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#東銀座三原橋交差点
yotchan-blog · 6 months
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2024/3/26 7:59:46現在のニュース
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wangwill · 6 months
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白頭翁
H:白頭翁代表老,也就是銀髮族,隨園詩話「美人自古如名將,不許人間見白頭。」,迎接老,活得更自在。白頭宮女話當年,年紀不會騙人,但可以活得像人瑞。只要活著自在,年紀不是老的標誌。少年易老學難成,老當益壯唐。王勃〈秋日登洪府滕王閣餞別序〉:「老當益壯,寧移一作知白首之心;窮且益堅,不墜青雲之志。」生老病死,人生循環,常練身體,減緩病死,財富自由,活出自己,這是白頭翁的功課,其他名利四大皆空,皆不是最終的重點。20240313W3
網路資料:
宋 朱熹《偶成》:
「少年易老學難成,一寸光陰不可輕,未覺池塘春草夢,階前梧葉已秋聲。」
隨園詩話卷四
維基 -> 隨園詩話 -> 卷四
美人自古如名將,不許人間見白頭。
53 冬友侍讀出都,過天津查氏,晤佟進士溶;言其母趙夫人苦節能詩,《祭灶》云:「再拜東廚司命神,聊將清水餞行塵。年年破屋多灰土,須恕夫亡子幼人。」查恂叔言其叔心穀《悼亡姬》詩,和者甚眾。有佟氏姬人名艷雪者,一絕甚佳,其結句云:「美人自古如名將,不許人間見白頭。」此與宋笠田明府「白髮從無到美人」之句相似。
窮士詩云:「書畫琴棋詩酒花,當年件件不離它。而今事事都更換,柴米油鹽醬醋茶。」
讀《清詩話》所收查為仁的《蓮坡詩話》,始知此詩在清初時,已被認係民謠,顯然不知作者是誰。《蓮坡詩話》云:
「張少廷尉璨,任長蘆轉運使時,余至其小齋,見廷尉手書單黏壁間云:『書畫琴棋詩酒花,當年件件不離它。而今事事都更變,柴米油鹽醬醋茶』。嘗為余言,古人歌謠,出��天然,故妙。」
網路資料:
一窮二白
形容非常貧窮落後。
大陸地區窮指工農業不發達,白指文化科學水準低。形容基礎差,底子薄。
一窮二白三餐不飽,
四季五臟六腑常空。
一穷二白,三餐不饱,四季奔波,五更早起,六点班次,七个时辰,八角皆湿,九肉入肚,十分享受,苦尽千来,不足万钱,何其到头??
「白頭宮女在,閒坐說玄宗」出自唐代詩人元稹所作的五言絕句《行宮》。 此句描繪青春消逝、白髮頻添、閒坐回憶的宮女形象。 白頭宮女:據白居易《上陽白髮人》,天寶末年,一些宮女被送到上陽宮,在這冷宮裡一閉四十多年,成了白髮宮人。 行宮,皇帝出行時居住的宮殿,這裡指當時東都洛陽的皇帝行宮上陽宮。
元稹白頭宮女話當年的〈行宮〉:「寥落古行宮,宮花寂寞紅,白頭宮女在,閑坐說玄宗。」
東莞夕陽:第一回
白頭宮女話當年
詞曰︰
憶昔午橋橋上飲, 座中多是豪英。長溝流月去無聲,杏花疏影裡,吹笛到天明。
二十餘年成一夢,此身雖在堪驚。閒登小閣看新晴,古今多少事,漁唱起三更。
網路資料:
上陽白髮人
朝代:唐代
作者:白居易
陽人,上陽人,紅顏暗老白髮新。
綠衣監使守宮門,一閉上陽多少春。
玄宗末歲初選入,入時十六今六十。
同時採擇百餘人,零落年深殘此身。
憶昔吞悲別親族,扶入車中不教哭。
皆雲入內便承恩,臉似芙蓉胸似玉。
未容君王得見面,已被楊妃遙側目。
妒令潛配上陽宮,一生遂向空房宿。
宿空房,秋夜長,夜長無寐天不明。
耿耿殘燈背壁影,蕭蕭暗雨打窗聲。
春日遲,日遲獨坐天難暮。
宮鶯百囀愁厭聞,樑燕雙棲老休妒。
鶯歸燕去長悄然,春往秋來不記年。
唯向深宮望明月,東西四五百回圓。
今日宮中年最老,大家遙賜“尚書”號。
小頭鞵履窄衣裳,青黛點眉眉細長。
外人不見見應笑,天寶末年時世妝。
上陽人,苦最多。
少亦苦,老亦苦,少苦老苦兩如何!
君不見昔時呂向《美人賦》,
又不見今日上陽白髮歌!
維基文庫
美人賦
作者:呂向 唐本作品收錄於《全唐文/卷0301》
姊妹计划: 数据项
帝初馳六飛之不測,奄四海而作君,曜明威,嶷崇勳,固盡善而盡美,又焉得而稱雲。時屯既康,聖躬之豫,樂以和操,色以怡慮。豈曰帝則,實惟君舉,庸克推腹心,增耳目。燕趙鄭衛楚越巴漢之邦,士農工商皂隸輿台之族,不鄙褊陋,不隔賤卑,工技者密聞,淑邈者遽知。上心由是震蕩,中使載以交馳,周若雲布,迅如飆發。以日係時,以時係月,德雋相次,為樂不歇。闐紫微,環帝座,蕖華灼爍,柳容婀娜,輕羅隨風,長縠舒霧。肌膚紅潤,柔姿靡質;妖豔夭逸,絕眾挺出。嬛然容冶,霍若明媚;曼錄騰光以橫波,修蛾濯色以總翠。齒編貝,鬢含雲;顏綽約以冰雪,氣芬鬱而蘭薰;腰佩激而成響,首飾曜而騰文。或纖麗婉以似羸,或穠盛態而多肌;有沈靜見節,有語笑呈姿。思若老成,體類嬰兒,真天子所禦者,非庶人當有之,洎懷春暮,睇情晷;列筵於林,方舟於水。自任縱誕,相與攀倚;鳥間關而共嬌,花散亂而增美。吹碧葉,吐紅蕊,左右相視,遊嬉未已。見頹景之迫濛汜,攜密親,召近臣;陳金罍與瑤席,朗月垂光而射人;列星奪采,長河滅津。然後絲竹發越,金石鏗鈜;守則異器,動則和鳴。妙舞謂何尚以輕,善歌取何矜以清;齊列捷獵,按次屏營。間直往以曳緒,炊轉入而旋縈;低視候節,紆體遺聲。遏行雲,結遺風;眾工相錯,迭美不同。夕以闌,樂亦闋;醉以蕩情,樂以忘節。帝曰:「今日為娛,前代固無,當以共悅,可得而說。」眾皆蹁躚,離席遷延。鹹齊首,互舉酒;歌千春,稱萬壽。��進曰:「妾家賤族,陋目褊心。陛下衣綺縠與羅紈,飾珠翠與碧金;燕私陳乎笙鼓,和樂象乎瑟琴。何恩渥以增極,而悅愉之備深;顧薄軀之無穀,空負惠以難任。」有美一人,激憤含顰;凜若秋霜,肅然寒筠。乃徐進而前止,遂抗詞而外陳,曰:「眾妾麵諛,不可侍君之側。指摘背意,委曲順色;故毀妍而成鄙,自崇謬而破直。妾異爾情,敢對以臆。若彼之來,違所親,離厥夫;別兄弟,棄舅姑。戚族愧羞,鄰裏嗟籲;氣哽咽以填塞,涕流離以霑濡;心絕瑤台之表,目斷層城之隅。人知君命乃天不可讎,尚懼盜有移國、水或覆舟。伊自古之亡主,莫不躭此嫚遊;借為元龜,鑒在宗周;眾以為喜,妾以為憂。」於時天顏回移,聖心感通;竟夜罷寢,須明導衷。俾革進伎樂者為薦士之官,徵豔色者為聘賢之使;闕下駿奔,王庭麇至。野無遺材,山無逸人;賁然偕道,與物恒春。若此之淑美,豈同夫玉顏絳唇、巧笑工顰、惑有國之君臣者哉。
星雲大師:
人,都有懷舊的習性,所謂「白頭宮女話當年」;不忘回憶過去,這是表示過去比現在美麗。然而「歲月不待人」,過去的終究已經「時過境遷」,就算夕陽無限好,也只是近黃昏。因此,人不能沉溺在過去的回憶裡;人的眼光要望向未來,要看得高、看得遠、看得到未來,人生才有希望。
有一隻小狗,整天追逐著自己的尾巴兜著圈子跑。大狗見了,不禁好奇的問明原因。小狗說:「難道你沒有聽說,我們狗兒的幸福是在尾巴上,我繞著圈子跑,就是為了追逐幸福,難道你不希望追求幸福嗎?」大狗說:「我只知道,只要我奮力向前走,幸福就會緊緊的跟在我後面。」
被周玉蔻酸「白頭宮女話當年」 蘇煥智怒嗆:妳比我大3歲(2018年03月6日 17:32)
周玉蔻,臺灣新聞工作者、政治評論人、談話節目主持人。新聞記者出身,1990年代起活躍於電視和廣播之政論節目。 1975年��業於國立政治大學新聞系後,周玉蔻開始記者生涯,並在任職於《天下雜誌》、《聯合報》期間出名。1990年代跨足電視和廣播界,1996至2004年在飛碟電台主持《飛碟早餐》。 維基百科
出生資訊: 1953 年 9 月 9 日(70歲),基隆市
配偶: 李賢礽 (結婚於 2001 年–2017 年)
學歷: 北京大學光華管理學院 (2012 年)、 國立政治大學 (1971 年–1975 年)、 哈佛大學、 北京大學, …
父母: 周景禹
身高: 155 公分
電視節目: 辣新聞152、 台灣最前線
活躍時期: 1975—現今
蘇煥智,中華民國律師、政治人物,生於臺南市七股區,為末任臺南縣縣長,現任台灣維新創黨人兼召集人,曾任臺灣人權促進會副會長、清大講師、加州柏克萊大學東亞研究院訪問學者、IBM臺灣分公司律師、臺北市議會議員陳水扁助理、立法委員、民主進步黨立法院... 維基百科
出生資訊: 1956 年 7 月 20 日(67歲),七股區
政黨: 台灣維新
學歷: 國立臺灣大學、 天主教輔仁大學
著作: 黑面琵鷺的鄉愁
先前任職單位: 中華民國立法委員 (1993 年–2001 年)
老而彌堅
此處所列為「老當益壯」之典源,提供參考。
《後漢書.卷二四.馬援列傳》
援年十二而孤,少有大志,……後為郡督郵1>,送囚至司命府2>,囚有重罪,援3>哀而縱之,遂亡命北地4>。遇赦,因留牧畜,賓客多歸附者,遂役屬數百家。轉游隴漢5>閒,常謂賓客曰:「丈夫為志,窮當益堅,老當益壯。」因處田牧,至有牛馬羊數千頭,穀數萬斛6>。既而歎曰:「凡殖貨財產,貴其能施賑7>也,否則守錢虜耳。」乃盡散以班8>昆弟故舊,身衣羊裘皮褲。
清 · 錢湘《續刻蕩寇志序》:「因卻不允。吾不知其一介不取之心,至老而彌堅也。」
唐.王勃〈秋日登洪府滕王閣餞別序〉:「老當益壯,寧移一作知白首之心;窮且益堅,不墜青雲之志。」
《隋唐演義》第八回:「叔寶如夢中驚覺,急去攙扶。那人老當益壯,翻身跳起道:『朋友,不要著忙,不曾跌壞我那裡。』」
《隋唐演義》第八七回:「玄宗戲道:『只看騎馬,我勝於你,可知風流陣上,你終須讓我一籌。』楊妃也戲說道:『此所謂老當益壯。』」
《蕩寇志》第五三回:「先生說那裡話來,眼見得文武高才,老當益壯,定是笑傲當世,不屑屑於榮祿者。」
財富自由定義? 財富自由(financial independence)最簡單的定義:被動收入>生活支出。 財富自由廣義而言,就是不需要透過「勞力或時間」賺取工作薪資等「主動收入」,讓工作並不只是為了錢,而是可以無後顧之憂的做自己真正喜歡且有熱情的事情。
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rezagrats · 3 years
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Whenever I encounter it, I take the picture. #かねふく #かねふくの看板 #地元愛 #明太子かねふく #tokyobillboard #東京の看板 #tokyoadvert #tokyoad #臨海町 #東銀座三原橋交差点 #新大橋 #浅草雷門一丁目 #馬出四丁目 他にもあったかな⁉︎ https://www.instagram.com/p/CU1cqqcPFSz/?utm_medium=tumblr
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sunacof · 5 years
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東銀座の日章興産ビル。
窓感がたまらない。
2017.04.
Nissho-Kosan Building in Ginza, Tokyo.
20 notes · View notes
ichinichi-okure · 4 years
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2020.11.1sun_tokyo
朝の8時半ぐらいに目が覚めて、そのままシャワーを浴びる。髪が長いのもあるが、トリートメントを多めに使ってしまいがちになり、どうも髪からそれがうまく流れ落ちていないような気になってしまう。そのため、シャワーの締めは年中関係なく、冷水で終わらすので修行のようなことになっている。ただ、冷水のほうが明らかにトリートメントも全部流れていって、髪がキュキュとする。あと、冷水を浴びると嫌でも目が覚める。そもそも目覚めはいいので、シャワーも歯磨きもしなくていいのなら、起きてから5分以内には家を出れるが、この特技はあまり活かされない。 ドライヤーは使わないタオルドライ派なので、一気にタオルでクシャクシャにして水分をできるだけ取って、着替えて歯を磨いて家を出る。9時35分から宮下公園(現:MIYASHITA PARK)の前にあるヒューマントラスト渋谷で上映される『博士と狂人』のチケットを取っていた。映画は世界最大の英語辞典「オックスフォード英語辞典」誕生に関わった一人の博士と一人の狂人についての実話を元にしたものだった。毎月1日は「映画の日」なので、なにか観ようと考えていたら、ちょうどこの映画を見つけた。家の最寄駅は三軒茶屋駅だが、渋谷までは大抵の場合は歩いていく。
緑道沿いに進んでいく池尻大橋の目黒川が見える場所、国道246に出る。そこからは道玄坂を目指して進むと渋谷の道玄坂に出れる。たいてい30分から40分の間ぐらいかかる。ただ、ヒューマントラスト渋谷は宮下公園のほうなので、プラス10分程度はかかる。シャワーと歯磨きをして家を出たのが、8時55分だった。なぜか映画開始を9時45分だと勘違いしており、旧山手通のファミマの赤信号で待っている時にその時差の10分に気づいた。45分開始なら着いても5分以上は余裕があるはずだった。でも、このままだと上映開始ちょうどに着く計算だ。 ああ、余裕がないのは嫌だ。 予告編が始まる前には座っていたいのに。それに「映画の日」だし、いつもより安く観れるからアイスコーヒーも劇場で買おうと思っていたのに、これだとなにもかもギリギリだ。青信号、とりあえず、早足で進む。道玄坂のラブホとライブハウスのほうに降って東急方面に向かっていくとハロウィーンの残り香をラブホのスタッフらしき人たちが清掃をしていた。そのまま東急百貨店からH&Mに向かって、H&Mの横をまっすぐに新生渋谷パルコ方面に向かっていく。日曜日朝だが、ハロウィーン帰りの人はあまりいない感じだった。空き缶や空き瓶もなく、吐瀉物も見かけなかった。良くも悪くもコロナ に奪われた熱狂や欲望は��こに回収されるんだろうか。
渋谷パルコとかつての単館系映画館を雄とされていたシネマライズ、現:渋谷WWW&WWW Xのスペイン坂をのぼっていくと渋谷パルコの一階というかオープン前にかかわらず家族連れやカップルやたくさんの人たちが並んでいた。たぶん、任天堂ショップのポケモンとかそういうなにかをGETするために並んでいるんだろう。僕はアプリゲームもハードを使うゲームしないからよくわからないが、そんなものをしなくても東京は歩くのたのしいのになと思うけど、説得力はないのはわかっている。こちらは時代遅れだ。そんな人たちを横目に見ながらやっぱりパルコ前の信号で捕まって待っていた。昔はこの交差点もマリカーコスプレした集団のカートたちが我が物顔で走っていた。彼らももういない。 信号はすぐに青になったので、そのままタワレコ方面に下っていく。渋谷はその名前の通り、谷であり、坂がたくさんあって、起伏が激しい街だ。歩いていると知らない間に小さな山を登り下りしているようなものだ。東京の23区内、山手線の内側に入るとさらにそれを感じられるようになる。
タワレコ横を通り過ぎると「MIYASHITA PARK」が現れる。ここに居たホームレスの人たちはどうしたのだろう、死んだのだろうか、いや、その場合は行政と商業が殺したに等しいと思う。毎回JRの高架下を通る度にわずかに残っているホームレスの人たちがいるとホッとする。 失礼だがこうはなりたくないとは思う自分もいるが、どこでなにが崩れ落ちてしまうかは誰にはわからない。セーフティネットはなくて、自助でなんとかしろという政府に文句も言わないで彼らを支持する人たちは、なぜ自分がホームレスになってしまう可能性を考えていないのかいつも不思議だ。それはきっと僕が38歳の現在まできちんと就職をしたことがないというのもあるんだろう。 たまたま生き延びている、といつも思っている。 同時になにかあれば、誰にも告げずに世界から消えようと決めている。基本的に人に相談するタイプではない、勝手に決めて事後報告することはあるけど。人が人に相談するのは話を聞いて欲しいから、悩みについての考えを肯定してもらいたいから、あるいは相談者が決めたり、悩みの回答への流れを決めてくれると、もしなにかあっても相手のせいにできるから、言い訳を作りたいという要素はゼロではないと思う。甘えたいんだと思う。そういう���たいことを平気で思っていると案外、逆に相談される側になるのはけっこう不思議だ。だから、話は聞くけど相手が求めることは言わないようにしている。それもあってか、自分から人に相談しようと思うことがない。 えっと、何の話だっけ? 商業施設に成り果てた「MIYASHITA PARK」を通り過ぎるとヒューマントラスト渋谷が入っているビルが見える。時間は9時30分を過ぎている。ちょうど間に合う。信号を渡ってエスカレーターで3階まで登るが、ここから映画館がある階までエレベーターは使わないで、各階をエスカレーターをガシガシと歩いて、上へ上へ上っていく。7階にはドリンクを売っているエリアがあるので、すぐさまメールのQRコードでチケットを発見し、アイスコーヒーを注文する。初回を観る人は料金が割引で半額になるから160円だった。なんか申し訳ない気持ちになりつつ、上の8階に上がってチケットを出して劇場に入った。
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いやあ、やっぱりショーン・ペンは素晴らしいな、壊れていく人の魂についての表現というか、それでも残る知性みたいなものを体現していた。映画の内容は辞書を作る話だけど、メル・ギブソン演じる博士とのやりとりとかにおける友情や知的な会話など好奇心が揺さぶられるものだった。こういう地味ながら良質な作品を観れるのはうれしい。
終わってから、来た道を戻っていくと坂を今度は上っていく感じになる。途中で東急百貨店の「ジュンク堂書店渋谷店」を覗く。そして、いやらしさや仄暗さも吐瀉物もない道玄坂のラブホ街を上っていく。なにかがとても健全な日曜日。そのまま家路に帰ろうかと思ったが、まだ12時過ぎだったので旧山手通りのファミマが見える交差点をそのまま三茶方面には進まずに左折して鉢山町方面に進んでいく。日差しはわりとあってパーカーだと汗ばむ、帰ったら溜まっている洗濯物と一緒に洗おうと思った。
通りの途中に教会がふたつある。ひとつはカトリックでもうひとつはバプテスト。毎回、バプテストってなに?と思ってスマホで検索する度に納得して忘れる。バプテストというのはイングランド国教会の分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派とある。難しい、とりあえず、プロテスタントという理解でOK?  神父はカトリックで、牧師はプロテスタント。我が家の曾祖父母の墓石には聖書の文言が刻まれていて、昔祖母にその理由を聞いたら、父が幼い頃までは家の近所に教会があったので通っていたらしい。我が家はかつてキリスト教だった。そんな父は「牧師」さんたちがいなくなったので、教会は潰れたと言っていたので、近所いあったのはプロテスタントの教会だったはずだ。 牧師がいなくなった後、祖父母はいとも簡単に真言宗に鞍替えをして、山の上にあったお寺に毎週日曜日に参るようになっていて、僕と兄も幼い頃はそれに付き合わされた。とにかく、早く帰ってアニメの「ビックリマン」が見たかったので年々上り下りは早くなっていった。もしかすると僕が歩くのが好きなのは、幼少期にお参りがてら山を上り下りしていたことが原風景にあるのかもしれない。
代官山蔦屋に着いて、入り口で手を消毒する。店内で先日読んだ『玉電松原物語』が遺作となった坪内祐三さんのデビュー作『ストリーズワイズ』の講談社文庫を探したがやはりなかった。ジュンク堂書店渋谷店にもなかった。 Uターンするように旧山手通りと246が交差する場所まで戻っていく。この日ずっと聴いていたのは銀杏BOYZの新譜『ねえみんな大好きだよ』だった。新譜が出る期間はだいぶ空いているが、ずっと長く続けている人はほんとうに凄いなと思う。生き延びるのは大変だ、表現し続けるのは過酷だ、でも、続けている人がいるからその轍からあたらしい人たちがやってくる。そんな風景をこの10年、20年、東京に上京してから見ている。生き延びている人は後世になにかのバトンやプレゼントを手渡すことができる人だとも思う。
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交差点を左折して246沿いを三軒茶屋方面に下っていく。246の上には首都高が走っている。『玉電松原物語』は世田谷区の赤堤で生まれ育った坪内さんのエッセイだが、近くの経堂だけではなく三軒茶屋や世田谷線となった玉電沿いの駅の町並みが描写されている。 1964年の東京オリンピックの前には赤堤にも牧場があって、普通に牛がいたらしい。やがて、五輪に合わせて環七ができて、首都高ができていったという。僕が今見て歩いている風景はたかだが半世紀前にできたものだった。そう考えるとかつてこれらがなかった時代と現在の層、レイヤーが重なると時間の層ができる。 例えば、月島とか埋立地を歩いていると、ここは江戸時代にはなかった土地だと思うと、海の上を歩いているような気がする。歩いているとそういう想像ができる。それは読書にすごく似ていて、読むことと歩くことは似ている、と思う。 読みながら歩いて、歩きながら読む、ことができる。僕はいろんな時代や空間を歩いてみたいし、読んでみたい。これは日記なのかわからないけど、歩いている時は脳内で連想ゲームが始まっていて、今回書いたようなことが脳内でいつも展開している。
-プロフィール-
碇本学 38歳 東京 ライター、「monokaki」編集スタッフ @manaview https://note.com/manaview
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kiitatakita · 6 years
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聴講メモ 情報ネットワーク法学会第18回研究大会1日目 #inlaw #inlaw1 #inlaw3 #inlaw5
聴講時に入力したメモです。断片。配布資料等からのメモも引用符はありません。 聞き取り間違い等、あります。おかしな部分は記録者のせいです。
開催案内:http://www.in-law.jp/taikai/2018/index.html 日  時:22018年12月8日(土)11:50~18:20 場  所:立正大学品川キャンパス
研究大会の前に学会総会が行われた。第19回研究大会は来年11月2日(土)、3日(日)に大阪府内にて開催予定。
※発表者敬称略
【開会挨拶】 情報ネットワーク法学会理事長 中川 裕志
技術系の出身。工学部出身で人工知能の研究、テキスト処理をやってきた。10年ほど前からプライバシー保護を研究対象に。技術だけでは足りず、法律も必要と感じた。理研 革新知能統合センターで研究に携わる。総務省、内閣府で仕事。
人工知能、生命科学等の研究で、人間の自由意思の存在について疑義が呈されるようになってきた。人間はアルゴリズムであるとの主張も。人間中心の法体系とどのようにすり合わせていくか。
【開催校挨拶】 位田央 立正大学法学部長
本学は開学より146周年になる。2年後にはキャンパス再開発事業が完了する。
【基調講演】 情報ネットワーク化の進展とプライバシー・個人情報保護論議の展開 堀部政男 一橋大学名誉教授
19世紀末から現代まで8期に大きく分けて考えられる。第4期では1980年のOECDガイドライン採択、欧州評議会の条約採択というトピック。第5期1990年代には欧州のデータ保護指令、国連のガイドラインなど。日本で��1988年に旧行政機関個人情報保護法ができたが、民間を律するのは第6期2000年代の個人情報保護法。 情報ネットワーク法学会は2002年設立。世界人権宣言70周年、第12条でプライバシーという言葉が使われている。表現の自由に関する19条もあり。 情報ネットワーク化の進展と法的対応のうち、現法体制内対応論に”プライバシー外交的”対応論。 欧州評議会条約第108号諮問委員会に日本はオブザーバー参加。 1982年、当時の行政管理庁プライバシー保護研究会で立法化の提案。 日本では1980年代から自治省個人情報保護対策研究会。1985年に総務庁 行政機関における個人情報保護研究会。 住基台帳NW訴訟は全国で54件、最高裁は合憲判決、但し高裁レベルでは違憲判決も。 第6期2010年代には個人情報保護法の改正論議が出てきた。 EUから十分性認知に基づいて移転した個人データの取扱いに係る規律を定めるガイドライン案 日EUの個人データ移転枠組み構築最終合意2018年7月17日 第40回コミッショナー会議サイドセッションでもスピーチ 今月中に欧州委員会の十分性認定に結論が出るか?
第1分科会 12月8日(土)13:30-15:00 会場9B21 #inlaw1 【プロバイダ責任制限法研究会:ブロッキングを巡る議論とプロバイダ関連訴訟】 主査:板倉陽一郎(弁護士 ひかり総合法律事務所/理研AIP/立正大学非常勤講師)
登壇者: 中澤佑一(弁護士 弁護士法人戸田総合法律事務所)司会 壇俊光(弁護士 北尻総合法律事務所) ブロッキング ブロッキングを巡る議論とプロバイダ責任制限法・総論
2つのブロッキング  4・13政府決定とこれに基づく民間事業者の自主的取り組みとしてのブロッキング   いわゆる忖度ブロッキング   立法ブロッキング
海賊版サイトは日本の著作権法上違法なのか?  ほぼすべての海賊版サイトはリーチサイト  リーチサイトが著作権侵害かは不明  リツイート裁判 ロケットニュース24事件  海外サーバーで海外事業者が運営している場合
ブロッキングの対象は何なのか?
大規模サイトにはCDNに対する法的措置で足りる
電気通信事業法とDNSポイズニング  知得、窃用
補充性の要件とLRA
ブロッキングは妻の妊娠中における飢餓による窃盗よりも緊急?
ほかに手段があるか無いかはスキルのある弁護士を基準に考えるべき
米国subpoenaを用いた手続き  日本のプロ責は使いづらいのは事実  プロ責の見直しが本筋
米国に比べると  開示範囲が限定 開示拒否に対するサンクションのなさ 現行民訴は匿名訴訟ができない  公示送達の問題  非開示免責
民訴は相手方をはっきりさせなければならない 外国における送達は時間がかかる 民事保全法も大変 保全命令を当事者に送達するのに数か月かかる
ブロッキングの議論はプロ責と民訴法の出来が悪いから必要性が論じられている
神田知宏(弁護士 小笠原六川国際総合法律事務所) H29Google裁判の射程 送信防止措置依頼としてのブロッキング請求の体系的地位 最決H29.1.31の運用結果と射程
判事2353号判例評釈708号  多額の負債:認容  4年、示談して不起訴:認容  つつもたせ被害による風評:認容 元AV女優身バレ事案:認容
犯罪報道の削除には高いハードル  東京高判290629 12年オレオレ詐欺 棄却 最決不受理  東京高判300125 11年歯科医師法違反 棄却 最決不受理  東京高判301109
東京高決H300810(犯罪報道だが認容)  不起訴処分 今後起訴される現実的な可能性は事実上ない  法律上は無罪推定だが現実的には有罪の嫌疑を抱くものが多く名誉や信用が毀損される  伝達範囲は限定的であるとはいえ、具体的被害の程度は大きい
名誉毀損の検索結果削除  射程外?  東京高決H291030 係属中  東京高決H300420 抗告不許可 加重不要   リンク先は読まないとの規範を示し、グーグル側が大いに引用中  高判H300823 上告中   検索結果の提供の差し止めは、事前抑制であることの性質上(もう提供されとるが…)   最高裁S61判決が判示する要件が基本的に妥当(北方ジャーナル事件)
ツイッター・コンテンツプロバイダへの波及(グーグル基準の採用)
東京高決H290810(平成29年ラ1184号)  グーグルと同じ基準を採用  抗告許可申立て理由
預金保険機構 振り込め詐欺救済法27条  解釈と運用変更により、削除要件が定められた
吉井和明(弁護士 弁護士法人ALAW&GOODLOOP) オンライン地図サービスに付随するレビューに関するプロバイダ関連訴訟の動向
Googleマップ口コミ機能  口コミはログインした上で投稿
口コミの閲覧を目的としないものに対しても、評価を晒されることになる 実質匿名投稿になっている
Googleマップ上の施設は、他人が登録することができる  ��置情報や店舗情報が投稿内容が正しいものである限り、他の要素が無ければ削除は難しい
法的問題  内容が抽象的  反真実性を示すことが難しい  口コミが存在する限り、被害が刻々と発生する
Google側の主張H29年決定の「明らか」基準適用の素地  公共性 口コミ全体の話  媒介者 単なる媒介者ではない  投稿者の反論の機会 大部分のコンテンツプロバイダで々  萎縮効果 裁判所の特定の決定
利用者側敗訴判決ばかり裁判所に顕出される問題  訴えられる側の企業には情報の蓄積があるが、裁判所や地方の弁護士にはない  裁判所に提出されるのは、企業側に有利な裁判例だらけになっていく
弁護士唐澤貴洋 ログインIP訴訟事例
なりすましアカウントによる有名人の訃報をツイート  ツイッター社から特定の時間帯のログインIPアドレスの提供を受ける  ログイン時IPアドレスに関する氏名等の情報はプロ責における発信者情報に相当するのか   被告 開示請求の対象となる「当該権利の侵害に係る発信者情報」は侵害情報に係る特定電気通信の家庭で把握された発信者を識別するための情報を意味すると解すべきである
裁判所の判断  ログイン情報から、当該ログインに係る発信者が侵害情報の発信者であることが推認される場合があり、このような時には、当該ログインに係る発信者情報は、法4条1項の発信者の特定に資する情報に当たると解することができる
本件契約者がなぜ、匿名化担保されていたことを知り得るのか
異なるプロバイダを経由して同一のIDにログイン 裁判所は不自然と。
パネルディスカッション
な プロ責実務、どの辺がきついのか
か 発信者情報目録が難しい。何を開示しろというのが。コンテンツプロバイダの住所氏名開示を請求すればいいというのは分かったが、住所氏名が何と紐づいているのか分からない。クラウドフレア目線で分かるようにしないと。主文の書き方も難しい。
だ とりあえずやってみるのが良いのでは。
か 裁判所はこちらが言った内容でクラウドフレアに送ってくれるかもしれないが、受けとった側が納得しないとどうしようもない。
よ 民訴にも難点。管轄の問題。プロ責はプロバイダの所在地が管轄になることが多い。地方でやると変な判断が出ることもある。匿名訴訟ができれば民訴で解決できる部分もある。送達に時間がかかりすぎて、依頼者の被害拡大も。
か 弁護士会照会で開示してくれるという話があるのだが。ログインIPの問題が出てくるのがおかしいのではないか。事業展開の中で発生したトラブルについて、応分の負担で開示できるようにするべきでは。
だ 発信者情報開示は東京、削除は大阪と分かれてしまう。Googleの責任を問わなければ情報を開示すると言われる。
な 海外からの資格証明取り寄せが訴訟費用にならない。翻訳費用も馬鹿にならない。間接強制絡みで海外事業者が保有の有無を照会しても回答してくれない。回答義務があってもいいのでは。 匿名訴訟の話だが、仮名、例えば口座番号等で照会を同時にかけるという手段では?
だ 民訴規則を変えれば行けるのではないか。
な 何も書かないのか?
だ 住所不明、氏名不明で訴訟できれば、裁判所が開示命令を出してくれる。
か 判決までに何らかの手段で確定できればいいという話なのか?
だ 一番のメリットは開示される内容が限定されていない。訴訟の補正で対応できる。
か 通信の秘密の侵害にならないか
だ 違法性阻却になるのでは。
よ 無駄な訴訟をしなくて済む。プロ責で開示請求をすると権利侵害等の申し立てをしなければならないが、それは本案と同じ内容になる。本来なら言わなくても済むことを言わずに済む。
か 被害を受けた人が自分の名前を出して訴訟しなければならないという点を改善できないのか。発信者情報開示で原告の名前を晒す意味があるのか。
よ 判決を何らかの形で共有できないだろうか。
会場 開示に当たって同意書を求めるのは酷い。発信者情報開示ガイドラインではそのようなことを言っていない。対クラウドフレアについては技術的なことを相談する相手が原告側にいないのか。
だ このような分野は実質3人に情報が集約されている。(だかよ)
よ 未経験者に手取り足取り教えるのは難しい。
か 教えてくださいコピーください的な依頼がくるが多忙を理由で断ってる。
よ 変な判決が出てくるとこちらの首が締まるので、難しい。
か ツイッターにIPアドレスださせるのに訴訟でやっている例があり、仮処分ではないのかと疑問。
よ 仮処分と本訴の選択だが、どのように考えるか。
か 本案訴訟にすると違法性阻却事由を出さなくていいのか?どちらでも要件事実が変わるわけではないと主張しているので、本案であっても主張がいるのでは。
よ 立証責任の問題
か Googleだけは起訴命令を送ってきてくれるので、本案訴訟しているが、基本はあまりしない。
だ 担保の問題をクリアすれば仮処分の方が簡単。掲示板でスレごと消したい場合は仮処分では対応していない。
第3分科会 12月8日(土)15:10-16:40 会場9B21 #inlaw3 【システム開発プロジェクトの中止〜その手法とタイミングの見極め〜】 主査:伊藤雅浩(弁護士 シティライツ法律事務所) 登壇者: 伊藤雅浩(弁護士 シティライツ法律事務所) 影島広泰(弁護士 牛島総合法律事務所)  訴訟ではベンダ側、相談は発注側が多い 大井哲也(弁護士 TMI総合法律事務所)  データの利活用、サイバーセキュリティ等が多い 杦岡充宏  ITコンサルタントで実務者としての立場。
スライドシェアに資料はアップしてある。 リンクは https://masahiroito.hatenablog.com/entry/2018/12/07/170739 にあり。
システム開発は未だ失敗が多い。 ヤバくなった時に、どうやって撤退するのか。どこだったら引き上げられるのかが現場としては悩みどころではないか。
ユーザー 早く損切りしたいとか、自分達の責任も感じたりとか。
ベンダ このままだとメンバーが潰れる 被害を最小限にして撤退したい 「中止提言義務」?
紛争の予防・早期解決の観点から、中止することの法的根拠、リスクを整理し、実務にフィードバックする。
影島広泰(弁護士 牛島総合法律事務所) ユーザ(発注者)から見た論点の整理
ユーザ側の法的主張  債務不履行   履行遅滞 催告するか 悪化しないか? 履行期よりも前に主張できない        信頼関係の破壊  履行不能   物理的/技術的不能   社会的不能    債権者がプロジェクトを注視するといえば、履行不能なのか     ユーザ側が変えたいと思っている 受領拒絶?     それは債務不履行で言う「不能」なのか 「不能」と「帰責性」の交錯     追加仕様がてんこ盛りだったら?     ベンダ側に帰責事由の不在を立証させる  付随義務違反(PM義務違反)  
 瑕疵担保責任   完成しているので請求権は発生
ベンダ側からの反訴リスク  中止した場合の残額支払  追加コスト
 注文者解除の損害倍書請求   641条の(任意)解除ではないと認定してもらえるような内容証明を作る必要
 532条2項 債権者の責に帰す���き事由   不況に伴う業務縮小   カスタマイズ費用の増大
 商法512条
 黙示の合意   認定されるだけの事実関係の存在が必要    説明したか    指示があったか、それが追加であることを知っていたか
ユーザ側のプロジェクト管理(協力) ベンダ側のPM義務違反の時期を、なるべく遡らせる  瑕疵担保責任が認められたフェーズよりも前のフェーズの個別契約は、相当因果関係なしとして損害賠償の対象とせず  「相当因果関係」  スルガ銀行事件 ある時点での不法行為
「検収」
一括契約はユーザ側にリスクあり。多段階契約はリスクコントロールしやすいのでは。
大井哲也(弁護士 TMI総合法律事務所) ベンダ(受注者)から見た論点の整理
履行遅滞は認められないことが多い  履行遅滞はユーザの追加要望に従ったもの
PM義務違反  ユーザがシステム機能の追加や変更の要求等をした場合で、当該要求が委託料や納入期限、ほかの機能の内容等に影響を及ぼすものであった場合等に、ユーザに対し適示その旨説明して、要求の撤回や追加の委託料の負担、納入期限の延期等を求めるなどすべき義務  要求の撤回、追加の委託料の負担、納期延長の申し入れがあったかによる
瑕疵担保責任に対する反論  システムの完成があったか?   民641条 債務不履行解除崩れの注文者解除    注文者に対して不要な仕事の完成を強制することはなく、かつ社会経済的見地からも不当    注文者に損害を賠償してもらえれば請負人に不利はない
損害賠償の範囲  すでに支出した費用  逸失利益(報酬-下請費用) 完成が前提   介助によってベンダが逆に利益を得ている場合は「損益相殺」
意思表示の転換 ステアリング・コミッティの必要的アジェンダ  システム開発基本契約及び個別契約の変更等を必要とする理由、変更提案書の提出の有無  変更管理手続き 変更提案書を提出し、かつ、次の事項を記載した書面を甲府   費用、スケジュール、その他変更が本契約及び個別契約の条件に与える影響   協力義務違反の証拠化  Redmineを使う   誰が相手方にボールを返していないのか
杦岡充宏 事例紹介
課題管理はプロジェクト完成の基本条件。 課題管理とリスク管理をセットで。
ケース  販売管理システムを請負で構築。ホスト→webベースへ。  現行システム機能をWebベースのシステムに単純移行  内容は1日間のヒアリング内容を基に提案し合意
 結果   4か月が4年半に。ベンダは完成したと主張。
 要件定義の段階で多くの追加要件の存在が確認され、当初計画と費用では実現不可能なことが判明  7か月で大体ソリューションを検討し、4か月の追加を提案  設計と開発を並行して行い、更に4か月の遅延  追加がぼこぼこ出てくる  ベンダの主担当が産休に入る  納品後もユーザの指摘が継続し、ベンダも対応を継続した挙句、ユーザは検収を拒否
ベンダに  ない袖は振れぬ  やらないことを決めろ!  ユーザの言いなりになるな!
