#榛名改二
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戦艦大和、あるいは皇国のアイコン
呉の「大和ミュージアム」に行った。
3時間以上見学しながら、「日本はなぜ戦争したのかなあ」と改めて考えた。「蒋介石を必要以上に追いつめたことがアメリカの対日参戦を招いた」、この説明で納得しない人もいるだろうけれど、せめて満州だけでやめておけばその後の大惨禍はなかったろうと思う。では、どうして日本はそこまで蒋介石を追いつめることに熱心になってしまったのか。
むかし読みっぱなしにした本を改めてちゃんと読もうという気になり、呉に行く前日から、古川隆久『昭和天皇』(中公新書)を読み始めた。読み切れないまま呉に行き、帰宅してから残りを読んだ。そこには、盧溝橋事件を受けて近衛首相が派兵を決定したことについてこうある。
近衛首相は強い態度に出ることによって、事態を日本に有利なかたちですばやく解決できると判断したのである。そこには、明治維新の成功でうぬぼれた日本が陥った中国蔑視を背景として、第一次世界大戦の参戦や対華二十一カ条要求問題あたりから現れはじめた、機会便乗主義とでもいうべき軽薄な日本の外交体質があった。
(第4章 苦悩の「聖断」)
日本がアメリカと戦争をしたのは蒋介石を追いつめたからで、日本が蒋介石を追いつめたのは「うぬぼれ」だったのだとこの本は書いている。列強の国内で世界大戦をものともしないナショナリズムの嵐が吹き荒れていたのは当時日本に限った話ではなかったと思うけれど、ナショナリズムというのはつきつめて言えば「うぬぼれ」なのかもしれない。古川先生はこの本の別な箇所でこの「うぬぼれ」についてこう描いている。
日本は世界のどの国よりも昔から天皇が統治する国として安定して存続してきたとされたため、日本の人々に過剰に自国の卓越性を意識させてしまった結果、周辺地域の人々への蔑視が強まって不必要な対外的緊張を招いた。
(おわりに)
ここに書いてあることはおそらくふたつである。ひとつは、外圧が少なく内政も急変せず皇室が安泰でいられた日本の人々が「そらみつやまとのくにはすめがみのいつくしきくに」と思っていたことそれ自体は、日本が「秋津洲」の国にとどまっている限り、別に虚妄ではなかったということ、もうひとつは、ふつう「植民地政策」というときたとえば「三角貿易」みたいに何か経営戦略があるものだけれど、日本の場合中国はもとより満州も朝鮮も確たる経営戦略はなかったということである。「過剰な」自国意識が「不必要な」対外緊張を招いた。いやいや、帝国主義世界はそれが瓦解するまで緊張を生み続けたはずだ、という批判もあるけれど、少なくともいま引いた本で古川先生は、昭和天皇の徳治主義と協調外交それ自体が帝国主義の世界にあってそもそもたわごとに過ぎなかったのだ、という書き方はしていない。それは、あり得た道なのだ。
だがそうはならなかった。昭和の陸海軍と国内世論は昭和天皇の協調外交に応じなかった(「ことの発端は昭和天皇の推進したロンドン軍縮条約に海軍が反発したことに始まる」とこの本は書いている)。ナショナリズム、つきつめれば「うぬぼれ」。日本は「神州」あるいは「皇国」であるという「うぬぼれ」。国民国家���ナショナリズムがあるのは自然なことだろうとぼくはいまでも思うが、アメリカに対日参戦を決意させるほど蒋介石を追いつめたことはやっぱり非合理な行動で、それを支えた「うぬぼれ」はやはり常軌を逸していたとしか言いようがない。
昭和天皇自身はその「うぬぼれ」には与しなかった、と古川先生は書いている(異論もあろうけれど)。だが戦争が終わったとき、昭和天皇は「神州」の現人神、「皇国」の皇統として、その「うぬぼれ」の代償を背負うことになった。国民の中でも、昭和天皇を戦前から知っている人以外は、あえて「尊敬する」とは言わなかったという。木戸幸一は「皇室が戦争責任を取らないのは将来に禍根となる」と言ったそうだが、率直に言えば、ぼくも昭和天皇が在位し続けることに「割り切れぬ空気を感じる」という意見には共感してきた。
「大和ミュージアム」では、日本海軍の歴史・呉海軍工廠の歴史・戦艦「大和」の歴史・太平洋戦争の歴史・呉海軍工廠と戦艦「大和」を通して培われた技術の歴史が重層的に物語られている。そこでは多くの人々が何かを作り上げていった一方、戦争という現実の中で多くの人々が命を落としても行った。
そこに生きて死んだすべての人々がひとりひとり個人的に「うぬぼれ」に浮かれていたとはとても言えない。だが、少なくとも日清戦争の始まりから太平洋戦争の終わりまで日本を支配したものが「うぬぼれ」だったとしか言いようがないのであれば、そこで起こったすべてのことは、それぞれの人々の確かな歩みであったと同時に、「神州」あるいは「皇国」の「うぬぼれ」の体現でもあったと言わざるを得ない。少なくとも海軍と海軍工廠に生きた人々は、そういうダブルミーニングを背負うことになった。
そして、そこで生まれた戦艦「大和」こそ、そのダブルミーニングの産物として、「神州」あるいは「皇国」という「うぬぼれ」のアイコン(まさに「体現」)そのものにほかならない。それは、あの日本海海戦を制した日本海軍がその威信をかけて築き上げた技術の結晶であると同時に、物量にまさるアメリカ海軍を少数精鋭で制することができるという、残念ながら「うぬぼれ」に過ぎなかった思想の産物でもあった。
戦���中に身命を賭して追い求めていたものが戦後になって虚像だと気づく、それは「嘘」のせいなのか「欲」のせいなのか「狂気」のせいなのか、ひとはいろんなことを考える。先に引いた『昭和天皇』の中でも、古川先生は「なぜ国内世論が協調外交に応じなかったのか、その理由についてはまだ定説はない」と書いておられるが、先生自身が使っておられることばは、定説のないことをできるだけ術語を避けて記述しようとしたためだろうけれど、「うぬぼれ」というものだった。
「そうか、戦艦大和が体現したものは当時の日本人の『うぬぼれ』だったのか」というのは、衝撃的だけれど事実なのである。大和と武蔵、2隻だけで(いや、戦艦そのものは長門陸奥扶桑山城伊勢日向金剛榛名比叡霧島入れて12隻あったけれど)、太平洋を制することができると考えたのは「うぬぼれ」だったと言われたら、それはそうなのかもしれないと思う。
「大和ミュージアム」の中央に展示されている1/10「大和」には、その威容とは裏腹に、「うぬぼれ」という言葉をはね返すことのできないむなしさ、「世界一の戦艦がまともな海戦で自らの世界一を証明する機会を持たないままただ艦上攻撃機の餌食となって沈んでいった」というむなしさが、ただよっている。「戦争はいけない」「平和は尊い」というのは、兵器として作られた「大和」の全否定であると思う。国家には戦争をあえてしなければいけない日があるのだ。たとえば日本海海戦はむなしくはなかったのである。それは、日本海海戦は勝って太平洋戦争は負けたからだろうか。そういう理解もあると思うが、実は勝ち戦だった日清・日露戦争こそ、その後の日本にとって「うぬぼれ」を生む罠となったのである。
「うぬぼれ」。ここに生きて死んだ人たちのすべてをそのことばで片づけることにはものすごい抵抗があるけれど、でも「大和がうぬぼれでなければ何がうぬぼれだったんだ」とも思う。現にここに世界一の戦艦があったということを、そしてそれがいま「海の墓標」として東シナ海の海底に横たわっているということを、ぼくたちは正視するしかないのである。
敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか
(吉田満『戦艦大和の最期』より「作戦発動」、哨戒長臼淵大尉の言葉)
日本は「何から」目覚めるべきだったのか。「うぬぼれ」という言葉の仮借ない残酷さを、「大和ミュージアム」で見たすべてを思い出しながら、いま改めてかみしめる。
ものすごく情報量の多い博物館なので、今回は「大和ミュージアムNavi」というスマホアプリを使い、竹達彩奈さんのナレーションを聴きながらそこで紹介される資料を拾い見するという方法を取った。竹達彩奈さんの声がこの博物館のテーマにふさわしいのか、来る前には疑問もあったけれど、壮大なバッドエンドに至る全20章のナレーションを聴きながら、これがもし広瀬修子さんや森田美由紀さんみたいな声だったら、聴いていて気が滅入ってしまうだろうと思った。
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主題: 台灣自古不屬中國 rdrcntr:45976關鍵字: 台灣不屬中國
張貼時間: 2007-06-23 11:05:13 林茗顯ip: 220 .X.X.X/內容:台灣自古不屬中國
/林茗顯 編寫 2007/10/22、2015/03/09、2016/01/23 rvsd
雍正元年,憲皇帝即位,詔曰:「台灣自古不屬中國,我皇考神武(即康熙帝)遠屆,拓入版圖。... 」
--清•魏源:【聖武紀略】的【康熙重定台灣記】
自明朝以來,逋誅積寇,始克殄除。海外遐陬(指台灣),歷代未隸疆索,自茲初闢,悉入版圖。
--清•施琅:【靖海紀事】的【封侯制誥】
臣竊見此地,自天地開闢以來,未入版圖。
--清•施琅:【靖海紀事】的【壤地初闢疏】
台灣古無人知,明中葉乃知之。
--清•藍鼎元:【鹿洲文集】的【平台紀略總錄】
台地宋、元之前,並無人知。至明中葉,太監王三保舟下西洋,遭風至此,始知有此一地。
