#田牧筆談
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【田牧筆談】也說秦剛去哪兒了?
27日德國每日新聞報導:「數周以來,外界一直猜測中國外交部長失蹤。秦剛昨天被免職。但他仍然沒有出現——猜測仍在繼續。」對於秦剛的失蹤,各國的媒體有很多猜疑,最為集中的有: 健康原因(這算是官說):中國外交部發言人汪文斌在周二(7月11日)的例行新聞發佈會上宣布,中共中央外事辦主任王毅將代表中國出席在印尼雅加達舉行的東盟會議。汪文斌稱:秦剛因為「健康原因」而無法出席在印尼的會議,但外交部並沒有進一步的詳細說明,或者解釋具體病因。(德國之聲中文網) 桃色風波(熱門說辭):6月25日秦剛公開露面後,已消失超過幾周。各媒體都在熱議:秦剛與《鳳凰衛視》美女主播傅曉田發生婚外情,兩人甚至還生下一個孩子。傅曉田與秦剛合影、傅曉田與嬰兒的私照等組合報導沸沸揚揚,內中似乎卻存有婚外風情。 間諜之說(英國媒體):秦剛曾兩度外派英國擔任新聞官員,仕途一路被外界看好,成為國外情報系統追蹤目標,也屬正常。如…
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)10月22日(火曜日)弐
通巻第8471号
ハーバード大学で異変が続いている
ユダヤ人学生に狼藉や暴力、パレスチナ支援集会が主流に
*************************
ハーバード大学は極左の巣窟となった。
ユダヤ人学生が極左グループから嫌がらせや脅迫を受け、あろうことか学生集会はガザ支援、ヒズボラ支援となった。
左翼活動家がキャンパスを跳梁跋扈、このためハーバード大学へ巨額を寄付してきたユダヤ人団体が寄付行為を見��った。これにより1億5000万ドルの減収となって大學当局が慌てた。
全米の大學では孔子学院こそ閉鎖が相次いでいるが、キャンパス内の政治宣伝は放置されている。中国人留学生も嘗ての政治的雰囲気は激変し、言論の自由をもとめ反中国共産党デモを組織化した。すると驚くべきことがおきた。アンチチャイナの集会を暴力で排撃する親中派の暴力学生が狼藉行為に及んだのだ。
ところが、ハーバード大学当局は対応を間違えた。
ハーバード大学は反中国共産党の抗議活動を行った学生をあべこべに懲戒した。それだけでなく、親中派学生による反共産党抗議活動参加者への攻撃も無視した。
米下院の中国共産党特別委員会のムラナー委員長は声明で「ハーバード大学は異なる意見を選択的に扱うことを改めて示した。ハーバード大学は中国共産党の主張に反対する学生を罰した。大学は人権侵害を行っているが、加害者を罰するべきだ。中国共産党の影響力の道具にならないように、勇気を持って声を上げた学生を守らなければならない」と訴えた。
下院議員らは「ハーバード大学の中国共産党への屈服は恥ずべきことだ。国境を越えた抑圧を終わらせなければならない。大学から外部統制を取り除くべきだ」と強調した。
中国はアメリカの無垢な若者等を洗脳するためにSNS活用を積極的な宣伝の場として利用し、フェイスブック、TIKTOK、X、ユーチューブ等に大量の中国共産党の宣伝メッセージや画像を送信している。
この政治宣伝の量的な攻撃が学生たちを洗脳するのである。
ハーバード大學は1636年に設立。2023年速報では学部・大学院数が2万5000人超、教員数が2万人に達するマンモス。基金残高は507億ドル。2018年の統計で、同大卒業のなかから8人の大統領、160人のノーベル賞受賞者(世界1位)を出している。
よくよく履歴を見ると、大多数がユダヤ人だ。
かくした実績からハーバード大學を過大評価する向きが多いが、左翼の影響が強いと島田洋一教授は指摘する。筆者は「あの大學はもともとが牧師養成学校でした」と『WILL』今月号の島田氏との対談のなかで指摘しておいた。
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友多聞
H:傳達知識,快樂是友多聞的益處。友多聞也讓你成為「語言的富翁」。
「獨學而無友���則孤陋而寡聞。」強調友多聞的重要性。另外友多聞帶來教學相長的效應,《禮記.學記》:「是故學然後知不足,教然後知困。知不足,然後能自反也;知困,然後能自強也,故曰「教學相長」也。」尤其「人人都是一本書」,
甚至「人人身上都是一個時代」教你一句建言,警語也是受用無窮。學無止境,終身學習。20240604W2
多聞
解釋:
見聞廣博,增廣聞見。《論語.季氏》:「友直、友諒、友多聞,益矣!」三國魏.何晏〈景福殿賦〉:「故將廣智,必先多聞。」
增廣見聞知識。《文明小史》第一五回:「橫豎我們這趟出門,乃是為著增長見識,於學問有益的事。」也作「增長見聞」。
學問淵博
淵,淵深。博,廣博。學問淵博謂學識豐富。如:「他溫文儒雅,學問淵博,是學術界所公認的大學者。」
學識淵博,意思是指學識深而且廣。
見多識廣
見聞廣泛,學識淵博。《鏡花緣》第四四回:「多九公本是久慣江湖,見多識廣,每逢談到海外風景,竟是滔滔不絕。」《文明小史》第三四回:「只因常常出外遊學,見多識廣,知識也漸漸開通。」
知識淵博的相似詞
博學多識 學識豐富 博學多才 知識豐富 學識淵博 淵博 知識廣博 博學多聞 博學 學識廣博 博古通今 博聞強識 學富五車 淵博的知識 學問淵博 淵博知識 博學睿智 上知天文下知地理 通古博今 淵博的學識 博覽群書 學識 博學廣識 見識廣博 淵博學識 談吐不凡 博聞多識 學養深厚 通曉古今 學識深厚
淵博
精深廣博。
晉 葛洪 《抱樸子·崇教》:“是以遐覽淵博者,曠代而時有;面墻之徒,比肩而接武也。” 宋 蘇軾 《東坡志林·記講筵》:“卿講義淵博,多所發揮,良深嘉嘆。” 清 昭槤 《嘯亭雜錄·純廟博雅》:“ 純廟 天縱聰慧,攬讀淵博。” 柔石 《二月》二:“你學問是淵博的,哥哥常是談起你。”
百科解釋
淵,精深;博,廣博。淵博:精深而廣博,形容知識廣且深,博學多才。晉 葛洪《抱樸子·崇教》:“是以遐覽淵博者,曠代而時有;面墻之徒,比肩而接武也。”
中台山:
《論語》說:「以文會友,以友輔仁。」結交朋友是很重要的事。我們在社會上要懂得交好的朋友、親近善知識。
維基文庫:
論語季氏篇
孔子曰:「益者三友,損者三友。友直,友諒,友多聞,益矣。友便辟,友善柔,友便佞,損矣。」
孔子說:「有益的朋友有三種,有害的朋友有三種。與正直的人交朋友、與誠實的人交朋友、與見多識廣的人交朋友,有益處;與走邪門歪道的人交朋友、與讒媚奉迎的人交朋友、與花言巧語的人交朋友,有害處。」
星雲大師
所謂:「友直、友諒、友多聞。」朋友之間要耿直真誠,要能相互諒解,要互通知識、要理念相投,還要能雪中送炭,這才是善友。
釋星雲
僧人
釋星雲(1927年8月19日[2]—2023年2月5日[3]),俗名李國深,法名悟徹,法字今覺,法號星雲[註 1],筆名趙無任[4]。生於江蘇江都,童年出家,漢傳佛教比丘及學者,為臨濟宗第四十八代傳人,同時也是佛光山開山宗長(方丈)、國際佛光會創辦人暨榮譽總會長、世界佛教徒友誼會榮譽會長[5],被尊稱星雲大師[1]。
「獨學而無友,則孤陋而寡聞」真正的益友是能夠讓我們擺脫孤陋寡聞的處境。
「數位遊牧」,以遠距的方式工作,並同時周遊不同的國家和城市。
一種是自己去搞清楚,從自己的經驗、觀察中學習。另一種就是向別人學習,學習別人已經搞清楚
或者正在搞清楚的東西。
「真正高明的人,就是能夠借重別人的智慧,來使自己不受矇蔽的人。」——蘇格拉底
「腳步不停,不一定是前進;閉目深思,不一定是停頓。」
通過艱苦的學習,使自己成為「語言的富翁」。
景福殿賦
作者:何晏《文選》卷11
姊妹計劃: 數據項
大哉惟魏,世有哲聖。武創元基,文集大命。皆體天作制,順時立政。至於帝皇,遂重熙而累盛。遠則襲陰陽之自然,近則本人物之至情。上則崇稽古之弘道,下則闡長世之善經。庶事既康,天秩孔明。故載祀二三,而國富刑清。歲三月,東巡狩,至於許昌。望祠山川,考時度方。存問高年,率民耕桑。越六月既望,林鍾紀律,大火昏正。桑梓繁廡,大雨時行。三事九司,宏儒碩生。感乎溽暑之伊鬱,而慮性命之所平。惟岷越之不靜,寤征行之���寧。
乃昌言曰:「昔在蕭公,暨於孫卿。皆先識博覽,明允篤誠。莫不以為不壯不麗,不足以一民而重威靈。不飭不美,不足以訓後而永厥成。故當時享其功利,後世賴其英聲。且許昌者,乃大運之攸戾,圖讖之所旌。苟德義其如斯,夫何宮室之勿營?」帝曰:「俞哉!」玄輅既駕,輕裘斯御。乃命有司,禮儀是具。審量日力,詳度費務。鳩經始之黎民,輯農功之暇豫。因東師之獻捷,就海孽之賄賂。立景福之秘殿,備皇居之制度。
爾乃豐層覆之耽耽,建高基之堂堂。羅疏柱之汩越,肅坻鄂之鏘鏘。飛櫩翼以軒翥,反宇䡾以高驤。流羽毛之威蕤,垂環玭之琳琅。參旗九旒,從風飄揚。皓皓旰旰,丹彩煌煌。故其華表,則鎬鎬鑠鑠,赫奕章灼,若日月之麗天也。其奧秘則蘙蔽曖昧,髣彿退概,若幽星之纚連也。既櫛比而攢集,又宏璉以豐敞。兼苞博落,不常一象。遠而望之,若摛朱霞而耀天文;迫而察之,若仰崇山而戴垂雲。羌瑰瑋以壯麗,紛彧彧其難分,此其大較也。若乃高甍崔嵬,飛宇承霓。綿蠻黮䨴,隨雲融泄。鳥企山峙,若翔若滯。峨峨嶪嶪,罔識所屆。雖離朱之至精,猶眩曜而不能昭晰也。
爾乃開南端之豁達,張筍虡之輪豳。華鍾杌其高懸,悍獸仡以儷陳。體洪剛之猛毅,聲訇𥉻其若震爰有遐狄,鐐質輪菌。坐高門之側堂,彰聖主之威神。芸若充庭,槐楓被宸。綴以萬年,綷以紫榛。或以嘉名取寵,或以美材見珍。結實商秋,敷華青春。藹藹萋萋,馥馥芬芬。爾其結構,則脩梁彩制,下褰上奇。桁梧複疊,勢合形離。赩如宛虹,赫如奔螭。南距陽榮,北極幽崖。任重道遠,厥庸孔多。
於是列髹彤之繡桷,垂琬琰之文璫。蝹若神龍之登降,灼若明月之流光。爰有禁楄,勒分翼張。承以陽��,接以員方。斑間賦白,疏密有章。飛枊鳥踴,雙轅是荷。赴險凌虛,獵捷相加。皎皎白間,離離列錢。晨光內照,流景外烻。烈若鉤星在漢,煥若雲梁承天。騧徙增錯,轉縣成郛。茄蔤倒植,吐被芙蕖。繚以藻井,編以綷疏;紅葩𦾏𦁛,丹綺離婁菡萏赩翕,纖縟紛敷。繁飾累巧,不可勝書。
於是蘭栭積重,窶數矩設。櫼櫨各落以相承,欒栱夭蟜而交結。金楹齊列,玉舄承跋。青瑣銀鋪,是為閨闥。雙枚既脩,重桴乃飾。㮰梠緣邊,周流四極。侯衛之班,藩服之職。溫房承其東序,涼室處其西偏。開建陽則朱炎豔,啟金光則清風臻。故冬不淒寒,夏無炎燀。鈞調中適,可以永年。墉垣碭基,其光昭昭。周制白盛,今也惟縹。落帶金釭,此焉二等。明珠翠羽,往往而在。欽先王之允塞,悅重華之無為。命共工使作繢,明五采之彰施。圖象古昔,以當箴規。椒房之列,是準是儀。觀虞姬之容止,知治國之佞臣。見姜後之解珮,寤前世之所遵。賢鍾離之讜言,懿楚樊之退身。嘉班妾之辭輦,偉孟母之擇鄰。故將廣智,必先多聞。多聞多雜,多雜眩真。不眩焉在,在乎擇人。故將立德,必先近仁。欲此禮之不諐,是以盡乎行道之先民。朝觀夕覽,何與書紳?
若乃階除連延,蕭曼雲征。櫺檻邳張,鉤錯矩成。楯類騰蛇,槢似瓊英。如螭之蟠,如虯之停。玄軒交登,光藻昭明。騶虞承獻,素質仁形。彰天瑞之休顯,照遠戎之來庭。陰堂承北,方軒九戶。右個清宴,西東其宇。連以永寧,安昌臨圃。遂及百子,後宮攸處。處之斯何,窈窕淑女。思齊徽音,聿求多祜。其祜伊何,宜爾子孫。克明克哲,克聰克敏。永錫難老,兆民賴止。於南則有承光前殿,賦政之宮。納賢用能,詢道求中。疆理宇宙,甄陶國風。雲行雨施,品物咸融。其西則有���墄右平,講肄之場。二六對陳,殿翼相當。僻脫承便,蓋象戎兵。察解言歸,譬諸政刑。將以行令,豈唯娛情。鎮以崇臺,寔曰永始。複閣重闈,猖狂是俟。京庾之儲,無物不有。不虞之戒。於是焉取。
爾乃建凌雲之層盤,浚虞淵之靈沼。清露瀼瀼,淥水浩浩。樹以嘉木,植以芳草。悠悠玄魚,曤曤白鳥。沈浮翱翔,樂我皇道。若乃虯龍灌注,溝洫交流。陸設殿館,水方輕舟。篁棲鵾鷺,瀨戲鰋鮋豐侔淮海,富賑山丘。叢集委積,焉可殫籌?雖咸池之壯觀,夫何足以比讎?
於是碣以高昌崇觀,表以建城峻廬。岧嶢岑立,崔嵬巒居。飛閣干雲,浮堦乘虛。遙目九野,遠覽長圖。頫眺三市,孰有誰無?睹農人之耘耔,亮稼穡之艱難。惟饗年之豐寡,思無逸之所歎。感物衆而思深,因居高而慮危。惟天德之不易,懼世俗之難知。觀器械之良窳,察俗化之誠偽。瞻貴賤之所在,悟政刑之夷陂。亦所以省風助教,豈惟盤樂而崇侈靡?屯坊列署,三十有二。星居宿陳,綺錯鱗比。辛壬癸甲,為之名秩。房室齊均,堂庭如一。出此入彼,欲反忘術。惟工匠之多端,固萬變之不窮。物無難而不知,乃與造化乎比隆。讎天地以開基,並列宿而作制。制無細而不協於規景,作無微而不違於水臬故其增構如積,植木如林。區連域絕,葉比枝分。離背別趣,駢田胥附。縱橫踰延,各有攸注。公輸荒其規矩,匠石不知其所斲。既窮巧於規摹,何彩章之未殫。爾乃文以朱綠,飾以碧丹。點以銀黃,爍以琅玕。光明熠爚,文彩璘班。清風萃而成響,朝日曜而增鮮。雖崑崙之靈宮,將何以乎侈旃。規矩既應乎天地,舉措又順乎四時。是以六合元亨,九有雍熙。家懷克讓之風,人詠康哉之詩。莫不優游以自得,故淡泊而無所思。歷列辟而論功,無今日之至治彼吳蜀之湮滅,固可翹足而待之。
然而聖上猶孜孜靡忒,求天下之所以自悟。招忠正之士,開公直之路。想周公之昔戒,慕咎繇之典謨。除無用之官,省生事之故。絕流遁之繁禮,反民情於太素。故能翔岐陽之鳴鳳,納虞氏之白環。蒼龍覿於陂塘,龜書出於河源。醴泉涌於池圃,靈芝生於丘園。總神靈之貺祐,集華夏之至歡。方四三皇而六五帝,曾何周夏之足言!