期待値コントロール大事 適正なところに戻す
ディスカッション
い この場合の解除にどのような問題があるか
か 最終バージョンに書かれた仕様が満たされていないのであれば不履行
お 変更対応がトレースされているはず
い ユーザはどうすべきだったか。
す ユーザから辞められるタイミングもあったのでは
か 代替検討の時は難しいだろう。その後の提案に沿った開発が不調であったのであれば、そこで解除すればすっきりしていたのでは。
お 設計・開発・テストが基本設計で終わった段階で実現可能性を疑うべき。ここで合意解約の打診をし始めてもいいのでは。
す 4か月を守れなかった時点で契約解除はできないのか。
か ユーザ側に問題があったのでは。現場の意見をきちんとまとめてベンダに伝えることができていたのか。となると、債務不履行解除は難しいのではないか。
お 使用固めの段階でキャッチボールしており、ここで債務不履行主張は難しい。
い 定期的に打ち合わせ等をやっており、延期の合意があったと主張したらどうなるか。
か 納期と履行期の関係は難しい。定められている納期の日にカットオーバーにどれだけ意味があるか。
お 黙示的な納期の延長合意がなされているとみなされるのでは。
い あとこれだけあれば対応できるといえば遅延ではないのか。
お それも危険がある。
い ユーザ側からベンダ側の能力不足をどうやって立証するか。
か 基本的なミス、納期遅延等の積み重ねで立証。
お 完成度の立証を裁判官にするのは難しい。数量基準で定量的に示す。
い 証拠化はどうすればいいか
す ドキュメントのレビューと指摘内容をしっかり記録する。
い 最終の交渉でユーザ側はどうすべきだったか。
か 解除すべきだったのでは。要求をきちんとまとめられておらず、反訴リスクが高い。
お 課題の棚卸をして、多くの課題が未着手、あるいは内容不十分であることを記録しておかないと、ユーザの検証不足となるのでは。
す 交渉せずに引き上げることはベンダの不利になるのか。
い 信頼関係の破壊を解除理由にしてくるのではないか。
お 裁判所の見方としては説明なしの撤退はインパクトが大きい。
す 対応を続けるのは未完成であることと同視されてしまうのではないか。それよりも撤退の方がリスクが多いのか。
い それはないのでは。裁判所は技術的な評価を避け、振舞いから両者の関係を見ているように思える。
か 謝らせるよりも事実を認めさせる。
お なぜ謝罪したのかの理由の方が大事。機能要件の充足こそが肝。プロダクトそのものの鑑定をプロにして欲しい。
い 検証は現実的には難しい。
か オンラインゲームの開発である時点での機能を裁判所で見せたことがある。下請が元請に請求した事例。
お 医療裁判で鑑定書の合理性を裁判官の目で判断する。システム開発でも意見書を出したことがあるが、裁判官に理解してもらうのは難しい。
す ADRで係争中のケースを見たことがある。フローに沿って見て、一応の完成をしていると判断した。
か ユーザに気をつけて欲しいのは、ベンダ側の内部的なコストが発生しているということを理解していないと、本訴、反訴共に金額が大きくなってしまう。
お 紛争の種、芽の段階で法務がどのように関与するか。リーガルがしっかりコントロールしてほしい。
す ベンダはユーザのパートナーである。きつくし過ぎると問題が隠れてしまう。
第5分科会 12月8日(土)16:50-18:20 会場9B21 #inlaw5 【個人情報保護法制『2000個問題』を考える】 主査:岡本正(弁護士 銀座パートナーズ法律事務所) 登壇者: 岡本正(弁護士 銀座パートナーズ法律事務所) 自然災害と2000個問題
鈴木正朝(新潟大学・教授/理研AIP) 2000個問題最新動向~官民データ活用推進基本法から規制改革答申まで~
湯淺墾道(情報セキュリティ大学院大学) 自治体からの情報提供をめぐる現状:情報提供・情報公開・個人情報の提供・非識別加工情報・官民データの間 板倉陽一郎(弁護士 ひかり総合法律事務所/理研AIP/立正大学非常勤講師) 2000個問題の負の側面:自治体ネグレクト及び自治体の多重事務
お 2000個問題についてご紹介願いたい
す 1800個問題と最初は言っていた。市町村の数がそれくらいだったので。上原教授から広域連合等の存在を指摘され、切りの良いところで2000個に。湯淺先生が実際に条例を集め、上原先生が分析した。 ルールが2000個存在する現状でデータ連携、越境データ、環境が激変する中でルールが2000個存在するのは問題ではないか。
お 実際には2000個では済まないのでは。 西日本豪雨など大災害が続発している。広島の土砂災害の時には行方不明者の発表に3日かかった。その数年後にも県と市でデータの共有をしていない。法律あっても、条例あっても実務の運用がない。
す 岩手日報社が3・11の継続報道をしている。救助復興の時にリアルタイムで情報を共有できず足かせとなった。
お 今年も同じ問題が起きた。ルールの策定を提唱しているが、国は関与できないとしている。法律上はそう答えざるを得ない。最低限のルールが無くていいのか。命の問題を条例の問題としていいのか。安否情報を家族に答えられないところまでもある。
ゆ 自治体が持っている情報を出すのは第三者提供だけではない。観光として公にすることが予定されている情報は除外→定めがない。ウェブサイトに掲載するのが「オンライン結合」になるのか?非識別加工は自治体の手に余るものがある。基準や対象を国が示してほしい。市町村は官民データの作成を義務付けられていない。データの保存規定もない。保存年限のさだまっている文書類は逆にそれを超えてあってはならず、データを作れない。
お 2013年に伊豆大島で土砂災害があった。居所がうつってしまった人に支援を届けるために大島町がトレースしたかったが、手に余る。東京都がやろうとしたが、大島町の条例でデータ結合が禁止されていた。同年に改正された災害基本法で上書きされ、結合が可能になった。
す オンライン結合はお手本から丸写しだが、解釈が分かれている。
い 地域医療連携において、自治体の病院が手続きの煩雑さから連携されないことを「自治体ネグレクト」と名付けた。条例に対応したシステム開発が必要で、病院を所管する個人情報保護条例がない場合もある。医療IDの導入でも自治体の病院が無視される可能性がある。条例はマイナンバー法にも対応しなければならない。法定受託事務だから。加工基準の条文は国だってコピペでやっつけているのに、非識別加工情報が自治体の手におえるのか。
ゆ 地域医療では大きな自治体は連携を自前で構築してしまう。同じ市立病院でも指定管理者がやっているところと直営のところではシステムが違う。指定管理者は処分性はあるが、事業者として民間法の個人情報保護法がてきおうされるとかんがえられる。直営は条例。
す 病院は私立病院の方が圧倒的に多いが、難病等については公立病院がネットワークを作っている。指針の方が緩いが、真面目なところは条例に対応しようとする。
ゆ 真面目なところほど苦労する。
す 国立大学法人、公立大学、私学でデータ連携が難しい。データの足回りの悪さをどこまで放置するのか。告示で法律、条例を上書きしようとする国が十分性認定と言えるのか。
ゆ 個人情報の定義についての教材にも間違いがある。
お 学術除外の条項が10以上の県の条例にはない。
す 医療分野だと3000個問題、倫理審査会の数。
い 例外事由は予算も人もつかない。最小限のところが同じなら、解釈も共通で使える。さいたま市と千葉市で、そんなに地域の実情が違うのか。港区と渋谷区でそんなに違うのか。
す 個人情報保護法5条に「地域の特性」の文言がある。上乗せ横出し条例で対応可能な中身が殆どなのに。
ゆ 「地域の特性」というのは、先進的な自治体への配慮や、現代も深刻な同和問題、宗教団体等の問題があるが、殆どの場合は上乗せ横出しで対応可能。
す JILISで開示をかけた資料を見ると、過去の経緯を尊重する意味であって、「地方自治の本旨」がもとではなかった。
お 地方自治の人は実際にはどう言っているのか。現場の判断になってしまう。要支援者名簿に載っているのは同意した人だけ。
す 国会では2000個問題の解決の必要性は認識されている。官庁でも課題となっている。自治側からは県域構想が出てきている。自治体の在り方を憲法レベルで検討する動きはすでに出ている。基礎自治体単位の条例が維持できるのか。
お 官民データ活用法19条には国の政策と自治体の政策の整合性について記述されている。災害、医療、福祉の側面から考える必要がある。
す 丁寧に特別法を作ればいいのではないかという反論が想定される。一般法レベルで土台に手を付ける必要があるのかと。
お 災害時の弱者名簿は事前に共有する必要があるが、この部分は自治体任せになっている。消費生活上の弱者リストもあるが、協議会とリストを作って保護するのは自治体任せ。困窮者の自立支援も協議会が必要。これを全部やるのか。特別法をいくら作っても漏れは出る。
ゆ 非識別加工情報が官民データみなされてしまったので、各自治体は基準��何もなし、徒手空拳で非識別加工情報を作らなければならい羽目に
い 非識別加工情報についてだけ立法しても他はほったらかしではしょうがない。3年に1回しか協議会を開催しないのでは知見なんか貯まるわけがない。都会の自治体だけ呼んでどうするのか。新宿区だってやらかしている。
お 新宿区ですら消費者安全確保地域協議会が無く、いきなり区議会で審議にかけられた。
い 普通の自治体で普通に運用できるようになっていないのは欠陥だ。
す 個人情報の定義が確定していない、解釈基準にバラエティがある現状で、非識別加工情報の基準を概念として出すことができるのか。
ゆ 国の場合は非識別加工情報は個人情報性が残っているとしている。自治体は情報公開条例における個人情報性を判断しなければならない。加工基準も自分で作らなければならない。
す 基礎自治体の持つ情報は大きいが、手助け無しでいいのか。
ゆ 官民データ作成の義務付けがあるのは都道府県レベルで基礎自治体にはない。
す 出口はあるのか。
ゆ 具体的な提言に入る前に、日本の「地方自治の本旨」はミニマムを定めた方が良い領域と、地方の自主性に任せた方が良い部分に別れることに気がついた。個人情報法制はミニマムを定めた方がいい領域ではないか。
す 憲法と国際連携など課題は山積している。
お 災害救助の主体は都道府県だが、大事な個人情報はどこにあるのか。基礎自治体にある。住民票、障碍者手帳、母子手帳などに眠っている。都道府県の条例で基礎自治体に条例の制定と情報共有を呼び掛けても実効性があるのか。市町村のインセンティブがない。地方自治体個人情報保護法の必要性があるのではないか。
い 犯歴情報は選挙の関係で本籍地市区町村にある。根拠法の明文規定なし。経済活動にも支障が出るのではないか。
ゆ 全国の市区町村の条例を集めたが、収集できなかったところがある。情報公開請求をする必要があったが、住民でなければ請求できない。暴力団の構成員であることが要配慮情報かどうかもばらばら。
す 国会職員と裁判所職員に罰則がない。地方行政文書についても罰則規定を設けるべき。公的部門のチェックの為に個人情報保護委員会は独立性の高い委員会にした。グローバル対応するならプライバシー保護に対応するのはナショナルセキュリティ。
お 震災被害地の復興のための法制を。
会場 法務省にも犯歴データはある。犯歴データが照会できないと困るのは海外人材を採用したり、海外取引があるFinTech業界での採用活動。越境データ問題も絡む。
会場 情報銀行の態様はは共同利用になるのか?民間が経営している情報銀行であれば自治体間で個人情報を共同利用可能か?
ゆ 地方公共団体には民間と個人情報を共同利用する規定がないので、情報銀行の利用自体が無理ではないか。
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tak4hir0 · 3 years
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皆さんは国道1号線をなんと呼んでいるだろうか。私は生まれも育ちも神奈川県中央部の綾瀬市なのだが、昔から「イチコク」と呼んできた。 しかしながら、最近になってそれは極めてローカルな呼称であることを知った。国道1号線のことを「イチコク」と略すのは、神奈川県のいわゆる湘南地域だけなのだ。 生まれてこの方、ずっとイチコクと呼んできた 日本に数ある国道の中でもトップを飾る国道1号線(正式には線をつけず国道1号)は、かつて江戸と京都・大坂を結ぶ大動脈であった東海道を踏襲する道路である。 その道筋は日本橋から京浜地域を南下し、保土ヶ谷・戸塚を経て湘南・西湘地域を西へと進み、箱根峠を越えて静岡県へと続いていく。 江戸時代に整備されたかつての主要街道、東海道を踏襲する国道1号線 私が住む綾瀬市は片瀬江ノ島で有名な藤沢市の北側に隣接しており、湘南エリアからはギリギリ外れた位置にある。とはいえ藤沢市との行き来は多く、国道1号線に接する機会もそれなりにある土地柄だ。  そのような環境において、私はずっと国道1号線を「イチコク」と略してきた。いつからかは定かではないが、おそらく周囲の人々の影響を受けて自然とそう呼ぶようになったのだろう。 大磯町には旧東海道の杉並木が残っており、なかなかに風情がある ところがだ、近年になって某キャンプツーリング漫画を読んでいたところ、国道1号線を「国1」と略しているのを見て驚愕した。 おいおい、国道1号線は「イチコク」であって「コクイチ」ではないだろう。――と思いつつも気になったのでネットを検索してみると……なんということだろう、国道1号線を「イチコク」と呼ぶのは湘南とその周辺地域だけだったのだ。 生まれてこのかた40年間、なんの疑いもなく「イチコク」と呼び続けていた身にとって、これは天地を揺るがす衝撃的な大事件であった。 京浜地域では国道1号線をニコクと呼ぶ さらに調べを進めたことろ、同じ神奈川県であっても横浜市や川崎市の京浜地域では国道1号線の呼び方が異なることが判明した。 東京都の城南地域(品川区・大田区)から川崎市、横浜市鶴見区・神奈川区にかけての京浜地域では、国道1号線と国道15号線が並走して通っている。その沿線では海側の国道15号線を「第一京浜国道」、内陸の国道1号線を「第二京浜国道」と呼んでおり、それぞれ「イチコク」「ニコク」と略しているのだ。 京浜地域において、「イチコク」は「第一京浜国道」こと国道15号線を指す 国道1号線は「第二京浜国道」であり「ニコク」なのだ イチコク圏の身からすると実にややこしいものであるが、国道1号線の歴史を紐解いてみると、この区間においては「ニコク」と呼ぶ方が正しいように思えてくる。 というのも、最初に国道の番号が定められた明治18年(1885年)の当初は現在の国道15号線が1号国道であり(旧東海道を踏襲しているのもこのルートだ)、現在の国道1号線は昭和27年(1952年)の道路法による路線指定において新たに定められた区間なのだ。 京浜地域の国道1号線はこのような変遷があったのだ 故にこの区間においては、元祖国道1号線である国道15号線を「イチコク」、新道である現在の国道1号線を「ニコク」を呼ぶのは、道路ができた順番からしても自然であるといえる。 国道1号線の略称についてアンケートを取ってみた 神奈川県内でも地域によって国道1号線の略称が異なることが分かったが、その範囲はどのように分布しているのだろうか。また神奈川県以外では国道1号線をどのように呼んでいるのだろうか。 それらの疑問を解消すべく、より広くの方々からアンケートで意見を募ってみることにした。 設問は以下の通りである。 Q1:出身地域を教えてください (できれば市町村区名も) 神奈川県湘南地域 神奈川県横浜市・川崎市 神奈川県その他の地域 東京都23区内 東京都23区外 神奈川県・東京都以外の関東地方 東海地方 関西地方 その他 Q2:現住所の地域を教えてください(できれば市町村区名も)  Q1と同じ選択肢 Q3:国道1号線をなんと略しますか?(略すとしたらなんと略しますか?) イチコク コクイチ ニコク R1 その他(自由記述) Q4:国道1号線の略称として「イチコク」という言葉を使ったり聞いたことがありますか? 自分で使う 家族や友達が使う 聞いたことがある 聞いたことがない Q5:国道1号線の略称について、思うことがあれば自由にご記入ください このアンケートをはげましひろばとTwitterで募集したところ、約500件にも及ぶ回答を頂くことができた。ご協力いただいた皆様にはこの場を借りてお礼を申し上げたい。本当にありがとうございました。 改めて設問を見直してみると、アンケートとしてはやや不十分であったと反省している。まず年齢によって呼称が異なる可能性を考慮して年代を教えてもらうべきであった。地域についても東京都の城南地域は分けるべきだったし、川崎市・横浜市も京浜地域とそれ以外で分けるべきであったように思う。 またQ3の選択肢に「R1」とあるが、これは私の父親に国道1号線をなんと略すかと聞いたら即座に「アール・ワン」と答えたからだ。国道1号線→ルート1→R1ということで、「まぁそう呼ぶ人もいるんだろうな」と思い選択肢に入れたのだが、結果的にR1を選ぶ人はごくわずかであり選択肢に入れる意味はあまりなかった。 私の父親は妙に小洒落た呼び方を使いたがる(過去記事「津軽弁が分からない」より) 「イチコク」と呼ぶ範囲は意外と広い さて、アンケートの結果を見ていこう。 まず国道1号線を「イチコク」と略す地域についてであるが、これは神奈川県藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町・平塚市・大磯町・二宮町・小田原市にかけての、湘南・西湘が中心であることは間違いなさそうだ。 湘南・西湘はほぼすべての人が「イチコク」と呼んでいるという結果であった 任意記述のご意見を見ても、この地域では昔から自然と「イチコク」と呼んでいたことが伺える。なぜ「イチコク」なのかは分からないが、周りの人々が皆そう言っていたので、自分も「イチコク」と呼ぶようになった、というものである。 都内ではいちこくは15号のことで驚いた。 湘南ではいちこくは国道1号のことだったから。 海側からいちこく にこくだと聞き あぜんとした。騙されてたのかと思った。 by さなまささん(神奈川県藤沢市出身・東京都墨田区在住)  身の回りでも国道1号線を「イチコク」としか呼んでいなかったのですが、よく考えると省略するのであれば「コクイチ」と呼んでいても良いはずで、なぜ「コク」と「イチ」を入れ替えているのか不思議です。(寿司をシースー呼びしたりするのと同じ理由だったらどうしよう) by でこさん(神奈川県藤沢市出身・在住) 茅ヶ崎育ちです。子供の頃は「国道」って呼んでいました。国道1号線が絶対エースだったからです。高校生になって東海道線と国道134号の間に住む友人ができたり、免許を取って他の国道がある地域に車で行くよう���なると「イチコク」呼びもするようになりました。 by すた・けいさん(神奈川県茅ヶ崎市出身・川崎市中原区在住) 国道1号線沿いの店舗を「イチコク沿いの店」と呼んでいた。 by ぶんちゃんさん(神奈川県茅ヶ崎市出身・東京都在住) 家族、親類、友人・知人が皆「イチコク」と呼んでいたので、大人になってだいぶ経ってからメディアか何かで「コクイチ」を聞いて一瞬何を指しているのか理解できなかった by 牛蒡さん(神奈川県中郡大磯町出身・東京都在住) 「コクイチ」と言う方が周りに多く、しかし自分は「イチコク」育ち。今さら変える気は無いので強い気持ちで「イチコク」と言っております。 by むすすさん(神奈川県小田原市出身・在住) また私が住む綾瀬市や大和市など、湘南に隣接する内陸の地域でも「イチコク」と呼んでいる人は多い。 一方で、湘南に隣接する内陸部といっても相模川より西側の厚木市・伊勢原市・秦野市では「イチコク」はあまり使われていないようだ。この地域では国道246号線(ニーヨンロク)の方が圧倒的に存在感があり、国道1号線はさほど身近ではないためだろう。 丹沢山麓においては、国道といえばイチコクではなくニーヨンロクなのだ イチコク圏は湘南地域に留まらず、横浜市においても国道15号線が並走しない地域では「イチコク」が使われている。さらには三浦半島の横須賀市でも「イチコク」と呼ぶという証言が複数あり、その範囲は私が想像していた以上に広いようである。 イチコク、が一番しっくりくる by あとむさん(横浜市戸塚区出身・東京都江東区在住) ちょっとヤンチャ系の先輩はおしなべてイチコクでした。金沢区からイチコクは少し遠いので(そしてより都会にあるので)、よりヤンチャ度が増すとして格好つけて使われてたのかもしれません。 by さなさん(横浜市金沢区出身・東京都葛飾区在住) イチコク一択かと思っていたので他の呼び方があったことに驚きました by ののさん(神奈川県横須賀市出身・川崎市在住)  家族もイチコク呼称ですし、コクイチと呼ばれているなんて全く知りませんでした。地域カルチャーの違いで何かを言われることへの憧れがついに叶うのかも知れません。 by のじょむさん(神奈川県横須賀市出身・在住) ヤンチャな人が「イチコク」を好んで使っていたということは、「イチコク」という言葉はヤンキー文化が関係しており、その辺のクラスタによって国道1号線からかなり距離がある横須賀市まで伝播したとも考えられそうである。 横須賀でも「イチコク」という呼称が使われているとは思ってもみなかった 確かにわざわざ「コク」と「イチ」をひっくり返すところとかちょっとヤンキーっぽい気もするな……と思ったが、次の投稿を見てその考えは改められた。 生まれてこの方横浜に住んでいます。国道一号線の略称は「イチコク」しか聞いた事がありません。 両親(60代、共に神奈川県出身)にも聞いてみましたが、やはり「イチコク」だと言い、「なんでそんなこと聞くの」という顔をされました。 by コアラ町さん(神奈川県横浜市出身・在住) ここで注目すべきは60代の方も当然のように「イチコク」という呼称を使っているという点である。ヤンキー文化の隆盛より前から地元に根付いていた言葉である可能性がありそうだ。 戦前の文献などでは「国道〇号」を「〇号国道」と表記するものがある。戦後に現在の国道1号線が定められてからも「1号国道」という言葉が使い続けられ、それを略して「イチコク」と呼ぶようになったのではないだろうか。個人的な憶測であるが。 ちなみに牛丼チェーンの「すき家」では、国道1号線沿いにある店舗はすべて「1国〇〇店」という店名で統一されている。すき家は横浜市の生麦駅に存在した1号店がルーツらしいので、ひょっとしたらイチコク圏の影響を受けているのかもしれない。 国道1号線沿いのすき家は、すべての地域で「1国〇〇店」という店名だ おおむね予想通りな「ニコク」の範囲 続いて国道1号線を「ニコク」と呼ぶ地域であるが、これはおおむね予想通りの範囲に収まっていた。東京都の城南地区から横浜市の神奈川区にかけて、国道15号線沿いの京浜地域である。 家の近くは、第二京浜と呼ばれていて、ニコクが一般的でした。国道1号だと、知ったのは高校生くらいかも。 by まっちょさん(東京都品川区出身・練馬区在住) 国道1号線なのに「ニコク」って変だな?とはどこかのタイミングでよぎったのですが、深くは考えないままずっとニコクニコク言い続けてきました。家族はもちろん、学校の友達もニコクで通じていましたし、むしろそれ以外の略称を聞いたことがありません。 by ケヒヒさん(神奈川県川崎市鶴見区出身・静岡県浜松市在住)    川崎に住みはじめて最初イチコクと聞いたとき国道1号線のとこかと思ってたけど、よくよく聞いてみるとイチコクは国道15号線のことで国道1号線のことはニコクと言うのを知ったときはすごい紛らわしいと感じた けどすぐ慣れた by まじんさん(関東地方出身・神奈川県川崎市在住)  一時期、横浜市鶴見区に住んでいましたが、周りの人間はニコク(二国?)と呼んでいました。このアンケートを見て、住んでた人にラインで聞いてみましたが、みんな「二国って言う」と返信がきました。 by 照り焼き地銀さん(鹿児島県薩摩川内市出身・在住) ニコク圏は地元出身者のみならず、他地域から引っ越してきた人々も「ニコク」という呼称を使っている���象だ。しかし最近では「ニコク」と呼ぶ人は減少しているらしく、略さず「第2京浜」と呼ぶ人も少なくないようである。 区内の国道1号沿いに住んで40年余りです。 うちの親も、嫁の親もニコク沿いなので、みんな使います。 一昔前よりは、ニコクを使う人が減った気がします。他地域からの流入増のため? by H+A/Sさん(東京都大田区出身・品川区在住) 略ではないですが、周りの人はみな「第二京浜」と呼んでいます。 by 匿名さん(東京都品川区出身・在住) 引っ越してきて、ニコクと呼ばれているのに驚きましたが、ニコクよりは第2京浜と呼んでる人の方が多い気がします。 by しんいちさん(大阪府大阪市出身・東京都品川区在住) 「ニコク」のランドーマークである、昭和16年(1941年)に架けられた響橋 また第二京浜国道の略とはいえ、国道1号線を「ニコク」と呼ぶのはやはり少々特殊である。地域外の人には通じないことが多く、会話ではより分かりやすい呼び名を使用する人もいる。 ニコク、が正しい略称だと思いますが、その由来や成り立ちを知らない他人に伝えるときに伝わりにくいので、イチゴウ、イチゴウセン、などと呼んでいます。 高輪付近では桜田通と呼んだりもしますが、イチコクは15号のことなので、イチコクとは絶対に呼びません。 by きあれこさん(東京都港区出身・大田区在住) 関西出身者に「ニコク」が通じない。東京人でも国道1号(第二京浜)を日常的に使う人にしか通じない気がする。気がするだけで本当は通じるのかも知れないけど。不安なので「第二京浜」と言うようになってしまってとても悔しい。 by くさちびさん(東京都品川区出身・大田区在住) このように「ニコク」に関して寄せられたご意見には熱いものが多く、ニコク圏の方々のこだわりと葛藤が伺える。 イチコク圏の私としては国道1号線の略称は「イチコク」しかないと思っていたのだが、国道1号線の歴史を知った今では旧国道1号である15号線を「イチコク」と呼ぶのは適切だと思うし、現在の国道1号線を「ニコク」と呼ぶのもやぶさかではない次第である。 ただし、国道1号と15号の合流点である「青木通交差点」からその先は、「イチコク」であることは譲れない。 「ニコク」は国道15号線の終点にあたる「青木通交差点」までだ 東海地方は「コクイチ」が断トツ お次は箱根峠を越えて西へと進もう。東海地方では「コクイチ」と呼ぶ人が圧倒的多数であり、現在は他地域に住んでいる人も、東海地方出身者はもれなく「コクイチ」と呼んでいる。特に静岡県民のコクイチ率は、なんとなんとの100%であった。 静岡県ではすべての人が国道1号線を「コクイチ」と呼ぶのだ 今回のアンケートにおいて東海地方の方々が口をそろえて言っていたのが、「コクイチ」以外の略称があるなんて知らなかった、というものである。 コクイチ以外に略称があるなんて、考えもしなかったです… by にゃん太さん(静岡県沼津市出身・在住) コクイチ以外の略称をこのアンケートで初めて知りました by まなさん(静岡県富士市出身・在住) 「コクイチ」以外の選択肢があることに驚いた。 by わいさん(静岡県静岡市出身・海外在住) 国1の略称が「コクイチ」以外にあること自体、びっくりです。少なくとも私の周りでは他に聞いたことがありませんでした。 by けろけろさん(静岡県静岡市出身・浜松市在住) 「コクイチ」以外の呼び方(略し方)があるなんて考えたことすらありませんでした by しおんさん(静岡県袋井市出身・在住) 他の略称があるとは思わなかった by 麻生さくやさん(静岡県浜松市出身・在住) コクイチ以外きいたことなかった by 匿名さん(愛知県豊橋市出身・在住) コクイチ以外の略し方があること自体まったく知らなかったし考えたこともなかった。 by おやいずさん(愛知県岡崎市出身・在住) これはもう、東海地方ではコクイチ以外の呼び方なんてありえないというレベルである。 どうやら親の世代から「コクイチ」という呼称が付け継がれ、完全に地域に根付いているようだ。 親が「コクイチ」と行っていたのでそのまま覚えました by みまりさん(静岡県静岡市出身・在住) 静岡県民にとっては国道一号線と書いてコクイチ。 by adiasさん(静岡県藤枝市出身・神奈川県在住) コクイチは静岡ローカルな言い方だって聞いた事があります。 by ずっきーさん(静岡県静岡市葵区出身・東京都文京区在住) ちなみに私が「コクイチ」という呼称を知った漫画の作者も静岡県の出身であり、漫画の台詞として「コクイチ」を出したのもごく自然なことだったのだろう。 静岡県の国道1号線はやたら長い上に風景の変化が少なく、走っていて結構つらい 東海地方において「コクイチ」は強いこだわりをもって使われているようで、それ以外の呼称を使おうものならよそ者扱いされること請け合いだ。 仕事ですこし東海圏にいたが、つい国道1号をイチコクと言ってしまうと、また横浜出身者が!みたいな横浜出身者あるあるの一つみたいな責め方をされた(笑) by 県庁所在地と政令指定都市出身は出身を市名で名乗っていいと思う委員会さん(横浜市出身・在住) ちなみに東海地方以外の方からは、「コクイチ」は国家公務員採用一種試験を連想するという意見が多数寄せられた。 関西地方は「イチゴウセン」が多い(ただし京都市は通りの名) 最後は国道1号線の西端にあたる関西地方である。アンケートを見てみると、関西ではあまり略さずに「1号線(イチゴウセン)」あるいは「1号(イチゴウ)」と呼ぶ方が多いようだ。 また京都と大阪を結ぶ国道であることから、ご年配の方は「京阪国道」という呼称を使う人もいるという。 略す方が違和感あります。 by わかばっ!さん(大阪府枚方市出身・在住) そもそも略す人は周りにいないですね 京阪国道という人はお年寄りなどでいます by てっちりさん(大阪府守口市出身・静岡県浜松市在住) ただし京都市に限っては国道1号線という言葉自体ほとんど使われておらず、「五条通」など通りの名前で呼んでいるという。 学生時代京都に住んでいたので、イチコクもコクイチも全く通じず、五条通と言ってやっと通じる(京都市内の国道一号線もなかなか複雑…) みつるさん(神奈川県厚木市出身・在住) 京都市内の道にはほとんど名称が付いているため、国道と兼用されている場合でも国道とは呼称しないことがほとんどです。国道1号線も堀川通や五条通、九条通と兼用されており、「国道1号線」という呼称では位置が曖昧であるため使われないのかと思います。京都市内で国道1号線が何度か直角に曲がることも「国道1号線」という呼称を使いづらい(ひとつの道と認識しづらい)一因かもしれません。 ぴかーどさん(京都府京都市出身・大阪府吹田市在住) 京都市内の地図を見てみると、国道1号線は碁盤目状の通りをカクカクと折れ曲がっている。なるほど、確かにこれでは国道1号線というだけでは場所を特定しづらく、通りの名で呼ぶ方が簡潔だ。 こうも折れ曲がっていると、通りの名前で読んだ方が分かりやすい とまぁ、関西地方では国道1号線をあまり略すことはないようだが、大阪から北九州の門司を繋ぐ、かつての山陽道を踏襲する国道2号線は「ニコク」と呼ばれているという。 しかし国道2号線の別名である「第一阪神国道」から「イチコク」と略す人もおり、その場合は国道43号線が「第二阪神国道」であり「ニコク」なのだとか。 京浜地域の国道1号線と同様、阪神地域の国道2号線においても呼称の相違があり、こちらもまた一筋縄ではいかないようである。 阪神地域もまた、国道2号線の呼称問題を抱えているのだ 国道の呼び方あれこれ 今回は私の個人的な興味に基づき国道1号線の略称について調べてみたが、寄せられた回答を見ていると、それ以外の国道も各地によってさまざまな呼び方があるようだ。 基本的に1桁や2桁の国道は「〇号線」読みが多いようだが、3桁になると数字で呼ぶようになる。私の周辺でも国道246号線を「ニーヨンロク」、国道467号線を「ヨンロクナナ」というし、他にも国道36号線は「サブロク」、国道156号線は「イチコロ線」などと呼ばれているようだ。 興味深いところでは国道23号線を「メイシ」や「メイヨン」(名四国道)、国道258号線を「リャンウーパー」(麻雀用語から?)、国道122号線を「ワンツーツー」(なぜ英語?)など、各地に独自の呼称があるようである。そのような各地の国道呼称を調べてみるのも面白そうですな。 余談だが、国道15号線沿いにあるJR鶴見線の、その名も「国道駅」 この駅が実にシブく、素晴らしいたたずまいを見せていた
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kentarouchikoshi · 3 years
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 コロナ禍が鎮圧されたら,是非行ってみよう(◍•ᴗ•◍)  東京は大変な美術の都です。上野や六本木などには数多くの美術館が集まり,それらを観尽そうと思えば1日や2日では到底足りないでしょう。  僕は以前に「美術好きのパリ旅行」というお話を聞いたことがあります。パリの美術館といえばルーブル・オルセー・ポンピドゥーの3大美術館がよく知られているところですが,他にも素晴らしい美術鑑賞の出来る美術館は多く,旅慣れた美術好きの中にはパリ市内に長期滞在して地下鉄などでそれら美術館を回るだけという旅行をする方もいらっしゃるそうです。それでも飽きるなどということは有り得ないというのですから,その話を聞いた僕などは「パリというのは凄い所なのだな」と感じさせられたものです。  しかし実は,海外の美術愛好家の中には東京で同じことをなさる方も珍しくないのだとか。考えてみれば上野にも国立西洋美術館・東京国立博物館・上野の森美術館・東京都美術館と4つの美術館が軒を連ね,六本木にも国立新美術館・森美術館・サントリー美術館と3つの大きな美術館が存在します。都内には他にも美術館が数多く存在し,その中には江東区にある東京都現代美術館や墨田区のすみだ北斎美術館,また板橋区立美術館や練馬区立美術館,それに八王子市の東京富士美術館など,東京の中心部からは少し遠い所に所在し優れた展示で定評を得ている館も珍しくはありません。東京都内ではありませんが神奈川県横浜市の横浜美術館もその中に加えて良いかもしれませんね。  さて,以上で述べたのは美術館のお話ですが,美術を観ることの出来る場というのは美術館には限りません。これは恐らくパリでも事情は同じでしょうが,画廊やアートギャラリーといった施設を無視することは出来ませんね。美術館の無い街にもアートギャラリーが軒を連ねているということは珍しくなく,都内であればたとえば小伝馬町~馬喰町界隈は意外なまでのアートの街であったりします。地理的に近い東京藝術大学の学生さんたちが展覧会を開いていることなどもあり,僕自身もここでそれまで知らなかった優れたアーティストたちの作品に接することが出来ました。  そしてそれ以上に画廊やアートギャラリーが揃っているのは銀座です。銀座にもポーラミュージアムアネックスや若山美術館など小規模ながら優れた美術館があり,また三菱一号館美術館や出光美術館なども徒歩圏ですが,それ以上に画廊が軒を連ねているところで,かく言う僕自身も画廊の集まった「奥野ビル」や「銀座画廊・美の起原」や「GALLER b. TOKYO」などなど,数多くの画廊を回っています。他に銀座には松屋や三越などの百貨店や「GINZA SIX」などのショッピングセンターもあり,そうした所でも美術鑑賞をさせて頂くことがありますね。特に「GINZA SIX」では画廊の他にビル内にも複数のアートが飾られていて,美術好きなら外すことの出来ない場所だと感じています。  そんな銀座に新しく「RICOH ART GALLERY」がオープンするというニュースです。場所は銀座の中心部である銀座4丁目交差点に面した 三愛ドリームセンター で,交通至便の場所といえるでしょう。杮落しに開かれるのは梅沢和木氏の個展「画像・アラウンドスケープ・粒子」という展覧会で,記事によれば「デジタル画像を活用したコラージュやそこに加筆することで生まれるデジタル世界と現実世界を行き来する梅沢の世界感との融合により生まれる作品」とのことです。どんな作品なのかとても是非観てみたいと,記事を読んだだけでもワクワクしてしまいます(๑˃̵ᴗ˂̵)  このギャラリーでは,主にコンテンポラリーアートを展示するのでしょうか。昨今はコンテンポラリーアートが世界の富裕層の注目を集めていて,その機運がいよいよ日本にも迫っているということがしばしば報道されています。日本一の街である銀座ですから,そうした世界の動きに合わせた展示が重視されるのかもしれませんね。  コロナ禍に伴う緊急事態宣言発令でオープンが延期されてしまったのは残念なことですが,無事にコロナ禍を乗り越えて是非お邪魔してみたいとワクワクしています。そして外国の方や日本国内でも東京から遠い地域にお住まいの方には,東京に長期滞在してこの「RICOH ART GALLERY」をはじめとする画廊やアートギャラリー,それに美術館を巡る「美術好きの東京旅行」を併せてオススメしたいと感じているところです♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪
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c3oyama · 4 years
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3/26 #プルーンの日 誕生日/ #渡辺麻友 #いしだあゆみ #後藤久美子 #キーラナイトレイ #野村沙知代 #ダイアナロス #髙木雄也 #今東光 #緑魔子 #井口裕香 誕生日 1896年 ルドルフ・ダスラー(プーマ創業者 ) 1898年 今東光(僧侶・小説家『お吟さま』,僧侶,参議院議員)1956年下期直木賞[1977年9月19日歿] 1904年 木山捷平(作家) 1914年 公文公(公文式・数学教育研究家 ) 1917年 柴田錬三郎(小説家『イエスの裔』『眠狂四郎無頼控』)1951年下期直木賞[1978年6月30日歿] 1932年 野村沙知代(野村克也の妻・サッチー2017年(平成29年)12月8日没) 1936年 アラン・アーキン(俳優) 1940年 海老原博幸(ボクシング ) 1940年 小川光明(アナウンサー) 1942年 岸千恵子(歌手) 1944年 ダイアナ・ロス(ミュージシャン) メドレーhttps://youtu.be/KYPkLPCddB8 Michael Jackson - Diana Ross Special Show (1981) https://youtu.be/PI0QxQgnhko Michael Jackson - We are the World - The Story Behind the Song https://youtu.be/4SGFcYLO0jg 1944年 緑魔子(歌手) 1947年 中本マリ(歌手) 1948年 いしだあゆみ(女優/歌手) ブルー・ライト・ヨコハマ 1969 https://youtu.be/ZrLOQAIBXxE 1948年 櫻木健一(俳優) 1953年 ピーター・フランクル(数学者) 1954年 井上和彦(声優) 1956年 加納竜(俳優) 1960年 ジェニファー・グレイ(女優) 1963年 京極夏彦(作家) 1971年 安野モヨコ(漫画家) 1972年 雉子牟田直子(テニス) 1973年 マックン(パックンマックン・タレント ) 1973年 ラリー・ペイジ(Google創設者) 1974年 後藤久美子(女優) 1974年 用稲千春(アナウンサー) 1975年 石塚義之(アリtoキリギリス・タレント) 1979年 上原ひろみ(ジャズピアニスト) 1985年 キーラ・ナイトレイ(女優) 1990年 髙木雄也(Hey!Say!JUMP・タレント) 1990年 柳楽優弥(俳優) 1994年 渡辺麻友(AKB48・歌手) 誕生花は 花海棠(ハナカイドウ)、花言葉は“温和” 誕生石は トパーズ(topaz)、宝石言葉は“希望” プルーンの日 バングラデシュ独立記念日 1971年のこの日、東パキスタンがバングラデシュとして独立した。 1947年8月14日に、(旧)インドがヒンズー教徒のインド、仏教徒のセイロン(現在のスリランカ)、イスラム教徒の(旧)パキスタンの3つに分かれたが、パキスタンは国土がインドによって東西に分断された飛び地となっていた。 カチューシャの歌の日 1914(大正3)年のこの日、島村抱月と松井須磨子が起こした芸術座が、トルストイの『復活』の初演を行った。この中で歌われた「カチューシャの歌」が大流行した。 歴史・出来事 1205年 新古今集完成 1890年 ヘレンケラー、発声訓練を始める 1906年 「大日本麦酒」設立 1945年 太平洋戦争、硫黄島の戦い終結 1958年 ナンシー梅木が日本人初のアカデミー助演女優賞受賞 1958年 パラメトロン計算機PC-1が完成 1968年 渋谷駅西口と東口の交差点200mの歩道橋完成 1971年 東パキスタンがバングラデシュとして独立 1978年 成田空港管理棟に過激派乱入 1985年 南極にあすか観測拠点開設 1996年 百武彗星が地球に最接近 2004年 テレビ朝日『ニュースステーション』放送終了 #今日は何の日 #パーソナルカラー #カラードレープ #カラーパレット #色見本 #PCCS #ドレープ120色 #パーソナルカラー用品 #テストドレープ #金銀ドレープ #ケープ #カラーシート #カラーチップ #C³ #色のみかた #顔タイプ診断 #パーソナルカラー診断 #シーキューブ #insta_higashinada #神戸市 #東灘区 (パーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/CM3A-fIgC4r/?igshid=1akj3y27vd548
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kuroda-kanbee · 7 years
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数年分のコピペ012
4月 28, 2017 並みの上司:答えを教える。優れた上司:質問を投げかける。部下に答えを見つけさせることのほうが、答えそのものより大切である(「仕事は楽しいかね2」)
4月 27, 2017 怖い化合物としては、ニッケルテトラカルボニルNi(CO)4、通称ニコヨンも有名でしょう。「liquid death」(死の液体)とも呼ばれ、一酸化炭素の100倍も有毒といわれます。ある有機金属化学の教科書には「この化合物の臭いは知られていない。嗅いだ者は全員死んでいるからである」という怪談めいた但し書きがついていました。 作ってはいけない : 有機化学美術館・分館(via shinoddddd)
