#津和野駅回転台見学広場
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ザ・パークハビオ
江戸川区の最大の特徴は、区民の平均年齢が41.4歳と23区の中で最も若いことです。 これは、特に子どもの数が数字に反映されるためで、平成24年1月1日時点の東京都の市区町村別年齢別人口統計によると、0歳~14歳の人口比率は約17%を占めています。 私はここにいます。 国勢調査のデータによると、28.3%が既婚子持ち世帯、19.0%が4人以上の世帯、3.35%が3人世帯で、いずれも23区の中で最も高い。 合計特殊出生率は 1.45 で、23 区平均の 1.16 を大きく上回っています。 江戸川区といえば、東京東部臨海部の繁華街を代表する区の一つですが、太平洋戦争では大型台風の直撃や家屋倒壊など大きな被害を受けました。 . 海抜が低い地域と揶揄され、津波や洪水の危険性が高いことが懸念されています。ザ・パークハビオ
臨海部の住宅開発により、子育てしやすい区として多くの若者の流入に成功しています。 ディズニーランドに行きやすいところも、子育てファミリーの魅力の一つかもしれません。 支援制度は子育て世帯だけでなく、中高年向けの「家賃補助制度」や高齢者向けの配食サービスなども充実。 区内のスポーツセンターも温水プールなど設備が充実しています。 やはり海抜の高い地域が多く、自然災害のリスクが高いからです。 しかし、家賃が安いので外国人も多く住んでおり、国際色豊かな街です。 492haの広大な敷地を持つ葛西臨海公園は緑豊かで砂浜もあり、日本の渚百選にも選ばれています。 動物園併設の公園もあり、区内の公園面積は756haと23区の中で最大です。 水族館では魚も見ることができます。 区内を流れる江戸川や那珂川でも自由に遊べます。 荒川沿いには2003年に小松川千本桜、2013年には新川千本桜が完成し、多くの市民に人気の花見スポットとなっています。 江戸川区は若者の流入が活発ですが、江戸時代から庶民の街として栄えた長い歴史を持つエリアです。 江戸川区には伝統工芸品や特産品もあります。
江戸切子は東京都の伝統工芸品の一つで、主に江東区、江戸川区、墨田区などで作られています。 ガラスの表面に金の板や砥石を使って様々な模様を刻む技法です。 18世紀初頭頃から鏡、眼鏡、風鈴などの製造が始まり、明治時代に入るとヨーロッパの技術が導入・近代化され、東京の地場産業となりました。 2002年には東京都の伝統的工芸品に、2014年には経済産業省より国の伝統的工芸品に指定されました。 もうひとつ、江戸川区を代表する商品が小松菜です。 江戸時代��将軍が江戸川区の小松川村に鷹狩りに訪れ、小松菜の入った澄んだ汁を好んだことから村名がついたと言われています。 江戸川区は今でも作付面積第1位。 カルシウムや鉄分を多く含み、今や全国どこでも一年中食べられる野菜になりました。 現在、江戸川区がこの小松菜のブランド化に取り組んでおり、生で食べられる新しいサラダ小松菜が誕生しています。 近年、急激な人口増加により若い世代に人気の江戸川区ですが、治安面で不安の声も多くあります。 子供が多く、ディスカウントスーパーもあり、都心へのアクセスも便利という利点から、空き巣や強盗などの犯罪が多発しています。 長い間、江戸川区は北側を鉄道しか通っていない交通アクセスの悪さから「孤島」と呼ばれていました。 1969 年の東西線開通、1983 年から 1986 年の都営新宿線開通以降、この問題は徐々に改善されてきた。
現在、都心と千葉エリアを結ぶ東西線は完成していますが、区の南北を結ぶ鉄道路線はなく、交通手段はバスのみ。 バスの路線数を増やすなどの対策がとられていますが、1世帯あたりのマイカー保有率は23区内で5位であることからもわかるように、クルマは生活の必需品です。 杉並区は23区の西部に位置しています。 区名は青梅街道沿いに杉の木が植えられたことに由来するが、現在はそのような木はない。 杉並区は、関東大震災後、多くの人が杉並区に移り住み、郊外住宅地として発展してきました。 緑被率は23区で3位、人口密度は11位というデータを見ると、広々とした住宅が立ち並ぶ街であることが想像できます。 震災後に杉並区に転居した者のうち、富裕層は防災のため都心部には戻らず、杉並区にとどまり、広々とした邸宅を建てて優雅な生活を送った。 戦前から文人や画家など多くの文化人が暮らしてきた。 杉並区は、専業主婦の就業率23位、専業主婦率1位、シングルマザー率1位、離婚率23位、高卒大学進学率が高い区です。 . 東京の山腹を代表する住宅地の多いエリアです。 そして杉並区の魅力はそれだけではありません。 沿線には若者が多く住むエリアがあり、安くて魅力的なお店が並んでいます。
意外にもレジャーマダムだけでなく、若い人も多いです。 杉並区は専業主婦が多く、広々とした家で優雅に暮らすだけではありません。 杉並区に住む年齢層別の住民比率を見ると、18~29歳の若者の割合は男性4位、女性2位、全体では3位です。 中央線沿線の吉祥寺、荻窪、西荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺エリアに多くの若者が住んでいます。 個性豊かな雑貨店や古着屋、古本屋、ジャズ喫茶、ライブハウスなどが軒を連ねるエリアです。 生活しやすい大きな商店街もあり、乗り換えなしで移動できる新宿へのアクセスも非常に便利です。 昭和の高度経済成長期に生まれ育った人にとっては、広大な土地を持つ一戸建てが杉並の生活かもしれませんが、20代の若者にとっては、音楽や古き良き文化、 、 バラエティショップに囲まれ、毎日刺激を受けながら生活を楽しめるのが杉並の魅力です。 この2つの特徴が、杉並区が住みたい街として人気の理由です。この2つの文化がうまく受け継がれ、融合し、独自の杉並文化が生まれています。 現在、杉並区では音楽を通じたまちづくりに積極的に取り組んでいます。 設備の整った公会堂や毎年恒例の音楽祭など、音楽の街としての地位を築いてきた杉並区。
アニメも地場産業の一つと捉え、その発展支援にも取り組んでいます。 荻窪音楽祭は杉並区を代表する音楽活動の一つです。 21世紀荻窪考える会が主催し、クラシックコンサートを通じて荻窪のイメージアップに貢献してきました。 荻窪駅周辺の銀行、協会、音楽スタジオ、喫茶店など様々な場所で期間限定で音楽フェスが開催されます。 運営スタッフを募集し、ボランティアで開催しています。 無給のスタッフに加え、街のバリアフリー化や音楽祭開催のスポンサーを募り、音楽祭の資金を募っています。 区民が運営側と出演者に分かれて開催する荻窪音楽祭は、2016年で28回目を迎え、町おこしの一大イベントに成長しました。荻窪音楽祭の他にも、 もう一つの有名な音楽イベントは阿佐ヶ谷ジャズストリートです。 1995年のスタート時は、小学校の体育館や企業ロビー、ライブ会場など13会場で開催されていましたが、現在では60会場以上に規模を拡大。 音楽の力で街を元気にするために始まったこのイベントも、地元の有志によって運営されています。 全国に600のアニメスタジオがあると言われ、そのうち70以上がここ杉並区にあります。 杉並区にアニメ関連の企業が多く設立されたのは、自社の住居を確保したことと、交通の便がよかったからです。
杉並区は都心へのアクセスが便利なだけでなく、静かで広々とした緑豊かな環境で仕事に没頭しやすい環境です。 杉並区は、日本で初めてアニメを地場産業として位置づけ、その発展を後押ししています。 2014年3月には、線路下にアニメ関連のショップが集まった施設「阿佐ヶ谷アニメストリート」をオープン。 日本のアニメーションの歴史を紹介するアニメーションミュージアムも開館し、展示のほか、ワークショップやアニメーションの上映会など、さまざまなプログラムが用意されています。 アニメウォークという街歩きイベントも。 アニメーション制作者と���聴者が交流する場として、アニメーション産業の発展をサポートするイベントです。 練馬区は、1947年8月に22区制であった板橋区から分離して設置されました。 練馬区は、東京都の北西部に位置し、23 区の中で最も標高が高く、面積は 23 区で 5 番目、人口は 2 番目です。 まだまだ畑が多いことから「緑豊かな区」というイメージを持たれている方も多いと思いますが、区は農地だけでなく公園もたくさんあります。 緑の多い練馬では、農業が主要産業の一つです。 2013 年 1 月現在、農地面積は 240ha で、23 区の中で第 1 位です。 農家数も372戸と1位ですが、33%の農家が農地面積0.3ha以下、約4割が農家収入0~49万円、500万円未満です。 9割のデータを見ると、大規模な農業をしている人は少ないことがわかります。 1975 年に 746 ヘクタールの農地と 1,342 戸の農家があったことを考えると、農業が衰退していることは明らかです。 農業以外にも、練馬の知名度を上げたアニメがあります。
練馬区には、90 を超えるアニメ関連企業、大学の芸術学部、音楽大学もあります。 都心へのアクセスの良さ、緑豊かな環境、家賃の安さは漫画家志望者の求める条件であり、日本を代表する漫画家が次々と誕生しました。 農業では地元の特産品をブランド化することが多いですが、かつて練馬には練馬を代表する野菜である大根がありました。 練馬大根は江戸時代から盛んに生産され、明治時代になると日清戦争や日露戦争により需要が高まり、その名は国内外に知られるようになりました。 大正時代になると、首都東京に人口が集中し始めます。 この頃から、練馬地区は都心部の農産物の供給拠点となり、その役割は年々強くなっています。 最近では大根の生産も盛んです。 練馬の農業は、鉄道の開通により流通が活発化し、拡大期を迎えました。 練馬大根の最盛期は、明治末から昭和初期の約25年と言われています。 昭和の終戦とともに、それまで大根漬けの一大供給地であった軍部の解体により、大根の生産は衰退し始めます。
大根の収穫は大変だったので、農家は大根からキャベツに主力生産を移しました。 現在、大根は練馬ではほとんど生産されていません。 農地面積は、1975 年の 745.6ha から 239.8ha へと減少し、2012 年度には 3 分の 1 以下となった。 練馬区内の農家・農家数は、1975 年の 1,342 世帯・7,232 人から 2012 年には 498 世帯・1,075 人に減少している。 、ブルーベリーとブドウ、およびその他の植物の 3,549 ヘクタール。 平成23年度東京都土地利用面積データによると、練馬区の農地利用率は区総面積の5.1%で第1位。 23区で最も農業が盛んな地域ですが、全体として農業の規模は縮小傾向にあります。 農産物の出荷量や作付面積は減少していますが、練馬区ではこれまで培ってきた農業のノウハウや既存の人材を活かし、農業を観光資源として活用しています。 大都市東京に近いという利便性を活かし、練馬区には現在約30のブルーベリー農園があります。 農業を観光資源化し、他地域から多くの観光客を呼び込む練馬の生き残り策の一つとして注目されています。 また、小学校での総合学習の一環として、区内の田んぼや果樹園を積極的に小学校に開放し、次世代への農業振興を積極的に行っています。 小中学校での田植え、カキやキウイの選別、受粉・収穫、野菜くず・残飯などの体験を通じて、子どもたちの農業への関心を高める活動。 肥料にリサイクルされています。 日本のアニメーションは、その技術とソフトウェアの両面で海外から高く評価されるようになりました。
練馬区は、日本一のアニメタウンとしてアニメ発展の歴史に深く関わってきました。 区内のアニメーションスタジオが日本初のアニメーションを制作し、1963年にはテレビでアニメの放送が始まりました。 当時の漫画家や後に有名になった漫画家のほとんどが練馬区で働いていました。 現在でも90社以上の関連会社が練馬に集まっています。 練馬区では、区が主体となってアニメ産業を戦略的に強化するための政策を策定するとともに、多数のアニメ関連産業を誘致することで区内産業全体の活性化に向けた活動を行っています。 国勢調査によると、2000年から2005年までの中央区の人口変化率は135.7%、2005年から2010年までは124.8%でした。 どちらのデータも、日本で最も高い人口増加率を示しています。 これを見ただけでも、中央区がますます人で賑やかになっていることが想像できます。 また、2020年のオリンピックに向けて、晴海に選手村が建設され、敷地内に約6,000戸の住宅が建設されます。 江戸時代から現在に至るまで、日本の文化・商業・情報の中心地として発展してきた中央区は、今後も人口が増加し続ける日本最大級のメガシティとして君臨しそうです。 順調そうに見える中央区ですが、紆余曲折がありました。 現在増加傾向にある人口は、1960 年から 1980 年までの 20 年間で 16 万 1000 人から 8 万 3000 人に減少しました。失われた人口を補うために、区は住宅建設を促進するためのさまざまな政策を導入しました。 中央区は区内定住者数の増加に成功したものの、その生活を支えるスーパーマーケットなどの商業施設や、子育て世帯が望む大規模な公園が不足しています。 便利で住みよい街を目指した地域づくりが今後の課題と言えます。 中央区だけでなく、現在の千代田区や港区などトップクラスの23区でも入居者が減少。ザ・パークハビオ
この時期は「都市のドーナッツ化現象」と呼ばれた。 高度経済成長期と呼ばれる1954(昭和29)年から1973(昭和48)年は、急速な都市化の時代でした。 石炭から石油へとエネルギーが変化する中、東京湾沿岸には次々と工場が建設され、産業が発展してい���ました。 都市部の工業化が進み、所得が増加した結果、裕福な人々はより良い生活を求めて広々とした家に住みたいと思うようになり、郊外に一戸建てを購入するようになりました。 私はそうでした。 この時期、都心部の大企業のオフィスや工場が集中する地域から、快適な住環境を求めて人々が離れていった。中央区では1957年から人口が減少に転じた。 バブル期に入り、中央区の地価が上昇したことで人口はさらに減少し、2000年1月1日現在、69,695人にまで落ち込んでいた。 バブル期の終焉後、都心部の不動産が大量に解放され、比較的安価な住宅が大量に供給されるようになり、都心部に住む人が増え始めました。 これがアーバンリターン現象の始まりです。 中央区は1981年に定住人口10万人を宣言し、1988年には定住人口回復の年を宣言した。 続々と紹介されています。 これらの施策により、長年減少傾向にあった中央区の人口は1998年から増加に転じました。 隅田川流域の住宅開発により、30~44歳の子育て世代の割合は33.9%を超えています。 これは、23 区の平均である 26.0% を大幅に上回っています。 2005 年から 2010 年までの 6 歳未満の子供の人口増加率は 56.0% と、23 区の平均である 5.7% をはるかに上回っています。 2020年東京オリンピックを控え、全国から注目を集めるエリアとなる中央区。 人口が増加の一途をたどる一方で、生活関連施設の整備が遅れています。 前述のように、日常の買い物ができる店舗はまだまだ不足しています。 大型スーパーはなく、食品スーパーも少ない。 ミニスーパーも増え、買い物の悩みも少しずつ解消されつつあります。 また、緑被率が23区内で最も低いことからもわかるように、緑のある公園の数は非常に少ないです。
浜離宮公園を除く公園面積率は23区中20位。 小さいお子さんがいるご家庭にとっては、外で遊べる場所がないというのは深刻な問題です。 現在、中央区内にはオリンピック選手村跡地や築地市場跡地など、いくつかの再開発候補地があります。 これらの広大な敷地を今後も住居専用にするのか、それとも緑の広場を追加するのかについては、議論の余地があります。 東京都が作成した東京都の人口によると、千代田区の人口は昭和35年以降減少傾向にある。 都心復帰の影響。 2016 年 1 月 1 日現在、千代田区の人口は 55,131 人です。 東京23区の中でも大きな役割を担う千代田区は、一言で言えば昼と夜の人口差が最も大きい区です。 昼間は人口が多く、夜間と夜間の差は20倍。 日本一にぎわうオフィス街には家がほとんどなく、夜もほとんど人がいません。 千代田区は23区の中で最も人口が少ない区です。 居住者が非常に少ない地域です。 夜間の人口が少なく、昼間の人口が多いということは、この区は昼間に多くの人が働きに来る場所です。 千代田区は業種別に分類しやすいです。 丸の内や大手町は大企業が集積するビジネス街であり、日比谷や有楽町は銀座の繁華街に近いため商業施設や娯楽施設が充実しています。
パークアクシスブランド レジディアブランド ���ンフォリアブランド パークハビオブランド プラウドフラットブランド パークキューブブランド アーバネックスブランド ルフォンプログレブランド カスタリアブランド オーキッドレジデンスブランド ディームスブランド ブリリアブランド 東京都心のブランドマンション 白金ザスカイ仲介 ワンルーフレジデンス田町仲介手数料無料 ザ・パークハビオ渋谷クロス仲介手数料無料 コンフォリア新宿イーストサイドタワー仲介手数料無料 パークタワー勝どき仲介手数料無料 HARUMI FLAG/晴海フラッグ仲介手数料無料 白金ザ・スカイ仲介手数料無料
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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ポニーとしての最後の本線での冬の写真からです。黒い蒸気機関車と雪はよく似合いますね。 2017年12月17日 撮影 津和野駅転車台 #C56 #C56160 #C56形160号機 #ポニー #1C #モーガル #やまぐち号 #SLやまぐち号 #山口線 #JR西日本 #津和野 #津和野駅 #津和野駅回転台見学広場 #雪 #島根県 #しまねぐらむ #ファインダー越しの私の世界 #ファインダーは私のキャンパス (津和野駅) https://www.instagram.com/p/Bxe9FnxnYik/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=9wew10p5jkvf
#c56#c56160#c56形160号機#ポニー#1c#モーガル#やまぐち号#slやまぐち号#山口線#jr西日本#津和野#津和野駅#津和野駅回転台見学広場#雪#島根県#しまねぐらむ#ファインダー越しの私の世界#ファインダーは私のキャンパス
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【ルパン三世フェスティバル in 浜中町】浜中町ルパン三世バーチャルツアー&フェスレポート
漫画「ルパン三世」原作者であるモンキー・パンチ先生のふるさと北海道・浜中町で、3年ぶりに『ルパン三世フェスティバル』(2022年10月29日・30日)がリアル開催されました。フェスティバル会場の模様と、浜中町中や観光スポットで見つけることのできるルパン三世たちを【浜中町ルパン三世バーチャルツアー】としてご紹介します。
◎浜中町ルパン三世バーチャルツアーMAP
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①ルパン三世通り(霧多布市街地)
ツアーは、浜中町役場がある霧多布(きりたっぷ)よりスタート。霧多布市街地の『ルパン三世通り』にはルパン・次元・五ェ門・不二子・銭形たちが描かれたフラッグや看板が掲げられています。
各キャラクターが描かれたマンホールのふたは、浜中町オリジナルのお土産としてキーホルダーも販売されています。 浜中町商工会:https://hamanaka-shoko.jp/pg937.html
通りにある仮想店舗「JIGEN’S BAR」「PUB FUJKO」は、ファンが必ず訪れる人気のフォトスポットです。
仮想映画館「霧多布座」は老朽化により2022年6月に取り壊しとなりましたが、復元ARとして現地で写真撮影ができます。
※ARサービスの提供は2022年11月30日まで
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②霧多布市街地 店舗
霧多布市街のお店「鎌沢ドラッグ」さんにお邪魔しました。こちらは店内を飾るモンキー・パンチ先生のサインやルパン三世グッズ、ジオラマなど圧巻のコレクションで、現地を訪れるファンのサロ���的存在のお店とのこと。この取材の際も、コスプレ姿のファンが見学をしていました。
市街には他にも店頭にルパン三世やモンキー・パンチ先生のサインが飾られているお店があります!
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③浜中町役場 新庁舎
津波対策として高台に建てられている浜中町役場の新庁舎。役場までの案内板には、町の基幹産業である農・漁業ルックのルパン三世一味&銭形警部の姿が描かれています。
通常は平日のみ見学可能な庁舎内ですが、今回はルパンフェスのため特別に見学することができました。
▼1階:吹き抜けの入り口から見える各階案内板にはルパンたちが。
▼2階:モンキー・パンチ先生のルパン三世イラストを大きく使用した壁画。
▼3階:展望台は霧多布市街地を見渡せる絶景ポイント。
ちなみに新庁舎の外では、ルパン三世通りと同じ5種類のマンホールを見つけることができます!
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④「妖精花伝説」イラスト
浜中町内の牧場にはモンキー・パンチ先生が描かれた妖精のイラストが看板となっている牧場も。
妖精は何種類かいるそうなので、現地に来た際はぜひ探してみて下さい。 今回は浜中町役場ちかくの小松牧場さんにお邪魔しました。 ※牧場では牛舎や牧草地など立ち入り禁止の場所にご注意ください
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⑤霧多布湿原センター
霧多布市街からJR花咲線・茶内(ちゃない)駅へ向かう一帯は約3000平方メートル(東京ドーム600個分以上)の広さをもつ霧多布湿原です。浜中町の自然を楽しみたい方は「霧多布湿原センター」で専門ガイド付きのエコツアーも開催しています。また、センターでは物産品と合わせ、浜中町オリジナルのルパン三世グッズも販売しています。
霧多布湿原センター:https://www.kiritappu.or.jp/center/
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⑥JR花咲線 茶内(ちゃない)駅
JR花咲線(JR根室本線、一部区間の愛称)の浜中町内にある<茶内駅>。 駅の入り口ではルパン三世の等身パネルが出迎えてくれます。そしてホームにはルパンを追ってきた(?)銭形警部の姿も。 フェス中はJR茶内駅から会場までの町営バス(予約制)も運行しています。
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⑦仮想店舗「居酒屋五ェ門」
茶内にあるフォトスポット・仮想店舗「居酒屋 五ェ門」は、駅入り口を背に200メートルほど歩いた場所に建っています。(実際の営業はしていません)
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⑧浜中町ウェルカム看板
茶内駅をはなれ、釧路市~根室市を結ぶ国道44号線に向かうと見えてくるのは、表はルパン、裏は不二子のイラストが描かれた大きな案内板です。
車での観光の際はこの看板が浜中町の目印となります!
