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#共栄町斜度
amiens2014 · 2 years
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北海道羅臼町【ドライブ】羅臼国後展望塔〜道の駅知床・らうす〜ルサフィールドハウス〜日本最北東突端地〜相泊温泉、瀬石温泉〜クジラの見える丘公園
羅臼国後展望塔 2022年6月30日、この日は羅臼町郷土資料館(らうすちょうきょうどしりょうかん)を見学した。 羅臼町郷土資料館/北海道羅臼町【博物館】日本最大のヒカリゴケ自生地の本物を見られる そこから車で、羅臼国後展望塔(らうすくなしりてんぼうとう)にやってきた。 (more…)
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kobayashimasahide · 4 years
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あけましておめでとうございます
              令和三年元旦
牛の仮面   2005年5月7日  88 (h.) × 37 (w.) × 25 (d.) cm  2.8 kg    ・オートバイの二人乗り用掴みベルト付き座席    (合成皮革/スポンジ状ポリウレタン/プラスチック/鉄)  ・オートバイのブレーキ/クラッチ・レバー (アルミ)  ・  〃     バック・ミラー (鏡/鉄/プラスチック)  ・  〃     後輪泥除け (プラスチック)  ・ボルト・ナット等 (鉄)
Happy New Year !     January 1, 2021
Cow Mask  5/7/2005   88 (h.) × 37 (w.) × 25 (d.) cm  2.8 kg ・Tandem Seat with Grip Belt of Motorcycle   (Synthetic Leather, Polyurethane Foam, Plastics, Iron) ・Brake/Clutch Lever of Motorcycle (Aluminum) ・Rearview Mirror of Motorcycle (Mirror, Iron, Plastics) ・Rea Fender of Motorcycle (Plastics) ・Bolt and Nut etc. (Iron)
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 1943年の早春のある日のこと、ピカソはドイツ軍占領下のパリの街を歩いて家に帰る途中、道端にゴチャ混ぜになって積み上げられていた廃品の山の中に、錆びた自転車のハンドルと、その直ぐ横に転がる革のサドルを見つけました。その瞬間、その二つは電光のように閃いて頭の中で組み合わさり、それを家に持ち帰って接合し (後にそれを型取り・ブロンズ鋳造する)、この彫刻史に燦然と輝く––––錆びてますが (笑) ––––<牡牛の頭部>(1) を造ったのでした。
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(1)-1  ピカソ <牡牛の頭部> 1943
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(1)-2  自転車のハンドル (金属) とサドル (革) 正面下から見上げた
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(1)-3  ブロンズ鋳造
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(1)-4  少し左から見上げた 
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(1)-5  少し右から
 これこそが、私がこれまでに何度か述べてきた (2)「チャンス・イメージ」––––この場合はサドルが牛の顔に/ハンドルが角に似ているという「私たちの記憶像 (この場合は牛の) を喚起する偶然の類似形」––––と、その記憶像を、今度は逆にその類似形の上に脳内で重ね合わせる「プロジェクション (投映)」とが、一瞬で双方向に交差した典型的な例なのです。  これは、視覚/認知心理学や脳科学の分野では––––「シミュラクラ (あるものが顔に見える) ⊂ パレイドリア (あるものが何かに見える)」––––と称ばれている現象です。  そして、こうした視覚心理現象に基づく造形手法が––––「レディ・メイド (既成の物) 」としての「ファウンド・オブジェクト (今まで気にも留めなかった物が新たに見直される、そのようにして改めて見出された/発見された物体) 」の「アッサンブラージュ (寄せ集め/組み合わせ)」––––で、ピカソのこの<牡牛の頭部>は、まさにその栄えある先駆/嚆矢/原点でもあります。
 尤も、この視覚心理現象+造形手法と牛との最初の出会いは、実はピカソの遥か以前の1万8千〜1万年前に、既に始まっていたのでした。しかもその場所は、ピカソの故国スペインの––––それも彼が10歳から14歳まで暮らしたスペイン北部の町ラ・コルーニャのあるガリシア州から東に二つ隣のカンタブリア州の––––アルタミラ洞窟なのです。  「徐々に土中に向かって傾斜している」この洞窟の「すべての劇的なアクセントはただ一カ所––––大きな部屋の天井––––に集中されてい」て、「この天井の高さは…約2m から1m まで…奥にゆくにつれて徐々に低くなっている」とギーディオン(3) が書くその部屋を、ヒキ (引き) で撮った写真が (4)-1 で、ヨリ (寄り) で天井を撮った写真が (4)-2 です。
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(4)-1  アルタミラ洞窟 大きな部屋 全景 (白黒)
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(4)-2  大きな部屋 天井部分 (白黒)
 最初に敢えて古い横からの照明の白黒写真をお示ししたのは、私たちがそれを見る限りは只のデコボコと波打つ天井にしか見えないからです。しかし、これを旧石器時代末期のマドレーヌ人が見た時––––私たちには見えないのだけれど、彼らが常日ごろ見慣れ、或いは見たいと切望していた (からこそ見ることのできた)––––体を丸めて地面に横たわり出産しようとしている (食料とその安定供給をもたらす) 無数の雌の野牛の群れを見出したのです。  そして、その岩のレリーフ (浮き彫り) 状に膨らんだ凸塊に、鉄錆=酸化鉄系の赤い土 (性顔料) を塗ったり吹き付けたりして白っぽい素地から形を浮かび上がらせ、更に、形の内外を画す輪郭と、欠けていて足りない尻尾や角や背中のタテガミを形の外側に、また、折り曲げた前・後脚を形の内側に、いずれも黒い炭などの顔料で描き足して全体を完成させたのです (4)-3, 4, 5 。
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(4)-3  大きな部屋 天井部分 (カラー)
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(4)-4  上の (4)-3 の上中央の野牛 正面正対 (白黒)
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(4)-5  上の (4)-4 の野牛とその周辺 (カラー)
 ギーディオンは、こうした表現––––つまり「チャンス・イメージ ⇄ プロジェクション」/「シミュラクラ ⊂ パレイドリア」/「レディメイドとしてのファウンド・オブジェクトのアッサンブラージュ」––––を、彼の言い方で次のように記しています。    「実在する自然石の形をそのまま用い…, 岩の自然の形状のうちに潜在している動物…を識別する…循環現象により…作られ… (中略) …, 自然…すなわち岩盤の線と輪郭に従うことによって, 発生したのである.」(pp.371-372)  「マドレーヌ人の目には, 岩の表面が内面に動物の形を含んでいるようにみえ…ま���そういうことに…かれらはいつも気を配っていた.」(p.394)  「この動物の姿勢全体は岩の形によって決められた. …天井の表面の凹凸がこのような姿を暗示させたのである….」(p.427)  「横たわるビゾン  この身体をまるめた…ビゾンは倒れているのではなく, たぶん分娩しているのであろう…. この姿は完全に隆起した岩の形によってきめられている. 露出した岩石にたまたま眠っている生命を認め, それに形式をあたえる…マドレーヌの美術家たちの力のあらわれがある. われわれの目には, 色彩のない突起はたんに無定形の岩のこぶにすぎない. しかしマドレーヌ人はそれらをまったく違った感覚でうけとめた. …かれらは自然に存在している形に想像的に接近し…たのである.」(pp.427-428)  「岩の中にすでに存在した姿が…空想を産んだのである.」(p.489)
 このマドレーヌ期から1〜2万年後に形を変えて繰り返されたピカソと牛 との出会いは、子どもの頃に父に連れられて見に行き、すっかり魅せられて虜になってしまった闘牛 (コリーダ) から始まります。須藤哲生は『ピカソと闘牛』の中で次のように書いています。  「ピカソの芸術は闘牛とともにはじまった。現在までに確認されている最も初期の作品は、油彩にせよ、素描にせよ、コリーダを主題としている。……デッサン第一号も…『コリーダと六羽の鳩の習作』…で…、これをピカソの最も古い作品という説もあり、…十歳前後のデッサンであろう。……一枚の画用紙を天地に使って闘牛のシーンと鳩を描いたもので、……きわめて象徴的な意味合いを帯びている。闘牛と鳩。血なまぐさい闘技と平和のシンボル。まさに天と地の違いの、この二つのおよそ対蹠的なテーマは、ともに終生ピカソの芸術を貫いた主題であった。」(5)
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(6)  ピカソ <闘牛と鳩> 紙に鉛筆 1890 
 実際、この<コリーダと六羽の鳩の習作>(6) 以降、この牛は、ある時は牛頭人身の<ミノタウロス>(1933~)(7) となり、またある時
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(7)  ピカソ <ミノタウロス> 1933
はファシズムと母国スペインという相反両義の象徴となって<ゲルニカ>(1937)(8) の死児を抱いて泣き叫ぶ母の背後に佇み、また、ド
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(8) ピカソ <ゲルニカ> 1937
イツ占領下のパリではナチスの鍵十字ともキリストの十字架とも取れる両義的な窓枠の前に置かれた頭蓋骨––––<雄牛の頭蓋骨のある静物>(1942)(9) ––––となり、そして、この翌年の<牡牛の頭部>(1943) へと変身し続けて行くのです。
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(9)  ピカソ <雄牛の頭蓋骨のある静物> 1942
 私は拙作の題���を「頭部」ではなく顔面としての「仮面」にしましたが、ピカソの<牡牛の頭部>も––––特に型押し成形の革のサドル(10) の凸面は––––仮面的であり、彼が若き日のキュビスム時代に多大な示唆を得たアフリカの仮面彫刻を彷彿とさせます。このキュビスム/仮面性は、例えば戦後すぐに制作したリトグラフの連作––––モンドリアンの樹木を抽象化して行く過程を辿る連作にも似た––––<雄牛 I~XI>(1945~46)(11-1) の内の VI (11-2), VII, X にも窺えます。
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(11-1) ピカソ <雄牛 I~XI>(1945~46) リトグラフ
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(11-2) ピカソ <雄牛 VI> 12/26/1945  リトグラフ
 かくいう拙作も、当然ながらアフリカの仮面を意識的/無意識的に思い浮かべて––––尤も、牛とは限定せずに漠然と動物らしきものをイメージして––––造ったものですが、改めてウェブ上で拙作に似た––––細面の「馬面」で、真っ直ぐな角の––––牛の仮面を探してみると、牛は牛でも野牛/水牛 (Buffalo / Bush Cow) の仮面とされる (しかし実際の野牛/水牛とは一寸違うように見える) 幾つかの仮面の中に、似ているもの (12)-1, -2 がありました。
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(12)-1  野牛のマスク (マリ共和国-ソニンケ文化)
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(12)-2   水牛の仮面 (カメルーン共和国-バミレケ/バムン文化)
 なお、この未発表の旧作には「サトコ」(聡子)という名前が付いています。彼女は私が卒業研究 (作品制作) を指導した学生の一人で、このバイク・シートは、彼女が素材として集めたものですが、「これ、横のベルトの留め金具が目みたいで、動物の顔に見えるなぁ」と呟いた私に、卒業する時、「先生、どうぞ」と言って置き土産にしていったものです (彼女は卒業後、家具職人の修行をしにドイツに渡りました)。  当時、大学の直ぐ南隣の丘の斜面に、若者たちがやっているバイクの解体作業場があって、ジャンク・ヤードさながらに部品やら何やらが散乱していて、私のようなジャンク・アーティストにとっては、そこは宝の山でした。この仮面の耳と角 (ツノ) に見立てたバック・ミラーとブレーキ/クラッチ・レバーは、そこで見つけた物 (字義通りのファウンド・オブジェクト) です。  仮面と言っても、これは顔面に装着するコンセプトではない (そもそも重くて無理な) のですが、最後に、楽屋裏をお見せすると (下の写真) ––––色や形が肉を削いだ牛骨のようで、一寸グロいので御注意下さい!––––ご覧の通り、この耳も角も、極く普通の金具を使って、極く荒/粗っぽい、単純な取り付け方をしております。
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[註]
(1)-1   via [https://www.slideshare.net/nichsara/sculpture-upload––No.22]。 (1)-2   via [https://www.pablopicasso.org/bull-head.jsp]。アトリエを訪れた写真家のブラッサイに、作品の制作過程を語ったピカソの言葉が、末尾に引用されています。  なお、この作品の制作年に関しては、ニューヨーク近代美術館–ウィリアム・ルービン編集、日本語版監修-山田智三郎・瀬木慎一『パブロ・ピカソ–––天才の生涯と芸術』(旺文社, 1981, pp.351-352) のジェーン・フリューゲルによる年譜に従いました。 (1)-3   via [https://www.moma.org/audio/playlist/19/412]。鼻梁に沿って空いているはずの二つの鋲穴が塞がっているので、ブロンズ鋳造と分かります。 (1)-4   via [lezards-plastiques.blogspot.com/2010/09/sixieme-personnages-et-animaux-de-bric.html]。 (1)-5   via [sakainaoki.blogspot.com/2014/02/1942.html]。 (2)    例えば [https://kobayashimasahide.tumblr.com/post/189982445375/happy-new-year-january-1-2020-clockey] の [註]。 (3)    S. ギーディオン著、江上波夫・木村重信訳『永遠の現在–––美術の起源』(東京大学出版会, 1968, p.420)。 (4)-1    via [https://fascinatingspain.com/place-to-visit/what-to-see-in-cantabria/altamira-caves/#1505145409627-b0f76054-69219231-ea60]。 (4)-2   ギーディオン、前掲書 p.423-pl.「280. アルタミーラ 嶮しく傾斜する天井. 前面に多彩のビゾンが岩の隆起の上に描かれている.」の複写。 (4)-3    via [http://www.tsimpkins.com/2017/10/echoes-of-atlantis-by-david-s-brody.html]。  (4)-4   ギーディオン、前掲書 p266-Color pl. XIV. の白黒複写。 (4)-5    via [https://100swallows.wordpress.com/2008/10/11/art-in-the-great-altamira-cave/]。 (5)    須藤哲生『ピカソと闘牛』(水声社, 2004, pp.26~29)。因みに、平和の鳩に関しては、拙稿 [https://kobayashimasahide.tumblr.com/post/155212719705/happy-new-year-2017-dove-of-peace-masahide] で、作品の画像を一つ引用しています。 (6)     via [https://www.pablo-ruiz-picasso.net/work-3936.php]。 (7)     via [https://www.pablo-ruiz-picasso.net/work-1088.php]。この頭部は、次の (8) の戦時中の頭蓋骨を予感させます。  ところで、この牛頭人身のミノタウロス (Minotauros) とは、クレタ島の王ミノス (Minos) の妃が牡牛 (taur) と交わって生んだ息子ゆえに付けられた名前ですが、ミノス王自身もまた、ヨーロッパの語源となったフェニキアの王女エウロペが牡牛に変身したゼウス神と交わって生んだ半神半人の息子です。そのクレタのクノッソス宮殿には、突進してくる牛の二本の角を掴み、牛の背中の上で前方宙返りをし、牛の背後に着地する一種の闘牛的「牡牛跳びの儀式/競技 」を描いた壁画が残されています。ことほどさように、東地中海地域では、牛と人間との間には古く (ギリシャ以前のミノア文明の時代) から、深い関係がありました。
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<牡牛跳びの儀式/競技 > クレタ  クノッソス宮殿壁画   via [http://arthistoryresources.net/greek-art-archaeology-2016/minoan-bull-jumping.html]
 ピカソはスペインで生まれてフランスで暮らしましたが、先の (3)〜(4) のアルタミラのあるカンタブリア州から更に東に進むと、フランスとの国境を成すピレネー山脈があり、その北側から南フランスへと流れ出すガロンヌ川の源流域にも、沢山の旧石器時代壁画を有する洞窟群が展開しています (この西仏双方を合わせて「フランコ・カンタブリア地方/美術」と呼んでいます)。そのガロンヌ川源流域のレ・トゥロワ・フレール洞窟に、1m と隔てぬ近い距離で、このミノタウロスを思わせる二体の牛頭人身像––––「楽器を奏でるビゾン人間」と「人間の膝…ふくらはぎ…勃起し…た男根……をもつ野牛的動物」(前掲 (3) のギーディオン pp.499-507)––––が描かれているのです。
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<楽器を奏でるビゾン人間> ブルイユによるレ・トゥロワ・フレール洞窟壁画のトレース画 via [https://www.larevuedesressources.org/les-reponses-erotiques-de-l-art-prehistorique-un-eclairage-bataillien,605.html]
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<人間の下半身を持つ野牛的動物> ブルイユによるレ・トゥロワ・フレール洞窟壁画のトレース画   via [http://reportages.saint-pompon.com/reportages2/04e7589d8909f0601.php]
 このように、フランスと東地中海も含む南ヨーロッパ美術史における牛と人間との関係は、旧石器時代の昔から今日まで極めて深いものがあり、牛をモチーフやテーマにしたピカソも、単にその一例に過ぎないと言えるのかもしれません。  (8)     via [https://www.pablo-ruiz-picasso.net/work-170.php]。 (9)     via [https://www.pablo-ruiz-picasso.net/work-195.php]。 (10)   私もピカソへのオマージュとして、自転車のサドル (但し革ではなくプレス成形鉄板) を顔/頭にした (牛ではなくて) アルマジロを造っています ([http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/1916/1/Vol63p77.pdf -pp.94-95])。 (11)-1  via [https://pintura1krasmanski.blogspot.com/p/material-de-consulta.html?m=1––pl.2]。 (11)-2  via [https://artyfactory.com/art_appreciation/animals_in_art/pablo_picasso.htm––pl.6]。 (12)-1  via [https://www.azalai-japon.com/bois/masque/2298-08.html]。 (12)-2  via [https://www.auctionzip.com/auction-lot/Bamileke-Bamun-Bush-Cow-Mask-Cameroon-Grasslands_4A54B5983D]。
