#最悪を想定し最善を尽くす
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長年愛用していた #airmax720 の #黒シューズ が劣化していたので、 はじめての #airmac95 をお酒と塩で清め迎える。 #感謝 #より良き未来を #その先に明るい未来が想像出来るか #その先に明るい未来が創造出来るか #いつも本気 #JustDoIt #完璧を目指すよりまず終わらせろ #でも丁寧に #DoneIsBetterThanPerfect #iphoneで撮影 #TakenwithiPhone #stayhome #君子危うきに近寄らず #最悪を想定し最善を尽くす #この世界で生きていく #WeatheringWithYou #airmax #airmax95essential https://www.instagram.com/p/Cm0LaQpykKI/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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久々の更新のくせに自分語りします。
すみません。
昨日の夕暮れ時、丁度この写真を撮ってた時間。
義父が入院して危篤と連絡があった様子で。
ひとまず今日から3日がヤマらしいが
面会は17時までだから今日は義母も帰ったらしく
とりあえず連絡したらしかった。
私はあまり夫の両親と仲良くなく、
というか義父と義母は2人だけで
ずっと生きて来たような人生で誰とも仲良くせず
親子関係もかなりドライに見えてました。
初めは何やっても思ってた反応と違いすぎて
会う度に泣いてましたが、いつの日からか
会わなきゃいいんじゃんと決めてからは
美味しいものを贈る以外は会わない生活で。
お互い気配だけ感じながら生きてました。
今まで脳梗塞や癌になって入院した時も
ほぼ完治するまで連絡もされなかったので
当時は言葉が出ないほどびっくりもしたけど
こんな愛もあるんだなと思わせて��れた。
それだけに今回連絡があったわけですから
そりゃ只事ではないのだろうと。
私は実父とは二十歳で両親が離婚して以来
会わないままいつの間にか死んでしまっていて
夫には後悔して欲しくないと思い
翌日(今日)の予定を全部キャンセルして
会いに行く予定にしてもらいました。
しかしながら(良いことだけど)父の容体が
安定して来たのでとりあえず今日はいいと
義母からの連絡。
そうしていると宅配が来て、見ると義父からの
お中元のお肉���した。
霧の箱を開けてなんだか
無性に泣けてきたわけで。
昔は嫌いだった実父も義父も義母も。
母でさえ会いにくいと思ったりするくらいには
拗れた家族なのかもしれませんが
今ならわかります。親だろうが先生だろうが
子供の頃そりゃあちゃんとしてるであろう大人も
自分と同じただの1人の人間なんだって。
たまたま親なんだけどちゃんとしてる人もいれば
出来ない人もいる。
���ラスメイトも気の合う人もいるけど、
なんだか居心地悪い人も多いわけで。
それと同じなんだなぁと当時の親の歳になって
分かります。
ただこっちが理想を求めたんですよね。
親友の彼氏が、親世代と言うと言い過ぎだけど
かなり年上で、彼女が言うには
父親に甘えられなかった分今しっかり甘えてる
んだそう。いいよ!と思いました。
リズブルボーの本で読んだんですが、
(あくまで一論であって、
気に入らない方は取り入れないでください)
認知症は自分の意思でなっていて本人は
治すつもりはない、今まで必死に人のためだけに
生きてきて今度は自分の番だと言う感じで
発症するみたいなことが書かれていて。
私が1番好きだった祖母はめちゃくちゃしっかり物
できる女って感じのスーパーウーマンだったから
認知症になってどう思ってるか知りたくて
読んだんですけど、亡くなった時に読んだ
祖母の日記にはスーパーウーマンの心の葛藤が
びっしり書き綴られていて腑に落ちました。
それでも足腰が強く健康だったので、
そこまで叔母たちをわずらわせることもなく
最後はおやつの時間に眠るように亡くなって。
そんな私の大好きな祖母は血が繋がってはなく
母の母は(ややこい)私も会ったことないです。
みんなこじらせてる。
でも、今なら分かります。みんな死ぬその時まで
必死に最善を尽くそうとしてこじらせとる。
器用な人は理想の家族みたいな物語に
なるんでしょうが結局ワシらはこじらせとる。
その瞬間瞬間だけ切り取ったら
酷いこと言われた だの、失礼だの、最低だの
人でなしだの落ちるけど、
ひとりひとりの人生だけにフォーカスして見たら
あの日の父の言動も、
そりゃ言ってしまいたかったんだわなぁとか
思うわけで。みんな愛すべき人なわけで。
何が言いたいか分からないけど、
私が全員まるっと感謝することができれば
全部浮かばれるんじゃないかなぁと思いました。
親戚家族だけじゃない人間関係に悩む時
それが年上年下、家族上司、偉い人普通の人
なんも関係なくたまたま同じクラスの人として
見て見たらコイツにも親がいるんだよなぁ的な
どこか救いが生まれたり、
はたまたたまたま同じクラスにされただけだから
別々の人生歩むんだよとドライにもなれるかな。
そう簡単に行かないようで、意外にシンプルに
自分を大切に生きることだよなと思いました。
義父よ甦れ。
読んでくれてありがとう。
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Milgram Novel #2 Preview Translation
So the MILGRAM Novel Preview released. Here's a very rough TL. It seems that Dark Triad / Justice Alliance is mentioned in it. I haven't finished translating it yet because I'm not used to reading this kind of orientation.
プロローグ Prologue
青空がどこまでも、どこまでも広がっていた。 The endless blue sky stretched as far as the eye could see.
背の高いビル群が立ち並ぶ街並みの中から見上げても、その空だけは全く窮屈さを感じさせず、深い青色で穏やかに世界を包み込む。 Even when gazing up from amidst the cityscape lined with tall buildings, the sky imparted no sense of confinement and peacefully enveloped the world with its deep blue hue.
天気予報では、明日も同じ空が見られるという。 The weather forecast predicted the same sky to be seen tomorrow as well.
けんそう ボクはゆっくりと視線を落とす。繁華街は日々の喧騒であふれていた。 Amidst the hustle and bustle of the city, I slowly lower my gaze.
往来する人々はそれぞれの目的のためにどこかへと向かっていく。 People were heading somewhere, each with their own purpose.
複数人で笑い合っている学生たち。疲れた表情をしたスーツ姿の中年男性。髪色の明るい若い女性がスマホで通話をしながら、ボクの目の前を通りすぎていく。 Students laughed together in groups, a middle-aged man in a tired suit and a young woman with bright hair walked past me while talking on her smartphone.
この街には多くの人がいる。多すぎるほどの人がいる。きっと、ボクたちが置かれている境遇なんて生ぬるいと感じるような、想像もできない過酷な現実を生きている人もいるだろう。 There were so many people in this city. Too many people. Surely, there were those who were living in unimaginably harsh realities, making our own circumstances seem lukewarm in comparison.
それでも。 Nevertheless.
他の人に比べたらまだマシだなんて、ボクは思うことができない。 I can't bring myself to think that I have it better than others.
つら この世界のどこかで、知らない誰かがもっと辛い思いをしていたとしても、彼女が今感じている痛みは確かに本物だから。 Even if somewhere in this world, someone unknown is going through even more difficult experiences, the pain she is feeling right now is undeniably real.
学校では見せない笑顔を浮かべて、ボクの少し前を歩いていく彼女の背中を視界に入れると胸がかすかに痛む。他人の痛みに共感するなんて、少し前までなら考えられなかったのに。 As she walks ahead of me, donning a smile she wouldn't show at school, I catch a glimpse of her back, and my chest twinges faintly. Empathizing with someone else's pain is something I couldn't have imagined just a little while ago.
また明日。平日が始まれば、彼女は吐き気がするような、悪���の連鎖の中に戻っていボクにはそれを止められない。学校の屋上を彼女の心の支えにすることしかできない。 Tomorrow will come again. Once the weekdays begin, she will return to the chain of malice that makes her nauseous. I can't stop that. All I can do is be her pillar of support on the rooftop of our school. ふっと自嘲気味な笑みが自然と漏れた。 A wry smile involuntarily escapes my lips.
ボクは人間の命の尊さを理解できない人間だ。その辺に転がった無機物も、繁華街を埋め尽くす人間たちも、その価値は本質的に同じだと思っている。 I am a person who can't comprehend the value of human life. Be it the inanimate objects scattered around or the humans flooding the bustling streets, I believe their worth is inherently the same.
冷たい人間だ。……そのはず、だった。 I am a cold person. …Or so I thought.
自覚している。彼女と出会い、多くの時間を共にしたことで、ボクの価値観は少しずつ変わっていった。戸惑いがないわけじゃない。でも、それでいい。 I'm aware that meeting her and spending time together has gradually changed my perspective. It's not without confusion, but that's okay.
おも 今のボクは彼女のことを大事に思っている。その想いに気づかないフリをしても仕方がない。ボクはすでに深入りしすぎた。 Right now, I care deeply about her. There's no point in pretending not to notice those feelings. I've already gone too deep.
なら最後まで突き通すしかない。 If that's the case, I have no choice but to see it through until the end.
―彼女がどんな結末を迎えようとも、ボクは最後まで彼女のことを守ろう。 No matter what fate awaits her, I will protect her until the very end.
大きな商業ビルが目に入った。そのビルの壁面には巨大なディスプレイが埋め込まれており、ニュースの映像が流れていた。 I caught sight of a large commercial building. Its walls embedded with massive displays were broadcasting news footage.
画面に映ったキャスターが原稿を読み上げる。 The caster on the screen reads the script.
「現在、インターネット上にアップロードされた動画群が物議を醸しています。その発信元アカウントは『正義同盟』と呼称されており――」 "Currently, a group of uploaded videos on the internet is causing controversy. The originating account is referred to as the 'Justice Alliance'—"
ひもり 「氷森くん」 Himori 「Himori-kun」
不意に名字を呼ばれて視線を戻すと、彼女が立ち止まってこちらを振り返っていた。ボクがニュースに気を取られていたことが不満だったようで、彼女は頬を膨らませている。 Suddenly called by my last name, I turn my gaze back and she stops, looking back at me. She seems displeased that I was preoccupied with the news, and she puffs up her cheeks.
「何見てたの?」 "What were you looking at?"
「あそこの、街頭ニュース」 "The street-side news over there."
いちべつ She glances at it briefly, and her expression darkens ever so slightly.
7月が始める。 July begins.
そうだ。この世界のどこでどんな事件が起きたとしても、悲惨な出来事が誰かを苦しめても、ボクは目の前の彼女のことだけ考えていればいい。日までは。 That's right. No matter where or what kind of incidents occur in this world, no matter how tragic they may be, as long as I keep thinking about her in front of me, it will be enough. Until the day…
少なくとも、一緒に高校を卒業して、彼女が悪意の呪縛から解放されるその… At least until we graduate from high school together, and she is freed from the curse of malice…
「『正義同盟』、か」 "'Justice Alliance,' huh?"
正義のヒーローみたいな名前。 A name like that of a hero of justice.
だけど、この世界に救いの手を差し伸べてくれるヒーローなんていない。純粋な正義な ゆが んてものも存在せず、どんな行動の裏にも歪んだ欲望と打算が隠されている。 But in this world, there are no heroes extending a helping hand. There is no pure notion of justice. Behind every action, there are hidden desires and calculations.
もし本当に正義の味方がいるのなら、彼女はとっくに助けられている。その後、ボクがそのニュースを思い出すことはなかった。 If there were truly allies of justice, she would have been saved long ago. After that, I never recalled that news.
翌日に起こった悪夢が全てを吹き飛ばしたからだ。血塗れの彼女の姿が脳を満たしたからだ。「正義同盟」が本格的に世間の話題の中心になっていっても、放心状態のボクは全く興味を持たなかった。 The nightmare that occurred the next day wiped away everything. It filled my mind with the image of her covered in blood. Even as "Justice Alliance" became the talk of the town, I, in a dazed state, had no interest at all.
だけど、それで良かったのだ。 But that was for the best.
もしあの時、「正義同盟」の思想に触れていたら、のめり込んでいた可能性がある。女を死に追いやったクラスメイトたちにその歪んだ思想を突きつけていた可能性がある。結局、ボクは「正義同盟」の思想に取り込まれることはなかった。 If I had been exposed to the ideology of "Justice Alliance" at that time, there's a possibility I would have been drawn into it. There's a possibility that I would have confronted the classmates who drove the girl to her death with their twisted beliefs. In the end, I never became consumed by the ideology of the "Justice Alliance."
そして今、ここにいる。 And now, I'm here.
囚人を裁き、粛清を与える監獄。 A prison to judge prisoners and administer purges.
その中にあるメインルーム「パノプティコン」。 Within it lies the main room, the "Panopticon."
何度も見てきた。 I've seen it many times.
粛清が執行され、囚人たちが鮮血に浸る姿を。 The purges being carried out, the sight of prisoners drenched in fresh blood.
命と存在が消える瞬間を。 The moment life and existence disappear.
だが、目の前で繰り広げられている光景はその性質が根本から違った。塔のように縦に長いパノプティコン、その上層から高速で落下してくる人影が一つ。 But the scene unfolding before me is fundamentally different in nature. The Panopticon, tall and elongated like a tower, with a figure descending rapidly from its upper level.
周囲は無音だった。その信じられない光景を目にしている囚人たちも、落下する人影も、そしてボクも声を出さなかった。 The surroundings were silent. The prisoners witnessing this unbelievable scene, the descending figure, and even I, none of us uttered a word.
いや、出せなかった。 No, we couldn't.
だって。こんなことが起こるなんて、いったい誰が予想できる? Because who could have predicted that something like this would happen?
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240722 EXTRA
自分メモ:
今日のタスク:倉庫代金の振込 ジャックス未払の振込
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無料枠というか、身内以外(端的に言うと条件次第で敵にもなるような人々)が観ているところでネガティブな事を書くのはリスクだ
基本は建設的で道徳的でポジティブな...
ある意味お為ごかしとも取れるような当たり障りない事を書いていればいい
そういうの書くのが億劫ならそもそもなんも書かないほうがいい
そうだな、それはそう
だがいいのだろうか? 僕のポジティブなテキストというものは「視野狭窄の箱の中で幸せの花が咲き乱れる狂気そのもの」だ
僕が本気で主観的幸福について語ったところで むしろ誰からも共感不能な「勘違いドンズレ幸せ宇宙」��展開されるだけだ
そういう自分だけの「ストレス除去システム」を持っているからこそ「表社会のストレスにダメージ受けてるフリ」してルサンチマン気取って「遊べる」のだ
例えばどんな時でも主観的時間を「一時停止」して「脳だけ活性状態のまま熟考できる」特殊能力持ってたとして、その能力で得た気付きをわざわざ他人にシェアしないだろう?
他人が共感不能で応用も不可能で再現性も乏しい「ラッキー」にまつわる物語は、シェアしたところで「一体誰の為の何の話?」って思われてしまう
再現性も普遍性もない「想像の枠を遥かに越えた幸せな物語」は薬物用いて観る幻覚と差異がない
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まあ、同じ薬物使えば似たような幻覚見られるという点で再現性はあるっちゃあるが...(社会性がマイナス域に入っちゃうので、死の淵に立たされ苦しみの絶頂にいるような人がやる場合除き肯定できない)
僕は妻と出会えなければ物理的 / 社会的に氏んでいたという確信がある
つまり妻の存在は僕にとって「死にかけの人間の痛みを取り去る薬物」だった
もし僕が生きる気力に満ち溢れた状態で妻と出会ったなら、むしろその出会いは僕の人生を狂わせ不幸へと導く毒として働いたかもしれない
悲しみや虚無感を打ち消す為には、自身のそれを遥かに上回る悲しみと虚無を凄い勢いで外からぶつけられるしかない
つまり自分が想像&実感するシリアスさ(往々にして他者との比較による死にたさ)を遥かに越えるシリアスさぶつけられる事で自分という存在が相対的に「ギャグ化」される
それによって当たり前に「救われる」のである
ギャグ時空に入ると とりあえず生き延びられはするものの、仕事をする気がゼロになってしまう。ギャグキャラというものは社会や現実に対する責任を一切負わない(負えない)からだ
不老不死キャラが「ぼんやりとした眠たげなパーソナリティ」になるのは「他人と同じ世界や時間軸に所属していないから」だ
だから自身をギャグキャラ化して「死ぬ理由」キャンセルした後は、ほどよい真剣さと建設性取り戻して「自分はこの世界で活躍し自尊感情満たしながら生きる権利がある、もとい使命がある」と思い込まなければならない(そうしないと社会に対する信頼感とリアリティが喪失して貯金が尽き、再び「死ぬ」以外の選択肢がなく��ってしまう)
人はどんなにキャリア重ねようと優れた知性を獲得しようとも「自身の人生には何の価値もなかった」と思い込むことができるように設計されている
それはそう設計されているんだから仕方ない。その視点に切り替えたら最後、あらゆる他者の言葉を無視して破滅の道へと突き進む「暴力性」を持っている
理性や知性の存在が動物的な本能や判で押したような退屈を拒絶し「自決」という「非・本能的レア行動」を選び取らせる
だからこそ心療内科で自殺志願者に処方される薬の半数は前頭葉の働きを鈍らせ「人間性を抑える」ものになっている
理性を研ぎ澄ませて無用な自分を「処分」できるなら、理性の力で理性を抑えて「無用な自分を有用と錯覚させる」事も当然できるのだ
最も、自分もそれができるようになるのに15年以上の歳月を要したが...
