#碇利恵
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kennak · 2 years ago
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福岡県 篠栗(ささぐり) 町で2020年4月、5歳の男児を餓死させたとして、男児の母親の「ママ友」で保護責任者遺棄致死などの罪に問われた赤堀恵美子被告(50)について、求刑通り懲役15年とした1審・福岡地裁の裁判員裁判と被告側の控訴を棄却した福岡高裁の判決が24日、確定した。被告側は無罪を主張していたが、期限の23日までに上告しなかった。 高裁判決によると、赤堀被告は知人の 碇(いかり) 利恵受刑者(41)(保護責任者遺棄致死罪で懲役5年が確定)に様々なうそをつき、トラブルの解決費用名目で計約200万円をだまし取るなどして生活全般を支配。碇受刑者と共謀して19年8月頃から、同受刑者の三男・ 翔士郎(しょうじろう) ちゃんの食事を減らし、20年4月18日に餓死させた。 赤堀被告は1審から一貫して否認し、弁護側は「碇受刑者の証言は信用できない」などと主張したが、地裁と高裁は碇受刑者の証言の信用性を認め、赤堀被告が虚言で心理的に支配して虐待を主導したと判断した。
福岡5歳餓死、「ママ友」懲役15年を支持した高裁判決が確定 | ヨミドクター(読売新聞)
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lookpome · 4 years ago
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5歳児を餓死させた女を逮捕。黒幕は中年ママ友。 この女はママ友の女から1000万円以上の生活費を騙し取り餓死させ、ブランド品の購入していた。 とんでもない女二人が逮捕されました。 実の子におかゆ一口しか与えず餓死させた女たちは、これからぬくぬくと、ムショの臭い飯を腹いっぱい食えるってどう思いますか? 「ママ友」に心を支配され、息子を死なせてしまった事件の恐怖のシナリオとは…。福岡県篠栗町で5歳だった男児が餓死した事件で、保護責任者遺棄致死容疑で母親の碇利恵容疑者(39)とともに逮捕された知人の赤堀恵美子容疑者(48)に、碇容疑者からだまし取るなどした金の総額が1000万円を超える疑いがあることが3日、分かった。赤堀容疑者の心の闇に専門家が迫った。  赤堀容疑者は、碇容疑者の三男翔士郎ちゃんが昨年4月に死亡した後も詐取を続けていた。通帳を管理して金を引き出した他、車を売却させた疑いもある。  赤堀容疑者が一家の食事について「翔士郎は兄の半分」などと具体的に指示していたことも判明。2019年に離婚し、子供3人と暮らす碇容疑者の一家は、わずかな米をおかゆにして分け合っていたという。  日米で連続殺人犯、大量殺人犯など数多くの凶悪犯と直接やりとりしてきた国際社会病理学者で、桐蔭横浜大学の阿部憲仁教授はこう���る。 「3人の子供のうち1人だけが餓死すれば、生活保護の手当が足りなかったとして、さらに国から金を要求する心づもりであった可能性すら否定できない」  赤堀容疑者がここまで金と支配に執着した理由は一体何だったのだろうか? 「これまで明らかになっている情報から確実に言えることは、本件の手口がマインドコントロールの基本を忠実に踏襲しているということだ。今回のケースも“金目的”であったが、その背後には“他者を思い通りに操りたいという、ゆがんだ心理”が必ず存在する。こうした犯行に手を染める者は、通常幼少子供時代にかけて“極度の孤独”を経験し、ある時点で“人を利用する快感”を体験しているケースが非常に多い。また、赤堀容疑者の場合、恐らくは何らかの新興の宗教に精通した関係者からそのノウハウを吸収した可能性は高いかもしれない」(阿部氏)  このように人を支配し、搾取する犯人は、一度だけではなく、複数の人を餌食にしているケースが多い。 「一度、人を食って、生きていく味を覚えた人間は、獲物になる可能性の高い、心に傷を抱えた人間を見抜く力に非常にたけている。赤堀容疑者が“食える”と踏んだ碇容疑者に近寄り、『ノー』と言えない人格であることをまず確認し、マインドコントロールの鉄則である周りの人間から完全に切り離す第一歩として、心底心配しているフリをして碇の夫の浮気話をでっち上げ、まずその調査費用の請求に応えられるかテスト。“合格”を確認後は、家庭調査員とも切り離し、やりたい放題にカネを請求したのだろう。生活保護費をすべて取り上げ、その一部だけをまるで親切のように手渡すやり方も常とう手段だ」(同)  赤堀容疑者には、碇容疑者の離婚を後押ししていたとの疑いも浮上している。  阿部氏は「この小さな島国では尼崎事件や北九州監禁殺人事件のように、周囲から目立つことを避ける日本人特有の心理を悪用した、こうした陰湿な恐喝手口が後を絶たない。真の問題の本質は『翔士郎』という愛情のこもった名前を付けた我が子をはっきり『ノー』と言えなかったがあまり、碇容疑者が死なせてしまったという一生背負い続けていかなければならない『心の地獄』なのではないだろうか」と指摘する。  県警は実態解明を進めている。 #碇利恵 #赤堀恵美子 #餓死 #幼児虐待 #ママ友 https://www.instagram.com/p/CMAMgPXjlqF/?igshid=46uhu1cjfxx1
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jaguarmen99 · 2 years ago
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福岡・篠栗町で2020年に5歳の息子を餓死させたとして、1審で懲役5年の判決を受けた母親について、福岡高裁は、母親の控訴を棄却した。篠栗町の無職・碇利恵被告(40)は2020年4月、いわゆるママ友だった赤堀恵美子被告(49)と共謀し、当時5歳だった三男・翔士郎ちゃんに十分な食事を与えず���餓死させた保護責任者遺棄致死の罪に問われていた。1審の福岡地裁は、碇被告に懲役5年の判決を言い渡したが、弁護側は、量刑が不当として控訴していた。10月の控訴審の初公判で、碇被告は、控訴の理由について「1日でも早く家族に会いたい」と説明していた。9日の判決公判で福岡高裁は、懲役5年の1審判決に「不合理な点はない」などとして、碇被告の控訴を棄却した。
5歳児餓死、母親の控訴を棄却 1審判決「不合理な点はない」と福岡高裁 - ライブドアニュース
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jitakukoukai · 2 years ago
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【福岡県5歳児餓死事件】碇利恵の自宅【画像】
