#濃厚接触者になりました
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暗い部屋の中に灯る人工的な赤い光。
赤い色を見ただけで人は興奮してしまうというが、それはきっと間違いない。
この瞬間の俺の息は不規則に乱れていた。
そして目を凝らす。部屋の真ん中でその赤い光に照らされた者の形を捉えるために。
俺は先ほど入ってきた入口の扉を静かに閉める。
中の空気は湿り熱っぽい。それでいて、いわゆる男の匂いというものが漂っている。
半立ちだった俺の股間はさらに硬くさせる臭いだった。
その興奮を抑えながら手早く衣服を脱ぐと、静かにその臭いの元へと歩み寄っていく。
そして、そのベッドの上に四つん這いで這いつくばっている男の姿がありありと俺の視界に飛び込んできた。
大臀筋が大きく揺れている。背中側から見てもその男が立派な体躯をしていることがわかる。
しかし、その立派な男が目隠しを自分で付け、俺の方へ尻を向けているのだ。しかも、その尻の中心はすでに何かの液体で濡れている。
普通の一般人がこの光景を見ればきっと血の気が引いて逃げ出すだろう。そんな常識から外れた光景が壁1枚隔てられた中で行われている。俺はそのことになぜかゾクゾクしてしまった。
これから俺はこの男とある計画をしている。
俺はそれを思うとさらに高ぶった。
____________
その書き込みは今では閲覧している人間がほとんどいないだろうと思われる古い掲示板だった。
最新の書き込みでも2週間経過している。そんな取り残された掲示板。
俺がなぜその掲示板にたどり着いたのかは深く覚えていない。たしか眠れない夜にネットを漁っていたのをなんとなくブックマークして、それを今頃になって見返したのがきっかけだったのかもしれない。決定的な理由がある訳ではなかった。
ただその掲示板はいわゆる場末というもので、いろいろな個性に溢れた投稿がそこに並んでいた。言葉に出すのもはばかれるものがあると思えばどうしてそんな性癖になっ��のか聞いてみたいものさえある。
そんな奇抜な掲示板なのに、俺はその掲示板の奇抜さに惹かれていた。
更新の少ないその掲示板を俺は定期的に眺めるようになった。
そして男の投稿を見つけたという経緯だった。
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俺は男の尻に浮かぶ大臀筋を掴む。俺より年齢は上であると聞いていたのに張りのある程よい感触の尻。それを両側に割り開く。
そうすると、ケツを突き出すだけで濡れていた穴が俺の顔の前に晒された。圧力が加わったせいで中に詰まっているであろう粘液達が今にも露となって零れそうだった。俺にはその露が赤い光を帯びた部屋の中でひどく光って見えた。
気づいた時には俺は本能的に光る露に吸い寄せられ
それを口に含む。
濃厚なイカ臭さ。
味覚と嗅覚と同時に頭へ直接響く味。
飲み込む。
喉に絡み付き 青臭さは増すばかり。
ゲイリブなら忌み嫌う程の雄臭さに
俺は戸惑うこともなく俺の脳は嬉しいという感情を得ていた。
。もっと 嬉しくなりたい。
俺は舌を突き出す。
男のケツ穴は俺の舌を容易く受け入れる。広がっていく穴。そこから小川のように精液が流れだしてきた。たちまち嬉しさも広がっていく。
流れ出した粘液の性質はまちまちで薄かったりガムのように粘つく。何人もの顔も知らない男達の精が混ざったからだと認識すると嬉しさに拍車がかかった。自分もその男達に廻されているような映像が頭を過ぎる。
扉をくぐった時俺は正真正銘シラフだった。
しかし、今は少し違うようだ。
男の股間はその体躯に反してひどく縮んでいて黒い。乳首は横から見てもわかるほど隆起していてこちらも黒く淀みがかっている。
彼の状態が言うまでもなく俺には分かっていた。
少なくとも俺のまだ経験したことのない量のものを詰めてその身体に受け入れたのは明白だった。
きっと刺激も与えられていないこの状況でも 彼は俺の視線を感じ興奮の中にいるに違いない。
そんな彼の体液を含んだザーメンを俺は口に入れたのだ。多少彼の興奮が移ったとしてもそれは仕方のないことだ。
そう おれには構わないことだ。
俺はさらに男の中に舌を侵入させていく。
すると、声を潜めていたらしい男がここでやっと喘ぎらしい声を上げ始めた。とうとう我慢ならなかったみたいだ。
一度 快感の声をあげてしまうと収まりがつかなくなったのか、俺の舌の動きに呼応してその声を震わせた。
それが俺の責めをさらに助長させる。
俺は自分の舌で男の内壁を削るように掘削を開始する。男のケツに顔��押し付け、呼吸もままならない。
掘れば掘るほど、男のケツ穴は柔軟に拡大していき中の粘液もとどまることを知らず俺の口内へと流れていく。
俺と男との接点の温度はみるみるうちに上昇する。
俺と男の初めての会合はそんな感じでしばらく俺はやつのケツ穴を貪るのに夢中になってしまっていた。
そうするうちに自分の中の普段隠している疼きといわれるものがどんどん増幅される。
早く したい。それが頭の中を占領していく。自分が変態に様変わりする姿を思い描く。
変態に堕ちたいという思いは男も同じようでそばに用意されたポーチの中にある小瓶を取り出した。
しかし、それを俺はそれを制した。小瓶よりももっと良いものがある。それは男も俺も知っていた。
その日用意したものは男が用意したシモにくるといわれていたもの、かなり厳選してくれたようだ。それは楽しみだが、それ以外にも期待するものがある。
俺は人差し指と中指を伸ばしそこに親指を近づける仕草を、振り返った男に向けて送った。
「やろうや。ちょっと早ぇけどよ。」
その言葉を発しただけで興奮したのを今でも覚えている。
互いに俺たちはそれぞれの鞄から黒いレザーの拘束帯を取り出した。それを打ち合わせ通りに自分の身体に這わしていく。部屋にある鏡にそれが映し出されると、裸よりも変態な姿でありこれから起こることに相応しいと感じた。
最後に俺の左腕と男の右腕、俺の左足と男の右足を結束させる。たちまち運動会のムカデ競走のようにしか動けなくなる。これからの数時間俺たちは不自由を味わうことになる。しかし、それは俺たち共通の欲望によって苦痛ではなくなってしまう。
その欲望は他人の欲望のはけ口になること。それだけ。
それだけのためにこの計画をたてて、互いに大きなリスクを背負って訪れた。この日が来るのを頭の中でカウントダウンさえしていた。
普段真面目な顔で電車に揺られる俺
蓋を開けてみればこういう汚い人間である。
それに後悔していた時期はとうに過ぎた。
今はこの欲望を満たせる場所を探すばかり。
拘束帯を付ける前に男は便所に籠り、今晩のディナーの準備をしていた。そして、出てきた手に握られた2つのP。それはすぐにベッドランプが照らす机の上に移された。その物体は俺の視界の片隅にいつもいて、気になって仕方がない。もうすでに頭がそれになっている。待ち遠しくてたまらない。
そして、すべての準備が終わると俺たち2人はベッドにあがり、向かい合わせに座る。そのままゴム紐を渡され俺はそれを左腕に巻く。そして、今度は消毒綿を渡され定位置に当て擦る。男も同様のことを行う。
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風呂上がりの一杯。金麦。
今日は餃子に紹興酒で一杯。
疲れていたからか、餃子が身体に溶け込むように入っていく。餃子は飲み物か? あっという間に完食。美味かった。
あ、昨日伝えた濃厚接触者になった臨時職員さん、やっぱりコロナ陽性でした。今日の朝から発症。
昨日は私と一緒に行動してましたが… さて、どうなるか。健康なうちに飲みまくるさ。
#餃子
#紹興酒
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siggi’s 4% Milk Fat RASPBERRY Yoghurt
友人がシンガポールでヨーグルトをたくさん買って送ってくれたー!!!
