#旧姓島田
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【かいわいの時】文久二年(1862)四月二十三日:南画家田能村直入らが大煎茶会「青湾茶会」を開催(大阪市史編纂所「きょうは何の日」)
清湾茶会には、天気がよかったこともあり千二百人もの人が参加したと記録されています(『清湾茶会図録』)。茶席は、大長寺から桜宮まで本席7副席4の11席で、1席の定員10人。1200人だと、延べ120席を11会場で回した勘定になり、1席30分としても6、7時間は要したであろうと思われます。
ところで、この茶会に参加した国学者の近藤芳樹(長州藩士。当時、京にて情報収集活動を行う)が、周防防府の酒造家で文化人のパトロンであった上田光美に送った書簡[註1]によると、
・切符500人前を前日より発売 ・当日に300人前を追加
正規チケットを持った参会者は1200人中800人で、つまり、あとの400人はタダ乗りとゆうことになりそうです[註2]。
船の席は小舟で送迎するので混雑はなかったが、その外の席には一度に大勢の者が押しかけ大混乱。切符を持っている人が席に入れず身動きもとれず、「あいつは切符も持たんと茶ァ飲んでけつかる」などと大声で叫んで大騒動になった。(近藤書簡を超訳)
茶会は、お世辞にも「清風」とは言い難い状況で、そんな中でも、切符をもった近藤さんは、ゆうゆうと全席コンプリートしたと述懐。勤王の志士でも、茶会は別格であったようだ。本人は9席と供述。実際は11席なので、2席は飛ばしたようです。世情穏やかならぬ幕末にあっても、たまたま京・大坂に滞在中であった近藤は茶会を楽しむ余裕があったようです[註3]。
[註1]『近藤芳樹書牘集一』(山口県文書館蔵)。幕末期の国学者。周防(すおう)の人。本姓田中、通称晋一郎、号は寄居(ごうな)。旧長州藩士で明倫館助教。維新後、東京に移り住んで、宮内省御用掛に任じ、御歌所寄人(よりうど)などをつとめた。本居大平、村田春門また山田以文に師事して、国文学、律令学を学んだ。同じ大平門の加納諸平を尊敬して最も歌をよくし、幕末歌壇に際立った活躍をした。学績として《令義解校本》《淫祠論》など、歌論書に《古風三体考》《寄居歌談》、紀行文に《陸路廼記(くぬかちのき)》がある(改訂新版 世界大百科事典 「近藤芳樹」の意味・わかりやすい解説 )。
[註2]売茶翁は、売茶の折、「茶銭は黄金百鎰より半文銭まではくれ次第、たゞのみも勝手、たゞよりはまけまうさず」(『近世畸人伝』1790)とゆう看板を掲げており、切符の代金はいくらであったのか定かではないが、タダで飲まれても文句はいえない。按ずるに、切符は単なる整理券で、茶会はタダだったのかもしれない。「僧侶の身分を放棄し、餓死に繋がる決断を下した売茶翁の声に想いを巡らし、且、清湾茶会が売茶翁の追善と懸賞の爲に開催されたとするなら、“無錢飮食”とゆう表現は、如何なものであらうか」(千三屋)。
[註3]近藤書簡には「伏見も大騒動ニ御座候然處大都會と申ものハ妙なものに而此内���過ル二十三日網島ニ於煎茶の大會御座候」とあり、丁度同じ日の夜に起こった伏見の寺田屋騒動にも触れている。
(写真)木村孔陽編・青木夙夜画『賣茶翁茶器圖』1823・1924復刻より「茶籏」 賣茶翁の茶道具は、翁と親交のあッた木村蒹葭堂が其の姿・形を記録した。翁沒後60年の文政6年(1823)に、蒹葭堂の後嗣・木村孔陽が、この圖を蒹葭堂と交友のあッた南畫家・青木夙夜に冩させ、圖譜にまとめて刊行した(千三屋)。高翁(賣茶翁)の衣の紘(切れ端)で作成、「清風」の文字は大典禅師書。
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久米裕 1977年9月19日失踪。東京都三鷹市、52歳、警備員 松本京子 1977年10月21日失踪。鳥取県米子市、29歳、縫製工場勤務。 横田めぐみ 1977年11月15日失踪。新潟市、13歳、中学生 田中実 1978年6月ごろ失踪。神戸市、28歳、ラーメン店店員 田口八重子 1978年6月ごろ失踪。東京都豊島区、22歳、キャバレー勤務 地村保志 1978年7月7日失踪。福井県小浜市、23歳、大工見習い 地村(旧姓濱本)富貴惠 1978年7月7日失踪。福井県小浜市、23歳、ジーンズショップ店員 蓮池薫 1978年7月31日失踪。新潟県柏崎市(帰省中)、20歳、中央大学法学部 蓮池(旧姓奥土)祐木子 1978年7月31日失踪。新潟県柏崎市、22歳、化粧品会社勤務 市川修一 1978年8月12日失踪。鹿児島県日置郡、23歳、電電公社職員 増元るみ子 1978年8月12日失踪。鹿児島県日置郡、24歳、事務員 曽我ひとみ 1978年8月12日失踪。新潟県佐渡郡、19歳、准看護師 曽我ミヨシ 1978年8月12日失踪。新潟県佐渡郡、46歳、工場勤務 石岡亨 1980年5月ごろ失踪。北海道札幌市、22歳、日本大学農獣医学部卒 松木薫 1980年5月ごろ失踪。京都市、26歳、京都外国語大大学院 原敕晁 1980年6月中旬失踪。大阪市、43歳、中華料理店コック 有本恵子 1983年7月ごろ失踪。神戸市、23歳、神戸市外国語大学卒
竹村失踪の3日前に(52) | Tansa
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2024/11/22 18:00:15現在のニュース
立憲・野田氏、与野党協議で自民けん制 「オープンな形が原則」(毎日新聞, 2024/11/22 17:59:58) 「アジア版NATO」とか言い出せる状況になく…外遊で「安保の石破」に突きつけられた現実 求心力は大丈夫か:東京新聞デジ���ル([B!]東京新聞, 2024/11/22 17:57:57) マイナ保険証を持っていない人は12月からどうなるの? 読者の疑問まとめました〈Q&A②〉:東京新聞デジタル([B!]東京新聞, 2024/11/22 17:57:57) 自民都連がパーティー券収入258万円を不記載 ずさんな「記載漏れ」 専門家が批判「前年も同じように…」:東京新聞デジタル([B!]東京新聞, 2024/11/22 17:57:57) 今週の本棚:星野智幸・評 『自然死(老衰)で逝くということ グループホーム「わたしの家」で父を看取る』=三浦耕吉郎・著 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/22 17:57:38) 人材不足が課題に - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:54:49) 中野祐介・浜松市長、年収103万円の壁に「地方税を巻き込まないで」 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:54:49) 保育所入園率、79%に低下 育休給付の延長、「落選狙い」影響か - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:54:49) いじめ「重大事態」4割増 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:54:49) 小池百合子都知事は兵庫県知事選をどう見た? 結果を左右したSNSは「有効な部分がある一方…」(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/11/22 17:52:56) 保育士の処遇改善 人件費、過去最大の10・7%引き上げへ 三原じゅん子担当相が表明([B!]産経新聞, 2024/11/22 17:51:53) 全国交通系ICカード、熊本県のバスと電車5社が更新費重荷で離脱…「小銭を用意するのが大変」困惑([B!]読売新聞, 2024/11/22 17:49:22) 福岡県知事「引き続き仕事を」 来春知事選へ出馬の意向表明(朝日新聞, 2024/11/22 17:48:49) 脱炭素社会実現の課題(6) 国際的な技術移転の重要性 上智大学教授 鈴木政史 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:48:16) イラン、高濃縮ウラン製造停止を撤回か IAEAが非難決議を採択(毎日新聞, 2024/11/22 17:44:48) 同性婚認めぬ規定「違憲」 高裁2例目、賠償認めず - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:42:06) 脱炭素社会実現の課題(5) 公的支援や政策の有効性 上智大学教授 鈴木政史 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:42:06) 立花孝志氏、兵庫・南あわじ市長選に立候補表明 25年1月告示(朝日新聞, 2024/11/22 17:41:31) 政府、計13.9兆円の経済対策を閣議決定 物価高対策に3.4兆円(朝日新聞, 2024/11/22 17:41:31) コンビニ「クシュタール」店内は…ペイストリー充実、異彩放つ飲み物(朝日新聞, 2024/11/22 17:41:31) 石破首相の外交マナー巡り「サポート体制とる」と岩屋外相 野党は「海外に出すな」と批判([B!]産経新聞, 2024/11/22 17:39:25) 高校は広島商・東洋大姫路、大学は青学大が4強入り 明治神宮野球(毎日新聞, 2024/11/22 17:37:38) 「大河になりたいが!」 戦国大名・宇喜多家のドラマ化へ署名活動(毎日新聞, 2024/11/22 17:37:38) イスラエルの外交制約か 国際刑事裁判所がネタニヤフ首相���に逮捕状(毎日新聞, 2024/11/22 17:37:38) 国連委、夫婦同姓義務「見直しを」 皇室典範にも言及 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:36:27) 未払い残業代8億円超、3年で分割支給へ 宮城・大崎市民病院が方針(朝日新聞, 2024/11/22 17:34:22) Amazon「ブラックフライデー」29日から 日用品を充実 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:30:32) ニトリ、10万円切るドラム式洗濯乾燥機 平均の半値以下 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:30:32) GMO、AI開発向けクラウドサービス NVIDIA半導体採用 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:30:32) メルカリやイケア「グリーンフライデー」 大量消費と一線 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:30:32) 教員「残業代」見えぬ着地 文科省・財務省、財源や増員でも溝 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/22 17:30:32) 旧優生保護法 再発防止への調査、第三者機関に委託へ 超党派議連(毎日新聞, 2024/11/22 17:30:20) 福岡知事選、現職・服部氏出馬へ 「県民のため引き続き仕事したい」(毎日新聞, 2024/11/22 17:30:20)
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尋找真實的我
遠藤周作 集英社
遠藤周作 - 搜尋 (bing.com)
想見到 的 中國人
一個村落的小歷史
來說一個小小的村子的歷史。
幕末的事情。法國神父 普吉江 來到了 長崎。那時的幕府因為無法
抗拒諸外國的要求,和與美國為首等五國簽訂了友好通商條約,
長期抵制基督教崩塌了一角,承認了居留日本的信眾偏離了教義。
普吉江神父來到為外國人建造的教堂履任,然而他有一個秘密的
目的。那是他在 那霸 學習日本種種四年前的事情。有一個中國人
告訴他,被嚴禁的基督教其實有不少隱密的教徒。
怎麼樣都想找到,並接觸這些「隱密教徒」。他在街上問,小孩子
也問,可是一談到這一點,大家表情就黯淡了下來。
然而在 1865年春天,一群圍著這個罕見的異國教會參觀的日本人
中,有幾個百姓模樣的男女混了進來。其中一個女的問神父說 :
「 聖母瑪麗亞的神像在那裡呢 ?」
就這麼一個契機,神父知道他們是從長崎越過一個山頭的貧窮的
浦上村 的百姓,知道他們是自己尋求到基督教的村民。
從此,神父每到夜晚就越過山丘,去到 普上村 拜訪。教會長年的
沒有宣教師,他們的信仰有偏離基督教義的部份,神父教導他們,
以倉庫做教堂,舉行彌撒,也為他們洗禮。
這個秘密的傳教持續了一年,因為一點小事情為 長崎奉行所 知道
了,受到衝擊的奉行所,在六月的夜裡,包圍了浦上,並逮捕了
基督教徒的首謀。
小村落歷史的意義
受到嚴厲的調查,很多人拒絕棄教。浦上村的男女一一被投獄,並
受到酷刑。
種種經過之後,浦上村基督徒的處理,轉到了明治新政府,明治新
政府反彈諸外國公使的抗議為「干涉內政」,並且將這些男女老少
的信徒全體,分散至全國各地的監獄。
離開故鄉在異地的監獄,是這些浦上村人們痛苦的開始。各地的待遇
有差別,而受到的拷問、飢寒沒有不同。其中最有名的是 島津縣
津和野。今天津和野的年青人們,對浦上村農民的痛苦歷史,應該
都不知道吧。
【津和野の旅】江戸から明治にかけての和洋の文化が息づく城下町・島根県津和野への旅をVlogにしました|津和野カトリック教会|藩校養老館|太鼓谷稲成神社|津和野城跡|旧堀氏庭園|糧|旧畑迫病院 (youtube.com)
這些人們在監獄的六年之中,明治的日本全力的進行近代化。明治
四年十一月,以岩倉具視為大使,連同木戶孝允、伊藤博文等一行
四十八名,為了準備改訂屈辱的安政條約,經過歐洲去到美國,並且
受到格蘭總統的接見。
格蘭總統說 :「給我國人民帶來財富與幸福的原因 . . . . . . 就是不
剝奪出版自由,不束縛信仰的良心,不只國民,包括居留的外國人
的宗教,一切不設限制。」向岩昌一行演說表示,在日本應該停止
對浦上農民們對基督教信仰的禁制與迫害。
岩倉一行從美國政府的態度,深深感受到有必要向世界各國宣言,
為了修改條約、日本是個近代國家。隨著他們的請求,明治政府於
明治六年,解除了在日本禁制基督教的法令。��且讓被關押在全國
各地監獄的浦上村男女老少一千九百六十人,在事隔六年後回到了
故鄉。
農田荒蕪,家屋毀壞,他們拼命的重建了他們的家園,而且在貧困
之中,試著重建他們的教堂。女孩子們發揮愛心,學習護士,也他們
手中建造完成了浦上的大聖堂。
歲月流逝 ;曾經救助了浦上農民,助其信仰自由的美國與日本戰爭
開始了。昭和二十年八月,從美國飛來的飛機,就在浦上村上空投
了炸彈。炸彈閃光,爆炸。在農田耕作的浦上農民們,他們的家,
曾經在被釋放後所蓋成的大聖堂,在一瞬間破壞殆盡。
浦上是個小村落;如今僅只是被劃入長崎市邊緣的一個小區域。然而
每當我去到那裡,這個小小的地方在日本的近、現代史上卻是如此
的大,而且想到了這件有著深長意味的兩件事,不得不為即便是
社會正義與民主主義,在政治次元之中產生矛盾的結果,而為之
嘆息。並且想到生息在浦上的農民信徒們,在日本國民的信仰與
日美關係上所付出的犧牲。這就是這個小村落的歷史。
凱 薩 琳
春寒賜浴群星池
爆發
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【坂本龍一監督追悼 定期演奏会2024】仙台も終了、30日(土)は郡山!
盛岡の朝は早い。 市内のホテルから団員が宿泊する紫波(しわ)郡紫波町の「ラ・フランス温泉館」までタクシーで移動���、団員と合流しなければならないというミッションを背負っていたのです。宿泊施設の名前を聞いてから「ラ・フランス」と「温泉」の二語の不協和音ぶりに不審さが拭えなかったのですが、実際にありました。
さらに「湯楽々」(しかも文字の級数がデカい!)です。この斬新なネーミングの施設ですが、朝6時頃の眺望をOB中村祐登(トランペット、今は小学校の教諭、地元は仙台)にシェアしてもらいました。
雲海が広がる絶景に日の出。もっと早起き駆けつけて見たかった!(たぶんできなかった)
さて、バスの添乗担当としては、
3号車に乗り込み、7時半に出発。寝台バスのごとく寝ること2時間。やって来ました、本日の会場です。寝ぼけながらバスから降りて普通に会場に入ろうとしていたら、前で写真を撮っている団員がいました。
OBOGから畏敬の念を持って「酒豪」と称される佐々木潮里さん(ヴィオラ、今は化学品系メーカー研究職、地元は仙台)でした。きっとアルコール分解の人体実験としてお酒を嗜まれているに違いないと解釈しております。
東京エレクトロンホール宮城(宮城県民会館)では、二人の来客がマエストロの入り時間よりも早く待ち構えていました。
第三期のコンサートミストレス、千葉はづきさん(旧姓、地元は仙台)が、生後4か月の洋榮(ひろは)くんを連れてやってきてくれました。いったい何人がこのヒーローを抱っこしたことでしょう。
しかし、OG佐藤実夢さん(ヴァイオリン)の抱っこの安定感はナンバーワンでした。今は保育士さんですからね。
ゲネプロ中をいいことに「乗っちゃいなよ、ベイビー」とは言いませんでしたが、オンステージのデビューをしてもらいました。
すでに孫のためにチェロが買い与えられたとか。これから「東北ユースオーケストラ・ジュニア」ができるのか、いや「東北ユースオーケストラ」に入って欲しいものです。
はずきママ、律儀に差し入れも持ってきてくれました。
そう、盛岡のヴァイオリン駒井さんの手芸による栁澤さんはすでにご紹介しましたが、その左は手芸の福島事務局竹田学さん(直前合宿初日にご指導)と判明いたしました。
OBの吉田飛鳥くんも差し入れ持参で駆けつけてくれたのです。だんだん「ひよこクラブ」記事のようになってきたので、このへんで修正いたしますと、今日は東北ユースオーケストラの宮城公演です。
ゲネプロは着々と進行、終了し、あとはお客さんを待つのみ。
こちら下手の舞台袖では、
クラリネットの渡邊理沙子さんが、シエナ・ウィンド・オーケストラの飯島泉さんに個別指導をしていただいていました。なんという贅沢! 本番がんばって!!