--清•藍鼎元:【鹿洲文集】的【覆制軍台疆經理書】
1679年(康熙18年)清朝向鄭經提出最後的和談條件:台灣本非中國版籍,足下父子自闢荊榛,且睠懷勝國,未嘗如吳三桂之僭妄。本朝亦何惜海外一彈丸地 。不聽田橫壯土逍遙其間乎。
--清•魏源:【聖武紀略】的【康熙戡定台灣記】
今三藩珍滅,中外一家。 豪傑識時,必不復思噓已灰之焰,毒瘡痍之民,若能保境息兵,則從此不必登岸,不必雉髮,不必易衣冠。稱臣入貢可也,不稱臣入貢亦可也,以台灣為箕子之朝鮮,為徐市之日本,於世無患,於人無爭,而沿海生靈,永息塗炭,惟足下圖之。」
--(平南將軍貝子賴答致鄭經之諭文)

根據《大清一統志》(乾隆版),台灣自古以來,就是「荒服之地,不通中國」、明朝天啟中(1621-27)為紅毛荷蘭夷人所據,屬於日本」。
(康熙22年(1683年)清國以施琅為將、率清軍二萬佔領澎湖島,鄭氏王朝投降。)
在1871年編纂的《重纂福建通志》,也持這種見解。清帝國第二代皇帝世宗,在1723年所頒發的詔書中,也說「台灣地方自古不屬中國,(清)皇考聖略神威,取入版圖」。
蒙古帝國與明朝曾短期間佔有澎湖,也都放棄了它;明朝對荷蘭佔領臺灣的行為沒有異議。
蒙古帝國在至元年間(元世祖1264-1294,或順帝1335-40)在澎湖置巡檢司,蒙古帝國在1367年敗亡。明朝在1372年(洪武五年)派遣部將湯信國進行海島攻略。可能在這一年占領澎湖島。湯信國以澎湖島民叛服無常,建議將他們遷往鄰近地區,於是,明朝便把澎湖所有住民強制移居中國大陸,並且廢止巡撿司,使澎湖成為廢墟,成為日本和明朝海盜的巢穴。
約在二世紀以後,1563年(明•嘉靖四十三年)改置巡檢司。但不久,這也被裁撤。到了明末,澎湖也變成海盜的巢窟了。蒙古帝國與明朝雖都曾短期間佔有澎湖,也都放棄了它。直到17世紀鄭氏「東都」時代為止,臺灣與澎湖不是地理上的統一体,也非政治上的統一体。支那各王朝都是具「中原」心態、不重視航海的陸權封建王國,蒙古帝國和明朝都先後攻佔澎湖而非台灣,都證實大清帝國所說的「台灣古無人知,明中葉乃知之」、「台灣地方自古不屬中國」的論斷。。
史書上有關「夷州」、「瑠求」、「流求」的記載是否指台灣或琉球(沖繩),法國、荷蘭、德國及日本等國學者著書論述,眾說紛紜,未有定論。越古早的史書的記載,有的近似神話,19世紀的論述判斷也矛盾的地方。不管各種論述是否正確,也只能證明古時有這些地名的傳說和記載而已,和「台灣自古屬誰」毫無關係。
16世紀航行到東方的葡萄牙人發現這島嶼,驚嘆說::Ilha Formosa--美麗的島嶼。 荷蘭在1622年(明,天啟二年)佔領澎湖。明朝對澎湖的統治消極,卻不容許他國占有,荷蘭因軍事上不利接受明朝要求,在1624退��澎湖,豋陸「台江」(今台南附近),佔領未入任何國家版圖的臺灣島。明朝對荷蘭佔領臺灣的行為沒有異議。
1630(?)年荷蘭人在「一鯤身」(現在的安平)建立熱蘭遮城(Zeelandia),在此設置臺灣政廳,派臺灣太守(Governor and Director of the State of Tayouan and Formosa)。1652(?)年現今的台南建立赤崁城(Provintia 或 Providentia),將政廳遷移到Provintia。
已佔菲律賓的西班牙人則佔領台灣北部,1626年西班牙人在雞籠(今基隆)社寮島(今和平島)構築聖薩爾瓦多城(San Salvador),在此設置臺灣長官官署,置於馬尼拉總督的管轄之下,但其統治範圍只限於東北部的極小區域。1629年在滬尾(今淡水)建立聖多明哥城(San Domingo)。1642年荷蘭人北征逐出西班牙人。
1871年(明治四年),琉球(Okinawa)漁民漂流到臺灣本島東南部,被當地住民所殺害。日本帝國政府乃向滿清政府抗議,要求其妥善處理,然而當時清朝的總理衙門答以「該地末服王化、末奉政令,謂之生番。中國置之度外,不甚為理」。等於主張臺灣本島一部分仍為無主之地。1874年(明治七年),日本出兵臺灣,滿清賠償日本。
在臺灣,自從步入1910年代中葉以後,臺灣人的抗日運動,就由武力鬥爭轉向政冶運動,其中一派,即開始與中華民國部分的政冶家和民間人士聯絡。當時中華民國的一些政治家對抗日運動表示同情,並且支援這些抗日運動者。但是,即使是這些人,也未必有取回臺灣的念頭,反而是希望 臺灣脫離日本帝國而獨立的。 例如,國民黨的幹部戴天仇,雖然在黃埔軍官學校的演講中提到「臺灣民族為我等中國之民族,臺灣之領土亦即中國之領土」,但卻主張 臺灣獨立。 蔣介石任國民政府軍事委員會委員長,實際上成為中華民國的最高權力者(制度上國家主席雖為林森,但林氏無權)之後,以及因918事變而成立滿州國後,始終都沒有與日本衝突的意思。
1935年(昭和十年、民國24年),日本的臺灣統治機關臺灣總督府,在臺北舉辦日本帝國的「臺灣始政40周年紀念會」時,國府派遣福建省主席陳儀為祝賀使節,陳儀 在祝賀大會席上的賀詞說: 「臺灣人在日本帝國的統治下,過著幸福的生活」。這豈只是承認日本的領有臺灣而已,甚至還讚頌其統治政策呢!
從1938年10月12日到14日之間,在中共黨擴大六中會中以「論新階段」為題的報告中,毛澤東說道:「為了讓日本之侵略戰爭失敗,必須中日二大民族之軍民大眾,以及 朝鮮、臺灣等被壓迫民族聯合起來,堅強地共同努力,建立共同的反侵略統一戰線。」在當時, 毛將臺灣人看成「臺灣民族」,想將他們編入打倒日本的戰線中。
--毛澤東《毛澤東救國言論集》,重慶,新華日報館,1939年,頁218-219。
不但《毛澤東選集》沒有提及,甚至連1941年以前的任何由中國共產黨所編之中國共產黨史中,都看不出中國共產黨主張將臺灣以「中國」領土而「取回」。1936年,在延安的中國共產黨主席毛澤東,曾對史諾(Edgar Snow)言及 中國共產黨支援朝鮮獨立,「同樣的立場適用於台灣」。此一發言,經過毛的校閱,記述在史諾的The Red Star over China中。
It is the immediate task of China to regain all our lost territories, not merely to defend our sovereignty below the Great Wall. This means that Manchuria must be regained. We do not, however, include Korea, formerly a Chinese colony, but when we have re-established the independence of the lost territories of China, and if the Koreans wish to break away from the chains of Japanese imperialism, we will extend them our enthusiastic help in their struggle for independence. The same thing applies for Formosa. As for Inner Mongolia, which is populated by both Chinese and Mongolians, we will struggle to drive Japan from there and help Inner Mongolia to establish an autonomous State.
(Source: Edgar Snow, Interview with Mao Tse-tung, quoted in "Red Star Over China", New York:Random House, 1948, pp.88-9)
我們立刻要做的是收回失土,而非僅僅保衛長城以南的主權。這意指滿州必須收回。這不包括曾是中國屬地的朝鮮,但是當我們中國失土恢復獨立時, 如果朝鮮人民希望掙脫日本帝國主義的鎖鏈,對其獨立鬥爭我們願意給予熱誠的幫助。同樣的立場適用於台灣。對於中國人和蒙古人居住的內蒙古,我們將奮力逐出日本並且幫助內蒙古建立自治邦。
毛澤東 在其1938年題名為《論新階段》的論文中, 將臺灣人列為「臺灣民族」。此後,在中國共產黨文獻中,言及臺灣約有:1939年末,毛澤東及其同志,在延安共同著作而題名為《中國革命與中國共產黨》的論文。此論文也是 將臺灣與朝鮮、緬甸等相提並論 ,只記載著這些自古以來就是中國的屬國並且是領土的一部分,都被日本等帝國主義大國所強奪而已,根木沒有提及臺灣要如何處理。於1928年,以做為 「日本共產黨臺灣民族支部」而結黨並接受 中國共產黨指導及援助的臺灣共產黨,由其 綱領為「臺灣民族的獨立」、「臺灣共和國的建設」一事來看,可以說 中國共產黨的臺灣政策,是朝著臺灣獨立的方向。這個政策至少到太平洋戰爭爆發之前並無變化。這一點,可從戰爭爆發那年, 「臺灣獨立先鋒社」在中國共產黨的支持下,於延安成立的事實中窺見一二。
1945年8月15日日本投降,9月2日在美艦密蘇里號上,在投降書上簽字。九月二日盟軍最高司令官麥克阿瑟發出「一般命令第一號」,進行分配占領區域。對蔣介石有以下的授權:日本國在中國(滿州除外)、臺灣、及北緯十六度以北、法屬中南 半島之前任指揮官,以及一切的陸上、海上、航空及補助部隊,必須向蔣介石統帥投降。