ので、海外のヨーグルトもちょこちょこレビューしていきます✍️
興味ありつつも巡る時間もお金も作れてなかったから、嬉しすぎる🥹
ありがとうございます💕
ちなみにシンガポールでは輸入系のヨーグルトがたくさん売られているようで、今回送ってもらったのもシンガポール製ではないものばかり。
それもまた日本にない感覚で興味深い。
siggi’s
アメリカ生まれの発酵乳ブランド、シギーズ。
アイスランドからアメリカに移住したSiggi Hilmarssonさんが、子供の頃に食べていた故郷の発酵乳「Skyr(スキール)」を恋しく思って2005年にお母様のレシピを再現されたのが始まり。
当時のアメリカのヨーグルトは甘く人工的でSiggiさんの口には合わんかったそうで、アイスランドの伝統に忠実に、人工着色料・香料・甘味料・保存料を使わず控えめな加糖で仕上げたのが評価されて、大人気ブランドに成長されたそう。
Skyrは
・rich & creamy ・keto ・lower-sugar ・nonfat yogurt ・lowfat yogurt ・whole milk yogurt
と、同じフレーバーでも糖質や脂質の異なるタイプが展開されてるのが日本にない感覚!
Skyrのほかには、飲むヨーグルトやプラントベース、パウチタイプの商品もあるみたい。
Skyr
アイスランド伝統の発酵乳。
脱脂乳を発酵させて水切りしたもので、濃厚で高たんぱく質💪
レンネットを使うから厳密にはチーズの分類だという説も。
スペック
脱脂乳にクリームを加えて発酵させているらしく、乳脂肪分が4%あるタイプ。
ラズベリーも4%配合されてて、甘みはきび砂糖。
1個でたんぱく質 11.5gも摂れて、糖質はメジャーなフルーツヨーグルトブランドの商品3種と比較して25%も少ないとのこと。
容量は125gと、日本のカップヨーグルトと比較するとやや多め。
平べったい容器かっこいいな。
使用してる菌が原材料に書かれてるところが日本と海外で違う注目ポイント👀
Lactalis Australia
シンガポールで売られているのはこのLactalisっていうオーストラリアの乳製品会社さんの製造分。
これはアメリカで買うとまた違うメーカーさんになるのかな??
この製品に関しては原料の94%以上がオーストラリア産で、ミルクはフルでオーストラリア産とのこと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・୨୧ 開封 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・୨୧
わっ、蓋裏と縁にドリップされたヨーグルトがたっぷり溜まってた。
ヨーグルトは淡いピンク色で、ぶわぶわねっとり。
スプーンにまとわりつくような濃さ。
粒感がめっちゃある。
練ってもなめらかにはならず。
無香料につき香りはほとんど感じんナチュラルなタイプ。
近づいてよーくスンスンすると少し甘酸っぱい😊
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・୨୧ 頂きます🙏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・୨୧
うんんんんんんんっま💓
めっちゃ濃ゆい!
ねーーーーっとり!
そしてザラリというほどでもないけど、いい感じに独特な舌触り。
じゅわっと溶けていった最後にラズベリーの種が残ってプチッと噛めるのがおもしろい。
粒さん、居たのね🫶
お味はクリーミーなヨーグルトが主役。
ラズベリーの風味は優しくて、ふんわり香ってそっと酸味を残してくれる感じ。
宣言通りかなりナチュラル。
日本には、近いものがあるようでない!
ストイックすぎずヨーグルトとしての美味しさをちゃんと楽しませてくれる水切り系という意味ではパルテノ様に近しいはずなんやけど、かなりキャラが違う感じがする。
パルテノ様はきちんとした人。
siggi’sはありのままの姿でラフに接してくれる人。
って感じがして、どっちも違うよさがある🥰
この味、日本で売ってたら間違いなくリピしてる!
おいしかったー♡
============================ 栄養成分(1個125gあたり) エネルギー 126kcal たんぱく質 11.5g 脂質 4.6g - 飽和脂肪酸 3.1g 炭水化物 10.0g - 糖類 9.5g ナトリウム 46mg カルシウム 138mg ————————————————— 原材料名 Skim milk, cream (from milk), milk solids, raspberry (4%), cane sugar, stabiliser (pectin), live yoghurt cultures (from milk). 訳:スキムミルク、クリーム(牛乳由来)、乳固形分、ラズベリー(4%)、きび砂糖、安定剤(ペクチン)、ヨーグルト生菌(牛乳由来) ————————————————— 生菌 S. thermophilus, L. delbrueckii subsp. bulgaricus. ————————————————— 購入価格 S$3.65(GST込) ————————————————— 販売者 Lactalis Australia Pty Ltd ============================
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日曜日の晩あたりから喉痛があって、昨日の月曜日の朝はなかなかの痛みでしたが、休日だったのもあり自宅でおとなしくしてるとだんだん落ち着いて、今朝も少し喉が痛い程度でした。
お医者さんで診察受けてから出社しようと思ったら。。。2回目の新型コロナ罹患でした。💦💦💦
熱が37度も無かったので、甘く見てました。💦💦💦
ちょっと喉の調子が悪いんよ~言うて濃厚接触した家族に申し訳無い気持ち。
発症しない事を祈りつつ養生致します。
#新型コロナ #体調管理 #フィルター加工あり #コロナ罹患 #半年以内に2回目の罹患 #家族にめいわくかけた #panasonic #lumixtz95 #lumix #tz95 #かなり残念
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(CNN) 造園業を営む54歳の男性が、痛みを伴う発疹の症状で米フロリダ州オーランドの皮膚科医を受診した。発疹は手足から顔まで広がっていたが、過去に診察した別の医師は原因を突き止められなかった。 皮膚科医のラジブ・ナトゥー氏は生検を行った結果、ハンセン病と診断した。教科書でしか見たことがないような症例だった。 ハンセン病は感染しにくい疾患で、この男性に明らかなリスク要因はなかった。このためナトゥー氏は、フロリダ州中部が予期せぬハンセン病の温床になっているのではないかとの疑問を抱いた。 同氏のチームは今、同様の症例に注意するよう、医療従事者に呼びかけている。 ナトゥー氏のチームが医学誌に発表した研究レターによると、フロリダ州中部で報告されたハンセン病の症例数は、米国の中で最も多い水準にある。 世界保健機関(WHO)によると、2020年に報告された新規のハンセン病の症例数は、米国が159例、世界では20万例。研究レターによれば、フロリダ州中部の症例数は州全体の81%を占め、全米の症例数のほぼ5例中1例を占めていた。 ハンセン病は皮膚の下の神経を攻撃するらい(レプラ)菌によって引き起こされる。感染経路は完全には解明されていないものの、感染者のせきやくしゃみの飛沫(ひまつ)から感染するとの説が有力だ。