#柳生花しょうぶ園
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The garden features various irises with different colours and types, creating a vibrant and colourful landscape.
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2024年8月14日
【速報】岸田総理が自民党総裁選への不出馬の意向固める(TBS NEWS DIG)
岸田総理が来月おこなわれる自民党の総裁選に出馬しない意向を固めたことが、複数の政権幹部への取材で分かりました。このあと、記者会見を開き、岸田総理自ら説明するものとみられます。
総裁選には、石破元幹事長や小泉元環境大臣の他、茂木幹事長や河野デジタル大臣、高市経済安全保障担当大臣らが出馬に意欲を見せていますが、岸田総理を支える立場の党幹部や閣僚が総裁選に出馬することには批判的な声もありました。
岸田総理が出馬しないとなれば、総裁選の構図も大きく変わることになり、「ポスト岸田」レースは激しさを増すことになりそうです。
岸田首相、記者会見で総裁選不出馬を正式表明 「自民が変わるため私が身を引く」(産経新聞)
岸田文雄首相は14日、首相官邸で記者会見を行い、9月の自身の任期満了に伴う自民党総裁選に出馬しないと正式に表明した。
首相は「今回の総裁選は自民党が変わる姿、『新生・自民党』を国民の前にしっかり示すことが大事だ。自民党が変わることを示す最も分かりやすい最初の一歩は私が身を引くことだ。総裁選には出馬しない」と述べた。新総裁選出後に岸田政権は退陣し、約3年で幕を閉じる。
岸田首相の在任期間は14日時点で1046日で、岸信介氏に次ぎ戦後8番目の長さとなっている。
G7広島サミットのワーキングランチで記念撮影に応じるG7首脳。右手前が岸田文雄首相=2023年5月19日、広島市南区、代表撮影
広島から首相、期待したが… 岸田氏の総裁選不出馬表明で被爆者らは(朝日新聞 8月15日)2024年8月14日に追記
岸田文雄首相が自民党総裁選への不出馬を表明した。広島選出の総理大臣として、被爆地の声を国内、世界に向けて届けることはできたのか。(柳川迅、魚住あかり、遠藤花、編集委員・副島英樹)
広島市の松井一実市長は岸田首相の平和行政について、「ライフワークである核兵器の廃絶に向けて積極的に取り組まれた」「『ヒロシマの心』を世界に発信するために御尽力いただきました」と評価した。自民党の県議や市議と同じく、主要7カ国首脳会議(G7サミット)の広島開催などを成果に挙げた。
一方で、県内に二つある県原爆被害者団体協議会(県被団協)の理事長はいずれも、日本政府が核兵器禁止条約に署名・批准するよう訴えてきた。しかし、核保有国が参加していないことを理由に、岸田首相は後ろ向きな姿勢を示し続けた。
佐久間邦彦理事長(79)は、「これではいつまで経っても(核禁条約に)『入らない』と言っているようなもの。本当にやる気があるのか見えなかった」と振り返る。
佐久間理事長と箕牧智之理事長(82)は、8月6日の平和記念式典に合わせて開かれた「被爆者代表から要望を聞く会」で、岸田首相と面会したばかり。箕牧理事長は「被爆者の訴えを一つでも受け止めてくれるのではないかと期待していたが、淡々と聞くだけだった」と話した。
広島を拠点に平和活動に取り組むNPO法人「ANT―Hiroshima」理事長の渡部朋子さん(70)は岸田首相の3年間について、「広島にとってチャンスかもしれないとみんな期待しましたが、残念ながら広島の宰相ではなかった」と語った。
昨年5月のG7広島サミットでは、核抑止力を正当化した「広島ビジョン」も発表され、被爆地から選出された岸田首相もその文書に名を連ねる一人となった。サミットについて渡部さんは「広島が貸し舞台として使われ、肩すかしでした」と残念がる。
岸田政権が閣議決定で防衛費拡大を進めたことを「戦争のできる国にし、原発再稼働も進めた」と指摘。「核軍拡が進む状況にのみ込まれ、戦争被爆国としてのリーダーシップが見えなかった」と振り返った。
広島市安佐南区の会社員、末棟将彦さん(44)は、元々外務大臣だった岸田首相の外交に期待していたという。サミットで各国首脳が広島を訪れたことを「歴史に残る」と評価しつつ、「もう一歩、核廃絶に向けて踏み込んだ外交をしてほしかった」と述べた。
統一教会問題や自民党派閥の裏金問題など、数々の「内憂」に見舞われた首相でもあった。
「大変驚いており、本当に残念だ」。自民党広島県連会長代理の中本隆志・県議会議長は県庁で会見を開いた。「安倍政権、菅政権下の色んな問題が浮上し、対応に追われた3年間だった。裏金問題の対応では、身内である自民党議員の協力があまり��少なかった」
広島市議会の会派「自民��・市民クラブ」幹事長の山路英男市議も「国防の強化や経済安全保障は岸田政権の下で進んでいる」と不出馬を残念がる。裏金問題については、「巻き込まれた形だ」と話し、問題を受けて政治資金規正法が改正されたことについて、「党内ではだいぶ反発もあったと思うが、大きな決断をした」とたたえた。
平和記念公園を歩いていた広島市中区の山本裕志さん(67)は裏金問題について「私利私欲のための政治になっていたのでは。広島から出た首相で期待していた。もう少し国民のための政治ができなかったものか」と話した。
GDPは百年前に「逆戻り」 それでも日本は「強兵」路線に進むのか(朝日新聞 100年をたどる旅~未来のための近現代史~③「持たざる国」の素顔)
「DIME」という安全保障のキーワードがある。 今回はこれを切り口に、「持たざる国」日本がたどってきた100年の歩みを考える。
国内総生産(GDP)は1940年代に生まれた。資源や物資など戦争を遂行できる生産力がどれだけあるか正確に把握する指標として、米英が開発した。「第2次世界大戦が生んだ数多く��発明品の一つ」と英ケンブリッジ大のダイアン・コイル教授は位置づける。
世界に占める日本のGDPは、百年前と同じ水準に逆戻りしている――。英国の経済学者アンガス・マディソン氏の研究チームは、西暦1年から今に至る世界各国のGDPを歴史資料から推計してきた。そこから浮かび上がってきたのは、そんな日本の姿だ。
日本のGDPの世界全体に占める割合は1920年は3・4%。それが戦後の経済成長で急伸。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと称された。米国の地位をも脅かす経済力を誇った90年には8.6%に上昇した。
上位20カ国。マディソン氏の研究チームの最新の推計結果から。1920年の中国はデータが無いため、1900年で代用。1920、90年のロシアは旧ソ連のデータを使用。ソ連以外は現在の国旗
だが、その後、中国をはじめとする新興国の経済成長が加速。日本は人口減社会に突入して主要7カ国(G7)で唯一足踏みを続け、2022年には3・7%に落ち込んだ。歴史的な「定位置」に戻ったともいえる。
現在の日本のGDPは世界4位。米ゴールドマン・サックスによれば、さらに50年に6位、75年には12位へ転落が予想される。日本は近い将来「経済大国」の看板を下ろすことになるかもしれない。
問われるDIMEの発想 軍事以外が軽視されていないか
一方、岸田政権は一昨年末、27年度の防衛費のGDP比を倍増させ、2%にすることを決めた。27年度の防衛費は世界5位内に入り、「軍事大国」に仲間入りする可能性がある。
問題は、この歴史的増額が果たして「国力」に見合っているのかだ。マディソン氏の研究チームの一員である深尾京司・一橋大特命教授(国際経済学)は「人類史上まれに見るスピードで人口が減少していく日本の世界における経済的地位が、当面再び高まることは考えづらい。日本が単独で防衛費を拡充しても限界がある」と指摘する。
米国防大のテキスト「国家安全保障戦略入門」には、国家は「外交、情報、軍事、経済(DIME)という四つの主要な手段を駆使して力を行使し、目的を追求する」と記述され、「DIME」の統合的運用が重要だと説かれている
「DIME��ダイム)」という言葉がある。「外交(Diplomacy)」「情報(Information)」「軍事(Military)」「経済(Economy)」の頭文字を取ったものだ。米国が安全保障の指導者育成のため設立し、米軍の将校や文官らが在籍する米国防大(NDU)のテキスト「国家安全保障戦略入門」では国家安全保障の構成要素にこの四つを挙げ、DIMEを駆使して目的を追求するとしている。軍事は大事な要素だが、それだけでは国の安全が担保できない。国力の重要な要素であるDIMEを統合して国の安保を確保する、というのが、欧米では常識となっている。
近年では中国に対抗するため、「技術(Technology)」を加えた「DIME+T」、あるいは「金融(Finance)」「諜報(ちょうほう)(Intelligence)」「法執行(Law enforcement)」を加えた「DIME+FIL」とも呼ばれる。日本では安保を考える際、これまでDIMEという言葉はほとんど聞かれなかった。
だが日本はかつて「国力」から目をそむけて軍事偏重に走った結果、人的・物的破局を招いた。
むろん、過去と事情は異なる。安保環境の変化を踏まえた防衛力の要素は必要だろう。だが今、安保を議論するのに、軍事以外の要素が、あまりに軽視されてはいないか。
岐路に立つ今だからこそ、「国力」を重層的に、冷静に見つめる視点が求められている。
日本の安全保障にDIMEの発想はあるのか。
日本の国家安全保障戦略、乏しい経済・外交の記述
一昨年改定された日本の「国家安全保障戦略」には「外交力・防衛力・経済力・技術力・情報力を含む総合的な国力を最大限活用して、国家の対応を高次のレベルで統合させる戦略が必要である」とある。
日本はこれまで、安全保障は米国を最重視し、経済面では最大の貿易相手国・中国との協力を深めてきた。だが、その米中の対立は軍事だけでなく、経済や技術といった非軍事の分野にまで拡大。安全保障の裾野が広がるなか、日本もいや応なく「踏み絵」を迫られている。自国の国力を見つめ、「国益」を見定めていこうというのが新戦略の趣旨だ。
しかし、中身を見ると、経済や外交に関する記述は乏しく、経済安保の項目も他の記述とのつながりがない。「戦略」の一部分を担当したある省の幹部は「戦略の全体像の議論もなく、他の項目の記述も見せてもらえず、一部の項目だけ割り振られた。いわば(各省からの文章を短冊状にしてつなぎ合わせる)『短冊方式』だ」と不満をもらす。DIMEを掲げてはいるが、「軍事」に重きが置かれ、政府一体の「総合的な国力」の底上げを図ろうとの意識は薄い。
歴史的な増額を決めた防衛費の財源も宙に浮いたままだ。
参院本会議で防衛費財源確保法案が審議入りし、答弁する岸田文雄首相=2023年5月24日
岸田文雄首相は防衛費倍増を決めるにあたり、安定財源の確保について「今を生きる我々の将来世代への責任」と訴えた。しかし、首相が確保したとする財源の大半は、1度しか使えない国有財産の売却など安定財源にはほど遠いものだ。唯一、実効性がある防衛増税は、自民党内をまとめきれず、いまだ実施に必要な法律もできていない。
戦略の策定に先駆けて首相官邸が設置した有識者会議でも、「国力」をめぐる議論はあった。エコノミストの翁百合・日本総合研究所理事長は「防衛力強化には、持続的な経済、財政基盤強化と国民の意識の共有が大変重要だ」と訴えた。エネルギー自給率の低さや、債務残高の国内総生産(GDP)比の高さなどを挙げ、「そのリスクを認識する必要がある」とも指摘した。DIMEに通じる考え方といえる。一方で「『国力に見合った防衛力』と固定的に考えるべきではない」と積極的に防衛力強化を唱える論者もいた。だが、有識者会議は3カ月間に計4回開かれただけで議論は煮詰まらず、メンバーも不満を口にした。
戦前の日本もDIME的発想で自国の国力を見つめようとしたことがあった。(大日向寛文、編集委員・佐藤武嗣)
対米開戦前、日本の「敗戦」を予告する二つの報告が軍と政府それぞれの研究チームでまとめられていました。 第4回「予知されていた『敗戦』」は8 月15 日配信予定です。
コメントプラス
加谷珪一(経済評論家)【解説】 国家の戦争遂行能力は基本的にGDP(国内総生産)に比例するといわれます。当たり前のことですが、軍隊の維持には費用がかかりますし、実際に軍事的オペレーションが始まれば、物流など経済インフラの強さが戦争継続のカギを握ります。一般的にロジスティクスという言葉はビジネスにおける物流のことを指しますが、ロジスティクス本来の意味は軍隊における兵站(へいたん:物資の補給など)です。言い換えれば、日常的に経済活動が活発で、多くの人やモノが移動している国、もっと簡単に言ってしまえば豊かな国ほど、いざという時にこうしたリソースを戦争に転用できるので、高い戦争遂行能力を発揮する仕組みです。世界でもっとも豊かな米国が最強の軍事力を持っているのはある意味で当然のことといえますし、経済規模が小さくなれば、やはり戦争遂行能力も低下せざるを得ません。
ちなみにGDPに対する軍事費の比率は、全世界的に見ると2%程度が標準です。常に何らかの軍事活動を行っている米国や、大規模な戦争を継続しているロシアのGDP比は3.5%~4%と高くなっています。日本の防衛費はGDP比1%という制約がありましたが、岸田政権が防衛費の倍増を決めたことから2%程度に上昇する可能性が高まっています。
不気味なのはやはり中国でしょう。中国の軍事費のGDP比はわずか1.6%ですが、GDPそのものが大きいので、軍事費の絶対値は日本の6倍にもなります。中国が米国並みに軍事費をかけた場合、その金額は途方もない水準となります。
辻田真佐憲(評論家・近現代史研究者)【視点】 戦前と現在の類似性に焦点を当てた分析ですが、差異にも注目する必要があると思います。戦前の日本は、経済的にはそれほど強くなかったかもしれませんが、北東アジアにおいて高度に近代化された軍隊を持ち、自主的に行動することができました。しかし、現在の日本は状況が異なります。日本が大陸で大規模な軍事行動を起こすことなど想像しにくいでしょう。むしろ、現在の北東アジアで軍事力を誇り、主導権を握っているのは中国です。したがって、戦前の日本と現在の日本を比較するのもいいですが、戦前の日本と現代の中国を比較するという視点も合わせてもたなければならないでしょう。
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丘の石碑
目覚めるとカーテンの向こうが早朝だった。 仲間の中で唯一床に横になって寝ている、その人の、かたく握られている片手を、眠っていることを確かめるよりも前に、私は待ちきれなくなって指で開いた。そこには小さな銀紙が握られていた。手のひらの細かな凹凸に合わせてシワくちゃになっていた薄い銀紙、私はそれを手に取り、自分の鼻の前に持ってきて匂いを確かめた。そして破かないように注意深くていねいに銀紙のシワをのばし、指で開いていった。6センチ四方ほどの四角い面に私の手のひらを当てる、それは普段は目を合わせることもない同士の私たちの握手だろうと思った。 さっきまで、学校で一番好きな子は誰なの? と眠る前に話し合った結末を夢の中でもう一度訊かれて戸惑っていた。私は夢でこう答えた、 『ぜんぜん知らない。そういうみんなの方が本当は全部知っているんじゃないの?』 銀紙に、灰色のカーテンから入る朝日は鈍く反射しているように見えた。柔らかくて優しい光だった。それと同じ暗い光がカーテンから入り、部屋の暖かい空気と溶け合って、部屋のあちらこちらで立ったまま白い柱状になって眠っているみんなの姿を包んでいた。
今ではもはや人間の姿をしているのは私と、床に横たわるその人だけだった。この秘密に私は驚かなかった。むしろ、ここ数日の会話のやりとりで抱いていた違和感や疑問にも少しは納得がいくような光景だった。やっぱり、私たちが毎日必死で捜している過去や未来の出来事を、この五本の柱となった友達たちはみんな全部知っているんじゃないか。私が誰を好きか、私は知らないけれど、みんな知っていたのだ。���っていて、黙ってくれていたのだ。柱状の友達たちは静かに目を閉じて、天井と床を真直ぐに繋いでいた。じっと耳を澄ませていると五本分の柱の寝息がちゃんと鳴っているが、人間の呼吸とは明らかに違っていた。それはまるで換気扇の中を空気が通過していくような、緩急のない一定の低い響きだった。みんなの頭から爪先までは一本の管になっていて、体の中を空気が一方通行に通り過ぎていくのかもしれない。 私は広げた銀紙にガムをはいて、溢れないように指先できつく摘んでそれを畳み、しばらくのあいだ握っていた。ガムは次第に私の口内の熱を失って銀紙の中で硬くなっていき、それと同時にそれを摘む私の手の温度を獲得して、柔らかさと硬さのあわいを揺れ動いていた。
日曜日の午前の並木通りには人がたくさんいて、たくさんの大人が自分とペアの子供に何かを言っている。「そこに、座っていなさい。」たとえばその人は私の他人で、子供のことをピーマンと呼んでいる。「じゃ、車の方に歩いていってね。」たとえばその人は、犬が疲れているみたいだから水を寄越そうとしている。歌を歌うフルートの声が遠くから響いてくる。「ねえ帰るよ、もう帰るよ。」たとえばその人は、子供を呼ぶために人々のさなかで大声を出すことを厭わない。 「じっとしていると寒いね。」 そのような、雑然とした言葉が飛び交っている長い並木通りを北へ抜けているあいだは、人々の声に耳を傾けて空想に浸ってもよいし、景色を眺めていてもよいし、現実的な考え事をしてもよいし、私は何もしてもいいのだと頭では分かっていても、結局は何をしたからといって、並木通りを通り抜ける以上の行いにはならない気もした。 丘への並木通りを往くのは親子だけではなかった。弾みながら歩く犬はみんな宝物のようにキラキラしている。ふたつの目、背や尻の毛並み、犬のまだ白い湿った吐息、全てが光を真に受けている。犬は息を切らせて草木の中を走りまわり、飼い主がよろよろとそのあとを続く。 私は並木通りの犬を見ていると、かつて飼っていた小さなゴールデンハムスターのことを思い出すのだった。ハムスターは私の誕生日にペットショップで買った。父の仕事部屋のケージで2ヶ月生きたが、寒くなってきた途端に風邪をひいてしまい、動物病院へ向かう道中で段ボールの中で死んだ。 私がもっと大人になって、世の中のいろんなことの分別がつくようになって、どんなお店や水辺や国の入り方も一通りわかるようになって、だいたいの食事の味や綺麗な食べ方を知るようになって、大人同士のやりとりで発生する複雑な無言の作法もわかるようになって、そうしたらもう一度ぐらい生き物を飼ってみたいな、��眠い頭でぼんやり考えた。私は親しくなった動物が死んでしまうことが何よりも恐ろしかった。親しいものを失うくらいならば、逆に私の方が失われた方がまだましだと思うほどだった。しかしそれはまた、親しいものに、私という親しいものを失わせることに他ならない。