孫文主張「驅逐韃虜,恢復中華」
建立中華民國,被尊稱為「國父」的 孫中山主張「驅逐韃虜,恢復中華」,依據孫中山的說法,可以說 清國並不是中國。 1912年,中華民國成立時,台灣已經是屬於日本帝國的領土,並非中華民國成立時的領土, 當然不得主張是中華民國的「固有領土」至為顯明。 同樣的,1949年中華人民共和國成立時,台灣處於其統治之外,至今,台灣一直在中華人民共和國的主權之外,生存發展,所以 臺灣並非中華人民共和國的固有領土。
「中華民國憲法」領土不包括台灣
民初「臨時��法」第三條載明領土為「22行省,內外蒙、西藏、青海」, 不含台灣。 1931年「訓政時期約法」第一條載明領土為「各省及蒙古、西藏」, 亦不包括台灣。 1936年5月5日公布之五五憲草第四條原文「中華民國領土為江蘇、浙江、安徽、江西、湖北、湖南、四川、西康、河北、山東、山西、河南、陜西、甘肅、青海、福建、廣東、廣西、雲南、貴州、遼寧、吉林、黑龍江、熱河、察哈爾、綏遠、新疆、蒙古、西藏等固有之疆域,中華民國領土非經國民大會議決,不得變更」;< 滿洲(即東三省,上述之遼寧、吉林、黑龍江)與台灣同為日本殖民地,滿洲入憲成為中國領土而台灣沒有。
請參閱,
台灣在國際法上的地位
台灣的國家主權與定位
國、共長期倡導台灣獨立的史實(上)/蕭欣義著
國、共長期倡導台灣獨立的史實(中)/蕭欣義著
國、共長期倡導台灣獨立的史實(下)/蕭欣義著
台灣國家定位 確立台灣的國家主權──從事實上的國家到法理上的國家/黃昭堂(2007-12-06)
 確立台灣主權──台灣國家正常化/黃昭堂(2007-09-10)
 台獨理論的整合/黃昭堂(2007-08-07)
 台灣地位論述的環境因素/陳儀深
 台灣國家定位之發展與主張/林佳龍
 台灣法律地位獨立的法的依據/沈建德
 台灣(想)作為一個國家的基調/黃居正
 加速台灣國家正常化/陳隆志
認識台灣iFormosa
台灣大事記
台灣屬於台灣人民

台灣自古不屬中國。台灣不是中國的一部分。
如果說,台灣是中國的一部分;
是不是也可以說,中國、蒙古,同屬蒙古;中國是蒙古的一部分;
或者,中國、蒙古,同屬中國;
或者,歐洲、蒙古,同屬蒙古;
或者,歐洲、意大利,同屬意大利;
或者,台灣、日本,同屬日本;
或者,台灣、荷蘭,同屬荷蘭;
如果可以這樣 『回歸歷史』,全世界人類,只好回歸叢林野蠻、部落戰爭。
/林茗顯 編寫 2007/10/22、2015/03/09、2016/01/23 rvsd
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時間管理
H:今年2月4日同學來電聊及休退在家做何事,我則告之「在家看電視!」
有時好奇別人平常没事時,在家都做什麼休閒?得到的答案是「你没事,我們是忙不完的家事。」閒在心中,忙在外事。忙於家事,勤於公事,一天二十四小時,大家都會消耗殆盡。平安,平靜的過一天。不問收穫,不問做過那些?時間管理掌握在每個人手中。記錄時間是一種藝術,管理時間是一種心態。記多少,留多少。水過無痕,人過心安!時間管理常存心中,大事小事莫心慌!「失敗不是你的失敗,而是你學習的機會。」吳剛砍桂樹千年,樹創隨合,原地執著,斧頭鈍了是該學新本事新方法的大好機會。古人稱吳剛伐樹,今人稱為「窮忙」,「窮活),「混日子」,「魯蛇」,做��也是白做,浪費千年沒有成仙,也無結果,惟一的成果就是鍛錬身體,健康活著繼續砍。如同每日散步,積累千里,就是活著。如果加個馬路學,還可當馬路通,單調的日常,加點趣味調理,人生更不一樣。「吳剛每砍一半,便不專心而開始偷懶休息,此時桂樹便會慢慢癒合,日復一日,吳剛的工作始終無法達成,必須不斷地砍下去。」當人心打轉時,就是學習求進步的大好時機。20240210W6
網路資料
時間管理技巧
辨認出高價值的工作任務
管理和配置專注力
提升單位時間內的專注力
建立自己的任務管理系統
助您完成出色工作的 18 個時間管理提示、策略和速成技巧
6 種提高生產力的時間管理策略
1. 時間箱
時間箱是一種目標導向的時間管理策略,需要您在「時間箱」內完成工作。
時間箱可協助您將大型���務分解為較小的片段,然後在合理的時間內完成這些片段。
2. 時間段
若要建立時間段,可從確定每日或每週優先順序著手。然後,將相似任務分組,以便在同一個時間段中處理。
3. 番茄工作法
運用番茄工作法,首先將您的計時器設定為 25 分鐘,然後嘗試將這段時間專門用於某個任務,儘可能避免中途查看訊息或瀏覽社交媒體。然後,時間到時,休息五分鐘。重複工作 25 分鐘,然後休息 5 分鐘這一過程四次。然後,在第四次工作段落之後,再休息 20-30 分鐘。
4. 食蛙法
Mark Twain (馬克吐溫) 有句名言:「如果你的工作是吃一隻青蛙,最好一早就把這件事完成。」
5. 帕雷托法則
帕雷托 (Pareto) 時間管理策略,帕雷托法則與食蛙法相反,這個策略鼓勵先完成容易的任務,這樣您在開始新的一天時便會更有成就感和動力。
帕雷托法則通常被稱為「80/20 法則」,它有一個基本規則:將 20% 的時間花在 80% 的工作上。
6. 儘管去做 (GTD)
儘管去做法是由 David Allen 於 21 世紀初創立。根據 Allen 的理論,儘管去做法的第一步是將所有需要完成的事情都寫下來。
可完成更多工作的 6 個時間管理提示
1. 將每日工作與目標連結
2. 組織工作並安排優先順序
3. 每天結束時��前規劃
4. 說「不」或委派
為自己確定優先順序,並且與您的團隊成員分享這些優先順序,可以讓每個人都更加清楚瞭解。
5. 帕雷托法則
帕雷托 (Pareto) 時間管理策略。帕雷托法則與食蛙法相反,這個策略鼓勵先完成容易的任務,這樣您在開始新的一天時便會更有成就感和動力。
帕雷托法則通常被稱為「80/20 法則」,它有一個基本規則:將 20% 的時間花在 80% 的工作上。如果您能以相對較快的順序完成這 80% 的任務,您就可以挪出工作日中的時間,處理需要佔用 80% 時間的 20% 的工作。
6. 棄用手寫的待辦清單,改用工具
若您仍在手動追蹤您的工作,那麼是時候升級為線上工具了。雖然手動記筆記很讓人感到心滿意足,但手寫的待辦清單雜亂無章、容易出錯、容易遺失且效率低下。
藉助專案管理工具:
T1協調跨職能工作,確切追蹤人、事、時。
T2在一處地方溝通工作內容、分享回饋並且報告專案狀態。
T3即時追蹤進度,以便準確查看工作狀態。
T4查看截止日期及相依性,讓您不慌不亂地完成目標。
6 個時間管理小妙招
1. 延遲通知
如果可以,請關閉通知或使用「請勿打擾」功能暫時停用通知。
2. 整理您的物理空間
凌亂的辦公桌讓人難以集中注意力。可快速休息五分鐘,整理一下您的辦公桌。扔掉所有不再需要的文件,整齊堆放書籍,將散落四周的所有雜散纜線盤整起來。
3. 將相似任務組合到一起
任務和專案之間切換,,請嘗試將相似的任務組合在一起。看看您是否可以在同一時間段內處理一個專案中的所有任務,或同一可交付成果的所有任務。
將工作分批完成 (尤其是進行規劃時),確實有助於確認工作的優先順序,此外您還能靈活因應手上的工作或可能發生的事情。”
4. 在會議之間或專注時間中完成快速任務
您可能每天都會有幾個需要 5 到 10 分鐘完成的任務。這些任務可能是快速回應一位團隊成員、修改文件中的錯字或將工作請求表單提交給另一位同事。
5. 停止試圖同時處理多項任務
多工處理只是一種迷思。
與其同時處理多個任務,不如一次完成一個任務,這樣您就可以在工作時進入心流狀態。
6. 不時休息
可以做的最好的事情之一就是休息一下,如此就能改善您的時間管理。
如果您很難記得要休息一下,請考慮將休息安排到您的行事曆中。
時間管理掌控您
時間管理更多的是一種心態。若要有效地管理您的時間,請為您的工作安排優先順序,這樣您就知道每天需要做什麼。不要讓您的待辦清單決定您的優先順序,而應將您的注意力集中在您需要真正推動影��的意圖上。
網路資料:
魯蛇(英語:loser),又稱魯者男、擼蛇、廢青、輸家男等,是大部分東亞地區網絡的一種諷刺語,意即「人生的失敗者」,最早在1993年由韓國匿名網民創設,在網絡作為隱語流通,2012年左右開始有華人網友使用此用法,於是逐漸在華人地區流行。
維基百科:
吳剛 (神話)
吳剛,中國民間故事和道教人物。以「吳剛伐木」故事聞名,吳剛被天帝(玉皇大帝)懲罰到月宮砍伐桂樹,其樹隨砍隨合,永無休止。這一故事源自唐朝,有多個版本。
吳剛伐桂,月岡芳年繪
傳奇
第一版
唐朝人段成式所作《酉陽雜俎·天咫》說:「月桂,高五百丈,下有一人常砍之,樹創隨合,其人姓吳名剛,西河人。學道有過,常令伐樹。」[1]
第二版
這一版故事指出樹為桂樹。相傳吳剛是樵夫,西河人氏,醉心於仙道,但始終不肯專心學習,因此玉帝震怒,把他留在月宮,要他砍倒桂樹,方可獲得仙術。但吳剛每砍一半,便不專心而開始偷懶休息,此時桂樹便會慢慢癒合,日復一日,吳剛的工作始終無法達成,必須不斷地砍下去。月亮上的陰影就是桂樹的影子。
酉陽雜俎卷一·天咫
維基 -> 酉陽雜俎 -> 卷一·天咫
《卷一·天咫》[查看正文] [修改] [查看歷史]
1 
舊言月中有桂,有蟾蜍,故異書言月桂高五百丈,下有一人常斫之,樹創隨合。人姓吳名剛,西河人,學仙有過,謫令伐樹。釋氏書言須彌山南面有閻扶樹,月過,樹影入月中。或言月中蟾桂地影也,空處水影也,此語差近。2 
