#奥���山公園駅徒歩2分
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nopposeitai · 2 years ago
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先月は卒業シーズン! 4月はそれぞれ希望にあふれる 輝かしい春の出発シーズン!! 進級・進学という喜びと新学期が始まるまでのまったりした期間の春休み。 この春休みでオスグッドも軽減する子、まだ痛みがある子らも今がチャンスかもしれません。 毎年限られた営業日・営業時間ではありますが、オスグッドで悩んでるお子さんは年間50名弱の子が新規で来店しています。 初回の施術で効果があり自宅でのセルフケアを併用して、3〜5回ほどの施術で終える子もいます。 これから始まる部活動やシン・チームに向けて身体の調整やメンテナンスをしてはどうでしょうか。 お問い合わせや予約などは公式LINEでお願いします。 ↓簡単LINE登録↓ bit.ly/2Kt3TKW #のっぽ整体 #のっぽせいたい #nopposeitai #日曜日営業 #営業時間 #奥武山公園駅徒歩2分 #膝下靭帯炎 #ジャンパー膝 #オスグッド #成長痛 #有痛性外脛骨障害 #セーバー病 #外反母趾 #腰痛 #股関節痛 #膝痛 #肉離れ #足趾ストレッチ #内反小趾 #ゆびのばソックス #サッカー #野球 #バスケット #バレーボール #ハンドボール #陸上 #テニス #空手 #久米島 #恩送り (のっぽ整体) https://www.instagram.com/p/CqaY0lJPRR0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kennak · 1 year ago
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埼玉県川口市でクルド人の犯罪が激増して問題になり、その対策が川口市政の中心的課題になっている!というエントリが度々ホッテントリ入りしている。またyoutubeのゆっくり動画等でも「クルド人」「川口」のテロップが入ったサムネの動画が投稿されている。結論から言うとそんな事にはなっておらん。川口市は『広報かわぐち』という広報誌を配布しているが、この10月号で犯罪認知件数が過去最低を記録しているとの広報を打っている。https://www.city.kawaguchi.lg.jp/material/files/group/3/202310-04.pdfこの一年で白昼の強盗事件、沿道商店に突っ込む大事故や死亡ひき逃げ、クルド人による病院での喧嘩騒乱などの事件が報道されて体感治安が低下している故だ。でも実際には治安は過去最高となっている。この問題を喧伝しているのはagora出身の石井孝明というライターで、産経新聞と夕刊フジがそれを元に記事を書くという構造になっている。石井のやり方は、川口、蕨を中心として、肌の浅黒い中央アジア、東南アジア系の人間が事故や事件、不法な業務、反マナー行動をしたものにクルド人を匂わす文言を付けて宣伝するという方法だ。それ故クルド人が毎日事件や不法行為をしているように見える。そんなにクルド人は増えているのか?日本にクルド人は何万人いるのだろうか?だが実際のクルド人の数は2000人程度である。人口60万人の川口市人口の0.3%だ。「あれもこれもクルド人」の安物ネガティブキャンペーンが成功しているのである。 それで今回はちょっとこの問題の背景を説明するよ。「クルド人とは何か、どういう民族か」などは産経以外の大マスコミや大学人が記事を書いてるからそういうのを参考してくれ。 地理「埼玉県川口市」でgooglemaps検索すると川口市の県境が表示される。https://www.google.com/maps/place/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E5%B8%82この一番左側の蕨駅付近が問題の舞台だ。まず、駅の東側にやたら細かい碁盤目で緑の線が入った地域があるのが判るだろうか?ここは芝2丁目と芝4丁目という地域になる。ここは一見整備された住宅地に見えるが、実は都市計画に乗っ取ったインフラ整備が間に合わなかったスプロール地域なのである。この碁盤目は元々は大正時代に田んぼを整地したものだった。緑の線は用水路跡で、今でも暗渠化された水路敷きになっている。この付近は江戸時代に作られた見沼代用水が通り、その分水も充実していた。そこで碁盤目に��と用水路を整備して土地の権利も整理したものだ。ちょっと脱線するが、こういう整備された元田んぼ住宅地の近くにはL字の道と変形交差点を組み合わせたような地区がある事が多い。またそこには寺や神社がある事が多い。その場合、そこら辺は嘗ての村の集落があった場所である。行ってみるとせせこましい建売の中に突然田舎の農家のような大きな庭付きの家、時に藁ぶきだったりゴルビジェのサボア邸のようなやたらハイセンスの家が建っていて驚かされる事があるのでおススメだ。そこは付近の建売の元地主やマンションの大家である。この田んぼが戦後の高度経済成長期に売りに出され宅地化されたのがこの芝2、4丁目地区なのだ。元あぜ道は公道化されているのが多いが、そこから奥に入る道は幅が狭い砂利道のままだ。これは私道だからであり「その道路の権利は細切れになって付近の家の持ち主が持っている。故に権利関係がごちゃごちゃなので金を出し合って舗装工事をするという事が出来ない。更にこの路地は通り抜けが出来ない。真ん中に水路敷がある為だ。水路は元々の地主が権利を持っている筈だ。通り抜けにはそこに橋を掛けなきゃならないが、誰もその費用を負担したくないので碁盤目に見えて行き止まりの路地ばかりという事になっている。 1990年代初頭に建築基準法が改正されるとセットバックの義務と接道義務が定められた。接道義務とは、幅4m以上の道に2m以上接していない土地には建物建築不可という事である。これでこの路地の奥にある家というのは建替えが不可能になった。また、水路敷は舗装されていて道路に見えても道路じゃないのでセットバックの義務が無い。だからいつまで経っても道は広がらないか���接道要件を満たす道にならない。散歩する時はこのせいで魅力的なのだが不動産的には不良である。この路地をストビューで見れば判るが、公道に面した家は新しい低層アパートで路地は4m拡幅、その奥の一軒は新しい戸建て(公道側隣家のセットバックで接道要件クリア)、その奥は築30年以上の古い戸建てや古アパート、となっている。奥の方の家は建替え出来ないので古いままなのだ。奥の方の家やアパートを借している場合、家が古くて車も入れない砂利道なので客付けが困難である。蕨駅から徒歩5~10分という好条件なのだがこういう状態なのだ。高度成長期中期の昭和30年代後半からこういうスプロール現象が問題になって規制が強化されたのだが、その前に家が建てこんだ地域なの��。私有地である用水路の暗渠化は市が行ったが、これは下水道整備が間に合わず、水路に垂れ流しとなった為の代替政策だ。 さて、外国人というのは部屋が借り難い。これは差別の問題もあるが、家主としては万が一の時の連絡の問題、家賃不払いや退出後の内装補償、突如国に帰ってしまうリスク、それと土足の問題などがある。室内に靴を脱いで入るのは日本だけなのだ。最近じゃ米国都市部も日本式になって来てるが。だから土足で生活されて畳床等がダメになるリスクがある。故に外国人が部屋を借りるのはとても大変だ。一方、建替不可で古くて前が砂利道で引っ越しのトラックも入れない、なんていう借家やアパートの大家は客付けが全然できない。この両者の利害が一致して賃貸借契約、とあいなる。お互い「こんなボロ屋なのに高いが…」「外国人でリスクが高いが…」という妥協の産物だ。 このやたら細かい碁盤目地区はもう一か所ある。駅の反対側に線路で分断された川口市の飛び地みたいな三角の土地があるだろう。ここは芝園町と芝富士という地区なのだが、そのうち芝園町は元鉄道車両工場のUR団地(電車から見える屏風みたいな建物)、芝富士は元田んぼの細かい碁盤目地区だ。この芝富士地区は先の芝2・4丁目地区と全く同様の特徴と来歴を持っている。路地のセットバックが進んで4m以上が確保されて建替え可能になっている所が多いなど、スプロール化の程度は2.4丁目よりも改善されているのだが、それでも水路敷による路地分断などはあり、また建替不可家屋が密集する地帯もある。更にここは飛び地状態なので見捨てられた感もあり市政が行き届きにくいという特徴もある。中学校や幼稚園が線路の反対側で遠いのだ。ここも同様の理由で昔から外国人が多かった。 「蕨」なのに「川口市」であるのはこういう事で、駅の左右に川口市の不良宅地地区がありそこのアジア系の住民が住む事が増えたというのが原初としてあったのだ。「川口市は小規模の鋳鉄工場があり外国人工員を必要とした」という説明をしている記事もあるが間違いだ。鋳鉄工場地域は西川口から南側であって、蕨周辺は田んぼから住宅地に転換している。その転換が早すぎてスプロール化してしまったのだ。 始まりはヘイトデモクルド人問題がおかしな奴らの飯のタネになっている問題の根幹は在特会のヘイトデモに遡る。2009年に在特会はオーバステイフィリピン人の子息が通う中学校付近で「叩き出せ」といシュプレヒコールを上げるデモを行うようになった。この中学校や居宅は蕨駅の南側、西川口駅寄りだ。このデモに左翼運動からの転向者��合流すると一気に過激化し、「殺せ」「殺しに来た」というコールになり、警察に掴まらないような巧い仕方の暴力や、近所のヤジに対して「○○人の家だ」「お前日本から出ていけ」「殺せ」と連呼したり、お散歩と称してデモの後に落書きをしたり通行人に因縁を付けたりという行動をするようになった(後に警察官が解散地から駅まで随行するようになった)。転びアカが合流すると大抵こういう事になる。これに呼応して掲げられる旗も日章旗から旭日旗やハーケンクロイツとなっていった。そんな中で在特会は芝園団地付近でクルド人に住民が迷惑しているという情報を掴む。そこでヘイトデモの開催地は蕨駅~西川口駅から蕨駅北方になる。そこで鍵十字の旗が沢山はためき、「悔しかったらクルド野郎出てこい殺してやる」などのデモがされるようになった。但し、彼らは居住地区を知っていたから疑問なので警察がそこから外れるルートを許可していても判らなかったかもしれない。 こういう経緯で中東系や中央アジア系の人間の犯罪、不始末を「クルド」と称する動機が生まれてきた。事件が有る度に「これは在日朝鮮人」という差別デマがずっと流れていたが、それの中央アジア版だ。 もう一つの理由がトルコの少数民族問題で、トルコは親日国で、そこで問題化している少数民族のクルドは敵だ、という単純な世界観によるもの。元々国際問題を親日反日でしか捉えれない人間の頭の中なのでこれ以上はバッファオーバーフローである。そもそも少数民族問題は国家の宿痾であって国際政治学では必ず履修する項目であるのにそれを焚きつけて利益にせんとするあたり、ガソリンスタンドでタバコを吸うバカの如しである。 故にそれよりこの方ずっと「クルド」はやべぇ奴らの間の符丁となり、民族問題を理解するという動機にはならずに、彫りが濃い人間の不祥事は「クルド」とする文脈が生まれたのである。 続く https://anond.hatelabo.jp/20231004185255
蕨と川口とクルド人の問題に関して その1
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stta-p · 10 days ago
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tsuntsun1221ts · 8 months ago
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2024.05 仏果山
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低山ながら展望台から見える景色はかなりいい
友人と一緒に丹沢東端の仏果山へ。GWということもあってか(?)本厚木から出るバスは80人くらいの長蛇の列で、最後のひとたちは乗ることができないほどだった・・・たぶん2台目は用意されてない。野外センター前までは約40分の乗車。
【コースタイム】野外センター前バス停(1005)→仏果山(1130-1140)→高取山(1205-1210)→登山口(1250)→宮ヶ瀬ダム(1300)
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バスを降りたら30分ほどは車道を歩く。その後ちゃんんとした登山道に。傾斜は普通~ちょっとだけキツめ。
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10分ほど登ったら一度車道に出て、再び登山道に入る。
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さらに10分ほど登ると展望がかなり良い開けた場所にでる。北東方面で相模原とか八王子方面が見えている。
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鉄塔と電線がすぐ近くにあるのだが、通電しているジジジジという音が聞こえてきて怖い。
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再び樹林帯を通過し
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約30分ほどで仏果山に到着。登り始めてから約1時間で、かなりあっさりした登山。周りは樹林帯で景色はない。
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この山頂、10m以上の高さのある見晴台が建てられているのだが
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見晴台に立つと360°見渡せ、かなり景��が良い
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都心方面?
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奥に丹沢主脈の塔ノ岳~蛭ヶ岳、手前にはこのあとに向かう宮ヶ瀬湖
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次は高取山へ向かう。まずはいったん高度を落とす。すこし礫が多く歩きづらい。
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30分もしないで次の山頂の高取山に到着。
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ここも見晴台が建っている。
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仏果山よりもさらに宮ヶ瀬湖に近づいた。奥には丹沢主脈が見える。
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ゴールの宮ヶ瀬ダムが見えてきた。
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先ほど通過してきた仏果山の山頂。見晴台も確認できる。
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高取山からダムへの道が少々危険。山頂���下はかなり急であったり、道がかなり狭かったり。
この日は麓の気温が23℃くらいまで上がり、低山なのでやはりそれなりに気温が高かった。しかし終始木陰から漏れる日差しとそよ風でかなり気持ちが良く、春山最高と思える
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終盤、再び展望が開けた場所へ出る。湖面が青く綺麗。ゴールはもう間もなく。やはり電線からジジジジという音が怖い。
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最後は緩やかな下山だったが、ゴール直前はまたかなりの急傾斜を下り一気に高度を落とす。
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バス停から約3時間で宮ヶ瀬ダムに到着。
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遊覧船が出ており、青い湖面を滑るように走っていく。
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インクラインもあり、ダム底まで移動できる・・・一応、近くにはエレベーター(たぶん無料)もある。手前に見えているのは非常時に使用する階段。20階建てくらいの高低差はあるか?
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ダムの先のあいかわ公園は芝生に寝転がると非常に気持ちよさそう。
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春は桜並木になるか
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先程の宮ヶ瀬ダムの下流に小さいダムがある。
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最後に訪れたのは「ステーキレストラン スタンプ」。グーグルさんで評価がかなり高いとのことで。自分はハンバーグを注文、確かにすごく美味しかった!コーンだけでも美味しい。溢れてきた肉汁がおいしいのか?