私は北の丘に着いた。丘は広く、その全体は黒い幹の樹々によって縁取られている。地面を覆っている芝生はところどころが人の足跡によってささくれて黒い土が見えている。丘の中央では大きな白いもやのようなものがゆったりと揺れていて、近づいてみるとそれは枯れかけているススキの群れが風にそよいでいる姿だった。並木通りと比べると丘には人がまったく居ない。時折また南の方から子供の声が響いてくる以外はほとんど静かだった。 丘のある場所に、花崗岩でできた石碑が立っていた。背丈は大人ほどもある。その石碑の何かが私の興味を引いた。いつからそこに立っているのか、岩全体には雨による縦の汚れが目立ち、金属板にはくり抜かれた文字がびっしりと数百文字連なっているが、浅い凹凸に土汚れが詰まっていてほとんど読むことができない。 石碑の文字盤を読もうとして、土汚れを爪で引っ掻いて格闘していると、家で眠っていたはずの友達が背後からやって来た。 「何してるの?掃除ボランティア?」なんだかいやな言い方だな、と思った。「そう、掃除ボランティア。」と私は嘘をついた。「よくここにいるって分かったね。」 彼は照れたような顔をしていた。 空は真白に曇っていて、雲より白い太陽が輝いていた。背の高い友達のちょうど頭の真上に太陽が昇りかけている途中だった。光がところどころで虹色に分裂し、私は目を細めて彼を見上げた。 私は彼のことが気に入らなかった。彼はいつも元気に振る舞って、みんなの目を見つめたり名前を呼んだりしながら過ごす。彼が何かおもしろいことを皮肉まじりに顔をしかめながら呟くと、みんな一斉に笑った。すると彼も一緒になって風のような無声音とシワの目立つ笑顔で笑った。気に入らないのは、それが空元気だということに彼自身もみんなも一向に気づく気配が無いことだった。 「みんなは?」 「家で寝てたよ。」 「誰も起きてないの? もう昼じゃない?」 「うん。だけど、もしかしたらもう誰も起きないんじゃないかな。柱になっちゃってたし。」 「やっぱりそうか。」 「うん。」 「柱になったらもう人間は起きないのかな。」 「わからん。目が無いから、目が覚めるとか無さそうじゃない?」 「そういうことか?」 彼は返事をせず、私の隣に腰を下ろし、石碑の文字に顔を近づけた。 「何だこれ、読めそうで読めないな。」 「そうなの。」 「ああ、だから引っ掻いてたんだ。おもしろいこと考えるね。」 私は少し笑った。彼も少し笑って、私の手先を真似て人差し指で石碑の金属板に挟まった土を��き出し始めた。何かの平仮名の『はらい』の部分を綺麗にすると、それは『れ』のように見え始めた。しばらくの間私たちは鼻歌を歌ったり、いつ終わっても構わないような会話をしながら石碑を爪で掃除し続けた。すると突然「ねえ、これってもしかして。」と彼が言った。 「……何?」 「……人名だ。」 「どういうこと?」 「昔ここでたくさん死んだんだ。」 「人? 虫が? 犬が?」 「それは、人だろうなあ。」 私は石碑を掻く手を止めた。頭上を飛行機が通過していった。彼が言った。 「なんかお腹すいた。そろそろ戻らない?」
家に帰ると、いまだに五本の白い柱は部屋に立っているままだった。静かに呼吸している柱の合間を縫って、私たちはキッチンの深い鍋でお湯を沸かし、パスタを茹で、冷蔵庫から彼が出してくれたレトルトナポリタンソースと胡椒をかけて食べた。 灰色のカーテンから差し込む光はもうすでに午後の光になり始めていた。しかしカーテンを開ける気にはなれなかった。柱状の彼らが眩しさや騒がしさに驚いてしまわないように、私たちは薄暗い部屋でつとめて静かに食事をした。
柱の一本を触り、中指の関節で叩いてみると、奥の方でかちかち、と音が鳴った。これは誰だろうか。マキちゃんか、高柳くんか、……。 ……ずっとこうして耳を塞いでいるんだ。
午後になってしばらくが経っても、白い柱になってしまったみんなの形が変化する兆しがない。私と彼ははっきり言って暇だった。眠り続ける柱を前にすれば丘にいた時のようなお喋りも自然と止み、何をするでもなく、朝目覚めた時と同じポーズをとって絨毯に寝そべってみるばかりだった。 永遠に続く五本の柱との生活のほんの始まりのようにも思えたが、不思議と悪い気はしなかった。柱が増えた彼の部屋に私は時々遊びに来ればいい。そうすればまたみんなで遊ぶのと変わりはないのだから。 ただいつまでも同じ部屋に換気もせずにいると気分が悪くなりそうなので、「また外に行きたい。」と言ってみると、「いいけど、公園じゃなくて、今度は近くの川に行こう。」と彼は応じた。 川までの道中、住宅街の上の線路を、ゴウと音を立てて電車が通過した。やはり街全体も、線路がつなぐ両隣の街も、その向こうの街も、普段と変わらずに開始されているようだ。時間が止まってしまったのはあの部屋だけなのだ。 腰のあたりからメロディーが鳴り、彼は立ち止まってポケットから携帯電話を取り出してすぐに耳に当てた。もしもし……うん……大丈夫……え?週末か……。私は立ち止まらずにゆっくりと彼の先を往っていた。会話を聞いては悪いような気がした。しかし彼は思ったより早く電話を切り上げて、横断歩道の角を曲がるのをさすがにためらって待っていた私に小走りで追いついた。私は信号機のボタンを押した。 「ごめん、ごめん。」 「今の彼氏?」 「え、違うよ。」 「あ、そう。てっきり……。」 「なんでそう思った?」 信号が青になり、二人で並んで渡る。だんだんと道幅が狭くなってきて、そこにあたる陽も弱く橙色に近づき、川と夕暮れが近いことを知る。 「なんでだろう? 声が優しかったから。」 「私の?」 「うん。」 「あはは。お母さんだよ。」 彼はあの乾いたシワのある笑いではなく、本当のように幼い有声音で笑った。 「まあ、実験的にこうやって……。」と彼が何かを言いかけた時、枯れ草が生えた川の土手に到着した。 そこではみんなが遊んでいた。 マキちゃんと野村くんは流れの早い川に膝まで浸かり、水に両手を突っ込んで水の底を見つめていた。どうやら二人は川を泳ぐ魚を素手で捕まえようとしているらしい。浩子が離れた水流からそれをコンパクトカメラで撮っていた。モマと高柳くんはみんなから少し離れた岩岸にしゃがみ込んで何やら喋っていた。 「なんだ、みんな本当に柱になった訳じゃ無かったんだね。よかった。」 彼は本気で安堵しているのか、あのシワの目立つ笑顔を見せた。 「おーい!」 彼は土手の頂上から、川にいるみんなに向かって大きく手を振った。 高柳くんとモマがそれに気づき、彼と私の姿をみとめると、一瞬驚きの表情が浮かび、すぐに笑顔になって大きく手を振りかえした。一瞬遅れて、川に入って魚を追いかけていたマキちゃんたちも気がついて頭をもたげた。その途端、どうしようもない悲しみが急に波のように押し寄せて私を襲った。枯れ草を踏んでみんなの方へ降りて行こうとする彼の腕を咄嗟に掴み言う。あのね聞いて、ごめん私本当はね、あなたのことが一番好きだった。その時目が合った。怯えと期待が入り混じったようなシワの笑顔がはっきりと見えた、その口が何か言おうと開く瞬間が、人間としての私の視野の最後だった。私は彼の肩に額で触れようとして、勢い余って体にめり込んで彼と一体化してしまった。均衡が乱れたせいで私たちの肉体は混ざり合いながら石化し、バラバラと音を立てて砕け、河岸の枯れ草の上に崩れた。 私とその人は小さな白く丸い石の群れになっていた。もう元の二人の姿に戻ることはできなかった。みんなが川下で口々に何かを言っているのが聞こえた。やがて枯れ草を踏んでこちらへ近づいてくる人間の足音と、私の名を呼ぶ声が聞こえた。
2023
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「美人画の雪月花 培広庵コレクション」展
福島県立美術館で「美人画の雪月花 培広庵コレクション」展を見る。長年にわたって美人画を収集してきた培広庵氏のコレクションのうち約160点を見ることができる。展示作品は明治〜大正〜昭和中期ごろまでの日本画で、春夏秋冬の季節ごとに分けて並べられている。現代人としては、ルッキズムやセクシズムをバリバリに感じる美人画というジャンルに対して批判的な視点を持っていたいと思うが、この企画展を鑑賞するにあたってはそれはおおむね棚上げした。
全体を見て感じたのは、まずは江戸時代の浮世絵の影響の強さ、それから古典に題材を取った作品の多さ。文明開化以降も、少なくとも日本画の世界では江戸時代以前の伝統的モチーフが根強く生き続けてきたことが窺え、同時代的なもの新規なものを描く画が登場するにはだいぶ時間がかかったように見受けられた。
興味深かったのは、大原女を描いた作品も���点かあったこと。大原女とは大原といういわば田舎から出てきて柴や薪などを売り歩く女性である。なよ竹のような遊女や舞妓や芸妓や町娘などではなく、はつらつとしたたくましい女性を描いた作品が美人画に分類され得るとはあまり想像したことがなかったので、不明を恥じた。それと同時に、女性は野良着姿で仕事をしているときでも美人画の題材として画家の視線にさらされるのかと考えると、ちょっとげんなりもする。
よかった点としては、女性の画家の作品も少なくなかったことが挙げられる。その中でも広田多津《舞妓》は他の美人画ではあまり見ないツンとした表情で、なかなか魅力的だった。
展示は全面撮影禁止だが、美術館ロビーに撮影用のしつらえがあった。
山川秀峰《安倍野》。『蘆屋道満大内鑑』の葛葉姫と白狐を描いた屏風の一部。
池田蕉園・輝方《春秋図》。男装の女性と女装の男性を描いた双幅のうちの左幅。
上村松園《桜可里能図》。昭和10年ごろの作品だが、描かれているのは江戸中期の風俗とのこと。
竹久夢二《投扇興》。屏風の一部。柳腰の女性の逆S字のポーズがいかにも夢二。
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ハレとケ 〜 YUKI SHIMANE "WG Lace knitting dress"
こんばんは。
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さて、先日7/24,25は、大阪に住んでいると、ちょっと特別な日だったりする。
なぜなら「天神祭」が行われる日だからだ。
東京「神田祭」、京都「祇園祭」に並び、日本三大祭りの一つにも挙げられる。
朝から、近所の方と、「今日は天神さんですねぇ」なんて当たり前のように会話になり、「それなら暑いはずだわ」なんて、季節を告��る祭事でもある。
店を閉め、花火も終わったくらいに、少し祭りの熱気に触れてこようかなんて、珍しく思ったり。
そんな訳で、ちょっと大阪天満宮まで行ってきた。
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祭りの歴史は1000年を超える。
(サラーリーマン時代、開拓エリアということもあり、祭りの歴史について少し調べたりした。)
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催太鼓が大阪天満宮に宮入りする瞬間、ちょっと祭りの熱気に僕も当てられた。
催太鼓の宮入りを見届けた後、13年くらい前まで連日歩き回った街を振り返るように、場所を変えながら列を眺める。
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参加する方の列を見ていると老若男女問わず、皆が楽しそうだ。
歩道で観覧する僕らと車道で祭りに参加する彼らの間にはとてつもなく大きな境界があり、なんか��15年くらい前に見にいった諏訪大社の御柱祭でもそれを強く感じた。
祭りとは、神事を通じてコミュニティを結託させる装置でもあるのだと。
皆が楽しそうにしているのを見ていると、ちょっと幸せな気持ちになったり。
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そろそろ帰ろうかなんて思っていると、神様がもう少し見ていけということなのか、知人から着信。
知人と合流し、祭りを横目に屋台でビールを買ってフラフラと散歩した。
すぐに温くなるビールも、今日はなんだか格別に思えた。
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ちなみに、今年の天神祭のテレビ中継は歴代最高の視聴率を記録したそうだ。
それでは、本題に。
冒頭でお祭りのお話をさせてもらったけど、そんなお祭りは私たちにとって、ちょっと特別な、言わば「ハレの日」でもある。
一方、そんな「ハレ」に対して普段の日常を「ケ」と呼び、民俗学者、柳田國男が提唱した、私たち日本人の生活観でもある。
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そして今日ピックさせてもらう1着は、そんな「ハレとケ」どちらの場面でも活躍する1着だ。
YUKI SHIMANE : WG Lace knitting dress ¥52,800 (tax in)
もし、僕が女性だったら。
間違いなく買っていただろうニットワンピース。
編み地を地層のように積み重ね、ボーダーに。
凹凸感もあり、光が当たると一層立体的に見えて、ボーダーが際立つ。
足元まで覆うほどロングドレスになる。
(参考までに、身長160cm前後の方に着用してもらってます。)
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ニットの特徴として、自重でストンと落ちやすいのだけど、だからこそ美しいシルエットが生まれる。
また首元には、アクセサリーを身につけているかのような、ゴールドステッチが。
こちらは、最後に1着ごとにハンドでステッチを入れているそうだ。
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ちょっとここまではざっくりと簡単にご案内をさせてもらった。
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さて、このニットドレス。
実は、特殊な機械を使って編んでいるからこそ可能なデザインがあるということだ。
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ホールガーメントと呼ばれる機械を用いているのけど、この機械の特徴の一つに、無縫製でニットを作ることができるという点がある。
デザインデータと原料を用意したら、そのまま着用できるニットができるという機械だ。(始末が必要だったりするため、そのまま店頭に並ぶことはさすがにないけど。)
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ただ、この機械。めちゃくちゃ高いし、データの修正のやり取りが面倒だったり、その上コストもかかるということで、なかなかと面白いと思えるニットも少なく、僕の知人に言わせると、なかなかとこの機械の魅力を生かしきれていないということだ。笑
俺に機械を触らせろとまで・・・
(何様だよと突っ込みたいのだけど。)
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そんな特殊な機械を使っているのだけど、このニッ���ドレスでは、そんな無縫製という特徴を敢えて使わず、ニットドレス本体にフリルを編むために使うという、非常に贅沢な使い方をしているのだ。
ニットドレスの要所要所に編み込まれたフリル。
ニットドレス本体とフリルを直接編み込むことで、縫い目が生まれず一層すっきりとした仕上がりに。
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ちょっと難しい話をしてしまったのだけど、まあ、なかなかと見ることのできない贅沢な使い方をすることで、一層素敵な仕上がりになっているということなのだ。
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今回のニットをはじめ、そんな工夫に溢れて、その特性を活かすことで美しいアイテムを見た時、やっぱりテンションが上がってしまう。
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とはいえ、僕も最初に見た時、それを知っていた訳でもなく。
それでも、初見から一目惚れしたアイテムになる訳で、結果色んな工夫や技術が詰まった1着だったというだけで、やっぱり一番は可愛いが大切だなぁと。笑
夏ということもあり、この季節は1着で美しく。
キャミやペチコートをインナーに着用すると、蒸し暑い日も心地よく感じられると思う。
秋口には薄手のトップスをインナーに。
色合わせを楽しんでも良さそうだ。
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そして、普段の装いから活躍することはもちろんだけど、ちょっと特別な日だったり。
例えば、ドレスアップが必要な場面。
そんな日の装いにも���ススメしたい。
冒頭に戻る訳ではないけど。
「ケ」の日の装いにはもちろんだけど、「ハレ」の日の装いにもぴったりな1着。
どちらでも使えるアイテム。
1着あるとかなり重宝できるのではないだろうか。
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なお、こちらは現在オンラインショップでもご覧いただける。
合わせてご覧いただくと嬉しく思う。
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それでは次回もお楽しみに。
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『P-act文庫』、京都での1日
昨日4月16日(日曜)は、以前『メフィスト』で共演した白樫由紀子さんの朗読のイベントを見に、妻と二人で京都へ行きました。
妻はともかく私は京都へ行くのは久しぶりです。
お昼前に四条河原町に着いて、『権太郎』という蕎���屋で私は天ざる、妻は鳥なんば御膳を食べて、祇園・花見小路を歩いて建仁寺を見学。
建仁寺は建仁寺垣の語源になった寺だと思うのですが、行くのは初めてでしたし、そもそも「建仁寺垣」というのがどういうものなのか私は知りません。
こんな近くにこんないい寺があるのにどうして知らなかったんだろうと思うほどいいところで、期間限定で見られる講堂の天井画・双竜図もなかなかのもの。講堂の周りの牡丹も盛りは過ぎている感じでしたが見事でした。
近くには猪を祀った寺もありました。今年は卯年ということで、1月に兎を祀った岡崎神社へ行きましたが、十二支それぞれを祀った神社仏閣があるのですかね。寺と神社では意味が違うのかもしれませんが、私は亥年生まれなのでちょっと得をしたような気分です。
そこから四条通りまで戻って京阪で出町柳まで出て、ちょっと遠いかなと思いましたが下鴨神社まで足を伸ばし、境内近くの茶屋で私は冷やし汁粉、妻は申餅という餅を食べ、南に下ってP-actまで歩きました。
P-actは河原町今出川を下ったところにある小さな劇場で、雑居ビル(なのかな)の2階。キャパは15(詰め込めばもっと入るのかもしれませんが、コロナ対策もあって15にしているとか)。
「本日のお題」は3作ーー
田丸雅智作『同期で一番(白雪姫)』、読み人:白樫由紀子 夏目漱石作『変な音』、読み人:杉江美生 大倉燿子作『和製椿姫』、読み人:飛鳥井かがり
全部で70分ほどの朗読会です。
最後の読み人飛鳥井かがりさんがこのP-actの責任者のようで、この朗読会を毎月1回開催し、もう113回目ーー朗読会を2回以上見た人なら誰でも読み人になれるそうで、来年3月まですでに予定が決まっているとか。
大したものです。
正直、朗読と聞いて楽しめるかどうかちょっと不安でした。別に朗読してもらわなくとも自分で本を読めばいいじゃないかと思ってしまったのです。また、一日中歩いてかなりくたびれてもいました。
でも、お三方とも立ったり座ったり声色を使ったり、実に芸達者で、最後まで全く飽きることなく楽しむことができました。
ただ一つ残念だったのは、主催者の意向だったのでしょうが、お三方ともマスクをして朗読していたことです。
司会の分寺裕美さんも言っていましたが、読み手の表情や動きも表現の一つです。その表情が見えないのはちょっと残念でした。
そういえ��……とふと思い出したのが、中学生の時マイブーム(?)だったNHKの「お母さんといっしょ」の「お話こんにちは」のコーナーです。
中学生が「お母さんといっしょ」を見るのはどうかと思う方もおられるでしょうが、女優の田島令子さんが毎回10分程度の短いお話を読むこのコーナーが私は好きでした。
作者は毎回違いましたが、かなりのヘビーローテーションで別役実先生のお話を朗読していました。私はこの番組で別役先生の名前を知り、その後別役先生の小説や戯曲を愛読したので、ピッコロ演劇学校の特別授業で別役先生を目の前にしたとき感動のあまり震えました(だから演劇界で私が「先生」と呼ぶのは別役実先生だけです。演劇学校でお世話になった本田千恵子さん、島守辰明さんも先生には違いありませんが、ちえさん、辰さんと呼んでいます)。
別役先生の前で先生作の『あーぶくたったにえたった』の一部を学生劇団時代からの友人ホイコと読んで「よく練習してるね」と褒めていただいたことは、私の一生の宝です。
それを思えば、私の最初の演劇体験は朗読だということになるのかもしれません。
それもこれも含めていい1日でした。
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2023年1月16日
高速道路、2115年まで有料へ 老朽化対策費を確保 遠のく無料化:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASR1H6JFCR1HUTIL00G.html