※自動車での観光は、交通ルールを守って安全運転を心がけましょう。
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⑨ルパン三世 デーリィロードマップ看板
そのまま国道44号線を北上すると見えてくる茶内酪農展望台。 そのパーキングエリアにある酪農地域全体の案内板にもルパン三世が。
この他にも、浜中町内の酪農地域ごとに「ルパン三世」キャラクターと「妖精花伝説」のイラストが描かれた案内板があるようです。
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⑩JR花咲線 浜中駅
国道44号線から再びJR花咲線に戻って<浜中駅>へ。 こちらの入口では誰かと待ち合わせしているような次元と五ェ門、そして駅舎内の切符売り場とホームには不二子とルパ���の姿を見ることができます。
駅舎以外でもJR花咲線では大自然の中をルパン三世のラッピングトレインが運行しています。霧多布のラッピングタクシーなど、各種交通機関を合わせての観光もオススメです。
▼JR北海道 ルパン三世ラッピングトレイン運行表 ⇒ https://www.jrhokkaido.co.jp/travel/lupin/
浜中町の観光スポットではARを使ってルパンたちと写真が撮れるサービスを実施し、フェス期間中に訪れたファンの皆さんにも好評でした。
※ARサービスの提供は2022年11月30日まで
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⑪ルパン三世フェスティバル会場(浜中町総合文化センター)
霧多布市街地へ戻り、フェス会場の浜中町総合文化センターにやって来ました。 駐車場ではラッピングトレーラーの展示や地元グルメ屋台の出店で賑わっています。
総合文化センター1階ロビーにあるルパン三世の愛車の展示コーナーでは、フェス中は特別に車のそばまで近づくことができたため、コスプレをしたファンなどたくさんの方が記念写真を撮りに集まっていました。
2階ではフェスティバルに合わせ TVアニメ「ルパン三世 PART6」ビジュアル展を開催。 ルパン三世グッズ販売や浜中町内で使えるルパン三世payの発行コーナーも設置されていました。
◎モンキー・パンチ・コレクション
文化センター2階にある常設施設「モンキー・パンチ・コレクション」にもフェス中たくさんの人が訪れていました。この中ではモンキー・パンチ先生の漫画原稿やイラストが多数展示されているほか、先生の書斎を再現したスポットなど創作の原点を垣間見ることができ、浜中町を訪れるファンが必ず立ち寄る名所となっています。
◎「スペシャルトーク」ステージ
フェス2日目のラストには、声優陣と制作スタッフによる「スペシャルトーク」ステージが文化センター大ホールにて開催されました。
<「スペシャルトーク」登壇者> (ステージ左より)MC小新井涼さん/ルパン三世・栗田貫一さん/石川五ェ門・浪川大輔さん/トムス・エンタテインメント 野﨑プロデューサー/東北新社 清水音響監督/日本テレビ放送網 中谷敏夫さん
まず栗田さん、浪川さんが久しぶりとなった浜中町ステージでの挨拶、そして今回がフェス初参加の音響監督・清水さんも浜中町の印象を語り、和やかにトークがスタートしました。
今年8月に亡くなられた次元大介の声優 小林清志さんの話題では、栗田さんはアフレコ現場での小林さんとの最後の会話、浪川さんからは小林さんとの印象的なエピソードが語られました。 そして、今回のステージではサプライズとして次元大介の声優を引き継がれた大塚明夫さんからのビデオメッセージが紹介され、ステージでは「PART6」アフレコ時の様子など制作時のエピソードも飛び出しました。
続く浜中町ステージでのお楽しみ・生アフレコのコーナーでは、栗田さんと浪川さん、そして観客席から元気に手をあげた銭形警部姿のファンも参加し、音響監督の生指導の下で「PART6」第一話ラストシー���のアフレコを再現。見事にリリー役を演じた参加者に、栗田さんと浪川さんからは驚きと称賛の声があがり、会場からも大きな拍手が送られました。
最後のあいさつでは新しいメンバーも加わったルパン三世チームでまた浜中町を訪れたいと栗田さんが語り、温かな雰囲気の中ステージは幕を閉じ、「ルパン三世フェスティバル」の全日程が終了しました。
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浜中町とルパン三世スポットについて詳しくは下記WEBサイトでもご案内をしています! ⇒ 浜中町観光協会:http://www.kiritappu.jp/ ⇒ ルパン三世宝島プラン:https://www.hamanaka-lupin.com/
フェスにご参加いただいたファンの皆様、ありがとうございました!
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【国際】在日「多くの日本人が無意識のうちに差別に加担しているように感じる」 ★3 [8/3] [昆虫図鑑★
16<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん2021/08/03(火) 12:29:36.72ID:mDbQsVUN>>24>>26>>27>>28>>36>>37>>39>>43>>45>>47>>60
在日何が悪いって言うんだよ
お前ら在日の悪いところ思いつくか?
思いつくならあげてみろ
あげれるものならな
悪いと思ってるのはただのネットの刷り込み効果なんだよ
27Prisma Licht☆Illyasviel Von Einzbern ◆Illya.eEm.JP 2021/08/03(火) 12:30:28.07ID:Me/EVY/q>>65
>>16
冫(゚Д゚) はいはい
・朴烈事件(大正12年):民潭創設者・朴烈が起こした天皇暗殺未遂テロ
・直江津駅リンチ殺人事件(昭和20年):満員列車で起きた在日による日本人リンチ殺害
・大阿仁村事件(昭和20年):在日鉱山労働者が栗林に無断侵入&警官と乱闘
・生田警察署襲撃事件(昭和20,21年):山口組成長のきっかけとなった在日による警察署占拠事件
・首相官邸デモ事件(昭和21年):生活物資の優先配給を求めた在日が暴徒化
・坂町事件(昭和21年):闇市の取締りに反発した在日による暴力事件
・新潟日報社襲撃事件(昭和21年):坂町事件��記事の撤回謝罪を要求した在日による暴行
・富山駅前派出所襲撃事件(昭和21年):犯罪人解放を狙った在日による警官襲撃
・長崎警察署襲撃事件(昭和21年):犯罪人釈放を目的とした在日集団テロ
・富坂警察署襲撃事件(昭和21年):犯罪人逃亡を企てた在日による警察署占拠
・尾花沢派出所襲撃事件(昭和22年):闇米を摘発された在日が派出所を襲う
・阪神教育事件(昭和23年):GHQが戦後初めて非常事態宣言を布告した大規模テロ
・評定河原事件(昭和23年):北朝鮮国旗掲��を巡った在日と米軍憲兵との乱闘
・宇部事件(昭和23年):山口県宇部市における在日による生活保護要求テロ
・益田事件(昭和24年):密輸入物資隠匿で摘発された在日を巡る襲撃テロ
・枝川事件(昭和24年):集団窃盗犯逮捕に絡んで起こった在日による警察官暴行拉致事件
・高田ドブロク事件(昭和24年):密造酒醸造犯による脅迫暴行デモ
・本郷事件(昭和24年):朝鮮人地区の地図作成に対する在日の集団暴行
・下関事件(昭和24年):韓国政府の在外国民登録に反発した在日が暴徒化
・台東会館事件(昭和25年):朝連解散&朝連会館接収を拒否した在日が起こした公安事件
・連島町事件(昭和25年):朝鮮解放5周年集会に集まった在日による暴動
・長田区役所襲撃事件(昭和25年):在日が生活保護を要求して襲撃
・四日市事件(昭和26年):朝連支部接収に反対した在日が起こしたバイオテロ
・王子朝鮮人学校事件(昭和26年):東京朝鮮学校による違法印刷物を巡った在日の暴動
・神奈川事件(昭和26年):神奈川県朝鮮人学校PTAによる暴力事件
・下里村役場集団恐喝事件(昭和26年):生活保護と強制送還阻止を求めた在日が村役場を占拠
・東成警察署催涙ガス投擲事件(昭和26年):警察が同胞を殺したとデマを流し暴徒化した在日によるテロ
・軍需品製造工場襲撃事件(昭和26年):東成署事件の追悼集会で在日が再び暴徒化
・半田一宮事件(昭和26年):密造酒取締に抵抗した在日が警察署を占拠
・日野事件(昭和26年):在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊による違法デモ&暴動
・万来町事件(昭和27年):生活保護増額を却下された在日が集団で福祉事務所を襲撃
・木造地区警察署襲撃事件(昭和27年):日本共産党の指示で在日が起こした襲撃事件
・姫路事件(昭和27年):民潭と総連間の抗争事件
・血のメーデー事件(昭和27年):左翼団体と在日による皇居外苑における騒乱事件
・上郡事件(昭和27年):日本の公立学校入学を巡った在日の内ゲバ暴行事件
・八坂神社事件(昭和27年):在日デモ隊が大阪東成・八坂神社に無断侵入
・宇治事件(昭和27年):在日による複数の派出所占拠
・多奈川町事件(昭和27年):密造酒一斉摘発に抵抗した在日が集団暴徒化
・田川事件(昭和27年):日本人花見客と在日グループとの争いで死亡者が出た暴行事件
・大村収容所事件(昭和27年):韓国が強制送還引取拒否した在日犯罪者達が収容所内で暴徒化
・広島地裁被疑者奪回事件(昭和27年):裁判中に在日放火犯を奪還し逃走
・桜井町事件(昭和27年):旧朝連系在日よる民潭系在日への襲撃事件
・奈良警察官宅襲撃事件(昭和27年):桜井町事件検挙に反発した在日が警官宅を襲撃
・高田事件(昭和27年):旧朝連系在日による民潭&派出所襲撃事件
【昭和27年10月、陸上自衛隊"保安隊"発足で犯罪が激���】
・靖国爆破事件(平成27年) :韓国人が靖国南門のトイレで時限爆弾を爆破させた無差別爆弾テロ
・稲荷神社御神体破壊事件(平成28年):福島市周辺で韓国人が神社仏閣の石像、仏像を100体以上も破壊した宗教テロ
・世田谷区女性殺害未遂事件(平成29年):コンビニ前で、店を出た女性が金輝俊に首をナイフで切り付けられる事件、ツイッターに「日本人を大量虐殺する」
・MKタクシー社長による個人タクシー暴行事件(平成29年):東京都港区でMK社長で韓国籍のユ・チャンワン容疑者が予約客待ちのタクシーの運転手を暴行
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)1月3日(月曜日)
通巻7177号
ウイグル書記に「栄転」した馬興瑞は、なぜ次期政治局人事で注目されるのか?
宇宙航空ミサイル分野の花形「哈爾浜工業大学」教授、副学長を経験した実績
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唐突に深セン書記から新卿ウイグル自治区党委員会書記に「栄転」した馬興瑞は、なぜ次記政治局人事で注目されるのか?
第一に彼は宇宙航空ミサイル分野で、軍の花形となった戦略ミサイル部隊に直結する哈爾浜工業大学教授、副学長を経験しているからだ。
第二に中国にシリコンバレーとして経済発展のめざましい深センの書記兼広東省省長だった。このポジションは歴代がそうであったように無言裡の躍進が約束されている。
鍵は深センという急発展の都会にある。
最初に深センを「見た」のは1970年代央、香港のホンハム駅からのんびりと汽車で行く(特急も新幹線もなかった)。国境の羅府のひとつ手前の駅からタクシー運転手が乗り込んできた「国境展望台まで安く行くから」とセールス。双眼鏡が設置されていた。中国は未だ鎖国していた。
(嗚呼、あれがレッドチャイナか)という感じだった。遠景にはみすぼらしい風景が展開していた。
80年代初頭だったと記憶するが、実際に深センに足を踏み入れたのは香港から旅行代理店が斡旋する日帰りツアーで、別刷のヴィザが日帰りなのに必要だった。写真二枚。外国人ツアーに紛れ込んだ。香港の波止場から蛇口港へ、揺れるフェリーに乗って。当時は広東省宝安県で、人口は2万人程度だった。ガイドが当方の服装、靴、時計に異様な興味を持っていることが分かった。
およそ文明化に遅れ、冷蔵庫は普��しておらず、もちろんエアコンはない。肉を天日のもと、屋台で売っていてビールもぬるい。時代遅れの電化製品と古着屋、貧しい漁村だった。歩道は舗装されておらず、行き交う車は滅法少なかった。
広州市までバスに揺られ、花園ホテルのバアで休憩。「あんた日本人か。所属する単位は何か?」と聞かれ、職業は自由に選べると答えると信じられない顔つきだった。広州市は中国一先進的な都会だが、当時、外国人が宿泊できるのは花園ホテルと中国飯店、東方飯店くらいだった。いまは無数の高層ホテルがあり、広州は中国一の所得を誇る。広州の繁華街をあるくと「ここは銀座か」と錯覚するほどに繁栄している。
トウ小平の南巡講話があり、先富論が叫ばれ、勝手気ままな投資も認められ、香港華僑、ついで台湾華僑が本格進出を始める。窓口は深センで、国境の橋にあった旅行代理店で、日本円で26000円を支払い、半年有効の数字ヴィザが取得できた。ものの20分だった。東京の中国大使館で不愉快な思いをしてヴィザを取得する必要がなくなった。
改革開放が本格化し、のっぽビルが建つようになると、深セン駅前には闇両替、妖しげなポルノ、薬屋には「長生きできる妙薬」とか。「80歳でも大丈夫」とか。電機部品の秋葉原のような安普請のデパートがあった。スマホどころが、電話機が並んでいて、旅行客は貸し電話屋に飛びこんであちこちに電話をかけていた。甲高い音響というより壮大な雑音が町中に響き渡った。
町はまだ普請中、道路は囚人が工事をしていた。何かハリウッド映画のスタジオを拡大したような風景で駅突き当たりのシャングリラホテルの最上階レストランから市内の全景が見渡せた。町辻のテントでは、横流しのセータやネクタイが山となって信じられないほど安い値段で売られていた。
以後、所要で香港へ行くたびに、深センに足を延ばし、何回か通っている裡に高層ビルが競うように林立し、地下鉄が縦横に、そして日本人向けのナイトクラブに妖しげなホテル。筆者の定宿は駅前のボロ旅館で一泊3000円前後だった。
いまとは逆で香港の中間階層のサラリーマンは、香港のマンションが高くて手が出ないので、深センでマンションを買い、毎日、およそ35万人が香港へ通勤していた。三洋電機の深セン工場を取材したこともあった。
いまの深センは中国のシリコンバレー、��イテク企業が蝟集し、テンセント、ファーウェイ、鴻海精密等々���日本人学校もある。人口は1760万人。高層ビルは350棟以上。飛行場は二つ。株式市場もできた。新幹線は武漢とも、上海とも繋がった。広州市経済圏とはマカオ対岸の珠海、仏山、中山、東莞と広州市までの沿線衛星都市が急発展し、メガロポリスの人口は1800万人くらいだろうか、広州市経済圏と深センを併せると上海メガロポリスを超える経済力がある。
だからこそ広州市、深セン市、そして広東省の書記に誰がなるかが、北京、上海と並んで注目を集めるのである。
広東は革命元帥のひとり葉剣英とその一族が長く治め、下放されたトウ小平を梅県で匿った。剣英の子、葉選平を説得して北京へ呼び寄せ、ようやく広東の経済力を手にしたトウ小平は、広東省書記、広州市書記を中央から任命した。だから広東省書記を経験した李長春、張徳生、王洋が政治局常務委員となり、同書記経験組の胡春華(副首相)に次期人事のスポットがあたり、中央の大幹部への確実な階段となる。
しかもシリコンバレーで繁栄を築いた深セン特別市の書記を経験すると、さらに早い出世階段を駆け上る。
近年、張高麗、李鴻忠、そして先月、深セン市書記兼務広東省長の馬興瑞が、新彊ウイグル自治区書記に移動し、「悪代官」と呼ばれる陳全国と交替することになった。前者ふたりは政治局常務委員に上り詰めた。したがって馬興瑞の政治局入りは確実である。
張高麗はテニスの女王との不倫関係がばらされ、スケベジジィとして有名になったが、天津特別市書記からトップセブン入りした。そのあとの李鴻忠も2016年以来、天津市党委員会書記である。
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歴史を直視しろ! 歴史を忘れた民族に未来は無い
歴史ってこれですか? ・朴烈事件(大正12年):民潭創設者・朴烈が起こした天皇暗殺未遂テロ ・直江津駅リンチ殺人事件(昭和20年):満員列車で起きた在日による日本人リンチ殺害 ・大阿仁村事件(昭和20年):在日鉱山労働者が栗林に無断侵入&警官と乱闘 ・生田警察署襲撃事件(昭和20,21年):山口組成長のきっかけとなった在日による警察署占拠事件 ・首相官邸デモ事件(昭和21年):生活物資の優先配給を求めた在日が暴徒化 ・坂町事件(昭和21年):闇市の取締りに反発した在日による暴力事件 ・新潟日報社襲撃事件(昭和21年):坂町事件の記事の撤回謝罪を要求した在日による暴行 ・富山駅前派出所襲撃事件(昭和21年):犯罪人解放を狙った在日による警官襲撃 ・長崎警察署襲撃事件(昭和21年):犯罪人釈放を目的とした在日集団テロ ・富坂警察署襲撃事件(昭和21年):犯罪人逃亡を企てた在日による警察署占拠 ・尾花沢派出所襲撃事件(昭和22年):闇米を摘発された在日が派出所を襲う ・阪神教育事件(昭和23年):GHQが戦後初めて非常事態宣言を布告した大規模テロ ・評定河原事件(昭和23年):北朝鮮国旗掲揚を巡った在日と米軍憲兵との乱闘 ・宇部事件(昭和23年):山口県宇部市における在日による生活保護要求テロ ・益田事件(昭和24年):密輸入物資隠匿で摘発された在日を巡る襲撃テロ ・枝川事件(昭和24年):集団窃盗犯逮捕に絡んで起こった在日による警察官暴行拉致事件 ・高田ドブロク事件(昭和24年):密造酒醸造犯による脅迫暴行デモ ・本郷事件(昭和24年):朝鮮人地区の地図作成に対する在日の集団暴行 ・下関事件(昭和24年):韓国政府の在外国民登録に反発した在日が暴徒化 ・台東会館事件(昭和25年):朝連解散&朝連会館接収を拒否した在日が起こした公安事件 ・連島町事件(昭和25年):朝鮮解放5周年集会に集まった在日による暴動 ・長田区役所襲撃事件(昭和25年):在日が生活保護を要求して襲撃 ・四日市事件(昭和26年):朝連支部接収に反対した在日が起こしたバイオテロ ・王子朝鮮人学校事件(昭和26年):東京朝鮮学校による違法印刷物を巡った在日の暴動 ・神奈川事件(昭和26年):神奈川県朝鮮人学校PTAによる暴力事件 ・下里村役場集団恐喝事件(昭和26年):生活保護と強制送還阻止を求めた在日が村役場を占拠 ・東成警察署催涙ガス投擲事件(昭和26年):警察が同胞を殺したとデマを流し暴徒化した在日によるテロ ・軍需品製造工場襲撃事件(昭和26年):東成署事件の追悼集会で在日が再び暴徒化 ・半田一宮事件(昭和26年):密造酒取締に抵抗した在日が警察署を占拠 ・日野事件(昭和26年):在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊による違法デモ&暴動 ・万来町事件(昭和27年):生活保護増額を却下された在日が集団で福祉事務所を襲撃 ・木造地区警察署襲撃事件(昭和27年):日本共産党の指示で在日が起こした襲撃事件 ・姫路事件(昭和27年):民潭と総連間の抗争事件 ・血のメーデー事件(昭和27年):左翼団体と在日による皇居外苑における騒乱事件 ・上郡事件(昭和27年):日本の公立学校入学を巡った在日の内ゲバ暴行事件 ・八坂神社事件(昭和27年):在日デモ隊が大阪東成・八坂神社に無断侵入 ・宇治事件(昭和27年):在日による複数の派出所占拠 ・多奈川町事件(昭和27年):密造酒一斉摘発に抵抗した在日が集団暴徒化 ・田川事件(昭和27年):日本人花見客と在日グループとの争いで死亡者が出た暴行事件 ・大村収容所事件(昭和27年):韓国が強制送還引取拒否した在日犯罪者達が収容所内で暴徒化 ・広島地裁被疑者奪回事件(昭和27年):裁判中に在日放火犯を奪還し逃走 ・桜井町事件(昭和27年):旧朝連系在日よる民潭系在日への襲撃事件 ・奈良警察官宅襲撃事件(昭和27年):桜井町事件検挙に反発した在日が警官宅を襲撃 ・高田事件(昭和27年):旧朝連系在日による民潭&派出所襲撃事件 【昭和27年10月、陸上自衛隊"保安隊"発足で犯罪が激減】 ・靖国爆破事件(平成27年) :韓国人が靖国南門のトイレで時限爆弾を爆破させた無差別爆弾テロ ・稲荷神社御神体破壊事件(平成28年):福島市周辺で韓国人が神社仏閣の石像、仏像を100体以上も破壊した宗教テロ ・世田谷区女性殺害未遂事件(平成29年):コンビニ前で、店を出た女性が金輝俊に首をナイフで切り付けられる事件、ツイッターに「日本人を大量虐殺する」 ・MKタクシー社長による個人タクシー暴行事件(平成29年):東京都港区でMK社長で韓国籍のユ・チャンワン容疑者が予約客待ちのタクシーの運転手を暴行
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一 はじめに
(日本オリンピック) 五輪史上初の衛星生中継。世界が見守る中、聖火を手に、国立競技場に入ってきたのは、最終ランナーの坂井義則(よしのり)さんでした。 八月六日広島生まれ。十九歳となった若者の堂々たる走りは、我が国が、戦後の焼け野原から復興を成し遂げ、自信と誇りを持って、高度成長の新しい時代へと踏み出していく。そのことを、世界に力強く発信するものでありました。 「日本オリンピック」。坂井さんがこう表現した六十四年大会は、まさに、国民が一丸となって成し遂げました。未来への躍動感あふれる日本の姿に、世界の目は釘付けとなった。 半世紀ぶりに、あの感動が、再び、我が国にやってきます。 本年のオリンピック・パラリンピックもまた、日本全体が力を合わせて、世界中に感動を与える最高の大会とする。そして、そこから、国民一丸となって、新しい時代へと、皆さん、共に、踏み出していこうではありませんか。
(新しい時代へ踏み出す) 「日本はもう成長できない」。七年前、この「諦めの壁」に対して、私たちはまず、三本の矢を力強く放ちました。その果実を活かし、子育て支援、教育無償化、更には働き方改革。一億総活躍社会を目指し、まっすぐに進んでまいりました。 厳しさを増す安全保障環境を直視しながら、平和安全法制を整備し、防衛力を抜本的に強化しました。地球儀を俯瞰(ふかん)する視点で、世界を駆け回り、ダイナミックな日本外交を展開してきました�� 我が国は、もはや、かつての日本ではありません。「諦めの壁」は、完全に打ち破ることができた。その自信と誇りと共に、今、ここから、日本の令和の新しい時代を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。
二 復興五輪
