#東の辻二部の遊歩道
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るんぺんパリ【RunPenParis】

自己紹介 2024年11月4日追記 6116文字】 ��重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは少しある
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している それは去年に末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 観光施設って感じ 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 今年は10月18・19・20(金土日) 19(土)は久しぶりに一人で一日中お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件回って、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて上野天神祭へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 夜の19時から同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったガキさんは すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので閉店の1時までカクテルを8杯ぐらい��んだかな 意外と安くて8200円だった 次の20(日)は上野天神祭に参加している同級生のオデに会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く紅梅屋でおみやげを結構買って 桔梗屋で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 俳聖殿のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 上野城のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく上野城をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった この子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 新天地には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 大きな化粧品店は更地になっていた 高校の時の知り合いが「クワトロNo.4」という バーを経営しているが、まだ入った事はない いつか行ってみたい気持ちはある ただダーツバーらしく 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど バーの扉って感じで雰囲気はあった 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で それにしても伊賀は狭いなと感じる
市部という地区だったと思う 近くに市部駅という無人駅がありその近くの 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 召し上げられた 小学校6年卒業までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 バスケ部の試合で名張の体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら右足のかかとがにヒビが入った その夏にはバスケ部をクビになり陶芸部に入った 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線のそういう女子には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。 高校生の頃はたくさん恋をしたが 自分が不器用だったので自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた 人を好きになることに迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくという感情で奥手に過ごしていった そのせいか、他校の女子からゲイだとウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時は楽しければなんでもよかった
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの��が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけでやっていて 週3回ぐらい夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほち��す それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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【 出演作品が公開中です 】
岩田隼之介監督���新作『あるく小鳥』に出演いたしました。 YouTubeで本編がご覧いただけます。
語彙力がないので恐縮ですが、岩田監督が「生きること」という普遍的なことに直球で挑んだと仰っていました。でも岩田さんが描くと、そのフレームの深度に観る者に対してどれだけ「観る」という行為そのものを引き込むことができるかを無意識のうちにしている印象を受けることがあります。直球なのか変化球なのか、これが僕の語彙力のなさです。 それは『スイッチバック』『五時のメロディ』『休日労働』などを作りあげてきた岩田さんにしかできないことで、今回は滋賀県の医療職の推進のための作品ですが、映画としてその深度と自分に起こる感情を体感できる作品でした。これをつくりあげてしまう岩田さんの才能を身を持って感じ、この作品に呼んでいただき光栄でした。
プロデューサーの辻さんは「おおぶ映画祭」からのお付き合いで、岩田さんとはいくつか組んでらっしゃいます。作品づくりに対して真摯でありながら、キャストやスタッフの選び方に遊び心もあり(その遊び心は僕にしかわからないところもあるのでここでは割愛します)昨今、言われている現場での過酷な労働環境やそのあらゆる問題にも抗いながら世に送り出す作品のあてるべきところへその焦点をあてて意欲的に活動されています。
劇中のセリフで「医療はチームワーク」というセリフがありますが、映画を作るのもチームワークだし、この素晴らしいチームの一員として、出演できたことで新しい自分を発見するきっかけにもなりました。
ぜひ、ご覧いただきましたら幸いです。 そして、滋賀県、素晴らしいところです、ぜひ。
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医療職をもっと身近に感じて、将来の進路の一つにしてほしい という滋賀県の強い想いで、映画が制作されました。 キーワードは「自分事(じぶんごと)」 誰かのために生きてみる、という気持ちはきっとみんな持っている。 中学生のツグミとユリカ、そして若手俳優のミヤマ。 3人がそれぞれの視点で医療の現場を知り、大事な誰かのために動き始めます。 小さなことでもかまわない、誰かのためになるのなら。という気持ちを込めています。
【ストーリー】 県内の中学校に通うツグミは、今人気の若手俳優ミヤマが出ている医療ドラマにはまっていた。 そのロケツアーの抽選にあたったツグミは、ロケ地である病院で同じくミヤマの大ファンである入院中のアスカと知り合う。 そのアスカにはツグミと同い年の娘ユリカがいた。 最初はぎこちないツグミとユリカ。 次第に仲良くなり、入院しているアスカ��ためにロケで滋賀を訪れているミヤマの元へ突撃する。 一方でミヤマは、自分の演技が嘘っぽいと指摘され、悩んでいた。 それぞれの立場で医療の現場にふれるツグミ、ユリカ、ミヤマ。 短いながら心のつながりをつくり、それぞれの想いを深めていく。
【出演】 山木彩華 片平紗麗 MASAYA
廣田琴美 星能豊 東野結花 石川陽咲 谷口健 藤田有紀(びわ湖放送アナウンサー)
【スタッフ】 監督・脚本・編集 / 岩田隼之介 撮影 / 名倉彰孝 照明 / 伊藤浩二 録音 / 桐山元秀
ヘアメイク / 燃杭綾 衣装 / 山田淳子 助監督 / 中島悠 撮影助手 / 黒木槙仁 中島悠 録音助手 / ロマノユウジ 制作 / 板倉華歩 辻村健二 渡邉真由香 整音・音響効果 / 澤田弘基 音楽 / 高津直視 カラリスト / 岩田隼之介 キャスティング協力/ いば正人
プロデューサー / 辻卓馬 エグゼクティブプロデューサー / 北嶋直樹 是永典之
制作 / 株式会社アド電通大阪 株式会社フォーカルノート 協力 / びわ湖放送株式会社 国立大学法人滋賀医科大学 近江鉄道株式会社 製作 / 滋賀県 健康医療福祉部 医療政策課
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2023/03/23 雨の一日☔️ 職場裏の生け垣 大きな椿も落花 屋敷内のソルダムの白い花開花 やさと菜苑株式会社の畑も仏の座だらけ‥‥‥ 東の辻二部の遊歩道 知り合いの元校長先生が中心となって、ゴミだらけの湿地帯を掃除して、綺麗な公園に生まれ変わりました!ほ 屋敷内のヒュウガミズキ、エニシダ、椿も満開 純米大吟醸さらなりと福羅で晩酌 #iPhone日記 #屋敷内の花木 #ソルダムの花 #ヒュウガミズキ #エニシダ #椿 #東の辻二部の遊歩道 #桜 #菜の花 #純米大吟醸さらなり #純米大吟醸福羅 https://www.instagram.com/p/CqS07BPSbVD/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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紛い者 胡散臭 ( うさんくさ ) い 紛 ( まが ) い者の 紛 ( まぎ ) れ込みをずっと防げずに来たのかも… 市営住宅集会所のコミュニティカフェに行った。 A:愛知県知事リコール運動の署名偽造事件で、リコール活動団体の田中孝博事務局長が、署名の収集を依頼していたことを認めたらしい。

B:田中事務局長は、[日本維新の会]衆議院愛知県第5選挙区支部長だったんですね。 C: 態々 ( わざわざ ) 、偽造署名作りながら、リコール成立させないのは、不自然すぎる。 D:本当の署名を破棄しリコールを不成立にしたうえで、偽造署名作って高須医院長に汚名着せたとすれば、 辻褄 ( つじつま ) が合うような気がする。 私:黒幕、誰なんでしょうね?そのうち、分かるんでしょうか? A:[日本維新の会]は、脇が甘い。 胡散臭 ( うさんくさ ) い 紛 ( まが ) い者の 紛 ( まぎ ) れ込みをずっと防げずに来たのかも… B:2008年2月、テレビタレントの橋下徹弁護士が、[統治機構改革]を掲げて2百万票弱を得票し、大阪府知事に就任したのが、 発端 ( ほったん ) だったんですよね。 C:2009年3月、西野弘一府議の「大阪都構想」に、橋下知事が理解を示したんだ。 D:2009年10月、大阪府庁職員の竹山修身候補が橋下知事の応援を受けて当選し、堺市長に就任した。 私:就任後、竹山市長は、自分を当選させるよう尽力してくれた恩人に 謀反 ( むほん ) を起こし、「大阪都構想」に反対するようになったということでしょうか? A:2010年4月、橋下知事は、自民党を離党した府議や市議と共に[大阪維新の会]を結成した。 B:「維新」はブームを呼び、[大阪維新の会]とは無関係な「○○維新の会」の候補者が地方選挙で多数当選した。橋下徹氏は「非常に困惑しているが、やめろという権利もない」と選挙民の誤解を容認するような発言をした。その結果、[西宮維新の会]を掲げる野々村竜太郎候補が兵庫県議会議員に当選したが、この男は、後に政務調査費を詐取し号泣会見で「維新」のイメージを損なった。

C:2012年9月、国政政党「日本維新の会」が結党された。11月には、石原慎太郎氏や平沼赳夫氏らが合流した。石原慎太郎氏が政党代表に、平沼赳夫氏が国会議員団代表に就任した。 D:2012年12月、高橋美穂衆院議員が札幌アイヌ協会の総会に出席し、「民族主義的な悪い風潮がのさばっている」旨、発言した。 私:2013年2月、民主党からの乗り換えで[大阪維新の会]の公認を受けた中野隆司候補が当選し、柏原市長に就任したんですけど、この人も、後に、問題起こしたんですよ。民主党からの乗り換え組、悪い人が多いのに、何故[維新]が公認するのか、理解できませんね。 A:2013年9月、橋下知事の応援を受けて当選しながら裏切った竹山市長が再選された。 B:2013年11月、アントニオ猪木参院議員が国会の許可を得ずに北朝鮮を訪問したんですけど、「日本維新の会」国会議員団の副幹事長職という自覚が無かったらしいです。 C:2013年12月、東国原英夫参院議員が離反した。 D:2014年7月、江田憲司氏らの合流に難色を示した石原慎太郎氏らと橋下徹氏らの確執から、「日本維新の会」は解散した。 私:翌月、石原慎太郎氏らが排除されて「日本維新の会」が再結党されたのは、江田憲司氏らを合流させるためだったのでしょうか? A:2014年9月、「日本維新の会」は、党名を「維新の党」に変更した。 B:2015年4月、「維新の党」は、居酒屋、ショーパブ等を飲み歩いた翌日の本会議を欠席した上西小百合衆院議員を除名しましたね。 C:2015年5月、[大阪都構想]は、住民投票で否決された。橋下徹氏が「維新の党」代表の座を降り、江田憲司氏に後を託そう��したが、江田氏は引き受けず、松野頼久氏を推した。 D:2015年8月、柿沢未途幹事長は、左翼系の市長選候補者を応援するため、独断で山形市に行った。柿沢氏の独断専行を批判する橋下氏らと柿沢氏を擁護する江田氏らは対立し、「維新の党」が分裂した。橋下氏らが追い出され、江田氏らが軒を借りて母屋を乗っ取る様相を呈し、党名や政治資金を巡る泥仕合は訴訟合戦まで引き起こすこととなった。 私:「中野隆司氏は柏原市長になって不祥事を起こした」と前に言いましたけど、2015年9月、柏原市議会に於いて、中野市長の不倫騒動に関して、問責決議案が全会一致で可決されたんです。中野市長は、[大阪維新の会]顧問を辞任しました。 A:2015年12月、山本大府議が泥酔してタクシー車内で暴れて摂津警察署に保護された。 B:2015年12月、橋下氏らと江田氏らはお互いの訴訟を取り下げて和解し、それぞれの道を行くこととなりました。政権与党から転落した後[民主党]の勢いは衰える一方でしたけど、江田氏らは、乗っ取った「維新の党」を、その[民主党]に身売りしたんです。橋下氏らは「おおさか維新の会」を結成し、2016年8月、「日本維新の会」に党名変更しました。 C:2019年9月、不破忠幸大阪市議が買収で有罪判決を受けた。 D:2020年1月、「日本維新の会」は、カジノ参入に絡む収賄疑惑が晴れなかったので、下地幹郎衆院議員を除名した。 私:2020年6月、「日本維新の会」は、都知事選に於ける小野泰輔候補の推薦を決めました。「東京維新の会」所属の柳ヶ瀬裕文参院議員と音喜多駿参院議員の二人が高校の同級生だった小野泰輔候補を、松井一郎代表や馬場伸幸幹事長に紹介して、推薦するよう熱心に依頼したという記事を見ました。 A:小沢自由党 藤島正之衆院議員の公設秘書を勤め、チェゲバラを崇拝する新左翼的価値観を持ち続けている小野泰輔氏の推薦を決めた両幹部の意図が分からない。 B:MartinFackler氏のツィート「信じ難い。ワシントンが燃えている。これはハリウッド映画じゃない。そして、大統領はホワイトハウスの中に隠れ、国民に未だに演説していない。アメリカは国民を落ち着かせるリーダーが居ない。これは果たしてメイク・アメリカ・グレート・アゲインなのか?」をリツィートする小野泰輔氏の[反トランプ]思想は、「日本維新の会」の方向性と矛盾しないのでしょうか?

