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Legends and myths about trees
Celtic beliefs in trees (11)
L for Luis (Rowan) - January 21st - February 17th
“Lady of the Mountains - Second month of the Celtic tree calendar”
Star: Sun; Gender: female; Gemstone: tourmaline; Patron: Brigantia, Brigid, St. Brigid; Symbols: living vigour + holy fervour, life force + spiritual power
Slender tree with smooth grey bark and graceful branches reaching towards the sky. In May, it produces an abundance of plump white flowers, which cluster together to form clusters the size of an adult palm. The flowers are very small, with five petals and sepals, and the ripe berries turn from green to red as autumn progresses. The rowan nut has a small pentagonal star shape on the opposite side of the base, and the pentagram has been known as a symbol of protection against evil since prehistoric times.
The rowan tree is dedicated to the ancient Britons' goddess Brigantia and the Irish goddess of liberal arts, Brigid who is associated with wisdom, poetry, healing, protection, blacksmithing and domesticated animals. Both Brigid and Brigantia have an aspect as patron goddesses of farmers and their livestock, promising the arrival of spring and a bountiful harvest. Together they are said to keep shooting flaming arrows made of rowan, which follow the sun all year round.
Since they are the goddesses who spin the thread and weave the cloth, it is they who continue to weave the everlasting fabric of life, guide the sun through the stars that occupy positions in the sky and keep the wheels of the seasons turning.
The Celtic festival of Imbolc takes place on 1 February and is dedicated to Brigid. This is because Brigid brings inspiration and visions to us and awakens the spirit of the year from its sleep. Imbolc is also the first 'Seasonal Purification Day' that comes around in the year, and on this day, the witches celebrate the Sabbath.
Rowan was once thought to be protected by this tree, as was the earth energy contained in ley lines (straight lines connecting ancient sacred sites and ruins) and menhirs (standing stones). Druids planted these trees at their ritual sites and used the smoke from burning rowan trees to invoke the spirits of the dead and warriors. The smoke from burning rowan trees was also often used to predict the course of a love affair.
For the Celts, the rowan was a symbol of nature's abode and vigorous life activity. Sacred, yet magically powerful, the rowan tree protects us from temptation and disease and was therefore discouraged from being cut down.
木にまつわる伝説・神話
ケルト人の樹木の信仰 (11)
L は Luis (ナナカマド) - 1月21日~2月17日
『山の淑女〜ケルトの木の暦の第2月』
星: 太陽、性: 女性; 宝石: トルマリン、守護神: ブリガンティア、ブリギッド、聖ブリギッド、シンボル: 生きる活力+聖なる熱情、生命力+霊力
なめらかな灰色の樹皮をもつ、すらりと細身の木で、優美な枝が天にむかって伸びている。5月になると白くふっくらとした花をふんだんに咲かせ、それらが群がって大人の手のひらほどの房を作る。花はとても小さく、5弁の花びらと萼ををもち、秋が深まるにつれ、熟した実は緑色から赤色に変色する。ナナカマドの実には柄の反対側に小さな五角形の星型がついているが、5線星型は太古の時代から魔除けのシンボルとして知られている。
ナナカマドの木は、古代ブリトン人たちの女神ブリガンティアや、アイルランドの学芸をつかさどる女神ブリギッドに捧げられている。彼女は知恵、詩、癒し、保護、鍛冶、家畜と関連している。ブリギッドもブリガンティアも、農牧の民とその家畜を守護する女神としての一面を持ち、春の到来を約束し、豊かな収穫をもたらすとされている。この二人は共にナナカマドでできた燃える矢を放ちつづけ、その矢は太陽の後を一年中追い続けるといわれている。糸を紡ぎ、布を織る女神であることから、とこしえに続く生命の布を織りつづけ、天空に位置を占める星の間を縫って太陽を導き、季節の歯車を回し続けるのもこの二人である。
ケルト人の祭りであるインボルクは2月1日に行われ、ブリギッドに捧げられる。ブリギッドが霊感や幻視を私たちにもたらし、一年の精霊を眠りから覚ましてくれるからである。インボルクは一年で最初にめぐってくる「季節祓いの日」にも当たり、この日、魔女たちはサバトを祝う。
かつてレイライン (古代の聖地や遺跡を結ぶ直線)やメンヒル (立石) に含まれる大地のエネルギーは、ナナカマドに守られていると信じられていた。ドルイドたちは祭壇の場にこの木を植え、ナナカマドを燃やした煙で死者の霊や戦士を呼び出していた。ナナカマドを燃やした煙はまた恋の行方を占う際にもよく使われた。
ケルト人にとって、ナナカマドは、自然が宿すシンボルであり、旺盛な生命活動の象徴でもあった。神聖で、しかも魔法の力をもつナナカマドは、誘惑や病気から私たちを守ってくれるので、伐採は慎むべきとされていた。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF QIN SHI HUANG
的是不我一有大在人了中到资要可以这个你会好为上来就学交也用能如文时没说他看提那问生过下请天们所多麽小想得之还电出工对都机自後子而讯站去心只家知国台很信成章何同道地发法无然但吗当於本现年前真最和新因果定意情点题其事方清科样些吧叁此位理行作经者什谢名日正华话开实再城爱与二动比高面又车力或种像应女教分手打已次长太明己路起相主关凤间呢觉该十外凰友才民系进使她着各少全两回加将感第性球式把被老公龙程论及别给听水重体做校里常东风您湾啦见解等部原月美先管区错音否啊找网乐让通入期选较四场由书它快从欢数表怎至立内合目望认几社告更版度考喜头难光买今身许弟若算记代统处完号接言政玩师字并男计谁山张党每且结改非星连哈建放直转报活设变指气研陈试西五希取神化物王战近世受义反单死任跟便空林士台却北队功必声写平影业金档片讨���容央妳向市则员兴利强白价安呵特思叫总办保花议传元求份件持万未究决投哪喔笑猫组独级走支曾标流竹兄阿室卡马共需海口门般线语命观视朋联参格黄钱修失儿住八脑板吃另换即象料录拿专远速基帮形确候装孩备歌界除南器画诉差讲类英案带久乎掉迷量引整似耶奇制边型超识虽怪飞始品运赛费梦故班权破验眼满念造军精务留服六图收舍半读愿李底约雄课答令深票达演早卖棒够黑院假曲火准百谈胜碟术推存治离易往况晚示证段导伤调团七永刚哥甚德杀怕包列概照夜排客绝软商根九切条集千落竟越待忘尽据双供称座值消产红跑嘛园附硬云游展执闻唱育斯某技唉息苦质油救效须介首助职例热毕节害击乱态嗯宝倒注停古输规福亲查复步举鱼断终轻环练印随依趣限响省局续司角简极干篇罗佛克阳武疑送拉习源免志鸟烦足馆仍低广土呀楼坏兵显率圣码众争初误楚责境野预具智压系青贵顺负魔适哇测慢怀懂史配呜味亦医迎舞恋细灌甲帝句属灵评骑宜败左追狂敢春狗际遇族群痛右康佳杨木病戏项抓徵善官护博补石尔营历只按妹里编岁择温守血领寻田养谓居异雨止跳君烂优封拜恶啥浪核聊急状陆激模攻忙良剧牛垒增维静阵抱势严词亚夫签悲密幕毒厂爽缘店吴兰睡致江宿翻香蛮警控赵冷威微坐周宗普登母络午恐套巴杂创旧辑幸剑亮述堂酒丽牌仔脚突搞父俊暴防吉礼素招草周房餐虑充府背典仁漫景绍诸琴忆援尤缺扁骂纯惜授皮松委湖诚麻置靠继判益波姐既射欲刻堆释含承退莫刘昨旁纪赶制尚艺肉律铁奏树毛罪笔彩注归弹虎卫刀皆键售块险荣播施铭罗汉赏欣升叶萤载嘿弄钟付寄鬼哦灯呆洋嘻布磁荐检派构妈蓝贴猪策纸暗巧努雷架享宣逢均担启济罢呼���伟岛歉郭训���详沙督梅顾敌协轮略慧幻脸短鹰冲朝忍游河批混窗乡蛋季散册弃熟奖唯藏婚镜紧猜喝尊乾县伯偏偷秋层颗食淡申冠衣仅帐赞购犯敬勇洲束斗徒嘉柔绩笨拥漂狮诗围乖孤姓吸私避范抗盖祝序晓富译巨秀馀辉插察庆积愈端移宫挥爆港雪硕借帅丢括挂盘偶末厅朱凡惊货灭醒虚瑞拍遗忠志透烈银顶雅诺圆熊替休材挑侠鸡累互掌念米伴辅降豪篮洗健饭怜疯宏困址兮操临骗咧药绿尼蔡玉辛辈敏减彼街聚郎泡恨苏缩枢碰采默婆股童符抽获宇废赢肯砍钢欧届禁苍脱渐仙泪触途财箱厌籍冰涛订哭稳析杰坚桥懒贤丝露森危占茶惯尘布爸阶夏谊瓶哩惨械隐丰旅椰亡汽贝娘寒遭吹暑珍零刊邮村乃予赖摇纳烟伦尾狼浮骨杯隔洪织询振忽索惠峰席喵胡租款扰企刺芳鼠折频冒痴阴哲针伊寂嘴倚霸扬沉悔虫菜距复鼓摩郑庄副页烧弱暂剩豆探耐祖遍萧握愁龟哀发延库隆盟傻眉固秘卷搭昭宁托辩覆吵耳閒拨沈升胖丁妙残违稍媒忧销恩颜船奈映井拼屋乘京藉洞川宪拟寝塞倍户摆桌域劳赚皇逃鸿横牙拖齐农滚障搬奶乌了松戴谱酷棋吓摸额瓜役怨染迫醉锁震床闹佩牠徐尺干潮帽盛孙屁净凯撞迴损伙牵厉惑羊冬桃舰眠伍溪飘泰宋圈竞闪纵崇滑乙俗浅莲紫沟旋摄聪毁庭麦描妨勒仪陪榜板慕耀献审蟹巷谅姊逐踏岸葛卧洽寞邦藤拳阻蝎面殊凭拒池邪航驱裁翔填奥函镇丌宽颇枪遥穹啪阅锋砂恭塔贺魂睛逸旗萨丸厚斋芬革庸舒饮闭励顿仰阁孟昌访绪裕勿州阐抢扫糊宙尝菩赐赤喊盗擎劝奋慈尽污狐罚幽准兼尖彰灰番衡鲜扩毫夸炮拆监栏迟证倾郁汪纷托漏渡姑秒吾窝辆龄跌浩肥兽煞抹酸税陷谷冲杜胸甘胞诞岂辞墙凉碎晶邱逻脆喷玫娃培咱潜祥筑孔柏叭邀���妻估荒袋径垃傲淑圾旦亿截币羽妇泥欺弦筹舍忌串伸喇耻繁廖逛劲臭鲁壮捕穷拔于丑莉糟炸坡蒙腿坦怒甜韩缓悉扯割艾胎恒玲朵泉汤猛驾幼坪巫弯胆昏鞋怡吐唐悠盾跃侵丹鑑泽薪逝彦后召吕碧晨辨植痴瑰钓轩勤珠浓悟磨剪逼玄暖躲洛症挡敝碍亨逊蜜盼姆赋彬壁缴捷乏戒憾滴桑菲嫌愉爬恼删叹抵棚摘蒋箭夕翁牲迹勉莱洁贪恰曰侨沧咖唷扣采奔泳迹涯夺抄疗署誓盃骚翼屠咪雾涉锺踢谋牺焦涵础绕俱霹坜唬氏彻吝曼寿粉廉炎祸耗炮啡肚贡鼻挖貌捐融筋云稣捡饱铃雳鸣奉燃饰绘黎卷恢瞧茫幅迪柳瑜矛吊侯玛撑薄敦挤墨琪凌侧枫嗨梯梁廷儒咬岚览兔怖稿齿狱爷迈闷乔姿踪宾家弘韵岭咦裤壳孝仇誉妮惧促驶疼凶粗耍糕仲裂吟陀赌爵哉亏锅刷旭晴蝶阔洩顽牧契轰羞拾锦逆堕夹枝瓦舟悦惹疏锐翘哎综纲扇驻屏堪弥贯愚抬喂靖狠饼凝邻擦滋坤蛙灾莎毅卒汝征赠斗抛秦辱涂披允侦欲夥朗笛劫魅钦慰荷挺矣迅禅迁鹿秤彭肩赞丙鹅痕液涨巡烤贱丈趋沿滥措么扭捉碗炉脏叔秘腰漠翅余胶妥谣缸芒陵雯轨虾寸呦洒贞蜂钻厕鹤摔盒虫氛悄霖愧斜尸循俩堡旺恶叉燕津臣丧茂椅缠刑脉杉泊撒递疲杆趁欠盈晃蛇牡慎粒系倦溜遵腐疾鸭璃牢劣患祂呈浑剂妖玻塑飙伏弊扮侬渴歪苗汗陶栋琳蓉埋叡澎并泣腾柯催畅勾樱阮斥搜踩返坛垂唤储贩匆添坑柴邓糖昆暮柜娟腹煮泛稀兹抑携芭框彷罐虹拷萍臂袭叙吻仿贼羯浴体翠灿敲胁侣蚁秩佑谨寡岳赔掩匙曹纽签晋喻绵咏摊馨珊孕杰拘哟羡肤肝袍罩叛御谜嫁庙肠谎潘埔卜占拦煌俄札骤陌澄仓匪宵钮岗荡卸旨粽贸舌历叮咒钥苹祭屈陋雀睹媚娜诱衷菁殿撕蠢惟嚣踊跨膀筒纹乳仗轴撤潭佛桂愤捧袖埃壹赫谦汇魏粹傅寮猴衰辜���桶吋衫瞬冻猎琼卿戚卓殖泼譬翰刮斌枉梁庞闽宅麟宰梭纠丛雕澳毙颖腔伫躺划寺炼胃昂勋骄卑蚂墓冥妄董淋卢偿姻砸践殷润铜盲扎驳湿凑炒尿穴蟑拓诡谬淫荡鼎斩尧伪饿驰蚊瘟肢挫槽扶兆僧昧螂匹芝奸聘眷熙猩癢帖贫贿扑笼丘颠讶玮尹詗柱袁漆毋辣棍矩佐澡渊痞矮戈勃吞肆抖咳亭淘穗黏冈歧屑拢潇谐遣诊祈霜熬饶闯婉致雁觅讽膜挣斤帆铺凄瑟艇壶苑悬詹诠滤掰稚辰募懿慨哼汁佬纤肃遨渔恕蝴垫昱竿缝蹈鞭仆豫岩辐歹甄斑淹崎骏薰婷宠棵弓犬涂刹郁坎煎螺遮枯台昔瘾蒂坠唔瞎筝唇表吁冤祷甩伞酱范焉娇驼沦碳沾抚溶叠几蜡涌氧弦娱皓奴颓嘎趟揭噹剥垦狭魁坊盐屎郝佩摧栗菊瘦钧匿砖嘘缚嘟盆债霞挽逍畔蕴颈获畏喂脾姬赴囊噪熄锡诀肇璋晕浊伐峡窃枕倘慌垮帕莹琦厢渺脏削锣虐豔薇霉衍腊喧娶遂睁裙韦矢伺钉婴蓄奸廿堵葬蓬鸦尝挨蕾璿挚券厨醇呻霍剃浆葡暨滨履捞咕耕棉烁尉艰妓棺鹏蒸癌纬菌撇惩绑甫崩魄拂汰氓歇萝呒萄蕃曝疋向胏烛腻襄妆髓朴薯颂薛滩橘贰嘲叹枚侮豹巢酬碑翩蚕辽矿屡谴卵撰攀肌冯宴盏阪浦迦颁炼尬胀辟艘株只湘饲爹梨喽侍疫雕黯并铝弗爪鄙钗栽狸谘柄悸喉擅劈秉芷裸锵贾逗寓咚璞烫铅啸炳屿竖惶仕挪栅迄顷窄鸥鲢郊倩兜茧磊抒夷绰溯拙僚芙杖溃凶鸽妒沌祺呐卦聆栖蝇佮唾汇楣匠蛛悼舜耿瞄芋瞒竭茵吼苛浸拯克豆沛掠廊凸搅俺酌倡朦蕉暱焕掏蝉焰狄绳惰芽裹宛御赎燥滔贬悍袂坟颉啤押尴颤钝腥缔粮哑槟簿斧肿纶僵齣辖蹲敷喘扎酿佑肖愈隧嗜檬迳碌襟凋圭寇污哨倪筠桦诈姜旬秃脂噢撼衅庚炫谭惭涩崔贷胡晒琉捏绮膝拭暗醋膨杠鑫瀑喃剖袜逾涅扳惘凳呃掘捍榔窍蜗旷梵暇稻柠抉辗蔚钩卜莺匡蜘祯���窟亟谛溢黛晦伶逮傍葱刁堤恍匣谍禧轿耸瀚斐忿泓拐驴罕沫绽刃窈渝仄瑛葵噜绣奕窥浏隶蔽仟敛丞诘鳖疤膏锥窕皱晰晖舅孰煽姚钞袱绊焚芦咸沮呕瞪淳丐茹盘菱篠涕衬蚀溉瑄翟怠钰躯肺掷丑奢荫靶纱芸佰峻阱哄肾庄囡阑戳腕菸凹蟾蒐呱巾雏螃盯馈垄毓犀逞姨穆樵阀弥跷搁隙疵憧忏琨阙萱怅辄搏榕饥捣渣眺虞俯绅谤珑咫俏淆蜀楠乞诅匀貂寰迋敞跪囚溺骆憬苇脊瑶疆乍杆眸窜孽卅夭簧徘馒趴鎚啼冗缉絮啄沸萃嘶鸳禽惫徨屐舆邂掀嫖苟檯矫铎棱哗徊拱蕙徬滞吠妞氾芹叩朽侪赦汐丰虔茅棠仑膳魉儡鸯懦渗邵筱畜崖瑕蕊揣擒挂屯莽矽侏弧澈饺奎裘塌饵偎泻蔓彗樽衔茍磋萎廓悯铸茎歼壤浇蚤恃瞻拚汀椒嚼粥磅佫勘脖吨澜锻笙厄嚷伽徽隅寥缤簾烘茜驯噎厦闰煤链锈诫颊俐曳蓓暧郤淌喀昆蔑峙躁菇逅雇殴泌酥缮莓辕骇巍糗扛杏茁琵礁秽岔僻焊嗡诵瞌捌遁赃涡琮卯锯扔苏邹莅隘蹋湛昼岫蛰桩藐汲禄皂濑绒耽粪粤卤曜懋咎痘聂垢瞳闵睿跤鉴躬斟淇莒毯幸骋岱庐殃橄恤叽鳞蒙芥榄楷硫苔麒椎禹喙厘袅亥倌吭诃裔梓蓦岩帜瓣狡惕蒙怯嫩龚嚎豚埠暸唆妃瓢蹄厮讥啃琶愿噱狷搪氢橙咆靡砌筷兑溼呸镀踹冢祟懈术搓攸橡膛俞祉冀炊瓷遐揽鹭茄蜢塘郡韬挟牟糙阎旻赘霆呎炭霄媳瘤猿颺煚铠蝠钜苓傀烬墅璇困愣恬嫉琐嫂淼梳憎搂藻酵屉陡摺箫飨桐蚱曦璧偈蹦昶咙铮嗤戌屌耘裳啾嵘胺笃烹巩厝疚鸶汹蔷沐咽烙畸讳揍曙铐朔涓睬矶岐凄鲫楞鲤荆偕徜饥肮蔼辙恁霈诛鞠茉煜傭嗓酹昙铨艳绷峨揉珈鹃诲臆焰隽熔堇韧扒憨舵肛戊坝抠骷碘鞍���榨肘羔哺霓巳铲蚵惆驹撷稽羹纺蜕趾吊豁褪癸眨臻慷蝙胧沼舱柚抨葭枷靥硝绚绞缆讪褚砗嫣蒲丫鹦蒹憩懊聋盎婊盔峦矜凛铺鹉蜴惚畴羁媛堑泛疮韶憋祁诟搔蜥袒奄忱玖拌悴祠扼髅筑蛤茱骐捶须亢葔艸筛岳岳慵戮跎砰仑炜篱笈瘫吏痊庶厥棘娑沁窘鲸缕硷俨栈蔬鸠闲迢恣昀泠涟眩噫娥荼鳄镖侃虏俾樟榴咛炬窦笠翱莘躇翡姜枭匕藩徉觞拣吱皈墉傌梢巅踌萌幌杭侥栾奠痲夸瘖芯蟀驿耨禾瑾
