Tumgik
#江東区有明
yasurageruheya · 2 years
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10月29日(土)と30日(日)に開催される「#ゲームマーケット2022秋」内に設置される「make.ctrl.Japan4」っていうイベントエリアのどっかにある「#MIYAZAWORKS」さんのブースのお手伝いに行かせていただきます! 「#ゲームマーケット」って日本最大の“電源を使用しない”#アナログゲームに関するイベントです! で、「make.ctrl.Japan4」は#コントローラー の面白さに重きを置いたみたいなゲームの展示・試遊イベントです! 電源を使用するゲームなんですが、ゲームマーケット内で行われるんです! 読み方は「メイク・コントロール・ジャパン」みたいです! (ちなみにスマホゲームとかも普通に幾つか出展されたりしてるみたいです) . 「MIYAZAWORKS」さん(https://miyazaworks.jp/)は変なコントローラーを作るゲームクリエイターで、京都で行われる日本最大のインディーズゲームイベントの「BitSummit」とか、「東京ゲームショウ」とかで何度かお手伝いに呼んでいただいてまして、しばらく青森から出られてなかったのですが、すっごい久しぶりにお手伝いに行ける事になりましたー!!! ぎゃぁああぁあッッ!! やったぁあぁああッッ!!!! 東京でお仕事するのは4年ぶりとかになるのでめっちゃ楽しみです! 楽しみすぎて、この気持ちを表現したくて #イラスト 描きました!! . 「ゲームマーケット2022秋」の開催場所は #東京ビッグサイト になりますので、もしお越しいただく事が出来る方は、超大規模なゲームセンターに来る感覚で遊びに来てくださいー!! 1日中遊んでも時間足りないくらい遊べると思いますよー!! きゃー!!! . ゲームマーケット2022秋 https://gamemarket.jp/access make.ctrl.Japan4 https://makectrl.jp/ #東京 #東京都江東区 #ビッグサイト #makectrljapan #makectrljapan4 #ゲームイベント #イベント #ゲムマ #ゲームコントローラー #ゲーム #江東区 #東京都江東区有明 #江東区有明 #有明 #game #gameevent #gamecontroller #gamemarket #tokyo #tokyojapan https://www.instagram.com/p/CkAte3HJxsT/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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iida-photo · 2 years
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2022/06/04 Ariake, Tokyo. 「K-MUSEUM」1996年竣工 . . . #photography #landscape #architecture #instacity #NikonZ7 #Ariake #Tokyo #Japan #東京 #江東区 #有明 #共同溝展示館 #建築 (夢の大橋) https://www.instagram.com/p/CoYSi6RvTBv/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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tokyowalking · 7 months
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東京都渋谷区代々木の風景です。
代々木は原宿や新宿、明治神宮なども近くにあります。昔ながらの景観、1964年東京オリンピック時に造られた国立代々木競技場なども有名です。
山手線、総武線、中央線、大江戸線の4路線が利用出来るので移動も便利な街です。
This is a view of Yoyogi, Shibuya-ku, Tokyo.
Yoyogi is also close to Harajuku, Shinjuku, and Meiji Shrine. The area is also famous for its traditional landscape and the Yoyogi National Stadium, which was built during the 1964 Tokyo Olympics.
The Yamanote, Sobu, Chuo, and Oedo lines are all accessible, making the city convenient to get around.
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omiznewsviews · 3 months
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 江戸三大祭りの一つに数えられる、日枝神社(東京都千代田区)の山王祭で使われてきた掛け軸が、書家で幕臣としても知られる山岡鉄舟(1836~88年)の直筆だと確認された。同区は有形文化財に指定し、18日から8月18日まで、区立日比谷図書文化館で公開する。
 鉄舟は幕末から明治にかけて活躍した書家。1868年に現在の静岡市で西郷隆盛と面談し、江戸城の無血開城につなげた幕臣の一人として知られる。
 掛け軸は、絹地に墨で「日枝神社」と書かれ、「正四位山岡鐵(てつ)太郎拝書」と本名で落款がある。鑑定した二松学舎大講師の寺内進氏によると、晩年の1885~86年ごろの作品とみられるという。
 掛け軸は千代田区の「麴(こうじ)町五丁目町会」が保存しており、山王祭で隔年で設置される各町会の御神酒(おみき)所に飾っていた。町会に、「(掛け軸は)鉄舟本人が書いたものではないか」との声が寄せられたため、区に相談した。区は、鉄舟の書の研究で知られる寺内氏に鑑定を依頼し、真筆だと判明した。
 区は、書家としての技術が凝縮され、鉄舟の到達点を示す作品だと評価。鉄舟の作品が祭礼で使われ続けてきたことも珍しいとしている。ただ、町会と鉄舟の関係を示す史料は確認できておらず、制作や入手の経緯は不明だという。
 現在、麴町五丁目町会の会長を務める湯田嘉彦さん(77)は「本物だとは思っていなかった」と驚く。副会長の片岡勝吾さん(65)は「一般公開されるので、多くの人に見てもらいたい」と話す。山王祭では今年から、レプリカを使うことにした。
(via 「本物だとは」 日枝神社・山王祭の掛け軸、山岡鉄舟の直筆と判明 | 毎日新聞)
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ashitatsu · 7 days
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つまり大小暦は、現代のカレンダーの簡易版に当たります。初期は各月の大小の区別を文字で記すだけでしたが、絵や文字による判じ物(パズル)の形で、隠された大小を読み解く趣向が加えられました。江戸時代の中期から後期にかけ、庶民の娯楽として大流行。葛飾北斎や歌川広重、河鍋暁斎といった有名な絵師たちも大小暦を描いています。その暦を詰将棋で表したのが大小詰物で、天野宗歩や九代大橋宗桂といった、江戸時代を代表する将棋指しも作品を残しています。  では、牧之原で見つかった詰将棋は、大小をどのように表現しているのか。文化7年の各月の配列を調べると「小大小大大小大大小大小大」の順と分かりました。盤面に並ぶ駒の数も12枚。これらが大小を示しているのは間違いなさそうです。しばらくうなっているうち、記者の頭に天啓が舞い降りました。盤の右上から下へ順番に駒を拾っていくと「歩飛歩玉桂歩金桂歩角歩飛」となります。つまり歩を「小」、それ以外の駒を「大」に置き換えると、この年の大小の並びと一致するのです(図3)。  不要駒である7二歩の存在も、それで説明がつきます。大小暦として成り立たせるためには、この位置に歩の駒が存在しなければならなかったのです。
藤井聡太王位が解いた「200年前の詰将棋」に残されたナゾ…実は込められた意味があった バン記者・樋口薫リポート:東京新聞 TOKYO Web
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kennak · 20 days
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検察側は懲役25年という重い罪を求刑した。 8月29日に東京地裁立川支部で、強盗致死罪などに問われている元大学生・中西一晟被告(21)の公判が行われた。昨年1月、東京狛江市に住む90歳の高齢女性Aさんを死亡させ、高級腕時計など4点(約59万円相当)を奪ったとされる。 「いわゆる『闇バイト強盗』事件です。中西被告は、実行役の永田陸人被告(22、強盗致死罪などで起訴)らと共謀しAさん宅へ侵入。両手を結束バンドで縛り、バールで殴り死亡させたとされます。中西被告は『暴力をともなう犯行計画だった』とは理解していたようですが、Aさんを殴ったのは別の実行役で強盗致死罪にはあたらないと訴えました」(全国紙司法担当記者) 『FRIDAYデジタル』は昨年1月25日配信の記事で、中西被告や永田被告がかかわった狛江の強盗事件について詳しく報じている。再録し「闇バイト強盗」の恐ろしさと戦慄の手口を振り返りたい(内容は一部修正しています)ーー。 ◆「報酬1000万円のタタキ」 被害が全国各地に及んでいる。 関東を中心に強盗事件を起こしたグループは、広島や山口など西日本でも犯行を繰り返していたようだ。4~8人で民家へ侵入し、住民を暴行したうえ現金を奪うなどの手口が酷似。同様の事件は、全国で少なくとも30件以上起きている(昨年1月時点)。 「一連の事件で、’23年1月19日に殺害され遺体で発見されたのが90歳のAさんです。強盗事件が頻発している千葉県警から情報提供を受けた警視庁の警察官が、東京・狛江市のAさん宅を訪問し遺体を発見。地下1階の廊下で両手首を結束バンドで縛られ、顔から血を流して倒れていました。 Aさんは息子夫婦と孫2人の5人暮らしでしたが当日、家族は朝から外出していました。室内には棚が開けられるなど荒らされた形跡があり、複数の足跡も残されています。Aさんの死因は、全身に暴行を受けたことによる多発外傷です」(全国紙社会部記者) 実行犯たちは、SNSで指示役からの情報を共有していたようだ。都内で起きた別の強盗事件で押収した犯人のスマートフォンからは、狛江市の犯行に関するメッセージが確認されている。使われていたのは、秘匿性が高く一定時間が経過すると情報が消去される機能のある『テレグラム』という通信アプリだ。 「指示役は暴力団や半グレと考えられています。すでに逮捕された実行犯の公判で、『闇バイト』を通じてメンバーを募っていたことが判明しました。実行犯は指示役の名前さえ知らなかったそうです。 実行犯は『報酬1000万円のタタキ(強盗)』『金庫に1億円が入っている』などの指示を受け、現場で会った見知らぬメンバーと犯行に及んでいました。指示役は、高額の現金を持っている高齢者などの住所や電話番号、家庭状況が記載された『闇名簿』から襲撃場所や時間を決めていたと思われます」(同前) 捜査のキーマンになりそうなのが、’22年12月5日に東京都中野区内の住宅に押し入り40代の男性を殴って現金約3000万円を奪って逃走した人物。強盗致傷の疑いで逮捕され「ボコボコにしてやった」と供述した、石川県金沢市に住む職業不詳・永田被告(冒頭で紹介)だった。永田被告が乗っていたレンタカーから押収したスマホからも、狛江市の事件に関する情報が見つかっている。 「複数の事件に関与していると思われる永田被告も、『闇バイト』を通じて犯行グループに加わったようです。京都市出身ですが10代で金沢市へ。建設業の会社を転々としていましたが、ギャンブルにハマりカネに困っていたといいます。同じアパートに住んでいる住民によると、競艇好きで『今日は50万円やられた』と話していたそうです。羽振りの良い時は、高級時計を3本ほど見せ『どこで換金できる?』と尋ねてきたことも。 一方で、こう言って怯える様子も見せていたとか。『怪しい車がいたら教えてくれ』『警察だったら(車の)中に人が張り込んでいる』と。住民が『何か悪いことをしているのか』と聞くと、『いやちょっと……』と言葉を濁したそうです。犯行を繰り返し、逮捕を恐れていたのかもしれません」(同前) 冒頭で紹介した中西被告の公判は、9月6日に判決が言い渡される予定だ。
「ボコボコにして」3000万強奪…90歳高齢女性がバールで殴られ死亡「闇バイト実行犯」戦慄の素顔(FRIDAY) - Yahoo!ニュース
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elle-p · 9 months
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Persona 3 Club Book teacher's pages scan and transcription.