孤陋寡聞
《禮記.學記》
大學之法,禁於未發之謂豫,當其可之謂時,不陵節而施之謂孫,相觀而善之謂摩。此四者,教之所由興也。發然後禁,則扞格而不勝。時過然後學,則勤苦而難成。雜施而不孫,則壞亂而不脩。獨學而無友,則孤陋而寡聞。燕朋逆其師。燕辟廢其學。此六者,教之所由廢也。
《禮記.學記》:「獨學而無友,則孤陋而寡聞。」(源)
《抱朴子.外篇.自敘》:「年十六,始讀《孝經》、《論語》、《詩》、《易》,貧乏無以遠尋師友,孤陋寡聞,明淺思短,大義多所不通。」
《朱子語類.卷一一七.朱子.訓門人五》:「淳稟曰:『伏承教誨,深覺大欠下學工夫。恐遐陬僻郡,孤陋寡聞,易致差迷,無從就正。望賜下學說一段,以為朝夕取準。』」
元.馬致遠《陳摶高臥》第二折:「若做官後每日價行眠立盹,休休休,枉笑殺凌煙閣上人,有這般疏庸愚鈍,孤陋寡聞。」
《三國演義》第一○回:「某孤陋寡聞,不足當公之薦。」
《鏡花緣》第一六回:「不瞞二位大賢說,這叫作『臨時抱佛腳』,也是我們讀書人通病,何況他們孤陋寡聞的幼女哩。」
寡聞少見
猶「孤陋寡聞」。見「孤陋寡聞」條。
《漢書.卷八一.匡張孔馬傳.匡衡》:「蓋聰明疏通者戒於大察,寡聞少見者戒於雍蔽。」
寡聞陋見
猶「孤陋寡聞」。見「孤陋寡聞」條。
明.胡翰〈羅文質公集敘〉:「以寡聞陋見論前人之道德,其亦過矣!」
寡見鮮聞
猶「孤陋寡聞」。見「孤陋寡聞」條。
漢.王褒〈四子講德論〉:「俚人不識,寡見尠(鮮)聞;曩從末路,望聽玉音,竊動心焉。敢問所歌何詩,請聞其說。」
獨自學習而沒有朋友一起切磋、研討,就會造成學識淺陋而見聞不廣。 對朋友怠慢就違背了師長的教導;一旦言行偏差,就會荒廢了自己的學業。
獨學而無友,則孤陋而寡聞
獨學:指獨自學習,不瞭解外部動向。獨自學習,無��切磋,則孤陋寡聞。形容孤偏鄙陋,見聞不多。有井底之蛙含義。
原因: 朋友是你瞭解外部世界的橋樑,也是你不斷完善自己的標尺。一個人學習,而不接觸外部環境是行不通的。只有與朋友共同學習,集思廣益、取長補短,才能彌補自身的缺憾,並獲得更多知識。
中文名
獨學而無友,則孤陋而寡聞
出處
《禮記·學記》
類型
古文
作者
戴聖
出處
出處:《禮記·學記》:“獨學而無友,則孤陋而寡聞。”
釋義:如果學習中缺乏學友之間的交流切磋,就必然會導致知識狹隘,見識短淺。其中,“而”錶轉折的作用。
教學相長
教與學互相增長。指通過教授、學習,不但能使學生得到進步,而且教師本身的水準也可藉此提高。語出《禮記.學記》。
雖有嘉肴,弗食,不知其旨也;雖有至道,弗學,不知其善也。是故學然後知不足,教然後知困。知不足,然後能自反也;知困,然後能自強1>也,故曰「教學相長2>」也。
《禮記.學記》:「是故學然後知不足,教然後知困。知不足,然後能自反也;知困,然後能自強也,故曰『教學相長』也。」(源)
《韓詩外傳》卷三:「雖有善道,不學不達其功,故學然後知不足,教然後知不究。不足,故自愧而勉;不究,故盡師而熟。由此觀之,則教學相長也。」
明.王守仁〈教條示龍場諸生.責善〉:「使吾而是也,因得以明其是;吾而非也,因得以去其非:蓋教學相長也。」
《兒女英雄傳》第一八回:「我那解悶的本領都被公子學去了,那裡再尋甚麼新色的去?我們『教學相長』,公子有甚麼本領?何不也指點我的一件?彼此頑起來,倒也解悶。
人人都是一本書
每個人都是獨特的,每個人都是值得欣賞的,
閱讀每個人的故事,獲得成長的養分。
人人身上都是一個時代(全新增訂版)
作者:陳柔縉
語言:繁體中文
出版社:麥田
出版日期:2016/10/06
目錄
◎新版序──陳柔縉
一‧人的日本時代
1 人人身上都是一個時代
2 跑啊!林和
3 王永慶的兩百圓有多大
〈附表:台籍前輩企業家出生年與學歷〉
4 辜家豪門鑽石失竊記
5 台灣最貴單身漢
6 巴黎唯一的台灣人
7 神祕的第一位台灣人車主
8 名門公子日本浪漫遊
9 美國鳥人到台灣
10 明治元勳欠錢記
11 禁吃大蒜迎親王
二‧愛與死事件簿
1 戀愛?亂愛!
2 台灣人殉情記
3 少年仔愛看��梯小姐
4 煙草女工眼裡的蔣介石
〈附表:1930年代煙草女工的世界〉
5 懷念的鐵路便當
〈附表:1914年台灣鐵路便當〉
6 烤鴨該怎麼吃
7 愛鄉愛土全民票選台灣八景
8 1933年雙十國慶在台北
9 鐵達尼船難消息在台灣
10 豪華世界郵輪初體驗
〈附表:日治時期世界觀光郵輪來台概況〉
11 英語演講比賽前先獎盃奉還
12 車牌暗藏魔鬼
13 那時候的公車會「犁田」
14 颱風來了會缺鹽
15 火災的關鍵詞
16 打開日本時代的鉛筆盒
17 考上醫校回頭嗆校長
18 修學旅行遇見明治天皇
19 捨不得不愛的農曆年
20 老藥房的推銷術
三.古典罪與罰
1 怪怪小偷和大盜
2 日本時代也有毒品?
3 盜賊拔刀海上來
4 偷車賊最愛的作案地點
5 好膽賭博要鞭刑
6 來看富豪斬雞頭發毒誓
四.療癒系台灣史
1 那些年動物惹的禍
2 最佳療癒系之小鴨物語
3 小象闖進高級料亭了
4 猛雄藏了十個月的祕密
5 狗狗的日本時代
6 不是端午也能划龍舟
7 人間無處不花火
8 上陽明山不看櫻花
9 為路樹繫上第一張身分證
五‧地的時光垂直線
1 台灣銀行重返上海
2 東京火車站的呼吼
3 早稻田的咖啡店
4 松泉閣給的問號與答案
5 第一波青春壯遊
6 第三國人
7 撫臺街洋樓身世之謎
◎附錄【日本時代台灣物價水準概況】
參考資料
圖片來源
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2024年2月2日
貧乏によるストレスは離婚や介護よりも強く健康状態の悪化に関連していることが判明(Gigazine)2024年2月2日
人生には経済的な問題や配偶者との離婚、親の介護といったさまざまな問題が付きまとい、これらのストレスは精神だけでなく健康にも悪影響を及ぼします。イギリスの研究チームが行った新たな研究で、経済的なストレスはその他のストレス要因よりも強く健康状態の悪化に関連していることが示されました。
イギリスのユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンとキングス・カレッジ・ロンドンの研究チームは、さまざまなタイプの慢性的なストレスが高齢者の健康バイオマーカーとどのように関連しているのかを調査しました。
研究には、50歳以上のイギリス人を追跡調査したEnglish Longitudinal Study of Ageing(イギリス老化縦断研究)が2008~2012年にかけて収集した合計4934人のデータが用いられました。被験者は面接や自己記入のアンケートに回答したほか、看護師によるバイオマーカーの採取を受けました。今回の研究に用いられた4934人の年齢の中央値は65歳でした。
今回の研究で調査されたストレス要因は、将来的に必要な経済的リソースが枯渇する可能性がある「経済的なストレス」、過去1年間に私生活で成人の介護を行っていた「介護のストレス」、歩行やしゃがむといった行動に困難がある「障害のストレス」、長年の病気や健康問題により活動が制限される「病気のストレス」、過去2年以内に親や配偶者との死別を経験した「死別のストレス」、過去2年以内に離婚を経験した「離婚のストレス」の6つでした。
また、被験者の健康状態のリスクは、ストレスに反応して産生されるホルモン���コルチゾール、炎症への免疫反応に関連するCRPとフィブリノゲン、老化と長寿に関連するIGF-1という血液中の4つのバイオマーカーを通じて測定されました。
分析の結果、何らかのストレスにさらされていると報告し���被験者は、4年後の追跡調査で高リスクのカテゴリーに分類される可能性が61%高まりました。この結果は遺伝的要因や年齢、性別、ライフスタイル、調査開始時点の健康状態といった要因を除外しても確認されました。
また、複数のストレスを持っていた被験者では、ストレス要因が増えるごとに高リスクカテゴリーに分類される可能性が19%増加しました。ところが、「経済的なストレス」のみを報告した人は、それだけで4年後に高リスクカテゴリーに分類される可能性が59%も高くなることが判明しました。つまり、「経済的なストレス」はその他のストレス要因よりも強く健康状態の悪化に関連していたというわけです。
経済的なストレスが健康により強い悪影響を及ぼす理由について、論文の筆頭著者でユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの博士研究員であるオデッサ・ハミルトン氏は、経済的なストレスは生活のさまざまな側面に関与しているからかもしれないと指摘。経済状況の悪化は家族間の対立や社会的な疎外につながるほか、最終的には飢餓やホームレス状態などに陥る可能性もあるとのこと。ハミルトン氏は、「今回の研究では、経済的ストレスが生物学的健康に最も有害であることがわかりましたが、これを確立するにはさらなる研究が必要です」と述べました。
今回の研究結果は、必ずしもストレスが長期的な健康問題を直接引き起こしていると証明したわけではありません。しかし、ストレスが高齢者の体に大きな影響を与えており、ストレス源によって身体的影響が異なる可能性を示唆しています。
ハミルトン氏は、「免疫系と神経内分泌系がうまく連携して機能すれば、体のホメオスタシス(恒常性)が維持され、健康が保たれます。しかし、慢性的なストレスはこの生物学的経路を乱すため、病気につながる可能性があります」と説明しました。
被爆者団体「まだまだ戦わなければ」 引き続き「黒い雨」訴訟支援など確認 広島(RCCニュース)2024年2月2日
広島県被団協の代表者会議が2日、広島市で開かれ、引き続き「黒い雨訴訟」の支援などを続けていくことを確認しました。
広島県被団協 恒例の「新春代表者会議」には、県内各地の被爆者団体など、約40人が出席しました。
広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)箕牧智之 理事長 「被爆から79年、高齢化でこうした集会は集まりにくいが、戦争犠牲者・原爆犠牲者は、まだまだ戦わなければならない」
現在、被爆者の高齢化で、団体の存続が課題となっています。坂町にある被爆者団体は、高齢化を理由にいったん解散したものの、被爆2世などで再結成し、黒い雨訴訟の相談会のチラシを配る活動などをしたということです。
原爆投下直後に降った「黒い雨」をめぐっては、援護対象区域を広げた国の新基準でも、被爆者手帳の申請を却下された人たちが、取り消しを求める裁判を続けています。
厚生労働省の有識者検討会では、現時点で降った範囲を判定することは困難だとしていますが、広島県被団協は引き続き、被爆者の救済を国に求めていくとしています。
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「公園内は軍施設と一体でそのメッセージは『戦争』」 被団協の講師団がパールハーバー視察報告 広島市の姉妹公園協定をめぐって(RCCニュース)2024年2月2日
広島市が、平和公園と姉妹公園協定を結んだハワイの「パールハーバー国立記念公園」について、協定に異議を唱えている市民団体が、現地視察の報告会を開きました。
アメリカ・ハワイ州にあるパールハーバーには、アメリカ軍の基地や、1941年の真珠湾攻撃で亡くなった兵士などを追悼する記念館などがあります。
広島市は、去年6月、パールハーバー国立記念公園と平和公園は「共通の理想を達成するために、国際協力と相互利益を促進する」として、姉妹公園協定を締結しました。
被爆者などでつくる団体は先月、現地を視察した報告会で、公園は軍の施設があるため、自由に撮影ができないことなどを紹介しました。
広島市は、姉妹公園協定の対象を、ビジターセンター周辺とアリゾナ記念館など4施設に限定し、軍の施設は含めないとしています。
しかし団体は、対象の施設が、核兵器の威力や開発を誇る軍の記念館や基地と隣り合っていることから、「公園内は一体で、目に飛び込んでくるのは『戦争』というメッセージだ」と訴えました。
佐久間被団協平和学習講師団 山根岩男さん 「『ノーモア・広島』『核兵器廃絶で平和を』と訴えていくことと真逆のような、『油断するな 戦争に備えよ』『抑止力こそ強化すべき』と訴えている」
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広島でしか買えない 人気の「むさし」と「うえの」の弁当 新幹線で大阪に直送(RCCニュース)2024年2月2日
広島でしか買うことのできない人気の弁当を、大阪のイベントで販売するために、新幹線で直送しました。
広島駅の新幹線ホームです。出来上がったばかりの「むさし」の「若鶏むすび」が、新幹線の到着を待っていました。JR大阪駅で開かれている広島・山口の人気商品を販売するイベントに、新幹線で素早く届けるためです。
記者 「スタッフ用の入り口が開きました。新幹線が停車する1分の間に積み込みが行われます。今、むさしのお弁当が運びこまれました」
「むさし」に加えて「うえの」の「あなごめし」という広島でしか買えない人気弁当を、イベントの期間中、4回新幹線でスピード輸送するということです。
むさし新幹線店 沖田隆次 店長 「大阪のお客様に召し上がっていただいて、広島に行きたいなと思っていただければ光栄です」
JR西日本は、荷物を早く定時で運べる新幹線の活用を、検討していくということです。
「私たちの病院を助けて」病床ひっ迫、疲労の蓄積 被災地の医療は課題山積(石川テレビ)
被災地の医療は課題が山積みです。珠洲市の診療所は断水が続き十分な医療が行えていません。奥能登の医療体制は綱渡りの状態が続いています。
珠洲市内にある小西医院。普段は内科、循環器内科、小児科の3つの診療をしています。しかし、今はかかりつけ患者への薬の処方だけです。