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅲ
花鳥誌2024年3月号より転載
日本文学研究者
井上 泰至
4 山人のかきね傳ひやさくら狩
『年代順虚子俳句全集 第二巻』明治三十九年の項に「四月中の作句と覚ゆるもの」とある中の一句。『ホトトギス』には同年七月号に載る。���さくら狩」は和歌以来の言葉で、いささか俗な「花見」に比べて、雅趣のある言葉だ。「鷹狩」同様、花を求めて歩く意がある。筵を敷いて眺める「花見」が「静」だとすれば、「さくら狩」は能動的な含意を持つ。星野立子はこう解釈する。
桜を見に山に分け入りました。桜の名勝地吉野とか鞍馬でしょうか。山道を辿っていると百姓家か、由ある人の住居か、ある家の垣根が長く続いているあたりに出ました。どのような人が住んでいることかと思いながら通り過ぎました。桜狩というのですから花を見る目的で山路を歩いているのでありましょう。その山人の垣根づたいも一再ならずあったかも知れません。兎に角、山に住んでいる人の家の垣根づたいを過ぎ去ってなお奥の方へ分け入りつつある時の情景であります。
散在する山間の桜なればこその「狩」である。そして、立子がほのめかすように、「山人」という言い方に一種の軽い「謎」があって、家の主人をあれこれ想像する気分も受け取れる。
謡曲の世界を背景に見ようとする向き(清崎敏郎「研究座談会」)があるのは、脇が桜を訪ね、桜にちなんだ精霊のシテが山人の仮の姿で現れるような能を想定したのであろうが、そのような曲はない。「狩」の言葉の持つ雅趣が、そういう踏み込んだ解釈を提示させる事情は理解できる。
中七の「垣根づたひや」という言い回しには、軽い浮かれた感じがあり、そこに山間に「一花所望」とばかり、花を求めて逍遥する気分の楽しさを感じ取ればよい。句全体もア行音が繰り返され、リズムがいい。
なお、1番「美しき人や蚕飼の玉襷」は他者を詠んだ「他」の句。2番「山寺の宝物見るや花の雨」は自分を詠んだ「自」の句。3番「芳草や黒き烏も濃紫」は、「他」、そしてこの句は「自」ということで、虚子は意識して配したか。自他の区別は虚子が親しんだ連句の発想である。四句「や」が入った句が続いた。
5 春風や闘志抱きて丘に佇つ
大正二年二月十一日、三田俳句会で発表されたものである。この句会は岡本癖三酔(廉太郎)が起こしたもの。『ホトトギス』には同年三月号に載る。『贈答句集』の前書には、「大正二年・俳句に復活す」とあって、小説に転じていた虚子のいわゆる「俳壇復���」を象徴する句として位置付けられてきたが、実態は、陰影に富んでいる。
虚子が遠ざかっている間、河東碧梧桐の活動は旺盛で、俳句の流れは碧梧桐によって、古典的世界を離れ、詰屈な文体に新奇の題材を衒った新傾向俳句が流行していた。周囲からも、当時隆盛の自然主義の影響もあって、俳句はいずれ季題中心の世界から離れると考えられていた。虚子は、当時「負け組」と捉えられていたのである(拙稿「明治末年の俳諧史―池田常太郎『日本俳諧史』をめぐって」『連歌俳諧研究』一三三号)。
しかし実際は、大方の予想に反して虚子が平明にして余韻ある俳句、古典文芸としての俳句を主張し実践することで、後の『ホトトギス』王国を築くに至ったということになる。その時の虚子の戦略は、日露戦争後の不況と青年の「煩悶」を前提に、村上鬼城・飯田蛇笏・原石鼎ら不遇の若者の主観的俳句を拾い上げるとともに、地方の中間層を開拓して俳句の大衆化に向かうという二つの路線を用意していたようだ。作家の発掘と俳句愛好者の「市場」開拓という双方を兼ねる複眼が、虚子の戦略であった、ということになる(拙著『近代俳句の誕生』「Ⅳ 大虚子への道程」)。
掲句へ戻ろう。強くとも、駘蕩たる春風から湧いてくる「闘志」とは、単純な情熱ではないだろう。争いを好まなかったように見えるが、虚子に「比類のない勝負師の魂」を見て取ったのは山本健吉(「俳人虚子」『俳句』昭和三十四年五月)だった。勝ち負けは、彼の脳裏に常にあり、彼に盾ついた者は、たいてい最後に敗れ去り、虚子は黙殺による勝利を、常に収めている。だが、そのような意識は、ほとんど表面に現したことがないのは、自制力が強かったからだ、とも言っている。
後に赤星水竹居の『虚子俳話録』(昭和二十四年)で、虚子はこうも振り返っている。
私は自分の事は結局自分で解決せねばならぬと、いつも考えています。病気の時なんか苦痛をこらえながら、いっそう深くそんな事を感じます。
俳壇復帰の直前、腸を病んで長期にわたり臥せっていたから、この句の成立に関連しては、考えておくべき問題である。こうした我慢強さが、何に由来するかと言えば、健吉の見るところ、それは自身を恃む気持ちの強さによる、ということなのである。
水竹居も健吉も、この粘りと寡黙と忍耐強さを徳川家康のようだと比定している。
なお、掲句と一対の次の句は、隆々とした力強い太い筆勢。特に「春」と「闘」は、力感に溢れ、一句の眼目となっている。
『虚子百句』より虚子揮毫
1 美しき人や蚕飼の玉襷
2 山寺の宝物見るや花の雨
3 芳草や黒き烏も濃紫
4 山人のかきね傳ひやさくら狩
5 春風や闘志抱きて丘に佇つ
6 葛城の神臠はせ青き踏む
国立国会図書館デジタルコレクションより
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井上 泰至(いのうえ・やすし) 1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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香港デモ激化の背景に「中国マネー」
中国人は無類の不動産好きだ。日本においても2000年代後半以降、彼らによるさまざまな不動産取引が盛んに行われてきた。中国企業による億単位のホテル投資やオフィスビル投資、個人投資家によるワンルームマンションや民泊物件、極めつけはリゾート地や山林・水脈地にいたるまで、ありとあらゆる不動産が彼らのターゲットとなった。
2020年に入ってもその投資意欲は旺盛で、筆者にも何人かの中国の友人から「日本で不動産を買いたいのだけど」と相談が持ち掛けられた。
人口減少を最大の課題とする日本では、不動産業者が新たに住宅を分譲しても「即日完売」の札が下がるケースは実に少なくなった。中古市場でも値段を落とさなければ買い手がつかなくなる中で、一部の業界が購入意欲満々の中国からの投資に期待を寄せるのは無理からぬことだった。
しかし、ことはそんなに単純ではない。香港に目を向ければ、中国からの不動産投資が行き過ぎて高騰し、地元の庶民が住めなくなったという悲劇が起こっている。抗議デモがあれほど過激に発展したのは、中国マネーの流入が遠因だ。ここではその過程を振り返ってみたい。
リーマンショックの下落が「買い」だった
話は2000年代にさかのぼる。1997年7月の香港返還以降、中国では空前の「香港不動産投資ブーム」が到来し、芸能人や有名企業の経営者などが香港の不動産をこぞって買い求めた。しかし2009年、中国ではリーマンショックの影響を受け景気が落ち込んだ。政府はすぐさま4兆元(当時のレートで約64兆円)の財政出動を行ったのだが、このときのだぶついた一部の資金も香港の不動産投資に向かったといわれている。
香港不動産もリーマンショックの影響で下落したのだが、「このときがまさに“買い”でした」と、投資家の友人は語る。
「中国共産党幹部が香港に豪邸を構えている」――というまことしやかな噂も立った。かの香港紙「蘋果日報」(アップルデイリー)によれば、習近平国家主席も浅水湾(レパルスベイ)に6億4000万香港ドル、日本円にして約90億円相当の物件を所有しているという話だ。
しかし、資金源はいずれも極めて不透明だ。額に汗して稼げる金額ではない。共産党幹部にせよ政府官僚にせよ、利権を金に換え、膨大な資金をため込んだ疑念は払拭できない。
一方、持てる者からすれば、「中国本土に桁外れの資産を置いておくのは危険だ」という認識がある。これまで職権を乱用し“口利き料”を受け取ってきた高級官僚にとっては、政権交代や派閥闘争の結果如何で、いつ何時どんな罪名で牢にぶち込まれ、資産のす���てを没収されるかわからないからだ。中国では地位が高い者ほど、想定外のリスクに常時怯えている。
「取られる前に海外に資産を移す、隠す」――香港はこうした“曰く付きのマネー”の格好の投資先となった。
規制をかいくぐる香港のカラクリ
2014年、中国は外貨準備高が4兆ドルに達する一方で、海外への資金流出に歯止めがかからなくなってしまった。もとより、中国政府は海外への外貨持ち出しを厳しく制限してきたが、2016年に外貨準備高が3兆ドルの水準にまで落ち込むと、さらに資金流出に神経をとがらせるようになった。
一時は、銀聯カード(中国の銀行が発行するデビットカード)などを複数枚使いながら、国外のATMで中国の預金口座から繰り返し資金を引き出すという資金移転のやり方で、海外に億円単位の豪邸を買うなどの荒業も散見されたが、こうした攻略法も使いにくくなった。
外貨持ち出し制限が厳しくなる中、今なお香港で分譲物件を購入できるのはどういうわけなのだろう。筆者の中国人の友人も、2016年に日本円にして4億円超の戸建てを香港で購入している。そのあたりの抜け道について、ある中国人実業家に訊ねたところ、こう返ってきた。
「中国の高級幹部ならば、地下銀行を使って何百、何千億円単位の人民元を香港に送金することができる。中国の一般市民の場合は、深圳と香港の間を往復するブローカーに現金を運ばせるケースが多い。あるいは、海外に法人口座を持つ中国人に物件を購入してもらい、それに相当する対価を人民元で返すなど、友人同士のネットワークを利用するケースもある」
送金の抜け道はいくらでもある
「上に政策あれば下に対策あり」とはこのことだ。帳簿に載せられないカネを、無数に張り巡らされた“闇ルート”で中国から香港に運び出す、ひとたび香港に資金移転することができれば、香港の法治の下で、その資産は安全に維持管理することができるというわけだ。
表向きは「法治」、水面下には「無数の闇ルート」を備えた香港は、共産主義国家から資本主義国家への橋渡しするグレーなエリアであり、金持ち向けに実に都合よく設計された土地である。
ちなみに香港の不動産企業の管理職によると、2019年、香港の大手不動産仲介業者が取り扱った中古住宅の最高価格は、実に12億香港ドル(約168億円、1000平米の物件)だったという。東京でさえも聞かないとんでもない金額だが、「こうした巨額投資のほとんどが大陸からのものだ」(同)という。
前出の中国人実業家は、「不動産物件が高額になればなるほど、中国人にとって中国内地の資金を持ち出すのに好都合だ」という。香港ではこうした一国二制度の差を悪用したロンダリングや錬金行為が日常的に行われているのだ。まさしく、香港の闇の部分である。
香港の人間が家を買えない
“竹林のようにそびえる高層住宅”が香港の象徴であるように、香港の土地は有限だ。わずか1100万平方キロメートルと札幌市と変わらぬ面積に730万人超の人口がひしめく。香港は世界でも指折りの“住宅難都市”である。
過去20年の統計を見ると、香港で地価の高騰は2003年を底に急上昇を始めたことがわかる。2018年の住宅価格は2003年からの15年間で4倍に高騰した。「バブルだ、バブルだ」と騒がれた上海の住宅価格は2010年に東京の水準を超えたが、香港は上海の倍の水準である。日本では「住宅は世帯年収の5倍が適正価格」といわれているが、香港の平均住宅価格はもはや世帯収入の14倍だといわれている。
香港ではここ数年、一般市民向けの住宅が投資の対象になっている。住宅ローンの利率が大陸よりも低いことから、大陸の中間層が香港で住宅を求めるケースが増えたのだ。また、大陸では住宅の購入規制が導入され、自己居住以外の物件(賃貸事業用不動産)が取得しづらくなっている点がある。近年は、大陸の住宅価格が香港並みに上昇したため、香港の住宅は相対的に安く手に入れることができるようになった。
香港でこのように急激に住宅価格が上昇したのは、大陸からのチャイナマネー流入による高騰にほかならず、結果として、香港の住宅バブルは香港社会に深い断絶をもたらした。すでに持ち家に居住している人は資産価値が「億円単位」に跳ね上がるというバブルの恩恵に浴したが、これから住宅購入を検討しようという人にとっては絶望しか残されていない。若い学生たちがデモに参加して激しい怒りをぶちまけたのは、このような住宅事情にも由来する。
産業も「中国人好み」に舵を切り…
2003年、香港経済はSARSの蔓延により大打撃を受けた。その救済策となったのが、中国の一部の都市からの個人旅行解禁だった。その後、香港は中国人観光客を中心としたインバウンド産業が大いに発展したが、結果として香港の街は「中国人客好み」にガラリと変化してしまった。
現在の香港の街を象徴するのは、ビクトリアピークでも女人街でもない。今やどこに行ってもドラッグストアと宝飾品チェーン店ばかりが視界に飛び込んでくる。この光景こそが、中国人観光客にのめり込んでしまった香港の姿である。中国人観光客が欲しがる商品と店づくりを追い求めた結果、香港の街はドラッグ・コスメチェーンの「莎莎」「卓悦」、宝飾品チェーンの「周生生」「周大福」の商業看板に埋め尽くされてしまった。
中国人観光客がスーツケースを転がしながら徘徊し、買った商品を詰め込むシーンは「爆買い」に沸いた数年前の日本とまったく同じ光景だ。
中国依存を続けてきた末路
旺角モンコック在住の香港人は、「ラーメン屋が立ち退かされ、入ってきたのは中国人客目当てのドラッグストアだ。家の周辺にはすでにドラッグストアが10軒以上もある。こんなに何店舗も必要ないよ」と呆れて言い放った。香港経済が中国人客目当てのインバウンドに傾斜して生活環境が大きく変わったことも、地元民の大きな不満になっていた。