帰りはステーキ屋さんから徒歩10分くらいの半原バス停より。始発駅のため必ず座れるが、朝の本厚木のバスの列に比べて人が全然乗らず、最後までかなり空いていた。
低山ながら見晴台のおかげで眺めはかなりよく、ダム観光や食事と併せるとなかなかに満足度が高い。もちろん、夏はNGだろう。ちなみに春~秋はヤマビルに注意とのことでところどころに塩が置かれている。
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someones-voice-2021 · 9 months ago
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#06 キアラ・コマストリ
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一日の流れ
朝は8時すぎに起きます。朝ご飯を食べて支度をして、9時にベビーシッターが来て、子どもを公園か児童館に連れて行ってくれるので、その間に私も家の片付けなどをします。子どもがまだ夜中に起きてしまうことがあるので、私は朝お風呂に入ることにしているんです。そうこうしているうちに11時ぐらいになるので、数ヶ月前から借りている駅の近くのシェアオフィスに出かけて、17時くらいまで博士論文の執筆をしています。
ベビーシッターが18時までなので、スーパーで買い物をして18時には家に戻ります。18時半ぐらいに子どもをお風呂に入れて、19時に晩ごはんを食べます。ヤマ(夫)が20時くらいに帰ってくるようであれば、私はヤマを待って子どもに先にご飯を食べさせますが、ヤマの帰りが遅い日は子どもと一緒に私もご飯を食べます。
子どもは今1歳半で、ちょっと前までは私が何かやっていても一緒に遊んでほしいという感じで何もできなかったんですが、最近はひとりで遊ぶことに慣れてきたので、その間に簡単な料理はできるようになりました。晩ごはんが済んだら、大体21時半から22時に子どもを寝かせて、私もちょっと片付けをして23時ぐらいには寝ますね。ヤマは土日に自分が企画する音楽イベントが入っていることもありますが、基本は休みなので、特に予定がなければ家族でご飯を食べに行ったり近所を散歩したり、シンプルな感じで過ごしています。
ここ数年はいろんな変化があって、ルーティンが頻繁に変わったんですが、昨年11月ぐらいにベビーシッターが決まって、小さな個室ですけどオフィスを借りてからはこんな感じのルーティンに落ち着きました。保���園がなかなか見つからなかったんですが、幸い杉並区は保育園に入れなかった子でも、空きがあれば保育園と同額でベビーシッターのサービスを利用できるんです。普通は朝から晩までベビーシッターを雇うなんて経済的に無理ですが、サービスのおかげで助かりました。来月からは子どもが保育園に行くので、オフィスは解約して家で論文執筆をする予定です。子どもにとっても新しい生活になるので、大変な時期もあるかもしれませんね。
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生い立ち
私が育ったのはイタリアのボローニャというところです。イタリアの北のほうにある中世の街で、すごく良いところです。人口は60万人ぐらいで、日本の地方都市のような感じですね。母親が小児科医で、生まれたときは母の仕事の関係でボローニャから少し離れた街に住んでいましたが、小学校にあがるときに、子どもにとってもっと刺激がある場所のほうがいいんじゃないかといって、ボローニャに引っ越しました。
小学生のときに父と母が離婚をして、父とは離れて暮らすことになりました。それでも父との関係はそんなに悪くなくて、別れてからも頻繁に父が遊びに来ていたんですけど、私が10歳ぐらいのときに母に好きな人ができたんです。相手の男性には私と同い年の男の子がいて、中学に上がる頃には一緒に暮らすようになりました。父からしたら新しい家族に娘をとられたようですごく落ち込んでしまって、以前のようには会えなくなってしまいました。私自身も母をとられたという思いがあったし、父の苦しみを感じる一方で、父に捨てられたんじゃないかとも感じていました。
大人になった今はいろいろ理解できるけど、当時は子どもだったから何が自分を苦しめているのかよくわからなくて、結構大変な時期でした。自分に自信がないとか、人から嫌��れないか不安に思ってしまう性格は、この頃の経験が影響しているんじゃないかなと思います。でも、相手方のおじいちゃんやおばあちゃんたちは、私たちを新たな家族として歓迎してくれたし、楽しいこともたくさんありました。高校に上がる頃には、父親との関係もだんだんと回復していって、今では、全然性格の違うお父さんが二人もいてラッキーだったなと思えます。
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日本語に魅せられて
15、16歳のときにMTVというテレビ番組で日本のアニメが放送されていて、本編はイタリア語の吹き替えなんだけど、主題歌は日本語のままなんですよ。それで初めて日本語を聴いて、響きが面白いと思いました。日本に行ったこともなければ、日本人の知り合いがいたわけでもないのに、とにかく日本という存在に惹かれたんです。母親に日本語を勉強したいからテキストを買ってくれといって『日本語入門』みたいな本を買ってもらいました。母は「もちろんいいけど、突然どうしたの?」ってびっくりしていましたね。
アニメが好きというよりも、日本語という言語にすごく興味があったので、最初はJ-POPの歌詞でひらがなや漢字を勉強しました。ひとつの漢字にいろんな読み方があるとわかったときには、さすがにこれはちょっと難しいかもと思いました。でも誰かに言われて始めたことではないし、テストがあるわけでもないし、何より楽しかったですね。学校の友だちにも「何してるの?」って不思議がられましたけど、自分の好きなこと、やりたいことがあって本当に良かったなと思います。
通っていた高校のすぐ近くに本屋があって、そこで日本語レッスンがあることをチラシを見て知りました。イタリア在住の日本人女性が教えていて���私以外の��徒はみんな社会人でした。最初は4、5人の生徒がいたんですが、みんな仕事が忙しくて最終的に私一人になってしまって(笑)。それでは本屋としても成り立たないから、プライベートで先生に習うことになりました。週末の午後、先生の家に行って日本のニュースを一緒に読んだり、ドラマを見て理解できなかったフレーズについて教えてもらったりしながら日本語を勉強していきました。
イタリアでは、ヴェネツィア大学に日本語学科があることで有名で、高校を卒業したら絶対そこに行きたいと思って進学しました。大学では、特に日本文学の授業が面白かったですね。先生は江戸時代の文学の専門家で、イタリア人の女性でしたが、私もこの人みたいになりたいと思いました。江戸時代の読本(よみほん)とか、日本の古代から現代までのいろいろな本を見せてもらいました。日本語がどのように形成されたかを学ぶのも面白かったです。ひらがなも漢字から来ていて、中国からどの時期に日本に入ってきたかで読み方が違うとか、いろんなレイヤーがあるのが魅力的でした。高校時代は早く日本語の勉強をしたいと思っていたから、やっと自分の好きなことができる、もうそれだけをやればいいんだ!って夢みたいな世界でした。
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日本で学ぶ/山代巴との出会い
日本にはじめて行ったのは高校5年の夏です。2007年だったかな。イタリアは小学校が5年、中学校が3年、高校が5年、大学が3年制なんです。高校は入学するよりも卒業するほうが難しくて、最後にある「Maturità」(日本語で「成熟」を意味する)という試験がすごく大変なんです。子供時代を終えて大人になっていくというような意味ですけど、今でも友だちと「あれは大変だったね」と話します。その試験が6月に終わって、高校を卒業した7月か8月に日本に行きました。家の近くの旅行代理店で日本でのスタディトラベルを紹介して���らって、1ヶ月間神奈川県藤沢市の一家にホームステイしながら、東京の日本語学校に通ったんです。
大学2年生のときにも日本に行って、その時はボローニャで日本語を習っていた日本人の先生の家に1ヶ月滞在しました。大学3年生のときには、ヴェネツィア大学と提携していた北九州の大学で日本語の研修をしました。このときは3ヶ月たっぷり日本で暮らせてすごく楽しかったですね。同級生はみんな東京に行きたがったけど、東京は逆にいつでも行ける気がして、私は東京から離れたところに行ってみたいと思って北九州の大学を選んだんです。
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大学を卒業したら日本の大学院に進学するつもりでしたが、日本の文部科学省が外国の学部生を対象にしている奨学金に応募したら運良く受かったんです。それで、ヴェネツィア大学の卒業を遅らせて、1年間広島大学に通うことにしました。そこでの経験を経て、やっぱり日本の大学院に進学したいと強く思ったんです。今度はまた別の場所に行ってみたいと思い、大阪大学の大学院に進学することにしました。
ただ、何か研究したいことがあって進学したわけではなく、日本でいろんな経験をしていろんなことを学びたいという感じだったので、研究テーマが全然決まりませんでした。何にしよう、何にしようと一生懸命本を読んでいたら、あるとき図書館でたまたま作家・山代巴(やましろともえ)の本を見つけたんです。山代巴のことは広島大学時代に知っていたんですけど、そのときまで忘れてしまっていました。
それまで自分が読んでいた太宰治や三島由紀夫はマッチョな文学というか、貴族的な都市の文学だったんですね。だけど、山代巴は田舎の農村女性の暮らしを広島の方言で描いていて、古いしきたりのある村社会の問題であるとか、辛い差別であるとか、山奥の村の悪いところを描くと同時に、自然と人間の関係といった良いところも描いているんです。その場所の記憶が保存されていて、初めてこういう日本に出会えた気がしてすごく新鮮でした。
イタリアはもともと農民の国で、戦後に高度経済成長があって、歴史的に日本と似ているところがあるんです。私のおばあちゃんたちも畑だらけのところで育っていて、いろんな話を聞いていたから、山代巴の描く女性たちと自分の祖母の姿が重なった気がしました。母方の祖母は、戦時中にファシストと闘ったパルチザンでもあって、山代巴も戦争に抵抗したことで捕まって刑務所に入れられていたから、そこも重なったんだと思います。日本語に惹かれたときと同じで、とにかく山代巴という存在に惹かれて、彼女のことを研究したいと思いました。それで、今日までずっと山代巴のことを研究しています。
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英語で研究を伝える
大阪大学で山代巴についての修士論文を書いた後、このまま大学に籍を置き続けることも考えました。でも、その頃の自分には英語が得意ではないというコンプレックスがあったんです。大学には英語圏からの留学生もいたんですけど、英語で話しかけてくる人を避けていたんですよ。私は日本語を学びたいから、日本人とだけ交流できればいいって。でも自分の研究の面白さを英語で伝えられないのは問題だと思ったんですね。
悩んだ結果、27歳のときにワーキングホリデーでオーストラリアに行きました。英語学校に通いながらレストランとかで働いたんですけど、やっぱり自分は勉強がしたいんだということを再確認したんです。それで、イギリスのオックスフォード大学でもう一度修士課程に入って、今度は英語で山代巴についての論文を書きました。その後もやっぱり阪大に戻ろうか、いや就職しようかと悩んだんですが、応募した奨学金に受かったので、オックスフォードで博士課程に進むことに決めました。それが2018年の終わりぐらいです。
英語圏では、自分の研究を大きな文脈に置いてみたらどう見えるかという視点で考えるんですよ。それは日本と決定的に違うところですね。もし日本で研究を続け���いたら、「戦後日本における山代巴の文化運動」といったテーマで論文を書いていたかもしれませんが、英語圏ではそれだけでは意味が通じないというか、「語り」や「ケアの視点」、「エンパワメント」や���女性の問題」といったテーマとつなげて広い視野で語る必要があるんです。それで私が最終的にたどり着いたのが「戦後民主主義」の問題でした。博士論文では、山代巴が考えていたデモクラシーと、戦後20〜30年にわたる民主化の関係を評価しようと試みています。
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夫との出会い、COVIDの流行、結婚
博論の進み具合は、今75パーセントぐらいですかね……これは悪い意味では全然ないんですが、ヤマと出会ってなかったら今ごろ絶対に書き終わっているんですね。でも、彼との出会いによって自分の人生がまったく違う方向に進みました。出会ったのはオックスフォードの博士課程2年目のときです。アメリカで開かれた「American Asian Studies」という研究会で、たまたま同じ発表を聞いていたんです。ヤマはそのとき仕事で赴任していたブラジルから、私はイギリスから参加していました。それが2019年3月のことです。
彼との出会いは良い意味で自分にショックをもたらしてくれました。これまで出会った人とは全然違って、この人は特別だって思ったんです。出会った翌日には一緒にランチを食べに行って、一日一緒に過ごしました。でも当初はこんなに素敵な人が絶対に独身なわけがないと思っていたんですよ(笑)。それでも、お互いブラジルとイギリスに帰ったあとも連絡を取り続けていました。ヤマはその年の夏休みにイタリアに来てくれると言っていたんですが、それよりもっと早く彼のことを知りたいと思って、思い切って5月にブラジルに会いに行ったんです。ヤマとの時間はすごく楽しくて、彼のことが本当に好きだと確信しました。
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ヤマと出会って1年後の2020年3月には、先ほど言った研究会に参加するために再びアメリカに行く予定でした。当時私は京都で論文執筆のための調査をしていたんですが、その頃からCOVID(新型コロナウイルス感染症)の話が出てきますよね。イタリアではCOVIDの感染が拡大していたために、アメリカがイタリアからの入国を止めていたんです。一方で、ブラジルはまだ感染者が出ておらず、ブラジルからならアメリカに入国できる可能性がありました。ヤマも研究会に参加する予定だったので、それならヤマと一緒にブラジルから参加しようと思って、京都からイタリアには戻らず、ブラジルに行ったんです。結局その後、COVIDが世界的に流行して、研究会自体中止になりましたし、私もヤマもブラジルから出られなくなってしまいました。
イタリアにいつ帰れるのか、そもそもイタリアに帰るのがいいのか、イギリスに帰るのがいいのか、あの頃は見通しが全然立たなかったですね。でもその間ヤマと一緒にいられたのはラッキーでした。彼と暮らしたことで、研究の道を一人で歩く研究者としての自分ではない、新しい自分を発見した感じでした。COVIDのために当面はビザの心配をせずにブラジルに滞在できたのですが、その年の冬にはビザのことを考えないといけなくなり、いろいろ考えた結果、配偶者ビザを取得するのがいいだろうということで、2021年1月にヤマと結婚しました。いずれはヤマと結婚すると思っていましたが、そのタイミングで結婚を決めたのは、COVIDの流行があったからですね。
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妊娠・出産
その後、ヤマのブラジル赴任が終わるタイミングで二人で日本に帰ってきました。それが2021年の11月です。それから数カ月後の2022年2月には、私が妊娠していることがわかりました。オックスフォード大学は産休や育休の制度がしっかりしているのと、COVIDがあったおかげでより柔軟に対応してもらえるようになったので、大学に籍を置いたまま、日本で出産の準備をしながら研究を進めていました。ヤマとの子どもだから出産も二人で経験したいと思って、イタリアではなく日本で産むことにしたんです。
