#十二人の死にたい子どもたち
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Kotone Furukawa as Mitsue 12 Suicidal Teens 十二人の死にたい子どもたち (2019) dir. Yukihiko Tsutsumi
#kotone furukawa#古川琴音#12 Suicidal Teens#十二人の死にたい子どもたち#filmgifs#filmedit#japanese film#edit#gifs#gifsedit#dailywomen#jmovie
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十二人の死にたい子どもたちの(主につまらんという意見の)考察を見て思ったこと。
バチクソネタバレ
死にたい理由に大小なんてない
「そんなことで自殺するとか面白くない」
「簡単に心変わりしすぎ」
「結局何がしたかったの」という意見を見てかなしくなった。
この映画の何を見てたんだと言いたい。
それは結局自殺する気のない人間の意見であり、自殺を選ぶ当人にはそれなりの理由があるから自殺するんだ。
第三者からすれば大したことなかったり、そうは思えない人間こそ突然自殺するもんだ。
その悩みが吐き出せなかったり、共感してもらえないと感じるから自殺するんだ。
いのちだいじに!きっとかなしむひとがいるよ!って空虚に語りかけるよりはよっぽどこういうものの方が悩んでる人の心に映るんじゃないかとも思う。
それがその人の未来を変えるにしろ、後押しするにしろ。
実際にフィクションとはいえ12人は熱量に個人差はあれど一旦は生きる道を選んでいる。それでいいじゃん。
すごい面白かったかと言われれば決してそうでもないし、他人にわざわざ勧める映画でもなかったけど、映画の製作自体は決して無駄じゃなかったと思うし、そう思える価値観の自分でいられて良かったと思う。
あとハシカンはすっごくかわいい。
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“飼い主のなかには、ペットロスから立ち直れないという心の弱い人もいます。私はそういう方には「次を飼ってくださいね」と言っています。
命は、文化は、私たちの生き方は、次の時代に伝わらなければなりません。伝わっていくからこそ、人間の生活は、人間の文化は光り輝いていきます。
一匹目の犬を飼います。やがて亡くなります。二匹目を飼います。すると、一匹目の犬が与えてくれたものが、二匹目の生活の中にどんどん表われてくるのです。そして、次の犬との生活を、より豊かにしていくのです。それが生きることなのです。
ですから、「もう二度と犬を飼いたくない」などとは言わずに、ぜひとも次を飼ってください。可能なら、前の犬が衰えをはじめた頃に新しい子犬を連れてくるのがいいと思います。歳をとった犬が若い犬のしつけをしてくれるからです。これは人間がおこなうしつけよりも、ずっといいのです。私は、しつけに困っている人がいると「お宅には歳をとった犬がいないでしょう。大人の犬がいないでしょう」と、よく申しあげます。賢い老犬は、若い犬をかわいがりながら、「こうしちゃいけないよ」「こうしなさい」ということを教えていくのです。トイレのしつけなど、人間が苦労することはないのです。老犬にまかせておけば、難なくやってくれます。ほかの犬と仲よくする方法も、賢い犬がいればすぐに若い犬は覚えてしまいます。
もうひとつ、若い犬は老いた犬を長生きさせてくれる��です。若い子がくると老犬の心が波立ちます。それまで感じなかったやきもちを焼いてみたり、おねだりをしたりと、若返るのです。そういうときは心拍数や血圧も正常値に戻りつつあったりします。これはすばらしいことだと思います。
私は老いたときに咲く花のひとつを与えてやりたいのです。人も70歳、80歳になると自分の老いを感じるようになります。そんなときに孫が来てくれるとうれしいものです。心に花が咲きます。そうすると、健康状態もよくなります。老いた犬にも、そういう経験をさせてあげたいのです。それをまた、次に来た犬が継承して、死を自然のものとして受けとめられるようになるのです。”
-畑 正憲
以前に読んだムツゴロウさんこと故・畑正憲さんの著書にあったこんな一説がずっと記憶に残っていて、ハグが老犬になったら新しいイヌを迎えようと心に決めていました。
それともうひとつ、母性本能がとても強いハグに子供を産ませてあげることは出来なかったけれど、いつか仔犬を育てる経験だけでもさせてあげたいなぁとつねづね思っていたのです。
本当はハグが10歳前後の頃にそんな生活を実現するつもりでしたが、2年に渡るハグの左右両方の後脚前十字靭帯断裂の手術/治療やコロナ禍などがちょうどその時期に重なってしまい、想定よりも数年遅れてようやく仔犬のニコを我が家に迎えることが叶いました。
そしてムツゴロウさんの言葉どおり、ハグは新生活のなかにあらたな生きがいや新鮮な刺激を見い出し、ニコはハグから多くを学び、心身ともに健やかに成長しています。幼くて活発すぎるニコと老いて激しい動きがままならないハグとは、身体を使って遊ぶことこそなかなか難しいものの、とても良い関係を築けているように見えます😊🐶🐶❤️
https://m.youtube.com/watch?v=S4jaH65mzC4
#photography#dog portrait#my dog hug#my dog nico#puppy#jack russell terrier#love song#Marilyn Scott#畑正憲
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【2話】 はじめてLSDをやったときのレポ 【さいばーひっぴーができるまで】
僕と友人の“しのはる”は、LSDがどういう効果をもたらすのか特に分かっていなかったが、お気に入りのプッシャーからLSDを引いてみて、早速試してみることにした。
僕らは馴染みの公園に行き、緊張の中LSDを摂取したのだが、初めてのLSDは量が少なかったのか、高揚感や感情の増大などの効果はあったものの、幻覚を見るまでには至らなかった。
ただそれでも、ファミレスで2時間ほど互いに絵を描くことに没頭して奇妙な絵を描いたり、途中で雨が降ってきたのに雨を浴びるのが気持ちいいからと傘もささずに笑顔でびしょ濡れになったりしていて、初めてのLSDは十分愉快で興味深い思い出ではあった。
―――僕らはそれからもLSDを引いて、数回ほど、1ヒット分(100μg分)のLSDの体験をしていたのだが、LSDトリップの醍醐味を味わうことができた体験は、初めてのLSD体験から約��年後のことであった。
このときは、しのはると大学時代の友人でLSD初体験の“イシカワ”を呼び、3人で公園に行って、LSDを摂取した。またこのときは、Twitter上で“地下薬局”と名乗るプッシャーから引いてきた、角砂糖に垂らされたLSDを摂ったのだが、今までのLSDの2倍ほどの効果を感じられるものだった。
摂取してから1時間ほど待つと、視界はシラフのときより俄然明るく、輝かしく見えていて、芝生の緑や空の青々しさ、駆け回る少年の頬の赤らみなどが強調されていたし、なんの変哲もないただの公園なのに、あらゆる対象物に新奇性を覚えるほど、童心に帰ったような感覚で物事を見られるようになっていた。
僕は長らく、地べたにあぐらをかいて座り、公園の池の水面に浮かんだ油膜(それは鮮やかな虹色に発光するマーブル模様に見えている)を恍惚と眺めていた。すると、飛んできた鴨がその池の上に着水したのだが、不思議なことに、その様子はスローモーションがかかったように見え、翼の動きの一つ一つを鮮明に捉えることができた。
鴨は池の上を優雅に遊泳し始め、その油膜の上を通る。鴨の後方に次々と生まれる水面に広がる波紋の一つ一つが、極彩色に煌めくマーブル模様を帯びて、ゆっくりと広がっていく……。
そしてふと、「このサイケデリックな感覚のまま大麻を吸えば、もっと高みにイけるのではないか」と思い立たった。僕は2人に声をかけると、景気良く極太ブラントを作って、3人でそれをまわすことにした。
手始めにひと吸いすると、それだけで視界の奥行き感がなくなり、平坦な2次元動画のように見えてきた。さらに、外界の全ての動きがスローになり、鳥のさえずりや車の走行音などの環境音にはエコーがかかっているように聞こえ始めた。
この時点で、すでに現実の現実感がなくなったように感じていて、「今回こそ戻れないほどやりすぎてしまった」とかなり切迫していたのだが、もうどうにでもなれという気持ちで、それからも二巡三巡とまわってくるブラントを吸い続けた。
公園に生えている木の幹は、呼吸をしているように内側に収縮したり外側に拡張したりしていて、木々が呼吸しているように思えた。さらに深く吸うと、規則性を持って複雑に変化する半透明の幾何学模様が視界全体に現れ、その半透明の幾何学模様越しに、呼吸をしている木々が見えていた。地面は海のように波打って動いているように見え、その波打ちの残像まで見えていて、波打つ地面は遠くなるに連れて微妙に反り返っている。
視覚だけではない。思考は次から次へと矢継ぎ早に連想されながら流れていて、その矢継ぎ早に流れている思考とは別に、バックグラウンド再生のように同時に矢継ぎ早に流れる思考があった。そのため、思考を一つに絞って処理するのが難しく、思考を口に出そうとしても、思考の速さに口の動きが追いつかなくなっていた。
しかも短期記憶がほとんどなくなっていて、ついさっき浮かんだ思考が思い出せなくなっていたので、なんとか紡いだ言葉を口に出しても、言葉を口にした時点で何を喋ろうとしていたか思い出せなくなっていた。
そんなこんなで、やっとのことで極太ブラントを吸い切ると、ついには“目の前の光景を細部まではっきりと見ることができているのに、見ているものがなんなのか認識できない”という状態になった。
その刹那、「もう戻れないのではないか?」という考えがよぎってしまい、その考えを元に高速で恐怖の連想ゲームが始まった。絶望感で声が出せなくなった。
しのはるも僕と同様に、声を出せないか、声を出せても支離滅裂なことしか発せられていなかったので、僕はパニック状態になりつつも、“彼も同じように狂人になっている”と悟って、少し安心した。
ところが、イシカワは平然とした口調で、「お腹すいた。寿司でも食う?」などと呑気なことを言っていた。僕としのはるは、当然まともに言語を話せる状態ではなかったので、顔を見合わせ、テレパシーを使って「こいつとは次元が違う」などと会話をした(LSDの統合失調症様の効果で、相手の思考が読み取れて自分の思考が伝わっていると思い込んでいただけではあるが)。
僕はイシカワに対して、「こんなキチガイが公園の外に出ていいわけがないし、食事するにしてもナマものは気持ち悪いから論外」などと伝えたかったのだが、イシカワも僕としのはるの異常な様子に少し脅えた表情をしているように見えたので、「一旦…それぞれ一人になって…みない?」などと必死に言葉を紡いで喋ると、しのはるはよくぞ言ってくれたという表情で「そうしよう」とだけ言って、そそくさと離れて行った。
イシカワはわけがわからないようで困惑していたが、僕も最後の力を振り絞って、「ごめん、もう…幻覚が凄くて…」などと言って、イシカワから離れた場所に歩いて行き、平たい地面の上に座り込んだ。
地面に座り込むと、現実の瑣末な事象から解放され、一気に幻覚ワールドに引き込まれる感覚があった。僕はどういうわけか、その感覚に集中できることに安心感を覚えていた。
座り込んだまま上空を見上げると、網目の中一つ一つに目玉があるドーム状の蜘蛛の巣が空の全体を覆っているように見えていた。
僕はその幻覚に圧倒されて、後ろにぶっ倒れるようにして仰向けに横たわった。仰向けになると、その幻覚は次第に色濃く迫力を増し、完全に周囲を覆っていった。
次第に、その幻覚は、視界に映っているだけという認識ではなくなっていって、“むしろ実際の現実の光景より現実っぽく思える”という、摩訶不思議な感覚になっていった。
どう考えても“まともでない側の人間”に、僕がその“当事者”になってしまったという事実に、僕は極度のスリルを感じたが、その感情と同時に、目を瞑ったらより深い幻覚ワールドに没入できるという期待もあったので、僕はゆっくりと目を瞑り、LSDに身を預けることにした。
―――僕は奇妙なフラクタル構造の幾何学模様に360度覆われた空間にいた。その幾何学模様は僕の脳に保存されている記憶とは全く関連がないような、まるで見たこともなく、この世のものとは思えないパターン・構造・配色に次々と変化をしていき、それは無限に変化していく……。
僕はいつの間にか身体感覚を認識できなくなっていて、現実世界とは切り離された、魂の空間とでもいうような世界に入っていき、現実の事象―ここがどこで、僕は誰で、今は何時で、何を摂取してこんなことになっているのか―などが、まるでわからなくなっていた。
ここから記憶は曖昧だが、気づくと、先の見えない遥か上空まで続いている高い塔に沿って、魂だけの自分が上空に向かって凄いスピードで進んでいた。上空に進めば進むほど、現実世界がどんどん遠のいていくような感じがして、これはとても言葉では言い表せないほどに爽快だった。
すると、スピードは次第に弱まり、フリーフォールのように猛スピードで落下していった。面白いことに、落下するごとに徐々に現実の事象が思い出されてきて、地面に直撃する寸前で身体感覚や現実の記憶を取り戻した。