そして2019年、大規模な抗議デモが反中色を帯びると、大陸からの観光客は激減した。2018年の香港には日本の6倍にのぼる5100万人の中国人観光客が訪れていたが、2019年は4377万人と、前年比で14%も減少した。
市民の反感を買いながらも店舗を増やしたドラッグストアだが、これにより化粧品や薬の販売も大幅に落ち込んだ。2020年には追い打ち���かけるように、コロナ禍が香港を直撃した。観光客の8割を中国大陸に依存し続けてきた香港は「中国一極依存のリスク」に直面し、香港のインバウンド事業者は「観光客ゼロ、収入ゼロ」に頭を抱えた。
中国マネーの本当の恐ろしさ
香港への不動産投資とインバウンド客の増大、そして香港への移民流入は、香港返還後に徐々に進んだ変化だった。しかし、その変化に気づいたときには、香港市民は自分の生存空間をすっかり失ってしまっていた。
香港だけではない。オーストラリアでも中国マネーが集中した都市では、地元民が住宅を買えないという本末転倒な事態が起こった。早晩、日本でも地元民が生まれ育った地元を離れなければならない事態が起こる可能性がある。
産業も「中国人好み」に舵を切り… 2003年、香港経済はSARSの蔓延により大打撃を受けた。その救済策となったのが、中国の一部の都市からの個人旅行解禁だった。その後、香港は中国人観光客を中心としたインバウンド産業が大いに発展したが、結果として香港の街は「中国人客好み」にガラリと変化してしまった。
現在の香港の街を象徴するのは、ビクトリアピークでも女人街でもない。今やどこに行ってもドラッグストアと宝飾品チェーン店ばかりが視界に飛び込んでくる。この光景こそが、中国人観光客にのめり込んでしまった香港の姿である。中国人観光客が欲しがる商品と店づくりを追い求めた結果、香港の街はドラッグ・コスメチェーンの「莎莎」「卓悦」、宝飾品チェーンの「周生生」「周大福」の商業看板に埋め尽くされてしまった。
中国人観光客がスーツケースを転がしながら徘徊し、買った商品を詰め込むシーンは「爆買い」に沸いた数年前の日本とまったく同じ光景だ。
中国依存を続けてきた末路 旺角モンコック在住の香港人は、「ラーメン屋が立ち退かされ、入ってきたのは中国人客目当てのドラッグストアだ。家の周辺にはすでにドラッグストアが10軒以上もある。こんなに何店舗も必要ないよ」と呆れて言い放った。香港経済が中国人客目当てのインバウンドに傾斜して生活環境が大きく変わったことも、地元民の大きな不満になっていた。
そして2019年、大規模な抗議デモが反中色を帯びると、大陸からの観光客は激減した。2018年の香港には日本の6倍にのぼる5100万人の中国人観光客が訪れていたが、2019年は4377万人と、前年比で14%も減少した。
市民の反感を買いながらも店舗を増やしたドラッグストアだが、これにより化粧品や薬の販売も大幅に落ち込んだ。2020年には追い打ちをかけるように、コロナ禍が香港を直撃した。観光客の8割を中国大陸に依存し続けてきた香港は「中国一極依存のリスク」に直面し、香港のインバウンド事業者は「観光客ゼロ、収入ゼロ」に頭を抱えた。
中国マネーの本当の恐ろしさ 香港への不動産投資とインバウンド客の増大、そして香港への移民流入は、香港返還後に徐々に進んだ変化だった。しかし、その変化に気づいたときには、香港市民は自分の生存空間をすっかり失ってしまっていた。
香港だけではない。オーストラリアでも中国マネーが集中した都市では、地元民が住宅を買えないという本末転倒な事態が起こった。早晩、日本でも地元民が生まれ育った地元を離れなければならない事態が起こる可能性がある。
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あけましておめでとうございます
令和三年元旦
牛の仮面 2005年5月7日 88 (h.) × 37 (w.) × 25 (d.) cm 2.8 kg ・オートバイの二人乗り用掴みベルト付き座席 (合成皮革/スポンジ状ポリウレタン/プラスチック/鉄) ・オートバイのブレーキ/クラッチ・レバー (アルミ) ・ 〃 バック・ミラー (鏡/鉄/プラスチック) ・ 〃 後輪泥除け (プラスチック) ・ボルト・ナット等 (鉄)
Happy New Year ! January 1, 2021
Cow Mask 5/7/2005 88 (h.) × 37 (w.) × 25 (d.) cm 2.8 kg ・Tandem Seat with Grip Belt of Motorcycle (Synthetic Leather, Polyurethane Foam, Plastics, Iron) ・Brake/Clutch Lever of Motorcycle (Aluminum) ・Rearview Mirror of Motorcycle (Mirror, Iron, Plastics) ・Rea Fender of Motorcycle (Plastics) ・Bolt and Nut etc. (Iron)
1943年の早春のある日のこと、ピカソはドイツ軍占領下のパリの街を歩いて家に帰る途中、道端にゴチャ混ぜになって積み上げられていた廃品の山の中に、錆びた自転車のハンドルと、その直ぐ横に転がる革のサドルを見つけました。その瞬間、その二つは電光のように閃いて頭の中で組み合わさり、それを家に持ち帰って接合し (後にそれを型取り・ブロンズ鋳造する)、この彫刻史に燦然と輝く––––錆びてますが (笑) ––––<牡牛の頭部>(1) ��造ったのでした。
(1)-1 ピカソ <牡牛の頭部> 1943
(1)-2 自転車のハンドル (金属) とサドル (革) 正面下から見上げた
(1)-3 ブロンズ鋳造
(1)-4 少し左から見上げた
(1)-5 少し右から
これこそが、私がこれまでに何度か述べてきた (2)「チャンス・イメージ」––––この場合はサドルが牛の顔に/ハンドルが角に似ているという「私たちの記憶像 (この場合は牛の) を喚起する偶然の類似形」––––と、その記憶像を、今度は逆にその類似形の上に脳内で重ね合わせる「プロジェクション (投映)」とが、一瞬で双方向に交差した典型的な例なのです。 これは、視覚/認知心理学や脳科学の分野では––––「シミュラクラ (あるものが顔に見える) ⊂ パレイドリア (あるものが何かに見える)」––––と称ばれている現象です。 そして、こうした視覚心理現象に基づく造形手法が––––「レディ・メイド (既成の物) 」としての「ファウンド・オブジェクト (今まで気にも留めなかった物が新たに見直される、そのようにして改めて見出された/発見された物体) 」の「アッサンブラージュ (寄せ集め/組み合わせ)」––––で、ピカソのこの<牡牛の頭部>は、まさにその栄えある先駆/嚆矢/原点でもあります。
尤も、この視覚心理現象+造形手法と牛との最初の出会いは、実はピカソの遥か以前の1万8千〜1万年前に、既に始まっていたのでした。しかもその場所は、ピカソの故国スペインの––––それも彼が10歳から14歳まで暮らしたスペイン北部の町ラ・コルーニャのあるガリシア州から東に二つ隣のカンタブリア州の––––アルタミラ洞窟なのです。 「徐々に土中に向かって傾斜している」この洞窟の「すべての劇的なアクセントはただ一カ所––––大きな部屋の天井––––に集中されてい」て、「この天井の高さは…約2m から1m まで…奥にゆくにつれて徐々に低くなっている」とギー���ィオン(3) が書くその部屋を、ヒキ (引き) で撮った写真が (4)-1 で、ヨリ (寄り) で天井を撮った写真が (4)-2 です。
(4)-1 アルタミラ洞窟 大きな部屋 全景 (白黒)
(4)-2 大きな部屋 天井部分 (白黒)
最初に敢えて古い横からの照明の白黒写真をお示ししたのは、私たちがそれを見る限りは只のデコボコと波打つ天井にしか見えないからです。しかし、これを旧石器時代末期のマドレーヌ人が見た時––––私たちには見えないのだけれど、彼らが常日ごろ見慣れ、或いは見たいと切望していた (からこそ見ることのできた)––––体を丸めて地面に横たわり出産しようとしている (食料とその安定供給をもたらす) 無数の雌の野牛の群れを見出したのです。 そして、その岩のレリーフ (浮き彫り) 状に膨らんだ凸塊に、鉄錆=酸化鉄系の赤い土 (性顔料) を塗ったり吹き付けたりして白っぽい素地から形を浮かび上がらせ、更に、形の内外を画す輪郭と、欠けていて足りない尻尾や角や背中のタテガミを形の外側に、また、折り曲げた前・後脚を形の内側に、いずれも黒い炭などの顔料で描き足して全体を完成させたのです (4)-3, 4, 5 。
(4)-3 大きな部屋 天井部分 (カラー)
(4)-4 上の (4)-3 の上中央の野牛 正面正対 (白黒)
(4)-5 上の (4)-4 の野牛とその周辺 (カラー)
ギーディオンは、こうした表現––––つまり「チャンス・イメージ ⇄ プロジェクション」/「シミュラクラ ⊂ パレイドリア」/「レディメイドとしてのファウンド・オブジェクトのアッサンブラージュ」––––を、彼の言い方で次のように記しています。 「実在する自然石の形をそのまま用い…, 岩の自然の形状のうちに潜在している動物…を識別する…循環現象により���作られ… (中略) …, 自然…すなわち岩盤の線と輪郭に従うことによ��て, 発生したのである.」(pp.371-372) 「マドレーヌ人の目には, 岩の表面が内面に動物の形を含んでいるようにみえ…またそういうことに…かれらはいつも気を配っていた.」(p.394) 「この動物の姿勢全体は岩の形によって決められた. …天井の表面の凹凸がこのような姿を暗示させたのである….」(p.427) 「横たわるビゾン この身体をまるめた…ビゾンは倒れているのではなく, たぶん分娩しているのであろう…. この姿は完全に隆起した岩の形によってきめられている. 露出した岩石にたまたま眠っている生命を認め, それに形式をあたえる…マドレーヌの美術家たちの力のあらわれがある. われわれの目には, 色彩のない突起はたんに無定形の岩のこぶにすぎない. しかしマドレーヌ人はそれらをまったく違った感覚でうけとめた. …かれらは自然に存在している形に想像的に接近し…たのである.」(pp.427-428) 「岩の中にすでに存在した姿が…空想を産んだのである.」(p.489)
このマドレーヌ期から1〜2万年後に形を変えて繰り返されたピカソと牛 との出会いは、子どもの頃に父に連れられて見に行き、すっかり魅せられて虜になってしまった闘牛 (コリーダ) から始まります。須藤哲生は『ピカソと闘牛』の中で次のように書いています。 「ピカソの芸術は闘牛とともにはじまった。現在までに確認されている最も初期の作品は、油彩にせよ、素描にせよ、コリーダを主題としている。……デッサン第一号も…『コリーダと六羽の鳩の習作』…で…、これをピカソの最も古い作品という説もあり、…十歳前後のデッサンであろう。……一枚の画用紙を天地に使って闘牛のシーンと鳩を描いたもので、……きわめて象徴的な意味合いを帯びている。闘牛と鳩。血なまぐさい闘技と平和のシンボル。まさに天と地の違いの、この二つのおよそ対蹠的なテーマは、ともに終生ピカソの芸術を貫いた主題であった。」(5)
(6) ピカソ <闘牛と鳩> 紙に鉛筆 1890
実際、この<コリーダと六羽の鳩の習作>(6) 以降、この牛は、ある時は牛頭人身の<ミノタウロス>(1933~)(7) となり、またある時
(7) ピカソ <ミノタウロス> 1933
はファシズムと母国スペインという相反両義の象徴となって<ゲルニカ>(1937)(8) の死児を抱いて泣き叫ぶ母の背後に佇み、また、ド
(8) ピカソ <ゲルニカ> 1937
イツ占領下のパリではナチスの鍵十字ともキリストの十字架とも取れる両義的な窓枠の前に置かれた頭蓋骨––––<雄牛の頭蓋骨のある静物>(1942)(9) ––––となり、そして、この翌年の<牡牛の頭部>(1943) へと変身し続けて行くのです。
(9) ピカソ <雄牛の頭蓋骨のある静物> 1942
私は拙作の題名を「頭部」ではなく顔面としての「仮面」にしましたが、ピカソの<牡牛の頭部>も––––特に型押し成形の革のサドル(10) の凸面は––––仮面的であり、彼が若き日のキュビスム時代に多大な示唆を得たアフリカの仮面彫刻を彷彿とさせます。このキュビスム/仮面性は、例えば戦後すぐに制作したリトグラフの連作––––モンドリアンの樹木を抽象化して行く過程を辿る連作にも似た––––<雄牛 I~XI>(1945~46)(11-1) の内の VI (11-2), VII, X にも窺えます。
(11-1) ピカソ <雄牛 I~XI>(1945~46) リトグラフ
(11-2) ピカソ <雄牛 VI> 12/26/1945 リトグラフ
かくいう拙作も、当然ながらアフリカの仮面を意識的/無意識的に思い浮かべて––––尤も、牛とは限定せずに漠然と動物らしきものをイメージして––––造ったものですが、改めてウェブ上で拙作に似た––––細面��「馬面」で、真っ直ぐな角の––––牛の仮面を探してみると、牛は牛でも野牛/水牛 (Buffalo / Bush Cow) の仮面とされる (しかし実際の野牛/水牛とは一寸違うように見える) 幾つかの仮面の中に、似ているもの (12)-1, -2 がありました。
(12)-1 野牛のマスク (マリ共和国-ソニンケ文化)
(12)-2 水牛の仮面 (カメルーン共和国-バミレケ/バムン文化)
なお、この未発表の旧作には「サトコ」(聡子)という名前が付いています。彼女は私が卒業研究 (作品制作) を指導した学生の一人で、このバイク・シートは、彼女が素材として集めたものですが、「これ、横のベルトの留め金具が目みたいで、動物の顔に見えるなぁ」と呟いた私に、卒業する時、「先生、どうぞ」と言って置き土産にしていったものです (彼女は卒業後、家具職人の修行をしにドイツに渡りました)。 当時、大学の直ぐ南隣の丘の斜面に、若者たちがやっているバイクの解体作業場があって、ジャンク・ヤードさながらに部品やら何やらが散乱していて、私のようなジャンク・アーティストにとっては、そこは宝の山でした。この仮面の耳と角 (ツノ) に見立てたバック・ミラーと���レーキ/クラッチ・レバーは、そこで見つけた物 (字義通りのファウンド・オブジェクト) です。 仮面と言っても、これは顔面に装着するコンセプトではない (そもそも重くて無理な) のですが、最後に、楽屋裏をお見せすると (下の写真) ––––色や形が肉を削いだ牛骨のようで、一寸グロいので御注意下さい!––––ご覧の通り、この耳も角も、極く普通の金具を使って、極く荒/粗っぽい、単純な取り付け方をしております。
[註]