 50 :名無しさん@1周年 [↓] :2017/04/27(木) 20:13:21.30 ID:mzGD4Ilw0 (1/6) ■安保法案に反対を表明した有名人 Shelly 高田延彦 長渕剛 久保田利伸 渡辺謙 笑福亭鶴瓶 中居正広 今井絵理子 美輪明宏 瀬戸内寂聴 高畑勲 宮崎駿 坂上忍 渡辺えり 鈴木奈々 大竹忍 大竹まこと 茂木健一郎 マツコデラックス 大江健三郎 ビートたけし 竹下景子 太田光 太田光代 樹木希林 須藤元気 ラサール石井 坂本龍一 香山リカ 古賀茂明 星田英利 津田大介 山田洋次 吉永小百合 野際陽子 倍賞千恵子 井筒和幸 山本晋也 是枝裕和 大林宣彦 周防正行 綿井健陽 小山内美江子 益川敏英 小澤征爾 赤川次郎 富野由悠季 安彦良和 三木谷浩史 落合恵子 小熊英二 アナログフィッシュ佐々木健太郎 アジアン・カンフー・ジェネレーション後藤正文 くるりギタリストの岸田繁 石田純一 仲代達也
■安保法案に中立を表明した有名人 ロンブー淳 
■安保法案に賛成を表明した有名人 百田尚樹 青山繁晴 すぎやまこういち 田母神俊雄 フィフィ コンス竹田 津川雅彦 曽野綾子 田崎史郎 森本敏 勝谷誠彦 松本人志 ホリエモン
64+1 :名無しさん@1周年 [↓] :2017/04/27(木) 20:14:22.73 ID:mzGD4Ilw0 (2/6) ●特定秘密保護法案に反対した有名人一覧(故人含む)●
◇俳優 大竹しのぶ、菅原文太、奈良岡朋子、野際陽子、倍賞千恵子、吉永小百合、利重剛、渡辺えり
◇映画監督 井筒和幸、岩井俊二、大林宣彦、神山征二郎、是枝裕和、崔洋一、周防正行、高畑勲、 降旗康男、宮崎駿、山田洋次、山本晋也、りんたろう ◇脚本家・劇作家 小山内美江子、鴻上尚史、橋本忍、平田オリザ、山田太一
◇音楽家 伊藤銀次、おおたか静流、大貫妙子、坂本龍一、高橋幸宏、なかにし礼、湯川れい子
◇作家 浅田次郎、大岡玲、角田光代、椎名誠、瀬戸内寂聴、中村うさぎ、村上龍
◇ジャーナリスト・キャスターなど 秋山豊寛、池田香代子、永六輔、江川紹子、大沢悠里、大谷昭宏、小川和久、荻原博子、 金平茂紀、鎌田慧、川村晃司、岸井成格、見城美枝子、佐高信、佐野眞一、澤地久枝、 高野孟、田勢康弘、田原総一朗、津田大介、鳥越俊太郎、ピーター・バラカン、二木啓孝、 堀潤、毛利甚八、森達也、吉岡忍、吉永みち子
◇学者 浅田彰、上野千鶴子、内田樹、大沢真理、小熊英二、加藤典洋、加藤陽子、金子勝、姜尚中、 栗原彬、小森陽一、佐和隆光、汐見稔幸、白川英樹、高橋哲哉、田中優子、中沢新一、 野田正彰、樋口陽一、益川敏英、山口二郎、鷲田清一、和田春樹
4月 14, 2017 元キャバ嬢の友人が、この仕事に染まって一番ヤバいと思ったのは、貞操観念や金銭感覚が狂うことじゃなくて、男友達と普通に飲んでる時にふと「なんでこいつタダで私と飲めてるんだろ?」と思ってしまうことだと言っていて、確かにそれはKOEEEE!!ってなった。ifさんのツイート (via gkojax)(80236から)
4月 14, 2017 オタクの本質は反体制ではなく反権威。 この違いは判りにくいようで実は結構大きい。 そして現在の教��・教授やマスコミ出身者が多くを占める左翼陣営は反体制ではあるが知名度・学閥・資産に拠った権威主義の塊。 左翼言論がオタクから嫌われる… https://t.co/m1mE2h6faF 擲弾兵さんのツイート (via auxo)(元記事: gkojax (auxoから))
4月 12, 2017 王は世界にいくらいても許されるが、皇帝は世界でひとりしか許されない そのため 人類は2000年以上、たったひとりの皇帝の正当な地位を得るために戦争を繰り返してきた 十字軍遠征、モンゴルの長征、、、、、、、、 ところが、皮肉にも、最期に勝ち残ったのは、ローマ帝国皇帝でもモンゴル帝国皇帝でもなく、日本の天皇陛下だった そう、現時点において、現存する世界で唯一かつ最古の皇帝が、天皇陛下なのだ。 これがどれだけすごいことか、外国人はわかっていても、当の日本人はまったく 知らない ローマ法王とエリザベス女王は、天皇陛下と同席するときは上座を譲る慣例になっている 世界中どこに行っても、相手の元首を呼びつけるローマ法王が、日本に来たときだけ 自ら天皇陛下のところに足を運び、日本語で挨拶と演説をされた。 eddy tumblr 昭和天皇の崩御のときに、この辺は思い知りましたよね、われわれ。 参列の順番とか、英語での表記とか。 (via reretlet) 2008-11-16 (via gkojay) (via kml) (via konishiroku)
4月 12, 2017 天保年間の「打ちこわし」 浅間山の噴火で江戸では米の値段が暴騰し、味噌等も便乗値上げ…… そんな中で起きた打ち壊しで10万軒もの商家が完全破壊されたんだけど、 ・どさくさに紛れて悪事を働かず ・人間には一切危害を加えず(死者・重傷者なし) ・米や金を盗むものがいればみなでこれを止め ・女子供を参加させず ・めざす商家以外には隣近所に迷惑をかけず ・打ち壊す前にまず火の元を消火 参加者は下層町民を中心に5000人。 途中で休憩を入れられるほど統率の取れた集団だった。 しかも、なんと首謀者なし! この現場を見て呆れた役人が書き残した言葉が 「まことに丁寧礼儀正しく狼藉つかまつり候」 天明の打ちこわしをやりとげた民族なめんなw (via drhaniwa) (元記事: 2nnlove.blog114.fc2.com (trinityworks-interestから))
4月 12, 2017 国際基準と日本基準で標準温度の設定が異なっていて、国際基準だと居住空間の快適温度は22度、日本基準だと28度なんです。なので、航空会社じゃなくて日本が高すぎ or 世界が低すぎ説がありまして。 だからアメリカのスタバも飛行機も寒いんですよ!!! (via otsune)(morisovaから)
4月 9, 2017 1. 自分の短所を、人の長所とくらべない Never compare your weaknesses to other people’s strengths.  十人十色。人それぞれ得意なものもあれば、不得意なものもある。  人のものさしで、自分を計らない。  あなたの良いところは、唯一無二。 2. 本当の人生は、安全地帯の外に広がっている Life begins where your comfort zone ends.  居心地の良い場所にいつまでもいると、何も新しいものに出会えない、得られない。  片足だけでも、未知の領域に踏みこんでみたら? 3. 完ぺき主義者の人よりも「とにかくやった人」の方が報われる The world does not reward perfectionists. It rewards those who get things done.  「まだ問題点があるか���、やらない」 → 報酬ゼロ。  「問題点はあるけど、やってみる」→ 報酬あり。  「完ぺき」は、永遠に辿りつけない蜃気楼。  それよりも、走りながらフィードバックをもらって改善。 4. 喜べば、分かちあえる。嘆けば、一人ぼっち Laugh and the world laughs with you. Weep and you weep alone.  僕も、そろそろ傷ついた被害者のフリはやめて、笑おうかな。 5. 配られたカードは変えられない。どうやって手持ちのカードで楽しむか考えよう We cannot change the cards we are dealt, just how we play the hand.  そうだよな。才能もないし、金持ちでも、イケメンでも、美人でも、いい人格でもないけど、人生、がんばろっと。 6. 成功にむかう唯一の方法は、はじめにたくさん失敗すること The only way you are going to have success is to have lots of failures first.  はじめに、小さい失敗、素早い失敗、たくさんの失敗をしてしまおう。 7. 「まわり」を変えようとするよりも「自分」を変えようとするほうが賢い Yesterday I was clever, so I wanted to change the world. Today I am wise, so I am changing myself.  最もダイレクトに影響できるものだけに集中せよ。  そう、それは「自分」だ。 8. 「『だれか』あれを解決しないのかな」と思ったとき、私がその『だれか』であると気がつく I always wondered why somebody didn’t do something about that, then I realized I am somebody.  問題点、改善方法、解決方法、実現方法が「見える」のか…!?  あんたが、救世主だったのか!  そんなときは、自分から進んで取り組もう。 9. 「生活」は、得るもので成りたつ。「人生」は、与えるもので成りたつ We make a living by what we get. We make a life by what we give.  自分のことだけ考えている人生は、さみしい。 earth in us. - あなたの毎日を輝かせる9つのことば (via darylfranz) (元記事: earthinus.com (rock-the-babyから))
4月 9, 2017 神道の神の名前である神名(しんめい)は、大きく3つの部分に分けられる。例えばアメノウズメノミコトの場合 1. 「アメ」ノ 2. 「ウズメ」ノ 3. 「ミコト」 となる。 この他に、その神の神得を賛える様々な文言がつけられることがある。例えば、通常「ニニギ」と呼ばれる神の正式な神名は「アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト」である。 神名は、1.の部分を省略して呼ぶことがある。また、民俗学・神話学など学術的な場面では神号(3.の部分)を略すことが多い。 「アメ」ノ(神の属性) [編集] 1.はその神の属性を示すものである。最も多い「アメ」「アマ」(天)は天津神であること、または天・高天原に関係のあることを示す。「クニ」(国)は国津神を表すこともあるが、多くは天を表わす「アメ」のつく神と対になって地面もしくは国に関係のあることを示す。「ヨモ」(黄泉)は黄泉の国の神、「ホ」(穂)は稲穂に関係のあることを示す。この部分が神名にない神も多い。 「ウズメ」ノ(神の名前) [編集] 2.はその神の名前に当たる。これもよく見ると、末尾が同じ音である神が多くいることがわかる。例えば「チ」「ミ」「ヒ」「ムス」「ムツ」「ムチ」「ヌシ」「ウシ」「ヲ」「メ」「ヒコ」「ヒメ」などである。これらは、神神習合が起こる前の各部族での「カミ」を指す呼び名であったとも考えられる。「チ」「ミ」「ヒ」(霊)は自然神によくつけられ、精霊を表す(カグツチ、オオヤマツミなど。ツは「の」の意味)。「チ」より「ミ」の方が神格が高いとされている。「ヌシ」(主)「ウシ」(大人)は位の高い神につけられる(オオヒルメノムチ(アマテラスの別名)、大国主など。「ムス」(産)「ムツ」(親)「ムチ」(祖)は何かを産み出した祖神を表し「キ」「ヲ」(男)「シ」「コ」(子)「ヒコ」(彦・比古・毘古)は男神、「メ」(女)「ヒメ」(媛・姫・比売・毘売)は女神につけられるものである。特に「メ」のつく神は、巫女を神格化した神であるとされることが多い。「コ」は国造(ミヤツコ)小野妹子など、元は男性を表したが、藤原氏が女性名として独占し、近世までは皇后など一部の身分の高い女性しか名乗れなかった事から、現代では女性名として定着した。 「ミコト」(神号) [編集] 3.は神号(しんごう)と呼ばれる。いわば尊称である。代表的なのは「カミ」(神)と「ミコト」(命・尊)である。「ミコト」は「御事」すなわち命令のことで、何かの命令を受けた神につけられるものである。例えばイザナギ・イザナミは、現れた時の神号は「神」である。別天津神より「国を固めよ」との命令を受けてから「命」に神号が変わっている。ただし、日本書紀では全て「ミコト」で統一している。特に貴い神に「尊」、それ以外の神に「命」の字を用いている。特に貴い神には大神(おおかみ)・大御神(おおみかみ)の神号がつけられる。また、後の時代には明神(みょうじん)、権現(ごんげん)などの神号も表れた。 神 (神道) - Wikipedia (via konishiroku) (via nemoi) (via jacony) (via vmconverter) (via bardiche-side-b) (via ukihiro) (via yawarakaatama) (via the9ball) (via sytoh) (via andi-b) (via bibidebabideboo) (via lovecake) (via mcsgsym)
4月 8, 2017 当時解せなかったのは、「お菓子に毒入れた事件」をわざわざ「グリコ森永事件」と命名したこと。今なら分かる。雪印倒産させたのと同じ勢力なんだろうな。 はるさんはTwitterを使っています (via ashzashwash) ロッテ以外が被害に遭った事件 (元記事: twitter.com (eleeleeleから))
4月 8, 2017 この間、夫がカンボジアに出張に行ってきたんだが。そのとき、現地の人に聞いた話が興味深かったので、書いておく。 大虐殺が起きた後の国は、どういう風になるのか。 カンボジアは、単一民族国家。という感覚で、カンボジア人はとらえている。クメール人が人口の90%を占めるから、確かに、単一に近い国家ではある。 「何が悲劇といえば、同じ民族同士で虐殺しあい、戦い合ったことだ」 と『虐殺の現場』となった元高校、その当時は拷問&処刑場になっていた収容所を案内しながら、その人は、以下のような感じで解説してくれたそうだ。 一般的には、インテリ層や都市住民が虐殺のターゲットになったとされているが、そんな簡単ではない。 最初は、教師や医師などインテリだったが、次第に理由はどうにでも付けられるようになった。 農園で作業中に「空腹に耐えられず、きゅうりを1本食べた」という理由でも、一族揃って殺された。 身内であるポルポトの軍隊の兵士も殺され、最後は、刑務所の看守も殺された。 収容されたほとんどの人が殺されたが、生き残った人もいる。 ここでは5人が生き残った。この5人は看守だ。 「あそこに立っている白髪のおじさん、あの人は、その中のひとりだ。ここでガイドをしている」 「じゃ、あの人は、ここで虐殺に関わっていたってこと?」と夫が突っ込んだら。 「そうだ」 「それで、なんの罪にも問われていないの?」 「問われていないね」 それはなぜかと言えば、そんな人はいくらでもいるから。 カンボジア人で、家族・親族、友人を殺されていない人なんていないぐらいだ。 それと同じぐらい、虐殺に関わった人も大勢いる。 ひとつの村があれば、そこにひとりやふたりはいる。 「復讐されたりしないの?」 「いや、ないね。普通に暮らしているよ」 「周りの人は、許しているの?」 「いや、もう、考えないようにしているんだ。『戦争にならなければいい』って」 案内してくれた人は、20代なので、虐殺を直接は見聞きしていない。 上の世代、私たちと同年代の30代、40代はリアルに体験している。 そこで断絶があるようで、リアルに体験した世代が、追求を諦めているそうだ。 で、その世代が口にする 『戦争にならなければいい』 というのは、1970年代後半のクメール・ルージュの虐殺以降、延々と内戦が続くのだが、そちらの方が、ずっと、カンボジア人にはトラウマとなっているからだとか。報道はあまりされていないが、ヘン・サムリン、クメールルージュ、ソンサン、シアヌークなど諸派三つ巴の泥沼の内戦時代が、さらなる悪夢だったそうだ。 「クメール・ルージュは隠さずやったけれど、その後は、隠れてどの派閥も、反対派を次々と消していたから」 夜中にさらわれて戻ってこない。 出かけたまま、行方不明に。 陰惨さは、クメール・ルージュに負けず劣らずだったそうだ。 なので、和平協定が結ばれて、平和が維持されるようになって以降、 「戦争にならなければいい」 という一点だけで、みな、非難しあうことはないし、罪に問うこともしないことになったそうだ。 そのぐらい疲弊した末の、平和。 「同一民族内で殺し合うと言うことは、そういうことだから」 あの民族が憎い。○○教は異端だ。共産主義者は許せない。 となれば、理由ははっきりしているし、敵として憎むこともできるかもしれない。 しかし、隣人同士が殺し合った時、どうやって決着をつければいいのか。 「もう、罪には問えない。問い詰めて行ったら、また、戦争になるかもしれない」 許すとは言わなかったそうだが、見ないようにしないと、維持できないものがあるんだろうなと。 カンボジアでは、雨がちょっと多めに降ると、人の歯や骨が出てきたりするそうだ。 工事をしようと、穴を掘ると、服が出てきたり。 よくあることらしい。 そうやって、今も、虐殺の記憶と暮らしているんだよ。 余談だが、 「なぜ、ポルポトは、こんな虐殺をしようとしたの?」と夫が聞いたら、返ってきた答え。 「フランスへの留学が良くなかったと言われているね。中国共産党の思想に触れて、毛沢東がやろうとしたことを本気でやったんじゃないかと説明されている。それが、カンボジアは、単一民族だから、徹底的になったんじゃなかろうかと」 虐殺があれだけ行われたのは、単一民族という、均質な状態だってのが、怖いなぁと思ったり。 単一で、均質であること。日本もまさにそういう国だからなぁ。 追記 この話を聞いて意外だなと思ったのは、 「虐殺よりも、内戦の方が嫌だ。内戦をさせないためには、虐殺のことは考えない」 というカンボジア人の考え方で。タイトルにも付けているように、私も「大量虐殺があった国」として特別視している部分があるんだけど、彼らにして見ると、クメールルージュ虐殺は、国際的に有名だし、衝撃的な事件ではあるが、それは20年以上続いた内戦の一局面でしかないようだ。 だから、虐殺の罪を問わないことで、今の平和を守りたい。 というのは、当然のことで。 で、あの虐殺よりも、苦しい内戦ってどんな状態なんだろう。どんだけひどいものだろう。と思って、さくっと調べると、20世紀後半に起きた、いくつもの内戦とそれほど変わった展開をしたわけではない。内戦が続いていたころを知っているが、世界の中での重要問題のひとつであっても、延々と報道されるような重大問題ではなかった。 そう思うと、そんな内戦があった国なんて、いくらでもあるよね。 コンゴ、ラオス、ナイジェリア、エチオピア、ローデシア、アンゴラ、ニカラグア、エルサルバドル、レバノン、ウガンダ、アフガニスタン、グルジア、ソマリア、チェチェン、ウガンダ、ダルフール、旧ユーゴ、リビア、シリアなどなど。 クメールルージュ、というか、ポルポトの大虐殺で受けたような衝撃を、どの内戦でも感じたろうか。 大虐殺が起きた国で - 北沢かえるの働けば自由になる日記 (via petapeta)(flyingsonから)
4月 7, 2017 昔入社式の時に社長が「趣味を持って下さい。その趣味に打ち込む為にも、仕事も頑張って下さい。仕事の為に人生があるのではなく、人生の為に仕事があります。仕事で失敗した時は反省や後悔は家に持ち込まずに、行き道と帰り道でして下さい」って言ってて、心に刻んだ 大事な事を教えてもらったと思う 藤宮さんのツイート (via gkojax)(oonishinから)
4月 4, 2017 「辻元清美生コン」「辻元と仲良しの関西生コン」=通称“関生”こと「全日本建設運輸連帯労働組合近畿地方本部 関西地区生コン支部」のシンパ一覧を以下に記してみた。
このリストは、「関生」の武建一委員長が2005年に強要未遂罪などで逮捕されたことに対する、2005年4月18日時点での抗議者一覧表(11年前に筆者入手)を文字起こししたもの。この武氏は既述のように2006年9月22日、大阪拘置所刑務官に対する贈賄容疑で、関係する山口組系元組長と共に逮捕されている。
そして資料の出所は「関生」そのものである。ただしネットでは4月4日版がヒットする。↓ http://www.hige-toda.com/____1/renntai_yunionn/2005_1_13/4_5koudou/sienn.htm
全国・各界に広がる「弾圧糾弾!連帯関生支援!」の声 「緊急共同声明」賛同335個人・団体 /米兵・自衛官人権ホットライン(共同代表いいだもも・尾形憲・大野和興・小西誠事務局長)/イラク派兵違憲訴訟の会・東京(共同代表尾形憲[法政大学名誉教授]・平山基生[沖縄などから米軍基地をなくす草の根運動]・本尾良[非核・みらいをともに]・杉山隆保事務局)/立川反戦ビラ弾圧救援会/救援連絡センター/mogura(平和ネットいわて)/大畑豊(イラク派兵違憲訴訟の会・東京)/吉岡達也・中原大弐(ピースボート共同代表)/神坂玲子(小泉首相靖国参拝違憲訴訟原告)/安次富浩(ヘリ基地反対協・代表委員)/谺雄二(ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会会長)/槙枝元文(日中技能者交流センター理事長・元総評議長)/折口晴夫(現代を問う会)/矢山有作(元衆議院議員・自衛隊イラク派兵差し止め訴訟・岡山原告団団長)/鎌田慧(ルポライター)/土本典昭(記録映画作家)/斉藤貴男(ジャーナリスト)/石川文洋(報道写真家)/長沼節夫(ジャーナリスト・日本ジャーナリスト同盟議長代行)/磯貝治良(作家・大学非常勤講師)/きさらぎやよい(編集者)/野添憲治(作家)/本多二朗(ジャーナリスト)/槌田佑司(著述業)/武藤功(雑誌『葦牙』編集長)/大峰林一(フリーライター)/菊地原博(フリーライター)/吉田敏浩(ジャーナリスト)/宗像充(ライター)/西川亨・景清(『検証内ゲバ』執筆者)/川口弘(ミニコミ手作り運動者)/熊沢誠(「職場と人権」研究会代表・甲南大学経済学部教授)/杉村昌昭(龍谷大学教授)/長田浩(大学教員)/佐野稔(和歌山大学名誉教授)/渡辺憲正(関東学院大学教員)/田口富久治(名古屋大学名誉教授)/宮下柾次(札幌学院大名誉教授)/工藤英三(前創価大学教授)/片山貴夫(吉備国際大学)/宇沢弘文(経済学者)/田畑稔(大阪経済大学教授)/池田清彦(早稲田大学教授)/橋本剛(北海学園大学名誉教授)/寺尾光身(名古屋工業大学名誉教授)/百瀬文雄(法政大学名誉教授)/北野弘久(日本大学名誉教授)/森正孝(静岡大学講師)/石川求(東京都立大学人文学部教員)/吾郷健二(西南学院大学教授)/清水雅彦(明治大学講師)/野村修身(工学博士)/前田哲男(東京国際大学教員)/田中正司(横浜市立大学名誉教授)/成澤孝人(三重短期大学講師)/針生一郎(美術評論家・丸木美術館館長)/八鍬瑞子(美術家・占領に反対する芸術家たち)/趙博(ミュージシャン)/円谷真護(文芸評論家)/青柳行信(カトリック福岡正義と平和協議会)/中沢譲(日本キリスト教団牧師)/いとう正敏(寺院住職)/佐藤玄宗(日蓮宗僧侶)/矢吹隆志(自衛官)藤尾靖之(反戦自衛官)/小多基実夫(反戦自衛官)/井上森(立川自衛隊監視テント村)/大洞俊之(立川自衛隊監視テント村・反戦ビラ弾圧被告)/渡辺修孝(米兵・自衛官人権ホットライン)/高橋峰子(イラク派兵違憲訴訟の会・東京)/前田資子(イラク派兵違憲訴訟の会)/太田武二(命どう宝ネットワーク)/斉藤美智子(自衛隊イラク派兵差止訴訟原告)/御崎勝枝(逮捕令状を考える会)/大野和興(脱WTO草の根キャンペ-ン全国実行委員会事務局長)/生田あい(名護サポ-タ-・東京事務局長)/堀世紀子(イラク派兵違憲訴訟の会東京原告)/荒木健次(自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・東京原告・フリーター) /和田貞夫(元衆議院議員)/植田むねのり(前衆議院議員)/小沢ふく子(大阪府議)/尾辻かな子(大阪府議)/隅田泰男(大阪府議・社民党大阪府連代表)/一村和幸(大阪府豊中市議)/八木修(大阪府能勢町議)/森田みつじ(大阪府高槻市議)/松川やすき(高槻市議)/小西ひろやす(高槻市議)/野々上愛(高槻市議)/光城敏雄(大阪府大東市議)/栗原とし子(大阪府交野市議)/松尾京子(大阪府高石市議)/中西とも子(大阪府箕面市議)/戸田ひさよし(大阪府門真市議)/三浦たけお(大阪府守口市議)/松平要(大阪府東大阪市議)/国賀祥司(大阪府泉佐野市議)/桂むつ子(大阪府茨木市議)/小山広明(大阪府泉南市議)/砂川次郎(滋賀県滋賀町議)/曽我千代子(京都府加茂町議)/酒井一(兵庫県尼崎市議)/宮城あや(尼崎市議)/中谷ひでこ(兵庫県淡路市議)/井筒たかお(兵庫県加古川市議)/井奥まさき(兵庫県高砂市議)/梶川虔二(奈良県議)/のりたけ勅仁(名古屋市議)/重松朋宏(東京・国立市議会議員)/斉藤ゆう子(東京都荒川区議)/秋山かおる(埼玉県上尾市議)/田中良太(千葉県四街道市議)/吉川ひろし(千葉県議)/吉野信次(千葉県松戸市議)/長南博邦(千葉県野田市議)/西村綾子(神奈川県相模原市議)/森一敏(金沢市議)/堂下建一(石川県富来町議)/円谷寛(福島県鏡意志町議)/中村すみ代(長崎市議)/奴間健司(福岡県古賀市議)/小川みさ子(鹿児島市議)/北上哲仁(川西市議) /西尾漢(原子力資料情報室)/遠山親雄(歴史に学ぶ旅の会)/小寺山康雄(市民政治新聞ACT編集長)/津林邦夫(地域・アソシエーション研究所長)/脇田憲一(労働運動史研究者)/布川了(渡良瀬川研究会;田中正造と鉱毒事件の研究継承)/松原博(新護憲神奈川事務局[代表])/柴山健太郎(労働運動研究所運営員)/中野徹三(社会主義研究家)/岸谷和(徳田球一記念の会会報編集者)/長尾比呂未(地球の子ども新聞)/片岡健(東京都日中友好協会副理事長)/宣保幸男(沖縄平和・民主・教育懇談会)/竹林伸幸(戦争に反対し行動する市民の会)/根本信一(部落解放同盟横浜市協議会)/山岸康男(京都草奔塾)/塩見豊久(特定非営利活動法人仙台夜まわりグループ)/増田順計(日教組組合員・とめよう戦争への道百万人署名運動奈良県連絡会会員) /白鳥良香(百万人署名運動静岡県連絡会共同代表)/山下信二(9条連事務局長)/三宮克己(有事法制に反対する府中市民の会・前府中市議)/加藤賀津子(基地はいらない!女たちの全国ネット)/金子広太郎(日中友好元軍人の会事務局長)/寺田道男(京都天皇制を問う講座実行委員会)/西山勲(とめよう戦争への道・百万人署名三多摩連絡会)/浅田義信(自主・平和・民主のための広範な国民連合・大阪代表世話人)/飯塚浩(沖縄一坪反戦地主)/増田博光(戦争被害調査会法を実現する市民会議)/二見孝一(みどりのテーブル・サポーター)/亀高照夫(国鉄労働運動研究会議) /近藤良一(市民の絆・大阪代表)/ジャミーラ高橋千代(アラブイスラーム文化協会代表)/村上らっぱ(障害者-介助者反戦)/岡崎耕史(中大生協闘争・吉田さんを支える会) /松井保(月刊文芸誌『かぶらはん』主幹)/高橋正久(越谷市民情報センター代表)/ながさき由美子(社民党大阪府連副代表)/古賀しげる(社民党尼崎支部)/田中としお(尼崎を創る会)/後藤昌次郎(弁護士)/井上二郎(弁護士)/金井塚康弘(弁護士)/中北龍太郎(弁護士)/位田浩(弁護士)/一瀬敬一郎(弁護士) /全日建運輸連帯労組近畿地方本部(執行委員長戸田ひさよし・副執行委員長川村賢一) /東京東部労働組合(執行委員長岸本町雄)/国労新潟駅連合分会(執行委員長星野文男)/郵政労働者ユニオン近畿地方本部(委員長三木鎌吾)/関西合同労働組合(執行委員長石田勝啓) /関西合同労働組合兵庫支部(執行委員長蒲牟田宏)/関西合同労働組合日本管検工業分会(分会長渡海優)/高槻医療・福祉労働組合/関西単一労働組合/北大阪合同労組/管理職ユニオン・関西 /京都―滋賀地域合同労働組合/京都―滋賀地域合同労働組合・伏見織物加工支部 /自立労働組合京都(執行委員長湯浅和清・書記長魚谷貞雄)/スクラムユニオン・ひろしま(土屋信三委員長)/広島労働組合連絡協議会(議長池上文夫)/働く者の相談室ひろしま/八尾ユニオン/広島連帯ユニオン(執行委 員長鈴木範雄)/宮崎紙業労働組合/全逓信労働組合岡山貯金支部(桐山正晴代表)/郵政倉敷労働組合(川上幸治執行委員長)/柳田真(都労連交流会・たんぽぽ舎)/安田幸弘(レイバーネット日本会員)/御地合二郎(全日農書記長)/長谷川正夫(被災地雇用と生活要求者組合)/仲村実(管理職ユニオン関西副委員長)/竹林隆(大阪教育合同労働組合書記長)/星山京子(日本基督教団労働組合執行委員長)/加藤徹夫(労働相談室ひろしま世話人)/中村祐一(郵政労働者ユニオン広島東支部支部長)/吉成勝男(APFS代表)/高平道隆(管理職ユニオン関西・明治機械ACU支部支部長)/日笠忠彦(同労組明治機械ACU支部書記長) /豊田護(京都府職労相楽支部土木事務所分会分会長)/今井誠(国労北奥羽連合分会 書記長)/「労働通信」編集委員会/釜ケ崎講座(代表渡邉充春)/市民の絆・大阪/イラク戦争に反対する市民と議員の会・事務局/ /黒滝正昭(教員)/佐藤忠幸(会社員)/岩川保久(翻訳・通訳業)/城戸典子(自由業)/萩原恭二(労組役員)/木谷公士郎(司法書士)/川島進一(労働者)/中山弘樹(労働者)/大海陽一朗(社会保険労務士) /本田都南夫(情報工房スピリトン・プロデューサー)/金靖郎(団体職員)/渡辺好庸(社会科学研究者)/大野肇(歴史憲法研究会・会員)/野村勝時(無職)/岩戸五郎(年金受給者)/久保友仁(学生) /太田啓補(会社員)/児島あや子(スポーツインストラクター・心理カ��ンセラー)/佐藤忠彦(病院職員) /古今亭菊千代(落語家)/岸恵子(元国家公務員)/柴尾武利(塾講師)/松下久志(自営業)/松田奈津子(無職)/才神圭司(介助者)/根本がん(市民運動家)/Kawabata Erkin(アニメ労務者)/白澤たづ子(公務員) /二見孝一(会社員)/石丸朗(会社員)/大西章寛(介助者)/山本佑希子(学生)/松下久志(自営業)/葉瀬りぼん(イラストレーター)/竹内敞夫(会社員)/村上光子(ヘルパー)/矢崎明子(福祉施設・栄養士) /横尾一(年金生活者)/横尾嘉子(年金生活者)/山川龍次(埼玉県立高校教員)/澁田三孝(無職)/乱鬼龍(川柳人)/野村普一(会社員)/栗林良吉(失業者) /長谷川修児(年金生活者)/吉水公一(教育労働者)/柳田耕一(会社役員)/遠藤むら子(自営業)/ゆきひろ(社会問題研究家)/田辺俊明(鉄道労働者)/茂野洋一(会社役員)/吉岡滋子(元小学校教員) /新井治(会社員)/矢島由里子(無職)/北阪英一(元教員)/仁平龍雄(行政書士・マンション管理士)/加藤和博(労働者)/鎌倉一夫(学校教員)/氏家真由美(フラワーコーディネーター)/古屋泰(日本語教師)/渡辺亜人(自営業)/二関知美(SOHO労働者)/角田裕育(社会運動家)/茂木恵美子(公務員) /佐藤忠幸(会社員)/林あい子(主婦)/野村原樹(会社役員)/早川繁雄(全逓OB)/内藤進夫(はけんパート関西) /野村彰/澤田春彦/柴田弘武/TAMO2/高田武/高田裕子/来栖宗孝/村井征子/小林信一/原崎敏/青木祐一/佐藤勲/佐々木孝/神田弘之/岡田良子/林伸子/三田村伸/松本麻里/梶川彩/中嶋啓明/木畑壽信/岡嵜啓子(長野市民)/杉山百合子/竹内康人(浜松市民)/柳沢君雄/石井達夫/小林伸子/石田保昭 /永井洋二郎 /長原俊郎/上村高広/古川久美/矢野剛一/岡本司/伊福達彦村上洋一/安達俊治/木村淳子/来住哲次/名城真理子/芝秀雄/永瀬ユキ
労組共同アピール32団体 全日本港湾労組関西地方大阪支部/全日本港湾労組関西地方建設支部/全日本建設運輸連帯労組近畿地方本部/大阪教育合同労組/大阪電気通信産業合同労組/全石油ゼネラル石油労組/全石油昭和シェル労組 /全国金属機械労組港合同/郵政労働者ユニオン近畿地方本部/自立労働組合連合/UNIONひごろ/ユニオンとうなん/北大阪ユニオン/管理職ユニオン関西/ゼネラルユニオン/大阪学校事務労組 /北摂地域ユニオン/桜井鉄鋼労組/野村メッキ労組/大阪食肉市場労組/昭和起重機労組/国鉄労組保線所分会/大阪京阪タクシー新労組/高槻交通労組/なかまユニオン/全労協護法労組/ユニオンおおさか /ユニオンぜんろうきょう/ラジオメーター労組/報徳学園教員組合/大阪労働者弁護団/ 激励メッセージ紹介 ★韓国・民主労総、全国建設産業労働組合連盟 韓国の全国建設産業労働組合連盟は、今回の全日建関西地区生コン支部への弾圧を強く糾弾する。関生支部の闘いは、日本の生コン産業を改革し、生コン労働者の労働条件を引き上げるための正当な闘いだ。私たち韓国の建設産業連盟は、韓日労働者の共同闘争の手本となっている韓日生コン労働者の連帯闘争の旗をさらに高く掲げて、皆さんの闘いを積極的に支持し、連帯の闘いを強めていくことだろう。 ★ピースボート共同代表:吉岡達也・中原大弐 労働者の立場から、厳しくイラク反戦、反WTO、労働者の人権問題に国際的な視野で取り組んできた連帯労組関西地区生コン支部の活動に対し、心から敬意を表します。憲法も保障する労組活動への権力による弾圧は新しい戦前の始まりであり、今このような政治状況の中で、市民・労働者の尊厳や自主性を踏みにじる行為を、私たちピースボートは絶対に許すわけにはいきません。1日も早い真相究明、不当逮捕者の釈放を求めます。 ☆激励メッセージを寄せてくれた95団体・個人 /韓国・民主労総、全国建設産業労働組合連盟/同 全国建設運送労働組合/ジャック・ヘイマン(ビジネス・エージェント;国際港湾倉庫労働組合ローカル10 サンフランシスコ、カリフォルニア/スティーブ・ゼルツァー(アメリカ)/全国金属機械・港合同 昌一金属支部執行委員会 /自立労働組合京都(ユニオン自立)/広島連帯ユニオン/全国一般労働組合全国協議会(中央執行委員長 中岡基明)/ユニオンあしや(執行委員長 旭茂雄)/国鉄千葉動力車労働組合(執行委員長 田中康宏)           /ピースボート共同代表 吉岡達也・中原大弐/報道写真家 石川文洋/記録映画作家 土本典昭/未来 生田あい/ジャーナリス�� 本多二朗/ヘリ基地反対協・代表委員 安次富浩/著述業 槌田佑司/ジャーナリスト 斎藤貴男 /落語家 古今亭菊千代/日本大学名誉教授 北野弘久/社会主義研究家 中野徹三/会社役員 柳田耕一/前府中市議・有事立法に反対する府中市民の会 三宮克巳/澁田三孝/全逓OB 早川繁雄/自営業 遠藤むら子 /北海学園大学名誉教授 橋本剛/龍谷大学教授 杉村昌昭/埼玉県立高校教諭 山川龍次/渡良瀬川研究会(田中正造と鉱毒事件の研究継承)布川了/無防備地域宣言をめざす大阪市民の会事務局 前田勝幸 /ケアワーカー・非核平和都市宣言を実行する文京区民の会代表 鴇田昭裕 /泉佐野市議 国賀祥司事務所一同/社民党大阪府連合 副代表 長崎由美子/東大阪市議 さかぐち克己/高槻市政を革新する会 高槻市議・小西弘泰 同・森田充二/社民党尼崎支部園田事務所長 古賀しげる /ラジオ「遊・わーく・ウィークリー」リスナー・32歳女性/反戦自衛官 小多基実夫/福島県岩瀬郡鏡意志町町議会議員 円谷寛/鉄道労働者 田辺俊明/福岡県 坂井貴司/永瀬ユキ /新社会党大阪府本部 委員長 山下けいき/新社会党兵庫県本部 委員長 原和美 /新社会党芦屋総支部執行委員長 上野誠一/新社会党兵庫県本部高砂総支部 委員長 宮本幸弘(高砂市議会議員) /新社会党尼崎総支部 副委員長 つづき徳昭/芦屋市議会議員 前田辰一 /全日本農民組合副会長 斉藤孝一/福岡県筑紫野市議会議員 上村和男//日本労働党福岡県委員会副委員長 中村哲郎 /日本労働党大阪府委員会 委員長 秋山秀男・副委員長 吉沢章司・常任委員 石野忠生/同福岡県委員会 委員長 長岡親生 /高槻医療・福祉労働組合(執行委員長 森章代)/北大阪労組交流センター/群馬労働組合交流センター/愛知労組交流センター/みやぎ労働組合交流センター/自治労奈良市従業員労働組合(執行委員長 大橋浩治)/国労5.27臨大闘争弾 圧を許さない会/関西合同労組 成友印刷分会 /郵政労働者ユニオン近畿地方本部(委員長 三木鎌吾)/婦人民主クラブ全国協議会(代表・相模原市議・西村綾子)/婦人民主クラブ全国協議会・関西ブロック一同/関西合同労働組合泉州支部/関西合同労組 大阪東部支部 /「みんなでとめよう!教育基本法改悪/全関西の集い」実行委員会・1月15日出席者一同/鉄建公団訴訟九州原告団兵庫県国労闘争団を守る会 大串潤二/第3師団からの派兵をとめよう関西実行委員会 /とめよう戦争への道!百万人署名運動・関西連絡会/同百万人署名運動事務局次長 小田原紀雄 /部落解放同盟全国連合会中央本部/同中央青年対策部北浦裕樹久/同長野県連合会 執行委員長 小森勝重 /部落解放同盟全国連合会野崎支部 支部長 滝岡広治/同西之阪支部 支部長 大橋昌広/同奈良・古市支部/同芦原支部/部落解放同盟全国連合会 番町支部(準)/部落解放同盟全国連合会福岡県連合会・準備会 /国労5・27臨大闘争弾圧被告団・家族会、関西国労共闘/国鉄水戸動力車労働組合 執行委員長 国分勝之/関西合同労働組合副執行委員長 渡海優、同労組日本管検工業分会/京都滋賀地域合同労働組合伏見織物加工支部 /自立労働組合京都(ユニオン自立)執行委員長 湯浅和清、書記長 魚谷貞雄/沖縄平民懇 宜保幸男/「労働通信」編集委員会/元国家公務員 岸恵子/高田裕子・高田武/無職(元教員)北阪英一/岡田良子 /会社員 新井治/戦争に反対し、行動する市民の会 竹林伸幸/釜ヶ崎講座代表 渡邉充春/自主・平和・民主のための広範な国民連合・大阪 代表世話人 浅田義信 /大阪市教組を創る会/人事交流=強制配転に反対する近畿郵政労働者の会/国労5.27弾圧家族会/関西合同労組泉州支部サンボー分会 西村美由紀/全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連) /関西合同労働組合執行委員長 石田勝啓・兵庫支部執行委員長 蒲牟田宏/同労組日本管検工業分会/関西単一労働組合/なかまユニオン 高島与一/キリスト教事業所連帯合同労組執行委員長・日本基督教壇労働組合執行委員長 星山京子 激励メッセージ紹介   ★ジャーナリスト 斎藤貴男 警察のやりかたと、ここまでされても何も感じない世間につくづく頭に来ている。何としてもどうにかしよう。 ★龍谷大学教授 杉村昌昭 誰がどういう意図でこうした暴挙を計画し実行したのかを、広く市民に知らしめることが大事だと思います。マスコミは無視するか、あいまいな中立公正を装った報道しかしないと思いますが、それでも正確な報道をするように要求したり、できるかぎり多くのメディアを使って事件の真相を広めていく努力が必要だと思います。
4月 3, 2017 老年の上司が教えてくれた事、口癖があるんだけど 「30秒の確認と3時間の手直し、どっちがいい?」 この言葉は凄く感銘を受けているので広めたい。 ゆなさんのツイート (via gkojax)(zephyr7501から)
4月 3, 2017 電柱等の住所表示は日焼けを防ぐために北についてることが多い。 歩行者用信号の「カッコー」という音は南北に渡る横断歩道 「ピヨピヨ」という音は東西に渡る横断歩道で流れる。 アナログ時計の短針を太陽に向けたとき短針と12時のちょうど真ん中が南。 この手の方角確認は旅行なんかに行ってぶらぶらする時に便利。 (via shinjihi) BS CSのアンテナは南西方向 (kouyoujisiから)
4月 2, 2017 心ある男性の方へ 落ち着いて最後まで読んでください。 殆ど世界中の軍隊の行くところ、慰安婦は居ました。売春婦とも言います。 第二次世界大戦以前とその後ベトナム戦争などのフランス、イギリス、ドイツ、アメリカ、日本などの進軍先に居ました。 多くの国で売春は違法でなく仕事の一つでした。 今、考えると悲しい事ですが、違法ではありませんでした。 多くの国ではその軍が直接、慰安婦を募集しました。 日本は、戦時中は民間業者を監督する立場であり、強制連行などしていません。 アメリカは、日本を占領した際に日本政府に慰安婦施設を要求し、米軍はこれを利用しました。 これは、特殊慰安施設協会、あるいはRecreation and Amusement Association (RAA)と呼ばれました。 米軍の一般女性へのレイプを防ぐやむない手段だと言われています。 アメリカは、ベトナム戦争の際は韓国に慰安婦を要求し、韓国はこれに応え、米軍はこれを利用しました。 韓国軍はベトナム戦争の際、ベトナム民間人を虐殺、レイプし、数千、数万の多くの混血児が生まれました。この混血児たちは、ライダンハンと呼ばれています。 今、売春は日本などでは違法です。 韓国では、2004年からようやく違法となりました。 現在、売春が適法なのは、フランス、オランダ、イギリス、スペイン、デンマーク、スイス、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、チェコ、オーストリア、ニュージーランド、チリ、ブラジル、カナダ、アメリカネバダ州、タイ、インドなどです。 日本は第二次世界大戦中は強制や連行をしていなくて、民間の事業者を監督していました。 米軍は、戦争に勝った後、日本に慰安婦を用意しろと言い、利用しました。 米軍は、韓国にも同様でした。 韓国はベトナム戦争中にレイプを繰り返しました。 果たして、謝罪や反省をすべきなのはどの国なのでしょうか? 違法で無い売春を監督した日本なのか、 慰安婦を要求した米軍なのか、 今も売春が違法でない国々なのか、 ベトナム人を数千、数万人単位で勿論、違法にレイプした韓国でしょうか? しかし、これは日本の【犯罪】を相対化する試みではありません。 当時、違法なものは当時は違法です。 当時、合法なものは当時は合法です。 つまり本件に関して日本軍の【犯罪】など無かったのです。 当時に合法だった行為を、現在では違法だからと言って裁く事は民主主義社会ではやってはいけない事です。それは「事後法」などとも言われています。 なぜでしょうか? 何故なら、例えば今日、タバコが違法でない国において、来月、タバコが違法になる法律が施行されたとしても、今月、タバコを吸った人は裁けないのです。来月にタバコが違法になってからタバコを吸った人は違法行為ですので、罪となります。 その「タバコ」を「飲酒」「残業」など何でも他の単語に変えて考えてみてください。 「飲酒」「朝礼」「恋愛」なんでも結構です。 今日、違法でないことを今日、行っていて、後から、遡及してあれは違法だったから罪に問うというのは恐ろしい独裁国家のやり方であり、「法治国家」ではないのです。 日本は法治国家です。 宗教国家でも人治国家でもありません。 現在の日本では売春は違法ですので、罪に問われます。 しかし、当時の日本では売春は違法ではなかった。 日本国による強制連行も無かった。 朝鮮半島の業者による強制的な行いがあったとするとその業者は誘拐罪などと罪に問われます。 そのような事柄を「日本国による強制連行があった」という嘘と、 売春という今日では禁止されていることを人々の今日のモラルに訴えて同情と金を得よう、或いは日本を貶めようという運動が韓国朝鮮の従軍慰安婦問題の本質です。 むしろ追軍売春婦だったというのが、現在の認識です。 日本軍は強制連行していない。 民間の売春施設が売春婦を募集していた。( 当時、売春は合法だった。 つまり「追軍売春婦」である。( 他国は軍が売春施設を組織的に持っていた。/以上 最後まで読んで戴きありがとうございました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/慰安婦 (via shinjihi)(koh170420014から)
