」の日本人も「中国兵はすぐ降参する」とたかをくくっていた。しかし、中国軍は想像以上に頑強で、占領地を点と線でしか抑えられない日本軍の兵士は、戸惑いから徐々に焦りと不安を募らせていく。そこに起きた通州事件。焦りと不安は復讐心と敵愾心に変わる。それにはメディアの責任が重い。事件の模様をセンセーショナルに書くばかりではなかった。死亡した警察官や冀東政府職員の「名誉の戦死をする」「万歳」といった遺書を取り上げ、死亡女性を「叛乱軍と奮戦し壮烈なる戦死を遂げた烈女」として礼賛するなどして盛り上げた。「日本の傀儡である冀東政権の保安隊の行為」を「通州の邦人大虐殺」と言い換え、「中国軍の仕業」として書き立てた。それは日本兵ばかりでなく「銃後」の国民にじわじわと伝わった。国内では、ロシア革命後、赤軍パルチザンが日本人を含む住民を大量虐殺した事件になぞらえて「第二の尼港事件」と呼ばれた。
『支那膺懲』が高まった「通州事件」が南京虐殺をもたらしたのか?
 事件直後に通州を訪れた加藤久米四郎・陸軍省政務次官(立憲政友会)は帰国後の講演でこう語っている。「駆引、口先で嘘八百を並べると云ふことは支那の国民性だ。日本で正義人道と申しましても、支那人には決して是は分からない。それでありますから、��度の戦さでもそれは十分覚悟してかゝらなければならない」(加藤久米四郎「戦線を訪ねて国民に愬(うった)ふ」)。こうした中国人に対する侮蔑と敵愾心が国民の間に広がって行った。秦郁彦「日中戦争史」は事件を「真相を知らなかった日本国民の中国膺懲熱を煽る好材料として十分に利用された」と指摘。笠原十九司「日中戦争全史」も「日本国民の敵愾心、憎悪心を煽動し、『支那膺懲』熱を高めるために最大限利用された」と述べる。そうした中国人への感情が国民の間に広がり、醸成されて南京虐殺の「素地」になったのではないか。もちろん、虐殺の免罪符にはならないが、私には、日本人の心情の面で、通州事件が南京虐殺の引き金の1つになったように思えてならない。
 事件後の10日間、現場処理で通州に入った陸軍大尉(当時34歳)は「当初、中国軍の消極的な戦意を見て、この戦争は1カ月くらいで決着がつくと思っていた。それが8年余りも続くとは、誰が予想し得ただろう。通州で邦人の虐殺死体を目前にして、中国人のただならぬ敵意を感じたあのいやな予感は見事に的中したのだった」と語っている(「決定版昭和史8」)。
本編「通州の日本人大虐殺」を読む
【参考図書】 ▽広中一成「通州事件 日中戦争泥沼化への道」 星海社新書 2016年 ▽「戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)」 防衛庁防衛研修所戦史室編纂 1975年 ▽「日本新聞年鑑1938年版」 新聞研究所 ▽「共同通信社50年史」 共同通信社・関連会社 1996年 ▽里見脩「ニュース・エージェンシー」 中公新書 2000年 ▽「通信社史」 通信社史刊行会 1958年 ▽古賀牧人「近代日本戦争史事典」 光陽出版社 2006年 ▽江口圭一「日中アヘン戦争」 岩波新書 1988年 ▽同「盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」(「戦争責任研究」所収) 1999年 ▽大杉一雄「日中十五年戦争史」 中��新書 1996年 ▽田中隆吉「裁かれる歴史 敗戦秘話」 新風社 1948年 ▽津田道夫「南京大虐殺と日本人の精神構造」 社会評論社 1995年 ▽橋川文三編著 「日本の百年7アジア解放の夢」 ちくま学芸文庫 2008年 ▽古屋哲夫「日中戦争」 岩波新書 1985年 ▽加藤久米四郎「戦線を訪ねて国民に愬ふ」 東京朝野新聞出版部 1937年 ▽秦郁彦「日中戦争史」 河出書房新社 1961年 ▽笠原十九司「日中戦争全史」 高文研 2017年 ▽「決定版昭和史8 日中戦争勃発 昭和12~13年」 毎日新聞社 1984年
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aggartpra · 3 years ago
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歷史學傢林甘泉在京逝世 主攻古代社會經濟史|秦漢|畜牧業|張傢山
  原標題:楊振紅:我的老師林甘泉先生
  [編者按]2017年10月25日下午,歷史學傢林甘泉先生在京逝世。林甘泉,男,1931年11月生,福建省石獅人,中共黨員,1949年4月廈門大學歷史系肄業。中國社會科學院學部委員,中國社會科學院歷史研究所研究員。專業方向為中國古代社會經濟史、秦漢史。主要代表作:《中國封建土地制度史》第一卷(主編)、《中國經濟通史·秦漢經濟卷》(主編)、《中國古代政治文化論稿》、《中國古代史分期討論五十年》(合著)、《郭沫若與中國史學》(主編)。
  本文作者楊振紅早年師從林甘泉先生,她曾任中國社科院歷史所研究員,現為南開大學歷史學系教授。在中國社科院歷史所建所六十周年(2014年)之時,她曾撰文介紹林先生的為人與治學,文字樸實,情真意重,感人至深。經楊振紅教授授權,澎湃私傢歷史欄目轉載該文,藉此紀念林甘泉先生。
林甘泉
  初次見到林先生是在1986年10月安徽蕪湖召開的中國秦漢史研究會第三次年會上。中國秦漢史研究會1981年成立,林先生是第一任、第二任會長。此次年會,林先生從會長職位上卸任,被聘為研究會顧問。當時我22歲,正在北京大學歷史系讀碩士研究生,即將進入二年級課程。對於我這樣一個初入史學之門、蒙昧無知的青年學生而言,林先生是高山仰止的大傢,故不敢冒昧拜謁求教。會後遊覽黃山,途中,我們一行數人遇到林先生一行。林先生身著中山裝,風度儒雅,笑呵呵地和同行的唐贊功先生打招呼,這一印象深深地定格在我的記憶中。
  1988年8月,我從北京大學畢業,分配到歷史所工作。林先生時任歷史所黨委書記。一天,林先生讓我去他的辦公室,說有事要跟我談。我懷著忐忑的心情來到林先生辦公室,林先生態度平易,讓我坐,我頓時便沒有瞭緊張感。他談到,1986年國傢社會科學基金“七五”計劃重點課題“中國經濟通史”立項,他負責“秦漢卷”工作。因為我的專業方向是秦漢經濟史,碩士論文題目為《兩漢時期的鐵犁牛耕與“火耕水耨”》,因此希望我參加這個項目,負責“農田與水利”、“農業生產”、“畜牧業”三章的撰寫。他簡單介紹瞭課題的基本設計和要求,以及參加人員。當時已參加這個項目的有李祖德、田人隆、陳紹棣、李孔懷、王子今、馬怡、孫曉先生。我當時雖不十分清楚這個項目的重要性和艱巨性,但剛剛參加工作,便得到這樣一個學習提高的機會,自然十分高興地應允瞭。林先生說,這個課題組你最年輕,課題組的事情你也幫忙做一下吧。
  我來所時不滿25歲,無論哪方面都不成熟,對於自己今後的發展甚至都沒有規劃和設想。林先生給瞭我這樣一個任務,又能和我的碩士階段銜接起來,一下子讓我有瞭方向感。現在想來,這對我的成長幫助至大,不僅提高瞭自己的研究能力,而且避免瞭轉型期的迷茫,節省瞭為尋找新的研究方向所耗費的時間和精力。
  然而,這項工作最初進展得並不順利。我首先選擇瞭“畜牧業”一章,開始搜集資料。當時沒有電子檢索工具,面對浩如煙海的史籍,頗有些渺無頭緒、不知所措的感覺。現在想來,實際上是當時自己對於歷史研究方法還沒有完全掌握,以至茫然失措。在懵懂狀態下完成初稿。林先生看過之後找我談話。他先給予肯定,然後建議我多參考前人研究成果,並給出一些具體意見。林先生雖然說得委婉,但我明白他對我寫的不滿意。我便按照他的指引,重新選擇較為熟悉的“農業生產”一章,認真查閱前人論著,借助各種工具搜檢史料。在這一過程中,我對歷史研究的基本方法有瞭進一步的認識,並逐漸清晰瞭秦漢時期農業生產的基本狀況和寫作思路。將完成的一章交給林先生後不久,林先生打電話給我,說除瞭個別詞句還需要斟酌外,整體寫得不錯。但是有一條材料可能有問題,他說你是否使用的是二手資料,沒有回查。我聽瞭十分羞慚。當時我從別人論著中見到這條材料,因為不是常見史料,一時查不到,就偷懶直接轉引瞭,沒想到一下子就被林先生慧眼識破。下星期上班時,我到林先生辦公室去取稿子,看到林先生在我的稿子上密密麻麻修改瞭很多。後來我瞭解到,但凡林先生主編的書,都經過他逐字逐句的審讀、修改。我拿回去,認真讀瞭幾遍,發現隻要是經林先生改動的,無論是對觀點的闡釋還是材料的把握都更為穩妥,邏輯更為清晰,語句也更為流暢。有瞭林先生批閱的稿子為樣板,我開始撰寫“農田與水利”一章。寫作過程中,認真核查每一條史料,不敢有半點懈怠。這次,林先生改動明顯少瞭。“畜牧業”一章時,林先生幾乎沒有���麼改動。在這樣一個寫作過程中,我學習、成長瞭很多。
  在這期間,我曾去日本一段時間。其間曾給林先生寫過一封信,一是匯報自己在日本的情況,二是告訴他我延長瞭留日時間。我知道林先生身為歷史所領導,事務工作和研究工作都很繁忙,本沒有期待他回信,但沒成想不久就收到瞭他的回信。信不長,囑我好好利用這次機會,瞭解日本學界的研究狀況,學習日語。這讓身在異鄉的我十分感動。
  經過這些年的接觸,林先生成瞭我最熟悉的老先生。林先生理論水平高,思維敏捷,思想深刻,常常能夠透過現象看本質,一針見血。所以我非常喜歡和他聊天,聊自己在學問中的心得和想法,希望得到他的點撥、理解和支持。林先生雖是德高望重的大傢,又是所領導,但為人平易,心胸開闊,完全沒有架子。他也很喜歡與年輕人聊天,希望瞭解年輕人的想法。我性格比較急躁,有時為瞭闡明自己的觀點,常常忘瞭禮節,不等他說完便搶過話頭,噼裡啪啦說一通。他從來不生氣,若是不同意我的看法,等我說完,才闡明自己的態度。若是同意我的看法,他就不再說什麼。向林先生請教學問,是我到歷史所後最重要的精神寄托之一。
  1998年我有瞭讀博的打算,讀博的一個初衷就是能夠跟隨林先生系統學習。2000年我通過瞭博士生入學考試。那一年考林先生的學生最多,有六、七位。面試時,林先生問瞭一個很有意思的問題:你們認為漢代有沒有社區?改革開放後,社會學重新興起,“社區”概念和西方社區管理模式開始得到重視。1993年北京始在西城區試點社區建設,對於當時的中國而言,“社區”仍是一個新鮮事物。“文革”時期歷史學的八股化十分嚴重,我們闡釋歷史的理論、方法、視角甚至語言基本上是一個模式。改革開放後,雖然主張解放思想、開拓創新,但是真正做到這一點並不容易。不僅是當時,即使是現在也少有以“社區”為題研究中國歷史的。林先生的問題一出,我們開始都有些發愣,回答五花八門,比較靠譜的是談到漢代的“父老僤”和“社”。
  後來我才知道,這正是當時林先生思考研究的課題。他為此撰寫瞭《秦漢帝國的民間社區和民間組織》一文,發表於《燕京學報》新8期(2000年5月)。林先生認為,秦漢時期的鄉裡是從此前的聚落共同體演變而來,具有基層行政組織和民間社區的雙重屬性,民間社區有一定自治功能。秦漢社會中,除瞭民間社區之外,還有“父老僤”、遊俠、豪強等民間組織,它們分為制度內和制度外兩種屬性,並由此規定瞭它們與國傢秩序的關系。
  林先生這一研究可以很好地反映林先生治學的特點:第一,將歷史研究與現實緊密結合。從現實出發尋找歷史研究的新視角、新問題,通過歷史研究探尋今日中國的歷史淵源。第二,關註宏觀、理論問題。秦始皇統一中國,建立專制主義中央集權國傢後,除瞭皇權控制的鄉裡組織之外,是否還存在其他民間組織;鄉裡除瞭承擔國傢賦予的行政管理職能外,是否還負有自治、互助功能;秦漢時期,以血緣為中心的傢族公社或農村公社雖然瓦解瞭,但是血緣關系並沒有因此消失,那麼,它在秦漢基層社會中到底占有怎樣的地位?這一系列問題都是中國歷史中的大問題,是探索中國歷史發展道路和特色的關鍵。第三,視野開闊,兼容並蓄。林先生的這篇文章並不長,但卻參閱瞭大量前沿研究成果,包括法國年鑒學派費爾南·佈羅代爾、日本學者增淵龍夫、臺灣學者杜正勝、大陸學者俞偉超、寧可等先生的論著,並經過長時間的深入思考撰寫而成。
  2000年9月,我正式進入博士課程,跟隨林先生學習。和我同時入學的還有現在也在室裡工作的趙凱。林先生是一位十分負責的老師,他當時已69歲,仍堅持給我們兩人授課。當時我們已從日壇路六號搬回到原來的小樓(後來李鐵映當院長時,拆瞭建成現在的食堂)。因為辦公室緊張,林先生也沒有單獨的辦公室,就借瞭二樓禮堂講臺後面的小儲藏室進行授課。房間裡除瞭堆放的桌椅等雜物外,隻能放一張桌子,幾把椅子。林先生即使是給我們兩人上課,也認真寫教案,在四百字的稿紙上整齊地按格書寫。授課的主題是“秦漢時期的國傢秩序與民間秩序”,這是《秦漢帝國的民間社區和民間組織》研究的進一步拓展。這樣的選題和視角帶給我很大的沖擊和新鮮感。在林先生影響下,我選定瞭博士論文題目:秦漢社會基層組織與秦漢社會結構研究。雖然後來因為其他原因,改瞭題目,但我一直認為這是一個非常有價值、有意義的課題,我希望今後能在林先生的基礎上進一步展開這一研究。順帶提及,目前歷史所正在開展的創新工程項目“中國古代的國傢與社會”,實際上也是受瞭林先生的影響和啟發。
  2001年底,學界期盼已久的張傢山漢簡釋文公佈,其中《二年律令·戶律》關於田宅制度的律文引起我的極大興趣,甚至可用震驚來形容。眾所周知,戰國秦漢時期土地制度的形態及其性質,自上世紀20年代社會史論戰以來一直是學界關註的焦點,長期爭論不決。林先生是戰國封建地主土地私有制說的主要代表人物之一,所著《中國封建土地制度史》(第一卷)是中國土地制度史研究的集大成之作,在學術史上占有重要地位。長期以來我的思想深受這一學說的影響。然而,讀瞭《二年律令》後,我的看法有所改變,於是開始撰寫《秦漢“名田宅制”說——從張傢山漢簡看戰國秦漢的土地制度》一文。我認為,商鞅變法至漢文帝時期實行的是以爵位名田宅制,以二十等爵劃分占有田宅的標準,以戶為單位名有田宅,田宅主要通過國傢授予、繼承、買賣等手段獲得。秦始皇三十一年“使黔首自實田”,隻是以承認現有土地占有狀況為前提,對全國土地占有狀況進行的一次普查登記,而非在全國推行土地私有化的舉措。土地的繼承、轉讓和買賣都不能視為土地私有制的標志。西晉占田制和北魏至隋唐的均田制無論是從觀念上還是制度設計上,都直接淵源於名田制。
  在文章的撰寫過程中,我曾和林先生談到《二年律令》的內容,以及自己的初步感覺。林先生聽瞭後,囑我幫他買一本《張傢山漢墓竹簡〔二四七號墓〕》,他要看一看。我大約花瞭三個月的���間完成論文,然後投給《中國史研究》雜志。投稿之前並沒有給林先生看,大概的心理還是有些顧慮自己的觀點與老師相左。數月後,時任主編的辛德勇先生告知我,稿子已通過專傢審稿。一次跟林先生聊天,林先生提到,《中國史研究》編輯部讓他審一篇關於秦漢“名田宅制”說的文章,問是不是我的,我說是的。林先生對我說,希望我能夠充分結合傳世文獻,做進一步的討論。我十分感動,學者對自己的研究都十分珍視,很少有老師心胸能夠如此寬闊,不僅對學生持異說不生氣,反而給予最大的支持和肯定。林先生讓我真正領略瞭虛懷若谷、兼容並包的大傢風范。
  進入21世紀後,林先生雖然已是古稀之年,但仍然精神矍鑠,筆耕不輟。發表瞭一系列重磅文章:《世紀之交中國古代史研究的幾個熱點問題》(《雲南大學學報》2002年第2期);《中國古代知識階層的原型及其早期歷史行程》(《中國史研究》2003年第3期);《從“歐洲中心論”到“中國中心論”——對西方學者中國經濟史研究新趨向的思考》(《中國經濟史研究》2006年第2期);《孔子與20世紀中國》(《哲學研究》2008年第7期);《“封建”與“封建社會”的歷史考察——評馮天瑜的〈“封建”考論〉》(《中國史研究》2008年第3期),等等。這些文章均是針對目前學界熱議的重大宏觀、理論問題以及歷史認識所寫,與歷史學的發展關系至大,在學界產生瞭廣泛影響。
  林先生在論文發表前,有時會把文章給我們這些學生看,讓我們提意見。這對我們來說,不僅是極好的學習機會,而且可以先睹為快。年輕時讀林先生的文章,尚不能完全領會其奧妙精髓,近年來隨著年齡增長,才逐漸體會到其思致之高遠,以及強烈的人文、現實關懷。林先生的文章邏輯性極強,語言曉暢準確,一般很難提出意見。但師命難違,我們還會提出一些意見。例如《“封建”與“封建社會”的歷史考察》一文,林先生第一段引用瞭馮天瑜《“封建”考論》“題記”所寫旅行德國萊因河中遊時聯想到“封建”概念之事作引子,我認為刪去為宜,沒想到林先生居然采納瞭。後來聽趙凱說,他也提瞭一點意見,認為文章的語氣可以和緩些,也被林先生采納瞭。
  林先生和我們聊天時,最喜歡談的是兩件事,一是學生時期參加中共閩浙贛省委(區黨委)城市工作部(簡稱“城工部”)地下黨的經歷,二是對於當今歷史學發展趨向的看法。1947年9月和1948年4月城工部曾兩次遭受“左”的思潮的嚴重破壞,許多成員冤屈而死,林先生僥幸生存下來,並因此經香港北上,走上學術研究之路。林先生常常感慨,現在我們的生活的確是無數革命先烈用生命和鮮血換來的,我們應當珍惜。他也感慨命運的力量,如果不是因為這段經歷,他這輩子很可能不會從事歷史研究。林先生是如此熱愛歷史研究,他一生沒有任何愛好,除瞭行政工作外,他把所有的時間都奉獻給瞭歷史研究,像一個清心寡欲的清教徒。林先生時刻關註著歷史學的發展態勢,近年來對於歷史學的碎片化、去理論化現象尤其感到憂慮。他認為歷史研究應該多一些現實關懷,歷史所這樣的單位應該多組織一些與現實關系密切的集體課題,發揮歷史所“國傢隊”的優勢和作用。他還常常設計一些課題,建議我們去做,例如歷史上的三農問題、城鎮化問題、城鄉關系問題等等。
  時間飛逝,歷史所馬上就要迎來建所六十周年慶典。林先生也已進入耄耋之年。近兩年,他的脊椎病加重,對他的工作和生活��成一定影響。他開始時很著急,對我們說,若不能工作,活著也沒有什麼意義。這讓我想起,他曾經多次給我們講到,賀昌群先生說:“像我們這樣的人,應該是伏案而死的!”林先生之所以一再提及賀先生這句話,一定是因為他懷有強烈的認同感。現在他仍然堅持每天伏案,哪怕是一刻鐘、半個小時。每每想起此事,就不由得讓我肅然起敬,心生憐惜。
  衷心祝願老師健康長壽,在學術事業上繼續綻放光彩。
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jyutleijyutdim · 5 years ago
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506  若然可以海盜出個獨立嘅大粵?噉又何妨!政團噱頭毋須理會 獨立進程嘅關鍵從嚟都祇睇妳有冇實質掌握著軍力 豬夏?死開喇!我哋大粵從嚟都祇屬於東南亞!
506  若然可以海盜出個獨立嘅大粵?噉又何妨!政團噱頭毋須理會 獨立進程嘅關鍵從嚟都祇睇妳有冇實質掌握著軍力 豬夏?死開喇!我哋大粵從嚟都祇屬於東南亞!
香港民族黨?不而我話埋畀妳知喺十四年前,亦即係2004年,2003年香港五十萬人七一大遊街嘅第二年,就經已有一個我是香港人嘅港獨政團開始蒲頭好過喇。喺香港民族黨之前,仲有一個好似叫香港獨立黨嘅出過嚟,2014年佔中嗰陣又出過一批,加加埋埋數落冇一百都有幾廿個。之但係噉又點?HK咪一樣畀班撈頭繼續殖民,乜都冇改變過依家。點解冇改變吖?冇軍力介入囉,無論係內部港獨武裝,抑或係外部美國軍力,喺九七之後咁多年嚟,都冇喐過班殖港撈兵一條毛,一日唔趕扯或者殲滅劏清光嗮呢啲撈頭兵,噉香港獨鬼獨馬咩?
上海獨立?不而我話埋畀妳知喺十年之前就有吳越獨立蒲過頭仲好過喇。吳獨嘅論壇同大粵民國臨時政府嘅論壇幾乎係同時期(2009年)創建嘅,佢哋個壇起初叫吳越建國聯絡平臺,跟著見我哋粵獨呢邊咁大喉腩自稱臨時政府,佢哋於是又有樣學樣,升級為大吳越國臨時政府,之但係班嘢後尾嘅結果就係執咗笠,然之後每隔三兩年蒲頭一鑊,跟著又再未水冇咗影再執笠多次,呢啲就係班上海撈嘅獨立恆心。
要班上海撈海外班兵估計搵嚟搵去都係搵返嘎仔兵,不過日本嗰邊依家老餅化得好交關,男丁越嚟越少,連自衛隊家下都要挶著搵啲女兵嚟充數,兼且日本啲人咁嬌貴,隻隻都越嚟越唔想當兵做炮灰噉款,講真,佢哋邊有咁好神心去幫妳班上海撈同班支那兵死過?妳估依家啲日本仔仲係二戰之前嗰班咁死狼胎嘅日本仔咩?畀美國班鬼佬圈養咗七十幾年,乜柒都馴嗮喇,仲識咬人?想啲嘎仔兵幫到妳?等日本變返做一個咪咁鵪鶉嘅正常國家先喇。一個連釣魚臺呢啲島仔都驚死守唔著畀撈頭搶咗去兼且超過七十年未曾打過實戰嘅國家,都係咪太過高估佢嘅戰力實際啲。反觀越南,人哋至少喺三十年前同支那打咗足足十年仗,越南戰力嘅可靠度無疑比班日本仔高出好多。
整個乜乜民族黨物物獨立黨,以至於乜乜物物臨時政府,呢啲噉嘅噱頭嘢並唔難搞,關鍵係,妳有冇硬實力嚟強推妳嗰個乜乜民族黨物物獨立黨同乜乜物物臨時政府嘅政治主張。硬實力無非就係軍力,有軍至有政府,齊靠把口就可以吹水出個政權返嚟,睇怕稍為有腦嗰個都唔會信。啲所謂議員又好政棍又好,齊靠吹水的確可以呃碗飯食,但係想呃個政權返嚟噉係絕冇可能,一個唔好彩,呢啲如簧之舌分分鐘可能畀對家啲軍柴攞嚟先祭旗。所以我哋至要諗,點樣至可以取得一個穩固嘅海外軍事訓練據點,首先一定要有個起家嘅竇口,然之後至可以有發圍之日,呢樣��至係成個脫支獨立進程嘅關鍵。
粵獨喺海外班兵,呢樣嘢係肯定嘅,除咗有離大粵本土比較近嘅軍事訓練據點,仲要有可靠兼且極度憎恨班豬撈海外嘅雇傭兵員至得。呢點越南就佔準地利同人文優勢。越南兵至少畀菲律賓兵日本兵臺灣兵馬拉兵好打,唔會咁嬌氣,相信會好使好用。波蘭當年之所以可以畀俄德奧三雄瓜分而復國,唔係齊靠政團力量就得咖,而係更多噉多得一員波蘭將軍所統領嘅一班海外波蘭兵團。而呢個海外波蘭兵團嘅組成,有波蘭人,更有立陶宛人同烏克蘭人。
搞冧支那,依家主要係先靠外力(講白啲就係美國嘅軍力)狠狠哋卜班撈一嘢,然後至係內亂,內亂祇係隨外力對支那嘅傷害而借傷成獨,亦即係趁佢病攞佢命。法輪功?撈民運?呢班嘢可以有啲咩出色嘅組織?佢哋有過試正嘅軍事組織出到嚟咩?呢班撈頭不過係美國佬養著嘅一竇淨識擦鞋嘅寵物狗。
支那豬撈之間嘅口水內戰冇撚用,呢齣戲班撈民運同支共做咗將近三十年,睇到厭,根本就呃唔到我哋呢班咁醒嘅粵獨人。呢班民運撈兼妖教撈成到事?真係豬乸都識上樹。呢班廢柴撈頭係完全唔值得我哋去浪費精神睇佢啲三腳貓騷嘅,若果真係要學,不如直接學下塔利班/阿爾蓋達/伊斯蘭國呢啲仲好過,主要係觀摩下人哋係點組建同指揮軍事武裝力量嚟作反嚟同現政權作軍事對抗,但係就要否定佢哋嘅回教意識形態同政治理念。
唔畀呢啲喺外邊嘅撈民運同法輪功輕易呃到同收編到,至有可能做到真正嘅粵獨人。我哋粵獨有我哋粵獨自己嘅史觀。大凡照搬照抄啲撈民運同法輪功嘢嘅,都唔係真正粵獨嘅。真正嘅粵獨人對呢啲支那嘢都係極之討厭嘅。
依家真係好高興有越嚟越多嘅粵人使用大粵而唔再係南粵呢個名嚟稱呼我哋粵人自己嘅祖國。南粵祇係一個好大路嘅文化地域名詞,體現唔出粵獨,大粵就唔同,大粵係大粵民國/大粵國嘅簡稱,可以直接展現到粵獨出嚟。對於大粵國旗,我諗應該盡可能多噉加入古南越文化元素,譬如銅鼓/羽人/木棉之類嘅。大粵唔同HK,HK耶教信眾多,而大粵係佛教國家,幾乎全民拜觀音,所以喺大粵用南十字呢啲咁耶教化嘅嘢就明顯唔啱牙,香港因為係前英治屬地,文化屬性比大粵更偏歐西,隻南十字星圖案都係醒畀班HK佬啱啲。
同樣嘅,HK喺港英時代嘅政治同司法體系遺產同我哋大粵並唔相關,英文官方語言地位同英美法系嘅嘢喺香港保留或者有佢嘅動機同道理,但係呢啲嘢實在冇必要引嚟我哋大粵度。將香港嘅司法淩駕於大粵憲法體系之上噉更加係冇辦法令人接受,因為噉係香港干涉大粵內政,明顯有違粵港相互尊重呢一粵港友善嘅基石。
大粵應該繼續保持現時實行緊嘅以法典而非以案例為基礎嘅歐陸法系。法典由總統同議員修訂,法官祇需負責依據法典條文去判案就係,法官唔應該亦無權越過法典自行發揮,法官判嗰啲案例亦唔應該有後延性,祇要法典被修訂,噉之前按舊典判嘅案例統統唔會再有示範性。畀法官有能量左右大粵政局噉係極端荒謬同危險,噉祇會引發無窮無盡嘅訴訟同官司同由之而嚟嘅持續政治混亂,進而搞冧大粵。大粵政權幾時都應該把持喺一班有實權嘅政治同軍事精英手裡頭,軍政事務關乎國家存亡,判案嘅法官並冇足夠能力去理,亦唔應該去理。
仲有,問攞深圳班香港佬諗都唔使諗,噉意味著粵港開戰。我寧願暫時敷衍班越南佬話畀返南沙嗰幾個島佢,都唔會同香港佬嗲咁撚多。等班香港佬自己獨立咗至嚟同我哋講佢哋會畀乜畀物我哋喇,依家齊憑啲口惠而實不至嘅白頭單就想問我哋攞著數,發佢嘅千秋大夢,簡直撒戇。
對於粵獨嘅範圍,首先我要講清楚嘅係,粵獨並唔係齊係廣東獨立,而係至少兩廣一齊脫支並聯為一體,皆因兩廣同根血脈相通,兩廣粵族大家都同聲同氣。大粵嘅西部邊境要遠至到廣西仲要過嘅雲南文山州同紅河州,文山州同廣西喺人文上素為一脈,同屬儂壯,而紅河州嘅河口縣則為粵族人嘅最西世居地,所以大粵本土涵蓋兩廣海南文山紅河,呢個至係大粵嘅基礎疆域。
依家所謂嘅粵桂,不過係班撈頭分裂我哋大粵嘅嗱喳手法,廣西從嚟都係粵西,廣東則係粵東,喺百幾年前洪秀全作反嘅時代,兩廣就係噉叫法嘅,兩廣同屬一粵。依家班撈頭整咩所謂諸夏,先喺廣東搞個粵國,再喺廣西搞個桂國,噉簡直就係延續緊依家班共產撈殖民大粵割裂兩廣嘅卑鄙手法,呢啲噉嘅仆街撈頭,甚至乎連潮汕國/客���國都整埋出嚟,割裂完兩廣就分裂廣東,真正嘅粵獨人一睇見呢啲噉嘅架勢就經已把幾火!
我對呢啲明顯源自撈民運嘅所謂嘅諸夏從嚟都冇好感,以我睇嚟,呢啲祇不過係啲撈頭搞大支那聯邦嘅一個整得好睇啲嘅呃鬼局嚟,呢啲屄人完全信唔過嘅。北邊撈頭嗰啲乜乜國物物國,實質上冇一個係真正喺文化上可以脫到支嘅。我冇任何嘢可以同呢班撈交流,即使佢同我講廣州話,亦都冇咩好傾,佢同我講撈話,噉就更加之啋佢戇鳩。呢班民運撈/豬夏撈,死遠啲喇,咪嚟我哋大粵妖言惑眾!講真,粵獨人係唔應該參與嗰啲所謂豬夏嘅採訪嘅,第一,參與意味著矮化粵獨,承認大粵係所謂嘅豬夏文化體嘅成員,第二,參與意味著承認班豬撈分裂大粵嘅主張,而呢兩點,都係絕對有違粵獨底線,係絕唔可以接受!
祇要大粵脫支,噉粵同漢,粵同華,粵同撈,註定就係敵對族群。而粵獨就係要令大粵脫支,所以邏輯上,所有粵獨人都應該同班支那漢撈保持分割,佢哋並唔會係潛在嘅盟友,而祇會係潛在嘅敵人。大粵從嚟都唔係班豬撈所謂華夏嘅一部分,我哋粵人屬於侗臺種族系統,同越南/泰國/寮國/撣邦/壯族/黎族/侗族/水族呢啲至係同宗同源。
至於啲咩收割唔收割,呢啲祇係依家時下嘅撈式用詞,我係從嚟都唔跟用嘅,而且好討厭用。我有我自己一套嘅行文用詞,純粵式,八九年代嘅經典廣州話用語用詞。班撈頭所謂嘅中國收割南粵,噉實質上係美化緊佢哋嘅殖民行徑,對呢樣嘢,我從嚟都係直接一針見血噉講,噉係支那殖粵!
喺大粵,除咗廣佛肇呢一片粵族核心聚居區嘅粵人之外,四邑呢一片亦係有好多勁撐粵獨嘅,尤其係四邑之首嘅臺山,譬如我本人,就有臺山血統喺身。論海外關係,粵人當中絕對以臺山佬為最,兼且臺山粵僑去嚫都係美加澳洲英國呢啲開化地方,特別係喺美國粵僑當中,八九成都係臺山裔嘅,所以四邑民智都係好開通嘅。
喺粵語裡頭,雖然話四邑片語音同粵海片語音有差異,但係唔會離得太遠,兩者間通話係完全冇問題,皆因同屬同一種語言,臺山話同廣州話嘅相似度至少有七八成以上。即使粵語同廣西平話,佢哋嘅相似度亦遠高於五成,實質上我哋可以將平話視為係粵語嘅西部分支嚟。同樣嘅,依家以惠州話為代表嘅東江流域惠河片客家話,亦即所謂嘅畬話(梅縣嗰邊啲客家屌直接污蔑為蛇話),佢哋同粵語嘅相似度亦至少有五成以上,而遠高於同梅縣客家話嘅相似度,因而我哋亦可以將畬話視為係粵語嘅東部分支。
依家好多粵人都對拉丁粵文��知半解,想當然以為拉丁粵文係山寨拉丁越南文得嚟,其實拉丁粵文係以香港語言學學會嘅粵拼方案為基礎嘅全拼音文字,佢祇係形似於拉丁越南文噉啫,實質上同拉丁越南文一啲關係都冇,呢種形似而實不同,差別就有如法文同西班牙文噉。拉丁粵文嘅六聲標調無論喺調值上抑或喺標調符號嘅使用上高,都完全唔同於拉丁越南文嘅六聲標調,齊識拉丁越南文係完全睇唔明拉丁粵文嘅,相反,若然妳識粵拼,噉拉丁粵文就好容易上手。
講真,我的確對越南好有好感,因為粵人同越南人本嚟就有著雒越嘅共有淵源,兼且我亦都力主喺越南建立粵獨武裝基地以至搵越南借兵嚟反攻大粵,未來嘅粵獨會好大幾率向呢個方向邁進。之不過噉,對越南好感還好感,我同時亦保有對越南嘅戒心,熱情擁抱同時謹慎戒懼,呢個係我一貫以嚟對越南嘅真實態度,點解?因為祇要妳稍為瞭解佢哋,妳就好容易會知道班越南佬其實對兩廣一直都有吞併野心!越南喺支那強壓之下仲可以頑強保持著獨立兼且續存國祚千年以上,妳就知佢絕非善男信女。而且越南依家仲係共產黨國家,越共同支共係一氣嘅,呢兩樣嘢同時為粵獨借力越南反攻大粵添加變數。
既然越南咁牙煙,噉點解仲要鐘個頭埋去吖?原因好簡單啫,皆因喺呢個世界上,越南係最肯仆心仆命撐我哋粵獨嘅國家,呢樣嘢,二百幾年前嘅越南西山朝時代就經已驗證過。越南絕對會對粵獨感興趣嘅,但係越共會有顧忌,佢班嘢可能會比較唔想得失意識形態相同嘅支共。不過國家利益在先,越南佬好難抵抗一個獨立嘅大粵嘅誘惑。佢哋有我哋幫佢擋實支那,點都好過佢哋自己直接面對支那嘅軍事壓力喇,係咪先?
港獨嗰班友其實都係一樣,希望我哋大粵擋著支那,做佢哋嘅屏障。搵唔到越南幫拖,粵獨好難搞,香港幫唔到我哋幾多嘅,佢哋自身都難保,要搵就一定要搵一個穩陣啲嘅,同我哋有歷史血脈淵源,同我哋有共同地緣利益,肯心甘命抵幫我哋嘅至得。顯然,越南符合嗮所有要求。兼且越南兵唔嬌貴,搵佢哋嚟打撈兵佢哋必定落力,1979至1989年嘅邊境戰爭令班越南佬至今都極度仇恨支共政權。
大粵同越南依家睇得見嘅領土爭議在於南海啲島,特別係西沙,同時,越南對東興/防城/龍州/麻栗/馬關/河口呢啲地方估計亦會有領土要求,因為根據班越南佬自己史籍嘅講法,佢哋認為呢啲地方嘅部份以至全部都曾經係越南���土,所以應該還返畀佢哋。作為回應,東興/防城/龍州/麻栗/馬關/河口呢啲地方越南佬一墶都咪使旨意攞走,粵獨仲會向越南索還返高平同北部灣上高嘅白龍尾島。
白龍尾島喺1950年代仲係海南儋州實際控制同管轄嘅地方,係後嚟至畀班撈頭私相授受畀鬼咗越南佬。而高平,則係公元11世紀我哋大粵嘅國家英雄儂智高嘅故里(高平喺儂智高在世嗰陣嗌廣源州),儂智高一手創建嘅大南帝國(公元1052年至公元1054年),係大粵第四次獨立時期,對大粵獨立史嚟講意義非凡。儂智高喺越南史同支那史入邊被描述為反賊,但係喺大粵史裡頭,佢絕對就係明皇聖君,作為儂皇故里嘅高平,又豈容與大粵分割?!
至於南海嗰啲姿態性嘅聲索,呢個我哋同越南係一撚樣,越南咪一樣將幾乎成個南海圈嗮入去佢個版圖入邊,我哋又點解唔可以噉做?聲索幾多係一回事,實際可以佔領到幾多又係另一回事。越南佬夠話西沙係佢個囉,兼且喺佢官方出版嘅越南地圖上高標明,但係佢哋根本就冇實際佔領著嗰度。講真喇,我哋係唔想打越南嘅,畢竟大家都係同宗同源。粵越相爭,最高興嗰個當然就係支那喇。若果可以嘅話,大粵同越南最好就係通過協商統合成一國,噉南海爭議自然會解決咗大部份。
粵越統合無論喺粵獨圈裡頭抑或喺越南國內都有市場,問題係統合咗之後邊個揸莊話事,呢個至係爭拗嘅關鍵。若果主導權喺我哋大粵呢邊,並且將首都定喺廣州,我會強力贊成大粵同越南合併。盡力恢復南越帝國嘅所有本土以至所有屬國嘅疆土,呢個係唔少粵獨人心目中嘅大期盼。當然,呢個同樣亦係唔少越南佬心目中嘅大期盼,畢竟,南越帝國同時亦係越南信史上第一個正式皇朝:趙朝嚟,越南佬會好執著。
若然有人講,力主拓張大粵疆土噉就同支那對外擴張冇咩兩樣,會令我成為所謂公敵嘅話,噉我好樂意成為呢個公敵。呢個世界,會有邊個國家肯自願成為鵪鶉成世畀人嗑?妳以為我哋大粵係香港呢啲不思上進但求自保嘅國仔?妳以為越南唔想吞併我哋大粵咩?妳以為啲越南佬都係食齊嘅善男信女?噉我唔怕喺度老實話過妳知,班越南佬早喺二百幾年前就經已想鯨吞兩廣喇!呢個世界弱肉強食侍強淩弱嘅事幾乎每時每刻都有發生,妳唔奮發自強噉妳遲早都會當衰,支那同越南都係虎狼之國,我哋大粵不幸夾喺中間,粵獨所能做嘅祇能係比佢哋更狼胎,噉我哋大粵至可能有續存落去嘅機會!所以諗嘢唔該咪咁戇鳩咪咁理想主義。
大粵同越南,都對彼此嘅領土有野心。從呢點睇,越南既係我哋大粵嘅盟友,同時亦係潛在對手。對我哋粵獨嚟講,想食越南之前首先要防止我哋大粵畀越南先食咗。我之前就睇過越南佬嘅一啲視頻,佢哋聲稱越南脫支獨立之後,曾經五次北伐支那,但係鑊鑊都淨係搞著我哋大粵嘅啫,啲越南兵嘅所謂北伐冚唪唥都唔出兩廣範圍嘅。
亦即係話,越南嘅每次北伐,我哋粵人都必定成為佢哋同班支那撈頭爭鬥嘅磨心,性命身家財產亦因而備受摧殘。而當中最嗱喳嗰次,要數1076年班越南交趾兵對邕州/欽州/廉州(邕州亦即今日嘅南寧,廉州為依家嘅合浦)嘅大屠殺,至少十萬粵人因此冇命!我哋粵人點解會畀夾喺中間咁慘?全因我哋粵人冇自己嘅獨立國家!冇自己嘅獨立政府!冇自己嘅獨立軍隊!嚟捍衛我哋粵人自己嘅權益!
不過同千幾年前邕欽廉三州嘅大屠殺相比,發生喺三百六十幾年前死咗超過100萬人號稱庚寅之劫嘅廣州大屠殺,至堪稱係我哋粵人歷史上嘅最悲壯嘅滅族經歷!1650年,由滿洲撈頭組成嘅所謂滿清嘅漢軍鑲藍旗圍攻廣州城達十個月咁耐,城破之日及之後嘅兩個禮拜,廣州城及鄰近四十里範圍嘅粵人,被屠���者超過一百萬之眾!
以我睇嚟,廣州屠城之仇,我哋粵獨以100倍奉還,殺清光嗮依家喺遼寧/吉林/黑龍江嗰一億一千萬滿洲撈頭(包括嗰啲完全撈化嗮嘅所謂滿族)一啲都唔過太。冇雷公咁遠又唔搞北伐點殺吖?簡單喇,用核子飛彈咪得囉,海南三亞就有支軍嘅戰略核潛艇基地喺度,妳俘虜到啲裝著潛射核子飛彈嘅戰略核潛艇就得喇,到時瀋陽/長春/哈爾濱/大連/吉林/齊齊哈爾/錦州/鞍山/撫順/本溪/營口/四平/通化/通遼/大慶/牡丹江/佳木斯/呢啲滿洲撈竇口,連埋北京/天津/唐山/秦皇島/承德/張家口/保定/石家莊/滄州/雄安,亦即所謂嘅京津冀豬撈心臟地帶任妳打,核平滿洲同北京,要呢班冚家鏟死絕佢!喺撈當中,以北支那嘅滿洲撈同北京撈,同埋南支那嘅湖南頭同四川撈最妖邪,搞掂呢四班撈,冚個支那以至冚個東亞,都係妳玩嗮。
畀越南佬殺死十萬同畀撈殺死一百萬,其實都係衰到貼地咖喇,不過若然暫時冇獨立選項可以畀妳揀,噉梗係兩害取其輕,揀傷得妳比較少嗰件喇,呢啲實在係無奈之下嘅選擇嚟。所以我幾時都話,若然我哋大粵力水未夠一時三刻獨立唔到,我寧遠畀越南殖民,都絕對唔願畀支那繼續殖民大粵。畀越南殖民同畀支那殖民殺傷力相差足足十倍喎!係���仔都識揀喇。
論人口多寡地域大細產經強弱,我哋大粵冇一樣弱得過越南,兩家都係叮噹馬頭,講真,越南佬想要長期騎喺我哋頭度屙屎屙尿殖民統治我哋佢好氣咳嘅,我哋大粵查實會有大把機會飛甩佢。之但係支那班豬撈就唔同囉,支那領土咁大班撈又成十倍於粵人人口,佢要蝗蟲妳真係話都冇咁易喇,妳一但畀佢食著妳就真係想甩身都好難喇。力水未足以擺脫支那嗰陣,大粵可以先畀越南吞併,大粵嘅宗主權由支那轉去越南嗰度,我哋再伺機飛甩越南,實現兩粵/兩越分治,大粵脫離越南正式獨立建國,呢個可以視為係曲線粵獨。
粵獨喺支那同班豬撈睇嚟,就係作反,就係反革命,就係粵匪,就係粵寇,就係海盜。不過佢班嘢點噏都冇所謂喇,我哋就係粵匪就係海盜噉又點?洪秀全孫大炮都係做粵匪起家嘅,18世紀末19世紀初兩廣海盜首領陳添保及其麾下梁文庚/樊文才/莫官扶/鄭七/梁貴興/譚阿招/鄭一/麥有金/唐德等人(但唔包括後嚟至出現嘅張保仔同鄭一嫂),就係領受越南西山朝光中皇帝阮惠(又名阮文惠/阮光平)嘅官職,以圖倚靠越南嘅助力,驅逐滿撈,恢復我南越帝國嘅兩廣故土。若然唔係阮惠突然病故西山朝畀阮福映嘅鳩縮阮朝替代,大粵相信早喺二百年幾前就經已成功復國咗喇!
因為親自率軍擊潰乾隆朝嘅犯越清兵,西山朝嘅呢位光中皇帝阮惠依家喺越南極受尊崇,尤其係喺越共嘅史觀入邊,稱頌佢係聰明堅毅/無限忠誠/從不退縮/戰無不勝/屢建奇功嘅天才統帥。就粵獨而言,阮惠既係一個對兩廣懷有吞併之心嘅未遂野心家,但同時亦慷慨贊助咗粵人海盜抗擊清撈嘅軍事復國行動,正正係佢出錢整船買炮,至令到原先祇不過係一班盤踞喺依家東興欽州一帶散兵遊勇嘅水匪海賊,蛻變成一股可以同滿清水師以至澳葡艦隊直接交戰嘅真正嘅粵人海軍力量!
我依家嘅借力越南,喺越南建立粵獨武裝基地訓練粵軍,然後搭乘高度隱匿嘅武裝漁船登陸反攻大粵本土嘅策略,其實就係延續緊陳添保/梁文庚/樊文才/莫官扶/鄭七等人當年做緊但係未做完嘅嘢。我係賊我係海盜噉又點?祇要越南同美國嗰邊唔認為妳係賊而係一個粵獨自由鬥士,兼且令到佢哋肯扐出真金白銀嚟贊助妳打撈頭噉就經已夠嗮喇。
我哋都好清楚,呢個世界冇可能會有免費午餐,越南佬幫咗妳佢一定會問我哋攞著數,我哋粵獨可以畀到啲咩越南佬呢?南海啲島仔?抑或鄰近北越嘅一啲廣西/文山州/紅河州嘅地方?其實呢啲都唔係,我哋粵獨可以回報到越南嘅,就係一個獨立兼且反支嘅大粵民國!係一個比佢以往更安全嘅地緣環境。因為大粵獨立建國之後,凡係嚟自北邊支那嘅壓力,我哋大粵都經已同越南擋實嗮,佢哋唔再使擔驚受怕。佢班嘢問攞島我哋可以搵將來粵越統合嚟敷衍,但係問攞廣西/文山州/紅河州啲地就絕對冇可能,儂皇故里嘅高平我哋大粵都未問班越南佬攞返呢!
粵獨同越南佬講數就有如孫大炮當年同日本仔講數一樣,都係利益交換,一涉及到呢啲嘢,啲冇能力兼冇腦嘅愚民就一定會跟著支共嘅官腔話妳班嘢係賣國賊。我承認,我的確賣國,但係我賣嘅係支那國,孫大炮當年同樣係賣緊支那國,不過我哋粵獨從嚟都唔賣粵!而孫大炮就既賣支那更賣大粵。支那對我而言,係敵國,既然係敵國,噉但賣又何妨?!若然賣支那可以確保到大粵獨立建國,噉即使賣一百次支那國,我亦在所不惜!
既然粵獨,就唔可以再同啲撈黐埋一齊,尤其係唔可以同啲撈民運唔湯唔水,妳必定要先同呢班契弟反面,做一個徹徹底底嘅切割同了斷,成日同呢班嘢講撈話聽佢哋發噏風唓天唓地妖言惑眾,妳係根本冇可能粵獨到嘅!好多友仔其實都IQ高過我,但係點解佢哋就冇一整套似樣嘅粵獨理論粵獨史觀可以構建出到嚟就淨得我有?好簡單,一佢哋文才唔夠冇辦法將所諗嘅嘢變成實質嘅文字記錄,二佢哋諗嘢嘅思維空間太窄完全冇跳躍式可言所以根本就冇可能諗得出啲咩突破性同顛覆性嘅嘢,三佢哋唔得持久堅持見自己寫唔出咩諗唔出咩就算喇唔玩喇。
講真,文才呢啲的確係講個人天賦嘅,就有如口才一樣,有啲人天生就係識講嘢,死都拗返生,呢啲冇得解嘅,有妳就好彩應該好好發揮,冇妳就搵其他專長搭救。但係諗嘢嘅思維就好唔同,佢幾乎係受後天個人境遇所完全掌控嘅,妳同啲咩人成日喺埋一齊,妳自然就會畀呢班人所共有嘅思維所俘虜,呢個係必然嘅事,成日黐埋班撈度講埋嗮啲撈話妳想唔撈都幾難喇,所謂臭甖出臭草就係呢個道理。
粵獨係一個全新嘅概念,粵獨係一股全新嘅思潮,作為粵獨人,我哋諗嘢要識跳躍,要有突破同顛覆,反傳統兼反建制。最好就好似豬嘴特朗普同特斯拉嘅老細馬斯克噉,夠癲夠喪但係卻醒足全場。喺依家鬼佬當中,呢兩件係真正嘅極品(唔係揶揄),好值得我哋去觀摩呢兩條友嘅思維方式。粵獨人應該係一個思維天才,佢哋諗嘢嘅轉數佢哋諗嘢嘅縱深要比普通星斗市民/羊咩愚民更快同更深,可以率先諗得出一啲足以引領粵獨潮流嘅理論信念同行動策略,以帶領廣大粵民脫支實現���粵獨立建國宏願。
點諗嘢至可以有飛躍同顛覆?呢個就純粹睇妳個人閱歷同妳嘅探索精神喇。睇更多嘅嘢,見更多嘅人,我哋嘅視野自然就會拓展。好似睇維基噉,凡係涉及大粵嘅條目,漢字版往往都係片面嘅,因為落筆寫嘅人往往都係撈頭,所以我一定會睇埋粵語版/英文版/越南文版/日文版/法文版/泰文版呢啲嘅,睇唔明就搵Google在線翻譯,妳至少會明當中嘅大部份意思,必要時,我仲有打開維基畀出嘅原文鏈接,以作進一步研判。同樣嘅,撈頭我經已睇唔少,呢班嘢佢拮起條尾我都知佢想屙屎屙尿,所以冇必要再去理,我依家想嘅係,見更多嘅越南佬/美國佬/泰國佬/菲律賓佬/日本仔同臺灣嘅臺族人(睇清楚,係臺灣本土講閩南語嘅臺族人,唔係殖臺嘅臺灣撈),以切實瞭解佢哋對粵獨嘅諗法。
譬如,爲咗深切瞭解粵越交往史嘅變遷,我就查閱過大量嘅越南文網站,睇過佢哋民間自發製作嘅唔少越南語視頻,雖然話,我都唔係好睇得明,但係至少我經已知道班越南佬依家喺度諗緊啲乜,佢哋對粵獨嘅態度係點,以及潛在傾向又會係點。而據我觀測,若然往後粵獨真係喺大粵成為一股強勁潮流,班越南佬嘅取態會介乎於撐粵獨同吞併大粵之間。所以祇要支那一勢衰,無論我哋願意唔願意,越南佬都必定會叉隻腳埋嚟,尤其係喺依家越南國力如日東升大粵製造業日薄西山嘅情勢之下。大粵嘅未來係點行,其實好大程度上係睇粵獨點樣去利用美越勢力,周旋喺支那同越南之間,以確保我哋大粵可以盡速脫支獨立而又唔畀越南佬抽到我哋太多水。
諗粵獨其實好多時都好似藝術創作一樣,要講靈感嘅,妳見識少眼界窄,妳好易就會靈感枯竭乜嘢妳都諗唔出乜嘢妳都構建唔到。譬如話妳成日同班撈黐埋一堆,搞嚟搞去咪就識一味華人唐人嘩夏豬夏囉,諗嘢啲思維一旦豬撈化咗,噉妳隻腦裡頭就永遠都冇可能諗得出粵族/銅鼓/羽人/花山岩畫/田雞舞/侗臺/拉丁粵文/斯瓦迪士核心詞列表/大粵/粵國/北屬/脫支/儂智高/古南越十二部族/白藤江之戰/嶺南分裂千年/雒越/文郎/二徵/等嘅呢啲咁粵獨化嘅概念。而呢啲嘢,係祇有妳主動去廣泛接觸越南/壯族/儂族/泰國嘅史料同現有民間思維之後,妳至會豁然開朗茅塞頓開覺悟到出嚟嘅。
最後講埋堅定堅守同堅持,呢個明顯涉及到一個人心智頑強抑或唔頑強,粵獨需要信念上絕唔妥協嘅死硬派。政治手腕可以係靈活嘅,但係要令大粵脫支獨立嘅信念就絕唔可以動搖。班豬撈���啲咩嘩夏聯邦豬夏列國冚唪唥死開喇,我哋要嘅係大粵徹底嘅獨立!大粵無論地理氣候人文歷史語言血統上,從嚟都祇屬於東南亞系統。大粵要加入東盟,大粵要重新融入東南亞,粵族文化要徹底去支那化,所以要學似越南幾十年前消滅漢字強推拉丁越南文噉,喺大粵強力普及拉丁粵文,務求盡速令漢字喺大粵嘅文字書寫體系中消失,呢樣嘢係文化粵獨嘅最最關鍵點。
妳可以唔受班豬撈蠱惑守得著妳嘅信念,噉好好,但係齊係噉仲唔夠,要點至夠吖?妳要做到終生堅持!堅守粵獨信念我哋就要從內心攞出一份類似於信仰宗教嘅虔誠嚟睇待粵獨,祇有噉,妳至會覺得粵獨係無上光榮嘅,妳至會對粵獨無限忠誠。就我而言,我會將傳揚粵獨視之為一種可以引領大粵邁向光輝未來嘅神聖使命,呢種神聖嘅使命感會使妳無懼,會使妳奮發,會使妳堅韌,呢點我諗各位粵獨人都會感同身受。
若然有朝一日我可以成為粵匪粵寇同大粵嘅海盜,我諗我會高興都嚟唔切,因為噉經已代表我哋邁入咗武裝粵獨嘅新征程。做賊佬要成功,妳要首先做到個賊佬頭。賊佬可以係粗人(時髦啲講可以理解成係草根),但係一個可以最終成功嘅賊佬頭,就一定唔係冇學養冇壯志嘅粗人。我所講嘅學養同壯志,係自我領悟同自我研判嘅能力,係自我策勵同自我激發嘅氣質(喺人生低潮嗰陣若然妳保有呢種氣質噉妳一定會迎嚟發圍之日),而呢一啲嘢都係個人天賦加人生閱歷嘅累積。
所以即使係賊佬頭,都唔係係人都做得到,有陣時妳稟賦夠但係閱歷未夠,妳一樣會睇唔通諗唔出嘢出嚟。於粵獨於自己,我哋都一定要努力提升自我,做個識搵錢識諗嘢高IQ高EQ嘅人,蠢人同啲鈍胎愚民,係冇可能做到粵獨精英嘅。有學養有壯志未必會必定成功,因為除開人和,仲要講求天時地利,但係一個乜都唔識,冇能力搵錢以至連自己都養唔掂兼且冇腦諗嘢嘅廢柴,就註定會一定失敗,成世畀人奴役。
依家呢個世界咁高科技,作反都需要高文化高學歷識英文識電腦,尤其係立心想做賊佬頭嗰啲仁兄,冇學歷同唔識雞腸?噉唔該妳搵靚嘅天賦同高IQ高EQ嚟補救。仲有一樣好緊要嘅嘢,就係識搵錢養得掂自己,最好可以令到自己及早發大達衣食無憂,然之後專心搞妳嘅粵獨。總之,畀心機喇,各位粵獨人!先成就妳自己,再以妳所擁有嘅雄厚資源射水磅水成就粵獨。
粵獨要起頭,首先要有錢,錢喺邊度嚟?我可以好明確噉話過各位知,呢筆啟動資金首先一定會係嚟自我哋粵獨人自己個荷包!搵班鬼佬同嘎仔越南佬贊助,佢哋可以贊助到妳幾多吖?依家啲軍火咁撚貴,要集結一支幾千甚至過萬人嘅粵獨武裝,軍備軍餉再加埋訓練營墶地,同埋各式燈油火蠟柴米油鹽,妳冇十幾廿個億美金掟落去妳根本就玩唔轉。搵人嚟贊助妳班嘢幾廿億美金幫妳買槍買炮買埋坦克軍艦飛機導彈?粵獨依家連個影都冇,試問又會有邊個會咁順攤吖?就算係港獨藏獨疆獨呢啲略為有名氣同基礎嘅,睇怕噏出嚟都冇人會啋佢喇,掟一千幾百萬美金過佢哋整個影子政府開返個研討會跟著揸下旗舉下牌遊下街,噉或者仲有啲可能嘅,之不過呢啲嘢,試問又可以畀到班撈幾多實質嘅殺傷力呢?我祇可以講幾乎係零。
依家東亞大陸嘅政治現實就係,對班支那豬撈嚟講,妳遊街冇用,妳示威亦都冇用,妳想喺佢嘅建制下低競選啲乜春議員更加係廢嘅,若然畀班撈判定妳係獨派,噉妳連玩嘅機會都冇。所以依家若然妳係冇一班兵去建立一個有實控疆域嘅戰時政府以踐行妳自己嘅政治抱負同訴求嘅,噉反支根本就係得個講字,更加咪話要做到脫支喇。睇睇人哋以色列,佢當年之所以可以復國成功,當中一班疊水兼勁撐以色列獨立嘅海外猶太人嘅慷慨捐輸(特別係住喺紐約嗰班猶太超級有錢佬)尤其功不可抹。
所以呢,喺粵獨最初起家嗰陣,我哋粵獨人最好個個都係億萬富豪,或者講,要努力做到億萬富豪嗰個級數,噉既係為妳自己嘅寫意生活,更加係為射水撐粵獨。噉嘅道理係顯而易見,因為祇要有好多好多嘅錢,我哋至可以有到一支似樣嘅軍隊,而有咗呢一班兵,我哋至有可能反攻到大粵本土,嚟建立我哋粵獨武裝自己嘅實際控制區,進而基於呢塊粵獨實控區,我哋至有真正嘅資本去籌建我哋嘅大粵民國戰時政府,而呢一個戰時政府,係一個真真正正嘅有疆域範圍有軍隊守護有政府機關嘅事實政權,祇有做到呢一點,我哋粵獨至算係真真正正噉喺全世界打響名頭。喺噉之後,班鬼佬嘎仔同越南佬見妳班嘢做到嘢喇,兼且確定我哋粵獨係打柒支那搞散支那嘅最佳打手,噉佢哋嗰啲軍援至會大疊大疊水噉擁嚟我哋度嘅。
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linoliu · 5 years ago
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(轉載)《清華大學藏戰國竹簡(壹)》收錄的《尹誥》是一篇偽作
 (轉載)《清華大學藏戰國竹簡(壹)》收錄的《尹誥》是一篇偽作                                                                                        房德鄰 http://bbs.gxsd.com.cn/forum.php?mod=viewthread&tid=459388      《清華大學藏戰國竹簡(壹)》[1]收錄的《尹誥》是一篇偽作,要證明這個觀點,我得從編者為《尹誥》所加《說明》的一處錯誤說起。《說明》寫道:“《尹誥》為《尚書》中的一篇,或稱《鹹有一德》……《殷本紀》雲‘伊尹作《鹹有一德》’,事���湯踐位後,介於《湯誥》、《明居》之間,而孔傳本及《書序》則以為太甲時,列於《太甲》三篇之下,與《殷本紀》不合。按司馬遷曾問學于孔安國,孔安國親見孔壁《尚書》,所說自然可信。現在簡文所敘,很清楚時在湯世,偽《鹹有一德》的謬誤明顯。”這一段有一處錯誤,即說《書序》將《鹹有一德》誤列於《太甲》三篇之下。其實《書序》不錯,它只有一句話“伊尹作《鹹有一德》”,未說作於何時。編者說它錯,可能是因為編者誤把偽古文《鹹有一德》正文開頭的一段話當作《書序》了。   下面是偽古文《尚書》的《鹹有一德》從篇題開始的四段:   鹹有一德   伊尹作鹹有一德。   鹹有一德   伊尹既複政其辟,將告歸,乃陳戒於德……          編者把第二行和第四行連讀,以為都是《書序》,所以他說《書序》把《尹誥》(即《鹹有一德》)的寫作時間搞錯了,系于太甲時。   這個錯誤似表明編者不知道《書序》有統一的寫法,都是“作某”結束。   編者似又不知道“伊尹作鹹有一德”是屬於“一句一《序》”類型的《書序》。而這種類型的《書序》有其特別的含義。編者不知道其特別的含義,所以未能根據這句《書序》判明《尹誥》是一篇離題萬里的偽作。   《書序》是為每篇《尚書》作題解的,主要闡明各篇的寫作意圖。在百篇《尚書》中有96篇為63序(有合序)都闡明寫作意圖,另有4篇為4序,即“咎單作《明居》”、“伊尹作《鹹有一德》”、 “周公作《無逸》”、“周公作《立政》”,這4篇序都只有一句話,似未闡明寫作意圖。孔穎達《正義》對這4篇序的寫法作過解釋,說:“……直言其所作之人,不言其作者之意,蓋以經文分明,故略之。”他的說法為今文尚書《無逸》和《立政》所證實。《無逸》全篇七記“周公曰”,而無史家敘述文,周公發表議論的主題就是“無逸”,他開篇第一句話就說:“嗚呼!君子所其無逸……”,全篇不但緊緊圍繞“無逸”論說,而且不時出現“無逸”、“乃逸”、“生則逸”、“于逸”、“于遊”等與主題關係密切的詞語。《立政》671字,敘述文19字,其他都是“周公若曰”、“周公曰”,周公講話的主題就是“立政”,講話中6次用“立政”這個詞。由此我們知道《書序》和正文及篇名的關係:《書序》作者概括出篇中議論的主題,以此名篇,所以“作無逸”即“論無逸”,“無逸”即篇名,“作立政”即“論立政”,“立政”即篇名。因為有這樣的關係,所以讀者一看到《書序》就知道這一篇是“誰在講什麼道理”,因此《書序》也就不必再說什麼寫作意圖了。   《明居》已亡,但根據零星的資料也能知道《書序》與正文及篇名的關係。馬融注“咎單作《明居》”說:“咎單,湯司空也,明居民之法。”(《史記》集解)孔安國《傳》注:“咎單,臣名,主土地之官,作居民法焉。”江聲《尚書集注音疏》說:“案《禮記·王制》,鄭君(鄭玄)以為殷制。其文雲:‘司空執度度地,居民山川沮澤,時四時。’則居民是司空之事。此以‘明居’名篇,是明居民之法,咎單作之,則咎單為司空官矣。”從上引可知:咎單在湯時任掌管土地、居民等事務的司空,他發表過一次議論,主題是“明居”,是關於居民之法的。所以咎單“作明居”即咎單“論明居”,“明居”即篇名。   再看《鹹有一德》,它原名《尹誥》,郭店楚簡《禮記·緇衣》即引為《尹誥》,而今本《禮記·緇衣》誤作《尹吉》。此篇名是根據文章的體裁擬定的。但《書序》作者概括出篇中伊尹議論的主題是“鹹有一德”,所以與前三例一樣,《書序》只寫了一句話“伊尹作鹹有一德”,即“伊尹論鹹有一德”,“鹹有一德”即篇名。《史記·殷本紀》寫作:“伊尹作鹹有一德。”是根據《書序》寫的。   《鹹有一德》的主題應當是“伊尹論鹹有一德”,這不僅從《書序》的一句話看出來,也為《禮記·緇衣》所引兩條《尹吉》(《尹誥》)所證實。其第一條是:“惟尹躬及湯,鹹有壹德。”第二條是:“惟尹躬天見於西邑夏,自周有終,相亦惟終。”第一條的意思,可以從《禮記·緇衣》在此條前後所引的“子曰”、“詩雲”看出,是講君臣上下相知相信、表裡如一的。[2]第二條中的“周”意思是“忠信”,從《禮記·緇衣》在此條前面所引的“子曰”、“《太甲》”、“《兌命》”來看,這一條是講“慎德”。[3]由此我們知道,《鹹有一德》伊尹論說的主題是“鹹有一德”,論說中會出現“鹹有一德”、“一德”、“德”等詞。讀者讀過之後,會很容易理解伊尹論說的主題是“鹹有一德”。   晉代出現的偽古文的作者懂得這篇《書序》的含義,知道“伊尹作鹹有一德”就應當在篇中讓伊尹申論“鹹有一德”,所以他先寫一段說明,即前引的一段,點明本篇的主旨是伊尹“陳戒於德”,接下去都是伊尹論“鹹有一德”,用詞有“鹹有一德”、“惟天佑於一德”、“惟民歸於一德”、“德惟一,動罔不吉。德二三,動罔不凶”、“惟和惟一”、“一哉!王心”等。從形式和風格上看,這篇偽古文和今文《無逸》、《立政》一致,很像是真的。   但是清華簡《尹誥》中伊尹所論卻與“鹹有一德”無關。   簡文112字,照錄如下:           惟尹既及湯,鹹有一德。尹念天之敗西邑夏。曰:“夏自絕其有民,亦惟厥眾,非民亡與守邑。厥辟作怨於民,民複之用離心。我翦滅夏,今後曷不監?”     摯告湯曰:“我克協我友。今惟民遠邦歸志。”湯曰:“嗚呼!吾可(何)作於民,俾我眾勿違朕言?”摯曰:“後其賚之,其有夏之金玉實邑,舍之。吉言。”乃致眾於 亳中邑。   (簡文今釋未照錄《清華簡(壹)》,還參考了其他學者的釋文。)      簡文只在第一句中出現一次“鹹有一德”,而這一句在《禮記·緇衣》中引用過。在伊尹對湯所發表的議論中,連個“德”字都未提到,更何論“鹹有一德”。不但不論德,還反德,講權謀。簡文最後君臣之間的一問一答:湯問:“嗚呼!吾可(何)作於民,俾我眾勿違朕言?”摯曰:“後其賚之,其有夏之金玉實邑,舍之。吉言。”成湯問了一個十分狂妄的問題,他要伊尹為他想出一個辦法,使天下之民都“勿違朕言”,伊尹也真想出一個來,他說把從夏桀那裡得到的金玉都分下去就行了。不知夏桀掠奪了多少金玉,可以分給天下之民每人或者每戶一份,也不知道是不是按月發放,以使他們永遠“勿違朕言”。這是一對狂人在說瘋話。伊尹教成湯治天下之道就是以利誘民,這應該能反映出簡文作者是一個貪婪之徒,他寫出如此銅臭的文章,卻不覺其臭。要知道,中國儒家視《尚書》為“萬世法者”,豈能容它!   如果當年《書序》作者真讀過這篇簡文,那他一定不會寫成“伊尹作鹹有一德”,而得寫成“伊尹作以利誘民”。   簡文完全顛覆了湯、尹的形象。   但是,歷史畢竟留下了這對聖王賢相的一些真實記錄,不是輕易顛覆得了的。就在《尹誥》之前不久,或許只有一兩天,發佈過《湯誥》[4],其文曰:   維三月,王自至於東郊,告諸侯群後:“毋不有功於民,勤力乃事。予乃大罰殛,女毋予怨。”曰:“古禹、皋陶久勞於外,其有功乎民,民乃有安。東為江,北為濟,西為河,南為淮,四瀆已修,萬民乃有居。後稷降播,農殖百穀。三公咸有功於民,故後有立。昔蚩尤與其大夫作亂百姓,帝乃弗予,有狀。先王言不可不勉。”曰:“不道,毋之在國,女毋我怨。”以令諸侯。   這是一篇治國大誥,其愛民之情,勤民之意,養民之策,凜然之氣,足以垂範千古。    在此《誥》發佈之後,伊尹作《尹誥》。這時的湯王還會向伊尹問“吾何作於民,俾我眾勿違朕言”這樣的問題嗎?伊尹還能以分發金玉作答嗎?如果他這樣作答,則必受重罰,因為他的回答乃亡國之道,屬於湯王嚴禁的“不道”。   《書序》“伊尹作鹹有一德”明確指出本篇主題是伊尹論“鹹有一德”,《禮記·緇衣》引《尹吉》的 “惟尹躬及湯,鹹有一德”也提示了本篇的主題是伊尹論“鹹有一德”,可是簡文作者為什麼置此於不顧,偏讓伊尹發表一通與主題無關的議論呢?他有他的道理。   原來清代學者爭論過《尹吉》和《鹹有一德》究竟是一篇還是兩篇的問題。這個爭論是由鄭玄��《禮記·緇衣》所引《尹吉》“惟尹躬及湯,鹹有壹德”開始的。鄭玄寫道:“‘吉’,當為‘告’,‘告’,古文‘誥’字之誤也。‘尹告’伊尹之誥也。《書序》以為‘鹹有壹德’。今亡。‘鹹’,皆也。君臣皆有壹德不貳,則無疑惑也。”鄭玄認為是一篇兩名。後來學者多采此說。但清代程廷祚、劉台拱、康有為等卻認為是兩篇,他們的理由是:《書序》應解釋原有的篇名,因此“伊尹作鹹有一德”的篇名是“鹹有一德”,而不是“尹吉”或“尹誥”,“尹吉”或“尹誥”是百篇《尚書》之外的一篇,《書序》缺,至於《緇衣》所引《尹吉》中的“鹹有一德”只是偶然與《書序》的“鹹有一德”巧合而已。[5]他們的本意是以此來揭露偽古文《鹹有一德》。偽古文以“鹹有一德”為篇名,卻引了《尹吉》的“惟尹躬及湯,鹹有壹德”,是視《鹹有一德》和《尹吉》為一篇。程廷祚等認為這證明它是偽作。而簡文作者則根據程廷祚等人的觀點,寫了百篇之外的《尹誥》,它的主題當然與“鹹有一德”無關,連個“德”字都沒有。但是程廷祚等人的觀點並不正確,兩篇名明顯為一篇文,《清華簡(壹)》的編者也認為兩者為一篇(見前引《說明》)。[6]   簡文的錯誤看起來很低級,其實頗深刻。類似的錯誤簡文中還有幾處:    簡文中有“湯問”,這不符合《尚書》的“曰”前不稱帝名(號)之例。在《尚書》中史家敘述時可以稱帝王名號(不包括周朝),但是在敘述到帝王要講話時必稱“帝曰”、“王曰”,個別也稱“曰”,如《盤庚》在敘述盤庚的活動之後,接著寫他要講話,即寫“曰”,但另起一段講話時又寫“王曰”,《盤庚》三篇無“盤庚曰”。   翻開《尚書》,滿眼都是“帝曰”、“王曰”,仿作者不需思考,就會依例而寫。可是簡文作者為什麼不依例而寫呢?因為他看到《尚書》中有一處例外,即在《舜典》開頭有“舜曰:‘諮!四嶽……”此時舜已經繼堯,依例應寫“帝曰”,卻寫“舜曰”。正是這個例外成為簡文的根據。簡文作者認為,“舜曰”出現在舜剛繼位之時,那麼《尹誥》所寫是湯剛代桀之時,所以應依舜例,稱“湯曰”,而不稱“王曰”。除了依“舜曰”之例外,簡文作者還知道孔穎達《正義》說過湯無諡法,史家敘述可稱湯,而周有諡法,史家敘述只能稱王,他因此認為敘述湯時可稱“湯曰”。   而事實上“曰”前不稱帝名(號)之例與諡法無關,它是《尚書》的一條重要文例。從《堯典》開始,在堯第一次發話時就寫“帝曰”,此即為例。至於《舜典》的“舜曰”乃特例。正是這一特例成為清代學者辨偽古文《尚書》的一條重要證據。原來,伏生的二十八篇《尚書》中只有《堯典》,無《舜典》,今《舜典》原在《堯典》中,《堯典》先記堯的活動,凡稱“帝曰”都是指“堯曰”,因此在舜繼位後,寫“曰”就不能寫“帝曰”,而得寫“舜曰”,以別於前面的“(堯)帝曰”。在“舜曰”之後,均為“帝曰”。但是偽古文出,因為所造偽古文不夠篇數,加上今文二十八篇,與劉向《別錄》所記五十八篇(《��書·藝文志》記五十七篇)不合,所以就分拆今文篇以湊數,其中一篇是從《堯典》中分出《舜典》。既然《舜典》已單獨成篇,在舜繼位後就應當寫“帝曰”,卻仍作“舜曰”,這說明《舜典》是從《堯典》中分出的,而不是如偽《大序》所說當年孔壁出書就是兩《典》分離的。由此可見“曰”前不稱帝名(號)之例多麼重要。簡文如果出現在梅賾的《尚書》中,清代學者僅憑“湯曰”這兩個字就能斷定它是偽作。   簡文中還有“摯告湯曰”,也應依例將“湯”改為“王”。《西伯勘黎》“祖伊恐,奔告于王曰”,此“王”不能改為“紂”。   簡文中的“摯告湯曰”、“摯曰”的寫法也不合文例。“摯”是伊尹的名,“尹”是他的字。簡文開篇就寫“尹既及湯”,接著又寫“尹念”,而後面突然改寫“摯告湯曰”、“摯曰”。而依文例,這兩個“摯”(名)應當寫為“尹”(字)。《春秋》例有“書字貴之”一條。意思是在通常應書“名”之處,卻因其有功等原因,為表示敬重而特別書“字”。如《左傳》莊公三年經文:“秋,紀季以酅入於齊。”這個“紀季”之“季”是紀侯之弟的字,他的地位是卿,應當書名,所謂“諸侯之卿,例當書名”,但他有功于紀國,所以特別書字“季”,表示敬重,所謂“書字貴之”。此例為後世沿用。古籍中常見某人“以字行”,這是此人受到敬重。如章炳麟字太炎,後以字行,稱太炎。毛澤東字潤之,別人寫信給他稱“潤之先生”,民主人士和他談話也稱他“潤之先生”,他也稱民主人士的字。伊尹有功于湯,史家敘其事當然稱“尹”。先秦乃至後世,凡記伊尹事蹟,均稱“尹”,未見稱“摯”。《尹誥》開始敘其事,已經兩稱“尹”,表示敬重,可是突然又改稱“摯”,難道又不敬重他了嗎?殊不可解。再說,按照一般書寫習慣,順著“尹”寫下去不就行了嗎?何必改來改去的?但作者卻有根據,根據是閻若璩的《尚書古文疏證》。   閻氏此書是辨偽古文《尚書》的名著,簡文作者必須研究它,以免自己再犯梅賾偽古文的錯誤。《疏證》第六十一節專論“君前臣名”,是針對偽古文《鹹有一德》篇中伊尹講話中自稱“尹”的錯誤的。這一節很長,其要點是:依例應“君前臣名”,即在伊尹對太甲講話中,他得自稱名“摯”,而不能自稱字“尹”,即不能自貴,但《鹹有一德》卻自稱“尹”,這是一條作偽的證據。簡文作者未看明白這一節話,誤解了“君前臣名”,他以為這是說在寫到伊尹將向王講話時,應當寫“摯曰”,而不能寫“尹曰”,因為“尹”是字。所以他就在本來應順著前文而寫“尹曰”的地方,特意寫成“摯曰”,以符合“君前臣名”。[7]   簡文作者研究《疏證》,就像黑社會頭子研究犯罪學的書籍一樣,是為了“反偵察”,但因為他是個急功近利之徒,���準又有限,看不太明白,反而露出馬腳。   簡文沒有篇名也不合例(簡文篇名《尹誥》是《清華簡(壹)》編者代擬的)。抄寫一篇《尚書》文必抄篇名(通常寫在竹簡背面),簡文《尹誥》乃完整的全篇,何以沒有篇名?原來作者是要表示簡文更古老,其時《尚書》尚無篇名。但是經碳十四檢測,這批簡是戰國中晚期的,而那時篇名已趨於統一。不見郭店楚簡《禮記·緇衣》所引的《尹誥》嗎?它可以糾正今本《禮記·緇衣》所引的《尹吉》。而古籍中記載的《尚書》篇名則更早,《左傳》襄公六年引《仲虺之誥》、三十一年引《大誓》,後來墨子引《湯誓》、《呂刑》、《大誓》等,孟子引《堯典》、《伊訓》、《湯誓》等。   以上是從簡文不符合文例來揭露其偽,下麵從語源、史源來揭露。   閻若璩在揭露偽古文時說:“蓋作偽書者不能張空拳,冒白刃,與直自吐其中之所有,故必依託往籍以為之主,摹擬聲口以為之役,而後足以售吾之欺也。”概括準確。簡文也如偽古文一樣,幾乎句句有據,或者有語句的依據,或者有史實的依據,卻正暴露出作偽。下面我們逐句來分析:   (一)簡文“惟尹既及湯,鹹有一德。尹念天之敗西邑夏……”,它與《禮記·緇衣》所引《尹吉》(《尹誥》)的兩條對應,一條是:“惟尹躬及湯,鹹有壹德。”另一條是:“惟尹躬天見於西邑夏,自周有終,相亦惟終。”   簡文第一句與《尹吉》比較,只有一個字不同。第二句則不但文句有很大不同,而且文意完全不同。對於第二句的不同,李學勤先生在《清華簡九篇綜述》[8]中已經注意到了,因為李先生相信簡文是真,便說《尹吉》錯誤。如果李先生對《清華簡》保持一分警惕性,那就很容易看出來簡文是偽。如果簡文是真,戰國時的簡文已經如此曉暢明白了,那麼《緇衣》的作者抄引時,無論怎樣錯,也錯不成為古奧艱澀的語句。如果說是引者故意修改的,一來引者沒有這種動機,二來也改不成這樣:為什麼在前面加一個“惟”字,在後面加上“自周有終,相亦惟終”?為什麼改“敗”為“見於”,改“念”為“躬”?全都無法解釋。可是倒過來看,簡文修改《尹吉》,以屈就己意,我們立刻就能分析出其修改的過程:簡文作者設計本篇的內容是從伊尹反思夏亡開始,所以他把《禮記》所引的兩條原本不是上下關係的句子,改為上下關係,這就不得不把“惟尹躬”的“惟”字去掉,以接上文;再刪除“自周有終,相亦惟終”,因為其語意不明,又與簡文的主題無關,簡文不論“德”;因為要總結夏亡的教訓,所以改“見”為“敗”,這又是受鄭玄的啟發,鄭玄注說“見”或為“敗”[9],也因為這一個字的改動,又得連帶把“見於”的“於”字刪除,因為不刪除就成為“敗於”,意思就相反了;因為是伊尹反思歷史,所以改“躬”為“念”;又在“天”字後面加“之”字,以符合文��語法。[10]經過這番修改,就造出“尹念天之敗西邑夏”,它本身通曉明白,與上文能夠連接,與下文連接緊密,但是意思與原句完全不同。這是典型的屈就己意的改句方法。偽古文《尚書》大量使用這種方法改句,有時能把意思改成相反的。閻若璩等清代學人一一揭露,其揭露的方法已相當成熟,使其無可逃遁。     “尹念天之敗西邑夏”的意思是說伊尹反思(或思考)了夏桀敗亡的教訓,但依文例,史家敘述文是不能寫人物所思所想的。《漢書·藝文志·六藝略·春秋類敘》說:“古之王者,世有史官,君舉必書,所以慎言行昭法式也。左史記言,右史記事,事為《春秋》,言為《尚書》。帝王靡不同之。”《尚書》主要記言,只在必要處記行,所記之言是史官聽見的,所記之行是史官看見或知道的,但不記帝王所思所想,因為史官不知道。我查閱過中國第一歷史檔案館中光緒朝的一些檔案,未見記載光緒帝想什麼、慈禧太后想什麼。《尚書》只有在人物自述中才有所思所想。如《盤庚》王曰“予念我先神後之勞爾先……”,《多士》王若曰“予亦念天即于殷大戾,肆不正”。雖然,作為檔案的《尚書》其敘述文不記帝王所思所想,但是《尚書》流傳外間以後,成為一篇篇獨立的文章,整理者卻不能不為之加上篇名和必要的背景文字,這樣就可能出現猜度人物心理而加以敘述的情況。然而我們看到,即使在這樣的情況下,整理者仍然堅持文例,僅記言記行,而不記所思所想。如:《高宗肜日》開頭敘述:“高宗肜日,越有雊雉。祖己曰:‘惟先格王,正厥事。’乃訓于王。曰:……”其中“惟先格王,正厥事”七個字本來是祖己的心理活動,卻記為“祖己曰”,是記言不記思。《西伯勘黎》開頭敘述:“西伯既勘黎,祖伊恐,奔告于王,曰……”其中“祖伊恐”應有心理活動,但只記行不記思。   也不僅《尚書》敘述文中不記人物所思所想,《春秋經》、《左傳》也不記,就是現代人寫的嚴肅的歷史著作、《回憶錄》等,也都沒有敘述某人心理活動的句子,因為作者不知道某人在想什麼。   簡文作者不知有此文例,卻寫“尹念”云云。如果這個句子真是《尚書》中的,它必當寫作:尹曰:“余念……”由伊尹自述其所想。   在《清華簡(壹)》的《保訓》中,也有一句:“王念日之多曆,恐墜保訓。”簡文作者先在伊尹肚子裡作了一陣蛔蟲,又到文王肚子裡作了一陣蛔蟲。   (二)簡文:“夏自絕其有民,亦惟厥眾,非民亡與守邑。”   “自絕其有民”,這是文化大革命中流行的“自絕於人民”的文言表達。如果殷初伊尹就能講這樣的話,那麼中國思想史就得重寫。在古籍中,最早明確表達“自絕其有民”這樣觀點的,是宋代輔廣的《詩童子問》和黃倫的《尚書精義》,均作“自絕於民”,前者兩見[11],後者一見[12]。後有人沿用,但不��見。在此之前,最先出現的是“自絕於天”,後有“自絕于國”。從“自絕於天”到“自絕于國”再到“自絕於民”,反映了歷史觀念的變化和社會的進步。    “自絕”一詞首見於《西伯勘黎》祖伊告紂王中:“天子,天既訖我殷命,格人元龜,罔敢知吉。非先王不相我後人,惟王淫戲用自絕。故天棄我,不有康食。不虞天性,不迪率典……”這是說紂王自絕于先王,故被天棄之。祖伊所表達的是一種天命觀。祖伊又說:“今我民罔不欲喪,曰:‘天曷不降威?大命不摯(孔傳:有大命宜王者,何以不至)?’”民也是天命觀。紂王回答:“嗚呼!我生不有命在天?”紂王也是天命觀,他自恃有天命,不怕民怨。兩人對話是在殷將滅亡時,君、臣、民都是天命觀,那麼殷初怎麼能講出“夏自絕其有民”這樣的話來?偽古文《泰誓》也用過“自絕”一詞,是說紂王“自絕於天,結怨於民”,這是符合當時人的觀念的。偽古文造假的水準遠遠超過簡文。   簡文的“非民亡與守邑”一句源自《國語·周語》引《夏書》:“眾非元後何戴?後非眾無與守邦。”簡文作者簡括《夏書》文句而入《商書》(《尹誥》屬《商書》)。這種改句的方法在偽古文《尚書》中也大量運用,有些簡括得非常好,如根據《論語》“譬如為山”一段簡括出的“功虧一簣”,至今流行。   (三)簡文:“厥辟作怨於民,民複之用離心。”   “作怨於民”,最早見於南宋真德秀《大學衍義》卷三十二解釋《尚書·酒誥》文中:“紂夷居,弗事上帝,既無馨香以祀,而作怨於民,群酗於酒。”清代周用錫《尚書證義》和朱駿聲《尚書古注便讀》沿用這個詞。真德秀未見過《尹誥》,所以這個詞是他自創。簡文將這一淺顯的注釋文寫入本應古奧的經文中。   “民複之用離心”,這是說民以離心來報復夏桀。這話不合理。想逃離,這是躲避,而不是報復。報復的意思是對報復的對象採取攻擊性行動。在古籍中未出現過以“民”為主語的“民複之”,但出現過一次“為民複之”,正是這四個字成為簡文的根據。先是孟子說:葛伯進行搶殺,所以湯征討他,這是湯“為匹夫匹婦復仇也”。宋代林之奇《尚書全解》在解釋《呂刑》中“報虐以威”的“報”字時,引用了《孟子》這段話,說:“湯征葛,四海之內皆曰:‘非富天下也,為匹夫匹婦復仇也。’蓋湯之伐桀、武王之伐紂皆以其與民為仇,故為民複之也。此所謂‘報’,即孟子所謂‘複’也。”此段事關成湯,簡文作者必得研究,並事實上加以利用。他的“民複之用離心”這個頗怪異的文言句法,就是脫胎于林之奇解釋《呂刑》的“報虐以威”。簡文改“以威”為“用離心”,“用”即“以”;把“報虐”改為“(民)複之”,“複”即“報”,“之”代“虐”。而“民複之”是截取於“為民複之”。   “用離心”。“離心”不見於《尚書》,最早見於《荀子·議兵篇》:“故民雖有離心,不敢有畔慮。”後來多用。孔子說過“離志”。這是簡文的語源。其史源是《呂氏春秋·大慎》講到夏桀時民情的一段話:“眾庶泯泯,皆有遠志。”(漢高誘注:“有遠志”,離散也。)《呂氏春秋》為雜家所著,其所述歷史多為野史傳聞,不太可靠。《大慎》的這段話就不可信。《湯誓》湯對夏民說:“夏王率遏眾力,率割夏邑。有眾率怠弗協,曰:‘時日曷喪?予與汝皆亡!’”這是臨戰前夏民的狀況,他們怠工,不合作,詛咒,但無大規模逃離之心。   (四)簡文:“我翦滅夏,今後曷不監?”   “翦滅”不見於《尚書》,最早見於《左傳》成公二年丘緩為右齊侯曰:“余姑翦滅此而朝食。”(杜預注:“翦”,盡也。)丘緩是說要全部殲滅一支部隊。未見史書有“翦滅國”的用法。“翦滅夏”為用詞不當。[13]“滅夏”一詞最早見於《呂氏春秋·慎大》:“湯與伊尹盟,以示必滅夏。”這一句應當是簡文的根據。“滅夏”一詞是後世史家語,而非時人語。在殷初的觀念中,舜承堯,禹承舜,都是天命轉移,是和平轉移,並非後者滅掉前者,而湯代夏也是天命轉移,只是通過武力轉移,當時的人並不認為是後者滅掉前者,所以《尚書》中未見“滅夏”之說。殷初是怎樣表達“代夏”的,《尚書》無載,但兩條《書序》有說明。一條:“湯既勝夏,欲遷其社,不可,作《夏社》、《疑至》、《臣扈》。”另一條:“湯既黜夏命,複歸於亳,作《湯誥》。”《夏社》等三篇和《湯誥》都作于殷初立,比《尹誥》略早些日子,其稱代夏一事為“湯既勝夏”和“湯既黜夏命”,而不是“滅夏”。《尹誥》的伊尹當不會說“滅夏”。以後周朝人也提到殷代夏事,如:《多士》周公向“殷頑民”傳達成王的話中有“乃命爾先祖成湯革夏”,“殷革夏命”。《多方》成王對諸侯講話時回顧歷史說:“天惟時求民主,乃大降顯休命于成湯,刑殄有夏。惟天不畀純命。”這裡“刑殄有夏”是滅絕有夏的天命,但未用“滅夏”。就在這一段話之後,成王又說:“乃惟成湯克以爾多方,簡代夏作民主。”仍然是“代夏”。至於周代殷,也是說“勝殷”(《洪範》)、“將黜殷”(《大誥》)、“殷既墜其命,我有周既受”(《君奭》),而未出現過“滅殷”、“滅商”。至春秋戰國,國與國之間互相兼併,才有了“滅國”之說,史家在回顧歷史時才有了“滅夏”之說。此“滅夏”是從“滅國”而來,它不符合“殷革夏命”的意思,殷代夏、周代殷時無“滅國”觀念。   簡文“今後曷不監”的意思在《尚書》中多次出現,而最為相近的是《酒誥》“ 我不可不監于有夏,亦不可不監于有殷”。   (五)“我克協我友。今惟民��邦歸志。”   “我克協我友”。古籍中無“克協我友”,但分別有“克協”和“我友”,多見。“克協”首見於《曹子建集》的四言詩《帝舜贊》“克協頑瞽”。曹植未見過《尹誥》,因為東漢末的鄭玄說《鹹有一德》“已逸”、“今亡”,“逸”是說它在孔壁出真古文十六篇逸書中,“亡”是說已經見不到了。所以“克協”是曹植獨創。“我友”首見於《詩經》。簡文是拼湊“克協”和“我友”而成。   “今惟民遠邦歸志”。古籍中未見“遠邦歸志”,但分別有“遠邦”和“歸志”,是拼湊而成。   (六)簡文:“湯曰:‘嗚呼!吾可(何)作於民,俾我眾勿違朕言?’摯曰:   ‘後其賚之,其有夏之金玉實邑,舍之。吉言。’”   君臣二人的問答很荒唐,卻淵源有自。看《湯誓》:“爾尚輔予一人,致天之罰,予其大賚汝。爾無不信,朕不食言。”我們將它與簡文對比一下:《湯誓》“爾尚輔予一人”,簡文“俾我眾勿違朕言”;《湯誓》“予其大賚汝。爾無不信,朕不食言”,簡文“後其賚之,其有夏之金玉實邑,舍之”。簡文作者認為,在《湯誓》中已說了“大賚汝”,“不食言”,那麼戰勝後就得兌現諾言,所以設計了這一問一答。但是《湯誓》是對將士說的,合理。而簡文改為如何治理天下,卻荒唐。   “勿違朕言”一詞最早見於北魏拓拔燾為魏主時的一道敕諭,以後宋朝皇帝在詔書中用過三次“毋違朕言”。這是魏主和皇帝對自己臣下的要求,所以可以用“勿違朕言”。簡文作者把它用到湯的問話中,要天下之民都“勿違朕言”,這用錯了地方。   “金玉”一詞在《尚書》中未見,而最早見於《老子》和《管子》,但其文句未必是老子、管子所作。在《尚書》中直到殷盤庚時尚是“貝玉”、“貨寶”(《盤庚》下)連用,所以殷初不可能“金玉”連用。   簡文中伊尹兩次當面稱湯為“後”,而不稱“王”,這又是破例。在《尚書》中先有禹當面稱舜為“帝”(《益稷》),後有祖伊當面稱紂為“天子”、“今王”、“我王”(《西伯勘黎》),依例成湯稱王之後應當面稱“王”,而不應稱“後”。特別是《湯誥》中,王已向“諸侯群後”發佈命令,則湯就不再是“群後”中之一“後”。簡文稱“後”可能源自《盤庚》。《盤庚》(中篇)稱其祖湯王為“後”,如:“我先神後之勞爾先”、“高後丕乃崇降罪疾”、“我先後綏乃祖乃父”,“先神後”、“高後”、“先後”,均指湯王。簡文作者可能據此而讓伊尹稱湯為“後”。豈不知,盤庚在“後”之前加“先神”、“高”、“先(神)”等修飾詞,是有意神化和抬高湯,藉以威嚇那些不願遷都的殷民,而非說湯代夏之後就稱湯為“後”而不稱“王”。“後”是君主的意思,帝、王和地方首領都可以稱“後”。在《盤庚》三篇中的“後”也不都是專指湯,如: “古我前後,罔不惟民之承。保後胥戚,鮮以不浮于天時。”這裡的兩個“後”都是指先世賢君,其中包括湯。在《盤庚》中更多地還是稱湯為“王”,如:“先王有服”、“克從先王之烈”、“紹複先王大業”、“古我先王”等,都包括湯。所以不能據“我先神後”等,就認為湯代夏之後被稱為“後”。   簡文“吾可(何)作於民”,如果單看這一句,這應當是戰國人寫的,因為戰國簡作“可”,通“何”。這個句子表明簡文作者研究過戰國簡,這理所當然,這是他作偽的前提條件。   由以上可見,簡文句句有據,但句句是偽。   以《尹誥》和偽古文《鹹有一德》相比,它在思想性、文字水準和作偽的方法等方面都比後者差得多,所以不能讓它混同於偽古文,而應加區別,稱它“瞎古文”[14]為宜。              附記:2011年1月11日,姜廣輝教授寄給我他寫的《讀清華簡〈尹誥〉劄記》(定稿時改為《〈尹誥〉獻疑》),我表示支持他的觀點。此後多有討論。他又改了兩稿,於2月20日定稿。之後,他建議我也寫一篇,於是我寫了這一篇。我這一   篇在觀點上和他的相同,內容也差不多,只是寫法和強調的重點有不同。                                                                                                           北京大學歷史系 房德鄰                                                                                                                   2011-02-28初稿                                                                                                                    2011-03-09定稿         --------------------------------------------------------------------------------      [1] 清華大學出土文獻研究與保護中心,李學勤主編,上海文藝出版集團中西書局,2010年12月。   [2]《禮記·緇衣》第九章:  子曰:“為上可望而知也,為下可述而志也,則君不疑於其臣,而臣不惑於其君矣。《尹吉》曰:“惟尹躬及湯,鹹有壹德。”《詩》雲:“淑人君子,其儀不忒。”   [3]  《禮記·緇衣》第十五章:  子曰:“小人溺于水,君子溺于口,大人溺于民,皆在其所褻也。夫水近於人而溺人,德易狎而難親也,易以溺人。口費而煩,易出難悔,易以溺人。 夫民閉於人而有鄙心,可敬不可慢,易以溺人。故君子不可以不慎也。”《太甲》曰:“毋越厥命以自覆也。若虞機張往省括於厥度則釋。”《兌命》曰:“惟口起羞,惟甲胄起兵,惟衣裳在笥,惟干戈省厥躬。”《太甲》曰:“天作孽,可違也;自作孽,不可以逭。”《尹吉》曰:“惟尹躬天見於西邑夏,自周有終,相亦惟終。”   [4] 《湯誥》見《史記·殷本紀》,它不同於偽古文《湯誥》。   [5] 參見程廷祚《晚書訂疑》卷三、桂文燦《經學博採錄》卷二引劉台拱、康有為《新學偽經考》卷十三。程說:“《緇衣》兩引《尹告》,此必古有其書而《序》缺焉。”康反駁鄭玄注《禮記·緇衣》所引《尹吉》說:“所引雖有‘鹹有一德’之言,而明曰‘尹吉’,篇名顯異。即以‘吉’為‘告’,亦不能以辭句偶同即斷為‘鹹有一德’。鄭注不足據。”       [6] 關於《尹誥》和《鹹有一德》究竟是一篇還是兩篇的問題,筆者將在另文《關於〈清華簡(壹)〉涉及的幾個學術爭議問題》中再進一步討論。   [7] 《尚書古文疏證》第六十一節可能引起簡文作者誤解的段落(原文無斷句,照錄):“君前臣名禮也雖周公以親則叔父尊則師保亦自名于王前曰予旦召公亦名之爲旦曰斷未有敢自稱其字者或君於臣字而不名所以示敬如王若曰父義和之類亦未多見何晚出書所載太甲既稽首于伊尹矣伊尹又屢自稱其字於太甲……” “又按說苑伊尹對湯曰君之所不名臣者四諸父臣而不名諸兄臣而不名先王之臣臣而不名盛德之士臣而不名周公當成王世有其三伊尹當太甲世有其二要太甲 自無名伊尹若成王于周公止呼公而謂伊尹便緣此不自名名其字恐無此事殆又一義證雲。”    [8] 《文物》2010年第5期。   [9]鄭玄注:“‘尹吉’亦‘尹誥’也。‘天’當為‘先’字之誤。忠信為‘周’,‘相’,助也,謂臣也。伊尹言:尹之先祖見夏之先君臣,皆忠信以自終。今天絕棄桀者,以其自作孽。伊尹始仕于夏,此時就湯矣。夏之邑在亳西。‘見’或為‘敗’,‘邑’或為‘予’。”   [10] 加“之”字之後,取消“天敗”主謂結構的獨立性,使“天之敗西邑夏”成為“念”的賓語。   [11]輔廣:《詩童子問》卷三《揚之水》篇、卷五《菀柳》篇。文淵閣四庫全書本。   [12]黃倫:《尚書精義》卷四十。文淵閣四庫全書本。   [13] 《清華簡(壹)》編者釋文此為“捷滅夏”,意思是很快地滅掉夏,也是一解。但“捷滅”在古籍中未見,簡文作者似不會生造此詞,《尹誥》全篇似無作者生造的詞。   [14]從前有人學唐詩,學不好,人們笑稱其詩是“瞎唐詩”。
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bptengsu · 5 years ago
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一般人謀事,聰明人謀勢,智者謀時!(深度好文)
一、一般人,謀事
謀事、謀勢、謀時、謀世是完全不同的人生格局。
我們最初的狀態都是要找點事做,這就是謀事,謀事基本上都是為了養家糊口,為了滿足我們日常的生活需要。有時候這個事不一定自己喜歡,不一定有多賺錢,就是能馬上得到回到,說到底,謀事的階段,基本上是以出賣勞動力和基礎的思維能力為代價的。
但是這種狀態隨時年齡的增長卻很難實現積累,因為回報就在當下發生。
記得以前看過一個小故事,說一個人在一家工廠辛辛苦苦乾了20年,人到中年,40多歲卻要被辭退,很氣不過,就要找老闆去理論。說我有20年的工作經驗,為什麼你還要辭掉我。
老闆的回答很扎心:你有的不是20年的經驗,而是20年的重複勞動。
答案更扎心。有時候我們總是在進行重複的無謂勞動。
 有些人可能會反問,現在不是講工匠精神嗎?工匠精神不是說幾輩子只做一件事嗎?這裡必須搞明白,事和事不一樣。上邊說的這個工作的事,是屬於一個工序,而工匠精神說的一件事可能包含了很多工序。
一事精緻,足以動人。
上邊說的事和事的區別就在於,這件事如果你做一輩子,來個沒有經驗的,培訓幾天就能達到你的水平,或者接近你的水平,那基本可以判斷,這不屬於工匠精神。
而你把一件事做到不可替代,那可能接近或者就是工匠精神了。
現代社會,把一件事做好,很多時候,基本也就可以滿足日常的生活,做的好一些可能基本也就能夠衣食無憂,很多時候,是我們總是這山望著那山高,總是覺得做一件事來錢太慢,看不到前途,總想著一夜暴富,結果,哪一件事也做不下去,最終一事無成。
孔子說過:君子不器。(《論語·為政》)。這句話有不同的解釋,也有不同的理解。最普遍的理解是:作為君子,不能囿於一技之長,不能只求學到一兩門或多門手藝,不能只求職業發財致富,而當“志”於“道”,就要從萬象紛呈的世界裡邊,去悟到那個眾人以下所不能把握的冥冥天道,從而以不變應萬變。
孔老夫子做過多種小吏,做的都還不錯。但是他的追求不是只做一個小吏,不是只做個會計,而是志與道。
其實,對於我們今天的人而言,首先要學會謀生的手段,也就是謀事,但是又不能拘泥於事,如果你的工作正是你喜歡的,那恭喜你,堅持做下去;如果不是,做到超過80%的人,就可以了,不用用盡全力,而應該留點時間為未來謀劃一下,該學習的學習,該提升的提升,該做好準備的做好準備。
 二、聰明人,謀勢
說完了謀事,我們再來說謀勢。形勢是指事物存在的形態和發展的趨勢。我們經常說形勢一片大好,形勢喜人,就是這個意思。所以這一篇主要探討的是事物的形態和趨勢之間的因果關係,也就是事物發展的規律,這也就是我們先秦諸子們,經常掛在嘴邊的“道”。
道就是自然界事物發展的客觀規律。天道就是自然界發展的終極規律,而人道就是人類發展的終極規律,所以,道既包含了自然界,也包含了人類,這裡即有人的自然性,也有人的社會性。
《管子·形勢》:
山高而不崩,則祈羊至矣;淵深而不涸,則沈玉極矣,天不變其常,地不易其則,春秋冬夏,不更其節,古今一也。蛟龍得水,而神可立也;虎豹得幽,而威可載也。風雨無鄉,而怨怒不及也。貴有以行令,賤有以忘卑,壽夭貧富,無徒歸也。
這一段基本都是一些自然現象、社會經驗和個人體驗,就是我們上邊單獨��的這個問題。這些內容是輔助我們去理解最後的道的。這就是類象思維。
字面的意思不是太難理解。這些內容本身是一些比喻。用山高、水深,這些自然界的地勢的勢來比喻君主的權勢和地位。
我們上邊說的,這一篇的篇名形勢的勢是趨勢,這是這個字的引申義。本意是山形地勢,就像《易經》的坤卦說地勢坤。
大家可能都有這種體驗,同樣的話,不同的人說的效果完全不同。有些人沒權沒勢,也就是我們說的人微言輕,就沒有人重視,而同樣的話是大師、領導說的,大家都會比較重視,也更容易信服。
 所以,這一段就是用山高水深來比喻權勢、地位的重要性,做領導就是要學會建立自己的勢。法家的思想總結下來,就是法、術、勢,就是要用嚴刑峻法和統治之術來維護統治者的權勢。和這裡的道理是一樣的,我們前邊說過,管子和這些法家的不同就是,作為君主、領導者使用權勢的前提是合於道。
這一段是用蛟龍有了水才能顯示出神威,而老虎只有憑藉叢林,他的威力才能得到顯現;而風和雨沒有固定的方向,也就是不針對誰,才不會招致人們的怨怒。這里風雨無鄉的鄉是方向的向。
現在我們的企業裡年輕人越來越多,環境也越來越寬鬆,很多年輕的企業家更喜歡和下屬打成一片,這也挺好,但是也要學會適當的建立起自己的勢,這樣對工作的推進、命令的執行都會有所幫助。
對於大家而言,要知道合理的建立起自己的勢。但是,需要強調的是,這個勢是你和企業所有狀態的集中體現,適度的美化沒有問題,但是為了造勢而造勢,脫離實際,那隻是赤裸裸的術,而且早晚又會被拆穿的一天。所以,這個勢要謹慎使用。
有些人可能會說:你把謀勢講小了,我們聽說的都是要謀天下大勢。所謂的謀大勢,和這裡的謀權勢的道理是一樣的。是這一種方法,在不同的層面疊加使用。
那個窮爸爸把自己的兒子運作成比爾蓋茨的女婿、世界銀行副總裁的故事,估計大家可能都看過。其實這也是一種謀勢,也是相同的手段,不停的疊加運用。
很多人說,這東西不是騙人嗎?關鍵的區別是你要達到什麼目的,你要做成什麼事,你自己具不具備駕馭的能力。說到底,你是不是合於道。
也就是《管子》的一個核心原則:靜因之道,以道控勢。
其實,謀勢的時候還是有不少區別的,謀勢很多時候還是謀事,是稍微高一些的成事的方法和手段。
 三、智者,謀時
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比謀勢更高一個層次的是謀時。
其實,謀時的前提是識時。人只有能夠識時,才能夠謀時。謀時就要具備見微知著的能力。見微知著與守正待時。
真正能夠做到見微知著,其實就是必須具備還原真實、還原事物本質的能力。而我們最常犯的錯誤就是加入自己的好惡與利益,來推斷事情的發展,我經常說的“誠實的思考“,其實就是回到事情的本質去思考,而首先就是要去除掉個人的好惡與個人的利益,然後再看能不能更接近於本質。
同樣,見微知著,還需要有充足的經驗,如果說我們在自己具備極強優勢的專業領域,能夠實現見微知著的概率會比較高,而對於自己不熟悉的領導,可能性就比較小。
而還原真實、還原本質的能力,其實,就是對”道“的認知,而自己具備極強優勢的專業領域,你基本也就做到了”幾於道“了。中國人對術的追求,不是單純的追求熟練、而是要以術求道。
還有另外一種見微知著,是坐井觀天,其實就是用自己有限的認知,作為基礎,來進行對未來的預測和推演。
對於我們很多普通人而言,判斷自己的業務有沒有前途,是不是還有發展前景,其實應該不算太難,而對於什麼時候能夠開始有所突破,預測或者預知是一種能力,但是,最重要的還是要做到守正待時,先打磨好自己的手藝再說,時間一般都不會辜負守正的人。
見微知著就是以微射明,就是在蛛絲馬跡中找到發展的趨勢和規律,也就是見”道“,打磨好自己的手藝,以待時機的到來,時機一到,自然也就能夠獨占先機了。
不過,需要提醒的是,自以為見微知著,很有可能是坐井觀天,對未來的預測和把握,最重要的是敬畏和時時反思。
如果說用因果來表達,謀事、謀勢、謀時,區別就在於你到底謀的是多長時間的因果。當下結果就是謀事,可以等待就是謀勢和謀時,而最大的因果就是謀世。
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fenghuileng · 7 years ago
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漫談中共地下黨情報史:特務頭子周公操縱全局
作者:默喜
1921年之後的中國情報史基本上就是共產黨、前共產黨、潛在共產黨同情者之間的明爭暗鬥。共軍就不說了,軍統那裡被共黨滲透的一塌糊塗,中統那裡頗有一批得力的人是前共產黨,能力最強的張沖成了中共同情者,要不是死得早,可能就被周公給招入麾下了(張沖託孤周公,其子女都是中共)。
蔣介石到了台灣,帶頭撲滅共產黨在台地下力量的,還是兩個共黨叛徒,一個是蔡孝乾,一個是抓住蔡孝乾的谷正文。汪精衛那裡,特務頭子周佛海是中共創始人,黨齡比共黨特務頭子周公還長,而且沒去蘇聯進修過,純土產。手下幾員大將丁默邨、李世群、胡均鶴都是共黨叛徒,胡均鶴還是趙尚志的親妹夫。
汪精衛那裡,身邊的秘書有中共,76號的顧問有中共,軍法處有中共,梅機關有中共,岩井公館裡的中共卧底更是著名的五重間諜袁殊。范紀曼在中央大學教書,是汪偽高官家中座上客,同時兼職軍統和中共的間諜,為啥軍統這麼信任他?因為129運動的時候他已經是軍統北平站的代站長了。范紀曼很牛,他後來堅持不重新入黨,一直僵持到1984年,終於承認他黨籍從1926年開始計算。另一個和他一樣倔的老頭是金日成的歷史老師,老爺子一直堅持到去世前一個月,中共才承認了他的黨齡從20年代開始算。還有軍統在汪偽那裡的卧底,南京站站長抗戰後投了中共,後成為烈士;上海那邊中共掌握著不止一部電台。
汪精衛身邊,陳公博的親信李時雨執掌軍法處,是華北許建國線上的;范紀曼,是潘漢年線上的,同時也在共產國際有事情做,軍統那邊他有關係,夠義氣的陳恭被抓了以後都沒供出這個老同事,他可不知道這個老同事是老牌共產黨。李時雨也是,他曾經給李大釗扶靈。這兩個互不知情不同線上的卧底,因為臭味相投,合作辦了一家赤色刊物,被兩條線上的上級分別嚴厲批評。
還有,劉人壽在周佛海那裡,周佛海幫他掩護日本人,然後他發報給軍統,順便共軍這邊也接收一下。到了解放戰爭,胡宗南那裡的情報,辦公桌上的那份有熊向暉,電台那裡有呂出,聯勤西北總站有一份可以呼應的,沈安娜可以記錄下總裁批示,劉斐那裡有存檔,郭汝瑰留個副本,重慶行轅再有人轉發的時候抄一點。
吳化文和她媽分頭出去算命,這消息都能被共軍截獲。可憐的吳化文,小舅子是共諜,兒子和副官通共。四個老婆裡面,軍統的毛人鳳和共匪潘漢年線上的各有一個。共匪的這個從相貌到談吐再到氣質最後加上在家裡的地位,統統甩軍統特務好幾條街。比主業干情報比不過共匪,比副業做女人的能力也輸的一塌糊塗。天不容黨國也。剿總司令傅作義的閨女、總統秘書陳佈雷的閨女,偽滿洲國的總理張景惠的兒子,大漢奸周佛海的兒子等等統統都是共黨。張景惠不知道兒子是中共,兒子跟著他在蘇聯蹲了好多年監獄都沒暴露身份。他有一大堆老婆和閨女,還有個不成器的大兒子和不受寵的小兒子,就這麼個愛如珍寶的金疙瘩還投了中共。
陳布雷裝不知道自己女兒是中共;傅作義知道自己女兒是中共;周佛海知道自己兒子通共,別的漢奸也知道,包括日本人也知道,但是沒一個人敢動,因為周佛海這個實權人物就這麼一個寶貝嘎達兒子(另一個和他斷絕關係了,在重慶)。張克俠的弟弟張樹棣被佐爾格的助手方文盯上了,打算把他派到他哥哥身邊去卧底,伺機策反其兄長。要不是佐爾格相中了張樹棣的能力要他去蘇聯進修,就會出現弟弟策反了哥哥十幾年,最後發現兄弟兩人地下黨齡差不多長的故事了。
張克俠何基灃二人一同起義,起義前很長時間兩人互相提防,最後發現居然是自己人。何基灃以為自己潛伏時間就很長了,沒想到張克俠比他還長。郭汝瑰和劉斐兩人互相指認對方是共諜,問題是兩人都是共諜。
萊蕪戰役總結會,三個共諜韓練成、郭汝瑰和劉斐互相推卸責任,最後是聯合白崇禧把黑鍋盡量往別人頭上推,最後這黑鍋落到陳誠那裡了。李玉堂1950年被蔣介石槍決,60年代蔣介石要給他平反,80年代大陸給他���為烈士,2004年陳水扁在台北給他的共諜身份平反。這叫什麼事兒啊!南京軍話總站,十幾個人,除了泡病號的一把手,剩下的基本都是共諜。來了兩個新人,半年不到就宣誓入黨去了。因為老是沒有一把手,從外面調來兩個領導:一個是從大革命時期就開始潛入地下的老資格地下黨,另一個覺得這地方不太對勁,呆了一段時間也去泡病號去了。
傅作義偷襲西柏坡
1、傅作義的女兒傅冬菊系統,得到傅作義已經下達了這個命令。傅冬菊系統在35軍被殲滅後不久就成功策反傅作義的近身衛隊。那時的傅作義,連手槍都是沒子彈的。
2、北平鐵路局系統,執行此次任務的國民黨軍部隊和所需補給大部分是通過鐵路集結運輸的,而北平鐵路局調度室的十幾個人中只有一個不是中共系統的,再加上另外一些鐵路員工的協助,國民黨軍集結部隊的大致番號、人數裝備和到達日期就搞清楚了。
3、北平聯勤總部的一個早已是中共黨員的少校參謀,由於聯勤總部負責對參與此次任務的部隊的補給,此公為了工作不辭辛勞,在不到一個星期的時間裡跑遍了預定參戰部隊團一級以上的單位,掌握了所有部隊的人數裝備和補給情況,詳細上報。鑒於他的出色工作,此公在國共雙方的上級都加以表揚。
4、傅作義司令部裡面有個刻蠟板的人叫甘霖,凡是不發電報的文件都由他刻印下發。他刻完偷襲石家莊的命令後,就搭車到徐水縣政府,直接打電話到華北軍區,接電話的是作戰部長唐永健。然後他改名換姓去了天津。解放後,甘霖曾任國際關係學院院長。
5、北平《益世報》(註:《益世報》是天津與《大公報》比肩齊名的報紙)採訪部主任劉時平從鄂友三那裡聽說到這個消息,然後和《平明日報》(註:《平明日報》是傅作義的喉舌)采編部主任李炳泉共同向崔月犁(註:他是北平地下黨學工委秘書長,他也是經常見得到傅冬菊的)報告。崔月犁冒險通過地下電台向華北局敵工部部長劉仁報告。保密局北平站學運組組長是中共,華北督察組保定潛伏組組長是中共,傅作義的秘書還是中共,他還偷什麼襲啊?
某特務向他的上級坦白,曰自己是共黨卧底,當天就被鋤奸,因為他的上司也是共黨卧底。可以寫個小片段。
A:老大,我是共黨卧底,我坦白。這是我的槍。
B:你有人知道此事嗎?
A:沒了。
B:你先回去,和誰也別說。(A轉身,槍響,B走了過來)
B:其實我也是共黨卧底。在那邊我還是你的上司。
台灣那邊,有金門被俘的共軍團政委陳利華,也有游泳去香港投奔國軍的,另外澳門站站長叫程一鳴。這三位都是深海,只有程一鳴安全歸隊,另兩位都是烈士。國軍起義飛行員打算炸蔣介石以為投名狀,不料轟炸裝置卻被另一夥地下黨給破壞了。(共諜冗員太多,嚴重影響工作進度)蔣介石的侍從室里都是精挑細選的親信,裡面卻有段家兄弟卧底。老大是侍從室少將,在蔣介石身邊;老二在上海管港口,蔣介石的撤退台灣他有份布置。哥哥段伯宇是周恩來線上的人,弟弟段仲宇是上海局張執一線上的人,段仲宇的入黨介紹人就是段伯宇。傅作義的秘書閻又文,要不是知情人遇到他兒子,他的共諜身份就永遠隱蔽下去了。他寫的罵共產黨的文章是延安仔細審閱過的,毛主席指示:要罵得狠一點。白崇禧的秘書,衛立煌的秘書,李宗仁的參議,都是共產黨。宋美齡的親信閻寶航,是共產黨的戰略情報員。
侍從室還有一個共諜,蔣介石寵兒中的寵兒,張默堅,協助程潛、陳明仁起義。他是宋美齡的舞伴,現在還是舞蹈裁判。以他在蔣介石身邊的位置,一根筷子就能滅了蔣介石。宋美齡的親信閻寶航同時還是共產國際的情報員。中國的共產國際情報員最牛的是張文秋了,不是說她的情報能力最牛,而是她和前後兩任丈夫生了三個女兒,前兩個嫁給了毛主席的長子和次子,還好毛主席只有兩個兒子。
張文秋的上級是佐爾格。佐爾格在中國最得力的助手是方文,方文是史沫特萊推薦給佐爾格的。佐爾格在日本最牛的情報員尾崎秀實也是史沫特萊推薦的,麥克阿瑟一佔領東京就滿世界抓史沫特萊,結果把佐爾格的情婦石井花子給抓了,因為佐爾格給她取了個英文名字艾格尼絲。佐爾格的另一個日本情報員是畫家宮城與德。宮城是美籍日本人。日本特高非常恨他,他是日本人,很多日本的東西他都熟悉;他是美國人,沒和美國人撕破臉還不好動他。佐爾格在中國最優秀的助手方文曾經干過情報翻譯工作,把中文翻譯成英文。可憐堂堂燕京大學的畢業生,被人批評英文太差。燕京是美國教會學校,那兒的學生畢業後英語剛剛的。沒辦法,給他審稿的是史沫特萊,一個懂中文、德文、俄文的美國作家;和他一塊翻譯的是中國著名翻譯家董秋斯,他後來翻譯了《大衛科波菲爾》和《戰爭與和平》。
幸虧他沒有把英文情報翻譯成中文的任務,否則審稿的將是魯迅和茅盾,像什麼潘漢年、馮雪峰、袁殊、關露(這四位匪特)之類的文學小青年只能打下手。就算他過了這些人的關,還可能有個寫過什麼《再別康橋》的風流浪子認為他的文字不優美。是徐志摩把魯迅和茅盾介紹給了史沫特萊的。沒有痕迹表明魯迅曾經入黨,只是魯迅曾經為了毛主席等人長徵到了陝北激動不已,給中共中央發了封賀電。這封賀電花了兩個多月的時間,從上海到巴黎再到莫斯科,再到陝北,轉了半個地球而已。而且魯迅去世前就已經知道這封電報延安收到了。茅盾是老資格黨員,最後結論是黨齡從1921年算起,算當年共產主義小組成員之一。他弟弟更厲害,紅四領導人之一,要是活下來而且不犯錯誤,大將保底。沒法比茅盾黨齡的黨齡更長了。到了這裡就多加幾句,作家夏衍解放後的級別是兵團級,要是參加55年授銜的話,中將打底。上將也就一個搞情報的李克農。另外一個大學者陳翰笙,佐爾格小組外圍成員。陳翰笙在三十年代初就得出結論:中國農民不僅受地主的盤剝,還受外國資本的壓榨,也受本地官僚買辦的壓榨。
除了造反,沒有出路。佐爾格在上海暴露,陳翰笙都還能繼續干他的工作不受影響。1944年蔣介石根據日本情報在昆明抓他,他卻施施然上了一架神秘的飛機去了印度,英國人在那裡請他做情報分析。抗戰勝利去美國當教授,解放後回國。總理擬請出任外交部副部長,被婉拒,願意繼續做研究,在北大也帶學生。看到這裡的,說不定就有他的徒子徒孫,當然是搞經濟的。1945年春,國民黨在滿洲地區(東北)的地下工作最高負責人羅大愚在工作上強調要實行正規化。統一印製了《黨員登記表》,要求每個黨員都要詳細填寫個人、家庭及社會關係等情況,什麼職業,姓名,住址清清楚楚,然後將登記表交羅大愚保存。結果在1945年5月23日日寇逮捕了羅大愚,從羅大愚處搜出了由他保管的《黨員登記表》,按照登記表抓人,被捕者約有200多人,國民黨在東北的地下抗日組織幾乎被一網打盡。
無能的羅大愚,策劃個通化暴亂都辦不成,讓別的國民黨給擠到一邊涼快去了。其實沒有悲劇到徹底,國軍在那裡有兩條線,另一條隱蔽的線羅大愚自己也不清楚。悲劇到徹底的是,那條線上的頭解放戰爭時候帶著徒子徒孫起義投共了;共軍兵臨瀋陽城下,羅大愚自己也投共了。許錫纘的爸爸是黨國元老,叔叔曾經是老蔣上司。抗戰期間被黨國送到美國學航空,然後回來卧底國防部第二廳,其實他1936年上海交大畢業後就入黨了,算起來是錢學森的學弟。送去美國學習的共黨可不是這麼幾個,錢學森身邊就有,還有人參與了曼哈頓工程,這都是回來了的。鄭連魁,國民黨中統淮陰地區調查統計室主任。
就是那個下屬向他坦白然後被幹掉的那個,負責給地下黨傳信的是他女兒。鄭連魁是被俘後逆用,其實他早就心在中共這邊了,1932年中共在他家鄉那裡起義,一天時間就失敗了,失敗後把槍藏在了他家裡。顧伯衡,國民黨“徐州剿總”警衛二團副團長。他想殺劉若英的爺爺(劉峙)為投名狀,但是被制止了,共匪說這麼豬頭的一把手可不好找。秦漢的老爸孫元良沒聽說通共,沒辦法,此人腳力可比戴宗,無論是日寇還是共匪都追之不及。這人還有一個本事,就是活得長。等別人都死光光了,他就開始說了,反正死人不會出來罵他胡說。
軍統南京站長周鎬,因為共諜嫌疑幾次被毛人鳳抓取審訊,每次都能過關,第二次還設計把告密的給殺了。到底是站長,比余則成主任對付李涯處長手段強多了。惜乎栽在孫良誠這個老賊手裡。徐州剿總下屬的一個汽車隊,被中共地下黨暗中控制,長年有三分之二的汽車為中共跑運輸,三分之一為國民黨跑,就這樣,還經常受嘉獎,無他,中共沒有控制的車隊連跑都沒法跑,好的汽車全在走私,而汽車零件全被盜賣了。曾昭科,明面上的身份是前皇家香港警務處助理警司,實際上1961年暴露前長期在香港擔任英對華間諜和反間諜工作,從他的履歷上你看不到那一點上他和中共有交集,幼年來香港,在日本讀書,回香港工作。
據傳港人眼中的���大探長中藍剛是他的線,另外幾位是國民黨的線。還有個人也被認為是他線上的,叫曾雲,曾雲有個兒子是現任特首曾蔭權。現在這四位腐敗分子都快死完了,曾昭科還在廣東頤養天年。別以為廉政公署多牛,廉政公署開門的代價是1977年1月1日之前的罪過既往不咎。香港如此悲劇,澳門呢?軍統澳門站站長是中共卧底,據說因為當年工作權衡不好,被總理批評了。
1949年,解放軍打回江西的某根據地,可能是井岡山。有個小戰士被群眾拉回家去吃飯,小戰士不去,還說“我們不拿群眾一針一線”。老鄉說“到我這兒不算,我跟著毛委員鬧革命的時候……”一算下來,他掂著梭鏢打土豪的時候小戰士還沒出生。人家多年來就這麼自發的乾地下黨組織領導老鄉們,干這個隨時可能掉腦袋,沒有前途,沒有上級的活。接受大家指點,加兩位藝術家。(現在叫娛樂圈,他們那些人也就配這個詞)話劇皇帝金山,李克農單線聯繫的秘密黨員,他的真實身份只有周恩來、李克農和潘漢年知道。他還是杜月笙的關門弟子,黨國接收大員,接受了滿映,後來的長春電影製片廠。
上海和平代表團南京代表團在北平參加最後一次和談,他是團員,負責向中共回報參會人員思想動態等材料。金山的缺點之一,是此人太帥了,生性也頗風流。電影皇帝金焰也是中共。金焰是中國國籍的韓國人。不是有韓國血統,他就是韓國人,出生在漢城。(給PLA寫軍歌的鄭律成出生的地方比他還靠南)。
金焰長得帥,但不是那種奶油小生。金焰的身體條件非常好,演電影里苦力工人力道十足。很適合現在這些韓粉小姑娘的口味。再加幾位宗教界人士:紅色牧師董先生就不說了,資格太老;李儲文,耶魯大學神學博士,曾負責龍雲和飛虎隊的情報工作。身份暴露是因為被紅衛兵打急了。趙朴初也是大家都知道的;張永興是從基督徒直接轉成的,大連放火燒鬼子的也有基督徒。結論:蔣介石確實雄奇。上一個這麼像篩子的是小馬哥,他掛了;雄奇公不僅沒掛,還成功轉進台灣,圍困大陸長達六十年,這還是在每日筆耕不輟,連寫帶改日記的情況下完成的。
悲喜人生
1.韓練成向董必武彙報工作,地點選在了白崇禧的家裡。因為談秘密事情,白夫人在樓下給他們望風。
2.宋時輪劉培善開著吉普車誤入國軍陣地,被一個營的國軍圍觀,心想媽媽不得了,這次要光榮鳥,就見國軍營長闊步上前,一個軍禮“同志……!”宋時輪大手一揮,你們起義吧。
3.這是個杯具。桂系四十六軍,也就是韓練成當軍長那個軍在萊蕪,搜索營副營長跑到了共軍這邊,韓練成以為黨國在試探他就找山東這邊要回去斃了,山東這邊以為是國軍來試探的就給送回去了。槍斃完了才知道這個的確是自己人。(韓練成郭汝瑰那個寫不下去也是這個原因,挺不舒服的)
4.王天眷,1932、1936年兩次入黨。中國激光元老,因學生運動多次被捕,又多次被陳立夫保釋。
5.武漢解放前夕,武漢保險公司同業公會剛剛繪製出一份《武漢最新街道詳圖》,還未公開使用,就被城工部人員拿去複製了一份。他娘的這地圖畫出來之後有乒乓球檯子這麼大,就這都能送出來。
6.錢樹岩,國民黨徐州綏靖公署軍務處少尉司書,一個少尉搞定了國民黨西至潼關,南到長江的軍事部署。
7.何基灃的交通員叛變,落到了李宗仁手裡。蔣介石派人潛入何基灃家裡,搜出《總裁訓示》一本,上面標出重點,寫下心得。蔣介石龍顏大悅,授中正劍一柄,並認為李宗仁小肚雞腸挑撥離間。
8.舒自清,蔣介石的奉化老鄉,曾經是上海灘最年輕的審計師,廣大華行高層領導、華潤總經理。廣大華行是周恩來手下的第三條秘密戰線,比國統區和敵占區的地下黨還要保密。
後來他把這條戰線延長到了美國,介紹他去美國的是蔣介石的小舅子。施貴寶、杜邦、摩根都是他的客戶,辦公室設在華爾街120號。舒自清文革中被作為美國特務關了6年監獄,學馬列的筆記寫了一麻袋。80年代力主中國加入WTO,用大量數據說明這麼做對中國和世界都有利。
9.司徒慧敏,著名導演、攝影,1927年入黨。解放前中共美國支部人員。在美期間曾經向國內彙報舒自清是四大家族走狗。後來二人在國內相見大笑。舒自清比司徒慧敏危險,第三條秘密戰線有人叛變,舒自清是獨自跑回來的,老婆孩子都沒能一起帶回來。
10.抗戰期間黨國在美國建了一個中國發動機廠,專門生產飛機發動機,錢永健的爸爸就在那裡工作。那個地方中共都有地下黨。
11.老牌地下黨王崑崙重慶談判期間作為知名民主人士被毛主席接見,席間隱隱告訴毛主席,重慶不安全,最好早些離開。和他一塊被接見的是柳亞子。王崑崙後來是83版《紅樓夢》的顧問。
12.《重慶號》一條船上共軍就安插了兩條獨立的線。
13.熊健,他老爸曾經是黨國的參謀次長,重慶大本營的辦公室主任。他自己是紅岩周公館的交通員。
14.何康,熊健的入黨介紹人。他老爸是辛亥元老何遂,李宗仁那邊面子很大。
15.馬亮,已知滿洲共產黨和日共有聯繫的不多幾人之一。劉少奇被關奉天監獄,就是他保出來的。
16.野坂參三,日共創始人之一,同時也是英國共產黨創始人之一。1940年扮成華僑從莫斯科潛回延安,同行的是一位印度尼西亞共產黨領導人。野坂參三本來想回日本,結果發現到了延安更回不去了。在延安他找了老婆,回日本又他找回了糟糠之妻,這個老婆成了黃興的兒媳婦,後來是一位日本問題專家。野坂參三100歲那年被日共開除,原因是里通蘇共,那是1992年。
17.王亞文。黃埔四期的老黨員,秋收起義的老資格,策反戰線上的老同志。死後蔣特地囑咐秘書打電話慰問其家屬。
18.馬壁。台灣《治安與富強之連鎖政策》、《人生指南》、《真人生論》、《作文講話》、《三民主義政治學》、《三民主義政治淺說》、《孫總理思想研究》、《人本論》、《孔子的思想研究》的作者,《政治評論》周刊和《革命思想》的主編,政戰幹部學校的教官,1981年11月回到大陸,1985年去世。
19.鄭州解放前,鄭州的炮兵有個大力士,地下黨就借著參觀大力士表演把鄭州的炮兵陣地看了個遍。
20.還是在鄭州解放前夕,黨國印發戒嚴期間的各種通行口令,地下黨就順手就拿一份,在鄭州城裡戒嚴期間地下黨比特務們還暢通無阻。黨國印發的地下黨的嫌疑犯名單,地下黨也順手拿一份。就這還能抓著人?
21.前面提到的舒自清和司徒慧敏見面大笑的地點是劉少文中將的家裡。劉中將在香港期間多次夥同潘漢年、廖承志造假情報和日本人換真情報,這三個人整出來的假情報天衣無縫。55年授銜的時候他是總參二部部長。有意思的是他的八一勳章是一級,獨立自由勳章是二級。
22.1949年初,蔣介石派了5架飛機到北平來接清華的教授,結果連蹭飛機的北大教授的老媽子都上飛機了,還是沒坐滿人。
23.解放前上海保險業的地下黨很是猖獗,有個領導人被中統抓了之後因為把柄不多,花錢保釋出來了。保釋金額:金圓券20萬。
24.重慶解放的時候被破壞的是比較厲害的,但是兵工廠卻是基本給保全了下來,這個廠的廠長是地下黨。共軍進駐之後,他們在廠區里排除了600多箱炸藥。
25.1937年,白崇禧的���要秘書共諜謝和賡給白崇禧寫了一份長達一萬多字的《全民軍事總動員綱領與展開全國游擊戰爭之方案》,白崇禧嫌太長,讓另一個共諜劉斐幫著看看,劉斐說太長,總裁看不下去,讓他總結一下。此文稿蔣介石閱後大喜,暗示白崇禧給謝和賡升軍銜;周公閱後亦大喜,給他一個擁抱。1938年白崇禧演講,謝和賡寫完演講稿心裡沒底,於是請周公給他修改,周公定稿後,白崇禧全文採用。有周公當秘書,白崇禧不知是該哭還是該笑。
一、王一飛。王一飛這個名字很少有人知道,他的起點並不低,和他共過患難的有朱德、羅亦農、趙世炎、博古、任弼時、李富春、蕭三等人,陳賡、左權、徐象謙、李之龍等人是他在黃埔軍校的同窗好友,陳毅、李大釗等是他短暫去北京時期的老友。
30年代所擔任的職務就相當於紅色國際特工的東北區總代理了。可是從30年代之後,在蘇聯被當成日本特務,回來之後被當成蘇聯特務,後半生過的很不如意。(黨史上有兩個王一飛)
其實抗聯和滿洲省委這一系的人心理上有些地方並不好受。王明貴是抗聯後期最能打的一個將軍,也是為數不多能在四野帶兵的抗聯的人,但一直是二線部隊。這給了他一個好處,他帶的部隊成分很純,於是被挑選為開國大典做警衛。但是,部隊確定下來之後,他就被調出了。周保中隨四野南下途中,曾經請求晉見毛主席,不準。
三一八慘案的時候王一飛是旗手,打著大旗走最前面,陳毅在他身邊。走到現在的北師大段祺瑞的兵開槍的時候,王一飛是最大的目標。但是他畢竟是軍人出身,而且打過仗。一看情況不妙立刻卧倒,但是後面的劉和珍等人沒有這種軍事素養,犧牲在這次慘案中。
三一八之後,王一飛去了馮玉祥那裡,和劉伯堅共事,他是特別黨部執行委員,劉伯堅是宣傳委員。八一起義之前被周恩來安排去拉部隊,但是情報有誤,部隊已經不在他要去的地方。中旬就和肖勁光等人被派去蘇聯學習。
到蘇聯後和楊尚昆、陳伯達等人同窗。1930年冬天被派往東北負責蘇聯的軍事情報工作,自此他的一生變突然出現了轉折。他做情報工作的時候,考霸張甲洲是他的下線。但是918之後張甲洲要真刀真槍的干,很快就離開了他。1935年他被調回蘇聯,肅反期間被開除,1938年得以平反(很幸運了),1947年回國,1957年妻子被打成右派,1968年含冤去世。
二、老是拿錯皮包的參謀張治中得算是中共的老朋友了,1924年就找周公申請入黨,但是周公說不適合在國民黨內部高層發展黨組織,然後就沒下文了。張治中當年和周恩來、馬歇爾一起調停。馬歇爾給了張、周二人配了兩個一摸一樣的提包,這兩個人的隨身參謀也太馬虎了,多次拿錯,總是打開才發現搞錯了。
三、田漢秘密進京。田漢在1949年元旦之前秘密進入北平,任務是勸說一些人留下來。徐悲鴻是他的生死之交,沒問題;齊白石是徐悲鴻去勸的。國慶閱兵的裝甲車隊指揮是他的長子。
四、倒在黎明前夜。據國民黨駐上海353師警備連戰俘交代,他們的連長是地下黨。上海解放前在被調去看押被逮捕的學生,儘力維護了學生的安全,後來這個連被調去防守浦東,連長在勝利前夜陣亡。當時三代核心東躲西藏沒給抓住。
五、打入美國人的情報機構。二戰勝利後,美國把駐紮在世界各地的“戰時情報局”改了個名字,叫“美國新聞處”。在北平的新聞分處裡面共產黨一共安插了若干個內線,有九個是後來留在大陸國內公開身份了的。
這些人,有的還在抗戰期間就已經打入這個情報機構了。有什麼詞來形容這個美國駐北平的特務機構呢?漏勺?笊籬?美國人讓他們為美國搞宣傳。他們把宣傳資料慎重篩選,覺得不合適的就拿去當草稿紙用了。美國紙張質量好,給他們留下的印象很深。解放後,其中一些人進了中國的新聞機構新華社。吳大琨和陳翰笙的性質也差不多。說起來當年有共諜對美國的滲透,至於你信不信,反正我信了。
六、毛主席親自派遣的特務。話說毛主席膽大包天,非我等人所能體會。轉戰陝北期間,兩個緊挨著加起來才80多戶人的兩個小村子,毛主席等人住一個,國軍駐另外一個。他不當回事,汪東興不敢不當回事,三下五除二抓了十幾個特務,正要料理被毛主席看見了。毛主席說,這些人你殺了他們也沒什麼作用,不如教育之後反向安插回去。可惜不知道這些特務給安排回去有沒有起什麼作用。這批特務註定是歷史上的無名人物,不過倒是創了一個歷史,毛主席親自安排的最低層次特務。
七、特務學生。余老師一次提到1952年還有國民黨中將被拉出去槍斃。大概有兩個半地方是高壓線,沾了這些東西,如果不是對中共還有作用,就有可能保不住腦袋。兩個是匪、特,半個是會道門。北平的多所大學裡的特務學生,在中共進北平之後都落得很慘,判了無期或者十幾二十年的頗有一些。這些特務學生好在沒動手殺過人,也就是搞搞宣傳、說說風涼話,攪攪局之類的,最多掄棍子打人或者扔塊磚頭啥的,否則很可能刑罰上會進一步。
八、毛澤民戲弄特務。毛主席被民團抓住以後,以銀元行賄換得逃命。無獨有偶,他弟弟毛澤民也一樣。
毛澤民當時在天津做地下工作,搞印刷廠。被特務給扣了,先把自己身上所有的錢拿出來賄賂特務,然後麻痹特務說把廠子賣了湊了錢就多送點。然後用拍賣工廠設備的借口把印刷廠的設備運出,負責監視他的小特務還以為他真的在賣廠籌錢。然後是人財兩空
經濟大師毛澤民可惜了,如果不是被自己的大哥給拉上中共這條船,他將是一個成功的民族資本家,毫無疑問。別忘了人家是蘇維埃中央銀行行長的時候,陳雲還混不到他的下手。毛家另一個可惜的是毛澤覃。毛澤覃比毛主席小12歲,從長相到性格都像大哥,連賀子珍都能蒙一下。毛澤覃長於軍事,一路政委幹上來的,那年頭中共的政委有哪個不是軍政雙全的。如果不是犧牲過早,55年應該是上將保底,大將有戲。1976年71歲,正是政治家的黃金年齡。“共產黨不是毛家祠堂”這句話出自毛澤覃,是反抗毛主席體罰的情況下說的。諸位想培養自己兒子成天才的,不妨仔細研究下毛太公順生怎麼教育兒子的,然後去湘潭看看毛主席家的祖墳怎麼修的。
九、說到難逃一死的兩個半蘿蔔酒那篇《大槍》俺也是看得很上癮,看第二遍注意到了武林高手49年之後被中共所害詞句。大概葉問和薛顛配得上。薛顛是因為一貫道的問題被拉出去斃了的。一貫道現在在台灣很興隆,在大陸剛解放的時候可沒少忽悠不明真相群眾跟共產黨作對。中華5000年,中共是第一個牢牢把握基層政權的中央政府。
摻和會道門,就是和中共的政權根基過不去。看不清形勢,也就別怪自己命苦了。沒那麼玄乎架起機槍掃。就是中共去了幾個公安,帶出來送進局子拉倒。另外一個的說說現在火的不能再火的一代宗師葉問了。葉問是上過軍統的特訓班的,他的工作也一直有軍統背景。1946年起在廣東佛山的警察部門工作,負責偵緝地下黨,中共打過來之前最後的軍銜是上校,職務好像是廣州市衛戌司令部南區巡邏隊隊長(待查資料確認)。
手下中共地下黨人命恐怕不少於兩位數。運氣不好,這種直接和地下黨對抗還是個沒什麼價值的中級軍官斃了也就斃了;運氣好跑掉了,然後收了個好徒弟。
十、間諜被抓了怎麼辦。如果你是一個落入別的國家情報機構手裡的間諜,而且不想叛變,或者確信自己一旦叛變可能會死的更慘,那麼你應該怎麼辦?
1.竭盡全力把自己還沒有叛變的消息傳出去,以便自己的上級覺得你還有營救的價值。
2.祈求什麼神靈都行,希望自己上級手裡有值得交換自己的籌碼。
3.繼續祈求,希望自己的上級覺得這麼交換還比較合算並樂意這麼做。
用兩位諜王做個解釋:阿貝爾被抓後利用美國傳回了自己沒有叛變的消息,因為他使用了一個已經去世的同事的名字,美國人的大肆報道正好告訴蘇聯人,這廝沒有叛變;蘇聯人手裡有第一個被打下來的U2飛行員;美國人急於交換,蘇聯人也認為一個飛行員換一個間諜網核心人物的交易值得做。然後阿貝爾就被換回來了。
佐爾格就不行了。首先他招供了,雖然他的招供為中西功等人贏得了時間,但是也使上級無法營救他的,因為不能確定他是否已經叛變;其次蘇聯人手裡可沒有這麼強大的一個間諜,要是有的話貝利亞和亞戈達就去找對咪咪撞死算了;第三條就更談不上了。
十一、周公的語言能力。周公懂英文。西安事變可以與宋美齡用英文流利交流毫無障礙,張學良宋子文也用英文討論。可憐土包子楊虎城,啥也聽不懂。四十年代口語就不太會說了,當然到老了聽還是能聽一些。周公懂法文。
周公畢竟在法國生活了那麼久,而且法文可能是他掌握的最好的外語,多年不說不聽之後依然可以和西哈努克講法語。當年在法國勤工儉學的時候,法文���資本論和共產黨宣言他都翻爛了。
周公當時其實沒怎麼勤工,他倒是想去打工來著,但是大家一致認為他集中精力領導大家更合適。周公懂俄文。莫洛托夫曾經在一次酒會上向周公抱怨,說你明明會說俄語,為什麼要用英語敬酒。周公懂日語,雖然入學考試日語沒過,但對於日常生活並無大礙。其實大家現在去考高考語文估計是考不好,但是並不妨礙咱們過日子。周公熟稔外語有個好處,對方國家領導人講完話,他就知道大體什麼意思了,但是他還可以等著翻譯講完再出招。和對方國家領導人相比,多出一倍的思考時間。同樣的時間,他出兩招,對方只能出一招,佔了這個便宜。
十二、張友漁的地下工作。張友漁是大律師,也是北京特科重要成員之一。北京特科和北京的黨組織以及順直省委沒任何關係,直屬上海特科。和張友漁一塊工作的一個北京特科成員,解放後是山東省委領導,當年在天津公安局管預審。地下黨被抓進來表現如何他清清楚楚,表現好的掩飾馬虎一下,表現不好的痛揍一頓。
這就不錯了,落在西安共諜李茂堂手裡的叛徒,有在招供到要害之前被直接刑斃的,叛徒死都不知道為什麼死的。薄一波、李運昌等人被關在天津反省院的時候,張友漁是反省院的副院長,薄一波是反省院裡面地下黨的黨支部書記,當然薄一波不知道。
十三、張作霖大帥府里的黨支部。黨支部書記是董季皋。董季皋在1925年之前就已經入黨,1925年因寫得一手好毛筆字被張作霖重用做秘書。張作霖在北京時期,張在裡間辦公,董季皋在外間辦公,負責抄寫書簡,中間只隔一層鏤花板壁。董季皋的家是中共順直省委機關所在地,他自己的工作是負責軍運,他夫人以基督徒的身份為掩護做交通員。
南京曾經給張作霖發來密電要逮捕董季皋。張作霖故意在董季皋在隔壁辦公的時候大叫“這個人也要抓,往後我的書札誰來寫”。當天董季皋回家後第一件事是告警讓別的同志撤離,第二天和他的女婿等18位烈士被捕隨後遇害。
十四、國民黨的海軍。當年軍統頭子戴笠曾經醉心於國民黨的海軍司令,但是國民黨的海軍卻是中共活動的最為得手的地方之一。中共地下黨號稱對國民黨70%的艦艇有把握,不知道戴笠在天上知道到這句話的時候會怎麼想。策反國民黨海軍的關鍵人物是張權和吳石兩個人。
一個在解放前犧牲於上海,一個不久犧牲於台灣,但是從國民黨海軍的情況來看,兩個人犧牲時都帶著這方面的秘密一起走了。
十五、侮辱軍統智商的何基灃。何基灃有個副官是中共,抗戰期間被軍統察覺了,何基灃設法把他送去了中共那邊。然後到了淮海戰役之前,中共又把這個人給派回來了,何基灃還讓他當自己的副官,還把軍銜和職務給升了。這純屬侮辱軍統的智商。
十六、還是特務學生。沈崇那個學校,1947年5月18日那天,嚴陣以待的青年軍撤走了,剩下的學生三三兩兩圍著維持秩序的憲兵申訴青年軍打人。一個特務學生湊過去之後打了某憲兵一個耳光,然後憲兵們就開始打別的學生了,這一次中共的地下黨吃了特務學生的大虧。北醫的特務學生曾經偷偷的問一個地下黨學生是不是中共。這個學生反問他:你要不是特務,問這個幹什麼;你要是特務的話,哼哼……其實特務學生並不是都很笨。三青團北平的頭還曾經是個高考狀元呢。
十七、北大里的收音機。北大地下黨有台收音機,專門負責收聽新華社的消息。這台收音機居然是葉劍英留下來的。然後學生里的地下黨把這台收音機當儀器設備藏在了物理實驗室。
十八、外籍人士們。燕京大學外籍教授們有的把地下黨藏在自己家裡,然後當人梯送地下黨跳牆逃跑;有的負責把守大門。
十九、還是燕京大學。燕京大學的地下黨很是猖狂,軍統就慘了,只得一二十名骨幹和幾十名追隨者。燕京大學選學生會立委,中共大獲全勝,特務學生便要搗亂。特務學生搶佔了前面幾排大吵大鬧擾亂秩序,占學生大部分的醬油眾們不堪吵鬧打算退場。
眼看特務們攪局就要成功,地下黨們抬出一塊大黑板上寫“凡擁護本次選舉者請起立”。這下好了,醬油眾們本來對特務學生們無可奈何正要退場,可不就是站起來要走嗎?這已經站起來了,沒人帶頭再坐下也不合適啊,乾脆就集體表態擁護算了。
中共不光過五關斬六將,也有走麥城的時候。
1.黃鎮中,寧都人。1930年假扮奪槍造反,投奔了董振堂、趙博生的隊伍,被任命為指導員,同年冬帶35人槍叛逃。自1931年到1949年,死於他手下和他部下的黨員、紅軍家屬、紅區人民、群眾數萬人,民房被燒毀數萬間。淮海戰役後宣布協助歡迎共軍者殺、一人投降共軍殺全家等“十殺”,並在寧都山上築壘企圖和共軍論持久戰打游擊,他堅持了26天,夠持久了。共軍很人道的判了他槍斃。
2.沙文漢一家個個出人頭地。老大是大書法家、朱家驊的親信,但是不問政事;老二犧牲於廣州起義,老三沙文漢老四沙文威都是諜報高手、老五沙季同是徐悲鴻的學生。
不過最彪悍的是老三的老婆。老四沙文威1937年在大哥介紹下進入朱家驊手下工作,負責保管機要文件,從此大批文件變成了國共雙方共享;1941年入中統;1942年被中統派往上海負責汪偽情報,從此這部分汪偽情報繼續與共軍分享;1945年之後更上一層樓,黨國華北東北大批軍事情報可以做到國共分享。
老四手下的汪維恆是陳誠的軍需署長,遼瀋戰役的殲敵人數幾乎和汪維恆提供給共軍的情報相當;前面提到策反黨國海軍大業未成身先去的張權將軍也是老四線上的。
老三沙文漢,長期乾地下工作,堪堪躲過刀鋒的次數兩隻手數不過來,也曾經多次與上級失去聯繫,但是矢志不渝。沙文漢既是紅色國際特工高手,也是國內情報大師。文能提筆安天下,寫文章、出圖書、做雜誌、辦學校個個風生水起;武能上馬定江山,曾接替張愛萍任江蘇省軍委書記,浦東遊擊隊、浙東遊擊隊都是他的手下;統戰方面,曾任上海局策反委員會副書記,書記是老太爺張執一。
沙文漢對黨極為忠誠,多次失掉關係,仍然努力尋找上級。一生中最後兩個字是“謝謝”,不是對自己妻子說的,而是對上級來電話傳達摘掉他“右派”帽子的人說的。
3.沙家在諜報界雖然功勛卓著,但是最卓著這人卻不姓沙,���是老三沙文漢的老婆陳修良。
想當年軍統上千人在南京城裡抓共諜,然後被她搞了個海陸空三軍大起義,而且開著小火輪接共軍渡江。(再次重申,別TMD光念叨拿下總統的部隊番號是三十五軍,軍長是吳化文。裡面三分之二的人是共軍,包括俺們的鐵道游擊隊,說話算數的也不是他吳化文,是政委何克希。老吳能在亂世活下來,關鍵就是知道啥時候放手、啥時候出來裝門面。)
陳修良是向警予的秘書,並由向警予介紹入黨。1927年,陳修良在母親陳馥主持下,陳修良與沙文漢結婚。她最精彩的是1945年秘密進入南京領導地下工作,此前南京的地下黨曾經被嚴重破壞8次,但是她這一把就全部翻盤。參與南京解放的一位將領說“南京實際上是和平解放的”僅舉一例,陳修良在翻閱黨國幹部名冊的時候,突然發現一個高官人名和30年代某地下黨名字相同,打探之下發現原來果然是同一人。
考察之後才發現,原來這人當年失掉關係之後就深度潛伏了下來。再舉一例,南京軍話總站,這個地方除了那個掛名的站長,剩下的全是中共的人。不客氣的說,宋美齡電話里管蔣介石叫了幾聲“達令”,或者蔣介石電話里罵了手下多少次豬頭,共諜都知道。
4.陳修良夫妻都是忠貞不渝的中共諜報大師,但是陳修良前夫卻是一個叛徒。陳修良的前夫是余平,在莫斯科期間隱瞞自己已經有妻子的情況和陳修良結婚。1927年被捕後叛變,成為中統特務。1949年讓黨國給扔在了大陸,被抓半年後病死獄中。余平曾經去勸降夏明翰,但是未果,反被夏明翰連嘲諷帶痛罵給趕了出去。
5.錢壯飛是徐恩曾的機要秘書,錢壯飛救了共產黨的同時還把徐恩曾給玩得溜溜轉。但是錢壯飛自己都不知道,周公和顧順章在徐恩曾這裡至少安插了兩條線。不僅徐恩曾的機要秘書是共諜,他的機要員也是。這個人是費俠。費俠是個大美女,留蘇學生,有文化、有氣質、有長相、有口才。顧順章叛變後費俠被指認,徐恩曾這個花花大少居然一見這個共諜就魂不守舍,變成了一個好男人。在顧順章的說服下,費俠叛變。叛變後費俠雖未加入中統,卻專職負責對留蘇學生的策反,成果斐然。
1949年上海解放前夕,還曾經叫囂毀了上海。費俠和徐恩曾共生育三子二女,夫妻感情不錯。
6.另一個被顧順章說服的女叛徒是秦曼雲。“白區黨”近乎100%被破壞,其根子就可以追朔到秦曼雲這裡。秦曼雲的前夫是關嚮應,離開關嚮應之後的丈夫是當時的曾任中組部部長的盛忠亮。盛被捕之初還是寧死不招,顧順章指點中統從秦曼雲下手,首先策反秦曼雲,然後由秦曼雲說服盛忠亮,盛忠亮遂叛變,大招特招。盛忠亮叛變後,地下黨損失到了什麼程度?潛伏很深的特科還有一點人,文化圈夏衍那裡有一點人,作用不大的江蘇團委有一點人,工會方面還有一點人。剩下的全被連根拔起。盛忠亮叛變後在中統任職,後進入外交系統,任黨國駐烏拉圭、伊拉克大使。
1964年去美國經商,1981年低調回國,在秦曼雲的堅持下,她自己一人去見了當年的同學王鶴壽。王鶴壽時任中紀委副書記,也算一方王侯,但卻是白髮駝背,布衣舊鞋。秦曼雲時乃美籍華人富婆,濃妝艷抹,衣服華美。王鶴壽不願意單獨面對這個用靠戰友鮮血換來榮華富貴的叛徒,於是拉了乾女兒陶斯亮同去,於是才能留下當時的細節。
秦曼雲問及當年莫斯科東方大學同學,王鶴壽回答短而有力,“離開人世的,個個是鬼雄;尚存人間的,亦皆為人傑。”交談一段後漸漸無言,秦曼雲用同情的口吻問:“這幾年來,你受苦了吧?”秦曼雲除短暫被捕外一生生活奢華富足;王鶴壽一生蹲了六次監獄,最長的一次是共產黨自己的十年牛棚,共被批判573場。
然而神態自若的王鶴壽坦然一笑“這是我們黨內自己的事情”。遂再無言。盛忠亮的兒子曾經在他的老家建立盛氏女兒基金會,每年資助十名女生從小學三年級讀到高三。這件事曾經被當地地方政府大書特書,作為政績之一。不客氣的說,這要是呆鵝和胖卡,估計做得能比這廝好十倍,但是也成不了地方政府的政績。
1.天津的城防圖。天津的城防圖當時中共有好幾條路線。其中一條是公路局的某人從負責這項目的人那裡偷的。這不算什麼過分。過分的是他頭天下午偷出來,晚上抄了一晚上,時間不夠,他居然第二天又抄了一天,才還回去,眼看著找不著城防圖那位如熱鍋上的螞蟻一般在他的面前東翻西找。
2.還是天津。天津解放前電信局長已被中共策反(那人本來是個脫黨的早期人物),電信局裡也已經安插了中共的人,陳長捷的無線電通信頻率共軍早已掌握在手裡。劉亞樓的參謀可以和陳長捷共享他對部隊的指揮,城內的地下黨乾脆是在收音機里聽著陳長捷對傅作義的無線電通話迎接解放的。
3.又是天津。天津鹼廠的總經理那時候是李燭塵,侯德榜當時在國外。陳長捷最後一個祈求歸順的電話就是通過他轉給地下黨的。地下黨的回應是“太晚了”。
4.軍統天津站在解放戰爭期間表現很不錯,在大連、漢城、仁川都有潛伏機構,主要任務是對中共的策反,兼職收集情報,成果斐然。共軍在大連的海關副關長(相當於此職務),即被策反帶領幾十條船投靠軍統天津站。當時大連港的檢查某所長、大連市政府某科長都是軍統潛伏人員。被策反的這位後來擔任天津特別站中校副站長。(專管海上)
5.軍統天津站確實有個叫吳景中的站長,不過其實他是天津站倒數第二任站長,只有幾個月任期,倒數第一任是個留下來的替死鬼。
6.張夢實是偽滿總理張景惠的兒子,他有一次送情報就是把情報放在他父親的標準照後面。他的身份加上照片確保了這情報沒人敢檢查。張夢實的老媽是七姨太,但是張夢實一想結婚就張羅著給他納妾,女人當老婆和當老媽時候心態就是不一樣。
7.獲取錦州城防圖的第一個突破點,共軍是花錢買來的,這錢花的值。
8.錦州連以上兵力配置圖,是國軍派人監督一個共諜畫的。共諜說他幹活國軍監督這人干坐著太無聊,要不您先找地方玩會?
9.錦州外圍義縣的城防圖是一個從國軍過來剛一年的小共諜搞到的。國軍一上校團長被俘後看到了共軍手裡的城防圖,到排這個級別都和他自己的絲毫不差,於是說早知道你們拿到這個,他就不打了。
10.錦州大街上的碉堡分布,除了前面的來源,還有幾個對軍事一竅不通的地下黨每天散步統計碉堡情況,然後把信息匯總給一個會畫圖的情報人員,送到城外。
11.八路軍西安辦事處和紅岩村周公館,長期處於國民黨的全天候監視之下,問題是人家好像也沒耽誤什麼事。
12.還是潘漢年吧。投機商們打算整上海的銀元、棉花、煤炭。一方面是陳雲出手,一方面潘漢年負責經濟情報(周佛海的兒子就干過這方面的事),一方面陳毅元帥維穩,汝等安得不敗……
13.潘漢年長期混跡於花花世界,實際上不會交際那些東西,能跳舞,但不喜歡。無獨有偶,那個和他不太過得去的饒漱石雖然多年混跡於腐朽的資本主義社會,實際上卻是個苦行僧類的人物。
14.潘漢年在上海解放後的��件大功是帶領部下完整接收並整理歸類了舊上海的幾乎所有檔案,有多少呢?一百三十多萬卷。
15.潘漢年有一次被跟蹤後的脫險如同電影般驚險。發覺被跟蹤後從一個關係人的家裡前門進去,直接穿過客廳到了後陽台,脫下外衣、拿了帽子,從陽台上拿了一把大傘跳下二樓,安然脫險。(這房子在坡上,前面是一樓,後面是二樓)。特務們死活沒想清楚他怎麼從這麼多人的圍堵中消失的。
16.湘江特委,白區鬥爭最危險的機關之一。主要領導人沒一個干過地下工作的,從頭��學起。成果相當不錯,領導人是第一任駐印度大使袁仲賢。袁仲賢是黃埔軍校畢業的,抗戰之後才幹了本行。
17.說起宗教界人士,其實閻寶航也是從東北的基督教會起家的。馮玉祥這個基督將軍身邊一樣有佘滌清。但是現在看看基督教會的棒子的滲透,那些宗教局的混蛋都是幹什麼吃的呢?宗教口,本來就不僅僅是民政的問題,還是國安的勢力範圍。
18.想到了七七事變,老是有那麼一些真相黨說是中共乾的,也難怪。您看看,盧溝橋的何基灃、過家芳都是地下黨,何基灃派過去給監督營長金振中的王世江也是地下黨,就一個吉星文是鐵杆國軍,他叔叔還是吉鴻昌。
何基灃1939,過家芳1927(介紹人彭雪楓),王世江1938。後來留下來的張自忠倒不是,可是他的兒子女兒都是。至於他們的老上司馮玉祥,馮玉祥的老婆和閨女都是,都是後來才入的。
1.資格最老的共諜。為人極為低調的張雲逸大將,是共諜中資格最老的。1936年曾往返香港、華南做李濟深等人的統戰工作,時間約幾個月。資格老到了什麼程度?1911年他參加了黃花崗起義。
2.最為長壽的共諜。黃慕蘭今年106歲,現在看來這個數字還可以繼續延長。
3.最會打仗的共諜。這個得是葉帥吧。十大元帥里只有葉帥長期浸淫於情報界,雖然被稱葉參座;大將裡面陳賡當無疑問;上將裡面李克農情報方面沒啥意見,不過沒有打過仗;選一個有上將資格但是沒有授銜的滕代遠吧,他是主管,並沒有親臨第一線過。
4.最悲慘的共諜關露。她失去了幾乎所有的東西:名譽、愛情、自由、文學,卻幾乎什麼也沒有得到過。“春天裡來個百花香……”很多人都會唱,卻不知道是她寫的。終於患絕症後在去世前被告知平反並洗去不白之冤,支開保姆之後,服下安眠藥安靜的離去。
5.最被以訛傳訛的共諜袁殊。他並非是網上傳得神乎其神的五重間諜。實際上它是先叛變了中共和共產國際,然後又叛變了汪精衛和日本人,後來投靠潘漢年是不得已而為之。當然,這一次他沒有再叛變,再叛變去哪兒呢?袁殊自己很清楚,按照他第一次叛變的情況,被鋤奸是正常的。也就是他和胡均鶴解放後在共產黨的監獄裡關著的時候沒那麼多的不平。
6.最讓人難以置信的共諜。中西功和西里龍夫,當然還有在北平等其他地方的另外幾個日籍小組成員如白井行幸、尾崎庄太郎,100%的日本人。尤其是西里龍夫,幾乎不會說中國話,卻是三十年代早期中共最危險的時候入黨的老資格。
7.最可惜的共諜。個人認為張露萍案中的馮傳慶是最可惜的共諜,雖然很多人都未必記得這個名字。為什麼這麼說呢?馮傳慶的職務是軍統總台的報務主任。雖然軍銜不高,但是位於中樞責任重,而且他年齡不大。打個比方,今年台灣羅賢哲的情況和他有些類似,但不如他作用大。羅賢哲案也有意思,實際上早半年多羅賢哲就已經暴露,WW有關部門得到了這方面的情報。但是負責人認為這份情報太重要了,必須歸檔保密,然後羅賢哲又活動了大半年。
8.最漂亮的共諜這個沒法選。上海灘的女演員們有一撥是地下黨,每個人都有自己的標準,只能自己找照片百度之了。比如張瑞芳、陳波兒……
9.最帥的一點疑問都沒有,周公。
來源:國民大參考
原文鏈接:漫談中共地下黨情報史:特務頭子周公操縱全局 - 情系中華
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meitukong · 7 years ago
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採訪:龔哲、林倩
翻譯、整理:龔哲
《東方历史評論》微信公號:ohistory
編者按:盡管地球表面的70%都被水覆蓋,但历史敘述卻一直是陸地中心論的。海洋史作為一個新興的历史學學科,試圖改變人們固有的思維方式,從海洋的視角出發重新講述世界历史。作為人們觀念中“大陸文明”的典型代表,海洋與中國文明之間的關系更是長期未得到足夠重視。如何從海洋的視角思考中國文明的過去和未來,是這個人類走向海洋的時代帶給我們新的智識挑戰。
林肯·佩恩(Lincoln Paine)教授是美國著名的海洋史學者,供職於著名的緬因州海事博物館,至今已出版專著5部,發表論文、書評百餘篇。他的《海洋與文明》(The Sea and Civilization: A Maritime History of the World)一書引人入勝地敘述了文明的興衰與海洋之間的聯系,敘述了人類航海事業的發展历程,是一部關於航海者的壯麗史詩。此書曾獲美國《選擇》雜志2014年度“傑出學術著作獎”,中文版已於2017年4月由天津人民出版社出版。在上個月林肯·佩恩教授來華期間,《東方历史評論》對其進行了採訪,以下是訪談內容。
東方历史評論:什麼是海洋史?您認為海洋史的重要性體現在哪里?
林肯·佩恩:什麼是海洋史,這是作者和讀者在接觸世界海洋史之前都會面臨的問題。首先海洋史是世界史的一個分支,涉及對背景、態度、喜好各不相同的人群之間複雜活動的綜合研究,在地區、國家和區域層面上比傳統史學所做的劃分更為複雜。海洋史研究的前提,是通過研究發生在海上或與海洋有關的事件,為研究人類事務提供一種獨特視角。它的主題很多,包括船舶、貿易、移民、探險、海軍戰爭和海洋觀念等等。
許多事情都發生在海上,但卻長期被從事民族、地區和區域研究的傳統历史學家所忽略,這是我強調海洋史重要性、並寫作《海洋與文明》一書最重要的原因。如果不從航海活動的角度出發,人類历史上的許多事情都得不到有效解釋。還有一點非常重要,那就是海上發生的事情比陸地上要快的多。如果你觀察不同的移民方式,會發現在移動相同距離的情況下,在海上用幾個星期就可以穿行數千英里,在陸地上遷徙相同距離卻需要幾百上千年。在美國的西進運動中,許多人是乘船到達西海岸的,這在當時是一種比橫穿美洲大陸更快捷也更安全的交通方式。獲得通往海洋的道路意味著你能使用和發展航海技術,這能帶給你許多被固定在陸地上的人所不具備的優勢。
對於中國來說,有一點非常有趣,就是中國人常常將自己理解為是一個以陸地為基礎的民族,它的历史學家們也不斷地這麼強調。當然這個說法一定程度上是對的,但不像人們習慣上認為的那樣正確。原因在於,盡管政府曾主動採取措施限制海上貿易,中國沿海的居民依然在不斷地推動貿易發展。他們並不關心政府究竟說了什麼,因為他們有聚財的沖動。有的東西也只有通過貿易才能獲得,例如佛教寺廟中的必需品舍利子和香。有了消費者和消費需求,自然就會有人參與商業活動,這些商業活動被政府稱為“走私”,但對參與者來說只是貿易而已。政府對沿海地區也沒有直接有效的控制,因為他們不感興趣。中國在海洋進行的商業活動很容易被人們誤解和低估,即使在明清海禁的年代,中國東南沿海“沒有得到政權保護的商人”也在新加坡、印度尼西亞和菲律賓建立了自己的商業領地。在馬尼拉、巴達維亞和馬六甲,中國商人和工匠的數量遠遠超過了歐洲定居者。更不要說海上交流在中國文化的形成過程中所起到的重要塑造作用了。
到了近代,特別是19世紀的工業時代,但歐洲人開始發展處一套精密的戰船糢型時,才對中國造成了麻煩。海岸線被打開,中國在世界上的權力和影嚮力大幅下降,但這僅僅是到了世界历史的這個階段才發生的事情。說中國在近代遇到的問題是因為它不重視海洋也有些誇大。人們忘記了,即使在沿海受到了限制,中國依然成長為了一個非常巨大的帝國,清帝國向西擴張獲得了不計其數的領土。我們說青島、上海、香港、澳門都是歐洲人建立的城市,但中國人也同樣建立並發展了烏魯木齊,而且是頂著俄國人的擴張取得的成就。對於中國人來說,這一時期他們的興趣在陸地而不在海洋。總之,如果你僅僅從海洋的尺度看世界,你將會錯過一部分历史;但如果你忽略了海洋的尺度,你將會錯過甚至更大一部分历史。
東方历史評論:在公眾的历史觀念里,常常將古希臘等西方文明視作是海洋文明,而中國和印度等東方文明被視作是大陸文明或農耕文明。請問您是如何看待這種劃分的?