感染すると病変や発疹の症状が表れ、神経が侵されてしびれたり感覚がなくなったりする。 米���東部に生息するココノオビアルマジロもレプラ菌を媒介することがある。遺伝子研究では人の感染とアルマジロがもつレプラ菌との関係も指摘されているが、患者の多くはアルマジロと接触した記憶はなく、どのように感染するのかは明らかになっていない。 米疾病対策センター(CDC)によると、ハンセン病は握手したり感染者の隣に座ったりといった程度の接触では感染せず、治療を受けていない感染者との長期的な濃厚接触によって感染する。また、約95%の人は遺伝的に備わる免疫機能が働いて感染しにくい。 しかし感染経路が分からない症例もある。54歳の男性の場合、フロリダ州から出たことも、アルマジロとの接触も、感染率が高い国から来た人との濃厚接触もなかった。ただ、屋外で長時間過ごすことが多かったという。 米国内で確認された患者の大半はこれまで、感染率が高い国への渡航や、アルマジロとの接触を通じて感染していた。 研究レターによれば、15~20年の間に確認された新規の症例のうち約34%はそうしたリスク要因が見当たらなかった。患者は地元で感染したと思われ、ハンセン病がフロリダ州で流行を繰り返す「風土病(エンデミック)」になっていることをうかがわせると同レターは指摘する。 専門家も同じ見解だが、フロリダ大学病院の皮膚科医ニコル・イオバイン氏は、恐怖に駆られる必要はないと強調。「エンデミック」は特定地域で流行が定期的に繰り返される状態を意味するもので、感染率が上昇しているわけではないと述べ、「依然として極めてまれ」「症例数は今も極めて少なく、我々は懸念していない」と語った。 ただ、同州オーランド東部とボルシア郡で過去5年の間にハンセン病と確認された15例の臨床記録をナトゥー氏が調べた結果、14例は米国外に渡航したことがなく、互いに関係があった患者は1人もいなかった。 レターの共著者チャールズ・ダン氏は、医学界は媒介生物を正確に特定できていないと指摘。これまでの仮説を打ち払う必要があり、この地域で患者が集中している状況から「注意を向けるべき何かが存在する」との見解を示す。 ハンセン病は放置すれば手足がまひしたり、失明したり、手足の指が短くなったりすることがある。治療は可能だが、抗生剤を組み合わせて何年間も服用する必要がある。 ただ、米国では医師がハンセン病の診断に不慣れで診断が遅れることが多く、それにより神経や皮膚の損傷といった症状の治療が難しくなることもある。また菌の増殖が遅く発症まで最大20年かかることから、感染源や経路の特定が難しいという側面もある。
米フロリダ州中部でハンセン病が「風土病化」、感染経路不明の症例多数 医師が報告 - CNN.co.jp
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今年の8月末日、短編小説と音源がセットになった『JAGUAR』というZINEを制作した。200冊限定ナンバリング入りで、現時点(10/13)での在庫が30冊程度となった。ところが4月にリリースした『ほんまのきもち』と違って、本作についての感想がほとんど聞こえてこない。もちろん直接口頭、あるいはソーシャルメディアのダイレクトメッセージで読後感を伝えて下さった方々は沢山いる。しかし書評と呼べるものは実はいまのところ皆無に等しい。批評することを躊躇わせる斥力のようなものが作品に内包されていたのかもしれないと密かに勘繰ってみたりした。虚しかった。そこで、である。敢えてこの場を借りて、稀有で貴重な『JAGUAR』評を紹介しようと思い立つ。当ブログへの転載を快諾してくれた評者の方々にはとても感謝している。ほんまにありがとう。早速おふたりの素晴らしいレビューを読んで頂きたいのだが、いましばらく当方の四方山話にお付き合い下さい。
まず最初に『JAGUAR』という物語がかれこれ10年以上も前に執筆していたものであるということを前提に、すでに読んで下さった方々には当時の僕の意識混濁っぷりが窺い知れる内容になっていると思う。ビルメンテナンス会社の営業職に就いて忙殺される日々、精神と肉体が泥のように疲弊していくなかで書き上げた小説。大袈裟でなく、このままでは生きるという行為を自ら手放してしまうのではないかという危うい精神状態だったが、幸運にも当時に知ることができた偉大な哲学者、思想家、精神科医たちの言葉に背中を押され、結果的に今日まで生きのびた。以下に引用した名著の言葉たちが『JAGUAR』と僕を根���から支え、励まし、作品を世に放つ機会を与えてくれた訳だ。特に大気を裂く稲妻のように強烈な『千のプラトー』は、書かれている内容がわかるわからないというスノッブな価値観を遥かに超越した位置から自分を叱咤激励してくれた。こんなにぶっ飛んだ内容の読み物は他にないし、未読の方は絶対、ぜぇぇったいに読んでほしい。
小説は、自分の名も、自分が探しているものも、していることも、すべて忘れ、記憶喪失、運動失調症、緊張症となった登場人物、なすすべを知らない登場人物の冒険によって定義されてきた。(中略)。宮廷愛小説の騎士のすることといえば、自分の名前、自分がしていること、人が自分に言ったことを忘れることであり、どこに行くのか、誰に話しているのかも知らずに、たえず絶対的脱領土化の線を引き、またたえず道を失って立ち止まりブラック・ホールに転落することである。『千のプラトー』ドゥルーズ+ガタリ著
各人は、他者の世界の中での一客体であるばかりではなく、自分の世界の中で自分の体験や構成や行為がそこから生じるところの、時空間における���つの場所でもある。人は自分自身の視点をもった自分自身の中心である。そしてわれわれが見つけたいと思っているのは、まさに、他人と共有する状況において各人がもつところのパースペクティヴである。『狂気と家族』R.D.レイン/A.エスターソン著
私にはひとつ、ことばを≪見る≫という病気がある。ある風変わりな欲動があり、それは、願望がまちがった対象に向かうという点で倒錯的な欲動なのだが、そのせいで、本来なら単に聴くべきものが、私には一種の≪ヴィジョン≫として現れるのだ。(中略)。言語活動に関して、私は自分が幻視者で、また、のぞき見の倒錯者であるような気がしている。『彼自身によるロラン・バルト』ロラン・バルト著
そして小説版『JAGUAR』と一蓮托生の身である特級呪物、音源版『JAGUAR』については、僕が最も敬愛する女性DJにその制作を依頼した。マルコムXの演説を逆再生させたところから始まるMIXは、いくつかの世界線が交錯と混濁を繰り返し、正気と狂気の狭間を湿気をたっぷり含んだ低空飛行でかいくぐり、��がてひとつの景観ヘと辿り着くまでの過程をコラージュを交えた手法でドキュメントした、とんでもない内容に仕上がっている。揺るぎないベースライン、不意に降り注ぐ天啓となる言葉の数々、妖艶極まりない夜の気配、そして匂い。ぜひとも爆音で体験してほしい。以上のことをふまえて、OBATA LEO、moanyusky両名による書評をご覧下さい。
「JAGUAR」評① :評者OBATA LEO(ROLLER SKATE PARK作者)
土井政司の新作「JAGUAR」を読んだ。内容の理解云々以前にまず、地を這いずるような具体性の塊、描写に喰らった。自分が普段労せずざっくり物事を把握するための便利な道具として使っている言葉という同じものを使って、この作品はレンズのように細密にものを描き出す。ひとがきちんと見ずに済ませているような部分にまで光を当てる。そんな驚きもありつつ、やはり気になる。「JAGUAR」とは何なのか?
