#北宿並木一本松跡
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悠閒漫步於高萩市區,能以不一樣的視角發掘這片土地的歷史,在街道之處有著滿滿德川家康的歷史軌跡,更是高萩市指定文化財的「北宿並木一本松跡」!
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)3月15日(金曜日)弐
通巻第8176号
明日(3月16日)、北陸新幹線が金沢から敦賀へ延長
福井県は観光と経済活性化の期待に湧いている
*************************
北陸新幹線は日本海沿岸の糸魚川(新潟)から富山、金沢を通り、若狭と越前の境にある港町・敦賀まで延長される。『古志の国』の再現だ。
敦賀駅は新幹線駅で最高位の三階建て、駅前は商店街が整備され、あちこちに歴史的な遺物やら銅像、記念館がならんで観光客を待ち受けている。気比神宮から金ケ崎城跡は後醍醐天皇の御代の激戦地、信長潰走のおりは明智光秀が鉄砲隊を組織してみごと殿軍を務めた。
松原海岸から南へ歩くと、水戸藩の武田耕雲斎以下の天狗党を祀る松原神社、このあたりに渤海使をむかえた迎賓館があった。敦賀は観光資源に恵まれているのである。
筆者、古代史最大のミステリーのひとつである応神天皇、そして継体天皇の取材を数年つづけているため何回も訪れてはいるが、訪れるたびごとに新しい発見がある。
記紀では応神天皇が武内宿弥に連れられて禊ぎに気比神社へ赴き、地元の神と名前を取り替えた。なぜ?
気比神社は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀るが、猿田彦と竹内宿彌もちゃんと祀られている。敦賀の応神を祀る神社のほぼすべてで、武内宿彌を祀っている。その謎を解明するために現地の稗史を調べているのです。
継体天皇は三国に育ち、坂井市にある『天皇宮』に大和朝廷からの使者、大伴金村と物部荒鹿火を迎えた。その近くには執務した高向宮跡がある。また謡曲「花かたみ」の舞台と想定されるのが越前市の「花かたみ公園」と味真野神社。そこから奥へぐんと這入り込むと五星(ごおう)神社がある。応神から継体までの五代をまつる神社だ。このあたりが「文室」(ふむろ)とよばれるのは継体天皇の学問所があったとされるからだ。
脱線すると能の『花かたみ』は各地の能舞台で演じられるが、ことしは3月17���に長野で催される。残念ながら筆者、先約とかさなって鑑賞に行けない。越前郊外の味真野神社境内には、この能を再現する継体天皇と越前妻とが並ぶふたりの銅像が建立されており、王冠は金で輝いていた(それにしても駅から遠いです)。
脱線すると雇ったタクシーは日産EV。『タクシーの電気自動車は初めて』というと運転手は「寒いから暖房を入れると電池の消耗がものすごい」と愚痴をこぼした。
新幹線のはなしに戻すと福井駅前には「ふくみち」として商店街が整備され、武生駅は従来線駅よりかなり遠い田圃の真ん中に「越前たけふ」駅が新装されていた。
沿線にはカメラマンがズラーリ、最後の従来線の車両と新幹線の一番列車を撮影しようと全国から鉄道ファンがあつまって壮観だった。彼らには応神、継体天皇に興味はない。
さて糸魚川、富山(射水)、伏木、倶利伽羅峠、加賀の小松、そして坂井市の称念寺、敦賀気比神宮と、それぞれに芭蕉の句碑が建立されている。『奥のほそみち』は『古志のほそ道』であったというのが筆者の持論である。(拙著『葬られた古代王朝・高志国と継体天皇』、宝島社新書を参照。古志は「高志」、または「越」とも書きます)。
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((( 演目事典より )))
越前国味真野(現在の福井県越前市味真野町周辺)に、応神天皇の子孫である大迹部(おおあとべ)皇子(男大迹皇子、男大迹邉皇子とも表記)が住んでいました。皇子は武烈天皇より皇位を譲られ、継体天皇(450~531)となり都へ旅立ちました。帝は味真野にて寵愛していた照日の前に使者を送り、手紙と愛用した花筐(はながたみ:花籠のこと)を届けます。出先で使者を迎えた照日の前は、天皇の即位を喜びながらも、突然の別れに、寂しく悲しい気持ちを抑えられず、手紙と花籠を抱いて、自分の里に帰りました。
大和国玉穂の都(現在の奈良県桜井市池之内周辺)に遷都した継体天皇は、ある秋の日、警護に当たる官人らを引き連れて、紅葉見物にお出かけになりました。そこに照日の前と花籠を持った侍女が現れます。彼女は天皇への恋情が募るあまり、狂女となって故郷を飛び出し、都を目指して旅をしてきたのでした。狂女・照日の前が、帝��行列の前の方に飛びだすと、官人が狂女を押し止め、侍女の持つ花籠をはたき落します。照日の前はこれをとがめ、帝の愛用された花籠を打ち落とす者こそ狂っていると言い、帝に逢えない我が身の辛さに泣き伏してしまいます。
官人は帝の命令を受けて、照日の前に対し、帝の行列の前で狂い舞うように促します。照日の前は喜びの舞を舞った後、漢の武帝と李夫人との悲しい恋の顛末を物語りつつ、それとなく我が身に引き寄せて、帝への恋心を訴えます。
帝は、照日の前から花籠を受け取ってご覧になり、確かに自分が愛用した品だと確認し、狂気を離れれば、再び以前のように一緒になろうと伝えます。照日の前は、帝の深い情愛に感激し、正気に戻ります。この花筐以降、「かたみ」という言葉は、愛しい人の愛用の品という意味を持つようになったと伝えられています。かくして二人は、玉穂の都へ一緒に帰っていくのでした。
(( 以上ご参考までに )))
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾ��チツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒���包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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五浦(いづら)海岸
2023・12・24
茨城県の北端、五浦海岸は松林越しに見える断崖絶壁に太平洋の荒波が打ち付ける景色がそのまま絵になる場所
そこに日本美術史の師と言われる岡倉天心が後年住居とした「天心邸」が現存している。横山大観、木村豊山、菱田春草、下村観山の4人の弟子と海に向かって一列に並び絵を描いている写真は有名
岸壁の突端に建つ「六角堂」は天心遺跡のシンボル。中国、インド、日本の伝統思想が一つの建物で表現されているのだとか。東日本大震災で全壊した後、新たに復元された
六角堂から見える白い建物が今回宿泊した「五浦観光ホテル」 何処からも海が見えるホテル内部の様子は明日
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【半年記事】
8/1 第一次自己拖著那麼重的行李去到離家八千多公里的地方
8/2 第一次一個人在國外叫Uber
8/3 第一次和剛認識的女生一起煮飯
8/4 挪威的寒冷和風雨、第一次自己去學校處理行政
8/5
8/30 第一次在挪威看影展
8/31 第一次在挪威看露天電影
9/2 第一次在挪威吃挪威菜
9/7-12 Bergen+挪威縮影(第一次離開Oslo旅行)
9/7 第一次坐夜車
9/8 到Bergen
9/9
9/10 Voss,跟外國人在青旅聊天
9/11 Norway in a nutshell
9/12 第一次在挪威進行小組討論
9/16-21 英國🇬🇧旅行
9/16 第一次一個人搭飛機離開挪威、第一次接近半夜還走在倫敦街頭
9/22第一次搭奧斯陸地鐵末班車、第一次參加卡拉ok之夜
9/23 第一次凌晨還和朋友走在奧斯陸街頭
9/26 第一次在國外過生日
9/30 在奧斯陸中秋烤肉
10/4 地鐵上被一個時尚老奶奶叫住,被稱讚了帆布袋還介紹我一些酷展覽和藝術家
10/8第一次嘗試去松恩湖看極光(晚上接近零度超級冷)沒看到極光但有很多星星
10/9第一次和日本女生們一起吃飯
10/10 第一次和香港鄰居煮飯
10/11 在vigelandsparken看紅葉🍁、晚餐韓式火鍋
10/12 去Skam平安夜的教堂、和舊書店的老闆聊天
10/15 飛往巴塞隆拿
10/15-17 巴塞
10/21 第一次坐夜巴(後座的阿嬤超雷)
10/18-21 馬德里
10/20 托雷多
10/24 夜巴+火車
10/25 從巴塞隆納機場櫃檯check in的時候承辦小哥對我說中文ㄏㄏ(因為他女朋友上台灣人)
10/28 半夜在松恩湖散步超級冷
10/29 去斯德哥爾摩、第一次住別人的宿舍
斯德哥爾摩小發現:帥哥好多、衣品超級好(都會穿大衣)、物價比奧便蠻多的、交通很乾淨
(以後如果有機會我會想在這個城市居住)
10/30 地鐵巡禮超空虛、又把傘弄丟(而且還錯過奧斯陸的雪again)
10/31 跟相機店的韓國瑞典混血老闆聊天、自己在斯德哥爾摩city walk、下大雨、還鑰匙的時候有聊天、學下西洋棋、在青旅被大家圍觀西洋棋並且和一個很愛道教的倫敦人聊天+下棋♟️
11/1 又把傘弄丟⋯、看到斯德哥爾摩下雪❄️、自己在斯德哥爾摩遊蕩、晚上第一次看到奧斯陸下雪
11/2 第一次走在雪雨當中(好啦或許以前在上海的時候有過)
11/4 和內向團約飯吃義大利麵🍝
11/5 和I N去咖、和去了I家(第一次去到挪威人的家
11/7 去學生宿舍酒吧聽團但偏廢
11/8 和I N E一起去玩(去了公園、市區、看到聖誕市集搭建和遊行)
11/9 玩解密遊戲(被路人小姊姊稱讚褲子,這是第二次了第一次是在碼頭邊被問項鍊哈哈)、把《進擊的巨人》動畫最後看完了(這幾天都��重看,從最終季
11/10 日本文學最後一堂課、第一次在圖書館借書
11/15 在飛丹麥的飛機上、丹麥國立美術館超厲害(哥本哈根根本藝術之都、北歐的驕傲)
11/16 哥本哈根暴風雨還超冷
11/17 和LJE一起去路易斯安那美術館、晚餐被義大利老闆請冰淇淋(他還一直送飛吻)
11/18 哥本哈根成功用晴天挽回我的心、走在介紹遇到L和他男友、和L坐在奶茶店聊天(他還請我半杯飲料)、晚上在青旅和喝醉的挪威人下西洋棋
11/19 自己一個搭飛機到巴黎、坐夜巴、一個好心的黑人阿嬤帶我找到地鐵(原本還很擔心她是不是壞人)
11/20 自己一個人逛巴黎(羅浮宮)、逛完以後買了春陽茶室(超級好喝)跟吃了可麗餅(非常厲害!!)、走路經過聖母院(旁邊就是塞納河)、去了聖徒禮拜堂以及巴黎古監獄、出來之後下雨了、走莎士比亞書店買帆布袋、晚上晃去中式餐廳打包
結論:巴黎好像也沒有想像中危險
11/21 一個人逛奧賽(歐洲最愛的美術館、逛了六小時配導覽超滿足)、晚上和他們會合看了點燈的巴黎鐵塔
11/22 蒙馬特晴天超美、羅丹
11/23 橘園略失望、畢卡索美術館沒太多作品、龐畢度沒逛完、晚上住一個女生的沙發(在去的公車上遇到怪阿伯
11/24 自己一個人一大早從巴黎郊區去戴高樂、機場人員好有趣看到我拿居留證就跟我you don’t need that Taiwan have passport to go to everywhere 、晚上在超市看到一個超級無敵帥的帥哥
11/25 和香港室友一起去買褲子跟逛聖誕市集、第一次看到極光(在宿舍煮飯煮到一半出去陽台就看到了!)、晚上去結冰的松恩湖看極光 超級大還有紅紫色的
11/26 在奧斯陸的小島上看到狐狸(超級有靈性⋯⋯)
11/27 Tromso D1、在飛機上就被粉色的天空和雪山嚇到)下飛機直接驚呼、粉色的世界和顏色異常美麗的海面、很快就天黑了(極夜)、吃了好吃餐廳、走北極大橋和一段很冷的山坡、晚上搭纜車上山+爬一點點雪山(🥵有個很像鳥居的桿子配上月光非常神聖)、人生最冷但也最美的��天
11/28 出發找鯨魚看到大片雪山(上面還有月亮),看到虎鯨群和座頭鯨(太奇妙了⋯⋯好想哭)、更冷了(-13度)
11/29 Tromso第三天看到湖、山、海、天空,一邊日出一邊日落的景色真的魔幻到不行、結冰的湖上吃好吃洋芋片和弄雪天使、後面的雪山和月亮和粉色月亮是我這輩子見過最美的景色、後來去到海邊、一望無際無比美麗(但好冷)、買了最北邊的飲料、有悠哉哉結果回程差點趕不上飛機(一路上如果有任何環節出差錯就完了
12/2 去I的小木屋、在結冰的湖上喝熱可可、煮韓式火鍋和🧋、晚上躺在-13度的湖上看星星(星星超級無敵多⋯⋯天空好大世界好大 超感動⋯)
12/6 一早終於交出期末報告、晚上搭飛機去克拉科夫、下雪❄️
12/7 早上錯過集中營的火車(幸好後來售票人員好心幫我們換導覽時間)、大雪中的集中營一場淒涼哀傷帶入感超級強、晚上去聖誕市集溜冰(來歐洲第一次⛸️!!我意外的很快就上手雖然溜的不快)
12/8 吃了超級厲害的早午餐(帕尼尼)、教堂和紡織會館很美(買了手套)、經過一家酷書店買了小小書、去看了一個博物館裡面有西概封面喔、晚上逛街
12/9 吃超級飽的早午餐、去了瓦維爾城堡(整區超級大),在遊客中心前面歐洲第一滑倒(P還說有個帥哥來關心我可惜我囧到無視了),教堂美到不行爬鐘樓也好有趣(是我目前最愛的歐洲教堂)、結束之後去看了當代(蠻酷的)、然後買下長羽絨跟雪靴
12/10 早上去辛德勒博物館、結束之後去紡織會館二樓看畫(意外的很厲害)、在很好吃的聖誕市集買了超巨肉串(但燒焦)、接著坐計程車(因為我們又錯過車^^)去維利奇卡鹽礦,裡面超級像魔戒的(最深有到130公尺喔!)、回市區吃了好吃義大利麵、晚上自己去逛聖誕市集和吃一間酷咖
12/11 早餐去酷店吃早午餐、今天都在猶太區晃、自己跑去另一家咖吃蛋糕、看了猶太隔離區的牆、晚上飛機延誤了兩個多小時、最後一次飛回奧斯陸
波蘭行結論:真的是寶藏城市(帥哥也不少ㄛ
12/12 錯過北一120年校慶了嗚嗚嗚、今天都沒出門 在宿舍煮飯洗衣
12/13 要離開奧斯陸前的最後一個禮拜和第一個禮拜一樣,生了場來勢洶洶��病、下午去Ingrid家做聖誕餅乾,還一起玩了牌(甚至是大老二、離別有點感傷,因為是最後一次了
12/17 最後一次去松恩湖、和香港鄰居一起溜冰(我有溜起來而且沒有滑倒ㄛ
12/18 和香港朋一起還冰鞋
12/19 昨天收行李收到早上才睡一小時、11:00要真正地離開奧斯陸了、到赫爾辛基!、晚上的時候見到林涵
12/20 為了行李來來回回幸好最後有成功、人生第一次搭臥鋪列車
12/21 聖誕老人村坐哈士奇雪橇(好玩!)但老人村本身很無聊
12/22 在羅瓦涅米市區逛
12/23 吃麥當勞(曾經的最北的)
12/24 淚灑維也納火車站
12/25 自己逛維也納、好冷
12/26 從維也納去布拉格,自己搭了Uber、在火車上根本大型路障、到青旅的時候發現住宿時間訂錯訂成一月差點嚇哭(幸好有換成功還免費、但德勒斯登的就要加錢)、布拉格第一天喝了一杯台幣100初的珍奶以及吃宮保雞丁
12/27 早上去郵政總局寄掉15公斤行李(過程超狼狽)、下午和J一起逛市區、聖誕市集肉串好吃、在查理大橋上巧遇在柏林工作的C一起走了一陣、晚餐吃豬肘
12/28 待到11.才退房、去了很廢的穆夏博物館、一個人坐車到德勒斯登
12/29 自己逛德勒斯登、在美術館遇到氣質帥哥、在聖誕市集被中國男路上搭話、晚上誤入聖母大教堂管風琴表演(有唱詩班)、吃了台灣料理還外帶便當跟珍奶好爽
12/30 5.起床搭車去柏林、第一次出去玩還煮飯洗衣、晚餐跟芬蘭行的X吃中式餐(第一次在國外認真吃合菜!)、第一次在國外失去網路還大迷路(最後跟路人借網路才成功回家⋯⋯
12/31 第一次跟跟認識的台灣人在柏林跨年(但好可怕)、夜不歸宿、又一次網路壞掉
1/1 第一次出去玩結果睡了幾乎一整天
1/2 猶太人博物館、舊國家美術館、和布拉格認識的女生C一起吃晚餐
1/3 和C約去愛樂但撲空、下午逛了恐怖地形圖、晚上和C吃韓式
1/4 一大早趕去中央車站搭車前往漢堡、又地鐵50分鐘才到宿舍、在火車站被怪男纏住強制幫忙嚇死、給鑰匙的女生陪我出門、去漢堡美術館看到很多厲害的畫
1/5 睡到V下午來才出門、去了港口邊和隧道覺得超級適合玩生存遊戲、晚餐吃了酷長堡(?
1/6 漢堡下大雪(很討厭的那種細雪)、中午後才出門、去了易北愛樂看風景(都是白茫���一片,雪在跳舞!)(搭電梯上去那一段很像仿生世界?)、在路上亂晃風雪真的好大、去了二戰被炸毀過的教堂,搭很高的電梯(教堂在大學中好適合古代遺跡那種影戲??)、晚餐和高中同學Y一起吃韓式料理(炸雞好吃)
1/7 從漢堡搭火車到阿姆斯特丹(雪地超級難拖)、火車擠到不行我甚至沒辦法去到我的座位(最後被塞到家庭包廂超尷尬)、出車站看到完美的日落(阿姆斯特丹是大晴天!!)、晚餐吃了港式燒臘
1/8 早上去了梵谷博物館、中間在市集晃但超冷(買了一杯不好喝的珍奶)、晚上去安妮之家(買了博物館卡貴死)
1/9 早上發現天氣超級���於是頂著冷風在市區拍照、又喝一杯珍奶才去國立博物館、看完出來後天氣依舊超級讚、吃了個熱狗堡、晚餐去吃歐姆蛋和小鬆餅、青旅來了兩個中國女生
1/10 臨時決定去羊角村因為今天天氣超級好、但坐火車的時候各種波折(第一趟搭一半被趕下車,後來要轉的車又被取消)、羊角村淡季沒什麼人然後運河都結冰了!、路上遇到的印度大叔請我和另一個台灣女生午餐和晚餐(後面一起玩)、晚餐吃泰式、一整天都好冷、晚上要回青旅的時候還發現渡船碼頭壞掉:)只好多走半個多小時
1/11 去了攝影博物館和朗伯特之家(都偏無聊)、天氣陰陰的而且沒有風大麻味很重、晚餐和昨天認識的台灣女生約荷蘭料理(店員超有趣哈哈哈)
1/12 從阿姆斯特丹坐火車到海牙、海牙乾淨多了、一開始電車還坐錯、下午吃了拉麵、晚餐吃泡麵
1/13 去看珍珠耳環少女(但博物館好小)、然後逛街、晚餐煮辛拉麵
1/14 鹿特丹一日遊、天氣好差沒去小孩提防
1/15 從海牙坐flixbus到布魯塞爾(車子晃到很想吐)、沿途荷蘭跟比利時都下大雪
1/16
1/17
1/18
1/19
1/20 結束一個人獨旅和媽媽在法蘭克福會合、去到紐倫堡、晚上聽了歌劇但只聽一半
1/21 羅騰堡一日遊、爬城牆好好玩、廣場看到一隻肥貓
1/22 從紐倫堡坐火車到慕尼黑、去了慕尼黑王宮、晚上突然怪風+下雨、晚餐吃了超級好吃的豬肘!厲害了!!
1/23 去了新天鵝堡但天氣不大好
1/24 海德堡
1/25 科爾馬、晚餐吃了好吃法餐
1/26 在德法瑞邊境城市巴塞爾
1/27 蘇黎世快閃+去到因特拉肯再���住宿小鎮
1/28 今天上少女峰(歐洲最高!!!)