と、思ったら、自分の過去をプレイバックするように高速で時間の巻き戻しが始まり、一人称視点で、学生時代から少年期、さらに覚えているはずのない幼少期から乳児期まで遡り、母親の胎内へ入っていった。
すると途中で、逆再生は止まり、今度は未来方向に向かって、高速で早送りされる映像が始まった。再び一人称視点で、誕生から今生きている時間まで進んでいったが、さらに現在を通過して、数分後の未来から自分が老いて死ぬまでの主観映像を見た。不思議なことに、これらの各瞬間は主観的に現実感があり、“今”の事象として認識されていた。
それから自分が死んだ後も、映像の早送りは続き、さらにその先の自分の死後の世界の映像を少し見させられ、また逆再生が始まった。そして未来の死の状態から生の状態に、さらに巻き戻って、現在の時間に戻った瞬間、急に意識がはっきりし、僕はその勢いで目を開けて上体を起こした。辺りを確認すると、少し離れた場所にいたしのはるも、ちょうど上体を起こしてこちらを見ていた。
今でこそサイケデリック体験についてある程度理解はできているけど、当時はこの体験がなんのことかまるでわからず、SFやファンタジーのよう��摩訶不思議な世界に放り込まれたような気持ちだった。
しのはるも僕と同じように神秘体験をしていたようで、僕らは興奮しながら、ただ顔を合わせ、互いに言葉にできない想像を絶する体験をしたことを感覚的に共有した。
その後、僕らはとりあえず作戦会議をしようという話になり、ガストに行くことにした。言葉にするのはとても難しかったけど、どうにかお互い自分の体験を言葉にした上で、「LSDによる神秘体験を幼馴染と共有できていることの奇跡」などについて、恥ずかしげもなく語り合った。
また、僕たちはこの体験を通して、「死とは自分にも訪れるものなのだ」という本来当然の事実を、自分の肉体をもって理解することができたと感じていた。漠然と抽象的に、他人事としてイメージしていた“死”という概念の実態を掴めた気になって、死に対する恐怖心が薄れている感覚があった。
それと同時に、「今までいかに自分の人生に当事者としての自覚を持たずに、世間に合わせて流されるままに生きてしまったのだろう」とか、「どうせ死ぬのになぜお行儀よくしていたのだろう」というような後悔の念を強く抱いた。
そうして一通り話を終えた頃には、LSDの効果が下がっていて、サイケデリックな感覚は失われていってきていた。ただしかし、シラフに戻れば大丈夫という話ではなかった。臨死体験と括るだけでは物足りない神秘体験をしたということは、今後の一生を大きく変えるターニングポイントであり、一生忘れることのない体験なのだと思った。
そういえばよく覚えていないけど、トリップ中に体験��ていた“自分が死ぬまでのヴィジョン”は、このままの人格や生活環境であると、面白みのない人生を送って寂しく死んでいくという印象の体験だった。
ところで、イシカワはというと、そもそも僕としのはるほど大麻を吸っていなかったらしく、それによってトリップの深度の差ができていたようだった。とはいえ、イシカワも十分トランス状態ではあったので、僕としのはるが仰向けになってブッとび出したあたりで、その状況が猛烈に恐ろしくなったらしく、ひとりで電車に乗って、人混みに怯えながらどうにか帰ったらしい。
後日、イシカワにはちゃんとワケを話して、「ブッとびすぎててごめん」などと言って謝った。ただでさえイシカワは初体験なのだから、さぞかし怖かったんだろうなあと思う。
・
つづく(この物語は雑誌「さいばーひっぴー」の「さいばーひっぴーができるまで」に載っている内容とほぼ同じものです)
・
この物語はフィクションです。また、あらゆる薬物犯罪の防止・軽減を目的としています( ΦωΦ )
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汚辱の日々 さぶ
1.無残
日夕点呼を告げるラッパが、夜のしじまを破って営庭に鳴り響いた。
「点呼! 点呼! 点呼!」
週番下士官の張りのある声が静まりかえった廊下に流れると、各内務班から次々に点呼番号を称える力に満ちた男達の声が騒然と漠き起こった。
「敬礼ッ」
私の内務班にも週番士官が週番下士官を従えて廻って来て、いつもの点呼が型通りに無事に終った。辻村班長は、これも毎夜の通り
「点呼終り。古兵以上解散。初年兵はそのまま、班付上等兵の教育をうけよ。」
きまりきった台詞を、そそくさと言い棄てて、さっさと出ていってしまった。
班付上等兵の教育とは、言い換えれば「初年兵のビンタ教育」その日の初年兵の立居振舞いのすべてが先輩達によって棚卸しされ、採点・評価されて、その総決算がまとめて行われるのである。私的制裁をやると暴行罪が成立し、禁止はされていたものの、それはあくまで表面上でのこと、古兵達は全員残って、これから始まる凄惨で、滑稽で、見るも無残なショーの開幕を、今や遅しと待ち構えているのであった。
初年兵にとつては、一日のうちで最も嫌な時間がこれから始まる。昼間の訓練・演習の方が、まだしもつかの間の息抜きが出来た。
戦闘教練で散開し、隣の戦友ともかなりの距離をへだてて、叢に身を伏せた時、その草いきれは、かつて、学び舎の裏の林で、青春を謳歌して共に逍遙歌を歌い、��る時は「愛」について、或る時は「人生」について、共に語り共に論じあったあの友、この友の面影を一瞬想い出させたし、また、土の温もりは、これで母なる大地、戎衣を通じて肌身にほのぼのと人間的な情感をしみ渡らせるのであった。
だが、夜の初年兵教育の場合は、寸刻の息を抜く間も許されなかった。皓々(こうこう)とした電灯の下、前後左右、何かに飢えた野獣の狂気を想わせる古兵達の鋭い視線が十重二十重にはりめぐらされている。それだけでも、恐怖と緊張感に身も心も硬直し、小刻みにぶるぶる震えがくるのだったが、やがて、裂帛(れっぱく)の気合
怒声、罵声がいり乱れるうちに、初年兵達は立ち竦み、動転し、真ッ赤に逆上し、正常な神経が次第々に侵され擦り切れていった。
その過程を眺めている古兵達は誰しも、婆婆のどの映画館でも劇場でも観ることの出来ない、スリルとサスペンスに満ち溢れ、怪しい雰囲気につつまれた素晴しい幻想的なドラマでも見ているような錯覚に陥るのであった。幻想ではない。ここでは現実なのだ。現実に男達の熱気が火花となって飛び交い炸裂したのである。
なんともやりきれなかった。でも耐え難い恥辱と死につながるかもしれない肉体的苦痛を覚悟しない限り抜け出せないのである。ここを、この軍隊と云う名の檻を。それがあの頃の心身共に育った若者達に課せられた共通の宿命であった。
この日は軍人勅諭の奉唱から始まった。
「我ガ国ノ軍隊ハ代々天皇ノ統率シ賜ウトコロニゾアル……」
私は勅諭の奉唱を仏教の読経、丁度そんなものだと思っていた。精神が忘れ去られ、形骸だけが空しく機械的に称えられている。又虐げられた人々の怨念がこもった暗く重く澱んだ呻き、それが地鳴りのように聞こえてくるそんな風にも感じていた。
勅諭の奉唱が一区切りついたところで、一人の古兵が教育係の上等兵に何か耳うちした。頷いた上等兵は、
「岩崎、班長殿がお呼びだ。すぐ行けッ」
全員の目が私に集中している。少くとも私は痛い程そう感じた。身上調査のあったあの日以来、私は度々辻村机長から呼び出しをうけた。あいつ、どうなってんだろ。あいつ班長殿にうまく、ゴマすってるんじゃないか。あいつ、俺達のことを、あることないこと、班長殿の気に入るように密告してるんじゃないか。同年兵も古兵達も、皆がそんな風に思っているに違いない。私は頑なにそう思い込んでいた。
つらかった。肩身が狭かった。
もともと私は、��年兵達とも古兵達とも、うまくいっていなかった。自分では余り意識しないのだが、私はいつも育ちや学歴を鼻にかけているように周囲から見られていたようである。運動神経が鈍く、腕力や持久力がからっきし駄目、することなすことがヘマばかり、ドジの連続の弱兵のくせに、その態度がデカく気障(きざ)っぽく嫌味で鼻持ちがならない。そう思われているようだった。
夏目漱石の「坊ちゃん」は親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしていたと云うが、私は生まれつき人みしりのする損なたちだった。何かの拍子にいったん好きになると、その人が善人であれ悪人であれ、とことん惚れ込んでしまうのに、イケ好かない奴と思うともう鼻も引つかけない。気軽に他人に話しかけることが出来ないし、話しかけられても、つい木で鼻をくくったような返事しかしない。こんなことではいけないと、いつも自分で自分を戒めているのだが、こうなってしまうのが常である。こんなことでは、同年兵にも古兵にも、白い眼で見られるのは至極当然内務班でも孤独の影がいつも私について廻っていた。
あいつ、これから始まる雨霰(あめあられ)のビンタを、うまく免れよって――同年兵達は羨望のまなざしを、あいつ、班長室から戻って来たら、ただではおかないぞ、あの高慢ちきで可愛いげのないツラが変形するまで、徹底的にぶちのめしてやるから――古兵達は憎々しげなまなざしを、私の背に向って浴せかけているような気がして、私は逃げるようにその場を去り辻村班長の個室に急いだ。
2.玩弄
部屋の前で私は軽くノックした。普通なら「岩崎二等兵、入りますッ」と怒鳴らねばならないところだが、この前、呼び出しをうけた時に、特にノックでいいと辻村班長から申し渡されていたのである。
「おう、入れ」
低いドスのきいた返事があった。
扉を閉めると私はいったん直立不動の姿勢をとり、脊筋をぴんとのばしたまま、上体を前に傾け、しゃちこばった敬礼をした。
辻村班長は寝台の上に、右手で頭を支えて寝そべりながら、じっと私を、上から下まで射すくめるように見据えていたが、立ち上がって、毛布の上に、どっかとあぐらをかき襦袢を脱ぎすてると、
「肩がこる、肩を揉め」
傲然と私に命じた。
私も寝台に上がり、班長の後に廻って慣れぬ手つきで揉み始めた。
程よく日焼けして艶やかで力が漲っている肩や腕の筋肉、それに黒々とした腋の下の毛のあたりから、男の匂いがむっと噴き出てくるようだ。同じ男でありながら、私の身体では、これ程官能的で強烈な匂いは生まれてこないだろう。私のは、まだまだ乳臭く、淡く、弱く、男の匂いと云うには程遠いものであろう。肩や腕を、ぎこちない手つきで揉みながら、私はふっと鼻を彼の短い頭髪やうなじや腋に近づけ、深々とこの男の乾いた体臭を吸い込むのだった。
「おい、もう大分、慣れて来たか、軍隊に」
「……」
「つらいか?」
「いエ……はァ」
「どっちだ、言ってみろ」
「……」
「つらいと言え、つらいと。はっきり、男らしく。」
「……」
「貴様みたいな、娑婆で、ぬくぬくと育った女のくさったようなやつ、俺は徹底的に鍛えてやるからな……何だ、その手つき……もっと、力を入れて……マジメにやれ、マジメに……」
辻村班長は、岩崎家のぼんぼんであり、最高学府を出た青白きインテリである私に、マッサージをやらせながら、ありったけの悪態雑言を浴びせることを心から楽しんでいる様子であった。
ごろりと横になり、私に軍袴を脱がさせ、今度は毛深い足や太股を揉みほぐし、足の裏を指圧するように命じた。
乱れた越中褌のはしから、密生した剛毛と徐々に充血し始めた雄々しい男の肉茎が覗き生臭い股間の匂いが、一段と激しく私の性感をゆさぶり高ぶらせるのであった。
コツコツ、扉を叩く音がした。
「おお、入れ」
私の時と同じように辻村班長は横柄に応えた。今時分、誰が。私は思わず揉む手を止めて、その方に目を向けた。
入って来たのは――上等兵に姿かたちは変ってはいるが――あっ、辰ちゃんではないか。まぎれもなく、それは一丁目の自転車屋の辰ちゃんなのだ。
私の家は榎町二丁目の豪邸。二丁目の南、一丁目の小さな水落自転車店、そこの息子の辰三は、私が小学校の頃、同じ学年、同じクラスだった。一丁目と二丁目の境、その四つ角に「つじむら」と云ううどん・そば・丼ぶり物の店があり、そこの息子が今の辻村班長なのである。
私は大学に進学した関係で、徴兵検査は卒業まで猶予されたのであるが、彼―― 水落辰三は法律通り満二十才で徴兵検査をうけ、その年か翌年に入隊したのだろう。既に襟章の星の数は私より多く、軍隊の垢も、すっかり身についてしまっている様子である。
辰ちゃんは幼い時から、私に言わせれば、のっぺりした顔だちで、私の好みではなかったが、人によっては或いは好男子と言う者もあるかもしれない。どちらかと言えば小柄で小太り、小学校の頃から既にませていて小賢しく、「小利口」と云う言葉が、そのままぴったりの感じであった。当時のガキ大将・辻村に巧みに��り入って、そのお気に入りとして幅をきかしていた。私が中学に入って、漢文で「巧言令色スクナシ仁」と云う言葉を教わった時に「最���先に頭に想い浮かべたのはこの辰ちゃんのことだった。ずる賢い奴と云う辰ちゃんに対する最初の印象で、私は殆んどこの辰ちゃんと遊んだ記憶も、口をきいた記憶もなかったが、顔だけは、まだ頭の一隅に鮮明に残っていた。
辻村班長は私の方に向って、顎をしゃくり上げ、辰ちゃん、いや、水落上等兵に、「誰か分かるか。」
意味あり気に、にやっと笑いながら尋ねた
「うん」
水落上等兵は卑しい笑みを歪めた口もとに浮かべて頷いた。
「岩崎、裸になれ。裸になって、貴様のチンポ、水落に見てもらえ。」
頭に血が昇った。顔の赤らむのが自分でも分った。でも抵抗してみたところで、それが何になろう。それに恥ずかしさに対して私は入隊以来もうかなり不感症になっていた。部屋の片隅で、私は手早く身につけていた一切合切の衣類を脱いで、生まれたままの姿にかえった。