C:遊説第一声を新宿歌舞伎町で上げ、「性風俗業を差別しないで!」と持続化給付金の支給について陳情するツィートに「いいね!」する音喜多駿参院議員と歩調を合わせる小野泰輔候補の選挙活動も、「日本維新の会」の方向性と矛盾しないのだろうか? D:「東京維新の会」の政策は、「日本維新の会」よりも「立憲民主党」に近いように思える。 私:江田憲司氏や松野頼久氏との泥仕合を彷彿とさせますね。
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押尾学冤罪事件のコピペ乙
森喜郎は悪魔崇拝フリーメイソントップだからな
オリンピック委員長森喜朗長男と押尾学冤罪事件
酒気帯びコンビニ突入容疑、森元首相の長男逮捕
2010年8月7日(土)
引用元
http://voicevoice.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-3036.html
酒気帯びで乗用車を運転し、コンビニ店に突っ込んだとして、石川県警小松署は7日、森喜朗元首相の長男で、自民党県議の森祐喜容疑者(45)(石川県能美市下ノ江町)を道交法違反(酒気帯び運転)の疑いで逮捕した。
調べに「飲酒運転をして事故を起こした」と供述しているという。
森容疑者は同日、秘書を通じて県議会議長に辞職願を提出し、受理された。
発表によると、森容疑者は同日午前10時10分頃、石川県小松市大島町の県道を、酒気帯び状態で乗用車を運転した疑い。
森喜朗 VS 押尾学の「最終決戦」が近づいている! 暴露本出版で“ドス黒い闇”に言及、東京五輪にも影響必至か!?
tocana / 2017年4月28日 9時0分
引用元
https://news.infoseek.co.jp/article/tocana_51887/?p=2
元内閣総理大臣の森喜朗氏が、著書『遺書 東京五輪への覚悟』(幻冬舎)を今月21日に発売した。これに続いて、とある人物も本の出版計画を進めているという情報が浮上している。そこでは、闇に葬られた“あの事件���の真相にも触れられているというから穏やかではない。
森氏といえば、文部大臣や建設大臣などを歴任後、2000年に内閣総理大臣に就任した政界における重鎮中の重鎮。首相在任期間は約1年と短かったが、今でも隠然とした影響力を放ち続けている。現在は2020年に控えた東京五輪組織委員会の会長として、辣腕を振るう毎日だ。
「今でも、安倍晋三首相とは懇意です。東京五輪組織委員会の会長に就任したのも、安倍さんの後押しがあったから。それに、森さんは今でもロシアのプーチン大統領と親交があり、北方領土返還交渉の際は、安倍さんにアドバイスを送ることも少なくありませんでした。さらに、長年にわたり日本ラグビー協会の会長も務めました。その人脈は政界からスポーツ界、芸能界と幅広いですね」(永田町関係者)
そんな森氏が、残りの人生のすべてを賭けて取り組んでいるのが東京五輪だ。ガンと闘病しながら、最後の力を振り絞りながらのエピソードが、今回の著書にも記されている。
「日本オリンピック委員会や東京都の小池百合子知事との確執は思った以上に赤裸々に語られています。そして、自身のガンについてもあけすけに明かしていますね。もともと文芸春秋社で出版する予定だったそうですが、森氏が五輪をめぐる記事で名誉を傷つけられたとして週刊文春を訴えたため、幻冬舎から出版することになったそうですよ」(出版関係者)
だが、この森氏の活動が頓挫する可能性が高まっているとしたら、関係者は青ざめるに違いない。実は、もう1人、赤裸々な内容の本を出版しようとしている人物がいるとささやかれているからだ。それが、元俳優の押尾学だという。
押尾は、2009年にホステスの女性に合成麻薬を渡した疑いで逮捕された。その後、一緒にいた女性の容態が急変。そのまま放置して死なせたとして、保護責任者遺棄罪や麻薬取締法違反などで懲役2年6カ月の実刑判決となったのが世間の耳目を集めた。
「実は、当時からささやかれていたのは、『あれは押尾だけに罪をなすりつけたのではないか』とするものでした。というのも、事件にかかわっているとして、有名芸能人やIT企業社長、スポーツ選手などの名前も取り沙汰されていたのです。そして、そのうちの1人���して、森氏の息子・森祐喜氏(故人)の名前まで挙がりましたが、結局、真相は藪の中。証拠もなく、ただの噂なのかもしれないのですが……」(事情を知る関係者)
石川県議会議員だった祐喜氏は、父親と同じく幅広い交友関係で知られていた。特に夜の世界ではつとに有名だった。そして、2010年8月に飲酒運転での交通事故が問題視され、その2カ月後に多臓器不全のため急逝。押尾事件後、あまりにもショッキングな出来事の連続に、噂が一人歩きする事態にまでなった。前出の関係者が続ける。「2014年に出所した押尾には、多数の出版社がオファーしたそうです。押尾は、その中の1社を決定し、執筆を開始。トークイベントやSNSなどを開始したのも、出版への地ならしが理由だと聞きます。そして現在、すでに本は書き終えていて、あとは発売のタイミングを待つだけらしいのですが、もちろんあの事件にも触れている。万が一、そこに祐喜氏の名前があるとすれば、父親、ひいては東京五輪への影響は避けられません」押尾は1年前の「週刊新潮」のインタビューに「事件にはいろいろな人が関わっていました」「僕は何もしゃべっていない。仲間を売ることはできないと思ったからです。でも、フタを開けたら、皆が“押尾がやったこと”と僕を売っていた」「これは一生、忘れることができない」などと証言していた
押尾学
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14193901724
より重要部のみ引用
そんな彼は獄中で、冤罪に関する本を読み漁り、出所後は謎の豪遊生活を送り、インスタグラムにはスリランカの経済大臣との会食の写真をアップしたり、名前は言えませんが森喜朗という国会議員から資金援助を受けているなどの噂があったりします。
https://www.instagram.com/p/BOR3PtshBEV/?utm_source=ig_embed
引用元
http://www.asyura2.com/10/senkyo92/msg/142.html
写真は押尾薬物事件で死亡した田中香織さんと一緒に写る森元総理と息子の森祐喜
http://ameblo.jp/spellbound1227/image-10406905801-10334745309.html
https://ameblo.jp/spellbound1227/entry-10406905801.html
押尾 学に合成麻薬を渡した泉田勇介が中国残留孤児を主体とする暴走族「怒羅権=ドラゴン」の構成員であったという噂。
泉田は中国マフィアか?
押尾学の親友と言われているネット販売業の泉田勇介が海外組織の中国マフィアと関係しているのではないかと噂されている。
中国残留孤児の2世や3世と、手下の日本人で組織されていて一時は「ヤクザも恐れる?暴走族」という触れ込みで悪さをしてミカジメ料まがいの集金活動もしていた。
その「怒羅権」=以下ドラゴンの何代目かの元リーダが逮捕された泉田勇介であるとの噂。
ドラゴンは引退したが現在は本物の中国マフィアと緊密だといわれている。
一方関係者の話によると、日本国内に拠点を置く中国系犯罪組織に対して在日中国大使館は強い懸念を示しているという。
新総理の長男・裕喜の愛人の告発テープ
(平成12年4月14日)
http://www.rondan.co.jp/html/news/mori/index.html
原文サイトは既に閉鎖されている。
森喜朗 新総理の長男・祐喜 に愛人関係清算の慰謝料 3000万円を要求した女は、六本木の高級クラブ 「セリーネ」 の元ホステス 「I」。 源氏名は 「M」。
「I」 が告発した独白テープ <注・テープ起こしをしたもの>、A4版6枚流出。 アンチ森派、コピーをとって、議員会館周辺にバラ撒く。
以下、その全文。 なお、文中アルファベットは編集部の判断でイニシャルにしました。
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桜井澪の談話
森さんと知り合ったのは今年の2月13日(日)でした。 以前から店のお客さんとして知っていたブティック 「O」 の息子さん (社長の息子の意味か?) から家に電話があって、「皆で代官山に集まっているから出てこないか」 と誘われたんです。 その時に、「森幹事長の息子も来ているから」 と話していました。
セリーネの女の子を一人連れて、代官山ヒルズにある 「K」 さんの家に行きました。
「K」 さんは外資系証券会社の人みたいです。 その日、来ていたのは 「O」 さん、小渕さん、 「F」 さんと 森祐喜 さん。 小渕さんは、小渕恵三の兄の息子だったかな。 「F」 さんも、小渕さんの親戚だったと思います。 バレンタインの前だったので、チョコレートをあげたことを覚えています。
その後、森さんとは暫く会いませんでした。森さんはセリーネにも全然来てくれなかったんです。 次に森さんにあったのは6月14日(火) でした。 「O」 さんの友達の 「A」 さんと森さんが突然、セリーネに来たんです。 「A」 さんは城山ヒルズにある 「B」 証券に勤めている人で、前から知っている人です。
私はその日、店を休んでいたんですが、接客についた女の子から電話を貰い、夜中の12時すぎに店に出ていきました。 私と葵 (伊藤の親友、現在、六本木のクラブ、プロポーションに勤めている。源氏名ミカ) が担当していたので、葵から家に電話を貰ったんです。
葵は 「 「A」 さんと森さんが来ているよ。 あんたは会ったことがあるらしいじゃん」 と教えてくれました。 それで、12時すぎに行って、「森さんが来てるから来ちゃった」 みたいな事を行って、店が終わった後、ジョルジオに遊びに行きました。 ジョルジオは1階から2階��カジノで3階がカラオケボックスみたいになっているんです。
その次の日に森さんから電話があって、6月17日(金) に店が終わった後、待ち合わせをしました。 そしてその直後、土曜日か日曜日から付き合いだしたって感じですよ。なんとなくかな。 その時、森さんに 「 「O」 くんと付き合いたいの」 と聞かれ、「 「O」 さんとは男女の関係じゃないし、そんなんじゃない」 って言ったんです。 「じゃあ、僕とつきあおう」 って感じになったんです。
2月に会ったときは、森さんは私のことを 「O」 さんとつきあっているというか、 「O」 の連れている女って感じだったと思うんです。 それで、そうじゃないということが分かったから、付き合いを始めたわけです。
2月に会ったときはふてぶてしいひとだと思ってたのね。 森さんは 「クラブなんてすぐにやらせる女がいなかったら行かない」 とか喋っていたので、「そういうのがいるよ」 と言うと、「じゃあ行く」 って感じで・・。 なんて奴だろうと思ってました。
でも、14日にあって、カラオケボックスに行ったときに 「あれは、男同志が集まっている時の会話だったから、そう言ったんであって、本当は違うんだよ。 女の人と付き合うんだったらチャンと恋愛したいし、真面目につきあいたい」 と言うので、印象が随分違ったんです。 私も、「ああ、本当はこう言う人なんだ」 と思ったわけです。
それからは、お店が終わるのを待っててくれたりしてたから、毎日じゃないけど、結構会っていました。 もちろん、私の方が都合が悪いときはあったけど、付き合いはじめころは、毎日くらい会っていました。
森さんの仕事?。 森さんはカラオケが仕事みたいでした。 一応、人と会わなきゃいけないとか、出張で石川県に行かなきゃいけないとか言っているけど、私、一緒に行ったことあるんだけど、何をしているわけじゃないんですよ。 たまに石川県のJCの人と会ったりとかしても、ご飯を食べたりしてるだけで、なにをしているというわけじゃない。
カラオケは結構うまいです。そのとき、そのときで新しい曲を歌うから、何を歌うというのはないんだけど、ジョルジオに行ったときは郷ひろみの 「言えないよ」 とか歌っていた。演歌は歌わないけど、何でも歌う。 毎日カラオケ行っているんだから上手いのよ。
ジョルジオに 「森さんいますか?」 と電話すると 「今日はまだ来てません」 とか言うもん。 今はジョルジオに 75万円も売掛が溜まってしまって、「Y」 さんも怒っていたから、行ってるかどうかはわかりません。 私は森さんと会うと必ず、ジョルジオか西麻布の店に行っていました。
付き合っていたのは、7月の末くらいまででした。彼の言っていることがあまりに違うんで、別れたんです。 例えば、「7月中に沖縄に行こう」 って言ってたのに、行かなかったりとか、私の引っ越しも、「俺が部屋を探してあげるし、俺の名義で借りてあげる」 って言ってたのにしてくれなかった。
これは、あった当時に言っていた。 6月の14~16くらいに言ってたのに、全然やってくれなかった。 せっついても、「ウーン」 とか言うだけで・・。 「早く、家とか広い所に住みたいな」 とか言うでしょ。 「恵比寿のガーデンプレイスでもいいじゃない」 とか言う。 私が 「神宮とか表参道でもいいな」 と私が言うと、「赤坂でもいいんじゃない」 とドンドン話をすり替えてくる。 そして、実際には動かないんですよ。
大体、高いマンションというのは、借りるのが大変じゃないですか。 仕事も固くなきゃいけないし、だから、自分の名義で借りてあげると言ってたんですよ。 その時は一緒に住むということではなかったです。 森さんは 「近くに俺も部屋を借りるよ。 俺も引っ越ししたいんだよね」 と言ってました。 彼は、その時、赤坂のマンションに住んでいました。
マンションというか、1~2階建てくらいの家みたいなマンションみたいなのを借りてた。 私は行ったことはなかったんですが、用賀の家と赤坂と半分、半分くらいで住んでいたみたいです。 森さんの言ってることが段々辻褄が合わなくなってきて、おかしいなと思い出したのが、別れた原因の一つでもあるけど、その他にもあるんです。
一緒にいるときに、よく森さんの携帯電話に電話が掛かってきたんですが、森さんが 「あー後で掛けなおす」 って切ることが多かったんです。 絶対、女の人からの電話ってわかる電話があってね。 しばらくは変だなと思いながらも、怒っていなかったんですけどね。
7月10日に 「F」 パーティーがあって 「I」 さんの所に森さんと一緒に行ったんです。 そこで、 「I」 さんがパーティーに来ていた��り合いの女性を森さんに紹介したんですね。 ボブカットの 28歳くらいの下着屋のババアだったんだけど、その女が森さんを気に入って、結構プッシュしてたんですよ。
私が森さんの横にいるのに、「アッチに行って踊ろう」 とかね。 で、パーティーの途中で森さんが私に 「帰ろう」 と言ってきた。 「ほっといて悪かった」 みたいな感じでね。それで、私は森さんに送ってもらって帰ったんですが、別れ際に森さんは 「俺は今日は風邪気味でだるいから真っ直ぐ家に帰るわ」 って言ってたんです。
でも、後から、 「I」 さんに聞いたら、森さんは私を家に送ったあともう一度、そのパーティーにもどったんだって。 それを、聞いて、「何でそういう事をするわけ」 と思っちゃった。 それで、後から 「I」 さんにしつこく 「森さんていつもそうなの?」 って聞いたら、そしたら 「いや、なんかジョルジオの女ともやったみたいよ」って言うしね。 それなのに森さんは 「 「I」 さんは俺には女の子を紹介してくれないんだ」 ってぼやく訳よ。
「そうなの?。 さっきみたいなのも紹介にはいるんじゃないの?。」 って言っても 「あれは違うよ」 って言うの。 7月19日に、 「I」 さんに私が友達 (六本木 クラブセリーネ在籍ナオコ) を紹介したことがあったんだけど、そしたら、「なんで、「I」 に女を紹介したりするの」 ってブツブツ言ってきたわけ。 「本当は 「I」 の事が好きなんじゃない」 ってね。
別に、私が 「I」 さんの事を好きだなんてそんなことはないのよ。自分だって、 「I」 さんに女を紹介して貰っているくせにね。 そしたら、自分は 「I」 に女の子を紹介してもらったことはないってね。 それで 「I」 さんにもう一度 「森さんに女を紹介してるでしょ」 って聞いたら、「うん、二人ぐらいは紹介した。俺の知っている女もエッチしちゃってどうのこうの」 って言ってたのよ。
結局は、余りにもやっていることがだらしない。 不信感は前から感じていたんだけど、パーティーの事ですごく腹がたったのね。 で、決定的なのは、「7月中に絶対、沖縄に行こう」 って森さんは言っていたのね。 私は森さんが忙しいんだと思っていたから、あまり強くは言え��かったのね。私には、忙しいって言っているしね。 でも、だんだんわかってくるじゃない。 忙しくもないし、大した用事もないってことが分かってくる。
それなのに、なんで連れていかないんだろうとか思って、余計、腹がたった。
森さんと結婚を考えたこともあったんです。 始めはね、私の周りの人が政治家の息子とかというのは、結局、政略結婚だからって言ってたし、そう思っていた。 それで、森さんとそういう関係になる前に、「女の人は男の人と付き合っていて、結婚したいなって思ったときには結婚をしたいわけじゃない。 でも、そういう家のしがらみとかあるよね」 って言ったのね。
そしたら「いや、俺は政治家の息子でも、政略結婚なんて思わないし、仕事なんてどうでもいい」 って言っていた。 私のことが一番優先で、仕事なんてどうでもいいって訳よ。歯を治してくれると言ってたこともあった。 「私、歯を治したいんです」 って言ったの。私の女の子の友達の友達の彼氏の歯医者さんが私の友達の歯を治してあげているのね。
すごく遠い関係だけど、その歯医者さんは、彼女の友達の歯を治してあげている。
「いいよね、そういうの」 って私が言ったら、森さんが 「歯くらい俺が治してやるよ。ちょっと遠いけど、大阪の歯医者だけど、矯正なら3回もいけば治っちゃうよ。 一緒に行ってあげるよ」と言ったの。 「大阪じゃなくてもいいのに」 って言ったのに聞いていないのね。
森さんから現金をもらったことは一度もない。 セリーネにきたのは一度だけだった。 それでね、来るって言っておいて来ないのよ。 例えば、「俺の友達の 「N」 さんが土曜日やっている店を知らないから、セリーネを紹介してあげたい。 俺ももしかして、行くかもしれないから。 女の子を集めておいてね、絶対、アフター皆でカラオケに行くからとか」 と言っておいて、私が土曜日は普通休むのに、わざわざ出ていったのね。 それなのに、来ないの。
「N」 さんもこない。 それで、「どうしたの?。」 って電話を入れると「いや、俺さっき 「N」 と別れちゃったからわかんない」とか言うわけよ。 私は女の子をすでに集めてるでしょ。迷惑を掛けられた。 その前とかも、金沢に旅行に行ったときに森さんが後援会の人とかに、「東京に行ったら、絶対にセリーネに行きましょうね」 とか言ってたのよ。
それなのに、来ない。 で、「後援会の人が来たんでしょ。どこに行ってたの?。」 と聞くと、全然関係のない店に言っているの。 初めは、店の売上にも協力してくれるといってたのに全然協力してくれないわけ。 忙しいとかいってね。それで、私が「店に行こうかな」 と言うと 「今日はどうすんの。休んじゃえば」 とかいうしね。
土曜日に友達と用事が入っていても、「エーッ」 とか言って、電話が掛かってきて、「今から迎えに行く」 とか言うわけ。 でも、友達と用事があると言うと今度は 「俺ってかわいそうだよね」 みたいな事を言う。 で、友達の約束をキャンセルしなきゃならないことになる。 私は森さんを優先してたし、森さんに振り回されてたわけよ。 でも、向こうもそうだと思っていたのよ。
でも、私は元々、小渕さんの友達を知っていたりして、それで、森さん絡みの話を色々きくのよ。 すると 「森さんって本当はこんな人だよ」 ってことが入ってくる。 例えば「P」では森さんは飲んでいるときにホステスに向って 「パスポート持っている奴、手をあげろ。香港行きたいやつは、手をあげろ。 ゴールデンウィーク暇なやつは?。 ああ、���前でいいや。 一緒に行こう」 みたいなね、そういう話を聞いたりね。
たまたま、セリーネに元「P」に居たユウミちゃんという女の子がいたのね。 あんまり森さんが来ないから、ユウミちゃんに 「森さんって、あんまりクラブとか来ないのかな」と聞いたら「いやー、「P」の時は毎日でしたよ」 って言うの。 私が森さんに同伴してくれって頼んだときには「俺は同伴なんて全然したことがないから。 でも、君が本当に困ったときには俺が同伴してあげる。 同伴はそれ以外は絶対にしない」 って言ってたのに 「P」 の時は 「毎日来てて、毎日ママと同伴してた。 終わってから、アフターも毎日行っていた」 って言うのよ。
そういうのでも、腹が立ったわけ。 段々、森さんのことを周りに聞けばドンドン情報が入ってくるし、私だけで判断していたことと全然違っていたのね。 それで 「なんで「P」には毎日行っていたのに来ないの?」 ってことで揉めたこともあったしね。 そしたら「忙しい」。 それで、こんど 「I」 さんとか森さんの周りの男の人に聞くと 「全然、忙しくない」 ってことなのよ。 だから、知り合いが増えれば増えるほど森さんが嘘を付いていたことがハッキリしてくるのよ。
アメリカに行っていたときの話も聞いているの。 「N」 さん (国会議員NEの息子) と一緒で、コカインをやっていて、 「N」 さんが絵の裏にコカインを隠していて見つかりそうになってトイレに全部、棄てたとかね。 「N」 が暗証番号つきの金庫にかくしていたんだけど、あいつは暗証番号を忘れてしまって、しょっちゅう開けに来てもらっていた。それで、開けてもらったあとに “ちょっと中は見ないでください” とか言って部屋から出てもらうんだよ」 とか言ってたから、一緒にやっていたんじゃないの。
どこの大学だか覚えていないけど、ボストン、ワシントンとか何処かで聞いたことのある大学だった。 ホテルに泊まったのは2回だけ。
2回ともキャピトル東急だった。 キャピトル東急に泊まってコカインを使ったのは7月11日(月)。 その日は私は12時でセリーネを早退したんです。
前の日がさっき言ったように 「F」 のパーティーで、私は森さんに送ってもらったと言ったでしょ。 その時に 「森さんが明日もう一回会おうよ。 その時は泊まろうよ。」 という話をした。 それで、翌日店にでている時に電話があって 「もう、俺はホテルに入っちまったし、着替えちゃった」 というので私は 「じゃあ、可哀相だから、わたしも12時早退するよ」 って言ったのね。 それで、12時に早退したの。 でもモタモタしてて、結局店を出たのが12時30分くらいで、ホテルに着いたのが1時前くらいだった。
電話で話をしていたから、部屋の番号を知っていたので、そのまま部屋にあがったんです。 部屋はツインでした。森さんは 「今日はダブルが取れなかったんだ」 と言ってました。 部屋に着いたとき森さんはスーツを着てました。私に 「お腹すかない」 ときいたので 「食べたいのか、たべたくないのか良くわからない状態」 と応えました。
そしたら 「じゃあ、飲み物でも取ろうか」 って話になって、コーヒーとミルクセーキみたいなやつとアイスクリームみたいなシャーベットみたいなものを頼んだんです。 で、私はルームサービスが来る前に顔を洗ったり、シャワーを浴びたりとかしてと思っていたら、その間にルームサービスが来てた。
で���シャワーを出たら、森さんがルームサービスの銀のトレイの上に紙を広げて、六本木の 「K」 というゲイバーというかショーパブみたいな店のメンバーズカードで白い粉を切るというか細かくしていた。 紙はもしかすると、ルームサービスのトレイの下に引いてある紙かもしれない。 でも、ハッキリは覚えていない。
私が見たときには粉はすでに粉末になっていたから、元の形が錠剤だったかどうかもわからないな。 すでに粉になっていたけど、それでも、それを切っていた。 この粉末は直径2センチくらいの緑色のピルケースの中から出してきた物だったみたい。 多分、いつももっているビトンのセカンドポーチの中にいれていたんだと思う。
その緑色のケースはペットの近くのサイドテーブルの上においてあって、最後に森さんが 「こういうものは全部キレイに片付けないとダメなんだ。 こんなの持っているのが発覚したら大変だ」 と言ってたから。 「これなあに」 と聞いたら森さんは 「茶路 (金沢のクラブ 「D」 のママ) のお土産」 って。 コカインとはハッキリ聞いていないと思う。
茶路は西麻布のレストランのオープン記念パーティーのために、7月7日に上京してたのね。 その時のお土産だと思う。 だから、使う前はなんだか知らなかった。 その後、森さんが 「いいんだよ、こういうのを使うと」 という話になったわけ。 「ヘェー」 と思っていると、もう、森さんは鼻から吸っていたの。
ミルクセーキに付いてきたストローを部屋についているソーイングセットの鋏かなんかを使って、3センチくらいに切って、片方の鼻に差し込んで、もう片方の鼻を塞いで、粉を吸い込んでいたわけ。 初め黙ってみてたら、私の歯茎にそのコナを塗ってくれた。 「チョットだけすってごらん」 と言われて、「でも、私はそういうのは使ったことが一度もないから」 って断ったんだけど、でも、そういうものだとハッキリわからなかったから、よく睡眠薬じゃないけど、ハルシオンとか害のないものもあるじゃない。 別にそんなに害のないものだと思って。 彼は 「最初はチョットだけのほうがいいよ」 って言っていた。
森さんは何度もそれを吸ったことがあるように見えた。 でも、あまり効かないというか変化がないので「これ、なあに?。全然効かないよ」と言ったら 「量が少ないのかな」 と言って、また歯茎に塗ってくれた。 鼻から吸うのも教えてくれた。 それで、エッチをしてる途中も吸ったりとかして、最後は全部使い切っちゃった。 寝たのは朝方だったと思う。
薬を使いおわったときに 「これってなんなの?。 覚醒剤っていうやつ?鼻から吸ったりするのはエスっていうやつ?。 LSD?。」 ってまた聞いたのよ。 そしたら「混じっているのがエスで、不純物のない奴がいわゆるコカインだ」 と言っていた。 「要するに、打つのは覚醒剤で、エスというのはどうのこうの」 と一般的なことを言っていて、その時に 「これがコカインだよ。 鼻から吸う奴は」 と言ってた。
その薬の影響があったのかはわからない。 森さんには特に変化はなかった。 でも、朝、8時とか9時とかに目覚ましをセットしておいたけど、結局、起きられなかった。 で、12時頃に目を覚した時にあの人が 「凄く眠い」 って言ってまた寝たの。 それで、私が帰る準備をしてる時に 「なんでこんなに眠いんだって思ったら、昨日、クスリをやったから凄く眠いんだ」 って言っていた。
最後にはプラスチックの 「K」 のカードも折って棄てた。紙は棄てたかどうかわからない。丸めてすてたかどうかはわからない。 森さん 「何度もコカインをやったの?」 ときいたことはないけど、前から、 「N」 さんがやっていた話とかを聞いていたし、 「N」 さんは会えばすぐ 「クスリをやっている人」 とわかる人でしょ。 だから、森さんは何度もやってたと思った。
それに、前に金沢に旅行をした事があったのね。 7月2日(土)~4日(月)の間に金沢に行ったのね。 一泊目は全日空か日航ホテルに泊まった。 2泊目は小松のホウシという温泉宿に泊まった。 このホウシは森さんの知り合いのJCの人だった。 その時に、クラブDで茶路って人ともずっとクスリの話をしていたから。 茶路は森さんに 「健ちゃんの持ってきた薬が良かった」 と言っていた。
それで、7月2日にクラブDに行ったの。 そこは茶路の店で、カウンターバーみたい。 その時はなんの薬かわからなかったのよ。 どこか痛くて薬飲んだのかもしれなかったしね。 でも、たまたま、その後にカラオケに行ったら、健ちゃんという人がいたのよ。 その健ちゃんに森さんが 「あまり、茶路に変な薬をあげないで」 とか言ってた訳よ。なんか、健ちゃんがいつもそういう物をてはいしている様な感じだったし、森さんもそれを良く知っているという感じだった。
で、わかったのは、健ちゃんと言うのは、森さんの後援会長の息子だったってこと。
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【荊棘のトレイル | クリーネストライン】 - パタゴニア : https://www.patagonia.jp/stories/thorny-path/story-123268.html/ : https://archive.ph/R4iiD 西脇 仁哉 { 2022-07-13 }
マウンテンバイクが地域と深くつながり、次世代に引き継げるように。遊ぶフィールドは自分たちで作り、守っていく。
{{ 図版 1 : 下草の枯れる冬には尾根の向こうに絶景が広がる。ライダー:瀬戸 英人 / 写真:西脇 仁哉 }}
悪路を人力で走るための乗り物、マウンテンバイク。路面の起伏、木の根の段差、岩壁など次々と現れる難所を、経験とスキルを駆使し、ダンスを踊るかのように体を素早くしなやかに動かしながら乗り越えていく。人馬一体、いや、マウンテンバイクを介した自然との一体化。そんな身一つだけで地形を攻略するゲーム感覚と、その報酬として味わえる大きな達成感に、小学生の頃から魅了され続けてきた。
大学2年の夏休み、マウンテンバイクの聖地・カナダ西海岸のウィスラーで日本人向けの走���ツアーに参加し、2週間を過ごす。現地でテーマパークばりに充実したマウンテンバイクのトレイルを走り回り、ここは楽園かとカルチャーショックを受けた。そこからは、カナダを再訪することを考えてばかり。大学院に合格していたものの、大学卒業と同時に休学し、ワーキングホリデーで再びカナダに渡った。現地のマウンテンバイクメーカーで仕事をもらい、夏はカナダ、冬は日本というマウンテンバイク中心の武者修行のような生活を3年続けた。
{{ 図版 2 : まるでスキーのシュプールを描くように、砂の崖を急降下。カナダBC州カムループス。写真:辻 義人 }} {{ 図版 3 : カナダのバックカントリーライドでは、絵葉書のような雄大な景色を楽しめる。写真:西脇 仁哉 }}
帰国後は長野県伊那市のマウテンバイクツアー会社でガイドとして1シーズン働き、トレイル整備のイロハも学んだ。現在は海外自転車ブランドの広告の翻訳家と、パートタイムのフォトグラファーとして働き、時間を見つけては近隣のトレイルへ繰り出している。
生まれは東京で、育ちは関東平野と秩父山地が交わる埼玉県南西部で、今もここに住み続けている。山岳地帯と居住地を里山が結ぶこのあたりは奥武蔵と呼ばれ、週末ともなればハイカーやトレイルランナーはもちろん、クライマーやサイクリストで賑わう。自然の中でのんびり過ごすこともハードな運動を楽しむこともでき、さらには都心部からアクセスしやすく、アウトドアスポーツを嗜むのには最高の地域だ。
マウンテンバイクは主に山道を走るのだが、山で実際に乗っている人に遭遇する機会は少ないかもしれない。それもそのはず、マウンテンバイク乗りはただでさえ広い山林の、さらに人通りのない山道を好んで走行するからである。法律上は走行が許されている山道であっても、肩身の狭い思いをしていることが多いマウンテンバイク乗り。そのスピードから、他の利用者との接触事故が懸念され、また見た目にインパクトのある太いタイヤから、路面の侵食の原因と見なされ、走行禁止になった山道は残念ながらいくつもある。
{{ 図版 4 : 岩畳も見つめることでラインが浮かんでくる。写真:鈴木 雄一 }}
山道は無数にある。だから短絡的かつ無責任に考えれば、ある山道が走れなくなれば、違う山道を走ればいい。しかし、これを繰り返せば、全国的にフィールドは減少していくばかり。ただでさえ高額な機材スポーツである。また、玄関を出た瞬間からフィールドが始まるロードバイクと異なり、マウンテンバイクは山道という特定のフィールドありきのスポーツだ。フィールドが減って行けば、次世代のライダーが育ちにくくなり、数十年後には悲惨な状況が待ち構えているかもしれない。そして、走る場所がなくなれば、その存在意義すらもなくなってしまう。だからこそ、すべての山道とまでいかなくても、できるところから整備活動を始めていく必要がある��思う。
{{ 図版 5 : 木々の隙間から漏れた光がスポットライトのよう。薄曇りの奥武蔵にて。写真:西脇 仁哉 }}
慣れ親しんだトレイルが将来的に走行禁止になるかもしれないという危機感を持ち、自分たちの手でフィールドを守ろうと2014年に設立されたのが、奥武蔵マウンテンバイク友の会(以下OMC)だ。その目的はいたってシンプル。普段遊ばせてもらっている里山への整備を通した恩返しと、マウンテンバイクの普及および啓蒙である。 友の会に現在所属する会員は、子供から大人までの80名弱。年齢も職業もバラバラだが、共通するのは皆、マウンテンバイク乗りであるということ。私たちは高齢化が進む地域の里山保全団体にマンパワーを提供し、倒木の撤去や雨水の浸食を防ぐための造成などを行っている。また、行政の道路美化団体に登録し、里山周辺で不法に投棄されたゴミの清掃や草刈りもしている。年20回ほどの作業に毎回20名程度が参加し、各地域の作業担当に割り振られた主要メンバーは、月に一度のミーティングで今後の作業内容の決定や、会に寄せられた問題の議論を行なっている。
海外ではトレイルビルダー、要はマウンテンバイクで走るトレイルを山中に作る職業があり、その作業が映像やSNSで紹介されるようになって以来、彼らに憧れるマウンテンバイク乗りも日本で増えてきた。シャベルやツルハシで道幅を拡幅したり、土を掘っては盛って水切りを作ったりするのだ。しかし、所有者に無許可でこれを行なうと、器物損壊の罪に問われてしまう。その点、OMCで整備する山道は、すべて市道となっている。問題箇所の特定、行政への作業の申請と報告を通じて、マウンテンバイクのためではなく、あくまで歩きやすいようにするためではあるが、そのような整備を堂々と行っている。また、OMCではただの肉体労働に終わらず、達成感や意義を感じられるよう工夫している。その最たるものが、汗を流して整備した区間の走行だ。自分たちの手で直したという自負から、その区間の走行は毎回感慨深いものとなる。
{{ 図版 6 : 山側を削り、その土を谷側に盛って山道を拡幅するOMCの会員たち。写真:西脇 仁哉 }}
2017年には、埼玉県飯能市の市民活動支援事業に『子供と楽しむじてんしゃ広場』と題して、同市名栗地域の公園内に自転車コースの開設を提言。無事採��され、翌年には造成が完了。現在は偶数月に一度の整備活動に加え、年二回、地域の子供たちに向けた自転車教室を開催している。純粋な自転車遊びの延長として、土の上での安全な走り方を身につけることで、マウンテンバイクを本格的に始める子供が出てくることを願っている。
{{ 図版 7 : 子ども向けの教室では、学びではなく遊びの延長として、マウンテンバイクの入口を体験できるよう配慮している }}
例えばカナダでは、自転車と言えばマウンテンバイクであることが多い。サイクリングを楽しむ家族から、本格的なスポーツとして取り組む愛好家や世界のトッププロライダーまで幅広い層が定着し、マウンテンバイクという乗り物が市民権を得ているのだ。さらには、充実したその走行環境はマウンテンバイク先進国と言わしめるのに十分であり、世界中から愛好家を惹きつけ、さらには多くの移住者まで生んでいる。また、カナダの国土は日本の約27倍であり、そのうち9割の山林を各州が所有する。これらの州有林は、健康や幸福の追求、つまりはレクリエーションを目的として人々に開かれている。それゆえ、トレイルの造成などには細かなルールが定められているものの、地権者が公私散り散りとなった日本の土地と比べ、はるかに利用しやすい。また、どの街へ行っても、そこにはほぼ必ずマウンテンバイクの走行環境を整える団体が存在している。
一方、日本は国土の約7割が山林であるものの、その目的は保全が多く、多様なアクティビティーの利用に対して開かれているとは言い難い。また、利用までの道を切り拓く上で、マウンテンバイクが貢献できることは地域によって異なる。OMCのように、高齢化する保全団体にマンパワーを提供できる地域もあるし、害獣駆除の一環として、マウンテンバイクの走行が野生動物を田畑から遠ざける役に立つ地域もある。また、良質なトレイルがまとまって存在していることから、マウンテンバイクの目的地として愛好家を呼び込み、町おこしの一端を担っている地域もある。それぞれの地域に適した運営方法や作業内容で、コミュニティーと協力して持続可能な山林の利用法を編み出す団体が全国的に増えているのだ。
{{ 図版 8 : 幻想的な景色と出会えたときの喜びはひとしお。写真:鈴木 裕一 }}
マウンテンバイク先進国から10年は走行環境が遅れていると言われている日本だが、国が違えば制度も違って当然。したがって、日本は日本に適したやり方で、地道にフィールドを増やしていくほかない。これまではただ走っておしまい、と一方的に利用するだけの遊び方だった。しかし近年は、このスポーツを社会にもっと普及や還元させ、次世代に繋いでいくことがより重要視されているように感じる。遊ぶフィールドは自らの手で守る。その言葉を胸に、マウンテンバイクがブームとしてではなく、地域と深くつながって広まっていくことを願ってやまない。
●著者プロフィール 西脇 仁哉 ―――1986��東京生まれ、埼玉育ち。小学生の頃にマウンテンバイクと出会う。大学卒業後にはカナダのブリティッシュ・コロンビア州ウィスラーで本場のマウンテンバイクを体験。国内外の映像作品や専門誌に取り上げられ、現在はフリーランスの翻訳家をしながら、レースとは違うマウンテンバイクの楽しさを発信中。
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星辰選集
花鳥誌 令和4年1月号