妊娠中も体調は良かったんですが、ひとつ問題だったのは私の母親が小児科医だったことです。母は子どものことに詳しいから「この検査をやらないの?」とか「これも診てもらいなさい」とかいろいろ言うんです。もちろんありがたい面もあるんですが、イタリアでは当たり前にやる検査を、日本ではお金を払ってわざわざ申し込まないといけなかったりすると、「大丈夫なのかな」って不安に思ってしまうこともあって。
今回出産を経験してわかったのは、いろいろ調べすぎるのは良くないということです。ネットで調べれば調べるほど悪いことばかり出てくるんですよ。私のあとに妊娠した友だちにも、不安を与えるようなことは言わないように気をつけようと思いました。不安のループに入ってしまったら最悪だし、お腹の子どもにも良くないですから。
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出産したのは2022年9月です。予定日の1週間前に産まれました。ちょうどイタリアから母親が日本に来た日の朝に陣痛が来て、その日の午後に産まれたんです。COVIDの影響で出産の立ち会いも出産後の面会もできなくて、それは少し残念でしたね。産んでから5日間ぐらいは赤ちゃんとふたりきりで過ごしました。
10月からはヤマも育児休暇に入って、父親としてすごく頑張ってくれました。だけど、私が子どもを完全に彼に任せることができなくて、自分の研究が全然進まなくなってしまいました。思いきり彼に任せてしまえばいいのに、どうしても気になってしまうんですよね。とはいえ、研究も進めないと終わらないので、それならイタリアに行って家族に育児を手伝ってもらおうと思い、2023年3月、子どもが6ヶ月の頃に家族でボローニャの実家に行きました。
実家には母親と母親のパートナーが住んでいるんですけど、友だちも頻繁に遊びに来てくれて賑やかでした。子どもも小さいうちからいろんな人に触れられたおかげで、社交的な子に育っていて、それがとても良かったですね。育児もすごく手伝ってもらって論文も進めることができました。
半年ほどボローニャで過ごして、ヤマの育休が終わるのに合わせてヤマは8月末に、私は9月末に帰国しました。帰国当初は子どもへの罪悪感がありましたね。せっかくイタリアでいろんな人に愛されて楽しく過ごしていたのにって。私自身もいろんな人が手助けしてくれる状態から、ヤマしかいない状況になって、しかもヤマは仕事復帰するので、自分一人になってしまったようで心細かったです。
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一息つける身近な場所
ブラジルから日本に帰ってきたとき、私は全然東京を知らないし、ヤマの職場に通いやすいところと思って、最初からこのあたりで家を探していました。今住んでいる家は静かな住宅街にあって、比較的広めで明るいところが気に入って、私は絶対ここがいいと思いました。子どもができた今は、高層ビルが立ち並ぶ都心より、こういう住宅街のほうがいいなって余計に思いますね。
今日歩いたあたりから家までずっと川がつながっているんですが、子どもがまだ小さかった頃、ベビーカーに乗せてこの川沿いをよく歩いたんです。活発な子どもで、寝るのがもったいないみたいな感じで、なかなかパタッと寝ないんですよね。だけど、ベビーカーだと寝るんですよ。静かでそばに��があって一息つける場所ですね。
今日はちょっと天気が悪いですけど、晴れた日は緑がキレイなんです。妊娠中も運動しないといけないから何度も行き来しましたし、歩きながら論文のことや子どものことを考えたりしましたね。昔から考えごとをしたいときは外に出て歩くんです。特別な何かがあるわけではないけど、自分にとっては身近な場所です。
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仕事と家庭の両立
博士論文の執筆は、いろんなものを読んで研究を掘り下げることによって、自分自身を掘り下げている感じで、私にとってはセラピーに近いんです。今書いている論文の最後の章では、山代巴から影響を受けて出来た広島の女性たちのグループに焦点を当てています。私自身、子どもを産んだことで彼女たちの文章がより深く理解できる気がして、出産前よりも面白く読めるようになりました。出産を経て、自分の問題意識も変わってきているかもしれないですね。
今年の10月に博士論文を提出したら、ポストドクターとして研究を続けるための奨学金に応募しようと思っています。ただ、これから研究を続けるのか、大学の世界に入るのか、それともそこから離れるのか、今はまだ迷っています。本当は子どもがもう一人ほしいんですよね。だけど、どこかで働きはじめてすぐに妊娠してしまったら大変だし、キャリアを進めようと思ったら、最初は不安定な形で働いて、ポストが空いたらそこに移動して……と、頻繁に移動を繰り返さないといけないので、なかなか難しいですね。
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ヤマも仕事をしながら自分のやりたいことを形にしているので、私はそれを応援する形でもいいかなと思うんだけど、それでもやっぱり自分も働かないといけないというプレッシャーはあります。今の時代、女性も働いて活躍するようになって、それはすごく大事なことだけど、子育てとの両立を考えると、いかに難しいかを実感します。保育園に入れたのも、私の学生という身分と結びついていて、私が大学を卒業したら子どもが保育園にいる資格がなくなってしまうんですよ。それもこれから考えないといけないですね。
論文を何度も書いては消し、消しては書き……を繰り返すのは辛いですが、自分が満足できる文章が書き上がったときに、最初は白紙だったことを考えると奇跡だなと思います。何もなかったところに何かがあって、しかもそこに自分自身が出ている。何度も書いて捨ててを繰り返してやっと形になるという意味では、彫刻に近いかもしれないですね。もともと離れて存在していたドット(点)を繋いでロジックをつくっていくのはパズルみたいだなとも感じます。今は文章という形でしか自分をアウトプットできないですが、いずれは音楽や絵といったもう少し即興的なものに触れてみたいと思っています。
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出発点としての博士論文
山代巴が使っている言葉に「民話」というのがあるんですが、当時の農村女性は名前を出して言いたいことを言うことはできなかったわけです。そこで歌とか詩とか、誰かの言葉を借りてそこに自分の思いをのせて伝える方法を山代巴は勧めました。自分の思いを表す際、必ずしも実名でなくてもいい、作り話でもいいと。
言葉が発せられない状況から、言葉が発せられる場作りをする。そのこと自体を山代巴は「民話」と捉えているんですね。戦後民主主義の時代にあって匿名や秘密は封建的で、みんなで明るく話し合うことが良しとされていましたが、農村のコミュニティでそれをやると、発言した本人にむしろ大きい被害がもたらされてしまう。世の潮流と異なる山代巴は反民主的だと言われることもありましたが、彼女はあくまで農村女性の立場に立って物事を言っていたんです。
だからこそ、山代巴の手法は現場で効果がありました。農協の婦人部の女性たちがお金を集めて山代巴の『荷車の歌』という本を映画化しているんですが、本当によくできているので、機会があればぜひ観てみてほしいです。私は山代巴が唱えた「民話」に自分なりの解説を加えて���彼女独自の民主主義を表す新たな概念として、今度の論文で提唱したいと思っています。
よく指導教官の先生が「博士論文は到達点ではなく出発点」と言うんですが、博士論文を書くことでようやく自分の立ち位置が定まるんですよね。優れた研究は「私の研究はこれです」と一言でエッセンスを説明することができます。私もその一言を見つけたいですね。もし、将来研究をするなら、戦後のイタリアの農村女性にも、山代巴たちのような運動があったのかどうか調べてみたいと思っています。
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(2024年3月28日収録)
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oyako-hakken · 2 years ago
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親子でいっしょに!演劇ワークショップ
親子でいっしょに!演劇ワークショップ みんなでオリジナルの演劇をつくろう!
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親子で話したり遊んだりしながら、短いオリジナルの演劇を作ります。お互いの知らない一面を見つけたり、他の参加者と交流したり・・・大きな声を出すのが苦手、引っ込み思案という人も大歓迎です。
■対象・開催日時 2023年 11/12(日) 10:30-12:00 年中・年長+親 14:00-16:00 小学1・2年生+親
12/3(日) 10:30-12:00 年中・年長+親 14:00-16:00 小学1・2年生+親
2024年 1/28(日) 10:30-12:00 年中・年長+親 14:00-16:00 小学1・2年生+親
2/18(日) 10:30-12:00 年中・年長+親 14:00-16:00 小学1・2年生+親
※1/28(日)10:30-12:00の回は定員に達したため、キャンセル待ちでのお申込みとなります。
■会場 FACTORY (世田谷区奥沢8-3-2 田園マンションB1F) 東急大井町線 九品仏駅より徒歩7分 https://www.factory.theater/access
■参加費 1,500 円/組 ( こども1名+保護者1名) 追加 こども1名:500円、おとな1名:1,000円 ※ご兄弟での参加・同伴については別途お問い合わせください。
■申し込み※各回先着10 組 申し込みフォーム
■問合せ [email protected] 080-5526-7505(担当: 宮原)
■団体紹介 おやこフシギ発見クラブは、世田谷パブリックシアターによる専門家育成プログラム「演劇ワークショップラボ2021」から生まれました。 親子で演劇に親しむ場の創出を目的に、勉強会やオリジナルワークショップの開発、実施を行っています。
■進行/ファシリテーター いけだとも実(いけだ ともみ) 俳優、演劇ワークショップファシリテーター。NPO 法人演劇百貨店のメンバーとして文化施設や学校等での演劇ワークショップを進行。 神奈川県立麻生総合高等学校非常勤講師(演劇基礎・実践)。2019 年 よりベイビーシアター(乳幼児のための舞台芸術)の創作を始める。
山本雅幸(やまもと まさゆき) 俳優。青年団/NPO法人PAVLIC所属。ワークショップファシリテーターとして、幼稚園や全国の小中高校、世田谷パブリックシアター「地域の物語」、池袋コミュニティカレッジなど、未就学児からシニアまで様々な方々とワークショップを行っている。俳優��しては日本各地や海外での公演、韓国との共同制作など様々な作品に出演。劇場以外でも地域や場所、そこにいる人々と関わりながら作品を創作・上演している。11歳の息子とパートナーと3人暮らし。どんどん変化していく子供との生活をとまどい悩み楽しんでいる。
<アシスタント> 岡田陽子 佐久間麻由 杉林志保 矢部久美子
■参加にあたってのお願い ・新型コロナウイルス感染症予防、拡散防止のため下記に該当する方はご入場いただけません。 (37.5℃以上の発熱/マスク未着用/咳、呼吸困難、倦怠感、味覚・嗅覚障害、その他風邪の諸症状がある/新型コロナウイルス感染症陽性とされた方との濃厚接触が ある/過去 2 週間以内に政府から入国制限、入国後の観察期間を必要とされている国・地域への訪問歴及び当該在住者との濃厚接触がある) ・記録/広報のためにイベント中の写真や動画の撮影を行う場合があります。ご了承ください。
**** 主催:おやこフシギ発見クラブ 制作|宮原真理 協力|DRAWING AND MANUAL  令和 5年度世田谷区地域文化芸術振興事業補助金事業
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monqu1y · 4 years ago
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戦後の事件簿  「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国��統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた  図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった  1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した  1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない  1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した  1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した  1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した  1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている  1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な��囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した  1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された  1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した  1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた  1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した  1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に���遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった  1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された  1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された  1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった  1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された  1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた  1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた  1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された  1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した  1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した  1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された  1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した  1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った  1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した  1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた  1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した  1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された  1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している  1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった  1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した  1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