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月光館学園の先生
Teacher in Gekkoukan educational institution
高等部2年生の授業を受け持つ先生たちは、生徒のほとんどが勝手知ったる内部進学生だからか、かなり趣味に走った奔放な授業で有名。個性と独立心を獲得した、港区に誇れる立派な月高生の育成に勤しんでいる。
鳥海先生 Toriumi かに座/AB型 2-F担任、現代文担当、生徒会顧問
2年F組の担任で、現代文の担当。非常にさばけた性格で、真面目に話を聞かない生徒に謝罪を要求したり、サボりの生徒の席を勝手に再分配するなど、裏表のない性格そのままの授業をやっている。はっきりとした目鼻立ちと茶色がかった髪のため、実家のある島根ではお人形さんのようだと近所のオバちゃんたちに評判で、小中高の子供時代もそこそこモテ期をすごしていた。当時から文学少女だったために大学は国文科に進み、「日本文学に精通した可憐な新入生降臨!」くらいのウワサは辞さないとさえ期待していたが、いざ上京してみると、 自分の程度が世間でいかに平凡かに気付かされ、以降はこれといった華やかな出来事にめぐり合うことのないまま、29歳の現在に至る。
趣味で同人作家としての活動も行なっているが、これといった手応えはない。職場である月光館学園でも浮いた話に恵まれず、日本語の在りかたという点で話が合わないため、古文の江古田先生とは犬猿の仲だったり、倫理担当の叶先生からは女として負け犬確定の扱いを受けるなど、くさくさした日常を送っている。
心は可憐な
三十路前
「私が怒られるから静かにして」発言など、よくも悪くも生徒とのあ
知的な顔とやる気のない中身とに非常にギャップがある29歳独身。世間一般の女性の例にもれずケーキ好きで生徒に要求している。
「私が怒られるから静かにして」発言など、よくも悪くも生徒とのあいだに垣根を感じさせない。
鳥海先生のボヤキ
• じゃあ今日は明治の文学ね。教科書の12ページ。···あ、先生、この作家あんまり好きじゃないな。やめ ましょう。(4月21日・授業)
• イジメに関する小論を読んで、感想ってやつね。こんなのサービス問題じやないの。なーんか書きゃ点あげたわよー。“この学校におけるイジメを告発” とかねー?···って、ウソよお。イジメ、無いわよねえ。無い無い。面倒。(5月25日・授業)
• アイギス・・・さん?珍しいお名前ね、生まれは外国なのかしら。他に特記事項は···ん?···人 型···戦術兵器?···なんかの間違いね、この書類。見たもの、聞いたもの全てが、正しいなんて思っちゃ駄目よね。 (9月2日・ホームルーム)
• 世の中は椅子取りゲームなの。みんなも気をつけてね。(11月9日・ホームルーム)
• みんなー、修学旅行はどうだった〜?先生、寺なんか興味ないから参ったわ。火曜からは体験学習ね。面倒な社会科見学だと思えばいいわよ。社会に出るって大変なの。これをキッカケに皆にも分かってもらえそうで嬉しいわー。その間、先生遊べるしね。(11月21日・授業)
確かに、この社会に希望なんて、そうそう転がってないよね。逆に、そこらに転がってるもんで満足すんな!甘えんじゃねーよ!···って、思ったワケよー。···先生、いま良いこと言ったから、期 末にこのまま出すよ?(1月 28日・授業)
江戸川先生 養護教諭 総合学習担当
見るからに健康、清潔とは縁のない養護教諭。カリキュラムが自由なのをいいことに、趣味に走った授業を行なっている。
怪奇!
保健室に巣食う悪魔
無精ひげとよれよれの白衣、脂に汚れた黒ブチ眼鏡、およそ健康的とは言い難い頬と土色をした顔色で、「優しい保健の先生」のイメージとは似ても似つかないうさんくさい風貌の保健室の主。月高赴任前のことを知る人間はおらず、名前すら本名ではないとさえ言われている。元気なときに訪れても追い返されるだけだが、体調が悪いときに保健室の戸を叩くと、先生自ら調合した極めて怪しいクスリを盛られる。運よく効けば具合がよくなることもあるが、当然トドメの一撃になることもなきにしもあらず。
養護教諭として生徒の手当てや保健業務を受け持つほか、「個々の知識を結び付け、総合的にはたらかせる」 総合学習の授業を受け持っている。しかしその実態は、「魔術を利用した人間心理治癒」と称し、前代未聞の魔術理論を紐解く、生粋のオカルトマニア。オタク特有の傾向である、自分の得意分野に関して話が長い特徴がある。夏休みの補習では、ここぞとばかりにさらにディープな講義を展開し、計5日間の日程のうち丸2日を魔術講義に付き合わされることになる。
体調の悪い生徒をじつに嬉しそうに迎える彼。保健室での行ないが本当に手当てなのかも怪しい。
江戸川先生のオカルト講座
• 保健室に何か用かね、ヒヒヒ。でも困るなぁ⋯これから秘密のサ⋯おっと。⋯講習会なんですよ。⋯なんだ、おまえ全くの健康体じゃん。私の目はごまかせませんでございますよ。サボリはお断り。ハイ、出て行った、出て行った。(保健室・体調普通以上)
• ···おやまぁ一、傷かウイルスか呪いか恋か。ずいぶんと調子悪そうですねえ。これは···出番ですね、イヒヒヒヒヒヒヒヒ。さて、取り出しましたるこの秘薬··· ニガヨモギにドクニンジン、ヒヨスにナツメにエトセトラ、エトセトラ··· オロしてコネてウサギの手。白山の杜氏もビックリの大吟醸。たちどころにアナ夕の病気を治してみせますよ。さあ、飲みなさい···飲むんだ!(保健室・体調疲労以下)
• まあ魔術と聞いて、何でもできるようになるイメージを持ってるヤツもいるでしょう。誰かにイタズラしてやろうとか、苦しめてやろうとか··· そんなロクでもないことを真っ先に思いつく人間に魔術の習得はできません。これは、洋の東西を問わずに共通することですね。邪な者は、無力であるか、途中で破滅するか。そのどちらかになるのです。(5月28日・授業)
江古田先生 2-E担任古文担当
今年50歳を迎えたの古文の先生で、風花の在籍する2年E組の担任。古きよき日本を愛する感覚は、現代の若年層とかけ離れているため、教師たちの間でも煙たがられている。「エアコンは体に毒」のスローガンの下、冷房や暖房をしょっちゅう止めてしまうので、「エコだ」と揶揄されている。面白いを「ホワイトテイル」、白ける話を「ホワイト キック」と一生懸命使っているが、90年代に若者文化として知識を仕入れてから時間が止まっているらしく、なんだか哀れ。
江古田先生のエコ文化論
• えー···明日からは修学旅行だなぁ。京都、我が心の故郷だ。他の先生はあろうことか海外を推すからなぁ···毎年反対するのが大変なんだぞ、んん?(11月16日・授業)
●当時の発音には “F” が入るんだぞ。“ひさかたの光のどけき春の日に” は··· “ふいさかたの、ふいかりのどけき···” う〜ん、美しいですねぇ··· (11月16日・授業)
小野先生 歷史担当
熱狂的な戦国マニアの先生であだ名は小野ムネ。政宗がらみにヤマをはればテストで高得点が狙えるが、受験を考えると参考書や塾に頼らざるを得ないため、3年生からは「歴史のハズレのほうの先生」と思われている。金色の細い三日月の前立てが印象的な愛用の兜は言うまでもなく政宗公の戦装束。オーダーして作らせた一品物で、新入生はその格好で行なわれる授業に驚愕するが、ひと月もすると立派になじんで気にも留めなくなり、そうなって初めて月高生としての肝が据わる。42歳。
僕は政宗公に会いに行く!