小西 堅正院長「(正院地区は)いわゆる電気の復旧も一番遅かったんです。サーチライトやってそれでもなかなかカルテも散らばって診療にならないので、やっぱりこれは無理があった」
地震発生後は停電のため電話も使えず、体にカイロを貼り懐中電灯などで辺りを照らしながら再開に向け準備をしてきたそうです。
電気が通ったのは地震から22日目。今は1日に20人から30人ほどの患者が薬の受け取りにやって来るそうです。
小西 堅正院長「金沢に避難された患者さんから『元気でいますよ』と電話だけかかって来ることもあるんです。無理して頑張っても誰も(珠洲市に)いなくなるんじゃないかなと心が折れそうになるときも実際ありましたけど、そうやって『自分らも必ず戻るから頑張ってね』と言われると、やっぱり自分ももうちょっと頑張らんといかんなと元気づけられる。(人手不足などもあるが)人的支援もいただきながら少しずつ戻していければと思っています」
一方、こちらは七尾市の恵寿(けいじゅ)総合病院。病床のひっ迫に危機感を募らせています。
恵寿総��病院 神野 正博理事長「非常に病床はひっ迫していて空いているベッドは10数床ということで、救急患者を受け入れるためにその10数床をどうやって空けるかを考えながらいろいろと患者の流れをつくっています」
別館の一部で天井が崩落するなどの被害が発生。スタッフのおよそ1割は現在も避難所など自宅以外からの通勤を余儀なくされています。手術や透析などの病院機能はこれまでにほぼ全て回復しましたが、被災地の医療現場では先行きの見えない状況が続いています。
恵寿総合病院 神野 正博理事長「(この病院は)手術などがちゃんと機能しているという意味で、(今後)療養だけの患者さんはここではなくて他のところで受けていただくという形が必要だと思います。職員が非常に疲弊しています。全職員の10パーセントくらいは自分の家以外から、全体の3パーセント程度の方は避難所から出勤しているんですね。全国の病院に呼びかけているんですけども、私たちの病院を助けてくださいと。少し職員を休ませて、そして長持ちさせるということが必要かなと思っています。これからの医療を止めないために、私たちがいま一番必要なのは人材の支援だと思っています」
2月2日夜、直径約290mの小惑星が地球付近を通過 NASAも監視中(Forbes)2024年2月2日
スタジアムサイズの小惑星が日本時間2月2日金曜日の夜に地球の近くを通過する。そして、そのサイズと地球への接近距離のため、NASAの科学者らは危険がないか監視している。
直径約290mの小惑星が、秒速約18kmで地球から約270万km(月までの距離の約7倍)以内のところを通過するとNASAのジェット推進研究所は発表した。
「2008 OS7」と呼ばれるその小惑星は、太陽を962日周期で周回しているため、次に戻ってくるのは2026年となるが、その次に地球へ接近する2037年では、地球から約1600万kmの距離を通過する見込みだ。
NASAは、地球から約750万km以内に接近する直径140m以上の天体を「潜在的に危険な小惑星」に分類しているため監視している。
地球付近を通過するのは日本時間2月2日金曜日の午後11時41分頃と予測されている。肉眼で見えることはできないが、NASAがバーチャル小惑星トラッカーを提供して小惑星の位置をリアルタイムで伝えているほか、Virtual Telescope Projectがライブ中継を行う。
小惑星は惑星と同様に太陽を周回している岩石質の天体だが、惑星よりずっと小さいとNASAは説明している。約46億年前に太陽系が形成された時の残骸からできている。小惑星2008 OS7は、アポロ群と呼ばれる地球軌道と交差する可能性のある1万8232個の小惑星からなるグループに属している。
近年NASAは、地球に接近する小惑星の脅威をより深刻に捉えている。2022年のDARTミッションでは、小惑星の軌道を変更するテストを行った。NASAは探査機を宇宙に飛ばして小惑星に衝突させ、その公転周期を32分短くした。さらにNASAは、地球に接近しているベンヌと呼ばれる小惑星を研究するミッションで探査機OSIRIS-RExを送り込んだ。同探査機は小惑星の標本を採取し、2023年9月に地球に届けたが、発見内容は未だに公開されていない。科学者らは、ベンヌが2182年に地球に衝突する可能性を信じており、それがベンヌの探査が行われている理由だ。OSIRIS-RExミッションの科学者チームは、ベンヌが2182年に、テキサス州サイズの領域に2700分の1の確率で衝突する可能性があると考えている。Icarus誌に掲載された2023年の論文による。
2月2日に地球近傍を通過する小惑星は2008 OS7だけではない。あと2つ小惑星が近づいている。小惑星2024 BJ3は今年発見された直径約21mの飛行機サイズの小惑星だ。2008 OS7よりもずっと近い86万km以内に接近する。小惑星2024 BP1も飛行機サイズだがやや大きい直径約40mほどで、この中では最も遠い340万km付近を通過する。
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風中殘燭?重病不起的《少年SUNDAY》
文:Negator
相信一直以來,各位都有聽過日本的少年漫畫周刊有所謂的「三大誌」。「三大誌」分別指是集英社的《週刊少年JUMP》、小學館的《少年SUNDAY》、講談社的《週刊MAGAZINE》。為何稱呼他們為三大誌呢?雖然應該很多人都知道,不過還是說明一下。原因他們從八十年代開始,都一直維持過百萬的發行量,同時又是同一領域中的競爭對手。後來到了日本出版業最高峰的九十年代中期,三本雜誌的發行量分別為:《JUMP》六百多萬、《MAGAZINE》的四百萬、《SUNDAY》三百多萬,三本加起上來過千萬,而當時日本人口才一億多一點,因此粗略計算的話,當時約每十個日本人,就有一個會買周刊漫畫來看!所以這年代這三本周刊和他們的出版社都可說風光至極。
早已不再存在的所謂「三大誌」
不過時移世易,現在「三大誌」其實早已經不存在,原因便是《SUNDAY》一早就退出了百萬發行量之列,如果還把衰退到此這地步的《SUNDAY》還稱作「三大誌」之一,實在是太過屈就其他兩位,於是現在只剩下「二巨頭」。不過其實這也只是近兩年發生的事,原本2006年左右《SUNDAY》的發行量還能維持在百萬上下的,但到前兩年已經跌至93.5萬部,現在更只有68.4萬部(2010年3月最新數字),所以難聽說一句現在《SUNDAY》已經和「公稱50萬部」的《少年CHAPMION》同一等級。
百萬漫畫誌仍然有三本?
但雖說《SUNDAY》掉了下來,不過日本的漫畫誌現在仍然有三本擁有過百萬發行量。前兩名自然不用說,而第三名說出來不少人一定會很多人嚇一跳──《月刊コロコロコミック》,中文版就是《快樂龍》。這本雜誌是小學館於七十年代末期創刊的少年向漫畫誌,一直都是中堅份子,但當然要和從七十年代末開創戀愛喜劇熱潮後,便風光到2000年的《SUNDAY》相比一直都是陰影人,不過可別以為他上面的作品香港少人認識就是雜魚──其實日本版《快樂龍》在08年時發行量已經達93.2萬部,而現在不用說當然已經超越《SUNDAY》,擁有100.1萬部發行量,位居漫畫誌銷量第三位的百萬雜誌之一。不過因為它是月刊,所以還只是二巨頭而已,畢竟主流世界仍然是以周刊為中心旋轉,況且他是月刊那麼和周刊比也要除以四才公平。
非戰之罪?數字會說話
當然畢竟大環境改變了,整體市場萎縮造成發行量大跌也非戰之罪,三家大型漫畫出版社仍能賺到蠅頭小利的就只有集英社而已,就連最會賺錢和炒作的《少年JUMP》都是3百多萬發行量,只是全盛期的一半。《MAGAZINE》方面則是157萬,不過再糟都是黃金九十年代的一半到四成左右,所以如果要筆者說的話,《SUNDAY》還真是難看了點──原本就敬居末席,但下跌卻是最厲害的一個,這慘狀已經不是單用「整體市場萎縮」便可以解釋過去。雖說《SUNDAY》傳統方針就是慢熱,因此��誌銷量一直都較低,而且原本出版漫畫就是靠單本行來賺錢的,所以的確不能單是用發行量來嘲笑《SUNDAY》不好賣,但始終數字會說話──根據小學館公開的財務報告,他們已連續兩個財務年度共虧蝕差不多一百億日元。可能有留意日方新聞的人會反問筆者:講談社這兩年來蝕的錢不是比小學館多嗎?但看整體數字的話會發現講談社的營業額仍然是比小學館多10億左右(與集英社相差也是10億左右),即事實上他們的漫畫還是賣得比小學館的好(有說講談社虧損原因是房地產投資的問題,但這方面找不到詳細資料),換句話說只是節流的問題。因此不管從他們的「前龍頭」雜誌的發行量或整間公司來看,小學館都是正在衰退,而原因不用說自然就是經營不善。
不是《SUNDAY》獨憔悴
當然說小學館的生死興亡都由一本《SUNDAY》主宰的確太誇張,但講他們沒責任也絕對說不過去的。月前ORICON就公佈了2010年上半年度漫畫銷量(計算方式是每本單行本獨立),佔地最多的不用說當然集英社,前二十位中《JUMP》的漫畫就佔了十三本。雖然講談社方面,《MAGAZINE》的作品到了三十名左右才看得見《FAIRY TAIL》和《×××HOLiC》,但同社的《交響情人夢》則是頭十名內的前列份子,而《おおきく振りかぶって》和《浪客行���仍在五十名內有一席之地。相反小學館方面原本《犬夜叉》也是銷量排行榜的前列常客,但可惜年前已經完結而高橋留美子的新作亦仍未有足夠時間建立人氣,於是現在就只剩下《名偵探柯南》(第67卷,17位)和《結界師》(27卷,50位)而已。其實有此結果,回想來也是理所當然的──這十年來多少部暢銷漫畫你能數得出來是小學館出版的?連《SUNDAY》上的作品也這樣,小學館的其他漫畫有多慘自然不在話下。
小學館的怪異經營方針
如果要討論《SUNDAY》或小學館有甚麼問題,其實只要把他們經營模式與其他兩個競爭對手作比較就很容易得出結論。人人都知道賣漫畫是賺不了大錢的,要食大茶飯就是多媒體化,這方面相比起《SUNDAY》不管是《JUMP》或《MAGAZINE》都積極很多,後兩者的分別是《JUMP》走動畫化,而《MAGAZINE》則因為明知這方面鬥不過《JUMP》,於是就偏向日劇/實寫化方面來發展作品,但不管如何這兩本雜誌上面都有很多作品都是為了能夠改編而開始企劃的。故且不��這做法的好不好,筆者也不是要歌頌商業主義,但畢竟賺不到錢就一定沒戲唱,還談甚麼理想或優質漫畫。
對待作品的態度
當然《SUNDAY》上改編過的作品都不少,不過如果拿它們拿去和本誌的作品對比,就會發現一個很奇怪的現象──不知為何有些中堅的長期連載,單行本銷量不差又有穩定的讀者群(否則不會連載那麼久吧),但說到改編永遠沒他們的份。例如結成正美的《牧馬奇緣》是連載六年以上,26本單行本的長篇作,竟然沒有改編過。較多人認識的藤田和日郎的《潮與虎》共33本單行本也只有數集OVA,後來的《魔偶》更加是完全空氣,但相信它們連載的當時,沒有人會認為這兩部漫畫人氣不夠吧(順帶一提,他現在的《月光條例》看來也大概是無望動畫化的)。老人不說,新世代的漫畫家也有藤崎聖人的《WILDLIFE》,好歹也是出了27本單行本的長篇,竟然才只有2集實寫版(原預定3集)的日劇化計劃。雖說多媒體化的改編需要多方面的配合,也要電視台願意投資才能成事,而且這些作品的現有讀者群能否支撐收視率也是疑問,可是在改編後才大賣的作品根本就比比皆是,因此漫畫受不受歡迎,能不能炒作得起來,事實上最大的因素還取決於出版社願意給多少支持的。明明擁有有高質素的漫畫和已建立固定死忠讀者群的中堅漫畫家,小學館卻不去為積極地為他們開發市場。更有甚之的是不知為何《烈火之炎》、《MARS》這類「《JUMP》系戰鬥漫畫」的劣質仿製品卻能夠相繼動畫化,如藤田和日郎這類長期默默耕耘中堅份子,雖說的確沒有青山、高橋、安達充的叫座力,但故事穩定單行本銷量又不是不見得人,可是《SUNDAY》卻寧願把動畫化的機會給予一些稀疏平常的新人作品。當然這怪異情況近年有點改善,但過去失去太多,已經追不回來了。
《SUNDAY》除了有不願意炒熱作品的問題外,他們也有不願意腰斬作品的問題,一些看不到未來發展性而且又不好賣的漫畫卻可一直連載。最經典的例子便是久米田康治的《妄想改造人改藏》,寧願一直放牛吃草都不願意引刀一快,就讓久米田歹戲拖棚,而這戲還要是不賣錢的。雖然不是叫你應該像《JUMP》一樣老是十回完,但是總得給空間讓新人出頭吧? 像是《MAGAZINE》願意給五期單行本份量讓新人盡力,不行再給兩期份量腰斬也是一個方法,但《SUNDAY》就好像一開始連載,就會雜誌上生萬年根似的,身陳代謝率這麼低,會腐爛也是理所當然。
對待漫畫家的態度
接下來這個問題,也得先說說《JUMP》和《MAGAZINE》方面。《JUMP》對待漫畫家多殘酷不用多說明,絕對的跟紅頂白主義,管你《星矢》、《劍心》、《通靈王》賺過多少錢,新作不行也是刀不留手,但另一方面他們卻會十分努力地為漫畫家爭取應得的東西──錢,只要有一定成績(有說是總銷量過百萬)便有機會動畫化,而對暢銷中的漫畫家更不用說,四個字:「奉如神明」。《MAGAZINE》方面則相反地以編輯為中心,培育他們成為原作者,因為畢竟編輯才是公司的正式員工,而漫畫家是可以隨時替其他出版社畫連載的「合作伙伴」。
而《SUNDAY》這方面與《JUMP》相似都是漫畫家為中心,但問題就出在這裡了。第一,保障不到漫畫家發達,上面也說過漫畫家最賺的就是改編的版稅,而在《SUNDAY》畫漫畫就算能夠長期連載和有穩定銷量,也不是一定能夠吃到這個餅。第二,保障不到漫畫家的基本生活,《SUNDAY》連載的稿費出手低是冠絕業界已經是人所共知的,而很久以前就有一個傳聞,說有新人漫畫想增加稿費,但卻被《SUNDAY》編輯部以「連高橋留美子這種大前輩的稿費也是收這價位,你憑甚麼要求稿費比她高」為理由拒絕──問題是高橋可是百萬長者呀!對新人來說單行本又賣得不多,能吃的就是稿費而已。當然傳聞聽聽就算,但要講實在的也有《機神追女攻略》的若木民喜說過:「為《SUNDAY》連載了9年,連1日元的稿費也沒加過」,所謂沒功勞也有苦勞啊。
還有未來嗎?
