#産地の学校
Explore tagged Tumblr posts
Text
みんな知らない「実は略語」の言葉をまとめました。詳しくは...
食パン:主食用パン
食パンの語源に関しては複数ありどれが正しいかわかりませんが、有力な説を2つ紹介します。1つは、「主食用パン」の略。パンが日本に入って来た当時はイースト菌などもなく、比較的小さな菓子パンだけが作られていました。それからパンが大きく膨らむようになり、米の代わりになり得るようになったため、「主食用」と名付けられました。もう1つは、消しパンではない「食べられるパン」の略。昔は美術のデッサンなどでパンを消しゴム代わりに使用していたためです。
ブログ:ウェブログ
ウェブサイトの一種で日記形式のもの。英単語でも”blog”がありますが、もともとは”Web”と記録を意味する”log”が合わさった言葉である”web log”の略です。
軍手:軍用手袋
元々軍隊用の手袋として使われていたためです。日露戦争の際に、寒冷地を戦場とする兵士に支給するために考案されたものです。その後、荷物運搬や土いじりなど日���生活で使われるようになりました。
演歌:演説歌
元々は自由民権運動の政治運動家(壮士)たちが演説の代わりに歌った壮士節が始まりとされます。1930年代にジャズやクラシックが大衆歌に組み込まれていき、歌詞も政治とは関係のない叙情詩的なものに変わっていきました。
教科書:教科用図書
主に小・中・高および特別支援学校などで学ぶ時に配布される中心的な教材のことで、「教科用図書」の略です。教科書と教材の違いは、文部科学大臣の検定に合格したものが教科書と呼ばれます。
チューハイ:焼酎ハイボール
焼酎とハイボールを組み合わせた「焼酎ハイボール」の略語。焼酎やウォッカなど無色で香りのない酒類をベースに、炭酸で割ったものを一般的に指しますが、炭酸ではなくウーロン茶で割ったウーロンハイもチューハイの一種です。
ジャガイモ:ジャガタライモ
ジャガイモはそもそも南米原産の食材であり、日本には16世紀末にインドネシアのジャカルタからオランダ人により伝えられました。そのため当時は「ジャガタライモ」と呼ばれていましたが、後に略されていきました。ちなみに日本では中国語由来の馬鈴薯とも呼ばれます。
ワイシャツ:ホワイトシャツ
主に男性が背広の下に着るシャツのことですが、元々は和製英語である「ホワイトシャツ」の略。よく「Yシャツ」と記載されることがありますが、これは完全に当て字です。一方で、「Tシャツ」はアルファベットのTの字に似ているためこう呼ばれるようになりました。
割勘:割前勘定
友人との飲み会などでよくある割勘は「割前勘定」の略。割前とは分割してそれぞれに割り当てることを意味する言葉です。江戸時代後期の戯作者で浮世絵師として有名な山東京伝が発案されたと言われており、当時は「京伝勘定」と言われていたそうです。ちなみに世界的に見ると割勘の文化は少数派で、男性や年上が払うのが一般的のようです。
カラオケ:空オーケストラ
歌のないオーケストラの意味で、「空(から)オーケストラ」から「カラオケ」と略されました。カラオケは日本で1960年後半に誕生したとされ、その後世界に広がっていきました。そのため英語でも”karaoke”と書きます。ちなみに中国語では「卡拉OK」と突然アルファベットが出てくる不思議です。
バス:オムニバス
ラテン語で「すべての人のために」という意味の「オムニバス」が語源で、フランスの乗合馬車の発着所の雑貨屋の看板に書かれていたことに由来します。そこから多くの人が利用す��乗合自動車をオムニバスと呼ぶようになり、その後略されました。
リストラ:リストラクチャリング
英語で「再建」を意味する”restructuring”から略されたものです。リストラと聞くと人員削減をイメージしますが、本来の意味は事業構造を再構築することです。その中の一環として、人員削減が起こります。
リモコン:リモートコントロール
英語で「遠隔操作」を意味する”remote control”から略されたものです。TVなどに向かってリモコンから赤外線をデジタル信号で送ることでチャンネルや音量などを操作することができます。
ソフトクリーム:ソフト・サーブ・アイスクリーム
海外では「柔らかいクリーム?」となり伝わらない和製英語です。英語では” soft serve icecream”であり、ソフトクリームサーバーの製造などを行っている日世の創業者・田中穰治が日本でソフトクリームを広めるのにわかりやすくするために省略したとされています。
ペペロンチーノ:アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ
唐辛子をオリーブ油で炒めたパスタ料理。正式名称は「アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」と言います。イタリア語で「アーリオ」は「ニンニク」、「オーリオ」は「オリーブオイル」、「ペペロンチーノ」は「唐辛子」を意味しています。
経済:経世済民
中国の晋朝について書かれた歴史書である『晋書』に書かれた「経世済民」を略した言葉です。現在の政治と同じような意味で昔から使われていました。明治以降、”economy”の訳語として頻繁に使われるようになったようです。
首相:首席宰相
首席はトップを意味し、宰相は辞書で調べると「古く中国で、天子を補佐して大政を総理する官。総理大臣。首相。」と載っています。首相の言葉の中に首相が含まれている二重表現のような言葉です。ただ「首相」は日本国憲法に記載された言葉ではなく、報道などで使われる内閣総理大臣の通称です。
切手:切符手形
お金を払って得た権利の証明となる紙片のことを古くから「切手」と呼んでいました。日本の近代郵便制度の創始者である前島密が、“郵便物に貼って支払済を表す印紙”に「切手」という言葉をそのまま当てたそうです。
出世:出世間
元々は仏教語で、仏陀が衆生を救うためにこの世に出現することを指す言葉で、「出+世間」でした。そこから略され、日本では僧侶が高い位に上ることを意味するようになり、世間一般でも役職が上がることなどを指す言葉となりました。
断トツ:断然トップ
2位以下を大きく引き離すことを指す言葉ですが、元は「ずば抜けて」の意味を持つ「断然」と首位を表す英語の”top”が合わさった言葉の略。そのため「断トツの1位」という表現は二重表現になります。
押忍:おはようございます
朝の挨拶である「おはようございます」から「おっす」と短くなり、さらに「おす」へと略されました。そこから「自我を押さえて我慢する」という意味を込めて「押忍」という漢字が当てられました。
デマ:デマゴギー
大衆を扇動するための政治的な宣伝を意味するドイツ語の「デマゴギー」を略したものです。元の意味の通り、政治的な意味合いを持つ言葉でしたが、昭和になってから、単純に「嘘」や「根拠のない噂」の意味で使われるようになりました。
おなら:お鳴らし
屁を「鳴らす」の名詞である「鳴らし」に「お」をつけて婉曲に表現した言葉で、そこから一文字略されました。元々の言い方の方が上品な感じがあって良いですよね。というのも、一般庶民は昔から「屁」と言っていましたが、宮中に仕える女房たちは隠語として用いていたためです。
電車:電動客車
電動客車をより細かく表現すると、「電動機付き客車」または「電動機付き貨車」となります。電車は架線あるいは軌道から得る電気を動力源として走行しています。
電卓:電子式卓上計算機
計算機という本来役割を表す意味の言葉が略されています。1963年に世界初の電卓が登場し、1964年に現在のシャープから日本初の電卓が発売されました。当時の価格は53万5千円と車を買えるほどの値段でした。今では100均で売られているものもあるのに驚きですね。
ボールペン:ボールポイントペン
英語で”ball-point pen”と言い、これを略した言葉です。ボールという単語が使われている理由は、ボールペンの構造上、先端に小さな回転玉(ボール)があるためです。
インフラ:インフラス��ラクチャー