二〇二〇年の聖火が走り出す、そのスタート地点は、福島のJヴィレッジです。かつて原発事故対応の拠点となったその場所は、今、我が国最大のサッカーの聖地に生まれ変わり、子どもたちの笑顔であふれています。 常磐自動車道に続き、本年三月、JR常磐線が全線開通します。これに合わせ、双葉町、大熊町、富岡町の帰還困難区域における避難指示の一部解除に向け、準備を進めます。 浪江町では、世界最大級の、再生エネルギーによる水素製造施設が、本格稼働します。オリンピックでは、このクリーンな水素を燃料とする自動車が、大会関係者の足となります。そして、大会期間中、聖火を灯し続けます。リチウムイオン電池、AIロボット。未来を拓く産業が、今、福島から次々と生まれようとしています。 津波で大きな被害を受けた、宮城県を訪れる外国人観光客は、震災前の二倍を超えました。岩手県では三倍となっています。昨年九月に陸前高田市で開業したばかりの道の駅では、僅か一か月で十万人の観光客が訪れ、賑(にぎ)わいを見せています。 来年度で復興・創生期間は終了いたしますが、次のステージに向け、復興庁を司令塔に、政治の責任とリーダーシップの下で、福島の本格的な復興・再生、東��復興の総仕上げに、全力で取り組んでまいります。 九年前、ファーディーさんは、ラグビーチームの一員として、釜石で、東日本大震災を経験しました。 「ここで帰ったら後悔する」 オーストラリア大使館から避難勧告を受け、家族から帰国を勧められても、ファーディーさんは、釜石に残り、救援物資の運搬、お年寄りや病人の搬送。困難に直面する被災者への支援を続けました。 その感謝の気持ちと共に、本年、釜石は、オリンピック・パラリンピックに際し、オーストラリアのホストタウンとなります。岩手県野田村は台湾、福島県二本松市はクウェートなど、二十九の被災自治体が、支援を寄せてくれた人々との交流を深めます。 心温まる支援のおかげで力強く復興しつつある被災地の姿を、その目で見て、そして、実感していただきたい。まさに「復興五輪」であります。 東日本大震災では、百六十三の国と地域から支援が寄せられました。我々が困難の時にあって、温かい支援の手を差し伸べてくれた世界の方々に、改めて、今、この場から、皆さんと共に、感謝の気持ちを表したいと思います。
三 地方創生
(観光立国) 全体で五百近い市町村が、今回、ホストタウンとなります。これは、全国津々浦々、地域の魅力を世界に発信する、絶好の機会です。 北は北海道から、南は沖縄まで。アイヌの皆さんが受け継いできた伝統音楽や食文化、琉球舞踊など、我が国が誇る全国各地の地域文化に触れていただく「日本博」を、本年、開催いたします。 国の文化財を積極的に活用できる制度を設け、地域のアイデアによる観光地づくりを後押しします。自家用車による有償の運送サービス制度について規制緩和を行い、外国人観光客の皆さんの地方での足もしっかりと確保いたします。 首里城の一日も早い復元に向け、全力を尽くします。三月には、那覇空港第二滑走路の供用を開始します。発着枠を十万回以上拡大することにより、アジアのゲートウェイとして、沖縄の振興に取り組んでまいります。 オリンピック・パラリンピックに向けて、サイバーセキュリティ対策、テロなど組織犯罪への対策に万全を期すことで、安全・安心をしっかり確保いたします。五年後の大阪・関西万博も視野に、多言語化、Wi‐Fi環境の整備など、観光立国の基盤づくりを一気に進めます。高い独立性を持った管理委員会の下、厳正かつ公平・公正な審査を行いながら、複合観光施設の整備に取り組みます。 更には、外国人観光客の多様なニーズに応える宿泊施設など世界に冠たる観光インフラを整え、二〇三〇年六千万人目標の実現を目指します。
(農産物輸出) 世界に目を向けることで、地方に新しいチャンスが広がります。 昨年、E��への牛肉やコメの輸出は、約三割増えました。TPP諸国への乳製品の輸出も、二割を大きく上回る伸びとなりました。甘い「紅はるか」は、シンガポールやタイで大人気です。さつまいもの輸出は、昨年、四割以上増加しました。 先月、中国への牛肉輸出について、解禁令が発出されました。今月発効した日米貿易協定も活かし、おいしくて、安全な、日本の農林水産物の世界への挑戦を、力強く後押しいたします。 農地の大規模化、牛の増産や、水産業の生産性向上など、三千億円を超える予算で、生産基盤の強化を進めます。販路開拓など海外への売り込みを支援します。 神戸牛、ルビーロマン、ゆめぴりか。農家の皆さんの長年にわたる努力の結晶である、日本ブランドを、海外流出のリスクからしっかりと守ります。 CSF対策を一層強化します。野生動物の感染が発見された場合にも、家畜伝染病予防法に基づき、移動制限などのまん延防止措置を実施できるようにします。ASFについても、海外から持ち込まれる肉や肉製品の検疫を強化し、水際対策を徹底します。
(地方創生) 昨年の台風十九号では八ッ場ダムが利根川の被害防止に役立ちました。水力発電や農業用水などを目的とするダムについても、緊急時には省庁の縦割りを打破し、一元的に活用するための対策を、全ての一級河川を対象に、この夏までに取りまとめます。 相次ぐ自然災害の教訓を活かし、全国で、川底の掘削、堤防の整備、無電柱化を進めます。送電線の計画的な更新、電力会社、自衛隊、自治体の平時からの連携などにより、強靱(じん)な電力供給体制を構築します。防災・減災、国土強靱(じん)化を進め、災害に強い故郷(ふるさと)を創り上げてまいります。 東京から鉄道で七時間。島根県江津市は「東京から一番遠いまち」とも呼ばれています。二十年以上、転出超過が続き、人口の一割に当たる二千八百人が減少した町です。 しかし、若者の起業を積極的に促した結果、ついに、一昨年、転入が転出を上回り、人口の社会増が実現しました。 原田真宜(まさのり)さんは、パクチー栽培を行うため、東京から移住してきました。農地を借りる交渉を行ったのは、市役所です。地方創生交付金を活用し、起業資金の支援を受けました。農業のやり方は地元の農家、販路開拓は地元の企業が手助けしてくれたそうです。 「地域みんなで、手伝ってくれました」 地域ぐるみで若者のチャレンジを後押しする環境が、原田さんの移住の決め手となりました。 「地方にこそ、チャンスがある」。そう考え、地方に飛び込む若者を、力強く応援してまいります。東京から地方に移住して起業・就業する場合に最大三百万円支給する制度を、更に使いやすくします。「移住支援センター」を全国一千の市町村に設置し、移住へのニーズを実際の人の動きへとつなげてまいります。 都市に住む皆さんの地方での兼業・副業を促すため、人材のマッチングや移動費の支援を行う新たな制度を創設します。関係人口を拡大することで、将来的な移住につなげ、転出入均衡目標の実現を目指します。 企業版ふるさと納税を拡充し、地方における魅力ある仕事づくりを一層強化します。独占禁止法の特例を設け、まちづくりの基盤である地方の金融サービス、交通サービスをしっかりと維持・確保してまいります。地方の創意工夫を、一千億円の地方創生交付金で、引き続き応援します。 若者が将来に夢や希望を持って飛び込んでいくことができる。地方創生の新しい時代を、皆さん、共に、創り上げようではありませんか。
四 成長戦略
(中小・小規模事業者) 「東洋の魔女」が活躍したバレーボール。そのボールを生み出したのは、広島の小さな町工場です。その後、半世紀にわたり、その高い技術を代々受け継ぎ、今なお、五輪の公式球に選ばれ続けています。 全国各地の中小・小規模事業者の皆さんが、長年培ったオンリーワンの技術で、地域経済を支えています。しかし、経営者の多くが六十歳を超え、事業承継は待ったなしの課題であります。そして、若い世代の承継を阻む最大の壁が、個人保証の慣行です。 この春から、先代の経営者と後継者から個人保証を取る、いわゆる二重取りを原則禁止いたします。商工中金では、今月から、年間三万件、二兆円の新規融資について、個人保証なしの融資を原則とする運用を開始しました。 信用保証協会では、個人保証なしで後継者の皆さんの融資を保証する新制度を、四月からスタートします。経営の磨き上げ支援も行い、専門家の確認を得た後継者には、保証料をゼロとします。個人保証の慣行は新しい世代には引き継がないとの強い決意で、あらゆる施策を総動員してまいります。 七年前、十年ぶりの大改正を行った下請振興基準を、更に改正し、対象を拡大します。大企業に対しても、新たに金属産業、化学産業で、自主行動計画の策定を求めます。業界ごとの取引慣行に詳しい専門人材を下請Gメンに採用し、下請取引の更なる適正化に取り組んでまいります。 デジタル技術の進歩は、中小・小規模事業者にとって、販路拡大などの大きなチャンスです。デジタル取引透明化法を制定し、オンラインモールでの出店料の一方的引上げなど不透明な取引慣行を是正します。
(規制改革) IoT、ビッグデータ、人工知能。第四次産業革命の大きな変化の中で、デジタル時代の規制改革を大胆に進めます。 本年から、無人自動運転を解禁し、中山間地域の皆さんに、安全で便利な移動手段を提供します。自動制御ブレーキを備えたサポートカーに限定した新たな免許制度を設け、その普及を拡大します。 AIが解析するデータのボリュームが、競争力を左右する時代です。個人情報を匿名化し、その詳細な分析を可能とすることで、ビッグデータの世界をリードしてまいります。 フィンテックによる多様な決済サービスが登場する中、金融分野の業法による縦割り規制を抜本的に見直します。マイナンバーカードの取得を促し、来年度中に健康保険証としての利用を開始します。あらゆる行政手続の電子化を進め、対面での確認が必要なものなどを除き、二〇二四年度までに完了いたします。 技術の進歩による急激な変化に対し、消費者の安全・安心を確保していきます。個人データの利用停止を可能とするなど、個人情報保護を強化します。あおり運転を刑罰の対象とし、道路へのカメラ設置などにより、悪質な運転者の取締りを徹底します。空港施設へのドローン飛行を禁止し、飛行経路の安全を確保してまいります。
(イノベーション) 吉野彰(あきら)先生のノーベル化学賞受賞を、心よりお慶び申し上げます。 吉野先生に続く、未来を担う若手研究者に、大胆に投資します。自由な発想で挑戦的な研究に打ち込めるよう、資金配分を若手に思い切って重点化します。安定的なポストを確保し、海外留学を含めたキャリアパスを確立することで、若者が将来に夢や希望を持って研究の世界に飛び込める環境を整えます。 変化のスピードを先取りし、これまでにない価値を生み出す鍵は、ベンチャー精神です。大企業などからベンチャー企業への投資を税制で支援し、いわゆる自前主義からの発想の転換を図ります。国の研究機関によるベンチャー企業への出資を促すことで、蓄積された研究成果や技術を新しい産業へと成長させてまいります。 第四次産業革命がもたらすインパクトは、経済のみにとどまらず、安全保障をはじめ、社会のあらゆる分野に大きな影響を及ぼします。国家戦略としての取組が必要です。 その基盤インフラは、通信です。5G、ポスト5G、更にその先を見据えながら、大胆な税制措置と予算により、イノベーションを力強く後押しします。安全で安心なインフラが、これからも安定的に供給されるよう、グローバルな連携の下、戦略的に取り組んでいきます。 次世代暗号などの基盤となる量子技術について、国内外からトップクラスの研究者・企業を集める、イノベーション拠点の整備を進めます。 月を周回する宇宙ステーションの整備、月面での有人探査などを目指す新たな国際プロジェクトに、我が国として、その持てる技術を駆使し、貢献いたします。将来的な火星探査なども視野に、人類の新たなフロンティアの拡大に挑戦します。 Society 5.0の時代にあって、教育の在り方も、変わらなければなりません。本年から小学校でプログラミング教育を開始します。四年以内に、全ての小学生、中学生に一人一台のI��端末を揃(そろ)えます。企業エン��ニアなど多様な外部人材を登用することで、新しい時代の教育改革を進めます。
(アベノミクス) 今般取りまとめた新しい経済対策は、まさに、安心と成長の未来を切り拓くものであります。事業規模二十六兆円に及ぶ対策を講じることで、自然災害からの復旧・復興に加え、米中貿易摩擦、英国のEUからの離脱など海外発の下方リスクにも万全を期してまいります。 日本経済は、この七年間で十三%成長し、来年度予算の税収は過去最高となりました。公債発行は八年連続での減額であります。経済再生なくして財政健全化なし。この基本方針を堅持し、引き続き、二〇二五年度のプライマリーバランス黒字化を目指します。 この六年間、生産年齢人口が五百万人減少する一方で、雇用は三百八十万人増加しました。人手不足が続く中で、最低賃金も現行方式で過去最高の上げ幅となり、史上初めて全国平均九百円を超えました。足元では、九割近い中小企業で、賃上げが実現しています。 雇用環境が好転している今、就職氷河期世代の皆さんの就業を、三年間集中で一気に拡大します。この世代に対象を絞った求人を解禁するなど、あらゆる施策を講じ、意欲、経験、能力を活かせるチャンスを広げていきます。 兼業や副業をやりやすくするため、労働時間に関するルールを明確化します。労働施策総合推進法を改正し、大企業に中途採用・経験者採用比率の開示を求め、多様で柔軟な働き方が可能となるよう、改革を進めます。 経済社会が大きく変化する中、ライフスタイルの多様化は時代の必然であります。今こそ、日本の雇用慣行を大きく改め、働き方改革を、皆さん、共に、進めていこうではありませんか。
五 一億総活躍社会
(全世代型社会保障) この春から、大企業では、同一労働同一賃金がスタートします。正規と非正規の壁がなくなる中で、パートの皆さんへの厚生年金の適用を更に広げてまいります。三千億円を上回る、ものづくり補助金、IT補助金、持続化補助金により生産性向上への支援、社会保険手続の負担軽減を行いながら、従業員五十人を超える中小企業まで段階的に拡大します。 高齢者のうち、八割の方が、六十五歳を超えても働きたいと願っておられます。人生百年時代の到来は、大きなチャンスです。働く意欲のある皆さんに、七十歳までの就業機会を確保します。 こうした働き方の変化を中心に据えながら、年金、医療、介護全般にわたる改革を進めます。 年金受給開始の選択肢を、七十五歳まで広げます。在職老齢年金についても、働くインセンティブを失わせることのないよう、見直しを行います。 二〇二二年には、いわゆる団塊の世代が七十五歳以上の高齢者となる中で、現役世代の負担上昇に歯止めをかけることは、待ったなしの課題です。 年齢ではなく、能力に応じた負担へと見直しを進めます。七十五歳以上であっても一定以上の所得がある方には、窓口での二割負担を新たにお願いすることを検討します。併せて、かかりつけ医機能の強化を図るため、大病院の受診に定額負担を求めることで、現役世代の負担上昇を抑えます。 医療や介護について、予防への取組を強化することで、いつまでも健康で、活躍できる社会づくりを行います。 子どもたちから、子育て世代、現役世代、そしてお年寄りまで、全ての世代が安心できる「全世代型社会保障制度」を目指し、本年、改革を実行してまいります。
(子育て支援) 子どもたちの未来に、引き続き、大胆に投資してまいります。 昨年の幼児教育・保育の無償化のスタートに続き、この四月から、真に必要な子どもたちの高等教育の無償化が始まります。私立高校の実質無償化も実現し、子どもたちの誰もが、家庭の経済事情にかかわらず、夢に向かって頑張ることができる社会を創り上げてまいります。 保育の受け皿整備を進め、待機児童ゼロを実現します。これまでの取組により、待機児童の数は、昨年、調査開始以来、最少となりました。いまだゼロが実現できていない自治体には、保育ニーズに応じた整備計画の策定を求め、取組を強化していきます。 妊娠、出産、子育てへの切れ目ない支援を行います。来年春までに、子育て世代包括支援センターを全ての市町村に設置します。所得の低いひとり親世帯への支援を拡大し、子育てしやすい社会づくりを更に強化します。「希望出生率一・八」の実現を目指し、深刻さを増す少子化の問題に真正面から立ち向かってまいります。
(一億総活躍社会) 我が国には、意欲と能力あふれる女性たちがたくさんいます。全ての女性に活躍のチャンスを創り、その持てる可能性を十二分に開花することができれば、日本の経済社会は一変するはずです。 この六年で、女性の就業者数は、新たに二百九十万人増加しました。就業率は、二十五歳以上の全ての世代で米国を上回っています。M字カーブは確実に解消に向かっています。引き続き、女性活躍の旗を高く掲げ、女性の皆さんが働きやすい環境づくり、女性リーダーの拡大に向けた取組を一層進めます。更に、民間シェルター支援によるDV対策などに取り組んでまいります。 女性も男性も、若者もお年寄りも、障害や難病のある方も、更には一度失敗した方も、誰もが多様性を認め合いその個性を活かすことができる社会、思う存分その能力を発揮できる社会を創る。一億総活躍社会の実現こそが、まさに少子高齢化を克服する鍵であります。 バリアフリー社会の実現に向けて、公共交通機関における取組を強化します。耳の聞こえない方に対する、無償で手話通訳を利用できる電話リレーサービスを整備します。重度障害者の皆さんの就労の意欲を後押しするための仕組みを強化します。 「その能力は磨けば無限である。」 中村裕(ゆたか)医師は、長年、障害者雇用に熱心に取り組んでこられました。 「身障者の社会進出のためにもスポーツを奨励しなければならない。」 中村先生の情熱によって、一九六四年、東京パラリンピック大会が実現しました。その後、パラリンピックは四年おきに継続的に実施されるようになりました。中村先生の思いは受け継がれ、半世紀以上の時を経て、再び、日本へと帰ってきます。 本年のパラリンピックを、世界中の人々に夢や感動を与える、素晴らしい大会とする。障害のある皆さんが、世界で最もいきいきと生活できる国・日本を、皆さん、共に、創り上げようではありませんか。
六 外交・安全保障
(積極的平和主義) 日本が、初めてオリンピック精神と出会ったのは、明治の時代であります。その時の興奮を、嘉納治五郎はこう記しています。 「世界各国民の思想感情を融和し以て世界の文明と平和とを助くる」 オリンピック・パラリンピックが開催される本年、我が国は、積極的平和主義の旗の下、戦後外交を総決算し、新しい時代の日本外交を確立する。その正念場となる一年であります。 日朝平壌宣言に基づき、北朝鮮との諸問題を解決し、不幸な過去を清算して、国交正常化を目指します。何よりも重要な拉致問題の解決に向けて、条件を付けずに、私自身が金正恩委員長と向き合う決意です。 もとより、我が国の国民の生命と財産を守るため、毅(き)然として行動していく。その方針はしっかりと貫いてまいります。米国、韓国をはじめ国際社会と緊密に連携してまいります。 北東アジアの安全保障環境が厳しさを増す中で、近隣諸国との外交は、極めて重要となっています。韓国は、元来、基本的価値と戦略的利益を共有する最も重要な隣国であります。であればこそ、国と国との約束を守り、未来志向の両国関係を築き上げることを、切に期待いたします。 プーチン大統領と長門で合意した、元島民の方々の航空機によるお墓参り、そして四島での共同経済活動は、着実に前進しています。一九五六年宣言を基礎として交渉を加速させ、領土問題を解決して、平和条約を締結する。この方針に、全く揺らぎはありません。私と大統領の手で、成し遂げる決意です。 日本と中国は、地域と世界の平和と繁栄に、共に大きな責任を有しています。その責任をしっかり果たすとの意志を明確に示していくことが、今現在の、アジアの状況において、国際社会から強く求められています。首脳間の往来に加え、あらゆる分野での交流を深め、広げることで、新時代の成熟した日中関係を構築してまいります。
(安全保障政策) いかなる事態にあっても、我が国の領土、領海、領空は必ずや守り抜く。安全保障政策の根幹は、我が国自身の努力に他なりません。 この春から、航空自衛隊に「宇宙作戦隊」を創設します。更には、サイバー、電磁波といった新領域における優位性を確保するため、その能力と体制を抜本的に強化してまいります。 昨日、日米安全保障条約は、改定の署名から六十年を迎えました。日米同盟は、今、かつてなく強固なものとなっています。その深い信頼関係の下に、二〇二〇年代前半の海兵隊のグアム移転に向け、施設整備などの取組を進めます。抑止力を維持しながら、沖縄の基地負担軽減に、一つひとつ結果を出してまいります。 日米同盟の強固な基盤の上に、欧州、インド、豪州、ASEANなど、基本的価値を共有する国々と共に、「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指します。
(国際社会の課題解決) この七年間、八十の国・地域を訪問し、八百回を超える会談を重ねてまいりました。各国首脳との信頼関係の上に、国際社会が直面する共通課題の解決に向け、世界の中で、主導的な役割を果たしていく覚悟です。 中東地域における緊張の高まりを深く憂慮します。我が国は、全ての関係者に、対話による問題解決と自制的な対応を求めます。これまで培ってきた中東諸国との友好関係の上に、この地域の緊張緩和と情勢の安定化のために、これからも、日本ならではの平和外交を粘り強く展開いたします。エネルギー資源の多くをこの地域に依存する我が国として、こうした外交努力と併せて、自衛隊による情報収集態勢を整え、日本関係船舶の安全を確保します。 自由貿易の旗手として、二十一世紀の経済秩序を世界へと広げてまいります。EUから離脱する英国とも、速やかに通商交渉を開始します。TPPの更なる拡大や、インドを含めたRCEP交渉を主導します。データ流通の新たな国際ルールづくりを、大阪トラックでリードしていきます。 G20で合意したブルー・オーシャン・ビジョンには、既に五十九の国から賛同を得ています。この流れを更に世界へと広げていくことで、二〇五〇年までの海洋プラスチックごみによる新たな汚染ゼロの実現を目指します。 我が国は、五年連続で温室効果ガスの削減を実現いたしました。二〇一三年度比で十一・八%の削減は、G7の中で英国に次ぐ削減量です。長期戦略に掲げた脱炭素社会を早期に達成するため、ゼロエミッション国際共同研究拠点を立ち上げます。米国、EUなどG20の研究機関の叡智(えいち)を結集し、産業革命以来増加を続けてきたCO2を、減少へと転じさせる、「Beyondゼロ」を目指し、人工光合成をはじめ革新的イノベーションを牽(けん)引します。 世界の平和と安定、自由で公正で開かれた国際ルールの構築、気候変動をはじめとした地球環境問題への挑戦。より良き世界の実現に向かって、新しい時代の日本外交の地平を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。
七 おわりに
「人類は四年ごとに夢をみる」 一九六四年の記録映画は、この言葉で締めくくられています。新しい時代をどのような時代としていくのか。その夢の実現は、今を生きる私たちの行動にかかっています。 社会保障をはじめ、国のかたちに関わる大改革を進めていく。令和の新しい時代が始まり、オリンピック・パラリンピックを控え、未来への躍動感にあふれた今こそ、実行の時です。先送りでは、次の世代への責任を果たすことはできません。 国のかたちを語るもの。それは憲法です。未来に向かってどのような国を目指すのか。その案を示すのは、私たち国会議員の責任ではないでしょうか。新たな時代を迎えた今こそ、未来を見つめ、歴史的な使命を果たすため、憲法審査会の場で、共に、その責任を果たしていこうではありませんか。 世界の真ん中で輝く日本、希望にあふれ誇りある日本を創り上げる。その大きな夢に向かって、この七年間、全力を尽くしてきました。夢を夢のままで終わらせてはならない。新しい時代の日本を創るため、今日、ここから、皆さん、共に、スタートを切ろうではありませんか。 御清聴ありがとうございました。