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『犬王』舞台巡り【山陽道編】
友魚の旅路/平家都落ちルートも巡りたいよね、という記録です。関西在住・北部九州出身なのでこの経路なんてもう数え切れんほど往復しているが視点を変えるだけ��こんなにも新鮮な旅ができるってすごいなあと思う。
行った場所:腕塚(腕塚堂・腕塚神社)/草戸千軒町遺跡/厳島神社/花岡八幡宮/壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか
腕塚(兵庫県神戸市・明石市)
腕を埋めて腕塚。一の谷の戦いに破れ西へと落ちゆく途中で非業の死をとげた平忠度の腕を埋めたと伝えられる"腕塚"は神戸市長田区駒ヶ林と明石市天文町の2箇所にある。え どゆことじゃ?と思ったけど知りたいこと全部書いてある論文ありました(大坪舞2008「祭祀される忠度の腕ー伝承を引き寄せる場をめぐってー」『論究日本文学』88)。こちらを参考にすると、そもそも忠度死地は『平家物語』でも史実でも絞り込めない。両地の忠度伝承は、駒ヶ林は17世紀後半(腕塚そのものは19世紀)、明石は17世紀初頭(腕塚は17世紀後半)までは遡れそう、とのこと。
駒ヶ林の腕塚は一の谷からちょっと東に位置。地下鉄海岸線駒ヶ林駅が最寄り。長田港に面する民家に囲まれて"腕塚堂"がある。細い路地に入っていくけど看板や標石があるので迷いはし��いと思う。ガレージみたいなお堂。北西に忠度胴塚もある(こっちは看板少なくてわかりにくかった。伍魚福さんの隣)。
明石の腕塚は一の谷から西へ10kmほど離れる。山陽電鉄人丸前駅下りてすぐの"腕塚神社"。神社といってもお堂はごく小さい。木製の腕は地元の彫刻家の方が奉納されたもので、これで患部を撫でるとよくなるとか(境内においてあった「腕塚神社縁起」より)。東南に忠度塚と忠度公園もある。駅をはさんで北の丘陵にある人丸神社は柿本人麻呂を祀るが、境内に"盲杖桜"があり目の見えない人とのゆかりが深い。このへんからは明石海峡と行き交う船たちがよく見えます。
当たり前ですが京都とは全然景色が違っている。南が海、北が山。海を眺めていると友魚としてはこのへんまでは始めて来た場所であっても(見えなくても)"知ってる景色"なんだろうし逆に平家の人びとにとっては都を落ちて流浪の身になってしまったことを思い知らされる景色なん��ろうなと思う。
どちらの腕塚も、いまも地元の人に愛されているのが伝わってくるたたずまい。腕塚が複数箇所にあるの、後世の人たちが"物語"を求めた結果だと思うのでそんな人間の営みが愛おしくなります。
草戸千軒町遺跡(広島県福山市)
直接の舞台ではないのですが、湯浅監督がふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立博物館)の街並み復元模型に言及されていたので。博物館では中世の人々の生活に関連する出土品を沢山見られる。本編で町の人たちが持っ��て印象的な曲物の容器もいっぱい並んでる。
草戸千軒町遺跡は当時の海岸線で芦田川の河口付近にあった中世の港町。友魚と谷一さんも寄ったかな?と思っていたのですが、拠点的な大都市というわけではないようなのと、どうやら14世紀後半は一時的に町が衰退していたようなので寄ってないかもしれません。友魚が魚をほぐしているシーンはまだ広島らしいので(オーコメより。広島を2年もまったり旅していたのはちょっと謎)、このあたりかなと思っていたのですが、お金持ちがの人がいるのは尾道とか鞆とかかな。
遺跡現地は博物館から西南約2kmに位置。調査後に掘削されあとかたもありませんが、法音寺橋に説明板が設置されている。橋を渡って芦田川の右岸には草戸稲荷神社と明王院(常福寺)がある。明王院は本堂が1321年、五重塔が1348年に建てられたものなので、友魚たちが見たかもしれない建物がそのまま残っていることになる。明王院入り口付近の石垣にはひょうたん形の石が組み込まれている箇所があり(現地に説明板あり)、犬王ポイント高いように思います。
厳島神社(広島県廿日市市)
あれに見えるは厳島(ここでお社は映さないの超好き)。斎き島=神様をお祀りする島 として古くから信仰されてきた。1151年に安芸守となった平清盛は厳島神主家の佐伯氏と関係を深め、12世紀後半に海上の社を造営。その後何度か建て替えられているが、主要な建物の配置は基本的には変わっていないらしい。特に印象的な回廊は、現在のものは永禄~慶長年間(1558~1615)の���建。作中の回廊は、1241年に再建され、1537年に焼けたものにあたる。
干潮のタイミングで訪問したので、社殿が建ってるベースとの距離感がわかってよかった。友魚が落ちちゃっても自力で這い上がれそうな深さで安心(海の子なので心配には及ばないんだろうけど)。社殿が海に浮かんでいる姿が見られなかったのがかなり残念だけど、昼に干潮だと夜に満潮になる、という関係が理解できた。
大鳥居は改修中だったので足場が組んであり近くまで行けず。でも社殿の柱にもフジツボいっぱい付いてるのが確認できました。大鳥居も何回か建て替えられていて、現在のものは明治期の再建。1325年に2代目が倒壊してから1371年に3代目が建てられるまで空白期間があるので、友魚訪問時(1360年代後半くらい?)、実際には建ってなかったぽい。
しゃもじって琵琶みたいな形だな~と思いながらお土産見てたのですが、弁財天の琵琶っぽい工芸品としてつくられるようになったんですね。知らなかった。
花岡八幡宮(山口県下松市)
境内に友魚が雨宿りしてた塔(閼伽井坊多宝塔)がある。多宝塔の建てられた時期、立て看板では「室町中期」となっているのですが、ガイドブックやウェブ上で「室町末期」説も見るのでど~いうこっちゃと思っていたのですが、建築様式からみて室町中~後期、解体修理で見つかった木片に永禄3年(1560)の墨書あり、ということのようです(下松市HPより)。また、お宮そのものも創建当初の鎮座地から1489年頃に現在地に動いている���しい。作中で描かれているのは実際よりも少し下った時期の姿になるのかなと思います。
多宝塔の実物は思っていたより小さい印象を受ける。というか、ここに友魚があの感じで座っているのを想像すると、まだだいぶこどもだな...?!と感じました。
旧山陽道に面した丘陵上に位置し、高いところにあるのでめちゃくちゃ石段を登る。現代人にとっては雨宿りにちょっと寄るレベルを越えてるので、参道入り口あたりでお寺の人が友魚に声をかけたのかもとか想像します。
壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか(山口県下関市)
鴨の河原と同様、壇ノ浦も始まりの場所であり終わりの場所。
壇ノ浦古戦場跡は関門大橋の下関側のふもとに「みもすそ川公園」として整備されている。ちょうどこのあたりに友魚の暮らしていた集落があったのかなと想像できる景色。作中では霧に包まれて対岸は描かれていないけど、九州側の門司がかなり近くに見える。この土地も"境界"ですね。
赤間神宮は壇ノ浦古戦場跡から南西1kmに位置。壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る。江戸時代までは阿弥陀寺で、明治の神仏分離により天皇社赤間宮へ。1940年に赤間神宮に改称。1958年につくられた水天門は「波の下にも都がございます」の竜宮城を地上に造りだす意図でデザインされている。
耳なし芳一の舞台でもあり、境内の片隅に芳一堂あり。宝物館ではいろんな種類の琵琶も見られる。境内に平家蟹の標本も置いてる。
生きてる平家蟹は市立しものせき水族館海響館で見られる。海響館ができるまえの旧下関市立水族館は長府にあったのだけど、敷地内に"鯨館"という鯨形の建物があった。現在は中には入れないけど外観は見られます。小さい頃訪れたことがあって、でっかい鯨!のイメージだったけど今回再訪したら思っていたより小さいな...となりました。場所は関見台公園。下関は近代捕鯨発祥の地とされ、鯨とゆかりが深い。たまたまかもしれませんがモチーフの重なりが面白いです。
旅してこの文章を書くことで、山陽道、というか瀬戸内の海辺が友魚の旅路であり作中作(腕塚、鯨、竜中将)の舞台でもあるという重なりをはっきり認識できたのでよかった。この作品の重層的につくられているところが大好きです。
文献(本文中で言及したものを除く)
小川國治編 2001『長州と萩街道』街道の日本史43 吉川弘文館
県立広島大学宮島学センター2020「宮島 大鳥居のひみつ」
広島県歴史散歩編集委員会編2009『広島県の歴史散歩』山川出版社
ふくやま草戸千軒ミュージアム2020『瀬戸内の交流 まちのにぎわい 人のつながり』
峰岸隆2015『日本の回廊、西洋の回廊』鹿島出版会
山口県歴史散歩編集委員会編2006『山口県の歴史散歩』山川出版社
山口佳巳2008「仁治度厳島神社廻廊の復元的研究」『国立歴史民俗博物館研究報告』第148集
頼祺一編 2006『広島・福山と山陽道』街道の日本史41 吉川弘文館
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作為風景的城市(松田政男)
(1970)
真是奇妙的祭典。說是祭典,當然有神輿也有山車,因而醞釀出了其特別的華麗氣氛。由神主帶領的祭禮一行,接連引來了周邊的孩子們,向著這個地方城市狹小的中心部略高處被祭祀的神明的神社邁步前進。注意到某個極小事實的瞬間,拍攝這次祭典的我們無法抑制地捧腹大笑起來。雖然沒有地方城市的這種祭典所應該特有的遊客的身影,但是,這個小小的祭典的隊列,卻在我們失禮的哄笑之外,作���一年一度的盛夏的儀式靜靜地前進著。
我們哄笑的原因,是因為祭典的隊列是模仿諸侯出行的陣仗(大名行列)而形成的。典型的那種由毛槍朝天高舉,腳步一致,喊著「向前、向前(下ニィ、下ニィ)」的人打頭陣,搬文箱、長持的人隨後,著裃服騎馬的武士威嚴地緊跟著,簡單來說,我們聽到「大名行列」這個詞時所喚起的意象,完整地,完全像畫出來一般展現出來。不對,定睛一看,還有一群穿著只能認為是公卿裝束的男人。像前述所說,有在每個路口立定、進行除災儀式的神主,有神輿和山車,有笛子和大鼓,什麼都有。有的是我們從小在現實生活中或者畫像和影像中慢慢熟悉起來的,「祭典」的全部的類型。然後,沒有的是「祭典」所一定會伴有的「狂熱」。
那是北海道的北邊,面對鄂霍次克海的網走市。為何網走神社的祭典中會有大名行列呢?這個單純明快的疑問,與其說是我們哄笑的原因,不如說是我們怎麼也沒法不去注意的地方。不用參考網走市役所發行的《網走小史》,我們也知道這裡有原住民鄂霍次克式陶器人的遺跡與遺物,四百年以前起是江戶時代的阿依努期,是阿依努人居住之地。不用說,在松前藩的經濟支配,幕末由於軍事需要而來的幕府的政治管理的過程中,也有與日本人的來往。但是,日本人大量渡來還是在一八八〇(明治十三)年網走村設置郡役所之後的事情。因為四年後開設了小學與寺院,土地神(鎮守)的神社的創立,也自然應該是那之後的事情。
具體的歷史上從未存在過大名行列的北方城市的祭典裡,突然出現了魔幻的大名行列這件事情,對我們來說,是應該在最初的殖民者的記憶中作為遺制殘存下來的強烈的共同性中尋找嗎?我在這裡,比方說,應該也可以像《網走小史》一樣,用下面的方式,引用阿依努人原住民樸素的祭典原型,將本土的民俗與殖民者的民俗的競逐過程作為考察對象:
「為此處報春的最初的訪問者,是乘著流水而來的海豹。在冰川間的縫隙中進行的獵海豹,足夠滿足了自然的孩子的冒險的心。部落的人們,每到此時期就會乘舟靠近帽子岩,在島上設立祭壇,以幣束裝飾。一族之長對著海的方向祈禱漁業豐盛。⋯⋯帽子岩是將阿依努族的生活與神連結在一起的聖地,因此人們都將這座島稱為『充血(チバシリ)』。」
但是,我們至少在這裡,與這個名為網走的地方小城市的祭典儀式活動毫無關係,只能確定這不過是在各種意義上對中央大城市殘留的傳統祭典的最壞意義上的模仿,並將其傳達出來而已。今天,聖地「充血」不過是一塊僅僅保留了網走名字來源的記憶的奇形怪狀的石頭。而且,正如我之前所述的,網走神社祭並沒有遊客的身影的事實所示,對於這種將邊境的遺制破壞地體無完膚的直接從中央輸入的祭典方式,關心的人寥寥無幾。夏天來到網走的年輕遊客反而都在參觀離網走神社最遠之地的網走刑務所。今天,網走的聖地連名字都變成了網走番外地,其所祭拜的神,也變成了電影演員一般的存在的同時,從空洞的大名行列中讀出了強烈的諷刺的,難道真的只有我嗎?
話說回來,說到敘述的順序,這裡應該簡單提及一下我們在這裡偶然遇見網走模仿的祭典活動的攝影旅行的目的。一九六九年從夏至冬,我與很少的幾個朋友一起,追隨一名少年的足跡做了一部紀錄片。六九年末勉強工作告一段落的這部電影,以「去年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件今年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片頭字幕,「一九六八年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件,一九六九年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片尾字幕,包含了一小時二十六分的結構。如其所示,是關於「連續射殺魔」永山則夫的電影。網走是永山則夫出生、度過了幼年的地方。
這篇文章並非是要直接介紹我們的電影,但是作為完全追踪了永山則夫廣泛的足跡的結果,經過了北海道、東北、關東、東海、近畿等各大城市,根據我自己四個月的體驗,我不能不談對於出生於網走市郊呼人番外地、長於網走市內的永山則夫五歲時全家搬至的青森縣北津輕郡板柳町的印象。而且不得不說,我在這個地方小鎮感受到的是和網走完全相同的印象。我們當時看到的是明顯磨滅了地方的獨特性,只能稱作是中央的複製的同質化的風景。殖民城市網走,本土城鎮板柳,再誇張一些說,中央都市東���,在我們的眼中都以毫無差別的相同的面貌出現。
然後,不知怎的,好像不止我們,還有別人也有同樣的經驗,在北國陰暗的風土中尋找永山則夫犯罪的原因,卻被大大地欺騙了。說起來,某位電視人曾這樣記述這個兩萬三千人的小鎮:
「永山則夫一被逮捕,報紙和電視就迅速動員學者、作家、評論家們創造他的形象。……這些知識分子中最有說服力的,是同樣出身青森、有同樣遭遇的詩人、地下劇團主宰者T氏的發言。他將永山則夫形容成在東京沙漠徬徨的都會吉普賽人,令其抱有噩夢般的殺意的,據說是養育了他的『北國的荒涼的天空』。……但是,離上野十三個小時的板柳的天空卻明亮得令人訝異。沒有霧霾的明亮的藍天下,岩木山閃耀著銀白色。……」(《紀錄片青春》自由國民社刊行)
這位紀錄片作者,在直率地敘述了「荒涼的北國」的形象的破壞後,舉出了城市的豐饒的各種數據。比他晚三個月,已經過了春天而在夏天拜訪這座城市的我們,已經如前述有著和他相同的見聞。青森出身的詩人「T氏」(即寺山修司)大概可以斥責我們,認為這些感想乃作為一群不負責任的遊客的,即時且隨便的感想。的確,並未體驗到寒冬的津輕的我們,並沒有「荒涼的北國」的意象。但是可以說,我們的遊客之眼,與只能看到「中央=豐饒」、「地方=荒涼」之刻板印象的地方出身的半調子知識分子的眼,恰好形成了對照的兩極。無論是中央還是地方,都市還是邊境,「東京」還是「故鄉」,現在都只有等質化的風景。我們即使是看到了津輕平原的廣漠上連綿的蘋果園,也絕不會想到綠色的森林,而只能看到令我們聯想到我們灰色首都所散佈的污��的農業。不用說,「荒涼的天空」也是稱呼我們霧霾漂浮宙天的名字。
因此,我們在鄂霍次克沿岸的東北的平原,也沒能發現或許孕育了永山則夫的「故鄉」。不如說我們看見的不過是縮小版的「東京」。永山則夫小學時代居住的板柳町一角稱作入福住宅的小型貧民窟,大概也可以指定為東京的任何一處。谷川雁說「不要去東京,創造故鄉吧」之時,那種作為前提的「東京」對立於「故鄉」的圖式,在六十年代的死胡同中,終於不再是有效的事實,我們必須去確認。我們壟斷的高度成長,難道不是表現出日本列島作為一個巨大的都市,每天都在往一個同質化的方向���展嗎?
無需說,從資本主義經濟法則的側面,將永山則夫作為地方年輕人口向城市集中的典型事例說明,也不過是將其拉入客觀主義的大網。如此,他是在響應寺山修司「離家出走的建議」,捨棄了「故鄉」而到了「東京」來嗎?恐怕要揚棄谷川雁與寺山修司兩方的高談闊論,才有真正的答案。即,無數的永山則夫,無疑是想要前往「東京」,創造自己的「故鄉」的。正是在「東京」,才有他們所尋找的原初的東西。要說為什麼,對於他們來說的「故鄉」,不過是「東京」的模擬而已。他們對於「東京」所注入的狂熱的凝視,只能說是在不可見的領域中雕刻他們的真正的「故鄉」了。去往「東京」之旅,即是去往他們的原初世界的旅行。他們一刻不停地在進行著,與在偏僻地方和離島中找出現在的我們的過去的祖型的民俗學者方向完全相反(vector)的旅行。
從這件事來說,「離家出走的建議」的提倡者寺山修司,對於永山則夫的流浪,初看上去似乎以同情者的身份浮現,但當他結論出「人被歷史拋棄時,就會援用地理」這一巧妙的宣言時,就不自覺陷入了寺山自己排斥的「歷史性的思考」了。寺山修司著作中對於永山則夫的結論,不過是道學家式地指責其缺乏「思想的力量」、「想像力」,以及「戲劇性的想像力」而已。寺山修司從未將自己的想像靠近這一現實,即永山則夫(們)其實正是僅通過「地理」上的流浪,這群下層社會的無名大眾才能創造出他(們)「歷史」上的定在。雖然寺山說「為了判別一個行為是英雄性還是犯罪行為,過多的『狀況論』將我們緊緊束縛」,但在與「狀況論」甚至「情況論」無關之處,即便是針對將「行動的力量」而非「思想的力量」作為動力而生存的人們,以提昇道德的口吻高談「想像力的復權」,恐怕也不會有任何成果。
「歷史」還是「地理」的二選一思考方式,正是深深刻在提出者內部的歷史性思考方式,這種思考方式的所有者將其直接轉移至地理上的思考。即,在他的腦中,以他的「想像力」放上一張日本列島的空白地圖,在上面填上永山則夫流浪的足跡,最後所得到的也就是這麼多。此一永山則夫之旅,只要在某種「原初世界之旅」的前提上,便設想能透過連接他曾經過的外部世界的地點,便會浮現出其內部世界的地圖,並設想大概會出現奇形怪狀的景象吧。 在這裡,還是先交代永山則夫流浪的記錄和分期。這也同時是我們的旅程——
網走市郊外—網走市內—板柳—(離家出走)弘前—青森—函館—板柳—(離家出走)���形—福島—板柳—(為了集團應聘上京)
東京·澀谷—(辭職、秘密出航)橫濱—名古屋—香港—橫濱—小山—(就業)宇都宮—(以下各地流轉)大阪—守口—東京·羽田—川崎—橫須賀—川崎—東京·淀橋及東中野—池袋—巢鴨—小田原—熱海—名古屋—大阪—神戶—(秘密航行)橫濱—東京·練馬—西荻窪及東中野—板柳—東京—長野
橫須賀—東京·池袋—(以下各地流轉)芝—京都—橫濱—東京·池袋—函館—小樽—札幌—函館—名古屋—橫濱—東京·新宿及中野—橫濱—東京·原宿
第一次流浪的分期十五年,第二次的分期三年半,第三次的分期為半年,有各自的長度。可以視作成長、生活、犯罪三個不同的階段,各自的分期在空間擴大的同時,表現出時間上的反比關係,應該是很容易注意到的。日本列島對於永山則夫,不正是作為某種非歐幾里得空間(non-Euclidean space),奇怪地歪曲、溶解、流動嗎?然後,即使這樣還,或者說正因如此才,應該點出的是沿著永山則夫的軌跡而再現了四個月間橫貫列島之旅的我們的眼睛,看見的是已經敘述過的,所有的地方或邊境的街道上映出的,作為同質化了的風景出現的景象。
追尋已經失去的原初的「故鄉」之旅,常常以無論去何處發現的都是相似的風景而告終。種村季弘在最近的文章中,以模仿本雅明的口吻敘述了「將陌生的城市認作出生的城市,將出生的城市認作陌生的城市的反向透視法(逆遠近法)」(《都市》創刊號),而我們的日本列島所有的,恐怕無疑是「陌生的城市」與「出生的城市」之間生長出的,無可救藥的時間和空間的扭曲所呈現在眼前的風景的同質化而已。這種風景如今無法代換成自然、風土之類的詞語,因為這種風景,是天然與人工突兀地對撞、裁剪下的產物。就如同以前在《薔薇與無名者》(芳賀書店刊行)中斷言的那樣,永山則夫沒有終點的「原初之旅」,必然是「為了將風景割裂而射發了子彈」。
我們在永山則夫的紀錄片的攝影過程裡,首要任務是反覆深化我們的視角,藉此嘗試捕捉作為風景的日本列島,除此之外一無所知。即使是同樣的旅程路線,我們所經歷的時間與空間仍不同於與永山則夫的軌跡。如果在兩者的時空中提煉出某種元素,那就真的變成風景了,就像繪畫一樣的,澡堂中的巨大筆劃一樣的,毫無掩飾欺騙(何のケレン味もない)的風景本身了。我們似乎在摸索與本雅明評價二十世紀初無名攝影家阿��(Atget)所致力捕捉的「捕捉巴黎無人的街道的風景」,與下面的格言所述恰相反的循環:
「都說他以拍攝犯罪現場的方式拍攝風景,也的確如此。犯罪現場並沒有人通過。攝影是為了創造間接證據。照片經由阿傑,開始變成了歷史過程的證物。」(《複製技術時代的藝術》紀伊國屋書店刊)
我們與阿傑相反,是以拍攝風景的方式拍攝犯罪現場。雖然本雅明認為「對於群眾,城市有時是風景,有時是房間」,我們的攝影機之眼所看到的,只有「作為風景的城市」,而從未能到達「作為房間的城市」。這恐怕處於一種我們被周圍敵對的狀態,但與喜歡言必稱「狀況」或「情況」的知識分子的語彙不同,這說不定是可以從外側的物質性去感受到,一個除了風景以外、本身一無所有的下層大眾的唯一方法。無需贅言。只需強調我們所嘗試的,是透過風景去直接面對他的,或我們自己的,那個「不可見的故鄉」。
因此,我們在旅程的終點,在永山則夫數次返回的「東京」——可以視為來自邊境、不斷流浪的下層大眾之「故鄉」原型的這個混亂的巨大都市中摸索。然而,在我們的首都,是否曾經有過從那個地方城市的「祭典」所缺失的原初的狂熱呢?無需說,是不可能的。十月末秋季的某一天,通過新宿街頭的那次稱作「新宿祭」的空蕩蕩的遊行,我們恐怕永遠也無法忘記吧。在那幾天前,由某個宗教團體的鼓號隊帶領通過的祭典隊列,竟然成為了某種電視綜藝節目的絲毫不差的仿寫物。竟然將自己生出的媒體的「影子」模仿了個徹底,這個悲慘的本體!與此對應地,這裡化作了一個人影也沒有,只有機動隊的制服與自警團的私服非常顯眼的,彷彿戒嚴令下的死亡的街道。或許,那甚至不是風景,而是風景的葬送。「噓,安靜點!葬禮的隊列要從你身邊過去了。將你的雙膝跪地拜倒吧,唱起送葬的歌謠吧!」(Lautréamont)
然而,追尋更加原初的東西而帶著初生的能量加速度,嘗試在「東京」中實現「故鄉」的下層大眾,大概並不知道該去向何處吧。厭倦了模仿的祭典,慢慢看清了「東京」的背叛,他們像列斐伏爾評價巴黎公社那般,在「『祭典/節慶』之風格即公社的風格」之意義上,為了追尋一種真正祭典的狂熱,於焉開啟了沒有終點的「旅程」。這次,為了寫這篇稿子,讀了一些城市規劃與建築專家的都市論,其中唯一不停激發我思考的,是水木薰針對羽���五郎的激進批判,說起來,水木薰是如此評價這種「旅程」的原初型態的:
「……他們輕易地擺脫了來自家庭與地方的權力束縛,獲得自由。然而,這種自由卻是透明危殆、難以依賴的。他們在巨型都市(megalopolis)中開始了浮游的生活,那甚至能不能稱之為生活呢?與這樣的社會底部的流動相比,希臘有拱廊(agora)的城市,而文藝復興時有據說是基於市民之自由與平等建造的的城邦國家,與此相比,他們有多麼不加思索或無能為力,只要考慮其流亡之劇的各種苦痛就十分清楚了。日大鬥爭,在某種意義上來說,可以視作是捨棄了故鄉的貧窮的年輕人,對大都市東京的反抗吧。失去了目的地的地方中小城市的中小工商業者的孩子們,如果不是不停地叛亂,甚至無法生存下去。」(《革命與烏托邦》芳賀書店刊行)
「捨棄了故鄉的貧窮的年輕人」,是在「對大都市東京的反抗」中,實現他們真正的故鄉的。水木薰的都市論的優越之處在於,不在歷史或當代的標準上為城市定位,而是從生成、爛熟、死滅的具體的運動過程中找到其位置。這是比吉本隆明提出的暗示性問題「城市何以為城市」更進一步,是「城市何以不再是城市」的一種反問。啊,城市的死滅!拒絕無名大眾所不停上演的「流亡之劇」在地方和中央、農村和城市、邊境和首都等等近似的兩分法中彷彿達成了的虛假的上升的錯覺,反而能夠直視,追溯人群的「原初」旅程,其實僅是意味著從下層到下層,從底部到底部,從貧民窟到貧民窟的移動,這不正是唯有能夠提出此種論斷,看清這一事實的透徹視點之人,才首先能從口中吐出的詞語嗎?
