#帝釈天参道商店街
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寅さんとゆかりが深い髙木屋さんの店内で食べてきました。かなり昔に利用した時はビール飲めたんだけれど、今は出してなくてかなり残念。 草だんごは相変わらずの美味しさ。私はあんこ半分くらいの方が、だんごの苦味や渋みを感じられてお気に入り。残すのが勿体無いから次に立ち寄る時に覚えてたら最初から「半分くらいで」って言えばいいかな?会社の人達にお土産にしようかとも思ったけれど「今日中に食べてもらわないと柔らかさが失われる」って聞いて持ち帰りは断念。 一緒に住む家族がいたり、その後で人と会う時の手土産には最高ですよね。 美味しいかったー。 #柴又 #葛飾 #葛飾区 #葛飾柴又 #だんご #団子 #草だんご #草団子 #帝釈天 #帝釈天参道 #帝釈天参道商店街 #あんこ #和菓子 #和スウィーツ #髙木屋老舗 #髙木屋老舗草だんご #髙木屋 #高木屋老舗 #高木屋 #高木屋老舗の草だんご (高木屋老舗) https://www.instagram.com/p/CmGjfGnpUQ-/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ベルリン・ヴェネツィア行ってきました~~~!超長いレポだよ!旅行中に毎日うpしようとしてたけど気力が続かなくて寝ちゃったのでまとめたよ!w
関空で朝8:55発で、滋賀から始発でも間に合うかどうか微妙という怖い時間なので フォロワーの大阪さんちにお泊りさせてもらいました!ありがとうううう で、便利なシャトルバスとか教えてもらってまぁ出発はスムーズ! ルフトハンザでソフトミール食にしてみたよ!でもドイツ人のCAさんが「Special meal?」って隣の席の人まだ配膳されてないのに 先に配膳してくれたから、なんか気まずい笑
この野菜とかはぶちゃっとしたゆですぎ野菜だからこれはマジで助かった^^ 白いのはおさかなで、解いて小さくなってるし!!次の写真のトマト付いてる赤いのはチキンで、 このワンプレートに限っては頑張ってくれている~~ でもあとは確かに普通食よりはソフトミールかもしれないけどもっと柔らかくしてほしかった、みたいなレベルかな笑 しょうがないね笑 食べにくかったので途中しんどくて残したけど、ありがとう!!!ソフトミール無かったら食べれなかった!笑
で、ミュンヘンの乗り換えを経て!ベルリン着いた!!!空港からホテル最寄りのアレクサンダープラッツ駅の近くについて、 テンション上がってとりあえずパシャ!!みたいなやつだ!笑 一人でもバスの切符買えた~!乗れた~!着いた~!と嬉しくなるね! ホテルも駅チカな上にチェーン(?)でレストランも併設してあって平均より良いところだから、 お値段まぁ可愛くないけどその分いい部屋だ~~! ドイツのホテルは3年前のミュンヘンもそうだけど、平均よりちょい上だと日本のホテルに近い快適なホテルだから すごく過ごしやすい!
ご飯調達と近場の��歩を兼ねてアレクサンダー広場に行ったらなんか祭りしてる! これはまるでクリスマスマーケットのよう!楽しそう!!食べれるものは少なそうだけど、とりあえず形式美でカリーヴルストとパン、ヌテラのクレープ買った^^ これ伝わりづらいかもだけど、カリーヴルストクソデカでめちゃくちゃ量多いの�� で、これを同時に買ったら私の両手が塞がるのは言わずもがな、残念なことに水を買っていなくて… 水ないと何も食べれないので、ドイツってか日本以外でしちゃいけないと分かってたけど 空きテーブルに食べ物だけ置いて水買に行って戻ったら(5分もたってない) 掃除のおっちゃん(移民さんなのか黒人さん)にめっちゃ早口で「こら!!置きっぱなしにしちゃだめだろ! 5分経ってたら捨ててるからな!絶対食べ物置いてどっかいっちゃだめ!だめ!」って怒られて笑 ごめんごめんって謝っといたけど、まぁ分かってますよ!わかってたけど…ごめん笑 水を先に買うべきだったミスなんだよ~~笑 で、今は口の中の粘膜が薄くて刺激のあるもの食べれないから、カリーヴルストも3つだけ食べてパンだけじゃ食べれないし残した笑 クレープも3分の2くらいは食べたか?笑 腹は満たされてないけど辛いし固いし笑
で、しょーがなく駅の中まで行ってちょっとした売店でフルーツ盛り合わせみたいなのとカフェラテ! これがまた多いんだよww分かりにくいけど結構量ある笑 ホテルに戻って食べたので残りは冷蔵庫入れといた!
2日目!
朝ごはーん!!やっぱり楽しみだったよドイツの朝ごはん! この!シリアル!食べれなくて!1口で残しました!!ごめんね! パンは固いけど噛めば食べれるので超時間かけて食べた笑 ヨーグルトもチーズもハムもパンも美味しい~(と思う)ヨーグルトすごい濃厚! ドイツ式でパンを半分にカットしてバターを塗ってサンドイッチにして食べたよ!
んでアレクサンダー広場の教会やら噴水やらテレビ塔やら見て…私の計画性の下手さが出たんだけど、
ここで「あ~なんかある~」って思って写真に撮ったこれ、大聖堂です笑 しかしなぜかスルー笑
その先の目的地だったDDR博物館へ笑 そしてここは外装の写真無い笑 人がすごく多くて写真撮りづれぇってなってトラバントちゃんも居たんだけど撮れなかった…残念~ 日本語無いのでよくわからんけどDDR時代のお部屋とかかわいくて、素朴でよかった!
で、ちょっと離れたとこの文房具やさんまで行った!楽しいけど日本製品めちゃ多くてにっこりしつつ、イギリスのものも多くて笑 買ったやつでドイツ製あったのかな笑
帰りにスープバーがあってジャガイモのスープ!おいしい!量も結構あるけど!w てか何故かみんな飲み物頼まないんだよwなんで?水飲んでたの私だけだったよ笑 ここのはパンかご飯か選べて、以外とご飯選ぶ人居てにっこり^^ 私は普通のご飯は食べにくいからパンにしたけど、スープストックを思い出す… でもこんなん、スープストックで食べたらちっさいスープ×2とパンorご飯のセットでも税込み1000円するから笑 ここのスープこの量で5ユーロくらいじゃなかったかな? こういうスープ屋さんがあるのは嬉しい~通いたかったんだけど結局この日しかこの店には行けなかった笑
午後は地下鉄!Uバーンに乗ったよ!!乗れた!!3年前は1回乗っただけでその時は通り過がりの人に聞いたりしたけど、 今回は!!1人で!!できました!!うれしい!てかドイツの駅は階段降りたらすぐホームだから迷いは少ないんだけど笑 でシュタージミュージアム!写真撮ったけどやっぱり英語とドイツ語しかないから…笑 なんか深い話が沢山あるとこだったと思うんだ、でもさっぱりなんだ笑 流石にこういうときは語学力欲しくなるね…笑 入館料安くないからもったいないし、ここまで来て推しの歴史を楽しめないのももったいないよね笑 結構見応えあってお疲れです笑 ここ、元々シュタージの使ってた建物なんだよね、雰囲気もそのままでよかったよ~
でここは東ベルリンの中心地より少し離れたとこなんだけど、桜??か分からないけどお花咲いてたから撮った^^ 綺麗!この辺はシュタージの建物あるのもそうだけど、同じ建物がズラ―――っと並んでて社会主義臭すごい! 街並みだけで楽しい!ぷーちゃんはこういうとこ歩いてたのかな~~ なんか綴鈴さんの小説の表紙に描いたようなカラスが居た!!! あと、オスト-ヴェストカフェ^^芋兄弟が経営してるのかな~~ツイッターで誰か上げてたの見たことある笑 帰った時間はもう夕方超えてたから、ホテルのレストランで食べようとして、英語で説明聞いてたら、 「レストランとビュッフェがあって、ビュッフェは80ユーロ」って説明を「レストランもビュッフェも80ユーロ」と 勘違い解釈して、断っちゃって、でも後で「あれ!?違うわ、ビュッフェだけ80ユーロだ!」って気付いたんだけど 今更戻りづらくて笑 近場でバーガーキング笑 いつもだけどご飯は1時間以上かけて食べてるよ笑
3日目!
あさごはーーん!このチーズまじうまい…と思う笑 朝ごはんウキウキするね! んで今日は親父の墓参り!ポツダム行くのにグーグルマップに弄ばれて少し時間かけたけど、着いた!w
ポツダムのブランデンブルク門!なんや曇ってる~! カラフルな親父!!アウトレットストア見てなかったけど見たらよかった笑 お昼兼おやつ!代表的なケーキのシュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ(だと思う) そして倒されたケーキにぶっささるフォーク!w バタークリームで優しい感じだけどデカイし甘い笑 残しちゃったごめんね!
食べ終わって門に戻ったらめっちゃいい天気!!!綺麗!! 宮殿までのお庭もとっても緑が綺麗で楽しい~!きらきら!
で!サンスーシ宮殿!!!すごい!!でかい!厳か!!このときはなぜか内部入らなかった私は何なんだろうね??混乱してるの??笑 で、親父のお墓~~~!みんなジャガイモお供えしてる!!って私もポツダムプラッツ駅で買おうとしてたのに 忘れてた~~~!!w悔しいやつだ!!!あーー笑 野菜売ってるとこまで調べてたのに笑 あとは行くつもりの無かったオランジェリー宮殿に迷った結果着いたり笑 気を取り直してバスで新宮殿に笑 ここがプロイセン最後に建てた宮殿だって!
そしてサンスーシ宮殿の中は全部回ったあとの最後に入った!多分最後の時間のチケットだった笑 そして!!ここは!!日本語ガイドあったよ!!(涙) 写真は撮ろうと思ってチケットも買ったのに、なんか…雰囲気と説明で撮りにくくて撮ってない笑 あ、アホなのか…?!いや、なんか最後のガイド時間だった上に、日本語のガイドは時間がかかるのか、 全員の最後を歩いてたから、管内の見回りの人の視線もあってのんびりしづらくて笑 やだなこんなとこで日本人発揮しなくてもいいんだけど、金払ってるんだし笑 でもなんか全体の雰囲気で、撮りづらさとなんか親父の亡くなったとこをバシャバシャ撮ることにも なんだかなぁと謎の遠慮をしてしまって撮ってない笑 あほ~~~!!資料!!! まぁ撮影可のとこだしどうしても描きたければggれば出て来るでしょう…笑 芋も忘れたし、ここはまたリベンジをして次こそは宮殿内も撮る!!! それにしても親父のことめちゃくちゃ説明してくれるから嬉しい~~~ あ~~日本語ガイドありがてぇえ~~まじで今までの美術館やら博物館意味不明で疲れてくると わけわからんのに時間かけてドイツで何してんだろうなって自分で酷く我に帰るときあるからww 親父がフランス兄ちゃんやイタちゃんちの人と仲良くてフランス語の方が話してたとか、 そんな…そんな…ぷーちゃん…フランス語堪能だったりして…ヒェッ 人名なら親父や仏兄ちゃんにジルベールって呼ばれちゃったりするんです?!?!どひゃーー^^ あと親父が亡くなったときの椅子もあって…うっ…親父とぷーちゃんが見え…うっ涙 ここは親父のブドウ畑だったみたいで、中もブドウをモチーフにした装飾品や壁が沢山あってとてもかわいかった! 親父なかなかかわいい趣味してんじゃん!ってなったし、ここでは戦いを忘れる休暇の場所だったみたいだから ぷーちゃん調子狂うだろうな~とか思ってた笑 ロココ式だって!ロココ式!!(説明あったけど忘れたんやで)
で、帰ってきてアレクサンダープラッツ駅の世界時計~ 夕飯はホテルのレストランでスープ!野菜スープ優しい味~~(だと思う) ウェイターのお兄さんが最後「ありがとう!」って日本語で言ってくれて優しい世界だった…
4日目!
朝ごはん~~絵が同じやんけと言われたら少し違うんですがほぼ同じです!って感じやな笑
天気があんまりよくないけどベルリンのブランデンブルク門!東西統一のシンボル~!芋~~!
ハウス・アム・チェックポイント・チャーリーと壁博物館! とってもここもディープなとこでめちゃくちゃ見応えあった!!けど相変わらず何書いてんのかわかんね~笑 当時を知るお爺ちゃんがガイドしてたり、広島に通づる何かを感じるよね…OH… 壁とか、連合軍とソ連に支配されてたことを皮肉ってるグッズ屋さんは楽しかった!笑
アンペルマンショップ!本店じゃないらしいんだけど大きいしカフェもあった!
近くのカフェでスープ!これまた量がwwあとこれちょっと辛くてがんばったけど半分でギブ/(^o^)\ トマトベースで豆もたくさんあって食べ応えすごいww
そんでドイツ歴史博物館!ここも大きいし見応えすごいよ!でもやっぱり何書いてるのかわからないよ! ここまでくるとマジで私は何しに来てるのかなって思ってくるよ!!
で、ベルナウアー通り!壁の中の骨組み(?)がそのまま残ってるとこ!これ200メートル続いてるんだって、全部歩けなかったけど。 壁って、1枚ドーンってあったわけじゃなくて、「西(壁)数メートルの無人地帯(壁)東」って構造だったから それも残ってるみたい。夕方で壁記念センターも閉まってたからその層になってるとこは写真に収めれなかったんだけど、 なんかこの高さと威圧感と廃れた感じとか、木が並んでたり公園になってて小さい子やイッヌが遊んでるのを見ると、 ぷーちゃんと隊長は今はもうここに笑って来れるのかな…って…うっ…
夜はアレクサンダープラッツ駅のパン屋さんで気になってたプファンクーヘン!(粉砂糖ついてるほう) ジャムはいっててふわふわでおいしい!(と思う)こっちパン固いの多いからふわふわに出会うと嬉しいね! これ、ベルリン発祥だから、ベルリン以外の人はベルリーナーって呼ぶんだって~ ハム?が乗ってるのもおいしかったよ!
5日目!
朝は少なめ!遅かったんだ~笑 このパン、自分で好きなだけカットするタイプだから、中がふわふわなの~ のんびり出発! お昼はフォロワーさんがお見舞いに贈ってくれた「東ベルリンをたどる旅」って本に載ってた東ベルリンの家庭料理が出て来る レストランに行こうと思ってggったら閉店してて笑 えー!w なんてこったい!wってなったけどしょうがないので東ドイツ料理でggったら 評��いい感じのとこがありそうだったので調べて行った!
赤い!レトロ!DDRみのある内装で、食べてみたかったソリャンカスープもあった!! ガチ東ドイツ発の食べ物ならケーニヒベルガークロプセも食べてみたかったけど、肉団子だからしんどいの分かってたので笑 このスープ元はウク姉さんかロっさまのとこのらしいけど、東ドイツの家庭にもよく出たんだって!ソ連スープか… あかーい!けどこれは辛くないよ!むしろレモン入ってて酸味あってびっくりした笑 でもこっくりしてて、懐かしくて、やさしーい味だった(n*´ω`*n)サラミも沢山はいってる! これはぷーちゃん作ってくれたらすごく…いい…俺様特製ソリャンカスープだぜ!! でも隊長はソ連のときの兄さんを見ちゃうから 俺はあまり(名前が)好きじゃないとかなんとか言ってくれてもええんやで でもこの懐かしくてこっくりした味を食べた隊長は兄さんのやさしさを感じて泣きたくなる味だから食べたくないのが本音 っていうのが大歓迎やで ベルリン居ると芋芋してくる…笑 ここはとても良い経験できたな~嬉しい…ドイツ人のおばちゃん4人グループが先に待ってたけど、 料理がデカイ皿に肉と芋ドーンって乗ってきてて、ペロっと食べててびびる笑 途中、厨房から「アァァーーオオオオーーーウオオオオーウ」って雄たけびが聞こえて笑 お客さん全員びびってたけど、なんかコックさん怪我したみたい…だ、大丈夫か…笑 んで計画性のgdgdな私は2日目に写真だけ撮った大聖堂をこれから内部見に行くよ笑
とっても綺麗でドーンっとしてた…ここはホーエンツォレルン家の墓所でなんだって!棺いっぱいあったよ~ そして頂上から東ベルリン見渡せたんだけどくもってる笑
んでポツダムプラッツ駅!壁の跡地をまた見て、ツイッターで見かけた「Super Dry 極度乾燥(しなさい)」を発見w 笑えるwこれは本物みるとまじでジワジワ笑えるw この商品、日本持ち込み禁止なんだって笑 アサヒの著作権の関係で関税でひっかかるらしい笑 ここも壁たくさんあったよ~
次はベルリンに住んでる普(芋)領フォロワーさんと老舗バウムクーヘンのお店でお茶した! 美味しかったと思う!わからんけど!そんなに日本のとギャップは感じなかったよ! そのあとベルリンを案内してくれて、私のgdgdの計画性が浮き彫りになるくらい色々見落とししてて笑
ホーエンツォレルン���の名前を見つけたここはジャンダルメンマルクトっていう今は音楽堂?らしい笑 ドイツの教会とフランスの教会が隣接してるとこだって~~ プラプラしながらここはアレですよ~って言いながら案内してくれたんだけどほぼ忘れたから今調べてる笑 自分で調べて行くと覚えるんだけど思考停止で付いていくと何してたのか忘れ��ゃうw
ここはコンツェルトハウス・ベルリンっていうクラシックの劇場らしい!
この辺はフンボルト大学前のベーベル広場なんだけど、このデカイのがフンボルト大学だって…笑
そんで老舗のチョコレート屋さんに連れてってくれた!
あとは建設中(?)のベルリン王宮!プロイセン王やドイツ皇帝の居城だったみたい。 ここは建設費の寄付ができるみたいで、高額の寄付をした人は名前が宮殿内に刻まれるんだって! で、この普領のフォロワーさんは芋領集まって数人で結構な高額を寄付して名前が刻まれているらしいww 推しが消失してるからなんとか寄付しようとする普領と名前刻んじゃうのがwwヘタクラ流石や… 普領と日領ってどっちも宗教みというか、崇拝み感じるよねww まぁそれは?日本さんが?プちゃんに似てるからかもですけど???(突然のぷにち世界感)
そして帰りに赤の市庁舎~~ で、初日にやってた祭りは毎日ずーーとやってて笑 フォロワーさんに聞いたらここでは何かと理由付けて祭りを結構な頻度でしてるんだってw そしてクリスマスマーケットもまんま、このまんま出店出てるらしいw 夕飯はホットドッグ!だけど時間かかるので私はホテル持って帰って食べたよw フォロワーさんありがとう~!!短時間で沢山ベルリン回れた!やっぱ助かるわ~~
6日目!
今日は移動日!最後のドイツ朝飯!やっぱりハムとチーズが最高なんやで 電車もバスも地下鉄もすごく便利で乗りこなしたから、空港まで楽だった! ベルギーちゃんちの飛行機移動にしたけど、鉄道移動でもできたかもしれんなぁ、と 経験したら思えたね!w 鉄道怖くて飛行機にしたんだ笑 高いけど… で!ベルちゃんちの空港!1時間しかない乗り換え、しかもこの動きにくい口でワッフルチャレンジ成功しました! すごい!w美味しかったと思う~~! で、ヴェネツィアついた…けど!!!!問題発生!笑 荷物が一緒に来てない… ロストバゲージのとこで話せない英語駆使してなんとか手続きできた…けど…w イタちゃんちとか信用ならないからさ!!!!w「明日ホテルに送るわね」絶対来ないやん…w で、シャトルバスの切符買ってバス待ってたら、それっぽいバスが来たんだけど 私しか並んでないから目的地のメストレに行くバスか不安で、降りて来た運転手さんに「メストレ…?」って聞いたら 「メストレだ!ヴェネツィア本島行きじゃねぇぞ!」っていうのと、 プラス何かよくわからんことを英語でばーーーって早口で言われて笑 「イ、イエス!メストレ…!」しか言えなくて「あ?!だめだこりゃ通じてねぇな(的なことを言ってたと思う)」って笑われてw イタちゃんちのオッサンの圧力に引いてる私を傍で見てた若いイタちゃんちのお兄さんが スッと私の手から切符取って傍に合った打刻機まで行って打刻して返してくれて笑 運転手のオッサンがその切符を受け取ったら「ほら!行くぜ!乗りな!」って言われて急いで出発笑 途中、「ちょっと寄り道するから!大丈夫!ちゃんとメストレには行くけどちょっと寄り道させろ!」って バス会社のとこに寄り道して、「1分だ!1分で戻るから!待ってろ!」って持ってた傘を職場に返すために走って降りてって 私は「い、いえす、おっけー」くらいしか言ってないんだけど笑 まじですぐ帰ってきて「ほらな?すぐ帰ってきただろ?グラッツェ(投げちゅ)」ってして笑 まぁ、この出来事は無事脳内でロマーノちゃんに変換されたし、 バス乗る前のスマートに優しいお兄さんはイタちゃんに変換されたよね… 荷物届いてないことももうこの2人で許しはしなくても癒されてた笑 ただ、旅行���険も、安くするために病気やケガとか、高額になりそうなのはプラン入ってたんだけど、 ロストバゲージとか品物が壊れたときのプランは起こってもヤバイ金額にはならないと思って抜いちゃったんだよね… アアアア…w
ホテルついたんだけど、前日に「チェックインは10:00~14:00までだから、チェックイン希望時間を事前に教えてね、受付を開けるから」って来てたから 「18:00~19:00」で回答してたのに開いてない…wもう!!!www 同じ建物内のレストランのおじさんがたまたま近くにいたから、「ここのホテルチェックインしたいんですが知ってますか?」って 聞いたら、「電話するんだよ、ここの看板に番号乗ってるでしょ?」って…w えーーーww私には電話なんてハードル高いよぉ!wてか国際電話代ってご存知ですかぁ!?って言いたくなったww じゃあなんで何回もチェックイン時間聞いたんだよw開けとけよww 電話でチェックインしたいんですって言ったらまぁ来てくれたんだけど…w ホテルはイタちゃんちらしくちょっと古い建物でアナログな感じ笑 かわいいんだよ!センスはすっごく良くてオシャレ!トイレットペーパーにはハートの模様が入ってたり、 こういう小さいかわいさやセンスはドイツには無いしワクワクするんだけど、 若干不便笑 なにより階段しか無いから荷物届いたら不安…w私今筋肉落ちてるんだけど…w 開ける荷物も無いし、すぐに近くのスーパーで食料と生活用品を買ってきた笑 無駄な出費もだけど、イタリア語じゃ何が何か分からないから時間かかる~~! 結局ニベアとか、分かりやすいもの買ったけどイタちゃんちで何買ってんだよって話笑 しかしイタちゃんちは…スーパーのサンドイッチも美味しいね… うん、ドイツも決してマズイものには当たってないけど、イタちゃんち…美味しいね…w なんていうか、イタちゃんちで起こる色々なハプニングやアナログで不便なとこも、全部美味しいご飯と人柄と 恵まれた土地に許されてる感じすごいする…w憎めない…!!!w
7日目!
ヴェネツィア本島~!いい天気!やっぱり素敵だ~~ヴェネツィア以上に癒しと綺麗があるところあるのかな?! もうほんと…ヴェネツィアすき…気分もルンルンになるし、海が癒しなのかな… 今日の目的はブラーノ島!3年前、ラグーナの島々のうちムラーノ島しか行けてなかった上に雨で笑 せっかくのイタリアほぼ雨だったから、今度こそブラーノ島をリベンジ! ヴァポレットっていう水上バスを利用するんだけど乗り換えでムラーノ島にも寄ったからガラスの買い物だけしてブラーノ島へ!