ああ、でも諦めないでほしい。10代後半で既に僕以上の「精神操作」を実現している人間をDiscord上で観測している
つまり、できるやつは数年で僕がストレス回避に用いている「楽天思考」を獲得できる
楽"観"思考というのは「悪いことなど多分起きないさ」という「思考停止」を内包する思考法
楽"天"思考は「悪い出来事が発生しようともそれは長続きしない、必ず人生はいい方向へと進んでゆく」という「自浄作用への信仰」を含んだ思考法
これはアドラーが唱える「共同体感覚」とまったく同種のものである
自分の半径100kmの人間が全員悪人であろうと、その輪の外側には必ず建設的で道徳的で優しい人々のコミュニティがある
だから自分の周りに蔓延る悪意を「現実」として認識する必要は一切ない
信じるべきは世界全体(もっと言えば宇宙全体)の「善意」の和であり、卑近な現実で観測できる悪意や諦観に「リアル」を見出すメリットはない
ほんとこの「ともすれば異常」と評価できる視点を10代、20代で獲得している人間は一体なんなんだ?? って思う
押し並べてその視点を獲得しているのは女性だ
ヘテロ男性で若くしてその視点を獲得している人間は極めて稀
男性は卑近な現実の不幸に対し影響を受けすぎる
「不幸の実感」こそが自分と他者を、ひいては世界全体を不幸にする事はもはや自明の理だというのに...
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クビの専門家です。「寝坊して出勤後、上司に報告するより先に朝食を食べた大手ゼネコンの現場監督女性」が話題ですね。また一部経営者からなされた「そんなことしたらウチならクビだ!」といった意見にも賛否両論集まっているようです。 「賛」側の意見としては 「そうだ! こういうポンコツをクビにできないから、日本人の給料が上がらないんだ!!」 「否」側の意見としては 「遅刻くらいでクビになんてできないだろ…」「解雇権濫用になるのでは?」 みたいな感じですかね。では実際「遅刻した社員をクビにできるのか?」「ポンコツをクビにできたら日本人の給料は上がるのか?」について考察していきましょう。 <遅刻を理由にした解雇は有効か> 結論からいえば「解雇はできるが、それが有効と認められるかどうかは状況次第」です。 たとえば、1回~数回の遅刻でいきなりクビにしてしまうと「不当解雇」となる可能性が高いですが、何度も遅刻を繰り返し、注意しても改善せず、周囲にも悪影響を与えるような場合であれば解雇が認められる可能性があります。ちなみに、過去遅刻を巡る解雇の裁判で会社側が勝訴したケースは、「5年5カ月の在籍期間うち2年4ヵ月を欠勤、最後の長期欠勤前の出社日数2年間のうち約4割が遅刻」というレベルでした。 <勤怠不良の社員にはどう対応すればいいのか> 遅刻にはやむを得ない理由もありますし、単に時間にルーズといった個人の問題である場合もあります。したがって勤怠不良社員に対してはいきなり解雇で臨むのではなく、何度も繰り返し注意や指導をおこなってください。それでも改善しない場合は懲戒処分(訓戒、減給、出勤停止、降格など)を下すなど、会社として安易に解雇せず、改善機会を提供し続けることが重要です。 注意・指導・懲戒処分の記録が証拠として残っていれば、後々争いになったとしても、解雇の相当性が認められやすくなります。そこまでやっても改善がみられないのであれば退職勧奨をおこない、自主退職を促すのがよいでしょう。 <「日本は解雇規制が厳しい」は本当か?> 映画やマンガでは、ヘマをした部下に対して上司や経営者が「お前はクビだ!」などと宣告する場面をよく見かけますが、これができるのはあくまでフィクションの世界や、日本とは法律が異なる海外の話。我が国ではそう簡単に、従業員のクビを切ることはできません。まず労働契約法ではこのように定められています。 労働契約法第16条 解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。 さらに、法律とは別にもう一つのルールとして「判例」が存在します。これまで解雇にまつわる裁判が数多おこなわれ、個々のケースについて有効か無効かが判断されてきたという「歴史の積み重ね」ですね。これらが法理として機能し、合理的理由がなければクビは無効となります。結果として、解雇が合法的に成立するための要件は極めて厳しく、実質的に解雇が有効になるケースはごく稀であるのが現状なのですね。 よく「日本は解雇規制が厳しい」と言われますが、それは決して「解雇を規制する法律がガチガチに固められていて、解雇したら即ペナルティが課せられる」といった意味ではありません。「解雇自体はできるが、もしそれが裁判になった場合、解雇無効と判断されるケースが多いため、実質的には解雇が困難」という表現がより実態を正確に表していると言えるでしょう。 <でも、外資系企業や中小企業では解雇がまかりとおっているのでは?> 外資系企業の場合、「クビ」に見えても実際は「退職勧奨」が中心であること、従業員側も解雇リスクは想定したうえで入社しており、裁判で余計なお金と時間とエネルギーを費やすよりも、好条件を提示されているうちにサッサと自主退職して次の会社に移ることが一般的なため、そもそも裁判の争いにまで至らない、というケースが多いです。 中小企業の場合はまた事情が異なり、そもそも株主も法務も人事も実質的に経営者が兼ねていることが多く、チェック機能が働かないまま「社長がクビといったらクビ」になってしまいます。また中小企業の労務トラブルには大企業ほどのニュース価値はないため、解雇したところでメディア報道されることもなく、レピュテーション低下リスクもさほどありません。また仮に裁判で勝っても大企業ほどの解決金獲得は期待できないため、同程度の労力がかかるなら、弁護士やユニオンも中小企業より大企業の解雇被害者支援に力を入れがちだったりします。 実際令和3年度の統計によると、全国の総合労働相談コーナーに持ち込まれた総相談件数「124万2,579件」のうち、民事上の個別労働紛争にまつわるものが「28万4,139件」、そのうち「解雇・雇止め」にまつわるものは合わせて「47,535件」ありました。 そこからどれだけ法的手続に移行したかというと、「労働局のあっせん」が「1,116件」、「労働審判」が1,751件、そして「労働関係訴訟」が「1,082件」です。法的手続を全部合わせても4,000件に届かず、いわゆる「裁判」まで至る割合は全体のわずか2%程度なんですね。 このように多くの外資系企業や中小企業の場合、解雇したところで訴訟にまで至ることが少ないため、「解雇してそのまま終わり」のように見えてしまうのです。 <クビにしやすいほうが賃上げに繋がる?> もし、事業の発展に貢献してくれるような優秀で希少な人材が見つかり、高額報酬で迎え入れることになったとしても、仮に採用後にミスマッチが発覚したり、急激な市況・業績変化があったりすることを想定すると、「解雇のしにくさ」は採用の大きなボトルネックになることは間違いありません。 「解雇したらトラブルになる」ことがほぼ確定している場合、雇用側にとってはリスク要因となり、高い報酬を設定すること自体を躊躇してしまうことにもなりかねません。必然的に「絶対に間違いない人しか採用しない」こととなり、採用ハードルは上がり、流動性は低くなるリスクもあります。 とはいえ、「雇用の流動性を高めるためにもクビにしやすくしよう!」などと提言すれば大きな反発を受けてしまうのは確実。現実的な解決策としては、「解雇の金銭解決」を今より簡潔かつ円滑にできるようにするのがよいでしょう。 意外に思われるかもしれませんが、現在我が国では、解雇を金銭解決できる制度がありません。なので、会社から不当解雇された人が裁判で争う際には、いくら会社に愛想を尽かしていて復職したくなくても、「解雇は無効だから復職したい」と主張するしかないのです。会社側としても一旦解雇した人物を復職させる気はなく、解雇の撤回もしたくない。ではどうするかといえば、お互いにとってあまり意味のない「復職」をテーマに裁判し、その妥協点として「退職する代わりに解決金を獲得する」という方向に持っていくしかないんですね。 「解雇の金銭解決」を制度として正式に導入できれば、そんな不毛なやりとりをしなくても済みます。それも、わざわざイチから制度構築する必要もなく、現行の労働契約法16条に追加で「解雇に際し、使用者が対象労働者の賃金6ヵ月分以上に相当する金銭を支払った際は、その解雇は客観的な合理性を有し、社会通念上相当であるとみなす」といった一文を入れるだけでいいはずです。各社とも人手不足で賃上げが求められている中、実情に合わせた制度変革が望まれるところです。
新田 龍 / X
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Nijisanji ENのセレン龍月さん契約解除のお知らせから今日までに感じたこと
初めに
これは私の言葉であり感情です。私以外の誰かが別の誰かに対して武器として扱わないでください。また、これは一連の話題について誰かの証拠として述べ、情報を提示・精査しているものではありません。
ここで明確に怒りをむけている相手は主に誹謗中傷を行なっている人達と行き過ぎたサポーター達に対してです。にじさんじEN、所属しているライバー、セレンさん(以降Dokiさん)に対してはそれぞれを心配していますし一刻も早く安寧が訪れることを願っています。しかし衝撃が大きかったのがDokiさんのポストなので当たりが強いと捉えられたら申し訳ありません。
私は普段物静かなリスナーです。リスナーの声を望むライバーには申し訳ないですが静かに楽しむのが好きなのであまり公の場でコメント等をしていません。ですが見聞きしています。偽のリスナーにしないでください。
長いです。誤解を招きたくないので主言語である日本語で書きます。
沈黙は金という言葉がありますが、死人と同じとされる場合もあります��。 であれば私は今墓場から声を上げている亡者です。それほどまでに現在の状況が悲しいです。あまりにも長い呻き声です。ごめんなさい。 今苦しい気持ちでいる方々にまずハグを。
今回の件で運営は手段やタイミングを尽く間違えたかもしれません。少なくとも良くはないと感じます。事情があるにせよ、これまでの立ち回りを思えば全てを是とすることは出来ませんし、不満は当然出るでしょう。とはいえ、何をぶつけてもいいわけではありません。
あの時ショックを受けたのは運営側のお知らせだけが原因ではありませんでした。熱心なサポーターがDokiさんのアカウントを早々に広めて回っていましたからその時から見ています。
【Notice: Termination of Selen Tatsuki’s Contract with ANYCOLOR】
運営お知らせポスト後のDokiさんポスト
ハラスメントを受け続けた末に未遂に至ったというエピソードは権利関係の違反云々とは別に重要なポイントです。しかし感情的になる以前にどうにも両者の間には不明瞭な部分が多くありました。
私はこの段階で、「彼女に弁護士がついていて法的に責任を追及するつもりであれば、いずれ裁判で明らかになるのだろう」と考え、一先ず静観しました。が、別のところでは瞬く間に炎は大きくなっていき衝撃と困惑を携えた人々はぶつけ合い始めていました。
所属ライバー達のメッセージ(動画)
日本語訳つきはこちら
メッセージ配信を受けたDokiさんのポスト
↑のポストから2時間後のスレッド
文書共有の懸念について説明
田角社長の声明
ライバー達はDokiさんの知らないうちに情報に触れる機会を得て自らの感情や状況を話しました。おそらくハラスメントとされたものに対して認識に誤りがあると伝えたかったのだろうと汲んでいます。そこでは追撃の示唆も、早急に公の場での回答を求む声はなく、聞いた人達には弁護士が関わる話��からこれ以上は言えない、攻撃はやめてほしいと願うのみでした。
ここに関してはDokiさんも同じように主張されていますね。
どちらが正しい振る舞いかどうか?正直今の段階ではどちらも言い分は分かるが手段は最善でないと考えます。沈黙を愛せる状況にさせなかったのは私達リスナーや乗じて騒ぐ人達の声でしょう。しかしリスナーが応援したい人の傷ついた姿を見れば忽ち感傷的になるのも想像に容易いです。更に文書の存在・閲覧を仄めかす程度に出したことでより事態を複雑にしました。
彼らは同僚として活動し、友人としても関係を築いていたのですから、何かしら誤解やすれ違いがあったのかもしれません。運営、彼女のマネージャーも各々尽力したが彼女の期待には及ばなかったのかもしれない…想像しか出来ません。もし誰かが嘘をついているなら、それは法の下で暴かれ、裁かれるものです。文書公開・共有範囲についてもどちらの国にそってどう考えるべきかも複雑で、最早部外者が判断出来るラインを越えているでしょう。少なくとも運営が出したポストでは違法性はないと言い、どんなに立ち回りが悪かろうとそれなりに大きい企業ですからこの点は一旦信じています。こういったケースを経験した当事者と専門家がそれほど多く存在するとも思えません。
2/15 Dokiさんのポスト
これは私にとって本当に衝撃的でした。
先に言っておくと話題になった文書や録音についてはここでは触れていません。今は情報の精査は部外者に判断出来るものではないからです。
私が衝撃を受け、人々の反応に戸惑ったのはその後の部分です。
打ち明けられた情報に対してリアクションをしたのは理解できます。結果的に一部の混乱を抑えてくれたことにも感謝しています。改めて彼女は今後サポートされるべきだと思います。しかし、たとえ人々に聞いてほしい一心からだったとしても、優しさ故だったとしても、これが良い手段・内容だとは思えません。
どうしてまた秘めていたエピソードを追加で公開したのでしょう。 1度目の告白で既に多くの人がその痛みに寄り添い毛布をかけていたと記憶しています。ライバー側のメッセージ内容を考えても、胸に秘めておきたかったのならそれを今深く掘り下げずともよかったはずです。一部の情熱的なサポーター達の他にも、興味津々で“次の材料”を常に待ち伏せしている人達もいる。弁護士や専門医と相談の上での発言だと信じたいですが、その場合、その人達へ攻撃しないよう願う為に更に傷を抉って伝える必要があると判断されたのですか?今のDokiさんの状態を慮った上で? 人々は彼女に寄り添うでしょうが、反応を見て分かるはずです。この開示の影響力がどれほどか。これからのことを考えるなら言う側も聞く側ももっと慎重に扱っていい話題のはずです。
自らの命を絶つ。その選択に至るまでの環境や心身の状態はたとえ同じように試みた人間であっても容易に計り知れません。「生きてさえいれば」とは簡単に言えない。死が包み込んでいった現実は余程救いであったと思えない限り、後の他者にとってもただただやるせないです。 Dokiさんには十分なケアを受けてほしいし、今後その意見を尊重してもらえる環境下で生きてほしい。既に前に進もうとしている決意の背中には拍手を送りたいです。 しかし、未遂を打ち開けることは、状況次第で他者にとっては“自分自身の命を盾にした強力な脅迫”に成り得ます。中には苦しみや痛み、自分の欲求を訴える手段として自ら命にナイフを突きつけてみせることを選択してしまう人がいるのも事実です。慎重になる人が出るのは仕方がないと考えます。(Dokiさんをそういう人だと断定する為に言うのではありません。決して。)
私は日本で主に仏教に基づく生活を送り、自死に対しては身に近い話題ですが肯定的ではありません。宗教によってはより痛ましく捉えられるのでしょう。何にせよそこに至った、それだけで重みは十分にあります。
当人がつらい境遇にあった事は責めることでないですし今後報われるべきです。しかし、たとえ本人に悪意や支配の欲求はなくても、『その手段に一度でも行き着いた人間である』と意識されることで、忽ち他者に強く働きかける力を否応なく持ってしまう。どうとも思っていない外野ならともかく、誠実に向き合おうとする相手や好意を抱いてくれる相手にはとても強力に働きます。実際、近くに居る人の中にはその気配をひどく怖れるようになってしまう人、必要以上に自らを責め苛んだり深く傷つく人、当人に代わり周囲への警戒心が強まり攻撃的になる人もいます。これは私の経験にも基づく話ですし、Dokiさんもポスト内でご両親のことを記載されているので想像出来得るかと。
自他ともに心身への負荷や影響・リスクが伴う可能性が高い。今後、追い詰められる前に人に頼ったり助けを求めるハードルを低くしていくのに厄介ではありますが、自覚しておかなければ望まない傷を負い、負わせかねません。
運営の対応や公開されている内容に憤る方も多いですが、私はDokiさんを担当されている弁護士や専門医の方にも、彼女から相談されているならば、より気をつけてほしいと切に願います。
強く意見している人達もどうか注意してください。自己犠牲や起こった悲劇を悲しみ、生き延びたことを喜び励まし合うことはあっても、聖なる灯のように、英雄のように掲げるのは違います。ましてやその名の下に義憤し、周囲へ矛を突き立てるのは行き過ぎています。
過去には自らの願いや訴えを社会に痛烈に伝える手段として自決を選んだ人もいますが彼女の場合はそうではなかったはずです。
起こってしまった���上は先を臨むしかない。完璧ではない企業や運営に���革を求めるのはご尤もです。ですが何人をも裁く権利を司法以外は未だ誰も持っていません。今はそれぞれ信じたいライバーに目を向け、愛情と優しさを持って根気強くサポートしてほしいと願うばかりです。心を深く痛めている人はどうか休んでください。全てがあなたの痛み、責任ではありません。自分に余裕が持てたなら一緒に前を向いてください。
少々話は逸れますが、今回の件では日本人リスナーの反応について過去のにじさんじライバーの件がよく話題に挙げられています。が、私はその件については深く知りませんでした。私は最近起こった、ある悲しい一件に似ていると捉えていました。
2024年1月末、日本では自らの作品の映像化脚本について声明を出した漫画家が急遽亡くなってしまい、現在も話題になっています。彼女は当初脚本について説明する為に声を上げました。彼女の声明内容は瞬く間に波及し、彼女の作品の映像化にあたった関係者や企業、脚本家においてはその知り合いまで巻き込み、SNSで発言を暴き晒し始めたり誹謗中傷が飛び交い、他の創作者達も意見を出し、各所で混乱が起こりました。死に至った明確な理由はわかりません。ただ非常に戸惑っていただろうととれる当人のポストは今も残っています。 他にも浮かぶエピソードはあります。そういったものを通して“必要以上に騒ぎ立てる内に渦中の人物が突然命を絶ってしまい、公の場で必要な裁きや真相究明が困難なままに葬りさられたり、取り返しのつかない展開を迎える怖さ”を知っている人は少なくないでしょう。
最後に、今回の件でヘイトを発信し、国間ヘイトまで煽られている方々。国内外問わず多くいらっしゃいますね。
おかげで私は墓場から声を上げる亡者になりました。きっとお読みにならないでしょうけれど書いておきます。
どうか愚かな壁を先んじて建てないでください。 言語を始め、様々なフィルターは確かにあり、言い出したらキリがないです。しかしそんな中でも各々翻訳したり、ライバーを支えたい一心で必死に配信やポストを聞き応えようとしたり、リスナーたちと交流を試みている人々も国を問わずいらっしゃいます。その末に疲弊し、心を痛めている人も。 時に他言語話者が翻訳機を通しその思いを伝えてくれるように、伝えたい思いや分かち合いたいものがあります。各言語を堪能に扱えなくても心を砕こうとしている人がいることも知っていてほしいです。
国、人種、性差別と取れる表現を軽々と交える人に何かを嘲る資格はありません。
“くろさんじ”が俗に言うブラック企業という言葉の意味を被せているのは知っています。だからといって、そこには��しかないだろうと笑ったり、誰かを必要以上に蔑むその口が、本当の意味で“anycolor”(どんな色、どんな個性も)を尊重するべきと、守りたいものの美しさをどうして訴えられますか?
