#承認欲求も自分でまとめられたら誰かに褒められた��同じだってよ
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Trying to Get Back on Track -Vol.5-
Photo by Annie Spratt on Unsplash
それでは、「自分自身をもっと理解し、受け入れられるようになれば、自分らしい生き方を見つけられる」とはどういうことだろうか?
まず、これはひとえに「自分を優先させる」に尽きるだろう。何をするにしても、人の反応ではなく、自分がどう思うかに焦点を当てるということ。
そのためには、「好きなもの」「得意なこと」を中心に自分のことを少しずつ深掘りする、という過程が必要になる。
カウンセラーからの課題に「自分の価値を再確認する作業」がある。過去に自分が達成したことや、自分の強みを思い出して書き出す作業だ。これは強い承認欲求と、それに伴う不安を和らげる方法の一つだ。お気にりの Paddington Bear のノートに書いていこう。
他にも、日常の中で自分を褒める習慣を勧められた。これは、カウンセラーに「自分自身を認めることが難しく、常に何かに追い立てられている気がする」と話したことから勧められた方法。私は手帳に「今日の良かったことを3つ」書く習慣をつけることにした。
Photo by Hannah Olinger on Unsplash
始めてからまだまもないのだが、とても大切なことに気がついた。
私には、そのままの私を愛してくれる人たちがいたということ。そして紛れもなく母は、そのままの私を認め、深く愛してくれているということ。
自分を見失ってだんだん視野がぼやけて狭くなっていたから、本当に大切なことを見落としてしまっていたんだね。
そのことに気がついて、ノートに涙をポタポタ落としながら声を上げて泣いた。そのままの私を愛してくれている人たちを大切にしなければと、決意を新たにした瞬間だった。
Photo by Shoeib Abolhassani on Unsplash
いろんなことがあり、「自分には価値がないのだから、人から完璧だと思われるように努力しなければならない」と思うようになった。だから人と比較しては落ち込み、妬んだり、認めてくれない人を攻撃する、なんてことになるんだね。そんなことをしていたら、心を擦り減らすと同時に、周りともうまくいかなくなってしまうよ…。
そうならないためには、自分自身で「よくやってるじゃない!」と認めてあげないと。完璧じゃなくていいから、少しずつ前進している自分を、毎日の振り返りを通して認める。
つまり、人に頼ったり認めてもらうのではなく、「自己管理できているのか」をひとりの時間で確認して褒めるのだ。うまくいかなかったことは、また明日��んばればいいのだから。
周りと比較するのではなく、自分のペースで進むことを意識して、少しずつ焦りやプレッシャーを和らげていこう。
合わないコミュニティーで長年がんばってきた自分を労い、感じてきた孤独や寂しさを少しずつ解消しよう。そのためには、私の中の「小さな女の子」の声をよく聞いて、少しずつ自分の気持ちや望みを自分で叶えてあげなきゃね。
今度こそ、本来の自分の姿を取り戻したい。長い旅路は、始まったばかりだ。
そしていつかその旅路を終える時が来たら、そのままの私を認め、愛してくれている人たちへお礼を言いたい。「心配かけてごめんね。もう大丈夫だよ。待っててくれて、ありがとう」って。
Photo by Kelly Sikkema on Unsplash
さて、長らく続いた「自分を取り戻す」話。これは私の決意表明である。わざわざネットで公開したのは、「自戒を込めて」というのもあるが、それだけではな���。
どうせなら、自分の好きなフォーマットで美しくした状態で、自分を取り戻す旅路を振り返りたかったのだ。
パンドラの箱を開けるのが怖くて、私の中の「小さな女の子」の叫びをずっと無視してきた。誰かが言ってたな「女はいつだってプリンセス」って。
だったら私が、これからは「小さな女の子」をプリンセスとして丁重に扱わないとね!今までつらい思いをさせた分、誠実に彼女と向き合う時間を取りたいと思っている。
このブログサービスを利用している時点で、誰にも読まれないという自信はあるので(笑)、今後も思い���くまま自由に書いていきたい。
「小さな女の子」へ。
もう大丈夫だよ。長い間待たせてごめんね。少しずつ、明るい場所へ…。
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悟り7
こんにちは😃
今日は長々と書いていた悟りについてのブログの最終回です!
私は時々変なスイッチが入ってダラダラと真剣にブログを書いてしまいますが、思考の整理になっていいですね💡 私の頭の中で起こったことがどこかで皆様のお役に立ちますように☆彡
(ちょっと長いので、ぜひ休み休み読んでくださいませ🙏 初めての方はこちらから。)
ではでは本題です↓
定説からは外れてしまうのですが、私は最近は悟りとは真理を悟るのではなく、不完全さを悟るってことなのかなぁと思っています。
南麻布の「分とく山」をはじめとするグループ5店舗の総料理長を経て、2023年に勇退された和食料理人、野崎洋光先生が著書にこんなことを書かれています。
魚を調理するとき、ぼくは慣習にとらわれないやり方も用います。
ここでは、それらをお伝えしますが、その方法は、現段階での最新のものです。やり方は常に更新されていますから。※1
あんなに和食を極めた方でもまだ進化しているというのがすごくかっこいいです。
また、同じ本の中にこんなエピソードがあります。
あるとき、店の若い子が炊き込みごはんを炊くときにだしを入れ忘れ、水で炊いてしまいました。そのことをぼくは知らずに味みをしたのですが、「なんだか、いつもと違うぞ」と感じたのです。
そこで、どうやって炊いたのかと聞いただしたところ、だしではなく水を使ったということが発覚したのです。そのときに、「だしを使うより水で炊いたほうが、むしろおいしいではないか」と感じ、それ以降、だしを使わずに炊き込みごはんを炊いています。
これ���では、だしであるのが当たり前と思い込んでいましたが、具材からだしが出ますし、水のほうが具材の味も引き立ちます。水で十分だったのですね。※1
これ、自分が指導者であり上司であり絶対的な立場だと思っていたら、 「作り直して」 で終わってしまうような場面ですよね。野崎先生が常に学ぶ姿勢を持っていて、誰からでも学ぼうとする開かれた態度でいらっしゃるから起こったことのように見えて、素敵だなと思ったのです。
私はスポーツクラブのオンラインヨガを担当していた時、多いと1クラスに10個ぐらい質問が来て、わからないことは調べたり他の先生に聞いたりと大変だったけど、ひとつひとつに丁寧に答えたことがとても勉強になりました。
知らなかったこと、知識があやふやだったこと、この説明じゃわかりにくいんだってこと等、ヨガだけではなく教え方についても学ばせていただきました。
このように学びって相互に起こることであって必ずしも一方的ではないはずです。そして指導者や上司の立場になっても学ぶ姿勢を保ち続けるためには、自分の未熟なところ至らないところをありのままに受け入れる勇気が必要なんだと思います。前回のブログにも書いた “起きていることをはっきりと観る” です。
そういう勇気を持てずに頂点を極めたと錯覚して、自分の言うことがさも絶対であるかのように振る舞うヨガの先生に、私は幾度となく会ったことがありますが、そんな先生のところには2度と行く必要はありません!
そしてヨガに限らず、パワハラ上司とか鬼コーチとかもこの部類の人であり、自称悟った人も私はこのカテゴリーに入れています。
私のところには、今まで習ったヨガの先生に体が硬いだの体力がないだの言われて傷ついて、自信を無くし、“体が硬くてポーズができなかったらすみません🙏” などと謝ってくる人がたくさん来ます。
お金を払って習いにきてるんだからポーズができなくて当たり前です!ある程度できるなら、わざわざお金なんか払わず自分で勝手に練習すればいいからです!
私はこういう人を作ってしまった、その人がそれまで習ってきた指導者にブチギレていて、その先生にもし会えるなら、あなたは始めから上手にできたんですか?今は完璧なんですか?と問い詰めたい気持ちです。
…そうなんです!みんな始めた時は下手だし今だって完璧ではないはずなんです。
偉そうにしてる人はすごいわけではなく、すごくない自分を直視する勇気がない意気地なしです。それがわかると、まともに相手をする必要のない人が見えて来るように思います。
でも完璧でないからと言って完璧になるまで待っていたら死んでしまいます。なぜなら完璧はないからです。
なので完璧でないことを自覚しながらも、自分の今の精一杯を差し出すこと。これは完璧ではないことを���めるよりもっと勇気がいることだけど、これができるようになること��そ目指すべきところなのかなと今は思っています。
参考になりそうな引用を3つあげてみます↓
精神科医ロロ・メイ先生の本より
これは、もっとも戦慄すべき段階である。それは自分の規準や判断がいかに限られたもの、不完全なものであるかを承知の上で、それに対して責任をとることを意味する。
これはP・ティリッヒが、「自己の有限性をうけいれる勇気」 ということばで述べているものであり、それはすべての人が持たねばならない勇気であるとティリッヒは主張している。
それは有限であるという事実にもかかわらず、本来の自己であろうとする勇気、本来の自己を信頼しようという勇気である。つまりそれは、自分はその究極の解答を持たないということを知りながら、行為し、愛し、考え、創造することを意味する。しかも彼は間違うかもしれない。しかし自分のもたない力を発展させることは、ただ 「有限性」 を全て受け入れること、および責任ある行為を行なうということからきている。
この段階では、かなりの程度のパーソナリティーの統合が必要である。しかもその統合に必要な勇気は、成熟せる勇気である。※2
未熟な自分を受け入れかつ行動するには、成熟した勇気がいるそうです。
次はアインシュタインがラビ(ユダヤ教の聖職者)に宛てた手紙より
わたしたち人間は、「宇宙」 とよばれる全なるものの一部であり、ある一定の限られた時間と空間のなかに存在しています。
人間は、自分自身、自分の感情や思考を、他宇宙とは独立しているものだと感じていますが、これは錯覚にすぎません。この錯覚がわたしたちを苦しめ、縛りつけています。
他者とは独立したバラバラの個として存在していると錯覚するがゆえに、わたしたちはさまざまな欲求をもち、近くにいる限られた他者の愛を求めます。わたしたちはこの錯覚から抜け出さなくてはいけません。そして愛の輪を広げ、すべての生きとし生けるもの、美しい自然のありのままを、身近な人を愛するがごとく愛せるようにならなくてはいけません。
もちろん、完璧にできる人はなかなかいませんが、そうしようと努力することが、わたしたちの心を自由に羽ばたかせ、心の平和をもたらすのだと思います。※3
そうしようと努力することが心を自由に平和にしてくれる。やっぱり悟りというのは結果でなく意図やプロセスなんだという気がします。
最後はこのブログシリーズの途中でも少し触れました、大槻ケンジさんのエッセイより
これも予備校講師発言ぽくなりますが、「人前で赤っ恥をかく覚悟を持つ」 ということも重要かと思いますね。
バン��をはじめました、映画を撮ってみました、小説を書いてみました、何らかの表現活動をはじめた当初というのは……いや、最初だけじゃなくて、どんなにキャリアを積んでいたとしても、褒められなんてしませんよ。満足もできない。大概が 「やっちまったー!」 という大恥をかくもんなんですよね。恥しかかかない、赤っ恥の連続。それが表現者のお仕事かなぁとよく思います。※4
椎名林檎さんが名曲 “丸の内サディスティック” を恥ずかしくて聴きたくないとおっしゃってると最近ニュースで読みました😱 やっぱり恥ずかしくなるっていうのは、その時はベストを尽くしたけどそこからまた成長した証拠で、いいことなんだと思います!
シバナンダヨガの創始者、シバナンダ���生がこんな言葉を残されています。
善くあれ、そして善くせよ。そのとき、叡知は余すところなくあなたのものとなるだろう。日々、進歩を点検しよう。常に成長するように、常に怠りなく。※5
完璧じゃないから日々努力して、日々点検するんですね。この振り返りが日記であり、瞑想であり、悟りへと続く一歩なんだと思います。なかなか難しくはありますが、私も時々サボりながらもなんとか取り組み続けています。皆様、ぜひ一緒に頑張りましょう!