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 1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった  1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った  1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した  1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した  1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した  1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した  1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった  1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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kuwane · 5 years ago
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2020年1月:九州ほか訪問メモ(1/24 呉〜松山)
2020年1月20日〜25日にかけて、九州から山口・広島・愛媛と回った旅のメモのその5。
5日目は呉市街と江田島を見、松山へ移動という具合。
起床後、荷物をまとめて呉駅へ。駅のコインロッカーに荷物を入れて江田島(小用港)行きの高速船に乗る。
写真を見ても分かる通り大きくはない船が飛ばすので揺れる揺れる。小用の港の桟橋につけたあとも結構揺れていたので帰りはフェリーにしようと決めた。(呉〜小用は高速船とフェリーの2タイプの船が結んでおり、所要時間が10分ほど異なる)
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小用港〜江田島(第一術科学校)正門を徒歩で移動し(雨でなくよかった)、10:30の回で第一術科学校見学。
平日ながら20人ほどでガイドの方に連れられて基地内を歩く。
これははいふりのロケ地巡りとなるのだろうか…(はいふりの劇中に登場する横須賀女子海洋学校の建屋のデザインと配置は江田島の海上自衛隊幹部学校、大講堂のもの)。
幹部学校にはちょうどどなたか海将補が来校されていたらしく、海将補の階級章をダッシュボードにさした公用車が止まっていた。
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大講堂(海側)。
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大講堂(内部)。
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これも戦前からの建物である教育参考館(内部撮影禁止)では時間がとにかく足りない。ちゃんと見ようと思ったら少なくとも都合3回くらい来ないとならないのではないか…。
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意外だったのは館内に横山大観と藤田嗣治のかなり大きなサイズの絵が展示されていたことか。後者については戦後、藤田嗣治がフランスに移住するきっかけ��もなった戦争画の展示であった。
海龍や甲標的などもざっくりと見てタイムアップ。
見学者も利用可能な食堂で(ちょうど金曜だったこともあり)カレーをいただいてから小用港に戻り、フェリーで呉へ。
フェリーだと揺れが少ない上、外で撮影できるので岸壁の護衛艦(と、もしいれば米艦)の写真が撮りやすい。
今回はちょうど出航して行くおやしお型潜水艦の写真を撮ることができた。この写真、いずれも小さいが奥の方に画面右から音響測定艦はりま、潜水艦救難艦ちはや、さらにX舵を備えたそうりゅう型を含む第1潜水隊群の潜水艦も写っている。
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他にも色々と写真は撮れたが、あぶくま(左)とやまゆき(右)の写真を貼っておくことにする。(画面右で桟橋を挟んで見切れているのはうみぎり、左に艦体の端がうつっているのはくにさき)
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呉の陸地に戻ってだいたい13時過ぎ。呉の市街も歩きたいとなると、やまとミュージアムとてつのくじら館のどちらかを選ぶしかない‥…ということで潜水艦の現物が見られるてつのくじら館を選ぶ。
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同じく海上自衛隊の施設である佐世保のセイルタワーが海軍から海上自衛隊の歴史を概観しようとする網羅的な内容なのに対して、てつのくじら館は掃海と潜水艦にスポットを当てているのが非常に面白かった。……向かいにやまとミュージアムがあるからかもしれないけど。
あきしお艦内ではレバーなどの細かい写真を撮っていたら、平日でお客さんが少ないせいもあったのか、ありがたいことにブリッジにいた解説員の方(現役時代は潜水艦に乗っておられた方なのだろう)が警報ブザーを実際に鳴らしてくださった。(ブザーはちゃんと鳴るようになっているのに驚いた)
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その方曰く、上の写真にあるように警報は3種類あるが、(ベントが破損して)沈没に直結する可能性が一番高いのが衝突なので、この3つのレバーを同時に操作した場合は鳴るのは衝突警報とのことであった。
上の写真でちらっと見切れている艦内の状況チェック用の板がこちら。
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こちらの使い方も教えていただけた。整備盤の方は右か左かのどちらかに動かすだけだそうなのだが、潜航準備盤の方はいざ潜るとなったとき、部署からの準備完了連絡があったらまずは中央に板を動かして、さらに部署の担当幹部の確認(ダブルチェック)ができた段階で済にする、とのこと(上の写真では全部署が準備済となっている)。非常に興味深い細かい話を伺えた。
鉄のくじら館を退出後、呉の街をふらふら。
青山クラブや呉海軍病院の階段、さらにはJMUのドックを見られる公園などを歩いて巡る。
青山クラブ(旧海軍下士官・兵集会所)。
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呉海軍病院の階段。
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JMUの呉事業所、大和を建造したドックがあった跡地。建屋のあたりが大和ドックの跡地で、大きな屋根の左半分あたりがまさに建造中の大和を隠匿するために作った屋根とのこと。
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そうこうしているうちに松山行きのフェリーの時間が近づいてきた。呉駅で荷物を出して、再び呉港に戻る。
気がついたらずいぶんと船に乗る機会が多かった今回の一連の行程だが(都合6回船に乗っている)、最後に乗るのが呉港から松山観光港へのフェリー。乗ったのは瀬戸内海汽船所属の四万十川という船だった。
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今回この呉港〜松山観光港の航路のフェリーにはじめて乗って驚いたのが、呉を出てすぐの音戸の瀬戸という非常に狭い水路を抜ける箇所。左右の窓から間近に街灯が見えて何事かと思った。これは日中乗るともっとおもしろそうなので、今度は日中に乗ってみたいもの。
あと日曜にしか公開しない施設(現在呉地方隊が使っている旧呉鎮守府の建物とか)があるようなので再訪にあたってはそのあたりも要検討。
松山観光港からは伊予鉄道にて松山市街に出、投宿。この日の行程を終了した。
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2ttf · 13 years ago
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gkeisuke · 6 years ago
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190304 山梨1日目
山梨に旅に来ている。タイトルに1日目とつけているが、1月の徳島も2日目の日記が途中のまま下書きに置かれているので、そういうこともあるかもしれない。
動機などについては、既に何度か書いている気がするが「1年くらい後に車を買いたいので、車種を絞るためにレンタカーを借りていろいろな車を運転したいこと」という動機に対して「ゆるキャン△の舞台を巡りたいこと」という理由が掛かったものである。
8時ごろ起床。正直、そんなにカッチリとは行程を決めていなかったのだけど、朝起きた時点で雨と寒さと寝不足から、全く布団から出たくなくなってしまい「あ、今日は温泉に浸かりまくろう……」と、舞台巡りはほどほどに湯治コースがほぼ確定した。
『ぱらのま』という好きな漫画があって、2巻で、ローカル路線を乗り継いで下部温泉と石和温泉に行く話があるのだけど、石和温泉は前日にフォロワーさんから「漫画に書いてあった通りだった」というニュアンスの情報を頂いたので、下部温泉の方に目標を定めた。
一発目から武蔵野線に乗り遅れ、結果的にいつも会社に行くのと同じ便になってしまう。ただ、雨の影響もあってか、中央線もほどほどに遅れており、立川で特急を待ちながら20分くらい時間を潰す。
今回の旅がいつもと違うのは、糖質を気にしなくてはならないことだ。これまで「旅の食事は(内臓に対して)無礼講」というスタンスを取ってきたが、徳島帰り翌週の健康診断で血糖に悪い数値が出た事実を重く受け止めて、今回は炭水化物と糖分を極力摂らないように立ち回らなくてはならない。
しかし、観光の目玉となるようなご当地料理は、どうしても炭水化物か甘味であることが多い。山梨は特に顕著であり『ほうとう』なんかは麺とかぼちゃのダブルパンチなので、この観点からは最もNGな料理となってしまう。ほうとうが好きなのに……。
ということで、立川では量り売りの海藻サラダと新玉ねぎサラダをそれぞれ100gずつ買い、飲み物は特茶とした。いつもなら、確実にコーヒーショップで、甘ぁいなんちゃらフラペチーノとか、なんとかマキアートを買って浮かれているタイミングである。テンション上がんねーな!おい!
せめてもの抵抗という意味も込めて、グリーン車で甲府まで行くことにした。特急料金よりもグリーン車料金の方が高いのを見て、ちょっと何やってんだという気持ちが無いでも無かった。
朝の中央線というのは、基本的には郊外から都心に向けて出社する上りの方が混むことになる。社会の流れと逆らって、ガラガラのグリーン車でゆうゆうと下っていくというのは、平日休みの特権という感じがして好きなのだ。性格が悪い。
中央線の終着駅として「大月」という土地を、よく文字情報では認識していたのだけど、この電車で高尾より先に行ったことは無かったように思う。高尾から先の車窓には、どんな風景が広がっているのだろうと思ったけど、山と鉄橋とコンクリートとトンネルが、かわりばんこにグルグルと巡ってくる感じだった。雨模様の空も相まって、全体的に灰色の風景が広がっており、なんとなく気が滅入ってきたので、相模湖駅を通過したあたりからは『ナナメの夕暮れ』の続きを読んでいた。
ちょうど若林さんが父との想い出を振り返りながら、キューバの街を歩く話を読んでいた時、車窓から高速道路が見えた。なんかこの景色、車の車内からは見たことがあるようにも思えた。そういえば山梨には小学校の頃、よく父に連れてこられていたのだ。
うちは父と母が離婚している。苗字は父方のままなのだけど。別に隠していた訳では無いのだが、学生時代にこれを言うと、とても気まずい空気が流れて面倒だったので、いつしか言わなくなっていた。父のエピソードがあまり出てこないのは、純粋にあまり会っていないからである。
1人だけフォロワーに初対面で言及されたことがあるので、何となく気付かれている可能性は高い。
ただ、今乗っている車を貰ったり、そもそも私は父の方についていこうとしたらやんわり断られたので、別に仲が悪いわけでは無い。大人になった今ならわかるが、父は割と私についてこられるのは面倒だったんだろうなという気がする。何故なら、私以上に父は「一人で楽しい人」だからだ。
ここで感傷に浸るなら、父に貰った車で思い出の山梨を巡り、なあ、お父ちゃん。俺、一人で山梨来れるくらい大人になったよ……となるのだけど、甲府に向かう道中で、そういえば連れていてもらってたな……とようやく思い出したし、軽自動車で高速に乗るのは恐いからやだ。そもそも旅の目的が変わってしまう。父生きてるし。
父のエピソードを話すとすれば、私が生まれる前、関東で名が知れている某暴走族グループの副総長だったという話があり、私はクソオタクなので、なんでこうなってしまったんだというコントラストでよく笑いを取っていた。車やバイクが好きであり、キャンプなどにもよく連れていってもらっていた。
山梨には、さくらんぼ狩りに来ていたのだったな。めちゃくちゃ山奥に、父の知り合いか何かのさくらんぼ農園があって、木からとって無限にさくらんぼを食べていた。私は車の中で、ドラクエモンスターズをしたり、道中のブックオフで買った漫画を読んだり、姉と遊んだりしていた。
国立・府中インターからほど近く行けたので、ほったらかし温泉を始め、いろいろ温泉にも連れていってもらった。キャンプに行ったりもしたな。
最近、父はすげー人だったんだなと改めて思う。色々な場所の色々な景色のことや、美味しいご飯のことを知っていて、アウトドアの知識もあり、キャンプにも連れていってもらった。これは今私がやろうとしていることや、やろうとしているけど出来ないことだと思う。
ちゃんと大学まで出させてくれた恩があるので、たまには親父殿ともご飯でも行こうと思いながら、甲府に到着した。
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今年は甲府開府500年のアニバーサリーイヤーらしい。改札を出た時に「こうふ開府500年 開幕から63日」と書かれた電光掲示板が真っ先に目に止まったが、今年が始まって何日が経過したかを大々的にカウントアップしてるだけではと思い、やや困惑した。
甲府の街は想像以上に「武田信玄公一本勝負」という印象を受けた。歴史を感じる落ち着いた通りに、風林火山、信玄の文字が散りばめられる。程よく都会で、程よく歴史を残しており、心地よい場所なのだけれど、深く掘り下げてもこれ以上の情報は出てこないかな……という印象も同時に覚えた。
