#偲央
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唐の時代の服を着てる偲央さん 服の模様はどんなの描くか考え中
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無題
義兄の命日で、事故現場に同行させてもらった。彼女はあらかじめ1週間の休みを取って、丈母と2人で西日本を漫遊していた。坐禅体験とかしたらしい。俺は当日日帰りで、早朝の新幹線で日本列島を下って合流した。350mlの缶ビールを2つだけ空けた。やはり日帰りの岳父もそこへ合流して、4人揃って在来線に乗り換えてさらに小一時間、徐々に口数が減っていく中、緑豊かな山間にある郊外の駅に降りたった。
駅中のファミマでお供物の水や菓子や缶ビールを買い込んで、乗ってきた線路にまっすぐ沿っている坂道を上っていった。ガードレールのない歩道はひび割れて、わずかに陰になっているところに苔類がむしていた。陰湿な6月の陽射しがじりじり蒸し暑かった。あそこだよ、と彼女がいうので目を上げると、すぐ向こうが見通せる短いトンネルがあった。その手前が現場だった。片側二車線の国道で、中央分離帯の縁石にわずかな白い跡が残っている。事故の痕跡だという。
そばの街灯に岳父の設置した花立があって、そこに買ってきた供花を生けるのだが、近づいてみると、配電盤の筐体が大きくひしゃげて、黄色い規制線みたいなテープが何周も巻きつけられていた。新しい事故の跡らしかった。歩道にも削り取られたようなタイヤ痕が残っていた。単車だろうか。義両親は特段そのことには触れず、慣れた手つきで花立を洗浄し、水を入れ替え、供物を並べていく。短い蝋燭と線香を一本焚く。甘い匂いがする。そ��している間にも、すぐそばを猛スピードで車が駆け抜けていく。
道路はトンネル手前の緩やかなカーブを抜けたらほぼまっすぐに伸びて駅の方まで続く急な下り坂で、現場のすぐそばに傾斜8%という標識があった。あとで航空写真を見ると、トンネルの入り口手前からのっぺりした白い文字で速度落せという標示が繰り返されていた。街灯にはスリップ注意という標識があった。去年はなかったよね、と彼女が岳父にいっていた。
義兄の車は何らかのきっかけで短いトンネルの入口でバランスを崩し、最終的に数十メートル先で電柱の支線に後方から乗り上げる形で停止した。致命的だったのは、運転席に横から直撃した街灯だった。午前3時だった。街灯は捥ぎ取られていた。今あるものは事故後に新しく建て直されたもので、その費用は義両親が補償したらしい。
茫然としていると、岳父が淡々と顛末を語ってくれた。直前に義兄の追い抜いたバイクが事故を目撃して、通報してくれたのだと。
*
駅でタクシーを拾って、昼食をとるためにもう少し大きな駅まで移動した。ロータリーの横断歩道で若い男が飛び出してきて、運転手が急ブレーキ踏んで悪態をついた。岳父が、自殺行為ですね、といって笑った。土地の名物を食べた。生ビール2杯飲んだ。
*
現地で義両親とは別れた。来てくれてありがとう、と丈母がいうので、来られて良かったです、と俺は素直にいった。新横浜に帰り着いて、ビアホールで彼女と献杯して、色々話した。
あの場所に行っていつも考えるのはね、と彼女がいった。あの場所に行っていつも考えるのはね、兄が最期に見た景色はこれだったのかっていうこと。
*
今もああやって生々しい事故の跡が新しく増えていたわけで、車もビュンビュン飛ばしてた、事故現場そのものというか、標識ばかり増やして何も対策しない行政とかに対する義憤みたいなものはないの? と俺は思ったことを訊いてみた。
道路のせいとは思わない、あくまで兄がばかをやらかした、と私たちは考えている。と彼女は答えた。私たち、と彼女はいった。
*
兄の声が思い出せないのが嫌なんだよね、といって彼女は目を潤ませた。この日初めて見る彼女の涙だった。忘れていることが年々増えている。バイクの人が通報してくれたことも、岳父の話を聞くまで忘れていた、と。
*
忘れることは、悲しみやトラウマから人間が立ち直っていくために必要な機能だ��ら、と俺はありきたりなことをいった。しかしまた、思い出すことが供養になる、とい��ことも話した。祖父の十三回忌の時に、坊さんの説法で聞いた話だった。俺はこの考え方を信仰している。リメンバーミーみたいな話だけど。あの場に行って、俺がここにいる意味は何だろう、とずっと考えていた。丈母が立ち尽くして泣いている横顔を見て、俺にできることはマジで何にもないな、とさえ思った。この考えが既に傲慢なんだけど、けど。
*
義兄に会ったことはない。思い浮かべることしかできない。岳父と、丈母と、彼女と、そこへ俺がもう一人加わった。マイナスではないはずだと思いたい。悼む、偲ぶ、思う、祈る、なんでもいいけれど、そうする人間が一人増えた。それだけで良いことだと思いたかった。
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大阪放送劇団の『その受話器はロバの耳』
昨日7月13日(土曜)、大阪・千里中央のA&Hホールで大阪放送劇団の『その受話器はロバの耳』を見てきました。
大阪放送劇団の芝居は結構見ました。『メフィスト』と『マイ・スウィート・スウィート・ホーム』で共演した白樫由紀子さんが出ていたからです。
いや、正確に言えば、まず私が大阪放送劇団の芝居を見に行って、白樫さんのファンになって、あるときピッコロシアターに芝居を見に行ったら前を白樫さんが歩いていて、私が思い切って声をかけて、それからFacebookで繋がって、お互いの芝居を見に行って感想を送り合って……で、あるとき私がおずおずと出演依頼をしたら白樫さんが快諾してくれて……ということですが、その白樫さんは去年(だったかな)大阪放送劇団を退団しました。
だからもう見に行く必要はないのですが、白樫さんの後輩の中尾さんという女優さんが『マイ・スウィート・スウィート・ホーム』を見にきてくれて、おずおずと(ここがポイント! かつて私が白樫さんに出演依頼をした時の姿が偲ばれます)大阪放送劇団の次の芝居のチラシを出して「よかったらきてください」と言いました。
そうなったら行くしかないじゃないですか。
『その受話器はロバの耳』はある製菓会社のお客様センターの話です。製菓会社は東京にありますが、お客様センターはへそ島という過疎の島にあります。電話を受けるだけだから東京になくてもいいし、東京でなくても客にはわからないというわけですね。
中尾さん演じる新美はこのセンターの副室長で、他に室長の三田村、帰国子女で英語がペラペラということになっている藤原、へそ島で生まれ育ち東京に憧れている片瀬、同じくへそ島で生まれ育ちタクシー運転手をしている男と結婚し小さな子どもがいる永田、島を心から愛している田崎がいます。
三田村と田崎は男性、新美、藤原、片瀬、永田は女性で、男性2名、女性4名、計6名の布陣ですが、ほとんど電話���かかって来ず、みんなのんびりしています(島で採用された三人はバイトか���託だろうと思っていましたが、正社員でした。へえ、そうなんだ……)。
そんなセンターに東京の本社から二人の社員が転勤してきます。一人は稲本ーー彼は新美や三田村と同期でこれまで営業でバリバリ仕事をしてきましたが、なぜか突然このセンターの室長を命じられました。それに応じて三田村は副室長に降格されます。
もう一人は後藤ーー入社2年目のOLで、実は稲本と不倫をしています。
新しい職場でやる気マンマンの後藤はサボってばかりいる三田村や藤原に注意をして、センターはギスギスした雰囲気になります。
一方、室長から副室長に格下げになった三田村は、別にそれを恨んでいる様子はありませんが、本社はなぜこんな暇な部署に社員を二人も送り込んできたのか不思議がっています。
ところがある日、センターの電話が一斉に鳴り始めます。製菓会社が作っているヒット商品「泣きマメ」に有害成分が含まれていたのです。
本社はそれを知っていたため電話対策として稲本と後藤をセンターに送り込んでいたわけです。
一日中電話対応に追われ、8人は疲弊していきます。藤原は帰国子女といっても2歳までカナダのバンクーバーに居ただけだとか、それ以後は愛知県に住んでいたから英語は話せないとか言われて頭に来て、稲本と新美は一夜を共に過ごしたとか、永田は電話をかけてきた男と外で会っているとか言い始め、センター内は無茶苦茶になります。
永田は虚言癖がありますが、彼女の言ったことは嘘ではありません。稲本と新美は本当に一夜を過ごしましたし、永田は本当に電話をかけてきた男と外で会っていました。
そこから藤原が手漕ぎボートで海に出たり、それを助けようと船を出した元漁師の田崎が網に引っかかって鎖骨を折ったり、まあいろいろあって、最終的には稲本が自分以外の女と一夜を過ごしたことに腹を立てた後藤がお客様からの電話をとって、そこで「「泣きまめ」には本当に有害物質が入っていますが、会社は隠そうとしています」と言ったばかりか、センター内のスキャンダルを話してしまい、収拾がつかない状態になります。
最終的にセンターは閉鎖。新美と三田村は会社を辞め、稲本は本社に戻ることになります(えーっと、後藤はどうなるんだっけ。まあ、あんなことをしたらまず会社には残れないでしょうね)。
センターの備品は全て片付けられ、『桜の園』のラストのような雰囲気が漂う中での三田村と新美の会話はなかなか見応えがありました(上には書きませんでしたが、三田村は新入社員の頃からずっと新美が好きでした。彼はその気持ちを新美に伝えますが、新美は三田村のことをそんなふうには見られないと言っ��彼の求愛を断っています)。
一人去り、二人去り、誰もいなくなったセンターに新美が戻ってきて、もう回線が通じていない電話をとり、「あきらめない」と言って幕が降ります。
この最後のセリフは説明が必要ですね。いくつか前の場面で、新美と稲本が一夜を過ごしたことに腹を立てた後藤は、新美に向かって「私には野心がある。私は本社に戻ってバリバリ仕事をする。私はあなたのようなあきらめた人間じゃない」と言いました。ラストの「あきらめない」はそれを受けたセリフなわけです。
なかなかいいシーンですね。私自身はここで新美は回線の切れた電話で実際にはいもしない客に向かって「はい、〇〇製菓です」と言って会話を始めるのかなと予想していましたが、まあ「あきらめない」でも悪くはないと思います。