福岡県5歳児餓死事件の母親である碇利恵の自宅です。 Googleマップからまとめました。 テレビ画��からネットで特定されていました。 不動産サイトからの転載。 同じマンションですが、碇利恵の自宅とは限りません。 参考用。 引用:LIFULL HOME’S この自宅は福岡県篠栗町に存在しています。 碇利恵はママ友の赤堀恵美子に洗脳されていたと報道されていますが、洗脳されても子供を虐待なんかするんじゃねぇ!と強く思います。  
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abeya38 · 3 years ago
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【タブー連発】良い物を作ってはアメリカに奪われてきた日本。政府なんとかして守ってくれい!【岡田斗司夫/切り抜き】 ◇---------------------------- コンテンツやプラットフォームといふ知的財産の中でも、その精華といへる辺りをアメリカはじめ盗人国家に奪はれる戦後日本。 この分野に限つた事でもないのだが、これらの国益を保護しない戦後日本政府とは何か? 戦後日本政府とは要するに、アメリカによる侵略占領下に制定された『日本國憲法』に制限された半独立国の、いや「植民地の統治機構」である。 それを端的に表はしてゐるのは、国家自体を構成する「自国民」や「領土(領海・領空)」を拉致され、侵害されても手が出せないといふ拉致問題、領土問題である。 なるほど、日本國憲法には様々な美辞麗句を権利であるとし、ご立派なお題目が並べられてはゐるが、その実、日本國憲法の本質が「多国間合意の植民地統治法」でしかないのであるから、植民地が反乱や独立を起こさぬやうに、手枷足枷が掛けられてゐる。 その当然の帰結として、天皇の赤子である臣民を守れない。皇土も守れない。 それは今ある私達を生み出して下さつた祖先とその歴史を否定する事であり、これから先にある子供達をも守れない。 根本的にそのやうな構造であるのだから、いくら経済だの民主的だの国際化だのといつてみたところで、得られた収穫物は海の向かうの統治者へと送られてゆくのである。今ではすつかり、統治者(侵略者)に対してより多くの献上品をする者ほどより良い恩恵を得られる、それが政治であり経済であると錯覚する走狗ばかりになつてゐる。皮肉な事にその戦後従属を維持強化する事が「愛国」「護国」であり「国益に叶ふ」といふ莫迦までゐる。 確かに国際社会の中での舵取りといふものは難しいだらう。 しかし、明らかに今後の国際社会はさらなる混迷に満ちてゐる。歴史的にも常にさうであつたやうに凪の時間は限られてゐるのだ。既に凪の時間は終はつてゐて、生き馬の目を抜く戦国乱世へ突入してゐる。 それであるのに、設計段階から船底に穴の空いた「戦後日本政府」といふ船に乗り続け、「日本國憲法」といふ狂つた羅針盤を「基」にして航海するのは、あまりに愚かである。祖先に対して、子等に対して、申し訣がない。 今の安寧や豊かさのみではなく、100年先の、1000年先の子等の爲に今、成すべき事を成さねばならぬ。 今、成すべき事は「多国間合意の植民地統治法」でしかない『日本國憲法』が「我が国の憲法ではないのだ。侵略統治の爲の国際法でしかないのだ。」といふ論理的な事実を明らかにし、本来の伝統ある独立国家としての祖国を、それを繋いで下さつた祖先への感謝を、取り戻す事である。 今、当たり前のやうに乗つてゐる「艦船」の船底にある穴を確認し、皆が打ち捨てられたものとして忘れてゐる「戦艦ヤマト(大和魂の意)」を取り戻し、「宇宙戦艦ヤマト」のやうに受け継き、発展させて行かねばならぬ。 「宇宙戦艦ヤマト」といへば「青い地球を取り戻す」訣だが、以前の投稿でも紹介したが、日本を代表する世界的なコンテンツとして、開始から26年経てやうやく完結した「エヴァンゲリオン」��いふ作品群がある。 完結編である「シン・エヴァンゲリオン」は作品世界からの卒業、現実への回帰であるやうに思ふ。 作中にあるセカンド・インパクトといふ世界を変へた大災害。その後に生まれた世代はそれ以前の世界を知らず、この作品のファンである視聴者も大災害後の世界(作品世界)に執着する。 「本来は虚構であるエヴァンゲリオンが存在する世界」に執着するといふのは、「本来は日本の憲法たり得ぬ『日本國憲法』が憲法として存在する世界」しか知らず、それに執着するのと同じ構造である。 エヴァンゲリオンの存在しない世界であれば、そもそもこの物語は始まらないし、『日本國憲法』の存在しない世界であれば、そもそも戦後日本といふ歪な社会も始まらなかつた。 だが主人公である碇シンジは「エヴァンゲリオンのない世界」を望み、作品世界の中からそこへ回帰した。ならば私達は「日本國憲法が憲法ではない祖国」へこそ回帰せねばならないだらう。あの女々しく情けない碇シンジくんですら出来た事だ。
そして、その爲には「男の戰ひ(エヴァTVシリーズ第拾九話)」が必要である。TVシリーズでは「サード・インパクト」を阻止する爲にと戦つた訣だが、それが「新劇場版:破」では「綾波を返せ!」と戦ひ、それが結局「サード・インパクト」を引き起こしてしまつた。
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エヴァンゲリオンといふ作品世界に執着してゐる愛好者は「サード・インパクト?!いい迷惑だ!」「余計な事をしたから、オレの好きな作品世界が失はれた!どうしてくれる!」と怒らねばならない場面だ。「自分たちの知つてゐる日常を返せ」といふ訣だ。しかし、物語は完結へ向けて進めねばならない。 なるほど「綾波を返せ!」「(日本國憲法は憲法に非ず!)日本を返せ!」といふ「男の戰ひ」がさらなる大災害、混乱へと繋がつてゐるやうに見えるが、それがあつたからこそシンの「完結」へと到るのだ。青い地球がガミラスの遊星爆弾により赤く染まらねば、「ヤマト作戦」大和魂の発露はなかつたともいへるかも知れない。 しきしまの やまとこころの をゝしさは ことあるときぞ あらはれにける 明治天皇 御製 そのやうに考へれば「完結編である「シン・エヴァンゲリオン」は作品世界からの卒業、現実への回帰であるやうに思ふ。」と書いたが、それは宇宙戦艦ヤマトが作品として「さらば宇宙戦艦ヤマト」で完結出来ずに、その後も延命措置を続けた事にもいへるやうに思ふ。 「さらば宇宙戦艦ヤマト」を特攻賛美といふ者もゐるが、古代進、そして葛城ミサトも他の乗組員を退去せて、自身も本当の意味で「生きる」爲に体当たりを敢行した。特攻すれば全てが解決するといふ訣ではない。しかし、人は個として生きてゐる訣ではない。父祖達がさうであつたやうに己を捨てて子等の、民族の、種としての、未来を生かす礎も必要なのだ。動物行動学者コンラート・ローレンツの「攻撃」にもある通りそれが種として、生命として正しい姿である。本懐である。一殺多生。滅私奉公。忠孝一本。 我らの生命は絶える事なく 永遠(とは)に不滅なのだ。 儂らは永遠に、不滅の父と子 なのだぞ。 「子連れ狼」より 虚構の作品やなりすまし詐欺の憲法体制から、最終的に現実へと回帰してみれば、当時はとんでもない大災害、大事件にも思へた事柄が、歴史的、論理的にも至極、当然の事だと分かるだらう。大山鳴動して鼠一匹である。 戦後日本といふ混乱する社会は、「僞の憲法典といふ鼠一匹」に鳴動してゐるといふ訣だ。悲劇といふよりは喜劇の類であらう。 現実に存在する『日本國憲法』とは何か。虚構であるエヴァンゲリオンと同様に、さういつた作品世界の一つでしかない。作品世界にも価値があるのと同じく、『日本國憲法』にも国際法(植民地統治法)としての価値はある。 だが、それはエヴァンゲリオンといふ作品は存在するが、それらが現実の事柄ではないのと同じく『日本國憲法』は飽くまでも国際法の範疇で存在するのであり、我が国の憲法ではない。憲法に非ず、��いふ事だ。 その事実を認める事でやうやく、私達は前へと進めるのだ。 ■國體護持總論 ■ 祭祀の道