-「彼女は常に超越的な地位にあり、私たちとは隔たれた外部に位置している。そうであるにもかかわらず内部であるここにも存在しているのだからタチが悪い。絶えず外にいて内にあるもの、それがJAGUARだ。」最も端的にJAGUARについて書かれたこの部分を読んで、体内・体外の関係を想起した。普段「体内」と何気なく口にしているが、胃袋のように体には空洞がある。皮膚や粘膜などの体表に覆われて血液が流れている内部を体と呼ぶのだとしたら、その空洞は体に囲まれた「体外」ともいえて、私たちは体内に体外を抱えているという言い方もできるというわけで。それで繋がるのは、口腔内の歯の溝に落ちたタブレットを舌で触る場面である。「体内」でありながら自分では視認することのできない、舌で探るしかないその空間は確かに「体外」であるし、JAGUARもまた、己にとって内なるものでありながら断絶した他者でもあるような何かとして捉えられるのかもしれない。そんな線で読んでいくと、-「だが実際に私の目の前で何者かの手によって鍵の施錠は実行され、おまけに用心深くレバーハンドルを何度か動かしてしっかりと鍵がかかっていることを確認した。」という作品の終盤に出てくるこの部分で、文法的なエラーに感じる違和感は、そのまま私とJAGUARとの関係の違和感そのも��のように思えてくる。得体の知れない何かに鍵をかけて、何食わぬ顔で電車に乗って仕事場へ行くなかでの体の軋み、のような何か。体とい��ても、いわゆる「(近代的な)身体」というキーワードで片付けるにはあまりに繊細な、大いにパーソナルな部分を含む体の感覚が、この作品にはあると思う。
出かけた「私」は、電車のなかで女性が着ている服のボーター柄の反転を目にするが、ここまで読み進めてくると、気持ちの良い幻惑に襲われはじめる。異常にディティールが詳しいのでそうと気づいていなかったが、やはりこのフィクションの中で起こる出来事たちは、出来事の形をとった何か夢やイメージのようなものだったのではないか。そして冒頭のリフレインまで突き当たると、この作品は初めから何についての話だったのだろうかと、今までひとつひとつ理解しながら読んできた���ずの物語が全く違う相貌を携えているように見えてくる。そんなぐにゃんとした気持ちになるのは、良い小説を読む醍醐味のひとつだ。
「JAGUAR」評②:評者 moanyusky(音楽レーベルprivacy主催)
当たり前の様に無造作にある事で、それを見るか見ないか、それだけのことだと思います。土井政司の最新作「JAGUAR」を読みました。ここではJAGUARとなっていますが、人によってそれの名称は変わると思っています。よくわからぬ相手との対話や闘いがあるかどうかというところが、この作品の感じ方が分かれるところだと思っていて、私はどちらかといえば、その相手に困らされた事があったので、この作品を読んで、え!土井さんもやったんやとびっくりしました笑。ここは勘違いして欲しく無いところなのですが、人それぞれという言葉があるようにそれは一緒ではないのですが、構造はかなり近いと言ったような事でした説明がつかないわけですね。私は人の「想像」は人を殺しにかかるような死神として、隙があれば、それは現れるわけです。世の中ではアートであったり、想像力は良いように言われていますが、全くもってそれは何かが隠されているわけで、私は良かった試しが無いわけです。出来れば普通のルートで現代社会を楽しみたかったです。でも多分知っていくという事はそういう事なのかもしれない。想像力に悩まされてきた身としては、この作品は、別の場所で、それと闘って、きっちり答えが出ているというところ、しかも、10数年前の作品という事で、私は土井さんに出会って、色々な対話を交わして、初めて彼の濃厚な苦悩との生活に出会う事となったわけです。各人の時間軸が理解の範疇を超えて、重なり合って手を取ったのだと思っています。その時に置いてきぼりになってしまう、その真ん中で産まれゆく、刻まれた何かがずっとどこかで成長していたら、人は正気を保てるだろうかと思ってしまいます。誰かが入ったであろう、部屋のノブをあなたは回せるかどうか。私はそれには名前をつけなかったが、もう二度と会いたくないですし、いつまた来るのだろうと、恐れを感じます。彼は人が地面を無くした時に現れるように思います。浮遊した瞬間、命をもぎ取ろうとする。
でもそれはオカルト的なアレとか、スピリチュアル的なアレなんてものではないのですね。確実に自分、自分を構成する設計図の謎のようにも思え、それが薄らぐために生活をやり、音楽をやり、愛し合い、話し合い、何かを育てるのだと思います。現実社会で経験した摩擦は地面をはっきりさせ、そいつのいる世界から距離が出て、薄めてくれるように思うわけです。だからこそ。JAGUARの言葉を借りれば「痛みと不安から自分自身を取り返し、その自分に立ち止まるために語りを紡ぎ出す」。が救いの言葉となっているように思います。2部構成で出来上がる、この作品のバランス感覚は、人と創作の関係性をSFとして描いているように感じます。同じ場所にて語る事は嫌がられるかもしれませんが、私が映画を観に行った時に続々と子供たちが外へ出て行った宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」を出したタイミングと、土井政司がこれはいけると思ったタイミングで出されたJAGUAR。それは何もかもを抜きにして考えると、世の中の人たちに対して彼らは同じことを思っているのだと思います。今それを出さなければならなかった。その「灯り」の意味を考えなければならないのです。
〆はもちろんこの曲で!
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家の者が12月バタバタっとコロナに罹り、買い出しやら掃除やら やっと復活してきたところで、もぅ大晦日。年末の挨拶も濃厚接触者なので控えてました。 しかーーし、明日からは、 もぅ大丈夫🙆♂️ そして元旦誕生日 48歳京町絵師の始まりです。 明日何描こうかなーーーー。 素敵な大晦日&新年をお迎えください。 今日も朝3時半から起きてるから紅白終わる前には寝てしまうんだろうなー。 https://www.instagram.com/p/Cm0lBnnLepN/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあるとかで、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、職のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力低下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。 『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東���思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とした。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。 『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中間期で、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。 同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較しながら武士道精神の本質について説いた。 (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生に対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学に入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)新渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べてお��、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。 (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理だけでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の場合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。 宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。 騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。 こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。 (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。 私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供��容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。問答無用に私に押しつけた。 (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。 (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前述したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。 武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義」が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも触れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。 「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。 (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。新渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。 こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。 世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリスは議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。 (10)新渡戸は��武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。 (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