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早朝の新潟妙高は寒い。
そんな当たり前なことを思い出した、平成最後の日も押し迫った4月29日の朝。 いよいよ佐渡に向けて出発の日、天気予報は相変わらず翌30日の夕方から崩れる予報を出している。
妙高高原は標高333mそこから上越市の直江津港まで30kmほど。 もちろん海抜0mである為、下り基調で1時間ほどで到着する。
フェリーターミナルに向かうときはいつも心昂るものである。
事前にWeb予約と決済を済ませていたため、ターミナルの端末にQRコードをかざせば直ぐに乗船券が発券される便利さだ。
デンソーウェーブさんありがとう。
さてこの佐渡汽船、直江津から小木まで結ぶ唯一無二の航路なのだが、高速船とはいえ車両収納甲板が可変式2階建てになっており、さながらサンダーバードの秘密基地のようだ。 このような天井版が可変するようなギミックに、いちいちギュッと来るのは性分であろうか。
激しいエンジン音の咆哮を耳にしながら日本海をひた走る高速船からの眺める雪をかぶった妙高戸隠連山も圧巻である。
2時間ほどで小木港に到着すれば、いきなり目の前に現れる"たらい船"の体験乗船コーナーである。
ものすごい昭和感全開だが、観光地らしい演出に一役買っているには違いない。一瞬乗ってみようかとも思ったが、いやいや辞めておこう。
早速進路をを北に向けるといきなり2kmほどの登りが現れ、一気に小佐渡の洗礼を受ける。 風は冷たいが日差しもあるため、Tシャツ一枚に早くも着替えてしまった。 その後、多少のアップダウンを繰り返し海岸線に出るころには、平地基調の素晴らしい国仲平野と大佐渡の山々が目の前に広がってくる。 これぞ知らぬ土地を走る快感であり癖になる瞬間だ。
前出の順徳天皇の真野御陵の案内看板があり気持ちを引き寄せられるが、すでに昼過ぎということもありゆっくりしていられないので先を急ぐことにした。 加茂湖の湖岸をかすめれば両津港へ到着。 この両津の町である程度買い出しを行わないと、これより北側に商店がある確証がないため地元のスーパーを探し食料を買い求める。
食料をパニアバックに突っ込んで、重くなったバイクに跨り再び北を目指す。 ここからは大佐渡の東海岸をひたすら北上していくのだが、高低差もなく非常に快走路である。 しかし案の定これでもかってぐらいの向かい風であり、特に自転車に乗っている人とすれ違うのが皆さん南向き追い風なので、この佐渡では右回りがスタンダードなのであろうか? そんな向かい風の中を30kmほど走れば佐渡北部の地域に突入し、内陸側の山が海岸まで押し出てくる。 当然ながら絶壁に張り付くような海岸線の道はアップダウンを繰り返す。 総重量30kgに迫ろうかという食料と装備満載のバイクは、当然のごとく重力によって非常に重たく前に進まない。
上り下りを繰り返す道路に悪態をつきながらもペダルを回し続ければ、16時過ぎにキャンプ場のある二ツ亀に到着。
本土と佐渡を合わせて初日は110km程度、予定通りのスケジュールで特段トラブルもなく走れてホッとした。 ホテルのフロントで受付をすましキャンプ場使用料の800円を支払えば決済済みの番号札を渡されるので、これを見える位置に掲げてくれとの事。 キャンプ場は上段・下段の2か所あり決して広くはないが下段の方が海へ向かって視界が広く景観が良いが、先客が多く騒がしそうなのと荷物の搬入が自転車では大変そうなので、自分は上段の一番海側に設営することにした。
上段は家族連れが多いが、決して密集度は高くなくパーソナルスペースも感じられる良い距離感であった。 水場にトイレも近くにあり、18時以降はフロントで500円支払えば浴場も使わせてもらえるので、疲れをとるには最高である。
ソロキャンプなんて何十年ぶりなので何をしたもんかと悩んだが、普段バタバタしているので意外と何もせずボーっとウィスキー飲んで過ごす時間が心地よかった。
この瞬間が最高であった。
21時にはテントに入りシュラフに包まれればあっという間に就寝。 と思いきや、深夜1時を回ったころにテントに叩きつける大粒の雨音に目が覚め「おぃおぃ、雨は夕方からだろ?」と寝袋にくるまったまま「朝には雨も止むだろう」と願いながら再び眠りの中へ。 しかし!5時に再び雨音で目を覚まし、恐る恐る雨雲レーダーを確認すると佐渡周辺が真っ青ではないか。 数時間後の予測を見ても昼までは止む気配がなさそうだし、ツーリングにおける天候悪化の洗礼を受けてるなぁと…。 日程に余裕があるならこのまま連泊して天気をやり過ごしたかったが、フェリーの事もありどうしても移動開始は免れない。 テントの中で「嫌だなぁ…ツラいなぁ…」とグダグダしてたが時間は無情にも過ぎていくので、朝飯を食べレインウェアを着込み満を持して外に出る。
うん、本降りだね。
周りのテントはさすがにまだ活動前で静まり返っている。 音をたてないように屋根のある近くの炊事場にバイクを持っていき、テントを速攻で撤収しパッキングも手早く済ます。 ホテルのフロントにチェックアウトしに行くとスタッフの人がとても心配してくれてたが、自転車だからしょうがないよねという感じである。
6時過ぎに二ツ亀キャンプ場を出発。
止まない雨と北側からの強風に煽られながらも、さほど低くない気温に助けられ少し走ると"大野亀"という佐渡一番の絶景ポイントに差し掛かる。
これは天候に関係なくその雄大さと大きさ、ロケーションの素晴らしさは言うまでもなく非常に綺麗でダイナミックであった。
一路南に海岸線を走れば日本海の荒々しい海に削り取られた、断崖絶壁が続く風光明媚な道が続く 天気は悪いが走っているうちに気持ちも高揚してくるのが自分自身わかる。 この佐渡北側は高低差が大きい道が続きペースは上がらないものの、景色の素晴らしさに登坂の辛さも軽減される。定期的に現れる小さな集落を繰り返し通過すれば、50kmほどで佐渡金山の町"相川"に到着だ。
ここまでほとんど信号機も無く2時間少しで到着してしまったため、観光したかった佐渡金山はまだオープン前。オープンまで待とうかとも考えたが、何時間も暇を潰すところもなく雨の中打たれ続けるのも得策ではないので先に行くことに。まことに無念。
再び国仲平野に戻ってくれば佐和田地区に入るのだが、この佐渡で一番栄えている地域といった印象。 全国で見かけるチェーン店が軒を連ね、さながら地方都市のロードサイド店と何ら変わらない風景にここが佐渡だということを忘れる瞬間だった。
そのまま再び田園風景を抜け両津港へ向けて進んでいけば、今度は小佐渡の東海岸を南下する。
最後の区間としたこの小佐渡東側はこのルート一番の快走路で、信号も無ければアップダウンも少なめで非常に走りやすい。 集落も一つ一つがさほど大きくなく交通量も控えめ、サイクリストやオートバイツーリングの方も多く見かけた。
この頃になると昼も近くなり、雨脚も弱まってきて気温も上がりだし快適になってくる。 そして何よりも嬉しいことに追い風なのだ。 ただこの道沿いは補給が出来るような施設は自動販売機以外皆無で、景色も海辺だけに変化に乏しい為、無意識にひたすら走り続けることになる。
止まるきっかけを探しながらも50kmほどの距離を、途中の灯台で1回休憩しただけで一気に走破してしまい、予定より早い14時過ぎにに小木港へ到着し佐渡イチ達成。
ここまで2日目は130kmを走破、ほとんどが雨中ライドであったのはツラかったけど、装備次第で何とでもなることを実感、雨でのノウハウは大事。 到着時に見学したたらい船を眺めながら、遅めの昼食を取り出航までの時間を過ごす。
そして入港してきた行きと同じ佐渡汽船に乗り込み小木港を16:30に出港。
さらば佐渡島。
18時過ぎの薄暗くなり始めた直江津に到着すれば、久々の本州の地である。 さて、ここからが裏の本番でもある妙高高原までのヒルクライムが始まるのだが、当初直江津駅から”はねうまライン”という電車で関山駅まで戻ろうと画策していたのだが、輪行バックを忘れるという失態をメイクし泣く泣く自走で帰ることに。
上越市を抜け新幹線駅である上越妙高駅を超えるころには辺りは真っ暗。 名古屋では問題ない光量を誇るCATEYE Volt300でも、心もとないほどに暗くなる道に重量級のバイクが重くのしかかる。 この状況でバイパスを走ろうものなら、追い抜きの車の恐怖とストレスで禿げてしまいそうだったので旧道をチョイスしたのだが、旧道は旧道で新井まで平地だった道は斜度を上げ、町を出たあたりから街頭もなく田舎特有の目が痛くなるぐらいの暗闇の一本道を登ることに。
10kmにも及ぶヒルクライムはたった300mちょっとの獲得標高にも関わらず、この旅で一番ツラく苦しい道だったことは疑いようの無い事実であった。 わかってた事だが輪行袋を忘れた代償だった。
真っ暗すぎて写真すら撮らず、ひたすらにペダルを踏んでました。
無事、嫁の実家につく頃には雨も上がり綺麗な星空が満点に光っていた。 そして喉に流し込んだビールの美味さは筆舌に尽くしがたいのは容易に想像頂けるであろう。
今回のツーリングは普段キャンプツーリングを行わない自分にとって、かなり乱暴な準備期間と日程や工程であったがそれなりに楽しめました。道具のチョイスやパッキング方法、また今回のような雨が降るような気候ではノウハウの蓄積によりもっと快適で効率的なツーリングも可能だろうと感じました。
翌日は納屋で濡れた道具を乾燥。
自分はどちらかというと競技側の立ち位置ですが、ツーリングのような自転車の楽しみ方を何十年ぶりかに思い出し、下手なりに楽しめたことは非常に有益で素晴らしい経験でした。 是非皆さんも少しでも興味があれば、まずは挑戦してみてはいかがでしょうか?きっといい経験になると思いますよ。
次は1週間ぐらいかけて行きたいなぁ~とぼんやり思っています。
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2018年5月5日 8521レで新山口駅から津和野駅までの走行を終えたD51形200号機です。一足先に給炭給水作業に向かったC56の作業完了を静かに待っています。 #d51形200号機 #d51200 #D51 #津和野駅 #津和野駅回転台見学広場 #津和野駅転車台 #指差し確認 #8521レ #SLやまぐち号 #やまぐち号 #山口線 #島根県 #蒸気機関車 #鉄道写真 #鉄道風景写真 #ファインダー越しの私の世界 #JR西日本 (Tsuwano Station)
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【アンケート企画】 「ふりかえる私の2020年」
WLでは恒例のこの1年に見た舞台作品の中で印象に残った3本を観客のみなさんから募るアンケートを実施しました。WLスタート以来毎年行っているこの企画、6回目の今回は13名の方にご参加いただきました。ご参加いただいたみなさん本当にありがとうございました。
2020年は舞台芸術界にとってもとても厳しい特別な年となりました。そんな1年を振り返り、2021年もまたみなさんといっしょに舞台を見守っていきたいと思います。
リリィ(会社員) 2020年の観劇本数:5 ・梅棒『OFF THE WALL』(スペース・ゼロ) 今年はとにかく見た本数が少なかった。特にコロナ後は「絶対に外したく無い」という劇団の舞台しか観劇しなかった。
まなぶ(司書) 2020年の観劇本数:3 ・渡辺源四郎商店『どんとゆけ』(渡辺源四郎商店しんまち本店) ・渡辺源四郎商店『だけど涙が出ちゃう』(渡辺源四郎商店しんまち本店) ・ヴェルディ/歌劇(演出・振付)矢内原美邦『ラ・トラヴィアータ』(白河文化交流館コミネス) 舞台ものはほんとにこの3つしかみることができなかった…。渡辺源四郎商店の観劇時、米軍によるイラン革命防衛隊司令官の殺害がニュースとなっており、劇中の権力による殺害としての死刑との符合が感じられた。昨年観劇した『福島三部作』の当日パンフレットを読み返していたところ、作劇対象との時間的・空間的距離感の重要性やジャーナリズムの一つとしての演劇が持つ機能について谷賢一が語っていた。適切な距離感で2020年のこの気分を描いた舞台芸術がいつの日か創造されることを期待している。忘れられない一年とか言いながら全て忘れるのがにんげんなので。
ウルコフ(自営業) 2020年の観劇本数:72 ・東宝『天保十二年のシェイクスピア』(日生劇場) ・新国立劇場『リチャード二世』(新国立劇場 中劇場) ・梅田芸術劇場『憂国』(日生劇場) 古典を現代に上演するという意味を多角的に見せてくれた3本。
薙野信喜(無職) 2020年の観劇本数:88 ・COCOON PRODUCTION『フリムンシスターズ』(シアター コクーン) ・Q『バッコスの信女-ホルスタインの雌』(城崎国際アートセンター) ・ケムリ研究室『ベイジルタウンの女神』 (北九州芸術劇場 中劇場) コロナ禍で多くの公演が中止や延期に追い込まれたので、観劇本数は昨年の6割ほどにとどまった。観たもののなかでは、公演が比較的多かった大衆演劇や演芸の割合が増えた。 選んだ3本は、いずれもいち早く公演を再開した劇場や劇団によるもので、コロナ禍の不十分な環境のなかでよくぞ創ってくれた、という質の高い舞台だった。 ブログ「のんちゃんのつれづれ」
米谷郁子(大学教員・研究者) 2020年の観劇本数:26 ・劇団フライングステージgaku-GAY-kai 2020 『贋作・十二夜』(新宿シアター・ミラクル) ・名取事務所パレスチナ演劇上演シリーズ 『帽子と預言者』『鳥が鳴き止む時-占領下のラマッラー』(「劇」小劇場) ・小松台東『シャンドレ』(こまばアゴラ劇場) 小松台東は、狭いローカルな場で吐き続ける毒を、実は至るところにある普遍的なものとして、延棒のように観客の中に行き渡らせる松本哲也の才能にしびれた。名取事務所は、政治批評をフィジカルに見せる生田みゆき演出と、杉山至の美術で、強いられたロックダウン下にあるパレスチナの閉鎖恐怖的不条理を上演。異物とそれをめぐる状況、田代隆秀の名演のそれぞれが多色発光するさまは、現状と深いところで響き合う。フライングステージgaku-GAY-kai贋作シェイクスピアシリーズは、舞台を新宿二丁目に翻案し、90分間にゲイ、ドラァグクィーンたちの生を織り込む見事な上演。今回は間に歌や踊りがないぶん対話劇に集中でき、役者の手抜きなしの存在感が沁みた。どの人物にも救いが用意され、ひかりの方へ向かう想像力を手放さないことの大切さを、毎年末、関根信一演出は教えてくれる。小劇場での地道な表現、かつ深く広がりゆく、3本。
北村紗衣(研究者) 2020年の観劇本数:56(226) ・劇団フライングステージgaku-GAY-kai 2020 『贋作・十二夜』(新宿シアター・ミラクル) ・三島由紀夫没後50周年企画『MISHIMA2020 (死なない)憂国』(日生劇場) ・『リチャード二世』(新国立劇場) 今年は配信を170本、劇場で見るものを56本見ました。3本はとりあえずライヴで見たもののみにしてみました。
片山幹生(大学教員) 2020年の観劇本数:45 ・板橋演劇センター『終わりよければすべてよし』(板橋区立文化会館 小ホール) ・劇団サム『水平線の歩き方』(練馬区立生涯学習センター) ・カクシンハン・スタジオ『ロミオとジュリエット』 板橋演劇センターは40年前から板橋でシェイクスピア劇の上演を続けている団体。105歳の現役女優、三條三輪さんは、舞台にいるだけですごい。演劇の化け物のような人たちの情熱を感じ取ることができる舞台でした。劇団サムは中学演劇部のOBOGと顧問による劇団。キャラメルボックスが活動休止している現在、劇団サムほどキャラメルらしい舞台を上演できる団体はないでしょう。カクシンハン・スタジオの『ロミオとジュリエット』はyoutubeの配信舞台でした。三人の出演者による70分に圧縮されたスピード感のある現代的な『ロミオとジュリエット』でした。
中西理(演劇舞踊批評) 2020年の観劇本数:150 ・恋を読むvol.3『秒速5センチメートル』(ヒューリックホール東京) ・堀企画『水の駅』(アトリエ春風舎 ) ・劇団あはひ『どさくさ』(本多劇場) 個人的にはコロナ感染の影響とそれに対応しての演劇概念の拡張を今年は考えざるを得ないと思っており、ZOOMを活用したリモート演劇である笑の内閣オンライン演劇「信長のリモート 武将通信録」(高間響作演出)やKAATプロデュース(岡田利規×内橋和久)「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」を今年の収穫として挙げたいが、劇場公演に限るとの条件から上記の3作品を選んだ。 中西理の下北沢通信
齋藤理一郎(会社員) 2020年の観劇本数:133 ・別冊根本宗子『超、Maria』(神奈川芸術劇場 大スタジオ) ・モモンガ・コンプレックス「わたしたちは、そろっている。」(東京芸術劇場シアターイースト) ・KAAT×東京デスロック『外地の三人姉妹』(神奈川芸術劇場 大スタジオ) 3月末から6月末までコロナ禍で舞台を観ることかなわず。ただ、その間の配信による表現の進化には目を瞠るものがあった。 また再開してからも暫らくは作る側も観る側も手探りの歩みだったが、9月中頃からは制約は変わらずあっても、上演メソッドや表現手法などに歩みがあって従前のような舞台の感触が戻ってきたように思える。劇場を訪れるたびに作演・俳優・スタッフの矜持や熱意や創意工夫や研がれ方が感じられ、感謝いっぱい。 選んだ3本は、いずれもこれまでにない表現の感触があった舞台。『超、Maria』にはそのまま海外にもっていけるような斬新なグルーブ感があった。『わたしたちは、そろっている』が劇場空間全体で編む心風景の揺蕩いにも捉われる。『外地の三人姉妹』がチェーホフと時代設定を舞台美術や俳優の際立ちで共振させる世界の先には新たな戯曲の広がりと歴史観が訪れた。
町田博治(会社役員) 2020年の観劇本数:133 ・ロロ『 四角い2つのさみしい窓』(こまばアゴラ劇場) ・てがみ座『燦々』(東京芸術劇場 シアターウエスト) ・Q『バッコスの信女 ーホルスタインの雌』(神奈川芸術劇場 大スタジオ) コロナ禍の中でどう演劇を続けることができるか模索が続いた1年だった。劇場で拝見した作品からの3本 ロロ『 四角い2つのさみしい窓』 観終わった後、本当に演劇って良いな、堪らないと。5人の役者が凄い演技で、演出がこれぞ演劇だと。仕掛けがあって、美術も音楽も照明も良かった。 てがみ座『燦々』 ぐっと来る思いに引き込まれ、次にはエンターテイメントとして楽しませて貰う。これぞ演劇だ。初演と比べ、濃淡が増し���軽やかさも増していた。役者が素晴らしい。主演の二人が素晴らしい。そして石村みかさんの演技の深みが。 Q『バッコスの信女』 凄いものを観た。主演の兵藤公美/川村美紀子/永山由里恵さんの演技と中川絢音さんとコロスの皆さん、大きな構成要素の額田大志さんの音楽、市原佐都子さんの演出(&戯曲)が一体となって襲って来た。川村美紀子さんの身体が凄い。地底妖精/妖精の問題/毛美子不毛話からこの作品へと繋がる。
kiki(地方公務員) 2020年の観劇本数:61 ・扉座『10knocks』(紀伊國屋ホール) ・あやめ十八番『江戸系 宵蛍』(吉祥寺シアター) ・東宝『天保十二年のシェイクスピア』(日生劇場) 2020年は、新型感染症の影響で多くの公演が中止や延期となり、上演できた作品もこれまでとは異なる葛藤や苦労を抱えることとなった。そんな状況下で幸運にも拝見できた作品から次の3本を選んだ。 ・扉座『10knocks』:予定していた演目の代わりに過去作品10本の日替わりリーディングを行って、団体の歴史とエネルギーを感じさせた。ただ、1公演だけれど1本と数えていいかどうかは迷うところ。 ・あやめ十八番『江戸系 宵蛍』:政治的な題材を取り上げつつ、このユニットらしいエレガントさとさまざまな仕掛けで観る者を魅了した。 ・東宝『天保十二年のシェイクスピア』:チラシにあった「絢爛豪華 祝祭音楽劇」というフレーズどおり華やかで盛りだくさんの音楽劇。上演期間途中に上演中止となったことも含め、自分にとって今年を象徴する1本となった。
でんない いっこう(自由業) 2020年の観劇本数:11 ・ホリプロ『ねじまき鳥クロニクル』(東京芸術劇場プレイハウス) ・Monkey Biz KAKUTA『往転』(本多劇場) ・埼玉県芸術文化振興財団『作者を探す六人の登場人物』(彩の国さいたま芸術劇場大ホール) ①原作を読んでどの場所がどの様に表れてくるのか楽しみだった。舞台装置もダンサーの入れ方も面白い。吹越満の逆さセリフが素晴らしい。 ②バスの事故による2人の死亡者と1人の行方不明者の物語。どれも引き込まれ、桑原裕子の作⋆演出に微笑む。 ③KAATの時は題名に惹かれて観た。今回は若いネクスト達の演技を楽しんだ。原作の面白さが伝わった。 今年は1、2月と年末しか観られなかった。
小泉うめ(観客発信メディアWL・舞台感染対策) 2020年の観劇本数:130 ・Seisen Fringe+『ロミオとジュリエット(英語上演)』(清泉女子大学本館・旧島津家本邸) ・中野坂上デーモンズ『終わる』(OFF・OFFシアター) ・Ahwooo『パンと日本酒』(スタジオ空洞) 20年以上感染症に関わる仕事にたずさわってきて理論的なパンデミックの到来は覚悟していても、まさか舞台芸術のためにその経験を活かす日が来るとは思っていなかった。選んだ3本は実際にその創作の現場にも関わった作品で身贔屓と言われれば特に否定もしないが、選出理由は決してそうではない。 『終わる』は一旦途切れた舞台を再起動するにあたって、マスク、口パク、換気などによる演出はその後の流れをいち早く提示した。ラストシーンでは演劇が演劇であらねばならない理由を教えてくれた。 『パンと日本酒』は奇妙なSFの中で今現実に起こっている様々な社会問題を想起させられた。2人の役者の奮闘も記憶に鮮やかだ。 『ロミオとジュリエット』は無観客となり奇しくも演劇は誰のためのものなのかを問うような上演となった。この戯曲が疫病に翻弄された恋を描いていることもあらためて感慨深い。
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1612-1911 断片、その先(全章)
1-1612 三年前
「俺が勇利のコーチじゃなきゃいいのに」