一方、ロビーでは、
TYOオリジナル商品の物販準備です。三期の齋藤玲利くん(チェロ、盛岡出身)が、大学入学で復団したいと体も大きくなって手伝いに来てくれました。うれしいし、心強いぞ。わたしが書いた書籍『響け、希望の音〜東北ユースオーケストラからつながる未来』(フレーベル館)もオンデマンド版を販売しています。初版は売り切れたものの、重版までには至らずとの版元判断でございます。ドカンと増刷になると、このオケの活動費になりますので、そのような事態の到来を待ち望んでおります。Netflixとかで映画にならないかな・・・。
オシャレでコンパクトなTYOロゴ入り防災セットも残りわずかですので、郡山、東京での公演での入手を切にお願いいたします!
こちらは20日に発売されたばかりのCD、東北ユースオーケストラと坂本龍一 『The Best of Tohoku Youth Orchestra 2013~2023』の販売ブース。こちら会場での購入特典としてA4サイズのオリジナルデザインのクリアファイルがもらえます。ぜひこの機会にお求めください。
そろそろ開演間近となり、舞台袖にはTYO定期演奏会では恒例の影アナ隊が集まってきました。普通は舞台袖で行う注意喚起ご協力お願い系のアナウンスを団員がステージの正面に陣取り堂々と行うという演出の一部です。
えー、今日は男3人に女2人ということは、TYOのTRF!
こちらはパーカッションのみなさん。
んー、女4人、男2人、むむむ、TYOの男女混合バレーボールチームです(にしておこう)!
仙台が地元の二人がそろっていました。
TYOの「けいことみなみ」です!(昭和に活躍した女性漫才コンビ風ですが、そのままです)
日の出を撮影した仙台が地元、中村くんが自撮り棒を使っていました。
生徒のみなさん、中村先生は元気ですよ。
もはや開演直前。管メンバーのチューニングがはじまりました。
開演しました、1曲目の演奏風景です。
昨日の盛岡公演を上回る、自己ベストの勢いで着々と演目が進んでいきます。
その頃、MCの渡辺真理さんから休憩前のロビー物販を紹介するアナウンスにあたり、舞台袖で油断していた3人に協力要請がありました。
昨日の盛岡での「にわかTYOなんとか」グループとの被りもありますが、TYOのMISAMO! あと6人の女子団員を編成して、「TYOのTWICE」を郡山公演か、東京公演で、名乗り出てきてくださいね。
休憩をはさんで後半。暗めの下手舞台袖でテスト的にシャッターを切っていたら、我妻家の姉、弟のトランペッターズが視界に入りました。
TYOの満島ひかりと満島真之介! ということでお願いします。
うかうかしていると、もうアンコールに。
『ETUDE』は、東北ユースオーケストラの前身である、「こどもの音楽再生基金」の毎年8月に行った宮城県での被災三県の音楽系部活動によるライブ大会のテーマ曲でした。先にご紹介した書籍でも取り上げていますが、まさにこのホールでステージに出演者が300人以上乗って、合奏した曲です。当時「足ぶみで舞台がこわれるんじゃないかと思ったよ。」と言った、その坂本監督も、ここにいました。
直前合宿ではソロで立って演奏することに躊躇していた二人、堂々と演奏してくれました。影練の成果が出ましたね。
終演後、みんなで舞台袖大集合写真を撮りました。
海津キャプテンから朗読ゲストのんさんへ、団員寄せ書き色紙の贈呈です。
色紙中央の似顔絵を描いてくれた丸山周くんと。
アンコールでソロを決めてくれた、トランペット長沼くんとトロンボーン内藤さんと。
さらに舞台袖では、2015年に小学5年生だった息子の姿を撮影した福澄くん父からの写真が送られてきました。当時の写真と並びが一緒だったので、上に埋め込んでみました。
人は成長する! 今や二人とも大学一年生。TYOの「そらとまお」(そのまま)です。
終演後のバックステージに訪れてくれた、もう一人のOGゲストは、もう一人をお腹の中に携えて、激励に来てくれました。第1期からの団員だったホルン、曽根瑞貴さん(旧姓)です。
もうすぐ次世代東北ユースオーケストラメンバー候補が、この世に誕生します。みんなで抱っこするのが楽しみです!
311をきっかけに集まって、活動を続けているわたしたち。その中心には坂本龍一監督がいらっしゃいました。「音楽、音がめっちゃ好き過ぎるおじさん」の求心力で、いつのまにか、なんだかまるで親戚のようなコミュニティができていました。 ユング曰くの「グレート・マザー」ならぬ「グレート・ファザー」に、この演奏が届きますように。
今週末、30日(土)郡山(ゲストは吉永小百合さん)の演奏会は、まだチケッ���がございます。坂本龍一監督のプライベートアーカイブからの写真や、東北ユースオーケストラの団員と過ごした日々の動画など、未発表素材をふんだんに使った映像も見どころです。
ぜひ、ぜひご来場ください。
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マラソン日和
今日朝の高知市内のお天気は曇り空からのスタートです。今日高知市では、高知龍馬マラソンが開催されます。ゲストランナーで土佐町出身俳優和田正人さん、実は同郷なのです。小さな山の町、何かしら繋がりがあるかと思いきや全く縁がございません(笑)土佐町は和田が多いけど僕の旧姓筒井です。大川村に多い姓ランナーの皆さん、無事故で頑張って完走して下さい。 今日は何の日? 今日 2月18日(日)の記念日・年中行事 • 嫌煙運動の日 • エアメールの日 • 冥王星の日 • 方言の日(鹿児島県大島地区) • プライヤの日 • 防犯の日 •…
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「虚子への俳話」168
「花���」令和5年2月号より転載
「金子兜太・黒田杏子 対談」2017年5月30日・NHK学園にて
この対談はかつてNHK学園で私が第一部として虚子の講演をした、その後第二部としておこなわれた金子・黒田氏の対談の模様を私が会場で速記をしたものです。このお二人とも故人となられた。誤謬などはご容赦を。
坊城俊樹
「俳句人生」
金子兜太・・
旧制水戸高校・十九歳のとき俳句の道へと考えた。一九三八年のことだった。まもなく結社「海程」は白寿をもって閉づるつもり。これは私一代のみのもの。当初は自分の句を作るため、作らせるためのものだった。 しかしここに来て終刊を宣言せざるを得なかった。いまは生き苦しいから。しかし来年の白寿にすれば良かったかも。発表が早かった。本当の自分の腹はまだ出来ていない。しかし生き場所が無い思いも。淋しいがさっぱりとしたかった。でも一年様子を見たかったが。今後は一人ぶらぶら、二人ぶらぶらでやる。自由で行くつもり。
黒田杏子・・
朝日新聞俳壇の選者を六十代でなされたときは伝統俳句派の新聞不買運動もありました。(金子氏は対立する現代俳句派の頭領と目されていた)今でこそ無いですが。 八十代まではハングリーでやると。お顔も元気だが顔面神経痛もされたとか。しかしジャンギャバンに似て来られた。つまり人間が深化されたのでは。 私は十九歳年下で、かつて戦場経験をされた時の聞き役もしました。長生きの道を柔軟に歩くこと。そんな生き物の先輩であられる。俳句も一���一句だから一九一九。そんな人生なのではないですか。
金子兜太・・
答えられんよそんな質問、難しすぎて。 ともかく旧制高校に入ってから俳句を作った。わたしは母が十七歳のときに産まれた子。母は紙問屋の番頭の子だつた。母は徳利のような体でビア樽のような尻をしてた。 なんでも宇都宮聯隊の浜田という友人のとこにビア樽のような娘が居ると言うことで父と結婚することに。父(もとはる)は無理矢理開業医にされた人。本当は新聞記者になりたかった。嫌で試験は白紙で出したのだが、結局京都府立医大にはいった。 そして軍医となる。
やがてビア樽は未婚のままで兜太を産む。まさに偶成。ちなみに私の「造形論」も偶成の句の作り方。名前は「兜太」で役場登録。中国では東方の太い気性の意味らしい。しかし父はあそこが太いと勘違いしていたらしい。私は魂もそんな太くない。すけべではあるが。 兎に角私は母が十七歳で生まれた子、法的にも最少出生は女性で十六歳とかの頃。子供は十代で産めという時代だったのか。父は上海の学校の校医もしていた。妹も上海で生まれた。兄弟は六人もいた。 その後帰国し秩父で開業をする。
少年期のころから母が気の毒だった。農家の大家族に生れ、旧姓は島谷。姉妹は四人。母はいじめられたらしい。子供なのに饂飩打ちの麺棒で打たれていたとか。 母はその棒で饂飩を作り、私が小学校のころから父は俳句を作りはじめた。 秋桜子は父の同級生。医者同士で俳句の「馬酔木」をやることに。会は月に一二回か。もっとも、饂飩を食って・酒飲んで・俳句会。それは母がすべて差配した。
母は大家族制度の女性の立場を見てきた人。医師嫌いになった、たぶん俳句も。そのため私は母のいじめの理由を調べるために帝大で経済学を学んだ。しかし俳句を憎む母は父らわれわれをずっと「人非人」と呼んだ。句会の人たちもまた。 私は実際のところ、正式には俳句は出沢三太郎という友人の影響で作り出す。最初の句は、
白梅や老師無心の旅に棲む 兜太
これは句会の最高点だった。そこから病みつきに。水戸時代の色街が舞台で、女衒の舞台でケヤケヤ踊りというのがあり、その際どい踊りを詠った。(筆者拄、この句とあまり関係無いような気がするが、私の記録違いかも) 今後のことについて。今となっては、家族���友人たちとの「牧歌的な回想」がある、しかし「独りの道」というように切り替えてみれば、昔の私などはどうでもよい。
今後は「一人でどんな俳句が出来るか」「うまく行けばノーベル賞まで」と考えている。こんな野心こそがエネルギーかと。なんのこともない、結局母は百歳の時も俳句を作った。波郷、石塚友治の「鶴」のころも投句していた。 その金子ハルこそもっとも私の尊敬する人なのである。
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天皇氏族の特徴
天皇氏族―天孫族の来た道 (古代氏族の研究⑬) | 宝賀 寿男
ここでは、天照大神や神武天皇の日本列島内における祖系を遡って探究するとともに、この天皇氏族・天孫族の様々な特徴を探り、それに関係した諸氏についても見ていく。検討すべき問題が多種多様で、それぞれが大きい問題を含むから、本書が紙数の制約のもとにあることを念頭におき、これまで検討してきた結論的なものを整理して、予めある程度示さざるをえない(このことを先ずお断りする)。
わが国天孫族の主な動向
これまで公刊してきた拙著『「神武東征」の原像』や『息長氏』など古代氏族シリーズ)を通じて、天皇氏族の基本的な人物たる神武天皇と一族近親、臣下・関係者について、各々の原像を具体的に示してきた。それらなどを踏まえて、以下に要点を記す。
神武天皇などの初期天皇:神武は、当初に居た北九州の筑前海岸部(天孫降臨伝承にいわゆる「日向」。具体的には筑前の早良・怡土両郡あたり)から、兄・彦五瀬命とともに畿内に東征を試み、紀伊の紀ノ川滞上ルートで大和侵攻に成功して、奈良盆地南部地域あたりを押さえ、大和朝廷の初代の大王(天皇)となった。治世時期は概ね紀元一七五~一九四年の約十九年間とみられる(資料編に掲載の表「古代天皇の治世時期の推定」を参照)。この東征は、邪馬台国本体の東遷ではなく、筑前の支分国の庶子・一族関係者による小勢力の東征活動にすぎない(要は、「神武東征」という事件はあったが、それは「邪馬台国本国の東遷」ではない。当地での前途を悲観した庶子たちによる他地への分岐活動という意味)。
神武に関連して現れる随行・敵対の人々と崇神天皇関係者とを比べれば、それぞれがまったく異なっており、「神武=崇神」という同一人物のはずがない(神武は崇神の五世代ほど前の祖先る)。鏡を象徴とすろ太陽神信仰(この奉祀勢力)の中心が北部九州から畿内に移動したと認めても、それが直ちに邪馬台国東遷だとみるのは論理の飛躍である(筑後川流域と大和盆地の地名の類似も、物部氏東遷の影響のほうが強いか)。
北九州の在地には、神武東征当時はまだ邪馬合国もその怡土支分国もともに残り。その後の一世紀半ほどの期間は、北九州と畿内に各々の王権勢力が列島内に並存した(三世紀中葉頃は、畿内のほうの勢力はまだ小さいから、列島内で二強の王国が並立という構造。規模ではない)
神武の後のいわゆる「闕史八代」の諸天皇は、実在性を否定する根拠に乏しい、。邪馬台国の九州残滓勢力は四世紀中葉頃には滅ぼされたが、これは、最終的には畿内王権・景行天皇の九州巡狩に因る(従って、古田武彦氏の言う「九州王朝説」は成り立たない)。大和王権がほぼ確立した崇神天皇の時代には、日本列島のうち本州主要部を版図としたが、西側は吉備ないし安芸くらいが西限であって、その勢力は北九州にはまだ達していなかった。
神武の父はは、天孫・瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊(山幸彦)で、母は海神族首長の娘・玉依姫である。
『記・紀』に神武の父とされるウガヤフキアエズノ尊(彦波瀲尊)は山幸彦嫡出の長子であって、実際には神武の嫡兄である。その子孫が怡土支分国の王家を継いでいったとみられるが、後裔の系譜や存続の詳細は不明である。
天照大神:高天原を主宰する男性神であり、名を天活玉命(生国魂神)ともいう(論拠は様々に異なるが、山片蟠桃以降、男性神説もかなり多い。天照大神は、卑弥呼ではないし、推古天皇や持統天皇など実在者の反映でもない。後世に造作された架空の人物でもない。本書では詳説しないが、拙著『「神武東征」の原像』『息長氏』等を参照のこと)。天稚彦の親として神代紀に記される「天国玉」や、天照御魂神にも��当する(鈴木真年著の『古事記正義』)。
天照大神は天皇家の遠祖だが、決して抽象神ではなく、神武の四代祖先という具体的な生身の人間である。長子の天忍穂耳尊(天忍骨命)の嫡子が天火明命(この神は物部祖神ではないことに注意)で、この系統が本国・高天原(筑後川の中下流域で、久留米市の高良山麓に本拠)の邪馬台国王を継いでいった(これも後商やその存続の詳細が不明で、大和王権側の記録には残らない。景行天皇の九州巡狩や神功皇后遠征の時の討滅対象のなかにあったものか)。
天火明命の弟が、高天原から筑前の「日向」へ天降り(移遷)した者で、これが瓊瓊杵尊である。祖先の居住地から支庶の者が分かれて新天地に遷ることを、東北アジアのツングース系の上古伝承では、「天からの降臨」という形で把握する傾向があり、日本列島でもその例にもれない。東北アジアの習俗・伝承を視野に入れない議論だから、こんなことは実際にありえず、後世の造作だと安易な速断をすることになる。東アジアの太陽神は、殷の太陽神俊や高句麗の例のように、全てが男性神であった。なお、記紀のいう「高天原」及び「日向神話、出雲神話」の舞台は、全て北九州にあった。
日本列島への到来者:本書では、以下に具体的に検討を加えるが、天孫族の分派が初めて分かれるのは、天照大神の諸子から始まるという形の分支流の系譜などから見て、天照大神のあまり遠くない祖先が北九州に到来したとみるのが自然であろう。