4月 2, 2017 カナダは意図的に原住民粛清してるわけだが そんなこと今ごろ分かったのか ちなみに日本人は原住民と同じ顔してるから カナダに行くと危険 とくに原住民虐殺が行われているアルバータ州には 近寄らないほうがいい というかカナダそのものに行かないほうがいい 666 :名無しさん@1周年:2016/03/15(火) 21:57:00.67 ID:9hAdI34w0 >>655 カナダ人がアルバータ州の白人がやってると言ってた 原住民虐殺を現在進行形でやってることは白人はみんな知ってるよ それで世界一住みやすい国とか宣伝するからたちが悪い 677 :名無しさん@1周年:2016/03/15(火) 22:00:01.33 ID:PDl7tzer0 >>666 カナダ人は自分の居住地区だけがカナダだとおもってるから 多数派は自分の街=カナダ最高!となるんだよな 実際には都市にも田舎にもそこかしこに巨大な闇が広がっているよ。。。 713 :名無しさん@1周年:2016/03/15(火) 22:09:56.11 ID:9hAdI34w0 ちょっと前に日本人女医 カナダで死んだけど おれはあのとき原住民と間違われて虐殺されたと思ったよ カナダ原住民って日本人と見分けつかない 717 :名無しさん@1周年:2016/03/15(火) 22:10:57.30 ID:EpzaLyjC0 白人幻想ってほんとアホらしいよな 要するに宣伝が上手いだけの詐欺師だよ白人は カナダマンセー北欧マンセーほんと妄想がたくましいわ左翼は (via shinjihi)(kouyoujisiから)
3月 31, 2017 PEAは覚醒剤として闇のルートで売られていますが、これを注射すると、女性にも男性と同様な現象が起こります。 つまり、目の前の男性を好きになり、エッチしたくなるのです。 それほどPEAの威力は絶大で、人の恋心までも操ることができる薬です。 男性はこのPEAをいろっぽい女性を見るだけで分泌させますから、誰とでもエッチが可能なのです。 好きでない人とでもエッチできるというのは正確に言うと間違いで、「特別好きでもない人でもエッチが目の前にぶらさがると、目の前の女性を瞬間的に好きになれる」と言ったほうが、科学的には正しいのです。 恋愛とは相手にどれだけPEAを出させてあげられるかの勝負ということがわかります。 三田佳子の息子が覚醒剤で逮捕されましたよね。 なぜ覚醒剤をするのかの理由はそこにあります。 家に来たモデルや女優の卵に覚醒剤を使用して、自分に惚れさせて、エッチをしまくるためです。 覚醒剤の使用方法はそれしかありません。 もちろんそのようなことは報道されませんが、覚醒剤が乱交の目的で使用されていることは常識です。 人間とはこんなに単純な生き物なのです。 しかし、その単純さを、覚醒剤で操る人間を許せないと思いませんか? 覚醒剤を用いると逮捕されるのは、人間の尊厳を守るうえで、当然のことと言えます。 アジアを代表するスーパーアイドル酒井法子さんが堕ちたシャブセックスの実態と弊害:Birth of Blues (via ftkst) (via yaruo) (via ipodstyle, ftkst-deactivated20130929) (via gkojay) (via anexile) (via plasticdreams)
3月 25, 2017 鯨肉を食べて地球を救おう-。捕鯨を支持するノルウェーの団体が、捕鯨は家畜の飼育よりも排出される温室効果ガスが少ないとする調査結果をまとめた。同団体は、捕鯨船が排出する温室効果ガスの量を計算。牛の飼育で排出される量と比較すると、肉1キロ当たりの排出量は8分の1だったという。同団体は「牛肉などほかの肉を食べるよりは鯨肉を食べた方が環境にやさしい」と指摘しているが、環境保護団体グリーンピースは調査結果に反発している。 DAY BY DAY /YCASTER 2.0:伊藤洋一公式サイト (via nakano)2008-03-18 (via gkojay) (via kashiyukalove) (via gkojax, torasshu-blog) (via rosarosa-over100notes, torasshu-blog-blog) (via rosarosa-over100notes)
3月 26, 2017 どうして変わったのかというと、幕末にペリーがやってきて、日本は開国しました。 そのとき一般に言われる「不平等条約」が結ばれました。 欧米列強の「力の外交」��前に、日本は屈せざるを得なかったのです。 その後、日本は、この不平等条約の改正のために、血の滲むような努力を重ねました。 そのなかのひとつが、黒の喪服だったのです。 欧米では、喪服は黒です。 ところが日本は白です。 そこで日本が欧米並の文明国であることを世界に誇示し、条約改正を有利にするために、���ずはご皇室から、喪服を白から黒にあらためました。 それが次第に政府高官に広がり、明治11(1878)年の大久保利通の葬儀のときには、多くの関係者が黒の大礼服で葬儀に出席、のちに次第に民間でも喪服が黒に変わっていったのです。 ちなみに、日本のご皇室では、外国の賓客を招くとき、晩餐会での食事にはフランス料理を出します。 けれども世界中どこの国でも、インドならインド料理というように、その国の民族料理を出すのが国際的慣例です。 ところが日本では、日本料理ではなく、フランス料理で賓客をもてなします。 これも、喪服を白から黒に変えたのと同じで、明治の日本が不平等条約の改正のために、日本が文明国であることを証明し、すこしでも条約改正を有利にしようと努力したことが発端になっています。 ですから、いまでもご皇室が賓客をおもてなしする際は、フランス料理です。 明治の鹿鳴館は有名です。 東京日比谷にある帝国ホテルのすぐ隣の敷地に明治16(1883)年に建てられたこの鹿鳴館では、毎夜舞踏会が行われました。 これも、日本が欧米と対等な文明国であることを、すこしでも印象づけようとした当時の日本の、まさに血を吐くような努力のひとつであったものです。 外国人が日本で犯罪を犯しても、日本の官憲はこれを取り締まることができない(治外法権)。 日本に関税自主権がなく、諸外国の製品から日本の産業を守ることができない。 欧米列強の力の前に、これら条件を飲まざるを得なかったことが、幕末の激しい攘夷論となり、戊辰戦争をひき起こし、ついには江戸幕府から明治新政府への転換に到りました。 幕末の志士たちにとって、日本が欧米と対等に付き合える国になること、それがまさに夢にまで見た手の届かない坂の上の雲でした。 日本は、喪服の色を変え、宮中晩餐会の料理をフランス料理に変え、鹿鳴館をつくり、日清、日露を戦い、やっとの思いでついに不平等条約の改正を実現したのは、幕末から半世紀を経た明治44年のことでした。 おそらく、喪服の色まで変え、外国の賓客を招いた晩餐会で、外国の料理を出す国は、世界広しといえども、日本だけであろうと思います。 ちなみに、お隣の韓国では韓国料理、支那では、あたりまえのように中華料理が出ます。 世界にただ一国、自存自立と人種の平等の実現のために戦い、満身創痍となりながらもそれを実現した日本は、同時に、悲しいまでに我慢と忍耐を続けた国でもありました。 そして私たちの諸先輩が、そういう努力をしてくださったおかげで、いまの私たち日本の繁栄があります。 皆様も喪服を着る機会がありましたら、葬儀のあとの精進落しの席で、お隣に座った方に、 「実は、江戸時代までは喪服の色は白だったんだ。それが黒になったのはね・・・・」と、ちょっとお話されてみられたらいかがでしょう。 白い喪服 ねずさんの ひとりごと (via chikuri)2013-08-13 (via mmtki)(元記事: nezu621.blog7.fc2.com (sakuranoから))
3月 26, 2017 意見を求められたら、感想を言うのではなく提案をしましょう。とても単純なことなのですが、これを学校でも教わったことがないばかりに「何を答えたらいいのか分からない」と沈黙してしまう若者は非常に多いのです。 「意見を述べよ」に「感想」を答えるな - 誠 Biz.ID スキル/キャリア 最新記事一覧 (via darylfranz) (元記事: rss.rssad.jp (pcatanから))
3月 28, 2017 在日のやり方 ●日本人をレイシスト扱いし、優位に立て。 ●我々を崇拝しない日本人はレイシストと見なす。 ●不都合な言論に「ヘイトだ!」と因縁をつけろ。 ●同胞に対し自作自演のヘイトスピーチをしろ。 ●ヘイト法を拡大解釈させ、言論弾圧しろ。 ●声闘で脅せば、大抵の日本人は従順になる。 ●差別は利権という金の卵を産む。 ●弱者様の我々が「日本人を殺せ!」と叫んでもヘイトには成ら無い。 ●韓流で日本のバカ女を洗脳しろ。 ●日本の保守系に工作員を送り込め。 ●国籍条項の無い弁護士界に大量の同胞を送り込め。 ●日本の裁判官は我々の同志だ。 ●日本の有力者を性接待で手懐けろ。 ●自民議員を金と女でスパイ化させろ。 ●パチンコマネーで日本の警察を骨抜きにしろ。 ●日本の企業に因縁を付け、乗っ取れ。 ●日本の労働組合を支配しろ。 ●日本の宗教法人を乗っ取り、脱税の隠れ蓑にしろ。 ●目障りな天皇制は絶対に潰さなければならない。 ●右翼団体に成りすまし、暴力的な街宣活動をしろ。 ●日本の左翼デモを主導しろ。 ●「在日=支配階級」「日本人=奴隷労働者」の悲願を必ず実現させろ。 ●親韓派のアホ共はいい道具になる。 ●日本のマスコミ、司法、教育は親韓派が牛耳っている、日本人は諦めて服従しろ。 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1490619600/ 【ニュース女子】「辛淑玉のようなノイジーマイノリティーが目立つ。外国人は日本で政治活動をするな」 沖縄問題、都内でシンポ[03/27]c2ch.net (via worldwalker2)(rupazoから)
3月 29, 2017 韓国による竹島侵略が ・日本に自衛隊が無く無防備だった時代の出来事だった事 ・日本人の漁師44人が虐殺され、3929人が拉致され人質とされた事 最低限これくらいは教えとけ
117 :(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/:2017/01/28(土) 20:22:33.33 ID:tRG3RMJZ.net 現状だと北朝鮮だけが 日本人を拉致したみたいに思われてるけど、 南朝鮮も日本人拉致・殺害国家 ってことをたたき込めよ。 あと、>>106の人質解放の条件が 日本の刑務所にいる在日の解放と 永住資格の付与だったってことも教えろ。 (via shinjihi)(toku-2から)
3月 29, 2017 中国国営通信社の中国新聞社は、2013年7月5日に「次の50年で6つの戦争を戦うことが明らかに」という記事を掲載。沖縄が狙われている そこに掲載されていたことは、中国は次の6つの戦争をするつもりだということです。 1.台湾統一戦争(2020-2025) 2.南シナ海諸島奪還戦争(2025-2030) 3.南チベット奪還戦争(2035-2040) 4.尖閣および沖縄奪還戦争(2040-2045) 5.外モンゴル統一戦争(2045-2050) 6.ロシア占領地奪還戦争(2055-2060) 特筆すべきは、2040年代に沖縄を侵略すると堂々と国営新聞に載せていることです。
3月 18, 2017 『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭��、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後、ラーメンとカツ丼を食べるシーンがある。 その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで山田洋次監督からOKが出た。 あまりにも見事だったので、山田が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせた。 【伝説】高倉健が何故ヤバいのかを「あなたへ」まとめ【エピソード】 - NAVER まとめ (via mesotabi) (元記事: matome.naver.jp (another-gentlandから))
3月 18, 2017 自分のことを「丸くなった」って言うヤンキーに お前がとがった部分を削り取るために どれだけの丸が傷つけられていびつな形になったか考えろと言いたい Twitter / @penimama: 自分のことを「丸くなった」って言うヤンキーに お前が … (via jigoma) これはもう本当にそう思う。自慢するな、反省しろと言いたい。(via sabaline)(元記事: twitter.com (n2unitから))
3月 19, 2017 いきなり「自分にしかできないこと」なんて大それたことを考えても無理だということだ。ひとつ、ひとつ、ゆっくりと階段を上っていかねば「自分にしかできないこと」をつかむことはできない。今だから分かる。 真似をして、真似をして、真似をして……、どうしてもこれ以上真似ができないってところまで到達したときに、初めてその人の持味が出てくる。ゼロの状態でいきなり独創性を出そうと焦っても無理である。だから最初は真似る。 戸田智弘『働く理由 99の名言に学ぶシゴト論。』厚徳社 p117 (via toybox-word) (datteowwwから)
3月 20, 2017 中国人は実は保守的な食生活を好む。中華大好きで外国料理はあまり食べない。中国人は何でも食べる・・・全ての食材を中華料理にして食べるの意味。日本人は何でも食べる・・・全ての国の料理をそのまま、あるいはアレンジして食べる。面白い比喩だと思うわ、両国の文化の受け入���方や発想の仕方が料理に凝縮されてる。 【Part2】中国と関わって10年だけど聞きたいことある? : 社会生活VIP (via fastnacht)(元記事: minisoku.blog97.fc2.com (impossiblemodelfactoryから))
3月 20, 2017 今も本の虫である母親が「人生は長い。嫌な事もいっぱい。私はそういう時には大きい本屋にいくんだ。すると『読んでない本が沢山ある!』と思えて、どうにか踏ん張れる。君に本を読め!と言っている訳じゃないよ。君にとってのそういうモノを見つけてほしいんだよ」と話していたのを思い出しています。 https://twitter.com/chiisanaehon/status/842698149059674113 (via nanohana0331) (gousouskmzから)
3月 20, 2017 (1)金剛組(大阪市)/木造建築工事/1431年/ (2)池坊華道会(京都市)/生花・茶道教授/1422年/ (3)西山温泉慶雲館(山梨県早川町)/旅館・ホテル/1304年/ (4)古まん(兵庫県豊岡市)/旅館・ホテル/1292年/ (5)善吾楼(石川県小松市)/旅館・ホテル/1291年/ (6)源田紙業(京都市)/袋物製造/1238年/ (7)田中伊雅(京都市)/宗教用具製造/1121年/ (8)ホテル佐勘(仙台市)/旅館・ホテル/1009年/ (9)朱宮神仏具店(甲府市)/宗教用具小売り/985年/ (10)夏油温泉(岩手県北上市)/旅館・ホテル/875年/ 100年超の長寿企業2万1000社 “最高齢”は1431歳の金剛組 - MSN産経ニュース 最古の金剛組は西暦578(敏達天皇6)年の創業 (via gkojax) (via yaruo)(via boltacs-blog)(via quote-over100notes-jp)(via kanekaise)
3月 20, 2017 「労働基準局は役立たず」なんて言うヒトがいるけど、私の場合はそんなことなかった、きちんと仕事してくれた。「あのう会社が残業代支払ってくれないんですが…」 とか言っちゃうと相手にされない。「労働基準法第35条違反の告発に来ましたので手続きしてください」みたいに言うと役人は動く(笑) Togetter - 「「ブラック企業から残業代を回収したところまでの一連ツイート」」 (via gkojax)(we-will-winから)
3月 20, 2017 元気の無い時はこのメモを見る様にしてる ・ウンコビッチ大使(ユーゴスラビア) ・アホカス大使(フィンランド) ・金玉(金正日総書記秘書) ・ニャホニャホタマクロー会長(ガーナ) ・ウコンマーンアホ代表取締役(ノキア・ジャパン) ・メガチンポ保険衛生相(プリンシペ共和国)※全て実在 Twitter / Mister_Metabo (via cknbstr)(元記事: cknbstr-blog (harukaze417から))
3月 21, 2017 世界でメートル法をつかっていない国はたったの3国 アメリカ、リベリア、ミャンマー (via gkojax) (via quote-over1000notes-jp)
3月 21, 2017 菅直人が中国や韓国の新聞にお礼の広告を出したが、台湾をスルーした時の台湾政府高官のコメント。「冠婚葬祭のお返しは他人にはするものだが、身内にはやらないものだ」 あの時台湾の大きさと、民主党(現 民進党)がどれだけ恥ずかしいものであるか改めて思ったよ。 (via shinjihi)(maenomeri1981から)
3月 21, 2017 この人生を生きているということは、これじゃない人生は切っているということ。 実は、この「あきらめている他の人生」の存在に気がつくかどうかが、人生を広げる鍵だと僕は思っている。 走りながら考える / 為末 大 (via qsfrombooks)(lidentityから)
3月 21, 2017 宮古島の尖閣丸の話。 久松五勇士(ひさまつごゆうし) 日本中が固唾を飲んでバルチック艦隊の行方を心配していた明治38(1905)年5月23日、宮古島の沖合で漁業をしていた奥浜牛という青年が、バルチック艦隊を目撃します。 奥浜牛の乗った帆かけ船の小さな漁船の近くを、バルチック艦隊が通過したのです。 バルチック艦隊も、彼の乗った船を目撃します。 しかし、たままた彼の乗った船が龍の絵柄の大漁旗を掲げ、沖縄の海人独特の長髪をしていた。 このため幸いなことに、艦隊側では彼を中国人と誤認し放置してくれたのです。 奥浜青年は、バルチック艦隊の通過を見届けると、即座に網をあげ、宮古島の漲水港(現・平良港)に、報告のために駆け込みます。 それが、5月26日の午前10時頃のことだった。 そして、漲水港の駐在所で状況を話し、すぐさま駐在所の警察官と一緒に、宮古島の役場に駆け込みます。 宮古島役場は、大騒ぎとなります。 いま、日本海軍が躍起になって探しているバルチック艦隊を発見したのです。 すぐさま日本海軍に報告しなければならない。 ところが、当時の宮古島には、通信施設がないのです。 無線も電話もない。 役場の重役たちは、島の長老達と会議をひらき、すぐさま石垣島にこの情報を知らせよ��と決意します。 石垣島には郵便局があり、そこからなら無線電報で日本海軍に知らせることができるのです。
しかし宮古島から石垣島までは、170キロの距離があります。 当時は、モーターボートも飛行機もヘリもありません。 あるのは、サバニと呼ばれる手漕ぎボートだけです。 サバニというのは、全長9メートル足らずの丸木舟です。 長老たちは、宮古島の島民の青年から、屈強な若者5人を選抜します。 選ばれたのは、松原村の垣花善、垣花清兄弟、与那覇松・与那覇蒲兄弟、久貝原村の与那覇蒲の5人です。 5人は、すぐに宮古島を出港します。 そしてなんと、15時間、ぶっとおしで丸木舟を漕ぎに漕ぎ、ようやく石垣島の東海岸に到着します。 ところが、せっかく石垣島に着いたのに、折からの干潮のために港に入ることができない。 やむをえず彼らは、潮が満ちるのを待って、ようやく港に船を付けます。 到着した時には、さすがに全身の骨が砕けるかと思うほど、5人ともくたくたに疲れ切っていた。 そこで港の住民に、郵便局はどこあるかと聞くと、なんと港からは険しい山を越えた反対側に局はある。 電話のある時代ではないのです。 車があるわけでもない。 5人は、疲れた体にムチ打って、30キロの山道を5時間かけて、走って峠越えをし、ようやく27日午前4時に、八重山郵便局に到着します。 局員は、5人から文書を受け取り、電信を那覇の郵便局本局へ打ちます。 電信はそこから沖縄県庁に打たれ、そこから東京の大本営へと伝えられた。 そのときの電文です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 五月ニ八日午前七時十分 八重山局発 五月ニ八日午前十時 本部着 発信者 宮古島司、同警察署長 受信者 海軍部 本月二十三日午前十時頃、 本島慶良間間中央ニテ軍艦四十余隻、 柱、二、三、 煙突二、三、 船色赤ニ 余ハ桑色ニテ、三列ノ体系ヲナシ、 東北ニ進航シツツアリシガ、 内一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモアリ。 但シ、船旗ハ不明。右、報告ス。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 実際には、同じく28日午前4時45分に、海軍に徴発されていた日本郵船の貨客船「信濃丸」が、「敵艦見ユ」の文句で有名な、「敵艦203地点ニ見ユ0445」を打電し、これが海軍軍令部が確認した最初のバルチック艦隊発見の報告となりました。 久松五勇士の報告が軍令部に着いたのは、午前10時なので、約4時間遅れです。 けれど、いまどきの「自分さえよければ」という考えからは、 絶対に、絶対にこんなにたいへんな久松五勇士のような行動はできないです。 彼らが15時間もかけて、荒海を手漕ぎ船で乗り越え、さらに陸にあがって5時間も駆けに駈けたのは、彼らがたとえ本土から遠く離れた島の漁師であったとしても、公に奉じるという国家意識を明確に持っていたからであると断言できます。 戦前は、彼ら久松五勇士の物語は学校の教科書に掲載され、日本本土だけでなく、満州や台湾、パラオ、フィリピン、インドネシアなど、日本が統治した諸国の教科書でも広く紹介されました。 ところが久松五勇士に関する記述は、戦後GHQによる干渉がはじまると、すぐに教科書に、真っ黒に墨を塗られ、以後、教科書から完全に姿を消してしまいます。 以下省略 2011年02月07日 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1163.html#more http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1163.html#more (via shinjihi)(hinomaru9999から)
3月 21, 2017 国民の皆さん、 私たちの祖先は、国を建て初めたときから、 道義道徳を大切にするという 大きな理想を掲げてきました。 そして全国民が、 国家と家庭のために 心を合わせて力を尽くし、 今日に至るまで美事な成果を あげてくることができたのは、 わが日本のすぐれた���柄のおかげであり、 またわが国の教育の基づくところも、 ここにあるのだと思います。 国民の皆さん、 あなたを生み育ててくださった両親に、 「お父さんお母さん、ありがとう」と感謝しましょう。 兄弟のいる人は、 「一緒にしっかりやろうよ」と、仲良く励ましあいましょう。 縁あって結ばれた夫婦は、 「二人で助けあっていこう」と、いつまでも協力しあいましょう。 学校などで交わりをもつ友達とは、 「お互い、わかってるよね」と、信じあえるようになりましょう。 また、もし間違ったことを言ったり行った時はすぐ、 「ごめんなさい、よく考えてみます」と 自ら反省して、謙虚にやりなおしましょう。 どんなことでも自分ひとりではできないのですから、 いつも思いやりの心をもって 「みんなにやさしくします」と、 博愛の輪を広げましょう。 誰でも自分の能力と人格を高めるために 学業や鍛錬をするのですから、 「進んで勉強し努力します」という意気込みで、 知徳を磨きましょう。 さらに、一人前の実力を養ったら、 それを活かせる職業に就き、 「喜んでお手伝いします」という気持ちで 公=世のため人のため働きましょう。 ふだんは国家の秩序を保つために必要な憲法や法律を尊重し、 「約束は必ず守ります」と心に誓って、ルールに従いましょう。 もし国家の平和と国民の安全が危機に陥るような非常事態に直面したら、 愛する祖国や同胞を守るために、 それぞれの立場で「勇気を出してがんばります」と覚悟を決め、カを尽くしましょう。 いま述べたようなことは、 善良な日本国民として不可欠の心得であると共に、 その実践に努めるならば、 皆さんの祖先たちが昔から守り伝えてきた 日本的な美徳を継承することにもなりましょう。 このような日本人の歩むべき道は、 わが皇室の祖先たちが守り伝えてきた教訓とも同じなのです。 かような皇室にとっても国民にとっても 「いいもの」は、日本の伝統ですから、 いつまでも「大事にしていきます」と心がけて、守り通しましょう。 この伝統的な人の道は、 昔も今も変わることのない、 また海外でも十分通用する普遍的な真理にほかなりません。 そこで、私自身も、国民の皆さんと一緒に、 これらの教えを一生大事に守って高い徳性を保ち続けるため、 ここで皆さんに「まず、自分でやってみます」と明言することにより、 その実践に努めて手本を示したいと思います。 明治二十三年(一八九〇年)十月三十日 御名(御実名「睦仁」)・御璽(御印鑑「天皇御璽」) ――――――――――――― (教育勅語の十二の徳目) ――――――――――――― 孝行(こうこう)             親に孝養をつくしましょう 友愛(ゆうあい)             兄弟・姉妹は仲良くしましょう 夫婦(ふうふ)ノ和           夫婦はいつも仲むつまじくしましょう 朋友(ほうゆう)ノ信          友だちはお互いに信じあって付き合いましょう 謙遜(けんそん)              自分の言動をつつしみましょう 博愛(はくあい)            広く全ての人に愛の手をさしのべましょう 修学(しゅうがく)習業(しゅうぎょう)   勉学に励み職業を身につけましょう 智能(ちのう)啓発(けいはつ)         知識を養い才能を伸ばしましょう 徳器(とくき)成就(じょうじゅ)    人格の向上につとめましょう 公益(こうえき)世務(せいむ)       広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう 遵法(じゅんぽう)           法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう 義勇(ぎゆう)               正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう 教育勅語はアメリカで聖書の次に売れている本 ( 東京都 ) - 浅草の風 I’m Happy! - Yahoo!ブログ (via dogedemo)
3月 22, 2017 大陸系の違法アップロードサイトにお悩みの同人作家さん方、登場人物のTシャツや背景やらに合言葉となる特定の文字列を入れておくと親切な中華人民共和国政府が無料で取り締まってくれるサービスをしていますので是非ご利用下さい。合言葉は「六四天安門」です!Twitter / FlatDefense (via katoyuu)(ctenolepismaから)
3月 22, 2017 合理的に動いていない組織に長くいると、普通に考える能力が確実に低下する。組織に順応すれば、頭が悪くなるし、組織に順応できなければ、精神を病むことになる。そして、残念なことに、中にいる人は自覚症状が持ちにくい。そして、言い訳能力、特に自己欺瞞力だけが向上していく (via bgnori) これな… (via komblog) #民進党 ですね!わかります! (komblogから)
3月 23, 2017 夏目漱石が創り出した言葉・・・ 「反射」「無意識」「価値」「電力」「肩がこる」「電光石火」「ひどい」「浪漫」「沢山」「とにかく」「価値」etc… 福沢諭吉が創り出した言葉・・・ 「自由」「経済」「演説」「討論」「競争」「健康」「楽園」「版権」「鉄道」etc… このごろ2ちゃんねる : 誰も知らないような学問知識書いてけ (via darylfranz) (元記事: blog.livedoor.jp (weekendlineから))
3月 9, 2017 第二の偉大さ(才能に対する社会的評価)に恵まれていても、第一の偉大さ(優れた人格を持つこと)を欠いている人は多いものである。人格こそが第一の偉大さであり、社会的評価はその次にくる第二の偉大さである。 完訳 7つの習慣 人格主義の回復 / スティーブン・R・コヴィー (via qsfrombooks)
3月 14, 2017 成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする。計画からもスタートしない。時間が何にとられているかを明らかにすることからスタートする。次に時間を管理すべく、時間に対する非生産的な要求を退ける。そして最後にそうして得られた自由になる時間を大きくまとめる(ドラッカー) balance-meter:  ブレイクスルーな言葉 (@breakthrough_jp) from Twitter: http://twitter.com/breakthrough_jp
3月 4, 2017 娘「どうしてあの子は持っていて、私にはないの? 不公平よ!」 父「いいかい、他人と同じものを持つことなんて絶対にないんだ。世の中が平等��んてことは絶対にないんだよ お隣の人のお茶碗を覗いていいときは、その人が十分に足りているかを確認するときだけだ。自分が相手と同じだけ持っているかを見るために覗くんじゃないんだ」 娘「お隣の子は持ってるのに不公平よ!」→それに対して父が語った言葉:らばQ アメリカのコメディアン、ルイス・C・K氏が娘に伝えた言葉 (via capybara-is-watching)(quote-over1000notes-jpから)
3月 6, 2017 【事実】真珠湾攻撃の被害者は全員軍人で 広島、長崎、東京大空襲などの日本各都市への空襲の被害者はほとんど大半が民間人です。民間人への無差別空襲は重大な戦争犯罪です。(via shinjihi)(edieeleeから)
3月 8, 2017 死にたくなったらまず寝ろという恩師の台詞も正解だったけど、死にそうなほど退屈したら、カメラを持って街を歩け、と教えてくれた先輩の台詞も忘れられない。外の世界に対する感度を意識的にでもいいから自力で引き上げて感性を守った方がいいと教えてくれた。この感性の自衛の考え方がすごく好きだ。 Fさんのツイート (via hutaba)(元記事: twitter.com (blueskies-jpから))
3月 8, 2017 多数決はプロフェショナル殺し。全員で多数決すると、技術案件でエンジニアが少数派になり、デザイン案件でデザイナが少数派になり、お金案件でファイナンスの人が少数派になる。あらゆる専門分野で、素人のフィーリングが決定権を握り、かくしてプロジェクトはネバーランドに旅立つのである。
3月 8, 2017   交渉の為に隣国から使者が来て、もしその者が有能なら ば何一つ与えず返せ。   交渉の為に隣国から使者が来て、もしその者が無能ならば大いに与え、歓待せよ。   そうすれば、隣国では無能な 者が重用され、有能な者が失脚する。   そしてやがては滅ぶ。   ※六韜(りくとう、中国の兵法書)より
教育勅語(きょういくちょくご) 意訳 国民の皆さん・・・私たちの祖先は、国を建て初めたときから道義道徳を大切にするという大きな理想を掲げてきました。そして全国民が国家と家庭のために心を合わせて力を尽くし、今日に至るまで美事な成果をあげてくることができたのは、わが日本のすぐれた国柄のおかげであり、また、わが国の教育の基づくところも、ここにあるのだと思います。
国民の皆さん。あなたを生み育ててくださった両親に「お父さんお母さん、ありがとう」と感謝しましょう。 兄弟のいる人は「一緒にしっかりやろうよ」と、仲良く励ましあいましょう。 縁あって結ばれた夫婦は「二人で助けあっていこう」と、いつまでも協力しあいましょう。 学校などで交わりをもつ友達とは「お互い、わかってるよね」と、信じあえるようになりましょう。 また、もし間違ったことを言ったり行った時はすぐ「ごめんなさい、よく考えてみます」と 自ら反省して、謙虚にやりなおしましょう。 どんなことでも自分ひとりではできないのですから、いつも思いやりの心をもって「みんなにやさしくします」と博愛の輪を広げましょう。 誰でも自分の能力と人格を高めるために、学業や鍛錬をするのですから「進んで勉強し努力します」という意気込みで知徳を磨きましょう。 さらに、一人前の実力を養ったら、それを活かせる職業に就き「喜んでお手伝いします」という気持ちで公=世のため人のため働きましょう。 ふだんは国家の秩序を保つために必要な憲法や法律を尊重し「約束は必ず守ります」と心に誓って、ルールに従いましょう。 もしも国家の平和と、国民の安全が危機に陥るような非常事態に直面したら、愛する祖国や同胞を守るために、それぞれの立場で「勇気を出してがんばります」と覚悟を決め、カを尽くしましょう。
いま述べたようなことは、善良な日本国民として不可欠の心得であると共に、その実践に努めるならば、皆さんの祖先たちが昔から守り伝えてきた日本的な美徳を継承することにもなりましょう。 このような日本人の歩むべき道は、わが皇室の祖先たちが守り伝えてきた教訓とも同じなのです。 かような皇室にとっても国民にとっても「いいもの」は、日本の伝統ですから、いつまでも「大事にしていきます」と心がけて、守りましょう。 この伝統的な人の道は、昔も今も変わることのない、また海外でも十分通用する普遍的な真理にほかなりません。 そこで、私自身も、国民の皆さんと一緒に、これらの教えを一生大事に守って高い徳性を保ち続けるため、ここで皆さんに「まず、自分でやってみます」と明言することにより、その実践に努めて手本を示したいと思います。 明治二十三年(一八九〇年)十月三十日 御名(御実名「睦仁」)・御璽(御印鑑「天皇御璽」)
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doanob1 · 5 years
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あいちトリエンナーレに行ってきた
あいちトリエンナーレに行ってきた。
夏休みにどこか行こ。電波の入らない離島に行って(コナンくんが来たら死ぬだろうな〜)って想像するのと、大阪に行って昔から興味があったみんぱくに行ったり美味しいものを食べたりするのとどちらがいいかな、と考えていた。
ぼんやり色々考えているうち、名古屋在住のフォロワーさんが東京に来た時、「ご飯を一緒にどうでしょう」と連絡をくださった(とてもうれしい)。そうして一緒に食事をしたりお散歩をしたり、なによりたくさん話したりした。
そして後日、その方が「自分の目に新宿がどう見えたか」を文章にして公開していて、これが新鮮で面白く、今思えばこのとき自分が見たものを書いておく・公開するってことの魅力にちょっと興味を持ったのだ。
今回私が名古屋に行って、また同じ方とお食事をしたりおはなししたりしたのだが、今度はその方の絵日記を少し見せていただいて、これもとても素敵だと思ったのだった。
私はいま新宿に住んでいるが、ここに住んでいるといろいろなことがわからなくなると思う。こんなにオリンピックの看板が出ていること、地下鉄で窓の代わりに光るモニターの広告、そうしたものにもう慣れてしまった。「こんなにオリンピックの広告がたくさんあって驚きました」と言われ、はじめて、「そうかこんなに広告があるのは異常だな」と気づいた。
自分が立っている場所のことは自分では見えない。だから、他の人と一緒に自分が住む街のことを聞いたり話したりすると、新鮮で面白くて、自分がどんどん鈍くなっていることを知って恐ろしい気持ちになる。
むかし、地方の天候不順や災害のニュースを見たとき、「今年は野菜が高くなるわね」と言った人がいた。私はこれを聞いて(地方はお前の畑じゃないぞ、住んでいる人間も誰かの生計もあるんだぞ)と思ったものだが、だんだん、私は都市の生活に慣れて、こう言いはなつ人間になってしまう気もする。
近しい人間に「私がこういう無神経な人間になったら頭を打ち抜いて欲しい」と頼むのは、半分冗談で半分本気だ。私が無神経な人間になってしまったとき、自分ではそれと気づくことができないだろうから。ゾンビのように、生きているように動いてももう人の心もなく、ただ他人にかみつこうとする存在はいくらでもいる。じぶんがそうならないなんて言い切れない。
旅行先は愛知にしよう、と決めたのはこのときだ。
ちょうどこの頃、あいちトリエンナーレに対しての脅迫が連日報道されていて、わたしは脅迫する側の気持ちがまったく理解ができなかった。ただ少女が座っているだけの平和的な像が「反日」で、戦時下の性暴力に反対する行為が「国に対する侮辱」?いまでももちろんまったくわからない。でも、いずれ私も彼らのような振る舞いをしないと言い切れるだろうか?この国は貧しくなりつつある。来月から消費税は大幅に増え、生活は確実に苦しくなる。その状況で心まで貧しくならないなんて言い切れない。いずれ私もゾンビになるかもしれない。
隣の国でも、遠くの地方であっても、どこであっても人間が住んでいることを忘れていたくはない。が、いずれわからなくなってしまうかもしれない。
私が毎日なにかを書いているのは、漂流中の人間が書く航海日誌のようなものだ。たったひとりで暮らしながら、正気を確かめながら書く。 書いている途中に、自分でも気づかないまま、もう人の心をなくしてしまうかもしれない。 そのときに、昔の自分が書いたものを読んで、少しでも思い出せればいいと思う。 これから書く旅行の話も、いずれ自分がゾンビになってしまったときに、人間(だった時代)を思い出すために書いていた日記をまとめたものであって、もともと公開するつもりはなかったがせっかくなので載せておく。冗長な描写が続くが元が個人的につけている日記なので��容赦ください。
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1日目。 7:30にバスタを出て13:30にささしまライブ着。 今回はバスで行ったんだが、名古屋市内に近づくにつれて巨大な船舶が泊まる港が見え、整然と並ぶ輸出用の車が見え、そして現実味の希薄な原色のレゴランドが見え・・・という光景に妙な感慨を覚えてしまった。その後バスが走った市街地でも、看板が大きかったり(走る車からでもよく見えるようにだろう)、店の規模も駐車場も大きかったり、そもそも道路自体が大きかったり、車社会を感じる。この車社会・そしてトヨタとの関係は、トリエンナーレを巡る今回の旅程を通して実感することとなるのだが、それはまた後ほど。
ささしまライブに着き、ホテルまで歩いて荷物を預けて、名駅地下の適当な店で味噌カツを食べる。「味噌カツを食べた」という事実が欲しいがために適当な店に入ってしまったのだが、味噌カツ、高級なソースかつみたいな味がした。駄菓子のアレ。私が貧乏舌なのか、その店に原因があるのかは永遠の謎。
ホテルは安さだけを重視して選んだら「オーバールックホテルからオシャレさと清潔感を抜きました!」みたいなところだった。ホテル名をグーグルに入れると「(ホテル名) 幽霊」とサジェストされる。きっと実際に何かしらの事件があったんだろうな・・・怖くてクリックしてないけど・・・まあ泊まってみたら双子の幽霊も血まみれエレベータもなかったからヨシとしよう・・・。立地は名駅西側のところで、周りも水商売のお店が多く、あとで「西側は治安悪いところですよ」と言われる。新宿にも水商売密集地帯はあって、年季の入った建物の感じや路地裏の感じは似ているが、同じ古い風俗街でもちょっと印象が違うなと思った。新宿の場合、建物自体は古くとも、店の入れ替わりが激しく看板だけは新しかったりするのだが、名駅西側のあたりは「昔からあるのだろうな」というフォントの大きな看板が目立ったからだろうか。
そしてこの日は月曜日だったんだが、月曜はトリエンナーレ全体がお休みなのを忘れていて一度円頓寺会場まで行ってしまったよ。あほ。ホテルに引き返して、持ってきた仕事をしたりごろごろしたりしてたら夜。
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円頓寺の通り。
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円頓寺のかっこいい佇まいの一例。
夜。フォロワーさんと円頓寺で待ち合わせてご飯に行く。「連れて行きたいお店があるんですけど怖いおばあさんがいて・・・お酒を頼まないと怒られるんですよね・・・私はお酒が飲めないんですが、のぶさんお酒飲めますか?飲める人がいないと行けないので・・・」と聞かれたので元気よく「飲めます」とお答えして連れて行ってもらう。連れて行ってもらった先の居酒屋さんは、手の跡が残っているような木でできた煤けたたたずまいであった。店内から曇りガラス越しに見える通行人の影が、舞台装置のようでとてもよかった。通行人の影が傘を差しだして「あ、雨が降り出したんだな」とわかる光景。演劇の演出のようだった。
どて煮と手羽を食べ「これでナゴヤ飯を食べたと言えます」とフォロワーさんから太鼓判をいただく。やったね!「お酒飲んでもらってありがとうございます」とも言われ、(お酒飲んで褒められるなんて生まれて初めてだな!甘やかされてる!)と思った。
このお店で、隣り合わせたおじさんに話しかけられ、手羽からを食べろと渡されたり無視しても声をかけてきたりしたんだが、なんだかすごく寂しいおじさんだな、と思った。お店の人に「飲み過ぎだ、帰った方がいい」と言われても「帰ってもすることないねん」と答えていて、なんてさみしいひとなのか・・・と思ったのだが、この翌日、私ひとりで食事に行ったときも似たようなおじさんにまた話しかけられるのだった。この話も後述。
居酒屋さんのあと、ベトナム料理屋さんに行って、チャーっていうあのあまいやつを飲む。フォロワーさんと政治の話や芸術の話をたくさんできてうれしかった。SHERLOCKをきっかけに19歳からTwitterをはじめてもう八年経とうとしている。現実で出会っていたとしたら、こんなにいろいろな話をするまでに多くの時間がかかるであろう人とも、いやそもそも出会っていないであろう人とも、こうして会って食事をして政治の話をできることが不思議だ。
Twitterがあってよかった。
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2日目。
八時頃ホテル出て電車で名古屋城へ。 名古屋城、堀の幅が広くて深くてびっくり。整然とした石組み。お城へ行く道々に、忍者のかわいいお菓子がたくさん看板に載っていた。 この日は天守閣に入れず、本丸御殿に行ったのだが、本丸御殿だけでも十分満足してしまった。ゴテゴテしているわりに、描いてある鳥獣は間が抜けてたり廊下は異様に質素だったり、全体を通すと上品に見えるのが不思議。ネコ科の動物大集合のお部屋と金具のリスがよい。天井がきれい。質素な廊下を抜けるとキラキラ豪華絢爛な空間が現れて、森の中の滝やお寺みたいだ。
以下は本丸御殿の内部。これはネコ科の動物づくしという素晴らしいテーマのお部屋。トラやヒョウやジャコウネコがいるよ!