英語で「下部構造」や「基盤」を意味する”infrastructure”から略されたものです。電気・ガス・水道・電話・道路・線路・学校や病院などの公共施設など、私たちの生活に欠かせないものを指す言葉となっています。
シネコン:シネマコンプレックス
「コンプレックス”complex”」が「複合の」を表す英単語で、同一ビル内に複数のスクリーンを備えた複合型映画館のことを表します。国内の代表的なものとしては、TOHOシネマズ、イオンエンターテイメント、MOVIX、ユナイテッド・シネマなどがあります。
シャーペン:エバー・レディー・シャープペンシル
シャーペンが「シャープペンシル」の略ということを知っている方は多いと思いますが、実はこれも略語。1838年にアメリカで「エバーシャープ」という筆記具が登場し、その後1915年に現シャープの創設者である早川徳次氏が国内初となるものを考案し、「エバー・レディー・シャープペンシル」という商品名をつけヒットさせました。
ピアノ:クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ
イタリア語で「小さい音と大きい音を出せるチェンバロ」という意味です。いつの間にか「小さい音」を表すピアノだけに略され、楽器を表す名詞となりました。元のピアノの意味は今でも音の強弱を表す「メッゾピアノ」や「ピアニッシモ」と合わせて音楽記号として使われていますね。
246 notes
·
View notes
Text
無題
臨月を前に、産休中の家人は日中盛んに散歩して廻っているらしい。体型の維持と、マイナートラブルの予防と、気分転換のため。手すさびに撮影した路傍の写真が立て続けに送られてくる。干上がった用水路や、同じ車種なのになぜかナンバープレートが黄色と白で違う2台の自動車、義兄が不良仲間とつるんでいたという団地(外壁が塗り直されて妙に真新しかった)、転校する前に通っていたという小学校(妊婦とはいえ、大人が少し足を伸ばせば学区域のひとつふたつくらい踏破できるのだと思った)。さっき電話したら、義父のくしゃみが電話口の向こうからきこえた。福岡空港で買った宮崎辛麺を、ひとり湯掻いて啜った。美味しくなかった! 今夜はスーパームーン。予定日まではまだ1ヶ月以上あるが、満月に産気づく妊婦も多いらしい。まさか、と思いながら少し身構える。堕胎の恐怖を、見て見ぬ振りでやり過ごす。期待に胸を躍らせる。今日も生きたね、と歌ってみる。迎えに行くのではなく、やってくるのを待っている。
27 notes
·
View notes
Text
先日31歳になりました。Tumblrを始めて何年になるのだろう。途中で全消ししちゃったから定かではないんだよね。ちなみに残ってるいちばん古い投稿は7年前でした。
夫が長期出張のためめずらしく平日に実家に帰省した。どう頑張っても片道3時間はかかるので、3〜4日じゃ全然ゆっくりできた気がしないのどうにかしてほしい。ほんとうはこの期間に、5月末に出産した友人の赤ちゃんを見に行きたかったのだけれど、予定が合わず断念。高校時代の友人も9月には出産すると連絡をもらったし、最近ずっと人へのプレゼントに頭を悩ませている。30を過ぎてからというもの、出産報告におめでとうを送ると、カジュアルな「早く産みな〜どんどん体力なくなってくんだから」がまぁ必ずと言っていいほどついてくる。それは周囲がすでに30代の私に投げかける言葉としてすごく正しくて、スッと受け入れ有り難がるべきことなのだけれど、なんとなく心の奥がモヤっとしてしまう。最近はそんなアドバイスを遮って、甥への何にも変えられない愛おしさと育児の大変さ、どちらもひしひしと感じているからこそ簡単に決断できないんだよ〜!と言い出したくなる始末。※ちなみに甥は6月に1歳を迎え歩き出し、星のボタンがついた小さな靴で転ぶリスクも厭わず走り回るので帰省のあいだ面倒を見るだけでも疲労困憊。母もとい妹はすごい。
そんなこんなでここ最近は、ライフステージを駆け上がる友人と連絡を取るたび、私はどうしたらいいのか、に飲み込まれていたので、配偶者である夫と離れて実家に帰省した日々はとてもいい気分転換になった。どうしても自分の足で歩きたい甥っ子を追いかけ回しているとき。ほぼ物置と化した元子ども部屋でひとり学生時代に揃えた漫画や小説に囲まれているとき。甥と妹が並んで昼寝している横顔を眺めているとき。青い空と入道雲に見守られて車で田圃道を走るとき。以前は地元や実家にこんなにも救われるなんて想像していなかった。許せない過去はいまだに私の奥底に存在していてごく稀に顔を出すけれど、そのときはそのときだ。離れて暮らすことが私たち家族の正解だった、と今ならキッパリ言えるけど、がむしゃらに足掻いて人知れず泣いていた当時はそんなこと分からなかった。終わりよければすべてよし、なんて陳腐なまとめ方したくないけれど、私たち家族に限って言えば意外とぴったりな言葉なのかもしれない。これだって私からしたら努力して乗り越えてきたんだ。これからだって、自分が後悔しない生き方さえ選べれば、私たちは大丈夫。帰ろう、彼の元に。
40 notes
·
View notes
Text
森 香澄は、日本のタレント、グラビアアイドル、フリーアナウンサー。seju所属。元テレビ東京のアナウンサー。 ウィキペディア
出生地: 東京都
生年月日: 1995年6月16日 (年齢 28歳)
学歴: 東京女子大学, 東京都立新宿高等学校
身長: 154 cm
テレビ番組: たとえあなたを忘れても, アルコ&ピースの六本木で恐竜を科学する, FOOT×BRAIN
公式サイト: 森 香澄 | seju - GROVE株式会社
出演経歴: 『THEカラオケ★バトル』; 『よじごじDays』; 『パラパラParavi』; 『マネーのまなび』; 『CHOTeN 〜今週、誰を予想する?〜』
東京都出身。東京都立新宿高等学校、東京女子大学現代教養学部人間科学科卒業。大学在学中はセント・フォースの関連会社であるスプラウトに所属していた。
2019年4月1日、テレビ東京に入社。社内��修を終え、総合編成局アナウンス部に配属される。同年6月26日、『テレ東音楽祭2019』にインターネット同時配信のリポーターとして出演し、同期入社の池谷実悠・田中瞳と共にデビューした。7月8,12日に放送された『ニュースモーニングサテライト』に出演。10月より産前産後休業に入った繁田美貴の後を受け、『THEカラオケ★バトル』の司会者に起用されることとなり、10月13日放送の特番から登場した。12月8日放送の『青春高校3年C組』で、テレビ東京アナウンス室アイドル部員4人とともに「青春のスピード」を踊り、センターを務め(同月10日YouTube配信)、2020年2月9日には青春高校3年C組アイドル部・相内優香・相内ユウカとも共演。1月6日より前年まで務めた柴田阿弥の後任として土曜日の競馬中継『ウイニング競馬』の司会者として登板。同年4月からは毎週火・木曜日の『よじごじDays』の司会を担当した。
2023年3月31日でテレビ東京を退社することを発表。
2023年4月1日、seju(GROVE株式会社)に所属した。6月25日発売の『週刊プレイボーイ』にて男性誌初グラビアに挑戦した。同年12月18日、集英社のデジタルコンテンツから選出される「グラジャパ!アワード2023」で週プレ賞受賞。
2024年2月28 日にファースト写真集『すのかすみ。』(幻冬舎)を発売予定
90 notes
·
View notes
Text
20240924 おさかな市場と海
久しぶりに仲良しの友達と会った。ひと月程前から予定を合わせて、どこに行くかはいつも前日の夜に決める。天気とか体調とかもあるので割と前日の夜決めるのも悪くない。
同県とはいえ端と端にいるので中間地点で遊ぶことが多いのだが、難点は現地の土地勘が全くない場所ということ。スマホで調べたら色々出てくるから救われているけれど、あの辺りって何かあったっけ?どうやって行くんだ?から始まる。
大体田舎住みの私が車で向かって、都会住みの友達をどこかの駅で拾うというのが通常。今回も行ったことのない駅に向かう。それもまた楽しい。なんとなく電車の到着時間に合わせて家を出るのだけれど、いつもかなりぴったりの時間にその場所に着くから不思議。