水道橋博士氏 参院議員を辞職、辞職届受理 昨年11月から休職/芸能/デイリースポーツ online https://www.daily.co.jp/gossip/2023/01/16/0015969062.shtml
「ガキ使」18年ぶり歴史動いた マミィ酒井が河本準一の不動1位超え、涙 怒濤「七変化」女性マネも涙/芸能/デイリースポーツ online https://www.daily.co.jp/gossip/2023/01/16/0015969497.shtml
『証明写真機』が女子中高生に流行なぜ? “盛らない”撮影に新ニーズ、アナログ体験をデジタル発信する若者たち|eltha(エルザ) https://beauty.oricon.co.jp/special/101732/
三谷幸喜氏、大河ドラマで北条義時を主人公にした理由を明かす 『日曜日の初耳学』に登場 | ORICON NEWS https://www.oricon.co.jp/news/2263990/full/
お弁当に入っていたらうれしいおかずランキング!鶏の唐揚げ、エビフライ、卵焼き、1位は?|鶏の唐揚げ,卵焼き,エビフライ|他 - gooランキング https://ranking.goo.ne.jp/column/8505/
エーザイ、認知症新薬を日本でも承認申請: 日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC160PC0W3A110C2000000/
ドミノ・ピザ、見た目はピザな「バーガー」を発売 なぜバンズで挟む形にしなかったのか?:開発担当者に直撃(1/2 ページ) - ITmedia ビジネスオンライン https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2301/16/news093.html
Snow Man「舞いあがれ!」に登場?細かすぎる“演出”が話題「すごすぎる」「全然気づかなかった」 - モデルプレス https://mdpr.jp/drama/detail/3556324 V系が混じってるぞ(笑)。
アントニオ猪木さんに旭日中綬章が授与 - サンスポ https://www.sanspo.com/article/20230116-3KT3XIUWB5B3LF4KZ7K5CHN2LA/
激かわ動物さん「抱きしめ合う子猫!!!」 https://twitter.com/Gekikawa_Dbts/status/1614036339489665024
SUGIZO 「音楽に政治を持ち込むな」? 全身全霊で世の中に自分ができることをする:朝日新聞GLOBE+ https://globe.asahi.com/article/14812695
Amarantine / 常世 仁 (ことよ じん)さん「ギターとピアノと管弦楽によるシンフォニア《沈丁花 ~出逢いと別れ~》[Crossover Mix] https://t.co/JUMgmgGSBa ポップなクラシカルアレンジで https://t.co/OLLfBlDxWZ」https://twitter.com/Miu_guitar_Zin/status/1527759624241577985
ヤスヒロさん「🐶🆘迷子犬🎈 [#神奈川県茅ヶ崎市🐕] 🔹2023.1.12 🔴茅ヶ崎市 #東海岸南 の自宅から迷子になった柴犬の〝うみちゃん♀〟を探してます🐾🐕 ※ 茅ヶ崎海岸IC(新湘南バイパス)出口◽️柳島で目撃 🍀うみちゃん発見に皆様のお力をお貸しください🙏 #迷子犬 #神奈川県迷子犬 #柴犬迷子 https://t.co/R7NjsWO2r2」https://twitter.com/gY2TiUbn6e8e6KL/status/1614225197456064512
ryo m:a.ture / joppin:calさん「きっとわたしは明日のお昼は寝ているでしょうから今の内に宣伝しておきます。joppin:cal 7周年ワンマンのチケットは明日のお昼から発売開始です。777円だよ。イイイィィーーーッッ!!!」https://twitter.com/m_a_ture_ryo/status/1614259804926791687
WeROCK/ロッキンfさん「コロナ禍の間、沈黙を保っていたレデースルームが、ガマンならずに始動! 本日よりツアー開始です。 いや~、ライヴ前に取材させて頂いたのですが、あいかわらずな内容に笑うしかないのと懐かしさで涙😅💦 ぜひ、みなさんも、ライヴを体感してください。 インタヴューの模様は、次号WeROCK 093で! https://t.co/7Zf80qi6UN」https://twitter.com/werock_magazine/status/1614234126269444096
優貴さん「おはようございます 日曜日 なんか今までの動画が全てクラッシュしてカクカクしてるから少しずつ載せていこうかなと。 今日は打ち合わせと商談だから真面目にお仕事しなきゃだ。 日曜日って感覚ないけど楽しんで粋ましょ✰ˎˊ˗ https://t.co/c1EVnFV2SB」https://twitter.com/YUKI8686kk/status/1614391138491990019
[email protected](日) 新宿BLAZEさん「セットリストも決まって練習の日々です。このメンバーでステージをやるのは人生で一度だけになると思うので是非見て欲しい。楽しみましょう!! https://t.co/ORHNXjVXSN https://t.co/bzctAbNehE」https://twitter.com/KISAKI_OFFICIAL/status/1614601740397215744
亜希乃 ハルカカナタさん「みんなからの匿名質問を募集中! こんな質問に答えてるよ ● 昔よくライブ行ってました懐か… ● 答えありがとうございます。昔… ● アイコンの写真、なんでそんなに… ● テキサス! #質問箱 #匿名質問募集中 https://t.co/WSXFrPXG1u」https://twitter.com/glammy_akino/status/1614544329674215428
Always with you~to おはる ♡~さん「出演アーティスト紹介⑳ 21日出演 アンチフェミニズム 叫: KENZI Gt: SHOGO Ba: leaya Dr: ROSSY 首をあらってまってなさい。。 https://t.co/ivAgfk1jyv https://t.co/bTGja2PqKG https://t.co/ZQCm3nenQF」https://twitter.com/oharuevent/status/1614608757904019457
MSN Japanさん「YMO高橋幸宏さん死去 70歳 20年脳腫瘍摘出 懸命リハビリも 伝説のテクノサウンド ドラムで支え https://t.co/vb3KwKWFAe」https://twitter.com/MSNJapan/status/1614316514236305409
Always with you~to おはる ♡~さん「出演アーティスト紹介⑱ 22日出演 L.I.S.K Vo: Poe-zo (ex.堕天使) Gt: 瞋 (覇叉羅) Ba: leaya (覇叉羅) Dr: K助 (覇叉羅) 自由奔放にストレートなROCKをやり倒す! https://t.co/MWEEPsAqHA」https://twitter.com/oharuevent/status/1614284357761667072
Ivy darknessさん「そやこれ今日からチケット発売だよね 知ってる人いるー」https://twitter.com/IVY_DOPE_SHOW/status/1614287512985546753
Hydeさん「面白い!ライバルは自分自身かもな。」https://twitter.com/HydeOfficial_/status/1614294003842940928
ゆきだるまさん「@bozu_108 素敵なバンド 首振りDOLLSの出身地 北九州市🤗🤗 https://t.co/SOTUisy0ri」https://twitter.com/1zyhsneJ7ehUAk8/status/1614263105319751687
ストロベリーソングオーケストラ公式呟キ処さん「🎌魔モ無ク‼︎🎌 帰ってきた怪帰大作戦 2023年1月15日(日) 味園ユニバース #ストロベリーソン���オーケストラ #妖精帝國 #メリー #アイリフドーパ #首振りDolls #ジェラスガイ坂本 #松原タニシ #日比谷カタン #シモーヌ深雪 FOOD #深夜喫茶銭ゲバ ☞e+ https://t.co/qJ67pUQ2Kf ※クロークあり https://t.co/1pY8UyNztG」https://twitter.com/15sso_official/status/1614185607621754880
about tessさん「【about tessからお知らせ】 次回1月16日池袋手刀公演ですが、 諸事情により鍵盤の総理が出演出来ない為5人編成での演奏になります。 よろしくお願いいたします。」https://twitter.com/about_tess/status/1614099416624807937
lucy〜中村真悟@1/20luin単独公演さん「後輩の音源を整えてます。 毎回「そう来ましたね!!?」をぶち込んでくるので、此方も愉しくやらせて貰ってます。笑 https://t.co/R0v9eySwCP」https://twitter.com/lucy_peter/status/1614342874157682689
タイザーさん「わりと長くやってるけど、まだまだ聴かせ方や楽しませ方新たに気付くこといっぱいあるんだーなとシャワー浴びながら思った コロンたたいて名古屋へ向かいます https://t.co/bbfmHnEOys」https://twitter.com/taizodiac/status/1614369258317950977
ヴィジュアル博士のる@監修オムニバスCD2種発売中さん「【#ヴィジュアル系今日は何の日】 ゴールデンボンバーが初の日本武道館でのワンマンライブ「ゴールデンボンバーワンマンライブ特大号『一生バカ』」2DAYS2日目を開催した日。 (2012.1.15) https://t.co/fNfUC9E3B9」https://twitter.com/vr_noru/status/1614397056017379328
ヴィジュアル博士のる@監修オムニバスCD2種発売中さん「【#ヴィジュアル系今日は何の日】 Femme Fataleが渋谷WWWでのワンマンライブ「Rendezvous before Metamorphosis」をもって解散した日。 (2016.1.15) https://t.co/7rihh9jNzF」https://twitter.com/vr_noru/status/1614397071880237058
ryuichi sakamotoさん「https://t.co/LjiZy3K4n0」https://twitter.com/ryuichisakamoto/status/1614387507659177984
ヴィジュアル博士のる@監修オムニバスCD2種発売中さん「YMO、うちのオカンが好きだったんだよなあ…」https://twitter.com/vr_noru/status/1614406787725398016
seekさん「本日。 MIMIZUQ 2023ライブ初め。 素敵なゲストを迎えてトーク&ライブ MIMIZUQ presents SINGER’S 喫茶CAT’S EYE 1/15(日) 柏PALOOZA 開場17:00/開演17:30 MIMIZUQ 生熊耕治 CUTT 田澤孝介 YOSSY x YOSSY 会場 https://t.co/c8kznkc9Q9 配信 https://t.co/2JPk3q0U0Z https://t.co/tzWevzNJMk」https://twitter.com/seek_bonshisya/status/1614412631426895873
砂々良(ささら)㊗️50周年㊗️お酒と料理の談話室さん「今日はささらマスターの誕生祝いでした。2023.1.6で80歳の傘寿! いつまでもおいしいごはんをお願いします。 https://t.co/o9yyx5LS4s」https://twitter.com/sasara620/status/1614269434813902850
ジョニーダイアモンド首振りDollsさん「関西の1発目はやっぱこれですね あけおめって感じがする #怪帰大作戦 https://t.co/gPg5SLKrEP」https://twitter.com/Tracisixteen/status/1614426365780164611
首振りDollsさん「本日『YARIMAN HUNTER』も大阪で…!」https://twitter.com/KubihuriDolls/status/1614429129360945152
源 依織さん「実家に帰省の道中に弟ヨッメがコロナ判定を受け、道中に車が故障し散々な目に遭いながらこれからおばあちゃん家に行ってキスイさんに会って帰ります。 いやどうせなら帰りに温泉でももう一泊してこうかな。 目的のない旅が始まる…」https://twitter.com/prin_guitarist/status/1614430940390121473
ザゴッドアンドデススターズさん「【ライブ情報】 「BØY MEETS GOD」 2023年2月16日(木)新宿LOFT 出演:COØL BOY / the god and death stars open 18:30 / start 19:00 前売:6,000円(ドリンク代別) ※チケット発売:12/18(日)12:00~イープラス https://t.co/LXUy17HZNx https://t.co/emo2dymeqr https://t.co/aXxT5gFoPG」https://twitter.com/davidskullno/status/1602136261396938753
首振りDollsさん「🎌本日怪帰大作戦🎌 本日の物販購入特典は…! 5000円以上お買い上げで、サイン入り絵馬プレゼント🎁 そして更に先着順でラババンも付けちゃいます⚡︎ それでは本日味園ユニバースでお会いしましょう👊 https://t.co/n2rANhny2Y」https://twitter.com/KubihuriDolls/status/1614445235110838272
Ryuichi Kawamuraさん「https://t.co/mNjus8ubLY」https://twitter.com/RyuichiKawamur2/status/1614450248709197824
【Phobia】 KISUIさん「@prin_guitarist ほんと気をつけて!笑」https://twitter.com/KISUIxxx/status/1614451767273721857
源 依織さん「間も無く実家。(但し中には入れない… https://t.co/C5gqFEOVWo」https://twitter.com/prin_guitarist/status/1614452622538440704
源 依織さん「@KISUIxxx おばあちゃん家寄ったら行きます! 一緒にジブリパーク行かん?笑」https://twitter.com/prin_guitarist/status/1614452736090865665
【Phobia】 KISUIさん「@prin_guitarist 冗談なんか本気なんかわからない。笑 みんなどう思う?」https://twitter.com/KISUIxxx/status/1614453241072451584
ᴋᴀɴᴏɴさん「お洒落だなと思う地名ありますか? 個人的には美女木がダントツと思うんだけど」https://twitter.com/kanondattahito/status/1614446282940223488
ヴィジュアル博士のる@監修オムニバスCD2種発売中さん「美女木、英語で「Forest of beauty」って言うとすごくヴィジュアル系の曲名にありそう。 https://t.co/shJrwaj6Jo」https://twitter.com/vr_noru/status/1614454472796934144
源 依織さん「@KISUIxxx いや、マジで。笑」https://twitter.com/prin_guitarist/status/1614456009954840576
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四月前半日記
4/1
新年度でバタバタのバタ。何も思い出せぬ。
4/2
やっと今週が(ほぼ)倒せた。最近日の出が早いので目覚ましより30分早く起きる日々です。朝日に照らされるベランダの植物たちはきれい。
4/3
久しぶりにホットサンドを作りました。コロッケと千切りキャベツ、スライスチーズを入れてボリュームたっぷり。キャンプ行きたいなあ。良いお天気なので4回洗濯機を回すなど。
4/4
また産直へ行って野菜を買い込んだので作り置きをいろいろ作りました。ほうれん草のおひたし、春キャベツのコールスロー、蒸し鶏と胡瓜の胡麻酢。さっぱり味がうれしい季節です。美味しそうなひろうすも買ったので炊く。春は楽しく良い季節。
4/5
ラナンキュラスがエカキムシにやられて白い筋があちこちに。怠惰な園芸家なため、絵が増えていくのを眺めるのみである。薔薇���あと二週間で咲いてしまうのでは?と思うくらい伸びています。うどんこにステムをやられずに開花を迎えるのは初かも。と、新梢を眺めていたらアブラムシ発見。コイツは処します。
4/6
パン屋さんの食パンがおいしすぎて朝から2枚も食べてしまいました。クランベリージャムのせとバタートースト。お昼はサンドイッチが食べたいパン好き人間です。
4/7
家人の誕生日なのでチョコレートケーキを買う。もうすぐ10年くらいの付き合いか?おとろしい。ホールケーキは気の向くままにつついて食べる習わしです。
4/8
エバーフレッシュがもう天井まで届きそう。そろそろ剪ったほうが良いのでしょうか。でもこんなに伸びたのに可哀想と思いつつ部屋が狭くなって困ると思うのだった。鉢を大きくしたらどうなるんだろうか、興味がある(後悔するぞ)。
4/9
あっという間に週末が来て驚いている。毎日が怒涛のように過ぎていく……。阪大の引っ越し番組を見ながらウィルキンソンのジンジャーエールと煙草を喫む。この組み合わせは美味しい。
4/10
名刺入れを買いに都会に出たついでに町中華を食べたり古本屋を巡ったりした。筋肉痛がすでに来ている……。家人がリネンのシャツを買ったので刺繍を入れる約束をしました。
4/11
いちごのフルーツサンドを作った。マスカルポーネと生クリームを合わせたんですが甘味が足りなかったなあ。いちごが出回るのは今月までだろうか。スーパーではジャムに使うような小粒のパックをよく見かけるようになった。そろそろ初夏ですね。
4/12
もそもそと次回作の型紙を切るなど。日々が忙しくて精神がまいりがちなので帰り道に買ったカットフルーツをつまみます。脳みそが止まってるのに身体が動き続けているので強制終了かけたい。
4/13
前々から気になっていた多崎礼「煌夜祭」を買う。ついでに柳田國男「禁忌習俗事典」も購入。疲れた体には散財が効く。
4/14
帰り道、こちらをちらちらと見やる女性が。不思議に思って目を合わせると彼女は一瞬顔をかがやかせたあと「あれ?」という表情になり、「人違いでした」と小声で謝って歩いてゆかれた。この世には私に似たひと、しかも「会えてうれしい」とおもわせるひとがいるのだと思い、ほのぼのとした気持ちで揺れるお下げの後ろ姿を見送るのだった。
4/15
久しぶりにナイトティーをしようと企み、紅茶とシトロンのウィークエンドを買っ��あったのですが時間がなく(早寝のし過ぎ)モーニングティーに変更。薔薇は萼割れしたつぼみがひとつ。朝日を浴びながら熱いカトマンズフレグランスを飲む。
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滑り込み5ガッツのお知らせ🐿
どぎゃんとギリギリ5ガッツのお知らせ!