新美を演じた中尾さんはスーツ姿が似合い役に合っていると思いましたし、何より声に特徴があっていいなと思いました。あの声は女優として武器になると思います。
中尾さん以外で言うと、三田村を演じた中原央夫さんが印象に残りました。私にとってあの芝居は完全に新美と三田村の芝居です。
自分が無能であることを知っていて、なんとか無能でなくなりたいと思っているけれど、どうすればいいかわからずいつもあきらめてきた三田村の独白が私は身につまされる気がして(?)好きでした。
永田を演じた小林玲衣さんもオドオドした感じが素敵でしたし、方言が魅力的でした。お若いので、子持ちの人妻には見えませんでしたが、それはまた別の問題です。
いい芝居を見たなという気がしました。
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旅行の話
先日、山梨へ一泊二日の旅行をした。
自然美を目当てに旅をした最初期の西洋人はルソーだった。それ以前の観光旅行はピラミッドやギリシャの神殿などの文明の建築物が目当てで、どちらかというと自然は煩わしいものだったと、石川美子が『旅のエクリチュール』に書いている。
わたし自身は昔から旅行がそれなりに好きで貧しい財政と時間の許す範囲で様々な場所に足を運んだが、「海を見たい」「未踏の北海道を巡りたい」など若い頃ほど人並みの動機に支えられていた。とはいえ、「ひとの居ない場所に行きたい」「何もせず行き当たり任せに自然美のある地域に行きたい」など、最近は次第に漠然とした逃避欲が頭をもたげるようになった。今般の旅行にしても、何でもよいので煩雑な人と街から距離を置きたい、と思っての出立だった。
中央線の高尾から大月で乗り換えて富士急行線で赤坂という駅で降りた。高尾も大月も、いつの間にか外人観光客で賑わっており、逃避どころではないのに閉口したが、流石に赤坂は無人駅なだけあり降車するひとのまばらで、町の様子も普通の田舎だった。
車道は広く、マクドナルド、ローソン、コーエイというスーパー、「園芸と資材」という英国古典小説のように簡潔な看板の巨大ホームセンターが駅周りに集結している。この一帯が地元のひとの生活基盤なのだろう、菅野川という細い川に沿って宿まで歩くと程なく一軒家が点在するだけになった。御正体山に囲まれた地だけあり、四方を見渡しても山が迫っている。
一��して翌朝、菅野川沿いを散歩していると、幾人かの老人たちが釣りに励んでいた。わたしたちの頭上を鳶が笛のように鳴いて旋回している。
光景の一々に満足している傍ら、「自分はなぜ自然美に惹かれるのだろう」という自問が並走していた。静かで、ひとの声に混じって川のせせらぎを耳にするだけでも東京より遥かに静かで充分に安らいではいるのだが。
河口湖へと列車で向かう為に、赤坂の無人駅に赴くと地元の老爺と老婆の二人が会話していた。話は縦横無尽だったが、ふと爺さんが金に窮した知人の話題で「生活保護とか受ければいいんだよなあ。金のない時は、仕方がないよなあ」と言い、婆さんも「仕方ないよ」と頻りに相槌を打っていた。それで、わたしは養老孟司の『手入れという思想』という古い講演録を思い出していた。何故都会で虫を見ると嫌な気持ちになるのか、という切り口で都市と地方における人心の対比を語った講演だ。そこで養老は、都市ではすべてが人間のコントロール下にある。舗装された道路や規則的な列車のダイヤ。そして不確定な要素を可能な限り排斥した。だから都市の人間が、何か我慢できない事が起こったとき、誰かの所為にして、責任を追及する。無論、仕事の上でも然りで、これが都市生活者の基底を為している。しかし田舎の自然に生きるひとはそうはいかない。天気や動物による災害まで、誰かの責に帰すことの出来ない不幸は日常茶飯事のように起きる。そうした暮しのなかで田舎の人の心映えを象徴として「仕方がない」という言葉を、養老は挙げている。先の赤坂駅の老人たちの会話に自然と息づいた「仕方がない」を聞いて、そのようなことを思い出していた。
自分は何故惹かれるのだろう?
河口湖へと向かう行路の観光客の充満ぶりに辟易しつつ、一方で河口湖一帯から富士山が見える、という事実を知らなかった自分の無知にも呆れながら河口湖駅から徒歩十分ほどで湖畔に辿り着いた。そこにはここ数年ではなく、何十年前から観光地として栄えてきた、という歴史を偲ばせる古いが清潔な食事処や土産屋が並び、外国語の案内も揃えて国籍問わず訪れた人間を漁っていた。人間の気配から離れたい為に旅をしていたわたしは失望していた。湖畔で飯を頬張ったり、写真を撮っ��りする人々のあいだを縫うように湖畔を歩く。湖にせり出すように黒い岩が雪崩れていた。岩の表面には気泡が浮かんでいる。ふと、富士山が火山であり、次いで湖畔沿いに浅間山神社のあることを思い出した。ふたたび大噴火すれば、ポンペイ遺跡のような風景が現れるかも知れない。
岩の上に座って湖面を眺めていた。それが火山岩であることを気に留めることなく、観光客が次々と岩に載って写真を撮っていた。が、その眼前の風景は現実であるのに、遠い昨日のように見えた。わたしたち人間は自然の時間に一瞬登場した短命の生き物に過ぎない、という事実をそこに見る思いがした。想念というより、岩場が見せてくれた現実の風景として。そのとき、旅の目的を達した気がした。
人類という括りや、そこに伴う責任、資本、文明生活は常に虚構であり、いつか地上からは一掃される。故に、我々がどのように生きても構わない。岩や花や水辺には、後世の地球には関係ない。だが、都市は人類の文明や社会が堅固で絶対であると錯覚させる。都市の煩雑な物や音に囲まれて、わたしもいつしかそのように思い込まされてゆく。でも、いつか消える。全部。それは悲観の滅びとしてではなく、もっと静かで当然の風景として。だれも居ない、のびやかな白昼の庭園。君たちはその庭園を通過するだけでいいんだよ、と地表は語ってくれる、それが自然美に惹かれる理由であり、そしてわたしは安堵の中で生命感を取り戻していった。
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過去日記「Novel」からのメッセージ
Wednesday 22 January 2014
坐禅会に行く時間と学校に行く時間はほぼ同じ早朝5時。昨年3月坐禅を始める時にハルオは、考えた。坐禅も良し、そして坐禅を習慣付けて夜型生活を朝型生活に切り替えようと。学校の授業をもっと大切に組んで行こうと。それまでのハルオは、長年夜型生活をしていた。深夜2時、3時は当たり前だった。東京の学校の授業スタートは、朝9:20から。その時間に間に合う為には、御殿場から出発する高速バスを朝6:20の始発に乗らなければならなかった。
今朝は、昨日と同じく禅寺の都合で坐禅会は、お休み。今年に入って増々坐禅修行に取組もうと決意したハルオは、のっぴきならない理由がない限り坐禅会に毎朝参加することを義務づける様にしていた。しかし今日は、坐禅会も休みで学校もあった。茶畑庵から車に乗って御殿場まで進むと雪舞っていた。裾野と御殿場間では、断然御殿場の方が標高高いので雪が降り易い。ハルオは、慎重にドライブをした。道路が凍結したり雪で視界が覆われたりするからだ。
ハルオは、5:50の高速バスに乗った。昨年秋頃からダイヤ改正があり始発は、6:20から30分繰り上げられていた。余裕を持って東京に行かないといつ何時東名高速内で事故や渋滞に巻き込まれ予定時間を狂わされるのを防ぐ為だった。今朝は順調に進みバスは、7:30すぎに新宿に到着した。ハルオは、時間つぶしにマクドナルドに入ってコーヒーとソーセージマフィンを注文し喫煙席を選んでカウンター席に座った。窓の外は、左右に忙しなく人々が歩いていた。この時ハルオは、気付いた。ポケットWIFIの電源部を忘れたことを。それがないとリチャージが出来ないからバッテリーが1日持たない。いつもならインターネットをして時間を潰すハルオだったがWIFIの電源を切って読書に切り替えた。今ハルオが読んでいる本は、「参禅入門」大森曹玄著。1964年、ハルオが生まれた年に出版されたこの本は、読書が苦手なハルオにも読み易い本だった。
新宿駅から市ヶ谷駅まで総武線を使って市ヶ谷の学校まで、電車はいつも混んではいない。学校に着くとジャックダニエルのウィスキーをパロッた音楽イベントの張り紙がエレベーターの横に見た。ハルオは、以前レギュラーで仕事をしていた雑誌を思い出した。今日の授業は、いつもと違い合同プレゼンテーションの日だった。卒業制作を終えた生徒の作品を生徒1人1人プレゼンして行く。プレゼンテーションの会場となる教室に入ると生徒の数は少ない印象を受けた。ハルオは、中央の一番奥の席に座った。それには理由があった。自分の生徒がプレゼンをしたら記録として動画を録りたかったからだ。用意してあった三脚をキャリーバッグから取り出しカメラをセットしようとするとハルオは、又やってしまったと後悔した。三脚のクイックシューを忘れてしまった。静岡と東京の行き来を5年間続けているハルオだがいつも何かしら忘れ物をする自分が嫌だった。にも拘らずまたその過ちを犯してしまった。ただ過ちと言っても旅にトラブルは付き物でそのトラブルをどう知恵を働かせるというのも大事だなと1人納得して済ますハルオもいる。今回は、三脚の上にカメラを置いて手で落下を押さえる様にすることにした。16人の生徒が次々と指名されプレゼンテーションを行った。同世代の女性のポートレイト、卒業後移住する母島の生活のドキュメント、台湾からの留学生は、台湾の古い町並みを撮り、宮崎県の口蹄疫問題で29万頭の牛や豚が殺傷された地元を撮った生徒、巨大物が怖いとその巨大物たる建築物を撮った作品、、、、、様々な作品が紹介された。このプレゼンを真摯に受け止めプレゼン内容の紙に書いて来てる生徒もいれば行き当たりばったりでプレゼンする生徒もいる。後者の方が多く感じた。ハルオは、少しばかりそれで気分が悪かった。そしてハルオにも生徒から意見を求められてハルオは、答えた。「考えること、感じること、その意識を忘れないこと」ハルオは、そうメッセージを送った。メッセージを送っても生徒に受信機がなければ受信ことが出来ない。受信機がなくても時にはメッセージを送り続けることは大切だとハルオは、過去の経験から知っていた。ただハルオは、自分にその資格があるのだろうか?とも自問しながら。