令和3年10月号の掲載句より再選
坊城俊樹選
この星辰選集は、私が各月の掲載句の中で、雑詠選・撰集選・さいかち集の成績などに関係なく、改めて俳句としての価値が優れていると判断したものを再度選句したものです。 言わば、その号における珠玉の俳句ということになります。
森の翳負ひたる二人静かな 栗林 圭魚 寂として東の大河明易き 渡辺 美穂 籐椅子に虚子の影置く鹿野山 小川 笙力 涼しさや一重まぶたと長き指 上嶋 昭子 ゲルニカの炎のやうに薔薇果つる 野口 孝子 梅雨寒し眼を持たぬ深海魚 沢井 真弓 二枚目の女郎蜘蛛なる夏芝居 斉藤 いづみ 触るるもの青に変へゆく梅雨の蝶 栗原 和子 万緑や遺跡の底に笛の音 山﨑 久子 しぶき上げ滝壺に水沸騰す 山崎 肆子
蟬時雨ひとり遠くへ来たやうな 大和田 博道 秋の夜いつしか君の生返事 伊藤 ひとみ 梅雨空へ九段会館高く高く 辻 梓渕 蛍川への足取りとなつてゐる 馬場 省吾 アイスキャンデー食ふ子とそれを見てゐる子 田丸 千種 風鈴や木挽町しか知らぬ風 岡田 順子 サングラス白洲正子の朝帰り 有馬 幸月 夏潮に仏蘭西からの帆を張りて 中里 三句 さやうならたつた五音の梅雨送り 渡辺 幸子 父の日の父と偲びぬ母のこと 田上 喜和
浴衣来て春ちやん秋ちやん三姉妹 荒舩 青嶺 風は髪波は跣足と戯れて 譽田 若菜 海底の岩屋に入りし鮑海女 進士 里昇 運命の流るるままに夕焼けて 久保 光子 反対の車窓にばかり雲の峰 柴田 貴薫 蚊帳の中御伽草子を語る祖母 田辺 て津子 やうやくに楽屋貰ひて夏暖簾 加納 佑天 直木賞芥川賞なめくぢり 河野 公世 草刈の後はのつぺらぼうの午後 池松 伸子 採血の針よく通る薄暑かな 中山 昭子
寄する波と遊ぶ素跣のまぶしくて 藤田 克弘 藍浴衣横顔ばかり流す川 永野 佐和 夏帽子どちらが姉か妹か 阿部 ひろし 蟻の道細く営々たる無音 尾田 美智子 梅雨じめる下乗の玉砂利を踏みて 下野 美智子 滝壺や太古の熔岩を底に秘め 舟久保 安子 サーフィンの店十薬の陸に立つ 髙橋 晁史 階に蛞蝓のあと雨意の濃き 秋吉 芙佐子 縄文へ吸ひこまれゆくサンドレス 大江 三郎 万緑や黄金の鯉水しぶき 幡生 啓子
大池の雲に休んでゐる金魚 髙間 ヨシヱ 生きるとは我れも思考やチンアナゴ 蟹江 紅水 雷鳴は大夕焼けの露払ひ 和田 久鼓 水平線きらきら光り海開き 末政 千代子 梅雨の日の事情も知らず万歩計 平澤 蕉 香水に和服姿に覚えあり 小林 敏朗 八月の海に降りゆく足の裏 大村 八重子 雨風の鉄砲百合に容赦なく 岡田 圭子 歯並びのきれいな人や西瓜食ぶ 岩田 好松 白絣こぞの名残の畳皺 松雪 耿子
さりげ無く団扇の風を送る恋 八木 惠津 万緑に森羅万象沸きにけり 有川 公子 裏木戸の紫陽花に身を細くして 田原 悦子 開け放つ百年の蔵夏燕 古川 時江 高倉健見し昂りに明易し 奥 清女 埒も無き焼酎談義酔ふほどに 杉原 久美子 虚子堂を出て栴檀の日の高し 浅川 走帆 干物干す梅雨の晴間を突堤に 富田 みな子
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中世の文学と尺八☆ 狂言『楽阿弥』
尺八吹きの亡霊のお話!
狂言(きょうげん)とは、猿楽から発展した日本の伝統芸能で、2人以上の人物による、対話と所作を用いた演劇であります。
『楽阿弥』とは、狂言の曲名。舞狂言。
猿楽と尺八に関してはこちらも参考にして下さい↓
狂言と同様に猿楽から発展した能が、舞踊���要素が強く、抽象的・象徴的表現が目立ち、悲劇的な内容の音楽劇であるのに対し、狂言は、物まね・道化的な要素を持ち、失敗談を中心としたシナリオおよび、様式をふまえた写実的ときには戯画的な人物表現を通じて、普遍的な人間性の本質や弱さをえぐり出すことで笑いをもたらす。(参照wikipedia)
まさに、演劇の元祖がこの、狂言なんですね。私は舞台裏で仕事をしていた時に、狂言を観る機会がありました。セリフは独特な言い回しで昔言葉なので難解なイメージですが、今回の講座のようにじっくり読み解いていくと、面白いです。なんと言っても尺八吹きの亡霊が出てくるんですからね!面白くないわけがない!
と、いうことでまずは本文ご紹介。