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【期日】 2023/4/30 13:00-18:00
■『安全に刀を扱える』ようになりませんか? 「殺陣」(たて)や「剣舞」(けんぶ)、ダンスなど表現のバリエーションが増えて、『動く』コスプレパフォーマンスがSNSでもショートムービー等をあげる人が増え、コスプレパフォーマンスの世界も華やかになった陰で怪我や事故も後を絶ちません。 改めて、竹光、模造刀、模擬刀含めて、無理なく安全に扱える、『日本刀の扱い方』をゼロから始めてみませんか。
■主催者からのお願い ワークショップの性質上、動き回ることが予想されます。 細心の注意を払って進めますが、参加者同士の接触���どによる擦り傷や打撲、衣装または小道具類の汚れや傷がつく事もございます。当方では、上記損害に対しては、一切の責任を負えませんので、予めご了承くださいませ。重ねて、未成年者の方へのお願いになります。未成年者の方のご参加につきましては、必ずご家族の了解を得るよう、お願い致します。 了解無いままご参加いただいてご家族間での問題が起きたとしても、一切の責任を負いません。 以上の2点、何卒宜しくお願い致します。
■新型コロナウイルス感染被害防止の観点からのお願い マスクの着用などの対策をして頂き、ご参加頂けるようお願い致します。会場側並びに自治体からの要請で定期的にアルコール消毒と換気を行います。 以下の項目に該当される方のご参加は申し御座いませんが、御遠慮願います。 ① 体調が優れない。(37.5度以上の発熱、咳、喉の痛みなどの症状がある) ② 過去14日以内に、入国の制限、入国後の観察期間が必要とされる国や地域への渡航または当該在住者との濃厚接触がある。 ③ 同居人や家族などの身近な人に感染者や感染を疑われる方がいる。
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【11月合同練習会:2日目合奏練習】
11/19(土)-20(日)の2日間にわたっての練習の2日目は、指揮者栁澤寿男さんによる合奏練習です。
前日の東京フィルハーモニー交響楽団の講師の方々にご指導いただいた練習の成果はどうでしょうか。
新型コロナの第8波の影響で前々日あたりから陽性や濃厚接触者になりましたとの欠席の連絡を何人も受けていて、来月以降の練習も心配な折、貴重な合奏練習の機会です。
今日は見学のお客様がお一人登場。
入り口付近に立って挨拶してくれたのは、第一期メンバーで冨澤三兄弟の長男、悠太さん(チューバ)。今は新潟県柏崎市の中等教育学校で中高生に公民や倫理を教える先生です。片道4時間のドライブで前日は三男の祥吾さん(トランペット、今は二本松市の小学校の先生)と福島競馬を楽しんだのだそう。
髭も貫禄の立派な先生が新潟限定のお菓子の差し入れ。
休憩時間には「懐かしい」の声とともに第1期メンバーが近寄ってきます。もう発足当時の中学生が大学生になっている東北ユースオーケストラ 。歴史を感じる記念写真です。吹奏楽部の副顧問をしているという冨澤悠太さんから「前よりも全体的にうまくなってるんじゃないですか」とのお言葉が聞けました。初めて会ったというヴァイオリンの女子団員から「本に出てた人ですよね」と話しかけられたそうです。書籍『響け、希望の音〜東北ユースオーケストラ からつながる未来〜』(フレーベル館)では、有志演奏をめぐるエピソードで活躍する冨澤悠太先生、また顔を見せに来てくださいね。
お昼休みはランチを早々に済ませたメンバーが、今週末の26日(土)に石巻市で行うひさびさの有志演奏のための練習に取り組んでくれていました。
海岸線の美術館の開館セレモニーにふさわしく、金管による「Fanfare 2020 / 塘英純作曲」の練習を観る、前キャプテンの田嶋詩織さんも奏者としてホルン四重奏「Born for Hornより 1.4楽章/ W.Pirchner」を練習。
坂本龍一監督作品からは「Ballet Mecaniqe」(編曲は今日来てくれたOB冨澤悠太さん)と「戦場のメリークリスマス」を演奏します。 団員の有志19名で参加する、このイベント。
海岸線の美術館 開館セレモニー 雄勝壁画まつり SEAWALL MUSEUM OGATSU OPENING CEREMONY
開催日時: 2022年11月26日(土)10:30-16:00
会場: 海岸線の美術館 宮城県石巻市雄勝町上雄勝2-22 ※ google map「海岸線の美術館」で検索
アクセス: JR仙台駅から車で1時間15分 / JR仙石線石巻駅から車で40分
https://www.instagram.com/p/Ck-2AF-P94o/?hl=ja
(※下記、「海岸線の美術館」公式Instagramより紹介文引用)
「2022年11月26日、宮城県石巻市雄勝町の防潮堤に「海岸線の美術館」を開館します。 開館当日には、高さ7.5m、長さ54.6mの圧倒的スケールで描かれた壁画をはじめ壁画3作品のお披露目と、美術館の開館を記念して「雄勝壁画まつり」を開催します。 壁画の前でアートとミュージックとフードとクラフトが交わる時間をぜひご堪能ください。ぜひいっしょに祝いましょう!参加無料です!」
イベントプログラム:
10:30- 雄勝壁画まつり スタート(フード等販売開始) 11:30-12:00 美術館 開館セレモニー(開館の挨拶・序幕・オープニング和太鼓演奏等) 12:00-14:00 海岸線のお振る舞い(四季彩食いまむら×安井鷹之介) 13:15-13:45 東北ユースオーケストラ 壁際演奏会 14:00-17:00 雄勝小中学校壁画 特別公開展示(祭り会場と別会場) 14:15-14:30 チアダンスWINGSパフォーマンス 15:30-16:00 奇妙礼太郎 海岸線のライブ
宮城県石巻市雄勝町の巨大防潮堤に芸術作品としての壁画が描かれ、 その壁画の完成とともに、「海岸線の美術館」という野外美術館の開館セレモニーです。 東北ユースオーケストラはその防潮堤の前で「壁際演奏会」を行います。 ご都合の合う方は、是非遊びにいらしてください。
朝からマーラーの交響曲第5番に取り組む1日となりましたが、最後に今期はじめてとなる坂本龍一監督のTYOのための『いま時間が傾いて』の合奏練習をしました。しかし、今期8期のパーカッションメンバーが一人足りないことが判明。栁澤さんのご判断で、降り番で外していたオーボエの関根彗くんに白羽の矢が立ちました。
トラではなく、銅鑼の本番担当として、東北ユースオーケストラ初の二刀流、Two way player誕生です。関根くんは、国立音楽大学大学院音楽研究科器楽専攻への進学が決まったばかり。大学院生になっても続けてね。
合同練習が終わったあと、今週末の26日(土)での有志演奏のホルン四重奏を披露してくれました。
曲のエンディングで今まで聴いたことのない演出が入る曲でした。本番が楽しみです。
次回の合同練習会は12月11日(日)に東京フィルハーモニー交響楽団の講師の方々によるセクション練習を行います。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延���努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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朝起きたら職場のグループLINEが騒然としてたんだけど、どうやら既婚者のAさんが「どうせ休みなんだしホテル行こう」と誤爆していたみたいで…w
960: 修羅場まとめ速報 20/04/21(火)13:11:56 ID:vpW ただいまテレワーク中朝起きたら職場のグループLINEが騒然としてたどうもA(既婚)がプライベートと間違えて誤爆したらしくBという女子社員あてに「どうせ休みなんだしホテル行こう」という誘いのメッセージを五連続で打ち込んだもようなお不倫とかじゃなく一方的にAがBに言い寄ってるらしい俺はリアタイで遭遇しなかったので残念ながらスクショしか見れなかったが「きみと濃厚接触した���」というお決まりのオヤジギャグも炸裂してたちなみにAの奥さんもうちの社員で、しかも産休中どうすんだろうねこれ 続きを読む 朝起きたら職場のグループLINEが騒然としてたんだけど、どうやら既婚者のAさんが「どうせ休みなんだしホテル行こう」と誤爆していたみたいで…w Source: 修羅場まとめ速報
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今日は鶏唐揚げに金麦。
暖かい1日でした。
仕事はここまでそれなりに順調だったけど、ここに来てin trouble.
コンビを組んでやってきた臨時職員がコロナの濃厚接触者であることが判明。今日の午後からお休みに… この人が発症したら、私も…ですか��。
#唐揚げ
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吉本隆明「悲劇の解読」 序——批評について——
批評のいちばんの悩み、口にするのが耻かしいためひそかに握りしめている悩みは、作品になることを永久に禁じられていることだ。そこで批評はいつも身の振り方についておもいめぐらしている。先蹤はあるのだ。小説家か学者がそれだ。とるに足りない作品をえらんでも、また誰もが古典として尊重する作品をえらんでも、作品を対象とすること自体は作品から遠ざかることである。作品には骨格や脊髄とおなじように肉体や雰囲気がいるのに、作品を論じながらじぶんを作品にしてしまうのは、それ自体が背理としてしか実現されない。批評が批評として終りをまっとうすることは作品にならない言葉を、酒の酔いや幻覚など一切かりずに綴りつづけることを意味する。近代批評は、やっとひとりの批評家をのぞいて終りをまっとうしていない。
批評が批評であることは苛立たしい索漠でありつづけること、言葉の砂を口に押しこまれるような体験に身をおくことにちがいない。けれどこの体験を持続してゆく歳月のうちに、対象への視線が微妙に変容してゆくことがわかる。ここでいう変容の意味は〈立場〉とか〈理念〉とかの変容ということではない。対象である作品にたいする臨み方の変化のようなものをさしている。かつては作品は驚くべき明確な手触り、鮮やかな光線が、陰影や輪廓に沿った情操と一緒にあったのに、次第に骨ばかりに崩れて、どんな肯定的な空間形式も、延長性もない廃墟のようにおもわれてくる。ついには空虚そのもののように手ごたえもなくなり、ただ言葉だけを祭礼の寄付金のように募りつづけるようになる。それでも批評は持続されなければならない。何のために? それでどうするつもりなのだ? それともこんなことをしていても仕方のないことを批評はしているのか?