• えーと今日は貝塚の話か。うーん、貝塚なんて、ただの貝だよね。もういいかなこれは。先生、早く戦国とかに行きたいね。ワクワクしたいね。(4月30日・授業)
• じゃ、今日は政宗公だね!もう先生ワクワクして全然寝てないんだ!じゃ、政宗公の生い立ちから丁寧に紐解いていくからね!時は1567年、米沢城··· (10月1日・授業)
• うっ···ううっ···こうして、9月24日、西南戦争は幕を閉じたのであった··· まつ···ぐすっ まさ、まさに··· 武士の、武士の時代の終わりであったぁ···!!···ここから現代までは飛ばして、また戦国やろうね···ああ、政宗公··· (1月15日・授業)
宮原先生 数学担当
三角定規を片手に数字のかわい��しさを語る数学の先生。ふさふさアフロでおねえ言葉という風采は、変り種の多い月高高等部の教師たちの中でも異彩を放っている。数字や数式への思い入れはかなりのものだが、「解法」を愛するけれど「解答」には興味がないため、最後の繰り上がり計算をいつも忘れてしまうという、「使えない」 先生ナンバーワン。
数字LOVEの心
• ···で、ここが繰り上がるので···答えはX=1ですね。···え、違う?あ、ここが11だから··· すいませんね、X=2か。え、まだ違う??··各自、計算してくださいね。そういうわけで、すごいでしょ。数学って面白いよね。こんなに難しい問題も、解いてみるとX=1··· あれ、2だっけ?まあそんな感じで、簡単になっちゃうでしょ。ブラボーでしょ。(4月27日・授業)
この8、なんかすごく可愛いでしょ。9なんか尻尾がぷりぷりだし。マニアックだけど、2!!2もいいよね〜、ほんと、イイ!数字って可愛いよね。もうたまんない!(9月28日・授業)
竹ノ塚先生 物理担当
長身で渋めの男前、スーツは華美ではないが上質で、どことなくセンスを感じさせる45歳。見た目はいたってまともだが、せっかちで授業の進度が異常に早く、実験は結果のみの紹介、問題の解法を教えないままテストになだれ込むなどのせいで一部の生徒から不満が上がっている。板書の文字は大きく見やすいが汚く、折ったチョークの数は校内一。
かっこいい言葉集
• 言ってみれば、夏休みはもう··· 摩擦係数ゼロの坂道の上ってとこか。おっ、先生、今カッコよかったな。黒板に書こうか?(9月1日・授業)
• まずは基本中の基本、重力な。重くて大きなものが、小さいものを吸い寄せる。これが重力。女子高生に、中年男性が吸い寄せられる··· これも重力··· ···て、何を言わすんだ!(12月9日・授業)
叶先生 倫理担当
おもに3年生の倫理の授業を担当する先生。とくに男子生徒に人気が高く、「エミリ先生」と慕われている。授業熱心で進学指導に力を入れているのが評価されている一方で、若い男の子を手の平で転がして楽しむという、教師としてちょっと問題アリな性格。教師にしておくのは惜しい抜群のスタイルと評価が高いが、胸は詰め物とのウワサ。一部上場企業のサラリーマンと婚約中。
禁断の恋のゆくえ
自分にほれ込んでいる友近を、勉強を見るためと称して自宅に招いている叶先生。絶対に秘密のハズがどこからかバレて、九州の学校に転任することになって しまう。
大西先生 科学担当
細面ですらりとした、32歳の先生。婚約者と別れた過去があり、当分恋はいいと思ってるうちに、本格的にどうでもよくなり現在に至る。メガネを取ると美人なのだが、武器を隠し持っている感覚がいいという理由で、人前では外さないようにしているらしい。東洋医学批判者で、江戸川先生と新しい薬の開発を競っている最中。
やっぱり化学反応が好き
• 昨日ね、テレビ見てたらダイエット特集やってたんだ。“水を飲むほど痩せる!” とか言ってね··· んなワケないじゃない!浸透圧とかオール無視でしょ?なのに、だまされるのが多いんだから··· (5月6日・授業)
• 来週の火曜から試験かー。実験バリバリやりたいんだけどね。薬品を混ぜ合わせる瞬間って、最高に興奮するよね。(10月7日・授業)
寺内先生 英語担当
学生時代、留学先のインドで知り合ったイギリス人宣教師と、帰国後に感動的な再会を果たし、結婚に至る。そのシーンを「クリスマスの思い出」として毎年生徒に披露、英訳させる先生。会話中にかなりの頻度で英単語が混ざるが、本人曰く「関西なまり」みたいなもの。黄色いスーツにカチューシャという、どことなく海の向こうのセンスが香る28歳。
グレートイングリッシュスタディ
• はい、ここではAさんが死にそうなんですね。で、Bさんが言う “ステイ ウィズ ミー!” “しっかりして!” と叫ぶから、このあとAさんの魂が戻ってくるワケですね。これ、テストに出しますからね。面倒なんでこのまま出しますからね。と、もうすぐチャイムですね。それまで私のインド留学話でもしましょうか。(5月15日・授業)
今日はクリスマスの思い出をスピーチします。聞きながらイングリッシュに直してください。“もみの木の下で出会った私達は燃えるような恋に落ちたのです···” “イルミネーションはお互いの顔をビュー ティフルに照らし···” (12月24日・授業)
校長先生 校長
長年の政治的活動と少なくない資金とで、ついに私立高校の校長職を射止めた人。教師としての才覚には残念ながら恵まれているとは言い難く、部下である先生たちだけでなく、生徒からもデキない男と見抜かれている。美鶴の高校生離れした生徒会長就任演説に対抗意識を燃やし、つぎの週の集会でありがたいお言葉を用意するが、順平に同情される始末。
沽券に関わる大演説
えー、諸君らに今日は特別に、大切な話をしようと思います。あー、世間では、不可解な事件や、理不尽な事件が多いようですが··· うー、この学園の生徒である諸君らには、関係ないことだろうと思います。えー、しかし高校生という若い時期には、様々な悩みもあるでしょう··· まー、だからといって、あまり、思い悩むことはないのです。えー、“過ぎたるは及ばざるが如し” という言葉を、紹介します。あー、これの意味はといいますと··· (4月27日・朝礼)
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hachikenyakaiwai · 7 months
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【かいわいの時】延暦十二年(793)三月九日:難波大宮を廃止し、摂津職を摂津国に改める(『日本後紀』)。
1)摂津国の国務は当初、難波宮および難波津を管理するとともに、摂津国の行政を兼帯する、摂津職とよばれる特別行政機関によって行なわれた。摂津職の官衙は難波京内に置かれたと考えられ、その所在地は現在の大阪市天王寺区国分町のあたりとする説が有力である(Web版尼崎地域史事典「apedia」)。
2)摂津国府の所在地は明らかでないが、大阪市天王寺区にある四天王寺の東方に国分町(もと国分村)の地名があり、摂津国分寺の所在地と考えられるところから、当初国府もその近くにあったとする説(『東区史』第一巻)が有力である(『大阪府史 第2巻 古代編』1990)
3)国司の庁は天王寺区生野町即ち旧生野村国分地方であろう(『東区史 第1巻 総説篇』1942)
4)国分町(近世):江戸期~明治5年の町名。江戸期は大坂三郷北組のうち。明治初年からは玉造を冠称。江戸初期、当地に山城国伏見の町人が移住。はじめは東伊勢町と称したという(初発言上候帳面写/大阪市史5)。町名はかつて当地に摂津国の国府があったためと伝えるが不詳。「玉造いなりうら門前筋より三すじ東の丁大和ばし通り北へ入」の町で(宝暦町鑑)、元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によると家数29軒、役数30、うち無役数1(年寄)、年寄は塩屋半十郎。古代に朝鮮や中国からの使節の迎賓館として鴻臚館が設けられたが、「摂津名所図会大成」は当地をその古址としている(浪速叢書7)。しかし「五畿内志」は現在の天王寺区玉造元町としている。明治2年大阪東大組に所属。同6年東成郡西玉造村となる(『角川日本地名大辞典』)
5)摂津国の国府「大阪市天王寺区国分町・生野区生野西? 1」「同[図書館注:大阪市]東区*法円坂町または森ノ宮中央? 2」(『国史大辞典 5 け-こほ』1985。大阪府立中之島図書館による。*ママ。現在は中央区。
(結論)まったくの謎ですが、古地名との類推から「天王寺区国分町」または「中央区森ノ宮中央」の2地点に絞られています。しかし、摂津職は、国司としての職務に加えて難波津・難波京(難波宮)の管理も行っていたところから、その官衙が難波津や難波宮から離れたところにあったとは考えにくいところから、 当会ではかいわいの内である「中央区森ノ宮中央」を有力候補地としています(下記参照)。
6)古代の摂津国に摂津職が置かれたのは、難波宮と難波津の重要性に着目したものであり、その職掌の中心は、難波宮の維持・管理とともに「津済(難波津の維持・管理)、上下公使(諸外国の使人の応接)、検校舟具(官船・私船の管理・調査)であった。当然こうした職務を担当する官衙は難波津の近傍に設けられていた(中尾芳治「古代の難波と難波津について」2010)。
(写真)「古代摂津職の所在地」(「古代はじめの古地理図」趙ほか(2014)の巻頭図版5に加筆。①天王寺区国分町 ②中央区森ノ宮中央
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ari0921 · 5 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)4月29日(月曜日)弐
    通巻第8232号
 バイデン政権の対中ハイテク禁輸は「ザル法」だった
  7ナノ半導体をSMICが自製していたとは!