どんな色でも、少な��らず歴史を知る上で、未だ色色に忌み物のラベルをして、平気で石を投げ楽しんでいる姿を見ると落胆します。結局は自分の飾りたい、認めたい色を都合よく掲げていると気づいていますか?
不満や怒りを抱き、反する意思を見せるのは構いません。ですが理性のラインまで見失わないでください。もしあなたが今信念を持って、誰かや何かを想って立ち上がっているなら、一度落ち着いてまずは我が身と筆先を整えることをおすすめします。
人は日々様々なものを経験しつつ進んでいる道の上で物事を目の当たりにしています。こうした難所に対峙した時の対処法や姿勢は人によります。 ここから先のお願いはあなたにとって心地よければ是非やってみてください。 あなたがサポートしたい誰かが励んでいるなら傍で支えましょう。やがて物事が明るみに出るであろうことを願いながら過ごしましょう。 その間、愉快なドラマをみたがって囃し立てる人達もいるでしょうが拳を振るうよりブロックや通報をして、出来得る範囲で自分と大切に思うその人を温かく包んで。 もし息苦しいなら一旦離れてみましょう。美味しいものを食べたり飲んだり、違う場所へ行ったり、休息をとってください。 綺麗事ではありますが各々大切な人と穏やかに日々を過ごせるよう心から願っています。
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いまの世の中の風潮的にこういう言い方をすると色々と問題になってしまうのかもしれないけれど、僕は昔から女性が苦手で、いや、苦手というか怖い存在と言った方が良いかな。フェミニズム云々とかではなく、対峙したときに生き物として畏怖の念を抱いているというか、純粋にかなわないと思ってしまう。これは男女という性別には関係のない話やけど、人って打算的やし残酷でしょう。たまたま僕はこれまでの人生でそういう女性と多く出会ってきたから、ある種のトラウマになっているのかもしれない。文筆家OBATA LEOはそんな僕が素直に話ができる数少ない女性のひとりで、彼女が自主制作しているZINEを読んだとき、年齢や性別に関係なく、この人とはもっと話がしたいと思った。だから今回のインタビューで彼女の素顔に少しでも迫っていけたら嬉しいし、それによって僕自身がトラウマを克服できたら最高!
〔土井〕 そんな訳でLEOちゃん、今日はよろしくお願いします。あなたの素顔に迫りたいということで、いきなりで申し訳ないんやけど、LEOちゃんはメイクは念入りにする?それともスッピンでも平気な人?
{LEO〕畏怖の念というの、当たり前かもしれませんが自分はあまりピンとこず、それはさておき、話したいというのはとても嬉しいお言葉です。土井さんに対する自分の思いは話し出すと長くなるのでここでは割愛しますね(笑)。インタビューの最初の質問って、文章の書き出しと同じでその後の流れを決める置き石のようなものですが、無駄のない場所に置きはったなという感想です(笑)。メイク、友達や知り合いや初対面の人と会う日、休みを満喫するぞって日は絶対めっちゃします。でも誰とも会う予定ない日は日焼け止めすらせず出かけてますね……。本にも書いたんですけど、メイクって自分にとっては、したくてやってると言い切れるわけでもなければ、したくないのに嫌々やってるとも言い切れるわけでもない、微妙な行為で。川上未映子の『乳と卵』という作品で、豊胸手術について、「それは社会に思い込まされてるんや」という意見と「自分がしたいからするんや」という意見が対立して決着がつかない、という場面があります。自分もフェミニズムというものを知ったとき、そういうジレンマに陥って、なんなら「社会に思い込まされてることを全て取り除いて真の欲望を見つけたいと思う」みたいな文章まで書いたんですけど、今となってはそんなことは不可能やしあまり意味もないのかもと思ってます。
〔土井〕うーむ、良いね、出だしからヒリヒリとした緊張感があるわ、前回の小野ちん(moanyusky)のときとはえらい違いや(笑)。そう、でもやっぱりメイクって自分のなかでは割と重要で、メイクは女性だけに限った話ではないとはいえ、やっぱり男性でメイクをする人はまだまだ少数やし、僕らおっさん連中のほとんどがむき出しの顔面を晒して生活してしているのに対して、女性の多くはメイクで日々、自分の顔を変化させることができる。メスで皮膚を傷つけることなく、その日の気分で変身できるというのは、なかなかにショッキングなことで。『乳と卵』は僕も大好きやし、未だに川上未映子の最高傑作やと思ってる。あそこで描かれる能動的か受動的かという問題、実はタラウマラのご近所さんで実際に豊胸手術をした主婦の方��いて、その人は旦那が胸が大きい方が好きなんだろうと思って実際にやってみたら実は旦那の好みはそうではなかったと知って、めちゃくちゃ後悔してはった。旦那を喜ばせたいという自発的な想いが発端とはいうものの、その背後には無意識に旦那の好みに寄せていくという受け身な態度が窺い知れる。しかもそれが思い込みやったとなれば更に話がややこしくなる。ほんま人間はどこまで能動的に振る舞えるんやろうね、甚だ疑問やわ。そう言えば『乳と卵』のなかに巻子と緑子という親子が互いに自分の頭で玉子を割ってドロドロになる描写があったやん。あれって卵子を破棄したいという願望の現れやと思う���んけど、LEOちゃんの最新作『目下茫洋』のなかにも子宮を爆弾に例えて「それを運び続けることが、すなわち生きることになっている」という強烈な表現があってゲロ吐きそうになってん(賛辞)けど、それ以外の箇所も含めてあきらかに前作『ROLLER SKATE PARK』とは異質の内容になってると思う。前作から今作に至るまでの期間に何か心境の変化のようなものがあったの?
〔LEO〕なるほど!!いわれてみればストレートな比喩やのに、卵の場面でその解釈を思いつきませんでした……!殻が割れるというのが、二人の心の殻が割れるってことを暗示してるんかなぁと思ってました。あとはその卵を体にぶつけて割るという非日常的である意味馬鹿らしい行為を共有することで、関係も変わったんかなぁとか。そもそも、あの話でもなんで巻子が豊胸手術をしたいかっていうのは謎なんですよね。他の人とその話をする機会があったときに聞いた意見で妙に納得したのは、豊胸手術をすれば全てが上手くいくという願いみたいなものがあったんじゃないかというので、それは実際の土井さんのご近所さんの話を聞いて、改めて重ね合わせてしまいした。旦那さんを喜ばせるためには、豊胸手術をする以外の形もあったはずやのに、それが選ばれたという事実について、考え込んでしまいます。ZINEの内容としては、『目下茫洋』の原稿を書き始めたのは、『ROLLER SKATE PARK』と同じタイミングで2022年の9月です。でも最後の最後まで完成しきらず、また最初に出す作品で「女性の書き手」というイメージをつけたくなかったので、別の機会に回すことにしました。一年経って、やっと踏ん切りがついたので、今回出したというような感じです。なので、心境の変化は特にないですね。それどころか、2022年の9月に書きはじめるときにも、2020年とかもっと前に書いた別の原稿を原型にしたので、むしろ『ROLLER SKATE PARK』の方が異質な内容といえるのかもしれません(笑)。
〔土井〕そうなんや!あの2冊は同時期に書かれたものなんや!それはびっくり!あれをがっちゃんこして1冊にしないところがニクいね(笑)。でも「女性の書き手というイメージをつけたくない」という気持ちはわかる気がする。社会そのものが「女性」というイメージを操作する機械やとしたら「女性」の書き手にとってはこのことほど煩わしくて鬱陶しいものはないよね。機械についてはドゥルーズの言葉を引くしかないけど「一方の機械は流れを発する機械であるが、他方の機械は、この発せられた流れを切断する機械である。乳房は母乳を生産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である」っていう、何回読んでもきちんと理解できないドゥルーズなりの概念があって、さっきの能動的か受動的かという話に戻るけど、要するに手を取り合ったかと思えば手を離すということをひたすらに繰り返すってことやんな(違ってたらすみません!)。『ROLLER SKATE PARK』が流れを発する機械やとしたら『目下茫洋』は、この発せられた流れを切断する機械やという感じかな。でもあれは確かにぶった斬りにきてるよね(笑)。そもそもLEOちゃんが「能動的」に文章を書きはじめた、あるいはそれをzineにしようと思ったきっかけは何なの?
〔LEO〕機械の例えはほんまにそうですね……。操作できないレッテルを貼られた箱のなかに勝手に分類されるときの無力さは筆舌に尽くし難いものがありますね。ドゥルーズのその文、帰り道で何回も考えてみたけど難しい(笑)。能動と受動に関しては、自分も全然答え出てないです。「能動的に」文章を書きはじめたきっかけやZINEにしようと思ったきっかけもいまいちはっきりとはしてなくて。文章は小学2年生くらいに挿絵つきの物語を書きはじめて、3年生くらいのときに大学ノート一冊分くらいの勧善懲悪的な物語を書いてたのは憶えてます。子供向けの賞にも応募したことあったような。中学生のときは音楽の感想を書くブログに熱中してて、高校生のときは今もたまに更新してるはてなブログで書いたり、掌編を書きかけては筆を投げたりしてました(笑)。大学に入ってからも、気づいたらtumblerやGoogleドキュメントやノートに文章を書いてて、なんか書こうと思って書くよりは気づいたら書いてる(書かないとやってられない)って感じで、それこそわりと受動的な部分や習慣の部分が多いと思います。ZINEは大学に入る前から出してみたいと思ってたんですが、なかなかまとまった文章を書けずにいて、最後のひと押しをしてくださったのは他ならぬ土井さんです!