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ネコ科のお部屋パノラマ。
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↑これは鳥のお部屋。写りが悪いけれども鳥が色々描いてある。
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金具のリス。
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綺麗な天井。
帰りがけに忍者がいた。「よく参った!」と言われて笑ってしまった。名古屋城は忍者がおもてなししてるのね。そういえば昨日はフォロワーさんから「おもてなし武将隊」というライトな観光アイドル的なものも教えてもらったのだった。 私はいつも旅先からお手紙を送るのだが、ジャコウネコとや虎のポストカードを買ったので、明日、フォロワーさんに教えてもらったキッテで発送しよう。名古屋にもキッテがあるらしい。 ポップオーバーというお店でお昼を食べて移動。芸術文化センターへ。このあたりから暑さと日差しが辛くなってくる。 名古屋は車社会で道路が幅広な分、簡単に横断できず、歩道橋や立体通路や地下を経由する必要があってちょっと移動が大変。見えてるのに簡単にいけない感じがRPGっぽい。まあ近くなのに移動が面倒、という点に関しては東京もよそのこと言えないか・・・。
芸術文化センターの展示について。
慰安婦像の対応をめぐり、作家さんの意思で展示中止措置が行われたため、見られない作品も数多かった。その一連を報道した新聞で全体が覆われて隠されている作品もあった。
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これらの新聞記事は全て慰安婦像に対する抗議とその対応を書いた記事が載っている。
ウーゴ・ロンディオーネのピエロの作品、造形のみならず薄くて伸縮性のある布が表面を覆ってる感じとマスクの塗装が超リアル。入った瞬間ぞくっとした空間。でも、彼らの間を歩くうちにだんだん親しみがわいてくる。愛嬌のある一体、自分に近い一体を見つけていって、部屋を出る頃には最初の小さな戦慄がなくなっていた。
ペルーの作品は展示していなかった。クラウディア・マルティネス・���ライのやつ。見られなくて残念。とても興味深いディレクションが記してあったので。
あとラテンルーツの人びとがパーティする映像も公開されてなかったけど、暗い空間の中に残されたパーティグッズのもの悲しさそのものがいまの事態に対する静かな悲しさを示した展示のようだった。
石場文子の作品は自分のパートナーを思い出した。一部がマジックで強調してある日常の風景を移した写真。一見ただの写真に見えるが、一部が人為的に強調してあるので、ぱっと見たときに違和感があって詳しく見ていくとそれがだんだん明らかになってくる。 あれは本人/当事者たちにしかわからない「思い出」「時間」を強調して可視化しているのかしら。 人と暮らしていると、ただの日常の道具や風景でも、私たちにしかわからない特別な意味が生まれてくるものだなーと実感しているので、(おそらく)誰かと暮らしているのであろう風景をあのように表現した展示に自分たちの暮らしを思った。
永田康祐の三つの料理の映像は、レヴィストロースの料理の三角形論と、ローストビーフの由来を持たないローストビーフ(分子料理)のところがすごくすき!なるほどと思った! 私自身の住んでいる場所が多国籍な地域なので、いろんな国の料理屋さんに入った時のメニューを見ている感覚を思い出した。メニューに現地の文字による原語名と、日本語に翻訳した言葉が載っているけど、例えばタイ料理屋でも中華料理屋でもミャンマー料理屋でも日本語では「チャーハン」って書いてあるものがあって不思議だったんだ。日本語にするとそれが一番伝わりやすいからこう書いてるんだろうけど、実際葉もちろんそれぞれ別物なわけで、頼んでみるまで実際のものがわからないドキドキ感も思い出した。
田中功起の四人の家族の物語は自分の仕事や生活と重なる部分もあって、とても興味深かった(職がバレるので感想は割愛)。ただ、映像はいいと思ったけどドローイング部分がちょっとよくわからない。
伊藤ガビンのプロジェクションマッピングは、ちょっとネットノリな感じのギャグの部分と、揺れるカメラや遠近感を表現したような部分とで好みが分かれそう。私は後者の部分が好き。鉄骨のなかを降りるような映像が、ゴーグルをつけない空間VRって印象。
ヘザーデューイハグボーグのDNA再現は、過去の遺体を再現するような(アイスマン等)のロマンもあって怖さや気持ち悪さのみでない魅力も感じる。あとやっぱガタカを思うね。かつてここにいたけれどもういない人の痕跡をたどっていくのは、歴史や捜査ドラマのようで、少しわくわくするよ。
ガラスのドローイングは異様な奥行き感があって、「なんでこんなに立体的に見えるんだ?」とうろうろして眺めてしまった。ガラスに書いているという構造だけではなくて、直線と曲線を組み合わせているからあれほど立体的に見えるのだろうか?立体的に見える最大値を全部計算して書いているんだとしたらものすごい手間だ。
「その先を想像する」の大量の単純な映像、見ているうちに恐怖や怯えの予感に身構えてしまうような感覚を覚えた。殴られる前に身構えてしまう予感というか。例えば対面した相手が手を上げれば殴られると思って���構えてしまうが、それはある程度自分の学習に基づく予測なんだな、と考える。
「10分の遺言」日本的というか世界系というかエモい系というか、今回一番サブカル的わかりやすさを内包した作品だったなと思う。十分の時間制限をつけて、ネット上の不特定多数から「死ぬ前の文章」を収集してる作品なんだが、完成した文章そのものではなくそれを打ち込んでいる過程を映像にしてすべて流してるのね。削除したり、カーソルを戻したり、言葉を選んでいるのかためらったり、そういうての後を全て映像で記録して流している作品。映像キーロガー的なシステムはとても興味深かった。ああいう形で人が文章を書くのを記録できるのね。
ステルス機の白い枠線は、事件現場の死体をかたどった白い跡のようだった。(これが落ちてきたらみんななくなるんだろうな)とか(見えないけどいまも頭の上にあるのか)とか、DNA再現の展示でも感じた「痕跡の再現」を思った。
シルクスクリーンを一万回繰り返したやつ、3Dプリンターと同じ構造だけど遙かに手のにおいがするところが、アナログとデジタルの交差点という印象。
誰もいない台湾の町を延々とるやつ、ゾンビ映画の冒頭のようだった。(「28日後・・・」の全裸キリアンマーフィです)映像を見てから作品撮影の背景(軍事的な訓練のため誰も外出しない日であるため、街が無人)を知るとそれも含めてさらに映画的な印象を受ける。爆発する遊園地のほうは、ループものの作品のようで、まどマギを思った。
リングホルトの大きな時計は裏の構造が簡潔で理解しやすくてよい。ずっと見ていられる精神安定作用がある。
ガラスの箱を段ボール箱に入れて、輸送中に破損した実物を展示しているやつ、「これしか壊れないのか!」という驚きがあった。空輸であれだけしか壊れないなら御の字では?なにも梱包せずあれだけの損傷にとどまるのか。
空港のX線で現像した写真の展示は手法に納得し、中身に戦慄した。シリア大使館の荒れ果てた内部だったのか。見ることにできないはこの中をX線で現像して見せている。映画「アルゴ」の映像を思い出す。
木版画の巨大な虫たちの絵は、古代から伝わる壁画のような荘厳さがあった。神話的だ。細部まで書き込まれていて好み。
手にインクで番号を押すやつが閉鎖されていて残念。フォロワーさんが「国際的にも有名な展示で、匂いがするんです」と教えてくださっていたので期待していたんだけど、匂いって「涙を流させる仕組み」のことだったのか。涙を流すべき事態にも泣かない人間のための装置、という説明があった。香港のデモの催涙弾使用のことを連想して、この作品が展示中止されている事態と香港の事態は地続きだなあ、と思い至る。
写真の中の謎の物体を調査するやつは、ちょっと構成がわかりづらくすぐ移動しちゃった。あんまり立ち止まってみられる感じでもなかったのが残念。
ミリアムカーンの美しい青、実に美しかったが、難民というテーマとあの人の他の作品と並べられていると異質に映ってしまう逆転現象。
キャンディスブレイツの「ラブストーリー」は、六人の難民の抱く壮絶な背景に圧倒されると共に、役者のスキル、そして人間の持つ先入観について見事に表現していると思った。俳優さんの演技力がすごい。すごい。「本物」の難民が持つ、どこか意識が遠くにいるようだったり少し曖昧だったりといった要素が剥ぎ取られて、説得力を与えるようコントロールされている役者の演技の方が「本物っぽい」矛盾。面接やなんかにも通じると思うが、よりそれらしい、本物っぽくみせる技術はお金を払ってまで習得するスキルとされている。でも、それを「見ている」側のジャッジってめちゃめちゃ一方的だ。それにしても役者さんの演技がすごかった。表情も仕草も言葉も間合いも、あんなにコントロールできるものなのか。どう見えるか・どう見せたいかを完璧に解体しそして表現するまでが役者の能力なのかと思うと、途方もない仕事だ。
このあと名古屋市美術館に移動。あつい。顔が溶ける。ヒースレジャーのジョーカーみたいになる。退館��た後で気づいたけど、国旗が印刷された野外のゴミ袋も作品だったのか。オシャレな袋がかかってるゴミ箱だな~としか思ってなかった。
空から垂れ下がるオーガンジーの刺繍、一見ファンシーで商品のような明るい魅力があるけど、DNA構造に基づき一対になっているデザインや作品背景に気づくと深みが増す。シャーレの構造もそう。清浄で真っ白な空間と生命を生むシャーレが病院のような斎場のような雰囲気だった。
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陶器の展示、とても面白かったー!陶器としてのデザインと、静物や風景が立体化しているあの作品群は、今回のトリエンナーレでもっとも万人に通用する明確な魅力があると思った。いつまでも見ていられる立体的なだまし絵のような発想、繊細な古典的表現!わたしにとっての付喪神ってこんな感じだな。あと刀剣乱舞。山口晃さんの作品への好感につながる魅力を感じる。
いっぱい写真撮っちゃった〜。
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モニカメイヤーのピンクの付箋の作品、すでに書かれたものを破ったのではなく白紙のものを破ったのか。もはや書くことができない、声を上げられないという状況の表現。新しい作品表現。視覚的に痛々しい光景だった。
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ホドロフスキーの展示。 ホドロフスキーが考案したという心理療法を実践する様子をおさめた記録映像と、書簡、そして小冊子の三点で構成されている展示。 映像のなかでホドロフスキーの指導のもとセラピーを受けているのが白人ばっかりで驚いた。 ビートルズにしろホドロフスキーにしろ、芸術分野がスピリチュアルな組織構造と結びつくのはまったく珍しくないけど、広々とした古典芸術的な劇場の中で白人だけが集まって手を繋いだりトランス状態に陥っているのはちょっと異様な光景である印象。
人工授精と刺繍の展示。私はこれが今回一番よかった。 18歳の時、自分が人工授精で生まれたことを知って、史上初のクローン羊・ドリーに関心を抱いて実際に海を渡って取材したり、出産や育児について表現したりしている作家さんの展示。 ドリーが生まれた街の写真が拡大されて一面を覆っていて、その上に金糸銀糸のきらきらとした刺繍が施されていて、部屋の中央には人形の家のような小屋があり、内部を除くと家庭的な居間が見える。展示場所やその居間の中や至る所に、ゾートロープによるアニメーションで羊や作者自身の姿がゆっくりと回転している。 18歳の時に自分が人工授精で生まれたと知って以降、「幼い頃からの過剰な愛情が理解できた」「女である自分もいずれ出産することを期待されている」と書く作者の言葉に、私は今回のトリエンナーレの中で一番心からの共感を覚えた。 今回は「しんかぞく」といい家族や出産に関わる展示が多く見られたが、これも津田さんによる「男女同数の作家を呼ぶ」取り組み成果だと思う。
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部屋の壁の前面を覆う刺繍の様子。
知らない言語を書き取る様子を撮った映像作品では、言語の学習過程や異国になじむ過程のようだと思った。まったく知らない音や言葉を、すでに自分の中にある言葉で置き換えて咀嚼しようとする行為。学生時代に語呂合わせで英単語を覚えようとしたことや、自分の素地になんとか近づけて多言語を習得しようとしたことを思い出した。これもまた「異国に生きる」ということとつながっているんだな。
GIFの繰り返しの展示、ヨシキさんがトークイベントでよく紹介してくれたyoutube動画のようで、映像式現代版ドラッグのようだった。ずっと見てしまう。
終盤に、愛知県内の小学生とともに作った段ボールのお部屋があって、それが細部までずっと見ていられる空間だった。
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入り口を入ったところ。
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種々のダンボールから切り取ったらしきロゴが貼られたボード。これを作った子はロゴやフォントに興味があって気になって作ったのだろうか。
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おそらくシャチホコ。尻尾の表現が好き。
ここまでの展示は会場が美術館だったので、トリエンナーレの作品以外にも美術館の常設展示が観覧できた。この常設展示で裸婦像が多く展示されていたが、男女同数を実現し差別に関する問題や出産・育児についても多く扱っているあいちトリエンナーレと対称的だ。古典芸術世界における、女性の客体化と、それに対する問題提起としての現代美術。女性の意思を扱っているトリエンナーレ作品がある一方で、美術館の常設として古典的な裸婦像が山ほど飾られている部屋という、その対称性も象徴的だった。
ほかにも、常設展示では、児童文学の挿絵のような、会社に絡みつくドラゴンの像もあってこれがおもいがけず大好きになってしまった。紙幣=消費者から得た金で作られた、大量生産品を扱う会社とドラゴン。よく見ると窓や道にそれぞれ人間がいる。窓の清掃員やビルから現れる作者自身。ロアルドダールやティムバートンの作品のようだった。
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ここで円頓寺へ移動。あつすぎる・・・
一丁目長屋の中の古い写真を拡大したものは、祖父母のことを考えずにはいられなかった。祖父母のこうして誰かの持つ写真の中に背景として映っているのか。私の誰かのスマホで撮った写真に映り込んでいるのか。祖父母のことが大好きなんだけど、誰かのアルバムのなかでこうやって残っていてくれたらいいなと思うよ。ちょっとでも。
葛宇路は発想が好き。きっとこうやって生まれた道ってたくさんあるんだろうな。昔から。勝手に公共空間に作用していく人の行動が面白いと思う。古代から道の名前ってこうやって決まってたんじゃないだろうか。人の名前も、町の名前も。
移動する洋品店の展示も祖母を思わずにはおれなかった。それとここに限らず、展示場所が超狭い雑居ビルの二階だったり、趣ある巨大な古いお屋敷だったり、距離は大して離れていないのにまったく異なるのが面白い。異世界感。
弓指さんの、自動車事故の犠牲者である小学生六人をモチーフにした展示は、超車社会でトヨタ車がたくさん走っているのを見てここまで来た身からするとチャレンジングな展示だと思った。毒山さんの映像の中でも「トヨタ王国」「愛知からトヨタがいなくなったらやっていけない」との言及があったし。途中で運転席からの景色が見える展示構成がよい。
毒山さんの展示、おそらく私の祖父母と同年代の人びとの映像だが、その老人がいまでも子どもの頃に殴られたり屈辱を受けたりした経験を泣きながら語る様子がつらくて、見ながら泣いてしまった。いまでもこれを書きながら泣いてしまう。今回の展示のなかで唯一泣いてしまった作品。自分たちの祖父母だったら、と思うとつらくてつらくて仕方がない。 本人たちは「いい教育だった」と言っていても、それが本心だとは限らないし、それを疑う余地もない教育を施されたのだろうし、いまはもういない彼ら自身の父母の世代はどれほどつらかっただろうと思う。
円頓寺は最後に寄った伊藤家住宅がすごくよかった。中庭の感じとか蔵と蔵の間の空間の怖さとか。津田美智子の作品は不具合で見れなかったけど、蔵の中の岩崎さんの作品は緻密ながら空襲後の世界を思わせる光景で見入ってしまった。燃えた家財道具と建物と炭。どこかに通じる橋のような構造物がすき。三人しか入れない極小空間という処も含めて、秘密基地のような、子どもの頃にしか出会えない何かが住んでいる空間のような、魅力的な展示だった。
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全て炭で作られた作品の様子。
ゆざーんの演奏は、修行というのでもっと簡潔で寺院っぽい空間を想像していたら地下にあるライブハウスみたいなカラフルな壁画があってちょっと意外。タブラの音ってきれいだ。
ホテルに戻って、外食しようと思って外に出たらまたもや知らないおじさんに話しかけられ、「明日は絶対外に出ないで何か買い込んで宿で食べよ・・・」と堅く心に誓う。
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三日目。
朝起きて九時くらいまで昨日の日記書く。ポメラ毎日使ってるけど買ってよかった。旅行先でもいつもと変わらず書けるしバッテリーの持ちが最高。
チェックアウト後キッテへ。ハガキを発送して名古屋駅から東山線で栄駅、舞鶴線に乗り換えて豊田市駅へ。ホテルに荷物を預けて喜楽亭へ。
喜楽亭は建物自体も面白かった。料亭のようなことをしていたらしい。お寺のようだった。古くはあるけど清潔で使い込まれた空間。進むにつれてだんだんと輪郭や映像の出典がわかっていく構成と建物がよく合っている。映像の書簡形式。特に二階の構成がよい。日本のアニメ・漫画作家による二次大戦中のプロパガンダ作品と、それらが彼の記念館に収められていないこと、そして彼自身も特に後悔はしておらず「また政府から要請があったら同じことを行う」「国民としての責任を果たした」と語っている映像。そして、小津安二郎と彼の作品について論じ、作中の幼い兄弟が「大きくなったら軍人になりたい」と語っている映像とプロパガンダアニメが同時に背景に映り込む演出は素晴らしかった。小津安二郎の墓に「無」と刻んであるのはこの展示ではじめて知った。奥の巨大なプロペラの展示は舞台装置っぽい。カタカタ鳴る装置も舞台演出的だ。
ここから豊田市美術館へ。激坂のぼるの熱くてつらかった・・・。
美術館のレストランでお昼ごはん。
空から落ちる花が開くような展示は、みんなが上を見上げたり床に寝転がったりしながら作品を見て笑って話している空間自体が好きで、ずっと見入ってしまった。シャーレの展示もそうだが、美術館の広くしろい空間になにかが上から下がっているって独特の非日常。
豊田市美術館から歩いて近くの高校のプールの展示を見る。これもフォロワーさんから「友人がとても褒めていた」とのお話を伺っていたので期待して向かう。 実際に目にすると、青空にプールと廃校と夏の濃い緑、というのがすばらしい。エモい。バンタンの撮影に使用して欲しい。私はスクールもの時代のバンタンが好きだ。 垂直に立ったプールの壁面が真っ青な空に伸びている、という、飛び込みや空に落ちること・そしてもしかしたら飛び降りを連想させる光景がとてもよい。バンタンの撮影に使用して欲しい(2回目)
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青ずぎる空と校庭と合成のような鳥居が異世界っぽい。
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豊田市駅に移動して、架空のトヨタの遺跡モニュメントの展示三点としんかぞく(レンタル家族)を見る。 しんかぞくは正直、「実際に死産を経験したり子どもを失っている人から見たら残酷すぎる」と思った。流産を扱うことそのものを問題視しているわけではない。テーマパークという形にして、「エンターテイメントとして見せていること」・そして「実際に死んだわけではない想像上の子どもを作り出して、(おそらく)本物の水子と一緒に作品の題材にしていること」がちょっとひどいと思った。水に流す演出の意味や、最初に押すキーボードの意味などは「なるほど」と思ったけれど、原宿の店先に並んでいそうなポップな色合いで作品にするにはあまりに敬意がないのでは。 架空のトヨタの遺跡を再現する展示、発想と映像のなかのとってもうさんくさいおじさんのインパクトが強烈。最初あの胡散臭おじさんが作家さんかと思った。人為的に作られた出土品を見ているのが楽しく、また、「現実にも出土品を偽造していた考古学者がいたけど、こういう感じだったのかな」と想像を巡らせた。
なにかを売り出したいときや権威づけたいときに、古くからの神話や土地の歴史に絡めるのは常套手段だけど、これは逆にトヨタ神話を皮肉っているようでもあって、単純な「この土地と切っても切り離せないトヨタ���を礼賛しているわけではないと感じる。
アンナヴィッテのトヨタのダンスの映像も同じことを思った。あのダンスの映像は発想がとても好き。(明言はされていないがおそらく)トヨタの工場労働者たちを集めて複数回お互いの仕事について話し合う様子を撮っている。彼らは流れ作業で部品の点検等単純な労働に従事していて、「これから自分たちの仕事はどうなるか」「仕事は楽しいか」「なぜ仕事をしているか」といったことがらについて各々の意見��述べていく。そして、彼らが毎日繰り返している仕事の動作を再現してもらい、それを元にダンスを作り上げる。彼らが踊る映像と、自動制御のロボットがラインで単調な動作を繰り返しつつ車を作り上げていく映像が流れる。
ホテルに戻り、もうおじさんに話しかけられたくないなと思ったのでトヨタ駅近くの松坂屋地下でご飯を買って部屋で食べる。文章を書いて本を読んで眠る。
------------------------------------------------------------------------------------------- 四日目。 六時に起きてご飯食べてこれの下書きを書く。 チェックアウトして東岡崎駅へ。閑散とした駅にタピオカのスタンドがあり、まったく繁盛していないのを見て諸行無常を感じる。おごれるものは久しからず。高速バスでバスタへ向かう。 バスに乗ったら顔を覆うシェードがあった。はじめて見た。しかし使ってみると超快適で爆睡。隣の人の顔が見えない、見られないってこんなにもノーストレス!
いい旅行だったな。
街の中、しかもこれほど複数の場所に点在したトリエンナーレに初めて行ったので、土地と干渉し合う作品鑑賞も初体験で多く発見があった。
まず、炎天下を歩いて回って、歩く道々で見る建物や風景や、だんだん暑くてボーッとしてきたころ突如現れる作品や、全て込みで作品のようだった。特に円頓寺は一区画入ると全く趣の異なる建物・作品が現れて、街の中に潜む異世界をめぐるようであった。
そして、トヨタに関わる作品も数多くあって、トヨタの影響が色濃い街を歩く中でそれらを鑑賞して「これはこの土地で見るからこそ意味があるな」と思った。単純にどこか別の都市の美術館に全部入れていてもこんなに意味合いを考えたりしなかっただろう。
バスに乗って愛知に来たとき、ミニカーのように整然と並ぶ大量の車や、輸出入の船がたくさん止まる港や、突如現れるレゴランド、幅の広い道、超車社会、等々を見て「あートヨタのちからよ…」と思った。事故の犠牲者6人を追悼する作品で「加害者、被害者、クルマ」を提示していて(トヨタのお膝元でやるにはチャレンジングだな)と思ったけど、酔客にグローバル企業のロゴをかぶせる映像展示では「トヨタがなかったら名古屋はやっていけない」と行ってたり、豊田市駅の展示では架空のトヨタの遺跡を発掘する展示があったり、そしてその会場に向かう駅の歩道には「交通死亡事故一位の汚名返上!」という(展示ではなく警察やトヨタによる本物の)巨大な横断幕があったり、街中を巡ってみる展示だからこその効果を感じた。街中を歩いて車社会を実感しながら作品に会いに行き、そしてその作品たちが相互に作用していく体験が初めてのもので、「自分の目が変わっていく」過程が新鮮だった。土地を体験した自分の目が作品に向ける眼に影響していく。人間はどんどん変化していくけど、これほどの短期間で明らかに変わっていくのがわかる体験は、あいちトリエンナーレの素晴らしい強みだと思う。これからいく方にはぜひ、なるべく多くの作品を歩いて巡ってみてほしい。
それから、私が道中でさびしいおじさんとフェミニズム作品について。1日目二日目と、夕食を食べに行ったら知らないおじさんに声をかけられ、うんざりして三日目はビジネスホテルでもそもそご飯を食べたのは前述の通り。はっきりいって不愉快だし、心底不快だけれど、それ以上に「この人たちはさびしいんだろうな」という気持ちが先に立った。これは愛知に限らず、東京でもあまた経験しているので、今から書くのは今回の旅だけではなく普遍的な話。
旅行先で食べてみたいものがあっても、おじさんに話しかけられると思うとうんざりする。男の人ならどこでも好きなところへ好きなものを食べに行って、話しかけられて嫌な思いをするかもなんて微塵も考えないのかしら。ここでわたしが「旅行先で隣になった人とめっちゃ盛り上がった笑笑笑!おごってもらった笑笑笑」って書くタイプならむしろ旅のいい思い出になるだろうし、「こう感じるタイプの方が生きやすいんだろうね」、って話はフォロワーさんともしたけれど、私がこうやって知らないおじさんに話しかけられてめちゃめちゃ不愉快になるのは、「さみしい」という気持ちを検知するからだと思う。たまたま隣に座った私に話しかけ、少しでもさみしさを埋めたい、というのは侮辱ではないのか。一方的に話したり、相手が立場上・性格上反論できない局面で話を押し付けたりするひとってめっっっっっっっちゃいる。
私は今回のフェミニズム作品、そして作品中止に至るまで作家さんの行動の一連も根本は「対話を行わない」という侮辱に対するものだと思っている。一歩的に作品の撤去を求めること。それに対し、作家さんたちと十分な対話を行わず、実際に撤去をしたこと。
侮辱されている、舐められている、と察知する能力は人間にとって能力だなmと今強く思っている。このまま私は進もう・・・
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tsuntsun1221ts · 6 years
Text
2018.4-5ドイツ(3/5)
2/5より
【フランクフルト滞在4日間~帰国】
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4日目はミュンヘンからICE(日本で言う新幹線)を使って340km離れたフランクフルトへ移動する。運賃は初日に買った乗り放題400€チケットで払っているので特に切符を購入することもない。ただ、座席を予約しないと座れない可能性があるので、予約だけは別料金で予めとっておいた。始発駅から終点まで乗っていたのかな、3時間半かかったけど、ずーっと延々と大富豪をやって中央駅に着いてしまった。トランプは現地で購入したもので、ドイツではジョーカーが3枚入ってる。ちなみに自分めちゃくちゃ強かった。とりあえず荷物が大きくて邪魔だったので、 ミュンヘンのときと同じように まずは宿泊予定のホテルへ向かい、預かってもらう。ホテルへは中央駅から2つ隣の駅だったので、そんなに時間はかからない。
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フランクフルト1日目は午前中を移動で使い果たしてしまったので、午後は適当に市内観光を行う。一応3日目も市内観光を予定していたので、あまり1日目に回り過ぎると後々暇になってしまうのだが...。フランクフルト1日目は5/1でメーデーの日。ドイツでは飲食店やスーパー以外はすべての仕事がお休みなんだって、すごくない!?ただし、路上にはゴミがすごい散らかっているし、地元の人がほとんど外出していないみたいで街中でも閑散としている。変わって3日目に観光したときはちゃんと清掃されていたので安心(マッド・シティ感があったので)。
ミュンヘンは誰もが思うヨーロッパの美しい街並みであったが、比べてフランクフルトはかなり都会的で池袋や新宿に近い。ミュンヘンにはほぼゼロだった高層ビルが、フランクフルトは密集している。ゴミが散らかっているし、道もごちゃごちゃしてる。スプレーの落書きが多くちょっと治安が悪そう。あとフランクフルト上空はヨーロッパの主要空路なのか、飛行機雲の数がすごく多い、常に8本くらいある。
ゲーテハウス 
まず向かったのはゲーテハウス 。
「ドイツを代表する文豪ゲーテの生家を復元した建物。ゲーテの生家があった建物は第二次世界大戦で破壊されてしまったが、戦後、もとの18世紀の典型的な中産階級の住宅が忠実に復元され、3階のゲーテの書斎には、ゲーテの青年期当時の後期バロック時代の家具や調度がしつらえられて、ゲーテに関わりの深い当時の絵画などを展示している。」
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ゲーテ読んだことないんだけどな...。入場は7€で、もう3€払えばオーディオガイドがついてくる(日本語対応)。博物館といったら今まで金銀財宝の家具や部屋しか見てこなかったので、 中~上流階級というガラッと変わった雰囲気。やっぱ王様の感覚っておかしいよなぁ。王宮とのギャップがありすぎて特に語ることは無いんだが...。どうやら自分の感覚までおかしくなってしまったようだ。ゲーテハウスの隣にゲーテ博物館もあったのだが、閉館時間が来てしまい観れなかった。
その後は引き続き市内観光だが、これといって目的地は無くブラブラ(1日目に廻りすぎても3日目も市内観光だから)。ゲーテハウスを南に歩くとすぐ近くにマイン川が流れているので、川沿いを散策。「鉄の橋」というのが架かっているので行ってみたら、メーデーでほとんど人気がなかったのにこの橋は観光客が密集してけっこう混んでる。混雑具合からもそこそこ有名な橋らしく、欄干には大量の南京錠がかけられていた。対岸に見えるのは福音協会らしく、都会から少し歩いただけでガラッと観光地に変わる、面白い街である。フランクフルト1日目の夕食で今が旬であるホワイトアスパラガスのスープを食すのだが、これがとんでもなく絶品!スープの湯気と一緒に漂ってくるアスパラの香りが非常に濃厚である。
ケルン大聖堂 Kölner Dom
フランクフルト2日目は、ミュンヘンのノイシュヴァンシュタイン城やヴィースの巡礼教会と並び、ドイツ旅行のハイライトである世界文化遺産ケルン大聖堂。フランクフルトからはICEで1時間くらいだったかな(約200km)?駅舎から出ると目の前に巨大な大聖堂が鎮座しており、あまりの迫力に思わず声が出てしまった。てか、こんなに駅前にあるものなのか(笑)
「正式名称は、ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂(Dom St. Peter und Maria。聖ペトロとマリア大聖堂の意)。現存の大聖堂は3代目で、初代が完成したのは4世紀のことであった。3代目は2代目が焼失した年である1248年に建設がはじまった。全てが完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年のことであり、高さが157mの大聖堂はアメリカのワシントン記念塔(高さ169m)が完成する1884年まで建築物としては世界一の高さを誇った。大聖堂は第二次世界大戦時のケルン市に対する英米軍の空襲で14発の直撃弾を受けた。修復の一環として破損したステンドグラスの一部はゲルハルト・リヒターによって近代的なモザイク風の市松模様の物に置き換わったのだが、これについては未だに賛否両論がある。」
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本当にでかすぎて、広場の端まで移動しても全体が写真に収まらないレベルである...。はやる気持ちを抑え、まずは外観を観察。これほど大きな建造物であるのに、紋様や人物の彫刻がびっしりと掘られていて壮観である。当時の有名な彫刻家が掘ったらしいんだが、仮に何百人いたとしてもこれほどのものとなると一体どれだけの時間がかかったのだろうか。この彫刻群だけ見ても大変な芸術作品である。
実はケルン大聖堂は登ることができ(有料)、せっかくなのでてっぺんまで行ってきた。かなり狭い石の螺旋階段を500段くらい延々と上がるのだが、途中に休憩するスペースが無いのでかなり疲れる。地上100mの尖塔付け根にたどり着き、ここからはケルン市街やライン川の流れを一望することができる。 またこのときのチケットで宝物室も入ることができるが、ここも宮殿みたいに金銀財宝でなかなかすごかった。司祭が持つ杖とか冠とか(写真撮影禁止)。
礼拝堂の見学は無料。教会内は、もはや自分の書く文字では表現することができない。「美しい」とか「立派な」とかのもう2, 3次元上の世界である。「人類の創造的才能を表現する傑作」という文化遺産の登録基準の言葉だけではとても表しきれない...。 時代は違えど、世界が変わろうとも、人々が何を求めるかは変わらないんでしょうね。昔の人達がなにを考えてこの教会を建てたのか感じとることができる。いろんなことを考えて、気がついたら長椅子に座って1時間くらい経っていた。それだけ、この教会には引き込まれる。
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この教会はステンドグラスでも有名である。教会内を歩いていると常にきらびやかなステンドグラスが目に入ってくる。中でも、ルードヴィッヒ1世が1842年に奉納した「バイエルンの窓」という5枚のステンドグラスが最も有名らしく、戦火を免れてちゃんと残っていた(写真右上)。1枚1枚に「ルードヴィッヒ1世寄贈」と紋章が描かれており、それぞれどこにあるのか探してみるのも面白かった。キリストの受胎の告知、アダムとイブ、4人の預言者、東方三博士の礼拝、ピエタ、聖霊降臨、聖ステファノの殉教などが描かれているんだと。 奥には半円形の回廊があり、その通路には「シュヴェ」と呼ばれる7つの礼拝堂が放射状に突き出している。それぞれにどんな意味があるかまでは追うことはできなかった。中央祭壇には世界最大の黄金で飾られた豪華な聖棺が置かれており、東方三博士の頭蓋骨が奉納されているんだとか(写真左下)、かなり厳重に囲まれていた。
総じて、ケルン大聖堂は今回の旅の中で間違いなく一番印象に残った場所となった。ミュンヘンのツアーみたいに1日に何箇所も巡るのであれば、ここを訪れるのはもったいないかな。1日丸々使ってここだけを観光した方がいい。あと余談だが、ここでGaffelという銘柄のビールを飲んだんだが、人生で飲んだビールの中で最も美味しかった。
哲学者の道 Philosophenweg
フランクフルト4日目(ドイツ観光最終日)は、ICEで80kmくらい南下してハイデルベルグへ向かう。目的はハイデルベルク城だが、途中に哲学者の道があるのでそちらを通っていくことに。
ハイデルベルク駅を下車し、そこから徒歩だと城も哲学者の道も遠いので路面電車に乗る。市バスも同じ道を並走しているのでどっちでもいいかも。下車駅から歩いて10分くらいすると哲学者の道だが、意外と路地裏みたいなところに入り口があるので、地図持っていなかったり標識を見落とすときっと見つからないと思う。
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「牧歌的なハイデルベルクのアルトシュタットを望む最適な場所の一つが哲学者の道である。この道は、ハイデルベルク城の対岸にあたる河畔からハイリゲンベルクをやや上った位置を通っている。ゲーテを始めとした詩人や哲学者がこの道を歩き、その思索を深めた。 」
最初の10分くらいは住宅街で車もたくさん路駐してあるので、あまり思索を深めることはできなさそう(笑)。あと、急な上り坂なので運動不足の人は途中でバテてしまうかもしれない。哲学者の道の大部分は丘の中腹を通っているので、まずは高度を上げるこというわけだ。住宅街や上り坂を過ぎるとあとはずっと平坦な道となり、ハイデルベルグ城やその旧市街を一望できるとても眺めが良い道となる。ところどころベンチが設けられているので、休憩してしばらく景色を眺めるのもよし。地元の幼稚園児たちが先生に引率されて歩いて、微笑ましいのと同時に、下から登ってきたのならみんな元気だなーと思った。ま、子供が一番体力あるものだよね。
自分たちがイメージする哲学者の道は下りの道にあった。登りは閑散とした住宅街、丘の中腹の平坦な道は景色は良いが転落防止の柵が立つ遊歩道。下りの道は石畳や石壁で囲まれており、景色は見えないものの周りは茂った樹々で囲まれた古道である。けど、やっぱりスプレーの落書きはある...。 登り10分、平坦な道20分、下り10分くらいだったと思うが、観光地の割には意外と人がほとんどおらず、道の途中で見かけた人たちは足しても30人程度だと思う。その分ゆっくり、静かに散策することができた。ドイツ最終日というのをひしひしと感じて、なんか寂しくなる。
ちなみに登り道下り道と表現したけど駅側が登り、城側が下りという意味ね(読んでればわかると思うけど)。
ハイデルベルク城 Heidelberger Schloss
哲学者の道を抜けると賑やかな城下町に出る。聖霊教会や14世紀からのハイデルベルグ大学、カフェが並び、丘の上にはハイデルベルグ大学がそびえ立っている。観光客は多いのだが、おそらくそれ以上に学生さんと思われる若者たちで賑わっていた。
「ドイツで最も有名な城趾の一つであり、ハイデルベルクの象徴的建造物となっている。プファルツ継承戦争で破壊されるまで、この城はプファルツ選帝侯の居城であった。ケーニヒスシュトゥール(「王の椅子」)という山の北斜面、マイン渓谷の底から約80mの高さに位置し、旧市街の風景を決定づけている。」
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城へ向かうにはまた丘を登らなければならない(さっき下ってきたばっかりなのに)。ケーブルカーもあるのでそれを使ってもよいが、別に徒歩でも大した時間かからなかったのでもう一度足で登ることに。2・300段くらいの階段を登りきると目の前は城門。城の庭園を散策する分にはお金がかからず、城内を見学する場合は入場チケットを買う。日本語の音声ガイドもあるみたい。
まずは城内の見学。修復されているとはいえ(一番最近の修復は100年前)城からは樹が生え、レンガの隙間からは根っこが垂れ、ところどころ破壊されている。でも逆にそれが、悠久の時の流れを感じさせる。庭園の方は常に手入れされているようなので、綺麗に整っていた(ここまでは無料でも見れるところ)。この城で有名なのが城内大樽棟にある大樽だろう。ワインを貯蔵していたとのことだが、その容量なんと219m^3、1mx1mx1mの立方体が219個分というとんでもないもの。直径5m、長さ10mくらいの樽が横に寝かされているが、あまりにもでかいのでこれまた写真にすべて収めるのは難しい!樽の上には登ることができるのだが、その大きさおわかりいただけるだろうか?(写真右下)。実はこれの手前に、この大樽よりも小さい樽があり(といっても十分にでかいのだが)、最初はそれが有名な大樽だと思って「すげー」となり、すぐ隣にアホみたいな大樽があり、これ完全にフェイントだよね。また樽以外にも、何百年前もの化学の実験器具が展示されていて、長い時間が経っても器具の形があまり変わっていないのに関心。
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最後に城外の庭園を散策、結構広い。綺麗に整った芝生にはレジャーシートを敷いて寝転ぶ人だけではなく水鳥も屯していて、どちらも気持ちよさそう、てかドイツって芝生があればとにかく水鳥おるのな。庭園のテラスからはハイデルベルグ城と旧市街、ネッカー川がすべて一つの絵に収まる。美しい。自然と人工と、さらに時間という次元がちょうどいい具合に、見事に融合している。地元の人は好きなときにここへ訪れることができるなんて、なんて羨ましいんだろう。いっそのことドイツへ住みたいくらい、マジで。
帰国
とても名残惜しいが、ミュンヘン3日間・フランクフルト4日間の全日程を終え、翌日は帰国の途につく。フランクフルト空港は市の中心部から非常に近い、なんとフランクフルト中央駅から3つお隣、泊まっていたホテルからは5駅隣。お土産としてビールを何本か買って帰ろうと思い、空港ならお店にたくさん置いてあるだろうと期待していたが、予想に反して全く置いていない...。かろうじて空港内唯一の小さなスーパーを見つけたのでそこで購入(種類は多くなかった)。レストランでは普通に飲めるんだけどね。
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出国エリアにはドイツ製(Bechstein)のピアノが展示されていた。ベヒシュタインは世界的にも有名なピアノメーカーらしく、「ピアノのストラディバリウス」と呼ばれるほどの名器で、最高のピアノの代名詞である。とのこと。もしかしてかなり高価なピアノだった?自由に弾いてよいらしく、旅行者がピアノを弾いていて周りには人が集まっていた。あぁ、こういうのって素敵だよね。知らない曲だけど旋律が空港中に響き渡り、つい聞き惚れてしまった。ドイツの最後の素敵な思い出をありがとう。とても素晴らしい旅だったよ...。
帰りもエアチャイナで、1355フランクフルト発~0515北京着の便。帰国時は特に何事も起こらず穏や���だった。もう知っていたので驚くことはなかったが、敢えて書き残すとするれば北京空港のトランジットがやっぱりクソだった。しかも今回は到着便のタイミングがいくつか重なったため、自分たちはまだマシだったけど、その後ろにすごい人が並んでいて列が何回も折り返されていて...。なかなか悲惨である。ちなみにこの並ぶスペースは中国への入国ゲートもあるので、そっちの列も合わせて人がやばい、余裕で1000人超えてるでしょ。相変わらず乗り換えゲートの先の保安検査も��どく待たされた。自分が保安検査を抜けて出発ロビーに出れたのは、何故か目の前に並んでいた友人たちが抜けた時間よりも20分くらい遅かった。何が起きたのか自分でもよくわからん(おそらく、ほんの一瞬のスキに別の早い列へ移されていたらしい)。搭乗ゲート近くの椅子に座っていたとき、目の前の(ドイツ人?)女性が、今まで見てきた中で最強に格好良くて見惚れてしまった。
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日本へはエアチャイナ0820北京発~1230羽田着の便。飛行機からは富士山が見え、やっと帰ってきたのかと、懐かしくホッとする。茂原直通の高速バスに乗り、時差ボケで眠たい体をなんとか動かして夕方無事に帰宅、このとき日本は日曜日、翌日は会社である(特に問題ないと思い有給は取らなかった)。
これで今回の旅は全て終了。ドイツは本当に良い国だった。最初はヨーロッパに行こうと聞いて驚いたが、やはり体力や自分で使える金があるエネルギッシュな若いときにいろんな経験をするべきだと思う。楽しいのはもちろんだが、とにかく視野が広がる。人生の糧になる。とりあえず行程については以上で、あとはドイツの公共交通機関などについて、気がついたことなどをメモしていく予定。
4/5へ続く
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jaguarmen99 · 7 years
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 麻生太郎副総理兼財務相が2月19日の衆院予算委員会で、2月16日の抗議デモを指して「街宣車まで持っている市民団体というのは珍しい」などと述べた、くだんの「街宣車」も2台参加した。スケジュール表によると、主催者のエンディングスピーチを社民党から平成19年参院選の東京都選挙区に出馬したことがある杉浦ひとみ弁護士が務めた。 醍醐聡・東京大名誉教授らの市民団体が呼びかけたもの。全日本年金者組合の加藤益雄副中央執行委員長らが安倍晋三首相や昭恵夫人を街宣車上で批判した。 中には「アベ政治を許さない」と書かれたカードを飼い犬につないで、国税庁前を散歩させる人も。 日比谷公園前を出発した醍醐名誉教授らを先頭にしたデモ隊は、銀座へ。反原発団体の参加も目立ち、日比谷の東京電力前では「原発止めろ」というコールも起きた。 銀座・数寄屋橋の交差点にさしかかると、参加者が賛同を訴えるチラシを信号待ちの人々に配ったが、関心は低いようで、手にする人はあまりいなかった。(WEB編集チーム)
国税庁前に約700人 「安倍、佐川はやめろ」と気勢 - ライブドアニュース
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n0-l · 8 years
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自伝 2017.03.15
僕の夢は、小説を書いて、さしあたり、まず紙の本として出版することです。要するに「物語」を作ることです。それだけだったはずなのに、現在、様々なものに絡め取られていってることに気がついた。それは結局は「自己と他者」の問題に尽きると思いますが、その苦悩が大きすぎるので、その隙間を埋めるために文章を書きます。しかし、いざ文章を書き始めると、「何のために」書いているのかという疑念に苛まれることになった。しかし、「何のために」など、考え始めても、無駄なことでした。とにかく今は足早に、簡潔に、書いておかねばならない。僕は一部の生活歴を他人に見せていないと、不可視の他人の影によって絶えず自分が暗くされてしまうと思うのです。だから、真っ黒に自分が潰されてしまう前に、少しでも安住する場所にたどり着こうと思います。ここで、今、思い出しました。僕の現在住んでいる実家は、河川区域で、近くに堤防があります。そこには、市特有の桜の木が等間隔に植えてあります。19歳の冬、大雪が降りました。裸の、毛細血管のようになったその桜の木の枝々に、真っ白な雪が覆いかぶさり、電灯に照らされて、とても眩しく、幻想的でした。道路は鉛筆で塗ったみたいに光っていました。僕は音楽を聴きながら犬の散歩をしていました。僕はその真っ白な光景に、思わず嗟嘆しました。そして言葉を漏らしました。「なんて、素晴らしい光景なんだ。しかし、僕以外、誰も見ていない!」そして、ある文章を書きました。「真っ黒」というさっきの言葉によって、その記憶が引き出されたので、まずそれを記載してから、ちょっとした自伝を、中学生一年生の時分から書こうと思います。