(1)-1 via [https://www.slideshare.net/nichsara/sculpture-upload––No.22]。 (1)-2 via [https://www.pablopicasso.org/bull-head.jsp]。アトリエを訪れた写真家のブラッサイに、作品の制作過程を語ったピカソの言葉が、末尾に引用されています。 なお、この作品の制作年に関しては、ニューヨーク近代美術館–ウィリアム・ルービン編集、日本語版監修-山田智三郎・瀬木慎一『パブロ・ピカソ–––天才の生涯と芸術』(旺文社, 1981, pp.351-352) のジェーン・フリューゲルによる年譜に従いました。 (1)-3 via [https://www.moma.org/audio/playlist/19/412]。鼻梁に沿って空いているはずの二つの鋲穴が塞がっているので、ブロンズ鋳造と分かります。 (1)-4 via [lezards-plastiques.blogspot.com/2010/09/sixieme-personnages-et-animaux-de-bric.html]。 (1)-5 via [sakainaoki.blogspot.com/2014/02/1942.html]。 (2) 例えば [https://kobayashimasahide.tumblr.com/post/189982445375/happy-new-year-january-1-2020-clockey] の [註]。 (3) S. ギーディオン著、江上波夫・木村重信訳『永遠の現在–––美術の起源』(東京大学出版会, 1968, p.420)。 (4)-1 via [https://fascinatingspain.com/place-to-visit/what-to-see-in-cantabria/altamira-caves/#1505145409627-b0f76054-69219231-ea60]。 (4)-2 ギーディオン、前掲書 p.423-pl.「280. アルタミーラ 嶮しく傾斜する天井. 前面に多彩のビゾンが岩の隆起の上に描かれている.」の複写。 (4)-3 via [http://www.tsimpkins.com/2017/10/echoes-of-atlantis-by-david-s-brody.html]。 (4)-4 ギーディオン、前掲書 p266-Color pl. XIV. の白黒複写。 (4)-5 via [https://100swallows.wordpress.com/2008/10/11/art-in-the-great-altamira-cave/]。 (5) 須藤哲生『ピカソと闘牛』(水声社, 2004, pp.26~29)。因みに、平和の鳩に関しては、拙稿 [https://kobayashimasahide.tumblr.com/post/155212719705/happy-new-year-2017-dove-of-peace-masahide] で、作品の画像を一つ引用しています。 (6) via [https://www.pablo-ruiz-picasso.net/work-3936.php]。 (7) via [https://www.pablo-ruiz-picasso.net/work-1088.php]。この頭部は、次の (8) の戦時中の頭蓋骨を予感させます。 ところで、この牛頭人身のミノタウロス (Minotauros) とは、クレタ島の王ミノス (Minos) の妃が牡牛 (taur) と交わって生んだ息子ゆえに付けられた名前ですが、ミノス王自身もまた、ヨーロッパの語源となったフェニキアの王女エウロペが牡牛に変身したゼウス神と交わって生んだ半神半人の息子です。そのクレタのクノッソス宮殿には、突進してくる牛の二本の角を掴み、牛の背中の上で前方宙返りをし、牛の背後に着地する一種の闘牛的「牡牛跳びの儀式/競技 」を描いた壁画が残されています。ことほどさように、東地中海地域では、牛と人間との間には古く (ギリシャ以前のミノア文明の時代) から、深い関係がありました。
<牡牛跳びの儀式/競技 > クレタ クノッソス宮殿壁画 via [http://arthistoryresources.net/greek-art-archaeology-2016/minoan-bull-jumping.html]
ピカソはスペインで生まれてフランスで暮らしましたが、先の (3)〜(4) のアルタミラのあるカンタブリア州から更に東に進むと、フランスとの国境を成すピレネー山脈があり、その北側から南フランスへと流れ出すガロンヌ川の��流域にも、沢山の旧石器時代壁画を有する洞窟群が展開しています (この西仏双方を合わせて「フランコ・カンタブリア地方/美術」と呼んでいます)。そのガロンヌ川源流域のレ・トゥロワ・フレール洞窟に、1m と隔てぬ近い距離で、このミノタウロスを思わせる二体の牛頭人身像––––「楽器を奏でるビゾン人間」と「人間の膝…ふくらはぎ…勃起し…た男根……をもつ野牛的動物」(前掲 (3) のギーディオン pp.499-507)––––が描かれているのです。
<楽器を奏でるビゾン人間> ブルイユによるレ・トゥロワ・フレール洞窟壁画のトレース画 via [https://www.larevuedesressources.org/les-reponses-erotiques-de-l-art-prehistorique-un-eclairage-bataillien,605.html]
<人間の下半身を持つ野牛的動物> ブルイユによるレ・トゥロワ・フレール洞窟壁画のトレース画 via [http://reportages.saint-pompon.com/reportages2/04e7589d8909f0601.php]
このように、フランスと東地中海も含む南ヨーロッパ美術史における牛と人間との関係は、旧石器時代の昔から今日まで極めて深いものがあり、牛をモチーフやテーマにしたピカソも、単にその一例に過ぎないと言えるのかもしれません。 (8) via [https://www.pablo-ruiz-picasso.net/work-170.php]。 (9) via [https://www.pablo-ruiz-picasso.net/work-195.php]。 (10) 私もピカソへのオマージュとして、自転車のサドル (但し革ではなくプレス成形鉄板) を顔/頭にした (牛ではなくて) アルマジロを造っています ([http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/1916/1/Vol63p77.pdf -pp.94-95])。 (11)-1 via [https://pintura1krasmanski.blogspot.com/p/material-de-consulta.html?m=1––pl.2]。 (11)-2 via [https://artyfactory.com/art_appreciation/animals_in_art/pablo_picasso.htm––pl.6]。 (12)-1 via [https://www.azalai-japon.com/bois/masque/2298-08.html]。 (12)-2 via [https://www.auctionzip.com/auction-lot/Bamileke-Bamun-Bush-Cow-Mask-Cameroon-Grasslands_4A54B5983D]。
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▒ 獅潭義民廟-老街-小東勢 上午九點許,獅潭義民廟階梯上,古老師先開場解說我們現在所在的新店村,指了東側仙山稜線,一行人往老街方向前進,聽古老師的解說指引,先後造訪了老街、小東勢的重要文化資源點:門廊下曬著苦茶籽的獅潭村史博物館,土地公香爐插著三只竹片聯合辦公的豬皮伯公廟,百年龍眼樹與馬偕曾在樹下拔牙故事,假日分外安靜樸拙的傳統合院老屋,小東勢溪旁看守著山澗谷地溪流的石硤伯公廟、老街尾土地公神像貌似蒙古人的楓樹伯公廟與正在彩繪著神龕的在地素人藝術家(楊’R)。古老師說明小東勢的「勢」是方向,東勢指東邊,大小東勢用河的寬度區別,河較小的是小東勢,反之是大東勢。 進出小東勢的路,除了產業道路寬度給車通行外,多為單人可過的簡單水泥,印象最深的是順山谷地勢開闢的田邊(唇),以大塊人工粗鑿的溪石疊壘,田埂仍保留著泥路,而古老師說以前人工作是從這山頭到對面山頭,現在小東勢溪上的小水泥橋,容兩人側身而過,在更早之前要過溪,人要踩踏大石跳到對岸,靠山吃山的人,勢必要有強健的腳力,而日出而作日落���息的山事勞動與自然共存之道,成了一另類山居生活想像的實踐。 跟著隊伍或行或停的聽老師們的解說,對於位在內山曾經紙、山林產業興盛的獅潭、小東勢有了不同以往的初步認識,除了獅潭仙草之外的人文故事、地景、植物,戴老師沿路解說了與生活緊密相關的民俗植物如麻竹(禾本科,以前用作房子樑,食用筍乾、粽葉)、四五月撿桂竹竹殼(做笠麻)、做為圍籬用的刺竹、避邪用的大赦草(藤相思樹,豆科)、咖啡代用品九節木,或是原住民用來包肉的姑婆芋等。回程大夥兒也被戴老師現場口考了稍早逐一解說的植物如茄冬、錫蘭橄欖、阿勃勒、波蘿蜜、肖楠、楊梅、腎蕨、龍柏、竹柏(百日青,葉有芭樂味)、觀音棕竹、山棕、黃椰子(果實拿來當子彈玩)、魚腥草(狗貼耳,有臭味、有助於免疫力)、鴨腳木(鴨母ㄍㄨㄟ,做木屐或火柴棒及浮標之用)、賊仔樹(山漆,芸香科,胡椒代用品,又名臭ㄍㄚ樹)、用做薪材的九芎(樹皮光滑又名猴不爬,樹材硬又脆,從前用來燒火炭、做彈弓或火撐)…等。
▒ 走在山的裡面-大東勢仙山古道
午後離開老街,往大東勢仙山古道前行,走苗66線在仙山古道處下車後按著指示牌開始下午的踏查,水泥斜坡左側為大東勢溪支流,從下往上游溪床眺望先看到一大溪石,接著一路爬上斜坡,途經圍上了電網的園地、西曬的柑橘園。漸漸地腳下踩的路不再是水泥,取而代之的是原始路徑,我向前踩著之字形往上,得要確定步伐踩穩了才往上踏出下一步,想像著眼前不像路的古道,是如何的被人挑著貨物一階階一步步地踏出他們的生存之路。在林蔭下邊聽著戴老師說幾種植物如九節木(山太刀)、山蕨(原住民語moan),邊想四十多年前在古道上往來人們的如飛箭步,而今我們追求更快更便捷的生活,馬路越開越寬的同時,卻削弱了人順應土地、觀察自然的能力。
趁空檔短歇後,緩慢地跟上前面的腳步,踩踏著他剛移開的足跡位置,腦袋不似平常的用力塞滿人事,這時只有吹過身體的秋日山風,也聽著人聲、腳踩碎石子發出的清脆聲響、聞著一整片喬木與地被形成的特殊氣味、手摸著樹幹上凸起處的觸感,眼睛順著叢生的蕨類往更低處望去,我看見一層層覆蓋在地表的落葉,這些從樹梢飄落的葉子,不久的未來將會是極具養分的腐植土。接過主任現地砍來的臨時登山杖,我低頭搜尋視線可及的地表,繼續輕輕撥開腳邊的枯葉或以木杖探試枯葉層厚度,察看著適合小昆蟲鑽進鑽出的棲息環境,期待發現不起眼的花草、蕈菇類…,忙碌的主任不時接起話題,如竹林下的腐植土會讓山芹菜長得特別好。踩過四處散落破損標記圓形「富」字樣的黑色瓦片,不到七八公尺略呈狹長的平坦處疑似屋基遺址,再往前的左側斜坡上,戴老師指了幾株高約兩尺阿薩姆紅茶,推測此處過去應是茶園。山壁斜坡間的土石越來越鬆軟、地勢更陡,來到高差不到一公尺的小土坡,稍不留神兩腳未踩穩人逕向下滑了出去,所幸有阿富哥、建隆和主任在斜坡底的協助及橫倒大樹幹的安全阻擋,接下來所有的力氣只得專注在步伐的慢、明確的有把握。
出林蔭前的古道,一段要越過大小石錯落山澗崩塌地再爬上無太多攀扶處的斜陡,一段是拉繩索垂直爬上近九十度的陡地,這兩段路是手扶著山壁的靜待,等待主任用鐮刀砍出足夠腳踩的路徑,乘機觀察了藤類迂迴有序攀附在樹幹間的旺盛生命力,以及清朗陽光下葉脈紋理的清晰、翠綠光澤,人靜止不動,覺得自己像一棵樹,迎著涼風的每一口的呼吸都在行光合作用,領會樹林、土地與氣候間的奧秘,人一代又一代落與起,而這山這溪這山谷這山澗、眼前這些隨自然力量遞嬗的大地始終都在,仙山古道因南庄煤礦而興也沒入荒煙漫草。
手腳並用地順利翻過兩段有主任協助的陡坡,繼續往上爬,視線很快聚焦在兩旁散落幾塊大石塊,長度超過兩尺的石面,有著人力粗鑿出的樸拙時間刻痕,這些幾近沒落的古老手工藝無聲躺在山裡面。接著看見小石階,內心頓時安了心,穿過大石與樹幹間踏階,再度低頭看了那些粗粗細細曾被粗糙大來回撫摸、敲打不規則石面,蹲踞林間師傅打石的畫面彷彿歷歷在目,而鐵器與石頭碰撞的聲響迴盪在山谷間。
最後登上大東勢山陵線,谷地吹來陣陣涼風,兩位老師遙指前方,視野清晰可見南仙山、八卦力及北側被遮擋住的北仙山及仙山陵線。下山前大夥兒先後以影像紀錄了相傳逾百年的土地公遺址及一旁石疊的香爐,古老師指了一旁被竹林掩蓋的古道,說要從這到仙山打出一條路。大夥兒合影後沿著桂竹林下山,途經一水土保持的私人土地,走產業道路下山,依稀記得沿路戴老師提到的幾種植物如海金沙、葛藤、一枝香���開著白花的杜若、掉了葉的南天星科、三角葉西蕃蓮、用來替代紅灰的原住民民俗植物、鳥不踏、正開著紫色花的藤類,以及回到出發處迎著谷風翻出細小白色葉影的白袍子,上了共乘的車子鼻息塞滿了小米酒的氣味。在義民廟前,與主任、婷婷及素如告別,發動引擎朝著日落方向踏上回家的路。
進家門打開網路嘗試搜尋今日地理區位,參考了地圖比例尺,計算出約莫兩公里範圍,是今日下午上上下下移動的古道踏查的方位與地勢,很快回顧了獅潭山陵線由北而南的北仙山、仙山、南仙山、八卦力山山脈地理環境、相關位置的初步認識,對古道的時空性有了初步的概念,知道了早年住在山裡的人如何將農產往南庄運送,實際踏查了一小段了經年失修的古道,腦海依稀記憶起沿途泥路碎石地勢陡峭,近山陵線時有大小不一石踏階,原來只是紙本或網路資料上的古道變得更清晰而立體,同時也體認到老師們講述的人文故事、古道上遺存的物件及動植物、人們與古道相關的記憶、情感經驗、乃至於今天在古道上的聽聞所感,都應是長時歷史的一部分,也應鮮活地成為我們生活的一部分。
這日在獅潭小東勢大東勢的古道踏查,腦海帶著出發時坐在義民廟踏階所仰望的山形印象開始,直到日落暈黃光線壟罩山頭,即便身體從肩到腳無處不抗議,下了課準備上車時,再回望了前方的山,遙想著今天以前先行者為了生存的每一步奮鬥,將更清楚知道自己下一次為何再回到這個山窩。
成就與共同經歷一事,需要很多人的投入,謝謝老師們、社大夥伴們及同行的夥伴們!整理記錄的此時,身體猶存著不擅於古道健走的痠痛印記,初步思索了記錄調查的參與、或是後續古道復整可能存在挑戰,自問著會不會再回到仙山古道上,答案顯而易見。
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关于文化的一点小想法 可能是伟大的想法
注:作者,也就是我,常常会以为用文言文就高级很多,或许是因为古代的书读得多了。但这是不对的,我们的想法是面向现代人的,是面向现代中国活人的,用文言文死文体只能是出于研究兴趣,而不能和人交流想法。中国上下五千年,许多经典是用文言文写出来的,所以我觉得自己也有研究的必要,但可以用白话写出来。可我的白话文水平还是差一些,才学浅薄,疏漏之处似不能免,尚祈四方贤达宽宥。
这些天的晚上心情好了很多,前几天查出有高血压把人吓了一大跳,吃了点降压药就感觉好多了。原来在前单位的生活那么痛苦,浑浑噩噩的过了这么几年。好几个月没上班了,好想上班啊。有人说这不就是贱吗?那倒不是这样的,如果我能指着写文章赚钱,每天支付宝到账声音像下暴雨一样,那我就不焦虑了。可是人得活着啊。这次社工应该能上,不到一个星期要省考了,可以来不及学习了。人不必那么心急,虽然这次我报的单位挺好的,希望能上吧,但提醒自己不要看得太重了。
闲话说到这吧。看了佛教的基本理论,觉得还挺有意思的。以前唯物主义的我是不屑于看宗教的,但在大学的时间选修了门佛学入门课,对佛教有个基本的认知了。现在重拾了佛学,感觉格外亲切。大学讲佛学的那个老师是马克思主义学院的,可是他没有囿于自己的身份,对佛学展现浓厚的兴趣。他长得像弥勒佛,有点肥但不胖,平常总是笑呵呵的。这是真正的智者吧!