『狂言記』 野村八良 校(国立国会図書館より)
一人の旅僧と尺八吹きの亡霊のお話です。
日本語の古い形態で表現される縦書きの繰り返し記号の「へ」の字によく似た文字が、パソコンでは出せないので「/\」←このように書きました。
登場人物
シテ(楽阿弥)
ワキ(旅僧)
<ワキ次第> 囉斎(ろさい)に出づる門(かど)わきに、/\、犬の伏せるぞ悲しき、
<詞> これは東国方(がた)の者でござる。某(それがし)未だ大神宮へ参らず候間、此度思ひ立ち、伊勢太神宮へと志し候。旅衣尚萎れゆく往来の、/\、臥すまなきぞ悲しき。足に任せて行く程に、/\、これぞ名に負う伊勢の國、別保に早く著(つ)きにけり。
<詞> 急ぎ候ほどに、これは早(はや)別保于の松原に著いてござる。これなる松を見れば、札を打ち、短尺をつけ、尺八の様なるものを、数多(あまた)にかけられて候。如何様いはれの無いことは、ござあるまい。所の人に尋ねばやと存ずる。所の人の渡り候か。<問> 所の者と御尋ねは、如何様なる御用にて候ぞ。
<ワキ> 是なる松を見申せば、札を打ち短尺をつけ、尺八の様なるものを、数多(あまた)かけられて候。いはれの無いことは候まじ 教へて給わり候へ。
<問> されば、其事にて候。あれは古(いにしへ)此所に、楽阿弥と申す尺八吹の、久しく尺八を吹死(ふきじに)に致され候により、所の者共痛(いたわ)しう存じ、土中につき込め、印に植えたる松にて候。御僧も逆縁ながら、弔うて御通(おんとお)りあれかしと存じ候。やあ、見申せば御僧も、尺八を遊ばすやらん。腰にさされて候よ。
<ワキ> いや/\、犬嚇(おどし)までにて候へども、逆縁ながら弔うて通らうずるにて候。
<問> 又御用あらば、重ねて御申し候へ。
<ワキ> 頼みましよ。
<問> 心得ました。
<ワキ 謡> 「扨(さて)は、是なるは、楽阿弥陀仏の舊跡かや。いざや御跡弔はんと」我も持つたる尺八を、懐より取出(とりいだ)し、この尺八を吹きしむる、/\。
<シテ 一声> 尺八のあら面白の音いろやな。お主を見れば双調切なり。
<ワキ> 不思議やな まどろむ枕の上を見れば、大尺八(二尺五寸)、小尺八(一尺二寸)、四笛(してき・一尺八寸)、半笛(上羽調子と云う)、両笛を差し、われ等の笛を面白がるは、如何なる人にてましますぞ。
<シテ詞> これは古(いにしへ)、尺八を吹死にせし、楽阿弥といへる者なるが、御尺八の面白さに、これまで顕(あらわ)れ出でて候。
<ワキ> これは不思議の御事かな。昔語の楽阿弥陀仏に、言葉を交すは不審なり。
<シテ詞> 何をか不審し給うふらん。あの朗安寺の尺八の書にも、「両頭を切断してより此のかた、尺八寸の内、古今に通ず、吹き起す無常心の一曲、三千里外に知音を絶す」と作られたり。
<ワキ> 実(げに)/\。是は理(ことわり)なり。昔語の楽阿弥陀仏に、言葉を交すも尺八故(ゆえ)。
<ワキ> おう。
<シテ> 面白や。面白けれど尺八の。/\、わが吹くは喧(かしま)しゝとて、三千里の外知音は隔つまじ。まづわれは差惜(さしお)くなり。御尺八を吹き給へ。
<ワキ>同じくは連れ尺八。
<シテ> いや/\、それは楽阿弥が、御尺八をよごすなりと、云ふ声の下よりも、大尺八を取出し、とらあろら、りい、りい、とらあろ、とあらろ(らあらろ)、ふう
<シテ> あら昔恋しや。暇申して帰るなり。
<ワキ> あら痛しの御事や。最後の語りをおはしませ。
<シテ> いで/\さらば語らん、/\。もとより楽阿弥は、しゆつつうなる面ざしにて、彼所(かしこ)の旅人、此所の茶屋、あそこの茶屋、あそこの門(かど)にさしよせ/\、機嫌も知らず、尺八を吹き鳴らして、楽阿弥に代り一銭、尺八吹には何も呉れねば、腹だちや/\と、あそここゝにて悪口(あくこう)すれば、尺八吹は図なしなり、不詳なり あてよやとて、朸(おうご)撓め(ため)の三つ伏せに、押し伏せられて。
<シテ> 縄だめ柱だめに、焙(あぶ)つつ、踏んづ、捻ぢつ、引かれつ。その古の尺八竹の、冥土の苦患となるを、助け給へや御僧よ。尚も輪廻の妄執は、この年までも、数奇の下がらぬ。姥竹(うばたけ)の恋しさは、われながらうつつらにくやと、かき消す様にぞ失せにける。
語句解説
【次第】能の囃子事(一曲の中で、囃子が主となる部分)のひとつ。
【囉斎(ろさい)】托鉢行脚
【伏すまのなき】「衾・ふすま(夜具)」と「伏す間」を掛ける
【犬おどし】犬をおどして追い払うためのもの。この場所、尺八を持っているのを謙遜して言ったもの。
【吹きしむる】しめやかに尺八を吹く
【双調切】「ぎり」は竹を適当に切って音を調節するところからいう。双調の調子に合わせて作られた尺八。
【無常心(むじょうごころ)】世の中をはかなく思う心。
【しゆつつうなる(しゆつなる)】出なる。すなわちデモノ。さしでがましいこと。でしゃばること。
【図なし】とてつもない者、途方もない者。
【不詳】不浄、不肖、無生、いろいろ当てられる。
【あてよや】打ちつけろ、叩け
【朸】天秤棒
【苦患】くげん 苦しみ
【数奇】すき 不運、波乱にみちているさま。「数奇」と「過ぎ」を掛けている。
【姥竹】老齢を表すとともに、尺八製造に際しての手本を「姥竹」ということに掛ける。
【うつつら】まことに
訳
旅の僧が、伊勢の国、別保(べつぽう)の松原に着くと、1本の松にお札や短尺、尺八のようなものが数多くかけられているのを見る。土地の者にいわれを尋ねると、昔ここに住んでいた楽阿弥陀仏という薦僧が尺八の吹き死にをしたので、亡骸を土の中に埋めて、心ある人は尺八を手向けるのだと語り、僧にも供養を勧める。そこで、僧は〈我も持たる尺八を、懐より取出し、この尺八を吹きしむる〉と言い奏しはじめると、〈尺八のあら面白の音色やな、おぬしを見れば双調切(そ���ぢょうぎり)なり〉と謡いながら楽阿弥の幽霊が現れる。大尺八(二尺五寸)、小尺八(一尺二寸)、四笛(一尺八寸)、半笛(上羽調子)、両笛を差している。〈これは不思議だ。昔話の楽阿弥陀仏がしゃべった!信じられない!〉と僧が言うと、楽阿弥が〈何も不思議ではないぞ。あの宇治の朗安寺の尺八の書にも「両頭を切断してより此のかた、尺八寸の内、古今に通ず、吹き起す無常心の一曲、三千里外に知音を絶す」とある〉と尺八の功徳を説く。そして一緒に尺八を吹く。〈ああ、昔恋しや〉と楽阿弥が帰ろうとするので僧が一体何があったのか聞いてみたところ、楽阿弥は〈そこかしこで尺八を吹いていたけれども、人々は乞食には一銭くれるが、尺八吹きとしては何もくれない。私は腹が立ったので、あちこちで悪態をついたら、人々にコイツはとんでもない奴だということで、天秤棒で押し伏せられ、縄で柱に縛り付けられ、焙られ、踏みつけられ、捻られ、引かれたのだ。今尚、死に切れず、尺八への妄執は断ち切れない。姥竹への恋しさは我ながらまことに憎らしい〉と言ったまま、跡かたもなく消えてしまった。
〈おわり〉
僧のセリフ、
「我も持たる尺八を、懐より取出し、この尺八を吹きしむる」
こちらはミニ講座27の『閑吟集』の下記の歌とよく似ています。
「我らも持ちたる尺八を 袖の下より取り出だし 暫しは吹いて松の風 花をや夢と誘ふらん いつまでかこの尺八 吹いて心を慰めん」
『閑吟集』より
一節切は1尺1寸1分という短さなので、袖にいれて持ち歩いていたんですね。吹きたいときにすぐ吹けるし!合理的👍
そしてこちらの文章は、宇治吸江庵に住んでいたとされる朗庵が作者とされています。元は漢詩です↓
両頭を切断してより此のかた、尺八寸の内、古今に通ず、吹き起す無常心の一曲、三千里外に知音を絶す
訳
竹の両端を切った尺八寸の一節切の中には、古今に通じる儚い音色が込められて、三千里より遠くでもその音は届く
朗庵と親交のあった一休宗純(1394-1481)も同じような詩を書いているそうです。雅楽家の豊原統秋( 1450-1524)の記した日本三大楽書のひとつである「体源鈔」内にも見られます。
両頭というのは、普化禅師の唱えた四打の偈「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打・・・」の事であるとも。
さて、何故、楽阿弥はこのように無残に殺されなければならなかったのか?
ただ尺八を吹いていただけなのに!
それについては保坂裕興氏が著された「十七世紀における虚無僧の生成」の中で説明されています。
戦国大名は当時の芸能者を一定の保護と規制の下に置いた。尺八を吹く職能を持った人々は、連歌師・田楽師・猿楽師・舞人・座頭など数多く存在したが、薦僧は領国支配政策において、保護と規制の下に置かれるような芸能者とは区別され、放下(大道芸の一種)・猿引と同様、不利益をもたらすものとして位置づけられていた。
この狂言は、楽をすることや人々に迷惑をかけることを戒める、教訓ものではない。ここに描かれたように、薦僧楽阿弥と定住社会の人々の間には、大きな軋轢(あつれき)が存在していた。ひたすらに尺八を吹き、乞食に生活をゆだねる薦僧楽阿弥は、尺八吹奏の内に悟りをひらくという独自の世界観を持っていたが「楽阿弥」という呼称が示すように、定住社会の側から見れば、煩悩にしたがって生きる乞食浮浪者であり、その構成員たりえなかった。猿楽芸能者たちは、人々が楽阿弥の怨霊を封じ込めるべく塚に松を植え、また多くの尺八を下げ、札を打ち、短冊を下げて弔わなければならなかったことを設定したように、独自な世界観を持った薦僧と定住社会の人々との相克を舞台にのせ、定住社会の論理に圧倒されていく彼らの怨念を芸術に高めていった。
【相克(そうこく)】対立するものが互いに相手に勝とうと争うこと。
門付け行為に対して「替わり一銭」つまり相対時毎に「仕切銭」をわたす行為が当たり前に行われていた。定住社会の人々と薦僧との軋轢は、通常、この習俗的経済行為によって回避されていたのである。そしてそれが機能しない場合には、領主権的警察権にゆだねるのではなく、自力による共同制裁に移行したのであった。
以上のように、十五、六世紀の薦僧は<領主ー領民>が構成する枠外に存在した。そして習俗的な場では<仕切銭>によって外部に構造的に位置づけられ、戦国大名の政策では法的排除が指向された。これが『三十二番職人歌合』に名を連ねた薦僧の「卑しき身品」の内容であり<中世非人>の一種と見ることが可能である。
「楽阿弥」という名前の由来がわかりました。辻立ちをしている私には何とも痛いほどわかると言いますか…。
乞食坊主の行為にはお金をくれるが、尺八の演奏に対して人々の反応は鈍い。これが中世の頃からだったとは驚きです。昨今は仏教離れで虚無僧にも関心はなく、ましてや尺八の音色にもほとんどの人は反応しません。
要は生活に必要なものではないとの、烙印を押されてしまった職業なんですね。
もう、名前も「楽阿弥子」に改名しようかしらと思うくらいに、この亡霊さんに親近感です(笑)
楽 阿弥子
楽阿 弥子
どっちにするか、迷うところです。
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るんぺんパリ 【RunPenParis】
【自己紹介 2024年8月3日追記 4335文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある お兄さんいるらしいがあった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 上野城のお堀の高さ日本2位? 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる
市部という地区だったと思う 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった 小学校までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた 高校生だったから だからそういう人には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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私の好きなトコVol.15*2018.5
榎本でがんばる人たちが 榎本の中でおすすめしたい場所を紹介する連載ブログ。
※ふれあいえのもと通信30号(6/10発行)掲載
『水害が結んだ榎本と今津』歴史家・放出の語り部 森田 泰齊 さん

「まだ、この辺りが田んぼばっかりやった頃は、幅2メートルほどの川(井路・人口水路) に各家が船を浮かべて、刈り取った稲なんかを運んどった。 庭先まで細い水路を引き込んでる家もあって、よぉそれ借りて遊びに 行った。膝ぐらいまでの深さの川は、子どものええ遊び場やったな。」 のどかな情景 が浮かびます。
しかし、水害に苦しみ続けたこの地、放出。 治水翁、大橋房太郎さんの功績はご存知の 方も多いでしょうが、 その治水事業のきっかけは明治18年の大水害。

現在、正因寺境内に残る『六郷修堤碑』。 森田さんが読み下された碑文によると、その工期や工費が詳細に記されていることがわかります。
その中に「六郷堤は、摂河境上(摂津国、河内国の境界線上を流れている)寝屋川の南岸にあり榎本、今津二村に属す。」榎本をタテに走る中高野街道。 国境を跨ぐ事業は、放出と下辻(鶴見)からなる摂津国の榎本村と河内国の今津村を結び、一つの村だけでは 不可能だった村民の安全を保障する抜本的な改修工事となり、やがて合併して新しい榎本村誕生に至ります。
「1 階は水浸し、屋根裏で生活。出入りは藁葺屋根に穴をあけ、庇(ひさし)の上に出て田舟に乗って村内を行き来した‥」 森田さんがお父様から聞かれた大水害当時のお話。同じ船ではあり ますが、随分情景は違います。
是非一度、正因寺を訪れ、治水翁の記念碑にふれ、放出の水にまつわる歴史を感じてみませんか。