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moccosnoon · 4 years ago
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福岡5歳児餓死事件、母親とママ友は「創価学会」勧誘で洗脳
元スレ≫ 福岡5歳児餓死事件、母親とママ友は「創価学会」勧誘で洗脳 1 :moccosnoon ID:Jd3LF17t0 3月2日、福岡県警は保護責任者遺棄致死容疑で、翔士郎ちゃんの実母である碇(いかり)利恵(39)と知人の赤堀恵美子(48)両容疑者を逮捕した。赤堀容疑者は碇容疑者を“洗脳状態”にして夫と離婚させ、碇容疑者が受��していた生活保護など計1200万円ほどを搾取していたとされる。  ママ友としての“主従関係”があったことが分かるが、それに加えて別の…
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mynetdiary-blog1 · 4 years ago
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母親とママ友、創価学会員だった 赤堀容疑者「香典は学会に渡した」 5歳児餓死殺人事件
1 名前��スタス ★:2021/03/10(水) 19:05:22.30 ID:rtoU5zA99 「香典は学会に渡した」 福岡県で起こった5歳児餓死事件では、事件の凄惨さもさることながら、翔士郎ちゃんを餓死させた“母親”と“ママ友”の奇妙な関係性でも注目を集めている。共謀して食事管理を行ったとされる両容疑者だが、ママ友としての“主従関係”だけでなく、もう一つの“特別な関係”があった。 3月2日、福岡県警は保護責任者遺棄致死容疑で、翔士郎ちゃんの実母である碇(いかり)利恵(39)と知人の赤堀恵美子(48)両容疑者を逮捕した。赤堀容疑者は碇容疑者を“洗脳状態”にして夫と離婚させ、碇容疑者が受給していた生活保護など計1200万円ほどを搾取していたとされる。 ママ友としての“主従関係”があったことが分かるが、それに加えて別の…
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akashicrecords19 · 4 years ago
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【福岡5歳餓死】逮捕の母親、洗脳解け後悔の日々「許せない」「あの時に比べたら自由な気がします」 [あしだまな★]
1: あしだまな ★ 2021/03/10(水) 15:13:19.17 福岡県篠栗町の5歳男児餓死事件で、保護責任者遺棄致死の疑いで母親の碇利恵容疑者(39)と知人の赤堀恵美子容疑者(48)が逮捕されてから9日で1週間。 赤堀容疑者の話を信じ、ほぼ全ての生活費を渡していたという碇容疑者。 赤堀容疑者による厳しい食事制限も疑わず、男児らに課していた。県警の捜査の過程で「洗脳」が解け、自責の念に駆られる日々だという。 「ご飯が食べられなくなるとよ。お願いだから(赤堀容疑者の)言うことを聞いて」。関係者によると、碇容疑者は亡くなった三男、翔士郎ちゃんらにこう言い聞かせていた。 赤堀容疑者は当初は複数の容器で食事を差し入れていたが、次第に米をそのまま渡すようになった。 ガスが止められていた一家4人が絶食した時期もあったという。…
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kennak · 2 years ago
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福岡県 篠栗(ささぐり) 町で2020年4月、5歳の三男を餓死させたとして、保護責任者遺棄致死罪に問われた母親の 碇(いかり) 利恵被告(40)の裁判員裁判で、福岡地裁は17日、懲役5年(求刑・懲役10年)の判決を言い渡した。冨田敦史裁判長は、共犯の「ママ友」による支配が虐待の主な要因と認定した上で、「親として本質的で基本的な責任を果たせず、一定の非難を免れない」と述べた。
「ママ友による支配」は認定…5歳児餓死させた母親に懲役5年・地裁「自分で考える能力あった」 | ヨミドクター(読売新聞)
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nicolas-keiji · 4 years ago
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omiznewsviews · 4 years ago
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福岡県篠栗町の碇利恵容疑者(39)と知人の赤堀恵美子容疑者(48)は去年4月、5歳だった碇容疑者の三男の翔士郎くんに十分な食事を与えず餓死させたとして、保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕されました。 これまでの捜査で、赤堀容疑者は碇容疑者に対し「元夫との裁判や慰謝料で今後お金がいるので、質素な生活をしなければならない」などとうそを言って一家の生活全般を管理していたということです。 さらに架空のトラブルを伝え「暴力団が手を出すのをボスが抑えてくれている」「家に設置した監視カメラでボスが見張っている」などと不安をあおり、現金を要求したり、食事を制限させたりしていたことが捜査関係者への取材で分かりました。 碇容疑者は、翔士郎くんが衰弱の末、死亡したあとも赤堀容疑者に疑いを持たず指示に従っていて、捜査が入ってようやくだまされていたことに気付き、後悔の気持ちを強めていったということです。
5歳児餓死事件 母親うその話で不安あおられ支配下に置かれたか | 事件 | NHKニュース