超綺麗!!このカラフルなお家が見たかったんだ~~!すごい~~!かわいい! 何が悲しいって、荷物が無いから化粧できないわ昨日と同じ服だわ涙
街歩いて、ご飯はシーフードリゾット!これなら!私でも食べれるのでは?!と思って笑 食べたら米かてぇwwwくwwパエリアじゃないけど、芯残ってる系なんだね…w がんばったけど半分くらいでギブ/(^o^)\w でもめちゃくちゃ海鮮の匂いとダシが効いてる!!(と思う) きっと味覚があったらすっごい美味しいんだろうなぁと思った!!すげー! 多分この店はアタリだ!!!イタちゃんちも、「このレベルなら日本でも食べれそう」みたいなとこはあるから そういうとこに入ることもあるんだけど、ここは!!いいと思う!!これは!! 見た目が地味だけど、イカもエビも沢山はいってたよ! で、あとはブラーノレースを買ってホテルに帰ろう!としたんだ。 でもヴァポレットがかなり混んでて、人がすごい並んでる笑 16:00くらいに並んだのに1時間以上待ってた気がする…w 私が行きたかったのは「ホテルのあるメストレ行きのバス停があるサンタルチア駅行き」だったんだけど 急に「サンマルコ広場行きに変更!」って言われてwえー!?w サンマルコ広場とサンタルチア駅は快速のヴァポレットに乗っても30分くらいのとこなんだ笑 でもこのラグーナの島の中でもブラーノ島は特に本島から離れてて、サンタルチア駅からは1時間30分くらいの距離にあって 結構遠いから、とにかくサンマルコ広場でもいいからヴェネツィア本島に行かないと怖い笑 これ以上この離島には居たくなくて行先変更でも乗ったんだ笑 で、この行先変更のヴァポレットに不安を持ちつつ乗ってたら日本人の1人のオッサンが声かけてきて 「あの、日本人ですよね?一人ですか?」って笑 「はい」って言ったら「この船サンマルコ広場に変わるって言ってましたよね笑」 「そうなんですよ、私はサンタルチア駅に行きたいんですが不安で笑」 「僕もなんですよ…名刺今は無いんですが、僕○○会社(大手企業)でベローナに出向してるんですが、明日もベローナで仕事だから 今日中にはベローナに帰らないといけなくて…サンタルチア駅発の新幹線(レ・フレッチェ)が20:10なんで間に合うか怖くて笑」 「それは怖い笑」って感じで話てくれて笑 そんなこと言ってたら「リド島~~!」ってヴァポレットの案内のおっちゃんが言うからwww みんなリド島で降りるしwwサンマルコ広場行かんのかい/(^o^)\w リド島もラグーナの島々の1つでまだ本島とは離れてる笑 リド島も行ってみたいとは思ってたけどこんな形で行きたくなかったよw 次のヴァポレットまで激混みだから観光なんかできないし時間的にも余裕無いし笑 一応乗り換えでサンマルコ広場には行くみたいなんだけど、既にこの時19:00前笑 おかしくない?!16:00には帰ろうと行動してたのにまだ離島/(^o^)\ まぁそんな中色々オッサンと話してお互い1人だし一緒に並んでたんだけど、 オッサンが「ベローナいいところだよ~~普段は観光客もヴェネツィアほど多くないし、 落ち着いてて綺麗で過ごしやすいからおいでよ~案内するしご飯おごるよ!」 って言ってくれてたので「じゃあ明日行けたら行きますわ!」みたいなノリで約束して笑
なんとか乗り換えたら19:30くらいにサンマルコ広場について20:00くらいにサンタルチア駅についた! オッサンは予約してたレ・フレッチェには乗れなかったみたいだけど別の列車には乗れて無事ベローナについたよう笑 さすがにサマータイムでも20:00超えてくると暗くなってくるし、メストレは移民さん?かな? 黒人さんが多いのでちょっと怖いからウロウロしたくなくて笑 夕飯と明日の朝食のためにスーパー行ったよ!
もう結構疲れててイタちゃんちに振り回されている…ってなってたんだけど、 お惣菜コーナーでグラム注文はハードルが高いので個数で注文できそうなものを頼んでみようと思って! 自分で言うのもなんだけどここにきてお惣菜チャレンジするの中々アホだよね笑 お惣菜のお兄さんに話かけた「英語いいですか?」「んーちょっとなら」「私もちょっとなら笑 これを2個ください」って言ったら 2個包んでくれてグラムによる値段のバーコードが印刷されたシールをお惣菜に貼ったあとに、 1個また出してきて「手出して、これあげる」ってオマケしてくれて!! おにいさーーん!!これはイタちゃん変換余裕ですわ… その後は何言ってるか分からなかったけど、多分「いいんだこんなくらい」って感じだったと思う笑 いつもしてるのかな笑 これだからイタリアはやめられないぜ…くっ…このポテトうめぇ… すごくうれしい気分になるよね!!イタちゃんちが憎めない…憎めない…!w 内心「やべーお水無いのにこんなもん食えんのか」って思ったけどなんとか食べれた笑 あっちの人ってお金払う前でも堂々と食べて後払いとかするけど、スーパーでそれするのは私にはできないし、 「お前何食べてる!」って捕まったらどうしようかとドキドキしたよ笑 で、届いてるわけないだろうと分かってても「明日にはスーツケース送るから!」って言ったのを 一応期待してホテルに戻ったけど、まぁ、届いてないよね笑 また明日もノーメイクで同じもの着るのか~~~イタリアでこそ着飾りたかった笑 下着は洗ったよ、さすがに笑
8日目!
ご飯がスーパーのだから写真撮ってても雑になってきててここにうpするほどの写真がないので前日の夕飯から飛ばしています笑
すでにイタちゃんちでの出来事が濃すぎてドイツ行った記憶がはるか向こうになってた笑 今日はベローナに行こうと思う!けど、荷物が流石に永遠に来ないんじゃないかと不安にもなってたので がんばって空港に電話することに!した!でも英語なんかできねーぞ! しかもつながらない笑 おいいい笑 てかロストバゲージ案内の紙には「このURLにアクセスしてPINコードを入力すれば自分の荷物状況がわかるよ」って 書いてたんだけど、そのURLにまずアクセスできなかったんですけど!!!ww もう!!イタちゃん!!wだからしたくない電話することにしたよ…w なんとか繋がって「荷物が昨日届く予定だったけど、まだ来ないよ」って言ったら「明日には届くから待ってて、 何か変更あればまたこちらから電話するよ」って切ったんだけど、ほんまかいな…笑 で、観光しようと外出ようとしたら部屋の鍵があかない笑 私ね、普段から鍵回すのド下手くそで日本でも鍵が開きません!!鍵の回し方わかりません!! ってよくなってるんだけど、ここでもそれが出て笑 内心、多分鍵が悪いんじゃなくて開け方が悪いから、冷静になれ…冷静になれ…って してるんだけど、開かない笑 面倒だからオーナーに電話して開けてもらおうかと思って電話したら「鍵が…開かない」「え?鍵?がなに?」 「鍵が…部屋側から開かないんです」「ん?アンロック?(英語下手くそすぎて伝わってない)」 「…?アンロック…アンロック!(アンロックの意味を真逆に解釈した私はここでなぜかアンロックを肯定)」 「??OK,バイバイ」「??ばいばい?」「(電話きれる)」「???え??通じたの?来てくれる?w」 っていうクソ会話をしてしまって30分待ちぼうけ、ここでもう1時間くらい鍵が開いてない笑 で、開かない~~ってまた格闘してたらなんかどこかでガチャっとアッサリ開いてwwww オーナーがアンロックのくだりで来ないことは分かったからよかったものの、もう!なんやねん!と自分に情けなくなるww で、ホテル出ようとしたら、ちょうど!!空港から荷物届いて!!清掃のお姉さんが部屋まで荷物を階段上がってくれた! チップ渡したけど、お姉さんかわいいし優しいんだ!イタリア語しかできないけど、グーグル翻訳で何回か助けてくれてて笑 気を取り直して荷物を部屋で開けたら…
ワインが割れて…ました… ドイツで…ポツダムのサンスーシ宮殿で買った「プロイセンプレミアムワイン」割れてました… アアアアアアアン涙 これは!!悔しい!!!一応荷物でカバーしてたつもりだったんだけど足りなかったんかな… それかかなり雑な扱いを受けたのか笑 悲しい…これは絶対買うって決めてたし…ううう( ;∀;)プロイセンワイン飾りたかった~~~~ そして被害がwwwwくっそお!wお土産ベッタベタだよ!ワイン臭すごいし!w 破片で怖いし!ww ドイツで買ったお土産結構な確立でワインまみれになってて、チョコも未開封そのまま捨てたし、 お土産の外箱とか包装までベタベタだ���らこんなん持って帰るのも帰れない笑 すごくかわいい包装や箱もあったの…なんなら、箱とセットだから素敵ってのもあるやん?w ほぼ捨てたよね笑 ただ、不幸中の幸いは、ワイン守る用に周辺にポケットティッシュを8個くらい敷き詰めてて、 ワインもこいつらが使用済みのオムツみたいなレベルで吸ってくれてたから被害が抑えられたと思う笑 破片もすごいけど、ワインは位置変わってないというか、割れても形?を保ってたんだよ! だから服を収納してた片側には行ってなくて、雑貨側の片面だけで済んでた!(写真は周辺の荷物を除いた状態) だからね、ちょっとは守ってたことを証明してるんだけど、一体どんな衝撃きたんだよ/(^o^)\ww このスーツケースいい値段してたから、多分外側の防御力はいいのかも笑 でも中身は耐えられなかったんかな笑 使いたくないし、持って帰りたくもないからさっきの清掃のお姉さんに「このホテルで不要なスーツケース捨ててくれる?」 って聞いたらOKもらえたので、今日はスーツケース新しいの買おうと思う…wくw 今日こそはお洋服も着替えられるし、化粧もできる!テンション上がる~!!
準備してベローナ行きのレ・フレッチェに乗った!! んだけど、私としたことが乗った瞬間に「あ。やべぇ打刻してねぇ。罰金不可避(悟り)」ってなって笑 この時点で荷物の開封とショックで疲れてたのか、 「もうええわ罰金くらい払うわくそが」みたいな感じですげー堂々と切符点検のお姉さんに 「ボンジョルノ!グラッツェ!」っていい笑顔で切符渡したら何故か見逃してもらえたwww え?!なんで?!観光客にも容赦ないんじゃないのか?w挨拶が大事ってことの証明?w 何にせよ内心「罰金いくらやねん(涙)」ってなってたから嬉しい!w これだからイタリアはやめられねぇぜ… これでまだ午前中、ちょうどお昼くらいの話なんだから濃いよね~~ で、昨日のおじさんと合流!お仕事はフルタイムみたいな感じではないらしく、遅めのお昼から一緒できそうとのことだったので、 案内してもらうことに!
「本当に来るとは思わな��った」「あ、なんかすみません社交辞令を真に受けて来ちゃって」 でもまじでベローナ行ってみたかったし、ヴェネツィアは2回目だったし、気分転換がすごい! ベローナいいね!綺麗で!落ち着いてる!ヴェネツィアの癒しとはまた違うけど、 イタリアの大陸側の観光って初めてだったから新鮮な気分だった! あ、海のないイタリア観光ってこんな感じなんだ~って笑 しかし改めてヴェネツィアの戦闘力の高さも認識はしてしまったんだけどね笑
観光中心地の広場のレストランでまた懲りずにシーフードリゾット! なんだけど、これ、スパイスが効いてて普通の人には何ともないレベルの量なんだけど、 私には辛すぎて口の中痛くて食べれなくて笑 このオッサンはチーズと鶏ミンチのリゾットだったから交換してもらった笑 やさしい味~~チーズいい香り!イタちゃんちのチーズ美味しい~~(と思う) ピッツァも挑戦したいけど無理そうで諦めてたからチーズ嬉しい! シーフードリゾットは1口しか食べてないけど、昨日のブラーノ島のやつのが美味しいと思う笑 見た目は豪華だけどね! で、まぁやっぱり米は固いので半分くらいでギブしたんだけど笑 このオッサンも名刺くれて一応怪しいものではない認定をして(遅い) 話を聞いてたら「手術や治療で普通にご飯が食べれない人用に鼻や胃腸に直接入れる栄養食(粉を水で溶かして使うやつ)」を 開発した人らしくて。 この商品は病院でかなりのシェアがあるみたいで、私は粉末を溶かすタイプは使ってなかったけど、 同じ病室でこれを使ってる人がいたから、何言ってるのかはわかったんだけど、 お世話になってたかもしれないし、私も栄養剤鼻から1か月は入れてたから他人事じゃなくてな! すげー巡り合わせだ!っておお!ってなったね!笑
んでまぁアレーナっていうローマのコロッセオの次の規模らしいものみて、
街並み見つつロミジュリの舞台見て笑 あと大きい教会が3つあるみたいなんだけど、1つは近くだから見に行った!
すごい綺麗~~~!やっぱイタちゃんちの教会は感動する…ぶわーーってなる… ドイツにも教会あるしそれなりに豪華なとこもあるし見てるし、宮殿も親父の拘りなんかすごくて 細かい装飾品や、すごいーって思うんだけど、 正直、イタちゃんちの感動ってドイツには無いんだよね… もちろん兄さん~~~!!みたいなのはあるよ!wそれは特別!w でも、なんていうか、イタちゃんのパワーを感じる笑 こういうとこに笑 イタちゃんにはむちゃくちゃ振り回されてるから、そういう点ではドイツのがかなり落ち着いて行動できたし 便利で過ごしやすかったから、ドイツのがいいとこも沢山あるんだけどね! これは3年前も思ったことだな~~
そして買わないといけないスーツケース!買った!! ヴェネツィアにもあるんだろうけど絶対高いだろうし、安いと騙されてそうで怖いな~って思ってたから ベローナのショッピング街ウロウロしてたらリーズナブルでかわいいお店あったので!! 写真はホテルで撮ってるよ。本物のほう���もっと赤っぽいオレンジだけど、いい色~~~ このお店のお姉さん、とてもかわいくて色々説明してくれたんだけど、 最初スーツケースが高くて奥の棚にあったから取り出してくれるときに 長いネイルした爪が折れちゃって!「あーっこれは痛いし…あーっまだつながってるしどうしよう」 ってなってたから「先に治療してきて、スーツケースあとでいいから」って言ったら 「ちょっと待ってね!」って行ってしばらくしたら戻ってきてくれたんだけど、 そのあともスーツケースを棚に戻したりわちゃわちゃしてるときに腕ぶつけたりしてて、 「今日はバッドデイだわ…」って言ってて笑 でもなんか、女子特有のすぐ仲良くなる感じになって嬉しかった笑
そのあとは今回初ジェラート!分かりにくいけどレモンとホワイトチョコ!驚きの白さ! 美味しい~~!(と思う)けど量多いから残した笑 日本だと「この量でこの値段は高いですわ」みたいなことたまにあるけど、 ヨーロッパは「この量でこの値段なら高くないけどこの量はいらない」みたいになる笑
最後はベローナの街並みを綺麗に写真撮れるとこで終わり!ここなんだっけ、よくわからんとこ笑 イタリアの信号は黄色あるよ!青はかなり時間短いけど黄色が以外と長くて焦り損する笑 この日もパンとお惣菜買って夕飯!ヘタにレストラン行くよりこのくらいで済むほうが楽だよ笑 ご飯に1時間とかかかるから長居もしずらいんだよね笑
9日目!
これシュリンプのサンドイッチなんだけど美味しかった…と思う笑 あっちって牛乳常温で売ってるんだよね~確かにお菓子のレシピでも常温に戻してから、って書いてるし冷やす習慣ないのか??開封したら別かな?
今日は天気悪い~! リアルト橋だよ!3年前は改装中でこの姿見れなかったから嬉しい!
ヴェネツィア来たら行かないと、みたいなサンマルコ広場に行った! やっぱすげーけど曇ってるゥ!この広場の鐘楼も聖堂も美術館も3年前にコンプリートしてるので、中は行かない! 別ジャンルのフォロワーさんが別ジャンルに移ったときにヴェネツィアが舞台のお話みたいで 推しのためにお土産を買ってきてくれ、ってミッションも無事こなした!
そして3年前しなかったクソ高いカフェでお茶する! この網は鳩が近くに居てサンドイッチとかも食べに来ちゃうから、それの防止笑 いえーい優雅~!生演奏聞きながらクソ高いカフェラテとサンドイッチをいただきますわよオホホ キャビア乗ってるじゃないでございますの、初めて食べましたわ… しょっぱい…魚卵…って感じだね?(魚卵ですからね)
このあとはまた行けてなかった教会に行こうとおもって、サンジョルジョマッジョーレ教会に行った! けど雨ェ!w
中にはいきなりシャレオツなオブジェあったよ…!なんで!? 教会の中に突然オブジェ置くもの��の??よくわかんねーな…日本じゃ神社の中に突然現代美術品置くっての無さそう…
てっぺんからの景色はよかったよ~~けど晴れてたらもっとよかっただろうなぁ笑 雨にクソ打たれてオギャーだよ!
でも雨あがったら少し晴れてきてサンマルコ広場戻ったらいい感じ!
買い物しつつ、また同じ高いカフェ入ってティラミス食べた!けどあまいよ~~~ 胃にもくるので夕飯イラネェ…ってなりつつなんとか食した笑 明日は帰るので今日は早めに寝るぞ!
最終日
私はここで焦っていた… このホテル、実は旅行前に日本で自動的に支払いがされてて笑 メールで突然「支払いが完了しました!」ってなってたから、「え!?てめー聞いてねぇぞコノヤロー何勝手に決算してんだ」 ってちょっとムっと思ってたんだけど、すっかりそれを忘れてて笑 3年前も今回も現地払いを前提に予約してたし、今回もそのつもりでいたから忘れてて、 受付に普段いないオーナーに前日に「明日、朝の5:50にはチェックアウトしたいよ、私はどうすればいい?返信ちょうだい」 ってメールしてたんだよ。何なら清掃のお姉さんにチップと共にオーナーへって同じこと書いたメモも渡したの。 支払い済みを忘れてた私が一番アホで悪いんだけど、返信くれって言ってるんだから、一言、 「特にすることないよ、そのまま帰って」って��らいくれればいいやん?? けど返信もないし、朝その時間に鬼電話しても出ないし笑 もう焦る焦る笑 支払ってないって思っちゃってるから、タダでここ出たらまずいよね?!って思って金額の現金置いて、 「手続きが必要ならあとでメールください。飛行機間に合わないので出ます」ってメール送って笑 走ってたんだけどいかんせん貧弱だからしんどいし、荷物重すぎて途中道に階段があって登れなくて笑 フラフラして運んでたら通りすがりのお兄さんが階段まで荷物運んでくれてな!!!ありがとう!! 急いでバス停行ったらもうバス出るとこだし、でも切符まだ買ってないから券売機探すも近くに無いし、 下調べができてない私が悪いんだけど、現金がほぼ無いっていうのは突然の予定外の出来事だから 運転手さんから直接買うこともできなくて笑 クレジットカードしかないって言ったら現金しか無理!空港で買えば?言われて笑 ありがたや…とりあえず乗せてくれた…笑 で、空港ついたら私はバスの券売機が近くのどこにあるか探さないとわからないし、 重い荷物あって素早く行動できないからキョロキョロしてるうちに運転手さんもう次の目的地行っちゃうし!w もはや買っても買わなくても誰にも分からない状態になっちゃって笑 一旦座って落ち着いて、さっきのホテルへのメール返信来てないかな~って自分の送ったメールを見直してたら急に気付いた… あれ…??私支払いを日本で済ませてたのでは…??ってwww/(^o^)\ ウワーww結構いい値段を現金で置いてきてしまったwww/(^o^)\ やらかした~~!もっかいメールで「さっきは勘違いしたメールをしてごめん、もう現金は返金しなくていいよ」て送った…笑 めんどくさいから返金はもういいんだけど、今現在帰国して一週間たっても返信してこないオーナー何なの?!ww握手してくれたり私の下手な英語にも付き合ってくれたり、説明してくれたり、人当たりはよかったんだよ?w あと悲しいのが急いだけど飛行機の時間が1時間くらい遅くなるって出て、もう私疲弊すごい…笑 自分が一番アホなんだよな~~~ホテル代支払い済みなのすっかり忘れてたよ~~~ まぁユーロ持って帰ってもしょうがないけど、多分もっかい旅行しても残るくらいはあったよ… 未払いよりはいいんだけどさ笑 高い勉強代だ~~! 手続き全部終って、空港でちょっと化粧品見たり買ったりして、そのときのレジのお兄さんが多分ドイツ人だったみたいで、ボーディングパス見せて、って言われて見せたら「ミュンヘン乗り換え」を見たからか、「ダンケ!」ってスゲー何回も言ってきてかわいかった笑 私はついグラッツェって言っちゃったんだけど、その後も「ダンケ!」って何回も言ってきた笑 そしてミュンヘンで乗り換え!
ソフトミールが行きより固めな気がしてあんま食べれなかった笑 日本の日の入りも見て、なんとか帰れましたよ…ヨボヨボ 最終日に一番やらかしちゃったよ~w最後まで気を抜いちゃだめだ!って変に気張ってたから、逆に悪かったな笑
というわけで!!2019年のドイツイタリア旅でした!!! 長文お疲れさまでした!!!やっぱり楽しかったよ! ほぼ1人だったけど、なんか今はひとりでも大丈夫ですわ、ってなってる! 来年はイギリスか、スペインか、スイスか…行きたいね~~~今度こそ脱ドイツとイタリアする笑 ありがとうございました~~!