※放出東1丁目界隈。ブロックの下に石垣の名残。
ちょうどこの道幅の半分ぐらいが井路。 当時の川筋に沿って歩くと、所々に石垣が残り、 心地よい流水音が聞こえてきそう。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月23日(火曜日) 通巻第6552号
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集中連載「早朝特急」(17)
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第一部 暴走老人 西へ(17)
第十七章 南モンゴル、ウィグル、チベット
▲中国の残虐はチベットで顕著に露呈した
チベットのラサへは成都から飛行機で飛んだ。空港で驚いたのは大型機が次から次へと中国各地から到着し、観光ブームの頂点に湧いていた。空港からラサ市内までは一時間半ほど。渓流や水たまり、でこぼこ道を越えるので四輪駆動でないと、安定しない。
ラサ市内であちこちを見たが、ようすにチベット族は差別を受けて、ろくな職場がないこと、仏教寺院はありきたりで、とても僧侶達が真剣に仏典を勉強しているとは思えず、ひどく俗化していたこと。ポタラ宮殿は偉容を誇るが、内部はそこら中に公安デスクがあり、警戒が厳しく、広場ではうっかりすると物乞いがまといつく、それもじつにしつこい。
市内にアメリカ人女性が経営するバアがあって、スコッチを飲んだが、一杯程度では高山病にかかることもなく、最終日にうっかり四杯呑んだら、一晩中頭が痛くて眠れない。嗚呼、これが高山病というやつか、と貴重な体験をした。
ひとことで言うとチベットは完全に漢族の支配下にはいってしまった、表向きの寺院とは無縁の俗世である。知識人も僧侶も、ほとんどが粛清されたか、外国へ逃げたからだ。
チベットはいかにして侵略され、自由が失われてしまったのか、これまでにも多くが語られた。
ダライラマ法王にはノーベル平和賞が授与され、そのダライラマに感激したハリウッド俳優のリチャード・ギアはチベット仏教徒になった。エディ・マーフェイは若き日のダライラマを助ける映画の主演を演じた。ブラッド・ピットはエベレスト登山の冒険野郎が、ダライラマにひかれてゆく物語の映画に主演した。
ダライラマが訪米すれば大統領が面談する。わが日本は仏教国であるにも拘わらず、歴代首相が面会したことはない。
日本はいつの間にかサムライ精神を忘却の彼方へ葬り去った。
▲このチベットの惨劇が明日の香港の運命を襲うかも知れない
香港と台湾は過去の出来事を学んだ。とくに香港は『国歌安全法』がいずれ言論の自由を封じ込めることになると不安を募らせ、「第二のチベット��か、或いは「第二のウィグル」になるのではないか、不安が増すのも中国共産党がいかなる凶暴性を発揮してきたかを知り尽くしているからだ。
沈黙を続ければ、静かに侵略はすすみ、自由社会は消え、中国共産党の奴隷に転落するという悲劇的な地獄を迎える。
悲劇は繰り返されている。南モンゴル、チベット、そして現在の進行中はウィグル族への血の弾圧だ。
ペマ・ギャルポ『犠牲者120万人 祖国を中国に奪われたチベット人が語る侵略に気づいていない日本人』(ハート出版)の行間にもチベット人の悲劇、
その懊悩と悲惨な逃避行のパセティックな思いが滲み出ている。温厚で信仰心熱きチベットは中国にあっという間に侵略され、中国に味方する裏切り者も手伝って、120万もの同胞が犠牲となった。ダライラマ法王は決死の覚悟でヒマラヤを越えてインドに亡命政府をつくった。その深い悲しみ、暗澹たる悲哀、血なまぐさい惨劇、しかしこのチベットの教訓こそが、香港、台湾、そして日本がいま直面している危機に直結する。
「日本人よ、中国の属国に陥落し、かれらの奴隷となっても良いのか」とペマ氏は訴える。
チベットは「寛容の国」だった。
それゆえに「寛容の陥穽」に嵌って邪悪な武装組織、つまり中国という暴力団の塊のような、ならず者によって滅ばされた。日本は平和憲法という、寛容な国家の基本法を押しつけられてから七十四年も経つのに、未だに後生大事に墨守している。それが国を滅ぼす元凶であること、左翼の言う「平和憲法」擁護には騙されてはいけないことをペマさんは力説している。
百万人の強制収容所問題で世界を揺らすウィグルの悲劇もチベットのパターンを踏襲している。
▲ウィグル自治区で何が起きたか
十数年前に新彊ウィグル自治区を旅し、ウルムチから列車でトルファンへ入った。
途中のハミ駅で熟した瓜を買った。じつに美味い。トルファンでは干しぶどう、これもまた絶品だった。当時、中国で売り出したばかりの「長城」をいうワインはフランスのワインとまでは行かないけれどもなかなか乙な味だった。
江沢民時代の新彊ウィグル自治区は外国人にほぼ全域が開放されていて、かなり自由に写真撮影もできた。
ウルムチやトルファン市内の屋台に溢れる羊肉、皆がイスラム帽をかぶり、女性はスカーフが多かったけれども、顔を���しているわけでもなかった。
観光名所のベゼクリク千仏窟は、いかにイスラムが仏像を破壊したかの廃墟跡を意図的に見せているような気がした。岩だらけの高台には孫悟空ワンダーランドとかのテーマパークも出来ていた。
ウィグル自治区の各地でコルランの普及率を調べたが、何処にも、それこそ一ケ所にもコルランを売る書店もなければモスクの受付にもなかった。田舎へ行くとモスクは閉鎖されたところが多く、そのモスクの周囲は物静かで人影もなかった。
コルラン販売の監視とモスクの出入りがチェックされている様子は呑み込めた。
▲留学生がおびただしく行方不明になった
2017年頃からエジプト留学から帰国したウィグル族の若者が当局に拘束されて行方を絶った。家族が心配して心当たりを捜したが、杳として行方がしれない。同様な「事件」が頻発していると在日のウィグル人組織が騒ぎだした。
2018年にはドイツやトルコの海外ウィグル人組織が騒ぎ出し、議会が動き、国際団体が調査に乗り出した。ついに国連の人権委員会で取り上げられた。
なかには家族が偽りの電話を強要され、父親が病気とかで外国へ電話をかけて急いで留学先から帰ると、有無を言わせずに強制収容所に放り込まれ、そのまま一年以上。
合計八千名のウィグル族の若者の留学帰りが収容所で「再教育」という名の下に洗脳教育を受けていた。いずれもイスラム圏への留学という共通点があった。
もともとウィグル族はイスラム教を篤く信仰してきた。無神論の中国共産党は、それ自体が一神教であるから異教徒は許容できない。
この弾圧の中心人物は陳全国(政治局員)だ。
2016年8月29日、陳全国が新彊ウィグル自治区の党委員会書記に任命された。直前まで陳全国はチベット自治区の書記だった。つまりチベット弾圧の責任者だったから、ウィグル自治区にはいっても民衆の弾圧、暴力支配など得意技だった。
陳全国は1955年に河南省に生まれた。武漢の大学をでて軍隊に入隊し、共産党へ入党して頭角を現し、2010年に河北省省長に就任した。異例のスピード出世である。その後、習近平の覚え目出度くチベット書記に栄転した。現在はトップ25の政治局員でもある。
同じ頃、重慶特別市書記だった孫政才が唐突に解任され、新たに陳敏爾が任命された。孫政才の解任理由は「薄煕来の腐敗体質の残滓を重慶市から積極的に排除できず、そのままに旧幹部等をのさばらせ、自らも汚職に励んだ」などとする冤罪だった。要は共産主義青年団の「希望の星」だった孫を潜在的ライバル視してきた習近平にとって、将来の独裁に邪魔になるから排除したに過ぎない。
陳全国も陳敏爾も習近平の子飼い、イエスマン若しくは茶坊主、行政手腕が無能でも、おべんちゃらがうまければ出世街道を驀進できる。阿諛追従の才能だけは秀逸なのだ。下手に理論家だったり戦略論をぶったりすると無学な習近平から逆恨みされるのだ。
ウィグル自治区の悲劇は、このときから一層無惨になった。
2009年に勃発したウルムチ暴動で、漢族が武器を持って手当たり次第にウィグル族を虐殺し、多くのウィグルの若者は隣のカザフスタンへ逃げた。その数は数万人と言われるが、そのうちの一万人ほどがシリアの軍事訓練基地へ送られ、ISのメンバー入りした。
かれらは漢族への復讐心に燃える。中国の諜報機関はシリア政府、同時にISにも武器を提供して巧妙に近づき、かれらの動向の情報収集に躍起となった。テロリストとして訓練され、中国に帰ってくることを怖れたからだった。
ISをスピンアウトした過激派は「漢族に血の復讐を。中国人を血の川へ投げ込め」などと煽動するヴィデオを作成し、ユーチューブで配信した。びっくり仰天の中国共産党はあらゆる手段を講じてでもウィグル族過激派の撲滅排除に乗り出す。
陳全国は新彊ウィグル自治区の党書記となるや、「宗教活動を厳密に規制し、イスラム文化の表現をやめさせ、辻々には検問所を設け、顔識別とAI機器を駆使して手配者の逮捕を強化し、さらに砂漠に次々と強制収容所を設営し、拷問による改宗を強要した」(『TIME』、2018年8月27日号)。
▲再教育センターとは監獄である
そうやってイスラムを学んできたウィグルの若者の洗脳教育を始めた。「改宗」できない者は独房にぶち込み、イスラム教徒が忌み嫌う豚肉を与え、しかも独房の狭い牢獄に三人も五人も入れてストレスを溜めさせる。睡眠不足とし、洗脳の効果をあげようと急いだ。それでも「直らない」ケースでは家族も強制収容所に入れた。出所してすぐに死ぬという悲劇が相次いだ。
米国の偵察衛星が収容所の数が急増していることを突き止めた。また強制収容所ばかりか、再教育センターもつくられ、家族全員のDNAや血液が収集されデータベースに入力された。デジタル全体主義の支配システムである。
トランプ政権はこのような人道に悖る人権無視の民族浄化を黙ってみることはなかった。
衛星写真の証拠を楯にして、これを対中政治カードとする。ゲイ・マクドゥーガル国連人権差別撤廃委員は2018年8月10日、国連委員会で「200万人のムスリムが強制収容所で再教育を受けているという報告がある」と爆弾発言した。
マクドゥーガルは「なかには髭を貯えていた、ベールを被っていた」などの理由で拘束されているケースも報告されているとし、「ウィグル族の民族的アイデンティティの喪失が目的だ」と中国を非難した。
またウィグル女性は漢族の男性としか結婚できないという規則を強要しているとの情報があり、そうなるとユーゴスラビアでおきた「エスニック・クレンジンング」(民族浄化)という悪夢の���来である。あの時、セルビアは欧米社会から猛烈な非難を浴び、孤立を怖れたセルビア国民はミロセビッチ、カラジッチという民族の英雄を国際法廷に送り込んだ。
中国は国連報告をただちに否定し、「あそこは強制収容所ではない、あれは職業訓練センターであり、ウィグル人の教育向上と雇用機会の増大をはかる目的だ。漢族も収容されている。われわれが警戒して取り締まっているのはテロリスト、分裂主義者、過激な宗教活動家だけだ」などと平然と嘯いた。
これはチベットにおける120万人の無辜の民と僧侶の虐殺を「農奴解放」と言ってのけた嘘の論理の適用である(チベットに農奴はいなかった)。
またウィグルの動きに触発されて隣の青海省、四川省、甘粛省、陝西省、寧夏回族自治区などではモスクの監視が厳格化され、とくに後者の回族自治区のモスクは「改修」を詐っての取り壊しが計画されたため信者がモスクに座り込み開始した。
イスラムは国境なき連帯のコミュニテイィであり、ウィグル族への苛烈な弾圧は口コミを通じて世界のムスリムに拡大した。トルコはこの時、中国を激しく批判し、旅行制限をだしたほど対立的だった。
ムスリムの中国敵視は米国の対中国認識とはレベルの異なる、感情的エトスが含まれているのである。
▲日和見主義だった欧米が中国に強硬となった
習近平時代となって強烈なイスラムへの弾圧が強まった。陳全国の悪名は世界にとどろき、「悪代官」と呼ばれる。収容されているウィグル人は百万人ともいわれるのに、イスラム同胞をかかえる国々は中国の人権抑圧を批判しない。米国も911テロ事件以来、「東トルキスタン開放同盟」を「テロリスト」とうっかり認定してからこれまでは黙りを決め込んできた。
その日和見的態度をがらりと変えたのがトランプ政権だった。
ペンス副大統領が正式にイスラムに言及し、ウィグル族の不当拘束を避難する演説を行ったのは2018年十月だった。2019年七月には日本を含む22ヶ国が中国政府を批判する声明に署名した。トランプ大統領はウィグル族をふくむ少数民族の代表者をホワイトハウスに招いて実情を聞いた(19年7月17日)。
しかし奇妙なことにイスラム国家のサウジもエジプトもカザフスタンもキルギスも右の署名には応じなかった。イスラム国家とは言え、みな独裁政治であり、おなじ独裁の中国とはたいそう馬が合うのだ。
だからイスラムはテロリストだという中国の嘘宣伝を楯にイスラム同胞への惨い弾圧には目を瞑ってきた。
▲イスラムの影響を抜き取るのが収容所の目的なのだ
福島香織『ウィグル人に何が起きているのか』(PHP新書)はウィグルへの突撃取材を試みたルポで、エティガール寺院の現場報告から始めている。
「美しいミナレットが特徴で、一日五回行われる礼拝の時間にはアザーンが流れるとガイドブックには書いてあるのだが、(中略)流れていなかった。寺院の屋根には五星紅旗が翻る。宗教施設に国旗を掲げることは2018年二月以降、義務化されているのだが、これほど不自然な光景もない」。
しかも寺院前広場はゴーカートなど子供遊園地に化け、戦車の乗り物もある。目抜き通りを歩くと「路上にはゴミ一つ落ちておらず、清潔だ(中略)が、どこかよそよそしい、この作り話めいた空気は何だろう。青いジャージに赤いネッカチーフの小学生たちが、中国語の童謡を唱いながら歩いていた。ああわかった。テーマパークだ」
タクシーにのっても監視カメラ内臓のため運転手と会話は弾まず、車内には「社会の秩序を乱してはいけない」などのポスター、どこもかしこにも監視カメラだらけ。
「人々は正直で親切だ。だが、人を含めて全部作り物のようだった。彼らは昔ほど陽気ではなかった」
福島香織さんの観察の目は鋭く、さらに牧畜が行方不明となっている現実をみた。どこにも羊の姿はなかったのだ。町からも村からも消えていた。ウイグルは「巨大な監獄」だった。それも「21世紀で最も残酷な監獄社会」だ。
所内では漢語の強制、豚肉を食べさせ、ウイグル族の文化的背景、イスラム教の影響を抜き取り、漢族風に洗脳する目的だったことは述べた。
中国語を教え、中国の法律を叩き込み、そのうえ中国共産党の獅子吼する「愛国」教育を徹底させた。その一方で、縫製、メカニカルエンジニアリングからホテルの清掃のやり方など教育、訓練した。
反抗したウイグル族が相当数、拷問され、収容所内で死亡した。
こうした事実はその後、亡命に成功したウイグル族女性によって米国議会の公聴会証言で明らかとなった。米議会は超党派で中国への批判を強めた。
トランプ政権はウイグル弾圧に用いられたとして監視カメラ、顔面識別、AI技術を製造するハイクビジョンなど中国企業の28社を[EL]リストに加え取引停止とした。ペンス副大統領の二度に亘る対中批判演説にはこれらの裏付けがあった。
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この前の水曜日の夜に近所を家に向かって歩いているときに、Ipodで音楽を聴いていました。 Ipod shuffleをshuffleで聴いているので何が流れるか分からないのだけど、椎名林檎の歌が流れてきました。最近、椎名林檎が気になる存在になっていて時々聴いているのですが、このとき流れた曲が気に入って歌詞を調べました。 僕が歌を気に入る時は、まず曲から入りつつ、曲が気に入ると歌詞を全部調べてみる、みたいな流れが多いです。 で、そのとき気になった曲が『丸ノ内サディスティック』って曲です。家に帰って、検索して歌詞を書き写してみたんですが、あまりよく意味が分からないので、色々調べてみました。 これから書くのは、その調べたもののメモのようなものです。 まずは、歌詞 報酬は入社後並行線で 東京は愛せど何にも無い リッケン620頂戴 19万も持って居ない 御茶の水 マーシャルの匂い��飛んじゃって大変さ 毎晩絶頂に達して居るだけ ラット1つを商売道具にしているさ そしたらベンジーが肺に映ってトリップ 最近は銀座で警官ごっこ 国境は越えても盛者必衰 領収書を書いて頂戴 税理士なんてついて居ない 後楽園 将来僧に成って結婚して欲しい 毎晩寝具で遊戯するだけ ピザ屋の彼女になってみたい そしたらベンジー あたしをグレッチで殴って 青 噛んで熟って頂戴 終電で帰るってば 池袋 マーシャルの匂いで飛んじゃって大変さ 毎晩絶頂に達して居るだけ ラット1つを商売道具にしているさ そしたらベンジーが肺に映ってトリップ 将来僧に成って結婚して欲しい 毎晩寝具で遊戯するだけ ピザ屋の彼女になってみたい そしたらベンジー あたしをグレッチで殴って これが歌詞なんですが、エロティックな香りをプンプン感じながら、気になったので色々と調べました。 まずはよく分からない用語から リッケン620 … エレキ・ギターのメーカー、またギターの名前。Rickenbacker620。リッケンバッカーの620のモデル マーシャル … Marshall。ギター・アンプのメーカー名 ラット … ギター名。エフェクター。ディストーション、歪み系。 ベンジー … “ブランキー・ジェット・シティ”(最近解散してしまった) のリーダー/ギタリスト/作詞作曲者/ヴォーカリスト浅井健一の愛称(すべて「クイック・ジャパン」特集「拝啓椎名林檎様」中の「椎名林檎大辞典」より) グレッチ … GRESTH。エレキ・ギターのメーカー名。ベンジー愛用のギターのメーカー さて、それでは歌詞を始めから読み解いていくと、 不況下、丸の内のOLが歌の主人公(報酬は入社後平行線で)、女は地方出身者(東京は愛せど何も無い)、池袋をターミナル駅とした私鉄沿線のわりと近めのところに住んでいる(終電で帰るってば 池袋)。 女にとって東京は喧噪にあふれ淋しさを紛らわす街に一見して思えたが、実質は喧噪しかなく、それを取り払うと空虚しかなくなる街であると感じている。その街の中で、どこか投げやりな気分で生きている。 御茶ノ水―後楽園―池袋の駅名列挙により、女は丸の内線を使って通勤していると判断される。 リッケンを買おうと御茶ノ水に行ったけど19万も持ってねーよ。御茶ノ水は、楽器屋が多いのです。 女はロック狂で、とりわけブランキーの浅井のことが狂信的に好きである。女には友達も恋人もなく、会社勤務ののちはただアパートに帰宅してヘッドホンでブランキーを聴くのみ(毎晩絶頂に達して居るだけ)。 女は、会社での仕事をぜんぜん面白いと思っていない(ラット1つを商売道具にしているさ)。「椎名林檎大辞典」には「ラット」はギター名、そして林檎を特集していた同人誌名との記載も見られるが、これは同じ「鼠」の意で、パソコンの「マウス」から「ラット」へと語の転用が試みられたとも考えられる。 つまり、女は上司から言いつけられた社内文章などをパソコンで文書化するなど、単調で退屈な作業しか会社で行っていない。女はパソコンで文書をつくりながら、“アタマのなかで”ブランキー=浅井の曲を再生していた。そしたらイッてしまった。(そしたらベンジーが肺に映ってトリップ) なぜ「肺に映る」のか。たぶん女は幼少期に肺を病んだ経験がある。その体の一番弱い部分がトリップの棲処となる。(ちなみに椎名林檎は内臓変形の既往症があり、幼児期に手術経験がある)。 (最近は銀座で警官ごっこ/国境は越えても盛者必衰)が、全体解釈のカギとなる。 「警官ごっこ」とは婦人警官のコスプレを意味し、そういうコスプレ・パブ店が銀座にあって、女はそこでアルバイトするという二重生活を始めたことを意味していないか(銀座は不況でそこまで「落ちた」のだ)。そうすると、以後の歌詞の辻褄が上手く想像できる。(国境は越えても盛者必衰)は「フィリピンや南米からの出稼ぎの女が店にたくさんいて、“売春”に従事している以上、みな一時的にカネ回りがいいが、やがては身を持ち崩してゆくだろう」という意味にとれる。 尚、盛者必衰は、前曲「歌舞伎町の女王」の「一度栄し者でも必ずや衰えゆく」から引き継がれた厭世的主題で、これが必ず「売春」に当てられることから椎名林檎の「売春」観が透けて見える。 このパブは税理士なんて雇っておらず、それほど楽に経営しているわけではない(税理士なんて就いていない)。店がホステスたちに終電で最寄のターミナル駅まで電車で帰るように強制している。その後はタクシーを拾ってもよいので、深夜タクシーの運転手に領収書を書いてもらって家へと帰る(領収書を書いて頂戴)。 (将来僧になって結婚してほしい)は、ベンジーに向けられた言葉ではないだろうか。 (毎晩寝具で遊戯するだけ)ベンジーのことを考えながら、毎晩、独り寝の夜に淋しさから自慰するという意味だと思う。寝具という音は、「シングル」と掛けられているのだろう。 (ピザ屋の彼女になってみたい) ピザ屋の彼女は、 ブランキージェットシティの曲で『ピンクの若いブタ』って死ぬほどカッコ良い曲がありますが、その中に『ピザ屋の彼女』という歌詞があります。この曲が出た少し後に、林檎はこの曲を出しています。 椎名林檎さんの『罪と罰』にベンジーはギター参加してます。林檎は罪と罰のギター音だけ入って無いデモテープを持っていき、これに好きな様にギターを入れて下さいって押しかけたことがあるくらい、とにかくベンジーが好きなのです。ベンジーが死ぬほど好きなのです。どうやらこの『丸ノ内サディスティック』という曲の核心は、このへんにあるような気がします。ベンジーに対する好きな気持ちを込めまくった曲、そういってもいいのかもしれない。とにかく彼はかっこよすぎます。ちなみに浅井氏のシングル『危険すぎる』に林檎はコーラス参加しています。 ブランキーの、というかベンジーの詞は、ブランキー氏が市長を務めるJET CITYという一つの街での出来事とされています。「ピザ屋の彼女」というのもJET CITYの住人です。つまり、ベンジーの描く世界(ブランキージェットシティという街)の住人になりたいという憧れ。 ちなみに他の住人には「不良少年」「いかれたロマンチスト」「かわいい女の子」「アラスカ帰りのチェインソー」「血まみれのバカ」「ドブネズミの死骸」などがいます。 彼の書く全ての詩、彼の描く世界の物語や登場人物について言っているので、全部関連性が在ります。だからBJCもシャーベッツもユダもソロも全曲聴いて全部の歌詞を頭に入れないと(入れると言うか、彼のかっこよさや描く世界をカッコいいと理解できるというか胸にくるというか、そうならないと)林檎の言ってる本当の意味も完全に理解するには至らないようです。 それにプラスして、ピザ屋で働いている女に対するイメージ、バカで明るい女になりたいという隠喩があるのかもしれない。当時、インタビュー記事か何かで、椎名林檎さん本人が(ピザ屋の彼女になりたい)という歌詞の意を訊かれたときに、「あばずれになりたい」と答えている。きっと林檎さん本人は、「自意識」がそれを邪魔してしまうタイプの人なのでしょう。 (そしたらベンジー、あたしをグレッチで殴って)ベンジーのギターで殴られたい。殴られたい程好き、そんだけ好きなのよという露骨な浅井健一へのラブレター。林檎の浅井に対してだけのマゾ気質が窺える(たぶんその他の歌からいって通常の彼女はサド気質)。 (青 噛んで熟って頂戴 終電で帰るってば池袋) もちろん、青姦[※野っ原でセックスすること]でイッて頂戴のことだけど、相手が誰なのか。ここではもうベンジーではないと思う。終電で帰るってばって言ってるから。 ようはsexだけの関係の人、あるいは客に対する言葉だろう。 セリフにするとこんな感じでしょう。 「青姦でいいからさっさと射精しろ!終電で帰るから」 あまりに露骨なので表記を置き換えたということだが、その置き換えによりフレーズは二重の意味となった。「青」は性熟していない林檎自身、よって(青 噛んで)は「その青いあたしを噛んで」と取れる。(熟って)には相手の男が性熟しているという意が入りこんでいるようだ。 以上。実戦サブカルチャー講義●椎名林檎「無罪モラトリアム」分析補遺より 阿部嘉昭 とまあ、こんな感じのようです。自分が考えたというよりは、ほとんどネットのどこかで誰かが何かしら書いていたことをパクってきて、これはこの解釈が正しいんじゃないかな、とか、そんな感じで編集し直しただけです。なので、色々と自分の考えではないところが含まれています。 例えば、『ピンクの若いブタ』が滅茶苦茶カッコイイ曲だと言っているのは僕ではありません。 他にも調べて分かったことを少し。 この曲は、最初英語の歌詞で作られていた「A NEW WAY TO FLY」という歌の日本語版です。その英語の発音から想定される日本語を当てはめることによって、今の歌詞が作られたようです。つまり空耳アワーみたいなものです。 ところで、椎名林檎って在日って本当?あと椎名林檎の音楽スタイルって、ギターをもってちょっとなげやりに歌うフォーナ・アップルとかいう外人さんのパクリとの噂もあるね。芸名の由来もフォーナ=椎名、アップル=林檎(笑) 曲が発売中止になったことがあるようです。「アルバ���のとある曲の中にヒトラーという言葉があったんです。彼女はシングルのジャケットに登場した車にヒトラーと名をつけたこともあるんですが、今回、歌詞にまでそのフレーズが出てきたため、会社の上層部が修正を判断したんです」 思ったより、長くなりました。 椎名林檎さんの印象がだいぶ変わりました。とてもチャーミングで可愛い人ですね。こういう歌を作って歌いたくなる気持ち、分かる気がします。 椎名林檎のもう一つ、大好きな歌の歌詞の意味も読み解いてみました。
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【15thAnniversary】vol 42 千日前エレジー
【15thAnniversary】vol 42 千日前エレジー 叶わぬ夢があってね、それは水島新司の「あぶさん」を実写映画化することです。 といっても福岡に行って以降の完璧超人の話じゃないよ。あぶさんが南海ホークスに入団するまでの話をものすごくリアルにやりたいな、と。 プロローグは決まってる。 1970年代前半、早朝の道頓堀。道頓堀といっても千日前側ではなく御堂筋の西側の路地に一台二台、トラックが通り過ぎる。 そのうちの一台が一升瓶を踏みつけガチャンと大きな音をたてた。 にもかかわらず、傍で酔い潰れて寝ている男は微動だにしない。 「なんやこの男は。ええ若いもんが情けないのぉ。こんだけのガタイしとるんやったら仕事とかなんぼでもあるやろに」 「そら、たぶんここ(と頭を指差す)が弱いんでっしゃろな」 「たしかにこんな地ベタで酔い潰れとるモンが賢いとは思わんわな」 早出のサラリーマンが囁きあっている。 すると男はパチリと目を開け、おもむろに立ち上がった。 「な、なんや、喧嘩やったらまた今度や。これから仕事やさかい」 おののくサラリーマンには目もくれず、男はなんともいえない微笑みを浮かべ、ポケットに手を突っ込み、どこへともなく歩きだした。 タイトルバック。 小雨の降る歓楽街。傘の花が咲く。アベック、家族連れ、仕事を終えたサラリーマンが行き交う御堂筋、そして道頓堀。角座では正司敏江・玲児が漫才をしていて、それがカットバックで入る。BGMは欧陽菲菲の「雨の御堂筋」・・・。 こうやって書いていけば何となく察しはつくと思いますが、別に「あぶさん」という作品はどうでもいいんです。漫画としては好きだけど(しつこいようだけどあぶさんが福岡に行くまでは)、ま、ただの題材に過ぎない。 アタシはね、あぶさんをダシにして「リアルな1970年代前半の大阪」を再現したいだけなのでありまして。 この頃の、つまり1970年代前半の大阪には独特の「何か」を感じざるを得ず、しかし本気で<再現>を試みた作品は存在しない。 何がそんなに魅力的なのか、具体的に書いていけば ・耳まで隠れる長めの、しかし襟足は短いパーマ ・ダブルの派手な色のスーツ ・オーデコロンとかポマードといった男性化粧品独特のニオイ ・これでもかといわんばかりのカラフルなネオン もちろんこれらの光景は大阪だけに限ったことではありませんが、先に挙げた「雨の御堂筋」や海原千里・万里(いうまでもないけど千里は後の上沼恵美子)の「大阪ラプソディー」といった楽曲、さらに上田正樹と有山じゅんじによる「ぼちぼちいこか」という名盤のインパクトが、リアルタイムでの記憶が薄いアタシ以降の世代のイメージを強烈にしたのかもしれません。 本当は「ぼちぼちいこか」に収録された中から主題歌を選びたいけど、ま、微妙に時代がズレるし(「ぼちぼちいこか」のリリースは1975年)、「わかりやすさ」を考慮して「雨の御堂筋」でいいかなとね。 だからと言って「あの頃のカッコよかった大阪を再現したい」みたいな気持ちはまるでないんです。はっきりいって今の目で見てね、カッコよくは、まったくない。 でもこの時代くらいまでは、大阪特有のカッコよさ、みたいなもんを構築しようという気概みたいなものは感じる。 もう今では信じられないかもしれないけど、中田カウス・ボタンとかアイドル芸人だったのですよ。何故たいして器量に恵まれたわけでもない彼らがアイドル芸人扱いだったかというと、先に挙げたような派手な扮装をしていたからです。つまり時代の最先端を身に纏っていた、といっていい。 さてみなさん、大阪でもっとも象徴的な場所はどこだと思いますか? グリコの看板?なるほどなるほど。 通天閣?たしかにたしかに。 大阪城?もちろんもちろん。 かに道楽?くいだおれ人形?そーゆーのも当然っちゃ当然。 しかしアタシはまったく別の場所を思い浮かべます。そりゃね、超個人的なことを言えば「御堂筋をはり重から東に入ったところからひっかけ橋(戎橋)の間」ってことになってしまうんだけど、それでは大衆性というか共感性がなさすぎる。 というかこれは個人的な思い出であって別に<大阪を象徴する場所>ではないですから。 大阪に在住経験のない人にはピンとこないかもしれないけど、在住経験があれば誰しも、とは言わないまでも、ある程度は、そういやそこもアリやな、と思ってもらえそうなのが千日前です。 千日前、というと大阪の人以外にはどう思われているのかわかりませんが、アタシの感覚でいえば道頓堀や通天閣なんかよりも一番大阪らしい大阪で、カレーライスでお馴染みの自由軒や、数件の古書店、「せんにちまぁえの千日堂〜」のCMソングも懐かしい千日堂、今のNGKの前のなんば花月、名前は失念したけど全国販売ではない、大阪ローカル販売のレコードを数多く売ってたレコード屋とかね。さらにすぐ近くには黒門市場とか道具屋筋とかもあるし。 ただし、千日前の歴史的経緯をよく知る人や霊感の強い人にはその限りではない。霊感云々はアタシ自身霊感が極端に弱いのでよくわからないんだけど、千日前で検索すれば「その手の噂話」が山のように引っかかってきます。 これは歴史的経緯がそうさせたっていうか、千日前を説明するには少々堅苦しい話が必要になります。 千日前交差点の南西辻には現在ビックカメラがあります。しかしアタシが大阪に居住していた1980年代後半には「プランタンなんば」という商業施設があったんです。 プランタンというのは当時ダイエーが展開していたブランド(というかフランスの本家からブランドを借りていた)で、銀座にも店舗があったのでご存知の方も多いと思います。 しかしアタシが初めて千日前に行った1980年頃はプランタンさえもまだ存在せず、記憶ではブルーシートで覆われていたように思う。 さらにずーっと、江戸時代まで遡れば、この場所に刑場兼焼場があったと言われています。 つまりはかなりの<いわくつき>の場所であり、噂が本当かどうかはともかく、そーゆー話が流布するのも納得は出来るわけで。 とはいえ「ただの噂じゃないか。本当に悲惨な出来事が起こったわけでもあるまいに」ってことでもない。 いやもう、ズバリ言えば、本当に、悲惨を超えて凄惨極まる出来事が起こったことがある。しかももともと刑場だった、つまり現在のビックカメラの場所で、です。 刑場があったのは江戸時代までであり、ビックカメラの前にあったプランタンが出来たのが1984年です。この間に何が起こったのか。 1912年(明治45年)に起きた「ミナミの大火」で千日前一帯は焼き払われてしまいます。 しかしこれを期に、この一帯を一大レジャースポットにしようと目論んだ人物がおり、1914年(大正3年)に「楽天地」が誕生した。もちろんイーグルスの親玉の楽天とは何の関係もありません。 Wikipediaによれば『地上3階建てで多くの尖塔を持ち、中央には円形ドームを載せ、夜はイルミネーションで彩られていた。館内は大劇場と二つの小劇場で芝居・演劇・映画を公演した。大劇場では主に外国の映画を上映、小劇場「朝陽殿」は男性向けの漫才などの演芸場、小劇場「月宮殿」は琵琶少女歌劇で(中略)地下にはメリーゴーランド、ローラースケート場、水族館などもあった。屋上ドームを回る螺旋階段を登るとドーム上に大阪市内を見渡す展望台があり人気を集めた。』とあります。こんなものを<大正のはじめに>作ったってのはすごいとしか言いようがない。 しかし徐々に経営が上手くいかなくなり、結局昭和に入ってまもなく(1930年)に楽天地は閉鎖しています。 解体された楽天地の跡に建築されたのが大阪歌舞伎座で、もちろん歌舞伎を上演するための小屋です。が、肝心の上方歌舞伎が衰退の一途を辿り、これも1958年に閉鎖されている。(のちに御堂筋沿いに作られた新歌舞伎座は歌舞伎だけでなく、商業演劇を興行の軸に据えて経営を安定させた) 歌舞伎座亡きあとは居抜きで貸し出され、スーパーや小劇場、キャバレーなどが入店した。ま、早い話が<格式ある>歌舞伎小屋から<何でもあり>の雑居ビルに成り果ててしまったわけです。 雑居ビルながら名称は「千日デパート」という立派(?)なものですが、もちろんデパートとはまったく業態が違います。 千日デパートは千土地興業という会社が経営にあたっていました。 楽天地の頃からこの場所の興行を握っていましたが、松竹の社長でもあった白井松次郎が経営に関わってきたのを期に松竹の系列となり、松竹が仕切っていた上方歌舞伎の興行を仕切ることになったことが大阪歌舞伎座を作るきっかけになった。 ただこの千土地興業という会社、やたらに手広くやろうとする癖があって、奈良や横浜にドリームランドなる遊園地を作ったり(どうでもいい余談だけど、当初、奈良ドリームランドは「奈良<ディズニー>ランド」になる予定だった)、旅行会社を作ったりと「松竹本体ではやれない」いわば暗部を請け負った、とも言えるような気がします。 とにかく楽天地、大阪歌舞伎座に続いて千日デパートも千土地興業が仕切っていたわけですが、かなり酷い管理状態だったと言われています。 何しろ大阪歌舞伎座の建物をまんま使っているのですから、建立は1932年ということになる。つまりは戦前の建築基準で作られた建物です。 千日デパートになってから再三再四の「防火対策を強化するように」という行政指導を受けていますがそれを無視し、ま、無視は言い過ぎか。何にしろ十分な防火対策が取れてない状態だったわけで、この甘い見立てが強烈なしっぺ返しを生むことになります。 そう、1972年に起こった大火災、通称「千日デパート火災」です。 出火場所は3階にテナントで入っていたスーパーだと言われていますが、時間は22時半頃。つまり店内には警備員以外は客や店員を含めて誰もいないはずです。 にもかかわらず死者118人、負傷者81人を出す大惨事になったのは、このビルが雑居ビルだったからです。 スーパーはとっくに営業を終了していましたが、7階に入居していたアルサロ(アルバイトサロンの略。現在のキャバクラに近い)は23時前ならばむしろかきいれ時です。実際、出火当時ビル内にいたほとんどはアルサロの客、もしくはホステスなどの従業員でした。 死者数が118人ということは、ビル内にいた約180人のうち2/3の方々が亡くなった計算になります。しかし脆弱な防火対策しかなされていなかったわりには、よく1/3は助かったな、とすら思ってしまいます。 アタシがこの千日デパート火災という未曾有の事故に興味を惹きつけられたのは、大阪一の繁華街である千日前という舞台と時代背景があるからです。 アルサロで被災された方々が「あの時代の大阪に似つかわしい」格好をしていたことは、おそらく間違いない。逆にいえば、大阪が大阪としてのアイデンティティ(けして東京の真似でもなければ、東京から押し付けられた発展途上国的扱いでもない)だけを記憶しながら亡くなった、といっていい。 それはね、こういうことを書くと遺族の方に怒られそうですが、ほんの少しだけ、羨ましいことでもあると思うんです。 不幸にもアタシの叔父は二度の震災を味わった。神戸生まれの叔父が阪神大震災で被災したのは、まあどうしようもないとしても、諸事情から東北に転居して、そこでも被災してしまった。叔父が亡くなる半年前のことです。 どうせなら2011年3月11日より前に、とアタシは思ってしまう。長く生きられるのなら、それはそれでいいですよ。でもたった半年生きるために、あの震災を味わなきゃいけなかったってのはムゴすぎる。 人間ってのは誰でも死ぬのです。それはしょうがない。 だったら一番いいタイミングで死にたい。嫌な出来事がおとずれる前に。 大阪は大阪の良さがある。アタシは今の、東京の真似だったり、押し付けられた発展途上国的扱いである大阪がいいなんて思わない。やはり、1970年代までの大阪は素晴らしいと、感じてしまう。 その時代に亡くなられた方は、そういう意味で「いいタイミング」だったんじゃないかと思うわけで。 (初稿 2015年10月12日更新「千日デパート火災を読み解かない」、2015年11月24日更新「1970年代大阪エレジー」、2017年09月23日更新「共通項のない街・ナンバ」、2019年1月25日更新「唄はなつかし・梅田からナンバまで」他・改稿 2019年4月8日)
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3月の各地句会報
平成30年3月の特選句