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thequinary · 2 years
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夏休み終了です
帰ってきました 結局20日間、国内旅行としては長めになりました 東北経由北海道 走行距離4,203km
旅勘もある程度取り戻せました 必要なもの、必要でないもの、出来ること、出来ないこと、いろいろ確かめることもできました あと、やっぱ旅には事前の想定よりお金がかかるってことも(笑)
さて、予行演習これにて完了です
Special thanks to Iさん・奥さん、Aさん、Cさんご夫妻、H君、Uさん 久しぶりにお会いできて嬉しかったです
お会いできなかった方、それも一期一会またいつかお会いしましょう
主な訪問地(訪問順) [観光地等] キャニオニング(みなかみ) ☆☆☆☆☆ 清津峡 ☆☆☆ 長岡花火大会 ☆☆☆☆☆ 大地の芸術祭(十日町、松代) ☆☆☆☆ 鶴岡市立加茂水族館 ☆☆☆☆ 三内丸山遺跡 ☆☆☆ 青森県立美術館 ☆☆☆☆ 五所川原立佞武多 ☆☆☆☆ 函館市内観光 ☆☆☆ 小樽市内観光 ☆☆ モエレ沼公園(札幌) ☆☆☆ 上士幌熱気球大会 ☆☆☆☆ 釧路湿原 ☆☆☆ 屈斜路原野ユースゲストハウスの夕食 ☆☆☆☆☆ 神の子池(清里町) ☆☆☆☆☆ 摩周湖 ☆☆☆☆☆ 硫黄山 ☆☆☆ 博物館網走刑務所 ☆☆☆ 青い池(美瑛町) 天候不順のため評価保留 旭山動物園 ☆☆☆☆ アルテピアッツァ美唄 ☆☆☆☆☆ ウポポイ(白老町) ☆☆☆☆
[温泉(一般向け)] 松之山温泉 ナステビュウ湯の山 ☆☆☆☆ 松之山温泉 鷹の湯 ☆☆☆☆ 湯ノ岱温泉 上の国町国民温泉保養センター ☆☆☆☆ 上の湯温泉 銀婚湯 ☆☆☆☆☆ 二股らぢうむ温泉 ☆☆☆☆☆ ニセコ黄金温泉 ☆☆☆ ニセコ昆布温泉 ホテル甘露の森 ☆☆ ニセコ昆布温泉 ニセコグランドホテル ☆☆☆ ニセコ五色温泉 五色温泉旅館 ☆☆☆☆ まっかり温泉 ☆☆☆ 旭岳温泉 湯元湧駒荘 ☆☆☆☆☆ 登別カルルス温泉 鈴木旅館 ☆☆☆☆ 丸駒温泉旅館 ☆☆☆☆
[温泉(マニア向け、一般の方はご遠慮ください)] みちのく深沢温泉 ☆☆(お湯は抜群、老朽) 濁川温泉 新栄館 ☆☆☆☆(鄙びた感抜群、老朽) オソウシ温泉 鹿乃湯荘 ☆☆☆(秘湯感抜群、老朽) 然別峡かんの温泉 ☆☆☆☆(廃業から復活) 標茶町温泉 味幸園 ☆��☆☆(清潔で落ち着くお湯) 川湯温泉 ホテル開絋 ☆☆☆☆(湯治宿の風情) コタン温泉露天風呂 ☆☆☆☆(湖面間近、無料) コタン温泉 丸木舟 ☆☆☆☆(貸切湯) 和琴温泉露天風呂 ☆☆(コタンに見劣り、無料) 和琴温泉共同浴場 閉鎖中?(通路封鎖) 越川温泉(斜里町) ☆☆☆(共同管理の無人湯) 斜里温泉 湯元館 ☆☆☆(清潔、お湯は汲み上げ) 虎杖浜温泉 民宿500マイル ☆☆☆(日帰り入浴不可) ☆の数は当然個人の感想です
写真は最後の観光地ウポポイの博物館からです 最後まで雨でした
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イルカの家 The first chapter
イルカの家 ── あろ 海辺に近い東部では、暑さと生まれてきた子どもたちが寄り添い、漁師たちは生まれたての誕生に喜び、将来の事業と土地への愛を受け継いでいる。太陽が海面から昇る頃には黄身の色はすっかり色づいていたが、新子たちは世界に対する無限の好奇心を抱き、その好奇心こそが、親たちは成長の糧を海から得て、日の出と日の入りの時には生きていることと自然を感じることの奇妙さを、子供の頃の海への好奇心を思い起こしていた。 今日は大きな日で,豊作の喜びである。 子供たちは仲間に言い合い、高いところからビーチのエキサイティングな光景をどっと見ていました。 大人たちは浜辺で忙しく、彼らは短い時間内に魚を切り取り、箱に入れなければならない。子供たちは一方で大人たちの生存能力を学び、親の仕事を邪魔してはならない。 大収穫!二百匹以上のイルカが入り江に集まり、遠くの海に行くこともなく、船に乗ってすぐに、元気なイルカを銛で捕獲することができたのは、今年生まれたばかりの子供たちのために、そして成長していく若い少年たちのために、海の神ポセイドンの恵みだった。 漁民たちは、毎年海を敬い、祈りを捧げることによって、海の皇神の恵みを受けることができると信じている。それは彼らの自然への畏敬の最も敬虔で直接的な報いであり、町全体が来年の今頃まで生きるのに十分な自然の恵みである。 車が走っている間も、優秀なスタッフたちはあまり知られていない砂浜に向かっていた。ない商売の間に誠実に取引がなければ、3回の狼が来たように最終させてより大きな調整できる食べ物の運送会社の購買を放棄し、町にとって、采购商なしにどもった最古の年代に戻った——の少ない人は、治療のないお金、毎日未明、縦横無尽に海に、远くの地方性ハリケーンに会ったが、古代の伝説のあれらの海の怪物はすべて孤児が后代の楽しい幻想にあげることができて、あれは孤児として得ることができる最大の楽しい伝承です。 仕入先のFT社は今回の輸送を重視しており、地勢が離れているため、海のものの鮮度や食感は最高に違いないと考え、上層部が写真や映像を見た時点で、会議ですぐに輸送車の数を控えめにすることを決めた。 今日の収获の魚介類の多くのお金に换できる、これも糸守鎮なぜft会社との協力の理由は、より多くのお金のことは多くの食べ物、海洋の贈与は限られて、波の冬の恵みを適時にいつも、漁民らなければ分からないが、海洋と調和を節約との関係を食物の不足は、糸を守鎮の住民の冷たい、それはあまり良いことではない。 米会社の米は大陸から輸入され、でんぷん質が多く、住民がハリケーンの季節を乗り切れるほどだった。価格はかなりのもので、住民たちは子供たちと一緒に過ごす時間が多く、彼らは神の祭壇で老人から古代の皇帝や海洋の不思議な物語を聞くことができた。 子どもたちも元気にホタルを捕まえていますが、これは自然の恵みとお年寄りの知恵のおかげです。 漁師たちはもう一匹のイルカを漕いで砂浜に連れて行き、そこでイルカに新しい使命と死の意味を与えた。 岸の人用の锐利な刃イルカの生命を終え、それはとても上手と慈悲深いこと、良質の刀の質、海洋の生き物たちの苦痛を減らすことができる血液が流出したとき、イルカの死亡が、それらを一番優しいやり方で世界を離れ、それらの体は、新しい方式の昇華され、人々の祈りを得て、人間の感谢を受ける。 食べ物の前で涙を流す人は少ないが、海に対しては、イルカに対しては、人々は食卓の前に海に似た味を残す——イルカの献身に感謝する。 数百年前に、人々は無私に自分の一生を捧げて海洋を泳ぐ代価に哺乳中の母子のイルカを救うために1基の神棚を建てることができ(ありえ)て、次第に、1種の浪費であるようで、海は感謝する人類の祈りを聞いていないようです。樹木は霊でもあり、その存在は夏の木陰だけでなく、寒さをしのぐ丸太小屋の材料にもなる。 神棚の風習は次第に儀式に変わっていったが、それは糸守町の住民を結びつける行事であった。 イルカのヒレは速く平らに切り取られて、彼らは大陸人のようにヒレを残して、サメの体は海に戻って、浪費は糸が町の優秀な伝統を守るのではなくて、いつもより良い料理方法があって、自然は決して偶然に1種の浪費の可能性を提供しません。 魚の頭に沿って、斜めに切って、すばらしい赤い魚の身の膠を持ってイルカの脳の中で鎖をつけて、この美味は多くなくて、同じく非常に高価ではありませんが、FT会社と民族の習わしと伝統は1つの理念に食べ物の鮮度を保つことと異なる食感を升華させます。 続いて腹部の短い裂け目を開いて、食べられない胃や腸を舎てて、海に帰って、再びその命を、海は優しい態度ですべてを抱擁する。 二百数十年前までは、イルカの内臓も捨てられなかったし、貧乏人でも肥えたものが食べられた。お金持ちの家であれば、毎日の安全を守る自分の家族のユニークなメンバーに与えられていたかもしれない。使えなくなった腹や腸は、犬たちが一年間留守番をしてくれた恩返しになる。海が海辺の住民に海を守る見返りを無私に提供するように。 贫しい人々の多くは惜しんで、彼らが金品を残して、商売に良いのインテリアは、家族のために加え、数件の新しい服、学費を読む子ども塾に提供するために、古代の先生は会长に住むあるところに、先生が完成した彼の使命は、また新しいところから彼の使命に行くと、多くの子供を認識の字で、多くの子どもが书写文章。 先生が久しぶりに来ても、子どもに世界の捉え方を教えることができます。 これは先生の光栄で、彼は人類文明の認知に従って文化を伝承しています。 今の学校の先生たちに忙しく走り回ってでなくて、子供のごとに機会が理想の大学に合格する、异说専属のではなく、勤労と克己と坚持こそ過程で、子供たちが浪人多くの次は、彼らの亲は老人を楽しむ知恵の庇護を続けることができれば、糸守鎮学のある青年が希望すれば海洋と耕地を守り続ける大都市から帰国し、子供たちには未来がある。 イルカの腹部の肉を無駄にすることはできません、精緻なカット技術は肉の異なる部位をわずか20分ですばらしい収獲になります、尾の部分はとても安くなります、そこは多くの人が好む部位ではありませんが、シチューは別の味です。で大型のマグロやサーモンは、鱼眼処理の必要もない、と鱈の頭に入れて氷の内、スーパーでは、経済の规则は、鱈の頭をそれぞれ異なる部位に感谢者の選択。 イルカの腹には脂がのっていて、揚げたての香りが家族を楽しませてくれます。 魚の背の部位の肉は良い、スーパーマーケットの供給が不足して、これらの良い栄養は海洋が人類に与える前に苦労して、人々は消費する時海洋の難しさを感じることができて、調理過程の慎重さは海を離れた后にまだ存在することができる畏敬の念。 短い時間に、一匹のイルカ生命の使命を讴歌するを得て、それの肉を入れて氷され、多くの若者が室内へされ、氷が溶けない後の美味を失った。 ますます多くの町民がやってきて、家に備えつけの道具を手に入れ、自然の恵みをすばやく切り取り、保護しなければならなかったが、その恵みは、彼らが夜な夜な祈りと家族への保証をしたすべての行為のお返しに違いなかった。 砂浜と海の中ですべて新年のように楽しく活発な赤色を塗って、イルカの生命はここで海を讴歌して、彼らは自分の血と肉を献上して、感謝する人々を供養しています。 子供たちはとても喜んで、子供たちの喜びと興奮に感染されているようで、イルカの霊はもっと多くの仲間を呼んで砂浜に来て、自分の霊体を捧げて、彼らはこのように高尚で、驚嘆させる無私です。 作家が賛美イルカによる新入生、舞踊者がイルカの舞台で演じ続けになる海洋霊体の世界にしばし遊んだ。 共同の協力は生産方式であり、住民たちは手っ取り早くイルカを捕獲し、最も厳格な態度で霊体を切り取る。百数十匹のイルカはすでに室内に放りこまれていた。さらに遠くを眺めてみると、海にはもっと多くのイルカがいて、新生を待ち望んでいる。それが彼らの使命であり、古代の移動の先生のように崇高である。 仕事は午後四時まで忙しく、FT社の車は凍ったイルカの肉をひっきりなしに運んでいたし、運転手もひっきりなしにやってきた。彼らは今回のポセイドン提督の海での歓喜を過小評価していた。 もう十分だ、人は貪るべきではない、海辺に住む者はもっと素養の保持を理解できる。 浜辺はまた近くのイルカの呼びかけの唇を見ることができて、彼らはとても気前がよくて、十分で、残りのイルカは海の新しい任務に馴れ馴れしくて、彼らは離れて、他の場所に行きます。 さんびゃく件のイルカが十分に糸守鎮の住民は3年まで生き、��年もこの贈与すれば、この町の一部の富裕なる——それは不思议の大変化を——富裕と十分な物資を保有するのが容易ではない、だからいくら来年もない波の冬の贈与し、数日内に必ず異色の行事がある。 彼らはバイヤーと一緒に酒宴を楽しみ、バイヤーも家族連れの軽い海辺の旅で長い労苦を終える。 一風変わったイベントに違いない。子供たちの喜びと興奮は更に多くの霊感をもたらして、神の所の巫女は全く新しい方法でイルカの魂を召喚して、彼らがここから無事に海に戻ることができるようにします——生まれ変わって、泳ぎます。
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この本を続けて書こうと思っていたのですが、なかなかアイデアが出てこなかったので、午後に第1章を書き終えて、次の時間に完成させることにしました。 この本は海辺に住む愛すべき人々に捧げます。 日本に捧ぐ
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tap2taprunning · 5 years
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“Our Time With” Vol.01, A Weekend Special : Good-Natured Running Collectiveの旅のあとさき
日本のランニング集団『#tap2tap』 は走ることを通して、何を語るのか?気鋭の聞き手が世界のランナーと対話するスペシャルインタビューシリーズ第1回。ジャーナリストであり、ボストンマラソンを7度完走したシリアスランナーでもあるPatty Tsaiが訊いた。
Text&Photo by Patty Tsai. Published on the 17th July 2019, 12:00, Tokyo : ©2019 All Rights Reserved by The Runners’ Chronicle Japanese Edition. The Runners’ Chronicle Japanese Edition is a magazine for the serious runners of the world, founded in 1997 by Francois & Jasmine de Libre.
#tap2tapとは?
Patty(P) : はじめまして。お会いするのを楽しみにしていました。
#tap2tap(T) : こんにちは。こちらこそ、お会いできて光栄です。お疲れのところ日本までお越しいただいてありがとうございます。ビールは召し上がりますか?(*註:インタビューは2019年の梅雨の横浜・馬車道タップルームで行われた。)おすすめはTeikoku IPAですね。今年も走られたボストンは、スピードレースでハードモードだったようですね。2018年にYuki Kawauchiが優勝した時は雨の中、彼だけが最初から飛ばしたんですよね。30年以上前にToshihiko Sekoが走った時はどんな天気だったのでしょう。
P : ありがとうございます、良い香りのビールですね(乾杯)。今年のボストンは最初から飛ばすランナーが多くて、後半生き残ったランナーとダメになったランナーがわかりやすく二分されたレースでした。Seko sanは、1981年と1987年の2回優勝されていますね。当時の彼は誰にも負けない自信があったそうです。2018年の高知竜馬マラソンのトークセッションで発言されていましたが、やはり圧倒的な練習量は裏切らないと振り返っていらっしゃいました。ケニアの選手と並んでも、まったく負ける気がしなかったそうです。ちなみに、当時の天気はわからないのであとで調べてみます(笑)。Seko sanは、今は日本陸上連盟で日本のランナーの強化を推進されていますね。Suguru Osako選手が日本記録を出したりして、とても期待が大きいです。 — — — さて、早速ですが — — 今日は#tap2tapについてお伺いしましょう。どういう集まりなのでしょうか?
T : #tap2tapは、サイエンティストや編集者、バリスタをはじめとして色々な面々がいるのですが、タップルームからタップルームまで月に3回くらい15キロから30キロくらいの距離を真剣に走り、つまりビールのタップがあるところを目指して走って、ビールを飲む集まりです。2019年1月17日に始まって、10日に1度、東京か横浜のどこかを走っています。サイエンティストとトレイルランナーが中心になって始まりました。まとまった休みがあれば、#tap2tap trailsとして世界中の美しいトレイルも走っていますよ。先日はスカイランニング日本選手権で、美ヶ原で開催されたInov8 Cupで80kと45kのレースに出ました。世界中のランニングチームと同じく、みんなシリアスに、楽しく走っています。走る仲間たちの年齢も性別もスタイルも多様で、いいグラデーションになっていると思います。日本のことはなかなか海外に伝わりにくいこともあるかもしれませんが、日本にもいろんな人がいるんです。ちなみに、フルマラソンのワールドメジャーのレースでサブ3を出しているランナーもいますし、信越五岳トレイルランニングレース(Pataginia Cup)やUltra Trail Mount Fuji(UTMF)に出ているロングディスタンス・トレイル・ランナーなんかもいますよ。
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#tap2tapのはじまり
P: 日本でもグループランニングはとても増えていますよね。ランニング人口は1000万くらいかもしれませんが、特徴のあるランニングチームがとても増えている印象があります。トレイルランニング人口は約100万人〜150万人、実走人口は30万人〜50万人ほどでしょうか。NYのBlack Rosesのようなシリアスでかっこいいチームも増えてきていますよね。そもそもは、なぜ#tap2tapランニングを始めたのですか?
T : “The Chronicle”の読者の皆さんが思っている通り、ランニングは、誰でも自由にはじめることができるスポーツですよね。足を踏み出していると、こころやからだとの対話がはじまります。限界もありますが、たまに新しい自分に出会えることがあります。そしてある日、自分がいつの間にかすこし強くなっていることに気がつきます。このなんとも言えない素晴らしい素晴らしい瞬間は誰にでも来ます。特にある一定の距離や期間走り続けているとそうなりますよね。それが楽しいので、走っているということだと考えています。
これとは別に、あるランナーが一人で走っていると聞いて寂しそうだから別のランナーが一緒に走るようになってくれるようになって、それ以来ずっと一緒に走っているらしいという、まことしやかな説もあります(笑)。ちなみに、一番初期の頃から一緒に走っているランナーは、膝が痛くなったりお腹が痛くなったり、親指の爪が剥がれたりというトラブルもありましたが、今はトレイルレースにも出たりして、確実に強くなっています。毎年6月に八重山トレイルレースという素晴らしいローカルレースがありますが(註:ハセツネカップの後半のコースと重なり、またNESチャンピオンシップのシリーズレースにもなっており、ローカルレースだがタフなレースとして知られている)、小雨のコンディションでも彼はものすごいスピードでアップヒルを登り切って38kを走りました。もう一人のランナーは、12kのレースで、エイドステーションに脇目もふらず走り続けて、入賞までしましたよ。また別のランナーは、トライアスリートでもありますが、さすがに心肺機能が強くて、いくつかレースに出ても安定したパフォーマンスでした。3ヶ月、半年で心身ともに変わってくると言うことが本当にあるということがよくわかりました。こういう変化がリアルに感じられるのは楽しいです。あとは、ゴールした後によく行くのはベアード・ブリュアリーのタップルームで、中目黒にはしっかりしたピザもありますし、横浜の馬車道は街の雰囲気も良くて好きですね。
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ランニングの言語化
P : 1994年に日本の酒税法が変わってから、マイクロブリュアリーが日本でも増えて、美味しいビールが多いですよね。日本のブリュアリーの数は300を超えたとか。タップルームがあればどこにでも走りに行くというコンセプトは面白いですね。ランニング、あるいはランニングとビールを通して、何か目指していることはあるのでしょうか?少し強くなる、ということだけでも大切な変化だと思いますが、どうでしょう?
T : 300種類のビールを全部制覇したいです!世界中のビールとなると相当な数ですよね、楽しみです(笑)。私たちのコンセプトは、タップルームさえあればどこでも走りに行くということで、いつでも準備ができています。いいビールがあったらぜひ教えてもらいたいです。時には峠を越えて、ある町から別の町へ#tap2tapランニングをしたり、国境を越えてビールを目指して走るなんていうこともやってみたいです。
真面目に答えると、ランニングに関しては、距離もスピードも、走る場所や時間も人それぞれのスタイルがあるので、私たちは固定的な何かを目指すことはありません。むしろ、どちらかと言うと、ランニングにおいては自由であることが大切だと思っています。自由に走ったあと、ビールを飲みながら、その人がどう強くなったのか、または失敗したのか、どんな体験をしたのか、どんな新しいパースペクティヴが見えたのかを伝え合うことが多く、それが一番本質的なところだと思っています。
P: もう少し、具体的には?