*************************
 どうやって最先端半導体を調達したのか?
 華為技術(ファーウェイ)の新型スマホ「Pura 70」に7ナノのハイシリコン・チップが搭載されていることが判明した。
アップルとの競合市場でファーウェイのシェア回復が展望される。
米国のハイテク分析・調査企業「テクノインサイト」は、「Pura 70 の半導体はSMIC(中芯国際集成電路製造有限公司)が製造した『Kirin 9010』プロセッサだ」と特定した。
同社のハッチソン副社長は「ファーウェイは中国市場において、米国の制裁から完全に脱却した。しかし、世界市場では米国の制裁により依然として抑制されている」と述べた(「サウスチャイナ・モーニングポスト」、4月29日)。
2024年の展望として、ファーウェイは中国で5000万台以上の端末を出荷する。市場シェアは19%となり、2023年の12%から再びトップの座に戻る。
 エヌビディアの半導体、在庫市場から大量に中国へ流れていた
「エヌビディアの先端半導体を調達したのは中国科学院、山東省の人工知能研究所、湖北省の地震管理局、山東大学、西南大学、黒龍江省政府系のハイテク投資会社、国有の航空研究センター、宇宙科学センターなど」とロイター(2024年4月23否)が報じている。
 
中国のハイテク企業が蝟集する深センの電気街、通称「華強北」が闇市場のメッカ。なにしろ偽ブランドが溢れる北京の秀水市場とともに有名で、この「華強北」(地名)では、カメラ部品からドローンまで、さまざまな商品が売られ、最先端エヌビディアの半導体を扱っている。
これは深セン特区の同市内福田区にあり、秋葉原を模しての出発だった。いまでは秋葉原の30倍規模。世界中からのバイヤーで賑わい、24時間営業の店舗も多数ある。
 
たとえばエヌビディアの人工知能(AI)用最先端半導体「A100」が通常価格の2倍で売られている。
 
2023年にバイデン政権は中国、香港への「A100」、「H100」輸出を停止するようエヌビディアに命じた。そこで裏口から小口で輸出され、蓄積された闇市場が成立しているのも中国らしい。
やっぱりバイデン政権の対中ハイテク禁輸は「ザル法」だった。
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fukagawakaidan · 1 month
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「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。 安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。 「鳥山石燕 画図百鬼夜行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。 「佐賀町に堀田様の下屋敷があって、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太郎”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、「陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。 煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。 民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。 (吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ)  五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に 乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。 ( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下 永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、背中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収) のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。 湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。 アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。 『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。 一つ目あるいは、二つ目がついた傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪学入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた)  猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざむき、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。 このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三代化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭 鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、 「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なりとぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「列仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船 ◇ 河童(『耳袋』) 江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河童が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。 ◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館蔵 深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く 反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた ◇ 河童の伝説(『江戸深川情緒の研究』) 安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴り殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。  この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古い雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。 日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画にも多く描かれた。 一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。 男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。 ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。  轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広西、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらないが、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。 日本の轆轤首は���こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっているようである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」に「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを旅人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊離する魂ということ で説明ができるだろう。 轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐く入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。 松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。 「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。 ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を聞くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。 長野県東筑摩郡教育委員会による調査資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。 東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央公論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋 「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。 「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。 (曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり」 とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら湯を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。 【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下)  家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。 昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪のしわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・それは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延べ、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根 鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。 庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。 石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ちょうちん
四世鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう���人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。文政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪 談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね)  長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地でいわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつぶされるといわれている。 同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。 管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいないので、人に憑くことはないという。 (石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。 昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があったという。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。 しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。 寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。 新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。 島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。 (民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川端豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布団の上 江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。 石燕が引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火とは、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