林肯·佩恩:我再次強調這是一種人為建構的劃分方式。人們得出這樣的結論是因為近代以來歐洲人在海上格外成功的時候,恰恰是亞洲人��海上不太成功的時期。這樣的結果最主要的原因是歐洲的政府對海上貿易更感興趣,而印度洋和東亞的力量則將主要精力放在了陸地上。在19和20世紀,種族優越論最清晰的物質表現就是海權,歐洲人有能力將自己的海上霸權延伸到海外,創造並維持在另一個半球的殖民帝國。這就帶來了一種非历史性的概括:希臘人和英國人是海洋民族,羅馬人和中國人是陸地民族。這是歐洲中心論世界觀在海洋史領域的表現,它掩蓋了要複雜的多的實際情況。以中國為例,蒙古貴族統治下的元朝在航海方面沒有任何問題。蒙古人很明顯不是一個海洋族群,沒有任何航海傳統,他們所使用的航海技術明顯要歸功於中國人。中國人絕對是具有海洋文化的,盡管這種文化可能只是地方性的,沒有轉變成一種全民性的文化。但世界上的很多地區也沒有一種全民性的航海文化,卻依然進行了許多成功的航海活動。
另一方面,人們強調中國從明朝開始實行的海禁政策,以此來證明中國的陸地屬性。中國人封閉了自己的海岸,將沿海居民內遷,認為這樣可以保護他們免受海盜的襲擊,說我們不需要貿易,也不想招惹外來侵略者。事實上這樣的政策並不是中國獨有的。“徵服者威廉”在1066年入侵英格蘭後,這位來自海洋的徵服者很快就被其他新的海洋徵服者的陰影籠罩。他擔心自己受到其他海上入侵者的攻擊,因此關閉了邊界,遷走了所有海岸上的居民,因為他們不想讓自己的民眾被擄走,不想耗費資源去保護他們。我們還知道,南美洲的西班牙人也曾經封閉他們的海岸線,從而保護自己免受那些來自加勒比海島嶼上的荷蘭人的侵襲。在1807年,參與拿破侖戰爭的英法雙方經常肆意扣留、徵用途經本國港口的美國船只。美國政府對此非常惱怒,卻又無力保護自己的商人。於是國會在托馬斯·傑斐遜總統的建議下通過了禁運法案,規定所有美國船只都不得駛往外國港口,從而保護商人不受別國侵犯。然而商人們對此並不在意,他們寧肯冒著被抓捕的危險也不願被完全禁止貿易。這一禁運政策的經濟後果是災難性的,港口貿易量大幅下降,經濟的蕭條持續了數年。在古典時代,希臘人通常被視為是一個海洋力量,而羅馬人被視為是陸地力量。但如果你閱讀亞里士多德和柏拉圖等希臘哲學家的著作,會發現他們非常厭惡海上貿易。柏拉圖認為,為了消除海上貿易中必然會出現的腐敗現象,城市的位置應該選在距離海洋至少15公里的地方。還認為海上貿易會影嚮農業發展,帶來異端思想、有害的宗教和道德觀念,總之是非常糟糕的。
總之,你完全可以指出一些中國人說過或做過的特定事情,然後說這是陸地文明或海洋文明的典型行為。但如果你觀察那些人們假定的“海洋文明”,會發現其實他們也在做同樣的事情。認為存在固有的大陸民族或海洋民族的觀念是荒謬的,它掩蓋了很多原本複雜的多的情況。
東方历史評論:既然如此,是什麼影嚮了近代以來東西方在海洋活動上的不同走勢?
林肯·佩恩:這是個非常複雜的問題,有太多因素都發揮了作用。有的因素來自中國自身,我剛剛提到了清代中國的西進,這在那個時代同樣是極為重要的。中國政府將自己的大部分能量都用到了這里,因此並不關心海上發生了什麼。從歐洲的角度看,歐洲的殖民主義從產生到高潮經历了幾個不同階段,其中西方真正全面占優的階段只發生在19世紀,這也是最野蠻、給今天留下的直接性負面後果最多的時代。這是快速工業化、對市場和原材料的追逐造成的。
在這一階段的殖民活動中,歐洲內部的競爭同樣造成了很多擴張。當時德國是一個新的參與者,在這之前它不但沒有參與殖民,甚至都還不是一個國家。從19世紀70年代開始,德國人宣布他們也要參與殖民,也要爭奪地盤。利奧波德二世的比利時也參與進來,再加上葡萄牙人、荷蘭人這些舊的力量,空���的刺激和競爭由此產生。世界上其他地區的消極因素固然很重要,但我認為你需要觀察這些歐洲的競爭者本身,理解他們為何要積極參與殖民並嘗試去控制更多。
東方历史評論:您在書中提到,近代歐洲海上擴張的一個重要特徵是商業與海軍政策緊密結合的“海商複合體”(naval-commercial complex)。您認為這種“海商複合體”對於近代歐洲海上力量的崛起有多重要?
林肯·佩恩:近代歐洲帶給了世界許多全新的文化和法律,其中有一項影嚮尤為深遠的新事物,就是統治者與商人之間不斷發展的共生關系。那些不斷地將大眾權力收到自己手中的民族國家政府利用其獲取的權力來推動海上擴張,建立更強大的海軍,同時利用這些海軍來保護或者擴展商業活動,這種糢式即是所謂“海商複合體”。
這種海商複合體的一個典型表現就是東印度公司。曾經有兩個主要的東印度公司——荷蘭東印度公司和比它稍早成立的英國東印度公司,但荷蘭東印度公司是真正先來到東方的那個。荷蘭東印度公司所扮演的角色是荷蘭政府海外政策的集中執行者,享有貿易、締結條約、宣戰等權力,基本上是作為政府的手臂,但它不參與到政府直接發動的遠徵當中。這些商人將自己武裝起來,組建海軍來保護貿易的安全,因為那時的國家政府還不像今天這般強有力。
後來隨著國家實現了一元權力,發展出其他更複雜有效的獲取財富方法,例如英格蘭銀行的建立。這些政府逐步將更多權力掌握到自己手中,收回了一些貿易公司的額外權力,例如宣戰等等,留給他們的本質工作只是從事貿易。於是你發現在19世紀,所有的東印度公司都破產了,貿易不再被壟斷。一些私人貿易者依然以公司的形式從事貿易,但他們不再像原來那樣具有軍事或外交職能。在歐洲擴張的初始階段,政府與私人企業幾乎是不可分辨的;後來政府就成了掌握和使用武力的唯一機構,而商人在做著完全不同的事情;到了21世紀,各國的海軍政策與海上貿易之間曾經盛行的緊密關系幾乎已經不複存在了。你可以對殖民历史的不同階段進行比較,它們非常不同,需要根據各自情況分別考察。
此外,殖民主義不僅需要從歐洲人自身的因素看待,也要從殖民地人民的實際情況來看。無論是印度尼西亞、西非、印度還是中國——盡管中國並不是真正意義上的殖民地,去看看殖民者和被殖民者之間事實上是一種什麼樣的關系。殖民力量要想存在,只有在被殖民的人們願意同他們合作的情況下才行。被殖民者願意同他們合作,是因為他們並不一定將這些殖民者視為是惡人,有時他們能從這種合作中獲得很大的好處。今天也是這樣,你能看到在很多事情上人們都有共同的利益關系,這些利益關系可能是跨民族的。
同樣,你也不能籠統的說,是英格蘭人在1500年到1950年間做了這些事情,因為英國並不自始至終代表英格蘭。英格蘭人會告訴你,他們是一個偉大的聯合王國,即使在政治上也是一個並不同質的統一體。如今越來越多人開始強調蘇格蘭人在英國海外擴張中的作用,這些不同的殖民參與者是如何行動的,這點非常重要。因此,我們不能僅僅以一套空洞的糢式來討論這些事情,我們需要從事實出發將其區別對待。
東方历史評論:剛剛談到了殖民的历史,西班牙和葡萄牙曾經是歐洲海上擴張的先鋒,後來他們的領先地位卻被英國人取代了,您認為是什麼造成了西班牙和葡萄牙海上霸權地位的衰落?
林肯·佩恩:這也是個非常複雜的問題。如果你閱讀那個時代的英文文獻,看看英國人是怎麼描述西班牙人的。你會看到其中充斥著“黑色神話“(Black Legend)”:強調西班牙人的腐敗、懶惰、糟糕的水手、低效的政府……英國人確實很不喜歡西班牙人,他們的記述中充滿了諸如此類的描寫,將他們描述的一無是處。美國人對西班牙人和葡萄牙人的評價也受到英國人影嚮。然而今年來的很多研究開始重新評估,西班牙到底發生了什麼?事實上,西班牙人在美洲的帝國比英國人多延續了一百年,英國人早在西班牙失去他們的殖民地之前就失去了美國,但西班牙人來到美洲要比英國人來這兒早100年。因此你很難簡單地說誰的殖民更加成功。我們今天是在西班牙帝國已經消亡或者衰落的時代來看历史,如果時間倒退回1550年,回到西班牙海上活動的全盛時期,你談論的會是一些完全不同的東西。
還有葡萄牙人。葡萄牙人從來都不在這個討論的範疇中,無論是人口還是海外殖民地的數量,葡萄牙人的帝國並不大,或者說他們從沒有建立過一個真正的殖民帝國。只有西班牙曾經急劇擴張過。葡萄牙人所致力於的,並不是建立一個領土廣袤的帝國,只是獲得一些小塊據點來從事貿易,例如霍爾木茲、馬六甲和澳門。他們盤踞澳門直到1999年,整整四百多年,對於這樣一個僅擁有少量人口的國家來說不是一件易事。他們每年只需派幾千人前往世界各地,取得的結果卻非常可觀,如今像巴西這樣的大國大部分人都是葡萄牙裔。 
東方历史評論:法國學者弗朗索瓦·吉普魯曾將13-21世紀的東亞和東南亞海域稱作是“亞洲的地中海”。認為這一時期的東亞存在一個與歐洲的地中海類似的海上活動圈。請問您是如何看待“亞洲的地中海”以及這種海洋史研究中的地中海範式的?
林肯·佩恩:我並不是地中海範式的粉絲。亞洲的海域與地中海沒有多少相似之處,有大量地理和文化上的理由可以說明這點。沒有人會把波羅的海叫做“北歐的地中海”,因此我認為“亞洲的地中海”是一種西方主義的手段,是一種方便西方人理解它而創造出來的概念。比起歐洲的地中海,東亞和東南亞海域在地理和文化上更加多元,在政治上也被過度簡化了——歐洲的地中海之所以作為“地中海”被單獨區別開來,是因為它曾經被一個單一帝國所統治,成為羅馬的地中海。但所謂亞洲的地中海卻從未以任何一種方式被一個單一力量統治過,它總是被成千上萬的較小勢力所競爭。即使在民族國家時代,你也能看到在朝鮮、日本、中國和東南亞的海域之間存在著巨大的差異。因此我認為作為一個历史空間,將它稱之為亞洲的地中海對於我們認識和研究它並沒有多少幫助。
當然,有一點必須值得註意,就是當1500年前後歐洲殖民者到達亞洲海岸的時候,這里確實已經存在一個非常古老且高度發達的貿易網絡。這點與美洲大陸完全不同。在西班牙人到來的年代,美洲在海洋貿易方面如同一張白紙,這里沒有預先存在的貿易體系,沒有港口城市和造船技藝,西班牙人可以自由地建立專屬的海運網絡,而且幾乎將其他人統統排除在外。亞洲的季風海洋則不同,歐洲人首先要適應和融入這里舊有的商業體系,與亞洲人合作,還要面臨東方帝國的競爭。許多葡萄牙人的船都由亞洲人掌舵,尋找亞洲商人作為代理商。相比美洲大陸,亞歐大陸東西兩端的居民有更多的相似性。他們都有較完備的國家機器、較高的識字水平和技術複雜度。美洲的原住民雖也有自己的技術、城市、王國和政府,但卻是與亞歐大陸完全不同的一套系統。亞歐大陸東西兩端之間的相似性比它們和美洲大陸之間的更多,但這種相似性也僅止於此。
東方历史評論:您在書中用相當一部分篇幅來描寫历史上的海上絲綢之路。如今中國也提出了21世紀海上絲綢之路的構想,您如何看待這一構想的历史基礎?
林肯·佩恩:我不認為海上絲綢之路是否有历史基礎這件事情非常重要。我認為這是一個重要的標志,表明中國將積極參與到海洋活動中。當然這不是一個新的構想,從上世紀90年代起就有人提出過,但這不重要。重要的是中國的海上貿易網絡正在飛速發展,對海洋的重視日益提高。如果中國想在亞洲沿海獲得港口和貿易基地,例如在巴基斯坦,這里的人只會無比地歡迎他們。當然,英國在19世紀用更野蠻暴力的方式做過這些事情,美國在20世紀也做過同樣的事情。如今這樣的貿易網絡,如果中國不控制它就沒有別人能控制。從一個历史學家的立場看,這一戰略構想能讓中國人重新談論起海上絲綢之路,提醒中國公眾海上活動的重要性,以及他們與其他國家的海上交流已經有上千年的基礎。這能讓人們學到更多历史知識,我認為很好。
東方历史評論:您的書中較多涉及船舶制造、海上貿易和海軍海戰,對海洋觀念史涉及較少。如今中國南海地區形勢緊張,公眾對於海權問題的興趣越來越大。現代海洋法是怎麼來的,您能否給我們做更多介紹?
林肯·佩恩:是的,將海洋視為是等同於陸地領土的政治空間並加以劃分,強調不僅要對遠隔重洋的大陸進行政治控制,還要對海洋本身進行控制,這是一種歐洲擴張時代才有的新觀念。在西方的法學傳統中,羅馬法是一個重要的淵源。羅馬法對私人權利、公共權利和其他領域的權利進行了區分。海洋被認為是全人類的共有財產,任何人都可以在海上航行。盡管羅馬人也稱地中海為“我們的海”,但這不是對所有權的描述。
在中世紀時期的地中海,一些國家變得越來越強有力,特別是熱那亞和威尼斯,他們開始對海域進行劃界,將其據為己有,同時試圖確保所有的貨物都通過其港口,以便在港口徵收關稅和其他費用。這是中世紀的新發展。到了15世紀,西班牙和葡萄牙開始依靠教會的力量來劃定各自的海域和海權,於是有了各種各樣的分界線,例如教皇子午線。到了17世紀,荷蘭緊隨葡萄牙加入了對印度洋的競爭。作為後來者,荷蘭人對西葡兩國劃定的界線非常不滿,聲稱任何人都有權在任意海域進行航行或貿易。當時雨果·格勞秀斯(Hugo Grotius)撰寫了《海洋自由論》,詳細闡述了這一立場。英國人起初也贊成這一觀念,用來論證德雷克入侵西印度群島的合法性。但後來荷蘭人經常闖入北海的英國傳統海域捕魚,於是英國出現了另一位律師約翰·賽爾登(John Selden),他撰寫了與格勞秀斯針鋒相對的《海洋主權論》,宣布支持領海觀念,也贊成其他國家將各自的部分海域封閉起來。荷蘭人表示反對,說我們的貿易範圍是不受限的,我們想要自由的貿易和捕魚。然而當荷蘭人控制印度尼西亞後,所做的第一件事情就是告訴英國人說,你們不能在這兒貿易。慢慢的他們開始限制印度尼西亞的原住民,禁止他們在各個島嶼間活動,只有荷蘭人被允許從事壟斷貿易。格勞秀斯和賽爾登的著作可以被視為是現代海洋法的起源。
雨果·格勞秀斯
下一個真正的大變局發生在兩次世界大戰後,杜魯門總統宣布了美國在離自己海岸線200英里內海域的專屬經濟權,在這片海域內我們能探索石油、捕魚等等。其他國家認為這是一個合理的方案,於是宣稱了各自的專屬經濟區。如今中國南海並不太平,北冰洋也一樣,而且參與角逐的大國更多,不過影嚮這些海域爭端的海洋法只是過去六十年才形成的,即使追溯到格勞秀斯時代也只有400年而已。法律是永遠在變的,但它只會變得對那些能夠從中得利的人更加有利,這也是所有法律改變的方式。
東方历史評論:如今全球史寫作在历史學界非常流行,您是如何看待全球史���海洋史之間的關系的?
林肯·佩恩:海洋史的寫作方式很多,不一定非得是全球史,但很容易將海洋史以全球史的範式來處理。因為我們用來思考陸地历史的邊界概念,在海洋史研究中往往是糢糊的。在民族主義範式的陸地历史研究中,邊界的確立是非常重要的。但如果你要研究加勒比海地區的历史,你會發現英國、法國、荷蘭和西班牙人的領地邊界是相互交錯的。從區域角度講,如果荷蘭人要研究荷屬加勒比的历史,他們肯定要研究加勒比海上的荷屬島嶼。但這些島嶼有時候由荷蘭人控制,有時又屬於英國人或西班牙人,所以如果你只講荷蘭人的历史就會變得很迷惑。但現在,從區域視角出發的海洋史學家開始把大海和大洋盆地視作一個完整的研究單位。人們發現,加勒比海是一片屬於它自己的空間,這里島嶼之間的關系盡管會被各自歐洲母國間的決議所影嚮,但也有自己的發展邏輯和存在基礎。你不能只研究在荷蘭發生了什麼,還要研究在倫敦、巴黎、邁阿密、牙買加、巴巴多斯發生了什麼。這時我們會發現,這塊地區事實上與歐洲和加勒比海都有聯系,這里各種觀念的流動方式與你僅僅從宗主國或民族國家的視角看到的東西是截然不同的。
總之,海洋史研究要在沒有參照系的、易變而虛幻的政治邊界下進行,這使我們必須考慮跨文化和跨國度的聯系,這是一種明智的做法。到目前為止,如何對世界海域進行劃分,如何將其變成界限清晰的海灣、海峽和大洋並加以命名,仍然是一件爭論不休的事情。以陸地和政治邊界對世界大洋進行隨意劃分,本身就是一種冒險。
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xf-2 · 6 years ago
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毛沢東はソ連と仲違いした時、長年にわたって途方もない予算と将兵の養成が必要な通常兵器より、短期間に決定的な抑止力を高める核・ミサイルが効果的であると認識した。
 そこで人民の半分が餓死してでも「両弾一星」(原・水爆と人工衛星)を完遂するという決断をした。
 その根底には、中国という国家は人民(約8億人)の半分、4億人を犠牲にしても国家は生き残れるという意識であった。
 また、「政権は銃口より生まれる」と喝破したように、国共合作で国民党軍を日本軍と戦わせ、共産党軍��後方にいて増勢につなげ、続く内戦で勝利して政権奪取につなげる考えがあった。
 実際、430万人いた国民党軍は150万人となり、120万人しかいなかった共産党軍は400万人となり、累次の内戦で約800万人が戦死したとも言われる。
中華人民共和国の建国後の犠牲者
 毛沢東は建国10年後の1958年から61年までの3年間、人民公社を地方ごとに造って自給自足で生き延びることができるように大躍進運動を行う。
 しかし、公社間の競争精神は実体の伴わない過大報告となり、結果的には約2300万人が餓死したと言われる。
 毛は失敗を認めて国家主席を辞任。1962年1月の中央工作会議で劉少奇国家主席が「三分の天災、七分の人災」と述べて大躍進を批判する。
 しかし、建国以来続けてきた反右派闘争に勝利して1964年に復権する。この15年間に約950万人を虐殺したとされる。
 1966年からは10年に及ぶ文化大革命が続く。この間の政治的な痛めつけでの死亡(約2000万人)や餓死者はほぼ1億人にも上ったとみられている。
 3度の批判を生き残った鄧小平は毛の死去(1976年)後の78年末に「改革開放」の大号令をかけ、今日の大発展につながっていく。
 しかし、どこまでも社会主義市場経済で、共産主義体制の維持が前提であった。
 胡耀邦が総書記に就任(1980年2月)してチベットの惨憺たる有様に衝撃を受け、失政の責任は共産党にあるとして、政治犯の釈放や信教の自由と僧院の再建などの自由化政策を進めるが、共産党幹部の批判を受け87年1月解任される。
 続く趙紫陽も学生たちの民主化要求に柔軟な対応を示し、天安門広場に出かけ学生を説得するが失敗に終わる。
鄧小平は共産党政権維持への懸念を深め、中国人民解放軍による武力弾圧を決断し、民主的な抵抗を戦車で粉砕する(「天安門事件」、「6・4事件」とも呼称)。
 趙は3週間後(6月23日)に解任され、上海市委員会書記であった江沢民が抜擢される。
 天安門事件の死者は発表されていないが、米国の秘密文書によると、死者は1万454人、死傷者は4万人以上となっている(方政・釈量子対談「生き証人が語る 血塗られた天安門の虐殺」、『WiLL』2016.7号所収)。
 改革開放後の経済的発展は貧富の差を拡大させ、犯罪や暴動も頻発した。400万人の死刑囚収容施設は不足する状況で、死刑免除と引き換えに外国への労働者として派遣しているとも言われる。
すべてにおいてスケールが違う中国
 列挙すればきりがないが、広大な領土と巨大な人口、困難な統一、近代化の遅れ、そして何よりも言論の自由がない共産党独裁の強権政治で「物言えば唇寒し」だ。
 他方、愛国無罪が大きな「虚言」を蔓延らせる。
 日本では厚生労働省の為体で統計の信頼性が揺れているが、中国は国家ぐるみで、GDP(国内総生産)さえ疑問視されている。
 内乱や自然災害、イナゴの異常発生による蝗害などが絶え間なく起き、その都度100万単位の死者・餓死者を出してきたとされるが、何一つ正確な数字の公表はない。
 秦の始皇帝が即位したBC221年から共産党結成の直前1920年までの2140年間に160回の内乱があり、累計年数は896年で、13年おきに約6年間の戦闘が起きてきたとされる。
 また、この間に5150回の天災、うち1035回の旱魃、1037回の水害が発生。旱魃や水害は2年に1回、蝗害も含めた天災は5カ月に1回の頻度で発生してきたことになる。
 施政が行き届かない広大な領土ゆえに、何か起きれば大飢饉に直面した。1810年900万人、1811年2000万人、1849年1375万人、1876~78年1300万人の死者を出す大飢饉が発生している。
 20世紀に入ってからも、1928~30年の大飢饉では西安市のある陝西省で200万人が流民となり、1930~32年には1000万人が餓死している。
 なお、支那事変で日本軍が開封を占領した1938年、蒋介石軍が日本軍の追撃阻止のため、黄河の堤防を決壊させ、下流域(河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54000平方キロ、北海道の6割)の水没で100万人死亡、被害者は600万人に上ったとされる(『郭沫若自伝』は日本軍の無差別爆撃と対外宣伝した)。
 このため、3省の農地が農作物ごと破壊され、河南省では1942年に凶作、続く翌年は蝗の大群発生で、300万人が餓死したという。
 こうした餓死者が出ると、得体の知れない茸も食し、子供を交換して食すこともあったとされる(易子而食…子を替えて食らう)。
中国人による中国人の斬殺
 問題は人為的な残虐行為で、『揚州十日記』がある。
 明朝滅亡時、満清の軍隊が南下して勢力を南京に及ぼそうとした時、南京政府の要所、揚州城の攻防で王秀楚という人物が家族や兄弟と逃げ回る間に体験した記録である。
 わずか10日間の出来事であるが、中国社会で昔から蔓延るあらゆる慣習が見て取れる。
 指揮官の逃亡、兵士の略奪・強姦・放火・惨殺などの暴虐、金品の強要や強奪などが展開される。
 2人の女性が逃げ回り、足が泥の中にぬかって脛まで没している。「1人が女の子を抱いていたのを、兵卒は鞭で叩いてその子を泥の中に捨てさせ、そのまますぐ追い立てて行った」。
 数十人のものは牛か羊かのように駆り立てられて「少しでも進まぬと直ちに笞を加えられ、あるいはただちに殺された。女たちは長い綱で数珠を通したように頸をつながれ、一足ごとに躓き転んで、全身泥まみれになった」。
 「どこにもかしこにも幼児が馬の蹄にかけられ、人の足に踏まれて、臓腑は泥にまみれ、その泣き声は曠野に満ち満ちていた」
 「途中の溝や池には死骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた。池はそのために平らになっていた」
 逃げ回った挙げ句、通りに出た。
 「通りには人の首が重なりあって横たわっていたが、真っ暗で誰が誰やら見分けがつかなかった」
 「(中略)城壁の下には死骸が積み上げてあるため、歩くのに難渋した。何度つまづいては起き上がったか知れなかった。何かに驚かされるたびに、地面に倒れて死骸の真似をした」
 彼らは掠奪や強姦ばかりでなく、火災も起こす。四方に火事が起こり、「こっそり戸外に出て見ると、畑の中には死骸が積み重なっていて、中には息絶え絶えにまだ生きているのもあった」。
 男(兵士)は幼女と男児を連れた婦人を捕えた。
 「男の児が母を呼んで食べ物をねだった。その男は怒って一撃すると、脳が砕けて男の児は死んだ。男は婦人と幼女を引いて行った」
 隠れていた場所に「数人の兵卒がやって来て引き出されたことが二度ほどあったが、その都度少しばかりの金を握らせると行ってしまった」。
 こうして10日間で80万人が清軍の刀下で虐殺されるという血腥い「大屠殺」が展開され、繁華の揚州は凄惨な生き地獄と化したという。
揚州を落とした清軍は騎虎の勢で数日後に南京に入る。南京王朝の福王や陪臣はいち早く逃亡し、文武百官はみな薙髪して清軍に降伏する。
 余談であるが、清軍豫王とまみえた揚州督鎮は「史可法ここに在り!」と大呼するが、武運拙く、ついに捕えられる。
 豫王は「降れば則ち富貴ならん」と諭すが、史可法は「われは天朝の重臣なり。あにいやしくも生を偸(ぬす)みて万世の罪人となるべけんや。わが頭(こうべ)、断��べし、身屈すべからず」と断る。
 豫王は3日間説得し続けるが、最後は涙を揮って部下に斬らせたという。
中国の極刑さまざま
 手元に『図説 中国酷刑史』(尾鷲卓彦著、徳間書店)がある。
 酷刑とは残酷極まりない刑罰のことで、中国の酷刑を可能な範囲で紹介したものである。
 「彼らは手足を釘で打ちつけられ、鮮血をしたたらせて架刑(はりつけ)にされている劫賊(ごうとう)に、これっぽちの憐みすら寄せないどころか、その“五花斬人(きりきざみ)”のさまを観賞するという奇怪な光景まで演じた」
 「街頭や横丁において、首が切り落とされた様子を微に入り細をうがって、活き活きとしゃべりたてるかと思えば、われ先に鮮血にまみれた人頭や半裸の女性の屍体を覗き込む。なかには饅頭に血を吸いこませ、それを食べて肺結核を治そうとする者さえあった」などの記述もある。
 酷刑には官刑と私刑の別があり、官刑では「拷問・斬首・絞縊・首枷・足枷・站籠(立った姿勢で首枷)・抽腸・鞭打ち・凌遅(寸刻みで切り裂く)・銃殺・見せしめ」が列挙されている。
 私刑では「吊り下げ・熱湯あびせ・目えぐり・耳削ぎ・活き埋め・舌抜き・火あぶり・沈め殺し・釜ゆで・圧殺・宮刑・人喰い・足ぜめ・頭髪そり・入れ墨・首切断・バラバラ屍体」などが記されている。
 読んでいて、「心胆を寒からしめる」どころか、こんな国家・社会があるのかと恐ろしくなってくる。日本人には想像を絶する奇想天外な国家・社会のようだ。
 本多勝一著『中国の旅』にも、「飢えた軍用犬の餌」にした話(文庫本p20)や「電線にコウモリのようにぶらさげ火あぶり」にした話(同p231)、「腹をたち割り、心臓と肝臓を抜き取って食う」話(同)などがある。
 臓器を煮て食したのは日本兵ということになっているが、筆者には日本人の行動様式とは思えない。読者はどう思われるだろうか。
 月刊誌『SAPIO』(2015年7月号)は、「毛沢東は『資治通鑑』を17回も読み、ライバル抹殺の手本としていた」とのリードで、「『人ブタ』『食人』『生きたまま肉を削ぐ』 歴史書に描かれた中国4千年『残虐の伝統』」の表題を付けた一文を掲げた。
 その中で、「人ブタ(手足を切断し丸裸で厠に放る)」「凌遅」「大量虐殺(一族の公開処刑や赤ん坊を空中に投げ槍で刺す)」「人食い」「ムチ打ち・炮烙(銅製円柱に罪人を縛り付けて焼き殺す)」「站籠」などを挿絵入りで説明している。
中国人による日本人大虐殺
 拙論の本題は中国人が日本の軍民に暴行を加え、また惨殺・虐殺した事件の検討である。いくつもあるが、ここでは3つを取り上げたい。
(1)旅順猟奇虐殺事件
 日清戦争(1894.8~95.5)間の11月21日に起きた事件である。
 近代化に邁進中の日本は、戦争においては勝利することと国際法を順守する文明国家であることを強調する必要があり、戦場に国際法の専門家を同道し、第2軍司令官大山巌大将は「我軍は仁義を以て動き、文明に由て戦ふものなり」と訓示していた。
 勝利の報が続々と届いていた矢先の惨事に、影響を最小限にする方策で伊藤博文首相と陸奥宗光外相は振り回される。
 旅順市街に突入した日本軍兵士は、3日前に生け捕りされた3人の生首が、道路わきの柳の木につるされているのを見る。鼻はそがれ、耳もなくなっていた。さらに進むと、家屋の軒先に針金でつるされた2つの生首があった。
 米国人記者も「ワールド」紙で、「日本軍が旅順になだれ込んだ時、鼻と耳がなくなった仲間の首が、紐でつるされているのを見た。また、表通りには、血の滴る日本人の首で飾られた恐ろしい門があった。その後、大規模な殺戮が起った。激怒した兵士たちは、見るものすべてを殺した」と書いている。
 清国兵は残酷を極めた方法で傷をつけ、第2軍兵士の死体を放置した。
 死者、あるいは負傷者に対して、首を刎ね、腹部を切り裂き石を詰め、左腕を切り取り、さらに睾丸などまで切り取り、その死体を路傍に放置した。これは捕虜の扱いではなく、猟奇事件でしかない。
 この残酷さが日本軍に復讐心を燃え上がらせ、生首が兵士たちの激昂を誘ったとされる。
 攻撃の包囲網を狭められた清国兵は「袋の鼠」同然となり、軍服を脱ぎ捨て便衣兵となって民家に逃げ込んだ。
 復讐心は便衣兵の徹底捜査となる。また、市民の中には武器をもつ者もいた関係から、彼らも加害者とみなされた。
 歩兵第2連隊の加部東常七上等兵は「旅順市街に闖入するや、戸々軒々、家中を捜りて、(略)小暗き家の片隅に潜む一人の敵兵。オノレッ!とばかり・・・。直突一閃! 胸板深く突き通せば、彼、苦しさの余り、我剣刃を握れり。コワ・・・仕損じたり。と力を極めて引けば、四指を落としてがくりと倒るる所を亦一刺。魂、天涯に飛んで骸のみ」と手記に記している。
 この連隊では清国兵28人を斬殺した一等兵を筆頭に、21人、17人など、11人で166人の清国兵を屠ったという(以上、井上晴樹著『旅順虐殺事件』)。
 旅順郊外の萬忠墓には被難者計1万8百余名(かなりが便衣兵か)と明記されているそうである。数はともかく、事件は両国の将兵が確認し、内外の記者数名が報道し確認している。
 しかし、非は我に有りとのことか、中国は旅順の猟奇・虐殺をほとんど報道してこなかった。
(2)昭和2年の「南京事件」
 「長江(注:揚子江の上流域)流域上下二千浬(カイリ)に亘り、三千余名の在留邦人が暴徒の迫害から遁れて、財産を捨て地盤を棄てて内地への引揚げを断行したことは、我日本としては空前の史実であり世界的にも希有の事変である」
 「彼らの我邦人に対する嫌悪と軽侮の念は、十数年来の排日によりて遺憾なきまでに蓄養された。その今日あるはむしろ予想されていなければならなかったはずだ」と悔しさを隠さない。
 これは、合法的に南京・蘇州・漢口・重慶などに居留していた日本人が昭和2年の春、中国人によって襲われ、引揚げざるを得なかった日本人襲撃事件の実相を、直後に結成した「中支被難者連合会」が証言や公文書を用いて再現した『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』の「序」である。
 少し説明が必要であろう。事件発生時までの3年間、外務大臣は幣原喜重郎であった。
 上海などで中国の横暴がしばしばあり、英米などは軍艦を出動させて鎮圧してきた。しかし、幣原外相は話し合い解決を主張し、軟弱外交と批判されていた。
 こうしたことから、南京の日本領事は「北伐軍を刺激しない」「無抵抗主義で対応する方が効果的」として、荒木海軍大尉らが準備した領事館前の土嚢を撤去し、機関銃は倉庫に隠した。
 そこに事件が起き、兵士と暴徒の侵入を許し、婦人までが凌辱・強姦の「忍ブベカラザル検査」(「検査」は領事の表現)を受けたのだ。
 中国が事件を起こしても、武力対処は一切斥けた。こうした日本外交に対する思いが「今日あるはむしろ予想されて」の謂いであり、悔しさが滲んでいる。
 これこそが「南京事件(昭和2年)」と呼ばれるもので、今日、「南京大虐殺」(昭和12年)として非難されているものは、事件でなく追撃戦であった。
(3)通州虐殺事件
 北京の東方約20キロのところに通州がある。「冀東(きとう)防共自治政府」の管理下にある通州保安隊に守られて日本人居留民は生活していた。
 盧溝橋事件から3週間後の29日(1937年7月)から翌30日未明の間に、保安隊は国民党軍と示し合わせたかのように警備を解き、女子供を含む邦人257人(日本の警備隊32人を含む)が惨殺された。
 居留民たちの救援活動を取材するために、たまたま来ていた同盟通信社の安藤利男記者も襲撃を受けるが九死に一生のチャンスを得て脱出に成功し、後に『虐殺の通州脱出記』を書いている。
 午前2時半ごろ保安隊の動きが怪しいとの電話があり、その後は不通。4時頃からは銃声も聞こえる。7時ごろになると市街南方辺りで白煙や黒煙が上がり、銃砲声も激しくなる。
 8時になると、記者たちが泊まっていた近水楼の支那人ボーイが他所から口も利けない状態で駆け込んできて、「特務機関付近の通りの邦人商家、カフェー辺りで、日本人が多勢殺されてゐる。太変です・・・」の第一報をくれたという。
 また、奇跡的に生き残った人たちも、色々と証言しており、虐殺事件の状況はかなり正確に伝わっている。
 1か月後には『主婦の友』が人気作家吉屋信子をカメラマンともども派遣。その時も証拠は至る所に残っており、女性の目で子細に記録している。
 しかし、平成28(2016)年7月、現地を訪ね『慟哭の通州―昭和12年夏の虐殺事件』を上梓した加藤康男氏によると、通州市は北京市に吸収されて、「もはやこのあたり一帯に通州虐殺事件に関連した建物は何一つ残されていない。旧城内は、90年代ごろから徹底的に破壊し尽くされてきた」という。
 事件から5カ月経った12月下旬(日本軍が南京で入城式を行った1週間後)、冀東防共自治政府と日本側との間で弔意賠償金の支払いや慰霊碑建立の決着が図られた。
 都合の悪い慰霊碑はいつしか地下に埋め隠されたが、再開発で偶然に発見された。
 その状況を「北京日報」(2001.8.24付)は、「日本軍が中国を侵略した証拠、通州区で慰霊碑が見つかる」との見出しで報じたという。
 「1938年日本軍のもので、我が国の抗戦軍民が倒した日寇のいわゆる『慰霊碑』だった。・・・文字はいずれもひどくかすれているが、『大東亜共栄』など日本の侵略理論も記されている」
 「通州区の文物所所長によれば、・・・1937年7月29日早朝に通州の2万人余が蜂起、この偽政府(注:冀東防共自治政府)を占領した上、日本人五百人余りを撃ち殺した。翌日、日本軍は大規模な報復を行い、偽政府に二つの慰霊塔を立てることを要求、塔の前には慰霊碑も立てた」
 殺害者二百数十人を「五百人余」に倍増し〝抗日の成果″を誇っているし、また5か月後の話し合い決着を「翌日」として日本の傲慢な要求に見せかける中国一流の誤魔化しがある。
 加藤氏は、「南京や盧溝橋はもとより、満州各地にある旧大和ホテルに至るまでが『対日歴史戦』の遺跡として宣伝利用されていることを考えると、雲泥の差である。『通州虐殺事件』の痕跡は極めて都合が悪いので、完膚なきまでに消し去ったものとしか考えられなかった」と述べる。
おわりに
 通州虐殺事件について、「東京日日新聞」(昭和12年8月6日付、毎日新聞の前身)は、「敵は第29軍の首脳部の命を受け26日頃から通州襲撃の保安隊及び正規兵と連絡をとり、北清事変議定書によって正規兵は天津市内に入るを得ざるを以て便服に着替へて大胆にもトラックを以て続々天津付近に侵入。機関銃、迫撃砲、小銃、青竜刀などを蔬菜や貨物の下に隠して運び込み、時の到るのを待って居た」と報道している。
 天津では中国軍から攻撃を受けるや否や、日本軍が反撃に出て撃滅したため大事に至らなかったが、通州虐殺事件は天津の日本租界・軍関係機関、その他の邦人多数居留区域と共に、2年前から襲撃計画が練られていた同時多発テロであったのだ。
 同紙は「約1万5千人を虐殺し、掠奪を恣にしたうえ、日本租界を占領しここに青天白日旗を翻して天津から邦人を一掃する」ことになっていたかもしれないと書いている。
 加藤氏によると、中国共産党は、通州事件を「反正」(過ちを正すこと、即ち冀東防共自治政府の消滅)として評価し公認しているという。それなのに、「なぜ痕跡を抹殺しようとするのだろうか」と疑問が沸く。
 筆者は次のように思う。旅順猟奇虐殺事件や通州虐殺事件は、虐殺現場の目撃者があり、「事件の存在」が証明される。これらの事件を大きく取り上げると、「南京大虐殺」についても「事件存在」の「明確な証明」が求められる。
 しかし、習近平さえ英国女王の晩餐会で「存在の証明」で「友好のプレイアップ」を図ったが、逆に「非存在」の暴露になってしまい、“はい それまでよッ!”となりかねなかった。
 南京事件は大虐殺の「状況証拠」から離れていくばかりだ。いかがであろうか。
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clipfiling · 7 years ago
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■日本メディア検閲史 <新聞法、出版法について> | 前坂俊之オフィシャルウェブサイト http://www.maesaka-toshiyuki.com/massmedia/3838.html  
静岡県立大学国際関係学部教授 前坂 俊之
 
われわれは今、「言論の自由」を、ごく当たり前のことと思っている。 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(憲法21条1項)、「検閲は、これをしてはならない」(同2項)という日本国憲法の条文を、わざわざ引き合いに出すまでもなく、当然と受け止めている。
しかし、1945(昭和20)年8月の敗戦まではそうではなかった。それ以後の連合軍による占領期間中も、言論の自由は制限されていた。 明治以来、メディアに対する検閲制度は昭和の敗戦まで約80年間続いた。
現行憲法でわざわざ検閲禁止の規定が盛り込まれているのは、この検閲の歴史の反省が込められている点を忘れてはならない。
検閲は表現の自由への公権力の規制の形式的、方法的問題であり、たんに文章や表現をチェック、削除する狭い範囲で考察するのではなく、広く言論統制、情報操作の一側面としてとらえることが必要である。 この「メディアと検閲」の章では、そうした観点から、主に日本でのメディア検閲の歴史的な関係について触れたい。
 
■1 言論の自由と検閲制度・ミルトンらで言論の自由の確立へ
秦の始皇帝(紀元前259-210年)の「焚書坑儒」を引き合いに出すまでもなく、歴史のなかであらゆる政治権力は、自らと対立する都合の悪い言論、思想を抑圧、弾圧の対象としてきた。
ギリシャ、ローマ時代はいうにおよばず、中世キリスト教の異端審問など、言論の抑圧が続いた。一五世紀の活版印刷の発明がエポックとなって、大量印刷や伝達が可能となり、マスメディアが生まれ、これを抑圧する手段としての検閲も一層、組織化、制度化され、近代検閲が生まれた。 大量に、スピーディに、安く印刷できる革命的な活版印刷の発明は、異端の広がりに厳重に目を光らせていたローマ教皇庁に衝撃を与えた。
グーテンベルクが活版印刷を発明したドイツ・マインツで、大僧正ベルトルドが1486年に出版物を取り締まるため検問所を設けたが、これがいわゆる「検閲制度」のはじまりである。 活版印刷の発明は中世ヨーロッパの宗教社会の内部から宗教対立を激化させる要因となり、宗教改革を生み、ついには市民社会の誕生の契機となったのである。 1501年には、ローマ教皇アレキサンダー六世が出版の許可主義をとった。さらに1542年には、ローマ教皇パウロ三世がカトリックに反対する出版物に対して、異端審問所の許可をとっていないものについては発行、流布を禁止した。 言論、出版の自由の歴史はこうした検閲制度との不断の戦いの歴史であり、その上に勝ちとられたものであった。
イギリスでは1586年に星室庁(当時の最高司法機関)が印刷条例をつくり、検閲を実施したが、これは後に長期議会に引き継がれて、1643年に検閲条例が定められた。 封建主義、絶対主義社会の象徴としての検閲に対して、言論、出版の自由の要求が生まれてくるが、その先駆者がミルトン(1608-74年)である。
ミルトンは『アレオパジテイカ』(許可なくして印刷する自由のためにイギリス議会に訴えるパンフレット)で「……真理と虚偽とを組打ちさせよ。自由な公開の勝負で真理が負けたためしを誰が知るか」、「他のすべての自由以上に、知り、発表し、良心に従って自由に論議する自由を我にあたえよ」と書き、言論の自由を強く訴えた。(内川芳美「新聞の自由の歴史」 稲葉三千男・新井直之 編著『新版新聞学』日本評論社、1988年、40頁)。 ミルトンは検閲条例をきびしく批判し、思想は抑圧されず自由に公開、競争される「思想の自由市場理論」と、そうすれば人間の正邪を判断できる理性によって、真理が必ず勝ち残るという「真理の自働調整作用」を唱えた。 こうしたミルトンらによって、イギリスで特許検閲法が廃止されたのは名誉革命後の1695年のことであり、新聞、出版の自由が制度的に確立されていった。
 
■2 徳川時代の検閲制度
一方、日本ではどうであったのだろうか。
徳川時代中期から出版業が盛んになってくるが、幕府は1630(寛永7)年にキリシタン関係書の売買、閲読の禁止に乗り出した。 1649(慶安2)年には、大坂の書店・西村伝兵衛が出版した『古状揃』のなかに「家康表裏之侍太閤忘厚恩」という徳川家康を誹語する文句があったことから、幕府はこの書物を没収、絶版の処分にし、伝兵衛は斬首の刑となった。 新開の前身である「読売瓦版」に対しては貞享、元禄年間の禁令をみると、検閲がおこなわれていた事実がみられる。 1722(享保7)年には、出版に関するはじめての成文法といってよい『町触れ』(現在の法律)が出された。 内容は猥褒や異説を唱えるもの、徳川家の事蹟に関する記事について禁止したほか、板本の奥づけに作者と板元名を記すことを定めたものであった。
このように、すでに江戸時代からはじまった出版物取り締まりの基本的な考え方は、明治になっても踏襲された。
 
■3 明治の新聞の誕生と言論恐怖時代の幕開け
ところで、日本での新聞の始まりは幕末の翻訳新聞、外字新聞である。
幕府の洋書調所にいた洋学者たちの翻訳によって新聞づくりがはじまった。当時は新聞、雑誌の区別はなく、この洋書調所から雑誌も翻訳雑誌として生まれた。 当初、このように幕臣による新聞が多かったため、鳥羽伏見の戦い(1868年)、江戸への薩長軍の進軍に対しては佐幕派の新聞が多数発行され、官軍を攻撃する記事や虚偽の報道、風説を流し、幕府の味方をした。 柳河春三「中外新聞」、福地源一郎「江湖新聞」、岸田吟香「もしほ草」など多くの“佐幕派新聞”に対して、明治政府は、はじめて言論弾圧に乗り出した。
1869(明治2)年2月、政府はわが国で最初の新聞紙法である「新聞紙印行条例」を発布した。 発行を許可制にし、編集者の責任を定め、政治評論を禁止するなどの内容であった。
1874(明治7)年1月、江藤新平、板垣退助、後藤象二郎らが『民撰議院設立建白書』を提出したことから、自由民権運動がまたたく間に全国に広がった。 新聞はこれを支持する民権派が多数を占め、そのなかで急進派と漸進派に分かれ、これに反対の立場の官権派が入り乱れて激しい論戦を展開し、“言論の黄金時代”を迎えた。
言論界では急進的民権派が圧倒的多数を占め、反政府運動と化したため、政府は1875(明治8)年6月に「新聞紙印行条例」を大改定した「新聞紙条例」と、新たに「讒謗律」をセットで公布した。 讒謗律は 名誉毀損罪と政治的誹謗罪が一緒になったような法律で、天皇、皇族、官吏に対する誹謗を防ぐというねらいだが、実際は反体制的言論を規制し、弾圧するのが目的であった。 言論界にとってこの両法は正に青天の霹靂であり、一大ショックを与えた。 まず「曙新聞」の末広鉄腸が、これに触れて罰金20円、禁獄3ヵ月に処せられたのをはじめ、各社の記者が続々と処罰され、獄中は新聞記者や編集者であふれかえる事態となった。 宮武外骨の調査によると、5年間でこの両法によって記者、編集者約200人が禁獄されるという“一大言論恐怖時代”を現出した。 しかし、これでも自由民権連動の大きなうねりを止めることはできず、逆に高まる一方であった。
このため、翌76(明治9)年に政府は「国安ヲ妨害スト認メラルル者ハ、内務省二於テ、ソノ発行ヲ禁止又ハ停止スヘシ」という太政官布告を出した。 この規定が「安寧秩序ヲ妨害」したものに対して「発売頒布禁止権」を行使するという出版警察の中核的な行政処分権となり、敗戦までの約七〇年間にわたり言論の自由の生殺与奪となったのである。[奥平康弘、1983、137-138頁]。
さらに、明治政府は帝国憲法の発布(1889年2月)に照準を合わせ、1887(明治20)年に「新聞紙条例」、「出版条例」を改定し、取締法規を整備、強化した。 「新聞紙条例」では内務大臣の発行禁停止権、保証金制度、陸海軍両大臣の記事差止権、その他掲載禁止事項などが定められ、一方、「出版条例」では発行10日前に製本3部を内務省に届け出ることが義務づけられた。
1889(明治22)年2月発布の帝国憲法では、「言論の自由」については「法律ノ範囲内ニ於テ言論、著作、印行、集会、及結社ノ自由ヲ有ス」(第29条)とされ、「新聞紙条例」、「出版条例」、「保安条例」、「集会条例」の4つの言論統制法の範囲内での制限つきの言論の自由しか認められなかった���
労働運動、社会主義運動が高まった1900(明治33)年2月、片山潜、安部磯雄らによって「社会主義研究会」が発足した。政府は集会、結社の取締法の集大成である「治安警察法」を制定して、きびしい取り締まりに当たり、翌年5月に片山、安部、幸徳秋水ら6人で結成された「社会民主党」は、即日解散となった。 1903(明治33)年2月、日本で初の社会主義新聞「平民新聞」(週刊)が幸徳秋水、堺利彦、西川光二郎らによって創刊された。日露戦争に対して非戦論を主張した同紙は官憲によってきびしい弾圧を受けた。同20号の幸徳の「鳴呼増税」が新聞紙条例に違反、発禁が相次ぎ、創刊一周年記念号に『共産党宣言』が翻訳掲載され、再び発禁となり、3人は起訴され、有罪となり1905(明治38)年��月に64号で廃刊に追い込まれた。
 
■4 大正の大阪朝日新聞「白虹事件」
大正デモクラシーの高揚は憲政擁護、閥族打破、言論擁護の運動でもあった。その中心的な役割を果たしたのは民衆とともに、新聞であった。大正はじめに政党と結び、憲政擁護で第3次桂内閣を倒した新聞は、今度は民衆と歩調を合わせ、寺内内閣との対決姿勢を強めた。 寺内内閣の非立憲的な態度は、新聞への姿勢でもかわらず弾圧的態度に終始した。
シベリア出兵問題(1918年)、米騒動(同年)に対して発禁を連発、とくに、米騒動に対しては一切の報道を禁止したため、『春秋会』(新聞社の社交クラブ)は「言論の自由への圧迫」として再々にわたり、取り消しを求めたが、寺内内閣は応じなかったため、内閣打倒へ立ち上がった。
1918(大正7)8月25日、寺内内閣糾弾の関西新聞社大会が大阪・中之島で開かれた。 村山龍平・朝日新聞社長を座長に関西の新聞、通信社など計86社約170人が集まって開催され、「大阪朝日新聞」は同日夕刊(26日付)社会面のトップで次のように報じた。
「我大日本帝国は今や恐しい最後の審判の日に近づいているのではなかろうか。 『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として…‥」
この記事の「白虹日を貫けり」が問題化し、日本の言論史上に残る一大筆禍事件「白虹事件」へと発展していった。 「白虹日を貫けり」とは中国の故事で、白い虹が太陽を貫いて見えるときは、国に内乱が起きるしるしであるという意味だが、当局は「日」が天皇をさし、不敬に当たるといいがかりをつけて、記者と編集発行人を新聞紙法違反(安寧秩序素乱)で起訴、2人は禁固2ヵ月の有罪となった。 かねてより、当局は政府へ批判的な「大朝」の弾圧の機会をねらっていたのである。 この事件で鳥居素川、長谷川如是閑、大山郁夫らの編集幹部が総退陣し、村山龍平社長も退陣した。『大阪朝日新聞』は廃刊の危機を迎えたが,当時の原首相は上野理一社長を呼び、編集方針の変更などの釈明を聞いた上で、発行禁止を見合わせた。 この事件をきっかけに、新聞自体の批判精神は低下して、新聞の企業化が一層進んでいった。
 
■5 出版警察の核心・検閲は発売頒布禁止で
戦前の日本の検閲制度、出版警察の核心は 原稿検閲制による発行禁止ではなく、世界にも類例のない 内務大臣による発売頒布禁止であった。
政府は西欧ブルジョア主義の「出版の自由」を認めず、大量印刷物の流通に対して事前検閲をすることは実際上不可能であるため、ときに応じて権力を行使できる発売頒布禁止を導入したのである。[奥平康弘、1983.132頁]。 この発売頒布禁止権は新聞紙法第23条、出版法第19条でそれぞれ定められていたが、司法審査から独立した絶対的なものであった。 さらに、内務大臣が行使するこの権限は中央集権警察組織下で実質は地方の末端警察が握り、より一層、恣意的に運用、処分がおこなわれたのである[奥平、1983、160-161頁]
 
■6 検閲の基準は当局にとって伸縮自在の弾力運用
では、具体的な検閲の基準はどのようなものであったのだろうか。 当局が新聞紙法第23条、出版法第19条での「安寧秩序素乱」、「風俗壊乱」と規定する基準一検閲担当官が参考にしたものは次のようなものであった。
●【安寧秩序素乱出版物の検閲基準】(一般基準) ▽皇室の尊厳を冒涜する事項 ▽君主制を否認する事項 ▽共産主義,無政府主義等の理論、戦略、戦術を宣伝し、その連動実行を煽動し、この種の革命団体を支持する事項 ▽植民地の独立運動を煽動する事項 ▽非合法的に議主義会制度を否認する事項 ──など計13項目であった。
●【風俗壊乱の検閲基準】 ▽春画淫本 ▽性、性欲又は性愛等に関する記述で淫猥、羞恥の情を起こし、社会の風教を害する事項 ▽陰部を露出せる写真、絵画、絵葉書の類 ▽陰部を露出せざるも醜悪、挑発的に表現された裸体写真、絵画、絵葉書の類 ▽男女抱擁、接吻(児童を除く)の写真、絵画、絵葉書の類 ──などであった。(以上、内務省警保局『昭和五年中における出版警察概観』)
この基準に基づく適用については取締当局によって伸縮自在の「弾力性」をもっていた。 大正時代には-時縮小した禁止範囲は、1932(昭和7)年以降、再び急速に拡大し、社会主義、労働運動に関する著作は以前にましてきびしい取り締まりにあった。 安寧秩序素乱の取り締まりの場合は1920年代に一時禁止基準はゆるむが、30年代になると再びきびしくなった。(油井正臣 他『出版警察関係資料解説・総目次』不二出版、1938年、24頁)。
こうした発売頒布禁止制度とともに、内務省は超法規的な記事掲載差し止めをおこなった。 これは重大事件が起こったとき、この記事を掲載すると発売禁止になるぞ、とあらかじめ警告するもの。新聞側は発禁による不測の損失をまぬがれるために歓迎し制度化したが、もともとは新聞紙法上でも認められた処分ではなかった。 この“差し止め処分”は禁止事項の軽重によって、
① 示達/当該記事が掲載されたときは多くの場合、禁止処分に付すもの。 ② 警告/当該記事が掲載されたときの社会情勢と記事の態様いかんにより、禁止処分に付すかもしれないもの。 ③ 懇談/当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。
以上の3種類があり、「懇談」は少なかったが、「示達」、「警告」は乱発された。これに触れること、発禁などを受けるため、無視できない。 さらに、これ以外にも、便宜的処分として発禁処分にするほどでない場合は該当の部分のみを切除する「削除」処分や注意だけの「注意」処分もあった。削除処分は1933、34(昭和8、9)年に年間200件、注意処分は1932(昭和7)年には約4,300件に達した。
 
■7 15年戦争と幕開けと言論統制の強化
1928(昭和3)年3月15日には日本共産党に対する一斉検挙のいわゆる“三・一五事件”によって、労農党の関係者ら千五百数十人を検挙し弾圧を加えた。 「新聞紙法」、「出版法」による発禁件数は一挙にはね上がっていく。
1931(昭和6)年9月、日本軍による満州事変の勃発で、中国への侵略、十五年戦争の幕が開く。言論統制は一段ときびしくなっていく。 「安寧秩序素乱」による新聞、出版の発禁件数は翌32年には4,945件と1926(昭和元)年の412件の12倍にも激増して、ピークに達した。
満州事変以降のファシズム化の過程でメディア統制の一つの特徴は新聞紙法、出版法を補完、併用する形で、他の諸規定が利用された点である。 たとえば、出版法による発禁処分に該当しない街頭での選挙ポスター、ビラの類にも、治安警察法(1900年)第16条での往来などでの表現の自由を取り締まる規定を適用するように内務省警保局は指示。これはレコードにも拡大適用され、従来は各府県ごとに任されていた取り締まりが1932(昭和8)年10月から、内務省によって統一的におこなわれ、事実上、レコードの発禁処分をおこなった。 翌34(昭和9)年8月の出版法改正によって、レコード類は出版法による発禁、差し押さえの対象となった。レコードの取り締まりの内容は圧倒的に風俗取り締まりが中心で、兵隊漫才が「軍の統制紀律をみだす」などとして取り締まられた。
1937(昭和12)年7月に、日中戦争が起きると、新聞紙法第27条が発動された。 「陸海軍大臣、外務大臣は軍事・外交の記事の禁止、制限をすることができる」という内容で、陸、海軍省令、外務省令で記事掲載が制限された。
 
■8 検閲から総合的な言論統制へ
日中戦争による本格的な臨戦体制から、マスメディア統制も従来の検閲という消極的な抑圧統制から、国民を積極的に戦争体制に協力、同調させていく方向へ転換、情報操作、プロパガンダ機能を重視した稔合的な組織、体制づくりがおこなわれた。
1938(昭和12)年4月、国家総力戦を目指した準戦時体制の国家総動員法が公布されると、メディア統制も事業面から休止、合併、解散の命令(同16条)という生殺与奪の権限が政府に握られることになった。 記事掲載の禁止、制限という言論面だけでなく、企業体としての生存にかかわる心臓部を押さえられ、その後におこなわれる新聞の統廃合、一県一紙への道を開く結果となる。
さらに、積極的なプロパガンダ体制づくりとしておこなわれたのは、内閣情報局と国策通信会社「同盟通信社」 の組織、設立である。 1936(昭和11)年1月に「電通」、「連合」の両通信社を強引に合併させて「同盟通信社」を誕生させた。内閣情報委員会が万難を排して、合併、同盟発足のために協力した。 政府は世論指導の中心に、この同盟を置き、毎年莫大な交付金を与えて、朝日、毎日、読売などの大手中央紙を巧妙に牽制しながら、言論統制を推進したのである。
情報���伝システムはさらに太平洋戦争へ向けて整備され、言論統制の最終的な決め手となったのが、用紙統制であった。 戦時体制が進行するなかで、不要不急品の制限という目的で用紙割り当てがおこなわれ、新聞、出版にとっての死活にかかわる用紙の統制が、一つ加えられた。 政府へ批判的なこ怠納やメディアは用紙割り当てをてこに締め出され、弱小紙の整理統合が強引に進められた。 内閣情報局によって立案された統制団体である「日本出版文化協会」が1940(昭和15)年、「日本新聞連盟」が1941(昭和16)年に相次いで設立される。 一県一紙を目指した新聞の整理統合は1943(昭和18)年10月に完了するが、新聞は統合前に2422紙あったのが55紙に、出版社は3664社が203社にされていた(塚本三夫「戦時下の言論統制」 城戸又一・新井直之・稲葉三千男 編『講座現代ジャーナリズム歴史』時事通信社、1974年、147頁)。
 
■9 平洋戦争下の言論統制
1941(昭和16)年12月についに日本は太平洋戦争に突入した。 太平洋戦争中にはそれ以前の日中戦争下などとは比べものにならないほど厳重な思想、情報、言論統制がおこなわれた。
【治安、警察関係】 刑法、治安警察法、警察犯処罰令、治安維持法、言論・出版・結社等臨時取締法、思想犯保護観察法 【軍事、国防関係】 戒厳令、要塞地帯法、陸軍刑法、海軍刑法、軍機保護法、国家総動員法、軍用資源秘密保護法、国防保安法、戦時刑事特別法 【新聞、出版関係】 新聞紙法、新聞紙等掲載制限令、出版法、不穏文書臨時取締法、新聞紙事業令、出版事業令 【郵便、放送、映画、広告関係】 臨時郵便取締法、電信法、無線電信法、大正十二年通信省令第八十九条、映画法、映画法施行規則、広告取締法
このほかにも、新聞にかぎると、さらに内務省差止事項、陸・海軍、外務省による禁止事項、宮内省の申し入れ、情報局懇談事項、大本営発表、指導原稿でがんじがらめにされた上に検閲が2重3重におこなわれ、情報局、内務省、陸海軍報道部、航空本部、警視庁検閲課でチェックされた。
検閲の総本山の内務省警保局検閲課には1942(昭和17)年5月当時、85人の担当者が目を光らせていた。 このなかに新聞検閲係があったが、43年中の新聞の事前検閲ほゲラ刷、またほ原稿によるもの約9万件(一日平均250件)。 このうち不許可処分は1万2000件(全体の13%)にのぼった。また、電話によるものは約5万件(一日平均140件)で、合計14万件に達した(松浦総三『戦時下の言論統制』白川書院、1975年、108頁)。
 
■10 コミュニケーション���自己崩壊
こうしたきびしい検閲で、開戦直前の日米交渉での野村・ハル会談は「朝日新聞」の特派員が60数行の特電を送稿したのに対して、最終的にたった2行半に削られてしまった。 交渉内容が書けないのは仕方ないにしても「2人はまず握手を交し」が対米親近感を表現する、「会談一時間」が交渉緊迫感をかもし出す、「交渉はなお続行されるだろう」が前途推測不可でズタズタに削られた結果であった。
太平洋戦争がはじまったころの検閲の実態について、朝日・毎日・読売とわたり歩いた名文記者として知られた高木健夫は次のように述懐している。
「新聞社に報道差止め、禁止の通達が毎日何通もあり、整理部では机の前にハリガネをはって、これらの通達をつるすことにしていた。この紙がすぐいっぱいになり、何が禁止なのか覚えているだけでも大変で頭が混乱してきた。禁止、禁止で何も書けない状態であった」
こうした徹底した検閲の一方で、太平洋戦争の報道のシンボルと化したのが、大本営発表である。 嘘と誇大発表の代名詞となった <大本営発表> だが、戦争の最初の半年間は戦果や被害はほぼ正確であった。 それ以後は戦果が誇張され、最後の8ヵ月は嘘の勝利が誇示された。戦争の全期間を通じて、戦艦、巡洋艦は10・3倍、空母6・5倍、飛行機約7倍、輸送船は約8倍もその数を水増しして発表された。
事実の徹底した秘匿、検閲というコミュニケーションの切断が逆に虚報を生み、増幅して、送り手と受け手の相互関係を成立不可能にしていく。 戦前のファシズム体制を支えたメディア統制の総合的極限的システムはこのコミュニケーションの断絶によって、自己崩壊していったのである。
[EOF]
(出典)→日本メディア検閲史 <新聞法、出版法について> | 前坂俊之オフィシャルウェブサイト http://www.maesaka-toshiyuki.com/massmedia/3838.html
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liyangxu1-blog · 8 years ago
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博士夫妻開公司提供考研作弊 涉案考生884人
yeeseetravel.com
  湖北江陵警方破獲近千人考研作弊大案
  博士夫妻開“助考”公司專司作弊
   本報記者  蔡長春  文/圖
  高考狀元、名牌大學畢業、碩博高材生……揣某、潘某本是一對令人羨慕的高知夫妻,卻從2007年開始,在“助考”行業暴利驅使下,打起“誠信、卓越”的幌子進行“招生培訓”,提供考試作弊服務。
  湖北省公安廳網安總隊在工作中發現相關線索,指派荊州市公安局所屬的江陵縣公安局偵辦此案。歷時數月偵查取證,辦案人員踏遍雲南、湖南等18省,最終在2015年研究生考試期間成功偵破該案,抓獲團夥成員8人,收繳無線考試作弊器材60餘套,查明涉案考生884人。
  被騙考生揭開作弊黑幕
  2014年12月,一名遼寧沈陽籍大學生來到湖北省公安廳報案,稱其之前參加瞭某教育培訓機構組織的“包過”考研培訓,但沒能通過考試,被騙走18萬元“培訓費”。舉報人稱,上述培訓學校以找“槍手”替考和用作弊設備場外傳遞答案的方式組織考研作弊。
  湖北省公安廳網安總隊調查發現多條疑似“助考”犯罪線索,顯示個別“培訓學校”將在當月底進行的2015年全國研究生招生考試中從事“助考”犯罪活動。
  為防止走漏���聲,湖北網安總隊啟動異地用警方案,迅速成立以江陵縣公安局網安大隊大隊長秦祖才任組長、民警王高進等主偵的工作專班,在荊州市公安局網安支隊的協助下展開調查。
  專班民警偵查受害人舉報的“助考”培訓機構發現,該公司本就沒有固定辦公場所,如今早已人去樓空,線索至此中斷。
  原來,受害人向公安機關舉報前,曾到這傢“助考”公司討要被騙的18萬元,可公司負責人不僅不退款,還說“報警瞭也不怕”。見其真的報瞭警,該公司便迅速轉移瞭。
  偌大的武漢,想揪出這樣一個小小的“皮包公司”,無異於大海撈針。時間緊迫,專班民警隻好采取最為冒險也最具挑戰性的方案,決定見機行事,在考試中抓獲現行。
  2014年12月27日,正在武漢某考場進行無線電屏蔽作業的工作人員向專班民警反饋,有一異常無線電信號疑似正在播報考試答案。
  專班民警立即與無線電管委會工作人員一起追查,發現信號源來自武漢市洪山區華順經緯企業咨詢有限公司。
  這讓王高進等人的情緒一下子高漲起來,眼前的情況意味著,雖然賴賬的“助考”公司已經失聯,但一個新的“助考”公司闖進警方視野。
  突襲考場查獲作弊工具
  很快,專班民警查明,華順經緯公司在互聯網上發佈瞭大量招生培訓宣傳信息,標榜該公司以“誠信、卓越”為辦學宗旨,屢創考試“奇跡”,其考研合格率居於同類培訓學校之首。
  當天9時30分,王高進和另一名民警化裝成咨詢考生進入該公司偵查。同時,警方在外圍佈設包圍圈,一旦掌握可靠作弊證據,便可立即實施抓捕。
  王高進他們發現,多名工作人員正在電腦前“辦公”,表面上看沒有任何異常。
  但細心的民警接近一個辦公桌旁觀察時,發現多套疑似作弊的設備,由此進一步印證瞭之前的判斷。
  專班民警當場突襲,果斷控制住賈某、石某等8名正在實施答案傳遞作弊犯罪的公司員工,現場搜查出更多套用於接收“助考”答案的無線設備。
  經審訊,多名公司員工交代瞭從事“助考”作弊的犯罪事實。通過電子勘驗該公司電腦,警方獲取該公司招生總匯表一份。專班民警立即將表中涉嫌作弊“助考”的招生名單通報給湖北省考試院。
  湖北省考試院接到通報後,迅速清查全省考場,當即在襄陽考點查獲多名作弊考生。專班民警發現,這夥被查獲的作弊考生均系華順經緯公司招收的學員。
  專班民警立即趕赴襄陽,從收繳的無線考試作弊器材中提取作弊答案一份,經有關部門鑒定,其與試卷答案內容一致。至此,警方成功掌握瞭華順經緯公司從事“助考”活動的大量基本犯罪事實。
  主要嫌疑人迫於壓力自首
  江陵縣公安局網絡安全保衛大隊民警周龍告訴記者,此次專班民警共抓獲團夥成員8人,收繳“助考”作弊設備60餘套,查證違法所得1000餘萬元,涉案考生884人。
  可惜的是,專班民警突襲華順經緯公司時,該公司法定代表人揣某及總經理潘某二人突然失聯,下落不明。
  民警隨後調取瞭揣、潘兩人的戶籍及相關資料等信息,發現兩人系夫妻關系,曾因涉嫌非法獲取國傢秘密罪被遼寧撫順、重慶北碚等地公安機關處理。
  專班民警一邊對兩人上網追逃,一邊加緊收集相關涉案證據,春節期間多次到其居住地、親屬傢等地蹲守。
  2015年3月11日,迫於強大壓力,揣、潘兩人向武漢市青山區警方投案自首,至此,該團夥核心成員悉數到案。
  據揣、潘二人供述,他們都曾是武漢某區的高考狀元,名牌大學畢業生,擁有碩士、博士學位,但一直沒把心思用於正途。2007年,兩人註冊成立華順經緯公司,進行“助考”犯罪活動。
  經過數年發展,華順經緯公司除擁有業務總監、招生經理等十多名正式員工外,還雇傭瞭數十名臨時工。公司擁有眾多長期合作、關系穩定的“業務夥伴”,還將部分業務外包給其他犯罪團夥,騙走沈陽大學生18萬元的就是他們的合夥人之一。
  二人交代,華順經緯公司首先與作弊考生簽訂研究生考試委托服務協議,按照專業、學校、保底分數線的不同,分別收取一萬元至數萬元不等的費用。然後根據考生需求,分別進行“VIP”或“培訓”類的作弊準備工作,幫助他們在考試時完成作弊。
  周龍說,雖然已兩次被處理,但揣、潘兩人為牟取更多利益,反而逐年擴大華順經緯公司的業務范圍,從最初從事“助考”業務,拓展到涵蓋“助考”“學歷獲取”“代寫論文”等多項違法犯罪活動。
  該案的成功偵辦為今後打擊“助考”犯罪積累瞭寶貴經驗。今年6月、9月,江陵縣人民法院已經兩次開庭審理該案,將擇日宣判。
  致使該案浮出水面的那傢“助考”公司主要負責人王某,在今年的研究生考試中從事考試作弊犯罪活動,被湖北警方當場抓獲,由此端掉一個更加龐大的考試作弊組織。
  本報荊州(湖北)9月21日電
  來源:法制日報
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大哥 by priest (part.1)
|卷一|卷二|卷三 |
少年魏謙,十三四歲沒爹沒娘,帶著個拖油瓶小妹妹,艱難地生活,還撿到了死皮賴臉纏上了他的流浪兒一個,起了個名叫小遠。 魏謙做夢都想出人頭地,是個要錢不要命的錢串子,他的前半生都在銅皮鐵骨地逆流而行,以功成名就為第一要務,好不容易稍微混出點頭來,自以為看到了命運的曙光,誰知道小遠突然犯起了神經病。 CP:經典款毒舌女王和屁顛屁顛的忠犬
【卷一•駱駝】
 第一章
   以笑的方式哭,在死亡的伴隨下活著——余華《活著》。
   他夢見自己還很小,有五六歲的樣子,坐在床頭,一邊是熱烘烘的暖氣片,一邊靠著一個女人。
   女人大著肚子,他不敢靠實在了,只把歪著的頭虛虛地貼在她的胳膊上,營造出一種親暱依賴的假像來。
   那女人長得是真漂亮啊,和電視上那些大紅大紫的明星比起來不差什麼,鵝蛋臉,白淨,眉目齊整。
   她手裡拿著一本破破爛爛的舊書,正在仔細地唸著上面的故事。
   女人似乎受教育水準不高,閱讀能力十分有限,用詞簡單的童話故事她也唸得磕磕巴巴,時常出現讓人困惑的斷句,可她似乎頗為自得其樂,一手拿書,一手搭在自己的肚子上,音色甜而清冽,表情平靜美好。
   「……孩子們一起走到山的那一頭,發現了一條小溪,溪水歡快地從東邊跑到西邊,嘩啦啦地說『愚蠢的孩子啊,這裡有香噴噴的糕點、金燦燦的烤雞,數不清的糖果,五顏六色地掛在樹上,就像天上的星星,摘也摘不完,這裡還有吃人的妖怪,等著把你們養成圓滾滾的小羔羊,一口吞下肚』。」
   「最開始的時候,孩子們都被嚇呆了,一步也不敢跨過去,他們生活在小溪的這一邊,以野蘑菇和野草莓為生,野蘑菇沒滋又沒味,野草莓又酸又青澀。終於有一天,最年長的男孩對自己說:『我再也忍不下去了,如果我能吃到對岸的糕點和烤雞該有多好啊,還有數不清的糖果呢。』」
   「他第一個跳過了小溪,在美麗的林子裡飽餐了一頓,晚上又跳回到溪水這一邊,對大家說,林子裡沒有吃人的妖怪。於是第二天,最年長的女孩也對自己說:『如果我能吃到對岸的糕點和烤雞該有多好啊,還有數不清的糖果呢。』當天,她跟隨著第一個男孩一起跳過了溪水,到美麗的林子裡飽餐了一頓,晚上兩人結伴回來,聲稱他們仍然沒有碰到吃人的妖怪。」
   「男孩和女孩們一個接一個地跳過了溪水,去享用對面的美餐,一天過去了,吃人的妖怪沒有出來,一個月過去了,吃人的妖怪依然沒有出來。他們大聲嘲笑奔湧不息的溪水,然後一起住在了溪水的那一側,每天自由自在地穿梭在美麗的林子裡,食用精美的食物和數不清的糖果。只有一個最年幼的男孩留在了原處,任他越長越胖的同伴們怎麼在對岸大喊大叫,他都堅持不肯走近一步。」
   「度過了溪水的孩子們每天對著他們的小朋友喊:『喂,你過來呀,溪水在撒謊,這裡沒有吃人的妖怪,這裡生活如同在天堂!』可是最小的男孩不為所動,他依然靠采蘑菇和野草莓為生。他記得出門時祖母囑咐過他的話,世界上沒有免費的午餐,無緣無故的安逸才是叢林裡最可怕的陷進。」
   「突然有一天夜裡,最小的男孩聽見了尖銳的咆哮聲,他被嚇醒了,睜開眼,發現溪水暴漲,把大地劈開成了兩半,變成了一片汪洋。」
   「汪洋在高歌:『小羊小羊圓滾滾,嗷嗚一口吃下肚,一個也別跑!』最小的男孩揉揉眼,發現他的同伴們正在被一個山那麼大的怪物追逐,可是他們太胖了,根本跑不快,還沒有到水邊,就被一個一個地追上、吃掉了。他們全部掉進了最危險的陷阱裡,只有最小的男孩逃過一劫,把這個故事流傳了下來。」
   泛黃的紙頁翻過去,沒頭沒尾的故事說完了,女人彷彿完成了一個大工程,籲了口氣,漫不經心地對靠在她身上的魏謙說:「所以說,人不能過得太舒服,等你腦滿腸肥、每天都吃飽混天黑的時候,就離嗝屁著涼不遠啦……」
   她好聽而粗俗的話音被尖銳的鈴聲打斷,魏謙如同受到了驚嚇一般,猛地睜開了眼,從床上彈了起來。
   清晨五點半,天還沒完全亮。
   魏謙依然沉浸在方才的夢裡,那是美夢,也是夢魘。
   他頂著一腦門睡眠不足的低氣壓,像條死狗一樣艱難地爬了起來,拎起拖鞋,拍死了一隻在他床頭上耀武揚威地爬過的蟑螂,然後單腿蹦到水管下,把鞋底沖乾淨,踩著「啪嗒」「啪嗒」的腳步聲洗手淘米,用變形的小鍋煮上粥。
   然後他把頭探出窗外,看見樓下麻子家的早點攤已經支起來了,正在熱油鍋。
   魏謙沖樓下吹了個長長的口哨,一點也不介意把鄰居吵醒,沖樓下嚷嚷:「麻子,給哥來三根油條!」
   他剛叫喚完,樓上的窗戶也「嘎吱」一下打開了,一個含著牙刷的胖子含含糊糊地說:「哥要六根,給我挑又粗又大的!」
   喊話的是樓上的三胖,這貨都已經胖成了一個球,依然不依不饒地以「飯桶」這個特質為榮,其思想高度簡直超凡脫俗。
   魏謙覺得三根和六根比起來,相當沒有英雄氣概,於是仰頭沖三胖說:「豬,出欄出得真積極,有思想覺悟!」
   三胖正滿嘴白沫,顧不上搭理他,只好於百忙之中伸出一隻豬爪,撥冗沖魏謙比了個中指。
   麻子的爸早就死了,他是孤兒跟著寡母過,寡母以賣早點為生,麻子每天早晨要起床幫他媽炸油條,聽見他的朋友們一大早就狗咬狗,也十分習以為常。
   他把手在圍裙上擦了擦,沒吭聲,笑嘻嘻地衝樓上那兩位大爺揮揮手,表示聽見了——哦,麻子是個結巴,一般他不在公共場合高談闊論。
   早飯有了著落,魏謙打仗一樣地轉去廁所刷牙洗臉,開始了他忙碌又苦逼的一天。
   他把煮好的粥放涼,同時拾掇好了自己,帶著零錢小跑著衝下樓拿油條,再回來叫醒妹妹小寶,盯著她吃完早飯,抱著她跑到樓上,把她交給三胖的媽照顧,臨走,他還打掉小寶又往嘴裡送的手。
   而後魏謙蹬著他破舊的自行車趕往學校。
   這一天,是魏謙參加中考的日子。
   魏謙從來不知道自己老爸是誰,也不知道他長了幾個鼻子幾個眼,對此人唯一的概念,就是那傢夥是個人渣王八蛋——這源於魏謙他媽十年如一日地在他耳邊喋喋不休地重複。
   傳說那老不要臉的現在還在號子裡蹲著,頂著個威風八面、十裡飄香的光榮頭銜,叫做「強姦犯」,不知道猴年馬月才能給出來——當然,魏謙也都不盼著他出來,一個屁都不會的老勞改犯,出來也是社會的負擔。
   魏謙想,最好那老貨能在刑滿釋放之前,被其他犯人打死在監獄裡。
   老勞改犯製造的受害者之一,就是魏謙的媽……哦,對了,還有魏謙這個間接受害者。
   他媽年輕的時候,腦子裡一坨漿糊,當年不學好,每天跟一幫小流氓混,喝得醉醺醺地大半夜地在外面亂晃,不幸被那老勞改犯盯上了,成了一個稀裡糊塗的受害者,後來更是稀裡糊塗地懷孕生下了魏謙。
   因此理智上來說,魏謙理解為什麼從小他媽就不待見他,他覺得自己生下來的時候,她沒有直接把自己掐死,就已經是激素的作用了……激素才是人類��命的奇蹟。
   更不用說她還勉勉強強地把他拉扯大了。
   可儘管這樣,魏謙依然打心眼裡恨她。
   天天恨,打卡似的定時定點地恨,恨不得吃她的肉喝她的血。
   然而……他又會打心眼裡期盼她能給自己一點溫情,偶爾她真的給了,魏謙就會感覺到莫大的幸福,因此他也恨自己,他認為自己基因不好,天生有那麼一根賤骨頭。
   女人總是晝伏夜出,她賴以謀生的工作古老又傳統,在我們國家有著數千年見不得光的歷史。這是一份帶給魏謙無數「榮耀」的工作——他媽是只「雞」,用這個婊子臭不要臉的話說,這份工作的好處就是白嫖了男人,還要男人給她錢。
   魏謙那個強姦犯的爸終結了她的整個少女時代,讓她從裡到外黑了個徹底,越發地不知羞恥起來。
   而作為一顆「雞蛋」,魏謙的童年就是一場漫長的折磨。
   他媽每天晚上都會罵罵咧咧地出門,直到第二天早晨才回來,會用長長的指甲把他從被子裡活生生地掐醒,如果她心情好,就爹娘三舅老爺的一起罵他一遍,如果她心情不好,還會順手打他兩個耳光,然後一身酒氣地指使還沒有鍋台高的小魏謙去給她弄口吃的。
   有那麼好幾次,魏謙把耗子藥都買好了,準備下在飯裡,跟她同歸於盡,不過最後還是沒下成,因為那女人偶爾試圖當個媽的時候,會用柔軟的胳膊抱著他看一會電視,高興了還會溫聲細語地在他耳邊跟他說幾句話。
   如果夜裡收入不菲,她還會在早晨回家的路上給魏謙買兩套煎餅果子。
   這種情況雖然彌足珍貴、可遇不可求,卻總能讓幼小的魏謙受寵若驚,每到這時候,他就不想殺這個女人了,因為他也會想起來,這女人是他親媽。
   他的親媽比他一生中見過的任何女人都要漂亮,然而絲毫沒有給他帶來一點榮耀。
   可全世界畢竟只有這麼一個人是他親媽,殺了,就沒了,他捨不得。
   他們倆就這樣,彼此仇視又相依為命地活了下來。
   魏謙五歲的時候,他媽又嫁了一回人,繼父是個老實人,賺錢不多,沒什麼本事,對這個便宜兒子也不算很熱絡,但是也從沒有虐待過。
   後來大概是嫌他在家裡礙眼,等魏謙剛滿六週歲的時候,繼父主動把他送進了小學校,騎著大二八的自行車送他去學校報導。
   魏謙管他叫叔。
   叔來了以後,他媽一夜之間就「放下屠刀立地成佛」了,再也不出去鬼混了,幾乎是立竿見影地洗淨了鉛華,高挽了長髮,沒再沾過一滴的酒,脾氣也好了很多。
   她搖身一變,成了一個正常的女人和正常的母親。
   當年冬天,她甚至動手給魏謙織了一件毛衣,那件毛衣他只穿了一冬天,由於個子長得太快,第二年就穿不下了,卻一直被魏謙珍而重之地收在櫃子裡,因為那幾乎是他童年收到的唯一一件禮物。
   都說六七歲的孩子到處滾、狗都嫌,可魏謙六七歲的時候乖順得就像條狗一樣,他一句廢話也不多說,一個要求也不提,如果大人不主動給,他就絕不開口問大人討錢,學校裡有時候有點事讓交錢,魏謙都是先跟別人借了,再自己跑檯球廳遊戲廳去給人打雜幫忙,賺幾塊錢還上。
   他在這個過程中結識了很多比他年紀大很多的小混混,老闆看著他小,跑來跑去地撿球端盤子挺有意思,再加上有眼力勁兒,非常會看人臉色,所以就把他留下了,當成個奇葩的吉祥物,閒來逗逗。
   魏謙對此樂在其中,並不覺得痛苦,因為他在學校裡得知,自己也是祖國花骨朵中的一朵,這種生活,他過得心滿意足。
   因此他總是唯恐他叔不痛快,唯恐叔和他媽離婚,讓他再過回那樣豬狗不如的日子。
   魏謙七歲半,沒滿八歲的時候,他媽又生了個丫頭。
   丫頭長得跟他叔是一個模子裡刻出來的——哦,也就是很醜的意思,可全家都寶貝得不行。
   她是春天生的,父母嫌棄什麼「春」啊「柳」啊之類的名字太土,配不上他們寶貝姑娘,難為他媽和他叔,他們倆受過的教育加起來也沒有九年,湊在一起足足合計了一個多禮拜,最後絞盡腦汁地給丫頭起了個他們自以為有詩意的名字,叫「宋離離」。
   跟他叔姓宋,「離離原上草」的那個「離離」,小名叫小寶。
   不過魏謙幾乎不怎麼叫他妹這個倒楣的大名,一直到她成人,都喊她「小寶」。
   不說聚,非得說「離」,沒聽說誰家給孩子起這種大名的,真是要多吉利有多吉利。
   他的親媽和後爹倆文盲淨顧著「濕意」了,給孩子起這麼個名,純粹是沒事作死玩。
   這不吉利的名字將和小丫頭相伴一生,似乎也預示著,生離和死別會從一而終地貫穿在她單薄的生命裡。
  第二章
   小寶十一個月,還是個穿開襠褲的小肉球,剛會紮著手下地走兩步的時候,她爸就沒了。
   他的死法相當兇殘,車禍——當時他正黑燈瞎火地值完夜班往家走,途中他琢磨著趁著沒人,抄近道,就蹬著倆輪的自行車上了機動車道,剛上去就被一輛貨車撞了,直接甩出去好幾米。
   連人再車,一起扁了,再沒能鼓回來。
   魏謙他們家也再次到了孤兒寡母的境地。
   這其實也沒什麼,全世界那麼多孤兒寡母的家庭——比如天天早晨賣油條的麻子他們家。
   別人也都擦乾淨眼淚,直起腰桿,照樣活得人似的。
   可是魏謙很快驚恐地發現,他那漂亮親切的「媽媽」,一夜間又變成了操蛋的惡婆娘。
   她傷心之餘,似乎認定了自己這輩子比苦菜花還苦,已經不想活了,於是變本加厲地作起死來,她在這方面天賦異稟、並且經驗豐富,端是作得一手好死。
   魏謙每天生活得杯弓蛇影——他自己要上學,要想方設法地弄來錢,要照顧連話也不會說的小妹妹,還要防著那個時刻會爆炸的女瘋子。
   到了後來,魏謙甚至不敢把宋小寶一個人放在家裡。
   每天他上學,就把小寶送到樓上三胖家或者開小飯店的麻子家,托三胖的媽或者麻子的媽給照顧一天,晚上放學再把小寶接回來。
   魏謙活得心神俱疲,生活的重壓一下子把他壓得抬不起頭來,成年人尚且扛不住,別說他一個孩子。
   有一段時間,魏謙偷偷藏了一把小刀,每天晚上睡覺的時候,他就一手握著小刀,一手抱著小寶,看見小刀,他就想衝出去把他媽宰了,看見小寶,他又只好收斂心神,躺回床上,輕輕地拍著她的後背,把哼哼唧唧要被驚醒的小傢夥重新哄睡著。
   他還有個小妹妹,這是個活物,是個人,和他一樣命苦,生在這樣的家裡,他是大哥,好歹得把她養大。
   哈姆萊特糾結了一個漫長的問題「To be or not to be」,魏謙也用他的童年糾結了一個更加漫長的問題——「宰了他媽,還是不宰」。
   他像狗一樣活著,竟然還有心情糾結這麼哲學的問題,他將來或許註定是個人物。
   這期間,三胖媽和麻子媽都幫了他不少忙。
   三胖和麻子都是他的發小,三胖一家人都市儈又粗俗,麻子他們娘兒兩個都是三腳踹不出一個屁來的孬種——跟他們住鄰居的,沒有什麼社會高端人士——然而市儈又粗俗的鄰居卻是古道熱腸,懦弱的、沉默的小人物也是只要他開口,就肯幫他的忙。
   三胖媽不像麻子媽那樣敢怒不敢言,她有時候看不下去,義憤填膺得簡直恨不得往魏謙他媽臉上吐唾沫,然而終究沒有成行。
   這沒什麼,魏謙知道她不敢,因為三胖媽雖然窮橫,但畢竟是個良家婦女,良家婦女都不敢輕易招惹婊子,就像正經人都不敢輕易招惹地痞流氓一樣。
   再後來,魏謙他媽終於不負眾望地死了。
   魏謙平靜地接受了這個事實,他知道她其實早就不想活了。
   魏謙他媽從自己一生中最幸福的生活中被一棒子打醒,心裡的苦悶是別人無法理解的,她怎麼也想不開、怎麼也適應不過來,於是理所當然地重新墮���了,重操舊業了,後來更是變本加厲——她去吸毒了。
   她先是陪著客人吸白麵,吸完以後一起雲山霧繞地幹一炮,客人高興了會往她的胸罩和內褲裡塞小費,她也靠這片刻的光陰逃避無力反抗的現實。
   後來,她的毒癮無法遏制地升級,開始哆哆嗦嗦地給自己肌肉注射。
   那一段時間,魏謙家裡有過很多針頭,平時怕小寶看見往嘴裡塞,魏謙每天要把家裡打掃三四遍,看見針頭就收起來銷毀。
   他媽死了以後,她的東西都讓魏謙一把火燒了——她最後死於愛滋病,被針頭傳染的。
   出來混,總是要還的。
   這是小混混們用來裝逼的箴言,也是那女人留給魏謙兄妹最後的話。
   魏謙他媽臨死的時候,形象活像個怪物,整個人瘦成了一把骨頭,頭髮也差不多掉光了,臉部嚴重變形,一雙本來就比別人大一些的眼睛凸了出來,皮膚大片大片地潰爛,看不出一點年輕貌美的痕跡,簡直就是個又髒又臭的癩蛤蟆。
   癩蛤蟆她是人之將死,其言也善,她用近乎溫情的眼睛看了自己的兩個孩子一眼,坦然地說:「唉,出來混,總是要還的,我早就知道有這麼一天了。」
   魏謙嗤笑一聲,認為她是在放屁,她如果早知道有這麼一天,當年就不應該出來鬼混,不應該吸毒,更不應該為了幾塊錢和獵奇,就打扮成一個妖魔鬼怪去夜總會坐台。
   她應該像無數仙鶴一樣的小妞一樣,穿著可能不那麼合身的校服,額頭前面弄一排傻乎乎的齊留海,正襟危坐地坐在教室裡聽老師講解析幾何,然後考上一個大學,工作,結婚或者剩著……不管怎麼樣,都像個正經人一樣地活著。
   哪怕她格外笨,學什麼都不成,起碼她還能去給人家當保姆,打零工,賣早點……
   那樣她說不定會一直活到九十歲,能看見她的孫子結婚生子。
   可她偏不,她選擇當一個好逸惡勞的女瘋子,白長了那鮮花一般的模樣。
   魏謙意識到自己終於擺脫這個女瘋子、終於再也不會見到她了,他心裡難以抑制地難過起來,彷彿看見了大把的生命和光陰在他面前風馳電掣地奔跑而過,而他竟然連一把尾氣都沒來得及聞,一切就都已經煙消雲散了。
   可他不想露出任何感情,他認為自己合該憎恨這個女人,對她的一切感情都是軟弱而犯賤的,所以魏謙逼著自己這樣想——她這是活該。
   魏謙命令自己回憶起他五年來地獄一樣的生活,用他最深的冷漠地問她:「婊子,你幹嘛要把我們生出來呢?」
   女人神色迷茫地思考了半天,回答說:「誰知道呢?」
   魏謙就出離地憤怒了,如果沒有她這個「誰知道」,說不定他這輩已經投胎成了一個富二代或者官二代,現在說不定也能人模狗樣的了!