T : こういった、”伝え合う”ということは、いたって普通に人間の生活の中にあるこではあるのですが、声高ではないけれどとても実感のこもった、独自のトーンを湛えた言葉で何かが語られるということが大事だと思うんです。500メートルの急登に初めてトライしたランナーが、それ以前とそれ以降で、アップヒル・ランニングを語る言葉は断然違うものになります。そこには、具体的な身体活動から導かれた、ある力を帯びた言葉になると思うのです。また、例えば、これは私たちがとても尊敬する先輩ランナーの表現ですが、相当な斜度があるトレイルのことを、彼は”キスできるくらい傾斜がきつい登り”という表現をしたんです。彼はそれを登り切ったのでその言葉には当然強さを感じますが、加えて、ちょっとファニーさも感じられます。坂道にキスできるくらいの傾斜って(笑)。それでみんながニヤッとして面白がるというメンタリティーがとてもいいんです。ちなみにそこから転じて、さらにきついアップヒルのことを私たちは、坂に抱かれている、と表現します(笑)。ともあれ、ありえないことを笑いながら、実際にそれに取り組んでしまうという可笑しさというんでしょうか。トレーニング方法でも食事方法でも、あらゆることがこのように語られ始めると、ビールが進みますね(笑)。あるランナーは、腸腰筋の話がお気に入りですが、彼は本当にアップヒルのパフォーマンスがすごいですよ。
最初はひとりで何かを目指して自由に走っていたはずが、いつのまにか少し自分が強くなったことに気がつき、今度は誰かに何かを独特の言葉で共有しようとしている状態に自然に変化していくこと、それによって具体的にランニングライフが何か良い方向に行ったり、新しい友達ができたりするということが重要だと思っています。
“Good-Natured”であること
P : 面白い言葉づかいですね。世の中にはセンセーショナルに聞こえる一方で安易に使ってしまう、使い古された言葉溢れていますが、そういったものとは別の言葉が見つけられていくんですね。
T : そうです、薄っぺらいのはイヤです。昨日よりも一歩前に進めるようになると、少し見えるものが変わります。そうやって、たった一人が経験したことや見えたことが、それを超えて自然なかたちで誰かとの経験になって、ランニングは言葉を通していつのまにか自分を超えたところへ広がっていくのが楽しくて、それが起こるには、ある言葉の強度が必要です。そして何よりも、その言葉の力は、何か見えないものが見えるようになったとか、1秒速くなったとか、1メートル余計に登れるようになったとか、それによって自信を持てたとか、健康になったとか、Good-Naturedなものなんだと思います。そういうことがひとつひとつコミュニティーの経験になって行くと、わたしたちとそれを取り巻く世界 — — それは一方では人知を超えていて畏れ多いものだとも思いますが — — は、もうちょっと良くなるのではないでしょうか。そのために小さいけれど持ちえた体験や言葉をどう世界と結びつけて行くか、ということを最近考えることが多いです。こういった感覚を持っているランナー(またはビール呑み)が集まっているのが #tap2tap だと思っています。
P : いいCollective(集まり)ですね。ビールでほろ酔いですが、本気でそう思います(笑)。
T : ほろ酔い、大事です(笑)。素面でもほろ酔いでも同じことを言えるのが大事ですから!
3つのキーワード
P : #tap2tapをいくつかのキーワードで表すと?
T :#tap2tapのランナーは、①シリアスに走ります。スピードや距離をレベルアップして、新しいレベルで見られる風景が好きなんだと思います。それから、②いい人で、人のことを考えられる、ということは大切なことだと思います。自由にランニングをしていますが、それはお互いのスタイルを尊敬することにもなりますし、自分のスタイルに責任を持つことにもなります。ストイックで自由にランニングした結果強くなっていくと、そのささやかな力を何かや誰かのために使いたくなります。その時に、いい人であればあるほど、力の使いどころがより良いことに向くと思います。あとは、何と言っても③かっこよさは大事です。スタイリッシュでかっこいい存在であるということは誰かが憧れてくれたり誰かの目標にもなり得ることだと思います。親から見てもあいつ元気で安心するな、と思ってくれると良いですし、自分より若い世代や子供達がみてああいう風になりたいと思ってくれるといいですよね。私たちも先輩や仲間からインスパイアされてきたので。かっこよさは間違えるとおこがましい話になってしまうのですが、そうではなくて、他者の手前、謙虚になったり、大切なことだけにフォーカスするようになったりして、どんどんシンプルになっていくということだと思います。60歳でUTMB®の100マイルを優勝したイタリアのマルコ・オルモなんて全然喋らない寡黙な人だそうですが、眼差しだけでかっこいいですし。別のスポーツですと、私たちはサッカーも大好きなのですが(元サッカー部が多い)、三浦カズ、と聞いた時に、彼がペラペラ話していたり例えばパーティーに出席している姿よりも、フィールドで黙々とボールを追いかける姿が浮かぶでしょう?つまりはそういうことだと思います。
P: ストイックでかっこいい人はたくさんいますね。自然とあるスタイルになっていく。皆さんは、今後の具体的な活動とか、やって見たいこと、考えていることはありますか?
”小さな言葉”
T : やってみたいことはたくさんあるのですが、それを包括するような話をまずはさせてください。東京大学医学研究科に熊谷先生という方がいらして、著作を拝読してとても尊敬しているのですが、彼があるカンファレンスで、スポーツの競技的な部分は手段であって、スポーツの本質はレクリエーションにあるんじゃないかというようなことをお話しされたそうなんです。記録を目安に強くなるという競技的なことに加えて、その強さ — — あるいは弱さかもしれません — -をどう周りの人と連携し、共有していくのか、それがいかにその人やみんなにとって良い経験になるのかという競技を超えたところにある何か、ということがスポーツだと思っていて、そういう文脈でやりたいことがいくつかあります。一つはもちろんたくさんのレースに出て新たな風景を見てみたい、それによって色んな人をそういう感覚を分かち合いたい、ということもありますが、もう少し具体的なことで言えば、例えばそのときに着ているものや、補給するものについても、それが私たちにとってGood-Naturedなものなのかというのはとても大きな要素になると思います。
例えば、大自然の中を走って、精神的にはとても良い経験をして、フィジカルもレベルアップしたとしても、着ているTシャツが環境への負荷も高い製品だったらどうでしょう。シーズンごとにどんどん変わって行くものを着ていたとして、それは経済力があれば入手することはできますが、そのアイテムが手に入るまでのサイクルが、輸送コストや排気ガスなどなどを含めてとても本来なら不要なコストがかかっているものだとして、それが快適な素材だったからレースでいい記録が出たとしてもそれはHolistic(全体的)でGood-Naturedな意味で、本当にいいランニング経験と言えるのかというと、どう言っていいのかわからなくなります。何か別の方法で大切に作られ、運ばれて、長く着られていくほうがいいですよね — — 実現するには困難があることも承知の上で、でも、こういう小さなこだわりは大切だと思っています。これも、尊敬する先輩ランナーの言葉から教わったことですが、100マイルは1マイルの積み重ね、というコンセプトがあります。つまりどんな小さなことでも大切にして、それが積み重なって行くとより大きなことになるという考えかたがあります。私たち #tap2tap も何かの役に立てるといいと思っていますが、派手で、時にノイジーにすら聞こえるような大きなマスになりたいわけではないのです。心技体のあらゆる面で、仲間や環境にとって良いことを一つずつやっていくという小さなCollectiveとしてのこだわりが必要だと思っています。
だから、なんのために走っていて、”小さなこと”をどんな風に”小さな言葉で”語り、どうやってそんなことを重ねて行くのか、ということにより意識的であるべきだと思うのです。そういった意味で、走ることは長い道のりを通じてソサエティーや環境に繋がっていく総合的な営みだと思っています。ファニーでジョークがあって、ニヤっとできるようなトーンでやりますけどね(笑)。
P : なるほど(笑)。”小さなこと”の計画をぜひこれから(*註:連載第2回でカバーされる)聞かせてください。その前に、今度は違うビールをいただいても良いですか?
T : もちろんです — — — — —
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<続く>
*連載第2回予定:”小さなプロダクト”計画”、#tap2tap のレース予定、その他
— -
Article Created by Kiyoyo@tap2tap, Trail Runner & Gooner in Tokyo/Yokohama/Kyoto
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4554433444 · 5 years
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妹さんと同居6
「ここが、Yo-光台……」 「いや、それもういいから」  ほえーって感じのマヌケ顔で駅前の風景を見ている汐里。どうでもいいんだけどこの美少女、わりと隙が多くて、マヌケな顔してるときはまじでマヌケ。しかもそのマヌケ面がかわいいっていう美少女地獄めぐり状態。どこが地獄か。  とはいえ、汐里のこの反応もわからないではない。  汐里の行動半径は狭い。基本は家と学校の往復。そんで、育った環境はといえば、横浜の中心部の下町である。斜面がやたら多くて、家はぎっしりと建て込んでいる。そんで遠景には常にビルだ。いつだったか、子供のころ家族で出かけたときに、田んぼを見た汐里がやけに興奮していた記憶がある。そのときまで汐里は、一面の田んぼというものを肉眼で見たことがなかったわけだ。 「あれはマンション? 団地?」 「団地だろ」  ���光台駅は、駅前からどでかいURかなんかの団地が並んでいる。駅そのものが谷底のような場所にあることもあり、とにかく景色がでかい。汐里にとっては、未知の景色なのだろう。 「団地……少女公団……」 「またクッソ渋いとこ来たな」 「なつみちゃんかわいいよね」  Ho-文社、いいかげん旧作の電書化進めてくんねえかな。ほらあるじゃん。お年寄り体質の髪の量がすっごい多い女の子が料理うまいやつとか。
 んでもって。 「雨だね……」 「雨だな……」  目に見えるものすべてがじっとりと濡れてしまいそうな小糠雨である。  プラネタリウムのあるこども科学館までは徒歩数分とはいえ、傘なしでは微妙な感じだ。時間の余裕はあまりないし、もうじき完全な夜になる。どうしたものか。にじんで見えるヘッドライトやら看板やらの光を見ながら考えていると、 「……」  汐里がそっと腕をつかんできた。 「どうした」 「ん……なんか、知らない場所に来ちゃったなあって……」 「……」  ちょっと不安げな表情。  やばい。俺の妹がエモい。  知らない街で迎える夜。重苦しくたれこめた雨雲は灰色からだんだんと黒ずんで、やがては夜になる。歩行者用信号から聞こえてくる警告音。見覚えのないバスの行先表示。  俺は旅行が好きだ。子供のころからあちこち一人でよく行く。旅先で、いちばんさびしさを感じるのは、こんな一瞬だ。その孤独感は、不安でもあり、同時に甘美さでもある。  しかし、いまは隣に汐里がいる。  なんか駆け落ち感出てきた。 「……」  その発想はなしだ。考えるべきじゃない。  考えたことがあることは、考えるべきじゃない。  俺はなにかをごまかすように言った。 「汐里ちゃんは、知らない場所で、心細くなっちゃったのかにゃー?」 「……」  しまった、と思ったときにはもう遅い。  やらかしてしまったとき特有の、いやな汗がじんわりと背中を伝う。 「かにゃー?」  しかも引っ込みがつかなくなって、傷を深くしてしまった。 「……」  あっあっ。汚物を見るようなジト目いただきました。美少女の貴重なジト目シーン!  産卵シーン……。  シーン……。 「……すまん。いまのはあんまりでした」  俺は謝罪した。 「わかればいい。お優しい汐里様は許してあげるよ」  よかった。まちがってお礼言わなくてよかった。  汐里はジト目の余韻の残る流し目で俺を見て、小さくため息なんかつきつつ、 「お兄ちゃん、たまにわけわかんなくなるよね……」  そりゃな。ごまかすのはあんま得意じゃないし。  俺はいったい、なにをごまかしてるんだろうな。ごまかしすぎて、なにがなんだかわからなくなってる。 「とりあえず、傘買うか」 「ん」  腕をつかんだまま、汐里があとをついてくる。 「なんなら、シャツの裾を恥ずかしそうにそっと掴んでくれてもいいのよ?」 「お兄ちゃん、そういうのが好きなんだ……うわあ……」 「なぜ引く」 「そういう子って、きっとすごく扱いめんどくさいよ。お兄ちゃんはめんどくさい子が好きなの?」 「……」 「な、なんでそこで私をじっと見るの?」 「いや、じゃあここで腕に抱きついてくる子はめんどくさくないのかな、と」  会話のどこかの時点でいきなり密着度が上がっている。  なんの主張だろう。  おっぱいかな?  すいません。最悪なことを考えました。  そんで。 「……」  むすっとした顔で、無言の汐里。  あ、いかん。これ聞いちゃいけないやつだった……。  にもかかわらず、腕を離す気配はまったくない。  駅構内の売店の前で立ち止まる。さすがに腕組んだまま店内に入るのもなあと思ってると、汐里がぼそりと言った。 「……私、めんどくさい?」 「いや、どっちかっていうとちょろい」 「な……!」  汐里なりに真剣だと思われたセリフに、完全に肩透かしを食らわせたかたちである。汐里はわりと簡単に沸騰した。 「ちょろいとはなにか! むしろお兄ちゃんがちょろいね! うまい某一本で宿題やってくれるレベルでちょろいね!」 「安いなあ俺……」 「先に入ってるからね! なんかうまい某食べたくなった!」  自然に腕をほどいて、店内に入っていく汐里。  めんどくさくない女の子なんていませんよ、というのはだれのセリフだったか。きっとそれは、相手が後輩だろうと、妹だろうと。 「めんどくさくない人間がそもそもいないし、か」  あの切り返しはよかった。  いつだって、たいてい、いちばんめんどくさいのは、自分だ。
「で、こうなるとわかっていたわけですが……」 「ほら、もっとくっつかないと濡れちゃう」  相合い傘である。  まにあわせのビニ傘を二本も買うのはもったいないという汐里の主張。まあごもっともである。しかし雨は駅舎で見ていた印象よりは強くて、しかもビニ傘は二��八円の小さいやつである。そこへもってきて、俺と汐里はそこそこ身長差があるもので、汐里を濡らさないようにすると俺の右肩が大惨事。あと首ちょっと変なふうに曲げる必要がある。なお売店ではうまい某は売っていなかったもよう。  駅前の大通りの歩道はけっこう人通りがあって、微笑ましげに俺たちを見た人が次の瞬間固まるのは、きっと俺の首の角度のせいである。この角度、人として微笑ましくない。 「ギギギ……」 「あんちゃん、もうちょっと人間らしく」  うちの妹は守備範囲が広いなあ……。 「つーか傘、おまえが持てよ」 「ん」  傘を汐里に手渡す。  次の瞬間、放射状に広がる傘の骨の先端部分が俺の額を直撃する。 「オウフ」  額を押さえて立ち止まる俺。 「お兄ちゃん!?」 「傘、もうちょっと高く持ってくれ……」 「あ、うん。こんな感じ?」 「そこまで高くなくていい」  そしてなぜか、傘を上下するのではなく、爪先立ちになることで高さを調整しようとする汐里。  ……なんだこの状況。  目の前にいる汐里が、まるで顔の高さを俺とあわせるかのように、一生懸命に背伸びをして……。  ほぼ同時に、汐里もそのことに気づいたらしい。 「えーと……」 「傘の高さを変えりゃいいんだろ……」 「そ、そうだよね」  ようやく傘があるべき高さに収まったので、移動を再開する。  あまり見たことのない古臭いディスカウントストアの前を通過し、その次の角を右折。道はそこそこの上り坂になる。  もうすぐ現地である。  正面に、プラネタリウムのある施設特有のドーム屋根が見える。 「あれだな。えーと、正式名称は、はまぎんこども宇宙科学館、か」 「おー、なんかすごい丸い。でかい」 「そして」  スマホを取り出して時間を確認する。 「……時間がやばい」 「えーー」 「走るぞ!」
 もう傘もなにもあったものではない。意外に広い敷地を、水をはねさせながら走る。あわてて受付でチケットを購入。プラネタリウムの受付はさらに別にある。すでにチケットのもぎりが始まっていた。職員とおぼしき女性に話しかける。 「まだ平気ですよね?」 「はい。もうじき始まりますよ」 「どうも!」  すでに周囲にはだれもいない。つまり、見る人はもうみんな中に入ってしまっているということだ。 「行くぞ」 「うん」  映画館の入口のような空間を通って、ドアを開ける。  すると、そこには、ドーム状の天井一面に巨大なスクリーンがあった。 「うわあ……」  汐里が、驚きの声を上げる。  プログラムが始まる前のスクリーンは、オレンジ色にぼんやりと光っている。そして足元には、一般的な映画館より角度のある背もたれの椅子が並んでいる。中央には、巨大な映写機。 「意外に空いてんな。好きなとこ選べる」  中央よりやや後ろ。映写機からは少し離れた場所に並んで座る。俺が右側で、汐里が左側。 「想像してたのより、さらにすごい……ここに星が映るんだよね?」 「ああ」 「なんか、すごい……」 「すごいな」 「……」  汐里がこちらをじとーっと見た。 「なんか、妹でも見るような目してる」 「どんな目だよ」  少なくともエルフを見るオークのような目はしていないはずだが。 「俺の妹はちょろいなあっていうなまあたたかい目」 「おまえ、それまだ引きずってたのか……」  汐里がなにか反論したそうにしていたが、そのタイミングでちょうどアナウンスが始まった。いくつかの注意事項があって、 『では、照明を落としていきます』  白熱電球の色をしたスクリーンが、すうっと夜にも似た闇に覆われていく。  プログラムが始まる。 『それでは、今日、十月十八日、夜七時の横浜の星空です』
 夢のように、四十五分が過ぎる。 『以上でプログラムは終了となります』  アナウンスが告げる。  魔法が溶けたように、夜空だったものが、白いスクリーンに戻っていく。四分の三ほど欠けた月も、秋の大四辺形も、もう、ここにはない。  思った以上に集中して見ていたのか、ちょっと固まった体をほぐしつつ立ち上がる。 「汐里、行くぞ」 「ん……」  ぽけー。  口を開けたまま、汐里は明るくなったスクリーンを見ている。ところで、開いてる口見ると、とりあえずチュッパチャップス的なもの突っ込みたくなる謎の欲望があるんだけど、これ俺だけ? 「汐里」 「すごかった……」 「だな」 「もう一回見たい」 「今日はもう最終だから無理だ。ほら、行くぞ」 「うん」  シート形状の問題で、仰向けに近い姿勢になっている汐里が手を伸ばしたので、引っ張り上げてやる。自分でやっといてなんだが、こういうところだぞ俺。  宇宙劇場とやらを出たあたりで、ようやく汐里が現世に戻ってきた。 「おもしろかったか?」 「あんなにきれいに見えると思ってなかった」 「俺もちょっとびっくりした。記憶で美化されてたと思ったけど、見応えあったなあ……」 「私、天文部に入ろうと思う」 「ああうん、それプラネタリウム見た人間、だいたい言うよね」 「蒼栄高校の」 「そっちかよ……」  汐里が持ち出してくるネタが微妙に古いのは、基本的に俺の蔵書由来の知識だからである。天文部ネタでどの作品を思い出すかで年齢がバレるので、オタクは注意したほうがいい。俺���オッドアイの幼なじみがいる天文部がいいな。  売店だなんだと汐里が寄りたがったが、閉館そのものの時間が近いため、断念する。 「おみやげ……」 「また今度なー」 「すごい使いづらそうなオリジナルのボールペンとか欲しい……」 「おまえのその土産物好き、いったい人生のどこで埋め込まれたの」  旅先で俺が買ったタペストリーとかガチで喜ぶからね汐里。  ……待て。原因は俺か? 「なに?」 「いや、なんでも……」  そのうち、きちんと確認してみる必要があるかもしれない。そういや、俺が一人暮らしを始めてからあと、汐里の部屋って入ったことほとんどないんだよな……。
 閉館のアナウンスに急かされ、まばらな人の流れと一緒に外に出る。  外は完全に夜になっていた。  いま外に出た十数人の人たちは、みなさっきまでプラネタリウムを見ていた人たちでもある。それぞれに、空を見上げている。どうしても、そうしたくなるものなのだろう。 「あ……」  呟く汐里の声に、俺も同じように空を見る。  晴れていた。  さっきまでの雨が大気中の塵を洗い流したかのように、すっきりと晴れた空になっていた。正面に、四分の三ほど欠けた月が見える。 「星、少ないね」 「横浜だと三等星くらいが精一杯っていうしな」 「……星、たくさん見えるところに行ってみたい」 「そのうち行くか。俺が連休とれたときにでも」 「それって、旅行ってこと!?」 「お、おう……」  思わぬ食いつきに驚く。  ……でもないのか。  少なくとも、俺が家を出たあとは、家族旅行をしたという話は聞いていない。そして汐里は高校生になった。こうなると、家族旅行という年齢でもない。親父、娘との距離を縮めたきゃもうちょっとがんばれよ。あれだけ娘ができて喜んでたんだからさ。 「ま、なんか考えとく。今日は、帰るぞ」 「うん」  どちらからともなく歩き出す。  駅までは徒歩数分。あとは電車でそれぞれの家へ。今日のお出かけは終了だ。  歩道の人影はまばら。  隙あらば汐里が空を見上げようとするので、手を掴んで歩いている。 「あれがデネブ、アルタイル、ベガ」 「いまは秋だぞ」 「うん。なんか、プラネタリウム見てるあいだ、ずっとこの曲思い出して」  ひとりごとみたいな小声の歌が続く。  子供のころから、汐里は、機嫌がいいとこうやって歌をくちずさむことがある。俺には人前で歌をうたうという習慣がいっさいなかったから、最初に聞いたときには少し驚いた記憶がある。  最初……?  それはいつだっただろう。
 はじめて会ったとき、かわいい子だと思った。いまでも、そのときの姿を覚えている。白いワンピースを着ていて、ずいぶん慣れたような愛想笑いを浮かべていた。その愛想笑いが本当の笑顔に変わるまで、さほどの時間はかからなかったように思う。  年齢差のせいもあってか、汐里はとにかく俺にべったりだった。俺もそうした汐里を許容した。というより、許容しているという意識すらなく受け入れていた。だからなのだろうか。その「べったり」の意味合いが変化した、その兆しを察知できなかったのは。  そうして、俺は一人暮らしを始めた。
 少し、肌寒くなってきた。汐里の体がわずかに近づいた気がする。  だれも俺たちのことを知らない街で、俺は、制服姿の十六歳の女の子と歩いている。その女の子は、きっとだれもが認める美少女で、中身はちょっと残念だ。そしてその女の子には、妹という名称が張り付けられている。まるで、共犯者のように、手をつないでいる。
 どうしたい? 言ってごらん  心の声がする  君の隣がいい
 線の細い、透明な汐里の歌声がひそやかに響く。  そして、歌はこう続くのだ。
 真実は残酷だ。
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ari0921 · 3 years
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和四年(2022)2月28日(月曜日)
     通巻7236号  <前日発行>
 ウクライナ残留ユダヤ人、モルドバへ「エクソダス」
  オデッサからとなりのモルドバで待機、エルサレムへ帰還
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 エルサレムポスト(2月26日)によれば、ウクライナ西南部の港湾都市オデッサから、戦争の難を逃れてモルドバへ避難した在留ユダヤ人はおよそ一万人(ほかに3万3000人がウクライナ各地に居住)が、近くエルサレムへ帰還する。
 (以下は拙著『日本が全体主義に陥いる日』(ビジネス社)のモルドバの章の縮約。すでに7219号でウクライナ取材記を、7223号でベラルーシ紀行を再録した。本編は、シリーズ第三弾)。
 
▼モルドバは社会主義計画経済の残滓、繁栄にはまだまだ遠い
 モルドバの首都キシニウ空港に降り立った。
朝日に輝く光景のなか、管制塔のほか高い建物がなく、まるで片田舎の小さな飛行場。日本の米子鬼太郎空港や小松空港よりこじんまりとしている。通関してロビーに出ても、両替所もない。
 (これって国際空港か?)