ときどきあるこの手の怖い事件は何なんだろうか…
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nyantria · 7 years ago
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* 秋元寿恵 東京帝大出身の血清学者     1984年12月の証言 部隊に着任して人体実験のことを知った時は非常にショックを受けました。 あそこにいた科学者たちで良心の呵責を感じている者はほとんどいませんでした。 彼らは囚人たちを動物のように扱っていました。 ・・・・死にゆく過程で医学の発展に貢献できるなら名誉の死となると考えていたわけです。 私の仕事には人体実験は関係していませんでしたが、私は恐れおののいてしまいました。 私は所属部の部長である菊地少将に3回も4回も辞表を出しました。 しかしあそこから抜け出すことは出来ませんでした。 もし出て行こうとするならば秘かに処刑されると脅されました。 * 鎌田信雄 731部隊少年隊 1923年生      1995年10月 証言 私は石井部隊長の発案で集められた「まぼろしの少年隊1期生」でした。 注: 正式な1期から4期まではこの後に組織された 総勢22~23人だったと思います。 平房の本部では朝8時から午後2時までぶっ通しで一般教養、外国語、衛生学などを勉強させられ、 3時間しか寝られないほどでした。 午後は隊員の助手をやりました。 2年半の教育が終ったときは、昭和14年7月でした。 その後、ある細菌増殖を研究する班に所属しました。 平房からハルビンに中国語を習いに行きましたが、その時白華寮(731部隊の秘密連絡所)に立ち寄りました ・・・・200部隊(731部隊の支隊・馬疫研究所)では、実験用のネズミを30万匹買い付けました。 ハルビン市北方の郊外に毒ガス実験場が何ケ所かあって、 安達実験場の隣に山を背景にした実験場があり、そこでの生体実験に立ち合ったことがあります。 安達には2回行ったことがありますが、1~2日おきに何らかの実験をしていました。 20~30人のマルタが木柱に後手に縛られていて、毒ガスボンベの栓が開きました。 その日は関東軍のお偉方がたくさん視察に来ていました。 竹田宮(天皇の従兄弟)も来ていました。 気象班が1週間以上も前から風向きや天候を調べていて大丈夫だということでしたが、 風向きが変わり、ガスがこちら側に流れてきて、あわてて逃げたこともあります ・・・・ホルマリン漬けの人体標本もたくさんつくりました。 全身のものもあれば頭や手足だけ、内臓などおびただしい数の標本が並べてありました。 初めてその部屋に入ったときには気持ちが悪くなって、何日か食事もできないほどでした。 しかし、すぐに慣れてしまいましたが、赤ん坊や子供の標本もありました ・・・・全身標本にはマルタの国籍、性別、年齢、死亡日時が書いてありましたが、 名前は書いてありませんでした。 中国人、ロシア人、朝鮮族の他にイギリス人、アメリカ人、フランス人と書いてあるのもありました。 これはここで解剖されたのか、他の支部から送られてきたものなのかはわかりません。 ヨーロッパでガラス細工の勉強をして来た人がピペットやシャ-レを造っていて、 ホルマリン漬けをいれるコルペもつくっていました。 731部隊には、子どももいました。 私は屋上から何度も、中庭で足かせをはめられたままで運動している“マルタ”を見たことがあります。 1939年の春頃のことだったと思いますが、3組の母子の“マルタ”を見ました。 1組は中国人の女が女の赤ちゃんを抱いていました。 もう1組は白系ロシア人の女と、4~5歳の女の子、 そしてもう1組は、これも白系ロシアの女で,6~7歳の男の子がそばにいました ・・・・見学という形で解剖に立ち合ったことがあります。 解剖後に取り出した内臓を入れた血だらけのバケツを運ぶなどの仕事を手伝いました。 それを経験してから1度だけでしたが、メスを持たされたことがありました。 “マルタ”の首の喉ぼとけの下からまっすぐに下にメスを入れて胸を開くのです。 これは���単なのでだれにでもできるためやらされたのですが、 それからは解剖専門の人が細かくメスを入れていきました。 正確なデータを得るためには、できるだけ“マルタ”を普通の状態で解剖するのが望ましいわけです。 通常はクロロホルムなどの麻酔で眠らせておいてから解剖するのですが、 このときは麻酔���かけないで意識がはっきりしているマルタの手足を解剖台に縛りつけて、 意識がはっきりしているままの“マルタ”を解剖しました。 はじめは凄まじい悲鳴をあげたのですが、すぐに声はしなくなりました。 臓器を取り出して、色や重さなど、健康状態のものと比較し検定した後に、それも標本にしたのです。 他の班では、コレラ菌やチフス菌をスイカや麦の種子に植えつけて栽培し、 どのくらい毒性が残るかを研究していたところもあります。 菌に侵された種を敵地に撒くための研究だと聞きました。 片道分の燃料しか積まずに敵に体当りして死んだ特攻隊員は、天皇から頂く恩賜の酒を飲んで出撃しました。 731部隊のある人から、「あの酒には覚醒剤が入っており、部隊で開発したものだ」と聞きました ・・・・部隊には,入れかわり立ちかわり日本全国から医者の先生方がやってきて、 自分たちが研究したり、部隊の研究の指導をしたりしていました。 今の岩手医大の学長を勤めたこともある医者も、細菌学の研究のために部隊にきていました。 チフス、コレラ、赤痢などの研究では日本でも屈指の人物です。 私が解剖学を教わった石川太刀雄丸先生は、戦後金沢大学医学部の主任教授になった人物です。 チフス菌とかコレラ菌とかを低空を飛ぶ飛行機からばらまくのが「雨下」という実験でした。 航空班の人と、その細菌を扱うことができる者が飛行機に乗り込んで、村など人のいるところへ細菌をまきます。 その後どのような効果があったか調査に入りました。 ペスト菌は、ノミを介しているので陶器爆弾を使いました。 当初は陶器爆弾ではなく、ガラス爆弾が使われましたが、ガラスはだめでした。 ・・・・ペストに感染したネズミ1匹にノミを600グラム、だいたい3000~6000匹たからせて落とすと、 ノミが地上に散らばるというやり方です ・・・・ベトナム戦争で使った枯葉剤の主剤は、ダイオキシンです。 もちろん731部隊でもダイオキシンの基礎研究をやっていました。 アメリカは、この研究成果をもって行って使いました。 朝鮮戦争のときは石井部隊の医師達が朝鮮に行って、 この効果などを調べているのですが、このことは絶対に誰も話さないと思います。 アメリカが朝鮮で細菌兵器を使って自分の軍隊を防衛できなくなると困るので連れて行ったのです。 1940年に新京でペストが大流行したことがありました。(注:731部隊がやったと言われている) ・・・・そのとき隊長の命令で、ペストで死んで埋められていた死体を掘り出して、 肺や肝臓などを取り出して標本にし、本部に持って帰ったこともありました。 