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“欧州と日本で「強い組織的なもの」が生まれた。 ■1.「パリ日本人村の村長」 仕事でパリに来ている。数週間単位で滞在するので、オフィスのある凱旋門から地下鉄で4、5駅離れたところに家具付きのアパートを借りてみた。近くには賑やかな商店街があって、カフェやパン屋、八百屋、肉屋などが並んでいる。 驚いたのは日本食レストランの多いことだ。徒歩5分圏内だけで3軒もある。パソコンで検索してみたら、���リの約1万5千軒のレストランで、「和食」のカテゴリーに入っているのが763軒もあった。 一度、昼食にルーブル美術館近くの日本食レストランに入ったら、フランス人の客だけで満員だった。そこでの一番人気は「越前のおろし蕎麦とソースカツ丼小どんぶりのセット」だという。蕎麦もソースカツ丼も本格的な味だった。 戦前からパリに遊んだ日本の芸術家や文人は多いが、パリでこれほど多くの日本食レストランが繁盛し、しかも越前蕎麦まで食べられる時代が来るとは、誰が予想し得たろう。 そのうちの1人、大正2(1913)年にパリに渡った島崎藤村は、河上肇らが彼を頼ってやってくると、下宿を探してやったりして世話を焼いた。やがて藤村は「パリ日本人村の村長」と呼ばれるようになり、彼らを歌劇や音楽会に連れ出しては、学生街のカルチェ・ラタンで文明論に花を咲かせたという。 ■2.欧州諸国の持つ「強い組織的なもの」 藤村は、上海・香港・シンガポール・コロンボ・スエズ運河を経由して約一ヶ月の船旅でマルセイユに着いたのだが、船中の読書に、幕末に洋行した幕臣、栗本鋤雲(じょうん)の『暁窓追録(ぎょうそうついろく)』を持参していた。栗本鋤雲も同じ航路で横浜からマルセイユに渡ったのだが、この間に興味深いことに気がついた。 それは船が港に入るたびに、現地人の盗みを防ぐために、船の倉庫に鍵をし、船室を閉じ、出入りを厳重にした事である。ただ、横浜とマルセイユでだけは、船員が船を下りてしまい、戸が開けっぱなしになっていても気にも留めない。 なぜ日本とヨーロッパでは盗みがなく、その間の各地の港では厳重に戸締まりをしなければならないのか。藤村はここから考えた内容を、帰国後、『エトランゼエ(異邦人)』との対話」と題したエッセイに書いている。 __________ 東洋の方で肝心な港々は大抵今では英吉利(イギリス)のものだね。(中略)最初の欧羅巴(ヨーロッパ)の航海者なんてものは必ずしも他の国を奪るつもりではなかったんだね。唯、奴らは強いものを一緒に持って行ったんだね。実際欧羅巴の方へ行って見ると、強い組織的なものがあるからねえ。 左様(そう)いう強いものが押込んで行くと、組織的でないような弱いものは否でも応でも敗けてしまう。だからケエプ・タウンでも、ダアバンでも、コロンボでも、新嘉堡(シンガポール)でも、結局強いものが支配するようになっちまう。そい��が僕らの国の方まで延びて来たんだね。[1, p126]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 欧州諸国は何か「強い組織的なもの」を持っていた。そして、それを持っていなかったアジアの国々は次々と植民地にされた。それが日本に延びて来た時にどうなったのか。 ■3.「阿爺(おやじ)の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ」 この点を藤村は「故国に帰りて」の中で次のように記している。 __________ 幸いにしてわが長崎は新嘉堡たることを免れたのだ。それを私は天佑の保全とのみ考えたくない。歴史的の運命の力にのみ帰したくない。その理由を辿って見ると種々なことがあろうけれども、私はその主なるものとしてわが国が封建制度の下にあったことを考えてみたい。実際わが国の今日あるは封建制度の賜物であるとも言いたい。[1, p131]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 藤村にとって、封建制度とは抽象的な概念ではなかった。藤村の父は木曽馬込の大庄屋の家に生まれ、伊那谷に多い平田派国学の門徒となり、尊皇攘夷運動を経て地方の小神社の神職となった。維新後は、明治天皇に直訴したり、廃仏毀釈の中で郷里の寺院に放火しようとしたりして、ついには座敷牢に幽閉されて、窮死した。 __________ 遠い外国の旅に出て来て見ると、子供の時に別れた阿爺(おやじ)のことなぞがしきりと恋しくなる。僕らが今日あるのも、彼様(ああ)して阿爺の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ、印度あたりのように外来の勢力に敗けてしまわなかった御陰だ、左様思うと僕はあの頑固な可長しい阿爺に感謝するような心持を有って来た。 多少なりとも僕らが近代の精神に触れ得るというのは、あの阿爺たちに強いものがあったからだ。[1, p134]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 幕末には大名や武士ばかりでなく、地方の庄屋の息子ですら国家の行く末に危機感を抱き、奔走した。「強い組織的なもの」とは、藤村にとって父親の思い出につながる体験的なものだった。 ■4.欧米に広まった日本観 ヨーロッパと日本が並行して封建制を経験し、しかも、この二つの地域で近代化が先行した事から、封建制が近代化の基盤となっているのではないか、という考え方は、藤村以前からあった。 今谷明・都留文科大学学長の『封建制の文明史観』[1]によると、日本社会の封建制を指摘した最初の西洋人は、文政6(1823)年、明治維新の45年前に来日して、ドイツ人ながらオランダ人と偽って長崎・出島のオランダ商館医となったシーボルトだという。 多くの大名が半独立的に各藩を治めている徳川の幕藩体制が、同時代のドイツの諸侯が分立していた状況と良く似ている点を、シーボルトは見てとったのだろう。 医師・植物学者であったシーボルトは、学問的にこの観察を深めはしなかったが、帰国後に出版した大著『日本』により欧州での日本学の祖と見なされるようになり、日本が封建制の国だという認識は、以後、多くの訪日外国人に受け入れられていった。 学問的見地から日本が欧州に比較しうる封建制を備えていたという研究は、日本の経済学の草分けと言われる福田徳三によってなされた。福田は明治31(1898)年にドイツに留学し、ドイツ歴史学派の経済学者ルヨ・ブレンターノに師事した。 ブレンターノは欧州経済史の講義で、後方の席で度の強い眼鏡をかけた福田が微笑しているのを見つけ、授業後、なぜ笑っているのかを問うと、福田は「先生が講義される欧州の経済史が、余りに私の祖国日本の歴史に似ておりますので、ははあ、成程、と納得し、会心の笑みを漏らしたのです」と答えた。 「そんなに日本の経済史が西欧に似ているというなら、君がいっそ、日本経済史を書いてみないか」とブレンターノに勧められ、その助力を得ながら、ドイツ語で日本経済史の本を書き上げた。この本は西欧の学者に広く読まれ、日本が西欧に類似した封建制を持った国であるとの日本観は、欧米人の間でも広まった。 ■5.モンゴル軍がなぜ日本と西洋で勝てなかったのか なぜ封建制が「強い組織的なもの」を生むのか。封建制は欧州では騎士、日本では武士という「武人」が中心的な役割を果たすから軍事的に強いという説もあるだろうが、シナの各王朝も戦乱の中で軍事力でのし上がり、天下をとった。だから軍事力の存在だけでは説明できない。 日本の武士と、シナの皇帝に事える武人とを考えて見れば、その違いがはっきりするだろう。たとえば、日本の武士は主君から所領を与えられ、そこを子孫のために命を懸けて守る「一所懸命」の精神を持つ。 これがシナ皇帝に雇われている武人ならどうだろうか。別にその王朝が滅んでも、次の王朝に仕えれば、自分の身は安泰である。日本の武士とシナの武人の違いは、自分の事業にすべてをかける中小企業のオーナーと、大企業のサラリーマンの違いと考えれば、分かりやすいだろう。 現実にモンゴルの大帝国はユーラシア大陸の中心部から東は日本、西はヨーロッパにまで攻め込んだ。しかし、日本では鎌倉武士団に敗れ、欧州ではドイツ騎士団に敗れた。 元寇は神風に敗れたというのが一般の先入観だが、史実は異なる。鎌倉武士たちの抵抗によって、元軍は2ヶ月も上陸を阻止され、海上にさまよっている間に、台風に襲われたのである。台風が来なくとも、補給のない元軍は引き揚げるしかなかった。[a] 元寇防塁 西に向かったモンゴル軍はキエフ公国、ポーランド、ハンガリーを蹂躙し、ドイツの諸城に襲いかかった所で、第2代モンゴル帝国皇帝オゴタイの訃報に接して引き揚げたと言われるが、これも史実ではない。モンゴル軍がドイツ軍との戦いから引き揚げたのは、訃報を聞く数ヶ月も前であった。 実際は、城壁都市に立てこもって頑強に抵抗するドイツ騎士団を打ち破れず、諦めて撤退したのである。これもドイツ騎士団の「一所懸命」に敗れたと言える。 一所懸命の精神で、自分の愛する郷土と、ひいては祖国を命をかけて守ろうとする武人と、富のために戦う武人と、どちらが強いかは言うまでもないであろう。 ■6.封建制が法治による近代国民国家の基盤を作った 武人の所領が主君から与えられるということは、こうした強さ以外に、社会の発展を生み出した。それは所領を預かる代わりに、いざという時に生命を掛けて戦う、という相互の信頼に基づいた契約関係を発展させた。 契約である以上、主君が勝手に家来の所領を取り上げる事は許されない。ここから「権利」という概念が生ずる。同時に、家来の方も戦になって命惜しさに逃げ出すなどという事は許されない。これが「義務」の概念を生み出す。この義務をいかに見事に果たすか、という所から、武士道や騎士道が生まれた。 「契約」、「権利」、「義務」などは近代社会を成立させている基本的な概念である。これらの概念を尊重する風潮が統治者にも国民の側にもなければ、近代社会は成り立たない。 一方、皇帝による独裁国家では、皇帝は勝手に家来の財産を取り上げる事ができるし、臣下は危なくなったら、敵方に寝返ったりする。シナ大陸や朝鮮半島で現在でも契約や条約、さらには人権や義務を尊重する気風が薄いのは、封建社会を経験していないからであろう。 さらに封建社会では、隣人との間で境界争いなどが生じた場合は、契約関係をもとに、どちらが正しいかを道理をもって議論することになる。ここから裁判制度が発達する。たとえば鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時が中心となって整理し、成文化した『関東御成敗式目』の末尾には、この法体系の基本理念としての「道理」を明白に掲げている。[b] __________ およそ評定の間、理非に於いては親疎あるべからず、好悪あるべからず。ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚(はばか)らず、権門を恐れず、詞(ことば)を出すべきなり。 (裁判の場にあっては決して依怙贔屓(えこひいき)なく、専ら道理に基づいて、傍の目、上なる権力者の意嚮(いこう)を恐れることなく信ずる所を言え)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ これは建前だけでなく、実際の裁判でも、一方が自分の主張のおかしい事に気がついて「これは当方の負けなり」と認めた態度を、泰時が涙ぐみながら褒めた事例も記録されている。物事の道理を「法」として書き表し、争い事も法と道理に照らして、どちらが正しいかを判断する。これが「法治国家」の基盤である。 一方、皇帝による独裁社会では、臣下の争いはどちらが皇帝に好かれるか、という事で決まってしまう。そこに発達するのは皇帝へのおべっか争いと互いの足の引っ張り合いである。 封建制は法治による自由な社会の基盤を作った。そして国民の自由な活動が、経済的発展を生み出した。こうして近代国民国家という「強い組織的なもの」が生まれた。封建制を経験した西欧と日本が近代国民国家として発展したのは、当然の現象なのである。 ■7.内外からの浸食から、いかに国民国家を守るか 島崎藤村が「強い組織的なもの」と感じとったのは、権利、義務、契約、法を尊重し、それによって国民どうしが互いに助け合う共同体として発展してきた近代国民国家の姿だったのだろう。 しかし、この「強い組織的なもの」が、あたかも自然現象のように勝手に生まれたと考えるべきではない。それは何代にもわたる先人の努力の積み重ねによって発展してきたものである。たとえば、前節に紹介した北条泰時が「道理による政治」を追求した努力がその一例である。 とすれば、先人の遺してくれた「強い組織的なもの」に対して、 藤村のように、「僕らが今日あるのも、彼様(ああ)して阿爺の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ」と感謝の心をもって、思い起こすべきだろう。 しかし、この「強い組織的なもの」は、現在の我々が努力して守っていかないと風化していってしまう。特に現在は、シナや北朝鮮、韓国など、封建制を経験せず、したがって条約も国際法も人権も理解しない前近代国家が外からの脅威を与えている。 同時に、内からはこれまた法治や近代的自由の概念を持たない左翼勢力が、教育や報道、政治をねじ曲げて、国民国家を浸食しつつある。こうした内外からの浸食から、わが国の法治主義と自由民主主義を守って、我々も子孫から「阿爺の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ」と言われるよう、頑張らねばならない。 (文責 伊勢雅臣)”
―No(1051) 欧州と日本の封建制が近代社会を作った 国際派日本人養成講座
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各地句会報
花鳥誌 令和3年4月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和3年1月6日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
身籠れる夫人に雪の道険し 世詩明 豪雪や掲げ忘れし日章旗 ただし みどり屋の看板古りし虎落笛 同 磨いても拭いても卒寿初鏡 清女 退屈が玻璃磨きゐる三日かな 同 きゆつきゆつと鳴き砂のごと雪を踏む 誠 ゆき高く積んで機関車入線す 同 神一人大忙しや初天神 秋子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年1月7日 うづら三日の月 坊城俊樹選 特選句
幾年をやさしき夫と福寿草 由季子 病む母の風呂敷仕度やぶ入りか さとみ どんど焼き煙にまかれて守られて 同 少しでも化ける手立てを初鏡 同 初夢や遊女のお練り思案橋 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年1月7日 さゞれ会 坊城俊樹選 特選句
行く年の音ならざるは一つとて 雪 宝引きで遊んでくれし父今も 同 待春の声と聞きゐる鳥語かな かづを 虚子永久に心に生きん去年今年 同 祝事も忌事も経て去年今年 匠 お精舎の銅鑼打ち入る初句会 千代子 お降りの止みて神慮と詣でけり 希 柚子湯して柚子と戯れ童歌 笑 元朝や我を見据ゑる一仏 天空
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年1月8日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
お飾りの稲穂で燥ぐ雀かな 宇太郎 仏花とて寺の水仙切りがたし すみ子 冬帝の微笑めきし薄日抱く 都 藁筵敷く藩廟の年用意 悦子 陽を抱けば枇杷の花とは朗らかに 都 獣岩に跳ねる怒濤や初景色 益恵 青々と松にお降り光りゐる 立子 目の端で合はす柏手初詣 宇太郎 雪明り会釈せし人誰ならん 佐代子 初雪と雖も根雪伯耆富士 益恵 高空をいよよ引き締め寒の月 史子 拳ほど大戸を開けて初諷経 すみ子 鉄瓶と囲碁の石音五日かな 宇太郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年1月9日 零の会 坊城俊樹選 特選句
耳たぶの産毛光らせ日脚伸ぶ 小鳥 ひときはにギリシャ神話の冬の星 美紀 群衆が嚏ひとつを遠ざける 光子 初夢ゆ「金閣を焼かなければならぬ」 公世 しまく夜は足を搦めて眠りけり 光子 囁きの耳から耳へゆきほたる 伊豫 楪の鬱蒼として女系とか 要 雪しまき張り切つて居る馬の尻 公世 御慶述ぶ浅草正ちやん牛煮込 荘吉 マフラーを巻いて密に夜の耳 伊豫 葉牡丹の鉢を並べて閉店す 小鳥
岡田順子選 特選句
冬服の短き袖の父叫ぶ 和子 雪しまき記憶のなかの三国歩す 三郎 溜息の出るほど生きて粥柱 瑠璃 美少女の耳霜焼けてロック座へ 俊樹 月光の鎮めてゆけり雪しまき 千種 濯ぎ物竿もろともにしまかれし 美智子 楪の鬱蒼として女系とか 要 貨物機はアラスカを発ち鰤起こし いづみ 去年今年アンモナイトは目覚めざる 光子 雪うさぎ人来るまでに耳落す 千種
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年1月9日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句
連れ歩く影にも寒さありにけり 美江 年の夜瞑目といふ別れあり 同 煮凝やふる里山河かがやきぬ 同 消灯の後の病棟雪女 清 ねぢ巻きの柱時計や去年今年 晶子 序に戻り繰りし歳時記日脚伸ぶ 同 畳打つ音凄まじや板歌留多 同 髪濡れしままで茹でたる晦日蕎麦 のりこ 鳶職の寒九の空を足場とす 岬月 寒紅の残りし猪口や夜の席 同 唇の凍て付く夜のプロポーズ 同 絵馬に射す日のやはらかし冬の空 慧子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年1月9日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
寒晴や真白き嶺の彫深し 時江 吹く風の千両万両隔てなく 同 対座する阿吽狛犬雪二尺 三四郎 負けるのは何時も婆なり歌留多取 みす枝 雛壇の古りし調度や鬢鏡 時江 降りしきる中を除雪車昼も夜も みす枝 父似とて謝して大きなくさめかな 清女 短日や遠眼差しのからす居て 上嶋昭子 正信偈唱へて雪に籠りをり 清女 人肌の燗して男ひとり酌む 上嶋昭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年1月16日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
泣初と言へど涙は笑ひたる 紀子 大本山坦坦と降る雪の音 あけみ 参道や誘はれ落つるしづり雪 みえこ 門番の貫禄ありて雪だるま 裕子 双六やサイコロの目の運試し 同 どこからか風餠花のやゝ揺れて 令子 猫の写真ばかりを捲る初暦 紀子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年1月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
舫舟列なし河口春を待つ 清女 雪解けて火袋見えて来し灯籠 同 二度三度問ひ返す耳春を待つ 同 本棚に百書の黙や去年今年 雪 残菊に残菊の色雨そぼつ 同 きらきらと輝く雪の魔者めく 和子 雪しまく九頭竜の黙深めつつ かづを 古稀は逝き卒寿は残り松の内 玲子 雪しまき車掘り出す男達 たけし 丑紅やいつしか胸に泣き黒子 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年1月19日 萩花鳥句会
老の幸孫より来たるお年玉 祐子 三代の嫁の宴や小正月 三恵子 萩大井春の珍事ぞマナヅル来 健雄 リモートで体気遣ふ年賀かな 吉之 大橋に朝日まばゆき四日かな 陽子 泣初や夫似の孫を抱きあげて ゆかり わが顔を写し鏡や福笑ひ 明子 初空や六島なべて平らなる 克弘
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令和3年1月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
はぐれてふ流氷の着く海辺かな 佑天 月冴ゆる宇宙船など探す癖 炳子 ブランコを少し揺��して今年かな 幸子 句碑は今冬夕焼けの中にあり 佑天 方錘にメタセコイヤの冱つる朝 久子 出窓より雪の香をきく朝ぼらけ 眞理子 初夢を初夢らしく語り合ふ 和子 餅花の荒神様と向き合へり 久子 観音の一重瞼や寒の雨 政江
栗林圭魚選 特選句
黒豆を静かに寝かす除夜の鐘 慶月 木の匙を唇に添へ小豆粥 久 雪雲の車窓に揺るる缶珈琲 ゆう子 風花やスレート葺きの屋根続く 同 寝酒にはワイン読むのは「藝十夜」 佑天 神の森高きに鳴ける初鴉 ます江 万両の見事なるかな大地主 慶月 凜然と寒気に映ゆる母の塔 幸風 粕汁や子ら巣立ちたる二人膳 眞理子 寂として大寒に坐す年尾句碑 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年1月20日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
去年今年いつもの場所の古時計 千加江 二人降り一人の客に雪のバス 清女 八方に話題飛び散る初笑 泰俊 雪籠金の蒔絵の硯箱 雪 気乗りせぬ顔で並びて初写真 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年1月21日 鯖江花鳥俳句會 坊城俊樹選 特選句
三日月の匕首の如くに寒に入る 雪 祟るとて斧を入れざる大冬木 同 凍星のまたたくは我がまたたくか 同 春待てど木の葉の如く逝きし人 信子 冬の蝶何も語らず女逝く 同 取り合ひし歌留多の女の文いまも 一涓 一人住む媼にまたも垂り雪 同 寒柝の音に推敲の灯を消しぬ 同 天空へ返すごとくに雪を掻く 同 寒の月蒼き雫を零しけり みす枝 豪雪や背丈の違ふ六地蔵 たゞし 垂直に伸びる太陽柱凍てる 同 雪だるまオラフも並び子等燥く 紀代美 裸婦像の凍ることなく在しけり 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
銀の鍵もてあます手の悴みて かおり ひとすぢの光つかみし冬木の芽 成子 風神の袋大きく寒の入 千代 初夢や光源氏に膝枕 喜和 大濠の光の礫なべて鴨 孝子 無機質な街に浮かみて寒の月 かおり 日向ぼこ光の先に母在せり 睦子 野良猫の闇を貫く虎落笛 喜和 大根干す小さき母の爪立ちて 朝子 寒夕焼の光に溺る浚渫船 志津子 紅の春著の光る一と間かな 成子 すらすらと呆けし母の手毬唄 孝子 底冷の町に荷を置く露天商 かおり 去年今年一億年の火山岩 勝利 寒紅や嘘にわづかに真混ぜ 光子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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🏮SHIBAMATA - one of my favorite places to enjoy the tradition & history of Old Tokyo 🐈 🍡柴又帝釈天参道商店街 (at 柴又帝釈天門前参道) https://www.instagram.com/p/CF7W53LHwgx/?igshid=1kcmpks5dy9ra
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柴又帝釈天参道の商店街 . 撮影日:2020.07.22 . The shopping street in the approche to Shibamata-Taishakuten Temple, Tokyo. . #写真好きな人と繋がりたい #写真撮ってる人と繋がりたい #カメラ好きな人と繋がりたい #ファインダー越しの私の世界 #東京 #柴又帝釈天 #柴又 #下町 #東京下町 #Tokyo #streetphotography #streetsnap #beautifuljapan #lovers_amazing_group #tokyocameraclub #loves_united_japan #japan_photogroup #bestphoto_japan #japan_inside #5minjapan #japan_bestpic_ #1x_japan #japan_daytime_view #tokyostreetphotography #tokyospc #frametokyocollective #tokyoartsandculture #tokyotokyo #japancityblues #focusjp (柴又帝釈天門前参道) https://www.instagram.com/p/CEY11vAJWk2/?igshid=grau0ar6g7wz
#写真好きな人と繋がりたい#写真撮ってる人と繋がりたい#カメラ好きな人と繋がりたい#ファインダー越しの私の世界#東京#柴又帝釈天#柴又#��町#東京下町#tokyo#streetphotography#streetsnap#beautifuljapan#lovers_amazing_group#tokyocameraclub#loves_united_japan#japan_photogroup#bestphoto_japan#japan_inside#5minjapan#japan_bestpic_#1x_japan#japan_daytime_view#tokyostreetphotography#tokyospc#frametokyocollective#tokyoartsandculture#tokyotokyo#japancityblues#focusjp
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諸悪の根源住吉会
「救う会」と広域暴力団「住吉会」
なぜ、「救う会」には、北朝鮮と武器・覚醒剤密輸をしている暴力団住吉会が深く関わっているのか?
福岡での統一協会合同結婚式に安倍晋三が祝電を送ったこと
オウム事件は少しも終わっていない
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2006-01-02
■[現代史]マッカーサーによる言論統制 23:38
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/okasinasennsoudaltuta.htm
マッカーサーが厚木に到着してただちに敷いたプレスコード(新聞紙法)は、「連合国占領軍について破壊的な批判は一切してはならないし、また、これらの軍隊に対して不信や憤慨を招く恐れがあることはなにも書いてはならない」というもので、ほんとうのことをいってはならないという徹頭徹尾の言論弾圧であった。
アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。
プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。
これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。
日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
新たな戦争の危険がさし迫るいま、戦争の犠牲になった肉親、知人、友人の死をむだにしないために、日本の真の平和を実現するために、ほんとうのことを語り伝えることは、なににも増して重要になっている。
ぽちっとな
■[政治][読書][統一協会][安倍晋三]自民党と統一協会 23:03
藤原肇がどの程度信用できるのか判らないけど、『小泉純一郎と日本の病理』を読了したので、いくつか引用してみる。小見出しはカマヤン作成。
小泉純一郎と日本の病理 Koizumi's Zombie Politics
• 作者: 藤原肇
• 出版社/メーカー: ��文社
• メディア: 単行本
◆森派と統一協会
私にあった知識は、小泉純一郎という政治家が、岸信介や福田赳夫の流れで、「親韓国右派」あるいは、「隠れ統一教会派」の一部として、世界でナチスとイコールで「ムーニー」と呼ばれていた右派ではないかということだった。(56p)
◆自民党と統一協会
自民党と統一教会の繋がりについて少し触れてみたい。〔略〕
〔略〕国際勝共連合(IFVOC)の会員がほぼ統一教会の信者であることは、賢明な読者ならよく知っているはずである。
この国際勝共連合に所属する会員たちは、統一教会の信者として米国で教育を受けた後で、自民党議員の秘書として永田町に送り込まれた。彼らは国際感覚と語学力を身につけ、普通の秘書の数倍も優れているせいで、永田町では一時期、その仕事振りを評価された。そして、すぐに議員になりたがる出世欲の強い、松下政経塾の出身者より尊敬され、一目も二目も置かれた存在だった。また、1980年代に自民党のシンクタンクの総合研究所が、勝共連合によって乗っ取られていたことも、事情通の間では知られていた。
そして、この線をたどると小泉政権を取り巻く人間たちが、意外なほど勝共連合の線で繋がっていて、中には政界の外に活躍の場を持っていたりするのだ。
例えば、小林節慶応大学教授の場合は、合同結婚式の名簿に名前が記載されているうえに、かつて「統一原理」という授業を行なって問題視されたが、憲法九条は前文の解釈によって無効化できると説いていた。〔略〕今では改憲ブームに便乗して官邸に出没しているという。
また、アラブ問題の専門家である佐々木良昭(元拓殖大学教授)は、自衛隊のイラク派兵のアドバイサー役として、官邸に裏口からよく出入りするので知られる。私が関係者から聞いたところでは、彼は「自衛隊を正式な軍隊に変え、防衛庁を国防省に格上げさせるべきだ」と主張しているという。また、佐々木は小池百合子環境大臣と親しく、彼女が理事長の中央アジア研究所の専務理事だし、東京財団のシニア研究員の肩書きを使い、最近はトルクメニスタンに出没しているのだ。しかも、この東京財団は日本財団のフロント組織であり、かつて竹中平蔵が理事をしていたこともある。日本財団は競艇のあがりで故・笹川良一が設立した財団で、思想的には岸信介の衣鉢を継ぐ人々の集まりだから、勝共連合とは緊密に結びつくのである。
そして、小池百合子といえば政界の渡り鳥で、小泉チルドレンのマドンナとして、2005年9月11日の総選挙では真っ先に刺客を買って出たが、学生時代にはカイロ大学に留学している。これは彼女の父親が中東浪人だったからで、かつて勝共連合の応援を受けて衆議院選挙に出て落選した後、一家をあげてエジプトのカイロに移住したからだと言われている。
私が中東で仕事をしていたときのことだが、小池の父親がカイロで日本料理店を経営するかたわら、石油利権のフィクサーをしていたという話を聞いている。
このように、小泉政権の内部には統一教会のコネクションが生きており、それに公明党が加わって一種の奇怪な「宗教連帯」の構図になっていて、これではどう考えても「理性」による外交はできない。(226-228p)
◆安倍晋三と統一協会
安倍〔晋三〕もアメリカに留学した経験を持つ2世議員だが、世界で通用する常識を学んでいないのであり、彼の留学経歴が小泉純一郎以上に怪しいと言われていて、日本の政治家の人材枯渇は救い難い状況を呈している。
〔略〕そこで、問題になるのが、安倍がなぜこのような怪しげな遊学をしたのか? そして、それが単なる遊学だったとしても、現在の彼にどのような影響を与えているのかということであろう。
安倍晋三が遊学していた1970年代後半頃のカリフォルニアは、〔略〕この時期から経済大国になったジャパンマネーがカリフォルニアに大量に流れ込み、それとともにあらゆる日本人が流入したのである。
日系企業の駐在員たちの中に混じって〔略〕ひと目で日本のヤクザとわかる男たちがロスの街を闊歩していた。事実、東声会の町井久之をはじめとするヤクザたちが、サンタモニカに投資事務所を開いていたし、ゴルフ場やラスベガスのカジノを買収するために、日本のサラ金や住吉連合の筋が暗躍していた。〔略〕
だから、そんな環境の中、ロスでも金持ちの子弟が行く、南カリフォルニア大学USCに安倍晋三が登録し、日本の有力政治家の岸信介の身内だと知られれば、コリアゲートで知られた朴東宣(パク・ドンソン)のほかにも、いろんな人間が近づくだろうことは想像に難くない。
当時のロスでは韓国人の移民が激増しており〔略〕〔韓国の〕公安関係者やKCIAの出入りも頻繁であり〔略〕こうした中に、統一教会関係者も多く、活発な布教活動だけではなくビジネスも行なっていた。鮮魚の取り扱いは統一教会が握り、日本人のすし屋の仕入れはそこを通じてだし、ロスやニューヨークの生鮮食料を支配して、財政的には非常に強力であったし、KCIAとの結びつきを韓国人から何度も私は聞いている。彼らの狙いは将来の布石として、若い有力者の子弟を反共の闘士に育てることであり、その組織力の強靭さに目を見張ったほどだ。
ここからは私の経験に基づく推測になるが、なぜ、安倍晋三は今や日本を代表する対北朝鮮強硬派として、脚光を浴びる存在になったのであろうか? またなぜ、地元の山口県下関市では、市長をめぐる放火や銃撃事件に関連して、安倍の名前が囁かれているのであろうか? これらの事件には暴力団が介在していると言われ、パチンコ業界の利権が絡むと一部で報道されているが、それが安倍のロス遊学と関係がないのか? こういった疑問を特派員は現地取材で調べたのか?