い���、仕方ないのだ。そもそも東京と劇的に変わることはなく、多摩西部の出身なので、微妙に山梨寄りのスピリットが交ざっている。埼玉ほどではないけど、旅行という名目における、心理的なグラデーションはそんなにないし、そんな感じでひょいっと行ける小旅行というのも、名目としては大事なことだった。
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いちいちお土産が美味しそうなんだよな!(逆ギレ)
見ての通り、オール糖なので、一つも食べることが出来なかった……。涙を流しそうだった。信玄餅好きなんすよ……自分……。
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レンタカーはクラス別に貸し出される車種が分けられていて、指定が無ければ料金が安くなるシステムだった。
私がお願いしたクラスは、マツダのデミオか、日産のノートの2択だった。安いのもあるけど、色んな車種に乗ってみたいのでランダムでお願いしたのだけど、カタログなどをみて、現時点で一番気になっている車種がマツダのデミオだったので、心の中では「デミオこい……デミオこい……」と思っていた。
日産ノートでした……。ただ、色がめちゃくちゃかわいいし、私が緑大好き人間であることを察してくれた、レンタカー会社側の粋な計らいと受け止めた。
徳島のマーチに続き、2度目の日産車ということもあって、割と操縦性はスムーズに慣れることができた。
何より、マーチの時よりさらに設備が新しく、父からお下がりでもらって乗っている今のミラから数えると、型番に20年近い差がある。
バックミラーがカメラに映し出された映像になってる!駐車のアシスト機能がやべえ!エンジンキーないの!?アイドリングストップ!などなど、一つ一つの事象に感動があった。
あと、ミラだと「ヴォォォォォォォォン!!!!!」ってエンジン吹かすレベルでアクセル踏まないと加速しないのに対して、軽く踏んだだけで制限速度に到達するので、制限速度超過の注意を受けて減速するという事象が多発してしまった……。アクセルがめちゃくちゃ軽いおかげで、長距離を運転しても全然疲れなかった。
特に不満らしい不満が無いので、もうノートでいいんじゃないか……。という気持ちになってきたが、日産車の操作感に慣れ過ぎている感じもあり、比較になっていない感じがあるので、次回借りる時は最低でも別の会社の車を引けるように背ってしようと思います。
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糖を抜くために甲州牛のステーキ(白米抜き)で昼食を済ませると、下部温泉郷へ向かう。約40キロの道のりだったが、ほとんど信号で止まることもなく、下道で1時間くらいで到着した。
全く位置関係を把握していなかったのだけど、看板などを見てると「本栖湖」とか「身延」とか、奇しくもゆるキャン△に所縁がある地名が数多く見られた。この辺だったのか……。
この位置関係だったら、本栖湖の1000円札の富士山などを見て行きたかったのだけど、あいにく雨が止みそうにない。富士山のような山は間近に見えているが、上空は雲に包まれて下層部の山肌しか見えていない。ひとまず温泉に集中することにした。
平日で雨ということもあって、下部温泉郷にはホボ人がいなかった。温泉街としても近場に競合相手が多く、結構、アクセス的にも奥まった場所にあるので、まあ仕方が無いのかな……という感じはした。
温泉郷自体も非常にひっそりとしている感じで、一番車が止まっていたのは病院というのが、なんとなく物悲しかった。
温泉会館という場所に入ると、本当に地域の寄合所を兼ねたような施設で、ロビーではだるまストーブが炊かれていた。ロッカーの鍵をもらうと「車のキーでいいんですけど、何か代わりのものを預けて頂けますでしょうか?」と言われて車のキーを渡す。
入浴料金は500円、浴槽は1つだけという非常に武骨な経営だった。秩父とか高尾にある人為的に作られたテーマパークのような温泉施設に慣れてしまっていたが、確かに『下部温泉』という源泉から引っぱっているなら、むしろいくつも浴槽があるのはおかしくて、一本勝負でいいはずなのだ。ここは”ホンモノ”だと感じた。
しかし、私はまだまだ温泉音痴なので”温泉がとても気持ちいい”ということしか分からなかった……。ゆっくり長く浸かれるちょうどよい温度ということもあり、長距離運転の疲れがすっかり癒された。
なんとなく、RPGにおける”エルフの里”みたいだなと思った。さっきCMで見たのだけど、中央道のインターが下部温泉付近に開通するらしい。人里離れた場所にひっそりとある温泉郷というのは魅力的ではあるのだけど、心細いレベルで人がいなかったので、もう少し賑わっているとまた来る際にもうれしい。
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キレイな富士山はみれないけど、近くにあったので、犬山あおいさんのバイト先のモデルである、セルバ身延店に伺った。
本日3月4日は、各務原なでしこさんと、犬山あおいさんの誕生日。「これまで、プリントを回してもらった時だけしか話したことがないけど、声をかけられただけで好きになってしまい、犬山あおいさんの誕生日だと知ってバイト先にやってきてしまったモブクラスメイト」という設定で犬山あおいさんのバイト先に伺ったら、完全に変質者のメンタリティとなってしまった。
郊外の大型スーパーという風情に、分厚いゆるキャン△グッズコーナーが設けられている景色が面白い。売り場の端々にゆるキャン△のポップが上がっていたりもして、なおかつ、スーパーとして品揃えが豊富でお安い。非の打ち所がないお店だ……。と思いながら、普通に旅の買い出しをしてしまった。
犬山あおいさんのお誕生日と言うこともあり、ステッカーだけ買わせて頂いた。私は犬山あおいさんに思いを寄せるモブクラスメイトなので、お誕生日おめでとう……犬山さん……と思いながら、犬山あおいの名前が刻まれたレシートの裏に、犬山あおいさんのスタンプを押して、後生大事に持つという恐ろしいムーブで店を去ることになった。
身延町、特にセルバ近辺は、山と川に囲まれて、畑が広がり、車がないと移動が厳しい感じで、お買い物してる人たちも、一定量をまとめ買いして車で運んでたりした。そんな立地に徒歩で行けるところに犬山あおいさんが住んでいるのか……と想いを馳せ、もしかして犬山あおいさんは漠然とした閉塞感を感じているのではないかと勝手に考えて、ちょっと興奮していた。この男から逃げてくれ。犬山あおいさん。
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ホテルのチェックインには微妙に早く、どこか回るには絶妙に遅いという時間だったが、ギリギリ栄昇堂さんの営業時間に間に合いそうだったので、身延駅近辺に向かう。
栄昇堂さんは『ゆるキャン△』目当てで来た人に慣れているようで、私の滲み出るオタクオーラから、一発でゆるキャン△目的だと分かって頂き、手厚くもてなしてもらった。
振り返るが、この旅行における最大の障害となるのが『糖』だ。糖質制限のないチョコやあんこなんて、ここ2週間はホボ一切食べていない。でも、ここまで我慢したから、おまんじゅう一つくらいは食べてもいいじゃないですか……。あとで運動するから……。と思い一つだけ買おうとした。
だが、お店でとてもよくして頂いたので、1個だけでは示しがつかないという気持ちになり、5個購入してしまった。家族へのお土産にします……。
2週間ぶりのダイレクトな糖は、マジで涙が出そうなくらい美味しかった。ウッウッ甘いものを思いっきり食べたいよぉ……。
こうやって、たまに食べられるタイミングを大切にして、これからは一つ一つの糖に感動していきたい。ありがとうみのぶまんじゅう。
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また1時間ほどかけて甲府に戻る。夕飯は糖を封印するために鍋。山梨と言えば、名古屋名物の赤から鍋だ。もうすぐ3時なので何を言っているのか分からない。
旅先に行くと、その土地に根ざしたものを食べなくてはならない。という強迫観念に近い感情に囚われることがある。でも、例えば徳島にも餃子の王将はあるし、ココイチもあるのだ。別に名物を食べなくてはいけないなんて決まりはない。山梨は東京と地続きな場所にあるが故に、その束縛から解放されて、本当に食べたいものを無理なく選択できる気がする。
店に入ってから「※二人前より承ります」という罠に気付いた。客単価を考えれば当然だし、そもそも鍋の店に一人で来ているのは、お前だけだ……。
仕方がないので2人前を頂く。ここ2週は、お米を食べないと胃のキャパシティは空くのだなと実感しているけど、それでも流石にお腹はいっぱいになった。美味しかったです。
ホテルにチェックインする。疲れていたのか、1時間ほど眠ってしまい、そのままベッドでだらだらともう1時間過ごしてしまった。
23時ごろ、あと1時間で終わる大浴場に急いで向かう。今回は安くて楽天トラベルの評価が高いビジネスホテルにしたのだけど、大浴場が結構しっかりと温泉でテンションが上がった。奇しくも温泉ダブルヘッダーとなり、お湯に浸かりまくるという目標は果たされた。
冷凍室というのがあり、サウナ、冷凍室、熱い源泉をローテーションで回って、副交感神経を動かしてきた。水風呂が苦手なので、冷凍室というじわじわ冷やしてくれる場所があるのはありがたい。
日記を書き始めて、この時間になり、本日は終わり。
明日はとりあえずほったらかし温泉に行こうと思う。
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nopposeitai · 2 years ago
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スマホ故障で写真なしで投稿したのか、昨年か、一昨年前に投稿したのか、再投稿になるのか…?定かではないのですが。 当時中学生、現在高校生。 野球部 両足オスグッド病 登下校 自家用車送迎 3回目施術後には痛み軽減 ゆびのばソックス使用し 靴の履き方、靴紐を指導する その後登下校は徒歩でできるも 不安があり野球復活は保留。 5回目以降ランニングマシン 痛みなくジョギング程度良好 コロナ禍規制中てありながら オスグッド病自体はほぼ終了 しかしながら、 動けるようになるもの 部活動なども禁止になり 半年後にメンテナンスて来店。 何度か、両膝オスグッド病の 痛みが出てくると言う事で、 再度、セルフケアの指導や ストレッチでの注意点を説明。 連絡はないので問題もなく 経過してるかと思います。 ↓簡単LINE登録↓ bit.ly/2Kt3TKW #のっぽ整体 #のっぽせいたい #nopposeitai #日曜日営業 #営業時間 #奥武山公園駅徒歩2分 #膝下靭帯炎 #ジャンパー膝 #オスグッド #成長痛 #有痛性外脛骨障害 #セーバー病 #腰痛 #股関節痛 #膝痛 #豊見城市 #肉離れ #那覇市小禄 #那覇市山下町 #足趾ストレッチ #内反小趾 #ゆびのばソックス #サッカー #野球 #バスケット #バレーボール #ハンドボール #陸上 #テニス #久米島 (のっぽ整体) https://www.instagram.com/p/Cp9lNS_vNH1/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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oniwastagram · 3 years ago
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📸鏡田屋敷庭園 / Kagamida Yashiki Garden, Ukiha, Fukuoka 福岡県うきは市の『鏡田屋敷』の庭園が素敵…! ふるさと大使はタモリさん…🕶レトロな近代商家建築が立ち並ぶ国の重要伝統的建造物群保存地区の古い町並み“うきは市筑後吉井”で唯一江戸時代から残る和のお屋敷と、耳納連山を借景とした池泉回遊式庭園。うきは市指定文化財。 福岡・鏡田屋敷の紹介はこちら☟ https://oniwa.garden/kagamida-yashiki-fukuoka/ ...... 「鏡田屋敷」は国の重要伝統的建造物群保存地区“うきは市筑後吉井”に残るお屋敷。 先に紹介した『居蔵の館』をはじめ近代の商家建築が立ち並ぶ町並みの中で唯一江戸時代から残る歴史的建造物で、観光施設のひとつとして一般公開されています。 . 2022年2月の福岡遠征、今回は庭園じゃなくて町並みへ…と思い6年半ぶりに筑後吉井の町並みへ🏘 . かのタモリさん🕶がふるさと大使も務めるうきは市。JR筑後吉井駅から徒歩10分ほど歩くと重厚な商家造りが立ち並ぶ重伝建の古い町並みが現れます。 明治2年に大火🔥が襲い、現在見られる町並みは明治2年の大火以降に整えられた近代の街並み。 . 駅から見てその町並みに最奥部にあるのが鏡田屋敷。屋敷の正面部は幕末の1863年に建てられたものが残り、お屋敷の北部分(広間・座敷)は1893年(明治26年)に増築され郡役所の官舎として用いられました。 . 明治時代後期に現地の郵便局長🏣を務めた佐藤氏が居住した後、昭和初期から籠田氏が居住。 その籠田氏も筑後吉井を離れ、平成3年の台風被害を契機に取り壊されそうになった所、平成年代の町並み保存の一環でうきは市に寄贈され修復、公開が開始されました。 続く。 ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifuljapan #beautifulkyoto #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #庭院 #庭园 #福岡旅行 #福岡観光 #九州旅行 #うきは市 #筑後吉井 #重要伝統的建造物群保存地区 #小京都 #古民家 #ブラタモリ #おにわさん (鏡田屋敷) https://www.instagram.com/p/Cd9v1ZCv5Jk/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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photoconcerto · 3 years ago
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クリスマスシーズンの立川駅北口・新街区 (GREEN SPRINGS) 2021 Xmas season in Tachikawa TOKYO under the mysterious drastic decrease in infected people with COVID-19 before increase of SARS-CoV-2 Omicron variant
新型コロナの渦中にオープンした立川のGREEN SPRINGS(JR立川駅北口から徒歩8分)にもようやく活気が出てきたようです。このGREEN SPRINGSにはショップ��レストラン・ステージガーデン・ホテルなどがありますが、大きな一つの建物に全てが入っているというわけでなく、非常に立体的な空間の中にそれぞれの建物が配置され、昭和記念公園と立川駅北口のビル群・多摩都市モノレールの間を繋ぐような形になっています。
日本では、今年(最近?)はクリスマスにあまり盛り上がりが無いようですが、この新街区では華やかなライトアップ・イルミネーションや、水が流れ落ちるなだらかな階段状の「カスケード」を上り切った所から眺める夕陽に映える富士山が美しいです。
また昭和記念公園の立川口ゲートから約200mまっすぐに伸びるカナール(庭園の水路)の奥には噴水があります。この噴水から見ると、カナールの中心に新街区のホテル(SORANO HOTEL)の中心をぴったり合わせているようで、常に正面にホテルの中心を見ながら立川へ戻ることになり、設計者のこだわりを感じます。
GREEN SPRINGS Tachikawa TOKYO,   December 2021 We can look at the enlarged images clicking the original ones.