他人の眼の前に裸身を晒す、そう思うだけで、私の意志に反して、私の陰茎はもう「休メ」の姿勢から「気ヲ付ケ」の姿勢に変り始めていた。
今日は辻村班長の他に、もう一人水落上等兵が居る。最初から突っ張ったものを披露するのは、やはり如何にもきまりが悪かった。しかも水落上等兵は、私が小学校で級長をしていた時の同級生なのである。
私の心の中の切なる願いも空しく、私のその部分は既に独白の行動を開始していた。私はどうしても私の言うことを聞かないヤンチャ坊主にほとほと手を焼いた。
堅い木製の長椅子に、辻村班長は越中褌だけの姿で、水落上等兵は襦袢・軍袴の姿で、並んで腰をおろし、旨そうに煙草をくゆらしていた。班長の手招きで二人の前に行くまでは、私は両手で股間の突起を隠していたが、二人の真正面に立った時は、早速、隠し続ける訳にもいかず、両手を足の両側につけ、各個教練で教わった通りの直立不動の姿勢をとった。
「股を開け。両手を上げろ」
命ぜられるままに、無様な格好にならざるを得なかった。二人の視線を避けて、私は天井の一角を空ろに眺めていたが、私の胸の中はすっかり上気して、不安と、それとは全く正反対の甘い期待とで渦巻いていた。
二人は代る代る私の陰茎を手にとって、きつく握りしめたり、感じ易い部分を、ざらざらした掌で撫で廻したりしはじめた。
「痛ッ」
思わず腰を後にひくと、
「動くな、じっとしとれ」
低い威圧的な声が飛ぶ。私はその部分を前につき出し気味にして、二人の玩弄に任せると同時に、高まる快感に次第に酔いしれていった。
「廻れ右して、四つん這いになれ。ケツを高くするんだ。」
私の双丘は水落上等兵の手で押し拡げられた。二人のぎらぎらした眼が、あの谷間に注がれていることだろう。板張りの床についた私の両手両足は、時々けいれんをおこしたように、ぴくッぴくッと引き吊った。
「顔に似合わず、案外、毛深いなアこいつ」
水落上等兵の声だった。突然、睾丸と肛門の間や、肛門の周囲に鈍い熱気を感じた。と同時に、じりッじりッと毛が焼けて縮れるかすかな音が。そして毛の焦げる匂いが。二人は煙草の火で、私の菊花を覆っている黒い茂みを焼き払い出したに違いないのである。
「熱ッ!」
「動くな、動くとやけどするぞ」
辻村班長の威嚇するような声であった。ああ、目に見えないあのところ、今、どうなってるんだろう。どうなってしまうのだろう。冷汗が、脂汗が、いっぱいだらだら――私の神経はくたくたになってしまった。
3.烈情
「おい岩崎、今日はな、貴様にほんとの男ってものを見せてやっからな。よーく見とれ」
四つん這いから起きあがった私に、辻村班長は、ぶっきらぼうにそう言った。辻村班長が水落上等兵に目くばせすると、以心伝心、水落上等兵はさっさと着ているものを脱ぎ棄てた。裸で寝台の上に横になった水落上等兵は、恥ずかしげもなく足を上げてから、腹の上にあぐらを組むように折り曲げ、辻村班長のものを受入れ易い体位になって、じっと眼を閉じた。
彼白身のものは、指や口舌で何の刺戟も与えていないのに、既に驚くまでに凝固し若さと精力と漲る力をまぶしく輝かせていた。
「いくぞ」
今は褌もはずし、男一匹、裸一貫となった辻村班長は、猛りに猛り、水落上等兵を押し分けていった。
「ううッ」
顔をしかめ、引き吊らせて、水落上等兵は呻き、
「痛ッ……痛ッ……」と二言三言、小さな悲鳴をあげたが、大きく口をあけて息を吐き、全身の力を抜いた。彼の表情が平静になるのを待って、辻村班長はおもむろに動いた。大洋の巨大な波のうねりのように、大きく盛り上がっては沈み、沈んでは又大きく盛り上がる。永落上等兵の額には粒の汗が浮かんでいた。
凄まじい光景であった。凝視する私の視線を避けるように、流石の永落上等兵も眼を閉じて、烈しい苦痛と屈辱感から逃れようとしていた。
「岩崎、ここへ来て、ここをよーく見ろ」
言われるがままに、私はしゃがみこんで、局部に目を近づけた。
一心同体の男達がかもし出す熱気と、激しい息づかいの迫力に圧倒されて、私はただ茫然と、その場に崩れるようにすわりこんでしまった。
戦いは終った。戦いが烈しければ烈しい程それが終った後の空間と時間は、虚しく静かで空ろであった。
三人の肉体も心も燃え尽き、今は荒涼として、生臭い空気だけが、生きとし生ける男達の存在を証明していた。
男のいのちの噴火による恍惚感と、その陶酔から醒めると、私を除く二人は、急速にもとの辻村班長と水落上等兵に戻っていった。先程までのあの逞しい情欲と激動が、まるで嘘のようだった。汲(く)めども尽きぬ男のエネルギーの泉、そこでは早くも新しい精力が滾々(こんこん)と湧き出しているに��いなかった。
「見たか、岩崎。貴様も出来るように鍛えてやる。寝台に寝ろ。」
有無を言わせぬ強引さであった。
あの身上調査のあった日以来、私はちょくちょく、今夜のように、辻村班長の呼び出しをうけていたが、その度に、今日、彼が水落上等兵に対して行ったような交合を私に迫ったのである。しかし、これだけは、私は何としても耐えきれなかった。頭脳に響く激痛もさることながら、襲いくる排便感に我慢出来ず私は場所柄も、初年兵と云う階級上の立場も忘れて、暴れ、喚き、絶叫してしまうので、辻村班長は、ついぞ目的を遂げ得ないままであった。
その時のいまいましげな辻村班長の表情。何かのはずみでそれを想い出すと、それだけで、私は恐怖にわなないたのであるが、辻村班長は一向に諦めようとはせず、執念の劫火を燃やしては、その都度、無残な挫折を繰り返していたのである。
その夜、水落上等兵の肛門を責める様を私に見せたのは、所詮、責められる者の一つの手本を私に示す為であったかもしれない。
「ぐずぐずするな。早くしろ、早く」
ああ、今夜も。私は観念して寝台に上がり、あおむけに寝た。敷布や毛布には、先程のあの激突の余儘(よじん)が生温かく、水落上等兵の身体から滴り落ちた汗でじっとりと湿っていた。
私の腰の下に、枕が差し込まれ、両足を高々とあげさせられた。
「水落。こいつが暴れんように、しっかり押さえつけろ。」
合点と云わんばかりに、水落上等兵は私の顔の上に、肉づきのいい尻をおろし、足をV字形に私の胴体を挟むようにして伸ばした。股の割れ目は、まだ、水落上等兵の体内から分泌された粘液でぬめり、私の鼻の先や口許を、ねばつかせると同時に、異様に生臭い匂いが、強烈に私の嗅覚を刺戟した。
「むむッ」
息苦しさに顔をそむけようとしたが、水落上等兵の体重で思うにまかせない。彼は更に私の両足首を手荒く掴んで、私の奥まった洞窟がはっきり姿を見せるよう、折り曲げ、組み合わせ、私の臍の上で堅く握りしめた。
奥深く秘められている私の窪みが、突然、眩しい裸電球の下に露呈され、その差恥感と予期される虐待に対する恐怖感で、時々びくっびくっと、その部分だけが別の生き物であるかのように動いていた。
堅い棒状の異物が、その部分に近づいた。
思わず息をのんだ。
徐々に、深く、そして静かに、漠然とした不安を感じさせながら、それは潜行してくる。ああッ〃‥ああッ〃‥‥痛みはなかった。次第に力が加えられた。どうしよう……痛いような、それかと云って痛くも何ともないような、排泄を促しているような、そうでもないような、不思議な感覚が、そのあたりにいっぱい。それが、私の性感を妖しくぐすぐり、燃えたたせ、私を夢幻の境地にさそうのであった。
突然、激痛が火となって私の背筋を突っ走った。それは、ほんのちょっとした何かのはずみであった。
「ぎゃあッ!!」
���末魔の叫びにも似た悲鳴も、水落、上等兵の尻に押さえつけられた口からでは、単なる呻きとしか聞きとれなかったかもしれない。
心をとろけさせるような快感を与えていた、洞窟内の異物が、突如、憤怒の形相に変わり、強烈な排便感を伴って、私を苦しめ出したのである。
「お許し下さいッ――班長殿――お許しッ ――お許しッ――ハ、ハ、班長殿ッ」 言葉にはならなくても、私は喚き叫び続けた。必死に、満身の力を振り絞って。
「あッ、汚しますッ――止めて、止めて下さいッ――班長殿ッ――ああ――お願いッ――お許しッ――おおッ――おおッ―― 」
「何だ、これくらいで。それでも、貴様、男か。馬鹿野郎ッ」
「ああッ、……痛ッ……毛布……毛布……痛ッ――汚れ――汚れますッ――班長殿ッ」
毛布を両手でしっかりと握りしめ、焼け爛れるような痛さと、排便感の猛威と、半狂乱の状態で戦う私をしげしげと眺めて、流石の辻村班長も、呆れ果てで諦めたのか、
「よしッ……大人しくしろ。いいか、動くなッ」
「うおおおー!!!」
最後の一瞬が、とりわけ私の骨身に壊滅的な打撃を与えた。
「馬鹿野郎。ただで抜いてくれるなんて、甘い考えおこすな。糞ったれ」
毒づく辻村班長の声が、どこか遠くでしているようだった。
終った、と云う安堵感も手伝って、私は、へたへたとうつ伏せになり、股間の疼きの収まるのを待った。身体じゅうの関節はばらばら全身の力が抜けてしまったように、私はいつまでも、いつまでも、起き上がろうとはしなかった。
班長の最後の一撃で俺も漏らしてしまったのだ。腑抜けさながら。私はここまで堕ちに堕ちてしまったのである。 瞼から涙が溢れ、男のすえた体臭がこびりついた敷布を自分の汁と血で汚していた。
どれだけの時間が、そこで停止していたことか。
気怠(けだる)く重い身体を、もぞもぞ動かし始めた私。
「なんだ、良かったんじゃねぇか、手間取らせやがって」
おれの漏らした汁を舐めながら辻村班長が言った。
そして汚れたモノを口に突っ込んできた。
水落上等兵は、おいうちをかけるように、俺に覆い被さり、聞こえよがしに口ずさむのであった。
新兵サンハ可哀ソウダネ――マタ寝テカクノカヨ――
(了)
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久々の更新のくせに自分語りします。
すみません。
昨日の夕暮れ時、丁度この写真を撮ってた時間。
義父が入院して危篤と連絡があった様子で。
ひとまず今日から3日がヤマらしいが
面会は17時までだから今日は義母も帰ったらしく
とりあえず連絡したらしかった。
私はあまり夫の両親と仲良くなく、
というか義父と義母は2人だけで
ずっと生きて来たような人生で誰とも仲良くせず
親子関係もかなりドライに見えてました。
初めは何やっても思ってた反応と違いすぎて
会う度に泣いてましたが、いつの日からか
会わなきゃいいんじゃんと決めてからは
美味しいものを贈る以外は会わない生活で。
お互い気配だけ感じながら生きてました。
今まで脳梗塞や癌になって入院した時も
ほぼ完治するまで連絡もされなかったので
当時は言葉が出ないほどびっくりもしたけど
こんな愛もあるんだなと思わせてくれた。
それだけに今回連絡があったわけですから
そりゃ只事ではないのだろうと。
私は実父とは二十歳で両親が離婚して以来
会わないままいつの間にか死んでしまっていて
夫には後悔して欲しくないと思い
翌日(今日)の予定を全部キャンセルして
会いに行く予定にしてもらいました。
しかしながら(良いことだけど)父の容体が
安定して来たのでとりあえず今日はいいと
義母からの連絡。
そうしていると宅配が来て、見ると義父からの
お中元のお肉でした。
霧の箱を開けてなんだか
無性に泣けてきたわけで。
昔は嫌いだった実父も義父も義母も。
母でさえ会いにくいと思ったりするくらいには
拗れた家族なのかもしれませんが
今ならわかります。親だろうが先生だろうが
子供の頃そりゃあちゃんとしてるであろう大人も
自分と同じただの1人の人間なんだって。
たまたま親なんだけどちゃんとしてる人もいれば
出来ない人もいる。
クラスメイトも気の合う人もいるけど、
なんだか居心地悪い人も多いわけで。
それと同じなんだなぁと当時の親の歳になって
分かります。
ただこっちが理想を求めたんです��ね。
親友の彼氏が、親世代と言うと言い過ぎだけど
かなり年上で、彼女が言うには
父親に甘えられなかった分今しっかり甘えてる
んだそう。いいよ!と思いました。
リズブルボーの本で読んだんですが、
(あくまで一論であって、
気に入らない方は取り入れないでください)
認知症は自分の意思でなっていて本人は
治すつもりはない、今まで必死に人のためだけに
生きてきて今度は自分の番だと言う感じで
発症するみたいなことが書かれていて。
私が1番好きだった祖母はめちゃくちゃしっかり物
できる女って感じのスーパーウーマンだったから
認知症になってどう思ってるか知りたくて
読んだんですけど、亡くなった時に読んだ
祖母の日記にはスーパーウーマンの心の葛藤が
びっしり書き綴られていて腑に落ちました。
それでも足腰が強く健康だったので、
そこまで叔母たちをわずらわせることもなく
最後はおやつの時間に眠るように亡くなって。
そんな私の大好きな祖母は血が繋がってはなく
母の母は(ややこい)私も会ったことないです。
みんなこじらせてる。
でも、今なら分かります。みんな死ぬその時まで
必死に最善を尽くそうとしてこじらせとる。
器用な人は理想の家族みたいな物語に
なるんでしょうが結局ワシらはこじらせとる。
その瞬間瞬間だけ切り取ったら
酷いこと言われた だの、失礼だの、最低だの
人でなしだの落ちるけど、
ひとりひとりの人生だけにフォーカスして見たら
あの日の父の言動も、
そりゃ言ってしまいたかったんだわなぁとか
思うわけで。みんな愛すべき人なわけで。
何が言いたいか分からないけど、
私が全員まるっと感謝することができれば
全部浮かばれるんじゃないかなぁと思いました。
親戚家族だけじゃない人間関係に悩む時
それが年上年下、家族上司、偉い人普通の人
なんも関係なくたまたま同じクラスの人として
見て見たらコイツにも親がいるんだよなぁ的な