佛说人生是苦的,苦的种类有八个。生,老,病,死,爱离别,怨憎会,求不得,五蕴盛。解释一下,生下来的苦,身体机能的老化的苦,身体得了病的苦,死亡的苦,因为有爱而有离别的苦,遇到自己讨厌的人的苦,想要的得不到的苦,五种蕴形成的世界刺激的旺盛的苦。人有五种感官指的是眼耳鼻舌身五种器官,由这五种器官感觉到的色声香味触,也就是颜色,声音,气味,滋味,触摸。有些苦我是了解的,但是生的苦和五蕴盛算什么痛苦呢?生下来,就有了肉体,然后慢慢有了意识。有了肉体,就有了感觉,由五种器官���受到了无数的感觉。佛学上把客观世界称为色,也就是心经里面色不异空的色。色受想行识,被称为五蕴。色,指所有客观世界,包括自己的身体;受,就是感官受到客观世界的刺激形成感觉;想,由感觉而形成对事物的名称;行,对这些名称而一些思维的考虑;识,就是意识,由思维形成抽象的概念。不得不说这真的有些道理,我从内心感觉还真的是这样。人的世界并没有什么标准答案,有些人善良,有些人邪恶,有些人美丽,有些人丑陋,每个人都有想法,每个人都是一个世界,不必要成为别人,没有两个人的世界是完全一样的。既然人生是苦的,那活着是为了什么呢?佛法上说是为了追求智慧,保持内心的平静。那有智慧,内心平静后干什么呢?我想应当是做自己想要做的事情。试想学生时代,要是考试紧张,成绩往往不理想,又影响了心的平静。苦苦求,但求不得,加重了心理的负担,身心倍受伤害,那对自己有什么好处呢?何况人生都这么苦了,人活着就当苦中作乐才是。保持心的平静,并因此勤于实践,常常能达到自己想要的结果。达不到也没关系,内心平静了,也无有悔恨了。人活着,就是求个心安理得。
再来说诸法皆空,无常无我。之前看罗翔的视频,就是那个讲刑法的罗老师,他说过这样一段话。秦朝你去过吗?你是亲眼看到了吗?你都是从书本上了解到的。那如果书本上的东西都是假的,骗你的话呢?你在用意识想这些东西的时候,难道意识不会骗你吗?所以他说,生活应当选择相信而不是理性,因为绝对的理性会导致虚无主义和诡辩论,这些是没有任何意义的。人生的意义在于追求意义 。这一句话真让人豁然开朗,我们学习的时候急于探究真理,一个又一个牛角尖;恋爱的时候问女朋友怎么了,是我做错了吗,你怎么又心情不好。但其实是无解的,客观世界可能有他的一般规律,但找到规律的是人,是有自我意识的人,那就不可能不出现偏差。哲学上有句话说,表现内容是客观的,表现形式是主观的,也就是这个道理。人的意识这种东西,科学哲学都无法完美解释它的形成发展,就更别说我们这些芸芸众生了。医生常说,想开一点,生命没有什么轻重。所以同上一段说的一样,人要保持一颗平静的心,虽然有时候很难。诸法皆空,也有说色即是空,客观世界不是固定不变的,也就是我们高中所说的“人的两只脚不能踏进同一条河流”,还有更者,说“人的一只脚不能踏进同一条河流”,因为你准备踏入河流的时候,河流已经变了。世间万物无时无刻不在发生变化,所以没有东西就永远存在的,“我”作为有客观肉体的人,也是如此。所以说无常无我。但是有没有绝对意志的存在呢?佛学上有争议。意识如果是不存在的,人死而魂灭,那意志的存在的意义是什么呢?人从百万年前的猿变成现在这样的意义又是什么呢?如果意识是永生的,那它是怎么形成发展,人身体死后意识又去向哪里?这���要指出的是,佛教创立之日时,是讲无神论的。佛的意思是“觉悟”,指人要通过大彻大悟来除却人生的痛苦。由于佛是出现在印度,深受婆罗门教的影响,为了迎合民众的口味,出现了佛的形象,各种念经,以及所谓的轮回说,六道说等等,给无数的创作提供了素材。以及大家熟知的,不能吃肉,是南朝梁武帝推行的。以我现在的身体状况,确实不能多吃肉,这点我是信梁武帝的。
观自在菩萨,行深般若波罗蜜多时,照见五蕴皆空,渡一切苦厄。舍利子,色不异空,空不异色。色即是空,空即是色。受想行识,亦复如是。舍利子,是诸法空相,不生不灭,不垢不净,不增不减。是故空中无色,无受想行识,无眼耳鼻舌身意,无色声香味触法,无眼界,乃至无意识界。无无明,亦无无明尽,乃至无老死,亦无老死尽。无苦集灭道,无智亦无得,以无所得故。菩提萨埵,依般若波罗蜜多故,心无罣碍。无罣碍故,无有恐怖,远离颠倒梦想,究竟涅槃。三世诸佛,依般若波罗蜜多故,得阿耨多罗三藐三菩提。故知般若波罗蜜多,是大神咒,是大明咒,是无上咒,是无等等咒,能除一切苦,真实不虚。故说般若波罗蜜多咒,即说咒曰:揭谛揭谛,波罗揭谛。波罗僧揭谛,菩提娑婆呵。
这段心经很熟,也是佛学入门之作。这个是玄奘翻译的,他是瑜伽学派的代表。这里需要说明的是,佛教学说也有很多种的,从佛教创始人诞生到现在,一直争论不休,这也是佛教一直延续到现在的原因吧。心经只是讲了个大概,说什么都是空的,要去除痛苦之类的,还是比较浅薄的,所以需要多看些其他学派的经典加以补充。佛教的经典很多的,我这一生都看不完,但我想要尽可能地虚心学习,去从容地生活。
又想到一点,儒学讲仁义,道家谈无为,景教说忏悔,绿宗言笃信。这些都说世界是存在的,人应当做点什么,为了正义,为了天堂,为了神的保佑。但从佛看来,真的太浅俗了。我们生活中,会因为他人的不理解而烦恼,会因为没能守规则而自责,这样都是不好的。人生不能念图享乐,也不必过那苦行僧的日子。我们的生活都是在既定的现实条件下进行的,会因为世间的变化所迷惑,但什么时候正视过自己的内心?想一想,我是谁?现在太多口号式的文化,对于人心的稳定,没有任何用处,也就怪不得广大群众去信洋教,图个心安理得。你想大家聚在一起聊天,说说神的故事,图个热闹的气氛,不也是一种快乐吗?总是说你要这样做,那样做,服务人民,服务社会,来实现自己的价值什么的,太累了。国人为什么要这么累?我就不能不要这么高尚的情操吗?扪心自问吧。愿从你心,无问东西。
JOJO上说,人类的伟大在于勇气的伟大。我想补充一点的是,人类的伟大在于看穿了世界的虚空,但仍有勇气相信世界存在的伟大!愿大家都能好好地生活下去!
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅰ
花鳥誌2024年1月号より転載
日本文学研究者
井上 泰至
「恋の季題」は材料も尽きてお開きとしたが、書き物は続けてほしいとのお話だったので、『虚子百句』を私なりに読んでいくことにしたい。
まず、本書の成り立ちや、おおよその性格を説いて、なぜこの書物を丁寧に読んでいくことにしたのか、その理由をあらあら述べておきたい。
本書は昭和三三年、すなわち虚子の亡くなる前年の自選句集である。京都の便利堂からの依頼を受けたもので、短時日の間に選んだものであるから、本書の価値は、ある程度割り引いて考える必要はある。が、ともかくも虚子が、自分の代表作と認めた百句���ったことは間違いない。
選句の基準については、追々検討を加えていくが、まず揮毫しやすく、たびたび揮毫してきた句であったことは、序で虚子自身が明らかにしている。本書は、虚子の揮毫を写真で掲載し、五十句ずつを高濱年尾と星野立子が分担して、簡単な句の評釈をつけるという趣向のものだった。年尾の跋文によれば、虚子も事前に二人の文章を検したという。
本書の企画を持ち込んだ便利堂は、明治二十年創業の書店兼出版社である。コロタイプ印刷機を早くに導入し、美術書の出版で信頼を得た。岡倉天心が創始し、今日でも美術史学の権威的雑誌の位置を保っている「國華」は、便利堂の図版印刷の高度な技術が遺憾なく発揮されたものである。
四代目店主中村竹四郎は、国宝級の貴重書の複製印刷をも数々手がけ、『虚子百句』刊行の翌年には文化功労者として表彰されている。虚子の字は、それ自体が俳句文化の遺産としての価値を持つ、と認識されていたわけである。
つまり、主役は百句のみならず、その揮毫でもあったわけで、この点には留意しなければならない。書は、運筆から句の呼吸や中心点を確認できる。同じ字であっても、楷書か行書かといった書き分けがあれば、それは句の眼目ともなる。
一例を挙げよう。小諸市立虚子記念館に残る十二ヶ月十二句の揮毫を屏風に仕立てたものは、展示の目玉だが、「心」を詠んだ句が三句ある。
鶯や文字も知らずに歌心 虚子
二三子や時雨るる心親しめり 同
我が心ある時軽し罌粟の花 同
このうち三句目のみ「心」はきちんと楷書で書かれ、他の二句はややリラックスした崩し字となっている。三句目は愛児六を失った悲嘆の中で詠まれた句だからである。書道家に聞くと、「心」の字のバランスは、筆をとる者の「心」を反映するのだと言う。
こうした鑑賞の醍醐味も『虚子百句』にはあることが、当然予想される。年尾の跋文によれば、この頃の虚子は眼が弱って、それが字に出てしまっている、という。確かに、青年期・壮年期のそれから比べ、運筆の力や字配りを焦点化する眼の力の衰えは隠せない。それでも、修練とは凄いもので、序文の虚子自身の言によれば、百句の大方は一、二時間で揮毫してしまったというから驚きである。字の味わいも、私の能力の範囲で解説を試みたい。
本書の構成は、春夏秋冬・新年の部に分かれ、各部の句の��列は、成立順となっている。従って明治・大正・昭和と万遍なく句が拾われている。『百人一首』が古典和歌そのものの粋であり、歴史でもあるように、『虚子百句』も虚子の句業の入門書にして到達点でもある。これが本書を読む何よりの理由である。
本書の装幀を担当した福田平八郎(一八九二〜一九七四)についても、簡単に触れておこう。虚子との縁は、『虚子京遊録』(昭和二三年)『喜寿艶』(昭和二五年)に続き、これが三度目である。 大分出身で、上村松園や竹内栖鳳も出た京都市立絵画専門学校を卒業。京都日本画画壇で重きをなす。トリミングやデザイン感覚に秀で、書物の装幀も得意とした。『虚子句集』の竹の絵は、自家薬籠中の画題であったと考えられる。
本書は二〇一〇年、岩波書店から復刊された。解説は東京大学教授であった、日本近代文学専攻の野山嘉正が担当した。
最後に一言。平成期、伝統派で、虚子句の解説つき選集といえば、稲畑汀子氏の『虚子百句』が定番だった。虚子自身の選句とは違ったところに新味を出した素晴らしい本だが、時に稲畑氏らしからぬ、非常に硬い内容と文章の評釈があるのは惜しい。この連載は、あくまで虚子の自選に立ち戻り、虚子句の成立事情と、選句の背景を平易に語ることに徹したい。ただし、この自選句集の性格上、私の虚子観・俳句観が問われることは言うまでもない。
1 美しき人や蚕飼の玉襷
初出は明治三十四年四月三十日の新聞『日本』。季語は「蚕飼」。蚕はふつう四月に孵化して繭籠る。
初出では「蚕」の題で内藤鳴雪・坂本四方太・河東碧梧桐・佐藤紅録らの各三句も載る、題詠句である。虚子の他二句は〈蝋燭の灯影に白き蚕かな〉〈蚕飼ふや年々ふやす桑畠〉。『新歳時記』にはこの句を採用せず、写生句らしい〈逡巡として繭ごもらざる蚕かな〉を載せたか。
蚕は食欲旺盛だ。食べ残した桑やフンは蚕網(さんもう)を使って取り除く。蚕は眠る。睡眠と脱皮を四回ほど繰り返して成長すると、絲を吐き始める。ここで蔟(まぶし)という仕切りのある箱に移す。繭籠らせるのである。絹糸を吐き、繭を成す様は、実に神秘的だ。春の陽が漏れてくる中、吐き出されたばかりの絹糸は光そのものである。この過程に、ひと月ほどはかかる。
蚕網をかけ、桑を与えると、蚕は網目を通り上にあがる。蚕網の下は蚕のフンと桑の食べ残しが残る。網を上げると、蚕とフン、食べ残した桑の分離ができる。蚕の成長に合わせて網目の大きなものへ変えながら使用する、といった具合である。丁寧さと経験が要求される女性の仕事である。
養蚕は、明治期日本の主要産業だった。欧州では産地の南仏で病害が発生し、需要が高まったのである。巨利を成した者も多い。出荷は横浜が多かった。
女性は襷掛けで、髪も縛る。明治期の浮世絵等を見ると、襷の色は赤が代表的である。かの富岡製糸工場では、技術のある女工は赤襷をして周囲から尊敬されたという。
国を挙げての養蚕業振興を宮中も率先して奨励し、皇后美子が手ずから養蚕を行い、浮世絵などで宮中養蚕が喧伝された。皆赤襷で、髪はおすべらかし、すなわち、後ろでまとめた髪に「長かもじ」を継ぎ、水引や絵元結などを掛けて、長く垂らしたのである。
結髪の問題にこだわったのも、襷掛けの女性は、皆髪を結ったり、挙げたりして、うなじがあらわになる点が一句の焦点だと考えるからである。つまり、「美しき人」の美しさの拠って立つところは、「襷」に暗示される、黒髪と白いうなじだったのだ。
「玉襷」という言葉は、『万葉集』以来ある言葉で、これ自体一種の神々しさを醸し出す。『虚子百句』の評釈で、年尾が宮中養蚕を詠んだと解したのも一理ある。しかし、もっと重要なのは、「玉襷」は「うなじ」の連想から、大和の畝傍山を呼び出す決まり文句だったことの方である。謡曲の「恋重荷」に用例がある。虚子がこれを知らないはずはない。
蚕と繭の「白」と、後れ毛を残したうなじの「白」の連想が、この女性の「美し」さを支えるものだったと考えたい。虚子は、和装の女性の髪にはかなり執心した。
「まあ旦那でいらしつたんですか。どなたかと思ひましてね。お断り申しましたですけれど何だか気になりまして、一寸御挨拶だけに。どうも姉さん有難う。姉さん有難う」と二人に挨拶して末座に坐つたまゝ一寸こぼれた鬢を掻き上げる。
小光は総髪の銀杏返しに結つてゐるのが仇つぽくて、薄つすらと白いものゝついてゐる額の広々としてゐるのも美しい。 (『俳諧師』) 小光のモデルは、女義太夫の竹本小土佐で、虚子は彼女の語りがかかる東京中の演芸場へ出かけ、追い回したのであった。虚子の眼裏に焼きつけられた美しさは、挙げた髪やこぼれた鬢にあった。
谷崎潤一郎も言っている。女性美の焦点は首だと(『陰翳礼賛』)。和服で身体が露出するのは、首・手先・襟足だ。首は細く長くなければいけない。「猪首」という言葉を想起すればよい。肌は白くなければいけない。そこにうなじの後れ毛が色気を呼ぶ。
「玉襷」はその���び出しであり、それは説明しないことが肝要だから、「美しき」とだけ冒頭に置いて謎を掛けた。だから、『喜寿艶』でも、この句については、木で鼻をくくったような説明しかしていない。
完全な主観句で、実際にそういう女を見たのか、絵の中の女か、記憶の中の女か、そんなことはどうでもいい。小説家志望で主観派が本質だった虚子らしい、冒頭の一句なのである。『虚子百句』は『新歳時記』のような教育的意義を取り払った、「作家」虚子の選集だった。
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし) 1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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覆される常識、日本美術の「独自性」は縮小していた 「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史の研究が進むにつれて、日本美術に関するさまざまな常識が塗り替えられつつある。西洋や中国に目を向けて日本美術を世界の中で位置づけて鑑賞すると、一体なにが見えてくるのか? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。(全2回・前編/JBpress) (※)本稿は『そのとき、西洋では──時代で比べる日本美術と西洋美術』(宮下規久朗著、小学館)の一部を抜粋・編集したものです。 ■ 多くの美術品が現存する幸運な国、日本 日本は各時代にすばらしい美術作品を生み出し、今でもそれらは世界じゅうの人々に親しまれている。しかも、それらの多くが遺(のこ)っている幸運な国である。 隣国の中国や朝鮮半島、あるいはベトナムの場合、相次ぐ戦乱や侵略のため、古い時代のものは遺っていないことが多く、時代によってはきわめて大きな欠落がある。そうした時代の美術は、文献資料やのちの模本から想像するしかない。これに対し外国の侵略をほとんど受けたことのないわが国は、戦災や天災で多少のものが失われたとはいえ、縄文時代以降、各時代の重要な作品のほとんどは現存しており、きちんと美術の流れをたどることができる。世界を見渡すと、そのような幸運な国のほうがめずらしいのである。 明治期に近代国家が成立すると、国家の伝統や歴史を見直す作業の一環として日本美術史というものが構想され、明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に際して日本最初の美術史と目される『稿本日本帝国美術略史』が編集された。以後、日本美術史は何度も書き換えられつつ徐々に精度を増し、部分的に更新され修正されることはあっても、そのストーリーの大枠はおおむね定着しているようにみえる。 ■ 「日本美術の特質」への問いかけ このような日本美術史を通覧し、現存する作品群を見ると、中国や西洋などさまざまな外来の美術に影響され、目まぐるしく変化してきたことがわかるが、同時にその底に流れる一貫した日本美術の特質というものが浮かび上がってくる。 たとえば和と漢、あるいは雅と俗という二面性が併存したかのよう見えるが、両者は複雑に融合していた。そして、中国や西洋の美術という外来文化の影響やそれに対する古来の様式という二項対立だけでは説明できない日本美術の独自性があると思われるのだ。 1925年、大著『サンドロ・ボッティチェルリ』をロンドンで出版して評価され、東西の美術について高い見識をもっていた美術史家の矢代幸雄(やしろ・ゆきお)氏は、著書『日本美術の特質』(1943年)において、日本美術の特質は、「印象性」「装飾性」「象徴性」「感傷性」の4つにあるとした。