「倭人」を江南にあった呉の太伯(周王朝ど同族で姫姓)の裔とする伝承は、『魏略』逸文などに見えるが、種族・経路や時期等から見て、その支配層については疑問が大きい。すなわち、上古の「倭人」』の人々の大宗を占める海神族が越人(タイ系種族)と同種族とは認められるとしても、二世紀前半以降に北部九州における倭国連合体の長たる地位についた天皇家の先祖は、これとは系譜・種族が異なる。国の主な住民とその上に立つ支配層とは、朝鮮半島古代の例を見ても、別途考えることが必要である。
弥生時代に日本列島に渡来した主な種族・人々では、江南から(朝鮮半島南部を経て、稲作・青銅技術などの弥生文化をもって渡来した部族と、これにかなり遅れて、東北アジア地方(とくに中国東北部及び朝鮮半島)から渡来して鉄鍛冶技術をもった部族という二系統の部族があった、これら種族と、縄文時代から列島原住の人々(一種族ではないかもしれないが、とりあえず一括して「山祇族」としておく。総じて、クメール系種族)との混合体が「弥生人」とされよう。だから、単一種族として弥生人を捉えてはならない。なお、始皇帝によ���て東海に派遣され斉国の琅邪郡から船出した徐福が日本列島にある国の祖となったと言う「徐福伝説」は、肥前佐賀や紀州熊野などにあるが、とるにたらない。
天孫族の始祖・スサノヲ神
わが国における天孫族(皇統)の具体的な始祖から検討に入ろう。この始祖神としては、天照大神ではなく、「五十猛神(伊達神、射楯神)」(イタケル、イタテ)があげられる。この神は、『書紀』に言う、たんなる新羅からの渡来神ではない。別名を「渡し神(和多志神)、度津神」と言い、これは外地の韓郷から渡来してきたことに因る。佐渡一宮で式内社の度津神社(新潟県佐渡市羽茂飯岡)は海上交通の守護神として五十猛命を祀るなど、日本各地で同名で祀られる(『神道大辞典』など)。
この神の記事は少ないが、『書紀』第八段(宝剣出現)の一書第四および第五の記事に見える。素戔嗚尊が子の五十猛神を率いて先ず新羅国に天降り、そこから舟を作って出雲に渡ったとあり、また、五十猛神が天降りの際に多くの木種を将来したが、韓地には植えずに、筑紫より始めて列島内に木種を播いたとある。そうすると、韓地からの最初の到来地はむしろ筑紫になるし、渡来航路的にはそのほうが自然である。このように、韓地(朝鮮半島南部)からの渡来が『記・紀』に明確に記されるのは、天日矛(天日槍)より前の時代の神・人では、ほかにいない。五十猛神と妹二神(大屋姫命、抓津姫命。実態は妻神か)が「伊太祁曽三神」として紀伊国名草郡の名神大社で篤く祀られており、奉斉者が紀伊国造よりも紀臣氏(系譜は皇別とされるが、実態は天孫族系)とみられる事情にも留意される。
記紀神話では、その父「スサノヲ」は、高天原にあっては天照大神を困らせる暴れん坊神で、天照大神と争って敗れており、それによる追放後の「出雲」では開拓者的に描かれる。その終焉の地が出雲という伝承もあり、出雲市佐田町須佐の須佐神社(風土記・延喜式に記載)が祀られる。その攝末社に天照社・厳島社・須賀社などがあり、境内に千数百年という老杉や蘇民将来の祭もある。スサノヲの子の大国主神の子、加夜奈留美(女神?)の子孫と称する須佐氏が永年奉斎するが、少なくとも系図の初期段階などには疑問があり、出雲国造一族が祭祀に関与したか(瀧音能之氏が須佐神社周辺の地をスサノオ神の本貫とみるのは疑問で、ここには同神は到来しておらず、子孫と称する家が祀っただけのこと。出雲国造一族が奉斎した神社も当初は熊野神社が主で、杵筑神社(現・出雲大社)でも長い間、祭神がスサノヲであ���た)。
スサノヲは、その子孫という大国主神を通じて地祇の三輸氏・賀茂氏や住道首などにつながるという系譜を伝える。これが『姓氏録』大神朝臣条や『旧事本紀』地祇本紀などに見える子孫の系譜であり(前者の大神朝臣条では、素佐能雄命の六世孫が大国主と記される)、『古事記』では「いわゆる出雲系」の多数の神々に通じる系譜が紀載される。しかし、五十猛神と大国主神との関係はこれら系譜では不明なままである(五十猛と大国主とは、祖先・子係の関係にない。出雲の大国主神の父は天冬衣命と伝え、その祖系のなかにも五十猛は見えない)。
このため、「スサンヲ」という神には複数の神格(人格)がおるようにみられている。実際には、このような名・通称で呼ばれる者が一族・同系統で複数いたり(部族長の通称的な使用もあるがか)、子孫が祖先の伝承を伴って各地へ移遷、展開したともみられる。朝鮮神話に見える檀君も、スサノヲに擬せられたり、高句麗からの渡来系氏族・八坂造氏が京都祇園(感神院祇園社)で祀る「牛頭天王」も、中国神話で牛首人身神とされる炎帝神農氏(赤帝)や蚩尤(兵主神)という頭に角をもつ武神(戦神)、兵器製造神にも通じる。わが国ではこれら神々の実体がスサノヲ神(ないし大己貴命)に通じるとされることが多い。蚩尤が鉄神とも言われる。
この「スサノヲ」の名は、同一部族(天皇氏族)の根幹系統を通じて、遠い祖先から見える「通称」ではないかと把握される。すなわち、五十猛神自身がスサノヲ(の一人)に相当するとしたほうがよい。五十猛神を祀る式内社は、出雲六社、播磨二社、紀伊二社など全国合計で十五社もあり、これら地域分布からは天孫族系の出雲国造族が主に奉斎したことが窺われる。これに関連して、わが国で兵主神を祀る式内社は、近江国野洲郡及び大和国磯城郡など名神大社三社を含め、合計で十九社もあり、うち但馬七社、因幡二社、近江二社、播磨二社、丹波一社などという地域分布に留意される(この辺に着目すると、但馬出石に落ち着いた天日矛一族が、韓地の新羅あたりから当該兵主神をもたらした可能性も考えられる)。
兵主神社の祭神は、いまは大己貴命、素戔嗚神などとされて、特に前者とされることが多い。これは、本来の祭神で鍛冶神たる八千矛神が、大穴持命に通じる大己貴命と混同され、出雲に兵主神の神社分布が多い事情に因るものか。八千矛神という神は、『書紀』には見えず、『古事記』で高志の沼川比売の求婚譚などに見えて、大国主神の別名として扱われる。同神の子には、「御井神」も見える。御井神は木伺神ともいわれ、多くの樹種をもって天降り、広く大八洲に播種したと伝える五十猛神の縁者というのがふさわしい。滋賀県蒲生郡日野町の八千鉾神社は、大屋彦神(五十猛神のこと)を祭神とする。銅矛・銅戈や銅剣は分布が���九州に多くあり、銅矛の出雲出土はあまり多くないので(最多出土の荒神谷遣跡でも、銅矛十六本に対し、銅剣が三五八本の多数で出土)その意味でも出雲の大国主神が八千矛神とされるのにはしっくりこない。
八千矛神とは、実はイタテ神(伊太弓、伊達、射楯こと五十猛神)のこととみられる(その場合、御井神とは高魂命〔高木神〕のことか)。銅矛・銅戈の出土が肥前唐津辺りに多く、銅剣も含めて銅製武器が北九州に多く出て、これが「銅剣銅矛分布圏」という把握もある。日本列島では、弥生Ⅰ期に朝鮮半島から銅矛が到来し、鉄矛は同Ⅲ期に出現して古墳時代中期以降盛行した(『日本考古学事典』)、とされるから、鉄矛も併せ持って渡来したのが天孫族か。天孫族の広い範囲に入るとみられるのが、新羅からの渡来を伝える天日矛(天日槍)である。唐津市の宇木汲田遺跡からは多数の銅剣・銅矛や多鈕細文鏡などが出土しており、天孫族の足跡を示すものか。
イタテの神は新羅系の韓鍛治の奉祀した神だと窺えると、真弓常忠氏は指摘する(『古代の鉄と神々』)。中国の原型である「兵主神」が額に角を持ち鉄を食べる蚩尤(上記)とされており、わが国で同神にも比定される五十猛神が角凝魂命(「角+鉄塊の意味の凝」)という別名をもつのも肯ける。吉野裕氏は、『風土記』の研究などから、早くに『風士記世界と鉄王神話』(一九七二年刊)や『素尊鉄神論序説』(一九七三年刊)を著し、スサノヲが鉄神だとみた。この鉄神性を同神に認める見解が多い。
端的にいえば、複雑な性格ゆえにスサノヲ神(素戔嗚神)の位置づけが難解であり、たいへん重要なのである。これが、記紀にイザナギ・イザナミニ神の子で、皇祖神たる太陽神・天照大神の「弟」とされたり、大己貴命の祖先とされたりと様々に混同が生じた(実際、記紀で天照大神と争った「戦った」という意味をもつ「スサノヲ」は、大己貴など海神族系の祖という性格では、別神としたほうがよい。現実の出雲と、実体が葦原中国〔筑前海岸部の那珂川波域〕たる記紀神話の「出雲」とを、八世紀段階の記紀の編者たちは混同したことなどに因る。
人皇ノ鼻祖という鈴木真年の指摘
一般には、記紀神話の影響で、スサノヲ神の子ないし子孫(六世孫『姓氏録』ないし七世孫)が大己貴命(大国主神)で、いわゆる「出雲族」(あるいは海神族)の祖神がスサノヲ神と受けとられている。
しかし、大己貴命は海神族の系統の祖神であるが、そうであっても、スサノラヲ神とは男系血筋でのつながりがなく(スサノヲ神後裔の女性を妻の一人としたことは考えられるが)、両神が血統一系というのは原型・実態とは異なる(両神の血縁関係を否定する先学の見解はかなりある。例えば、瀧音能之・藤岡大拙氏など。スサノヲの子に「八千矛神」がおり(五十猛神のことか)、兵主神社で該られるが、これが大己貴命と混同された結果、スサノヲの子ともされたものか)。ともあれ、「出雲神族」という概念は紛らわしく、使用には留意される。
スサノヲによる八俣大蛇(八岐大蛇)の退治の伝承も、竜蛇信仰をもつ種族のトーテム獣を退治したのだから、海神族の祖神であるはずがない。もっとも「八俣大蛇=九頭竜」という見方もあるようである(ギリシャ神話に出る竜迷体の巨大怪物ヒュドラーも九つの首をもつ)。これが、『古事記』では「高志之八俣遠呂智」と表記されるが、「高志」が越すなわち北陸地方とまでは、スサノヲの活動地域から読みとれない。ともあれ、皇威に抗う荒神(荒ぶる水神)の象徴として大蛇がでてくることになる。
この伝承も、同神が居て活動したのが北九州だとしたら、竜蛇信仰をもつ種族・国々(海神族系種族の国、主に奴国か)の退治・平定を意味したのだろう.スサノヲについて、韓地から渡来の鉄器鍛冶集団が信奉する神という説はかなりある。火山の神という見方もあるが、これは火に関わる鍛治神の祖神、竃の神からの転訛の可能性もあろう。
明治期の国学者で系図研究者の鈴木真年は、その著書『日本事物原始』や『古事記正義』で、この神について概ね次のような主旨で記している。
「素戔鳥命トハ人皇ノ鼻祖二坐シテ、二神ノ真名子タリ。故二、天神此葦原中洲ヲ賜テ、国土ツ開闢セシム」(適宜、句読点を付した)と切り出し、高天原から天降って新羅の牛頭方(楽浪郡のうちの地)に至り、伊太氐命(亦名を五十猛命、大屋毘古命、伊太祁曽命、神平多命)・速須勢理比売を生み、その後、太白山(平安北道寧辺の妙香山に比定。平壌の東北方)の下に至り檀木の下に互市(陸上での交易)するなど人事や社会運営を教え、これを国人が追末して檀君という。また神櫛玉命(亦名を櫛御気野神、気津御子神。すなわち、熊野大神)ともいう。
その子の伊太氐命を率いて東海に入り、多くの樹木種ををもって出雲国に着き、須賀の地に宮居したが、伊太氐命は妹と協力して樹木の種を各地に分布した。素戔鳥命の子の天忍穂耳命を、天照大神は子として養って天子の位につけた。」(ここで天忍穂耳命を「子」とするのは、天安川の河原における天照大神との伝承から、スサノヲの実子と考えたものか。ただ、この見方には疑問あり、実際にはスサノヲの子孫となろう。後述)
こうした真年の把握には疑問な点もいくつかあるが、スサノヲ神がわが国の「人皇ノ鼻祖」だという基本は妥当な線だとみられる。天照大神が男神だという性格(夫婿が知られずに子孫を残す女性が古代大族の祖先系図には��ったく現れない事情もある)や忌部氏の上古系図等を参考にして、これら記紀の記事を総合的に考え併せる必要がある。そうすると、韓地から日本列島に渡来してきた、わが国天孫族の始祖(天照大神の更なる違い祖先)こそがスサノヲ神であって、五十猛神とも同神(ないしその父神)だとみるのが適当となる。朝鮮の始祖とされる「檀君」(後述するが、後世の造作神となろう)とほぼ同種の性格をもつ神という程度は認めて良い。
十世紀後葉の北宋に、日本の東大寺の僧・奝然らが雍熙元年(九八四)にやって来て、銅器や『王年代紀』などを献上したが、天御中主を初代とする皇統譜には、第十八代に素戔鳥尊(その前代が伊奘諾尊)、第十九代に天照大神尊、第二四代目に神武天皇の名前が記される(『宋史』日本伝)。平安中期の円融天皇治世のときに存在した『王年代紀』が何に基づくかは不明だが、天照大神の先代に素戔鳥尊があげられることに留意される。
スサノヲがスガの地に居たという上記伝承からか、全国の須賀神社はスサノヲを祭神とする例が多い。同社は、牛頭天王・須佐之男命を祭神とする祇園信仰の神社で、全国に広く存在し、島根県・高知県に特に多い。これら須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」「天王社」と称していた。牛頭天王は、播磨の広峯神社などでも祀られるが、同社は天孫族の針間国造の領域にあって、同じく凡河内国造一族が長く奉祀した。
なお、素戔嗚命の実体について、卑弥呼と対立関係にあった「狗奴国王」を考える説もあるが、これは根拠に乏しい想像論である(狗奴国の性格・習俗についての誤解が基礎にある)。また、習俗・祭祀やトーテムが異なる大国主神(海神族系氏族の祖)の父祖でもない。
八幡神の実体
豊前の宇佐八幡でも、祭神たる八幡神の実体が五十猛神だとみられる。応神天皇家や宇佐国造など天孫族の一派の実際の遠祖として、八幡神が考えられる。字佐国造は、高魂尊の裔孫の宇佐都彦(菟狭津彦)を国造初祖とするが、高魂尊の先が五十猛神とみられる。
弘仁五年(八一四)の太政官符や『宇佐託宣集』等に拠ると、字佐郡の小倉山の麓に八つの頭が一つの身体についた奇異な風体をもつ鍛冶翁がおり、金色の鷹となって示現し、その姿を見ようと近づく者の半数が死亡したが、神官(辛島勝乙目とするのが原型か)の祈持に応じて三歳児童の姿で八幡神が出現し、「我は始め辛国に八流の幡となって天降り、日本の神となって一切衆生を度する釈迦菩薩の化身なり」と託宣したという。こうした伝承などから、八幡神はもともと鍛冶神とする見方も古くからある(柳田国男氏ほか)。
後世では八幡大神にも擬せられる応神天皇は、実際の系譜は宇佐国造一族の支流の流れをひく鍛冶部族の息長氏に出ており、遠祖は神武に始まる王統と同じで、高魂命であった。金色の鷹は、金鵄や八咫烏にも通じる天孫族のトーテムである。
素盞嗚神という神は、海神族たる大己貴神(大国主神)の父祖としても伝えるが(記紀ともに見えるが、『古事記』のほうに多く伝える傾向)、その一方、熊野大神として、天孫族系統の物部連や鳥取部によって祖神として広く奉斎された。これら氏族の祖たる天津彦根命(天若日子)やその兄弟神は、素盞嗚神と天照大神との天安河原の誓約の際に息吹きのなかから誕生したと神話に伝える。