どこか救いが生まれたり、
はたまたたまたま同じクラスにされただけだから
別々の人生歩むんだよとドライにもなれるかな。
そう簡単に行かないようで、意外にシンプルに
自分を大切に生きることだよなと思いました。
義父よ甦れ。
読んでくれてありがとう。
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【かいわいの時】元禄七年(1694)九月二十七日:芭蕉、北浜の斯波一有・園女の邸で句会。
先師難波の病床に予を召て曰、頃日園女が方にて、しら菊の目にたてゝ見る塵もなしと作す。過し比ノ句に似たれバ、清瀧の句を案じかえたり。初の草稿野明がかたに有べし。取てやぶるべしと也。然どもはや集々にもれ出侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし(『去来抄』)。清瀧や浪にちりなき夏の月
元禄7年(1694年)9月27日、園女は折から大坂を訪れていた芭蕉を自宅に招いている。芭蕉はそこで「白菊の目に立てゝ見る塵もなし」と詠んでいるが、この時彼はすでに旅に病んでおり、それから半月と経たないうちに大坂で客死している。師匠を失い、元禄16年(1703年)には夫とも死別すると、園女は宝永2年(1705年)にかつての蕉門の筆頭格で今や「江戸座」と呼ばれる江戸最大の俳諧流派を主催するまでになっていた宝井其角を頼って江戸へ出、眼科医を家業としながら江戸俳壇の俳人と交流した。しかし大坂時代が園女の俳人としての活躍期であり、当時は雑俳点者としても有力だった。正徳年間には深川八幡に36本の桜の植樹を寄進しているが、これは後々まで「歌仙桜」として江戸っ子に親しまれた。享保3年(1718年)剃髪し、智鏡尼と号した。編著に『菊のちり』『鶴の杖』がある(ウィキペディア)。
(写真)「その」八椿舎康工編『俳諧百一集』1765(奈良女子大学学術情報センター蔵) 鼻紙のあいたにしほむすみれ哉。左註は「是式部か風情真ニ菫なるへし 手もとのことにして誰か 是をおもハさらん」。
彼女の美貌は伊勢在住の頃から俳人仲間に響き渡っており、大坂に越してくると聞いた���鶴が大喜びして、挨拶の句を詠んでいます。「濱荻や當風こもる女文字」(園女編『菊の塵』所収)。濱荻ですが、『菟玖波集』*に「難波の蘆は伊勢の濱荻」とあります。*南北朝時代に撰集された准勅撰連歌集。1356年成立。
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ジャニーが同性愛者(真性の少年性愛者、児童性愛者)であり、事務所に所属する男性タレントに対して性的児童虐待(同性愛行為の強要)を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されてきた。 まず、駐留米軍の「在日軍事援助顧問団 (MAAGJ)」に勤務していた頃(1958年~1966年)から、外交官ナンバーの車(クライスラー)で新宿・花園神社の界隈に繰り出し、「ケニー」、「L」、「牛若丸」といったゲイバーで遊んでいたこと、更に新宿駅南口で網を張り、田舎から出てきた少年たちに声をかけては、常宿の「相模屋」(1泊600円のベッドハウス)に連れ込んでいたことを、当時のゲイ仲間・原吾一が、著書『二丁目のジャニーズ』シリーズで明かしている。 ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントは「ジャニーズ」の4名(真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良)で、当初は池袋の芸能学校「新芸能学院」に所属させていたが、学院内にてジャニーが15名の男子生徒たちに性的児童虐待行為をしていたことが発覚。 オーナーの名和太郎学院長(本名:高橋幸吉。2000年6月7日に急性心不全で逝去。81歳没)はジャニーを1964年6月28日付で解雇した。 しかしジャニーが、ジャニーズの4名も一緒に引き連れて出て行ってしまったためにトラブルとなり、ジャニーらが所属中の授業料やスタジオ使用料、食費など270万円を求めて学院長がジャニーを提訴し、裁判へと発展した (通称:ホモセクハラ裁判)。 なお、当時のジャニーは在日軍事援助顧問団(MAAGJ)に在籍する下士官事務職員として、米国軍人および外交官の立場にあったが、新芸能学院との騒動は「MAAGJの公務の範囲外の職業活動」で起こった問題であるため、「外交関係に関するウィーン条約」(日本では1964年6月8日に発行)の第31条1項による外交特権「外交官は接受国の刑事・民事・行政裁判権からの免除を享有する」の対象から漏れ、訴えられた。 この裁判は長期化し、1964年から実に4年に渡って行われた。 ジャニーズの4名も実際に証言台に立っており、その証言記録は『女性自身』(1967年9月25日号)、『ジャニーズの逆襲』(データハウス刊)、『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社刊)にて再現されている。 『週刊サンケイ』(1965年3月29日号)でも「ジャニーズ騒動 “ジャニーズ”売り出しのかげに」として5ページの記事が組まれた他、ルポライターの竹中労も、著書『タレント帝国 芸能プロの内幕』(1968年7月、現代書房)の中で「ジャニーズ解散・始末記」と題してジャニーの性加害について言及した (当書はその後、初代ジャニーズを管理していた渡辺プロダクションの渡邊美佐の圧力で販売停止)。 なお、『ジャニーズスキャンダル調書』では「同性愛」という表現自体を否定しており、ホモセクハラである以上、「性的虐待」、善意に表現しても「少年愛」であるとしている。 『週刊現代』(1981年4月30日号、講談社)にて、「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」と題し、ジャーナリストの元木昌彦がジャニーの性趣向問題について言及。 (直後、ジャニーの姉のメリー喜多川から編集部に「今後、講談社には一切うちのタレントを出さない」と猛クレームが入り、元木は処分として『週刊現代』から『婦人倶楽部』の部署へと異動させられた。 この件については、『週刊文春』(1981年5月28日号、文藝春秋)でも、「大講談社を震え上がらせたメリー喜多川の“たのきん”操縦術」と題して報じられた。 なお、ジャニーの性的児童虐待についてメリーは、「弟は病気なんだからしょうがないでしょ!」と言ってずっと放任していた) 雑誌『噂の眞相』(1983年11月号)が、「ホモの館」と題してジャニーズ事務所の合宿所の写真を公開。 元所属タレントの告発も相次いだ。 元フォーリーブスの北公次は『光GENJIへ』(1988年12月)、 元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば ! ! 光GENJIへ』(1989年9月)、 元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(1989年10月)、 元ジャニーズJr.の平本淳也は『ジャニーズのすべて ~ 少年愛の館』(1996年4月)、 豊川誕は『ひとりぼっちの旅立ち ~ 元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記』(1997年3月)、 山崎正人は『SMAPへ』(2005年3月)をそれぞれ上梓。 タレントの生殺与奪の全権を握るジャニーの性的要求を受け入れなければ、仕事を与えられずに干されてしまうという実態が明るみに出た。 中でも『SMAPへ』は、ジャニーが行っていた性行為の内容について最も細かく具体的に描写しており、少年に肛門性交を強要していたことも明かしている。 同じく元Jr.の蓬田利久も、漫画『Jr.メモリーズ ~もしも記憶が確かなら~』(竹書房の漫画雑誌『本当にあった愉快な話』シリーズに掲載。著:柏屋コッコ、2014年1月~2015年4月)に取材協力する形で暴露している。 ジャニーは肛門性交時にノグゼマスキンクリーム、メンソレータム、ベビーローションなどを愛用しており、少年隊もラジオ番組で、錦織一清が「ジャニーさんと言えばメンソレータム思い出すなぁ・・・」、東山紀之は「合宿所はいつもメンソレータムの匂いがしてた」など、分かる人には分かるギリギリの発言をしている。 元Jr.の星英徳も、ジャニー喜多川の死後になってネット配信で、「ただのJr.だった自分ですら、何十回もやられた。 ジャニーさんが特に好んだのは、小中学生の段階のJr.。 時には平日の朝から学校を休んで合宿所に来いと呼び出され、マンツーマンで性行為を受けた。 その最中は、当時付き合ってた彼女のことを毎回必死に頭で思い描きながら耐えてた。 メジャーデビューしたメンバーは必ず全員やられている。 必ずです! 全員やられてる! そもそも断ったらデビュー出来ない」と幾度も打ち明け、ジャニーによる性被害や当時の事務所内での異常な状況を説明した。 ジャニーズの出身者以外からも、浜村淳が関西ローカルのラジオ番組『ありがとう浜村淳です』(MBSラジオ)の中でジャニーのことを「あのホモのおっ���ん」と発言したり、ミュージシャンのジーザス花園が、2009年発表の自作曲『ジャニー&メリー』で、AV監督の村西とおるもブログやTwitterで糾弾している。 ジャニーに対する感謝、愛情が誰よりも強いことで知られるKinKi Kidsの堂本剛(児童劇団の子役出身)は、小学5年生の段階で子役活動を辞め、一旦芸能界を引退していたが、姉による他薦でジャニーズのエンターテインメントの世界に触れ、自分もスターになって成功したいという感情が芽生える。 しかし成功するためには、まだ幼い小学6年生の段階からジャニーの性的な行為を耐え忍ぶしかなく、剛が中学2年生の14歳の時に奈良県から東京の合宿所に正式に転居してからは、ジャニーの性行為は更に過熱していった。 当時剛と非常に親しい関係にあった元Jr.の星英徳も、「剛は普通のJr.たちとは違うレベルの性行為をジャニーさんから受けていて、そのことにいつも悩んでた。剛が病んじゃったのはジャニーさんが原因」と、2021年6月25日の深夜にツイキャス配信で証言した。 剛にしてみれば、確かにジャニーには芸能界で大成功させて貰って感謝はしているものの、幼い頃から異常すぎる性体験を強いられ、自分の心と体を捨て去るという代償を払わされてきた訳であり、更に人一倍繊細な性格がゆえ、15歳からは芸能活動へのストレスも相まってパニック障害を抱えるようになり、長年に渡って自殺を考えるほどに苦しんだ時期が続いた。 自分で選んだ道ではあるし、ストックホルム症候群、トラウマボンド(トラウマティック・ボンディング)、グルーミングなどの効果によって、ジャニーに対して大きな感謝はしつつも、もしジャニーと出会わなければ、こんなにも苦しい思いをすることは無かった、という愛憎が入り混じった複雑な感情から、剛の自作曲『美しく在る為に』は、ジャニーへの思いや、芸能活動への葛藤が描かれた曲だと、一部のファンの間では解釈されている。 その歌詞の一部には、 「あたしが悪いなんて 云わせないの あなたが悪いなんて 云う筈がないの 人は勝手だったもの 何時も勝手だったもの 美しく在る為に 勝手だったもの」とある。 [1] 元光GENJIの諸星和己も、2016年11月6日放送のバラエティ番組『にけつッ ! !』(日本テレビ)に出演した際、千原ジュニアとの会話でジャニーについて、 千原 「数年後に大スターになると見抜くその力よ」 諸星 「違う違う、たまたま、たまたま」 千原 「先見の明がすごいんでしょ?」 諸星 「僕の考えだと、“結果論”だね。 あの人(ジャニー喜多川)の目がいいとか、見抜く力がすごいとか、“全く”無い!」 と断じ、ジャニーに対する世間の過大評価に異を唱えた。 そして番組の最後では、「ジャニーの感性はね、あれホ〇だから!」と締めくくった。 ジャニーについてはよく、「少年の10年後の成長した顔が見えていた」などと評されてしまうことがあるが、それは間違い。 確かに子供の頃は冴えない平凡な顔をした者が、美容整形なども踏まえて将来二枚目に化けたパターンもあるが、その一方、小さい頃は可愛かったのに、成長と共にどんどん劣化してしまったパターンも少なくない。 そもそも、テレビなどで頻繁に同じタレントの顔を目にしていれば、視聴者の目はその顔に慣れていく訳だから、マイナス面はどんどん軽減されていく。 ジャニーが持っていたのは権力と財力であって、人の10年後の顔はおろか、人の本質や将来を見抜けるような特殊能力、神通力は存在しない。 ジャニーは将来を予見して採用していたのではなく、ただ単に、今その瞬間の“自分の好み”の少年、個人的に性欲を感じる“ヤりたい相手”を選んでいただけであり、その少年がたまたまスターになるかならないかは、諸星が述べた通り、後からついてきた“結果論”に過ぎない。 ジャニーに個人的に嫌われれば、いくらスター性や才能がある者であっても捨てられるし、ジャニーに個人的に好かれれば、スター性の無い者であっても権力と財力でメディアにゴリ推しされ、結果、誰でも人気者にな��た。 こうした、ジャニーの個人的な好み、機嫌だけで全てが操作・決定される、非常に特殊で独裁的な事務所だったため、多くのスターを製造した一方、本当に将来有望だったはずの多くの才能も死んでいった。 なお諸星はこの放送の一ヶ月後の2016年12月2日に大沢樹生と共に開催したトークライブでも、ステージ上で「俺が何で結婚しないか? ホモだから。 