また、日本美術史の碩学、源豊宗(みなもと・とよむね)氏は、『日本美術の流れ』(1976年)で、西洋美術、中国美術、日本美術を象徴するモティーフをそれぞれ「ヴィーナス」「龍」「秋草」であるとした。日本美術を貫くのは、繊細な秋草の美学だというのである。 日本における中国美術の影響について先駆的な研究を遺した戸田禎佑(とだ・ていすけ)氏は、『日本美術の見方 中国美術との比戦による』(1997年)において、日本美術のもっとも重要な特質は「平面性」にあるとしている。 近年、『日本美術の歴史』(2005年)を書き下ろした辻惟雄(つじ・のぶお)氏は、日本美術の特質を、「かざり」「遊び」「アニミズム」という3つのキーワードで説明しようとした。日本美術にはつねに装飾性が見られ、遊戯性があり、自然崇拝の系譜があるというのである。また、東京大学で辻惟雄氏の後任であり、旺盛な活動を続けている美術史家、河野元昭(こうの・もとあき)氏は論文「日本美術の素性」(2010年)でこうした先学の見解を検証しつつ、日本美術の最大の特質は「シンプリシティー」にあると論じている。いずれの見解も傾聴に値するものであり、的を射ているように思われる。 ■ 縮小する「日本美術の独自性」 18世紀末から20世紀初頭にかけて流行したジャポニスムは、浮世絵を中心とした日本美術の絵画や工芸がフランスなど欧米の美術に作用し、日本美術が欧米の先進的な美術に影響を与えた稀有な現象であった。浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性は、西洋で伝統美術の様式を打破して新たな造形を生み出そうとしていた芸術家にとってタイムリーであったため、大きな刺激を与えることになった。しかし、皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を継承することはほとんどなかったのである。 また、これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら影響を与えたことはまったくなかった。 12世紀初めの『宣和画譜(せんながふ)』に、徽宗(きそう)皇帝(在位1100~25年)の所蔵する日本の屏風3点について、「金碧(きんぺき)を多用」しているが、「真」に欠けると批判されている。中国や朝鮮の人々にとって、日本美術は中央様式の地方化したものとしか映らなかったのである。 明治以前の日本で、海外で活躍した美術家は知られておらず、中国・元で客死した禅僧画家黙庵(もくあん)やマカオに追放されたキリシタン画家ヤコブ丹羽(にわ)の活動がわずかに推測されるくらいである。 さらに、日本美術の独自性というのは、たまたま日本には中国や朝鮮半島よりも多くの美術作品が遺っているために、そう思われてしまう場合も多いのである。 たとえば、平安時代のやまと絵は、かつては遣唐使廃止による国風文化の産物だとされてきたが、中国美術史の研究が進んだ現在では、やまと絵とされるものの大半は失われた唐宋美術を反映したものであって、その特徴のほとんどは和様化とはいえないということが明らかになっている。截金(きりかね)を多用した繊細で工芸的な平安時代後期の美麗な仏画も、かつては日本化の極みだとされて賞賛されてきたが、じつは、ほとんどが失われた宋代の仏画の技法を模したものであるということもわかってきた。 近年ブームとなった若冲(じゃくちゅう)や蕭白(しょうはく)ら江戸中期の奇想派については、京都の成熟した町衆文化が生み出したものであっても、明(みん)代の奇想派や長崎の来舶清人(らいはくしんじん)の影響によるものも大きいということが指摘されている。 つまり、日本美術の独自性と呼べる要素は、美術史研究の進展とともにどんどん縮小していっているのである。日本美術を正しくとらえようとすれば、その独自性や美質などにこだわらず、東アジア文化圏を中心とする世界の中で位置づけて眺める必要があろう。 宮下 規久朗 JBPRESS 7/8(月) https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=2 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=3 >「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、 日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。 笑www この文章読んでいて、宮下 規久朗とかいう美術史の大センセーの、 自虐的なシナ事大主義的な独自性のないアホぶりがわかった。 この程度で大学教授なら、私にでもできそうな簡単なお仕事だなw この時代になっても相も変わらず、日本文化はシナ朝鮮より劣る的な、 或いは独創性はない的な、みたいなシナチョンスタンスの屁理屈を 大学のエラいセンセーがまことしやかに語っているのに笑った。 そもそも、世界のどの時代のどの文化においても、 完全無欠の民族の文化的オリジナルなどというものはない。 シナ文明も大陸の雑多な民族の文化的要素の集合体ではないか。 それを総称してシナ文明だの、エジプト文明だのと称しているだけである。 そしてその文化もまた他の様々な文化的要素と融合して発展し、 同時にまた、他の民族や地域の文化にも影響を与えるのである。 いわば文化文明は相互に影響しあって発展するものである。 それにこの宮下 規久朗とかいう神戸大学のセンセーって、 美術史が専門だそうだが、シナチョンに何か思い入れがあるのか? ちなみにこの宮下 規久朗センセーのツイッターはこんなの・・・ https://twitter.com/kikuroma 現在の大学にはこの手の人士が多いみたいですな・・・ この論評の■ 「日本美術の特質」への問いかけまでは、 いろいろな学者の日本美術の特質の紹介で、それぞれの説にも整合性があり、 またこれらの説のすべてがまた日本美術の特色ともいえるだろう。 問題はその次である・・・ ■ 縮小する「日本美術の独自性」って何なんだ? 宮下センセーの論文に通底しているのは・・・ 日本美術など所詮シナの物真似、 日本美術のオリジナリティなんて、 元々からないも同然なのだから、 特筆評価などする価値すらない、 ・・・ということらしい。
果たしてそうだろうか? >皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を 継承することはほとんどなかったのである。 そうだろうか? 私は浮世絵に代表される日本美術はその後の日本人も立派に受け継ぎ、 欧米の美術界に対しても少なからぬ重要な影響を与えつつ、 その後の日本美術にもまた、それを逆輸入してきた経緯があると思う。 「浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性」は現代日本画の世界においても、 日本のサブカルチュアを代表する漫画やアニメーションの表現においても、 グラフィックデザインの表現にも立派に受け継がれているではないか。 一応宮下センセーは明治以降の日本美術がジャポニズムと呼ばれ、 西欧の美術工芸界に大きな影響を与えた事は認めていらっしゃるが、 このことだけでも美術史における日本美術の価値は特筆に値する。 浮世絵に代表される日本美術がフランス・パリ万博からジャポニズムとして 全欧州に発信され、印象派(新印象派、後期印象派)やアールヌーヴォーが生まれ、 それがさらに発展してアメリカ現代美術に発展した経緯が美術史の流れである。 ジャポニズムがイズム=主義として表されている思想は無視できない。 それはシノワズリーという東洋趣味の流行とは大きく一線が引かれるべき、 いわば西欧美術思潮の一つのコンセプトでもあったからだ。
セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」 様々な角度から描いたヴィクトワール山の連作は、 北斎の富岳三十六景からインスパイアされたらしい。
ゴーギャン「マハナ・ノ・アトゥア」 この平面的な色面構成的な表現は浮世絵からの影響だ。
クリムト「接吻」
金箔を多用した大きな空間をとり単純化されたフォルム、 これも明らかに障壁画などの影響がうかがえる作品だ。
中でも西欧美術に影響を与えたのは江戸の町人文化だろう。 しかし宮下センセーはこれとて��シナ文化の影響にあるというが、 一部にそれらしきものがあっても、それがすべてではないと思う。 仮にシナの影響があったからといって、それが何だというのだ? シナの各王朝文化だって周辺の民族の様々な影響があったのだ。 先に述べたように、元来何の影響もなく発展した文化文明など皆無である。 北斎、広重、歌麿などの浮世絵師はもちろんのこと、尾形光琳の琳派系絵師、 伊藤若冲や丸山応挙などは現代美術を先取りしたコンセプトが確立していた。 立体造形でいえば���土桃山時代の織部好み陶器などはまさに現代美術だ。 以下に掲載した当時の巨匠たちの作品には、 現代美術の概念を先取りしたような先進性を感じるが、 宮下センセーのいうようなシナの影響下にあったがゆえに、 日本美術の独自性は縮小(ない)しているのだろうか?
尾形光琳「紅白梅図屏風」 川や梅の木を特徴を残して単純化させる意匠概念は、 のちに日本のデザインにも多大な影響を与えている。
伊藤若冲「鳥獣花木図屏風」 この絵は升目描きという、升目ごとに色をいれてモザイク画のように表現した。 現代風にいえばドット画像みたいなもので、このような手法は同時代にはない。 あえていえば新印象派のスーラの点描が近いが、概念が全く違う。
伊藤若冲「鶴図屏風」
墨をつかった白線描の作品。鶴の様々な姿態が単純化されたフォルムと
勢いある線の筆勢がいかされた、ある意味現代の漫画にも通じる作風だ。
丸山応挙「大瀑布図」 この絵は円満院というお寺の住職に贈られたものだが、この寺の庭に滝がなかったので、応挙はこの絵を庭木の枝に掛けて垂らし、下三分の一は地面に寝かせて滝つぼを表した。このような平面絵画を立体的に鑑賞するインスタレーション的手法はこの時代になかった。
丸山応挙「氷図」 湖面に張った氷のヒビを線一本のみで見事にあらわした傑作である。 無駄な要素を一切排除した究極の単純化で凍てつく寒さを表現している。
織部好み茶器 武将古田織部のプロデュースとでもいう「織部好み」の陶器は、「へうげもの」と称され、わざと歪めたフォルムや幾何学模様をあしらった伝統や形式にとらわれない実に現代的な表現だ。 ↑ これら一連の様式もすべて、 シナの模倣だというのか!? 以下はほとんど日本美術を腐すだけの屁理屈。 >これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら 影響を与えたことはまったくなかった。 当たり前じゃないか(笑) そもそも・・・ 日本は江戸時代に265年も鎖国をしていた国なのだから、 明治以前に日本の文物そのものが諸外国に輸出されることもないし、 あってもごくわずか、だから影響も与えるものではなかった。 こんな事日本の歴史をみれば高校生でもわかる話だ。 しかしだからそれ何だというのだ? いったい宮下センセーは何が言いたいのだ? この人は文化は影響を与えれば、 「エライ」と思っているようである。 だから明治以前の日本美術はシナ朝鮮に影響を与えていないから、 シナ美術の物真似レベルの評価に値しないものといいたいのだ。 宮下センセーの「影響を与える、与えない」にこだわる意図は何なんだ? じゃあ、明治以降の日本美術は先進国の西欧に大いに影響を与えたから、 すご~く特筆大書すべき価値があって、西欧より優れているということか? そうではあるまい。上述したように「文化は相互の影響で発展するものだ。 どちらの文化は優秀とか劣っているという問題ではないのだ。 宮下センセーの御説はまるで朝鮮人が 「これはウリジナルニダ~♪」というのを思い出す。 ルネサンス期の西洋美術も西域のイスラム教文化や遠くは、 インドやシナの様式にも影響を受けてきたことは近年の研究、 特に田中英道東北大学名誉教授の研究で明らかになっている。 しかしルネサンス絵画がその後のシナ絵画に影響を与えなかった事は、 西欧絵画が明朝や清朝の絵画より劣っているという事なのだろうか? 宮下流のコンセプトで見れば、こういう事ではないのか? さらに首をかしげたくなるのはシナと朝鮮を同列に置いて語っている事だ。 朝鮮など千年以上も歴代シナ帝国の属国属領に過ぎなかった植民地だ。 こんな国にオリジナルがあろうはずがなく、自ら小中華と誇った事大主義国だ。 なぜ宮下センセーはシナと朝鮮を同等に置きたがるのだろうか? 所詮は事大主義のシナの劣化コピー版が朝鮮に過ぎないのである。 まさか小中華思想が日本より優れている?というのではあるまいな?
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竜と輪の星
「ある年に神様が現れて、最も力のある者の願いを叶える」という予言のために各地の領主が躍起になるという世界で遊ぼうという内容
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地図
二つの大陸と島々がある。 国が統一に向かう乱世の時代。
信仰
各地に様々な宗教が存在するが、最も大きな力を有しているのは西大陸北部を起源とするもので「正教」と呼ばれる。
全てを生み出した最高神とものを司る二神、感情を司る三神の六柱の神々を祀っている(アルセウス>ディアルガ・パルキア>ユクシー・アグノム・エムリット の順に位が高い)。
北部では正教が実権を握っており、政治等にも介入する。
また予言書が発見されたのが北部であるため正教が研究機関を設け、予言書の内容の研究を行なっている。
正教の派生で反物質を司る、二神と同列の「異界の神」が魔法使いや呪術師、ゴーストタイプの間で信仰されている。
西大陸東部では正教の他に、「三羽の鳥」という実在する三羽の伝説の鳥が各地で信仰を集めておりその恩恵を受けている。
西大陸西部では正教の他に、古い町を中心に死んだポケモンを蘇らせた「虹神」、海沿いの町では海を司る「荒海神」への信仰が厚い。
東大陸東部では理想と真実の世界を作るものを助ける二柱の「二龍神」の信仰がある。
一部の研究者は、予言書の神はこの二柱のことではないかという説を説いている。
東大陸西部では「破壊の神」「再生の神」の二柱の神々と秩序を司る「秩序の神」の信仰がある。 破壊と再生は死と生でもあり、死者の復活あるいはその逆も行えると言われ、世界を滅ぼすこともできると説く一部の狂信者の行いが目に余る。
また秩序を司る神を信仰する一派がその両極端な性質を制御、時に制圧しており、この地域では最も力を有している。
西大陸南部や東大陸南部諸島では「陸の神」「海の神」「空の神」、「太陽の化身」「月の化身」などの神々が信仰されており、人々の自然とともに暮らす生活と密接している。
特筆すべき点は両地域とも「空からの災い」が言い伝えにあり、おそらく島国故の外部からの侵攻がそのように伝わっているのだろう。
また西大陸南部には1000年に一度願いを叶えるものが現れるという伝説もあり、一部の研究者はこれが予言書の神ではないかと説いている。
科学と魔法
この世界には魔法が存在している。これを扱う者を魔法使いと呼ぶ。魔法は体質と直感。扱える者は世界の人口全体の3割ほどとされている。 扱える魔法の種類、属性、性質はある程度限定されており、全ての魔法使いが同じように魔法を使えるわけではない(原型の使える技に由来)。
そして魔法で全てを補えるわけではなく、魔法が科学より優れていると一概には言えない。科学は万人が共有できる力である。
なお神のみわざは「奇跡」として区別される。
予言書について
予言書は今から20年前に北部で発見された。人々の注目を集めたのは以下の一文だった。 「ある年に空が割れ、神が現れ、神はその大陸で最も力のある者の願いを叶える」 その「ある年」を目前に各地の領主たちはそれぞれの野望を胸に、戦に身を投じることとなる。
各地域
西大陸
北部【シンオウ】 「勤勉」
広大な土地が横たわる、西大陸で最も大きな地域。やや険しく寒い。資源が豊富。
カントーから分かれた人々が開拓し、大きく発展した。
この地が発祥の「正教」の力が広く及んでおり、立派な神殿がある。
大きな街と港町があり、発見された予言書の研究機関など知識の活用に力を注いでいる。
また巨人伝説があり、一部はホウエンにも伝わったとされている。
「異界の神」信仰の本殿があるのもシンオウとされているが、それがどこにあるのかほとんどのものは知らない。
東部【カントー】「堅実」
西大陸最古の一族の領地。
温暖な気候で未だ手つかずの土地も多く、それを狙うシンオウの侵攻を度々防いでいる。
正教の他に実在する「三羽の鳥」が各地で信仰を集めており、その加護のおかげで幾度となく侵攻を阻止している。
二つの大きな街と港町が栄えており、火山のある島では様々な研究を行なえる施設が作られている。 ここには世界中でもトップクラスの科学者が集まっている。
西部【ジョウト】「機転」
建築や芸能など独自の文化を持つ地域。はるか西方からやってきた移民が開いた土地だという言い伝えがある。
ホウエンへ向かう際この地域を縦断することになるため人通りもよくそれなりに賑わいがある。