学校が終ると急いでハルオは、市ヶ谷駅に小走りで向かった。今日は、Uさんのお母さんの告別式だった。告別式の会場は、大森駅からタクシーで10分ほどの臨海斎場だった。ハルオは、急ぐとろくなことがなかった。電車に乗り次は飯田橋駅と知った瞬間「あれれ逆方向?」と乗る方向を間違えたと勘違いをして飯田橋駅で下車。そして逆方向の電車にまた乗った。そしてまた実は間違えていなかったと気付き四谷駅で降りてまた最初の方向の電車に乗車。それは、自分が水道橋駅から乗っていると思ったからだった。水道橋駅には、ハルオのオフィスがありその習慣が仇となった。御陰で臨海斎場までの道のりは遠のいた。大森駅に着いたらまずはバスに乗ろうと考えていたがこのタイムロスとバスの時刻表をネットで見たらバスがこの時間運行していないと知る。タクシーしか手段はないと悟りタクシーに急いで乗り込む。
斎場に到着した時は、告別式の全ての行事が終わっていた。ハルオは、遺影の前で手を合わせて故人のご冥福を祈った。その遺影��、ハルオが撮影した写真だった。昨年Uさんの姪っ子さんが結婚をされた時ハルオは撮影を担当した。その結婚式にUさんのお母さんも参列していた。向き合ってのポートレイトではなくあくまでもスナップショットだったので目線は横を向いていたが遺影の写真として評判が良かった。やはり昨年ハルオの友人のお父上が亡くなりその時も以前ハルオが撮った写真が遺影に使われ、その友人から「ハルオ君は、遺影写真家になれる」と言われていた。奇しくもその機会がまたやって来てしまった。ハルオは、自分が撮影した写真が人の役に立つのなら本望と心の中で思っていた。斎場を後にしUさんとそのお姉さんと3人でタクシーに乗りUさんと故人が一緒に暮らしていた自宅へと移動する。
UさんとUさんのお姉さんとハルオの3人でタクシーに乗りUさんと故人が一緒に暮らしていた自宅へ移動した。蒲田駅から近いその家に入ると窓の外には、地元の高校が見えた。ハルオとUさんの交流は、20年近くになるがUさんの家には初めて訪れた。つい先日まで故人が使っていた4.5畳の和室には、仏壇があった。斎場の係員が僕らの後から間もなくやって来てお骨と遺影が棚台の上に置かれた。ハルオは、再度故人の冥福を祈った。Uさんは、読書家で本棚にはハルオには縁のなさそうな本がぎっしり並べられていた。UさんもUさんのお姉さんもいつも変わりない表情で告別式の後始末をしていた。僕は、告別式の参列者に用意されたお弁当をソファに座りながら頂いた。この家には、ニーチェという名の雄猫がいる。この猫の話もUさんから何度となく聞いていた。ニーチェは、来客であるハルオを警戒してかあまり姿を見せなかった。コーヒーを飲みながら故人を偲んで思い出話をしたりUさんの少年、学生時代の古いフォトアルバムを見せてもらった。Uさんの大学時代の写真は見た事があったがその前のUさんの在りし日の姿を見たのも初めてだった。ハルオは、もしもUさんが同級生だったらどんな関係になっていたのだろうかと想像していた。悪ガキでもなく、優等生という雰囲気でもなく、生意気そうでもなかった。同じソファに座っていたUさんがニーチェをあやしているとハルオは、ニーチェを自分の膝に引き寄せてみると意外と大人しくしていた。そのニーチェにUさんは驚きiPhoneで写真を何枚か撮った。夕方5時になりハルオは、次の予定、歯医者に行けなければならなかった。Uさんは、ハルオを鎌田駅まで見送ってくれた。
ハルオは、京浜東北線で鎌田駅から品川駅まで移動した。川崎駅は、ハルオが昔付き合っていた女の子との思い出がある駅だった。あの子は、どうしているのだろうか?会いたいなと思った。そして山手線に乗り換え渋谷駅に行き、更に井の頭線に乗り換え三鷹台駅まで移動した。ハルオは、静岡に移住してからもこの三鷹台にある歯医者に通っている。ハルオは、その歯医者と信頼していた。今回あの治療は、右の奥歯の詰め物が外れてしまったからだった。治療はすぐに終ってしまい時間の予約をして新宿へと向かう。8時発の高速バスになんとか間に合いハルオは、いつもの様に後ろの方の席に落ち着いた。このバスは、超特急便で通常の特急便よりも殆どのバス停を飛ばすので時間が若干乗車時間が短く今夜のバスは順調に東名御殿場バス停に着いた。
バスから降りて駐車場まで移動したハルオは、いつもの「Today's Fashion」の撮影をすることにした。ストロボを使わずに駐車場の灯りと高感度ISOの組み合わせで撮る。カメラは、駐車場に駐輪してあった誰かの自転車のサドルの上に設置しセルフタイマーを使って10秒後に3枚が撮れる設定にして3回繰り返した。ハルオの愛車のアーティ21スペシャルのフロントガラスは、凍り付いていた。間スプレーの解氷剤を窓に吹き付け、暫くして車を走らせた。
茶畑庵に着く前にスーパーマーケットに寄りタイムオーバーで半額になった焼き鳥や刺身を夕食に買う。茶畑庵も冷えきっていた。ハルオは、1週間前Uさんから分けてもらっていた遺影用の写真をフォトフレームに入れてあったので仏壇の横に置き鈴を鳴らしてもう一度手を合わせて故人の冥福を祈った。
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キングダム750話「首斬り桓騎」ネタバレ確定速報
大人気春秋戦国時代漫画キングダム。2週間ぶりの750話では、ついに偲央���その後が分かりました。そして桓騎がこうなった理由には偲央が関係している事も明らかになったのです。それでは行ってみよう、キングダムがキターーーーー!!
大人気春秋戦国時代漫画キングダム。2週間ぶりの750話では、ついに偲央のその後が分かりました。そして桓騎がこうなった理由には偲央が関係している事も明らかになったのです。それでは行ってみよう、キングダムがキターーーーー!! ※この記事にはキングダム750話のネタバレが含まれます。 キングダム750話ネタバレ確定速報「え?桓騎殺さんの?」 桓騎と少し話がしたいと言い李牧は武器を捨てて投降すれば配下の命は助けると宣言します。もちろん、これには趙兵が大ブーイングですが上和龍は、李牧様は桓騎の命を助けるとまでは言っていないとし同時に桓騎はここで殺さずとも捕えればいつでも殺せるし、身柄には利用価値があると言い出しました。 【キングダムのネタバレ記事は毎週木曜午前1時更新】 桓騎は当然、投降を拒否 それを受けて桓騎は部下に、行っていいぞお前らと投…
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スペシャルウィークという鋭くも軽やかで素敵に感じる競走馬の思い出
スペシャルウィークがデビューした1998年の中央競馬は同年齢で他にも大活躍したセイウンスカイやキングヘイローやグラスワンダーやエルコンドルパサーと歴史的な名馬が続出したために最強世代ともいわれて記憶に残っている人も多いようだ。
個人的には競馬を初めてちゃんと観たという時期だった。ゲームのスーパーファミコンで『ダービースタリオン』を良くやっていて競馬を覚えて面白いから本物のレースを観てみたくなった。
翌年からは殆ど観なくなってしまって人々から最も注目を集めていて僕も大好きだった一歳上のサイレンススズが天皇賞(秋)で骨折して予後不良(回復の見込みなし)から安楽死の処置を受けるという非常にショッキングな競馬の真実に触れてしまったせいかも知れない。
振り返ってたった一年の競馬へ無心に熱中して競走馬を観ていた経験の中で、スペシャルウィークは日本ダービーで武豊の念願を果たした衝撃を含めて最強世代の中でも本当に凄いと認める一頭だった。
デビューした1998年に大きなレースのGⅠに勝ったのは日本ダービーだけで、本領を発揮したのは翌年の1999年だったと思う。
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天皇賞の春と秋の連覇とジャパンカップに勝ってグランプリの宝塚記念と有馬記念も同年齢のライバルのグラスワンダーの二着という非常に好成績を残していた。
そのまま、二年の現役生活でレースを引退したけど、獲得賞金が十億円を越えて当時の最高記録をマークしたり、本当に日本の競走馬を代表する存在感を示した。
スペシャルウィークは2400m以上の長距離のレースに強くて観ていると後方から最後の直線で一気に駆け上がって来る走りが鋭くも軽やかで素敵に感じる競走馬だった。脚が細長くてスリムな雰囲気の馬体で、見るからに格好良さに満ち溢れているのが好きだったし、気に入らずにいなかった。
引退後に種牡馬として繁養されたり、老いて余生を送ったりした牧場へもファンが多く訪れるほどに人気だったらしい。
武豊の日本ダービーの初優勝の感動的な記憶と共に素晴らしいばかりの成績を残したから忘れられない気持ちは僕も同じだし、亡くなったスペシャルウィークには考えると他のどんな競走馬よりも魅了されたはずだった格好良い走りに感謝しながら心から冥福を祈るしかない。
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2021年10月11日(月)
月曜日の教室は職場で一番眺めが良い、梅田周辺が一望できることは先週報告した。今日は少し西の眺めを紹介しよう。背の高いビルの下には大阪市営地下鉄御堂筋線/北大阪急行と大阪モノレールが交叉するターミナル、千里中央駅がある。日本最初の大規模開発・千里ニュータウンの中心で、周辺には新しいマンションが林立している。その手前に見える中層建築物は開発当初の集合住宅、老朽化・高齢化への対応が課題となっている。1962年が初入居だから、60年に及ぶ時代/社会変化と向き合っているのか・・・、そんな感慨に浸っていると授業なんかどうでもいいやという気になるね。
5時30分起床。
日誌書く。
十割蕎麦+ヨーグルト+豆乳。
洗濯1回。
ツレアイは午後から出勤、自分の弁当だけ用意して出る。
近頃は往路は名神吹田IC利用、茨木ICよりも早くて快適、100円の料金差も惜しくない。
1年次後期必修科目「社会貢献論」の2週間分の出欠状況をチェック、食物栄養学科の学生に連続欠席が目立つ。教養教育センター長にメールで報告する。
水曜日の「情報機器の操作Ⅱ」の課題をチェック、研究室とPC教室のOffice環境が違うので、教科書の操作と同じかどうかの確認が不可欠である。