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馬橋村鎮守 馬橋稲荷神社 鎌倉末期に創建し江戸時代後期天保3年(1831)に京都白川神祇伯家御役所より正一位足穂稲荷大明神の神号を拝受し白川家より勧遷したと伝わります 江戸中後期から江戸に稲荷が爆発的に増えますが、論文をいくつか見ていると吉田家から遅れをとる白川家が平田家と組み、また御師の仲介も含め庶民を取り込み熱心に稲荷勧請を進めていたことが背景にあるようで、江戸後期の白川家はほとんどが稲荷の勧遷だったようです 官金が200疋だとの正一位稲荷大明神、300疋以上だと正一位○○稲荷大明神と固有の地名や人物が入ったカスタム神号を受け勧遷できたようです 100疋は現在の価値で10万円と言われるので、安くはないが高くはない設定です 一方稲荷といえば伏見稲荷や妻恋稲荷ですが江戸中期頃までは稲荷社からの勧請が多く稲荷勧請の独占権を主張してようですが、白川家が勧遷する稲荷は元は伏見稲荷より勧請されたこともあり白川家と吉田家が稲荷を含め諸神の勧請は両家しかできないと主張に呑まれる形でだんまりになった模様です と��いえ稲荷が爆発的に増えることによるメリットは大きかったようです 稲荷勧請の歴史の話になってしまいましたが、稲荷の神号に注目してみるのもまた神社巡りも面白くなるかも知れません #馬橋稲荷神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 馬橋稲荷神社(まばしいなりじんじゃ) 鎮座地:東京都杉並区阿佐谷南2-4-4 主祭神:宇迦之御魂神、大麻等能豆神、伊邪那美、弥都波能売神、菅原道真 社格:村社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #鳥居#神社仏閣 #パワースポット #杉並区 #鳥居 #東京三鳥居 #双竜鳥居 #龍神 #稲荷 #神道 #神社巡拝家 (馬橋稲荷神社) https://www.instagram.com/p/ClEZ8ZyvoB2/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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foucault · 9 months
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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neobakufu · 3 months
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ネオ幕府アキノリ党による100の政策
※内はアキノリ将軍未満による脚注。
🌾 文化・日本語
1. 『双京構想』京都を陪都に。
※ 上皇后両陛下に仙洞御所にお戻り頂く案などから上奏。
2. 文章の形式を国粋化。縦書き・漢数字を基礎に、時間や単位や数理や音楽も日本文化圏独特の書式を考案し漸次移行。
※ 漢数字に関しては画数が多く判読もしにくいため,西ローマ・アラビア数字くらい判読しやすく書きやすい数字用の文字を作ってフォントに組み込んだりを検討。
3. 日本語の電子媒体を刷新。
※ イーロン・マスク氏に会いに行ってXの東アジアの言語を全部縦書き漢数字(言語ごと)に直してもらう事を条件に,共栄圏での法人を作ってもいいと約束。ただし,その情報資産は共栄圏のものとし,資本の移動は認めない。 ※ 拡張かなを拡充し電子媒体に組み込む・体制化した際に方言の言語化も視野に。
4. 都内の外国籍労働者・親族等への日本語や法制に係る教育サービスの展開。
※ それぞれの民族に寄り添った親善団体と連携 ※ 裏で世界共栄化に関わる宣伝を行い、本国に情報輸出させる足がかりとする。😈
5. 都内の宗教共同体の実態把握・公的包摂・共生都市社会の推進。
※ 体制化までの中長期的に各宗教の日本化を試みる方針。
🌾 税制・社会保障・経済
6. 税制改革や都債発行を財源に,実質賃金の上昇率の安定向上(最低でも年3%水準)まで一律で都民税半額。
7. 都営ブロックチェーンの創設・ネオ幕府トークンの発行とサーバー維持管理。
※ 全国電子通貨を想定・通貨の名前は「球」読み方は本名が「たま」,「きう」が普及版。NAMが出典。 ※ いずれ日本円にとって代わる。😈 ※ 我々が全国化した折には武蔵国の地域トークンというか藩札を創設を想定。
8. 都債発行・時限的な商品券等の給付による地域経済振興。
9. 都民や都内に通学する学生への一律奨学金免除。
10. インボイス廃止を国政に提言・特に中小零細企業の事務処理負担を軽減。
11. 濫用的な投資や無軌道な開発,オーバーツーリズム等に因る地価や宿泊施設の価格高騰を抑制。
12. 外国企業等による国土の売買規制に係るモデル条例の策定。
13. 都内の特に大企業の法人税の納税率を向上・財源構成の平等化。固定資産税の累進化。
14. 社会保障費用の逆進性緩和・累進課税の推進。
🌾 教育・学術
15. 公営学生寮の確保・増大。
※ 国際法を典拠に一定の自治権を認める
16. 大学院まで教育全面無償化+困窮世帯向けに塾代含め支援検討。
17. 専門学校等の整理統合・総合大学との連携強化・学生や職員の有益な流動化を促進。
18. 図書館民営化の見直し。知識アクセス・公共教育インフラの維持。
19. PTAの有償化や情報共有・可視化の促進。
20. 教育委員会の体質改善・責任体制の明確化。
21. 都立高校の入試改革の見直し・効果的な外国語教育に転換/無益な学習負担の軽減化。
※ どうでもいいけどほんとに外語やるならマッチング実践とかだわ
22. カルト校則の全面廃止・学生の学ぶ権利や表現の自由を守る。
23. 入学しない大学への入学金支払義務の免除・ルール撤廃を東京から実践。
24. 部活動の地域化・民営化等による教員の負担軽減を都から実践。
🌾 交通・公共施設
25. 練馬─中野─杉並─世田谷区や足立─台東─江戸川区を縦断する都営線路の開拓。
26. 東京都-近隣の港湾に集中投資・世界一の港湾大都市圏を構築。
27. 満員電車の終局的な解消・時差通勤の促進(主に企業向け)や代替手段の公的導入検討。
28. 離島との往復費用の低廉化・人材や投資交流の活発化。
※ 将来伊豆諸島は伊豆の国に, 小笠原諸島以南は小笠原国にする。
29. 16歳未満(中学生)に対しての交通インフラ料金を子供料金にする・25歳以下に対してユース料金の公共交通機関・各商業施設での導入。
🌾 防災・戦時体制を想定した防衛
30. 全国のあらゆる自然災害に対し救援・復興の為の物資や人員輸送が可能な体制の整備。
31. 都内のあらゆる公共設備の耐震化推進。
※ 災害をある程度前提とする伝統的な都市デザインの可能性も検討。
32. 核戦争を想定した核シェルター建設・地下経済圏の構築促進。
33. 災害リスクを見据えた都民や隣接県民(都内の勤労者)向けに食料等備蓄・予備的分配。
34. 官公庁・民間企業に対するサイバー攻撃の防衛体制整備。
35. 東京都の空を米軍から取り戻す・首都圏の集団安全保障体制を見直し。
36. 近隣諸国の紛争や破局的災害を想定した都民の命と経済を守る有事法制・モデル条例の策定。
37. 安全保障や軍需産業分野の研究開発支援・学界に蔓延る偏見の改善。
🌾 恋愛・婚姻等の共生生活・性的少数者支援
※ 現在はヘテロが社会の主体である事を公共に認め(右翼を安心させ), その余裕の下に性的少数者への配慮を行う政治指針を宣言化。
38. パートナーシップや相続法制等に係る性的少数者の権利保障モデル条例の策定。
※ パートナーシップに日本語の造語を与えることを目的に研究会を行う、反動保守国学者や左派リベラルの論客もネオ幕府体制の責任もとで幅広く招聘したい。
39. 専門家や当事者の意見を参考に高齢者向けの公的恋愛支援事業を実験的に開設。
40. 既存の公営マッチングアプリ・ブライダル支援等政策の見直しと再構築。
41. ユース(18-25歳を想定)以下に対してのマッチングアプリ補助制度。
🌾 医療・福祉・地域協同・家庭問題
42. 視力矯正器具や歯列矯正等への保険適用・車椅子や補聴器の価格低廉化。ゆくゆくは無償化。
※ 歯を生やせるようになればすぐ保険適用を検討
43. ひきこもり老人を訪問し地域を協同化・社会的包摂を目指す・若年層のアルバイトで高齢者を訪問しスマホ教室とネット普及・生活状況の実態調査。
44. 民間に甘んじた無料塾・こども食堂等の公営化。
※ 都から職員を派遣して実態調査し一定の基準で認可を行い、その場で謝礼。 ※ その後恒久的に経済支援, 半官半民でネットワークをくみ人的支援を拡大 ※ 定期的に児童虐待や裏社会の斡旋等の有無を潜入調査。😈
45. 実態調査のうえ, 都心や下町に関わらず包括的な訪問診療・介護サービス等を拡充。
46. 学校や社内研修に基礎的な救急救命の教育カリキュラムを導入・相互扶助の日本を再建。
47. 地域交流や文化活動を活性化すべく公立小中学校等の空きスペース活用促進。
48. 既にある公園に遊具を拡充・児童の自由と安全を保障。遊閑地の利活用推進。
※ クレーム処理等は我々ネオ幕府が請け負う。
49. 生活保護の取得要件緩和と生活再建・出口支援。給付付き税額控除の試験的導入。
50. 公共施設から迅速・全面・包括的にバリアフリーデザインを実装。
51. 乞食(路上生活者・野宿者・炎上するだろうがこの言葉を使う,いささかの差別的感情を含まない)の住宅支援事業における不合理待遇(いわゆる「タコ部屋」等)の撤廃。
52. 「禁煙」でなく「分煙」。公共喫煙所の増設と依存症支援拡充。
53. 「帰宅困難家庭」の児童のシェルター確保・拡充。
54. 親の孤立防止。財政的支援やシッター利用・保育所等インフラの拡充。
55. 麻酔科医の待遇改善・拡充による無痛分娩・不妊治療等の普及・無償化を都から実践。
56. ヤングケアラーの実態調査・迅速な支援拡充。
57. 一定期間の債務等支払義務の凍結や世間からの隔絶を許容する「隠遁」制度の試験的導入による自殺予防。
58. 共同親権制度移行後の離婚親や子の権利保証に向けたモデル条例案の策定。
59. 犯罪被害者や遺族の情報秘匿や生活再建支援事業の拡充を都から実践。
🌾 環境・公共衛生・都市デザイン
60. 『江戸東京オシャレ特区』構想・ドレスコードの厳格なサービス業種の方でも自分らしい服装等の表現を保障。
61. 炭素繊維等による東京湾浄化・老若男女が利用可能な東京湾に。
※ 一〇年単位の長期計画で研究会に予算をつけて水質浄化に関わる各方面の専門家と企業に助成を。
62. タクシーや通勤通学バスや訪問介護車両や都内を往来する長距離トラック等に向けた電気自動車等の導入支援。
63. 道路にゴミ箱を増設し収集作業も増員・雇用創出。
※ 『乞食』の方々向けに最低でも3日に1度は湯船に疲れる水準の支援体制を迅速に構築。
64. 都内の樹林伐採ストップ・地域経済や文化に無益な再開発の見直し。国土を守る。
65. 引越しや住宅確保等に係る費用分担による近隣県への移住サポート。
※ 漸次地方都市にも移住サポートしたい・全国化したときに地域を蘇らせる。
66. 主に大企業の都外への本社機能移転・人口とリスク分散を段階的に進める。
67. 排除アート・「座らせないベンチ」の全面撤去。小憩できる都市デザインの再建。
68. ユース(12-25最程度を想定)以下に対して公営美術館・芸術施設の入場料無料化。
69. 路上表現・アーティスト等に向けた道路使用許可申請等手続きの簡素化・拡充
70. 官民連携で路上ライブ・イベント等を充実させ,『解放区』の乱立。
🌾 動植物
71. 動物殺処分0の次は都から始める愛玩動物の生体販売全面禁止。
※ ペットショップの店員かわいそうだから動物病院とか生物学研究所に転職もさせてあげて。そのために予算つけよう。 ※ 日本固有種の生物種は緩和したさがある,というかその系統を維持するための研究会や国家機関創設を提唱したい。
72. 特定外来種や有毒の微生物等の実態調査・飼育手段の包括的なデータベースを策定し公開。
73. 生物学系の人材活用・医療分野との連携を強化。
74. 孤立対策に動植物との共生を促進・AI利活用で安全・安定的な飼育体制を提供。
🌾 宇宙開発
75. 軌道エレベーターや公共/民間通信衛星等を想定した宇宙産業への公共投資。
※ 東京から日本〜東南アジアをまたぐ測天衛星網(GPS)を提唱
76. 核融合発電技術への積極的公共投資。
※ 戦時を想定した燃料備蓄
🌾 食糧自給・安全保障
77. 家庭菜園や地域農産・地産地消の促進。
78. 種苗法改正の見直し・食文化の保全。
※ 戦時を想定した食料備蓄
79. 酒税法の見直し・どぶろく文化を再興。
80. 生レバーやユッケ等の規制緩和。
81. 依存症対策や飲酒強制の予防規制を条件に, 飲酒解禁を18歳に引き下げ。
🌾 労働市場制度
82. 新卒一括採用の見直し・企業や経済団体等への協力要請。
83. 官公庁や民間企業の採用基準にポスドク枠拡充。
84. 生涯学習・リカレント教育普及に向けた労働市場改革。職業訓練給付や実施企業への支援等の拡充。
85. 様々な産業分野の企業に対して有給や育休利用の促進。
🌾 汚職・職権乱用の防止
86. 地方議会における縁故的な役職(選管等)の選定過程・給与等の見直し・再編と代替的職務の用意。
87. 刑事収容施設や入管施設内での侮辱や虐待や差別的待遇の実態調査・迅速な改善。
88. 市民オンブズマン制度の創設・拡充による第三者目線の地方議会の監査強化。
89. NPO法人設立や生活保護申請・政治団体含む会計監査の厳格化・責任体制の明確化。
🌾 表現・報道の自由
90. 小池都知事が実施していた様な一部のマスコミやジャーナリスト等の排除に反対・報道と表現の自由を守る。
91. 『表現の自由』の前提として,エンタメ・出版・コンテンツ業界に投資拡充・且つアーティストの食い扶持と表現の場を守り,層の厚さを維持。
92. NHKの過剰な集金を規制・困窮世帯の債務免除・公共の利益となる基礎的なコンテンツは保障するが国民の無償・平等な『知る権利』に配慮。
🌾 スポーツ
93. 『マイナースポーツに光を』・Eスポーツ含む多様な体育会系コンテンツにも積極的に投資。
94. 身体に障害を有する方々が主役であるパラスポーツ分野に投資拡充・宣伝を強化。
🌾 その他
95. 小池都知事の財政調整基金の使途・費用対効果について徹底的に監査。
96. 小池都知事や森本首相も関わる東京オリンピックに関する利権構造や裏金・役員の不審死・作業員の過労死等の真実究明。
97. コロナ禍におけるエンタメ産業や一部の飲食業界・性産業等への差別的待遇の見直し・適切で平等な補償体制の確約。
98. コロナ禍における緊急事態宣言の手続的正当性・費用対効果を徹底再調査。
99. お気持ちベースの『自粛要請』では無く必要な法整備・責任体制を明確化。
100. 多様な業種の方々に配慮し投票所を26時まで開放・且つ開��日を平日にスライドし行政コストを軽減。
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tokyowalking · 7 months
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Ariake Garden
Directly connected to Ariake Station in Koto Ward, Tokyo
Approximately 200 shops and restaurants
It also has a variety of facilities such as a theater, spa, and theater dedicated to the Shiki Theater Company, so it can be enjoyed by a wide range of generations.