ヴィクトルがコーチになったその年のグランプリファイナル。試合後のバンケットも終わり、それぞれの部屋に戻る途中のことだった。何の文脈もなく発せられたその台詞に続く言葉が予想できなくて、勇利は少し身構えた。エレベーターのボタンを押して、ヴィクトルは続ける。 「ときどき思うんだ。例えば勇利が絶不調のときね。心がもたないよ。ただのライバルなら、今回は競争相手が一人減ったなって喜ぶだけで済むだろうに」 なんだ、とありがちな話に勇利は少し安心して、「ヴィクトルでもライバルが減るとうれしいと思うんだ」と笑って返した。 「思うさ。俺は勝利に貪欲だからね」 エレベーターの扉が開く。乗客は誰もいない。 「僕はヴィクトルがコーチじゃなきゃよかったなんて、思ったこと一度もない」 ヴィクトルが少し間を置いた。「うれしいことを言ってくれるね」と微かに笑う。 「だけどやっぱり俺は思うよ。コーチじゃなきゃよかったって。特にこういうときなんかは」 「銀メダルでごめんなさい……」 「うん、いや、そうじゃなくて」 ヴィクトルが勇利の目をまっすぐ捕らえた。青い目に違和感があった。 「勇利が欲しくてたまらないとき」 言われた言葉の意味がわからなくて、勇利は文字通りきょとん、とした。エレベーターの扉が開く。ヴィクトルが先に降りて、勇利は慌てて���とに続きながら軽く混乱する。今、この人なんて言った? 返事ができないまま歩いていると急にヴィクトルが振り返った。 「勇利の部屋はあっち」 ハッと気付く。 「おやすみ勇利。今回の滑りは最高だったよ」 コーチの部屋の扉が閉まり、オートロックの鍵が閉まる小さな機械音が廊下に響いた。 三年前のことだった。
2-1710 新宿の夜
これはたぶん何かを超えてしまった。 そう勇利が悟ったのは、ロシアに拠点を移してから半年、スポンサーとの仕事で日本に一時帰国したときだった。一年間のコーチ生活ですっかり日本が気に入ってしまったヴィクトルは、ここぞとばかりに勇利に同行した。が、この時の彼はもう勇利のコーチではなかった。グランプリファイナルでライバルたちの勇姿を見た彼が浮かれた頭で思い描いたコーチ兼ライバルという関係は、とはいえ到底現実的なものではなかったのだ。それでも勇利がロシアに渡ったのはただ日本にふさわしいコーチがいなかったからで、その頃の勇利には、ヴィクトルのコーチであるヤコフ・フェルツマン��紹介で新たな(そして有能な)ロシア人コーチがついていた。 仕事の前に無理やり長谷津に立ち寄って、実家に一泊だけしてから東京へ移動しいくつかの撮影やインタビューを済ませると、たった四泊の慌ただしい日本滞在はあっという間に終わってしまった。日本にいる間は不思議な感覚だった。二人の関係は常に変わっていく。憧れ続けたスター選手とどこにでもいるスケーター。突然現れたコーチと再起をかけた瀕死のスケーター。そして、最高のライバルを得た世界トップクラスのスケーター同士。自分の立場の変化に、ときどき勇利の心は追いつかない。こんなに遠くまで本当に自分の足でたどり着いたのか、いまだに半信半疑でいた。「もしこの人を追いかけていなかったら」。ヴィクトルのいない人生を思うと、勇利はいつも自分の存在自体を疑いたくなるのだった。 日本滞在最後の夜、新宿のホテルの近くにある焼き鳥屋で、二人はだらだらとビールを飲んだ。小さな飲み屋が連なるそのエリアは外国人観光客で溢れていて、煙だらけの狭い店内に不思議と馴染んだヴィクトルは普段よりも一段と楽しそうに笑っていた。めったに味わうことのない観光気分が、彼の抱えるプレッシャーを和らげていたのかもしれない。「博多の夜を思い出すよ」なんて言いながら、コーチ時代の思い出を語り始める。妙に懐かしかった。あれから大して時間も経っていないのに、二人にはそれがはるか昔のことのように思えたのだ。 「ずっと聞きたかったんだけど」 店内の騒々しさを良いことに、勇利はこれまでずっと不安に思い続けてきたことを聞いてみた。 「コーチをしていた一年を、ヴィクトルは後悔していないの」 ヴィクトルはそれまで上機嫌に細めていた目を大きく見開くと、何を言ってる? と言わんばかりの顔で勇利を見返した。そしてすぐに、ふっと笑った。 「勇利はびっくりした?」 「した。今でもあの頃が信じられないし、ロシアに拠点を移した今の状況もまだ信じられないよ」 「俺もね、びっくりしたんだ」 「自分の行動に?」 「全部だよ」 「全部」 「そう、全部。勇利のコーチになれたことは大きな意味があったんだ」 「コーチになって良かった?」
「俺が勇利のコーチじゃなきゃいいのに」
突然、頭の片隅で声がした。バルセロナで聞いたあの台詞。目の前のヴィクトルは何も答えず笑っているだけで、あの時のことを覚えていたかはわからない。だけどなぜかそれ以上聞いてはいけない気がして、勇利は飲みかけのビールを手に取った。
その後もだらだらと話を続けた二人は、ホテルへの帰り道、どういうわけか、本当にどういうわけか、気付くとキスを交わしていた。何がそうさせたのか、勇利は今でもわからない。まっすぐ帰ればいいところを、なぜかわざわざ回り道をして、ときどき肩をぶつけては、時間を惜しむようにゆっくりと二人は歩いていた。ちょっとした流れのようなものだった。右足が出たら次に左足が出るように、それくらい自然に、歩く二人の距離が近づいた。それで唇が触れ合ったその瞬間、喧騒が消え、街灯が消え、視界は閉ざされ、過去から繋がってきた一つの線がそこで急にプツリと途絶えた。このあと一体どうすればいいのかわからない二人は、そのまましばらく唇の熱を分け合いながら、たぶんもう戻れない。そう思った。
ホテルの部屋は別々にとっていた。足早にエレベーターに乗り込むと、勇利はヴィクトルのフロアのボタンだけを押した。乗客は二人だけ。行き先は一つだけ。決定打を押したのも勇利だった。銀髪に触れるほどの距離で、彼は小さく囁いた。 「ヴィクトルはもうコーチじゃないよ」
その夜、勇利は初めて男に触れられる感覚を知った。
3-1904 春を走る
東京では浜辺を走れない。ランニングの途中で砂浜に降りて、ウミネコを眺めながらぼんやりする、そうした時間はここにはない。代わりに勇利は公園を走る。少年野球のチームや、体育大学の学生や、小洒落たウェアに身を包んだ若者や、犬の散歩をする老人に混ざって、長谷津よりもひんやりとした東京の春を彼は走る。トレーニングではない、ただの日課。帰り道、公園脇のカフェでショートサイズのコーヒーを買う。カップを持つ彼の右手に、かつてはめられていた指輪はない。マンションに着くと、シャワーを浴びて仕事のメールを確認する。マネージメントを任せているエージェンシーから、新しいアイスショーの話が来ていた。断る理由もないので、淡々と勇利は返信を打つ。
新しい日々が始まっていた。一人のプロスケーターとして、日本のスケート史上に名を残したメダリストとして、人生の次のキャリアを進み始めた26歳の青年として、東京の勇利は忙しかった。
4-1908 ときどき思い出す
スケートに関わっている限り、勇利がヴィクトルのことを避けて生きてくことはできない。お互いすでに引退した選手だとはいえ、レジェンドの称号を得た男がスケート界の過去になるには、まだまだ時間が足りなかった。 引退後のヴィクトルの活動は、悪い言い方をすれば多くの人の期待を裏切るかのように地味なものだった。セレブタレントの座に落ち着くことはなく、無駄に広告やメディアに露出することもなく、フィギュアスケート連盟の一員として選手強化と環境改善に従事した。もちろん天性のカリスマ性とスター性は裏方になってもなお人々の目を引き、解説者やコメンテーターとしてテレビに出れば視聴者は彼の一言一句に注目したが、いずれにせよ今のヴィクトルの活動は今後の主軸を定めるための調整期間のように見えていた。どこかふわふわしていたのだ。 コーチ業に転身しなかったことを不思議がる人もいなくはなかったが、多くのファンや関係者にとってヴィクトルが勇利のコーチをしていた一年間はラッキーな気まぐれのようなものとして記憶されていたし、あのシーズンの勇利が劇的な活躍を見せたのも、ヴィクトルのコーチ手腕というよりはライバル同士の妙なケミストリーの結果だと認識されていた。「コーチごっこ」とは当時の辛辣なメディアが何度も書き連ねた言葉だが、誰もが心のどこかでそう思っていたのだ。誰もヴィクトルにコーチになって欲しくなかった。まだ十分に戦える絶対王者として、華やかなその演技で自分たちの目を楽しませて欲しかった――ただ一人を除いて。勝生勇利、彼の教え子になり得たたった一人の男、彼の独りよがりな望みだけが、世界中の期待を跳ね除けたのだ。だけどそれも今となっては、たくさんの過去のひと幕に過ぎない。 今でも勇利が取材を受けるときは、決まってヴィクトルのことを聞かれる。ロシアで切磋琢磨した二年間(とはいえ勇利が渡露した一年後にヴィクトルはあっさり引退したわけだが)、帰国後の一年間、かつてのコーチでありライバルでもあった彼とはどんな関係を築いていたのか。それで今、二人はどんな関係にあるのか。そう言われても、と勇利は思う。 連絡は取っていなかった。取るわけがなかった。理由がないのだ。ロシアのスケート連盟と日本のプロスケーターが個人的に連絡をする必要はないし、人は二人を「元ライバル」なんて呼ぶけれど、正しく言うならばその関係は「元恋人」と言うべきもので、そんな二人が連絡を取らないことに説明は要らない。 勇利は昔から熱心にヴィクトルを追いかけてきたけれど、何かにつけて、彼を遮断するときがあった。自分のスケートに集中しきっているとき、成績が振るわずヴィクトルの栄冠を見るのがつらいとき、絶望しているとき、他に心奪われるものができたとき。今はそのどれでもないけれど、だから勇利はヴィクトルの遮断にわりと慣れていて、今もその最中だった。ヴィクトルのことはわからないし興味もないです、なんてことが言えるわけもなく、勇利は当り障りのない言葉でインタビュアーをごまかすのだった。 メディアで彼を見かけることもあった。勇利は別にそうしたものを一切視界に入れないようシャットアウトしているわけではない。見ても何も思わないよう、自分の心に遮断機を下ろすのだ。ヴィクトルは相変わらず美しく、今でも目を奪うには十分すぎる魅力がある。それでときどき、本当にときどきだけど、その細く乾いた銀髪を見ながら勇利はこう思う。 「僕はこの人のセックスを知っている」 だけどそれがどんなものだったか、あの途方もない感覚を勇利はうまく思い出せない。
5-1710 変化の朝
初めて体の関係を持った新宿の夜、勇利はそれをセックスと呼んでいいのかすらわからなかった。ホテルの部屋のドアを開けるなり、二人は貪るかのようにキスをして、無抵抗の勇利はヴィクトルの手になぞられるままにその肌を露わにした。首筋から肩に流れるラインにヴィクトルの唇がひときわ強く吸い付くと、勇利はだけど耐え切れない恥ずかしさと緊張で相手の両肩をぐっと押した。「汗、かいてるし、においも、さっきの」。うまく繋がらない一言一言を、ヴィクトルはうん、うん、と逐一頷きながら拾って、どうしてもそれてしまう勇利の目をまっすぐ追いかけた。「じゃあシャワー行こう」と言って腕を引くと、バスルームの引き戸を開けてシャワーをひねり、自分はあっさりと服を脱ぎ捨てた。熱湯で一気に���鏡が曇る。まだかけてたんだ、とヴィクトルは笑って、勇利からそっと眼鏡を外すと彼をシャワールームに引き連れた。肌を流れる水が、たくさんのものを洗い流していく。汗と、恥じらいと、ためらいと、キスと、手の感触。ぴったりと密着した下半身でどちらともなく硬くなったそこを感じると、勇利は思わず声を漏らした。ヴィクトルの大きな掌が二人のそれを握りしめる。流れ続けるシャワーの音が二人を世界から隔離したように思えて、勇利はただ耳だけを澄ませながら、見えない感覚に身を委ねた。腰が砕けたのはそのすぐあとだ。ヴィクトルの体にしがみつくと、水がベールのように二人の体を包み込み、発散しきれない熱にともすれば意識を失いかねない。立ち上る水蒸気に混じって、知らない精液のにおいがした。
早朝に目を覚ました勇利は、しばらくベッドの中でぼんやりしていた。鼻の先にあるヴィクトルの肩は、まだ静かな眠りの呼吸に揺れている。頭が現実を取り戻してくると、突然今日のフライトを思い出した。慌ててベッドから起き上がり、銀髪の人を軽く揺らして声を掛ける。 「ねぇ、荷物まとめないと。僕、一度部屋に戻るよ」 ヴィクトルは目を開けなかったけれど、ん、と声を漏らしながら腕を伸ばすと、手探りで勇利の頬に触れた。 「キスをして」
脱ぎ散らかした服を手早く身に付けると、勇利はヴィクトルの部屋を出た。誰もいないホテルの廊下を歩きながら、ああ、僕はゲイだったんだ、と思った。昨晩の衝撃と、今朝の納得と、変わりすぎた二人の関係に、勇利はどこかまだぼんやりしていた。ぼんやりしながら、踊り出したいくらいにうれしかった。
6-1909 走れない日
走りに行けない朝がある。 カーテンの端を見つめたまま、勇利の体はどうにも動かない。 一人分の体温と一人分の空白を抱えながら、ベッドの中で涙が乾くのをじっと待っている。
7-1812 男たちの別れ
ヴィクトルが引退した翌年、勇利のロシア二年目のシーズン、勇利には今が自分のラストシーズンになる確信があった。それは別にネガティブなものではなく、肉体的なピークと精神的な充足感が奇跡的なリンクを成し、ごく自然なかたちで、彼は自分自身に引退の道を許したのだった。スケーターとしての勇利にとっては何の問題もない選択だったけれど、一方で一人の男にとって、ある種の偉業をなし得たとはいえまだまだ二十代も半ばを過ぎたばかりの未熟な男にとっては、巨大な不安がはっきりと顔をもたげ���めた瞬間だった。この先自分は何者として、どこで、誰と、どう生きていけばいいのだろう。
その不安はヴィクトルとの関係において顕著だった。具体的に言えばその頃から、勇利はヴィクトルとのセックスを拒否するようになっていた。勇利の人生にとってスケートとヴィクトルは常にセットで、スケートを介さなければ決して出会うことがなかったように、スケートなしでは二人が恋人の(ような)関係になることはあり得なかった。だからこそ勇利はこわかったのだ。自分からスケート選手という肩書きがなくなったとき、すでに現役選手としての肩書きを捨てているヴィクトルと、果たして純粋に今の関係を続けられるのかが。 勇利が初めてヴィクトルと関係を持ってからの一年間、二人のセックスは、よく言えば情熱的な、悪く言えば無茶苦茶なものだった。スケートと同じくらいの情熱を持って何かを愛するという経験を持たなかった二人は、それまで溜め込んできた「愛する」という欲望のすべてを互いにぶつけ合った。セックス自体の経験値こそまるで違えど、ぶつかる熱の高さは競いようもなく、貪欲な絶頂に幾度となく体を震わせた。競技者という者たちが決定的に抱える孤独が、その時だけは確かに溶けていくと実感できた。その意味において、勇利にとってヴィクトルとのセックスは、特別な意味を持ち過ぎていたのだ。ヴィクトルなしでは成立し得ない彼の人生は、それまではスケートという枠組みの中だけに言えることだった。だけど今は、全部なのだ。全部。
「セックスがつらいから別れるの?」 「そうじゃない」 「わからない、じゃあなんで」 「ヴィクトルはそれでもいいの」 「セックスのために一緒にいるわけじゃない」 「違うよ、違う、だけどつらくて仕方がないんだよ」 「自分だけがつらいふりをして!」
ヴィクトルにはわからなかった。勇利に惹かれ、勇利を求め、勇利といたい、それ以外の想いなんて彼にはなかった。肌を重ねるたび、互いの中に入るたび、全身でその気持ちを伝えてきたつもりだった。最初のためらいを超えて勇利がヴィクトルを受け入れるようになってからはなおさら、彼はどんどん自由になっているようにすら見えた。全身で愛されることの喜び、誰かを抱くことの自信、解放された感情、そうしたものは勇利という人間のあり方を確かにある面で変えていたし、スケーティングにおいてもそれは顕著だった。二人の関係を周囲が騒ぎ立てることもあったけれど、そんなノイズの一つや二つ、二人が気にするまでのものではなかったし、くだらないメディアに対して沈黙を貫く二人の姿勢は、彼らが作り出す領域の不可侵性を高める一方だった。なのに、なぜ。失おうとしているものの大きさに、ヴィクトルはただただ腹を立てていた。怒りに震えたその指では、掛け違えたボタンを直すことなんてできなかった。
誰を責めるのも正しくはなかった。一度崩れたバランスが崩壊するのは不可抗力としか言いようがない。涙をためていたのはお互いだったけれど、それが嗚咽に変わることはないまま凍ってしまった。呆れるほどに強くなりすぎたのだ。外の世界と、あるいは互いの世界と、戦い続けている間に。
ちょうどその頃、勇利は引退を発表した。そういうことか、とヴィクトルは思った。コーチでもない、恋人でもない、今となっては勇利の何でもないヴィクトルには、その勝手な引退の決意を咎める権利なんてなかった。コミットする権利を奪われたのだ。最愛の人に。ヴィクトルは何も言わず、勇利の帰国を見送った。本当はできることならもう一度、その黒髪に指を通し、こめかみに幾度となくキスを落としたかった。どれだけ腹を立てていようと、どれだけその後がつらくなろうと、もしかしたら何かが変わるかもしれない。そんな望みを、あるいは抱いていたのかもしれない。
勇利の送別会が終わった翌日、ヴィクトルはベッドのシーツを剥ぎ取ると、壁に飾っていた一枚の写真を外した。どこまでも青く広がった、遠い異国の、風に揺れる、穏やかな海の景色だった。
8-1807 ネヴァ川を見る
サンクトペテルブルクに、海の記憶はあまりない。代わりに勇利は川を思い出す。いくつもの運河が入り混じる水の街の主流を成すネヴァ川。その川沿いに建ち並ぶ巨大で仰々しい建物の名前を、だけど勇利はなかなか覚えなかった。それが美術館だろうと大学だろうと聖堂だろうと、勇利にはわりとどうでもよかったのだ。ただこの景色がヴィクトルの日常であり、自分が今その日常の中でスケーティングを続けている、その事実だけが重要だった。 それでもいつだったか、早朝に川岸を走っていたときふと目をやったペテルブルクの風景は、日本からやって来た若い青年の胸を打つには十分な異国情緒があった。スマートフォンを取り出すと、普段めったに使わないカメラを立ち上げて、勇利は下手くそな写真を撮った。オレンジともピンクとも紫とも言えない朝日が、ついさっき暗くなったばかりのネイビーの空を、圧倒的な存在感で染め上げていく。混じり合う色と色のグラデーションが急速に消えていくのがなんだか妙に惜しくて、勇利はこのまま空を見続けていたいと思った。写真は全然素敵なものではなかったけれど、勇利は何年振りかに、それをスマートフォンの背景画像に変更した。 その日の夜、そういえば、と勇利はベッドサイドテーブルの上で充電ケーブルに繋がれていたスマートフォンを手に取って、ヴィクトルにネヴァ川の写真を見せた。 「これ、今朝の。きれいだった」 ヴィクトルは勇利が自分で撮った写真を見せてくれる、ということにまずおどろきながら、写真を覗き込む。 「勇利、写真にはもっと構図ってものが……」とヴィクトルがからかうので、勇利は彼の顔を枕でぎゅっと押しつぶす。 「うそうそ、ごめん、きれいだよ、本当に」 「あれみたいに飾れるレベルだといいんだけど」 ヴィクトルの寝室には一枚の海の写真が飾られている。コーチとして長谷津にいた頃、ロシアから雑誌の取材が来たことがあった。スチール撮影は海を背景に行われ、その時カメラマンが押さえた風景カットがとてもきれいで、ヴィクトルはスタッフに頼んでそのデータをもらったのだ。ベッドに寝そべるとちょうど目に入るくらいの位置に、大きく引き伸ばされたその海は飾られている。 「わかるよ、俺もそういう空が好き」 さっき枕を押し付けられたせいで、ヴィクトルの前髪は不恰好に癖がついている。それを気に留める様子もなく、彼は写真をじっと見つめる。 「あの時の衣装みたいだ」
9-1911 冬が来る
玄関のドアを開けた瞬間、季節が変わった、と勇利は思った。寒さを感じるにはまだ少し遠い、それでも確かにひんやりと冷えた朝の空気。いつもと違うにおいをゆっくり吸い込むと、鼻の奥がつんとした。冬がやってくる。 四階の部屋から、エレベーターは使わず外階段をたんたんと駆け下りる。エントランスを抜けて通りに出ると、いつものランニングコースへ足を向ける。最初は少し歩く。駅へと向かう近所のサラリーマン��ちとすれ違う。ぐいっと腕を上げて肩を回すと、おもむろに勇利は走り始める。もう一度風のにおいを嗅ぐ。十分ほど走って公園につくと、ドッグランを横目にそのままランニングレーンに入る。 一周二キロのコースの二週目に入ったあたりで、この日の勇利はなんだか急に面倒になって走るのをやめた。虚しくなった、というほうが正しかったかもしれない。普段あまり意識しない感情の重さに、勇利は少しだけうんざりした。それとほぼ同時に、ウェアのポケットに入れていたスマートフォンが鳴る。こんな朝から、と歩きながらスマートフォンを取り出した勇利の足が、突然ぴたりと止まる。手の中でバイブを続けるスマートフォン。動かない勇利の指。画面につと現れたあの名前。 「“Victor Nikiforov”」
10-1911 コーチの助言
「人というのは、自分が守られているとわかっているときにこそ心置きなく冒険できるものなんだ、ヴィーチャ」 ヴィクトルは時折この話を思い出す。大昔のことだ。 「お前の安心はなんだ? メダル? 名声? それとも尊敬?」 ヴィクトルは考えた。そのどれもが、彼にとっては確かに重要なものだった。 「もしお前の足が止まるようなことがあれば、そうしたものを一度見直してみるといい」 そう言われると、ヴィクトルは少し腹が立った。自分が心血を注いで獲得してきたものを、真っ向から否定されている気がしたのだ。 「自分を守ると思っていたものが突然自らの足枷になって、お前を縛り付けるかもしれないからな」
目的地までの残り時間を告げる機長のアナウンスで、ヴィクトルは目を覚ました。モニターをタッチしてフライトマップを映し出す。飛行機はいよいよユーラシア大陸を超え、Naritaの文字まであと少し。あれからもう何年も経つというのに、いまだにコーチの助言は有効力を失ってはいなかった。まだ少し焦点が合わない目で明け方の空を眺めながら、ヴィクトルはその言葉を声に出してみる。
「安全基地を見失うな」
11-1911 ジンクスと可能性
バゲージクレームのベルトコンベヤーの前で、ヴィクトルは荷物が出てくるのをじっと待っていた。レーンの先を真剣に見つめているのは、なにも焦っているからでも大切なものを預けているからでもない。ジンクスがあるのだ。ベルトコンベヤーに乗せられた自分のスーツケースが、表を向いていればその滞在はうまくいく。裏を向いていれば用心が必要。ベルトコンベヤーが動き出す。プライオリティタグの付いた彼の荷物が出てくるまで、時間はそんなにかからない。見慣れたシルバーのスーツケースが視界に入ると、ヴィクトルは思わず苦笑した。流れてきたスーツケースは、サイドの持ち手に手が届きやすいよう、行儀良く横置きされていた。 荷物を受け取ってロビーに出ると、時刻は朝の八時を少し回ったところだった。スマートフォンを取り出すと、ヴィクトルは自分でも少し驚くくらいためらいなく、勇利への発信ボタンをタップした。朝のランニングを日課にしている彼のことだから、今頃はそれを終えて朝食でもとっているか、その日の仕事に出かけるところだろう。だけど予想通り、その着信に答える声はなかった。スマートフォンをポケットにしまうと、ヴィクトルは軽いため息をついて成田エクスプレスの乗り場へ。「事前予告なんて俺らしくない」と思ってはみたものの、だけどヴィクトルには向かうべき先がわからなかった。東京に拠点を移したということ以外、勇利の居場所についてはなに一つ知らなかったのだ。唯一向かう先として確定している新宿へのルートを確認しながら、やっぱり羽田着にすれば良かったと思った。彼はいい加減に疲れていた。サンクトペテルブルクからモスクワ、モスクワから成田、成田から新宿。スムーズなルートではあるものの、これ以上時間をかけるのが煩わしい。その気持ちもあってかどうか、新宿に到着するのとほぼ同時に、ヴィクトルは勇利にメッセージを送った。 「しばらく東京にいる。可能性は?」
“可能性”?