僧一行博覽無不知,尤善於數,鉤深藏往,當時學者莫能測。幼時家貧,鄰有王姥,前後濟之數十萬。及一行開元中承上敬遇,言無不可,常思報之。尋王姥兒犯殺人罪,獄未具。姥訪一行求救,一行曰:「姥要金帛,當十倍酬也。明君執法,難以請一曰情求,如何?」王姥戟手大罵曰:「何用識此僧!」一行從而謝之,終不顧。一行心計渾天寺中工役數百,乃命空其室內,徙大甕於中。又密選常住奴二人,授以布囊,謂曰:「某坊某角有廢園,汝向中潛伺,從午至昏,當有物入來。其數七,可盡掩之。失一則杖汝。」奴如言而往。至酉後,果有群豕至,奴悉��而歸。一行大喜,令置甕中,覆以木蓋,封於六一泥,朱題梵字數寸,其徒莫測。詰朝,中使叩門急召。至便殿,玄宗迎問曰:「太史奏昨夜北斗不見,是何祥也,師有以禳之乎?」一行曰:「後魏時,失熒惑,至今帝車不見,古所無者,天將大警於陛下也。夫匹婦匹夫不得其所,則隕霜赤旱,盛德所感,乃能退舍。感之切者,其在葬枯出係乎?釋門瞋以心壞一切善,慈心降一切魔。如臣曲見,莫若大赦天下。」玄宗從之。又其夕,太史奏北斗一星見,凡七日而復。成式以此事頗怪,然大傳眾口,不得不著之。3 
永貞年,東市百姓王布,知書,藏鏹千萬,商旅多賓之。有女年十四五,艷麗聰晤,鼻兩孔各垂息肉,如皂莢子,其根如麻線,長寸許,觸之痛入心髓。其父破錢數百萬治之,不差。忽一日,有梵僧乞食,因問布:「知君女有異疾,可一見,吾能止之。」布被問大喜,即見其女。僧乃取藥,色正白,吹其鼻中。少頃,摘去之,出少黃水,都無所苦。布賞之白金,梵僧曰:「吾修道之人,不受厚施,唯乞此息肉。」遂珍重而去,行疾如飛,布亦意其賢聖也。計僧去五六坊,復有一少年,美如冠玉,騎白馬,遂扣門曰:「適有胡僧到無?」布遽延入,具述胡僧事。其人吁嗟不悅,曰:「馬小踠足,竟後此僧。」布驚異,詰其故,曰:「上帝失藥神二人,近知藏於君女鼻中。我天人也,奉帝命來取,不意此僧先取之,吾當獲譴矣。」布方作禮,舉首而失。4 
長慶中,有人玩八月十五夜,月光屬于林中如疋布。其人尋視之,見一金背蝦蟆,疑是月中者。工部員外郎周封嘗說此事,忘人姓名。5 
大和中,鄭仁本表弟,不記姓名,常與一王秀才游嵩山,捫蘿越澗,境極幽後,遂迷歸路。將暮,不知所之。徙倚間,忽覺叢中鼾睡聲,披榛窺之,見一人布衣,甚潔白,枕一襆物,方眠熟。即呼之,曰:「某偶入此徑,迷路,君知向官道否?」其人舉首略視,不應,復寢。又再���呼之,乃起坐,顧曰:「來此。」二人因就之,且問其所自。其人笑一曰言曰:「君知月乃七寶合成乎?月勢如丸,其影,日爍其凸處也。常有八萬二千戶修之,予即一數。」因開襆,有斤鑿數事,玉屑飯兩裹,授與二人曰:「分食此。雖不足長生,可一生無疾耳。」乃起二人,指一支徑:「但由此,自合官道矣。」言已不見。
目錄
0馬路學:從馬路消息到馬路知識
不只是交通問題,更是人性問題
1 為什麼另一條車道看起來總是比較快?
交通世界的動物生存競爭與人際溝通
2 駕駛技術的傲慢與偏見
為什麼每個人都自以為開車技術比別人好?
3 公路催眠術與失神症
背叛駕駛人的眼睛與腦袋
4 塞車經濟學
為什麼螞蟻從不塞車,人卻老是會
5 交通性別論
為什麼女人比男人更常引起塞車?
6 自私的通勤者
為什麼路變多了以後車子也會變多
7 為什麼越危險的道路越安全
寬容的道路設計vs.放縱的行車許可
8 從交通看世界
因地而異的駕駛行為
9 道路風險學
路上有哪些危險,以及它們的成因
後記:駕駛訓練課程
馬路學:塞車始終來自於人性
街口調查的學問:定點街頭訪問法-介紹與實務分享 ( 2022/01/18張文峰)市場調查;市場研究;定點街頭訪問;抽樣;街頭調查;環境影響評估;商圈評估調查、品牌知名度調查;訴訟調查;商標調查;實務執行know-how
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等好久的榛名
然後又是選擇困難症最討厭的コンバート改二 雖然乙的對空CI好像滿強的但還是選擇留丙一家人就是要整整齊齊
是說榛名隔這麼久才改,霧島不知又要等多久...... 就算已經有預告在準備了但這遊戲的產能......
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なつぽ⚓さんはTwitterを使っています 「#cosplay #コスプレ 艦隊これくしょん 榛名改二 https://t.co/UrauCrsNoS」 / Twitter
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来说说“林榛录”吧
“林榛录”,林遥焕之“林”,洪榛浩之“榛”,“录”是记录的意思。在韩语中,这三个字与朝鲜历史演义小说《壬辰录》的发音相同。
OSL,即Ongamenet Starleague,由韩国OGN电视台主办的星际争霸个人联赛,是举办最早、影响最大的星际职业联赛,性质相当于世锦赛。2001年,由可口可乐公司冠名赞助的第四届OSL在商业运作方面取得了极大成功,主办方首次将决赛场地设在了奖忠体育馆。9月8日决赛当天,万余人到场观战,通过电视收看实况转播的观众人数则多达150万。
那场比赛是包哥和豆哥第一次在OSL决赛中相遇。当时他们分别是星际界最出色的人族选手和虫族选手,前者刚刚度过自己的21岁生日,而后者要再过两个月才满19岁。那天晚上这两个人为观��呈现了一场旷世的bo5大战,双方旗鼓相当兵来将挡、历时三个小时打满了五局,最终包哥以3:2战胜豆哥夺冠。
后来人们说,那是一场没有输家的比赛。
2001 Coca-Cola OSL决赛之后,人们开始以“林榛录”代指包哥与豆哥的对局。在星际饭中间,这三个字意味着“最棒的对决”。
包哥和豆哥被问到过很多次“哪一场比赛最让你难忘”这个问题,几乎每次他们都会回答“2001 Coca-Cola OSL决赛”。而人们最期待的永远都是下一次,人们期待着他们再次在最高的舞台上相遇、再次打出像那场决赛一样精彩的比赛——不过最期待这样的对局的人,大概还是“林榛录”的两位主人公。
但其实,2001 Coca-Cola OSL的决赛也是包哥和豆哥唯一一次在OSL决赛中相遇。
那之后他们一起杀进了2001 SKY OSL、2002 SKY OSL、2003 Olympus OSL的四强赛,每次都被分在不同的两个组,每次都没能够一起进军决赛。这次包哥拿了亚军、豆哥拿了季军,下次换成豆哥亚军包哥季军,再下次……
但是下一次来得越来越难:他们在重要比赛上相遇的机会越来越少。电竞选手的职业生涯非常短暂,这两个人正一步步从巅峰期滑落,与此同时他们的后辈正在飞快地成长起来。
终于,在2004 EVER OSL上,包哥和豆哥又一次双双进入四强。这一届OSL八强阵容之豪华可谓空前绝后,两个人能够各自杀出重围谈何容易。不巧的是四强赛上他们被分在同一组,能进入决赛的注定只有一个。不过对于这场“林榛录”,人们的期待与兴奋依然远远胜过遗憾。
也正因如此,赛后人们所感受到的失望与空虚才会那么强烈。
2004年11月12日,比赛现场人头攒动,人群中不乏坐了很久的车大老远赶来观战的星际饭;更多的是坐在电视机前面等待转播开始的观众,有人提前叫了炸鸡啤酒的外卖,准备好好享受比赛。
四强赛的赛制同样是bo5,包哥赢了,3:0。三局加起来打了不到半个小时,观众点的炸鸡还没送来,比赛就结束了。
包哥知道豆哥的比赛信条是“电竞应当具有观赏性,电竞选手有责任让观众感受到比赛的精彩;就算无法获胜,选手也该向观众展现自己为了胜利付出的时间与努力”;豆哥知道包哥是那种为了胜利不择规则以内的一切手段、再小的有利因素也会紧抓不放的战术型选手。
包哥三局都选择了8bb,这种地堡rush战术是豆哥几乎从来不会使用的极端战术,因为如此孤注一掷无论成功与否都可能使得比赛草草结束、双方选手什么都来不及展示出来;豆哥三局都选择了裸双开,这种开局不出孵化池就开双基地的战术会为后面的比赛带来经济优势,然而应对地堡rush尤其弱,一旦被rush基本就没有后面了。
也就是说,在这场日后被称为“三连堡”的比赛中,包哥一连三局用豆哥最厌恶的战术击败了对方,豆哥一连三局没有做出任何针对这种战术的防御;而满怀着对“林榛录”的期待而来的观众们只看到这两个人把同样的胜利和同样的失败重复了三次,换句话说,他们什么也没看到。
包哥做错了吗?没有。事关胜负,一位职业选手在不触犯规则的前提下为求胜而竭尽所能,其中也包括利用对手的风格打心理战——你可以说这么做太狠太绝,但不能用一个“错”字来定义这种行为。举例来说,包哥也很喜欢利用游戏内聊天打心理战,说得直接一点就是打字干扰对手。早年间TheBOy曾经被包哥此举激怒、暂停比赛向赛方投诉;到了2005年,Junitoss在与包哥的对局中同样被对方的一句“好挤ㅠㅠ”干扰了判断,继而失误频发地输掉了比赛。KeSPA因此出台了一条新规则:在正式比赛中禁止除“GG(认输)”和“PPP(暂停)”以外的一切游戏内聊天。而包哥没有因此受到判罚,因为他没有违反任何规则。
豆哥做错了吗?没有。裸双开在应对rush开局时处于劣势,在应对非rush开局时则占有优势,这就好比石头会输给布但会赢过剪刀一样;设想你跟一位多年旧识玩剪刀石头布,对方依据过往的经验判断你倾向于出石头所以出了布,而你在第一局也的确出了石头,那么接下来你要不要继续出石头、对方会不会继续出布的想法就将构成一串没完没了的猜疑链……在猜疑无益的情况下,他选择了不被对方牵着鼻子走的打法,同时也是更有机会为观众展现比赛过程的打法。
按理说比赛双方都没有做错什么。可是为什么人们看到的是这样一场令人失望的“林榛录”呢?