有明ガーデン
東京都江東区の有明駅直結した
約200店舗ほどのショップやレストラン
そしてシアター、スパ、劇団四季専用劇場など、様々な施設が揃い、幅広い世代が楽しめます。
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to-shika · 7 months
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東京鹿踊ライブ「風とう鹿」 本日(2/十)より予約開始!
【本日より、チケット発売開始!】 とうシカとうとう十年をむかえまして 〜東京鹿踊ワンマンライブ@座・高円寺 開催
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郷土芸能を伝える舞川地区の出身者らと、郷土芸能の可能性を世に問う有志と共に結成した、(略称・トウシカ)。 東京の地で活動を始め、『風 とう 鹿』と題した宴を開催します。
「東京鹿踊ライブ 風とう鹿」 座・高円寺 春休み 音楽企画 出演:東京鹿踊
ゲスト:   3月23日:桑島法子さん 3月24日:行山流都鳥鹿踊 期間 2024年03月23日(土)~03月24日(日) 会場 座・高円寺1
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チケット予約 座・高円寺HPより →https://za-koenji.jp/detail/index.php?id=3107
――詳細―― 3月23日(土) その一 鹿踊+朗読劇『風とう鹿』 “シシオドリ” の誕生を朗読とともに ▶︎行山流舞川鹿子躍秘伝書『勘太郎之巻』より  ▶︎宮沢賢治『鹿踊りのはじまり』より ▶︎朗読 桑島法子さん(声優・岩手県出身) 鹿踊の誕生の由来は諸説あります。 今回は岩手県出身の声優で、トーシカの初期の頃から観ていただいている桑島法子さんを迎え、東京鹿踊のルーツである行山流舞川鹿子躍に伝わる秘伝書『勘太郎之巻』と、宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』の芝居仕立ての朗読+東京鹿踊で、鹿踊の誕生に想いを馳せてみてください。本場の岩手弁からなるリズムと躍動する鹿の踊り、お楽しみください。
3月24日(日) その二 鹿踊演舞『問う鹿乱舞』 装束から動きまで 深く分け入る鹿踊×体験ワークショップ ▶︎鹿踊比較演舞   東京鹿踊+行山流都鳥鹿踊(ゲスト鹿踊・岩手県奥州市胆沢) ▶︎23日の劇中で登場した鹿踊りを間近で体感!  鹿と躍ろう、鹿になろう! 鹿踊りワークショップ 鹿の角をつけた鹿頭をかぶり、背中に長い“モノ”を背負い、太鼓を叩きながら歌い踊る「太鼓踊系鹿踊」。
岩手・宮城には今も約50の鹿踊りが伝わっています。 東京鹿踊にも、
●行山流舞川鹿子躍(岩手県一関市)  ●行山流水戸辺鹿子躍(宮城県南三陸町) ●仰山流前田鹿踊り(岩手県大船渡市)
出身者がメンバーになっています。
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●行山流舞川鹿子躍
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●行山流水戸辺鹿子躍
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●仰山流前田鹿踊り
見た目は似ているけど・・・?な、太鼓踊系鹿踊の多様さを、岩手県奥州市胆沢に伝わる行山流都鳥鹿踊の皆さんをゲストに迎え、土地土地で異なる鹿踊に深く分け入ります。東京鹿踊との比較演舞や、装束や動き、演奏などの特徴を解説、舞台上で実際に体験いただきます(事前申込制)
【体験申込】 座・高円寺HP  → https://za-koenji.jp/detail/index.php?id=3107
東京鹿踊が、自身のありようから模索してきた郷土芸能の可能性、その十年が形づくる『風とう鹿』、どうぞご期待ください。
スペシャルゲスト: ○桑島法子さん(岩手県出身)  KUWASHIMA HOUKO
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12月12日生まれ。岩手県出身。 青二プロダクション所属。 デビューしてまもなく大ヒットアニメ『機動戦艦ナデシコ』のヒロイン、ミスマル・ユリカ役に抜擢される。以降、『犬夜叉』の珊瑚役をはじめ、『機動戦士ガンダムSEED』のナタル・バジルール役、フレイ・アルスター役、『ハートキャッチプリキュア!』の明堂院いつき:キュアサンシャイン役、『宇宙戦艦ヤマト2199』森雪役 、『鬼滅の刃』炭治郎(主人公)の母役など、人気作品のキャラクターを数多く演じています。番組ナレーターとしても活躍中。
2001年から宮沢賢治作品を朗読する“朗読夜”をライフワークとして続けており、これらの活動が評価され、2009年に花巻市主催「第19回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞」で、イーハトーブ賞奨励賞を受賞しました。第73回全国植樹祭いわて2023にて「虔十公園林」を朗読。2010年からは、岩手県の希望郷いわて文化大使を務めています。
○行山流都鳥鹿踊保存会(岩手県奥州市胆沢)  GYOZANRYU TODORI SHISHI-ODORI
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岩手県奥州市胆沢に伝わります。「鹿のハツ連れ」といい、親鹿(仲立)、女鹿、両側に雄鹿が6人、計8人で踊ります。装束の幕には「九曜」・春日並びに日月の四季を略した「十二揩子」、36の神々を象徴した「チドリ」を染め、腰には3mもある「ササラ」を挿し、「大太鼓」を付ける。鹿の情操や生態を舞踊化したものとされ、ササラ竹 が踊るにつれてもつれ、からむ様は、咲き乱れる秋の七草とすすきの波を乗り越え、戯れ遊ぶ鹿を想起させます。 行山流舞川鹿子躍と同じ「行山流」ですが、違いや共通点を探してみてください。
東京鹿踊  -TOKYO SHISHI-ODORI-
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2013 年6 月、行山流舞川鹿子躍(ぎょうざんりゅうまいかわししおどり)が伝わる岩手県一関市舞川地区出身者が呼びかけ人となり、首都圏在住の鹿踊伝承者と郷土芸能の可能性を信じる有志で結成。「鹿踊」の演目を習い、実演する他、多国籍・多世代・多分野に対応したワークショップ、魅力発、郷土芸能を通じた地域との関わり方、未 来へ継ぎ方を思考するためのプロジェクトを企画しています。 2023年にとうとう10周年をむかえました。 https://to-shika.tumblr.com/
出演者:東京鹿踊 小岩秀太郎、松坂史、古谷加奈 (以上出身:岩手県一関市・行山流舞川鹿子躍) 山田雅也(出身:群馬県) 西田昌代(出身:東京都 江戸祭囃子 獅子舞) 小野寺翔(出身:宮城県南三陸町・行山流水戸辺鹿子躍) 山下明恵(出身:兵庫県) 塩原那奈(出身:長野県) 鈴木康正(出身:岩手県大船渡市・仰山流前田鹿踊り)
主催:NPO法人劇場創造ネットワーク/座・高円寺 後援:杉並区、公益社団法人全日本郷土芸能協会 企画:東京鹿踊 協 力:株式会社青ニプロダクション、機糸横糸合同会社
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kennak · 9 days