各車両部隊から使役に来ていた人たちに掘らせ、メスで死体の胸を割って 肺、肝臓、腎臓をとってシャ-レの培地に塗る、 明らかにペストにかかっているとわかる死体の臓器をまるまる持っていったこともあり��す。 私にとっては、これが1番いやなことでした。人の墓をあばくのですから・・・・ * 匿名 731部隊少佐 薬学専門家 1981年11月27日 毎日新聞に掲載されたインタビュ-から 昭和17年4月、731と516両部隊がソ満国境近くの都市ハイラル郊外の草原で3日間、合同実験をした。 「丸太」と呼ばれた囚人約100人が使われ、4つのトーチカに1回2,3人ずつが入れられた。 防毒マスクの将校が、液体青酸をびんに詰めた「茶びん」と呼ぶ毒ガス弾をトーチカ内に投げ、 窒息性ガスのホスゲンをボンベから放射した。 「丸太」にはあらかじめ心臓の動きや脈拍を見るため体にコードをつけ、 約50メ-トル離れた机の上に置いた心電図の計器などで、「死に至る体の変化」を記録した。 死が確認されると将校たちは、毒ガス残留を調べる試験紙を手にトーチカに近づき、死体を引きずり出した。 1回の実験で死ななかった者にはもう1回実験を繰り返し、全員を殺した。 死体はすべて近くに張ったテントの中で解剖した。 「丸太」の中に68歳の中国人の男性がいた。 この人は731部隊内でペスト菌を注射されたが、死ななかったので毒ガス実験に連れて来られた。 ホスゲンを浴びせても死なず、ある軍医が血管に空気を注射した。 すぐに死ぬと思われたが、死なないのでかなり太い注射器でさらに空気を入れた。 それでも生き続け、最後は木に首を吊って殺した。 この人の死体を解剖すると、内臓が若者のようだったので、軍医たちが驚きの声を上げたのを覚えている。 昭和17年当時、部隊の監獄に白系ロシア人の婦人5人がいた。 佐官級の陸軍技師(吉村寿人?)は箱状の冷凍装置の中に彼女等の手を突っ込ませ、 マイナス10度から同70度まで順々に温度を下げ、凍傷になっていく状況を調べた。 婦人たちの手は肉が落ち、骨が見えた。 婦人の1人は監獄内で子供を産んだが、その子もこの実験に使われた。 その後しばらくして監獄をのぞいたが、5人の婦人と子供の姿は見えなくなっていた。 死んだのだと思う。 * 山内豊紀  証言  1951年11月4日   中国档案館他編「人体実験」 われわれ研究室の小窓から、寒い冬の日に実験を受けている人がみえた。 吉村��士は6名の中国人に一定の負荷を背負わせ、一定の時間内に一定の距離を往復させ、 どんなに寒くても夏服しか着用させなかった。 みていると彼らは日ましに痩せ衰え、徐々に凍傷に冒されて、一人ひとり減っていった。 * 秦正  自筆供述書   1954年9月7日  中国档案館他編「人体実験」 私はこの文献にもとづいて第一部吉村技師をそそのかし、残酷な実験を行わせた。 1944年冬、彼は出産まもないソ連人女性愛国者に対して凍傷実験を行った。 まず手の指を水槽に浸してから、外に連れだして寒気の中にさらし、激痛から組織凍傷にまでいたらしめた。 これは凍傷病態生理学の実験で、その上で様々な温度の温水を使って「治療」を施した。 日を改めてこれをくり返し実施した結果、その指はとうとう壊死して脱落してしまった。 (このことは、冬期凍傷における手指の具体的な変化の様子を描くよう命じられた画家から聞いた) その他、ソ連人青年1名も同様の実験に使われた。 *上田弥太郎 供述書  731部隊の研究者   1953年11月11日  中国档案館他編「人体実験」 1943年4月上旬、7・8号棟で体温を測っていたとき中国人の叫び声が聞こえたので、すぐに見に行った。 すると、警備班員2名、凍傷班員3名が、氷水を入れた桶に1人の中国人の手を浸し、 一定の時間が経過してから取り出した手を、こんどは小型扇風機の風にあてていて、 被実験者は痛みで床に倒れて叫び声をあげていた。 残酷な凍傷実験を行っていたのである。 * 上田弥太郎   731部隊の研究者 中国人民抗日戦争記念館所蔵の証言 ・・・・すでに立ち上がることさえできない彼の足には、依然として重い足かせがくいこんで、 足を動かすたびにチャラチャラと鈍い鉄の触れ合う音をたてる ・・・・外では拳銃をぶら下げたものものしい警備員が監視の目をひからせており、警備司令も覗いている。 しかし誰一人としてこの断末魔の叫びを気にとめようともしない。 こうしたことは毎日の出来事であり、別に珍しいものではない。 警備員は、ただこの中にいる200名くらいの中国人が素直に殺されること、 殺されるのに反抗しないこと、よりよきモルモット代用となることを監視すればよいのだ ・・・・ここに押し込められている人々は、すでに人間として何一つ権利がない。 彼らはこの中に入れば、その名前はアラビア数字の番号とマルタという名前に変わるのだ。 私たちはマルタ何本と呼んでいる。 そのマルタOOO号、彼がいつどこからどのようにしてここに来たかはわからない。 * 篠塚良雄     731部隊少年隊   1923年生    1994年10月証言から ・・・・1939年4月1日、「陸軍軍医学校防疫研究室に集まれ」という指示を受けました ・・・・5月12日中国の平房に転属になりました ・・・・731部隊本部に着いて、まず目に入ったのは 「関東軍司令官の許可なき者は何人といえども立入りを禁ず」と書かれた立て看板でした。 建物の回りには壕が掘られ鉄条網が張り巡らされていました。 「夜になると高圧電流が流されるから気をつけろ」という注意が与えられました ・・・・当時私は16歳でした。 私たちに教育が開始されました・・・・ 「ここは特別軍事地域に指定されており、日本軍の飛行機であってもこの上空を飛ぶことはできない。 見るな、聞くな、言うな、これが部隊の鉄則だ」というようなことも言われました。・・・・ 「防疫給水部は第1線部隊に跟随し、主として浄水を補給し直接戦力の保持増進を量り、 併せて防疫防毒を実施するを任務とする」と強調されました ・・・・石井式衛生濾水機は甲乙丙丁と車載用、駄載用、携帯用と分類されていました ・・・・濾過管は硅藻土と澱粉を混ぜて焼いたもので“ミクロコックス”と言われていました ・・・・細菌の中で1番小さいものも通さないほど性能がいいと聞きました ・・・・私は最初は動物を殺すことさえ直視できませんでした。 ウサギなどの動物に硝酸ストリキニ-ネとか青酸カリなどの毒物を注射して痙攣するのを直視させられました。 「目をつぶるな!」と言われ、もし目をつぶれば鞭が飛んでくるのです ・・・・私に命じられたのは、細菌を培養するときに使う菌株、 通称“スタム”を研究室に取りに行き運搬する仕事でした。 江島班では赤痢菌、田部井班ではチフス菌、瀬戸川班ではコレラ菌と言うように それぞれ専門の細菌研究が進められていました ・・・・生産する場所はロ号棟の1階にありました。 大型の高圧滅菌機器が20基ありました ・・・・1回に1トンの培地を溶解する溶解釜が4基ありました ・・・・細菌の大量生産で使われていたのが石井式培養缶です。 