おさかな市場に着いたのが昼近くだったので、早速そこでお昼を食べることに。3連休明けの平日だからか、人は少なめ。何軒かある中から迷いながら2階にある食堂にした。電気は薄暗くて窓際の席もいっぱいだったけれど、新鮮な魚でとても美味しかった。日替わりランチというものがやっぱりお得にできているんだろう。友達が日替わりランチ1200円。私が海鮮丼2600円。見た目の差がすごい。
ご飯を食べた後は、海近くなので堤防沿いを散歩。おしゃべりしながら歩く。日差しはあったけれど風が涼しくて秋が来たなという感じ。
近況報告、恋の話、いくつになっても変わらない。ひと通り歩いたらまたおさかな市場に戻って甘いものでも♡ということで
座ってのんびり食べながらまたおしゃべり。尽きません。お土産に干物や塩辛を買って車に乗り込む。最寄駅ではすぐ着いちゃうから寂しいので、乗り換え駅まで送ることに。小一時間のドライブ後、駅に到着。またねーと手を振り合ってお互い帰路に。
楽しかったな。
思えば中学生の頃から仲良くしてるけど、学校帰りにお互いの家に別れる曲がり角で何時間もしゃべってたっけ���その頃から確かに随分大人になった。お互い色んなこともあった。それでも変わらないなっていうところがたくさんある。今でもこうやって会って笑って楽しく過ごせるって本当にありがたい。
とても良い一日でした♪
26 notes
·
View notes
Quote
その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃���頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わ��か6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道���をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人が���ます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
22 notes
·
View notes
Text
恋人が北海道の地方の大学に学士編入したいと考えているらしい。福岡から恋人の大学頃の友人が来札していて、学士編入の話をしたという。
頭の中で逆算する。試験勉強をして、受験して、入学卒業したとして彼は、わたしは何歳になる。こんな話をされる3日前までは、順当にいけばこのまま結婚して、暫くしてから妊娠出産するだろうと思っていた。彼を待つとしたら、ぐっと妊娠が難しい年齢に差し掛かることが一番に過ぎる。「絶対子どもは欲しい。***くんもそうだよね?」と聞くと、神妙に頷かれた。授かろうとしてすぐ授かるものでもない。今の年齢でさえどちらかが不妊症の可能性があるのに。ブライダルチェックでもして安心材料が欲しい。ここまで一気に話す。そうだよね、と返されてほんの少し間が空く。「でも、学生でも子どもは持てるだろうから」 それは、わたし達の年齢だけを考えれば、最善の答えかもしれない。でも、学生の彼と、家族と知り合いもいない地方に引っ越して、転職して、わたしが産んで、育てるのは過酷だと思う。産休育休のことを考えれば、今の職場に勤めながら札幌で産んだ方が安心なのに。「もし受かったとして単身赴任とかになるのかな」 「***ちゃんは来るよ」 当たり前のように言われてしまう。彼の将来にわたしがいる事が嬉しい気持ちと、彼について行くことを当たり前のように思われている事に少し身を固くしてしまう。
彼が高校生の頃にその道に進もうとして、諦めたことは知っていた。「今だに浪人すれば良かったかと思うことがある」「今年の配属で就かなかった職に関わる事務をするなんて皮肉だなと思っていた」「俺が今の職に就いて親族はがっかりしたと思う」 その話は初めて知った。「この話も、学士編入を目指したいことも内緒ね」と言われる。彼がこの先、後悔しない日々を過ごして欲しいと思う。なんだかんだ受かっちゃう気もするし、仮に落ちたとしても彼が自分の人生に折り合いをつけることが���来るのならばそれで良いと思う。今日がターニングポイントになるのかもしれない。彼も人生を変えうる受験をすること自体、まだ迷っている。もしかしたら、よく考えた末に何事もなく2人で札幌で生きていくのかもわからない。
不思議と怖くはない。あなたの人生は、わたしの人生。
気を揉んでいても、受験は来年。それまで現状はさほど変わらない。彼が出す答えを尊重しようと思う。彼の友人と彼との3人で、彼らの母校へ行って案内してもらう。初夏。縦にぐんっと30メートルほど伸びるポプラを見上げる。ポプラの綿毛が、夏の雪かのように風に舞っている。久々に晴れた高い青空と緑が透ける木漏れ日を縫って、どこまでも綿毛は飛んでいく。
29 notes
·
View notes
Text
沖縄Trip - 恩納村・読谷村中心に
はじめての沖縄旅に行ってみた。
座喜味城跡
読谷村の小高い丘の上にたつ城跡。世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」の1つ数えられる。曲線上の石造りの城壁とアーチ門が美しさに惹かれて訪れてみました。どこに行ってもやっぱり城跡は外せないね。城壁の一部は登ることも可能で、豊かな自然に囲まれた読谷村の眺めを楽しむことも。
併せて隣接するユンタンザミュージアムも見学。読谷の歴史・文化・信仰を触れられる興味深い内容でした。
屋嘉田潟原・恩納の浜
海なし県出身故に、海をみるというイベントは外せない。本土、特に都会の海とは違う透明感、エメラルドグリーンに輝くの水平線にテンションがあがります。訪れた中でもこの屋嘉田潟原と恩納の浜は、人が少なく豊かな自然を感じられるスポットとして印象に残りました。
琉球村
沖縄の伝統的な民家等を移築された観光スポット。小学校時代の社会の教科書でみた沖縄を体験できます(もうおじさんなので、最近の教科書にのっているのかは不明ですが)。ネーミング的にもっと観光客にこびた俗っぽい施設(言葉がよくないですね。。。)をイメージしていましたが、そんなことはなくちゃんとしていた印象。この手の建物系展示によくありがちな時代錯誤な建物が横並びになり違和感しかない、みたいなこともなく、広いエリアを上手に分けた表現で雰囲気抜群。訪問期間中で最も天気が良い日だけあってシーサーの乗った赤い屋根が映えますね。
その他スナップ
見知らぬ地では何でも��い光景のスナップも楽しい物。まだ骨折した左腕が完治していない都合上、35mm単焦点レンズ1本 + スマホのみとなりましたが、そ���でも十二分に楽しめました。
34 notes
·
View notes
Text
記者である私、石井孝明が脅される
在日クルド人が彼らの問題行為を報道する記者、私、石井孝明を脅迫した。1日午後、携帯電話をかけてきて喚いた。その中には、私の体に危害を加えると受け止められる言葉があった。私は警察に連絡し、現時点で警察が介入した。
これ以上は詳細を明かさない。事件が警察案件になっているためだ。そして相手が何をするか不明であるためだ。ただし事件の存在を公にすることで、在日クルド人に関わる人への注意喚起と、他人の注意の目を増やして私自身のの身の安全を図ろうと思う。
ただし、どう自分で振り返っても、私は他人に批判されるべき行動はしていない。また脅迫は怖いが、私はそれに屈するつもりはない。在日クルド人の多くは「難民」と自称しているのに、日本で暴れ、日本人記者を脅迫するとは異様だ。遵法意識のかけらもないし、彼らの行動を放置すれば日本社会が壊れるだろう。
事件の背景−報道により憎しみを受ける
私は、今年5月から、埼玉県南部に集住する在日クルド人の行状と、住民との間で起こしているトラブルを取材している。彼らの住民への迷惑行為、違法行為について、私の見聞した事実を伝えてきた。埼玉県南部の日本人たちが、彼らの行動に苦しんでいる。
8月になってようやく一部メディアが報道を始めた。ところが地元紙の埼玉新聞をはじめ、大多数のメディアがこのトラブルに今でも沈黙し、行政、警察の動きは鈍い。その事実に私はいきどおりを感じ、孤軍奮闘の状態で、無償で自分のサイト、SNSで報道をしてきた。クルド人の怒り、日本人からの「差別」などの批判はあった。はっきり言って、不快で怖かったが、「埼玉県民を守るために自分の仕事であるペンの力で情報を広げる」という使命感で、報道を続けた。