こうした両様の複雑な性格をもつ素盞嗚神は、本来は性格ごとに別々の人格神かとも考えるのがよいかもしれない。そのなかでも、最も主なものとしてはわが国天孫族の祖となる(こうした見方は、私の氏族研究の結論的な部分だけを記したので、分かり難いかもしれないが、紙数制約や論旨展開上の見地から、本書ではこのくらいに止める。以上の記述に関連して、本シリーズの『息長氏』『三輪氏」』などをご参照)。
天孫族の祖系と祭祀
現存の天孫族系統の系図では、天照大神より先へ遡る神統譜を記すものは少ないが、『姓氏録』では若干は記事が遺る。それが、角凝魂命を遠祖とする系譜をもつ諸氏(鳥取連・鳥取、委文連・宿祢〔倭文連・宿祢〕、竹原、美努連、税部〔鴨県主一族〕や額田部宿祢〔物部氏同族〕、雄儀連などで、殆どが少彦名神の流れ)である。
角凝魂命を祀る神社は全国で少ないが、鳥取連が奉斎した和泉国日根郡の式内社、波太神社(大阪府阪南市石田に鎮座。もと桑畑村、東鳥取村で、同国神名帳に従五位上波太岐社と記載。府社)の祭神として鳥取連の祖・天湯河板挙が垂仁朝に祖神を創祀したと伝える。波多の地名は肥前国松浦郡にもあり、当地に波多八幡神社(佐賀県唐津市北波多稗田で、宇木汲田遺跡の西南近隣)が鎮座する。「波多」は秦韓・辰韓に通じるものか。
忌部氏の系図(「斉部宿祢本系帳」」や「宮中八神」などを基礎にして、始祖の五十猛神以降の初期段階の歴代を整理、推定してみると、概ね次のようになる(第1図)。ただ、妻神(后神)は難解であり、推定の度合いが大きい。
各々の遠祖神が異なる複数の神名をもつことに留意されるが、天照大神は「斉部宿祢本系帳」では「天庭立命」として表記される(この名に近い「天壁立命」も天背男命の父神で左京神別の宮部造の祖とされるから同神となる)。
この神は、大阪市天王寺区の生国魂神社(東生郡の難波坐生国咲国魂神社)で奉音される神であるこれが、信濃国小県郡では名神大社の生島足島神社(長野県上田市下之郷)でも祀られて、その祭神が大八嶋を統べる「生島神・足島神」とされる。摂津国川辺都(兵庫県尼崎市栗山町)の生島神社では、生島神・足島神、天照大神、須佐男神、八幡大神、伊邪那岐・伊邪那美神をいま祀る(祭神の名に重複がある)。
この生島神・足島神は、天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀ともみられる八十島祭の主神とされる(この祭は、文献初見が文徳天皇の即位時の嘉祥三年〔八���○〕九月で、鎌倉前期まで廿二回確認されると言うが、由来は上古に溯るのだろう)。『延喜式』神名帳には、宮中八神殿で御巫祭神八座のなかで生産日神・足産日神(『古語拾遺』では生産霊・足産霊)として祀られ、神祇官に坐しては生島巫祭神二座として生島神・足島神があげられる。両名は併せて夫婦神(その場合、足島神のほうは妻神か)とみられ、男神は伊久魂命とも天活玉命ともいわれる。天照大神という名では、『延喜式』神名帳では宮中坐神三六座のなかに見えないし、『姓氏録』にも諸氏族の祖先として見えないことに留意される。なお、天活玉命を祀る神社は少ないが、越中の高瀬神社(富山県南砺市高瀬。同社は五十猛神も合祀)や讃岐の大麻神社(寒川郡の大蓑彦神社。香川県善通寺市大麻町)という式内社があげられる。
『書紀』には生申の乱の時(天武天皇元年〔六七二〕七月廿三日条)に生島神が見える。そこでは、高市社に坐す事代主神と牟狭社に坐す生霊神が神憑りして、神日本磐余彦天皇之陵(神武陵で、『書紀』にいう畝傍山東北陵か)に馬と種々の兵器を奉納すれば、両神が天武軍の前後に立って守護すると告げたが、この生霊神が生島神(生国魂神)に当たる。いま畝傍山の東北の裾、橿原市大久保町域(旧洞村)にある神武陵旧跡と伝える地の近隣には、生玉神社が鎮座する。
『古事記』には「天津国玉神」とも表記されるが、これは、天若日子(天稚彦。天照大神の子で別名が天津彦根命、天背男命、天湯河桁命であり、出雲国造や物部氏など鍛冶部族や鳥取部等の祖)が大国主神のもと(葦原中国)に派遣された事件に関連して見える。
その父神が高皇産霊尊であり、上記の宮中八神殿で祀られる高御産日神にあたる。この神のときころに筑後川流域に至って定着したとみられる。この神を天孫降臨の指揮者として皇祖神のはじめに置く見方が学究には多いようだが、上記系図に見るように更に父祖の神々を伝えることに多意される。
「宮中八神」の意義
ここまでに宮中八神にも触れてきたが、『延喜式』神名帳の冒頭に掲げる「宮中八神」には十分留意される。
すなわち、宮中神として大社三十座小社六座があり、そのうちの筆頭に「御巫等祭神八座」並大、月次新嘗とある神々で、①神産日神、②高御産日神、⑤玉積日神(玉積産日神)、④生産日神、⑤足産日神、⑥大宮売神、⑦御食津神、⑧事代主神、の八神があげられる。さらに、「座摩巫祭神五座」並大、月次新嘗として生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神の五神、「御門巫祭神八座」並大、月次新嘗として、櫛石窓神と豊石窓神が四面門各一座、「生嶋巫祭神二座」並大、月次新嘗として並大の生嶋神、足嶋神の二神があり(ここまでが「神祇宮西院坐御巫等祭神」とされて、合計が二三神)、更に、「宮内省坐神三座」並名神大、月次新嘗として薗神社、韓神社二座、「造酒司生神」大四座、並大、月次新嘗として大宮売神社四座が掲載される。
「宮中八神」の���ぎにあげれる神々は、御門神(八座)を除くと、おそらく八神の異名・異称で重複するものだろう(ただ、座摩巫が祭る五神は、「大宮地を守り坐す霊神」とされるが、その実体は難解・不明。五神はみな始祖神関係の異名かもしれず、「生井、福井、綱長井」で三井・御井、「波比祇、阿須波」が五十猛神に通じるか)。そして、その皇統譜のなかで大祖先神としての位置づけにあった神々ではなかろうか。具体的には、天照大神夫妻を含めそれ以前の三代の夫妻神とみられる。上記の「第1図天孫族の初期段階の系譜」は、こうした見方のうえで推定記載をした。
注意すべきは、最も重要な天照大神にあたる神の名が二つ(玉積産日神、生産日神)あり、対偶を持たない「事代主神」があって、合計で「八神」となっている点である。天孫族系統では、「八」という神聖数をもっていた。
さて、ここの「事代主神」の実体は何だったのだろうか。抽象神としての意味は、「神憑りして神託をくだす神」であり(松前健、佐伯有清などの諸氏)、特定の固有名詞とされる必要はない。ところが、この神は、一般には地祇(国津神)・三輪氏族の祖で、神武天皇の皇后の父神が指される。これは、後代の諸天皇の母系祖神として理解が出来ないわけでもないが、それならば、天照大神の邊遥か後代の神であって、宮中祭祀のバランスを欠く。
そこで、「姓氏録』を見ると、天神としての「天事代主命」(天辞代主命、天辞代主命)が存在したとわかる。この神を祖神とするのが、左京神別の畝尾連、右京神別の伊与部、大和神別の飛鳥直の三氏であり、これら諸氏の系譜を考えると、みな中臣連一族の初期分岐となる(伊与部条には高媚牟須比命の三世孫と記載も、これは疑問)。畝尾連の一族は和泉神別にもあげられ、そこでは「大中臣朝臣同祖。天児屋命之後也」と記載がある。しかも、高市郡明日香村に鎮座の飛鳥坐神社(並名神大)では、事代主神、高皇産霊神、飛鳥神奈備三日女神を祭神とする。すなわち、天事代主命とは中臣氏の大祖神(天孫降臨痔の天児屋根命の父祖神か)の位置づけということになるが、そうすると、天照大神も含め、この神から遡って三世代の夫神の誰かの舅神で、天孫族系統の母系の祖として特掲された可能性があり、この場合には「宮中八神」に所掲の神々の活動年代とも符合するものとなろう(現在の当該飛鳥神社の祭祀では、転訛された影響で、有名な三輪の事代主神と混同されている)。
なお、{宮中八神」のなかに、元は「倭大国魂神」(実体は九州所在の大己貴神)も含まれていたとみる見解(若井敏明氏『「神話」から読み直す古代天皇史』)には反対である。天照大神以前の上古歴代の舅神の位置にはいないからであって、『書紀』崇神天皇大年条の記事には疑問がある。不祭祀のイザナギ・イザナミの諾冊二神も、実体をもつ神ではなかった。
韓国イタテ神の列島渡来
『延喜式』神名帳のはじめに、宮中で祀られる神々が「宮中坐神三十六座」としてあげられる。そのなかに宮内省に坐す神の三座(並名神大)があって、薗神(園神)の社と韓神の社の二座がある。この「韓神」こそ韓(伽耶)から渡来した五十猛神を指す。ちなみに、御巫等祭神の八座にあげる神産日神も大始祖たる五十猛神にあたるとみられ、五十猛神の妻神の御食津神(御膳神)も同八座のなかに見える。この女神は豊受大神でもあり、食物主宰の倉稲魂神(稲荷神)で保食神なのだから、薗神にあたるとみるのが自然である。織物と酒造を司る女神、大宮売神にも当たりそうな可能性もあるが、それを留保しつつ、この関係では別神としておいた(関連して言うと、丹波国多紀郡式内社の大売神社【兵庫県篠山市寺内]は、大宮売神を祀るが、「オーヒルメ」神社と読まれている。大宮売がアメノウズメの別名だとする平田篤胤説や、これに通じる『古語拾遺』の記事は誤りとみられる)。
かつて、黒板勝美博士は、天照大神より前の神々が皇室の祖先として奉斎されていないとの理由で、それらの実在性は認めがたいと考えた。しかし、上記のように現実に別の神名で宮中で永く奉斎されてきた。出雲でも、神産日神も神魂神社の名で、意宇郡六社の一としてあり(松江市大庭町)、出雲国造が長く奉仕した。同社は神火相続の神事で知られる。
「園韓神」には一に大己貴神・少彦名神・大物主神をあてる説もあり、平安京遷都以前に京の地を支配したのが渡来系の秦氏だとして、園神・韓神は元々は秦氏が奉斎した神とみる説(水谷千秋氏)もあるが、ともに論拠薄弱である。
園韓神社は宮中では唯一の名神大社であり、応仁の乱頃までの宮殿の宮内省に鎮座した。この神格・鎮座地からみても、秦氏にふさわしいとはとても言えない。例祭は園韓神祭といわれ、『江家次第』では神部四人が榊・桙・弓・剣を持って神楽を舞ったと見え、『百錬抄』では大治二年(一一二七)の大内裏火災で園韓神の御正体を取り出そうとした折に神宝として剣・桙があったと見える。帝王鎮護の神という役割や、皇祖神の系統からみても、これは始祖神の五十猛神夫妻とするのが妥当であろう。もとからこの地にあって平安遷都に伴い遷座させようとしたら、帝王を護りたいという託宣が韓神からあったとも伝える(本来は鴨県主奉斎か)。
御食津神はオオゲツヒメ(保食神)でもあり、穀物神(稲倉魂命)でもあった。五十猛神は大屋毘古神とも呼ばれ、一緒に植樹につとめた妹・大屋毘売(大屋津姫)は、名前の対応から考えて、「妹」とは実際には「妻」の意であろう。紀州にはこの女神を祀る神社もある(和歌山市字田森に鎮座の大屋都姫神社など)。この妻神は白山信仰の菊理媛命にも通じ、水神の罔象女神であり、多様な神格と名をもつ。八幡大神の妻神たる比売大神でもあって、宇佐八幡宮で祀られる。水神が竜神に通じ、仏教での同種の弁財天にも通じる祭祀もある。
筑後国御井郡や豊前国田川郡(豊比咩命神社という名で、いま香春神社に合祀)など各地の「豊比咩神社」の祭神であって(神武天皇の祖母とされる「豊玉姫」ではないし、「神功皇后の妹」のことでもない)、伊勢神宮外宮の豊受大神にあたる。香春の豊比咩神が宇佐の比売大神に相当すると岡谷公二氏も指摘する(上掲書)。豊比咩(豊姫)については、高良神の妻神という見方もあり、この辺の可能性を留保しつつ、比売大神という見方で一応、考えたい。
比売大神については宗像三女神説(宇佐神宮・石清水八幡宮の立場か)もあるが、大分県杵築市の奈多宮では、沖合の市杵島(または厳島)と呼ぶ岩礁に比売大神が降臨したと伝えるから、主祭神八幡神(=五十猛神)の后神で、端的に市杵島姫神と考えたほうがよい(その系譜は不明だが、天照大神の娘のはずはなく、海神族的な色彩があるものの、幹地から共に渡来したか、既に北九州にあった種族の出かは判じがたい)。
この女神は、水神の性格からは淀姫(興止姫神、世田姫)にもあたる。肥前国一宮たる佐嘉郡の與止日女神社(河上社。佐賀市大和町川上)、予賀神社なども含め、肥前中心に二十数社の多くで祀られ、とくに佐賀県の嘉瀬川流域に六社もあって祭祀が集中する。夫神・五十猛神と同様、石神の性格ももつ(脊振山に鎮座の脊振神社は、弁財天社ということで本地垂迹で市杵島姫を祀るが、この神にもあたる〔瀬織津姫や蛇神の宇賀神にもあたる〕。山城国乙訓郡の式内社、与杼神社〔京都市伏見区淀〕でも写る。安芸宮島の上厳島神社〔伊都岐島神社〕や近江の竹生島神社〔浅井郡式内社の都久夫須麻神社〕、相模江ノ島でも、市杵島姫【弁財天】を祀り、竹生島では、併せ宇賀神・浅井姫・龍神も祀る。淀姫が、一に「八幡大神の叔母、神功皇后の妹」とされるのは訛伝)。
唐津市呼子の加部島(別名が姫島)の宮崎鼻に鎮座する田島神社(松浦郡の式内名神大社の田島内神社)は、肥前最古といわれ唯ーの大社とされる。本殿の裏には磐境(祭場)とみられる地があり、立った三個の巨石や二個の平石、太閤祈念石と呼ばれる巨石もある。
加部島は、韓地・大陸への交通を考えると「道主貴(ちぬしのむち)」の鎮座地にふさわしく、市杵島姫を含む宗像三女神が礼られる(神名帳には「一座」と表記)。そうすると、韓地釜山(ないし対馬)辺りから筑前大島・沖ノ島を通る海路が「海北道中」と一般に解されるが(「海北」=は朝鮮半島を指す)、当該経路は、倭韓間の海上交通における当初のメインルート「壱岐・対馬を経由の線」だとみる田中卓博士の見方のほうが正しいものか。宗像大社では、九州本土の宗像市田島の地に辺津宮(総社)として現在、���杵島姫を祀る(『古事記』では、市杵島姫は中津宮、辺津宮鎮座は田寸津比売と記す)。
道主貴は、『書紀』(巻一第六段の一書第三)に「筑紫の水沼君等が祭る神」と見えており、水沼君(水沼県主)は佐賀君(佐喜県主)と同様、火国造同族とみられるから、これら諸氏の祖神でもあろう。『旧事本紀』天皇本紀には景行天皇の皇子のなかに武国表別命をあげ、筑紫水間君の祖と記される(同人は、「円珍俗姓系図」に讃岐の和気公・因岐首の始祖とされ、九州の阿蘇君・火君らの祖とみられる。『書紀』景行段に見える水沼別の始祖・国乳別皇子かその近親にあたる。同書の記事では、「弟の豊戸別皇子。是火国別之始祖世」と続ける)。
水沼君氏一族は、筑後国三潴郡の豪族で、久留米市西南部の大善寺町にある大古墳、御塚(全長約一二〇詩という帆立貝式古墳。中期古墳か)及びその北隣の権現塚(外径が全長約一五〇計かともいう。後期古墳か)の築造者とみられている。東北方近隣の同市高良内町には、これらに先立つ石櫃山古墳(全長が百計超【最大で一一五潮というで、境輪式を出土)もあったが、消滅した。久留米市北野町赤司に鎮座の赤司八幡宮(御井郡惣廟を称)がもと豊比咩神社といわれ、與止比咩命・高良大神や道主貴(三女神)、すなわち宗像三女神が祭神で、祠官家が水沼君氏との伝え(境内碑文)もあるが、領域からやや離れる感もある。
「韓」を冠する五十猛神