この問いにおいて批評は、はじめて何かをしているらしいのだ。何か歴史的な事象のようなものに、ただ言葉の予感、それも必然的��衰弱の表象をともなった予感によって、参画しているらしいのだ。それはただ対象になった作品を、批評が枯死させていることで識知される。じぶんを枯死させている言葉だけが、作品を枯死させることができる。批評は死につつある言葉、しかも自覚的に死につつある言葉だ。
批評は作品の言葉が行方不明でまったく消息を絶ったり、思いもかけぬ他所で人知れず横死していることなど、ありえないのをすでに熟知している。時代が言葉を囲んでいてその囲いの外へ言葉はとび出すことはできない。ただ粘土細工のような言葉の地表を、起伏に沿ってなぞっているだけだ。作品が生きているのにそれを書いた作家が自殺してしまったとき、作家は言葉の地表にじぶんで穴を掘って埋もれてしまったことになるのか、それとも地表の亀裂に墜ちこんで消えてしまったことになるのか。これは自然死とどこがちがっているのか。というのは自然死した作家もまた、地表に穴を掘って埋められるか、亀裂のあいだに身を横たえて眠るかすることにかわりないからだ。言葉の地表、時代的な囲いという概念、作品が彷徨できる時代的な範囲という概念を信じるかぎり、作家は自殺することも自然死することもできないで、ただ悲劇を演じることができるだけだ。
批評は悲劇を演じることができない。その力量がないといってもおなじだ。批評では悲劇はただ意識され解読されてしまうだけだからだ。どんなに逆説的に響いても、悲劇を演じることができるものは、幾分か幸福な存在たちである。いま作品が幸福な存在だとして、その幸福はどこに潜むことができるか、どこに棲みつくことができるかは明瞭である。言葉の時代的な地表を微かな足音で歩いている足どり、地表を踏むときの響き、かかとの裏側、その接地の仕方といったようなものがあれば、そこにだけ作品の幸福が潜んでいる余地がある。それを文体と呼ぶべきか形式と呼ぶべきかは不定だが、意味を排除したときの価値がありうるとすれば、そのことを指している。批評が説明し解釈せずに、作品のそのエロスの場所を浮彫りにできれば、その瞬間だけは批評もまた作品でありうるだろう。だがつぎの瞬間には作品のエロスは匿されてしまう。
ここで批評は悩みのほかに困惑と焦燥感をもいだいている。これは近代批評の古典時代には感じなくてよかったものだ。この困惑と焦燥は、批評の(ように使われる)言葉が粉砕機にかけてどんなに微粉化しても、なお粒子状であることをやめないという比喩でいうことができる。これで作品をしゃくりとろうとすれば、どんな理想的な状態を考えてみても、作品はいたるところ孔の開いた多孔質のものに変貌している。再現そのことは批評にとってたんに前提にすぎないし、その前提にしても志向された前提だけれど、まず批評の言葉の水準に作品がもたらされなければ、批評という行為が成り立たない。この前提のところで批評の言葉は、粗密と濃淡だけではなく亀裂と空孔、誇張と強調とで、作品をぼろぼろな布地に変形させてしまう。そして批評は現在でも作品の誇張や強調点と、批評の言葉の誇張や強調点とが織りあげる網目によって、原型とは似ても似つかない表情にされてしまうのを免れない。
わたしたちは生と死のあいだにはさまれて存在している。存在している現前の姿勢は、生のなかに死を調合し、その匙加減の難しさをいつも背負っていることを意味している。このあいだに批評の言葉はすこしずつ培養されているのだ。この言葉が倫理、理念、歴史のようなものの影と重力を背負わないということはありえないし、また遊戯や休息を惹きいれないということも嘘になるだろう。批評が知的な謎解き(究極にはその謎を解いたときの快感)になってゆき、その競合いの競技になってゆくのは、きわめて現在的な課題であるとともに、それが世界の水源から流れてくるとき、なによりも歴史の停滞を象徴しているのだ。批評の言葉が倫理、理念、歴史の重力をうけているとすれば、その重力を場とか雰囲気とかではなく素的な粒子としてとりだし、意味をもつ実体のように現前させるのは、これからの課題に属している。批評はいまのところ無意識に倫理、理念、歴史を包みこんでいるにすぎない。批評が倫理、理念、歴史を意図しているようにみえるとき、また露骨にその意図をむき出しにしているとき、ほんとうの倫理、理念、歴史は、その意図された言葉の個所でいちばん隠蔽されているのだ。
ある種の作品があり、その作品が言葉で感覚の波の動きを再現しようとしているばあい、批評の言葉はいちばん困惑にさらされるようにおもわれる。何かを解析しようとすると、作品は水のなかを潜りぬけているように頼りなく、また批評の言葉とその網目を透過して、直接自我に届いたり消散したりしてしまう。けれどこれは作品そのものであるような作品なのだ。感覚そのものが言葉と出遇い、言葉そのものが過不足なく時代の透明度になっている。批評はそのような作品に遭遇したときには、言葉を使わないでいるか、あるいは作品の水のような透明度を再現するために、言葉を無限に微細な粉末のように行使するのを余儀なくされる。けれど水のような作品を捉えるために言葉は無効であるようにおもわれる。言葉には網状の手かせ足かせがともなっているから。
批評の言葉はいま停滞する時代の厚い層のなかを通過している。そのために幾つかの装身具、以前ならば瞬間的に通過してしまうために、まったく必要なかった種類のあいまいな装身具が必要になっている。批評が現在当面しているのは究極的につづめてしまえばそれだけだ。裸でがむしゃらに通過できるとおもっていた批評は、ただ時代の空気だとみなしてきたものが意外にも重さや息苦しさになりうることを実感している。この厚い層はとりとめもないかわりに、離脱するのに無限の潜行時間がいるようにおもわれてくる。だれもその果てを指すことができないし、それを終らせることもできないように感じられてくる。装身具が必要だとして薄くても長い潜行時間に耐えるものでなければならないし、また耐えていくうちに鈍磨してゆく皮膚の感覚を恢復できなくてはならない。
批評の言葉は時代のこの空気のような、あるいは水ガラスのような層の厚さを変えることはできない。その層の厚さは現在の所与の総体で決められるもので、批評の言葉はそれに関与することはほとんどない。言葉は現実の所与の関係だが言葉の方から現在的な所与に遡行することは禁じられている。言葉はただ表現される。そして表現はその仕方自体によって、あるいは跳躍する距り(実現された言葉、あるいは言葉の実現までの距り)によって価値を測られるだけだ。この考え方が批評についての考え方としてどんなにペシミスティクにみえようとも、わたしたちは現在ふたつの方向(それがほとんどすべての方向なのだが)を禁じられている。ひとつは作品の価値を測るのに政治的な色わけを使うこと、もうひとつはいままで倫理的な独白だったものを知的な探偵術、通俗的な知的な稠密さの競りあいに変えてしまうことだ。そんなことは政治的教会か受験学生を相手にやってもらいたい。そこでは教儀にたいして如何に修行がたりないか、いかに戒律を犯した自己を鞭打つかが問題になりうるし、また陥し穴のような奇抜なワナを仕掛けたり、それを見破ったりすることが優劣につながるからだ。
批評の最初の体験はだれにでも思いあたるふしがある。作品の共感する個所、場面、修辞法をとりあげて熱心に語りあったこと。もし自分と同一の個所を同一に感じる相手に出遇ったとしたときのうれしさ。やがてそれは悪意に変わる。自分は書くことができないのに読むかぎりは作品を馬鹿にできるという体験。けれどもこの辺りから批評は決定的に錯誤してゆく。批評の言葉が作品となりえないことの根源はこのあたりに存在している。これは批評の言葉が高度になっていっても、いつまでもつき纏ってくるに相異ない。むしろ批評は作品ではなく、また作品について周囲からとやかくいうことでもなく、ただ世界に基準などのようなものが存在しないことの普遍的な態度の宣明のように考えられてくる。