前兩年「雷句誠事件」而相繼爆出了小學館的編輯賤待漫畫家一事,相信很多人也有所耳聞。明明是靠漫畫家吃飯,卻不把漫畫家當人看,自己的編輯又沒有《MAGAZINE》的原作實力和《JUMP》的炒作能力,又不把漫畫家當人,試問如果你是漫畫家,要如何在《SUNDAY》上看到希望?無怪乎《JUMP》「腰斬不留手、作品不給完」的惡名昭著,但新人們卻仍然前仆後繼寧願命喪其鍘刀之下,也不想為《SUNDAY》賣命,而《JUMP》也樂得慢慢揀卒。就算有新人不喜歡《JUMP》制度也好,也很自然地寧願選擇方針較自由和編輯支援較多的《MAGAZINE》也不是《SUNDAY》,於是便演變成現在漫畫家青黃不接的狀況。
而且原本就找不到人才了,卻連近十年的新人中���得一個能生金蛋的雷句誠都趕走。更糟糕的是上面提到被一直放牛的��米田,跳槽到《MAGAZINE》後的《絕望先生》卻像被變魔術般捧紅,這更證明《SUNDAY》的編輯的多缺乏企劃和發掘漫畫家才能的能力。這情況下,試問假設你是《SUNDAY》上半紅不黑的老牌漫畫家,假設哪天和編輯鬧翻了你又跳不跳槽呢?沒有有才能的新人出現,長年耕耘的中堅作品又當成空氣,最終就演變成現在只能吃自家大師級漫畫家的老本,會賺到錢才怪。更何況當連高橋、青山、安達充的叫座力大不如前,新一代讀者又不買他們帳的現在,形象更因為醜聞而賠了個清光,真不知要多少年才能復活……當然在這之前小學館會不會先自己倒下來,又是另一回事了。
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「虚子への俳話」168
「花鳥」令和5年2月号より転載
「金子兜太・黒田杏子 対談」2017年5月30日・NHK学園にて
この対談はかつてNHK学園で私が第一部として虚子の講演をした、その後第二部としておこなわれた金子・黒田氏の対談の模様を私が会場で速記をしたものです。このお二人とも故人となられた。誤謬などはご容赦を。
坊城俊樹
「俳句人生」
金子兜太・・
旧制水戸高校・十九歳のとき俳句の道へと考えた。一九三八年のことだった。まもなく結社「海程」は白寿をもって閉づるつもり。これは私一代のみのもの。当初は自分の句を作るため、作らせるためのものだった。 しかしここに来て終刊を宣言せざるを得なかった。いまは生き苦しいから。しかし来年の白寿にすれば良かったかも。発表が早かった。本当の自分の腹はまだ出来ていない。しかし生き場所が無い思いも。淋しいがさっぱりとしたかった。でも一年様子を見たかったが。今後は一人ぶらぶら、二人ぶらぶらでやる。自由で行くつもり。
黒田杏子・・
朝日新聞俳壇の選者を六十代でなされたときは伝統俳句派の新聞不買運動もありました。(金子氏は対立する現代俳句派の頭領と目されていた)今でこそ無いですが。 八十代��ではハングリーでやると。お顔も元気だが顔面神経痛もされたとか。しかしジャンギャバンに似て来られた。つまり人間が深化されたのでは。 私は十九歳年下で、かつて戦場経験をされた時の聞き役もしました。長生きの道を柔軟に歩くこと。そんな生き物の先輩であられる。俳句も一句一句だから一九一九。そんな人生なのではないですか。
金子兜太・・
答えられんよそんな質問、難しすぎて。 ともかく旧制高校に入ってから俳句を作った。わたしは母が十七歳のときに産まれた子。母は紙問屋の番頭の子だつた。母は徳利のような体でビア樽のような尻をしてた。 なんでも宇都宮聯隊の浜田という友人のとこにビア樽のような娘が居ると言うことで父と結婚することに。父(もとはる)は無理矢理開業医にされた人。本当は新聞記者になりたかった。嫌で試験は白紙で出したのだが、結局京都府立医大にはいった。 そして軍医となる。
やがてビア樽は未婚のままで兜太を産む。まさに偶成。ちなみに私の「造形論」も偶成の句の作り方。名前は「兜太」で役場登録。中国では東方の太い気性の意味らしい。しかし父はあそこが太いと勘違いしていたらしい。私は魂もそんな太くない。すけべではあるが。 兎に角私は母が十七歳で生まれた子、法的にも最少出生は女性で十六歳とかの頃。子供は十代で産めという時代だったのか。父は上海の学校の校医もしていた。妹も上海で生まれた。兄弟は六人もいた。 その後帰国し秩父で開業をする。
少年期のころから母が気の毒だった��農家の大家族に生れ、旧姓は島谷。姉妹は四人。母はいじめられたらしい。子供なのに饂飩打ちの麺棒で打たれていたとか。 母はその棒で饂飩を作り、私が小学校のころから父は俳句を作りはじめた。 秋桜子は父の同級生。医者同士で俳句の「馬酔木」をやることに。会は月に一二回か。もっとも、饂飩を食って・酒飲んで・俳句会。それは母がすべて差配した。
母は大家族制度の女性の立場を見てきた人。医師嫌いになった、たぶん俳句も。そのため私は母のいじめの理由を調べるために帝大で経済学を学んだ。しかし俳句を憎む母は父らわれわれをずっと「人非人」と呼んだ。句会の人たちもまた。 私は実際のところ、正式には俳句は出沢三太郎という友人の影響で作り出す。最初の句は、
白梅や老師無心の旅に棲む 兜太
これは句会の最高点だった。そこから病みつきに。水戸時代の色街が舞台で、女衒の舞台でケヤケヤ踊りというのがあり、その際どい踊りを詠った。(筆者拄、この句とあまり関係無いような気がするが、私の記録違いかも) 今後のことについて。今となっては、家族や友人たちとの「牧歌的な回想」がある、しかし「独りの道」というように切り替えてみれば、昔の私などはどうでもよい。
今後は「一人でどんな俳句が出来るか」「うまく行けばノーベル賞まで」と考えている。こんな野心こそがエネルギーかと。なんのこともない、結局母は百歳の時も俳句を作った。波郷、石塚友治の「鶴」のころも投句していた。 その金子ハルこそもっとも私の尊敬する人なのである。
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2024.1.27sat_tokyo
カーシェアを久しぶりに利用した。 宿泊施設として。 駐車場から出さない車の借り方もあるのだと、知った。 自宅も店もあり、その2階には事務所兼倉庫として借りた部屋もあり、普段はゴロっとシエスタさながらイタリアンなおれが。 東京で暮らし働くには、よくできたシチュエーションをお持ちのようだが、決して儲けてそうしてるわけでなく、成り行きでやけに安い家賃やほぼ無料でそういったスペースを一時的借りられている。以前(移転前のアリク)もそういう持主曖昧な領域を出し抜けにゲットする体質のようだ体質ではない。抜け目ないのだ。 にしても、そうだおれはラッキーボーイ(いやオールドガイか)だ。憑いてる。あ、いや、着いてる。ん?どこに。突いてる。なにを?あ、えと。運がついてる。の、ツイテルて漢字なんだ?調べた。付いてる。みたい。付着的なものだ。じゃあ、着いてるもいいか。運到着。ようこそ。待ってました。 話を戻す。戻らないかも。 そう、おれはツイテル(ノットツインテール)。 デザインと広告という観点で取り組むアリクの未来。お金も集めちゃおう!という謎プロジェ���トが昨春より起こり、この1月27日に終結したのだ。ホワイトなぜに…。
実装実験とは、だれも例えてないが、当事者でありながら客観的に捉えた自分からすると、この一年足らずに及ぶ時間はそうだったなぁ、と振り返る。いや、振り返れてなんかいない。 ともあれそんな長く大きな波にライドしたサーフは、綺麗なスープ(白波)となり、わたしを岸へ送り届けた(サーファー���はない。カッコいい例えしたかっただけ)。 アリク開業時よりきっての常連であり友人が持つ、桑沢デザイン研究所のクラス。 その生徒が、アリクをアウターブランディングするという課題が献上された。 これは、とてつもなくデカいギフトだという予感と不安。 減るものでもなくなるものでもない、むしろ成長していく、そんな気配がパナかった。 リアルにクエスト。ドラゴンも驚く、時は兎年のことだった…。 いいから話を進めろ!進めるべきだ!そうだ! 上記の提案に思わず即答しそうになったが、とどまり然るべき人に相談をして、そのギフトをいただきクエストは始まった。 リアルアリククエストだ。アリクエだ。 この経緯を500回は説明したが、結局尺を短くした解説はできなかった。当事者なのに。 素材か。素材だからか。自分の事だが、他人が考えるという事からか。 エヴァンゲリオンでいうと、おれが… 話をつづけます。 … 下北にできたホープヒル(希望丘)、ボーナストラックは、近年わたしをワクワクさせてくれている。 刺激的なのに牧歌的だ。落ち着く。 旧アリクの在った60年前建立のアーケードを模したかのような商業施設が、コロナの入口にできた。いろんな意味で驚きだったし、以降わたしを魅了しつづけている。 そこを利用させてもらって通行人の紳士淑女老若男女、犬猫鳥虫らを巻き添えにしたアリク祭り“デ”は、行われた。
この企画は、生徒らの取組む画題の最後に出した答えのひとつであって、あくまで打ち上げ花火をあげるものではない。 (ほか提案された・アリク図鑑・アリク人生ゲーム・コの字カウンターの復活 などがあった) それぞれの仕掛けは、新旧アリク既知未���問わず、これからのアリクの周知を高めるものだ。絶句だ。 催事=祭事は、企画を学生、主催をアリクとしたカタチで創りあげられた。 なかなかに複雑な部分はあったが、彼らの勢いを受けるに相応しい人選とコンテンツづくりで、自分は普段の裁量ではし得ないものを詰め込んだ。 結果は、筆舌し難いものとなった。 それを経た二日後。 整理しきれぬほどの情報の渦は、不思議と静かにどこかに身を潜めた。 いまここに綴ろうとするまでは。 当日とそこに及んだ膨大なセッションは、砂塵の彼方。時折、あああれはこういう事だったのか、まだ答えは先になりそうだ…という性質のものが数多あり、見上げた空に貼り付く星たちがそれか、とセンチに思い込ませるくらいしかできない。 そんな今だ。 祭り当日。 ありがとうを200回は言ったし、その数の倍は、褒められたし、よくわからないけど、おめでとうも100回くらい言われた。 150年ぶりという、10年にゼロをひとつ足した盛り経年表現の再会も何件か。 複数に渡り、偶然の繋がりとバッタリについての報告。 犬や子供がときどき身を寄せてきて戯れ付いてきた。 与えられたマネーを散財する即ちキャッチ&リリース!だから※貧乏なんだよ!的祭りは、おだやかなムードを終始保ちながら、瞬き一億回くらいしてるうちに終わった。 ※募金で運営した。詳しく知りたい方は、20分ください。説明します。
幻(て、成り立ちなんだろ。糸みたいのに刀みたいの。どっちも一部抜けてる…)みたいな一日だった。
地方からたくさんの演者や、飲食提供の為に仲間を呼んだ。 それはこのアリク10年を象徴するに相応しいタイミングだと思ったし、こんな事二度できないとも思ったので、盛大に我儘を告げた。その大半は、なんも特別な様子もなく、快諾してくれた。 あれ?いつもそうしてたのか?おれ。てくらいサラッと。 図々しさと馴れ馴れしさでここまで来たかも、いや、はっきりとそのように人に言われた事は一度や二度じゃない。その積み重ねが、この景色をつくったのなら、おれは過去のおれに礼を言うね。やってんな!おまへ❗️て。やらかしてんな‼️おまへ。ジャイアンかよ、細身の、て。 そんな地方のみんなの駐車場や宿について、先に述べたボーナス部屋(ノットトラック)や、近所に住む常連のお宅をお借りして、複数人の手配を済ませていた。 ぬかりなく、抜け目なく図々しくおれらしく。 予期せずと打ち上げの流れとなり、深夜一時を過ぎて解散となり、帰路につく。
遅くなったことを詫びる電話をいれるが、不通。 そうだ。氏はさっき(祭り)泥酔していた。不安は的中したのだ。 必然的に、宿はアリク��階の小さな部屋だけとなり、遠路はるばるのアーティストらを雑魚寝の合宿スタイルお見舞いしてしまった。一人は、予見し車中泊を名乗りでた。みんな優しく受け入れてくれた。 さて、おれも、と帰宅すると。 遠路から宿泊のフ���ミリーが、寝床を埋めていた。 そうだった。 … 宿屋はわたしの住むあたりにない。 頼れる人を起こすのには忍びない時間だ。
漫画喫茶ほか思い付かず… あ、車中泊。なるほど。
わたしは最寄りのカーシェアを予約して仮眠するという選択にいきつけた。
それぞれにとっての一日が、どのように感ぜられようものであったとして、人は床に就く。 みんなは今ごろそれぞれの地点で、おやすみなさいだな。おつかれみんな。ありがとうね。一人一人の顔は浮かばないけど、一日が大雑把に面でプレスしてくる。 また会おう。 床に就き 運の尽きがみえたころ わたしの元に辿り着いた運たちも それぞれ離散して 星空へと還っていった
月はアホみたいに眩しく照らしてきて 散る星たちの姿はよくみえなかった
風は地面に伏して 枯葉がカサカサ笑ってた
わたしは倒しきれぬシートに身を預け 意識を失うように眠りについた
-プロフィール- 廣岡好和 ヨッシー 45歳 世田谷 自営業・硴(かき)屋 アリク店主 @ariku2014
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張秀亞
H:高中曾見張秀亞作家的散文集,讀來清爽,但是有種淡淡的哀愁,後來軍中文康書箱有張秀亞自選集,中午有空也會選看,另代表作牧羊女常被提起。資訊不足的時代,對作者像謎樣人物。後看介紹:「1943年,到四川重慶任《益世報》文藝副刊「語林」主編,同年和天主教南京教區于斌主教之弟于犂伯在重慶真原天主堂結婚。1944年第一個兒子于若瑟出生即夭折。1945年,兒子於金山出生。1946年,回北京輔仁大學任教。1947年,女兒於德蘭出生,同年由新聞記者公會選為行憲後首屆中華民國國民大會代表。1948年,來到臺灣。」有名而隱其名。2001年6月29日在美國去世。也算是對作家好奇的結束。20230915W5
張秀亞
翻譯員
張秀亞,臺灣知名女作家,河北滄縣人,聖名則濟利亞,筆名陳藍、張亞藍、心井等,北平輔仁大學西洋語文系學士、歷史研究所碩士。曾任靜宜大學、輔仁大學研究所教授。天主教南京教區主教于斌樞機之弟妹。創作風格新穎清麗,意境深遠,著作有詩、散文、小說、翻譯、藝術史等八十餘種,詩人瘂弦譽其為「美文大家」。 維基百科
出生資訊: 1919 年 9 月 16 日
逝世: 2001 年 6 月 29 日,美國
著作: 杏黃月/台灣當代著名作家代表作大系, 荷塘之憶, 張秀亞人生情感散文, 種花記
學歷: 天主教輔仁大學, Seton Hall University, 河北師範大學
生平
1919年出生於河北省滄縣,父張里鵬 (字雲鵬),母陳芹,排名么女。7歲隨全家遷居天津,入天津天主教貞淑小學,是張秀亞接近文學的開始。[4]9歲開始於報紙之兒童週刊發表作品。12歲考入河北省立第一女子師範學院(今天津藝術學院),同窗有日後的女作家羅蘭、王怡之。15歲在《益世報》的文學周刊分別發表詩作〈夏天的晚上〉、〈秋之夜〉。發表文章時,以「陳藍」的名字寫散文,以「張亞藍」的名字寫小說同書評,用本名「張秀亞」寫些小詩,經常發表園地有《益世報》、《國聞周報》、《大公報》。[5]17歲第一本短篇小說集《大龍河畔》於天津海風社出版,不數年便贏得「北方最年輕女作家」的美譽。[1]19歲考入北平輔仁大學中國文學系,次年轉入西洋語文學系,畢業後考入輔大研究所史學組,後任英文系講師。1943年,到四川重慶任《益世報》文藝副刊「語林」主編,同年和天主教南京教區于斌主教之弟于犂伯在重慶真原天主堂結婚。1944年第一個兒子于若瑟出生即夭折。1945年,兒子於金山出生。1946年,回北京輔仁大學任教。1947年,女兒於德蘭出生,同年由新聞記者公會選為行憲後首屆中華民國國民大會代表。1948年,來到臺灣。來台後不再以陳藍、張亞藍兩個筆名,但以「心井」在中央日報發表文章。[6]1949年,她的長詩〈她呵,我們的好母親〉獲婦聯會新詩首獎。1952年,以本名張秀亞出版在臺灣第一本散文集《三色堇》。[1]1958年任台中靜宜英專(今靜宜大學)教授,講授翻譯課程。1965年,輔仁大學在台復校後,回輔大任研究所教授講授英美文學與寫作。1973年受邀在美國新澤西州西東大學擔任講座。2001年6月29日在美國去世。[3]
創作經歷與著作
張秀亞早期詩、散文、小說三種文類並進,文風夢幻。四〇年代末來台後,人生歷練導致創作題材轉變,散文以婚姻與憶舊為創作主題,如《三色堇》、《牧羊女》、《凡妮的手冊》等。1957出版《湖上》時,張秀亞自言創作風格已有所轉變,五〇年代末期開始寫田園生活,以及種種質樸的人物素描,以平凡生活、瑣碎題材入文。七〇年代,由於經常應邀報章雜誌書寫專欄,抒情味稍轉淡,其散文加重了哲理性沉思、文學藝術評論及讀書心得,《人生小景》等內容夾敘夾議,展現其晚年人生哲學。八〇年代後因病痛及生活不便所苦,創作銳減。[7]張瑞芬將1973年出版的《水仙辭》、1979年出版的《湖水・秋橙》與六〇年代的《北窗下》並列為張氏散文技藝的三個高峰。[8]
而詩歌主題則大多歌詠自然,描寫花草風露、季節遞擅。對於大學時代寫的散文詩,張秀亞亦自評其創作初期風格是「多幻想,缺少著樂觀的情調以及現實主義的色彩」。[9]在小說創作上,短篇小說集〈在大龍河眸〉,在藝術上承襲京派的文學風格,以詩化的寫實技巧,描寫平民百姓的生活與北方風情。來臺後受吳爾芙等女性作家影響,《女兒行》等作品開始具實驗性的嘗試。[6]瘂弦在張秀亞全集總論中提到張秀亞的小說「小説是『靜劇式』的,重視氛圍的『詩的小說』」。[1]