 予約していたコスモスホテルへタクシーで向かうが、道路は埃っぽく、街路樹が排ガスや土埃をかぶって黄色く汚れている。
 鉄道駅前は古着や、何に使うのか不明の金具、部品などをこまごまと並べた露店がいくつも店開きしている。ショッピングセンターの入った近代的ビルの斜め前、二十二階建てのコスモスホテルは、規模とは裏腹に旅客が少なく、照明も薄暗い。
しかもこのホテルでも両替はできず、ボーイが隣のビルの両替所まで案内してくれた。待たせていたタクシーに現地通貨(ルーマニアと同じくレイ)で運賃1500円を支払った。すぐさまシャワーで旅の埃を落として着替えをして、ようやくさっぱりと落ち着いた。成田からイスタンブール空港で乗り換えた。十八時間の長旅だ。
 キシニウの街並みはソ連時代の計画経済の名残か、碁盤の目のように縦横はきっちりしている。
しかし建物はと言えば旧式のいかめしいビルがあるかと思うと、隣は瀟洒なガラス張りのレストラン、とても計画的には見えない。カジノが至る所にあって、二十四時間スーパー、怪しげなストリップ劇場、入れ墨専門店が軒を並べ、寒い国にこそ需要がありそうなマッサージの店は少なく、目抜き通りには女性向けの美容室も見かけない。異常な環境である。
▼豪華なレストランもあれば、ホームレスも。町は埃だらけ
 物価が安いので欧米からの観光客は結構多い。そうした人々と行きかうのだが、中国人、韓国人には滅多に出会わない。日本人とは全く会わない。それなのにあちこちに寿司バアがある。世界的に健康食として寿司が静かなブームになっている。
 
一日目の夕食としてグルジア料理でもと目抜き通りから一歩奥まった、中庭が緑に囲まれている店を選んだ。
屋外の席に陣取ったが、隣では着飾った男女が騒々しいパーティ。何かと思えば一歳の子供の誕生日を祝う若夫婦が、友人たちを招待した一団だった。ロシアの新興財閥のような、結構豊かな階層がモルドバにも出現している。
ほかにビジネス客、常連客とアメリカ人の老夫婦らもめずらしいものを見るような目でこのパーティを眺めていた。旧共産党幹部らの国営企業民営化のどさくさに紛れての汚職が絶えない。加えて、こうした所得格差も社会的憤懣となってくすぶっているのだろう。
 凱旋門の中心に大統領府、市庁舎、議会前にはテント村が出現している。泊まり込みでハンガーストライキを続けるグループをよく見かけた。
 同じ場所で憩う市民もいる。キシニウ市内で一番大きな公園は初代国王シュテファン大公を記念するもので、そういえばモルドバ通貨のデザインはすべてこの国王の肖像をあしらっている。キシニウの目抜き通りの名称もシュテファン・チェル・マレ通りだ。国会ビルを取り囲む緑豊かな公園の、日陰のベンチにはのんびりと憩う老人たち、テキストをひろげる学生に混ざってカップルが肩を寄せ合っている。その横をスケボーの少年らが勢いよく走り抜け、近くのアイスクリーム屋に殺到していた。
 こんな光景を眺めていて、戦争の傷跡がほとんど見当たらないことに気が付いた。
 
中古市、骨董市などを覗くと旧ソ連時代のバッジ、軍帽、ブレジネフのバッジまで売っている。そのとなりの店にはドナルド・トランプのマトリョーシカが客待ち顔で鎮座する。
 ▼EU加盟をロシアが阻止
 モルドバはEU加盟を政治目標にしている。ところがこれを不快とするロシアから、モルドバ産ワインの輸入禁止などの嫌がらせを受け、ガスパイプラインを止めると脅されたりするので、なかなか前進させることができないのである。
 
「モルドバ語」と表記される言語も実態はルーマニア語であり、国旗はと言えば中央にオーロックス(牛の原種)が描かれてはいるが、ルーマニアそっくりの青・黄・赤の三色旗。ロシア語族は沿ドニエステルを中心に11%程度。
 モルドバは価値紊乱の真っただ中、文化の多様化という混乱の様相を見せていた。
 モルドバ国民の悲願は将来のルーマニアとの合邦にあるが、ロシアは絶対反対である。
 モルドバの西側はルーマニア人の居住する農業地帯で、モルドバワインは世界的に有名、多くのモルドバ国民はルーマニアへの復帰を望み、言語もルーマニア語を話す。
 モルドバはながらくルーマニアと一緒で元の名前は「ベッサラビア」。2018年にはベッサラビア誕生百周年の記念行事も予定されている。
 第一次世界大���でベッサラビアはソ連により分割され、モルドバはソ連圏に編入された。
 まさにその東西冷戦の残滓がまだ居残り、微妙なバランスの中、政治的な綱渡りを演じているのがモルドバ共和国だ。親西側を鮮明にはしつつも、もう一歩踏み切れないもどかしさ、すぐ東がウクライナだからだ。
 モルドバの安定はウクライナ情勢の帰結に深く連動しており、EUが全面支援には踏み切れない理由付けにもなっている。プーチンは沿ドニステルの武装勢力と、ルーマニア国内のプロ・ロシア政党、ならびにモルドバ国内のロシア工作員を通じて一連の地下工作を展開するからだ。
 しかしモルドバは経済的に行く詰まり、繁栄にはほど遠く、かつ国内政治はプロ・ロシアの政党がまた力をもっており、国民の意識調査では西側への傾斜があきらかではあっても、法体系と治安制度から、多数派には達しない。
 そのうえロシアのクリミア併合とウクライナの混乱を目撃すれば、急激な政治的路線変更はロシアの介入をまねくことを極度に警戒しているからだ。
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honsuki · 6 years
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富山マラソン2018
私史上初めて、42.195kmのフルマラソンへの挑戦となった「富山マラソン2018」。社会人1年目で充分な練習時間を確保できなかった私は、8月以来練習を放棄。全く走る練習をしないまま、平成30年10月最後の日曜日を迎えてしまった。その挑戦の軌跡を纏める。
結論から言えば、練習はすべきであった。
完走しても、足腰へのダメージは甚大で、完走直後から歩くこともままならない状態に陥ってしまった。心肺や体力面は問題なかったものの、足の骨格や筋肉は40kmを走破するだけの強度が不足していたと言わざるを得ない。そう、練習は足の強度を高める為にあったのだ。
始まりは、高岡市役所。県下第二の都市であり、銅器をはじめとする伝統産業や古い町並み文化財の残る街である。スタート前には高岡工芸高校グラウンドで入念なアップを行い、せめてもの抵抗を試みた。
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9:00。県知事の号砲と共にレースはスタートした。1万数千人に及ぶランナーの苦闘が始まった。
高岡市内は快走だった。沿道の声援が眩しい。この後涙腺にまで影響を与えることとなる声援を背に、まずは射水市の新湊大橋を目指した。
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高岡大仏
祈るような心地でシャッターに収めた。
庄川河川敷を富山湾へ下る。
ここあたりには旧家があり、かつて父祖の地であった。
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射水市に突入。旧新湊市は2005年に市町村合併で、射水市に編入された。半世紀近くの市制経験は現行の射水市制の基幹として引き継がれている。海に面した漁師町の荒々しい掛声が聴こえてきた。
イヤサーイヤサー
健朗なる掛声がこだまして、ランナーにも不思議と力が漲る。
富山マラソン最大の関門は、20km地点にある日本海側最大の斜張橋「新湊大橋」だ。高低差60mにして、全長は3.4kmにもなる。アップダウンの激しさに、ランナーの足腰は最も大きなダメージを受けることとなる。
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歩こう。消耗は最小限にとどめたい。
沿道には、市や自衛隊、ボランティアの方々が見守っている。そこには同期の姿もあり、これまででいちばんの安心感と勇気を得た。身近な同期(しかも高校の同級生)の応援は心強い。また、自衛隊員の佇む姿からは、忙しい中平和なイベントに動員された防人への畏敬を連想し、思わず身の引き締まる思いがした。橋は彼らのお陰で乗り切ることができた
と思っている。
橋を超えるとすぐに救護所が設置されており、アイシングなどの措置を受けることができる。やはり難所なのだ。半世紀近く前、富山新港開削時に東西に分断された新湊の西側を走る。ここからは平凡な田園風景が続くある意味で苦しい区間に差し掛かる。どこまでも変わらない風景は、精神的に活力を奪っていく。それを和らげたのはやはり沿道の声援だった。田んぼの真ん中まで車を走らせてわざわざ応援に来てくれる人々の姿に思わずうるっと涙腺が緩み、感謝せずにはいられなかった。
あれっ、いつになく涙腺が緩くなった。非日常とはここまで心に動揺を与えるのだろうか。
30km地点だったろうか、大学生のラジオ放送が流れていた。MCは下手くそで、大学生の茶番に毛の生えたようなトークは嫌いだった。しかし、彼らがその脈略のない話の流れで突如かけた曲。この曲だけは本当に心に響いた。
ゆず「栄光の架け橋」
アテネオリンピックのNHKテーマソングとして使用された曲だが、そのような説明が不要なほどもはやスポーツには欠かせない楽曲となっている。歌詞とメロディは、今を生きるあらゆる人々に当てはまり、心を揺さぶる。「いくつもの君を超えて、たどり着いた今がある」あれ、また泣けてきたぞ。大学時代、就活のことなどを思い出して、思わず涙腺が緩くなる。そして、先ほどまで動かなかった足が一歩、また一歩と前を目指して自然に動いた。振り返らず、走り出せばいい。練習してこなかったことなんか振り返らず、とにかく今は前を目指して走り出そうという気持ちを新たにした。
旧下村地区は、加茂神社を中心とする田園地帯だ。ここで私は同期の応援を受けた。お子さんを連れての応援で、また泣きそうになった。ありがたい。これほど応援が有難いことはこれまでなかった。足も痛く、全てが満身創痍になりつつあった。35km地点からは1kmが格段に長く感じられた。歩いては、足を伸ばし、時には冷やして、走る。その繰り返しであった。
38km。電灯に手をつき、足を延ばす。もはや足の痛みは誤魔化すことのできない状態で、歩くのも精一杯だった。
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呉羽丘陵を東に通り過ぎると、ついにマラソンのゴール「富岩運河環水公園」の付近。タワートリプルワンが近くに見えた。
41km地点からは足の痛みに悶た。ここでもう一曲心に響いた曲がある。ZARDの「負けないで」だ。
負けないでもうすこしゴールは近づいている。
バンドの生歌は坂井泉水にも負けない美声であった。
私の足は再び小刻みに歩を早めていった。近
ゴール直前に大切な人が応援に来てくれた。涙が流れた。そして、ゴール。最早感無量。青白い顔で、ボランティアの女性にスマホを手渡し、撮影をお願いした。その後はボロボロ。5時間56分。ノー練習で、初めての富山マラソンはなんとか完走という結果で終わった。
マラソンは日々の積み重ねによって、初めて成り立つ。ぶっつけ本番で挑むことのストーリー性は面白いが、その愚かしさを身体で感じることになるのは自分自身である。このことを学んだマラソンであった。来年は練習し、5時間でゴールしたい。
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karasuya-hompo · 6 years
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Conan Outcasts:24:おうちをつくろう!あげいん
 この世には、出来心というものがあるのです。  言い訳するなら、これもまたわたくしの冒険の一つなのです。そう、いかなる経験がデルケト様のお役に立つかもしれず、なれば思いついたことはなんでもやってみないとならないのです。  まさかこのわたくしが、このような敬虔で前向きな心持ちになることがあろうとは。追放の地に送られる前、悪行の限りを尽くしていた頃のわたくしに、「おまえはいずれ、自分以外の者のために必死に働くことになる」などと言おうものなら、大笑いしたことでしょう。  というわけでわたくしは、「このきれいな音楽の流れる地に、小さな拠点、宝探し用に昼夜を調整する場所を持つのもいい」という思いに駆られ、家を建てることにしたのです。  ――― 樹 上 に。
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 いわゆるツリーハウス作りにトライするドムですw  順番的には、ゴンドラが「上」の部分からしか設置できないので、まずは管理者権限でスタミナ減らないようにし、かつ神モードをONにして落下死もなくし、ひたすら、目をつけた木に登ります。飛べないんだから仕方ないじゃない。゚(゚´ω`゚)゚。  で、「ここなら枝とかもあんまないし、下に障害物もなさげだな」という場所の幹に土台を設置。土台が置けないところは天井板で埋め、そこそこの広さの足場を作った後、ゴンドラをドン。  垂直ゴンドラにも高度の限界はあり、一個目では半分程度しか下りられなかったので、そこに更に足場を作って、二個目のゴンドラ。  で、それが降りてきて、残りを階段で適当に埋めて、これですw  いや、ゴンドラの位置がどうしても斜めになってしまうことは諦めたとして、入り口も木こり小屋みたいにするとか、いずれもう少し見栄えも考えますが、今はとりあえず、ゴンドラに乗れればいいということでこれで。  ゴンドラを乗り継いで上に行き、せっせち建築開始。凝ったすごいものなんて作れないし、大型の家を作るつもりもないので、まあ4×4前後くらいの小屋が作れればいいやと。
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 そしてできたのが、これだ―――!!  ニューアザガルズで見かけてチェックした、「入口だけちょっと出てる家」を作ってみました。  ちなみに、建築動画いくつも見ててつくづく思いましたけど、こういうものって、「単体、パーツとしての大きさ」よりも、「家全体に大しての比率」なんですよね。だから、せいぜい4×4前後の小さな家だと飛び出し部分が大きくてバランスが悪くても、もうひと回りか二回り大きくすれば、落ち着きがよくなると思います。  しかし、樹上という「土台からの距離」をうまく確保できるかどうかわからない場所で、むやみに大きなものを作っても仕方ないので、これはこれでよしとします。
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 だって現時点で既にここが埋まらない……。他の四隅はきちんと屋根が入ったのに、ここだけ、どうしてもきれいにハマらないのです。理由もよく分かんないし。土台とか柱との位置関係は、他の四隅と変わらないはずなのに。  まあ、しばらくしてからまたやってみて、それでもダメなら、後ろ側は角屋根でなく平屋根で埋めるのもアリかと妥協します。
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 天気があまり良くないせいか、景色は今ひとつ。けどなかなかの高度。
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 下から見上げるとこんな感じです。めっちゃ雑に足場置いてるのもあって、「おっ、ツリーハウス発見!!」という嬉しさはない感じ(´・ω・`) もうひと回り足場を大きくしたほうが、家の底面積との比率がよくなるかな。  まずは足元のゴンドラ置き場を綺麗にして、中継ぎの場所もテラスみたいにするかなぁ。  あわよくば、隣の樹上まで水平ゴンドラで移動できたりしたら楽しいんだけど、さすがにちょっとこれは遠いかも。柱を立てれば渡り廊下もできるとはいえ、そういう人工物が地面の高さにドカドカ立ってるのもちょっとな。
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 ちなみにマップです。  黄色◯が沈没船とか難破船の宝箱があったとこ。海賊の入江にもあると聞いているのですが、見つけられない……。  水色で囲ったところの葉っぱマークが、カキを見つけた場所です。  で、赤丸がツリーハウス建てたところ。遊びに来てネ!(100%来れないのを承知で言う)  ……もし自分がサーバーの管理者となって独自ワールド作れるなら、「みんなでおうち建てたりして楽しもう! 助けあおう!」にして、ちょっとヌルめの設定で、こういう情報もどこかで共有できるようにして、「新しい家建てたから遊びに来て!」みたいなのできるといいなぁと思います(´ω`*)
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 帰り道に見つけた、景色のいい高台。おうち候補としてはここもなかなかいい感じ。外にダイレクトにテーブルセット置いても、ここだと緑の草地だし、居心地良さそう。
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 そんなこんなで、一日くらい余計に費やした気もしますが、デルケト様、ただいま戻りました(-人-) ……なんか、神官の尻拝んでるみたいな気もしますが( ತಎತ)
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 アイテム整理中に、「財宝探しのときには呼吸薬ほしいなぁ。今回その予定なかったから持って行かなかったけど、拾い物だけじゃなく作っておいて、ツリーハウスに常備してもいいかも」と思って見ていた、錬金メニュー。エラ薬のほうが、効果長いのかな。  で、材料なんですけど、紫ハスとか、真紅ハスってのもあるのか。金色ハスは火山で見つけたけど、これはまだ見つけてないなぁ。他に灰色のもあるみたい。  ハスマップありそうですけど、これはパイセンも頼らず、もうちょっと自分でうろうろしたいと思います。「あっ、ここにあった!!」という楽しみは、そうでないと得られませんのでね。
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 夜、正面側から眺めるセト祭壇。魔炎のたいまつでぐるっと飾ったので、だいぶマシになりました。  が、全体がすごく暗いのはどうしようもない感じ。なんで魔炎のかがり火みたいな、大きい、明るくなる範囲の広いものがないんだろうか。
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 そういやこんなものがあったなぁと、祭壇でセトのかがり火作ってみましたけど、……ショボくね? てか、あまり明るくないよねこれ?  青い光の中にオレンジが混じるとどうなるのか分かりませんが、とりあえずこれはここに設置して、また夜を待って見てみるとしましょう。
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 そして塔は、やっぱりゴンドラの見栄えが悪くてイヤ! と……、まあ、こうなりますよね(´・ω・`) 一部、上まで崩壊しました。  最初、「螺旋階段みたいにして登れるんじゃね!?」と思いついて、やろうとしたんです。しかしそれだと柱がいずれ邪魔になってうまくいかないことが判明。  じゃあやっぱりハシゴか、といじっていたら、三角2パネル分が崩落しました。まあいい、すぐ直せる。  それであれこれいじってて気付いた、すごく便利なこと!!  ハッチって、「リスポーン地点云々」て言われて置けないことがあるのですが、そんな場所でも天井板は普通に置けます。なので、いったん天井板を置いて、そこにそのままハッチを重ねると、あら不思議、天井板の存在は自然に消えて、ハッチに置き換えて設置されます!!  この小技のおかげでうまい具合に、形を保ったまま上まで登れるようにできました。  ハッチの開く向きが分かりづらく、はしごの位置が悪くてあれこれいじって、また上のスクショみたいに一部崩落したりもしましたが、ともかく完成!!