しかも、彼の父親の安倍晋太郎(1924-1991)は下関の韓国ビジネスとは密接な繋がりを持ち、朴東宣は安倍親子二代と親しく、それが政治資金に繋がっていたというではないか。(224-226p)
◆金融スキャンダルと奇怪な「自殺」
『新潮+45』(2001年4月号)に出た東京女子医大の天野医師の手記というのがある。この中で、天野医師は、ロッキード事件のときに児玉誉士夫(1911-1984)の国会証言を阻むため、上司の命令で薬物を注射したと告白している。(133p)
〔略〕金融スキャンダルの多くは〔略〕1985年のプラザ合意に端を発していると考えてよい。また、中川一郎(1983死亡)に始まり青木伊平(1989死亡)、新井将敬(1998死亡)、本間忠世(2000死亡)など、迷宮入り化した一連の首吊り自殺は、いずれも利権絡みの金融スキャンダルと密着していたと考えられる。(134p)
◆小泉純一郎の厚生省利権
1997年、橋本内閣の厚生大臣だった小泉は、当時大騒ぎになった「厚生省スキャンダル」の当事者だった。このスキャンダルは、「福祉グループ彩(あや)」という福祉施設などに差額ベッド用寝具などを納入している業者の贈収賄事件に端を発した事件だ。多くの自民党代議士が、日本病院寝具協会(〔福祉グループ彩」の大株主)〔略〕から、4億2000万円もの献金を受けていた〔略〕。
〔略〕小泉が日本病院寝具協会の会長をしており、その傘下の政治団体から、橋本龍太郎などと並んで、多額の政治献金を受けていた〔略〕。
〔略〕小泉改革とは、「政府系の特殊法人はすべて民営化するか解散すること」であったはずだ。しかし、実際には、「独立行政法人」と看板を替えただけで、ほとんどすべてが生き残っている。(191-192p)
◆岸信介の賠償利権
小泉の父・純也は岸信介の第一の子分であった。
岸は「巨魁」とか「妖怪」〔と〕呼ばれたように、利権づくりに関しては、天下無双の名人であり、汚職で摘発されるようなヘマはけっして犯さなかった。
岸利権の典型とされるのが、インドネシアの賠償に関わる石油利権だ。岸は日本が石油を買えば自動的に、タックス・ヘイブンに巨額のロイヤリティが流れ込む仕組みを作り上げた。リベートは密かに岸��特別口座に振り込まれ、岸自身が関与しない仕掛けになっていた。そのため、犯行は発覚しようがなかったから、岸は法の及ばない利権づくりの名人だったのである。
〔略〕岸信介は〔略〕上杉慎吉(1878-1929)に師事した。そして、国粋主義に傾倒し、木曜会に入った。その後、官僚になると、帝国主義的な国家社会主義を信奉し、ナチス流の産業統制化の運動を推進した。その後、満州では「満州の影の帝王」と呼ばれた甘粕正彦(1891-1945)と結び、アヘンにまつわる特殊利権に���与したという。〔略〕満州での功績により東条内閣の商工大臣となった。〔略〕
小泉純也は、岸信介の忠実な第一の子分であった。伴食大臣の防衛庁長官であったとはいえ、防衛利権で《蓄財の手腕》を大いに発揮した。小泉純也の蓄財は、『私物国家』(光文社1997)の中で、広瀬隆が「60年代には高額所得者として、名を連ねていた」と書いているとおり、岸から学んだ手口を使いこなしたに違いない。(195-197p)
<引用終了>
だが、もっと興味深い情報もある。
<引用開始>
http://72.14.253.104/search?q=cache:nlcAgFgek8YJ:scrapbook.ameba.jp/uekusa_book/entry-10024355669.html+%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%80%81&hl=ja&ct=clnk&cd=31&gl=us&lr=lang_ja
07.01.26 ★ユダヤ人と痴漢冤罪の関係 リチャード・コシミズ http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/futuunokaiwa3.htm
お父さん、手鏡教授、ついに保釈されて出てきたね。またやるんじゃないの?
ああ、また、やったことにされるんだろうな。
え?
あの痴漢裁判は、ウォール街のユダヤ人が主催している裁判だ。
そのくらいのことは、わかるよな。
わからん。だって、痴漢とユダヤと関係ないじゃん。
お前も、まだ、なにもわかってないな。マスコミ風情に騙されてどうするんだ。そこまで知能低かったか?
げ。だって、世の中じゃ、みんな、教授の性癖は病気だから仕方ないって......それに、教授は出てきたけど、「これは陰謀だ!」とか「嵌められた!」とか一言も言ってないし。
あのさ、この事件を解析すると、日本の構造がよく判るよ。教授は裏社会の連中にきっちり嵌められたけど、まだ、自分がなにをどうされたのか、判ってないようだ。おまえもだけどな。
う~オヤジ、判らん。降参だ。
よし。じゃ、ヨン様大好きオバサンでも判るように解説しようか。あのさ、教授の拘留が130日に及んだこと、極めて異常な事態なんだよ。女子高生のお尻触ってもいないのに、130日。よしんば触ったとしても、130日はどう考えても異常だ。
しかも、東京地検が教授の保釈にキチガイのように抵抗した。保釈して外に出れば、第三者と接触できる。このインチキ事件の背後関係を第三者に喋られるのを恐れたんだろう。だれが?裏権力がだ。東京地検は、ウォール街のユダヤ人のために、教授を130日間拘留し、家宅捜索してパソコンを押収したんだ。
教授が誰と情報を共有しているのか、血眼になって調べまくったんだ。教授の痴漢冤罪は、裏権力が仕組んだ猿芝居だ。裏権力は、教授の口をどうしても封じたかった。
口封じって............教授は経済学者じゃん。一体なにを?...........
あのさ、教授が逮捕される前になにを言っていたか知ってるか?
あーそういえば、「りそな銀行」がどうのこうのいってたよね。
それだ。小泉政権時代、りそなが倒産しそうになったよな。あの時、小泉・竹中はりそなを冷たく突き放して、「倒産容認」みたいな発言をした。おかげでりそなはマジに倒産しそうになって、株価は思いっきり下落した。その株を底値で買い漁った連中がいる。ウォール街のコーエンさんやら、なんとかバーグさんとか、かんとかシュタインさんたちだ。ユダヤ金融資本ってやつだ。親分はロックフェラーだ。
う、インサイダー取引。
で、小泉たちは最後の最後になって、りそなを公的に救済することを発表した。これで、りそなの株価は大反騰した。底値で買ったなんとかバーグさんたちは、ぼろぼろに儲けまくった。最初から公的救済が入ると判っていれば、底値で買い漁る。確実に儲かる。ユダヤさんたちの取引に便乗して儲けた勝共議員や政権関係者もたくさんいたはずだ。発覚すれば、大スキャンダルになるし、日本の支配構造も露呈してしまう。教授は、この巨大なインサイダー取引疑惑を追及しようとした。証券取引等監視委員会が調査に動くべきだとテレビ番組でも指摘した。
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第一章 若い感受性ゆえの挫折
1976年、私は中国のごく一般的な家庭の3人兄弟の末っ子として、ハルピンという街に生まれた。両親はともに教員をしていて、中国では大学の教員は基本的に大学キャンパス内のマンションに住むことができるので、私は子供の頃、キャンパスならではの運動施設や広場、緑豊かな公園などに恵まれ、伸び伸びと過ごせたと思う。
当時のハルピンは三階までの建物が多く、街の中でも荒地があちこちあり、それらはすべて子供にとって楽園だった。夏には、トンボや蝶を追ったり、バッタを捕まえたり、冬には野外でアイススケートしたり、橇を作って遊んだりしていた。近所の子供たちもよく一緒に遊ぶ時代で、今の中国の街では見られない風景だった。
ハルピンは20世紀始め、ロシアが中国の東北地域の植民地支配を始めた頃、鉄道の重要な拠点として街をつくられた。ロシア本土の街と��って、極東にあって、ヨーロッパ的な都市を一から作るため、ロシア側にはしっかりとした都市計画があったようだ。20年代ではとても美しいロシア風の街のひとつで、シベリア鉄道の終起点の一つでもあった。当時ヨーロッパからの資本や銀行がたくさん入っており、ユダヤ人も大勢おり、アジアで上海の次に国際色の強い街だった。30年代に入ると日本に占領され、満鉄の重要な街として日本にも知られた。ロシア風の古い建物が多く、文化的にも東欧からの影響が濃く存在していた。今でも北京より遥かにお洒落で、ファッションセンスのある街である。
50年代以後、毛沢東の「北大荒(中国の東北にある黒竜江省など人口密度の少ない地域)開拓」の呼びかけに応じて、多くの若者が故郷を離れ、全国各地からハルピンにやってきた。そのためハルピンの人口は膨らんだ。中国には各地方の方言があるが、ハルピンは一番標準語に近いと言われる。各地方の人たちが集まったので、標準語を使うしかなかったからだ。
母と父は大学卒業後少し南にある遼寧省からやってきた。父は普通の鉄道員の家庭出身だが、母は資本家家庭出身で、波乱万丈の中国近代史を間近で見てきた。小さい時から母はよく戦時中のことや、社会主義の前の中国のことを話してくれていたので、日本への最初の印象はその時出来上がったように思う。
そのことに少し触れたい。母の曽祖父は清王朝の官吏で、清が滅んだ後、賭博場(今でいうカジノ)を経営し、瀋陽で(満州時代は奉天と呼ばれた)では多少名の知られた人物であった。軍閥張作霖とも親交があり、1931年の満州事変(日本関東軍による張作霖暗殺、満州出兵)の後は日本軍から警戒されていて、相当な不遇にあった。しかし三人の娘は皆顔立ちが綺麗だったために、それぞれ満州時代の商売人や当時の高官に嫁いだ。私の祖母の嫁ぎ先、すなわち私の祖父は瀋陽で屈指の商売人だった。日本とも貿易があったため、よく母を連れて日本に来たりしていた。母は、日本の女の人が和服を着て綺麗だったと私によく話してくれた。瀋陽の中心街に住んでいたので、(東京でいうと銀座のような場所)、平和に暮らす日本人しか見ていないので、日本に対して非常に良い印象を持っていたようだ。
母は南満洲鉄道の「アジア号」の話をよく聞かせてくれた。当時家族で豪華な車両を貸し切りに「アジア号」に乗っていたといつも自慢げに話していた。「アジア号」は当時では世界一速かったらしい。私には半信半疑だったが、何年前に日経新聞を読む時に、偶然に「日本が世界に誇る列車、アジア号」の話が出てきて、とても懐かしかった。
私の子供頃は、よく「一休さん」と「おしん」、そして「姿三四郎」がテレビで放送されていた。そのお蔭で、その時代の中国人は皆日本に対してとても好感を持っていた。礼儀正しく、辛抱強く、真摯的で、それが90年代以前の中国人の日本に対する印象であった。もちろん、愛国主義教育で戦時中日本はどれだけ中国に対して悪いことをしたかという教育と、日中戦争をテーマとした映画の中では日本は「鬼」と化しているが、だれでも戦時中の日本人と実際の日本人とは別者に考えていた。それは今でも同じだ。最近日本のメディアではよく、中国人は愛国主義教育のため日本を嫌いになっていると言うが、それは単に中国の事情知らないだけである。或いは意図的なものかもしれない。最近の日本嫌いは、どちらかというと、日本人が自ら自分の美徳を見捨てたところにあると思う。昔の日本人ほど尊敬できるところは少なくなった、というところからだと思う。
また、私の中では、昔から「自国が弱ければ虐められるのが当然」という考えがあった。歴史知識があるなら当然思うことかもしれない。中国はアヘン戦争以後、日本だけでなく、ヨーロッパ列強に侵略されていた。だからといって、日本の侵略戦争を好意的に解釈するつもりはない。侵略戦争はいつの時代でもどこでも起きている。しかし、近代に入ってからは、大量の民間人の虐殺の伴う侵略、とくに残酷な手段による虐殺は許し難い。ナチス・ドイツを許し難いのは戦争を起こしたからではなく、大量の民間人を意図的に迫害し、虐殺したことにあると思う。第一次世界大戦もドイツによるものだったが、そこには大きな違いがあった。
それが過去であって、狂った時代であって、少しでもまともな人はそれが今の日本と結びつかないだろう。政治家たちは政治交渉のカードとして出すかもしれないが、本気で当時の日本と今の日本と同じ風に見る人はいないと思う。むしろ、中国の教科書には、明治維新の意義やそれに対する評価が高く、中国ではそれがうまくできなかったから取り遅れたというような論旨も見えた。私が日本留学を選んだのは、経済、技術大国となった日本への憧れもあるが、それ以上に明治維新や戦後急速な復興を成し遂げた日本に対する尊敬の気持ちがあったからだと思う。
当時の中国では、優秀な学生たちは皆海外留学を望む時代だった。留学のことを「渡金(金箔を付けるという意味)」と言われ、企業でも大学でも��学経験のある人を重要視される傾向もあった。国としても外国に学び、自国を高めたいという時代であって、個人レベルでは、当時の中国人は海外にいくことはほとんど不可能な時代で、外の世界を見る唯一の手段は留学だった。先端の知識への渇望と好奇心が私達を駆けたてたかもしれない。
私の場合、高校入ってからよく英語で海外の本や雑誌を読んでいたので、当時の中国の雑誌の世界観が私にはとても狭かったし、いつか海外留学したいという気持ちが強かった。当時の中国の優秀な学生は皆アメリカ、またはドイツか日本留学を選ぶ時代であった。私は日本留学を考えた。猛勉強をして、高校一年生の時にはすでに高校の卒業試験を受けて、試験に合格し、卒業証書をもらい、留学の手続きを始めた。
* * *
こうして、1992年1月、高校三年の前期を終えて、私は一人で東京にやってきた。東京・小平で月1万5千円の木造のぼろアパートを借り、高円寺にある日本語学校に通い始めた。
当時の中国は貧弱そのもので、ほとんどの留学生は自分で生計を立てなくてはいけなかった。本国からの仕送りを受けるどころか、多くの留学生は日本で稼ぎ、本国に送金する時代だった。私も、日本語はゼロから勉強し始めたが、三ケ月ほどでなんとか伝えたいことは言えるようになり、アルバイトを探し始めた。たまたま知人の紹介で、ある指圧の先生の下で指圧を習い、三鷹、立川そして福生などで指圧のアルバイトをしていた。仕事を選ぶまでもなく、とにかく経済的に自立したかった。
家に帰るのはいつも深夜で、疲れてすぐに寝てしまう時もあった。これでは目標としたこの年の進学には間に合わなくなるので、アルバイトが終わっても家には帰らず、家の近くの東京学芸大学の教室に忍び込んで、朝まで勉強したりしていた。今思えば、喫茶店やファミリーレストランでも勉強できたが、当時まず知らなかったことと、生計のことと進学の学費など考え、とにかくお金は使えなかった。それに、当時の中国は一食10円程度の時代だったので、日本に来てすべてがあり得ないくらい物価が高かった。来日まもなく月20万円ほど稼げたが、ほとんど貯金に充てた。
苦労したという人もいるかもしれないが、私はそれを苦労と全然感じなかった。それより当時の中国はATMもコピー機械すらなかった時代なので、日本に来てすべてが新鮮に感じた。とにかく日本語を覚え、進学のことだけを考えていた。アルバイトに相当の時間をつぎ込んだはずだが、意外と日本語の勉強も猛スピードで進んでいた。
大抵の人は日本語学校に一年半か二年間通うけれど、私は半年経ったところ、今年の受験でも行けると感じた。日本語はまだまだ習っていない文法や語彙も多かったけれど、雑誌や新聞を読んで、知らないものと出会ったら自分で辞書さえ調べれば、理解できるようになった。もう一年日本語学校に通うことは時間の無駄だと感じた。
しかし、私の通った学校は社会人向けで、進学指導はなかった。多くの日本語学校では進学指導があることさえ知らなかった。すべて自分で準備するものだと思っていた。そして、その年の9月から、午後のアルバイトに行くまでの時間、東京学芸大学の図書館に通い、日本の高校の教科書を巡りはじめた。
その二ヶ月後に、日本語能力試験とセンター試験を迎えた。有機化学ではほとんどカタカナでとても覚えられなかったし、微積と線形も中国の高校では今外されて、大学で勉強することになっていたので、さっぱりできなかったが、それ以外の部分はほぼ満点を収めたので、留学生の中では7番目だった。
当時の自分は情報がなかったので、早稲田が日本で一番いい大学と思い込んでいた。早稲田の試験を受ける時に、試験官はとても傲慢だったのを覚えている。しかし試験問題は、それでも高校生の試験問題なのかと思うくらい簡単��った。
1月に入ってたまたまある塾の数学の先生と出会い、彼は私の成績を見て、あなたはとても早稲田に行く人ではないよと言われた。そして旧帝国大学のことを教えてくれて、東大か、京大、東工大を受けるべきだと言われた。せっかくだから日本の政治経済の中心地に残りたいので、東大と東工大を出願したところ、東大は高卒2年以内でないと受ける資格がないと言われ、結局東工大しか受けられなかった。
そのことを少し説明しないといけない。私は高校入って海外留学したいという気持ちがあったので、高校の授業を一年で一通り勉強し、高一の時にも卒業試験を受けて卒業証書を取得していた。そのため、卒業証書では、二年過ぎてしまったことで東大を受ける資格はなかった。そのことは、自分の中でとても悔しい思いをした。
その後の早稲田の面接の時に、20人ほどの先生たちに一周囲まれて、日本語もまだ慣れていない来日一年目の自分は、とても緊張していた。しかし、聞かれているのはほとんど学費払えるかの経済問題。少しずつ、私が勉強しに来ているのに、なんて学費のことばかり質問するのだと反抗心が強くなり、もともと東大を受けられない悔しい気持ちが胸いっぱいだったので、なぜかすごく胸が張って答えられるようになったと今でも覚えている。
しかしその後の東工大の試験はまったく違った。試験官も全く高圧的な態度はないが、試験問題は泣きそうなくらい難しかった。数学は三割しか解けなかった気がする。それでも合格できたのは物理と化学、英語が良かったかもしれない。面接の時も面接官はとても優しかったのを覚えている。うちの学科に来ないか、そんな具合だった。
大学入学まで残りの二ヶ月はとにかく学費・生活費を稼ぎ、高校で習っていなかった微積と線形代数を勉強した。そんな思いだけだった。深夜のコンビニのアルバイトもした。昼間はまた普通に指圧のアルバイトをしていた。ある時、コンビニのバイトで徹夜上がり、昼間も普通に勉強できて、倍の時間を使えたと嬉しくて電話で母に話した。そうしたら、母に「体壊すよ」とすごく叱られた。でも母の言うことを聞かなかった。そんな生活を一週間ほど続けていたある日、電車を乗っていたら、吐いてしまった。母が正しかった。
東工大入学後、更に悔しく感じることはたくさんあった。それまで高卒で東工大に入学した留学生は私一人だけだった。なぜなら、中国では高校で微積と線形代数を教科書で扱わないし、また英語の試験は国によって試験問題はまったく違うので、よほど余裕がないと、外国で受ける、つまりまったく系統の違い試験問題を受ける時にいい成績を取りづらい。だから、中国で大学に一度入って一年、二年で中退して来日した学生の方が高卒の人より遥かに有利だった。中国の大学は日本と違って、高校並に勉強できるところなので、彼らは微積や線形代数、そして英語がとても余裕だった。
だから、東大が高卒二年以内という制約あって、競争少ないため、留学生にとって東工大より遥かに入りやすかった。東工大の場合、大学中退した実力のある学生たちが上位並んでいるので、中国高卒の留学生が東工大に入れた人はこれまで私以外いなかった。私の場合、数学以外は、彼らに差を付けられなかった。英語でさえ、もともと海外留学を考え、高二の時猛勉強したことがあり、そのお蔭ですっかり英語が好きになり、自然科学、経済、歴史、哲学まで英語で読むことが好きになった時期があって、高二の時に中国大学院の入学試験(5級)に合格していた。
こうして、東大を受ける資格のない留学生の中の成績上位の学生たちは皆東工大に来ていたので、私の成績は東工大では7番目となったため、初年度奨学金をもらえなかった。東大を受けられれば一番になれたのに。悔しくて学校に事情を話しに行った。留学生課の先生は細かい事情を当然知るすべがなく、一応理解を示し慰めてくれた。しかし、期待したところ、何も具体的に助けてくれなかった。今思えばたった月7万円の奨学金だが、しかし、当時の私たちには大きな意味があった。なにせ、親の一ヶ月の給料は4千円だった時代。生計を自分で立てている私たちには学習時間にそのまま直結するものだった。そのことで、私の後の人生に大きな影響を与えた。二つのことを心に銘記させられた。
一つは日本の奨学金制度に対する疑問から。奨学金は、優秀な学生にあげるべきなのに、日本の場合は、各大学に平均的にあげる傾向があった。援助金のようなものだった。皆平等に扱うという発想からかもしれない。私が日本の平等意識に疑問を抱き始めたのはその時からだった。
もう一つは人に頼ろうとしなくなったこと。だれかが同情してくれて助けてくれるだろうと期待したところ、結局、自分しか頼りにならないことはその時思い知らされた。その時から、人や社会に頼らず、自分の力で生きていく、と心の中に決めた。それは今の自分の生き方そのものになっている。
後の話だが、私が創り上げた馬上の旅では、日本的でないものがたくさんあった。たとえば、乗馬の際に、私は参加者を平等に扱っていない。素質のある人が私は特別扱いして伸ばしていく、けっしてできる人を抑制して平均に合わせるようなことはしない。普通の日本人の考えだったら、だれかを特別扱いして他の人から反発を受けるだろう。しかし私はそんなことを気にしない。素質のある人を伸ばすことで、他の人にビジョンを示すことができる。そうすると他の人も頑張ってくれる。結果的に皆が早く上達できる。どんどん上にいくからこそ見える世界がある。それこそ人の権利を尊重することにあると思う。もし、私が旅での中で結果的な平等のやり方にしてしまったら、だれでも不完全燃焼になってしまい、魂まで喜びを覚えるような境界は一人も達せなかっただろう。今の日本社会はまさにこういった結果的平等の考えによって、完全燃焼ができなくなっている。抑圧的な社会になっていく。日本社会はそういう意味で、平均に合わせようという力が大きすぎる。もっと上に行けて、もっと大きなものを知れる人の権利が奪われたのと同然なのだ。
奨学金を得られなかった分、自分で稼いてやる。そんな気持ちの中、大学の最初の二年間は、アルバイトを沢山した。田園調布駅で朝の通勤ラッシュ時にホーム要員として働き、夜は工場で働き、土日は指圧のアルバイトを入れ、7つものアルバイトを掛け持ちしていた。地下鉄サリン事件の時は、永田町のビルで朝の掃除のアルバイトをしていた。事件があと10分でも早ければ、自分も被害者になったかもしれない。
今思えば、これらのアルバイトの経験は、日本社会を間近で見る貴重な機会になった。その後、独立創業する自分に大きな意味があったと思う。