   於是他在她的肩膀上輕輕推了一把,罵了一句:「去你媽的。」
   真的只是輕輕推了一把——誰知道下一秒她就不行了。
   她渾身抽搐,眼睛睜得像乒乓球一樣大,然後倒氣倒了足足五分鐘,喘氣成了一個乾癟的風箱,生生受了一回血罪,才終於成功地翹了辮子。
   那年魏謙不到十三週歲,還是個青蔥少年,剛上初二,帶著個拖著兩行鼻涕的小妹妹——小寶五歲,狗屁也不懂,只會在一邊呆呆地看著大哥和媽媽。
   魏謙愣是讓女人的屍體在家裡展覽了兩天,乃至於都發臭了,他也沒想好該怎麼處置。
   死人睡得地方比活人還貴,賣了他們兄妹倆也買不起一塊墓地——更何況魏謙連送火葬場的錢都不打算出——他媽已經死了,死人怎麼著都能湊合,可他得活著,他得交學費,他還得養活妹妹。
   最後,魏謙決定找個良辰吉日,湊合著拿破涼蓆把這屍體一卷,直接扔進垃圾堆裡,讓她自行降解回歸大自然去。
   不過沒等實行,魏謙他媽的幾個小姐妹找到了他們家,用事實表明,就算是秦檜,也有仨瓜倆棗的朋友。
   她們一起攤錢辦好了她的後事,算是把她送走了,一個女的告訴魏謙,她生得就不體面,總不該死得也這樣不體面。
   操辦後事剩下的一點錢,她們留給了魏謙和他的妹妹小寶,魏謙又翻箱倒櫃地把女人留下的一些首飾賣了,這些東西原來是女人的命……不,比命還寶貴。
   她的寶貝兒子早就看它們不順眼了,她一閉眼,立刻就給抖落出來賣了。
   用這一點微薄的積蓄,魏謙過上了養著個小拖油瓶的日子,艱難地過了一年多,他初中畢業了。
   中考三天結束,最後一天,魏謙交了卷子,騎車回家。
   他讀書很像那麼一回事,打零工當混混,都沒能影響他的成績,因為學校是他和「未來」和「希望」,和「體面的生活」這些詞唯一的聯繫,他拼了命地都想抓住。
   沿途魏謙買了幾個饅頭,把車停在一大片筒子樓建的簡陋的自行車棚裡,拎著東西往家走,就看見了那個小崽子。
   小崽子細手細腳瘦骨嶙峋的,就顯得腦袋大,比小寶高一點,但是高不到哪去,也許和她差不多大。
   他穿著一件大人的「二桿梁」背心,下面光著,鞋也沒有,背心上湯湯水水,什麼玩意都有,看上去是好一片祖國河山姹紫嫣紅,正在一個小胡同的垃圾堆旁邊掏垃圾吃。
   這麼一個小東西,也不知道是怎麼活下來的,連野狗也欺負他,魏謙經過的時候,小崽子正跟一條狗在一個小胡同裡對峙——為了半罐別人扔了的牛肉罐頭。
   野狗瘦巴巴的,個頭卻不小,眼冒紅光,不知道有沒有狂犬病,但是在城市打狗運動如火如荼的時候還能活下來,大概也是狗中豪傑。
   本來魏謙是不打算理會的,像這種小崽子,個把月總是能見著一個,不小心被生下來了,不小心活了,還沒有父母雙全的命,過一陣子差不多也就死了,可就在魏謙往那邊瞟的時候,正在那人狗情未了的小崽子居然碰巧也抬頭看了他一眼。
   就這麼片刻的機會,野狗抓住了,見它的對手一分神,立刻撲了過去,小崽子大概是被人圍追堵截得時間長了,反應十分敏捷,往旁邊一撲,就躲過去了,於是那條野狗好死不死地就撲到了魏謙少年的腳底下。
   這畜生紅著眼,鼻翼裡發出呼哧呼哧的動靜,像是急紅了眼,敵我不分,對著一個打醬油的無辜群眾一通狂吠,呲出一嘴大黃牙。
   魏謙正盤算著自己萬一考上高中,學費該怎麼解決的問題,沒打算理會它,抬腿要走,結果也不知這畜生是怎麼想的,居然一低頭衝著他的腳脖子來了一口。
��  魏謙忙一縮腳,沒咬著。
   魏謙當時十三四歲,爹死娘死還帶著個只會流鼻涕的妹妹,儘管考試發揮得一流,可考上也不一定能上,處境悽慘。這樣長大的孩子,他的性情如果不憤世嫉俗,那是不大正常的——因為那意味著他太會表演,將來很可能會變成個高智商的反社會分子。
   所以正滿腹煩心事的中二少年當場就急了,抬腿給了野狗一腳,他從小和混混們長大,慣常動手打架,這一腳份量不輕,直接把大狗踹到了牆上,野狗依然不依不饒,又一口咬在了魏謙的鞋上——幸好這雙鞋是撿來的塑膠鞋,雖然又硬又不透氣,但是好在結實,沒咬透。
   魏謙甩了一下,見甩不開這條死狗,於是用腳大力踩住野狗的肚子,又從旁邊撿起一塊磚頭,下了狠手砸在了這狗中豪傑的腦袋上,砸了一下,豪傑就鬆口了,砸了兩下,豪傑就頭破血流了,徹底成了個鬼雄。
   人,還有狗,在這個時候、這種地方,其實都是一樣的——好比有的人西裝革履好房好車,有的狗定期美容油光水滑。而還有一些人和狗,註定在這樣一條充滿了垃圾的小路上,為一些可笑又可悲的理由撕咬搏命,流血流汗。
   同人不同命,同狗也不同命。
  第三章
   魏謙怕「狗鬼雄」死得不透活受罪,於是體貼地又用磚頭狠狠補了幾下,直到把狗頭砸了個稀巴爛,這才喘著粗氣扔下磚頭,在牆上抹了一把手上的狗血。
   他這才有機會抬頭打量一下那害他橫生枝節的小崽子,可這小白眼狼居然已經趁著他打狗的時候把那桶罐頭搶走了,抱在懷裡,狼吞虎嚥起來。
   大概魏謙的眼神太有殺氣了,小崽子明顯哆嗦了一下,睜著一雙烏溜溜的大眼睛看了看魏謙,嘴角一排罐頭湯不小心流了下來,他立刻誠惶誠恐地伸手接住,把自己的手舔了個乾乾淨淨。
   魏謙心裡的無名火更盛,恨不得把這小崽子的腦袋踩下來讓他舔自己的鞋,舔個夠。
   小傢夥見他目光可怖,還以為他要搶自己的罐頭,頓時警惕起來,抱緊了罐頭,站起來背靠牆角,擺出一副誓死捍衛領土的英勇架勢來。
   魏謙頓時又洩氣,心想自己跟這麼個小玩意較什麼勁呢?
   他於是無趣地往地上啐了一口,轉身走了。
   等成績這幾天,魏謙並沒有浪費寶貴的假期,他白天和麻子三胖一起去練攤,賣黃色錄影帶,晚上在檯球廳找了個活,每天賺十塊錢的看場子費。
   他發現那天碰見的小崽子似乎在充滿了垃圾的胡同裡安了家,每次魏謙出門的時候,都能看見他在垃圾堆裡尋找自己的晚飯。
   魏謙經過的時候,如果心情好,他偶爾會扔給那小鬼一個饅頭。
   魏謙對親生父母一直都是仇視的,兒童最早都是從和父母的相處中領會怎麼樣接觸世界上其他的人,因此他很難不仇視社會,他的愛心比北方春天的雨水還要有限,之所以偶爾對那小傢夥另眼相看,也是他觀察過這孩子。
   他發現那小男孩胳膊腿都齊全,身體沒有任何殘疾,智力不但沒問題,可能還比普通的孩子高,長相看不出來,但是一雙眼睛又黑又亮,應該是差不到哪去的,如果他真的是父母雙亡沒人照管,應該會被送到社會福利院裡,這樣的年紀和條件,絕對是會被人搶著領養的。
   小男孩在外面流浪,魏謙猜測,要麼是有監護人,但是監護人虐待他,他自己跑出來的,要麼就是從小被拐賣,好不容易逃出來的。
   無論哪一種都是逃,都是別人對他不好,實在活不下去了才逃的,那種感受魏謙都懂,他甚至會有些同病相憐。
   當然,即使同病相憐,魏謙也是偶爾心情好才會覺得小東西可憐,大部分時候,他都很好地保持著自己冷漠而尖刻的心。
   而就是他這樣零星的幾次善心,竟然還招來麻煩了。
   那天,魏謙的中考成績下來了,他考得不錯,比全市最好的高中的錄取線還高出二十分,能排進全區前十名,放在別人身上,家長恐怕是要請客的,魏謙沒客好請,於是晚飯沒有買饅頭,買了一袋肉包子,也算慶祝。
   魏謙認為自己應該高興,可是他沒有,他心裡像是給堵了兩塊大石頭,一塊石頭是上高中高額的花銷,一塊石頭是他再好再優秀也無人訴說的苦悶。
   他努力想讓自己無視那些,於是整個人出於一種非常詭異的狀態裡——腦子是熱的,心口是涼的。
   路過時,他順手丟了個肉包子給那垃圾堆旁邊的小男孩,自娛自樂地想:這就是肉包子打狗,一去不回。
   誰知那小東西竟然沒有讓他的包子一去不回,他三兩口地把包子塞進了自己的肚子裡裝好,然後連人再包子,一起不依不饒地追了上來。
   就像個小流浪貓,誰餵他一口香腸,他就認準了誰。
   魏謙回頭一看驚詫了,心說大事不好,這還要買一送一!
   他心裡本來就堵,又被跟得不耐煩,幾次三番地回頭惡狠狠地罵人,還推了小男孩一把,把小傢夥推了個屁股蹲,甚至作勢要打,可對方居然還是鍥而不捨地跟著,一直跟到了他們家。
   魏謙家的房子原本屬於他的姥爺,也就是他死鬼老娘的爹,姥爺是被他媽活活氣死的,於是房子又歸了魏謙他媽,現在她也死了,才傳到他手裡,有一定年頭了。
   老筒子樓,典型的城市棚戶區,樓下是個垃圾場,亂糟糟的,鄰居們的素質和經濟能力都普遍低於平均水準,很多住在這裡的人都不大友好。
   仗義和自私,熱心腸和不友好,他們毫不矛盾地與這片居民區的貧窮和落後並存,詭異地和諧著。
   比如住在對門的那個獨身老太婆,就比較不友好,她每次一看見魏謙,遠遠地就要開始翻白眼,然後像是看見了什麼不乾淨的東西一樣甩上門,有時候還會故意把垃圾丟在他家門口。
   一開始魏謙懶得跟她一般見識,他一個大孩子帶著小孩子,每天發愁還不夠愁的,懶得理會這些雞毛蒜皮。
   再者說,窮人何必為難窮人呢?
   後來魏謙明白了,窮人只能為難窮人,也只會為難窮人,不然還讓他們怎麼辦呢?
   他媽是婊子,他就是個婊子養的,道理上,老太太罵的這句話其實也沒錯。
   可今天不一樣。
   他沒有做錯任何事,就算依照傳統的眼光看,他也比任何人都要優秀,為什麼唯有他活得這麼艱難?
   他過於出色的中考成績把他的上半身拉到了另一個世界,而下半身還在漫無邊際的沼澤裡沉著,既讓他看到無邊無際的大千世界,又讓他怎麼也掙脫不了他固有的身份和階級。
   哪怕他是像三胖和麻子一樣,純種的社會渣滓小流氓,他也不會這樣痛苦。
   魏謙過熱的腦子和過冷的心終於把他逼到了一個臨界點,他垂下眼盯著自家門口臭氣熏天的垃圾,胳膊上爆出了一條一條的青筋,眉目像極了母親,卻遠沒有她那樣秀麗,那股終年籠罩的仇恨與陰鬱幾乎成了他的天然氣質,英俊得奪目,也陰鬱得逼人。
   少年魏謙默默地蹲下來,一點一點地把家門口那些水果皮爛葉子撿起來扔掉。
   跟回來的小男孩不知道發生了什麼,在一邊看著。
   魏謙沉默地拎著垃圾走了兩步,突然再也不想這麼做了,他猛地把手裡的垃圾扔在了對門的門口,轉頭沖男孩大聲咆哮:「你他媽看什麼看?!」
   小男孩被嚇了一跳,本能地往後退了一步。
   魏謙惡狠狠地說:「小雜種!」
   小雜種背靠著牆角,小心翼翼地睜著大眼睛看著他。
   魏謙深吸了一口氣,他想努力地把心裡那股邪火壓下去,作為一個「大人」,他不想在小崽子面前失了態。
   然而這一刻,他發現自己克制不住,連一雙眼皮都跳個不停……他畢竟不是真的大人。
   魏謙毫無預兆地突然轉身,從地上撿起一塊大石頭,「咣當」一下砸在了對門老太婆的窗戶上,碎玻璃「嘩啦嘩啦」地落了一地,屋裡面傳來一聲尖叫。
   魏謙:「老不死的你給我聽著,老子以前不跟你計較,是看你七老八十、沒幾年好活的份上,以後你再來觸我的黴頭,我他媽滅了你全家!」
   屋裡傳來老太婆彪悍的叫罵,對方顯然是沒把他這個半大小子放在眼裡。
   魏謙二話不說,轉身從家裡拎了一把菜刀出來,一腳踹在她家門上,直接把她家的門鎖踹壞了,只剩下一根金屬鏈搖搖欲墜地連著,少年拿著菜刀,使勁往那家的門上砍,臉色慘白,雙眼通紅,活像個神經病殺人狂,愣是把罵罵咧咧的老太婆給嚇哭了。
   從那以後,老太婆就開始躲著魏謙走,四處散佈他是個殺人犯的謠言,不過老太婆再也沒敢當著魏謙的面罵人,也再沒往他們家門口扔過垃圾。
   看來欺軟怕硬是天性。
   可當時魏少爺當時那副惡鬼索命的模樣嚇哭了老太婆,卻沒能嚇哭那個小男孩,小男孩依然鍥而不捨地賴在他家門口。
   魏謙完成了他的恐嚇,「咣當」一聲,在小男孩面前拍上了自家的門,把他給鎖在了門外,小男孩孤零零地在外面徘徊了一陣,最後,他彎下腰,把魏謙門口剩下的零星垃圾撿起來,收拾好了扔了。
   他甚至還撿了幾根小樹枝,捆在一起,把地給掃了。
   然後他就像條沒人要的小狗一樣,蜷縮在了門口,就這樣縮著睡了一宿。
  第四章
   第二天魏謙出門一看,小男孩竟然還在那,他腦袋大四肢細,縮成了一個圓滾滾的糰子。
   魏謙險些讓這衣衫襤褸的糰子給絆個跟頭。
   一宿過去了,他心裡的火已經消了大半,魏謙無可奈何地低頭看了看著成了一團的小東西,不知道這小崽到底是怎麼想的。
   魏謙自覺自己渾身上下散發的都是報復社會的光芒,即沒有佛光普照,也沒有無量天尊,回憶起來,似乎也沒給過對方一個好臉色。
   魏謙不明白,這彷彿時刻準備著要戰鬥的小東西是看上他哪了,竟然輕易地放下了戒備,居然還就賴上他了。
   得虧是夏天,要是冬天,北方的冬天一宿露宿,能把小男孩給活活凍死。
   一個那麼丁點大的小東西,站起來看著和小���差不多,總不能真的回家拿出菜刀來幹掉他,魏謙伸出腳尖戳了戳腳底下的糰子:「哎,哎哎,起來,別在這睡,聽見沒有?我們家還沒開張呢,瞎睡什麼?」
   髒兮兮的煤球糰子睡眼朦朧地抬起頭,一見魏謙,立馬精神了,滿臉期盼地看著他,就像一隻跌跌撞撞的花臉小奶貓,尾巴尖都在瑟瑟發著抖,依然努力地往人腳底下湊,努力表現出自己的乖巧和無害,請求領養。
   任是誰看見了,都會不忍心,可惜了,他偏偏遇上了魏謙這麼個鐵石心腸的人。
   魏謙毫無同情心,欺貓打狗無所不為,果斷地無視了他可憐兮兮的小眼神,並且懶得廢一句話,回手反鎖上家門,一彎腰,就拎起了男孩細瘦的胳膊,把他一路拎下了樓,然後往疏於打理的草地上一扔,乾脆俐落地說:「別給鼻子上臉,滾。」
   男孩摔倒在野草叢中,眼巴巴地看著他就這樣惡棍一樣頭也不回地走了。
   小男孩好半晌才爬了起來,仰頭望著對於他來說十分高大的破舊的筒子樓,片刻後,垂下了腦袋,赤裸的小腳丫腳趾頭互相糾結在一起,他覺得失望極了。
   這小傢夥確實是被人拐賣過的孩子——魏謙心狠眼毒,看得沒錯。
   他被人偷走的時候太小,來龍去脈已經不是很記得了,人販子養了他幾個月,後來把他轉手賣到了一個十分偏遠的農民家裡。
   這也沒什麼,給誰當兒子都是兒子,他還享受了兩年獨生子的生活。
   誰知第三年,他那被村醫斷定了沒有生育能力的養母竟然奇蹟一般地懷孕了,又過了一年,養母生下了一個健健康康的胖小子。
   從那以後,男孩在養父母家裡就顯得多餘了,他的日子也跟著每況愈下了。
   那天男孩在冰涼的井水裡洗碗的時候,因為手指被凍麻木了,不小心打碎了一個碗,觸怒了大醉而歸的養父。
   養父扒光了他的衣服,寒冬臘月裡讓他在滴水成冰的院子中間罰站。
   男孩覺得自己要給凍死了,終於,他做出了一個對他的年齡來說大膽得有些驚人的決定——他跑了。
   小男孩偷了幾件大人的衣服,隨便套在身上,然後連夜借助梯子翻牆出去,他悄悄地躲進了往城裡拉冬儲大白菜的車裡,就這樣被拉到了一個城市裡。
   從此,他成了個小流浪兒。
   這樣一個沒人管的小男孩是很容易被盯上的,期間,男孩幾次三番險些再次被人拐賣,有些企圖賣了他,有些企圖把他弄去做小偷,還有兩個人商量著要賣了他的器官——男孩半夜尿尿的時候偷聽到了,連夜跑了。
   他能活到這麼大,每次都成功地逃脫,運氣好得簡直就是奇蹟,成了半個逃跑專家。
   他偷偷蹭過火車,連續換過好幾個城市,��過了形形色色的人,偶爾有人試圖和他說話,他都假裝啞巴不會說,並且飛快地想辦法逃走,當中或許有真的好心人,可惜男孩不敢放下警惕——被全套的批發賣了也就算了,他更怕那些還打算剖開他的肚子,把他身上的部件一樣一樣拿出來零售的。
   可是風餐露宿、飢一頓飽一頓,他依然本能地羨慕那些有房子住、有家的人。
   小傢夥已經很久不知道家是什麼滋味了,然而他不可能有家,因為他恐懼接觸任何人。
   在小男孩眼裡,世界上似乎只有兩種人,一種人嫌他髒,老遠就繞著他走,還會用石頭丟他打他,一種人對他和顏悅色,可心裡實際上還是想賣了他。
   直到他認識了這麼一個獨特的人。
   他聽見過別人用富有當地特色的兒化音叫他「謙兒」,這個人幫他打跑了大野狗,給過他吃的,卻都是扔下就走,從不和他說一句話。
   當然,更多的時候,這個人都會對他熟視無睹。
   魏謙的熟視無睹和不交流都讓男孩覺得安全,而同時,他偶爾的施捨行為又讓男孩感覺到了一絲罕見的溫情。
   小男孩其實一直換地方住,可是為了每天偷偷看這個人,他不知不覺中已經在這條小胡同裡住了好幾個月了。
   在這幾個月裡,小男孩經過了謹慎的觀察和審慎的論證,用他因為老也吃不飽而營養不良的大腦得出了一個結論——這個大哥哥是個好人。
   在他的流浪生涯中,這還是第一次心裡不由自主地生出接觸別人的渴望……可讓他失望的是,他伸出了觸角嘗試著去觸碰的時候,那個疑似「好人」的混蛋似乎並不想領養他。
   男孩又失望又難過,在原地徘徊了一陣子,思考著要不要放棄。
   他還沒思考出結果來,天就下雨了,男孩不得已,只好又躲回了樓道裡。
   這場大雨到晚上都沒有停,三胖媽中午下樓來了一趟,幫小寶熱飯,見了蜷縮在樓道裡的小男孩,她吃了一驚,彎下腰仔細打量他:「喲,這是誰家的孩子啊?」
   男孩立刻像炸了毛的小野獸,兇狠地抬起頭來,整個人都繃緊了,似乎隨時打算衝上來咬她,他兇悍的眼神把三胖媽驚得往後退了半步:「哎喲,這個小叫花子是瘋的!」
   三胖媽怕惹上麻煩,警惕地看了小男孩一眼,快速地用魏謙留下的鑰匙打開門,三步並兩步地進屋去了。
   晚上魏謙放學打零工回來,一低頭就看見了牆角裡的小糰子,臉色頓時不大好看起來。
   他大步走過去,想重新把這不是好歹的小崽子扔出去,小糰子一見他過來,以為要挨打,連忙驚恐地往牆角褪去,擺出防禦的姿勢。
   對於這小鬼也知道害怕這一點,讓魏謙心裡生出了詭異的滿足感,這位中二少年冷哼了一聲,抬頭掃了一眼窗外的雨,轉身進屋,竟然放過了小男孩。
   夏天悶熱,魏謙一般只關上有一層紗窗的防盜門,並不關大門,以便室內通風。
   小寶看見外面有個小朋友,就奶聲奶氣地問:「哥,外面那人是誰啊,真羞羞,也不穿褲子。」
   魏謙說:「玩你的,少管。」
   過了一會,小寶又說:「哥,他老往咱家裡看。」
   魏謙就走過去,站在門口惡狠狠地衝著那男孩吼:「你給我滾遠點!」
   男孩被他嚇了一跳,遲疑著退後了幾步。
   可是等他端著菜從廚房裡出來,就看見小寶蹲在門口,張望著外面說:「哥,他還往咱家裡看呢,你讓他進來吧。」
   這回魏謙連嚇唬也懶得嚇唬了,乾脆沒理她,把菜放在餐桌上,然後走過去,抬手把大門甩上,把那兩道豔羨的窺探視線徹底隔絕在了門外。
   讓他進來?魏謙心說,他要是個百萬富翁,這樣的小崽子,他願意養個十頭八個的,每天早晨讓他們站成一排點名報數玩。
   可他是嗎?
   他只是個窮得出類拔萃的小混混,連自己開學要交的四百塊錢學費都不知道上哪個猴山上弄去呢!
   可惜女生外向,宋小寶這個小丫頭片子簡直不是東西,尿布剛摘下來沒兩天,居然就已經學會胳膊肘往外拐了。
   沒兩天,魏謙一進門,發現小寶已經把那小崽子放進了家裡。
   魏謙怕外面的小野孩有傳染病和寄生蟲,會傳染給小寶,於是當即沖妹妹發了一通火,把小丫頭嚇得哇哇大哭。他伸手拎起小崽子身上的背心,像丟快抹布一樣,再次把他扔出去了。
   小男孩就在他手裡掙紮,掙紮不過,就用那雙黑亮黑亮的眼睛盯著他看,那眼睛像是山裡剛被雨水洗過的黑石頭,在髒兮兮看不清五官的小臉上顯得分外扎眼,顯得那麼野性,又充滿著憤恨、失落和隱約的哀求。
   「狗崽子。」魏謙罵他。
   小寶她真是個記吃不記打的東西——主要是因為魏謙沒有真的打過她,他雖然不怎麼表達,實際上寶貝得連她一根頭髮絲都沒碰掉過,以至於挨罵的事,宋小寶同志撂爪就忘了。
   過了沒有三天,她就又把那小崽兒給領回來了。
   這還要陰魂不散了,這一回,她冷漠又壞脾氣的大哥終於被激怒了,魏謙伸手去抓男孩,男孩察覺到危險,忙躥起來躲開,讓魏謙這高高揚起來的一巴掌揮了個空。
   魏謙氣急了,抬腿給了他一記窩心腳,男孩被結結實實地踹疼了,竟然也不叫喚,只是悶哼了一聲,順勢跪在了地上,伸出雙臂,抱住了魏謙的腿。
   小寶這熊孩子總算是長了見識,她從沒想過朝夕相處的大哥居然會這麼暴力,嚇得「嗷」一嗓子大哭起來,嚎著說:「哥!」
   那男孩也不知怎麼的,聽見了這話,心神彷彿被牽動了,他裝了一年多的啞巴,此時卻沒頭沒腦地對魏謙開了口,儘管他的聲音沙啞得不像個小孩,發音也奇怪得很,可魏謙還是聽清楚了他的話,他學著小寶說:「哥!」
   魏謙抬起來準備狠狠踩下去的腳就突然動不了了。
   自己在幹什麼?魏謙茫然地想,毆打這麼一個小崽子?這和他那賤貨媽還有什麼區別?
   末了,魏謙嘆了口氣,緩緩地縮回了腳,一言不發地走進廚房,草草地下了一鍋清湯寡水的掛麵湯,端到小男孩面前:「吃吧。」
   男孩不想表現得太沒出息,可惜這碗麵對他而言如同久旱逢甘霖,他一聞到香味,「出息」倆字就歡快地把他拋棄、結伴私奔了。
   他幾乎把臉埋進了碗裡,稀裡嘩啦一頓猛吃,秋風掃落葉一般,連乾了三碗,肚子都撐圓了。
   魏謙平靜地坐在旁邊,等他吃完,就動手收拾了碗筷,然後對男孩說:「聽得懂人話吧?行了,我知道你聽得懂。」
   魏謙甩甩手上的洗碗水,蹲下來,讓自己的視線和小東西齊平。
   「我養不起你,」他幾乎調用了自己生平最大的耐心說,「你啊,找錯地方了。」
   男孩嘴邊還有沒擦乾淨的菜湯,璨如星辰的眸子盯著面前的少年。
   魏謙輕輕地在他的肩膀上推了一把:「行了,吃飽就走吧。」
   一分鐘以後,男孩第一次直立行走出他的家,而不是被他暴力扔出去的。
   有兩三天,魏謙都沒看見那個糾纏不休的小男孩,直到第四天黃昏,他拖著疲憊的身體回家,計算著自己還差多少錢學費的時候,他在家門口又看見了那個小男孩。
   這回小寶沒敢開門,兩個孩子一個站在門裡,一個站在門外,聽見腳步聲,一起抬起頭,眼巴巴地望向他。
   站在門口的男孩手裡拖著一個巨大的蛇皮袋子,裡面「叮叮咣咣」的,魏謙垂下眼掃了一眼,發現是一袋子的瓶子蓋和易開罐。
   「這個能賣錢。」見他良久不言語,男孩才小聲地解釋說,他彷彿怕魏謙不相信,伸出髒兮兮的小手,手心裡汗涔涔地握著兩塊零五毛的紙幣,「真的,我賣過了。」
   魏謙依然是沉默。
   小寶適時地輕輕叫了一聲:「哥。」
   魏謙一閉眼,心說:「這他媽的,都是什麼事!」
  第五章
   就這麼著,小男孩到底是死皮賴臉地留下了。
   好多年以後,當男孩自己回憶起這件事的時候,他都幾乎覺得自己做成了一件不可能完成的壯舉。
   他那混賬大哥在翅膀長硬了之後,越發把他的混賬特質發揮得舉世無雙,天生長了一副鐵石心腸,從來是說一不二,男孩有時候懷疑,這個世界上究竟有沒有能改變魏謙想法的東西。
   可那一年,在觀察了數月,又軟磨硬泡了好幾個星期後,他竟然真的成功地打動了這個鐵石心腸的混蛋。
   小男孩在魏謙家裡住下後,慢慢地恢復了他的說話功能,只是大多數時候依然很沉默,似乎擔心自己的存在感太強,會招來別人的討厭和虐待。
   一開始,他連床和沙發都不敢上,到了晚上就往牆角一縮,像條小野狗一樣睡在地上。
   似乎是只要有一個能避風遮雨的屋頂、幾口乾淨的飲食,他就已經滿足了。
   魏謙觀察他的行為,難以抑制地想起自己像這小東西一樣大的時候,也曾這樣小心翼翼地討好過繼父,他瞭解那些行為的意義,不但沒覺得男孩古怪,反而暗暗生出了某種隱秘的感情聯繫來。
   當然——他不會把這種感情表現出來,魏謙認為自己作為一個「當家人」,在家裡趾高氣揚一點是應該的。
   他耐著性子把小傢夥給洗乾淨了,又怕他有蝨子,把小男孩的頭髮都給剃光了,還找了一件小寶的舊衣服給他穿。
   光頭小小子穿著小女孩廉價的、掉了花邊的裙子,竟然也不顯得十分違和,可見小男孩底子是好。
   魏謙看著他若有所思地打量半晌,狗嘴裡吐不出象牙地做出了如下品評:「人模狗樣的。」
   不過魏謙想,大概人小時候長得都挺好看,可能是因為小吧,心裡什麼也不愁,所以眼神也是乾乾淨淨的,能反光。
   這個荒謬的看法被三胖一口否決了——三胖說美就是美,醜就是醜,都天生的,和年齡大小半毛錢關係也沒有。
   三胖、魏謙和麻子是一起長大、從小穿一條褲子的交情,三胖比魏謙大三四歲,麻子跟魏謙一年出生,小時候一起玩泥巴,長大了一起當混混,儘管沒有在一起做過一件好事,但是交情甚篤。
   到了青春期,魏謙往豎裡長,越來越瘦越來越高,三胖就往橫裡長,十七八歲,儼然已經成就了一副中年漢子發福的臭德行……至於麻子,他高矮胖瘦都不要緊,那一臉坑坑窪窪的閉合式粉刺讓他的腦袋像個凹凸不平的小行星,晚上乍一看見能嚇哭幾個人,以至於他其他的特質都被忽略了。
   三胖這個死肥肥,自己就長得像豬八戒的二姨夫,偏偏臭不要臉地喜歡評判別人的美醜,他每次見了小寶都要唉聲嘆氣一番,因為這個小丫頭長得實在是太寒磣了。
   仗著交情,三胖對魏謙直言不諱——通常是魏謙不愛聽什麼,他非要說什麼。
   每每到了魏謙家,三胖都要扼腕哀痛地把小寶抱過來打量一番,唱戲一般地大呼小叫地說:「妹妹啊,我苦命的妹妹啊,你這小臉怎麼能這麼黑呢,掉煤堆裡都找不著啊!」
   魏謙一把搶回小寶:「滾你媽蛋,我們那叫黑裡俏。」
   三胖繼續哭天搶地:「你哥睜眼說瞎話,有眼睛這麼小的黑裡俏嗎?」
   魏謙振振有詞地說:「眼睛小怎麼了,我們臉也小,牛眼大不大?長你那餅鐺臉上照樣是一線天。」
   三胖:「滾,你們家烙餅用得著像你三哥這麼威武英俊的餅鐺,你元首啊?哎,不是我說,眼大眼小還不是問題,你再看咱妹這鼻樑——這小塌鼻子,可愁死我了,跟讓門板拍過的似的,謙兒,你說咱妹咋就長得不像咱媽呢?不像咱媽像你也不發愁啊!」
   魏謙:「放屁,她又不是我生的。」
   說完,魏謙把小寶拎到和自己視線齊平的地方,仔細地打量了小丫頭酷似她親爹的面貌一番,即使是骨肉至親,他也不得不承認三胖是對的,小寶臉上那可憐兮兮的小塌鼻樑,真的活像沒有鼻樑骨似的。
   魏謙憂慮地在心裡盤算,將來無論如何要讓她保護好眼睛,可不能近視,不然這小塌鼻樑恐怕真的連眼鏡也架不住。
   但他還是不肯承認妹妹醜,於是強詞奪理地說:「塌鼻樑怎麼了,女的鼻樑高不好看,鼻樑高……鼻樑高的看起來不像好人。」
   他這麼說,是因為他媽就有一副挺直秀氣的高鼻樑,鼻子是五官之王,顯得她精神得要命,讓人一眼就印象深刻。而魏謙總是仇視母親的一切特質——甭管是美的還是醜的。
   在魏謙心裡,只要宋小寶長得不像他們的媽,哪怕她將來變成一個和麻子一樣滿臉花開的醜八怪,他也覺得可愛。
   三胖知道他家的前因後果,難得地沒和他爭辯,從魏謙懷裡接過小寶,有一下沒一下地捏她的鼻樑——後來她長大以後鼻樑沒那麼塌了,多半是她胖子哥給人工捏起來的。三胖邊捏還邊念叨:「妹妹喲,我嫁不出��的妹妹喲……」
   這時,麻子推門進來了,笑呵呵地說:「三、三哥,七七七昂……謙兒,小、小寶妹妹。」
   三胖如臨大敵般地堵住了小寶的耳朵:「哎喲我的媽耶,您老人家可別當著孩子面說話,到時候跟你學成一口結巴,孩兒她哥能把您老剁成餃子餡!」
   麻子受天賦所限,一輩子也牙尖嘴利不起來,只好走憨厚路線,聽了也不生氣,摸摸自己的頭,傻笑了起來,他在小寶和那撿回來的男孩頭上各摸了一把,掏出兩塊糖,一人給分了一塊。
   麻子早就輟學了,倒不是因為沒錢上,個中原因實在一言難盡——直到小學五年級,麻子只能數到九十九,上了三位數他就不會了,老師氣得罰他把一百到兩百間的所有數按順序抄一百遍,他「吭哧吭哧」一遍不少地抄完了,工工整整、勤勤懇懇,沒有一點偷奸耍滑,結果抄完老師一看,好麼,串列了!
   三胖辛酸地看著他這又笨又醜的兄弟,接著念叨說:「弟弟喲,我娶不著老婆的弟弟喲……」
   三胖過早地表現出了對別人婚姻情況的憂慮,乃至於魏謙斷定,這死胖子天賦異稟,將來一定會變成個拉皮條的。
   魏謙對自己的交友情況十分惆悵,麻子是傻逼,三胖是個大傻逼,他夾在其中,幾乎有種「舉世皆傻逼,唯我獨明白」的悲愴。
   傻逼麻子開口問:「樂、樂哥讓、讓我來問問,你、你學費有……著落了嗎?」
   這話筆直地戳中了魏謙的傷心事,他方才還頗為愉悅的心就像被塞了一塊冰坨,咕嘟一下就沉了下去。
   魏謙心說,有個鬼的著落,但他不想在兩個傻逼發小面前示弱掉面子,於是裝作毫不在意的模樣,高深莫測地擺擺手說:「哦,不急。」
   大傻逼三胖忙介面說:「哎喲寶貝,哥求求你了,都這時候了,你就別裝神了,這事不能不急啊!都快開學了!到底怎麼說,缺多少,你言語一聲,哥兒幾個幫你想辦法……你說我們這一夥人,一個個地都天生和學校有緣無分,就你一個出息的,一人搭把手,也要把你推上去啊!」
   魏謙覺得自己的心裡就好像被一隻火熱的手捏了一下,有那麼一兩秒鐘,他詞窮了,嘴唇不易察覺地抖動了兩下,然而下一刻,他卻依然用最大的毅力克制住,保持住了他又臭又硬的內在和大尾巴狼的外表。
   「行了吧,多大點事,」魏謙眼皮也不抬,漫不經心地說,「我心裡有數,用不著你們瞎操心,也替我告訴樂哥一聲,沒事。」
   而後他飛快地轉移話題:「哎,對了,那小崽,我問他叫什麼,他告訴我他叫『小子』,也不他媽什麼玩意兒家長給起了這麼個二逼名字,我這兩天正琢磨著給他弄一個大名呢。」
   麻子心裡替他著急,吚吚嗚嗚地還想再說什麼,他越著急越說不清楚,末了還是被三胖打斷了。
   三胖知道魏謙這人的尿性,知道他是個裡子都掉光了,也不願意沒了面子的孫子,顯然是不想在他們倆面前提這事,於是順著魏謙的意思心猿意馬地扯淡說:「行啊,你叫魏謙,那就讓他叫魏虛得了。」
   魏謙笑罵:「去你媽的,『胃虛』,還『胃疼』呢。」
   他們仨打鬧了一番,自帶乾糧飯菜地在魏謙家裡吃了一頓後各自散了。
   魏謙琢磨了一下,既然樂哥問起他了,他就得親自去見一見,否則就比較不懂事了——魏謙為了零花錢,從小和一群社會渣滓混在一起,而樂哥就是他們一夥人的大哥,是遠近最牛逼的爺們兒,比他們都大,混了很多年,家裡很有背景,人也十分仗義,跟他們這群小兄弟也都是交心換命,不拿架子。
   魏謙他媽死了以後,樂哥沒少照顧他們,有忙幫忙,有事扛事,魏謙一度曾經覺得他簡直是自己的親哥。
   樂哥對他依然是和顏悅色的,先是和魏謙寒暄了幾句,又說:「你家的事,我也聽說了,這小東西來咱們這,也不知道走了多少的路,這麼大的小玩意兒,能活到現在也不容易,我看將來他沒準是個人物,能比我們這些人走得都遠,要不然就叫小遠得了。魏遠?唔……不大好聽,加個字,叫『魏之遠』,好不好?」
   樂哥給起名,魏謙自然樂意。
   那時候魏謙還小,沒那麼多心眼,他雖然半隻腳踏進了三教九流裡,卻到底年齡見識所限,並不能很好地理解成年人社會的規則,也並不真正地知道樂哥究竟是個什麼樣的人。
   此時哪怕樂哥放個屁,十四歲的魏謙也會覺得他放得很有哲理。
   樂哥又問:「那小東西有多大了?」
   「他自己說有八歲了。」魏謙說,「我看不像,也就跟小寶差不多。」
   樂哥「唔」了一聲,皺皺眉:「那你想過以後怎麼辦嗎?他沒有戶口,有大名也沒用。」
   是的,魏謙心裡一動,魏之遠有了大名,可依然是個名副其實的「黑人」。
   其實如果不是魏謙他媽的一個嫖客喝多了裝好心,現如今魏謙肯定也是個「黑人」。
   魏謙皺皺眉,本地戶口不是那麼容易進的,對此,他確實無計可施。
   樂哥故意停頓了一會,讓他好生苦惱了一番之後,才悠然開口說:「你要是信得過我,不如這事就先交給我吧,你看怎麼樣?」
   魏謙當場就是一愣:「我……我這個……這個事這麼……」
   他一時間幾乎說不出完整的話來,魏謙頗有些不好意思地低頭一笑,自嘲說:「完了,都快被麻子傳染成結巴了。」
   樂哥親暱地摸了一把他的頭,好整以暇地等著他的答話。
   樂哥雖然年輕,卻是個野心勃勃的人物,並且野心專走歪門邪道。
   他頗有心計,多心多疑,知道將來要成事,必須要有自己的死忠,他在替自己鋪路的過程中,就看上了魏謙。首先魏謙年齡合適,十四五歲,正是一知半解的年紀,懂事,又不太懂,對他好一點,他就容易死心塌地。而那麼多的小兄弟,樂哥就看上了魏謙一個人,也是因為魏謙能混、能打、能豁得出去,有這樣三個特質已經罕見,何況他竟然還會讀書。
   樂哥第一次聽說這個小子竟然能參加中考,還能考得那麼出息的時候,簡直都震驚了,即使樂哥已經算是個當地的人物,他依然是個從小流氓混上來的大流氓,從沒有和「讀書」這種事扯上絲毫的關係。
   魏謙這個小崽,哪怕生在個窮一點的普通家庭,將來也必成大器,可偏偏命運這樣怠慢他,簡直再合樂哥的心意也沒有了,樂哥覺得自己就像出門逛花鳥市場買石頭,結果撿著個價值連城的古董的漏。
   樂哥心裡盤算著,唯一的問題,就是魏謙這個人脾氣有點難擺佈,雖然難得對自己有幾分敬畏,卻是個絕對不願意求人的。
   供一個半大小子念高中,也沒幾個錢——以樂哥當前的財力來說,哪怕是送個孩子出國唸書都不值幾個錢——雪中送炭的情義,他不怕魏謙將來不肝腦塗地。
   樂哥看得出來,這個孩子心重臉皮薄,這樣的人,忘恩負義的事恐怕幹不出來。
   當時的戶口比後來寬鬆很多,只要有門路,花點錢,還是有些可操作性的,只是再有可操作性,也不是魏謙的能力範圍之內的,所以魏謙想了想,沒有不識好歹地拒絕,心裡暗暗給樂哥記下——這都是人情債,要還的。
   樂哥又和他隨口說了幾句閒話,沒提學費的事,戶口無論如何都是魏謙辦不到的,這小鬼尚且能接受,可學費的問題,他卻不能說,說了反而容易傷了少年人的自尊。
   但樂哥不著急,他看得出魏謙是真想讀書,不然成績也不可能那麼好,所以他等著,魏謙總有一天會主動來求自己,臨走,樂哥意味深長地對魏謙說:「跟哥客氣什麼?謙兒,你記著,以後碰見任何困難,都可以來找哥,聽到了吧?只要哥能力範圍之內,天塌下來也能給你扛起來,別自己憋著,誰讓咱們是好兄弟呢。」
   他說完,用力地拍了拍魏謙的肩膀,看著手足無措的少年,自覺自己這事辦得真是草蛇灰線,伏脈千里,這樣的雄才大略,將來不成事簡直天理不容。
  第六章
   樂哥辦事麻利,魏之遠的戶口很快就下來了,落在了魏謙家的戶口本上,這下送他去上小學都沒問題了。
   而養活魏之遠其實也不難,給他吃飽飯就行了,魏之遠給什麼都吃,不挑食,抓緊時間吸收一切他能吸收的營養,小半年的光景,他就躥了半個巴掌高的個子,完美無缺地解釋了什麼叫做「給點陽光就燦爛」。
   小寶的衣服他是再也穿不了了,魏謙只好給他穿自己的舊衣服。
   魏之遠依然不愛搭理人,除了魏謙兄妹和經常到家裡來的幾個兄弟,他都不跟人家說話,防人之心依然很重。
   除此以外,魏之遠這個孩子幾乎沒別的毛病了,他極具察言觀色的能力,魏謙只要稍微一皺眉,他立刻就能收到信號,知道大哥不高興,三秒鐘之內就能把自己偽裝成牆上的壁畫,假裝不存在。
   他在家裡簡直勤快極了,每天把屋子打掃得乾乾淨淨,自從魏之遠來了以後,暖壺裡的熱水從來都是滿滿噹噹的,垃圾從來沒在屋裡過過夜,誰換下來順手扔在哪的衣服被他看見了,他都會默默地拿去洗乾淨。
   他戒備而諂媚,把自己定位成了一個附庸,又像是一條看家護院的狗,對於陌生人,他的眼神簡直讓人瘮得慌,眼珠像黑豆,看人的時候直勾勾的,是個不好惹的野狗崽子。
   以上這些是三胖同志觀察到的,魏謙聽了也沒往心裡去,他心想狗崽子就狗崽子,反正這小孩也不麻煩,自己平時不在家,讓他給小寶作個伴也好。
   ……直到緊接著發生了那麼一次事。
   那天有一幫不長眼的,拔份兒拔到了樂哥的地盤上,把樂哥一個乾弟弟的腦袋給開瓢了,他們一幫兄弟當天就帶著傢夥去了,跟對方幹了一場,不巧,地點就在魏謙家附近的一條街上。
   就在他們把對方的人腦袋幹成狗腦袋的時候,突然聽見後面街上有水管刮著地面的動靜。
   魏謙還沒來得及回頭看,就聽見三胖在旁邊大呼小叫地說:「哎呀我操!」
   魏謙一看,也嚇了一大跳——只見魏之遠那小崽子拎了一條比他人還長的水管,在地面上拖著,正以一種異常喜感的姿勢,支楞八叉地往這邊奔跑著。
   魏謙正好看到了他的眼神,他發現三胖說得沒錯,小東西的眼神真就像條兇狠的野狗崽,雖然拖著那麼長的一條水管,連路也走不穩當,卻詭異得能從他身上看出他要把敵人都幹掉的決心。
   說得神一點,他身上簡直有武俠小說裡描述的那種「殺意」。
   三胖:「乖乖的,你撿了個什麼玩意回來?」
   魏謙:「別提了,撿的時候沒帶放大鏡,我要是知道就好了。」
   三胖歎為觀止,遠遠地衝魏之遠喊了一聲:「行了哎寶貝,咱哥兒幾個今天都收工啦,用不著你出場啦,咱們起駕回宮吧!」
   魏之遠認識三胖,聽這話就站在了原地,眨著圓溜溜的大眼睛看了看他,又看了看魏謙,把水管扔下,抹了抹鼻子,擦乾淨鼻涕,說:「哦。」
   結果魏謙當天晚上回家就做了個夢,夢見魏之遠變成個變態殺人狂,殺完人他也不知道跑,淡定地坐在一片血泊之間,面無表情地開口叫了他一聲「哥」。
   魏謙當場就冷汗涔涔地醒了,他坐在床上,看見一邊的光著屁股趴在床上睡的昏天黑地的小崽兒,忍不住抬手在他軟乎乎的頭髮上摸了一把。
   而魏之遠就像個小豬似的,無意識地蹭了蹭他的掌心。
   魏謙又捏了捏他的小胳膊腿兒,發現他哪都是軟乎乎的,跟小寶一樣軟,一點也不像個殺人犯,做著夢還砸吧嘴,也不知道夢見了什麼好吃的。
   他坐在旁邊觀察了他一陣子,心想這崽子才這麼一點大,就這麼兇殘,將來還了得?
   別的無所謂,別出去給他惹事去就是好的。
   將來……唉,「將來」是多麼渺茫的一個詞。
   魏謙睡不著了,他下了床,走到了陽臺上,把窗戶推開了一點,就著寒冬臘月裡的陣陣寒風,在一片夜深人靜裡思考他自己的那虛無縹緲的「將來」。
   高中的學費比義務教育的時候貴那麼多,貴得魏謙砸鍋賣鐵,也就只勉勉強強地湊夠了一個學期的,他念高中的這小半年裡,從他那死鬼老娘那得到的積蓄快要花完了,眼下,隨著天氣一天涼似一天,魏謙幾乎已經到了山窮水盡的地步,可這樣的重壓卻無處訴說,因為他是大哥。
   魏謙做夢都想把高中唸完,做夢都想要像這個城市裡的大多數人一樣,西裝革履、朝九晚五,體體面面地活著。
   「體面」,那是他打斷骨頭連著筋一般的夢想,儘管它看起來是那麼的愚蠢、遙遠又虛無縹緲。
   現實容不得他再這樣幻想虛無縹緲的未來了,高中繁重的課程佔用了他所有的時間,老師不會允許他在別人上晚自習的時候獨自一個人離開學校去哪打工。
   而算起來小寶已經到了七歲,也是要上學的年紀了,因為他這個做大哥的自私,只顧著自己的學費和夢想,有意無意地錯過了小學報名時間,這一���就這麼讓她耽誤了,魏謙怎麼不敢再耽誤她下一年。
   魏謙悄悄地走進廚房,米缸裡只剩下不到兩斤的陳米,廚房裡還有一顆大蔥和幾棵爛菜葉子,他兜裡還剩下十塊零五毛。
   他要買吃的,要買日用品,要交水電費……
   他需要那麼多的錢,才能維持起碼的生計。
   這樣的生活就好像一個千瘡百孔的麻袋,四處都是窟窿眼,讓魏謙筋疲力盡弄來的錢輕易就嘩啦嘩啦地流出去了。
   魏謙弄錢的方式依然是每個週末都去打零工,隨著家裡多了一口人,錢開始不夠花了。
   魏謙每天早晨離開的時候,都炒一個菜,留下兩個饅頭給倆孩子,然後自己聲稱在學校吃。
   不把午飯錢省下的話,就不夠花了。可他畢竟正是飯量大的年紀,餓不得,所以魏謙會趁中午午休時間翻牆遛出學校,到樂哥的檯球廳裡給人暖場,順便蹭頓午飯吃,一個學期下來,他自覺檯球都快成半個專業級別了。
   每一天……每一天的柴米油鹽都是一條鞭子,從他一睜眼開始,就抽打著他不停地奔,不停地想辦法。
   這讓魏謙心緒難平——重壓之下,任是誰都心緒難平。
   他從兜裡摸到了半包煙,是下午打架的時候不知誰塞給他的,他突然想起別人噴雲吐霧時的模樣,於是魏謙坐在廚房,把煙點著了。
   他就這樣一邊咳嗽,一邊無師自通地學會了抽第一根煙,肺部缺氧讓他覺得頭暈目眩得,甚至有些噁心。
   魏謙坐在地板上,靠住門板休息了片刻。
   要不然……就不上學了。
   他茫然地這樣想著。
   「我實在沒有辦法。」魏謙對自己說,「我真的是山窮水盡,一點辦法也沒有了。」
   他難過得快要哭出來了,像是眼睜睜地看著那扇通往另一個世界、另一種生活的大門在他面前緩緩地關上,他拚命地趕,可總是鞭長莫及。
   就在這時,魏謙想起了樂哥的那句話——有任何困難都可以去找他。
   魏謙睜大眼睛思量了片刻,忽然像是抓住了救命稻草一樣地猛地站了起來,他兩根手指間還笨拙地夾著香煙,整個人都為這突然出現在他面前的康莊大道而顫慄不已。
   魏謙有些口乾舌燥,他恨不得現在就衝到樂哥面前。
   對,樂哥肯定會借給他錢,等他上完學,甚至他可以上完大學,他會回來報答樂哥,以一個不同的身份。
   只要樂哥肯供他,他就再也不用每天吃了上頓沒下頓地發愁,再也不用算計家裡的那一點錢算計得心尖都疼了,他可以踏踏實實地把這幾年念下來,他保證自己會成績一流……
   滾燙的煙灰落在了魏謙的手上,燙得他一哆嗦。
   他默默地低下頭,盯著劣質香煙散碎的煙蒂發了一會呆,把煙屁股撚滅了,丟在了垃圾桶裡。
   魏謙滾燙的腦子冷卻下來,他發現自己做不到。
   他總是記得那個過河的故事,記得格外深刻——靠在母親懷裡聽故事的經歷對他而言是絕無僅有的奢侈的記憶。
   他記得女人說過的話,「人不能過得太舒服,等你腦滿腸肥、每天都吃飽混天黑的時候,就離嗝屁著涼不遠了」。
   樂哥能幫他一次,能一直幫他麼?
   救急不救窮。
   樂哥有什麼義務給他錢,讓他上學,讓他吃飽穿暖,讓他無憂無慮?
   而那種無憂無慮日子不知道為什麼,魏謙想起來,就覺得既嚮往,又毛骨悚然,他彷彿恍然看見那安逸而軟弱的自己,就像是一頭被圈起來的豬。
   世界上還有什麼比「軟弱」更讓他這樣的少年恐懼的嗎?
   世界上還有什麼比「沒有希望」更讓他這樣的少年絕望的嗎?
   如果魏謙不軟弱,他就只好退學,只好走上一條沒有希望的路——離開學校,去當混混、當打手、打零工,成為一個城市底層的渣滓,艱難地熬過這一生,這幾乎是一條一眼能看到底的路。
   魏謙也不知道在廚房裡僵立了多久,感覺自己的手被凍得有些麻木了,這才吸了吸鼻子,回到客廳被簾子隔出來的小臥室裡,躺回床上。
   魏謙家只有一室一廳,小寶三歲以後,他就覺得讓她和自己一起睡不大方便了,於是把臥室給了妹妹,他自己在客廳里拉出一條簾子,在角落裡放了一張床,算是隔出了一個臥室。
   魏之遠一直是和他睡在一起。
   魏謙躺回床上的時候,旁邊的小傢夥卻動了一下,不知是沒睡著,還是被吵醒了。
   魏之遠小心翼翼地睜開眼睛,打量了一下大哥的神色,就嗅到了他身上一股嗆人的煙味。魏之遠不是小寶,他從小沒被人那樣寵過,因此不敢像她一樣沒心沒肺。
   小遠察言觀色,小心翼翼地輕輕叫了一聲:「哥。」
   魏謙心緒煩亂,不想理會他。
   小遠等了好久,沒等到他的回覆,輕輕地拽了拽他的衣服,他問:「哥,是不是你沒錢,養不了我了?」
   魏謙心道,虧你還知道——可這話他沒說出口,並不是為了不傷害小孩的心,而是他覺得「承認自己無能和沒錢」非常的傷面子,所以他沒好氣地甩開魏之遠的手:「廢什麼話,你還睡不睡了?閉嘴!」
   魏之遠好半晌沒吭聲,魏謙以為他睡著了。
   誰知過了一會,小傢夥竟然窸窸窣窣地湊了過來,鑽進了他的被子,碰到魏謙冰涼的手和腳——冬天屋裡是很冷的,當時暖氣並沒有普及到這種被人遺忘的舊棚戶區裡。家裡還有小孩子,魏謙不放心生爐子,於是用攢了大半年的錢買了二手的電暖氣,可那玩意畢竟費電,他們通常是能不開就不開。
   魏謙冰冷的皮膚的溫度讓魏之遠本能地瑟縮了一下,然而下一刻,男孩卻又哆嗦著湊過來,雙手抱住魏謙的手,塞進懷裡,又努力伸直了腿,頭幾乎都要埋進被子裡,才勉強夠到魏謙的腳,輕輕地把自己的腳搭在了大哥冰涼的腳面上。
   頃刻間,小遠就感覺到渾身的溫度在飛快地流走。
   他做完這些事,帶著一點討好的意思,小聲說:「別不要我,行嗎?我能幹活,我還能去撿破爛,我也能賺錢。」
   這輕輕的幾句話讓魏謙的心神幾乎一顫。
   大概是他久不答話,魏之遠開始心慌了。
   魏謙為他提供了一個安全而溫暖的住所,給了他一個讓他從前欣羨不已、不敢想像的家,也從未打過他,甚至連活也不怎麼指使他做。
   甚至這個冬天,大哥還給他和小寶一人買了一件厚厚的棉衣裳。
   魏之遠覺得這幾乎像是一場美夢,他生怕夢醒了,自己又是那個沒人要的流浪兒,徘徊在城市最陰冷的地方,以撿垃圾為生。
   「求求你了。」魏之遠壓得低低的聲音有些顫抖,「別扔了我。」
   兩秒鐘之後,他又補充了一句:「哥。」
   魏謙心裡五味陳雜,要說他不想扔了這個崽子、給自己減輕一點負擔是不可能的,然而他終究只是扒拉了一下魏之遠的腦袋,簡單地命令說:「睡覺。」
   就再沒有別的話了。
   可是貓狗養了大半年,也該養出感情了,何況是個人。
   更不用說這個小傢夥每天圍著自己轉,每天想盡辦法做事幹活,就只為了讓自己高興一點,能讓他留下來。
   魏謙知道自己是心軟了,他認為自己不該心軟,可他沒辦法,他畢竟不是石頭。
   算了吧,他這樣想著,聽著耳邊細小的呼吸,心說,這小崽子,可憐。
  第七章
   魏謙曾經幻想過,有一天,有一個記者會在這樣一個老舊的筒子樓裡發現他和他的弟弟妹妹這樣像狗一樣活著的人,然後記者就會拍幾張照片,大筆一揮,寫著「有志少年打工供弟妹上學、稚嫩肩膀扛起一個家」這樣催人淚下的噁心題目,就會有政府機構上門給錢,還會有各種各樣錢多得沒處花的大款往他們家捐,而他只要上個電視,跟他們一起舉著一張大支票合個影就可以了。
   可是呢,電視上仍然天天播「窮困大學生」「窮困中學生」「窮困小學生」這樣的報導,但是沒有一個找上魏謙他們。
   大概那年頭窮人太多,上電視也需要像後來買車一樣排隊搖號。
   馬上就要期末了,天氣越發的冷,早晨出門的時候天還沒亮,魏謙騎著二手的自行車披星戴月地出了門。
   他沒有手套,到學校的時候雙手凍得幾乎沒有了知覺,只好一邊低著頭往樓上跑,一邊飛快地搓著手。
   這天,他上樓的時候正好碰見了他的班主任,班主任是一位中年的女老師,姓李,平時對他非常好——像魏謙這種讀書很認真,成績好而且態度低調不惹事的學生,如果他恰好長得也比較精神,老師又是女的,基本上就註定了他在學校是受老師格外寵愛的那一類人。
   李老師叫住他:「哎,正好碰見個小夥子,快過來幫我搬點東西!」
   魏謙幫她把學校新發的二十斤大米和兩桶油領了回來,一路扛到了她的辦公室,李老師笑呵呵地問他:「吃早飯了嗎?」
   魏謙頓了頓,搖搖頭。
   李老師從桌子底下掏出了一個麵包和一根火腿腸遞給他:「早晨賴床起晚了吧,拿去吃。」
   魏謙有點不好意思地笑了笑,接過來道了謝。
   李老師並不知道他的家庭情況,那時候高中的孩子都穿校服,小夥子們除了有個別愛乾淨的,全都是一樣的邋邋遢遢不修邊幅,名牌包和地攤上買的包全都塞得滿滿噹噹看不出原來的形狀,和女生要個吃完的小薯片桶,涮吧涮吧往桌上一戳就是一個筆筒。
   那時候人與人之間出乎意料地平等,表面一掃,也看不出哪個是市長的兒子,哪個是要靠打零工才能勉強度日的孤兒。
   只在開學的時候有一張家庭情況調查表,有父母工作單位一欄,魏謙盯著那個空格看了很久,末了胡編亂造地寫了「個體」倆字……
   反正沒人問他是活個體還是死個體。
   李老師踮起腳拍拍他的肩膀,囑咐說:「快去吧,今天禮拜一,升旗講話準備好了吧,快回去再看兩遍,別一會忘詞。」
   升旗講話由每班輪派學生上臺是學校的老傳統了,魏謙上主席臺之前情不自禁地挺了挺背——並不是他緊張,而是昨天晚上混戰的時候後背挨了一棍子,早晨起床一看,烏青了一片,怪疼的。
   魏謙脫稿站在臺上,滾瓜爛熟行雲流水般地說完了他充滿了夢想和主旋律的演講稿,下面照例是全體哈欠連天的同學們敷衍禮貌的掌聲。
   魏謙非常輕地笑了一下,然後退後兩步,把話筒讓給主持人。
   在他將要下臺的時候,魏謙最後站在高高的主席臺上,掃視了一圈校園的全景——
   一排黃葉快要落光的銀杏樹,四百米的標準運動場,紅磚的教學樓,那些穿著校服、少不更事的學生……還有教學樓前的幾棵大櫻花樹,據說那是南方的櫻花樹和本地種雜交出來的,每年春天的時候,飄下來的花瓣有厚厚的一層,能把人的腳面都埋住,可惜他秋天入學,還沒來得及看。
   魏謙像是要把這一切都裝進眼睛裡,然後他轉過身去,頭也不回地順著石階下了主席臺。
   他在所有人沒有解散之前回了教室,快速收拾好了自己的一切東西,拿起提前寫好的退學申請,往教務處的方向走去。
   教導主任並不瞭解學生情況,只是常規性地問了緣由,魏謙不想把自己弄得像貧困失學兒童一樣——說了也沒用,學校可能出於同情,經過艱難地周轉給他弄來助學金,然而他的主要問題不在助學金,他需要更多的錢,或者更多的時間來賺錢養家。
   不能解決問題,何必把他脆弱自尊抬出來讓人圍觀?
   於是犯了中二病的魏謙只是輕描淡寫地解釋說家要搬到外地,不能在這裡繼續讀了。
   離開教務處,他經過籃球場,籃球體育特長生正在訓練,一個球飛向他,他敏捷地伸手接下來,吹了聲口哨又丟了回去,體育場上的男生衝他遠遠地揮了揮手:「謝了啊哥們兒!」
   魏謙對他笑了一下,可隨即,他的笑容乾澀了起來,他不再停留,飛快地低頭走過。
   魏謙把自己沉重的書包拎到不遠處的一個收破爛的大爺那裡,把包裡的書本紙張都倒了出來,賣了一塊二毛錢,魏謙又湊了八毛,用這兩塊錢買了一支康乃馨,趁李老師上課,溜進了她的辦公室,把花放在了她的辦公桌上,然後他背著空空如也的包,離開了學校。
   他騎著自行車回家,賣早點的麻子娘兒兩個還沒有收攤,麻子見了魏謙,驚詫地問:「七——伊——謙兒,你、你怎麼回、回來了?忘、忘、忘什麼東……」
   魏謙從車上下來,把空書包甩到身後,冷靜地打斷了他的話:「沒有,麻子,我不念了。」
   麻子彷彿一時沒有反應過來他是什麼意思,呆呆地重複了一遍:「不、不不、不念了?」
  ��魏謙:「嗯,我退學了。」
   麻子的反應總是遲鈍,大概真是腦子有點問題,魏謙有時候懷疑,是不是扇他一個耳光,他都要一分鐘之後才知道疼。
   腦子有問題的麻子愣愣地站在原地,足足有半分多鐘,他那大疙瘩摞著小疙瘩的臉紅成了一塊燒紅的鐵碳,胸口劇烈地起伏著,片刻後,眼睛裡突然充滿了眼淚。
   隨後麻子向他撲過來,猛地照著魏謙的胸口推了一把,魏謙踉蹌了一下,自行車倒在地上,軲轆還在一圈一圈地轉。
   麻子張開嘴,「啊啊嗚嗚」地嚷嚷一通,越是著急越是說不出來,憋了他一個臉紅脖子粗,最後他忍無可忍,扯著嗓子哭了出來,聲音淒厲,哭聲紮耳。
   他雖然話說不利索,卻有一把嚎喪的好嗓子。
   魏謙胸口堵得快要炸開。
   也許在他漫長的一生裡,退學是件沒什麼大不了的事,可是對於一個一直用功讀書,期待著這能讓他改變命運的少年而言,退學,就彷彿是他一直勉力支撐的、搖搖欲墜的天塌下來了。
   但是天塌了,魏謙也不想和麻子在大馬路上抱頭痛哭,難看死了。
   所以魏謙只是彎下腰,藉著扶車的動作掩去了臉上一閃而過的難過表情,然後他抬起頭,沖麻子擠出了一個滿不在乎、乃至於顯得輕蔑的笑容:「你哭什麼?傻逼,我還沒死呢。退學就退了,你們不都沒上嗎?多大點屁事,至於的麼?」
   麻子哭得更凶了,聲嘶力竭,忘乎所以。
   魏謙終於再說不出話來,他背著老舊的帆布包,垂著手站在麻子兩步遠的地方,看著他的傻兄弟用手抹了一把眼淚。
   凜冽乾澀的寒風和帶著鹽分的眼淚衝開了麻子手上凍裂的口子,露出裡面年輕而鮮血淋漓的皮肉。
   這個漫長的冬天,就從一個油條小弟狗熊一樣的嚎啕大哭聲中,開始了。
   魏謙走上了他的職業流氓生涯,他成了樂哥手下的一個名不見經傳的小打手。
   十四五歲的半大孩子,個子剛剛挑起來,肉還沒跟上骨頭長,臉上也還帶著稚氣,他給樂哥看場子,每天沉默寡言,因為和那些三句話不離女人的大老爺們兒實在沒什麼話好說,打起來卻總是比別人要狠,他心裡似乎存著一股說不出的氣。
   樂哥一開始對此非常失望,畢竟他對魏謙的期望很大,他原本想著把魏謙送到大學,讓他去唸法律類或者財經類專業,樂哥盤算著,自己的買賣不能老見不得光,他要功成名就���明面上的事就要個有會鑽法律空子、會做假賬的人來打理好,這人得伶俐,還得完全信得過,非魏謙莫屬。
   樂哥胸中原本已經排兵佈陣一般地勾勒出了他未來宏偉藍圖來,每個人什麼用處都是一一對號的,可他沒想到自己報以厚望的魏謙竟然這麼爛泥糊不上牆,高中就給他輟學不念了。
   有一段時間,樂哥已經不再去關注魏謙了,因為沒用了。
   可他沒想到,沉寂了一年以後,這個小子竟然打出名來了。
   魏謙畢竟是個少年,體力和真正的成年人不大好比,所以幹打手這種「體力活」不大佔優勢,樂哥也沒有很看重他,一般都只是讓他白天值班——樂哥名下的娛樂場所,其實就是一家夜總會,雖然白天也開,不過就只是個普通的吃飯的地方,晚上才有重頭戲。
   真有鬧事的,一般也都是晚上去,這是業內共識。
   誰知偏偏三十六行,行行出流氓,而真正的流氓行當裡竟然也有不良從業人員,也有罔顧職業操守之輩——那幾個人隸屬於本城另一家娛樂城,老總財大氣粗,想挑了樂哥這個地頭蛇,可偏偏人不在本地,鞭長莫及,於是派了手下安排。
   他的手下是個曠世奇人,湊齊了人慫氣短臭不要臉等幾大特色,一無是處得少見。
   此人仔細尋思了一陣子,覺得晚上去可能幹不過人家,怕進得去出不來,但又不敢違抗老闆的命令,於是別出心裁地在光天化日之下跑去夜總會去鬧場。
   對方帶了十幾個外強中乾的彪形大漢,雄糾糾氣昂昂地來到了人員蕭疏的夜總會踢館。
   白天看場子的,要麼是通過正經管道僱傭來的保安,要麼是魏謙這樣被樂哥當花瓶擺著的半大孩子,裝裝樣子可以,動手可見不了真章。
   踢館的這幾位一看就來者不善,闖進來壓根沒人敢攔。
   那位領頭的,一屁股往大廳一坐,擺明瞭就是搗亂,大聲汙言穢語,調戲端盤子的小姑娘,酒瓶子打碎了一地,本來就不多的吃飯的客人嚇得站起來要走。
   大堂經理皺皺眉,低聲吩咐底下的小兄弟,讓他們給樂哥打電話。
   結果小兄弟還沒來得及去,穿著娛樂城制服的魏謙就面無表情地走了過去,一個鬧事的人以為他是來制止的小保安,一把抓住他的衣領,絲毫不把他放在眼裡:「叫你們老闆來,聰明孩子別出來當炮……」
   「炮灰」倆字沒說出來,他先陡然變了調子,那人一聲尖叫,慌忙放開魏謙,連著往後退了五六步,面露驚懼。
   只見他胸口一道大血口子,血像噴泉一樣地噴了出來,人們這才發現,魏謙手裡拎著一把廚房剁骨頭用的大砍刀。
   魏謙砍人毫不手軟,一刀下去,他連臉都沒抹擦,一手拎著砍刀,一手撿起一個碎了一半的酒瓶,招呼不打,連話也不說,直接就像是殺父仇人一樣地衝上去肉搏。
   有道是「愣的怕橫的,橫的怕不要命的」,這些人避開晚上人流高峰,挑白天清淨的時候過來鬧事,可見本來也不是什麼橫的。
   於是十幾個人,當場就被一個不要命的全部幹翻了,以其驚世駭俗的金玉其表、熊包其中成全了這一段傳奇。
   樂哥聽說這事帶人匆匆趕來的時候,戰局已經結束了,就見了現場一地的血和酒水。
   半個身體鮮血淋漓的少年身上就剩了一件白背心,坐在沙發上,伸著胳膊讓聞訊趕來的三胖哆哆嗦嗦地給他清理胳膊上的碎玻璃碴子,手不自然地垂著,也不知是脫臼還是骨折。
   然而他好像不知道疼一樣,一聲不吭,甚至連看都不看一眼,只是低著頭,全神貫注地抽著一根煙。
  第八章
   從退學到那場以一對多的架,一整年的時間,魏謙一直過著一種機械而日復一日的生活,這種生活就像是一塊粗糲的磨砂紙,把他身上一點年少跳脫氣像死皮一樣地磨下去了。
   前途的大門在他面前緩緩關閉,時光推著他疲於奔命地走,魏謙原本以為這樣的日子會很痛苦,可是後來他發現,一旦人身處「痛苦的日子」中,反而對「痛苦」的感受不那麼敏感了,他依然能找到一些樂子,並且津津樂道很久,一年過得很快。
   其中就有一場是魏之遠鬧出來的。
   小遠不像小寶,魏謙說什麼他都會聽,一般不用和他多費口舌,可沒想到上學這事,這崽子竟然學會鬥爭了。
   魏之遠死也不願意去上學,他的生活環境比較畸形,對一些生存相關的事知道得格外多,對正常小孩該有的常識卻欠缺得驚人。他對學校毫無概念,小寶和他說,上學就是坐在教室裡學認字和算數,魏之遠想了想,認為自己對認字和算數也毫無興趣。
   小男孩固執地認為上學就是什麼都不幹,每天好吃懶做靠大哥養著。
   這讓他恐懼去學校——儘管那年秋天,魏之遠已經被魏謙撿回來整整一年,跟小寶也混了個十成熟,甚至經常在一起掐吧著打架,他依然有一種隨時會被拋棄的恐懼。
   魏之遠把為這個家做貢獻當做減緩這種恐懼的方式,做家務和撿瓶子賣零錢就是他貢獻的方式,當他被「剝奪」了做貢獻的機會時,魏之遠潛意識裡覺得,這是他被拋棄的前兆,於是開始了他激烈的反抗。
   魏謙每天忙得像狗,當然不會體察少年兒童那點扭曲的小心思,他只是在開學那天早晨,簡單粗暴地把魏之遠和宋小寶從家裡拎出來,不顧魏之遠的撲騰回手反鎖上門,然後一路連拖再拽地把他們倆送到了學校。
   其間,魏之遠表現得像個炸毛的貓,被魏謙連人再書包一起拎著,腳不著地,懸在半空中,以狗刨的姿勢連抓再咬無所不用其極,不時引起路人圍觀。
   出門遇上三胖,三胖一看就樂了:「喲,謙兒,這是要幹嘛去?他掙吧得這麼厲害,是不是你終於決定要把他倆宰了吃肉啦?」
   魏謙狠狠地在魏之遠屁股上扇了一巴掌:「聽見沒有,丟人現眼的東西,待宰的豬都比你視死如歸!」
   魏之遠臉紅脖子粗地宣佈:「我不上學!」
   宋小寶起鬨架秧子,蹦蹦跳跳地跟在旁邊,歡快地在學舌說:「那我也不上學!」
   魏謙剛要說話,身邊突然又炸開另一聲帶著哭腔的自由宣言,一個小男孩也是被他爸強行拎到了學校,一路哭得肝腸寸斷,傷心欲絕地說:「我不想上學!」
   男孩媽邁著小碎步緊跟著,在旁邊絮絮叨叨地對那熊孩子進行思想教育,魏謙側耳聽了一陣,發現她從科學家說到了賺大錢,又從遠景未來說到了晚上給買醬肘子,天文地理、上下五千年,無所不包。
   做大哥的少年沒法認同這種繁瑣教育方式,他走簡潔路線,當即冷笑一聲,轉過頭來高貴冷豔地掃了這倆熊孩子一眼,冷酷無情地說:「我問你們倆的意見了嗎?有你們倆說『不』的份嗎?」
   一句話出口,擲地有聲,魏之遠頓時不吭聲了,宋小寶本來就是純屬跟風,立刻也見好就收不搗亂了,連旁邊那一直哄不好的熊孩子都跟著抽噎一聲,莫名地不敢哭了。
   魏謙在學校門口把魏之遠放下,衝著小學一揚下巴,用大赦天下一般的口氣說:「進去吧。」
   宋小寶走了兩步,回頭看了一眼,發現魏之遠還在原地,又猶猶豫豫地站住了。
   魏謙耐心徹底告罄,沉下臉看著小遠:「反了你了,你想幹嘛?」
   魏之遠梗著脖子不吭聲,魏謙冷笑一聲:「愛去不去,誰還求你,有本事你滾啊。」
   魏之遠本能地退了一步,他不怕大哥發火,就怕大哥這樣毫無人情味地冷嘲熱諷。
   魏謙懶得慣著他毛病,轉身就走。
   魏之遠心裡委屈極了,一直以來,他都努力地想要多親近這個人一點,想要多為這個人多做一點事,可好像無論他怎麼樣,對方都毫不領情,大哥就像是一個他永遠也討好不了的人,總是給他這麼一個轉身就走的背影,連笑容都是那麼的稀有。
   魏之遠突然撲上來,照著魏謙的手腕咬了一口。
   魏謙本能地縮手一別手腕,少年那突兀而堅硬的腕骨就磕到了男孩的門牙上,魏之遠突然鬆了口,魏謙低頭一看,就看見那小孩吐出了第一顆掉下來的小乳牙。
   魏之遠當時的表情簡直愣住了,從來沒人跟他說過換牙的事,牙被磕掉打掉他都能理解,但是自己掉下來,他就怎麼也不能理解了。
   在魏之遠的認知裡,胳膊腿都能被砍掉,砍了也不會死,可它們會無緣無故地自己掉下來嗎?