〔土井〕え、ほんまに!なんにせよLEOちゃんの文章が世に出るきっかけになれたんやったら、素直に嬉しいわ。それにしても小学校低学年から物語を書いてたというのはすごいな。僕は二十歳のときが最初で、司馬遼太郎の『燃えよ剣』をまんまギャングの抗争に置き換えた内容で(笑)。いま思い返してみてもほんまに恥ずかしい!でもその恥ずかしさの先にしかいまの自分の作品はなかったなぁとは思う。そういう意味でも勧善懲悪の物語を経た、いまのLEOちゃんが書いた小説を読んでみたいな。エッセイや日記はもちろん素晴らしいけど、僕はやっぱり根本的に「嘘」が好きやから、あなたの「嘘」つまり小説が読んでみたい。そう言えばLEOちゃんとはじめて会ったときに別役実の『ベケットといじめ』という本をオススメしてくれたやん。後に僕がイジメ体験者であることを知って、めっちゃ気にしてくれてて、ええ子やなって思ってん(笑)。あの本のなかで中野富士見中学で起きた「葬式ごっこ事件」を題材に、自殺した被害者も含めてあそこに関わった全員が何らかの役割を演じていたという指摘があったけど、いまでいう同調圧力、それかやっぱりドゥルーズの機械云々がふたたび頭をよぎる。まさにLEOちゃんの言う「箱のなかに勝手に分類される」感じで、そういうのは決して珍しいことじゃない。むしろいまを生きる者みんなが何かしらの役柄を演じてると言えなくもないし、ちょっとゾッとするよね。そう言えばLEOちゃんは『ベケットといじめ』の解説を書いていた宮沢章夫さんの演劇に役者として関わったことがあるんやろ?そのときのこと詳しく教えてほしいな。
〔LEO〕いや〜話したことに対してこんな熱量で返してもらえるのに「インタビュー」って、改めてすごいです(笑)。初めに書いたのがギャングの抗争やったんや、面白い!「その恥ずかしさの先にしかいまの自分の作品はない」ってほんまに間違いないですね。まぁ自分はまだ青二才なので、今も恥を塗り重ねてる最中ですけれども(笑)。小説、実はまさに一昨日書きはじめたところです。今回2作目のZINEを出してみて、いわゆるエッセイの形では今自分が書きたいことを表現するには限界があるなと感じて。それで、題材は現実からとるにしても、嘘の物語を書いてみようと思いました。「ベケットといじめ」のその指摘は本当にぞっとするところですよね。個々の人間の強い意志や悪意じゃなくて、場の雰囲気が人々に演じさせ、死にまで追いやるという。演劇については、当時はあまりピンとこなかったというのが正直なところでした。でも今の話でいうと、ちょうど先生の演劇に出る前に、友人が主宰してる劇団のワークショップで「目の前の相手を馬鹿にする」という演技をしたときに、普段とは違う強い言葉や嘲りの語調が自分の上に現れてきたのはびっくりしました。「役を演じる」というのは、それほど力のある怖い行為なんやと思います。「ゴドーを待ちながら」では、少年の役だったんですが、「わざと演じようとしなくていい」と言われていたので、演じるという感覚はあまりなかったし、思わず感情移入するような話でもないので、台詞をどんな風に言うべきか迷ってました。ご期待に沿えず申し訳ないのですが、実は当時の稽古のことよりも、帰ったらなんか焦りながら新書を読んでたことの方をよく憶えてます(笑)。当時はわかりやすく言葉の形で手に入るもの(知識)だけが価値あるものやと思ってて。小説という表現や、役者の人が身体に蓄えてきたものの豊かさとかに、全然思い及んでなかったです。教授としての宮沢章夫に5年も習ってやっと、価値あるものは世界のどこにでも遍在してるんやということに気づけました(笑)。先生は、街をフィールドワークさせたり、好きなものについてプレゼンさせたり、昔の映像を見せたり音楽を聴かせたりと、いわゆる「学問」的なアプローチではない授業をやっていました。それを勘違いして「楽単(単位をとりやすい楽な授業)」として舐めた態度で授業を受けてる学生も多かったですが、実際のところ受け身でも何かが身につくように親切に教えてくれるわけではなくて、街をフィールドワークする授業では、自分で実際に歩くことでしか見つけられない視点を得てきたかというところを厳しく見ていました。印象的だったのは、ただ通行人が新宿の駅前を歩いてるだけの映像を3分間くらい見せたあとに、先生ひとりが「面白いよねぇ」と笑っていたことで、このニュアンス伝わるかわかりませんが、この人は皆に全然見えてないものが見えるんやなと(笑)。
〔土井〕めちゃくちゃ興味深い話がいっぱいなだれ込んできた(笑)!LEOちゃんの小説、それはヤバい、楽しみすぎる。日記専門店「日記屋 月日」でディレクターをしている蟹の親子さんともよくこの話をするねんけど、やっぱり僕らは「ほんまもんの嘘」を肯定できなくなったら終わりやと思うねん。いまはどちらかと言えば「嘘」は「フェイク」と貶されて、「ほんま」は「リアル」だと厚遇される。僕はどうしてもそういう価値観とは相性が悪い。本来フェイクかリアルかみたいな単純な二項対立からは逃れたところに小説の「語り」はあると思うねん。せやから「あの登場人物のモデルは誰ですか?」とか聞かれても返答に困ってしまう(笑)。「目の前の相手を馬鹿にする」ワークショップの話もめっちゃおもろいな。そこでLEOちゃんの脳みそに降りてきた罵詈雑言の数々……どんな感じやったんやろ、想像でけへん(笑)。『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーもまさに同じような境地に立ったんとちゃうかな?ふとしたきっかけで自分のなかの底なしの悪意に気がついてしまうことはある。たまたまレジャーはそこから戻ってこれなくなったのかもしれへん。僕は『ダークナイト』が大好きなんやけど、何が凄いってジョーカーが自身の口が裂けた原因を語る場面で、あるときは「親父のせいでこうなった」と言い、また別のあるときは「妻のせいでこうなった」とか言うねん。めちゃくちゃ怖いやん。しかも最後まで明確な根拠が提示されないままに映画は終わる。「何らかの要因があって、こうなった」というのは、あらゆる物語にとって逃れ難きテンプレートやと思うけど、ジョーカーにはそれがない。すべては突発的に、因果関係なしに起こり得る。笑い飯の漫才にも優しいおばあちゃんが自分の畑の土から出てきたモグラをスコップで叩き殺す、みたいなネタ(哲夫が披露した「すべらない話」かもしれない)があったような気がするねんけど、ああいうのが一番怖い(笑)。ある種の物語に依存している人たちは何でもかんでも原因があって結果が生ずることを求めるけど、実際は人間ってそんなにわかりやすいものでもないやん。恨みとかなくても笑いながら人を刺す奴も絶対おるで。例えば自分の作品でいうと『JAGUAR』の終盤で前後の脈絡なく唐突に「常温でも冬場なら五日、夏場なら二日は日持ちしますよ」みたいな語りが出てくるねんけど、あれはほんまに自分でもわけがわからない(笑)。なんのこっちゃさっぱりやで。でも日常生活においては別に珍しいことでもなく、普通に歩いていても突然色んな言葉や考えが降って湧いては消えていくやろ。だからあのまま残してん。なんかLEOちゃんの話を聞いていると、宮沢章夫さんは講義や演劇を通じて学生たちにそういうことを伝えたかったんちゃうかなぁって思うわ。そ��そう、あとあなたを見ていていつもハッとするのが印象的なファッション。すごく似合っているし、魅力的やと思うねんけど、あの独特のファッションは自分なりに考えがあってのことなん?
〔LEO〕「フェイクかリアルかみたいな単純な二項対立からは逃れたところに小説の『語り』はある」っていうの、ほんまにそうですね。小説のなかは独自のルールで動いてる一個の世界で、どんなに現実っぽい見た目してても現実ではないから、それを現実の物差しで測ってリアルか否かを問うのはなんか違うなと思います。その映画は知らなかったんですが、毎回別の説明するのめっちゃ怖いですね(笑)。宮沢先生は演劇も笑いもいわゆる「不条理」��感じなので、近いと思います。因果関係については、小説書きはじめてみてもう早速ぶつかってる壁です。いや、読んでる側のときはなんでもかんでも因果関係で解明しようとする読みはつまらんのちゃうかと思ってました。例えば、夏目漱石の「こころ」でなんで先生やKが死んだのか?みたいな問いって、物事の因果関係の層で片付く問題じゃないと思ってて、仮にあれが個別の具体的な人間に抽象的な概念を象徴させてる話なんやとしたら、そこで出来事だけ追って説明しようとするのってナンセンスやんと思ったり。でもいざ書こうとしてみると、なかなか因果関係から逃れるのって難しいですね。「すべては突発的に、因果関係なしに起こり得る」っていう土井さんの捉え方は、もしかしたら他者の捉え方を反映してるのかなって思いました。tumblerの記事とか読ませてもらってても、勝手に合理的な説明を作って納得しようとしたりするよりかは、他人は他人でわからんもんやって大前提がある気がして、清々しいなと思います。ひとが皆、自分が理解できるような形で自分の行動の意図を説明してくれるわけじゃないですもんね。ファッションは自分なりに気を遣ってるところではあります。顔が地味やから、せめて服だけでも派手にしよう、みたいな(笑)。でもZINEでも書いたみたいに、本来の自分を「粉飾」してる感覚で、つい服を買ってしまうけど、常に微妙な引っかかりがある。真剣に服が好きな人とは対立する価値観やと思うんですけど、服(やメイク)って所詮は見た目のところでしかなくて、本当に大事なものは精神のところにあるんやとも思ってて。だから、いつか坊主にして毎日同じ黒のシンプルな上下を着るみたいな日々を送れたらなとも思うんですけど、なかなか踏ん切りがつかないでいます。
〔土井〕嫌や!LEOちゃんが坊主の黒服は何でか知らんけど嫌や(笑)、ってこれも勝手な理想の押しつけやねんなぁ。ほんますんません。うちの奥さんもたまに「坊主にしたい」とか言うときがあって「嫌や」って言うたら「自分は私が嫌やって言うてもタトゥー彫ってるやん」って怒られる(笑)。人間って自分勝手やな。ファッションに関連した話で、今年の8月に大阪の音楽イベントに出演した韓国のDJ SODAさんが性被害を受けた事件があったやん。DJ SODAさんの身体に故意的に触れた奴が「あかんことをした」というのは大前提にして、僕はあのDJ SODAさんのファッションやセックスアピールと誤解されても仕方がないようなジェスチャーがとても怖い。彼女は「私は服を選ぶ時、自己満足で着たい服を着ているし、どの服を着れば自分が綺麗に見えるかをよく知っているし、その服を着る事で自分の自信になる」と言うていたけど、やっぱりそれを目の当たりにすることによって気まずさを抱える人間や、性的に興奮してしまう人間がいることも頭の片隅に置いとかないとあかんと思う。もっと言えば、彼女が派手なメイクや衣装で自身のスタイルの良さを際立たせれば際立たせるほどに、別のタイプの女性に劣等感を抱かせはしないか?僕はやっぱり筋骨隆々な男を見るのが苦手で、なんとなく目を背けてしまう。でも街中には肉体美をこれみよがしに見せつける看板を掲げたジムがどんどんできて、筋肉バカが量産される、あっ、さすがに言い過ぎた(笑)。これは僕の偏見に満ちた感想なんやけど、男女問わずキラキラした連中って、すぐに群れるし、意識的であるにせよそうでないにせよ他を排除しようとするやん。あいつイケてない、キモいとか言って。DJ SODAさんたちのようなポップアイコンの無自覚な言動が世の中に優劣の基準を植え付けて、新たな弱者を生んでるような気がしてならへん。まぁ、だからって胸を触る行為が許される訳ないし、そんな奴はどつかれたらええねん、とは思うけど(笑)。とにかく一般的に言われる強者、弱者という区分には違和感しかなくて、それは常に変動するものやし、それぞれの局面によっても変わってくる問題やからね。スーパー銭湯やホテルが刺青やタトゥーを禁止にしてるところが多いけど、僕は仕方のないことやと思う。入浴のわずかな時間に刺青だらけの奴の人間性なんか知ったこっちゃないし、ほんまは優しくて良い奴やねんとか言われても、見た目には威圧感しかないから。LEOちゃんは同性の立場からDJ SODAさんのことはどう捉えてる?
(LEO〕そうですね……。それほど詳しくないですが、現代らしい出来事やなとは思ってて、自分のなかでもいろんな考えが交差してます。DJ SODAさん個人に対して思うことは特にないですが、その人に限らず、自分を綺麗に見せたいという欲望や見た目を通して自信を得るというあり方を正々堂々と公言する風潮には違和感を感じますね。それは必ずしも社会の大多数が肯定すべき「潔白」で「正しい」価値観ではないはずです。そもそも「美しさ」は必ず「醜さ」を前提としていて、美しくあろうとすることは、他者よりも優位の場所にいたいという薄汚い欲望が剥き出しになってるあり方だと思うので。土井さんの言うように、実際にそういうものを見て、性的な興奮や気まずさを感じる人も居るわけですし、決して手放しにいいね!ってなるようなものではないと思います。と言ってみて、自分が服を買うときに感じる後ろめたさの理由がさらに明確になりました笑 つまり、自分もアプローチは違えどDJ SODAさんなんですよね。ただ自分としては、自己満足でやってるというのを、「自分が好きで能動的に選んでる」という意味で捉えてるので、他者にどう思われるか・どう扱われるかというところまで受け入れなあかんとは思っています。いや正味なところ腹がチラッと見えるような服を着てるからって腹触られたらキレてしまいます、でも腹を見せる服を着ることで自分は何を表現しようとしてるのか?って考えたら、ほんまに後ろめたい汚れた答えしか出てきません。「腹を見せるのは自分のスタイルが良いのを誇示したいから」→「スタイルの良し悪しは自分の努力で決まったわけではない」→「ほとんどただの遺伝要因にすぎない要素を自分のものかのように誇示してるのはさすがにダサすぎる」→「でもこの服を着ると自分の気分も上がるし」→「その『気分の上がり』は詰まるところ優越感だよな」→「いやでも実際これを着ていくと評判もいい」→「その『評判』に何の価値がある?」…みたいな問答を繰り返しながら、結局のところ快楽に溺れてる情けない人間です。そういう「屈託」(グレーゾーン)の部分をどんどん取り払って、ポジティブを装っていくような風潮があまり良いとは思えないですね。お風呂のタトゥーは少し違う部分もあるけど、威圧感を感じてしまう他者がいるという点では似てますね。
〔土井〕そうやなぁ、タトゥーも含めてファッションってほんまに難しいよね。そこにはやっぱり今回の僕らの話の裏テーマ的にもなってる能動的か受動的かという話と切り離せない問題やと思うし、そこには確実に実在しない何者かによる「まなざし」がべったりと貼り付いてる。ちなみにほんまの余談なんやけど、いまや作業着も私服もまったく同じで毎日同じ服装しかせえへん僕も、実は服飾専門学校に通ってた時期があって、結局なんぼやってもまつり縫いができへんくて早々に中退してん。ほんまこれどうでもええ話やったわ(笑)。とにかく今回のインタビューで気がついたことがあって、LEOちゃんのなかにも男性性があるし、僕のなかにも女性性があるということ。それが順繰り自分でも気がつかないうちに小刻みに切り替えが行われてるんちゃうかな。だから自分の行動や考えにも常に違和感がつきまとう。さっきようやくその結論にたどり着いた自分はもはやいまの自分ではないから、どうやってその結論に至ったのか、いまとなっては到底わかわからない、みたいな(笑)。その果てなき違和感に決着をつける術が僕の場合は小説なのかもしれへん。決着というか、違和感を違和感のまま提示できる裏ワザのようなもんかな。生きてたら矛盾だらけやけど、その矛盾をそのまま置いてみたり、別の角度から眺めてみたり、転がしてみたり、味見してみたりできるのが小説やな。さっきのファッションに関するLEOちゃんの問答なんて、すでにめちゃくちゃ小説的やと思うねん。小説って何も起承転結があって、ある地点で発生した問題を最終地点に送り届けて解決することが目的ではなくて、語りそのものの躍動こそが本来の醍醐味やと思うから。俗にいう解決しない物語は、独りよがりな問答から始まる。だからやっぱり僕はこれからあなたが書き上げるであろう「嘘」が楽しみで仕方ない。今回は色々と突っ込んだ話ができてほんまに楽しかった。そもそも関東から関西に戻って来たばかりで仕事も執筆活動も大変なときに時間を割いてくれてありがとう。そんなわけで最後の質問、いまのLEOちゃんの最大の楽しみは何ですか?それが聞きたい。過日Gerald MitchellのDJで踊るあなたはめちゃくちゃ楽しそうやった!
〔LEO〕なるほど……面白いです。自分のことだからって自分で全て把握してるわけでもないんでしょうね。自分(私)は把握できてると思い込んでたけど、それこそ小説を書きはじめてから深層心��を掘り返すような作業に早速飲まれてて、全然把握できてないことを思い知らされました(笑)。小説って面白いですね。いまは書き急がず、もっといろんなものを読んでみようと思ってます。最大の楽しみ!確かに音楽を聴くのはとても好きですが、最大と言われるととても難しい(笑)。若干ズレてて恐縮ですが、布団でまどろんでるときと良い夢をみてるときが一番幸せですかね。最後こんなんですみません、こちらこそ貴重な機会をほんまにありがとうございました。今後は自分が土井さんを個人的に質問攻めにさせてください。この長いインタビューを読んでくださった方もありがとうございました!