ジャニーみたいなものだから」と発言し、ジャニーを茶化している (諸星自身がゲイであるという部分は自虐による冗談であり、諸星はゲイではない)。 1988年~1989年にかけ、月刊誌『噂の眞相』もこの問題を数回取り上げた。 しかしジャニーズ側は、「『噂の眞相』という雑誌はこの世に存在しないもの」という姿勢を貫いていたため、全く相手にされることは無かった。 週刊誌『FOCUS』(1989年8月11日号、 新潮社)に、ジャニー喜多川が合宿所で撮影した田原俊彦の全裸のポラロイド写真が流出掲載される。 1999年10月28日号から2000年2月17日号にかけ、『週刊文春』がジャニーズ事務所に対する糾弾を14回に渡ってキャンペーンとしてシリーズ掲載。 ジャニーが所属タレントに対してセクハラ・児童虐待を行い、事務所内では未成年所属タレントの喫煙や飲酒が日常的に黙認されていると報道し、約15名もの元ジャニーズJr.が取材に協力した。 出版元である文藝春秋は、他の大手出版社と違ってジャニーズ事務所との癒着や影響力が皆無に等しかったために出来たことだった。 【キャンペーン開始の引き金的な記事】 江木俊夫 公判で元アイドルが「ジャニーズ」批判 (1999年10月7日号) 【14回のキャンペーン】 青山孝 元フォーリーブス衝撃の告発 芸能界のモンスター「ジャニーズ事務所」の非道 TVも新聞も絶対報じない (1999年10月28日号・p252~255) ジャニーズの少年たちが耐える「おぞましい」環境 元メンバーが告発 「芸能界のモンスター」追及第2弾 (1999年11月4日号・p190~193) ジャニーズの少年たちが「悪魔の館」合宿所で 「芸能界のモンスター」追及第3弾 強いられる“行為” スクーブグラビア ジャニーズ「喫煙常習」の証拠写真 (1999年11月11日号・p26~29)[1] テレビ局が封印したジャニーズの少年たち集団万引き事件 追及キャンペーン4 マスコミはなぜ恐れるのか (1999年11月18日号・p188~191) ジャニー喜多川は関西の少年たちを「ホテル」に呼び出す 追及第5弾 芸能界のモンスター (1999年11月25日号・p188~191)[1] ジャニーズOBが決起! ホモセクハラの犠牲者たち 芸能界のモンスター追及第6弾 (1999年12月2日号・p195~197) 小誌だけが知っているジャニー喜多川「絶体絶命」 追及第7弾 (1999年12月9日号・p179~181)[1] ジャニーズ人気スターの「恋人」が脅された! 追及第8弾 (1999年12月16日号・p185~187) ジャニー喜多川殿 ユー、法廷に立てますか? 「噴飯告訴に答える 追及第9弾」 (1999年12月23日号・p179~181) 外国人記者が「ジャニー喜多川ホモ・セクハラは日本の恥」 追及第10弾 (1999年12月30日号��p38~40) ジャニーズ裁判 元タレントはなぜ「偽証」した キャンペーン再開! (2000年1月27日号・p180~181) ジャニー喜多川よ、ファンもこんなに怒っている 徹底追及(第12弾) (2000年2月3日号・p165~167) NYタイムスも報じたジャ二ー喜多川「性的児童虐待」 (2000年2月10日号・p172~173) ジャニー喜多川「性的虐待」 日本のメディアは腰くだけ ピュリツァー記者が激白 (2000年2月17日号・p34~35) 【追加報道】 スクープ撮! ジャニー喜多川の素顔 (2000年3月16日号) ジャニー喜多川の性的虐待! 母親が決意の告白 「息子は私に訴えた」 (2000年3月23日号・p184~186) 新展開 ついに国会で質問されたジャニーズ性的虐待 なぜNYタイムスしか報じないのか (2000年4月27日号・p176~179) ジャニーズ疑惑 梨元勝国会で証言へ! (2000年5月4日・11日合併号・p180~181) 大手メディアがこの性的児童虐待問題をこれほどまでに取り上げたのは1960年代以来初めてのことで、その波紋は大きく、自民党衆議院議員・阪上善秀(後の宝塚市長)も、2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げた [注 6]。 1999年11月、ジャニー側は名誉毀損であるとして文藝春秋を訴え、1億700万円(ジャニーズ事務所に対し5350万円、ジャニー喜多川に対し5350万円)の損害賠償と謝罪広告1回を求める民事訴訟を起こした。 2002年3月27日、東京地裁の一審判決では、「高度の信用性を認めがたい。 証人の証言はたやすく信用できない点を残している」としてジャニー側が勝訴し、東京地裁は文藝春秋に対し、ジャニーへ440万円、ジャニーズ事務所へ440万円の、計880万円の損害賠償を命じた (井上哲男裁判長)。 文春側はこれを不服として東京高裁に控訴。 これに対抗するかのようにジャニー側も控訴。 2003年7月15日の二審判決では、ジャニーの性的児童虐待に関する記述について、 「喜多川が少年らに対しセクハラ行為をしたとの各証言はこれを信用することができ、喜多川が、少年達が逆らえばステージの立ち位置が悪くなったり、デビューできなくなるという抗拒不能な状態にあるのに乗じ、セクハラ行為をしているとの記述については、いわゆる真実性の抗弁が認められ、かつ、公共の利害に関する事実に係るものである」 と結論づけられ、ジャニー側の性的児童虐待行為を認定 (矢崎秀一裁判長)。 このため、性的児童虐待部分のジャニー側の勝訴は取り消され、損害賠償額はジャニーへ60万円、ジャニーズ事務所へ60万円の、計120万円に減額された。 ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され (藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と性的児童虐待行為認定が確定した。[1]、[2] しかし各芸能マスコミは、一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「性的児童虐待が認められた」という肝心の部分は書かなかった。 この問題について、懐疑主義団体「JAPAN SKEPTICS」の機関誌『NEWSLETTER 53号』にて、当時同会の副会長だった草野直樹が批判。 「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。 そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている。 報道におけるタブーのベールを抜いた報道には、オカルト・疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう」と訴えた。 芸能評論家の肥留間正明も、「芸能界でホモセクハラが裁判になったのは異例。 真実と認められたのも初めてで、これは社会的な事件」と語っている。 また、ニューヨーク・タイムズや、イギリスの新聞・オブザーバーなどの海外メディアも大々的に取り上げ、この問題をタブー視するなどして真実を報道しない卑怯で腰抜けな日本のマスメディアの姿勢、体質を批判した。 以後もジャニーズ事務所と文藝春秋は対立。 2006年に『武士の一分』が映画化された際、ジャニーズは文春文庫で発売されている藤沢周平の原作本の帯に、主演の木村拓哉の写真の使用を一切許可しない、という対抗措置を取っている。 また、木村が工藤静香と結婚した際にも、会見への週刊文春の参加を禁じた。 そのため、文春側は巻頭グラビアで白紙ページに木村とインタビュアーの輪郭のみを描き、ジャニーズによるメディア統制であると非難した。 2010年3月14日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「新約・ジャニーズ暴露本」開始。 2018年6月6日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「いま振り返るジャニーズの“少年愛”報道」開始。 2019年7月9日にジャニーが逝去。 その際、テレビや雑誌など、日本の主要メディアではジャニーを賛美する歯の浮くような美辞麗句のみが並べられ、まるでジャニーを聖人君子かのように崇め奉った。
ジャニー喜多川 - ジャニーズ百科事典
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2024
自然界に存在する4つの力と忘れ去られた1つの結末
あっという間に自分の番になった。前日が終わる頃になってようやく焦り始め、22時くらいからなんだかわからないものをずっと書いていた。日記を書くようになったのは小学生の頃で、世の中や周囲に対する不満だったり、子どもであるが故に受けた些細な理不尽、くだらない遊びや諍いを、たった3行程度書いて先生に提出していた。今となってはその文献は失われてしまった。書いているうちに自分の肉体や思考はどんどん変化していったから、なぜそんなことを書いたのか今となってはわからないし、もちろん再現することもできない。その最後尾が、今書かれている文章になる。今では自分の頭の中にある花瓶のこと、月の裏側は想像することしかできないこと、撃ち尽くされた実弾と薬莢のこと、互いに引かれ合う最も弱い力、忘れ去られた1つの結末、クリスマスを前にしてそんなことを書いている。
自然界には4つの基本的な力が存在しているらしい。自然界で働く力を作用ごとに整理し、素粒子(基本粒子)に働く力として最終的にまとめられた、強い相互作用、弱い相互作用、電磁気力および重力の4つの力がこの世には存在しているという。このうち、電磁気力の大きさを1とすると、強い相互作用は100、弱い相互作用は1/1000ほどである。そして重力は「10の−38乗」という桁違いに弱い力である。この身体をこの地球の表面に繋ぎ止めている重力が、最も弱い力だということが意外に感じられる。重力が斥力を持たず互いに引かれ合う力だから、地球の質量が膨大で結果として強い力となっているから、などと理由はつけられるかもしれないが、詳しいことはわからない。とにかく私は地球に強く引き留められている。
遠くにいる友人や、もう二度と会えない人のことを考えるときには重力のようなものを感じることがある。あるいは、それよりももっと弱い力を感じることがある。10のマイナス何乗かわからないが、量子的な結びつきよりも、自身に差し迫った有限性をもとにして肉体に作用する力が存在している。
納屋を建てる
男は大学を卒業すると、学生時代から付き合っていた女と早くに結婚した。なぜこんなにぼんやりした男に、呆れ返るほど美しい妻がいるのか周囲は不思議思うかもしれない。しかし男にはなんというか優しいところがあり、無駄な行動力があり、時折見せる誠実さのようなものがあり、長い付き合いがある私とすれば自然なことに思われた。
あるとき、夫婦のうちに身を引き裂かれるような悲しい出来事があり、妻は実家に一時的に帰省することになった。時間を持て余し、あまりに多くのものを失った男が考えたのは納屋を建てることだった。DIYが流行っていた時期で、便利な納屋を庭に建てれば妻も喜ぶだろうという優しさもあって、基礎から打つ徹底ぶり(彼の中では近年稀に見るほどの)を発揮し、目標に向かって前進する無駄な行動力をもって遂に納屋は完成した。
しばらくして、自宅に戻った妻が完成した納屋を目の当たりにすると、その納屋が触れてはいけない部分に触れてしまったのか、彼女はその場で崩れ落ちて号泣した。元来の納屋が持ち得ない記念碑的な要素がそこにはあったのかもしれない。女性特有の癇癪は止まらず、ほとんど聞く耳も持たず、「なんでなんの相談もなく納屋を建てたのか?」とクリティカルな質問が投げかけられた。「なぜ納屋を建てたのか?」ということはいくつかの要素の積み重なった複合的なものであり、時間が経てば経つほど「なぜ納屋を建てたのか?」ということは本人にもわからなくなっていった。加えて、男は駆けつけた妻の両親にひどく叱責された。「A君、納屋は立てちゃあ、いけないよ。誰にも相談せずに、納屋を、立てちゃあ、いけないよ。」大事なことだから2回いました。妻に隠れて納屋を建ててはいけません。しかし、「なぜ納屋を建ててはいけないか?」ということもお���らく複合的なもので、問いかけるたびに姿を変え、はっきりとした答えは出なかった。夫婦関係は大きく冷え込んだ。納屋のことは「な」の字も話題に上がらなかった。ピンク色の像を想像しないでください、と言われてなかなかできるものではないが、夫婦はそれを実行した。そして男は無駄な行動力で、そこに納屋があったことも悟られないくらい徹底的に納屋を破壊した。基礎は解体され、地面は均された。最終的には男が時折見せる誠実さによって、夫婦関係は修復されていった。
それから数年が経過し、相談したいことがあって久しぶりに友人へ電話した。妻との諍いが続いており、気のおけない友人の助言を頼りにしたかったのである。ひとしきり事情を説明すると、
「それってつまりさ、納屋を立てちゃあいけなかったってことだよなあ」と彼は警句のように言った。
村上春樹の短編に「納屋を焼く」というものがある。アフリカ帰りのある男が、主人公に対し、納屋を焼いて廻っていることを告白する話である。
つまり僕がここにいて、僕があそこにいる。僕は東京にいて、僕は同時にチェニスにいる。責めるのが僕であり、ゆるすのが僕です。それ以外に何がありますか?