赛后网络上爆发了规模空前的口水战,很多人在喷包哥卑鄙,更多的人在喷豆哥无能。OSL官网遭到黑客入侵,被黑之后的网页上挂着“不公平的比赛,不公平的地图”这句话。
后来人们说,那是一场没有赢家的比赛。
“三连堡”赛后接受采访时,包哥说他“认为自己比任何人都更了解洪榛浩选手”。他说他为了构思完善针对虫族对手的8bb战术而想得绞尽脑汁、练得精疲力竭,说他为了这场半决赛而做的准备练习比决赛还要多,说他在练习时一直把豆哥作为假想敌、自己脑子里想的都是“这么做对榛浩没用”“那招榛浩能顶得住”,甚至要求陪练对手模仿豆哥的打法……
他说他为了找出地堡rush的最佳timing而熬了许多个夜,“按照这个timing来打的话,对方即使知道我要这么打也挡不下来”。
说是这么说啦。
2005年2月17日,包哥和豆哥在2005 CYON ODT B组败者战上又一次遇见了彼此。此前的2004-2005 IOPS OSL上,豆哥在十六强赛中淘汰了包哥,随后于八强赛中被淘汰。
ODT是OSL的下级联赛,参赛选手共24名,分为6个四人小组进行单循环赛,各组选手两胜出线两负出局;包哥和豆哥在交手以先均有一胜一负。也就是说,这场“林榛录”的胜者将获得2005 EVER OSL的选手权,败者则无缘下一届OSL。
比赛的开局对于人们来说可说是记忆犹新:包哥8bb,豆哥12D裸双开。是的,在“三连堡”过去仅仅三个月后,包哥又一次使用了豆哥最厌恶的地堡rush战术,而豆哥还是没有做出针对地堡rush的特别防御。
不同在于,这次豆哥在侦察到包哥的战术之后毫不犹豫地倾巢迎战,通过操作用12只Drone挡住了对方的地堡rush。于是包哥换用坦克rush,然后他的攻势又一次被豆哥挡了下来。
最后包哥打出了GG。
2005 EVER OSL是第十五届OSL,也是第三届OSL以来包哥首次缺席的OSL。在这届OSL中,豆哥止步于十六强小组赛。
包哥和豆哥被问到过很多次“哪一场比赛最让你难忘”这个问题,几乎每次他们都会回答“2001 Coca-Cola OSL决赛”——说几乎是因为有例外,比如2006年8月6日豆哥第二次来中国参加WEF2006的时候,对于同一个问题,他的回答是“对我而言每一场‘林榛录’都很难忘”。
那次采访中记者还问:你最欣赏的选手是谁?
豆哥说:这次来的选手都很不错,如果要从所有职业选手里选一个的话,那就是Boxer。
记者又问:近来你和Boxer在各种比赛中都没有交手的机会,你最希望你们下次的对决是在什么比赛上?
豆哥说:如果可能的话,还是希望能和他在OSL决赛中相遇。
就像豆哥一样,人们依然在期待着下一次。可是不会有下一次了。
那时人们还不知道,两个月后包哥就会进入空军服役,接下来豆哥将会迎来为时两年的漫长的低谷期……他们两个都没能再次打入OSL四强。
2006年9月3日,包哥郑而重之地打扮了很久,随后在自己的生日派对兼粉丝聚会上再次确认了自己将于10月入伍服役的消息。包哥最初宣布这个消息是在8月17日的MSL抽签仪式上,18日他和豆哥一起去乐天世界玩,穿的是后来他穿去了生日派对的同一身衣服。
游乐园,冰沙,首尔的夏天暑气炎炎。两个人聊着聊着谈起“林榛录”,谈到2001 Coca-Cola OSL决赛时,豆哥说那场bo5大战中自己印象最深的是第四局,包哥印象最深的则是第三局——他们最难忘的都是自己输给对方的那一盘。
“第四盘中由于瞬间的失误我错过了攻击的机会,拿下那盘的话冠军就是我了。”
“第三盘我要是多造一个导弹塔也能赢。”
后来他们也说到了“三连堡”。豆哥让包哥不要提了,“因为那场比赛我要少活一年的”;包哥就不再顶嘴。
但包哥还是说,那天到了第三盘他也是在半信半疑地尝试,觉得自己有一半以上的几率会被挡住。
豆哥立马反驳:你SCV都全拉出来了还说什么半信半疑?
2012年8月4日是最后一届OSL——2012 Tving OSL的决赛日。台下坐满了送��的人,台上站着包哥和豆哥,他们是来打最终决赛之前的Legend Match的。
2010年,包哥在自己的而立之年转型星际2,随后被KeSPA取消星际1职业选手资格;2011年,豆哥举办了自己的退役仪式;2012年,KeSPA宣布OSL将取消星际1项目。这两个最有资格代表星际1的人先后走下了舞台,而现在连舞台也要被拆掉了。
在最后一场以星际争霸职业联赛为舞台进行的“林榛录”开始之前,全勇俊解说哪壶不开提哪壶地提起了“三连堡”。
包哥说:那天打到第三盘的时候我是希望榛浩防我的,但是他没有。
2014年2月14日播出的《我独自生活》中,包哥向豆哥问起“三连堡”时的事:那时候我一连做了三次,你为什么不防呢?
豆哥说:那时候我不知道你会一连做三次。
人的行动不会也不可能完全出于理性。“三连堡”进行到第三局时,或许这两个人都已因对方的应对而失措,从而只能依照自己的本能去选择。
那个时候,他们知道对方跟自己一样,渴望着再次在最高的舞台上相遇,渴望着再次打出像2001 Coca-Cola OSL决赛那样精彩的比赛;他们也知道对方的胜负欲跟自己同样强烈。
只是那时豆哥不知道,包哥对于胜利的渴望压倒了对于“林榛录”的渴望。
又或者那时豆哥对于这一点多少有所察觉,只是他不想因此动摇自己的想法、不愿因此改变自己的做法,所以他没有防备,也无意试探。
来说说“林榛录”吧。
跟据teamliquid的统计,在正式比赛中包哥和豆哥共有64次交手记录,其中包哥赢了33场、豆哥赢了31场。数据存在不同版本但相互间差别甚微,所反应的事实也都是一样的——这两个人棋逢对手,实力只在伯仲之间。
可豆哥总是在决赛、四强赛这样的大舞台上输给包哥。不知有多少次,包哥一路打着加赛、磕磕绊绊地走到决赛,然后赢了全胜晋级的豆哥。
非要说事出有因的话,恐怕也只能归结于运气了。
来说说“林榛录”吧。
包哥常被人形容为“风格猥琐”,而豆哥有个绰号叫做“manner洪”。豆哥习惯在比赛开始前向自己的对手打出“GoodLuck”这句话,在对方是包哥时尤其如此。
有时候包哥也会对豆哥说“gl”,有时则不会。但是豆哥,这位应当具备的东西都具备了、唯独欠缺了一点运气的选手,总是会在“林榛录”开始前再三祝包哥好运。
来说说“林榛录”吧。
“林榛录”有个非常有趣的地方:单看比赛结束后双方的反应,往往看不出谁输谁赢。
比如2001 Coca-Cola OSL决赛之后。台下的喝彩声如潮,走出玻璃隔音房并肩站在舞台上的两个人却一脸恍惚,久久地回不过神来。
比如“三连堡”之后。豆哥木然地对着屏幕发呆,手指僵在键盘上;两眼泛红的包哥双手揉着脸。
比如2005 CYON ODT的那场败者战之后。丧失了下届OSL参赛权的包哥看起来非常平静,不像是刚刚输掉了一场输不得的比赛的人,也不像是时隔仅仅三个月再次对豆哥使用了地堡rush却被挡了下来的人。他摘下耳机,把键盘收进键盘包、眼镜放回眼镜盒,收拾完以后走向依然坐在自己位子里的豆哥,笑着拍了拍对方的肩膀。包哥离场之后,豆哥举起双手掩住了脸。
比如2012 Tving OSL的那场Legend Match之后。露齿而笑的两个人没有握手,而是拍了拍彼此的背。
再比如2002 SKY OSL八强赛B组的第六轮小组赛之后——在此前的五轮比赛中,Jinnnam以三负坐稳了副班长的位置,TheMarine的成绩是一胜两负,各有两胜的包哥和豆哥实际上已经拿到了四强赛的入场券;而四强赛是在八强赛A组第1和B组第2、B组第1和A组第2之间展开的,也就是说,他们下一次相遇很有可能会是在这届OSL的决赛场上。
那时候游戏内聊天还没被禁止。比赛开始后他们互道好运,很快包哥就开始了trash talk——这次是字面意义上的trash talk,就一个表情而已,不具备什么意义。反应过来之后豆哥也以表情回敬,就此被打开了话匣子的他在双方的侦察单位相遇时打出了“hi”和“BANG GA(‘방가’,表示寒暄的网络流行语,‘很高兴见到你’)”,在进攻顺利时打出了“HOHO”,在战况吃紧时打出了“ande(‘안돼’,‘不要、不行’)”……
那时候包哥和豆哥分别是Ideal Space战队的队长和副队长,身上穿着同样款式的制服。制服在比赛现场的灯光下反着光,想来不是用通风吸汗的材料做的。现场观众大多还穿着短袖——九月里的这种秋老虎天气往往会给人以错觉,仿佛夏日永无尽头。
比赛打了半个多小时才分出胜负。两个人摘下耳机,不约而同地伸手去擦脸上的汗,嘴角都挂着笑意。