勇利がメッセージに気づいたのはその日の正午ごろだった。ヴィクトルの着信を無視して家に戻ってから、打ち合わせのためにマネージメント会社の事務所に向かった。スケジュール諸々の確認を済ませ、いくつかの事務的な話を終えて事務所を出ると、いつも無視するだけのSNS通知に混じってそのメッセージは届いていた。 精神的ヴィクトル遮断期の成果か、勇利は着信を見た時もメッセージに気づいた時も、思っていたほどのダメージを受けなかった。その代わり、「可能性」の文字が勇利の前に立ちはだかる。それはこの一年間、勇利がもっとも望み、同時にかき消そうと努めてきたものだった。メトロの入り口までの道を歩く間、勇利は逡巡した。が、地下に入って改札機にICカードをタッチすると、その瞬間に案外あっさり答えが決まった。募らせてきた孤独と愛おしさを開放するには、改札が開く小さなその電子音だけで十分だったのだ。 「どのホテル?」 メトロに乗り込む。5分ほどでヴィクトルからの返信。ホテルの名前を見た瞬間、勇利は一気に胸を掴まれた。スマートフォンをポケットではなく鞄に入れると、両手で思わず顔を覆ってひときわ大きなため息をついた。遮断機は壊れてしまった。抑揚のあるあの声を、肌に触れる乾いたあの髪の感触を、抱きしめたときの体の厚みを、汗と香水のにおいを、熱を、息を、そして氷上をしなやかに滑るあの姿を、勇利の体は鮮明に思い出した。メトロの中で、勇利はほとんど泣いていた。
12-1911/1812 言えなかった
目が覚めると午後五時を回っていた。約束の時間まであと一時間。フライトの疲れはたぶん取れている。ヴィクトルはシャワーを浴びると、小ざっぱりとした自分自身を鏡越しに見つめた。現役時代と比べれば筋肉量は��干落ちたものの、傍目には変わらない体型を維持している。銀髪に混じる白髪は前からのことで、目の下のシワも見慣れている。だけどやはり変わったなと思うのは、その目元だった。ひとしきりの怒りとさみしさを通過したヴィクトルの目は、少し力なく、だけどそれ以上に、優しくなっていた。 話す言葉は何一つ用意していない。これからどうしたいかも決めていない。とにかく会えば、会えさえすれば、なんて甘えたことも思っていない。だけどヴィクトルは日本にやって来たし、勇利はそれをはねのけなかった。思えばあの時もそうだったのだ。自分が勇利のコーチになる可能性なんて本当はどこにもなかった。無茶苦茶なことをしている自覚もあった。持ち前の奔放さで周囲を驚かせてきた彼だったが、本当はいつだって、自分が一番驚いていたのだ。未知へと足を踏み入れたことに。不安を乗り越えられたことに。新しい安全基地を、確かに手に入れられたことに。ヴィクトルの冒険と不安を受け入れたのは勇利以外の何でもなかった。一緒に居れば何者にだってなれる。ただそれを、あの人に伝えたかった。 「ねぇ勇利」 鏡越しに独り言を呟く。
「今日から俺は勇利の何になる?」
同じ台詞を、二人は別れる直前にも聞いていた。元師弟とも元ライバルとも恋人とも言える二人の関係を終わらせようとしている勇利の心を、ヴィクトルはどうしても知りたかった。いや、変えたかった。 「何だっていい。ヴィクトルはヴィクトルでいてくれたらいい」 「勇利は俺の何になる?」 「何だっていいよ」 「それがこわいのに?」 勇利は答えなかった。その通りだった。ヴィクトルがヴィクトルであること、勇利が勇利であること。口で言うには響きの良い台詞だけれど、その意味を、その事実を受け入れることは、思っていたよりたやすくなかったのだ。 「いつかこわくなくなると思う」 勇利は最後の最後になって、すがるようにヴィクトルの首元に腕を回し、鎖骨のあたりに顔を埋めた。自分勝手さなんて痛いほどわかっていた。ヴィクトルの手が軽く背中に触れたけれど、それはただ、触れただけだった。
「だからそれまで待っていて」とは、勇利はとても言えなかった。
13-1711 ゆだねる
「やっぱりこわい。ていうか……抵抗感がある」 「うん、無理にとは言わない」 「……ヴィクトルはどっちなの」 「どちらでも。勇利とならどっちでもいい」 「そういうもの?」 「俺はね。相手と一番気持ちいい関係でいたいから」 「どんな関係が一番かなんてわかんないよ」 「だから試さないと。そうだね、わがままを言うなら、俺は勇利に“受け入れる心地よさ”を経験してみてほしいかな」 「痛そうじゃん……」 「最初はね。でも相手にゆだねてしまえば、きっと良くなる。絶対に無理強いはしない」
そう言いながら、これがハードルなんだろうな、とヴィクトルは思った。勇利は簡単に誰かに身をゆだねられるタイプの人間ではなかった。自信のなさはかつての彼の最大の欠点とも言えたが、言い換えればそれは一重にプライドの高さと自分への責任感であり、自分を支える存在を求めながらもその対象に依存するようなことは考えられないだろう。たとえそれが、氷上だろうとベッドであろうと。アスリートとして身につけてきた彼のストイックさを、怖れを超えたその先で解放される表現者としての素質を、だけどヴィクトルは何よりも愛していた。
「勇利の準備ができるまで、いつだって待つよ」
14-1910 空になったグラス
「どうせ誰かの専属コーチになることはないんだろ」 久しぶりに会った友人は、テーブルの企画書を片付けるとグラスに残っていたワインをゆっくりと飲み干した。 「おもしろいプロジェクトだと思う、君らしい。感情にさえ流されなければうまく行くんじゃない? まあそこが君の魅力だけど」 「余計な心配だ」 ヴィクトルの冗談を端的にかわすと、ポポーヴィッチは少し思案した後じっとヴィクトルを見つめた。 「真剣に聞いているんだ。このまま君が連盟の一員になっていくなんてとても思えない。コーチはしないまでも、その才能を裏方に回すなんて誰が望む? 凡庸なスケートショーに誘っているわけじゃない。一種のアートの試みだよ」 二年前、ポポーヴィッチはヴィクトルと同時期に引退し振付師へと転身した。もともと芸術家肌だった彼の野心は振り付けだけにとどまらず、最近ではショー全体のプロデュースに取り組みはじめ、スケート界の新しい動きとして一部から期待と注目を集めていた。 「とはいえ俺はアスリート気質だからねぇ。エンターテイナーでいることは苦手なんだよ、わかるだろ」 「エンターテイナーになれなんて言っていない。ヴィクトルという一人の人間として滑ってほしいんだ」 「ヴィクトルという人間、ねぇ……」 すでに空になっている自分のグラスを見つめながらそう呟くと、ヴィクトルはなぜか笑いたい気持ちになった。 「“お前は何者なんだ、ヴィクトル!”」 突然古風な芝居じみた口調で笑いだす友人に、ポポーヴィッチは呆れてため息をつく。 「本当に、ヴィクトル、これからどうするのかヤコフも心配している。最近じゃあのユーリですら……」 愛すべき友人の言葉を最後まで聞かずに、ヴィクトルはさっと立ち上がった。 「そろそろ決めてもらわないとね、俺が何者か」 「?」 「プロジェクトのことは考えておくよ、スパシーバ」 訝しげに見つめる友人の肩をぽんと叩いて、ヴィクトルは一人店を出る。帰りのタクシーの中でスマートフォンを取り出すと、ためらいなく成田行きのフライトを予約した。不思議なほどに、意気揚々と。
15-1911 それでも、なお
ホテルのロビーで一人掛けのソファに腰を下ろした勇利は今、行き交う宿泊客をながめている。どうしていつも急に来るのだろうと、初めて彼が長谷津に現れたときのことを思い出す。頭の中で月日を数えて、勇利は思う。まだ4年も経っていないのか、と。どうしてヴィクトルが東京にいるのか、どうして勇利と会おうとしたのか、勇利には見当がつかない。これから会ってどんな話をするのか、勇利の方にだって何の準備もない。自分から離れた相手なのだ。どんな態度でどんな話をされたとしても、勇利はそれを受け入れるしかないとわかっている。それでもなお、勇利は思う。そこに可能性があるのなら。自分を失うこわさと引き換えに、別の何かを見つけ出す可能性があるのなら。自分を定義づけてくれる存在を、もう手放すようなことをしてはいけない。
新宿に来る前、勇利は一度マンションに戻っていた。まっすぐ寝室に向かうと、クローゼットの奥から彼の持ち物の中では異質な黒い小箱を取り出した。最後にそれを見てから、もう一年近くが経とうとしている。「この歳になってもまだおまじないか」と苦笑いを混ぜて呟くと、それでも最大限の愛おしさを込めて、乾いた右手の薬指に小さな金の環を通した。それから右手を唇にぐっと押し当てるようにキスする癖は、一年経っても忘れてはいなかった。
賭けをしよう。あの人の指にも同じものがあるだろうか。あるいは祈りを、あるいは冒険、あるいは。
エレベーターがロビーフロアに到着する。数人の宿泊客とともに銀髪の彼が現れる。青い視線が黒髪を見つける。聞きなれたあの声が、勇利の名前をまっすぐ呼ぶ。
fin
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■大型の台風19号接近中 大型で非常に強い台風19号は、勢力を保ったまま12日夕方から夜にかけて東海から関東に上陸し、その後、東北へ進む見込みです。12~13日に広い範囲で記録的な暴風や大雨となる恐れがあります。台風情報について、タイムラインで逐一お伝えします。 【写真】新幹線の運休のお知らせが張り出されたJR新大阪駅=2019年10月12日午前7時51分、白井伸洋撮影 ■東京都内の自治体に避難勧告・指示(12:00) 東京都のホームページによると正午現在、9自治体で避難勧告や避難指示が出ている。避難勧告・指示が出ているのは次の自治体。 ◇ 【神津島村】一部地域【利島村】全域【八王子市】土砂災害警戒区域と浸水想定(予想)区域【日野市】一部地域【大島町】全域【町田市】全域(川沿いや崖・斜面地の近くの住民)【三宅村】全域【奥多摩町】全域【あきる野市】全域の秋川の浸水想定区域や一部地域の土砂災害警戒区域や浸水想定区域 ■群馬・井野川で氾濫危険水位超える(12:00) 国土交通省によると、群馬県を流れる利根川水系の井野川で氾濫(はんらん)危険水位を超えた。 ■JAL、13日の一部の便も欠航(11:00) 日本航空は、羽田と成田の両空港を発着する一部の便を13日も欠航すると発表した。国内線で169便、国際線で17便。約3万2千人に影響が出るという。今後も欠航便は増える可能性がある。 ■京急電鉄も運転中止発表(11:00) 京急電鉄は、正午ごろから運転本数を減らし、午後2時ごろまでには運転を取りやめると発表した。運転再開は13日昼ごろになる可能性があるという。 京急はあらかじめ運休を決める計画運休はせず、直前の気象条件で判断するとしていた。 ■自主避難の住民「近所の人いるし安心」(11:00) 東京都足立区は区立小中学校を中心に30カ所の避難所を開設。区立大谷田小学校の体育館には22世帯33人が自主避難した。 区職員6人と地域のボランティア11人が駆けつけ、避難者に毛布やマット、水を配布した。避難した住民らはマットの上で横になったり、窓から外の様子をみたりして過ごしていた。伊沢萬紀子さん(73)は「一人暮らしなので、家にいると風の音が怖い。ここには近所の人もいるし安心する。早く去ってほしい」。 ボランティアの丸岡和夫さん(77)は「家が土手沿いにあり、川の増水が心配だが、皆さんの手助けになればと」駆けつけた。区福祉部地域包括ケア推進課の千ケ崎嘉彦さん(50)は「この地域は近くに川があり増水の危険が高い。安全に過ごしてもらえるように全力を尽くしたい」と話した。 ■中央道と圏央道で通行止め(1���:00) 中日本高速道路は、中央道と圏央道の新たな通行止め区間を発表した。 中央道:八王子インターチェンジ(IC)―一宮御坂IC(上下)、大月JCT―都留IC(上下) 圏央道:圏央厚木IC―あきる野IC(内外回り) ■JR東、運転再開後も本数減(10:30) 順次計画運休している首都圏の在来線について、JR東日本は、13日昼ごろと見込んでいる運転再開後も通常より大幅に運転本数が減る予定だと発表した。 湘南新宿ライン、中央線の高尾―小淵沢、青梅線の青梅―奥多摩、烏山線、水戸線、水郡線は13日も終日運転を取りやめる。山形新幹線「つばさ」のほか、「スーパービュー踊り子」「あずさ」「ひたち」などの特急も13日の運転を中止する。 ■静岡で住宅街冠水、住民「とても不安」(10:00) 静岡市駿河区西島の住宅街では道路などが冠水した。黒田隆彦さん(52)宅付近は午前8時ごろに腰あたりまで水位が上がり、自宅は玄関から浸水、床が水浸しになった。 周辺はよく冠水する地域だが、ここまで水位が上がるのは初めてという。「この後台風が最接近すると聞いてとても不安。電気やガスのライフラインが止まらなければよいが」と話した。 ■ローソン、435店が休業(10:00) コンビニ大手は首都圏と東海地方を中心に一部店舗で休業する。ローソンは435店が休業や休業予定。ファミリーマートも午前10時時点で、東京都や神奈川県を中心に約660店が休業しているという。セブン―イレブン・ジャパンは約1千店が休業する見通し。 ファミマやローソンは12日夜から13日早朝にかけて弁当などの配達を中止する。ファミマは主に関東地方の6200店、ローソンは同地域の4400店が対象。前後の配送を強化するなどして対応する。ローソンはカップ麺や水などの発注を強化して品薄に対応している。 ■東京駅は閑散(9:30) 計画運休で閑散としたJR東京駅。駅員によると、利用客は普段の20分の1ほどという。オーストラリアから家族4人で観光で訪れ、14日に帰国予定のケビン・マクガンさん(42)は大きなスーツケースを手に成田エクスプレスの乗り場をめざしていた。「空港周辺のホテルは満室でまだ寝床を確保できていない。空港で2泊するかな」と疲れた顔で話した。 ■境川が氾濫危険水位に到達(9:00) 東京都は、境川が午前8時1分に氾濫(はんらん)危険水位に到達し、水位はさらに上昇する見込みと発表した。浸水に警戒するよう、流域住民に呼びかけている。 ■京王、終電は午後1時発(9:00) 京王電鉄は12日の最終電車について、京王線は午後1時新宿発(京王八王子着と橋本着は午後1時50分)、井の頭線が午後1時渋谷発(吉祥寺着は午後1時28分)になると発表した。運転再開のめどは未定という。 ■東急全線、運転とりやめを繰り上げ(9:00) 東急電鉄は、午前10時半ごろから全線で運転を順次とりやめると発表した。午前11時半ごろからの予定だったが、台風19号の接近で当初の想定より気象状況が悪化しているためだという。 ■イオンは営業時間を短縮(8:30) 総合スーパー大手のイオンリテールは、関東と東北、東海の1都8県(東京、福島、千葉、神奈川、埼玉、群馬、栃木、茨城、静岡)で展開する「イオン」「イオンスタイル」など計128店舗について、営業時間を短縮する。 東京や千葉、神奈川、埼玉の店舗は正午か午後1時までの営業とし、その他の店舗も午後5時までには閉める。 広報担当者によると、停電の影響を受け、一部店舗では営業開始の午前9時に開店できていないという。 大型商業施設のイオンモールは、関東と東海の1都8県(東京、千葉、神奈川、埼玉、群馬、茨城、栃木、静岡、愛知)の48施設で12日を臨時休業する。 ■千葉県などで停電(7:50) 東京電力は、千葉県の約6800軒が停電していると発表した。同社は「復旧には時間を要する可能性がある」としている。 内訳は次の通り。 八街市 約3千軒 山武市 約1300軒 木更津市 約1千軒 富津市 約600軒 館山市 約500軒 いすみ市 約300軒 鴨川市 約200軒 また、茨城県龍ケ崎市と利根町で約200軒、静岡県南伊豆町と下田市でも約200軒が停電している。 ■新宿駅地下街、「臨時休業」の貼り紙(7:30) JRや私鉄、地下鉄が乗り入れる新宿駅(東京都新宿区)の地下街では、多くの店で「台風接近のため臨時休業」などと貼り紙が貼られ、シャッターが閉められていた。改札付近では、運行状況を示す電光掲示板や立て看板を見るため、足を止める人の姿が目立った。 ■関西空港連絡橋が通行止め(12日朝) 西日本高速道路(NEXCO西日本)は12日、台風19号による強風の影響に伴い、午前8時から関西空港連絡橋を通行止めとすると発表した。
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ポエトリースラムジャパン2016 日本代表・大島健夫 インタビュー
朗読ライブはもちろん海外の詩祭にも参加するなど、ポエトリーリーディングのキャリアを積んでこられた大島さん。『うなぎ』『ハムを買ってください』をはじめ、一度聞いたら忘れられない摩訶不思議な世界観、かつ人生の深淵を覗き込むような凄みのある作品、そしてそれらを朗読する揺る���ない声の力で、多くのファンを得ています。まずはその経歴からうかがいました。
初めてプレッシャーを感じた、ポーランド大使館のイベント
初めて詩を書いたのがいつか、判然としないんですが、たぶん小説の方が早いんですよ。22、23歳から小説をポツポツ書いて、ウェブや小さな媒体に載せていたんですが、詩を書いたのはおそらく27歳くらいじゃないですかね。
とはいえ、どこかに発表していたわけではないのだとか。
たぶん、あまり自分の書いたものが気に入らなかったんじゃないですかね(笑)。今考えると結構現代詩っぽい内容です。ストーリー物じゃなくて、確か…ほんと「夜になって気持ちの中でいろんなことが起こる」みたいな、情景描写がたくさんあるような詩だった気がします。
その後も、こそこそ書いてはいました。そのうちのいくつかはウェブ媒体とかに載せたかもしれない。とにかく書くだけだったんですよ。朗読ということを意識して初めてやったのは2007年の「詩のボクシング」神奈川大会です。僕の好きなアメリカの小説家にシャーマン・アレクシーという人がいまして、詩人としても素晴らしい。彼が向こうのポエトリースラムで非常に強いというのを知って、日本にも似た大会はあるのかと思っていたら「詩のボクシング」に行きあたりまして。
それで「なんとなく出たくなって」出場。
予選で読んだのはお葬式の詩だった。「田舎のでかい家で、男の人の葬式で、酒が回ってみんなが故人のことをいろいろ喋ってて、一方隣の部屋に祭壇があって暗い中に故人の遺影がある…」そういう詩ですね。本大会ではミミズが出てくる詩で、道路で干からびかけたミミズが「お願い私を助けて、助けてくれないと死んじゃう、ほら私あなたの初恋の女の子に似てるでしょ?」とかそんなことを言ってるうちに鳥が飛んできてミミズをくわえて向こうへ行っちゃうっていう。
初ステージの感想はどうだったのだろう。
単純に、お客さんが笑ってもらえたのは覚えてますね。予選の印象が結構強烈で、タウンホール地下の音楽室みたいなところに、なんか80人くらい集まって。そこにいたのが青木研治、鶴山欣弥、本大会に進んだのは川島むー、晴居彗星…。いろんな人がいるんだなと。
今から考えると技術的に稚拙だったかもしれないですけど、人前に出て読むのは違和感なく、苦痛ではなかったですね。そんなに緊張したという記憶がないんです。むしろある程度やってからの方が、失敗した終わりだっていう思いがあるけど、その時はなんのプレッシャーもなかったんで。負けても痛い思いをするわけじゃないし(笑)。楽しかったです。
それに、わりと僕に勝った人って素晴らしい人が多かったんですよ。その後も活躍する人、その大会でチャンピオンになる人が多くて。悔しさはあったけどそんなにヤダとかっていうのはなかったですね。
「一回だけのつもり」で出場した詩のボクシングだったが、そこから朗読活動が広がっていく
出場すると知り合いができるんですよね。そのあと鶴山欣也さんがやってる「Jet Poet」というイベントに呼ばれました。そこでまたいろんな人に会い、自分で主催イベントを始めるのが2008年くらいですね。
そんな経験のなか「朗読すること」への自覚はどう育ってきたのだろう。
最初に芽生え始めるのが2010年か2011年頃でしょうね。転機になったのが、2011年のポーランド大使館主催のイベント。ポーランドの詩人が各国を訪問してその国の詩人と共演するという企画で。日本では六本木のクラブ、Super Deluxeで行われたんですけど、三角みづ紀さんが僕に声をかけてくれて。三角さん、伊津野重美さん、雪舟えまさん、橘上さんといった人たち。オープンマイクもあって、ジュテーム北村さんとかも出てましたね。
ポーランドの詩人たちは向こうのトップスラマーで、お客さんも半分くらい外国人。僕が日本側の先鋒だったんですけど、ここでやらかしたら終わりだな、腹切って死ぬしかないなと思って。負けたら死んじゃうしかない、くらいのプレッシャーを持ったのはそれが最初です。それまでは、失敗しても自分がひどい目に遭うだけで済んだんですよ。でもそういうことでは済まないっていう気持ち。
日本の詩人っていうのを変に見られたくなかったし。どういうことで自分が呼ばれたのかと考えた時に、一発目の気合いとか表現圧力みたいなもので負けちゃいけないって気持ちになりましたね。
その日の出来栄えは、自分でも評価できるものだった。
あとになってあの時の実力考えたら、上手くいったと思える数少ない舞台。そのとき初めてヨーロッパのトップスラマーたちを目の前で見て、素晴らしいなと思ったけど、これはどうやっても勝てないわけじゃないなとも思ったし、三角さんとかのパフォーマンスも、全然引けをとらないと思ったし。
不可思議/wonderboyという存在
そしてもうひとつ大きな出来事は、ポエトリーラッパー・不可思議/wonderboyとの出会い。
猫道(スポークンワード・パフォーマー。第一回PSJから司会・運営として関わる)さんに呼んでもらったイベント「猫道節」の会場にワンダーがいて。いまコンピレーションCD作ってるからぜひ入って欲しいって。それが初対面、2009年ですね。で、ワンダーん家に行ってレコーディングしたんです。