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放下に売り渡した意志
オレに関しては状況に好転の兆しは無い。立場的は、いつもの定位置、つまり無位無冠無役の座を確固たるものとしている。
とはいえ、勿論それらについて改善しようとか、どうにかしようとする努力は行っていない。なぜって、どうせ無駄だからだ。いつも通り後悔しながらただそのまま受け入れる、たったそれだけの単純にして最速、最も簡単な解決方法を遂行するのが人生だと思っている。
余談だが入院している父は、少し体調が落ち着いた時を見計らって延期されていた手術を何とか行えたらしい。手術は当初想定より難航した様だが一応は完了し、その甲斐あってか最悪の時期より体調に改善傾向が伺える。あと1回手術が必要なのと、その後もリハビリが必須だがひとまず父は直近の危機を脱したと見ている。
とはいえ、幾らリハビリが首尾良く運んでも要介護になる可能性は高い。オレは無能かつ、最底辺、そして極めつけの悪党だが、幸い身体能力だけは高めなので力仕事は特に問題無い。あとコミュニケーションが苦手なオレとしては喪主とかやりたくないので、その点でも胸を撫で下ろしている。
父に関して言えるのは「なるようにしかならないし、なるようになる。死んでいない内は生きなさい」に尽きる。
実際今回オレは何もしなかったに等しい。ただ風向きが変わるのを待っていただけ。だから風向きが変わらない可能性も十分有った。しかし人間には限界が有り、全ての物事を手中には出来ない。その上生活を継続し、成立せしめる為にはどこかで「解決」を投げ出し、どうとでも解釈出来る都合の良い論理を使って辻褄合わせをする放下が必要になる。動物なんて大抵そういうもの。誰にしても自分にしても。
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【240407編集しました】 当初はベタ打ちの記事でしたが、あまりにも可読性が低いので見出しに記法を用いました。 今見返すと修正したいところは多々あるのですが、明らかな誤記(退学届→退部届)の修正、追記日付の補記を除き、情報が陳腐化している箇所なども含め、そのままにしています。 スポーツ推薦で高校に行く人がどれくらいいるか知らないが、行ったはいいけど馴染めない、中退して想定していたルートから脱落する、最悪の場合自ら命を絶ってしまうという人は(残念ながら)少なからずいる。 私もスポーツ推薦で高校に行った。 中学へスカウトにきた顧問は、週に1日は休み、練習も平日は2時間、勉学の時間も大事にする、著名な大学にも推薦で行けると熱弁した。 私は技量はあったが体力がなく、すぐ高熱をだすようなひ弱な中学生だった。スポーツ推薦なんか到底無理と思っていたが、休みがあるなら、その先があるなら、三年間だけ頑張ってみようと決意した。 結局のところ、顧問の説明は全て嘘で、三年間がんばった先輩たちは浪人か就職で、推薦で大学に行くのは極めて少数、かつ、いずれも著名とは言い難いところだった。 それでも、しばらくは頑張った。もがいた。40度の熱を出しながら罰走を走らされ倒れた。水を被ってまた走った。自分の決断と、それを支持した親の思いを無碍にしたくなかったからだ。 だが、夏頃に怪我で数日通院し、練習に出られなかったことをきっかけに上��生による苛烈なイジメまで始まった。 大学に行きたかったので、高校は辞めるわけにいかない、と私は思っていたが、あの恐ろしい部室に行くと思うだけで、ボロボロと涙が溢れ始める。 夏休み明け、糸が切れたように不登校になった。 推薦で取った生徒の不登校というのは、顧問には痛手らしい。手をかけ品を変え、顧問から登校するよう連絡があった。それでも私が応じないと、両親揃って呼び出され、強い口調での退学勧奨を受けた。 子の不登校に加えて、顧問による叱責がよほど強いストレスだったのだろう。両親まで懇願するように、それが受け入れられないと怒鳴り声をあげて退学を求め始めた。この世に味方はいないのかと絶望した。 が、結局のところ、私は図々しくも高校を卒業した。部活も半分以上ボイコットした。そして大学に通い、やりたかった仕事に就いた。 今思えば辞めても大検を取れば良いだけだったのだが、大人の不当な圧力に負けなかったという経験は、今でも自分を支えているように思う。 数は少ないかもしれないが、同じようにスポーツ推薦で進学するも、クラスや部活に馴染めなかった方と、その親御さんのためになればと、私の経験を書き残しておく。 なお、なるべくなら普通に通学して部活やって卒業した方がいいに決まっている。 それができない我々のための話と思ってほしい。 大学には行きたいなら大検でもいい 大検はそんなに難しい試験ではないが、履歴書に卒業高校が書けないのが嫌なら、なんとかして卒業を目指すことになる。 こだわりがないなら大検とって大学に行けばいい。 卒業したいなら単位はとる 卒業には単位が必要で、単位取得には出席とテストでのスコアが必要になる。 だが、毎日真面目に通う必要はない。 欠席、早退、遅刻の日数を管理しながら授業に出ればいい。 テストのほうは、まあ、頑張って取るしかない。こういう所を読むくらいの「ナード」なあなたなら、スポーツ学級向けの試験で赤点を回避するくらいはなんとかなると思うが、どうでしょう。 クラスで浮いてしまうのは仕方ないと割り切るしかない。授業が始まれば別に気にする必要はないし、休み時間は寝ればいい。だって眠いでしょ? 単位はなんとかなる。では、部活はどうしたらいいのか? 「退部=退学」を信じない 行かなきゃいいのだ。授業に出て、終わったら帰る。 スポーツ推薦入学者は、部活を辞めることはイコール退学だとよく言われる。実際、そういう前提での退学勧奨が横行している。それに応じる人も多い。本人が納得できるなら、それも別に間違いではない。 でも、そんな約束はどんな書類にも書いていないはずだ。 あなたは正当に入学し、保護者は学費を納めている。あなたの進路はあなたが決められる。退学勧奨はあるだろうが、応じる必要はない。 (もし、念書とかを書かされていたのならごめんなさい。でも、そんな念書有効なのかなぁ。) そして、部活に行かないこと���やめたことを理由とする退学処分なんて、通常なら出しようがないはずだ。ナードなあなたは暴力を振るうことはないし、成績も悪くない。わざわざ制服でタバコを吸うこともない。 生徒手帳を開いて校則を読もう。あなたならちゃんと読み取れる。なにか退学に値することをあなたはしているか?していないはずだ。 とはいえ、退部届を出すのはポイントオブノーリターンを超えてしまう。私は退部届けは出さず、部活に出ないに留めた。 時折顧問に呼び出されたが「いじめがあるなか部活には行けません。すみません。」ということを述べ続けた。 顧問はいじめがあること自体を認めたくないので解決に動くこともしない。なので、一生平行線だ。 あなたが学校に行けない状態なら、少なからず精神的にダメージがあるといえる。心療内科などで相談して、その結果を伝えるのも一考と思う。 もし、やりとりのなかで、あまりにも酷いことを言われたら日時とともに覚えておくこと。それはあなたの自尊心を大きく傷つける表現かもしれないが、受け止める必要は一切ない。相手の不当性を立証する強力な武器になるのだから、内心喜んでもいい。 呼び出されたときに一番怖いのは密室での暴力だろう。 顧問はすぐに手を出す人間だったが、私は幸い暴力は受けなかった。ポイントは、表面上反抗しないこと。 無抵抗で頭を下げる人間を一方的に殴っちゃまずい、という計算を大人はしている。クソ野郎ほど損得計算した上で手を出しているのだ。 賢いあなたは内心、大人をバカにしまくっているだろうが、それは心の内にとどめておこう。 万が一、暴力を振るわれるようなことがあれば、それは警察に届け出ていい。仮にあなたの態度が反抗的であっても罪は罪だ。 引退後 多くの部活は3年の夏頃には引退なので、そこまでいけば逃げ切り。あとは高校生活満喫してやろう。 暇なら部活と同じスポーツを部活以外でやってもいい。部活じゃないから声出しを強いられることも、ミスを咎められてランニングさせられることもない。 個人的なオススメは大学に行く準備をすること。 大学は相応の学力があれば入れる。内申点は関係ない。顧問の権力は全く届かない。 大学では、ちゃんと勉強しておくとよい。案外、飯の種を拾えることがある。捻くれ人間のあなたと馬の合う、もっと捻くれた人間がたくさんいる。楽しいですよ。 そんなんで人生大丈夫なのか? もしあなたが部活をサボれば、顧問は「そんなんでは社会でやっていけない」「人間失格」など言いたい放題いうだろう。言われ続けるとそんな気もしてくるかもしれない。 けど、大丈夫です。私はいま、普通に暮らしている。なんなら、十分恵まれた生活を送れているくらいだ。 正直、一部のブラック企業を除けば、イかれた高校の部活のほうが「社会」よりよっぽど理不尽だ。認めたくはないが、部活で地獄を見た分、多少のことには動じない。それは一つの強みになっている。 あなたも、実はすでに一般人の平均よりも理不尽耐性が育まれ��いるし、一度は推薦を受けるだけの身体能力ないし学習能力があり、こんな長文も読みこなせるのだから、世間からみれば優秀な人材だったりする。 あなたは社会に通用しないわけではない。むしろ活躍の機会があると思っていい。 それから、一度逃げたら逃げぐせがつく、みたいな言説もあるが、逃げぐせ、結構じゃないですか。私は激務で殺されかけたこともあったが、逃げぐせのおかげで死なずに済んだ。より良いポジションをとれた。適切なときに自分を守れるのは恥でもなんでもない。 一度死んで死にぐせがつくよりいいんじゃないですか。 最後に 小学校、中学、高校とくると、高校が世界のすべてのように感じるし、高校でうまくいかないと人生の全てがうまくいかないように感じる。私はそうだった。 でも、実際は高校なんて人生のごく一部にすぎない。思い出せば色々あるが、思い出すこと自体少ない。どうでもいいんですよ。 あなたが真っ当に部活に出なくなると、顧問をはじめ、高校側はあなたに対して色々言ってくる。でも、高校は別にあなたの人生に責任を全うするために何かを言っているわけじゃない。向こうは向こうの都合があり、そのためにあなたを退学させたり登校させたりしたいだけなのだ。 ならば、あなたはあなたの都合で行動したっていい。 正直、イージーではない。同級生に蔑まれたり、恨まれたりすることもあるだろうし、親の協力も得られないかもしれない。 でも、騙されたとはいえ自分で選んじゃった道なので、まあうまくやるしかない。何度も言うけど、高校の知り合いなんか一生会わないこともできるから、適当でもいい。 なんにせよ、スポーツ推薦が体に合わなかった人は、大変だけど、とにかく死なないことは徹底してほしい。 死ぬことに比べれば、一瞬しか関わりのない人間に嫌われるのなど無傷に等しい。常にいい人でいる必要はないんだから、高校時代まるまる、いい人を封印したっていい。 あなたの善性はイかれた部室の中でではなく、将来出会う真っ当な環境で、真っ当な仲間に対して発揮すればいい。今は図々しくあれ。サバイブすることに全力を傾けていい。頼れそうなら親に頼れ。高校と関係ない友達を大事にしろ。 健闘を祈る。 親御さんへ お子さんの状況に心を痛めているのではないかと思います。��うようにいかない毎日に強いストレスを感じていることでしょう。 私も今は二人の子の父親です。親御さんのお気持ちも今となっては察することができているつもりです。 大変ななか心苦しいのですが、ひとつだけお願いがあります。お子さんの人格や将来を否定するような言葉だけは止めてください。 私はいま、十分に幸せな生活を送っていますが、不登校時代、高校を辞めさせたくなった父が絶叫した「お前の人生はもう終わってんだよ!」という言葉が忘れられません。 私が学校に行けず、さりとて辞めることもできなかったのは、私自身が人生をどう打開すべきか、悩み続けていたからです。 そんなことを知ってか知らず投げつけられたその言葉はかなりのショックでした。親に叱られることこそあれ、将来を否定されることなど想定もしていなかったからです。 私は全くの無意識に「いつか必ずお前を殺す」と口走りました。 口から出た言葉が己の耳に入った瞬間、私は後悔しましたが、謝罪なり撤回なりの言葉を紡ぐ前に、父は「おう、そうしろよ!やってみろよ!もうとっくにお前は終わってんだよ!」と叫び続けました。 私のなかで父への信頼、敬愛が全く失われたことをよく覚えています。 このやり取りを思い出すたび、未だに激しい怒りに身を任せそうになります。 子供を連れて実家に帰るとき、父は人生が終わったはずの息子が連れてきた孫を心から歓迎して、膝に乗せておしゃべりをしています。 父の心底幸せそうな顔を見ると、今この瞬間、父を殴りつけてあのやり取りを思い出させ、徹底的に謝らせて、痛めつけた挙句に殺めれば、いくらか救われるだろうと思う自分がいます。 こんな頭のおかしな妄想に浸りたくはありません。 しかし、父の笑顔を見るたびに、お前のいうとおりにしてやるよ、と告げたくなるのです。おそらく、私は父が死ぬまで、父を殺す機会をうかがい続けることでしょう。 父と会わなければよいわけでもないのです。 子供たちはしょうもない私に対して無償の愛を向けてくれます。この子達のように率直に父を愛せたのならどれだけ気楽だったのだろうと考えてしまいます。そして、あの日の怒りを思い出してしまうのです。 ベビーベッド、バウンサー、公園の砂場、保育園の帰り道、アイスを食べながら休むベンチ、初めてのランドセル。幸せに満ちているはずの至る所に父への殺意が頭を顔を覗かせるのです。 そして、いずれ私自身が父のように、子供を否定する日が来るのかもしれないと怯え続けています。 結局のところ、私の傷は社会に受け入れられても癒えることがありませんでした。20年近く前の親の一言で、私の人生の一部は壊れてしまっているのです。 親も人である以上、感情も衝動もあります。 しかしながら、どうか、どうか、お子様の人格と将来を否定しないでください。 長文、乱筆失礼しました。 以下追記(240405) (なんかうまくいかず、再投稿してしまっていたようです、ごめんなさい。こちらに改めて記載します。) このような長文、悪文にも関わらず、想定を遥かに超える反応をいただき、驚いています。読んでくださった皆様、ありがとうございます。 疑問点もあると思いますが、身バレはしたくないのでこれ以上の説明は避けます。 スポーツ推薦で入ってもサボれば大丈夫? 温かいコメントや反応が多いことはとても嬉しいのですが、想定外でした。 ここまで好意的な意見が多いと、私の手法がみんなに支持される、定石や必勝法のように思う人(特に危険なのは中学三年生)が出てくるのではないかと、少し不安になってきました。 その点について、もう少し書かせてください。 私の対応はあくまで緊急避難であって正攻法ではありません。私のパーソナリティ、顧問の間抜けさ、高校の意外な寛大さが合わさったという偶然の部分が大いにあります。 また、同じようにスポーツ推薦で入学し、日々理不尽と闘う同級生、先輩後輩からすれば、私のような立ち回りをする奴は完全なクソです。皆さんが顧問に対して抱いてくださった反感と似たような感情をぶつけられる対象になるのが普通です。 必勝法でもなければ、周囲に褒められるやり方でもないのです。 「とりあえずスポーツで行って、ダメならサボればいいか」というのは絶対にやめたほうがいいです。実力で行ける高校に行きましょう。 もしあなたが極限状態にあるなら、私は何度でも「自分本位と言われてもいいからサバイブしてね」と伝えます。これは全くの本音です。大人に迷惑をかけてもいい。生きましょう。一般社会より厳しい世界をあなたは知っている。あなたは人に優しくなれる。あなたの優しさを、まともな世界にまで運びましょう。 でも、あなたがまだ選択の余地を残しているのであれば、最初からこんなことを狙っちゃダメだ。 父とのこと ここで文章にしたことで、少し整理ができた部分があります。 愚かで幼稚な父のために、私と子供達の幸せが犠牲になるなんて絶対におかしい。 高校時代の出来事など、人生のうちの一瞬のことに過ぎない。俺自身、そう書いたではないか。 許すことはできなくても、忘れること、思い出さないことは努力できるんじゃないか。 というところです。話し合いは正直怖いんですよ。年老いた父は幼い孫たちには優しいですが、母や私のきょうだいにはますます頑迷になっていて、本当に手をかける結果になりかねない。 もう一度、最後に 心配してくださったみなさん、労ってくれたみなさん、本当にありがとうございます。 この文章が、必要とする人に届いて、悩む学生さんが希望する進路へ進む契機や、良好な親子関係の構築の一助になれたとすれば、これに勝る喜びはありません。
スポーツ推薦で入学したけど失敗したな、という人と、その親御さんへ
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TEDにて
ヴィージェイ・クーマー :自律的に協力し合う飛行ロボット
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
アメリカのペンシルベニア大学のヴィージェイ・クーマーの研究室で開発しているクワッドローター型の小さく敏捷(びんしょう)な飛行ロボットは、自律的に集合を作り
お互いの存在をカメラで認識し臨機応変にチームを組んで、建設や災害時の初動調査やその他様々なことをこなします。
コンピューター制御の方法は、12次元に及ぶ複雑な計算を驚くべきことに、4次元の最小スナップ軌道に変換する計算に置き換えて、しかも!、内部の高速なCPUを処理させていくことで軌道���リアルタイムで、微修正していきます。
他に、リアルタイムな高速なセンサーフィードバック技術リアルタイムな高速なモーションキャプチャー技術も導入しています。
最後には、映画007のテーマソングを自律的なロボットが自動演奏してくれます!