那時,他就不再會將城市視作風景,而是將激進地貫徹城市作為房間的屬性了。
我在這裡突然想起了雷吉斯·德布雷(Régis Debray)將城市稱作「可居煉獄」的苦澀發言。不用說,德布雷是在將討論範疇小心謹慎的限定在「與苦惱於人口集中的亞洲歐洲大城市相比的⋯⋯加勒比海諸城市」,即使知道這一點,不妨讓我們再仔細看看吧。
「住在城市裡的人們,即便是同志,與游擊戰士比較起來也在不知不覺中慢慢變成了市民階級。他們對於自己的行為,即餐飲、睡眠、移動等生存所要求的物質的艱苦為何物,已經不能理解了。游擊戰士是靠自己,用自己的手,自然地製造物質的,而他們已經不具備維持生命的手段了。城市人僅僅作為一名消費者存在。……對於每個人來說,人生都是不平等的,被給予的事物。人生作為完成的商品,在商店裡排成一排……雖然常說,我們泡在社會生活的浴缸裡,但是泡太久澡對於身體也是不好的。要理解這個不溫不火的孵化器,在多大程度上令人類發育不全,令人市民階級化,僅有一種方法,那就是跳出這個孵化器。」(《革命中的革命》晶文社刊行)
雷吉斯·德布雷在這個意義上,將「城市」作為對立面,將游擊戰士的真正的故鄉認定為「山地」。能嘲笑這種關於第三世界的斷言肯定命題式都市論的教條性和形而上性,是一件幸運的事情。我們生活在高度壟斷集中的核心,身處於日本列島整體化作一個巨大城市的變化轉型期裡。毋寧說,對我們而言,可以回歸的「山地」是不存在的。但是,我們在將城市佔領、解體,作為我們共同空間的革命長期戰爭中,如欲作為一名游擊戰士而生活下去,則必須在這個「可居煉獄」的正中間,立起我們所認定的「山地」。身在日本這個懷有對第三世界掠奪與殺戮原罪的、反革命的「祖國」,我們別無他法,只能竭力將此一煉獄實現為靈魂的淨化場。
正如各種「未來」學者與其亞流所奉上的漫不經心讚辭那般,據說我們正在進入的本世紀最後二十年,可預測的長期投資額累積達到五百兆元。在考慮戰後二十年國民生產總值上升至世界第三位的日本資本主義,在這個列島上投下的資本總額已經不能以三十兆而是以五十兆元來計算的事情時,接下來二十年的十倍投資,將無疑進一步促進日本列島巨大的城市化。然而我們不能將這份壟斷的奢昂攻勢視為日本帝國主義起飛的暗號,而要將其當作耳邊的喪鐘來聽。我們已經跟上了在風景的同質化中,從一個城市流浪到另一個城市的無名大眾的足跡。他們決沒有「主張真理是屬於自己的。他們從未『說出』自己代表了真理。因為他們『就是』真理本身。」(弗朗茲·法農)我們恐怕初次見證了我們下層無產者形成階級的轉型期。他們以流浪的存在形態佔領都市,作為資本主義的掘墓人,開始慢慢浮出水面。
「不可見的故鄉」在對真實的祭典的不斷試錯中將徐徐浮現。「必要的是在暗中突然出現的偶然的縫隙。只要有『縫隙』,人類就可以開始一些行動。人類是在自己的慾望相互碰撞、混沌的雜亂(chaos)裡生存著。」水木薰此處道破的條件,不可避免地將要到來。
必要的不是對下層大眾進行什麼「戲劇性想像力的復權」的說教。我們自身必須開始,邁向一趟為實現我們自身真理而戰鬥的,超越風景的旅程。
松田政男,風景としての都市
『風景の死滅』1972年1月20日
參考翻譯:1、2
#松田政男#masao matsuda#landscape theory#風景論#fukeiron#足立正生#masao adachi#aka serial killer#a.k.a. serial killer#略称・連続射殺魔#谷川雁#寺山修司#shuji terayama#gan tanigawa
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🎼 1578 「All Grown Up」。
えっと、2021年の終わり頃に観た映画を書き留めた それをテキトーに載せます。
"この作品は 家田荘子の原作をもとにフィクショナルに作られたものであり、登場する人物及び団体等の名称は架空で、実在するものとは何等関係ありません" という前書きと、エキスポランドと書かれた大観覧車の下で 岩下志麻さん似の女性が "凶" のおみくじを引いたところから始まります、シリーズ8作目な東映映画 「極道の妻たち 赫い絆」 を観ています。関本郁夫監督作品。突然に 古田新太さん似の男に襲わ��た 岩下志麻さん似の女性クムラ・キワは、割れた鏡の破片を握り 返り討ちを喰らわせたことで 5年の懲役刑を受けます。5年後、亭主とも別れ、総武線を降りた新宿近くのあたりで一人暮らしを始めたキワは スーパーで働きはじめるのですけれど、次から次へとお客さんが現れたりして なかなかしずかに働くことが出来ません。ある日の仕事中には命を狙われたりして これではいけないと 東京を離れます。そんなところに父が何者かによって暗殺され、葬儀に駆けつけるのですけれど、そんな中で 元亭主の夢の事業 (ドリームランド建設) が頓挫して 煙草を吹かす余裕も無くなってしまいますこの映画、エキスポランドも大観覧車も現在は無いみたいで さういう意味では貴重な映画です。
つづいて
木造の家の扉が開き、小さな和服姿の女の子の元に 岸田今日子さん似の女性がバナナを手渡すところから始まります、幼少時 母親に 復讐を吹き込まれた娘の 残酷な日々を描いた 松竹角川映画 「この子の七つのお祝いに」 を観ています。増村保造監督作品。とある女性が惨殺され、その事件を追っていた警察と新聞記者は 犯人探しに躍起になるのですけれど、そんな最中、新聞記者が自宅で変わり果てた姿で発見されます。そんなこんなで 会津若松に飛んでまもなく亡くなった新聞記者の後輩が事件を追うことと相成ります この映画、新幹線ひかりが 劇中ビューンっと駆け回ります。
つづけて
"この物語は、家田荘子の原作をもとに、フィクションとして創作したものであり 登場する人物、団体等の名称は架空で、実在のものと何ら関係ありません" といった前書きと 手術中と点灯された手術室の前に 岩下志麻さん似の女性が駆け込んだところから始まります、シリーズ10作目 「極道の妻たち 決着 けじめ」 を観ています。中島貞夫監督作品。物語は 三ヶ月前に遡り、組織同士のお金の揉み合いの中で強風が吹き荒れる中、キンキンが巻き込まれてしまう この映画、さくらやがあったころの新宿の街並みがチラッと映ります。
つづけて
しっとりと雨が降る中で おいちゃんの夢を見て涙した 寅さんが目覚めたところから始まります、シリーズ第5作目 「男はつらいよ 望郷篇」 を観ています。山田洋次監督作品。おいちゃんが長くはないという (うそ) 知らせに 上野からタクシーに乗って飛んで帰って来た 寅さんは "かつがれた!" と おいちゃんに食ってかかって喧嘩になってしまいます。そんなところへ 札幌のマサキチ親分が危篤との知らせが届いた寅さんは なけなしのお金を持って 北海道に飛びます。ということで、小樽に飛んで (蒸気���関車の車両基地がどでんと映ります) タクシーで小沢駅まで D5127を追い掛けてどうのかうのする この映画、柴又駅前の売店に置かれた雑誌が時代を物語っていました (下手上段から 少年キング、少年サンデー、少年マガジン、明星、平凡、週刊TVガイド、週刊実話、別冊少年サンデー、旅行読売、情報トップ、漫画ストーリー、漫画ボイン、平凡パンチほか)。
つづけて
"この物語は、家田荘子の原作をもとに、フィクションとして創作したものであり 登場する人物、団体等の名称は架空で、実在のものと何ら関係ありません" なんて前書きのあと、なっかなか 岩下志麻さんの姿が見えなくてドキドキさせられます、シリーズ9作目な東映映画 「極道の妻たち 危険な賭け」 を観ています。中島貞夫監督作品。いつの世の中も 跡取りというものは 平和的には解決されないやうで、とある組織の四代目の跡目争いは 肉を斬り、血を噴き出させても なかなかビシッと決まらなかったりして それらに属する男どもは イライラします。そんなこんなで 跡取りをどうしやうかで悩みまくりなこの映画、返り血を浴びまくりな 岩下志麻さん似の女性が美しすぎて 何の映画を観ているのか分からなくなります。
つづけて
土手で、4人の小学生が揉めていた のちの世界、とある眼鏡男子が 見てはいけなさうなものを見てしまったところから始まります、とんでもない世界に足を踏み込んでしまった とある書店員の日々を描いた、ホラーな松竹映画 「さんかく窓の外側は夜」 を観ています。森ガキ侑大監督作品。物語はさておき、今の横浜ってこんな感じなんですねって思いました。
つづけて
"グリニッヂ標準時 3時0分、ニューヨーク時間 22時0分、パリ時間 4時0分、モスクワ時間 6時0分、ブラザビル時間 4時0分、ペキン時間 11時0分、サイゴン時間 11時0分、日本標準時" という文字のあと 一昔前の新宿駅前で 男が褌一丁になるところから始まります、シュールさが眩しい 表現社映画 「新宿泥棒日記」 を久しぶりに観ています。大島渚監督作品。未だ 新宿駅東口前に カメラのさくらやや銀座ワシントン靴店がどがでんとお店を構えていた頃の 新宿、1968年夏、土曜、午后五時半。懐かしさが心に沁みる 紀伊國屋書店新宿本店で ひとりの青年がお金を払わずに本を持って2階の階段を潜り抜けお店を出て行かうとします。捕まります。盗んだ本は "泥棒日記 (ジャン・ジュネ)" ほか。翌日も懲りずに 青年はお金を払わずに 本を持って行くかどうかのところで捕まります。途端に物語は 男女の性がどうのかうのといった話になって 映画に置いて行かれていかれさうな気持ちに (何度観ても) なってしまいますこの映画、突然に カラー映像に切り替わってドキッとさせられますし、一昔前の紀伊國屋書店の店内に下がった "お勘定場" って案内にキュンとさせられますし、佐藤慶さんの声がステキ過ぎて痺れますし (映画のラスト、1968年6月30日 淀橋署東口派出所を破壊する輩の映像も含めて) もう大変です。
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旧中山道碓氷峠越え
連休中の備忘録。5月のアドベンチャーレースも中止になってしまったので、前からやってみたかった中山道碓氷峠越え、軽井沢から横川駅までバスでいき、碓氷峠を超えて家まで走って帰るというのをやってみました。
軽井沢発6:59発のバスに乗り横川駅7:33着。身支度を整えていざ出発。碓氷関所を超えて。
ほどなく、坂本宿。
中山道63次のうち、十九番目の宿場で、安中・高崎藩の領民を移住させ計画的につくられた宿場町で、厳しい関所をぬけた旅人、碓氷峠ごえの旅人で賑わっていたとのこと。
当時はここにあった木戸が朝晩開閉されていたそう。
宿場町風情の建物が並ぶ。米屋って書いてある。
ここは本陣跡。明治にはここを仮校舎となり坂本小学校が開校した場所。
本陣と脇本陣あわせて4軒、旅籠は最盛期に40軒という大きな宿場だったそうです。
小林一茶の定宿たさかごや跡地。若山牧水が泊まった宿も。
宿場を抜け、ここから旧中山道。
しょっぱなから急。
途中途中に、名所や史跡の案内板がたてられています。木々の中で視界がひらけて街が見下ろせるこの場所は『覗』といって、一茶が詩を詠んだ。
馬頭観音。
弘法の井戸。この先の茶屋に水がないので、ここに井戸を掘ればよいと、弘法大師が教えたという霊水だそう。
最初のピーク、刎石山まできました。4軒の茶屋があったそうな。奥に石垣が残っていました。
ここからは尾根道が続きます。このあとカモシカに遭遇しました。熊鈴ならして走っていたので、さーっと谷に消えていってしまい、写真も撮れなかった。
1590年の秀吉の小田原北条攻めの際に、北陸・信州軍を防戦すべく、松井田城主が道の左右を掘り切って道幅を狭くしたという場所。松井田城は安中氏が築城したお城だが、その後武田→織田方の滝川一益を経て北条方のものとなっていた。攻めてきたのは、前田利家、上杉景勝、真田昌幸。大河ドラマみたいだ!とワクワクします。
南向き馬頭観音が日にあたっている。
かたや、北向き馬頭観音。
座頭も転がるような石ころの多い歩きづらい急坂だったという『座頭ころがし』。現代の靴でも歩きづらかった、草履やわらじで歩いていた頃を想像してみる。
この道は安政遠足のルート。1855年に安中藩主が、鍛錬のために藩士96人に安中城から碓氷峠頂上の熊野神社まで走らせた競争で、日本のマラソン発祥といわれている。(今も侍マラソンというのが行われている)
道程の中程、まさに山中に、茶屋が13軒もあったそう。明治の頃には小学校もあったそうです。
碓氷峠で有名な?廃バス。どうやって来たのかは謎。
地図上の2つ目の山、子持山。高いところには登ってみたいタチ。頂上まで行ったけれど三角点はみあたらず。1107m。
子持山の下、陣馬ヶ原という場所に分かれ道がある。旧中山道と和宮道。皇女和宮が、京都から将軍家へ御輿入れの際、遠回りだが険しくないということで通った道だそう。私は旧中山道を進みます。
人馬施行所跡。江戸時代にできた人と馬が休む家の跡。
沢を渡り、
フデリンドウがきれいでした。
仁王門跡を超えるとアスファルトの道に出る。
ほどなくして、碓氷峠頂上、熊野神社到着。
この神社県境が真ん中にあるということで、お賽銭箱も2つあった。
御朱印も2種類。逆転してしまったが、左が群馬で右が長野。
見晴台で浅間山を拝み
旧軽への遊歩道をかけおりました。見慣れた景色ショーハウス到着!
今まで、旧軽あがってきても、ここまでしかきたことがなかった。
朝からすごい人のGW旧軽銀座でした。山の中ではカモシカにしか出会わなかったので、里におりてきた安堵感。
祖父が大好きだった『ちもと』のそば団子を買って走って帰りました。久しぶりに食べた懐かしい味。
約1年前のこのブログで、やりたい!と書いていた碓氷峠越え完遂。夏場は山ヒルがすさまじいときいていたので、時期を見計らっていましたが、『ヒル下がりのジョニー』を持参して足元にふりかけまくり被害なし。20度以上になると活動し出すというから、ギリギリセーフだったのかもしれません。
様々な時代のあれこれを記した案内板が飽きない道中でした。藩士も武士も皇女も天皇陛下も通った道。時代は変われど、変わらぬ街道、面白かった。こんどは逆向きいってみたい。
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Marine snow
以都心的標準來說,都營大江戶線就是相對地挖得很深很深。在淺寐的清明夢當中,我挨著西新宿站內ㄧ路直下的電扶梯扶手潛入地底,將那無論乘客有否都毫不間斷地乘坐叮囑聲置於身後,經過一個短暫的轉角,再次搭上繼續向底端月台延伸的電扶梯,強烈的站內循環冷氣像是激流那般,膨大且迅速地招呼過顯露於衣著與口罩外的肌膚,隱隱約約地讓毛細孔緊繃了起來。
蝶蝶--在電扶梯下方更接近月台的前幾階,我注意到她那一頭染成金色的中長捲背影。然而不曉得她有無察覺,出聲呼喚的想法隨即打消。正巧在不自覺地自然眨眼之間,她的身子以泡沫的形式分解後溜出我的眼簾,不過卻又早一步地在端末的月台那重新凝聚。此時,下個班次的電車即將進站的站內播音開始放送,顧不得多餘的思忖,提起雙腿倉惶地向著月台奔馳。我想要確認--那個重新聚合的蝶蝶,究竟是同一個人嗎,又或者到底只是有著同樣外殼的個體呢?