   魏之遠蕭蕭瑟瑟地站在那,呆呆地盯著自己掉下來的門牙,臉上露出了一個震驚恐懼的表情,好像電視劇裡那些剛聽說自己得了絕症的人。
   魏謙成功地被他詭異的表情娛樂了,陰沉的臉險些沒繃住,連忙轉過身去,笑著走了,甚至���了計較那小狗咬了他一口的事。
   魏之遠心煩意亂,偏偏還有唯恐天下不亂的,宋小寶這個成事不足敗事有餘的同志瞧見,在旁邊大驚小怪地嚷嚷:「哎喲,你的牙掉了,想必是中毒已深,時日無多了!」
   魏謙花了五塊錢收購了一個別人扔了不要的舊電視,回家修好了,宋小寶這幾天正在看武俠片,學了滿嘴狗屁不通的台詞。
   說者無心聽者有意,魏之遠聽了她的話臉色煞白,本能地抬眼去找魏謙,卻發現人已經走了。一時間,巨大的淒涼湧上了魏之遠的心,他魂不附體,渾渾噩噩地被宋小寶拉進了學校,茫茫然地想:「我就要死了。」
   魏之遠不再就上學的事和魏謙做鬥爭了——他就要死了,一切的鬥爭都沒有意義了。
   那段時間魏之遠午夜夢迴,經常會在一片黑暗裡坐起來,感受著自己越發活動的其他幾顆牙,自覺命不久矣,他內心遭受著生離死別的折磨和刺痛,近乎貪婪地看著魏謙平靜的睡顏,好像想把大哥印在腦子裡,帶到下一個世界去。
   一個月以後,魏之遠的牙掉了三顆,說話都開始漏風,他就不再說話了,擺出一副沉默的等死架勢。
   在此期間,別的小孩漢語拼音還沒學利索,魏之遠已經以他超常的學習能力和異於常人的動力自學了課本後面的常見字——他的動力就是,要趁自己死之前,留下一封遺書。
   為了這封遺書,魏之遠特意請教了老師如何使用字典,每天下課時間、玩的時間,他都在老師借給他的舊字典上拚命認字。
   因此,魏之遠心無旁騖,認為快死的人沒有必要結交同學,所以對所有人都漠不關心,也就理所當然地沒注意到,班上有成群結隊的像他一樣說話漏風的小豁牙。
   終於,到快要期中考試的時候,魏之遠以「人之將死」的毅力認識了上百個漢字,順��語文考了滿分。
   他「寵辱不驚」地絲毫沒有關心老師的表揚,搶在牙掉完之前完成了他的大作——遺書一封。
   那天正好麻子和三胖都在魏謙家裡吃飯,魏之遠鄭重其事地把那封遺書交到了魏謙手上。
   三胖不著四六地問:「喲,弟弟,剛上倆月的學就會給你大哥寫情書了啊?」
   魏謙含著筷子接過來,三兩下拆開,饒有興趣地開始看,魏之遠掃了他一眼,心情沉痛地低下了頭:「是遺書。」
   三胖沒聽清:「是什麼?」
   魏之遠就像一個將要犧牲的戰士那樣平靜地說:「是遺書,我就快死了。」
   所有人都以一種詭異的目光注視著他。
   半晌,麻子問:「你……你、你怎、怎麼判斷出自、自己快要死了?」
   魏之遠覺得喉嚨裡被堵住了,這使得他的聲音聽起來氣如遊絲:「我掉了好幾顆牙,還有好幾顆也活動了。」
   三胖滿是橫肉的臉抽搐了一下,小心翼翼地問:「那你就……沒覺得掉了牙的地方還有新牙在往外長?」
   魏之遠終於忍不住哽嚥了:「那不是迴光返照嗎?」
   眾人沉默了兩秒鐘,隨後三胖和魏謙互相看了一眼,同時爆發出一陣大笑,唯有麻子還算厚道,勉力抑制:「筆——耶別、別笑,你……們別——笑話他,他、他還還小呢……」
   魏謙被自己的口水嗆住了,滾到了沙發上,不住地咳嗽,邊笑邊咳嗽,眼淚都出來了。
   大哥在家裡老是端著,一副不苟言笑的家長派頭,還從沒在他們面前這樣肆無忌憚地大笑過,魏之遠幾乎呆住了,一時間連「生離死別」都忘了。
   他沒想到,那任他怎麼討好都熟視無睹的大哥,就這樣被一封烏龍的遺書逗得前仰後合。
   所以後來魏之遠不知出於什麼想法,自己偷偷地把那封「遺書」珍藏了起來。
   後來魏謙在樂哥的夜總會裡一戰成名的時候,小寶和小遠都已經安安穩穩地升上了二年級。
   據說那天有不少人當場就被魏謙給鎮住了,而當時正好在本地的一位南方來的大佬胡四爺還對他頗為賞識,偷偷叫人給他遞過名片,企圖挖角。可惜魏謙拖家帶口,走不開,只好拒絕了胡四爺的好意。
   從此「小魏」,變成了「小魏哥」。
   魏謙的胳膊確實是骨折,到醫院固定了一下,樂哥對他的態度再次三百六十度大轉彎,十分慇勤地親自開車把他送回家,又打電話叫來了麻子,讓麻子幫忙好好照顧一下,近期不用來上班了,工資照開。
   麻子為了維持家用,也在樂哥手下做事——麻子負責每天清晨的時候打掃夜總會裡的衛生。
   他打掃得兢兢業業,可惜沒什麼大出息,如果不是因為魏謙的緣故,樂哥都不一定記得住他。反倒是三胖,隨著年齡的增長,他開始和樂哥這幫人漸漸疏遠,縱然依然藕斷絲連,也只是唸著哥們兒義氣,偶爾有事的時候能給幫個忙,支個手。
   三胖似乎對殺豬賣肉這個家傳的手藝更有熱情。
   魏謙拖著一條斷了的胳膊回到家休息的時候,兩個崽子放學回來了。
   魏之遠包都沒放下就撲了過來:「哥!」
   麻子忙一把攔住他:「可、可不……不能撲他,他……他的胳……膊……」
   魏之遠皺緊了眉:「胳膊怎麼了?」
   魏謙叼著煙,含含糊糊地說:「狗咬了一口。」
   宋小寶沒心沒肺地說:「狗咬了一口怎麼包得跟個粽子似的?」
   魏之遠小臉繃得緊緊的,還要追問,魏謙已經明顯不想說了,他擺出嚴肅的表情:「寫作業去,廢什麼話?大人的事你們少管。」
   就這麼著不由分說地把倆孩子打發了。
   麻子看了看心不甘情不願的魏之遠,又搓了搓手,轉頭對魏謙說:「晚、晚上絲——三哥給你做、做飯,我、我還是、還是得去——去……」
   樂哥雖說大方地放了他的假,但麻子卻不敢當真。
   麻子有些不好意思地看著魏謙,磕磕巴巴地試圖和他解釋。麻子就是這麼一個實心眼的人,讓他偷奸耍滑他也不會,魏謙不是第一天認識他了,擺擺手:「行了,我知道,你去吧,你啊!」
   麻子艱難地囑咐說:「筆——耶別碰水,小、小心……」
   魏謙:「得得,您快行行好,少說兩句吧,您老人家省勁,我也能多活兩年。」
   麻子走了,三胖在廚房做飯,魏謙百無聊賴,隨手拿起一本小寶他們的課外閱讀材料看了起來。
   閱讀材料是學校發的,給二年級的孩子看的,一般是英雄人物之類的勵志故事,看完讓寫讀書報告,有時候還會讓家長監督,在作業上籤字。
   魏謙看了幾篇,忽然就覺得自己挺熊包的,故事裡,人家要麼是小小年紀為祖國拋頭顱灑熱血了,要麼是身殘志堅,克服萬難依然好好學習天天向上,好像誰的困難都比他的大,可是人家照樣能成為榜樣。
  第九章
   魏謙小的時候也讀過好多這樣的勵志故事,可都忘了,大概是情感發育不是很跟得上平均水準,當時念了毫無感覺,直到現在才稍微有點觸動。
   他隨口跟倆孩子說:「你們老師有點水準,選的課外閱讀不錯。」
   做飯的三胖從廚房裡探出頭來,在一堆煎炒烹炸的聲音裡說:「講了啥?來大點聲給哥唸唸。」
   魏謙就清了清嗓子,打算給三胖展示一下升旗講話的嗓音,結果他一個字都還沒來得及念出來,魏之遠那小崽就突然在旁邊煞風景地說:「哥,我不想上學了。」
   他舊事重提,魏謙沒搭理他,也沒當回事,因為他作為一個稱職的封建家長,打算把獨裁的光榮傳統進行到底,上不上學這種事,根本輪不著小崽子自己發表意見。
   魏謙衝著廚房的三胖嚷嚷說:「讓你也受受教育,我看看從哪段開始……嗯,就這篇吧——理想……」
   「哥。」魏之遠走過來,蹲在魏謙面前,直勾勾地看著他,又說了一遍,「我不想上學了。」
   小寶慣於添亂,連忙顛顛地跑過來,脆生生地說:「哥,他不學好,打他。」
   魏之遠皺皺眉,義正言辭地對她說:「你一邊去,哪兒都有你。」
   「你才給我一邊去,」魏謙隨手拿課外閱讀材料在魏之遠腦袋上打了一下,順口溜出一句,「再說一句老子打斷你的腿。」
   這句話是有出處的,魏謙小時候,他們班有一個同學,因為調皮搗蛋被老師找了家長,同學他爸就是這麼在那小子腦袋上打了一下,惡狠狠地說:「再逃學一次老子打斷你的腿。」
   幼小的魏謙一直覺得這種說法很有家長範兒,那時候他還年少無知,就把這句話寫在了摘抄筆記上,結果讓老師打了個大叉……
   總之,他一直渴望能套用這句話教訓別人一次。
   魏之遠看著他吊起來的胳膊,神色複雜。
   他第一次抗拒上學,是因為根本不知道上學是幹什麼的,但這一次,小男孩經過了深思熟慮,並且有理有據地說出了自己的想法:「我不想上學了,上學挺好的,可是要上好多年,花好多錢,我還是跟你出去掙錢吧,我會幹活,會打架,能養活自己,也能養活你。」
   可惜魏謙是個沒法溝通的人,小遠的有理有據被當成了耳邊風。
   魏謙低頭看了魏之遠一眼,覺得這個小崽子是不知天高地厚,他手癢,想揍這小崽一頓——魏謙想,自己每天披星戴月出去,隨著業內競爭壓力增大,他得時刻流血流汗地準備跟各路同行鬥智鬥勇,結果被小崽子一說,好像這麼有技術含量的事是個人就能幹似的,真他娘的不當家不知柴米貴,一點也不知道別人養著他的辛苦。
   可是呢,魏謙一看他那認真而信誓旦旦說要養活自己的模樣,就沒下去手。
   小東西……好歹有點良心。
   於是魏謙敷衍地對他說:「那你好好唸書,將來大學畢業不行,碩士博士也不行,你得博士後,博士後後後,叫別人是『刀克特』魏,你爭取給咱弄一『剪克特』魏,那才牛掰呢。」
   魏之遠低下頭,他讀了點書,懂了點事,聽出大哥這是在逗他玩,這件事顯然是沒有商量的餘地的。
   宋小寶這個熊孩子笑嘻嘻地湊過來,搖頭擺尾地討打說:「剪克特魏,嘿嘿嘿嘿。」
   魏之遠:「一邊去,小丫頭片子。」
   宋小寶不甘示弱:「我才不是『片子』,我是『鼓子』!你是個蘆柴棒頂著的羊糞球!」
   魏之遠:「……醜丫頭片子。」
   宋小寶憤怒地尖叫:「羊糞球!」
   魏之遠冷靜地回覆:「叫你自己呢。」
   倆人於是掐到了一塊,魏謙在旁邊看著,沒有一點拉架的意思,巴不得他們倆掐得熱鬧點,看小孩打架也是他的娛樂項目之一,反正打不壞。
   剛來的時候,魏之遠的眼神是非常野性難馴的,性格也總比同齡人沉悶些,每天和在家裡喋喋不休地發表自己毫無建樹的看法的小寶形成了鮮明對比,那時候,乍一看,魏之遠就像是把一個青春期的大孩子塞進了一個小傢夥的身體裡,總覺得人跟模樣不配套。
   然而最近半年以來,他卻越來越「小」了,言行舉止也跟著幼稚了起來。
   魏之遠一邊和小寶掐架,一邊餘光瞥著魏謙,發現吊著一條胳膊的大哥喜聞樂見地圍觀他們倆的戰鬥,這才有幾分表演性質地繼續搓宋小寶的火。
   自從上次換牙鬧出笑話來之後,魏之遠無意中找到了一個討好大哥的方式——就是把智商拉到和宋小寶一樣的高度,時常和她一起做些讓人啼笑皆非的傻事。
   他們倆表現得越幼稚、越缺心眼,大哥的態度就會越隨和一點,少裝腔作勢一點。
   於是魏之遠越發地朝著這條路走了下去。
   他的天生資質原本能讓他長成一個炫酷的人,然而他卻走上了一條二逼的道路,人生際遇,真是難以捉摸。
   魏之遠對魏謙和這個家的感情是非常熾熱的。他和別的孩子不一樣,別的孩子天生就有家,魏之遠沒有,他把「家」當成了一種事業來經營。
   只要能留下來,留在這個家裡,別說只是裝傻充愣,讓他拚命都可以。
   小遠始終記得,有一天,他白天在學校裡被凍感冒了,總是冷,睡著了以後不自覺地鑽進了魏謙的懷裡,窩在那暖烘烘的懷裡,一直睡到了第二天。
   清晨,男孩醒過來的時候,趴在那半天沒捨得動地方,他睜大了眼睛抬頭望著身邊熟睡的少年的臉,突然默默地在自己心裡叫了一聲「哥」。
   大哥自然是聽不見,但魏之遠這樣在心裡叫過了。
   小遠和小寶這場熱鬧紛呈的戰爭最終被三胖終結了,三胖一手一個,像拎小狗一樣把倆崽子扯開了:「哎喲小祖宗們,這是要大鬧天宮啊?咱先休戰啊,吃完飯提槍再戰,不著急!」
   三胖把蛋炒飯從廚房裡端出來,盛在一個小盆裡,也沒拿碗,拎了四個勺子,一人一個,圍著一盆飯開吃。
   三胖這貨好為人師,比唐僧還嘮叨,飯都堵不上他的香腸嘴,他邊吃邊教育孩子:「小朋友們要有理想,不能一天到晚跟大肚子蟈蟈似的,沒完沒了地掐,你們哥他就是個二百五,也不管管……」
   魏謙無辜被波及,剛想收拾這胖子一頓,好讓他知道知道馬王爺有幾隻眼,可他還沒來得及開口,倆崽子就同仇敵愾地衝三胖嚷嚷:「不許說我哥!」
   三胖:「……」
   魏謙一人給夾了一塊火腿腸:「幹得好,多吃點。」
   三胖的大餅臉扭曲了一陣,仗著臉皮厚,勉強將方才的話題進行了下去:「行吧,不提你哥——你們看,在學校學了那麼多關於理想的課文,跟三哥念叨念叨,你們的理想都是什麼呀?」
   小寶說:「我想當歌唱家。」
   魏之遠樸實無華地說:「掙錢,養我哥。」
   小寶看了他一眼,又補充了一句:「我當了歌唱家要掙大錢,養我哥。」
   三胖就像個猥瑣的兒童誘拐犯……不,就像個偉大的教育家那樣,諄諄善誘地對魏之遠說:「你看,小寶這個理想比較有目標,那小遠你呢,你要養你哥,你該怎麼掙錢呢?」
   魏之遠眼皮也不抬地說:「我可以看場子,賣碟,辦證,拔份兒……」
   三胖頓時痛心疾首,轉過頭來對魏謙說:「謙兒啊,我看你這孩子沒救了。」
   魏謙看向一本正經的魏之遠,目光落在了他鼓起來的腮幫子上,忽然挺想笑的,於是他就笑了,順便言簡意賅地給三胖指了一條明路:「滾!」
   他一笑,魏之遠就覺得自己這一天晚上撒潑打滾也值了,於是不再吭聲,省下力氣來,兇狠地低頭扒飯。
   魏之遠吃飯的模樣非常兇殘,好像要把每一顆飯粒都變成他的骨頭和肉。
   其實魏謙也有理想,他原來的理想,是要當一個科學家,穿著白大褂在實驗室裡轉,記錄各種數據,寫寫論文,打打材料,研究點什麼,每天吃飯也研究,睡覺也研究,除了研究的東西,什麼也不往心裡去,衣食不愁。
   當然,魏謙心裡明白,眼下這理想已經變成了幻想,於是也就沒和別人提過,假裝他一出生就是根社會上的老油條,從來沒傻逼過。
   三胖做了飯,吃完飯還要負責刷碗,他一邊洗一邊發牢騷:「唉,你三哥是上輩子欠了你的錢啊,這輩子給你當童養媳……」
   這話正好被經過的魏之遠聽見,魏之遠二話不說地擼袖子:「三哥,我洗。」
   三胖哭笑不得地揮揮手:「還有搶著當童養媳的,你還是快跟小寶看動畫片去吧。」
   魏之遠抬頭請示魏謙,魏謙對他以一釐米的上下浮動點了個頭:「去吧,別在這絆腳。」
   打發走了孩子,三胖才開口對靠在廚房門框上的魏謙說:「你那胳膊疼不疼了?」
   魏謙點了根煙:「還行,有點。」
   三胖沒跟他貧嘴,沉默了片刻,三胖難得正經地問他:「你想怎麼著?一直這樣下去?」
   魏謙早看出他是有話憋著,沒吭聲,等著他說。
   三胖比他和麻子都大一些,已經快二十歲了,想得也比他的兩個小兄弟多一些:「我這麼說你別不愛聽,樂哥——樂曉東那人,不是什麼善茬,你跟著他混,能有什麼好下場?哪怕你去工地板磚,賣得是力氣,樂曉東給的那兩塊錢,是要讓你賣命。」
   好一會,魏謙才反問:「我能幹什麼去?」
   「幹什麼不能吃飯?」
   魏謙靠在門框上,茫然地想了片刻,低頭看看自己被包得粽子一樣的手,感受著裡面透出來的絲絲的鑽心的疼,低聲說:「我什麼也不會。」
   「你打工也好,做小買賣也好,」三胖頓了一下,說,「大不了你跟著三哥,咱倆開車拉熟食去,不也算個營生嗎?」
   魏謙輕輕地笑了一下,沒吭聲。
   「只要你點頭,回去我就跟我爸說……」三胖說到這,突然若有所感地回了下頭,他發現魏謙已經不在那了,就這樣非暴力不合作地走人不聽了。
   三胖住了嘴,憤憤地甩了一把手上的水,怒氣衝衝地說:「孫子,早晚有你後悔那天!」
   三胖跟他是打小的交情,總不會害他,魏謙心裡知道,他說得話都有道理。
   他在娛樂城一年多,已經漸漸放下了對樂哥的盲目崇拜,他幹的是什麼營生,魏謙也多少知道一點。
   魏謙有時候也會想,為什麼別人再苦再難,都能走一條正路,只有他自己這麼孬種呢?
   是他願意當一個流氓嗎?
   他雖然混,卻也知道好歹,他在學校當了那麼多年的好學生,可不是為了輟學當流氓的。
   是為了錢嗎?
   是,魏謙承認,樂哥給他的錢多,可三胖說得對,他賣的是命,錢再多一倍也劃不來。
   那是怕吃苦嗎?
   大概也不是,是板磚手上磨出的大泡和曬爆的皮疼,還是被人一棒子活生生地砸斷胳膊疼,這不好比。
   那是為了什麼呢?
   魏謙無數次地這樣問自己,後來他發現,大概還是他那一點要了命的自尊心在作祟。
   他從生在這個世界上、第一聲啼哭開始,就註定了低人一等,所以當他稍微長大了一點,稍微有了一點選擇的餘地時,他就死也不願意再低下頭——哪怕是像現在這樣兇狠地、讓所有人都畏懼憎惡也好。
   讓別人都怕他,總比看不起他強。
  第十章
   樂哥讓魏謙先上著白天的班,等胳膊拆石膏了,就轉到晚上去。
   夜總會的夜班待遇非常好,兩撥人倒班,一個班只有四個小時,錢卻是白天的三倍,這意味著他每天只上四個小時的班,就能讓自己一家人過上非常寬裕的日子——當然,拿高薪的是打手,不是麻子那種苦哈哈打掃衛生的小弟。
   以魏謙的資歷,原本是不能上這個榮耀的夜班的,樂哥為了表示親近,��自和經理吩咐了,破格提拔。
   麻子羨慕得不行,魏謙卻沒什麼喜色,煙抽得反而更凶了。
   前途凶險而迷茫,即使魏謙是個錢串子,他也很難對那些多出來的收入表達喜色了。
   這一天,宋小寶和魏之遠放學回家,魏謙把一個兩斤多的小西瓜一切兩半,讓他們倆一人一半拿勺子挖著吃,吃完寫作業去。
   宋小寶盤腿坐在沙發上,吃得滿嘴都是西瓜湯,興致勃勃地邊吃邊說:「哥,妞妞姐死了。」
   魏謙一愣:「誰?」
   「妞妞姐,這麼高,臉上有兩個小窩窩,眼睛是這樣的,梳……這樣的頭髮,在前面小平房那邊住……」宋小寶描述眼睛就伸手撐開自己的眼睛,描述到頭髮就去揪自己的頭髮,一席話說得手舞足蹈,全是肢體語言,可見她一年級語文就不及格是有原因的。
   魏謙往後一仰,躲她遠了點:「你給我坐好了,好好說話,噴我一臉——死了?怎麼死的?」
   「這樣死的。」宋小寶說完,原地翻起白眼,抱著她的半個西瓜往旁邊一倒,一行西瓜汁應景地從她嘴角淌了出來。
   魏謙:「……」
   他的小妹妹儘管還年幼,可有一種透過現象刺穿本質的超凡脫俗的模仿能力。魏謙第一次覺得這丫頭長得不好看也挺可惜的,不然等她長大了,說不定能當個演員。
   魏之遠在旁邊冷靜地補充說:「吃耗子藥死的。」
   宋小寶從死亡狀態裡復甦,忙問:「你怎麼知道的?」
   魏之遠像個見過大世面的人那樣淡定地說:「她嘴裡吐白沫,臉是那個顏色的,肯定是吃耗子藥死的,我以前見過。」
   宋小寶崇拜地說:「你怎麼什麼都見過?耗子藥好吃嗎?」
   魏之遠被她這蠢得超出預期的問題問得眉尖一跳,三秒鐘以後,他決定配合這個腦供血不足的蠢貨,於是用一種嚴肅正經的口氣說:「還行吧,花花綠綠的,紅的是西瓜味的,綠的是蘋果味的,耗子都愛吃。」
   宋小寶眼巴巴地:「脆麼?」
   魏之遠:「脆。」
   魏謙:「……」
   魏之遠畢竟是個孩子,魏謙其實看得出,他有時候故意裝傻,不過魏謙一直以為小遠是在討好小寶,沒往自己身上想過。
   ……畢竟,他一生中鮮少得到關懷,連自己都會忽略自己。
   這件事原本魏謙聽過就算了,因為他到最後也沒能通過小寶的敘述想起「妞妞」是什麼人。可是這件被他忽略的事並沒有過去,傍晚,三胖和麻子一起買了菜,到他家來做飯,端菜的時候,三胖故意不滿地踹了魏謙一腳:「老子來伺候你當大爺的是吧?別坐那等吃,不是還有一隻手呢嗎?拿碗筷去!」
   魏謙揚聲:「麻子!」
   麻子俐落地答應一聲,就要替他去幹活,被三胖眼睛一瞪給嚇得縮了回去。
   「麻子啊,」魏謙慢慢騰騰地站起來,中肯地評價說,「您老人家可真是慫得難受啊!」
   麻子不以為恥反以為榮,美滋滋地說:「是呢!」
   魏謙:「……」
   魏謙晃蕩到廚房,腳尖挑開櫃櫥,懶洋洋地往小屋看了一眼,那倆小崽子終於消停了,一人佔著一個桌角,對著寫作業。
   魏謙心情忽然無法抑制地好起來,感覺屋子裡有這麼兩個會喘氣的小東西在,顯得像個家了。
   「謙兒,」這時,三胖突然開口說,「這兩天看著點咱妹妹小寶,放學了別讓她出去瞎跑。」
   魏謙隨口應了一聲:「怎麼了?」
   三胖說:「你知道妞妞吧?」
   魏謙:「嗯?」
   「前邊住著,紮小辮的那個,比小寶大一歲。」三胖往倆小的屋裡看了一眼,壓低了聲音湊在魏謙耳邊說,「那丫頭今天下午沒了,自己吃耗子藥死的。」
   魏謙懶得聽這些別人家的破事,他自己的破事都慮不過來呢,於是不耐煩地看了三胖一眼:「我看你是閒得蛋疼吧胖子,一天到晚不是說媒拉縴就是三隻耗子四隻眼的破事,你……」
   三胖表情凝重地在他受傷胳膊上不輕不重地拍了一巴掌:「你他媽小點聲!」
   「嘶……我操你……」
   三胖嚴肅地說:「你聽我說!那小丫頭是被人糟蹋了,孩子膽小,好幾天過去她都不敢告訴大人,這兩天天熱,聽說最後下面都化膿了,也不知道受多大罪,再不敢說,昨天一時沒想開,自己吃耗子藥自殺了——你對你妹妹上點心行不行?」
   魏謙皺著眉看了他一眼:「扯淡……」
   「誰跟你扯淡?有拿這事扯淡的麼,人都死啦!我有那麼缺德嗎?」三胖瞪了他一眼,「我他媽跟你說正經的呢,這兩天把咱妹妹看緊點,聽見沒有?」
   魏謙難以理解地伸手在自己腰上比劃了一下:「那小屁孩細胳膊細腿的,往那一戳不就是根筷子嗎?有什麼好那個的?誰啊?有病嗎?」
   「跟你丫個不開竅的孫子說不清楚,每天就認識錢,就知道打架,你還知道什麼?」三胖不耐煩地揮揮手,「有些人就是對著正常女人硬不起來,有喜歡那種沒長大的小孩的,還有喜歡男人的呢——妞妞她媽都快哭成神經病了,嚷嚷著要報警,現在被她奶奶給鎖在家裡了。」
   聽見「男人」倆字,魏謙不適應地皺了皺眉,又問:「幹嘛不讓報警,她奶奶老得癡呆啦?」
   「老太太腦子不轉彎,她覺得這事要是報了警傳出去,他們一家都抬不起頭來做人了。唉,總之……」三胖說到這,突然住了嘴,因為他一抬頭,正看見魏之遠不知什麼時候趴在了廚房門邊上,也不知道他聽見了多少。
   三胖給嚇了一跳:「哎喲這倒楣孩子,怎麼走路都沒動靜,跟黃鼠狼似的!」
   黃鼠狼魏之遠面色無異,好像沒聽見他們倆說話,挺胸抬頭地說:「我幫我哥端盤子。」
   「嘿,這小黃鼠狼,還挺會孝順!」三胖蒲扇一樣的大巴掌糊在了魏之遠的後腦勺上,幾乎把他的小腦袋都給包進來了,匆忙地往他後背上一推,「快去吧。」
   說完,他和魏謙對視一眼,兩人不約而同地停下了方才的話題。
   之後好幾天,魏謙都是接送倆孩子上下學的。
   敗家的小學校,早晨上學太晚,晚上放學又太早,魏謙配合他們的時間非常困難。
   早晨還勉強能湊合,下午放學那點鐘尤其缺德,三點多,魏謙離下班還早,他得拖著一條打著石膏的胳膊兩頭跑,每天以最快的速度衝到小學校,急匆匆地把倆崽子弄回家,一人給買個五毛錢的「雙棒冰棍」,然後把他們倆反鎖在家裡,再趕投胎的一般風馳電掣地跑回去。
   字面意思,他真是用腿跑的,魏謙因為要轉到夜班那邊,本來就有好多人暗中看他不順眼,他怕耽誤時間太長,給別人說三道四的機會,又不捨得那點車錢。
   他就這樣活生生地練出了一雙趕超公交車的飛毛腿。
   宋小寶那個沒心沒肺的一點也不知道心疼她哥,對這樣的生活還挺滿意,因為每天有一根半的「雙棒」吃……多出來的半根來自於魏之遠,魏之遠一般會把雙棒掰開,自己先吃一半,剩下一半多數時候就便宜小寶了。
   好吃懶做——他已經完全摸清了這個小妹妹的尿性,並十分擅長對付她了。
   這麼驢拉磨似的來回跑了十幾天,等魏謙去醫院複查的時候,當場被醫生劈頭蓋臉地臭罵了一頓,提出嚴重警告:「你要再這樣,就等著長一條山路十八彎的胳膊吧!」
   魏謙覺得頗有些沒面子,因為麻子就帶著倆小東西在外面等著,這一大兩小一水的沒見過世面,魏謙覺得在他們面前挨訓十分沒面子,自己大哥的權威都遭到了破壞。
   魏之遠一聲沒吭,感覺心裡好像被磕了一下,痠疼痠疼的。
   他心裡生出某種男子漢一樣的保護欲,而軀體依然是幼小稚拙的。
   日益生長的渴望強大的心和兒童有限的生理條件之間的矛盾,構成了魏之遠青春期之前的主要心理矛盾。
   當天半夜裡,魏謙就聽見廚房裡乒乓亂想,他伸手一摸,旁邊的那小子不知什麼時候起來了,魏謙揉著眼低罵了一句,走進廚房,抬手拉開廚房的燈,一邊抬手擋刺眼的燈光,一邊不耐煩地說:「大半夜不睡覺,你瞎折騰什麼?」
   魏之遠正拖著一條長長的鋼管,無辜地抬頭看著他。
   廚房連著陽台的那一半平時是做飯用的,另外這一半就用於堆放各種雜物了,雜物裡不乏各種魏謙隨手丟在裡面的兇器。
   魏之遠就是從這堆雜物裡拖出了一根廢舊鋼管,他這回特意挑了一根比較短的,趁他的手,不至於像上次一樣丟臉地拖拉在地上,手裡拿著武器的時候,他會覺得自己非常有力量。
   魏謙愣了愣:「你拿它幹什麼?」
   魏之遠看了一眼他換了新繃帶的胳膊,挺了挺胸說:「我帶著上學,明天你就不用來了,我帶小寶回來,到家我看著她不亂跑,會反鎖門。」
   他說這話的時候帶著某種理所當然的態度,儼然是個能扛事的小大人。
   魏謙覺得心裡怪窩得慌的,這撿來的小子不是個白眼狼,懂事,知道心疼人,可面上,魏謙卻依然不客氣地皺了皺眉,一隻手把魏之遠拎起來,打開水龍頭把他的小髒手沖了沖:「你還能耐了——把手洗乾淨,給我老實睡覺去,再折騰我揍你!」
   魏之遠順從地沒爭辯,大哥表情雖然臭,話也不好聽,但是魏之遠不在意,反而很愛聽,他是受過真虐待的孩子,分辨得出那種是真正的惡意,哪種只是不同形式的關心。
   不過魏之遠雖然當時是沒吭聲,第二天趁魏謙不注意的時候,他還是把那根水管塞進了自己的書包。
   下午魏謙按著平時的時間跑來接人的時候,卻在半路上就看見了小遠正帶著小寶往家的方向走。
   這倆崽子竟然沒等他,膽大包天地自己回家了。
   因為在馬路對面,他們倆沒看見魏謙,魏謙也沒過去,只是遠遠地在後面跟著。
   雖說是營養充足了、長開了點,那小男孩也不過只比小女孩高出兩個指頭,然而他就像一個有力的保護者一樣,表情嚴肅,一隻手拉著妹妹,另一隻手舉著一根髒兮兮的鋼管,把回家的這一小段路走得如同闖天門陣一樣義無反顧。
   魏謙有些啼笑皆非,他一路目送著倆小孩到了家,魏之遠非常嚴肅地讓小寶先進屋,然後他就像地下工作者一樣舉著那可笑的鋼管,探出頭來在家附近仔細地偵查一番,沒能偵查到敵情,卻發現他哥正吊著胳膊,站在不遠處的牆根下看著他。
   魏之遠愣了愣,隨即,他看見魏謙不但沒有對他擅作主張發火,反而對他微笑了一下。
   魏謙抬起少年人那種特有的、極清瘦的下巴,沖魏之遠點了點,示意他鎖好門。
   魏之遠乖乖地轉身進屋,把門反鎖,爬到床上,扒開窗簾,趴在了窗戶上,看著魏謙點了根煙,默默抽完,算是歇了歇腳,快步轉身走了。
   「哥連口水都沒喝呢。」魏之遠這樣想。
   當天晚上,魏謙回家的時候就驚訝地發現桌子上的搪瓷缸子裡,有人給他涼了一杯白開水,伸手一摸,不涼不熱,溫度正好。
   之後一個禮拜,都是這樣過的,魏之遠獨自帶小寶放學,然後魏謙遠遠地綴著他們倆,看著他們到家鎖好了門,再離開。
   終於,妞妞的事已經過了小一個月,附近沒再發生過別的不太平的事,而魏之遠又看起來非常靠譜,魏謙決定不再接送他們倆了,三個人又各自恢復了生活的正軌。
   結果就真出事了。
  第十一章
   那天魏謙早晨起來晚了,他頭天晚上斷斷續續地做了一宿模糊不清的夢,夢的內容,他一睜眼就不記得了,但肯定是不怎麼愉快的,他直到起床,胸口都被壓得難受。
   他在床邊坐了兩秒鐘,突然想起來倆崽子還要上學,早飯還沒著落,趕緊爬了起來,誰知他到廚房一看,發現魏之遠正在一臉嚴肅地用大勺子攪著開水鍋裡的速凍餃子。
   魏謙靠在廚房門上,輕聲問:「怎麼不叫我一聲?」
   魏之遠回過頭來衝他呲牙一笑,露出兩顆白得要命的小虎牙,討人喜歡極了。
   魏謙在他的腦袋上摸了一把,轉身進了衛生間,他用力揉了揉自己的眼睛——眼皮不知道怎麼回事,一個勁地跳。
   等他把臉洗完,魏謙才想起來,今天早晨原本是想讓麻子給炸幾根油條的。
   魏之遠像做化學實驗一樣一絲不苟地煮完了一鍋餃子,三個人剛在餐桌旁邊坐下來,突然,樓下一聲巨響,好像是什麼東西倒了,緊接著是一聲尖銳得刮耳朵的慘叫,跟著就一片混亂。
   魏謙端著碗推開窗戶往下看了一眼,隨後,他像是火燒了屁股一樣地跳了起來,飯也顧不上吃了,一把抓起錢包跑下了樓。
   只來得及匆匆囑咐了一句:「你們倆自己上學,路上慢點。」
   沒有幾分鐘,樓上三胖也跟著下來了,此時樓下已經圍了一圈人。
   出事的是麻子他們家的早點攤。
   麻子每天淩晨下班,幫他媽把早點攤支起來,炸油條賣豆漿,到九點半左右才收。
   早點攤是露天的那種,幾張簡易桌椅,一個豆漿桶一個油鍋。
   起因是一輛出租車開了過來,這條路平時不走車,因為太窄,一輛車進來幾乎能佔了整條路,司機不知是迷路了還是怎麼的誤闖了進來,就在出租車小心翼翼地往前開的時候,路口那裡突然拐進來一輛電動三輪。
   電動三輪車主在趕路,開得飛快,拐過來才發現前方有車,再要剎車已經來不及了。
   電動三輪的車主本能地一扭車把,車子藉著慣性沖上了路邊,毫無緩衝地撞上了撐著油鍋的小攤,麻子媽正好在油鍋後面炸油條,一鍋沸騰的熱油傾倒下來,整個潑在了她身上,連油鍋再人,被停不下來的三輪車拱出去一米多遠。
   魏謙暴力撥開人群擠進去的時候,簡直連頭皮都炸起來了,因為是天熱,麻子媽只穿了非常薄的短袖和七分褲,大片暴露在外面的皮膚被熱油一燙,頃刻就不能看了。
   有那麼一瞬間,魏謙覺得她都熟了。
   空氣裡甚至散發出某種詭異的肉香。
   麻子整個人都傻了,眼睛睜得快要脫開眼眶,直眉楞眼地在旁邊一動不動,彷彿成了一尊雕像。
   魏謙照著他的臉扇了一巴掌,對著麻子的耳朵嚷嚷說:「你他媽還看什麼看!啊?你媽都熟了,還不去叫救護車!」
   他轉過身對旁邊的人咆哮:「車!把那三輪車搬開!」
   幾個路人忙站了出來,七手八腳地把肇事的三輪車搬走,三輪車主見勢不妙,本能地想溜,被魏謙一隻手拽了回來,一腳踹在了膝蓋窩上,狠狠地慣在地上。
   三胖在後面喊:「謙兒!別管那孫子了,我報警了,交給員警,這他媽鍋都黏在肉上了,怎麼辦?」
   魏謙回頭衝他喊:「我怎麼知道!」
   最後,是三胖的父母用大澡盆接了一盆的涼水抬過來,小心翼翼潑在了滾燙的油鍋上,也不知處理得對還是不對,然後救護車和警車都到了,把麻子媽拉走搶救去了。
   魏謙也不知道為什麼自己一發現出事了,本能的反應就是拎起錢包往下衝,大概此時此刻他已經有了成為一個錢串子的本能,潛意識裡就覺得只有帶著錢才有安全感。
   不過也幸虧是這樣,麻子那傻逼渾身上下只有十二塊錢五,木呆呆傻乎乎,什麼也不知道,魏謙跟著過去,作為一個獨臂大俠,上上下下跑了個焦頭爛額。
   快到中午的時候,三胖和一個員警過來了,帶來了另外兩個事故當事人。
   說來也是倒楣,這兩個人,一個是開出租的司機,一個是賣雜貨的小販,司機臉色灰敗如喪考妣,小販也不知道是不是被魏謙一腳踹的,腿始終在哆嗦,站著不動都兩股戰戰、搖搖欲墜,活像一片風中飄零的樹葉。
   交通事故,解決是要錢的,麻子媽要是死了尚且好辦,萬一她活下來了,這種重度燙傷,以後指不定是個什麼狀況,說不定還要負責一輩子。
   而要命的是,這兩位偏偏都沒錢。
   可在醫院的樓道裡,面對著幾雙沉默地、彷彿要把他們扒皮抽筋一般的眼睛,「希望正在搶救的人死了」這種話,是無論如何也說不出來的。
   巨大的恐懼和不知所措無從發洩,騎三輪車的小販突然「噗通」一聲跪在地上,撕心裂肺地大哭起來。
   隨行員警問三胖:「你是他們什麼人?」
   三胖:「鄰居。」
   員警「哦」了一聲,又問:「小孩是她兒子吧?那女的他們家還有誰?她男人呢?」
   三胖:「死了,就孤兒寡母。」
   員警頗為動容,但對此情此景,他既不知該發表什麼感慨,也不知該給什麼建議,好一會,才嘆了口氣:「這不好辦,都沒錢,肇事方肯定無力承擔賠償金,你啊……唉,還是讓家屬做好心理準備吧。」
   三胖抬起眼,茫然地問:「那……不賠錢怎麼辦?」
   員警想了想:「家屬可以起訴——不過我跟你說句實話,省省,起訴也沒用,這種事法院多半會判肇事方賠償,可判不判沒區別,賠不起照樣賠不起。」
   彷彿是為了印證他的話,跪在地上的小販突然用力地在地上磕起頭來,磕得地板都在震顫,完全是要一頭撞死的模樣,嘴裡含糊不清地喊著:「你們讓我給她償命吧……我家裡還有個病婆娘,孩子才五歲……我怎麼辦啊?我沒辦法,求求你們了,求求你們了……讓我給她償命吧!」
   一直沉默的麻子突然沖上去,瘋了一樣地對著那人拳打腳踢,眾人趕緊上去把他攔了下來,魏謙吃力地用一條胳膊抱著他的腰:「行了行了,打死他有什麼用?」
   麻子喉嚨裡爆發出一聲嘶啞的吼叫,像是一隻受傷的野獸,把全身的力氣都吼出去了。
   而後他忽然全身脫力一樣踉蹌了幾步,背靠著牆滑了下來,摀住臉,肩膀劇烈地顫動了起來。
   受害人依然在搶救,生死不明,肇事人和受害人家屬在外邊面對面地痛哭。
   隨行的員警大概是個剛上班沒多久的年輕人,臉上稚氣未脫,還沒能習慣人間無可奈何的生老病死,臨走的時候,他翻遍了全身,也沒能翻出什麼值錢的東西來,只好頗為自嘲地對三胖說:「我也是個窮人啊。」
   然後他把證件和卡抽了出來,把錢包留下了,裡面總共有兩百塊零三十塊的紙幣,還有一把鋼鏰。
   魏謙和三胖陪著麻子在醫院一整天,傍晚的時候,魏謙的眼皮莫名其妙地又開始狂跳。
   他跟三胖打了個招呼,出去透了口氣,抽完一根煙,掐算著時間差不多,倆孩子已經到家了,於是用醫院門口的IC電話撥通了家裡的號。
   那時候市面上已經有手機賣了,可不是他們這種人能用得起的,不過家用座機電話倒是隨著手機上市而走下了神壇,變得便宜起來。
   儘管如此,魏謙家的電話號碼只有樂哥和幾個好兄弟知道,魏家長定的家規,電話嚴禁濫用——電話費是要收錢的。
   電話通了,沒人接。
   魏謙皺了皺眉,掛上電話,等了一會,又撥了一遍,還是沒人接。
   第三遍電話沒人接的時候,魏謙的心已經狂跳了起來,身後有等著排隊打電話的人不耐煩地開口催他:「哎,小夥子,你電話打完沒有?這麼多人都等著呢!」
   魏謙殺氣十足地抬頭看了他一眼,對方頓時不敢吱聲了,罵罵咧咧地嘀咕了兩句,轉頭去找其他的公用電話。
   魏謙不死心,又打了幾遍電話,一遍一遍地無人接聽,他手指尖涼得都麻木了。
   「謙兒,怎麼了?」三胖見他許久沒回來,出來找了他一趟。
   魏謙勉強鎮定,舔了舔乾裂的嘴唇,強迫自己壓低了聲音,放慢了語速:「我……我不知道,家裡電話沒人接,那倆小崽子……」
   他說不下去了,意識到自己再說下去,可能就要開始嚷嚷了。
   三胖在他肩膀上推了一把:「你先回去,我在這盯著,我再給你找幾個人幫忙——倆崽子指不定今天沒人管跑哪玩去了,你別著急。」
   魏謙撒腿就跑。
   三胖愣了愣:「你他媽慢點,看車!」
   三胖感覺自己已經算是出身貧寒,然而在他一生中見過的人裡,像魏謙和麻子一樣倒楣的孩子還真是絕無僅有,尤其魏謙,這小子活到這個歲數,好像就沒過過幾天舒心日子,不是在操心,就是在操心,三胖總是憂慮地想,遲早有一天,他得把自己活生生地操死。
   這是福無雙至、禍不單行。
   魏謙一路狂奔回家,直到老遠看見三胖的一個兄弟磊子正蹲在門口,大概是被三胖打電話叫來幫忙的。
   看見磊子正蹲著跟宋小寶說話,魏謙才停了下來,此時,他的後心已經讓汗浸透了,他彎下腰,一隻手撐住膝蓋,大口地喘了一會氣,額頭上一滴汗水落下來,從濃密的睫毛縫裡滲透下去,沒落進眼,順著眼睫毛的邊緣流下去了,簡直像哭了一樣。
   魏謙抹了一把額頭上的汗,這才沉著臉大步走過去。
   他先和磊子打了招呼,道了謝,然後急迫地一隻手捉住宋小寶的肩膀,粗魯地把她扯到跟前,上下一掃,見她除了眼圈有點紅之外,連皮也沒擦破一塊,這才稍微放下點心,而他臉上卻依然凶神惡煞,像審犯人似的審問小寶:「怎麼回事?為什麼不接電話?為什麼不進家?小遠呢?」
   小寶嘴一癟,可算是見到親人了,眨巴著眼睛就要哭。
   還沒等她哭出來,就被魏謙一嗓子吼住:「不許哭!小遠呢?」
   小寶硬生生地把眼淚給憋回去了。
  第十二章
   宋小寶斷斷續續、詞不達意,好不容易才說明瞭事情的經過。
   自從魏謙不再接他們倆放學以後,每天晚上一根「雙棒」的福利就沒有了,對此小寶非常的不高興,可是她不敢開口找魏謙要錢,魏之遠肯定不會要,指望他們大哥能自己能想起這點雞毛蒜皮的屁事,更是天方夜譚。
   於是他們倆商量好,每天走小路沿途撿易開罐,撿回來以後偷偷藏在小寶床下,等著賣錢用。
   這一天不知道為什麼,小遠照常走到一半,突然不讓她走小路了,兩人繞回到了大馬路上,宋小寶不明白是怎麼回事,照例是跟他吵嘴,結果這次魏之遠連招都沒接,不由分說地一路強行拽著她走了。
   當時魏之遠表情太可怕,所以宋小寶最後毫無意義地順從了。
   宋小寶這個同學,她是個非常典型的慫孩子,平時給鼻子上臉,別人聲色一厲,她一秒鐘就能變成一隻小鵪鶉。
   幸虧是個丫頭,不然將來長大了沒準是個當公公的好材料。
   魏之遠帶著她漫無目的地在大馬路上亂轉,先是到了十字路口處的百貨商場裡,七扭八歪地轉了一圈,出來以後他又非常警覺地往周圍看了看,帶著她走了從好幾家小店,都是從前門進後門出,足足在外面晃蕩了半個多小時。
   之後,魏之遠才帶著小寶往家的方向走去,那時天都有點黑了。
   回家要穿過一片小胡同,必經之路,沒法繞。
   宋小寶看見當時小遠不把書包好好背著,而是拎在手裡,書包拉鏈拉開,他一隻手塞在包裡,也不知道是在找什麼,足足找了一路,手都沒拿出來。
   然後她聽見腳步聲,魏之遠的神經好像一下就繃緊了,宋小寶就看見一個男人走過來。
   具體多大年齡,長什麼樣,她哭哭啼啼地也說不清楚,只會說是個大人,像三胖的爸爸一樣大的一個陌生人。
   魏之遠突然使勁推了她一把,讓她快跑。
   直到這時,宋小寶依然弄不明白發生了什麼事,然而小遠的態度帶給了她莫大的恐懼,儘管小寶不知道她自己在怕什麼,可當時就是嚇得汗毛都立起來了。
   她本能地遵從了他的話,跑到了小路盡頭,越跑越害怕,忍不住回頭看了一眼,發現小遠把手從書包裡伸出來了,原來他的書包裡藏了一根鋼管,男孩雙手握住了,側身貼在牆上,警惕地看著那個陌生人。
   瞥見她回頭,魏之遠憤怒地衝她喊:「快跑!打電話找大哥!」
   宋小寶再不敢停歇,一口氣地跑回家,可直到家門口,她才發現,自己根本沒有鑰匙——他家的鑰匙總共有三套,一套魏謙拿著,一套放著備用,還有一套以前是三胖媽拿著,現在給了魏之遠。
   魏謙本意是想著反正這倆孩子總是同進同出,用一套鑰匙就夠了,小寶毛手毛腳的,給了她也怕被她弄丟了,可節骨眼上,倆孩子把這碼事給忘了。
   如果不是碰見接到三胖電話匆匆趕來的磊子,小丫頭現在還主意全無地在門口哭呢。
   魏之遠在外面流浪過,對各種惡意的人比小寶敏銳得多,恐怕是半路上就感覺到自己被人跟上了,所以才帶著小寶繞路,他的處理方法其實很正確,只是孩子畢竟還小,最後到底沒能甩掉對方,還是被堵住了。
   這時,三胖也趕到了,三胖實在不放心,打完電話以後跟著就打了輛車回來。
   一下車,他就上氣不接下氣地對魏謙說:「沒事,謙兒,你放心,樂哥也聽說了,他知道是你家的事以後,立刻派人去幫你找了,你……」
   他的話音突然被打斷,因為魏謙面無表情地抬起手,一巴掌把小寶的臉打到了一邊。
   磊子嚇了一跳,忙跳起來攔在魏謙和小寶中間:「謙兒,哎,謙兒!她還小呢,一個小屁孩子,她懂什麼?你跟她急什麼?」
   三胖比較不客氣,三步並兩步地衝過來,衝著魏謙的耳朵咆哮:「媽逼你是活驢嗎?往哪打呢?小孩的臉不能打你知道不知道!魏謙你是不是瘋了?你個丫挺的玩意兒手那麼重,打聾了她怎麼辦?啊?」
   小寶有生以來第一次挨打,她簡直是震驚的,開始沒反應過來,好一會,才感覺到臉上火辣辣的疼,她難以置信地伸手摀住臉,臉皮漲得通紅,眼眶裡開始蓄滿了淚珠。
   被三胖扯到一邊的魏謙冷冷地看著她:「我看你敢哭!你還有臉哭?」
   小寶果真就不敢哭了,竭力忍著,實在忍不住,她抽筋一樣地抽噎一聲,臉都憋得由紅變紫了。
   魏謙把自己的胳膊抽出來,居高臨下地看著可憐兮兮的小丫頭:「你把他一個人丟哪了?」
   小寶抽抽噎噎地說了一個胡同名:「我……我剛、剛才跟磊子哥說、說過了……」
   磊子趕緊說:「對對,我剛才通知過了,現在有兄弟往那邊過去了,謙兒你別急啊。」
   魏謙彎下腰,直視著宋小寶的眼睛:「明哲保身,臨陣脫逃,宋離離,我教過你這麼做人嗎?」
   這句話裡有兩個詞小寶沒聽懂,可不妨礙她領會了精神。這比大哥抽她一耳光還疼,宋小寶的眼淚終於大顆大顆地掉了下來。
   三胖看不下去,把小寶拉到身後:「你怎麼說話呢?你這是遷怒!非得把你親妹妹搭進去你才爽是吧?你有病啊!」
   魏謙無視了他,從兜裡摸出鑰匙遞給磊子,客客氣氣地說:「謝謝兄弟,屋裡喝杯水去,我今天招待不了,得先看一眼去。」
   說完,他看也不看宋小寶一眼,扭頭就走。
   宋小寶哭得更凶了,三胖趕緊彎下腰把小寶抱了起來,笨拙地像個大熊一樣拍著她的後背,哄著說:「妹妹,咱不哭啊,你哥今年沒打疫苗,狂犬病犯了。沒事,三哥給你找條毛巾敷敷,一會就不疼了,不怕不怕,三哥在這,你哥不敢再打你了。」
   小寶趴在他的肩上,哭了個死去活來。
   在宋小寶的童年裡,她只記得一個人的懷抱,就是她的胖子哥。
   胖子哥一到夏天身上就有股怎麼也洗不掉的汗味,再乾淨都顯得臭烘烘的,更別提有時候他身上還會沾上油煙味、菜味,嗆人得很……然而那幾乎是她能得到的唯一一點溫暖的撫慰。
   她短命的媽死得太早太不體面,以至於她對那個女人沒有任何印象。
   而哥哥……打她有清晰的記憶以來,大哥似乎就沒怎麼抱過她,最親暱的行為也頂多就是在她頭上摸幾把。
   小寶有時候半夜��踢被子,被凍醒了也不蓋上,都是故意的,她裝睡等著哥哥來給她蓋,哥哥會非常輕柔地拉上被子,掖一下被角,有時候還會順手把她臉上的頭髮撥到一邊。
   那是他白天沒有的、難得一見的溫情。
   她哥疼她,小寶知道,她要什麼大哥給什麼,小寶也知道,可是她依然畏懼他,很多時候主動開口要東西,也要得心驚膽顫,並不十分地理直氣壯,因為哥在家裡老是冷著一張臉,皺著眉來去匆匆,甚至沒耐心和她多說幾句話,陪她看一會電視。
   小寶總覺著大哥雖然愛她,愛得卻非常有限,如果她太討人嫌,說不定大哥那一點愛就收回去,不再給她了。
   小寶嚎啕大哭,並不是因為魏謙打了她,其實她更害怕大哥不喜歡她了。
   可惜胖子哥是個糙人,安慰人總也安慰不到點子上。
   魏謙是在半路上碰到小遠的,小遠跟著一個樂哥的小兄弟,那位兄弟叫小賀,跟魏謙雖然不是很熟,但也偶爾有些來往。
   小賀走在前頭,不時回頭看一眼後面的孩子還跟沒跟著,魏之遠見過他一面,算是認識,卻拒絕讓小賀拉著抱著,只肯一言不發地拎著他的鋼管走在後面。
   小東西走路的時候不抬頭,專心致志地看著腳下,從小賀的角度,只能看見他頭頂上小小的發旋。
   小賀找到魏之遠的時候,沒能看見那個傳說中專挑小孩下手的變態,只有一個六十來歲的老阿姨手裡拿著個長把的掃帚守著小遠,不時問他兩句什麼。
   那變態已經跑了,魏之遠外衣鈕子崩掉了兩顆,臉腫起一半,頭上有一條大口子,明顯是有人按著小孩的頭往牆上撞的,鋼管底下的尖沾了一點血跡,牆上和地面上都有尖利的鋼管劃過的痕跡,可見是經過了一番戰鬥。
   這個小戰士從頭到尾沒有放棄他的武器,直到幸運地驚動了一個剛好經過這邊的老阿姨。
   小賀過去的時候,魏之遠正縮在牆角休息,感覺到有人靠近,肩膀明顯收緊聳動了一下,整個人緊繃起來,雖然沒有動作,但是小賀有種錯覺,彷彿自己再往前走一步,那小崽手上的鋼管就敢照著自己的腦袋削。
   小賀停下腳步,試探著叫了一聲「小遠」,魏之遠費力地睜開腫了的眼睛,打量了他片刻,認出了小賀,身體才微微放鬆了下來。
   老阿姨狐疑地看了看這個疑似混混的小青年,不放心地問:「孩子,你認識他嗎?」
   魏之遠點點頭。
   老阿姨這才放心,帶著她的長把掃帚走了,末了感嘆了一句:「都什麼人啊?該槍斃,這世道太亂了。」
   小賀檢查了一下,發現小孩身上的衣服還是完完整整的,好歹先鬆了口氣。
   他在前面走,魏之遠就不遠不近地在他身後跟著,腳步有些踉蹌,但是態度非常強硬,他不讓人扶,也不正眼抬頭看人,小賀覺得這小子小小年紀,身上就有種亡命徒一般的氣質,好像不知道疼,也不知道害怕,本能地會和人拚命。
   小賀也不再試圖和他交談,因為這小崽滿臉血一身傷,還殺氣騰騰的模樣讓他有點毛骨悚然。
   直到魏謙衝過來一把抱起了魏之遠。
   小男孩好像愣了幾秒鐘,才反應過來抱著他的人是誰,他後知後覺地放鬆下來,手裡的鋼管「嗆啷」一下落到了地上彈了兩下,小賀看見那雙佈滿塵土和血的蒼白的小手緊緊地攥住了魏謙的衣服,接著,魏之遠整個人都哆嗦了起來,就好像這孩子天生反應比別人慢半拍,直到這會才明白發生了什麼事,直到這會才剛知道害怕。
   他像小貓一樣叫了一聲:「哥……」
   小賀看著小孩貓崽一樣小心翼翼地把頭埋進魏謙的頸窩裡,還以為他要哭,可是魏之遠到底沒哭,他只是在大哥懷裡瑟瑟發抖了片刻,過了一會,彷彿要確認什麼似的,又叫了一聲「哥。」
   魏謙問:「疼不疼?」
   魏之遠從不知道大哥也有這麼溫柔的時候,幾乎有些受寵若驚,先是本能地點點頭,而後反應過來,又用力地搖了搖頭。
   沒想到他這一搖頭,兩行鼻血就流淌了下來,魏之遠立刻抬起袖子,囫圇地抹下去,偷偷地把沾了血跡的手背在身後,生怕大哥嫌棄。
   可是這回,他那脾氣臭嘴毒的大哥沒有嫌棄,也沒有放下他,甚至允許他膩膩歪歪地伸出胳膊摟住自己的脖子,把頭靠在自己的肩膀上,一路把魏之遠抱回了家。
   魏謙還是個少年,個頭已經差不多了,肩膀卻沒有完全拉開,骨頭有些硌人,肌肉沒來得及長成型,硬邦邦的。
   可是這硬邦邦的肩膀硌得他越疼,魏之遠就越覺得有安全感。
   小男孩不知不覺中,竟然靠在了這麼一個硬邦邦、帶著些許藥味的懷裡睡著了。
  第十三章
   宋小寶和魏之遠這兩個崽子的相處模式,比每年妹子身上流行的衣服還要讓人費解。
   通常是五分鐘之內能在「互掐」和「和好」之間無障礙切換好幾次。
   ……比閃電還要迅捷無常,不是愚蠢的凡人們能跟得上的。
   宋小寶在給魏之遠起外號上,極盡其稀有的語言天分,她最喜歡的幾個外號是「狗崽子」、「大眼燈」、「蘆柴棍頂的羊糞球」(簡稱「羊糞球」)、「小王八」「王八蛋」等等……魏之遠則比較簡潔,通常「醜丫頭」三個字就能眨眼間殺她個乾乾淨淨。
   不過那天以後,宋小寶對魏之遠的稱呼忽然之間不再那麼千變萬化了,她從此將其精簡成了一個「二哥」。
   宋小寶停止了單方面的挑釁,在魏之遠面前,她終於從一個討人嫌的熊孩子,變成了一個可人疼的小丫頭,魏之遠投桃報李,自然也把對她的稱呼精簡成了「小寶」,從此,兩個小崽子從宿敵關係進化成了正常的兄妹關係。
   然而魏謙沒空對這些小孩子們的鬧騰與和好喜聞樂見,他們倆只要不動手,即使吵架了他也看不出來,和好了,他也同樣沒什麼感覺,魏謙天生能做到對自己不感興趣的事熟視無睹。
   那天,魏謙給魏之遠的小臉上抹完消腫的藥,臉上不動聲色,也沒什麼表示,先別彆扭扭地安撫了被他遷怒的小寶。
   小寶淚眼朦朧地看著他,可憐巴巴的小眼神簡直讓人心碎:「哥,你還生我氣嗎?」
   魏謙垂下眼,手指無意識地在身側撚了撚,他臉皮繃得嚴肅,心裡卻尷尬又懊惱,面對他的寶貝妹妹,魏謙既沒有辦法像正常人一樣挺胸抬頭地說「對不起哥不該打你」,也不能乾脆俐落地搖個頭說一句「不生你的氣了」。
   倆人足足僵立了十多秒,魏謙才開腔說:��我……咳,我以後一個禮拜給你們倆十塊錢吧,你不是愛吃冰棍嗎?」
   豎著耳朵旁聽的三胖聽了簡直要絕倒,服了這頭順毛眯眼逆毛炸的驢。
   魏謙擦乾了小寶的眼淚,把她哄好,又把倆孩子趕去睡覺後,他這才走出家門,和三胖他們說:「找到這個人,我必須要廢了他。」
   他說這話的時候,表情和語氣收斂得幾近於平淡,就好像隨便一句「我要去樓下買包煙」。
   大概就是從那時候,少年魏謙開始學會了喜怒不形於色。
   三胖覺得,出於哥們兒義氣,他應該附和,可不知為什麼,他總覺得有一點隱隱地恐懼,當著其他人的面,他沒好意思說,說出來顯得自己很慫。魏謙眼下是樂哥那的紅人,小賀他們多少有點巴結的意思,一個個信誓旦旦地說一定幫他找到這個人,三胖在旁邊拍了少年瘦削的肩膀,一個字也沒說。
   表面上,是別人把話都說盡了,三胖他一切盡在不言中,實際上,在三胖的內心世界裡,某種巨大的憂慮開始浮現出來。
   打架,鬧事,甚至小偷小摸,這些都是混小子們的日常,儘管都不是好事,可捅不出大簍子,可魏謙只說了那麼一句話,就不再提這件事了,轉身去和小賀他們客套地道謝。
   三胖瞭解他,知道他這是在憋著大事,他感覺到那種孤注一擲、無法無天的殺意,覺得魏謙這是要瘋的前奏。
   那一瞬間,三胖衷心地希望那個變態躲遠一點,永遠不要被魏謙找到。
   魏謙確實要瘋,第二天就拆了石膏,轉到了妖魔鬼怪的夜場,這樣,他就能在白天繼續接送倆孩子。
   那時候搖頭丸之類的新型毒品還沒能流行起來,相關的監管也不嚴,夜總會裡什麼都有,有早期的性工作者,也有病病歪歪的癮君子,有年輕人瘋狂的舞池,還有搖滾青年深夜狂歡的劇場。
   通宵達旦,酒氣熏天。
   兩碗黃湯上了頭,幾乎每天都有鬧事的。
   魏謙對付得就是這一幫人。
   他的胳膊剛長好,就開始了新一段密集的幹架生活,他幾乎每天都要帶人打一架,每天淩晨都是一身酒氣一身傷的回來,短短的兩個月,魏謙就以瘋狗一般的姿態,橫空出世,成了一個頗有名望的打手。
   樂哥不虧待有本事的兄弟,那段時間讓他收入頗豐,而那個變態的消息,也一直有小兄弟在給他打聽。
   可不知道是不是三胖少年的祈禱感動了上蒼,竟然真的一直沒找到。
   魏謙的身體在一次又一次激烈的衝突中變得結實起來,也開始有人叫他小魏哥,他以不可思議的速度染上了真正的打手的危險的氣場,和當年那個中午偷偷溜出學校跑到檯球廳蹭飯的少年判若兩人。
   暴力,是一種非常危險的行為,在這種行為中,它能不斷地自我獎勵,自我加強,最後改變一個人的人格。
   沒有接觸過的人,永遠也不會明白為什麼會有人沉迷於暴力。它就像一劑毒品,能在一瞬間點燃身體裡的腎上腺素,能用一種劍走偏鋒的方式建立起扭曲的自尊和自信、安全感、歸屬感、乃至於在小兄弟們畏懼的目光下,魏謙能在其中找到某種程度上的自我「價值」。
   它能帶給人一種類似於「成功」的體驗,而就如同「成功」會在潛移默化中把一個人變成「成功者」思維,「暴力」也會在潛移默化中把人變成「暴力者」思維。
   沉迷於其中的人,會不由自主地開始自我膨脹,規避正常人對「後果」的顧慮,規避其他的解決問題的思維方式。
   畏懼與負罪感會在自我否認的情況下率先瓦解,而後自我控制力開始崩塌,直到最後,這個人所有的良心、道德感與溫情,都會一同在內心泯滅,終於落到一個「不可救藥」的地步。
   有人說所謂「亡命徒」大多是為了錢連命都不要的人,其實並不準確,他們不要命換來的東西,遠比單純的「金錢」的價值複雜得多。
   而魏謙,就步履清晰地走在這條康莊大道上。
   他無知無覺,冷眼旁觀的三胖卻簡直心驚膽顫。
   三胖終於忍不住,第二次私下裡和魏謙說:「你別幹這個了,還是去看網吧,那多輕鬆,白天還能休息一會,咱弟弟妹妹上下學我替你接送好不好?」
   當時已經是深秋了,魏謙仗著年少火力壯,傻小子睡涼炕,絲毫不講究地把腦袋伸進水龍頭下面,用涼水沖洗,聽見這話的時候,正好抬起頭來。
   他拎起一條毛巾把自己劈頭蓋臉地亂擦一通,然後用力左右甩了甩腦袋,回答說:「不用,你別多事。」
   三胖只好再次閉了嘴。
   三哥看著魏謙長大,瞭解這小子,說一遍可以,他知道是好意,也知道領情,說多了他那驢脾氣上來,真能六親不認地急。
   三胖只好岔開話題:「哎,你說那麻子怎麼回事?神出鬼沒的。這街坊鄰裡地住著,我還一天往醫院跑一趟去看他媽,可愣是半個月沒見過他了,怎麼回事?」
   麻子他媽在重症監控室住了好長時間,高昂的住院費弄得這哥仨差點砸鍋賣鐵,最後麻子把他們家房子給抵押出去了,借了一筆錢,好歹讓他媽撿了一條命,可是她燒得不像人樣了,一條胳膊和一條腿徹底截肢,再也站不起來了,估計以後也要這麼不人不鬼地過一輩子。
   以後他們再也沒地方吃她做的豆漿油條了。
   魏謙一愣,他白天沒事的時候也會去醫院,看看賬上還有沒有錢,盡自己能力補上些,但他也有半個多月沒見過麻子了——他還和麻子在同一家夜總會工作呢。
   三胖皺起眉:「你說那孫子二百五兮兮的,不會出什麼事吧?」
   被他一提,魏謙上了心,有一天晚上他正好值後半夜的班,魏謙特意磨蹭了一會,在監控室裡等著,等到了三點多,魏謙已經快睡著了,他看見麻子打掃完第一批退了的包廂走出來,監控很不清晰,魏謙看到距離麻子不遠處還有另一個人,長什麼樣看不清楚,但是一直和麻子保持同樣的距離。
   好像竭力不讓別人發現,他和麻子是一起的。
   魏謙一激靈,他從監控室出去,留了個心眼,避開了攝像頭,小心地跟上了麻子。
   他不敢跟太近,和麻子一起的那個人太警覺,幾次三番地往後看。
   麻子和那人走進了一個避風的小胡同,天還沒亮,魏謙站得又太遠,只勉強能看見麻子掏出一疊錢給那個人,那人接過去以後點了點,然後抽出幾張遞給麻子,又給了他一小包東西。
   兩人匆匆分手,魏謙被深秋清晨的風吹得頭疼。
   確定那人走了以後,魏謙又小心翼翼地跟了麻子一段路,直到他覺得安全了,才走出來,叫了一聲:「麻子!」
   他準備對方才的事好好審問麻子一番,誰知麻子回頭一看,活像只驚弓之鳥一樣,撒腿就跑。
   魏謙立刻追上去。
   麻子跑得像兔子一樣快,在小胡同裡東拐西拐,沒多長時間,魏謙就失去了他的蹤跡。
   魏謙用力踢飛了一塊石子,低罵了一聲:「操!」
   然後回家,在麻子家門口蹲點等著。
   等得天都快亮了,自己家的燈都已經開了,小遠和小寶起床準備上學了,他也沒能堵住麻子。
  第十四章
   麻子好像知道魏謙會蹲在他家門口堵他,乾脆,家不回了。
   他甚至連醫院也不去了,只有賬上快沒錢的時候才神龍見首不見尾地悄悄去交個錢,自從在夜總會裡被魏謙看見一次,他就鐵了心地開始躲著魏謙。
   這天晚上,魏謙不當班,他和三胖不知道第多少次在麻子家門口轉悠,三胖從魏謙手裡搶了根煙,往地上一蹲,盯著地上的螞蟻窩說:「丫夠能藏的啊,哎謙兒,你說那小子當年唸書那會兒,要是有這迂迴的腦子,他能連個數也數不過來嗎?」
   魏謙被他念叨得煩:「閉嘴,那麼多話,你嘴漏?」
   三胖摀住胸口:「你們這群小兔崽子,都兒大不由娘了是吧?我一把屎一把尿……」
   魏謙涼颼颼地掃了他一眼。
   三胖的話音戛然而止,片刻後,他用一種半開玩笑的口氣意味深長地說:「你沒發現你最近戾氣越來越重?毛血旺吃多啦?」
   魏謙沒理他,三樓的玻璃上,魏之遠趴在了窗戶上,指了指某一個方向,衝他們做著口型。
   三胖:「那猴孩子趴窗戶上跟個壁虎似的,幹什麼呢?」
   魏謙一把拉住三胖,拐進了麻子家後面的小胡同,悄聲對三胖說:「我讓他盯著遠處給我望風。」
   三胖大奇:「因為這事,你還給他買了個望遠鏡?」
   魏謙:「沒有,他不知道從哪弄來的塑膠的凹凸鏡,對好焦距自己拿硬紙卷糊的。」
   三胖感慨萬千:「真棒,心靈手巧,科學家的好苗子……臥槽,這是什麼?」
   魏謙從牆角拎起了一個麻袋和一卷麻繩,自己拎起麻袋,把繩子丟給三胖:「躲老子?綁了他。」
   三胖低頭看著手上的一卷麻繩,更加感慨萬千:「真棒,殺人綁票,梁山好漢的好苗子!」
   魏謙走了兩步,回過味來:「你罵我是土匪?」
   三胖:「哎喲喂,寶貝,你可真有自知之明。」
   魏謙:「……」
   三胖看不慣他,所以三天兩頭地要拿話茬刺他兩下,魏謙心裡都知道,但他也不計較。
   他走著自己選的路,生死不論,無怨無悔。
   可如雨中孤身穿行,淒風苦雨,滿身泥濘,別人願意拿手心捂他一下,他只覺熨帖,並不反感。
   麻子遠遠地窺探了一番,確定胖子和魏謙都不在,這才做賊一樣地回到自己家,麻子緊張得要命,一邊哆哆嗦嗦地掏鑰匙,一邊鬼頭鬼腦地四處尋摸,終於,他把鑰匙插進了鑰匙孔,鬆了口氣。
   然而這口氣沒鬆到底,突然,他眼前一黑,被人猛地推在了牆上,那人一膝蓋頂住他的身體,擰住他雙臂的手好像鐵打的,隨後,麻子的雙手就被綁住了。
   麻子心裡一沉,一股難以抑制的尿意湧上來,他第一反應就是被員警逮了,心裡就倆字——完了。
   魏謙和三胖一邊一個架著麻子到了魏謙家裡。
   宋小寶好奇地看著她那被五花大綁的麻子哥,跳出來大喝一聲:「綁票!繳槍不殺!」
   三胖苦笑:「親妹妹,你可真是添得一手好亂。」
   魏之遠連忙一把拉住她,推著她到小屋裡,學著大哥的口氣說:「你數學作業寫了嗎?我不給你抄。」
   沒地方抄作業是天大的事,宋小寶撅起嘴,對綁票失去了興趣。
   魏之遠把她推進屋,從門縫裡往外看了一眼,三胖看見了,連忙滿面堆笑,對他豎了個大拇指以茲鼓勵。魏之遠衝他笑了一下表示友好,卻依然等他大哥的反應。
   魏謙從兜裡摸出一盒夜總會免費給客人備的那種薄荷糖,隔空扔了過去,這回魏之遠眉開眼笑,屁顛屁顛地伸手接住,心滿意足地關門走了。
   三胖覺得此情此景分外眼熟,後來才想起來,此乃標準的馴狗動作——魏之遠就差張著嘴接了。
   「你啊,」三胖搖頭晃腦地對魏謙說,「缺德得祖墳上都烤羊肉串了。」
   然後他們倆一起把麻子腦袋上的麻袋解了下來。
   他們倆都沒想到能把麻子嚇成這樣——麻子的眼神都是散亂的,直到看清了他們倆之後好半晌,呆滯的眼珠才轉了一圈,他倒氣似的深吸了一口,兩腿一軟,一屁股坐在了地上。
   「我嘞個二舅姥爺,」三胖蹲下來,仔細打量他的臉色,「青春痘都嚇白了,你到底是做了多少虧心事啊弟弟?」
   魏謙沒打算廢話,一把扒拉開三胖:「那天和你見面的人是誰?他給了你什麼東西?為什麼要給你錢?你幹嘛見了我就跑?」
   三胖拉他:「慢點慢點,別把他腦子燒了。」
   「燒了更好!」魏謙一把拎起麻子的領子,「你想自己說還是讓我搜你的身?」
   麻子看著他近在咫尺的兄弟,舌頭像是打了結,一個字也說不出來,只能深深地看著魏謙,眼睛裡折射出某種驚心動魄的悲哀。
   魏謙不管他悲不悲哀,說到做到,一言九鼎地開始動手搜他的身,很快,他就從麻子兜裡找到了幾個小紙包。
   魏謙當然知道那是什麼,他死也不會忘了他媽臨終時是怎麼個鬼樣,然而他竟然一時間難以相信,愣了一下之後,他緩緩地拆開了其中一個紙包,裡面細白的粉末終於成了他無法逃避的現實。
   「這是什麼?」魏謙問,隨後他的聲音陡然變了調子,「這是什麼?!」
   一行眼淚從麻子的眼角流了下來,就像一隻在乾涸的河床邊垂死的烏龜。
   魏謙突然跳起來,當胸給了他一腳,可惜沒踹實在,就被三胖一把抱住往後拖到了沙發上,魏謙奮力地想要掙開他:「反正他不要命了,不如我直接打死他,還能乾��環保節能減排呢!」
   三胖作為一個非戰鬥人員,兜不住他,連忙說:「孩子孩子,那倆孩子還在屋裡呢,你別在這喊打喊殺的。」
   一句話,奇蹟般地讓魏謙冷靜了下來,魏謙下意識地回頭看了一眼小屋,發現小屋的門被推開了一條門縫,兩雙小眼睛一上一下鬼鬼祟祟地正往外面窺探,倆崽子一對上他的目光,頓時嚇了一跳,「咣當」一下,欲蓋彌彰地把門關上了。
   魏謙心口一把怒氣,哭笑不得地散了大半。
   而麻子卻再也壓抑不住,他像是胸中壓抑了整個世界的荒涼無望,往後一仰,側身躺倒在地上,雙手依然被綁著,蜷縮成了一個大蝦米,不住地以頭搶地,嚎啕大哭,彷彿非這樣不能發洩他胸中萬中之一的鬱結。
   三胖放開魏謙,蹲下來,圓滾滾的手指沾了一下不小心灑在地上的粉末。
   他靜靜地等著麻子哭了一會,直到他哭聲減弱,三胖才輕聲開口問:「這是『白麵』吧?」
   麻子只是「嗚嗚」地哭,說不出話來,三胖低了下頭,再抬起來的時候眼圈都紅了,他拚命地望向另一邊,企圖把眼淚憋回去,嘴唇不自覺地抿成了一條線。
   「我知道這肯定不是你自己吸的,你幹不出這事,我也知道,是咱媽錢不夠用……」三胖聲音沙啞,至此,卻說不下去了,他深吸了好幾口氣,寬厚的後背就像一個起伏的風箱,才接上了話音,「可這是死路啊兄弟,哥不能看著你往死路上走啊!咱媽要是知道了,她今天晚上就能吊死在醫院的暖氣片上。你怎麼……你們怎麼都那麼不懂事呢!」
   魏謙木著臉,默然不語,麻子的眼淚好像都流乾了,奄奄一息地躺在那,毫無反應。
   三胖的手指在眼睛上抹了一下,不讓別人看出他哭了。
   三個人在小小的客廳裡相對沉默了半晌,魏謙突然走到床頭櫃前,拉開,裡面有一小疊人民幣,都是他最近積攢的,他把錢塞進了麻子放毒品的兜裡,一字一頓地說:「三哥還有父母,做不了他們家的主,我們家我當家,我說了算——你看我這房子,要是出手,能值多少錢?夠養咱媽多長時間?錢用完你就跟我說,有錢我給你錢,沒錢我把它賣了。」
   麻子的目光緩緩地落在他們倆人身上,眼睛裡全是血絲。
   魏謙不耐煩地說:「看什麼看,遇到點屁事就抱頭痛哭,你們倆出息呢?不就是錢嗎?不就是錢嗎?」
   他說到這,接不上了。
   是啊,錢有什麼了不起的?可他們就是沒錢啊!