ということでめちゃくちゃ長くなってしまいました💦 最後までお読みくださった皆様、本当にありがとうございました❤️
何かが伝わっていたら嬉しく思います😌
そして次からはまたしょうもないブログに戻る予定です。お時間できた時があったらぜひ時々遊びに来てくださいませ✨
ではまた次のブログでお会いできますように✌️
(おまけ)
シバナンダ先生の名言 “善くあれ善くせよ” はヨガ業界では結構メジャーで、海外でも Be good. Do good. として親しまれています。
そんなBe good. Do good. パーカーをロシア人の女の子が着ているのを見つけてしまった😱
youtube
可愛い欲しいー😭💘 どこで買ったんだろう?いいなぁー!!売ってるのを見つけた方はぜひ教えてくださいませ🙏
1人でご飯を食べてる時にももかジャパンを見るとなぜか自分も一緒に食べてる気になってきて(?)ご飯が美味しくなりますよ☝️ 私の1人ご飯の楽しみです🤭
(引用、太字は私の判断です)
※1 野﨑 洋光
野﨑洋光が考える 美味しい法則
※2 ロロ メイ
失われし自我をもとめて
※3 ダニエル・J・シーゲル
脳をみる心、心をみる脳:マインドサイトによる新しいサイコセラピー 自分を変える脳と心のサイエンス
※4 大槻 ケンヂ
サブカルで食う 就職せず好きなことだけやって生きていく方法
※5 スワミ・サッチダーナンダ
インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ)
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今日は通院日だった。
頼んでいた書類が完成しているか確認し、私はいつもの通院受付で作業療法と診察の受付を済ませ、外に出て煙草を吸ったり、病院に戻ってきて、レストランでアイスと季節の飲み物と広告しているレモンスカッシュを頼んで時を過ごした。心地よくリフレッシュができて体が緩む。
作業療法ではレザークラフト、ペン習字、パズル、その他自由な作業が許されている。病院から退院してまだ数ヶ月の私は、作業療法に通うことで回復のためのリハビリを図っている。
入院して共に生活した友達もいる作業療法は私の、大好きな時間だった。本当は崖っぷちだった自分が受け入れてもらえる息が抜ける場所。
正直言うと、いつも過去が輝かしく感じる。というか、統合失調症と診断される前、つまり私の脳が完全にオーバーヒートする前、結構と言うか、かなり頑張っていた。家から、追い込んでくる家族から逃げ出して、違う世界に行きたかった。とにかく、逃げ出すために、いろんなことを頑張っていた。オーバーヒート、陽性状態になって、家に出戻りするのだけど。とにかくその頃の自分だけが名誉のように感じていた。過去の自分に劣等感をいつも感じていた。
そんなことは言わずとも、なんとなく作業療法士のO先生には伝わっている気がした。本当はもっと仕事してバリバリ頑張りたいと話した。そのために今日は名刺を作りながら、O先生と話した。
彼の意見を私なりに意訳すると、以下の内容である。バリバリ働き続けることは本当に大変だ、その価値を生み出し続け提供し続けなければならない。稼いでいる人が本当に幸福かなと疑問に思う。有名になってくれば有名になったで有名税というものがある。それより普通に生活できるだけのお金をゆとりある仕事で稼いで、たまにほしいもの買って、ゆったりと暮らした方が、本来の幸せなのではないか、と。
アニメーターで活躍してる友人の苦労やら、活躍してる誰かさんのツイッターやら、華やかなのは幻想に近い、そう思った。
誰かを、楽しませてあげたい。絵で希望をあげたい。それで、バリバリ、というのは違う。
今日友人Fから来てた、承認欲求を捨てたい、というメールになんて答えたのだっけ。
作業療法が終わって、診察に行くと医者のA先生がいた。最近どうでしたか、と始まって、寝る前の睡眠薬を減らしても大丈夫、12時間寝てます、と話した。それから仕事のこと、ミスしがちなことで困っているということを話した。
薬の量は抗精神病薬だけは削らずに、後のカットできる睡眠薬や副作用止めを削ってもらった。安定して、暮らせていると思うと。
最近よく頑張ってるよね、とか君は立派だよ��とか本当に優しい言葉をA先生からかけてもらっていて、当たり前と思わずに嬉しかった。お医者さんは、病気や障害の苦労を知っているから、私のことをよく褒めてくれる。もっと優秀な同級生とか、こけおろしてくる嫌な人とか、いっぱいいたけど、普通に私の言葉から私の人生を知って、理解した上で頑張ってるね、って言ってくれる。そんな人がいることはとてもありがたい。
承認欲求なんかじゃない。私は私が生きていることをこの世に根付かせたい。力強く生きたい。人の心を、ぐらぐらにして、生きている、ということを実感したい。揺さぶって、揺さぶって、とめどない怒りや、繋がりや光や、生の実感を味わいたい。たった、それだけ。自分の心を浄化する。
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インターネットは鳴りやまないっ
自分にとってインターネットって一体何なんだろうということをずっと考えていた
自慢じゃないけど人といるより一人でいる方が楽&シンプル充足感が高すぎて休日にわざわざ人と過ごすという行為に年々価値を感じられなくなってきているから、一人でいることに耐えられないということがない 周囲のキラキラインスタ見て発狂するとかいうルーティーンも残念ながらわたしにはないし、付き合い長い相手でも業務連絡以外の雑談LINEは正直毎日だと苦痛なタイプ
人間の選り好みもまあまあ激しいから、嫌いな人間には好かれるより嫌われた方がマシだと思っているし、好き好んで擦り寄ってる相手の悪口裏で言う人間小賢しくて軽蔑するから不快感感じる相手とは最初から個人的には付き合わないようにしてるし、自分が軽蔑する作品を賞賛してる人間に自作褒められたらすごく嫌な気持ちになる
実際頭弱そうだなという印象を受ける文章書く人(ド失礼御免)に少し前まで猛烈に好かれていて、ツイッターアカウント消した時とかありとあらゆるメルフォ(昔一瞬使ってた程度のもの含む)に戻ってこいという趣旨の全て同文コピペメッセージが入っていて、こないだも運用SNS候補探していた時にくるっぷ開いたら誰にも告知してないのに勝手に特定されてフォローされてるし、正直怖かったんだけど
最近その人のツイッター見たら傍目には限りなく紙に近い薄っぺらい内容、当然解釈違いの新規の人のツイートをしきりに賞賛していて、こだわりもなければ見る目もない人間がもう二度とわたしに関わってくんなよって思った
自分にもあっち側の経験があるから、相当なこだわりがあって相手に対する強い感情があるなら免罪符としてカウントしようと思える(というか過去の自分がそうだったから理解はできる)けど、それすらないのに目に余る粘着してくんなという感じだった
そういう人間なので、一生鍵垢篭ってろよと自分でも思うんだけど 鍵垢っていつもなぜか続かない
そのことが自分でも不思議だった
こんなにもインターネットにおける他者全般に対してプラスの感情を抱くということがなく、賞賛されることすら嫌な気持ちになることが多い人間でも、本当は人並みの承認欲求とかあるんだろうかと長らく考えていた
同人オタクの愚痴垢見ても、「自分��評価されないのは何でなんだ」ばっかりだし、もしかしたらわたしもそっち側の人間なのかなーと分析してみたりして あいつら「人前に出している時点で承認欲求があるだろ何言ってんだ」とか口を揃えて言いやがるし
だけどタイッツー始めたら答えが出た
タイッツーは人間がいないので人目に留まらず、フォローもファボもされないんだけど、毎日呟いていられる 飽きない パブリックタイムラインなるものも一切見ていないので、自分以外の人間の呟きは全くもって視界に入らないことになってる それでも不思議と飽きない
なんでかな、ツイッターの鍵垢と何が違うんだろうと考えたら、「鍵垢」じゃなかった ただそれだけの違いだった
わたしにとって重要なのは、人目の有無ではなく、そこが自室の外であるかどうかであるという事実に気づいた
たとえば作業進まないからモスでやるかとか、音楽聞きたいから外歩くかとか、一人で夜の公園で酒を空けるとか、生きてりゃ普通にやるじゃん わたしは真冬でも真夏でも周りに誰もいなくていいのでとにかく定期的に野外で酒を飲まなきゃ死ぬ病気なんだけどさ そこに外の景色とか人との交流とか、極論人気すらも求めなくない?ただ外の空気に当たりたいだけ
一人でイヤホンつけながら散歩してて、顔見しりのご近所さんがいれば軽く挨拶くらいはするけどいちいち世間話とかしないじゃん というか、井戸端会議イベントのために散歩しないじゃん 顔見知りならまだしも、知らん人に道聞かれるとかならともかく、よくわからん話題でいきなり話しかけられたらはい?ってなるし
だから出会う誰かとの世間話のために散歩してる人とか見ると用途が違うと感じるんだとわかった それが悪いとかじゃなくて、ただわたしは一人で外の空気に当たるためにインターネットを利用しているという話 多分推奨されていない使い方をしてるのはわたしの方
思えばTumblrもサイトもpixivも全部そうだった なんならわざわざ同人誌を頒布するのも一人用に作るのは割高でも配れば印刷費チャラになるしラッキーくらいの動機でしかない ここまで誰かと楽しもうという気がさらさらないのも我ながらウケるけどやっぱり好きなことは一人でやった方が100倍楽しいので
長年の疑問が解決してスッキリした
全てがオーライ
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傭リについての思考①
区切り毎に独立している文言。 短い文言の詰め合わせ。 設定や世界観、衣装ごちゃ混ぜ。
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主人格の事を愛している(恋愛というよりかは親愛に近い、もっと��の広い愛)リッパーと、リッパーを好きな傭兵の傭リも大好き。 リッパーは、別に主人格に愛されていなくていいと思っている。主人格はリッパーの被害者であるように、リッパーも主人格の被害者である。お互いがお互いに虐待をしている様なもの。 リッパーは主人格の深層心理に近いものの具現化なので、それを主人格に受け入れて貰えないのは居場所が無いのに等しい。 主人格は殺人なんて望んでは居ないのは本当だが、嘘でもある。 リッパーが人を殺した後に主人格が描いた絵は、いつもの絵以上の値を付けられる。それを憎く思うと同時に、求めてる自分もいる。
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画家リ(良い子×悪い子)&傭リの三つ巴
画家はリッパーの事を一生愛さないと思っているけれど、その根本にあるのが自己愛なので結局リッパーの事を愛してはいる。でも愛の在り方は一生変わらない。そこに傭兵が加わり更にどろどろになる。 画家は傭兵がリッパーを愛する事は絶対に許さない。 独占欲では無くて、「それを愛する者が存在してはいけない」という考えから来ている。 でも本当は、リッパーこそが自分の愛されたかった部分だった。 リッパーは、画家が居ればそれで良かったし、別に誰にも愛されなくても問題は無かった。産まれた時から愛を知らなかったので、知らないものは無くても困らなかった。
だから、自分が愛される事も、画家以外の誰かを愛する事も想定していなかったリッパー。
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×芸術学助教
女学院なんてまぁなんて生殺しな職場に割り振られたんでしょうね?酷くありません??あんなに美しい女性達が常に間近に居るのですよ?まぁ、彼女達はあまりに無垢なので、私を満たすには少々味気ないのですが。と、女学院を出た後に薄暗い路地裏で女を殺しながら傭兵にぐちぐちと言う芸術学助教のリッパー。 でも、傭兵がその服似合ってるぞ。と言ったら、ふふ、良いでしょう。まぁ私は何を着ても様になりますからね。と機嫌を直して服を見せびらかすリッパー。 女の死体の傍らでいちゃつく傭リは良い。
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傭兵→→→→→悪い子→→→→→良い子の傭リ&良悪
自分に告白してきた傭兵に、 「貴方の髪色と目の色、私が唯一愛してる人と同じなんですよね。」 とリッパーが伝える所から始まる。
だから付き合ってあげても良いですよ。と言うリッパーに、縋り付くきっかけが欲しいのでそれでも良いと承諾する傭兵。 でも、リッパーは傭兵の髪と瞳だけを愛でてその奥に他の男を見ていて、傭兵を見る事は無い。 (目の色が同じかは分からないので完全に私のご都合設定、髪色は近そう)
周りのハンター達からも流石によへが可哀想では?と窘められるのだけれど、でもリッパーは「自分が誰かに愛される事も、主人格以外を愛する事も有り得ない」と思っているので頑なに押し通している。 自虐とかではなくて、そう在るべきと想ってる。 傭兵は傭兵で、それで良いのか。と周りから言われていて、良い訳無いけれど、でも、そうしている間だけあいつは笑顔を向けてくれるんだ…って酒飲みながら項垂れる。 リッパーは正直、傭兵の事を別にウォルターと似てるとも思ってないし重ねて見ていないけれど、早く諦めて欲しいと想ってる。 リッパーが愛してる男に似せた身なりをさせられて、茶を飲みながらその男との思い出話を聞かされる傭兵は本当に可哀想。 自分が、どう頑張っても塗り替えられない思い出話を、愛おしそうに聞かされるの。その思い出話の中でリッパーは主人格に愛されていないので、更に傭兵は叫び出したくなるのを抑えてる。
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私、名前って嫌いなんです。 誰でも平等に分け与えられているみたいな顔して歩いているでしょう?それが嫌なんです。 皆、名前を貰う事が出来ない存在なんて、居ないと思ってるんですよ。 だからと言って、欲しいとも思いませんが。私を縛るものなんて必要無いので。 というリッパーから始まる傭リ。
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目を覚ましたリッパーが、朦朧とした意識の中で自分の姿を見て化け物の身体な事に動揺するのだけれど、その歪な手に指を絡めたまま眠る男の姿を見付けて、その瞬間霧が晴れるかの様に安堵してしまって自嘲するリッパーの傭リ。 霧がある方が自分も他の人間も等しく姿が紛れて安心するのに、その男が居るなら霧がなくても悪くは無いなと思ってしまう。
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まだお互いを理解しあっていなくて、仲も良くない
貴方、傭兵でしたっけ?良いですよね。人を殺しただけ褒めて貰えて、お金を貰えて、認められて。私と同じ人殺しなのにねぇ!何が違うのでしょう? と、地べたに転がした傭兵に対して踏みにじながら嘲笑を落とすリッパー。 事の発端は、この気狂いめ。とチェイス中に傭兵が吐いた言葉。 同じ人殺しなんですから仲良くしましょうよぉと傷口を執拗に踏み躙るリッパーに、お前は殺しても誰も認めてくれなかったんだなぁ、可哀想に。と脂汗を滲ませながら挑発めいた笑いを浮かべる。すると、画面越しでも分かる程リッパーの出す空気が冷える。 そうですね。 私も、殺す事で認めて貰えたら良かったのに。 と、何処か遠くを見ながら小さく呟くリッパー。 その言葉は、自身にだけ向けられた物だったが、傭兵の耳はそれを拾ってしまう。それから、傭兵がリッパーの事を気になり始めて片思いが始まる。恋なのかもしれないけれど、傭兵は恋を知らない。
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うちの傭リは、基本的に肉体関係全然持たないのに、キスするし、一緒に寝るし、たまに一緒にシャワー浴びるし、一緒に食事するし、一緒に殺しに行くしって感じ。 肉体関係持つタイプの傭リも考えたい。
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愛されたいと思っているけれど無自覚・無意識なリッパーと、他の人間に愛されないか気が気ではない傭兵の傭リも可愛い。 傭兵も不器用なので、リッパーの気を引こうとするけれど全然気付いて貰えない。でも、フードの下から熱が籠ってどろどろとした視線をずっと送り続けているから、リッパー以外は気付いてる。 リッパーが、多人数に愛されたいのならそれは致し方ないとは思いつつ、本当は自分にだけ愛されて愛して欲しいと思ってしまう傭兵は可愛い。 本人もそういう感情は初めてなので困惑してる。 リッパーは自分が愛してるのは主人格だけで、愛してくれるのも主人格だけだと思ってる。今は愛されてないけれど、いつか…と。
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傭リ、常に死の匂いを纏ってて欲しい。 うちの傭リは2人揃って碌な死に方しないのだけれど、碌な死に方って何よって感じよね。 家族に見守られながら死ぬのが碌な死に方だとしたら、2人共端からそんな死に方出来ない人間だしな。 追い詰められた時に2人揃って潔く死ぬ結末も良い。
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傭兵とリッパーの「人の殺し方の知識」は別物なので、その辺の情報交換というか話し合う傭リ可愛い(※共犯者関係) 顎砕いておいた方が、身元特定されづらくなりますよ~とか。
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えっちな傭リについて考えていたのだけれど、リッパーが性行為で全く感じない不感症なので、自分の性欲だけぶつけて終わってしまった事に傭兵が罪悪感をめちゃくちゃ持ち、肌重ねたのはその1回だけで終わる展開しか思い浮かばなくて困る。 リッパーが寝たの見届けてから、独りで鼻すすりながら酒飲む傭兵。 リッパーは、それでも別に良くありません?って思ってるけれど、傭兵がダメなんだよな…。
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暗殺者×美術学助教
何使って殺してみたいのかを聞くと、やはり刃物ですかね。と助教が答えるので、俺も刃物の方が好きだ。お揃いだな。と嬉しそうに笑う暗殺者。 暗殺者、銃だとノーコンなので肩狙おうとして脳天ぶち抜く。 助教「私の居る方向に向けて、絶対に撃たないで下さいよ」
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愛は「贅沢品」だと思ってる傭兵とリッパーの傭リ。 だから、2人揃って荘園に来るまで無縁な物だと思ってる。愛するのも、愛されるのも、そういう感情が育った人間だけが得られるもの。 2人とも、愛の為の感情が欠落してる。
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傭兵もリッパーも、荘園を来る前は愛とか知らなくて、傭兵に関しては生きる事への執着が無い状態だった所から、2人の間に歪な愛が生まれてしまって傭兵に生きる事への執着が生まれる傭リが描きたいなぁとぼんやり練ってる。 執着が無い=死にたがりではない。 「自分は、いつ死んでもおかしくは無い人間」と考えている感じ。他人への自己犠牲は、自分への興味の薄さに等しい。
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恋人の様な、それにしては互いの事をそこまで知ってる様で知らない関係性の傭リが好き。 今、お互いが関係を持って知ってる事が全てで、過去についても相手が話さない事は知らない感じ。別段聞き出しもしない。今目の前に居る相手が、自分にとっての全てなので。
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関係を持つ様になった傭リで、自分がする事でたまに傭兵が嫌悪感を少し表情に出すのが好きでわざとやってケラケラ笑うリッパー。 嫌なら言えば良いのに、と思うと同時にそれが傭兵の愛なのを知っていて、愛情の心地良さも感じている。 貴方のその顔可愛くて好きですよ、と背中に腕を回して、そのままベッドへと2人でなだれ込んでほし。
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傭リは、教会で人を殺しまくって、どうする?もう俺等、神様に嫌われたんじゃない?と、死体と血に塗れた聖堂で煙草吸ってほし。 最初から好かれた事なんてありませんよ。というリッパーに、それもそうだなとキスして笑う。 (これはリッパーの為に殺しを行う方の傭兵)
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荘園の外に出た傭兵とリッパーが何かの縁の巡り合わせで邂逅するが、互いに記憶が無い上に印象最悪で、避けても腐れ縁なのか何度も顔を合わせてしまい、最終的にリッパーが傭兵の腹にナイフ刺した所でやっと互いに思い出す転生傭リ。 印象最悪なのは、無意識に自分の中の愛する相手と噛み合わなかった影響。
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. . . . _ 僕が映画を好きな理由はだいたい100個くらいあって、 1つ目はこのままじゃどうも息も詰まりそうになった 2つ目は今宵の月も僕を誘わないでいることってな感じでくるりですけど。 . . 僕が映画を好きな一番な理由は 2時間ちょっとの逃避行きぶん。 大袈裟に言えば小旅行のようだけど、 とはいえ物語に完全に感情移入し憑依することはないし、映画の登場人物になりきることもできるわけがない。 . . それでも、多種多様のストーリーに自分の人生を投影しようと試みようと夢中になる瞬間が好きである。 台詞や劇中歌、仕草や表情。 あらゆるパーツを一つ一つ拾い集めて重ね録りするように自分の人生と照らしあわせようとする瞬間がこれまた美味なのだ。 _ パズルなら1つでも欠けたら完成しないけども、映画は違うからいい。 失くしてこそ救いだったりして 欠けていてこそ完美だったりする . いい映画にはいい音楽がつきものだと個人的には思っていて。 サントラとかすごく好きなのだけど。 いい映画を観終わった後に、余韻に浸かるようにサントラを探しだして聴きあさり。 目新しいパーツを、心に焼きつけて何年も漬けて熟し、いつでも酔えるようにしておく。 . . _ 凄音で鑑賞したのだが、僕はいつも通り後ろ右側なので、右半身のみ凄音。 . それでも、 足底から頭頂部まで心音に寄りそったような優しい振動を感じてね。 ぐいん、ぐいんと、、くぃ〜ん? (ダジャレ言いましたよ今) 徐々に心の震えが増してきて、終盤には絶頂に達する童貞でも気持ちのいい映画だった。 . . 物語の流れで名曲が流れてくるので、 そりゃ心酔いますし、震えます。 映画よりも本来は誰かに会いたくて会いたくて震えたいのだけど。。。へ 本当かは分からないのだけど、曲ができた流れも出てくるので。 じわりじわり、くるりくるりとひたすら心地よかった。 . _ 季節や気分にあった音楽や映画に触れたときに感じる、身体が少し軽くなって心がやんわりと溶かされて、脳内がふわっと和らいでいく気持ちいい瞬間わかりませんか?ないです?天に召されそうな感覚。なかった���感度上げてくださいね、乳首じゃないよ、心のね。 . . 今回もそれに似たような感覚があって 映画館を出ると眩いほどクソ快晴な空にいい天気だなと素直に思えるくらいには前を向いていたりして むしろ、斜め上を見て歩きたくなるくらい麻痺しちゃってね _ . 何者でもない自分を少しばかり肯定してくれてるようで 何者でもない自分をこれまた少しばかり忘れさせてくれて 無責任な自信が勝手に湧きでてきて背中を押そうとしてくるんだ。 地獄への道ずれのように時間が経てば我に戻るけどね。 そう!一番最初に頭に浮かべた想い人に会いたいと走りだしてしまうような感覚 . (アオハルかよ) (セクハラだよ) . 期間限定だけど、そんな素敵な気持ちにさせてくれるポルチオみたいな映画でした。 . シングストリートで一目惚れしたルーシーボイトンもでていたし、フレディだけじゃなくみんなクリソツだったし。 映画観終わってライブエイドの映像みたら震えも二割増しで。って ストーリーはベタだけどね。 伝記だしね、出会い、成功、挫折、そして希望。みたいな感じでね。 . . 何千何万人の人が自分の味方かのようにコールアンドレスポンスしてくれるってどんな気分何だろう? 自分が作った歌を口ずさんでくれて、 セイと言ったらフォーと言ってくれそうな感じ。 HGなら自分で全部言うけど。 気持ちいいだろうなあ、イクよね。 『愛してるぜー』(イェーイ) 『楽しんでこうぜ』(イェーイ) . 僕みたいなひねくれ者だと エブリシング洗脳みたいな状態目の当たりにしたら引いてしまって 『ちょっと何言ってるかわからない』って富澤さんみたいなるけども . . みんなで一体になろう的な音楽がいっぱいあるね、クイーン。 ぼくは一人と一体になれれば何もいらないけどね、クイーン。 あなたを愛するために生まれてみたかったもんだよ。 _ まぁ、みんなチャンピオンさ。ってことでお後が雑によろしいようで。 . . . _ #お前結局映画館好きやんけ #もはやくるり推し #今回のドヤ顔ワードはですね #何者でもない自分ってとこ #承認欲求も自分でまとめられたら誰かに褒められたと同じだってよ #お気づきになっただろうか #曲名をもじりパロってることを #ロマンチストとメンヘラの二刀流 #期間限定って言ったけども #数時間しか持たない前向きな気持ち #音楽や映画は人と共有すべき #bohemianrhapsody #ボヘミアンラプソディー #オキナワンデブソディー #映画 #映画好きな人と繋がりたい #音楽好きな人と繋がりたい #嘘でーす #ネガティブ好きな人と繋がりたい #秋のこの感じに音楽聴いて白目剥きそうな人と繋がりたい #簡単に繋がった関係なんてすぐ渇望すると知りながらも満たせない癒せないカッパえびせんな人と繋がりたい #ヨガします的な格好で綺麗な海をバックにあぐらかいて構図は右隅か左隅の後ろ姿で今にもらいふいずびゅうてぃふると言いそうな意識高い人なに #そんな人見て自然に嗚咽と痒くなる人と繋がりたい #dontstopmenow https://www.instagram.com/p/BqPJN4GFfwO/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=lgnooqaftra
#お前結局映画館好きやんけ#もはやくるり推し#今回のドヤ顔ワードはですね#何者でもない自分ってとこ#承認欲求も自分でまとめられたら誰かに褒められたと同じだってよ#お気づきになっただろうか#曲名をもじりパロってることを#ロマンチストとメンヘラの二刀流#期間限定って言ったけども#数時間しか持たない前向きな気持ち#音楽や映画は人と共有すべき#bohemianrhapsody#ボヘミアンラプソディー#オキナワンデブソディー#映画#映画好きな人と繋がりたい#音楽好きな人と繋がりたい#嘘でーす#ネガティブ好きな人と繋がりたい#秋のこの感じに音楽聴いて白目剥きそうな人と繋がりたい#簡単に繋がった関係なんてすぐ渇望すると知りながらも満たせない癒せないカッパえびせんな人と繋がりたい#そんな人見て自然に嗚咽と痒くなる人と繋がりたい#dontstopmenow
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🤮嫌な環境🤮
▶︎高学歴で裕福家庭出身の同世代の男女(なんかのほほんとしてる)がたくさんいる場所・状況
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
Q.どうすればこの嫌悪感を回避できるのか?