「雪」2014.冬
実家との距離もさほど離れていない同じ市内のアパートで僕は独り住まいをしていた。その一室で、僕は薄茶色をしたモッズコートを着て、白い長方形の机に面した椅子に座っていた。部屋の中が、厳寒だとしても、エアコンをしょっちゅう付けていると、電気代もままならないので、コートを着て寒さを耐えるのであった。窓の外を見ると、雲が垂れ込めていて、雪がすぐそこまで来ているかのような空模様だった。アパートの外の住宅地は、忘れ去られたように静かで、ひっそりと呼吸をしている貝のようであった。玄関を出て、向かいには農地があり、横には家々が並んでいた。とある住宅の庭には、植木がたくさん備わっており、裸体になり蛇行した木の枝には、コゲラが何匹か止まっており、教室で生徒たちが粛然と机に向かって文字を書いている時に聞こえてくる「コッコッコッ」という音を鳴らしていた。ヒヨドリやカラス、スズメの鳴き声も周囲で賑わっていた。その鳥たち以外で聞こえてくる音といったら、飛行機雲を発生させながら飛んでいる飛行機の音だけだった。時折、夕方の郵便配達のバイクが住宅地を駆け回る音が聞こえた。僕は自分の内的な変化には非常に敏感になっていた。だが、やはり何も起きなかった。
次の日、僕は日雇いのバイトに行った。業務内容は、倉庫内での仕分、梱包の作業と記載されていた。倉庫の中は、雨の日の午後みたいに、完全に静かだった。僕は、結束機を使って、商品を梱包し、品種ごとにまとめる作業を繰り返した。しゃがんだ際に、靴の汚れがコートにつき、僕は憂鬱とした気分になった。他人の生活は恐怖だ、と思った。ましては見知らぬ人の人生など。僕は帰りに、ローソンで本を立ち読みした。なぜか肉体的な不能感が気分を覆っていた。
大雪警報が出た。関東は明け方まで続くそうだ。積雪10センチ、16年ぶり。街の人は、風雪の対策に追われていた。スリップ事故多発。23区は20センチ。 この雪は僕を奮い立たせた。混乱させた。いらいらさせた。今は19時過ぎ。窓の外では、風が吹き荒れている。救急車の音が聞こえる。この雪の影響での事故だろうか。空はこんな時間だというのに、黒が一つも見当たらず、見渡す限り、完全に真っ白だった。外は新品の純白のタオルで覆われたみたいになっていた。僕はいささか緊張していなければならない。寒さなど、もう気にかけない熱を持っていた。まるで発狂しそうな白だと思った。 「この今の思い、光景をどう表現したらいいのか」と、僕は悩んでいた。雪よ、決して止んでくれるな、と。だが、この肌触りを感じている自分から離れ、別のものを通して自分を見ると、自分は一体なにをしているんだ、この奮い立てられる自分とはなんなんだ、という深い疑念を抱かずにはいられなかった。やがて、僕は父と母に迎えられたが、それを拒んだ。そうすると、やがて買い物に誘われ、それもまた同じように跳ね返すと、父親がアパートの玄関の前まで来た。父は「何か食べ物買いに連れて行くよ」と言ったが、僕は「いや、いいよ」と言った。「雪の中で、車で、面白いよ」と言って来た。最後の言葉に呼び込まれ、僕は「それじゃあ、行くよ」と言った。父が運転する白い軽自動車に乗った。タイヤはスリップに備え、スタッドレスに交換してあった。車体が前進し、窓から外を見た。僕は、外がこんなことになっているとは知らずに、神々しい光景に目を奪われた。(外が!)と僕は興奮しながら胸中で叫んだ。 創造することと、感受することは、ともに一番深いところでは、まさに美的な「領域」に根を下ろしていて、切断することは原則上できない、創造も感受も、共通の根である「見ること」から出ているとオスカー・ベッカーは言った。 この発熱は、多分、僕が何かを創造しようとするものとして、美的なものが僕の心を掴んだから、起きたものらしかった。そうでない人が、この光景を見やったとしてもここまで熱狂的になる人はいないんじゃないか。僕はただただ取り憑かれてしまった。そして、外に降りたら何かがある。外に出ずにはいられないと思い、強迫的に僕は外に出た。 驚嘆した。膝が隠れるくらいまで、雪に埋まりながら、息を弾ませながら前へ進んだ。なにも考えずに。というより、考えることができなかったために、無心でただ前に進んだ。僕は片手に大学ノートを持っていた。���ートに絶えずその時の心象風景のようなものをメモをした。今の自分を記録したい、と強く思った。でないと、自分が崩れ、吹き飛ばされ、死んでしまうと思った。今見ているものにできるだけ僕は接近し、それを表現したいと思った。それ以外のことは考えることは不可能だった。不安はこの街のどこかですっぽり雪に覆われたみたいに今は出てこなかった。いや、不安だからこの行動なのかもしれない。僕は強迫的に尖った銀色のシャープペンシルをノートの上で躍らせた。傘なんてさそうとは思わず、食べ物を買ってアパートに帰って来た時には、全身が雪まみれで、玄関とつながっている台所も雪まみれになった。外を歩いているとき、人は見当たらなかった。いや、多少いたかもしれない。二人組が家に帰る時に前を歩いていて、僕がそれを走って追い越したこと。薬局の入り口あたりで雪かきをしている人がいたのと、あと、数人傘をさしている人がいたのと、黒い車がコンビニの駐車場から出ようとしているのと、近くのレストランで食事をしている人を思い出すことができた。でも、車通りは少なく、いつもとは明らかに違った。雪は本当に白くて、足で踏んだら全身がどこまでも下に落っこちてしまいそうな雪だった。ベランダの外は雪の川みたいになっていた。僕はアホだ。そして、空虚だ。やっていることがわからない。僕はどんな理由で、こうなったのか、なにが原因でこうなったのか。
数日後、また雪が降った。先週に降った大雪の後で、世間はもううんざりというふうだった。 今冬で三度目くらいの雪である。それでも楽しんでいる人々と、積雪などの対策に追われ、憂鬱そうな人々と二様であろう。僕はどちらでもない。僕はわからない。ただ、考えようとしないだけかもしれない。窓の外で、激しく降る細かい雪や、葉や木の枝についている白い雪や、牢固として建っている住宅や、その囲いや、曇った白い空などを眺めても、僕は、何か感られているようで、感じられないような不安が起こり、動揺させたが、この三度目の雪に対して、感興など全く起こらなかった。 14時過ぎ。湿った道路を車が時々走る音と、洗濯物を乾かしているエアコンの発している音と、アパートの上の階の屋根から、つたって落ちてくる小さな滴が僕のベランダの手すりを叩く音が少し間を置いて聞こえた。 乱雑した物象の影がある机で、僕は今静かに物書きをしている。何かを書こうとしても、僕の意識は絶えず、不明瞭で、そこから出てくる言葉も弱々しい稚拙なものであった。だが、過去から僕が引きずって来た強い信念は、この雪も溶かした。だからこそ、僕は、それがあるからこそ、誰にも邪魔されず、一人だ。今こうして、この場所で僕は色々なことを反芻しながら、考える。迷い犬が主人の家を探すように。僕は道をさまよい歩くだけである。だが、その道というのも、果たして、本当に道であるか、疑わずにはいられない。今、僕はあることを閃いた。これは本当に僕の言葉なのかと。何か赤裸々ではないのではないか。今、鳥の声が聞こえた。巨大なムカつきのようなものが、僕を捉えた。文章にしてみると、それが僕のもの、僕の言葉なのかどうか、なぜか文章に勢いが感じられない!雪は降り続いた。雪を見る僕は醜いものだった。雪は綺麗だった。僕の身体は汚かった。深い宵闇から湧いて出てきた糧を、僕は眺めていた。
雪の降ったある夜だった。僕は髪の毛を両手で掻き乱すような調子で、ひどく沈鬱していた。一編の小説を書こうと、頭を凝らすのだが、思うようにうまくいかないのだ。明日、日雇いのバイトに行くかどうか悩んでいた。そして、日雇いに行くことを決定した自分を想像してみると、何か急にうら寂しい気分になった。雪は降っていなかった。空気は凍てるように冷たく、空は一点も白がなく、真っ黒だった。星々がくっきりと輝いて見えた。僕は結局明日、日雇いのバイトに行くことにした。そして、そのことによって、今日僕はご飯を食べに、実家に行こうという気になった。僕は自転車で数日ぶりに実家に帰った。家に着くと、僕は自分が、遠くにいるような、どっかで道に迷っているような感じを覚えた。
僕は犬の散歩をした。僕の実家の東側のすぐそばには川が流れており、遊歩道や、堤防が整備されていた。寒風が身を縮こませ、無意識のうちに肩に力が入り、猫背になった。堤防に入る道を歩いていると、前方にある電灯が、静かな光を皓皓と放ち、道行きの風景に明暗をつけているのが感じられた。地面は凍て、鉛筆の芯でなぞったように光っていた。だんだん歩き進んで、堤防に入ると、目覚ましい、突き抜けるような、美しい、捉えどころのない光景が目の前に広がった。この堤防の上には、O桜という、この市特有の桜が等間隔で並んでいた。O桜というのは、1954年に、この市の西岸を流れる川に沿った丘陵地で発見された、十月桜の突然変異らしく、花弁は10枚ほどで、ソメイヨシノが開花するより先に満開を迎え、八重咲きが咲くまでの息継ぎに咲く、中継的な、貴重な桜らしかった。春になると、その花は、春爛漫といった感じで、どの人間も魅了した。よく、この桜を見に、観光にまでやってくる人もいるということだった。しかし、現在はこの桜の木も裸になってしまっており、アナーキーな枝々がむき出しになっていた。枝には白い雪が乗っかっていた。草が生えて、緑の部分は雪で覆われ、電灯の眩しい光に照らし出されて、白が一層際立っていた。先に進むと、小学校があり、昇降口のそばにある道標の巨大な榎からしんしんと雪が地面に落ちていた。そして辺りは寒い冬の夜半に寝床で人知れず眠りに落ちていこうとする自意識のように静かだった。
僕は迷いに満ちた表情を浮かべていた。「どうしたらいいだろう」僕はこの風景の異様さにとてつもなく魅了されながらも、この風景から自分が隔絶されているのを感じた。恍惚の中の観照の中で、自分が棒立ちになっていて、取り残されて行くのを感じた。怖くなった。なぜか不安につかまれて、僕を空虚な気分にさせた。僕は足跡が付いていない雪を見て、誰もここを通っていないのだと思った。僕は足跡をつけた。誰もいない!こんなに美しい光景の中で僕は一人きりだ!そして…。僕は焦り、犬の散歩を早々に切り上げ、またノートとシャーペンを持って、戻ってきた。直感的に感じた美を、そのままにとどめておくことは自分自身を腐らせ、死に至らしめることだった。やっぱり誰もいない。僕はその時、心の中で起こった心象を、細々と、またノートに書いていった。僕は実家に帰ってきてよかったと思った。そのおかげで今この光景を僕は見れている。それは僕が一人生活の中で熱望していた飛躍のようなものであった。その飛躍の一点こそ…。だが、「なんのために?」という言葉がふと頭によぎった時、急に自分を底知れない孤独の方に向かわせた。そして、僕は「早く家に帰ろう」と思い、来たときとは違う早さで、家まで早歩きで駆けて行った。頭がうつむいていた。川にうつっている光や、影が、何か漠然とした不自然さのようなものを思わせ、おぞましい気分にさせた。家に着いた。また以前の僕に戻った。思考が元に戻った。
【2007年 12歳】
中学一年生
一学期の授業日数が71回で、欠席日数は0回でした。しかし、二学期は83回で、欠席日数は27回。なぜ欠席がこんなにできたのかと言うと、学校教育法にある「出席停止」を適応されたからです。 「出席停止の基本的な要件は、「性行不良」であることと、「他の児童生徒の教育の妨げがある」と認められることの2つ」と文部科学省のHPをみると書いてあります。僕が、こう見なされたのは、ある事件がきっかけでした。「コンセントにシャーペンの芯を突っ込む」という一種の遊びを友達にやらされていたのです。自発的にやろうと思ったわけではなく、僕はやりたくなかったのですが、当時遊んでいた不良の友人にその行為を促され、僕は関係性を保っていたいがために、本能的に、理科の授業の際に初めてやりました。そして、後日、友達が同じ行為をした際に、ショートした時に過電流が流れ、学校のブレーカーが落ちたらしく、英語の女性の先生がやっていた人物に気づいたらしく、僕も含め、やっていた生徒全員呼び出されました。他の人は指導されただけでしたが、僕だけが「出席停止」になりました。なぜというと、僕は中学一年生の中で、初めて保護者を呼ぶことになった生徒らしいです。これは21歳の時に、学年主任に会った際にそう告げられました。そのきっかけは小学校が同じだった生徒と、小学校からの延長線上で、戯れていた際、謝って怪我させてしまったからでした。それから僕は、気づいたら問題児というレッテルを貼られて来ました。当時、人一倍目立ちたがりで、他人から気に入られたい、疎外されるのを恐れていた僕は、学校で「問題」が起きると、自分が主体となってその問題を起こしたのではないが、なぜかその問題の中に必ず僕がいて、指導されるという感じでした。例えば、バドミントン部の部活動の県大会の際、クラスメイトの一人がお金を見せびらかしてきたので、「そいつのお金を盗んでやろうぜ」と万引きをけっこうやっていた友達が僕に言い出すと、それに嫌でも同調してしまうという感じで、僕は従っていました。そして、当時僕は勉強もできず、読書もまるでしなかったため「言葉」というものをまるで持っていませんでした。そのため先生と話しをする時でも、言葉がうまく出てこず、会話が破綻し、目も合わせることができず、絶えずうつむいているような感じが多かったとのことです。そのため、「心の中に何か抱いているものがあるのではないか」と外部から判断され、専門機関などに見てもらってからでないと、学校に来てはならないということになりました。僕はその対処にものすごく不服でした。そして、僕は「学校」というものを拒絶していくようになりました。やがて学校に来てもいいという処置をとられましたが、三学期は52回あったが、欠席日数は52回。一回も学校に行くことができませんでした。母も父も僕のことを「性行不良」だと見なし、無理やり学校に行かせようと家を追い出したこともありましたが、僕は行くことができずに、自転車を押しながらとぼとぼ家に帰って行き、寝ました。学校に行っていないときは、寝てることが多かったように思います。両親も児童相談所や、青少年相談室などに相談に行き、僕のことを考え、いろいろ奔走してくれましたが、僕は当時、内心誰も信じることができなくなっていました。これが僕の心的外傷になっていると思っています。本来は206回なのであるが、79回休み。計127日出席した。
この時に体験した詳細な出来事は、どうしてもまだ深く自分の心に沈殿していて、吐き出すことができていないので、別で物語にした文章を書いており、いずれ形にして必ず発表します。
【2008年 13歳】
中学二年生
ずっと学校には行けず、家に閉じこもる日々でした。友人とは遊ぶこともありました。その友達の一人(以下K)が保有していたカルチャーの影響もあり、よく一人でアニメを見ていました。深夜アニメなどをよく見て、声優の名前などを逐一覚えていくようになりました。CLANNADというアニメにはまり、精神的支柱になっていました。冬休みを目の前にした12月1日から学校に行けるようになりました。小学校から一緒だったそのKが自宅まで迎えに来てくれたのです。「子供は理解してくれる人が一人でもいれば、持ちこたえる」と言いますが、彼はまさにそういう存在でした。なぜか、当時、僕ではない誰かが学校でCLANNADを話題にしていたらどうしようと、恐れていました。学校に行けるようになりましたが、僕は一年生の時とはまるで変わり、落ち着き払っていました。人の目を気にして、よく髪の毛をいじっていました。
学校に行けるようになってから数日だったある日のことでした。Kと一緒に帰り、帰宅後、モンスターハンターというゲームを一緒にプレイしようとしていたのだが、学校に行っていない、不良(この言葉をあまり使いたくないですが)ら三人に絡まれました。僕にコンセントにシャーペンの芯を突っ込めと言って来た人もいました。学校の出口にある橋の前で自転車で待っており、連れられて、人気のない雑木林のような場所へ行ったら、だんだんと暴行を加えられました。不良の一人は「関羽だー!」と言いながらコーンバーを振り回したり、タバコをふかしたりしていました。一緒にいたKはその時、ちょっと蹴られた程度でしたが、僕は「俺の悪口を言っただろ」と執拗に言われ、「言っていない」と言うと、「友達から聞いた」と言われ、ボコボコに殴られました。逃げようと走りましたが、逃げられませんでした。そこで、「明日、3万持ってくれば、あと一発で勘弁してやる。だが3万円持ってこないんだとしたら、おまえを気のすむまでこのまま殴り続ける」と言うようなことを言われ、早く解放されたかったし、殴られるのが耐えられないと思った僕は3万円持っていくと約束しました。そして一発頬を思いっきり殴られ、彼らは去って行きました。最後に言い放った言葉は「いい勉強になったろ」でした。帰り、ドロドロのジャージを洗濯機の中に入れ、家族には何があったか告げられず、ただ、不安に満たされながら音楽を聴きました。そして3万円を親の財布からこっそり盗み、少し遅れたことを電話口で詫びながら、彼らの元に向かった。「ごめん、少し遅れてしまって」と伝えると「いいよ、ちゃんと来たから」と言った。その金で、Xboxを買うという話でした。彼らは安穏とした調子で話しながら家の中に入って行った。
【2009年 14歳】
中学三年生。
一学期の初め頃は学校に通っていました。朝の読書時間の時に読む本を買わなければならず、なんとなく書店で見つけた「ひぐらしのなく頃に 語咄し編」を買いました。その作品は見たことがないですが、自分の中でその作品に付与されていたイメージに、なんとなく魅惑されるものがあったのだと思います。そして、その本を、朝の読書時間の際にカバーをつけた状態で読んでいました。Kが「何を読んでいるんだ」と近づいてきて、見せると、若干驚きと笑いを交えた声調でこう言いました。「裏切ったな」僕は、その反応を見たかったのだと思いました。Kが見たことのない作品を見ることで、自分の新しいポジションをKに見せつけ、彼との差異をつけたいのだと思いました。やがて「ひぐらし」のアニメを見て、耽溺しました。何層もの編からなるその奥深い物語にとてつもなく魅了されてしまった。当時グロテスクだというイメージしか持ってなかったKは、「なんで笑っていられるの」とキャラクターのイラストをみて、言いました。「ああ、こいつは知らないんだな」と全編通して見た僕は、少し誇らしげな気持ちになりました。人物が極限にまで疑心暗鬼に陥っている姿が、本当に身近に感じられました。友人と学校で会話していても常にひぐらしのアニメの一場面が想起されたりしました。ひぐらしの人物に自己投影することで、救いを得ていたと思います。僕はひぐらしのキャラクターになっていました。やがて僕が興味を惹かれていった精神病の世界にも影響を与えていると思います。
やがて、その「ひぐらし」という作品が、最初、同人という媒体を通して発表されたことを知りました。コミックマーケットで100円程度で売り出していたことを知り、非常に驚いてしまいました。そこで、僕にもできるかもしれないという安心感のようなものが生まれました。それが、僕が「創作しようという気概が明確に生まれた原点」です。Youtubeでひぐらしの作者の制作現場の動画を見たりし、思いが募っていきました。竜騎士07という作者はその動画で、こう言っていました。
「みんな胸の中に創りたい何かはあるんですよ。でもどうすればそれを形にできるか、その方法をみんな知らないだけなんですよ。なにも作品ってのは、商業、会社から発売されているじゃない?個人がたどたどしい手つきでもいいから、こうやってものにして、発表するっていう、そういう場がここにはあるわけなんですよね」
それを聞いて、非常に勇気を与えられました。制作者の現場を垣間見ることで、新たなヴィジョンを掴むことができた。そして、当時の僕はその「ひぐらし」と同じ表現形式のサウンドノベルというものを作ろうと思いました。学校での体育の時間に、僕は友人に将来サウンドノベルが作りたいんだという展望を話したりしました。「だから音楽担当してよ」と誘いかけたりしました。だが、その欲求だけが充満するばかりで、ステップを踏み出すことはできませんでした。なにをすればわからないから、とりあえず、アイデアなどを携帯電話のeメールのboxに溜め込んだり、同人ゲームなどに詳しい同級生に、サウンドノベルを制作するツールを教えてもらったりしましたが、作品を書くことはどうしてもできませんでした。やがて周りは高校受験になりました。僕は母親に促され、母親の同級生である勉強を教えてくれるという人の家に通うことになりました。
【2010年 15歳】
偏差値40程度の県立の同じ高校を二回受験するが、不合格でした。落ちたことに激しい落胆を感じましたが、しかし、どん底に落ちる、ということが、なぜか、自分という存在を際立たせてくれるような感じも覚えたように思えます。感傷癖のようなものが根付いていたのだと思います。その年、進学を諦めました。家で創作のためのアイデアを考えつつ、だらだらと過ごした。この年、ニコニコ生放送というものに出会い、自分のコメントがリアルタイムで読まれるということに、大きな衝撃を受けました。奈須きのこの「DDD」という作品に出会い、大きな影響を受けました。といっても、僕は読書が全くできなかっので、作品は読んでません。外面的に惹かれるものがありました。ただ、空の境界などのアニメを見たりはしていました。その当時、自分の作品を作りたいために、いろんな作品のあらすじや、Wikipediaなどの登場人物などを探るというのをよくしていて、DDDも一つの資料として見ていました。
「感染者の精神だけでなく肉体をも変貌させる奇病・アゴニスト異常症患者――俗に言う「悪魔憑き」が蔓延る世界。 左腕を失った男・石杖所在と、漆黒の義手義足を纏い、天蓋付きのベッドで微睡む迦遼海江の二人が繰り広げる奇妙な「悪魔払い」の様子を追う」
というDDDの「悪魔憑き」という奇想なアイディアに触れ、そこから派生して、「狼憑き」というものに至り、僕は「悪魔憑き」ではなく、「狼憑き」を作品のモチーフにしようとしました。
そこで、「狼憑き」について、Wikipediaでは「狼男」だが、色々探っていくうちに一つの文献に当たった。それが、「狼憑きと魔女17世紀フランスの悪魔学論争」という書物でした。それをアマゾンで600円くらいで注文した。初めてアマゾンというサービスを利用しました。
この本の商品説明の内容が魅力的に思えた。
「狼に変身し、野原を駆け巡り、動物をむさぼり食ったと告白する男。特殊な薬を体に塗りこみ、魂だけが分離して魔女集会に参加していた女。彼らの体験談は真実か、それとも悪魔の謀略による幻覚なのか。「狼憑き」「変身」、「魔女の脱魂」の問題を巡って肉体と魂の不可分、神と悪魔の関係をも含み、近世の悪魔学者の間で、キリスト教世界観を揺るがす激しく危険な論争がくりひろげられた」
これを軸にして、物語が書きたいと思いました。当時、「乙一」を意識していた。彼は16歳時に「夏と花火と私の死体」という小説を執筆し、17歳の時に、第6回ジャンプ小説大賞を受賞して小説家の登竜門を通過し、デビューしている。そして、僕は、15歳で執筆し、乙一よりも早くデビューしたら、すごいんじゃないかと漠然と考えるが、結局、小説の参考資料として買ったこの文献も読むことができず、単なる精神的な拠り所みたいな形となり、作品自体は全く書けずに終わりました。読んでも、本文が全く理解できなかった。
「神の神聖を汚す事。 悪魔には神のような事は出来ない。 幻覚によってしか起こりえない。 摂理。すべては神の配慮によって起こっている。狼への変身はない。 恩寵、神や君主の愛やめぐみ。 覚醒時に人が聞いたり読んだり見たりしたこと、ひどく怖れていること、熱望していることは、とかく眠っているときに見る。 膏薬。悟性。霊物。権威。空疎。悪魔。魔女」など、作品に活かせそうな文章中の断片を携帯電話にメモし、これを作品に持ち込もうとしたが、メモするだけにとどまった。
訳者のあらすじを見ると、問題について一口に語られており、この文章に僕は大いに衝撃を受けました。
「魔女の脱魂とは何か? 狼男の変身とは? 二ノーの時代のことばで言えば「理性をそなえた、神の被造物としての人間の魂」を、現代人のなじんだことばをつかえば「人間の自己同一性を脅かす破壊的な力に身を委ねること」、と一口に言ってしまっては、乱暴だろうか。278」
ここで「自己同一性」という言葉に偶然に出会い、その言葉を調べると英語で、「アイデンティティ」と言い、「自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念」ということを知った。定義を見ても、よくわからなかったが、自分の中で漠然とした問題意識が芽生えた瞬間だった。
(自分とは何か)
そこで、インターネットなどでアイデンティティというものについて入念に調べたりした。早朝のアルバイトをしている時も「人間の同一性を脅かす破壊的な力に身を委ねること」の文言の意味についてしばらく考えてた。それを中心のテーゼとして小説として形にできないかと考えて、心を踊らせていました。 やがて図書館で「アイデンティティの心理学」という本を借りてくることになる。だが、読書が苦手だった僕は、その新書をパラパラとめくることしかできなかった。その本を、ちゃんとそれなりの高校に行き、堅実な手段を取っている一人の男友達に見せると、「これ、大学生が読む本だよ」と言われ、僕は「そんなことないだろう」と思ったが、結局読まなかった。当時、「うみねこのなく頃に」という作品にハマっていたので、ミステリー的な側面で、参考にしようとしていたアガサ・クリスティのミステリー小説「そして誰もいなくなった」も借りたが、それも読まず返却することになった。物語という壮大な、先鋭化されたものを��の中に絶えず思い浮かべていた。だが、頭の中に浮上してくる物語のイメージは大概が安っぽい物語のように思われ、悩んでいました。
【2011年 16歳】
宇都宮にある、作文と面接だけで入学できる「国際TBC高等専修学校」に入学するが、行く意味がわからず、ゴールデンウィーク明けに学校に行かなくなり、やがて退学。6月からスーパーの早朝品出し(6時半〜10時)までのバイトを始める。この時間帯を選んだ理由は知り合いなどに姿を見られなくないからだった。初めて、給料をもらうという体験をし、生活が娯楽に進むようになりました。塗装済み完成品のガンダムのプラモデルを買ったり、友達とやる遊戯王カードを買ったり、PS3を購入し、ダークソウルをプレイしたり、そんなことをしていた。創作については考えない日はなかったが、今は少し休止期間という感じで、時熟を待つことにしようと考えていたように思う。
【2012年 17歳】
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が、CLANNADなどの作品に影響を与えていることで、前から気になっていた。9月頃、何となく市内の図書館で借りた、その小説の分厚い単行本を、約1ヶ月ほどかけて読破し、広大な物語と、些々たる描写に、凄まじい衝撃を受けた。「どうしてこんなことが思いつくんだろう」と思った。本を読まなければという潜在的な危機感を抱いていて、借りた本だと思いますが、読んだらだんだん物語に魅了され、止まらなくなりました。そして、小説を読み切ったという事実が、読書に対する自信に結びついた。そこから購入して放置してあった「十角館の殺人」というミステリー小説を読破し、面白く、さらに「虐殺器官」など、小説を読むことができるようになってきました。その読書の過程で、以前読むことができなかった「アイデンティティの心理学」という一般書に回帰し、2012年最後の読書として、これも読み終えることができた。
冬に、ニコニコ生放送にて、「こぐまちゃん」という主にゲームを配信する人物に出会い、彼の音楽の趣味嗜好に大いに触発され、インディーズバンドなどをよく聴くようになり、こぐまちゃんが流していた、Good Dog Happy Menの「Bit by Bit」が入っているCDをヤフオクで落札した。そのCDを出品していたBURGER NUDSがバンドの中で一番好きだという方に他にもオススメのCDを聞き、挙げてくれた大量のCDをすべて、給料で購入した。この時影響を受けたバンドは、「ART-SCHOOL」「ナンバーガール」などだった。「Serph」「no.9」などのエレクトロニカや、「rega」などのポストロックも聴くようになった。また、彼は一人暮らしという環境の中で、たまにお酒を飲みながら配信をしており、その自由奔放な佇まいにもこの時、漠然とした憧れを抱いたと思う。
【2013年 18歳】
そこから僕は、主に家族共用の一室しかない六畳の部屋にある薄汚いブラウンのソファーに座りながら、三島由紀夫の金閣寺を読み、それから、シェイクスピアのハムレット 、リア王 、オセローを読んだ。だんだんと文学に傾倒していった。最初は読むのが楽しくもあり、苦しくもあった。なので、とにかく「異邦人」や「変身」などの薄っぺらい本を選んでいたが、やがて長編も読まないと、と思い読めるようになった。ヘッセの車輪の下を読み、あらすじから想像できた結末とは、全く違うもので、一種のミステリー小説のどんでん返しを受けたみたいに、めちゃくちゃに、打ちのめされた。
僕は「アイデンティティ」というものに非常に執着していました。ネットで調べていく過程で、ティエムさんのブログのこの記事に出会い、ロナルド・D・レインという精神科医を知り、人間の中には「真の自己」 と、自己を保持し「構え」なんとか生きている、にせの自己体系に隷属した、「にせの自己」があることを知りました。僕はこの記事を非常に興味深く読み、これは小説に活かせるのではないかと思いワクワクした。だが、世界が二つあるという、どうしても「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の残響が自分の中にあり、そのような構成にイメージが傾きがちで、揺らいでいた。
やがて、レインの著書を直接読んでみようという気になり、「ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究」を4月に注文し、学術書だったが、なんとか読み終えることができた。挿入されている分裂病者が記した詩的な文章にものすごく衝撃を受けた。また、「自己」というものについて仔細に考察している��は初めてでした。それから、「経験の政治学」「好き? 好き? 大好き?―対話と詩のあそび」「自己と他者」「狂気と家族」「結ぼれ」と、約半年くらいで読み進めた。「家族の政治学」「生の事実」と「わが半生」は、この時には読まず、21歳の頃、学生寮に居た際に、勉強に悩んでいた時、またレインに回帰しようと思いたち、手をつけることになった。「家族の政治学」は、「唯一可能な終末は、全善玉が全悪玉を殺し、また全悪玉が全善玉を殺した時でしょう 188」というような、破壊的かつ創造的な文章が全体を覆っており、さらにレインの今までの著書の総決算的な位置にあるということで、今までのレインの著書の中で一番好きなものになった。
「好き? 好き? 大好き?―対話と詩のあそび」という本の訳者あとがきに記載されていた
私は精神医学にかんしてはまったくの素人です。したがって、無責任にも反精神医学のお先棒をかつごうなどと思っているわけではありません。ただ、学生時代にジョルジュ・デュアメルの『ルイ・サラヴァンの生涯と冒険』を愛読して以来、文学作品を理解するにはいくらかでも精神医学の知識を持っているほうがよいと考えてきました。エリ・ヴィーゼルやアンナ・ラングフュスのような、極限状況を経験したユダヤ人作家の作品を知るに及んで、自己同一性の問題を精神医学との関連において考察する必要を痛感するにいたりました。
という言葉を読み、作品を作るにあたって、やはり精神医学の視点も持っていた方がいいと、この時、強く感じるようになった。
このレインの「自己と他者」という本で、ドストエフスキーの作品の考察がなされており、そこから罪と罰に手をつけた。そして同著で引用されていたサルトルの存在と無の文庫本の一巻を読み、人間は絶えず「演技」をしているんだということを知り、衝撃を受けました。
ここにいるキャフェのボーイを考えてみよう。 彼の敏捷できびきびした身ぶりは、いささか正確すぎるし、いささかすばしこすぎる。彼はいささか敏捷すぎる足どりでお客の方へやってくる。彼はいささか慇懃すぎるくらいお辞儀をする。彼の声や眼は、客の注文に対するいささか注意のあふれすぎた関心を表わしている。 しばらくして、彼は戻ってくる。彼はその歩きかたのなかで、何かしらロボットのようなぎこちない几帳面さをまねようとしながら、軽業師のような身軽さでお盆をはこんでくる。お盆はたえず不安定な、均衡を失った状態になるが、ボーイはそのつど腕と手をかるく動かして、たえずお盆の均衡を回復する。彼のあらゆる行為は、われわれにはまるで遊戯のように見える。 彼は自分の運動を、たがいに働きあって回転するメカニズムのように、つぎからつぎへと結びあわせようとして、一心になっている。彼の表情や声までぷメカニズムのように思われる。彼は事物の持つ非情な迅速さと敏捷さを自己に与える。彼は演じている。彼は戯れている。しかしいったい何を演じているのであろうか?それを理解するには、別に長くボーイを観察必要はない。 彼はキャフェのボーイであることを演じているのである。
存在と無
またこの頃に読んだ、キェルケゴールの「死に至る病」には高熱が出るほどの打撃を受け、僕はその時両親が使用していた寝室に横になり熱にうなされながらも携帯電話に本についてのメモを書いたのを覚えています。
初夏、罪と罰を読んでる頃、僕は痛烈に一人暮らしをしたいと思うようになった。夜、常夜灯にしてこれから眠ろうとしているソファーでの意識の中で、一瞬にしてそういった決意が自分の中に巻き起こった。僕の家は非常に小体で、みすぼらしかった。僕が普段生活できるスペースは、二階にある六畳の部屋の一室しかなく、もう一つある部屋は母、父、妹の寝室だった。一階は台所、風呂、トイレなど以外、叔父と叔母のスペースになっていた。僕は、いつも家族共用のソファーで眠っていた。真ん中にはテーブルがあった。テーブルを挟んだ壁際にはテレビがあった。家族が朝起きてくると、僕の眠っている肉体のあるそのソファーの縁に誰かが尻を乗っけて、テレビを見ながらテーブルでご飯を食ったりする。僕はそれが非常に嫌で嫌で仕方がなかった。精神の負担になった。ヴァージニア・ウルフという女性作家の有名なセリフの「女性が小説なり詩なり書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」ではないけど、いや、僕は男性だけど、やはりものを書くには自分の部屋があった方がいいと思うようになった。
「これはまた思いきって汚ない部屋だねえ、ロージャ、まるで墓穴みたいだよ」とプリへーリヤ・アレクサンドロヴナは重苦しい沈黙を破って、だしぬけに言った。「おまえがこんな気欝症にかかったのも、半分はきっとこの部屋のせいだよ」「部屋?……」と彼はぼんやり答えた。「うん、部屋もかなり影響してますね……ぼくはそれも考えました……しかし、あなたは知らんでしょうが、お母さん、あなたはいまおそろしいことを言ったんですよ」と彼は不意に、異様なうす笑いをうかべて、つけ加えた。」
罪と罰 上巻 工藤 精一郎訳 402
こういう言葉にも一種の示唆のようなものを感じた。
そこで、僕は、資金を集めるために、グランドホテルの皿洗いの面接をするも、落ちた。面接の時間までそのホテルの入り口付近にあるベンチに座りながら罪と罰の下巻の冒頭を読み、ラスコーリニコフと、スヴィドリガイロフの対話のシーン、亡霊の話を読んで、夢中になっていたのをよく覚えている。〈亡霊はいわば他の世界の小さな断片、他の世界の要素である 21〉
また、男友達が働いていたコンビニで働かせてもらうことになったが、研修の際に自分がその場所ににいることが「ありえない」という感じがしてならなかった。やがて、仕事中に散漫な気分がよく起きるようになり、やめてしまった。
二軒の、浅い緑色をした、家賃が3万円の、築年数がだいぶ経った二階建てのアパートを僕はネットで見つけ、一階が空いているということで、見学をさせてもらうことにした。外観こそ古かったけれど、部屋の中は入居前にほどんど張替えをしてクリーニングされていたこともあり、新築みたいに綺麗だった。間取りは1Kで、8•5畳と部屋も不自由のない広さだった。僕はそこに住みたいと切望した。だが、僕の手元には5万円ほどの金額しかなく、入居するには16万円の初期費用が必要だった。それと、必要最低限の家具代も必要だった。「机、椅子、ベッド、本棚、デスク、電子レンジ、洗濯機、冷蔵庫、食器…」最低でも20万は必要だった。
部屋があと一部屋しか空いていなく、誰かに住まれてしまう前に、早く確定させる必要があった。焦燥感が募った。とにかく働いてお金を揃えることが、喫緊の課題だった。女性の不動産屋さんと物件を見学した際に僕は、あまりに焦っていたので、「もし誰かに住まわれてしまった場合、誰かに出て行ってもらわなくてはいけませんね?」とおかしな質問をした。「それはどういうことでしょうか?」と相手は言った。「もし僕が住む前に部屋が埋まってしまったら、部屋が空くまで、住むことができないという意味です」「そうですね。部屋が空くまでは…」「どのくらいで部屋は埋まりますか?」などという会話をした。僕は、月6万円の稼ぎしかなかったので、バイトを増やす必要を感じた。日雇いのバイトは何度かやっていたが、それを入れても約一ヶ月くらいしか短縮にはならないと思い、とにかそこに住めなくては意味がないと思い、葛藤を生んだ。月6万円の今の稼ぎのままだと、7月25日に、7万、8月25日に13万、9月25日 19万。やっと、10月に一人暮らしができる。「早くても4ヶ月後だね。それまで頑張るしかない」と思ったが、性急さを消すことができず、金額の相談を両親に相談したら、実家に住んでいる叔父に相談してみたら、とのことだったので、僕は叔父に一人暮らしをする旨を相談し、16万円必要だということを話すと、難なく聞き入れてくれて、16万円をその場で貸してくれた。その時僕はかなりの抵抗はあったが、16万円を受け取り、必ず返すからと約束をした。そして、親と不動産屋に行き、契約し、鍵をもらい、9月から、一人暮らしを始めた。そして、やはり稼ぎが足りない���で、昼から近くのラーメン屋で働くが、苦痛だった。業務は、主に客が食べた食器を流しに運び、食器洗いをやっていた。餃子作りには失敗し、食器洗いの他には、卵の殻を剥くことや、玉ねぎの皮を剥くことなどが多かった。豚骨の出汁を取るための骨の肉の部分を手で直接取る作業があり、僕はその手で目に触れたら失明するのではないかと思い恐れた。バイトから帰ってきたら腰につけていた汚れたエプロンを毎回のように、他の衣服とは別に洗濯機で洗わなければならなくなった。僕はたいへん神経質になっていた。やがて、店主に呼び出され「もうちょっと早く仕事をこなしてもらわないと困る」と叱られ、3ヶ月あまりでやめてしまった。
2013.10.04 日記
この光景をおれはしらない いまみている光景をおれはしらない 言葉もしらない いま発している言葉もしらない おれはおれをしらない おれはおれが分からないからしらない 考えることをおれはしらない 考えている脳をおれはしらない 過去をおれはしらない いまおもいおこす過去をおれはしらない 未来をしらない 明日をおれはしらない いまもしらない いまをしらないをおれはしらない しらないをおれはしらない しらないをおれはしらないをしらない しらないをおれはしらないをしらないをおれはしらない しらないをおれはしらないをしらないをおれはしらないをおれはしらない」
ラーメン屋以外には、ピザーラでデリバリーをやったが、バイクで転倒してしまい、それきり行かなくなってしまった。それから他のアルバイトはせず、早朝のバイトだけで生活するようになった。この時、レインの本で言及されていたパウル・ティリッヒという人が書いた「生きる勇気」という本を読み、漠然とだが、勇気を与えられました。
【2014年 19歳】
朝の7時くらいに、バイトをしている中、ズボンにあるバイブが鳴り、珍しいな、と思い見てみると、中学の頃からの同級生である、同じ県で事務の仕事をしている女性から「家どこだっけ」と突然連絡が来た。疑問に思い、「なんで」と返すと、「一人暮らし大変そうだから差し入れでも」と来て、少し嬉しかったが、差し入れに来ず、うやむやになったまま数ヶ月が経ち、2月の下旬にアパートに僕の方から呼ぶことになった。彼女は仕事帰りに来ることになった。その時、男友達が3人僕のアパートに集まっていた。やがてその女性が近くのコンビニに着いたというので、僕は迎えに行った。そのとき雨が降っていたので傘を持って出た。その人は事務服だった。僕はその時女性に対しての自信が皆無に近かったので、接し方が全くわからず、動揺していたが、それが悟られないように自然になろうとした。コンビニを出ると、相手が傘を持ってないので相合傘をしながらアパートに向かうことになったが、空気が凍りついていた。
部屋に招いても、とくに雰囲気が良いわけでもなく時間が過ぎて行った。仕事の話になり、突然に、僕の男友達の一人が「〇〇(僕)も雇ってやりなよ」というようなことを、その女性に言った。そしたら「今工事部が空いてる」と言った。僕は「本当に?」と彼女に言って、その瞬間本気でその職場に入ろうという気持ちにさせられてしまった。梲が上がらない日々を打破する契機にも思えた。そしてそこに文学的な意味での価値も感じ取っていたことは確かだった。やがて、その女性が帰るという時に、僕は駐車してある車まで送って行ったほうがいいのかわからず、結果一人で帰すことになった。僕はそれを友達にも指摘され、後悔し、送ってあげればよかったと思った。精神的な凍傷を受けた。
早速、僕はその職場の応募要項などを見てみた。だが条件の一つに「高卒以上」と書いてあり、僕は非常に落胆した。そこで画策し、高卒認定試験を考えたが、もし取ったとしても、「高卒」に満たないことを知った。ということは、その職場に入るには、高校に入学してから、あと3年間の時間を要した。今年度の試験(2014)は、もう締め切ってあり、受けられないし、受けられたとしても勉強を全くしていないので、受かる自信がなかった。僕は熱望と果てしない失望に陥ったが、発熱したような状態は治らず、来年度の試験を受けて、2018年に高校を卒業し、高卒の資格を得てから、新卒でその職場に行こうと考えた。
その頃の日記の一部 「見た瞬間諦観がとらえた。慰めてほしいが、それをされたところで、わたしはもっとも泣きたい気持ちになるだろう。外部的な何かによって、わたしは殺される。22時。感傷に浸ることはできない」
2014.03.02
読むことも危険だし、書くことも危険だ。何もかも危険だ。どうやら僕は恋をしているらしい。今の問題は、今までの生活を破壊し、前に進むことだ。今までの自分は矮小化された自分だった。でもまたその中にいる。だが今までの自分は大切だし、僕が信じてた自分だ。僕は小説家になりたい。そして小説を書こうと孤軍奮闘してた。人生の意味を考えながら、昨日「雪」という随筆を書いて気づいた。これは書くのが難しいと。真実を書こうとするが、僕には足りない。常に疑念を抱いている。今日は早朝のアルバイトが6日振りに休みで、朝の6時頃寝床に入り、12時間以上眠り、18時過ぎに寝床から出た。 僕は僕自身の中にある問題のため、行動することができない。その問題とは、実存的な問題で、今これを書くことも問題として経験される。一人の女性に恋をした。その人が働いている会社に入りたい。でも条件を見ると、高卒以上と記されている。僕はこれらの問題をクリアしなくてはならぬだろう。時間、失われた時間。友達もみんな僕の相談に乗ってくれるような人物ばかりである。ああ、僕はやる。僕は今大いなる問題の中にいる。 深夜1時40分。ダイエット方法について調べる。アルバムを見た。痩せたいと思った。自炊をするか。もう何もかもダメだ。この日記を将来見よう。食生活が、栄養がとれていない。
2014.03.02
「今までやってきたことのすべてを放棄し、未来でそれを回収する」 この部屋のもの、全てを放棄して、新しい場所に向かって、またこれらのものを見たとき、わたしはこれらのものに愛を感じられるだろうか。 自分を制限していたようだ。
2014.03.03
なにをやっても虚無感しか起きない。11時45分。お昼を食べる。外はとても天気がよく陽が当たっている。生活の中では、彼女の姿が揺曳していた。
この時、マニュアル免許も応募要項に必須と書かれていたので、免許だけは取っておこうと思った。合宿のHPを見て、父方の叔父が、「免許取る気になったらいつでも言って」というようなことを思い出し、甘えきった自分に苛立ちを覚えながら、叔父にもたれかかるように電話し、お金をいただきに、横浜まで行った。その時、30万円をいただいた。4月2日にさくら市にある、自動教習所に宇都宮からバスで行き、21日に卒検に合格し、帰ってきた。帰ってきた時には、アパートが母親によって綺麗に掃除されており、幸福感を覚えた。コンビニですら歩いて10分くらいの距離にある僻地の四人部屋の宿泊施設の中では、地獄のような無味乾燥さがあった。そして、合宿から帰ったきたら、すぐさま、またどうにもならないような日々に帰っていった。
2014.05.15
来年から高校が始まる。あともう約1年後。それまでの間が耐え難く感じる。それまでの間、なにをするべきか悩んでいる。 いまやろうとしてるのは漢字検定で級の取得をすること。そのための勉強をしている。 しかし、自分が今まで長い間、他の人がやっていた勉強をしていなかったのがやはり一番いけないのだが、どう勉強したらいいのかイマイチわからない。勉強。 あと僕は働き口を探すことも考えるべきなのではないか、ということが最近頭に浮かんできた。 なんせ一人暮らしであるから、今のままでは、経済的にきついし、実家が近いので最終的に困苦欠乏は抑えられはするが、それでは如何せん身が安心できない。親に頼るようでは!そんな自分には鞭を打つ精神でないと…。
2014.05.24
「ゴドーを待ちながら」を読了。すべての文学の根源は、劇にあると思った。そして、その劇の根源とはまさに日常そのもの!今この瞬間だって劇になる! ずっと部屋に引きこもっていたとしても、それが劇なんだ。劇とはまさに想像すること!日常の些細な断片を、汲みし、反芻し、味を醸し出すこと! 毎日同じことの繰り返しで辟易したとしても、それが劇だと思えば、なんて楽しい、素晴らしいんだ!日常生活のなにもかもが、劇になる!この世はカーニバル!