踏著混亂的步伐趕抵月台--啪唰地是車門開啟,啪唰地也是車門閉合。蝶蝶已乘上那班電車,發車移動的透明壓克力車窗,恰巧反射著站內的照明,儘管蝶蝶面向我,但卻讓人無法辨識她的臉孔。月台上僅我零落一人,目視該電車急遽地消隱在隧道彼端。莫名地,我隱約察覺下個班次的電車,是不會再有的了。
就在我回頭準備折返時,身後原先的電扶梯已不見蹤影,取代而之的是每階段都有著三個成人高度的藍色石階,向著原途徑堆疊竄升直至消失在視野的邊際。仰望,但只得一片漆黑的深邃空洞。既無法攀爬更無從離開,除了自己以外空無一人的地底月台,電子看板重複登載班次延遲的顯眼紅字,頂上行列有序的白色 LED 照明在此刻格外地予人壓迫。本應是低熱能的燈光在封閉的空間裡卻宛若鹵素燈泡不斷放出灼傷般的焦躁感--好比碰觸到火與電的瞬間抽手的反射動作,那淺層睡眠的夢境在我彈起驚坐時戛然而止。
握住置於床頭邊小几桌面的保溫瓶瓶身,將倒扣在上的水杯翻正,替自己斟了莫約五分滿的溫水慢慢喝完,試圖緩和情緒以及暖胃。接著挪動雙腳,前後踩進左右兩邊都有著貓耳裝飾的發熱鞋裡。準備盥洗前,先將全遮光窗簾撥開一道間隙,望向公寓窗外--
年末最後一個花金的晨光,熹微。
記憶追溯回十一月初,因公事漏接的那通電話轉成了語音留言:
「以前想去的那家旅館,請你也來吧。」
語音信箱的列表上,聯絡人抬頭的姓名,唯獨署名蝶蝶的訊息我不怎麼定期清除。也因那句邀約,回撥給蝶蝶向她確認日程後,在工作日將很久沒用過的有給休暇申請送出去。
於是,時間來到這早朝。梳理整裝完畢,確認家電的關閉與否,在玄關換上革靴,帶上門鎖後乘電梯向下。在這給休的年末最後工作日,慣例地到對角的 FamilyMart 買好能量飲料與早餐,之後原路折回公寓旁側的立體停車場取車。駛離位於小石川町的 Princess Isle 後樂園居所,十來分鐘後順著首都高速道路 5 號池袋線的號誌經竹橋 JCT 接入都心環狀線 C1,馳騁--即刻與東京拉開距離。
腦中偶爾會閃過、憶起蝶蝶行動力總在計畫前的直率,那種出人意表所帶來的憧憬,就像是連日陰雨後的突然放晴、上班日的早晨共睹體液暈染的被褥,我認為能這樣子灑脫的蝶蝶,早已不用外在的推力支持,而是憑藉自己的直觀,爽快地將能力所及的物事都承攬在肩上。或許更該說,是蝶蝶十足地暸解她與我之間的距離感,因此才得以那麼寬宥有餘。
而我需要為自己的性向對自己提出申辯嗎?就好比在《Merry Christmas, Mr. Lawrence》當中,大衛・鮑伊擁吻坂本龍一後,對坂本所飾演的世野一角與其他「當時的」日本人所爆發的人文衝擊那樣。蝶蝶是未婚妻,不過與我關係距離更貼近的是大江茜這名同性的摯友,蝶蝶與我互通有無,但我無法割離對茜的愛。像我這樣的人,在完全做好最後的決定前本來就不該妄圖任何的愛憎,交際更是難以維持在同溫層的保護傘下,一時半刻都無法說服自己了,怎麼還能強要蝶蝶又或是茜兩方圓融呢。我並不想撕裂任何一方,畢竟只要有一人崩解肯定是三方一同陷溺。雖說這樣有些情緒化,不過歡欣的過往還是佔據多數,但人性就是最大的感性公約數,那些短暫如一瞬流星的快樂能被無限上綱,對於藏匿在後的那些相對犧牲與齟齬往往渾然未知。在精心佈置的冬陽午後陽台小憩,茶几上放著剛煲好的紅茶,蝶蝶在旁邊的躺椅上哼著山下達郎的 Love Space;在清早的下灘無人車站,與茜並肩齊眺瀨戶內海,放著青春 18 的車票不管任憑久久一班的予讚線電車通過。到底是人都無法界定出歡愉的巴別塔能增設到多麼高聳,那是媲美天堂的偉業呢可不是嗎?
通過廣島東 IC 地點的出口後,順利地沿著府中往廣島車站方向的出口下了高速道路。把握九鐘頭半的方向盤後的午後四時,我抵達了廣島市內、蝶蝶預約好的旅館。
「午安妳好,我是有預約的北小路--」
向右側拉開旅館的門扉,我在玄關朝著出來招呼的女將簡單地告知身分。
「您的太太在松之間,這就讓我為您領路。」
其實還沒有去登記呢--我在心中對於蝶蝶這樣權宜的舉動輕做嘖舌。旅館的佔地並不算寬廣,進入玄關換上室內鞋踏足木造廊道後,馬上就能看見口字型的中庭水池以及天井,透過女將介紹得知那池養著十數隻錦鯉的水潭是女將父親過去的主意。午後傾斜的日照穿透天井的半透光隔板,灑落在粼粼池面。館內一樓的房間由於考量天花板上二樓的聲響因素後,原則已不做營業用途,隨著女將前往二樓的階梯時,扶手上的幾何結構也獨具巧思。來到松之間外門前方,待女將打開外門輕敲內門的幾秒內,我短暫詳視了外門門柵上的松葉型的簍空雕飾與客室入口地面上也堆砌成松葉樣子的浮雕,暗自感佩這樣子的堅持。隔著內門,裏頭的應門語調是我熟悉的方式,下一秒便聽見門錠打開的聲音--蝶蝶隨即在內門後方出現。
等我向女將道謝並目送其離開後蝶蝶便將我拉入房內,她早我兩天先行搭乘新幹線來到廣島。上次見面是在十一月中旬,間隔一個半月又九個多鐘頭後的她,舉手投足以及那挾雜在香水裡涼菸的淡薄尼古丁香,仍然都是我熟悉的那個模樣。向她詢問頭兩天的空檔裡,去做了什麼又或者去哪些地方踩踏,她在腦中整理後約略地托出:
「散步、爆睡、書寫、抽煙、『買花』,即使是我也有各種要煩惱的事嘛。」
「還是在抽 VIRGINIA S.DUO 嗎?」
館內禁菸,我想蝶蝶十有八九是趁著散步時去到街頭的公共吸菸區解癮了吧,注意到房內的桌几上不見菸盒擱置,閃掉『買花』的個人私德,便把話題轉移到她慣用的香菸上。
「沒帶到留在代代木那邊了,過來的路上就買同品牌的 Noire 撐著……」
圓窗旁蝶蝶上身趴伏,下巴倚在桌几上她自己帶來的肉骨抱枕,盯著手機的螢幕手指上下來回滑動,如有所失地發著哀怨聲。
「辛苦你了,那真是不得了呢。」
我發出「欸--」拉長音的語氣,從行李拿出個人衛浴的小包裝以及替換衣物時,視線卻被她那鴨子坐坐姿而朝向外側--從青靛袴裙末端顯露的,米白色薄光蕾絲花邊隱形襪包覆的足裏,以及在其布料內側正巧細微騷動起伏的腳趾形跡所吸引,然而長距離、高耗時的奔波後想先沖個澡讓筋骨舒緩的生理催促則令我只好進入浴室內。
旅館是在戰後五年,也就是昭和 25 年時落成的。在廣島被爆的損害下,市內的遊郭花街也在當時同成為歷史的灰燼,而當旅館則在五年後新築落成,至直 33 年政府完全落實、實施賣春防治法--令公娼制度廢止,迎來赤線時代的落幕為止,當旅館在這先前,仍是被列冊的多數男女幽會的「特殊飲食店」;到了 35 年時,旅館裡外雖保留遊郭外觀與格局,不過卻已改建轉型完成,只留下「遊郭」的外殼,徹底地成為一般的旅宿,就這經過了七十年的風雨。因此無論是我現在泡澡的石作浴池,又或是客室內的古典圓窗以及相關的擺設,幾乎都保持與六、七十年前如出一轍的模樣。
「喲--沖完澡後完全沒聲音,我還在想你是不是在浴室睡著了?」
浴室的拉門突然被拉開,盤好頭髮的蝶蝶纏著白色的大浴巾自顧自地踏入浴室,拉過浴椅扭開浴池旁獨立的出水口後坐下,順手地就拿著我的衛浴小包裝擠出沫浴乳,從雙腳開始搓揉泡沫。這樣子山賊般的行為,看在想要補眠的我眼裡,說起來有點--可愛?沖洗的淅瀝水聲消停,蝶蝶起身移動到浴池前作勢要爬進來,指了個方位要我讓開出空間的手勢。
「話說我還這裡面欸,你也進來泡的話就太擠了……」
「不讓我進來會著涼的是我欸,就不知道是誰啊--說想要跑遊郭跡巡禮的?」
忽視我抗議的蝶蝶,提起膝蓋、橫過大腿爬進浴池裡匍匐到另一個邊上,背對我出聲拆掉我話語中的台階。我繼續倚著浴池邊上平坦的置物空間,枕著手臂小寐,並沒有搭理她。
「補眠可以再等等吧?真的在浴室熱水裡睡著也太危險了。」
划動池水的翻騰捲滾聲響傳入耳蝸,抬起沉甸甸的眼皮,蝶蝶從池裡起身移動,雙手向後扶著池邊支撐上半身,底蘊含蓄的乳房、平坦腹部的腹白線,美裸地胴體就半坐在我正前方。水中,她擺盪右腿,以右腳的腳趾前端從我充血的陰囊下方將其托起,祟動的五趾隔著表層皺折來回逗弄裡頭兩側睪丸,有些搔癢不過卻帶來不少的快感;隨後蝶蝶改變了攻擊的位置,將腳掌貼上已經勃起的陰莖,開始輕微地施力搓踩--期間她索性地把左腿向旁張開,將雙腿間倒三角形地帶的外陰部揭顯在我眼前,也染成金色且修剪整齊的陰毛、微微律動張合的縫隙,都相當地奪人目光,連睡意都能徹底地驅逐。
蝶蝶起了玩興,將擱置在旁的浴巾朝我扔來遮斷我的視野,右腳則暫時從陰莖離開,以腳趾尖左右來回磨蹭、扒刮過我盤腿踞坐的大腿兩股內緣數次,惹得陰囊與根部開始抽蓄,旋即又貼回陰莖--將龜頭盡力地挾箝在拇趾與食趾的縫隙,用趾腹的柔軟肌膚反覆撥弄著冠狀溝下緣,有規律地妥善分配滑嫩足裏的力道,讓陰莖陷溺在射精衝動的莫比烏斯帶裡無法掙脫。
「看不到不是更刺激嗎?你自己動手吧我想看你自慰。」
突然,她先是停下腳部的動作,然後將右腳從陰莖抬伸到我胸前踩踏,使得我得向後仰躺--接著她向我下達自慰的命令。雖然中斷的錯愕帶來幾秒短暫的沉默,不過我還是伸手握住那依然挺立在水下的陰莖,遵從她的意志開始自慰;人聲的靜默持續,矇在浴巾裡再度闔上眼,聽覺的感官範圍在失去視覺能力後大幅地擴張,握住陰莖鬆緊有韻的手掌力道,與手指彎曲伸張相互協調,上下套動,又或以手掌像是握住排檔桿頂部那樣,包覆起龜頭前後左右���循環畫圓;輕淺地划水聲在腦海中放大如潮汐激流,忽明忽滅勾的勒出蝶蝶日常穿鞋,在鞋尖後方露出腳趾縫隙的尾端,以及脫下鞋子時,從後方窺視那踮起的腳跟與足裏的連線,肌肉群拉張收束成曲弓形的模樣--嗚呼,好似在她的身軀體膚上,看見西方中世時那些米色大理石凝膏塑像的再誕--體感我套弄陰莖抵達五分鐘時,嘴巴周圍的浴巾被蝶蝶用腳趾夾開--
「未帆,你舔啊!」
蝶蝶叫喚我的名字打破寧靜,把腳趾放在我的嘴唇邊游離試探;我張開嘴蝶蝶把腳趾塞進我的嘴中,小心翼翼地試著不讓牙齒嚙咬傷人,並用舌頭一道一道地清潔她的腳趾縫隙,自然分泌的鹼鹹與些許滲入皮下的沫浴乳合成果香,以及用磨砂膏養護好的木質調芬芳--在味蕾上奔竄流轉。或許是等不及看到--要求看我自慰、舔她腳趾與足裏的蝶蝶,現在是什麼表情,手掌握住陰莖上下套動的速度便比平常加速許多,想快點射精、想快點再看見她的臉--
「欸你不要在水裡自慰到射精喔!這池還要換我用呢。」
查覺到我意圖的蝶蝶,把左腳伸過來踩停我手部的上下往復,再度地將射精的節奏打亂,然後將右腳從我的嘴中退出,用同樣的方式將遮蓋我視線的浴巾卸除。
「不是因為我的裸體,而是用我的腳弄到完全勃起,你是變態嗎?」
面對蝶蝶的責備,我不作聲地從浴池中起身站立,讓她戲弄後充血紫腫的龜頭膨脹地幾乎比核桃還大上些許,周圍,甚至到陰莖根部,都有前列腺的分泌液塗抹後的輕微黏稠。發散著熱氣的尿道口更是滴落幾滴在蝶蝶交疊的腿上,在上閃著略帶混濁的水光。腦海被射精的念頭佔據大半的思考迴路,一時找不出可以辯駁的說詞,只好稱讚她起來--
「--你開發有方嘛……」
「看來只好取消去宮島看鎮火祭了呢--」
蝶蝶抬手將盤好的頭髮放開,聽似遺憾的但至多也只是嘴上的遺憾,我明白她的居心便讓她由背後推著從浴室離開……
是從什麼時候開始習慣於,在冬季時室內的性愛的呢?明明與窗外身著寒服冬衣行走、背膀像是貓咪捲曲起來那樣緊縮的行道人群僅有二樓一牆之隔,我們卻是以裸身的方式弄得汗潮淋漓,甚至連有著窗簾阻隔的玻璃窗內面,都因兩人體溫升高使得四疊半大小的室內更加暖活地驟起熱氣,而與外頭的冷空氣蒸凝出一層薄露。像這樣的情愫,我並不認為是什麼隱晦淫穢的事。
蝶蝶的腰窩凹陷內仍有局部殘存、沒有滾落到被褥上的,早前一刻的精液積聚流淌的痕跡,在天井燈光的下方顯得清晰可見,本想替她擦拭不過她卻先說出再做一回,順應她的意思在沒有變換體位的背後環抱姿勢下,挪動手掌經由她的鼠蹊,微速地先向著下腹--子宮的位置,伴隨著她悄聲地低鳴輕輕地按摩;這之後那因緊密接觸而持續發熱的掌心,朝著上半身撫過撩動,指甲早已修剪磨平的食指像是繞著漩渦般,從乳暈的環狀帶由外向內的不停迴旋--直到觸及勃起的乳頭時,手掌完全地張開並將部分的乳房緊握、捻揉;蝶蝶的嗚咽隨著動作的加強又開始高漲起來,為了避免呻吟的音量過分明顯,我將揉捏擠壓她胸部的手掌換了個位置,一轉受容強硬地要求她張開嘴巴,將方才服侍過她身軀的食指塞進她的嘴中--
「舔吧!」
我靠近她的耳際,在旁發下命令後,食指便感受到她以濕熱黏滑的唾液包覆著吸吮,舌頭也由最初自然抗拒的反射條件逐漸的轉化為非定速的不規律纏繞。陰莖在這段期間以半勃起的情況擱置輕貼在蝶蝶的外陰,龜頭碰到被單時連帶因她的雙腿根部的捕夾、咬肉,或許在此時賀爾蒙分泌就轉化成了清楚可聞的體香,又讓我浮現尋求在她身上那些性癖的部位射精的肉慾……在我要她停下嘴中的動作,好讓我稍微抽身去拿一旁桌几上的保險套時,「啵」地一聲,食指、髮絲以及唾液,混合著蝶蝶的喘息由她的口腔退出--
而蝶蝶也確實流露出急躁的樣態--那管不住的雙腿在我拿取保險套時,雖然上半身保持不動,卻伸腳過來以足裏及腳趾對陰囊向著陰莖撥撩催促幾番;隨即重新挺進蝶蝶的體內後,我箝制住、抓緊了蝶蝶的兩肩,令陰莖又得以更深入享受她濕潤陰道裡的擠壓,混合著她腰背上那些多少乾涸的精液染痕的視覺刺激,即使與陰道壁內的層層皺褶有一層阻隔,也讓勃起時連帶陰囊上升的受器體感更進一步的放大,帶來好像隨時都能將保險套撐破並在體內射精的快感--不過蝶蝶暫時還沒有打算讓我這麼做的計畫;經過十數分鐘那像是打樁模樣,有規律的在慢速高速間調節的上下動作,由自己腳部蔓延上至骶髓的輕微酥麻感,讓我繃緊大腿的肌肉在她的陰道裡使勁地頂上一下後,暫時將陰莖從陰道拔出--尚未射精,不帶儲精囊的保險套則令前列腺液與體液以及空氣混合成白沫的狀態,將保險套包覆的肉桿局部浸染白濁。
現在我又把手指塞進她的嘴中,用著十數秒攪和那些唾液弄得整個手掌滿黏潤,退出後她那在嘴角牽成絲狀的迷離側臉與向後垂視的眼珠十足地奢靡。在她恥邱覆蓋上那沾滿她體液的手掌,愛撫著充血勃起的陰蒂周圍之際,兩指併合後更是遞進她的陰道內來回出入刺激皺褶下的神經梢點,蝶蝶忍不住地令呻吟聲加大了些。
「這可是你的口水呢!用自產的方式讓人替你弄得更溼你不也挺痴狂的嗎?」
「像這樣恍神迷亂的表情,就算是在代代木那邊跟你做的時候也沒見過呢,你能用這種扭曲的臉孔出現在鄰居前或是職場裡嗎?還是說這是只有去『買花』時才特有的浪蕩啊--!」
移開手掌後,我俯身到她的耳邊發出斥責的穢語,陰莖尚未沾染白濁的中段至根部的青筋仍舊可見浮現,鼓譟著那亟欲射精的醜態,我伸手調整陰莖的位置,在蝶蝶的下陰處外部,以龜頭的冠狀溝摩擦幾番後,向上移到雙臀的間隙,貼緊那道溝渠,像是畫圓那樣來回擺動。在她迷茫浮沉的氣音途中,提起自己的腰身--然後毫無預警地再次插入--
蝶蝶像是觸電那樣哀叫了一聲,這次左右手掌交疊把握住她了兩掌,手指縫間密緻地合貼在一塊,共同將被單緊緊抓牢。從上俯視蝶蝶背部的曲線、鼻腔內浸潤混合雌雄體液的腥羶、交合時披散亂墜的金髮,還有她那弄溼枕頭的嘴邊垂涎--鬆開其中一側的壓制,將她的頭部按壓在床單上,讓她身子移動的方向配合著陰莖在她體內進出的前後往復,不給她有機會撐起上半身;之後我徹底無視蝶蝶嘴裡含糊不清的話語詞句,便又抓起她的雙臂,沒有停下陰莖在她體內的鑽突便直接將她往我的方向像是蝦子那樣仰翻,抽蓄收縮的陰道內,多層次的紋路與顆粒的蠕動就像是章魚吸盤糾纏緊繞上來絞榨,陰囊內想突破尿道括約肌壓力馬上在蝶蝶體內洩精的強烈性刺激,就好像深淵之底那種虛邪的呢喃在腦中催化誘使--
「我也不是完全要討你歡心才跟你做的--你有煩惱我也有想短暫擺脫一切束縛的時候啊搞清楚!順著你的意思想讓我怎麼做就怎麼做的戀人遊戲的戲言就全留在東京那啊東京!現在在這裡跟我媾和的你就只是我的--」
在��跪的後入姿即將衝抵那射精的紅線前幾秒,陰莖猛烈地從蝶蝶的陰部拔出,接著迅速地摘掉前端的保險套,要蝶蝶將雙足併攏朝上折起,接著抓住那合併成對的透紅腳底,用她的腳掌劇烈地套弄陰莖,而陰囊內那像是天地翻攪的滾動,令我的腳趾由捲曲至緊閉,在前列腺收縮將那酥麻的快感完全釋放,直接竄上腦門達到高潮時伴隨著低吼,精液像潮水暴漲後洩洪那樣--激烈地濺射向她的足裏--
“但即使兩人的私生活再怎麼官能耽溺,無論性別與性向,最後在射精時都會成為野獸。”
「那些話才是你真正的樣子嘛……」
「氣勢上來太衝動了,抱歉喔--」
順勢地讓脈動起伏的陰莖貼抵著蝶蝶的足裏射精後,以前茜在完事時講過的那段話將理智扯了回來;此時我的手指,在那沾上淌落精液的腳趾縫間游走勾纏,弄得蝶蝶發癢抽蓄,待稍微冷靜下來後,我回到她的身邊,以沒有沾上精液的另隻手抱住她的腰側,將半張臉埋入她的金色中短髮裡,畢竟完事前突然想到茜的事,對蝶蝶射精後便升起些許的自我嫌惡,可是蝶蝶那顯得潮紅並略為喘氣的側臉與髮香,又令陰莖開始躁動,讓我不得不調整過度密合的姿勢。蝶蝶見狀只是笑意摻雜的用問句的方式要我不要多事去打斷她的餘韻,至此我只得在心中幽幽地對自己下了審判:
「真是人渣--」
渾然不覺斜陽密匿,再醒來時街燈已著,胡亂地摸索擱置在桌几面上的手機,瞥過螢幕上的 19:37,大約補眠了一個半鐘頭,完事後也沒有關閉的白色基調燈光,有點弄痛剛張開的眼睛,雖然模模糊糊地尋不著蝶蝶的身影,不過浴室裡傳來的沖洗交織的水聲讓人安心下來。翻過身背對浴室方式,盯著螢幕左右滑動,確認輸入在行事曆裡的行程。
如果用海洋深度的色彩來做歸納,蝶蝶、茜,還有我,都在那藍色的光譜上。只是蝶蝶的色調與茜的色調或許是在光譜的兩個極端。紺青色的蝶蝶釋放著凌人地威勢,但卻無法隱藏住其中的落寞,而瓶覗色的茜則是透著清涼,寧靜之中蘊藏著相對掀起駭浪的力量。關於我--群青那般在 2°C 的斜溫層之底、深水層之頂的夾層邊際起伏不安,困惑自己是需要朝著海床飄零,還是順著湧升流再次朝向透光帶發進?摸索有關三人距離時,捲曲在白色照明下的我顯得薄弱,浴室的水聲逐漸趨小,記憶都被沖刷。
「起來啦!大晦日哪有人在睡覺的,晚點不是還要去搭渡輪去嚴島初詣嗎?」
走出浴室盥洗完畢的蝶蝶一腳踩在我的背後,開始提點更晚的行程。我坐起來,拿過早前本來是沖澡後要換上,但卻遇事延宕未使用的衣物,準備再次進入浴室,途中向她詢問她怎麼處理完事後腳部的汙濁。
「踮腳,然後踮腳,跳進浴室洗掉。」
「好險明天才有別組客人要來,女將講我們的關係太好了--」
帶上浴門時,她就像影劇中的反派讓計畫得逞那樣她賊賊地笑著。
由於事前已經知道旅館沒有供餐的服務,因此再盥洗後立刻打理一陣,偕著早已穿戴整齊的蝶蝶準備出發,晚餐或許是在藥研堀,也可能是抵達宮島才處理。將客室外門的掛鎖鎖上,下到一樓與女將再次打過照面,交代明日才會返回的事項後從玄關離開。
「那個緊急出口,以前唸做『裏樓梯』喔,給男女完事後遁走的呢--」
掩上正門出入口門扉,走離旅館有段距離後,蝶蝶講起二樓往逃生方向的階梯,伸手捏了我的臀部時裝得若無其事地樣子提起。
20:44,我們在八丁堀搭上往宮島口的廣島路面電車 2 號線。因為有一個鐘頭的車程,車內也無法連續交談,為了方便溝通我便拿出手機開始敲擊虛擬鍵盤,把今早出發前的夢境用文字的方式傳送給她。明明並肩鄰座,卻以這樣子的形式交流,不免顯得突兀。
『只有一個人的旅行難過嗎?』,讀完我描述的夢境細節,她丟訊息過來。
「--那倒未必喔。」,我將訊息回傳。
『跟我一起旅行,苦澀嗎?』
「--不見得。」
『做愛時覺得寂寞嗎?』
「--嗯。」
「嗯」很明顯地令人受傷,蝶蝶把手機收起後交代了句抵達時要叫醒她,隨即閉眼休眠。我也無意打斷她的假寐;在那夢中,我僅僅目送他向那個不知曉的目的地出發,將對她的依賴減縮到幾乎不復記憶,因此才表示即使做愛也感到寂寞。但是到底,性愛一事長久看來僅佔據生活裡短暫的現在過去,與亂數的未來。即使加諸精神上的共享,肉體的關係仍是相對多數,只要情感還存於人世的一日,那麼任誰都得擁抱不安吧,這份不安當然可理解為精神上的潔癖,抑或未能克服的懦弱--各種說法。因此,在肉體媾和當中,我甚少找到自身企及的寧靜。但也因為這份不安,從旁看去,蝶蝶與我的連繫就像在獨木上做作用力形式的來回拉鋸,待到切斷這根獨木時,連繫終究傾頹,雙方永遠靜滯。所以,那道「嗯」的訊息,便是我的不安,以及我們關係在目前還得以存在的象徵。
抵達時我喚醒蝶蝶,跟她在街上找到公共的吸菸區時,她遞了隻菸過來。她知道除了公事外,我沒有碰菸的習慣,於是我解讀為這是那道「嗯」之後的報復。上午奔馳在高速道路時,思考著關於由藏匿起的犧牲與齟齬所建立的巴別塔,僅僅在幾個鐘頭後,便從模擬的想像中,承受著來自現實的侵蝕。燃燒後的薄荷醇化合物香氣,我用吸管喝水那樣的方式,吸了一整口填滿肺葉,隨後再緩緩地讓煙霧從嘴巴吐出--即使有過抽菸經驗,不過老實說一直沒有習慣Noire,或者其它菸品那種突然湧現的冷涼,弄得氣管隱約緊繃起來,抗拒似地在吐出煙霧的途中嗆咳不止。
「還剩四支我們就均分掉吧,抽完才去買渡輪船票喔。」
蝶蝶看了看菸盒,又用指節敲了敲反射吸煙區頂上淺蔥色螢光的手錶鏡面,滴答滴答--
我們總算搭上往嚴島渡航的渡輪時,已經是 22:40。上層甲板的船尾角落,她挽著我的手臂,在望著漆黑海面,對向的返回船程時,說了句「來接吻吧」,突然地便吻了上來,並將舌頭伸進我的口腔中,索求著什麼那樣。周圍一部分人群的注意力在我們的身上飄移,她發現卻也無意隱藏,直到滿足後她才收回舌頭的纏繞。鞭子與糖果、毒與蜜,她的眼裡共存著兩種情愫--審視與魅惑,我則像是在明知不可繼續前行的深淵邊際,讓她拉著手向著淵底齊墮。