7つのアルバイトはいずれも朝9時から夜5時までの学校の時間に重なっていなかったので、大学の友人たちは私が全くアルバイトをしていないと思われた。しかし当時、アルバイトで月20万円ほども稼いだ。当時の一か月の生活費の出費は家賃を含めて3万円程度だったので、実はそんな稼ぐ必要はなかったが、中国からの貧しい留学生の中では、多く稼げることはそれも一つ能力を測る基準であった。今思えば、私達は学生でありながら、生計を自分で立てている時点で、多く稼げる人もそんなに稼げない人も、立派に社会人として独立していたと思う。が、同じ条件、同じ出発点だからこそ、その中に自然と競争意識が生まれ、一つの価値観が形成されていく。
同じ東工大でも、アルバイトが見つからない人はたくさんいた。私に紹介してほしいと頼みに来る人もいた。私は可能な限り彼らを助けていたが、同時に彼らを叱りたくもなった。私たちは能力も状況も同じなのに、何て自分で見つけられないのだ。99軒に断られても、100軒目に期待する。それが当時の私の心意気だった。自分ができない、失敗だと認めない限り、できないことはない。その時からそう思い始めた。
経済の独立への執念が強かったため、勉強は疎かにした。勉強時間はほとんど電車の中だけになってしまった。学習意欲も次第と下がっていた。そうさせたのは、日本の大学教育に対する失望感と進学後の挫折もあった。
後で分かったことだが、東工大の授業は、日本の大学の中でもとりわけ難しかった。特に自分の専門とする制御システムの学科はそうだった。東工大の二年生の授業は東大の大学院一年レベルとも言われた。とにかく自分の研究をそのまま伝えている先生が多くて、どう教えれば学生のためになるかということをまったく真剣に考えていなかった。大学の先生は研究者である前に、まず教師であって教えることが仕事だということを忘れている先生が多かった。
勿論、当時の私の日本語能力も問題だった。授業中一生懸命聞いていても、いざ演習となると、隣でずっと寝ていた学生から、これは先生が言ったのではないかと言われたりした。理系の場合、外国語で学ぶ時、ある程度知識を俯瞰できる余裕がなければいけないことは身をもって知った。
そして、東工大の学生は、物理問題もすべてが微積で考える。それが微積を独学で習い、まだ自由に操れない自分は、微積の考えについていけなかった。高校まで物理も数学も学校では一位だった自分が、そんなふうに「差」を付けられてしまうことがとても悔しかった。今でも納得しない。微積の考えを高校の時点で物理に導入することは私が賛同できない。考えが安易になって、直感的な“物理力”ができなくなる。
大好きな勉強に楽しみがなくなった。しかし、その一方で自信はあった。その自信はどこか別なところに訴えようとした。
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2019/01/12-2019/01/18 ひとり旅(Russia,Italia)⑤
このペースだとあと3記事くらいかかりそう。
ロシア3日目、2回目の朝。
目が覚めたのは昨日より少し遅い午前8時ごろ。疲れもあるのかもしれないけど、慣れない土地で慣れない交通機関を使ったり、コミュニケーションの末に滞在許可証を入手したりと諸々のクエスト達成によりロシアに慣れてきた証拠、でもあるような気がする。しかし早いもので、今日がサンクトペテルブルク観光できる最後の一日になってしまった。早い…後悔しないように好きなところをまわろう。
ホテル目の前のネフスキー・プロスペクトという大通りを西へまっすぐ進んで徒歩10分程度、途中血の上の救世主協会へ回り道をしながら今日の最初の目的地に到着。
めちゃくちゃクリスマス感!ハッピ~!!ここでの目的は朝ごはん。エリセエフスキー(http://www.kupetzeliseevs.ru/)は高級食材店がメインかつカフェ営業もしている由緒あるお店。らしい。日本でいえば紀伊国屋みたいな位置づけなのかなぁ。帰りにここでお土産買いこもうかと思っていたので、下見のつもりで朝訪れてみたのだった。でも覗き込んだ各種商品の価格帯は成城石井のそれよりも高かったので、目論見はそっと胸にしまい込んでおくことにする。ショーウィンドウを眺めていたらウェイターさんが声をかけてきてくれたので、コーヒーとパンケーキを注文した。
席に着くと比較的すぐに注文の品があつあつで出てきた。ロシアやっぱりサービス悪くないよね??「パンケーキ」は、いわゆる日本のものとはちょっと違ったチーズin小麦粉の薄焼きという感じで、見た目は完全におやき。まぁ、多少イメージと違かろうがあったかくてもちもちしているものは美味しいと相場が決まっている。特に躊躇もせず口に放り込むと、レアチーズケーキの、あのレモン風味のチーズらしきものが入っていて、当然のように美味しかった。ていうかロシアって今のところ食べ物のハズレがない。美味しい~。写真の通り練乳とジャムもついてきてたけど、ちょっと舐めたら「「「「「甘」」」」」だったので味わうのは控えめにしておく。エスプレッソで口の中を落ち着かせてしばしゆっくりしつつ、次の目的地へ出発。ちなみにほかにはおばあちゃんと孫っぽい二人組のお客さんがいた。この日は月曜日。これから幼稚園にでも行くのかもしれない。
ファベルジェ美術館
サンクトペテルブルクの美術館はエルミタージュだけじゃない!実はロシア美術館こそ見ておくべきハイライト、という口コミもネット上ではちらほら見かけたんだけど、どうしても行きたいところと天秤にかけて今回はパス。美術館、1回入ったら最低2時間はうろついてしまうからやっぱり行きたい場所を絞らないとどっちつかずで後悔してしまう予感がすごい。そんなわけで今日のメインはここ。
みんな大好きインペリアル・イースターエッグがた~くさん展示されてるファベルジェ美術館だよ!建物も新しくて小綺麗で、比較的こじんまりしていて…正直とても居心地が良い。あと展示物が宝石とか細工とかなので、そもそもが華やか。
こんな感じになんとなく作品の色合いごとに展示が分けられていたりするの、本当さぁ…""馴染む""んだよな…。いつまでも見ていられる。アンティークモチーフで埋め尽くされたセピア色の豪奢な空間だって非日常で嫌いじゃないけど、洗練されたこの感じ、やはり「現代」っぽい圧を感じて落ち着く気がする。なんて、ファベルジェだって充分に歴史はあるはずなので、ここは内装の問題か。ところでチケットをもぎられる時、スーツ着たガタイのいいお兄さんに"Where are you from?"と話しかけられた。日本、と答えると満面の笑みで「Oh!コニチワ!!エンジョイしていってください」。ロシアで初めて耳にした日本語になんだか一気に笑顔になってしまった。おかげで最後まで心地よく鑑賞できた。 お兄さんСПАСИБО~~!
ところでここの美術館には細工物だけじゃなくて絵画もいくつか展示されていた。そのうちのひとつになぜかふと目が留まり、足を止めてみる。絵のタイトルなんて普段チェックしないんだけど、確認してみると"Judgment of Paris"。…パリってフランスのパリのことか。いや~それにしては描かれてる人たちの服装とかピンとこないけど…とその場でググると、「パリス」というのは人名のようで。Wikipediaで専用記事もあるから有名なモチーフなのかな?とページを開いて、「あ、ああーーー!!!!」となる。トロイア戦争の!ヘラとアテナとアフロディーテのやつだ!!黄金の林檎の!パリスの審判!!!
***~以下自分語り~***
私は古代史を含む世界史にはあまり明るくないけど、かつて某学習漫画シリーズを愛読していたおかげで局所的に知っているエピソードはいくつかある。今回のパリスの審判のように。ちなみにこのシリーズ、"ミイラ"をキーワードに世界各地の遺跡やそれらにまつわる歴史的出来事にスポットを当てて紹介していくもので、幼稚園時代から"生死"とか”死後の世界”というテーマに惹かれていた私は夢中になって読み返した記憶がある。結果、「エジプトの3大有名ピラミッドはギザ、クフ、メンカウラそれぞれの王のものであること」、「クフのピラミッド表面にはまだ綺麗に化粧岩が残っていること(今どうなのかは知らないけど…)」、「ツタンカーメンの黄金製のマスクが重すぎてその下のミイラの鼻先は潰れていること」なんかを常識レベルの知識として捉える小学3年生が爆誕した。そういえばパリスの審判の内容は当時の私にとってはメチャクチャ不可解だったな。「史上最強の権力・絶対不敗を導く知能・至上の美女」からどれでも好きなものをおひとつ、という状況下でなぜ最後を選ぶ?!マジで謎。いや今でも謎すぎるけど。私なら絶対にアテナ選ぶのに…。(今改めて調べたら若干記憶違いで、"史上最強の権力"→"アシアの君主の座"、"絶対不敗を導く知能"→”戦いにおける勝利”とのこと。確かにだいぶ限定的ではあるけども…) そしてそのエピソードから芋づる式に、神話として語り継がれていたトロイアの実在を少年時代から信じて追いかけ続けたシュリーマンというドイツの考古学者と資産家のおじさん二人組がいたこととか、トロイの木馬の逸話、アガメムノンという人物や顔をかたどったマスクが存在したこと、さらにはマヤが太陽信仰でマチュピチュが階段状のピラミッドの神殿であること、独自の超正確な暦を持っていたこと、改宗を大義名分として黄金略奪のためにスペインがインカ帝国に攻め入ったことやら日本の藤原家から即身仏になった僧の存在や、その弟子に鉄門海という人物がいたこと。遺体を安置する入れ物"厨子"なんて言葉もそこで知った。 ミイラというキーワードを伏せてしまえばあまりにも偏りまくりの断片的な知識すぎる。まぁこのへんの影響で世界ふしぎ発見!とか一時期結構ちゃんと見てたんだと思う。吉村先生とかちょっと憧れてた。
***~自分語り終わり~***
思わぬところで自分のルーツに出会ったことになんとなくウォーッとなって、しばらくまじまじとその絵を眺めてしまった。ていうか絵画って神話や史実をもとにした作品だと、結局描き手の解釈を反映した二次創作になるんだろうな~。そう思って絵を見ると色々なところに思いを馳せることができる。きっとこういう背景知識があればあるほど、美術館というのはエンタメの宝庫と化すんだと思う。まぁ、自分の身の丈に合ったところに行くほうが楽しめるということか。興味が湧けば、それをモチベーションに世界史をなぞってみるとよいかもしれない。いつか私にもそういう波が来るかもしれないと思うと、少しだけ楽しみでもある。
再び街中散策
美術館を一通り巡って満足したので再度街中をうろうろ。直近twitterでバズってたロシアのやばい粉(https://togetter.com/li/1299985)が無いか探してみたり、デパートで初代プレステのワゴンセールを見て笑ったり。スタバを覗いてご当地限定:マトリョーシカタンブラーが"在る"ことを「見て」満足するなどした。タンブラーな~…かわいいんだけど、数買っちゃうと結局使いこなせないので…。さくらモチーフとか、台湾で買ったメチャカワのものがあるので今のところはそれで満足することにするね。
道を歩けばマトリョーシカに当たるってくらいたくさんいた。個性あふれててみんなかわいい!しかし3枚目の子があまりにも不遇すぎるのでなんとか助けてあげたい。
マトリョーシカがお出迎えしてくれているのはたいてい土産物屋。何の気なしに覗いたそのうちのひとつで、大学生くらいでは?という若いねーちゃんからむちゃくちゃアツいマトリョーシカのプレゼンを受けた。あまりにも接客熱心なその姿勢に観念して、じゃあ1つは商品買うね、と決めたロシア伝統柄スカーフの試着にも延々付き合ってくれたので、なんだろう…暇だったのかな。単純にいい人だったのかもしれない。ところでパーソナルカラー診断なるものがtwitterをはじめとするSNSで流行りだして久しいけど、瞳の色に合わせてコーデを意識するといいとか、海外の人はよくそうするものだ、とも併せて聞いたことがある。いや言うて日本人の瞳なんてほぼほぼ黒でしょ…と思っていたけど、このよく笑いよく喋るねーちゃんは私がスカーフをまとって鏡の前に立った時にはスッ…と黙って私の眼と色柄���を見比べて、あなたにはこっちのほうがいいと思う、なんてコメントをしてくれたりした。単なるリップサービスかもしれないけど、あーそういうところやっぱ見てるんだな~という気づき。そもそも欧米の人は眼が大きい=顔全体に与える瞳の色のインパクトが強い、というのはあるんだろうけど。でも、黒だと思い込んでいた自分の眼も"こげ茶"だという診断を以前プロから受けたりもしたので、見る人が見れば違うのかもしれない。なんだか半ば押し売りで買わされたみたいになってしまったけど、試着にそれなりに時間をかけて選んだこと、"これはあなたにすごく似合ってると思う!"と言ってもらえたこともあり、最終的には結構しっかりこのスカーフのことを気に入っていた。顧客満足度はこうして上げるものなのかもしれない。(にごりのない青色とピンクの組み合わせはかわいくて好きだし、日本に帰ってから早速使っている) ここであんまりにも長く話し込んでしまったので、次の目的地までめっちゃ小走りした。ねーちゃんは"サンクトペテルブルクの出身としてはあなたにぜひこれを買って帰ってほしい"、と最後までマトリョーシカを勧めてきたけど、道端の土産物屋にしては結構な額買ったからもう許してくれ。ごめん。
異国にて"異国"料理
行きたかったのはここ、メヌア(http://www.menua.spb.ru/)!地球の歩き方に載っていたアルメニア料理のお店。 昨晩ボルシチをひとくち食べてからというもの「ロシアにいる間��食事は全部ボルシチにすっぞ!」と決めてたんだけど、「日本人にはなじみの薄いアルメニア料理を提供するお店」という紹介文を見て一気に心が揺らいでしまった。あー…そういえばアルメニア料理なんて食べたことないし、そもそも味付けだってまったく想像もつかない。ていうか言われるまでアルメニアという国の存在を意識したことが無かった。まぁ…でも23区内のどっかでは食べられるんじゃ?と「アルメニア料理 都内」でググってみてもまったくヒットしない。マジで?東京でこうなの?これここで帰国しちゃったら一世一代の機会を逃すのでは?そう思うと居ても立っても居られなくなり、お手軽な量とお値段のビジネスランチが提供されるギリギリの時間にお店に滑り込んだ。
お昼時をだいぶ過ぎていたこともあり、会計を済ませたらしいひとりと入れ替わるようにして席に着くとお客さんは私だけ。うわ…ランチタイム終了直前に仕事増やしてごめん…募る申し訳なさ。それでもお店の人には案外嫌な顔はされなかったのでちょっと安心。ビジネスランチをお願いします、というと英語表記のメニューは用意が無かったようで、ロシア語表記のものを手渡された。
マジでねえ、わかってはいたけど何一つ読めない。
ウエイトレスさんもこちらが観光客だということは察してくれて、指差ししながら”Um..., This is a fried Chicken, and this is a fried fish.”みたいな説明をしてくれる。あっそもそもなんか選択制なんだねこれ。丁寧な説明ありがとう!(CV:鈴木千尋) うーん、いつもだったら間違いなく鶏肉にするんだけど…ざっとググった情報では、アルメニアは内陸国で、セヴァン湖という大きな湖を有している。滋賀県では? あと、全体的にめちゃくちゃ標高が高いとか。つまり魚料理を選ぶと淡水魚が出てくる可能性が高いのかな。日本だとなんとな~くいい印象の少ない淡水魚(というか海の魚が美味しすぎるよね)、海外の味付けってばどんなもんよとは思いつつ、よりオリジナリティ溢れる味付けのものが出てくるかも!と一か八かでオーダーしてみた。
これがアルメニア料理だ!!(ドン!!!!!)
…見た目には思った以上に何の変哲もないフィッシュフライ。なるほど説明は間違っていなかった(後から思えば"ビジネスランチ"なので、可能な限り無駄を省いた内容になってるんだろうなとは思う)。ナイフで切ってみると、正体はやはりというかなんというか、白身魚。結論から言えばフライ本体は限りなく無難な、よく言えばとても安心感のある味。ていうかこれ衣自体に味がついてるんだな~。単体でも全然美味しいわ。 で、こうなると白いソースと添えられた米が普段の食文化圏のものとどう違うか、を味わってみるのがいいか…とソースの味を確かめてみる。予想はサワークリーム!…だったんだけど酸味はほぼなくて、どちらかと言えばチーズっぽさ。でもチーズほどの独特のにおいもなく、もっと言えば塩気もハーブの香りもあまり感じない…。これはなんなんだろう。”まろやかな何か”であるのは間違いないけど…。フライと一緒に食べるのがやっぱ正解なのかな。 ともあれ全体が食べられる味であったことに安心したところで、店員さんに"何の魚ですか?"と聞いてみた。向こうも不意を突かれたのか「えっ?!」という表情になって、相当程度の低い英会話が約2名の間で繰り広げられた挙句うやむやで終了。そーだよねえ。私だって仮に寿司屋でバイトしてたとして「これは鯵です」「ハマチです」「しめ鯖です」を日本語では言えるけど、英語で何て言うの?ってそんなん答えられない。正解を言ってもらったところでこっちも英語名わからんしな。結局何の魚かは不明のままだけど、そういえば臭みとかは全然感じなかった。というか、散々淡水魚について推測を働かせてはみたけど知っている中で一番近しい食感と味は”鱈”ですね…。川魚?にしては随分とふっくらしていた。 お米に関しては、うーん、タイ米とかと同じ類かな?コメ、と思って食べるから始めこそ強烈な違和感があるけど、慣れてしまえばあ~こういうやつよねという感じ。海外のお米にありがちなパラパラとした食感に、やや軟らかめ?という印象。これは炊き方の問題かもしれないけど。めちゃくちゃ偉そうな物言いになってしまった。まぁ、やっぱりわたしには慣れたジャポニカ米が一番かも。 一緒に出てきたベリー色のジュースは見た目通りさわやかに甘酸っぱくて、デザート感覚で一気にいただける。たぶんだけど、ロシアではポピュラーだと聞いていたクランベリージュース "モルス(морс)" ではなかろうか。メニュー一切読めないから何もわからないけど。
宗教施設
お腹も満たされたので16:00前くらいにお店を後にした。朝からの曇天についに雪がちらつきはじめ、辺りは一気にもう日が落ちたような暗さ。まだまだ夕方と呼ぶのも微妙な時刻に感じるけど、この日の日の入りは16:30ごろらしいので、間違いなく夕闇は迫っている。なんとなく旅の終わりを感じて足を急がせたくなってしまうけど、ふと、そう言えばロシアに来てから一回も教会・聖堂のたぐいをまだちゃんと見ていなかったなと思い至る。そこで、外観だけは往来の行き来で目に入れていたカザン大聖堂を目指してみることに。敷地内の庭を抜け、重い扉を開けると外の人気のなさとは打って変わって多くの人でにぎわっていた。もしや皆、救いだけじゃなく暖を求めてここに…? これまで欧州へ出かけてはそこそこ結構な数の教会を見てきたけど、東方正教の教会に入るのは初めて。ぐるっと見回してみたけど、天井が高く、荘厳な雰囲気はほかの地域と変わらず。ガイドブックなんかを熟読すればきっと細かい点が違うことがはっきりわかるのかな。そんな私でも唯一すぐにわかる、カトリック・プロテスタントの教会と違う点といえば、4本の線で構成された十字架が掲げられていること。まぁ…成り立ちから言えば十字と言わないのかもしれないけど…。そんなところからも漂う異国情緒。 ちなみに東方正教においては宗教施設の中で女性が髪を出すことがNGとのことだったので、その辺で調達したラビットファーの帽子を着用してみた。毛を隠す素振りさえしていれば、一応その辺はお目こぼしいただけるようで。でもほかの本には”失礼に当たるから帽子は脱ぐこと”とか書いてあったしどっちやねん…とびくびくしつつ最初は端っこに縮こまっていたけど、東洋人の地味ないち旅行者に注意を払う人なんてそこにはいなかったのであった。そもそも案外その辺緩そうな感じで、アジア系・中央アジア系・ヨーロッパ系エトセトラ、めいめいがわりと自由な格好で過ごしている。総毛皮のコートを着こなす(おそらくは)ロシア人のおばあちゃん達にはさすがの貫録を感じた。 ひととおり教会内を歩いて眺めて、祀られている"ご本尊"、イコンへ挨拶していくかと思ったところで長い長い列を目の当たりにする。巡礼に来た人達がこんなにも。こうなると興味本位で並ぶのも失礼かな…という気もして、何となくお参りはやめておいた。それでもしばらく壁にもたれて様子を眺めていたけど、行列はいつまでも途切れる様子がない。こちらのクリスマス…というか聖なる日?が1月7日ということもあり、いつもよりも巡礼者の数が多かったりするのかもしれない。 正教会におけるイコンは祈り、口付けする、聖なるものであるとのこと。wikipediaに記載されているまさにその通りにイコンに向けて何度も頭を下げて祈り、口付けをしていく人、その後ろでただじっと自分の番を待つほかの参拝者を見ながら、なんとも言えない不思議な気持ちを噛み締める。 かたちを持たない何かをここまで信��ることのできる彼らの気持ちは、ある意味"わたし"にもわかる気はする。それでもこの縋りつくような切実さまでは、どうもわかるような、わからないような。
最後の晩餐
ドム・クニギという本屋で現地の絵本を物色しつつ紅茶やチョコなんかの軽いお土産を買って、ロシア最後の晩餐をダチニキ(https://www.tripadvisor.jp/Restaurant_Review-g298507-d3198193-Reviews-Dachniki-St_Petersburg_Northwestern_District.html?m=19905)にて。ホテルから徒歩1分だし、口コミも高いし、何より値段もお手頃とのことで1度は入ってみようと思っていた。
佇まい、こんな感じ。パッと見はバーか?といった派手な電飾で彩られている上、お店の入口は地下なので階段を降りきるまではアングラな店じゃないだろうな?!でドキドキ。滞在中唯一読めるようになったロシア語「Кафе(cafe)」の文字を信じて扉を開けてみれば、家族連れと暇そうなおじさんたち、2グループのお客さんがワイワイやっていてムチャクチャ平和。照明も明るくて、ファミレスみたいな雰囲気。ウエイターさんから愛想よく渡されたメニューも、個人の居酒屋というよりはどうもチェーンのそれっぽかったので、ほんとに日本で言うジョナサンとかデニーズとかそのたぐいなのかも。わかんないけど。
いざボルシチ!と入店前は思っていたんだけど、ロシア料理のルーツをよくよく調べてみたところ、ボルシチはもともとウクライナ発祥の料理らしい。マジか。昨日あれだけありがたがって食べてたのに。ロシアがルーツのスープとなると魚の澄まし汁のようなウハー、もしくはスパイシーで酸味のきいたサリャンカが代表格だということ。言われてみれば確かにメニューのスープリスト、トップに来てるのはボルシチじゃなくてサリャンカだ…!!!さて、どっちを頼もうか。一応考えるフリはしてみたけど、答えは一瞬で決まっていた。
サリャンカ、ください!!