そして「クルド人問題を解決しなければならない」という世論の流れを少し作った。自慢するのは嫌いだが、この行為にある程度の評価はいただいていいと思う。ただし結果として私だけが目立ち、在日クルド人の憎しみを受けている。もちろん私は主に事実のみを伝え、「クルド人・外国人を排撃しろ」などの主張はしていない。それどころか、日本人による過剰な外国人排撃運動を批判し、「日本人による差別行為は許されない」と主張した。
そして埼玉県民や、地元政治家の努力により、状況は少し動き始めた。私の行動はこの動きの小さな一部に過ぎず、主役は彼らだ。産経新聞によると、埼玉県川口市の奥ノ木信夫市長が1日、法務省を訪れ、不法行為を行う外国人について厳格に強制送還することなどを求める要望書を斎藤健法相に手渡したことが分かった。
報道によると、要望書では、クルド人の現状などを説明。難民認定申請中で、入管施設への収容を一時的に解かれた「仮放免」のクルド人が市内に相当数いるとして、行政サービスの提供を国の責任で判断することも求めた。
同市議会は6月、一部のクルド人を念頭に、国や県などに「一部外国人による犯罪の取り締まり強化を求める意見書」を可決し、警察官の増員や犯罪取り締まりの強化を求めている。このまま問題解決による変化を期待したい。
絶対に謝らないクルド人−日本人との共生は無理
この脅迫では、彼らは日本語が読めない、また話せないために、私の���を誤解していた。誤解で殺されたらたまったものではない。また情報をやり取りするために、クルド人の会社経営者(名義は妻)1人だけに携帯の番号を交換した。この人物は、後に私の報道を批判し、この携帯の番号を脅迫者に漏らした。クルド人を信じた私が愚かだった。裏切られたわけだ。この人物も、警察の監視の対象になっている。
私に対する在日と海外からのクルド人の罵倒は、合計で20件ほどになった。カタコトの日本語で「糞」「バカ」「豚」「犬」という幼稚で下品なな言葉を垂れ流す文章だ。イスラムでは、豚と犬は一番汚い罵り言葉らしい。彼らはトルコ語、クルド語でも送ってくるが、誤字だらけなのか翻訳ソフトにかけても翻訳できない。教育の水準がわかる。在日クルド人の大半は小学校以上の教育を受けているか、怪しいとされる。
さらに、これまで在日クルド人に、対面、もしくはSNSやメールで15人ほど、海外在住のクルド人と10人ほど、やり取りした。約25人の全員に「日本でのクルド人の迷惑、違法行為をどう思うか」と聞いた。「クルド人は態度を改めなければいけない」と返事をした人は1人のみ。残りからは一つも反省の言葉もなかった。「日本人もやっている」「小さなこと」「私はやってない」「なぜ他の外国人も悪いことをしているのにクルド人だけを批判されるのか」「我々は差別されてきたことを考えろ」「悪いことをするのはトルコ人だ」という返事で、責任を転嫁し、話をずらした。そのまともな返事をした1人は上記の経営者だが、その人物は私を騙した。
これが在日クルド人の姿だ。このような人々が自発的に日本人への迷惑行為を変える可能性はないだろう。私は5月の段階の報道ではクルド人との「共生」を唱えていた。しかし今では、在日クルド人のが「良き日本人」になることは無理と思っている。絶対に、日本に馴染まない人がいるのだ。まともな人はいるのかもしれないが、私は出会っていないし、他人を脅迫する人が一定数混じる集団は日本にいる必要はない。
日本政府は粛々と法律を適用し、違法滞在者、「難民」と嘘をつく人を、トルコに強制送還してほしい。そうしないと、彼らと暮らす日本人、埼玉県民、川口・蕨市民は���遠に苦しみ続ける。在日クルド人の一部には、おかしな人がいることを、日本人、日本在住の外国人は知り、警戒していただきたい。
石井孝明 経済記者 with ENERGY運営 ツイッター:@ishiitakaaki メール:[email protected]
104 notes
·
View notes
Quote
眠れる森のパンダ @Panda_51 フェランさんはこれらの事例について、「我々は、目標の評価基準にもとづいて報酬や罰則を設定してしまうと、社員は会社の利益を犠牲にしてでも自己の利益を追求しようとするということをわかっていなかった。社員がなりふり構わず目標を達成するように我々コンサルタントが仕向けてしまったのだ」 「我々のもうひとつの勘違いは(中略)従業員はおとなしく目標に従い、罰を受けても制度に逸脱した行動をとることはない��思っていたことだ」「何も考えずにただ目標を達成するよう命じられるこのシステムそのものが、人間の判断力を失わせるように設計されて��るのだ」と考察されています(110頁)
元コンサルの回顧本に「現場に数値目標を与えると数値目標は達成されるが数値化されてない部分が必ず失われる」例として上げていたことの内容がキツい (2ページ目) - Togetter
目標設定,KPI,組織,チームビルティング,組織安全性, 数値目標は必ずハックされる,評価,人事,不正,マッチポンプ,回避策,
---
バスの定時発車率にインセンティブを与えたら確かに率は上がったけど、信号無視とかするようになった
某ファストフードチェーンが注文から提供までの時間を数値目標にしたら、実際に顧客が受け取ってもいないのに該当するボタンだけ押して「受取済み」にする横着な事例が現場で頻発した
国内のありとあらゆる工場の数値目標を「生産トン数」に設定したソ連。結果、軽量化へのイノベーションがさっぱり生まれなかった。
死海文書の発掘の時、現地の作業員に「断片一つにつきいくら」って報酬設定したら、大きな断片見つけると細かく分割して持ってくるようになった
いじめ0件の素晴らしい学校ばかり
部分最適化は、全体の最適化にはつながらない。
達成不可能の目標を作り、達成未達で罰則を与える。(不正だらけ)
28 notes
·
View notes
Photo
Shuri Castle - Burning castle of the Ryukyu Dynasty (Ref)
Shuri Castle, the royal castle of the Ryukyu Dynasty, was once the political, economic and cultural centre of that maritime kingdom. The date of construction of Shuri Castle is not known, but it is thought to have been built in the late 13th and 14th centuries during the Gusuku period.
Until the end of the 16th century, the Ryukyu Kingdom remained independent in turbulent East Asia, as did Korea and Vietnam, but was invaded and ruled by the Satsuma clan (now Kyusyu, Japan), and became a vassal state in the early 17th century.
After several fires and war damage, and repeated rebuilding, the World Heritage Site Shuri Castle was once again destroyed by a sudden fire on 31 October 2019, which lasted about eight hours and destroyed nine buildings and historical heritage sites, including the main hall. It is currently being rebuilt with a view to restoration in 2026.