わたしは結構理屈とか知識とか思想で、納得して気持ちが楽になるタイプであることも念頭に置いておく。ただ大学内を自然に歩くとかじゃ解決しない気がするからさー。
やぱり、『そういう人たち』とわたしは違う。『彼ら』とわたしは違う世界に生きている、と見做せばいいかも!そう思うと、彼らからどう思われてもいいなぁとならないかな?へぇ、そういうテンションなんだ、へぇそういう価値観なんだ。で終わり。run🫶🏻bye🫧
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私さ、どこかの組織に、いつも全力で自分を殺し、そして組織の価値観に無理やり染まろうとしてるとこある気がするなぁー。多分そうでもしないと、生き延びれないと知ってたから。家でも他の場所でも、そのままの私はどうせ無理でしょ?みたいな気持ちあったからな!組織に属してることって、その人の本当にただひとつの要素でしかないのよ。大学も会社も住む場所もね。(まさに他人軸による地獄✨🖕🏻🔪🧨)
誰にも褒められないし、自分はなんの得もしないのにね(承認欲求?)
もっとハッキリと個人主義になっていいかも。心はalwaysフリーランス。てか、逆に今の時代にいい考えでは?
集団に染まって生き延びるんじゃなく、個人の能力でしかわたしは生きられないのです、てかじゃないとお前死ぬよ?くらいのテンションでいこ。
ほら!!balming tiger!!!!!!!!強すぎる個!!!!!濃すぎる個人が集まるとあんなケミストリーが生まれるのよ!!!!!!!!
逆に「◯◯風」になりたいとか思ってると、私は私じゃなくなる。そこは注意🚨今私はbalming tigerだいすきだけど、balming tiger寄りすぎの言動とか選択を取るのは違うぜ?彼らにインスパイアされるのは超いいし、もっとされたいし、されてるしね!ただ限度考えて!
▶︎▶︎やぱり、自分の好きなものとか雰囲気だけじゃなくて、母国のルーツ紐解くのいいよね。ヤクザ文化しりたい
私は、シンプルでコンサバな感じも好きだけど、そこから見えるタトゥーも好きでそのギャップが好きでそんな感じに憧れるなぁ
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ずいぶんと日記を綴るのをおさぼり申し上げておりました。だって書くことがないんですもの。本当に。こまってしまった。というくらい、体調悪化による停滞の毎日でした。なんにも書けないしどこにも行けないし!と、そう強い気持ちで憤ることさえできず、ひたすら寝ていました。「とにかく療養をしろ」と言われております。とにかく療養…なんとなく運動もした方がいい気がしますが、できず。元日に退院して2日からもういつもの連勤が始まりますが、気合い。気合いで勤務し続けるしかない。わかります。途中絶対挫折しそうになる未来が見えます。負けないで、逃げないで、きよくただしく生き抜いて。
糖分と水分が一定量摂取できないと、私は究極級の頭痛が発生ししかもおさまらないということを学びました。食事や水分の摂取を自由にできない環境が大人になってから初めてだったもので、それに気づくのに3日もかかってしまった。しかもけっこう尋常でない糖分量と水分量を必要としていますね。病院側で完璧にコントロールされた栄養素だけではまったく生きていけない。ふつうの健康状態を維持するためにもかなりの糖分が必要だし、さらに何か書くとなると、その作業量分だけの糖分が必要。これは学びでした。普段の勤務にも生かそう。水分だけでは駄目なのだ。
たとえば私より文章表現や物語制作の上手い方がいて、私の表したいものを私より、よりよく表していて、ああ〜っこれだ…これはもう明らかにこの世界に必要だし神様から使命をもらってここにいてこの人は書いているんだ…という方の文章に出逢います。出逢いますよね?そんな時、うわ…私の存在完全に不要…と端的に思って立っていられなくなりますが、まあそういうことでもねえんだよな、冷静に考えると。私とその誰かというのは、書きたいものが違えば書いているものも違うし、書いている目的も違う。もし仮に私と全く同じ目的で書いていて同じ文体で書きたい物語を生み出している人がいるとしたら、私は確かに書くのをやめる。私が書く意味が無いし、その人と競っても意味が無いし、その人が既に私より上手かったら書く意味がないと思う。でも、まあそんなことは基本的には有り得ない。書く目的、書く文体、書く物語、これら3つが正確に合致するということは本当にない。似ることはあるかもしれないが、無い。違う人間である以上、ない。そして「私が」書くから私にとって意味があるのであって、「誰かが」書くことは私が書くこととはなんの関係もない。なんの関係もないのになぜかここで「私は不要」と思ってしまうこの動物的な「狩場に先客がいたから別の狩場にしたほうがいいんじゃねーか思考(しかも射程範囲広め)」、なんとかならねーのかな。
これは単に、自分の承認され不足なのかもしれないな。私がその上手い人をこれ以上なく「承認」してしまうと、「えっじゃあ今全然支持を受けていない私とは?」という、突然我が身を省みて承認欲求の飢餓感に暴れ回ることになってしまうという。
あとすごくくだらない話、ものすごく絵が上手い方が絵を描く、するとものすごく絵が上手い方が褒めてくれる。お互いが褒め合う。そういう過程を見せつけられると、私がどれだけ文章が上手くなっても、ああいうふうに褒めてもらうことはできないんだなあ、と一種の諦観が生まれてしまう。別に褒められることがいい、というよりは、単純にそこ��コミュニケーション権を獲得できることが羨ましいんですよね。私は同人はコミュニケーションのためにやっているので(おそらく)。じゃあ今から絵を練習して絵の上手い方とも繋がるチャネルを自分から開けばいい、とも思うんだけど、文の上達に割く時間を絵に使えるかと考えると、それももうできない。なぞに文章を生むことに適応してしまっているし、やはりそれが楽しいから。でも結局は、絵にしろ文にしろ、上手いかどうかよりも、人柄なんじゃないかと思う時もありますね。もちろん上手い方は注目されやすいし、上手い方は性格も非常に成熟した方が多いし、上手い方同士というのは、共有できるものがそもそも多いと思うので。まあ、上手くない人間画上手い人間に一方通行の片思いをするのは、古今東西むかしから決まりきった話ですね。上手くなって地道な努力を続けるしかないです。
この寡作体質をどのように改善するかということ。無理やり書いてもとくにおもしろいものが出来るわけでもなく、やはりそれなりの物語を世界に提出するなら、それなりの時間と細かな部分への手入れが必要で、そこにはかなりの集中力を要する。筆が荒れることだけはほんとうに嫌で、なぜなら私の「書く」は10割が「文体の構築」だからです。文体(文のメロディ、リズム、見た目)を自分の思い通りの組み合わせで出力するためには、その機械を起動する深さまで降りていけないとだめだし、また、その素体となる物語が用意されていなければだめ。物語の用意はひたすらに日々の努力だと思う。書ける体質環境づくりはとにかく体調の安定と、書く時間のルーチン化だと思う。いや〜それができる自律的な人間だったらとっくにもっと上手くなってる。恥ずかしいことです。旅行に行きたい。本の知識や調べた知識ではなくこの足で実際に「物」を見たい。歴史のうちでそこに積み重なった感触を知りたい。海外に行けるお金をかせぐ体もなければ、長期間の旅行に耐えうる体もない。そういうことを諦める代わりに、今手に入れている幸福があります。はやく同居人に私の(サイズ的に着られなくなった)服をたくさん着せて遊びたい。
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03300151
結局この世界に救いも希望もない。それは、救いや希望を持ってしまった僕がただ愚かだっただけのことで、ハッピーな脳味噌を往来にぶちまけて高笑いしたい気分だ。ああ、ははは、ご安心を。僕は至って正常だし、僕は何も間違っていないし、僕はただ、幸せになりたかった。
始まりはいつだっけか、もう覚えてない。知らない間に出会って、知らない間に仲良くなったんだ。確か、誰かからの紹介だったかな。人伝に紹介されたんだ。俺の前に現れたお前はちょっと抜けてて、でも可愛くて、他の女にはない魅力を持ってた。だから、俺は夢中になったよ。大して女を知らないような年齢だった。まだ若かったから、そりゃもう面白いほどにのめり込んだ。
住んでる場所、趣味、好きなもの、好きな本、好きな色、季節、花、全部知りたかった。データベースのようになりたかった。知識欲を満たすことで、お前を知ることで、俺の心にあった空のHDDが満たされてくような感覚がした。
お前と交わす会話を一つ一つ端末に保存しては、流れるように過ぎていく時間を噛みしめた。君の何気ない日々の挨拶も、ただいま、の���言も、何を食べただの、何を飲んだだの、そんな些細な報告も、出勤途中に見つけた面白いマンホールだの、日々の光景だの、冬景色の中の桜の大木だのも、全部輝いて見えた。世界がにわかに色づいて、鮮やかになったんだ。今まで自分が生きてきた世界がまるで虚構だったかのように、色褪せて見えた。もう戻れない、と思った。今まで当たり前だった世界が、途端に地獄に見えて笑いが止まらなかった。天国がここにある、生きていても辿り着ける楽園を手に入れた。嬉しさと、幸せで満ち溢れて、部屋で一人転げ回ってたんだ。
これが所謂恋愛感情なんだ、と知ったのは、お前の、裸で俺を誘う姿を思い浮かべて自慰をした時だった。慕う気持ち、焦がれる気持ちと肉欲が結びついた瞬間、俺は思わずトイレへ駆け込んで嘔吐したよ。濁った色の胃液が流れる光景を見下ろしながら、自分が汚くて仕方がない存在だと思った。この気持ちは、君が対象である限り、存在してはいけない汚れたものだと思った。
ああ、そうか。
君に汚されたんだ、僕は。
受胎告知を受けて子供を産む、と信じて疑わなかった僕が、自分の性器を必死こいて掴んで扱いている日々を、想像したことはあったかい?コウノトリが赤ちゃんを運び、愛の結晶として子供が生まれると信じて疑わなかった僕が、君の子宮に、精子を流し込んで、そして卵子の元へそれらが泳いでいく姿を想像している日々を、想像したことはあったかい?きっとないだろうな。君は知らない。僕のことは、何も。
僕の趣味で執筆していた小説を、君は酷く気に入ってくれた。どんな話でも、好きだ、素敵だ、綺麗だと、歯の浮くようなお世辞と共に褒め称えてくれた。嬉しかったよ、僕は承認欲求に飢えてた。誰かに認められたくて、誰かの心に自分を刻みたくて、ただその一心で毒にも薬にもならない話を日々生み出しては世界に垂れ流して悦に浸ってた。
ある時は視力を永久に奪った。話に出てくる少し抜けていてでも勝気な女は、勿論君のことだった。困らせるつもりも、支配するつもりもない。ただ、僕の手を取って歩く君と、ずっと共に歩いて行きたかったからだった。
ある時は、四肢を破壊した。話に出てく���女神じみた女は、勿論君のことだった。理由なき破壊でも、性癖の擦り付けでもない。不自由の中の自由、それが愛だと思ったからだった。
ある時は君を殺して食べた。話に出てくる食いしん坊で笑顔の素敵な女は、勿論君のことだった。欲望でも好奇心でもない。君と一つになって自由意志の元、揺らぐことなく生きることに永遠を感じたからだった。
本当だよ。
君が僕に好きだと言った日、あれは忘れられない。11月25日。午後8時36分。君は確かに僕宛てに、『貴方の世界が好き。』と言った。好き。その響きを僕��一生忘れないでおこうと誓った。20:36を腕に刻み、カレンダーを買いあさって切り貼りし、すべての日付を11/25に変えた。その日からありとあらゆるパスワードが、君の誕生日から、その4桁、もしくは8桁になった。
例え温度を知らなくても、声を知らなくても、愛情は生まれるんだと思った。貴方の世界が好き。すなわちそれは、僕の生み出す世界が好き、僕が君を思って書いた数多の世界を全て受け入れ、現実がそうなることを望む、という意味だ。己の妄想が形になる、しかもそれがそこらを歩いている売女じゃなく、君で叶う。なんて幸せなんだ。噛み締めすぎて頬が千切れるほど、笑いが堪えきれなくて僕は叫んだ。幸せだ!世界で一番、僕は幸せだ!と。
でも現実を考えると、そう上手くはいかない。君が良くても、世間が許さない。君と二人きりの世界なんて、核がいくつあっても足りない。そう思って、暫く考えた僕はある日、僕はありのままを手紙に書いたんだ。
今まで書いた小説たちを、どんな思いで、どんな君を想像しながら書いたか。君のせいで汚されてしまった僕のプラトニックな愛情を、どうやって処理してきたか。君の美しさ、無防備さ、想像してきた肌の柔らかさに、きめ細やかさ。味。
ありったけを詰めた分厚い手紙に何度もキスを落として、ポストへ投函した。届くかどうか、ずっと不安だった。住所も名前もほぼ100%合ってるはずなのに、なぜか不安になってしまうのは人間のサガなのかもしれない。
そして、偶然か僕が手紙を送ってから数日後、君はSNS上から姿を消した。ここ数ヶ月間、誰かに付き纏われていたり、悩んでいる様子を見せてはいたけど、気丈に振る舞っていたのに。悲しくて、胸が張り裂けそうで、辛くて、死んでしまいたいと思った。君にもう会えない。会いに行く勇気なんてない。むしろ、今誰かのせいで傷付いている君に、付け入って支えるような人間だなんて、僕は思われたくない。ずるい人間だ、と思う。僕はどこまでも、君の全てでありたいからこそ、卑しい人間の部分は極力出したくなかった。
準備した冷蔵庫や器具は、また機会があれば使えばいい。君の傷だって、きっと時間が解決してくれる。時が来れば、君が僕の手の中に、腕の中に、胃の中に収まる日が来る。
幸せになりたいのは、皆同じだろう?