延喜式の神名帳には全国各地の官祭に関わる多くの古社があげられるが、そのなかで「韓」が頭につけられる神は五十猛神のみである。多くの樹木の種を持って大八洲に植えたと伝えて、紀伊国をはじめ各地で多く祀られる。わが国では伊達神(射楯神)とか韓国伊太神、伊太祁曽神ともいわれて、延喜式内社の奉斎神としてはかなり多くあり、全国で十五社を数える。
とくに、出雲には最多で合計六社もある。それが意宇郡・出雲郡に集中するが、意宇郡では玉作湯社や揖夜社に付属して鎮座する。これらは出雲国造一族の奉斎に係るものか。そして、これら出雲国内の六社が全て、韓国伊太氐神と記されて、式内社では類例の少ない「韓国(辛国)」が冠として付けられる。当地の曽枳能夜神社境内の韓国伊太氐夫神社(島根県出雲市斐川町神水)揖夜神社境内の韓国伊太氐神社(同県松江市東出雲町揖屋)など、韓国伊太所神社が出雲国の九郡中で意宇郡と出雲郡とに三社ずつ見られる(出雲国意宇郡の条に、①玉作湯神社、②揖夜神社、③佐久多神社に「同社坐韓国伊太氐神社」があり、西側の出雲郡条にあっても、「同社(神)韓国伊太氐神社」としての阿須伎神社、⑤出雲神社、⑯曽枳能夜神社が同様)。
このほかの式内社では、薩摩国曽於郡の韓国宇豆峯神社(鹿児島県霧島市国分上井)も、五十猛神(又の名を韓神曽保里神)を祀る。ここでも、とくに「韓国」を冠した神社の名前になっていることに留意される。これらの事情も、ての神の韓国からの渡来を示唆する(千家俊信『出雲式社考』にほぼ同旨)。出雲の西隣、石見国では現大田市五十猛町に近隣して韓神新羅神社・五十猛神社の両社が鎮座する。
この朝神新羅神社、出雲国出雲郡の韓竈神社(産銅遺跡のなかに鎮座)や安芸国御調郡の賀羅加波神社のほうは、素戔鳴命を屯るというが、五十猛同神か。
五十猛神については、記紀に見えるのは上記の一箇所だけであるが、イタテ神としては、『播磨国風土記』餝磨郡の因達里(姫路市街地の北部)の条に伊太氐之神が見える。因達里の伝承が、神功皇后が韓地征討で渡海する際、先導神としてその御船の上に鎮座したのがこの神である、という内容なのだから、「韓国」を冠しないイタテ神の場合にも韓国との関係がみられると石塚俊氏は指摘する。これが、餝磨郡式内の射楯兵主神社(姫路市本町に鎮座)である。イタテ神が神功皇后の先祖・天日矛にも通じるとしたら、祖神たちの加護を受けてその祖国の韓土に進攻したことになる。関連して、九世紀後半の貞観期当時の対新羅関係の悪化という背景のなかで、日本を新羅から守る目的で韓国伊太氐諸社が建立されたという説(瀧音能之氏)は疑問が大きく、この神の祭礼の由来は更に古かった。
伝承では、イタテ神は韓地の新羅から直接渡海し、日本列島に着いて出役に入り、そこから紀伊に遷ったようにうけとられる。出雲・紀伊には関係社が多くあり、出雲の西隣の石見国安濃郡にも、現・大田市五十猛町に五十猛神社と韓神新羅神社がある。五十猛命の降臨地としては、奥出雲、出雲国仁多郡の鳥上峰(船通山、鳥髪山)という伝承もある。これも、天孫族関係者が高山に天降りするという所伝の一環である。
九州の太宰府付近にも鳥髪山に相当するような山(例えば基山〔後述」」とか砥上岳(遠賀川源流地)がある。一方、対馬、壱岐を経由して九州の有明湾岸に上陸とも伝えるから、多くの関係請社や遺跡などの分布を具体的に見ると、やはり韓地→対馬→筑紫という地理的に自然な経路をとったとみられる。そこで、次ぎに北九州の分布を見てみる。
九州の五十猛神
対馬では、対馬島の北端で河内湾に臨む地に鎮座する岩立神社(岩楯神社ともいう。対馬市上対馬町大字河内)がまずあげられる。素戔嗚尊が韓土よりお帰り(到来か?)の時に、この浦に船を寄せたと伝える。元来、本社は岩楯の地に在って神籠磐境だといい、社殿がなく森の中に磐石があって、これを神位とする。
同名社では、備前国和気郡にも、磐梨別君氏(垂仁天皇後裔と称するが、実際には息長氏の一支流の和気氏)の奉斎とみられる同名の石立神社(現・備前市麻宇那)があり、社殿の下に大磐石があって、岩石崇拝に創まるとされる(『神道大辞典』)。姫大神も祀られ、近隣の北側対岸には祇園神社・磐井神社、稲荷神社や荒神社もある。石立神社の南方の備前市域、日生には高良八幡もあって、その社叢もウバメガシが占める海岸林で知られる。対馬の那祖師神社(対馬市上対馬町豊。島大国魂神社も合祀)など数社も、五十猛神を祭祀する。
大和にも同名社が添上郡式内社であり、「天乃石立神社」と記載される。現社名を天石立神社(戸磐明神)といい、奈良市柳生谷、戸岩山の北麓(奈良市柳生町の岩戸谷)にあって、本殿をもたず、鎮座する巨岩を直接拝する形態をとる。四つの巨石の総体が天石立神社と呼ばれるが、なかでも中心の丸い巨岩(きんちゃく岩と呼ぶ)が日向神社で、これが天照大神を祀り、他の三つは門神(豊磐門戸命、櫛磐門戸命)と天岩戸別命に当てられる。地域的に考えると、同社は磐梨別君同族の山辺県主一族が祭礼に関与したものか。
北九州の五十猛神祭礼では、筑前国御笠郡の筑紫神社(福岡県筑紫野市原田)や同国早良郡の五十猛神社(同県福岡市西区金武)が著名である。前者では、筑前・筑後・肥前の交通要衝に、筑紫の国魂たる筑紫大明神として祀られる。その別名の白日別神は、太陽神にも「日向」になも通じる。早良郡の西職りの怡土・志摩両郡(現・糸島市域)にも、五十猛神を写る神社が多い。王丸の白木神社前原の酒神社、草場や西浦の白木神社などがそれであり、潤神社も含め、その旧名が「白木神社」とするものも多い。これらの白木神社の群や、密集する白木の地名は新羅に因むといい、朝鮮半島由来の遣跡や伝承に彩られる。
肥前では、基山を神体山とする荒穂神社(佐賀県三養基郡基山町宮浦)がある。筑紫神社の後背地にあたる基肄郡の基山山頂には五十猛神が祀られ、玉々石という巨石の磐座や五十猛神伝承による「日本植林発祥之地」という石碑がある。同名社は、基山の別宮として、遠賀川上流域の福岡県嘉麻市牛隈(旧・嘉穂郡)にもあるが、祭神がニニギの尊で、元宮が馬見神社という。
『筑後国風土記』逸文には、荒ぶる「麁猛神」が筑前と筑後の境界に居て、往来の人々の半数を殺すので、筑紫君等の祖・甕依姫を祝にして祀ったと見え、麓の荒穂神社で祀られる。この実体が五十猛神とみられる。この地に朝鮮式山城の基肄城が築かれ、瓊瓊杵命が基山で国見をしたとの社伝もある。アラは伽耶の安羅(慶尚南道の咸安あたり)にも通じるし、「基肄」は紀伊国造の紀直氏や武内宿祢後裔と称した紀臣氏の「キ」にも通じる。杵島郡の稲佐神社・妻山神社(ともに同県杵島郡白石町域)なども、五十猛神やその眷属神の祭祀で知られる。
日本列島に杉などの樹種をもたらしたことで、各地の紀伊神社や杉山神社の祭神とされることも多い。とくに武蔵南部(旧都筑・橘樹両郡や横浜市港北区域)には、五十猛神を祭神とする杉山神社の分布が多い。これは、五十猛神を奉じた人々・部族がこの地域の開拓を進めたことに因るものであろう。
九州に戻って、五島列島、福江島の北部に位置する五島市(前・南松浦郡)岐宿町岐宿に巖立神社(岩立三所大権現)があり、社叢は椎の大木やナタオレの木などの原生林として長崎県文化財に指定される。対馬のイワタテ同名社に通じ、ここでは宗像三女神等を礼るが、本来は市杵島姫を祀るものか。長崎市香焼町の岩立神社では、境内に樹齢推定二百年という古木のエノキ(市指定天然記念物)がある。
岩立神社について言えば、このほか、出雲の東隣の伯耆西部にも同名社があり(祭神はいま大山祇命とされるが、疑問)、大山中腹の鳥取県西伯郡伯耆町岩立に鎮座する。ここでも、樹齢推定二百年、という樅���杉・銀杏の巨樹群が社を深く覆うことで有名で、裏山には「岩滝さん」と呼ばれる古くから信仰の対象とされた巨石があり、周辺に岩立古墳群もある。近隣の金持神社(同県日野郡日野町)や石見の物部神社別天神(島根県大田市川合町)などに祀られるのが、天之常立神である。この神は天地開闢の際に、別天津神五柱の最後に現れた神で、天(高天原)そのものの神格化ともされるから、具体的には五十猛神を指すのかもしれない。国常立神は、国土守護神ともされる。
これら五十猛神と眷属神を祀る神社や関連遺跡は、北九州では天山を含む背振山地の周囲に濃密に点在する。天山は、同山地の西部側、佐賀県のほぼ中央部に位置し、唐津・小城・佐賀・多久の各市に史る。その標高一〇四六㍍は、同山地東部の最高峰、脊振山(標高一〇五五㍍)に次ぐ。
この辺の事情を踏まえ、天孫族の様々な特徴を次ぎに見ていくことにしたい。
鳥トーテミズム
天皇家・天孫族には、鳥トーテミズムや、始祖の卵生伝承らしきものなど、鳥にまつわるものが多くある。古くは「天の鳥船」や「八咫烏の先導」の伝承があり、倭建命の霊魂が白鳥となって飛び去ったという白鳥伝承も代表的であって、その墓の候補のいくつかには「白鳥陵」という命名がある。
河内の古市古墳群にある津堂城山古墳は、前期末頃の巨大古墳で、倭建命の陵墓に擬される。すくなくとも、当時の大王一族関係者の陵墓とみられており、辺十七㍍の方墳状の特殊な施設には、巨大な水鳥形埴輪三体が配されている。この水鳥はおそらく白鳥ではなかろうか。烏型の埴輪は全国的に分布するが、応神天皇陵に比定される誉田山古墳や継体天皇供の可能性が大きい今城塚古墳でも見られ、これらに先行する。古墳の周濠から鳥形木製品が出土した例もあり、天上と地上を結ぶ聖なる動物という意味以上に、こうした鳥トーテミズムが大王一族にあったから祭祀に使われたものだとみられる(鳥形木製品や鳥装シャーマンは弥生時代から見られるが、穀霊信仰の現れとするのは疑問か)。中国の長江中・下流域にあった河姆渡文化期には鳥と太陽が象徴化されるとの指摘もある。
こうした鳥トーテミズムは、同族の息長氏から出た応神王統にあっても同様である。『記・紀』などに見える大雀・隼・雌鳥・鷺などを名にもつ応神・仁徳近親の王族も、鳥トーテミズムの現れであろう。この系統の遠祖、少彦名神は鳥の神様ともいえ、天日鷺翔矢命の名ももつ鳥取部造の祖神でもあった。
応神天皇自体が、宇佐八幡の伝承に、金色の鷹が金色の鳩に変じし、さらに小児となって現れて「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗ったと伝える(『八幡宇佐宮御託宣集』)きも。この金色の鷹は、菱形池のほとりにいた鍛治翁の化身とされる。応神の前身(若い頃)は、垂仁天皇の皇子・ホムチワケ(品遅別、誉津別)として記紀に登場する(「ワケ」の名からして、垂仁の皇子ではありえないが)。ホムチワケは成人してもものを言わなかったが、空をいく白鳥の声を聞いて初めて話をしたので、山辺の大鶙が命をうけ捕らえたとの伝承がある(記紀に多少差異があるが、捕獲者は少彦名神後裔の鳥取部造の祖)。「大鶙」は鷲鷹類の鳥を表す名(通称)であり、これに対応して『書紀』に見える名の「天湯河板挙」とは、実際には祖神の名であって、少彦名神の親・天若日子(天稚彦)の別名とみられる。
全国各地には白鳥神社が多くあり、日本武尊(倭建命)の伝説に因むとするものが多い。これらは、総じて天孫族諸氏の祭祀にかかるとみられる。福岡県にも白鳥の地名や同名社が多く鎮座する。順不同であげると、朝倉市白鳥・柳川市三橋町白鳥・京都郡みやこ町節丸字白鳥など白鳥の地名や、久留米市荒木町白口、田川市猪国、嘉穂郡嘉穂町馬見、八女市黒木町大淵、八女郡矢部村北矢部などに白鳥神社が鎮座する。大分県にも同名社が多い。久留米市白山町や神埼市神崎町城原にある「白角折神社」(前者の地ではシラトリ、後者ではオシトリと訓む)も関係社とみられ、後者には樹齢千年起という楠の巨木がある。
神武の大和侵入に際しては、八咫烏が道案内し、金色に輝く霊鵄(実体は八咫烏同神で、少彦名神後裔によるトーテム表示)が皇弓の筈(弓の弦をかける所)に止まって、抵抗する長髓彦軍の平定に助力したという伝承もあり、天孫の徵表が天羽羽矢であったとも記される(『書紀』)。天日鷲翔矢命(少彦名神の別名)の后裔には、長白羽神(天白羽鳥命)、天羽槌雄神や鴨族諸氏がいる。鍛冶神たる天目一箇命や少彦名神兄弟の父・天若日子(天津彦根命)は、自ら雉を射抜いた「反し矢」によって殺害されたが、その葬儀に際して、川鴈・雀など多くの鳥が役割を担ったと『書紀』に記される(割註では、本文より多くの鳥の名をあげる)。
これは、『春秋左氏伝』の昭公十七年条に見える山東省南部の夷系の国、郯子国の多くの鳥の名を付ける官名に通じるようであり、松本信広氏は、死者の魂を他界に連れていく鳥の観念と関連すると説く。朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)でも、死者を天上に飛揚させるため、大鳥の羽根を用いて死者を送るという風習があった(『三国志』魏書弁辰伝)水上静夫氏も、中国の中原東方には郯子国など鳥トーテムをもつ諸氏族があり、殷族がこれらと一群の種族だとみる(『中国古代王朝消滅の謎』ー九九二年刊)。郯子国(郯国)は山東省郯城県(山東半島の基部の南方)の西南境に位置し、春秋時代に魯の属国であったが、東夷族の祖・帝少昊の後とされ、嬴姓の国とされるから、秦・趙や徐、黄、江、李などの国・君と同族である。山東にあった大国・斉は、もとは秦と同じく嬴姓の蒲姑(薄姑。殷代の侯爵国)の領域といい、少昊自体もその別名の「鷙」が手で鷹鷲をしつ執るという意味だとされる。
白川静氏も、金天少昊氏と山東の郯子とは同じ系列に属するとみる。殷は種族的には夷系に属するとし、殷の王朝的規模は、倭の五王期とあまり異なるものではなく、殷墟に残される十三基の地下王陵は、わが国の仁徳、応神の諸陵にほぼ匹敵し、殷が直接支配した地域も、西日本の全域程度のもので、絶対年代の異なることを除けば、両者の条件はきわめて似ている、と指摘する(『中国の神話』)
殷の始祖の舜には、もと太陽神であったらしい形跡があり、アマテラスの信仰と似ているといえよう、とも言う。
中国では、『春秋左氏伝』より更に古い『逸周書』の「王会編」に、鳥トーテムをもつ異族が見える。周王が成周(いまの洛陽)に壇を築いて万国を会集する状況を記述するなかに、森林が密集する山陵地帯の異族が多く奇鳥喘禽を献じており、鳥トーテミズムをもつ秦の出自がこの方面たあると白川静氏も指摘する(上掲書)。これら西方の庄爽は、黄河上流域山陵部の森林密集地帯(上古代の当時。内蒙古のオルドス地方か)のあたりに居たとみられる。
日本では、天若日子は、子の少彦名神を通じて、鳥取部造の遠祖でもあった。鳥の名をもつ人名(神名)も天孫族系統にかなり見られる。先にあげた天日鷲翔矢命の一族のほか、素戔嗚尊自体が須佐能烏命とも書かれる。出雲国造の遠祖・天夷鳥命(天鳥船命、武日照命)の実体が、鍛冶部族の祖・天目一箇命に通じると、別書(『越と出雲の夜明け』)で述べた。同国造の初祖の名は崇神朝の鵜濡渟命と伝える。国造家の遠祖・櫛八玉命(伊佐我命のことで、天夷鳥命の子)は、鵜となって水に潜り、水底で採取した埴土(赤土)で「天八十毘良迦」(多くの平たい土器)を作り、料理人となって大国主神に供膳したと伝えるが(『古事記』の国讓りの段)、その伝承を思わせる名である(すなわち、「鵜が潜く沼」だから、一種の通称か)。