The first burning occurred in 1453 during the struggle for the throne that followed the death of King Shō Kinpuku of the 1st Shō dynasty (Shiro-Furi Rebellion), when the castle was completely destroyed. The second fire, in 1660, took 11 years to rebuild, and the third fire in 1709 destroyed the main, north and south halls.
After the Ryukyu Disposition following the establishment of Okinawa Pref. by Japanese Government in 1879, the main hall and other buildings of Shuri Castle lost their role as the seat of government and were sold to the Japanese Army's 6th Division (Kumamoto, Japan) as a military camp and then to Shuri Ward (later Shuri City), which used them as school buildings for girls' schools.
It was almost completely destroyed during the Battle of Okinawa (WWⅡ) in 1945 and the construction of the University after the war, leaving only a small portion of the castle walls and building foundations remaining.
Full-scale reconstruction was considered in the 1980s, and the restoration work, which took about 40 years, was completed in January 2019. In October of the same year, a mysterious fire destroyed the castle again.
Shuri Castle, which has been repeatedly persecuted and burnt down but continues to revive, seems to symbolise Ryukyuan culture itself.
首里城 〜 燃え続ける琉球王朝のお城(参照)
琉球王朝の王城、首里城はかつてその海洋王国の政治・経済・文化の中心にあった。首里城の築城年代は明らかではないが、13世紀後半から14世紀にかけてのグスク造営期の時代に築城されたと考えられている。
琉球王国は16世紀末��で、朝鮮やベトナムと同様に激動の東アジアで独立を保っていたが、薩摩藩 (現在の九州)の侵略と支配を受け、17世紀初頭に属国となった。
世界遺産でもある首里城は、数度の火災や戦災を経て、再建を繰り返してきたが、ついに2019年10月31日、約8時間にわたる突然の火災により、本殿を含む9つの建物や歴史遺産を焼失した。現在、2026年の復興に向け、再建中である。
1度目の焼失は1453年に第一尚氏の尚金福王の死後に発生した王位争い (志魯・布里の乱) であり、城内は完全に破壊された。2度目の焼失は1660年のことであり再建に11年の年月を要した。1709年には3度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。
1879年の日本政府による沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団 (熊本) の軍営として、その後は首里区 (後の首里市) に払い下げられ、女学校の校舎として利用された。
1945年の沖縄戦や戦後の琉球大学建設でほぼ全壊し、城壁や建物の基礎の一部が残るのみであった。1980年代に本格的な再建が検討され、約40年の歳月をかけた修復工事が2019年1月に完了した。同年10月、謎の大火災により再び焼失した。
迫害や焼失を繰り返しながらも復活を続ける首里城は、琉球文化そのものを象徴しているようだ。
103 notes
·
View notes
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)10月29日(火曜日)弐
通巻第8480号
中国の『国防七大学』OBが中国軍のなかに新派閥形成
台頭する理工系エンジニアのテクノクラート集団
*************************
中国の『国防七大学』とは北京航空航天大学, 北京理工大学, 南京航空航天大学, 南京理工大学, 西北工業大学,哈爾浜工業大学、哈爾浜工程大学をさす。
米国はこれら七校が中国の軍需産業と密接に結びついているため、交流を禁止しているが、日本の大学のなかには相変わらず、無頓着に交流し技術提携関係を持続している。
日本の国公私立大学計45校が、中国人民解放軍と関係があり、軍事関連技術研究を行う国防七大学と大学間交流協定を結んでいる。しかも9校は共同研究の実績がある。
これら七校の出身者が、最近、軍エリートとして新興の派閥を形成している。
習近平は最近しきりに「軍民融合」というタームを使う。そのうえ19回党大会のあと、「軍産幹部」をつぎつぎと上位に昇進させており、2022年の第20回党大会以降は、副大臣クラスで「軍産エリート」たちの存在感が高まっている。まさしく中国共産党内の潜在的な新興派閥である。
トウ小平はベトナム懲罰戦争を仕掛けたが、ボロ負けした。階級章が曖昧で、命令系統がわからず、武器は旧式だった。にもかかわらずトウ小平があえて戦争を仕掛けてた理由は、戦争に打って出ることで軍をトウ小平主導のもとに整合させるという隠された目的があった。
以後、しゃかりきとなって推進したのが『軍の近代化』だった。ハイテク武器の開発、軍の効率的運営、海軍の充実。そして地方軍閥をなくし、軍のシステムを総政治部、総参謀部、総装備部、総後勤務部の四つにはっきりと統合した上で、陸海空の三軍と七大軍管区にわけ分割統治を謀った。
「中国海軍の父」といわれたのが劉華清だった。彼は党小平の信任厚く、人民解放軍海軍司令員(司令官)、第14期中国共産党中央政治局常務委員、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを務めた。最終階級は上将。
江沢民は軍歴もなく軍人のだれもがせせら笑っていた。なぜこんなエンジニア出身の党官僚が軍に命令する権利を持つのか、と憤懣やるかたがなかった。そこで江沢民は懐柔策にでて軍人のアルバイトを黙認し、江沢民に忠誠を誓う胡麻擂り軍人にばんばんと上将(大将)辞令を乱発し、手なづけた。よって軍は腐敗した。
習近平は、おそるおそると軍の改革に手をつけ四大総部体制を掻きあらして十五の局として再編、ついで七大軍管区を五大戦区に転換した。
さらにロケット戦略軍を新設し、理工系エンジニアを大量に採用し、ハイテク兵器の開発功労軍人を矢継ぎ早に昇格人事をおこなった。宇宙航空関連の軍人が、軍内でエリートと見做されるようになった。
ということは並みの軍事訓練をうけてきた兵隊からすれば体力も戦闘経験もない頭でっかちが、軍エリーとなっていくことに強い反発と嫉妬、怨念を抱いた。
▼とはいえ、国防軍事産業は閉鎖的社会である