と男は言う。終始不穏な手触りのある小説である。
うろ覚えだが、パントマイムをする女が出てきて「蜜柑剥き」のパントマイムをする。「蜜柑向き」のパントマイムをするコツは
そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ
と女が言う。最終的にはモラテリティーとは同時存在のことです、ということらしい。今日も世界中で建てられる納屋と焼かれる納屋のことを考えては仕事が手につかなくなった。
電話をした次の日には、たまたま出張で来ていた父と数ヶ月ぶりに会った。合流すると自宅周辺にあるバーにいった。行きつけとまではいかないが、落ち着いて話をしたいときにはよく来ている場所かもしれない。壁一面に大量のウイスキーの瓶が並べられており壮観である。メニューには一杯十万円のウイスキーなんてものもあり、それを見た父は店内に響き渡るほどの感嘆の声をあげていた。酒もまわり、納屋を建てたり、焼いたりする男たちが話題となった。
「俺にはよくわからないけれど、納屋ってもんは何かのメタファーを持ちうるものかね」と私は聞いた。
すると父は「そういえばキリストも納屋で生まれた」とだけ言った。
酒が回っていたことや、自分の予想を超えた解答のくだらなさも相まって久しぶりに心の底から笑った。そうか、そんな時代から納屋なんてものはあったのか、と思って抱えていた複雑な事象や色々なことがどうでも良くなってきた。2024年前に納屋で生まれた男のことを考えた。納屋を建てもせず、焼きもせず、そこで生まれた男の存在を想って、今日はよく寝られると思った。
成長
息子の爪を切っているときに、指がとても太くなったなあと思った。一方で自分の爪に縦の線が増えてきて、何かの病気かと思って調べたら「老化」と書かれていたときには悲しくなった。
最近は「ティッシュってなにでできているの?」とか、「リモコンってなにでできているの?」と手当たり次第に原材料を尋ねるようになり、いわゆる「なぜなぜ期」というものが始まった。日経新聞で読んだ記事(2024年12月10日 なぜなぜ期は思考力向上の好機)では、「なぜなぜ期」子どもの発達面での大きな節目と考えられているらしい。
4歳ごろは、子どもの発達面での大きな節目と考えられており、思考レベルがぐんと上がる時期。特徴的な例として、2つの物事を混同せずに比べたり、結び付けたりして考えるようになる。物事の因果関係にも興味を持つようになる。 この時期になると、自分の考えと他人の考えは同じではないと分かり、他人の気持ちを理解しようとする姿勢が見られる。さらに過去と現在、未来の時間軸を認識できるようになるので、体験していない「未来」があると分かり、自分の未来にも関心が出てくる。 こうした成長は喜ばしい半面、新たな認識が生まれ不安や恐怖を抱くようになる。特に大きいのが「未知への不安」だ。3〜5歳の時期は死に対する理解が進み、死への不安や恐怖を覚え「自分もいつか死ぬのかな。お父さんお母さんも死んでしまうのかな」と思い巡らす子どもも出てくる。
ある日寝る前に、「お父さんのおじいちゃんはいるの?」と聞かれた。おじいちゃんは今から8年前に亡くしており、この世にもういないことを伝える。
「死んじゃうと会えないの?どうなるの?」
「死ぬとそうだなあ、俺にもわからないけれど、死んだ人に会うことはできないよ。死ぬと全く動けなくなる、大切なものが失われる、話したり、食べたり、遊んだりと言うこともできない。石のようなものになるんだよ」
「お父さんは死なないの?」
「お父さんもいつかはきっと死ぬよ」
「そうなんだあ」と言って黙っていたので死の概念はまだ理解できず、息子は寝たものと私は思っていた。ところが次第に鼻水を啜る声が聞こえ、うっすらと涙を浮かべていることに気がつく。やはり怖くなったのだと言う。そうして今この瞬間に、息子は死の恐怖とそのざらりとした手触りを実感したのだ。私はその事実に想いを巡らせることになった。
気を付けたいのが、終始理屈で説明してしまうことだ。子どもが不安や恐怖に根ざした質問をするときは、親に「不安な気持ちを分かってほしい」と思っている。そんなときは「心配しなくても、大丈夫だよ」と、まずは安心させる言葉をかけてあげよう。
とその記事に書いていたことを思い出した。初めて新聞を読んでいて良かったと思った。
「心配しなくても大丈夫だよ。怖くなったら、お寿司とか、好きな人のことを考えるといいよ」
「そうすると多分寝られると思うよ」と言うとしばらく泣いてはいたけれど、いつの間にか寝ていた。なんだか途方もなく大きくなったものだと思った。そして自分自身も忘れ去られた一つの結末を思い出したことで少しばかりの恐怖を感じたのだが、子どもの成長を目の当たりにすると些細なことのように思われた。
終わりに
この文章を書いているうちに、そういえば自宅の納屋の扉が老朽化して、風で飛ばされる事態が発生したことを思い出した。部品を注文しているが年明けになるとのことで、修復には時間がかかるものと見ている。私は納屋を直す男である。
この記事は2024 Advent Calendar 2024の23日目として書かれました。22日目は nagayamaさん、24日目はtomoyayazakiさんです。
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折角なので「律動する悪夢」https://www.tumblr.com/shelter-maki0/737410451936296960/i-drew-a-comics-of-tomarrymort-it-is-posted-on-an?source=shareの後書きのようなものを少し書いてみよう��思います。私用の覚書のようなものなので、日本語で残します。
その過程で私がcursed childについて思っている事にも少し触れようと思います。真面目に書くつもりはありませんが前半に後書き、後半に呪いの子について書いていきます:P
まず私が書いた小話の後書きですが、「律動する悪夢」はロマンス作品を想定して描いたわけではありません。私はハリーとヴォルデモートの間にある、”互いにとって不都合な絆”に魅力を感じています。とても暴力的な絆で、その絆は二人を傷つけ互いに破滅へと向かわせました。ヴォルデモートは文字通り破滅し、ハリーは人生を丸ごと台無しにされました。 ハリーが闇の帝王を倒した後でもヴォルデモートがハリーに与えた影響は彼の人生を蝕み続け、ポッター家を機能不全家族にしました。私はハリーが決して彼の呪縛から逃れられないこの状況に、ホラー映画のエンディングのエッセンスを感じました。それはまるで、主人公が脅威を退けた後、エンドクレジットの前に倒した筈の敵の気配を感じて暗転するあの瞬間のような後味の悪さです。
避けられない脅威に追われ続け、その脅威は怪物を倒したあとも主人公を決して休ませない。私はホラー作品のその様式美が好きです。なのでこの作品はそういった逃れられない脅威と決して断ち切ることのできない繋がりについて考えながら描きました。 特に深いメッセージ性は無く、少し気持ち悪さを感じるような作品を残したかっただけですが、もし楽しんで貰えたなら幸いですD
次に呪いの子についてですが、呪いの子が不人気な事は把握しています。(余談ですが、私の国では呪いの子に対してそこまで否定的な意見は多くありません。私の国のオタクは公式が出した作品を無かった事にする傾向が殆どなく、公式から出たものが気に入らなければジャンルを去るか、受け入れるかのどちらかを選ぶ人が多いです。なので二次創作の傾向も逆行や転生、Canonの隙間時間を埋めるような作品が多く、AUはあまり流行らない傾向があります。私は呪いの子の設定の全てを受け入れているわけではありませんが、美味しいところは食べています。)
呪いの子の世界観は、ハリーが魔法界の戦争を通して経験した事を白紙に戻したような世界をしています。
デスイーターは裁かれましたが、彼らの抱える根本的な問題は解決しておらず、彼らの親族に降りかかる偏見すらも魔法省は野放しにしています。里親に育てられた孤児のデルフィーニはホグワーツに通うことすらできませんでした。アモルテンシアなど危険な魔法薬は一切規制されておらず、ロンが親友の息子の誕生日プレゼントに贈るほど倫理観も法律も成長していません。
呪いの子の魔法界は、”臭いものに蓋をする”が続いた世界です。ヴォルデモートとの戦いの経験を持つハリー達が、その世界の中枢で要職につきながらも多くの問題を無視し続けているというのは現実的ではありません。ヴォルデモートが後継者を得る為に子供を作っていた事も彼の性格からを考えると不自然です。
舞台の脚本を書くために彼女はそうしたのだろう、とメタ的な意見も出せますが、呪いの子の世界がHPシリーズの正式な後日談として出されている以上咀嚼しないわけにはいきません。私はそういうオタクです。
正直、私はそんな魔法界に再び混乱が訪れるのが見たいです。それらのツケを払わされる瞬間を見たいです。彼らの怠慢と無関心が再び闇の帝王を呼び戻す瞬間が見たいです。
大切な書類をデスクに山積みにし、ゴシップを放置し、息子に対して失言し、母親のように振る舞うジニーに慰められるハリー。空元気のように振る舞い問題を無視するハリーの様子は私を不安にさせます。しかし私はそんな彼が再び引き裂かれるのが見たいです。そしてその相手は絶対的にヴォルデモートなのです。
呪いの子の終盤で、ハリーは闇の帝王の影響から未だに逃れられていないという自覚を息子に語っています。結局のところハリーとヴォルデモートの絆は永遠です。それはあたゆる形になってハリーを蝕み続け、彼の人生からは絶対に切り離す事ができません。呪いの子ではその事が証明されています。死すら二人を分てないのです。
私が呪いの子の時間軸のハリーについてよく考える理由はそこにあります。呪いのような永遠の絆がそこにあるなら、続きを想像したくなってしまいます。あらゆる魔術を探求した闇の帝王の魂はまだリンボにあり、彼を連れ戻したくて仕方がないような勢力は殆どそのまま魔法界に残っています。私は中年のハリーの目の前にある日突然ヴォルデモートが現れても驚かないでしょう。素材は十分です。
そしてヴォルデモートに再びハリーの人生をめちゃくちゃにして欲しいです。彼のキャリアを崩壊させ、家庭を脅かし、彼をもう一度台無しにして全てを奪い去って欲しい。そしてハリーには、崩れた人生の瓦礫の中で最後に彼に触れ、かつて同じであった鼓動を感じて欲しい。結局のところ彼はハリーの運命の相手でハリーの人生を司っているのだと。
「彼を壊したい」と「彼を幸せにしたい」が両立する不思議なダイナミックがtomarrymortの醍醐味の一つであると思いますが、怒りと苦痛の先にある小さな慰めのカタルシスの心地よさが私を追い立てているのかもしれません。
とまあ、話は多少ズレましたし呪いの子の不満点や考えについてまだ話せる事は沢山ありますが、今回はこの辺にしておこうかと思います。また気分が向いたら何か書くかもしれません。
とにかく私個人としては呪いの子の時間軸のハリーの作品がもっと増えたらいいなと感じています。ハリーが台無しになる作品が好きなので、掛け金の高いCCの時間軸は私にとって魅力的です。
もしこの投稿を読んだ人がいたのなら、この中身のない文章を最後まで読んでくれてありがとう!