んだもしたん5月のくれになってしまいました。先月に比べ便利屋仕事はすこぶる減ったんですが芝居仕事が山とあり、公演地各地の事務仕事、屋外稽古場整備、舞台考案、そして脚本執筆とやっていたらあっという間に時がたっていました。信州松本は暑かったり寒かったり。寒暖差凄まじいのでちゅみ(息子)風邪をひき、家族に移して一周して治りかけたところで再び罹患のリ・サイクルをおこなっております。今ターンで己の健康死守すべし。 次回作秋の公演日程ぼちぼち決まってきました。すぐ6ガツですので次の案内で若干情報公開しようかしら。もちろん野外公演、スペシャルな遠方もあります。規模もちょこっと大きそう?現在わたしはその台本をせっせと進行中!迷わず進むぜ、色々と発信がおろそかになっていますが6月から稽古本格始動です!5ガッツのお知らせ!🍖🍖🍖
目次 1.やなぎーがくる! 2.脚本術 3.勝手に宣伝『楽市楽座』!
1.やなぎーがくる! まずは私たち野らぼうにとっての一大トピック。なんと、新・劇団員加入です!(次回作までの限定参加) 常々、メンバーを募っていた私たちですが、野外で活動したいなんていう奇特な根性をお持ちの猛者には松本平では出会えず、諦め掛けていた此の方、なんと嬉しい知らせが届きました!京都より、劇団ベビー・ピー所属のやなぎー(柳原良平)が役者として参加してくれることとなったのです!なんと嬉しや!(野外稽古場も探していましたが某所を今シーズンはお借りできることとなりました🙌) やなぎーはと言いますと、もちろん元々知っていた存在で役者としてのステージも何度か拝見したことあり、ベビー・ピーの芝居では松本市のすすき川緑地にてテント芝居の公演も行っているそこそこ旧知の中なのでございまして、年齢的にも芝居芸歴的にも私たちからしたらお兄さん世代に当たる大変経験豊富な頼れる(?)人物なのであります。テントでは全国巡業を数回行っているしテントじゃない公演でもツアーしたり、瀬戸内芸術祭招聘作品に出演したり、大地の芸術祭に出演したり、京都でも引く手数多の役者さんで、定期的にひとり芝居も行なっており魔剣Xなるそのシリーズもパワフル&おバカ街道まっしぐらで熱量で成り立たせる姿が目に焼き付きます。舞台を降りれば気さくな兄さんで話しだすとほとんどずっと喋っています。 芝居の経験豊富はあったとしても、テント芝居で旅巡業の経験も豊富となってくるとこれ以上の逸材はおりません。そして、何と言っても男手。私たちの劇団にスタッフとしても役者としても男性が加わってくれるのは大変嬉しいこと。きっと僕たちの芝居もひと味もふた味も変わってくることでしょう。たくさんお勉強させてください! 皆様もやなぎーのこと、どうぞお楽しみにご期待くださいませ〜🍑
2.脚本術 んで、今その脚本を書いている。しかしこれがまた、頭の切り替えムズかしい。 もともと脚本を書くこと自体は好きな部類ではあったんですが、それだけに邁進することなく、むしろ体を使ったり、実際手を使って道具を使って何かを作るといういうスキルの方に興味があったので、ここ5~6年はそっちの方に傾向しており、基本的な道具の��作や素材の選定、そしてそれぞれの難易度、美とされるものの違いについてはまがりなりにもわかってきたつもりでそれ自体は良かったんですが、しかし、その間にやはり架空の物語を書いたり、何か無駄なこと想像したり、そしてそのことにものすごくテンション上がって眠れなくなったりっていう能力が衰えてしまっていて、そのことが悲しい。 人間そう柔軟ではいられませんから、事務作業するときは理性モード、身体動かして作業するときは身体脳になっている。それぞれの作業の肝は違うし何が”旨い”かも違う。一方では超必要なことが他方ではテキトーでよかったり、その逆も然り。脚本は理性でも身体でも書けません。役者脳もまた違うところにあると思っている。 物語を書くには、現実の生活は置き去りにして作品に没入するその集中力と好奇心、お花畑を疑うことなくどこまでも飛んでゆくバカさ、能天気さが必要なんですが、こいつがなかなかすぐにはそう成れない。スイッチの切り替えだけに時間を要したりして、昔は相当緩かったんだなぁわたし。今の己に直面しています。 しっかし今後はこれでは行かれんです。日々コンスタントに文章書く習慣が必要。そして自分の回路を果敢に開放してやるべし。なんやかんや脚本も毎度毎度試しながらですがこれまで独学でやっておりますから、ここいらで何か方法論を仕入れることも必要になってくるんでしょうが、知識を知ってしまう怖さとつまらなさもわかっているので簡単には手が出せずにいます。もともとアウトサイダーアート(美術的教育を受けていない領域のアート)のシンパでもあることも相まって、下手くそでも匂いがあるならそれでもいい、とも思っている。道具使いなんかはその典型でもあって、最短ルートがわかるけどわかればいいってもんじゃない。表現はその結果よりも道筋、痕跡、手垢が肝なので最短を選んでしまうことで失ってしまうものは多いです。 他のアウトプットに比べ文章は、これは自分にとって気持ちがいいとか、こっちに展開すると筆が止まるとか、ひとまとまり書いて見直した時にしっくりくる/こないなどの差異で、自分の無意識の部分に対面することが直ぐにできるのでその点が興味深い。もっと時間をかけて向き合っていく態勢を作られればと考えております。いざ没入。
3.勝手に宣伝『楽市楽座』! そんでもって5月はこれ、野外劇団楽市楽座の長野市公演があるのです。
楽市楽座とは=大阪を拠点に活動する野外劇団で家族3人、そして近年は娘萌ちゃんご結婚されて2世帯4人+猫で旅をしている現存する数少なき(というか唯一?)旅行商一家なのでございまして、その芝居は野外にて設置される回転盆舞台の上で演じられ、料金はなんと投げ先制。諸々が今や懐かしいどころじゃない先鋭味を帯びている野外劇団なのです。 私も以前観劇させていただいたことはありますが、長野県に住んでからはまだ行けてなく、今回久々の観劇に加えてこのご時世のそろそろ外でなんかみたい欲求が合間って大変楽しみなイベントになっています。 いくつかの公演が延期などの影響が出ているようなんですが、長野公演は無事開催される見通し!私どもちゅみも連れて馳せ参じる予定でございます。 自分たちが野外でやってる割に、なかなか野外で他の作品を鑑賞する機会がないんですよねぇ。そもそも数が少ないし。しかし最近小諸市のわかち座さんが自宅のブルーベリー農家の直売所を改装されて稽古場兼野外劇場みたいにされていて、そこに見学に行って来たんですがこれがすこぶる面白かったり、そこで紹介していただいた千葉県鎌ヶ谷市の劇団、鎌ヶ谷アルトギルドの演出の方が梨農家さんで自宅の梨園で公演(蜘蛛の糸)をされていてこれも面白かったりで、どれもこれも面白いんです。今後も演劇問わず野外での表現活動が多方面からなされることを期待しています。わたしはテント芝居はもちろん好きだが野外での活動をそもそもを愛している向きもある。来年以降はそういった方のサポート、他ジャンルの招致にも取り組んで行く予定です。
以下楽市楽座情報
劇団HP http://yagai-rakuichi.main.jp/
---------------------------- 野外劇団楽市楽座 「うたうように」長野公演 会場・湯福神社 5月29日(土)~31日(月) 19時開演(18時半開場) (長野市箱清水3-1-2) ※入場無料投げ銭(予約なしの自由席) ★ゲスト出演 29日(土)タケダ(二胡) 30日(日)松本オブ・ザ・デッド(ピン芸) 31日(月)焼酎亭呑み鉄(落語) (協力:ナノグラフィカ) ----------------------------
恒例にしたかった浪曲コーナーも来月(数日後)にお預け。
🍖🗻🍑
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The garden features various irises with different colours and types, creating a vibrant and colourful landscape.