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yamashita03 · 7 years ago
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迷ったら中米に行こう!~戦々恐々とコスタリカを旅する~
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20代最後の夏に思い切って中米コスタリカへ行きました。
幼稚園からの友人が海外協力隊として現地で活動しており、彼を頼りに8月10日から16日の1週間、初一人海外へ出て行きました。
コスタリカで見たものや経験はどれもみずみずしく新鮮なものばかりで、この気持ちが少しでもフレッシュなうちにメモを残しておきたいと考え、帰国の途につくコスタリカサンホセ空港にてキーボードを叩き始めました。(が結局書ききれたのがだいぶ後になってしまいました汗)散文的な内容になることを恐れずゴリゴリ書いていこうと思います。
【コスタリカの概況】
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言語はスペイン語。国教はカトリック。そのため街の要所には教会が立ち並んでいる。
コスタリカの歴史は基本的にはスペイン人統治時代から始まり、それ以前の先住民の歴史的、文化的な遺産などの観光資源に乏しいのが現状。
しかし、先住民たちが森を切り開き巨大な文明を築かなかったことと恵まれた気候から自然が非常に豊かで九州と四国を合わせた程度の国土面積に、地球全体の5%もの動植物が存在すると言われている。
国はこの点を自国の観光資源として捉え、国土の多くを国立公園として保護し、その自然の中を探索する『エコツーリズム』を世界に先駆けて始めた。これが世界に受け入れられ、それまで農業依存だった国の経済構造を好転させた。
そのほかにも軍隊を持たない平和国家として、軍事費に充てていた費用を教育や医療、再生可能エネルギーなどに投資し、前述のエコツーリズムに加え、中南米で屈指の教育、福祉、自然エネルギーの国として強い国家アイデンティティを保有している。(日本も見習いたい)
街の観光地はどこもごみが少なく、水道水も飲めるのは中米に限らず世界的にも希少な国のひとつではないだろうか。
【コスタリカの人々】
・観光地のガイドからUberのドライバー、クラブに来ていた若者に小学生まで様々な人と触れ合ったが総じて気さくで穏やかな人が多かった印象。車の運転もアジアなどに比べても丁寧な感じだった。
・観光地やホテルでは英語を話せる人が非常に多いため、スペイン語が苦手でもガイドを受けたり簡単なコミュニケーションは十分可能(ただし自分は英語もできなかったため状況は変わらなかった)
・中米の中で治安が良く経済が安定していることもあり、多くの移民が存在し、とくに貧しいニカラグア人が市街地でホームレス化している現状が社会問題となっている。そのほかにも社会情勢が不安定なベネズエラ人なども目立った。
私のコスタリカ旅行
友人が1週間のバカンス休暇を取りほぼ土地勘もコミュニケーションもできない私にほぼ24時間付き添ってくれて様々な場所に行かせてくれました。
現地で撮った写真を見ながら適当な順番と粒度でコスタリカについて語りたいと思います。
1.市街地の風景
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成田からヒューストンを経由し、サンホセ空港に到着。
駅からバスでサンホセ市街地へ出て街を散策。初めての中米だが、町の雰囲気は東南アジアとも近い印象。首都ということもあり、おそらく単純に国の経済力、発展度によって似た雰囲気の街が出来上がってしまうのかもしれない。(日本も昔はこうだったのかも)
市街地には人通りが多い。また、路上に座り大声で物売りをする人も多く見かけたが、友人曰く彼らはニカラグア移民だとのこと。あまり近づかないようにした。
2.食事
「コスタリカの食事はマズイ」と友人から聞かされていたため戦々恐々として乗り込んだものの、総じておいしかった。ただし、値段の割に(というか高い店に限って)全くおいしくない店もあり、その辺はどんな店でも一定のクオリティは保っている日本の外食店文化のありがたさを感じた。
<上流国民編> 
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初日夜は友人の現地の友達で日本に留学経験もあるというコスタリカの方とコスタリカの中ではちょっとハイソな街で夕食。とてもいい方たちだった。
写真は2件目に行ったビールバー。クラフトビールの飲み比べができた。
※ここに関わらず外食費は総じて日本よりやや安いものの大きな差はなく、中米の中では非常に高いとのこと。家族を大事にし、家での食事を重んじる国民性があるとはいうものの、平均月収が日本の数分の一ということを考えると外食はなかなか大変な出費になるのだと思う。
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山でのレジャーや森の散策を楽しめるモンテベルデ自然保護区で止まったホテルの隣にあったレストラン。モンテベルデという土地柄もあり周りは外国の観光客だらけ。
キャンドルがあったりと店の雰囲気は日本の都会のおしゃれレストランさながらな雰囲気だったが、料理は10ドル弱、ワインもボトル15ドル程度となかなかのコスパ。そして味が抜群にうまかった。この旅の中でもトップクラスに満足した食事だった。
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同じくモンテベルデでの食事。わかりづらいが、本物の大木をそのまま残し、その周りに3階建ての建物を巻きつける(?)ような特徴的な構造を持ったモンテベルデの有名レストラン。パスタは15ドル程度と結構お高め。
ただ申し訳ないが味がマズかった。4分の1程度しか食べれなかった。友人が「コスタリカの料理は味が薄い」と言っていたのはこれか!と納得。
その後パスタは宿へ持ち帰るも、部屋に置いておいたら蟻の餌食となり無事死亡。
<庶民編>
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友人行きつけという現地の食堂にて。コスタリカでは米(左)、レモンとパクチーの効いたサラダ(中央)、ポテト(右)、豆(奥)を基本セットに、そこに豚肉やチキンなどのメインが乗るワンプレート料理がスタンダード。
米はタイ米などに近く、日本のよりも細長くて水分が少ない。また、黒い豆と米を合わせて炊くとコスタリカの伝統料理「ガ��ョピント」となる。
だが、米と豆を別々に食べても味は大差ない。
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これは別の店だが、基本は一緒。そこに焼きバナナなどがついていた。
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モンテベルデの屋台にて。鶏むね肉とポテトというシンプルで豪快なファストフード。非常にボリューミーだが500円程度。美味しかった。
<家庭料理編>
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チフリーゴ。友人がお世話になっているホストファミリーのお家に自分もお邪魔してごちそうになった伝統料理。
ご飯に鶏肉と豆が乗っており、そこに刻んだトマトとパクチー(←これもよくコスタリカで出てくる)をお好みで載せて食べるどんぶり。鶏肉にトマトの酸味やパクチーの刺激が合わさりとても美味しかった。
米を食べる文化があるため、各家庭に炊飯器もある模様。(米があるのはありがたかった・・・)
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朝は旦那さんのほうが準備してくれた。ガーリックトーストにソーセージに卵、そしてパパイヤとかなりボリューム満点でおいしかった。
3.文化編
<原住民編>
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原住民が木の実などをすりつぶす際に使用していたとされる石の机。独特な形状が面白い。石工技術の高さがうかがえる。
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よく日本のテレビなどでもコスタリカを紹介する際に一緒に出てくる謎の石球。その製造年代や製造方法、作られた目的などが不透明で一部ではオーパーツの一つともいわれていたが、現在では研究も進みその謎が徐々に明らかになっているとかいないとか。
ちなみに写真は国立博物館にあったレプリカ。本物はコスタリカの郊外にあるため、観光地にはしばしばこのようなレプリカが置かれていた。
<建造物>
国立劇場
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コスタリカを象徴する建造物の一つ。この建物を壊したくないがために内紛が起こらない、と言われるほど現地人からも愛されているという建物。劇場内部も見学ができる。
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息を飲むほどの迫力。今なお現役の劇場として使用されており、しばしば日本の能や和太鼓の演奏なども上演されるとか。
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受付兼待合室。豪華すぎて落ち着いて待てなさそう。
ロスアンヘレス大聖堂
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首都サンホセの隣の県カルタゴにある大聖堂。国内各地から人々が巡礼に訪れる聖地で建物も非常にでかい。
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中の造りも荘厳で素晴らしい。礼拝に訪れた人は中央の通路を膝立ちで移動して祭壇へ向かう慣習があるようだった。我々は邪魔にならぬよう脇の通路を回って見学した。
<若者文化>
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現地人が多く集まる深夜のクラブへ友人と2日連続で繰り出した。入場前にID(自分の場合パスポート)と場所によってボディチェックが行われ、さらに場所によっては入場料も支払う。
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クラブで飲むのは大体ビール。他の酒より値段が安いため、お金のない現地の人もビールばっか飲んでいるとのこと。
ちなみにコスタリカのメジャーなビールはimperialとPilsenの2種類。そしてちょっと高くてマイナーなBAVARIA(写真)がある。味はimperialが薄くて軽く、Pilsenは少し香りとえぐ味が強い印象。BAVARIAはその中間といった感じ。
美味しかったのは写真に乗せたBAVARIA��ゴールド。一番日本のビールに近い。時点でimperialのsilverという種類のもの。
BAVARIAはあまり扱っているところが少ないため、一通り飲んだ後はimperialを選んで飲むことが多かった。
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左の黒人Jango。入場の手続きで手間取っていると後ろから声をかけてきた。身長めっちゃ高いし超怖い。
でも本当は荷物を預ける場所を教えてくれようとしていたこのクラブ界隈の従業員?オーナー?的な人だったらしい。その後テキーラを2杯もご馳走してくれた。めっちゃ気さくでいい人。
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ぶれぶれ。お酒飲みながら爆音の音楽を聴いてるとある若者グループの輪に招かれて一緒に踊ってた。なんとなくアジア人で(自分は楽しんでたけど)周りになじめてないオーラが出ていたのか誘ってくれたのだと思う。
言葉は通じないけどお酒もあいまって身振りや表情でコミュニケーションを取る感じがなんとも楽しかった。
友人が話したところそこのグループにいたほとんどの人がベネズエラ人だったとのこと。ベネズエラといえば近年の超インフレで経済が破綻寸前、首都の治安は世界最悪と言われている国。あんなに気のよさそうな彼らの背景にそんな深刻な事情があるのか、と色々と考えさせられた。
4.自然編
上でも触れたモンテベルデ自然保護区にて、昼と夜の森林散策ツアーやキャノピーなどのレジャーを体験した。
昼はオランダ人の家族と一緒にガイドの話を聞きながら野山を散策。
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トゥカーン(の子供)
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なんか笑顔の木
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景色が一望できる!と思ったもののあいにくの雨。朝は晴れていたのに、、
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羽が透明な蛾?
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ゴミをあさっていたアライグマ。全然人を怖がらない。
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ちょっとここからはモンテベルデではないけど、
これは幻の鳥といわれるケツァールを見にいくツアーでの朝の集合場所のロッジに来ていたハチドリ。
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で、1時間以上何か所もポイントを回ってやっとお目にかかれたケツァール。 これはメスのため尾が短いが、オスはもっと尾が長く色も鮮やか。残念ながらこの日オスはお目にかかれず。
5.その他
帰国最終日にどこ行きたいかを友人に尋ねられ、彼の職場のゴミ収集センターと地域の小学校へ行くことに。
サンホセのゴミ収集センター
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回収されたごみたち。袋の中身はまだまだ分別が行き届いていない状態。
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各地から届けられたごみ袋はこの台で職員の方が一つ一つ開封し手作業でごみを仕分けている。
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普段はこの仕分け作業をおばちゃん2~3人で行うそうだが、この日は民間企業からCSR活動の一環と職場体験ということでさらに数名参加していた。エライ
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ペットボトルは無色と有色のものを分けてプレス。プレスすることで輸送にかかるコストを下げている。
これらは民間の業者に売却され、資源として再利用される。
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段ボールも同様。談笑しながらも手際よく潰してトラックにつめていた。
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外では家庭のごみなどを持ってくる人がごみを捨てていた。まだまだポイ捨てなんかも多く、ゴミに関しての市民の意識が低いとも感じられたが、このように律義にごみを持ってきて捨ててくれる人がいることがありがたいとのこと。
サンホセの小学校
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その後サンホセの小学校にアポなしで突撃するも、友人の顔パスで難なく入れた。
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カメラを向けると照れて顔をそらす子供。なんかとても開放的で自由な雰囲気。
生徒たちは全員1日学校にいるわけではなく、上級生と下級生が曜日ごとに午前、午後の授業日を交代でまわすようなカリキュラムを取っているそう。
例えば月曜日の午前が上級生の授業なら、午後には上級生は下校し、下級生が授業をする。火曜日はその逆、といった感じ。
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後者が”ロ”の字型になっており、中庭が校庭になっており、中央の礼拝堂を挟んでコンクリートのバスケコートが二面あった。
ただしバスケを行っている生徒は誰もいなかった。コスタリカ人はサッカーが好きだからフットサルコートにでもすればいいのに。
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牛乳パックを再利用してできた���だそう。木のように固い。
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体育の時間で誰もいない教室。
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パソコン教育も行われている。ここのパソコンも友人の協力隊活動の一環で企業から提供されたもので、この部屋はそのために新たに作られたものなのだそう。
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食堂。おやつにフルーツを振る舞われることも。
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帰り際に先生に挨拶をすると我々もフルーツをゲット。リンゴをむしゃむしゃ食べながら帰路についた。
さいごに:コスタリカを旅行しての感想いろいろ
1.意外と多かった、日本を親しんでくれる人々
この旅で最も印象深く嬉しかったものの一つが日本に親しんでくれている人が多かったこと。上でも述べた初日に紹介してもらった女性たちのほかにも、例えば2日目に行ったクラブでは「日本人!?」と声をかけてくれたコスタリカ人がいたのだが、彼はなんと3月まで我々の地元の宮城県の東北大学に留学していたとのこと。
さらに4日目に利用したUberの車の後ろにはなぜか日本の国旗が飾ってあって、話を聞いてみると彼は日本にこそ行ったことないものの、日本の興味があり自主的に日本語を学んでいるとのことだった。友人曰くこんなに色々と日本を知っている人に出会うことは珍しくてラッキーだったとのこと。楽しい出会いのある旅行だった。
2.中米への関心が深まった
当たり前すぎる小学生並みの感想だが、こちらも自分の心に大きな変化をもたらした。