この培養缶1つで何10グラムという細菌を作ることができました。 ノモンハンのときには1日300缶を培養したことは間違いありません ・・・・ここの設備をフル稼働させますと、1日1000缶の石井式培養缶を操作する事が出来ました。 1缶何10グラムですから膨大な細菌を作ることができたわけです ・・・・1940年にはノミの増殖に動員されました ・・・・ペストの感受性の一番強い動物はネズミと人間のようです。 ペストが流行するときにはその前に必ず多くのネズミが死ぬと言うことでした。 まずネズミにペスト菌を注射して感染させる。 これにノミをたからせて低空飛行の飛行機から落とす。 そうするとネズミは死にますが、 ノミは体温の冷えた動物からはすぐに離れる習性を持っているので、今度は人間につく。 おそらくこういう形で流行させたのであろうと思います ・・・・柄沢班でも、生体実験、生体解剖を毒力試験の名のもとに行ないました ・・・・私は5名の方を殺害いたしました。 5名の方々に対してそれぞれの方法でペストのワクチンを注射し、 あるいはワクチンを注射しないで、それぞれの反応を見ました。 ワクチンを注射しない方が1番早く発病しました。 その方はインテリ風で頭脳明晰といった感じの方でした。 睨みつけられると目を伏せる以外に方法がありませんでした。 ペストの進行にしたがって、真黒な顔、体になっていきました。 まだ息はありましたが、特別班の班員によって裸のまま解剖室に運ばれました ・・・・2ケ月足らずの間に5名の方を殺害しました。 特別班の班員はこの殺害したひとたちを、灰も残らないように焼却炉で焼いたわけであります。     注:ノモンハン事件 1939年5月11日、満州国とモンゴルの国境付近のノモンハンで、日本側はソ連軍に攻撃を仕掛けた。 ハルハ河事件とも言う。 4ケ月続いたこの戦いは圧倒的な戦力のソ連軍に日本軍は歯が立たず、 約17,000人の死者を出した。 ヒットラ-のポーランド侵攻で停戦となった。 あまりにみっともない負け方に日本軍部は長い間ノモンハン事件を秘密にしていた。 731部隊は秘密で参加し、ハルハ河、ホルステイン河に赤痢菌、腸チフス菌、パラチフス菌を流した。 参加者は、隊長碇常重軍医少佐、草味正夫薬剤少佐、作山元治軍医大尉、 瀬戸尚二軍医大尉、清水富士夫軍医大尉、その他合計22名だった。 (注:ハバロフスクの裁判記録に証言があります) * 鶴田兼敏  731部隊少年隊  1921年生 1994年731部隊展の報告書から 入隊は1938年11月13日でしたが、まだそのときは平房の部隊建物は建設中でした ・・・・下を見ますと“マルタ”が収容されている監獄の7、8棟の中庭に、 麻袋をかぶった3~4人の人が輪になって歩いているのです。 不思議に思い、班長に「あれは何だ?」と聞いたら、「“マルタ”だ」と言います。 しかし私には“マルタ”という意味がわかりません。 するとマルタとは死刑囚だと言うんです。 軍の部隊になぜ死刑囚がいるのかと疑問に思いましたが、 「今見たことはみんな忘れてしまえ!」と言われました・・・・ 基礎教育の後私が入ったのは昆虫班でした。 そこでは蚊、ノミ、ハエなどあらゆる昆虫、害虫を飼育していました。 ノミを飼うためには、18リットル入りのブリキの缶の中に、半分ぐらいまでおが屑を入れ、 その中にノミの餌にするおとなしい白ネズミを籠の中に入れて固定するんです。 そうするとたいてい3日目の朝には、ノミに血を吸い尽くされてネズミは死んでいます。 死んだらまた新しいネズミに取りかえるのです。 一定の期間が過ぎると、缶の中のノミを集めます。 ノミの採取は月に1,2度行なっていました ・・・・ノモンハン事件の時、夜中に突然集合が���かったのです ・・・・ホルステイン川のほとりへ連れていかれたのです。 「今からある容器を下ろすから、蓋を開けて河の中に流せ」と命令されました。 私たちは言われたままに作業をしました ・・・・基地に帰ってくると、石炭酸水という消毒液を頭から足の先までかけられました。 「何かやばいことをやったのかなあ。いったい、何を流したのだろうか」という疑問を持ちました ・・・・後で一緒に作業した内務班長だった衛生軍曹はチフスで死んだことを聞き、 あの時河に流したのはチフス菌だったとわかったわけです ・・・・いまだに頭に残っているものがあります。 部隊本部の2階に標本室があったのですが、 その部屋でペストで殺された“マルタ”の生首がホルマリンの瓶の中に浮いているのを見たことです。 中国人の男性でした。 また1,2歳の幼児が天然痘で殺されて、丸ごとホルマリンの中に浮いているのも見ました。 それもやはり中国人でした。 今もそれが目に焼きついて離れません。 * 小笠原 明  731部隊少年隊 1928年生れ  1993~94年の証言から ・・・・部隊本部棟2階の部隊長室近くの標本室の掃除を命じられました ・・・・ドアを開けたところに、生首の標本がありました。 それを見た瞬間、胸がつまって吐き気を催すような気持になって目をつぶりました。 標本室の中の生首は「ロスケ(ロシア人)」の首だと思いました。 すぐ横の方に破傷風の細菌によって死んだ人の標本がありました。 全身が標本となっていました。 またその横にはガス壊疽の標本があり、太ももから下を切り落としてありました。 これはもう生首以上にむごたらしい、表現できないほどすごい標本でした。 拭き掃除をして奥の方に行けば、こんどは消化器系統の病気の赤痢、腸チフス、コレラといったもので 死んだ人を病理解剖した標本がたくさん並べてありました ・・・・田中大尉の部屋には病歴表というカードがおいてあって、人体図が描いてあって、 どこにペストノミがついてどのようになったか詳しく記録されていました。 人名も書いてありました。 このカードはだいたい5日から10日以内で名前が変ります。 田中班ではペストの人体実験をして数日で死んだからです ・・・・田中班と本部の研究室の間には人体焼却炉があって毎日黒い煙が出ておりました ・・・・私は人の血、つまり“マルタ”の血を毎日2000から3000CC受取ってノミを育てる研究をしました ・・・・陶器製の爆弾に細菌やノミやネズミを詰込んで投下実験を何回も行ないました ・・・・8月9日のソ連の参戦で証拠隠滅のためにマルタは全員毒ガスで殺しました。 10日位には殺したマルタを中庭に掘った穴にどんどん積み重ねて焼きました。 * 千田英男 1917年生れ  731部隊教育隊  1974年証言 ・・・・「今日のマルタは何番・・・・何番・・・・何番・・・・以上10本頼む」 ここでは生体実験に供される人たちを”丸太”と称し、一連番号が付けられていた ・・・・中庭の中央に2階建ての丸太の収容棟がある。 4周は3層の鉄筋コンクリ-ト造りの建物に囲まれていて、そこには2階まで窓がなく、よじ登ることもはい上がることもできない。 つまり逃亡を防ぐ構造である。通称7,8棟と称していた・・・・ *石橋直方      研究助手 私は栄養失調の実験を見ました。 