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 物見の塔から見下ろしたセト祭壇。うーむ、セトのかがり火のテラス範囲はそこそこ広いけど、内部が一部オレンジか……。色合い的にどうかは、もっと暗くならないとピンと来ないかな。  その気になればセト祭壇の逆サイドから、隣の島(突き出した陸地)にも橋を伸ばしてなにかできそうな位置ですな、これ。ミトラの祭壇作るならあそこ?
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 やはりわたくしとしては、デルケト様の祭壇は、自分なりによくがんばって出来たと思っております(´ω`*)  鍛冶屋の大通り側、窓つけたほうがいいかもしれませんな。壁のみではちと寂しい。  しかしここ、もともとは窓だったのを、内部に武器展示板をつけるために塞いだはず。うーん……、だったら、泥棒なんていない世界なので、看板代わりに外側にも展示板つけてもいいかも。
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 防具屋の2階もいい加減屋根をつけなければ……。  ちなみに防具屋の2階から、ガラクタ屋の屋根の上に渡れるようになってます。テーブルセットでも置くか、あるいは屋根つけて閉じてしまって、防具屋・ガラクタ屋共同の生活スペースにするのもアリか。ただ、そうすると開放感って部分がちょっとな。土台からの距離の問題で、壁建てた後だと中央付近には屋根がつかない可能性もあるし。
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 塔はやっぱりこっちのがいい!! てっぺんはアキロニアのかがり火に戻しました。かがり火自体は暗いのですが、その下の台座につけた壁掛けかがり火が明るいので問題なし(๑•̀ㅂ•́)و✧  あとは、はしごで行き来できるようにした2F・3Fをどうするかか……。ぐるっとホップのプランターで飾ってみるとか……3Fなら、扉枠の壁と塀を交互につけてみるのも悪くないかも。落ちかねない扉枠のところにはプランター置いて……、( ✧Д✧)ソウダ!! 飾りようのプランターじゃなくて、くさっぱ栽培できるほうのを置くのはどうだろう!? それほど使用頻度高くないけど、レアもののハスの種が手に入ったら、わざわざ採りに行くの大変な場所だろうし、ここで育てるのも良い。堆肥作る設備、作ってだけあるけど今のところほんとただあるだけだしな。
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 もちろんデルケト様の祭壇も、いろいろと微調整いたしますぞ!  夜に眺めるとやっぱり正面側が少し暗い気がしたので、2F部分にはかがり火を置いてほんのり明るくし、その左右に置いたプランターは、降りてきて見てみると鬱陶しかったので撤去。  あ、ちなみに、神モードにしてHP減らなくすると、棘のある塀も普通に登れるようになると知りました(๑•̀ㅂ•́)و✧  で、三角のファサードにもしてみたのですが(スクショ)、……デルケト様の御頭に、やたらクソ重たい石の巨大帽子がのしかかってるみたいで、軽やかさがない!!  もともと窓枠とか扉枠を多用して開放感のある建物なんだから、これはやっぱダメですな(´・ω・`)
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 こっちのほうがマシ。……でもやっぱり少し寂しいのも否めない……。プランター置いても違和感だろうし、……柱? 飾りとして、柱でも建ててみようか……。  砂嵐はどーでもいいです。神だし、今。  しかしこの砂嵐、自然現象じゃなかったんですね。好戦者の言ってた武器がこの砂嵐のことだと、話聞いたときには分かりませんでしたが、ペトルーソのところ行ってそうと分かってみると、なるほど、自然現象とは思えない頻度で発生するわけです。  ……ん? これって、発性地点から���ェルハ手前のペトルーソのところまでを定期的に繰り返してるんだから、てことは、もしかして発生するまでの時間も決まってるのかな。
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 はっ!?( ✧Д✧) 地図の部屋、あそこはどうだろう!? 二体の番人像の間!! それってなんかすごく良くね!? 番人像もまた地図部屋の一部みたいな雰囲気になるし!  であれば……まず番人像を結ぶ橋を作って中間地点を明らかにし、その中間点から町に橋を伸ばして縦横の位置を確定させる必要があるな……。  この風景の中だと、使う素材は強化レンガかな。砂岩ではパーツが足りないし、黒氷やアキ・キタは人工物っぽすぎる。断熱木材も、この砂地にいきなり板ってのも十分人工物だし。  あああ、デーモンの血も集めなきゃだし、防具屋の二階も作らなきゃだし、内装だってまだ中途半端だし、やることいっぱいすぎて、ドムは楽しくてなりませんぞデルケト様あぁぁぁ―――!! ‹‹\(´ω` )/››‹‹\(  ´)/››‹‹\( ´ω`)/››
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cinema-note · 6 years
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昨年2017年に、劇場版公開20周年を迎えガラッと方向転換した「劇場版ポケットモンスター キミにきめた!」にまんまとホイホイされた、ポケモン世代ど真ん中の私。 今年もシリーズ最新作「劇場版ポケットモンスター みんなの物語」を観に行ってきましたー!
サトシの整形っぷりやキャラクターの多さに不安を抱えつつも(笑)、まさかまたポケモン映画に戻ってくるとは思わなかったな〜
劇場版ポケットモンスター みんなの物語
監督 矢嶋 哲生 脚本 梅原 英司 高羽 彩 出演者 松本 梨香 大谷 育江 芦田 愛菜 川栄 李奈 中川 翔子 濱田 岳 大倉 孝二 野沢 雅子 山寺 宏一 公開 2018年 製作国 日本
あらすじ
人々が風と共に暮らす街・フウラシティでは、1年に1度だけ開催される“風祭り”が行われていた。 祭りの最終日には伝説のポケモン・ルギアが現れて、人々はそこで恵みの風をもらう約束を、昔から交わしていたという。
ポケモン初心者の女子高生、リサ。 嘘がやめられなくなってしまったホラ吹き男、カガチ。 自分に自信が持てない気弱な研究家、トリト。 ポケモンを毛嫌いする変わり者のお婆さん、ヒスイ。 森の中で一人佇む謎の少女、ラルゴ。
偶然、風祭りに参加していたサトシとピカチュウは、5人の仲間たちと出会う。 それぞれが悩みを抱え、パートナーのポケモンと一歩を踏み出せない中、みんなが出会うことで、運命の歯車が動き出す・・・
ルギアとの約束は守られるのか?そして幻のポケモン・ゼラオラの正体とは?? 今、人とポケモン、みんなの絆が奇跡を起こすー。(公式サイトより)
大人気RPG「ポケットモンスター」の劇場版シリーズ第21弾。 2作前まではアニメ版の流れを汲んだストーリーでしたが、20周年の前作を機にガラリとテイストを変更。 今作も映画オリジナルのストーリーで展開されます。
監督はついに湯山 邦彦さんから矢島 哲生さんに交代。 矢島さんは前作の『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』では副監督・絵コンテ・原画を担当されていました。
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ちなみに湯山さんは今作ではアニメーションスーパーバイザーという役職に。長らくお疲れ様でした!
やっぱりポケモン最高ー!
いや〜、やっぱりポケモン最高ですわ! 今作もアニメシリーズとは一ミリも関係ない舞台設定、ストーリーだったのですが、これがやっぱり私のような昔のお友達にはかなり効果がありますね。 前回は初期のアニメシリーズに沿った展開もあったので、ここはこうがいいこうじゃなかったって比較してしまったのですが、今作は完全にオリジナルストーリーだったので、変に比較することなく楽しめました。
キャラクターがたくさん登場していて、話がとっちらかっちゃうんじゃないかと心配でしたが、しっかりストーリーもまとめられていましたね。 よくできていました。
ルギアが登場するときの音楽が、『劇場版ポケットモンスター ルギア爆誕』のあのオカリナの音楽でテンション上がったな〜! やっぱルギアってかっこいいよ!
媚びてんな〜と斜め上からの気持ちで観に行った前作で、まんまとのっかってしまったわけですが(笑)、今作も見事乗せられてしまいました。 20周年を迎え、思い切った方向転換を行ったシリーズ2作目、これはマーケティング的にも大成功な気がしますね。 現に10年以上離れていた私も舞い戻ってきてしまいましたし。
一方で、昔からのファンはどう思うのかな〜てのも気になるところ。 同じようなご長寿作品の「名探偵コナン」も最近盛り上がりをみせてますが、私としてはコナンは昔のテイストの方が好きなんですよね〜 だから長年のポケモンファン的には、最近の傾向はどう感じているのかなって気になっちゃいます(笑)
あ、もちろんラストもホイホイされました。 暗くなったスクリーンを見つめながら、「この流れだとエンテイか〜でもエンテイって去年出ちゃったしな〜」とぼんやり考えていたら。 暗がりの中から浮かび上がる水泡、彼、そしてあの名台詞。
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ッカー!思わずため息をついてしまいました。
一歩踏み出せない人たちが、ポケモンに背中を押してもらう物語
今作も劇場版オリジナルストーリー。 サトシとピカチュウは登場しますが、ストーリーはアニメ版やゲーム版には全く関係がありません。 前作はまだアニメシリーズ初期のテイストが残っていましたが、今作は完全にオリジナルのストーリーでしたね。 おきまりの流れがないなと感じる部分もありました。 今後の劇場版に関しては、このテイストでいくのかな?
とある町で開催されたお祭り「風祭り」にあつまった人たち。 彼らが抱えるコンプレックスを、ポケモンと一緒に乗り越えることが今作のキーポイント。
彼らがコンプレックスをポケモンと乗り越えることで、人とポケモンとの共存の形を描いています。 前作で、もしもこの世にポケモンがいなかったら、ポケモ��との出会い・友情を描き、今作でポケモンとの共生を描く。 今作もなかなか大人向けなテーマ、メッセージですね。
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ちびっこは楽しめたかな?
ポケモンと共存する未来を切り開いた人間たちが辿り着く次のステップは・・・ そう、それが次回作につながるわけですよ。 う〜わ〜。やばいやばい。劇場版気合い入ってますわ。 早く来年が観たいな〜!
人間ドラマがしっかり描かれています
さて、今作は今までの作風と違ったな〜と感じたポイント2つがありました。 まず悪役がいない。優しい世界。 これは驚きました。
今まで私が観てきた劇場版では明確に悪があり、それにサトシたちが立ち向かっていくお話でしたよね。 今作ではその悪がなく、サトシたちは敵ではなく自分自信に立ち向かっていきます。
リサ、カガチ、トリト、ヒスイ、ラルゴ。 年齢や性別がバラバラな彼らですが、過去にトラウマを抱えていたり、性格に問題があったり、と現実の世界でも私たちが抱えるような悩みを抱えながら、それぞれの世界で生きてきました。
変わりたいと心のどこかで思いながらも変わることができない。 くさくさした日々を過ごしていた彼らは、風祭りに参加することで、ポケモンと出会うことで、人生が変わるのです。
ここまで読んで気づかれたかもしれませんね。 2つめのポイントは、サトシが主人公じゃない。 前作を含めた今までの作品では、当たり前ですがサトシが主人公で、彼を中心に物語が進んでいきます。
ところが今作ではサトシはサポート役に回っているのです。 5人の迷える子羊を導くのが、サトシ。 サトシが裏方に回り、新たなキャラクターたちが主人公になることでより作品のオリジナリティが増していました。 ひとりひとりのキャラクターやバックグラウンド、エピソードも丁寧に描かれていて、キャラクターへ親近感がわきますし、きちんとそれぞれの物語が最後にはひとつにまとまっていて・・・すごくよくできた脚本でした。
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それこそ普段まったくポケモンに触れない人でも楽しめるんじゃないでしょうか!
こんなこと言うのも変ですけど、10歳のサトシ、貫禄があるんですよ(笑) いやあさすが20年ポケモンマスター目指している人のセリフは違いますよ・・・
サトシの「ポケモンと一緒ならなんでもできる気がするんだ!」というセリフ。 本当ですよ!!ポケモンと一緒なら私もなんでもできる気がする!!だから早く現実世界にポケモンください!!!!
いいなあ〜ポケモンがいたらなあ〜 私ももっと素直に生きられると思うんだよね〜(笑)
ゲスト声優多めですが、みなさんお上手です
今作は人間のキャラクターが多い分、ゲスト声優も多かったです。 芦田 愛菜さん、川栄 李奈さん、濱田 岳さん、大倉 孝二さん、野沢 雅子さんが今年のゲスト声優さんでした。 いやー、みなさんお上手! 最近は『名探偵コナン ゼロの執行人』のゲスト声優お二人(上戸 彩さん、華丸 大吉さん)の演技もよかったし、なんだかいい流れがきています(笑)
野沢さんなんかはあり得ないと思いますが、やはりテレビや映画メインの方は声だけの演技って慣れないようで、キャラクターの動きや表情、本編の盛り上がりとの違和感みたいなものが目立って気になっちゃうんですよね。
今作のゲスト声優さんはみなさん自然でよかったですね。 皆さんキャラクターに合った声で、自然に作品に没入できました。 芦田 愛菜ちゃんなんかすっかり大人の声になって・・・ 全然わからなかったです。
野沢さんは後半声を荒げているところがやや悟空に聞こえましたが(笑)、まあご愛嬌。 でもそれ以外は悟空に聞こえなくて新鮮でよかったな〜 久しぶりにおばあちゃん声聞いたかも。いや、もしかして初めて?
やっぱり少年役やらせたら松本 梨香さん最高ですよね〜 なんであんな男の子の声出せるんだろう。しかも20年以上も。すごすぎて謎です。 松本さんの演技って、こう、情熱があって、心動かされるんですよね。
松岡修造的な・・・サトシってそういうところあるよね? でもそこが彼の素敵なところなんだろうな。みんなが彼の言葉に動かされて、彼について行きたくなるんだろうね。
そういやしょこたんが最後までどの役やっているのかわからなかった・・・ しょこたんめちゃくちゃ声優上手くなってますね!すごい。
登場するポケモンも、やっぱり狙ってる
今作登場したポケモンはほとんどが第1、2世代! 前作はもうちょっと後の世代のポケモンもいたような気がしますが・・・ うーん、ターゲット層丸わかりで笑っちゃいます(笑)
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もちろん私は大喜び。
いや、でもいまってきっと「Pokemon GO」も人気だし、その辺のファンも狙ったチョイスなんだろうな〜
実際、劇中でPokemon GOっぽいことしてたんですよ! 「風祭り」のイベントで、会場内にいるイベント専用のポケモンを制限時間内にどれだけつかまえられるか、みたいな。 しかも劇中で捕まえられていたポケモンがコラッタとかゴルダックとかウソッキーとかバンギラスとか・・・ めっちゃ「Pokemon GO」でみるやつばっか!
これ「Pokemon GO」じゃん!とずっと思ってました。 でもうまいですよね、へたすりゃ絶対観ないであろう中高年を劇場に呼ぶことができますからね〜
今作のまぼろしポケモン「ゼラオラ」は、最近のちびっこが好きそうなデザインでしたね。 最初にネットでみたときはあんまり好きなデザインじゃないな〜とか思っていましたが、実際に本編でみるとなかなかイケメンで好きになりました。
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昔からイケメンポケモンが好きなんですよ・・・いいじゃないですか・・・
ゼラオラも悪いやつではなくて、辛い過去を抱えて生きてきたんです。 その過去から解放してあげるのが、やっぱりサトシなんですわ。 ゼラオラの全力の電気技をモロに食らっても、ピンピンしているサトシをみておもわず笑っちゃいました(笑)
今作は人間だけでなくポケモンも、自分と向き合って、自分を乗り越えていましたね。 ラルゴの「ポケモンがいればなんでもできる、ポケモンにとっても、人間がそうであってほしい。」というセリフ、しびれました。
ポケモンの世界では、人間もポケモンも平等であるべきなのでしょう。 ポケモンは道具じゃない。友達なんだ!!!!
でももっとルギアの出番はあってよかったよ。 あの音楽とともに登場したときは震えたよ。 でもそのあとのミュウツーでもっと震えたね。びっくりするくらい自然に「ハァ〜」って息が漏れたね。
総評
評価
ストーリー
(5.0)
キャラクター
(5.0)
キャスト
(5.0)
演出
(5.0)
映像・音響
(5.0)
総合評価
(5.0)
良かった点
人間ドラマが濃厚
脚本が綺麗
今までとテイストの違った作風ですが、とてもよかったです。
悪かった点
ルギアの出番が少ない
完全に私のわがまま(笑) ルギアもっと活躍して欲しかったよ!ポスター詐欺じゃん!