#Hanashōbu#Iris#Japan#Japanese Iris#Japanese Iris garden#Japanese garden#Nara Prefecture#Photography#Yagyu Hana-shobu-en#rural landscape#ハナショウブ#柳生花しょうぶ園#柳花しょうぶ園#花菖蒲
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古典落語「高田の馬場」
むかしは、ただいまの浅草公園のあたりを浅草の奥山と申しまして、見世物、大道芸人のたぐいが、それからそれへとならんで、ひとびとの足をとめていたものでございます。 その奥山の大道芸のなかで、名物のひとつになっていたのが、居合い抜きという芸当でございます。 どんなことをしたかと申しますと、奥山の人出の多いところへ荷をおろしまして、真鍮《しんちゆう》のみがきあげた道具に長い刀をかけ、若い男が、うしろはちまきをして、たすきをかけ、袴《はかま》の股立《ももだ》ちを高々ととりあげて、六尺棒などをふりまわし、 「あいあい、あちらでもご用とおっしゃる」 などとやっております。そのうちに、十分見物人があつまってまいりますと、柄鞘《つかざや》八尺という長い刀を腰のかげんで抜いてみせる。これがすなわち居合い抜きで、それがすむと、うしろにひかえている娘がでて、鎖鎌《くさりがま》などをふってみせるのでございますが、この居合い抜きも鎖鎌も、つまりは人寄せにすぎません。そのじつは、がまの油を売るのが商売で、芸当のあいだあいだで、たくみに口上を述べ立てるのでございます。この口上のいい立てがすこぶるおもしろいもので…… 「なんとお立ちあい、ご用とおいそぎのないかたは、よっくみておいで。遠出山越し笠のうち、ものの文色《あいろ》と理方《りかた》がわからん。山寺の鐘はゴウゴウと鳴るといえども、法師一人きたりて、鐘に撞木《しゆもく》をあてざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とーんとりくつがわからん道理だ。さてお立ち合い、てまえ持ちいだしたるなつめのなかには、一寸八分の唐子ぜんまいの人形だ。細工人はあまたありといえども、京都にては守随《しゆずい》、大阪おもてにおいては竹田|縫之助《ぬいのすけ》近江《おうみ》の朝臣大掾《あそんだいじよう》。てまえ持ちいだしたるは、竹田近江がつもり細工、咽喉《のんど》に八枚の歯車が仕掛け、背には十二枚のこはぜをつけ、これなるなつめのなかへ据えおくときには、天の光りと地のしめりとをうけ、陰陽合体して自然とふたがとれる。つかつかっとすすむは、虎の小走り小間がえし、すずめの小間とり小間がえし、孔雀霊鳥の舞い、人形の芸当は、十《とお》とふた通りある。しかしお立ちあい、投げ銭や放《ほお》り銭はおことわりだよ。投げ銭や放り銭をもらわずに、なにを渡世にするやとおたずねあるが、てまえ、多年のあいだ渡世といたすは、これに持ちいだした蟇蝉噪《ひきせんそう》四六のがまの油、四六、五六はどこでわかる。前足が四本に、後足が六本、これをなづけて四六のがま。このがまの住めるところは、これからはるか北にあたる筑波山のふもとにおいて、車前草《おんばこそう》という露草を食らって生成する。さて、このがまの油をとるには、四方へ鏡を立て、下には金網を張って、そのなかへがまを追いこむ。がまは、おのれのすがたをみておどろき、たらりたらりとあぶら汗を流す。それを下の金網にて透《す》きとり、柳の小枝をもって三七、二十一日のあいだ、とろーり、とろりと煮つめたのが、このがまの油だ。その効能をなにかといえば、金創《きんそう》切り傷にきく。第一番になおしてあげたいが、出痔《でじ》、いぼ痔、走り痔に脱肛《だつこう》。虫歯で弱るおかたはないか? でておいで。綿へ塗って内へつめ、歯でくいしめるときは、雪に熱湯をそそぐがごとく。待ったお立ち合い、刃物の切れ味をとめる。てまえ持ちいだしたるは、鈍刀《どんとう》たりといえども、先が切れて元が切れない、そんなあやしいものではない。ほら、ぬけば玉散る氷の刃《やいば》、鉄の一寸板もまっぷたつだ。お目の前で白紙をこまかにきざんでごらんにいれる。さ、一枚が二枚に切れる。二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚が六十四枚……春は三月落花のかたち……」 などと、その刀の切れ味をみせておき、それへがまの油を塗って、切れ味をとめたり、または、油をぬぐいとって、さらに、自分の腕を切って血をだし、その血を、がまの油ひと塗りでとめてみせたりするのでございますが、その口上とともに、じつにあざやかなものでございます。 こういうぐあいの口上をもって、いましも浅草奥山の人の出ざかり、居合い抜きからがま油の効能を述べております二十歳《はたち》前後の若者、そのうしろにひかえておりますのは、その男の姉でもありましょうか、年ごろ二十二、三の美しい娘、これが鎖鎌をつかうのでございます。まわりは、黒山のようなひとだかり、その混雑を分《わ》けながら、 「えい、寄れ寄れ、寄れっ」 と、その居合い抜きの前へつかつかと近寄りましたのは、年ごろ五十四、五にもなりましょうか、供《とも》をつれたお侍でございます。 「あいや若い者、最前よりこれにてうけたまわっているに、なにか金創《きんそう》切り傷の妙薬とか申すが、それは、古い傷でもなおるか?」 「古い、あたらしいとを問わず、ひと貝か、ふた貝おつけになれば、かならずなおります」 「二十年ほどすぎ去った傷でもなおるかな?」 「なに、二十年? ……二十年はすこし古すぎますが……まあ、ちょっとその傷を拝見いたしましょう」 「おお、みてくりゃれ」 と、侍は、ただちに片肌ぬいで、その傷をみせましたのを、じっとみていた若者が、 「やや、こりゃ武士にあるまじきうしろ傷、投げ太刀にてうけた傷でござるな」 「うーん、なかなか目が高い。いかにも投げ太刀にてうけた傷じゃ」 「さては、若気のあやまちにて、���りとり強盗、武士のならいなどと申して、ひとをおびやかさんとして、かえっておびやかされ……」 「いやいや、さようなことではござらん。かかる場所にては��すのもいかがかと存ずるが、それも身の懺悔《ざんげ》じゃ。まず聞かれい。もはや、ふたむかしもほど経《へ》しことゆえ、拙者《せつしや》を仇《かたき》とねらう者もござるまい……じつは、拙者はもと薩州の藩の者でござるが、ある下役の妻女の美しさに懸想《けそう》したのが身の因果……いや、笑うてくださるな……なにがさて、その女が、おもいのほかの手ごわさ、しょせん尋常《じんじよう》ではなびかぬことと存じたゆえ、夫の不在をうかがって、手ごめにせんといたしたのじゃ。と、その折りも折り、とつぜん夫が立帰り、『上役の身をもって、無態《むたい》のふるまい不都合《ふつごう》千万』と、たしなめられ、かなわぬ恋の無念さも手つだい、『なにを小しゃくな』と、抜き討ちに、その場において斬りすて申した」 「う、うーん」 「斬ってののち、はじめてわれにかえり、ああ、とんだ殺生をいたしたと気がついたとて、もうおそい。ままよと、そのまま立ちのきにかかったとき、『夫の仇』と、その妻女が、乳呑児《ちのみご》を抱いた片手に、懐剣ひき抜き、追い駈けてまいったが、女の足のおよばぬとおもってか、『えいっ』と投げつけたる、その懐剣が背に刺さり……すなわちのこるこの傷じゃ。暑さにつけ、寒さにつけ、どうもいたんでならん。なおるものなら、なおしてもらいたいが……」 と、語りおわって、おもわず吐息《といき》をついております。若者は、その傷あとをつくづくとながめ、その物語りに聞きいり、さらに、その武士の人品骨柄《じんぴんこつがら》をじっとみつめておりましたが、 「おおっ、そこもとは、悪沢源内どのではござらぬか?」 「えっ、な、なに、拙者の姓名をご存知の御身は?」 「さてこそなんじは悪沢源内、かくいう身どもは、なんじのために討たれたる稲垣平左衛門がわすれがたみ平太郎、これにひかえたるは、姉ゆき、なんじを討たんそのために、姉弟ふたりが艱難辛苦《かんなんしんく》いかばかり、二十年《はたとせ》あまるこの年月《としつき》、ここで逢うたは盲亀《もうき》の浮木《ふぼく》、優曇華《うどんげ》の花、待ちえたる今日の対面、いざ手あわして尋常に勝負、勝負、姉上、ご油断めさるな、おしたくめされい」 「おお、合点《がつてん》」 「親の仇!」 と、左右からじりじりっとつめよりましたから、さあたいへん。とりかこんでみていました群集はもとより、物見高いは江戸のつね、ことに浅草奥山、繁昌のまんなかでございますから、黒山のひとだかりでございます。 「なんだ、なんだ、どうしたんだ?」 「乞食が、お産をしたんだ」 「たいへんなところではじめたもんだな」 「ひとごみで押されたためだよ」 「ところてんじゃああるめえし、押されてでるやつはあるまい」 「いいえ、そうじゃあない、巾着《きんちやく》切りがつかまったんだ」 「ちがう、ちがう。犬がかみあっているんだよ」 「ふざけちゃあいけねえ。犬の喧嘩《けんか》なんぞはめずらしかあねえや」 「そんな気楽なもんじゃあねえ。仇討ちだ」 「えっ、仇討ちだと? ……あがってみろ、あがってみろ」 「どこへあがるんだ?」 「五重の塔のてっぺんならよくみえるだろう」 「鳩やからすじゃああるめえし、あがれるもんかい」 などと、例の弥次馬という連中が、わいわいさわぎ立てますからたまりません。なかには、石を投げるやつがいたり、なにしろたいへんなさわぎになりました。 「あいや、ご姉弟、しばらく、しばらく、しばらくおひかえください。もはや、ふたむかしもすぎ去ったることゆえ、よもやとおもったが拙者の油断、現在仇とねらうそこもとに、口外いたしたのは、これ天命のがれざるところ、いかにも仇と名乗って討たれよう。なれども、ここは観世音境内の浄地《じようち》、血をもって汚《けが》すはおそれ多い。ことに拙者は、現在、主《しゆ》持つ身の上にて、ただいま使者にまいってのもどり道、立ち帰って、復命いたさねば相成らぬ。されば、ひとたび立ち帰り、役目を果たせし上おいとまをちょうだいし、心置きなく勝負をいたし、この首をさしあげん。明日巳《み》の刻《こく》(午前十時)までお待ちをねがいたい」 と、いかにもいつわらない顔つきで申しましたが、それを聞いていた弥次馬連が承知しません。 「だめだ、だめだ。そんなことをいってにげるんだ」 「ぐずぐずしてねえでやっちまえ」 と、またさわぎ立てます。なかにも、侍の弥次馬とくると、 「あいや、卑怯《ひきよう》者をとりにがしては相成らん。身どもが助太刀をいたす」 などと、りきんでとびだします。 ところが、居合い抜きの若者は、しばらくかんがえておりましたが、なにかうなずくと、 「なるほど、源内の申すところも道理である。しからば、明日巳の刻まで相待ち申そう」 「そりゃご承知くださるか?」 「いかにも……して、明日、その出会いの場所は?」 「さよう、その場所は……おお、高田の馬場にて、お待ちうけいたす」 「うん、かならずそれに相違ないか?」 「はばかりながら悪沢源内、武士に二言はござらん」 「しからば、明日巳の刻まで、その首をおあずけ申す」 「千万かたじけない。今日は、これにておわかれいたそう」 と、そのまま右と左にわかれてしまいましたから、おどろいたのは見物人で、 「おいおい、留さん」 「ええ?」 「どうなったんだい、仇討ちは?」 「日延《ひの》べ」 「日延べ?」 「そうだよ」 「そんなばかな、料理屋の開業式じゃあねえぜ。二十年もさがしてた仇にようようめぐりあったんじゃあねえか。それを日延べだなんて、そんなふざけたはなしがあるかよ」 「おれに文句をいったってしょうがねえじゃあねえか。なにもおれが日延べにしたわけじゃあねえんだから……」 「だって、あんまり歯がゆいや」 「そんなに歯がゆかったら、歯ぎしりをしなよ」 「してえんだけれど、反《そ》っ歯《ぱ》でできねえんだ。このあいだも、喧嘩に負けてくやしいときに、どうしても歯ぎしりができねえもんだから、となりのげた屋の亭主に歯ぎしりをしてもらった。ところが、あとで歯代をとられた」 「ばかなことをいうない……あした巳の刻ってんだ。弁当でも持って、高田の馬場へいこうか」 「いこうか」 「いこう、いこう」 と、講釈のつづきでも聞きにいく了簡《りようけん》だからおもしろい。 こういう連中が、それからそれへとしゃべってひろめるのですから、その日のうちに、江戸じゅうの評判になって、当日は、夜のあけないうちから、わいわい高田の馬場へ仇討ち見物がおしかけるというさわぎで、さしもにひろい高田の馬場も、たちまちいっぱいのひとでございます。ふところのあったかいひとは料理屋へはいって、一ぱいやりながら待っておりますし、弁当を持ってったひとは、よしず張りの掛け茶屋へはいって茶をもらって弁当をつかうということで、よしず張りの掛け茶屋がずらりっとならんでおります。 「おいおい、ごらんよ。たいへんな人気だなあ。みんな仇討ち見物のひとだぜ。おい、こうやってぼんやり待ってるのも気がきかねえや。そのへんで一ペえやりながら待とうよ」 「そうさな、ろくな酒はねえだろうがな」 「そりゃあしょうがねえや。どうせひまつぶしなんだから……」 「じゃあ、いってみようか」 「おい、ごめんよ」 「いらっしゃいまし」 「だいぶ混《こ》んでるな……どこかあいてるか?」 「便所のわきならあいてます」 「いやなところがあいてるんだなあ。まあ、しかたがねえや。そこで一ペえやろう」 「こちらへいらっしゃいまし」 「ああ、ありがとう。おう、ねえさん、酒はあるかい?」 「はい、まだ少々ございます」 「少々? 心ぼそくなってきたな。なくならねえうちに、五、六本持ってきてくれ……それから、なにかつまむものがあるだろ?」 「もうたいしたものはのこっておりません。焼きのりとおしんこうぐらいです」 「まあ、しょうがねえ。それでもいいから持ってきてくれ」 ある掛け茶屋で一ぱいやっている職人風のふたりづれ、仇討ちの幕あきの長いのをじれったがりながら、 「ええ、おう、じょうだんじゃあねえぜ。いつになったらはじまるんだろう?」 「ほんとうだな。なにをしていやがるんだろう? ……おい、ねえさん、いま何どきだい?」 「はい、午《うま》の刻《こく》(正午)でございます」 「なに、午の刻? おかしいなあ。仇討ちの約束は巳の刻だぜ。もうすぎちまったじゃあねえか。まさか、また日延べになったわけじゃあなかろうな」 「真剣の仇討ちが、そうたびたび日延べになんぞなるもんか」 「そうよなあ……おいおい」 「なんだい?」 「あすこをごらん。あの、柱へよりかかって酒を飲んでる侍をよ」 「うん……あっ、ありゃあ、きのう浅草でみた仇の侍にちげえねえ」 「たしかにそうだな……ひとつ聞いてみようか?」 「よせよせ。無礼討ちだなんて食らっちゃあつまらねえや。相手さえくりゃあ、はじめるんだろうから……」 「むやみに無礼討ちなんぞする気づけえはねえや。まあ、おれが聞いてみるから、まかしておきねえ……ええ、お武家さま、だいぶご酒《しゆ》をめしあがりますな。まだなんでございますか、お帰りになりませんか?」 「うん、まだ当家から勘定をもらわんから立ち帰らんのだ」 「へーえ、料理屋へきて、勘定をはらって帰るというならわかっていますが、勘定をもらって帰るというのは変ですな……旦那は、だいぶご酒がいけますな」 「さよう……たんともいかんけれど、朝一升、昼一升、夕べに一升、寝酒に一升だな」 「へーえ、一日に四升! ずいぶんめしあがりますな」 「そのほうは飲めんか?」 「いえ、飲めねえことはねえんですけれど、とても、こち���らのようなかせぎの細い者には、飲みたくっても飲めませんや」 「そのほうの稼業《かぎよう》はなんだ?」 「あっしどもは、でえくでございます」 「なに? でえくとはなんだ?」 「へえ、大工《だいく》なんで……」 「大工と申せば、職人のなかでも一番|上《かみ》に立つ職だというが、そのほうは、日にどのくらいかせぎがあるな?」 「そうでございますな。日に三|匁《もんめ》がご定法《じようほう》でございます」 「日に三匁と申すと、ざっと一月に一両二分だな」 「まあ、そんなもんで……」 「はっはっははは、情けない稼業だな。そんなつまらん稼業はやめて、身どもの商売になれ」 「旦那のご商売は何で?」 「身どもは仇討ち屋だ」 「へーえ、仇討ち屋っていいますと?」 「おまえたち、ここへなにしにまいった? きのうの浅草奥山の……」 「おっと待った。待っておくんなせえ。そこまでいきゃあ、あっしのほうがはなしは早えや。がまの油あ売ってたやつに、仇だといわれたのは、旦那でござんしょう?」 「はっはっははは、いかにも拙者だ」 「あれっ、おちついてちゃあいけねえなあ、仇討ちはどうなったんで?」 「はははは、きょうはやめた」 「えっ、やめた? 旦那はそれでようござんしょうが、相手が、それじゃあすみますまい?」 「すむもすまんもない」 「え? どうして?」 「仇を討とうというあの姉弟は、身どものせがれと娘だ。きょうは、天気がいいからのう、うちで洗濯でもしてるじゃろう」 「うちで洗濯してる? ……うーん、どうもわからねえや……いったいどういうわけなんで?」 「うん、身どもが、浅草奥山の居合い抜きの仇になって、この高田の馬場で討たれるという評判を立てて見物をあつめ、このへんの茶屋小屋を繁昌させて、その勘定の割りをとるというわけだ」 「いやあおどろいたなあ……おい、兄い、聞いたか? 仇討ちは評判だけのもうけ仕事だとよ」 「なあるほど、それじゃあ、見物にきたこちとらが、まんまと返《かえ》り討《う》ちだ」
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🎼 00597 「Walk」。
部屋の中で アクアフレッシュを眺めているひとりの青年が、突然に靴下を口の中に詰め込まれるところから始まります、借金840,000円の返済の代わりに 回収屋と東京を散歩しながら霞ヶ関を目指す、ロードムービーふう歩く歩く映画 「転々」 を久しぶりに観ています。三木聡監督作品。冒頭の場面に映る うつくしい植物、ネペンテス (Nepenthes)、ドロセラ・カペンシス (Drosera Capensis) にうっとりさせられますこの映画、この時代の様々な東京の空の下を見ることができます。テキトーに書き留めます。
・募金を募るふたりの女子高生
ギリジョー演ずる タケムラがロッカー鍵を拾うきっかけになった、スクールガールがいた駅には 懐かしい感じのするロッカーや、チョークで書く掲示板が置かれています。
・植物園で100万円
場所は分かりませんけれど、立派なウツボカズラらが育っていました。
・橋の上で待ち合わせ
井の頭(恩賜)公園のやうな気もしますけれど、違うかもしれません。
・上手から下手へ進む商店街
サンドラッグや茶月のある商店街は どこか分かりませんけれど、探す気があれば探せさうです。
・神社でフリーキック
キッズらがサッカーを楽しんでいる神社は 行ったことのない神社でした。
・愛玉子にオーギョーチー
谷中霊園の近くにあるお店かなって思います。
・ザ☆コスプレナイト
ナオミさんは綾波レイ。
・ラコステ
フランスでうまれた鰐。
・タナカさんを待っていたらフライングV
新宿の中央公園っぽく見えます。タケムラは そのまま新宿駅南口を歩いたりします。
・さくらやがあったころの新宿界隈
フクハラを探しに新宿を彷徨うタケムラが信号無視をして車に跳ねられさうになったのは伊勢丹前の交差点でした。
・とんかつ茶漬け
ジャンクな食事を済ませたあと、突然に 浅草寺が映り、隅田川に架かる吾妻橋を ふたりは渡ります。
・8時23分ちょうどの世界のあと
誰かがうたう "東京砂漠" とともに 小泉今日子さんが登場します。朝ご飯を食べるふたり。
・はじめての動物園とコビトカバ