正しい形なんて誰が決めたんだ。
ああ、ははは、ご安心を。
僕は至って正常だし、僕は何も間違っていないし、僕はただ、君で幸せになりたい。
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Growing up love
中四国九州大会から戻ると、ヴィクトルは勇利に、カツ丼を食べてよいと笑顔でゆるした。勇利はうれしそうにうなずき、ヴィクトルと並んで座り、カツ丼を口へ運んだ。 「食べるの、久しぶり」 勇利の瞳はきらきらと輝いていた。 「温泉オンアイスのあと、半年近く我慢したね」 ヴィクトルがからかった。 「俺の目を盗んでこっそり食べたりもしなかったんだろうね」 「『試合に勝ってもいないのに』なんて言われたら食べられないよ」 勇利は拗ねたように言い、それからかすかにほほえんだ。 「……それに、もうカツ丼は、ヴィクトルと一緒にしか食べないってきめたから」 「…………」 ヴィクトルはすっかりうれしくなり、勇利の���をぐっと抱いて、「勇利、今回の試合、よかったよ!」と褒めた。 「ちょっとヴィクトル、食べてるときに……」 「ジャンプはぜんぜんきまらないし、フリーなんて後半やたらと疲れてるし、いきなり壁に激突するし、俺の言うことまったく聞かないし、全体的にどうかと思うけど、とにかくよかったよ!」 「それ、ちっともよくないんじゃないの?」 「いや、よかった!」 ヴィクトルはビールを飲みながら言い張った。 「課題だらけだったが、それはつまり、未来を感じる、将来性があるプログラムだと証明できたということだからね! あのめちゃめちゃな演技であれだけ点数を出せるとわかったのは大きな収穫だ」 「なんか、あんまり褒められてる気がしないけど……でもヴィクトルの機嫌がいいことはわかったよ」 勇利はこくこくとうなずき、「あの、食べにくいんで」とヴィクトルの腕を肩から外した。ヴィクトルはふてくされた。勇利はつめたい。しかし、うれしそうにカツ丼を味わう横顔を見ていると、すぐに頬がゆるんできた。これからも勇利にカツ丼を食べさせてやりたいと思った。それに──もっと、勇利を喜ばせることをしてやりたい。何かないだろうか? 勝ってカツ丼をヴィクトルと食べる、というのは勇利自身の目標だ。ほかにヴィクトルも、何か、勇利に褒美のようなものをあげたい。 「勇利、俺にしてもらいたいことはないかい?」 ヴィクトルは声をはずませて尋ねた。 「え? とくにないよ」 勇利はあっさり答えた。 「何かあるだろ!」 ヴィクトルは迫った。 「ないって」 「いや、あるはずだ」 「その自信は何なの? ないよ」 「なんでないんだ? 勇利は俺のことが好きなんだろ?」 「そうだけど……、でもしてもらいたいことはもう全部してもらってるよ。コーチも、こうして一緒にカツ丼食べるのも」 「それ以外でだよ! そんなのは当たり前のことじゃないか」 「いや、ぼくにとってはぜんぜん当たり前じゃないんだけど……」 「もっとないのか? なんでもしてもらえるんだよ? 俺にだよ?」 「うーん……だからぼくはコーチしてもらえるだけで……」 「日常的なことでだよ」 「えー……、じゃあ、ぼくの好きなプログラムすべってもらいたい」 「そんなのはだめだ!」 ヴィクトルは断固として言い張った。 「スケートから離れるんだ! それ以外のところで親睦を深めよう」 「意味わかんないんだけど……。何なの。なんでもいいって言ったくせに……」 「勇利、きみは俺のファンだ。俺にしてもらいたいことでスケートだなんて、そんなの何もおもしろくない。普通のことじゃないか」 「あの、そういうところにまで意外性を求めないで欲しいな。だいたい、そんな制限をするなら、それってもう『なんでも』じゃないよ。ヴィクトルはぼくにご褒美をくれるってことでしょ? だったら変な条件つけないで、ぼくのありのままの希望を……」 「何かないのか?」 「聞いてる?」 勇利は溜息をついた。 「本当にないよ……。ぼくは昔からヴィクトルが好きだけど、一緒にすべりたいとか、スケートの話ができたらなとか、そういう夢ばかり持ってたんだから。いまヴィクトルはぼくのコーチだし、同じ屋根の下に住んでるし、スケートをみてもらってるし、衣装まで借りてるし、ぼくの望みは全部かなってるんだよ」 「つまらない」 ヴィクトルはビールを飲み干した。 「もっと欲はないのか? 俺に対して貪欲さを示してくれ!」 「ヴィクトル、酔ってるの?」 「俺は勇利にご褒美を��げたいんだよ!」 ヴィクトルは勇利に顔を近づけた。 「声が大きいよ」 「俺のこの奉仕欲をどうすればいいんだ?」 「すでにぼくの望みじゃなくてヴィクトルの望みになってるけど……」 「勇利、本当に俺が好きなのか?」 ヴィクトルは疑わしそうに勇利を見やった。 「好きならもっといろいろあるんじゃないの?」 「なんでぼく言いがかりつけられてるの?」 「どうも勇利の愛情は信用できないな……」 「酔っ払いがからんでくる」 「俺を好きなら……」 そう言いさして、ヴィクトルはふと気がついた。そうだ。勇利はヴィクトルのことが好きなのだ。だったら──。 「勇利!」 「なに? だから声が大きいって……」 「一日だけ、おまえの恋人になってやろう!」 ヴィクトルは目を輝かせて宣言した。勇利はぱちりと瞬いた。 「そうだ。そうしよう。それが今回の優勝のご褒美だ。いい考えだ!」 「…………」 「次のやすみは──明後日だね。その日だけ俺は勇利の恋人か……よし、がんばってみるか!」 いっそはしゃいでさえいるヴィクトルを、勇利はどこかあきれたような目つきで見ていた。 「あの……がんばらなくていいんだけど……」 「なぜ? 勇利は俺が好きだろ?」 「恋人とかはないって……、ぼく、言ったよね?」 「わかってるよ。俺は俺でいてもらいたいんだろ? だったら俺の提案には応じてしかるべきだ!」 「何なの?」 「楽しみだな……腕が鳴る」 ヴィクトルはうんうんと力強くうなずいた。 「勇利と恋人……いいね!」 「何がいいのかさっぱりわからない」 「明後日、勇利は俺の恋人だ!」 ヴィクトルは勇利の額をつんと押して片目を閉じたが、勇利はとくにうれしそうではなく、「まあ、それでヴィクトルの気が済むならいいけど……」という態度だった。 「恋人って何するの?」 その日がやってきて、ヴィクトルが勇利の部屋を意気揚々とおとなうと、勇利がまず言ったことがそれだった。ぜんぜん恋人らしくないな、とヴィクトルは思った。勇利は子どもだからな……。 「そうか。勇利は恋人いたことなかったんだな──痛い痛い!」 さりげなく腰のあたりをつねられ、ヴィクトルは悲鳴を上げた。勇利がヴィクトルをにらみつけている。いまのはよくなかった。勇利はこういう話題が嫌いなのだ。学んだはずなのに、つい口に出してしまった。 「そうだよ。いたことありません」 勇利はつんとそっぽを向いた。 「だからヴィクトルが教えてよ。山ほどいらしたんでしょうから!」 「山ほど?」 「恋人って何するの」 「そうだな、それは──」 得意になって語ろうとして、ヴィクトルは、何を言えばよいのかわからなくなった。恋人とは何なのか。どういうことをするものなのか。一般論ならいくらでも言える。しかし、勇利に対して語れる言葉が──ない。 「どうしたの?」 なぜだろう? ヴィクトルは首をかしげた。彼は世界一もてる男なのだ。いくらでも話せるはずである。恋人のあり方だって──。 「ヴィクトル?」 「あ、いや……」 表面的な、上すべりするような���明しか思い浮かんでこない。これはどうしたことだろう。ヴィクトルは困った。そうだ、一般論でもよいではないか。当たり障りのないことだって、べつに……。 しかし、それは勇利に言うべきことではない気がする。 「……やっぱり、まずはデートだね」 ヴィクトルは苦し紛れにそう言った。勇利がうなずく。 「まあそうだよね。デートってどんなことをするもの?」 「それは……」 食事をして、お酒を飲んで、それで? ヴィクトルは口ごもった。勇利は無邪気な瞳でヴィクトルをみつめている。彼は、ヴィクトルがいつまでも何も言わないので、��すかに眉根を寄せた。 「ヴィクトル、ぼくと恋人がいやなら無理しなくてもいいんだよ。そもそもぼくが頼んだことじゃないし……」 「いや、ちがうんだ! そういうことじゃないんだ。俺は今日を楽しみにしてたんだ!」 「そうなの?」 そうだ。楽しみにしていた。なのになぜ具体的なことが言えないのだろう? 勇利と恋人だ、デートだ、ということしか考えていなかった。 「デート、するの?」 「する」 「ヴィクトルがしたいならそれでいいけど……」 ベッドに腰掛けていた勇利が立ち上がった。 「じゃあ、出掛ける?」 「その服で?」 勇利はそのまま陸上訓練に行くようなかるい服装である。 「変?」 「いや、変じゃないが……」 「ダサいの? ぼくこういうのしか持ってないから、もっとかっこいいのとか言われても困るんだけど」 「…………」 ヴィクトルも急いで腰を上げた。 「行こう」 「え?」 「行こう。それでいいよ」 「そう?」 ふたりで駅へ向かいながら、ヴィクトルは焦っていた。どうしよう。何をすればよいのかわからない。勇利とデート。どんなことをすればいい? 「どこ行くの?」 「そうだね……」 何も思い浮かばなかった。行きたいところがないというより、勇利をどうすれば楽しませてあげられるのか、それがわからないのだ。 「ロシアと日本じゃデートの形式もちがうのかな」 勇利が何気なく言った。 「ロシアにあって日本にないものってなに?」 勇利の言葉からひらめいて、ヴィクトルはどうにか会話をつないだ。 「日本ではデートというとどういうことをするんだい?」 恋人がいなくても、一般的な知識は勇利にもあるだろう。勇利は口元に手を当てた。 「うーん……。映画かな?」 「映画か……」 「あとはまあ、遊園地とかかなあ……。それはもっと若い人たちが行くのかな。ぼくもよくわからなくて」 映画。遊園地。悪くはないが、勇利はそういうことを体験したがっているようには見えない。 「それから、買い物? かな……?」 「買い物……」 勇利はヴィクトルの服装をちらと見た。 「ヴィクトルはいつもかっこいい服着てるよね。気軽そうなのでも生地がいいから洗濯に困るって真利姉ちゃんが言ってたよ。高いんだろうね。どこで買ってるの?」 「勇利、服を買いに行こうか」 ヴィクトルはようやく思いついて提案した。 「え?」 「勇利のそのダサい服、どうにかしてあげる」 「あのさ……うれしくないんだけど……。ぼくはこういうのでいいんだよ。楽だし」 「いいから!」 ヴィクトルが強引に話を進めると、勇利はくすっと笑い、「まあヴィクトルらしいけど」と言った。ヴィクトルはほっとした。 ヴィクトルは勇利に、きちんとしたブランドものを着せたかったが、勇利はこのあたりにそんな店はないし、そういうものは自分に必要ないときっぱり断った。 「せいぜい、ショッピングセンターの専門店くらいがいいんじゃないかな」 それでヴィクトルは仕方なくそこへ勇利を連れていった。そもそも、ブランド店があったとしても、いきなりそんな服を勇利に贈ってよいかどうか、よくわからなかった。今日は恋人なのだからいいと思うのだが、しかし、つまり明日はヴィクトルと勇利は恋人ではないのである。そんな関係の相手から服をもらって勇利がどう思うか、ヴィクトルは気になった。普段の自分と勇利はそういうことのできる仲だろうか? ヴィクトルは、勇利に似合う服を精いっぱい探そうと、あちこちの店をまわった。勇利は「もうさっきのでいいよ」「どれも同じに見え���」「いい加減疲れたんだけど」と終始乗り気ではなかった。 「勇利、きみは今日俺と恋人で、これはデートなんだぞ!」 「デートってこんなに大変なものなの?」 慣れないことに、勇利はかなり疲労しているようだった。ヴィクトルはこれならと思うものを選び、勇利に買ってやろうとした。しかし勇利はいらないと断った。 「何を言ってるんだ。勇利に贈るためにこうしていろいろ探したのに」 「見るだけの買い物でもいいじゃない」 「そんなのはだめだ。意味がないじゃないか」 「そんなことないよ」 勇利はほほえんだ。 「ヴィクトルがぼくに、こういうのが似合う、こっちのほうがいい、って一生懸命になってくれてるのを見ているだけで、ぼく、おもしろかったよ」 「でも勇利は『もういいから』って言ってたよ」 「そうだけど、おもしろかったことはおもしろかったんだよ。そうやって自分のやりたいことをやりたいようにやるヴィクトルっていいなと思って。ぼくのためっていうのもわかったしね。だから買ってくれなくてもいいよ。楽しかったから。それよりぼくおなかすいたな」 それで仕方なく、ヴィクトルは食事をすることにした。だが、何を食べようかというところでまたつまずいた。勇利はどういうものを食べたいだろう? 彼の好物はカツ丼だが、それはもう昨日済ませた。どんな店へ連れていけば勇利は喜ぶだろう。中華? フランス料理? イタリアン? 和食? 「……何が食べたい?」 ヴィクトルはゆっくりと尋ねた。 「なんでも」 勇利は答えた。 「目に入った店でいいよ」 「デートだよ。そういうわけにはいかない」 「なんで?」 勇利は不思議そうに言った。 「デートってそういうものなの? めんどうなんだね。あ、そこにおそば屋さんがあるよ。ぼくあそこでいい」 「勇利……」 ヴィクトルは勇利と素朴なそばを食べながら、果たしてこれは本当にデートなのだろうかと思い惑った。自分たちはちゃんと「恋人」ができているだろうか? よくわからない。 「このあとどうする?」 勇利が時刻を確かめた。 「映画でも見る?」 「いや……」 「そういうの好きじゃない?」 「好きじゃないというわけではないけど」 「ほかには、うーん、デートの定番と言えば、夜景とか……」 勇利はガラス越しにおもてを見た。まだ明るい。 「まあ、明日も朝から練習あるし、夕飯までには帰りたいから、それは無理か」 「そんなに早く帰るのか?」 「え、遅くなるつもりなの?」 勇利がきょとんとした。 「何するの?」 「何って……」 「朝起きられないと困るよ」 「……それはそうだけど」 「夜景はだめだね。じゃあ、えっと、あとは海かな?」 そば屋を出ると、ふたりはのんびりと海へ向かった。手の甲と甲がふれあったとき、ヴィクトルは思いきって手をつないでみた。勇利はちょっと瞬いたが、ほほえんで、「恋人だからね」と言った。海では並んで座り、たわいないことを話した。どうしてもスケートの話題になってしまう。恋人っぽい話をしよう、とヴィクトルが言うと、それってどんなの、と勇利が尋ねた。 「うーん……」 「ヴィクトルは、ぼくとじゃそんなの無理だって」 勇利はくすくす笑っている。そうではないのだ。勇利を恋人として見られないからできないのではない。ヴィクトルにも、どうすればよいのかわからないのである。こんなことになるなんて考えてもみなかった。あんなに楽しみだったのに。 何もできないまま時間は過ぎ、勇利が「どこかでお茶でも飲もうよ」と言ったので和風の店に入った。勇利は「あんみつが食べたい」と希望した。 「でもぼくひとつを全部食べるのはよくないから、ヴィクトルが頼んで、すこしだけちょうだ��」 あんみつは甘くて不思議な味だった。それを食べながら緑茶を飲むと美味しかった。勇利もにこにこしていた。だがヴィクトルは、終始、これでよいのだろうか、こんなデートは正しいのだろうかと思い悩んだ。 勇利に「ご褒美」をあげたかったのに。勇利は楽しんでいるだろうか? 勇利に「一日恋人になってあげる」と言ったときの高揚はすっかり消え、ヴィクトルにはいま、戸惑いばかりがあった。 「そろそろ帰ろうよ」 勇利が言った。 「もう?」 「いまから帰ったらちょうど暗くなるよ」 ふたりは電車に揺られて帰った。座っているあいだ、手はつなぎあっていたが、言葉はほとんど交わさなかった。勇利の言う通り、駅から出ると、あたりはすでに青から黒へと移り変わるところで、ほのかな残光も消えそうだった。 「今日はありがとう。楽しかったよ」 勇利が礼を述べた。本当だろうか? だって何もできなかった。これが恋人か、つまんないの、と勇利は思ったのではないだろうか。 「ごめん」 ヴィクトルが謝ると、勇利は不思議そうにヴィクトルを見上げた。 「何が?」 「デートってつまらないと思ったんじゃないかと思って」 「え、なんで? ぜんぜん」 勇利は笑った。 「初めてしたけど……、こんな感じなんだーって思った。楽しかったって言ったでしょ」 「本当に楽しかったのかい?」 「ヴィクトルは楽しくなかったの?」 ヴィクトルは黙りこんだ。楽しくないわけがない。勇利といるとヴィクトルは安心していられるし、愉快だし、彼が何を言い出すのかというわくわくした気持ちも感じる。しかし、勇利を楽しませてあげられているか、ということばかりが今日は気になった。 「ショッピングセンターと海と、簡単な食事とあんみつだ」 ヴィクトルは指折り数えた。 「いいじゃん」 「いいかな?」 「いいよ」 勇利はほほえんだ。 「デートって、どこに行くかじゃなくて、誰とするかじゃないかなって思う」 ヴィクトルははっとした。 