埼玉の田舎の、駅から彼の家までの道すがら、ワンダーが「俺、今度のSSWS(シンジュク・スポークン・ワーズ・スラム)絶対優勝するんすよ」ってずっと言ってて。なんかいい奴だなこいつ、と。なんかこう、山っ気のある人間好きなんで、僕(笑)。ワンダーの話に小林大吾とか鈴木陽一レモンとかいろんな名前が出てくるんですけど、そのときはまだ知らなくて、そういう世界があるのか、みたいな。で、そのCDのリリースパーティで三角みづ紀さんとも初めて会ったんです。
しかし不幸なことに2011年6月、不可思議/wonderboyは24歳の若さで亡くなる。
そのとき、亡くなった人間に対して生きている人間ができるのは、ちゃんとやることしかないな、という思いがありました。ポーランド大使館のイベントも、ワンダーが生きていたら彼がここに呼ばれたんだろうな、とか思って。そういうのも少しプレッシャーに感じたのかもしれませんね。
それは「生き残った者の責任」というような感覚。
一緒にCD作った俺がダサかったら、のちのち「不可思議/wonderboyっていうのはあんなダサい奴と一緒にやってた奴なんだ」って言われるわけですよ。逆に俺が一生懸命頑張って、「あの素晴らしい大島さんとやってたワンダーは素晴らしかったんだろう」って言ってもらえたらいいなと。もう公の場では絶対に彼の名前を出さないって決めてたんだけど、今なんか出しちゃったけど(笑)。彼の存在っていうのは、あると思います。
最後にふたりが交わした会話は「後味のいいもんじゃなかった」という。
ワンダーが電話で「オープンマイクとか、ダサいっすよね」って言ってて。「大島さんはいいんすけど、大島さんがやってるオープンマイクとかってダサいじゃないですかー」って。困ったことに、彼が言った意味が割とわかったんですよ。でも、やっぱり俺は話しましたよ、自分がどうしてオープンマイクをやってるか。どこまで伝わったかわからないけど。ただ、それで仲が悪くなるとかじゃなくて。ワンダーって結構いろんな人にそういう口きいちゃう人だったから。そのあと高田馬場のBEN's cafe(ベンズカフェ:2011年の閉店まで、定期的に詩のオープンマイクが開催されていた)がなくなる時に、ワンダーが来てて。「よう」「おっす」みたいな感じになって、話しに行こうとしたら先に誰かがワンダーとしゃべり始めちゃって、あとでしゃべろうと思ったら、もう帰っちゃってた。
不可思議/wonderboyが亡くなったという知らせを聞いたのは2011年、詩のボクシング神奈川大会の前日だった。
猫道さんからメールが来て「死んだらしい」と。そりゃびっくりしますよね。それで、いやもう呆然、なんかあの、腹がたつとかびっくりするとかより、意味がわからないじゃないですか。理解できないですよね。なにそれ、みたいな。あまりに意味わからなくて、俺、ワンダーに電話したんですよ、本当かどうか。だって嘘かもしれないじゃないですか。もちろん誰も出ないけど。
それで翌日、横浜の関内ホールに行って。なんか控室で顔が怖かったみたいで、誰も話しかけてくんなくて。トーナンメントの三回戦くらいだったかな、ラッパーと対戦したんですよ。「俺ラップやってんですけど」とかそのラッパーの彼がステージで言い始めて、無性に腹が立って。何をこんなだせえ奴がラッパーとか名乗りや��って、と思って。完全に八つ当たりなんだけど。普通じゃなかったですよね。終始一貫、腹が立ってしょうがなくて。ワンダーが死んだことに腹を立ててるわけじゃないんです。そうじゃないんだけど、自分の中の始末のつけられなさのはけ口をどこかに求めないと、もう、どうしようもなくて。誰でもいいからぶっ飛ばしたいみたいな。
でも一方で、冷静なところもあるんですよね。終わったあとは、ちゃんと他の出場者と話をしてるんですけど。あと、あん時に俺ね、脱臼癖があるんですけど、ステージの袖にいてペットボトルを取ろうとしたら肩が外れたんですよ(笑)。それも強烈に覚えてます。腹立ててステージに上がった空気感と、肩外れてやべえっていう、その二つですね。
2011年頃が、大島さんの大きな転機だったことは間違いなさそうだ。
詩の言葉の力を意識し始めたのもその頃です。それまでの人生で物語とかを読んで得てきたカタルシスと、質は違うけど同じくらいの感銘、感動を素直に詩から受けられるようになった。ポーランドのイベントの時に、大使館の人からいただいたチェシュワフ・ミオシュの詩集がすごく良くて。「大きかったものも今では小さく見え/王国は雪に覆われた青銅のように色褪せていった/かつての驚きももう驚きではなく/天空で星々も大地もめぐり輝く/岸辺の草に身を伸ばし、昔むかしと同じように/私は木の皮の舟を水に浮かべる」っていう詩があって、なんかこう、バーンと来ましたね。ああ、生きてるってこういうことなんだって。それまでも詩というフォーマットでやっていたけど、自分のバックボーン、元の素養や人間性だけでやってたところがあると思うんです。詩っていうものについて考えるようになりました。三角さんやいろんな人と知り合って、詩集をちゃんと読み始めたのがこの頃でした。
2011年から2012年頃っていうのは、僕のプライベートがさっぱりうまくいかない時期で、いろいろと辛いことがあって。ただ、すごく辛かった時に辛いって言う代わりに、その感覚だけを抽出して自分の中で作品にして、人前できちんとやりきれたっていうことがすごく自信になりましたね。作ることで自分と向き合えた。自分が人間的に成長したのを感じましたね。その頃作ったのって、今も読んでる作品多いですけど、『24時間スーパーの恋』とか『みいらの世界』とか。本当に、書くことが救いでした。モニターの画面を離れると、寂しくて仕方なかった。
ただ、俺はやれるんだって思いました。これだけ寂しくて苦しくて辛くても、やれるんだっていう。俺は負けなかったと思いました。プライベートとしてはいろいろあったけど、ものを書く人間としては負けてなかった、表現者か詩人か物語作家かわからないけど、そういう人間としては負けずに、これだけ技を受けたけど立っていられたぞ、という気持ち。
ポエトリースラムは人間性を肯定するゲーム
試練の時期を越え、さらに大きな舞台に立ったのが2015年。ベルギー・モンスで開催された国際ポエトリースラムに出場した。
あの大会は三人一組の団体戦だから、各国のいろんなタイプのトップスラマーを見た、それが大きかった。そのうち多くの人が翌年のW杯に出ていましたし、非常に良い経験をしました。
モンスで学んだ最たることは「人の真似はしなくて良い」ですね。自分のやってることを突き詰めるしかないということ。それと、ポエトリースラムジャパンに出るうえでもちょっとプラスだった。例えば今年のPSJに出ていた人は、パリに行くことが目標なんですよ。パリに行くぞっていうことを日本の観客に見せてた。でも僕は、パリのお客さんの前でやることを予選の時からずっと意識していました。そこが他の人と違ったと思います。
そしてそのとおり、W杯に出場してパリの観客をも唸らせることになった。そんな大島作品の根底にあるものとはなんだろう。
ほかの人にも言われたことあるんですけど、立脚点が希望じゃなくて絶望だと思うんですよ。「いつか良くなる」じゃない、「どうにもなんないけど、どうしたらいい」とか「どうにもなんない時に人間がどうしていくか」とか、そういうところが立脚点にある。なんでしょうね。「どうにもならないぞ」っていうのは絶望であると同時に救いでもあって、どうにもなんないというのが判るとちょっと楽になるじゃないですか。そうすると物事をちょっとフラットに見られると思うんですよ。
「明日は���っといい日になる」っていうのを捨てるのはやっぱ勇気がいるし、すごく怖いと思うし、僕も若い頃は「頑張っていればいつか全部良くなる」って思ってたけど。年とともにだんだんそうじゃないことが増えてくると思うんです。その時、希望にすがるより、絶望した方が人間って楽になれるんじゃないか。希望ってすっごく人を不幸にしますよね。絶対うまくいかない恋とか、絶対勝てないとか、絶対治らないとか、絶対ダメなことっていっぱいあるじゃないですか。でも自分自身と絶対ダメなこととの間でどう付き合っていくかみたいなことだと思うんです。
作品にはシュールな表現がたくさん出てくるけれど、伝えようとしていることは明確、なのかもしれない。
『うなぎ』にしろ『神様の人生』にしろ、もしシュールな要素を一切はずしてみると、物語の類型的にすごいオーソドックスなんですよ。本が好きだったから、そういう物語の類型みたいなのが自分の体に入ってるんでしょうね。あとはやっぱり、こうだったら面白いなあという、ほぼ悪意に近いいたずら心で、うん。たとえば子どもの頃、先生がチョークを出そうとして箱を開けたら蛇が出てきて「きゃあ」ってなったら面白い、それの延長ですよね。あるいは先生が黒板に書いてるけど、実はチョークじゃなくてトカゲを持ってる、って生徒が気づいたらうわーってなるじゃないですか。そういう、全部思いつきなんですけどね。「うなぎの木がある」みたいなことが頭に浮かんじゃう。
では、大島さんが考える「ポエトリースラムを聴く魅力」とはなんだろう?
ひとことで言えば機械にはできないことをやってる、ということです。ポエトリースラムはお客様がジャッジするわけですよね。それがすでに不公平ですよね。人間の感覚なんて、朝何食ったかで変わるんですよ。そんないい加減なものをみんなで受け入れるっていうこと、それがまさに人間性の肯定なんですよ。人間はいい加減で間違うもの、あるいは、人間の結論はその日によって違うものだということ。人間性の肯定であると同時に、恐ろしく怖いことですよね。勇気がなかったらできないですよね。そんないい加減なところに命をかけに行くってバカでしょ!? だって、どうしたら勝てるかわからないんですよ。
W杯では主催者の人がお客さんに向かって”Best poet never win”っていうわけですよ。とんでもない話ですよね。いちばんいい詩人が勝たない、って言うんですよ。W杯で、ですよ。でもそれが、ポエトリースラムっていうシステムなんだっていうこと。詩の言葉、詩のパフォーマンスっていうことを媒介にした、人間性の肯定なんです。自己肯定感とか言うけど、自己なんて肯定してもしょうがないじゃないですか。そんなことより、人間ていうものそのもののいろんなことを肯定するのって凄いことだと思うんです。人間が揺れること、人間が間違うこと、頑張ること、覚悟すること、人間の勇気、人間の臆病さ、全部肯定してるのがポエトリースラムですよ。それがリアルタイムで見ている人の前に現れて、ステージに上がっている人間が勇敢だったり臆病だったり、覚悟決めてたり決めてなかったり、慌てたり、いろんなことが起きる。ジャッジもジャッジで、揺れたり、間違えたり、後悔したり、決断したりするわけですよ。それをみんなで楽しむ。そうであることを肯定するっていうことです。
これは絶対ほかの競技やスポーツじゃできない。ほかの競技っていうのは、究極的にはジャッジは機械に変えうるし、機械のほうが正確なんですよ。プロ野球でも大相撲でもビデオ判定。F1が300キロで走ってきてどっちが先にゴールに入ったかって、人間には見えないですよ。でもポエトリースラムは、人間には見えないことがあることを前提にした、人間のお祭りなんです。
もちろんヨーロッパでも日本でも、なんだかんだ言ってスキルやちゃんとした要素を持っている人じゃなきゃ、なかなか勝てないと思うんです。ただ、そこでいろんなドラマが起きるのがポエトリースラム。そのドラマを人間として共有できる、それが魅力です。これは、W杯に自分が出てから毎日毎日考え続けて、至った結論ですね。
それでは、これから出場しようと考えている人にはどんな言葉があるだろう。
やってみればいいじゃん、ですよね。素晴らしいと思うかもしんないし、思わないないかもしんない。ある人は負けたあとやっぱりラップに帰ります、詩誌に帰ります、舞台に帰ります、音楽に帰りますとかって帰るかもしれないし、ある人はそのまま居つくかもしれない。でもこれ、人間性の肯定のゲームですから。俺、最近考え方がちょっと変わった部分もあって、終わったあと「俺は負けてない」って女々しく言い散らすのもひとつの人間性だと思うんです。それもあり。俺は絶対やんないけど、そういうみっともない人間のあり方をさらしちゃうのも、ポエトリースラムというシステムから言えばありなんですよ。来てもいいし来なくてもいい。出てもいいし入ってもいい。何かが見えたり見えなかったりする。ただ、ある程度ちゃんとやんないと何かは見えないと思いますよ。
これは残酷な言い方になるけど、一回戦より準決勝まで行った方がものが見えるし、準決勝より決勝、W杯に行った方が見えるんですよ。それは、今年如実に感じました。上に行けば行くほどいろんなものが見える。だから、それが見たかったら頑張ろうねっていうことですね。それがその人にとって本当に苦しいか楽しいか、俺にはわからないですけど。
【プロフィール】
大島健夫(おおしま たけお)
詩人。1974年千葉県生まれ。2014年、24時間朗読ワンマンライヴ完遂。ポエトリースラム2016日本代表。ベルギー、イスラエルなどの詩祭やポエトリースラムにも出場。
http://www1.odn.ne.jp/goingthedistance/
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あいちトリエンナーレに行ってきた
あいちトリエンナーレに行ってきた。
夏休みにどこか行こ。電波の入らない離島に行って(コナンくんが来たら死ぬだろうな〜)って想像するのと、大阪に行って昔から興味があったみんぱくに行ったり美味しいものを食べたりするのとどちらがいいかな、と考えていた。
ぼんやり色々考えているうち、名古屋在住のフォロワーさんが東京に来た時、「ご飯を一緒にどうでしょう」と連絡をくださった(とてもうれしい)。そうして一緒に食事をしたりお散歩をしたり、なによりたくさん話したりした。
そして後日、その方が「自分の目に新宿がどう見えたか」を文章にして公開していて、これが新鮮で面白く、今思えばこのとき自分が見たものを書いておく・公開するってことの魅力にちょっと興味を持ったのだ。
今回私が名古屋に行って、また同じ方とお食事をしたりおはなししたりしたのだが、今度はその方の絵日記を少し見せていただいて、これもとても素敵だと思ったのだった。
私はいま新宿に住んでいるが、ここに住んでいるといろいろなことがわからなくなると思う。こんなにオリンピックの看板が出ていること、地下鉄で窓の代わりに光るモニターの広告、そうしたものにもう慣れてしまった。「こんなにオリンピックの広告がたくさんあって驚きました」と言われ、はじめて、「そうかこんなに広告があるのは異常だな」と気づいた。
自分が立っている場所のことは自分では見えない。だから、他の人と一緒に自分が住む街のことを聞いたり話したりすると、新鮮で面白くて、自分がどんどん鈍くなっていることを知って恐ろしい気持ちになる。
むかし、地方の天候不順や災害のニュースを見たとき、「今年は野菜が高くなるわね」と言った人がいた。私はこれを聞いて(地方はお前の畑じゃないぞ、住んでいる人間も誰かの生計もあるんだぞ)と思ったものだが、だんだん、私は都市の生活に慣れて、こう言いはなつ人間になってしまう気もする。
近しい人間に「私がこういう無神経な人間になったら頭を打ち抜いて欲しい」と頼むのは、半分冗談で半分本気だ。私が無神経な人間になってしまったとき、自分ではそれと気づくことができないだろうから。ゾンビのように、生きているように動いてももう人の心もなく、ただ他人にかみつこうとする存在はいくらでもいる。じぶんがそうならないなんて言い切れない。
旅行先は愛知にしよう、と決めたのはこのときだ。
ちょうどこの頃、あいちトリエンナーレに対しての脅迫が連日報道されていて、わたしは脅迫する側の気持ちがまったく理解ができなかった。ただ少女が座っているだけの平和的な像が「反日」で、戦時下の性暴力に反対する行為が「国に対する侮辱」?いまでももちろんまったくわからない。でも、いずれ私も彼らのような振る舞いをしないと言い切れるだろうか?この国は貧しくなりつつある。来月から消費税は大幅に増え、生活は確実に苦しくなる。その状況で心まで貧しくならないなんて言い切れない。いずれ私もゾンビになるかもしれない。
隣の国でも、遠くの地方であっても、どこであっても人間が住んでいることを忘れていたくはない。が、いずれわからなくなってしまうかもしれない。
私が毎日なにかを書いているのは、漂流中の人間が書く航海日誌のようなものだ。たったひとりで暮らしながら、正気を確かめながら書く。 書いている途中に、自分でも気づかないまま、もう人の心をなくしてしまうかもしれない。 そのときに、昔の自分が書いたものを読んで、少しでも思い出せればいいと思う。 これから書く旅行の話も、いずれ自分がゾンビになってしまったときに、人間(だった時代)を思い出すために書いていた日記をまとめたものであって、もともと公開するつもりはなかったがせっかくなので載せておく。冗長な描写が続くが元が個人的につけている日記なのでご容赦ください。
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1日目。 7:30にバスタを出て13:30にささしまライブ着。 今回はバスで行ったんだが、名古屋市内に近づくにつれて巨大な船舶が泊まる港が見え、整然と並ぶ輸出用の車が見え、そして現実味の希薄な原色のレゴランドが見え・・・という光景に妙な感慨を覚えてしまった。その後バスが走った市街地でも、看板が大きかったり(走る車からでもよく見えるようにだろう)、店の規模も駐車場も大きかったり、そもそも道路自体が大きかったり、車社会を感じる。この車社会・そしてトヨタとの関係は、トリエンナーレを巡る今回の旅程を通して実感することとなるのだが、それはまた後ほど。
ささしまライブに着き、ホテルまで歩いて荷物を預けて、名駅地下の適当な店で味噌カツを食べる。「味噌カツを食べた」という事実が欲しいがために適当な店に入ってしまったのだが、味噌カツ、高級なソースかつみたいな味がした。駄菓子のアレ。私が貧乏舌なのか、その店に原因があるのかは永遠の謎。
ホテルは安さだけを重視して選んだら「オーバールックホテルからオシャレさと清潔感を抜きました!」みたいなところだった。ホテル名をグーグルに入れると「(ホテル名) 幽霊」とサジェストされる。きっと実際に何かしらの事件があったんだろうな・・・怖くてクリックしてないけど・・・まあ泊まってみたら双子の幽霊も血まみれエレベータもなかったからヨシとしよう・・・。立地は名駅西側のところで、周りも水商売のお店が多く、あとで「西側は治安悪いところですよ」と言われる。新宿にも水商売密集地帯はあって、年季の入った建物の感じや路地裏の感じは似ているが、同じ古い風俗街でもちょっと印象が違うなと思った。新宿の場合、建物自体は古くとも、店の入れ替わりが激しく看板だけは新しかったりするのだが、名駅西側のあたりは「昔からあるのだろうな」というフォントの大きな看板が目立ったからだろうか。
そしてこの日は月曜日だったんだが、月曜はトリエンナーレ全体がお休みなのを忘れていて一度円頓寺会場まで行ってしまったよ。あほ。ホテルに引き返して、持ってきた仕事をしたりごろごろしたりしてたら夜。
円頓寺の通り。
円頓寺のかっこいい佇まいの一例。
夜。フォロワーさんと円頓寺で待ち合わせてご飯に行く。「連れて行きたいお店があるんですけど怖いおばあさんがいて・・・お酒を頼まないと怒られるんですよね・・・私はお酒が飲めないんですが、のぶさんお酒飲めますか?飲める人がいないと行けないので・・・」と聞かれたので元気よく「飲めます」とお答えして連れて行ってもらう。連れて行ってもらった先の居酒屋さんは、手の跡が残っているような木でできた煤けたたたずまいであった。店内から曇りガラス越しに見える通行人の影が、舞台装置のようでとてもよかった。通行人の影が傘を差しだして「あ、雨が降り出したんだな」とわかる光景。演劇の演出のようだった。
どて煮と手羽を食べ「これでナゴヤ飯を食べたと言えます」とフォロワーさんから太鼓判をいただく。やったね!「お酒飲んでもらってありがとうございます」とも言われ、(お酒飲んで褒められるなんて生まれて初めてだな!甘やかされてる!)と思った。
このお店で、隣り合わせたおじさんに話しかけられ、手羽からを食べろと渡されたり無視しても声をかけてきたりしたんだが、なんだかすごく寂しいおじさんだな、と思った。お店の人に「飲み過ぎだ、帰った方がいい」と言われても「帰ってもすることないねん」と答えていて、なんてさみしいひとなのか・・・と思ったのだが、この翌日、私ひとりで食事に行ったときも似たようなおじさんにまた話しかけられるのだった。この話も後述。
居酒屋さんのあと、ベトナム料理屋さんに行って、チャーっていうあのあまいやつを飲む。フォロワーさんと政治の話や芸術の話をたくさんできてうれしかった。SHERLOCKをきっかけに19歳からTwitterをはじめてもう八年経とうとしている。現実で出会っていたとしたら、こんなにいろいろな話をするまでに多くの時間がかかるであろう人とも、いやそもそも出会っていないであろう人とも、こうして会って食事をして政治の話をできることが不思議だ。
Twitterがあってよかった。
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2日目。
八時頃ホテル出て電車で名古屋城へ。 名古屋城、堀の幅が広くて深くてびっくり。整然とした石組み。お城へ行く道々に、忍者のかわいいお菓子がたくさん看板に載っていた。 この日は天守閣に入れず、本丸御殿に行ったのだが、本丸御殿だけでも十分満足してしまった。ゴテゴテしているわりに、描いてある鳥獣は間が抜けてたり廊下は異様に質素だったり、全体を通すと上品に見えるのが不思議。ネコ科の動物大集合のお部屋と金具のリスがよい。天井がきれい。質素な廊下を抜けるとキラキラ豪華絢爛な空間が現れて、森の中の滝やお寺みたいだ。
以下は本丸御殿の内部。これはネコ科の動物づくしという素晴らしいテーマのお部屋。トラやヒョウやジャコウネコがいるよ!