坊城俊樹選
栗林圭魚選 栗林眞知子選 岡田順子選
平成30年3月1日 三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句 羽子板に負けて顔中墨一杯 柏葉 春寒や小指立てたる夢二の絵 都 雛遊び浮名の君も老いけらし 都 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月3日 零の会 坊城俊樹選 特選句 男坂下なる宿は雛の家 いづみ 天神の生臭きかな梅まつり 伊豫 囀に上野の鐘の応へけり 慶月 梅の香に塗れてをりし路地の子は 眞知子 凡百の梅に埋もるる琵琶法師 亜羅多 浮世絵とおぼしき梅ヶ枝の黒き いづみ 女坂なり豊穣のものの芽に 千種 浅蜊売る江戸の女に女惚れ 千種 置屋鎖し梅紅白を契りとし 順子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月7日 さくら花鳥句会 栗林眞知子選 特選句 籠りゐる部屋から雪の花を見る 紀子 料峭の石橋包むむしろかな みえこ 雪解けの道を選びてこぐペダル 栄江 豪雪に静寂も闇も埋もれぬ 登美子 さざなみの立つ川岸や鳥帰る 寿子 豪雪のニュース福井の名が流れ 実加 暇さうな踏切眺め春の昼 登美子 写経寺へと雪道を辿り行く 令子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月9日 芦原花鳥句会 坊城俊樹選 特選句 山に住む人みな老いて長閑なり 孝子 啓蟄や取りに戻りし忘れ傘 よみ子 長閑とはこんな日のこと老二人 久美子 この雪の下に田もあり畑もあり 由紀子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月10日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句 流氷の哭くや網走番外地 岬月 流氷といふ大陸へ出航す 岬月 屋上の剥げたパンダや春の雨 のりこ いつしかに父のしごとの雛飾り のりこ 雪間より森の大樹の影を曳く 秀夫 日めくりの七曜淡し二月尽 親子 野あそびへ投げ出す子らのランドセル 和加 春めきぬ陶器の犬の艶めきも 清 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月12日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句 雪囲ひ解いて仏間を明るくす 文子 子育ての頃の社宅のチューリップ 昭女 大潮の引くが如くに雪解かな 雪 春炬燵和服の女膝入れず 世詩明 啓蟄や散歩帰りの犬の鼻 英美子 天帝の笑へば山も笑ふかな 錦子 春立ちしばかりと云ふに逝きしとは のぶ子 豪雪や音なき音を積み上げて みす枝 蕗の薹とも見えざりし蕗のたう 雪 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月12日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句 梅満開翳れば香り満ちて来し 俊子 草萌や小さき地蔵のとろみし目 都 凍らせて蝦夷のしじみの届きたる 幸子 春光や翼のあれば鳥と飛ぶ 佐代子 連結の貨車の入替へ春近し 幹也 老いぬれば寡黙の夫と春炬燵 和子 山の端で二つに解け春の雲 栄子 浮上して春を背鰭に六六魚 悦子 魚売女鰈干しをり東風の浜 史子 雛祭る祖母手作りの犬箱も 益恵 空青し金柑友と捥いでをり 立子 春の鳶虚空蔵菩薩の空舞うて すみ子 春愁の耳に調音訥々と 美智子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月12日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句 蜷の道辿れば杭の裏に消え 和魚 蜷の道途切れて水の嵩の増し 貴薫 きらきらと波綾なして葦の角 三無 蜷の道辿りてはかな見失ふ あき子 枝移りする鳥影や春障子 怜 春障子影絵となりし背の丸味 三無 きつ先の僅かに割れて蘆の角 秋尚 行先のこんがらかつて蜷の道 秋尚 波の如煌めく葉影春障子 せつこ ぼんやりと影の膨らむ春障子 秋尚 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月13日 萩花鳥句会 白魚網光を掬ひ上げしのみ 牛子 ハンドルで巡りし探梅恋しくて 祐子 椿咲く岬や野点デビューの娘 美恵子 残る世も花も待たずに兜太去る 健雄 啓蟄の光やはらかガラス拭き 晴子 休耕田若者集ひ野焼かな 圭三 白魚の光もろとも掬はるる 克弘
平成30年3月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句 後輩に団旗引き継ぎ卒業す 霞牛 日に酔ひしごと雪吊の縄弛む 霞牛 卓の上に廻る事なき風車 雪 金銀の折鶴乱舞春灯 雪 小屋裏の積みし残雪獣めく みす枝 岩壁を鎖り頼りの遍路なる 玲子 如月の客は疎らに船だまり 一仁 梅香る合格の絵馬踊り出す ただし 花ぐもり寝釈迦手枕して在す 世詩明 猫柳きらりと光る銀鼠 世詩明 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月17日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句 受験子のリュック重たし坂長し ゆう子 三椏の終の香りや石の門 百合子 ランドセル飾り一礼卒業す 清子 伸び急ぐアスパラガスの午前午後 亜栄子 春の野に鴉の尾羽根落ち青き ゆう子 参考書静かに閉ぢて大試験 白陶 青空に弾む光や花辛夷 百合子 春光や多摩川面の伸び縮み 美枝子 春の香に満ちる野に出で綻びぬ 節子 童謡の二番を散らす春疾風 ゆう子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月18日 風月句会 坊城俊樹選 特選句 ものの芽の赤く尖りて句碑守る 眞理子 初花のときめき知らず子の遊ぶ 慶月 武士の墓の剥落涅槃西風 眞知子 花辛夷明かりや鐘の天女像 久子 耄けゆく土筆電車を聞きながら 慶月 内陣の如来を遠く春灯 佑天 (順不同 特選句のみ掲載)
栗林圭魚選 特選句 土佐水木黄の甘やかに涼やかに ゆう子 花みもざ影を動かす風を呼ぶ 陽子 もてなしは多摩の春野と年尾句碑 亜栄子 住職と檀家総代春火桶 千種 紅椿喝采の眼を浴びて落つ 三無 春愁やカレー饂飩の染みひとつ 眞知子 内陣の如来を遠く春灯 佑天 初桜雲間より日の躍り出て 三無 塋城へ続く椿の暗き道 千種 羊羹に挿す爪楊枝初桜 眞知子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月21日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句 フルートの音に高校を卒業す 和子 雛の日まなざし遠く遊ばせて 和子 仔犬そと地べたにおろす暖かし 昭子 大雪は解け降灰はのこるなり 令子 下萌えて殿と動かぬ力石 千代子 古民家のひよこ三匹山笑ふ 雪子 指の傷まだ癒えずをり水温む 雪子 単調な雨音聞いてゐる朝寝 雪 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月22日 鯖江花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句 啓蟄や庭の鏡に蜘蛛一つ 雪 思ひきり髪を乱して朝寝かな 雪 啓蟄と云ふ靴磨きたくなる日 雪 背戸山の芽吹きの風を聴く庭かな 越堂 桃の花赤子やはらかよく笑ふ みす枝 大朱蝋の大蝋涙や涅槃寺 ただし 東京の渋谷区も降る春の雪 世詩明 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月25日 花鳥月例会 坊城俊樹選 特選句 戦跡の石の一つへ花の影 眞知子 大鳥居裳裾に花を侍らせて 梓渕 こごむ背の小さき人へ菫かな 眞知子 飴玉のなかなか溶けぬ花の下 政江 初蝶の野に引いてくる乳母車 順子 菫へと大きな影の過りけり 眞知子 片側は隠れて春の鳥居かな 小鳥 (順不同 特選句のみ掲載)
栗林圭魚選 特選句 一条の光差しては椿落つ 政江 堅く閉づ女子校の門糸桜 眞理子 戦跡の石の一つへ花の影 眞知子 花一片能楽堂の昏きへと 要 献木の蘖として花ひとつ 俊樹 一片の目の端に落つる花明り 伊豫 墨の香の塔婆に触るゝ花ミモザ 政江 川沿ひはけもののぬくみ桜咲く しの 花の下はないちもんめの樹霊かな 亜羅多 菫へと大きな影の過りけり 眞知子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月22日 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句 強東風や鳶を吹き上げ吹き下し 由紀子 来ぬ人を待つ頰杖や風信子 眞知子 生者にも死者にも潤み春の月 豊子 白魚の水にしあれば水の色 孝子 春眠の膝に西条八十と猫 寿美香 貝寄風や耳のかたちの貝の殻 豊子 相寄りて添へぬものなり柳の芽 睦子 白魚の番屋胴長下げて留守 光子 貝寄風や藻屑に混じる虚貝 豊子 春田打つ媼に風の集まり来 洋子 分校のたつたひとりに燕来る 寿美香 学舎を振り向かぬまま卒業す 久美子 七曜の過ぐる早さに木の芽吹く 孝子 春の虹かけて海へと大裾野 洋子 (順不同 特選句のみ掲載)
栗林眞知子選 特選句 朝東風や愛宕の神馬��きて かおり 雲雀東風羅漢五百の顔さまざま 由紀子 山焼くやおのづと現れし地震の跡 孝子 汽水へと波の穂美しき彼岸潮 千代 旅客機の透けて南へ柳の芽 勝利 春昼の納屋に古りたる糸車 初子 連獅子となりて芽柳大揺れに 睦子 白魚の番屋胴長下げて留守 光子 星一つ加はる宵や涅槃西風 千代 囀や尼寺への途はかく細し 睦子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月 県民会館花鳥句会 坊城俊樹選 特選句 雪籠してゐて入つて来る噂 清女 銭湯の消えて機町小正月 龍聲 金剛の雫煌めく軒つらら 越堂 念力の失せて卒寿の二月尽 龍聲 二ン月の二十八日ふと淋し 和子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句 母のよな叔母の旅立つ春の星 千代子 腰伸ばし白山眺め畑を打つ 千代子 本堂の前に最も残る雪 雪 木々芽吹く音聞こし召す観世音 雪 春の日や露座の観音乾きつゝ 匠 踏青の野に人影のすでにあり 匠 豪雪のあとの晴間の道を行く 天空 春水となり九頭竜の川ゆたか 越堂 白梅の香の枝折戸の向かうより 和子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年2月19日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句 雪籠心に祀る幾仏 雪 鉄瓶の音の噴き出す雪の夜 のぶ子 泣きにゆくところを得たり雪岬 世詩明 砦めく卍が辻の雪捨場 昭子 海は吠え水仙の岬黙すのみ 越堂 墓じまひの話ちらほら冴返る みす枝 振り返る一乗谷の雪女 昭女 褪せてなほ正座崩さぬ内裏雛 みす枝 その時のセーター赤き青年よ 雪 間のびせし柱時計や日脚伸ぶ 文子 豪雪に埋れて��の沈黙す さよ子 (順不同 特選句のみ掲載)
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閃の軌跡IIIのお話
評価:★★ ★ ★ ☆ プレイ時間:100時間(2周目)
いつも通り軽いネタバレはあります。
【Twitter検索メモ】
どうも、長年プレイし続けてきた軌跡シリーズの最新作が3年越しで発売するという報を受け、ぐんにょりと肩を落として全身でワクワクを顕していたタイプのファルコム信者です。