與其說是蝶蝶還在生著悶氣,倒不如說是她在搶回主導權,積極而且愈發狠心。
下船後從港町出發的那小段路幾乎是摸黑前行,不見鹿群只有稀稀落落的隻影暗中向人群張望。然而有參訪人群的地方,屋臺自是少不了的,折過一轉角--接入此刻島上最是熙攘的參道商店街的堤防通路,也不知道蝶蝶的興致怎麼來的,早先在八丁堀時已用過晚餐,現在還特意地買好兩份廣島風的什錦燒後,拉著我坐到堤防邊上大快朵頤起來。海水正逢退潮,堤防上的探照燈餘光亮度勉強可以看見後退的海岸線,我一向吃得沒蝶蝶快,就在我瞭望著海岸線以及沉浸在海潮的迴響裡時,沒留意到背後一隻循香氣而來的落單成鹿,突然咬住服裝背後,讓我怪叫一聲,蝶蝶見狀噗哧地一聲別過頭去。
「我不是有意的,但有時你就該被這麼刺激一次--」
蝶蝶將嘴擦拭乾淨後,兩手手肘抵著左右膝上,雙掌捧著下巴轉過頭來向我說著。我本來想說些什麼的,但為了不重蹈覆轍那個「嗯」的失言,吞下最後一口什錦燒後覺得還是算了。處理掉完食器皿後,蝶蝶握住我加入朝著神社行進的行列--在中途推進到可以將大鳥居盡收眼底的彎道附近時,鯽魚般簇擁的人群實在是太擠了,按捺不住的蝶蝶又拉著我從隊伍裡掙脫,一時地欲往沙灘退避。
「成為大人後,無論男女,人總要有些雅俗、癖好才能繼續面對人生。或許,以後我會為新的生命改掉這些癖好,不過我希望還能在你的身上懷念曾經的自己,才好分清楚你我各自的司職。」
握住她小心地走下通向沙灘的階梯,讓她依然摟著我的腰,方便穩穩地走在泥濘的地面。與大鳥居取出一個適當的距離後,我請附近的遊客替我們拍了幾張與大鳥居的合照--畫面上的她,難得地收斂起平時的奔放,自然地露齒微笑著。滑動過照片幾回後,她伸手再次摟住我的腰際時,我不多作表示地接受她那像是替自己找個聊表歉意的說詞。
「意思是得有癖好才能活得像人呢--那為什麼在年末來到廣島呢?」
「在你夢裡,我不是前往一個未知的地方嗎?我覺得這點,你我姑且是相同的--都有著想逃離到另個遙遠地方的靈魂;北方太冷,南國更遠,所以才起意選了廣島。」
消退的潮水與我們佇足的沙灘有段距離,大鳥居甚至都露出滿潮時浸潤在海中的根部,從沙灘向岸上望去--雜沓、等待參道底端的入口開放,臨近年始的列隊人龍不見末尾。不超過 4°C 的冬季海風中,蝶蝶摟著我腰際的手,又摟得緊了些。
師走,年末嚴島 23:45。
「你能愛我嗎?」
「--」
發出聲音的嘴型,是她想聽的答案。
潮時去來,海淵沉潛,東雲茜時,泡沫心中。
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SW2.5シナリオ 『タポの神隠し』
シナリオ名 : 『タポの神隠し』 推奨人数 : 3-5人 推奨レベル��: 2-3 ジャンル : はじめてのばんぞくたいじ 難易度 : ★★★☆☆ メモ : 百番煎じ
●概要 “導きの港”ハーヴェス王国から北に向かって約一日。タポの村と呼ばれる農村で、ここ数か月謎の失踪事件が起きているという。 滅多に蛮族の被害も無い平和な村に一体何が起きたのか。新米冒険者達はその謎を解き明かす為、タポの村の奥地へと赴いた──。
●GM向けシナリオ概略 タポの村周辺に、レッサーオーガが率いる蛮族の小さな集団が隠れるようにして居座っていた。初めは狼や猪などの害獣や森の木のみを食べて過ごしていたが、群れが大きくなるにつれ、食料が足りなくなっていく。 そこで群れのボスであるレッサーオーガはタポの村に目を付け、ある日の夜に村長であるライアンを食い殺す。 その後村長ライアンに成りすましたレッサーオーガは、月に一度の頻度で村人を森へ誘導し、子分たちの食料としていた。 更なる群れの巨大化を目指すレッサーオーガは、これ以上に無い餌場を手にしたのだった。
●シナリオの流れ 1.導入 2.タポの村へ~村を散策 3.東の森 4.蛮族の洞窟 5.報告 6.レッサーオーガとの決戦 7.結末
●1.導入
PC達の関係性はご自由に。朝8時に、ハーヴェス王国にある水龍の逆鱗亭の店内から描写が始まります。
多様な冒険者が集う“導きの港”ハーヴェス王国。絢爛豪華な湾岸都市の一画にある、【水龍の逆鱗亭】にてこの物語は始まる。 木製の暖かな店内を、二メートル以上の巨体を持つ男が見渡す。 手に持った依頼書に見合った実力を持つのであろう、君達○人に大声を張り上げた。 「おい、そこの新米達! 仕事を探してるならこっちに来てくれないか!」 「まずは自己紹介をしておこう。俺の名前はナッシュ・ヴァルター」 「この水龍の逆鱗亭の店主だ」 「経験を積みたいってなら丁度いい仕事があるぜ? 話だけでも聞いてみないか」
元々一流の冒険者であったナッシュ(熊リカント/男性/57歳)は、ハーヴェス王国でも有名な冒険者の宿の店主です。 彼の指導の下、大成した冒険者も数多くいる事から、彼は信頼に足る人物であるという事はPCも知っていて良いでしょう。 承諾すれば、ナッシュは仕事の内容について話してくれます。
「お前達にやって貰いたいのは、“人探し”だ」 「このハーヴェス王国から北に一日かけて向かった���に、タポの村と呼ばれる農村がある」 「タポの村では四か月程前から、月に一人くらいの感覚で人が消えているらしい」 「──そこでお前達冒険者の出番ってわけさ」 「依頼内容は行方が知れなくなった四人の村人の捜索」 「村の近場には魔物も出ないって聞くし、お前らみたいな新米には丁度いいだろう」 「報酬は前金一人300ガメル、達成で更に一人700ガメル支払われる」 「どうだ、受けてみないか」
ここでナッシュが語る依頼の達成とは、「居なくなった四人の安否の確認」という事になります。 全員が生きている必要はなく、最悪死体の確認だけでも問題はありません。勿論、生きている事に越した事はないと併せて伝えて下さい。 本来であれば「失踪の謎の解明、及び解決」も必要となりますが、あくまでも村からの依頼は失踪した���人の捜索となります。 この依頼に了承したPC達に、ナッシュは一人300ガメルの前金を支払ってくれます。
●2. タポの村へ~村を散策
ここから自由に探索が可能になります。GMは、日数計算に気をつけて下さい。 前金が支払われた段階から、72時間。それまでにPC達が囚われた村人を解放出来なければ、村人は食べられてしまいます。 タポの村へはナッシュの言葉通り、24時間で辿りつけます。それまでに買い物を行ったり、何か調べ物をしたりした分の時間はざっくり計算すると良いでしょう。
タポの村は大きな畑が広がっており、牧歌的な空気が村を包み込んでいる。 村の東には深い森、北には鉱山としても使われている切り立った山がある。
タポの村に着けば、見張り番である男、ベッポ(人間/男性/25歳)がPC達を出迎えてくれます。
「おお、こんな村に客人とは珍しい」 「……まさかその出で立ち、アンタ達が依頼を引き受けてくれた冒険者様かい?」 「ああ、やっぱり! アンタ達を呼んだのは俺だ!」 「俺はベッポ、この村の見張り番だ。よろしく頼むよ!」
好青年であるベッポは、十日前に最愛の妹アンジェが神隠しにあっています。村長に扮したレッサーオーガが上手く時間稼ぎをしましたが、遂に痺れを切らしたベッポを始めとする村人達が独断で冒険者に依頼を出しているのです。 ベッポは村の立ち入りの為には村長への挨拶が必要とし、冒険者達をタポの村村長、ライアンの家へと案内します。 ライアンの家は小屋とも呼べる程度の他の村人の家とは異なり、立派な木製の家です。ベッポはその扉をノックし、大声で来客を伝えるとPC達を家の中に招き入れます。
一人で暮らすには少々広めの空間に、木製の椅子に腰かける老人の姿がある。 何処か険しい表情を浮かべた老人は、君達を睨み付けるように覗き見た。 「……ようこそ御出でなすった」 「儂はライアン、この村の村長です」
勿論、この時は既にライアンは死亡しており、家の中で白骨化しています。 レッサーオーガは用心深く、粗を出さない為にも率先して冒険者と話をしようとはしません。 あくまで邪険に扱い、さっさと村から出ていって貰おうとします。PC達から質問を受けても、「知らない、分からない、覚えていない」の三種類くらいしか喋りません。さっさと家から追い出そうとまでします。
このシーン以降、ライアンと同じ場所にいる状態で、PLがライアンを怪しむ発言を行った際には、真偽判定を振らせましょう。 村で情報を集める前に行った場合の達成値は「12」。後述する情報を取得した場合は「8」になります。 もしこの真偽判定を達成した場合、一気にシーンは「● 6.レッサーオーガとの決戦 」へと移ります。
上記のライアンとの話を終え、村長の家を追い出されたPC達をベッポが迎えます。
「アンタ達には期待してるぜ、冒険者さん」 「消えた中には俺の妹アンジェも居るんだ」 「よろしく頼むよ!」
これ以降、PC達は自由に行動する事が出来ます。 ベッポを含む、他の村人達に聞き込み等を行う場合は以下の中から必要な項目を拾い、応えて下さい。 この辺りはGMのさじ加減で、上手くPC達を誘導してあげると良いでしょう。 特に重要になるのは、「村長の様子がおかしくなった」事と、「村長ではなく村人(ベッポ)達が依頼を出した」という事です。
「アンジェは二週間前、森へ果物を取りにいったんだ」 「…だがそれから返ってくる事はなかった」 「もう我慢ならないと、他の村人からカンパを募ってアンタ達冒険者を呼んだのさ」
「村人が居なくなってから、村長の元気が無くなっちまったんだよな」 「お疲れなんだろう」
「そういえば最近、夜に村長が出歩いてる所見てないなぁ」 「ついこの間までは、村の見回りを日課にしてたんだが」
「村の男達で森や鉱山を探したんだが、何も見つからなかった」
「この村は貧乏だから、アンタ達冒険者を呼ぶのに時間がかかっちまったんだ」 「村長は結構金を持ってるって聞いてたから期待してたんだけど、実際は無一文だったみたいでね」
森、鉱山に向かう場合は、片道一時間かかります。 鉱山では特にイベントはありません。
●3.東の森
東の森までは、一時間も掛ければたどり着く事が出来る。 森の木々たちの背は高く、陽が出ていてもどこか薄暗い印象を受けるだろう。
森では足跡追跡判定、もしくは探索判定を行う事が出来ます。 足跡追跡判定は達成値7、探索判定は達成値8で判定を行い、成功した場合は以下の描写を読んでください。
大小様々な足跡が伸びている。 その中でも特段小さな足跡が正規の道から外れて、巧妙に隠されていた獣道へ続いている事がわかる。 また、その足跡のすぐ傍に、何かを引きずったような跡も続いている。
これは蛮族が村人を襲い、自分達の洞窟へ攫った跡です。 もし判定に失敗した場合、5時間の探索を経て自動で獣道を発見する事が出来ます。その場合は足跡などの描写は不要です。
更に一時間ほど獣道を進めば、岩場にぽっかりと口をあけた洞窟に辿り着きます。 洞窟の内部は暗く、暗視が無ければ光源が無い限り見渡す事は出来ません。
● 4.蛮族の洞窟
レッサーオーガの群れの子分である蛮族達の住処です。群れはゴブリン(『Ⅰ』439p)、ダガーフッド (『Ⅰ』438p)、アローフッド (『Ⅰ』437p)で構成されています。 数はゴブリンが二匹で固定、ダガーフッドとアローフッドは(PC数-1)として下さい。
蛮族は二つのグループに分かれており、それぞれゴブリンを隊長としてダガーフッドとアローフッドが半分づついます。 半分は洞窟で待機、もう半分は狩りに出かけています。 PC達がこの洞窟の内部に侵入を試みた瞬間から、丁度30分後に狩りにでた蛮族が戻って来ます。GMはここでも時間管理を行って下さい。
まず洞窟の入口には早速罠が配置されています。 罠感知判定、達成値8に失敗すると、5mの落とし穴に落ち15点の物理ダメージが入ります。更に穴の下には小石が散りばめられており、大きな音が響きます。 その音で蛮族の待機グループが穴から這い出し、即時戦闘となります。穴に落ちたPC達の処遇はGMに任せます。 この罠を回避すれば、蛮族の待機グループは洞窟の内部に居る状態になります。
洞窟は一本道になっており、5分もあるけば分かれ道に出ます。 分かれ道では北、西、東に進む事が出来ます。 狩りに出かけた蛮族が戻ってきた場合、彼らは真っ直ぐに北の道を目指します。
・洞窟西:奴隷置き場 依頼承諾から48時間以内であれば、PC達の耳に金属音が聞こえます。 その奥では、壁に鎖でつながれた村人アンジェ(人間/女性/20歳)の姿があるでしょう。 彼女は蛮族に連れ去られて以降、何とか生き延びていました。 アンジェはそれ以降、PC達に同行を申し入れます。戦闘などが入る場合、蛮族は彼女を含めた中からランダムで攻撃対象を決定して下さい。 アンジェの能力はHP12、他は全て0です。 もし依頼承諾から48時間以上が経過している場合、この場所には鎖があるだけで他には何も見当たりません。
・洞窟東:ゴミ捨て場 この場所には蛮族達の生活ゴミが捨てられています。 基本的には動物の骨などです。この場所では探索判定を試みる事が出来ます。 自動成功で、獣の骨に混じって人骨も見つかります。 更に冒険者レベル+器用で判定を行い、8以上が出ればその人骨が三人分(アンジェ死亡時、四人分)である事がわかります。 この探索判定を行えば、依頼は完了したとみなされます。PC達に伝えてあげると良いでしょう。 達成値5以上で「ピアス」「指輪」「ネックレス」(売却値100G)が見つかります。これは既に死亡した村人達の遺品です。
・洞窟北:居住区 ここは蛮族達の寝床として使われており、広い地面には藁が乱雑に敷かれています。更に部屋の奥には宝箱が一つあります。また、壁には松明が掛けられており視界は良好です。 もし最初の罠で戦闘になっていない場合、蛮族の待機グループはこの場所で寝そべっています。 蛮族退治後、この場所では探索判定を行う事が出来ます。 達成値5以上で、敷かれた藁の数が確認出来ます。小さな藁の束が(ダガーフッドの数+アローフッドの数)分、中くらいの藁の束が二つ(ゴブリンの数)分ある事を伝えて下さい。 達成値8以上で、洞窟の壁に文字が刻まれている事が分かります。汎用蛮族語で書かれています。
『女 未だ 食うな』 『人族 警戒 しろ』 『次 満月 戻る』
宝箱には鍵が掛かっています。解除判定、達成値は10です。 中には「能力増強の指輪」(『Ⅰ』329p)が一つ入っています。指輪の内容はダイスで決めるか、GMが決めて下さい。
●5.報告
洞窟の蛮族を倒せば報告を行う事になります。この際、「誰に報告をするか」、「アンジェを連れているか」、「遺品をどうするか」で���岐があります。 ライアンに報告した場合、「お疲れ様でした」と短く言うだけで、特に労う事もせずに冒険者達を返そうとします。 ベッポに報告した場合、アンジェを連れ帰れば泣きながらお礼を言います。アンジェが死体となっていれば、ベッポはがっかりとした様子でPC達を見送ります。 どちらにせよ、「村人の安否が決定」した時点で、彼らは冒険者を見送ろうとするでしょう。
遺品の三種類は売却する事も可能ですが、それぞれの家族に返す事も出来ます。 返した場合、エンディングで更に報酬500ガメルが追加されます。
●6.レッサーオーガとの決戦
村長ライアンに成りすましたレッサーオーガに対し、真偽判定を試みて成功した場合、レッサーオーガは本性を顕します。 基本的には家から出る事はないので、家の中での描写となるでしょう。 見破った際、即座に戦闘を仕掛ければ奇襲を掛けたと見なせます。先制判定に確実に成功し、ライアンは自分の手番でようやく人化を解除出来ます。 ご丁寧に見破った旨をライアンに伝えた場合は、正々堂々戦う事になります。
ライアンの瞳が怪しく輝く。 「ほう、私の姿を見破ったか」 「村人共め、勝手に冒険者なんぞ送り込みよって……全く面倒な事を」 「ここは貴重な餌場だ、簡単に手放すつもりもなければ──この事を知った貴様らを、生かして帰す道理もない」
ここではライアンに扮するレッサーオーガ(『Ⅰ』p442)との戦闘です。PCの数が4人以上の場合は、剣の欠片を(人数-3個)持たせましょう。 レッサーオーガ は一人で、援軍等はありません。家の中といえども容赦なく魔法をぶっ放してきます。 レッサーオーガ を倒せば、最後に彼は恨み言を残します。
「馬鹿な……!」 「だが、これで終わったと思うな……!」 「私という歯止めがなくなった以上、もう、この村は……」
更に洞窟攻略後、それをPC達が伝えた場合は更に悔恨に満ちた顔を浮かべ、呟きます。
「な、何だと!?」 「クソ、忌々しい人族共め!」 「貴様らさえ、居なければ……!」
レッサーオーガ死亡後、ライアンの家で探索判定を行えます。 自動成功として、家の隅から人骨が一人分見つかります。これは勿論、本物のライアンの物です。 達成値9以上で、ライアンの隠し財産が見つかります。宝石が箱に入っており、全て売却すれば500ガメル相当になるでしょう。
●7. 結末
PCが洞窟攻略(蛮族全討伐)してなおかつレッサーオーガを倒した場合は自動でエンディングを迎えます。 やり残したことがある場合、PC達にどうするか尋ね、自発的にハーヴェス王国に戻る事を選択した場合でもエンディングを迎えます。
エンディングは特定の要素によって変化します。
【エンディングA】…レッサーオーガを倒し、蛮族を全て討伐 君達の依頼完了から数か月後。 タポの村では作物が大豊作となり、君達宛てにたくさんの野菜が届く事になる。 そこに添えられた手紙には、君達への感謝が所せましと並べられていた。 もうあの村で人が消えるような事件は起こらないだろう。 君達が、あの悪しき蛮族を討伐したのだから。
【エンディングB】…レッサーオーガを倒すも、蛮族を打ち残す。 君達の依頼完了から数週間後。 君達の耳に、驚くべきニュースが飛び込んでくる。 タポの村、蛮族により崩壊。 次に改訂されるであろう地図から、タポの村は永遠に消失した。
【エンディングC】…レッサーオーガを倒していない。 君達の依頼完了から数か月後。 水龍の逆鱗亭に、新たな依頼が舞い込んだ。 ──タポの村にて、人探しをお願いします。 タポの村では月に一回、誰かが消える。 その恐ろしい事件は、終わらなかった。
また、上記に加えて遺品を村人に返したかの有無で、報酬金額が500ガメル変動します。
報酬として一人1000ガメル(前金300、達成700)が支払われます。 そのほかの戦利品や、物資の売却品、遺品返却による報酬などはプレイヤーの頭数で割って下さい。
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福島事務局の大塚真理さん、大いに語る。
東北ユースオーケストラ結成のきっかけは、スイスの世界的に高名な音楽祭、ルツェルン・フェスティバルから東日本大震災のための復興イベントを行いたいとの相談を受けたことからはじまります。
大震災直後から被災三県の学校の楽器を点検、修理し、音楽活動を支援してきた「こどもの音楽再生基金」では、発起人である坂本龍一さんから「子供たちによるオーケストラができないか」というアイデアが出ていました。
2013年のルツェルン主催の宮城県松島での音楽イベントに「東北ユースオーケストラ」という混成オーケストラを編成して指揮者グスターボ・ドゥダメルさんや坂本龍一さんと共演する機会があれば、日本のみならず世界に復興途上の現地の子供たちの姿が発信されるのではないか。
この大きな構想を受け止めてくださったのが、当時福島市のテレビ局、福島テレビが運営されているFTVジュニアオーケストラで事務局を担当されていた大塚真理さんでした。大塚さん無しには、「ルツェルン・フェスティバル アーク・ノヴァ 松島2013」で「東北ユースオーケストラ」が生まれることはあり得なかったでしょう。そういう意味でも、大塚真理さんはTYOの母であります。
以来、2015年の団員募集ではチラシを抱えて地元を駆け回ることから、合宿での急病人の対応から、福島市での毎月の合同練習会で団員が出したゴミの後始末から、何から何まで気の効くサポートを受け続けて来ています。時に原発事故の話題になると、国や東電の対応や深刻な影響について声を荒げて話されることがあり、折に触れお話を伺ってきました。しかし、これまで一度もいわゆる「インタビュー」をしたことがなかったと気づきました。そこで、今年も311が近づく2月の1泊2日の合同練習会で二日に渡ってお話を聞いてみたのです。
ー 今日はあらためてお話を伺いたいと思います。まずは福島テレビ(FTV)に入社された頃の話からでいいですか?