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遺棄化学兵器問題(いきかがくへいきもんだい)とは、他国領域に遺棄されたとされる化学兵器(毒ガス)の処理に関する国際問題である。化学兵器禁止条約の成立により、同意なく他国領域に遺棄した化学兵器の処理が、遺棄国に義務付けられている。同条約に該当する遺棄化学兵器として、中国に存在する旧日本軍の化学兵器、イタリア及びパナマに存在するものが申告されている。遺棄の事実や処理事業の運営を巡って問題となっているものがある。 目次 概要 編集 第一次世界大戦で大々的に使用された化学兵器は、1925年のジュネーヴ議定書で使用が禁止されたが、研究や製造までは禁止されていなかった。そのため、以後も各国の軍が化学兵器を保有し、使用こそ限定的であったものの世界中で実戦配備されていた。一部は占領地などの他国領域にも持ちこまれ、部隊の撤収後そのまま現地に残されてしまう例も生じた。不十分な管理状態で放置された化学兵器は、容器の腐食などで化学剤が漏れ出して住民に健康被害をもたらす危険があった。通常の弾薬に比べて廃棄処理に特別な技術などを要する難点もあった。 1980年代に化学兵器の保有や開発まで禁ずる化学兵器禁止条約(CWC)の交渉がジュネーヴ軍縮会議で始まると、こうした遺棄化学兵器の処理についても議題として取り上げられた。1987年に中国の代表がジュネーヴ軍縮会議で、遺棄化学兵器の遺棄国の責任について初めて言及した[1][2]。日中間の2国間交渉・共同調査なども並行して行われながら、1992年に遺棄国の責任が盛り込まれた条約草案が採択され、翌年に各国により署名された。 1997年に発効した化学兵器禁止条約は、1925年1月1日以降に他国の領域に同意なく遺棄された化学兵器(老朽化して使用不能となったものを含む)について「遺棄化学兵器」と定め(2条6項)、現存地の管理国だけでなく、遺棄を行った国にもその廃棄を義務付けている(1条2項、3項)。処理ルールは検証付属書第4部(B)が規定しており、遺棄を行った国が全ての必要な資金や技術などを提供し、遺棄された国は遺棄化学兵器の廃棄に協力する。遺棄化学兵器が存在する場合には、締約国は速やかに化学兵器禁止機関(OPCW)に申告すべきとされている。原則として発効から10年以内の廃棄処理が求められる。 2009年までに中国・パナマ・イタリアに存在するものについて遺棄化学兵器として申告がされている。ほかにヨーロッパ各地では第一次世界大戦中に6600万発(化学剤12万4千トン)の化学兵器が実戦使用され、不発弾などが各地に残存しているが、こちらは1924年以前に「遺棄」が発生しているため、当該領域の管理国がそれぞれ処理することになる。また、公式な申告には至っていないが、エチオピアは、第二次エチオピア戦争などでイタリア軍が使用・遺棄した化学兵器が存在する可能性があると主張している[3]。 申告済みの遺棄化学兵器の処理については、パナマのものに関して、遺棄をしたとされるアメリカが処理を拒んでいる。また、中国のものについても、日本政府は中国政府と協力して処理事業を進めているが、条約上の遺棄化学兵器には当たらないのではないかとの指摘や、巨額の費用を要する事業の方式についての批判が日本国内に存在している(詳細後述)。 中国における遺棄化学兵器問題 編集 旧日本軍化学兵器の存在状況 編集 中国には第二次世界大戦期に日本軍が保有していた化学兵器が残存しており、これらが日本軍の遺棄に由来するものであるとされ問題となっている。第二次世界大戦期の旧日本軍は、中国に関東軍化学部(通称号:満州第516部隊)や特種自動車第1連隊などの化学戦部隊を駐留させており、各種の化学兵器を満州を中心とした地域に集積していた。終戦までに生産された化学兵器の総量は、「きい剤」と呼ばれたマスタードガスやルイサイトなどのびらん剤砲弾約63万発、「あか剤」と呼ばれたジフェニルシアノアルシンなどのくしゃみ剤砲弾約125万発、同発煙筒266万個、そのほか「みどり剤」と呼ばれた催涙剤のクロロアセトフェノン(CNガス)などがある。一部は訓練や日中戦争の実戦で消費されたものの、大部分は使用されないまま終戦を迎えた。終戦時点で中国を含む日本国外に存在した化学兵器の量は、びらん剤砲弾2万-12万発・くしゃみ剤砲弾72万-88万発・同発煙筒125万個などと推定されている[4]。 吉林省敦化市にあるハルバ嶺地区には、日本側推定30万-40万発の日本軍の化学砲弾などが埋設されている。ハルバ嶺地区には、各地に遺棄されていたという化学兵器が、1950年代-1960年代に中国軍によって集められ、2箇所に埋設されて現在に至っている。当初は67万4千発と推定されていたが、その後の調査で推定量が下方修正された[5]。他方、中国側は200万発が存在すると主張しているが、日本側研究者は過大であると評価している[6]。いずれにしてもハルバ嶺は中国国内で最大の埋設量がある地点と見られている。このほか、北は黒竜江省から南は広東省に至るまでの中国各地にも旧日本軍の化学兵器は残存しており、2012年9月までに約4万8千発が回収されている[7]。中国側はハルバ嶺以外の大量存在地として、吉林省梅河口市にも黒竜江省尚志市から移送したびらん剤弾20万発が存在すると主張しているが、やはり日本側は過大な数字であると推測している[8]。以上の砲弾などに含有される化学剤の総量は比較的少量で、化学砲弾等の総数が約70万発であると予想していた時点でも、約500トンと推定されていた[9]。 現存する旧日本軍の化学兵器には、既述のように「きい剤」(びらん剤)・「あか剤」(くしゃみ剤)・「みどり剤」(催涙剤)ほかが含まれている。ヒ素を含む化学剤があるため、処理に特別な配慮が必要とされる。形態には化学砲弾のほか、発煙筒式のものや保管用のドラム缶入りのものなどがある。「きい剤」または「あか剤」の化学砲弾が多くを占めると推定されてい���[5]。 残存する旧日本軍化学兵器による事故も発生している。2003年8月4日にはチチハルの工事現場において地中で発見されたドラム缶から旧日本軍の化学剤が流出して1人が死亡、43人が負傷した。日中政府間協議の結果、3億円の解決金が遺棄化学兵器処理事業費の一部として支払われた[10]。 (参考)旧日本軍が保有していた化学兵器 種類 日本軍名称 化学物質 びらん剤 きい剤 マスタードガス、ルイサイト 窒息剤 あお剤 ホスゲン 血液剤 ちゃ剤 シアン化水素 くしゃみ剤(嘔吐剤) あか剤 ジフェニルシアノアルシン、ジフェニルクロロアルシン 催涙剤 みどり剤 クロロアセトフェノン 発煙剤 しろ剤(あお剤と混合して使用) トリクロロアルシン [11][12] 交渉及び処理の経過 編集 1987年に中国から遺棄国の責任について発言があった後、1990年に中国から日本に対して非公式な旧日本軍化学兵器処理についての打診があった。翌年から日中の局長級協議が始まり、日本の外務省から現地へ第1回調査団が送られた。1992年に中国から公式に日本の責任を問う声明が発表された。CWC発効が迫った1996年から日中協議が本格化し、1997年8月に第2次橋本内閣で閣議了解された「遺棄化学兵器問題に関する取組体制について」に基づき、内閣官房に遺棄化学兵器処理対策室が設置(後に内閣府には遺棄化学兵器処理担当室が設置)された。そして、1999年7月に第1次小渕改造内閣下で「日本国政府及び中華人民共和国政府による中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」が署名され、翌年から実際の処理作業が開始された[1][2]。 処理事業は、ハルバ嶺とそれ以外の小規模事業に分けて行われている。ハルバ嶺については、当初の計画では現地に燃焼式の無害化プラントを設置し、作業工程を遠隔操作ロボット中心にするなどとされていたが、2008年度試掘調査(2008年12月-2009年1月)の結果、地中障害物の多さなどから機械作業は困難との判定がされた。そこで手作業での発掘要領の策定などを進めることとしており、2009年度にはより精密な試掘調査が実施されている[13]。処理設備は、2012年2月時点で後述の移動式処理設備と同じ制御爆破式の試験装置が完成して現地への設置準備中のほか、加熱爆破式の試験装置をスウェーデンで製造している[14]。なお、産経新聞は2009年1月にハルバ嶺事業が凍結されたと報じたが[15]、上記のように試掘が進むなど事業は継続されている。 小規模事業については、手作業を中心に発掘と回収が行われ、梱包のうえ中国各地の保管施設に集積して、その後に処理を行う計画である。すでに旧軍関係者などからの聞き取りや文献調査により遺棄化学兵器の捜索が行われており、約3万6千発が回収された南京市周辺のほか、各地においても発掘回収されている[5]。小規模事業対象の埋設地・総量の把握は困難だが、2012年9月までの外務省調査と内閣主導作業の成果を合わせて40か所以上から約4万8千発が回収され、中国国内の保管施設に置かれている[7]。廃棄処理には、トレーラーで中国各地を移動可能な移動式処理設備の使用が、2007年の安倍晋三首相と温家宝首相の会談で合意された[16]。1基目の移動式処理設備は南京で2010年10月に運用開始され、2012年1月時点で南京所在の約3万6千発の化学兵器のうち99.78%まで処理が進み、残された作業難度の高い化学砲弾の処理も同年前半には完了する方針である[17]。南京での事業完了後は、武漢市へ移設して作業、さらに広州市を候補に準備中の第3処理場へ移動する。北部向けの2基目は、石家荘市で2012年半ばの運用開始が予定されており、同地での事業完了後はハルビン市へ移設される計画である[17]。 CWCが発効した1997年から10年以内の処理を目指して作業が行われたが、期限内の完了は困難となったため、2006年にOPCW執行理事会において2012年4月までの処理期限延長が承認された[1]。