まとめ
純粋にとてもおもしろかった!贔屓目なしに良作だと思います。
子ども向けの勧善懲悪ストーリーではなくて、ポケモンと人間の関係や人間ドラマがメインなので、大人でも本編を十分楽しめるでしょう。
ポケモンの世界で選ばれし存在だったサトシがサポートに回ることで、より私たち目線の物語が展開されている本編は、まさに「みんなの」物語なわけです。 逆に言えば、ちびっこはバトルが少なくて盛り上がりに欠けると感じたかもしれませんね。
完全オリジナルストーリーというのもよかったかもしれません。 去年のように、思い出補正強すぎてあれこれ比較してしまうということがなかったので。
前作よりも私は今作の方が好きですね。 ポケモン全く興味なくても楽しめること間違いないです! そんでそのままハマってください。もうすぐ新作出るんで。
は〜来年楽しみだなあ〜来年も絶対観に行こう。おしまい。
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tatsurow · 7 years
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直治の遺書(斜陽/太宰治)
直治の遺書。
 姉さん。
 だめだ。さきに行くよ。
 僕ぼくは自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。
 生きていたい人だけは、生きるがよい。
 人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もある筈です。
 僕のこんな考え方は、少しも新しいものでも何でも無く、こんな当り前の、それこそプリミチヴな事を、ひとはへんにこわがって、あからさまに口に出して言わないだけなんです。
 生きて行きたいひとは、どんな事をしても、必ず強く生き抜くべきであり、それは見事で、人間の栄冠とでもいうものも、きっとその辺にあるのでしょうが、しかし、死ぬことだって、罪では無いと思うんです。
 僕は、僕という草は、この世の空気と陽ひの中に、生きにくいんです。生きて行くのに、どこか一つ欠けているんです。足りないんです。いままで、生きて来たのも、これでも、精一ぱいだったのです。
 僕は高等学校へはいって、僕の育って来た階級と全くちがう階級に育って来た強くたくましい草の友人と、はじめて附つき合い、その勢いに押され、負けまいとして、麻薬を用い、半狂乱になって抵抗しました。それから兵隊になって、やはりそこでも、生きる最後の手段として阿片アヘンを用いました。姉さんには僕のこんな気持、わからねえだろうな。
 僕は下品になりたかった。強く、いや強暴になりたかった。そうして、それが、所謂いわゆる民衆の友になり得る唯一ゆいいつの道だと思ったのです。お酒くらいでは、とても駄目だったんです。いつも、くらくら目まいをしていなければならなかったんです。そのためには、麻薬以外になかったのです。僕は、家を忘れなければならない。父の血に反抗しなければならない。母の優しさを、拒否しなければならない。姉に冷たくしなければならない。そうでなければ、あの民衆の部屋にはいる入場券が得られないと思っていたんです。
 僕は下品になりました。下品な言葉づかいをするようになりました。けれども、それは半分は、いや、六十パーセントは、哀れな附け焼刃でした。へたな小細工でした。民衆にとって、僕はやはり、キザったらしく乙おつにすました気づまりの男でした。彼等は僕と、しんから打ち解けて遊んでくれはしないのです。しかし、また、いまさら捨てたサロンに帰ることも出来ません。いまでは僕の下品は、たとい六十パーセントは人工の附け焼刃でも、しかし、あとの四十パーセントは、ほんものの下品になっているのです。僕はあの、所謂上流サロンの鼻持ちならないお上品さには、ゲロが出そうで、一刻も我慢できなくなっていますし、また、あのおえらがたとか、お歴々とか称せられている人たちも、僕のお行儀の悪さに呆あきれてすぐさま放逐するでしょう。捨てた世界に帰ることも出来ず、民衆からは悪意に満ちたクソていねいの傍聴席を与えられているだけなんです。
 いつの世でも、僕のような謂いわば生活力が弱くて、欠陥のある草は、思想もクソも無いただおのずから消滅するだけの運命のものなのかも知れませんが、しかし、僕にも、少しは言いぶんがあるのです。とても僕には生きにくい、事情を感じているんです。
 人間は、みな、同じものだ。
 これは、いったい、思想でしょうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆うじがわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧わいて出て、全世界を覆おおい、世界を気まずいものにしました。
 この不思議な言葉は、民主々義とも、またマルキシズムとも、全然無関係のものなのです。それは、かならず、酒場に於おいて醜男ぶおとこが美男子に向って投げつけた言葉です。ただの、イライラです。嫉妬しっとです。思想でも何でも、ありゃしないんです。
 けれども、その酒場のやきもちの怒声が、へんに思想めいた顔つきをして民衆のあいだを練り歩き、民主々義ともマルキシズムとも全然、無関係の言葉の筈なのに、いつのまにやら、その政治思想や経済思想にからみつき、奇妙に下劣なあんばいにしてしまったのです。メフィストだって、こんな無茶な放言を、思想とすりかえるなんて芸当は、さすがに良心に恥じて、躊躇ちゅうちょしたかも知れません。
 人間は、みな、同じものだ。
 なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主々義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ、牛太郎だけがそれを言う。「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」
 なぜ、同じだと言うのか。優すぐれている、と言えないのか。奴隷どれい根性の復讐ふくしゅう。
 けれども、この言葉は、実に猥わいせつで、不気味で、ひとは互いにおびえ、あらゆる思想が姦かんせられ、努力は嘲笑ちょうしょうせられ、幸福は否定せられ、美貌びぼうはけがされ、栄光は引きずりおろされ、所謂「世紀の不安」は、この不思議な一語からはっしていると僕は思っているんです。
 イヤな言葉だと思いながら、僕もやはりこの言葉に脅迫せられ、おびえて震えて、何を仕様としてもてれくさく、絶えず不安で、ドキドキして身の置きどころが無く、いっそ酒や麻薬の目まいに依よって、つかのまの落ちつきを得たくて、そうして、めちゃくちゃになりました。
 弱いのでしょう。どこか一つ重大な欠陥のある草なのでしょう。また、何かとそんな小理窟こりくつを並べたって、なあに、もともと遊びが好きなのさ、なまけ者の、助平の、身勝手な快楽児なのさ、とれいの牛太郎がせせら笑って言うかも知れません。そうして、僕はそう言われても、いままでは、ただてれて、あいまいに首肯していましたが、しかし、僕も死ぬに当って、一言、抗議めいた事を言って置きたい。
 姉さん。
 信じて下さい。
 僕は、遊んでも少しも楽しくなかったのです。快楽のイムポテンツなのかも知れません。僕はただ、貴族という自身の影法師から離れたくて、狂い、遊び、荒すさんでいました。
 姉さん。
 いったい、僕たちに罪があるのでしょうか。貴族に生れたのは、僕たちの罪でしょうか。ただ、その家に生れただけに、僕たちは、永遠に、たとえばユダの身内の者みたいに、恐縮し、謝罪し、はにかんで生きていなければならない。
 僕は、もっと早く死ぬべきだった。しかし、たった一つ、ママの愛情。それを思うと、死ねなかった。人間は、自由に生きる権利を持っていると同時に、いつでも勝手に死ねる権利も持っているのだけれども、しかし、「母」の生きているあいだは、その死の権利は留保されなければならないと僕は考えているんです。それは同時に、「母」をも殺してしまう事になるのですから。
 いまはもう、僕が死んでも、からだを悪くするほど悲しむひともいないし、いいえ、姉さん、僕は知っているんです、僕を失ったあなたたちの悲しみはどの程度のものだか、いいえ、虚飾の感傷はよしましょう、あなたたちは、僕の死を知ったら、きっとお泣きになるでしょうが、しかし、僕の生きている苦しみと、そうしてそのイヤな生ヴィから完全に解放される僕のよろこびを思ってみて下さったら、あなたたちのその悲しみは、次第に打ち消されて行く事と存じます。
 僕の自殺を非難し、あくまでも生き伸びるべきであった、と僕になんの助力も与えず口先だけで、したり顔に批判するひとは、陛下に菓物屋くだものやをおひらきなさるよう平気でおすすめ出来るほどの大偉人にちがいございませぬ。
 姉さん。
 僕は、死んだほうがいいんです。僕には、所謂、生活能力が無いんです。お金の事で、人と争う力が無いんです。僕は、人にたかる事さえ出来ないんです。上原さんと遊んでも、僕のぶんのお勘定は、いつも僕が払って来ました。上原さんは、それを貴族のケチくさいプライドだと言って、とてもいやがっていましたが、しかし、僕は、プライドで支払うのではなくて、上原さんのお仕事で得たお金で、僕がつまらなく飲み食いして、女を抱くなど、おそろしくて、とても出来ないのです。上原さんのお仕事を尊敬しているから、と簡単に言い切ってしまっても、ウソで、僕にも本当は、はっきりわかっていないんです。ただ、ひとのごちそうになるのが、そらおそろしいんです。殊ことにも、そのひとご自身の腕一本で得たお金で、ごちそうになるのは、つらくて、心苦しくて、たまらないんです。
 そうしてただもう、自分の家からお金や品物を持ち出して、ママやあなたを悲しませ、僕自身も、少しも楽しくなく、出版業など計画したのも、ただ、てれかくしのお体裁で、実はちっとも本気で無かったのです。本気でやってみたところで、ひとのごちそうにさえなれないよう��男が、金もうけなんて、とてもとても出来やしないのは、いくら僕が愚かでも、そ���くらいの事には気附いています。
 姉さん。
 僕たちは、貧乏になってしまいました。生きて在るうちは、ひとにごちそうしたいと思っていたのに、もう、ひとのごちそうにならなければ生きて行けなくなりました。
 姉さん。
 この上、僕は、なぜ生きていなければならねえのかね? もう、だめなんだ。僕は、死にます。らくに死ねる薬があるんです。兵隊の時に、手にいれて置いたのです。
 姉さんは美しく、(僕は美しい母と姉を誇りにしていました)そうして、賢明だから、僕は姉さんの事に就ついては、なんにも心配していませぬ。心配などする資格さえ僕には有りません。どろぼうが被害者の身の上を思いやるみたいなもので、赤面するばかりです。きっと姉さんは、結婚なさって、子供が出来て、夫にたよって生き抜いて行くのではないかと僕は、思っているんです。
 姉さん。
 僕に、一つ、秘密があるんです。
 永いこと、秘めに秘めて、戦地にいても、そのひとの事を思いつめて、そのひとの夢を見て、目がさめて、泣きべそをかいた事も幾度あったか知れません。
 そのひとの名は、とても誰にも、口がくさっても言われないんです。僕は、いま死ぬのだから、せめて、姉さんにだけでも、はっきり言って置こうか、と思いましたが、やっぱり、どうにもおそろしくて、その名を言うことが出来ません。
 でも、僕は、その秘密を、絶対秘密のまま、とうとうこの世で誰にも打ち明けず、胸の奥に蔵して死んだならば、僕のからだが火葬にされても、胸の裏だけが生臭く焼け残るような気がして、不安でたまらないので、姉さんにだけ、遠まわしに、ぼんやり、フィクションみたいにして教えて置きます。フィクション、といっても、しかし、姉さんは、きっとすぐその相手のひとは誰だか、お気附きになる筈です。フィクションというよりは、ただ、仮名を用いる程度のごまかしなのですから。
 姉さんは、ご存じかな?
 姉さんはそのひとをご存じの筈ですが、しかし、おそらく、逢った事は無いでしょう。そのひとは、姉さんよりも、少し年上です。一重瞼ひとえまぶたで、目尻めじりが吊つり上って、髪にパーマネントなどかけた事が無く、いつも強く、ひっつめ髪、とでもいうのかしら、そんな地味な髪形で、そうして、とても貧しい服装で、けれどもだらしない恰好かっこうではなくて、いつもきちんと着附けて、清潔です。そのひとは、戦後あたらしいタッチの画をつぎつぎと発表して急に有名になった或る中年の洋画家の奥さんで、その洋画家の行いは、たいへん乱暴ですさんだものなのに、その奥さんは平気を装って、いつも優しく微笑ほほえんで暮しているのです。
 僕は立ち上って、
「それでは、おいとま致します」
 そのひとも立ち上って、何の警戒も無く、僕の傍に歩み寄って、僕の顔を見上げ、
「なぜ?」
 と普通の音声で言い、本当に不審のように少し小首をかしげて、しばらく僕の眼を見つづけていました。そうして、そのひとの眼に、何の邪心も虚飾も無く、僕は女のひとと視線が合えば、うろたえて視線をはずしてしまうたちなのですが、その時だけは、みじんも含羞はにかみを感じないで、二人の顔が一尺くらいの間隔で、六十秒もそれ以上もとてもいい気持で、そのひとの瞳ひとみを見つめて、それからつい微笑んでしまって、
「でも、……」
「すぐ帰りますわよ」
 と、やはり、まじめな顔をして言います。
 正直、とは、こんな感じの表情を言うのではないかしら、とふと思いました。それは修身教科書くさい、いかめしい徳ではなくて、正直という言葉で表現せられた本来の徳は、こんな可愛らしいものではなかったのかしら、と考えました。
「またまいります」
「そう」
 はじめから終りまで、すべてみな何でもない会話です。僕が、或る夏の日の午後、その洋画家のアパートをたずねて行って、洋画家は不在で、けれどもすぐ帰る筈ですから、おあがりになってお待ちになったら? という奥さんの言葉に従って、部屋にあがって、三十分ばかり雑誌など読んで、帰って来そうも無かったから、立ち上って、おいとました、それだけの事だったのですが、僕は、その日のその時の、そのひとの瞳に、くるしい恋をしちゃったのです。
 高貴、とでも言ったらいいのかしら。僕の周囲の貴族の中には、ママはとにかく、あんな無警戒な「正直」な眼の表情の出来る人は、ひとりもいなかった事だけは断言できます。
 それから僕は、或る冬の夕方、そのひとのプロフィルに打たれた事があります。やはり、その洋画家のアパートで、洋画家の相手をさせられて、炬燵こたつにはいって朝から酒を飲み、洋画家と共に、日本の所謂いわゆる文化人たちをクソミソに言い合って笑いころげ、やがて洋画家は倒れて大鼾おおいびきをかいて眠り、僕も横になってうとうとしていたら、ふわと毛布がかかり、僕は薄目をあけて見たら、東京の冬の夕空は水色に澄んで、奥さんはお嬢さんを抱いてアパートの窓縁に、何事も無さそうにして腰をかけ、奥さんの端正なプロフィルが、水色の遠い夕空をバックにして、あのルネッサンスの頃のプロフィルの画のようにあざやかに輪郭が区切られ浮んで、僕にそっと毛布をかけて下さった親切は、それは何の色気でも無く、慾よくでも無く、ああ、ヒュウマニティという言葉はこんな時にこそ使用されて蘇生そせいする言葉なのではなかろうか、ひとの当然の侘わびしい思いやりとして、ほとんど無意識みたいになされたもののように、絵とそっくりの静かな気配で、遠くを眺ながめていらっしゃった。
 僕は眼をつぶって、こいしく、こがれて狂うような気持ちになり、瞼まぶたの裏から涙があふれ出て、毛布を頭から引かぶってしまいました。
 姉さん。
 僕がその洋画家のところに遊びに行ったのは、それは、さいしょはその洋画家の作品の特異なタッチと、その底に秘められた熱狂的なパッションに、酔わされたせいでありましたが、しかし、附き合いの深くなるにつれて、そのひとの無教養、出鱈目でたらめ、きたならしさに興覚めて、そうして、それと反比例して、そのひとの奥さんの心情の美しさにひかれ、いいえ、正しい愛情のひとがこいしくて、したわしくて、奥さんの姿を一目見たくて、あの洋画家の家へ遊びに行くようになりました。
 あの洋画家の作品に、多少でも、芸術の高貴なにおい、とでもいったようなものが現れているとすれば、それは、奥さんの優しい心の反映ではなかろうかとさえ、僕はいまでは考えているんです。
 その洋画家は、僕はいまこそ、感じたままをはっきり言いますが、ただ大酒飲みで遊び好きの、巧妙な商人なのです。遊ぶ金がほしさに、ただ出鱈目にカンヴァスに絵具をぬたくって、流行の勢いに乗り、もったい振ぶって高く売っているのです。あのひとの持っているのは、田舎者の図々ずうずうしさ、馬鹿ばかな自信、ずるい商才、それだけなんです。
 おそらくあのひとは、他のひとの絵は、外国人の絵でも日本人の絵でも、なんにもわかっていないでしょう。おまけに、自分の画いている絵も、何の事やらご自身わかっていないでしょう。ただ遊興のための金がほしさに、無我夢中で絵具をカンヴァスにぬたくっているだけなんです。
 そうして、さらに驚くべき事は、あのひとはご自身のそんな出鱈目に、何の疑いも、羞恥しゅうちも、恐怖も、お持ちになっていないらしいという事です。
 ただもう、お得意なんです。何せ、自分で画いた絵が自分でわからぬというひとなのですから、他人の仕事のよさなどわかる筈が無く、いやもう、けなす事、けなす事。
 つまり、あのひとのデカダン生活は、口では何のかのと苦しそうな事を言っていますけれども、その実は、馬鹿な田舎者が、かねてあこがれの都に出て、かれ自身にも意外なくらいの成功をしたので有頂天になって遊びまわっているだけなんです。
 いつか僕が、
「友人がみな怠けて遊んでいる時、自分ひとりだけ勉強するのは、てれくさくて、おそろしくて、とてもだめだから、ちっとも遊びたくなくても、自分も仲間入りして遊ぶ」
 と言ったら、その中年の洋画家は、
「へえ? それが貴族気質かたぎというものかね、いやらしい。僕は、ひとが遊んでいるのを見ると、自分も遊ばなければ、損だ、と思って大いに遊ぶね」
 と答えて平然たるものでしたが、僕はその時、その洋画家を、しんから軽蔑けいべつしました。このひとの放埒ほうらつには苦悩が無い。むしろ、馬鹿遊びを自慢にしている。ほんものの阿呆あほうの快楽児。
 けれども、この洋画家の悪口を、この上さまざまに述べ立てても、姉さんには関係の無い事ですし、また僕もいま死ぬるに当って、やはりあのひととの永いつき合いを思い、なつかしく、もう一度逢あって遊びたい衝動をこそ感じますが、憎い気はちっとも無いのですし、あのひとだって淋しがりの、とてもいいところをたくさん持っているひとなのですから、もう何も言いません。
 ただ、僕は姉さんに、僕がそのひとの奥さんにこがれて、うろうろして、つらかったという事だけを知っていただいたらいいのです。だから、姉さんはそれを知っても、別段、誰かにその事を訴え、弟の生前の思いをとげさせてやるとか何とか、そんなキザなおせっかいなどなさる必要は絶対に無いのですし、姉さんおひとりだけが知って、そうして、こっそり、ああ、そうか、と思って下さったらそれでいいんです。なおまた慾を言えば、こんな僕の恥ずかしい告白に依よって、せめて姉さんだけでも、僕のこれまでの生命いのちの苦しさを、さらに深くわかって下さったら、とても僕は、うれしく思います。
 僕はいつか、奥さんと、手を握り合った夢を見ました。そうして奥さんも、やはりずっと以前から僕を好きだったのだという事を知り、夢から醒さめても、僕の手のひらに奥さんの指のあたたかさが残っていて、僕はもう、これだけで満足して、あきらめなければなるまいと思いました。道徳がおそろしかったのではなく、僕にはあの半気違いの、いや、ほとんど狂人と言ってもいいあの洋画家が、おそろしくてならないのでした。あきらめようと思い、胸の火をほかへ向けようとして、手当り次第、さすがのあの洋画家も或ある夜しかめつらをしたくらいひどく、滅茶苦茶めちゃくちゃにいろんな女と遊び狂いました。何とかして、奥さんの幻から離れ、忘れ、なんでもなくなりたかったんです。けれども、だめ。僕は、結局、ひとりの女にしか、恋の出来ないたちの男なんです。僕は、はっきり言えます。僕は、奥さんの他ほかの女友達を、いちどでも、美しいとか、いじらしいとか感じた事が無いんです。
 姉さん。
 死ぬ前に、たった一度だけ書かせて下さい。
 ……スガちゃん。
 その奥さんの名前です。
 僕がきのう、ちっとも好きでもないダンサア(この女には、本質的な馬鹿なところがあります)それを連れて、山荘へ来たのは、けれども、まさかけさ死のうと思って、やって来たのではなかったのです。いつか、近いうちに必ず死ぬ気でいたのですが、でも、きのう、女を連れて山荘へ来たのは、女に旅行をせがまれ、僕も東京で遊ぶのに疲れて、この馬鹿な女と二、三日、山荘で休むのもわるくないと考え、姉さんには少し工合ぐあいが悪かったけど、とにかくここへ一緒にやって来てみたら、姉さんは東京のお友達のところへ出掛け、その時ふと、僕は死ぬなら今だ、と思ったのです。
 僕は昔から、西片町のあの家の奥の座敷で死にたいと思っていました。街路や原っぱで死んで、弥次馬やじうまたちに死骸しがいをいじくり廻されるのは、何としても、いやだったんです。けれども、西片町のあの家は人手に渡り、いまではやはりこの山荘で死ぬよりほかは無かろうと思っていたのですが、でも、僕の自殺をさいしょに発見するのは姉さんで、そうして姉さんは、その時どんなに驚愕きょうがくし恐怖するだろうと思えば、姉さんと二人きりの夜に自殺するのは気が重くて、とても出来そうも無かったのです。
 それが、まあ、何というチャンス。姉さんがいなくて、そのかわり、頗すこぶる鈍物のダンサアが、僕の自殺の発見者になってくれる。
 昨夜、ふたりでお酒を飲み、女のひとを二階の洋間に寝かせ、僕ひとりママの亡くなった下のお座敷に蒲団ふとんをひいて、そうして、このみじめな手記にとりかかりました。
 姉さん。
 僕には、希望の地盤が無いんです。さようなら。
 結局、僕の死は、自然死です。人は、思想だけでは、死ねるものでは無いんですから。
 それから、一つ、とてもてれくさいお願いがあります。ママのかたみの麻の着物。あれを姉さんが、直治が来年の夏に着るようにと縫い直して下さったでしょう。あの着物を、僕の棺にいれて下さい。僕、着たかったんです。
 夜が明けて来ました。永いこと苦労をおかけしました。
 さようなら。
 ゆうべのお酒の酔いは、すっかり醒めています。僕は、素面しらふで死ぬんです。
 もういちど、さようなら。
 姉さん。
 僕は、貴族です。
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theatrum-wl · 7 years
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【レポート】2000人の観客が喝采!