これと同祖の鍛冶部族・三上祝氏一族でも、鳥鳴海命(三上祝の祖)、速都鳥命(穴門国造の祖)、意富鷲意弥命(師長国造の祖)等の鳥の名の人々が見える。長門の穴門国造の系譜は、「国造本紀」には桜井田部連と同祖と見えるくらいだが、鍛冶神天目一箇命の後裔で天孫族たる近江の三上祝の一族であり、代々が式内の住吉坐荒御魂神社(現住吉神社。山口県下関市一の宮)に奉仕した。その由来は、託宣を行って韓地征討に功績のあった住吉三神の荒魂を、践立が神主となって当地の山田邑に祀つた、と『書紀』神功皇后摂政前紀に見える。同社(長門一の宮)及び近隣の忌宮神社(二の宮)では、特殊神事「スホウテー(数方庭)」があり、竹竿の頭に羽根を挿し鈴をつけた道具を用いる風習がある。
北九州でも、吉野ヶ里貴跡を始め弥生時代��出土品には、杆頭にとりつけられる木製の鳥製品が頻出する。このような竹竿は、朝鮮半島の「鳥杆」(鳥竿。杆頭に木製の鳥をつけて寺院の入口等に立てられ、「ソッテ」などとも呼ほれた)や「蘇塗」(大木に鈴鼓を懸けて鬼神を祭祀った)につながる。鳥杆に似たものが、佐賀県神埼郡千代田町の託田西分遺跡でも出ている。こうしたソッテの習俗は、ウラル・アルタイ族に普過的な信仰である北方的祭天儀礼と位置づけられ、シャーマニズム文化に帰属する(萩原秀三郎氏の「稲と鳥と太陽の道」)。
始祖の卵生神話
高句麗の祖・朱蒙(東明王)は、日の光に感精して生まれた卵から成長し、弓の名手であった鶏卵のような精気が天上から降りてきて女が妊娠し生まれたとも伝える。こうした所伝は早く、「好太王碑文」等にも見えており、始祖鄒牟(朱蒙のこと)は天帝(ないしその太子の)の子で卵を割って出生したとある。東夷の祖神・帝少昊の子(一に子孫)の揮は初めて弓矢を作り、張姓を賜ったと伝えるが、わが国の鳥取部・弓削部・矢作部を管掌した氏(鳥取連・弓削連・矢作連)は天孫族の出で、いずれも遠祖が少彦名神であった。
『魏書』やっ『隋書』等の高句麗伝では、高句麗の高官や使者は冠に「二本の鳥の羽」を挿すと記されており、これも鳥トーテミズムに関係しよう。「東明編」(高麗の李奎報の叙事詩。一一九四年成立)には夫余の祖・解慕漱(へ・モス)が頭に鳥羽冠をかぶり五竜車に乗り、百余人のお供はみな白鵲に乗って天降りしてきたと記される。この解慕漱が河伯の娘・柳花を娶るに際して、河伯との変身合戦で最後に鷹に変じて圧倒したので、ほんとうに天帝の子だと認めたという記事もある。高句麗には烏骨という城(遼寧省鳳城市に残る鳳凰山城で、高句麗最大の山城)、烏拙という大官(十二官位のうち第六)もあり、鬼神���社稷・霊星(農業神)を祀った。
古くは『逸周書』」王会篇に、周王朝第二代の成王が諸侯を招集したとき、高夷が見えており、これが高句麗族の源流だと、『隋書』を編纂した唐代の孔穎達が言い、鵠(白鳥類-のトーテムを祀るとする。「高夷」は遼寧省撫順市周辺に居たともいう。
新羅の国王初代で朴王家の祖・赫居世、金王家の祖・金閼智や昔王家の祖・脱解や、伽耶の金官王家の初祖・首露にあっても、卵生神話や誕生時に鳥にまつわる伝承(金閼智の場合は、その到来を白鶏が告知)がある。
わが国の天皇家には、鳥類にまつわる卵生伝承は端的な形では見られないが、これが天孫降臨の際の真床覆衾に関連するといわれる。この真床覆衾は、殷の王権・即位の儀礼に見られる「綴衣」という先王の用いた衾に通じると白川静氏がいう(『中国の神話』)。殷は東夷系で、玄鳥(燕)の卵を呑んで懐妊した女性の子・契(『荀子』に「契玄王」という表記あり)という者が始祖で、商の地に封じられたという卵生説話をもった。先祖の王亥は鳥形神の字形で表され、その神像は両手で鳥を操り、まさにその頭を食らう、と白川氏が『山海経』やト辞を踏まえて表現する。鳥トーテムの強い色彩があり、王は巫祝としてシャーマニズムが盛んであった。殷の子孫が周王朝の祭儀に客神として参加して降服の儀礼を再演し白鷺の舞を献じたことは同様に記される。
殷の伝承などから、この殷族を貊民族の一分派とかツングース族とみる見解(文崇一や、シロコゴロフの『北方ツングース族の社会構成』)がある。殷の起源は、祭祀・主食(オオムギ)などから考えて、西方からの侵入説(西方系の遊牧民族の一派とみるもの)を水上静夫氏が唱えており、これもおそらく妥当であろう。この場合、西戎は東夷に通じる模様である。
鳥のトーテムとシャーマニズムの関係でいうと、もとの筑前国怡土郡にあたる糸島市有田の上鑵子遺跡では、鳥の羽飾りをつけた鳥装の司祭の絵を刻んだ木板が出ている。これは弥生中期頃からの遺跡とされる(奈良時代の製鉄跡もある)。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町大曲の瀬ノ尾遺跡(旧東脊振村域で、吉野ヶ里遺跡の東側の丘陵に位置)からも、羽飾りをつけた烏人とみられる絵を刻んだ弥生期の土器が出土した。吉野ヶ里遺跡の西方近隣、神埼市神埼町竹にある川寄吉原遺跡からも、頭に羽をつけた人物を刻んだ鐸形土製品や銅鏃が出た。韓国のシャーマン(巫師・祈祷師。「シャマン」とも表現される)は、今日でも雉の羽がついた帽子をかぶる。吉備でも、弥生中期頃の新庄尾上遺跡(岡山市北区御津新庄)から出た絵画土器には、鳥に扮した人(嘴とトサカ状の装飾がついた人)が描かれる。烏スタイの9シャーマンには山口博氏も注目するが(『大麻と古代日本の神々』、}、わが国の祭祀担当の忌部氏一族(中央及び阿波・安房に分布)は天日鷲命の後裔であった。
中国・吉林省南東部の集安市は高句麗の旧都だけあって、同市人民政府の庁舎前には高句麗の象徴である「三足鳥」(太陽に住むとされ、足が三本あるカラス。林巳奈夫氏は、実は龍山文化から伝統のある大型猛禽のイヌワシだという)の銅像が立つという。その案内板には「太陽鳥(三足鳥)は中国古代の伝説に登場する。高句麗の壁画の三足鳥は高句麗民族と中原民族が同じ太陽鳥を崇拝したことを示す」と書かれていた。現実に高句麗の古墳壁画に太陽の中に描かれた三足鳥が見られる。これは、わが国鴨族の祖・八咫烏にも通じ、三足鳥で描かれる。
イヌワシ(金雕)を現在でもトーテムとすることで知られるのが、中国・新疆ウイグル自治区に西隣する中央アジア・カザフスタンのカザフ族で、古代鳥孫の末后裔という(二〇一五年一月二九日のNHK第一テレビで、イヌワシを扱う少女鷹匠の話が「世界最古のイーグルハンターモンゴル・カザフ族」として放映された)。ウイグル族・タジク族や清朝(満州人)、エヴェンキ族・ホジェン族などのツングース種族も鷹をトーテムとした。鷹が天神テングリの使者であり、女人との間に生んだ男子が最初のシャーマンだと伝える(以上はネットの「百度百科」)。イヌワシをトーテムとする信仰が上古の華北文化に存在したとの指摘もある。四川省広漢市の三星堆遺跡(約三千年前の殷代晩期のものか)から発掘された青銅神樹(扶桑樹、太陽樹)の枝には九羽のイヌワシが止まっており、この鳥が太陽を表すとみられている。
太陽神の祭
鳥トーテミズムは、世界各地で太陽神信仰や鍛冶屋伝承に結びつくことが多い。中国の射日神話では、弓の達人・羿(ゲイ。后羿ともいう)が帝堯の命を受け、人々を苦しめる十個の太陽のうち、一つだけ残し九個の太陽を射落としたが、この射落された太陽の実体が三本足のカラス(火鳥)だつたという。鳥が霊魂を運ぶ太陽の使者だとする中国の神樹思想にも通じる。殷の王族は太陽の末裔だと当時考えられていた。十個の太陽(十日)は、帝俊(帝舜)と妻・義和との子とされる(『山海経』大荒南経)。なお、帝俊の妻・常羲(嫦娥)は天照大神に通じるともみられ、また、后の妻ともいわれ、これが月神ともされる。
わが国の天孫族もこの例に漏れず、鍛冶部族で鳥トーテミズム、太陽神祭祀をもった。皇祖神の天照大神が天岩戸に神隠れしたことで、高天原を含め世界が真っ暗になったという天岩戸神話が有名である。もっとも、こうした「日隠れ神話」は世界中にあり、上記の射日神話にも通じるから、わが国天孫族に限った話ではないが、天皇家が祭祀などで太陽神信仰セをもったことは疑いない。太陽神を祀る朝鮮半島・日本の巫覡に女性の数が多かったこともあり、これが推古・皇極・持統などの女帝出現とあいまって(推古女帝の出現が直接の契機か)、日本では太陽神が後に女性神に転化したが、原型は男性神であった。三浦茂久氏も、天照大神は本来、月神であったとみてお��、高天原神話に見える天照大神の機織りは月神の特徴だとされる(『古代日本の月信仰と再生思想』二〇〇八年刊)。
天照御魂神こと天照大神に代表される太陽神を、天皇家は伊勢皇太宮などで奉斎し、これに奉仕する日置部も天孫族の流れから多く出た。日置・日置部を名乗る氏には諸流あるが、応神天皇皇子の大山守王の後(『姓氏録』右京皇別)、忌部首の一族(同・未定雑姓和泉の日置部)や土師連の一族(出雲国造袋)などが知られる。
渡来系にも日置があって、高句麗に出自の日置造(左京・右京・大和・摂津の諸蕃)、日置倉人(大和諸蕃)の諸氏が「『姓氏録』に見える。こちら諸氏は高句麗の権臣・淵蓋��文(泉蓋蘇文、蓋金、伊梨柯須弥)の族裔であり、高句麗王家と同族の蓋(盖)氏の流れであった(遙かな遠祖は、天孫族と同じか)。この一族は、京都に居住して八坂造氏となり、祇園で牛頭天王ことスサノラヲ神を祭礼した。日本での先祖で、『書紀』斉明二年条に見える高麗の副使の伊利之とは、権臣の泉蓋蘇文の従弟の蓋須のことであった。その子孫には、日置造と八坂造との二大系統があって、後世に永くつながった。八坂造は後に紀朝臣氏と通婚し、紀姓を称した。泉蓋蘇文は高句麗五部のうちの順奴部の出で、父は東部大人、大対慮の宮職にあり、父の職務を承け高句麗軍事の大権を握り、主君栄留王と多数の支持者を殺害し、宝蔵王を擁立して大莫離支(宰相)にもなって、唐と対抗した。
天孫族の一派、鴨族の祖・鴨健角身命(天日鷲命ともいい、実体は少彦名神)は異名が「八咫烏」ともいわれる。その子孫が、神武の大和侵攻を先導した伝承のある八咫烏(先祖と同じ通称)であり、光り輝いて敵の戦意を消失させた金鵄にも化身した「(「金鵄=八咫烏」の平田篤胤等に同意。この「烏」の実態がイヌワシなら、後頭部の羽衣は光沢のある黄色で、英名〔Golden Eagle〕の由来でもある。林巳奈夫氏の著『中国古代の神がみ』では、青銅神樹に止まる「太陽の鳥」は、体つきから見ても、龍山文化から伝統のあるイヌワシだとする)。この八咫烏が、忌部首や日置部の遠祖でもあった。律令時代において、主殿寮に仕える名負五氏のなかに日置・鴨県主があり、日置氏と鴨県主が火を受け持つ類縁の間柄にあった。葛野郡の名神大社、木嶋坐天照御魂神社も鴨氏族の奉斎にかかる。
各地に多く針座する天照御魂神社は、祭神が物部氏祖神(饒速日命)とか天火明命だと受けとられることが多いが、基本的には皆、男神の天照大神のことである(穗積氏の伝えた系図には、天忍穗耳命の父として「天照御魂太神」と記される)。対馬の天道(天童)信仰も特徴的で(���ノ神、殻霊、祖霊の信仰という)、当地には扶余と同様な太陽感精神話も伝えられる。天孫族は渡来の経路として一族や祭祀・習俗を対馬に遺した。「国造本紀」には、津嶋縣直をあげ、始祖の建弥己己命は高魂尊の五世孫で、橿原朝(神武天皇)の頃に置かれたと記される。この官の設置の時期はに早すぎるが、系譜は出雲国造の同族の出であった。
太陽神信仰と鳥トーテミズム・卵生神話が合わされば、霊山信仰・霊鳥伝承や「天帝」の子孫の降臨・天降りやゃ国見の伝承にもつながる。広く伽耶まで含む東北アジア地方諸国の王家や天皇家について、祖先が高山(ないし、その山頂の高い樹)に降臨したという伝承が多い。それ故に、これら各々の国の聖山(新羅の吐含山、百済の北漢山〔高木山〕、金官伽耶の亀旨峰〔金海の亀山洞〕、大伽耶の伽耶山や、日本のクシフル岳(糸島市の高祖山のことで、原田大六などが言う。南九州の日向国ではない〕)として祭礼対象とされる例が多い。匈奴や鮮卑(遼西の朝陽付近の弾汗山)・烏丸、扶余などでも各々が聖山をもち、山上祭天の儀式をした。『三国遺事』には、天帝桓因の子、桓雄は父から三つの天符印(「鏡・剣・鈴」という)を授かり、大勢を率いて太伯山(今の妙香山〔平壌の東北方〕とされる)の頂上の神檀樹の下に天降っており、その教示に基づき人間になることに成功した「熊女」(熊トーテム族の女性と解する李丙燾氏に同意)との間に檀君を生んだ、という神話が見える。新羅の脱解王は、高麗時代にも「東岳神」と言う山神として祀られた。東嶽(東岳)とは、慶州市街地の東方の吐含山のことであり、新羅五嶽のうちに数える同市の最高峰で、日本海を展望できる護国の鎮山として神聖視され、天に祭祀を上げた聖山として知られる。脱解については、日本列島の出身で海路到来と伝えられ、天孫族や天日矛と同族の出とみられる(後述)。
ここまで、天孫族の祖系や祭祀・習俗などを見てきたが、天皇氏族の特徴的なもののうち、主に考古遺物・遺構などに絡まる関係は次の章で見ることにしたい。
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高橋太郎左衛門
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高橋 太郎左衛門(たかはし たろうざえもん、生没年不詳)は、江戸時代前期の農民。出羽国庄内藩の遊佐郷で大肝煎を務めた[1]。
酒井氏入部後の農政
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初代藩主酒井忠勝が入部した後、庄内藩は検見法によって年貢を徴収していた[2]。しかし、元和9年(1623年)から総検地を行なって領地高を大幅に増加させ、寛永2年(1625年)からは定免法を採用した[3][4]。
大肝煎罷免
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寛永3年(1626年)は凶作で多くの餓死者が出て(『余目町史年年表』)、同7年もかなりの不作だった。しかし、定免法が適用されたため、作柄相応に減免(納める年貢の量を減らすこと)されなかったために多くの未進米が発生した。未納分に対しては年利5割の利息が付けられ、それらの取り立てが翌年、翌々年に厳しく取り立てられた[3]。
そのため寛永9年(1632年)10月に、川北の遊佐・荒瀬両郷から多くの領民が由利・仙北(現・秋田県)に逃散した[3][4]。
藩はその事態を招いたのは大肝煎の責任とし、遊佐郷大肝煎の高橋太郎左衛門と荒瀬郷大肝煎の池田刑部左衛門の両名を罷免し、太郎左衛門を投獄した[1][3][4][5]。
翌10年(1633年)に庄内に幕府巡見使が来ることになったが、藩はこの件が表沙汰になることを恐れて、太郎左衛門を殺害することも検討したという(『鶴岡市史』上巻[3][4])。
藩の苛政に対する訴え
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寛永10年12月に太郎左衛門は釈放されるが、藩による殺害計画を知って、江戸に逃げる。翌11年(1634年)5月、弟の長四郎とともに江戸に潜伏していた太郎左衛門は、目安を江戸幕府に提出した。その内容は、庄内藩の苛政を訴える13ヵ条だった(『雞肋編』下巻[1][3][4])。