FTVには1977年、昭和52年に入社しました。最初は営業管理部で、スポットデスクに配属されました。
(注:「スポットデスク」とは番組と番組の間に入るスポットCMの管理を行うセクションです)
その後は、制作部でサブディレクターになりました。県庁担当で「市政たより」やお母さんのための幼児教育番組「小さな世界」などの制作をしていました。弁当やお花の手配ばかりしていたので、自分のことを「弁当ディレクター」と言っていました。
鼓笛隊パレードとか、当時はジュニアオケの番組もありました。毎年土曜日午後の1時間半番組でスポンサーもついていたんです。昔は自社制作番組が結構ありました。
ー 今では地方局は東京のキー局の番組ばかりになってますからね。福島テレビは当時からフジテレビのネットワーク局だったんですか?
その頃はフジテレビとTBSの2局のネット局だったんです。最強だったですよ。ドリフターズの「8時だよ、全員集合」も「花王名人劇場」も「ザ・ベストテン」も「夜のヒットスタジオ」も金八先生のドラマも「なるほど!ザ・ワールド」も同じ局で放送していたんですよ。
ー それはすごい!わたしが子供の頃に見ていた番組ばかりです。きっと仕事も面白くてしょうがなかったでしょうね。
はい、楽しかったですから結局結婚まで10年勤めました。当時の福島だと30過ぎると結婚が遅いほうなので周りに心配されました(笑)
ー ということは今や珍しい寿退社ですね。一旦お辞めになってからまた復職されたのですね。
わたしの主人が亡くなった時に戻ってこないかと声をかけてもらいました。15年ほど前、いまとにかく困っているから事務を手伝ってくれと言われたんです。
ー 困った時には大塚さんですね(笑)
平成15年、2003年に福島テレビの事業部一年間、契約社員で働きました。そうしたら翌年の2004年からFTVジュニアオーケストラの事務局をやってくれとなりました。その頃には福島テレビの女性社員はほとんどいなくなってたんです。
ー オーケストラとは昔からつながりがあったんですか?
制作部時代、ジュニアオケの番組収録の時にタイムキーパーとして何度か手手伝ったくらいでした。だから頼むれた時も「え、オーケストラ? 音楽は知りませんよ、でも事務はできますよ、予算管理ならできますよ」と言いました。
社内の人たちはよく知ってるし、社内交渉はできる。それに営業と制作で鍛えられたので、段取りはよくわかっている。人生何事も経験で無駄なことは無いとつくづく思います。若い頃の経験が役立ちました。
ー それは大塚さん、適任ですね。でもオーケストラの運営には専門知識も必要ですよね。どうされたんですか?
そもそもトランペットとトロンボーンの違いもわからないくらいだったんです。だから必死で本を読みました。「音楽の友」など音楽雑誌を毎月読んで、フルトヴェングラー、カラヤン、ウイーンフィルなどについての本を気の向くままに読みました。特にNHK交響楽団のオーボエ奏者茂木大輔さんの本は役立ったと思います。
指導していただく先生方の話もチンプンカンプンだったので、楽譜を読めるようにドイツ語とイタリア語の対照表も自分でつくりました。「やさしいクラシック」のような入門向けのCDも片っ端から聴きましたね。
— オーケストラの運営となると、この世界ならではの業務もありますよね。
まずは一所懸命に楽譜の整理をしました。もうそれはそれは楽譜がバラバラだったんです。東京から指導に来ていただいていたパーカッションの先生、大塚敬子先生に教えていただいて、パートごとの並べ方や番号の方を教わったり、それはとても助かりました。
3年やってようやく慣れたかな。予算のこと、楽器のこと、テクニカルタームもわかるようになってきました。だんだん実務が楽しくなってきて、自分から企画が出せるようになってきたんです。
— 大塚さんにとってジュニアオケでの転機となるようなことはありましたか?
6、7年目かな。福島県文化センターでクリスマスコンサートとして竹内ひとみバレエ団とチャイコフスキーの「くるみ割り人形」の全幕をやりました。この企画を出した時は、子供たちがオーケストラピットに入って演奏するから脇役になると、先生方は反対でした。でも子供たちはやりたいと言うんです。だから押し切った(笑)。前半と後半に分けて負担を減らすようにしてね。
— 一番思い出深いコンサートとなると、どうですか?
ベートーヴェンの第九ですね。わたしがFTVジュニアオーケストラの事務局を辞める年、2013年12月30日でした。会場が福島県文化センターという県の公共施設ですから、年末は通常28日で仕事納めなんです。それを「開けてください」とお願いして、ホールの歴史で初めてのことでした。 この時も大人は反対でした。「忙しいから駄目だへ、無理だべ」とさんざん言われました。でも、子供たちに聞くと「やってみたい」と言うんです。実際やれるんです。子供は「やるよ」と言ったら、やるんです。大人が決めてはいけないんです。
このことは、子どもたちに教えられたことです。子供たちってすごいんですよ。わたしは若い人たちにパワーをもらって生きてきた、助けられて生きてきたんです。大震災から2年経って、福島の復興への想いもありました。
わたしはジュニアオケの仕事も10年で辞めるからと言っていました。わたしの子供も大学を卒業するし、60歳から先は自由に生きるのだと決めていた。だから「歓喜の歌」である、第九をやって締めくくりたいと思ったんです。第九の合唱団も公募で大変だろうと言われたけど、好きなことだから頑張れるんです。そしてサポートしてくれる、先生や周りの人に恵まれていました。
おかげさまで演奏会は大成功となりました。
— いつも団員インタビューで聞いている質問です。311の時、どこで何をしていましたか?
福島テレビの旧館5階の事務局に一人でいました。いつも2時40分が仕事のひと区切りがつく時間だったんです。だからその日もコーヒーを淹れようと立ち上がったら、携帯の地震警報が鳴りました。もう激しく揺れだしてびっくりしました。逃げようと廊下を走ったけど思うように前に進めないんです。すると壁が部分的に崩れてきた。譜面台は一斉にバタバタと音を立てて倒れ、階段を降りることもできず、エレベーターの角の柱につかまっていました。すると、わたしの背後でコピー機が左へ右へと走ったんです。もうびっくりして、あの時はこのまま一人で死ぬんだと思いましたね。
2回目のほうが揺れが大きくて、長く感じました。そうこうしていると、4階の秘書室の部長が上がってきた。バタンバタン大きな音を立てて動いていた防火扉を止めるためにです。
それで揺れもおさまって3階の事業部に戻ったところ、危ないので外に出ろと言われた。外に出たら、こんどは雷と吹雪になりました。 報道と制作が入っていた新館は、それほどの被害は無かったのですが、旧館が酷かった。あらゆるガラス、窓ガラスがほとんど割れたから、そのあとずーっとベニヤ板で覆うような状態が続きました。よく怪我人が一人も出なかった、奇跡に近いと言われましたね。もう壁もひび割れて「メロンハウスだね」と言って笑うしかなかった。
— 外にしばらくいたのですか?
いったん家に帰れと言われました。家族の安否を確認するために連絡を取りました。そしていったん5階の事務局に戻ったら、テレビもファックスも吹っ飛んでいましたね。ようやく鞄と靴を探して、コートを持って車に乗りました。車内のラジオで津波が発生と聞きました。被害が出てると言うけども、よくわからなかったです。車を運転しても、信号が止まっているので、渋滞はしてなかったけど、道路を渡ることすら思うままにできなくて、交差する車同士で「ごめんなさい」と道を譲ってもらったり譲ったりで、踏切の無い道を選んで車を走らせました。 水道管が破裂したところは、もう道路がわからない状態で、運転しながら足が震えました。もう自分の家が無いのではと思いながら、運転するのに必死でした。道路が陥没して軽自動車が落ちてる脇を通って抜けた時の恐怖。あの時のことを思うといまだに怖いです。 おかげさまで家はあったし、屋根も損傷受けずでしたが、電気ガス水道が止まりました。
— ご家族はみなさんご無事だったのですか?
当時23才だった上の娘が勤めていた銀行がたまたま仕事休みで、いつもはぼーっとしてる娘がセブンイレブンに買いに走ったけど、ほとんど何も無かったと報告してくれました。 78才の父は犬が飛び出さないよう抱えて、いったん家を出たそうです。 80才の母は玄関で動けないでいた。あまりにびっくりして、記憶が無いと言っていますね。もう、ぼーっとしてるしか無かったと。 家族と家は大丈夫だと実際に安否確認でき、会社に報告したらしばらく出社しなくていいと言われました。ちょうど金曜日だったので、それからしばらく家にいましたね。
— 津波のことは後から知ったのですか?
ラジオだけの情報でした。だから津波の悲惨な状況を聞いても想像できなかったですね。電気が戻ってから、テレビの映像で津波を見てショックを受けました。まるで映画のワンシーン。こんなことが起きるんだと思いましたね。家族でみんな生きているに感謝しました。
— 避難所には行かれました?
結局、避難所には一度も行かずでした。2000年問題の時に電気が止まると言われていたので、ストーブがあって、灯油もあったので寒さはしのげました。あと近所の飲めない井戸から水をもらって、ストーブでお湯を沸かして湯たんぽをつくり、その水を利用してトイレも使えました。 近所の井戸水で飲める水があるとの情報を聞きつけ、ガソリンあるうちは車を走らせてもらっていました。 やはり困ったのは水、電気でした。夜は庭の太陽光で発電する照明を家に持ち込んだり、ロウソクの生活が続きました。テレビも見れなかった。 ガスが最初に復帰して、1週間もかからなかったですね。水道は1週間かかりました。そしてうちは電気が一番最後に復旧しました。道路の反対側まで電気が来てるのに、あともう少しなのにとせつない思いになりましたね。街の中は電気ガス水道ともに全然大丈夫だったんですが。
— 原発の事故はいつ知られましたか?
大震災の週明け火曜日に会社に行って、はじめて原発がたいへんなことになっていると知りました。それまで、そんな重大なことと思わなかったです。家に帰って「どこに逃げようか、どっち方向だろう、貴重品を持ち出せるように、いつでも避難できるようにしよう」としましたね。 水をもらうために外で2時間とか平気で並んでました。原発が深刻だと思わなかった。学校行ってないから子供が外で並んでたんですよ。もうちょっと教えてくれたらと今になって思いますね。もっと広報の仕方とか方法が無かったのかと。確かにそれどころでは無かったかもとは思います。誰も経験したことの無いことだったから。福島は災害が無かったから、災害の無い県と思い込んでましたね。それに「原発は安全だ」と思い込んでいました。地震はともかく、津波の恐ろしさ。あの津波さえなければと思いますね。
— 福島市から逃げようとはされなかった?
逃げて行っても、生活の場が無いですしね。できるだけ外には出ない、窓は締める。ガソリンがあるうちは車で移動。必要以外は外に出ないとしました。 それでもしばらく余震が続きました。地震警報におびえる生活が続きました。家の中でも寝る時もジャージで、一階の和室で生活をしすぐに外に出られるようにしていました。 いつから普通の生活に戻ったんだろう。記憶はあいまいになっていくものですね。
— これもいつも団員インタビューで聞いている質問なのですが、311で変わったことは何ですか?
日々何事も無く過ごしている有り難さを感じるようになりましたね。電気ガス水道の有り難さ。そして、なにごとにも感謝です。
平凡が一番、普通が一番。
なにごとにも「ありがとう」感謝の気持ちを持てるようになり、気持ちが穏やかになったと思います。
それから、普段からの災害への備えをするようになりました。それでも、またあったらうろたえるのだろうなとも思いますけど。
— FTVジュニアオーケストラの団員の子供たちに変化はありましたか?
ジュニアの子どもたちのうち、自主避難でいなくなった子が3人いました。逆に浪江町から避難してきた子が一人入団しました。福島テレビの社員でも小さなお子さんのいる方は3人は辞めました。
福島県でも飯館村とか、伊達市とか、思わぬところで放射線の線量が高いです。出て行った若い人は戻らないでしょうね。もう年寄りばかりです。避難した地域は生活ができないですから。店や病院もありません。
— 今の福島についてどのように思われていますか?
福島県に中高一貫校を新設するとか言っていますが、世間の目を欺くためではないかと思ってしまいますね。政府などへの不信感もあります。東京にオリピックを呼ぶために安倍総理がいくら「原発事故はコントロールできている」とプレゼンしても、「嘘つけ!」と思ってしまいました。
除染したと言っても限界があると思います。イノシシ、豚とか、山の中を動き回って、汚染された餌を食べている訳ですから。
— つい最近、除染が来たとおっしゃっていましたね。
ようやく去年の暮れに家の近所の側溝の除染に来ました。いまだに除染土が家の庭にありますよ。大きい袋ですからね、目に入ると気が重いです。なかなか持って行ってくれないんですよ。
(大塚さんご自宅の庭に置かれたままの除染土の写真です)
線量が高いところからはじめて、一年くらい後にうちの家に来て、「今ごろやっても無意味なんじゃない」と、みんなそう言ってますよ。気休めのような気がする。
— 実際のところはどうなんでしょうね。
噂では癌患者が増えてると聞きますが、あまり表には出て来ないですね。最近の国の「不正統計問題」を見ても、情報に対する信頼度が落ちてると思います。都合がいいことだけ発表して、情報統制しているのではと思ってしまいますね。
沖縄の人に「福島の人はおとなしいね」と言われました。沖縄なら毎日デモだよって(笑)
— 政府や国の行政にこれだけはお願いしたいということはありますか?
本当のことをしっかり発表して欲しい。今、現在どうなってるかを知りたい。福島の街にいくら線量計があっても気休めなんだと思うんですね。
それにこれだけの事故を起こしながら、原発を、海外に売ろうとしたでしょ。いったい福島のことをどう思ってるのかと。
国ってなにを考えているのかなと悲しくなります。
ヒロシマ、ナガサキ、唯一の被爆国ですよ。
今の日本が悲しいですね。
— そんな状況の中で東北ユースオーケストラの活動はあります。どのようにお考えですか?
主役は子どもたちのことだから、大人は政治的なことを押し付けはいけないと思いますね。
でも代表・監督の坂本龍一さんは、はっきりものをおっしゃいます。偉い。勇気があると思います。影響力のある人が発信することが大事なんです。
坂本さん、凄いなって、いつも尊敬してます。
— 震災のあともFTVジュニアオーケストラの活動が続いてきたからこそ東北ユースオーケストラが生まれましたね。
震災の後、ジュニアオケは活動をやめたらどうかという話になりました。でも子どもたちはやりたい。しかし、毎週練習に使っていた福島テレビの旧館の社屋は、使えない。2011年の5月の連休明けからしばらくして練習を再開しました。もうあちこち転々と1週間ごとに楽器を運んで練習を続けました。時には関連会社の会議室で練習しました。そして、7月に定期演奏会ができたんです。よくできましたね。子どもたちが絶対やりたいて言うからね。親御さんのサポートもありました。おかげさまで福島市音楽堂が再開してすぐのコンサートを開くことができました。
— 2013年のルツェルン音楽祭の復興イベントから東北ユースオーケストラは始まりました。その立役者が大塚さんだったわけですが。
2013年のルツェルンのイベントは、無我夢中でした。自分でもよくでき��と思う。子供たちのために今やらなきゃというエネルギーですね。何かをやっていたほうが、自分も楽な時期でした。止まっちゃうと駄目なんです。
わたしとしては、機会があれば子どもたちをどこかに福島の外に連れて行きたかった。そして、世界に眼を向けさせる。いろんな人を知る。ルツェルンの復興イベントは、そんな絶好の機会だと思ったんです。
しかし、FTVジュニアの先生方からも反対されました。子供たちの負担になると言うんです。大人はいつも安全パイを選んでしまう。こんな、世界とつながれる機会はないですよ。行ける子どもだけでもと、FTVジュニア以外にも近隣の高校の吹奏楽部などにも声をかけました。
ドゥダメルや坂本龍一という世界に通じる人と、松島の特別な場所で、いい経験が積めたと思いますね。
子供たちが坂本さんにサインをもらってうれしそうに笑っているのを見て、うれしかったです。
— そのルツェルン音楽祭で好評だったため、東北ユースオーケストラは一般社団法人化しました。
組織がしっかりすることはいいことです。続いていくことは、有難いことだと思ったし、何より親御さんからの信用、社会的信用が生まれます。
最初はゼロから募集をかけて人数を集めるとなった時に、集まるか不安でした。140通を超える応募の数には正直びっくりしました。
— かれこれ組織としては、東北ユースオーケストラは5年が経ちましたね。感慨深いです。
何しろ最初の夏合宿が沖縄県の宮古島だったでしょ。行動力がすごい。いろんなことを1つづつ叶えていく、その実行力には頭が下がります。最初は運営も危なっかしくってね、どうなることかと思いました。ただ夢中で子どもが演奏だけに集中できる環境をつくろうとしていました。もう大丈夫ですよ(笑)
— 最後に、これもいつも団員インタビューで聞いている質問です。今後、東北ユースオーケストラでどんな活動をしたいですか?
卒団した子どもが練習や演奏会にやってくるじゃないですか。そういう場があることが素晴らしいと思いますね。だから長く続けて欲しい。
海外公演も実現して欲しいです。よちよち歩きから始まった東北ユースオーケストラが、ルツェルン音楽祭で凱旋公演できるといいですね。あの2013年の松島のルツェルンのイベントの時のオーケストラがこんなに立派になって、と言われたら最高じゃないですか。
いち早く多額の支援をしてくれた、親日家の多い台湾公演もできたらいいですね。
東京オリンピック・パラリンピックでは何かしないんですか?