2限は「社会貢献論(全学科A組)」、今日は3週目だが1週目に出来なかったシラバスの説明を改めて行う。今日のテーマは「社会貢献の概念」、公益を求める直接的社会貢献と私益を求める活動が結果として公益に繋がる間接的社会貢献、この2面性を解説する。<3つのポリシー>を簡単に解説し、最後に<研究倫理eラーニング> を紹介、学生が自分で登録して学び、修了証を提出させる。締切は今月末に設定した。
昼に「インターンシップ」受講学生2名来室、これ��受講者5名との面談終了、後は事後レポートの提出で評価する。
木曜日の「人権論」「環境論」の資料を作成する。
5限は「社会貢献論(全学科B組)」、2限と同内容。少し早めに終了して自室に戻ると、学生から<eラーニング>についての問い合わせメール、登録できないとのこと。メニュー選択を誤っているのだが、対応を指示するとすぐに登録完了との返信が来て安心。
帰宅は19時前、夕飯は用意しておいた<無水鹿肉カレー>と野菜サラダ。
ツレアイの帰宅は20時、柳家小三治を偲んで献盃する。久しぶりにCD全集を取り出して傾聴、「青菜」「やかんなめ」の2席。小三治を生で聴いたのはたった一度だけ、その時の最初のネタが「青菜」だった。このネタだけは、上方版がしつこく思えて、小三治の演出の方が好みである。
月曜日はもっとも職場滞在時間が長くなるが、今日のiPhoneでのデータ消費は0.16GB。この調子で30日使っても5GBで納まることになる。おまけでもらった3GBは別にして、今のプラン(3GB+2GB増量オプション1年間無料)が私にとってはぴったりで、それ以上の大容量プランは不要であることが確認できる。
風呂を待つ間にFFを少し・・・、やはり寝落ちしてしまった。
辛うじて3つのリング完成、水分は1,400ml。
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<危険な真実を隠したまま致命的な病をまき散らし、危機が収束した後も当局が何を隠してたかの追及と苦悩が続く>
中国・湖北省の武漢市を中心に感染が拡大している新型コロナウイルスは、遂に死者数が1400人を突破した。アメリカのある政治科学者は、これはまさに中国にとって「チェルノブイリ級」の危機だと指摘する。
WHO(世界保健機関)が2月11日に「COVID-19」と名付けた同ウイルスの感染者は13日、中国全体で6万3000人を超え、死者の数は1380人にのぼった。死者の多くがウイルスの発生源とされる湖北省に集中している。同日には日本でも初めて、同ウイルスの感染による死者が確認された。中国本土以外で死者が出たのは、フィリピンと香港に次いで3カ所目だ。
世界全体では、アメリカをはじめ25を超える国と地域に感染が広がっている。
湖北省十堰市は12日から、住民に外出を禁じるなどの「戦時体制」を導入。武漢市では今も、ウイルスの封じ込めを目的とした事実上の都市封鎖が続いている。
シカゴ大学の杨大利教授(政治科学)は、香港の英字紙サウスチャイナ・モーニングポストのインタビューに対して、新型コロナウイルスの感染拡大は、1986年に旧ソ連(現ウクライナ)で発生したチェルノブイリ原発事故の時のような惨状を招くだろうと語った。
「習近平の責任は重い」
日本の福島一原発事故までは世界最悪の原発事故と言われ、数十人が死亡。数十万の周辺住民が避難を余儀なくされた。WHOはこの事故について、「核の安���性に対する各国の考え方を変え、人類全体に大きな影響をもたらした」と記している。
チェルノブイリの事故当時、原発の炉心が爆発することなどは不可能と考えられていた。実際に事故が起こった後も、危険性があることは隠されていた。
杨大利はそれと新型コロナウイルスの感染拡大に多くの共通点を見る。「チェルノブイリと同じく、ウイルスとも長い戦いになるだろう。危機が終わっても、とくに被害者にとっては長い長い答え探しが続く。その点も同じだ」
中国の習近平国家主席についてもこう語った。「対応の誤りの責任はシステムにある。指導者として個人的に大きな権限を振るってきた習の責任はとくに重い」
<参考記事>マスク姿のアジア人女性がニューヨークで暴行受ける <参考記事>「自分は何もできなかった」──新型肺炎を最初に警告した武漢の医師が自らも感染、死亡
WHOは1月30日になって、同ウイルスの感染拡大について、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言。中国については、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)流行時とは対照的に、対応と情報の透明性を高く評価した。
だがウイルスの発生源とされる武漢市は、1月9日に新型ウイルスを発見していながら、20日まで情報を公開しなかった、と批判の声が上がっている。周先旺市長も、情報が「タイムリーに」発表されなかったことを認め、「上からの許可を待たなければならなかった」と、暗に中央政府を批判した。
昨年末にいちはやくウイルスの発生に警鐘を鳴らし、その後自らもCOVID-19に感染していた医師が2月7日に死亡すると、中国国内では怒りの声が上がった。李文亮は武漢市在住の医師で、メッセージアプリのWeChatで原因不明の新たな病気の発生を警告していたが、警察に「デマを流した」と見なされ、処分された。
英ガーディアン紙によれば、彼の死を受けて中国の一般市民の間からは悲しみや怒りの声とともに、言論の自由を求める声が上がった。中国当局はこれが騒動に発展するのを阻止するために、「李を追悼するために街頭で抗議を」と呼びかけたWeChatのメッセージを削除したとみられる。
中国は『チェルノブイリ』も削除
ここでもチェルノブイリが引き合いに出された。オンライン誌クォーツによれば、李を偲んでWeChatに投稿されたメッセージの中で、あるユーザーはHBOが制作・放送したドラマ『チェルノブイリ』の中のバレリー・レガソフ(同原発事故の調査を率いた科学者)の台詞を引用した。
「嘘の代償��何だろうか」と、その投稿には書かれていた。「私たちが知りたいのはただひとつ。『誰のせいか』ということだ」
ワシントン・ポスト紙も1月末、HBOの『チェルノブイリ』の中国語レビューサイトに多くの人がコメントを書き込んでいると報じた(その後、検閲が入りこのレビューページは削除された)。
記事はこう書いていた。「多くの人が、今の中国と事故当時のソ連の愚かさに共通点を見出し、武漢のウイルス感染拡大はチェルノブイリ事故のようなものだと示唆するコメントを書き込んでいる」
(翻訳:森美歩)
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『祥月命日を良いきっかけに』
みなさん こんにちは。
結婚相談所 ハッピータイム県央&みなかみ分室 婚活アドバイザーの佐々木です。
日曜日の朝いつものように
みなかみ分室よりスタート!
まずは、週一の墓参(お墓参り)
今週は、父親と祖母の祥月命日があり
墓前には、母の作ったお団子が
お供えされておりました
祥月命日とは
亡くなった月日と同じ月日
月も日も同じのため故人が
亡くなった年以降、年に一回訪れる日
一年目の祥月命日を一周忌といいます。
「祥」という字は
「さいわい」や「きざし」とも読み
凶から吉へ変わるという意味がこめられいるそうです
故人を偲び冥福を祈ることで
新たな覚悟を誓う、その決意を自分に
言い聞かせることが出来るのだと思います
**********************************************
婚活応援団ハッピータイムグループ
★県央支部 〒371-0812 群馬県前橋市広瀬町2-1-9
★みなかみ分室 〒379-1305 群馬県利根郡みなかみ町後閑311-4
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TEL・FAX 0278-62-2792
携帯 080-1160-5479 支部長 佐 々 木 真 勇
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県央・前橋・沼田・みなかみ・渋川・高崎駅西・高崎・安中・藤岡・伊勢崎・桐生・太田・邑楽・館林・大泉・足利・佐野・真岡・深谷・熊谷・本庄・加須・牛久・下館・筑西・小諸・長岡・新潟西蒲原・会津若松までお問い合わせください。
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Kingdom story sets in around Qin dynasty period, but I want to draw Kanki & Shio wore clothes from other dynasties, 'cause those are very pretty too~
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意外と知らないお盆とは何の日なのか。
皆さんこんにちは。 佐藤大夢です。
夏も本格的に始まって 最近は汗拭きシートが手放せない最近です。 そんな夏に僕も休暇を取って実家に帰ろうとしています。
お盆ということもあり、 お墓参りから親戚へのあいさつをしようと考えています。
しかし今ふと思うが お盆についてあまり知らないなーと。。。 当たり前のように実家に帰り、 墓参りをして、祖父母の家で過ごすということを 毎年やっていました。
そこで今回はお盆について書いていきます。
ーーー目次ーーー ■お盆とは ■いつからがお盆なの?? ■お盆中にやることは?? ■意外と知らないお盆中にやってはいけないこと
■まとめ
ーーーーーーーー
■お盆とは
まずそもそもお盆とは?? 元々お釈迦様の弟子が苦し��でいる母親を救うために お釈迦様に教えを請い、従ってお布施や供養を 僧侶や多くの方々に施した功徳により 母親が極楽浄土に行くことができました。
結果として苦しみから救ったという話から お盆は先祖を偲び、供養する大切な日として 伝えられてきました。
お盆期間中は迎え火を焚くなどして お迎えをする日本の伝統行事です。
■いつからがお盆なの??