タケムラがマキコさんと訪れた動物園は 恩賜上野動物園かなって思いますけれど、コビトカバが暮らしている動物園をインターネッターしてみました。2021年2月現在。
🦛いしかわ動物園 (Ishikawa)
🦛上野動物園 (Tokyo)
🦛神戸どうぶつ王国 (Hyogo)
🦛ニフレル (Osaka)
🦛東山動植物園 (Nagoya)
・がらがらと うがいをしたら ごくりと飲む
下町のはずれにありさうな "あぶどら肉店" でお買い物をしたことがありませんけれど、わたしがこどものころに おつかいに行かされたお肉屋さんに感じが似ています。
・ジェットコースターロマンス
4人で遊びに来た遊園地は "花やしき" です。わたしがこどもだったころは 入場無料でした。
・水上バスと最後の散歩
柳橋を渡ったふたりは 銀杏並木を通り抜け、���居のお堀沿いを歩きながら 警視庁に近づいていきます。
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#崩壊3rd#tokyo#liliya olenyeva#リリア・アリーン#rosalia olenyeva#ロザリィ#seele vollerei#アスミン#転々#オダギリジョー#小泉今日子#松重豊#吉高由里子#pantera
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土器と骨とグランパとわたし
『ゆうびんやさんのホネホネさん』 さく・え:にしむらあつこ
学校から帰っていつものように庭でアリを捕獲し、お手製のアリジゴクに放り込んで、ジタバタしながら砂の壁を登って脱出するのを眺めていると、足元に茶色い石が転がっているのを見つけました。大きさが3cm、厚さ4mmほどで、すこし湾曲しています。表面に何本も線が刻まれています。
書斎で調べ物をしていた祖父のところへ持っていくと、「土器やな。昔の人がつこてたんやろ」「むかしって?」「江戸時代ちゃうかな」。そう言って祖父は、歴史関係の資料がぎっしり詰まった本棚から土器について書かれた本を取り出しました。復元図のページをひろげ、どの部分の破片かを2人であれこれ推理します。江戸時代の人が使っていた食器が庭に埋まっているなんて、わくわくでした。
「なんでウチの庭に落ちてるの?」「この庭作るときに、山から土をもってきたんや。それに混じっとったんやろ。あのあたりは昔、集落があったそうやからな」「じゃあ、探せばもっと見つかるね」「そうやな」「壊れてない壺とか見つかるかもね」「それは大発見やな」。この瞬間から、小学4年生のわたしの趣味は、アリジゴク制作から土器ハンティングになりました。
庭にしゃがみこみ、右足と左足の間の地面をくまなく探します。無ければ一歩前進し、新しい範囲を探します。一片の破片も見逃すまいと目を見開きcm単位でじりじり前進する様は、仕事熱心にもほどがあるルンバのようでした。
ある日、白くて細長い破片を発見しました。人の骨だと直感���ました。畑で草むしりをしている祖父のところに走って見せにいきました。「江戸時代の人の骨だね、ぜったい」「どうやろな、茶碗の破片にも見えるけどな」「茶碗ならもっとピカピカしてるって。骨だって、ぜったい江戸時代の人の指の骨だって」。ティッシュで何重にも包んでクッキーの缶にしまいました。「もっと探せばもっと見つかるね」「そうかもしれんな」「全身見つかったらすごいね」「そうやな、大発見やな」。この瞬間から、小学4年生の私の趣味に、骨探しが加わりました。
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ホネホネさんは、ゆうびんやさん。 ギコギコギーッ。きょうも げんきに はいたつです。 まずは やなぎの いっちょうめ。 ホネホネさんは きのぼりが おとくい。「トントントン、ゆうびんです」
柳の木に住むトリオくんにカモメちゃんから夏の旅行のお誘いを、土のなかに住むニョロコさんにワニオくんからおしゃれコンテストのお知らせを、丘の上のブタヤマさんにイノキチおじさんから花火大会のお知らせを届けます。
保育園の読み聞かせでとても人気のあったホネホネさん。ぱっきり鮮やかな白黒の配色や、へんてこな形状のホネホネさんと仲間たち、ギコギコギーッという楽しい自転車の音。キャッチーな要素満載で、子どもたちはホネホネさんのまわりにぎゅうぎゅう詰めかけ、いっしょにギコギコ言いながら読みました。
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人の骨を間近で見たのは、祖父の葬儀のときです。サクサクに焼けた白い骨を箸でつまんで骨壷に入れているとき、首の骨をつまもうとして、骨の間に茶色の破片を見つけました。親戚の誰かが、「爆弾や」とつぶやきました。
祖父の首に爆弾の破片が入っていることは、祖母から聞いて知っていました。戦地で戦いの最中、至近距離に撃ちこまれた爆弾が爆発し、気がついたら仰向けに倒れていて、目の前に空が広がっていたそうです。「血管が破れるから手術は無理やと医者に言われたからそのままや」と祖母は言っていました。
小学5年生の夏、お年寄りの戦争体験を聞くという宿題がでました。わたしは祖父の首に埋まった爆弾の破片以外の、戦争についての話を聞いたことがありませんでした。縁側で新聞を読んでいた祖父に、戦争で体験したことを聞かせてほしいと頼みました。
「そうやなあ。姫路に空襲があった夜は、こっからでも見えたそうや。東の空が赤く染まってきれいやったそうや」。まるで、絵葉書に写る風景を眺めているような感想です。「おじいちゃん戦ったんでしょ。そのときのこと教えてよ」。祖父はしばらく考えていましたが、「そうやなあ。中国で、広い広い草原で、馬に乗って走ったんは気持ちよかったな。あれはほんまに面白かった」これでは楽しかった旅行のお話になってしまいます。「戦ったときのことだよ」と食い下がるわたし。
祖父は胸ポケットからハイライトを出すと火をつけました。そして、大きく吸い込むと、わたしにかからないように窓の外に煙を吐き出して言いました。「そうやなあ、もう、こりごりや」。話はそれで終わりでした。
骨になって祖父の首からようやく取れた爆弾の破片は、茶色くて、湾曲していて、江戸時代の土器に似ていました。「こりごり」の原因が無くなって、サクサクきれいに焼けて、祖父はずいぶんすっきりしたように見えました。
庭で集めた土器は、ナイロン袋に入れて庭の隅に埋めました。いつかまた、発掘しようと思っています。
※文中の太字は引用
『ゆうびんやさんのホネホネさん』 さく・え:にしむらあつこ 福音館書店
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かつてなく老いた涙目の短歌のために
「目は口ほどに物を言うからな」の一言で自分の言葉を信じてもらえなかったら憤慨するだろうけれど、同時に、「じゃあしかたない」とも思ってしまうかもしれない。ことわざを本気で使ってくる人を相手取るとき、そのことわざの力強さに対して自分の正直な心の力は、頑張っても引き分けか根比べ競争に持ち込めるかくらいのものかもしれない。そんなことでいいのか。「口」を信用することなく、「目」に権威を求めてしまうのはなぜだろうか。
わたしの視野になにかが欠けていると思いそれは眼球めだまと金魚を買った
/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
「わたし」=「それ」=「作中主体」が「視野になにかが欠けていると思い」、「眼球と金魚を買った」。眼球の有無は「わたしの視野」の信頼にかかわるだろうか。
「わたしの視野」の信用問題。それは「わたしの視覚」の問題には回収されないだろう。「わたしの視野」を再現すること、報告すること。それは、語りの問題でもある。「わたしの語り」あるいは「わたしについての語り」。
「わたしの視野になにかが欠けていると思い」 「それは眼球めだまと金魚を買った」
と語る者がいる。一人称の「わたし」と三人称の「それ」を使い分けながら〈わたし=それ〉について語る者。あたかも三人称の「それ」に言及するように一人称の「わたし」について語ることのできる、「わたし」でも「それ」でもない語り手。
その語り手は眼球を使って〈わたし=それ〉を見たのだろうか。うーん。語り手として、わたしたちは見たことも聞いたこともないことを語ることができるけど。
それはメタ視点の〈わたし〉だろうか。メタ視点の〈わたし〉と思いたがる態度は、なんとしてでも〈わたしの視点〉を死守しようとする心に由来しないだろうか。もしも、〈わたしの視点〉が〈わたし〉の意識の圏内になかったら、どうするのか。〈わたしの盲点〉が無意識の視点として〈わたしの視点〉になりかわるとき、目が口ほどに物を言い始めるチャンスだ。目だけではない。様々な物たちが物を言い始める。指、髪、鼻、表情、性器、身長、体重、性別、世代、口癖、言い間違い、ファッション、スマホの機種、アクセサリー、食生活、インテリア、嗜好品、社会階層、家庭環境、トラウマ。〈わたしの視点〉を死守する心が〈わたしの盲点〉を前にして挫折するどころか〈無意識のわたしの視点〉をそこに見出すとき、〈わたし〉は言っていないことを言っていて、思っていないことを思っている。ヤバすぎる。無意識の解釈は信頼できる人や権威ある人にやってもらいたい。と、わたしは思うだろう。「と、わたしは思うだろう」と回収する〈わたしたち〉の法。
こんなにインクを使ってわたしに空いている穴がわたしの代わりに泣くの
深ければ深いほどいい雀卓がひそかに掘りさげていく穴は
/平岡直子「鏡の国の梅子」(同人誌『外出』2号)
〈わたし〉の個別性は〈わたしたち〉の法に抵抗できるはずだ。という主張は、きっと何度も繰り返されてきた。〈私性〉はしょせん共同体の一員としての制限された〈わたし〉のことだ、と言ってみたところで、かつての「共同体の一員」たちのなかにも、そのような意味での〈私性〉に回収されない〈この・わたし〉たちが次々と発見されるはずだ。それが本来の意味での〈私性〉だ。話は決まっている。その都度、うまく解釈を施せば、法文を変える必要はない。解釈できないものについては、例外事項として扱えばいい。例外的な〈わたし〉たち。動物、魔法使い、「ミューズ」、など。「穴」はどうしようか。
さいころにおじさんが住み着いている 転がすたびに大声がする
はるまきがみんなほどけてゆく夜にわたしは法律を守ります
/笹井宏之『てんとろり』
あるいは、〈わたし〉など言葉の遊戯の一効果にすぎない、と言ってみたとして。それが〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉ではない、と言い切れるだろうか。ヴァーチャル歌人・星野しずるの作者・佐々木あららは次のように語る。
Q.これ、そもそもなんのためにつくったんですか?
僕はもともと、二物衝撃の技法に頼り、雰囲気や気分だけでつくられているかのような短歌に対して批判的です。そういう短歌を読むことは嫌いではないですが、詩的飛躍だけをいたずらに重視するのはおかしいと思っています。かつてなかった比喩が読みたければ、サイコロでも振って言葉を二つ決めてしまえばいい。意外性のある言葉の組み合わせが読みたければ、辞書をぱらぱらめくって、単語を適当に組み合わせてしまえばいい。読み手の解釈力が高ければ、わりとどんな詩的飛躍でも「あるかも」と受けとめられるはずだ……。そう考えていました。その考えが正しいのかどうか、検証したかったのが一番の動機です。
/佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」
読み手の解釈はそんなに万能ではないだろう。「わりとどんな詩的飛躍でも」、〈わたしたち〉に都合よく「あるかも」と解釈できるだろうか。現在、そのようなことは起きているだろうか。「わからない」「好みではない」「つまらない」「興味がない」「時間がない」といったことはないだろうか。それが駄目だという話ではない。〈理想の鑑賞者〉という仮想的な存在を想定した読者論はありうるが、短歌はそれを必要としているだろうか。AI純粋読者。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに泣くの」
「わたし」は泣いていないのだとして。「穴」があるかも。泣いているかも。
誰の声?
「なんでそんなことするんだよ」で笑いたいし、なんでそんなことするんだよ、を言いたい。〈なんでそんなことをするのかが分かる〉に安心するのは、それがもう「自分」だからだ。「自分」のように親しい安心感なんて、いくつあったっていい。 でも〈なんでそんなことをするのかが分かる〉でばかり生を満たしているとどうだろう、人はそのうち、AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか。
/伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』」
やさしくて、人を勇気づけてくれる言葉だ。そう思う。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに」「AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか」
「わたし」の代わりに泣いているのは何だろう。〈わたしたち〉の法はその涙を取り締まれるだろうか。「泣くことになるんじゃないか」は「泣くな」ではない。「じゃないか」の声の震えは何だろう。もしかして、泣いてるんじゃないのか?
ころんだという事実だけ広まって誰にも助けられないだるま
もう顔と名前が一致しないとかではなく僕が一致してない
あたらしいかおがほしいとトーマスが泣き叫びつつ通過しました
/木下龍也『つむじ風、ここにあります』
機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体
/東直子『青卵』
ナレーションのような声��よって、かわいそうなものがユーモラスに立ち上がる。ナレーターの「僕」もなんだかかわいそう。「だるまさんが転んだ」という遊びはだるまを助ける遊びではない。そもそも、鬼に自分から近づいていくような酔狂な者たちは、自身がだるまである自覚があるのか。いや、このゲームにだるまは存在するのか? 助けるに値しないだろ。「顔と名前が一致しない」は、通常、自分以外の誰かに向けられる言葉だが、歌を読み進めていくとそれが「僕」に向けられた言葉であることが判明する。読者はそれに驚くだけではない。「顔と名前が一致しない」という言葉に含まれる攻撃性が「僕」自身に向けられることで、途端に空気がやわらぐのを感じて、ホッとする。笑う。あ、よかった、大丈夫だった。「僕が一致していない」と言う「僕」のユーモラスなかわいそうさは、このような言葉のドラマによって作られている。お前、かわいそうだな、でも大丈夫そうだ。〈立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ/木下龍也〉。アンパンマンとトーマスのキメラが泣き叫んでいるらしい。「ためいき」の向こう側で。「ためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」。こちらだって、くるおしい。
「ためいき」の向こう側に、言葉が無数の涙を作れてしまうとして。〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉を超えたところに涙を作れてしまうとして。〈わたし〉の涙は計算不可能な可能性の中で生じた一効果なのだとして。涙に理由はないのだとして。やっぱり、本当に泣いている〈わたし〉もいるでしょう? 泣いている〈わたし〉を助けてあげたい? 「なんで泣いているんだよ」。
止まらない君の嗚咽を受けとめるため玄関に靴は溢れた
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
アガンベンの直感はこうである。すなわち、法にとって「思考不可能」なはずの生〔=既存の法では取り扱えない種類の「生」〕、この「生」は法にとって法の空白をなしてしまうものであるが、しかも仮にそこで留まれば、「生」は単なる法外・無法として放置されるはずであるが、しかしそういうことは決して起こることはなく、法は、「生」が顕現するその状態を例外状態や緊急事態として法的に処理しようとする。ここまでは、よい。その通りである。しかし、アガンベンは続けて、そのように「生」が法に結びつけられると「同時」に、「生」は法によって見捨てられることになると批判したがっている。今度は、「生」は、法的に法外へと見捨てられ、あまつさえ無法な処置を施されると言いたがっている。しかし、その見方は一面的なのだ。主権論的・法学的に過ぎると言ってもよい。というのも、「生」の側から言うなら、今度は、「生」が法外な暴力を発揮して、「生」を結びつけたり見捨てたりする法そのものを無きものとし、ひいては統治者も統治権力も無力化するかもしれないからである。そして、疫病の生とは、そのような自然状態の暴力にあたるのではないのか。
/小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、161-162頁、〔〕内注記は平
実状に合わせて、法文書の中に例外事項をひたすら増やし、複雑にすること。その複雑な法文書を読み解ける専門家機関を作ること。それを適切に運用すること。そういった法の運用では〈わたしたち〉の生を守ることができないような事態に直面したとき、法よりも共通善が優先され、法が一時的に停止される。「例外状態」。法の制約から解放された権力が動き出すだろう。法が停止した世界において、それでも法外の犯罪(という語義矛盾)を統制するため。法の制約から解放されたのは権力だけではない。〈わたし〉たちだって法外に放り出されたのだ。「ホモ・サケル」。そこには、〈わたし〉ならざる者たちが、〈わたしたち〉の法を無力化しながら、跋扈することのできる世界があるだろうか。(穂村弘が「女性」という形象の彼方に夢見た世界はそういうものだったかもしれない。*注1)
法外に流されている暴力的な涙はあるだろうか。理由のない涙の理由のなさをテクストの効果に還元して安心しようとするテクスト法学者を、その涙が無力化するだろうか。涙する眼は、見ることと知ることを放棄する。両眼視差と焦点を失いながら、けれどもたんに盲目なのではない涙目の視点。
それは哀願する。まず第一に、この涙はどこから降りてきたのか、誰から目へと到来したのかを知るために。〔…〕。ひとは片目でも見ることができる。目を一つ持っていようと二つ持っていようと、目の一撃によって、一瞥で見ることができる。目を一つ喪失したり刳り抜いたりしても、見ることを止めるわけではない。瞬きにしても片目でできる。〔…〕。だが、泣くときは、「目のすべて」が、目の全体が泣く。二つの目を持つ場合、片目だけで泣くことはできない。あるいは、想像するに、アルゴスのように千の目を持つ場合でも、事情は同じだろう。〔…〕。失明は涙を禁止しない。失明は涙を奪わない。
/ジャック・デリダ『盲者の記憶』、155-156頁
涙目の視点。
振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
噴水は涸れているのに冬晴れのそこだけ濡れている小銭たち
色彩と涙の国で人は死ぬ 僕は震えるほどに間違う
価値観がひとつに固まりゆくときの揺らいだ猫を僕は見ている
ゆっくりと鳥籠に戻されていく鳥の魂ほどのためらい
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