SPAC『アンティゴネ』アヴィニョン演劇祭公演初日(2017/7/6)レポート
片山 幹生
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〔教皇庁中庭の公演会場風景 写真撮影©Christophe Raynaud de Lage〕
行ってきた、アヴィニョンへ、SPAC『アンティゴネ』の初日公演を見るために! 
パリから南へ約700キロ、南フランスにある人口10万人ほどの小都市、アヴィニョンでは、毎年7月に3週間にわたって世界最大規模の演劇フェスティバルが開催される。アヴィニョン演劇祭(Festival d’Avignon)がはじまったのは1947年、今年は第71回目になる。アヴィニョン演劇祭は招聘プログラムの「イン」と自主参加プログラムの「オフ」の二つの組織によって運営されるが、SPACは2014年の『マハーバーラタ』に続き、招聘プログラムの「イン」での公演となった。毎年「イン」には世界各地から60ほどの団体が招聘される。約20箇所ある公演会場のうち、約2000人の観客を収容する野外劇場、教皇庁(法王庁)中庭はアヴィニョン演劇祭のシンボルと言ってもいい重要な会場だ。SPAC『アンティゴネ』はこの会場で、演劇祭のオープニング公演として上演されることになった。アジアの団体がこの会場で公演を行うのは演劇祭歴史上はじめてのことだ。
演劇のユートピア、アヴィニョンに至るまで
SPACのアヴィニョン演劇祭出演が発表されたのは3月末のことだった。2014年夏にブルボン石切場会場での『マハーバーラタ』公演を見ることができなかった私としては、何としても観に行きたいと思った。アヴィニョン演劇祭に行くにあたっての問題は宿の確保である。夏のアヴィニョンはもともとバカンスで賑わう上、とりわけ演劇祭期間中は観光客がこの小さな町に殺到し、観劇に便利な場所にある安宿を確保するのが大変なのだ。もちろんフランスまでの往復交通費、現地滞在費もけっこうな負担になる。仕事の休みが取れそうかどうか、お金がなんとか確保できそうか二日ほど検討したのち、宿を取ることができれば行くことに決めた。旅行予約サイト、Expediaを検索してみると、ほとんど奇跡的に町中の便利な場所にある安宿が一室だけ空いていた。まさに私のために空いていたとしか思えない。即座に予約。東京からアヴィニョンまでの往復交通費と現地4泊の宿泊費で、約20万円だった。
エールフランスの羽田発パリ行き直行便で7/5(水)深夜に出発し、7/6(木)早朝にパリ、シャルル・ドゴール空港に到着。そこからフランスが誇る高速鉄道TGVに乗り、3時間の乗車、6日の昼前にアヴィニョンに着いた。 アヴィニョンは城壁に囲まれた都市で、中心となる城壁内部は3キロメートル四方ほどの広さしかない。アヴィニョン演劇祭中のほとんどの公演はこの城壁内にある会場で行われる。演劇祭期間中に1500ほどの演目が上演される「オフ」の公演のポスターが町の至る所に貼られていて、気分が高揚する。演劇祭の3週間、この町では朝の9時過ぎから深夜2時ごろまで町中の至るところで演劇公演が行われ、観光客・観客たちがバカンスの浮かれた雰囲気のなかぞろぞろと歩き回る祝祭的雰囲気で満たされるのだ。まさに演劇のユートピアだ。この小さな地方都市でどうしたらこんな演劇フェスが可能になったのだろうか。もちろん一朝一夕にこうなったわけではないだろう。日本の地方都市で果たしてこのような長期間の大規模祝祭(しかも演劇の)は、果たして可能なのだろうか、と考えてしまう。
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〔町中の至る場所にオフの公演のポスターが貼られている 撮影:片山幹生〕
『アンティゴネ』開演まで
教皇庁(法王庁)中庭でのSPAC『アンティゴネ』公演は、22時が開演時間だ。日本より緯度が高いのに加え、サマータイムのため、これくらいの時間にならないと外が暗くならないのだ。22時までは時間があったので、17時開演のオフの公演、1970年代から80年代のフランスを代表する劇作家、ベルナール=マリ・コルテスの『綿畑の孤独の中で』を見た。上演時間は80分ほどだったので、この公演を見てもまだ『アンティゴネ』開場までは時間がある。スーパーで軽食と飲み物を買って、一度ホテルに戻りそれを食べ、それからアヴィニョン教皇庁の広場に向かった。
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〔『アンティゴネ』当日パンフ、演劇祭プログラム、そして現地情報誌『テレラマ』〕
アヴィニョン教皇庁は14世紀に建造された巨大な宮殿だ。ローマ・カトリック教会のトップである教皇(法王)のいる教皇庁はローマのバチカンにあるのだが、14世紀の一時期、教皇庁がバチカンからフランスのアヴィニョンに移されていた時期があった。1378-1417年にはローマとアヴィニョンに二人の教皇が並び立つ教会大分裂があり、アヴィニョンはこの間、教皇庁都市として繁栄を誇った。教会大分裂解決以降は、教皇庁はローマになったため、アヴィニョンの教皇庁は旧教皇庁ということになる。壮大で威圧的な石造りの宮殿だが、中はがらんとした廃墟のような雰囲気もある。 この教皇庁には昼間は観光客が来るので、教皇庁中庭会場での公演のセッティング、稽古などは観光客が退場した後にしかできない。連日、夜から朝方までの稽古だったみたいだ。
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〔『アンティゴネ』会場前のアヴィニョン教皇庁入口。この裏側が中庭で公演会場。撮影:片山幹生〕
開演30分まえの21時半に教皇庁入口に着いた。教皇庁前広場には行列が入場を待つ行列ができていたが、フランスではテロが続いているため、公共の施設への入場時には必ず荷物チェックが入る。このため入場はのろのろとしか進まない。 公演のチケットは即日完売だったそうだ。これはSPAC『アンティゴネ』のみならず、主要公演の多くがそうだった。6月中旬にチケット販売だったのだが、チケット予約開始後にアクセスが殺到して予約サイトがパンクし、予約不能の状態となった。開始数時間後にようやく繋がり、私はかろうじて自分の滞在中の公演を予約することができた。翌日予約サイトにアクセスしてみるとほとんどの公演は売り切れとなっていて、フェスティバルのFB公式ページにはチケットを買うことができなかった人たちの怨嗟の声が渦巻いていた。
のろのろと入場して、まず向かったのはトイレ。フランスはトイレが少ないので、日本以上にトイレに行くことに神経質になってしまう。観客席の裏側からかなり離れた場所にあるトイレで日本人何人かと遭遇した。映画監督の本広克行さんや庭劇団ペニノのタニノクロウさんなどの姿を見かけた。
教皇庁中庭会場の客席はかなり傾斜のきつい階段状になっていて、舞台は上から見下ろされるかたたちになる。舞台の背景と側面には高さ40メートルほどはあると思われる教皇庁遺構の壁が、その内部にいる人間たちを威圧するかのように聳え立っていた。舞台は水張りになっていた。間口が30メートル、奥行きが10メートルほどの浅いプールが舞台で、そこに石がいくつか浮かんでいる。中央には、旧石器時代ヨーロッパの巨石遺跡のドルメンのように石を積みあげた「石舞台」があり、その天井に置かれた石の上がアンティゴネの場、最終的には彼女の墓となる。仮設客席の階段を上って客席に出ると、すでに水上舞台では7人の俳優たちが手に灯を手にもってゆっくりと、ばらばらに動き回っていた。私の席はかなり上方にあったので、俳優の表情までは見ることできない。間口の広い広大な水上舞台をゆったりと浮遊する俳優たちは、白い光を放つ蛍あるいは羽虫のように見えた。観客の入場に時間がかかり、開演は20分押しとなった。
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〔『アンティゴネ』開演直前の様子。撮影:片山幹生〕
2000人の観客の大喝采
旧教皇庁中庭での公演は、アヴィニョン演劇祭の象徴を担うという名誉を獲得することなのだが、それはその名誉を担うという重大なプレッシャーに加え、三方を旧教皇教皇庁の遺構の高い壁に囲まれた特殊な空間での上演という演出上かなりやっかいな制約を背負うことでもある。このメイン会場での公演は、このため、必ずしも演劇祭公演演目のなかで高い評価を得られない。むしろ厳しい評の対象となることが多いという逆説的な状況を引き受ける覚悟をしなくてはならない。
夜のとばりが降り、暗くなる。教皇庁奥の壁の出入り口から楽器を持った演者たちが、プールの縁の部分を歩いて入場してきた。作品の冒頭では、この演者たちが前方の縁で前芝居による『アンティゴネ』の要約を観客たちに演じる。この前口上は古代ギリシャの物語になじみがない日本人観客のため、静岡での上演を想定して用意されたもので、アヴィニョン公演ではもともとは省かれる予定だったそうだ。それが静岡での観客の反応を鑑みて、アヴィニョンでもこの「ミニ・アンティゴネ」を上演することになったという。ただしフランスの観客のために、フランス語で行う。この口上芝居の座頭は、SPACのアイドルである石井萌水だ。彼女はアヴィニョン公演前にフランス語の猛特訓をして、この口上芝居に備えた。
「これからわたしたちがアヴィニョンのお客様のために、『アンティゴネ』を要約して演じます」「私がアンティゴネです!」と石井萌水がフランス語で高らかに叫ぶ。その途端、観客がどっとわき、大きな拍手が沸き上がった。アンティゴネの物語を数分で、コミカルに再現する口上芝居は、だらだらと続く入場、なかなか始まらない開演で、それまでざわざわとして散漫な雰囲気だった観客席を一気に舞台に引き込んだ。
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〔『アンティゴネ』公演写真 撮影©Christophe Raynaud de Lage〕
笑劇的に提示されたアンティゴネの物語が、悲痛で壮大な悲劇的枠組みのなかでそのあと提示される。口上芝居の演者たちが、背景の楽器演奏の場所へ赴くと、客電が消え、音楽が始まった。僧侶役の貴島豪が船に乗って舞台中央に移動し、アンティゴネ、イスメネ、クレオンなど主要な役柄を演じる俳優たちに白い鬘が僧侶から手渡され、彼らがそれを被ると、本編が始まる。動きだけによるポリュネイケスとエテオクレスの闘いと討ち死にが舞台上手側に置かれた石の周りで演じられる。 エテオクレス(武石守正)はクレオンによって手厚く葬られ、反逆の徒であるポリュネイケス (三島景太)は水辺にそのまま打ち捨てられる。この打ち捨てられた遺体をめぐり、クレオンとアンティゴネは互いの全存在をかけて激しいやりとりを行う。これ以後はスピーカーとムーバーに分かれるク・ナウカ方式で行われた。
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〔『アンティゴネ』公演写真 撮影©Christophe Raynaud de Lage〕
旧教皇庁中庭での公演の成功は、この広大で特殊な空間をどのようにしてスペクタクル空間に変換させるかが鍵となる。40メートルほどの高い壁で囲まれた教皇庁中庭は、過去の強大な政治・宗教権力のオーラを感じずにはおられない廃墟でもあり、その圧迫感は閉ざされた巨大な牢獄を連想させるところもある。今回のアヴィニョンでのSPAC『アンティゴネ』は、この特殊な空間の特性に対する果敢な挑戦だった。そして光と影、動きと台詞、歌唱と舞踊による複合的表現は、この壮麗で広大な空虚ともいえる教皇庁中庭という空間の特性、そしてこの場所が抱えている歴史性と結びつき、アヴィニョン演劇祭の顔にふさわしい壮大なスケールのスペクタクルになっていた。
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〔『アンティゴネ』公演写真 撮影©Christophe Raynaud de Lage〕
終幕部は『マハーバーラタ』のような祝福された祝祭の高揚感ではなく、音や光が静かに減衰していく厳かな儀式的な雰囲気のなかで終わる。その減衰のしかたはきわめて緩慢だったが、世界が徐々に消失し、闇のなかに消えて行く過程を観客たちが集中して見守っている様子を感じとることができた。
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〔『アンティゴネ』公演写真 撮影©Christophe Raynaud de Lage〕
終演後、すぐに客席から立ち、帰って行く客がいなかったわけではない。しかしその数はせいぜい全体の2、3%に過ぎなかった。ほとんどの観客がスタンディング・オベーションで演者たちに大喝采を送った。こんな光景は日本の劇場では滅多に見ることができない。私も立ち上がって拍手し、ブラボーを叫んだ。アヴィニョン演劇祭のメイン会場で、この素晴らしいプロダクションを実現したSPACの人々に最大のエールを送らずにはいられない。
終演は午前0時前だった。終演後、数人のフランス人観客にインタビューして感想を聞いた。フランス人はとにかく褒め上手だ。こうしたインタビューでは絶賛の言葉しか返ってこないのだが、それでも彼らの顔や口調から観劇の興奮が伝わってきて、日本からやってきたファンとしては嬉しく、誇らしい気分になった。
終演後、日本での公演ではまず参加は遠慮するのだが、この日は特別ということで、教皇庁の内部のホールで行われた初日乾杯に参加し、出演俳優やスタッフの方々、そして演出の宮城聰さんと舞台初日の喜びを分かち合った。この初日乾杯のパーティのあと、俳優たちはまた舞台に戻り、朝方まで稽古をしたそうだ。私は午前2時前に宿に戻った。長い距離を移動した上、早朝から深夜までずっと起きていたため、さすがに疲労で泥のように眠った。アヴィニョン演劇祭で『アンティゴネ』初日を見るという最大の目標も達成できてほっとしたというのもある。
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〔終演後の初日乾杯で宮城聰さんと記念撮影〕
SPAC『アンティゴネ』アヴィニョン公演では、この後7/12(水)まで6公演行われた。全公演満席で当日券を求める長蛇の列ができたそうだ。メイン会場での演劇祭オープニング公演ということでメディアの注目度も極めて高い。現地のメディアの反応の分析と公演の総括については、また別項で扱うこととする。WL次号では、出演者へのインタビューを掲載する予定。 『アンティゴネ』の公演映像の抜粋は以下で見ることができる。 http://st.theatre-contemporain.net/h264m/h264m-10417.mp4
●片山 幹生(かたやま・みきお) 1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
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senbato-map · 7 years
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沖縄2017年ゴールデンウィーク
4月28日(金)から30日(日)、2泊3日で沖縄へ。
旅のガイドは、ガイド本「みんなの沖縄」と「沖縄オバー食堂」とFM沖縄「ゴールデンアワー」。
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4月28日(金)
関空→那覇→普天間→名護
JR環状線で新今宮、新今宮から南海に乗り換えて関空。12時15分発のJetstarで那覇空港へ。7500円。
20分遅れの離陸やレンタカーの送迎バスの行列やレンタカー会社が飛行場から意外に遠かったなどの事情で、念願のFM沖縄「ゴールデンアワー」の初リアル出社には間に合わず。
「沖縄オバー食堂」の巻頭も飾る、オバー食堂界のレジェンド、「ゲンキ食堂」へ。ユンタク中のご近所のみなさんで満員。「お金を払うお客さんが来たよ」と、席を開けてくれる。店内にテーブルはひとつ。店主のハルさん、「魚とイカがあるよ、何にする?」と一応聞くだけは聞いてくれたが、こちらが答える前に皿に山盛りの天ぷらが出てくる。それを食べていると次に小皿に山盛りの���根の梅漬けが。そうこうするうちに、近所の人が持ち寄ったおつまみがテーブルに並び、ハルさんや近所の人たちとひとつのテーブルを囲む展開に。沖縄到着早々、濃密な空間でユンタクの洗礼を受ける。吉兆。
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天ぷらは「魚とイカがある」とのことだったが、出てきたのは魚のみ。衣が分厚い、しっかり味付けされた、おそらくマグロの天ぷら。「300円」と言われたので「一人?」と聞くと「二人でだよ」と。「夏になるとゴーヤの漬物が美味しいから、またおいで」とハルさん。店の外まで出てみなさんで見送ってくれる。
参考サイト:DEE okinawa【入りにくい店に入ってみた】ゲンキ食堂
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普天間基地/普天間飛行場を一望できる嘉数高台公園の展望台へ。ずらりと並ぶオスプレイが見える。何かの訓練なのか、ヘリが住宅地に近い場所で低空でのホバリングと離着陸を繰り返し、周辺の住宅地に騒音が響き続けている。騒音を伴うことは、せめて住宅地から少しでも離れた場所でやるくらいのことはしてもよさそうなものだが、容赦なし。基地内の建物への騒音や振動の影響を減らすために住宅地に近づいてしまっているような印象。
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旅の拠点は、名護の「ホテル白浜」。ネットで予約し決済もカードのため、現地での手続きは特になく、勝手に部屋に入って勝手にお帰りくださいというラフなスタイル。広くて清潔な部屋で文句なし。道路に面している上、連休中でたくさん宿泊客もいるはずだが、意外なほど静か。
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部屋の場所にもよるのだろうが、ホテルのWi-Fiは、ルーターへの接続まではできるものの電波が弱すぎるのかネットにはアクセスできなかった。
夕食は、ホテル白浜お薦め(と、英語で手書きされた紙がテーブルの上に)の近所の食事処「ゆきの」。沖縄料理からいわゆる居酒屋メニューや地元の人向け定食まで網羅した守備範囲の広すぎる品揃え。中身汁、人参シリシリ、てびち煮、グルクンの唐揚げなど、沖縄料理をいただく。どれもおいしい。
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4月29日(土)
名護市街→辺野古→名護市街→本部→名護市街
全国道の駅ランキング1位らしい「道の駅 許田」の2階屋上の見晴らしのいいテラスにて、海を眺めながらサータアンダギーと天ぷらの朝食。雲ひとつない晴天。
キャンプ・シュワブ・ゲート前「辺野古新基地建設阻止!共謀罪廃案!4・28県民屈辱の日を忘れない県民集会」へ。もともと辺野古は主要な目的地のひとつだったが、たまたま県民集会と日程が重なったので集会に合わせて辺野古へ。2000人以上が集まったゲート前周辺はたいへんな活気だった。