お盆の期間が変わったことを皆さんは知っていますか?? 明治時代以前はお盆は7/15を中心にして、 13日に迎え火、16日に送り火を行っていました。
時代の進むにつれて7月は農作業などの繁忙期と重なるため 1か月遅れた8/13~16をお盆とすることが多くなりました。
ただ今でも東京や神奈川の一部の地域、沖縄では 7/15を中心とした7/13~16にお盆が行われる地域があります。
■お盆の準備するもの
1、提灯 新盆を迎える家で用意をします。 ※新盆:故人の四十九日が済んだ後、初めて迎えるお盆
2、盆棚 精霊をお迎えする祭壇 ござ、まこもを敷き、中央に位牌を置きます。 ナスやキュウリで作った牛、馬や精進料理のお膳、 夏の野菜、果物などを お供えします。
3、お寺での法要と棚経 僧侶が家をまわり、お経を読んでいただくという習わしがあります。 新盆の場合、僧侶を家に招き、法要をお願いします。 親せきや知人などを呼び、故人の供養をします。
4、迎え火、送り火 <迎え火> 「ほうろく」という素焼きのお皿の上でおがらを焚きます。 13日の夕方に家の門口などで迎え火を焚き故人の霊を迎えます。
<送り火> 15日の夜、もしくは16日に焚いて盆送りをします。 精霊流し、灯籠流しなどで送る地域や宗派もある。
■意外と知らないお盆中にやってはいけないこと 1、むやみな殺生 厳格な家では肉や魚を使わない精進料理飲みを食べて過ごす。
2、海や川などの水辺に近づいてはならない 三途の川につながりが深いと考えられていて お盆の期間はあの世とこの世の境界があいまいとなっているので 注意をする必要がある。
3、引っ越しや入籍は避ける お盆は霊を供養する期間にあたるので お祝い事を避ける風習が日本にはある。
■まとめ 今回お盆のことをしらべてみて 父、母から教えられてきましたが なぜそれをやるのかなど 意味合いの部分で知らないこともありました。 お父さん、お母さんがしてくれたことを 次は僕が受け継いでいきたいと思いました。
今回はここまで ��こまで読んでいただきありがとうございました。
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2022-07-28 thu
代代代「破壊されてしまったオブジェ」
https://daidaidai.link/
代代代 are 梨央 宮衣紗羽 丹南偲穂 出雲なる
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沖縄県本島世界遺産
①今帰仁城跡(なきじんじょうあと)
琉球が統一される前の〝三山時代〟に築かれた「北山王の攀安知(はんあんち)」の居城跡。
沖縄県内最大級の規模を誇る今帰仁城は自然の地形にあわせた美しい曲線で約1,500mの城壁と背後に聖域クボウ御嶽を控えた〝神の城〟の異名を持つ。
城壁の高さは最大8mで、標高約100mから望む海は絶景。
1月下旬~2月上旬にかけて『今帰仁グスク桜まつり』北部観光の定番スポットと知られている。
②勝連城跡(かつれんじょうあと)
与勝半島から360度の展望は圧巻の構えが見所の勝連城跡は、12世紀後半に造られたと云われている。
15世紀初頭に伝説の多い「阿麻和利(あまわり)」は、沖縄本島の中心から東海岸一帯を一望できる立地から海外貿易の拠点として有力な按司(あじ)になる。
按司(あじ)は「地方豪族」の領主であり、琉球王に成るために首里城に攻め入るものの敗北した。
琉球古典舞踊の現代版組踊「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)」で知られている伝説である。
③座喜味城跡(ざきみじょうあと)
築城家と云われる按司(地方豪族の領主〝あじ〟)「護佐丸」が15世紀前半に築城したと伝えられている。
見所は、沖縄本島に現存する最も古いと考えられている「切り出した石で組んだアーチ型の石門」で、クサビ石がはめ込まれたアーチ状の門は他の城では見られない独自の様式である。
また、城壁の形状は〝屏風〟に例えられる優美な曲線で、敵の侵入を防ぎ非常に崩れにくい構造になっている。
標高125mの丘からは、西側に残波岬、北は伊江島、晴れた日には慶良間諸島も眺めることができる絶景スポット。
冬季には、城のライトアップがされ幻想的な姿を見せる。
④中城城跡(なかぐすくじょうあと)
沖縄県本島5ヶ所に現存する城跡の中では最も原型を留めている中城城跡は〝日本100名城〟に登録されている城跡で、15世紀後半に「護佐丸」が築城したと伝えられている。戦火から逃れ約80%が当時の姿で残る奇跡の城跡としてパワースポットとされる。
座喜味城を築いた手腕で「亀甲乱れ積み」と呼ばれる石切積みの技法は、護佐丸が〝築城家〟と呼ばれる所以。
標高160mの石灰岩大地にブロック状に積み上げられた城���は、東シナ海を拡く見渡せる鬼門方角から裏鬼門の方角に一直線にに延びているのが特徴的で沖縄本島の約半分を眺望できる。
2013年から毎年11月には、光と音楽を融合させた「世界遺産中城城跡プロジェクションマッピング」のイベントでは、城郭と見事に調和した美しいアーチ門をステージに繰り広げられる沖縄伝統芸能のショーは、秋の観光イベントとして人気。
⑤首里城跡
1429年頃「北山(ほくざん)」「中山(ちゅうざん)」「南山(なんざん)」の3国で勢力を争っていた時代を統一させ〝琉球王国〟を建国した〝尚巴志(しょうはし)〟の居城。
三山時代の尚巴志は「中山」の王で、琉球王朝時代末期を描いたNHKのドラマ「テンペスト」で有名になった。
太平洋戦争で首里城の城郭は全て破壊され、正殿も完全に焼失したが、首里城本殿の遺溝が一部発見され考古学的に���要と認められ〝遺溝の一部分〟のみが世界遺産に登録された。従って、正殿や城郭などは世界遺産ではない。
正殿や城郭は全て戦後に復元整備されたもので、2019年10月31日に火災で焼失したが、世界遺産の部分は残っている。
毎年1月と11月には史実に基づいた行事を再現するイベントが開催されている。
⑥園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
首里城守礼門の手前に造られた石造りの礼拝所が世界遺産に登録されている。
目の前に鎮座する守礼門に目を奪われて見逃ししまうほど地味な佇まいで、守礼門に向かう左側にある。
石造りの礼拝所は、国王が首里城から出る時に安全祈願した礼拝として琉球固有の宗教建築物と伝えられている。
1519年に八重山の石工技師〝西塘(にしとう)〟が造ったとされる石細工で、繊細な装飾から当時の技術力が見所。
⑦玉陵(たまうどぅん)
1501年に自然の崖壁に穴を開けただけの中室・東室・西室に分けた墓室は、約400年の間琉球王朝の王家として統治していた第二尚氏の陵墓。
玉陵は国指定記念物史跡として国指定有形文化財建造物指定され、2000年に世界遺産登録となる。
300円の観覧料が必要。
⑧斎場御嶽(せいふぁうたき)
琉球神話の〝アマミキヨ〟が創った聖地とされ、スピリチュアルなパワースポットとして話題になった。
琉球王国の時代、最高位神官の即位式〝聞得大君(きこえおおきみ)〟の神事を行う「大庫理(うふぐーい)」と三角形の洞門「三庫理(さんぐーい)」は、琉球の神人(かみんちゅ)集合する場所とされる。
300円の観覧料が必要。
⑨識名園(しきなえん)
1799年に王族の別邸として造られ別名「南荘」と呼ばれる回遊式の庭園は、戦時中に日本軍の弾薬庫が置かれていた為に米軍の集中攻撃を受けて壊滅した。
現在は中国に忖度した琉球王国を偲ぶ別荘として復元されたもので「正門」や「勧耕台」なども全て近年復元されたもの。
世界遺産に登録されているのは、園内の石畳道の途中に小さな石が密集した僅かな範囲〝石畳の一部〟が世界遺産となっている。
石灰岩の石垣は古く見えても全て戦後に積み直しているので世界遺産ではない。
沖縄県では「シチナヌウドゥン」と呼ばれている識名園は、文部科学大臣が指定する日本国内に僅か36ヶ所の「特別名勝」として県内唯一の場所になったている。
400円の観覧料が必要で園内は飲食禁止。
⑩沖縄島北部7,721ha「国頭村〝やんばる〟」
2021年7月26日に国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」の登録を公表。
本島北部の登録区域は国頭村「与那覇岳の頂上とその周辺」〝7,721ha〟とされる。
しかし、首里城や識名園などと同様に拡大解釈され、隣接する大宜味村、東村を統合する「やんばる三村」と呼び世界遺産の恩恵を受けようと3つの村全体が世界遺産と主張している。
また「やんばる国立公園」を持つ名護市や今帰仁村、本部町、恩納村、宜野座村、金武町まで完全に県外のエリアでも世界遺産の範囲と主張しているところが〝沖縄県民らしい〟
【世界遺産】
沖縄本島で最も高い503mの〝国頭村与那覇岳〟は標高400m以上の山地が島の中央部に向けて分水嶺(ぶんすいれい)を構成する脊梁山地(せきりゅう)で、その山頂部分の6,517haが1956年(昭和31年)10月19日に指定天然記念物となり、1972年(昭和47年)5月15日には天然保護区域に指定された山原(やんばる)の世界遺産のエリアは国頭村に限定される。
沖縄本島は、南北110km、東西10kmの島で、中南部は「島尻マージ」「ジャーガル」と呼ばれる隆起サンゴ礁石灰岩土壌と泥灰岩の風化土壌という弱アルカリ性の土地で構成され、さとうきび等の葉野菜類が多く栽培された。
一方、北部は「国頭マージ」という強酸性の土壌で南部とは全く違う。
その為「パイナップル」や「スイカ」といった果樹が多い。
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細野晴臣がアメリカで初開催したソロライブ・ドキュメンタリー映画「SAYONARA AMERICA」が12月24日から上映
細野晴臣がアメリカで初めて開催したソロライブを収録したドキュメンタリー映画「SAYONARA AMERICA」が12月24日からDenkikanで上映されます。世界中でシティポップがブームとなり再評価の機運が高まるなか、2019年にデビュー50周年を迎えた細野晴臣。前年に開催した台湾、香港、ロンドンでの公演に続き、憧れの地、アメリカで初のソロライブをニューヨークとロサンゼルスで開催しました。コロナウイルスが蔓延する前のマスクがなかった世界を偲んで完成したライブ・ドキュメンタリーです。
【タイトル】
SAYONARA AMERICA
【日時】
令和3年12月24日(金)~
【会場】
Denkikan
熊本県熊本市中央区新市街8-2 デンキカンビル 2F
http://www.denkikan.com/
【関連リンク】
映画「SAYONARA AMERICA」ウェブサイト
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Collections of Hiroki Kikuta’s blog