「どんなにすてきなところでも、どうでもいい相手とじゃつまらないし、近所の公園でもコンビニでも、大事なひととなら楽しいよ」 橋へ差しかかった。勇利は愛情深い微笑をヴィクトルのほうへ向けた。 「ぼくはヴィクトルとなら、どこだって楽しいよ」 ヴィクトルはものが言えなかった。 「今日はいろんなところへ連れていってくれてありがとう。うれしかったよ」 「──勇利」 ヴィクトルは足を止めた。彼は勇利の手を握りしめ、明るく笑って提案した。 「ねえ勇利。今日だけじゃなく、ずっと恋人になろうか!」 「え?」 勇利がきょとんとした。 「そうだ。そうしよう。そしてまたふたりでどこかへ行こう。勇利も楽しかったんだろ? いいよね。ね、勇利!」 「…………」 「恋人になるともっと楽しいぞ!」 ヴィクトルの頭の中には、勇利を一層楽しませて、喜ばせなければ、ということしかなかった。勇利は、今日がすてきな日だったと言ってくれる。しかし、ヴィクトルは、自分は何もできなかったという気持ちでいっぱいだった。勇利に笑ってもらいたい。何か、何か──勇利のためにもっと。 「……やめとく」 勇利は優しく言った。 「……どうして?」 「べつにヴィクトルとなら恋人とかそうじゃないとか、関係ないよ」 「わかってるよ。勇利は俺に俺でいてもらいたいんだろ? 恋人になっても俺は俺じゃないか。ね!」 「ねえ、ヴィクトル」 勇利はやわらかい声でささやいた。 「ぼくはね、ヴィクトルのことが好きなんだ」 勇利の黒い大きな瞳が、きらりと輝いてヴィクトルを射竦めた。鋭い視線でもないのに、ヴィクトルはどきっとして動けなかった。 「だったら……」 勇利は笑って、ゆっくりとかぶりを振った。 「ぼくはもっと、真剣にヴィクトルのこと、愛してるよ」 「…………」 ヴィクトルのくちびるがふるえた。 「ヴィクトルが思うより、ずっと本気だよ」 何も言えなかった。このときヴィクトルは、勇利にキスがした��と思った。今日は恋人なのだから、それくらいしてもよいはずだ。 勇利はもう一度にこっと笑った。 「帰ろ」 勇利がヴィクトルの手を引いた。ヴィクトルは押し黙って歩き出した。勇利は夜空を見上げた。 「一日だけヴィクトルの恋人だった日、だね」 そうつぶやき、彼は楽しそうにほほえんだ。 キスは、できなかった。 あの恋人としての一日は──あのデートは何だったのだろうと、ヴィクトルはそののちも、ときおり思い出しては考えた。自分はどうしてあんなに勇利に「恋人」という「ご褒美」をあげることが楽しかったのか。あの日、どうして洗練されたエスコートができなかったのか。どうしてあんなにも思い悩んでしまったのか。どうして──どうして勇利にこれからも恋人でいようと提案したのか。そして──なぜ、断られたことで、あんなにも──あんなにも──。 時が経ち、勇利を知るにつれ愛は深まった。愛が深まることで、ヴィクトルはあの日の答えを──理屈を説き明かすことができた。結局、「恋人」なんていう縛り方に意味はないのだとわかり、勇利が断ったのは、彼のほうが早くそれを理解していたからなのだとわきまえた。あのころのヴィクトルは未熟だった。勇利は愛を「愛のようなもの」としか認識していなかったが、それでも、十年以上もつちかってきたヴィクトルへの濃密な思慕は、人を愛さずに生きてきたヴィクトルよりもずっと成熟していた。 グランプリファイナルが終わり、勇利と別れたいま、ヴィクトルは無性に彼に会いたかった。いまなら勇利を、すてきなデートに連れ出せるのにと思った。あんなに不安定な、頼りないデートなどではなく──自信を持って。あの日のデートを勇利が「楽しかった」と喜んだ理由がいまならわかる。ヴィクトルだって、いまならあのデートを楽しむことができる。あのときのデートが「不安定」で「頼りなかった」のは、ヴィクトルが原因だ。ヴィクトルの気持ちが……。 バルセロナで、勇利とデートをした。あれはヴィクトルの中では正真正銘の「デート」だった。しかし勇利は、ただ思い出づくりのためにあの日を過ごしたのだろう。もう別れるのだからと。最後にせめてと……。もちろんこれはヴィクトルの想像だ。勇利としてはちがう思いかもしれない。しかし、少なくとも彼は、ヴィクトルと同じ気持ちではなかった。もう一度勇利を連れ出したい。いまなら──いまなら……。 呼び鈴が鳴った。ソファに横たわっていたヴィクトルはゆっくりと起き上がり、気の進まない様子で玄関まで行った。 「どなた?」 「あ、あの……」 ヴィクトルははっとした。彼は急いで鍵を外し、扉を押しのけるようにしてひらいた。 「あ……」 勇利がうれしそうな顔をして立っていた。 「ヴィクトル……」 「勇利……」 本物だろうか? 信じられなかった。ヴィクトルはぼうぜんとした。 「あ、あの、ぼく、ヴィクトルのロシアナショナルの演技を見て……」 勇利の頬が紅潮した。 「会いたくなって……いても立ってもいられなくて……」 「勇利」 ヴィクトルは夢中で勇利を抱きしめた。勇利がヴィクトルの背中に手をまわし、「来てもよかった?」とささやいた。ヴィクトルは無言で幾度もうなずいた。 「すぐ──明日には帰らなくちゃいけないんだ。でも、ヴィクトルに直接、すてきだったって言いたくて。それで……」 「今日はいられるのかい?」 「うん。ヴィクトル、復帰戦でいきなり優勝しちゃうんだからすごいね。でもぼくは信じてたよ。ねえヴィクトル、ぼく、ヴィクトルに『ご褒美』あげたいんだけど、どうかな?」 ヴィクトルは驚き、勇利の瞳をのぞきこんだ。勇利はいたずらっぽく笑っていた。 「今日一日デートしてあげる。どう?」 「勇利……」 ヴィクトルは勇利のかばんを室内に投げこむと、勇利の手を取り、「行こう!」と外へ連れ出した。 まず、自分の行きつけの服屋へ足を運び、勇利の服を買った。もちろん彼に着せたいブランドものだった。それから時々散歩する、好きな道へ行き、そこを手をつないで歩いた。そのあと、勇利が空腹だというのでお気に入りのレストランで食事をした。店を出ると、川のほとりに腰を下ろして身を寄せあい、何時間も語りあった。ヴィクトルはずっとはしゃぎきっていた。気持ちが完全に高揚していた。何をしたいのか、どうするのが自分にとってよいのか、そして何よりも、勇利がどんなことで喜ぶのか──彼はもうすべて承知していた。 お茶を飲み、ヴィクトルの好みの店で夕食をしたためたあと、橋を渡った。橋の途中でヴィクトルは振り返り、勇利を抱きしめてキスした。 「俺も勇利のこと、真剣に、本気で愛してるよ」 勇利はきららかに目を輝かせてうなずいた。もう「恋人になろう」なんていう言葉は必要なかった。ふたりにはお互いの愛情も気持ちもわかっていた。 「あのとき勇利、俺が簡単に言うから、本当は怒ってたかい?」 「ううん。ヴィクトルらしいなって思った」 一日だけ恋人になった日と、したことはほとんど同じだった。ちがったのは、ヴィクトルが強引に勇利の服を買ったこと、勇利にキスをしたこと、夕食まで食べて帰ったこと、そして……。 「何もしないよ。でも、そうしたいんだ」 「いいよ」 ふたりはその夜、服を脱ぎ、裸身になってただ抱きあって眠った。勇利の肌はあたたかく、微笑は優しく、吐息は甘やかで、ヴィクトルは勇利のことを今夜いちばん深く知ったと思った。 「勇利が次にここへ来たら……」 ヴィクトルはささやいた。 「『何か』は、するよ」 「うん」 勇利は笑いながらうなずいた。 「して」 彼のやすらかな微笑を、ヴィクトルはうれしくなってみつめた。 「楽しみ……」 勇利はそう言った。 翌日、ヴィクトルは勇利を空港まで見送りに行った。ふたりは手を握りあい、みつめあった。 「ヴィクトル、ありがとう。デート、楽しかった」 「俺も。最高のご褒美だったよ」 「またしようね」 「……しよう」 「ロシアまで、デートしに来たんだね、ぼく」 勇利は明るく笑った。 「来てよかった」 ふたりは別れ際、抱きあってくちづけを交わし、いとおしさを瞳で伝えあった。一日だけ恋人だった日よりも、もうずっと、彼らは愛しあっていたのだ。
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Imram
*この類の文章に書く内容は非常に困る。開成生活がどれだけ波乱に満ち、そしてどれだけ最高であったか。開成六年間の出来事どれを取っても非常に大きな影響を与えているし、どれか一節を選べと言われても、その候補を挙げるだけでこの頁が埋まってしまう。これからの意気込みも「頑張りたい」という一言に尽きてしまうので何か違う視点から書いてみたい。
独りが好きだ。何事につけても、周りとは一線を画している感覚、自分だけという優越感に浸るのである。孤独がかえって優越感を際立たせるようだ。協調性を欠いているつもりはなく、内心ふとこのことに思い至る時があるのだ。
独りでいる時間は様々である。友を誘えずに休日おもむろに向かうカフェ。塾からの帰路に佇む地下鉄の車内。誰も私のことを知らない空間で私だけがその場の人たちのことを意識し、考え、想像を巡らしている。そして最後は自分自身の存在についての思考になんとなく帰着して、現実に戻る。そんなことを繰り返しているうちに時間は刻々と過ぎていってしまう。
甘える事が好きだ。人に甘んじて行動するということではなく、誰もが幼少期に家族や先生に持つそれである。自分の膝の上にひとまわり体の小さい友を乗せていたいし、先輩にはできる限りのわがままを言っていたい。大人には立派だと褒めてもらいたい。選挙権を持つ歳にもなると厄介なのは承知しているが、その対価に見合う努力をすることで勝ち得てきた。幸い開成生活では友、先輩、恩師に恵まれ、その欲求を満たされない時はなかったといえよう。
一見上記の二つは矛盾をはらんでいるが、両者はコインの裏表であり、そのバランスが私を形作っている。
思えば運動会の他己紹介には、「一」の名を冠すという風に評された。これは前者の方であろうか。窓辺で雨を眺める物静かな青年ではなく、寧ろ率先して周囲の事物を悪戯に変え、大声で話す。これは後者の現れであろうか。どちらにせよこの性格が排されることなく六年間を終える事ができたのは多分に開成という環境に依るはずだ。
ただ、開成という恵まれた環境の中で、何を以って「森一真」というアイデンティティが確立するのかには常に不安を感じていた。バスケ部部長、俳句甲子園全国大会優勝、Mr.開成、運動会中一係優勝、紫組総合優勝。開成というコミュニティで話題にするには十分なネタはあるが、逆にそのフィルター越しに見られる不安と、自分らしさへの確信が持てない不安とに苛まれることも多くあった。勿論結論など出るわけはなく、考えていても仕方がないという解に行き着くことがほとんどであった。そんな時に私は独りになりたがり、そして周囲に対して自分の存在を認めて欲しくなるのである。
荷風は、街中の喧騒を眺めると、なぜ人々が興じる事物に対して自分は興じることができず、一歩引いた立ち位置に自らを置いてしまうのかと考えた。尾崎は抗い続けた「支配」からの「卒業」に抗うことができず、切なさとともにその喧騒に身を投じていった。
これからの私もそんな喧騒に身を沈めていくのだろうか。小学生の私にとって男子校は未知の物に他ならなかったし、中一にあがったばかりの私にとっては五つ上の先輩からの突如の指導も理解ができなかったし、五年後に自らが後輩への接し方の意義と手段に真剣に向き合いながら同じことを行うことも予期していなかった。同様に、開成という印籠を失った時に社会で経験するであろうことの未知性は計り知れない。その未知なる世界では今度は何が自己確立の要素となるのだろうか。その問いの行き着く先は実は開成時代と変わらないのだろう。寧ろ行き着く解こそが開成という環境が私に与えてくれた大きな影響の賜物であるとまで言えるかもしれない。
ただ開き直ってしまえばどれだけ社会の喧騒の中に溺れていったとしても、思えば開成も相当な喧騒そのものであったのだから、自分を取り巻く環境に嫌気がさしたらいつでも現実から逃げて開成のコミュニティに戻って来ればいいのかもしれない。そんなときは独りで訪れたカフェにまた行こう。ただ今度ばかりは、開成生を、甘えん坊の私をあやしてくれていた愛すべき開成生を、連れて行こう。
本文は2018年3月開成高校卒業時の卒業文集に掲載。
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On the Basis of Sex(『ビリーブ 未来への大逆転』)の感想
On the Basis of Sex(『ビリーブ 未来への大逆転』)とRGB(『RBG』)を見てきた。
フェリシティ・ジョーンズの、口では黙ってるけど心の中では黙ってないっていう目が印象に残った。この伝記映画の題材であるルース・ベイダー・ギンズバーグは「怒りで反応することは相手を説得する役には立たない」みたいなことを言うけど、たぶん怒りという感情を持つなということじゃない。感情的になるな、怒りのままにわめき散らしても相手を説得することはできないっていうことなんだろうと思う。わめき散らさないからこそ雄弁な、強い目だった。
それから、身長差カップルが好きな人にぜひぜひおすすめしたい映画だった。ギンズバーグ役のフェリシティ・ジョーンズが160cm、彼女の夫のマーティン役のアーミー・ハマーが194cm。二人が向かいあっている場面でジョーンズの顔にクローズアップしていくと、相手役の顔が見えない。身長差!映画の最後にギンズバーグ、マーティン、二人の娘の3人が並んで歩く場面でも、ギンズバーグが真ん中、マーティンは端という並びで、ハマーが腕をのばしたらギンズバーグと娘の両方を片方の腕で抱けてた。身長差は大きいけど、「主人―家内」という夫婦じゃなくてパートナーとしての夫婦なところもとても良かった。
いちばん最初の映像で映るのは、男性男性男性、スーツスーツスーツ。きりっと髪を整えた、黒やグレーのスーツ姿の、若い、エリート然とした男性たちの波。そこに一人の女性がいる。カメラはまず彼女の服の青さ、ひるがえるスカート、パンプス、指輪のついた手を映す。彼女の顔は最後に映される。彼女の性別を示すものが先に映される。つまり彼女が女性だということが先に紹介される。そのあとで彼女の表情が映される。つまりひとりの人間として映される。似た姿格好の男性男性男性の人波が視覚的に示しているとおり、この場は男性社会。でもその男性社会が「男性社会」ではなくただ「社会」として受け止められるとき、男性はスタンダードで、女性だけが「女性」というイレギュラーなものとして扱われる。人格よりも性別が先にくる。たとえばそう、男性議員は「議員」で女性議員は「女性議員」であるように。続く場面は彼女が入学した大学の入学式で、学長はハーバード大の人々を意味する言葉として「ハーバード・メン」という言葉を使う。構成員に男性��か想定してない言葉遣い。男性基準の社会、男性基準の大学、男性基準の言葉。ちょっと優等生っぽいかもしれないけど、映画が問題にしてるものを明確に示すオープニングだった。
性別に基づいて男性と女性を区別する。このとき、片方を不利な側に置き、不当に不利な待遇を受けさせるなら、「区別」は差別になる。性に基づいた差別。性差別。性に基づいてひとを区別する法は、ひとつひとつは具体的で個別的なこと(たとえば税金の控除の対象)を規定しながら、積み重なることで、法の全体として、ひとを差別する。差別はひとの気持ちの問題じゃない。構造的なもの。そして、性に基づく区別は多くの場合、女性の選択や利益や権利を制限するので、性差別は多くの場合で女性問題。
でもこの映画は、性に基づいた区別のもとで不利益を被る男性をギンズバーグが弁護する姿を描く。この男性は、母親の介護をしたけど、女性や寡夫なら受けられる控除を受けられない。結婚したことのない独身男性は控除の対象じゃないから。ということは、法は、結婚によって結ばれた男性=稼ぎ手、女性=支え手という特定の男女像から外れるひとに不利益を強いている。ここで、性差別は男性と女性の両方の問題になる。法は、人間を男性と女性に分けたうえで、女性だけに不利益を強いるだけじゃない。男性=結婚した稼ぎ手という前提から外れる男性にも不利益を強いる。「男性=家長であり稼ぎ手」「女性=家長に従う支え手」といった、「伝統的な」「望ましい」男女の役割から外れる男女を想定してないのがダメ。要は家父長制に基づいてるのがダメ。結果として、法がそうした男女観を支え、強いているのがダメ。性に基づく区別がダメ。人間を区別して、不平等に扱ってるのがダメ。それを正当化している法は憲法違反。
フェミニズムの有名なフレーズに、「個人的なことは政治的なことである」というのがある。『ビリーブ』でも、個人的なことと政治的なことは直結してる。それを問い、糺す場としての法廷。法廷ものにはいつでもロジックとロジックのボクシングのようなスリルがあるけど、この映画は別のレベルでもスリリングだった。といっても私は法律のことはわからないけど、個人的なことのほうは「うわあ、これある」って何度も思った。そんなシチュエーションが何度も描かれる映画だった。