大きな街と古い町、港町、山奥には様々な一族が住んでいる。遺跡も多い。 またパートナーのポケモンとともに行動する者が多く、街中でもあちこちにポケモンの姿を見られる。
正教の他に「虹神」「荒海神」への信仰が厚く、その他様々な信仰によって寺院などが建立されている。
南部【ホウエン】「旺盛」
他の地域から離れている、熱帯性の気候の土地。自然豊かで人々の生活と密接に関わり合っている。 果樹園や海産物、宝石が主な産業。この地域で崇められている「陸の神」「海の神」は陸と海を作ったとされ、それぞれが陣地を広げようと争ったという言い伝えがあるためか、ホウエンの人々はやや争いに身を投じることを好むようだ。
さらに空からの災いという言い伝えから天文学にも通じている。陸と海の神の争いを止めたとされる「空の神」の信者はこの空からの災いへの関心が強い。
大きな火山があり、温泉が湧いている。療養地としても有名。 発展した大きな港町があり、海運に精通している。
東大陸
西部【カロス】「傾注」
巨大な都を有する地域。歴史は長く、西大陸よりもやや洗練された印象を与える。土壌が豊かで農業が主な産業。
「 破壊の神」「再生の神」によって破壊と再生を1000年ごとに繰り返すとされている。 またその神々への信仰が厚く、熱心な者の中には神のみわざを受けて町を滅ぼしたとか、人を蘇らせたとかいう報告もある。
秩序を司るもう一柱の「秩序の神」の勢力が他の勢力を抑えているため大きな戦争に至らずにすんでいる。
傭兵を多く生み出している。
東部【イッシュ】「勇敢」
山や森、砂漠、火山など様々な自然に囲まれているが、人々はそれらとうまく共存している。 娯楽街や大きな街、港があり、働く��とが生きがいとなっている人も多い。
古い遺跡や塔、地下道が張り巡らされているなど古代文明の存在を感じられる。また西大陸シンオウとつながっているとされる場所がある。
この地で信仰される「二龍神」は理想と真実の世界を作る者の手助けをすると言われており、また勝利を呼び込む妖精の言い伝えがある。そのためこの地域の人々は前向きに物事をなそうとする性質がある。
南部諸島【アローラ】「温厚」
��くつかの島々によって形成される地域。 島によっては火山があったり雪が降ったりしているが、基本的には温暖な気候。独特の生態系を持っている。
外の争いごとには関わらない主義で、大陸の争いにも関心がない。ただし自分たちの生活が脅かされるとなると精霊の力を借りて猛烈な反撃を食らわせる。
「太陽の化身」「月の化身」と呼ばれる二柱の神々の他に、4つの島にはそれぞれ精霊が祀られている。精霊はこの地域の人々にとって身近な存在であり、ともに暮らしている。科学より魔法を重視した文化も特徴の一つ。
空からの災いという言い伝えがあり、天文学に精通している。
世界観概要
剣と魔法のファンタジー乱世オブスローンズ。そうです。 (ハイファンタジーのその後みたいな) 世界観に沿ったキャラを任意の地域に所属して遊ぶ。また場合によっては所属を途中で変えることができる(主人を見限ったとか駆け落ちしたとか新天地を求めてとか)。 「予言書」として先にイベントをアーカイブとして掲載。よって好きなところから描ける。いきなり結末から行くのもいい気がする。メメント見たくなってきた。
キャラメイク禁止原型
伝説:全般 幻:ジラーチ、デオキシス、フーパ 準伝説:フリーザー、サンダー、ファイヤー、レジギガス、UB ※カプは精霊として原型デザインのみOK、レジギガス以外のレジ系は巨人族か巨人の血が混じっている
各地域規定
西大陸北部シンオウ 原型:シンオウ地方メイン
傾向:魔法使いの待遇よし(正教で悪し)、神のみわざに傾倒しがち
役職:北部軍、正教(祭司、巫女、教徒、研究機関研究員など)、異界の神(祭司、教徒など)、小さな領地の領主、呪術者、住人など
服装:西洋風推奨、他地域出身はこれに限らない、あと寒い
西大陸東部カントー 原型:カントー地方メイン 傾向:魔法使いの待遇地方でよし 役職;東部軍、正教、三羽の鳥(祭司、信奉者など)、開拓者、住人など 服装:西洋風推奨、他地域出身はこれに限らない
西大陸西部ジョウト 原型:ジョウト地方メイン 傾向:魔法使いの待遇よし、原型連れOK、芸術家待遇よし 役職:西部軍、正教、虹神(僧侶、信者など)、荒海神(祭司、信者など)、芸能人、住人など 服装:和風・西洋風、他地域出身はこれに限らない
西大陸南部ホウエン 原型:ホウエン地方メイン 傾向:魔法使い・呪術者の待遇種類によりよし、やや原始的 役職:南部軍、正教、陸の神(祭司、信者など)、海の神(祭司、信者など)、空の神(祭司、信者など)、天文学研究員、呪術者、住人など 服装:南国風推奨、他地域出身はこれに限らない、割と暑い
東大陸西部カロス 原型:カロス地方メイン 傾向:魔法使いの待遇よし、狂信者は神のみわざに傾倒しがち、芸術家歓迎 役職:東方西軍、傭兵、破壊の神(祭司、巫女、信者、狂信者など)、再生の神(祭司、巫女、信者、狂信者など)、秩序の神(祭司、巫女、執行人、信者など)、小さな領地の領主、学者、住人など 服装:西洋風推奨、他地域出身はこれに限らない
東大陸東部イッシュ 原型:イッシュ地方メイン 傾向:魔法使いの待遇よし、働き者歓迎 役職:東方東軍、二龍神(祭司、信者など)、各種職人、開拓者、学者、住人など 服装:世界観に準ずる服装ならOK
東大陸南部諸島アローラ 原型:アローラ地方メイン 傾向:魔法使い歓迎 役職:自由軍、太陽の化身(祭司、信者など)、月の化身(祭司、信者など)、天文学研究員、魔法使い、呪術者、住人など 服装:南国風推奨、他地域出身はこれに限らない、だいたい暑い
予言書アーカイブ
シーズン1 西大陸
20年前 「神が願いを叶える」という予言書がシンオウで発見される。
3月 シンオウ南方辺境領主サンジェム公率いる軍が南下、カントー制圧を掲げる。
カントーはジョウトに協力を要請、一部のジョウト軍が戦いに参加。
カントー・ジョウト連合軍が山の裾野でシンオウ軍を迎え撃つ。数では不利だった連合軍だが三羽の鳥の一羽サンダーが雷を落とし、シンオウ軍はやむなく敗走。知らせは各地へ届く。
ホウエンは種蒔きの季節。
4月 ホウエンの商人キャラバンが海路でシンオウへ向かう途中で消息不明になる。ジョウトの海賊の仕業だとホウエンで噂されるがジョウトは否定。ホウエンとジョウトの間で不信感が募る。
カントー軍はシンオウ辺境領の進軍を防ぐための防壁の建造に取り掛かっていた。
5月 シンオウ領南で南下してきた先鋒のシンオウ軍とジョウト軍が衝突。
シンオウからホウエンへ使いが出る。ジョウト制圧への協力の要請。
先月のこともありホウエンは承諾。ただし収穫の時期は休戦するという条件。
6月 カントー軍がジョウト軍に加勢。
シンオウ領マサゴでシンオウ辺境領主サンジェム公との会合の席が準備されていたが、そこへ向かったジョウト軍フスベ公がシンオウ軍に捕らえられる。
フスベ公が捕らえられたという知らせを受けた後方のジョウト軍は怒りに震える。
しかしすぐ後ろにはホウエン軍が迫っていた。やむなく会敵するがホウエン軍の機動力にジョウト軍は翻弄される。
その時加勢に来たカントー軍が合流。また三羽の鳥の一羽フリーザーの吹雪がホウエン軍を襲い、ホウエン軍は散り散りになる。
7月 ホウエン軍が収穫のために戦闘を離脱。その直前、シンオウ軍との会談に向かったホウエン軍フォトゥリー公に同行していた祭司オリがシンオウ軍サンジェム公の会話を耳にする。
それによるとどうやら商人キャラバンを襲ったのはジョウトではなくシンオウの海賊であり、ジョウトは濡れ衣を着せられただけだったらしい。
サンジェム公に発見されたオリは捕らえられてしまう。
ジョウト軍エンジュ公はホウエン軍がしばらくは戻ってこないと理解し、軍をシンオウの前線に向かわせる。
加勢したカントー軍は一部が壁の建築の応援に戻る。
8月 行方不明になったオリを探しにホウエン軍フォトゥリー公が一部の隊を引き連れシンオウを訪れる。サンジェム公とのやり取りの中でフォトゥリー公は、オリとサンジェム公は面識がないはずなのにサンジェム公がオリを彼女と言い、不審に思う。
フォトゥリー公はサンジェム公を牽制しながらも一旦は引き下がり態勢を立て直すことにする。
捕虜となったフスベ公は同じく捉えられているオリと対面し、オリはサンジェム公の会話の内容を教えてくれる。また気のいいシンオウ軍ダグと親交を深め、フォトゥリー公がいずれオリを奪還しに来るだろうとこっそり教えてくれる。
シンオウ軍の侵攻は勢いを増して南下しており、ジョウト軍は押されている。
夏の終わり頃、カントーでは夏の日差しと活力に感謝し別れを告げる火祭りが開かれる。ジョウトに残ったカントー軍も駐留地で薪を燃やす。
9月 ホウエン軍フォトゥリー公とモーヴィル公がシンオウ軍に奇襲をかける。混乱の間にダグがフスベ公とオリを逃がしてくれる。なんとかフォトゥリー公と再会するもののホウエン軍は劣勢に陥り、オリはフスベ公に託される。フォトゥリー公はその後シンオウ軍サンジェム公に倒されてしまう。モーヴィル公と彼の軍は助かり、逃走する。
フスベ公はオリをシンオウ領で再会したパートナーポケモンに乗せて送り出す。
ホウエン軍の奇襲により統制が乱れたシンオウ軍を東西連合軍が押し返す。
シンオウナギサの港に異国の女性が到着する。
10月 フスベ公が逃亡していたコトブキの街で異国の女性と出会う。何かに気づいた彼女に制止を求められとっさに逃げる最中、謎の場所に落ちてしまう。さまよっているとやがて目の前にアルセウスが現れる。アルセウスはフスベ公に力を授けて消えてしまう。
ホウエン軍がフォトゥリー公を倒された復讐のためジョウト軍と同盟締結を持ちかける。とはいえ冬が迫りつつある西大陸で準備が十分でないホウエン軍はジョウト軍に対して過度の支援を求める。それに対しジョウト軍内では意見が割れてしまう。
オリがジョウト・エンジュの街にたどり着き、ホウエン軍に引き渡される。
シンオウではサンジェム公が思うように成果を上げられずにいるのを他の領主は嘲笑していた。そしてジョウト方面で戦闘するサンジェム公を囮にしてシンオウ東方辺境領主ヴァイデ公が手薄なカントー方面への進軍を開始する。
半年かけて建造されたカントーの防壁だったが、ヴァイデ公が引き連れて来た巨人により一部が大破。カントーへの侵攻を許してしまう。
11月 正教直属の予言書研究機関が設けられたミオ図書館へ異国の女性が到着する。女性は東大陸アローラの巫女で、予言に関して新たな情報を提供しに来たのだった。
いつの間にかシンオウの別の場所に戻っていたフスベ公は無事にジョウト領へと戻る。死んだと思われていたフスベ公の帰還にジョウトの人々は喜ぶ。
一方でホウエン軍とジョウト軍の同盟締結は難航していた。しかしカントーならその条件を飲めると進言。そして比較的温暖な気候であるため駐留するホウエンの人々も過ごしやすい。ホウエン軍モーヴィル公はこれを承諾し、使いをホウエンへ送ろうとする。
そこへシンオウ軍がカントーへ巨人を連れて侵攻しているという知らせが届く。モーヴィル公は使いに援軍要請を付け加え送り出す。モーヴィル公とカントー軍、そしてエンジュ公率いる一部のジョウト軍はカントーへ向けて出発する。
12月 セキエイ高原を目前にヴァイデ公率いるシンオウ軍と東西南部連合軍が会戦。冬の高地ではシンオウ軍に分があり、また巨人の力になすすべがない。
アルセウスの力を得たジョウト軍フスベ公は導かれるがままシント遺跡と呼ばれる場所でその力を解き放ち、再び現れたアルセウスの無から生命を創造するという神のみわざを目にする。目の前に小さなディアルガが生まれる。
彼の肩に張り付いていた不思議な断片がするりと彼の元を離れたことに気づいていない。
シンオウ予言書研究機関では東大陸の巫女が何かを感じ取る。
カントーグレン���生命の実験を行なっている研究員が夜空に何かを見つける。
ホウエン・トクサネ、夜空を見上げていた観測者が顔を青くする。
そして未だ知らない場所、東大陸アローラの天文台は慌ただしく鐘を鳴らしている。
空には見たことのない輪のような星が浮かんでいる。
シーズン2 竜と流星
1月 セキエイ高原北ではヴァイデ公率いるシンオウ軍が未だ優勢で、前線は高原の南まで押し進められている。
東西南部連合軍は士気を失いつつある。すると甲高い声が響き渡り、空からファイヤーが舞い降りる。辺りの雪は解け出し、同時に南から轟くような声と地響きが伝わる。 救援を受けたホウエン軍が到着する。中には巨人に匹敵するほどの大きさの兵士もいる。ファイヤーがもたらした暖かさによってホウエン軍は遺憾無く力を発揮し、連合軍も再び士気を取り戻す。そしてとうとうシンオウ軍の巨人を倒す。
ヴァイデ公は逃走しようとするが、機動力のあるホウエン軍によって瞬く間に包囲されてしまう。ヴァイデ公は捕虜となり、連合軍は勝利する。
戦い終わって息をつく間も無く駐留地に輪の星の知らせが届く。
シント遺跡から戻ったフスベ公はエンジュに戻った直後、東大陸カロスにある秩序の神信仰の総本山からの迎えにより、東大陸カロスの街ヒャッコクに到着していた。秩序の神信仰の総本山で祭司エニスターに謁見する。見覚えのある顔を発見する。いつかシンオウで出会った気のいいシンオウ軍ダグは東方東軍の密偵であり、秩序の神に協力していた。
二龍神の名において勇者の手助けは惜しまない、というのが彼の信条だという。彼は今最も有力なのが秩序の神の一派だと考え、フスベ公に対しても直感的に勇者の素質を見出していた。
また彼は東大陸イッシュにある心の空洞という場所から西大陸シンオウまで移動していた。
輪の星の出現は西大陸ホウエン、東大陸アローラに伝わる「空からの災い」に関わるものだといい、それは世界を滅ぼすほどの力を持ち��それに対抗できる力として秩序の神が最も有力なのだという。おそらく正教との衝突は避けられないだろうとし、アルセウスの神のみわざを目撃したフスベ公に協力を賜りたいとエニスターはいう。
ダグが西大陸に渡ったのはエニスターの「目」を各地に配置するためで、フスベ公にも気づかないうちに「目」をつけられていた。その「目」を介してエニスターはフスベ公が目にした奇跡を感じ取っていたのだ。彼の力の半分はその「目」に注がれているため十分に動けないのだという。
他の宗教を信じろというのは不可能であれ、今は目を向ける先を変えるだけでいいというエニスターの頼みをフスベ公は承諾する。西大陸ホウエンの祭司オリに知らせを出す。
西大陸シンオウの予言書研究機関では輪の星の調査が進められている。一部ではあれこそが予言書の神なのではという説が浮上しており、輪の星をアルセウスと同一視する動きが出ていた。
2月 成果を上げられずにいるサンジェム公、巨人を失い捕虜となったヴァイデ公に、シンオウ諸侯はカントー攻略にはさらに大きな軍が必要だと団結を迫られる。シュライーデ公配下の呪術師は異界の神の加護を求め送りの泉へ向かう。
フスベ公がジョウトに戻り、合流したオリとともに直ちに船でシンオウ領ミオへ向かう。ミオの予言書研究機関にて巫女と再会する。「空からの災い」に関する情報はすでに彼女によって持ち込まれており、彼女はこの地で調査を続けていた。
フスベ公は、領地を巡った争いを即刻中止し差し迫った問題を解決するべきであると正教から諸侯に告げるよう、オリと巫女とともに申し出る。正教では輪の星を「空からの災い」ではなく最高神アルセウスであると見る派閥が大きくなっていたため、この申し出は断られる。何度訴えても応じてもらえずフスベ公は落胆し、シンオウを後にする。
ジョウトではカントーとホウエンの首長を招いて今後の動向を決めている。東西はフスベ公の意見に伴ってヴァイデ公を解放する条件にシンオウの停戦を求めようとする。ホウエンは処刑を求めていたため渋々だが承諾する。
カントーでは壊された壁の修復、ホウエンでは輪の星の出現以降「空からの災い」にどう対処するべきかということについて日夜話し合いが続けられている。もしカントー・ジョウト・シンオウが争いをやめないのであればホウエン軍は連合を脱退すると申し立てる。
また東大陸はすでに「空からの災い」に対抗しうる力を確保しつつあった。
3月 輪の星が大きくなっていることに、各地の天文台のみならず人々も気づいている。このままでは輪の星は地上に落下するだろうということを誰もが噂している。
正教だけはそれがアルセウスの姿だと信じており、勝利を我が物にするための手立てを企てている。
カントーからの条件をのみ、シンオウにヴァイデ公が返還される。しかしシンオウ軍シュライーデ公はヴァイデ公、そしてサンジェム公を恥さらしと罵り、生贄として送りの泉に沈める。
4月 シンオウ、戻りの洞窟にてギラティナがシュライーデ公によって召喚される。シュライーデ公は軍とギラティナを連れて南下する。ホウエン軍は来たる「空からの災い」のための戦力を確保するため撤退し、東西連合軍はこれを少数で迎え撃つこととなる。
フスベ公はもう一人の自分と遭遇する。もう一人の自分は、今は何もできないが全てを目撃し次に繋げるために生きろと言い、ディアルガとパルキアを連れて去っていく。
輪の星が重なり合った二つの星であることを西大陸ホウエンの天文台が発見する。これにより星が輪状ではないと判明し、正教のアルセウス説はかき消えた。
シュライーデ公は全ての野望の根源が失われ戦意を喪失するが時すでに遅く、ギラティナは邁進する。