1997年秋から1999年末まで携わった、 「クーデルカ」という仕事は、僕の人生の中で大きな意味を持つ。 嬉しかったこともあり、残念だったこともあり、しかし、制作に費やした二年間は、 無駄ではなかったと、今振り返って思う。 サクノス立ち上げに助力していただいた、元セガ副社長の故藤本敬三氏の思い出。 ロサンゼルスはウエストハリウッドでの夢のようなモーションキャプチャーセッション。 胸に浮かぶままに、語るべきことは尽きない。 ここでは、写真、設定資料、デザイン画を中心に、ゲーム制作のプロセスと、 その印象を綴っている。 クーデルカのための宣伝用イラストレーション/1998 岩原裕二 部分 このサイトは、1999年12月にプレイステーション向けホラーRPGとして発売されたゲーム「クーデルカ」のディレクター菊田裕樹が、制作資料の掲載や作品解説を目的として運営するものです。ゲームをプレイしてくれたユーザーが、より深くクーデルカの世界とその魅力に親しんでもらうために、僅かなりと助けになれれば幸いです。 --- 「クーデルカ」のモーションキャプチャーは、1999年1月、ロサンゼルスはサンタモニカにあるスタジオで収録された。技術面を担当したのはフューチャーライト。普段は「ゴジラ」等のハリウッド映画のSFXを担当している映像制作会社である。遡る1998年9月、僕はイベント系を担当する人員の不足から、それを全てモーションキャプチャーで賄うという構想を建てた。全体で見れば一時間をこえるイベントシーンを、手打ちのアニメーションとスクリプトで実現しようとすれば、5人がかりの仕事となる。しかも、一向に従来のRPGの域を出ない、面白みの無い方法だ。ゲームのドラマ部分を表現するために、効果的で、目新しくて、しかも大きな省力化になる方法として、モーションキャプチャーは画期的な試みだった。無論、問題はあった。技術的に不可能だというのだ。物語の性質上、最大4人を同時にキ��プチャーし、併せて音声も収録する必要があったからだ。僕はまず、日本国内のスタジオで実験をし、手応えを掴んだ。その結果、モーションキャプチャーは十分に魅力的な効果を生み出すという確信を得た。しかし同時に、僕の要求する仕様は日本国内では実現不可能であるということも分かった。だが、そこで諦めてはクリエイターが廃る。幸い、以前「双界儀」の録音でお世話になったデイブレイク社の大竹氏が、海外のコーディネイターに詳しいというので、畑違いながら探してもらったら、ロスにそれらしい技術を持った連中が居るという。早速連絡を取り、俳優のオーディション方々会いに行った。ところが実際に会ってみると、彼等も僕が考えるような仕様でキャプチャーをしたことがなかった。4人を同時に、音声もいっしょに、しかも数分に及ぶ芝居をいっぺんに収録する。そんなの聞いたことがない。しかし驚いたことに、面白そうだから是非やってみょうと、彼等は言ったのだ。新しいことにチャレンジするのが嬉しくてしょうがないスタッフ達。こうして、この前代未聞の試みは実現したのである。 クーデルカを演じてくれたヴィヴィアンとエドワードを演じてくれたマイケル。100人程のアクターをオーディションした中から選んだ人達だ。アメリカのアクターの層は厚い。皆、良い作品に出演することを夢見て、演技の勉強をし、技術を身に付け、レストランなどで働きながらハリウッド近辺で暮らしている。アメリカでは基本的に、どのような有名な役者でも、名前だけで出演が決まることはない。必ずオーディションをして、その役に本当に相応しいかどうかを確かめられる。彼等は、役の大小に限らず、それを勝ち取ることに真摯で、また仕事に臨んでも出来るだけ良い結果を残そうとする姿勢を崩さない。 セッションに参加してくれたスタッフ達。フューチャーライト側から、モーションキャプチャーの陣頭指揮にあたってくれたダン・マイケルソンをはじめ、プログラマーのランディ、エンジニアのジョン。彼等は4日に及ぶセッションの中で起った、様々な問題に素早く対処してくれた。日本側から、クーデルカのモーションを担当した竹原君。IPG側から、わざわざこのコーディネイトのためにニューヨークから駆け付けてくれたポール。そして、サウンドエンジニアのキース。 写真中央、このセッションのディレクションを全て担当してくれた、IPGから参加のデビッド・ウォルドマン。彼は日本でビデオクリップのADをしていた経歴があり、日本語が話せたため、今回の仕事に適任として選ばれた。映像制作の現場でのノウハウや、その進行に関して、彼に学ぶところは大きかった。その後、ロスでムービーキャメラマンの学校に入り、本格的に映画制作を志しているらしい。左は、デビッドの女房役のADであるクレイグ。右に居るのは、9才のシャルロッテ役を演じてくれた12才のサラ・パクストン嬢。その可愛らしさで、スタジオの人気者だった。しかし、プロとしての意識は本物で、長台詞を覚え、慣れないキャプチャーに戸惑うこともなく、見事に演じてみせた。下の写真は、キャプチャーセッションに先立つ、リハーサルの時のもの。近くのホテルで部屋を借り、本番の時と同じように、全ての芝居をチェックする。この時キャラクターはどんな気持ちなのか、何を考えながら演じればいいのかを、ひとつひとつ、押さえていく。このシーンは、クーデルカとエドワードが、オグデンとベッシーにスープを振舞われるところ。中央に、いかにも人の良いおばさんを演じてくれた人の良いおばさん、デニス・ホワイト。 スタジオというよりは工���といった有り様だが、実際すぐ横にプロップを組み立てる工房があったりした。一応サウンドステージとして作られてはいるのだが、防音がしっかりしていないため、上空を飛ぶ軽飛行機の音がうるさくて、撮影が中断したのには参った。真中に置いてあるのは、ジェームズら3人が大聖堂に入る扉が開かなくて悪態をつくシーンのための大道具。例えば、扉を叩く芝居が欲しい時に、何もないのにそういう振りだけしても、リアリティーは生まれない。扉を叩く時には、そこに扉があるべきだ。下の写真は、ゴミの山に埋もれてひっそりと稼動しているSGIのONYX。これに限らず、驚くような機材が、ごく当たり前に使われているのをあちこちで見た。聞けばそれらは全て、レンタルなのだという。こういう所にも、日本との状況の違いを感じた。右は、連日に及ぶ深夜の撮影で疲れ果てて眠りこける僕。 2000/11/25 菊田裕樹 --- ヴォイニッチ文書 部分 Emigre Document 紀元前5000年をさかのぼる昔、ブリタニアには高度な巨石文明を持った民族が栄えていた。今も島のあちこちに残るドルメンやストーンサークルは、現代科学を持ってしても不可能と思われるほどの彼らの技術力を、我々に示している。彼らはケルト人が到来するまで、全世界でも最も進んだ文化と文明を持つ民族であった。エジプトでピラミッドが建築される遙かに昔。中国、バビロニア、イスラエル、どの文化圏よりももっと以前に、ブリタニア全土に分布する巨石遺構は建てられたのである。 その力の秘密は、彼らの持つ宗教にあった。彼らは大地より湧きいでる生命の秘密に手をかける術を知っていたのである。生と死を操り、不死や、あまつさえ死者の再生をも我がものにし、労働力としての人間ならざる怪物を生み出し、高度な文明を築き上げた。それは自然の持つ輪廻の法則そのものを御する行いであり、神の為す神��に等しい。いや、彼らこそが原初の「神」だったのかもしれない。彼らはその「神を遙かに遡る世界の成り立ちの秘密」を、文字にして書き記すことはなかったが、その祭儀や術としてのノウハウは、ケルト社会のドルイド僧に引き継がれた。ドルイド僧は古代人の残した祭儀法を基盤に、自分たちなりの技術的アレンジを加え、古代人には及ばないまでも、天地の秘密を力に変換することを自らのものとした。 だが、彼らもまた、自分たちの慣習や宗教に関して書き残すことをしない。ケルト民族の在りように関して最初に言及したのは、まさにそこを征服せんとして兵を進めたユリウス・カエサルである。しかし、彼が紀元前50年頃に「ガリア戦記を」書き記す以前に、前4世紀頃ケルト民族と親交のあったアレクサンダー大王が、アレクサンドリアの大図書館に收めるべく、ドルイドの秘儀をギリシア語で文書化させていたのである。彩飾図版を交えて作成されたこの文献は、その任に当たった人物の名を取って「エミグレ文書」と名付けられた。 この文書は閲覧を禁じられた秘密の書として王宮の図書館に保管された後、戦禍を逃れて持ち出され、数世紀の間、各所を転々とする。その間にはキリスト教の成立やローマカトリックの隆盛などがあるが、6世紀に入り、アイルランドに様々な修道院が建設され、写本事業が盛んになった結果、イタリアの片田舎に忘れられていた「エミグレ文書」は、リンデスファーン島にある写本で名高い修道院に持ち込まれた。だが、ギリシア語に堪能でない彼らは、内容の美しさや彩飾の艶やかさに目を見張りこそすれ、文書の持つ本当の力に気づくことはなかった。 9世紀に入って、度重なるヴァイキングの来襲により、蔵書の保存に危機を感じた修道院は、重要な文献を各地に避難させ始める。アイルランド生まれで敬虔な信者であるヨアヒム・スコトゥスとダニエル・スコトゥスの兄弟は、大修道院長より「エミグレ文書」を託され、その内容に驚愕した兄ヨアヒムは弟ダニエルをウェールズの辺境にあると記される聖地へ赴かせ、自らは写本を携え、フランス王の元に庇護を願い出た。弟ダニエルは聖地で修道院を建て、祈りを捧げて一生を終わる。兄ヨアヒムは碩学として歴史に名を残すが、その死後、ローマ法王庁に写本を接収されてしまう。 キリスト教を脅かす力を持ったこの文書は、ローマ法王を恐怖させ、禁断の書物として誰にも閲覧を許すことなく、書庫の奥底にしまい込まれたが、13世紀になってその損傷の激しさから、新たな写本を作る必要が生じ、当時最高の知識人として名高かったフランチェスコ会修道士ロジャー・ベーコンにその任が与えられた。彼は10年にも渡ってフランスに幽閉され「エミグレ文書」を精確に複製することを強いられたが、その過程で文書の知識は彼の物となった。秘密を守るため彼をそのまま監禁し、二度と世に出すまいという法王庁の意図とは裏腹に、彼は密かに外部と連絡を取り、自らが解読した文書の示す聖地へ赴き、生命の秘密を探る試みに取りかかるべく、着々と準備を進めていた。 彼は、先にダニエル・スコトゥスが建てた修道院を改修し、実験施設となるべきゴシックの大聖堂を建築させた。そこで彼がどのような秘術を試みたのかは、記録に残っていないが、法王庁の手を逃れフランスを脱出した彼は、二度と姿を現すことはなかった。彼は、姿を消す前に、新たな一冊の写本を残している。エミグレ文書の記述を元に、ウェールズ語の暗号で書かれたその写本は、聖地の修道院に残されていたが、16世紀になってエドワード・ケリーとジョン・ディーによって発見され、新たな写本として書き直され、さらにローマの修道院を経て、20世紀になって古物商ヴォイニッチによって再発見され、ヴォイニッチ文書と名付けられて、現在エール大学のベイニック図書館で閲覧できる。 