張秀亞自1934年起近七十年的創作生涯中,著作涵蓋論述、詩集、小說、散文、合集、全集、翻譯等,共計八十餘本。《張秀亞全集》於2005年,由國家臺灣文學館出版,共十五冊。
論述
《西洋藝術史綱》(11冊)雷文炳、張秀亞撰,臺中光啟出版社,(11冊)郵購出版社出版,1964年[註 1]
《給年青人》,香港山邊社,1981年11月
詩集
《青苔詩集》,天津出版,1937年
《水上琴聲》,彰化樂天出版社 1956年12月
《我的水墨小品》,臺北道聲出版社 1978年6月
《愛的又一日》,臺北光復書局 1987年4月
小說
《在大龍河畔》,天津天津北方文化流通社(海風叢書),1936年12月
《皈依》,山東保祿印書館,1941年1月
《幸福的泉源》,山東保祿印書館,1941年10月
《珂蘿佐女神》,重慶紅藍出版社,1944年10月
《尋夢草》,臺灣商務印書館,1953年9月
《七弦琴》,高雄大業書店,1954年1月
《感情的花朵》,臺北文壇社,1956年1月
《女兒行》,臺中光啟出版社,1958年8月
《那飄去的雲》,臺北三民書局,1969年7月
散文
《三色堇》,臺北重光文藝出版社,1952年6月
《牧羊女》,臺北虹橋書店,1953年8月
《凡妮的手冊》,高雄大業書店,1955年3月
《懷念》,高雄大業書店,1955年10月
《湖上》,臺中光啟出版社,1957年3月
《愛琳的日記》,臺北三民書局,1958年5月
《少女的書》,臺北婦女月刊社,1961年8月
《兩個聖誕節》,臺中光啟出版社,1961年10月
《北窗下》,臺中光啟出版社,1962年5月
《張秀亞散文集》,高雄大業書店,1964年
《張秀亞選集》,高雄大業書店,1964年8月
《曼陀羅》,臺中光啟出版社,1965年5月
《我與文學》,臺北三民書局,1966年12月
《心寄何處》,臺中光啟出版社,1969年9月
《書房一角》,臺中光啟出版社,1970年6月
《水仙辭》,臺北三民書局,1973年2月
《天香庭院》,臺北先知出版社,1973年7月
《人生小景》,臺北水芙蓉出版社,1978年6月
《寫作是藝術》,臺北東大圖書公司,1978年8月
《詩人的小木屋》,臺中光啟出版社,1978年9月
《湖水.秋燈》,臺北九歌出版社,1979年7月
《石竹花的沈思》,臺北道聲出版社,1979年8月
《白鴿.紫丁花》,臺北九歌出版社,1981年7月
《海棠樹下小窗前》,香港星島出版社,1984年6月
《月依依》,北京人民日報出版社,1996年10月
《張秀亞人生情感散文》,長沙湖南文藝出版社,1998年9月
《與紫丁香有約》,臺北九歌出版社,2002年3月
合集
《張秀亞自選集》,臺北皇冠出版社,1971年11月
《秀亞自選集》,臺北黎明文化公司,1975年1月
《張秀���選集》,香港文學研究社,1978年
《張秀亞作品選》,西安陝西人民出版社,1987年6月
《杏黃月》,武漢長江文藝出版社,1993年10月
《荷塘之憶》,西安陝西人民出版社,1998年5月
翻譯
《聖女之歌》(德)韋非爾撰,張秀亞譯,香港新生出版,1952年[註 2]
《心曲笛韻》郝思蘭撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1959年[註 3]
《恨與愛》莫瑞亞珂撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1960年[註 4]
《回憶錄》德蘭撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1962年[註 5]
《改造世界》凱樂撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1962年[註 6]
《在華五十年》(陶明修女的傳記)巴任撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1971年[註 7]
《論藝術》凱瑟等撰,張秀亞譯,臺北大地出版社,1972年
《自己的屋子》吳爾芙撰,張秀亞譯,臺北純文學出版社,1973年[註 8]
全集
《張秀亞全集1詩卷》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集2散文卷一》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集3散文卷二》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集4散文卷三》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集5散文卷四》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集6散文卷五》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集7散文卷六》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集8散文卷七》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集9散文卷八》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集10小說卷一》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集11小說卷二》,張秀亞 國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集12翻譯卷一》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集13翻譯卷二》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集14藝術卷》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集15資料卷》,國家臺灣文學館,2005年3月 全集
評價及影響
文學評論者對張秀雅的評價,除了她作為女性文學的重要推手外,常以美文與富含鄉土色彩談論其作品,例如詩人瘂弦稱其為「美文大師」,在《張秀雅全集》的總論中提到:「張秀亞在無意識下所反映出的女性心靈世界,在今天看來特別具有前瞻意義,這樣的探索,不但使在一個女性較多的環境中成長的她,找到屬於自己藝術的驅動力,而寫女性、表現女性、創造女性文學,也成為她一生的抱負與職志。」並提及「在臺灣婦女寫作運動中,張秀亞無疑是一位重要的燃燈者。她的寫作活動,一直與婦女文運的脈搏緊密相扣,起著導引與示範的作用。」[1]同時瘂弦認為張秀亞是一位充滿鄉土色彩的藝術家:「為農業時期與工業時期交替的台灣,畫了一幅幅美麗的畫像。那是台灣的黃金時代,如果有人問我們台灣的社會還沒變複雜、混亂之前,台灣人想些什麼,它們的夢是什麼顏色,讀一讀張秀亞的散文就知道了。⋯⋯張秀亞作品體現了那個時代,她的散文,是台灣永遠的田園詩歌。」[3]
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【田牧筆談】美中台:世界動蕩中的突兀熱點
整理與編輯/田牧(德國) 世界在動蕩與震撼中蹣跚前行,儘管俄烏戰爭不止,以哈沖突持續,但均不是當今天下真正的矛盾沖突焦點。世界強權碰撞危機和風險在台海與南海,真正逐鹿天下的是美中,台灣只是夾在美中沖突的火山口,筆者看來,菲律賓也只能算是配角而已。 美歐聯盟,縱橫捭闔,才結束不久的G7高峰會議,其公報在28處提到了中國,北京已然成為世界文明中的一股邪惡力量,指責與譴責躍然紙上。紐約時報使用題目一語道破:「G7公報28處提及中國,措辭強硬、凸顯對抗性」。 G7公報28處提及中國,措辭強硬,圖/G7網站 俗語道:清者自清,明者自明。美中關係、台海危機、美中台之間鬥智鬥勇等,這些距焦於時下的國際政情,今次的「閒話三人行」,話題圍繞美中台的突兀熱點展開。 人類離「三戰」一箭之遙 廖天琪:2024年風雲多變、兵兇戰危,時局足以令百姓驚恐與震驚,新近「三戰」說法喧囂,最多言及的大戰爆發點:…
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カタリ文庫2月の営業予定です。
遅くなりました。申し訳ないです。
今月もあちらにこちらにと伺います。お近くの皆さまよろしくどうぞお願いいたします。
*△の日にちはコジマトペさんで働いていますのでお手数ですが、ご来店の際にはコジマトペさんまでお声がけください。
*□の日にちはイベント出店の為実店舗はお休みです。
*都合や状況により休みの追加や営業時間の変更等がある場合があります。
*営業時間、今は17時クローズ。△印の日は16時クローズです。
ややこしくてすみませんが
ひとつよしなにお願いします。
ご来店前にDMなどでご連絡いただけますと確実かと思います。よろしくお願い申し上げます。
そしてupした絵本で気になる本ございましたらいつでもお声がけください。
なかなか家から出られないときには郵送もできますのでお気軽にどうぞ。
1日 オトマルシェ
◉8:00〜12:00
oto riverside terrace
4日 第一回 つどい
◉10:00〜15:00
ネクシティパレッタ
春日井市勝川町7丁目37番地
8日 牧歌
◉10:00〜16:00
岡崎市美合入込8-2
11.12日 アリィの冬と夏 2022 Re.11 @alg_vos
◉sat.10:00〜17:00
sun.9:00〜16:00
浜松卸商センターアルラ全館他 ほんまちビル周辺
入場無料 雨天決行 駐車場250台
浜松市南区卸本町37
13日 月曜のマニマニ
◉11:00〜15:00
一期家一笑
豊橋市下地町境田67-3
15日 モノマルシェ
◉8:00〜12:00
西尾市みどり川河畔
17日 kinari market
◉11:00〜15:00
桐林館 喫茶室/筆談カフェ
三重県いなべ市北勢町阿下喜1980
20日 布.絵本マルシェ
◉10:00〜17:00
NOBI COFFEE ROASTERS
愛知県刈谷市大正町3丁目121
(NOBIさんは9:00〜18:00営業)
23日 ツキイチ 珈琲とベーグル
◉11:00〜15:00
OORT CLOUD COFFEE
静岡県浜松市中区幸3-14-8
24日 軒先shop day
◉11:00〜17:00
oriyaさん
an's decoさん
26日
みとはな保育園
内覧会+ぷちマルシェ
◉9:30〜15:00
刈谷市恩田町2丁目163-9
(保育園内覧会は要予約。マルシェのみはご予約不要です)
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2024年2月24日
宮沢元首相の「日録」見つかる 戦後40年間克明に「第一級の史料」(朝日新聞 連載:宮沢喜一日録 戦後政治の軌跡 第1回 プロローグ)2024年2月24日
宮沢喜一・元首相(1919~2007)の40年間に及ぶ詳細な政治行動記録が見つかった。期間は、佐藤栄作内閣の経済企画庁長官に就任した66年12月から死去前年の06年9月に及ぶ。保守本流の政治家として戦後日本の軽武装・経済重視路線を築いた宮沢氏の折々の行動や考えがうかがえるほか、自民党内の権力闘争をめぐる具体的な記述もある。
記録は大学ノート185冊に及び、宮沢氏の事務所の執務室に、木箱に入れて保管されていた。政治学者で東京大学名誉教授の御厨貴氏が遺族から託され、研究者グループを組織して朝日新聞と共同研究。「宮沢喜一日録」として内容を分析するとともに、データベース化を進めてきた。
「日録」は宮沢氏が最晩年まで自らの政治活動の記録として手元に置いて活用していた。原則1日当たり2ページが充てられ、左のページには秘書が作成したその日の細かい日程が、会合の出席者とともに記されている。右のページには宮沢氏の直筆で、会談内容や簡潔な感想のほか、帰宅後に受けた電話の相手や内容などが記されている。
「宮沢喜一日録 戦後政治の軌跡」はこちら 「日録」には、宮沢元首相の最大の強みであった外交政策、蔵相などとして手腕を発揮した経済・財政政策、首相として直面した政治改革など、宮沢氏自身と戦後日本の歩みが刻まれています。各テーマについて日録を手がかりに取材した記事を25日以降も随時配信します。
金丸元副総裁の逮捕「やむなし」
たとえば、自民党総裁選に勝利する2週間前の91年10月11日には「竹下派宮沢支持決定を知る。これにて大勢きまる」。93年に脱税事件で金丸信・元副総裁が逮捕された当日には「逮捕やむなし」との書き込みがある。
92年の米大統領選の際には、共和党の現職大統領ブッシュ(父)の敗北を告げるキッシンジャー元国務長官の電話での言葉が記されている。
94年に非自民連立の細川政権と野党自民党の間で政治改革関連法案が焦点になっていた際には、後任の党総裁河野洋平氏に早期決着を助言していたことも、日録への本人の書き込みで判明した。
宮沢喜一「日録」の記載例
御厨氏によると、戦後政治の一線で活躍した主要政治家の数十年単位の行動記録で、欠損のない史料は例がない。ほかの政治家や官僚らの記録と照らし合わせることで史実の検証や横断分析が可能になることから、「これから戦後政治の研究をする際に必ず参照しなければならない第一級の史料だ」と評価する。
宮沢氏は護憲・ハト派の代表格だった一方、首相(在任期間91~93年)としては国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させ、自衛隊をカンボジアに派遣している。
首相在任中は今日と同様に相次ぐ政治とカネを巡る事件に直面。政治改革への対応を迫られた。当初から選挙制度改革よりも腐敗防止策を重視しながら実現できず、自民党の分裂を招き、結党以来初の下野を経験した。日録には当時の詳細な足跡が記録されている。
御厨氏は「高度成長と冷戦が終わった後、新たな国のかたちが見いだせないまま、失われた30年が過ぎた。宮沢氏は吉田茂元首相の下で戦後の政治と経済の骨格を実質的につくった人物。今こそその軌跡を日録でたどり、これからの日本の針路を探すことが求められている」と語っている。(池田伸壹)
朝日新聞社は宮沢喜一氏の「日録」について、東京大学名誉教授の御厨貴氏を中心とする学者グループと共同研究を続けてきた。日本語と英語の手書き文字をテキスト化するなどしてすべてのページと添付資料をデジタル化。当時の朝日新聞の記事や国会議事録、首相動静などと横断検索できるデータベースの構築を同社メディア研究開発センターで進めており、将来公開する時期や方法を検討している。デジタル化によって他の史料との横断分析も容易になるため、「戦後政治史研究を革新する新たなプラットフォームができた感がある」と御厨氏は語る。
未解決の派閥とカネ、重い検証資料 政治部長・松田京平
政治家の動静を確認することは、権力監視の基本だ。宮沢喜一氏のように、首相、閣僚として長く政権中枢にいた人物の行動記録は、戦後80年を控えた日本の政治史の断面を浮かび上がらせ、自民党派閥の裏金事件で問われる政治改革を考察することにもつながる。
日録には宮沢氏の直筆によるメモや補足のような走り書きがあり、本音や衝撃が垣間見える。後年振り返って書く回顧録と違う臨場感がある。
吉田茂、池田勇人、佐藤栄作という歴代首相に仕え、戦後日本を牽引した政治人生の前半。後半は首相として、自衛隊の海外派遣など国際貢献を問われ、蔵相時代に始まったバブル経済の後始末、行き詰まりをみせた自民党政治の立て直しに追われた。政敵さえも認めた知性と教養、キャリアを持ちながら、保守本流、護憲派の信念と現実政治をどう取り結ぶかに苦闘した日々を日録は飾ることなく粛々と記している。
日録の記録は精緻だ。実は、政治への関心が高かった祖母から宮沢氏の足跡を教わった影響で、私は高校生のころ手紙を書いた。1989年以来、宮沢氏との文通は5往復。その縁で、記者になる前を含め94~05年に計3度面会しているが、すべて時間が分単位で私の名前と共に日録に残っていた。
「新聞の影響力、落ちていますね。しっかりやってください」。最後の面会となった05年11月2日、25分間の多くが激励で、身が引き締まる思いだった。
同じ広島選出で自民党派閥「宏池会」会長を後に継承した岸田文雄首相の名前は、88年に岸田氏自身の結婚披露宴に出席したのが最初。個別の面会や電話など計85件、登場する。
派閥の政治資金事件で宏池会解散に踏み切った岸田氏は、縁戚でもある宮沢氏について著書で「政治の師とも呼ぶべき方」と記している。宮沢氏が30年前に直面した政治改革は、派閥とカネの問題を解決できぬまま今回の事件に至った。国民の政治不信と首相の指導力。今の岸田氏に突きつけられた課題は重なる。当時の行動を克明に残す日録は、首相のありようから政治を見つめ直す重い検証資料でもある。