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我回想一下,也回看一下,今年參加的客座餐會幾乎沒有,我也會想知道為什麼不想去這類的客座餐會呢?很大的原因是對於臨時湊合得不信任感,與我想像中的極致美味差得太多,所以我還是信任回歸餐廳的本身。
我遇過的客座通常有幾種,一種所謂聯手的,好聽一點,媒體取作聯彈,這類大致不變的是主廚各出各的菜,拿手的菜,或是餐廳招牌菜;還有一種認真一點的就是早早來找食材取經,回家研究幾個月後再辦餐會,找出食材的特性以及灌入自己的概念,而這種客座並非聯彈,而是專業主廚快閃;還有一種是餐酒搭配,邀請調酒師與之談論搭配菜餚的一種餐酒會,我個人認為這類的相對危險而且容易落入了無新意,這種需要更久的時間磨合才能找到一種絕對美味。
另外還有一種比較難的遇到的是聯合出菜,也就是協作料理,一道菜裡都看得見主廚的性格;最後一種,就是將整間餐廳團隊帶過來,菜單帶過來,再加入一些新菜色。而我個人比較偏好最後一種,雖然沒去過Noma但是他們曾經一度一直在做這種事,台灣也有些主廚在做這這種模式,不過比較少。而今天的餐會也是屬於此類型的客座餐會,更難得的是,平常想吃還吃不到。
韜光養晦,有所作為
隱藏才能,不使外露;時機成熟,刀劍出鞘。這八個字的運用是中國學者們最熱愛用的對句,這詞彙前者為鄧小平改革開放過程要求的態度,後者則是中國崛起後要超英趕美的實踐,不過這篇並不與這些人有關,而是最信想想這對具挺適用於近期的台灣飲食環境。
在我眼觀,臺北米其林指南入台第一年試試水溫,各行家們預測百出,有挺有貶,邁入第二年後,了無新意的名單多了幾間星色彩,尤其幾間開業不到幾個即刻摘星,紅皮書背後還有什麼意義?這讓我有幾點疑惑。
第一,臺灣餐飲環境在米其林指南裡是否��進入蜀中無大將了空乏期,簡言之還是許多餐廳不得秘密客的青睞;第二,努力向上期,除了密探們在觀察觀看外,各家主廚也在觀望,對餐飲有興趣的投資者各式磨刀霍霍,無論在虛榮上可以進入手冊摘星外,還是主廚完成萬分準備準備出山,都反映了第二年的米其林無趣性;第三,要換個角度來看看這最容易被人們視為黑箱作業的米其林指南,只管中文官網上只做了片面的大家都想得出的解釋外,由於極度保密,成為其功正確又榮意被是為不刻關的制度碰撞出許多刺激,喜好研究指南的人會質疑,秘密客有多少,除了得重複第一年的餐廳外,還得再用力發掘新餐廳,還有在種芸芸眾生的餐廳之中尋找出類拔萃,真的很困難,所以我也真的很質疑,因為連小吃都要評那真的很辛苦,我也會想理解他們的責任分工,責任區域,關心他們的身體健康,擔心他們會不會味覺疲乏…,所以還是回頭講的是指南的可性度。
近期高級餐廳再度猛出,餐廳裝潢比起去年更瘋狂的投入,衝進大台北都會區的主廚也越來越多,倘若說第三年指南會更有看頭,那麼可以拭目以待,但我更有興趣的事情是,韜光養晦的主廚們,是否準備要有所作為了呢?
當然,在大臺北餐飲江湖中,不僅只是眼中老是看見的那幾間餐廳而已,還有主廚也正磨刀霍霍,十年磨劍,不強出頭,而現在是否也是準備要道士下山,超英趕美了呢?我期待今天來的這場餐會之后,會有更閃亮的鋒芒出現啊。
台北喜來登安東廳「私饗之巔」
久聞法式廚藝Dennis之名,由於Villa Ollila為會員制私廚,慣於獨往獨食的我當然難以一嚐手藝,今天總算是要回味了;Dennis曾於樂沐擔任副廚7年,為何我說會重新回味呢?記得在我還是飲食兩光小屁孩之時,概約8年前曾第一次品嚐樂沐法式餐廳,對於法式料理當時還是陌生,而後才逐漸更愛逐漸深入,推算一下當時Dennis正是在樂沐法式餐廳。
現在在臺北要找法式餐廳,法式指南的選項到底多嗎?經過兩年的米其林且讓法式餐廳連年敗陣,這也許對廣大投資者或主廚會有所卻步,或是改變戲路;但仍有堅持理念,不離經叛道的法式主廚繼續走在陣前。這讓喜愛法式料理的我也感到對美味的動力,對料理的內涵,可繼續有對話的對象。今日品嚐Dennis的12道料理,每道料理是精心策劃準備,不僅如醉,更找回了些我對料理的熱情。
用餐日期:2019年6月19日(三) 天氣:晴氣溫:34。所在地:臺灣臺北市
Guest Chef: Dennis Lai Sommelier: Sam,專業侍酒服務。酒類:葡萄酒、清酒等。
環境:高雅舒適環境。餐點價位:$$$$元+10%起,¥¥¥¥¥+10%~。
佐餐酒
1.Craggy Range Sauvignon Blanc Te Muna Road Vineyard 2014。
2.Chiyomusubi Junmai Daiginjo Goriki 40。
3.WeightStone Musan Blanc 2016。
4.Chateauneuf-Du-Papa La Bernardino M. Chapoutier 2015。
5.Klein Constantia, Vin de Constance, Constantia, South Africa 2007。
6.S.PELLEGRINO Sparkling Water。
青蘋果/茴香/生蠔
Green Apple, Fennel, Oyster
搭配酒款
Craggy Range Sauvignon Blanc Te Muna Road Vineyard 2014
第一道點心就震撼了,外型直接給我清爽、滿足、慾望,男人很難不愛這塊大生蠔。以冰涼清爽形式登場外,這也正是今日的解憂良品,由於ㄧ口無法解決,便先咬個一半。冰冷的身上可依稀看見些清冷冰沙,是由青蘋果、茴香、西芹榨汁組成,青蘋果帶來滋味的甜酸同時帶著青蔬果香還有點香甜。
不僅如此,主廚在生蠔殼中依序置入白乳酪、華盛頓生蠔、冰沙,並點綴小黃瓜丁、羽葉香菜、沖繩海葡萄、魚子醬以及特級橄欖油等等。海葡萄多汁,而魚子醬帶來鮮味,淋上冰沙酸香可口,相對的果香甜味帶來了衝突。吃了生蠔之綿密、綢濃,非常美味可口,而濃郁綿密外鼻頭上有茴香陣陣飄香,這道前菜十分開胃,這對我這麼久沒吃生蠔的人來說,是爽度極高。
搭上Craggy Range Sauvignon Blanc Te Muna Road Vineyard 2014,來自澳洲的葡萄酒,綜合了些冰沙的果味,但會提出礦物香,但尾韻又拉出的清爽夏日水果,是夏日組合序曲。
竹蟶/海藻/酸奶
Razor Clam, Seaweed, Sour Cream
搭配酒款
Craggy Range Sauvignon Blanc Te Muna Road Vineyard 2014
長條狀黑色外餅是一段工序製作的玉米餅殼,內餡包著調味的英國竹蟶,其中酸奶帶出飽滿的馥郁感,外殼雖硬實,咀嚼同時逐漸感受到玉米甜味,是道很舒服的點心。
這是第二道如Tapas的開胃點心,做法也挺費工的,服務人員解說這是以黃玉米煮軟,打成泥加上墨魚汁抹平,乾燥後再用刀切成竹蟶殼狀,放入烤箱烤軟,內餡是先以竹蟶淋上白酒清蒸後加入澎湖青海藻、黃檸檬皮、巴西里葉以及法式酸奶油拌勻製作成內餡,過程確實費了不少功夫。
搭澳洲的Craggy Range Sauvignon Blanc,她金黃淡雅色澤,冰涼的狀態下是剔透色澤,酒的氣味清新帶著豐富的果香,乾爽水梨鳳梨柳橙等果香,飲下細嫩柔和的味道,但免不了澳洲長相思的芭樂、清新果味,不果也多了層乾爽的礦味香草氣息,清新風格優雅美好,尾韻也不失去繽紛果香,仍有十足新世界風味。
與料理結合無論先後,都滿有意思的,應該說是一種均衡感,既不太果味但也帶來鹹甘礦味,但在口中表現的溫和不刺激感十分舒適。
紅甜菜/帝王蟹/白蘆筍
Beetroot, King Crab, White Asparagus
搭配酒款
Craggy Range Sauvignon Blanc Te Muna Road Vineyard 2014
喔喔..用裝盛魚子醬的容器覆蓋,這裡面藏了什麼特別?原來是紅甜菜魚子醬,從外形顆粒如同魚子醬,不過顏色則是透紅透紅的紅甜菜醬汁滴成的類魚子醬。
服務人員解釋,這是用虱目魚熬的湯,煮至濃稠,然後加入紅甜菜汁,再將葡萄籽油冷藏後,下面隔著冰,再將濃縮高湯一滴滴滴下,透過油水分離方式變成球狀。襯底是北海道帝王蟹,經過白酒蒸過後剝成絲,加上法國白蘆筍、紅蔥頭、甜蘿勒、檸檬、特級橄欖油以及香檳醋等等拌勻,光是聆聽過程就能體會之難。
這一點一滴製作的類魚子醬,入口的口感更滑溜,有像小時候喜歡買的一種果凍果汁的口感,然後配上帝王蟹涼爽鮮美,特別的是鮮味除了精緻,還是用鮮美滋味來形容。
搭白酒,鮮明的礦香,酒體有種層次,像溜滑梯一樣,果味、礦味,尾端呈現鮮味,尾韻還有點..生蠔感。