   魏謙站起來,一屁股坐在了破舊的沙發上,努力地平復著自己的心跳——他聽見了自己胸中困獸的聲音。
   三胖嘆了口氣,把麻子的繩子解開,扶起他,撿起幾包「白麵」,全都順著廁所衝了下去。
   那天晚上,麻子接了魏謙和三胖給他的錢,一聲不吭地走了。
   他走到樓前面——他和他媽原來炸油條的地方,突然停住了腳步,麻子仰起頭,衝著樓上喊了一聲:「啊!」
   魏謙和三胖推開窗戶往下看。
   麻子「噗通」一聲跪在了原地,彎下的脊樑團成了一個蝦,他給他的兄弟們赤誠的情義磕了個頭,然後伸手摸了一把額頭上的泥土和草屑,站起來走了。
   他不善言辭,關鍵時候說不出話來,非如此不可。
   天上一輪新月升起來了,再圓,就是中秋了。
   那個專門欺負孩子的變態還是沒找到,大概是變態也沒想到,一樣米能養百樣人,香香軟軟好欺負的小孩子裡面,也有諸如魏之遠這樣打架不要命的壯士,那位變態估計讓魏之遠一管子戳得當場陽痿了,後來一直也沒再出現過。
   八月節頭一個禮拜,魏謙掛了一回大彩,有道是人在江湖漂,哪能不挨刀,他眼下是才混出個名頭,真想在這小小的江湖上揚名立萬,不挨個千百刀,熬不出頭來。
   魏謙這是第一回挨了砍刀,他是被人抬回來的,雖說都是皮外傷,可滿身的血也嚇人得要命。
   不過他雖然最後趴下了,可當時到底還是扛住了場子,樂哥非常感激他,也認為他是個可造之材,給了他好大一筆過節費,讓他回家養個把月再來,魏謙「帶薪」休假了。
   錢能慰藉魏謙的心,卻慰藉不了小寶的心,小寶一輩子沒見過這麼多血,當時就活像被竹籤子炸了屁股的耗子,對著他嚎了個驚天動地,宛如一陣陣炸雷在魏謙耳邊響,把他煩了個死去活來。
   三胖徹底淪為他們家的保姆,拍著小寶的後背:「哎,不哭不哭,沒事啊,你哥皮糙肉厚,沒事呢。」
   小寶哭得直打嗝。
   「三、三哥……」她斷斷續續地說,「我哥,我哥……是不是要……要死啦?」
   「……」三胖沉默了片刻,「去你的,倒楣孩子,胡說八道,你盼點好行不行?」
   小寶哭得更加肝腸寸斷:「我、我看見他……翻白眼啦!」
   三胖沉重地嘆了口氣:「我的祖宗哎,那分明是讓你氣的啊!」
   相比她的驚天動地,小遠的反應平淡得多,他低著頭,始終一聲不響地蹲在魏謙床邊,好像一個沒有存在感的背後靈,魏謙被小寶吵吵得腦袋疼,看她哭得那麼傷心,又不好一嗓子吼住她,只好試圖分散自己的注意力。
   魏謙伸出包著紗布的手,粗魯地摸上魏之遠的頭,掰著他的後腦勺讓他抬起臉來:「哎,低頭幹什麼,撿錢啊你……」
   魏謙話音陡然中斷,他看見原本低著頭的魏之遠眼圈紅紅的,悄無聲息地「啪嗒啪嗒」掉著眼淚,緊緊地咬著牙,捏著他小小的拳頭,顯得又傷心、又憤恨。
   魏之遠那年不滿十歲,個子長了一些,還沒來得及進入瘋狂發育的青春期,他心裡清晰而又難以忍受的傷心憤怒,認為是自己拖累了大哥,讓他為了一點錢這麼賣命。
   只有蜜罐裡泡大的孩子才不想長大,魏之遠不是,那一刻,他歇斯底里地想要變得強壯,歇斯底里地想要變成一個真正的男人。
   宋小寶的嚎啕大哭只讓魏謙覺得無奈,然而魏之遠卻讓他覺得動容,魏謙難得心軟,往旁邊挪了挪,給魏之遠騰出一個小小的空間來,伸手拍了拍:「上來。」
   魏之遠乖順地爬到了床上,小心翼翼地窩進了他懷裡。
   宋小寶眼巴巴地看著他:「哥,我也想和你一起睡。」
   魏謙對她的眼神毫無辦法,只好妥協:「行啦,你也過來吧,我警告你啊宋小寶,這是最後一次,你是女的,老跟男的一起睡像什麼話?多大了,狗屁也不懂。」
   三胖嘖嘖稱奇,小狼崽子魏之遠像個沒骨頭的貓似的拽著魏謙的衣服不撒手,黏糊得不行,另一邊宋小寶變成了個只會嘮叨一句話的八哥,來回來去那幾句:「哥咱不幹這個了,不許幹這個了。」
   而魏謙這種耐心指數為負的人竟然沒跟他們倆急。
   開始小寶說一句,魏謙就應一句,後來發現她這一句話說成了車軲轆,氣笑了:「你快睡覺吧,不許說話了!」
   小寶:「哥你不許幹這個了。」
   魏謙:「……」
   他嘆了口氣,勉強坐起來,拍著小寶哄她睡覺:「聽你的,你是我老闆,行了吧?」
   三胖悄無聲息地幫他們鎖了門自己走了,他突然覺得也沒那麼嚴重,有著倆孩子的牽絆,魏謙怎麼也不至於落到六親不認的地步。
  第十五章
   八月十五那天下午,魏謙買了兩盒月餅,經過醫院的時候,他順便進去,給麻子媽放下一盒。
   麻子推著他媽出來轉一圈,麻子媽卻不怎麼自在,她半張臉被熱油濺得坑坑窪窪的,基本是毀容了,對別人的目光格外的敏感——要是別人看她的臉,她就會驚慌失措地躲開,可是要是別人刻意不看她的臉,她又會覺得自己很嚇人,心裡難受。
   她只有見到魏謙和三胖他們,還能放鬆些,他們倆比麻子來得還勤快,哪怕她的臉燒成了一塊黑炭,他倆也都看習慣了。
   「姨,買了點月餅,我給你放下一盒,過節應個景,你多少嘗一塊。」魏謙說,他買的不是散裝月餅,是有包裝盒的。
   麻子媽不跟他道謝,脫口就是:「買這個幹什麼?你又瞎花錢!」
   魏謙從善如流地接著她的話茬:「誰說不是呢,這膩呼呼的東西也不知道有什麼好吃的,誰讓我那倆『老闆』都愛吃呢?」
   麻子媽笑了起來:「可不能這麼慣著,到時候慣得都沒樣了。」
   她嘴上不說,心裡卻總覺得自己是個沉重的負擔,沒人有財力給她請專業護工,大部分時間,麻子媽都只好自己孤零零地一個人住在醫院,連個說話的人都沒有。對她而言,有個熟人來聊聊家常瑣碎的事,就是了不起的享受了。
   更不用提她的兒子竟然抽出了一整個下午的時間推著她在外面溜躂。
   麻子媽已經很久沒這麼高興過了,這天,她的笑容即使醜,也醜得真心實意。
   魏謙其實不習慣與人長篇大論地侃大山,他陪麻子媽坐了一會,險些把半個多月的笑容一次性花乾淨了,說得口乾舌燥,臉都有點僵了才走。
   期間,麻子依然和往常一樣,默不作聲地在一邊聽著。
   魏謙離開醫院的時候,有種卸下什麼一樣的輕鬆感,他和三胖已經把麻子撈回來了,以後對於麻子他媽,大不了大家輪流照顧,反正他自己也沒媽,多一個不算什麼。
   魏謙回到家一推門,兩個原本坐在沙發上的小東西就和狐獴一樣,做了一個一模一樣地伸長了脖子回頭的動作,大有望眼欲穿的架勢,小寶剛想開口控訴,誰知先一步看到了魏謙手裡拎著的盒子,眼睛都直了,語無倫次地跳起來說:「月餅!電視壞了!」
   「……」魏謙看著她說,「行,讓它給你修。」
   宋小寶搖頭擺尾:「嘿嘿嘿嘿。」
   魏謙下午說話太多,此時懶得再張嘴,就伸出一根手指,指了指廚房的方向,宋小寶呆呆地順著他的手望去:「廚房裡還有月餅?」
   而魏之遠卻已經訓練有素地跳下沙發,鑽到廚房,把儲物盒下面的工具箱拿出來了。
   這小狗腿已經修煉到能讀取腦電波的地步了,魏謙感到老懷甚慰,同時不滿地指責宋小寶:「走開,跟你簡直說不通。」
   宋小寶委屈:「你根本什麼都沒說!」
   他家的電視修過不止一次……他家什麼都不止修過一次。
   魏謙早已經是熟練工,坐在地上,三下五除二就拆開了電視機的蓋。宋小寶垂涎三尺地對著月餅盒子拋媚眼,魏之遠卻趴在他的肩膀上看他檢查故障,乖乖的。
   魏謙瞥了他一眼,覺得這小子比小丫頭還眉清目秀,也比小丫頭還像個貼心小棉襖。
   魏之遠崇拜地看著他:「哥真厲害,我將來也要當個修電視的。」
   魏謙:「……」
   魏之遠瞪著一雙無知的大眼睛看著他。
   魏謙說:「老子供你讀書,就是讓你當個修電視的?」
   魏之遠猶猶豫豫地說:「那……我可以當個賣電視的!」
   魏謙失笑——小崽子裝傻當可愛。
   自從魏之遠開始正經八百地上學以後,成績單已經充分地體現出了這小子的天分,魏謙自己小時候已經是不同尋常地早熟早慧,回想起來,都不一定比他成績好。
   晚上,魏謙修好了電視機,拿小刀分好了月餅,坐下來陪著他們一邊吃月餅,一邊看電視劇。
   《射鵰英雄傳》裡剛演到郭靖離開蒙古,跟著江南七怪回中原,他們家門突然被人敲響了。
   敲門的人手不重,似乎有些不確定,敲幾下,猶豫幾下。
   魏謙以為是哪個兄弟,也沒穿上衣,叼著根煙露著滿身的繃帶就去應門了。
   一開門,他先愣了一下,只見面前站著一個陌生的老太太。
   老太太頭髮花白,但精神矍鑠,個子不高,還沒到魏謙的肩膀,又黑又瘦,上身穿著一件舊式農村老人家出門時常見的對襟布褂,下面是一條不肥不瘦的九分褲,褲腿吊著,露出她細腳伶仃的乾瘦腳踝。
   她背後背著一個灰撲撲的行囊,手裡提著一個裝滿了空易開罐和飲料瓶的塑膠袋,頭髮梳得整整齊齊,一絲不亂,衣服也很乾淨,約莫有六七十歲,但是腰不彎,背不駝。
   這老太太大概是個撿破爛的,可卻是魏謙見過的最體面的撿破爛的。
   同時,老太太有些驚懼地打量著面前這個明顯不是良民的小夥子,顯然沒料到開門的竟然是這麼個人,但她沒往後退,下意識地挺胸抬頭,底氣十足地開口問:「宋大偉是住這的嗎?」
   她態度說不上好,隱隱還含著某種非常不友好的戒備,魏謙沒來得及計較,就是覺得「宋大偉」仨字忒耳熟,他一時沒想起這是誰。
   老太太見他臉色茫然不答話,又說:「那宋離離是不是也住這?」
   「宋離離?」魏謙皺眉反問,「你找她什麼事?」
   小寶在屋裡聽見了,蹦蹦跳跳地跑出來:「哎!誰找我?」
   她乍一蹦出來,那乾癟瘦小、儘量想表現出自己毫不怯場的老太太卻突然哆嗦了起來,她貪婪而專注地打量著宋小寶好奇得探過來的頭,顫抖得越來越厲害,突然,在魏謙沒來得及阻止的時候,一把摟住了小姑娘,隨後一點也不體面地大哭起來。
   直到這時,魏謙才後知後覺地想起來,「宋大偉」就是那曾經讓他過了幾年好日子的短命後爹,宋小寶的爸爸。
   而非常戲劇性的,這老太太就是他後爹的親娘。
   早些年,長途火車票對於偏遠地區的農村居民而言,價格是不菲的,民工流剛剛形成,還不成氣候,那時外出做事的人三五年不回家非常正常,村裡打電話不方便,親人之間主要靠書信和匯款聯繫。
   後來宋大偉沒了消息,老太太本來非常著急地想來看看,可巧,那個節骨眼上,她的老伴中風了,那幾年她分身無暇,託人給兒子寫的幾封信也都陸續石沉大海——魏謙他媽那時候根本沒想到聯繫宋大偉家裡人,她淨顧著毀滅性地嗑藥和作死了。
   終於,這一年端午剛過,老太太的病病歪歪的老頭子追隨著先聖的腳步,徹底吹燈拔蠟踹鍋台了。
   宋老太太變成了一個徹頭徹尾的孤老婆子,她大哭大鬧地發送了老頭,收拾起她不多的家當,勉強湊了點錢,一路靠撿破爛來到了這個在郵局匯款單上看到過的北方城市裡,來投奔她的兒子。
   老太太在敲開門的時候還挺胸抬頭、橫眉立目,雖然手裡拎著一袋沒來得及賣出去的易開罐,可她在儘可能地試圖在這陌生的城市裡維護著她鄉下人的尊嚴。
   而這尊嚴終於在她發現兒子也早早死了之後,碎成了一把渣。
   中秋節,團圓節,全中國人民闔家團聚,誰也不知道在破舊的筒子樓裡,有個老太太驚慌失措地發現她的老伴兒子原來全沒了,這下沒人給她養老、也沒人給她送終了,她的前半輩子都活成了白活,落了個晚景淒涼。
   她坐在地上哭得如同魔音穿耳,攪合得所有人連月餅都沒吃好。
   魏謙看了看老太太隨身帶來的黑白舊照片,上面的傻小子依稀是他那短命繼父的模樣,又檢查了她帶來的匯款單,基本相信了她真是小寶的親奶奶。
   畢竟是血親,魏謙雖然覺得這傻老娘們兒很煩,但是到底沒在八月節的當天晚上把她轟出去,暫時收留她和小寶住在一個屋裡。
   可誰知這老娘們兒不識好歹,抹乾了眼淚,她一雙和魏謙的繼父宋大偉如出一轍的小眼睛裡儘是精明狡猾的光,打眼一掃就知道魏謙不是什麼好東西,旁敲側擊地問了他幾句,先還和顏悅色,後來得知他竟然是個夜總會裡看場子操刀的小混混,老太太終於難以忍受了。
   那年代,農村老太太可不明白什麼是古惑仔、什麼是黑社會,在她眼裡,魏謙他就是個不學好的臭流氓。
   ……當然,她的看法是有一定正確性的。
   老太太當然不能讓寶貝孫女和一個臭流氓生活在一起,但她也看得出小寶對這個大哥十分依賴。
   這個老東西一輩子經歷了完整的中國近代史,兩場戰爭、改朝換代、乃至於建國後的各種運動她全都趕了個齊全,與天鬥與人鬥其樂無窮,精明得仨猴都不換。
   她知道什麼事都講究個策略,所以並沒有和魏謙當面急赤白臉,決定先按兵不動,好好琢磨琢磨怎麼把孫女從這個臭流氓手裡「救出來」。
   但魏謙沒空去管她是怎麼想的,因為當天晚上就出事了。
   淩晨三點半,魏謙家的大門被人用力砸響,魏謙一激靈爬了起來,很奇怪的,他睡得最沉的時候被人這樣粗暴地吵醒,他第一反應不是罵罵咧咧,而是先出了一層冷汗——好像他預感到出事了一樣。
   魏之遠迷迷糊糊地裹著毯子爬起來,他也不知道發生了什麼,腦子裡一團漿糊,本能地光腳跳下床,跟著魏謙去開門。
   魏謙門還沒完全拉開,門縫裡塞的一個東西突然掉了出來,他撿起來一看,只見那是一個信封,信封裡一遝錢。
   門口的三胖還光著膀子,只穿了拖鞋和大褲衩,露著一身白花花的肥肉,明顯剛從床上滾下來的,他手裡拿著一個一模一樣的信封,沒等魏謙反應,三胖就飛快地說:「是麻子!我半夜起來撒尿才看見的這信封的,肯定是麻子那孫子塞的!」
   那一刻,魏謙的腦子出奇的冷靜,他低聲問:「他哪來那麼多錢?」
   三胖:「不會又去給人賣……」
   「不可能!」魏謙截口打斷他,「不可能,三哥你不瞭解那群人,他們想讓你長長久久的賣命,絕對會一點一點地吊著你,不可能一次性地給你這麼多錢。」
   明白了魏謙在暗示,麻子可能幹了比販毒還要嚴重的事,三胖難得倉皇失措地看著他。
   「今天下午我看見他……我早該看出來他不對勁,」魏謙心裡轉得飛快,他伸手拿起桌上的電話,��了一個號碼,打到了這天後半夜當班的一個兄弟那,好半晌,魏謙放下電話,臉色難看到了可怕的地步。
   「怎麼……」三胖不自覺地屏住呼吸,壓低了聲音。
   「那邊今天晚上出事了,聽說來了一大幫員警,裡外搜查了一遍,還帶走了好多人,」魏謙飛快地套上外套穿鞋,「沒看見麻子,但願他和這事沒關係……」
   三胖一把抓住了他的胳膊:「他……他和這事能有什麼關係?」
   魏謙壓低了聲音:「我怎麼知道?我過去看一眼,你去醫院問問值班的護士,看他晚上在不在那。」
   魏之遠連忙小跑著跟上魏謙,魏謙一把捉住他的胳膊,把他拎回了屋裡:「你跟來幹什麼?回去睡覺,明天不上學了?」
   魏之遠:「我幫你出去找麻子哥。」
   「小崽子,」魏謙不耐煩地瞪了他一眼,「你不給我添亂就是幫大忙了。」
   魏之遠的腳步猛地一頓,亮晶晶的眼神立刻黯淡下去了。
   他驟然感覺到了自己的矛盾——如果他表現出自己的早熟,就沒那麼容易得到大哥的注意,可他表現得和小寶一樣傻,雖然平時討好了大哥,但關鍵時候,他也會被當成和小寶一樣的毛孩子。
   那兩個「大人們」此時已經慌了陣腳,誰也顧不上去揣測魏之遠那顆充滿矛盾的心。
   「謙兒……」三胖沒動地方,手心全是冷汗,他聲音乾澀極了,「他要是被員警抓住,會是怎麼個下場?」
   魏謙在沒開燈的客廳裡抬起頭看了他一眼,一雙眼睛黑白分明,眼神如刀。
   「你說呢?」他反問。
   三胖的心沉下去了。
  第十六章
   魏謙淩晨五點鐘的時候,回家了,順便給家裡人買了早飯。
   他的頭髮都被露水打濕了一層,臉上的表情就像是個打算屠城的殺人魔。
   宋老太在異地他鄉一覺醒來就看見了這樣一張經典的魔頭臉,險些給嚇出心梗來,大氣也不敢出。
   魏謙買了豆漿油條——當然,是別家做的,他心裡想了好多,七上八下,全無頭緒。
   魏謙心裡煩躁地想,如果最後麻子被證明哪也沒去,就在醫院陪他媽,他一定要把那個狗娘養的揍成一包豬頭肉,熟的。
   可他恐怕沒有這個機會了。
   三胖沒能在醫院找到麻子,他們倆想盡了所有的辦法,也沒找到麻子,直到幾天以後,一個語焉不詳、曖昧不明的消息才傳出來——據說麻子死了。
   然而他究竟是怎麼死的、因為什麼死的,沒人能說清楚,人多嘴雜王八多亂爬,眾人都是瞎哄哄,誰也說不準。
   似乎有人對這事諱莫如深,知情人都被封了口。
   流言三千沒一條有用,那種活不見人死不見屍的焦灼就像把人架在了火上烤,可是在魏謙和三胖心裡,他們總覺得麻子不可能就這麼無聲無息地死了,他們依然在尋找,但都不約而同地沒有提起樂哥,尤其是魏謙,他對樂哥生出了某種深深的芥蒂和戒備。
   麻子媽不止一次問起麻子,魏謙和三胖要隨機應變地編各種瞎話,有時候沒統一口徑,誰說走嘴了,又要費盡心機地圓回來。
   魏謙也是人,精力實在有限,他不可避免地忽略了自己的家。
   對於宋老太而言,這簡直是天賜良機,宋老太開始著手她在魏謙家後院放火的大業,她每天變著法地和小寶套近乎——這很容易,對孩子來說,成年女性長輩在成長中有無法代替的感情聯繫,這種感情在母親、祖母或者外祖母身上都找得到,但再親近的父兄也取代不了。
   更何況魏謙雖然疼小寶,卻不是普通人家那種嬌寵的疼法,他惦記在心裡,極少掛在嘴邊,甚至有時候不耐煩了、脾氣上來了,還會凶小丫頭幾句,在宋小寶不長的人生中,從未接觸過長輩女性細緻的疼愛和撫慰,倒戈簡直就是時間問題。
   是甜言蜜語,每天變著法地給做各種美味的奶奶好,還是每天板著一張債主臉,飯夾生不夾生他根本吃不出來區別的哥哥好?
   自從宋老太來了以後,倆孩子的生活幾乎舒服得有品質可言了。
   當然,儘管這樣,宋老太依然收買不了魏之遠。
   魏之遠就像一條養不熟的小白眼狼,對宋老太這個突然闖入他們家的「外人」,他儘管想表現得懂事一點,依然忍不住會流露出陣陣的敵意。
   宋老太原本想收他做盟友,沒想到此君小小年紀,竟然「腚力」十足,無論怎麼投其所好,他的屁股總是堅定地和他那個臭流氓哥哥坐在一條板凳上。
   久而久之,宋老太終究忍不住放棄了這條戰線,她看出來了,這小崽子話少心眼多,屬狗的,吃了就走。
   宋老太於是開始專攻宋小寶。
   她會時常地用開玩笑、逗孩子玩的口氣問小寶:「你最喜歡誰啊?奶奶好還是哥哥好?」
   以此來測試她和平演變大計的進程。
   不像傻乎乎的宋小寶,她第一次問出這話時,魏之遠就體察到了這老太婆的險惡用心,他當即採取了非暴力不合作的措施——不再和這祖孫倆一桌吃飯了,寧可餓到半夜,等大哥回來,一起隨便吃兩口剩的。
   一開始,宋小寶還會模仿他,和他一起等,可沒兩天,這個立場不堅定的小叛徒就在誘人的食物中繳械投降了。
   魏之遠早料到有這麼一天,她好吃懶做不是一天兩天了,在這方面敵軍實在太過強大了,他不是對手。
   而且在魏之遠的內心深處,對於宋小寶的叛變,他並沒有太不高興,反而有種隱約的竊喜。
   魏之遠知道自己不該這樣想,可他就是忍不住。
   「沒有宋小寶,以後哥就是他一個人的」這種想法無時無刻不在誘惑著他,就像一顆在心裡生根發芽的種子,哪怕是用火燒也燒不盡,春風一吹,又再次萌生發芽。
   最開始,宋小寶對宋老太那句幼稚的問話笑而不語,或者顧左右而言他,宋老太就知道,她的答案其實是「喜歡哥哥」,慢慢地,她開始鬆了口,改回答說「都喜歡」,宋老太相當志得意滿,認為自己只差臨門一腳,終於有一天,宋小寶的回答變成了「誰對我好最喜歡誰」。
   宋老太就知道,是時候了。
   小半年過去了,入了冬,荷塘上、結出淺淺的冰,魏謙他們終於能確定,麻子死了——這次是當地警方發佈的官方消息,稱他們近期打擊了一起販毒走私案,當場抓獲嫌疑人三人,抓捕途中,遭到犯罪嫌疑人負隅頑抗,一人被擊斃。
   被擊斃的那個人就是麻子。
   在那個秋老虎兇猛的中秋夜之前,有人給了麻子一大筆錢,一把手槍,一部手機和一公斤的海洛因。
   那時候,麻子就隱隱感覺到了什麼,他腦子不怎麼好,可不代表他真的傻得找不著北,他和他的兄弟們其實都不算混黑道,也不算走正道,他們只是夾縫中苟延殘喘的魚蝦,魚蝦生存不易,因此都知道潮水漲落和信風來襲,在這個黑吃黑的圈子裡,底層的人錢來得越容易,也就越危險。
   可是那些人把他的家底查清了,知道他是無論如何也不能拒絕的。
   麻子不想拖累他的三哥和謙兒,他們誰也不容易,都是從牙縫裡省出來的錢,給他和他媽,花著那些錢,他常常半夜都睡不著覺。
   也許他能厚顏無恥一點,他就不會走上絕路。
   中秋夜裡,他在醫院吃完了這輩子吃過的最貴的月餅,就轉身把錢分了三份,兩份還給魏謙和三胖,一份包好了埋在了他家住的小平房門口的槐樹下,算給他媽留下的養老送終錢。
   然後他渾渾噩噩地帶著槍和毒品,跟著電話裡的指示走……
   臨閉眼,他也不知道是給誰當了替罪羊,也不知道自己是死在了什麼地方。
   他生得卑微,死得糊塗。
   那天魏謙在一個臭烘烘的小酒館裡喝得酩酊大醉——即使是打手,他也做得兢兢業業,這是他第一次翹班。
   麻子死得雖然糊塗,可魏謙心裡明鏡一樣。
   夜總會是樂哥的產業,那人的控制慾幾近神經質,沒有他的攙和,魏謙不相信有人能在他的地盤上販毒,而這件事鬧得這麼大,從中央到地方風聲都緊得要命,佔滿了各大報紙頭條,樂哥……樂曉峰卻依然獨善其身巋然不動,到底是他無懈可擊,還是有人替他上了黃泉路?
   少年時代如同神龕一樣供在心裡的人,「咣當」一下砸下來,斷送了他傻兄弟的一條命。
   魏謙也不想回家,面對著那一群老老小小,他心裡有天大的委屈也只好憋著,憋得他都快到極限了。
   三胖找到他的時候,他已經給泡成了一個酒糟。
   「三哥……」少年的眼神幾乎對不准焦距,空茫地看著小飯店泛黃髮黑的牆角,聲音微弱得好像被什麼堵在喉嚨裡。
   三胖一把搶過他的酒瓶:「沒了一個不算,還要喝死一個是不是?」
   魏謙被他一帶,就軟綿綿地趴倒在桌子上,他趴在桌上,頭偏到一邊,輕輕地說:「三哥,你說他一個結巴,下去到那一邊,都說不明白自己的冤情可怎麼辦?」
   說著,眼淚就無聲無息地順著他的內眼角留下來,淌過挺直的鼻樑,滑到了他嘴裡。
   魏謙爛泥一樣地趴在桌上,豎起胳膊肘,擋住了自己的臉。
   而後他嚥下眼淚,嘶聲笑了起來。
   有今生,做兄弟,沒來世,再想你。
   那天是臘八,臘八下了雪,整條街都是雪化了以後的泥濘和冰碴子。
   魏謙一身酒氣地推門進了家,屋裡魏之遠在角落裡的小桌上寫作業,宋老太正在教小寶做臘八蒜,一老一小本來說說笑笑,卻在他進門的一瞬間,奇蹟一樣地一同沉默了。
   魏謙本來不是個敏感的人,然而氣氛變化太明顯,有那麼一瞬間,他感覺自己像是闖進了別人家裡的歹徒,有股說不清道不明的滋味隨著酒氣一陣陣地往上衝,沖得他直噁心。
   幸好這時候魏之遠抬起頭,像往常一樣叫了他:「哥。」
   魏謙的臉色一定難看得要命,魏之遠看了他一眼,立刻從椅子上跳下來,跑到他身邊:「哥,你怎麼了?」
   魏謙一聲不吭地擺擺手,轉身走進了廁所,吐了個肝腸寸斷。
   他感到自己忽然起伏的心緒來得莫名其妙,也想強行說服自己,推門進來時那一瞬間無法言說的難堪是小題大做。
   他已經夠焦頭爛額的了,魏謙不願意沒事找事,他拚命地企圖安慰自己說自己想多了,然而不管用,他心裡就是難受。
   魏之遠立刻倒了被水端給他,像個小大人一樣摟住他的腰,拍著他的後背,魏謙把酸水都快吐乾淨了,才勉強直起腰,接過水杯漱了口。
   他頭疼欲裂,傷心欲絕,然而面對魏之遠,卻只是狀似隨口問:「作業都寫完了嗎?」
   魏之遠點點頭,伸手想扶著他,卻被魏謙搖搖晃晃地拒絕了。
   在魏謙慘白平靜的臉下,天翻地覆的心把他的內裡攪合成了一座隨時可能噴發的火山。
   而等他聽見宋老太正在和他妹妹說什麼的時候,這危險的平衡點終於破了。
   他聽見那混賬老娘們兒指桑罵槐地對宋小寶說:「我們離離啊,以後可要好好讀書,將來上大學,當科學家,可不能跟不三不四的人學壞,聽見沒有?」
   她說還不算,非要意有所指地回頭看了一眼陰沉地站在那裡的魏謙,好像一點也不怕被他聽見,經過了這麼長時間的摸底和探訪,老太太早就看出來了,那姓魏的小子現在自詡是個「道上混的男人」,要命地要面子,絕對不會對她一個小老太太怎麼樣,頂多敢色厲內荏地裝兇狠嚇唬嚇唬她。
   連魏之遠都聽出了她的弦外之音,他抬頭看看小妹,又看看大哥,最後充滿仇恨地盯住了宋老太。
   宋老太不依不饒地繼續說:「不好好上學,你就會變成社會上的渣滓,懂嗎?遊手好閒的那些人都不是好人,奶奶跟你說過,他們叫什麼?」
   宋小寶這個小二百五缺心少肺地說:「流氓!」
   老太太表情嚴肅地伸手刮了她的臉一下:「就是,臭流氓,咱們是女孩,不能老跟臭流氓在一起,要不然以後看誰敢要你,名聲都壞了。」
   魏之遠沉下臉,一字一頓地說:「我大哥不是流氓!」
   宋小寶愣住了,懵懂地看了看他,看了看大哥,又看了看奶奶,至此方才明白這是一場嚴重的家變。
   魏之遠急了,把杯子扔在一邊,走上前去,指著老太太的鼻子說:「我大哥不是流氓!」
   「行了,你閉嘴,屋裡寫作業去。」魏謙一巴掌把他鎮壓下去了,一手拎一個,把魏之遠和宋小寶丟進了臥室,
   魏謙過自己日子多少有點粗枝大葉,家裡人的所作所為,偶爾讓他覺得彆扭一下,轉臉也就不當回事了,然而宋老太的話已經明裡暗裡地說到了這份上,他哪還能不明白她在想什麼?
   魏謙大馬金刀地往宋老太面前一坐,面色不善地打量著她,毫不客氣地說:「老東西,你想怎麼樣?」
   宋老太終於挺直了腰桿,整個人就像是一門準備發射的迫擊炮。
   然後她對著魏謙宣了戰:「我要把離離帶走。」
   作者有話要說:
  基本虐到穀底了以後劇情應該是往上走了
  「有今生做兄弟沒來世在想你」——《兄弟》任賢齊
  第十七章
   魏謙連親媽都敢當面直接叫「婊子」,根本就不把這小老太婆放在眼裡,當場冷笑一聲,用上了他十分的尖酸刻薄,說:「你以為你是什麼東西?要滾蛋自己滾,少惦記我妹妹,別以為你個老不死的沒幾年好活了,我就不敢提前送你上路。」
   他十分沒教養——當然了,以他的人生經歷來看,如果他在這種情況下還能有教養,那此人一定是穿越的。
   老太太活了六七十年,還沒有遇到過這樣沒老沒少的混賬東西,虧得她多年勞作,身體健康,不然能當場給氣得厥過去。
   人在面對混蛋的時候,總是忍不住變得更加混蛋,於是老太太拿出了老一輩農村婦女們撒潑打滾的絕活,毫不示弱地說:「行啊,沒問題,有本事你就打死我,你就是打死我,我變成鬼也得把我孫女帶走,我帶她去住雞窩豬窩,也不能讓她落在你這個流氓手裡!」
   魏謙陰鷙地看著她,目光中的惡意仿如實質,少年幾乎已經長出了成年男人的體魄,寬肩窄腰,身上還帶著鬥毆留下的傷痕,更添了幾分說不出的戾氣,老太太本能地瑟縮了一下。
   然後她回過神來,用更加強硬的態度勇瞪了回去,祭出一哭二鬧三上吊的架勢,放了大招:「有本事你就弄死我!弄死我你也是個不要臉的臭流氓!你不就點本事嗎?你還能幹些啥?老娘反正沒幾年好活了,怕你?我呸!」
   她的唾沫星子還沒來得及從嘴裡撲騰出來,就被魏謙蠻力推到了桌子上,魏謙終於不要面子了一次,把宋老太和木頭桌子一道掀翻,泡臘八蒜的醋灑了一地,酸味嗆人。
   宋老太「哎喲」一聲,四仰八叉地坐在地上,頭上可笑地頂著兩瓣蒜,隨後她深吸一口氣,亮出她十裡八寸都能聽見的大嗓門,坐在地上嚷嚷:「殺人啦!殺人啦!臭流氓殺……」
   她的喊聲戛然而止,因為魏謙一把揪住宋老太的衣領,佈滿青筋的手捏住了她皺紋叢生的脖子。
   宋老太的脖子就像雞脖子一樣細,被他一隻手就給握過來,她的皮膚鬆弛,可憐巴巴的,魏謙死死地掐著她的脖子,活生生地把她從地面上給拎了起來。
   這俊美的少年眼睛裡全是陰影,形容冷漠,手心卻很熱,他的手勁奇大,好像是鐵了心地想掐死這老太婆。
   宋老太根本掙紮不開,她像條掉到岸上的魚一樣四肢亂撲騰,徒勞地用剪得凸凸指甲摳著魏謙胳膊上的肉,臉很快變成了青紫色。
   魏謙覺得自己幾乎掐到了她的器官和脊樑骨——他退學之後,日子過得無法無天,心裡血氣一陣翻湧,輕易地就越過了殺人放火的思想障礙,那一刻,魏謙是真想把這死老娘們兒這麼活活掐死。
   宋老太伸出舌頭,開始翻白眼了,就在這時,魏謙背後的臥室門口突然傳來一聲女孩的尖叫:「哥!」
   小屋的門不知道什麼時候打開了,宋小寶和魏之遠站在那,魏之遠面色凝重,宋小寶的尖利的童音像是一把直刺他心尖的劍,魏謙腦子裡的那根筋被輕輕地撥動了一下。
   他終於反應過來,自己竟然真的險些動手殺人,還是在自己的家裡,登時駭然鬆手,宋老太站不穩,他一鬆手,她就順著牆根滑坐在了地上,噎得不住倒氣。
   魏謙一隻手擋住撲過來的小寶,蹲下來用力砸了幾下老太太的胸口,學著電視裡的樣子用力地按她的人中。
   好一會,老太太才倒上了這口氣,先咳了個驚天動地,而後她把黑眼珠翻回來,聲音尚且嘶啞,戰鬥精神卻依然閃耀著光輝。
   她不顧自己方才在鬼門關上走了一早,清醒過來第一句話,就是指著魏謙的鼻子森然說:「殺千刀的小畜生,你這個婊子養的!」
   魏謙還沒來得及對這句話勃然作色,小寶就一頭撲進了老太太懷裡:「奶奶!」
   宋老太想到自己的晚景竟然淒涼成這樣,寡婦失業,千里迢迢地到城裡投奔兒子,被告知老年喪子,而後又讓一個小畜生給欺負成這樣……她頓時悲從中來,娘兒兩個抱頭痛哭起來。
   魏謙的表情是麻木的,心裡也是麻木的,他手足無措地站在旁邊好一會,終於嘆了口氣,試探地伸出手去摸小寶的頭髮,卻被宋老太兇悍地一巴掌狠狠地打開。
   這個老太婆十分神奇,鬼哭狼嚎成這樣,竟然也不耽誤她罵人。
   「別碰我孫女,你這個臭流氓、殺人犯!遲早有一天槍斃你!你不得好死!」
   有那麼一瞬間,魏謙竟然認為她說得對。
   他從巨大的打擊、悲傷和憤怒中回過神來,突然就覺得心灰意冷。
   宋老太收拾了簡單的行囊,當著他的面把小寶領走了,魏謙靠在牆上眼睜睜地看著,沒有阻止,甚至沒有吭氣。
   小寶一隻手被奶奶牽著,被動地跟著她往外走,不停地回頭看她的大哥。
   大哥的眼睛裡有血絲,整個人顯得疲憊極了,一路目送著她離開。
   小寶以為他會說點什麼,可是他什麼都沒說,那眼神卻印在了她小小的、懵懂的心裡,印了一輩子,永不磨滅。
   大門「咣當」一下當著魏謙的面關上了,好一會,他才脫力了一樣地坐在了地上,點了根煙,靠在牆上,叼在了嘴裡,他心裡茫茫然一片,哭不出也笑不出,只想倒頭大睡一覺,可他知道,自己大概也是睡不著的。
   麻子沒了,小寶走了……還睡個屁。
   魏之遠默默地蹭過來,把煙灰缸放在了魏謙的手邊上,小心翼翼地往他旁邊靠了靠。
   魏謙抬頭看了他一眼,魏之遠連忙停住自己的動作,謹慎地觀察大哥是不是煩了,發現沒有,他就試探著更小心地靠近,最後,魏之遠摟住了魏謙的一條胳膊。
   他發現大哥沒有反對,又試探著把自己擠進了魏謙懷裡,把頭靠在了他身上,嗅著他身上有些刺鼻的煙草味。
   「……麻子沒了。」魏謙忽然開口說。
   魏之遠抬起頭,看見魏謙的目光沒有焦距地落在地板上,直覺他的話不是對自己說的——魏謙不管自己怎麼稱呼,從不對他和小寶直呼「麻子」,都是「你麻子哥」。
   所以魏之遠識相地沒吭聲,靜靜地聽。
   魏謙把他攬得緊了一點,男孩溫熱的體溫給了他難以形容的慰藉。
   這一句話過後,魏謙就再沒聲音了,他傾訴不出。
   苦難磨鈍了他的神經,他早就失去了真實地表達自己感受的能力。
   等魏謙抽完了身上所有的煙,才想起魏之遠來,小孩已經像個無尾熊一樣抱著他的胳膊,靠在他懷裡睡著了。
   魏之遠開始有一點抽條了,腳先長了起來,接近了大人的型號,但骨骼依然稚嫩,站起來不矮,縮起來卻依然是小小的一團。
   長得真慢啊——魏謙垂下眼看著他喟嘆。
   而後他把煙掐滅了,彎下腰,小心地抱起小孩放在床上,像往常一樣,關了燈一起躺了上去。
   突如其來的黑暗有種極強大的力量,幾乎是一瞬間就擊垮了他強撐的堅強和自以為的麻木。
   魏謙睜著乾澀的眼睛想,他是個婊子養的臭流氓,連一手養大的親妹妹都不願意和他在一起,他這樣的人活著,還活得這麼艱難,根本就連一點價值也沒有。
   活什麼勁呢?
   還不如死了算了。
   魏謙生於冬天,臘月月底,此時日子還沒到,也就是說,他還沒滿十七週歲。
   他沒活到大,卻先想到了死。
   當然,儘管這麼想了,魏謙依然沒死。
   死可不是一個念頭閃過、說去就去那麼容易的事,他就算不願意活,也萬萬不敢��。
   他得苦惱麻子的媽以後怎麼辦。
   還得去把麻子的屍體領回來,他洗不脫麻子身上的罪和苦難,唯一能做的,也就是把他留在人間的這個念想打理乾淨,好好安葬。
   背負得太多,他死不起。
   魏謙依然陰沉麻木地過他的日子,每天去樂哥的夜總會裡當他的打手,拿著樂哥的錢,把自己心裡的日漸增長的憎恨諱而不言地藏起來,只在夜深人靜的時候,一個人睜著眼看著天花板,一遍一遍地提醒自己,他遲早有一天要樂曉東的命。
   然後強打精神地去和三胖商量,怎麼辦麻子的後事,要不要告訴麻子媽,什麼時候去接她出院。
   只有寒假放假在家的魏之遠安安靜靜地陪著他,好歹是個會喘氣的活物。
   只有魏之遠才能讓魏謙感覺到一點生命力——他還那麼小,還什麼都不知道,還有前途,還要全心全意地依賴著自己。
   魏謙養著魏之遠,也從小孩身上汲取微末的希望,他刻骨銘心地懂得了「相依為命」是什麼意思。
   三胖來他家,開始還驚異地問小寶和宋老太怎麼不在,被魏謙發瘋似的發作了一通之後,立刻瞭然,不再提這事了。
   那一陣子,沒有人敢在魏謙耳邊提宋小寶。
   家裡的氣氛沉悶了好多天,魏謙連吃飯都開始敷衍,三胖生怕他活活餓死自己,於是每天受虐一樣地來他家裡,像個任勞任怨的鐘點工一樣哄孩子做飯,保證電視裡二十四小時播放娛樂幽默節目。
   可惜效果不良,電視越娛樂,現實顯得就越冷。
   電視裡面馬三立老先生正在說「逗你玩」,三胖一個人坐在椅子上笑得前仰後合肥肉亂顫,魏之遠嘴角剛往上揚了一下,就想起了什麼時候扭頭去看魏謙,發現大哥表情木然,於是也跟著把那一點笑容壓了回去,同樣地擺出一副漠然的表情。
   這兩兄弟一大一小,都在用上墳的表情聽相聲,一個模子刻出來的掃興。
   三胖越笑越孤單,最後變成了乾笑,只好無奈地閉了嘴,再好玩的包袱也索然無味了。
   魏謙沉默一會,就會點根煙轉身往窗戶邊上一站,他一身的煙味重得嗆人,三胖說他都快變成一根瘦高的煙筒了。
   而宋小寶就是這個時候回來的。
   魏謙真的以為自己一輩子也見不到小寶了,所以開門的時候看到她,足足有半分鐘沒反應過來。
   他反應不過來的表現就是面無表情,弄得宋小寶越發惴惴不安,小姑娘活像是犯了誅九族的大罪一,怯生生地叫了一聲「哥」,背著她的小書包,用下巴點到胸口上的懺悔姿勢孤零零地站在門口。
   魏謙的理智這才不為人知地緩緩回籠,他第一時間往外掃了一眼,發現那個老不死的傻老娘們兒竟然沒跟著,看來宋小寶是自己一個人偷偷跑回來的。
   他心裡終於毫無顧忌地炸開了花。
   魏謙緩緩地半蹲下來,目光與小寶齊平,伸出雙手,扶著她小小的、細瘦的肩膀,開口問:「你怎麼……咳,回來了?」
   魏謙儘可能地不想反應那麼強烈,可是還是沒能一次性地說完這句話,中途就破音了,他不得不清了清嗓子,拖長了語音,這使得他這句話的語氣聽起來幾乎是溫柔的。
   宋小寶:「我想大哥了……」
   魏謙沉思狀低下頭,在她看不見的地方,輕輕地閉了閉眼,那麼一瞬間,小丫頭的一句話,就把他從沼澤裡生生地拉出來了,他發現那始終繚繞自己身邊的不想活的念頭奇蹟般地煙消雲散了。
   他不知道該怎麼表達這種大起大落的心情,也許是抱著小寶轉一圈?或者和她抱頭痛哭一通?魏謙覺得自己哪個也做不到,所以他只是默不作聲地站起來,輕描淡寫地說:「哦。」
   除了這一個字,他好像想不出別的什麼了,他拉開門,讓小寶進屋,看見她一動不敢動,這才想起來,又補充了一句:「那進來吧。」
   小寶知道自己是個叛徒,沒想到大哥還肯要她,整個人都受寵若驚了。
   她戰戰兢兢地走進來,先如蒙大赦地鬆了口氣,同時,見了大哥似乎可有可無的態度,小寶心裡又湧起某種說不出的慶幸,以她那幼稚而不發達的邏輯,她慶幸自己回來得還算及時,說不定再晚兩天,大哥就真的決定不要她了。
   小寶走近了魏謙,頓時從他身上聞到了一股濃重刺鼻的煙味,她向來非常不喜歡煙味,忍不住揉了揉鼻子,不過沒敢說,她怕大哥改變主意,不讓她進門了。
   魏謙卻敏銳地看見了。
   他彎下腰從櫃子裡拿出一套新衣服,對三胖說:「鍋裡還有炒米飯嗎?你給她盛一碗。」
   三胖冷眼旁觀他們的互動,嘆了口氣,沖宋小寶招招手,把她招呼到自己面前,慈祥地摸了摸她的頭髮,看了魏謙一眼,隨口問:「你幹嘛去?」
   魏謙:「我洗個澡。」
   三胖:「沒到睡覺的時候你洗什麼早?再說你燒水了嗎?」
   魏謙:「沒有,我用涼水。」
   三胖:「寒冬臘月天洗冷水澡,你有病啊?」
   魏謙拎著衣服一把推開他,光速脫離了之前行屍走肉的狀態,恢復了他一貫的跋扈和混賬:「我樂意,你跟老母雞似的瞎叫喚什麼?要下蛋?」
   三胖:「……是啊,怎麼樣?」
   魏謙瞥了他一眼:「憋著,明兒再下。」
   三胖:「……」
   三哥發現以自己簡單的內心和平滑如蛋的大腦皮層,是真的跟不上魏大少爺的思想境界。
   其實魏謙的想法並沒有多複雜,他就是怕身上的煙味熏到妹妹。
   以及……他只是一時不敢相信,有點腦殘了而已。
   小寶是他的親妹妹,這個世界上,統共只剩下了她身上那麼一點血脈和他相連,他從她沒有他一條胳膊長的時候就養著她,一直養到了這麼大。
   有多深的感情,他連自己也說不清,她有時候不像他妹妹,更像他女兒。
   小寶幾乎是他整個童年和少年時代的寄託,魏謙就算捨命也捨不得這個她。
   ……哪怕宋小寶是個吃裡扒外的臭丫頭。
   魏謙被涼水凍得一激靈,心裡想:我這是有多賤啊?
   小寶期期艾艾地叫了魏之遠一聲:「二哥。」
   魏之遠看她就煩,不想搭理,一方面心疼大哥,一方面……
   他冷眼旁觀著大哥和小寶的互動,大哥表現隱晦而內斂,以至於小寶會錯意,三胖不明白,只有他一個人不知怎麼的心領神會,越發不高興起來。
   突然之間,魏之遠無師自通地發現,爭寵才是他正確的人生路線。
  第十八章
   魏之遠整整兩天,堅決不和敵人宋小寶說一個字,只要魏謙在家,男孩就每天裡出外進地跟著他。
   每次魏謙一轉身,他都在後面絆腳,魏謙實在被他跟煩了,但他也知道魏之遠為什麼這麼彆扭,所以不想對他發火。
   於是魏謙難得輕描淡寫地和起了稀泥:「好好一起玩,別打架。」
   這回是聖旨下來了,魏之遠無可奈何,只好謝主隆恩,滿心怨念地重新和宋小寶建交。
   魏之遠爭起寵來,宋小寶真是拍馬也趕不上——沒辦法,她實在是在這方面天生少根筋。
   比如魏謙一推門進來,就能發現小男孩一個人低頭掃地擦桌子,小寶眼睛長在臉上活像喘氣用的,熟視無睹地坐在沙發上看電視。她剛回來,魏謙也不想跟妹妹鬧彆扭,只是不鹹不淡地說了她兩句,但與此鮮明對比的,是他獎勵了魏之遠額外的十塊錢做零花。
   第二天,眼紅的宋小寶一早晨爬起來就吭哧吭哧地在家裡做大掃除,中午之前就麻利地做完了,魏之遠冷眼旁觀,簡直想冷笑。果然——晚上魏謙回來,壓根就沒注意到屋裡變乾淨了。
   再比如魏謙晚上衝完涼,四處找自己脫下來的髒襪子,打算順手洗洗,結果發現魏之遠正把洗乾淨的襪子往晾衣桿上掛。當天,魏之遠搖頭擺尾地享受了大哥有點不好意思的摸頭和表揚。
   宋小寶羨慕嫉妒恨,於是企圖效仿,第二天,她把小爪子伸向了大哥換下來的內褲,被魏謙面紅耳赤地搶走了,以及……她得到了大哥一聲被踩了尾巴一樣的吼:「你瞎動什麼?」
   可見人世間是多麼的不公平啊——魏之遠和宋小寶竟然真的屬於同一個物種!
   宋老太一發現小寶不見了,就知道她回去了「小流氓」那裡。
   距離魏謙他們住的這片棚戶區不遠的地方,有一個私人經營的集體宿舍,分男女,專供進城務工人員住宿,一天一人一塊錢——如果小寶和奶奶一起睡,那她們倆也只用交一個人的錢。
   宋老太原本打算攢一點錢,帶小寶找個小平房租一間屋子,實在不行,她就帶著小寶一起回老家去。
   沒想到「回老家」這個概念剛一拋出來,小寶就跑了,她到底是捨不得她住了將近十年的家。
   自從她回家以後,宋老太每天都鬼鬼祟祟地到魏謙家附近轉一圈,以便趁魏謙出門的時候偷偷看一眼小寶。
   年關將至,凜冬倡狂,女工寢室裡有一個年輕的姑娘不幸感染了傳染性的肺結核,眾人只好一邊一哄而散地集體搬家,一邊疑神疑鬼地感受著自己是不是有咳嗽和低燒的症狀。
   宋老太也背著她的行李捲,搬了出來。
   她走在這個過於紛擾的城市裡,在一個橋洞下看見一個快要凍死的流浪漢,她駐足一會,發現那個人一直也沒人理睬,都快凍僵了,直到下午的時候,一對正好經過的中年夫婦才停車下來查看,而後報了警。
   警車很快開來,把這個人拉走,宋老太聽路人議論,知道這個人如果能活下來,可能會被送到流浪人口收容所去,也有可能會被遣送回原籍。
   原籍……
   宋老太抬頭看著這座北方城市裡蒼茫而陰沉的天空,心裡想:快過年了,我為什麼不回老家去呢?
   然而一個孤老婆子獨自過年,還算年嗎?
   宋老太低下頭,抹了一把凍出來的鼻涕,下定了決心,不要這張老臉了。
   而宋小寶也終於不負眾望地又一次胳膊肘往外拐了。
   那天是臘月二十三,小年,魏謙拎著剛買的糖瓜和包餃子的肉回家時,就看見家門口亂得一塌糊塗,裡面在進行一場無聲的戰爭。
   宋小寶貪心,放不下從小把她帶大的大哥,也放不下血脈相連的奶奶,所以在奶奶抹著眼淚找上門來的時候,還是把她放了進來……縱然此前發生的一切事,已經足以讓她理解到奶奶和大哥之間的劍拔弩張。
   大哥還沒回來,一直透明人一樣不吭不聲的魏之遠先不幹了。
   自從小寶認了這個二哥、不再挑釁開始,魏之遠一直對她不錯,幾乎沒和她翻過臉,似乎一個稱呼就能讓小孩懂得謙讓和照顧——前兩天的冷戰不算,宋小寶自認理虧。
   所以小寶沒想到魏之遠的反應會那麼大,他就像是被侵入了領地的惡犬一樣,氣勢洶洶地盯著門口的宋老太和小寶。
   但凡她們有一點打算越界的反應,他就準備撲過去決一死戰。
   宋老太一直看不慣魏謙,但是對魏之遠沒什麼意見——魏之遠只是個孩子,長得漂亮,性格也不招人煩,乍一看,比鬧哄哄的小寶討人喜歡。
   宋老太先是站在門口試圖對他講道理,可惜魏之遠一句人話也不聽,那種兇狠乃至怨毒的眼神,從這麼大的一個小男孩身上射出來,顯得格外瘮人。
   宋老太放棄了和他和平解決問題,往門裡邁了一步,把行李放了進來。
   魏之遠一把搶過老太太的包袱,毫不留情地給扔了出去。他還嫌不夠,轉身開始扔宋小寶的書包,宋小寶放在桌子上的東西,把這些都天女散花了出去,他又轉身跑到臥室,把小寶床上的枕頭被子一股腦地丟了出來。
   要是宋小寶不存在就好了,要是她們兩個都不存在就好了——魏之遠被憤怒沖昏了頭,心裡只剩下了這一句話。
   宋小寶要去推他,被魏之遠反手推了個屁股蹲。
   「叛徒!」他指著宋小寶的鼻子,虛偽地不表達自己的訴求,先給她定下一個冠冕堂皇的罪名,以本能地掩飾自己的心,「你就是個大叛徒!」
   宋小寶一開始還試圖申辯:「我不是叛徒,那是我奶奶。」
   魏之遠:「呸!她是個不要臉的老巫婆!」
   宋小寶一聽這話,也不幹了,跳著腳說:「你罵我奶奶!你個小王八有什麼資格罵我奶奶?這是我家!我哥!我奶奶!你不是我家的!你走!」
   魏之遠愣了兩秒,一下就沒詞了。
   他從激烈的憤怒中冷卻下來,意識到宋小寶說的話一點問題也沒有。
   魏之遠幾乎已經忘了,這的確不是他家,魏謙的確不是他親哥,他也的的確確沒有資格來決定,讓誰進門不讓誰進門這個問題。
   男孩��氣勢洶洶一下子煙消雲散,啞然在原地,臉「刷」一下就紅了,分不出是憤怒還是羞恥。
   一眨眼的工夫,他年幼的自尊心就被擊打得支離破碎。
   宋小寶一句話脫口而出,立刻就後悔了,可她在人情世故這方面的笨拙天性再一次佔了上風,即便後悔了,也不知道該怎麼辦才好,只好保持著倔強任性的表情站在原地。
   兩個小孩同時靜默了一分鐘,然後魏之遠一言不發地越過她,轉身往外走去。
   宋小寶終於感覺到不對,小聲地叫了他一聲:「二哥。」
   魏之遠連腳步也沒停。
   他空著手,悶頭往外走,帶著幾乎是破釜沉舟的淒涼決心。
   魏之遠咬著牙想:走就走,也沒什麼,最多接著去垃圾箱裡和野狗搶東西吃,無論如何,比以前肯定是強的,他已經長大了三歲,自覺是個男人了,別說野狗,就算那天碰到的不懷好意的大人,他都能用一根鋼管打敗……
   然後他就風蕭蕭兮易水寒地悶頭撞到了一個人懷裡。
   那人從攬住他的後背,熟悉的、劣質的煙味傳來,讓魏之遠的心情一瞬間發生了自己都難以理解的變化——他眨眼的工夫,就從一個勇往直前的男子漢變成了一個滿腔委屈的小男孩。
   魏之遠把臉埋在魏謙懷裡,死死地扒住他,一動不動地站在原地,不讓哥哥往裡走,也不肯抬頭,他拚命忍著不哭,兩隻手把魏謙的外衣攥出了一層一層的褶子。
   魏謙一抬頭就看見樓道裡亂七八糟的行李和被縟,臉色從尷尬轉為防禦的宋老太……還有怯怯地看著他的小寶。
   魏謙深吸一口氣,有心想把這老東西一巴掌拍死,可是小寶……他的寶貝丫頭好不容易才回來的。
   他投鼠忌器。
   魏謙明白,自己想留下小寶,大概就必須得向這個乾癟瘦小、身無長物的臭老娘們讓步……縱然他心裡的疙瘩有拳頭那麼大,恨不得衝破胸口呼號而出。
   他自詡一生哪怕賤如爛泥,也絕不向人低頭……直到他妹妹用眼淚汪汪的眼神,強逼著他有生以來第一次妥協。
   僵持了好一會,魏謙終於伸手輕輕地推了一下魏之遠的肩膀,小孩彆扭著不肯動,魏謙於是微微用了點力氣,掰著他的下巴,抬起了魏之遠的頭。
   少年嘆了口氣,從紙包裡挑出了一顆最大的糖瓜,塞進了魏之遠嘴裡。
   魏之遠懵懵懂懂地舔了一下,發現是甜的,他愛吃甜的,但是不愛糖瓜那種甜法,所以用舌頭把它推到了一邊,腮幫子上鼓起一塊,他用牙把糖瓜和舌頭隔離開,等著它慢慢融化。
   緊接著,魏謙把手裡的塑膠袋和紙包都塞到他懷裡,然後雙手伸到他腋下,像拎起一隻小貓一樣把他拎了起來,抱進了屋裡。
   「幫我洗菜去,晚上咱們吃餃子。」魏謙說著,刻意忽視了屋裡還有其他兩個人的事實,他態度幾近柔和地問魏之遠,「糖瓜好吃嗎?」
   魏之遠猶豫了一下,點了點頭,過了一會,小男孩偷偷把隔離到了牙齒外面的糖瓜重新收回了嘴裡,舔了舔,覺得也還行,沒那麼難吃。
   魏謙沒有理會宋老太,也沒有阻止小寶把她放進來,更沒有幫小寶撿東西。
   ……不過宋老太期期艾艾地走進廚房,觀察了他的反應片刻,試探著動手剁餡搟面皮的時候,他也同樣沒說什麼。
   魏之遠心意難平,宋小寶心懷惴惴,而剩下的一個成年人和一個幾乎可以當成年人的少年達成了詭異的默契——他們倆不約而同地保持了表面上的和平,誰也沒輸,誰也沒贏。
   宋老太終於還是沒能把她的寶貝孫女從臭流氓身邊搶走,而魏謙也只好捏著鼻子容忍了自己本來就不大的家裡住進了這麼一個討人嫌的老不死。
   他們倆儘管抬頭不見低頭見,互相都完美地把對方當成了空氣,誰也不搭理誰。
   那天晚上,宋小寶訥訥地和魏之遠道了歉,魏之遠瞥了一眼魏謙的表情,勉為其難地表示不跟她計較。
   這事算過去了,小寶依然是小妹,小遠依然是二哥,之後的日子,他們偶爾也會湊在一起對寒假作業上的答案。
   以前他們都是在宋小寶的小屋裡一起做功課的,那裡有書桌和簡易的小書架,可是自從那天以後,魏之遠再也沒進過小屋。
   他把自己的課本和習題冊都搬了出來,用兩塊硬紙板把客廳裡平時不大用的一張腿腳不一樣長的小桌墊好,從此在那裡落了戶。
   魏謙心裡有數,就隨他去了。
   後來小寶年紀大了一點,不再那麼沒心沒肺,開始有一些小算計的時候,曾經幾次三番藉著各種名目,想讓小遠進去,可惜魏之遠完全不吃她那一套,直到他們搬家離開這個歷史悠久的棚戶區,魏之遠也沒有再踏足過小屋一步。
  第十九章
   那段時間魏謙回家的時間越來越晚,跟著樂哥有不少「應酬」。
   以前這些事魏謙能推就推,但麻子死後,他生出了和樂哥你死我活不共戴天的心,當然要不動聲色地潛伏在樂哥身邊,賺取足夠的信任。
   而且家裡的氣氛也確實詭異,魏謙實在是懶得回去。
   這種詭異的氛圍一直綿延到了當年的三月份,魏之遠和小寶已經都開學了。
   陽曆三月的某一天,正是舊曆的二月二,龍抬頭,這年的倒春寒冷得邪乎,眼看著快看春,居然又下了一場好大的雪,幾乎把整個城市埋了下去。
   魏謙照例在外面陪樂哥,卻顯得有點心神不寧,不停地低頭去看樂哥新給他配的「小靈通」(注),酒喝到一半的時候,他的小靈通響了,魏謙一接,臉色一變。
   樂哥偏頭看了他一眼:「怎麼了?」
   魏謙壓低聲音說:「我妹妹病了,樂哥,小孩高燒容易落下毛病,我……我想回去看看。」
   樂哥似乎有些不樂意,然而畢竟還是給他面子的,就隨口問:「我給你找幾個人?」
   魏謙忙說:「不用,我回家看看就回來。」
   魏謙說完,站了起來,先和眾人賠了不是,然後沒等別人有所反應,他就用桌子角搓開酒瓶子,當場吹了一整瓶啤酒,算是給足了樂哥面子。
   在一眾大小混混的叫好中,魏謙恭恭敬敬地彎下腰,輕聲說:「司機和車我都給您叫來備好了,那輛『盾牌』,叫司機給您開好了暖氣。」
   樂哥喜笑顏開地揮揮手:「去吧。」
   魏謙不辦事則已,但凡他接手,似乎總能搔到自己的癢處。樂哥心想,自己一直照顧���不是沒緣由的,這少年人有銳氣,能豁得出命,能撐得起場面,卻也不是一味只會往前衝的莽撞人,魏謙有自己的特有的油滑,知道怎麼保存自己的面子,也知道怎麼給別人面子。
   魏謙應付完這些人,匆匆往家裡跑,還沒到家,就看見宋老太費力地背著小寶,深一腳淺一腳地走在大雪裡,旁邊跟著魏之遠給他們打著傘,男孩自己半個身子都被雪打濕了。
   宋老太畢竟年紀大了,又不知道怎麼打車,背都被小寶壓彎了,嘴裡呼出的白氣一下一下粗重地飄在滴水成冰的大雪天裡。
   魏謙大步走過去,把宋小寶接過來,伸手一摸,額頭滾燙,他立刻把自己的外衣脫下來,裹在她身上,抱著她直奔醫院。
   小寶最近老換地方住,弄得自己日理萬機,加上奶奶和大哥之間那種瞎子也能看出來的互相仇視,以及小遠對她的芥蒂難消,一時間,她的心理壓力前所未有地大。
   小寶心裡從來沒藏過這麼多事,正好學校裡開始流行病毒性感冒,她就壯烈了。
   外面漫天的大雪彷彿預示了這個冬天的無邊無際,醫院的鐵架病床透著怎麼也暖和不過來的寒涼,西北風「呼呼」地拍著窗戶,小寶滿臉通紅地輸上了液。
   其他三個人都已經是一身狼狽。
   宋老太沒有任何經驗,之前掛號,帶小丫頭檢查、驗血,辦住院手續等等的事,都是魏謙在跑,她插不上嘴,也不懂。一直以來,她在魏謙面前都表現得像個一點就著的二踢腳,幾乎可以代表廣大農村中老年婦女的最高戰鬥力,這時卻顯得無助又脆弱。
   她有些渾濁的眼珠總是不由自主地隨著偶爾來往的醫生護士不安地轉,坐在樓道裡等候的長椅上,顧不得一身的雪水化得她渾身濕漉漉的,屁股只敢挨著一點邊坐,每次有人不經意間靠近,她就會像犯了錯的小學生一樣,猛地站起來,手掌無意識地在濕漉漉的褲腿上磨蹭,露出她因為疏於保養而粗糲凍裂的手背。
   魏謙安頓好了宋小寶,已經很晚了,他看了看跟來的那一老一小,披上外衣轉身離開了醫院,從不遠處一個快要打烊的小飯店裡買了兩碗熱湯麵,打好包拎上來,屈尊降貴地放在宋老太面前一碗,剩下的推給小遠,低聲說:「吃吧。」
   魏之遠:「哥,你先吃。」
   魏謙擺擺手,摸出煙盒,又塞了回去,轉身出去找醫生說話。
   魏謙等他們倆吃完了東西,又看了看,見外面的雪不知道什麼時候已經停了,把雨傘遞給魏之遠,想了想,又從兜裡摸出兩百塊錢,一起塞給他:「太晚了,你們倆回去吧,到樓底下叫個車,也嘗嘗『打的』的滋味,剩下的這幾天家用,醫生說小寶得住幾天院。」
   魏之遠:「你不回去?」
   魏謙:「嗯,我在這陪陪她。」
   魏之遠偷偷地撇撇嘴,低下頭看著自己的鞋尖,別彆扭扭地說:「那我也不回去。」
   魏謙好聲氣地說:「你在這能幹什麼,別回頭你也感冒了,聽話,回去吧。」
   魏之遠固執地不吭聲。
   他實在是不想和那老太婆單獨相處,不然也不會這麼擰巴,魏之遠其實知道,大哥的好聲氣最多兩句半,超過了,他就要不耐煩了。
   果然,魏謙把臉一沉,直接呵斥說:「少廢話,滾回去,別在這給我添亂!」
   呵斥完,魏謙抬手摸了他的頭髮一把,發現已經乾了,於是催促說:「快走吧,家裡有點板藍根,回去自己泡水喝。」
   宋老太在一邊,破天荒地對他以一種示弱的姿態開了口:「那要麼我在這吧,我歲數大了,覺少……」
   魏謙挑起眼角看了她一眼,毫不客氣地說:「你?你會幹什麼?」
   宋老太:「……」
   魏謙冷笑一聲,轉身拉開了病房的門,示意他們倆都「快滾」。
   宋老太猶猶豫豫地走出去,忍不住又回頭對他說:「那……明天早晨你別在外面買吃的,我給你們做好了送過來……」
   這回魏謙眼皮也沒抬,眉目冷淡,好像自動遮罩了她的話音。
   魏之遠蔫蔫地跟著宋老太走了幾步。
   「等等。」魏謙突然想起了什麼,開口叫住了他。
   魏之遠立刻如蒙主召,顛顛地跑回來。
   魏謙彎下腰,幾乎是貼著魏之遠的耳邊,低聲對他說:「回去別忘了跟老師給妹妹請個假,這幾天……你早晚出門看著點,儘量和別的同學一起走,如果有人攔住你,也不用慌,問你什麼,你就照實說,不要緊,告訴他們我一直陪著小寶住院,沒人會為難你……如果家裡有什麼事,就直接到醫院找我,不要打我電話,我不開機。」
   魏之遠驚疑地抬頭看著他,魏謙的目光在採光不良的樓道裡顯得格外深沉,目光森冷而平靜,裡面似乎有幽暗的流光湧動。
   「除此之外,你什麼都不知道,記住了嗎?」
   魏之遠點點頭。
   魏謙單薄的嘴角輕輕地挑起來,在背光的地方露出了一個似是而非的微笑。
   「小寶不要緊,還沒來得及轉成肺炎,就是病毒性感冒,一個禮拜就好了。」魏謙說,「她這場病,病得可巧……」
   後來魏之遠回憶,他哥就是從這天晚上開始和奶奶結束了鬥爭,緩和了關係,乃至於後來握手言和的……哦,後來他跟小寶一樣,叫宋老太奶奶了。
   這一宿發生了太多的事,看起來似乎是他們所有人命運的轉彎,神奇得要命,可只魏謙那語焉不詳的幾句耳語,卻始終讓魏之遠相信,有時候那些看似奇蹟的命運,要是刨根問題,竟然也會是人為的。
   小寶的病果然如醫生所說,來得快去得也快,第二天清早,她就已經從高燒轉成低燒了,宋老太如約一大早趕來,帶著給小寶的雞蛋羹和給魏謙的茶雞蛋、瘦肉粥。
   茶葉蛋大概是煮了一整宿,味道浸得足���的。
   魏謙沒客氣,接過來大口吃了,發現這老不死的幹別的不行,做飯倒是挺有一手。
   小寶吃了東西,強打精神和奶奶說了幾句話,又昏昏地睡著了,宋老太神色拘謹地坐在一邊,幾次三番試圖和魏謙搭話,但魏謙不領情,也懶得給她面子,一直愛答不理,拿著一本缺頁的舊雜誌翻來覆去地看。
   宋老太有些惴惴,兩廂沉默了一會,她終於站起來,輕聲說:「她哥,那你……那你中午想吃點什麼,我回家做去。」
   魏謙不識好歹地冷笑一聲:「管好你孫女就得了,我用不著你,怕你下耗子藥。」
   宋老太眼眉一立,看起來又想破口大罵,可她嘴唇動了動,到底憋住了,一聲沒吭轉身走了,中午依然忍辱負重地帶了魏謙的飯。
   一日三餐,她都給做好了送來,變著花樣的,帶著明顯的討好,基本是愛吃什麼給做什麼,到了第三天,魏謙終於有點吃人嘴軟了,雖然他照例是不大買賬,可好歹不陰陽怪氣了——他閉了嘴,好話歹話都不說了。
   宋老太剛走,三胖就來了。
   三胖給宋小寶帶了新鮮水果,心不在焉地逗了她兩句,然後一扯魏謙的衣服,低聲說:「謙兒,出來,三哥有話跟你說。」
   三胖臉色凝重,眼睛下面帶著厚重的黑眼圈,大餅臉似乎幾乎都有些縮水了,險些奔著甩餅的形狀去。
   魏謙囑咐了小寶幾句,跟三胖到了外面,找了個沒人的轉角,三胖一把拎住魏謙的領子:「你為什麼不開機?你知不知道外面出什麼事了?你……」
   魏謙攥住他的手,把自己的衣領解救出來,不慌不忙地說:「天塌不下來。」
   三胖:「臥槽這時候了還跟老子裝神,樂曉東出事了!」
   魏謙面無表情地看著他。
   「前天晚上,就是你送小寶上醫院的那天,樂曉東他們喝完酒,半路上就被人給截下了,他那凱迪拉克據說當場就被人懶腰給撞翻了……當時跟著他的兄弟們全都紅了眼,當街和對方幹起來了,正是鬧市區,他媽一幫沒譜的王八蛋,眨眼就驚動了員警,前一段時間市裡剛說要重點打黑,這就撞槍口上了,你說他們是不是缺心眼……」
   三胖絮絮叨叨地說了一大堆,魏謙卻突然打斷他的話。
   魏謙的聲音壓在喉嚨裡,低得就像悄悄話,他的少年音色已經褪盡,低沉如同某種沉鬱的琴音,好像帶著某種迴響。
   魏謙問:「樂曉東死了嗎?」
   三胖愣了兩秒,而後難以置信地看著魏謙,好一會,才呆呆地問:「不是,你……你早知道?」
   魏謙露出了一個譏誚而尖刻地笑容,英俊得逼人。
   三胖心裡把這事轉了轉,瞬間冷汗都下來了:「你在裡面扮演的什麼角色?你丫找死啊魏謙!樂曉東他們那些人,是我們這些蝦米小魚能動得了的嗎?你……」
   魏謙豎起一根食指在自己的嘴唇上。
   他走近三胖,從他的口袋裡掏走了一包煙,小聲說:「三哥,你說得對,我只是只蝦米小魚,什麼角色都不是。我當時飯都沒吃完就走了,既不知道他什麼時候走,也不知道他會走哪條路,你說樂哥每天晚上都換地方住,也能被人伏擊嗎?簡直太離奇了。」
   三胖目瞪口呆的二缺表情如同剛被外星人綁架了。
   「不過知道他死了,我就放心了。」魏謙一隻手托住自己的下巴,手指揉了揉自己微微冒出些胡茬的臉,拿著煙盒走出去,醫院不讓抽煙,這幾天快要憋死他了。
   那起重大販毒案中,被捲進去的不單是麻子這樣的替罪羊,還有真正的大頭和老炮,樂哥獨善其身,連局外人都看得清怎麼回事,更別說牽扯其中的人。
   樂曉東這個人,簡直就像當年的袁大頭一樣,嘰嘹嘰嘹地忙著落井下石,反咬段祺瑞一口,結果全國人民都統一意見地同意是他刺殺了宋教仁。
   樂曉東也是一樣,作為一個短視的陰謀家,遇到事不想著怎麼坐鎮大局,先第一時間把自己摘出去,還摘得不甚高明。
   魏謙知道,從那件事之後,就開始有無數雙眼睛在盯著樂曉東——因為有人曾經找過他,他作為樂曉東手下的當紅打手,還和死了的麻子私交甚篤,立場微妙。
   不過魏謙當面沒答應,轉臉把對方賣給了樂曉東,表了一回衷心,也讓因為麻子而對他有些猶疑的樂曉東放心。
   不是愚忠的傻小弟,誰來送他們樂哥上黃泉路呢?
   樂曉東屬大龍,儘管全世界少說十二分之一的人都是這個屬相,但他就是認為自己的屬相獨一無二,有帝王氣。
   他把每年把二月二龍抬頭當個節日過,必然要大宴賓客,魏謙臨走替樂哥準備好了他的愛車——樂曉東養了好幾輛名車,但是打心眼裡最喜歡那輛凱迪拉克,不為別的,就因為這車上過中央電視台的某小品,全中國人民都認識,都知道它貴。
   ……以及四個字顯得高端洋氣。
   魏謙這「馬屁」拍得熨帖,樂哥當時心裡非常滿意。
   樂曉東有好多住處,立志要狡兔三窟,誰也找不著他。每次都是坐到車上臨時決定去哪,他自以為別人不可能提前預知他的行程。
   可惜,有一年他老婆去北歐掃貨,給他帶了一塊天價名表,樂曉東不管是不是剛初春,為了把表露出來,硬是穿了短袖的那一次,魏謙就明白了他今天晚上會走那條路。
   樂曉東志得意滿地喝了酒,大宴賓客如同土皇帝,貼心的小弟給備好了土皇帝車,酒氣上頭,他如果不就近去市中心的廣場上轉一圈顯擺一下他的愛車,心裡該有多難受啊。
   從廣場轉一圈,正好接上往北城的高架橋,樂曉東在北城有個九百多平的獨棟,是那一片別墅的樓王,裡面養著仨居然能和平共處的奇葩情婦,其中一個剛在「有心人」的點撥下,趁著樂曉東心情好打了電話給他「祝壽」,故意把「龍抬頭」說成是他的生日討好,把樂曉東祝得龍心大悅。都順路了,他要是不去看看他那「三宮」,心裡該有多難受啊。
   哦,對了,樂曉東從不開車,從不坐副駕,他認為車的前面兩個位置掉了他的價。
   所以只要衝著後面撞就好了。
   太外露的人比較適合當個小人物,因為註定不可能走太遠,他們通常都會莫名其妙地冤死在半路上。
   作者有話要說:
  註:小靈通是一種簡易手機
  第二十章
   小寶在醫院整整住了一個禮拜。
   她住院的那天大雪封城,出院的時候氣溫卻已經驟升了十幾度,春暖花開呼之慾出。
   宋老太在家裡煮了一大鍋餃子。
   小寶發現,曾經劍拔弩張的大哥和奶奶似乎奇蹟般地緩和了關係,而她這樣病病歪歪的,小遠也不好再和她過不去,拿出了這幾天的筆記給她。
   棚戶區的舊筒子樓三樓,一室一廳的破爛房子裡,恍然間有了點家的味道。
   樂曉東死了,魏謙胸中一口凝滯不散的仇恨好像也隨之而去了,他的精氣神似乎變了不少……哪裡變了,三胖也說不好,只是覺得他沒有那麼深重的戾氣了。
   不管怎麼樣,都是好事。
   臨去接麻子媽出院的時候,三胖帶著小鋤頭和魏謙來到了麻子家門口。
   三胖往手心吐了兩口吐沫,在樹下一陣刨:「麻子那小子,屬土撥鼠的,什麼都往地底下埋,肯定留了東西——哎,謙爺,您能別在一邊紮著手看著嗎?能移駕過來,動動您尊貴的爪子幫幫俺老豬嗎?」
   魏謙把鞋上蹭得泥磕掉,頭也不抬地說:「二師弟,師父給你機會讓你減肥,你就別他娘的廢話了,甩開肥膘挖吧。」
   他說完,摸出一根煙,塞進嘴裡點了,然後倒著插到了大槐樹下,拍了拍樹幹:「好長時間沒嘗過了吧?不是好煙,你湊合著用。」
   大槐樹靜靜地站在一邊,微風中,和著微微歪斜的煙,簌簌有聲。
   真就有點像麻子一樣,總是不聲不響地站在那,誰看他一眼,他就沖誰傻笑一下,不問就不吱聲。
   三胖很快挖出了麻子埋在地下的錢,塑膠袋封起來的信封裡還夾著一張紙條,說他就要遠走他鄉,只好厚著臉皮地把他媽託付給兩位兄弟……「託付」的「托」還寫錯了。
   這炸油條的文盲,老大不小的,遺書寫得還不如當年剛上倆月學的小遠。
   魏謙和三胖合計了一下,決定把麻子已經死了的這件事瞞下來,只把錢和字條交給了麻子媽,對麻子媽統一了口徑,說麻子為了給她攢錢治病,跟著一幫做生意的人走了,上柬埔寨倒賣咖啡豆去了……「去柬埔寨」這個說辭是三胖想的,算遠走異鄉,對得上字條上的話。
   麻子媽截了一條胳膊一條腿,已經算是殘疾人,按規定,她可以申請五保戶,可惜全部辦下來沒那麼容易,需要漫長的開各種證明和跑手續的過程——不然當年魏謙也可以以未成年人的名義申請,只是當時太耗時間,他沒這個心力,跑不起。
   現在他和三胖都有心有力,這事卻依然辦不成,因為過不去麻子媽自己那關。
   魏謙嘗試著提起這事時,麻子媽堅定地認為自己已經有了個將近成年、並且有勞動能力的兒子,現在兒子雖然不在眼前,但是去國外做生意的,有經濟來源,她不該蓄意欺騙政府那點補助金。
   她覺悟高得簡直讓魏謙腦仁疼,於是回去以後,他狠狠地捶了三胖一頓。
   都是這死肥肥出的餿主意,編的餿瞎話,得,搬起石頭砸自己腳了。
   魏謙沒有再回夜總會,他甚至沒有再關心過樂曉東死了以後,財產都由誰打理了。
   「小魏哥」已經隨著死了的樂哥一起銷聲匿跡,金盆洗手了,他做打手做得本分極了,誰都知道他只是樂哥養得一條咬人的狗,牙口再厲,也沒人關注他,他們有的是別的事來互相打破頭。
   魏謙托三胖爸找到了一個工廠點貨員的工作——哦,說白了就是搬東西的。
   臨時工,按件計費,純體力活,中午管飯,一人倆饅頭,魏謙沒幹多長時間,就滿手都是大泡,整天都是髒兮兮的,一天到晚要看人臉色。
   打手「小魏哥」的日子,彈指就成了鏡花水月。
   魏謙開始幹這個活的第三天,蹲在路邊拿針挑手上的血泡的時候,心裡平靜得自己都覺得詫異。他曾經認為,這樣的日子會把自己年輕的脊樑給壓彎,會一想到自己這幅德行和「出人頭地」四個字之間十萬光年般的距離,就覺得心如刀絞。
   然而並沒有。
   如今他想要「出人頭地」的那種心緒依然沒有半點改變,他依然是個做夢都想賺大錢的錢串子,依然需要錢,需要養家餬口,可大概是他已經目睹過了足夠的浮華,經歷過了刻骨的生死,他的心已經不知不覺間就沉下去了很多。
   對此更加喜聞樂見的是宋老太。
   即使魏謙每天被人吆五喝六,孫子一樣地幹活,她也欣慰地為他終於「走上正途」鬆了口氣。她是莊稼人出身,不覺得體力活有什麼不好,憑力氣吃飯,吃得天經地義。做小工,哪怕吃糠咽菜,也比出入夜總會的穿金戴銀強。
   宋老太在主觀地認為魏謙前途一片光明的時候,也終於發現,這個大男孩,還不到十八歲,已經確確實實是在撐起一個家了,於是對他好了一些。
   她不知從哪弄來了跌打損傷的藥膏,偷偷放在魏謙的床頭櫃上,又為了幫魏謙補貼家用,每天早晨三點多起來,煮上一鍋茶葉蛋和玉米,踩著人們上班的時間出去賣,下午再去收硬紙盒子、包紙和瓶子去賣。
   乃至於魏謙也不得不承認,這個神經兮兮的老娘們兒是個了不起的人物——她就這麼起五更爬半夜,竟然還能兼顧家裡孩子們的一日三餐,還能精神矍鑠地和鄰居那個惡老太每天大戰三百回合,相互問候生殖器地罵戰一通。
   惡老太被魏謙小時候拿著菜刀嚇唬過,不敢出門硬碰硬,兩家各自上著門上的鎖鏈,留出一個門縫以供聲音暢通無阻,開戰。
   這兩個老貨掐出了風格掐出了水準,嘴裡蹦出來的髒話讓魏謙這個職業流氓都聽不下去。
   三胖不出門進貨的時候,就坐在樓道裡,抓一把瓜子,一邊嗑,一邊津津有味地聽一段,等戰鬥結束,他拍拍瓜子皮,扯著嗓子鼓掌叫好,他聲音洪亮,一個人能打造出「滿堂彩」的效果。
   這時宋老太和惡老太就會一致對外。
   宋老太罵:「小逼孩子!」
   惡老太罵:「大逼胖子!」
   三胖湊齊了一個「二逼」,心滿意足地扭著走了。
   後來魏謙過去,一腳把惡老太家的門閂踹壞了,又和宋老太在家裡大吵一架,讓這倆混賬老太婆把嘴都放乾淨點,別把好好的孩子都教壞了。
   ……事實證明,倆潑婦鬥不過他一個人,於是她們倆自覺將切磋時間轉移到了午後,少年兒童們上學的時候,週末及法定節假日休戰。
   魏謙把煙戒了,抽煙太貴。
   魏之遠感覺童年讓他印象深刻的有兩種味道,一種是廉價的煙草氣味,一種是後來跌打損傷膏的藥味。
   那段時間,每天他做完功課抬頭看的時候,大哥都一定已經累得躺在床上睡死過去了,天漸漸熱了,魏謙就穿個「二桿梁」背心和大褲衩,把薄毯往腰間一搭,留給魏之遠一個背影。
   打手生涯和繁重的體力勞動把魏謙磨礪得腰間沒有一絲贅肉,修長緊實的肌肉緊緊地貼著,後腰永遠是窄窄的凹下去,突兀的一對肩胛骨就像一雙展開的翅膀,好像只要藏在下面,就永遠也不會受到傷害。
   魏之遠看他一眼,又低頭寫了兩行字,正抄到一個課文課後詞,那個詞是「長兄如父」。
   男孩按著老師的要求工工整整地寫了五遍,然後合上書本,關上燈,循著空氣中已經習慣了的藥味爬上床,爬過魏謙,熟練地鑽到了他懷裡,魏謙半夢半醒間下意識地抬手拍了拍小孩的後背,帶著鼻音低聲說:「快睡。」
   魏之遠從這兩個字中分辨出了濃稠得恰到好處的寵愛意味,心滿意足地合上眼,享受著一天最舒服的時刻。
   此後每每提及「幸福」,魏之遠都會想起自己年幼的時候窩在大哥懷裡、蹭著他的胸口,閉上眼睛等待沉沉睡去的一刻……即使他已經長大到大哥的懷裡再也裝不下了。
   匆匆又過了半年。
   這一天小寶和小遠期末考試,考完試就意味著要放暑假了。
   夏日如火,魏謙騎著一輛二十塊錢買來的二手自行車,來到了冷飲批發市場,小商小販們都從這裡進貨,魏謙也打算批發一箱冰激淩回家給倆崽子解饞。
   很多家裡有小孩、冷飲消耗大的人家都會從這裡直接買一箱冰激淩回去,平均零售一兩塊錢的冰激淩,批發價只有四五毛,能省好多。
   魏謙正在看產品名錄的時候,突然,一個人有點猶豫地叫住了他。
   「魏謙?你……是不是魏謙?」
   魏謙回頭一看,只見對方是一個有些眼熟的中年婦女,他先是愣了一下,隨即仔細地打量了她一番,才恍然大悟地想起來:「你……您是李老師?」
   李老師踩著高跟鞋快步走過來,一迭聲地問:「真是你!你是怎麼回事?連聲招呼也不打就退學,我還找過你好長時間,一直沒消息,你到底幹什麼去了?有什麼天大的事?為什麼不把學上完?」
   三年了,驟然見了她,魏謙竟然有種恍如隔世的感覺,學校?那好像……都已經是上輩子的事了。
   然而面對舊班主任,魏謙卻忍不住低下頭,這一刻,他既不像暴虐凶戾的夜店打手,也不像沉默寡言的年輕小工。
   他忽然變得像個正常的、在老師面前有些拘謹中學生。
   魏謙苦笑了一下:「老師,這說來可就話長了。」
   魏謙帶著一箱冰激淩和一個陌生的中年婦女回家的事,讓所有家庭成員都非常的意外——因為印象裡,大哥就沒對誰這麼客氣過。
   這位客人衣著整潔,帶著眼鏡,說話客客氣氣的,非常有禮貌,舉手投足間一看就知道是個知識分子,和週遭環境格格不入。
   等奶奶弄明白了李老師的身份之後,她驚得連話都說不利索了——她老家的行政區域是這樣的,先是省,省下面是市,每個市管轄著下屬十幾個縣,構成一個行政地區,一個縣下面又有七八個鄉,鄉下面才是數不清的小村落。
   宋老太老家相對偏遠落後,村裡孩子上小學要去鄉裡,初中要遠走縣城,上高中則要坐上七八個小時的車,去市裡,她們村裡好多年都沒有能考上高中的。
   更不用說高中老師了,她有生以來第一次見到一個活的高中老師。
   宋老太幾乎把李老師當成了國家領導人來接待,拿出了渾身解數,做了一桌最高規格的菜,死活要留下她吃飯。
   李老師實在盛情難卻,只好在飯桌前坐了下來,看著這個家,李老師多少明白了魏謙退學的原因,她在應付著熱情洋溢、不停地給她夾菜的宋老太之餘,試探地說:「魏謙,我記得你那時候成績挺好的,說真的,就這麼不上學了,真的挺可惜的。」
   魏謙沒應聲,拿起一邊小碗:「老師我給您盛碗湯。」
   李老師接過來,接著說:「你知道,我在咱們學校裡也工作二十多年了,作為老教師,在校領導那多少有點面子,而且你叔叔……哦,就是我丈夫,他在市教育局工作,你要是願意,我可以讓他想辦法幫你把學籍弄回來,就插在我現在帶的班裡。」
   這話音一落,飯桌上所有人都不約而同地停下了動作。
  第二十一章
   眾人反應不一,小寶理智上知道這是件好事,但感情上,她顯然不認為上學是什麼好差事,她一方面高興,一方面也為大哥以後要和她一樣,老老實實地綁在椅子上聽課寫作業而幸災樂禍。
   小遠卻比她心細得多,哪怕當年魏謙退學的時候他還那麼小,但他切切實實地感覺出了魏謙心裡強壓的絕望和悲痛,所以他帶著點期盼地抬頭看著李老師,用一種失學兒童盼來了救助的欣喜若狂。
   而反應最大的,卻是宋老太,宋老太活得時間比他們仨加起來還長,經歷過的事太多了。
   她發現,當魏謙坐到這個李老師面前的時候,人的氣質都變了,他顯得文質彬彬,禮貌而應對得體,看上去比同齡人穩重很多,面容英俊,匪氣褪盡了,露出他原本蒙塵的、逼人的青春。
   大好年紀的少年,灼灼如火般的韶華。
   一個念頭從宋老太心裡閃過,她當機立斷地做了決定,心想,這小子應該去唸書。
   然而唯獨魏謙,聽了李老師的話,他只是微微愣了愣,好一會,他才眼皮也沒抬地輕輕笑了一下,反應平淡地說:「謝謝老師,不過……咳,我這個人,天生就不是很願意上學,可能也不是讀書的料……」
   「你是怕沒錢交學費?」宋老太突然打斷他。
   魏謙沉下臉掃了他這豬一樣的戰友一眼,要不是不好在李老師面前造次,他敢當場摔筷子——在人家老師面前哭窮,說這話是什麼意思?