総検地以前は、実際の収穫に応じて、水損・日損といった天候や自然の影響を考慮した差し引きもあった。しかし、最上氏統治時代に5700石余だった年貢が、検地以後は一万石に増加し、定免法に変更された。さらに寺社の知行地にも新たに縄入れし、年貢をとるようになったため、鳥海山の宗徒・僧侶の中にも身を売る者が出ている。
遊佐郷では年貢納入のために男女1000人が身売りをしている。そのため岩川村や東村からは大半の百姓がいなくなったことで人返しを実施。身売りも出来なくなったことから、妻子を殺すか欠落(かけおち)や逃散をするしかない状況に追い込まれた。欠落百姓への成敗は厳しく、小物成の納入でわずかな不足でも入牢になり、妻子は城に召し遣わされたり、他国に売られたりした。年貢納入のため8ヵ年に身売りした男女は5000人から6000人にのぼり、そのほか牛馬売りも多かった。
庄内の塩浜の百姓は塩を焼いて、それを米に代えて生活をしていた。ところが、塩浜と隣村、酒田と在郷との間などに口留め所を設けて、庄内浜や飛島の魚売買を禁じ、塩であろうと塩を交換した米であろうと年貢として没収された。塩や魚介類を諸商い物と交換・販売することを禁じられた漁民たちは、御城米を高価な敦賀米の値で借りるしかなく身上が立ち行かなくなった。そのため、飛島の漁民のうち60軒ほどは女房・子供を引き連れて庄内で乞食をしている。酒田の商人は商物や代金を没収され、御城米を高利で貸し付けられたため、家や船を売り、中には身を売る者までいた。
遊佐郷の百姓が城に納める八木・糠・藁・草のことで出入(訴訟)を申し上げたところ入牢となりそのまま9ヵ年におよんで、あるものは牢中で死亡した者もいた。
巡見使の下向に際し、藩は郷中町中の諸役を差し引く条件で目安を提出しないよう命じた。しかし巡見使が帰った後は約束は守られず、差し引きもなかった。
留山、留谷地を定めて、統制をきびしくしたため、町人・百姓は薪や萱に不自由している。
などで、これらの苛政のために農民は生活を維持できないとして、酒井氏の悪政を告発していた[1][3][4][5]。
訴状は酒井氏の親族にあたる老中松平信綱[注釈 1]が受理。信綱は庄内藩との間を仲介して、この件を和解に持ち込み、太郎左衛門と池田刑部左衛門はともに大肝煎に復帰した。
事件後
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寛永15年(1638年)、太郎左衛門は新知200石を賜わって家中に召し出されて鶴ヶ岡に移り、弟の長四郎が代わりに大肝煎になって100石を与えられた[3]。
庄内藩の成立期の農政は、年貢の増徴だけでなく、それ以上に新しい村の存立・安定を目的としていた。そのためには、自主性の強い農民に対する意図的な締め付けを行ない、旧領主は排除する必要があったが、地元の土豪層とは妥協することも必要で、太郎左衛門が大肝煎に復帰できたのも特例ではなかったと考えられている。肝煎かその子に一律に知行100石を与えて家中に準じた身分を与えたことも、大肝煎の懐柔策であったとされる
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大魯上人
大魯上人
鹿児島の浄土真宗の礎を築いた大魯和尚(だいろ)の墓は旧吹上町の光専寺の敷地内にございます。
大魯は幕末に本願寺で起きた教義上の論争(三業惑乱)で異端者として追放され、京都から肥後、天草を経て薩摩に逃れた。
当時藩では浄土真宗を厳しく禁じていた(※かくれ念仏のぺージ参照)
それでも大魯は煙草講(たばここう)などの名で人々を集め、洞穴に隠れて念仏の教えを説いた。
そして各地を回り30年、多くの人々に慕われながら天保7(1836)年上草田の辻の久保で没した。明治の初め、藩の政策で薩摩半島の技術者が大隅半島に移住したが、その中に大魯の影響を受けた念仏者がいて教えを伝えた。その後、明治22年にこの地に改葬した。やがて念仏禁制が解かれると浄土真宗は県全域に広まった。
鹿児島で浄土真宗がこれだけ広まっている事は大魯和尚の功績が大きいといえる。
大魯上人が本願寺から追放された理由
大魯上人が本願寺から追放された理由である「三業惑乱」というのは、江戸時代に浄土真宗本願寺派(西本願寺)において起きた法論(教えをめぐっての論争)のことです。
この騒動を寺社奉行として裁断したのが、龍野藩の第8代目藩主の脇坂安董(わきざかやすただ)であったというお話です。
『脇坂家譜』の安董についての欄には「同月(文化3年7月)十一日西本願寺宗意惑乱之ヲ裁断ス」と記されています。
善龍寺(龍野市)では龍野で出版された『真宗新義古義裁断実記』という書物も残っています。
この「三業惑乱」事件というのは異安心(いあんじん)論争で、異安心とは真宗の安心(「あんじん」と読みます。救いの境地)と相違した誤った安心を言い、どちらが正意の安心かをめぐっての論争です。救いとは究極は各自の心の問題なので、本来��ら安心自体を判断裁定することは無意味でもあるし不当なことと思いますが、安心がその人の思考をともない教相(教え)として外面化し他人に説いた場合、多くの人に影響を及ぼしてしまいますので、看過するというわけにもいかなくなったのです。
安心と教相(教え)とは密接不離な関係にありますので、教えが違えば迷信、邪信を生み出すというような可能性もはらんでいるのです。
ですから厳密には、「安心論争」「異安心論争」というよりは「教義論争」といったほうが妥当だと思われます。
そして教義は真宗の場合は溯れば開祖である親鸞聖人にあり(その本源は阿弥陀如来の「本願」にありますが)、その著述に基づいて、教義論争が行われます。
この事件が発生したのが寛政9年(1797)で一件落着したのが文化3年(1806)で、実に10年の歳月を要しています。安董が寺社奉行として幕政に参与していた期間が寛政3年(1791)から文化10年(1813)までの22年間ですから、安董はこの「三業惑乱」事件の発生から落着まで寺社奉行として見届けていたことになります。
そして最期に落着させました。本願寺派の教義は安董によって守られたという歴史的側面も多分にあると思います。面白いことに、脇坂家の始祖の甚内安治(じんないやすはる)は、天正6年に豊臣秀吉の命を受けて石山合戦(織田信長対本願寺の戦争)で本願寺側であった三木城を攻めたとき、抜群の手柄を立てたそうで、いわば本願寺の敵であったのですが、その本願寺の窮地を子孫の安董が救ったということになるのですから、脇坂家と本願寺とは順逆の違いはあれ縁深いと言えます。
安董は「三業惑乱」事件の裁断によって、その手腕が高く評価されたこともあり、天保8年(1837)には老中に就任しました。
この事件の発端は、寛政10年(1798)に行なわれた蓮如上人(真宗の中興上人、本願寺第8代法主)の300回法要のあと、その前年の寛政9年(1797)に学林(僧侶の修学道場)の第7代能化(「のうけ」と読みます。
宗派の教義を研鑚し人を教化する学寮の責任者)に就任した智洞が門主の文如上人に代わって『無量寿経』の講説を行ない、この中で「三業帰命」の説を唱えたことにあります。
この説は溯れば第2代能化の知空(ちくう)、及びその弟子の峻諦(しゅんたい)などより発し、第6代の能化となった功存(こうぞん)が『願生帰命弁』という著書を著わして「三業帰命」の説がますます鮮明に示され、その後を継いで能化となった智洞に至った頃には、本願寺派の真宗安心の規準とまでなっていました。
「三業帰命」とは「三業安心」ともいわれ、「帰命(きみょう)」の曲解より起こった異安心です。
すなわち、「三業帰命」とは、「阿弥陀様助けてください」と意業(心で)、口業(口で)、身業(体で)の三業で阿弥陀仏に救済を求めることで、三業に帰命の相がともなっていなければならないという説です。
「これだけ阿弥陀様のことを思っているから救われる」「念仏を称えていれば助かる」「これだけ仏壇の前で拝んでいるから救ってくださる」といった自己の三業(行ない)を阿弥陀仏にさしむけることで救いの助けにしようとしたり、三業で帰命していることを救いの証拠にしようというのですから、とどのつまり、その計らい心、自惚れ心(自力)は阿弥陀仏の救済を絶対的に信知していないことから生じるのであって、三業による「たすけたまえ」という「帰命」はその表われの何物でもありません。阿弥陀仏の本願に不足があるから、その不足分を三業で補おうとする心が働くのです。
これは結局は阿弥陀仏の本願を疑っている姿です。機の深信に徹していないから救われるための手段が自分にあると自惚れ、法の深信に徹していないから本願力に不足を思うのです。
どうして功存が『願生帰命弁』という著書を著わして、「三業帰命」説を強調したかというと、当時、北陸を中心に「十劫安心」という異安心が広まっていました。また京都では「土蔵秘事」という異安心が広がっていました。
功存は特に「十劫安心」を正すために『願生帰命弁』を著述したと思われます。 「十劫安心」という異安心は、「十劫秘事」とも「十劫正覚の秘事」「十劫領解」とも呼ばれ、十劫の昔に阿弥陀仏が成仏されたときに、すでに衆生の救済も成就されているのだから、それを忘れないのが信心であるという邪義です。「十劫安心」は必然「無帰命安心」であり、仏に帰命せずともよい、帰命の安心を不要とします。そこで、功存は帰命の安心の欠けた「十劫安心」を正すために、著書の中で「たのむ一念」の帰命を力説したのです。本願寺派で真宗の教化に絶大な能化の取り締まりにより、「十劫安心」は一応の収まりをみせましたが、その教化が未徹底なままで功存は病死してしまいました。
また、功存が能化だった頃には、「本尊論」についての法論も起こりました。
播州の智暹(ちせん)が『真宗本尊義』を著述して学林を問い質した法論でした。 明和4年(1767)5月のことです。本山は両者を戒告して事件を解決しようとしました。
同年の6月には学林は裁決を不服として本山に乱入したりしました。
また功存の『願生帰命弁』に記された「三業帰命」説に対しては多くの批判が上がっていました。
安永4年(1784)7月、大麟(だいりん)が『真宗安心正偽編』などを著述して功存の『願生帰命弁』を批判、安永7年(1787)4月、宝厳(ほうげん)が『興復記』を著してこれまた功存の説の批判を展開しました。
功存が『願生帰命弁』を刊行してからというもの本願寺派内は法論が頻発に起きていました。
功存が能化の時代に「三業惑乱」という爆弾の導火線にすでに火がついていたのです。
功存は「阿弥陀仏をたのむ」こと「帰命」することに力を入れて説いたために教化が「三業帰命」に傾きましたが、それをより徹底して教化すべく、智洞は「三業帰命」説を前面に出して説きました。そして全国の僧侶・門信徒が集まる法要のときにも、智洞が公然と「三業帰命」説を唱えたものですから、この説に不審を抱いた安芸の大瀛(だいえい)、河内の道隠(どうおん)などの在野の学僧(古義派、正義派)が、智洞を代表とする学林(新義派、三業安心派)と対立し、ついに寛政・享和・文化にまたがる10年間にわたって、西本願寺教団内部をはじめ、24カ国に及ぶ未曾有の大紛争となってしまいました。
大瀛は智洞の説の誤りを明らかにするために『横超直道金剛ベイ』を執筆しました。教義の解釈上の対立、相違問題は政治的な紛争へと発展し、混乱と暴動事件���引き起こし、ついには幕府の裁断を受けなければならなくなり、そこで寺社奉行であった安董の出番ということに相成ったわけです。
「三業安心」説の是非をめぐっての争論が各地でまきおこり、ことが「後生の一大事」、救いに関わる問題ですから、門信徒は動揺し、その是非を手次寺に糺すものの埒があかず、嘆願書で本願寺派本山に問い合わせても、本山はこれをとりあげようとしません。
享和元年(1801)になると、門信徒の中には示威行動に出る者も現れて、京都の町々は動揺する門信徒であふれ、奉行所から内々で注意を受けることになります。
大瀛は享和元年(1801)5月に『横超直道金剛ベイ』を刊行しましたが、翌月には販売禁止にされてしまいました。本山は混乱するだけで事態を収拾することができず、翌年の1月になって美濃国大垣領の門信徒の百姓たちが一揆のいでたちで、本山に詰め掛けようと河原に集結しました。このことを知った領主の戸田采女正は当時の老中で、百姓たちの動揺を静めるために本山に対して、宗旨を整えて門信徒の不安を一掃するようにと要請しました。それにも関わらず本山は何ら手段を講じないまま7月に入り、大垣領の門信徒は再び集結しましたが、代官に鎮圧されました。
事態を重く見た戸田采女正は事件を幕府に届け、もはや一宗門内の紛争ですまなくなりました。
7月の終わりには、江戸築地の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行脇坂淡路守役宅へ呼び出され、留守居役星野鉄三郎から事情聴取されています。
幕府は従来、寺社に対し、教義や宗門の紛争などは余程のことがない限り、黙認する方針でした。しかし、ことが「一向一揆」に似た社会的に不穏な行動であったため介入せざるを得なくなってしまいました。
この事件を担当した寺社奉行師匠番脇坂安董は享和2年(1802)11月、本願寺派本山に対し幕府の厳しい警告書を突き付けたため、本山役人は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになりました。翌年の享和3年(1803)1月、三業安心派の僧侶・門信徒は巻き返しのために本山に押し寄せ、安心(往生)の権限を学林へ一任せよと強要し、ついに槍を持って門主の室近くへ侵入するなどの狼藉を極める暴挙に出て、宗門はますます混乱してしまいました。
これに対して諸国の古義派の門信徒、特に安芸門徒の学僧たちは大瀛を中心にして、智洞の誤りを全国に訴え、何度も公開討論を申し込んだり、門主の権限を回復するように本山にせまりましたが、本山はこれを黙殺しました。享和3年(1803)2月には、能化智洞の退職を求め���した。
大瀛とそれを支持する石見の履善(りぜん)、京都の春貞(しゅんてい)、河内の道隠などは上洛して本山に論戦を挑んだために京都は騒然となりました。
4月になると学林は本山の休講措置を無視して安居講会を開こうとして古義新義の2派が対立したため、本山はこの処置に窮して京の町奉行所へ訴えてしまいました。
町奉行所はこの時とばかりに両派の取り調べを開始し、5月には智洞、大瀛をはじめとする、この騒動に関わった中心人物たち40人余りの入牢を命じました。
翌年の文化元年(1804)1月に幕府は取り調べのため智洞・道隠・大瀛らを江戸に連行しました。
智洞はこのときすでに罪人として鶤鶏籠(とうまるかご)で江戸へ護送されています。
そして2月2日より寺社奉行役宅にて取り調べを受けました。
5月には正義派の中心的存在であった大瀛がこの事件の結末を見ることなく獄死しました。
智洞もまた獄中にあって死に、その他の者も遠島に処せられた。