新派閥は理工系、数学とコンピュータに強い教育的背景と防衛産業の運営モデルを通じて人間関係のネットワークが形成され、相互信頼、ならびに同質性が育まれる可能性が高いため、結束力が異様に強い派閥となった。
コンピュータの軍事エリートが世界最大のハッカー軍団を取り仕切っていると推測される。
この『軍産エリート集団』は共産党中央委員会のなかに独自の軍産複合体閥を形成し、幹部��資源配分、政策立案、規制、現地調整、意見伝達などで重要な役割を担い、防衛産業の発展��統括している。
2024年6月には黄強(元国防科学技術委員会書記長、国防科学技術局副局長)が吉林省党委書記に任命された。異例の出世である。遼寧省の赫鵬、黒龍江省の徐勤と並んで、中国東北部の主要軍事産業基地の省党委書記3人全員が防衛産業出身者となったのだ。
習近平氏は近防衛産業の発展と拡充を強く支援しており、防衛産業出身の幹部昇用が目立つことは述べたが、これら新エリートのほとんどは国防七大学を卒業している。
しかし基本的な特質を述べれば、中国の防衛産業は閉鎖的な社会で、より広範な官僚制度を特徴付ける「ブロック論理」(日本で言うところの「省益」は防衛産業にも存在し、研究開発は特定の防衛企業または研究部門に限定される。セクト主義だ。
さはさりながら共産党のピラミッドの頂点である中央委員会メンバーのうち、防衛産業出身者は21名となった。第20期中央委員会では、劉国忠、張国清両副首相、馬星瑞新疆ウイグル自治区党書記、袁家軍重慶市党書記の4名が政治局に昇進した。習近平をのぞく政治局23名のうち、軍エリートは四名である。
国務院人事をみても、多くの省庁が軍産関係者を重要な役職に据えている。
20期中央委員会では、国務院内の軍産資源や関連産業部門を実効管理する人物として、張国清副首相(工業担当)と劉国忠副首相、呉正龍国務委員、金荘龍工業情報化部長、懐金鵬教育部長などがいる。
地方レベルでも21人の軍産幹部が14の省、直轄市、自治区で党書記または省長を務めた。
就中、東北三省である。遼寧省、吉林省、黒竜江省の重工業地帯は、ずばり日本の満州国建設時代に鉄鋼、造船、機械工業を育成発展させて基盤がある。
この三省が中国軍事産業にとって不可欠な研究企業や研究所の本拠地である。例えば、黒龍江省にはハルビン航空機工業集団(HAIG)、遼寧省には大連造船工業集団(DSIC)、ついでにいえば陝西省には中国航天科技集団(CASC)の第四研究所と第六研究所がある。
中央委員会の軍産関係者の人脈を分析すると、多くが学歴や職歴を共有していることも分かる。学閥もまた習近平が清華大学閥を形成しているように中国の人脈地図に於いて重要である。
全国人民代表大会副主席の張清偉がこのネットワークの中心人物とされる。張清偉は航空宇宙分野で長いキャリアを積んできた。このため、航空宇宙分野の役人のほとんどつながりを持つ。重慶市の袁家軍・党書記、新疆ウイグル自治区党書記の馬興鋭、中央軍民融合弁公室の雷帆��副主任、工業情報化部長の金荘龍は副官を務めたことがある。
もう1人の中心人物は、副首相の張国清だろう。国務委員の呉正龍と陝西省長の趙剛は、一緒に仕事をした経験があり、張と呉は2013年から2014年まで中国共産党重慶市委員会で一緒に働いていた。
ただし中国共産党の最高機関である政治局常務委員に昇格した軍産関係者はいない。党の活動歴がないうえ、習近平のとの個人的な絆が薄いからだ。
8 notes
·
View notes
Text
*受験期の頃に書いた日記です
傷 kiss
友人たちが次々と大学に合格していく事実が今もずどんと馬鹿でかい劣等感と化して心臓の上で横たわっている、昨日も同じ夢を見た。不安な気持ちばかりが先走るけれど、かっかしていても何も変わらなかった。他人と比べて自分の優れているところを必死に探していないと自己を保てない自分がほんとうにほんとうに惨めで、マスクが無ければたぶんぼろぼろ泣いてしまっていたと思う。心の底に横たわるみずうみが氷っていくの、口元が覆われているとそれだけで自分が自分じゃない感じがして冷淡になれた。わたしは自らの足音にだけ集中して、ただ早足で行き交う人々のあいだをすり抜ける。ずーっと頭の中を同じ映像が流れるのをむりやり切り落として、でんしゃを滑らせる線路をじっとみつめる。夕陽の光が錆びたその金をうつくしく縁取る様子が痛々しいくらいにまぶしい。受かった瞬間に内職をぱたんと辞める同級生。せーので問題を皆んな一緒に解き始めるとき、隣の子が必死に解答を隠すように背中を丸めて腕を机の上に伸ばす。そういうのばかり見ているとほんとうに、ほんとうに。言葉もでなくなってしまう。なにをそんなに誰かのことを気にするの?と、母の言葉が反芻する。光がまばらに散らばる街並みをみて、光も照らすものを選ぶのかしら、とかおもった。まいにちずっと罰を受けているみたいな日々、冬が近づくにつれて正気を失ってゆく街の様子にそれはもう痛いくらい同情してしまうし、ひたつやふたつ良いことがあっても誰かのそれと比べて自ら幸福の値段をどんどんさげてしまう。ずっとそばにいてほしい。幸福に値段なんてないよ、とかそんなこと言わなくていいの、わたしだってそんなことはわかっているし、いいの。天使とか悪魔とか神さまじゃなくて、ただわたしはわたしにそばにいてほしいし、そこにすきなひとたちがいてくれたらもっとうれしい。何も着ないでぶるぶる震えるわたしのからだを愛しているひとが白いバスローブで包みこんでくれたこと、カチカチに凍ってしまったアイスクリーム。減ってゆく数字。つめたいのにあつい、霧のカーテンの向こうに浮かぶ満月。目の前を歩いている女の子が落としたカードのようなものを拾い上げて渡す。肌寒くはないよ、いっぱい着込んであるから。舌に吸い付いた生ぬるい塩っぽさを誤魔化すために、瞬きもせずその息を呑んだ。
落ちてゆく流星群
不確かなものに心を揺さぶられながらもそれを掴んで決して離そうとしない自分の必死さに、自分で傷ついている。教科書を開いて新しい知識を得るたびに、脳内にびっしりと張り巡らされた細い糸のようなものがぴんと鋭く光って、しずかに緊張する。その感覚をわたしは思い出そうとすればいつでも思い出せるし、べつに勉強が嫌いなわけじゃない。ただ、生きているなあ、と、胸に広がるあたたかさを抱きながらそっと泣いたりする夜が少なくなった。そもそも生きていながら生きているという実感が欲しい、なんてことを考えている時点で可笑しい話かもしれないけれど。
中学の頃、冬になると毎年マラソン大会が開催された。今日みたいな寒い日にふと当時の怠さを思い出したりする。校庭の砂に石灰で大きく楕円が描かれ、その周りをひたすら走るだけの超つまらないイベント。冬の、鼻先をつんとすり抜けるような寒さと冷たい風の乾いた匂い。忍ばせたカイロと、白く上がる息。
このごろのわたしはちょうどその延長線上を生きているような感じがする。毎日同じ景色の中をぐるぐるとまわり続け、いっそのこと軌道から外れてすべてを諦めてしまいたいと思うけれど、そんな勇気も出ないまま、結局は体力と時間だけをひたすら消耗しながらゴールへ向かって淡々と走ることしか出来ない。気を緩めると涙がぽろぽろ溢れてくる。生きているという事実だけでくるしい。日に日に遠のいていく同級生の背中がいつだって意図せずとも視界に入ってきて、やるせない気持ちになる。地に足付かずでいたい、なんてことを随分と昔に書いたような気がするがとうとうそんなことも言えなくなってしまった。未来のことを考えましょうと言う先生の言葉を聞くたび、わたしは勝手に銃口を突きつけられているような感覚になる。もはや自分が果たしてどこにいるかもわからない。
来月には部活の大会を控えているし、予備校の冬季講習に加えて学校の講座を受けないといけない。三者面談と進路選択。期末試験。呑み込めずに舌の裏で転がるC判定という言葉を噛み砕くのにまだ必死なのに。
やりたいことを一つに絞るということは、それ以外を切り捨てるということ。ここから気になる大学を選んでくださいと、大学の名前と学科の一覧が記載された辞書のように分厚い本が配布された。今のわたしには、その厚さの分だけ未来の選択肢がある。そこに記載されている言葉の数だけ莫大なあたらしい世界が。そこから否が応でもたったひとつのものを掬い上げないといけない、その事実が少しだけ重苦しい。けれどそれに値するほどの価値が、これから先の時代を生きるわたしにあるということが同時にちゃんと嬉しい。