   是博取同情還是腆著臉地利用人家的愛心求扶貧?不要臉也要有一定的限度吧?
   可是宋老太不管,滿地打滾的事她都幹得出來,臉面?臉面又是什麼玩意?能吃嗎?
   於是她再一次搶在李老師前面開口說:「沒事,你去讀,我還沒老呢,幹得動。我守著路口,連早晨再晚上,一天能賣幾百個茶葉蛋,你算算,這能賺不少錢了吧?他們倆還小呢,沒到花錢的時候,小學唸書雜費一年沒多少,充其量是交一點書本費,你安心去讀你的書,放心吧。」
   魏謙覷了覷李老師的神色,一邊悄悄地磨了磨牙,一邊對李老師勉強擠出一個純良無害又有些不好意思的笑容:「不,其實不是因為經濟原……」
   他儘可能保持著他如同學生會主席般的風度,宋老太再次利用這一點,扯著嗓子打斷了他,她用自己罵街練出來的大嗓門衝著李老師說:「老師,可謝謝您,您就是我們家的恩人,只要讓這小子回學校唸書,學費我老太婆出,將來就是考大學,咱們也考得起,孩子只要自己有出息,說什麼也不能耽誤了,是不是?哎……您說的,他真能……」
   李老師笑著扶了扶眼鏡,說:「大媽,您放心,當了一輩子教書匠,沒權沒勢,也就能辦成這麼點事,可惜一個好孩子,當時這孩子成績挺好的,考過前十名——是吧魏謙?過兩天我就讓你叔叔去辦,辦好了等暑假開學,你就可以直接入學,經濟上有什麼困難,可以對老師說,大不了你將來長大有出息了再還給老師嘛。」
   宋老太大喜過望,差點要攏起袖子沖李老師作揖了:「喲!是嘛!那可太謝謝您了!太謝謝您了!」
   宋老太一個人大呼小叫,以絕對優勢完全佔領了發言權。
   小寶只知道吃飯,魏之遠看看這個,又看看那個,終於還是小心翼翼地夾了一塊肉放在了大哥碗裡——他看見大哥腦門上的青筋都迸出來了。
   李老師吃完飯就告辭了,魏謙原本打算出去送她一程,順便好好感謝老師的好意,把「重新滾回去上高中」這種荒誕不經的事拒絕掉,可沒想到他剛起來,還沒來得及站直,宋老太那個老不死的缺德東西就猝不及防地給了他一記撩陰腿。
   大哥在小弟和妹妹眼前,前所未有地大幅度蹦了起來,喪權辱國地夾起了腿,像一隻受到了驚嚇的兔子一樣猛地躲開,然後大門就在他們仨面前「咣當」一下關上了,宋老太已經屁顛屁顛地追出去送李老師出去了,動作之迅捷,實在不像一個已經七老八十的老太婆。
   沉寂了兩秒鐘之後,魏謙沖小寶咆哮:「你奶奶那個老妖婆是找死嗎?!」
   小寶迷茫又無辜地看看他,擦了擦方才吃飯熱出來的汗,對他說:「哥,我想吃根冰棍!」
   魏謙:「吃個屁,刷碗去!」
   小寶只好委委屈屈地刷碗去了,魏之遠在旁邊也開了口,他關心地問:「哥,疼嗎?」
   魏謙:「……」
   於是魏謙把炮火對準了他:「閉嘴,滾!擦桌子去!」
   魏之遠就滾去擦桌子了,在擦桌子之前,他還自作聰明地從床頭櫃上拿起了魏謙平時用的跌打損傷膏,往魏謙面前一放,低頭偷偷一笑,在大哥臉上徹底山雨欲來風滿樓之前,跑了。
   魏謙暴怒的臉色冷靜了下來,他輕輕地舒了口氣,往小遠平時寫作業用的椅子上四仰八叉地一靠,椅子腿短他腿長,只好委委屈屈地窩在一起。
   魏謙劇烈的心跳平復了下來,其實他自己心裡清楚,要是他真的一點也不想去,真的像他自己說的那麼討厭學校,他根本就不會把李老師領回家吃飯。
   宋老太那老東西再潑辣,還沒有他的胸口高,一個年輕小夥子真動了真格的,宋老太能攔住他嗎?
   那是不可能的。
   他自己打心眼裡想回到學校去,儘管兒時實驗室的夢想已經破碎得粘都粘不起來了,可學歷依然是他可望不可即的東西。
   不管是什麼樣的學歷,哪怕將來他上一個非常破的大學,可畢業證書拿在手裡,才能讓他有一條和世界上的絕大多數人一樣奮鬥的起跑線,他不期待別的,只想登上那輛能開到起跑線的火車。
   用兩條腿追著鐵軌上的輪子跑,這太艱難了。
   他真的只是想要那一點點的希望而已。
   可是如果他走了,誰來養家?誰來餬口?
   還有不到半年的光景,魏謙就會滿十八週歲,在社會眼裡,他已經是能自食其力的大人,他有手有腳有力氣,沒人會因為貧困而同情他,也沒人會給他這樣的人救濟——世界上需要救濟的人永遠比救濟金多。
   靠老太太賣茶葉蛋撿破爛的錢去念這個書嗎?打死他也做不到。
   退一萬步說,李老師是大好人,願意幫他,那是算他命好趕上了。可李老師有義務幫他照顧家裡,幫他偷偷補貼麻子媽嗎?
   大概二十分鐘以後,宋老太回來了,大門被推開的那一瞬間,魏謙心裡已經準備好了對她破口大罵的詞。
   他原本想說:「你又不是我奶奶,你個老不死的東西算哪根蔥,你管得著我的事嗎?這他媽是我家,我說了算,少在老子面前人五人六地裝蒜!」
   鑑於這句話比較長,並且需要一氣呵成,魏謙已經好好地深吸了一口氣,然而當他看見推門進來的宋老太臉上那沒來得及褪去的喜色的時候,他就連一個字也說不出來了。
   宋老太認為上學讀書是一件極其長臉、極其榮耀的事,在老家,她認識的最有學問的人是東頭那個有初中學歷的村支書。
   她正在以用一種非常粗魯鄙陋的方式,嘗試著對他好。
   魏謙終於緩緩地把那口吸進去的氣吐出來,連帶著牽連著五臟六腑的凶戾一起,聽起來就好像一聲嘆息一樣。
   魏謙對小寶和小遠招招手,打發他們倆一人拿一根冰棍去小屋寫暑假作業。
   小寶本來不樂意放暑假第一天就要寫作業,隨後聽見大哥讓小遠和她一起,她立刻忘了糾結作業的事,小心翼翼地抬頭看了魏之遠一起。
   儘管魏之遠面無表情,魏謙卻看出了他的不樂意,於是加重了一點聲音說:「去,愛吃什麼拿什麼,聽話。」
   魏之遠知道大哥他們有話要說,不想給他聽見,可房子小沒辦法,除了打發他們去小屋也沒別的地方可去,於是他頓了頓,擺手拒絕了小寶給他拿的冰棒,轉身走進了廚房,回手把廚房的門帶上,衝著外面大聲說:「我切西瓜!」
   小寶失望極了,拿著冰棒在廚房門口踟躕良久,終於還是被那一道歪歪扭扭不結實的小破門給拒之門外,她無可奈何地轉身回到了自己屋裡,感覺奶油小豆冰都不好吃了。
   魏謙這回是真嘆了口氣——他一雙弟妹長得都這麼畸形,弟弟是個氣性大得不行、死不回頭的倔毛驢,妹妹呢……唉,更別提了,她簡直是個別出心裁的二百五。
   這日子,真離了他可怎麼過?
   魏謙把腿放下來,弓起後背,一手扶著椅子把手,另一隻手手肘撐在膝蓋上,摀住了半邊臉,用一種罕見的、心平氣和的語氣對宋老太說:「我們學校一年多少錢,你知道嗎?「
   宋老太伸出四根手指頭來:「你們老師說一年四百,這錢咱們有。」
   這錢當然有,魏謙替樂曉東當打手那會,樂曉東一個月給他一千五,好煙好酒隨便拿,在當時算比較高的收入了。他手裡多少有些積蓄,四百塊錢的學費確實拿得出,可學費始終是小頭,其他的開銷呢?
   魏謙搓了搓手指,他這時候真的很想再來根煙。
   「我們學……我們原來的那學校,中午午休時間很少,晚上要上晚自習,全封閉管理,一天要在學校待十二三個小時,半工半讀是不可能的。我們要求一日三餐在學校吃,最省錢一個月也要一百五十塊錢,書本費另算,也是筆不小的開銷,咱們就先暫且不算了。家裡呢,你們三個買菜買肉——對,我知道你們在家做飯省錢,但是那倆崽子什麼歲數?正是連骨再肉一起長的時候,飯錢絕對省不下來,加上水電費好和其他亂七八糟的,一個月兩百,你們得過的緊巴巴的。」
   魏謙抬起眼睛:「你告訴我,就這三百五十塊錢你去哪弄?刨去成本、電錢水錢,你賣一個雞蛋能賺五分錢嗎?你一個月賣得了七千個茶葉蛋嗎?你真當你那蛋是公雞下的啊?」
   宋老太啞然,過了一會,毫無底氣地狡辯說:「我一天也不少賣呢,能有幾百個……」
   「我買你幾百個雞蛋。」魏謙苦笑了一下,連續長篇大論,他有點口乾舌燥,他輕聲對宋老太說,「別耍你那點小聰明瞭,什麼行情我不知道麼,從早到晚,你能賣六七十個就算生意好了。」
   宋老太:「哎喲你懂個屁,老娘賣破爛也能賺錢,包紙、紙盒子……對,還有瓶子,易開罐……」
   「就算你一個月累死累活地能弄出這三百五十塊錢,萬一有點別的事呢?」魏謙打斷了她,「你年紀也不小了,我說句不好聽的,萬一有個磕碰住院呢?你有醫保嗎?再說,就算我可以湊合,你可以湊合,可是萬一倆孩子學校有點什麼春遊運動會,別人都給買新衣服零食,你讓他們倆也湊合嗎?小寶是個丫頭,現在什麼也不懂不要緊,過一兩年她知道美了,你是不是也準備讓她破衣爛衫地在同學面前抬不起頭來?」
   宋老太聽到這,不知怎麼的,突然眼睛一眨,毫無徵兆地掉下了眼淚來。
   魏謙說得對,她心裡明白,這是城裡,不是他們那窮鄉僻壤的老家,在老家,田間地梗、家長裡短,誰家的孩子都是泥裡滾大的,誰也不比誰體面多少,沒什麼好說。
   可是在城裡,人家都是豪車寶馬、衣香鬢影,窮是沒有出路的。
   這孩子是有多苦啊!
   而她只是個鰥寡孤獨的老太婆,什麼本事都沒有,最大的技能是種菜,可惜這鋼筋水泥的城市,連二尺寬的菜地都找不著。
   魏謙心裡原本是惶惶茫然一片,驟然發現宋老太掉了眼淚,他有那麼一兩秒鐘沒說出話來。
   隨後,少年以一種不可思議的速度冷靜了下來,他默不作聲地站起來,從桌子上拉過一卷衛生紙,撕下一點遞給她,用真正一家之主的鎮定氣度說:「別哭了,我跟你說的都是真事。」
   宋老太越發地泣不成聲。
   魏謙任憑她哭了一會,終於不耐煩了:「老太婆,差不多行了,哭哭啼啼的,晦氣不晦氣?有事說事,有什麼好哭的?」
   宋老太聽他又沒了那種文明和體面,故態重萌地出言不遜,就彎腰扒下了自己的鞋,拿著鞋底使勁往魏謙身上抽:「你個小兔崽子!你個沒良心的小兔崽子,我打死你!你就那麼想當流氓是不是?就那麼想當小工是不是?抽死你得了!。」
   魏謙當然不可能被一個鞋底抽死,他也懶得躲,索性縮著肩膀用胳膊護住臉任她打、任她出氣。
   同時,他不打算陪她發洩毫無意義的情緒,魏謙在這樣混亂的背景音中,絞盡腦汁地思索起出路。
   滿地荊棘,而希望就像一匹踏燕的馬,只有尾巴堪堪勾住了他的指尖。
    第二十二章
   魏謙本不想因為自己,弄得家裡愁雲慘淡,所以他雖然依然惦記著這事,卻照舊是沒事人一樣每天去工廠上班——他跟著樂曉東那幾年,心事重重的時候太多了,久而久之,就這麼養出了一副稚嫩的城府來。
   可有人偏偏不讓他消停。
   首當其衝的就是魏之遠,魏之遠原來是多好的一孩子啊,撒嬌不搗蛋,聽話又會看人臉色,可他眼下已經活生生地變成了一隻碎嘴鴨子,每天晨昏定省地要眼巴巴地問他一次,弄得魏謙煩不勝煩。
   其次是宋老太,宋老太不用變,本身就是個車軲轆話的碎嘴子,一個人能頂五百隻鴨子,魏之遠那點囉嗦和她比起來就弱成了渣。魏謙簡直怕了她,有一天他回家一推門,宋老太正好從廚房裡走出來,見了他,腳步一頓,張開了嘴,魏謙就好像看到了一張可怕的血盆大口,二話不說轉身往門外走……
   當然,結果其實人家老太太只是想打個噴嚏。
   還有三胖。
   三胖賤得絕代無雙,有一天趁他不在家,用刷子沾著紅油漆,在他家門口刷出了一行大字——為中華之崛起而讀書。
   那陰慘慘的樓道,那血紅血紅的大字……
   對門惡老太起得早,淩晨四點多出門遛彎,天還沒亮,就受到了這種驚嚇,她在門口呆愣了三秒,短促地尖叫一聲,拎起褲子就摔門狂奔回自己屋……差點沒尿褲子。
   在這種十面埋伏的情況下,魏謙從宋小寶身上找到了唯一一絲安寧。
   宋小寶私下裡嚴肅地對他說:「哥,你要是不想去,就別去了吧。」
   魏謙詫異地抬頭看了她一眼。
   宋小寶叼著一塊西瓜,誠懇地說:「你是不想上學嗎?」
   魏謙遲疑了一下,違心地點了點頭。
   宋小寶搖頭晃腦地唉聲嘆氣了一番,故作老成地說:「唉,沒辦法啊,你的難處我都懂。」
   魏謙吃了一驚,心說她不知不覺間居然已經這麼懂事了,有點窩心,於是問:「你都……懂什麼了?」
   宋小寶「呸」一口,準確地把西瓜子吐到了煙灰缸裡,同病相憐地說:「跟你說句實話吧哥,其實我也不想上學。」
   魏謙:「……」
   宋小寶當天晚上被勒令把語文書上最長的課文抄了兩遍。
   但是說起來很神奇,有的時候真有這種巧合,一個人對某事唸唸不忘的時候,真的會發生一些絕處的轉機——儘管可能並不是什麼好的轉機。
   這一天魏謙換下工作服,推著他的自行車剛要騎上走,突然,有一個男人叫住了他。
   那人一身價格不菲的衣裝,人模狗樣的,帶著一副墨鏡,魏謙不認識,但這人身上有股熟悉的氣息。
   魏謙心裡當時就有了種預感,果然,那男人見了他,大步向他走過來。
   魏謙早已經金盆洗手,不想理會,登上車就想走,那男人卻一抬手攥住他的車把,伸腳踩住了車輪:「這是小魏哥吧,我想和你說幾句話。」
   魏謙按在車把上的手捏緊了,青筋暴了出來,壓低聲音警告說:「鬆手。」
   男人摘下墨鏡,只見他鼻子有些歪,眼皮上面有一道疤,顯得一眼大一眼小,面相兇殘狡詐,他從兜裡摸出一張名片,在魏謙面前晃了晃:「胡四爺,他老人家魏哥總該記得吧?」
   魏謙第一次一人單挑了一堆找碴的,打出名來的那次,確實有一個自稱胡四爺的人,給過他一張名片,很有招攬的意思,胡四爺是樂哥的vip客人,魏謙雖然當時拒絕了,但是對此人印象非常深刻,因為他看人的眼神怪怪的,就像他眼裡,人都不是人,都是能牽到市場叫賣的豬馬牛羊。
   後來魏謙聽人提起過,那個叫胡四爺的老頭是個黃賭毒雨露均霑的傢夥,壞得十項全能,他名下有三四個著名的地下黑拳場,四處招攬看得上的打手和運動員,尤其喜歡魏謙這種打架不要命的職業精神。
   魏謙當時眼皮一跳,知道這人不能得罪,於是伸腳踩在地上停住車,客客氣氣地問:「大哥怎麼稱呼?」
   墨鏡男見他上道,十分滿意,搓了搓手,鬆開了他的自行車:「不敢當,我叫趙老九,你叫我老九就行了。」
   魏謙笑了笑:「哦,是九哥,胡四爺不常來,可能不知道,樂……」
   趙老九說:「樂曉東死了,這都半年了,早都知道啦。」
   魏謙垂下眼頓了頓:「是,所以我現在已經不幹這行了,其實胡四爺和九哥看得起我,我不該推三阻四,可你看,我拖家帶口,什麼事都走不開,也確實是……」
   趙老九眼珠轉了轉,點著頭說:「唉,我理解,誰都有難處,胡四爺是那麼不講道理的人嗎?現在主要是這樣,他老人家新開了一個『點』,『場子』還沒捂熱乎,特別缺人暖場,急需找幾個厲害的去撐撐,雖說是耽誤你上班,可價格方面你要放心,胡四爺絕對不虧待自己人。」
   魏謙後期跟著樂曉東出入過很多場合,很多事他都多少知道一點——他聽出來了,趙老九的意思,是說胡四爺又新弄了一個黑拳場,想叫他去暖場。
   兩廣的黑拳市場由來已久,玩命換來的暴利,一些地下拳場裡會有真正的高手,這些人在九十年代中期,一場就能拿幾萬塊錢,其他無關緊要暖場的小魚小蝦一場則是幾千不等。
   魏謙自嘲地笑了笑:「九哥,別逗我了,我有幾斤幾兩自己還不清楚嗎?真正的拳擊散打高手,一根指頭就能碾死我,我死活不要緊,給胡四爺跟你丟人就不好了。」
   魏謙知道,他如果答應了,肯定就算趙老九的人,趙老九替胡四爺辦事找人,中間必定是拿好處的,找來的人輸了贏了的,他都有份,這些事魏謙心裡都有數。
   「你說得不對,不是那麼回事,」趙老九擺擺手,「真正的高手又不是大白菜,哪那麼容易找來?胡四爺什麼眼光,他看得上你,你也不用妄自菲薄……」
   說到這,九哥突然四下看看,壓低了聲音對魏謙說:「再說九哥跟你透個實情,在拳場裡,其實你一般厲害就行,撈幾場,萬八千塊錢,拿了就走,這錢來得容易,什麼事都沒有。真厲害到一定程度反而不好,頂級的拳手在高級擂臺上下不來,總會有更厲害的,到最後的結局就是死在上面。」
   魏謙眼角一跳。
   「我不和你說虛的,」趙老九覷著他的神色,把聲音壓得更低,「胡四爺派我們出來,我也找過很多人了。像你這樣的,入場價是兩千,之後有沒有獎金和提成,就看你的個人表現,那些人……就是那些最厲害的,進場三五萬打不住,那才是玩命的價,你就是想和人家玩,也玩不到那個級別,懂了嗎?」
   魏謙沉默不語,趙老九這幾句話確實有幾分可信。
   「唉,兄弟,我就是跟你說個普遍行情,沒嚇唬你,咱們這回,跟普遍的行情還不一樣,咱們的任務就是暖場,就是把新拳場炒熱,等於開業酬賓,你明白吧?就是個花絮,風險很小,不到玩命的地步。」趙老九親暱地拍拍他的肩膀,塞給他一張火車票:「下禮拜一的票,背面寫著我的電話號碼,你要願意,就去那邊找我,不願意就算了,我這也是找兄弟幫點小忙,買賣不成仁義還在呢,是不是?」
   魏謙揣著這張火車票,躺在床上一宿的沒闔眼。
   趙老九的出現幾乎是才打瞌睡,就有人給送了枕頭。
   魏謙曾經想過,如果他回去上學,他該怎麼維持家用?趙老九給了他答案,入場費就有兩千,不用多,他只要能撐個兩三場,就有五六千塊錢。
   五六千不算什麼,可這筆錢當時在尋常人家裡,已經不是小數目了,家裡有一個像宋老太這樣一分錢掰八瓣花的,魏謙相信,以她的勤儉持家,用這錢舒舒服服地打點一整年的生計都沒有問題。
   可是……
   錢難掙,屎難吃——這道理誰都知道,天上沒有白掉下來的餡餅,魏謙清清楚楚地明白,趙老九說的什麼「開業酬賓」什麼「花絮」,儘是扯淡。
   為什麼單單找上他?從南方到北方有這麼遠,能打架的不計其數。
   魏謙一尋思,覺得恐怕就是樂曉東死了,胡四爺才千里迢迢地找上了他,要的就是他這種沒根沒底的。
   他眼前是一池子水,清澈見底,池底是肉眼可見的金子,可魏謙根本不知道,自己一個猛子紮進去,到底是跳進了多深的水,他也不知道,自己跳下去了還能不能再上來。
   麻子臨死前,也是賺過一筆大錢的啊。
   魏謙翻了個身,躺得時間長了,他的肌肉開始痠痛。他輕手輕腳地爬起來,儘量不想驚醒魏之遠——天太熱,小孩一腦門都是汗,睡得這麼實在難得。
   魏謙走到樓下,一圈一圈地圍著棚戶區的舊筒子樓轉,驢拉磨一樣,企圖拉出一點禪意來。
   魏謙覺得這都是自己太貪心的緣故,負擔尚且沉重,他卻還想讓他們都過上相對鬆快的好日子。
   他總是想著,他媽賣身都能把他拉扯大,難道他還不比一隻雞強嗎?他怎麼能讓小寶小遠他們過自己小時候的日子?
   而這些尚且不夠,他竟然還奢望上學。
   魏謙在晨光熹微中,頂著剛落下來的露水,像個渡劫渡心魔的大妖一樣,嚴厲地拷問著自己的內心。
   他兇狠地對自己說,上學有什麼用?上高中就一定能考上大學嗎?上了大學就一定能讀完嗎?讀完了一定能找到好工作嗎?就算找到了好工作,能彌補他浪費的這從高中到大學的六七年的光陰嗎?
   魏謙在自己心裡列舉了他所能想到的、種種不值得上學的理由。
   這時,他看見樓下的小賣部老闆打著哈欠開張了。
   魏謙踢飛了一顆小石子,心裡對自己說:上個屁的學,你怎麼不想上天呢?
   他從小賣部買了一包煙和一個打火機,正式宣告了他在戒煙半年之後,徹底失敗了。
   魏謙蹲在路邊抽完了這根煙,然後他就做出了和剛才想的大相逕庭的決斷——不就是廣東嗎?去!
    第二十三章
   魏謙跟誰都沒提這事,週末,他騎著自己那輛除了鈴鐺不響哪都響的破「二八」,來到了高中門口專門賣二手書的小書店,以低價買好了高一高二的兩摞課本,然後他又為自己購置了一些簡單的行李,到了工廠辭職結賬。
   星期一淩晨四點半,魏謙就悄悄地爬了起來,全家人都還睡著——宋老太三點多煮雞蛋,之後為了入味,會用小火慢慢煨著,她自己也就趁這工夫去睡一會,要到快五點才起來關火。
   魏謙不準備驚動家裡人,做賊一樣地點了一百五十塊錢的零鈔帶走,其他的錢都已經兌成了整票,被他輕輕地放在桌上,用茶杯壓好。
   他留了張簡單地寫了大概什麼時候回來的字條,語焉不詳,既沒說他去哪裡,也沒說他要幹什麼去。
   誰知他做完這些一回頭,卻發現魏之遠不知道什麼時候已經醒了。
   這小黃鼠狼悄無聲息地坐了起來,正睜著一雙大眼睛看著他。
   魏之遠張嘴要說話,魏謙連忙一把摀住了他的嘴,男孩不明所以地抬頭看著他,魏謙側身坐在床邊,把他按躺下,抽過薄被子蓋在他身上,小聲說:「別吵,奶奶剛煮好雞蛋,讓她多躺會——你也老實點,起這麼早幹什麼?」
   魏之遠掃了他的行李一眼,壓低了聲音:「那你要幹什麼去?」
   魏謙含糊說:「哦,我出去辦點事。」
   魏之遠刨根問底地追問:「幹什麼去?」
   魏謙垂下眼皮掃了他一眼:「你管得倒寬。」
   魏之遠突然一翻身爬起來,抱住他的腰,黏糊糊地猴在他身上:「我也要去!」
   小崽子長了份量,還挺壓人,魏謙一皺眉,把他從自己身上掀下去:「老實點,你多大了,鬧什麼?」
   魏謙心裡多少有點奇怪,這孩子平時挺聽話的,不怎麼討厭,怎麼突然這麼能找麻煩了?
   其實魏之遠自己也不知道為什麼,平時大哥只要是一皺眉,他立刻就稍息立正不敢吭聲了,可是這天,他就是心裡慌得難受。
   魏之遠不是被魏謙吵醒的,他是做了噩夢自己醒的,一睜眼他就忘了自己夢見了什麼,可是心裡一下一下地跳得非常不穩當,上上下下,總好像一腳要踩空,始終是不踏實。
   那是一種本能的直覺,告訴他一定要跟著去。
   「帶你幹什麼?養肥了吃嗎?」魏謙不耐煩地扒拉他,「少給我添亂,魏之遠,你還聽不聽話了?」
   魏之遠被馴化已久,聽見飼養員指令,條件反射地正襟危坐了,點頭。
   「聽話就給我躺下睡覺。」魏謙不輕不重地在魏之遠後背上拍了一下。
   說完,他彎腰拎起自己的包裹,往外走去。
   走了兩步,他又停下轉了回來。
   魏謙知道自己這一去是前途未蔔、生死難料,此時離愁別緒雖然說不上,但他心裡多少是升起了幾分不捨得,放輕了聲音哄了魏之遠兩句:「等你開學了,哥就回來,給你買好吃的帶回來好不好?」
   誰知魏之遠軟硬不吃,像泥鰍一樣一翻身,這回他撲在床邊抱住了魏謙的大腿,宣佈說:「別拿我當小寶那傻丫頭糊弄,我就是要去!」
   魏謙簡直想把他一腳踹開。
   魏之遠察言觀色,知道他耐心告罄,馬上要發脾氣,立刻機靈地補充了一句:「不帶我去,我就喊,把他們都喊醒!」
   他竟然還學會了威逼利誘,看準了魏謙選在這個點鐘走,就是怕驚動了那一老一小兩個女人,招她們囉嗦。
   可惜,要說軟硬不吃,魏之遠還是師承魏謙的,所以大哥哪是那麼好拿捏的人?
   魏謙一彎腰,輕易地就掰開了小孩的手,冷笑一聲,一字一頓地說:「你愛喊不喊。」
   魏之遠:「……」
   魏謙揚眉瞥了他一眼,一甩行李,揚長而去。
   魏之遠在床上呆愣了片刻,然後這小崽子當機立斷,草草套上衣服,衝到廁所,花了一分鐘的時間把自己洗涮乾淨,連襪子也沒穿,踩著拖鞋就跟著飛奔出去了。
   清晨還沒有公交車,好在魏謙他們住的地方離火車站不遠,魏謙決定溜躂過去。
   誰知剛走出小胡同,他就聽見身後一陣雜亂無章的腳步聲,魏謙回頭一看,氣得肝火險些從鼻子裡噴出來,他惡狠狠地瞪著腦袋上翹著一撮頭髮的魏之遠:「你跟出來幹什麼?回去!」
   魏之遠就像幹了壞事被主人發現的小狗,僵立在原地不動了,低著頭背著手,盯著自己的鞋尖,欲蓋彌彰地假裝自己是個不存在的事物。
   魏謙哼了一聲,繼續往前走。
   ……然後身後踢踢踏踏的腳步聲又跟著響起來。
   魏謙一回頭,魏之遠就表情無辜地停下腳步,他往前走,小孩就也跟著往前走,始終和他保持著二十幾米的距離。
   魏謙作勢回頭要去抓他,魏之遠見機也快,扭頭就跑。
   他跑得比兔子還快,邊跑邊回頭看看大哥追上來了沒有。
   就在魏之遠迅捷地衝過了一個小胡同的拐彎時,他一回頭,發現大哥沒再追他了,魏之遠試探著往回走了兩步,到了拐角處探探頭,大哥不見了!
   大哥肯定是趁他往前跑的時候,拐到了其他的路上,把他甩掉了。
   魏謙比較謹慎,始終沒提過自己要去什麼地方,所以魏之遠也不知道。
   男孩皺起眉,利用有限的線索,在原地仔細琢磨了一番,想起魏謙那句「你開學了哥就回來了」——大哥看來要走一個多月,那肯定是很遠的地方,所以他去的不是火車站就是長途汽車站。
   眼下還不到五點,天都還沒亮,而小遠也知道,一般的長途汽車都是早晨六點多才開首班車的,魏之遠以其豐富的流浪經歷判斷,大哥最有可能去的地方,就是火車站。
   他決定去碰碰運氣,於是往火車站的方向跑去。
   火車站建造的越來越洋氣、管理越來越嚴格是很多年後的事,那時候火車站的進站口還基本沒什麼人管,車票當然也不是實名制的,所以每天晚上,有些短時間內找不到工作的農民工就會為了省住宿費,在火車站裡打地鋪。
   裡面三教九流,什麼人都有。
   魏之遠混在過夜的人群裡,找了個小角落藏了起來,眼睛緊緊地盯著進站口的方向,一眨也不敢眨,路上,他拿出了運動會衝刺的勁頭,跑得胸口直疼,然而緊趕慢趕總算是有了回報——他蹲點蹲了五分鐘以後,看見魏謙進站了。
   在看見大哥的一瞬間,魏之遠就想跳起來撲上去,但是他忍住了。
   魏之遠心裡盤算著,如果自己現在被大哥發現了,肯定會被馬上送回去,或者再被甩掉,他不甘心功敗垂成,於是貼著燈光昏暗的牆邊,悄悄地跟上了魏謙。
   到廣東的這趟車一天只有一趟,所以即使是淩晨五點半,候車大廳也擠滿了人。
   魏之遠不怕人多,人越多他越容易混上車,這件事他有經驗。
   他看見大哥隨便找了個角落坐下了,從包裡拿出了一本舊書,在人聲嘈雜的候車大廳裡安安靜靜地看了起來。
   魏之遠一邊留意觀察著他,一邊尋找著合適的機會——混上車的機會。
   最後,他找到了一對扛著大包小包行李的外地夫妻,這倆人也不知道生了多少個孩子,都快湊出個足球隊了,罔顧計劃生育,流水線一樣地生產。
   大孩子小孩子滿地亂竄,男人拘謹地坐在一邊,神經質地一遍又一遍檢查者手裡的車票。
   檢票進站的時候,魏之遠就偷偷跟上了這對夫妻,混在一大堆孩子中間。
   檢票的人太多,乘務員根本來不及點人數,就著男人手裡的一打車票一起來了一鉗子,就把他們全體都給放過去了。
   魏之遠有驚無險地上了月臺,再悄悄地離開孩子堆,跟住了魏謙,走到了魏謙所在的那一節車的車廂。
   上車的人一大堆擁堵在門口,沒人排隊,全部都你推我搡的,守在門口的乘務員也無可奈何,只得一邊扯著嗓子喊「別擠啦」,一邊手忙腳亂地接過乘客手裡的票檢查。
   就在乘務員低頭看票的一瞬間,魏之遠這個逃票專業人士已經像只泥鰍一樣地躥進了車廂裡,他先是踮起腳尖看了一眼,確定大哥真是在這節車廂的,然後心滿意足地暫時縮進了有洗臉台的小隔間裡,大功告成。
   火車嚴重超員,過道乃至廁所裡都擠滿了人,除了自古身懷絕技的那個賣「花生瓜子八寶粥」的小推車,連只蒼蠅也飛不過去,三十多個小時的硬座車廂真不是身體素質一般的人能扛下來的。
   由於站票太多,好多人不得不擠在廁所裡,於是車廂末尾的兩間廁所被人為地分了男女——男的上廁所,就去擠滿了男人的那間解決,女的就去擠滿了女人的那間解決。
   進去了的,不光脫褲子方便要被人圍觀,要是不費九牛二虎之力,他也別想出來。
   一個長途旅客看魏之遠孤零零的一個小男孩怪可憐,就分給了他一個可摺疊的便捷小馬紮,魏之遠縮在洗臉池旁邊,靠著骯髒的牆壁,在小馬紮上坐下,開始打盹。
   一開始還可以忍受,時間長了,他開始感到飢寒交迫起來。
   魏之遠已經開始躥個子,最近一段時間格外的容易餓,從早到晚,他滴水未進,覺得自己幾乎已經前心貼了後心,餓成了一張紙,只好閉眼以睡覺作為逃避。
   他覺得自己好像才迷迷糊糊地睡了一小會,就被人粗暴地搖醒了。
   小遠一睜眼,整個人都一激靈——他看見了怒不可遏的大哥。
   魏謙好不容易從廁所裡拚殺出來,又穿越了「千山萬水」,打算到對面洗臉台洗把臉,誰知一低頭就看見了那熟悉的小兔崽子,魏謙足足愣了半分鐘,還以為自己看錯了。
   等好好地用涼水洗了把臉清醒了一下之後,魏謙才彎下腰,細細地打量了一番——見了鬼了,還真是魏之遠那小王八蛋!
   他用了個小花招甩開了小孩,本以為小東西無計可施就會自行回去,沒想到他居然還挺神通廣大,不但找到了火車站,還混上了車!
   魏謙打量著眼下一圈青黑的魏之遠,心想這崽子不得了,可能是要成精。
    第二十四章
   但遺憾的是,別說是成精,哪怕魏之遠成神了,這一頓教訓也逃不過去。
   魏謙陰沉著臉拍醒了魏之遠,拎著他的後脖頸子,一路腥風血雨地跨過滿地的人,像扛麻袋一樣把魏之遠扛到了車廂裡、他自己的座位上,用栽蔥的動作把魏之遠扔到了座位上,站在旁邊,山雨欲來風滿樓地說:「你怎麼回事?」
   魏之遠意識到自己犯下大罪,萬死莫贖——非得挨頓臭揍不可,出於「坦白從寬」的一般法則,他把自己的推理過程、實踐經歷以及逃票所有步驟都交代了。
   魏謙聽了他的歷險記,覺得三胖說得對,這熊孩子可能真是個黃鼠狼變的,找死都找得這麼機靈!
   他正打算不顧公共道德地破口大罵時,就聽見魏之遠肚子裡突然發出了一聲空腹的響動,男孩按住肚子,可憐兮兮地抬起頭,仰著一張蒼白的小臉看著魏謙。
   魏謙看了看他,在那一瞬間,表情幾乎是憂鬱的。
   大哥被魏之遠活生生地磨沒了脾氣,只好無奈地從那輛傳奇的小推車上給那小崽子買了一個麵包,一根火腿腸和一瓶礦泉水,在旁邊看著他像頭小餓狼一樣狼吞虎嚥地塞了進去。
   魏之遠吃飽喝足,預感此時不能善了,惴惴不安地從座位上下來:「哥你坐。」
   魏謙一句話也沒說,只是看了他一眼,魏之遠感到自己的小脖子附近陰風陣陣,頓時連大氣也不敢出了,默默地坐了回去。
   剩下的將近二十個小時,魏謙是靠著座椅背全程站下來的。
   他們在廣東某市下了火車,找個地方先休整,住進了一個價格過得去的小旅館,先睡了個昏天黑地。
   睡醒了,魏謙沖了個澡,又買了點盒飯回來吃了,等兄弟倆休息好、吃好了,魏之遠就如願以償地挨了一頓臭揍。
   精彩紛呈的男子單打過後,魏謙用旅館前臺的電話聯繫到了趙老九,然後他從兜裡摸出了二十塊錢給魏之遠,嚴厲地警告說:「餓了就自己出去買東西吃,不許離開這裡超過一百米,再敢亂跑,我就打斷你的腿。」
   魏之遠:「哦。」
   魏謙狠狠地在他的大腿上抽了一巴掌:「聽見沒有!」
   魏之遠連忙挺胸抬頭,中指貼褲縫,用納粹呼喚「元首萬歲」的腔調匯報說:「聽見了!」
   沒過多久,樓底下來了一個騎摩托車的人,載���魏謙走了。
   魏之遠把頭伸出了窗外,一路目送大哥離開。
   這裡的夏天熱得沒邊,空氣濕漉漉的,好像一個大蒸籠,看大哥的意思,是打算在這待上一個多月。
   魏之遠不想給他添麻煩,他專心致志地趴在了床上,晾著他險些被打腫的屁股,同時思考起自己怎樣才能不做一個拖累的問題。
   趙老九已經先魏謙一步回來了,熱情洋溢地請他吃了頓飯,酒過三巡,才拿出一份合約來給他看。
   魏謙的酒量只是一般,和真正海量的人不能比,但他心裡的弦繃得太緊,硬是撐出了十分的清明。
   他知道這份合約就是個笑話,打黑拳本身就是非法的,簽了它,不代表受法律束縛不能違約,而是宣佈自己把命交出去了——自願,生死兩清,銀錢兩訖,各不相欠。
   上面標註了價碼,按級別排,最低級別的,贏一場一千,級別越高贏錢越多,挑戰頂級拳王贏了,能拿到一個在魏謙看來難以想像的天價……當然,他也就是看了一眼而已,沒動不該有的心思——他聽說過這些頂級拳王,這些人都經歷過極其嚴酷的訓練,一條腿能掃出一噸,真被他一腳踹結實了,能當場從臺上飛下去五臟破裂,可不是鬧著玩的。
   趙老九冷眼旁觀他仔細推敲合同,發現這小子面熱心冷,推杯換盞就坡下驢的本事駕輕就熟,很是知道怎麼給人面子,但談到真格的,卻不那麼好糊弄。
   趙老九點起一根煙,睨著魏謙說:「各地的規矩都大同小異,你也多餘看,我跟你念叨念叨咱們這不一樣的——頭一個,你不能說來就來,說走就走,就算你想走,也得給我打完三場。四爺包吃包住,但是你得給他老人家臉,這道理你懂的對吧?」
   魏謙不動聲色:「還有呢?」
   「開弓沒有回頭箭,」趙老九接著說,「就是上了台,只准往前,不准往後,只准升級,不准降級,什麼時候上臺,怎麼個打法,你得聽我……也就是四爺的安排。」
   這也就是說,哪怕上午剛被人把腿打折了,下午胡老闆一聲令下,他就是爬也得爬上擂臺,還是和比以前更強的人對陣。
   魏謙垂下眼睛想了想:「九哥,別的地方可真沒這個規矩。」
   「這道理九哥我當然知道,所以我們有額外福利啊!比賽贏了的錢另算,這個……」趙老九叼著煙,從懷裡摸出錢包,隨手抽出一疊人民幣,推給魏謙,「訂金,你剛到,水土不服吧?吃點好的,算九哥一點心意。」
   魏謙拿眼一掃,一千塊錢。
   他沒伸手接,只是儘可能地顯得有些侷促地笑了一下:「九哥不怕我帶著錢跑了?」
   趙老九伸出油乎乎的手用力拍了拍他的肩膀,哈哈一笑:「這麼點零花錢,你九哥我還不放在眼裡——你歲數小,我也不虛偽地叫你魏哥了——小魏,你年輕,有的是前途,年輕人不能貪財,可也不能不貪財,眼皮太淺的,一輩子也成不了大器,你說有道理沒有?」
   魏謙看了看他,緩緩地把那一小疊人民幣拿了起來,塞進兜裡,輕薄的紙幣像一個鉛球一樣重重地壓在了他的胸口,趙老九滿意地笑了笑,繼續說:「除了訂金,四爺還給你提成,贏一場,獎金之外,他給你翻倍的獎勵,到時候你就知道,千八百塊?嘿嘿,零花錢而已。」
   趙老九給魏謙在拳場附近的酒店裡開了間新房,囑咐摩托車少年每天給他送飯,點什麼給買什麼,魏謙和摩托車少年打了招呼,先去賓館退了房,接走了魏之遠,把這累贅小崽安頓下來之後,就獨自一個人到了的拳場。
   拳場確實是新的,角落裡還有工人在裝燈管。
   檯子周圍十分昏暗,不刺眼的燈光只往臺上打,省得拳手的精力被分散。而所謂的「檯子」是中間用黃線圍出來的一塊區域,人們在旁邊走來走去,只要不怕被誤傷,想離多近就離多近。
   高一點、遠一點的地方是嘉賓座,嘉賓不少,但是沒有滿座,一個個打扮得挺像那麼回事。
   拳場裡多數是男人,也有女人,有些是女拳手,基本上一個個膀大腰圓面目猙獰,不說根本看不出來是女的,另一些則衣著曖昧,色如春花,多半是穿梭於嘉賓席的招待。
   魏謙溜邊走進去,十分低調地找了個沒有燈光的地方,等著看開場。
   當幾個賽場的燈光同時亮起來的時候,人群裡爆發出震耳欲聾的口哨聲和大聲呼叫的髒話聲,魏謙眯了眯眼睛,往離他最近的一個賽臺上望去。
   只見台中間站著兩個男人,都光著上身,其中一個是個足有一米九的壯漢,一身的腱子肉,他緩慢地活動著自己的脖子和四肢,好像故意要給對手造成壓力。
   他的對手則正好面沖魏謙的方向,這男人也不能說是小個子,不過比起對面那五大三粗的壯漢,就顯得有些營養不良了,他胸口上有一道長長的傷疤,像一條醜陋的大蜈蚣趴在他身上,燈光下,眼睛裡布滿血絲。
   魏謙眼神不錯,離得不遠,他看見這個男人的眼角正神經質地不斷地抽搐著。
   魏謙的肌肉本能地縮緊了一下,他覺得這人好像有點不對勁。
   莊家在賽台後面擺了張桌子,美女們開始鼓動大家下注,壯漢和刀疤的賠率是一比二,很多人擠過去下注,魏謙讓了地方,往後退了一級台階。
   這時,一個少年穿著件背心就衝了上去,手裡拿著一個大鈴鐺,咣當咣當地亂震一通,代表開場了。
   這裡沒有專業的裁判,所有人都是裁判,上了賽台的,沒有規則,生死不論,一方站著另一方躺下為止。
   魏謙的注意力還沒從那位穿著大褲衩大背心的少年身上拉回來,壯漢一記左勾拳就衝著對手的臉砸下去了,他帶了拳擊手套,顯得拳頭大如籃球,刀疤男猝不及防,被他打得臉偏到了一邊,頓時鼻血橫流,魏謙懷疑他鼻樑骨都被打歪了。
   身後人聲鼎沸,震得他耳朵生疼。
   頭上突然遭到重擊容易腦震盪,被啤酒瓶子砸過的人都知道那種感覺,砸得重了,當場就能懵了,誰知那刀疤男人的腦殼好像是鐵皮做的,竟然渾不在意,他甚至連鼻血也不擦,猛地撲了上去,赤手空拳地把壯漢兩條常人大腿粗的胳膊架住,砲彈似的發射到了壯漢被迫張開的懷裡,胳膊肘一橫,結結實實地捅在壯漢的心窩。
   那壯漢五臟六腑都遭到了重創,往後接連退了三四步,腳步立刻顯得虛浮,還沒等他回過神來,刀疤男一聲怪叫,飛起一腳補了上去,直接把壯漢給踹得仰面倒地。
   魏謙和所有人一起伸長了脖子去看,按理一方倒地,應該有裁判數秒,可是現場沒有裁判,也沒有人阻擋,刀疤男人乘勝追擊地壓了上去,像個瘋狂的鼴鼠一樣雜亂無章地往壯漢身上拳打腳踢,嘴裡「嗷嗷」亂叫,活像犯了病。
   觀眾們都磕了藥似地亢奮了起來,有嚷嚷的、叫好的,不遠處也不知道誰打碎了酒杯,一股啤酒的味道飄來,混雜著汗臭與血腥味,魏謙情不自禁地靠了靠樓梯的扶手,他的手心上浸出粘膩的冷汗。
   直到這時,被痛揍的壯漢發出哀聲求饒,雙手舉過頭頂,三四個保鏢模樣的男人才躥上賽台,把形如癲狂的刀疤男架了起來,將兩個人拉開。
   方才敲鈴鐺的少年奔上來,舉起刀疤男人的一隻手,眾人高聲歡呼,賭贏的人一擁而上,找莊家領錢。
   魏謙沒有在意誰輸誰贏,他緊緊地盯著贏了比賽的刀疤男人,只見他一臉血污,眼睛裡的紅血絲更明顯,眼珠不自然地高速轉動著,胸口劇烈地起伏,表情茫然而呆愣。
   他似乎還沒有回過神來,就被少年領了下去。
   退場的出口就在魏謙旁邊,魏謙一路看著那個刀疤男神色木然地像他走過來,然後就在快要和他擦肩而過的時候,那人突然一頓,眼睛陡然睜大,瞳孔劇烈地收縮了一下,摔倒在地,那人先是抽搐,隨後是口吐白沫,到最後劇烈地掙紮了幾下,就一動不動了。
   魏謙又退了一步,站在了兩層台階上,居高臨下地與這仰面朝天的男人大眼瞪小眼了片刻,藉著微弱的燈光,他判斷這個人死了。
   一股涼意順著他的尾椎一路爬上了脊樑骨。
    第二十五章
   不一會,就有人擠了過來,魏謙被人推到一邊,來人似乎是醫護人員,怠慢地壓了壓刀疤的頸動脈,又翻了翻他的眼皮,幾分鐘以後站了起來,神色冷漠地宣佈說:「抬走吧,死了,這個衰仔自己興奮劑吃多了猝死。沒本事打,還學人家上臺,活該。」
   這句話引起了群情激憤,方才賠了錢的人紛紛跳出來大罵莊家暗箱操作,賽臺上依然上演著下一場生死搏鬥,賽台下已經發展成為一場群毆,才開場,就高潮迭起。
   魏謙躲過了幾下險些誤傷他這個路人的拳頭,默默地走了出去,在濕潤粘膩的夜風中,他快步穿過馬路,走到一家販賣煙酒茶糖的小超市,買了一包煙,猴急地拆開,抽出一根點著了塞進嘴裡。
   一個正打算進超市的老人看了他兩眼,看他的樣子,還以為他不是在吸煙,而是在吸毒,嚇得愣是沒敢進去,繞路走了。
   從頭到尾,魏謙都面無表情,只有佈滿了冷汗的手一直在哆嗦。
   他回去的時候,魏之遠已經睡下了。
   魏之遠很久沒有聞到過那股濃到嗆人的煙味了,他在半夢半醒間睜開眼睛,迷迷糊糊地問:「你抽煙了?」
   魏謙輕輕地應了一聲:「嗯,下次不了,我去洗個澡,你睡吧。」
   魏之遠沒吱聲,對他抽煙也沒什麼意見,他甚至迷戀那股味道。
   趙老九給他們開的房間是個標準間,條件不錯,空調的冷氣很足,環境也乾淨。最重要的是有兩張床,在家的時候擠在一起是沒辦法,在這裡,魏謙不打算委屈自己,因此草草洗漱之後,他就躺在了另一張床上。
   魏之遠此時已經徹底醒了,他非常不習慣地發現,大哥竟然沒打算和他一起睡,等了一會,魏之遠估計大哥已經睡著了,於是踩著拖鞋,悄悄爬上了魏謙的床。
   誰知魏謙也沒睡著,小崽一有動靜,他就睜開了眼睛。
   魏謙心裡正煩著,沒好氣地在魏之遠後背上摑了一下:「你又過來討什麼厭?」
   魏之遠不吭聲,輕車熟路地鑽進了他的被子裡。
   魏謙:「你有病啊?有兩張床非要跑到我這來擠。」
   魏之遠小聲說:「想跟哥一起睡。」
   魏謙面無表情地垂下眼看著他。
   魏之遠往下縮了縮,躲開了他的目光,伸手摟住了魏謙一條胳膊,無聲地耍起了賴皮。
   魏謙啼笑皆非,這個小東西已經十一二歲了,竟然還這麼粘人,從家裡一路黏著他來到了南方,大老遠地出門在外,還要一直黏到他床上……真愁人。
   魏謙沒有再驅趕他,不著邊際地想起了別的事。
   趙老九給他的一千塊錢還在襯衫胸口的兜裡,弄得他如鯁在喉,仰面朝天地躺著也壓得胸口疼,魏謙在考慮,帶著這一千塊錢就這麼悄無聲息的跑了,再也不來這個是非之地的可行性。
   可是趙老九和他說的那些話不可避免地在魏謙的腦子裡迴響起來,魏謙鬱悶地發現,趙老九簡直看透了他。
   為了幾千塊錢去打黑拳,這聽起來簡直是腦子有坑的人才能幹出來的事。
   理智上,魏謙當然也認同這個看法,然而一打一打的人民幣就是在他的腦子裡縈繞不休、揮之不去。
   他沒辦法把這瘋狂的渴望趕走。
   魏謙恍然間就理解了,有些整天被自己的老公老婆在精神或者肉體上虐待,竟然還哭著喊著不肯離婚的神經病都是怎麼想的,那真是執迷不悟啊,真是割捨不掉的真愛啊!
   魏謙自嘲地想,別的不敢說,但是他對人民幣的感情,絕對不輸給世界上任何一種或扭曲或執著的愛。
   說是魂牽夢縈、鬼迷心竅也不為過。
   所以要錢還是要命,就在他腦子裡開始了激烈的角逐,比當年他拿著小刀思考要不要殺了他媽還激烈。
   就在這時,魏之遠說話了。
   魏之遠說:「哥,我要跟你說個事。」
   魏謙不經心地隨口應:「嗯?」
   「咱們樓底下有一家川菜館,我和老闆說了,以後我去給他們幹活,端盤子上菜,老闆答應每天給我五塊錢。」
   魏謙一愣,回過神來:「你說什麼?」
   魏之遠繼續說:「他們一開始嫌我小,怕有人來查,我就說我可以假裝他們家兒子,放暑假過來幫忙——哥,我看見他們的招工廣告了,也打聽過了,要是找個大人來做,一天至少要給十塊錢的,老闆只要不傻,就肯定要我。」
   魏謙良久沒吭聲,魏之遠生怕他不高興,又連忙補充說:「我不給你搗亂,每天上午十點出去,晚上就回來的。」
   魏謙側過身,摟住魏之遠的肩膀:「你哥窮瘋啦?缺你這五塊錢?」
   魏之遠:「我也能賺錢,我不是累贅。」
   「累贅」兩個字,魏之遠說得輕極了,幾乎被他吞進了喉嚨裡,然而魏謙畢竟離得太近,還是��見了。
   魏謙忽然心裡一動,聽出了他話裡話外的意思,隱約有點不是滋味,過了好一會,他才踟躕不決地問:「小遠,大哥是不是對你不好?」
   魏之遠一愣,連忙飛快地搖了搖頭。
   魏謙抬起手,摸了摸他的頭,儘可能地把聲音放地平緩:「你不是累贅,小寶也不是,你們還小呢,我養著你們是應該的。」
   魏之遠抬起眼看著他,魏謙略嫌粗魯地把他的頭按了下去:「將來你們倆長大了,能記得給我養老送終就行了……行了,睡吧。」
   他說完這句話,奇蹟般的,心裡一片澄淨,再也不考慮是要錢還是要命的問題了——魏謙決定,明天就去聯繫趙老九,他打算休整一個禮拜,之後再上場。
   如果真的死了呢?
   他想,如果死了,那就算了吧。
   生死有命,富貴在天,他千里迢迢地跑到這裡來打黑拳,歸根到底,不是為了別人,總是為了自己多一些,他想有個前程,就得搏一把,沒什麼好說的,也沒什麼好怨的,公平得很。
   魏之遠如果知道是他一席話把他哥推上了拳場,一定寧可自己是個啞巴。
   開始的一個禮拜,過得非常安穩,魏之遠不知道大哥在忙什麼,反正每天早晨,就像送他上學一樣把他送到小飯店,晚上又會按時把他接回去,有人按時給他們送飯,有時候還是他從來沒有吃過的外國飯,魏之遠有種他們是來旅遊的錯覺。
   然而一個禮拜很快過去了,那天,魏謙第一次來晚了。
   天色將晚,飯店裡的客人少了,魏之遠不用一趟一趟跑著上菜了,他坐在老闆給他的一個小板凳上,幾乎望眼欲穿地盯著門口,盯一會,就抬頭看一會表,一直等到了天已經完全黑了,一個人才掀開門簾進來,先是客客氣氣地衝飯店老闆點了個頭,然後才對魏之遠招了招手。
   老闆娘剛把五塊錢塞進魏之遠兜裡,魏之遠就迫不及待地撲向了魏謙,像個砲彈一樣,每次他這麼一撲,大哥都能一隻手接住他,然後用胳膊夾著,把他雙腳離地地悠起來,可是這次,魏之遠卻敏銳地感覺到大哥躲開了。
   他撲過去的一瞬間,魏謙不大自然地彎了一下腰,只用胳膊接住了魏之遠,阻止了他繼續往前撲,然後又轉了半個身,側對著他,這才拉著他往酒店走。
   魏之遠臉上的笑容一下子收斂了,皺著眉問:「哥,你怎麼了?」
   魏謙:「沒怎麼。」
   魏之遠往他身邊靠了靠,皺起鼻子,聞到了他身上有一股血腥味:「那你身上為什麼有血味?」
   魏謙眼皮也不眨地扯謊說:「路上遇到一個殺豬的,濺我一身血,好不容易擦乾淨的。」
   魏之遠感覺到自己的智商遭到了毫無誠意的侮辱。
   魏謙卻不動聲色地把他領到了一家麥當勞前,這種後來都沒有人願意吃的垃圾食品,當年剛進國內的時候還是挺奢侈的,它的裝潢和包裝都色彩鮮明,聞起來比吃起來香,所以對小孩有巨大的吸引力。
   魏謙趕著快要關門的時候,進去給魏之遠買了一個兒童套餐和一個冰激淩。
   「我警告你啊,」魏謙說,「吃就吃了,回去別告訴你妹,她煩死了,聽見了嗎?」
   魏之遠一方面本能地被食物吸引,一方面又心懷隱憂,兩廂糾結,他表情苦大仇深地點了點頭,把冰激淩舉到魏謙嘴邊:「你嘗嘗。」
   魏謙往後一閃,臉上痛苦的表情一閃而過,擺手拒絕:「吃飽了,沒胃口。」
   說完,他又好像讓自己顯得比較可信,故作不屑地說:「這都是給小孩吃的。」
   魏之遠有些遺憾地縮回手,珍惜地舔了一口手裡這個死貴死貴的冰激淩,同時也在偷偷地觀察著他哥。
   藉著微弱的路燈光,魏之遠發現魏謙的臉色極其蒼白,額頭上的汗浸濕了他的幾縷頭髮,貼在額角和鬢邊,幾乎顯得他有些憔悴起來。
   魏謙的眉頭輕微地皺著,並且一直保持著這個表情。
   魏謙這個人,和不熟悉的人怎麼稱兄道弟都可以,哪怕他是天生性格孤僻,四處討生活的日子也把他磨礪成了一個知道怎麼樣圓滑的人,只有面對家人,他本來的臭脾氣才會不加掩飾。
   魏之遠知道,大哥極其討厭別人吵鬧,尤其討厭奶奶嘮叨,在家裡,他要保持家長尊嚴,所以不喜歡讓自己顯得很活潑,他很少笑,也很少誇誰,久而久之,魏之遠只能通過他的行為和細微的表情判斷他心情好壞。
   根據他的經驗,他哥面無表情,但是身體姿勢放鬆的時候,心情多半是很愉悅的。
   如果臉色不好,但是肯開口罵罵咧咧,就是不高興了,但不高興的程度很輕,屬於轉眼就忘的那種。
   如果他的臉沉下來,同時眼神變得很尖銳,卻一聲不吭,那就是非常憤怒了。
   他不會一直皺眉,只有身體不舒服,才會不自覺地長時間地輕輕皺眉,看起來表情十分嚴肅,實際上卻是在忍痛。
   魏之遠默默地吃完了食物,順從地被魏謙打發著去睡了。他一直閉著眼睛裝——這招魏之遠駕輕就熟,剛開始被大哥收留的時候,他總擔心自己晚上被扔出去,不敢睡死,有時候神經太緊張睡不著,就會裝睡。
   果然,不一會,魏之遠就聽見魏謙窸窸窣窣地起來了,他感覺大哥的動作有些凝滯,撐在床上的胳膊略有些發抖。
   魏之遠偷偷把眼睛睜開一條小縫,魏謙似乎想起了什麼,忽然轉過身來,魏之遠連忙把眼睛閉好。
   幸好魏謙沒注意,很快站了起來,從床頭櫃的抽屜裡摸出了傷藥,走進了衛生間。
   剛脫下上衣,還沒來得及擦藥,魏謙先扶住馬桶吐了,然而胃裡沒東西,只是吐酸水,他的對手一拳砸中了他的胃,結結實實的一下,乃至於魏之遠讓他吃冰激淩的時候,他都不禁噁心了一下。
   好一會,反胃才平息下來,魏謙幾乎快要直不起腰來了,低頭仔細看了一下,確定馬桶裡沒有血跡,他才略鬆了口氣。
   畢竟是年輕,不嚴重。
   魏謙靠著牆休息了片刻,這才沖水漱口,開始處理身上的傷口。
   他光裸的上身佈滿了可怕的淤青,褲子別著的胯骨上有一大塊好像蛛網一樣的紫色淤血,魏謙咬咬牙,抽下腰帶,把褲子拉開一點,先沾著藥膏使勁往淤血上按去,他要把淤血推開,關節活動開。
   受過這種皮外傷的人都知道,關節處淤青一大塊,本來就疼得難以彎曲,如果慣著自己一動不動,時間一長,可能就真的疼得彎不過來了,得趁著還沒「鏽住」的時候,得忍著疼把它活動開。
   地下拳場比他想像得還要危險,才第一場,最低的等級,魏謙就贏得艱難,可他已經走出了這一步,兜裡還有胡四爺叫人送來的三千塊錢的酬勞和獎金,他退不出去了,除非熬完趙老九說得三場。
   但艱難歸艱難,他這種級別的打法,雖然遍體鱗傷免不了,但總歸是死不了,況且趙老九只說三場,又不一定非要贏,實在不行他還可以認輸——前提是胡四爺和趙老九他們肯讓他按部就班地升級,踏踏實實地打完這三場。
   那天死在他腳下的人始終在魏謙腦子裡揮之不去,像這種黑拳場,幾乎每個人都會服用興奮劑,這是潛規則,拳場也會提供興奮劑買賣,可稍有常識的人就知道,這玩意終歸有度,過量食用給人的身體造成的傷害是無法逆轉的,甚至有可能當場去見列祖列宗。
   那刀疤男一看就是老手,他不可能不懂這些,而他的對手一身中看不中用的塊狀肌肉,爆發力和耐力都不一定夠,絕對沒有強大到讓那個刀疤死命灌這玩意的地步。
   要麼是有什麼在逼他,要麼……是他吃的興奮劑並不是市面上常見的。
   疼痛刺激了魏謙的大腦,他下狠手揉著自己身上的淤血,腦子卻轉得飛快,至此,他突然有一個可怕的想法,如果胡四爺四處找一些像自己這樣沒根沒底的打手,並不是單是為了暖場,而是為了……試藥呢?
   魏謙思考得入神,絲毫也沒察覺到衛生間門口,魏之遠光著腳跑下了床,正小心翼翼地透過門縫往裡看。魏之遠眼圈都紅了,像個被激怒的小獸,他拚命地咬牙忍著,一根筋在太陽穴附近跳個沒完沒了,有種自己把牙都咬碎了的錯覺。
   過了不知多久,魏謙放下藥膏盒子,雙手撐在洗臉池上,輕輕地「嘶」了一聲,然後接了捧涼水,洗去自己一頭一臉的冷汗。
   魏之遠這才從一片木然中回過神來,悄悄地離開,躺回床上。
   他沒躺多久,魏謙就帶著一身冰冷的水汽和藥味出來了,然而他似乎想起了這小崽鼻子靈的事,猶豫了一下,魏謙彎下腰替魏之遠拉了拉被子,轉身往另一張床上走去。
   魏之遠終於忍不住了,啞聲說:「哥。」
   魏謙被他突然出聲嚇了一跳。
   就聽見那小崽子突然帶著哭腔來了一句:「你要是沒錢,就賣了我吧。」
   魏之遠心裡並不是這麼想的,他也不知道為什麼這句話就脫口而出。
   大概……是他實在身無長物的緣故吧。
    第二十六章
   魏謙先是一愣,隨後他心裡湧上一股說不出的滋味,似乎是一種沒有血脈的相連,在他心尖上牽扯了一下。
   他放鬆了身體,靠在冰冷的洗臉池上,感到那股冰冷幾乎是鎮痛的。
   「胡說八道什麼?」魏謙看著他,突然笑了起來,半開玩笑地問,「小子,你能值幾個錢?小姑娘買回去還能當童養媳,買你個半大小子回去幹什麼?替人家吃飯啊?」
   魏之遠意識到自己說了句蠢話,他突然發現自己都快改不回去了,但凡開口,本能地就會模擬弱智兒童宋小寶,挑著最蠢的那些話說。
   魏之遠決定不能再這樣下去了,討人喜歡是不夠的,撒嬌裝可愛也是不夠的。
   他端端正正地站著,好像少先隊員對著國旗宣誓一樣擲地有聲地說:「等我長大了,我照顧你,我去賺錢,我養你好不好。」
   魏謙的心忽然軟了一下,他第一次明明白白地感覺到了自己陷下去了一塊的心,以至於無所適從,幾乎不知該如何表達,只好做出討厭的大人的模樣,笑話起魏之遠來:「那你倒是快點長啊,我看蘿蔔都比你長得快。」
   魏之遠信誓旦旦地說:「我想明天就長大,我……我一輩子都對你好,以後不讓你吃一點苦。」
   「明天就長大?」魏謙彎下腰,一隻手就抱起了魏之遠,把沒穿鞋的小崽子丟在床上,「我上哪給你找那麼立竿見影的化肥去?」
   他胳膊上的肌肉不由自主地顫抖,乃至於單手有些不穩,魏之遠本能地摟住了他的脖子,下一秒鐘,又訕訕地縮回手——他突然覺得這個動作有些羞恥,好像不過眨眼的工夫,他就已經長大到對這種小孩子式的親近不適應的階段了。
   魏謙關了燈,很快就睡著了。
   一方面是他真累了,一方面,是他從弟弟身上獲得了某種屬於真正成年人的力量感,這股力量支撐著他坦然而平靜。
   想要他的命?沒那麼容易,樂曉東說不定還沒來得及轉世投胎呢。
   魏之遠閉了嘴,黑暗中,他睜著眼看著哥哥輪廓模糊的側臉。
   他輕輕地閉著眼,表情安寧,鼻樑和嘴唇的側影如同畫出來的,頭髮有些長了,額前一縷斜斜地落下來,顯出依稀幾分即將褪去的稚氣。
   在魏之遠初步形成的審美觀裡,他覺得世界上再沒有第二個人比他哥好看,哥哥就像無往不勝的天神一樣,把原本該落在自己頭上的苦難全扛走了,在風雨飄搖中撐起了一個小小的涼棚。
   第二天,魏謙依然沒敢吃太多東西,胃還在隱隱作痛。
   魏之遠跑到小飯館請假一天,回來以後開始糾纏魏謙,強烈要求回家,小東西昨天還拚命把自己塑造成一個小男子漢的形象,現在故態重萌,又開始撒嬌耍賴無所不為……他大概不會用別的招數對付他哥。
   ……抗爭的結果是,他被魏謙用透明膠條在嘴上貼了叉。
   魏謙簡單活動了一下,就坐下來翻看他帶來的二手課本。
   高中課本是一種非常逆天的東西,一言以蔽之,就是要多無聊有多無聊,可是魏謙不覺得,他看得如飢似渴,津津有味。
   魏謙離開學校已經太久,不想回去跟不上進度。
   每次他翻開舊課本的時候,心就會奇蹟般地安靜下來……況且在他看來,也挺有樂趣的,書的原主是個酷愛發表自己感想的奇葩,連三角函數都能讓他編成各出各種小段子,這奇葩還非常善於畫烏龜,除了正文和筆記的地方,每個空白的角落裡都讓他畫滿了各式各樣的烏龜,各自搔首弄姿,不一而足。
   哦,對了,奇葩在最後一頁上標註:「神龜一出,誰與爭鋒,欲成龜功,必先自宮。」
   不知道此人讀書究竟讀到了一種什麼樣的境界。
   魏謙一直平靜到了中午,直到送飯的人來了。
   來人帶了兩份食物——魏之遠平時在對面打工,中午不回來吃,送飯的就只送���一個人的,這一天,魏謙因為沒胃口,所以根本沒有囑咐對方多送一份來……這說明有人在監視他們。
   酒店是趙老九訂的,說不定就是他們自己的產業,這樣的話,連屋裡也不一定安全了,因為很有可能有攝像頭。
   魏謙一想到這個,立刻維持住了若無其事的表情,默默地坐回到標間自帶的小沙發和小桌上,抽出一張便簽紙,一邊狀似無所事事地臨摹著舊課本上的「神龜」,一邊沉下心仔細地琢磨起來。
   魏謙是慣會揣度人心的,他知道,底層的拳手大部分和他自己一樣,缺錢,想撈一把就走,對於他們這些人而言,出場費拿到了,獎金多半並不奢求,也就是沒有人會為了贏而玩命。
   如果第二場他們平安度過,那麼第三場肯定會來,但選擇使用興奮劑的可能性很小——因為輸就輸,輸了求饒投降,挨兩下,沒什麼大不了的。
   但如果第二場就把他們逼到絕境,那這些人第三場多半就不打了。
   魏謙不知道對方監視得有多嚴密,他基本能猜到酒店是對方的,但屋裡有沒有監控,手機有沒有被竊聽,出門會不會被人跟蹤,魏謙不能確定——可能有一或兩項,但不大可能面面俱到,趙老九他們不大可能會有那麼大的精力。
   退一萬步說,假設趙老九真的能面面俱到,整個市區都是他們的囊中之物,這些人退無可退,起碼第三場還可以裝死。
   半死不活地強行上場,被人一巴掌打趴下,這總可以理解吧?
   魏謙一筆勾出了一個俏皮的王八尾巴,筆尖一頓,心想,要讓他們這些惜命又貪財的窮打手奮不顧身地玩命,得怎麼設計呢?
   照著軟肋戳?比如綁架家人?
   似乎也不大可能,根據他這些天的瞭解,很多低等拳手都是沒家沒業,光棍一條,而且這些人南腔北調,從哪來的都有,那樣工程太大,勞心費力不說,不在自己的地盤上,還容易出事。
   所以魏謙斷定,這個關鍵的因素要簡單直白得多——要麼是錢,要麼是血性。
   他猜測,第二場和第三場之間的時間肯定非常短,甚至有可能那些人會逼他一天打完兩場……但是怎麼逼呢?
   這個具體的操作方法一定非常簡單,但是巧妙而有效。
   魏謙一遍一遍地勾勒著王八尾巴,心想對錢的貪慾,他能控制住,心裡有個度,賺夠就走。而且魏謙相信,很多人也和他一樣,心裡有這麼個譜,至於血性……他們這些人哪個沒有見識過三教九流,而且有些人的年紀已經不小了,血性不是那麼容易被激發出來的。
   他暫時想不出來,於是放下筆,抬手叫過魏之遠:「走,跟我出去一趟,給奶奶匯錢去。」
   魏謙穿上衣服,先是假裝對週遭的路不熟,在路邊買了一份地圖,拿著地圖,還不停地帶著魏之遠繞圈,繞了兩圈,魏之遠就明白了。
   小男孩敏感得驚人,立刻警惕地想要回頭看,魏謙伸手攏住他的後腦勺,制止了他。
   他晃晃悠悠地帶著魏之遠來到了郵局,自己留下五百,剩下的三千五匯給了宋老太,然後拿出一把零錢,在路邊買了兩個冰激淩,自己一支,魏之遠一支。兩人一直走到一個相對空曠、週遭沒有人的路段,魏謙才輕輕地對魏之遠說:「以後不要亂說話,想辦法聯繫你三哥,但是不要被人看見,讓他到了以後也不要來找我們。」
   魏之遠奇蹟般地領會了他的意思,同樣小聲問:「叫他來幹什麼?」
   「我還不知道,等我再想想。」魏謙眼角瞥見路口處有一個形跡可疑的人,似乎在打量他們兄弟倆,碰到他的目光,又飛快地假裝看別的地方。
   是個不怎麼高明的跟蹤者。
   魏謙不動聲色地垂下目光,聲音提高了些,轉開了話題,「對了,我還沒問你呢,期末考試怎麼樣?」
   魏之遠在一瞬間眉飛色舞起來,大聲說:「第一!」
   由於他經常故意在表現自己「很傻很天真」和表現自己「很聰明很有用」之間快速切換,精分的經驗豐富,所以魏之遠的角色變動之快,把魏謙都弄得一愣。
   魏謙頓了一下,才順口問:「有並列的嗎?」
   這時,他們倆已經走過路口,和那個跟蹤者擦肩而過,都好像是絲毫沒有注意到對方的樣子。
   而魏之遠也像個真正的傻逼熊孩子一樣,挺胸抬頭,毫不怯場地表演了什麼叫做「好學生的賣弄」:「我們班從來沒有和我並列的!哦,對了,哥,我忘了告訴你了,小寶這次倒數第十,老師點名批評了,還說下學期要找你談話。」
   「……是嗎,」魏謙乾笑一聲,「我怎麼那麼光榮呢?」
   危機四伏中裝腔作勢得這樣到位,竟然還不忘了順帶給宋小寶上眼藥!
   魏謙想,這小崽子真是絕代了。
   傍晚的時候,魏謙接到了趙老九的問候,趙老九先是對他噓寒問暖一番,囑咐他愛吃什麼就讓人去買,第一場打完,給他一個禮拜的適應時間,願意在當地逛逛,可以叫送飯的給他們當導遊。
   趙老九還特意提到了魏之遠:「你弟弟那個小孩子啊,長得實在是太快了,我看他那條褲子,剛來的時候還好好的,轉眼都短了一大截……哎,這個年紀真是沒辦法,就是費衣服。」
   他這樣說完不算,當天下午送飯的人就帶來了一套衣服,一上身,合適極了。
   他們剛來不到半個月,魏之遠既沒有吃高效化肥,也沒有變成一顆一夜上天的轉基因豌豆,哪能逆天到眨眼就讓褲子短一大截?
   魏謙知道,這是趙老九在用魏之遠警告他。
   作為回報,魏謙毫不客氣地收下了衣服,然後諮詢了送飯的少年本市最上檔次的地方,最後選了一家法國餐廳,帶著小遠去開了一頓血貴的洋葷。
   途中,他表現得就像個分不清東南西北的路癡一樣,舉著地圖,不停地問東問西,間或拋出幾個極其沒常識的問題,用盡了辦法勾引那少年的話匣子。
   魏謙不知道法國菜好不好吃,他選了這家餐廳,是因為走過去剛好要從地下拳場路過。
   經過時,魏謙往那邊看了一眼,同時捏了捏牽著的魏之遠的手。
   魏之遠立刻會意,裝傻充愣地問:「哥,你看什麼呢?那是什麼地方?」
   魏謙也假裝尷尬地看了一眼領路的少年,低聲說:「別瞎問,那是人家辦公的地方。」
   領路的少年臉上閃過一個嘲諷的笑容,不過很快就收斂了,順著魏謙的話音對魏之遠扯淡說:「是啊小弟,我們這最厲害的人才能進去辦公,你好好長,長大了也能進去。」
   正說著,潮濕的風中傳來了一股臭味,魏之遠摀住鼻子,直眉楞眼地對領路少年說:「你們倆糊弄小孩,臭死了,我覺得那地方一點也不厲害!」
   只見一個大垃圾車從一個非常狹小的路口裡開了出來,上面放著好幾大桶的垃圾和數不清的大大小小的垃圾袋。
   魏謙揉了揉鼻子,心裡突然一動——對,那些死了的人都去哪了?
   有親人的自然有人領走,那麼那些無親無故,甚至沒留個真名的,他們的屍體到什麼地方去了?
   魏謙心念急轉,裝成鄉巴佬的樣子大驚小怪地說:「喲,你們這竟然有人專門打掃垃圾,我們那邊就沒有,得自己處理,好幾個垃圾堆放點,臭得能把衛星都熏下來。」
   領路的少年看起來也不是什麼核心人物,順口告訴他:「嗯,有收的,拉到城西郊區去,易開罐什麼的能賣的就賣了,其他一把火燒了——哎,快吃飯了,說在這麼噁心的事幹嘛?」
   城西?