ただ、映画に字幕がどれくらい応えられてたかというと、ちょっと微妙だったと思う。「ハーバード・メン」はさすがに訳出してたけど、ところどころ、的を外した字幕が出てた。まず冒頭、伝記映画によくある断り書きとして表示された“inspired by”の字幕が「~に基づく」になってたのにあやしさを感じた。もし“based on"だったら「~に基づく」でいいけど、“inspired by"なら「~に着想を得た」くらい。存命の実在人物について、そして細部までが重要になる法について扱うから、より自由度の高い“inspired"を使ったんじゃないかと思う。実際、映画では、伝記映画に許される範囲で史実からあちこち変えてるし。のっけから違和感のある字幕が出たせいで、悪い意味で字幕を気にしながら見てしまった。
そもそも邦題からひどい。“on the basis of"は「~に基づいて」。“on the basis of sex"は「性に基づいて」。このタイトルのとおり、映画は、法に内在する、性別に基づく異なる取り扱いに不服を申し立てる裁判を扱う。裁判の場で両者は、過去の判例を引きながらロジックを組み立て、自分の主張の正当性を訴え、判事に認めさせる。信じてるだけじゃどうにもならない場。必要なのは論理性と正当性。でもって、さらに映画が描いているのは、本来なら論理性と正当性によって是非が判断されるはずの法の場でさえ、ギンズバーグは女性であるということで不利益を被ってるということ。「ビリーブ」の出番はない。別に、邦題は直訳に近いほど良いって言ってるわけじゃない。でも、映画を見終わったときに「この邦題もまあアリか」と思えるくらいの邦題にはしてほしい。『ビリーブ』はだめだった。
そんな感じで、あちこちでちらちらと字幕が微妙だった。たとえば、ハーバードに8人だか9人だかしかいない女子学生を集めたディナーの場面。ホストである(当然男性の)教授が、ゲストである女子学生たちに、「男子がいるべき席になぜ君たち女子がいるのか述べよ」と要求する。ひとりめの女子学生が、弁護士は家業だし共同経営者になりたいのでという理由を話すと、教授は“fine"と返す。この“fine"、字幕は「素晴らしい」だったけど、あそこで教授のfineは褒めてない(ちなみに「fine ニュアンス」なんかの適当なワードで検索するといろいろ解説ページが出てきます)。あれは、先生が生徒の答えにまあまあのOKを出す「よろしい」的なfine。
あの場面で女子学生たちは、能力によって入学している=大学にいる資格がある。それなのに、いるべき男子をおしのけた=資格がないとされる。まさに、性に基づいて。だから、資格がないのにそこにいることを自己弁護するように求められる。それが、男子学生には向けられることがない「なぜ弁護士を目指すのか」という質問。本来答える必要がないはずの問いに答えるように求められている。そもそも不当な問い。だから、教授が質問した時点で女子学生たちはあの反応になる。そのうえ、理由を話したら、「よろしい」と言われる=ジャッジされる。上から目線で、審判が下され、許可が降りる。本来必要がないはずの。ジャッジされたから女子たちはあの反応をするし、ルースはあえて「夫のため、良い妻であるために」という回答を返す。あの“fine"を「素晴らしい」にすると、褒めてしまう。それでも「なんでお前に誉められないといけないんだ」という反感のほうは伝えられるかもしれないけど、ジャッジされてること、しかも「よろしい」的な許可が下されてることは抜け落ちる。主人公の経験したことが変わる。そこにも、主人公が、そして映画が問題にしてるものがあったのに。うわあ、これある、と感じるものが。
ほかに、何回か出てくる“A court ought not be affected by the weather of the day, but will be by the climate of the era.”のclimateを「空気」って訳してたのもひっかかった。法廷はその日の天気に影響されるべきではないが、時代の天候の影響は受けるだろう。weatherは天気、climateは気候。天気は一過性のもの、気候はもっと長いスパンで見たときの天気の傾向。でもっていまの日本の政治状況で「空気」といえば、同調圧力や忖度のほう。それなのにweatherとclimateを「天気」と「時代の空気」で訳すと、「天気」と「気候」の差が言わんとしてる目先の状況と大局の比較や、社会と法廷の判断のダイナミックな関係が消える気がする。あと、法が男性を主体性と判断力があり支配する側として想定するときに、女性のほうについては、まるで子供のように、庇護する必要のあるものとして扱うっていう話のとき、字幕は「女子供」でまとめてた気がする。これも、台詞の内容や人物の主張に照らして微妙。細かいけど。細かいけど、映画の中でルースたちが性に基づいて男女を区別する法をいくつも挙げることで法が全体として性差別的であるということを示したように、個々の字幕まで含めた細部が映画の全体を作るわけで…。そういうテーマの映画なんだし、言葉が大事な法廷ものなんだし、もうちょっと気を配った字幕だったらよかったと思う。
まあ、字幕があんまり良くなかったといっても、この映画を見る経験が台無しになったってほどではない。映画を見ながら、後半、なんだかしみしみと泣いてた。悲しいことが起きたわけじゃないし、大感動するような何かが起きたわけでもないと思うんだけど。そして、大きくもない映画館の暗い客席で、他にもそんなふうに泣いてる人がいた。
「笑え」という、女性だけに向けられる要求。笑顔で、男性の(ちょくちょくくだらない)話を聞くという役割。能力にかかわらず、性別によって閉ざされる扉。男性は個人でいられるのに、女性は「女性」を代表することを強いられる理不尽。「女性の代表」であるために追加で課せられる要求。性に基づいた差別的取り扱いの根拠として持ち出される「自然」や「家族」や「国の伝統」。この人は大丈夫だと思っていた相手から発せられるからこそ余計に心に刺さる、カジュアルに発せられる、でも確かに性差別的な言葉。もうこんなに譲歩してやってるじゃないかという、女性の「あつかましさ」への批難。押さえつけておきながら、これは守ってやっているんだというロジック。まっとうな発言に対する、ボーイズ・クラブの嘲笑。ボーイズ・クラブを守るために持ち出される「他の女の嫉妬」。ぜんぶ知ってる(映画が描いたのは主に1950~70年代のアメリカで、私が生きてるのはいまの日本ですけども)。
でも、もし私が男性だったら、こんなふうに、自分自身の経験をちくちく呼び覚まされるような気持ちで見ただろうか?立派な誰かについての興味深い伝記映画としてではなく、いまの自分に直結する、生々しい映画として。この映画が描くのは、アメリカの最高裁判事の、何十年も前の、法廷での戦い。遠い遠い話。にもかかわらずそこに描かれていたのは、高校で、大学で、会社で、路上で、日常で、私に起きた出来事だった。ひとつの経験は小さな傷にすぎない。でも、映画の中で性に基づく区別の実例がいくつも積み重ねられていったように、私のこれまでにもこういう経験は積み重なっていて、その数だけ傷はある。傷を受け��きたことを思い出させる映画だった。うわあ、これ、知ってる。そうだよなあ、あのときもあのときも、そうだった。言葉が、態度が、規則が、男女の人数の差が、私をぎゅうぎゅうと抑えつけていた。言い返したこともあるし、いつものことすぎて流したこともあるし、あとから怒ったこともある。そうだった。こうだった。
と同時に、私はわかってないだろうなと思うところもある。映画には、1950年代という、女性に対する差別があると認識も問題化もされてなかった時代からフェミニストであった男性も出てくる。ルースの夫のマーティン。法の性差別を問う裁判に参加しようとしたマーティンは、職場の人に警告される。契約の上では自分の所属する法律事務所以外の裁判を担当してもOKのはずなのに、NGが出され、マーティンの説得によって参加NGは撤回されてもクビの可能性は撤回されない。性に基づく差別的な取り扱いを自明の前提とする社会で、性差別を良しとしない男性の困難。行動することで揶揄され、あるいは行動しようとするだけでクビをちらつかされる困難。もしかしたら、性に基づく区別や、家父長制下の規範的な男性像を受け入れることを是としない男性にとってはあるあるなエピソードなのかもしれない。たとえばフェミニストの男性。育児休暇をとりたい男性や主夫でありたい男性。そうでなくても、この内容の映画をわざわざ見に行くタイプの男性にとって。映画の中では、男性の持ち出す「女の嫉妬」によって女性たちが分断されてたけど、男性たちだって分断されてる。立ち位置によって、見える世界も経験も異なる。私が言われたことのない「男のくせに」を、今日もどこかで誰かが言われている。そういう人たちが日常でどういう経験をしていて、この映画に何を見たのかは私にはわからない。(あからさまに性差別的でありながら、名声を得て元気に地位を保ってる男性がたくさんいることのほうなら知ってるけど!)
それに、「うわあ、これ知ってる」という感覚も、ろくに社会にかかわらずに生きてる私ですら、という話。家庭で、会社で、社会でばりばり生きてる女性たちが、私的な差別や構造的な差別にどれほど曝されているのかも、私には想像がつかない。彼女たちに、こうした映画2本を映画館で見る時間があるのかさえ。「うわあ、これある」って、つまりは経験のことだ。自分の経験をいくつも思い出すから、この映画を見たほかのひとたちの経験のことを知りたくなる。
個々人の経験の話はさておいても、ものすごく「いま」の映画だと思いながら見た。ひとつはロー対ウェイド裁判。映画でギンズバーグが法廷で戦っていたのと同じ時期の1973年、中絶を女性の権利として認める判決がでた。中絶を禁止する法は違憲であるという判断。でもいまアメリカでは、アラバマ州をはじめ、中絶を事実上不可能にする法が通ろうとしている。映画の中では、「自分の性別に特別扱いをお願いしているのではない。同胞たちに求めているのは、私たちの首を踏みつけている足をどけてほしいということ」(“I ask no favor for my sex; all I ask of our brethren is that they take their feet off our necks.“)��いう言葉が引用されていた。中絶禁止に反対する人たちのプラカードで見かけるのが、「私の子宮から手を引け」というフレーズ。中絶禁止は、それを選択できるべき女性たちの首を踏みつける。ロー対ウェイドの裁判は踏みつける足をどかせたはずなのに、法はいままた女性たちを踏もうとしてる。だから、踏みつける足をどかせた話であり、踏みつける足が誰のもので、どんな体にくっついている足なのかを描くこの映画は、とても「いま」の映画。
もうひとつは、去年、ブレット・カバノーが最高裁判事に承認されたこと。アメリカでは大統領が最高裁判事を指名し、誰を指名するかは大統領の政治的立ち位置を如実に反映する。そして、政治的にどんな立ち位置のどんな人が最高裁の判事の椅子に座るかは、アメリカ社会のありかたに大きく影響する。最近なら、同性婚についての最高裁の判断(あの裁判だって、性指向に基づいて結婚の権利が制限されるという不平等を撤回する裁判だった)。最高裁判事の候補となったカバノーには、承認までの過程で、大学時代の性的暴行の疑惑が浮上した。でも、調査はとてもとても不十分なものだった。エリート男性たちが互いにかばいあい、公聴会でのカバノーの態度も、かんしゃくを起こした子供のような、「感情的」なものだった。被害を訴えた女性、クリスティーン・ブラジー・フォード教授の証言とは対照的に。結局カバノーは判事に承認されて、最高裁は保守化することになった。ギンズバーグがいる最高裁は、そういう場所。法はそういう場所で審査される。映画は、伝記映画によくある構成としてギンズバーグの貢献と勝利にクローズアップして終わる(邦題の副題だって「未来への大逆転」だ)けど、話には続きがある。映画で描かれていた話と地続きの「いま」が。
日本のことも思った。文字通り男子学生のための席が用意されていた東京医科大の入試。夫の転勤に左右される妻のキャリア。税収を増やすことを目的とした配偶者控除廃止のために持ち出された、働く女性対主婦=女性対女性の構図。ついこの前トランプ大統領が来日したとき、迎える日本側の十数人の中に女性は一人だけだった。『ビリーブ』冒頭、エリート男性の波のなかに、ギンズバーグがたった一人の女性としていたのと同じように。それに、女性への性暴力に対する、相次ぐ不起訴や無罪判決。もしそれが今の司法の判断として妥当なら、法のほうを変える必要がある。個人的にも政治的にも、いまの日本を照らす映画でもあった。
ギンズバーグのドキュメンタリー映画『RBG』を一緒に見た。『ビリーブ』の大詰めで、重要な裁判で主張を言いきったギンズバーグを見たマーティンが明らかに「惚れなおした…」みたいな顔をしていて、あなたこの場でそんなのろけたことを思ったけど、『RBG』を見たら現実の2人のほうがずっとずっと相思相愛だった。それに、『ビリーブ』は1970年代の裁判をピックアップして描いたけど、『RBG』がギンズバーグ現象とも呼ぶべきものを紹介しているとおり、変革を起こす人、支える人はいまも生まれ続けている(まさか映画館のスクリーンでTumblrの画面を見るとは…。エンド・クレジットで、ミームの作者を全員は探しきれなかったけど創作にありがとうと出していたのはかなり新しいなと思いました)。『ビリーブ』は『ビリーブ』のやりかたで「いま」についての映画でもあったけど、『RBG』はもっと直接的に「いま」についての映画だった。
『RBG』に登場した、性差別的な取り扱いの撤回を求めて裁判を起こした女性の言葉が印象に残った。「当時は良い女の子というのは声を上げるものではないという考えかたがあった。もしかしたら今も。まあ…お気の毒さま」と。成し遂げられたものと、まだ変わらないもの、変化が何によって成し遂げられたのかについての、核心を突いた言葉だと思う。“‘Nice girls don’t speak up.’ Well… too bad."って、Tシャツで欲しいくらい。
口を閉ざしたまま「良い」(nice)人でいるより、声を挙げて「悪名高い」(notorious)人でいることが必要な状況、必要な時代はある。ギンズバーグがいまになって若い女性たちのあいだでアイコンになっているのもわかる。『ビリーブ』は過去の話、『RBG』は現在の話、その先に未来もあるんだろうと思う。裁判についてギンズバーグが言っていたように、一度にひとつ。そうやって未来に行く。2本続けて見られたおかげで、そんなことを思った。
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その通りだと感じる。
アニメ・オタク文化を除くと「先進国の1つ」に過ぎない。
日本人が「○○なのは日本だけ」*(だからスゴい)を連発するのは、褒め続けないと心が折れやすい国民性だからだと私は思っている。
*例えば「落とし物が戻ってくるのは日本だけ」「ちゃんと列を作って順番待ちするのは日本だけ」など。
承認欲求が強く、自己肯定感・自己評価・幸福感・充実感が低いから、ちょっとの間褒められなかっただけでも、「私って居ても居なくても同じだよね」が始まる。
欧米だと「自分でそう感じるってことはココは合わないんだろうね」で終わりであり、自分の居場所は自分で見つけなさいという文化。
日本は、「そんなことないよ、○○は↑↑だし、□□はあなたが居なきゃ↓↓だし」と言ってあげなきゃいけないし、言ってもらうために「私って」という発言をする人が多い。
が、突出した個性や特別な能力を持っている人というのはそんなにいるわけではないので、褒める側もいい加減ネタ切れになる。だから「日本人であること」そのものが素晴らしいという方向に持っていく方が、個々の存在を褒めずに済むから楽という傾向がある。
その分日本人は所属意識が強い。所属しているからには守ってくれるよね?支援してくれるよね?的な依存心も強い。
依存心が強いから、自分が見放されたり捨てられたりするんじゃないかという恐怖心・警戒心も強く、必然的に褒められていないと不安になる構造下にある。
「カレに捨てられるかも(飽きられるかも)」といつも怯えている女性と同じ心理だ。
時としてわざと気をひくような問題を起こしてみたりする。ミュンヒハウゼン症候群の始まりだ。
本来カレ・カノジョという存在は捨てる・捨てないの前にどちらの所有物でもなく対等であって自立した存在。が、自己肯定感が低い人とは、相手のものになることで居場所を見つけた気がし安心感を得たりする。
栄光浴もその1つだろう。スゴい人の横にいる自分もスゴい的な。
(民度が高い[という噂の])「日本人であること」に誇りを持つソレに通じる。
が、日本人の誰かはスゴくても自分がスゴいことにはならない。
そういう精神性(心の結びつき)に関する認知が独特だと言える。多様性のない国はそうなりやすいという傾向もある。