ネコ科のお部屋パノラマ。
↑これは鳥のお部屋。写りが悪いけれども鳥が色々描いてある。
金具のリス。
綺麗な天井。
帰りがけに忍者がいた。「よく参った!」と言われて笑ってしまった。名古屋城は忍者がおもてなししてるのね。そういえば昨日はフォロワーさんから「おもてなし武将隊」というライトな観光アイドル的なものも教えてもらったのだった。 私はいつも旅先からお手紙を送るのだが、ジャコウネコとや虎のポストカードを買ったので、明日、フォロワーさんに教えてもらったキッテで発送しよう。名古屋にもキッテがあるらしい。 ポップオーバーというお店でお昼を食べて移動。芸術文化センターへ。このあたりから暑さと日差しが辛くなってくる。 名古屋は車社会で道路が幅広な分、簡単に横断できず、歩道橋や立体通路や地下を経由する必要があってちょっと移動が大変。見えてるのに簡単にいけない感じがRPGっぽい。まあ近くなのに移動が面倒、という点に関しては東京もよそのこと言えないか・・・。
芸術文化センターの展示について。
慰安婦像の対応をめぐり、作家さんの意思で展示中止措置が行われたため、見られない作品も数多かった。その一連を報道した新聞で全体が覆われて隠されている作品もあった。
これらの新聞記事は全て慰安婦像に対する抗議とその対応を書いた記事が載っている。
ウーゴ・ロンディオーネのピエロの作品、造形のみならず薄くて伸縮性のある布が表面を覆ってる感じとマスクの塗装が超リアル。入った瞬間ぞくっとした空間。でも、彼らの間を歩くうちにだんだん親しみがわいてくる。愛嬌のある一体、自分に近い一体を見つけていって、部屋を出る頃には最初の小さな戦慄がなくなっていた。
ペルーの作品は展示していなかった。クラウディア・マルティネス・ガライのやつ。見られなくて残念。とても興味深いディレクションが記してあったので。
あとラテンルーツの人びとがパーティする映像も公開されてなかったけど、暗い空間の中に残されたパーティグッズのもの悲しさそのものがいまの事態に対する静かな悲しさを示した展示のようだった。
石場文子の作品は自分のパートナーを思い出した。一部がマジックで強調してある日常の風景を移した写真。一見ただの写真に見えるが、一部が人為的に強調してあるので、ぱっと見たときに違和感があって詳しく見ていくとそれがだんだん明らかになってくる。 あれは本人/当事者たちにしかわからない「思い出」「時間」を強調して可視化しているのかしら。 人と暮らしていると、ただの日常の道具や風景でも、私たちにしかわからない特別な意味が生まれてくるものだなーと実感しているので、(おそらく)誰かと暮らしているのであろう風景をあのように表現した展示に自分たちの暮らしを思った。
永田康祐の三つの料理の映像は、レヴィストロースの料理の三角形論と、ローストビーフの由来を持たないローストビーフ(分子料理)のところがすごくすき!なるほどと思った! 私自身の住んでいる場所が多国籍な地域なので、いろんな国の料理屋さんに入った時のメニューを見ている感覚を思い出した。メニューに現地の文字による原語名と、日本語に翻訳した言葉が載っているけど、例えばタイ料理屋でも中華料理屋でもミャンマー料理屋でも日本語では「チャーハン」って書いてあるものがあって不思議だったんだ。日本語にするとそれが一番伝わりやすいからこう書いてるんだろうけど、実際葉もちろんそれぞれ別物なわけで、頼んでみるまで実際のものがわからないドキドキ感も思い出した。
田中功起の四人の家族の物語は自分の仕事や生活と重なる部分もあって、とても興味深かった(職がバレるので感想は割愛)。ただ、映像はいいと思ったけどドローイング部分がちょっとよくわからない。
伊藤ガビンのプロジェクションマッピングは、ちょっとネットノリな感じのギャグの部分と、揺れるカメラや遠近感を表現したような部分とで好みが分かれそう。私は後者の部分が好き。鉄骨のなかを降りるような映像が、ゴーグルをつけない空間VRって印象。
ヘザーデューイハグボーグのDNA再現は、過去の遺体を再現するような(アイスマン等)のロマンもあって怖さや気持ち悪さのみでない魅力も感じる。あとやっぱガタカを思うね。かつてここにいたけれどもういない人の痕跡をたどっていくのは、歴史や捜査ドラマのようで、少しわくわくするよ。
ガラスのドローイングは異様な奥行き感があって、「なんでこんなに立体的に見えるんだ?」とうろうろして眺めてしまった。ガラスに書いているという構造だけではなくて、直線と曲線を組み合わせているからあれほど立体的に見えるのだろうか?立体的に見える最大値を全部計算して書いているんだとしたらものすごい手間だ。
「その先を想像する」の大量の単純な映像、見ているうちに恐怖や怯えの予感に身構えてしまうような感覚を覚えた。殴られる前に身構えてしまう予感というか。例えば対面した相手が手を上げれば殴られると思って身構えてしまうが、それはある程度自分の学習に基づく予測なんだな、と考える。
「10分の遺言」日本的というか世界系というかエモい系というか、今回一番サブカル的わかりやすさを内包した作品だったなと思う。十分の時間制限をつけて、ネット上の不特定多数から「死ぬ前の文章」を収集してる作品なんだが、完成した文章そのものではなくそれを打ち込んでいる過程を映像にしてすべて流してるのね。削除したり、カーソルを戻したり、言葉を選んでいるのかためらったり、そういうての後を全て映像で記録して流している作品。映像キーロガー的なシステムはとても興味深かった。ああいう形で人が文章を書くのを記録できるのね。
ステルス機の白い枠線は、事件現場の死体をかたどった白い跡のようだった。(これが落ちてきたらみんななくなるんだろうな)とか(見えないけどいまも頭の上にあるのか)とか、DNA再現の展示でも感じた「痕跡の再現」を思った。
シルクスクリーンを一万回繰り返したやつ、3Dプリンターと同じ構造だけど遙かに手のにおいがするところが、アナログとデジタルの交差点という印象。
誰もいない台湾の町を延々とるやつ、ゾンビ映画の冒頭のようだった。(「28日後・・・」の全裸キリアンマーフィです)映像を見てから作品撮影の背景(軍事的な訓練のため誰も外出しない日であるため、街が無人)を知るとそれも含めてさらに映画的な印象を受ける。爆発する遊園地のほうは、ループものの作品のようで、まどマギを思った。
リングホルトの大きな時計は裏の構造が簡潔で理解しやすくてよい。ずっと見ていられる精神安定作用がある。
ガラスの箱を段ボール箱に入れて、輸送中に破損した実物を展示しているやつ、「これしか壊れないのか!」という驚きがあった。空輸であれだけしか壊れないなら御の字では?なにも梱包せずあれだけの損傷にとどまるのか。
空港のX線で現像した写真の展示は手法に納得し、中身に戦慄した。シリア大使館の荒れ果てた内部だったのか。見ることにできないはこの中をX線で現像して見せている。映画「アルゴ」の映像を思い出す。
木版画の巨大な虫たちの絵は、古代から伝わる壁画のような荘厳さがあった。神話的だ。細部まで書き込まれていて好み。
手にインクで番号を押すやつが閉鎖されていて残念。フォロワーさんが「国際的にも有名な展示で、匂いがするんです」と教えてくださっていたので期待していたんだけど、匂いって「涙を流させる仕組み」のことだったのか。涙を流すべき事態にも泣かない人間のための装置、という説明があった。香港のデモの催涙弾使用のことを連想して、この作品が展示中止されている事態と香港の事態は地続きだなあ、と思い至る。
写真の中の謎の物体を調査するやつは、ちょっと構成がわかりづらくすぐ移動しちゃった。あんまり立ち止まってみられる感じでもなかったのが残念。
ミリアムカーンの美しい青、実に美しかったが、難民というテーマとあの人の他の作品と並べられていると異質に映ってしまう逆転現象。
キャンディスブレイツの「ラブストーリー」は、六人の難民の抱く壮絶な背景に圧倒されると共に、役者のスキル、そして人間の持つ先入観について見事に表現していると思った。俳優さんの演技力がすごい。すごい。「本物」の難民が持つ、どこか意識が遠くにいるようだったり少し曖昧だったりといった要素が剥ぎ取られて、説得力を与えるようコントロールされている役者の演技の方が「本物っぽい」矛盾。面接やなんかにも通じると思うが、よりそれらしい、本物っぽくみせる技術はお金を払ってまで習得するスキルとされている。でも、それを「見ている」側のジャッジってめちゃめちゃ一方的だ。それにしても役者さんの演技がすごかった。表情も仕草も言葉も間合いも、あんなにコントロールできるものなのか。どう見えるか・どう見せたいかを完璧に解体しそして表現するまでが役者の能力なのかと思うと、途方もない仕事だ。
このあと名古屋市美術館に移動。あつい。顔が溶ける。ヒースレジャーのジョーカーみたいになる。退館した後で気づいたけど、国旗が印刷された野外のゴミ袋も作品だったのか。オシャレな袋がかかってるゴミ箱だな~としか思ってなかった。
空から垂れ下がるオーガンジーの刺繍、一見ファンシーで商品のような明るい魅力があるけど、DNA構造に基づき一対になっているデザインや作品背景に気づくと深みが増す。シャーレの構造もそう。清浄で真っ白な空間と生命を生むシャーレが病院のような斎場のような雰囲気だった。
陶器の展示、とても面白かったー!陶器としてのデザインと、静物や風景が立体化しているあの作品群は、今回のトリエンナーレでもっとも万人に通用する明確な魅力があると思った。いつまでも見ていられる立体的なだまし絵のような発想、繊細な古典的表現!わたしにとっての付喪神ってこんな感じだな。あと刀剣乱舞。山口晃さんの作品への好感につながる魅力を感じる。
いっぱい写真撮っちゃった〜。
モニカメイヤーのピンクの付箋の作品、すでに書かれたものを破ったのではなく白紙のものを破ったのか。もはや書くことができない、声を上げられないという状況の表現。新しい作品表現。視覚的に痛々しい光景だった。
ホドロフスキーの展示。 ホドロフスキーが考案したという心理療法を実践する様子をおさめた記録映像と、書簡、そして小冊子の三点で構成されている展示。 映像のなかでホドロフスキーの指導のもとセラピーを受けているのが白人ばっかりで驚いた。 ビートルズにしろホドロフスキーにしろ、芸術分野がスピリチュアルな組織構造と結びつくのはまったく珍しくないけど、広々とした古典芸術的な劇場の中で白人だけが集まって手を繋いだりトランス状態に陥っているのはちょっと異様な光景である印象。
人工授精と刺繍の展示。私はこれが今回一番よかった。 18歳の時、自分が人工授精で生まれたことを知って、史上初のクローン羊・ドリーに関心を抱いて実際に海を渡って取材したり、出産や育児について表現したりしている作家さんの展示。 ドリーが生まれた街の写真が拡大されて一面を覆っていて、その上に金糸銀糸のきらきらとした刺繍が施されていて、部屋の中央には人形の家のような小屋があり、内部を除くと家庭的な居間が見える。展示場所やその居間の中や至る所に、ゾートロープによるアニメーションで羊や作者自身の姿がゆっくりと回転している。 18歳の時に自分が人工授精で生まれたと知って以降、「幼い頃からの過剰な愛情が理解できた」「女である自分もいずれ出産することを期待されている」と書く作者の言葉に、私は今回のトリエンナーレの中で一番心からの共感を覚えた。 今回は「しんかぞく」といい家族や出産に関わる展示が多く見られたが、これも津田さんによる「男女同数の作家を呼ぶ」取り組み成果だと思う。
部屋の壁の前面を覆う刺繍の様子。
知らない言語を書き取る様子を撮った映像作品では、言語の学習過程や異国になじむ過程のようだと思った。まったく知らない音や言葉を、すでに自分の中にある言葉で置き換えて咀嚼しようとする行為。学生時代に語呂合わせで英単語を覚えようとしたことや、自分の素地になんとか近づけて多言語を習得しようとしたことを思い出した。これもまた「異国に生きる」ということとつながっているんだな。
GIFの繰り返しの展示、ヨシキさんがトークイベントでよく紹介してくれたyoutube動画のようで、映像式現代版ドラッグのようだった。ずっと見てしまう。
終盤に、愛知県内の小学生とともに作った段ボールのお部屋があって、それが細部までずっと見ていられる空間だった。
入り口を入ったところ。
種々のダンボールから切り取ったらしきロゴが貼られたボード。これを作った子はロゴやフォントに興味があって気になって作ったのだろうか。
おそらくシャチホコ。尻尾の表現が好き。
ここまでの展示は会場が美術館だったので、トリエンナーレの作品以外にも美術館の常設展示が観覧できた。この常設展示で裸婦像が多く展示されていたが、男女同数を実現し差別に関する問題や出産・育児についても多く扱っているあいちトリエンナーレと対称的だ。古典芸術世界における、女性の客体化と、それに対する問題提起としての現代美術。女性の意思を扱っているトリエンナーレ作品がある一方で、美術館の常設として古典的な裸婦像が山ほど飾られている部屋という、その対称性も象徴的だった。
ほかにも、常設展示では、児童文学の挿絵のような、会社に絡みつくドラゴンの像もあってこれがおもいがけず大好きになってしまった。紙幣=消費者から得た金で作られた、大量生産品を扱う会社とドラゴン。よく見ると窓や道にそれぞれ人間がいる。窓の清掃員やビルから現れる作者自身。ロアルドダールやティムバートンの作品のようだった。
ここで円頓寺へ移動。あつすぎる・・・
一丁目長屋の中の古い写真を拡大したものは、祖父母のことを考えずにはいられなかった。祖父母のこうして誰かの持つ写真の中に背景として映っているのか。私の誰かのスマホで撮った写真に映り込んでいるのか。祖父母のことが大好きなんだけど、誰かのアルバムのなかでこうやって残っていてくれたらいいなと思うよ。ちょっとでも。
葛宇路は発想が好き。きっとこうやって生まれた道ってたくさんあるんだろうな。昔から。勝手に公共空間に作用していく人の行動が面白いと思う。古代から道の名前ってこうやって決まってたんじゃないだろうか。人の名前も、町の名前も。
移動する洋品店の展示も祖母を思わずにはおれなかった。それとここに限らず、展示場所が超狭い雑居ビルの二階だったり、趣ある巨大な古いお屋敷だったり、距離は大して離れていないのにまったく異なるのが面白い。異世界感。
弓指さんの、自動車事故の犠牲者である小学生六人をモチーフにした展示は、超車社会でトヨタ車がたくさん走っているのを見てここまで来た身からするとチャレンジングな展示だと思った。毒山さんの映像の中でも「トヨタ王国」「愛知からトヨタがいなくなったらやっていけない」との言及があったし。途中で運転席からの景色が見える展示構成がよい。
毒山さんの展示、おそらく私の祖父母と同年代の人びとの映像だが、その老人がいまでも子どもの頃に殴られたり屈辱を受けたりした経験を泣きながら語る様子がつらくて、見ながら泣いてしまった。いまでもこれを書きながら泣いてしまう。今回の展示のなかで唯一泣いてしまった作品。自分たちの祖父母だったら、と思うとつらくてつらくて仕方がない。 本人たちは「いい教育だった」と言っていても、それが本心だとは限らないし、それを疑う余地もない教育を施されたのだろうし、いまはもういない彼ら自身の父母の世代はどれほどつらかっただろうと思う。
円頓寺は最後に寄った伊藤家住宅がすごくよかった。中庭の感じとか蔵と蔵の間の空間の怖さとか。津田美智子の作品は不具合で見れなかったけど、蔵の中の岩崎さんの作品は緻密ながら空襲後の世界を思わせる光景で見入ってしまった。燃えた家財道具と建物と炭。どこかに通じる橋のような構造物がすき。三人しか入れない極小空間という処も含めて、秘密基地のような、子どもの頃にしか出会えない何かが住んでいる空間のような、魅力的な展示��った。
全て炭で作られた作品の様子。
ゆざーんの演奏は、修行というのでもっと簡潔で寺院っぽい空間を想像していたら地下にあるライブハウスみたいなカラフルな壁画があってちょっと意外。タブラの音ってきれいだ。
ホテルに戻って、外食しようと思って外に出たらまたもや知らないおじさんに話しかけられ、「明日は絶対外に出ないで何か買い込んで宿で食べよ・・・」と堅く心に誓う。
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三日目。
朝起きて九時くらいまで昨日の日記書く。ポメラ毎日使ってるけど買ってよかった。旅行先でもいつもと変わらず書けるしバッテリーの持ちが最高。
チェックアウト後キッテへ。ハガキを発送して名古屋駅から東山線で栄駅、舞鶴線に乗り換えて豊田市駅へ。ホテルに荷物を預けて喜楽亭へ。
喜楽亭は建物自体も面白かった。料亭のようなことをしていたらしい。お寺のようだった。古くはあるけど清潔で使い込まれた空間。進むにつれてだんだんと輪郭や映像の出典がわかっていく構成と建物がよく合っている。映像の書簡形式。特に二階の構成がよい。日本のアニメ・漫画作家による二次大戦中のプロパガンダ作品と、それらが彼の記念館に収められていないこと、そして彼自身も特に後悔はしておらず「また政府から要請があったら同じことを行う」「国民としての責任を果たした」と語っている映像。そして、小津安二郎と彼の作品について論じ、作中の幼い兄弟が「大きくなったら軍人になりたい」と語っている映像とプロパガンダアニメが同時に背景に映り込む演出は素晴らしかった。小津安二郎の墓に「無」と刻んであるのはこの展示ではじめて知った。奥の巨大なプロペラの展示は舞台装置っぽい。カタカタ鳴る装置も舞台演出的だ。
ここから豊田市美術館へ。激坂のぼるの熱くてつらかった・・・。
美術館のレストランでお昼ごはん。
空から落ちる花が開くような展示は、みんなが上を見上げたり床に寝転がったりしながら作品を見て笑って話している空間自体が好きで、ずっと見入ってしまった。シャーレの展示もそうだが、美術館の広くしろい空間になにかが上から下がっているって独特の非日常。
豊田市美術館から歩いて近くの高校のプールの展示を見る。これもフォロワーさんから「友人がとても褒めていた」とのお話を伺っていたので期待して向かう。 実際に目にすると、青空にプールと廃校��夏の濃い緑、というのがすばらしい。エモい。バンタンの撮影に使用して欲しい。私はスクールもの時代のバンタンが好きだ。 垂直に立ったプールの壁面が真っ青な空に伸びている、という、飛び込みや空に落ちること・そしてもしかしたら飛び降りを連想させる光景がとてもよい。バンタンの撮影に使用して欲しい(2回目)
青ずぎる空と校庭と合成のような鳥居が異世界っぽい。
豊田市駅に移動して、架空のトヨタの遺跡モニュメントの展示三点としんかぞく(レンタル家族)を見る。 しんかぞくは正直、「実際に死産を経験したり子どもを失っている人から見たら残酷すぎる」と思った。流産を扱うことそのものを問題視しているわけではない。テーマパークという形にして、「エンターテイメントとして見せていること」・そして「実際に死んだわけではない想像上の子どもを作り出して、(おそらく)本物の水子と一緒に作品の題材にしていること」がちょっとひどいと思った。水に流す演出の意味や、最初に押すキーボードの意味などは「なるほど」と思ったけれど、原宿の店先に並んでいそうなポップな色合いで作品にするにはあまりに敬意がないのでは。 架空のトヨタの遺跡を再現する展示、発想と映像のなかのとってもうさんくさいおじさんのインパクトが強烈。最初あの胡散臭おじさんが作家さんかと思った。人為的に作られた出土品を見ているのが楽しく、また、「現実にも出土品を偽造していた考古学者がいたけど、こういう感じだったのかな」と想像を巡らせた。
なにかを売り出したいときや権威づけたいときに、古くからの神話や土地の歴史に絡めるのは常套手段だけど、これは逆にトヨタ神話を皮肉っているようでもあって、単純な「この土地と切っても切り離せないトヨタ」を礼賛しているわけではないと感じる。
アンナヴィッテのトヨタのダンスの映像も同じことを思った。あのダンスの映像は発想がとても好き。(明言はされていないがおそらく)トヨタの工場労働者たちを集めて複数回お互いの仕事について話し合う様子を撮っている。彼らは流れ作業で部品の点検等単純な労働に従事していて、「これから自分たちの仕事はどうなるか」「仕事は楽しいか」「なぜ仕事をしているか」といったことがらについて各々の意見を述べていく。そして、彼らが毎日繰り返している仕事の動作を再現してもらい、それを元にダンスを作り上げる。彼らが踊る映像と、自動制御のロボットがラインで単調な動作を繰り返しつつ車を作り上げていく映像が流れる。
ホテルに戻り、もうおじさんに話しかけられたくないなと思ったのでトヨタ駅近くの松坂屋地下でご飯を買って部屋で食べる。文章を書いて本を読んで眠る。
------------------------------------------------------------------------------------------- 四日目。 六時に起きてご飯食べてこれの下書きを書く。 チェックアウトして東岡崎駅へ。閑散とした駅にタピオカのスタンドがあり、まったく繁盛していないのを見て諸行無常を感じる。おごれるものは久しからず。高速バスでバスタへ向かう。 バスに乗ったら顔を覆うシェードがあった。はじめて見た。しかし使ってみると超快適で爆睡。隣の人の顔が見えない、見られないってこんなにもノーストレス!
いい旅行だったな。
街の中、しかもこれほど複数の場所に点在したトリエンナーレに初めて行ったので、土地と干渉し合う作品鑑賞も初体験で多く発見があった。
まず、炎天下を歩いて回って、歩く道々で見る建物や風景や、だんだん暑くてボーッとしてきたころ突如現れる作品や、全て込みで作品のようだった。特に円頓寺は一区画入ると全く趣の異なる建物・作品が現れて、街の中に潜む異世界をめぐるようであった。
そして、トヨタに関わる作品も数多くあって、トヨタの影響が色濃い街を歩く中でそれらを鑑賞して「これはこの土地で見るからこそ意味があるな」と思った。単純にどこか別の都市の美術館に全部入れていてもこんなに意味合いを考えたりしなかっただろう。
バスに乗って愛知に来たとき、ミニカーのように整然と並ぶ大量の車や、輸出入の船がたくさん止まる港や、突如現れるレゴランド、幅の広い道、超車社会、等々を見て「あートヨタのちからよ…」と思った。事故の犠牲者6人を追悼する作品で「加害者、被害者、クルマ」を提示していて(トヨタのお膝元でやるにはチャレンジングだな)と思ったけど、酔客にグローバル企業のロゴをかぶせる映像展示では「トヨタがなかったら名古屋はやっていけない」と行ってたり、豊田市駅の展示では架空のトヨタの遺跡を発掘する展示があったり、そしてその会場に向かう駅の歩道には「交通死亡事故一位の汚名返上!」という(展示ではなく警察やトヨタによる本物の)巨大な横断幕があったり、街中を巡ってみる展示だからこその効果を感じた。街中を歩いて車社会を実感しながら作品に会いに行き、そしてその作品たちが相互に作用していく体験が初めてのもので、「自分の目が変わっていく」過程が新鮮だった。土地を体験した自分の目が作品に向ける眼に影響していく。人間はどんどん変化していくけど、これほどの短期間で明らかに変わっていくのがわかる体験は、あいちトリエンナーレの素晴らしい強みだと思う。これからいく方にはぜひ、なるべく多くの作品を歩いて巡ってみてほしい。
それから、私が道中でさびしいおじさんとフェミニズム作品について。1日目二日目と、夕食を食べに行ったら知らないおじさんに声をかけられ、うんざりして三日目はビジネスホテルでもそもそご飯を食べたのは前述の通り。はっきりいって不愉快だし、心底不快だけれど、それ以上に「この人たちはさびしいんだろうな」という気持ちが先に立った。これは愛知に限らず、東京でもあまた経験しているので、今から書くのは今回の旅だけではなく普遍的な話。
旅行先で食べてみたいものがあっても、おじさんに話しかけられると思うとうんざりする。男の人ならどこで���好きなところへ好きなものを食べに行って、話しかけられて嫌な思いをするかもなんて微塵も考えないのかしら。ここでわたしが「旅行先で隣になった人とめっちゃ盛り上がった笑笑笑!おごってもらった笑笑笑」って書くタイプならむしろ旅のいい思い出になるだろうし、「こう感じるタイプの方が生きやすいんだろうね」、って話はフォロワーさんともしたけれど、私がこうやって知らないおじさんに話しかけられてめちゃめちゃ不愉快になるのは、「さみしい」という気持ちを検知するからだと思う。たまたま隣に座った私に話しかけ、少しでもさみしさを埋めたい、というのは侮辱ではないのか。一方的に話したり、相手が立場上・性格上反論できない局面で話を押し付けたりするひとってめっっっっっっっちゃいる。
私は今回のフェミニズム作品、そして作品中止に至るまで作家さんの行動の一連も根本は「対話を行わない」という侮辱に対するものだと思っている。一歩的に作品の撤去を求めること。それに対し、作家さんたちと十分な対話を行わず、実際に撤去をしたこと。
侮辱されている、舐められている、と察知する能力は人間にとって能力だなmと今強く思っている。このまま私は進もう・・・
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