批評の言葉が決定されるのは現実の社会の真ん中においてだ。けれどもこれをとりだすのはどんな音も聴こえない内部のふところの奥からのようにおもえる。凍っているのに冷たくはない、そして冷たくはないのに物音ひとつしないあの世界からしか言葉はやってこないような気がする。このことのなかに言葉の���在における運命のようなものがあるのではなかろうか。映像、イメージ、音響がすさまじい速さと規模で空間形式を埋めてゆく。言葉はじぶんを時間化してゆくよりほかなくなっている。言葉は坐したまま歴史に参加するのだが、その音声は嗄れている。
言葉というものの正体は、ほんとうは不明の部分があまりにおおすぎる。ただ批評は意味に惹かれて正体不明のまま言葉を使っているのだ。言葉を使っているとき、言葉は道具にならない前から使われ、道具になった後からも使われている、というように使っている。それは内的な軌跡であって軌跡でありつづけるようにしか使われえない。
言葉を使うべきだ、言葉を使う以前だ、言葉を使うことができない、こういう言葉にまつわる状態の全体のうち、もっとも困難にみえる極端なばあいはつぎのようにあらわされる。
何も思考を開始しないまえの集中の状態が息をつめたところにこしらえているようにみえる領域、その記述
それと、
人間より大きなあらゆる素材から成立っているかのように思考するとき出現する世界、そこに人間の影がないことからくる平等のようにおもわれる世界、その記述
このことで何をいいたいのかは明瞭であろう。批評の言葉はいつも作品のなかに作品の概念をさ��えているようにみえるこの極端を、網目にすくいとれないのではないかと危惧しているのだ。批評の言葉はいつもどんなにしても作品より真面目すぎる。忠実に作品を追いすぎるために作品を追越し変形させ色を塗りつけてしまうのだ。作品のでたらめさが現実の出来ごとのでたらめさと等しいとすれば、批評も作品のでたらめさと等しいでたらめさをもっていいはずである。だが批評はいつも作品より生真面目で直線的になる。この批評の悲劇は作品が悲劇であるときだけ辛うじて釣合っているようにみえる。
わたしたちのあいだで優れた〈作品〉はことごとく悲劇的にあらわれてくることは自明である。このばあいの〈作品〉はあくまでも具象的なものを指すので、作品という普遍性を指しているのではない。もっと厳密にいえば世界の屋根がどこにあるかを絶えず意識に計上しつつ形成される〈作品〉といってもいい。喜劇的な〈作品〉、機智をにぎやかにする〈作品〉、細密な細工のような〈作品〉、その他膨大な〈作品〉の群れ、それらはすべて〈作品〉である。だがそれらはまだ(あるいは永続的に)悲劇に到達しない〈作品〉なのだ。悲劇を介してだけ〈作品〉は普遍的に作品に到達するという公理系の発見こそは、ここで主題となっているそのことである。それを発見した途端に(あるいはその発見を発見するやいなや)読者もまた悲劇のなかに存在するはずである。なぜならばそれこそが公理が公理であるゆえんだからだ。 作品はいつも解読されることを待ちつづけている言葉であり、解読に着手されただけ遠のいてゆく言葉である。悲劇は作品と作者とを結びつけているとともに、作者よりも深いところでまだ意識されていない。もし批評がこれを意識させてしまえば作品はその作品以外のものとなってしまうが、批評はそれをそっともとにもどしておくことができる。はじめから作品といえるほどのものは可塑性と一緒に弾性ももっているからこのことが可能なのだ。
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⭕=リング🔗オウム🦜
KUADROS
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緑のオウム
VINCENT VAN GOGH
サイズ(cm): 50x4550x4595x85145x130
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説明
ヴィンセントヴァンゴッホの緑のオウム絵画は、1888年の作成以来芸術愛好家を魅了してきた印象派の傑作です。この作品は、色の大胆な使用と濃厚で表現力のあるブラシストローク技術によって特徴付けられるヴァンゴッホの芸術スタイルの完璧な例です。 。 緑のオウムの組成は印象的で、塗料の中央に明るい緑のオウムがあり、花と葉の背景に囲まれています。塗料の細部への注意は印象的で、各シートと花びらは布地に慎重に表されています。 色は、この作業の最も顕著な側面の1つです。ゴッホは、明るく活気のあるカラーパレットを使用して、絵画の生活感と動きを作り出しました。緑色のオウムは、視聴者を直接見ているように見える明るい羽とその浸透した目を備えた作品の焦点です。 絵画の背後にある物語は魅力的です。ヴァン・ゴッホは、フランスのアルルズに住んでいる間にこの作品を作成しました。 Arlesでの間、Van Goghは、この緑のオウムの絵を含め、地元の植物相と動物相に触発された一連の作品を描きました。 Verde LoroはVan Goghの最も有名な作品の1つですが、それをさらに興味深いものにするあまり知られていない側面があります。たとえば、塗料のオウムは、ゴッホが近くの庭で見た本当のオウムに触発されたと考えられています。さらに、絵画はその信ity性のために論争の対象となっており、一部の専門家は、それが本当にヴァン・ゴッホの仕事であるかどうかを疑問視しています。
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大手メディアがジャニーズ問題について振り返るのはやはり限界があるのか。そう思わざるを得ない出来事だった。今年4月のカウアン・オカモト氏による外国人記者クラブでの会見以降、新聞メディアの中では比較的手厚く問題を報じ続けている朝日新聞は6月29日付の朝刊第三社会面で、不定期でメディアの問題を扱う企画「Media Times(メディアタイムズ)」でジャニーズ問題とメディアの関係について特集した。ジャニー喜多川氏による性加害が野放しになってきたのは、メディアがそれを看過してきたからでもある。テレビ局だけではなく、新聞、出版にもおよぶジャニーズのメディアコントロールの手法と、いまだ強くのこる影響力に、朝日新聞元記者でガーシー被告に密着した『悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味』が話題のノンフィクション作家、伊藤喜之氏が迫る。 目次 これまでの関係には触れないアンケート「上層部は過去の関係を有耶無耶にしたい」「メディアコントロール」の手法を明らかに「ジャニーさんのことを、みんな慕っていたのよ」「親から信頼を受けて大事なお子さんを預かる」ジャニーズ副社長の信頼厚い「ベテラン記者」突然、連載が打ち切られたのはなぜか これまでの関係には触れないアンケート記事のリード文では、ジャニー喜多川氏の性加害問題について「新聞やテレビが早い段階から報じなかったことに、批判の声があがっている」と指摘し、「どこに問題があったのかを考えた」と切り口を設定していた。自社とジャニーズの関係についてある程度踏み込んでくれるのだろうと筆者は期待を膨らませた。しかし、結論から言えば、それは落胆に終わった。主な新聞社やテレビ局にアンケートを取っていたが、長年報じなかったことへの受け止めと今後の報道姿勢を問う内容であり、これまでのジャニーズ事務所との関係について回答させるものではなかった。事務所の過去の関係については問わなかった(2023年6月29日朝日新聞朝刊) (Media Times)長年報じず、新聞・テレビに批判 ジャニーズ性加害問題:朝日新聞デジタル ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川氏(2019年に死去)の所属タレントへの性加害問題について、新聞やテレビが早い段 www.asahi.com 朝日新聞の見解として、野村周ゼネラルエディター兼東京本社編集局長は「性加害、とりわけ男性への性加害という問題に対する認識が不足していたことなどが根底にあったと思います。