ま~~~~もう見た目からして圧倒的に美味しそう。飾らない素朴なお皿に盛られているのも相まって「いつもの一品」感が最高。味のベースはやっぱりブイヨンなので美味しくないわけがなかった。結構しっかりスパイスが使われたサラミソーセージ(?)がてんこ盛りになっていて、これについてもポイント高い。薬味はまたしてもローズマリーとスメタナだったので味が濃い目の食べ物と組み合わせるのはこの辺が定番なのかも。味噌汁に白米的な?最高だな。もしこの先日本が沈没でもしたらロシアでスープを飲む職業に就きたい。
そう言えばロシア料理の代表格であるピロシキ、ようやくここで口にしてみた。なんとなくこっちは味の想像がつくので後回しにしてきてしまったんだけど、せっかく本場に来たし1回は食べておきたいしね。中身を何種類かから選べたので絶対に外さないだろうポテトを選択し、ほかほかの状態で出てきたのを待ってましたとすぐ一口。あー…うーん、こういう感じかぁ。あったかくて美味しい。美味しいんだけど、個人的にはもう一押し味にパンチがあってもよかったかも…なんて。あんまり塩やバターを生地に練り込んでないのかな。ポットパイの上に載っているアレと同じ舌触りと味だったように思う。というかもしかしてこれ何かと一緒に食べるものだったのか?!それにしちゃ単品で先に出てきたしなぁ。よくわからん。
ところでロシアで何気にありがたく感じるのは、グランデのさらに上、みたいなトンデモサイズで提供される料理にぶち当たってこなかったこと。逆に、あれだけ体が大きいロシア人、こんだけ冬の寒さ厳しい土地に住むのに摂取カロリーこんな量で足りんの?と疑問符。そのへんは全体的にアルコールでまかなっているんだろうか。そんなことを考えていたらあっという間に2品を食べ終わってしまい、テーブルにはデザートが運ばれてくる準備が整った。メインは敢えて頼まなかったので、この後にもしまだお腹に入りそうだったらボルシチかウハーを頼んでみてもいいかもしれない。
いや何事?
最後の最後で出てきた超弩級の一皿。別にこのナイフとフォークが小さいとかなくて、普通に魚とか切る用の大きさのものなので、つまり……めちゃくちゃにデカい。まぁ、お値段高めだとは思ったよ。どうりで…。そういえばオーダーの時「この”アンナ・パブロワ”ください!」って言った時にウエイターさんが一瞬止まったんだよな。その前に「え~、サリャンカ1つと、ピロシキ…これって一気に3つ来たりします?あ、1ピースから頼めるんだ。お願いします」とかやり取りしてたので、今思えば「こいつサラダもメインも頼まないのにデザートだけそんなに食うのか?!」とか思ってたのかもしれない。え~そんなん言ってよ!!(被害妄想) 呆然としつつもとりあえず切る、恐る恐る口に運ぶ。美味しい。でもそれ以上にむちゃくちゃ甘い。本体もそうだけどこのブルーベリージャムが信じられないほど甘い。薄々思っていたけどロシアのジャム、日本のものより1.6倍くらいは甘いような気がする。 そもそもなんでこの”アンナ・パブロワ”なるものをデザートに頼んだのか。実はこれ、発祥はオーストラリアだとかニュージーランドだとかでロシア自体は一切関係ないお菓子。丸亀製麺みたいなもんか。それなのにロシアの歴史上の人物の名前がついていたり、なみいる「ロシア料理」の面々に並んでメニューに鎮座しているということは、そうさせるほどの”何か”があるのでは?→つまり…””美味しい””のでは?!?!?という連想ゲームで頼んでみたんだよね…。調べてみたらメレンゲ菓子って書いてあったし。メレンゲを焼いた、あのサクッホロッてやつ、好きだし。。結構期待値高かったんだ実は…。 衝撃から立ち直れないままこのどでかい物体を数口食べ進めてハッ…と気づいたんだけどこいつ、ただのマカロンですね…。マカロンは嫌いじゃない。味によっては好きの部類に入ることだってある。でもマカロンて10個一気食いするとか有り得ないじゃん。しかもこれ10個どころか30個分くらいあるからね。しつこいようだけどたぶん日本で食べるやつより甘い。なんとか粘ってはみたもののさすがに完食は無理だった。ボルシチorウハーの追加が夢と消えたのも無念だけど、おのこしは…本当にごめん。でも私が手を止めてからわりとすぐウエイターさん笑いながらお皿回収に来てくれて、やっぱ無理だってわかってたんじゃねーか!!!��!
そんなふうにしてロシアの夜は更けていく。最初こそ少し委縮してしまっていたけど、時間があればあったなりにきっともっと楽しめただろうなー。何より本当にご飯が美味しい。次に来るときはもっとたくさんスープを味わいたい。
ロシア、楽しかった!
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●江戸のリサイクルと物売り
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●江戸のリサイクルと物売り 江戸は凄い時代である。 当時の世界ではナンバーワンと言われるリサイクルが発達していた。 桶や樽などの再生からカマドの灰まで買いに来ていた。 桶屋たるはそこいらに放ってあったものを拾っていった。 我が家はうどん屋をしていて建物の壁一面に薪を積んでいた。 其れを燃やすわけだから灰が出てくる。 幾つまでだったか覚えていないけれども結構遅くまで来ていた。 竈(かまど)の口は大きかったので中に首ツッコミ小さな帚(ほうき)で キレイに履いていったもの。 煙突の煤(すす)もキレイに掃除して買っていったもの。 他に使い道がどのくらいあるのかは判らないけれどススは硯(すずり)などに使った。 灰は染料の色止めや灰汁(あく)抜きとして使った。 食品に含まれる、渋み・苦み・不快な臭いなどの元となる、 食事には不要な成分の総称に成る。 詳しくはhttp://wkp.fresheye.com/wikipedia/灰汁 などを読んで下さい。 物売りも結構来ていた。 焼き芋屋やアイスキャンデーや金魚売り 物干しの竿だけなんかも有った。 売り手のかけ声が懐かしい。 バナナなんかはちゃんとした口上(こうじょう)が有ったようだけど 私は聞いた事がない。 下の動画いくつか集めておいたので再生して聞いて下さい。 いつの間にか録音したものを車で流しながら売り歩くようになった。 これでは効率は良いけれども経費が掛かるのと客とのコミニケーションは 取れないだろうね。 心のふれあいが無くなり商売するから変に歪んだ商取引になり 騙されたの騙したのなんてなるのでは。 昔は無かった売りっぱなしで責任取らない。 これも権利の先行になり 義務を放棄する事になっている。 今ではその辺歩いている子供に声かけたら大変な事になる。 下手すると誘拐犯にされてしまう。 クワバラ クワバラ 恐ろしい時代になった。 私の日記読んで居る人でも知らなくて道であって声かけたら其れこそどうなるか。 世の中進歩するのも良いことだけど こんな進歩はして欲しくないもの。 コミニケーションが途切れたら同じ空気吸っていても完全に切れてしまう。 道歩いているだけでも眼を付けた なんて言われイチャモンつけられそうだから人の顔は見ないようにしないと。 寂しい時代だね。 ●いちゃもん 言いがかり。難くせ。文句。 「 -をつける」 ●「クワバラ、クワバラ」の意味は 災難や禍事などが自分の身にふりかからないようにと唱える、まじないのこと。 ●めっ・ける [0]【目付▽ける】 ( 動カ下一 ) 〔「見付ける」の転〕 「見付ける」の俗な言い方。見いだす。 「花子さん-・けた」 ●ENEOS童話賞について:童話賞の3つの願い - JXTGグループ https://www.jxtg-group.co.jp/hanataba/awards/wish/ ENEOS童話賞は、「心のふれあい」をテーマに、毎年一般の方からオリジナルの創作童話を募集しております。その中から、厳正な審査の結果、受賞作品を表彰するとともに、一冊の童話集にまとめております。ENEOS童話賞には、私たちの「3つの願い」がこめられています。 ●第50回(2019年) JXTG童話賞 【一般の部 最優秀賞】 雨がすき作者:宮田一平 / 絵:かべやふよう 花が窓から外をながめていると、空から大粒の雨が落ちてきた。 「おかあさん、雨がふってきたよ。」 「あらっ、たいへん。花、駅までお父さんを迎えにいってくれないかな。お父さん、傘を持っていないと思うから。」 「お父さん、いつもの電車?」 「そう、6時半に着く電車。」 「わかった。」 時間になると、花は玄関で大好きなオレンジ色の長ぐつをはき、傘入れから花の赤い傘とお父さんの大きな黒い傘を引っぱり出して、駅へ向かって飛び出していった。 花が駅に着いて時計を見ると、電車が着くまでにまだ少し時間があった。駅の待合は、花と同じお迎えの人たちや雨宿りの人たちの話し声で、いつもより少しにぎやかだった。花が駅の売店の方に目をやると、一人の少年がぼんやりと外を見ながら立っていた。 「あっ、たっくんじゃない。」 花は思わず大きな声を出して、少年のところへ飛んでいった。 「おっ、花か。どうした。」 .....1/5 ●日本語の音長律(1) 百人一首朗詠 - 「かささぎの」2011/02/10 https://youtu.be/76hMbZ0EK1M https://youtu.be/76hMbZ0EK1M?list=PLZyjyoHSWs6P67GI2JU7Yf1ZiVsxxJqXf ●日本語の音長律(2) 売り声 - 石焼芋, さお竹 https://youtu.be/b9PLUCzD_hg ●宮田章司・坂野比呂志 飴売りの売り声の比較 https://youtu.be/pYHsRZRA1mA ●バナナの叩き売り!口上:ありがとう三太さん https://youtu.be/8hOEk8GIGoo ● 江戸は物売りの呼び声が… https://mainichi.jp/articles/20170811/ddm/001/070/197000c 毎日新聞 2017年8月11日 東京朝刊 江戸は物売りの呼び声がにぎやかだった。夏、「ひゃっこい、ひゃっこい」は冷や水売り、「たまや、たまや」と来るのはシャボン玉売りだが、川柳に「荷が呼んで歩く虫売り、定(じょう)斎(さい)売り」というのがある ▲定斎屋は暑気あたりの薬屋で、薬箱の金具がカタカタ鳴るのが呼び声がわり、虫売りは松虫、鈴虫などの鳴き声で客が集まった。その虫売りというのがまるで役者のような粋(いき)な格好をしていたという ▲市松模様の屋台ともどもだんだんと華美の度を増し、ついには天保の改革で禁止されるはめになった。鳴く虫やホタルを売ったこの虫売り、初夏からお盆までの商売で、江戸の人々はお盆になると供養のため買った虫を放ったそうだ ▲虫売りといえば、クワガタやカブトムシが幅をきかせる現代である。だが近年は輸入された外国産の種が野外で見つかる例が相次いでいる。無責任な飼い主が放ったりするためで、日本の固有種との交雑種が生まれている恐れもある ▲オオクワガタやヒラタクワガタは外来種と雑種を作るのが知られている。以前の小紙報道によると、関西ではあごの形などが国産種と違うオオクワガタなどが見つかっている。自然界で交雑を放置すれば、やがて固有種がいなくなる ▲売買や飼育への規制導入も、すでに大量に飼育されている現状では難しそうだ。専門家は飼い主のモラルを高める教育や啓発、飼育に困った外来種を業者が引き取る仕組みを求めている。外来種を放ってはならない。たとえお盆であってもだ。
物売りの声 寺田寅彦 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2514_9317.html 毎朝床の中でうとうとしながら聞く豆腐屋のラッパの音がこのごろ少し様子が変わったようである。もとは、「ポーピーポー」というふうに、中に一つ長三度くらい高い音をはさんで、それがどうかすると「起きろ、オーキーロー」と聞こえたものであるが、近ごろは単に「ププー、プープ」というふうに、ただひと色の音の系列になってしまった。豆腐屋が変わったのか笛が変わったのかどちらだかわからない。 ●物売りの口上 https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%89%A9%E5%A3%B2%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%8F%A3%E4%B8%8A ●陣内智則 物売り屋さん https://youtu.be/jxrMOQakvq8 ●下町の物売りの声を思い出してみませう 千代ばあちゃんの思い出袋 http://hachisu-net.com/chiyo/taishouki.html ●物売り 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「http://ja.wikipedia.org/wiki/物売り」より ■物売り(ものうり)とは路上で移動しながら、主に鳴り物や独特の売り声を発しながら呼び込みをして食事を提供したり、物品などを販売、修理や古物や廃品の買取や交換をする者。 「引き売り」・「引売り」ともいうが「物売りの声」・「引き売りの声」という言葉が一般的に馴染深い。屋台や行商や街商と重複する部分もあるが、行商は固定客に対しての訪問販売が主であり、街商は市や縁日で一所(ひとつところ)で留まって商売する事や物売りが必ずしも屋台ではなかった事から区別する事が出来る。 ■ 歴史 鈴木春信画:『水売り』水売りの少年が描かれている浮世絵江戸時代から盛んになり「棒手振」・「棒手売」(ぼてふり)と呼ばれていて日用品の食材から生活必需品まで衣食住に係わる全てのものが売られており幕府の許認可を受け鑑札を持った物だけが営業できた。 これに違反すれば厳しい処罰があったが、生活困窮者や弱者の就業を目的とした幕府の政策でもあった。 季節物の販売も多く、蓮の葉商いの傾向も強いが市や祭事の門前町などの街商は場所代や既得権が必要であったが、棒手振は歩き売りという形を取っていたのが街商などとの差異であり、また季節物ではない代表的なものとして、夜鳴き蕎麦屋や鮨屋などがあげられる。 当時は大八車(リヤカー)ではなく主に道具や商品や食材の入った箱や笊(ざる)、籠(かご)や桶(おけ)などを両天秤にして天秤棒を担いで売り歩いたので棒手振と呼ばれていたが、道具や品物の入った箱を片方の肩で担いで売り歩く者もいた。 江戸時代にはその場で調理する屋台だけでなく、調理済みの天麩羅(てんぷら)、鰻(うなぎ)の蒲焼などを木箱に入れ、物売りが売り歩いていた。 近年では自転車やリヤカーをもとに形だけではなく設備も充実させ、煮炊きが出来る(ただし江戸時代から屋台では煮炊きの設備を備えていた)物売りも増え、昭和初期から昭和40年代まで品を替え(鮨や蕎麦は廃れおでん売りや菓子パン売りなどが盛んになった)世間で一般的に見られたが、江戸時代から変わらず続いた豆腐売りや納豆売りや金魚売りなども含め、今ではほとんど見る事はなくなった。 しかし現在では自動車に設備を載せ決まった場所(就労者は多いが外食産業や商店の無い所など)で食事や弁当やパンなどを調理、販売をしているものも見られる。また高齢化社会に伴い利潤のみならず地域振興や福祉目的を持って幾つかの小さな企業が、物売りとして豆腐などの大豆食品を呼び込みのラッパを使うなど、昔ながらの形態で販売を始めている地域も存在する。 ■ 物売りの種類と売り声や鳴り物 ●食事 ・鮨屋(すしや)---江戸前寿司の始まりは、物売りや屋台であったので今でも名残として立ち食いの鮨屋も東京を中心にみられる。 ・夜鳴き蕎麦(そば)---呼子といわれる笛を吹いていた。宵に笛を吹きながら商売したので「夜鳴き蕎麦」とよばれた。日本蕎麦はなくなり中華蕎麦(ラーメン)になり、笛もチャルメラという物に変わった。 ・鰻(うなぎ)売り---江戸時代当初は生をその場で捌いて客に渡したが、その後蒲焼にした物を売ったり、その場で調理するものもあらわれた。割り箸は鰻屋の発案で引き割り箸といった。 ・賄い(まかない)屋---江戸は女性の比率が二割といわれ独身の男性が非常に多く、宮使いで制約の多かった下級武士の専門の弁当屋として成り立っていた。 ・おでん売り---昭和40年代まで日本各地にみられ、晩のおかずに主婦が鍋を持って買いに来たり、子どもがおやつとして買っていた。 ●菓子 ・飴(あめ)売り---多種多様な飴売りが存在し競争も激しかった為、今の出店や夜店の的屋の元になる、くじ形式や余興や口上などで趣向を凝らしていた。 ・鼈甲飴(べっこうあめ)---練る飴細工も有名だが、鼈甲飴も溶かした飴を型などに流し込み、様々な形を平面的に作り上げて、売っていた。 ・飴細工---鋏(はさみ)や指先を使い飴を練って三次元的な立体造形の飴を作って売っていた。詳しくは飴細工を参照の事。 ・揚げ団子売り---昭和初期ごろまで見られ、小麦粉を甘く味付けして中華菓子の様にその場で揚げて、主に子ども向けに売っていた。 ・焼芋屋---「やきいもーやきいもー栗よりうまい十三里ー」栗より美味い十三里と言う文言は「栗」を九里と「より」を四里とを足して焼き芋のことを十三里というなぞかけ言葉である。 ●食材 ・蜆浅蜊売り---「しじみーあさりー」この他にも蛤や赤貝なども専門で売られていた。 ・鰯売り---売り声「いわしこーいわしこー」「いわし」は真鰯で「しこ」はカタクチイワシのことで獲れたてを海浜近郊で売っていた。魚は他にも、鯨、初鰹、烏賊、白魚、秋刀魚、鯵など旬の物も売られていた。 ・納豆売り---売り声「なっとー、なっとなっとうー、なっと」江戸時代から続いていたが近年では主に自転車に品物を積み販売していた。江戸では上記の蜆浅蜊売りとともにポピュラーな存在で、「納豆と蜆に朝寝起こされる」などという川柳も残る。 ・豆腐売り---ラッパを使い「とーふー」と聞こえる様に吹いた。行商の色合いが強い地域もある。 ・青果など---蜜柑、西瓜や大根、蕪(かぶ)、自然薯(じねんじょ、山芋の)、生姜など野菜や果物を季節ごとに販売していた。 ●生活用品の修理、販売 ・定斎屋(じょうさいや)---昭和30年頃まで存在したといわれ、江戸時代の物売りそのままの装束で半纏(はんてん)を身にまとい、天秤棒で薬箱を両端に掛け担いで漢方薬を売っていた。また力強く一定の調子で歩いた為、薬箱と金具や天秤棒のぶつかり合う音が独特の音となり近隣に知らせた。 ・羅宇屋(らうや)---煙管の羅宇と呼ばれる部分のヤニとりや交換をしていた。小型のボイラーを積みその蒸気で掃除をし、また蒸気の出口に羅宇を被せ蒸気機関車の警笛の様に「ぴー」という音を出して知らせた。詳しくは煙管を参照のこと。 ・竿竹売り(さおたけうり)---売り声「さおやーさおだけー」本のタイトルにもなり注目を集めた。 ・鋳掛屋(いかけや)---金属製の鍋や釜の修理販売をしていた。詳しくは鋳掛屋を参照のこと。 ・金魚売り---売り声「きんぎょーえー、きんぎょー」金魚とともにガラスの金魚鉢も売っていた。ちなみに江戸時代の金魚鉢は吊り下げ式で軒下などに吊るして下から観賞していた。 ・風鈴売り---風鈴の音色が呼び込みになった。 ・買取---古紙、古着、金物、番傘、屎尿、樽、桶、糠など様々で、江戸時代は最近の研究では、全ての時代の世界の中でも高い水準でのリサイクル社会であったと考えられている。 落ち買い---「おちゃない おちゃない」という呼び込みの声で抜け落ちた髪の毛を買い取っていた。京都では女性の専業であり、髪文字屋(「かもじや」と読み、付け毛製作販売業)に買い取った髪の毛を卸していた。「落ちていないか」が「おちない」から「おちゃない」に変化したといわれる。 ■振売(棒手売から転送) 振売・振り売り・振売り(ふりうり) 商品を天秤棒に担いで売買すること。転じて、そのような商売をする商人を指す。 この様式の商売は、行商のうち比較的狭い範囲を巡回する形態に多く見られる業態である。天秤棒の両端には商品を入れた桶や箱などの容器をぶら下げる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/振売 ●蓮の葉商い http://ja.wikipedia.org/wiki/蓮の葉#蓮の葉商い 蓮の葉(はすのは)とは蓮という水生植物の水面に浮いている葉のことをさし漢方薬の伝来により荷葉(かよう)ともいう。また蓮根(れんこん)の葉としても馴染が深い。ヒンドゥー教、仏教、密教においては「蓮」そのものが特別な意味を持ち蓮の花、蓮の実と共に珍重される。蓮の葉はロータス効果という現象の説明において代表的なものでもある。 蓮の葉商い(蓮の葉商ひ、蓮葉商い)とは、古くから日本各地の朝市や縁日などで、その時々に自生する銀杏、アケビ、椎(しい)などの木の実や五節句、二十四節気の年中行事に必要な季節物をその期日の前に商いしていた者をさし、(近年、近代から八百屋や花屋や街商も季節物を売っていた)その中で盂蘭盆(うらぼん)に使う蓮の実や蓮の葉が特に珍重された事や、商品の多くを蓮の葉や蕗(ふき)の葉の皿の上に置いて売っていたという事などから、季節物を扱う商人を「蓮の葉商い」(はすのはあきない)と呼ぶようになった。しかし季節物という短期使用のいわゆる、消え物であることから多少品質が悪くとも問題にならない、しない物という捉えかたがされ、きわもの売りやまがい物を売る者という意味を持つようになり、蓮の葉の言葉の意味が際物(きわもの)やまがい物を指すようになった。 季節ごとの主な商品 ・1月 一月一日 - 七日の正月・人日の節句---橙(だいだい)、榊、松、竹 ・2月 二月三日の節分---鰯や柊、大豆「鬼が入らないための結界と追い出すための道具」 ・3月 三月三日の桃の節句---桃の花 ・4月 四月八日の灌仏会(釈迦の誕生日)---甘茶「紫陽花の近縁種の植物の葉」 ・5月 五月五日の端午の節句---柏の葉、菖蒲「柏餅、菖蒲湯」 ・7月 七月七日の七夕---笹や竹 ・8月 八月十三 - 十六日 盂蘭盆(仏教行事)---蓮の葉、蓮の実 お盆(日本古来の祖先崇拝の祭り)---鬼灯・酸漿(ほおずき)、真菰馬(まこもうま)、小豆、大角豆(ささげ)関東地方では豆がはぜるのが切腹と通じるのを嫌い小豆の代わりにこれで赤飯を作った。 ・9月 九月二十五日の月見---ススキ、枝豆、栗 ・0月 十月十九日・二十日の恵比寿講--- 大根、牛蒡(ごぼう)などの根菜や魚(恵比寿は日本では漁業の神でもある)「五穀豊穣と大漁祈願の祭事」 ・12月 十二月十三日のすす払い---鯨「すす払いの後、鯨汁を作って食べる習慣があるため」 十二月二十二日の冬至---柚、南瓜(かぼちゃ)「柚湯、南瓜粥で冬の英気を養った」 ●行商 https://ja.wikipedia.org/wiki/行商 行商(ぎょうしょう)は、(特定の店舗を持たず)商品を顧客がいるところへ運び販売をする小売業(サービス業)のこと。 ●屋台 https://ja.wikipedia.org/wiki/屋台 屋台(やたい)は、移動式の簡易店舗。簡単な飲食物や玩具などを売る。似た言葉として露店(ろてん)があるが、露店は移動式とは限らず、歩道上に物を並べて販売したり、建物の1階で物を売る店も含まれる。 ●商業 https://ja.wikipedia.org/wiki/商業 商業(しょうぎょう)とは、財やサービスなどの商品を所有している人やまたは存在している場所と、必要としている人または必要としている場所を結びつけることにより利益を得る職業または経済活動である。多くは貨幣の媒介を経て市場や個々の店舗において取引(商取引)という形式をとって行われる。ただし、貨幣や市場などを媒介しないケースを含める場合には「交換」と呼ぶこともある。また、「商業的」という場合、「営利を目的として」という意味になる(例:商業的生産)。 ●ろてん【露店】 道ばたに商品を並べて売る、屋台店(やたいみせ)。 「―商人」 ●ろてん【露店】 https://ja.wikipedia.org/wiki/露店 ●屋台 https://ja.wikipedia.org/wiki/屋台 屋台(やたい)とは、屋根が付いていて、移動可能で、飲食物や玩具などを売る店舗。 屋台の形態は国や地域によって様々なものがあるが、初期の形態としては、天秤棒で担いで売り歩いた形態があったが商品を多く運べないのが欠点。リヤカーのように可動式の店舗部分を人力、自転車、オートバイで牽引するものや、テントのように組み立て型の骨組みをもとに店舗を設置する場合もある。またトラックの荷台の部分を改造したものもある。似た言葉として露店(ろてん)があるが、露店は移動式とは限らず、歩道上に物を並べて販売したり、建物の1階の店先で物を売る店も含まれる。 ●蚤の市 https://ja.wikipedia.org/wiki/蚤の市 蚤の市(のみのいち、flea market、フリーマーケット)は、ヨーロッパの大都市の各地で春から夏にかけて、教会や市庁舎前の広場などで開かれる古物市。パリの蚤の市が有名。北米では大規模な倉庫や体育館など屋内で開催されるものもある。出店者は一般家庭や仲間で集まったグループから、古物商や雑貨商の様な事業者まで幅広い。 ●的屋 https://ja.wikipedia.org/wiki/的屋 的屋(てきや)は、縁日や盛り場などの人通りの多いところで露店や興行を営む業者のこと。祭りや市や縁日などが催される、境内・参道・門前町において屋台や露店で出店して食品や玩具などを売る小売商や、射幸心を伴う遊技として射的やくじ引などを提供する街商や、大道芸にて客寄せをし商品を売ったり、芸そのものを生業にする大道商人(だいどうしょうにん)などが含まれる。「当たれば儲かる」ことから的矢[1]に準えて言われるようになった言葉である。 的屋(まとや)、香具師(やし)、三寸(さんずん)とも呼ばれる。 ●露天商 https://ja.wikipedia.org/wiki/露天商 露天商(ろてんしょう)とは露天(屋外や青空の下)で店舗を持たず商売をする者。露店商とも表記し、街商(がいしょう)ともいう。 的屋(てきや)、香具師、三寸は辞書[2]では、同じ説明がなされている場合が多い。職業神として元々は中華文明圏より伝わり、神道の神となった「神農の神」「神農黄帝」を祀り、独特の隠語を用いる者が多いため、狭い世界では神農(しんのう)とも呼ばれる。 警察においては、的屋を暴力団の起源の一つと定義しており、戦後の混乱期に的屋は、博徒・愚連隊と同様に闇市を縄張として、覚せい剤の密売などの違法行為を行っていたと警察白書に記されている。平成以降の暴力団の定義でも「博徒、的屋等組織又は集団の威力を背景に、集団的に又は常習的に暴力的不法行為を行うおそれがある組織」としており的屋も暴力団の経済活動の一つとしている。 ●反社会的勢力 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/反社会的勢力 反社会的勢力(はんしゃかいてきせいりょく、英語: Anti-Social Forces)とは、暴力や威力、または詐欺的手法を駆使した不当な要求行為により経済的利益を追求する集団又は個人の総称である。暴力団や半グレ集団などを広く呼び、反社(はんしゃ)と略される。 ●ヤクザ https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤクザ ヤクザとは、組織を形成して暴力を背景に職業として犯罪活動に従事し、収入を得ているものを言う。この偏倚(へんい)集団を特徴づける要因の一つに集団内部の「親分子分」の結合がある。また下っ端に該当する場合は「チンピラ」と称される。 大辞泉は「やくざ」について次の2通りの説明を示す[1]。 役に立たないこと。価値のないこと。また、そのものや、そのさま。「―に暮らす」「―な機械」「―仕事」 ばくち打ち・暴力団員など、正業(せいぎょう)[2]に就かず、法に背くなどして暮らす者の総称。「―渡世」 「やくざ」研究の古典的名著とされる岩井弘融の『病理集団の構造』の序説で「親分乾分(岩井は故意に、乾としている。読みは「こぶん」で同じ)」の関係は民俗学(柳田國男他)や社会学(川島武宜他)において説明されるところのオヤカタ・コカタの関係と共通の社会的基盤を持つと説明している。 ◆あんにゃとあねま - 縄文人の反乱 日本を大事に - Goo ブログ https://blog.goo.ne.jp/s6990714726/e/1448c6d0f0267f9daef8224a69cbd13e 2012/02/29 あんにゃとあねま あねまあんにゃ 棒八もん 形見位牌 証文をまく コレは映画に出てくる幾つかのコトバ。 忘八だけは引っかかるけど後のコトバは100見ても出てこない。 ヤフーでいつも検索すると一ページに100表示するように設定している。 始め方に新しいページが出てくる可能性がある。 生地はなるべく新しい方が良い。 中には古くても良いモノも有るけど。 ◆木颪の酉蔵 ~ 浜木綿子さんが演じた女親分【Respect】 2016/06/29 https://youtu.be/7vXf5Xrymnc 木颪の酉蔵:「子連れ狼」"あんにゃとあねま" に登場した房州の揚屋・女衒の元締め。 萬屋錦之介版の子連れ狼では浜木綿子さんが演じました。
拝一刀とのやり取りで見せた貫録と美しさはひときわでした。 私もそうですが、この役は浜木綿子さんでこそ演じきれたと思う方、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。 子連れ狼 第一部 (1973年4月 - 1973年9月) 日本テレビ放送網 製作:ユニオン映画、スタジオシップ 第三話 あんにゃとあねま 拝一刀 - 萬屋錦之介 大五郎 - 西川和孝 木颪の酉蔵 - 浜木綿子 お松 - 竹下景子
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2019年4月30日(火)
昼前に起きる。それから葛飾柴又の寅さん記念館へ。ずっと行きたかったけど、ついに行けた。まず帝釈天の参道で蕎麦と団子を食べて、帝釈天でお参り。それから江戸川の河川敷に行って、山本亭。そして寅さん記念館。とても良かった。柴又、こんなに観光できる場所だとは思ってなかった。参道の商店街も活気があるし団子うまいし、河川敷も広くて良い場所。また行きたい。
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柴又散歩
小さな駅を降りると、あの方とおぼしき人が後ろ向きで立っていました。
ぐるっと廻りこむと、他人が入り込めない雰囲気です。寅さんの細い眼の先には、小柄なさくらが心配そうに立ちすくんでいます。
あのメロディーが頭の中を流れはじめ、「どうせおいらはやくざな兄貴、わかっちゃいるんだ妹よ・・・」と口ずさんでいる自分がいました。
寅さんのふるさと、「柴又」はあこがれの土地でした。いま思えば、筆者が生まれ育った人情味ある小さな商店街と通じるものがあります。
観光客がそぞろ歩く前の時間帯です。参道を歩いていくと、あの帝釈天があらわれました。「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。���釈天で産湯を使い・・・」
江戸の面影を残している、国が指定した文化的景観でもあります。
幾度となく「男はつらいよ」の舞台となった広い河川敷の先には、江戸川が流れています。「矢切の渡し」場には、ツアー客が舟を待っていました。
細川たかしの歌声が、頭の中で回りはじめていました。
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ガラスコーティング・車 コーティングってどれも同じ?
まずは硬さの違いもありますが、ガラスコーティングの厚さが全く違います。 上記画像の左側は通常のディーラーやエシュロン、GZOX(ジーゾックス)などのガラスコーティングの成分であり、右側の画像はドゥレッザ ガラスコーティングになります。 通常のガラスコーティングは硬化させても「でんぷん」の粉のようにしかなりませんが、ドゥレッザ ガラスコーティングは本物のガラスなので上記右側のようにガラスになります。 ガラスコーティングは塗装の保護なので、上記のようなガラスにならないと塗装の保護にはなりません。
Massima durezza rivestimento di vetro ドゥレッザ ガラスコーティング
新しいガラスコーティング剤: 低分子シラン ドゥレッザ ガラスコーティングとは 従来のガラスコーティングとは違う硬く、しなやかな最強無機質ガラスコーティング ガラスだから硬いのは当たり前、衝撃や湾曲などのストレスによるひび割れが発生しにくい柔軟性を持たせました。 柔軟性が(硬いだけより)耐傷性を高めます。また、酸化劣化しないことと合わせ、将来の剥がれ、ひび割れ等の弊害に対する心配ををゼロにします。 ドゥレッザ ガラスコーティングは単一成分98%の高密度ガラスコーティングです。限りなく無機質に近いコーティング剤ですが2%のアルコキシドを混合する事により3~4ミクロンの甲膜厚を実現しました。また硬度7hの高度を持ちながら高膜厚のコーティング剤でもあり非常にバランスのとれた撥水角100℃を超えた撥水性ガラスコーティング剤です。
Hard-supple 硬く・しなやか
衝撃や湾曲などのストレスによるひび割れが発生しにくいガラスコーティングでは最高硬度の7h! セラミックガラスコーティングのように9hなど硬さが増すほどクラックが発生しやすくなります。 このため弊社のガラスコーティング剤では、多少の柔軟性を持たせて、あえて鉛筆硬度9Hとはせずに7H前後に調整して、クラックの発生を防いでいます。 ※ペルヒドロポリシラザンは高硬度9hであるが、クラック発生を防ぐため膜厚は薄く、意外にも微細な擦過キズにも弱く、膜厚をあげるために何層にもコーティングを施工す��と剥離する。 ディーラーガラスコーティングは殆どがオルガノポリシロキサンを使用しており高分子の為、定着性が粘着テープのような定着性の為、柔軟性はあるが硬度が3h位しかなく耐久性も実際は1年半位。 弊社ガラスコーティングは低分子シランガラスコーティングの為、高硬度7h~8hであるが柔軟性があるためクラックしづらく、また、低分子のため塗装面の微細な凹凸に浸透しやすく、強靭な密着力が違う。
High hardness flexibility 3D 高硬度柔軟性3Dネットワーク構造被膜
従来の3Dネットワーク構造被膜ですと硬度5hで耐久性は1年半ぐらいでしたが、低分子シランは硬度7h以上で長期耐久を実現しました。
No machine quality moths La scan the membrane 無 機 質 ガ ラ ス 被 膜
無機ガラス主鎖+有機官能基側鎖構造:酸による腐⾷や撥水・低撥水にもかかわらず無機汚れ(ウォータースポット・イオンデポジット)固着し難い。 低分子のため高濃度無溶剤化により高密度化ができる。このため汚れがつきにくく、汚れを落としやすい皮膜を形成できる。 従来のガラスコーティングは塗装色により撥水や親水の選択が必要であったが撥水角も100℃以上でもウォータースポット・イオンデポジットも低減できます。 有機質ヨゴレと結合しにくいので、ピッチ・タールなどの油類、無視やのフン・あか、チリやホコリなどが付着しにくく、水洗いで簡単に落とせる。 耐紫外線性、耐熱性、耐油性、耐水性、耐薬品性が高く塗装面を強靭に期間保護する。
Thickness コーティング剤膜厚
低分子だから実現できる1層塗りでも3μ以上 多層でも20μも可能。 通常のガラスコーティングですと、高分子ペルヒドロポリシラザンですと硬度が9hにはできますが、1μ以下なのでクラックしやすく、オルガノポリシロキサンは硬度も膜厚もない。硬度9hを高膜厚にすると柔軟性がないため劣化します。
Quality クオリティー
ドゥレッザ ガラスコーティングは外国製原料ではなく、現在世界最高の機能や性能と安定した品質を誇る日本製低分子シランを原料として、自動車塗装や建築内外装向けのガラスコーティング剤として求められる「耐久性・防汚性・施工性・光沢美観・メンテナンス性」を追求。 アルコール系溶媒なので、塗装面・人体・環境に優しい。
Price
今現在のガラスコーティングの相場は硬さに高硬度になればなるほど金額も上がっていきます。 ハイモースコートやセラミックガラスコーティングなどはお店によってことなりますが、15万円以上20万円以上の高額な金額になりますが、弊社は中間コストを省略することで安く提供することに成功しました。 硬度7h以上のガラスコーティングではお求めやすい金額になりました。
ドゥレッザ ガラスコーティングを塗ったプロテクションフィルムを指で曲げても、ひび割れしません。
通常のガラスコーティングですと、数μでもここまで曲げるとひび割れしますが、ドゥレッザ ガラスコーティングは低分子の為、膜厚が厚く、そして硬くても衝撃や湾曲などのストレスにも強い。
※今現在、コーティングの硬さは最高硬度で7hが最高です。 7hと言えど完璧ではありません、たまにセラミックガラスコーティングなどの9hガラスコーティングも存在しますが、研究者のなかでは車の湾曲に塗れる9hはないそうです。 例として、メガネのレンズは7hでアイフォン(携帯電話)の表面は9h?なのでしょうか。 この両者を道路などに落とした場合メガネは割れませんが、アイフォンは表面レンズがバキバキに割れ、よく割れたアイフォンをそのまま使用してるのをよく目にします。 なぜ、9hのほうが硬いのに割れるのか? 今現在の技術で劣化しない9hがでればノーベル賞ものだからです。 メガネが割れないのはある程度柔軟性を持たせた7hなので劣化しないのでしょう。
硬度とクラック
硬度が硬いほど良いと言われるガラスコーティング商品やサービスがありますが、ガラスコーティングは化学合成品であるため、被膜の硬さが増すほどに脆く壊れやすくなり、「クラック」と呼ばれる微細なひび割れ損傷が発生しやすくなります。
クラックは硬化の過程や使用中の物理的化学的刺激などより発生し、見た目の「クスミ・濁り」になったり、「被膜が剥がれ落ちやすくなる」ことの弊害の原因になります。
今の技術で作ることができるガラスコーティング(非晶質ガラス)は、鉛筆硬度9H程度が最高硬度となりますが、コップや窓ガラスなどの厚みのあるものと比べて、ミクロン(μm)単位の被膜では硬さゆえの脆さの影響が大きくなります。 クラック発生を回避するためには、少し粘り気を持たせる必要があり、6H~8H程度の硬度が最適であると考えます。
膜厚と硬度
膜厚はある程度厚い方が良いと思います。しかし硬度が同じ場合被膜が厚くなるほどクラックが発生しやすくなりますので、上記のような若干の粘り気のある6H~8H程度のガラスコーティングでは2~4μm前後の膜厚が、微細な傷からの保護という意味でもバランスが良いのではないかと考えます。
硬度が同じ場合は、膜厚が厚くなるほどクラックが発生しやすくなるため、硬度9H程度のガラスコーティングでは0.5μm~1μm程度の薄い膜にしないと、クラックの発生が問題になります。 このように余りにも薄い被膜では、摩耗や微細傷も塗装まで達してしまう可能性が高まります。
ドゥレッザ ガラスコーティング施工例
ガラスコーティング・カーコーティング・ボディーコーティング・カーフィルム ご来店の多いエリア:
関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分のひとつであり、本州の東部に位置している。その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ。 首都・東京を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の3分の1が集中している。 現代の関東地方が「関東」と呼称されるに至った経緯については「関東」を参照 首都圏整備法が定義する「首都圏」には、関東地方に山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、関東1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事がオブザーバー参加している。 地理 関東地方 位置 日本最大の平野「関東平野」が中央に広がり、北西側は山岳地帯、東南側は太平洋に面する。関東の東部には房総半島(千葉県)、南部には三浦半島(神奈川県)が太平洋に突き出しており、房総半島と三浦半島の間に東京湾、三浦半島と真鶴半島の間に相模湾を形成する。また、地理的な一体性は薄いが旧伊豆国である東京都島嶼部も東京都の管轄下にあるため、行政的には関東地方である。なお関東地方には山梨県を含むケースもあるが、ここでは取り上げない。 最東端:千葉県銚子市 最西端:群馬県吾妻郡嬬恋村 最南端:千葉県南房総市 最北端:栃木県那須塩原市 上記市町村内に「最○端」が存在する。ただし、伊豆諸島や小笠原諸島を加えると、最東端は東京都小笠原村の南鳥島、最西・最南端は同村の沖ノ鳥島。南鳥島は日本の最東端、沖ノ鳥島(無人島)は日本の最南端であるため、関東地方は日本の最東・最南端とも言える。 自然地理 地質的には第四紀の沖積層や洪積層であり、植生は平野部やその周辺の標高約500~900mの低山には常緑広葉樹林が広がり、箱根で約900m、丹沢や高尾で約800m、奥多摩、奥武蔵や奥秩父で約700m、西上州や赤城山、足尾山地や筑波山で約600m、北毛や那須の山地で約500mまで照葉樹が生えることができる。 また、常緑広葉樹林の上にはブナやシラカバ、ミズナラなどの落葉広葉樹林が広がる。しかし、千葉県は標高が低いため成立しない。茨城県には筑波山山頂周辺と、北部の山の一部にしか広がっていない。 また、落葉広葉樹林の上にはシラビソやダケカンバなどの針葉樹林が落葉広葉樹林の下限から約1100m高い標高から広がるが、千葉県はもちろん、茨城県や神奈川県にも標高が低いため成立しない。東京都には雲取山周辺の僅かな面積にしか広がっていない。 北端には帝釈山脈、高原山、那須連山、八溝山、三国山脈、西端には関東山地(奥秩父山塊もこの一部)などの山地がそびえて、各隣接地方へ繋がる。日本最大の平野である関東平野が広がり、塩那丘陵をはさんでその直ぐ北には那須岳山麓に広がる日本最大級の扇状地那須野が原、東側には上総台地を挟んで千葉県の海岸沿いには九十九里平野が広がる。千葉県南部は房総丘陵で、茨城県の霞ヶ浦周辺は常総台地や常陸台地になっている。群馬県や埼玉県秩父地方などは盆地になっている。荒川、江戸川などの各河川は東京湾へ注ぎ、鬼怒川、利根川(「坂東太郎」とも呼ばれた)は犬吠埼で太平洋へ注ぐ。 東京湾は、房総半島と三浦半島に囲まれ、千葉県の西側、東京都の一部と神奈川県の東側に面して、浦賀水道から太平洋に接する。沿岸部は工業地帯になっている。神奈川県の南側は相模湾・相模灘に、茨城県の沿岸は鹿島灘に面する。また、相模湾には、二回の関東地震の震源地となった相模トラフが通っているために、各地で地震対策にも力が入れられている。 最高地点は、栃木県日光市と群馬県片品村との境にある日光白根山(奥白根山)山頂。日本の都道府県の最高地点としては、八番目に高い。また、関東以北(関東・東北・北海道)の最高地点でもある。都道府県の最高地点は埼玉県が三宝山 (2483m)、東京都が雲取山(2017m)、神奈川県が蛭ヶ岳 (1673m)、茨城県が八溝山 (1022m)、千葉県が愛宕山(408m)である。千葉県の愛宕山は、各都道府県の最高峰の中では最も低い。 「首都圏」といわれる地方でありながら、自然環境に恵まれているといえる。自然公園面積の割合は、東京都が全国第二位、埼玉県が第四位、神奈川県が第十位である。 山地:三国山脈、足尾山地、帝釈山脈、大佐飛山地、八溝山地、関東山地、丹沢山地、房総丘陵 山:那須岳、大佐飛山、高原山、男体山、女峰山、日光白根山、榛名山、妙義山、赤城山、谷川岳、八溝山、加波山、筑波山、雲取山、甲武信ヶ岳、三宝山、高尾山、蛭ヶ岳、丹沢山、三原山、神引山、天上山 島:江の島、伊豆諸島、小笠原諸島 川:鬼怒川、小貝川、那珂川、箒川、久慈川、利根川、荒川、中川、多摩川、江戸川、酒匂川、相模川 瀑:湯滝、竜頭滝、華厳滝、袋田滝 湖沼:中禅寺湖、五十里湖、西浦(霞ヶ浦)、北浦(霞ヶ浦)、印旛沼、芦ノ湖 海浜:鹿島灘、九十九里浜、東京湾、相模湾(湘南) 国立公園:日光国立公園、尾瀬国立公園、秩父多摩甲斐国立公園、富士箱根伊豆国立公園、小笠原国立公園 国定公園:水郷筑波国定公園、南房総国定公園 地域 南関東(みなみかんとう):利根川以南の千葉県+東京都+神奈川県+埼玉県の1都3県を指す。埼玉県を除いて1都2県とする場合もある。 衆議院比例代表の南関東ブロック:千葉県+神奈川県+山梨県。 北関東(きたかんとう):茨城県+栃木県+群馬県の3県を指すことが多いが、埼玉県を含めた4県を指しても使われる。 衆議院比例代表の北関東ブロック:茨城県+栃木県+群馬県+埼玉県。 首都圏(しゅとけん):首都圏整備法及び関連法では、「東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県、山梨県を首都圏とする。」と定められている。 東京圏(とうきょうけん):東京の都市圏が拡大しているため、時期により範囲は異なる。総務省の基準では、新宿移転前の東京都庁(東京都千代田区。現在の東京国際フォーラム)から70km圏内を指し、東京都、千葉県、茨城県、埼玉県、神奈川県に及ぶ(2000年国勢調査時)。一般的には、「東京都心からNkm圏」のように用いる。 東京都市圏:東京都区部(旧東京市)の都市雇用圏(10%通勤圏)。東京都、千葉県北西部、茨城県南西部、埼玉県東部・中南部・西南部、神奈川県の大部分を含む。 関東大都市圏:中心地である東京都区部・横浜市・川崎市・千葉市・さいたま市への通勤通学人口が常住人口の1.5%以上である市町村を指す。2005年国勢調査では、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の大部分と、茨城県・栃木県・群馬県の一部、山梨県の上野原市・大月市、静岡県の熱海市。 常総(じょうそう):茨城県+千葉県。狭義では、利根川に近い茨城県南部(旧葛飾県・旧新治県)+千葉県北部(旧葛飾県)の一帯を指す。広義では関東の東半分に当たるので、東関東(ひがしかんとう)ともいう。 常武(じょうぶ):茨城県+千葉県+東京都。城���地区+常総を指す。 東上(とうじょう):東京都+埼玉県+群馬県。 両毛(りょうもう):群馬県南東部+栃木県南西部。 上武(じょうぶ):群馬県+埼玉県。 毛武(もうぶ):群馬県+栃木県+埼玉県。 葛飾(かつしか):東京都城東地区+千葉県西部+埼玉県東部+茨城県西部の一部。 総武(そうぶ):千葉県+東京都(+埼玉県)。(千葉県北部だけを指すときもある。) 多摩(たま):東京都から区部と島嶼部を除いた地域。ただし、明治時代東多摩郡に属していた中野区と杉並区を含む場合もある。 武蔵(むさし):昔は、埼玉県+東京都+神奈川県の一部だったが、現在は埼玉県秩父地方・入間郡+東京都西部の多摩地域。奥武蔵は、秩父地方の奥の旧大滝村などが合併した秩父市辺りのこと 飯能も加わることもある 武相・相武(ぶそう、そうぶ):東京都+神奈川県(+埼玉県)。多摩市・町田市・相模原市・横浜市北部を中心とした地域のみを指す場合もある。 八高(はちこう) :八王子市 - 高崎市の縦断区間。 埼京(さいきょう) :東京23区 - さいたま市の縦断区間。 京成(けいせい) :東京23区 - 成田市の横断区間。 京葉(けいよう) :東京23区 - 千葉市の横断区間。 京浜(けいひん)・東横(とうよこ) :東京23区 - 横浜市の縦断区間。 地域別の特徴 政治 南関東および茨城県南西部:桓武天皇の子孫が多く領地として有した歴史から、桓武平氏諸氏の影響力が強い地域。平氏の支配下の地に河内源氏が鎌倉の領有権を得て以来、鎌倉幕府(源氏)、室町幕府時代の鎌倉府(源氏)、江戸幕府(徳川氏)、明治政府といった政権の本拠地が置かれて来た。第二次大戦後には東京60km圏内はベッドタウン化し、「○○都民」(例:神奈川都民、千葉都民、埼玉都民、茨城都民)と呼ばれる居住地の地方政治に対し積極的なかかわりを持とうとはしない住民が増加している。 北関東:古代には毛野国に代表される地方王国が存在したが、次第に清和源氏諸氏や藤原北家諸氏が領主として土着した。室町幕府の足利尊氏は清和源氏で下野国御家人(足利市)の出身、江戸幕府の徳川家康は清和源氏・新田氏流の末裔という風に、政権を樹立した武将には北関東(毛野国)に縁を持つ者が多い。なお、源頼朝も徳川家康も、宇都宮大明神(宇都宮二荒山神社)を参詣し寄進を行っている。第二次大戦後は、高崎に象徴されるように「自民党王国」として有名であり、衆議院議長や大臣級の政治家を多く輩出している。 経済 南関東および茨城県南西部:政権の所在地(鎌倉、江戸〈明治以後の東京〉)が大消費地として経済の中心地になり、それを中心に経済圏が形成されている。本社の東京一極集中が凄まじく、東京が「プライメイトシティ」と化している。国道16号圏内の私鉄沿線は、鉄道駅周辺に店鋪が集まっており、自家用車の所有率が低い。 