例えば「アメリカ人であること」と言っても人種も宗教も髪・瞳・肌の色も違うから、特定の何かを指し示さない。
一方日本では、黒い髪、瞳、黄色人種の肌、言語、通貨も単一なので、「日本人であること」というと、特定の「枠」を指すことになり、同調圧力が高まる上に、地毛が茶色の生徒の髪を黒く染めさせてみたりする変質性(執着心)が出てくる。
風土的、構造的な特性と言える。
イイ面もあるが、ダメなところはとことんダメなので、多様性の時代なんだからそろそろちょっとくらい見直してみてもイイんじゃないかと私は思う。
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同じところぐるぐる
こんにちは。久しぶりにお気に入りのカフェに来ています。日記を書くのは久しぶりです。更新は土曜日で途切れていますが、日曜日と月曜日、あげていないだけで書いてはいました。なんであげなかったのかというと、タイミングが合わなかったからです。なんのタイミングなのかは、いまいち言葉になりません。とにかく日記を書くのは久しぶりです。
自分の機嫌の取り方を知ることはけっこう大事だなと思いました。僕にとってそれは、近くのカフェで本を読むか何か書くかしているときかもしれません。思ったより、僕は読み書きが好きかもです。大して好きではないような気がしていたというか、比べるものでもないですが、自分より書いたり読んだりするのが好きな人なんて腐るほどいるとこれまでは思っていて、今もその考え自体は変わっていないのですが、今は他者と比べてとかじゃなくて、とにかく自分は、何か書いたり読んだりするのが好きなような気がしたのです。なんかうまくまとまってない。
色々と書きたいことはあります。問題は何から書くかです、一昨日からはじまった学校のことについて書きます。
昨日、久しぶりにゼミがありました。日記で学校のことについて触れるのは初めてですね。僕は文章を書いたり、読んだり、編集したりする学科に通っています。僕は主に小説を書いています。ゼミも、小説を読んだり、書いたりするゼミです。
今年から僕は四年生になります。卒業制作というやつをやらないといけません。小説なり脚本なり詩なり評論なり何かしらの作品を書いて、それで持って卒業とするというやつです。昨日の授業では、みんながどういう作品を書こうと思っているのかということについて話をしました。
まず、三年生に話が振られて、三年生はそれぞれ、春休み中にどういうことをしていたのか、何か熱中していたことはあるか話しました。ホラー映画を見ていたという人がいて、ホラー映画の話題で盛り上がりました。ホラー映画の世界には、世界3代スプラッターというやつがいるらしいです。十三日の金曜日、ハロウィン、モルグ街の殺人、3代と言っておきながらもう一人いたのですが、そのもう一人��忘れました。
ホラー映画に僕は疎いのですが、皆さんはどうですか? ホラー映画見られる人ですか? 僕は高校二年生のときに「貞子VS伽耶子」を見に行って、ずっと目をつむっていました。
先に書いた通り、四年生は、卒業制作で何を書くかについて話をしました。基本的に、みんなあらかじめ提出していた「概要書」に沿って話しました。概要書は、全員に紙とデータで共有されていました。学校だとよくあることです。目で読みながら、耳で同じ話を聞かされる。これって何の意味があるのでしょうか。内容にもよりますが、基本的に、話し手の話すスピードより、聞き手の読むスピードの方が早いです。
紙を配っているのにわざわざ説明させる教師が悪い、みたいな感じで書いてしまいましたが、悪かったのは僕です。別に先生は、書いたことと同じことを喋れなんて言っていません。書いた内容とちょっと違う切り口で話せばよかったのだと思います。でも、基本的にどういうものを書きたいか、大体のところは概要書のほうに書いてしまっているので、そこに書かれていないことを話すのは難しいです。紙に書いていることをなぞらず、自分で考えながら話しているつもりでも、いつの間にか書いたことと同じことを話していることは多々あります。これってどうなんでしょうか。紙を配らず口頭だけの説明にしたら、全員がその内容を理解することは難しくなると思います。聞き手が受け取り切れるかという問題もあるし、話し手が過不足なく話せるかという問題もあります。かと言って、紙だけ配ってじゃあ読んでにしたら、教室内は静まりかえります。静まり返ったら、全員が読み終えて、はい、じゃあ誰か意見ある人ってなったとき、話しづらくなるような気もします。あと純粋に、文字だけじゃなくて書いたその人の肉声で聞けるというのがいいのかもしれません。でもそれなら、配った紙に情報を書きすぎない方はいいような気がします。その方が話者の話に耳を傾ける気になれます。でもそれだと、聞き手は話者の話を記憶する必要は出てきます。後からその内容について話をするなら、見ながら話せる資料はあった方がいいです。メモ取れっていう話かもしれませんが、メモを取っていたら話を十分に聞くことはできなくなるような気がします。情報は抜き出せても、その場の雰囲気を感じることはできないというか。僕のメモ取りが下手なだけかもしれません。
話が逸れました。それで全員話をしたわけです。僕の順番は最初から三番目でした。わりと早かったです。こういうみんなの前で話す場面って緊張するし、大好きではないですが、嫌いじゃないです。というか、なんかちょっといい気分になれます。自己顕示欲です。
僕の概要書は、みんなからけっこう面白がられました。多分、ストーリーラインについて書いていなかったからだと思います。でも、他にもストーリーについては触れていなかった人がいたので、多分それだけではありませんでした。自分ではよく分かっていません。とにかく興味を持ってもらえて嬉しかったです。休み時間が終わって教室に戻ってきたとき、みんなは僕の概要書の話をしていました。休み時間を使ってまで話してくれていたということではなく、僕が戻ってくるのが遅かったから、もう授業が始まっていたのだと思います。でも、わりと力が抜けた雰囲気で、あんまり授業っぽくなくて、僕はそこから勝手に本音を感じ取りました。本人がいないところで好意的に話してもらえるってけっこう本当っていうか、お世辞じゃないような気がします。
別に自慢がしたいわけじゃなくて、嬉しかったということを共有したいとは思ったのかもしれませんが、多分そういうことだけでもなくて、うれしかった反面、ちょっと卒制を書くのが怖くなったということが言いたいのだと思います。これまで、僕はゼミで三つの作品を書いてきました。二年の後期、三年の前期、三年の後期の三回です。評価は少しずつ上がっていきました。先生からもそうですし、同じゼミのみんなからもそうです。評価がすべてではありませんが、でもやっぱり、みんなに面白いと言ってもらえると嬉しいし、いい作品だと思ったと言ってもらえると嬉しいです。それは承認欲求が満たされるとかいうことでもなくて、作品を通して自分を肯定してもらえたような気がするということで、意味的には承認欲求と同じになってしまうのですが、僕のなかでは、この二つは明確に違います。二つの気持ちがあるのです。肯定されていい気になることと、肯定されて安心できることは、似て非なるものです。いい気になる方は、周りを蹴落としたくなる、どこか卑屈で攻撃的な気持ちにつながります。安心する方は、次はどうしたらいいだろう、褒められたのは今回だけで、次は否定されるかもしれないという不安感、恐怖感につながります。どっちもどっちではありますが、少なくとも、後者は良い意味で自己完結できます。人のせいにはせずに済みます。でも、これはこれで不健康かもしれません。不健康というか、行き過ぎると自分はどうしたいのかを見極められなくなるような気がします。行き着くところは媚びというか。
多分、自分が思うこと、自分がやりたいことに従うことが大事なんだと思います。でもそれは、周りにどう思われてもいいからやるのではなく、自分がやりたいようにやったうえで、誰かに認めてほしいと思ってやるべきなのだと思います。それは媚びではないです。媚びではなくて、全開の自分を見て、誰かに笑ってほしいという感じです。すごい自分になるためじゃなくて、全開の自分で誰かと繋がるためです。どうなってもいいから、誰にも見向きされなくてもいいからじゃなくて、誰かに見てほしいし、誰かと繋がりたいけれど、それでも自分を押し通す勇気です。誰にも認められなくたっていいいと言うのは、結局、否定されることを恐れていることです。否定も肯定も、全部引き受けられるようになりたいです。メモ帳のトップに「悶えながらでいい。前に進め」という言葉をピン留めしているのですが、大体そういうことです。傷つく可能性を排除してからやるのではなく、自分の思いによって傷つく可能性を引き受けたままやり続けられたらなって思います。
とは言うものの、その辺のことが僕にはよく分からないのです。その辺のことというのは、傷とその耐性についてです。僕は、本気で何かをやるということ、自分の感覚と思考を押し殺さないということは、ほとんど傷つくことと同義だと思っています。傷つかないということは、傷ついていることから目を逸らしてるだけではないかとさえ思っています。傷つくようなことでも、嬉しいことでも、外部からの刺激を受ける膜は共通しているのではないかと思うのです。嬉しいことが起こったときと嫌なことが起きたときでその「膜」を使い分けることはできなくて、嬉しいことを強く感じるには痛みも強く感じないといけないし、痛みを強く感じた人しか、強い喜びを感じることはできないのではないかなと思うのです。もしかしたらこれは、テレビドラマの見過ぎなのかもしれません。何か辛いことがあってそこから立ち直って大円団というのが、テレビドラマお得意のパターンだからです。強いネガティブが強いポジティブに転じるイメージはテレビドラマからきているのかもしれません。
でも僕が言いたいことは、ドラマのそういうのとも少し違うような気がしています。ドラマだと往々にして、立ち直った後は穏やかな日々が続きます。もしくはそういう雰囲気が示されます。そもそもドラマだと、基本的に大きな困難が降りかかってきてそれに打ち克つパターンが多いです。主人公が感じる苦しみは、なんらかの際立った困難によってもたらされるわけです。僕は言いたいのはそれとは違います。僕が言いたのは、生きているだけで苦しいということです。何かあったから苦しいとかではなく、何もなくても苦しいということです。何もなくても苦しいところに何かのきっかけがやってきて一気に爆発するとかそういうことです。
僕は人間が絶対に逃れることができない辛さとか苦しさは、いつか絶対に死ぬということと、死ぬことも含めて、人間は自分を通してしか何かを感じることはできないということだと思っています。これは例外なく、人間なら絶対に突き当たることです。この二つは、何をやっても解決できないものなんじゃないかなと思います。見ないふりはできても、避けて通ることはできません。別に見ないふりをしてもいいのだと思いますが、見ないふりをするということは、膜が厚くなるということで、物事に対する感受性は鈍くなるということではないかと思います。これは本当に僕の主観ですが、ちゃんと痛みを感じない限り、ちゃんと喜びを感じることもできないのではないかと思うのです。自分で意識していてもいなくても誤魔化している分は確実に蓄積されていて、何か嬉しいことがあっても、その蓄積されている誤魔化しに意識を引っ張られて、自分全体で喜びを感じることはできないんじゃないと思うのです。
この考え方って、ものすごく暑苦しいような気がします。殺伐としすぎているというか、乾いているとかいうレベルじゃなく、完全に荒野になっている感じがします。僕のイメージでは傷は二種類あって、一つは乾いている傷で、もう一つは水分のある傷です。これも僕のイメージで実際にそうかは分かりませんが、血が止まってからも痛い傷って一番しんどいような気がします。発火するような傷とでも言えばいいでしょうか。燃やされながら切られるような傷です。火によって止血されるので血は出ません。でも確実に切られてはいるので痛いのはめっちゃ痛いです。というか燃やされてるわけだから火傷の痛みもあります。焦がされながら切られている痛みというのが一番いい表現���もしれません。
水分のある傷というのは、よくある(?)傷です。切られて、血が出て、酷さによっては膿が出るやつです。でも書い��いて気づいたのですが、本当に深い傷のほとんどが前者に分類されるのかもしれません。多分、傷が深ければ深いほど、血が止まってからもずっと痛いです。血が出て止まって瘡蓋になって終わりみたいな傷は往々にして深くないです。そもそも焦がされながら切られている時点で普通の傷より痛いに決まっています。同じ強さの痛みでない時点でこの比較は間違っています。
どんどん脱線していっていて何が書きたかったのか分からなくなってきてしまいました。一番最初に戻ります。傷とその耐性についてです。痛みを正面から感じたまま進むことが大事と書きましたが、本当に痛い場合、前に進むことなんて出来やしないんじゃないかと思うのです。自分が許容できる限界まで痛みを引き上げてそこでストップさせているから動けるのであって、ストップさせなければ動けないはずです。これは結局、目を逸らすことと大して違いません。痛みから目を逸らすというのは、痛みを感じないようにコントローするということです。痛みを感じるように仕向けたところで限界でストップさせるのであれば、それはコントロールしていることと同じです。というか仕向けると言っている時点で嘘です。
最近読んだ本のなかに死について触れた章がありました。まず作者は、死が怖いと言います。そして死は怖いけれど、死ぬということから目を逸らしたくはないと言います。死ぬことを直視しながら生き続けたいと言います。それはいつ死ぬか分からないから一日一日、瞬間瞬間を大切にしようということとは違い、いつ訪れるか分からない、自分からすべてを情け容赦なく奪い去っていく死を見つめることで、自然とあらゆるものが愛おしく見えてくるということです。いつ死ぬか分からないから毎日を大切にでは、結局死ぬことから目を逸らしている。死の恐怖から目を逸らすために毎日を頑張るという形になってしまう。それは死を利用しているだけだ。死を意識することで全てが愛おしく見えてくるというのは、死を完全に直視するからこそ生まれるものであって、恐怖から離れたところにあるのではなく、恐怖と裏表の形で訪れる。というようなことを言います。僕が言いたいのは大体こういうことかもしれません。
でもこれは死ぬことが怖い人の場合で、死ぬことが怖くない人だっていると思います。これ以上生きるのが嫌だから死にやい人、もうこの世でやり残したことがないから死にたい人、色々な人がいると思います。僕は死ぬことが怖いです。もうこれ以上生き続けられないことが嫌だいう部分もあるにはありますが、それ以上に、死んだ後どうなるか分からないということが怖いです。死ぬということが自分がいない世界を外側から眺められるようになることではなく、本当に完全に無になることだとしたらかなり怖いです。どうしたらいいか分からなくなります。
なんの話か分からなくなってきました。あと、前に書いたことと被っている部分がかなりあると思います。
ゼミの話に戻ります。僕の番が終わってから五人の発表があって、ゼミの時間は終わりました。どの人の卒制も面白そうでした。お世辞なしでそう思いました。わりとマジで気になりました。こういうこともあるんですね。人の作品とかどうでもいいと二年くらい前は思っていました。人は変わるものです。
とかそんなことが書きたいわけじゃないです。ゼミの時間はよかったです。久しぶりのゼミでちょっと行くのめんどくさいとか思ってたのですが、行ってみると良かったです。なんかこう、みんなが自由に喋ってて、それを聞いたり、たまに話を振られたときに話すのが楽しかったのです。楽しかったというか、なんかいいなって思いました。そうだな、楽しいとは違うな。なんかいいなと思ったのです。
僕は大学の人となかなか話せません。何気なく会話を交わすことがマジでできません。長期の休みに映画とかに誘うか、授業後に勇気をもって話しかけるかの二択です。「お疲れー」みたいなことができません。授業が終わってから、休み中に一緒に映画を見に行った方が横を通り抜けて行ったとき、僕は気づいていたのに、片付けに集中しているふりをして、何も言いませんでした。どんなチキンだよ。
その後なんとか話しかけようと試みたのですが、うまくいきませんでした。その方は他のゼミの方と話をしていたり、四、五人で立ち話をしていたりしていました。見えてはいました。でも話をされている以上、話しかけることはできません。話を遮ってまで話す内容はありません。その辺で話が終わるのを待つのも挙動不審の極みです。すれ違ったときに話しかけなかったのが全てです。