疲れた、という言葉にふさわしい努力をしていないのに、毎日すこしずつ疲れている身体はまさに地平線すれすれを生きているような具合で、わたしには喜びのほんの些細な余韻に浸れるほどの余裕もあまりない。なのに、そういうときに限って世界の美しさはいやに眩しい。たくさんのことを書き残したいと思うけれど降ってくる感情をひとつずつ捉えることはそう簡単なことでないし、そのくせして必ず少しの苦しみを伴うのだ。インターネットさえなければ言葉に残せなかったことを後悔することなんて無かっただろうに、それでも縋ろうと踠きながら残すべき自分を探してしまう自分をわたしは可哀想だと思う。わかっている。
もう秋も終わってしまう。寒いね、寒い、とぽつぽつ浮かんでくる言葉を拾いながら、誰かと手のひらを重ねたい。人と比べてしまう���り、わたしはこれからもずっと孤独をひとりで噛み締めないといけないから。胸をきゅうとさせる寂しさにもそろそろ慣れてしまいそうだから、はやくすべてが終わってほしい。はやく好きなことの勉強だけに追われる生活がしたい。そういう思いでひとつずつ過ぎ去っていく毎日の、行き場のないもどかしさも冬の寒さに凍ってしまえばいいのに。ううん、ほんとうはわたしが自分のからだで寒さを耐え凌いで、自分の力だけでもって愛すべきものたちや些細な記憶を守るべきなのだ。だけど、それが出来るほど強くないだけのこと。
無題
銭湯に行きたい。受験して、でもいいところにひとつも合格しなかったら巫女のアルバイトでもしながら京都で浪人生活をしたいな、とかんがえていた。ひさしぶりにおふろで哀しい音楽を聴いた。なんでもない日に哀しい歌をきくと、より一層哀しさが加速されるというよりなんだか心が細く研ぎ澄まされていく感じで今までの日々がきゅうっと音をたてる。雑巾をさいごまで力強く捻って絞り出す汚水、長距離走の最後の2分間、なみだが出る前の喉元になにかが込み上がってくる感じ、そういうの。とてもぼろぼろなんだけど、それと同時になにか澄み渡っていくものがある。だれかのがんばりと比べると劣るかもしれないけれど、ようやく夏も終わろうとしていることに救われる。ふつうの日々が、たくさんあつまって束になる。ぺたぺた歩く、濡れた髪にドライヤーをあてると耳の中に残っていた水があったかくなってきもちわるい。わたしは顔が良いわけでも、精一杯の力で努力できる力量もない。かといって特別な才能だって持ち合わせていないし、たまに数え切れないほどきらきらしたものを抱えている人をみると妬みと自分への劣等感で自らを押し潰れてしまう。だれかの人生で自分自身が、自分のうみだしたものが、かけがえのない財産になれるってとてもうつくしくてズルいと思う。数字がどこでもすべてにレッテルを張るから、それなりのレッテルを貰えなかったらどれだけ美しいものを持っていても誰にも見つけてもらえずにおわってしまう。わたしはそれを未だ求めてしまうほど本当は幼稚で、幼稚で可哀そう。ねえこういうのって黒歴史になっちゃうと思う?今年の夏は滝をみるはずだったけど、それすらまぼろしになっちゃった。ずーっと空白の未来の下準備を重ねているような現実から離れて、すこしはずれた小さな町で虫捕りしたり桃を買って丸噛りしたりしたかった。大学に入ったらどんなひとがわからないけれど、自分がもっているものと同じくらいのものをもっている人がいるのかなと思うとすこし楽しそうかもという気持ちになる。免許を取りたいけれど友だちにありじの運転は危なっかしそうだから乗るのこわい〜と言われた。そういうふうに笑ってくれる友だちがいるだけで、わたしはもうすでに色々な人の中で財産なのかもしれない。そうじゃなくても、かけがえのないものに出逢えるきっかけになれているかもしれないと薄ら感じてしまってまた胸がきゅうってなる。だれにもわからないことがあっても、言葉にされない何かがあっても、それを価値のないことと結びつけることは暴力じみた愚行かもしれない。自分の中にもまたいろいろな自分が内在していて、自分でも翻弄されてしまうことがあるし、文章を書いていても一貫性がなくて凛としない。英文法の参考書をぱらぱら眺めていたら、into the blue というのがあった。遠いところへ、彼方へ、という意味らしい。あーあ、しんじゃいたいね。
無題
予備校が終わって帰ろうと駅へ着いたけれど、次の電車が10分もあとにくるのでホーム内にある明るい禁煙スペースに入る。寒くなってきたので制服のブレザーを卸した。おおきな硝子に自分の閉じた長い足が映る、ひとが一人ずついなくなっていって、さいごには結局がらんどうの箱のなかでひとりただじっと電車を待つことになった。曖昧な形の◯とか△とか、がさがさ、つやつや、さらさらとか、そういうふうに不確かな輪郭だけ残してことばが次々とその形を変える。一つずつ掴んで物語を紡いで美しく完結させたいのにビー玉とか乱射する光みたいに思い浮かんだことすべてが一種の暴力を伴って脳内を猛スピードで駆け巡る。すぐそこにあるのに実態がわかんないし、むかつくむかつくむかつく、自分を飼い慣らすことでさえこんなに疲れる、もうだれとも話したくない、と消化しきれない感情がずっと身体の皮膚の内側のいちばん近いところで叫ぶこともできずにちりちりと火花を放っている。ロックとかやさしさとか愛とかそういうのぜんぶ病名みたいなものなのかもしれない、ひとつの感情にもその後ろにはそれをそれたらしめる色〜んな歴史があるし、たぶんこの不甲斐なさもいつかコピーペーストを重ねるうちにすこしずつ美化されてしまう。線路にわざと隙間があるのはとりわけ夏あたりに摩擦熱で鉄が溶けてしまわないようにするため、というのを授業できいた。がちがちに隙間のひとつも有さずに固められたものがいちばん揺るぎないもののように思えるけれど、実はちがくてそういうのが最も脆いものらしい。ともだちにし���恋人にしろ自分の将来とか自分のアイデンティティも然り、全てに対して揺るぎなさ、安定とか、そういうのをひっきりなしに求めていたけれど、もっと流動体のような観念で受け止めたい。ずっとそこにある月でさえ欠けたり満ちたりするし、花の一つをとってでさえその形や色はすべて毎日かわってゆくけれど、それはそれらが美しくないことの理由付けにはならないし、信用に足らないことの言い訳にもならない。情報として飛び込んでくるいろいろなものを変に調律したり濃く輪郭をなぞったりするのではなくて、ぜんぶ自分のもっているものの周りに飾っていきたい
8 notes
·
View notes
Text
高崎 かなみは、日本のモデル、グラビアアイドル、女優。神奈川県横須賀市出身。エイジアプロモーション所属。 ウィキペディア
出生地: 神奈川県
生年月日: 1997年7月14日 (年齢 26歳)
身長: 160 cm
カップサイズ: E
スリーサイズ: 82 - 58 - 80 cm
モデル内容: 一般水着
中学1年生から芸能スクール(バーニングタレント養成所→MIRAI所属)に通い始め、高校生だった2015年3月より「JKガールズ」3期生として、原宿系ファッション誌『CHOKi×CHOKi GiRLS』(内外出版社)専属モデルとなる。しかし2015年12月28日発売の2016年2月号をもって雑誌が休刊。目指す方向性がわからなくなり、���こからを自身の売れなくなった期間と称している。
2018年、マネージャーから水着の仕事を勧められたため『サンケイスポーツ』(産業経済新聞社)創刊55周年を記念した「サンスポGoGoクイーンオーディション」にチャレンジ。グラビアアイドルを目指していたわけではなく、豊満な体型でないことから躊躇し、女子中高生のファンから水着姿をどう見ていいのかわからないとの声を聞き抵抗すらあったが、スレンダー体型が男性から高評価を受け最終審査に進出。
応募時まで高崎哉海であった活動名を、2018年7月から読みやすさを考えひらがなに改名。同年12月に大貫彩香、真島なおみとともに初代サンスポGoGoクイーングランプリに輝いた。