   魏謙瞄了一眼詳細地圖,只見那是一大片空地,沒有任何機構和顯眼的建築,大概是一片人跡罕至的荒涼區域,附近有一條小河,從市中心一路蜿蜒輾轉地流過去。
   電光石火間,他心裡有了個猜測。
   而一個禮拜也眨眼就過去了。
    第二十七章
   飯館下午兩三點鐘左右,總是人氣蕭條的,那段時間魏之遠作為端盤子的服務員也會比較無所事事,所以有一天,他一臉天真地問老闆可不可以玩他手機上的貪吃蛇的時候,老闆毫不在意地給了他。
   魏謙研究了一個禮拜的地圖和城市垃圾處理系統,魏之遠就玩了一個禮拜的貪吃蛇……以及給三胖傳了幾條消息。
   第一條簡單:三哥,救命,別回短信,收到晚上九點打我哥電話,響一聲掛——小遠。
   第二條,魏之遠留了城市名和地址,後面又註明:別回,別找我們,自己找地方住,到了給我哥打電話,響兩聲掛。
   第四天,魏謙收到了三胖的兩聲鈴。
   魏之遠於是按著魏謙的指示,給了三胖第三條留言:弄一條大狗來,弄來以後給我哥打電話,響三聲掛。
   最後一天,魏謙調整好自己的身體狀態,準備去拳場了。
   他早早地起來,趁魏之遠還沒醒,拿碳素筆在小孩的手背上畫了一隻小烏龜。
   魏謙已經把那本數學舊課本從頭到尾翻了一遍,同時,他還跟著原主畫了一打便簽紙的小烏龜,乍一看,簡直得了那位「神龜真人」八九分的真傳,畫得惟妙惟肖。
   畫完後,魏謙穿好衣服,仙氣飄渺地走了。
   而與此同時,三胖帶著一條大狗,已經鬼鬼祟祟地在城西的郊區搜了一天一宿了。
   一輛皮卡車開過來,三胖慌忙躲開車燈,拉回狗繩,強迫狗和他一起縮起脖子躲起來,警惕地等著車開過去。
   大狗伸著長長的舌頭,眼見三胖帶著惶恐的大胖臉湊過來,於是非常順便地舔了他一口。
   等車開走,三胖才暴怒地衝著狗咆哮:「媽逼你剛吃完屎!」
   狗顯然不覺得這有什麼衛生問題,搖頭擺尾地說:「汪!」
   三胖憂心忡忡地看著這條狗,不知怎麼的,它看起來高大英俊,但是智商好像明顯低於同類水準:「寶貝,咱都在這耗一天了,再找不著,魏謙那小王八蛋說不定就吹燈拔蠟了。」
   狗……就姑且叫它狗歡樂吧——狗歡樂高高興興地拖著他往前跑去,撒歡一樣地又「汪」了一聲,好像在喜聞樂見地說:「讓那小王八蛋去死吧!」
   三胖嘆了口氣:「誰說不是呢,我也想讓那小王八蛋去死,他就跟一長了腿的麻煩似的,也不知道這次又闖了什麼禍——在城西找屍體,唉,你三哥我明明是個演喜劇片的,他娘的千里迢迢地讓我來客串恐怖片!」
   狗歡樂突然剎車,三胖的神經頓時緊繃起來:「怎麼了?在這附近嗎?」
   ……結果只見狗歡樂抬起腿,衝著樹底下撒了泡尿。
   三胖:「……」
   這時,三胖才發現,狗歡樂已經把他拉扯到一個地勢比較高的地方了,往下一看,正好能看見垃圾焚燒處理廠,臭氣熏天,也不知道狗歡樂帶著比人類靈敏多少倍的鼻子,這種條件下怎麼還能維持它歡天喜地的英雄本色的。
   三胖眯起眼往下望去,他突然發現,有幾個顏色不一樣的大垃圾桶沒有被和其他垃圾一起處理,方才從他身邊開過去的那輛小皮卡停在垃圾處理廠旁邊,幾個人下了車,把那幾桶搬上走了。
   那幾個人絕對不是垃圾處理廠的人,三胖看得分明——肯在這裡幹這種工作的,多半是上了些年紀的人,年輕人能吃下這種苦的不多。
   而從車上下來的這幾個人年富力強,個個看起來孔武有力,輕易就能把一個個看起來非常沉重的垃圾桶抬上車。
   不一會,皮卡就重新開走了。
   三胖蹲下來,拿出地圖,小聲對狗歡樂說:「不對啊,地圖上說那邊沒別的東西,就是一大片空地了。」
   狗歡樂不理,只是要拉著他走。
   三胖:「行,那聽你的,走著!」
   三胖貓著腰,一路小心翼翼地躲躲閃閃,分辨著車轍和方向,借助著狗鼻子,循著皮卡的蹤跡跟著去了,已經快要破曉的時候,他才找到了一排非法建築物,似乎是那種民間非法的煉鐵小作坊,皮卡車已經開走了,幾個垃圾桶卻排在了外面,蓋子開的,有一個不小心倒了,已經空了。
   三胖探著頭,仔細往那倒了的垃圾桶裡張望了一番,認為它簡直乾淨得不像話。
   垃圾桶裡什麼都有,特別是一些湯湯水水的東西,絕不可能像這個桶這麼乾淨,它肯定裝了什麼別的東西。
   三胖有種說不清的預感,他覺得自己找對地方了。
   直到這時,他才發現狗歡樂的異狀。
   狗歡樂雙眼大睜,渾身的毛都炸了起來,衝著那一排垃圾桶的方向呲出了尖利的犬牙,爪子不安地扒著地,做出了一個介於逃跑和攻擊之間的動作——它肯定是已經聞到了什麼,嚇壞了。
   這天上午,魏之遠打工的小飯館裡來了個奇怪的客人,剛開張,他就進來點了一碗麵條,也不急著吃,只是耗時間一樣地坐著。
   老闆和老闆娘都有點害怕,因為一般人是不會在這個早飯不早飯、午飯不午飯的點鐘��吃一碗熱辣口的面條的,那位客人穿著的短袖背心下面隱隱露出紋身的邊角,一腦袋黃毛,不像好人。
   魏之遠這天拿了魏謙的手機,調成了靜音,等著三胖的消息。
   如果找到了,三胖會給他響一次鈴,辦成了,三胖會再給他響一次鈴。
   早晨第一次的響鈴已經過去了,可是第二次響鈴卻遲遲不來,魏之遠心裡終於忍不住有些著急了。
   而就在他低頭看手機的時候,那個奇怪的客人不知什麼時候站了起來,悄悄地靠近了他。
   魏謙已經打完了第二場。
   方才他一站到臺上,就察覺了不對勁。像魏謙這種做慣打手的人,一個人只要是往他面前一站,他基本能在第一時間感覺出對方是不是有威脅。第二場他按規矩升了一級,對手理所當然地應該更強大,可是這個人一點也不比第一場的對手厲害。
   魏謙幾乎毫髮無傷地就把這個人撂倒了。
   觀眾發出失望的噓聲——因為魏謙這個對手在外行人看起來,真的是非常人高馬大、肌肉虯結。
   不過只有親自上場的人知道,那人的肌肉實在是太虯結了,好像是健美先生的那個路數,大塊如同死肉般的肌肉嚴重限制了他的出拳速度,除了還算抗揍之外,幾乎沒什麼作用。
   魏謙擦了擦汗,準備回到更衣室。
   就在他剛下臺的時候,趙老九氣喘吁吁地跑了進來,一把拉住他的手,把他拽進了牆角,先是假裝焦急地上下打量他一番,隨後非常做作地大鬆了口氣,拍著他的肩膀說:「哎喲兄弟,沒事就好,沒事就好。」
   魏謙知道,事才真正來了。
   他不動聲色,假裝迷茫地問:「啊?」
   趙老九一拍大腿:「哎喲,你說這群人,養著他們幹什麼用……剛才讓他們弄錯啦!你那個對手,根本就不是你這種低層級的,人家是中層級的,那大塊頭,一個人能頂你兩個重呢!九哥剛才生怕你出什麼事……」
   魏謙心裡冷笑,臉上卻配合地做了一個目瞪口呆的表情。
   趙老九彷彿突然想起了什麼,拉開皮包,從裡面抽出厚厚的一打人民幣——看起來真的挺厚,兩紮還多一些,魏謙輕輕一翻就知道,少說得有兩萬多。
   「這次的出場費和贏比賽的獎金,按著那個人的級別給你,各一萬塊錢,還有五千是九哥自己貼給你的,唉,九哥對不住你啊,要不是我沒盯緊,也不會讓你受這罪了。」
   魏謙裝模作樣地推拒一番,末了不負眾望地「失敗」了,把錢裝進了自己的腰包,趙老九滿意而慈祥地看著他:「小夥子啊,有前途!去吧,換衣服去吧。」
   魏謙對各種各樣的情況心裡早有預判——當然,兩萬多塊錢是他一輩子沒有見過的鉅款,作為一個合格的錢串子,他的肝顫了顫,腦子熱了熱也是非常正常的,可是很快,就被強大的意志力給拉回來了。
   他以一種非常緩慢的步調貼這邊離開賽台,中途停下來回頭看了趙老九一眼,發現那人臉上帶著某種說不出的志得意滿的笑容目送著他。
   找一個不知從哪弄來的弱雞,讓他以為自己打敗了中級,然後用錢讓他自我膨脹,乃至於下一場心甘情願地跳級?
   不可能的,真正的打手都分得清誰是狠角色,誰是看起來兇狠的花架子,剛才那一場,他們只會認為是僥倖,有多少人會為了兜裡的兩萬五千塊錢鋌而走險?
   肯定有,但那些人通常是需要大筆的錢,比如那些吸毒、高利貸或者供養大病病人的,而他們也不會只簽三場的約定。
   對於大部分三場約的低級拳手,這一場的收益就已經超出預期,有勇氣再搏一次的絕對不會多。
   這是拿錢往水裡扔,是肉包子打狗,趙老九不可能這麼蠢。
   魏謙的腦子前所未有的冷靜,幾乎是全速地轉動了起來,突然,他停住了腳步。
   趙老九那句「換衣服去吧」驟然在他耳邊迴響起來,魏謙想起哪不對勁了——是更衣室!
   從第一開始,魏謙就隱隱感覺到了賽台設置很不正常。
   按照正常人的想法,相鄰級別的賽台應該挨著,這樣觀眾也方便,其他級別的賽台確實是這麼一字排開的,但是低等級的不是。
   最低等級的賽台在靠近大門口的地方,而第二等級卻在最裡面。
   這樣,二等級的拳手想要回更衣室,就必須穿過一條貼邊的狹長的過道,那裡只供一人通過,非常窄,裡面幾乎是黑的,據說燈壞了,還沒裝好。
   而選手們上場時從外面走,讓嘉賓看清楚,下場卻另外有規定,要他們從拳手通道裡下場,省得擋住嘉賓的視線——嘉賓不是他們能惹得起的。
   也就是說,第二級別的拳手下台,只有走那一條通道,而那條黑洞洞的狹長小路,眼下就已經在魏謙面前了。
   錢和……血性。
   電光石火間,魏謙就想明白了趙老九會怎麼操作這件事。
   想像一個窮鬼拳手,出於僥倖,懷裡揣著他這輩子沒見過的鉅款,欣喜若狂地走進這條過道,在最深的地方,如果突然被人偷襲,他會怎麼樣?
   來人如果不光下了狠手打傷了他,還搶走了他身上的錢,他又會怎麼樣?
   在黑暗中猝不及防被偷襲,對於一個人的心理衝擊極大,而一個剛從賽臺上贏了比賽、血還沒涼下來的人,他絕不會因為遭到襲擊而恐懼或後怕,他只會憤怒,甚至仇恨,失控的憤怒才會點燃原本理智可控的膨脹感。
   更不用說還有錢。
   得不到的錢也就算了,但是得到了再從他手上搶走,所有人都會被激怒……何況是他們這樣的人,他們會瘋。
   簡單粗暴,但是肯定會驚人的有效。
   魏謙的手心被粘膩的冷汗浸滿。
   就在這時,一個人在他身後低聲問:「你怎麼不走了?」
   城西,三胖覺得自己的身體已經快要被恐懼撐炸了。
   至今,三胖也不知道魏謙和魏之遠究竟出了什麼事,只知道這兩個孫子招呼也不打一聲地就跑了,把宋老太給急得要團團轉,幾乎要上樹,再也顧不上罵他大胖子了,每天見了他,都要像祥林嫂一樣喋喋不休地盤問一通。
   三胖也著急,麻子的事發生過一次,三胖雖然嘴上不說,但是幾乎有了心理陰影。
   加上每天被宋老太這麼念叨,他都快崩潰了。
   直到他收到了一個陌生號碼用魏之遠的口氣發的短信。
   三胖當天就從黃牛那買了車票趕了過來,一直極端地提心吊膽,尤其收到魏謙他們托他去找什麼屍體的消息時。
   當然,「屍體」倆字在紙面時,還只能激起三胖的擔心和憂慮……等他真的看到那些貨真價實的屍體,才毫無緩衝地幾乎被嚇破苦膽。
   三胖和狗歡樂潛進了非法小作坊裡,途中狗歡樂彷彿能感覺到旁邊這個人類的恐懼和小心翼翼,竟然一聲都沒叫,其他人大概已經開車走了,裡面只留了一個中年男人看著。
   中年人在一個陰森森的小屋裡,三胖看了一眼,只見小屋是一個簡易的祠堂,裡面供著一個佛像,那個人正在哆哆嗦嗦地燒香磕頭,院子裡是一堆的廢銅爛鐵,三胖和狗歡樂小心翼翼地避開那些破爛,奔著一個好像是存放煉油罐的地方去了。
   一進去,膽小的能當場尿了——那裡有一排槽,都是屍體,一水地面朝外面,翻著白眼,張著嘴,最外面的屍體還是僵的,最裡面的已經在廣東潮濕溫熱的天氣裡發出了陣陣的腐臭味……槽還沒排滿,大概排滿了才會統一焚化。
   三胖當場一屁股坐在了地上,同時,狗歡樂極端恐懼地「汪」了一聲。
    第二十八章
   三胖清楚地感覺到,自己的左腦和右腦發生了難以言喻的碰撞。
   他轉頭看著狗歡樂,險些給它跪下,懷疑這狗東西是他上輩子的仇人,專門轉世投胎來坑他報仇
   的!
   狗歡樂觀察不出他想表達什麼,於是又扯著嗓子:「汪!」
   外面的腳步聲臨近了。
   後來三胖想起來,在當時那時光汩汩的行程中,一定生出了某種難以言喻的罅隙,冥冥中似乎有種神力,使得他當機立斷,衝向了屍體群,撿了一個最近死的、最高大的屍體,使了吃奶的勁,把屍體拽了起來。
   屍體的僵硬程度幫了他大忙,三胖躲在屍體身後,讓屍體「站」了起來。
   屋裡十分昏暗,不仔細找,根本看不到那「殭屍」後面還有個人。
   這一回,狗歡樂踩對了節拍,瘋狂地大叫起來。
   那看場子的中年人本來就十分戰戰兢兢,開門一看,裡面一條渾身漆黑的大狼狗正在歇斯底里衝著一個青面獠牙的殭屍叫喚,更可怕的是……那殭屍晃了晃,竟然緩緩地向他走過來!
   民間自古有新喪的屍體不能碰貓狗的毛,否則會詐屍的說法,看場子的中年人本來就心裡有鬼,見了此情此景,好懸沒背過氣去,他目瞪口呆地深吸一口氣,扯著嗓子聲嘶力竭地打吼一聲:「媽呀!詐屍啦!」
   三胖為了應景,捏著鼻子,在屍體後面發出一串陰慘慘地「呵呵呵呵」,中年男人連滾帶爬地跑了出去,被門檻絆了一下,摔得滿臉血,他愣是連擦都沒敢擦,就這麼頭也不回地跑了。
   三胖鬆了口氣,拍拍胸口:「還好還好,運氣不錯,封建迷信害死人啊……」
   正說著,他手一鬆,屍體轉了半圈,正好和他來了個貼面,紫幽幽的嘴唇在三胖臉上打個啵兒,三胖汗毛都立起來了:「媽耶!」
   他連忙扔下屍體,往後退了一步,又踩到了另一個屍體的手,三胖一蹦三尺高地跳到了一邊。
   他驚嚇過了頭,幾乎要惡向膽邊生,用他的一臉橫肉擠出一個惡狠狠的表情,信誓旦旦地對狗歡樂說:「魏謙那個狗娘養的,等老子回去,一定要倒拎著他的腿,把他捲成個麻花,放在油鍋裡,炸他個外焦裡嫩!」
   狗歡樂針對這話分泌出了大量的唾液……說來奇怪,人類的正常指令它好像一句也聽不懂,卻似乎對「外焦裡嫩」四個字格外知心換命。
   三胖看見牆角有拆下來的裹屍袋,就小心翼翼地戴上手套,挑三揀四地找了兩具相對矮小一點的屍體,從兜裡摸出兩張能以假亂真的名片——那是他在自己家附近找了個小列印店自製的,金光閃閃,上面標註了魏之遠告訴他的拳場地址,還自行起了個暗示感十足的豔俗的名。
   他把兩張名片分別塞進了屍體衣服裡,而後連塞再踹地把他們倆塞進了一個裹屍袋裡,艱難地拉上拉鏈,大喝一聲扛在肩上,帶著狗歡樂從後院溜了。
   不遠處有一個規模不大的自然村,三胖呼哧亂喘地扛著裹屍袋找到一個小坡,然後躲在樹叢裡觀察片刻,把一具屍體從斜坡下扔了下去。
   狗歡樂出於其追逐高速物體的天性,立刻脫肛的野馬一樣跟著奔跑了出去。
   三胖雙手合十:「阿彌陀佛,善哉善哉,活著的為大,讓您二位受委屈了,回去我一定給二位燒足紙錢,雖然我長得是很帥,以後可千萬別變成鬼來非禮我啊……」
   然後他又把第二具屍體連著裹屍袋一起推了下去。
   村裡家狗野狗不分彼此,除非個別攻擊性強的會在院子裡拴著,其他基本都是散養,這些家狗和野狗平時混在一起玩,混在一起蹭飯,也混在一起起鬨。
   狗歡樂的異狀很快招來了大批的本土住民,一群家狗野狗眨眼間就如江流入海般地集結成隊,爭相加入了追逐死人的行列,裹屍袋迅雷不及掩耳地就被這群狗東西玩壞了。
   狗的騷動也引起了人的注意,這兩具死屍引起了軒然大波。
   三胖推完屍體就跑了,否則村民上到小坡上查看他說不清。
   他躲到了附近一片經濟林裡,遠遠地拿出望遠鏡——還是魏之遠當時自製的那個。
   二十分鐘之後,好幾輛警車就開過來了,三胖眼見任務完成,給魏謙的手機打了個電話,響了一聲後掛斷,他衝著小自然村的方向揮了揮手,在看不見的地方和他的狗兄告了別。
   像這種愛撒歡的大狗,從鋼筋水泥的城市裡脫身出來,以後能在鄉野間瘋跑,也算是有歸宿了。
   而後他腳下抹油,跑了。
   眼下,他能做的事都做了,剩下的,就是聽天由命了。
   在市中心的飯店裡,黃毛男子終於走到了魏之遠附近,低頭窺視男孩手裡的手機,發現他正一臉投入地玩著貪吃蛇。
   「小孩,哎,小孩。」黃毛推了推他的肩膀。
   魏之遠先是應了一聲,眼睛沒離開手機螢幕,遊戲告一段落之後,他才慌慌張張地站起來:「對不起,客人您有什麼事?」
   黃毛眼珠一轉:「有那麼好玩嗎?我看你半天就沒幹別的。」
   魏之遠連忙惶恐地壓低了聲音,解釋說:「我幹活了,我擦過桌子了,因為您吃飯,我沒敢掃地,等您吃完立刻就收拾。客人……是有什麼不滿意嗎?」
   黃毛眯起眼打量著他,好像想從這小男孩臉上看出一點端倪來,然而隨即,他又覺得自己多心了,畢竟,這只是個看起來連小學都還沒畢業的小崽子。
   黃毛重新坐了回去。
   快到中午的時候,飯館開始忙起來了,有人電話打過來叫外賣,送外賣的店員急匆匆地騎摩托車出去了。
   他們這並不經常有人叫外賣,只是偶爾才需要一個人跑腿,所以平時負責送外賣的只有一個人。魏之遠雖然頭也沒抬,但是心裡簡直欣喜若狂,他沒想到自己的運氣竟然能這麼好。
   魏之遠給一位客人上完菜之後,就做出手機沒電的樣子,轉到櫃檯後面,把手機放在櫃檯的凹槽裡,插上充電器,同時,在黃毛看不見的地方,他用毛巾堵住了內置的喇叭,然後飛快地撥了飯館的電話。
   電話響起來,魏之遠表情自然地接起來:「喂……哦,可能時間長,您等得了嗎?嗯,行……您地址?」
   魏之遠裝模作樣,一筆一劃地在旁邊的本子上寫下了一個胡編的地址:「一會給您送過去,需要另收您外送費三塊五。」
   然後他掛上電話,拿起小本走向後廚:「叔,有個客人點宮保雞丁的外賣……」
   當魏之遠帶著飯盒,從老闆那拿了兩塊錢的公交車費,準備走的時候,黃毛也連忙結賬,跟上了魏之遠。
   他盯梢並不專業——至少還不如當年碰上的那個變態戀童癖,魏之遠很快就「無意中」發現了他,男孩立刻禮貌地停下來:「您吃好啦?歡迎下次再來,您請先走。」
   黃毛瞥了一眼人來人往的鬧市區,只好無可奈何地大步走到了他前面。
   黃毛飛快地繞了個路,好容易掉過頭來,再次跟上魏之遠,卻發現男孩正排隊要上一輛公交車,黃毛大驚失色,連忙飛奔過去,趕在車門關閉之前,一步從後門躥了上去。
   公交車裡能把人擠成相片,黃毛粗暴地撥開一個又一個的人,伸著脖子尋找魏之遠,可是魏之遠不翼而飛了!
   黃毛簡直不敢相信,從車尾擠到車頭,又從車頭擠到車尾,引起了無數怨憤,可他就是沒找到魏之遠。
   他終於確定,那小崽子壓根不在這輛車上,黃毛連滾再爬地在下一站下了車,跑回了原地,那裡早就沒有了小男孩的蹤跡。
   對方沒把魏之遠這種小崽子放在眼裡,因此只留了一個人看著,魏之遠眼角瞥見黃毛上車,就迅速遛下了車,連冒險再運氣,他成功地把人甩脫了。
   魏之遠拎著一份宮保雞丁,一路狂奔,找到了一個公用電話,幾乎是迫切地聯繫了三胖,至此,他們才得到了第一次對話交流的機會。
   而此時,在那個外表金碧輝煌,內裡藏汙納垢的黑拳場,魏謙的瞳孔本能地收縮了一下,隨後,他意識到自己的肌肉做出了防備的反應,轉過身來以後,已經把表情調整到嚇了一跳的模樣。
   魏謙面前站著一個極富有壓迫感的男人,穿著一身工作人員的黑衣服,半握的拳頭有些畸形——如果這個人攥緊了拳頭,那麼四個手指並列的地方會成一個極平整的平面,而不像普通人那樣中指關節略凸起,人的手當然不會天生長成那樣,這種拳頭是經過無數次打擊之後生生磨出來的。
   這個人才是狠角色,魏謙本能地往後退了一步——他懷疑這人就是趙老九送給他的大禮,準備在黑暗的過道裡揍他一頓的人,大概久等了,有些不耐煩了。
   「嚇我一跳,大哥你怎麼在別人背後突然出聲?」魏謙半是抱怨地說。
   那人又問:「你怎麼不走了?」
   魏謙苦著臉,一隻手放在自己的小腹上,微微彎了點腰:「唉,我這人沒出息,一緊張就容易鬧肚子,我得先去個廁所。」
   那人冷冷地打量著他,魏謙的後心上冷汗順著脊樑骨往下淌,心裡計算著,如果正面和這個人動起手來,自己能有幾分勝算?
   片刻後,對方輕蔑地哼了一聲:「正好啊,我也去。」
   一到了廁所,魏謙就迅速地鑽進了一個小隔間裡,重重地鬆了口氣。他知道那個人就在外面,明擺著不會放過他,心裡飛快地轉了起來——三胖一直沒有消息,能不能靠得住?如果不能,那他該怎麼脫身?
   就在這時,隔壁隔間傳來對話的聲音,一個有些油滑的男聲說:「正常情況下,你是打不過他的,但是我這有些好東西。」
   另一個人的口音怪怪的,好像舌頭老伸不直:「什麼東西?」
   老油子就說:「吃了長大力的藥啊,很多人都偷偷用的。」
   大舌頭不屑地問:「你說興奮劑?」
   老油子:「那種東西怎麼有效來?那個只會讓你發揮好,不能真的激發人潛力的。我這個才是真的能讓你越級贏比賽的,吃了以後你覺得有用不完的力氣,身上不管是什麼傷都能暫時不疼。」
   隔壁傳來一陣人撕開紙包的聲音,魏謙聽見那大舌頭狐疑地說:「這不會是某種毒品吧?怎麼可能有見效那麼快的東西?」
   老油子連忙說:「你這個人不要亂講話,我這是好東西,可不是那種損陰德的衰仔們賣的毒,你放心吃,保管沒有副作用的……哦,副作用有一個,就是紅眼,你想想看,人的血流速度加快,血管肯定要變粗嘛,眼睛看起來充血也是正常的,過一兩天就好了。」
   大舌頭沒說話,應該是在遲疑。
   「哎呀,你不要想啦,你打不過那個人的——昨天那場女人拳賽,你看了嗎?那兩個人相差至少二十公斤,小個子女人不超過六十公斤,大個子至少要八十公斤,結果被那小個子一拳打飛,爬都爬不起來。我們外行看熱鬧,比不上你們內行,那個小個子女人的體型,分明是腿粗胳膊細,肩寬不超過四十公分,後背、肩膀、胳膊上都沒有肉,一看就是訓練用腿的選手,她拳頭上沒可能有那麼大力氣的,大個子很狡猾,看出對手的能耐,才會一直靠近,防止對手出腿。她就是沒想到那個小個子吃了我的藥,結果反而吃虧了。」
   大舌頭頓了頓,低聲說:「我看你比我內行。」
   老油子諂媚地說:「怎麼會呢大哥?我們第一次買賣,我不騙你,免費給你拿回去吃,吃得好再來找我,以後咱們做長久生意,怎麼樣?」
   隔間傳來門響,魏謙聽見老油子笑意滿滿地聲音:「吃得好要再來找我啊!」
   然後是一陣腳步聲。
   魏謙不動聲色,他不確定自己是正好趕上了一場興奮劑買賣,還是隔壁故意演給自己聽。
   就在這時,他聽見隔間被人敲響了,老油子的聲音在另一邊響起來:「老弟啊,我看你進去很久,是不是比賽太緊張壞肚子了?哎,其實你放輕鬆就好咯,我這有保管你能贏的東西。」
   ……看來剛才那一場是故意給他聽的。
   魏謙「上道」地接話說:「是和剛才的大哥一樣的東西?」
   隔壁老油子一聽他「上鉤」,幾乎喜形於聲,忙不迭地說:「對啊對啊!怎麼樣,要不要試一下?」
   魏謙故作遲疑地問:「那……給我也免費嗎?我、我可沒什麼錢。」
   老油子忙說:「你贏了比賽就有錢了嘛,我是個厚道生意人,第一回做生意都不收錢的,你拿好。」
   說完,他從隔間下面一指寬的小縫隙裡塞進來一個紙包,魏謙彎腰撿了起來,同時嘴裡模擬了一個一唱三歎的屁聲,隔壁聽到了這樣的「音樂」,感覺自己不能久留,見目的已經達到,立刻就走人了。
   魏謙稍稍鬆了口氣,不知道能不能讓他們放鬆一點警惕,給自己找個可乘之機。
   然而就在這時,外面突然傳來一陣騷動,魏謙趴在門上聽了聽,從亂鬨哄地人聲裡分辨出了「條子」兩個字,他的心劇烈地跳動起來——是三胖!三胖那混小子竟然成功了!
   兩具被狗咬出來的屍體是大案,刑警大隊出動了大批人馬,屍體身上的名片非常可疑——名字起得活像個賣淫窩點,而隊長明明記得,那地址是一個高檔私人會所。
   儘管懷疑是有人故意陷害搗亂,可還是要帶人來看看,於是轉眼,一串警車停在了會所門口,他們一進去,裡面的人驚呆了,刑警隊的也驚呆了。
   胡四爺是個人物,保密措施極其嚴密,裡面的人看著這些從天而降的員警,一時弄不清是怎麼回事。
   而外面的刑警隊接到的也不是打黑任務,隊長本來做好了和那些有錢有勢的衣冠禽獸打太極的準備,誰知進去一看,迎接他們的竟然是一個非法格鬥場!
   新入職的年輕刑警小聲問:「隊長,怎麼回事?」
   隊長任憑內心豬突狗進,嚥了口唾沫,表面上還得穩住場面,一揮手:「把……把主要負責人帶回去!」
    第二十九章
   隊長下了令,可是沒有人動。
   小地方沒什麼事,一天到晚抓小偷閒得蛋疼,好容易遇到這麼大一樁案子,能出外勤的一窩蜂地都跟了出來,結果遇到了有史以來最奇幻的情景。
   一幫人大眼瞪小眼地看著他們隊長,終於,有一位年輕的小同志勇敢地發問:「隊長,帶走哪個,哪個是主要負責人?」
   隊長把臉一拉,挺胸抬頭地做出一副怒目金剛的表情,然後理直氣壯地說:「我他媽怎麼知道?」
   一干同志繼續大眼瞪小眼,方才那位接收到同事的鼓勵目光,再一次勇敢發出內心的詰問:「隊長,你能判斷出這是個什麼地方?他們在幹什麼嗎?」
   隊長臉色發青,臉皮直抽:「我他媽怎麼判斷得出來?」
   年輕的小同志非常絕望:「隊長,那你能告訴我們他們這是正常營業,還是某種不知名的黑社會組織嗎?」
   隊長內心的苦逼逆流成河,只好衝著他咆哮:「我他媽拿什麼告訴你們?」
   這個裝潢豪華的私人會所讓人十分費解,當他們走進裝潢富麗的大廳時,本著一股仇富的思想,隊長本能地擺出一副凶神惡煞的模樣,舉起工作證喝令負責人出來。
   一排接待表情空白地看著他們,突然,有一個保安模樣的人好像抽羊角風了,臉色慘白地撒腿就跑。
   隊長的第一反應是,這個人就是兇手,大喝一聲:「站住!」
   隊長一馬當先,其他人雖然不知道這人是幹什麼的,但是不能落後於領導,於是也撒丫子開始追。
   這種潰逃和追趕,很快激發了群體效應,原來還算鎮定的突然也不確定這是個什麼陣仗了,跟著快速戰略轉移起來。
   眨眼工夫,一幫膀大腰圓的保安都活像遇到了流氓的良家婦女,一個個跑得比兔子還快。
   只剩下一排漂漂亮亮的大姑娘瑟縮著擠在一起,面如痛經。
   跑在最前面的人正好遇上樓道中間巡邏的大堂經理,大堂經理是個高級打手出身,大堂經理一見這見鬼模樣,以為來了火拚的,從腰間掏出了手槍——別人輕易可沒有這待遇。
   他剛想呵斥險些撲到自己懷裡的保安,就見那貨見鬼了一樣地說:「員警!一大幫員警!」
   大堂經理說:「不可能!」
   後面緊跟著跑來了好幾個,大呼小叫如同「狼來了」一樣:「我操,這怎麼有條子!」
   大堂經理遲疑兩秒鐘,在「和條子拼了」與「果斷撤退」之間痛苦地猶豫了片刻,果斷撤退了。
   這一追,就追出事來了。
   追根到底,就怪趙老九,趙老九這人匪氣太重,是胡四爺手下的一個頂尖刺頭,什麼違法亂紀的事,只有別人想不到的,沒有他幹不出來的。
   但凡能上檯面的人,他都看不起,他看得上的,基本都是有案底的——見到員警,本能地先以為是出事了。
   比他們跑得更快的是嘉賓,嘉賓裡要麼是來路不正的,要麼是有頭有臉的,都是開開心心出來玩的,誰都不想沾上條子,一個個滑不溜手,聞風就地解散。
   趙老九心裡有著同一個問題:「我操,這怎麼有條子?」
   可他得撐場面,不能上躥下跳的。趙老九抹了一把冷汗,他沒有收到任何消息,仔細回憶了一下,似乎也沒有出什麼紕漏,他想破了腦袋,也想不出這些員警到底是幹什麼來的?難不成是欠繳水電費了嗎?
   趙老九低聲對一個手下說:「先把人都疏散——廢話,當然疏散拳手,嘉賓們都他媽老泥鰍,用你提醒,早跑了!除了女服務員和身世青白的,誰也別留下……算了,那也就剩女服務員了。叫人把營業執照準備好,一會沒準我要跟他們走一趟,很快就回來,放心,肯定沒事,你叫人把場面上都收拾乾淨了,特別是籌碼和『藥』,對外就說賽臺上都是請來的模特,是表演性質的,然後立刻通知胡四爺。」
   手下被突如其來的變故弄懵了,低聲問:「那……要是萬一有事呢?」
   趙老九惡狠狠地瞪了他一眼:「放你娘的屁!」
   手下和他一樣,一腦門冷汗,不敢吱聲,轉身去安排了。
   就這麼著,魏謙被疏散了。
   大浪淘沙,只有細小的浮游生物才能不動聲色地鑽出去,沒有人會關心它們。
   魏謙離開拳場,直奔火車站。
   才剛一進站,他就差點被魏之遠撲了個跟頭。
   三胖和小遠已經在這裡足足等了他一下午。
   當天中午剛過一會,三胖就頂著炎炎烈日和一身的熱汗接到了魏之遠,一見面就急赤白臉地問:「你哥呢?在哪呢?啊?你個小兔崽子發給我的地址是個什麼地?他在那幹什麼?」
   魏之遠:「打黑拳的。」
   三胖聲音提高了八度:「什麼?我操你們倆大爺!你們倆小兔崽子能讓老子多活兩天嗎?!」
   魏之遠看著他不言聲。
   三胖繼續咆哮:「少給我裝可憐,還不帶我過去給他收屍?」
   魏之遠冷靜地說:「我哥不會讓你去找他的。」
   三胖張了張嘴——也反應了過來,他們聯繫也好,報警也好,都是在暗地裡進行的,魏謙要讓這件事看起來完全是一個愚蠢的巧合,把水攪渾,他才能遊走。
   所以三胖作為一個陌生人,絕對不能出現在任何一個人的視野裡,他們不能引起哪怕一絲一毫的懷疑,都夠他們喝一壺的。
   三胖:「那你說去哪?」
   魏之遠抬起手,把手背上的小烏龜展示給三胖看,把三胖愁的,摸著他的腦袋說:「哎,真好看,長得跟你哥一模一樣——這熊孩子,都什麼時候了還在手上畫烏龜呢?」
   魏之遠指著烏龜殼:「這是我哥畫的,三哥,你仔細看,龜殼是個倒過來的鐵路路徽,我們去火車站。」
   就這麼著,三胖和魏之遠來到了火車站,從烈日當空,一直等到太陽西沉,等得一大一小兩個人心裡的焦躁都燒成火了,幾乎望穿秋水,魏謙才姍姍來遲。
   魏之遠一邊抱著他的胳膊不撒手,一邊從衣服裡抽出了一本他夾在褲腰帶上的書,正是魏謙帶來的那個畫滿了神龜的舊數學課本,封皮都被小孩的汗浸透了。
   魏謙拿在手裡,不知道該說什麼好。
   三胖一開始比小遠還要激動,幾乎不能自已,整個人變成了一個巨碩的噴壺,唾沫星子噴了魏謙一頭一臉。
   可惜,這死胖子的溫情只維持了幾分鐘,激動勁一過去,翻臉就不認人來了,讓人充分體驗了一番什麼叫做「胖子都是善變的」。
   他把魏謙拉到沒人的角落裡,變著花樣,用「擺事實講道理」以及「問候祖宗罵娘」兩種方式,雙管齊下地衝魏謙開了一通炮,角色轉換自然得體,彷彿他不是一個人在戰鬥。
   最後,三胖用長篇大論得出了一個他認為合理的結論:「魏謙,我今天要告訴你一個科學界的重大發現——你就是一個大傻逼!」
   被「科學」嚴密地論證為傻逼的魏謙無言以對,只好罵不還口。
   三個人來的時候都是硬座,回去奢侈了一把,買了臥鋪。
   可惜臥鋪沒比硬座舒服到哪去,因為三胖同志的呼嚕聲實在是太石破天驚了,幾次險些把火車從軌道上震出去,而這死胖子還毫無自覺,睡得極早,起得極晚。
   旁邊的幾位乘客幾乎把他當成了階級敵人,最後大家不約而同地趴在床上,摀住耳朵,把腦袋埋進枕頭裡,用這種活像躲炸彈一樣的姿勢度過了漫長的睡眠時間。
   魏謙睡不著的時候,就平躺著計算著家裡的財務,他這一趟基本沒什麼開銷,加上寄回家裡的,加上以前有的一點微薄的積蓄,他現在總共擁有身家三萬塊錢。
   他們一家四口人平均一個月五六百塊錢就能生活得非常寬裕,一年下來,只要不橫生枝節,學費,生活費加起來,不會超過六千,如果他能寒暑假和節假日找地方打工,還能多出千八百,養活麻子媽。
   暫時可以鬆口氣了。
   就在魏謙心裡一筆一筆地思考生計問題的時候,他的上鋪突然動了動,然後黑燈瞎火地露出一個小腦袋來,懸空倒著看著他。
   魏謙無意中一抬頭,被小腦袋上那雙灼灼的眼睛給嚇了一跳,於是呵斥:「魏之遠,你鬧什麼鬼,睡覺!」
   魏之遠遭到了呵斥,一點也不難過,好像還很高興,縮回了腦袋。
   魏謙收回思緒,這些日子他一直精神緊繃,精力有點不濟,習慣了噪音之後,即使耳邊是驚天地泣鬼神的呼嚕,他也慢慢地升起了一絲睏意,就在他快要迷糊過去的時候,上鋪那個小腦袋又做賊一樣地偷偷摸摸地冒了出來。
   魏謙沒好氣地半撐起身體,探出頭扒到上鋪:「你吃飽了撐的?沒事老看我幹什麼?」
   魏之遠立刻乖乖地躺了回去。
   魏謙以為是小孩頭一次坐臥鋪新鮮,於是順手給他拉了拉被子,聲音放低了一些:「睡不著就把耳朵塞上,實在睡不著就踹那胖子一腳。」
   魏之遠輕輕地應了一聲,依然是盯著他。
   魏謙爬了下去,學著別人的樣子塞住耳朵,把腦袋捲進枕頭裡,閉上眼。
   過了好一會,魏謙忽然在一片黑暗裡想明白了,魏之遠不是在鬧,他一直伸出頭,是想看看自己還在不在。
   把這小崽子都嚇壞了,魏謙心想,不應該帶他出來啊。
   他們哥倆回到家,理所當然地遭到了宋老太的大呼小叫和問東問西,魏之遠裝傻不吱聲,宋老太的炮火就噴向了魏謙:「你哪來那麼多錢?你去哪了?是不是幹什麼壞事去了?你說話!」
   她就像一隻大號的蒼蠅,在魏謙耳邊嗡嗡不停,他忍無可忍地離家出走,把剩下的兩萬五開了個戶存進了銀行,沒告訴奶奶,省得她再聒噪。
   等他溜躂了一大圈回去,發現宋老太依然法相森嚴,絲毫沒有要放過他的意思,魏謙終於服了,不耐煩地說:「我賣血去了,行了吧!」
   宋老太張口結舌:「賣……賣什麼?」
   魏謙態度越發惡劣:「賣了二斤血,一個腎,你丫問夠了吧,讓我消停會行嗎?」
   這話一聽就是扯淡,可是宋老太不這麼認為,她沒讀過一天的書,只聽說過賣血的,但是不知道人血這玩意不是蘋果西瓜,不能論斤稱,再一打量魏謙那慘白消瘦的臉,頓時就胡思亂想地信了。
   魏謙本意是想讓她少來煩,沒想到造成了這麼個後果。
   只聽宋老太亮了個十裡八村的豁亮嗓子,哭得戲劇效果十足,端是個頓足捶胸、打算上吊的前奏。
   小寶和小遠互相看了一眼,然後一同把不知所措的目光投向了大哥,大哥的表情足足有半分鐘是空白的,小遠覺得他的眼角抽搐了一下。
   魏謙在宋老太旁邊蹲下,用準備模電門的小心翼翼伸出手指,戳了她一下,又飛快地縮回來,乾咳一聲:「那什麼……咳,你別哭了。」
   宋老太臉上鼻涕眼淚一鍋燴:「我窩囊啊!我一個農村老太太……我什麼也不會!我就能添亂!讓孩子去賣血賣腎,那是人幹的事嗎?我怎麼還不死喲……我活著幹什麼……」
   魏謙雖然不至於手足無措,卻也無計可施,他默默地聽著老太太那一套一套的哭詞,覺得有些啼笑皆非,心說幸好沒告訴她自己去打黑拳了,要不然得把這老東西活活嚇死。
   而在這啼笑皆非的荒謬感之餘,他又感覺到了一點奇異的慰藉。
   「讓孩子去賣血賣腎」這句話筆直地戳中了他的心窩,從小到大,很少有人會用「孩子」來稱呼他。
   在魏謙看來,「孩子」兩個字並不是描述某個年齡段的人類的中性名詞——他認為中性名詞應該是「崽子」——而「孩子」這個稱呼,似乎代表了某種來自成年人或者長輩的,特別的關照、寬容和寵愛。
   ……那是他從未得到過的。
   魏謙有些不好意思,等老太太哭聲弱了一點以後,他才從餐桌下面拿出了一卷衛生紙遞給她:「哎,你別哭了,我剛才是說著玩的,騙你的。」
   宋老太抽抽噎噎地罵人:「你個王八蛋!你到底幹什麼去了?」
   魏謙說瞎話連草稿都沒打:「我一個朋友有些門路,拖我入夥,往南方運點貨,跑了幾趟大卡車……」
   宋老太:「你放屁,你怎麼不撒泡尿照照你那臉色?」
   「我……」魏謙忍不住讓她給氣樂了,「你知道我們一天要在路上跑多長時間嗎?大卡車上高速一天十多個小時,車裡吃車裡睡,風吹日曬的,誰能有好臉色?我又沒成仙。」
   宋老太狐疑地看著他。
   「真的。」魏謙掰得和真事一樣,「三哥也去了,不信你問他,我們從廣東那邊的工廠拉來的貨,直接到北方倒手一賣價錢就翻幾番,給我幾千塊錢勞務費值什麼了?」
   反正三胖會替他圓謊的。
   宋老太這才有些將信將疑,過了一會,她說:「那……那你把衣服掀開我看看,人說賣腎的後腰上都有一條口子。」
   說完,她就要親自動手扒魏謙的衣服。
   魏謙從地上蹦了起來,往後退了一大步:「幹什麼你?男女授受不親!你都那麼大歲數了要點臉好不好?」
   宋老太聽他越說越不像話,順手捲起了一本書,劈頭蓋臉地照著魏謙身上抽:「我讓你滿口胡謅,讓你不老實……」
   這麼抽了一頓,她終於忘記了扒魏謙衣服的事,這一關算是過了。
   暑假飛快的時間掠過,宋小寶那個不成器的東西又開始東挪西湊地瘋狂地補作業,三胖時常過來轉一圈,宋老太白天出去賣東西,這哥仨就一人佔一個角落,自己看自己的書,安安靜靜的,彷彿他們自來鑼鼓喧天的家變成了一個大自習室,充滿了學術的氣息。
   有時候三胖坐得時間長了,還覺著怪不自在的。
   魏謙換了一身乾乾淨淨的白T恤,頭髮理得很整齊,心無旁騖的時候,眉宇間的陰鬱會消散乾淨,看起來就像個普通的中學生。
   九月,他終於回到了自己闊別三年多的校園,重新開始了規律充實而泛善可陳的高中生活。
   每天清早,他先騎自行車載宋老太去賣雞蛋的地點,然後從她的鍋裡撈一個玉米一個雞蛋,帶走去學校吃,一天八節課忙忙碌碌地上完,他就趁著晚餐時間飛快地從學校裡跑出來,騎自行車把宋老太送回家,再從家裡隨便拿點吃的趕回學校,趕上晚自習。
   有個能照顧家的大人,魏謙卸下了一多半的重擔,他心裡是感激奶奶的。
   其實魏謙高一都沒上完,但為了節省時間,他直接進了李老師帶的高二班,儘管暑假一直在看書,但第一次月考仍然不理想,只勉強躋身中下游。
   不過,魏謙沒覺得有什麼大不了的,沒有墊底就說明還是跟得上的,到期中考試的時候,他已經從中下游升到了中上游。
   他讀書就像給樂哥看場子當打手的時候一樣一心一意,並且成就顯著——所謂「刻苦」,不也就是起五更爬半夜,多比別人看會書、多比別人做幾本題的事嗎?
   這種「苦」法對於魏謙而言,根本什麼都算不上。
   到期末考試的時候,魏謙從中上游徹底升到了上游,變成了一個學校裡隨和寡言長得帥的優等生……這在大半年前,還是一個不可想像的身份。
   可惜,他在家裡是說一不二的一家之主,宋老太每天做小買賣給人幫工,忙得早出晚歸團團轉,那倆崽子也沒人敢多嘴詢問他的成績,魏謙又覺得自己說顯得太顯擺,破壞他一家之主的威嚴。
   可著實把他給憋壞了。
   一直憋到了過年,宋老給他們發了紅包,煮好了餃子,飯桌上,才想起問魏謙:「她哥,你學習怎麼樣?考試考第幾?」
   魏謙別彆扭扭地拿著他有生以來第一份壓歲錢,順口說:「你管得倒寬。」
   宋老太喜氣洋洋地笑罵他:「兔崽子,說人話!」
   魏謙於是故作輕描淡寫地報了一下成績和排名,好像那都是雞毛蒜皮不值得一提的小事一樣,是她非要問,才勉為其難地說一聲。
   宋老太攪合餃子鍋裡的沸水的手突然停住了,好一會,她小心翼翼地問:「那……這夠考上大學了吧?」
   重點高中裡的學生從來不把「考上大學」當回事,他們的目標都是儘可能考上「最好的大學」。
   不過宋老太接觸過的文化人有限,平時那些光顧她生意的學生和白領,她都把人家當成另一個階級的伺候,從沒有想到過自己家裡也會出一個……那個「階級」。
   「上大學」在她的腦子裡,是一個卑微而遙不可及的夢想。
   魏謙漫不經心地「嗯」了一聲。
   宋老太內心沸騰了,激動得無法表達,直到好多天過後,魏謙都快開學了,騎車去她下午打短工的地方接她的時候,還聽見她跟一起做事的人手舞足蹈地吹牛:「我大孫子在是重點高中,老師都說以後考大學沒沒問題。」
   魏謙遠遠地聽見,嘀咕了一句:「老東西,真會往自己臉上貼金,誰是你大孫子?」
   可雖然這樣說,他推車走過去的時候,卻還是若無其事地說:「奶奶,走了。」
   所有的苦難與背負盡頭,都是行雲流水般的此世光陰。
   你可以一無所有,只要你的精神還在——2013年上海交通大學校長畢業演講。
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jyutleijyutdim · 6 years ago
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487 傻瓜支那政府同越出越豬兜嘅支共撈皇當然會陀累大粵映衰粵人 不過就粵獨而言 傻撈越多我哋肯定就越有機會發為
487 傻瓜支那政府同越出越豬兜嘅支共撈皇當然會陀累大粵映衰粵人 不過就粵獨而言 傻撈越多我哋肯定就越有機會發為
自從共產主義喺100年前崛起以嚟,呢個世界曾經出現過一個龐大嘅共產主義國家陣營,喺蘇聯冧檔之前,呢一眾共產政權同執政嘅共產政黨,都係國家無神論者,往往極盡剷除其國內傳統民俗文化同宗教信仰之能事。不過喺蘇聯瓜老嚫之後,嗰啲死剩種嘅共產黨國家,為咗續命,就祇能夠搏命揸實民族主義呢條救命繩唔放,依家無論係支那,抑或越南,都係噉,兩者相異嘅地方,祇有所針對嘅對象唔同。
於是乎,依家支那啲電視臺同電影公司,就一日到黑拍埋嗮啲所謂抗戰片,從年頭放到年尾,啲人晚黑食完飯喺企嘅文化生活就係睇打日本仔,個個電視臺幾乎一到天黑就開始播呢啲鬼嘢,真係煩到抽筋,但係班撈又冇本事打鳩人喎,卻偏要一味意淫,實質上就等同啲鹹濕佬冇錢叫雞就唯有睇鹹片自慰噉。除咗打日本仔,或者間唔中仲會播下啲狗咬狗骨內鬥爭身家嘅,同埋打國民黨嘅。依家民進黨當政,國民黨喺臺灣下野兼江河日下冇嗮嘢到,所以係毋須畀面但打無妨,要妳班嘢繼續睇最後永遠都係共產黨贏嘅狗咬狗骨嘅支那內戰。家陣支那啲戲同電影冚唪唥清一式就係呢三類冤氣嘢,所以話家陣嘅支那係冚世界最無知嘅文化沙漠真係一啲都唔過太。
比起之前嘅胡豬撈政府同江豬撈政府,依家呢個習豬撈政府真係無能兼心理變態得好交關,胡江當權嗰廿年雖然話都係腐敗兼威權,但係起碼仲識喺外邊刮到美金同技術返嚟。依家呢個呢,美國佬啲美金就嚟冇得妳搵喇,佢唔去諗辦法開放金融監管努力促成支那幣國際化以減少對美金嘅依賴,反而仲掛名啲咩一帶一路對外大搞國家資本輸出,大肆貸款畀啲都唔知有冇得還嘅窮鬼國家,一味蠶食國內越嚟越縮水嘅美金外匯儲備。家陣外邊冚世界都經濟復甦,唯獨妳支那國內經濟卻係一年沉過一年,佢唔諗諗點振興實體製造業,反而仲以環保為名對啲廠口斬盡殺絕,噉無疑等同逼啲企業主加入經已龐大得好交關嘅炒樓大軍,令樓市泡沬更加熾烈。同時間,嗌人不務正業去旅游去農家樂從年頭嗌到年尾,最後仲玩埋數字游戲,調整產經統計項目搞咩所謂嘅綠色GDP,為持續衰敗嘅經濟欲蓋彌章整靚盤數。
習豬撈政府發誓要剷除佢所謂嘅低端製造業,嚟為哺育高端製造業集群鋪路,講就口響,但係實質上高端製造業幾時輪得到妳?就攞機械產業嚟講,作為傳統製造業裡頭嘅絕對龍頭,佢涵蓋汽車/機床/動力機械/金屬加工/裝備製造/通用機械等諸多業界,喺呢啲領域,從行業設計軟件到關鍵工作母機以至到成條生產線,由軟件到硬件,從高端嘅採用西門子同三菱數控系統嘅多軸聯動數控加工中心,到一早經已好大路嘅AutoCAD機械作圖程式,呢裡頭絕大部份用嘅,都係鬼佬同日本仔嘅來佬貨。
技術唔同經濟,技術係冇後發優勢呢支歌仔唱嘅,尤其行業技術呢家嘢,好多時都係大者恆大,強者恆強,唔係話妳肯落���畀心機鑽研就一定會出成果嘅,若然人���刻意避開一啲關鍵節點唔話妳知,妳好可能諗三五七年都未必搞得通,等妳諗通嗰陣,人家一樣會向前發展,妳同人嘅差距始終都喺度。想過人頭,妳一定要以非凡嘅恆心毅力同雄厚嘅財力物力嚟做雙重投入,至有可能做得到,睇清楚,祇係有可能做得到而唔係一定百分百可以做到。以依家班撈急功近利嘅浮燥心態,恆心毅力呢啲簡直係零雞蛋,噉就更加冇可能挑戰到人哋美歐日嘅技術強勢。
唔少工業企業,成個設計開發流程,往往都係喺一兩個關鍵點搞唔掂,噉就會導致成個最終利潤可能好可觀嘅設計構想流產。而呢一兩個關鍵點,往往就在於人哋一兩句說話,講兩個關鍵參數妳知,或者扐一兩張圖紙出嚟過妳睇,就可以令妳班嘢少諗一年半載,做少幾十次幾百次驗証樣品,少測試同分析幾十鑊幾百鑊數據,呢裡頭所節省嘅時間/金錢/人力/物料成本係難以估量嘅。頻繁嘅試製同驗証,係一個失敗率奇高挫折感好強嘅初始設計參數檢定同校正過程,所有正規嘅產品研發,都要行呢一步,而且呢一過程,係會快速噉耗損企業有限嘅科研經費同科研人員有限嘅測試耐性嘅,好多企業喺搞咗幾個樣品唔成功之後,就投降放棄,噉技術當然亦難以有突破。
支那依家搵咁多黑客去入侵盜竊美國德國日本同法國嘅製造業龍頭企業嘅商業機密,就係想搵出呢啲人哋唔話妳知嘅關鍵節點裡頭嘅設計機密,等自己嘅企業盡可能節省研發時間同研發嘅人力物力。之但係呢啲嘢班撈之前搞得太狼死,美德日法啲擁有自主技術嘅製造業企業依家對網路安全係岌到實一實。市場換技術呢招喺十幾年前或者仲有效,但係隨著近呢幾年支那市場對外資越嚟越封閉,錢都唔畀人賺,人哋仲鬼賣技術畀妳咩。一個山寨大國想變身創新強國,冇咗畀錢兼併人哋技術企業呢條路數,冇咗黑客嘅技術偷竊,支那嘅高端製造業根本就係得個講。
班撈依家所謂嘅靠大數據人工智能同國內消費呢個套路嚟提振衰落嘅經濟,亦即以服務業替代製造業嚟作為經濟成長嘅主動力,美國佬之前都係噉做,但係換嚟嘅卻係低產出低盈利低通脹低消費同埋經濟空殼化。一大堆低端下欄嘅服務業,外加好少量鶴立雞群嘅高端製造業,近20年嚟美國經濟嘅頹廢不振,就係噉嚟嘅。依家支那揀嚟行嘅,正正就係呢條20年前美國經已行過嘅被事實証明係完全失敗嘅死路。
冇巨量製造業支撐嘅經濟體,注定唔會有辦法大規模噉創造到財富。企業莫水,員工跟著當衰,因為要面臨裁員減薪,啲人冇錢,自然唔想買嘢同壓縮非必要消費,啲商家廠家睇見噉就唯有唔提價,出廠價格指數嘅低落又直接傷害廠商嘅盈利,形成一個惡性循環。喺呢個過程當中,嚟自支那嘅巨量廉價貨,使美國面臨極大嘅輸入性通縮壓力,進而使上邊嗰個惡性循環更加惡性。
睇見噉,依家豬嘴特朗普唔屌妳喇,即使得罪全世界,即使退出TPP同巴黎氣候協定,佢老屄都要重振美國嘅工礦製造業,話Q知妳係咪全球暖化喇。蘋果手機美國整祇係一個高姿態嘅開端,減稅同重振美國能源產業至係佢2017年施政嘅重頭戲。美國擁有儲量龐大嘅頁岩油同天然氣資源,同時亦係全世界煤炭蘊藏量最大嘅國家,喺特朗普嘅政策催穀之下,唔少kam竇咗嘅煤礦重新畀高調開返,佢喺一班煤礦礦工嘅身前親自簽署法令以廢除對礦商營運明顯有壓制嘅環境規限。同時間,佢亦廢除咗經已長達幾十年嘅美國產原油唔可以出口嘅法令,此舉令美國原油嘅日產量喺2017年年尾快速逼近1000萬桶,而同沙特同俄國嘅產量持平,使美國晉身成為全球三大產油國之一。
美國呢邊落力復興廠礦,反觀支那,卻係大搞啲咩供給則改革,易得啲鋼廠煤礦冚唪唥即刻瓜撚嗮佢。以地底有冇地藏嚟計,支那地大卻唔物博,石油同天然氣儲量都唔多,唯一有優勢嘅,就得煤,支那係依家全世界煤礦蘊藏量最大嘅三個國家之一(其餘兩個係美國同俄國),當中九成以上蘊藏喺冬季寒冷需要燃煤以發熱取暖嘅秦嶺淮河以北嘅北支那,產地同用地重疊,天然資源搭載合宜,呢個本嚟係大利好,不過班撈卻唔好好善用。
同樣都係為咗發電供暖,妳支那坐擁優勢嘅煤炭資源唔開發,反而為咗所謂嘅環保,為咗北京帝都啲懸浮煙塵少啲好等件支共撈皇住得舒服啲,而動用真金白銀嘅美金儲備去同俄國佬中東佬澳洲佬買液化天然氣,連美國佬都唔Q理啲咩減排唔減排喇,妳支那反而傻更更扮嘢扮到好似好有擔帶噉,真係超級有病,戇居得交關。
賺美國佬啲美金,跟著利用呢啲喺美國佬度賺返嚟嘅美金對外大搞採購外交同資本輸出,以圖通過產能出口同大宗商品入口嚟控制他國。支那呢個套路嘅樞紐就係賺美國佬啲美金,一旦佢喺美國佬度搵唔到錢,噉佢嘅成個資本賬戶就會即時失衡。支那依家同歐盟/日韓/臺灣/東盟/印度/非洲/前蘇聯/拉美呢啲地方做生意,所搵到嘅錢絕對難及佢喺美國佬身度所搵到嘅,支那同呢啲地方貿易,除咗東盟同印度之外,往往都係經常性逆差,佢喺呢啲地方嘅出超,就要搵佢喺美國佬度所賺到嘅入超嚟填氹。
但係美國佬晨早就對龐大嘅美支貿易逆差心懷不滿,特別係特朗普上臺以嚟,經已多次威脅要對嚟自支那嘅商品實施加徵關稅等嘅貿易懲罰措施。一旦美國佬唔再畀妳支那搵佢啲錢,噉妳支那嘅成個如意算盤都會打唔響。人又多自然資源又貧乏嘅支那,到時咪話冇控制他國呢支歌仔唱,就連佢自己嘅內部掌控都會即時成問題。支那依家糧食自給率連年下滑,食落肚嘅唔食得落肚嘅,幾乎乜都要扐美金同人買,冇製造業嘅工業製成品出口,又何嚟會有咁多美金?借環保為名,依家搏命趕絕可以巨量創匯嘅所謂嘅低端製造業,到時等啲廠走嗮去東南亞同非洲,搞到連啲衫褲鞋襪都要喺柬埔寨孟加拉呢啲地方進口返嚟,睇妳點死。咪笑吖,依家唔少電腦配件就喺從越南菲律賓呢啲地方進口返嚟賣嘅,而呢一啲嘢,喺幾年之前仲係喺大陸呢邊啲外資廠度出產嘅。
妳支那唔同人哋美國喎,美國佬買嘢直接畀佢自己嘅美金就係。冇美金?去賣咗啲頁岩油佢,賣完頁岩油賣天然氣賣煤炭賣大豆賣粟米賣小麥賣棉花賣牛肉,反正呢啲大宗商品佢大柒把。一唔係就逼妳買幾部波音飛機,又或者向妳兜售佢啲美國國債,甚至乎直接開印鈔機印啲美金畀妳都仲得。依仗美金係國際通行結算貨幣嘅龍頭地位,美國佬得以把持著冚世界嘅經濟命脈,喺對外貿易當中,冇一個國家可以有美國呢種原生嘅優勢。
想要取代美國嘅呢種金融霸權,終極解決方案係妳喺核戰當中徹底噉消滅佢,令到呢個世界唔再有美國呢個國家,除此之外,其他嘅所有方式,譬如將妳嘅貨幣變成可自由兌換同流動嘅貨幣,都祇能減緩美國嘅金融霸權,而冇辦法令呢一金融霸權徹底瓦解。不過即使係噉,支那亦冇決心同膽量放手去做,因為佢要密切掌控國內資金,以防走資,以致到支幣國際化遙遙無期。
支那依家係進退維谷兩頭唔到岸,佢想搵支幣嚟同人哋直接交收吖,之但係人哋唔囌佢呢,人哋指定要搵美金嚟找數,因為支幣並唔係一種可隨時隨地無限制自由兌換嘅貨幣,兼且支幣匯率亦唔係由市場嚟定價自由浮動嘅。攞著支幣妳想換返美金,噉就要睇支那面口喇,幾時可以同妳換,同妳換幾多,以咩價位同妳換,呢啲冚唪唥都係支那共產黨話咗算,人哋做生意嘅,對呢啲咁封閉嘅貨幣當然係避之則吉喇。
靠一啲軟性嘅新經濟動能嚟賺取美金,似乎係最好嘅解決方案,不過依家支那嘅所謂大數據雲計算同人工智能,與其講係經濟,不如講係一個由支那共產黨公安同稅務系統聯手精心佈置嘅以個人為基本監控單位嘅行為監視網好過。呢裡頭即使涉及到錢,亦一定唔係美金,佢更加似一種由支那政府主導以支幣計價同結算嘅,軟性同隱性嘅基礎設施建設投資行為。
支那所謂嘅大數據,無非就係將騰訊/阿里巴巴/百度呢幾大支那嘅互聯網紅頂商同一堆支那銀行電訊公司同快遞公司嘅個人客戶數據庫做一個互聯互通,最後將呢啲數據庫共集完之後再交畀公安/國安/稅局/海關/邊防等嘅一眾支那政府暴力同斂財機關。
所以喺支那,妳有冇誠信唔係依照妳有冇及時清嗮啲卡數同清還銀行啲借貸嚟決定嘅,而係根據妳有冇及時向共產黨繳交一系列苛捐雜稅而釐訂,所以啲鬼佬至會話,喺支那係根本就冇真正意義上嘅個人信用評級體系嘅,呢點真係好搞笑。若然妳冇交清呢啲支共對妳嘅盤剝,噉妳就咪使旨意坐飛機同火車喇,因為佢經已通過佢嘅呢啲所謂嘅大數據嚟對妳嘅人身自由作出咗限制,目的就係逼妳交錢。
而佢所謂嘅人工智能,講白啲就係人面識別技術,其他嘅根本就不值一提。人面識別呢個純粹係公安用多,未等啲技術完全成熟,依家班撈就經已迫不及待噉用喺嚴密監視啲新疆佬度喇。支那嗰啲開發人面識別技術嘅初創公司,佢哋唯一嘅客戶,就係支共政權嘅各級公安局,呢啲行業同技術,根本就唔係面向普羅大眾嘅,而係支那共產黨嘅御用物品。喺可以用現金又或者碌卡做錢銀交割嘅情況下低,試問又會有幾多個人願意泄露自己嘅長相私隱嚟做所謂嘅刷臉畀錢?點解人面識別技術喺美國冇乜市場?呢啲技術喺大眾應用度到底可以有幾多成長力?妳自己諗。支那嘅呢啲大數據同AI智能,講到底無非都係為咗維持支共政權服務,而同美國矽谷嗰啲以個人用家同企業用戶需求為導向嘅科技初創公司嘅研發流有著本質嘅差異。
依家支共政權所講嘅大數據同人工智能產業喺支那出現所謂嘅井噴,實質上不過係共產黨需要建立一個大數據庫集同某啲智能識別技術,以更好噉監控人群同維穩,所以佢會瘋狂谷起相關產業,引妳啲人將啲熱錢游資掟入嚟,個情形就如同2015年支那股市一樣,所有嘢都係共產黨喺度自編自導自演。依家啲風險投資基金係爭著搏命掟錢入呢啲行業,支共個目標似乎達到,跟著就睇幾時爆煲喇,千禧年嘅科網股災同2015年嘅支那股災,都係有史為鑑。
21世紀初嘅互聯網泡沬爆破,曾經畀美國經濟帶嚟至少四五年嘅停滯,而2008年由地產熱所引爆嘅次貸危機,更加重創美國經濟七八年時間,直至到前兩年美國經濟至開始回穩復甦,美國失落嘅20年,可以話就係呢兩單嘢嘅後遺症。諷刺嘅係,成日以開創所謂支那模式自居嘅支共政權,卻正係大踏步噉行緊美國佬之前行過嘅失敗死路。
以網絡私募集資同網絡小額貸款為核心體現嘅支那互聯網金融亂象,依家正尖銳噉凸顯著支那所謂互聯網+嘅泡沬風險。呢啲甚少有受正規金融監管嘅網絡游資,正喺度急不及待噉向四周圍放債,佢哋成咗支那嘅網絡影子銀行系統,由佢哋所形成嘅借貸,則係表外債務。呢啲影子銀行同表外債務喺支那查實一直存在,前嗰十年八年支那民間就曾經有一波全民放貴利潮,依家祇不過係放喺網上做,改頭換面噉啫。借著依家所謂嘅互聯網+,舊底啲地下錢莊估計多數都會浮嗮上面,攞正牌嚟做互聯網金融。呢啲民間游資同民間借貸,規模一直都好龐大,支那絕大部份嘅中小型製造業廠仔,若然一時三刻有咩周轉唔靈等錢急用,多數都會循民間借貸嘅渠道而唔係支那嘅銀行去做融資。而支那依家要整頓互聯網金融,實質就係想剿殺嗮呢啲地下錢莊,好等佢自己開嘅銀行做獨市生意。
呢啲民間影子銀行同龐大未經嚴格信用考核嘅民間表外債務嘅形成,直接原因就係支共政權對支那金融業嘅強權壟斷。支共從嚟都未曾真正向民間資本開放過銀行業,啲民間游資咪唯有以地下錢莊嘅方式嚟運營囉,因為係私底下運作,所以啲貸款嘅信用考核自然天生就難以健全,呢啲民間表外債務嘅呆壞帳率有幾多,估計就連支那政府都知之甚少,更加咪話點嚟防止佢爆煲。而樓市泡沬呢,更加係比美國次貸爆煲嗰陣吹得仲大,依家無論係互聯網金融抑或係樓市,支那都比美國當年所經歷嘅有過之而無不及,嚟自樓市正式嘅表內債務同嚟自互聯網金融影子銀行系統唔正規嘅表外債務,都直指依家啲支撈過度借貸,負債率高企,家陣冚世界人就睇著佢班撈到時點收科。
既然亞撈皇囃種喺搞經濟方面無能,噉佢喺搞意識形態方面自然就唔會高班得去邊。喺就嚟21世紀20年代嘅今時今日,喺共產主義甚至到社會主義信仰事實上經已枯萎死亡共產主義冇可能再東山再起嘅依家,佢仲出力開動國家宣傳機器搏命嗌人信咩所謂嘅井岡山同延安精神喎。呢啲窮鬼地方到家陣都未脫貧,要有學養嘅城市人向班鄉下土炮學嘢,學咩呢?學班土炮挨番薯?定係學班鄉下蕉揸鋤頭作反?呢個世界,喺任何國家,幾時都係鄉下人向城市人睇齊,富裕城市文明向窮困鄉下幅射咖喇,佢就啱啱相反,死都要夾硬嚟擺班土炮上檯做所謂紅軍嘅馬騮戲,真係戇居得交關。
執政幾年依家呢個支那政府唯一嘅成就似乎就係喺借力民族主義以挽救政權方面,亦即打日本仔戲保支共江山。不過妳冇理,就係咁啱得咁翹,依家班豬撈就對呢啲充斥著暴力血腥場面嘅傻仔戲睇到津津有味,睇嚟真係冤豬頭撞著盲鼻菩薩喇。一句講嗮喇,依家統治緊支那嘅呢個囃種係個好大喜功嘅豬皇帝嚟,靠山寨前蘇聯嘅生鏽航母同二流戰機,依家一隻二隻撈都對支那嘅所謂偉大復興翹首以待,真係由高傻到落低,冚族都係豬兜。
我哋大粵畀呢啲傻撈而唔係精撈殖民,真係都唔知好嬲定好笑,不過就粵獨而言,噉就梗係傻撈好過精撈喇。雖然話我哋大粵嘅產經優勢會隨著傻撈治下嘅支那經濟衰敗而不段縮減,我哋大粵嘅國土安全同粵人嘅生命財產安全會因為班傻撈喺臺海嘅軍事冒險而受威脅,之但係我哋亦都要諗到,冇危又點會有機?唔自量而暴沖嘅支那當然會更容易重現百幾年前類似義和拳同甲午噉嘅發瘟場面,支那一發瘟,噉自然就代表著佢更容易畀外力所擊潰,之後嘅混亂局勢咪就係我哋日夜所期待嘅最佳喐手時機嚟囉。傻瓜支那政府同越出越豬兜嘅支共撈皇當然會陀累大粵映衰粵人,不過就粵獨而言,傻撈越多我哋肯定就越有機會發為。
反過嚟,好似江胡呢挺江浙精撈係知機嘅,唔似得依家呢個出身陝西食慣黃土高原沙塵暴嘅土炮囃豬皇,內政危機重重國勢一路下沉仲要唔收斂噉去四周圍招惹事端。支那喺江胡兩代江南精撈嘅治下,總體國勢係呈上昇趨勢,而且對外相對克制,冇呈現出明顯嘅軍國主義同復仇主義傾向,成個格局就係平和向上四平八穩,畀呢啲精撈殖民,我哋粵人同啲撈反而會有更多利益綑綁情形出現,顯然,呢啲暖水田雞場景越多,對粵獨就越冇利。班撈越豬兜,對支那而言肯定唔係好事,但係對支共就未必噉,因為佢可以喺支那靠拍打日本仔戲嚟輕易愚民班豬撈而保著佢嘅呢個支共江山,呢個的確諷刺,但係一眾反支陣營相信會樂見,開明而自量嘅支那唔容易死,噉對佢哋邊個都冇著數。
作為支共嘅細佬,越共係相對開明嘅,噉帶嚟嘅直接好處就係越共治下嘅越南人比起支共治下嘅豬撈要醒,想愚民呢啲民智普遍唔弱嘅越南佬就難唔少喇。依家喺越南會唔會出現靠拍打法國佬美國佬南越佬戲嚟保越共江山?又或者係靠拍打支那戲嚟保越共江山?呢點我唔喺越南所以唔多清楚,不過若然畀我估,我諗越共唔會好似依家支共噉咁江郎才盡,急著要大面積氾濫使用呢啲民族主義激素嚟防止政權潰敗,越共即使間中用下,相信亦會係打支那戲題材多過打美國佬戲題材。
點解?咪因為越支之間除咗有千年積怨之外,更加有現實嘅喺南海嘅政治同軍事競爭囉。依家越南佬上至越共政權下至普通民眾,基本上都冇再將美國佬視為係最大仇敵咖喇,家陣越南對美國係越靠越近越行越埋,並重拾返越南歷史上對支那一貫猜忌仇恨嘅政治傳統,呢裡頭1979爆發嘅越支邊境戰爭絕對會係構成呢種取態回歸嘅決定性因素。
依家嘅越南絕唔係1975年尾又或者1979年頭又窮又亂炸到爛熔熔嘅越南,2017年嘅越南形勢係大好,因為佢製造業家陣係如日東昇欣欣向榮。前嗰幾年支那大陸好多好多廠都執咗,呢啲廠大部份都遷嗮嚟東南亞,當中越南無疑係最大嘅受益者。越南冇實行過計劃生育,佢嘅人口結構係未有耐老齡化,依家嘅越南人力充足工廠繁榮,上至政府下至國民,應該都係處喺顧著搏命搵美金嘅階段。越共要維繫政權,顯然未使用到類似支共要靠拍傻仔戲嚟續命呢啲咁山窮水盡嘅手段嘅。當然,如果需要,越共亦肯定會玩民族主義嘅把戲嚟穩健佢嘅呢個普遍唔受南越佬認同嘅共產政權嘅。
https://www.tapatalk.com/groups/namyuekok/-t7287.html https://www.tapatalk.com/groups/cantonia/-t3112.html
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fenghuileng · 7 years ago
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「六一零」的厄運正在到來
作者:石銘
來源:正見網
十八年前的六月十日,迫害法輪功的禍國殃民的非法組織「六一零辦公室」就在這一天成立,因其在鎮壓法輪功中的惡貫滿盈,也使之成為人類歷史上最臭名昭著的邪惡組織。
據明慧評論《江澤民集團迫害法輪功罪責難逃》和《清算江澤民迫害法輪大法國際組織》等資料顯示,江澤民為鎮壓迫害法輪功,成立了一個專門處理「法輪功」問題的領導小組。由李嵐清任組長,羅乾和丁關根任副組長。公檢法司等有關部門的負責人為主要成員,統一研究解決「法輪功」問題的具體步驟、方法和措施,並指示中央和國家機關各部委、各省、自治區、直轄市密切配合。該機構於六月十日成立,故稱其為「六一零辦公室」。
「六一零辦公室」常設於中央政法委,羅乾親自主抓,其核心成員包括中共政法系統的最高法院、最高檢察院、國家安全部、公安部、外交部、中宣部等主要部門負責人。它是江澤民集團迫害法輪功的最高權力機構和最得力的政治恐怖工具,其唯一職能就是迫害法輪功,其功能是組織、策劃、密謀、指揮各種迫害行動,負責迫害法輪功的所有事務。它是系統迫害法輪功的總指揮部,所犯下的各種罪行觸目驚心,罄竹難書。
江澤民利用自己獨裁權力,採用非正常手段,繞開正常的法律體制,組建凌駕於各級司法系統之上的「六一零辦公室」。有眾多的案例證明,凡是和法輪功有關的案件,公安局、檢察院和法院都無權自主處理,必須聽命於「六一零辦公室」。許多被捕、被關押、和被迫害致死的法輪功學員的家屬,在向公檢法體系查詢投訴的時候,都被告知需要「六一零辦公室」來決定。
在整個迫害的部署上,江澤民對信仰真善忍的法輪功修鍊者制定了所謂「名譽上搞臭、經濟上搞垮、肉體上消滅」的三大方針,全面的、系統的迫害法輪功。並經常通過「六一零」下達許多具體的密令和滅絕政策,如:「對法輪功採取任何手段都不會過分」,「打死白打死」、「打死算自殺」,「不查身源、直接火化」。每當節日或敏感日來臨時,江氏集團就下達「消滅」或「剷除」之類的命令,全國到處綁架法輪功學員。在迫害法輪功中,「六一零」的鬼影憧憧,無處不在。直到今天,分布在全國各地的「六一零」組織仍然在操控公檢法,肆意迫害法輪功學員。下面僅舉近期發生的幾個迫害案例:
據明慧網二零一七年五月二十二日報道:二零一七年五月十八日,福建省寧德市610辦人員夥同寧德市蕉城區法院,對九位法輪功學員進行非法判決,其中:肖傳雄被非法判刑十二年,並勒索罰金五萬元;楊雄被非法判刑十年,並處罰金三萬元;庄友布被非法判刑十年,並處罰金三萬元;金麗燕被非法判刑八年,並處罰金二萬元;陳開奇被非法判刑七年,並處罰金一萬元;王田被非法判刑四年六個月,並處罰金一萬元;林麗芳被非法判刑四年六個月,並處罰金一萬元;陳星光被非法判刑三年六個月,並處罰金五千元;楊貴媚被非法判刑三年,並處罰金五千元。
河北省滄州市法輪功學員宋興偉和秦皇島法輪功學員薄長城,二零一六年六月因在上海地區噴寫「法輪大法好」,被上海寶山區國保綁架,非法關押在上海寶山區看守所,自二零一七年三月二十一日被非法開庭,被非法判四年。宋興偉絕食抗議迫害,在絕食第五天時被看守所野蠻灌食,並且因獄警的指使遭到同監室犯人毆打,五月二十一法庭宣判判決結果時,是在寶山區610人員的監視下被輪椅推上法庭的。
吉林省長春法輪功學員王彩霞、劉東洋母女於二零一六年七月二十一日被吉林省農安縣610、公安局刑警隊、國保、警察聯合綁架,二零一七年五月二十七日(周六)早七時遭長春市南關區法院非法庭審。現她們被非法關押在長春市第四看守所。
天津市法輪功學員吳殿忠被非法關押在西青區看守所已經近半年。二零一七年一月十一日吳殿忠被西青檢察院非法批捕。五十五歲的吳殿忠二零零九年一月十二日被天津北辰國保和北辰「610」(迫害法輪功的非法組織)人員非法抓捕並抄家,後被非法判刑四年,同年九月十七日送至臭名昭著的天津市港北監獄(現濱海監獄)五監區,被迫害致殘。
據從明慧網剛剛得到的消息:四月份中國大陸有686名法輪功學員被綁架,1157名學員被騷擾,四月份騷擾人數超過三月份騷擾人數的2.78倍;117人被判刑;89人被庭審;34人被送洗腦班強制迫害;47人被非法批捕,面臨非法庭審。129人因依法控告中共迫害法輪功的元兇江澤民而被非法判刑、綁架和騷擾,其中判刑5人、綁架34人、騷擾90人。
十八年來,在這場邪惡的迫害中,在江氏流氓集團和中共的相互利用下,中共蓋世太保式的邪惡組織「610辦公室」和中共的政法委成了實施和推動這場迫害法輪功的罪魁禍首。曾經有數百萬的法輪功學員被中共非法剝奪人身自由、關押、勞教、誣判重刑;成千上萬的法輪功學員被中共迫害致死、致殘或被活摘器官致死;千千萬萬個幸福美滿的家庭被迫害得妻離子散、家破人亡;上億法輪功學員被中共無辜戴上了所謂的「x教徒」的帽子,受到了巨大的精神侮辱和打擊,喪失了人類應有的自由和尊嚴。對法輪功學員迫害的所有案例中,都有「六一零」的蹤影在裡面,「六一零」在迫害法輪功學員中血債累累,罪不可恕!
中國古人有句話:「善惡到頭終有報,只爭來早與來遲。」隨著習近平當局反腐打虎的不斷深入,那些曾經參與迫害法輪功的大大小小的「老虎」、「蒼蠅」正在落入法網,得到惡報。參與實施迫害的政法委體系特務組織六一零頭目及大陸各級政法委六一零人員因不明真相,執意執行江氏犯罪集團的迫害指令,或被撤職查辦鋃鐺入獄、或飛來橫禍不治而亡,紛紛遭報。明慧網報道的「六一零」人員遭惡報的案例越來越多,被稱為「死亡職位」。下面僅舉幾例:
周永康,2008年升任政法委書記、政治局常委,成為江澤民集團迫害法輪功的直接代言人,是江澤民安排接替羅干迫害法輪功的「前台總指揮」。2015年6月11日以受賄罪、濫用職權罪、故意泄露國家秘密罪,被判處無期徒刑,剝奪政治權利終身,並處沒收個人財產。
李東生,中共前公安部副部長、中共中央「防範和處理X教問題」領導小組副組長、「六一零辦公室」主任。負責全國反法輪功宣傳和對法輪功學員的洗腦迫害,對大批法輪功學員被非法抓捕、關押、判刑,甚至被強制活體摘取器官,負有直接責任,是 「天安門自焚」偽案的導演之一。2016年1月12日,天津市第二中級法院對李東生受賄案作出一審判決,判處有期徒刑十五年。
周本順是積極追隨江澤民、周永康殘酷迫害法輪功學員而被提拔的代表人物之一。2002年底,周永康出任政法委副書記;2003年11月,周本順被調任為政法委副秘書長,成為羅干、周永康迫害法輪功的「參謀」。中共「十七大」,周永康出任政法委書記後,周本順被提升為政法委秘書長。周本順是周永康「政法幫」、「秘書幫」的重要成員。2015年7月24日周本順被抓,被判刑十五年,是十八大以後第一個在任上落馬的省委書記。
張越,河北省委常委、政法委書記,2016年4月18日落馬,他是繼省委書記周本順落馬後,中共在河北省抓出的政法系統頭號「大老虎」。在張越的經歷中,有一個特別的身份,即在2003年11月至2007年12月期間轉任公安部「二十六局」(反×教局)局長。這個部門即公安部的「610」辦公室,是為迫害法輪功而專門成立的。張越成為了江澤民、周永康團伙在公安系統內殘酷迫害法輪功學員的直接幫凶。在調任河北省政法委書記之後,張越更是變本加厲地在河北省抓捕和迫害法輪功學員,血債累累。河北省成為全國迫害法輪功最嚴重的省份之一。2016年4月18日被抓,他是繼省委書記周本順落馬後,中共在河北省抓出的政法系統頭號「大老虎」。
被江澤民集團作為「第二權力中央」的作惡多端的政法委,在中共高層已被降格,地方政法委面臨著被取消。臭名昭著的「六一零辦公室」是中共極權統治下的一個怪胎,是一個十足的非法組織,被撤銷是必然的結果。
中共迫害法輪功十八年來,「六一零辦公室」的罪孽可謂惡貫滿盈、罄竹難書。隨著迫害法輪功真相的陸續曝光,「六一零辦公室」的罪惡也為世人逐漸了解,江澤民、曾慶紅、羅乾等迫害法輪功的元兇也逐漸露出水面。在二十多萬法輪功學員控告江澤民,二百多萬國際社會正義人士聯署舉報江澤民,要求將迫害元兇江澤民繩之以法的訴江大潮中,江澤民等迫害元兇被繩之以法的日子已經不遠了,江澤民集團已經是土崩瓦解、窮途末路,「六一零」的厄運正在到來!中共被解體滅亡的厄運也已經到來!
原文鏈接:「六一零」的厄運正在到來 - 情系中華
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