今気づいたのですが、僕は、話したいのは自分だけという前提で今これを書いています。多分、話したいと思っているのは僕だけです。でも、お相手も方も、目が合えば「おつかれー」くらいは言おうかなと思われていたかもしれません。僕が目を合わそうとしなかったから、お相手もまあいいやとなったのかもしれません。分かりません。でもその可能性はあります。
相手はどう思うか、どう思う可能性があるか、という視点は忘れてはいけないような気がします。自分のことなんて相手は興味ないだろうと思うことは楽です。自分の裁量で行動を決めることができるからです。でもそれじゃだめです。ダメなような気がします。声をかけられないのは拒絶されるのが怖いからです。相手が本当に僕のことが嫌いな可能性はあります。顔も見たくない、声も聞きたくない、と思われている可能性はあります。でも、そうじゃない可能性もあると思います。まだ判断できていません。自然に「お疲れー」が言えたら良かったような気がします。
結局、いつも書いていることに落ち着いてしまったような気がします。なんか変化がない。行き詰まっている感があるのでちょっと考え方を変えてみたいです。何をみても似たようなことしか考えられない説。
もう遅いので寝ます。今日は夕方と深夜に分けて書きました。
おやすみなさい。
前に書いたけどあげてなかった分があるので、それも一緒にあげます。一気に三つ投稿です。いえーい。
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徒然
なんとなくひっそり書いてみよかなと思い書いてみる。 これから述べる事は個人的な意見で個別の実際に起きた事柄に対してではなく、僕の中での一般論として書きます。実際に起きた出来事と結びつけるような短絡的な記事ではないのでそういう解釈をせず、僕とこれを読んでるあなたとの会話だと思って読んでくださいませ。 お願いします。 パブレイディオの中での質問でも近年ライブにおける観客のあり方についての内容が多く、SNS上でも議論が多く交わされてたりしますね。仲のいいファンの人とも時々そういう話になったり、、、普段は圧倒的に演者側としてライブという現場に関わる事が多いんだけど、この記事は演者としても観客としてもライブにおけるマナーとかルールに関して思うことを徒然書いてみたい。 いろんな想いが交錯していて、見ていて混乱してる人も沢山いるなって感じるから両方の立場に立ってなるべく整理してなにかの役に立てばと思います。 1.マナー よく盛り上がる(炎上ともいうけどね笑)ワードの1つにマナーという言葉がある。 終演後にゴミが散らかっていた ヒールで踏まれた クラウドサーフしてたら下から殴られた 剥がされた 陣取ってる などなど、、、 言い出したらキリがないんだけど、ひとつだけ僕がハッキリ思うのは マナー=ルール ではないという事。 マナーというのは、公共の場での自分以外のひとに対する振る舞いのことでいいかな? 極端な言い方をすると、他者に対して上品に振る舞えるかどうかという事だと思ってる。 例えば 切符を買うときに列に並ぶ。(今時切符買うときに並ぶ事もそんなないけど笑) 食事の時に音を立てない。 みたいな。 模範とされる行動に対して(これがわからない人は読まなくて良いです。時間の無駄なので。)自分がどうするか? どう選択するか?がマナーなんですよね。 自分がマナーがある行動をする(基本的にマナーがある行動に対して不快は伴わないとします。過剰なマナーはまた別の話)誰かが真似をする。自分も他者からのマナーの恩恵に預かってお互い心地よくその場を後にする事ができる。 だと思うんです。 結局自分の選択なんですよね。 自分がどうありたいか? 公共の場で自分が他人に対してどう振る舞えるか?それに対してリターンを求める事は違うと僕は思います。 仮に不快な思いをしたとしてもね。 自分はマナーがしっかりしてるから、マナーがなってないヤツは間違ってる!悪だ! という断罪は残念ながら悲しいけども当てはまらないんです。 原則!罪とされる行動は、ルールに違反した時なのです。 例えば 切符を買う列に並んで割り込んできた人に突き飛ばされて怪我をした。(切符笑) 隣で食事をしてる人が汚い食べ方をして汁が飛んできて服が汚れた(そんな事あるかよ笑) あくまで例えです。 マナーは他人に強要できないんですよ。 なぜかって。 自分が自分のために、見ず知らずの人、公共の場のために、提供するものだからです。 受けるものではないんです。 お互いできたら気持ちいいよね。で、しかないと僕は思ってます。 何年も前からツイッターでも公の精神(こういう概念が実際あるか知らないですけど自分が作った概念です。)について述べたりしてるんだけど、日本人のマナーに対する考え方って少し欧米の人の捉え方と違う気がするんだよね。 僕は母親が外国人でスペイン人だから、小さい頃から物凄く公共の場でマナーについて躾けられた。 人に指を指してはいけない。 綺麗に食べなさい。 上品に振る舞いなさい。 それができない人は恥ずかしい人はなんだよ! と、こんな感じで。 残念ながら若い頃はだいぶ逸脱した事もあって「ごめんなさいおかあちゃん!」なんだけども笑 そういう母親の感覚でいうと、マナーがなってない人は「あの人はみっともない人だね。」ていう風に解釈されます。決して「マナーがなってないからあの人は悪い人だね。」にはなりません。これはみんな少なからずわかる事だと思います。 あくまでその個人に対しての感覚な気がするんですよね。 僕の最近の皮膚感覚だと、捉え方がが集団対集団という捉え方になる事があるからマナーが悪い=ルールに反してるって解釈が成り立っちゃう人が多い気がしてるし、マナーを堅苦しく感じてる人、多いんじゃないかな?マナーは自分が気持ちよくやるモノだと思ってる。 マナーができる人達vsマナーがなってない人達 マナーが悪い人がいて不快でも仕方ないんですよ。自分がいくら不快だからって強要する事はやっぱりできない。もっといえば相手からすれば「私はルールを守ってる、私の何が悪いの?」になって平行線のままなのです。 こういう議論になると出てくるのが「意識高い」みたいな事言って揶揄するゲスい論調なんですけどね、、、笑 マナーができない人はわからないんですよ。その場で他人に対しても自分に対しても、振る舞い自体について考えてないですからね。はい。具体例は切符買う時の列でなんとなく想像してください笑 そんなこんなで、不快な思いをする人、マナーがわからない人同士で喧嘩する時に共通項で持ち出されるのがルールなんですよね。 お互い全然違うベクトルにいるのに重なってる部分だけで話をするからタチが悪い。 不快な思いをした人は、悲惨な思いをするし、やめろや!ってめっちゃ思うんだけど(僕自身何度もあります、、、)自分がマナーを持って接してる事に誇りを持ってください。悲しいけどそういうものだと思ってます。 ルールがない所にルールを強要して攻撃する事もある意味マナー違反かもしれませんよ? わかってほしいんですけどね、、、 楽しみ方は千差万別、、、社会の縮図が織りなす人間模様です、、、。 2.ルール これは明確なので話しやすいです。 理由があって禁止されてる事を守りましょうというガイドラインがルールですね。 1番身近な例だと刑法ですかね。 例えば、人の財産を盗めば捕まって裁きを受けますよ。法を犯す事を罪として断罪しますよ。これも平たく言えばルールですね。 社会で生活していたら、六法上の罪には問われないけど、色んなルールがありますね。 例えば 街のリハーサルスタジオでよくある張り紙 「スタジオ内で飲食はしないでください」 これには色んな理由がありますね。 1番大きな理由は飲み物をこぼした時に機材が壊れるから。とか、匂いがこもるから。とか、汚れたら次に使う人が不快だから。 そう。ここにはマナーも含まれるんですよね。商業スペースだけども、公共の場として、色んな人が快適に過ごしてもらうための内容も含まれてたりします。 なぜか。 マナーを守れない人がいるから、商業として成り立たせるためにマナーをある意味ルール化して強制してるんですよね。 映画館の上映前のマナー広告(言い換えるとこういうルールなのでこういう風に見てください広告)、電話の電源オフ、とか、大きい声で喋らないとか。 映画館なんかはかなり明確にしてるかと思います。実際やったからといって法には触れないけど、言わないと逸脱する人が出てきちゃうからちゃんと言っとこう。また沢山の人にきて欲しいしって具合です。 べつに映画館で完璧なマナーで観ても映画館の人は褒めてくれません笑 商売のために伝えてるだけです笑 ココがマナーとルールの微妙な線引きなんです。 不快に思う人をなくしたいから、場を提供する立場からルールを設けてるだけにすぎません。 そのルールに従えないお客さんは利用しないでください。って事にもつながります。 ルールに従う人、従わない人、どちらもお客さんです。どちらもいてくれた方が利益になるんです。本来。 だけど、マナーを守れない人がいると不快に思った人が来なくなる。そちらの損失の方が大きいからルールを設けてるだけなんです。 自分のマナー、哲学等が、他人にとってどうであれ強要できない代わりに、最低限みんなが不快に感じず過ごせるガイドラインが、公共の場で設けられてるルールだと思いますよ。 3.迷惑 マナーが守れない人がいて迷惑だなー ルールを守れない人がいて迷惑だなー ここまで読んできて両方似て非なるモノだったりする事を何となく理解していただけると嬉しいです。僕の勝手な解釈だけどね。 我慢するしかないのか、、、 と、思ったあなた!決してそうではないのです。 こんな文言を目にした事はありせんか?? 「ほかのお客様の迷惑になる行為はおやめください」 これは殆どの公共の場で設けられてるルールです。なんでわざわざこう書いてるかって笑 書いてない事を「逆手にとって」「限度を超えた」「迷惑な事」を「わざわざ」やらかす(程度の低い)人が社会には一定数いるからです。 その場にいる沢山の人に対して迷惑な行為はルール違反です。もっと言うと限度を越えれば、法には触れないけども罪とも言えます。 あえてハッキリ言いますが、そういう逸脱した行為を知ってか知らずかワザとかピュアなのか、行動に移してしまう人が一定数います。残念ながら。それが社会なんです、、、 どうしたら、どう育ったらそんな行動とれるのか僕にはわからないのですが迷惑な行為を自覚してて「なんて事言うんだ俺は常識人だ!」ていう人が居たら、今すぐやめてくださいね。やめられないなら何かしら心に問題があります。 そんな感じでそう考えたら考えたで一方的に責める気持ちも起きないんですよね。 だって、おんなじ人間だしお客さんだもん。 4.個別に考える ここまでマナー、ルール、迷惑について述べてきましたけども。 よくライブの事で言い合いになってる原因にこの3つを全部同じテーブルでごちゃ混ぜにしてる事があるように思います。 マナーが悪い事は迷惑だけど、ルール違反でなかったり。 ルール違反してるけど、鑑賞マナーは守っていたり。 迷惑をかけられた方としてはすごいストレスだし、なんとかやめさせたいが故に色々持ち出したりもするんだけど、本当は個別に考えて議論していかなきゃいけない事だったりするのかなと思います。 5.楽しみ方 よく問題になるのがモッシュやダイブのあり方。個人的にはそゆことに興味がない(僕は昔から自分がやる事にあんまり興味ないです。)方なので、いや、もちろんステージに立っててグワーって盛り上がると嬉しいっていう時期ももちろんありました。 今は、それが楽しみ方ならいいんじゃない?思いっきり飛べよー!ってぐらい。 飛んでても飛んでなくても、楽しんでくれてない方が嫌かな。時々、ホントに聴いてくれてるのかな?っていうくらい、飛ぶ事自体が目的化してるんじゃないかなー?って感じる事もあったりして、もしそうならジッと目をつぶって聴いて楽しんでくれて方が嬉しいな。 あなたはどっち派だろう? どちらの人でも願わくば「音楽」を思いっきり楽しんでる人であってほしい。 んー。難しいなぁ。 現場によってはダイブしてなくてもダイブする人を迷惑に思わない人いるし。「そういうもん。」みたいなね。 激しく暴れる人達とそうでない人たちの一般論があまりにも違うからこの問題はなかなか真ん中が見つからないね。 6.建前 とは言いつつ、モッシュダイブは禁止。 というルールはお約束中のお約束です。 なぜか? 本当に重大な事故につながる事があるからなんですね。本当に飛ぶ人も飛ばない人も、大変な事態になってしまう行為なんです。 事故が起きたら当然、主催側も会場も安全の確保の責任を問われますから、禁止にしてるわけです。ですが、本気で禁止すると盛り上がらないライブもあるから黙認されているだけなんですね。 7.演者がやるべき事? ダイブにしても、マナーにしても、誰かがしんどい思いをしてるとしたら、僕ら演者としてはやっぱり考えなきゃいけない事もあるし、お客さんが求めてくることもある。 もちろんみんなに快適に過ごして欲しいからね。危険な事態があれば、演者側から声をかけてやめさせ���事もある。 昔PTPのライブで会場の柵を抜き始めた猛者どもも居て笑 さすがにその時はツアーマネージメントからやめさせてくれって言われて柵戻してもらった事もあったね笑 協力感謝です笑 ホントはさ、ホントはさ。 理想は放置がいいんだけどね笑 なんでかって、オレらはお客さん一人一人にこうやって楽しめよって強制できるほどエラくないし、そんな事言える立場ではないんだよ、基本的に。 でも本当にたくさんの人がいて、しんどい人も迷惑な人も危ない事もたくさんあって。 そんな中、なんとか毎回乗り切ってやれてるんだよね。 マナーが良い人に助けられてるし、飛ぶやつにテンション上げてもらったり。 いろんなエネルギーが飛び交ってるよ、本当に。だから、演者はこうしろああしろって言いたくないはずなんだ。 なにかが正しいかどうかなんて、結局その人の物差しでしかないんだよな。演者でもお客さんでも。 最近は「過度」にアーティストに自分に都合の良い答えを求めてるケースが多い気もするな。アーティストはお母さんじゃないぞ!笑 それ自体は悪い事とは思わないけど、「」をつけたように、「過度」になってはいけないよ。僕ら小学生でもないんだしさ笑 物事には限度がある。 8.限度 僕はお客さんの事、ファンの事大好きだし、大切にしたい。だけど限度ある笑 それでもやっぱり作品を愛してくれてる人は友達でも他人でも大切な存在なんだ。 演者の立場からすると、お客さんは本当にありがたい存在。お客さんが居るから成立するし音楽家としてやっていける。本当に作品に対して演奏に対して楽しんで欲しいし、どこの誰でもどんな人でもお客さんとして遊びにきて欲しいし楽しんでほしい。歴が浅くても深くてもなんでもいいんだ。 自分がやってる事が気に食わなければ、みんなはあっという間に二度と足を運ばなくなる。そんな事は100も承知で、みんな覚悟をもって取り組んでるよ。 そう。 マナーにも迷惑にもルールにも限度がある。 例えば、僕に「写真撮ってください」ってお願いしてきた人に対して「うるせー忙しいからどっか他いけよ」って言っちゃたらそれはアーティストとして客商売(こういう乱暴な言い方好きじゃないけど敢えて使うね)のマナーの限度超えてるじゃない? でも、例えば僕がお客さんと写真撮ってて急に割り込んできた人が「おい、お前オレと写真撮って当たり前だろ?アーティストなんだから、撮れよ今すぐによー!」って言われたら絶対撮らないよ。お客さんとしてのマナーの限度を超えてるから。 だからって少し話変わるけど、、、例えばダイブしたら即退場!とかルールでガチガチに縛ったらツマンナイじゃんね、、、。 9.お互い人間 お互い人間だからね、限度超えたら嫌われるだけなんだよね。ルール破るのは言わずもがなもちろんダメな事。 最低限のマナーも守らず「周りに多大な迷惑かける人」は映画館でもライブハウスでもリハーサルスタジオでも電車でも例えルールに違反してなくても「いて欲しくない」かな。 これはみんなも同じ気持ちなハズだね。 10.言いたい事がわからなくなってきた。 笑笑笑 うん。なんだろ。よく思うのはさ、最初の方でも書いたけど色んな事を一緒にしちゃうと気持ちの整理も問題も解決しないって事なんだよね。 マナー、ルール、迷惑。 近いところにあるけど、それぞれ違う意味を持ってる。ライブハウスとかって、何度も言ってる事なんだけど、社会の縮図で犯罪を犯す奴もいるし、優しい人も短気な人もグッチャグチャになってる場所なんだよね。でもそんな沢山の人が1つの場所で1つの作品に向かって感動したり熱くなれるって素敵な事だよね。 あなたはどんな楽しみ方をしたいのかな? あなたはどんな人になりたい? どんな時間を過ごしたい? 一人一人の気持ちがその日のライブを素晴らしいモノにも悲しいモノにもできるって事、知っていてほしい。 願わくばみんながお互い思いやれる世の中だったらもっと良いのになってよく考えるよ。 、、、。 つかれたー。3時間くらいかかった、、、汗 少し半端だけど。 寝ます。 終わり。笑
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