延長後の期限内でも処理が終わらなかったことを受け、2012年のOPCW執行理事会で、判明済みの小規模事業対象については2016年中の処理完了、ハルバ嶺事業については当面2022年中の処理完了を目標として最善を尽くすべきとの決定がされた[18]。 遺棄の事実についての論争 編集 中国に残る埋没化学兵器は日本軍によって遺棄されたのではなく、終戦時の武装解除に伴い中国軍やソ連軍に引き渡され、その後に中国側によって埋没されたものではないかとの指摘がある。これについて日本政府は、旧日本軍の化学兵器であると判明したものについては、中国側が残置に同意していた明確な根拠がない限り、条約上の処理義務を負うものとの政府参考人による国会答弁を行っている[19]。2005年時点では、手投式催涙弾の引渡記録が発見された例はあるものの、そのほかの明確な根拠史料はないとしている[20]。その後、中国本土とは日本側の指揮系統が異なる台湾での化学兵器引渡に関しては、「あか剤」「みどり剤」の発煙筒を第10方面軍隷下の日本陸軍部隊が中国国民党軍に引き継ぎした際の記録が確認された[21]。しかし、中国本土に関しては、シベリア史料館(山形県)所蔵の文献調査などが進められているものの、史料の1/3の分析が終わった段階では化学兵器の引渡記録は全く発見されていない[22]。 また、日本軍の保有していた化学兵器以外に、中国製やソ連製の化学兵器も含まれているのではないかとの指摘もある。日本政府によれば、発掘後に仕分けを行って旧日本軍の化学兵器と確認されたもののみを処理事業対象として回収しているという[23]。広東省広州市黄埔区で2006年11月-2007年2月に行われた発掘作業では461発の砲弾が発見されたうち、旧日本軍の化学兵器と確認できた砲弾など73発と不明のもの24発が事業対象として回収され、残りは中国側に引き渡された[24]。ハルバ嶺での2008年度試掘調査では、661発の砲弾が発掘されたうち641発が化学砲弾だった[25]。 処理事業の運営に関する批判 編集 遺棄化学兵器処理事業には、1999年度から2007年度までで総額540億円が投じられている。その支出内容が不透明で、不要な施設整備に用いられたりするおそれがあると批判されてきた。これに対して、日本政府は、ヘリポートや変電所の整備は処理事業に必要な範囲で、支出は適切に行われているなどと反論している[26]。その後、大規模な施設整備が予定されたハルバ嶺事業については、前述のように調査を踏まえてロボット式の処理設備から手作業へ方針が変更された。日本政府は、一般競争入札による透明化を図るとしている[27]。 また、処理事業に絡んで商社会社から社団法人幹部に裏金が流れたことで脱税で立件された山田洋行事件や政府に人件費の水増し請求をしてコンサルタント会社幹部が詐欺で立件されたPCI事件が発覚し、有罪判決が確定している。また、与党幹部が処理事業に絡んで口利き介入をしたり、朝鮮総連本部ビル売却問題で有罪判決を受けた緒方重威が処理事業に参入する意向があったことも報じられている。 パナマにおける遺棄化学兵器問題 編集 パナマのパール諸島サンホセ島(en)には、かつて駐留していたアメリカ軍が保有していたとみられる化学兵器が残存している。同島は第二次世界大戦中からアメリカ軍を中心に、イギリス軍及びカナダ軍も使用する化学兵器実験場であった。パナマ政府はこれらの化学兵器が遺棄化学兵器であるとして、アメリカ政府に対して化学兵器の処理と汚染に対する補償を求めた。これに対してアメリカ政府は運河地帯返還に関するトリホス・カーター条約で解決済みであるとの立場をとり、2004年にドナルド・ラムズフェルド国防長官(当時)が同旨の説明を行っている[28]。 なお、パナマとアメリカの間では、化学兵器以外にも、アメリカ軍の演習場跡地に残存する通常弾薬の不発弾処理が問題となっている。 イタリアにおける遺棄化学兵器問題 編集 イタリアにも、外国軍により遺棄された化学兵器が存在している。イタリア本土には第二次世界大戦中にドイツ国防軍やアメリカ軍など枢軸国・連合国双方の軍が展開しており、アメリカ軍が持ち込んだマスタードガスが流出するジョン・ハーヴェイ号事件も起きていた。イタリア政府は、遺棄を行った国の特定は行わず、独自に処理を進めている[29]。 脚注 編集 [脚注の使い方] ^ a b c 内閣府遺棄化学兵器処理担当室「中国における遺棄化学兵器問題について」(リンク切れ) ^ a b 内閣府遺棄化学兵器処理担当室 「遺棄化学兵器処理事業の経緯」(2010年8月25日閲覧) ^ Ministry of Trade and Industry of Ethiopia : Chemical Industries Support and Chemical Convention Implementing Department (2011年10月2日閲覧) ^ 常石(2003年)、180頁。 ^ a b c 内閣府遺棄化学兵器処理担当室「中国における遺棄化学兵器処理事業」(リンク切れ) ^ 常石(2003年)、246頁。 ^ a b 内閣府大臣官房遺棄化学兵器処理担当室 「各事業別―これまでの遺棄化学兵器発掘・回収事業状況(ハルバ嶺を除く中国各地域の発掘・回収事業等)」(2013年1月7日) ^ 常石(2003年)、247頁。 ^ 荒廃した生活環境の先端技術による回復研究連絡委員会(2001年)、54頁。 ^ 外務省 「第2章 地域別に見た外交 日中関係」『平成16年版外交青書』 時事画報社、2004年。 ^ 内閣府大臣官房遺棄化学兵器処理担当室 遺棄化学兵器等 ^ 遺棄化学兵器の安全な廃棄技術に向けて 日本学術会議 平成13年7月23日 P40 ^ 内閣府大臣官房遺棄化学兵器処理担当室 「ハルバ嶺における試掘調査について」(2010年8月25日閲覧) ^ 遺棄化学兵器処理事業に関する有識者会議 「第9回議事概要(平成24年2月23日開催)」 内閣府遺棄化学兵器処理担当室(2013年1月7日閲覧) ^ 「遺棄化学兵器処理「ハルバ嶺」凍結 政府方針、事業費を大幅削減」 産経ニュース 2009年1月23日 ^ 内閣府大臣官房遺棄化学兵器処理担当室 「移動式処理事業について」(2013年1月7日) ^ a b 遺棄化学兵器処理事業に関する有識者会議 「第9回議事概要(平成24年2月23日開催)―会議資料」 内閣府遺棄化学兵器処理担当室(2013年1月7日閲覧) ^ 外務省 「中国における遺棄化学兵器の廃棄に関する化学兵器禁止機関執行理事会の決定」 2012年2月16日(2013年1月7日閲覧) ^ 第162回国会 参議院外交防衛委員会 2005年7月5日、政府参考人・西宮伸一の発言。 ^ 第162回国会 参議院外交防衛委員会 2005年7月5日、参議院議員山谷えり子及び政府参考人天野之弥の発言。 ^ 喜多由浩 「中国“遺棄化学兵器”問題 スクープ第4弾:政府が二年前に入手していた化学兵器引渡し文書」『正論』2006年9月号。 ^ 第166回国会 衆議院内閣委員会 2007年5月16日、内閣官房長官塩崎恭久発言。 ^ 前掲 第162回国会 参議院外交防衛委員会 2005年7月5日での山谷えり子及び政府参考人西宮伸一発言。 ^ 内閣府遺棄化学兵器処理担当室「中国広東省広州市黄埔区における遺棄化学兵器発掘・回収事業の終了について」、2007年。(リンク切れ) ^ 遺棄化学兵器処理事業に関する有識者会議 「第3回議事概要(平成21年6月2日開催)」 内閣府遺棄化学兵器処理担当室(2013年1月7日閲覧) ^ 内閣府遺棄化学兵器処理担当室「最近の一部の新聞報道について」、2006年。 ^ 遺棄化学兵器処理事業に関する有識者会議 「第1回議事概要(平成20年9月17日開催)」 内閣府遺棄化学兵器処理担当室(2013年1月7日閲覧) ^ 在パナマ日本国大使館「パナマ共和国政治情勢(2004年11月)」 ^ 荒廃した生活環境の先端技術による回復研究連絡委員会(2001年)、18頁。 参考文献 編集 荒廃した生活環境の先端技術による回復研究連絡委員会『遺棄化学兵器の安全な廃棄技術に向けて』日本学術会議、2001年。 常石敬一 『化学兵器犯罪』 講談社〈講談社現代新書〉、2003年。 Lindsay, John Chemical Weapons Tests in Panama and U.S. Responsibility, FOR USA(米国友和会), 1998. 関連項目 編集 大久野島 - 旧日本軍の化学兵器生産拠点だった島。 ジョンストン島 - アメリカ軍の化学兵器関連施設があった島。現在は立ち入り禁止。 大日本帝国の化学兵器 外部リンク 編集 内閣府大臣官房遺棄化学兵器処理担当室 - 日本の内閣府大臣官房の担当部署
遺棄化学兵器問題 - Wikipedia
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