「振り下ろすべき暴力」などないと話は決まっている。合法の力と非合法の暴力とグレーゾーンがあるだけだ。倫理的な響きをもつ「べき」をたずさえた「振り下ろすべき暴力」などない。語義矛盾、アポリア。けれども、「法外の犯罪」などという語義矛盾した罪の名を法的に与えられるその手前、あるいはその彼方での〈わたし〉たちの跋扈を、「振り下ろすべき暴力」という名の向こうに想像してみてもいい。
語義矛盾のような〈わたし〉は語義矛盾のような言葉を聞くことができる。「世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間」(塚本邦雄)。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。文語定型詩は、二十一世紀の現実に極微の効用すらもちあわせていない。一首の作品は今日の現実を変える力をもたぬのと同様に、明日の社会を革める力ももたない。 私は今、その無力さを、逆手にもった武器として立上がろうなどと、ドン・キホーテまがいの勇気を鼓舞しようとは思わない。社会と没交渉に、言葉のユートピアを設営する夢想に耽ろうとももとより考えていない。 短歌は、現実に有効である文明のすべてのメカニズムの、その有効性の終わるところから生れる。おそらくは声すらもたぬ歌であり、それゆえに消すことも、それからのがれることもできぬ、人間の煉獄の歌なのだ。世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間に、影も音もなく密着し、彼を慰謝するもの、それ以上の機能、それ以上の有効性を考え得られようか。 マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
/塚本邦雄「反・反歌」『塚本邦雄全集』第八巻、28頁
「現実を変える力」を持たぬ「世界の変革者」は、通常の意味では変革者ではない。有罪と裁かれる日も無罪放免となる日も迎えることはない。ということは、その「変革者」は囚獄の中にも現実の中にも生きる場所を持たない。そんな人間いるのか。もしも批評家がその変革の失敗を裁くことでその人間に生きる場所を与え、歴史に刻むならば、その失敗がそもそも不可能な失敗であったことを見落としてしまうだろう。なんて無意味なこと。けれども、目指されていた変革も失敗の裁きもなしに、まったく別の道が開かれることがある。そういう想像力は必要だ。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。
マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
これらのメッセージを、塚本邦雄がそう言っているのだから、と素朴に真に受けてはならないだろう。マス・メディアに随順するのか、塚本邦雄に随順するのか、そういった態度。
筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育
/平岡直子「水に寝癖」
洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音
/平岡直子「紙吹雪」
「そうなのよ」「そうじゃないのよ」と口調を真似て遊んでいると「砂利を踏む音」にたどり着けない。どんな人にも「わたしが受けなかった教育」があるし、なにかしら「洗脳はされる」。だからなんだよ。今、口ほどに物を言っているのは何。「砂利を踏む音」。くやしい。
リリックと離陸の音で遊ぶとき着陸はない 着陸はない
/山中千瀬「蔦と蜂蜜」
気付きから断定、発見から事実確認、心内語的つぶやきから客観的判断へと、フレーズの相が転移するリフレイン。「リリックと離陸の音で遊ぶとき」、その「とき」に拘束されて、ある一人の人が「着陸はない」と気づいた。気づいてそう言った。けれども、二度目の「着陸はない」からは、「とき」や〈気付きの主体〉の制約を受けないような、世界全体を視野におさめているかのような主体による断定の声が聴こえてくる。聴こえてきた。
「着陸はない」世界に気づいた主体が、一瞬にしてその世界を生ききった上で、振り返り、それが真実であったと確かめてしま��た。一瞬で老いて、遺言のような言葉を繰り出す。事実と命題の一致としての真理は、その事実を確認できる主体にだけ確かめることができるのだ。〈わたしたち〉にとって肯定も否定もできない遺言。「だってそうだったから」で提示される身も蓋もない真理は「なんで」を受け付けない。
世界の真理がリフレインの効果によって、身も蓋もない仕方で知らされること。説明抜きに、真理を一撃で提示するという暴力からの被害。それは、爆笑する身体をもたらすことがある。自身の爆笑する身体に「なんで爆笑してるんだよ」とツッコミをしようと喉に力を込めながら、その声を捻り出すことはできずに、ひたすら身体を震わせて笑う。「アッ」「ハッ」「ハッ」「ハッ」と声を出しながら息を吸う。呼吸だけは手放してならないのは、息絶えるから。「着陸はない」と二度繰り返して息絶えてしまうのは、歌の主体だけなのだ。
もちろん、「着陸はない⤵︎ 着陸はない⤵︎」のような沈鬱な声、「着陸はない⤴︎ 着陸はない⤴︎」のような無邪気な声を聞き取ってもいい。「着陸はないヨ」「着陸はないネ」「着陸はないサ」のように終助詞を補って聞くこと。リフレインの滞空時間が終わるやいなや一瞬にして息絶えてしまうような声が〈わたしたち〉に求められていないのだとしたら。
「終」助詞というのは、近代以後の命名だが、話し言葉の日本語の著しい特徴であって、話し相手に向かって呼びかけ、自分の文を投げかける働きの言葉である。だから見方によれば、文の終わりではないので、自分の発言に相手を引き込もうとしている。さらに省略形の切り方では、話し相手にその続きを求めている、と言えよう。このように受け答えされる文は、西洋語文が、主語で始まって、ピリオドで終わって文を完結し、一つ一つの文が独立した意味を担っているのとは大きな違いである。
/柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』、91頁
近代に、西洋の文章を模倣するように、「〜は」(主語)で始まって「た。」(文末)で終わる〈口語文〉が作られた。それ以前には、日本語文には西洋語文に対応するような明確な〈文〉の単位は存在しなかった。句読点にしても、活字の文章を読みやすくするための工夫(石川九楊、小松英雄の指摘を参照)と、ピリオド・カンマの模倣から、近代に作られた。
言文一致体=口語体が生み出されてから100年が経つ。けれども、句読点をそなえた〈口語文〉を離れるやいなや、「着陸はない」が「。」のつく文末なのか終助詞「ヨ・ネ・サ」を隠した言いさしの形なのか、いまだに判然としないのが日本語なのだ。
ところで、近代の句読点や〈文〉以前に、明確な切れ目を持つ日本語表現として定型詩があったと捉えられないだろうか。散文のなかに和歌が混じる効果。散文の切れ目としての歌、歌の切れ目としての散文。
句読点も主語述語も構文も口調や終助詞も関係なく、なんであれ31音で強制的に終わること。終助詞を伴いながらも、一首の終わりに隔てられて、返される言葉を待つことのない平岡直子の歌の声。「着陸はない 着陸はない」のリフレインの間に一気に生ききって、どこかに居なくなってしまう声。
老いについての第一の考え方は、世論においても科学者の世界においても広く共有されている目的論的な考え方で、それによれば、老いとは生命の自然な到達点で、成長のあとに必然的に訪れる衰えである。老いは「老いてゆく」という漸進的な動きから離れて考えることはできないように思える。〔…〕。飛行のメタファー〔上昇と下降〕はまさに、老いをゆっくりと少しずつ進んでゆく過程として性格づけることを可能にする。それは、人生の半ばに始まり、必ずや直線的に混乱なく進むとは限らないとしても、段階を順番に踏んでいくのである。〔…〕。第二の考え方は老いを、漸進的な過程としてだけでなく、同時に、また反対に、ひとつの出来事として定義する。突然の切断、こう言ってよければ、飛行中の事故アクシデント。どれほど穏やかなものであったとしても、すべての老化現象の内には常に、思いもよらなかった一面、破局的な次元が存在するだろう。この、思いもよらなかった出来事としての老化という考え方は、第一の図式を複雑なものにする。老化について、老いてゆくというだけではどこか不十分なのだと教えてくれる。それ以上の何か、老化という出来事が必要なのである。突然、予測のつかなかった出来事が、一挙にすべてを動揺させる。老いについてのこの考え方は、徐々に老いてゆくことではなく、物語のなかでしばしば出会う「一夜にして白髪となる」という表現のように、その言葉によって、思いがけぬ、突然の変貌を意味することができるとすれば、瞬時の老化と呼びうるだろう。〔…〕。かくして、その瞬時性において、自然なプロセスと思いもよらぬ出来事の境界が決定不能になるという点で、老いは死と同様の性格をもつだろう。人が老いて、死んでゆくのは、自然になのか、それとも暴力的になのか。死とは、そのどちらかにはっきりと振り分けることができるものだろうか。
/カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』、76-80頁、〔〕内注記は平
徐々に老いてゆくことと瞬時に老いること。それはたんに速度の問題なのではない。同一性を保ちながら徐々に老化することと、他なる者になるかのように突如として老化すること。衰えること、老成すること、年齢に見合うこと、若々しいこと、老けていること、大人びていること、子供っぽいこと。幼年期からの経験や思考の蓄積からスパッと切れて無関心になってしまうこと、来歴のわからない別の性格や習慣を持つこと。長期にわたって抑え込まれていたものの発現や変異、後から付け加えられたものの混入や乗っ取り。
自分の周りで生きている人々が老いてゆく過程に、私たちは本当に気づいているだろうか。私たちはたしかに、ちょっと皺が増えたなとか、少し弱ったなとか、体が不自由になったなと思う。しかし、そうだとしても、私たちは「あの人は今老いつつある」と言うのではなく、ある日、「あの人も老いたな」と気づくのである。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、80-81頁
内山昌太の連作「大観覧車」では、肺癌を診断された「父」の、余命一年未満の宣告をされてから死後までが描かれる。
父のからだのなかの上空あきらかに伸び縮みして余命がわたる
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
父も死に際は老いたる人となり寝室によき果物を置く
壊れたる喉をかろうじて流れゆくぶどうのひとつぶの水分が
/内山昌太「大観覧車」(同人誌『外出』三号)
「父も死に際は老いたる人となり」。あっという間の出来事だったのではないか。おそらく、「父」はもともと老人と言ってもいい年齢だった。けれど、「死に際」に「老いたる人」となったのだ。
定型と技巧を惜しみなく使って肉親の死を描くこと。「死」は定型と技巧かもしれない。「かもしれない」の軽薄さを許してほしい。定型の両義性。自然であり非−自然であるもの。なんであれ31音で強制的に終わることは人間が作り出した約束事に思われるかもしれないが、それは〈わたしたち〉が自由に交わせる約束よりは宿命に近いだろう。約束は破ることが可能でなければ約束ではない。あるいは、破られる可能性。偶然と出来事。宿命に対する技巧とは約束を作ることだろう。そこに他者がいる。あるいは〈わたし〉が他者になる。
〈作品化することは現実を歪めることである〉という考え方がある。事実と表象との対応に着目する立場。もしも〈父のふくらはぎが「一日花のごとくにしぼむ」かのように主体には見えた〉〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉とパラフレーズするならば、作品は現実を歪めていないと言える。「見えた」「書いた」のは本当だからだ。けれど、そんな説明でいいのだろうか。また口よりも目を信用している。「一日花のごとくにしぼむ」を現実として受け入れられないだろうか。作品をそれ自体一つの出来事として。
「しぼむ」という動詞の形。活用形としては終止形だが、テンス(時制)やアスペクト(相:継続、瞬時、反復、完了、未完了など)の観点から、「タ形」(過去・完了)や「テイル」(未完了進行状態・完了結果状態などさまざま)と区別して「ル形」と分類される形である。西洋文法に照らし合わせるなら、「不定形」あるいは「現在形」だ。(日本語では〈明日雨が降る〉のように「ル形」で未来を表現することもある)。
「しぼんだ」(過去・完了)や「しぼんでいる」(現在・進行)と書かれていれば、〈主体の知覚の報告〉として読めるかもしれない。時制についても、相についても、語り手の位置に定位した記述として読める。けれども「しぼむ」はどうだろう。西洋文法において「不定形」とは、時制・法(直接法、仮定法、条件法など)・主語の単複と人称といった条件によって決められた形(=定形)ではない、動詞の基本的な形のことである。
この不定形的な「ル形」を、助動詞や補助動詞を付けずに、剥き出しにして「文末」にすること。そのような「ル形」の文末は、語り手の位置に定位した時制や確認判断を抜きにした、一般的命題、あるいは出来事そのものの直接的なイメージを差し出すことがある。
柳父章によれば、近代以前にも「ル形」の使用はわりあい多いという。けれども、それは標準的な日本語の用法ではなかった。古くは���文脈の日記文でよく使われていた。漢文体や『平家物語』でも一部使われている。そして、「おそらく意識的な定型として使われたのは、戯曲におけるト書きの文体」(97頁)である(*注2)。日記文やト書きは、原則として読者への語りを想定しない書き物であるため、語法が標準的である必要がないのだ。
文末が「ル形」で終わる文体は、脚本とともに生まれたのだろうと思う。脚本では、会話の部分と、ト書きの部分とは、語りかけている相手が違う。会話の部分は、演技者の発言を通じて、結局一般観客に宛てられている。しかし、ト書きの部分は、一般観客は眼中にない。これは演技者だけに宛てられた文である。〔…〕。 文法的に見ると、ト書きの文には、文末に助動詞がついてない。〔…〕。 すなわち、ト書きの文末には、近代以前の当時の通常の日本文に当然ついていたはずの、助動詞や終助詞が欠けている。「ル形」で終わっているということは、こういう意味だった。 逆に考えると、まともな伝統的な日本文は、ただ言いたいことだけを言って終わるのではない。読者や聞き手を想定して、文の終わりには、話し手、書き手の主体的な表現を付け加える。国文法で言う「陳述」が加わるのである。「ル形」には、それが欠けているので、まともな日本文としては扱われていなかった、ということである。
/柳父章、前掲書、99−100頁
このような来歴の「ル形」は、その後、西洋語文の「現在形」や「不定形」の翻訳で使われるようになり、より一般化した。それをふまえた上で、読者を想定した日本文の中で「ル形」を積極的に使ったのは夏目漱石だった。歌に戻ろう。
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
「しぼむ」のタイムスパンをどう捉えるか。ある時、ある場所で、「一日」で「しぼむ」のを〈見た〉のだろうか。おそらくそう見えたのだろう。けれども、他方で、この歌は「その時、その場」の拘束から逃れてもいる。「しぼむ」には「文の終わり」の「話し手、書き手の主体的な表現」が欠けているのだ。ト書きを読めば、ある時ある場所に拘束されずに、何度でもそれを上演し体験できる。それに似て、この「しぼむ」は読者に読まれるたびにそこで出来事を起こすだろう。
「しぼむ」について、今度は「話し手、書き手」の位置ではなく、「言葉のドラマ」を参照しよう。
「巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくに」
「ふくらはぎ」と「花」は決して似ていない。「花」と言われると、人は通常〈咲いている花〉を思い浮かべるだろう。「一日花」は一日の間に咲いてしぼむ花のことだが、だからこそ、咲いているタイミングが貴重に切り取られるのではないか。「ふくらはぎ」と〈咲いている花〉は形状がまったくちがう。にもかかわらず、〈ふくらはぎ・一日・花の〉のように、「が」や「は」といった助詞を抜きに、似ていないイメージ・語彙が直接に連鎖させられている。意味的にもイメージ的にも、この段階では心許ない。結句にいたっても、「ごとくに」に四音が割かれており、一首全体が無事に着陸する望みは薄いだろう。〈ふくらはぎ・一日花の・ごとくに〉と言われても、「ふくらはぎ」はまったく「花のごとく」ではないのだから。
最後の最後で、「しぼむ」の突如の出現が一首に着陸をもたらす。「突如」として「着陸」が訪れる。「花のごとく」なのは「ふくらはぎ」ではなくて、それが「しぼむ」ありさまであったことが、最後に分かる。
うまく着陸したからといって、〈ふくらはぎ・一日花の〉における語と語の衝突の記憶がすぐに消えてなくなることはない。でなければ、「しぼむ」がこのように訪れてくれることはない。衝突事故をしても着陸すること。「ふくらはぎ」にまったく似たところのない、異質なものとしての「花」が、助詞抜きで直接的に連鎖させられることによって生じる読者の戸惑い。その戸惑いが、結句未満の最後の三音で解消されるという出来事。
「話し手、書き手」から遊離した「言葉のドラマ」の中の「しぼむ」は、もちろん書き手の感性の前に現れた「しぼむ」でもあっただろう。〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉は間違いではない。「父」と〈わたし〉のドラマを「言葉のドラマ」へと還元して、蒸発させてしまってはいけない。それは単純化だ。「社会と没交渉」になってたったの二歩で「言葉のユートピアを設営」してしまうような、一般論として振りかざされる「作者の死」は心が狭い。
靴を脱ぎたったの二歩で北限にいたる心の狭さときたら
/平岡直子「視聴率」(同人誌『率』9号)
内山の作品には、「老い」について「ル形」を使いながら〈語り手=書き手の声〉を聞かせる作品が他にもある。
読点の打ちかたがよくわからないまま四十代、中盤に入る
/内山晶太「蝿がつく」(同人誌『外出』二号)
「ル形」の効果だろうか。歌の語り手はあきらかに書き手だが、仮に書き手である内山昌太が嘘をついていたとしてもこの歌は成り立つだろう。歌のなかでの語り手=書き手=〈わたし〉は「内山昌太」から遊離している。だからといって架空のキャラクターを立てる必要もない。〈書き手の声〉が〈書くこと〉について語っているという出来事が確認されれば、ひとまずはいい。
結局のところ、「読点」は適切に打たれたのかわからない。「三十代」「四十代」という十年のサイクルは規則的に進むが、内山はそこに不規則性、あるいは規則の曖昧さを差し込もうとしている。不規則はどこから生まれるのか。規則が明文化されているかどうか、規則がカッチリしているかどうか、ではない。規則を使うとき、従うときに、不規則が生まれる。「使う」「従う」といった行為。そこには、うっかりミスや取り違え、愚かさや適当さがある。
内山自身による先行歌がある。
ペイズリー柄のネクタイひとつもなく三十代は中盤に入る
/内山晶太『窓、その他』
「四十代、中盤」や「三十代は中盤」というふうに、「◯十代」と「中盤」の間に何かを差し込もうとする手がある。