私が、今、手にしているロボットは、私の学生アレックスとダニエルが作ったものです。重さは、50グラムほど消費電力は15ワットで見ての通り、直径20センチほどの大きさです。
このようなロボットの仕組みを簡単にご説明しましょ。4つのローターが、すべて同じ速さで回っているとき、ロボットは空中で静止します。
4つのローターの回転速度を上げると上に加速し上昇します。ロボットが傾いていれば、当然、その傾いた方向に進むことになります。ロボットを傾けるには2つの方法があります。
この写真で4番ローターは速く。2番ローターは遅く回っています。そうするとロボットを「ローリング」させる力が働きます。一方、3番ローターの回転を速く。
1番ローターの回転を遅くするとロボットは手前側に「ピッチング」します。最後に、向かい合った2つのローターを他の2つより、速く回転させると垂直軸を中心に「ヨーイング」します。
オンボードプロセッサは、行うべき動作に対して必要となるこれらの方法の組み合わせを求め、モーターに対して毎秒600回送る命令を決めています。それがこの基本的な仕組みです。
この設計が有利な点は、サイズを小さくするほど、ロボットの動きが敏捷になることです。ここで、Rはロボットの大きさを表す数字で実際には半径です。Rを小さくすると様々な物理的パラメータが変わります。
中でも一番重要なのは、慣性。すなわち動きに対する抵抗力です。回転運動を支配する慣性の大きさは、Rの5乗に比例します。
ですから、Rを小さくすると慣性は劇的に減るのです。結果として、ここでギリシャ文字のαで表している角加速度は1/Rになります。Rに反比例するのです。
小さくするほど速く回ることができるようになります。このようなロボットを作る理由は何かというと多くの平和的な応用があるからです。
自律的なロボットが、解決すべき基本的な問題は、1つの地点から別の地点へ移動する方法を見出すということです。これが簡単でないのは、このロボットの力学的特性が極めて複雑なためです。
実際、12次元空間で考える必要があり、そのためちょっとしたトリックを使って曲がった12次元空間を平らな4次元空間に変換しています。その4次元空間は、X、Y、Z座標とヨー角からなっています。
そうするとロボットがするのは、最小スナップ軌道を求���るということになります。物理学のおさらいですが、位置の変化を微分していくと速度、加速度、ジャーク、スナップとなります。
このロボットは、スナップを最小化するようになっています。それは、結果としてなめらかできれいな動作を生み出すことになります。
また、障害物の回避も行います。この平らな空間における最小スナップ軌道を 複雑な12次元空間へと逆変換して、それによって制御や動作の実行をするわけです。
MITの物理学者であり、AIの研究者であるマックス・テグマークの言うように・・・
ロケットの話と似ていて技術が単に強力になれば良いというものではなく、もし、本当に野心的になろうとするなら、コントロールの仕方と、どこへ向かうべきかも理解しないといけません。
エリエゼル・ユドカウスキーが、「友好的なAI」と呼ぶものです。そして、これができれば素晴らしいことでしょう。病気、貧困、犯罪など苦痛というマイナスの経験を無くすことができるだけではなく、様々な新しいプラスの経験から、選択する自由を与えてくれるかもしれません。
そうなれば、私たちは自分の手で運命を決められるのです。そして、準備がないままにつまづきながらアジャイル(=機敏さ)で進んで行くとおそらく人類史上最大の間違いとなるでしょう。
それは認めるべきです。冷酷な全世界的独裁政権が可能になり、前代未聞の差別、監視社会と苦しみが産まれ、さらに、人類の絶滅さえ起こるかもしれません。
しかし、注意深くコントロールすれば、誰もが裕福になれる素晴らしい未来にたどり着くかもしれません。貧乏人は、金持ちにより近づき、金持ちはさらに金持ちになり、みんなが健康で夢を追い求めながら自由に人生を送れることでしょう。
その他に、行政府自身が社会システム全体の資源配分の効率化を目的とする保証はないため政治家や官僚は自らの私的利益のために行動を歪め、市場の失敗を矯正するどころか資源配分をより非効率にする可能性すらあります。
続いて
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲���側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
法人は潰れることを前提にした有限責任! 慈愛や基本的人権を根本とした社会システムの中の保護されなければならない小企業や個人レベルでは、違いますが・・・
こういう新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいう���ころのプラスサムになるから既存の産業との
戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!
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高熱で発熱外来に行き検査すると、コロナもインフルエンザも陰性で、腹痛があったので念の為CT検査をしてくださったことが功を奏した。家族を呼ぶようにいわれ、ことの重大さに気付く。緊急手術の可能があったが、病院のキャパの問題で大阪医療センターに救急移送された。この時期に入院出来たことがラッキーだと救急対応の看護師がおっしゃってた。国立の病院に搬送されたので、家内には覚悟して病院に来るように伝えた。緊急手術の場合は、腸を切ったり、人工肛門の可能性もあったが、抗生剤の投与で炎症が抑制され痛みも数日で消えた。1週間の絶食は、不思��と苦にならなかったが流動食がはじまると、食事の時間が恋しくなる。食べても腸内が大丈夫なのかのチェックの日々。おかげ様で、なんとか年内退院となった。憩室炎は再発の可能性がありますので、腸内環境を整えてすごします。 同じフロアの患者さんとの世間話も印象的、それぞれのドラマがありみんな時間(寿命)を生きている。 お仕事関係者、医師、看護師、友人、知人、家族、全ての方々に感謝申し上げます。ありがとうございます。 #感謝 #より良き未来を #その先に明るい未来が想像出来るか #その先に明るい未来が創造出来るか #いつも本気 #JustDoIt #完璧を目指すよりまず終わらせろ #でも丁寧に #DoneIsBetterThanPerfect #iphoneで撮影 #TakenwithiPhone #stayhome #君子危うきに近寄らず #最悪を想定し最善を尽くす #この世界で生きていく #WeatheringWithYou #国立病院機構大阪医療センター #大阪医療センター #憩室 #点滴 (国立病院機構 大阪医療センター) https://www.instagram.com/p/CmvSSk0Sc_X/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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マリオワンダークリアしました!!
…1週間ほど前に!!
最終コース打開したら即感想殴り書きするつもりがあっという間に時間が経ってしまった、時の進行が早すぎる。
Wonderful!!
いやーー大傑作、最高に楽しい2Dマリオ体験でした。もうすぐ40年に届くかというシリーズの最新作とは思えない新鮮さの塊、操作感が魂に染み付くほど共にしてきたヒゲ男なのにどこを向いても知らない体験が満載、満足も���足ですよ…!
「しかしいくら任天堂でも数多のユーザーの手によって生み出された上質で衝撃的なコースを好きなだけ遊べる、あまつさえ他プレイヤーとレースまでできちゃうマリオメーカー2を経た上でマンネリの壁を壊すのは厳しいのでは~~?」
とプレイ前に僅かに思ってたら、マの字すら抱かさねえよとなみなみ注がれた珠玉の新アイデアを次から次へ顔面に浴びせてくれたのは嬉しい事この上なかったですね、初っ端からパックン歌っちゃうもん。
それだけで数コース作れそうな思わず唸る新ギミックでもほぼ使い切りで次々と投入していったのがとにかく印象的だった、これが期限を定めず11年熟成したマリオか…!(インタビュー談)
知らんマリオでいっぱい。でもプレイ感覚は既存の枠から外れてないのがまた凄い。
結構な速度で横移動する上にトゲコロに押し潰されるとミス扱いになる指折りの謎ワンダー、これすき(もっと出番欲しかった)
体験に文字通り花を添えてくれるおしゃべりフラワーも良い。
大体がその場に合わせた当たり障りのない事しか言わない、たまにクスッとさせてくる賑やかし要員なんだけど、それがちょうど良いんですよね…こちらのアクションに反応をくれる個体がいるのも嬉しい。
過去作品ではまずあり得ない、ペラペラと日本語をフルボイスで喋る異質極まりない存在のはずなのに、一切ノイズに感じず愛着しか湧いてないのが今思うと不思議。その点は拘って台詞考えてそうだなぁ、もう以前の作品やったら寂しくて仕方ないと思う。
ちゃんと距離が離れると声も遠くなる拘りっぷりも好き(動画貼ろうとしたら1記事1つまでと言われておこった)
そして欠かせないゆるーく繋がるオンラインプレイ。
これ!!マリワンでとびきり刺さった新要素がこれです!!!
基本的にはリアルタイムで同じコースに挑戦している他プレイヤーが映るだけ、互いの画面へのギミック干渉はできず可能なのはエモートやアイテムの送り合い、ミス時に他人にタッチすると復活できる機能くらい。
これだけ、たったこれだけなのに「みしらぬだれか」との楽しい一期一会コミュニケーションが無尽蔵に生まれていく素晴らしいアイデアよ…!
偶然同時にゴールしたプレイヤーと😊を送り合うだけでも楽しいし、道中のペースが近い相手と歩調を合わせて協力してゴールまで進んで互いに称え合うなんて楽しみもある。相手の動きがラグなくスムーズに反映されるので隠しブロックの在りかや隠しルートへのヒントを貰うこともできるし、逆に迷ってる相手を誘導することもできる。楽しい…すべてが楽しい…!
干渉できる要素が全てプラスに向かう要素しかないのでこの手のマルチで発生しがちな悪意が介入する場面に一切出会わなかったのも凄かった、これだけ他プレイヤーとの関わり合いが気持ちいいゲームなかなか無いよ!?
そのオンラインプレイの中での極めつけがこれ。みんなの広場。
ステージ内に隠された5つのフラワーコインを他プレイヤーと協力して見つける宝探しゲームで、恐らく先述した「他人の動きからヒントを得られる」点から着想を得て生まれた遊びだと思うんだけど、やった人なら分かると思うがこれが感動するほど楽しい。
難易度はこの手の宝探し系ゲームにしては隠し場所がしっかりと難しく設定されていて詰む人はとことん詰む造り。そこを先に見つけた人が他者に分かるようなんとか伝えることでクリアまで誘導する、結構プレイヤーの善意に委ねた難易度調整がされてるんですよね。
そんな善意の連鎖が赤の他人に対して果たして続くのか!?というと…
続きます!!!
何故なら身振り手振りでのジェスチャーが相手に伝わると人間むっちゃ楽しいから!!!!!
いくらでも連鎖するんです、楽しければ。
いやほんと楽しいんですよこれ……凝った隠し方がしてあると要求されるジェスチャーも難題になるものの、それがまた適度な難しさで……ああ、���う一度あの土管押してこようかな。Switch今京都じゃん。
惜しいのはそんなに数が多くないとこなんですよね、あと10広場はいける。
最後に高難易度コース、今回もべらぼうに満足できました。
序盤からこの難易度を!?とギョッとさせるモックモックSPをはじめ、任天堂がぶつけてくる難関コースって難しくありながら意外と乗り越えられるものを絶望として描くのが上手いというか、そう思わせる調整が怪奇的に絶妙でとにかく楽しいんですよね。一番いい激辛さ。
その極めつけがスペシャル最終コースのクソムズいやつで。
あのコース、最後に相応しく各パートがどれも初見時は絶望的に映るんだけども、ランダム要素由来の難しさが殆ど無いので数をこなして全体像とパターンを掴む段階まで至れればその時点で気持ちよく突破できるものが多いんです。
そしてそれ以降は小さい労力でサクサク乗り越えられる、要は覚えゲーなんだけど見た目は絶望的難関なので何回突破しても爽快で楽しい。あれだけ苦戦したのに気づけばスイスイ突破できる楽しさ、弾幕STGのそれにも似てます。
それでいて最後の最後、真の難所は覚えゲーにせずゲーマー目線で見ても明らかな「クソムズい」を叩きつけてくるのが最高で…オデッセイの時といいあの部分は公式マリオのトロと自分は呼んでいて…。一番ふざけんなばかと声が出る部分でもある
纏めるなら「Switchから遊びに行けるマリオのテーマパーク」のような作品でした。
ありがとう任天堂。楽しかったよ任天堂。
…と、いいだけ楽しんだマリオワンダーだけども一つだけ心残りがあって。
フレンドと4人マルチできてないんですよ!!!!!!!!!!!!
3人までは叶ったんですけどね…!
プレイ中のフレンドとの繋がり辛さはこのゲームの数少ない欠点だなぁと、12人まで入れる仕様なんだけどフレを眺めてても4人以上集まってるケースを見たことがない。
部屋を建ててもゲーム内で通知が行かないので外部で告知や声掛けが必要。
告知を流しても相手は当然マリオ中なので気づかないケースがかなり多い。
部屋建てしながら野良と遊ぶという事ができないので建てっぱプレイが難しい、告知に気づくころには大体痺れを切らして閉まってる。
恐らくこの3点が原因、箇条書き機能が使いたかった。
この点はゆるく遊ぶのと同時にゆるく繋げてくれる仕様が欲しかったですね、フレンドとのマルチは野良とはまた別の楽しさが満載なだけに…!
いつか4人でこのポールを掴むぞォ!!!!