ご批判は真摯に受け止めます」とメディアの責任に言及した。自主的に振り返ることもないもしていないメディアと比較すれば、一定の評価もできると言えるかもしれない。しかし、肝心な過去の対応などについての検証は一切なかった。「上層部は過去の関係を有耶無耶にしたい」こうした姿勢は「自己批判をした」と前向きな評価の声も多かった6月17日放送のTBSの報道特集でも似たようなものだった。「メディアの姿勢を含め検証します」とし、番組アナウンサーが「私たちがこの問題を取り上げてこなかった理由の1つは、テレビ局の様々な部署がジャニーズ事務所と深い関係を持っていることがあった」と指摘したものの、そうした番組制作現場での具体的な「深い関係」がどうであったかについて言及はなかった。取材した、ある新聞社の記者は「絶対に情報源がわからないようにしてください」と私に求めながら、こう指摘した。「対応があまりに中途半端でウミを出しきれていない。上層部は過去の関係については、このまま有耶無耶で終わらせた方がいいと思っているんじゃないか」この新聞社では社内の一部から自社とジャニーズの関係について踏み込んで検証すべきだという声が上がっているが、編集幹部の反応は鈍いという。「メディアコントロール」の手法を明らかに私も、この記者と同じ問題意識を持っている。ジャニーズとの関係がどのようなものであったかをつまびらかにし、過去の教訓として共有しなければ、再び同じようなことが起きかねないのではないか。ジャニーズ側がどのようにメディアの担当者、記者や編集者らと関係を築き、どのように「都合の良い」番組や記事が量産させてきたか、ジャニーズ側がメディアコントロールをどのように効かせてきたか、を明らかにする必要がある。メディアはいまだ配慮をしているかのようだ(ジャニーズ事務所ホームページより)ここまで問題化しながら、それでも既存メディアはジャニーズ側に何か配慮を重ねているようにも見える。既存メディアの中でも新聞メディアは、テレビや出版社と比較すれば、それほど濃厚な利害関係が生じにくいと思われるのだが、何か後ろめたいものがあるのだろうか。私は現場に近い記者らに取材を重ねることにした。「ジャニーさんのことを、みんな慕っていたのよ」朝日新聞には長らくジャニーズを取材してきたベテラン女性記者が複数いる。その一人が最近、こんな発言をしていたという。「ジャニーさんのことを、(所属タレントは)みんな慕っていたのよ」「告発している子は名声目当て。信用できない」ジャニー喜多川氏による所属タレントへの性加害問題について、BBCや週刊文春の報道に続いて、ジャニーズJr.だったカウアン・オカモト氏が外国人記者クラブで会見したことで、これまで黙殺してきたテレビ・新聞などの既存メディアも重い腰をあげた。そして、その報道が加熱していたときのことだった。この記者は2017年1月23日付夕刊、24日付朝刊の2日に渡って、同僚記者と連名で、ジャニー氏へのインタビュー記事を執筆している。「ショーに託す、平和の願い ジャニーズ事務所・ジャニー喜多川社長に聞く」「我が子ように育てる ジャニー喜多川社長に聞く」とそれぞれ題した記事である。事件を知ると違和感しかない(2017年1月24日の朝日新聞朝刊)前者は、ジャニー氏が作・構成・演出を手がけた舞台を紹介する。少年時代に大空襲にあった戦争体験に触れながら、「昔を生きているからこそ、平和の尊さがわかっている」とのジャニー氏の言葉を明かす。「親から信頼を受けて大事なお子さんを預かる」気になるのは、「子どもたちへの温かい視点も当時からあった」とジャニー氏のタレントとの接し方を絶賛していることだ。ジャニー氏の性加害問題については、1980年代に元所属タレントが被害を訴える手記の出版をしていた。2000年前後には、週刊文春がキャンペーン報道を展開し、被害者の証言などを詳しく報じていた。記事の内容をめぐってジャニーズ事務所が発行元の文芸春秋を訴えた裁判では、04年に「セクハラ」があったとする記述を真実と認める判決が最高裁で確定していた。ジャニーズを担当していたならその事実を知らないわけがない。にもかかわら��、記事ではそのことにはいっさい触れていない。それどころか、翌24日の朝刊では「我が子のように育てる」という見出しのもと、ジャニー氏の「親御さんから信頼を受けて大事なお子さんを預かる以上、私も命をかけて自分の子供のように教育しようとやってきた」という発言を、無批判で掲載をしている。カウアン・オカモト氏は被害を訴える記者会見で、もし大手メディアが性加害を報じていたら事務所には入らなかったか、という質問に、「知っていたら親は行かせなかっただろう」と答えていたことを思い返してしまう。ジャニーズ副社長の信頼厚い「ベテラン記者」さらに、記事が出された時期には重大な問題が孕んでいる。国民的アイドルグループのSMAPが直前の2016年12月31日に解散したタイミングだったからだ。記事では、SMAPについては後編の質問で一言触れているだけだ。ジャニー氏の回答もあくまで一般論で、SMAPについては具体的に話していない。もちろん記事の見出しにもなっていない。事務所にとってはセンシティブな話題であったとしても、読者の関心から考えても、明らかに不自然である。徹底した忖度ぶり、と指摘されても致し方ないだろう。朝日新聞の場合、週刊朝日やAERAなどの雑誌発行ではジャニーズと深い関係を築いてきた。表紙やグラビアにジャニーズのタレントを起用できれば、手堅い売り上げが見込めるからだ。ジャニー氏へのインタビュー記事を書いたベテラン記者はAERAにも一時期所属し、SMAPを勢揃いさせた特集を仕掛けるなどして、社内では「ジャニーズを任せるならこの記者」と信用を勝ち得ていたという。現在のジャニーズ副社長で長年広報責任者を務めてきた白波瀬傑氏は、このベテラン記者を連絡の窓口にしていたと多くの記者が口を揃える。他の記者が申し込んだ取材の断りがベテラン記者から「あれはダメだったみたい」などと知らされることも日常的だったという。朝日新聞社内をベテランの「ジャニ担」が仕切っていたジャニーズはメディア各社に従順な記者や編集者を抱え込むことでメディアコントロールを働かせてきた。各社によって呼び方は違うが、いわゆる「ジャニ担」だ。実際、ジャニーズは新聞のコンテンツ作りの現場にも口をはさんできた形跡がうかがえる。突然、連載が打ち切られたのはなぜか朝日新聞デジタルでは、「ジャニ担!」と呼ばれるオンライン連載があった。ジャニーズファンで知られる放送作家の山田美保子氏がジャニーズタレントの近況などについてコラム形式で連載するもので、2015年4月から始まった。しかし、2年ほどで突然打ち切りとなった。事情を知る朝日新聞記者が明かす。「ジャニーズ事務所から連載についてクレームが来たと聞いている。山田氏も渋々だったようだが、連載打ち切りに同意した」連載はすでに130回以上に達していた。にもかかわらず、なぜそのタイミングで、ジャニーズ側が苦情を伝えたのか。ちょうど朝日新聞紙上でジャニーズ事務所を退所した元SMAPメンバー3人による「新しい地図」の連載が始まっていたことと関係があるのでは、といぶかしむ声があったという。いずれにせよ、ジャニーズ側の事実上の「外部圧力」に応じる形で、朝日新聞が連載の打ち切りなども決定してしまった事例だと言える。ジャニーズと新聞社の繋がりは記事だけではない。広告出稿というビジネス面でも密接な関係を結んできた。現在公開中の『「嵐」大型企画で深まった朝日新聞とジャニーズの「広告ビジネス」』では、新聞社とジャニーズにおける広告ビジネスの事例、それが生み出す「忖度」の構造を取りあげた。
朝日新聞社内でジャニーズ報道を仕切る「ジャニ担」の影響力|SlowNews | スローニュース
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