5月 東西連合軍は三羽の鳥の力を借りながらなんとかギラティナを倒す。しかし多大な犠牲が出てしまい、「空からの災い」への準備が間に合うか厳しい状況となった。ギラティナを失ったシュライーデ公は輪の星のこともあり完全に戦意を喪失してしまう。
空の輪の星は今や光の部分がはっきりと大きくなり、いずれ前方の星と後方の星が衝突することが予想されていた。
東大陸イッシュでは「空からの災い」に備え古代兵器の封印を解く動きが出ている。あまりに危険な判断であり、封印を解かせまいと立ちはだかったエニスターが生命の神と破壊の神の狂信者たちに殺される。
また東大陸イッシュでは自分たちの正しさを盲信した者たちがジャイアントホールへと向かう。
6月 上空で前方の隕石を後方の隕石が打ち砕き、運命の鐘が鳴り響く。巨大な隕石が地上へ向けて落下する。
東大陸カロスは隕石に向かって古代兵器を起動する。その古代兵器は生物の命を力に変換するため、古代兵器の周囲の生物は死に絶えてしまう。
隕石は古代兵器によって破壊される。しかしその中から三角形の物体が現れる。それはさらに形を変え、一つの生物のような姿になる。その生物は東大陸へ向けて降りてゆく。
また打ち砕かれた隕石の持つ力が空間を捻じ曲げ、異次元空間とつながる穴を開けてしまう。そしてその穴から見たことのない生物たちが現れる。
東大陸イッシュはかつて巨大な隕石が落ちたとされるジャイアントホールの封印を解き、化け物と呼ばれる存在キュレムを解き放つ。キュレムの復活により異次元から現れた生物たちを迎え撃つことができたが、その周囲は凍りついてしまう。
東大陸アローラでは地下深くに封印されていたネクロズマを解き放つ。非常に強力な光線を放出するが、凶暴なため何もかも破壊してしまう。
西大陸カントーでは魔法と科学の融合で生み出した凶暴なミュウツーをやむなく解き放つ。異次元から現れた生物たちを迎え撃つことができたが、手をつけられないほどの凶暴さで周りの人々さえも攻撃し始めてしまう。
隕石から現れた生物は西大陸シンオウへと降り立ち、圧倒的な力で世界を滅ぼしてゆく。
燃え盛る世界で、フスベ公はディアルガの力で古代の世界へとタイムスリップする。
それは言い伝えとなる「空からの災い」が降ってきた後の時代。元の時代では神と呼ばれる伝説のポケモンたちがこの時代には生きていた。
古代 フスベ公はシント遺跡で古代のアルセウスと対面し、再び神のみわざによってパルキアを生み出す瞬間に立ち会う。
またフスベ公は最古の一族とフーパに出会い、この時代で「空からの災い」に人々とともに挑んだ伝説のポケモンたちの話を聞く。その中で遺伝子の楔、メガストーンというキーワードを耳にする。
そして古代の世界で存在していた伝説のポケモンたちを、パルキアの作り出した異空間に移す。
2度目の4月〜5月 フスベ公がディアルガの力で元の時代に戻ってくる。
ディアルガとパルキアを連れて正教を訪れ、輪の星がアルセウスではないこと、いますべきは戦ではなく来るべき「空からの災い」への備えだと説得する。そしてシュライーデ公の元へ赴きギラティナを召喚するのは今ではないと計画を阻止する。
さらに心の空洞を経由して東大陸カロスセキタイの街へ向かい、エニスターの殺害を阻止。
フスベ公のディアルガとパルキアを従える姿に二龍神の敬虔な信者たちは勇者の姿を重ねる。
秩序の神の一派や二龍神の力を借り��遺伝子の楔とメガストーンを手に入れ、それらをあるべき場所へと受け渡す。
この時代で再びフーパと出会い、異空間からレシラム、レックウザを呼び出す。
2度目の6月 運命の鐘が空中に鳴り響く。隕石が降り注ぎ、異次元空間とつながる穴が開く。
封印を解いたキュレムがレシラムと合体、ホワイトキュレムとなり異次元からの生物を迎え撃つ。
エニスターが100%フォルムのジガルデとなり、異次元からの生物を迎え撃つ。
ミュウツーには愛情を持って育てていた研究員とメガストーンが反応し、メガミュウツーYにメガシンカする。
ネクロズマの封印は解かれず、カプたち精霊が異次元からの生物を迎え撃つ。
召喚されたギラティナが異次元空間とつながる穴を塞ぐことで異次元からの生物の侵攻を止める。
レックウザがメガシンカし、隕石を破壊。現れたデオキシスを迎え撃つ。
神と呼ばれる伝説のポケモンたちによって、そしてそれらをこの時代に呼び寄せたフスベ公と、脅威と立ち向かった全ての人々によって世界は滅亡を免れる。
7月 全ての人々から賞賛されたフスベ公は「ドラゴン使い」と呼ばれ英雄となる。
予言書の真実「空からの災いから世界を守ったものが全ての長となりうるとされ、その栄誉からもたらされるものこそがどんな願いにも匹敵するとされる」と語られるように。
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『ヴァリエテ』再見
Youtubeで映画『ヴァリエテ』(1925)を見た。E・A・デュポン監督によるドイツのサイレント映画。十数年以上前に一度観たことがあり、Youtubeに上がっているのを見つけて懐かしさついでに流し見したのだが、一時間半程度の尺のなかに見どころがたくさん詰め込まれていて思いのほか魅せられてしまった。字幕の飾り文字もフルオーケストラの演奏も絢爛でよく作り込まれており、カメラワークも100年近く前の古典映画とは思えないほどに機微が効いていて斬新である。主人公を演じるエミール・ヤニングスの名演はサイレント(台詞なし)のハンデを補って有り余るほど技術が高く、身体と顔の表情が物語の進行に従って千変万化する(小太りの中年男の一挙一動に何故か目が離せない!)。以前観たのが十数年前なのであらすじはほとんど記憶になかったが、有名な空中ブランコのシーンは割と鮮やかに覚えていたし、主人公が自分の妻を寝取った若い曲芸団員を殺害するくだりの「怒り」の演技はあらためて本作の一番の見せ場だと思った。
興味深いのは、本作が様々なジャンルや様���の混成体に見えるところだ。映画の冒頭、受刑者となった主人公の肩を落とした後ろ姿が判事と真向かう構図であらわれるのだが、背中のゼッケンにしるされた囚人番号のデフォルメチックな「28」という数字は表現主義を想起させるし(「いかにもドイツらしい!」と思った)、曲芸師がきりきり舞いの華やかな身体術を披露する空中ブランコの演技シーンはアクション映画の先駆的表現だ。中盤で曲芸団の演技が次から次へと披露される場面は映画と見世物の舞台の融合といった趣きで、まるでジョルジュ・メリエスの奇術の世界の進化形のよう。物語の基調は三角関係をベースとした愛憎入り混じる恋愛ドラマだし、主人公による若き曲芸師の殺害シーンは迫真性溢れるサスペンスの場面として鑑賞者を一挙に緊張状態に導く。加えて、殺人を犯した主人公に追いすがる妻が勢いあまって階段を転げ落ちるシーンは、シリアスなサスペンスの後に続く場面とは思えないほどスラップスティック調である。つまり、ここには節操がないまでに映画のあらゆる様式が接ぎ木されているのだが、換言すればそれは、『ヴァリエテ』という古典映画が後続の映画の参照項たりえる映像文法をたっぷり内臓させているということでもある。とにかくサービス精神旺盛な一作。『ヴァリエテ』がサイレント映画黄金期の傑作と呼び声高いゆえんがあらためて確認できた。
それにしても物語終盤のヤニングスの「怒り」の演技は素晴らしい。というよりも、俳優が身体まるごとで表現する「怒り」の感情が、映画のフレームいっぱいに充満してひとつの映像言語に高められるまでの一連のシークエンスが素晴らしいと言うべきだろうか。この場面では、フレーム内に極力余計な要素を映し込まず、ヤニングスの「顔」にフォーカスするという大胆なカメラワークが採用されている。さらに、殺される曲芸団員役のワーウィック・ウォードが、ヤニングスの異様な怒りに気づくや否や、怯え、萎縮し、命乞いの懇願から反撃に繰り出すという感情変化を短い時間のなかで巧みに演じているのも効果を挙げている(じりじりと相手を追い詰めるヤニングスと滑稽なまでに表情を転変させるウォードとの対比)。そして、ヤニングスの「顔」がスクリーンに真向かうかたちで映し出され、一歩一歩前に――つまり映画を見ている私たちの側に向かって――接近してくるとき、殺されるウォードの「逃げ場のなさ」は鑑賞者と共有され、鬼気迫る殺害シーンの迫真性を最大限にあらわすものとなる。「怒り」の矛先がスクリーンの手前に溢れ出すこの場面こそ、鑑賞者が「いま、自分は映画を見ている」という現存在を再帰的に自覚する瞬間であり、「映画を見ること」の快楽やスリルがもっとも高潮する最大の見せ場なのではないか。
サイレント映画の映像文法、映像言語には学ばされるところが多い。最近めっきり映画の鑑賞タイムが減ったので、今後は余裕があるときにサイレント映画あたりを気軽なスタンスで観るようにしたい。分析に踏み込むような何かにつながるかどうかはまだわからないが。
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薈藍 The Met. Azure
薈藍 The Met. Azure
薈藍是宏安地產新發展的藍巴勒海岸半山型宅,位置坐落寮肚路8號。
延續宏安地產The Met.系列樓盤,是次為首個市區海景項目。 目標客戶群為同區及鄰區分支家庭、上車客及單身專業人士。 樓花期長約21個月,關鍵日期為2022年12月31日。
���藍 The Met. Azure 命名
靈感取自項目臨海地理位置
「Azure」 取自於拉丁語 Azurium 青金石,意指天藍色,象徵豁然開朗。 「薈」則是延續集團「The Met.」精品住宅系列之名; 「藍」則指蔚藍天空及藍巴勒海峽的海景 。 薈藍以「Hygge」風格作主題,在建築設計上採用流線型橫向設計,大樓外立面布有香檳金色水平線條,貫穿單位露台。 項目屬單幢式設計,樓高16層 ,更有3層基座及1層地庫,共設有15個車位,其中住宅面積約7.88萬平方呎,共提供320伙分層住宅。 戶型提供開放式至一房戶,包括開放式單位佔252伙,佔總數約79%,實用面積203至215方呎;一房戶佔28伙,實用面積256至257方呎;另特色單位佔40伙,實用面積181至257方呎。 項目面向藍巴勒海峽方向的單位中,有逾半可享海景。 該項目由2樓至20樓,當中不設4樓、13樓和14樓,單位採用3.5米樓底設計,亦設主題式會所,令住戶足不出戶,亦能盡享精彩悠閒樂趣。
項目資料
地址: 青衣寮肚路8號 單位總數: 320個 (共1座) 戶型種類: 開放式(Studio) 及 1房 樓層: 2-20/F 共16住宅樓層 不設4/F、13/F、14/F 住宅層高: 3.5m 面積 約200至300平方呎 車位總數: 15個 會所設施: 閱讀區、燒烤區 、健身室、電競房、卡拉OK室等 公共配套: 會所及園林花園,地下設有公共小巴總站 校網 小學66校網、中學葵青區 每呎樓面地價: 8,491元 預計關鍵日期: 2022年12月31日 發展商: 宏安地產 樓盤網頁: http://www.themet.com.hk/azure/tc/
屋苑設計圖
單位平面圖
單位立體圖
示範單位
開放式Studio戶
3.225M(~10’6”) x 4.825M(~15’9”)
3.5m層高
48%玻璃可以開啟
露台方正實用
廚房、浴室歸邊,空間更實用
已預留鞋櫃位
戶型貼心設計 設備一應俱全
智能家居生活 提升生活品質
PIN Genie™ 防窺視密碼鍵盤
實時變更數字鍵盤,亦包括指紋、藍牙、RFID智能卡及鎖匙等開門功能。
智能家居概念
Smart Pass
透過QR Code智能進出系統出入大廈,配合智能感應開門系統及非觸式電梯按鈕。
Smart Air
大堂及會所均採用由香港科技大學研發的NCCO空氣淨化系統,垃圾房則以生化氧過濾系統淨化空氣,確保空氣清新。
Smart Park
停車場採用免觸式進出系統,每個車位更備有「電車充電易」電位。
Smart Door
每戶設有可智能門鎖,以手機應用程式開啟大門;大門側更設有隱藏式快速無線充電器,回家即可為手機充電。
Smart Eco
大廈各處採用感應燈,會所亦設置太陽能照明系統及灑水系統,每戶更裝設高效能設計窗,環保節能。
屋苑主題式會所 應有盡有 滿足生活所需
極高綠化面積
超過45%戶外花園
HYGGE 主題會所
HYGGE 來自丹麥的述語,代表溫暖、舒適、實踐簡單、美好的生活。 會所的北歐風格設計,為繁忙的日子加添一點輕鬆愉快的心情。
景觀
屋苑位處高地,坐落青衣半山,擁有優質青巒依岸至藍巴勒海峽壯麗景觀,瞭濶海景盡入眼簾,環境清幽,能遠眺馬灣海峽景色,單位開則會以向南、望海為主。 東北面景觀較有優勢,中、高層向東北單位可飽覽全海景,對面沿岸更是青山公路汀九段;東南面則可欣賞荃灣區景色;西南面正對巴士及小巴總站,其他多為長宏邨樓景。
生活配套
交通
東涌綫 - 16分鐘到香港站;機場快綫 - 14分鐘到機場 青馬大橋、昂船洲大橋、青衣大橋、葵青橋、荃青橋、汀九橋、長青橋、青荔橋 3號幹線 - 5個燈位直達西九龍 8號幹線 - 貫穿沙田及機場 11號幹線 - 連接屯門(規劃中) 薈藍交通一應俱全,坐擁機場快綫及東涌綫兩鐵匯聚優勢,14分鐘即達機場,20分鐘到達西九西鐵站及旺角等九龍購物核心地區,23分鐘到達中環金融商業區。無論港內港外瞬間即達,輕鬆體驗珠三角1小時生活圈
薈藍鄰近巴士路線
42A → 西九龍站 42C → 東九 42M → 荃灣 43A → 葵芳、石籬 248M → 青衣站 948E → 港島東(北角、鰂魚涌) 948X → 銅鑼灣(特快) 242X → 尖沙咀(特快) X42C → 東九龍特快 經:九龍灣、觀塘 948 → 銅鑼灣(西隧) 經:中環、金鐘、灣仔 N241 → 紅磡(九龍通宵線) 經:旺角、油麻地、尖沙咀
薈藍鄰近小巴路線
402S → 荃灣千色匯 405 → 葵芳、荔景 407 → 瑪嘉烈醫院 407B → 葵盛圍 409 → 荃灣街市街(經青衣站) 409K → 荃灣西站(經青衣站) 409S → 荃灣街市街特快(經青衣站)
生活飲食
薈藍更設有完善的生活飲食配套,最近商場僅距離屋苑約8至10分鐘步程,周邊更設有不少大型商場。 生活所需應有盡有,居住品味無與倫比,為居民提供豐富多姿的消閒及購物選擇。 附近商場一覽
長宏邨商場
長康邨商場
青衣城
翠怡商場
青衣市政大廈
青怡薈
長亨商場
葵芳新都會廣場
荃灣西站OP MALL
南昌站V WALK
九龍站ELEMENT
同時,區內亦有大量社區康體設施,由室內到室外,全天候為住戶提供舒暢身心的運動休憩活動空間。 附近社區康體設施一覽
青衣公共圖書館
康體大樓
昂船州大橋
青衣運動場
青衣游泳池
寮肚路遊樂場
青衣三支香
青衣東北公園
青衣自然教育徑
海濱長廊
校網
此外,區內多間知名學府林立,學校學額供應充足,競爭則相對平均,想派入好學校的機會較高。家長一般可在統一派位乙部第一和第二志願揀選區內熱門的心儀學校。若派位失意,於區內學校叩門時,會存在較多的機會。
小學 66 校網
中華傳道會呂明才小學
保良局陳溢小學
聖公會何澤芸小學
聖公會青衣主恩小學
青衣商會小學
郭怡雅神父紀念學校
保良局世德小學
聖公會青衣邨何澤芸小學
東華三院周演森小學
東華三院黃士心小學
荃灣商會學校
仁濟醫院趙曾學韞小學
葵青區 部分中學
中華傳道會安柱中學
天主教母佑會蕭明中學
聖公會林護紀念中學
佛教善德英文中學
保良局羅傑承(一九八三)中學
保祿六世書院
順德聯誼總會李兆基中學
東華三院陳兆民中學
中華基督教會全完中學
密愛禮信中學
東華三院伍若瑜夫人紀念中學
東華三院吳祥川紀念中學
荔景天主教中學
中華傳道會李賢堯紀念中學
葵涌蘇浙公學
樂善堂顧超文中學
皇仁舊生會中學
附近屋苑
曉峰園 青泰苑 宏福花園 偉景花園 綠悠雅苑 青怡花園 灝景灣 海悅花園 翠怡花園 海欣花園
宏安地產——The Met.精品式住宅系列
「The Met.」系列以精品住宅稱著,座落全港核心地段,廣受住客與投資者歡迎。 「Met」具有「Metropolis都會、Metro鐵路及Met相遇」的涵義,傳譯「The Met.」項目位踞都會中心、坐擁便捷交通,及精緻配套迎合品味追求的特點。
屋苑名稱
地址 薈藍 The Met. Azure 青衣寮肚路8號 薈蕎 The Met. Acappella 大埔公路7838號大圍段 薈朗 The Met. blossom 馬鞍山馬錦街9號 薈晴 The Met. Bliss 馬鞍山恆光街15號 薈悅 The Met. Delight 長沙灣營盤街142號 薈點 The Met. Focus 紅磡北拱街8號 薈臻 The Met. Sublime
西營盤桂香街1號
The Met. 系列樓盤過往分有沙田、馬鞍山、長沙灣、西營盤,同樣主打中小型單位見稱,對上一個沙田薈蕎已經追溯至2017年11月推售,當年首張價單用盡折扣後,折實呎價16,988至19,656元。
預計開價
當年項目地價$867.3億,每平方呎地價約$10,500,扣除發展成本及發展商預留成本,預料推售實用呎價達到2萬-2.2萬元,較同區屋苑灝景灣及盈翠半島呎價高出20-30%。
結語
如果想上車,鐘意新盤,又不介意單位較細,正在找尋價錢合理、高性價比的新樓盤,不妨考慮一下薈藍。 青衣為香港第五大島嶼,亦是葵青區唯一島嶼,人口超過20萬,面積為10.68平方公里。 薈藍地址位置優越,環境清幽,遠離繁囂,交通配套完善。
薈藍屋苑專頁 The Met. Azure
薈藍 The Met. Azure
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