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統合 〜 分離された魂のプロセス
【第三部:最大の落とし穴】
アンティエ・リンデンブラット
オリジナル動画:https://youtu.be/Y1Q8xg8YEDk
公開日:2023年4月9日
【和訳:ALAE PHOENICIS】
最新情報は Telegram :https://t.me/alaephoenicis
【第一部:トラウマと隔離】🔗
【第二部:統合のプロセス】🔗
親愛なる皆さん、
まずは第一部、第二部をご覧になっていない方は、そちらを先に観覧することをおすすめします。
この第三部を終えてから、皆さんからの質問の内容と量によっては第四部も配信するかも知れません。
第三部ではまず、魂の統合の際に「落とし穴」があることについて、次に私達が統合しようとする光と闇の側面について、もうすこし詳細にお話します。
統合プロセスにおける落とし穴とは、まず始めに「被害者意識」とそこに釘付けになっている状態のことです。次に挙げられる落とし穴とは、「自分はいい人でいたい」という観念。そして3つめの落とし穴は、自分自身の「感情が乖離された状態」が続いてしまうことです。
これらの三つのテーマは、確然としてお互いに関わり合っていますが、一つ一つ説明していきます。
まずは「被害者意識・被害者の姿勢」、そしてそこに釘付けになる場合、そこには「加害者vs被害者」という動態が繰り返しやってきますが、それは人間的な経験の一部を成しています。「被害者の気分」を味わってみること自体は「間違い」ではなく、それが悪いわけでもありません。問題となるのは、自分が被害者であるという感覚に「釘付け」された状態がずっと継続されてしまうことです。
ここで取り上げているのはそのような永続化された状態に、いつの間にか自身を非常に強く同一視してしまうことで、それはずっと以前に被害者であると感じたことがある、もしくはあらゆる場面でそんな経験をしてきたという経験によるものです。そうやって自分と「被害者」とを同一視してしまうことで、その役割に固執してしまうのです。
人生を歩む中、何かが潜在意識下へ「滑り落ちてしまう」のはよくあることで、例えばトラウマの元になる状況が前世などにある場合はアクセス不可となりますが、それが幼少期に起きた場合、それは意識に顕在化されることなく、つまりはっきりとした記憶がなく、人生で年齢を重ねる内に、自分がはまり込んでいる被害者意識、即ち被害者の姿勢が潜在意識の奥の方に定着してしまうのです。
自覚が出来ていない間は、これを変えることは出来ません。
そのような被害者意識にある場合、繰り返し自己のパワーが削がれるようなことが起こります。問題は、被害者の姿勢で固まっている間は、癒やしはやってきません。これは決定的な点で、こうなると魂を統合することが出来ないのです。
自分が被害者意識に継続的に陥ってしまってはいるのかどうかを識るための兆しは、繰り返し「誰かのせい」にしようとする態度です。
更なる兆しは「投影」、自分の思考や感情が信念を他人に投影してしまいます。そして自分の中にどのような感情が起こったのか、その責任を他人に転嫁し、それと繋げて「相手が何かを改善しなければいけない、相手が変われば自分の気分が良くなり、自分も変ることが出来る」という信念があります。
この投影と共に時に起こりうるのは、相手には「何らかの形で他人を傷つけようという悪意があるのだ」という無自覚の想定です。
ここで強調したいのは、よくあるのは…すくなくとも「癒やしのプロセス」が始まる前は、こんなことをしている自分に自覚がないのです。そしてポイントはまさに、一体何が起こっているのかを「自覚すること」なのです。
だから私は、ひとつずつ取り出して「自分にこういうところがあるなあ、いやこういうのは無いなあ、ああこういうのが出てくるんだ」というように(クライエントが)それを眺められるようにしていきます。これは人間としての経験の一環、すごく普通のことなので、根本的に誰もがこのことに関連があります。
癒やされることで分離されていたすべての魂の欠片を統合させたいという願いがあるのなら、物事を自覚していくことで「全体」へと戻っていく、これは重要なことです。
被害者意識になっている更なる兆しは、物事に「善悪」の評価をしてしまうこと。強力な「白黒」思想と結び付いています。当然、加害者は悪で、被害者は善だと想定されます。これと繋がってっくるのは、私たちには「攻撃されている」と言う感情が非常に素早く誘発されること、個人攻撃だと受け取ってしまうことです。
こうした考えには、「そこには誘発されるもの」が存在している、つまり「誰かによって自分の中に引き起こされたこの感情は、既にとっくの昔からそこにあった」、という自覚の欠落です。そしてこの感情は、まず自分自身の問題であることを知り、それが他人との接し方にどう関わってくるのか見つめることが出来ます。
しかし、そうした「引き金」というのは、被害者的視点から「攻撃」として受け取られます。攻撃されたと感じたとき、人は大抵反撃をします。そしてこれをまでも、自覚なくやってしまうのです。
あまりにも素早く、あらゆることを個人に向けられたものだと受取ってしまい、それが本当に個人攻撃なのか、そうではないのか、という区別がつけられず、「自分は攻撃された(被害者である)」という感覚のみに走ってしまいます。
また、「ネガティブな感情」を否定&ジャッジしようという姿勢が、被害者意識と繋がってきます。ネガティブな感情、とくに怒りや憎しみ、羨望、嫉妬などの感情に至ることは、みんな嫌がるものですよね。
その他、被害者意識としてあげられるのは、相手に対して自分の方から愛のない、傷つけるような態度を取っていることを正当化していることです。だって「自分は被害者」だと思っているわけですから、根本的に「自分には相手を傷つける権利がある」と見なしています。
こうして、多くのことが無意識のうちになされているので、これら癒やすためには自覚していくことが大事です。
つまり、この被害者意識に入っている部分も、意識下から外れているために、統合されるべき分離した魂の一部でしかありません。統合することで、制御して自分の支配下へと��っていくことが出来るようになります。
もしも被害者的姿勢にハマっている場合、根底にあるのは、自分の人生や感情を自己責任と見なすことが出来ず、他人、つまり外界にその責任を押し付けることになります。
それも、私が何をどのように感じるのか、というコントロールを私以外の誰かが握っているという信念が私の中にある、ということになっているのです。ここに、「自分の感情や状況を変わるためには、まず外界が変わらなければならない」と信じてしまう危険があるのです。つまり、「つみがあるのは外界」であり、その被害者である自分は「無罪」となります。
要となるのは、自分がいつ、どのように被害者的な態度に陥っているのか、ということを一つ一つを自覚していくこと。そして、最終的には自分自身、自分の感情、自分の人生に対して責任を担うことなのです。
それは自分が体験したトラウマについても言えることで、第一部・第二部でも言いましたが、責任を担うということは、罪を背負うことではないし、繰り返し同じ状況(もしくは元来のトラウマとなるもの)を引き寄せてしまうのは「自分が悪い」ということでもありません。
「責任」とは「罪」と全く関係がありません。単に「答え」そして「癒やしへの解消」が自分に掛かっている、ということです。つまり、自分自身を覗き込むのです。外に目を向けて、被害者の気分になっている自分が何をしているのかみるのではなく。そういうとき「外界がどう変わるべきなのか」を考えてしまっています。
責任を担う、ということは「自分は内観するべきなのだ」と気づくこと。「私のトラウマを解消し、私を癒やすことのできる全ては、私の中にある」のです。
これらを区別することは非常に大事です。
なぜなら、私たちには2つの可能性があり、それを特定の状況で何度も自覚することが出来ます。もしも理不尽な状況を体験したり、理不尽な扱いを受けた時、または傷つくようなことが起こったり、もしくは古い傷が開くような出来事が起こったりした時、つまりはをある状況の中において自分のことを犠牲者だと知覚することは原則的には間違いではありません。…とここで改めて言っておきます。しかし、ここで犠牲者の役割にハマり込むのなら、繰り返し他人に罪を押し付けることになるわけで、それと同時に自分は無力となり、相手に責任を譲り渡しているのです。すると、先はどういうことになるのかとか、自分は癒やされるのかどうか、というのは相手が決めることになり、自分が癒やされるためには外界に変化が起きないとならない、と信じています。
もしくは、私が自分に起こった感情に対して自分で責任を担うのならば、自らそれを認知し、自分で自分のことを癒せる、ということに気づきます。私は単にそこに座り、評価することなく理解に努めながら自分を観察し、自分の中で引き起こされた感情を『感じる」ことを自分に許可します。これはもう「統合プロセス」なわけです。
私は変化が外からやって来るのを待ちわびること無く、自分が自分に望む変化を自分でもたらすことが出来ることを理解します。
そして、私は何が自分を動かし、どんな感情が自分の中で起こるのか、もしかして自分にはどんな欲求があるのか、何処が自分の限界なのか、などに関する「自己表現」をも学ぶことになるのです。
これらが、「被害者的姿勢」から「自己責任」、そして「自己権力」への脱出路です。
ここで、理解しておくべき非常に大事なことは、加害者vs被害者の全体の動態の中で、誰かがあなたに対してやらかすことというのは、結局は「あなたがやらせている」ということです。あなたが被害者的姿勢でいる限り、繰り返しそういう扱いを「させている」のですが、「自分がそうさせている」ということや、自分にはそれを変える力がある、ということが理解できないわけです。
しかし、自分が被害者的姿勢でいることを自覚すればするほど、次にまた似たような状況下で被害者的な感覚になった時には「ノー」と言えることが分かってきます。嫌だと思うことには境界線を引いて、意思表明をすることが出来るのです。
「いいえ、私はそんな扱いを受けることを容認しません」と意思表示できるし、従って「私はもう犠牲者にはならない」と自分で決めることが出来ます。少なくとも、それまでの元々の状況がどうであろうと関係なく、その後の人生で自分を被害者にするのか、しないのか、決められるのです。
元々の状況では、選択肢はなかったのです。なぜなら、ことは突然起こったとか、もしくは子供だったので何が起こっているのか状況把握して自覚できるほど、意識が育っていなかったからです。そこでは自分を被害者として感知するのかしないのか、を自覚を持って決断するという選択肢はありませんでした。
しかし、この癒やしのプロセス、統合プロセスにおいては、自分が被害者意識へ至るのかどうか、その選択肢があるのです。
こうした意識化のプロセスは、一歩ずつ進めていきます。
私はこれを、自分自身の人生で確かに経験しました。私は長い間「被害者意識」の中にいたのです。そこから脱皮していくのは長い道のりでした。そして未だに…今では途中でそれに気づくんですが、やはり自分が被害者だと感じてしまうことがあります。そういうとき自覚をもって「OK、どうやってここから出るべきか」と考えてみます。「私には選択がある」わけで、無自覚に、勝手に反応してしまうのに身を任せず、どう向き合うのかを私は意識的に決めることが出来るのです。
つまり、気づくことが最初の一歩です。次の一歩は自覚をもって自分の態度を選ぶこと。そして自分の感情をどう完治するのかも決定し、そこにあるメッセージを認識するのです。
例えば、誰かが私の内なる引き金を引いたことで、私に怒りの感情が起きたとします。そのとき「私は何にこんなに怒っているんだろう」と問いかけます。「そうか、相手は私の一線を越えてきたからだ」とか、「無礼な物言いをしてきて、私は傷ついたのだ」等々。
怒りとは、「そこで何かが整っていない」ことを示しています。そこで、自分の感情に責任を持とうとするならば、先程述べたように、境界線を引き、意思表示をし、「私は被害者にはなりません」という決断をすることが出来ます。
このプロセスにおいて、自己表現というのはとても大事です。
また、大事なことは、被害者意識に陥るのは、私たちの魂のほんの一部だということです。魂全体がそうなるわけではありません。何を体験したかによって、心の奥底に残ることはありますが、それでもこの被害者意識に定着しているのは、魂の一部でしかないのです。ということは、自己責任を担っていて、自身の勢力を掲げている魂の部位もあるわけで、こうした部位が、被害者意識に陥っている部分を救済したりサポートすることが出来ます。これを理解しておくことも大事です。
そして、全体において大事なのは、自分自身に対して正直であることです。なぜなら、その状況に至るまでに、我々は自分を自分から隠しておくことに長けていたのです。自分の「被害者意識」というものに向き合わされそうになると、自分から遠くへ押しやっていました。誰かに「君は被害者意識に陥っているよ」とか言われて引き金��引かれそうになると、すぐに反発を感じて「そんなことはない、私は自分が被害者だとか全然思っていない」と言い返しても、態度は別のことを物語っているのです。
それ自体が、困ったことではないのです。認めたがらないことが困ったこと、つまり認めない限りは癒せないので、それが自分にとって困ったことになります。
自分自身に対して正直であること。ここが、自身の癒やしのためには最も大切な部分です。自分が何を感じているのかについてや、自分が他人を傷つけるような態度をとっていることについて、正直に向き合うことです。これまでも私はよく言ってきましたが、「傷ついている人は、他人を傷つける」のです。無自覚でいる限り。
ですから、被害者的な姿勢でいる人は、常に自分が攻撃され、傷つけられていると感じている、つまり誰かに銃で撃たれそうになっているかの如く、自分自身も引き金が引かれた状態で、「撃たれる」と感じた途端に撃ち返すわけです。そうして、他人を傷つけています。
だから、自分自身に対して誠実で正直であることが、最も大事な鍵となってきます。「そうね、ちょうど今、私は被害者だって感じてしまったわ」と認めるのです。次の瞬間には時々、「自分に正直」でいることに勇気が必要なところに至ります。なぜなら、認めるのが嫌な感情、というのもあるからです。特に霊的な場面においては、とでもいいましょうか。
例えば「憎しみ」といった感情は、酷く拒否反応を起こします。“評判が悪い”といいましょうか。「憎しみ」はまっさきに否定されがちで、「いえ、私は誰も憎んでなんかいません」となります。
でも、正直なところ、感情のパレットにはあらゆる人間的な感情が備わっていて、誰もがこれを感じ得るのです。それは非難を浴びるべきことでもなく、憎しみを感じること自体は悪いことではないです。むしろ深く傷ついたのならば、愛が突然憎しみに換わることや、暖かさが冷たさに換わること、率直さが寡黙さに換わることは「ふつうなこと」です。憎しみとは、それを物語るものです。
しかし、このことを認識することは、憎しみの感情を最初から否定して、何も感じていないことにしていては出来ません。そんなことをしていると内側から蝕んでくる、内側で病気になります。
ですからとってもとっても大事なのは、自分の感情を、自分で正直に認めることです。
罪の意識、羞恥心、憎しみ、怒り、羨望、嫉妬、もしくは他人を蔑んだりする感情など、色々あります。
これらは大切な鍵ですが、常に容易いことではなくて、これもプロセスであり、癒やしの道なのです。
自分の中に起こる感情をジャッジすることなく、もっともっと認識し、観察し、理解するようになっていけば、そのプロセスの中でそれらの感情は私たちにとって別のクウォリティを担うようになっていきます。
そこでポイントはやはり、自分の行動と態度、もしくは被害者的感覚を体験する中で生み出されていった自己の態度パターン・被害者的姿勢に陥っていったことに向き合うことです。
また、こうした被害者的な行動や態度のパターンは、傷心が原因だったということを理解しておくことも大事です。それで、悪気や自覚がなくても、あなたは相手を傷つけてしまうのです。
もう一度言いますが、「傷ついている人は、他人を傷つける」わけですが、これは自覚が出来ていない限り、続くのです。
ですから(相手を攻める前に)、自分の方はアンフェアではなかったか?自分の方も相手を傷つけてはいなかったか?と自問することが大事です。自分の方が反撃してしまってから、後になって「相手には悪意はなかった、こちらに向けられた攻撃ではなかった」と気づくこともあります。そして相手には悪気があったに違いない、わざと傷つけようとした、という想定をしがちな自分だと気づくのです。
これは、プロセスなのです。心の内にあるフタを開けるようなものです。
「私は本当は何を感じているのか?」
「自分の態度は自分で云うように、愛情がこもっているだろうか?」
それとも「時に、意図せずして・望まずして、自分は傷ついた経験から行動してはいないか?」
自分と向き合い、被害者意識を自分の中で徐々に溶かしていく、ということは勇気がいることです。
素晴らしいのは、これが「被害者・犠牲者 Opfer」から「創造者 Schöpfer」へ向かう道だということです。
訳注:ドイツ語で被害者・犠牲者のことを Opfer (オップファー)といいますが、創造者のことは Schöpfer (シェォップファー) といい、アンティエさんは「この“創造主”という言葉の中に“犠牲者”という言葉の音が含まれているのは素敵なこと」と話しています。
ただ、Schöpfer にはOの上に点々がついています。つまり、これらはコインの裏表であり、この道のりはそんなに遠くはないということです。
こうした被害者意識というものを溶かせば溶かすほど、私たちは自分が創造者であることに気づいていきます。つまり、自分の内側に入り、内側を覗き込み、自己責任を担っていけば���何かを変化させるパワーを私たちは持っているのだ、ということに気づきます。
被害者でいる限り、私たちは依存関係の中にあります。相手が変わってくれないと、自分の人生や感情は変わらないと思うわけです。
しかし、創造者の依存度は低くなり、どんどん自由になっていきます。「自分を癒やすため、気分を良くするために、外界は必要ない」と理解します。自分で物事を変化させる力を持っているからです。
つまり、こうした「自己責任」は最終的には「自己権限付与(セルフエンパワーメント)」となり、被害者意識からの解放、自由を獲得します。
それは、人生において、本質的な心の安定へと繋がっていきます。
次の「落とし穴」に行きましょう。
それは「自分はいい人でいたい」という気持ちですが、これらの落とし穴はすべて、互いに関連し合っていると述べました。多くの人がこれを抱えており、私もその一人です(笑)。
自分はいい人でいたい、これには理由があるのです。
愛されたいとか、受け入れられたいとか、私たちの誰もが持っている欲求です。
ここで都合が良いのは「被害者」とは善側であることです。
「いい人でいたい」欲求、もしくは願望を内に抱えていて、しかも被害者的な姿勢であるならば、それに固執しがちになります。
被害者は善、加害者は悪、この役割は定着しているからです。
究極的に、本当は私たちは両方なのです。ある特定の状況下で、私たちは被害者だったけれど、誰もが別の状況では形を変えて加害者だったことがあるのです。そんなに酷いことをしたわけではないかも知れませんが、誰かを傷つけるような行動をしたり、言葉を言ったり、フェアではない態度をとったり、自分自身の問題を相手に投影したり、といったことです。
どうしても「いい人でいたい」想いでいることで、何が問題なのかというと、統合させようとしている魂の影の側面を悪だと見なして否定してしまうことです。「悪」と見なしたものにはなりたくないわけで、自分に統合させるどころか遠くへ押しやってしまいます。すると、その影の部分にある、羨望、憎しみ、怒り、悲しみ、などといった感情の存在を「悪いもの」だとして否定しているので、癒やすことが出来ません。
そうすると、被害者的姿勢に居残ってしまうのです。だって、それでは、自分に正直ともいえませんよね。「そう、私だって時に加害者なんだわ」とか「私にも闇の部分があるわ」、「誰かを傷つけることがあるんだわ」という認識が欠けているわけで。
この時役に立つのは、「なぜ、私は常にいい人でありたいのかしら?」と、その部分を照らし出してみること。そこで自問していみるべきなのは「常にいい人でいることで、どんなメリットがあるのか」ということです。質問から浮かんでくる答えはひとつずつ書き出し、眺めてみると常にメリットがあって、良いことで、思ったほど悪いことは出てきません。しかし、「いつもいい人でいる」という方法でなくても他の方法でそのメリットは得られたりします。
では、「いい人でいる」ことで何がもたらされるのでしょうか?