先ほども述べたようにあまり日本人にとってなじみのないコスタリカだが、地球の裏側では日本に関心を持ってくれている若者たちがいる。そしてみんな気さくで親しみやすく、とても可愛げのある人たちだった。
日本に興味を持ってくれている人たちがこんなにもいてくれていることを考えるとすごく嬉しく感じたのと同時に、自分たちももっと海外に目を向けていかなければいけないと感じた。
さらに前述したベネズエラ人との出会いも考えさせられるものがあった。恥ずかしながら自分はベネズエラなんていう国は国名を知っている程度の知識で、彼らに出会わなければきっとこの先もベネズエラに関してここまで関心を抱くこともなかったと思う。
帰国してすぐに、超インフレが進むベネズエラでは桁を減らすための新たな通貨の単位を作るという経済政策が打ち立てられたとのニュースが入ってきた。もちろんこんな政策ではさらに経済を混乱させることになりかねないという見方が大半だ。経済が混乱すれば他国への移民問題もより深刻になるだろう。これから先中米はどうなるのか、今後の情勢には色々と関心を寄せていきたいと考えるようになった。
3.外国語を話せるようになりたいと思うようになった
今回の旅行は友人のサポートもあり様々な出会いと気づきのある非常に楽しい旅行だったが、それゆえに言葉を理解して自分の気持ちを伝えられないもどかしさを抱えていた。
例えば彼のホストファミリーの家にお世話になった際も、食事を「美味しい」という気持ちすらうまく伝えられず非常にもどかしかった。お土産に持って行った九谷焼についても、本当はその背景にある日本の文化や歴史なんかを話したいという気持ちはあれどそんな高度なコミュニケーションが取れるはずもなく、、
ホストファミリーのおじいちゃんおばあちゃんが本当に親切にしてくれただけに、自分の気持ちを言葉で伝えられない歯がゆさがあった。
海外旅行は恐らく簡単な英語と身振り手振りで頑張れば、観光地を巡ったり宿に泊まったりなどある程度の目的は達成することができると思うし、実際自分もその程度で良いと考えていた。
でも海外旅行で一番楽しいのは現地の人との生のコミュニケーションだろうと思った。その土地の人が何を考え同くらいしているのか、そういったことを言葉を介して理解し、また自分の考えも相手に伝えられるようになりたいと強く感じた。
せめて日常会話レベルの英語でも身につけたい。。30年弱の人生で今が一番外国語学習欲が高まっていると感じている。今やらないと一生やらない気がするので、ひとまず本を読みながら拙いながらも話せるように勉強中。
4.ごみのことに関心を持つようになった
友人の職場に行き、いろいろとごみへの思いを語ってくれたこともあり自分もごみへの関心が高まった。
自分が普段何気なく出しているごみも処理には多くの人手が必要ということ、作業はハードなこと、そして何よりも地球上の多く���人が関わり、今後も関わり続けていかなくてはならないものだということ。
現地の方の仕事ぶりを見て説明を受けると、自分もなにかできないか自然と思いを巡らせていた。
例えば友人はごみを出す段階で分別がされていないことがひとつの問題と言っていた。
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なるほど、確かにゴミ箱は色分けされてどこに何を捨てるべきかが分かりやすくなっている。
ただ、ちょっとデザインの観点から考えてみるとゴミ箱の上にはごみの種類が分かるような絵を入れたり、ゴミの入れ口を入れるごみの形にしてごみを捨てる行為をアフォードさせるような施策があってもよいかと感じた。
現状だと識別する要素が色と小さく書かれた文字のみのため、例えば歩きながら街を歩く人がごみを捨てようとした際に反射的に自分が捨てたいごみの正しいゴミ箱を判断しづらいのではと感じた。色とごみの種類に明確な関係性がないため、ほかの要素で使い手に正しいゴミ箱を反射的に認知させる仕掛けが必要と考えた。
日本のごみ箱はまだそのへんが少し良くできていて、入れ口の直下に何を入れるごみ箱なのかを絵と言葉で入れることでごみを捨てる人の目に必ず入るように工夫されているとともに、口の形状で何を入れるべきかを感覚的に示している。
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缶やペットボトルなど、入れ口を丸くすることでそのごみ箱が飲み物の容器を捨てるものだと把握できるのと同時に、丸い形状に筒状のものを入れたくなる人間の心理も上手に作用させている。
そんな小さな改善を重ねながら、街がもっと綺麗になってコスタリカ人のごみへの関心が高まることを願っている。
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xf-2 · 7 years ago
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ご案内の通り毎号のニュースに北朝鮮船や人の着岸・漂流情報を入れています。ほぼ毎回追加修正を行っていますが、これでもおそらく一部だと思います。全国紙・地上波のキー局の報道では報道は稀になってきており、それぞれの地域の地元紙や地元のテレビで報じても他の地域には届いていません。
 現状では海保も警察も着岸・漂流に関する情報を提供しておらず、また都合の悪い情報は隠されています。その中で毎日のように北朝鮮の船が漂着しているという状態です。おそらく前にニュースで書いた「漁民以上、工作員以下」の人間も何人かは既に上陸していると思われます。事態の進展によっては昨年から行っている「『その後』プロジェクト」の議論のようなことが起きて収拾できなくなる可能性もあります。
 お役所に任せてもおけないのでまずは情報の共有のため、今後も着岸・漂流に関する情報はできるだけ収拾・公開していきたいと思います。マスコミ一般を問わず各地でそのような情報をお持ちの方はぜひお知らせ下さい。また、この情報の拡散にもご協力よろしくお願いします。
<調査会・特定失踪者家族会役員の参加するイベント(一般公開の拉致問題に関係するもの)・メディア出演・寄稿・特定失踪者問題に関する報道(突発事案などで、変更される可能性もあります)等> ※事前申込み・参加費等についてはお問い合わせ先にご連絡下さい。
・2月17日(土)14:30 拉致問題を考える国民の集いin大阪(政府拉致問題対策本部・大阪府・大阪市・府内全市町村主催) ・会場 KKRホテル大阪(大阪市中央区馬場町2-24 森ノ宮駅徒歩10分) ・調査会村尾副代表が参加 ・問合せ 大阪市人権企画課(06-6208-7619) ※事前申込みが必要です。
・3月2日(金)18:30 「その後」を考える集い4 in 石川(特定失踪者問題調査会・救う会石川主催) ・会場 野々市市交遊舎(ののいちし・こうゆうしゃ 野々市市二日市1-2 JR野々市駅北口隣接 北陸自動車道金沢西インターより5分 076-294‐8166)ß ・荒木代表他調査会役員・加藤博「『その後』プロジェクト」特別顧問らが参加 --------- 《平成29年以降の北朝鮮船・船体の一部・遺体の着岸・漂流》H30/2/11現在
1月1日 新潟県糸魚川市筒石 木造船の一部  6日 新潟県上越市柿崎区 木造船1隻  7日 福井県小浜市犬熊 木造船1隻 2月7日 島根県隠岐郡隠岐の島町神尾 木造船1隻  11日 石川県金沢市 木造船1隻  15日 京都府京丹後市間人 木造船1隻  15日 京都府舞鶴市瀬崎海岸 木造船1隻 3月8日 島根県隠岐郡隠岐の島町油井 木造船1隻  14日 石川県輪島市門前町 木造船の一部  18日 石川県羽咋郡宝達志水町 木造船1隻  22日 石川県羽咋市寺家町 木造船1隻  28日 京都府京丹後市 木造船1隻 4月28日 秋田県男鹿市入道崎灯台付近 木造船1隻・遺体1体 5月1日 北海道函館市函館港 木造船の一部  2日 新潟県佐渡市石名地区 木造船1隻 6月1日 新潟県佐渡市鷲崎地内 木造船1隻  26日 兵庫県香住町余部海沖 木造船1隻(「0제16749」と記載 遺体1体(男性・身長約168センチ) 7月31日 島根県隠岐郡隠岐の島町福浦 木造船の一部 8月9日 島根県隠岐郡西ノ島町三度埼 木造船1隻 9月6日 青森県西津軽郡深浦町大間越 木造船1隻  25日 北海道室蘭市東町 木造船の一部 11月7日 新潟県佐渡市羽茂三瀬地区 木造船(長さ13.7メートル)1隻 船体にハングル表記  15日 秋田県西400キロ沖(大和堆北方EEZ外)転覆した木造船 3名救助  16日 秋田県西沖(大和堆)木造船 遺体4体  16日 秋田県にかほ市 木造船  19日 青森県北津軽郡中泊町小泊 木造船(長さ8.7メートル)1隻 船体にハングル表記  20日 青森県西津軽郡深浦町大間越 木造船(長さ12.6メートル)1隻 「913185」の数字記載。スクリューやエンジンが残っており周辺で救命胴衣6個発見  21日 山形県鶴岡市五十川八斗島南  木造船(長さ7メートル)1隻 船体にハングルや「89829」の数字が記載  23日 新潟県佐渡市南片辺 木造船1隻(長さ約10メートル)1隻 船体にハングルが記載  23日 秋田県由利本荘市マリーナ 木造船(長さ20メートル)1隻 プレートにハングルで「チョンジン」と記載。生存者8名 内2名が近くの民家に行ってインターフォンを鳴らしたことで上陸が分かる(従って検疫を受けずに上陸した9。証拠品である船はマリーナに係留していたが県警が見失い、後に破片の一部を回収。  24日 秋田県男鹿市宮沢 木造船(長さ7メートル 船首付近に「556-60756」と記載)1隻 白骨化した遺体8体 北朝鮮製たばこ等  25日 新潟県佐渡市藻浦崎 木造船1隻・遺体1体  26日 北海道松前郡松前町小浜 木造船の一部(船首部分長さ4メートル 黒く塗られ数字のようなもの記載)  26日 青森県西津軽郡深浦町 木造船1隻(船首部分に「2093」の数字が記載)  27日 石川県羽咋郡志賀町西海 木造船の一部  27日 石川県羽咋市 木造船1隻  27日 青森県西津軽郡深浦町 木造船(船首に赤い文字で「2093」と記載)1隻  27日 石川県珠洲市三崎町小泊沖 漂流船1隻(長さ12メートル幅2.5メートル 船内に「264軍部隊 軍船」と記載された紙片)  28日 青森県下北郡佐井村 木造船1隻 サイズ24センチ男物革靴(ヒールの高いシークレットブーツ様のもの)と英文の書かれたジャケット  28日 北海道松前郡松前町松前小島 木造船1隻(長さ約10メートル 「朝鮮人民軍第854部隊」との記載)・生存者10名  28日 山形県鶴岡市鼠ヶ関沖 木造船1隻・遺体3体(うち2体の衣服に金日成バッジ) 12月2日鶴岡市温見漂着、12月4日遺体漂着  28日 石川県輪島市舳倉島沖 漂流船2隻 11月30日乗組員21名が北朝鮮僚船に救助される 12月1日 青森県西津軽郡深浦町森山海岸 木造船1隻  1日 新潟県佐渡市両津湾 木造船1隻  2日 新潟県佐渡市小木江積海岸 木造船1隻(長さ約9.5メートル)・遺体2体  2日 秋田県山本郡八峰町八森岩館付近海岸 木造船1隻(ハングルの書かれたバケツ)・遺体1体  4日 新潟県柏崎市西山町石地付近 木造船の一部  4日 新潟県長岡市寺泊大和田 木造船1隻  4日 新潟県新潟市西蒲区角田浜沖 木造船1隻  4日 山形県鶴岡市温見米子漁港沖 遺体3体  4日 秋田県にかほ市海水浴場 木造船の一部(ハングルの書かれたバケツ、缶詰)・遺体1体  4日 青森県西津軽郡深浦町 木造船1隻・遺体2体  5日 新潟県佐渡市高千漁港 木造船1隻  5日 新潟県新潟市 木造船漂流(ブロックに衝突し大破)・遺体2体  6日 青森県西津軽郡深浦町入良川河口付近 木造船(「915430」と記載)1隻  7日 秋田県男鹿市五里合 木造船(「913300」と記載)1隻・遺体2体  7日 秋田県山本郡三種町 木造船1隻(ハングル表記のライフジャケット)  7日 新潟県佐渡市北狄(きたえびす)地区海岸 木造船1隻  7日 新潟県佐渡市両津湾内 木造船1隻  7日 福井県坂井市三国町サンセットビーチ 木造船の一部  8日 石川県珠洲市長橋町 木造船の一部  9日 石川県珠洲市笹波町 遺体1体(一部白骨化し性別不明 死語数か月 セーター、シャツ着用  9日 新潟県村上市府屋海岸 木造船1隻  9日 新潟県佐渡市岩谷口海岸 遺体1体  10日 山形県鶴岡市堅苔沢海岸 遺体1体  10日 新潟県佐渡市石名沖 木造船1隻  12日 新潟県柏崎市荒浜 木造船1隻・遺体2体遺体は白骨化しており、服や身の回りの物も無かった。船はその後産業廃棄物として処理。白骨化した遺体は火葬後、無縁仏として埋葬。  12日 新潟県村上市沖 木造船1隻  12日〜13日 石川県羽咋市 木造船の一部  13日 秋田県潟上市出戸浜海水浴場付近 木造船1隻・遺体2体  13日 秋田県男鹿市北浦入道崎 木造船1隻  13日 秋田県秋田市浜田 遺体1体  13日 新潟県村上市瀬波温泉海岸 木造船(「632-90452」と記載)1隻  13日 新潟県胎内市松浜海岸 木造船1隻  13日 青森県西津軽郡深浦町十二湖海浜公園 木造船(「912358」と記載)1隻  14日 秋田県秋田市雄物川河口近く 木造船2隻・遺体6体  14日 青森県深浦町白神浜 遺体1体 木造船の一部  14日 新潟県長岡市寺泊郷本海岸 木造船1隻・人骨5本  14日 新潟県佐渡市鵜ノ瀬鼻沖 木造船1隻  14日〜15日 石川県羽咋市志賀町 木造船の一部  15日 石川県金沢市金沢港沖に漂流船   16日 石川県羽咋市千里浜インター付近 木造船の一部  16日 青森県深浦町田野沢 木造船(「547-66205」と記載)1隻  17日 石川県珠洲市 木造船の一部   18日 新潟県佐渡市鷲崎沖 木造船1隻  19日 秋田県にかほ市飛字餅田海岸 木造船1隻・遺体2体  19日 石川県羽咋郡志賀町 漂流船(海保は発見できず)  20日 石川県羽咋郡志賀町 富来漁港(西海漁港) 漂着船1隻  21日 新潟県佐渡市関岬 木造船(長さ11.6メートル幅2.75メートル 船首にハングル表示)1隻  21日 新潟東港沖18キロ 木造船1隻  21日 新潟県粟島浦村釜谷 木造船の一部(縦1.5メートル横1.2メートル)  23日 石川県羽咋郡志賀町 木造船(長さ約8.4メートル幅約2.2メートル 15日に金沢港沖を漂流していた船と同じ番号が船体に記載)1隻  24日 新潟県新潟市 新潟港沖12キロ 木造船1隻(21日のものと同じ可能性あり)  24日 山形県鶴岡市油戸漁港付近 木造船の一部・周辺に遺体4体  24日 山形県酒田市浜中 遺体(星型マークがバックルに付いた布製ベルト)1体  25日 新潟県佐渡市羽茂大橋 木造船(長さ約8メートル、幅約2メートル)1隻  29日 鳥取県鳥取市気高町奥沢見海岸 遺体1体(ハングルが書かれたタグのついた黒い長袖ジャージと長袖Tシャツ、ズボン下着用。身長約170センチ、頭部はほぼ白骨化)  29日 新潟県新潟市西蒲区越前浜海岸 木造船の一部(長さ3メートル幅1.6メートル高さ1.43メートル 煙突あり) 平成30年(2018) 1月4日 秋田県山本郡三種町釜谷浜海水浴場 木造船の一部(長さ約8.1メートル幅約2メートル 船底及びスクリュー )  5日 石川県白山市沖 木造船(長さ約13メートル幅約3.5メートル 船首にハングル)1隻 その後不明  6日 秋田県由利本荘市松ヶ崎漁港 木造船の一部(長さ4メートル幅約2メートル 白地に赤の数字)  7日 京都府京丹後市網野町 木造船(長さ約10メートル幅約3メートル ハングルのような文字の書かれた板が付近に漂着)1隻  8日 新潟市西蒲区間瀬海岸 木造船(長さ約5メートル幅約1.5メートル)1隻  8日 秋田県男鹿市野石申川海岸 木造船の一部(長さ約7.7メートル幅約1.9メートル)  10日 金沢市下安原町安原海岸 遺体1体(年齢不詳顔などの一部が白骨化。黒色のジャンパーと青色のズボンを着町。身元や国籍の分かるものは身に着けていなかった) 木造船(遺体から15メートルの距離 長さ16メートル幅高さともに3メートル 船尾にプロペラ 船体にハングルや数字などの標記見つからず 船内から16日7遺体発見 船首付近に4人、真ん中あたりに3人が折り重なるように倒れていた。セーターやトレーナーを着ており目立った外傷はなかった。 金日成と金正日の並んだバッジ1個)1隻  21日 新潟県粟島八幡神社から200メートルの海岸 木造船の一部(船尾 長さ1.2メートル幅1.3メートルのコの字型 赤字でハングル2文字が書かれていた)  24日 石川県志賀町西海千ノ浦海岸 木造船(長さ8.15メートル幅1.9メートル高さ1メートル平底型 船体に白く614という番号記載 コールタールのようなもので塗装、傷み激しく長期間漂流したものと推定 近くに「10465료대」と書いた木片あり)  28日 石川県羽咋市新保町(志雄パーキングエリアの北約400メートル)木造船(長さ5.871メートル、幅1.87メートル 船体に黒い塗料。目立った損傷なし ハングルと「9-964」の記載)  30日 石川県志賀町大津、上野の境界近くの海岸 木造船の一部。不鮮明だが「3682370」と白い文字で船体に記載。 2月2日 石川県金沢港北西約64キロ沖 木造船。船体に文字や数字とみられる表記。  2日 秋田県由利本荘市出戸字浜山の海岸(西目漁港北東1キロ) 木造船の一部(長さ4.5メートル幅約2.7メートル 船体に赤い字で「556-60269」と記載  4日 秋田県由利本荘市親川河口付近 木造船の一部(長さ約5.4メートル幅約1.9メートル 赤い数字のような文字が記載)  7日 石川県輪島市名舟町海岸 木造船(長さ約5メートル幅約2メートル 「760-75200」と船体に記載)   9日 石川県かほく市白尾海岸 木造船1隻(船体に番号表記)  10日 石川県羽咋郡志賀町 木造船2隻(1隻は海士崎灯台北500メートル、長さ約12メートル幅約2メートル 船首部分に「505-64271」の番号記載があり1日に金沢港沖で発見された漂流船と思われる。もう1隻同灯台北約200メートル、長さ約5.4メートル幅1.5メートル 船尾破損 文字番号等記載なし) ---------- ・channelAJER(チャンネル アジャ)では代表荒木の担当する番組『救い、守り、創る』を送信しています。会員制ですが1回30分の番組の前半は無料で視聴していただけます。 http://ajer.jp
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gunosy-news · 4 years ago
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旅先から修羅場まで...みんなの野宿エピソードが面白すぎた
集計期間:2020年12月20日~12月22日 回答数:17115
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突然ですが、皆さんは「野宿」をしたことがありますか?