2014.05.29
今日はいつものようにアルバイトから帰ってきて、薬局で烏龍茶とチーズスティックアイスを買って、家に着くと、洗濯機を回し、テレビをつけ、アイスを食べ、それから少し15分ほど横になろうと思って寝床に伏した。それからドン・キホーテを読み進めたが、話が現実離れしすぎていて、活字を見ているうちにだんだん眠気に襲われて、また12時過ぎくらいから15時頃までたっぷり3時間も寝てしまった。最近こういう日が続いている。眠りたくて、つい寝すぎてしまう。その代わりに深夜遅くまで起きている。今は1時55分。 寝床から起きると、少し迷った挙句、冷蔵庫にあったサラダのパスタを食べ、それから何をしたろう。またドン・キホーテを読んだか。意識が判然としていなかったのか、よく思い出せない。夕方18時20分くらいになると、やっと外に出た。ん、今思い出した。漢字検定の問題集を二つほど進めたんだった。 外に出て、図書館に「文章」についての本を探しに行って、結局見つからなかった。朝日新聞を読んだ。本に圧倒された。 やはり僕はもっと本を読むべきだと思った。頭の中で駄弁を弄しているだけではいけない。それからデパートの文房具売り場にノートを買いに行き、本を見て回っていると、「日本語検定」の本があって、めくったりしてみた。資格。 そして、夕飯を買って、食べた。出かけている時に考えていたことを実行しようとパソコンを開いた。その前に自慰をした。 そのパソコンで何をしようとしていたのかというと、これから「やるべきこと」を深謀遠慮するために、いろいろとパソコンで調べようと思っていたのだ。 それで今日、ある計画を立てることができた。それは「論理エンジン」という教材を買うために、お金を貯めることだ。それは13万円くらいする。パソコンでいろんな資格を調べているうちに、前から気になっていた「論理文章検定」をやってみたい、と思うようになった。「論理的」というものに、惹かれるものがあった。頭の中でぴったりしているような感覚。論理を学んで、この曖昧模糊とした場所から抜け出したい。そこで、僕は明日から早速バイトを見つけるために、行動をしようと思う。 「人並み以上のことをしなければ、人に優ることはできないのだぞ byドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」
僕の、恋の感情だが、進行する日々の中で、だんだんと、完全に消えていった。恋をしているという妄想をしていただけだったのかもしれないと思うようになった。そして、僕はひとまず教材のために、労働者派遣会社から、紹介のあった倉庫のピッキングのバイトに応募し、そこでアルバイトをすることになった。6時半から10時までは、スーパーの早朝品出しをし、11時半に支店の前の送迎バスに乗り、お昼前に着いて、午後から19時くらいまでピッキングした。商品の名称と数が記載されている用紙を受け取り、飲料��、食品をカートに積んで、目的の場所に運ぶだけという淡々とした作業をひたすらこなした。だが、僕はそこにいる人々や、仕事に嫌気がさしていた。「短大で失敗して、ここにきたんだ」と言う人や、40代で出会いがないと言いながら結婚もせず、労働者派遣会社の日雇いから正社員になることを少し考えながら休憩の時間に毎回缶コーヒーを買い、娯楽のことについて語ってくる人など、そこにいる人たちと同じになりたくなかった。僕はきちんとした目的志向を持った上でここに来ているんだということを示したかった。
僕はその頃から、大学に行きたいと考えるようになった。朝のバイトと、そのピッキングのバイトの合間に図書館に通っていた。よく本のカバーのそでの部分を見ると、「〇〇大学卒業」と書かれてるのが頻繁に見受けられ、漠然とだが、本を書くには大学で勉学していた方が役立つのではないか、と思うようになった。今の環境とは対照的なアカデミックな世界に身を投じたいと思った。閉鎖的で、外界との接触がない自分を痛烈に感じていたので、大学という共同体に属することが、魅力的に思え、コントラストを感じるようになった。そして、将来、研究職に就いて、論文を読み書きし、翻訳書ではなく原文のまま書物を読んだり、そのために英語を習熟したいと思うようになり、これからどうすれば良いかアドバイスを受けようと、ネットで質問すると、「中1英語をひとつひとつわかりやすく。」という教材をおすすめされ、その教材を買い、少しづつ進めた。
早朝のバイトの最中に僕は時間を見つけては、頻繁にトイレの個室に行き、英単語のアプリなどをやるようになった。僕が頻繁に仕事中に消えるので、やがて、同じコーナーで働いていた叔母さんに怪しまれるようになり、店長に密かに僕のことを報告されていた。そして僕は副店長に呼び出され、食品の品出しから、鮮魚の部門に移動になり、そこで商品の値下げをしたり、アジのたたきなどを詰めて、陳列したり、包丁でワカメを細かく切ったりする作業をした。
ある日、倉庫のバイトの最中に、荷送りのトラック付近にあった高い段差のそばにあったカゴ台車に野菜ジュースを、積んでいたのだが、その台車を移動させる際に、誤って、地面に落下させてしまい、商品を大量にダメにしてしまった。多量の液体が地面に流れ出た。そこで、僕はそのことを受け入れることができなかった。倉庫の責任者と揉めることになり、放心状態になりながら逃げ出した。そして、同じ労働派遣会社からここにきていた若い男に「おい、なに逃げてんだよ。働かせてもらってんだぞ。わかってねえのか」と言いながら、いきり立ちながら、思いっきり僕の服を掴んで、引き戻そうとしてきた。僕はなくなく従い、また責任者のところに話をつけに行った。僕は苛立ち、自分の持っていた鉛筆で、商品の段ボールを乱暴に刺し、歩いて泣きながらアパートまで帰った。僕はその野菜ジュースの代金を支払わさせられるのではないか、とひたすら怯え、そこから逃れることしか考えていなかった。結果、労働派遣会社が野菜ジュースの破損した金額を支払ってくれることになり、僕はその仕事場にはもう行ってはいけないという待遇になった。
やがて、僕がバイトをする動機であった買おうと思っていた高価な教材がヤフオクで安く手に入ることを知り、購入し、アパートでその「論理エンジン」を進めた。僕は当時のその時のめまぐるしい心境を明確に思い出すことができないのだが、焦燥感のようなものを感じていた。ある日、僕は絵を勉強したいと思い、東京の表参道にある絵画教室に行くはずで、東京に来ていたのであるが、「絵なんて学んでいる場合ではない」という思いが突然に起きて、その日に四谷学院と、河合塾に直接足を運んだ。そこで、大学で勉強したいと考えている旨を相談した。そして僕はその日、「高卒認定試験」という手段をとることに決めた。僕はその日まで「高校に3年間行く」という手段を取ろうと考えていた。高卒認定試験で、大学に行くことが、便宜的であると感じたし、高校という「共同体」に属すことが何より肝要だと考えたから。だが、予備校などに実際見学に行って見ると、大学に行きたいという気持ちが先行することになった。絶えず未来に流れていく自分に今の自分が押しつぶされそうになった。
僕は地元にある塾にも相談した。そこでは、通信制高校で単位を取りながら、塾で、大学受験に向けての勉強をするのがいいとのことだった。中学基礎から高校基礎までを2016年の夏に完成させ、2017年から大学受験勉強をする方向性がいいと言われたが、僕は遠い話だと思い、そこには通わず、9月に、近所の「多読多聴」という独自のコンセプトを導入した英語塾に入った。高校生のクラスに入れられたが、全く基礎ができておらず、be動詞もわからなければ、簡単な単語もわからなかった。まず自分が何がわからないのかもわかっていなかった。そして、中学生のクラスに混じって、4ヶ月間程度教わった。だんだん英語塾だけだと不安になり、他の教科も含め、包括的に見てもらえる環境を望み、12月から家庭教師をつけることにするも、馬が合わず、やめてしまった。
【2015年 20歳】
1月から京都大学法学部卒の人間が一人で経営している塾に通うが、満足に講義をしてもらえず、教材も渡されず、デスクトップパソコンを売って手に入れた7万円を先払いした状態だったが、やめさせて欲しいと、返金して欲しいと頼んだ。しかし、相手が悪辣で、7万円を返金されることは叶わず、結果退塾した。
それから僕は地元にある総合塾に見学に行った。母親とも会わせ、非常に温和な性質な先生で、親身に相談などに乗ってくれ、パーソナルな背景も理解してくれそうだったので、そこに通うことにした。そこでは、今やっているバイトを辞めて、実家に帰った方がいいと助言された。バイトと勉強を両立させると中途半端になるという話だった。
やがて、僕は3年以上続けた早朝バイトを辞めた。そして経済的な側面から、2015年の1月いっぱいで、一人暮らしを辞め、実家に帰った。だが、自分の部屋がなく、静かに勉強するスペースも全くなかったので、最初は、焦慮に駆られながらファミレスに行って勉強していたりしたが、やがて、台所の冷蔵庫と食器棚の間にあるスペースを空けてくれて、そこに机を設置して、その薄暗い場所で勉強をした。
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だが、その塾でもウマが合わないと思うようになった。やがて、「地元から出た場所にある塾」を志向し、4月の終わりに退塾し、今度はネットで受講できる、前衛的に思えた「偏差値30からの早慶圧勝の個別指導塾」という文言で宣伝していた塾に、5月に入った。そして、田町の慶應義塾大学の向かいにある独自の理論で指導を行っている塾を見学し、そこにも通ってみたくなった。僕はどうすればいいかしばらく悩み、入塾金など諸々の莫大な金額に、家族にも相談することができずに頭を抱えた。
【田町の塾】(英語) (東京・三田) ・月48回 【全額 432,200円(税込み)】 ・140,400円×3回 1回目 5月7日までに【140,400円】 2回目 6月7日までに【140,400円】 3回目 7月7日までに【140,400円】
【ネット受講できる塾】(英語、日本史、国語、小論文) (東京・三田) ・5月~2月入試まで 【全額 651,240円(税込み)】 ・入塾金 【21,600円】  授業料2か月分 【144,720円】 =【166,320円(税込み)】 ・毎月4日支払い 【月額 72,360円(税込み)】 1回目 6月4日に72,360円 引き落とし ・塾二箇所合わせた全ての金額 【1,083,240円(税込み)】 +ネット受講できる塾から指示のあった参考書代 +交通費【年間約53,280円】 5月02日 借りている金額【320,000円】
という現実に当たった。僕は下記の誓約書を家族に渡し、��うにか通わせてもらえないかどうかと訴えた。
「この度、お金を借りるにあたって、その金額が、どれだけ重みを持っているか、どれだけ稼 ぐのが大変かということを私は意識した。 本当は容易に借りられることがないそのお金、手に入るべきでないそのお金を借りるにあたり、 私は、今後、一生涯にわたり、下記に記したことを、厳守することを誓う。 1.まず、お金が本当に必要な事態に直面したとき、お金を借りることが最善の方法でないことを最大に自覚する。 2.そして、人間として、第一にやるべきことは自分で働き、稼ぐことだということを、今後の鉄則とする。 3.借りたお金は、絶対に無駄にせず、絶対に、将来返すことを約束する。一端の社会人に なることを誓う。 4.また、今後、お金は借りないことを約束し、絶対に履行することを誓う。「お金は借りられるという、甘えを許さない」 5.未来永劫、この恩を忘れずに、生きることを誓う。家のことを 進んで手伝う。 6.もし受験に失敗しても、今度は、一人の力で、精力的にやり続ける。その根拠は、この 九ヶ月間で、一人で勉強するための基礎力を完璧につけるからである。 もし、またほかの予備校に行きたいと言ったら、まったく成長していないという証拠である。 勉強で 大切なのは、自分の頭で考えることであると、意識しながら勉学に励む。 7.自己責任が原則であることを心に留め、迷惑をかけない。 8.心配をかけないようにする。常に状況を報告する。 9.本当に大切なことを常に考え、行動する。 10.決めたことは、絶対に初志貫徹する。右往左往しない。」
そして僕は、また叔父から金額を拝借できないかと働きかけ、まず始める際に必要な金額を借りることができた。
だが両方とも、数ヶ月後、これまた中途半端にやめてしまった。僕は勉強をするというより、勉強法に時間を費やしているという感じだった。受験に集中できないことに悩み、今度は抜本的な問題を発見するために、新宿の「心の杜」という心療内科・精神科に一回行ってみたり、地元のカイロプラクティックに行き、骨が悪いから脳に酸素が行き届かず、障害があるのではないかと思い、昭島まで「骨の歪み」を見るためにレントゲンを撮りに行ったりした。だが、矯正をするにも金がかかるので諦めた。
やがて、7月の終わり頃から池袋にある世界史専門塾に12月頃まで通うことになった。そこは「世界史「を」教える」のではなく、「世界史「で」教える」というようなコンセプトの元でやっている塾で、時事問題や、社会構造などが知れて面白かったが、勉強は苦痛だった。僕よりはるかに勉強のできる現役の高校生と席を並べて一緒に勉強をするのは苦痛でしかなかった。
8月に一緒の家で生活していた母方の叔母が死に、10月に父方の叔父が死んだ。普段叔母は叔父と一階の八畳の和室で生活しており、寝るときは隣の寝室で寝ていた。10月の終わり頃、なぜか今まで両親と妹が使っていた寝室を僕の部屋にと、勝手に開けてくれることになり、両親は普段叔母たちの生活していた和室で寝ることになり、妹は二階にある二部屋のうち、一部屋で寝ることになり、そちらは妹の部屋のようになった。僕は一室使えるようになったが、最初の頃は抵抗があった。
大学受験が近くなってくると、僕は今年の大学受験を諦めようと思うようになった。壊滅的に勉強ができていなかった。どうしようか悩み、周りの人たちと相対的に見て、僕は三田文学新人賞をとり、慶應義塾大学のSFCに、AO入試で入る道がいいのではないかと思った。小説を書き、応募し、最終候補者に選ばれれば、出願資格の条件が得られたし、自分の進みたい道と符合するのでそうしようと考えた。だが悩んでいた。そのことを世界史専門塾の慶應義塾大学に通っていたスタッフに相談すると、「とりあえず今年大学入ったらいいじゃん。なんで牡蠣って食べれるんだと思う?それは牡蠣が安全だってみんなが判断したから、「安全」だっていう前提が個人に生じて食べれるんだよ。みんな偏差値が高い大学に行きたいと思ってるけど、それはみんなが「安全」だと思ってるからだよ」というような話をされ、僕は納得したが、まだ悩んでいた。
僕は、漠然と東京のどこかに住んで、広尾にある東京都立図書館に通うことを考えていたりした。大学図書館を除いて、蔵書数が国会図書館に続いて第二位だし、実際行ってみて雰囲気が良かったから。シェアハウスに住むことを考え、荻窪にあるシェアハウスに見学に行ったりした。また、ビジネスに手を出そうと考え、自分の時間を売ることのできる「タイムチケット」というサービスで「せどり教えます」という、会社を起こした人物に直接会ってみた。そして一緒に働かないかと一回誘われるが、僕があまりにも右顧左眄であり、中途半端なので、断られ、やがてまた自分の世界に戻って行った。
2015.12.22
現在、東京都立図書館の二階に来ている。たまたま目に入った本「軍隊教育と国民教育」 なんか面白そう。 でだ。私が思うこと。私は本に圧倒されている。読むべき本しかない。 それをなぜ今まで読まなかった。読むべき本をなぜ読まなかった。こんなにも知識欲を満たしてくれる本がたくさんあるじゃないか。おい。 なぜか、手遅れ感が、焦りが、私を非常に不快にさせる。 私は今こんなんだ。ちくしょう。なんでもいいから、とにかく事に当た らねば。自分が消失してしまう前に。まず、立ち位置を把握することが一番重要だ。なぜなら、過去、現在、未来の連関の中で自分をみるべきだからだ。でないと、どこを進んでいるのかすらわからなくなる!
【2016年 21歳】
1月、岸田秀が講師をしていたということで知って、以前から何回か訪問していた和光大学のHPにたどり着き、表現学部総合文化学科という学部のページの文章を何気なく閲覧していると、教員紹介が語っていた言葉に興味が惹かれた。そこを受けてみようという気になり、出願することになった。母親の友人から同盟学寮というものを紹介され、そこに応募することにした。
その頃、以前相談したこともある、松葉謙さんという教師と兼業で今の相談業をやってきたが、カウンセラーとして独立した人物に影響を受け、僕も彼に倣って、「社会福祉士」という資格を得るべく、「日本福祉大学」に資料を取り寄せ、出願して、無事合格し、和光大学と並行して勉強しようとするも、二重学籍になってしまうことを知り、それがバレてしまうことを恐れ、また経済的な側面も考え、入学を取りやめた。
和光大学に受かった。そして、同盟学寮に、必要な履歴書と、必要ではないが、絶対に受かりたいという思いで個人的に書いた下記の文章を同封し、募集要項に記載されていた住所に書類を発送した。
「同盟学寮様へ 私の決意と、目標。 私は、同盟学寮様にどうしても在籍したいと思っています。 その志望理由、これから同盟学寮でなにがしたいのか。同盟学寮様はお望みではないかもしれませんが、私の「意思」をどうしても伝えておきたいとの思いで、文面にて書き表そうと思いました。 私は今年21歳になります。今年2月1日に和光大学表現学部総合文化学科の試験を受け、無事に受かりました。ここに行く理由は社会の上部構造である「文化」またそ の文化に影響を与えている「経済」を横断的かつ総合的に学べることと、情報発信するための「表現」の三つを学べると思ったからです。 私は夢が二つあります。 まず一つ目が、「小説家」になることです。なぜかというと、14歳の時に偉大なる 「作品」に触れたことで、創造欲が掻き立てられたからでした。 今まで、私は殻にこもり、読書をしたり、小説を書こうと、文字通り、呻吟していました。 しかし、そうやって独学して、だんだんと本を読んでいく中で、世の中には様々な 「表現」や、「視点」が存在していることを知り、私はもっと、人と関わり、議論 し、視野を広げたいと常々考えるようになりました。 「内」から「外」への転換が起こってきたのです。今までは、他人から本質を規定 されて、自分を矮小化されることを恐れ、「一人でやるんだ」という思いからどう しても離れることができずにいました。自分の関心を内へと、向け続けてきました。 しかし、それ自体がまさに矮小化された自分だと気付きました。重要なのは、自分の関心を外に向け、発信していくことだと気付きました。 「もっと人と関わり、話し、感化し合う」べきだと思いました。 大学受験の勉強をする中で、私はたくさんの人間と出会いました。その中で、勉強も大切だけど、社会人としての素養を身につけることの大切さをひしひしと感じました。 すべては、コミュニケーションから始まる。本当にそう思いました。大学受験の入学試験だって、教授とのコミュニケーション、小説家だって読者とのコミュニケーションです。 自分に執着し、(仏教でいう「我執」)コミュニケーションを閉ざしていては何も発展しない。今までの生活の中で、体感的に、そう思うことができました。全ては 「共感」という一語に集約されなきゃ意味がないと思いました。 同盟学寮では、ホームページにもある通り、共同生活や、行事など、人間形成や、 適応性涵養を育む上で非常に、最適だと思います。同盟学寮での仲間たちとの関わ りの中で、様々なことに「気付き」自分に「活かす」ことができます。 これほど有用で、幸せなことは私にはありません。「同盟する」ことの大切さをこれから学んでいこうと考えています。 もう一つの夢ですが、 「社会福祉士」の資格をとり「児童養護施設」などで、困窮している人々の「自立を支援」することです。 社会には困っている人が沢山おり、人間は社会という脈略の中で生きています。 様々な情報や、広告などが溢れる世の中で、見えない作用によって、人々は行動しています。偽の厳粛さが社会全体を覆っていると感じています。そういったことをきちんと「社会学」や「実践知」できちんと学び「対象化」し、理解して、本当に困っている人を支援したいです。さらに東京行くことの意味について。 私は現在栃木県〇〇市というところに住んでいます。そして、私は東京に住まなければならないと考えています。 それはなぜかというと、本が読めるからです。私が現在住んでいる栃木県〇〇市の図書館では蔵書率が多くありません。これは税収も関係してると思います。例えば、ある時、宮台真司さんという社会学者の著書で勉強したいと思ったのですが、 30冊は超えているだろう著書の中で、近場の図書館には、1冊程度しかありません でした。アマゾンというショッピングサイトで見てみると、1200円程度。東京では即日すぐ図書館で読めてしまうものが、地方だとどうしても、現在は買うという選択肢しかないのです。そして、多くの著書に触れられないので、それが盲点になってしまい、知識に「穴」ができてしまいます。 男性寮がある千石付近だと、文京区立図書館があり、ここでは貸し出しができます。さらに蔵書率が多い、広尾の東京都立中央図書館、永田町の国会図書館まで約30分程度。大学付属図書館もありますから、本を読む環境が随分と整っています。 私は、年間約1000冊、4年間で4000冊は確実に読みたいと思っています。さらには都内には大型書店、また中古書店が非常に充実しています。1年で1000冊となる と、365日のうち、270日は1日3冊、95日は1日に2冊という計算になります。東 京はそれを達成するための、インフラがあります。同盟学寮を勉学するための「拠点」として利用していこうと考えています。 また、最後に「経済的自立」ということが一番重要であることについて。 今までの20年間、私は両親に多大なる負担を強いてきたと思うので、これからは経 済的自立ができるよう、親に迷惑をかけないよう、考え、行動していきます。同盟学寮に通いつつ、古野伊之助様を見習い、「勉学」と「仕事」を頑張ってこなしていきます。3万円と、定期代の1万2000円。合計42000円は4年間、必ず自身が出し続けることを、誓います。 「お金」と「不安」は何をするにもついてまわるものだと思います。だから、私はそれを乗り越えられるよう、「お金を稼ぐ方法論」をきちんと身に付けたいと思います。 最後に、私はこれからは何よりも積極的に行動していきます。そうでなきゃ、この人生はやってはいけません。 この文章をお読みになってくださり、ありがとうございます。拙い文章を長々と、 本当に、失礼いたしました。
その頃僕は、スカイプの通話、チャット相手を探せる「スカイプちゃんねる」という電子掲示板で、とある女性(以下Eちゃん)に出会った。コンタクトを承認され、1時間くらい通話した。その人とツイッターをフォローし合い、関係が良好であると意識した時には、もう彼女から離れたくないと思うようになった。そのひとに気に入られようと、考えていた。
2016.02.17
15時からの、寮の面接に向かった。社会学入門という本を購入し、後ろめたくなり、面接終わったら働くから!と僕は胸中で言った。鏡で映った自分の顔は乳液でテカテカしていて気持ちが悪かった。口元がこんもりしていて醜い。また腐ったようなコートを着た。眼鏡がない、スマホのポータブル充電器がない!と焦った。電車の中で、大学に向かう途中の小田急線から見える風景を想像した。海。江ノ島。楽しいのではないか、と若干気持ちが高揚した。これから日本はどうなっていくんだろう。
12時くらいだった。東京駅近のビルにて。ビジネスマンやサラリーマン、外国人。なんというか、すべての人間が高級品のように見えた。僕もこんな場所で、1個980円もするハンバーガーを頬張ってみたい。神秘を感じた。一人一人に何をやっている人なのか、尋ねたいと思った。お金を稼ぐことができていたら、今なんか食べれて、経験ができ、視野が広がったかもしれない。こう言う時に金があれば…。自分の時間を創ること。現代という時間の枠組みの中に、意味もなく急かされている自分ではなく、それに迎合しない、新たな自分を作るんだ。そのためには、自分を表現するための「メディア」が必要だと思った。何より大切なのは、文章と、写真だ。デュルケムの比較社会学を読んだが、圧迫感がある意識の中で、よくわからなかった。
「初めまして電話では」と東京駅で会釈し合うスーツを着た三人の男を見かけた。一見全く違う人間に思えた。笑っていたが、一体何をする人なのだろうか。気になった。これからどこに行くんだろう。東京駅舎という場所を初めて知た。おお!僕の時間のこの平行線上に他人の時間がある。そこにある不自然であると思えるもの、他人にとっては自明のことであり、僕にとっては自明でないもの。そのギャップが不思議なものである。ある人にとっては「自然」であり、ある人にとっては「不自然」なもの。僕はそれを埋める何かが書きたいと思った。地下街に行った。多くの人間は機械的だ。僕は人間だ。それを思い知らせてやるんだ!というフレーズが突然頭に浮かんだ。
14時、僕は寮で行う面接の暗記をした。日比谷公園だった。僕は叔父のことを思いだしていた。ガンで四ヶ月前に死んだ。もう戻らない叔父の時間。僕は過去に、ホテルオークラで行われた藤原正彦講演会を見に行き、それが終わって、この日比谷公園を歩いていた。その日、講演会の後で叔父に会う約束をしていた。「今、日比谷公園のそばを歩いてるよ。今から横浜駅に向かうね」と電話した。もう、会えないんだなと思った。
Eちゃんからスカイプでメッセージがきた。
「のいちゃん」
この時、僕は「のい」という名前をもらった。僕のスカイプの名前は「野井豆」だった。
「暇なぬ?」と送ったら、「暇なぬ」ときた。僕は面接で緊張していたので、考えもなしに「こわいしぬ」と送ってしまった。「どうして」と来たので、「しぬ」と言ったら「ねえ、やだ。どうしたの」と来たから「今面接に来ているんだ」と言った。そしたら「頑張ったで賞あげるから大丈夫だよ頑張ろう」と来て、なんて優しいのだろうと思った。面接の前に通話をしてもいいか聞くと、いいとのことだったので通話をかけた。面白い自分を見せたくて、ビルの付近にいた清掃員をビデオにしながら追跡したら笑っていた。僕は、大学生という設定だったので、見栄で、寮の面接とは言わなかった。ただ、面接とだけ言った。足元をビデオで写してしまったら、「すごい。ちゃんとした服着てる」と言われた。
16時に面接が終わり、緊張のあまり、放心状態になっていた。本屋があったので、そこで本を読むことにした。多くの本を読まなくてはならない。僕は知らなければならないと思った。頭が痛くなった。 今の自分を最適化したいと思った。本屋から出た。僕はどこに行くべきか。誰か教えて欲しい!西新橋の「猫雑貨の店エブリー」という場所を通りすがりに一瞥すると、猫の顔が入ったふわふわしたパジャマみたいな服を見つけた。写真を撮り、彼女に送ってあげたいと思ったがスルーした。ナポリタンの店を通りかかった。彼女と行きたいと思った。そして、僕は結局雑貨屋に引き返し、その服の写真を撮り、彼女に送った。この日、Eちゃんとラインを交換した。
その次の日、入学金と前期の納入分の78万円を母親から渡された。苦しかった。僕は顔を気にしていた。本当に彼女が欲しくなった。
小説が書きたいと思う日々だった。中学一年生の頃の心的外傷の話を描いた小説を書き上げようと絶えず構想を練り、とりあえず読書を重ねる日々だった。僕は、「あ」と思い、母親のスマホから連絡先を探し出し、中学生一年の頃の担任であった男性と、学年主任だった女性と、一人ずつコメダ珈琲で会って話をする約束をつけた。小説に厚みを持たせるために、僕は当時の中学の頃の僕自身の話などを聞いた。だがこの時「分かり合えない」という感情が生じた。
3月の上旬、これから大学という、社会的な共同体に属そうとする予期的な何かに従って、僕は服を買いに行きたいから、見に行こうと友達に誘った。そして、宇都宮のインターパークに行き、服を見たが、結果見ただけにとどまり、その後友人と居酒屋に入った。楽しくて、飲み放題で僕はつい飲み過ぎてしまい、またタバコも吸いまくり、極度に酩酊してしまった。二軒目に着いた時には、もう意識が朦朧としていた。僕はカバンをどざっと���ーブルの上に置くと、その音が他人の迷惑になったみたいで、「おい、うるせーよ」といきなり他人に怒鳴られた。僕は友達に迷惑をかけてしまったという思いが急激にせり上がって来て、自罰的になり、衝動で、「もう友達じゃないんだな!」と言って、店のフォークを自分の左手の小指の部分に思いっきり突き刺した。それから僕はどうやら泡を吹いて倒れたらしく、友人に担がれ、外の道路に運ばれた。やがて、意識が戻ったが、僕は異常酩酊し、暴れ回り、やがて両親と警察が来た。汚い言葉を散々辺りに撒き散らした僕は、保護室に運ばれた。やがて、深夜の3時頃親が迎えに来てくれて、僕はフードで顔を隠し、その後しばらく家族にも顔も見せられなかった。僕は音楽を聴いて、獣のようになりながら日々を過ごした。
やがて、男の抱く最も強烈な感情が、心に溢れ出た。僕はEちゃんのいる中部地方まで、突発的に電車で会いに行くことにした。「会いに行く」とラインで送ると、「テスト勉強があるから会えない」というようなことを言われ、あと心配そうだったが、僕はもう普通電車に乗っていた。とりあえず僕は遠くに行くことを考えていた。なぜかその時、ビニール袋に聖書だけ入れていた。終電を迎え、始発の電車に乗るために、コンビニで聖書を読んだり、書き物をしたりして、朝を迎えた。
僕とEちゃんはその日会い、街をとりあえずぶらついた。女の子と二人で会うことは新鮮だった。そして、「彼女になって」と言ったら、少しだけ頷いた。付き合うことになった。
同盟学寮の結果を待っていた。 当日、はやくして!決めるのはおれじゃない!と絶えず焦っていた。そして、電話すると、不合格なのを知った。合格しているだろうと思っていたので、僕はぶん殴られたような気持ちになった。事件を起こし、「排除の空気に唾を吐け」という新書に登場した造田博のように、僕も何か事件を起こし、一冊の本になってしまうのか、という思いが瞬間的に僕をとらえた。全身が震えた。同盟学寮という属性にぼくはじぶんを縫い付けたかった。早くここから出たい。常に外に変形されている自分を意識した。父がただいまというが返事もしなかった。父は二階に上がってきて、雨の中、洗濯物を混み、階段の上に置いてあった僕が使用した食器を片付けた。
僕は急いで、インターネットで別の寮を探すことになった。その流れで、国分寺にあるとある学生寮を発見し、青息吐息で連絡をし、面接をした。そして、面接中に合格であることを告げられ、一安心した。寮には、3000冊もの蔵書があるということで、僕はそれを実際見て見ると、そこに入りたいという気持ちが募った。それと、メンター制度というものがあり、「メンターとは、「助言者、師匠、教育者、後見人」という意味で、仕事やキャリアの手本となり、あなたの味方になってくれる人です。 経験豊富なメンターに、継続的な支援を受けることを「メンタリング」といいます」と記載されており、興味を持った。
寮に入る前日の夜、母から「〇〇なら可愛がってもらえるだろうから。ニコニコしてんだど。ニコニコしてれば、誰かが近寄ってきてくれっから。わかったか?悪い人に連れてかれないように」と言われた。そして、入寮する日が来た。一睡もできなかった。強烈な眠気と、全身の痛みでぶっ倒れそうな意識だった。荷物が関節に当たって痛かった。今日いつ寝れるかわからないし、ベッドのカバー買わないといけないだろうし、どこで買うのかもわからんし、枕持ってくの荷物になるから持ってないから、枕も買わないといけないだろうし、たくさんの人間と会わなきゃならないし、頭使いそうだな…とごちゃごちゃした思いが頭の中で起こっていた。寮の最寄り駅に着くと、僕はこれから適応しなければならない未知の環境が怖くて仕方なかった。コンビニのトイレで息をつくと、寮に向かった。
寮は二人部屋だった。最初は自身の積極性の欠如と、孤独感で、心がうろうろしていたが、だんだんと馴染んでくるようになった。同室の人と会話し、その人は早稲田大学の文化構想学部に通っている三年生で、僕より一つ年下だった。僕が小説家になりたいということを話すと、「俺、編集者とか知り合いにいるよ」などと言われ、僕は興味を惹かれた。「今日みたいなこといくらでも話しますよ」「ありがとうございます。ぼく興味しかないんで、いろいろ教えてほしいです。啓蒙になるんで」「いえいえ」というような会話をした。
大学の健康診断の日、  僕はまだ親の庇護下にある、と思った。待ち時間、皆スマホをいじっていて、堂々と下ネタを言い、うるさく話すものもあり、雰囲気が明らかに幼稚で、僕は鼻持ちならなくなった。ツイッターで出会ったとある哲学好きの読書家は、今頃本を読んでいるんだろうなあと思い、僕はなにをしているんだろう、と思った。寮に向かう帰りの電車の中、親の行為を小さい子供は見ている。窓に向かって子供が「宇宙船みたいのが見える!」と陽気な声で言った。すると、スマホをいじりながら母親が「なんだろーね」と言った。子供は「ね」と言った。
寮のイベントで花見が行われた。新入寮生歓迎会の一環でもあるようだった。僕は自己紹介をした。入寮する前、僕は寮生のいるラインのグループに入ったのだが、その頃のサムネイルがgroup_inouのイルカくんの画像で、名前もイルカだったので、本名ではなくそちらのインパクトの方が大きく、僕は気付いたら、ほとんどの寮生からなぜか「イルカさん」と呼ばれることになった。近くの公園に青のレジャーシートを引き、酒や寮生の出身地の名産物などが振る舞われ、楽しい雰囲気だった。同性の寮生の人間が声をかけて来てくれて、その人は法政大学に通っているとのことで、初めは筑波大学を受けて、筑波大生の寮に入ろうと思っていたらしいが、落ちたので、ここに来たらしかった。その人の父は、NHKで働いていて、教育熱心であり、その人が寮に入るという選択をした際、「お前の人生で初めて予想できなかったことだった」と言ったらしかった。また、農工大の同性の人とも話し、海外へ行った際の、たくさんの経験を話してくれた。いろんな差異を見せられ、自分の今までの生活があまりにも閉鎖的で、また愚かなことに思えた。
次の日、入学式だった。母と一緒に行く予定だった。雨が降っていた。僕は、入学式なんてどうでもいい。受付登録もどうでもいいと思った。大学の最寄駅に着いた。僕は僕自身が一番気になっていた。自意識の問題がその日を占領していた。9時45分。10時から入学式は始まる。あと15分だった。母を待たずに僕は歩いて大学に向かったが、遅れてしまうと思った。遅れたところで構やしない!誰も生徒らしい人がいない。私は入学式を、なんかの講演会に参加するみたいにしか感じていなかった。会場に着くと、他の学生はスーツを着ているものが大半だったが、僕は私服だった。
やがて、日々が進行し、その日々は無味乾燥だった。大学で過ごす日々は苦痛でしかなかった。生協で野菜サンドを買い食べ終えると、大学図書館のAV室に入った。本来なら許可を得ないと入ってはいけない場所なのだが、誰もいない場所で、ひとまず静かに、本を読み、落ち着きたかった。「一人なんだから、一人にならなければならない」という思いに取り憑かれていた。ぼくは浅薄な人間だと思った。気持ちが絶えずくさくさした。腕時計が邪魔だと思い、身体からはずした。ぼくが最近思うのは、病的なほどに、頭が悪いということだ。というより、常になにかにとらわれていて、思考が極度に制限されている。簡単な算数の問題すら解けないのではなかろうか。文化人類学の授業のオリエンテーションの時に、飛行機の音が聞こえた。その飛行機の正体が気になった。教授に聞こうかと思った。それと同時にぼくは意識した。 旧態依然としている自分。すなわち考えてしまうから行動ができない。ぼくは思った。まず、自分の正体が気になった。小説を書きあげて、自分自身を確立した自分が気になった。それができないと、うまく外界と繋がれない。そういうことを考えた。でもそれは愚かなことであり、どんなに周りから秀でていようが、立派な人間だと認識されていようが、業績を残していようが、それは、それは、今とは関係ないことだ。なぜぼくは物怖じしてしまうのだろうか。臆病と思慮深さは違う。ぼくは臆病だ。臆病とは苦しみである。《今、外界と繋がれない》塞がれた空間の中で、僕は在る。「利用手続きはお済みですか?ここは、ビデオを見る場所なので、パソコンをお使いになる場合は閲覧室でお願いいたします」と図書館の人間に言われた。「即座に可及的速やかに向かいます」と僕は言った。時間割を見た。 批評入門、情報基礎科学、現代の出版、現代社会と労働、近現代の文学、メディア論、映像と現代社会。芸術の基礎理論。取りたい授業を選ぶことに疲れていた。何を選べばいいのか、どれに行くのが最善なのか判断することに疲れていた。とにかくやることが見えていない。なぜだ。思いつきました。小説!小説さえあれば!