これは吉村技師の研究班がやっていたんだと思います。 この実験の目的は、人間が水と乾パンだけでどれだけ生き���れるかを調べることだったろうと思われます。 これには2人のマルタが使われていました。 彼らは部隊の決められたコ-スを、20キログラム程度の砂袋を背負わされて絶えず歩き回っていました。 1人は先に倒れて、2人とも結局死にました。 食べるものは軍隊で支給される乾パンだけ、飲むのは水だけでしたからね、 そんなに長いこと生きられるはずがありません。 *越定男    第731部隊第3部本部付運搬班 1993年10月10日、山口俊明氏のインタビュ- -東条首相も視察に来た 本部に隣接していた専用飛行場には、友軍機と言えども着陸を許されず、 東京からの客は新京(長春)の飛行場から平房までは列車でした。 しかし東条らの飛行機は専用飛行場に降りましたのでよく覚えています。 -マルタの輸送について ・・・・最初は第3部長の送り迎え、、郵便物の輸送、通学バスの運転などでしたが、 間もなく隊長車の運転、マルタを運ぶ特別車の運転をするようになりました。 マルタは、ハルピンの憲兵隊本部、特務機関、ハルピン駅ホ-ムの端にあった憲兵隊詰所、 それに領事館の4ケ所で受領し4.5トンのアメリカ製ダッジ・ブラザ-スに積んで運びました。 日本領事館の地下室に手錠をかけたマルタを何人もブチ込んでいたんですからね。 最初は驚きましたよ。マルタは特別班が管理し、本部のロ号棟に収容していました。 ここで彼らは鉄製の足かせをはめられ、手錠は外せるようになっていたものの、 足かせはリベットを潰されてしまい、死ぬまで外せなかった。 いや死んでからも外されることはなかったんです。 足かせのリベットを潰された時のマルタの心境を思うと、やりきれません。 -ブリキ製の詰襟 私はそんなマルタを度々、平房から約260キロ離れた安達の牢獄や人体実験場へ運びました。 安達人体実験場ではマルタを十字の木にしばりつけ、 彼らの頭上に、超低空の飛行機からペスト菌やコレラ菌を何度も何度も散布したのです。 マルタに効率よく細菌を吸い込ませるため、マルタの首にブリキで作った詰襟を巻き、 頭を下げるとブリキが首に食い込む仕掛けになっていましたから、 マルタは頭を上に向けて呼吸せざるを得なかったのです。 むごい実験でした。 -頻繁に行われた毒ガス実験 731部隊で最も多く行われた実験は毒ガス実験だったと思います。 実験場は専用飛行場のはずれにあり、四方を高い塀で囲まれていました。 その中に外から視察できるようにしたガラス壁のチャンバ-があり、 観察器材が台車に乗せられてチャンバ-の中に送り込まれました。 使用された毒ガスはイペリットや青酸ガス、一酸化炭素ガス���ど様々でした。 マルタが送り込まれ、毒ガスが噴射されると、 10人ぐらいの観察員がドイツ製の映写機を回したり、ライカで撮影したり、 時間を計ったり、記録をとったりしていました。 マルタの表情は刻々と変わり、泡を噴き出したり、喀血する者もいましたが、 観察員は冷静にそれぞれの仕事をこなしていました。 私はこの実験室へマルタを運び、私が実験に立ち会った回数だけでも年間百回ぐらいありましたから、 毒ガス実験は頻繁に行われていたとみて間違いないでしょう。 -逃げまどうマルタを あれは昭和19年のはじめ、凍土に雪が薄く積もっていた頃、ペスト弾をマルタに撃ち込む実験の日でした。 この実験は囚人40人を円状に並べ、円の中央からペスト菌の詰まった細菌弾を撃ち込み、 感染具合をみるものですが、私たちはそこから約3キロ離れた所から双眼鏡をのぞいて、 爆発の瞬間を待っていました。その時でした。 1人のマルタが繩をほどき、マルタ全員を助け、彼らは一斉に逃げ出したのです。 驚いた憲兵が私のところへ素っ飛んで来て、「車で潰せ」と叫びました。 私は無我夢中で車を飛ばし、マルタを追いかけ、 足かせを引きずりながら逃げまどうマルタを1人ひとり潰しました。 豚は車でひいてもなかなか死にませんが、人間は案外もろく、直ぐに死にました。 残忍な行為でしたが、その時の私は1人でも逃がすと中国やソ連に731部隊のことがバレてしまって、 我々が殺される、という思いだけしかありませんでした。 -囚人は全員殺された 731部隊の上層部は日本軍の敗戦をいち早く察知していたようで、敗戦数ヶ月前に脱走した憲兵もいました。 戦局はいよいよ破局を迎え、ソ連軍が押し寄せてきているとの情報が伝わる中、 石井隊長は8月11日、隊員に最後の演説を行い、 「731の秘密は墓場まで持っていけ。 機密を漏らした者がいれば、この石井が最後まで追いかける」と脅迫し、部隊は撤収作業に入りました。 撤収作業で緊急を要したのはマルタの処理でした。 大半は毒ガスで殺されたようですが、1人残らず殺されました。 私たちは死体の処理を命じられ、死体に薪と重油かけて燃やし、骨はカマスに入れました。 私はそのカマスをスンガリ(松花江)に運んで捨てました。 被害者は全員死んで証言はありませんが、部隊で働いていた中国人の証言があります。 *傳景奇  ハルピン市香坊区     1952年11月15日 証言 私は今年33歳です。 19歳から労工として「第731部隊」で働きました。 班長が石井三郎という石井班で、ネズミ籠の世話とか他の雑用を8・15までやっていました。 私が見た日本人の罪悪事実は以下の数件あります。 1 19歳で工場に着いたばかりの時は秋で「ロ号棟」の中で   いくつかの器械が血をかき混ぜているのを見ました。   当時私は���く中に入って仕事をやらされました。日本人が目の前にいなかったのでこっそり見ました。 2 19歳の春、第一倉庫で薬箱を並べていたとき不注意から箱がひっくりかえって壊れました。   煙が一筋立ち上がり、我々年少者は煙に巻かれ気が遠くなり、   涙も流れ、くしゃみで息も出来ませんでした。 3 21歳の年、日本人がロバ4頭を程子溝の棒杭に繋ぐと、 しばらくして飛行機からビ-ル壜のような物が4本落ちてきた。 壜は黒煙をはき、4頭のロバのうち3頭を殺してしまったのを見ました。 4 22歳の時のある日、日本人が昼飯を食べに帰ったとき、 私は第一倉庫に入り西側の部屋に死体がならべてあるのを見ました。 5 康徳11年(1944年)陰暦9月錦州から来た1200人以上の労工が 工藤の命令で日本人の兵隊に冷水をかけられ、半分以上が凍死しました。 6 工場内で仕事をしているとき動物の血を採っているのを見たし、私も何回か採られました *関成貴  ハルピン市香坊区  1952年11月4日 証言 私は三家子に住んで40年以上になります。 満州国康徳3年(1936年)から第731部隊で御者をして賃金をもらい生活を支えていました。 康徳5年から私は「ロ号棟」後ろの「16棟」房舎で 日本人が馬、ラクダ、ロバ、兎、ネズミ(畑栗鼠とシロネズミ)、モルモット、 それにサル等の動物の血を注射器で採って、 何に使うのかわかりませんでしたが、 その血を「ロ号棟」の中に運んでいくのを毎日見るようになりました。 