筆者は遠い昔、家族が寝静まった深夜に帰宅するも鍵を紛失しており、実家の敷地内で野宿をしたことがあります…
そこで今回は「やむを得ず野宿をした経験はある?」というテーマで調査してみました。
やむを得ず野宿をした経験はある?
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回答者17115名のうち、やむを得ず野宿をした経験が「ある」人は全体の約14.8%、「ない」人は約85.2%という結果でした。
ここからは、やむを得ず野宿をした皆さんから寄せられた貴重なエピソードを見ていきましょう。
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<旅先で>
・北海道でのツーリング中でガス欠して。
・夏の北海道で。その日は、夜の宿を予約しておらず、まぁ、銭湯にでも行こうと思っていたのですが、とても暖かく、夜風にあたりながら、そのまま。
・野宿と言ってよいかどうかわかりませんが、50年近く前の学生時代に北海道旅行した時、金がないので札幌駅前の芝生(?)で寝たことがあります。今はどうかわかりませんが、当時は問題なく過ごせました。ただ、熱くて寝苦しかったのを覚えています。
・高校卒業旅行で弾丸で和歌山へ車で出かけて宿をとっていなく、浜辺で寝た
・学生の頃、四国へ青春18切符を利用した旅行した際、予定の目的地に間に合わず、野宿する
・学生の頃、東北三大祭りの一つ「ねぶた祭り」を見に行ったら宿に空きがまったくなく、仕方なしに公園にたまたまあった土管の中で一晩過ごしたことがある。
・高尾山付近で山小屋で新聞紙を体に巻いて一夜を過ごしました。下山後駅前での食事が美味しかった事この上ありませんでした。
・1人旅の途中に散歩がてら徒歩で山の景色を楽しんだら迷子になり宿泊先に戻れず1晩と野宿するはめになった。
・山を越えて日本海へ!と友人と車で出掛けてみたが、道に迷い途中でガス欠寸前に。ガソリンスタンドが開くまで動かずにいようと朝まで待ちました。
・無計画な旅行で、夏場だったので、公園で朝を迎えた事がありましたよ!朝陽を浴びて、とても清々しい気持ちになりました。
・宿がなければ駅に止まればいいと思い旅行に出たが駅を24時に締め出され野宿した
<グローバル野宿>
・東南アジア旅行した時に、タイやインドで駅の中で野宿した
・グアムで初日ホテルとってなくて、しょうがなく
・海外にて予約していたはずのホテルに業者のミスで予約が入っておらず、折悪く周辺ホテルも満室で止むなく教会の敷地内に野宿した。今思いだしても、あれはないわ。。。
・イギリス旅行した時に、公園のベンチで一晩過ごしました。今よりズッと治安も良かった気がします。
・オーストラリアでメルボルンからエアーズロックまで車で行こうと思ったが日本の距離感が全く会わずに砂漠で野宿しました。満点の星空に感激しました。
・フィリピンでパナツボ火山に登った時に日が暮れてしまって火山灰の上に野宿
<天災や事故で大変でした>
・大震災の次の夜、知り合いも避難であてにならず、車移動の途中で道路脇で一夜を明かした
・東日本大震災のとき、避難先の小学校の屋上で一晩過ごしました。近くのコンビナートで火災があったため、迫りくる炎の中での野宿は翌日ヘリで救助されるまで生きた心地がしませんでした。
・昔、東北の峠越えの最中に雪で脱輪落下。明るくなるまで、車内で野宿。
・大雪ので道路が通行止めになって、コンビニの駐車場で野宿した。食べ物とトイレはコンビニで済ませて助かった。
・ドカ雪が降り家まで帰るに帰れず車中ですが野宿しました寒さと恐怖で寝るに寝れなかった
・台風で道路が通行止めになり仕方なく駅で寝たことがある
・真夏の海沿いで、渋滞にハマり、帰宅までの時間が見通しつかずに、仕方なく翌日の朝に帰るようにと思い、海沿いにあった灯台の駐車場で野宿。が、真夏、海ということもあったせいか、ヤブ蚊の餌食になった。車に入ってきた、数、21匹。主人ともども、無数、刺されまくった、、、最悪だった。
<家出>
・学生時代に家出して一晩野宿しました。冬ではなかったのでなんとか……。
・高校生の頃家出をして…田舎なので国道沿いの山奥で朝まで隠れてたことがある。
・中学生の頃家出して、泊まる所がなくトラックの荷台で野宿した事がある。
・野宿と言うか、車中泊だったんだけど。社会人になって間もない若かりしある日、仕事から帰って母親の作ったご飯を食べようとした瞬間、母親が「さっさと家を出ていけ」と言ったことに対し、仕事も上手くいっていなかったせいもあってカッとなり「今すぐ出ていったるよ!」とカバンだけ持って自家用車で行く宛もなく出ていき車中泊した。
・ガキの頃親と喧嘩して、うちを飛び出したのだが行くあてもなく河原の土手で一晩過ごした!
・両親と喧嘩して、お互い頭に血が上ってて、出てけって言われたから荷物とか大量に詰めて出ていったが、携帯は持っていくなと言われ誰にも連絡つかなくてしょうがないから近所の公園で一晩過ごした。
・10代の秋頃に友達と2人で家出中、行く所が無くなり寒くて風を凌ぐためにマンションのエントランスに入って野宿した事がある
・中学生の頃に家出をして、祖父の山に野宿した。夏場だったが寒く枯れ草を集めて暖を取り、火を焚いて蚊を追い払い、夜空の星を見上げていたらこの世界で自分は何でも出来るのだと思った。2日も経たないうちに、お腹が空いて帰り怒られた。
<ライブで興奮>
・ライブ終わり興奮しすぎて高速バス乗り過ごした
・つま恋の拓郎&かぐや姫のライブに前日から行き友人とここで寝るしか無いと暗闇の中寝た。朝起きたらすぐ横を走るトラックの音で起きびっくりした。道の端で寝ていた!
・19歳で好きなバンドのツアーで初めて千葉から名古屋まで行き、金銭面でもそうだけどホテルさえ手配していなくてバンドの人達の出待ちをして、電車も終電なくなり当時は改札からホームは閉鎖していたけど改札入る前の駅自体は閉鎖されていなかったから駅構内で野宿をしました
・他県のライブに行った際、終電を逃して友達とずっと公園で話していた。
<終電よ行かないで>
・電車で最終で寝込んで終点まで行きお金なく公園で野宿した
・終電を逃した時に限ってホテル満室のため、駅の待合室で1泊した。
・列車の旅をして終電乗る過ごして野宿した
・田舎のローカル線で21時頃の終電を逃して駅前の公園のベンチで朝6時頃の始発まで野宿
・終電で寝過ごして帰れなくなったときに横浜のランドマークタワーの下でダンボールにくるまって寝た
・残業で終電がなくなったが、職場からは追い出された。始発まで公園のベンチにいた。
・終電で寝過ごし、知らない駅で降ろされ、二人先の方でタクシーが出払い、待っていてもタクシーが来ず、駅から歩き出すも方向が判らず結局、駅から1時間強くらい歩いた河川に掛かる大きな橋の下に泊まることに・・・。翌朝起きると地元ではなく、隣の新潟県でした・・・。
<酔っ払い>
・酔っていて外で寝てしまった
・若い頃結果的に酔っ払って数回した事がある。
・野宿とは意味合いが違うけど酔って建物の軒下で寝たことが何回かある
・呑みに行き、終電で帰路に就いたが開発中の終着駅にて…ショッピングモールもホテルも建造中でタクシーすら通らずで
・飲みすぎて路上で寝てしまい荷物を全てなくしてしまい一晩屋外で過ごしたことがあります。翌朝知人に会うことができ、電車賃を借り帰ることが出来ました。
・大学生の時にお酒を飲んで終電を逃した。翌日1限からだったので大学の実験棟外階段で野宿をした。朝7時に部室棟��空き部室で寝たが2限も寝坊した。
・酔っ払って財布を見たら1000円しか無く周りに何も無くしばらく歩いて会社の最寄駅まで行き(定期が使えるので)風を凌げる所のベンチで始発まで寝た酷い二日酔いだった
・ありがちなのですが、飲み会で飲みすぎて、終電逃しタクシーで最寄り駅まで着いたのは、いいのですが、歩いて5分の自宅の方へは、��ぜか行かず、駅のバス亭の、ベンチへ、気がつけば朝日が昇っております。結果、一晩ベンチで野宿しました。因みに、私は、おんなです。
・飲み過ぎて今どこにいるのか分からなくなり、財布と眼鏡も盗られたのか落としたのか何処かで失くし、仕方がないので公園のベンチで朝まで寝ました。(8月で良かった)
・友達のアパートへ3人程で一晩お世話になるつもりが、酒を飲んだ後酒を飲まない自分の車でコンビニに買い物に出かけた後、締め出しにあった。本人曰く眠ってしまったらしいが…。仕方なく車の中で3人で一晩過ごした。今思うと夏だったから良かったけど、冬なら無理と思う環境だった。
<お金がない>
・大学生の時。金がなくて。仕方なく。夏だからできたし、若かったからね。おかげさまでお金のありがたみがよく分かりました。
・日雇いの仕事で一日の予定が、明日も予定が入って電車の金がないから仕方なく。
・乗り過ごし真冬に山梨県大月駅で終電で降りてホテルに泊まる金も無く、始発迄、寝たら凍死するかもと思うくらい寒い中で野宿した事が有る
・長距離バイクツーリング時に、昼食後うっかり財布を鞄ではなくポケットに入れてしまい、給油の時に財布を落としていることに気づき、やむを得ず野宿しました。
・コロナがはじまって仕事が無くなり職も住まいも無くして知人のお宅にお世話になるまでこの寒空に1週間野宿をした。こんなに困ってる国民がいるのに国は助けてくれない!もう一度給付金が出れば助かるのに…生まれ変わったら必ず国会議員になる!とつくづく思う。
・コロナで、家賃が払えなくなり、ミニミニに追い出されて野宿しました。
<鍵がない>
・帰るのが遅くなり鍵を持ってなかったので家の前で寝る羽目になった。
・家の鍵を会社のロッカーに忘れてしまった。
・家の鍵を無くし、携帯の電源が切れ、朝まで家近くをウロウロしたり、べんちに座ったり、夜が明けて実家に行きました。
・夜遅くまで飲んでいてタクシーで帰ったのですが、玄関前で鍵を家に忘れていることに気づき一緒に住んでいた彼女は寝てて起きなかった
<ガチ勢>
・寝袋はかならず持っていて何処でも寝られる体制にしている
・子供の頃はしょっちゅう。それこそ公園のベンチ、お寺の境内、コインランドーリ、夏場は、公園の噴水で体を洗ったこともある。
・しょっちゅうしてる
・昔ホームレスやったし
・寝るのは学校の階段下がいいよ
<修羅場>
・小さい頃、家のカギが閉まったままで中に入れず一晩犬小屋にいる犬にくっついて寝たことがある。父は出張、母親は違う男の人と一緒にいたみたいだった。シロがそばに居てくれた事を今も忘れない。
・母親が酒乱だった。夜中に酒を飲んで帰ってきて、寝ていた私を起こして「今すぐこの家から出ていけ」と着の身着のまま追い出された。その日は2月の氷点下まで気温が下がった午前1時半。追い出されたけど行くあてもなく(当時16才)仕方が無いから公園で夜を明かした。
・中学生のころ、父が自宅で酔っていた夜に日付が変わっても乱暴な音や暴力的な独り言が止まず怖かったので、勝手口から抜け出して明け方まで近所の公園の東屋にいました。屋根のある「家」があるありがたみをひしひしと感じました。
・家から締め出されて近くの公園で野宿しました。女です。まだ10代でした。信じられない。
・東京に上京した時に渋谷駅のハチ公前で寝ていたら寝ている間に財布を盗まれました。
・当時付き合ってた彼女に知らない場所に捨てられて真冬の中公園で野宿して死にかけた
・明け方に職務質問されました
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