Tumgik
bea1110is · 5 years
Text
*成人式に託けて。
線路に耳を当てて、音を聞く行為を2度したことがある。
1回目は松山。夜2時何も通らない路面電車。片側2車線の大きな通りの真ん中にある線路に、垂直になるように体を重ねた。自分はこの場で死なないと考えながら、線路の冷たさと微かに遠くの車の響きを感じた。
長谷寺の裏手には、切り通しを通って鎌倉を見下ろす山頂まで続く道ある。途中の小さな踏切から隣の踏切まで30メートル。二両の江ノ電が丁度おさまる程度の距離で信号が重なって鳴る。次の電車までの数分を自分だけのものにして、死なない時間を呼ぶ。
行為のきっかけは、もちろん鉄橋を渡る4人のシーンから。
オレゴンの人口1281人の小さな田舎町キャッスルロックが全世界である少年にとっての線路伝いの非世界への旅は相当なものだ。
大人になった当人がメタ構造によって描くあの哀愁である。(Stand by Me)
高校の時まで、進学校で過ごした自分が大人になった時に思い出すことはなんなのかといつも問うていた。親友とは、少年時代とは。
リバーフェニックスが死んだ23歳まであと3年。2日間も線路を歩く記憶なんて自分にはないけれど、それに準ずるものを自分は思い出すんだろうか。
*2020/1/15
0 notes
bea1110is · 5 years
Text
Imram
*この類の文章に書く内容は非常に困る。開成生活がどれだけ波乱に満ち、そしてどれだけ最高であったか。開成六年間の出来事どれを取っても非常に大きな影響を与えているし、どれか一節を選べと言われても、その候補を挙げるだけでこの頁が埋まってしまう。これからの意気込みも「頑張りたい」という一言に尽きてしまうので何か違う視点から書いてみたい。
 独りが好きだ。何事につけても、周りとは一線を画している感覚、自分だけという優越感に浸るのである。孤独がかえって優越感を際立たせるようだ。協調性を欠いているつもりはなく、内心ふとこのことに思い至る時があるのだ。
 独りでいる時間は様々である。友を誘えずに休日おもむろに向かうカフェ。塾からの帰路に佇む地下鉄の車内。誰も私のことを知らない空間で私だけがその場の人たちのことを意識し、考え、想像を巡らしている。そして最後は自分自身の存在についての思考になんとなく帰着して、現実に戻る。そんなことを繰り返しているうちに時間は刻々と過ぎていってしまう。
 甘える事が好きだ。人に甘んじて行動するということではなく、誰もが幼少期に家族や先生に持つそれである。自分の膝の上にひとまわり体の小さい友を乗せていたいし、先輩にはできる限りのわがままを言っていたい。大人には立派だと褒めてもらいたい。選挙権を持つ歳にもなると厄介なのは承知しているが、その対価に見合う努力をすることで勝ち得てきた。幸い開成生活では友、先輩、恩師に恵まれ、その欲求を満たされない時はなかったといえよう。
 一見上記の二つは矛盾をはらんでいるが、両者はコインの裏表であり、そのバランスが私を形作っている。
 思えば運動会の他己紹介には、「一」の名を冠すという風に評された。これは前者の方であろうか。窓辺で雨を眺める物静かな青年ではなく、寧ろ率先して周囲の事物を悪戯に変え、大声で話す。これは後者の現れであろうか。どちらにせよこの性格が排されることなく六年間を終える事ができたのは多分に開成という環境に依るはずだ。
 ただ、開成という恵まれた環境の中で、何を以って「森一真」というアイデンティティが確立するのかには常に不安を感じていた。バスケ部部長、俳句甲子園全国大会優勝、Mr.開成、運動会中一係優勝、紫組総合優勝。開成というコミュニティで話題にするには十分なネタはあるが、逆にそのフィルター越しに見られる不安と、自分らしさへの確信が持てない不安とに苛まれることも多くあった。勿論結論など出るわけはなく、考えていても仕方がないという解に行き着くことがほとんどであった。そんな時に私は独りになりたがり、そして周囲に対して自分の存在を認めて欲しくなるのである。
 荷風は、街中の喧騒を眺めると、なぜ人々が興じる事物に対して自分は興じることができず、一歩引いた立ち位置に自らを置いてしまうのかと考えた。尾崎は抗い続けた「支配」からの「卒業」に抗うことができず、切なさとともにその喧騒に身を投じていった。
 これからの私もそんな喧騒に身を沈めていくのだろうか。小学生の私にとって男子校は未知の物に他ならなかったし、中一にあがったばかりの私にとっては五つ上の先輩からの突如の指導も理解ができなかったし、五年後に自らが後輩への接し方の意義と手段に真剣に向き合いながら同じことを行うことも予期していなかった。同様に、開成という印籠を失った時に社会で経験するであろうことの未知性は計り知れない。その未知なる世界では今度は何が自己確立の要素となるのだろうか。その問いの行き着く先は実は開成時代と変わらないのだろう。寧ろ行き着く解こそが開成という環境が私に与えてくれた大きな影響の賜物であるとまで言えるかもしれない。
 ただ開き直ってしまえばどれだけ社会の喧騒の中に溺れていったとしても、思えば開成も相当な喧騒そのものであったのだから、自分を取り巻く環境に嫌気がさしたらいつでも現実から逃げて開成のコミュニティに戻って来ればいいのかもしれない。そんなときは独りで訪れたカフェにまた行こう。ただ今度ばかりは、開成生を、甘えん坊の私をあやしてくれていた愛すべき開成生を、連れて行こう。
本文は2018年3月開成高校卒業時の卒業文集に掲載。
2 notes · View notes