そういう話になってくると、2014年以来ずっと釣り場で放置したままになっていたフィーも釣りをやめて帝国を救ってもらわないといけないわけで、重い腰を上げてカレイジャスであちこち飛び回ってNPCの御用聞きに走りまわってヘトヘトになりながらも、閃III発売2日前にきっちり閃IIをクリアした次第。
納期は確実に守る男、紫。
3年放置してやっとかよ、という向きもありますが、旧作の内容を鮮明に記憶したまま続編をプレイできているため、どこがどう変化したのかがはっきりわかるという点はかえってよかったのかなと。
さて、閃の軌跡I、II、東京ザナドゥに於いては色がうんこ、においがうんこ、ソウルがうんこと立て続けにうんこを浴びせられてきた為、IIIでも劇的に改善することはなかろうと踏んでいたのですが、いやはや。

実はうんこ~♪
閃IIIが発売し、フタを開けてみれば ―つまり便器のフタのことですが―これはあまり臭くない!というか、正直に言ってしまえば輝くうんこ《オーリ・オール》へと昇華したといっても過言ではないでしょう。 うんこって言ってもアレですよ。美味しい方のうんこですよ。
旧作をプレイしている間ずっと感じていた不快感がかなり改善され、クソにまみれて見えなかった ―いやソウルがうんこだと中心もうんこになっちゃうんだけど― いい部分もちゃんと見えるようになっています。
ゲームを楽しむためにうんこを取り除いたりにおいに耐えなくてよくなったという点、これはとても重要です。
正直I、II、東京ザナドゥに対して紫さんが何を言ってきたのか知ってる人にとってはっていうか自分自身が一番驚いていますが、ようやくファルコムが改心したのだと、評価に値する作品になったと感じます。
ビジュアル面
■モデリング
これはかなり進化してます。 というかファルコムのグラフィックに関する能力をかなり低く見積もっていたが為に、最初にPVを見たときに「これ自社で作ったの!?マジで!?」というほどに驚きました。
洋ゲ―、FPSやアトリエシリーズなどの第一線級には遠く及ばないものの、PS4のタイトルを名乗っていいレベル―逆に言えばPS3やVitaなどの下位ハードではこれ無理でしょ―には達していると思います。
影の処理とか、あまり見たことのないタイプですが結構好きですよ。


こんなに美人になって・・・レイプしたい。

あと食べ物がめっちゃまともになりました。
サイズ感の崩壊したマグカップとかハンバーガーとか「いつもの」とか一体何だったんだ。

いつもの。
■モーション(演技)
こちらに関しては目を見張る進化はしていないものの、旧作と比べるとそこそこ改善しています。
インタビュー記事で「PS4になったお陰で目を動かせるようになった」とあり、地味だな・・・と思ったものの、実際プレイしてみるとコレだけで大分まとも動きが出来るもんだなと感心しました。

旧作は基本正面でしたからね。われわれは(ミミズク | コノハズク)なので。
この他、更に地味なところでは首がよく動くようになったと感じます。相手の方を向いたりうつむいたり、チンピラがよくやる首をグリっと回すあれとか。 また、 口に手を当ててあくび、頭の後ろで手を組む等々、バリエーションが増えています。

一方、相変わらず目をつぶる頻度が高かったり、コブシを掌にパシィ!っとやったり、胸のあたりで握りこぶし(片手|両手)をグッとやったりと古臭い演技は健在ではあるのですが、色々と動作のバリエーションが増えたことで同じ動きを繰り返し繰り返し行う頻度は減ったと感じます。
アクションシーンに関しては相変わらずの低品質で、手を振り払う動作が初動と終わりで等速だったり(東京ザナドゥでも同様の指摘をしている)、イベント戦闘シーンではジャンプをさせるのが特に苦手らしく、まるでワイヤーアクションのようにフワァッと飛んで移動させるため、派手な戦闘シーンが台無しになっています。 この辺はハード性能のせいではなくファルコムの能力が頭打ちかなぁと。
あまりのしょっぱさに人形劇かよ、みたいな例えを出してしまいそうになりますが、今の人形劇の動きの凄まじさ、全くあなどれないっていうかとてもじゃないけどファルコムにあれの真似はできないと思います。
東離劍遊紀、見て。(宣伝
しかしながら戦闘中に関してはスキップしてしまうので、よく言われる「エフェクトでごまかしてる」みたいなのは個人的にあんまり気にならないんですけどね・・・
テキスト廻り
■ メインシナリオ
Amazonレビューの評価が悪いという声も聞こえてきますが、ここに比重を置く人は評価がかなり厳しいものになると思います。本当に、いやマジで。 というか悪評がつくとしたら究極的にはこの一点かな、という気すらしています。 これがどれだけ許せるかで相当評価が別れるだろうなぁと。
基本的に閃Iと同様に実習という形で帝国各地を回る、を繰り返すことになりますが、Iの時はどこへ行っても終始喧嘩喧嘩の繰り返しでうんざりしていたのですが、今回はそういったこともなく、他のクラスの生徒とも交流があり個人的には好感が持てました。
また、社長のインタビュー記事では「空・零・碧は閃の軌跡IIIへの布石」という旨の発言があり、 お前そんな大風呂敷を・・・とか、好きだった空のキャラが血の通ってない木偶人形になって台無しにされるのは嫌だなぁ、などと思っていたのですが、あながち大風呂敷でもなく、各章で各地を巡るというのが上手く作用し、スポット参戦という形でもあるものの、行く先々で旧作に登場した沢山のキャラが手を貸してくれるという、 この辺は お祭り感があって意外と楽しめています。
それについてはもしかしたら因果が逆で、沢山キャラクターを参戦させたいが為にシナリオを組んだのかな?という見方もできるので賛否はあるかもしれません。
ただ、やはりというか悪癖が抜け切らないようで、結社が方々で悪さをしている→止めに入る→倒す→実は本気を出していなかった→ピンチ→(鬼の力を解放 | ヴァリマールを召喚)しようとする→ちょっと待った!!→乱入
という流れは健在で、とにかく本当にあり得ないほど毎回茶々を入れてきます。 ピンチに仲間が駆けつけるというのは本来熱い展開のはずですが、これを毎回やられてしまうとさすがにゲンナリしてしまいます。

旧作、特にIIではそういった展開を繰り返している上に、今回に至ってはイベント戦闘の勝利条件が「HPを70%まで減らせ」みたいなものが多く、戦闘前から「ああ、敵は本気じゃないんだな」「倒しても起き上がるの確定かよ」とやる気を削がれるようなシステムが追加されてしまっており、このへんは旧作から悪化したと感じます。
更に戦闘に勝ったところで、敵の目論見を阻止できるわけでもなければそもそも目論見がなんなのかも全く明らかにならず、ほんの少しだけ計画のヒントをほのめかして引き上げてしまうので、結局のところ何も得られず、ずっとモヤモヤが残ります。
お前らホンマなにがしたいねん。
のみならず、身内さえも裏がある連中ばかりで、あれも秘密これも秘密と、なかなかプレイヤーをコケにしてくれるなぁと感じる部分も多々あります。
ラストに関していろいろな意味で驚きましたが、まぁ不評になる理由は概ね・・・
旧作まで伏せていた謎が幾つか明らかにはなりましたが、反面新たな謎が追加されたので進展したという実感は薄いというか。
“全然関係ありませんが” ボクの東京ザナドゥのtogetter貼っておきますね!!
このくそったれな東京ザナドゥに精一杯の愛を込めて このくそったれな東京ザナドゥに精一杯の愛を込めてSC
まぁなんというか、あのうたわれるもの2ですらいいところで「次回へ続く」だったがために散々ぶっ叩かれていましたし―とは言えあちらは最初から3部作と言っていましたが―プレイ中楽しめたかどうかという点よりスッキリ終わったかどうかで評価をするタイプの人は一定以上いるのでしょう。 今回は前作から3年空けたということもあり、なんとなくキリもいいし3作目で完結するであろうと思い込んでたこともあってそのカウンターがキツすぎたのでは思いますが。(俺も
みんないい加減疲れているのだ。
■会話
閃I閃II及び東京ザナドゥが苦痛だった最大の要因がこの会話だったわけですが、ようやく心を入れ替えたのか、単に3年の間に色々見聞きしたのかはわかりませんが、随分改善されていると感じました。
シナリオというのは会話の集合体であるわけで、ここが腐っていると全てが腐り果ててしまいます。
単なるNPCでしかない高校の空手部の部長に「"武"にたずさわるものとして(不良には屈しない)」とか言わせちゃうから胡散臭くなるんだよ。 ふつうの高校生なら「格闘技やってるものとして」とか「空手部の部長として」くらいが現実味あるだろ。
東京ザナドゥもだけど、キャラクター多い割に部活以外にアイデンティティない人ばっかりだから、気の利いたこと言おうとして「どんなメロディを奏でてくれるのかな(吹奏楽部)」「花壇のお花も喜んでるみたいです(園芸部?)」「"武"に携わるものとして(空手部)」とかみんなダダ滑りなんだけど。
登場人物の殆どが20前後の若者であるにも関わらず、まるで人形のように口を開けば"武"だの"道"だの"見極める"だのVII組VII組VII組・・・一見意識が高そうで中身がすっからかんの「ああ、そういうキャラ付けね」という発言ばかりでうんざりしていたのが、ここへ来て年相応の若者らしい、血の通った喋り方をするキャラクターが出てきたのはかなり好感が持てます。
未だに旧来通りの喋り方をする人物やシーンがなくなったわけではありませんが、大きな進歩です。

パッツンパッツンの衣装で登場したアリサを見てオチ・・・妄想をふくらませバカ話をする男子生徒やら

こういったおちゃらけたシーンも旧作ではなかなかお目にかかれませんでした。
ユウナは「ほんと、可愛くないわね」など、かなり若者らしい砕けた物言いで、エステルを意識したのかしてないのか、場を明るくする良いキャラクターだと思います。
他の生徒に関しても、閃I閃IIでは「私は何部の誰々です」以上のアイデンティティを持たない、人物ノートとクエストのためだけに何度か会話することになる、いわゆる”ルート営業先の兄ちゃん" “名前の付いたモブ”程度でしかなかったのですが、今作では個性豊かな面々で物言いも若者らしくなっています。
意外だったのは、かつてルート営業先の兄ちゃん(姉ちゃん)でしかなかった本校の生徒たちが、卒業後に軍属になって要塞の警備についていたり、商店をやっていたり記者になっていたりで再び出会うことになるのですが、それぞれ制服でなくなっているせいなのかグラフィックが改善したせいかボイスがついているせいなのか、実に生き生きとしており「お前・・・立派になったな!」と本気で思うことも。
ただひたすら「いけ好かない貴族」のテンプレートとしてVII組に絡み続けてきたボンクラ・ハイアームズの坊っちゃんがまともになっていたのは感動したよ。
ボイスと言えば、普段ボイスがあるのないの誰がやってるので特に評価しない方なんですが、閃IIでヴァリマールのカタナを作るためだけに出てきた爺さんが閃IIIでは大塚芳忠ボイスを備えて再登場し、猛烈な自己主張でキャラを立てていったのには恐れ入った。声優、すげぇわ。

あとこれは素でビックリした。
余談ですが、閃IIIになってから変な口癖は増えましたね。

リィンだけではないのでライターの問題だと思うんですが、「~というか。」で締めるテキストがやたらと目につくのが若干イラッとするというか。
■ガイウスは殺す
ガイウスは殺す。
発売前に公表されていた情報として、VII組のメンバーである彼が随分長いこと連絡が取れなくなっている、一体なにが!?
というものがあったのですが、ゲーム中ようやく会えたと思ったら
「長くなるから後でな」
「せっかくだしVII組全員揃ったら話すわ」