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名護市街に戻り、「沖縄オバー食堂」と「みんなの沖縄」の両方に掲載されている、沖縄そばの名店「八重食堂」へ。名護市営市場の駐車場か市場の裏の有料駐車場に駐車可能。味わい深い通りを抜け八重食堂に到着。
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ソーキと三枚肉のミックス(小)をいただく。評判通りかつ想像以上のおいしさ。量は(小)が普通の一人前。麺はきしめんのような平打ち麺。周辺にはほとんど人通りはないが店内は満員。
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みきとにーお薦めのネオパーク(ネオパークオキナワ・名護自然動植物公園)へ。がっつく鳥達にエサをあげ、園内をのんびりと一周する汽車「沖縄軽便鉄道」に乗り、ふれあい広場でハムスターや(どこにでもいるような)ワンちゃんたちとふれあい、沖縄っぽさは皆無とはいえ、これはこれで満喫。
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沖縄感あふれる海沿いの道、449号線を本部方面へ。「沖縄オバー食堂」に掲載されている、不安になるほど辺鄙な場所にある「紀乃川」になんとか到着。チヌ(クロダイ)のマース煮(塩煮)、ジーマミ豆腐(ピーナッツ豆腐)、紅芋の天ぷら、もずくとヨモギのかき揚げなどをいただく。上品な味付けで、どれもおいしい。よほど評判がいいのか、辺鄙な場所のはずなのに、小ぢんまりした店内は次々とやってくる海外からの観光客でいっぱい。
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「備瀬のフクギ並木」へ。観光客がそぞろ歩く並木のあちこちには民家があり、そこでは普通の日常生活が営まれている、美しくも不思議な空間。民家があることが、フクギ並木の異界感をより増している。
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フクギ並木から歩いて「備瀬のワルミ」へ。不慣れな者にとってはそれだけでワクワクするようないかにも南国っぽい樹木が茂る斜面を少し下るときれいな砂浜となり、突然目の前にワルミ越しの青い海。自然が織りなす風景の美しさに圧倒され気持ちが上がる。「あまり知られていない」とか「簡単には辿りつけない」という情報もあるものの、確かにわかりやす場所ではなかったが、駐車場もあるし観光客もたくさんいるしでごく普通の観光地という印象。
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フクギ並木に戻り、伊江島を目の前に望む「カフェ・チャハヤブラン」で日没を待つ。幸運に恵まれ、完璧なサンセット。
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名護市街に戻り、お腹が減るまでの時間つぶしに、大きなスーパーマーケット、サンエー東江店へ。棚を埋め尽くすスパムなど、沖縄ならではの品揃えの食料品売り場が楽しい。土産物屋で買うよりも断然安いので、ついでにお土産を仕入れる。
夕食は、お目当てのステーキハウスが満員だったため、再び「ゆきの」へ。土曜日の夜ということもあってか広い店内は満席。少し待って座敷に滑り込む。ままごとのようなスクガラス豆腐などをいただく。
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4月30日(日)
名護→恩納村→読谷村→北谷町→那覇→関空
朝、昨夜サンエーで仕入れた、ぐしけんパンの「なかよしパン」(ハーフ)を軽く食べて、ホテルをチェックアウト。再び「道の駅 許田」へ。お土産を物色して、屋上にて「ポーク卵おにぎり」(スパムと玉子焼きのおにぎり)で朝食。
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沖縄を代表する景勝地のひとつらしい「万座毛」へ。絶景。車でのアクセスも良く、すぐそばに無料駐車場もあり、ベタな観光名所といえども立ち寄ってみる価値大いにあり。
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「みんなの沖縄」で紹介されている「シーサーぎゃらりー&工房shop ゆしびん」へ。こじんまりした店内に魅力的なシーサーが大小織り交ぜ多数居並ぶ。迷いに迷い、小さくてかわいいシーサーを買う。
みきとにーがドライブ・コースの定番として「ゴールデン・アワー」で紹介していた、1967年創業、沖縄初のドライブイン・レストラン「シーサイド・ドライブイン」へ。店外のテイクアウト用カウンターで名物のスープを買って、店の前の砂浜で飲む。
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恩納村「おんなの駅 なかゆくい市場」へ。土産物だけでなく食べ物も充実している。沖縄そばを食べる。じゅうぶんにおいしい。
「やちむんの里」へ。広い敷地にぽつりぽつりと窯元の店舗があり、自然を活かしたゆったりとした環境の良さも相まって、散歩しながらお店を見て回るのが楽しい。花瓶(水差し)、箸立て、小皿を買う。
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休憩がてら、アラハビーチ(安良波公園)へ。2001年にオープンした人工ビーチとのことで、600メートルあるという巨大な砂浜と、それに併設された遊歩道や芝生の公園やバスケットボールのコートが、いかにも街中のビーチといった景観。泳ぐにはまだ早すぎる気もするが泳いでいる人、犬の散歩をする人、肌を焼いている人、バスケットボールをする若者達、子供を遊ばせている家族連れなど、大勢の人で賑わっている。その大多数が米軍関係者と思しき人たちということもあって、地元の人にとっては当たり前の光景でも沖縄初心者にとっては不思議な感覚。
途中、多少の渋滞に巻き込まれながらも予定通りの時間にレンタカーを返却し、送迎バスで那覇空港へ。一度は行っておくべきだろうということで、空港内のA&Wでハンバーガー。「飲むサロンパス」とも噂されるA&W名物ルートビアは、まさに飲む湿布だった。
那覇空港、19時30分発のピーチ。12000円。イケメンCAにテンションを上げつつ、21時30分、無事関空着。
旅のBGMは、護得久流民謡研究所・会長、護得久栄昇先生の「愛さ栄昇節」
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ari0921 · 7 years
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先日、我那覇真子さんの著作である『日本を守る戦い – 日本のジャンヌダルクかく語りき -』を読んでいる際に、気になる点があったのでちょっと調べて見ました。それは「第2章 – 沖縄の異常なジャーナリズム」の中でキャンプ・シュワブ基地ができた経緯について記載した部分です。ちなみに我那覇さんの著作を読もうと思ったキッカケは、長年の沖縄タイムス読者であるブログ主母から「我那覇さんって誰ね~?」という予想の斜め上を行く質問を受けたからです。余談はさておき、キャンプ・シュワブ誕生の一節、是非ご参照ください。 そういえば、移設先の辺野古既存基地についてあまり語られる様子がありません。ここは私(我那覇真子さん)の地元でもあるので、理解の一助となるような説明をさせていただきます。 この既存の基地とは、米海兵隊シュワブ辺野古基地の事で設営されたのが1959年です。 シュワブ基地にも又沖縄の不都合な事実があります。翁長現知事が、今いたるところで沖縄被害者史観をまき散らしています。その中でも米軍が銃剣とブルドーザーで土地を奪って基地を建設したというストーリーは、定番で、例外的な事柄を全体であるかのように語るのは、ほとんど詐欺の類いです。 シュワブ基地ができた経緯は、今ではほとんど忘れ去られています。なぜそうなったのか私もあまり気に留める事はなかったのですが、保守運動に参加するようになっていくつも気づかされた事があります。その1つが、歴史の風化に偏りがあるという事です。 つまり、ある勢力にとって都合の悪い歴史は、その風化忘却が早いのです。そしてある偏りをもったある種の歴史情報は、いつまでも鮮やかなのです。ここまでくるともうお分かりだと思います。これは、ある意図を持っての情報操作がなされていることを暗示しています。 反日反米を刷り込むものは、風化しないように扱われ、逆に左翼運動の広がりに支障をきたすと思われるものは、その時点に留まるように図られているのです。ここで私達が知るべき歴史の真実は、基地に苦しむステレオタイプの沖縄というイメージをお持ちの方にはびっくりものでしょうが、辺野古シュワブ海兵隊基地は、地元が積極誘致して出来た基地という事です。この誘致策は大成功で、辺野古地区は信じ難いぐらいに潤いました。 これを裏付ける話は、いくつもありますが、ここでは米軍側の資料を挙げます。それは、1956年当時の在沖米国民政府民政官レムニッツァー陸軍中将の副官兼通訳官であったサンキ浄次米陸軍中佐の手記です。 タイトルには「The Birth of a Marine Base」というもので、その中に久志村(現名護市の一部)の誘致活動が記されています。 当時の村長比嘉敬浩氏が再三陳情を米軍側に行っているのです。その度に久志村会議員全員の署名を携えており、その熱意が伺えます。交渉の中、陸海軍は基地増設は不用であったのですが、訓練場増設を必要とする海兵隊がこれに応じる事になりました。 その様ないきさつから地元辺野古とシュワブ基地は、はじめから大変友好的な関係にありそれは今も変りありません。 「事実は、新聞社説よりも奇なり」とはこの事で、「えっこれって本当ですか」という声も上げる方もいらっしゃるでしょう。「何ぼ何でもイメージが違いすぎないか」という声も聞こえてきそうです。あの熾烈な辺野古基地ゲート前の反対運動は一体どういう事だと誰しも思う事でしょう。 事実としてシュワブ海兵隊基地は辺野古区とその周辺にとっては重要な生活の糧であったわけで、現代でいうところの村おこしだったのです。昭和30年当時の辺野古地区は、貧しい寒村で生きる為には村に止まることができない程の現実があったのです。 この話を裏付けるものとして、元琉球政府行政府主席の当間重剛さん(1895~1971)の回想録、あるいは辺野古区が編纂した地域史にもその時の経緯が詳しく記載されていました。その経緯は大雑把に纏めると、 ・当時のマリン部隊は兵舎不足に困っていた。 ・そこで当間重剛氏が主席に就任(1959年11月11日)の翌月に、米民政府から久志村(現在の名護市久志地域)に対して628エーカーの土地の新規接収予告が出た。 ・久志村側では村長以下、喜んで土地契約を結ぶ(1956年12月28日) ・翌年の1月8日、当間主席が久志村を訪れて、土地契約を結んだことに対する勇気を褒め称える演説をする。 ・その後2度ほど本国より工事中止の命令が出るも、基地建設はおおむね順調に進み、1959年に完成。 この時の経緯を調べて面白いと思ったのは、米民政府側が久志村の要望に対しておおむね同意して基地建設が行われたことです。当間重剛回想録にも記載されていますが、道路建設は住民の耕作地を通さないように3度計画が練り直されました。あと補償やインフラについてもおおむね住民の要求が通っています(久志村側の要求は辺野古区が編集した地域史に詳しく記載されていました。) 同じ時期の宜野湾市伊佐浜や小禄村(当時)などでは確かに米軍による土地強制収用で地域住民と揉めに揉めたのは事実です(長嶺秋夫著『私の歩んだ道』など)。だがしかし、当時の久志村は例外で、地域住民と米軍が win-win の関係で共存して今日に至っているのです。だから現在の普天間基地の移設問題で抗議行動をしている(自称)市民の皆さんは地元住民から歓迎されていないのかもしれません。「島ぐるみ」あるいは「オールおきなわ」と唱えても、それはかけ声だけで、何事にも例外はあるといういい事例です。残念ながら辺野古反対運動の活動家には、この不都合な歴史的事実には耳もかたむけないでしょう。実に残念なことです(終わり)。 【参考】当間重剛回想録より抜粋 辺野古が軍用地契約 – 252 ページから – 主席に任命された翌月に久志村辺野古に628エーカーの新規接収予告がでた。シンプル・フィー(Simple Fee)。これを当時は単純封土権と訳していたが、軍はこれを設定するというのである。さあ、妙な奴がきた。沖縄の法律家は大方が大陸系法を学んでおり、アングロサクソン法とはトンと縁遠い、そこでああでもない、こうでもないと騒ぎ出し、法曹界が統一解釈を下そうと委員会までつくったが、結局結論を下せたかどうかは記憶にない。 辺野古へのシンプル・フィーに、土地を守る会総連合や市町村土地連合会が、事態の円満収拾に私の所に来たが、私としてはこのシンプル・フィーというのは次のように解していた。 つまり英米法解釈によると土地はもともと君主のものである。これを使用する者がいなくなると、その土地は国家や君主のものに帰する。米軍が土地をもはや必要としなくなったら、もとの持主に返すということになるからそれほどむつかしい考えはしなくたって良い、というわけである。 後で早大総長の大浜さんに聞いてみたら、やはり同じ解釈だった。大浜さんの話によると、それは日本の民法も同じであって、土地は使わなくなると自然と国家に帰ることになるというのである。ところで辺野古の住民は軍の土地接収に対してどういう反応をしめしただろうか。 12月28日、久志村の比嘉村長以下軍用地主は土地賃貸契約を結んだのである。これはプライス勧告が発表されて以来初のケースとして注目されたが、那覇や中部地区のあの一括払い反対、新規接収反対の声は久志村辺野古までは遠く及ばなかったのであろうか。 もちろん久志村としても、新規接収予告がきてさっそくそれに応じたわけでなく、いろいろ考えてのあげく土地の賃貸契約を結ぶにいたったにちがいない。那覇や中部地区で一括払い阻止運動が猛然と起こっている矢先、そうした住民の声に反して米軍の言う通りにするということはよっぽどの勇気がいる。その反面、米軍基地のあるところが繁栄し、電気水道もあるというような文化生活を送っているのをみると、せっかく訪れたチャンスを逃がして、永久に電気や水道にも恵まれない僻地生活を送ってゆくことはしのびないものもある。この両面をはかりにかけて比嘉敬浩村長は賃貸契約にふみきったのであろう。 私は久志村が、住民の怨さのまなざしを浴びながらも契約したことを、年が明けて1月8日久志村を訪れたとき、その勇気をたたえたことがある。一括払いといえばレムニッツァー大将が1957年1月4日、琉球の首脳を招いて、土地問題に関する米国の最終方針を発表したことがある。これは新規接収と一括払いはどうしても変えられぬ米国の方針である、というのだ。そして布令164号(土地収用令)にもとずいて、レムニッツァー声明から4ヵ月後の5月4日、那覇市の垣花、住吉、山下、鏡水一帯に総坪数25万6200余坪の土地に限定付土地保有権をとるための告知第一号が政府に送られてきた。 垣花一帯の市民は私が前にものべたとおり、一括払い賛成者も大分いた。そして、この限定付土地保有権の取得通知が来たときも、かなりの地主が一括払いを受け取って軍と契約をしたがっていたが、もうすでにその頃までには世間の一括払い反対の声があまりにもかまびすしく、まとまった金がほしいという声さえ出せなくなっていた。ただ全島が反米運動のるつぼの中に包まれる前には、かなり一括払いを取った地主がいたものだ。地料の一括払いには農連も賛成であったし、宮城仁四郎君ら農業専門の経済人も賛成であった。私自身一括払いにはあえて反対ではなかったから、垣花にある弟重民の土地に対しては一括払い第一号をとらした。あのころさかんに土地を買い占めた男もいたという話だ。 しかし、私は琉球の主席である。琉球の現状は一括払いに反対の地主が多い。それでも5月24日、米陸軍次官のフェスカン氏らが来たとこは一括払い中止の住民の強い要望があることも訴えた。これに対しフェスカン次官は「それは米国の既定方針だから変更できぬだろう」と答えていた。 辺野古に工事中止令 – 254 ページから – 久志村に新規接収を予告された土地の大部分が村有地であったため知らんが、比嘉村長以下議員、関係地主が喜んで賃貸契約を結んだ。ところが、契約を結んでから3ヵ月後に、とつぜん工事中止の命令がでた。この工事はマリン隊の地近代兵舎を建てようというもので、その頃まではマリンはコンセットに住んでいたが、それでも足らず新たに移動して来た部隊はテントに住むというしまつであった。マリンの恒久兵舎ができるというのでマリン部隊はもちろん国場組や、久志村の地元民も大いに喜んでいた矢先、ワシントンから工事中止の命令が来たのだから大騒ぎしたのもムリはない。比嘉村長らはバージャー民政官はじめ軍当局に理由を質してみたが、ワシントンで検討中ということしか分からなかった。 そのうち元副長官のオグデン少将が米陸軍監察総監として来島中に中将に昇格したり、モーア副長官が立法院にメッセージを送って防共法の制定を勧告したり、ハワイから沖縄戦没者13年忌法要のため代表団が来たり、垣花一帯に限定付土地保有権取得通知が出たりしたが、私は5月8日、立法院本会議で主席就任初のゼネラルメッセージを発表して、その翌日は副長官機で宮古、八重山視察の旅にでた。ちょうど八重山視察中政府から「辺野古基地工事中止解除サル」という電報が入った。私もそれじゃ早速祝電を打っとけと言って久志村長あて、工事再開を喜ぶむねの電報を打たしたが、今思えば、全島一括払い反対のときに、祝電を打ったというのはおかしな話ではある。まあこうして辺野古のマリン基地はできることになったわけだが、マリンも兵舎ができ上がりしだい兵隊を移動させたが一方、久志村もそれにつれて道路もでき区画整理もでき上がった。部隊の近くに町ができると基地の町になるわけだが、軍部の方はさいしょから、いかがわしい場所ができるのを警戒して私のところにも、また久志村長のところにも注意を促しに来ていた。久志村の辺野古基地はできることになったが、まずキャンプに至る道路をどうするかというのが問題になった。軍としてはなるべく経費がかからぬよう、しかも直線道路がほしい。しかしそれでは海岸線を通すことになり、そうなると大部耕地がつぶれる。ところが村民はキャンプ用の土地は賃貸契約したが、道路はなるべく耕地を避けてくれという。こうして設計を変更すること三度。やっと住民の要望にかなうような道路ができたが、これは軍というものに対し、民政官バージャー准将の抑えがきいたからだと思う。その点久志村民はバージャー准将の英断に感謝して良い。 久志村民の“耕地はつぶすな”で面白いことがあった。バージャー准将が村民の意を体して道路を山手の方にきめたら、こんどは村民が自分達の部落を通してくれという。商店の誘致策を考えているのだ。と��ろがそうなると耕地がつぶれることになる。今までの言いぶんはまったく筋が通らないじゃないか、矛盾した言い分をするな、と私は比嘉村長を呼んで注意したが、彼も「それは分かっているが……」と言葉をにごしていた(中略)。
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