このインタビューを行なったのが先月の1泊2日の合同練習会だったもので、土曜日の練習を終え、JA共済さんにご手配いただいた宿泊組��宿へと向かうバスを見送る団員、大塚さん、そして同じく福島事務局で団員の演奏指導もお願いしている竹田学さんです。
あらためて大塚真理さんのお話を伺って考えさせられたのは、強い使命感と子供たちへの無償の愛です。通奏低音として「大人は子供のことを、子供の可能性をわからないのだ」という姿勢があって、だから大塚さんの子供へのまなざしには上から目線が微塵もありません。とてもふらっとです。だから子供たちも大塚さんのスタンスを動物的に嗅ぎ取って自然と寄って来るんだと思うのです。
「大人の都合で子供のことを考えるなよ」は、肝に命じたいフォームです。とと同時に「子供も大人の事情を考えろよな」と言いたくなってしまうのは、大人気ないことなのでしょう。反省反省。
実際にお聞きした内容にはとても刺激的なことも含まれていて、本当はノーカット無編集で「大塚さん大いに語る」を掲載したかったのですが、それはそれで品位に悖るような気がしまして、細かな配慮ができたかどうかは別として編集をいたしました。
311から8年です。大震災は続いています。そのことを知って欲しいと思います。それが東北ユースオーケストラの存在意義の一つであるからです。
引き続き東北ユースオーケストラへのご支援をお願いいたします。
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[友の会メール]今度の日曜日は東京ビックサイトへ! 『マンガ家になる!』先行販売のほか、ひらめき☆マンガ教室の特別イベントを開催!
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[友の会メールvol.310] 今度の日曜日は東京ビックサイトへ! 『マンガ家になる!』先行販売のほか、ひらめき☆マンガ教室の特別イベントを開催! (2018年11月21日配信)
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こんばんは、スタッフの堀内です。
ゲンロン友の会、年に1度の会員限定のお祭り騒ぎ! ゲンロン友の会第9期総会「ミネルヴァの梟は黄昏に飛ぶかも!?」チケット好評販売中です! https://peatix.com/event/569056
原武史、津田大介、久田将義、大山顕、さやわか、黒瀬陽平、梅津庸一、小松理虔、石戸諭、渡邉大輔らの超豪華ゲスト陣によるトークショー! カオス*ラウンジ+新井健による熱狂のアートパフォーマンス! 恒例の寿司職人もやってきて、食事も充実! 小松理虔プロデュースの「ゲンロン日本酒バー」もオープン! ……などなど、今年も超盛りだくさんな内容です。
おかげさまで、既に定員の半分以上のご予約をいただいております。 完売必至ですので、お申し込みはくれぐれもお早めに!
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業界騒然のマンガ家育成講義録! 『マンガ家になる!――ゲンロン ひらめき☆マンガ教室 第1期講義録』 いよいよ、12/1(土)より全国書店にて発売となります。
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また、会場の特設ステージでは、ひらめき☆マンガ教室の特別公開授業を開催! ゲスト講師にマンガ家の大井昌和氏、武富健治氏をお招きし、「ニッポンのマンガ」を語りつくし、実践的なマンガ技術をレクチャーいたします!
さらに、第2期受講生による同人誌売上レースも同時開催! 受講生は3サークルに分かれ、それぞれが制作した同人誌の売上を競い、特設ステージにて結果発表まで行います。 個性あふれる受講生たちの気合のこもった作品に、イベント前からSNSなどで話題が沸騰中です! チームA『大人になったきみへ 「小学4年生」』(う01a)→ https://twitter.com/hiraman_A チームB『はたらく美少女』(う01b)→ https://twitter.com/hiramanteamb チームC『空から落ちてきた』(う02a)→ https://twitter.com/hiraman2c
伝説が生まれること間違いなし! ぜひ会場までお越しください! (※ 一般参加の場合、入場時あるいは事前に「ティアズマガジン 」の購入が必要です) 詳細はこちら! COMITIA公式ウェブサイト→ http://www.comitia.co.jp/
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それでは以下、今週のカフェ&編集部からのお知らせです。
◆◇ ゲンロンカフェからのお知らせ ◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◇◇ 今週・来週の放送情報 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆11/21(水)19:30- 【生放送】渡邉大輔×佐々木敦 「映画(1st cycle)――2018年を軸に、新たな映画史を構想せよ」 【ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第4期 #12】 【チャンネル会員限定】 http://live.nicovideo.jp/watch/lv316635253 【無料生放送・講評】 http://live.nicovideo.jp/watch/lv316768288 ※無料放送分についてはタイムシフトの公開はありません。
◆11/22(木)13:00- 【再放送】仲俣暁生×白井聡 「『戦後』を続かせないために ――『3.11後』のアイデンティティ」 (2013/5/31収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv316583451
◆11/22(木)18:00- 【再放送】大山顕×東浩紀 「ショッピングモールはテロを誘発するのか? ――『スマホの写真論』から見たラスベガス」 【ショッピングモールから考える #7】 (2018/1/11収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv316583700
◆11/23(金)13:00- 【再放送】津田大介×東浩紀 「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻 ――公文書改竄から漫画村問題、そして米朝電撃会談まで 2018年前半の主要ニュースを振り返る夏休み特別企画!」 (2018/8/17収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv316583851
◆11/26(月)19:00- 【生放送】外山恒一×白井聡 「永続敗戦と全共闘以後 ――外山恒一・十番勝負『全共闘以後』刊行記念対談」 http://live.nicovideo.jp/watch/lv316587930
◆11/27(火)18:00- 【再放送】高橋源一郎×東浩紀 「平成のおわり、文学のおわり」 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #9】 (2018/7/30収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv316588350
◆11/28(水)19:00- 【生放送】高橋源一郎×東浩紀 「平成のおわり、文学のおわり #2 ーー『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』刊行記念対談」 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #13】 http://live.nicovideo.jp/watch/lv316768743
◆11/29(木)13:00- 【再放送】さやわか×西島大介 「西島大介とセカイは変わったのか ――『土曜日の実験室+ 詩と批評とあと何か』刊行記念対談」 (2015/12/22収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv316606487
◆11/29(木)19:00- 【生放送】津田大介×西田亮介×塚越健司 「メディアは破綻したのか? ウェブ新時代の対抗軸! ――『情報戦争を生き抜く』刊行記念イベント」 http://live.nicovideo.jp/watch/lv316952371
◆11/30(金)13:00- 【再放送】東浩紀 「ついに出た!『ゲンロン0』世界最速読書会!! ――『観光客の哲学』を読む」 (2017/4/11収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv316769393
◆11/30(金)18:00- 【再放送】東浩紀 「『観光客の哲学』と都市文化 ――第71回毎日出版文化賞受賞記念講演」 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #1】 (2017/11/15収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv316770533
◇◇ 現在視聴可能なタイムシフト ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆11/21(水)23:59まで 【再放送】東浩紀×上田洋子 「廃墟とユートピア ――チェルノブイリツアーのアクチュアリティ」 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #8】 (2018/6/29収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv316486149
◆11/22(木)23:59まで 【再放送】海猫沢めろん×長谷敏司 「人工知能最前線!シンギュラリティ前夜に機械は幸福の夢を見るか」 (2016/5/24収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv316486348
◆11/23(金)23:59まで 【再放送】五十嵐太郎×海野聡 「建築にとって日本とはなにか ――海野聡『建物が語る日本の歴史』(吉川弘文館)刊行記念イベント」 (2018/8/3収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv316486555
◆11/23(金)23:59まで 【生放送】さやわか×大井昌和 「いまこそ語ろう、士郎正宗!――ニッポンのマンガ #2」 【四天王シリーズ #6】 http://live.nicovideo.jp/watch/lv316505200
◆11/27(火)23:59まで 【生放送】東浩紀×上田洋子 「『哲学的体験』としてのダークツーリズム ――チェルノブイリツアーのアクチュアリティ#2」 http://live.nicovideo.jp/watch/lv316585563
※ご視聴は23:59まで可能ですが、ご購入できるのは視聴終了日の18:00までです。ご注意ください。
◇◇ 今週のおすすめアーカイブ動画 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆【vimeo】土居伸彰×三輪健太朗×宮本大人 「マンガとアニメーションとリアリズム ーー『個人的なハーモニー』から考える」 https://vimeo.com/ondemand/genron20180404 (2018/4/4収録)
◆【vimeo】千葉雅也×東浩紀 「モノに魂は宿るか ーー実在論の最前線」 https://vimeo.com/ondemand/genron20180325 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #5】 (2018/3/25収録)
★ゲンロンカフェ Vimeo On Demand 公開動画一覧 https://bit.ly/2sybMGS
◇◇ 発売中の会場チケット ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆11/26 (月)19:00- 外山恒一×白井聡 「永続敗戦と全共闘以後 ――外山恒一・十番勝負『全共闘以後』刊行記念対談」 https://peatix.com/event/451519
◆11/28 (水)19:00- 高橋源一郎×東浩紀 「平成のおわり、文学のおわり #2 ──『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』刊行記念対談」 https://peatix.com/event/453703
◆11/29 (木)19:00- 津田大介×西田亮介×塚越健司 「メディアは破綻したのか? ウェブ新時代の対抗軸! ──『情報戦争を生き抜く』刊行記念イベント」 https://peatix.com/event/558869
◆12/03 (月)19:00- 五百蔵容×速水健朗 電話出演=樋渡群 「サッカー批評の新たな地平を切り拓く! ――『砕かれたハリルホジッチ・プラン』から『サムライブルーの勝利と敗北』へ」 https://peatix.com/event/568747
◆12/05 (水)19:00- 北川フラム×津田大介 「アートはなにを救うのか ――『情の時代』と芸術祭の行方」 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #14】 https://peatix.com/event/556136
◆12/11 (火)19:00- 卯城竜太×aggiiiiiii×上田洋子 「アート・アクティヴィズムは社会を変えるか? ――『プッシー・ライオットの革命』(DU BOOKS)刊行記念」 https://peatix.com/event/569142
◆12/13 (木)19:00- 津田大介×毛利嘉孝 「SNS時代とは何だったのか(仮) ――『ツイッターと催涙ガス』&『情報戦争を生き抜く』W刊行記念イベント」 https://peatix.com/event/570031
★New!★ ◆12/17 (月)19:00- 大澤聡×仲正昌樹 「『ポスト・モダンの左旋回』のゆくえ ――教養と理論の死をめぐる9年半越しの対話」 【四天王シリーズ #7】 https://peatix.com/event/573662
◆12/22 (土)15:00- ゲンロン友の会第9期総会 「ミネルヴァの梟は黄昏に飛ぶかも!?」 https://peatix.com/event/569056
◆12/28 (金)19:00- 斎藤哲也×山本貴光×吉川浩満 「『人文的、あまりに人文的』な、2018年人文書めった斬り!」 https://peatix.com/event/566391
◆◇ 五反田アトリエからのお知らせ ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
開催予定の展示
◆2018年11月21日(水) - 11月27日(火) 15:00〜20:00 「わたしはお皿に落書きをしません。」 出展作家:杉本憲相 / 堀江たくみ / 宮下サトシ オープニング 11月21日(水)18:00〜
◆2018年12月1日(土) - 12月9日(日) ※12月8日(土)は講評のため終日休廊予定です ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 第4期生展覧会グループD(仮) 開廊時間:平日15:00〜20:00 / 土日13:00〜20:00
コンクリートブロックやジャンクな電子機器にキャラクターの身体を描く杉本憲相、日常系マンガのようなゆるやかなキャラクターを絵付けした陶作品を作り出す陶芸家堀江たくみ、アメコミなどカートゥーンな世界観を陶器オブジェ化する宮下サトシ。 新進気鋭の美術・陶芸作家三名によるグループ展を開催いたします! お土産感覚で是非お買い求めいただきたい、可愛くユニークな陶器が並びますので、ぜひご高覧ください。
また、12月には新芸術校第4期生による展覧会、グループDの展示がはじまります! 「サバイバル」型のプログラムが組まれている新芸術校では、4グループに分かれて4回の展示が行われ、その中で成績優秀者が最終成果展へ選出されます。 今もっとも注目される美術学校のひとつとなった新芸術校生徒たちの作品が、毎月ご覧いただけます。 どのグループの展示もどうぞお楽しみに、お見逃しなく!
新芸術校について・新芸術校関連の予定についてはこちら↓ https://school.genron.co.jp/gcls/
(藤城嘘/カオス*ラウンジ)
◆◇ 編集部からのお知らせ ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
★『ゲンロン9 第I期終刊号』絶賛販売中! 『ゲンロン』創刊から3年。第I期のあらゆる伏線を回収し、第II期の飛躍を準備する、第I期終刊号。 https://genron.co.jp/shop/products/detail/188 →試し読みページはこちら! https://issuu.com/genroninfo/docs/genron9issuu/36
★小松理虔『新復興論』絶賛販売中! ゲンロン叢書第一弾! 「課題先進地区・浜通り」から全国に問う、新たな復興のビジョン! https://genron.co.jp/shop/products/detail/178 →『新復興論』特��ページはこちら! https://genron.co.jp/books/shinfukkou/
★『ゲンロン8 ゲームの時代』絶賛販売中! 日本ゲーム盛衰史を語りつくす共同討議、充実のゲーム史年表など盛りだくさん! https://genron.co.jp/shop/products/detail/160 →『ゲンロン8』特設ページはこちら! https://genron-tomonokai.com/genron8sp/
★毎日出版文化賞受賞『ゲンロン0 観光客の哲学』絶賛販売中! https://genron.co.jp/shop/products/detail/103 →『ゲンロン0』特設ページはこちら! https://genron-tomonokai.com/genron0/
★友の会第9期への更新・新規入会を受付中! https://genron-tomonokai.com/9th/ →10/31(水)までの期間限定、『ゲンロン9』+友の会第9期セットをご用意! https://genron.co.jp/shop/products/detail/189
◆「ゲンロン友の声」サイト、質問募集中です! 知られざるTumblrサイト「ゲンロン友の声」では、 友の会会員のみなさまからお寄せいただいたご意見・ご質問に対して、 東浩紀をはじめとするスタッフがお返事を差し上げております。ご要望などもお気軽に! http://genron-voices.tumblr.com/
◆◇ 東浩紀 執筆・出演情報 ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◆『文學界 2018年12月号』(文藝春秋)に、「職業としての『批評』」と題した東浩紀のインタビューが掲載されました。 https://amzn.to/2QVqyBD
◆『AERA』の巻頭エッセイコーナー「eyes」に、東浩紀が連載中! 最新の記事は「ロシアの収容所跡で思う『日本人の忘れっぽさ』」です。 https://dot.asahi.com/aera/2018111400011.html
これまでの記事は朝日新聞のウェブサイト「.dot」で全文をお読みいただけます。 https://dot.asahi.com/keyword/%E6%9D%B1%E6%B5%A9%E7%B4%80/
◆◇ その他のお知らせ ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◆友の会会員のみなさまへ
<クラス30以上の座席確保サービスについて> ご好評いただいております座席確保サービスですが、 お席の希望のご連絡を、当日16:00までに いただけますよう、よろしくお願いいたします。
<登録情報の変更について> お引越しなどの理由で、ご登録いただいている住所や電話番号、 メールアドレスなどに変更があった方は、 友の会サイトのフォームから申請をお願いいたします。
会員サービスページ https://genron-tomonokai.com/service/
※株式会社ゲンロンは、土曜、日曜は休業日となっております。 営業時間は、11時-20時です。 営業時間外のお問い合わせは、お返事が遅くなる場合がございます。 ご了承くださいます様、お願いいたします。
◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
株式会社ゲンロン 〒141-0031 東京都品川区西五反田1-16-6 イルモンドビル2F tel.03-6417-9230 / fax.03-6417-9231 http://genron.co.jp Twitter:@genroninfo
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【劇評】【レポート】どこにもない演劇のまち、西和賀:東北の湖畔の町で見た演劇の風景
第26回 銀河ホール地域演劇祭(2018/09/01-09/02) 片山 幹生
〔西和賀町文化創造館銀河ホールの空撮。手前は錦秋湖〕
岩手県と秋田県の県境、奥羽山脈のただ中にある西和賀町は人口5000人ほどの小さな町だ。この町には客席300ほどの公営の劇場、西和賀町文化創造館 銀河ホールがある。この劇場では1993年の開館以来、毎年地域演劇祭が開催されている。第26回銀河ホール地域演劇祭は2018年9月1日(土)と2日(日)に開催され、4団体4作品が上演された。今回上演された4作品はすべて宮沢賢治の作品だった。本稿ではこの4作品の舞台評のほか、銀河ホールというユニークな地方公共劇場の活動と地域演劇祭の様子について紹介していきたい。
劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』
〔劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』〕
銀河ホール地域演劇祭の最初の演目は、島根県松江市の公設民営劇場〈しいの実シアター〉を拠点する劇団あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』だった。あしぶえは2016年に創設50年を迎えた長い活動歴を持つ劇団だ。『セロ弾きのゴーシュ』はあしぶえが28年にわたって上演し続けている劇団の最重要レパートリーであり、アメリカ、カナダの演劇祭でいくつかの賞を受賞している。
『セロ弾きのゴーシュ』の筋立てはごくシンプルなものだ。しかしあしぶえの公演ではそのシンプルな物語が、ミニマルな舞台美術とストイックな演出によって、さらに研ぎ澄まされたものになっていた。徹底的に磨き抜かれた鉱物の結晶のような美しさを持つ舞台だった。張り詰めた緊張感が最初から最後まで維持され、冗長さはまったく感じられない。