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クロエ・コールは12歳の時トランスジェンダー医療に引き込まれた犠牲者だが、その苦しみを全身に背負いながら同じ境遇の子供たちを救うため活動している。トランスジェンダリズムの闇にメスを入れるべく開かれた米国下院司法委員会の公聴会で、涙ながらにその全貌を語った。 以下、和訳と解説: まずは約5分に渡るクロエのオープニング・ステートメントから: = = = = = = = = = = 私の名前はクロエ・コール。デトランジショナー*です。別の言い方をするなら、私は自分が間違った体に生まれたと信じていて、そして、私が信頼していた大人たちは私のそんな考えを肯定し、生涯癒えることのない傷を私に残しました。 (*=ホルモン療法や身体整形などの医療行為により性別を変え(トランスし)た後、元の性別に戻ることをデトランスdetrans、その個人をデトランジショナーdetransitionerという) 私は今日、アメリカ史上最大の医療スキャンダルの犠牲者として、皆さんの前でお話しします。皆さんにこの狂乱を終わらせる勇気を持っていただき、私が経験したような苦しみを、脆く危うい状況にあるティーンエイジャーや子どもたち、そして若い大人たちが味わうことのないようにしていただきたいと願っています。 - 12歳の時、私は後に医療チームが性別違和と診断するような経験をし始めました。私は幼くしてやってきた思春期の真っ只中で、自分の身体に起きている変化をとても不快に感じていました。男性から注目されることに怯えていました。今になって思えば、両親に「自分は男の子のような気がする」と言ったのも、思春期が嫌で、この未知の性的な緊張が無くなってほしいという意味だったでしょう。私は姉たちよりも兄たちの方を少し慕っていましたし。 私はダイニングテーブルの上に置手紙をして、自分はトランスジェンダーだと告白し��した。両親はすぐに心配し、医療の専門家の助けを借りる必要があると感じたようでした。しかし、それは間違いだったのです。家族全員が即座に、イデオロギーに突き動かされた欺瞞と強要の道を歩むことになりました。 私が受診した一般的な専門家は、両親に「すぐに思春期抑制剤(ブロッカー)を飲ませる必要があります」と言いました。 彼らは両親に簡単な質問をしました:「 死んだ娘さんと生きているトランスジェンダーの息子さん、どちらを選びますか?*」と。 (*=トランス医療における常套句で、子供の主張するジェンダーを肯定しなければその子は自殺してしまうだろう、ならば性別を移行させてやる方が本人のメンタルヘルスも回復し希死念慮もなくなる、という意味) その選択は両親の警戒を解くのに十分でしたし、今考えても両親を責めることはできません。私たち全員が、いわゆるジェンダー肯定治療(ジェンダー・アファーミング・ケア)*の犠牲になった瞬間でした。 (*=欧米で広く支持されてきた療法で、患者の経験や感覚を尊重し本人の主張するジェンダーに寄り添った医療やサポートを行う) - 思春期ブロッカー、そしてテストステロンへと急ピッチで進められ、その結果、更年期障害のようなほてりで学業に集中できなくなりました。今でも関節痛や背中の変な痛みがあります。ブロッカーを使っていたときのほうがずっとひどかったですが。 その1ヵ月後、13歳のときに初めてテストステロン注射を打ちました。不可逆的な身体の変化が引き起こされ、私の声は永遠に深く、顎のラインは鋭く、鼻は長く、骨格は永久に男性のそれになり、喉仏はより目立つようになり、生殖能力は不明となりました。 時々鏡を見ると、まるで自分が怪物のように思えます。 私が二重乳房切除術を受けたのは15歳の時です。医師は切断した乳房にガンがないか検査していましたが、もちろんガンなどなく、私は完全に健康でした。まだ発育途中だった私の体や乳房は、不安な10代の少女として気まずい思いをしたこと以外、何の問題にもさられていませんでした。 私の両胸は摘出され、その組織は焼却されました。合法的に車を運転できる歳ですらなかった。しかし将来の女性としての大きな部分が奪われたのです。母乳で我が子を育てることはもう決してできない。鏡の中の自分を見るのもつらい時があります。今でも性機能障害と闘っています。胸には大きな傷跡があり、より男性的な位置にくるようにと乳首を切除した皮膚移植のため、今日もそこから体液が垂れています。 手術後、学校の成績は落ちるところまで落ちました。 私が経験したこれら全ては、抱えていた根本的な精神衛生上の問題を解決するものではありませんでした。そして、ジェンダーについて理論を持つ医師たちは、私が手術によって漠然と男の子に似たものに変化すれば、私の悩みはすっかり無くなるだろうと考えたのです。 彼らの理論は間違っていました。薬と手術は私の身体を変えましたが、私が女性でありこれからもずっと女性である、という基本的な現実は変わらなかったし、変えることもできなかった。専門医が私の両親に、「死んだ娘か生きているトランスジェンダーの息子を持つことになる」と当初告げたとき、私には自殺願望などありませんでした。私は幸せな子供で、人と違うことで悩んでいただけです。 しかし手術後、16歳の時、私は自殺したいと思うようになりました。今は良くなっていますが、両親はもう少しで、医師から約束された死んだ娘を手に入れるところでした。私の主治医は、彼らが避けたいと言っていた悪夢そのものを作り出すところだったのです。 - 私はアメリカのティーンエイジャーとその家族にどんなメッセージを伝えたいのでしょうか? 私に必要だったのは嘘をつかれることではありませんでした。共感して欲しかった。愛されていると感じることが必要でした。男の子に変身すればすべての問題が解決するという妄想を肯定するのではなく、私の悩みに取り組むセラピーを受ける必要があったんです。 私たちは12歳の子供たちに、「間違った身体に生まれてきた、自分の肉体を拒絶していい、自分の肌に違和感を覚えるのも正当だ」、などと言うのをやめねばなりません。 「どんな服を着るかとか、どんな音楽を聴くかなどを選べるように、思春期だってチョイスであり、どのような思春期を過ごすかは自分で選べるのだ」、なんて子供たちに言うのはやめなければいけないんです。 思春期は大人になるための通過儀礼であり、緩和されるべき病ではありません。 - 今日、私は自宅で家族と19歳の誕生日を祝うはずでした。しかしその代わり、私は選挙で選ばれたあなた方に必死の訴えをしています。 オピオイド危機のような他の医療スキャンダルから教訓を学んでください。医者も人間であり、時には間違っていることもあるのだと認識してください。 私の子供時代は、私たちのネットワークを通じて知り合った何千人ものデトランジショナーたちと同様に台無しにされました。 どうか止めてください。あなただけが止められるんです。この野蛮なエセ医学によって、すでに多くの子供たちが犠牲になっています。どうかこの私の警告が最後のものとなるようにしてください。 ご静聴ありがとうございました。 = = = = = = = = = = - 公聴会でのクロエの証言はどれもショッキングであると同時に、彼女の堂々たる勇姿が人々の胸を打った。中でも子供のトランス治療に賛同した両親の存在についてクロエが声を詰まらせながら語ると、彼女の思慮深さに感動し涙する大人たちであふれた。 13歳から17歳の間に思春期抑制剤、異性間ホルモン剤、二重乳房切除術を受けたとして、カイザー財団病院とパーマネンテ・メディカル・グループを訴えているクロエは、公聴会の中で民主党側が招いた証言者のレイノルズ博士に話しかけた。 トランスジェンダーを自認する子供の母親であり、プロのカウンセラーでもあるミリアム・レイノルズ博士は、委員会の公聴会で「未成年者の性転換治療は必要であり、命を救う」と明言し、彼女の子供も現在ホルモン補充療法を受けているとしている人物である。 以下はクロエからレイノルズ博士への発言: = = = = = = = = = = レイノルズ夫人が我が子のために不安なのは理解しました。これは言っておきたいのですが、私は彼女を憎んでいません。ここにいる誰も彼女を嫌悪したりはしていないと思います。実際、私は彼女の中に自分の母親と父親を見ています。そして、明らかに彼女は子供を心から愛している。それに、彼女はできる限りでベストを尽くしている。ただじゅうぶんな術はなくて…気の毒だと思います。 子供を救いたいと願うすべての親には、最大限の援助とガイダンスがあって然るべきです。 しかしながら、私は、彼女の子供が私と同じ結果になることを望みません。誰であっても性別移行やデトランスを後悔してほしくない。なぜって、それは信じられないほど困難で、他にはない苦痛が伴い、容易なことではないからです。 彼女のお子さんが幸せで満ち足りた青年時代を過ごせるようにと願います。それがたとえどんな形であろうとも。 = = = = = = = = = = - ある日突然、幼い我が子が性別違和を訴え、多くの親たちは狼狽する。メディアや学校や小児科医やママ友まで「トランスキッズは増えているが、それは彼らが自然にカムアウトできる時代になったから。子供たちの真のジェンダーを肯定してあ���なければ、彼らは間違った身体に入れられた心の苦痛に耐えきれず、自死を選ぶだろう」と言っているのだから。 日本では欧米で起きている子供たちに蔓延する熱病のようなトランス・ブーム、LGBTQイデオロギーに侵食された科学分野や医療業界、金儲けのために健康な子供たちを切り刻む医師、司法・行政・教育機関が一丸となって親から子供を引き離している実態などがまるで知られていない(にわかには信じ難い話で、まあ無理もないけれど)。 だから、クロエ・コールや他の何千という未成年のデトランジショナーがトランス治療に加担した病院や医療従事者を訴えている、と聞くと、「金目当てだろう、医者のせいにすんな」とか、「厨二病に罹ってバカを言った子供の責任だし、親もどうかしてる」とか、セカンドレイプにも似た被害者への罵詈雑言が飛び交う。 しかしそんな無知で傲慢な彼らのどれほどが、クロエや彼女の家族と同じ状況に立たされた時に後悔のない選択をできるだろう。医者や専門家という職業を信頼していれば尚のことである。 まるで他人事の彼らは、日本でも子供たちへのトランスジェンダリズム啓蒙、保護者からの引き離し(親に内緒で未成年児童をLGBTQユース団体に参加させるなど)、そして思春期抑制剤の推進なども起きていると知っているのだろうか。 画像 - トランスジェンダリズムに基づくトランス医療はエセ医学であり、欧米で今、デトランスした子供や若者たちが訴訟を始めているように、大きな巻き返しが起こって医療スキャンダルとして扱われる日が来る。 そう願って日々発信しています。 (終わり) さらに表示
Xユーザーの🇺🇸 🇯🇵Blahさん: 「クロエ・コールは12歳の時トランスジェンダー医療に引き込まれた犠牲者だが、その苦しみを全身に背負いながら同じ境遇の子供たちを救うため活動している。トランスジェンダリズムの闇にメスを入れるべく開かれた米国下院司法委員会の公聴会で、涙ながらにその全貌を語った。 以下、和訳と解説:… https://t.co/DRd2Vlbwfc」 / X
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トランプ大統領の2024年に向けて47の政策綱領 その1: 麻薬カルテルとの戦い フェンタニル、ヘロイン、覚せい剤、その他の致死性薬物が広大な国境を越えて流れ込み、何十万人もの美しいアメリカ人の命を奪っています。そして、それは私たちの歴史の中でかつてないほど起こっています。子どもたちは親なしで取り残されています。家族は引き裂かれています。コミュニティは破壊されつつあります。私たちの隣人や同胞たちは、世界全体を破壊されています。誰も考えられなかったような破壊です。私たちの国は、麻薬やその他の犯罪によって内部から汚染されています。 麻薬カルテルはアメリカに対して戦争を仕掛けています。そして今こそ、アメリカが麻薬カルテルに対して戦争を仕掛ける時です。この戦争で、ジョー・バイデンは米国とカルテルの側に立ったのです。彼らはこれまでの10倍以上のお金を稼いでいます。そのようなことは今までにありませんでした。彼らは大手の大手企業であり、私たちの最大手の企業の一部よりも規模が大きいのです。バイデンの国境���放政策は我が国に対する致命的な裏切りです。 私が大統領になったら、我々がISISとISISのカリフ制を打倒したのと同じように、そして今日我々が置かれている状況とは異なり、非常に強力な国境を持っていたのと同じように、カルテルを打倒することが米国の政策となるでしょう。実際、我が国の歴史の中で最強の国境です。そして麻薬の使用量は45年ぶりに減少しました。ほんの 2 年前に私たちがやったことは今までに無いことでした。私たちはカルテルには容赦しません。 毎日、麻薬密売人がこの地域の海域を利用して猛毒をアメリカに輸送し、多くの国民を殺し、家族を破滅させています。強力な国境警備を回復することに加えて、私はアメリカ海軍を含む必要なすべての軍事資産を配備し、カルテルに全面的な海上禁輸措置を課すつもりです。以前にそれを実行してうまくいきました。私たちがやったことは信じられないほど素晴らしかったです。私たちは、西半球の海域が我が国への違法薬物の輸送に利用されないことを保証します。 さらに、私は国防総省に対し、カルテルの指導力、インフラ、作戦に最大限の損害を与えるために、特殊部隊、サイバー戦争、その他の公然・非公然の行動を適切に実施するよう命令します。 私は主要カルテルを外国テロ組織に指定します。私たちは彼らの世界的な金融システムへのアクセスを遮断します。 私はまた、この地域の近隣政府との前例のないパートナーシップを築くために取り組んでいきます。私がメキシコでやったのと同じように。そして、メキシコだけでも推定10万人の民間人がこれらのカルテルの手によって悲劇的に殺害されたり、行方不明になったりしていることを思い出してください。メキシコ政府は、非常に優れた人物である大統領によって運営されており、懸命に取り組んでいますが、うまくいきません。これらのカルテルは悪質かつ暴力的で、今のところメキシコを妨害しています。そうですね、私たちはメキシコを助けなければなりませんし、カルテルを妨害しなければなりません。この脅威を阻止するために他の政府の全面的な協力を得るか、あるいはカルテルの残忍な統治を維持させているあらゆる賄賂、あらゆるリベート、あらゆる見返り、あらゆる汚職を暴露するかのどちらかです。そしてそれは実に残忍です。 最後に、以前にも述べたように、麻薬密輸業者や人身売買業者に死刑を確実に科す法案の可決を議会に求めます。 バイデン政権の麻薬カルテルとその同盟者たちは、数え切れないほどの数百万人の血を流しています。何百万もの家族や人々が破壊されています。私がホワイトハウスに戻ると、麻薬王や凶悪な密売人たちは二度とぐっすり眠ることはないでしょう。私たちは一度それをやりましたし、他の誰よりもうまくやりました。ほんの 2 年前ほど良い国境はありませんでした。それは強くて強力で、世界中で尊敬されていました。そして今、私たちは世界中で笑われています。そして、それをこれ以上放置するつもりはありません。私たちは引き継がなければなりません、タフでなければなりません、賢くなければなりません、そして公平でなければなりません。しかし、すぐに何かをしなければ、私たちの国は滅んでしまいます。 注)アメリカなどでは大統領経験者や大使経験者は退任後も「President 大統領」「Ambassador 大使」と呼ばれています。 なのでトランプ前大統領はアメリカではPresident Trumpと呼ばれます。オバマ元大統領もPresident Obamaと呼ばれます。 日本では前首相、元首相、前大使、元大使、と呼ぶことが多いと思います。
https://www.donaldjtrump.com/agenda47/president-donald-j-trump-declares-war-on-cartels
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指を切り落とす人々
備後国三次から二里ほど山奥に、三十軒ほどの家から成る村がある。 広島藩領内の村であるが、城下まで二十里はあるので、年貢米を収めるには極めて不便な土地であるため、年貢米は城まで運ぶのではなく、村近く山谷に建てた米蔵に収めることが許されていた。
あるとき、大蛇が出てその米蔵を荒らした。 蛇が米を食らう音があたりに響き、二、三日ほどで十石ほどの米俵が蛇の腹に消えた。 怒った村人は総出で蛇に攻撃を加え、最後には火をかけて焼き殺した。 すると、その日から村に奇怪な病気が流行り始めた。 老若男女拘わらず、鎌で自らの足の指を一本、また一本と切り捨てる。それが終わると手の指も一本一本切り落とす。鎌を使わず、指を一本一本噛みちぎる者もいた。 不思議なことに傷口から血が出なかった。 そして指二十本すべてなくなると、その人は死んだ。
大勢の者が奇行に走り、じきに村の人口は半減した。 その後も病人は続出、いよいよ全滅が危ぶまれたので、村人は三次の愚極和尚に助けを求めた。 弟子の僧は和尚に言った。 「これほどの深い恨み、容易には抑えることはできますまい。もし折伏できなければ、和尚様の名にも、我が宗派にも傷がつきます。村人たちは哀れではありますが、お断りになられた方がよろしいかと考えます」 しかし和尚は反論した。 「これは大いなる災いだ。個人の問題ではなく国家の問題である。これを救わずになんとする。それに御仏のご加護は必ずある」 和尚は村に出向いて、施餓鬼を行い、大般若経を読み上げた。 すると病気は治まり、村には平穏が訪れた。
以上は金福寺の松宗和尚から聞いた話である。 松宗和尚はこの施餓鬼の際、愚極和尚に従って現地に赴いた衆僧の一人なのだという。
(百井塘雨『笈埃随筆』巻之一 「大般若経の功徳」)
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番外編・みーくん生誕祭()お誕生日スペシャル🎂
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おはこんハロチャオ(*ΦωΦ*) みーくんです♪🐈⬛
みんな最近このパルデア顔面国宝イケメンの補給足りてないと思うので置いておきます(はァ?🐰)
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よい子のパルデアチャンピオン及びブルベリチャンピオンのみんなー‼️お久しぶり❣️✋😸🎶
諸々やっと落ち着いて今この記事を書く本日。
一応、近況を話すと昔からの仕事を勤める一方で、次に本腰入れたい仕事から貰った課題を熟すダブルワークみたいになっちゃってた➕諸事情で内科に罹ったりで何かしら絶対に予定がある日々が続き、悉く整った休日が取れない又は潰れてしまっていたのである。
そんな中、訪れてしまった2024年7月。
刻まれゆく初週、迎えてしまった誕生日…🍦
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て事で今回は貰った誕生日お祝いイラストを自慢したいだけの記事です。自慢させてください。そして見てください。見ろ。(なんだァ…コイツ…😅)
まず我らが主人公兼イケメンインテリヒロインことてゃ♡(シエル♡)こと鴨見 居たん🌼から貰った
顔面国宝イケメン大会優勝殿堂入り世界レベルイケメンチャンピオンのミーくん🐈⬛ですちょっと待ってくださいね
💥💥🌋🏩ドエロすぎ🏩🌋💥💥
おい‼️‼️‼️🥵😡🤬💦💦顔が〝良すぎ〟ない……カナッッ???😁💦❓❓❓❓❓❓おぢさん……そんな艶めかしい眼光に射抜かれちゃったら〝どうにか〟なっちまうョ……💕🥺💘💦💦あとさァ…❣️💦
🌋✋指先エロすぎ✋🌋
なんですかその手先は⁉️⁉️⁉️😭🥺😤何する気なんですか⁉️⁉️💢💢👺👺👺💢💢♥️♥️♥️💦💦💦こッ……こ、こここここの……いつもの四人グループのR指定担当がよォ💢💢💢(そんな担当あったっけ……❓😅💧)
これは貰った当時の新鮮な反応なのですが興奮し過ぎて気さくなジョークも挟んじまったよナ😋💦(お前もう二度と喋るな定期)
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余りの衝撃で歩くR指定のイケメンにばっか触れてますがハルトリゲル(ドヒドイデ)マジで上手すぎオブ可愛すぎ🪸💘🥹💕おめめ光ってるの好き過ぎ✨️💕
そんでもって背景に咲く薔薇🌹がさァ……❣️またこの絵に漂う🏩妖艶なムード🏩を後押ししてて堪りません……お前誘ってんのか……?どうすんだよ……ッ!