また、どんな欲求が満たされるのでしょうか?
更なる問いかけは、「どうすれば、自分の魂の影の部分へ向ける視点を変えられるのか」です。そもそも、どうして私にはこの感情が起こったのでしょうか。「憎しみ」の例で話しましたが、その感情があることをジャッジするよりも、なぜその感情が起きたのか、を理解することです。
そこには全く別の動態が起こり、深い理解が生まれることで、「否定」というのが取り除かれ、ネガティブな感情を感じることができる自分だからといって悪なわけではない、他人を傷つけてしまうことがあるからといって悪なわけではない、過ちを犯して正しくない態度をとることがあるからといって悪なわけではない、ということが分かってきます。これを理解することはとても大事です。
そして、三つ目の落とし穴ですが、これも他の二つと関連しあっていているのですが、単独で短く述べます。
それは感情の乖離で、それが定着してしまうことです。
私たちは誰でも、感情が乖離してしまうことが何度もありますが、それは一過性で、また自分の感情に接触できる状態に戻ります。
私が問題にしているのは、その状態が続いていること、継続的にその感情が乖離した状態です。それは、自分の感情を「よくないこと」と評価することで拒否しているか、もしくは抑圧しているということです。もしかして、その感情に呑まれてしまうのが怖いからなのか、またはそれを受け入れられるほど自分は成長していないと感じるからかも知れません。感情というのは信じられないぐらいに激しい力を持っていることもありますから、それで自分はダメになってしまうというか、引きずり降ろされるような怖さを感じるのでしょう。
しかし、これはやはり、自分が感じていることに対して正直ではないことになり、フタを被せたり、切り離したりするわけです。
魂の部位の統合プロセスにおいて、感情という層は癒やしを齎すべきもっとも重要な部分です。なぜなら、トラウマやトラウマ的経験によってもっとも傷ついているのは感情の部分だからです。だからこそ、その部分に乖離が起こっててしまったわけですが。
そうした感情を感じること、そしてその感情を統合することが、癒やしへの鍵であり、魂の部分らの「完全性・統合性」を取り戻すことです。
これらが主要となる「落とし穴」です。これらは、私の個人的な経験上、そして私の顧客たち、つまり他人とのワーキングの経験を繰り返してきた上で、言えることです。
そして、この動画の最初に述べていたように、「影と光」という面についてお話します。
魂の部位の統合について話すときは、「影」の面を扱うことになり、この影をどう統合するのかという話になります。それで良いのですが、光という側面を忘れています。
この影の部分を統合する時、光をも統合しています。これらはコインの裏表なのです。
影を統合するときには、同時に光も統合されます。両者はつながり合っているからです。
この光の部分には沢山の側面があるのですが、いくつか書き出してみました。
賢さ、賢明さ、叡智というのがひとつ。即ち、トラウマを経験したことで影の統合プロセスを経ることになり、それによって生じた叡智です。それは多くの気付きと結び付いていて、私たちは賢くなります。
また、よくあることは、トラウマが癒やされ、光の部分が魂に統合されることで、人間らしさ、共感能力が出てきます。また、物事を深く理解することが出来るようになりますが、それは自分自身に関してだけではなく、人間という性のことであり、時に自分が体験したトラウマに関連したことで、他人を助けたいという情熱が起きたりします。
その人は深いところで学びを得たのと、トンネルから脱出出来たわけで、光という側面も知りました。それを他の人にも渡したくなるのです。
更なる光の側面は、トラウマが癒やされたことで、真の自分というのを発見したことです。
トラウマによって生じた魂の分裂によって、私たちは多くの痛みを伴う感情、そしてそれを「犠牲(いけにえ)」と同一視してきたわけで、でもそれは自分ではない、自分はトラウマではない、自分は傷ではない、自分は犠牲ではない。そのことに気づけば気づくほど、私たちは創造者になっていくのです。
ということは、私は自分の中に可能性を発見したのです。自分が何を考え、何を感じるのか、世界をどのように体験し、その世界にどう反応するのか、または他人にどう反応するのか、すべて自分で決められるパワーがある、という可能性。
そして、私たちは純粋無垢な自分を再発見することが出来ました。
影の部分を拒否して「いい人でいたい」という自分は、実はこの純真無垢な自分を探していたともいえます。でも、「自分は純真無垢なのだ」ということを自分の中に認めることが出来れば、それは影の部分を統合できたことになります。
「私は影ではない」
「私は傷ではない」
「私はトラウマではない」...のです。
そして、更にありえることは、影の部分を統合することで、本当に才能や能力といったものを、自分の中に再発見していきます。それまで阻止されていたのか、はっきり見えていなかったのか、そういったものが開花されていきますが、それはまさに特定の魂の部位と結び付いた部分なのです。
こうした「犠牲者から創造者」へ移行する私たちの内なる道のりのすべてにおいて、コントラスト(照らし合わせ)となる状況を体験することで、私たちは自分が誰なのかに本当の意味で気付いていきます。
つまり、「自分が誰ではないのか(過った自己同一視)」ということが、「自分が本当は誰なのか」という認識を明瞭に照らし出す可能性が与えられるのです。
「自分が本当は誰なのか」というのは「被害者vs加害者の動態」の外部にあります。
私たちは常に、両方なのです。自分の中には両方の側面があります。被害者だったり、加害者だったりして、両方ともが「人間としての経験」なのです。
もうひとつの光の側面は、切り離されていた影の部分と統合されることで、その統一感を得て、すべてを完全性へと変換することが出来た、という感覚です。
これは、自分という存在にとっては全く新しい感覚であると同時に、この世界の中に在る自己認識も新しいものとなります。
それは真の自分の一部です。
なぜなら、私たちは完全なるものから生まれたのですから。
それが本当の私たちであり、真実です。
以上が、皆さんにこの第三部で明らかにしようと思ったことです。
何か質問やコメントがあれば、お待ちしております。
いつもの如く、沢山の愛と光を、私の心から皆さんに送りますね。
さようなら。
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すうすうのピンク色
昨夜のよくない思考に体が負けてか、今日の勤務はあまり気分的に芳しくなかった。が、その後頭痛に苛まれながらもDAISOで掃除道具等買い、スタバで休憩してからなんとか帰宅した。やはり勤務後にどこかで1時間くらい休憩してから帰ると、帰宅後にいきなり倒れなくてすむ。頭痛は緊張型かと思いその対策をしたが、結局3時間経っても改善せず、観念して偏頭痛の薬を飲んだら一瞬で消えた。偏頭痛だった(頭痛という賭けに負けた)。偏頭痛薬は残りがもう3回分しかないので、いい加減に脳神経外科の予約を取るべきである。勢いに乗ってカウンセリングの予約も取ってしまいたい。しかし、病院があいている時間帯に電話をすることが何週間もできずにいる。こういう、行為自体は簡単なはずなのに、意図的に忘れ後回しにしていること、人生でなくならないのはなぜだろう。これでもかなり改善されたほうで、郵便ポストは毎日ちゃんと確認し、ものはその日のうちに封を切って中を確認するし、光熱費の支払いも数日以内にするようになった。これは以前の自分では考えられないほどの進歩である。安全で穏やかな住処を得、さまざまな病害に対する施策を着実に実行できるようになってから、かなり気持ちに余裕が生まれ、こういう事ができるようになった。洗い物も洗濯物もごみ捨ても、とくに苦もなく毎日の生活をこなせる。ありがたすぎて涙が出る案件であります。本当に生家(あるいはそこの人々)と離れられて良かった。ここまでとても長い道のりで、まだこれからも煩雑な何かはあるとは思いますが、今まで、今も、応援してくださっているみなさんのおかげです。本当にありがとうございます。とくにこの日記のような何かを読んでくださっている人、直接言葉を交わしたことはない方もいるとは思いますが、あなたの見守りが私の力になっています。とても有難いです。
さて話が逸れたが、夜になって友人数人からたまたま連続して連絡があり、その連絡を返したり、もくりで友人たちと会話するうちにどんどん元気を取り戻していって、今日の勤務の落ち込みに対する落ち込みも払拭された。私はつくづく人と関わりが持てればそれだけで元気になれるのだなと感じる。1人になればなるほど萎れていくし、やばい思考になるし、それで結局希死念慮まで行くので、私はとにかく1人にならないほうがいい。友人と連絡がつかなくても、人の目があるカフェやファミレスに行って、人間の営みを感じることがとにかく必要なのだと思う。それでもどうにもならない時はあるが、1人で家で寝ながらTwitter(現X)に延々と自分の思考を書き付けているよりはいいと思う。部屋にいるとついベッドに寝転んでしまうから、それを防ぐためにも外出して椅子に座ることは重要だ。できれば本を読んだり何か書いたりしたいものだが、まあ、具合の悪い時にはそんなことはなかなかできない。漫画や軽い読み物を読んで気をそらすことができれば満点だと思う。(漫画も読むのはかなり体力がいる)
深夜、昔からの友人とたまたま通話する機会があり、この5年…いやもっと長い期間かも、言い続けていることをまた言ってしまった。というか、それを私が言うのは友人も承知していて、私も別に友人にそこまで直ちに何かを求めて言っているわけではないのだが…とにかく友人がこれ以上つらい思いをしないか心配でついつい言ってしまう。逆に、友人から何度も「こうしたほうがいい」と言われ、すぐに従うことはできなくても、それを言ってもらったことがきっかけで、さまざまな行動の土台になっていることが幾つもある。今日はその感謝を伝えられたのでよかった。
9月頭、後輩というか友人が遊びに来てくれるので本当に楽しみ。次の休みで絶対に棚を組みたてて床掃除をして、ダンボールを資源ごみに出さないと…!という気を強く持っている。また、別の友人も今年中に東京にまた遊びに来てくれるかもしれず、その時はうちにお泊まりになる可能性があるので、まだ予定は立っていないが、想像して心躍らせている。とにかく友人たちが快適に過ごせるよう部屋を綺麗にしたい。引っ越して3ヶ月、さすがにものが増えてきた。捨てるものは捨てなければなあと思っている。
5年前つかのま居を共にしていた友人が、最近人生初の同人誌を発行したので、なんとわざわざ私にも送ってくれた。曰く、私は「オタクとしての親」らしく、同人誌ぜひもらって欲しいとの事で、ありがたく頂戴して拝読した。彼女らしい繊細な描写の光る、穏やかで温かな話だった。その感想をDMで伝えたら感想第一号だったらしく、とても喜んでいた。人生初の同人誌の初の感想を言った人になってしまった(友人ということで軽い口調での感想のお伝えになってしまったので、もう少し固めに言葉を尽くして伝えればよかったなと思った)。彼女の意図するところをおそらく私が捉えられていて、それで本当にびっくりしていた(例えば、私が100万回生きた猫のように…というようなことを感想として言ったら、まさにその絵本を昔の本棚から引っ張り出してきてそれを隣に置きながら書いたのだ、と言って感激していた。すごく良いことだと思った)。
今までたくさんの人と人生を共にしてきたな、と思った。家まで行って世話を焼いた人、具体的に言うと私が家事をしたり食事をさせたりした人、何人かいたなあ…という気持ちになった(その友人も一時期具合が悪く、それもあって私が居候していた。その時は関係は破綻したが)。みんな、私のことは恨んでも憎んでもいいから、とにかく前に進んで、人生をどうにか渡っていってくれ、と思っていた。そうして関わった大体の友人たちと今は結局音信不通(連絡を取ろうと思えばLINEで連絡は取れる)だが、どうにかなっていることを今日も祈っている。私が友人たちの世話をしたとかそういう上から目線なことではなくて、基本的に友人として一緒に楽しく過ごしてくれてありがとうございました、の気持ちから。また仲良くなれたら楽しいのかもしれないが、私たちの道はもう別れている。そんななかでも、同人誌を送ってくれた友人は、私にまた関わろうと連絡をしてきてくれて、とても嬉しかった。私も色々な人に助けられて生きていて、できるだけそういう人たちとの縁は切らずに生きていきたいものだが、どうしてもタイミングや相性というものがある。ただ、恩を受けたな、と思う人に対してはもう恩義を返すすべはないので、自分が別の人になにか力になることで世界へ返していくしかない。また、全然関係のない話のようにも思えるが、小説を書いて、今まで助けてくれた人にもなんらかをお返しできるような内容のものが書けたらいいと思う。そうしたらその本を送って、お礼状として読んでほしいと言えるから。だから私はハッピーエンドや救いのある終わりの話しか書かないのだろうなと思う。
2023.8.29
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230615 EXTRA
ポエムを書いた日と書かない日で何が変わるかといえば実際には大した変化はない。
ただ「約束の宣言」をした時だけは異なる。宣言をしたからには自分に対し縛りが生まれる。そもそもこのブログを「日刊」と名付けている時点で2日以上休むのはおかしいという意識が自分の中にも生まれてる。
「定例ミーティング」ってものがあれば毎週そこでの報告に向けて提出物をでっち上げなければならない。
数名でもいいからその報告を受け止め改善点を指摘してくれる人間がいるなら「やんなきゃな」って気持ちになってくる。
うん。だからそういう人間関係を作ったのだ。
思考をムダに重ねれば重ねるほど論点というか今やるべきタスクから意識が離れてしまう。今遅れている提出物を出す、その一点のみに意識を集中してロジックを、段取りを組み立てるのだ。
その為に「他者の目」が必要なのだ。見られている、測られている、信じられているという実感が必要だ。
他者の目を意識しながら好ましい自分をデザインしようと思えるだけの「社会への興味と信頼」が必要なのだ。
社会を信じ、社会を面白いと思う意識を燃やせ。
「社会不信」の時点でコンスタントな発信も仕事もできるわけがない。
社会不信な人間は「無茶苦茶自分が可愛くて(可哀想で)他人が憎い」という自己愛と他責に満ちた稚拙メンタル宿してなきゃあすぐにエネルギーは尽きる。
そういう意味で利己的な悪人ってのはむっちゃ生きるモチベーションが高いと言えるだろう。
「生き残る為の要素」として「悪」は間違いなく有利だ。
「他人から与えられた命令を愚直にこなす」のも一つの才能というか社会性だ。オーダーに対し逐一自分のポリシーと照らし合わせてやりたい / やりたくないのジャッジをしていたらいずれはバカでかい責任と負債を背負い込む事になる。
社会は「些末な仕事」を請け負い続ける事で「責任重大で失敗が許されない仕事」から逃れる事ができるのだ。
些末な仕事から逃げ続ければ最終的には「責任重大で失敗が許されない仕事」しか残らない。それは失敗が即・死に直結するような危険な仕事だ。���リルはあるだろうが関与すれば寿命縮むし周囲の人間もロクな人間がいなくなる。
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さて、問題は今日どうするかだ。現時刻11:20。午後までにシャワー浴びネカフェに行って13:20までに作画作業に入りたい。
水をペットボトルに入れて持っていこう。ブースから出て水を飲む時間すら惜しい。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬��耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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