また、ロジャー・ベーコンによって複製された「エミグレ文書」写本(原典は破棄された)は19世紀までヴァチカン宮殿の奥深くに秘蔵されていたが、1890年頃何者かに盗み出され、以後その行方を知る者はいない。ダニエル・スコトゥスが建てた修道院は1536年の修道院廃止例の後、政治犯や重要犯罪人を拘留し処刑するための施設へと転用され、聖なる場所で多くの人命が闇に葬られた。 (設定資料より) 2000/10/25 菊田裕樹 --- 2000/10/25 Hiroki Kikuta Koudelka Iasant 1879年生~没年不詳。イギリスはウェールズの田舎、アバージノルウィンの寒村生まれのジプシー。幼い頃から強すぎる霊能力を持ち、様々な怪異を起こすため、呪われた存在としてジプシーの世界から追放される。1888年9才頃ロンドンで霊能力者ブラヴァツキー婦人に拾われ、秘蔵っ子として厚遇されるが91年婦人が他界すると共に、再び放浪の旅へ。普段は霊媒として失せ物を探したりして、糊口をしのいでいる。 年は若いが、世の中の事情を一通りわきまえたところがあり、良く言えば大人、悪くいえばすれっからし。普段はあまり明るい顔をせず、大体において不機嫌そうで態度が悪いが、時折女らしいところを見せる。差別される者や愛されない者に肩入れする傾向がある。自分を表現することが下手。 (登場人物設定資料より) Notes クーデルカという名前は、著明な写真家であるジョゼフ・クーデルカから採ったものだ。口にした時の不思議な響きと、民族や国籍を感じさせないところが気に入って、名字ではなく名前として使わせてもらった。手元の資料を見ると、キャラクターデザインの岩原裕二氏にコンペ用のスケッチを発注したのは1998年の3月26日だが、遡る2月10日の段階で、僕はゲーム全体の進行手順と、シナリオの箱書きを完成させていたし、キャラクターの心理設計も完全なものとなっていた。クーデルカはジプシーの出身である。彼らはインドをもっとも古い故郷とし、放浪に生きる人々で、自分たちのことを誇りを込めてロムと呼ぶ。それは人間という意味である。一般社会の人間たちとは隔絶され、自分たちの血縁関係の中だけで生きている彼らにとって、追放はもっとも苦しい罰となる。クーデルカはその特異な能力ゆえに、子供の身でジプシーを追われることになった。僕は彼女を、どこにも安住することを許されない、最も孤独な存在として設定した。平和で豊かな暮らしの中に、彼女の居場所は無い。呪われた魔物や幽霊が跋扈する、廃虚の暗闇の中にだけ、か��うじて自分を置くべき空間を見出せる。クーデルカは、そういう悲しい存在なのである。 岩原氏はこのプロジェクトのために、100枚にも及ぶキャラクタースケッチを描いた。クーデルカだけでも数十枚になるが、そのほとんどはポリゴンによるモデル化のための制約から来る衣装デザインの試行錯誤であり、キャラクターの本質部分に関しては、最初から完成形に近いものを掴んでくれていたようだ。また、氏にはゲームの制作に先行して角川書店の雑誌で漫画連載を始めてもらい、ゲーム設定の1年後のストーリーという立体的な構成で、物語の厚みと魅力を増すことに貢献してもらった。 クーデルカのポリゴンモデルは、当時広島のコンパイル社の倒産で行き先を捜していた渡辺伸次氏に、経済的に援助するということで東京に移り住んで制作してもらった。彼は同社の仲間とCGスタジオであるD3Dを設立した。そのころの彼等には全く実績が無かったが、見せてもらったプロモーションムービーのキャラクターの動きに並ならぬ情熱を感じ、彼等と一緒に新しいチャレンジをする気になったのである。しかし実際、キャラクターのモデリングは難航した。ゲームスタッフ側の無理解も大きな原因だったが、D3D側もクーデルカほど高いレベルのモデルを作るのは初めてとあって、試行錯誤のために何ヶ月も時間が必要になった。リテイクに次ぐリテイクの嵐。最終的には、僕自身が彼等の後���に付いて、鼻をもう少し縮めてだの、唇をもう少し上げてだのと細かく指示を出し、なんとか納得のいくものに仕上がるまでに半年近くかかっている。 モーションキャプチャーにおいて声と演技を担当してもらったヴィヴィアン・バッティカ嬢は、米サンタモニカ・スタジオで行ったオーディションの中で、クールで独特の色気があり、抑えた芝居の出来る人として選定した。ただ可愛いだけではなく、クーデルカの持つ陰の部分を表現するためである。彼女自身まだ若く経験も浅いとはいえ、その熱意と努力は相当なもので、10分にも及ぶ長丁場の芝居、何十行もある長台詞を、たった数日で完全に頭に入れて撮影に臨む辺り、なるほどプロというものはこういうものかと感心させられた。度重なる技術的不備にも嫌な顔をすることなく、エドワード役のマイケル・ブラッドベリーと現場の雰囲気を明るく盛り上げてくれたことには、感謝の言葉もない。 2000/10/25 菊田裕樹 llustrated by Yuji Iwahara このページ内の全ての画像及び文章の著作権、版権、複製権、二次使用権は全てその正当な著作者、権利所持者に帰属します。よって、無断複製、無断転載を含め、著作権法に違反する形態でのあらゆる利用を禁止します。 All Rights Reserved 1997 1998 1999 2000. クーデルカは(株)サクノス・SNKの登録商標です。 All Rights Reserved (C)SACNOTH/SNK 1999 --- Nemeton Monastery イギリスはウェールズ地方。アバースワースにほど近い、海沿いの断崖に、人気もなく廃墟と見まごうようなネメトン修道院がある。ちょっとした公園ほどもあるその敷地の中には9世紀頃に建てられたと思われるロマネスク様式を色濃く残した修道僧の宿坊をはじめ、13世紀頃に建てられた飛び梁も美しいゴシックの大聖堂、会堂をかねた図書館、鐘つき堂、屠殺場を兼ねた炊事場、処刑台に使われた東屋、近代になって建てられた宿舎などが、全体を囲む壁と一体化して並んでいる。16世紀に修道会を禁ずる制令が発布されるのを待たずして寂れ、廃墟と化したこの場所は、17世紀に入って政治的な犯罪者や虜囚などを閉じこめたり処刑したりする目的に使用された。今でもどこかに地下牢が隠されているといわれている。近代になって、訪れる者も居なくなり、荒れるに任せていたのを、ある資産家が物好きにも買い取って移り住んだが、程なくして彼は姿を消し、後には様々な憶測と噂だけが残った。あるいは、財宝が隠されたまま埋もれているといい、あるいは、悪魔が彷徨っているといい。再び廃墟と化したこの修道院を訪れるのは、人目を避ける犯罪者や一攫千金目当ての食い詰め者だけだった。 (制作資料より抜粋) ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 1998年2月の段階で、ゲームの進行に伴う、マップ全体像の設計は、ほぼ出来上がっている。八棟の建物、地下道、墓地など、全部で100個見当の区画からなる構成で、イベントと連動して移動できる範囲が拡がっていく。実は、このような閉鎖された空間を舞台として設定したのは、単に演出的な意図によるものではなく、人的物理的制約による結果なのである。例えば、高度に訓練されたグラフィックスタッフが20人居るならば、一年間に500から600枚を超える背景画を制作することが可能だ。しかし、楽観的に考えても数人が限度と思われる人材確保の現状を前提にすると、およそ100マップ200~250画面が、用意できる背景数の上限と見なければならない。一般のRPGのように、ワールドマップがあって幾つもの街があって、などという仕様は、最初から無理。そこで、極めて限定された空間を設定し、それを有効に活用しつつ、様々な雰囲気のバリエーションを提供できるような仕掛けを考案した。それがホラーRPGという枠組みだったのである。 ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 ネメトン修道院を構成する建物群は、そのひとつひとつが、建てられた年代も、目的も異なるものである。各々の建築様式の違いは、ドラマの進行と相まって、ユーザーを飽きさせないための装置として機能する。扉を開けて新しい建物に入る度に、物語が次なる展開を迎えたことを実感してもらうために。微にいり細にわたり、緻密に作り上げることが、あたかも実際にそこに居るかのような臨場感を生む。そのために最も必要だったことは、実際の建築物を参考にすることであった。 ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 物語上でアバースワースとしたのは、アイルランド側の海岸にその場所を置きたかったからだが、98年8月にスタッフを伴って訪れた実際の取材は、ウェールズの下側に位置する観光地ペンブロークシャーを中心に行った。その一帯は、草原から突然に切り立った断崖が現れ、地平線の彼方まで続く、不思議な景観の土地である。その周辺に夥しい数の修道院や城跡が存在する。あるものは往時を偲ばせて健在だが、ほとんど廃虚と化した遺構も多い。セント・デイビッド教会は、中世そのままの姿で我々の目を楽しませてくれると同時に、石造りの聖堂が持つ、独特な雰囲気を理解するのに役立った。また、垂れ込めた雲と雨が作るどんよりとした暗い空気は、実際にその場に立ってみないとイメージできないものである。近辺の修道院の壁や石組みを大量に撮影して、3Dモデル用のテクスチャーとして使ったのも、大きく意味がある試みであった。 さて、ネメトン修道院の大聖堂はゴシック建築として作られているため、本当ならば、その常として側廊が無ければならない。ゴシック建築は荷重を分散する構造にすることで壁を薄くし、ステンドグラスの設置を実現しているからである。しかし、ゲーム仕様上の制約としてプリレンダリングのマップを考えた時に、多数の柱を立体的レイヤーとして配置することが困難であるために、内部を単純な箱型にせざるをえなかった。外側から見ると、飛び梁様の補強柱が一定間隔で取り付けられているが、現実の物として考えれば、全体の重量を支えるために、壁自体もさらに厚くせざるをえないと思われる。なお、大聖堂頂部の鐘突き堂は、そのものが飛び梁によって構成されている特殊な形式だが、これは架空の物ではなく、実際に存在するスタイルであることを付け加えておきたい。 2000/10/25 菊田裕樹 --- Library : クーデルカという物語 By 菊田 裕樹 – 2000年 3月 28日Posted in: Library, Library : ARTICLE クーデルカという物語 2000年3月 公開 このサイトを御覧の方には僕の制作した RPG「クーデルカ」を未プレイの向きも多いと思う。 