十年のサイクルについて、あらかじめ目標を立てるのであれ、後から反省するのであれ、「◯十代」という表記はその十年の全体を一挙に指示する。自動的で、明快で、有無を言わせない〈十年の単位〉に対して、「中盤」という曖昧な幅を当ててみること。
「三十代中盤」や「四十代中盤」という表記であったなら、「中盤」は〈十年〉の中の一部として回収されてしまうかもしれない。けれど、「三十代は中盤に入る」、「四十代、中盤に入る」という表記によって、徐々に進行しながら曖昧にその意味や価値を変質させていく、一様ならざる時間の幅へと〈十年〉が取り込まれていくかのようだ。「中盤」っていつからいつまでなんだ。きっと、サイクルごとに「中盤」の幅は伸び縮みするだろう。3年、5年? 8年くらい中盤で生きる人もいるのかな。
眠ること、忘れることを知らないで、昼的な覚醒を模範とする精神には、決して捕捉されることのない曖昧な時間。その時間のうちに〈十年の単位〉を巻き込んで、一身上の都合から伸び縮みするリズムの個人的な生を主張する視点。〈君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている/大森静佳〉と好対照だ。というのは、「リズムの個人的な生」の主張は、それを意識すればその都度タイムリミットのように減っている〈十年〉への不安とペアなのだから。
「中盤に入る」は淡々とした地の文の語りのようでもありながら、規則的に進行する〈十年〉のテンポに従うことのない「中盤」の速度を確保しようとする〈わたし〉の主体的な決意の言葉のようでもある。歌から聞こえてくる声が、三人称視点的な叙述なのか一人称的な心内語やセリフなのかの微妙な決定不可能性は、〈十年の単位〉について社会に語らされている主体と「中盤」を能動的に語っている主体のせめぎ合いに似る。
十年のサイクルは自然的な所与なのか、社会的な構築物なのか。絶対に無くなる時間の宿命を約束と取り違えること。それから、その約束を破ってしまうこと。二重のうっかりだ。だから、うっかりと変な歳のとり方をする。年齢相応じゃない。うっかりはポエジーだろう。
二つのタイプの老化、漸進的な老化と瞬時の老化は、常に強く絡み合っており、互いに錯綜し、巻き込み合っている。だから、常になにがしかの同一性が、毀損した形であっても存続し、人格構造の一部分が変化を超えて持続するのだと言う人もいるだろう。そうだとしても、どれだけ多くの人が、死んでいなくなってしまう以前に、私たちの前からいなくなり、自らを置き去りにしていくことだろう。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、93−94頁
〈わたし〉という語り手はうっかりと〈わたし〉から離脱してしまうことがある。深い意味もなく。身も蓋もないものの神秘を生み出しながら。その神秘を新たに〈わたし〉の神秘へと統合できるのか、そうではないのか。
君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている
/大森静佳『てのひらを燃やす』
「ねこじゃらし見ゆ」を受ける視点。それは「君」でも「われ」でもなく、「君の死後、われの死後」に、「まだ揺れている」と言うことのできる語り手の視点だ。語り手の案内を受けて導かれた読者の視点だ。読者の〈わたし〉はいったいどこに案内されたのだろうか。「まだ揺れている」と語る「われ」ならざる〈わたし〉はどの〈わたし〉で、「それ」はどこにいるのか。
この歌の視点について、ひとつ現実的に想像してみよう。
現実に、ある時ある場所で、「君」と「われ」が青々としたねこじゃらしを見ている。会話はなく、ねこじゃらしが揺れるのをぼうっと見ている。注意して観察しているのではなく、なんとなく、その青々とした緑色の揺れるのが目に入るがままだ。受動的で反復的な視覚体験によって、体験の主体は動くモノの側に移っていく。ねこじゃらしが揺れれば〈揺れ〉を感じ、こすれれば〈こすれ〉を感じるような体験のあり方。その時、ねこじゃらしの「青々」や「揺れ」は、「君」や「われ」が見ていようが見ていなかろうが、それとは独立に持続する運動のように現象するだろう。
持続するそれは「われ」の主観から独立してイデアルに永続するナニカというよりは、「われ」が〈意識的に見る主体=見ていることを意識する主体〉ではない限りにおいて成立するかりそめの現象だ。その現象に身を任せている間、「われ」は変性意識的な状態かもしれない。意識の持続は、見ていることの自覚ではなく、「ねこじゃらし」の「揺れ」の運動と一致する。「われ」の肉体も〈君とわれ〉の関係もそっちのけで、ねこじゃらしが揺れる。
魂がそのように「われ」��ら遊離していきながら、やっぱり振り返る。「われ」から遊離した、ほとんど死後的な魂の視点は振り返る。きっと、そうでなくちゃ困るのだ。振り返る視線によって、「君」と「われ」が「視野」に入る。「視野」に入れるという肯定の仕方だ。というのは、ねこじゃらしを見ている限り、「君」と「われ」は互いに「視野」に入らないはずなのだ。
〈君とわれ〉というペアの存在が、「君」も「われ」もいつか死ぬという身も蓋もない事実を絆帯として、常軌を逸した肯定をされてしまった。
「君とわれの死後にも」ではなく「君の死後、われの死後にも」と書き分けられている。「君」と「われ」のどちらが早く死ぬか、死ぬまでにどのような関係性の変化があるか、どのような経験の共有があるのか。そういったことに関心を持つ生者の視点はない。その視点があるならば、たとえば次の歌のように二者の断絶が描かれてもいい。
その海を死後見に行くと言いしひとわたしはずっとそこにいるのに
/大森静佳『カミーユ』
断絶の構図を作らずに、〈、〉で並列させられる形で肯定される関係は何だろう。生前から死後までを貫くような、〈君、われ〉の関係の直観。〈君とわれ〉の「君の死後、われの死後」への変形。その変形による肯定は、〈君とわれ〉の圏内においてはナンセンスだ。〈「君」が死んでも、「われ」が死んでも、ねこじゃらしは変わらず揺れているだろうね〉ならば、それは〈君とわれ〉の相対化だ。それで心身は軽くなるかもしれない。その軽さに促されるように〈生〉のドラマは展開するかもしれない。けれども、生前から死後までを貫く二者の並列関係の肯定にはなりえない。
〈生前から死後までを貫く二者の並列関係〉はナンセンスなフレーズだ。だからこそ、その肯定は常軌を逸している。ナンセンスな肯定が、常軌を逸した視点から、すなわち、「われ」の魂が遊離して別の生の形をとっている間にだけ持続するかりそめの語り手の視点からなされた。
語り手の視点を「死後の視点」と一息に言ってはならない。そう言ってしまうなら、語り手の位置の融通無碍な変化を見落とすことになる。「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」から「まだ揺れている」の間には、語り手の視点にジャンプがある。山中千瀬の「着陸はない 着陸はない」のリフレインと似た効果がこの歌の一字あけにおいても生じているのだ。
「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」という言い切りの裏には、〈見えるだろう〉という直観が働いている。〈直観の時〉があり、〈時〉に拘束された「言い切り」がある。
直観された真実がそのままで場を持つことは、しばしば難しい。けれどもこの歌において、その直観は、一字あけのジャンプを経て、「まだ揺れている」を言うことのできる死後的な主体によって確認されることで場を持つことになる。「まだ〜ている」においては、「ル形」とは異なり、明らかに主体による確認判断が働いているだろう。直観を事実として確かめることのできるような不可能な主体へのジャンプ。
歌が立ち上げる〈不可能な声〉がある。
直観した時点から、それを確認する時点へのジャンプ。そこには、他なる主体の声になるかのような突如の変化と、同じ一つの〈歌の声〉の持続の、二つの運動の絡み合いがあるだろう。一首は一つの声を聞かせる。言葉を強引に一つの声へと押し込めることによって、通常では不可能なことを言うことができる。通常では、ナンセンス、支離滅裂、分裂した声、破綻した言葉のように聞かれてしまうかもしれないものたちが、一つの歌となるときに、〈不可能な声〉を聞かせてくれる。どうして〈不可能な声〉を使ってまで〈君とわれ〉を視野に収めたのだろうか、という問いから先は読者に任せた。
わたしたちに不可能な声が聞こえてくるとき。
「それは眼球めだまと金魚を買った」 「穴がわたしの代わりに泣くの」 「はるまきがみんなほどけてゆく夜」 「僕が一致してない」 「機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」 「振り下ろすべき暴力」 「着陸はない 着陸はない」 「ふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ」 「まだ揺れている」
どんな声でも「あるかも」と思えるように解釈することができるのだとして、わたしたちはどんな声でも、なんであれ聞いてきたのではない。いくつかの不可能な声を聞いてきた。
「不可能な短歌の運命」を予告しつつ、あらかじめそれを過去のものにするために。不可能なものの失敗がそれを過去へと葬ったあとで、そのナンセンスな想起が不可能なものを橋やベランダとして利用できるようにするために。
/平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
2年前に僕はこんなことを書いていた。短歌を書くことも、文章を書くことも、僕にはほとんど不可能なことだった。なにが不可能だったのか。
分母にいれるわたしたちの発達、 くまがどれだけ昼寝しても許されるようなわたしたちの発達、 しかも寄道していてシャンデリア。 青空はわけあたえられたばかりの真新しくてあたたかな船。 卵にゆでたまご以外の運命が許されなくなって以来わたしたちは発達。 教科書ばかり読んでいたのでちっとも気のきいたことを言えなくてごめんなさい。 まったく世界中でわたしたちを愛してくれるのはあなただけね。 ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのにさ。 〔…〕
/瀬戸夏子「すべてが可能なわたしの家で」(連作5首目より、一部抜粋)
ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのに、ベランダから生きてもどろうとしていた。それが僕の抱えていた不可能なことだった。
*注1 穂村弘「〔…〕。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子と���が五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。僕は体質的には、本当は自分が八回転くらいできることを夢見る、跳べるってことに憧れが強いタイプでね、だから東直子を絶賛するし、大滝和子もそうだし、つばさを持った人たちへの憧れがとくに強い。だからある時期まで女性のその、現に跳べる、そしてなぜ跳べたのか本人はわからない、いまわたし何回跳びました? みたいな(笑)、「数えろよ、なんで僕が数えてそのすごさを説明しなきゃいけないんだよ」みたいな、そういうのがあった。」 座談会「境界線上の現代短歌──次世代からの反撃」(荻原裕幸、穂村弘、ひぐらしひなつ、佐藤りえ)、『短歌ヴァーサス』第11号、112頁
*注2 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』では、ト書きの比較的初期の用例として1753年に上演された並木正三『幼稚子敵討』の脚本から引用している。参考までに、以下に孫引きしておく。 大橋「そんなら皆様みなさん、行ゆくぞへ。」 伝兵「サア、おじゃいのふ。」 ト大橋、伝兵衛、廓の者皆々這入る。 …… …… 宮蔵「お身は傾城けいせいを、ヱヽ、詮議せんぎさっしゃれ。」 新左「ヱヽ、詮議せんぎ致して見せう。」 宮蔵「せいよ。」 新左「して見せう。」 ト詰合つめあふ。向ふ。ぱたぱた と太刀音たちおとして、お初抜刀ぬきがたなにて出る。 『日本古典文学体系53』岩波書店、1960年、112頁 本文で言及できなかったが、ト書き文体と口語短歌について考えるなら、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座、2019年)を参照されたい。
【主要参考文献】 ・短歌 内山昌太『窓、その他』(六花書林、2012年) 大森静佳『てのひらを燃やす』(角川書店、2013年) 大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、2018年) 木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年) 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年) 斉藤斎藤『渡辺のわたし 新装版』(港の人、2016年/booknets、2004年) 笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年) 瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(私家版歌集、2012年) 塚本邦雄「反・反歌」(『塚本邦雄全集』第八巻、ゆまに書房、1999年)(初出は『短歌』昭和42年9月号、『定型幻視論』に所収) 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013年) 東直子『青卵』(ちくま文庫、2019年/本阿弥書店、2001年) 平岡直子 連作「水に寝癖」(『歌壇』2018年11月号) 平岡直子 連作「紙吹雪」(『短歌研究』2020年1月号) 山中千瀬『蔦と蜂蜜』(2019年) 同人誌『率』9号(2015年11月23日) 同人誌『外出』二号(2019年11月23日) 同人誌『外出』三号(2020年5月5日) 『短歌ヴァーサス』第11号(風媒社、2007年)
・その他書籍 石川九楊『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫、2015年) 沖森卓也『日本語全史』(ちくま新書、2017年) カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2020年) 小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」(『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、河出書房新社、2020年) 小松英雄『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』(笠間書院、2006年) ジャック・デリダ『盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟』(鵜飼哲訳、みすず書房、1998年) 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』(法政大学出版局、2004年)
・ネット記事 伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』 」 佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」 平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
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📸廬山寺庭園“源氏庭” [ 京都市上京区 ] Rosanji Temple Garden, Kyoto の写真・記事を更新しました。 ーー #紫式部 の邸跡にちなんで作庭された枯山水庭園“源氏庭”。夏はキキョウの名所。 #明智光秀 ゆかりの仏像の特別公開も。 . 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/rosanji-temple-%e5%bb%ac%e5%b1%b1%e5%af%ba/ ・・・・・・・・ 廬山寺は平安時代に紫式部が過ごした邸宅のあった場所に建つ寺院で、それにちなんで作庭された #枯山水庭園 “源氏庭”は初夏には紫の #キキョウ の花を咲かせる桔梗の名所として知られます🌷先日初めてその姿を拝観! . 寺院としては平安時代の中ごろ、938年頃(天慶年代)に比叡山延暦寺の中興の祖・良源により創建。正式名称は“廬山天台講寺”。当時は現在地より北西の船岡山の南に建立されましたが、応仁の乱で焼失🔥 延暦寺系ということで織田信長に狙われたりもしつつ安土桃山期の天正年間に現在地に移転。 . なお戦国時代には明智光秀により侵略され、その滞在時に光秀が礼拝し戦に持ち運ぶこともあったという仏像が展示された特別展『明智光秀の念持仏と廬山寺展』が2020年開催中です。 . 江戸時代にも1788年の天明の大火🔥で伽藍を焼失するものの、光格天皇によってすぐ近隣の『仙洞御所』の御殿の一部が移築され再興。当時移築されたのが現在も残る本堂と尊牌殿。 本堂にまつられている御本尊“木造阿弥陀如来及両脇侍像”が #国指定重要文化財 。その他にも国宝に指定されている“慈恵大師筆遺告”も所有していますが、こちらはトーハク🏛に寄託。 . この地が紫式部の邸宅だったと論証されたのは1965年(昭和40年)。紫式部の祖父・藤原兼輔(権中納言)の建てた“平安京東郊の中河の地”の邸宅というのが現在廬山寺の境内であったと歴史学者・角田文衞により考証されました。 その後、父 #藤原為時 とともに越前国からこの邸宅に移り住み、その後大人になった紫式部はこの地で『源氏物語』『紫式部日記』を執筆しました🖋 . 枯山水庭園“源氏庭”はそれにちなんで昭和40年に作庭されたもの。平安時代の庭園の曲線的な特徴を、現代の苔と白砂に置き換えたもので、6月末〜夏にかけて見頃を迎えるキキョウは“源氏物語”に出てくることから、また紫式部にちなんで植えられたものだそう。 ちなみに、紫式部ゆかりの庭園として作庭されたものとしては、福井県・越前武生の『紫式部公園』という回遊式庭園もあります。 . また廬山寺の境内には豊臣秀吉によって京都の広域に造営された“御土居”の一部が残り #国指定史跡 にもなっています。 以前御土居の話を書いたのは鷹峯の『しょうざんリゾート京都庭園』。結構遠いんですけど…、そんな風に平安時代・安土桃山・江戸時代から現代までの歴史を感じられる寺院。 ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #kyotogarden #zengarden #japanischergarten #jardinjapones #jardimjapones #японскийсад #landscapedesign #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #京都 #京都市 #kyoto #御所東 #出町柳 #demachiyanagi #枯山水 #karesansui #おにわさん #oniwasan (廬山寺) https://www.instagram.com/p/CCGxKD0pMxs/?igshid=1ux13pcdm3t67
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