自尊心を徹底的に打ち砕かれ、絶望で自暴自棄の状態に陥りそうになりながら、ぎりぎりのところでゴーシュは破滅への転落をまぬがれた。夜中にゴーシュの家にやってきた何匹かの動物の前で演奏することで、ゴーシュのセロは上達し、自尊心を回復する。次の演奏会でゴーシュはそれまで自分を罵倒していた指揮者から賞賛を受ける。彼はそれまで自分がどれほど傷ついていたことさえ気がついていなかった。演奏会が終了し、帰宅して一人になったときになってはじめて、ゴーシュは自分を絶望の淵から救い出してくれた動物たちの無償の優しさに気づく。
劇の最後で彼の口から漏れる感謝の言葉の真実に、私は強く心打たれた。
俳優の表現のあらゆるディテールにまで注意が払われていることが感じとることができた舞台だった。きびしくコントールされた俳優の演技は、ゴーシュの情念の動きを精密に、ダイナミックに描き出している。ゴーシュの絶望ともがき、いらだちが、舞台から豊かなニュアンスとともにまっすぐ観客席に伝わってくる。ゴーシュ役の俳優の演技にひきこまれ、観客の多くはゴーシュの重苦しさを共有していたに違いない。
なぜゴーシュが動物たちの出会いによって停滞から抜け出せすことができたのか、動物たちはなぜゴーシュの家にやってきたのか、そしてゴーシュが最初にやってきた猫に対して謝罪しなかったのはなぜなのか。いくつもの「なぜ?」に対する回答はあしぶえの舞台でも宙ぶらりんのまま提示されない。『セロ弾きのゴーシュ』はハッピーエンドの物語だろうか。ゴーシュに感情移入していた観客は、ゴーシュの演奏の成功にカタルシスは感じた者もいるだろう。終幕のゴーシュは確かに絶望からの解放を味わっていた。しかしその解放感は愚かで未熟な自分へのいくばくかの悔恨を伴っている。彼は喜びよりは、深い虚脱感をあのとき味わっていたのではないだろうか。そんなことを感じさせる演出だった。
物語を舞台化するにあたって、雑多な情報を持つ俳優の身体や舞台空間が、作品を過剰に説明的なものにし、そのノイズによって語りの持っていた本質的な魅力を損なってしまうことがままある。あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』は、これとは逆だ。俳優の存在と舞台空間の抽象性が、物語の純度をさらに高め、作品に内在する象徴性を際立たせることに成功している。ほぼ唯一の具象的美術であるチェロの存在が、この舞台ではなんと雄弁なことか。28年に渡る上演のなかでテクストと真摯に向かい合ってきたか��こそ、到達することができた表現の逆説だろう。強くて美しい舞台だった。(9月1日14時開演@銀河ホール)
劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』
〔劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四月』〕
地域演劇祭、二本目は西和賀在住の〈田中直樹と仲間たち〉による『水仙月の四日』を見た。この公演は田中ひとりよって語り、演じられる人形芝居だった。
田中直樹はもともとは地元の劇団ぶどう座に所属していたが、考え方の違いからぶどう座を離れ、ソロで公演を行っていると聞いた。会場は銀河ホールに隣接するUホール。Uホールの建物は円錐形のとんがり屋根と赤い壁の可愛らしい建物で一階は図書館になっている。二階のUホールは円形平面で、リハーサル室・会議室として利用されている場所とのこと。観客は床に座って見るが、今回の公演では後ろの壁際に何脚かパイプ椅子が用意されていた。
『水仙月の四日』は吹雪の一夜を雪原でやり過ごす少年の話だ。舞台が始まる前に田中から、タイトルの「水仙月」と作品冒頭で出てくる「カリメラ」という語についての説明がある。これらの語はいずれもは宮沢賢治の造語で、水仙月は2月から3月の雪深く寒い時期、「カリメラ」は「赤砂糖を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮る」とテクストにあるので、おそらく「キャラメル」を指す。
『水仙月の四日』は日本有数の豪雪地帯であるこの付近の人々にとっては、とりわけその情景がはっきりと思い浮かぶ作品に違いない。田中直樹は赤いケット(毛布)をかぶった少年とその少年を見守る雪童子を15センチほどの小さな人形に演じさせた。これに対して吹雪のアレゴリーである雪狼は人間の顔と同じくらいの大きさの仮面、そして大吹雪のアレゴリーの雪婆は人間をすっぽり覆い尽くす大きさの紙製の面で表現していた。雪婆が登場する場面では照明が暗くなり、蛍光ライトで雪婆の巨大な顔が白く照らし出される。小さい子供たちは狭い舞台を走り回る雪狼と雪婆を怖がっていた。
少年と雪童子を小型の人形にしたことで、白くて厳しい大自然に翻弄される人間の様子が強調された。また白い美術のなかでの少年の着た鮮やかな赤のケットの色彩の対比も印象的だった。小品だが配慮のいきとどいた工夫の数々によって、大人の観客も子供の観客も異世界に誘う、優れた演出の公演だった。人形と紙製の大きなオブジェ、紙吹雪といった材料はこの作品の上演を考えると定番的な素材だが、そのスペクタクルが作り出す幻想は、宮沢賢治の物語を冗語的に説明するのではなく、その語りの美しさをより印象的に引き立てるものになっていた。(9月1日15時半開演@Uホール)
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』
〔栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』〕
銀河ホール地域演劇祭の二日目(9/2)の最初の演目は、文学座の栗田桃子によるソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』だった。
会場は銀河ホール。舞台にはいくつものキャンドルが並べられ、中央に椅子が一脚置かれている。背景には静止画の映像が映し出される。栗田はときおり、椅子を立ったり、座ったり、あるいは歩き回ったりしながら、声色で人物を演じ分けて朗読する。
動きもスマートだし、朗読も達者ではあるが、その動作や声色の変化がことごとく定型的で、テクストに書いてあることをそのまま冗語的、説明的になぞっているに過ぎない。テクストの記述に反射的に反応するような中途半端な工夫は、かえってテクストの世界を矮小化し、観客が世界に入り込むことを妨げてしまう。あれなら座ったまま普通に読んだほうがまだ聞き手の想像力を刺激することができるだろう。広い間口の舞台で栗田の芝居が空回りしていた。栗田桃子という魅力的な女優を使った朗読劇がこんなありさまなのはいかにももったいない。演出家あるいは演者の作品に対する思い入れや独自の解釈などを感じとることができない退屈な朗読劇だった。「朗読劇ってこんなものだろう」という演出家の作品に対する取り組みの甘さを感じてしまう。
演出の単調さと照明の暗さで、五分もすると猛烈な眠気の波が襲いかかってくた。私の周囲の観客にも観客も落ちていた人がかなりいた。公演後のアフタートークで宮沢賢治記念館の学芸員と演出の西本由香の話があったが、このアフタトークでも西本の話ははなはだ曖昧模糊としていて、学芸員の語る興味深いエピソードとの対比で、演出家の作品への関心の薄さが露わになっていた。(9月2日14時開演@銀河ホール)
劇団ぶどう座『植物医師』@ぶどう座稽古場
〔劇団ぶどう座『植物医師』〕
銀河ホール地域演劇祭で最後に見た演目は、この地を拠点に1950年以降活動を続けているぶどう座の『植物医師』だった。これは他の上演作品のような翻案ではなく、宮沢賢治の書いた短編戯曲の上演だ。私はこの戯曲を読んだことがなかったし、上演を見たことがなかった。ぶどう座は、近年は主宰の川村光夫が高齢(現在96歳)のため実質的に引退状態で、かつてと比べると活動力が大幅に衰えているという話を聞いていたのが、この『植物医師』の公演はその衰退ぶりを感じさせない充実した内容の公演だった。
〔ぶどう座稽古場〕
公演会場は1960年代に建てられたというぶどう座の稽古場である。まさに芝居小屋といった風情の公演会場に、芝居が始まる前から心が浮き立つ。稽古場は北上線の踏切のすぐそばに、踏切の番小屋のように建っている。舞台の間口は6メートルくらいか。舞台奥の壁はさまざまな色の大きな布で覆われている。客席は板間平面と三、四段の段状、詰めれば40人ぐらいは座れると思う。
芝居の始まる前に、劇のオープニングで歌われる宮沢賢治作詞の《花巻農学校精神歌》の練習があった。観客もこの歌を一緒に歌うようにうながされる。これは楽しい趣向だった。
『植物医師』は上演時間30分ほどの小篇だ。岩手のとある村に《植物医師》を名乗る人物が引っ越してきて、植物病院を開業する。しかしこの植物医師の専門家としての知識はどうもいい加減なもののようで、いかにもうさんくさい人物だ。開業した植物病院に村人たちが次々とやってきて、枯れてしまった稲の治療法を訪ねる。植物医師はでまかせのいい加減な対処法を村人たちに伝え、お金を取る。いんちき治療法で易々とお金を稼いだ植物医師だが、彼の処方では稲の被害は収まるどころか、ますます拡大していく。村人たちが医院に戻ってきて植物医師を詰問する。植物医師は口舌でなんとかそれらの非難を丸め込もうとするが、最後には言い返す言葉もなくなり、村人たちの怒りの言葉にうなだれてしまう。善良でお人好しの村人たちはうなだれた植物医師を見て、彼に同情しはじめる。そして先ほどまでの怒りを収め、植物医師を許すのだ。その許しの言葉は、植物医師にとっては怒りにまかせた批判の言葉よりもはるかに重く感じられた。植物医師はますます打ちひしがれてしまう。
〔ぶどう座稽古場内部〕
村人たちが入れ替わり立ち替わり植物医師のもとを訪れ、アドバイスを求める場面では、民話によく見られる同種のやりとりの反復とそのエスカレートが、笑いの効果を作り出している。岩手弁のユーモラスな響きがさらに場面の喜���性を高めていた。不正に対する怒りと非難よりも、不正に行った人間への大らかな優しさと許しこそが力を持つという宮沢賢治らしい倫理が結末で提示されるが、最後の場面の急転が作り出すドラマの力強さと素朴さに心打たれた。村人たちの許しのことばが発せられるたびに、かがんだ体がどんどん下がり、苦悶と戸惑いの表情が深くなっていく演出と演技は見事だった。
芝居小屋の雰囲気もこの作品の上演にいかにもふさわしいものだった。まさに岩手で岩手の人たちによって演じられることによって、この『植物医師』はいっそう味わい深い作品となっていた。この地でのぶどう座の活動の歴史が染みついた稽古場で、この作品を見られて本当によかった。
終演後には稽古場内で打ち上げがあり、私も短い時間ではあったが、出演メンバーとぶどう座の旧メンバーの方々と座を囲んだ。『植物医師』は主宰の川村光夫演出でもかつて公演をおこなったが、それは27年前のことだと言う。今回の公演の演出を担当した菊池啓二さんに「今回の上演は川村さんの演出を蹈襲したものなのですか?」と聞くと「いや、前の上演はもうだいぶ昔の話で、私も見ていないし。まあ川村風にはやりました(笑)」と仰っていた。
今回のキャストには二十歳台の青年も二名参加していた。彼らは昨年から活動を始めた銀河ホール演劇部の部員だと言う。銀河ホール演劇部は、アートコーディネイターの小堀陽平氏の主導で昨年から活動を始めたサークルだ。小堀さんは「ぶどう座の表現は、この地域の人たちの身体と言葉、感覚に根ざしたものなので、銀河ホールで演劇部を作って活動をはじめましたが、外からやってきた僕たちが作る演劇が、ぶどう座を引き継ぐものにはなり得ないように思うのです。やはりぶどう座は土地の人が継承していくものだと考えています」というようなことを言っていたが、実際に公演を見るとそれが実感できる。
地域演劇祭の締めくくりでこの公演を見、そして短い時間ながらぶどう座の人たちと交流の時間を得ることがでいたのは私にとってはとても有意義なことだった。(9月2日17時開演@ぶどう座稽古場)
地域演劇祭と西和賀町文化創造館 銀河ホールの活動
〔銀河ホール(後側)とUホール(手前側)〕
西和賀町文化創造館 銀河ホールのことを私が知ったのは二年ほど前のことだ。この劇場が、年に一度の地域演劇祭のみならず、地域に根ざした様々な演劇活動を積極的に行っていること、この地を本拠とする60年以上の伝統を持つぶどう座という劇団があること、劇場の活動の軸となっているのが東京出身で日芸OBのまだ若い青年であることなどを知ったことで好奇心をかき立てられ、いつか訪ねてみたいと思っていた劇場だった。演劇は都市のものという固定観念があった私にとって、東北の山間にある小さな劇場で多彩な演劇活動が行われていることが驚くべきことのように思えたのだ。
銀河ホールはJR北上線ほっとゆだ駅から歩いて数分のところにある。ほっとゆだ駅は北上駅から50分ほど。東京駅から北上駅までは東北新幹線で2時間半から3時間かかるので、東京からだと4時間ぐらいで銀河ホールに行くことができる。地図からの印象より案外近く感じられる。
〔北上線ほっとゆだ駅。駅舎に公衆温泉が附属している〕
西和賀町文化創造館は、銀河ホールのある本館とUホールの別館からなっている。約三百席の銀河ホールの客席はゆったりとしていて、舞台までの距離も遠くない。暖かみのある落ち着いた木製の内装で、芝居を楽しむには理想的な空間だ。劇場の背景に広がるダム湖、錦秋湖の風景が美しい。錦秋湖の湖畔には、野外ステージもあった。
〔銀河ホールの裏手にある野外湖畔ステージ。後ろは錦秋湖〕
人口5000人程度の自治体でこんな立派な公共劇場を持っているところはそんなにないのではないだろうか。西和賀町で演劇が特権的な文化活動になっているのは、この町で60年以上活動を続ける劇団ぶどう座の存在に負うところが大きい。ぶどう座は川村光夫という優れた演劇人のもと、地域演劇の担い手として充実した活動を行い、戦後日本演劇史に重要な足跡を残した。このぶどう座の活動実績があったからこそ、銀河ホールという公共劇場の建設が可能になったのだ。
西和賀町文化創造館(当時はゆだ文化創造館)は1993年に開催された〈第8回国民文化祭いわて’93 〉の会場として建設された。この国民文化祭を兼ねたかたちで〈第1回銀河ホール地域演劇祭〉が行われ、以後、地域文化祭は毎年秋に開催されている。当時、湯田町(2005年に沢内村と合併して西和賀町となる)の役場の職員で、この劇場運営の中核だった新田満氏に話をうかがったのだが、開館から2000年代半ばまでの銀河ホールの活動は目覚ましいものがある。毎年の地域演劇祭の開催のほか、町民を対象とした演劇学校、小中学校での音楽劇制作、行政的区画を超えた高齢者による演劇公演、そしてロシアとアメリカの演劇人を招聘し三週間にわたって行われた大規模な国際的演劇交流事業など、地方の小さな町の公共劇場としては驚異的な活動を展開していく。
しかしこの初期の黄金時代は、こうした活動に熱意をもって取り組んできたキーパーソンの退職とともに終焉を迎える。地域劇団として銀河ホールの活動に大きな影響を持っていたと思われるぶどう座も、主宰の川村光夫の高齢化とともに、活動力が低下していった。おそらく湯田町が沢内村との合併で西和賀町となり、役所内の組織にも大きな改編があった2005年以降、銀河ホールの活動は停滞期に入ったように思われる。
〔銀河ホール内部〕
西和賀が演劇のまちとして再活性化しはじめるのは2011年以降のことだ。きっかけは2012年以降現在まで継続的に行われている《ギンガク》という学生演劇合宿事業だ。この事業の立ち上げで中心的な役割を果たしたのが、当時、日芸の大学院生だった小堀陽平さんだ。今回の滞在では小堀さんからも彼と西和賀町との関わり、銀河ホールの活動について話を聞いた。
彼は2014年以降、地域おこし協力隊の一員として西和賀町に移住し、《ギンガク》の活動のみならず、銀河ホールを核としたさまざまな演劇事業を企画・遂行していく。地域おこし協力隊の3年の任期が終了した2017年度以降、西和賀町は「銀河ホール アートコーディネーター」という職を小堀さんに用意し、彼は西和賀の嘱託職員として採用された。町の彼に対する信頼と期待の大きさがうかがわれる。
アートコーディネイターとして彼が担当する業務は文化事業全般に関わるものだが、演劇に関わる事業としては、地域演劇祭のほか、学生演劇の合宿《ギンガク》、小中学校での公演・ワークショップ、高校演劇アワード、地域中学への演劇指導、銀河ホール「演劇部」の活動、そして貸し館業務など多岐にわたっている。今後やりたい事業としては、シニア演劇、温泉・観光と組み合わせたイベント、アーティスト・イン・レジデンスなどを挙げていた。
ほっとゆだ駅から銀河ホールにかけての道に「どこにもない演劇のまちをつくろう」と書かれたのぼりが立ち並んでいるが、町外からこの町にやってきた地域おこし協力隊の青年たちがもたらす刺激によって、西和賀は演劇のまちとして新たな一歩を踏み出そうとしている。
第26回銀河ホール地域演劇祭
2018年9月1日(土)- 9月2日(日)
会場:西和賀町文化創造館(銀河ホール・Uホール)/劇団ぶどう座稽古場
主催:銀河ホール地域演劇祭実行委員会
後援:西和賀町観光協会・西和賀町芸術文化協会・西和賀町教育委員会
総合舞台監督:内山勉
テクニカルスタッフ:アクト・ディヴァイス
宣伝美術:髙野由茉 小堀陽平
特別協力(記録撮影):森山紗莉
劇団あしぶえ/島根『セロ弾きのゴーシュ』
9月1日(土) 14:00~@銀河ホール
出演:松浦 優海、門脇 礼子、上田 郁子、有田 美由樹、伊達 生、有田 美由樹、門脇 礼子、原田 雅史、上田 郁子、川村 真美、牛尾 光希、岩田 和大
演出:園山 土筆
舞台/照明:稲田 道則、岡本 敦、門脇 礼子、長見 好高、原田 雅史
音響:福井 健吾 前村 晴奈
小道具:上田 郁子
衣装:有田 美由樹 川村 真美
制作:前村 晴奈
劇団田中直樹と仲間たち/西和賀『水仙月の四日』
9月1日(土) 15:30~ 総入替え2回上演@Uホール
出演:田中 直樹、田中 宏樹
演出/美術:田中 直樹
照明:小堀 陽平(銀河ホール)
雪布操作:田中 真理子
協力:湯田ドライブイン
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇/東京『銀河鉄道の夜』
9月2日(日)14:00〜@銀河ホール
出演:栗田 桃子(文学座)
演出:西本 由香(文学座)
照明:賀澤 礼子(文学座)
映像・音響:西本 由香(文学座)
美術:米澤 純(Jun's Light Candles)
劇団ぶどう座/西和賀『植物医師』
出演:真嶋 実、池田 慣作、菊池 啓二、高橋 節子、高橋 守、三浦 勇太
演出:菊池 啓二
舞台美術:内山 勉、新井 真紀
音響/照明:真嶋 陽
小道具:髙野 由茉
●片山 幹生(かたやま・みきお)1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
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俄羅斯獵熊傳統延續至今
圖為俄羅斯森林中的熊
【環球時報駐俄羅斯特約記者 李琳佳】不久前有新聞稱,俄羅斯托木斯克州前州長表示,默克爾當年出任德國總理不久訪問托木斯克時,喜歡上了熊肉餅。 這則新聞乍一聽十分駭人,「熊肉餅」難免使人聯想到「偷獵」"非法販賣野味"。 不過在俄羅斯,獵熊一直是古老的傳統,屠格涅夫、列寧以及現任俄羅斯國防部長紹伊古都是有名的狩獵愛好者。
至今保留著獵熊習俗
俄羅斯有著數百年的狩獵文化,從前打獵不僅是王宮貴族的遊戲,也是平民重要的肉類和經濟來源。 一些地區至今還保留著獵熊的習俗:雅庫特獵人將熊視作展現男子氣概的戰利品,捕殺的熊越多,名氣就越大。 漢特人幾乎家家戶戶有一張熊皮,每放倒一隻熊,村莊就會舉辦數天的宴請。 隨著動物保護意識增強,如今只有在法律規定的狩獵期才能進行狩獵,不同動物的狩獵期不同。轉轉脂 轉轉脂dcard 轉轉脂吃多久 轉轉脂副作用 轉轉脂沒效 轉轉脂ptt
棕熊的狩獵期有兩個,每年的3月至6月,還有8月至12月,亞洲黑熊的狩獵期是8月至12月,瀕臨滅絕的北極熊是嚴格禁止獵殺的。 除了熊,狩獵名單中還有野豬、麝香鹿、麋鹿、狼、海狸、松雞等多種野生動物。 俄羅斯人獵熊,需申請狩獵票、狩獵許可證、持有和攜帶槍支許可證,只要沒有犯罪記錄,年滿18歲後都享有狩獵權,通過狩獵相關的考試后就能取得狩獵許可證了,在俄羅斯北方地區這一年限甚至降到14歲。 如果外國遊客想來俄羅斯狩獵,只能與私人獵場簽合同,手續也更複雜,還需提交授權機構簽發的武器進出口許可證。
獵熊如今被不少俄羅斯人認為是富人和精英階層消遣娛樂的遊戲。 許多獵場提供從手續辦理到獵物加工和運輸的全套服務,即使在遠離人跡的荒野,顧客也能住進有桑拿房和壁爐的豪華木屋。 狩獵時不必擔心經驗不足,會有專業的嚮導陪同。 要想帶走熊皮或者標本,有專門的熊皮剝皮師和標本剝制師對其加工;要想記錄自己獵熊的"英勇"瞬間還可請攝影師跟拍。 貝加爾湖附近的塔洛夫斯科耶獵場就有獵熊專案,其網站信息顯示,為期6天的獵熊專案包括食宿需花費21萬盧布,標本製作16萬盧布,整套獵熊服務下來至少要數萬人民幣。轉轉脂 轉轉脂dcard 轉轉脂吃多久 轉轉脂副作用 轉轉脂沒效 轉轉脂ptt
獵熊幾乎無利可圖
實際上獵熊仍然是一項十分危險的活動。 從前獵熊的傳統工具是長矛,帶上獵犬追蹤熊的蹤跡。 有了槍支之後,獵人就可以躲在暗處「守株待熊」,於是就有了「燕麥地獵熊法」。。 熊為了冬眠要增加體重,每年的八九月份都會到燕麥地覓食,成熟的乳白色燕麥是熊的最愛。 通常獵人會在燕麥地附近樹上搭建一個塔臺,等熊出沒伺機開槍。 這種方法也為一些俄羅斯人所不齒,認為是獵人陰險懦弱的遊戲。 熊雖然視力弱,但有著良好的嗅覺和聽覺,一些經驗豐富的獵人在獵熊前一周不刮鬍子、不抽煙喝酒,也不噴香水,衣服和鞋子放著通風,這樣做是為了除異味,不然熊老遠聞到人的味道就跑開了。
在俄羅斯,禁止獵殺1歲以下的小熊、帶幼崽的母熊以及正在過河的熊等,也禁止以不人道的方法獵熊。
獵熊在俄羅斯幾乎無利可圖,人們對熊肉和熊毛需求量不大,狩獵產品的流動性低,加工獵物的工業化程度也低。 雖然有網站售賣生熊肉、熊肉罐頭、風乾熊肉,莫斯科也能找到幾家餐廳賣熊肉餅,��實際吃熊肉的人少之又少。 西伯利亞的尼夫赫人是禁止吃熊肉的,他們將熊奉為圖騰,認為熊是一種「森林人」,因為熊在玩耍、洗澡的時候和人的行為很相似。
獵熊的主要價值就在於毛皮,毛皮可以當作地毯或者牆壁裝飾,摩爾曼斯克的一家名為"獵人餐廳"的牆壁上就掛著數張熊皮,堂內還有一隻巨大的棕熊標本。 此外熊膽還有醫用價值,這些在國外都是高需求產品,因此俄羅斯將棕熊和亞洲黑熊列為重要戰略資源。 但是隨著近十年來熊的數量不斷增加,熊開始頻頻造訪人類村莊,常有傷人事件發生。
關於獵熊在俄羅斯一直有兩種聲音,有的完全反對以獵殺動物取樂,有的則支援合法狩獵,反對偷獵。 生物學家列昂尼德·巴斯金這樣解釋說,幾千年前人類和動物就建立了聯繫,打獵事實上是一門睿智的哲學,可以説明森林中的生物在自然界中保持微妙的平衡。
熊的形象浸透俄羅斯文化
熊是俄羅斯的象徵,也是俄羅斯人心中的圖騰,這種森林中強大的野獸也被稱作針葉林主人。 毫不奇怪,俄羅斯有好幾個城市的市徽是熊的形象。 他們沒有將熊描繪成一種好鬥的動物,而是守護者的形象。轉轉脂 轉轉脂dcard 轉轉脂吃多久 轉轉脂副作用 轉轉脂沒效 轉轉脂ptt
俄羅斯有不少關於熊的傳說和文學作品,在俄羅斯的傳說中,和熊一起走出森林卻不被熊所傷的人被認為是聖人,所以在許多名畫中我們看到一些俄羅斯聖人走出森林的時候,身旁都跟著一頭熊。 民間故事中的熊通常代表著笨拙和愚鈍,但有時也給人一種淳樸、善良的印象。 在民間故事中,熊是最高等級的野獸,是森林的最強者之一,但它並不聰明,比如俄羅斯最著名的民間故事之一《瑪莎和熊》講述了小女孩瑪莎如何巧妙地逃離熊窩的故事。
不少作家也寫過關於獵熊的文章,比如屠格涅夫的《獵人筆記》,綏拉菲莫維奇的《獵熊記》。 可見熊的形象已經深深浸透了俄羅斯文化,成為俄羅斯人民乃至國家的重要象徵。
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