牧原出(東京大学先端科学技術研究センター教授)【解説】 宮澤喜一日録研究会には、私も出席しており、あえてそのさわりだけでも紹介したいと思います。この日録は、秘書のつけた毎日の動静が左ページにあり、右ページは余白となっています。宮澤は鉛筆で主としてこの右ページにメモを書き込んでいますが、全体としてはあまり多くはありません。主たる情報は、秘書の記した会見の場所、日時、移動先などです。夜の会合についてもきちんと記されています。その意味では、巨大なデータセットとしての価値が高い資料だと言えます。研究会でもこうした動静データから、数々の興味深い洞察が展開されていました。派閥運営についてもメモは多く、派閥解消が叫ばれる今となっては貴重な歴史資料です。
私自身は、戦後史のなかで内閣官房長官の動静がここまで詳細に記された記録は他にないことに気づき、その箇所を丁寧に読みこみました。「『事故係』というあだ名がついた宮沢官房長官」と当時は語られていたようですが、日録には外交関連の事項が多く、宮澤氏ならではと思います。伊藤正義外相が鈴木善幸首相とのあつれきで辞任するくだりは、官房長官の冷静なメモが光っていました。このとき外務次官に辞任を慰留するなど、全体として人事案件で辞任を申し出る高官への慰留に努めるというメモが多く、リーダーシップに動揺が見られた鈴木善幸内閣での官房長官の対応と見ることができるかもしれませんが、政治の継続性に意を払うのは、政治家宮澤喜一ならではとも言えるでしょう。やはり、この長大な日録は、『佐藤榮作日記』と並んで、戦後政治の一級資料です。
駒木明義(朝日新聞論説委員=ロシア、国際関係)【視点】 ロシア初代大統領のエリツィン氏について何を書き残しているのか、非常に興味があります。
宮沢氏の首相在任は1991年11月5日から1993年8月9日で、ソ連崩壊による新生ロシア誕生からの3年間と、ほぼ重なります。
宮沢氏はソ連崩壊の2日後には早くもエリツィン氏に親書を送り、平和条約締結に意欲を伝えました。
92年1月には、ニューヨークで初会談。終了後に記者団に「自分としては潮時と思っている」と手応えを語りました。日本に帰る機中では「There is a tide in the affairs of men」とそらんじました。「人のなすことには潮時あり」。シェークスピアのジュリアス・シーザーの一節です。傍目にも高ぶった様子だったといいます。
ところがエリツィン氏は、92年9月9日、公式訪日の予定の4日前に、宮沢氏に電話でキャンセルを告げました。宮沢氏はドタキャンにずいぶんとショックを受けていたといいます。
結局エリツィン氏は93年10月に訪日。宮沢氏はすでに退任しており、細川護熙首相が首脳会談に臨みました。
ジェットコースターのようだった日露関係とエリツィン氏について、宮沢氏直筆の所感が残っているかも、と思うと興奮します。
林尚行(朝日新聞GE補佐=政治、経済、政策)【視点】 始まりました。息の長い企画になりそうです。なにより宮澤家の皆様、御厨先生はじめ政治学者��皆様、企画に向けてご協力・ご尽力いただいた皆様に感謝申し上げます。まずは政治取材の最前線から「宮澤日録」を考察する政治部長論文、宮澤政治を形作った外交について日録の記述を引きつつ紐解く概論的な記事、宮澤氏を直接知る政治学者お二人による日録のガイドブック的対談、30年前の政治改革をめぐる宮澤氏の知られざる動きを明らかにする記事ーーなどを順次、紙面とデジタルでお届けしていく予定です。その他の分野についても、随時発信していきます。政治が混迷を深める今だからこそ、読者の皆様に多角的に戦後政治を考える手がかりになるようなコンテンツをお届けできるよう、取り組んでいきたいと考えています。連載ページ(https://www.asahi.com/rensai/list.html?id=2076)もローンチしました。アプリの方は、ぜひとも連載フォローしていただければ幸いです。よろしくお願いします。
吉岡桂子(朝日新聞記者=中国など国際関係)【視点】 宮澤氏は漢詩にも通じた日本の伝統的な教養人だと中国の人たちからも思われていました。「片氷心在玉壺」。日経の私の履歴書の結びも唐詩選から引いています。私が取材をしたのは98年から01年にかけての蔵相・財務相時代ですが、日本の証券・銀行危機からアジア通貨危機と重なります。取り付け騒ぎが起きかねない怒濤のような日々をどのように過ごしていたのか、ほぼ同じ時期に日本が当時は「裏庭」視していたアジアを襲った通貨危機とどう向き合ったのか。米国との溝もありました。中国からの日本への批判もありました。外務省が前面に出る交渉は外交史料として黒塗りであっても残るのですが、経済外交、とりわけ大蔵・財務省の一部がコントロールする通貨外交は、通貨マフィアとの言葉のとおり、記録に残らないものがたくさんあります。それだけに大臣としてどのように過ごしていたか、それとも、やはり危機対応は官僚の仕事で大して気にしていなかったのか。今に続く日本の失われた時代を象徴する時代であり、今の中国やアジアとの関係の伏線だった時代でもあり、とても興味があります。
要職にある方は、その責任としていろんな形で記録を残してほしい。自分が関与した出来事が後世に語られるとき、自分の声が消されることなく、歴史に響かせることにもつながると思う。
金沢市 支援物資の提供を改めて呼びかけ(NHKニュース 2月24日)
金沢市は、市民などから寄せられた支援物資を、地震直後から被災者に届けてきましたが、物資の数が減ってきているとして、改めて提供を呼びかけています。
金沢市では、1月6日から定期的に市民や企業などに支援物資の提供を募り、多いときは1日720件ほど寄せられていましたが、23日は25件にとどまるなど、次第に数が減ってきているため、改めて提供を呼びかけています。
特に必要とされているのは、断水している被災地向けの水で、500ミリリットルか2リットルのペットボトルです。
また、常温で保存が可能な野菜ジュース、携帯トイレも要望が多いということです。
このほか、お茶のペットボトルやカップ付きのみそ汁とスープ、パックごはんとレトルト食品、それにカセットコンロや去年1月以降に購入したガスボンベも求められています。
いずれも新品、未開封のもので、飲料や食料については、賞味期限がことし6月以降のものにしてほしいとしています。
提供方法は持ち込みに限り、2月26日までの午前10時から午後4時の間に金沢市泉本町の「泉本町倉庫」で受け付けています。
23日は、市民が車で訪れ、段ボール箱に入った飲料水や野菜ジュースを届けていました。
提供した金沢市の40代の女性は「できることは限られていますが少しでも役に立てるよう物資を届けに来ました」と話していました。
金沢市能登被災地支援本部生活物資支援班の河野裕介さんは、「被災地ではまだまだ支援物資が求められている状況です。みなさんの協力をお願いします」と話していました。
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Your Name 2020
今までそうであったものがそうでなくなっていく過程やその瞬間を呆然と見届けるという記憶が重みを持って残っている。3.11津波が畑を飲み込んでいく映像、綺麗な青が泥で濁っていく辺野古、ユンボ、ジュゴンの死骸。2020年人気のなくなった渋谷のスクランブル交差点。都市が都市として機能しなくなっていく様はグロテスクに写った。結局俺は東京には東京でいて欲しかっただけなんだろう。それは反対の意味では外側から見た自分や自分の街のイメージをそっくりそのまま受け合うことと同じだ。僕が僕として機能しなくなるってのはどんな瞬間?頭がごちゃごちゃで今は答えが出る気配が全くない。全ての悩み事が並列に、来月の食い扶持に悩みながら新曲のディミニッシュの嵌め方を考えたりしてる。
おかしな一年だった。死んで行った人はスポットが当たってはまるでゲームかなんかの脱落者のような扱いで余韻も含めて丸ごと消えていった。そんなに急いで忘れないといけないもんかな。俺も死んだ先輩と同じ歳になったな、よく思い出してる。いろんな思いを一旦自分の口に放り込んでみる。口中ゆっくり焼けるように熱く、苦くまずい。まるで熱々のあんかけゲロである。こないだ東京にいたときにLIVEHAUSでやってた9partyに行ったんだけど、A PAGE OF PUNKのツトムさんが少し近いような話をしていた。自分の心を人に言葉にしてもらったときってなんだか非常に嬉しくって寝付きがいいのである。でもそのあんかけはいまだ口ん中に据え置きであり、笑ってないと泣き出してしまいそうだ。上りか下りか不明なクリシェから早く抜けださないと、と気持ちはひっ迫し毎晩のように不気味な夢を見て起きる。結局偉そうな口を叩いても俺もこの有り様なんである。そんな時不意に届くコロナ期間で始めた文通や好きな人とする電話に救われている。手間ひまかけて、距離や時間を伴ってくる言葉やものに全面的に信頼を寄せている節がある。泥みたいに落ち込んだ日にポストに手紙を見つけるとくさくさしていた気持ちが少し可愛くなる。通さなくてもいい筋や急ぎでもない用事、守らなくてもいい約束とかそういったものに守られている。大袈裟でなく救われている。孤軍奮闘のつもりでも所詮人に救われっぱなしで運が良いだけの男なんである。結局嬉しいも悲しいもひとつとして終わりを迎えることはできず、何にも折り合いもつけずに付き合って行くしかなさそうだ。「そういうもんだからしょうがないよ」ってのに付き合う方がいまは何故か大変心苦しく、何故か出来ないことが出来ず、結構普通に生きてきたつもりが何故か驚くほどに全然折り合いがつかない。
2020年12月28日LIQUIDROOMでライブをやるってのは実は随分前から決まっていたことなんですが、悪いけどYour Nameで俺にチケットやらしてくれと途中で取り舵いっぱい切らせてもらった。手垢のついた約束をして自分の手が動いているのを見届けないとなんだか今年は終われなさそうで、これはDIYやパンクを標榜するためのものではなく私のわがままです。前回二度目は無いとか調子に乗って言ってたのに本当でたらめばかりですまない。今回は入場チケットはコロナの都合上300枚くらいですが、後日配信も行います。ただバーチャルなのも嫌なんで、配信チケットも全て私が作ってリンクが記載された紙チケットを全員に送りつけます。配信チケットは上限無しなので千でも万でも一枚一枚作ります。今年はほとんどライブがなくって去年のように写真をデザインのメインにすることは出来ないので、今回はリソグラフとシルクスクリーンでいろんなアレンジをする予定。そしてゲストアクトが2組いまして念願の共演です。全てのチケットや諸々はNOT WONKのオンラインストアで販売するので、見てみてください。
2020月5月2日渋谷QUATTROでやるはずだったワンマンは関わる全員をちゃんと紹介するのが俺のテーマだったのですが叶わずだったので、今回は紹介します。主にYour Nameを作って行くのはNOT WONKの僕筆頭にフジアキム、今回から強力な参謀TETRA RECORDSの智基、カメラマン佐藤くんです。この5人でチケット送ったり諸々の準備を行います。会場とはAT-FIELD前田さんが繋いでくれて、当日はtoeのローディーもやっているユウさんと共に舞台監督です。音響はいわきソニックのPAチーフであり銀杏BOYZのPAでもある新妻さん。照明は苫のパイセン中野さん。相談役にKiliKiliVilla与田さん、avex笠川さん、鈴木さん。撮影や収録クルーなどまだ決まりきってないところもあるので随時紹介します。
そしてもう一点、2019年12月7日に苫小牧で行ったYour Nameでクアトロのチケットを買ってくれた皆さん、今回はまだそのチケットを使うことできないのですが、ちゃんと使える日の準備も進めていますのでもうしばらくお待ちください。
動機がはっきりしないものをどうお願いしていいものかと少しうろたえていましたが書いてるうちに勝手に少しだけすっきりしました。もしかしたら今我々が直面しているのは今までそうであったものがそうでなくなっていく過程なのかもしれませんが、心の変化のスピードなんか自分でも決められないのに、風潮やムードなんか当然余計なお世話なんだよタコ馬鹿と突っぱねていいと思います。みんなに起こり得ることがみんなに起こるとは限らなくて、なんだか不安になったりむかついたりすることもあると思いますが(俺がそうなので)、試行錯誤うまいこと全部と付き合って行く方法を考えられればと思っています。手間も時間もかかりますが一つずつやりましょう。みんなも無理せず、金なかったら無理してチケット買わなくても良いのでメールの一本でもください。そう言った感じでしばらく関わっていきましょう。小さな約束を重ねて繋いで、みんなで楽しくいい年迎えるぞ。オー
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【田牧筆談】關於歐洲領軍人物換屆的思考
在國際政治中,歐洲的力量舉足輕重。特別是時下的世界政情風雲多變、跌宕起伏,處在急速演遷中。歐洲議會近日選舉結束,整個歐洲的極右翼勢力迅猛上升,經歷了新冠疫情、俄烏戰爭、經濟蕭條、能源危機等,德國、法國等強勢經濟體一路頹勢與弱化,社會不穩、民心思變,為極右勢力與民粹主義提供了機會與溫床,尤為突出的是:排外最為直接,反對移民和避難政策,反對歐盟、反對歐元,堅持歐洲的單一市場等塵囂甚上,法國的勒龐更是強調「去伊斯蘭化」。歐洲政情如此飄搖動蕩,歐盟領導集團與北約領軍人物的換屆變更,成為當下國際一大關注點。 德國「世界報」 6月25 日刊文:「馮德萊恩將繼續擔任歐委會主席」,經過大約兩周的歐盟權力協調、平衡與角逐,歐洲主要政黨高層代表同意烏蘇拉·馮德萊恩(Ursula Gertrud von der…
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🎼 00162 「Private Eyes」。
古書店で見つけた わたしの好きな 牧逸馬さんの本は 10年とちょっと前に発売されたもので、現代風に書き直されてはいましたけれど、まだ読んだことのないお話が たくさん収録されていて 有り難かったです。また探しに行こうって思います。今回読んだ本は 「牧逸馬 探偵小説選 (論創社 2007年)」 です。この本は 全部で 45篇もの 中篇・短編作品が収録されています。過去に読んだお話もありましたけれど、やっぱり ワクワクドキドキしてしまいました。ほんのり触れておきます。
・赤んぼと半鐘
小児科専門医に駆け込んだ 印刷工の晋吉と 小児科専門の都築医師と 晋吉の子 角太郎の そのゆくえ。
・ある作家の死(死三題)
川上君が書いた小説 「ある作家の死」 と川上君と三千円と、とある作家の死について。
・アンケート
「探偵趣味」 にて 質問に丁寧に答える牧さん。
・一五三八七四号
紐育自由新報の社会記者 "ヘンリイ・フリント'' の何よりの楽しみは、紐育52番町と第4街の角にある 「猶太人の料理店」 で毎晩あっさりとした夕食をとること。ある日のこと、コウフイを飲み干した彼のすぐ横の卓子にいた老紳士が 大きな声を出して勘定を呼びました。
・言ひ草
牧さんのエッセイです。
・うめぐさ
紐育自由新報の社会記者 "ヘンリイ・フリント"と (新聞 三面下段の) 余白。
・女青鬚事件 (ウーマン・ブルウビヤアド)
1925年7月、ユウゴスラビアは ベルケレクル町の ベラ・レンツイ夫人は 35人もの男子を殺害。地下室に並んだ棺桶には それぞれ名が貼り付けてありました。
・鉋屑(死三題)
東京駅発駒込橋行きの車内で 「私」 が見つけた 鉋屑 (かんなくず) ひときれは、ひとからひとへ渡り回ります。電車は 須田町で止まりました。
・神々の笑ひ 前篇:
初春の神田神保町から飯田橋までの電車の中の野々宮さんは 切符代をけちりたくて仕方がありません。
・神々の笑らは 後篇:
5千円に別れを告げる 野々宮さんのおはなし。
・基盤地事件顛末
昭和4年10月21日午前7時20分ごろ、東京府下牛引町藤野間にある 藤野間小学校に通う ふたりの男の子が池で生白い 「何か」 を見つけました。それは 首も四肢も無い女性の惨死体でした。
・靴と財布
紐育の朝、紐育自由新報の社会記者 "ヘンリイ・フリント" が地下鉄道で遭遇した事件を さらりと綴っています。
・首から下げる時計
クリスマス前の紐育、紐育自由新報の社会記者 "ヘンリイ・フリント" に出来た恋人は 伊太利人でした。
・競馬の怪談 (真夜中の煙草)
倫敦。マルテン・タムスンという いんちきな男が、とある老人に声を掛けられました。牧さんの 「七時○三分」 と 物語が非常に似ています。
・コン・マンといふ職業
紐育自由新報の社会記者 "ヘンリイ・フリント" が、紐育壁町で 遭遇したのは詐欺師 (コン・マン) でした。
・百日紅
警視庁掏摸係の進���刑事 (と掏摸のちび八) は 新橋から 下り急行に飛び乗りました。向かうは大阪。
・山門雨稿
牧さんのエッセイです。
・七時〇三分
丸の内仲通りにある、景気測候所 信栄社の社員 宮本得之助は とある老人と出会う。「競馬の怪談」 と おはなしが似ています。
・実話の書
牧さんのエッセイです。
・島の人々
ブロウド・ウエイの舞台 「島の人々」 に立ち向かう、紐育自由新報の社会記者 "ヘンリイ・フリント"。
・襯衣 (シャツ)
誰かに尾けられている気がする 紐育自由新報の社会記者 "ヘンリイ・フリント" が 紐育の街を歩きに歩いた先に現れた男の正体とは?