北関東:中心市街地における購買力が顕著であり、宇都宮での年間商品販売額は、栃木県全県の約半数に迫る勢いである。モータリゼーションが発達しており、郊外型ロードサイドショップが多く、前橋市の中心市街地衰退は問題となっている。 交通 南関東:大型幹線には東海道新幹線や東名高速道路など。連絡線は国道16号など。 東海地方との境:箱根峠。中央高地との境:相模湖。 北関東:東海道と東山道の東端。大型幹線には東北新幹線や東北自動車道、北関東自動車道など。連絡線は国道50号など。 東北地方との境:勿来関、白河関。長野県・新潟県との境:三国山脈。中央高地との境:碓氷峠、雁坂峠。 東西に分けた場合 東関東(茨城県+千葉県) 常総ともいう。日本屈指の農業地帯。利根川近辺には水郷筑波国定公園が位置しており、水郷や筑波山などの観光地を持つ。 地域間移動は線的で、常磐自動車道、東関東自動車道、国道6号、国道51号といった南北の幹線に沿った地域同士の交流関係が深い。 西関東(茨城県と千葉県を除く関東地方) 西に関東山地が峙える。地域間移動は流動的で、川(利根川、多摩川)を越えた地域同士の交流も目立つ。両毛デルタ地帯や国道16号沿線にはロードサイドショップが多く、埼玉県から多摩地域への移動は、道路では国道16号経由、鉄路では東京経由が主流である。 北西部(毛武)に当たる埼玉県・栃木県・群馬県では、農業が盛んである。しかし、南西部(武相)に当たる東京都と神奈川県では、農業の占める割合が極めて低く、第三次産業の占める割合が極めて高い。これも、交易によって勢力を維持した平氏流諸氏の支配地域と、農業によって勢力を維持した源氏流諸氏の支配地域の特徴がよく表れている現象の一つと言えよう。しかしながら、近年の北西部における農業の衰退は激しく、群馬県の耕作放棄地率は全国3位の高比率である。 経済 経済の全体的傾向 平成19年度の関東のGDPは203兆7486億円である[6]。これはインドやロシアのGDPよりも大きく、巨大な経済圏を形成している[7]。 地域別特徴を見ると、本社の大半は、東京都区部に集中している。一方で、東京都区部を除く地域には、工場や物流拠点が集中しており、特定企業の工場が集まる「企業城下町」や、営業所や小売業が多く立地する都市が多く見られる。 第一次産業 農業 東部の茨城県と千葉県は、全国でも上位の農業粗生産額を誇り、北西部の群馬県と埼玉県と栃木県でも農業生産が多い。特に千葉県は、農業生産額が北海道に次いで第二位であり、野菜の生産額は日本第一位を誇る。だが、近年では住宅や工業地帯の開発、後継者問題により衰退しており、耕作放棄地が増加している。また、南西部の東京都と神奈川県では大きく衰えており、ほぼ自給が不可能な状況だ。 東京周辺では、典型的な都市近郊農業として、野菜や花卉の栽培が多い。 関東地方各市町村における年間農業産出額(2006年)は、多い順に以下の通り。 鉾田市(茨城県)<539億円> 旭市(千葉県)<418億円> 前橋市(群馬県)<387億円> 深谷市(埼玉県)<356億円> 香取市(千葉県)<321億円> 那須塩原市(栃木県)<264億円> 大田原市(栃木県)<247億円> 行方市(茨城県)<235億円> 銚子市(千葉県)<228億円> 筑西市(茨城県)<228億円> 坂東市(茨城県)<219億円> 真岡市(栃木県)<218億円> 宇都宮市(栃木県)<198億円> 小美玉市(茨城県)<197億円> 太田市(群馬県)<190億円> 畜産業 大消費地である東京を控え、茨城県や栃木県、千葉県を中心に養豚、養鶏、酪農が多い。生乳生産量では、北海道に続いて、栃木県が第二位、千葉県が第三位に位置する。 漁業(水産業) 太平洋側を中心に水揚げが多い。特に銚子漁港は、国内有数の水揚げ高を誇る。 成田国際空港は、水産物の輸入金額が日本一であるため、「成田漁港」とも呼ばれる。 第二次産業 鉱業 昭和半ばまで、日立市や足尾など一部の鉱山が操業していたが、1975年頃に閉鎖された。 埼玉県の秩父市、栃木県佐野市(旧葛生町)付近では、セメント原料の石灰岩、ドロマイトの採掘が行われている。 関東地方の地下には日本最大のガス田である南関東ガス田があり、千葉県では天然ガスの採掘が行われている。大半は東京向けに供給される。また、副産物であるかん水からはヨードが精製されており、医薬品向けに日本から輸出される数少ない鉱物資源となっている。南関東ガス田の埋蔵量が多いのに採掘が比較的少ないのは、天然ガス採掘が地盤沈下をもたらすためである。 工業 南部:東京湾沿岸に、大規模な臨海型工場地帯が広がり、それぞれ京浜工業地帯(東京-神奈川)や京葉工業地域(東京-千葉)と称される。なお、京葉工業地域も、京浜工業地帯に含めることがある。 北部:太田や宇都宮、伊勢崎、河内郡上三川などを初めとする地域では、内陸型の北関東工業地域が形成され、輸送機器やゴム製品の生産額が大きい。 東部:茨城県の北部(日立、ひたちなか)や千葉県北西部(我孫子、柏、習志野など)には、日立製作所の関連工場が多い。また、茨城県の鹿行地域(鹿嶋、神栖)には鹿島臨海工業地帯が形成されている。 関東地方における主要工業都市は、各市町村別の年間製造品出荷額(2008年)の多い順に以下のようになっている。 市原市(千葉県)<5.70兆円> 東京特別区(東京都)<4.65兆円> 川崎市(神奈川県)<4.61兆円> 横浜市(神奈川県)<3.90兆円> 太田市(群馬県)<2.19兆円> 宇都宮市(栃木県)<1.69兆円> 相模原市(神奈川県)<1.61兆円> 狭山市(埼玉県)<1.49兆円> 神栖市(茨城県)<1.49兆円> 日立市(茨城県)<1.45兆円> 千葉市(千葉県)<1.36兆円> 袖ヶ浦市(千葉県)<1.35兆円> 藤沢市(神奈川県)<1.34兆円> 平塚市(神奈川県)<1.28兆円> 伊勢崎市(群馬県)<1.23兆円> 君津市(千葉県)<1.02兆円> 鹿嶋市(茨城県)<1.02兆円> ひたちなか市(茨城県)<1.00兆円> 日野市(東京都)<0.94兆円> 河内郡上三川町(栃木県)<0.93兆円> 「大手」「超大手」といわれる製造業の本社(工場とは限らない)は、東京都区部に所在するものが多い。しかし、関東地方に工場を置く企業(親会社)の本社が、必ずしも関東地方に所在するとも限らない。 建設業 多くの大手ゼネコンの本社が、東京都区部に集中している。東京都区部では、大規模なオフィスビルやマンション・道路・鉄道(地下鉄)などの建設が行なわれている。 第三次産業 商業 東京では、新宿・池袋・渋谷・銀座・日本橋・秋葉原・上野を中心に百貨店や専門店、高級ブランド店、大規模商業施設、飲食店などがあり、集積度は高い。 国道16号圏内の鉄道沿線、特に東京と横浜には、鉄道駅の利用者に便利な駅周辺を地盤とする「カメラ系家電量販店」などの駅前ショップが多い。 宇都宮、高崎、水戸では、ターミナル駅の周辺や中心市街地における購買力が強い。そのためバスの路線は必ず都心を通過するように設定されていることが多いほか、都心では低運賃で利用できる循環バスが設定されている。 両毛デルタ地帯では、バイパスや郊外を地盤とする「北関東系家電量販店」や郊外型ショッピングセンターが多い。 関東地方の主な商業集積地は、各市町村における年間商品販売額(2007年、含卸売業)の多い順に以下のようになっている。 東京特別区(東京都)<175兆円> 横浜市(神奈川県)<9.79兆円> さいたま市(埼玉県)<4.73兆円> 千葉市(千葉県)<3.72兆円> 川崎市(神奈川県)<3.64兆円> 宇都宮市(栃木県)<2.84兆円> 前橋市(群馬県)<2.38兆円> 高崎市(群馬県)<1.75兆円> 水戸市(茨城県)<1.52兆円> 相模原市(神奈川県)<1.31兆円> 船橋市(千葉県)<1.16兆円> 八王子市(東京都)<1.14兆円> 厚木市(神奈川県)<1.12兆円> 川口市(埼玉県)<0.96兆円> 柏市(千葉県)<0.89兆円> 立川市(東京都)<0.88兆円> 町田市(東京都)<0.81兆円> 熊谷市(埼玉県)<0.78兆円> つくば市(茨城県)<0.78兆円> 松戸市(千葉県)<0.77兆円> 金融 東京には中央銀行である日本銀行や多くの都市銀行が本店を置いているほか、各地の地方銀行や主要な海外金融機関も情報収集を兼ねて東京支店を置いている。また、東京証券取引所、各種商品市場も置かれている。 サービス 基本的には東京都区内に集積するものが多い。 IT関係などの集積が多い。 各放送局のキー局(親局)が東京都区内に所在する。東京には各地方局の支社もあり、東京に本社のある企業や出演者などへの営業活動や、一部の番組製作も行われている。 大手通信会社(電気通信事業者)の本社が東京都区内に所在する。 交通 幹線交通網 関東地方の幹線交通網は、東海道ルート、甲州街道ルート、中山道・三国街道ルート、日光街道・奥州街道ルート、水戸街道ルート、常総ルート、房総半島ルートに大きく分けられる。 連絡線としては、例幣使街道ルートなどがある。兵士街道古道鎌倉街道・大山街道や、その他関東各地域中核都市から周辺部に伸びる路線群が整備されている。 東海道ルート:東海道新幹線、東海道本線、京急本線、東名高速道路、国道15号、国道1号、国道246号 甲州街道ルート:中央本線、京王線、西武新宿線、中央自動車道、国道20号 中山道・三国街道ルート:上越新幹線、北陸新幹線、高崎線、上越線、信越本線、関越自動車道、上信越自動車道、国道17号、国道18号、国道254号 日光街道・奥州街道ルート:東北新幹線、宇都宮線、日光線、東武日光線、東北自動車道、日光宇都宮道路、国道4号、国道119号 水戸街道ルート(水戸以北は陸前浜街道):常磐線、つくばエクスプレス、常磐自動車道、国道6号 常総ルート:総武本線、成田線・鹿島線・大洗鹿島線、京葉道路、東関東自動車道、国道14号、国道51号 房総半島ルート:内房線、外房線、東京湾アクアライン、館山自動車道、千葉東金道路、国道127号 鉄道 関東地方の鉄道網は東京から放射状に伸びており、路線相互の接続駅間を結ぶ鉄道路線が高度に整備され、世界最大の輸送力を誇っている。 ※ケーブルカーやロープウェイ、貨物専用路線は割愛。 東京都 新幹線 JR東海東海道新幹線、JR東日本東北新幹線、山形新幹線、秋田新幹線、上越新幹線、北陸新幹線 地下鉄 東京メトロ、都営地下鉄 放射線 京急本線、JR東日本京浜東北線、JR東日本東海道線、JR東日本横須賀線、JR東日本湘南新宿ライン、JR東日本埼京線、東急東横線、東急田園都市線、京王井の頭線、小田急小田原線、京王線、JR東日本中央本線(中央線快速)、西武新宿線、西武池袋線、東武東上線、JR東日本高崎線、JR東日本宇都宮線、つくばエクスプレス、JR東日本常磐線(常磐緩行線・常磐快速線)、京成本線、JR東日本総武本線(中央・総武緩行線・総武快速線)、JR東日本京葉線、東武伊勢崎線、北総線、埼玉高速鉄道線 メトロ東西線、メトロ有楽町線、都営地下鉄新宿線 23区内を結ぶ路線 JR東日本山手線、東急大井町線、東急多摩川線、東急池上線、東急目黒線、東急世田谷線、京急空港線、東京モノレール、東京臨海高速鉄道りんかい線、ゆりかもめ線、都電荒川線、都営日暮里・舎人ライナー、京成押上線、京成金町線、東武亀戸線、東武大師線 メトロ銀座線、メトロ丸ノ内線、メトロ日比谷線、メトロ千代田線、メトロ半蔵門線、メトロ南北線、メトロ副都心線、都営地下鉄浅草線、都営地下鉄三田線、都営地下鉄大江戸線 郊外地区同士を結ぶ路線 JR東日本南武線、JR東日本横浜線、JR東日本武蔵野線、JR東日本八高線、JR東日本青梅線、JR東日本五日市線、西武多摩川線、西武拝島線、西武多摩湖線、西武山口線、多摩都市モノレール線、京王相模原線、小田急多摩線、京王動物園線、京王高尾線 その他 概ね南西(横浜方面)から順に時計回りに列挙する 東京都内にかかるものは除く JR東日本 鶴見線、根岸線、相模線、川越線、信越本線、吾妻線、上越線、両毛線、日光線、烏山線、水戸線、水郡線、成田線、鹿島線、内房線、外房線、久留里線 JR東海 御殿場線、身延線 私鉄・第三セクター 神奈川 京急大師線、京急久里浜線、京急逗子線、東急こどもの国線、横浜高速鉄道みなとみらい線、相鉄本線、相鉄いずみ野線、横浜市営地下鉄、シーサイドライン、小田急江ノ島線、江ノ島電鉄線、湘南モノレール線、伊豆箱根鉄道大雄山線、箱根登山鉄道線 埼玉 東武越生線、西武狭山線、西武秩父線、秩父鉄道線、東武野田線、埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)、埼玉高速鉄道線 北関東(茨城・栃木・群馬) ひたちなか海浜鉄道湊線、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線、関東鉄道常総線、関東鉄道竜ヶ崎線、東武佐野線、東武日光線、東武宇都宮線、真岡鐵道真岡線、上信線、上毛線、東武桐生線、東武小泉線、わたらせ渓谷鐵道線 千葉 東武野田線、流鉄流山線、新京成線、東葉高速線、京成千葉線、京成千原線、千葉都市モノレール1号線・2号線、銚子電気鉄道線、いすみ鉄道いすみ線、小湊鉄道線 県庁所在地の近郊路線 各県庁所在地(市代表駅)周辺の鉄道路線。東京都は除く。 茨城県:水戸市(水戸駅) JR常磐線、JR水戸線、JR水郡線、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線 群馬県:前橋市(前橋駅) JR高崎線、JR上越線、JR信越本線、JR両毛線、JR八高線、JR吾妻線、上信電鉄上信線、東武伊勢崎線、東武桐生線、わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線 栃木県:宇都宮市(宇都宮駅) JR宇都宮線、JR日光線、JR烏山線、東武宇都宮線、東武佐野線、東武日光線、東武鬼怒川線 埼玉県:さいたま市(浦和駅) JR埼京線、JR武蔵野線、JR京浜東北線、JR宇都宮線、JR高崎線、JR湘南新宿ライン、JR川越線、東武野田線、東武東上線、東武伊勢崎線、埼玉高速鉄道線、埼玉新都市交通伊奈線 千葉県:千葉市(千葉駅) JR中央・総武線、JR総武快速線、JR総武本線、JR成田線、JR内房線、JR外房線、京成千葉線、京成千原線、千葉都市モノレール1号線・2号線 神奈川県:横浜市(横浜駅) JR東海道本線、JR横須賀線、JR湘南新宿ライン、JR京浜東北線・根岸線、JR横浜線、JR鶴見線、京急本線、東急東横線、横浜高速鉄道みなとみらい線、相鉄本線・相鉄いずみ野線、ブルーライン・グリーンライン、シーサイドライン 道路 江戸時代に五街道が整備されて以後、日本橋を始点にして幹線国道が放射状に整備され、連絡線国道が環状(弧状)に整備されている。高速道路は、首都高都心環状線を中心に、各方面へ放射状に延びている。 また、国道16号沿線や両毛デルタ地帯では、モータリゼーションの進展が著しい。 主な幹線国道と高速道路 国道1号(国道246号)・東名高速道路 国道20号・中央自動車道 国道17号(国道254号)・関越自動車道 国道18号・上信越自動車道 国道119号・日光宇都宮道路 国道4号・東北自動車道 国道6号・常磐自動車道 国道14号・国道51号・東関東自動車道 国道127号・館山自動車道 主な連絡線国道と高速道路 国道16号 国道50号・北関東自動車道 バス 東京都区部や周辺都市に、東北・中部・近畿など各地方からの高速バスが多数発着している。 一方、郊外や中小都市での一般路線バスは、モータリゼーションの進展で経営が苦しくなっている。 航空 空港としては、東京国際空港(羽田、RJTT)や成田国際空港(RJAA)が立地する。いずれも事情により、アジアのハブ空港としての立場が揺らいでいる。 東京と成田の両空港はマルチエアポート対応。 この他、茨城空港(RJAH)・調布飛行場(RJTF)・大島空港(RJTO)・新島空港(RJAN)・神津島空港(RJAZ)・三宅島空港(RJTQ)・八丈島空港(RJTH)が立地し、伊豆諸島ではそれに加えて東京愛らんどシャトルが就航している。 海運 東京湾岸の横浜港、東京港、千葉港を中心に、世界各地を結ぶ貨物船が東京湾に出入りしている。また、日本の大手海運会社である日本郵船や商船三井、川崎汽船が東京に本社を置いている。 東京港・横浜港など - 伊豆諸島間には東海汽船・神新汽船・伊豆七島海運などが、東京港 - 小笠原諸島間には小笠原海運・共勝丸が就航している。 この他、茨城港、鹿島港が工業製品・原材料の輸出入等の拠点となっている。茨城港大洗港区 - 苫小牧港にはカーフェリー (商船三井フェリー)が就航している。 主要都市 政令指定都市 横浜市(3,732,539人)・川崎市(1,486,578人)・さいたま市(1,272,716人)・千葉市(974,335人)・相模原市(722,174人) 中核市 船橋市(625,864人)・八王子市(577,180人)・宇都宮市(519,217人)・横須賀市(405,640人)・柏市(416,383人)・高崎市(370,502人)・川越市(351,283人)・越谷市(339,144人)・前橋市(335,703人) 特例市 川口市(580,302人)・所沢市(336,328人)・水戸市(270,840人)・平塚市(258,206人)・草加市(247,852人)・春日部市(232,000人)・茅ヶ崎市(239,824人)・厚木市(225,398人)・大和市(234,150人)・太田市(220,332人)・つくば市(229,451人)・伊勢崎市(208,911人)・熊谷市(198,605人)・小田原市(193,561人)・甲府市(192,352人) ガラスコーティング茨城県 ガラスコーティング埼玉県 ガラスコーティング千葉県 ガラスコーティング東京都 ガラスコーティング神奈川県 ガラスコーティング栃木県 カーフィルム茨城県 カーフィルム埼玉県 カーフィルム千葉県 カーフィルム東京都 カーフィルム神奈川県 カーフィルム栃木県
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SHIBAMATA FU-TEN
Photo : (c) Daici Ano ※サムネイル(1枚目)を除く
寅さん的公共空間 葛飾区の職員寮をコンバージョンし,宿泊施設としたプロジェクト.葛飾柴又は映画「男はつらいよ」の舞台となった場所で,帝釈天やそこへ続く参道商店街,書院庭園で有名な山本亭等が点在する都内の観光地となっている.しかしアクセスが不便なことや,宿泊施設がないこと等,観光地として将来に不安を抱えていた.一方この地域も高齢化が進み,お年寄り単身世帯が増加していて,そうした人達のコモンスペースをどのようにつくりだすかという課題も存在していた.そこで帝釈天の少し北にあり,10年以上使われていなかった職員寮を改修し,近隣住民のコモンスペースとして活用すると共に,地域の人と共に観光客をもてなす宿泊施設を計画した. 既存施設は地上4階建て,約1,700m2の建物で,1階を大きく改修し,食堂,キッチン,シャワー室等の共用部,2~4階は既存のつくりを活かした宿泊室としている.1階の食堂やキッチン,テラス,庭は近隣の住民にも利用してもらえるように,道路境界にあった門は撤去し,顔見知りの人が気兼ねなく入ってこれるようになっている.またこうした近隣の人と宿泊者の交流を通して,地域の魅力を伝えていけるよう、参道商店街のあり方を観察し,店先の軒下や通りと連続する土間,縁台等を改修のアイデアとして取り入れている。 地域の情報や地元との交流を求める旅行者にとって、近所の人が日常的に利用している施設に泊まれることは一つの魅力であり、様々なバックグランドをもった旅行者が立ち代わり訪れることは、閉鎖しがちなコモンスペースに活気や刺激を与えてくれる。このように近所の人や旅人が集まってくる、寅さんの実家のような公共空間の在り方は、地元に奉仕しようとする地方自治体と、広い視点をもった民間企業が関わったプロジェクトだからこそ実現したものであり、これからの公共空間を持続させていく一つの方法を示しているような気がしている。 新建築 2017年5月号掲載 共同設計 : Open A
The project of converting a dormitory into an inn at Katsushika Ward.
The area of Shibamata, Katsushika was the stage of the movie called “Tora-san” where Taishakuten, Sando shopping street and the famous Japanese Garden in Yamamoto Tei has been existed as sightseeing spots. It had been worried to keep the area as a sightseeing spot, because of inconvenience of access and lack of accommodation facilities. Furthermore, population aging progresses in Shibamata has effected to increase the number of elderly single households, which brought up an issue of creating a public space for elder generation. In fact, the dormitory for the ward office staffs, which had not been used for more than 10 years at a northern part of Taishakuten Temple, has been renovated into an inn for travelers as well as a public space for residents.
This 4 stories building is approx. 1,700㎡. A dining area, kitchen area and shower rooms are set on 1st floor. Other floors are kept as accommodation rooms for travelers. By removing the gate on the boundary of the road, residents of surrounding area are able to come through to the dining area, terrace area and garden efficiently. A creation of the open public space on the 1st floor brings a communication between neighbors and travelers as one of the tools to tell the charms about Shibamata area. Eaves and earth floor in the room are in strong harmony with the surrounding area such as Sando shopping street, which emphasizes the connection between the inn and the culture of Shibamata area.
It is one of attractive points for travelers to encounter Shibamata local community on a daily basis. Flows of travelers from various backgrounds bring vibrancy to the public space. This renovation surely produces a multiple effect for both, local community and travelers. And it demonstrates one way to sustain the public space in the reducing society.
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