「VII全員揃ったし話そうと思ったけどやめとくわ」

「追々」
「みんな聞いてくれ、実はk」
と会う度会う度勿体つけて一向に話す気配がない構ってちゃんぶりを壮絶に発揮しており、彼が喋るだけで体調が悪くなったとかならないとか。
もうわかったからそれ以上喋るな、永遠に風の吹かない土の下で好きなだけ発表してろ。
「PS4の性能を快適さに割り振っている」
と言っていたのはファルコム株価掲示板の誰かですが。
個人的にはこの意見に賛同するとともに、高く評価しています。 基本的にシナリオまわりを除いたイライラする要素がガッツリ改善されており、ゲーム全体として減点は小さく、加点が大きくなっています。
■ロード
会話と並んで不快要素の双璧、ロードです。
そもそも私はロードというのが死ぬほど嫌いで、何度も言っていますがPCの空の軌跡からPSPに堕ちた零の軌跡以来ファルコムを呪い続けています。
それが今回完全にVitaを切り離したことでここまで快適になるとは。 やはり携帯機などいらん。疾く滅べ。
といった具合に非常に満足しています。
どこへ移動するにも数秒~十数秒のロードを挟み、だというのにマラソンを余儀なくされ、戦闘に入る度に3秒程度のロードが発生する・・・地獄か。
だったのが、ほぼロードを意識しなくて済む程度にポンポン移動しまくることができると言うのは本当に素晴らしい。
まぁゲームが進むにつれて巨大な街、人が多い街、広大なフィールドとどんどん読み込み容量がデカくなるためか、「Nowe Loading...」を見る機会も増えているので、現在のところ”爆速”というよりは”普通”といった評価に落ち着いています。
普通ですよ普通。Iが発売した瞬間にロード改善パッチとか配布したにもかかわらずあの地獄のロードが健在だった閃の軌跡がですよ。
旧作―といってもVitaだけの問題かもしれませんが―恐らく純粋に読み込みが速いというより、キャッシュが効くようになっているのでは。
以前は校庭⇔校舎内で行き来する度に巨大な読み込みが発生するため、出来る限り校庭を経由しない順番でジャンプ・・・のような謎の工夫を強いられていましたが、今作では数回前にいた場所まではキャッシュされている為か、行ったり来たりする分にはロードが発生しません。非常に快適です。
■ジャンプ
地味に、しかし最強に強まっていたのがジャンプ機能です。 零の軌跡から(碧からだっけ)搭載はされていた、街の中の主要な建物だとか区画だとかに移動出来るジャンプ機能。 今回は一度に飛べる範囲が広がり、その章でアクセス出来る地方全てどこへでも飛べるようになっていました。

何がすごいかって、街の中で隣の区画にジャンプ・・・なんてもんじゃなくて、「街から森」どころか「街の宿屋から森の最奥」が直通でジャンプ出来るので、ボス戦手前から宿屋に飛んでゲージ全快にしてから即戻ってくるみたいな、お前はボソンジャンプの能力者かというひどいジャンプすらできる始末で、辻褄とかはどうでもいい、便利だもっとやれ!と歓喜していました。超素晴らしい。
IIの時は広域マップでジャンプする際には一度メニューからカレイジャス(飛空艇)に戻ってトワ館長に話しかけて行き先を選択・・・でしたから、メニューからダイレクトに飛べるようになっただけでも快適さは段違いです。
欲を言えば、何故か町中でも礼拝堂や民家には飛べないという謎の制約があるので、ここもカバーしてもらえると歩く必要がなくなってとてもいい。
■イベントスキップ
スキップ機能もまたかなり強力になっていました。
旧来の×長押しによるいまいち速くない早送りに加え、 L1での更に高速の早送り(選択肢で止まる)、 OPTIONによるイベントそのもののスキップ(選択肢後も継続)
と場面場面で好きな方法を選べるため、周回の際のストレスが激減しています。
■戦闘
Vita版からなので特に顕著なのがロード時間。
敵シンボルに触れてから3秒程度ロード演出を挟んでから戦闘に入る旧作と比べるとその快適さは壮絶です。
触れた瞬間に戦闘態勢に入っている点に加えて、ダイレクトコマンドシステムの助けもあって誇張なしに”出会って4秒で殺戮”が可能。
リザルトもスパッとスキップできるので、一撃で倒せる相手であれば戦闘開始から終了まで10秒もあれば終わることが多いです。
ペルソナ5は戦闘時に属性をある程度考えなければいけない点とリザルトの長さがネックだったので、それと比較すると戦闘の快適さだけはペルソナ5を凌駕しています。
また、エンカウントシステムそのものも改修されており、閃I閃IIでは敵シンボルは見えない鎖につながれており、その鎖ギリギリで待機して諦めて帰ろうとするところを後ろから殴ってピヨらせて奇襲、という絵面は間抜けながらもそのアドバンテージの為に毎回そういったことを繰り返してきました。
閃IIIで同じことをしようとすると、鎖の長さで一旦止まりはするものの、目の前でじっとしていると鎖を引きちぎって突っ込んでくるという凶暴性に加え、奇襲するためには別に後ろから殴る必要がなくなったことと、奇襲しても直接ダメージではなくブレイクダメージになったため、そもそも別に奇襲するメリットがあまりなくなったこともあって、ダンジ��ンやフィールドでいちいち奇襲待ちの為に止まる必要がなくなったこともサクサクプレイするのに一役買っています。
ところで精査してないんで印象ベースですが、アーツの駆動は遅くなっている気がする。 というのも、オーダーで駆動時間0に出来るので、アーツ運用する場合にはそっちを使えってことなのかなぁという気も。 IIの時ほど猛威を奮わなくなった印象。
あとはUIが左右にとっちらかってしまってHPなどのゲージが把握しづらくなってしまった点、バフやデバフの継続ターン数がキャラクターの足元にしか表示されなくなってしまった点など本当に地味なところで良くないなと思うことはなくもない。
■料理
面倒だったシステムが色々カットされています。
空の時のように飲食店でオススメ料理を食べて覚える形式に回帰しているのは嬉しい。 どこの誰が持っているのかわからないレシピの為に誰かれ構わずNPCに話しかけるのってどうにも疲れるんですよね。
珍妙料理や独自料理を沢山食べさせてくれというNPCもいなくなったことと、パーティーに存在せず今どこでなにをしているのか全く不明のメンバーですら調理をすることが出来るようになったのは便利です。辻褄とかはいい!!(ぉ
今まではパーティーにいなければ料理もつくれず、得意料理も違うためNPCに食わせるためにいちいち入れ替えたりして管理が面倒だったんですよね。
いついかなる時でも料理をさせることが可能になった為、今日もまた辛口ジャンバラヤを無限に食べる日々が始まるのだ。
■マラソン関連
上記のように料理は飯屋に行くだけでコンプリートできるようになりました。
クエストマーカーが若干親切になっていて、本棚を調べて覚えるタイプの書籍は全体マップに表示されるようになっている一方、そうでない所持するタイプの書籍は今まで通りNPCにひたすら話しかける必要があります。
まぁ閃IIの時点で書物と同様に掘り出し物で買えるようにはなっていたので取りこぼしに関しては救済措置はあったのですが、本末転倒感が拭えない・・・
またサブクエストに関しても全体マップには表示されず、直接その人のいるマップに行くまでは不明です。
表示されるものとされないものがとっちらかっている印象。
全部マップに出してくれると楽なんだけど、マラソンしたいって人もいるみたいなのでそこまではやり過ぎかも。
■釣り
イース8などはやっていないのでそのへんから変わっていたのかという点は言及できないんですが、タイミングよくボタンを押すだけのシステムに変更されているため、旧作のようにひたすら連打して疲れるもう釣りはいやだ・・・という感じではなく、気楽に釣れるのはいい点ですね。
序盤は難易度が高いように感じましたが、慣れればサクサク釣れるようになるし、釣り竿のカスタムで難易度が下がるのもいいです。
ただ、会話や戦闘をバシバシスキップできるようになった点に反して、釣果画面だけが早送りできないというところがどうにももどかしい。(わがまま
■会話ログ
この記事でも度々利用してますが、会話のログが実装されたおかげでスクショ撮るのが便利になりました。 吹き出しだとつい飛ばしちゃうので、飛ばしちゃったのも後から参照できるのはありがたい。
あとはNPC会話マラソンで全部会話すっ飛ばしてあとからまとめて内容確認するとか。(最悪
■はしごとか壺とか
前々からかったるいと思っていたはしごの昇り降り、降りる際に飛び降りることができるようになっていた。嬉しい。
所々にあるコンテナだの壺だののオブジェクト、旧作では破壊後にアイテム出現を確認→拾うが地味にかったるかった(ていうか拾いにくい)のが自動で回収されるようになった。嬉しい。
■周回ポイントの廃止・ やりこみ要素の簡素化
那由多なんかではクリア時にどれだけちゃんとやったかで周回時の引き継ぎ内容を選択できるポイント制、閃IIではクリア回数で引き継ぎ内容が増えるというものでしたが、今作ではそういったものを全廃し、一度のクリアで好きなものを好きなだけ引き継ぎできるようになっていました。
実績関連についても、旧作は真面目にやってたつもりでもノートが一つ二つ穴が空いていたり宝箱や書籍を取り逃したり、そもそも2周目にしか現れないおまけダンジョンをプレイしないと埋まらなかったりということが慣例化していたので、まぁやれるとこまでやったからいいかな・・・と半ば自分には関係ないやというスタイルでいました。
しかしながら、今回に限っては今まで通り取れるものは取っていこうと普通にやっていたら色々と埋まってしまい、あれ2周目のダンジョンとかは?と肩透かしを食らってしまったほどで、一周目で77%まで実績を取れてしまったこと、また上述のようにスキップなどの機能が強化されたこともあって「せっかくだから」と2周目をプレイしている次第。
一つのゲームに対してプレイ時間を潤沢に確保できない事情もあって、実績関連は延々と作業するハメになる場合が多いので「面白かったゲームをもっと遊ぶ口実」以外にコンプリートしようとは思わないことが多いのですが、閃IIIについては面白さや手間のバランスがよく、個人的にはこのくらいだと手を出しやすいです。
今日の剽窃企業
今Twitterでパクリだのオマージュだの騒がしいのでどうにもやりづらいんですが。(ぉ
■ダイレクトコマンドシステム
我が社自慢の画期的なダイレクトコマンドシステムをご覧くださいー!!


攻撃/スキル/アイテムなどが一対一でボタンに対応したファルコムの画期的なやつです。
■ブレイブオーダーシステム
我が社自慢のブレイブオーダーシステムをご覧くださいー!!


パーティ共有のゲージを消費して主に全体に対してバフをかけるファルコムの画期的なやつです。
■デュエルしようぜ
我が社独自のカードバトルをご覧くださいー!!

そこらにいる人にデュエルを申し込み、勝利時に対戦相手からカードを奪い取ってデッキを強化していくファルコムの画期的なやつです。
■コメットさん
我が社独自のアトモs・・・かっこいい魔獣をご覧くださいー!!

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るんぺんパリ 【RunPenParis】
自己紹介 2024年12月7日(大雪)追記 7642文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 3歳のときに養子として育てられることになり 伊賀市へ突然連れてこられた 5世帯がつながった集合住宅の一番端っこお家で 四畳半と六畳の和室の二部屋 三畳の台所 トイレはくみ取り式 お風呂は深底のホーローでガス釜式 冬は寒くて よくしもやけになった 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 名古屋に近い三重県に住んでいるという話だった気がする 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは今でも少しはある
伊賀市でそこそこ有名なのが 「伊賀流忍者」で「忍者屋敷」は 今も昔も変わらない内容で 営業している それは昨年(2023年)の夏休みに 末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 「上野城」ならぶ観光施設 伊賀牛は「金谷」のすき焼きが有名で 「森辻」が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には「伊藤」の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 「伊賀上野天神祭」の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 2024年は10月18日・19日・20日(金土日)がお祭り 19日(土)は久しぶりに一人で一日中 お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件まわって、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて「伊賀上野天神祭」へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 19日(土)の夜は19時から 同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったオーナーの 「ガキさん」は すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので開店から閉店の1時までの 6時間でカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の日の20(日)は「伊賀上野天神祭」に参加している 同級生の「オデ」に会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く「紅梅屋」でおみやげを結構買って 「桔梗屋」で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 「松尾芭蕉」は俳句が有名で伊賀出身 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされた 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は絶対見ない 「上野公園」に行くと「俳聖殿」という建物はある 「俳聖殿」の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 「俳聖殿」のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 「上野城」のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は「上野城」のまわりで体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも「上野城」が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく「上野城」をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった その子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には「銀座通り」とか「丸の内」とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 「上野市」から「伊賀市」名称が変わってから 「上野市駅」が「忍者市駅」になり 「近鉄」の電車だったのが「伊賀鉄道」になり 電車がコスプレになった 駅前には「銀河鉄道999」のメーテルと哲郎の銅像があり 「産業会館」が「ハイトピア伊賀」になった 「産業会館」だった時に「マルキン」のパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 「新天地」もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は自分が高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 「新天地」には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 「伊賀上野天神祭」を見に帰省したときに ドリアを食べたが 素朴ないい感じの仕上がりの味に 古い喫茶店をぐっと感じる事ができた 「新天地」のとなりの大きな化粧品店は 更地になっていた 高校の時の同級生が「クワトロNo.4」という バーを経営している場所もこの「新天地」にある となりにダーツバーもあり 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽には入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど ダーツバーの扉って感じで雰囲気はあった ここ数年は実家で一人暮らしの おかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、「Kマーホ」の名で活動して 出版した「トイレの閃き」が背表紙の色が 抜けた状態で25年以上も 岡森書店の本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で そんなつながりが それにしても伊賀市は狭いなと感じる
幼稚園の頃の事で 「市部(いちべ)」という地区だったと思う 近くに「市部駅」という無人駅があり その近くの依那古第一保育所に 5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 実家近くの小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 自転車は召し上げられ 手押し車ででかけている 小学校6年生の卒業までは 上野市依那具にある 市営の「城ケ丘住宅」で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの 時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森(たれそのもり)でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた「依那古小学校」の 校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと 変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の「市部駅」と 毎日にらめっこしている森 垂園森(たれそのもり) 中学校からは上野市街の「上野城」の 城下町で過ごした 引っ越しをしました 当時はカオスな「市営城ケ丘住宅」から出れる事が 本当にうれしかった 小学校までの友達とも 見飽きてしまっていたので 寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては 新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして引っ越ししたお家は 築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分だけの部屋があり トイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって 本当にうれしかった
そして近くの「崇廣中学校」に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一のときに足のかかとを骨折 バスケ部の試合で となり町の「名張市(なばりし)」の 体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら 右足のかかとの骨にヒビが入った
完治した その夏にはバスケ部をクビになり 陶芸部に入った バスケ部とは違い まろやかな陶芸部の部長は 本当にやさしい部長さんだった 中二で左腕を骨折 中一の右足かかとの骨折 どちらも遊んでいての骨折を二年連続してしまい この二年間の体育の成績は最低だった そして中三の高校受験に突入して この「崇廣中学校」では いい想い出は ひとつも無い
そして高校生となって 高校1年生で やっと自由になれた気がした まずは毎日 カッコつけて髪型をきめて その次は彼女を作りたいと 手当たり次第に告白したら 全滅した その数は20数人はいたと思う そしてあらゆる所で 告白しすぎて 変な奴として顔が広まってしまいそうになってきた 高校1年の後半はおとなしく 過ごしていた
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーバンドで 代表曲の 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」をコピー 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 も歌って一年で6回ぐらいライブをしていた 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時は ただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線で近づいてくる そういう女子には興味がなかったから 冷たい感じの男だったかも 本当にこの高校2年の時期が いままで生きてきた中で一番楽しかった。 高校2年後半の頃は またたくさんの恋をしたが 自分が不器用だったので 自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた それから人を好きになることに 迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくいいか別に という感情で奥手で過ごしていった そのせいか、 他校の女子からゲイだとか ウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時はそんなうわさも 楽しければなんでもよかった
1993年の20歳になるころ 家を勝手に出て 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは お金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万の カツカツでぎりぎりの生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月(23歳)から 2003年7月(30歳)の 7年間は茨城県と千葉県の県境の 利根川の近く取手市に住んでいた この取手駅界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになった 関東平野は景色が無く ここでの生活は なんとなく落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくに「カレー」がめちゃくちゃ美味かった 夕食時はのれんが出される前の時間に 駐車場で待機して開店と同時に 店に入っていたので お店の人には顔を覚えられていた この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の子供で 小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけで運営していて 素朴な店内で 週3回ぐらいは夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年(24歳)から パソコンを近くの「ミドリ電化」 というお店で38万で購入して 作詞やネットに興味を持ちだした 「まどみちお詩集」を読みだし 作詞に近い詩を書き始めた 「Kマーホ」という名で活動を開始し メインの詩を書き始める 創作の目標をまず詩300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになった 週末はいつも家に引きこもり 朝起きて寝るまでの一日中 音楽��聴きながら 38万円のパソコンを買ったのに まだ「ワープロ」で 手書きの詩を清書して プリントしていた
1998年(25歳)から2002年(29歳)まで 「Kマーホ」の名で活動して 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したりと やりたい事にお金も時間も好きなだけ 使ってすごしていた この時期に参加していた詩の団体(万有)には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な詩を書いたり そんな態度の人や いい人も数人はいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集「トイレの閃き」約2000部を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 本棚に置いて欲しいとお手紙をそえた 返送されたり お礼のお手紙を頂いたりと 色々と反応を感じながら 2002年の29歳の時に 詩を創作する活動を休止した これで「Kマーホ(けいまーほ)」での 活動は終わった 理由は2000年(27歳)に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年(30歳)から2019年(46歳)まで 育児に家族を重点を置いて生活をする この時期の16年間は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月(30歳)から 子育てを重視するために 景色のいい静岡県に引っ越し もう20年以上住んでいる
2019年1月(45歳から46歳になる年) 「平成」から「令和」に変わる年に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 創作活動を再開する 1998年(25歳)から2002年(29歳)の 「Kマーホ(けいまーほ)」の頃とは 全然ちがう方向性で詩を書き始める そしてSNSを活用して まずは詩の発信を始める 「るんぺんパリ【RunPenParis】」という名前の由来は フランスはパリの街を ぺんを持って 走りながら創作するというイメージから 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(現在は51歳で2025年は52歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した 「140文字詩」が広く浸透できればと 創作を続けている ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧(2019年~) 【2024年(51歳)】Amazonで販売 2024年11月17日 第17詩集「もんもん もんもんで もんだろ」 【2023年(50歳)】Amazonで販売 2023年12月27日 第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023年12月2日 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023年11月23日 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023年9月16日 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023年9月9日 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023年9月2日 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023年8月26日 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年(49歳)】Amazonで販売 2022年12月6日 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022年11月3日 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022年10月7日 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022年9月3日 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022年8年7日 第1アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022年2年14日 第2アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022年1年1日 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年(48歳)】Amazonで販売 2021年9月8日 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021年8月3日 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021年6月5日 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021年5月31日 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年(47歳)】Amazonで販売 2020年7月27日 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020年3月2日 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年(46歳)】Amazonで販売 2019年7月21日 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999年~2002年) 【2002年(29歳)】 2002年4月30日 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」発行部数不明 2002年4月4日 第5詩集「コールサック」100部発行 【2000年(27歳)】 2000年7月31日 第4詩集「マガサス星人」500部発行 2000年1月31日 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」500部発行 【1999年(26歳)】 1999年8月1日 第2詩集「テレビジョン」100部発行 1999年5月1日 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」2000部発行 【受賞】 2001年(28歳) 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年(27歳) 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年(26歳) 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年(25歳) 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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