・上海された男
観音崎署の刑事から逃げ出した男が 命からがら乗り込んだ船は 想像を絶する地獄船でした。
・十二時半
民夫と美喜子が 夜の浜辺を歩く。季節は秋色。刹那を感じます。
・ジンから出た話
とあるホテルに宿泊する男が とある亜米利加生まれの男から 様々な 「妻��し」 の話を聞かされます。
・助五郎余罪
慶応生まれの江戸っ児 助五郎は 明治湯の流し場で とある老人と若造の話に 聞き耳を立てていました。
・砂
とあるN町海岸通りS別邸裏D浜の砂丘で見つかった他殺死体は 寺尾幸江 (25)。
・西洋怪異談 - 境界線 (真夜中の煙草)
雇い主の婆さんに怯える 弱々しい小男は 斧を手にしました。結構こわいおはなしです。
・西洋怪異談 - 白い家 (真夜中の煙草)
とある夫人が語った夢についてのおはなしです。
・西洋怪異談 - 夏祭草照月 (真夜中の煙草)
ヨウクシャア州のずっと北の外れのとある村に 見世物小屋がやって来ました。
・一九二七年度の挿話
横浜に 支那料理を食しに行った小宮夫妻は 古道具屋で ある物と出会ってしまいました。
・民さんの恋
群馬の田舎から上京してきた 民さんは 17歳のむっつりやで真面目。こわい話です。
・椿荘閑話
牧さんのエッセイです。
・爪
佐太郎と仙二郎、ふたりは 強盗。仙二郎は 爪掃除に夢中でした。
・東京G街怪事件
G街四丁目の交叉点の真ん中で いきなり卒倒してそのまま急死した 51歳の男。彼は自殺でせうか それとも他殺なのでせうか。
・トムとサム
紐育自由新報の社会記者ヘンリイ・フリントと「土人の夏 (インデアン・サンマ)」 とアジア人と贋札についての物語です。
・ネクタイ・ピン
歯医者帰りの 紐育自由新報の社会記者 "ヘンリイ・フリント" と 奥様風の女性(背の高い、南欧系の美人)の おはなしです。
・舶来百物語 - 或る殺人事件 (真夜中の煙草)
ジェイムス・クレアランス・ウイッセンクロフトは 40あまりの 売れない画家です。偶然なのか、自らが描いた 絵の中の人物に 現実に出会ってしまいました。
・舶来百物語 - 恐怖の窓 (真夜中の煙草)
とある若い銀行員が、静養のため訪れたモンロウ村の叔母の家で 「沼」と「窓」の話を聞きます。
・一つの死 (死三題)
崖の上で死を望む彼と 真っ暗な晩。こわい話です。
・舞馬 (ぶま)
植木屋の峰吉の妻 お八重は 亭主の気を引こうと 遊びを ひとつ思いつきました。
・振り返る小径
牧さんのエッセイです。
・米国の作家三四
牧さんのエッセイです。
・米国作家の作に現るる探偵
牧さんのエッセイです。
・マイクロフォン
牧さんの随筆。探偵小説評論です。
・昼興行 (マチネー)
仕事で コネイ島を訪れた 紐育自由新報の社会記者 "ヘンリイ・フリント" が入った小さな劇場で起こった出来事は如何に。
・ヤトラカン・サミ博士の椅子
せいろん島コロンボ市マカラム街の珈琲店 「キャフェ・バンダラウエラ」 のあたりを彷徨う 印度人の売占乞食 ヤトラカン・サミ博士。彼の椅子は どんな椅子なのでせう。
・山口君の場合
朝の温泉町を歩く山口文二郎 (江東銀行青山支店の出納係) と 猫いらずのお話。
・夜汽車
紐育自由新報記者 "ヘンリイ・フリント" が 紐育行きの汽車の中で遭遇した物語。
・乱橋戯談
随筆・評論です。東洋の都の下で大地震とありました (関東大震災のことでせうか?)。なまずが跳ねる。
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しかも、ゼニ豚銭コロ「こころの臨床」の外道ども、受益者は、病気の障害のワシ等の方やと言うてるわな。オマイ等の腐った心理学のサービスの受益者がワシ等だと言ってるわな。いい加減にせなあかんぞ。受益者はお前らや。専門職と称するお前らや。ドーとデも為るような、心理学タラ精神医学タラ振り回して、人の人生を滅茶苦茶にしておいて、人の頭に電気を掛けておいて、人を強制収容所に閉じ込めておいて、四肢も拘束しておいて、地獄の拷問のような心理テストをしておいて、カウンセリングという名の心理拷問もしておいて、ガッポリ稼いでいるのはお前らの方や。一体どっちが受益者なんや、この糞アホども。現任者講習の受益者とはオマイ等じゃないか。
銭コロ「こころの臨床学会」の奴等に
与ふる書三題
銭コロ「こころの臨床」の奴等、
ゼニ豚増田さやか、銭ゲバ酒木保、銭コロ實川幹朗、
ゼニ豚戸田弘子、銭ゲバ金田恆孝、
オマイ等恥を知れ
第一題「する側」「される側」が仮構に見えている愚かしさ
第二題ドチらが受益者なのか分かっていないお粗末さ
第三題触っていいモノと触ってはいけないモノのチガイも分からぬ腐れ外道さ
絶対にヒトの『こころ』には、人間の『こころ』には、お前ら心理や精神医やらには、一歩も踏み込ませんぞ、触らせんぞ。この糞バカタレが。腐れ外道が。許せん。アホどもが。ソンなことも分からんのか、この外道ども。百億万兆歩譲って、心理やら精神やら、専門職を自称して国家資格があるとほざいているヤタラとヤカラな連中でも、触っていいモノと触ってはいけないモノがアルんやと云うこと、分かってないやろ。銭コロ「こころの臨床」の奴等、ゼニ豚増田さやか、銭ゲバ酒木保、銭コロ實川幹朗、ゼニ豚戸田弘子、銭ゲバ金田恆孝、オマイ等恥を知れ、この腐れ外道が、欺瞞に満ち満ちた外道ども、人間の『こころ』と云うモノはオマイ等が触ってはいかんもんなんや。それ分からんか。
「国試対策講座」やら、「個別相談会」やらで、正月早々がっぽり儲けられましたかナ。「現認者講習」とはまたチゴうて、試験対策の自主講座たら、個別相談タラ、「現認者が受験できるチャンスは、あと四回」タラ、ように煽りますナ。とにもかくにも、ゼニ豚とはよう言うたもんで、ほんまに心理職の国家資格化でこれほどガッポリ稼いでいるのは、アンタ等をおいて他にはありませんがな。あろうことか、金田牧師までこんなことをクリスマスカードで言うてくるんだから、ナニを言っているんだ。ホントにどうしようもない。それでも心理職国家資格反対だというのなら、一体全体、国家資格化反対ということの意味が、まるきりハンタイなんじゃないですか。まぁ、それにしても、心理職の国家資格化で、よう、これだけアコギな、ゼニ儲けをせっせっと出来るもんですな。恥と云うモンを知らないとは、恐ろしいもんですナ。
(2018/12/20 金田恆孝牧師からのクリスマスカードはがきの直筆部分)
「当会の一部が銭ゲバになっていることは認めます。」
この鬼畜心理拷問ゼニころテスト師ども。
鬼畜公認ゼニ豚心理拷問師ども。
その公認心理師の国試対策で、
国家試験対策講座でガッポリゼニ儲けとは恐れ入る。
ところで、公認心理師国家資格推進でもって、荒っぽくゼニ豚になっていることとは別に、アンタ等、銭コロ「こころの臨床」の奴等、ゼニ豚増田さやか、銭ゲバ酒木保、銭コロ實川幹朗、ゼニ豚戸田弘子、銭ゲバ金田恆孝、オマイ等の言いぐさで、三点ほどキッチリと批判しておきたい、銭コロ「こころの臨床」の奴等に与ふる書が三題あるんで、よく聞きなさいよ。
アンタ等、「する側」「される側」の虚構を仮構を排して、当事者の皆さんと共同協働を目指すというのが、アンタ等「こころの臨床」の触れ込みのヨウなんだけれども、いい加減にしてくれや。仮構じゃないで。ゼニ豚ども、よう聞け、精神病患者を相談来談者を飯の種にしてるやないか。飯のタネの側と、それで銭儲けして、専門職として年収200万以上あったら、仮構の構築でも、虚構の構築でもないやろ。診察室でも、相談室でも、テーブルをはさんでそちら側とこちら側じゃ、壁はうず高く、河は、そう大河が流れているんじゃ、それ分からんか。金銭面でも、社会的地位の面でも、親の納得の面でも、ご近所さんの納得の面でも、警察の職務質問にひっかけられた場面でも、交番署に落とし物の届を提出する場面でも、交通事故の現場検証の場面でも、あと市役所でなんかの書類を貰ってくる場面でも、全然違うやないか。対応もチガウシ、人の目もチガウシ、経済的にも違うし、社会的な信用の面でも違う。それで、「する側」「される側」の虚構を排して共同協働すると言われても、なんだか、うそ臭いやろうが。器用な嘘臭さと云うヤツやな。
しかも、ゼニ豚銭コロ「こころの臨床」の外道ども、受益者は、病気の障害のワシ等の方やと言うてるわな。オマイ等の腐った心理学のサービスの受益者がワシ等だと言ってるわな。いい加減にせなあかんぞ。受益者はお前らや。専門職と称するお前らや。ドーとデも為るような、心理学タラ精神医学タラ振り回して、人の人生を滅茶苦茶にしておいて、人の頭に電気を掛けておいて、人を強制収容所に閉じ込めておいて、四肢も拘束しておいて、地獄の拷問のような心理テストをしておいて、カウンセリングという名の心理拷問もしておいて、ガッポリ稼いでいるのはお前らの方や。一体どっちが受益者なんや、この糞アホども。現任者講習の受益者とはオマイ等じゃないか。国試対策自主講座の受益者とは、オマイ等やないか。ガッポリゼニ豚として、稼ぎまくっとるやないか。
どっちが、受益者ダト、、、、ふざけるな。
一度、精神病院に入れられたら分かる。
一度、看護士にヤキ入れられたら分かる。
一度、カウンセリングさせられたら分かる。
一度、心理テストを受けさせられたら分かる。
そのうち裁判所命令で、カウンセリングさせられる時代が来そうや。
そのうち裁判所命令で、心理テスト受けさせられる時代が来そうや。
恐ろしいワイ。
この鬼畜心理拷問ゼニころテスト師ども。
鬼畜公認ゼニ豚心理拷問師ども。
その国試対策で、ガッポリゼニ儲けとは恐れ入る。
最後にな、ワシは「こころの臨床」には大反対なんや。オマイ等は、『こころ』の臨床や云うんで、良いように捉えてるんだろうが、ワシから言わせりゃ、ふざけるなや。ワシはこれまでどうしようもなく精神科にかかってきたし、クスリも飲んできたが、精神病院に入院させられてきたし、心因反応から始まってアスペルまで散々病名を云々カンヌンされてきたが、ハッキリ言う。どうしようもなく精神医療や心理臨床や臨床心理があったとしても、どうしようもなくワシの精神や心理を云々カンヌンさせられてきたけれども、百億兆万歩譲って精神や心理を云々カンヌンさせられ、クスリ突っ込まされたりして、心理テストさせられたりして、もや、されてもや、ワシの精神や心理をオモチャにされてきたけれど、言うとくぞ、言うとくぞこの腐れ外道ども、ワシの『こころ』には、指一本触れささんぞ。ワシの『こころ』には、一歩たりとも踏み込まさせんぞ。ワシの『こころ』には、一度たりとも臨床させんぞ。言うとくぞ、言うとくぞ、お前ら外道の腐れ切ったゼニ豚公認心理師国家試験推進ども、ワシの『こころ』には一寸たりとも近づけさせんぞ。ワシの『こころ』を云々カンヌンできるのは、ワシ自身とお釈迦様だけじゃ、アホンダラ。何が『こころ』の臨床じゃ。何が『こころ」のクリニックじゃ。何が『こころ』の風邪じゃ。精神や心理までなら許したろ、百億兆万歩譲ってな。ただし、絶対にワシの『こころ』には、いや、人間の『こころ』には、お前ら心理や精神医やら学校の先生やらには、一歩も踏み込ませんぞ。この糞バカタレが。腐れ外道が。許せん。アホどもが。精神や心理だけやのうて、今度は人の『こころ』まで、おもちゃにしよんのかい、この糞馬鹿垂れの心理屋外道ども。
クタバレ外道が!!!!!この腐れ心理屋外道ども!!!!!!!!!!!!!