2018年10月、『週刊ヤングマガジン』46号(講談社)の巻末に登場し、雑誌グラビアデビュー。2019年4月19日にファーストDVD『ぼくの初恋』(イーネット・フロンティア)を発売。
2019年には「ミスジェニック2019」オーディションにも挑戦。同年6月2日、ミスジェニック2019初代グランプリに輝きミス2冠を達成。同年12月16日、LINE LIVEと『週刊プレイボーイ』(集英社)が共催した「NIPPONグラドル53人」撮り下ろしソログラビア争奪オーディションで優勝。
2021年7月14日、自身初の写真集『カナミノナカミ』を集英社より発売。同作は同年7月26日付のオリコン週間BOOKランキング・写真集部門で4位にランクインした。
2023年1月に高校生から続いていたロングヘアに飽きたこと、グラビア撮影でもっと体を見せたいという理由からショートカットに髪型を変更。周囲を納得させるため2022年から美容院に行くたびに5センチ短くし、春には10センチ切っており、あまり驚かれなかったという。同インタビューでは年齢を経て肉付きが良くなったことでバストサイズが1カップ上がったことを報告している。同年5月には配信ドキュメンタリー番組『ON⇔OFF』の第1弾として取り上げられた。
59 notes
·
View notes
Quote
数週間前、階段を上って私の台所に冷蔵庫を運んでくれた二人の配達員にとっては、これは初めての経験だったのではないかと思う。彼らの仕事には絶対に人間の力が求められるが、それをこなせるロボットは世界中に存在しないと思う。 他の多くの仕事についても同じことが言えます。実際、米国には物理的な世界で物体を操作する仕事が何千万もあります。 食品の調理と提供(1,320万人の労働者) 生産活動(880万) 建設と採掘(620万) 設置、保守、修理(600万) 建物および敷地の清掃とメンテナンス(440万) 農業、漁業、林業(40万人) これらの職業は合計で約 3,900 万人を雇用しています。さらに、患者、学生、顧客、または一般大衆にサービスを提供する職業が 4,500 万人あります。 医療(1,630万) 売上高(1,340万) 教育と図書館(870万) 保護サービス(350万人) パーソナルケアおよびサービス(300万) コミュニティと社会サービス(240万) これらの仕事の多く(おそらくほとんど)は、Zoom 通話で行うことさえ技術的には可能です。しかし、ほとんどすべての仕事は対面で行う方が効果的です。たとえば、家庭教師のチャットボットは、人間の 2 年生教師の補助として役立つかもしれませんが、小学校がすぐに教師をチャットボットに置き換えることは想像しにくいです。 つまり、Zoom では効果的に実行できない仕事は合計 8,400 万���、つまり米国の全仕事の約半分に上ることになります。つまり、データ センターで稼働している AI モデルでは実行できない仕事でもあるということです。ロボットはこれを変えることができるでしょうか?
人間の労働者が AI より優れている 7 つの大きな利点
6 notes
·
View notes
Quote
高知市で今年7月、小4男児が水泳の授業中に亡くなった。小学校のプールが設備故障し、近くの中学校で授業を行っていた。8月24日に開かれた事故検証委員会では、当日のプールは男児の身長よりも水深が深く、事故以前にも死亡男児を含め3人の児童が溺れかけていたことが明らかになった。関係者が「何度も立ち止まる機会があった」と悔やむ今回の事故。なぜ防げなかったのか。 ■足のつかないプール 事故は7月5日に起きた。市教委によると、当時のプールの水深は114~132・5センチ。亡くなった男児の身長は113・8センチで、一番浅いところでも足がつかない状態だった。水中で足がつかないというのは、大人でも恐怖を覚える環境だ。 市教委は専門家らによる検証委員会を設置、8月24日に初会合が開かれた。会合は冒頭以外は非公開で進められたが、そこで示された事故の経緯や当日の状況などをまとめた資料からは、情報共有の不備と現場の危機意識の欠如が浮かびあがる。 資料などによると、6月上旬に被害男児の通っていた長浜小のプール濾過(ろか)ポンプの故障が発覚。修理に時間を要するとして、1~3年は近隣の別の小学校、4~6年は事故現場となった南海中で授業を行うことを長浜小の校長が提案した。 校長らが南海中のプールを現地調査したところ、満水時には最大水深140センチになるが、6月5日の計測では深いところで120センチ程度と長浜小と同じだった。 市教委は「水深が長浜小と変わらない」との報告を受け、安全性が確保できるとして南海中のプール使用を決定。長浜小は保護者に対し、連絡文書で「南海中のプールは、水深1・2~1・4メートルですが、水を浅く張っているため長浜小のプールの深さ(1・0メートル~1・2メートル)とあまり変わりありません。尚、細心の注意を払い水泳指導を行います」と通知した。 南海中のプールを使った初めての授業は6月11日に行われた。校長はプールの水位が10センチ程度上がっていることを確認。同21日も満水になっていたが、教員らは「苦手な子は浅いところにいること」などと注意喚起し、授業を強行した。 この日、今年度初めての水泳授業を受けた被害男児は、最も浅い場所で浮きの練習をしていたが、水面が頭の上だったため教員1人が「半分付きっきりで対応した」という。また、バタ足練習では被害男児を含め3人が教員に救い上げられる場面があり、校長に「溺れかけた児童がいる」と報告したという。 ■空白の10分 そして事故が起きた7月5日を迎える。授業は2、3時間目に行われ4年児童36人が参加した。教員2人が指導にあたり、教頭1人がプールサイドで監視していた。 授業は午前10時10分から体操、シャワーと進む。教頭によると、被害男児は水慣れの前に「怖い」と言っていたという。授業が進み、泳ぎの得意なグループと苦手なグループに分かれたのは午前10時42分ごろ。教員1人がプールサイドを歩いている被害男児を目撃している。 そして、午前10時52~54分ごろ、児童の「先生」と呼ぶ声を聞いた教員2人がプールサイドに引き上げられた男児を確認したが、すでに意識不明だった。 教員がプールサイドで確認してから約10分の間に溺れたとみられる。 ■「水位変化、考え及ばず」 水位変化などを受け、授業中止を判断できなかったのか。検証委員会のあと、取材に応じた松下整教育長には報道陣から質問が相次いだ。 松下教育長は、中学校での授業実施については「長浜小と水位が同じということで安全と判断した」と説明。授業実施の段階で水位が高くなったことについては「調査後に水を足していて、それ自体は水質管理上適切だったが、その後水位が変化することに考えが及ばなかった」と釈明した。 「いずれにせよ立ち止まる機会は何度もあった」と後悔をにじませた松下教育長。検証委は年度内を目標に報告書を取りまとめる予定だ。 検証委の委員長を務める中内功弁護士は「原因と再発防止策を検討するためにも、事故が発生した経緯をしっかり解明することが重要だ」と話していた。 ■「危機意識が不十分」 安全教育学が専門の桐蔭横浜大スポーツ教育学科の井口成明教授に聞いた。 プールの水深に明確な基準はないが、全く泳げない児童なら身長の半分ぐらいが適切で、足がつかない状態はありえない。本来なら泳力別にグループを分け、底に踏み台を沈めたり腕浮輪を使うなどの対策が必要だった。監視の目も不十分で、児童が恐怖を覚える環境で授業を進めたのは危機意識が不十分と言わざるを得ない。 水泳教育は水の危険から身を守るすべを身に付ける学習で、児童を危険にさらすのは本末転倒だ。学校現場は、水泳授業の基本的な安全対策の在り方をしっかりと研修し実践する必要がある。 (前川康二)
「怖い」中学プールで小4男児死亡、事故前にも3人溺れかけ それでも強行された水泳授業 (産経新聞) - Yahoo!ニュース
10 notes
·
View notes