学林の僧はこの事件が宗門の教義のことだからと安心していましたが、安董は寺社奉行の中でも、また歴代の奉行の中でも仏教に通じていて、しかも、安董の陰には真宗大谷派の宗学を大成した大谷派講師の香月院深励(こうがついんじんれい)師が控えておりましたから、突っ込んだ取り調べを行ないました。
文化3年(1806)7月11日、安董は「三業帰命」は不正義とする判決を下して、本願寺派本山に対して、宗門不取締の責を問い100日間閉門という寛大な処分を行ないました。そして、8月21日登城し、老中の松平伊豆守より、今度の宗論裁断について、勲労の論旨を賜わるとともに御調役の星野鉄三郎に銀10枚、西田金次郎・清水兵蔵両名に銀7枚を賜わりました。
閉門が解除された11月、門主の本如上人は、『御裁断御書』を発表して宗門内としても事件は一件落着しました。
「三業惑乱」事件が契機となり、能化職制度は廃止され、本願寺派の宗学は、学轍分裂に至り、行信論に三業を論じることを嫌うあまりに、極端な離三業の所行説が発展しました。
その代表的学轍が空華轍で、現在の本願寺派宗学の筆頭勢力となっています。
ちなみに智洞一派の徒は、三業惑乱後もまだ智洞の遺響を守っていたことから、如何に智洞の異説が教界内に一大勢力を持っていたかが窺われます。
また、三業惑乱後も三業だのみ説を強く誡めている説法がしばしば見られたことからも、如何に三業惑乱が本派にとって一大苦難であったかが知られます。
本派の三業惑乱は隣山の大派にも影響を及ぼし、大派でも三業帰命説、及びそこから派生する異説、諸問題について研究されることとなりました。
「三業惑乱」以降、本願寺派に属する僧侶たちは三業を論じない傾向になりましたが、「無帰命安心」に堕してもいけなくなり、困惑が続いていたようです。
「三業惑乱」後に、本山は全国の本願寺派僧侶から各自の信仰の申告書を集めたそうです。
そこには、蓮如上人の言葉を書写して自分の信仰を表わす人が多かったということです。「信心」に関しての無難な回答をすることで自己の信仰が糾弾されることを免れたのでしょう。
ちなみに脇坂安董は、この「三業惑乱」事件の他にも、延命院事件といって延命院住持日道の不行跡を糾弾しました。ことは大奥にも関係する難事件でありましたが、断固として日道を斬罪に処して寺僧をふるえあがらせたという。
三業惑乱終結後、龍野に帰った安董に、八十歳の母が「三業惑乱はなんと治まった」と尋ねた。それに答えて安董は、「何もほかのことではなかった。阿弥陀様は真実の親であった」と答えた。
母は、「噫(ああ)そうであったかそうであったか。親子の仲なら、かれこれ云うことはいらなんだのう」と喜んだという。
浄土真宗光専寺
仏事・法事等で不明点あればご連絡下さい。
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星辰選集
花鳥誌 令和5年1月号
令和4年10月号の掲載句より再選
坊城俊樹選
この星辰選集は、私が各月の掲載句の中で、雑詠選・撰集選・さいかち集の成績などに関係なく、改めて俳句としての価値が優れていると判断したものを再度選句したものです。 言わば、その号における珠玉の俳句ということになります。
田植済み一村深き寝息かな 多田 みす枝 博多山笠受け継ぐ尻のうひうひし 鮫島 成子 ゆく秋の灯点し頃の童唄 粟倉 健二 米軍の鉄柵AKASAKAの晩夏 蒼井 音呼 弔問を終へて取り出すサングラス 菅野 章子 元禄も享保の墓も灼けてをり 加納 佑天
あめんぼの踏むは魔法の水ならん 古賀 睦子 オカリナを参道に向き暑く吹く 棈松 政江 虹色の死後の夢みる籐寝椅子 渡辺 美穂 少年ら夏潮に夢投げ合うて 佐藤 ゆう子 暑き日を年尾の句碑のふところに 竹内 はるか 炎帝に奪はれし子の忌日かな 岩原 磁利
かごめかごめ指から見える素足かな 村山 弥生 旧姓の記され黴の仏和辞書 渡辺 彰子 白亜紀の地層あらはに滴れり 江本 由紀子 雲の峰オホーツクへと崩れ落つ 鈴木 月惑 昼寝より覚めて海鞘食ふ女かな 赤川 誓城 恋みくじ数多の夏の雨垂らす 西村 史子
近づくも近寄りきれぬ蓮の花 高山 八草 あぢさゐへ北斗七星より雫 大久保 樹 風紋は海へ傾れて雲の峰 勢木 宇太郎 コンクリの灼けてショベルに喰はれけり 伊藤 裕章 花茣蓙の纏ふ匂ひに帯をとく 田辺 て津子 草いきれ金属の刃の回る音 本間 白陶
あつぱつぱどちらが姉か妹か 太宰 裕四郎 浜隅の男一人の砂日傘 藤原 寛 花吹雪歓迎されてをりにけり 小川 みゆき 山百合の斑の罪深く傾ぐかな 村山 要 夏痩せてたかが別れされど別れ 河野 公世 玉砕はこんな日とも油照 四宮 慶月
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6年前、名古屋市南区で高齢夫婦を殺害し、現金を奪った罪に問われ、差し戻しの一審で死刑判決を受けた男が死亡したことがわかりました。 死亡したのは強盗殺人の罪に問われている山田広志(旧姓:松井)被告49歳です。 起訴状などによりますと、山田被告は2017年3月、名古屋市南区の住宅で大島克夫さん(当時83)と妻のたみ子さん(当時80)を殺害し、現金の入った財布を奪った強盗殺人の罪に問われています。 ことし3月の差し戻しの一審で、名古屋地裁は山田被告に死刑判決を言い渡し、控訴審が行われていました。 山田被告は去年2月、末期の膵臓がんで余命宣告を受けていて、ことし9月末に行われた裁判は体調不良で入院しているとして欠席していました。 関係者への取材で、山田被告が死亡したことがわかりました。 1月18日に控訴審判決の言い渡しが行われる予定ですが、裁判は打ち切りになるとみられます。 2019年に行われた一審では、「殺人」と「窃盗」にあたるとして無期懲役の判決を言い渡しましたが、翌年の控訴審で、名古屋高裁は強盗目的が認められることを前提に審理を差し戻し、ことし3月、名古屋地裁は、山田被告に死刑判決を言い渡していました。 CBCテレビの記者が、差し戻し審の判決を前に、名古屋拘置所にいる山田被告に手紙や面会で何度か接触した際には、「死刑に対しては受け入れようと思っているが、末期がんで、死刑の判決が下ってもその前に死ぬと思う」と心境を���っていました。
“末期がんで余命宣告” 49歳被告が死亡 3月に死刑判決「もう私は死刑宣告されている」と心境語る 80代夫婦殺害し財布奪った“強盗殺人” 控訴審は打ち切りの見通し(CBCテレビ) - Yahoo!ニュース
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2024/10/31 8:00:02現在のニュース
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【結婚式の衣装合わせ】 . 久々の投稿です! . 8月31日(土)に 第16回目の抗がん剤治療が終わり、 しばらく副作用の影響で 体調が優れなかった私でしたが、 徐々に落ち着いています。 . 今日は、中之島へ足を運び、 結婚式の衣装合わせをしてきました。 . 初めてだったので少し緊張しましたが、 何だか嬉しい気分になりました!( 〃▽〃) . 主人の方は、 色々と気を遣っていたせいか、 私よりかなり緊張していた為、 冷や汗、脂汗が出ていました(^_^;) . ツーショット写真は 当日のお楽しみということで… . 衣装合わせ後、梅田へ向かい、 書店で本を購入しました📚️ . その後、阪急百貨店のレストランで 食事をしました🍚 . 明日は、結婚式の打ち合わせです。 . #澤田美智代 #旧姓島田 #主人 #澤田健 #大阪市 #北区 #中之島 #ブライダル #結婚式 #結婚式の衣装合わせ #衣装合わせ #ウェディングドレス #ウェディング #花嫁衣装 #花嫁 #新婦 https://www.instagram.com/p/B1_cJvyg1Xi/?igshid=1tnn9rz06cy47
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安倍さん暗殺を許した奈良県警、保険金殺人被疑者の自殺を許した大阪府警 どっちにも真剣に職務を遂行する覚悟が感じられないところは共通してる これに沖縄県警を加えて三大〇〇警察と称しても良かろう
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▪️養子制度で旧皇族の皇籍復帰を急げ
櫻井よしこ
令和4年の今年、国際情勢はまた一段と険しくなる。中国では習近平国家 主席が終身皇帝としての地位を固め、米国ではバイデン大統領が中間選挙 で上下両院での多数を失うだろう。ロシアは事実上中国のジュニアパート ナーとなる一方で、プーチン大統領は内外共に強硬姿勢を取るだろう。
中国やロシアの強圧を受けるにしても、米国の後退によって影響を受ける にしても、わが国は波乱含みの国際社会の中でしっかり生きていかねばな らない。
そこで大事なことは日本らしさを強さに変えることだ。借り物の 日本ではなく、この日本列島に住み、命をつないできた幾百世代の先人が 育んだ価値観、そうした日本らしさこそが私たちの強さであることをしっ かりと意識したい。日本らしさの集積が国柄である。国柄を大事にするこ とで私たちはもっと日本人らしく、日本国らしく、揺らがずに自分の道を 歩むことができる。そして、何よりももっと勁(つよ)くなれる。
日本の国柄の第一は万世一系の皇室を戴く国として歩んできたことだ。こ れは他のどの国にもない最大の特徴で、宝物のようなものだ。たとえば中 国では異なる歴史、言語、宗教を擁した種々の民族が次々に王朝を築い た。そして幾世紀かの繁栄の後に全て無残に滅びた。習近平国家主席は中 国5000年の歴史と言って誇るが、それは前王朝を血祭りに上げて夥(おび ただ)しい人々を危(あや)めた残酷非情な易姓革命の積み重ねに他なら ない。
日本は中国とは対照的に一人一人の人間を大事にして穏やかな文化を育ん だ。その日本の国柄の根幹に皇室がある。しかし現在の皇室を取り囲む状 況は必ずしも安泰ではない。遠因は日本国民の意思とは無関係に、米国が 占領政策で11宮家を皇籍離脱させたことにある。以来75年が過ぎた。
皇族として残られた皆様方は多くのお子様を授かった。しかし現在、お若 い男子は悠仁さまお一人だ。女性皇族は結婚で皇籍を離れるために、現在 15歳の悠仁さまが成人なさって天皇に即位なさる頃、つまり数十年先には 皇族がいなくなりかねない。
岸田首相の責任
こうした状況の打開が長年の日本国の課題だった。それに関して昨年12月 22日、有識者会議が報告書を取りまとめた。非常によくできた内容だっ た。改めて紹介する。
まず皇位継承については今上陛下、悠仁親王殿下の流れをゆるがせにして はならない、とした。126代目の今上陛下まで皇位は例外なく男系で継承 されてきた。右の結論はその歴史を踏まえた真っ当な論だ。
皇位継承は悠仁親王殿下まではきちんと道筋がついており、そのあとの悠 仁さまより若い世代の皇位継承について今回の報告書は、「具体的に議論 するには現状は機が熟して」いないとした。前述のように悠仁さまのご即 位は何十年か先のことだ。継承となればさらに先のことになる。長い長い 先の皇位継承問題をいま論ずる必要がないのは自明の理である。
だがこの点に関して「毎日新聞」は12月23日の「深掘り」で、「皇位継承 策は先送り」と論難した。報告書は皇位継承について、「先送り」などし ていない。皇位継承は悠仁さままではきちんと決まっていると明記したこ とで、時折浮上する愛子内親王殿下の天皇即位のないことを明言した。非 常に明確な道筋を示したのであり、高く評価すべきだ。
もうひとつの課題、皇族の数の減少にどう対応するかについても報告書は 明快な答えを出している。1女性皇族が結婚後も皇族の身分を保つ、2養子 縁組を可能とし、皇統に属する男系男子を皇族とする、3皇統に属する男 系男子を直接皇族とする、の三つの方策である。
1の場合、女性皇族と結婚する男性もそのお子さま方も皇族とはならない 制度とすれば、この方法で皇族数を確保しても皇位を担うことができない という欠点がある。
3案中、最善の方策は2であろう。旧皇族の方々が対象となるが、竹田恒泰 氏が「言論テレビ」で度々指摘してきたように、秋篠宮皇嗣殿下よりも若 い、皇統に属する男系男子は現在20人以上いらっしゃる。さらに近年、旧 宮家では多くのお子さんが誕生しており、男系男子の数は増えているとの ことだ。
つまり、養子縁組の対象たり得る皇統に属する男系男子はかなりの数の方 がいらっしゃるのだ。これら旧皇族の方々は現在の皇室の方々と親戚とし ての交流があり、皇族の日々がどれほど大変かを知っている。同時に、自 ら皇族に復帰したいというようなことは、己れをわきまえ決���て自ら言い 出すことはないという。
政府の役割は、これら旧皇族の皆さんと意思の疎通をはかり、適任者或い は相応しいご家族を選ぶ手助けをすることだ。皇室の方々とも話し合い、 相互の理解と協力の中で旧宮家の方々の養子縁組がスムーズにいくよう力 を貸すことだ。悠仁さまを支える態勢構築に一日も早く着手するのが岸田 文雄首相の責任である。
日本弱体化計画
旧宮家の方々の皇籍復帰については、戦後70年以上も民間人だった人々の 復帰は違和感があるとして反対する声もある。しかし、上皇后陛下は民間 人でいらした。紀子皇嗣妃殿下も雅子皇后陛下も同様だ。それでも、お三 方の皇室入りを国民は熱狂的に支持したではないか。
旧皇族の皇籍離脱は日本国民が望んだのではない。先述したように、 GHQがいきなり命令したにすぎない。皇室の弱体化は占領軍の日本弱体 化計画の大きな柱でもあった。旧皇族の方々は民間人となってもずっと皇 室との交流を続けてきた。皇族数の少ない今、この方々が養子縁組の形で 皇籍復帰するのはむしろ自然なことだと思う。GHQの日本弱体化計画の 呪縛を解く時期だ。
憲法学者の百地章氏も2の案を強く支持する。百地氏の指摘が興味深い。 皇室の歴史を遡れば皇族の養子受け入れはしばしば行われてきたというの だ。たとえば四つの世襲親王家(伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮 家)では歴代の当主が天皇の「猶子(ゆうし)」(名目上の養子)とされ た。その上で親王宣下を受けて(天皇より、親王としての地位を認めら れ)、宮家を継承してきたが、当主不在のときは天皇の皇子が養子にな り、宮家の存続を図ってきた。
11代続いた桂宮家の場合、7人の当主は天皇の皇子が養子として入った 方々だった。前述したその他の宮家も皇統に属する男子を養子にしてきた 歴史がある。
民間でも養子制度は活用されている。赤ちゃんが養子になる場合も、大人 がなる場合も含めて多様な形がある。前向きに考え、悠仁さまの友ともな り、支えていく相談役ともなり得る一群の皇族の方々を迎えるのがよい。 皇室の安泰を図り、日本の未来の安定につなげたいと思う。
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