その後康徳5年6月のある日私が煉瓦を馬車に載せて「ロ号棟」入り口でおろし、 ちょうど数を勘定していると銃剣を持った日本兵が何名か現れ、 馬車で煉瓦を運んでいた中国人を土壁の外に押し出した。 しかし私は間に合わなかったので煉瓦の山の隙間に隠れていると しばらくして幌をつけた大型の自動車が10台やってきて建物の入り口に停まりました。 この時私はこっそり見たのですが、日本人は「ロ号棟」の中から毛布で体をくるみ、 足だけが見えている人間を担架に乗せて車に運びました。 1台10人くらい積み込める車に10台とも全部積み終わり、 自動車が走り去ってから私たちはやっと外に出られました。 ほかに「ロ号棟」の大煙突から煙が吹き出る前には中国人をいつも外に出しました。 *羅壽山  証言日不明 ある日私は日本兵が通りから3人の商人をひっぱってきて 半死半生の目にあわせたのをどうすることもできず見ていました。 彼等は2人を「ロ号棟」の中に連れて行き、残った1人を軍用犬の小屋に放り込みました。 猛犬が生きた人間を食い殺すのを見ているしかなかったのです。
生体実験の証言 | おしえて!ゲンさん! ~分かると楽しい、分かると���い~ http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_h/5899/
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anirecoposts-blog · 6 years ago
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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 1997年7月に公開された『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』以来、約10年ぶりとなる新世紀エヴァンゲリオンの映画である。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズ一作目として制作された本作は、基本的にTVシリーズの第壱話?第六話までのストーリーを踏襲しており、一見リメイクであるかのように見えるが、製作サイドは新劇場版に関して一度としてリメイクという表現を使っていない。 TVシリーズの原画、動画やタイムシートを素材として再利用しているものの[5]、絵は全て新たに描き直され、そのままの絵は1枚たりとも使用していない[6]。また全編にわたってデジタル撮影や3DCGが使用されて映像の「再構築 (REBUILD) 」が行われている。エヴァや使徒の形態、演出のリファインや、渚カヲルなど「人類補完計画」の核心に迫る要素が早い段階で登場するなど、新たな設定や演出も導入されている。また、登場人物の立ち位置や性格の描写にもわずかな変更が加えられている。 放送時間 キャスト 碇シンジ 緒方恵美 綾波レイ 林原めぐみ 渚カヲル 石田彰 葛城ミサト 三石琴乃 赤木リツコ 山口由里子 加持リョウジ 山寺宏一 碇ゲンドウ 立木文彦 冬月コウゾウ 清川元夢 鈴原トウジ 関智一 相田ケンスケ 岩永哲哉 洞木ヒカリ 岩男潤子 伊吹マヤ 長沢美樹 日向マコト 優希比呂 青葉シゲル 子安武人 キール・ローレンツ 麦人
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kennak · 2 years ago
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福岡県 篠栗 町で2020年4月、5歳の三男を餓死させたとして、保護責任者遺棄致死罪に問われた母親の 碇 利恵被告(40)の裁判員裁判の第4回公判が9日、福岡地裁(冨田敦史裁判長)であった。三男が「病院に行きたい」などと何度も助けを求めたのに、碇被告が共犯で起訴された知人の意向を 忖度 して対応せず、三男の呼吸が止まった際も119番しなかったことが明らかになった。
餓死の5歳児、最期の言葉は「ママごめんね」…母は「知人の許可必要」と呼吸停止でも119番せず : 読売新聞オンライン
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akashicrecords19 · 4 years ago
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【5歳児餓死】「ママ友」の女、「母親がしっかりしていないから、子どもが餓死した」と自身の容疑を否認 [記憶たどり。★]
1: 記憶たどり。 ★ 2021/03/08(月) 14:24:37.54 https://news.yahoo.co.jp/articles/104049c9189a0c625a1c675b59447a8b950c5b07 福岡県篠栗町で5歳の男の子が餓死し、母親と知人の女が逮捕された事件で、知人の女が、 男児が死亡したのは「母親の責任だ」という趣旨の供述をしていることが新たにわかりました。 この事件は、去年4月、福岡県篠栗町で、5歳の碇翔士郎ちゃんに十分な食事を与えず餓死させたとして、 母親の碇利恵容疑者と知人の赤堀恵美子容疑者が逮捕されたものです。 捜査関係者によりますと、赤堀容疑者が取り調べに対し「碇容疑者がしっかりしていないから、子どもが餓死した」 と、死亡は母親の責任だという趣旨の供述をしていることがわかりました。自身の容疑については、…
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moccosnoon · 4 years ago
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福岡洗脳殺人デブ「食事の面倒見る」と離婚後押し
元スレ≫ 福岡洗脳殺人デブ「食事の面倒見る」と離婚後押し 1 :moccosnoon wai 確かに面倒は見てくれたけどさぁ… 2 :moccosnoon wai > 福岡県篠栗町で5歳だった男児が餓死した事件で、保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕された母親の碇利恵容疑者(39)が、知人の赤堀恵美子容疑者(48)から「『私が食事の面倒を見る』と離婚を後押しされた」と供述していることが4日、捜査関係者への取材で分かった。 >県警は2019年の離婚を機に一家への関与を強める狙いがあったとみている。 3 :moccosnoon wai > 捜査関係者によると、碇容疑者は生活費の工面などで離婚をためらうことがあった。だが、赤堀容疑者が「私が食事の面倒は見るから」「夫の浮気を理由に裁判をすれば金を取れる」などと仕向けたという。 4 :moccosnoon…
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