安東廳布里歐許
一整條的安東廳布里歐許,服務人員告訴我這是他的最愛,不瞞他說,布里歐許很難不愛,軟彈綿細,不用沾任何東西,都很迷人。
而這道麵包皮稍微翠,易撕柔軟,入口香甜彈軟,無論是抹上帶點燻味的奶油也好還是等等的鴨肝料理,都十分美味。
黑醋栗/煙燻白鰻/鴨肝
Black Currant, Smoked Eel, Duck Foie Gras
第三道料理是「鴨肝」,上層調味的是經過白酒熬煮過的黑醋栗果醬,下層是經過牛奶炮製去腥的,在經過干邑與波特酒醃製的鴨肝,當然也經過多道程序,中層是雲林的白鰻魚,且冷藏熟成3天軟化魚肉,淋上清酒蒸上多時,拔刺以蘋果木屑冷燻3小時。
襯底的仍是鴨肝,切小塊入口,相當蜜且帶果凍酸甜感的滋味,再加上鴨肝微微特別的氣味,中間穿插鰻魚的可口風味,有點大口咬吃的衝動。
可以塗上安東廳布里歐許,香脆可口好吃。布里歐許加上有些燻味的奶油,真是有夠邪惡的好吃。
夏季松露/蕎麥鬆餅/康提乳酪
Summer Truffle, Buckwheat Waffle, Comté Cheese
松露片刨成如此十分讓人興奮,下頭是蕎麥做成的軟彈鬆餅,中間包袱是紅酒康提乳酪醬,蕎麥鬆餅抹上黃酒康堤乳酪醬,然後再刨上大量的義大利阿爾巴新鮮松露,瘋狂阿。
這道料理像甜點?但不是,取起鬆軟速速咬下一口,這道料理除了松露讓人誘惑以及微脆的口感。
在咬到軟嫩鬆餅,竟然有種原野滿足感,尾韻又散發康提乳酪帶來點風味香,理想啊。
海味乾貨清雞湯
Dried Seafood and Chicken Broth
搭配酒款
Chiyomusubi Junmai Daiginjo Goriki 40
還是一道複雜程序的熱湯,首先看到的是高腳白酒杯裡放入新鮮山蘿蔔葉,湯品則是以用蘆花老母雞熬煮的雞湯基底。
將土雞肉、乾海螺、乾劍蝦、干貝、金華火腿、乾燥牛肝菌等等熬煮過濾後,隔冰冷卻等繁雜工序製作出如茶色感的清雞湯。
白酒杯淋入清湯後,沖出山蘿蔔葉香氣乾貨干貝、金華火腿…等等還有很多,這種用法式清湯方式燉煮的老母雞湯,襯上山蘿蔔葉,顏色看似重濃但口味,輕盈帶著濃濃的人情味,而這人情味…就是..我用台灣市集來形容。
搭上米種鳥取縣,米種強力40精米步合的純米大吟釀,入口清爽乾淨然後突出清新果香像荔枝皮像青蘋果皮等等,尾韻略顯米香很舒服。清酒,酒體衝出乾爽果味的激情,有點台日風格…那種情境。
北海道馬糞海膽·甘藍菜燉飯
Hokkaido Sea Urchin with Cabbage Risotto搭配酒款
Chiyomusubi Junmai Daiginjo Goriki 40
第七道菜是「北海道馬糞海甘藍菜燉飯」,一道以日本海膽握壽司的概念燉飯。米不是義大利米而是使用新潟縣的好米越,以白酒、魚高湯、紅蔥頭、鮮奶油、甘藍菜等炒過並小火熬煮一陣子後加入陳年36個月的Parmigiano-Reggiano與新鮮蝦夷蔥。
接著待完成後放上一點Parmigiano-Reggiano炙燒,再放入馬糞海膽撒上鹽之花,最後以小豆苗沙拉點綴於上。
上層一如層層塊塊的北海道馬糞海膽,帶著濃濃的炙烤味,挖起一瓢,濃稠的口感就是我最愛的燉飯風味,馬糞海膽爆出的鮮香猶如曾經在小樽嗑的海膽丼飯,濃香馥郁中帶著燒烤香味,儘管是義大利料理但產生的是濃濃的日本味,無論海鮮、燒烤還有米香。
搭清酒與燉飯搭配,均衡拉出果香使得酒體變得更淡,更舒服,這選的好。
榛果奶油烤干貝·羊肚菌與綠蘆筍
Hazelnut-crusted Scallop with Morel and Green Asparagus
搭配酒款
WeightStone Musan Blanc 2016
第八道料理是「榛果奶油烤干貝羊肚菌與綠蘆筍」,到目前為止,不愧私思饗之巔啊,道道用料兇狠工序繁雜,這道料理也不意外,干貝是讓呈現微溫狀態,所以這熟度像是多生不熟但真的切下輕薄柔軟,這是北海道生食干貝。
北海道干貝上方抹上榛果奶油是經過炙烤過,而散發奶油香氣,這榛果正是來自義大利皮蒙區,盤子週邊為青豆、蘆筍以及經過紅蔥頭、大蒜、雞高湯、紹興酒一起香炒的法國野生羊肚蕈,最後淋上以洋蔥、綠蘆筍、雞高湯、碗豆仁等煮成醬汁青雞湯。
干貝生但柔細如肌膚,入口柔嫩即化帶著干貝鮮美,湯頭勻稱可口,羊肚菌彈柔帶著難形容的羊肚菌香,加上清爽蘆筍青豆,又是一道滿意的鮮料理。
搭WeightStone Musan Blanc 2016,可說是臺灣最出風頭的葡萄酒,顏色清悠乾爽,淡淡檸檬色但氣味衝出一股甘甜的甜蜜的熟悉的如荔枝、如蜂蜜、如鳳梨、如…甜甜的水果汁收乾的甘甜味,飲下沁涼勻稱帶著青青草原的露水草地芬香,口感溫和酒體柔細尾韻帶著甜美果味,蜜餞味。
搭上這道菜是表現了整體口感,這是勻稱是均衡,留下一種柔軟軟弱的口感,尾韻拉出蜜餞焦糖甘甜香。
清蒸野生七星斑佐香草海瓜子醬汁
Steamed Grouper with Herb and Clam Sauce
搭配酒款
WeightStone Musan Blanc 2016
第九道仍是道海鮮料理「清蒸野生七星斑佐香草海瓜子醬汁」,這道工序也是細心,澎湖野生七星斑三進三出蒸煮,讓肉質不過熟硬而嫩熟帶著鮮美彈性。
襯底的高湯是以海瓜子、魚高湯、酸黃瓜、法國海藻奶油、日本清酒、蝦夷蔥、蒔蘿調製而成,此外週邊還有久久未吃到百合切塊,此外還有去皮毛豆仁,這一道料理還別出心裁的再置入耐熱膠膜,再加熱膨脹,上桌後再由服務人員剪開。
冒出汩汩蒸煙,這野生蒸鱸魚十分美味,夠鮮美,百合肉、青豆、海瓜子肉、口感皆相近,搭上湯汁相當美味,尤其那魚肉,白中帶生卻食不生,脆香百合我老認為有點菱角味,香草點綴明亮風味,好吃的魚料理。
搭WeightStone Musan Blanc 2016溫順柔和,非常均衡,而尾韻是明顯的蜜餞焦糖甜香。
乾式熟成頂級無骨牛小排左綠胡椒醬汁
Dry-aged Prime Short Ribs with Green Peppercorn Sauce
搭配酒款
Chateauneuf-Du-Papa La Bernardino M. Chapoutier 2015
主餐我選擇的是頂級無骨牛小排,是經過七天乾式熟成的prime牛小排,先58度低溫加熱後,再將雙面香煎。
週邊配菜有燙軟後冷卻的水田芥並加入白乳酪打成泥,還有北海道洋蔥切半再炙燒;還有甜菜蘋果醋醃漬酸甜的珍珠小洋蔥,還有以奶油雞湯香炒的法國黑喇叭菇。
醬汁也不容易,帶點嗆感,也是主廚用青花椒跟綠胡椒加入干邑白蘭地以及鮮奶油與奶油等等調製,相當精彩豐富的主菜料理。
忍不住切取一塊了,熟成的肉體在熱光滑肉質堅實而充滿油花,皮脆肉嫩帶著豐富的油脂,真讓人滿足,搭上有白蘭地綠胡椒等製作的肉汁等製作醬汁,沾上點均勻風味,可口而帶點刺激,佐上一旁配菜還有綠奶油香味醬汁,多了濃香味。
搭Chateauneuf-Du-Papa La Bernardino M. Chapoutier 2015紅酒,柔紅清淨,酒面高壓,氣味帶著辛香料、土壤混香草,甘草、巧克力、黑胡椒、核果、黑醋栗、黑莓醬料,味,飲下光滑後帶著黑醋栗以及黑莓黑櫻桃醬的滋味,接著辛香料如胡椒、甘草味衝出,櫻桃味前,椒鹽胡椒味後,尾韻殘留風乾果皮香,層次豐富的教皇新堡。與我原先準備帶來開瓶的酒款一同,直覺想到教皇新堡。
搭上牛排,其辛香味維持著與紅酒融合,酒體的苺果醬味增強,酒體柔順,尾端與原味均同相當融合。
小黃瓜莫希多
Cucumber Mojito
甜點前清口小品是Mojito雞尾酒的概念,又有點分子料理的模型甜點,Dennis說明這是以將新鮮小黃瓜榨汁,加入白蘭姆酒、糖、薄荷、新鮮萊姆汁等等配料與酒做成冰沙,然後灌入球型模具,製作成冷凍小圓球。
然後再將可可脂加熱融化,以竹籤串住快速泡到可可脂中,可可脂沾附冰沙球表面形成薄膜後,置於冰箱冷凍,在上桌前取出退冰至半結凍半液態後上桌。
一口咬定,是的清口小點,一咬爆漿,立即��感小黃瓜、薄荷以及盤附上頜啜允代融化的可可酯,果然如mojito的沁涼香氣,舒適好吃。搭上微發酵的茶加上氣泡水,香氣四溢帶點果感,口感跳跳的氣泡感,乾爽。
氣泡茶
吃甜點同時附上一款經過為發酵的茶葉,然後與冰涼氣泡水融合,飲下清爽帶氣泡甜跳刺激,不澀而留香的茶品。
水蜜桃梅爾巴·東加豆冰淇淋
Peach Melba with Tonka Bean Ice Cream
搭配酒款
Klein Constantia, Vin de Constance, Constantia, South Africa 2007