首元の衣服から覗いてる喉仏もエロ過ぎんだろ……ッ!!どうすんだよ……ッ!!!どうしてくれんだよ……ッ!!!!
めちゃエロエロ書いてるけどこのtumblrBANされたらどうしよう😅その時はカラダで払ってくださいね(最悪)
この男の同人誌待ってます。
(大変ド真剣な眼差し)
そんじゃ次いってみよー⸜︎🐣⸝
関西が生んだ奇跡のド天然神絵師こと皆大好きおむ♡(タマ♡)ことオムライス🐣から貰った
超有名ホラーゲーム・ポピ.ープレイタ.イム発祥である伝説の絶滅危惧種カップリング・デイナプちゃんです🐶🐱
天使が二匹⁉️❣️😫❣️⁉️わたあめみたいな優しい色味が可愛すぎ〜🥹✨️🌷おむの絵柄も相俟って癒し系ふわふわ空間になっており、先程まで邪(よこしま)な言葉ばかり紡いでいた俺の穢れきった心が浄化されるゥ〜〜⤴︎︎⤴︎︎⤴︎︎💦😇⛪️🌸
まるでホラゲ版シルバニアファミリーのような愛しさと安心感。漫画の構成も見事なもので嫉妬しちゃうドッグデイとムニュッとお口塞がれちゃうキャットナップ……激kawaiiね……🥹🙏💕ぐるぐる巻きにしてるのも束縛する程の〝愛〟を感じて尊い……💓🤦♂️
デイナプ……?🧐なっ……何ですかソレは…⁉️となっているアナタに簡単な説明をすると、
【 ⚠️ 以下ゲームのネタバレ注意 】
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ドッグデイくん🐶とキャットナップくん🐱は写真でハグし合う程の親友でしたが、キャットナップはドッグデイと出会うよりも前に瀕死の重症を負う大事故に遭っており、その時に助けてくれたプロトタイプ✋(おむの絵にもいる鉄製の爪みたいなヤツ)に対し強すぎる恩義と盲目的な信仰と忠義を抱き慕っていた。
後にプロトタイプが起こすオモチャ工場内の人間🟰従業員皆殺し計画にもキャットナップくんは加担。それに反対し抵抗したドッグデイくんや、その仲間たちは捕えられてしまう。その後に恐らくプロトタイプの命令からキャットナップはドッグデイ達を地下の牢獄に閉じ込めて拷問。その過程でドッグデイ以外の仲間は死亡。
月日は流れ十年後、ゲームの主人公がドッグデイの元に訪れるが僕は手遅れだと主人公を諭し、激励するドッグデイ。しかしそれを良く思わなかったキャットナップからの指示を受けたオモチャ達が彼を襲い体内に侵入し蹂躙。そのまま身体を乗っ取られたドッグデイは主人公を追いかけ回した後に死亡してしまう。
ちなみに、このチャプターではラスボスであるキャットナップも主人公との死闘の末、最終的には自分の命の恩人であり忠誠を誓っていたプロトタイプから直々に手を下され死亡してしまう。もうちょっと書くと、ドッグデイ、キャットナップは元々孤児院にいた人間の子供であり被検体にされた過程で作品上の姿になっている。
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というのが大まかな彼らの流れなんですけど全ッ然ッ簡単にも簡素にも書けてない。すみません😸💦
そして大抵の人が思ったであろう、
コイツらのカップリング要素は何処なんだ?と…
主流なのはナプデイだしネ🥹💦ただ聴いてください…!キャットナップくんはプロトタイプに陶酔する以前は大人しくて恥ずかしがり屋(重要)な男の子だったんです…ドッグデイくん至っては最期まで光属性で且つ活発でリーダー的存在でした。
もう分かりましたね。
僕は光の包容力攻め×闇の大人しい子受けに滅法弱いのだ😭🙏🐶🐱😨
お.そ松だとカラ一、弱ペ.ダだと石御が同人誌買い漁るほど大好きだったと言えば極一部の人は理解してくれる、ハズ(小声)
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そんなこんなで❣️かなり脱線しましたが俺の好きなCPを最高に可愛く、持ち前の癒しオーラをフル稼働して描き下ろしてくれたおむちゃま…♡🥹💘🐣🌷
🐣🌷A☆RI☆GA☆TO☆🌈🐣
オリゴ糖(ボソッ…)(なに?😅)
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趣味の方の近況報告だと最近のみーくんはTOP4の動画ばっかり見てます。面白いです。レトさん最推し🦀レトセトラ当選したから遊びに行くよー‼️🚃🐈⬛💨
あと彼ら見てて思うのが、仲の良い友達同士が集まって遊ぶのってやっぱ良いな〜と、つくづく。
性別違えばてゃおむけーちゃん誘って四人実況撮ったりしてた未来があったのかもしれん。なんつって🤪
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(2024/07/09) 🎋🐈⬛
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星の王子さまの赤いバラのごとく、恋人をこの世で唯一の男のように思っていたが、勘違いだったということにしよう。唯一無二だと思うから、寂しくなったり、怖くなったり、悲しくなるのだ。彼とは結婚するかもしれない。けれど、あと3回は結婚して、3回は離婚して、死ぬ時には誰かの内縁の妻になっているのもいいかもしれない。彼と離婚して、また結婚することもあるかもしれない。今この瞬間に、最愛であるのが彼なだけでその先はわからない。この先のわたしの人生、幸せになるために結婚するし、幸せになるために離婚しよう。そんな些末な悪事を抱きながら、恋人の腕の中で眠ろう。死別なのか離別なのかわからない、どんな将来が待ち受けていようとも、今、彼と一緒にいることを選んでいる。選び続けている。愛なんてそれだけで十分だ。
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【かいわいの時】天保八年(1837)二月十九日:大坂町奉行所元与力大塩平八郎決起(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
難波橋を渡った大塩軍は、二手に分かれて今橋筋と高麗橋筋に進みます。森鴎外の『大塩平八郎』には次のように描写されています。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇(むら)がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は倅格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衛門、同く庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城桝屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔(など)は、一々方略に取り極きめてあつたので、ここでも為事(しごと)は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着つけられる限の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔まいてあつた。(七、船場)
この時の模様は、被害に遭った商人側でも詳細な記録が残されており、たとえば、三井文庫所蔵の史料「天保七年 浪速持丸長者鑑」(写真=コメント欄)には、焼き打ちされた商家に赤線が引かれています。ランク順に並べてみると
鴻池善右衛門(総後見)、三井呉服店(行事)、岩城呉服店(行事)、米屋平右衛門(東小結)、鴻池他治郎(西小結)、鴻池正兵衛(西前頭)、米屋喜兵衛(西前頭)、日野屋久右エ門、炭屋彦五郎、米屋長兵衛、甥屋七右衛門、和泉屋甚治郎、鴻池徳兵衛、長崎屋与兵衛、米屋与兵衛、泉屋新右衛門、紙屋源兵衛、小西佐兵衛、越後屋新十郎、よしの屋久右衛門、大庭屋甚九郎、昆布屋七兵衛、さくらいや八兵衛、平野屋喜兵衛、某
など、25商(店)の名前があがっています。今橋筋、高麗橋筋の商家は軒並み焼き打ちに遇っています。肥後橋の加島屋久右衛門(西大関)はコースから外れていたため難を逃れたようです。
(写真)「天保七年 浪速持丸長者鑑」1837(公益財団法人 三井文庫蔵) 相撲の番付表のように商人をランキングした表で、大塩の乱で被害を受けた商家に赤線が引かれている。三井、鴻池などが被害にあっていることがわかる(三井広報委員会)。
また、諸家の記録から、事件当日の様子や対応策、その後の復旧策を見てみると
(鴻池家)加島屋某筆とされる『天保日記』(大阪市立中央図書館所蔵)では天保八年(一八三七)二月十九日、火見台から望見して「鴻池本宅黒焰大盛二立登、其恐懼シキ事不可云」、幸町別邸めざして落ちのび、そこで加島屋某らが「鴻池於隆君・勝治・和五郎」らと無事出あうところが生々しくえがかれている。和泉町の鴻池新十郎家の記録 『北辺火事一件留』(大阪商業大学商業史資料館所蔵)でも、鴻池本家当主の善右衛門が土佐藩邸、長音は泰済寺、そのほか瓦屋町別荘などへ逃げ、鴻池深野新田農民をガードマンとして急遽上坂させるなど、その被害状況や防衛対策が丹念に記録されている。
(三井呉服店)三井では、同日三郎助高益(小石川家六代)が上町台地の西方寺に避難し、「誠に絶言語、前代未聞之大変にて」と、 ただちにレポを京都に送り、木材・釘・屋根板・縄莚などをすぐ仕入れ、はやくも三月八日に越後屋呉服店大坂店の仮普請完成=開店している様子が詳細に記録されている。(コメント欄参照)
(住友家)住友家史『垂裕明鑑』には、大塩事件のまっただなかで、泉屋住友が鰻谷(銅吹所その他)から大坂城にむけて鉛八千斤(弾丸)を三度にわけて必死で上納運搬したこと、事件による住友の被害として、「豊後町分家、別家久右衛門・喜三郎掛屋敷の内、備後町・錦町・太郎左衛門町三ケ所延焼」に及んだこと、そして住友の親類の豪商としては、「鴻池屋善右衛門、同善之助、平野屋五兵衛、同郁三郎」家などが軒並み“大塩焼け”で大きな被害をこうむったこと等々が、 生々しく記されている。
三井家では、享保の大飢饉の後に起きた江戸における打ち毀し(1733年)に衝撃を受け、以後、食料の価格が暴騰すると近隣に米や金銭を配って援助したり、また飢えた人々に炊き出しをしたりするなど、三都(江戸・京都・大坂)において施行を継続しています。それが、大塩平八郎の乱では標的にされ、襲撃された大坂本店は全焼、銃撃による負傷者まで出るほどであったと伝えています(三井広報委員会)。
儒学者の山田三川が見聞きした飢饉の様子や世間の窮状を日記風に書き留めた『三川雑記』には、乱の前に大塩は鴻池・加島屋・三井の主人らと談じ、富商十二家から五千両ずつ借りれば六万両となり、これで何とか八月半ばまでの「飢渇」をしのげると、「しばらくの処御取替」を依頼していたとあります。同意した加島屋久右衛門は襲われず、三井と鴻池は反対したため焼き打ちに遭ったとも言われています(山内昌之)。
ただし、『浮世の有様』の天保八年雑記(熊見六竹の筆記)には、この話は「或説」として取り上げられており、それによると、「十人両替へ被仰付候処、町人共御断申上候筋有之」とあります。三井はもちろん、鴻池や加島屋にも記録はなく、風評の域を出ないものと思われます。
(参考文献) 中瀬寿一「鷹藁源兵衛による泉屋住友の “家政改革”-大塩事件の衝撃と天保改革期を中心に-」『経営史学/17 巻』1982 三井広報委員会「三井の苦難(中編)」三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.39|2018 Summer 山内昌之「将軍の世紀」「本当の幕末――徳川幕府の終わりの始まり(5)大塩平八郎の乱」文芸春秋2020 山田三川『三川雑記』吉川弘文館1972 矢野太郎編『国史叢書 浮世の有様』1917
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