2019年初春 キーサン革命の鬼こと えばっち江端一起
前進友の会やすらぎの里のホームページ
http://yuinoumi.web.fc2.com/zenshin-index.html
えばっちのはてなブログ
https://ebacciblog.hatenablog.com/
えばっちのホームページ 乾坤一擲
http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html
えばっちのタンブラー
https://kisanebacci.tumblr.com/
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土呂久鉱害事件に関する覚書
(2002年1月22日成稿)
土呂久鉱害事件に関する覚書
宮崎県高千穂町の土呂久鉱山における亜砒酸製造に伴う慢性砒素中毒症は、大正期から戦後に至る長期にわたって継続した鉱害であったにもかかわらず、被害地域が僻遠の山村であったため長らくその存在が知られず、鉱山の閉山から10年近くたってから地元の教師の告発によって実態が初めて認知された特異な公害である。慢性砒素中毒症が4大公害病に続く指定公害病でありながら、現在あまり顧みられることが少ないことも考慮し、本稿では土呂久鉱害の経過を追うことで、近代日本社会の「闇」の一端に切り込みたい。
(1)土呂久鉱山の成立(1920-1933) 宮崎県岩戸村(現・高千穂町)の土呂久鉱山は、貞享年間(1684-1687)に銀山としてスタートしたものの、近代に入ってからは事実上休山状態であった。しかし、1920年、当時佐伯近郊の木浦鉱山で亜砒酸製造を行っていた鉱山師の宮城正一が土呂久鉱山から亜砒鉄鉱を採掘し、土呂久で亜砒酸の精錬を開始したことで一変した。日本の亜砒酸生産は第1次世界大戦期にドイツに代わる形で急成長し、主にアメリカに輸出されて綿花栽培の害虫駆除剤の原料などに使われていた。ところで、宮城が港町で交通の利便な佐伯から山間の土呂久へ移ったのには理由があった。地方紙『佐伯新聞』1917年4月29日付に次のような記事がある。
「懸案となり居りし当町字灘鳥越にある亜砒酸製造所の煙毒問題は今回所主宮城正一が農民に対して損害賠償をなし且つ製造所を移転する事となり、兎も角も一段落を告げるに至った」
宮城は煙害により地元住民から補償と立ち退きを要求されていたのである。つまり宮城は佐伯を追われ、亜砒酸製造が甚大な鉱害をもたらすことを知りながら土呂久へ移転したのであった。
亜砒酸は昇華点の193℃を境にして固体から気体へ、気体から固体へ変化する。この性質を利用し、亜砒鉄鋼を焙焼して砒素分を亜砒酸ガスとして流出させ、ガスを昇華点以下の空間に導き固体に戻して亜砒酸の結晶を採取する。当時、亜砒酸生産量全国一の足尾銅山では、銅の精錬の際に煙に含まれる亜砒酸をコットレル集塵器で回収する方法が採られていたが、土呂久にはそのような設備はなく、煙突に藁の覆いを被せるだけで、砒素を空気中に撒き散らし放題であった。そのため早くも1923年には亜砒酸による農業被害が地元で問題にあった。5月に行われた土呂久の部落自治組織「和合会」総会は鉱山側に「完全ナル設備ヲナシ事業ヲナサレン事」を要求することを決した。これに対し、宮城に代わって経営者となっていた川田平三郎は、1ヵ月50円の「交付金」を和合会に支払うことに応じたが、その見返りとして鉱山へ操業に必要な材料を提供することを求めた。鉱山側は要求を逆手にとったのである。
その後鉱害は甚だしくなり、特に牛馬の奇病が相次いだ。1925年、和合会は岩戸村長の甲斐徳次郎に対策を要求し、甲斐は西臼杵郡畜産組合の獣医である池田実と鈴木日恵に奇病で死んだ牛の解剖と鉱害の調査を依頼した。4月7日、鈴木は警察官立ち会いのもと解剖を行い、「連続セル有害物ノ中毒ニアラサルヤノ疑ヲ深カラシムルモノナリ」との所見を示した。甲斐はこの牛の内臓を宮崎県警察部衛生課に持参し、鑑定を依頼したが、県側は解剖後に内蔵へ亜砒酸が混入した可能性を理由に鉱害を否定し、現地調査を行ったものの調査結果を隠蔽した。一方、池田は「岩戸村土呂久放牧場及土呂久亜砒酸鉱山ヲ見テ」と題する報告をまとめた。池田報告は当時の土呂久の実状を生々しく伝えている。
「二、三十年モ経過シタ植林ノ杉ガ萎縮シテ成長ガ止リ、或ハ枯死シテ赤葉味又竹林ハ殆ンド枯死シ」 「妙齢ノ婦女ノ声ハ塩枯声デ顔色如何ニモ蒼白デアル、久敷出稼デ居ル人ノ顔面ハ恰モ天刑病患者ノ様ニ浮腫」 「山川ノ水ハ清ク澄ミ渡ッテ居ルガ、川中ノ石ハ赤色ニ汚レテ、三年前迄居タ魚類ハ今ハ一尾モ見ヘヌ」 「今ハ椎茸ノ発生デ忙シカラネバナラヌノニ、何ノ果報カ、此地ノ重要物産デアル椎茸ノ原木ヲミレバ、椎茸一ツ見ヘヌ。土呂久名物ノ蜂蜜モ、今ハ穴巣ヲ止ムルノミ」 「小鳥類ガ畑ノ中ニ死ンデ落チテ居ル事ハ年中ノ事で、何時デモ死ンダ小鳥ヲ畑ノ中ヨリ拾ッテ見セル事ガ出来ル」
この池田報告は1972年に高千穂町史編纂室で発見されるまで封殺された。
鉱害が拡大・悪化するに従い、農業では生計を立てられなくなった人々は鉱山で働くようになった。しかし、亜砒酸による健康被害は鉱山労働者に最も顕著であり、皮膚の亜砒負け、色素沈着、黒皮症、角膜炎、結膜炎、喘息、気管支炎、肝硬変などの症状に見舞われた。健康悪化に耐えられずに鉱山を辞め帰農する人も少なくなかったが、農業被害は増大するばかりで生活できず、結局収入を得るために再び鉱山に戻らざるをえなかった。あるいは椎茸の生えなくなった木を木材として鉱山に売却したり、完全に農業ができなくなった土地を鉱山に売却するという例もあった。鉱害はむしろ鉱山の事業を拡大する動因になったのである。
また被害と加害の重層性も深刻であった。鉱山の地主であった佐藤喜右衛門は鉱山から地代を得るのみならず、自ら採掘を請け負い、地元住民を労働者として勧誘し、鉱害に苦しむ農民からは加害者として忌避された。しかし、一方で彼は鉱山のすぐ近くに住んでいたために砒素中毒症に罹り、1930年から32年の2年間に���の一家7人のうち自身を含む5人が病死した。部落で鉱山から収益を受ける者が増えるに従い、鉱害反対の足並みは崩れていった。
(2)土呂久鉱山の展開と終焉(1933-1962) 大戦景気によって始動した亜砒酸製造は、戦後不況によって急速に不振になった。1926年にはアメリカの綿花不況のあおりで生産量が激減し、土呂久鉱山も生産中止・事業縮小に追い込まれた。一方、1930年代になると、航空機の材料の国産化をねらう中島飛行機が錫を求めて土呂久に目をつけた。1931年、中島門吉(中島知久平の弟)が一部の鉱業権を獲得し、33年には中島商事鉱山部が土呂久鉱山のすべての経営権を取得した(後に岩戸鉱山株式会社設立)。
中島は当初亜砒酸よりも錫を重視し、1936年に錫精錬の反射炉を建設したが、この反射炉は錫から分離された砒素分が煙とともに空気中に飛散するという杜撰な代物であった。翌年、和合会は反射炉の煙害防止を鉱山側に要求し、その結果遊煙タンクが作られたが、煙害対策とは名ばかりで、実際はこれを利用して亜砒酸の採取が行われたため、鉱害はむしろ悪化した。また、経営者が変わったことにより1923年の交付金契約は無効となり、中島が和合会に亜砒酸1箱精製につき12銭の補償金を支払う新契約が結ばれたが、旧契約に比べて被害者が受け取る金額は事実上半減し、しかも補償金の分配を巡り和合会内部で対立が発生した。さらに1937年の岩戸村会議員選挙で、中島側は鉱山の会計係長を出馬させ、鉱山労働者を買収した結果、中島系候補が当選し、和合会系の現職は落選した。明治以来、土呂久出身者が議席を失ったのは初めてであった。鉱山は地方自治をも破壊したのである。
中島傘下となって土呂久鉱山は拡大し、最盛期には約400人の労働者が働いた。特に1930年代末頃から亜砒酸は毒ガスの原料として需要が急増した。「黄二号」ことルイサイト、「赤一号」ことジフェニール・シアン・アルシンが亜砒酸を元に作られ中国戦線に送られた。深まる亜砒酸鉱害に対し、ついに1941年和合会は鉱山との契約破棄を決定した。福岡鉱山監督局は和合会に説明を求め、代表6名が福岡へ行き亜砒酸製造の中止を申請したが、監督局の担当者は「非常時には、部落のひとつやふたつつぶれても鉱山が残ればよい」と言い放ったという。結局1941年11月選鉱場の火災により土呂久鉱山は休山し、所有権も中島から国策会社へ移行した。
土呂久鉱山は戦後1948年、銅や鉛などの採掘を再開した。再び鉱業権を獲得した中島鉱山(旧岩戸鉱山)は亜砒酸製造の再開を計画した。和合会は再開反対を決議したが、宮崎県と岩戸村の斡旋により、1954年、鉱山から和合会への協力金支払を条件に改良焙焼炉建設に同意した。土呂久婦人会は岩戸村に抗議したが、村長伊木竹喜は「鉱山のおかげで、岩戸村には鉱産税がはいりよる」と取り合わなかったという。
鉱山がその後、1958年7月の坑内出水事故により一時休山を余儀なくされ、翌年には住友金属鉱山が中島を事実上買収したが、往時の活性を取り戻すことができず、1962年経営不振により閉山した。その間も鉱害は続き、1959年には和合会が高千穂町(岩戸村吸収)に亜砒酸製造施設の廃止を陳情した。しかし、ついに閉山まで鉱害はやむことがなかった。
(3)土呂久鉱害の告発(1970- ) 1970年、宮崎県高城町の四家鉱山で集中豪雨により鉱滓堆積場のダムが決壊し、砒素を含む鉱毒が河川へ流出するという事故が起き、宮崎県は急遽県内の休廃止鉱山の調査を行った。調査の結果、土呂久川から飲料水基準の2倍の砒素が検出された。同年12月、土呂久在住の佐藤鶴江は、岐阜のカドミウム汚染の報道を聞いて不安を抱き、宮崎地方法務局高千穂支局の人権相談に鉱毒被害を訴えた。支局は土呂久鉱山跡を調査し、彼女に鉱毒被害の事実申立書を発行したが、法務局は専門医による因果関係の証明がないことを理由に申立書を留置した。またしても行政によって鉱害は隠蔽されたのである。
一方、高千穂町立岩戸小学校教諭の斎藤正健は、妻が土呂久出身であったことから鉱害の事実を知り、同僚とともに土呂久全世帯を対象に鉱害調査を行った。斎藤らの調査は1971年11月、宮崎県教職員組合の教研集会で報告され、新聞報道により全国的に注目された。斎藤報告は、①1913-1971年に死亡した92名の平均寿命は39歳である、②土呂久全住民の34%が呼吸器をはじめ疾患に罹っている、③土呂久の児童の体位は劣っている上に眼病が目立つ、④スギの年輪は鉱山創業期に生長が阻害されている、という驚くべき内容であった。大正期以来の鉱害がこの時はじめて公表されたのである。
土呂久住民に不安が高まる中、宮崎県は県医師会に委託して住民の一斉健康診断を実施したが、慢性砒素中毒症に認定されたのは7名だけで、県の土呂久地区社会医学的専門委員会も健康被害と亜砒酸製造との関係性を「現在の知見では十分に説明ができない」と肯定しなかった。宮崎県知事黒木博は住友金属鉱山と認定患者に補償斡旋を提案し、1972年12月、両者間に補償協定が結ばれたが、住友の法的責任には一切触れず、補償金額は平均240万円にとどまり、しかも将来の請求権放棄を定めていた。県側は患者との交渉を外部との接触を絶った密室で行い、十分な説明をしないまま患者に調印を強要した。その後、黒木は新たな認定患者に対しても同じ内容の補償斡旋を5次にわたって続けた。しかも県は斡旋受諾者に対して公害健康被害補償法による給付を含む公的給付を中止するという「いやがらせ」まで行った。知事斡旋は補償額を抑制し、被害者の口を封じることがねらいであった。
1973年、環境庁は慢性砒素中毒症を第4の公害病に指定したが、認定要件を皮膚障害に限定し、内臓疾患を認めなかったため、多くの被害者が認定されなかった。一方でこの頃から県外の医師による自主検診が相次いだ。同年2月には名古屋大学医学部講師大橋邦和が、74年には太田武夫ら岡山大学医学部衛生学教室が、75年5月には熊本大学体質医学研究所の堀田宣之が住民への自主検診を行った。堀田は10月にも同僚の原田正純らとともに1週間にわたる大規模な自主検診を行った。これらの検診結果は環境庁の認定要件とは裏腹に、砒素中毒による障害が皮膚に限らず、呼吸器や循環器などの内臓にまで広がっていることを示していた。
1975年12月、5人の患者と1遺族が住友金属に損害賠償を求め宮崎地裁延岡支部に提訴した(第1次訴訟)。続く76年11月には第2次、77年12月には第3次、78年3月には第4次の訴訟が起こった。土呂久訴訟最大の問題は、1次的に賠償責任を有する鉱山師も中島鉱山もすでに存在せず、被告の住友が正式に鉱業権を得たのが閉山後の1967年で、住友自体は亜砒酸製造を行っていないことにあった。住友側は全面的に争い、訴訟は長期化し、高齢の原告が相次いで死亡していった。1984年3月に下された第1次訴訟の1審判決は「土呂久地区という山間の狭隘な一地域社会が、そのただ中ともいえる場所での本件鉱山操業により、大気、水、土壌のすべてにわたって砒素汚染され、本件被害者らはその中で居住、生活することにより、長期間にわたって四六時中間断なく、且つ経気道、経口、経皮、複合的に砒素曝露を受けたもので」あると土呂久鉱害を正確に認め、鉱業不実施を以って鉱業権者の賠償責任は免責されず、鉱業法115条の時効規定も適用されないことを理由に住友へ損害賠償を命じる画期的な内容であった。
しかし、この1審判決をピークに土呂久鉱害は急速に風化していった。既に1980年頃には被害者の支援組織「土呂久・松尾等鉱害の被害者を守る会」が財政難による活動停滞に陥っていた。また、支援運動の中心であった総評系労組が「反公害」から「反原発」へシフトしつつあり土呂久鉱害への関心は相対的に低下した。1979年、補償斡旋を続けた黒木が受託収賄容疑で逮捕され知事を辞職し、翌年、後継知事松形祐尭は公害認定を巡る行政不服審査で県が敗訴したのを機に被害者へ公式に謝罪したが、依然として知事斡旋受諾者への公健法給付を認めなかった。一方、訴訟は住友の控訴により続き、1988年の控訴審判決は住友の賠償責任を認めたものの、補償額から公健法給付を差し引くよう命じる後退したもの��った。住友はさらに上告したため、原告弁護団はついに水面下の和解交渉を行った。原告の高齢化と最高裁の状況を踏まえた苦渋の判断であった。1990年10月最高裁で原告と被告の一括和解が成立したが、住友の法的責任には触れず、賠償義務を否定し、公健法給付とは別に「見舞金」総額4億6475万円(1審判決の仮執行金と同額)を支払うという内容だった。1審判決も控訴審判決も被告の法的責任を認定したにもかかわらず、原告は訴訟の長期化に耐えることができずに訴訟自体には敗北したといえよう。
(4)総括 土呂久鉱山は、日本経済の工業化が急速に進展した第1次世界大戦期に始まり、戦間期の停滞を挟んで、15年戦争期には新興財閥の手で重化学工業の一端を担わされ、そして高度経済成長の開始により終焉した。その歴史は終始日本資本主義の発展過程に強く制約されたと言えよう。故に土呂久鉱害事件は局地的な鉱害ではあるものの、鉱山の杜撰な鉱害対策、鉱山への抵抗と依存の間で揺れる地域社会、一貫して公害の存在を隠蔽し民衆の声を潰した行政、公害反対運動の党派的分裂等々、近代日本の鉱害の一般的特筆を余すところなく有している。そしてついに根本的解決には至らず、現在も土呂久の自然が回復していないことは、鉱害が過去の問題ではなく、依然として現在的問題であることを示していよう。
《引用・参照文献》 斎藤正健「土呂久公害の告発とその後」Ⅰ-Ⅲ 『歴史地理教育』211、212、214号 1973年 川原一之『口伝 亜砒焼き谷』岩波書店 1980年 川原一之「土呂久鉱毒史」『田中正造と足尾鉱毒事件研究』5号 1982年 土呂久を記録する会編『記録・土呂久』本多企画 1993年
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