正式に大学の授業が初まった。だいたい10日ほど経った。なんのための講義なのか判別がつかない。 今日は、記号学、西洋の演劇、詩の講義を受けた。記号学の授業は、ソシュール。記号学、ベースにあるのは言語学。本に書いてあることを先生がしゃべっているだけだった。退屈極まりなかった。本の方が情報量は多いのだし、なんのための講義なのかわからない。そして単位を落としたら、卒業できない仕組みになっている。「エルンスト・カッシーラーは、人間は、物理的な宇宙だけでなく、シンボルの宇宙に住んでいると言ったんです」などと単調と話された。ウィリアム・ギブソンの書いた戯曲が映画化された「奇跡の人」というヘレン・ケラーを描いた映画を見て、 それを見せられる前に「言葉というものがどんなものであるか、みなさんは考えたこともないと思いますが……」と言われ、少し腹が立った。そんな風に一蹴されるとは心外だった。ぼくは言葉について考えたことはあるし、カバンには、メルロ=ポンティの書物が入っていた。これを教授に見せてやりたくなった。授業終わりに、今日の講義の感想をコメントペーパーを書かされた。「言葉がなかったら、カオスが訪れる。アヴェロンの野生児のように、狂気に陥るでしょう。なぜなら、人間と動物を分かつものは言葉だからです」みたいなことを、昨日読んだ文庫本の記憶を頼りに書いた。 教授の機械的な話し方に嫌悪感を覚えた。
詩の講義は、Bruce Springsteenの「Born in the U.S.A.」を聞いて、それについて考察するというものだった。何が面白いのかわからない。共同体と一体化。というよりね、ぼくは一つの大学に属したくないのだよ。自由ではなかった。その教授の言葉に依存している空間が僕は嫌だった。知識の伝達ならば、本を読めば事足りる。大学生は内発性を持つことが難しいんじゃないかと思った。大学は、逆にそれを「制度」で破壊する場所だ。デヴィッド・クーパーのいう「偽りの受動性」。僕は欲望の正直さを正直に欲している。力強さ。イデエ。それを欲しているから、だから生きられる。すべての人間の骨を砕いてやる。明日は児童心理学の授業があった。発達心理学に興味があるので、聴くつもりではあるが、気が向かない。 僕は講義という形式に向いていないと思われる。夜は執筆にあてよう。寝れないときは読書だ。
次の日、朝起きられず、児童心理学の講義には出なかった。やがて、僕は大学に行かなくなった。
僕は、Eちゃんの父と母は離婚しており、母子家庭であることを知った。兄と母と彼女の三人暮らしであるとのことだった。彼女には新幹線で、月に一回のペースで会いに行っていた。しかし、僕自身の問題が絶えず付きまとって離れないでいた。大学や、経済面、小説に対する苦悩があった。僕は、だんだんと、Eちゃんが精神を病んでいることを知っていくようになった。生活歴についても話された。病院にも通院していることや、薬を過剰摂取するODという行為もしているらしいということを知った。そして、どうすれば、彼女を、そのような状態から、具体的には、希死念慮などから救ってあげられるだろうか、と思った。ロックされたような状況から。「大学について母に相談したら、お金がないと言われ、飲み物をこぼしてしまうような不安定な彼女」を、どうやったら。Eちゃんのツイートを見ると「つらい」というツイートが散見されるようになった。周囲は新生���が始まっているのに自分はなにをしているんだろう、という意識に苛まれているらしかった。「助けてはるしにゃん」というつぶやきが見られ、ここで僕は、はるしにゃんという自死した人物を知った。
僕が彼女に対してできることは、まず、僕の小説を書き上げ、光明の糸口を見出すことだと思った。しかし、本当のところ小説を書くのが辛く、どうしたらいいかわからなかった。学生寮では、メンター制度により、月に1回メンター会というものが開かれ、ディスカッションみたいなものが行われた。その一人のメンターの人経由で、僕はある男性の臨床心理士と知り合いになり、その人は大学の講師もしており、新座にある大学まで足を運び、その方と直接会って、話をした。そして、自分が現状で抱いている感情、不安感や、強迫観念などについて軽く話すと、カウンセリングをするには、「投薬」がまず必要だと言われた。そして薬をもらってからじゃないと落ち着いて話ができないと言われ、まず薬をもらってこようと、国分寺にある心療内科に行くも、「まず安全な環境を確保しなさい。そのために実家に帰りなさい。薬は出せない」と突き放すように言われ、僕は金を払わず外に出た。
吉祥寺にあるネカフェのバイト、creativeboxというGIFアニメーションを紹介する文章を執筆するインターンに応募し、面接をするも両方落ちた。やがて、豪徳寺にある編集学校イシスのインターンに応募し、面接に行くが、遅れてしまった。そして、入り口が開いていたので、僕は勝手に入ってしまうと、「社会人としての礼儀がなっていない、もう面接はできない」と言われ、僕は、ひどく落胆し、その編集学校の入り口のすぐそばにある駐車場付近の電柱に寄りかかって道路に座りながら、Eちゃんに慰めを求めて、「しんどい」などというメッセージを送るも、突き放されたような返事をされ、僕はただ暗闇の中にいた。そこでたまたま通りかかった人間が声をかけてきて、「どうしたの、そんなとこにいたら危ないよ!」と言われたので、僕は「死ぬんで。心配しないでください」というようなことをとっさに言ってしまった。内心誰かが話しかけてくれたことが嬉しかったが、その人は「ああ、そうなの」というようなことを言うと、去って行ってしまった。駐車場から出て来た車に左足の上を踏まれるも、痛みさえ覚えなかった。僕はEちゃんに謝り、通話しようと告げるも、「今はしんどいからできない」と言われ、僕は鬱屈した思いに満たされた。
やがて、警察官が来て、まさか。と思ったら、僕にいきなり寄って来て、「死にたい」という発言をしたかどうか執拗に聞かれ、「僕はそんなこと言ってないですよ」と言っても、挙動がおかしいと思われ、荷物などを調べられ、もう帰してくれそうになかったので、「死にたいと言ったことは認めるが、僕は大丈夫です」と言うと、「いや、君ねえ死にたいなんて、それは言っちゃダメだよ!」と強く言われ、パトカーで警察署に運ばれた。「死にたいと言ったのは虚言です」と警察署にて、紙に書かされ、僕は署名した。「なんでこれを嘘にしなければいけないのだろう」と思った。それと、「しんどい時、しんどいと言えないのは苦しい」と痛切に感じた。この時点で、僕は彼女に対して、本当の気持ちを言うのが怖くなり、言えなくなった。もう僕はEちゃんをも傷つけてしまった。見捨てられるのが怖かった。引受人として、電車で、豪徳寺まで両親が迎えに来てくれた。終電で国分寺の寮に向かい、両親を寮にあったゲストルームに寝かせ、3時か4時くらいに両親は寮を出て言った。僕は後ろめたい気持ちに満たされた。
その頃、僕は初めてODした。その頃、以前スカイプちゃんねるで知り合いになった女性(以下Rちゃん)に、「ブロン」というのを勧められ、水で64錠飲んだ。何かを踏み越えてしまった感じがして僕は怖かった。寮の部屋の机で、world’s end girlfriendの曲を聴きながら目をつぶって眠らずにいた。レスタミンでもODしてみた。あと、フリースペースにあったよくわからん薬を全部飲んだり、同部屋の人のパブロンをこっそり20錠とか勝手に飲んだりしていた。そのような状態で日々が過ぎていった。
やがてまたもう一度、Eちゃんと会う機会がやってきた。僕は新幹線で彼女の元に向かい、そして、遊んだ。そして遊び終わり、Eちゃんと離れた瞬間、僕は彼女のすべてがわからなくなった。彼女は霧の中に入って行ってしまった。何もかもがわからなくなった。一人の意識になり、いつもの自分に戻った。いつものはねつける自分に。彼女がここにいないというだけで、急に彼女は別人になっていった。Eちゃんはもう僕の日常の経過の中にはいなかった。ただ僕は、彼女のことを考えると、苦しみに陥った。変われない自分に、とにかく苛立ちを覚えた。何も変わらず、変えることができなかった。ただ、刹那的だった。僕たちは、時間と空間を共有している場所で数時間お互いの周波を合わせて続けていた。僕たちは、マスクの下をお互い見せらせなかったように、すべてを見せ合うことなどできなかった。共通の経過を形作っていた。僕たちは時を共に得ていた、だが、やがて死んだ。Eちゃんがいなくなってしまった瞬間、その周波が感じられなくなった。そして、ある変化が生じてきた。僕と別れた後、Eちゃんのお母さんが犬の散歩ついでに彼女をバス停にまで迎えにきてくれるらしかった。そのとき、僕は彼女には到達不可能だが、Eちゃんのお母さんは彼女に対して到達可能な範囲にいることを思った。それが羨ましかった。僕は一人になった。この「場所」で、Eちゃんに接近したいという表象を絶えず持ち続けたとしても、無意味ではないか、と思った。
僕は逃げる日々を送った。自分自身に幻滅し、新しい何かを絶えず求めていた。そこで僕に影響を与えたのは、Eちゃんが口に出していた「はるしにゃん」と、Rちゃんだった。はるしにゃんという人は、ドラッグというものをやっているらしかった。そこで、僕はそういう変性意識状態に身を委ね、意識を変えたいと思うようになった。RちゃんからLSDという幻覚剤を知らされ、スティーブ・ジョブズも使っていたことを知り驚いた。その流れでサイケデリックドラッグなどに興味を持った。だがほとんどのものが違法になっており、日本ではできないことを知った。市販のものでやるしかないと思った。ある日、レスタミンでODをしたら、僕はふと「死」の恐怖に苛まれ、同室の人が使用している机に置いてある時計を見ると、それが絶えずパチパチと点滅し、その背後にあった白い壁には幻覚が見えた。何もかも怖くなり、食べようと思っていた、スーパーで買ってきたお赤飯でさえ、怖くなった。やがて、日々「自分が死んだらなくなる」ことだけを考えるようになり、��えられず、数日間実家に帰った。その頃、直感的に「自分なんてない」といった鮮明とした意識にぶつかる日々だった。
僕は大学図書館で読んでいた本(なんていう本か忘れた)に、長くつ下のピッピというものが出てきて、その著者は「世界一つよい女の子ピッピ」に影響を受けたようだったので、Eちゃんに少し勇気を持ってもらえるのではないかと思い、ピッピ三部作送ったりすることしかできなかった。
僕の部屋は乱雑を極め、同室の人からは「ストレス?」と言われる始末だった。僕はただ落ち着いて勉強したくなった。とりあえず、落ち着きたかった。
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2016.06.20
僕は、「執筆 部屋」と、なんとなく、google画像検索した。整理された部屋を、羨望的なまなざしで見た。最適化された環境に惹かれた。すると同時に 「空間デザイン」を勉強したくなった。しかし、何も知らないので、果たして、お金を稼ぐことを考える上で、有用性はあるのだろうかなど考えてみた。 とりあえず、そういう事情を確かめるために、東京デザインプレックス研究所という専門学校のHPを見た。個別カウンセリングというのがあったので、即座に応募してみることにした。 父親のことが頭に浮かんだ。父は建築家である。私がもし空間デザインをやるとなったら繋がれる部分があるのではないかと思った。共同で何かが作れたりするのではないかということ。 環境造形学園…などいろいろあった。安部公房について書かれたとあるサイトを以前閲覧した時に、「空間の造形的表現が、彼の小説の方法論となった」と書かれており、空間というものが小説を思考すためのアイテムのように機能すれば喜ばしいと思った。そして、空間デザインをするなら、図面などを書かねばならない。パースやスケッチなどを。そういう描くという実践が自分の創造の幅を広げるのではないか、と漠然とながら思った。
それから、うつ伏せになり、枕を顎の下につけた状態で、ハイデガー入門を読んでいた。ハイデガー的存在論を理解したくて。それが、小説につながると思ったから。というのは、個人の承認が、ハイデガー的存在論を理解することによって初めて行われると書かれていたからだ。 まあ、存在と時間という本物に早く入らなくてはなるまい。   充実感と記号。 起きたのは、12時30分頃であった。寝ているとき、股間が硬直していた。何かやらかしたのではないかという気がする。同室の人に、醜い部分を見られたのではない か。そんな気がする。どんな夢かは覚えていないが、夢も見た気がする。東京のデザインの学校から、「今日の17時で承っております」という旨の連絡がきた。しかし、僕は「明後日にしてください」という連絡をした。私は今焦燥感にさらされていた。起きた。起きたということは何かをしなくてはならない。その何かが、 並列した複数の選択肢と、それを能率的に処理しなくてはならないという観念が、私に焦燥をもたらす。私は今から、代金を支払ってこよう。そして、買い物もしよう。何を買うんだっけ。そして、本も読まなくては。今日は大学図書館にはいかない。しかし、 借りたい本はあるなあ。というより、「借りなければならない」本が。あ、講義。今日は、総合文化オムニバスかという講義があり、もしかしたら有意義な講義かもしれないという思いが 頭をよぎった。しかし、つまらないだろう、どうせ意味ないよ。と自己弁護するように、頭の中でつぶやいた。どんな講義であるか、私は、確認もしない。   顔を洗った。共同の洗面所の床をビショビショにした。滑って転びそうになった。誰か転んだら大変だという考えが浮かびはしたが、僕は床を拭かなかった。めんどくさいから。その床を拭くという行為が、私にとって「生産的」ではないと思ったから。二義的な問題だから。私は自己中心的な人間である。今すぐ部屋に入り、「整理」と「出力」に時間をかけなければならぬ。それに他人は関係ない。 「人に迷惑をかけているか否か」は、本人が決める事柄ではない。その場に居合わせた「他者」が決めることなのである。情報・消費社会は、こうした基本的な「他者」 感覚を、なし崩し的に解体させてきた。そして「他者」をその目で見ていながら、見えていない未熟な「自己愛型」の青少年が、確実に増えてきている。と「文化変容の中の子供」という本に書いてあった。   お金。私は働いていないのだから、あまりお金は使えない。なのに、不満なのか?私は自分で家賃、定期代を支払うべきである。のに、それができていない。それは、よくないことだ。だから、よくないことをしている私は、それに見合った生活���するべきである。
やがて、Eちゃんから別れを告げられた。僕は存在を足先から頭のてっぺんまで揺さぶられた。そして脳に絶えず浮かぶ「怒り」の心象を殺していった。憎しみと寂寥感のようなものが募る日々だった。
空間デザインのカウンセリングを終えた。一年制のクラスに入学すれば、本来なら30万円程度かかる事前授業が無料で用意されていることを伝えられ、それは7月の下旬から始まるとのことだった。僕はもう大学ではなく、専門学校に行き、就職し、デザイナーという仕事を軸にして、収入を得ながら、小説を書くのがいいのではないかと思うようになった。早く身を固めないと破滅だと思った。身を固めるとは、生活の基盤を作ること、経済的に自立することだ。2017年の4月から本格的な学習が始まり、全部で、1274400円かかるとのことだった。頭金の304400円を22日までに支払う必要があり、もちろん、そんなものは自分で調達できるわけもなく、親に相談した。「大学四年間行くよりも断然安いから」と言った。すると、「あんたねえ、大学卒業するつもりで入ったんじゃないの?そんなコロコロ変わってどうするの」みたいなことを言われて「いやいや勉強するために入ったんだから。勉強は一人でできると判断したんだよ」と言った。
一年制のクラスに入るには面接をする必要があるらしく、僕はひとまず面接に臨むことにした。
大学というのは、資源であり、資源は、実質化・有効化しなければならないものであると言われる。実質化とは、大学の勉強の目的、役割を明確にすること。そして、有効化とは、それを可能にすること。学生は、自分自身の未来を策定し、リスクを軽減することを強いられる。そして、ほとんどの学生にとって、「卒業する」ということが目的になっているのだとすれば、必要な単位を履修しなければならないから、「戦略として、彼らは単位を取るための授業をいかにスムーズかつ確実に履修していくかということを中心とした時間割作成を行おうとする(ポストモラトリアム時代の若者たち 46pの一部表現拝借)」これが、まず大学入学の際にしなければならない履修登録だ。そして、だからこそ「楽単」という言葉も生まれてくる。単位を取得しなければ卒業できない。できるだけ取りやすい単位の授業を選択しようとする人もたくさんいた。馬鹿みたい。必修の授業もある。僕は必修の授業を休んでいた時、「〇〇さん。ずっとプロゼミの無断欠席が続いていますが、どうしましたか。プロゼミは、必修科目で単位を取得しないと、卒業できません。きちんと出席してください」とメールで言われたことがある。僕は返事もしなかった。そんなものに出て、なんの意味があるのさ。
大学に入った時、僕の目的は「小説を書く」という一点だけになった。なぜなら大学を資源としてみたとき、その資源が実質化・有効化されなければならない場所は「卒業」ではなく、僕の場合「小説」でしかなかったから。そして、僕がやらなければならないこととしたのは、まず、23万冊も蔵書のある大学図書館である本を読みまくるということだった。友達をつくる?なにが友達だくそったれ。大学というものに帰属意識は全くなく、むしろ嫌悪感を抱きつつあった。その大学の内部で友達をつくるのが、ひどく滑稽に思えた。結果、大学に友達が一人もいなかった。その際、「積極性が全て」ということで、自分を正当化した。積極的に話しかけることをすれば、他校の人だって、友達になれるんだから。要するに僕がやらねばならぬこと。まずは、対外的に有利な自己を創るということ。それが自分というものの価値であった。つまり、それは「小説」。僕はそれを持っていなければならない!意識させられた。私はそれがめちゃくちゃ下手くそである。多くの人にとっては、単位を取り、卒業することが目的化しているように思えた。が、僕にとってはまず「小説を書き上げる」ということが喫緊の課題であり、その強烈な目的意識がまずあり、見識を増やすという意味において、大学に入ったのだ。講義というのはいささか冗漫すぎた。毎回90分と決まっており、その時間は拘束される。それが嫌だった。そして、僕は煩わされたくなかった。レポートや、テスト、などに。そんなものになんの意味もない!
2016.07.15
専門学校の面接だった。
僕は小説家を目指していることを会話の流れで話した。すると、 「すごく失礼な話���すると、世の中、表現をできる職業に就いてる人はほんの一握りです。そうじゃない、なかなか表現できない人の方が多いんですね。商空間デザインっていうのは、小説家みたいに、自由じゃないです。クライアントもいるし、予算もあるし、スケジュールもあるし、安全の事も考えなくてはならないし、省エネのこと、売り上げの事、いろんなことを考えなくてはならない。つまり、自分が作りたいものを作れるわけじゃないんです。商空間だったら、ビジネスとして成功できる空間を作らなくてならない。ただ、表現する部分があるのは確かです。真ん中くらいが、デザイナーの仕事って思ってもらえば…云々」ということを話された。そして、「人って二番目にやりたい仕事が相性がいいって言いますからね。知ってます?一番目にやりたいことって言うのは、思い入れが強すぎて独りよがりになったりとか、周りが見えていなかったりとかするんですね。職業の遺伝みたいなのがあって、父親が建築系だと、そういうDNAみたいなものがあるかもしれないですね。だったら、もしかしたら空間系ってのが合ってるかもしれないですね。空間系の仕事をやりながら、四十歳くらいで小説の賞とってもいいじゃないですか?いっぱいいますよね」と言われた。僕は侮辱された気がして、思いっきり罵ってやりたくなった。頭に血が上り、やるせない思いだった。四十歳で賞を取る?それほどまでに苦痛な人生はなかった。想像するだけで、下水道の匂いを嗅いだときのように、吐き気を感じた。
「好きな空間とか何かあります?」と聞かれ、僕は沈黙し、十秒くらい間を置いてから、 「スターバックスとかですかね」と答えた。 「どこの?」 「国分寺にあるスタバです」 「どの辺が良かったんですか?」 「外の席で談笑していたりとか、いいなって思ったんですよね。あとは…」また十秒くらい間を置いてから「空間とか出てこないんですよね…、僕が好きな空間は、青があって、水槽があって、アクアリウムとかですかね」と言った。 「外出していない理由はなんですか?」 「読書などをしているんですよね」 「小説を書くために読書してるんでしょ?デザインするんだったら、行けばいいっていうレベルじゃないのよ。もっと細かく見ないと。ディティールまで。何席あって、どこに換気扇があって、どこに照明が配置されていて、とか。戻って来ても、図面も書けないですよそれじゃあ。現物を見てきたって、それではプロになれない。それじゃあ空間系、建築系の人たちに失礼ですよ。それぞれ夢を持ってみんな努力をしているから」と言われた。
後日、大学とは別の環境が気になり、中島義道さんの哲学塾に行くが、自分の顔が投げ出された空間で、僕はどうしたらいいかわからなかった。終わると、夜の笹塚の十号坂商店街をぶらついた。これから空間デザインをするのだから、自分が行ったところのない場所に積極的に赴き、建物の造りなどを見ておかなければならないと思った。カフェ、ガレット、カレー屋などの料理店などのお店を外から覗き、何かを得ようとした。絶えず「戻って来て図面も書けないですよ」が頭の中で反響していた。図面を書くこと…を意識していた。
僕はこの頃から、寮から出て、実家にまた住むということを思うようになっていた。それは、いつも実存的な気分として体験された。例えば、セブンイレブンでもつ鍋を500円で買ってきて食べたとしても、それは親の金であり、経済的な負担であるため、実家に帰る必要があるという属性になっていた。とりあえずこのころの僕は全く落ち着ける場所を持っていなかった。僕はやがて、実家に帰ることを決断した。
やがて、空間デザインの授業の見積もり有効期限が来た。両親に相談し、頭金の30万円を支払ってもらった。その時、僕はもう別の学校に行くことはしない。これで絶対に最後にしますと約束をした。
2016.07.26 日記
10時30分頃起床。 朝起きて豆乳を飲んだら、腐っていてドロドロしていた。酸化していた。トイレに吐き出すと、その吐き出した肌色の液体が便器にたまっていき、異様な匂いを放った。得体の知れない不愉快さがこみ上げてきた。 身体に影響があるのでは、と思い調べてみたが、大丈夫そうだった。 本をラックの上に積む作業をする。疑念が湧いてきた。寮の方がいいのではないか。家だと余計に強迫観念みたいなものにさらされないか。 実家に帰ることにより、埋没してしまう何かがあるような気がしてい る。 ベルクソンの「記憶と生」を購入した。ミンミンゼミが鳴いている。 さあ、勉強するんだ。勉強せねばならぬことは山ほどある。 「赤と黒」を読もう。 本を読むことに集中したいんだ。これは、寮にいて、そう思ったこと だ。本なら寮にいても読める。じゃあ他に理由があるんだろう。行動を規定しているのは、ほぼ無意識であり、複合的なものだ。今はわかるわけがない。ただ、僕は活字に憧れている。 実家に帰ったら「それだけ」になる。 本を読むことの必要性を感じるけど、「それだけ」になったら?いけないんじゃないか。 僕の欠点は、「実存的な気分」によって何もかも決めてしまうということだ。分析ができない。ただ、その時の裁量で決めてしまう。それは不満から起こるのだろうと思う。 相部屋のやつがうるさい!音楽を流している。いや、いいのだ。まずは、実家に帰り、働けるようになったら、また戻ってきて働けばいいんだから。 好きなものを増やすこと。
父から「セブンイレブンに着いた」と連絡がある。「今行く!」と返事をした。 「物質と記憶」を購入した。これは僕の逃げ場所であり、居場所である。 部屋の整理をしよう。 「意識に直接与えられたものについての試論」を読んで、 なぜ、ベルクソンはこれを書いたのかと思った。それは、何もしないのが嫌だったからではないか。 ただ、それだけのことではないか、と思った。
父親と二人でセブンイレブンの前で待っている。晩飯は餃子らしい。ル・クレジオの本の二冊分の代金を支払った。父親はトマトジュース、私は野菜ジュースを飲んだ。会話はない。今「空間デザインの専門学校」について話すこともできるだろうが、なぜか、言い出さない。言いたくないのだ。空間デザインなんて、やりたいのだろうか?
大泉から、東京外環自動車道、東北自動車道、それから久喜に出た。手にはマンスフィールド短編集があった。読んではない。読むのが申し訳ない感じがしたから。「家は生活の宝箱でなければならない」というのがラジオから聞こえた。
実家に着いた時、すぐさま帰ってきてよかったと思った。これで集中できるのではないか。言語化するのが難しい。リルケは、「汝のいるところに場所が生じる」と言ったが、この空間には心地よい他者が感じられたような気がした。ラックを設置し、ゲームセンターでとったフィギュアを置いた。こう、モノを置けるというのは、実に楽しみである。その純粋な楽しみを感じれないほど、僕は窮屈していた。 その、窮屈さからは、何も生まれないということだ。 ただ、焦るばかりで、余裕がないのだ。空間において人は思考する。その空間が脅かすものであってはならない。 窮屈さを感じてしまうこと。それを感じさせないように、生活を改善すること。さっき本で読んだ。ホッブズは「学問の目的は人類の進歩と、生活の改善」だと言った。ニュアンスが全く違うけれど、とにかく生活の改善をすることは何よりも先に行われなければならぬことだ。 発動。つまり、ストレス。反応。 ストレスを感じていない人は、それを回避する術を知っているのではなく、ただ、知らないだけなのだ。どんなことにストレスを感じるかは、 育ってきた環境とかによって全く違うものになると思うんだ。ただ、そういう人間は、モノに対しても感じるモノが違うのだ。煩わしいとは思わないのだ。 僕はものをとにかく後ろに追いやり、必要なものだけを前に持ってくるという生活をしなくてはならない。見てはならないのだ。物を見るから、発動するのだ。
母親の足を揉んだ。 不安になってきた。 不安にならないための方法論を見つけるための学問。 どうやるんですか?余裕がないと学問はできない。 焦燥にかられ、朽ち果てる一人の青年を書かなければならない。 ものすごい勢いで下に落ちていく。ここ��゙比喩。ツバメ…? ZAZEN BOYS の「六階の少女」を聴く。 焦る。死ぬる思いだ。どうかしてしまいそう。 だって、だって、誰もいないんだから。 誰もいないんだ僕には。 今、この瞬間において、誰もいない。 それが不安であり、しかしながら、それが起爆剤だ。 この思いも誰にも伝わることはないんだな、と思うと、今、この瞬間も誰にも伝わっていないと思うと、ああ、なんと、苦しいことか。 自分を打ち出さなくてはならないと思う。だからこそ、だからこそ、僕は本を読む。「それに近しい」本を。ああ、ああ、ああ。今を表現しようと思ったら、私は��゙うすればいいのかなあ。 ZAZEN BOYSの「すとーりーず(live) 」を聴いてもう無理だ、と思う。 ああ、ああ、噴き出る。夕食の時に飲んだ赤ワインを飲み干す。 考える。どう自分を表出していったらいいか。顔が痒い。やはり、アルコールのせいか。 もうすぐ寝ようと思うが、絶望的な気分になろうと思えば、今すぐになれるようなきがする、本当に際どいところにいるような気がする。 だって、僕はお金を稼ぐことができていないんだぜ?そう、1円もだ。 罪悪感と焦燥感についての小説。 音楽を聴いて溶かす。番線ができる。それが人々の首を絞めるところを想像する。カラオケで歌っているところを想像する。ああ、ああ、ああ、カラオケに行きたくなった。歌いたい。アニメを見て少し楽しい気分になった。楽しいこと考えようよ。今までの自分はそうではなく、ただ、暗いままに生きてきた。が、これからは頭を入れ替えて、面白くあるために、すべて。
7月31日から空間デザインの事前授業が始まった。事前授業の内容はIllustratorやPhotoshopなどのソフトの習熟、グラフィックデザインの基礎だった。学校は渋谷の道玄坂を登っていってその途中にありわかりやすかった。だが9月20日にまた僕はこの学校を辞退することになる。この時の感情を記述することは今も困難なように思われる。決断したにもかかわらず、僕はまたやめた。本当に申し訳ないと思い、抑圧して来た。なぜやめたのか、まず僕はそのソフトの習熟が、4月から本格的に始まる授業に繋がっているように思えなかった。そのことについて相談すると、「グラフィックの重要性が理解できていないとするなら、どうして〇〇さんと同じ4月~の空間のクラスの人が他にも5名、現在グラフィックの授業を受けているのか?どうして、事前学習でグラフィックなのか、説明しますね。
・就活に必要なポートフォリオ作成のスキル向上のため ・グラフィックソフトの授業をスムーズに受けていただくため。 ・デザインの考え方を養っていただくため。 ・大人に揉まれて、社会人の仲間入りをしてもらうため。
そんな目的を持っています。〇〇さんの場合は、助走です。ポスター、広告、パッケージなどを作成するために受講をしている訳ではありません。4月~の授業をスムーズに、学習し、知識を詰めて行き、就職に向かう上で、集団の中に入り学習するという行動に慣れてもらう。そんな目的で受講してもらっています」と連絡が来た。
僕はモヤモヤした気分になったが、授業に出ることをとりあえずやっていた。だが、ある日、僕は授業の休憩の際に、突如学校を抜け出した。授業についていかれず、ソフトが展開されているパソコンのモニターの前で授業中に僕は「ペドロ・パラモ」を堂々と読んでいた。先生は僕のこの行為に気づいているだろうが、話しかけてこない。だが、先生が近くに来たら、パソコンのマウスに手をつけ、ぽちぽち作業をしているふりする。だが、こんなのは実に無駄なことだ!という思いがせり上がって来た。帰りたい。僕はもう授業についていかれないし、何より僕は読書がしたいという思いに支配されていた。
「なんのために」
僕は「気分が悪い」など一切告げず、無言で学校を出て、渋谷の薬局で、コンタックSTを買った。幻覚が見たいと思った。やがて、国分寺に着くと、水を買い、駅周辺にあるビルの入り口で誰にもバレないように錠剤を取り出して12錠飲んだ。一錠落としてしまったが、コンビニで洗って飲んだ。寮に泊まろうと思い、寮に戻ってきたら、寮生が「お、おかえり、久しぶりですね」とか言うから、笑いたくもないのに笑いながら、「ああ久しぶりですね」と言った。さらに「髪伸びましたね」とか言うから、笑いたくもないのに笑いながら、「ああ伸びました」って言った。部屋に入ったら真っ暗で、同室の人はいなかった。荷物をドサッと地面に置いた。靴下が雨の中歩いてきたので、濡れている。このまま同室の人帰ってこなければいいのだが。 すぐさま冷房をつけた。僕の使っていたベッドの横や、下にはお菓子がたくさん置いてあった。寮の入り口の玄関には冷蔵庫などが複数置いてあり、荷物がたくさんあった。全部売り払って俺の金にしたいものだ、と思った。騒がしい声がする。よくも、まあ!うるさいなあ。素面でよく声を荒げられるよなあ。あんなに。寮に戻ってきたが、やはり実家でないと今の俺には無理だなと思った。この機会が常に与えられている状況。 情報を持っている他人がすぐそばにいて、話そうと思えばいくらでも話せるが、 僕が話しやすくすることが条件だが。幻覚が来るのを待ったが、見れなかった。
やがて、空間デザインの学校にやめる旨を伝え、話しをつけるために、学校にまた行った。30万円を支払ったのだが、いくらか返金してくれることになり、僕は少し安心した。
そして、僕のその時の思いは、群像の新人賞に10月31日の締め切りまでに小説を書き上げて、送ることに向けられていた。僕は構成力がなく、膨大な文章を書くには書けるがそれを一つにまとめ上げるということがどうにも難しかった。結果、送ることができず、僕は自分に対して激しく失望した。それから、僕自身がまたロックされたような日々に陥っていった。
9月いっぱいで大学の前期の授業も終わるので、後期の授業料を納入しなければいけなくなった。僕は図書館という資源だけ利用することにし、ひとまず休学の申請をすることにし、75,000円を支払った。
僕はまた回帰しようとした。勉強に。読書メーターというサービスを利用している人間の凄まじい読書量に、圧倒された。もっと僕も本を読まなければならないと思うようになった。やがて、原点に帰ろうという気になり、R.D.レインに回帰し、大学の図書館に2時間かけて行き、反精神医学などについての本を借りてきて読む日々を送った。そして、「足りない」と思い、精神病理学などを体系的に勉強したいと思うようになった。
12月1日に、唯一興味があった「思想と表現」という主に文学者や、思想家などを紹介する講義を聞きに大学に行くと、授業の後に、とある男の学生がその教授が以前に出版した新書にサインを求めていた。だが教授が「ガタリ買いなよ。そっちにサインするから」みたいなことをその学生に言っていた。その教授が、最近ガタリの本を出していることを知り、興味が湧いた。講義にもしきりにフェリックス・ガタリという名を出していた。ガタリを最初に知ったのは、ちょうど2016年の2月頃に見た、R.D.レインのwikipediaに記載されていた、「反精神医学などの運動は、『アンチ・オイディプス』などを書いたフェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズなどにも影響を与えた」という文章からだった。そして、11月に読んだ「精神病理学とは何だろうか」という本で、ジャン・ウリの名前を知り、興味を持った制度論的精神療法にガタリも携わったことを知り、勉強してみたくなった。それと、ガタリというと、すぐにドゥルーズと結び付けられ、ドゥルーズの方が過剰に持ち上げられているというか、そんなような気がしたので、一層ガタリについての柔軟な入門書ということで興味が湧いた。そして、今まで聴講していた大学教授がまさかガタリのような人物についての本を出しているとは、と驚きを感じ、何かの縁を感じた。
現在、2017年の3月15日。今月いっぱいで、大学をどうするか決定しなくてはならない。多分、退学する予定でいる。どうせ、図書館しか用途はないんだから。休学費まで支払い、さらに交通費までかけ、時間も、バスや、歩きなどを含め、往復で5時間以上も必要になる。それは支障がある気がする。来年には大阪に行きたいと考えている。向こうには僕の大阪文学学校というものがあり…さらに関東の実家から距離もだいぶ離れていて、知らない世界がある気がする。また気分を入れ替えて、生活を始められるのではないか…。だが果たして僕は「学校」というものに馴染めない体質なのではないかと思えてならない。向こうでも仮に文学学校というものに、入学したはいいものの、またやめることになるのではないか。何があれば世の中うまく生きていけるだろう。しかし、まずは、これから僕は小説の執筆に本格的に着手してはいかねばならないと思う。中学時代に体験した「学校」でのことについて。まずそれを最後まで書ききり、形にし、「学校」というものに自分が抱いている感情の清算をしなければならない。破壊しなければならない。
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c3oyama · 5 years
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3/26プルーンの日 誕生日/渡辺麻友 いしだあゆみ 後藤久美子 キーラナイトレイ 野村沙知代 ダイアナロス 髙木雄也 今東光 緑魔子 井口裕香 誕生日 1896年 ルドルフ・ダスラー(プーマ創業者 ) 1898年 今東光(僧侶・小説家『お吟さま』,僧侶,参議院議員)1956年下期直木賞[1977年9月19日歿] 1904年 木山捷平(作家) 1914年 公文公(公文式・数学教育研究家 ) 1917年 柴田錬三郎(小説家『イエスの裔』『眠狂四郎無頼控』)1951年下期直木賞[1978年6月30日歿] 1932年 野村沙知代(野村克也の妻・サッチー2017年(平成29年)12月8日没) 1936年 アラン・アーキン(俳優) 1940年 海老原博幸(ボクシング ) 1940年 小川光明(アナウンサー) 1942年 岸千恵子(歌手) 1944年 ダイアナ・ロス(ミュージシャン) メドレーhttps://youtu.be/KYPkLPCddB8 Michael Jackson - Diana Ross Special Show (1981) https://youtu.be/PI0QxQgnhko Michael Jackson - We are the World - The Story Behind the Song https://youtu.be/4SGFcYLO0jg 1944年 緑魔子(歌手) 1947年 中本マリ(歌手) 1948年 いしだあゆみ(女優/歌手) ブルー・ライト・ヨコハマ 1969 https://youtu.be/ZrLOQAIBXxE 1948年 櫻木健一(俳優) 1953年 ピーター・フランクル(数学者) 1954年 井上和彦(声優) 1956年 加納竜(俳優) 1960年 ジェニファー・グレイ(女優) 1963年 京極夏彦(作家) 1971年 安野モヨコ(漫画家) 1972年 雉子牟田直子(テニス) 1973年 マックン(パックンマックン・タレント ) 1973年 ラリー・ペイジ(Google創設者) 1974年 後藤久美子(女優) 1974年 用稲千春(アナウンサー) 1975年 石塚義之(アリtoキリギリス・タレント) 1979年 上原ひろみ(ジャズピアニスト) 1985年 キーラ・ナイトレイ(女優) 1990年 髙木雄也(Hey!Say!JUMP・タレント) 1990年 柳楽優弥(俳優) 1994年 渡辺麻友(AKB48・歌手) 誕生花は 花海棠(ハナカイドウ)、花言葉は“温和��� 誕生石は トパーズ(topaz)、宝石言葉は“希望” プルーンの日 バングラデシュ独立記念日 1971年のこの日、東パキスタンがバングラデシュとして独立した。 1947年8月14日に、(旧)インドがヒンズー教徒のインド、仏教徒のセイロン(現在のスリランカ)、イスラム教徒の(旧)パキスタンの3つに分かれたが、パキスタンは国土がインドによって東西に分断された飛び地となっていた。 カチューシャの歌の日 1914(大正3)年のこの日、島村抱月と松井須磨子が起こした芸術座が、トルストイの『復活』の初演を行った。この中で歌われた「カチューシャの歌」が大流行した。 歴史・出来事 1205年 新古今集完成 1890年 ヘレンケラー、発声訓練を始める 1906年 「大日本麦酒」設立 1945年 太平洋戦争、硫黄島の戦い終結 1958年 ナンシー梅木が日本人初のアカデミー助演女優賞受賞 1958年 パラメトロン計算機PC-1が完成 1968年 渋谷駅西口と東口の交差点200mの歩道橋完成 1971年 東パキスタンがバングラデシュとして独立 1978年 成田空港管理棟に過激派乱入 1985年 南極にあすか観測拠点開設 1996年 百武彗星が地球に最接近 2004年 テレビ朝日『ニュースステーション』放送終了 #今日は何の日 #パーソナルカラー #カラードレープ #カラーパレット #色見本 #PCCS #ドレープ120色 #パーソナルカラー用品 #テストドレープ #金銀ドレープ #ケープ #カラーシート #カラーチップ #C³ #色のみかた #顔タイプ診断 #パーソナルカラー診断 #シーキューブ #insta_higashinada #神戸市 #東灘区 (パーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/B-LNqHuAWza/?igshid=1lyiem9iyqvvr
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