餐後甜點,先是端上一顆蓋上透明薄衣的冰凍水蜜桃,經解說這薄衣是檸檬馬鞭草、糖、水、洋菜粉一起煮滾,冷卻後凝結成凍切成正方形的樣態,而水蜜桃則是來自加州水蜜桃,去皮後加入香料糖水、水蜜桃汁、大溪地香草、錫蘭肉桂等等,以真空20秒方式讓糖水快速滲透。
而切開時發現原來東家豆冰淇淋藏在其中,這是用蛋黃、糖、牛奶、鮮奶油、東加豆一起加熱然後隔冰塊快速冷卻後,以冰淇淋機製成冰淇淋,精彩好吃。
法式千層酥、加州杏仁片、蛋白糖霜以180度烤30分鐘。而森林莓果醬的部分是以紅醋栗、黑醋栗、黑莓、藍莓、野草莓、糖小火熬煮成醬汁。裝飾物是用新鮮紅紫蘇苗、檸檬馬鞭草葉等等配置。
最後主廚Dennis也來桌邊精彩以液態氮方式將食用玫瑰、覆盆子、草莓、糖、錫蘭肉桂一起煮好後冷卻,炒成冷凍玫瑰覆盆子慕斯冰沙,並撒在水蜜桃甜點上方。
這道甜點我感覺十分小女孩的直覺..嗯嗯我怎麼直覺想到演Tony Stark女兒的那位小女孩Lexi Rabe,除了粉紅粉紅,梅果清新,冰涼而十分酸香,水蜜桃冰涼半冰感,外層那道粉粉果凍衣,口感美麗,小清新,液態氮製作的食用玫瑰與覆盆莓果,酸甜如冰清新爽口的點心。
搭上Klein Constantia, Vin de Constance, Constantia, South Africa 2007來自南非的香甜酒,呈現琥珀金黃色澤,酒腿緩慢流下,光澤高貴,氣味帶著清新的草皮,乾爽的雅雅香,有種棉被的氣味,是一種香草香;口味,甘甜而輕柔,綢密口感甜度恰好,不如其他產區甜酒過於死甜,尾韻微微酸香清新脫俗。
與甜點搭起來聽可口香甜的,把甜度降低了些也讓蜜桃香氣突出,整個過程都十分舒適,理想的搭配。
精緻茶點
Mignardise
瑪德蓮、百香果水果軟糖、可麗露,最後與我點的咖啡拿鐵共舞,結束豐富的一餐。
熱拿鐵
Café Latte
最後飲品我選了拿鐵,不過,總覺得飯店的拿鐵總是像曹孟德下的一道夜哨口令「雞肋」。
關於「私饗之巔」
這是一場客座活動,時間是108年6月19日至23日,台北喜來登安東廳近期的策略超展開,我不敢臆測餐廳的企圖還有遠大的目標,不過能邀請神秘私廚Villa Ollila的主廚到此客座也算是慧眼識英雄,私廚餐廳也將團隊帶來安東廳為賓客服務,這同時也是對於美食界觀察家多了一點敏感度。
尤其安東廳連兩年獲得米其林的推薦,似乎也想追上17樓的二星餐廳「請客樓」,不過性質不同不太好互相比擬,但這場客座卻也能讓更多愛好美食的人,關心餐飲的人認識,餐飲界還有很多百里溪、膠隔與孫叔敖。
主廚賴俊源Dennis Lai,除了曾於榮獲Asia 50 Restaurant的樂沐餐廳(Le Mout)擔任副除外,也曾於樂沐延伸的餐廳擔任主廚,結束在樂沐的工作之後來到臺北並受邀擔任私廚Villa Ollila主理人,一展法式廚藝身手,此外Dennis也時常遊歷歐美以及日本,不侷限在自己的專業,也從各國的餐飲風俗中找出創新思維,同時反映自自己的料理之中。
國際關係中有一個理論稱為Interdependence Theory,儘管指的是不同國家之間因為不同行為而彼此依賴影響,角色位移在餐會之中,不免也有這幾分敏感,餐廳要練就功力,主廚則以此出發,期待未來可以看見新作為。
小結
說起來有趣,今天才是第一回見面,而我對他的認識來自於其他餐廳描述,例如已經歇業的花蓮日式料理「蓁菓湜」,臺南握壽司餐廳「壽司天」等,Dennis品味美食不眼高手低,特別喜愛直接不做作的味道,也不喜歡刻意模仿的味道。
而在他的12道料理當中也反映了他的個性,工法繁複彈道味道協調,不算什麼炫技用王牌投手的華麗直球對決形容也不為過,而論今天的料理喜愛許多,生蠔、海膽燉飯、干貝、七星斑等都是想再來一份,而牛小排的油脂晶透狀在我腦袋回憶,不是臺灣牛排館牛肉,印象都是日本的米其林餐廳還有少數臺灣的餐廳也有吃過;最可愛的是甜點,連我這個對水蜜桃沒興趣的人都吃得開心滿意。
分享客座活動
「私饗之巔」
客座地點:台北喜來登安東廳
客座主廚:賴俊源Dennis Lai
料理種類:現代法式料理
菜單:12道料理
Wine Pairing : 5杯
服務團隊:Villa Ollila及安東廳
決算於廟堂之上 —「私饗之巔」 我回想一下,也回看一下,今年參加的客座餐會幾乎沒有,我也會想知道為什麼不想去這類的客座餐會呢?很大的原因是對於臨時湊合得不信任感,與我想像中的極致美味差得太多,所以我還是信任回歸餐廳的本身。 我遇過的客座通常有幾種,一種所謂聯手的,好聽一點,媒體取作聯彈,這類大致不變的是主廚各出各的菜,拿手的菜,或是餐廳招牌菜;還有一種認真一點的就是早早來找食材取經,回家研究幾個月後再辦餐會,找出食材的特性以及灌入自己的概念,而這種客座並非聯彈,而是專業主廚快閃;還有一種是餐酒搭配,邀請調酒師與之談論搭配菜餚的一種餐酒會,我個人認為這類的相對危險而且容易落入了無新意,這種需要更久的時間磨合才能找到一種絕對美味。 另外還有一種比較難的遇到的是聯合出菜,也就是協作料理,一道菜裡都看得見主廚的性格;最後一種,就是將整間餐廳團隊帶過來,菜單帶過來,再加入一些新菜色。而我個人比較偏好最後一種,雖然沒去過Noma但是他們曾經一度一直在做這種事,台灣也有些主廚在做這這種模式,不過比較少。而今天的餐會���是屬於此類型的客座餐會,更難得的是,平常想吃還吃不到。 韜光養晦,有所作為 隱藏才能,不使外露;時機成熟,刀劍出鞘。這八個字的運用是中國學者們最熱愛用的對句,這詞彙前者為鄧小平改革開放過程要求的態度,後者則是中國崛起後要超英趕美的實踐,不過這篇並不與這些人有關,而是最信想想這對具挺適用於近期的台灣飲食環境。 在我眼觀,臺北米其林指南入台第一年試試水溫,各行家們預測百出,有挺有貶,邁入第二年後,了無新意的名單多了幾間星色彩,尤其幾間開業不到幾個即刻摘星,紅皮書背後還有什麼意義?這讓我有幾點疑惑。 第一,臺灣餐飲環境在米其林指南裡是否已進入蜀中無大將了空乏期,簡言之還是許多餐廳不得秘密客的青睞;第二,努力向上期,除了密探們在觀察觀看外,各家主廚也在觀望,對餐飲有興趣的投資者各式磨刀霍霍,無論在虛榮上可以進入手冊摘星外,還是主廚完成萬分準備準備出山,都反映了第二年的米其林無趣性;第三,要換個角度來看看這最容易被人們視為黑箱作業的米其林指南,只管中文官網上只做了片面的大家都想得出的解釋外,由於極度保密,成為其功正確又榮意被是為不刻關的制度碰撞出許多刺激,喜好研究指南的人會質疑,秘密客有多少,除了得重複第一年的餐廳外,還得再用力發掘新餐廳,還有在種芸芸眾生的餐廳之中尋找出類拔萃,真的很困難,所以我也真的很質疑,因為連小吃都要評那真的很辛苦,我也會想理解他們的責任分工,責任區域,關心他們的身體健康,擔心他們會不會味覺疲乏…,所以還是回頭講的是指南的可性度。 近期高級餐廳再度猛出,餐廳裝潢比起去年更瘋狂的投入,衝進大台北都會區的主廚也越來越多,倘若說第三年指南會更有看頭,那麼可以拭目以待,但我更有興趣的事情是,韜光養晦的主廚們,是否準備要有所作為了呢? 當然,在大臺北餐飲江湖中,不僅只是眼中老是看見的那幾間餐廳而已,還有主廚也正磨刀霍霍,十年磨劍,不強出頭,而現在是否也是準備要道士下山,超英趕美了呢?我期待今天來的這場餐會之后,會有更閃亮的鋒芒出現啊。 台北喜來登安東廳「私饗之巔」 久聞法式廚藝Dennis之名,由於Villa Ollila為會員制私廚,慣於獨往獨食的我當然難以一嚐手藝,今天總算是要回味了;Dennis曾於樂沐擔任副廚7年,為何我說會重新回味呢?記得在我還是飲食兩光小屁孩之時,概約8年前曾第一次品嚐樂沐法式餐廳,對於法式料理當時還是陌生,而後才逐漸更愛逐漸深入,推算一下當時Dennis正是在樂沐法式餐廳。 現在在臺北要找法式餐廳,法式指南的選項到底多嗎?經過兩年的米其林且讓法式餐廳連年敗陣,這也許對廣大投資者或主廚會有所卻步,或是改變戲路;但仍有堅持理念,不離經叛道的法式主廚繼續走在陣前。這讓喜愛法式料理的我也感到對美味的動力,對料理的內涵,可繼續有對話的對象。今日品嚐Dennis的12道料理,每道料理是精心策劃準備,不僅如醉,更找回了些我對料理的熱情。 用餐日期:2019年
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大和 ウォースパイト 榛名改二 サラトガ
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