手短に説明すると、19世紀のイギリスはウェールズの 片田舎にある今は廃墟同然と化したある修道院を舞台に、 クーデルカという19才のジプシーが出会う様々な 怪異をテーマにした、いわゆるモダンホラーと 呼ばれるジャンルに属するゲームである。 僕はこの作品のコンセプトに始まり、キャラクター設計、 マップ構成、シナリオ、ムービーや モーションキャプチャーイベント部分の ディレクション等など、様々な種類の仕事をした。 基本的な部分の組み立てには約3ヶ月ほど要しただろうか。 全部で100冊以上の本に眼を通したが、 物語の発想の土台となったのは、 「幽霊狩人カーナッキ」という本であった。 短編集で、主人公である怪奇現象研究家カーナッキが、 様々な「怪異」と「怪異に見えるもの」に遭遇し、 あるものは解決し、あるものは良く分からないまま 終わる(笑)という、味わいのあるホラー小説集だ。 興味のある方は是非一読されたい。 さて、僕が物語を組み上げる段階でこだわるところは、 歴史上の事実を曲げないということである。 実際に起こったとして、記録に残っている様々な事件を、 相互に関連付け、その隙間を虚構で埋めていくという やりかたが僕は大好きだ。 同じ嘘をつくのでも、まったく根拠も無く考えるのと、 事実に基づいてその基盤を組み上げていくのとでは、 細かい部分でのリアリティーが違ってくる。 だから、クーデルカという物語には、 プレーヤー諸氏が考えているよりも、 ずっと多くの史実が含まれている。 エドワードやロジャーが実在の人物である事など、 歴史に興味のある方は、調べてみられるのも一興かと思う。 1898年は科学と迷信がせめぎあう世紀末の、 まさに移り変わる一瞬を捉えて興味深い時代である。 明ければすぐに1900年、近代科学文明の浸透の 象徴ともいうべき、パリ万博が開催される。 そしてそれこそが、僕がクーデルカの続編と 目論んでいた物語の舞台なのである。 ウェールズを描くために、ロンドンやペンブロークに 足を運んだのと同じように、僕はパリやベルギーに 取材をするつもりだった。 (パリ万博に出展されていた建物が、当時の ベルギー王の要望で買い取られ、 ブリュッセルに現存するのだそうだ) 会場から郊外��結んで建設された地下鉄と、 そこで起こる怪異。エースネクスト誌連載中の 漫画版のエピソードを終えたクーデルカが、 拠ん所ない事情でパリを訪れ、地下に巣喰う 亡霊どもの争いに巻き込まれていく。 実はクーデルカの続編は、僕の頭の中では4作目まで 出来ている。第一部イギリス、第二部フランス・・・ とくれば、第三部はアメリカである。 時代は大きく跳んで、1973年アメリカはシカゴ。 主人公は、シカゴ大学で教鞭を取る文化人類学者、 クーデルカ・ロードメル。 クーデルカの娘アメリアが後に渡米して産んだ子供で、 つまりは孫だ。ベトナム戦争末期とあって、 帰還兵が持ち帰ってしまった悪霊が、 様々な殺人事件を引き起こすのを、まだ生きている ロジャーの助けを借りて解きあかしていく。 (ちなみにロジャーはスーツを着て出てくる)(笑) そして第四部は1984年奈良。 関西大学で教える友人の宗教学者の元を訪れたクーデルカは 何者かに命を狙われ、陰陽師や式神と戦う羽目になる。 奈良の巨石墳墓や京都の町並みが、 雰囲気造りに一役買うだろう。 残念なことに、今のところ僕がそれらの 続編を作る予定はないが、 小説のようなものであれば、書いてもいいかなあと思う。 Story of Koudelka : Library --- Haven: On Koudelka, you served as producer, writer, and composer. What were some of the goals you accomplished in taking on these various responsibilities? Were there ways in which the project could have been better realized? Hiroki Kikuta: Let me begin by saying, whenever you divide up responsibilities among a group of people concerning the judgments that get made on a project, the end quality is bound to suffer as a result. To keep the quality high and the schedule organized on a project, it's better for as few people as possible to be making key decisions, and for them to be communicating within the group with as few conflicts as possible. The ideal situation would be for but one director to be delegated the responsibility of expressing his or her creative vision. That said, for Koudelka, I was pursuing that degree of creative control. To prepare, in gaining an understanding of the game's setting, I read about one hundred books on English history, touching on periods from the Medieval era to around 1900. It proved useful in discovering relevant episodes which could be incorporated into the story. Having several events to ground the plot in a kind of historical reality, I then started building on that foundation with some fictional events. For example, the character of Edward is based on an actual Irish dramatist named Edward Plunkett, 18th Baron Dunsany, while the woman who writes a letter for Charlotte is based on Sophie Dorothea of Württemberg. Roger Bacon is, of course, a historically famous philosopher. Also, the incident on the Queen Alice really occurred and is recorded in the captain's log of the vessel. By filling out the gaps in those historical events with fictional incidents, such as the Emigre Document and reincarnation ritual, I aimed at providing a realistic basis to the imaginary aspects of the story. Before production, some members of our staff went on a trip to Whales to gather information and capture the genuine atmosphere of the place with our own eyes. We demanded extreme accuracy in providing the background details, and we even used motion capture technology to provide culturally appropriate body language for the characters, techniques advanced enough to compete with the standards of the Hollywood industry at that time. Those challenges, which were provided by the passion motivating that project, were the real essence of Koudelka. Koudelka, "Patience," music sample I remember that I was reading the critical biography of James Cameron, who was making Titanic at that time, on the airplane to England. I was overwhelmed by his tremendous efforts to capture those startling images. At that time, I realized that it is necessary for creative work to have a degree of obsessive passion involved. I hope that some degree of that conviction had a positive result on the end product. --- As soon as it is in the year 1900, the Paris World Expo is to be held as a symbol of the penetration of modern scientific civilization. And that is the stage of the story that I was thinking as a sequel to Kuderuka. In the same way that I went to London and Pembroke to draw Wales, I planned to cover Paris and Belgium. (It seems that the building which was exhibited in the Paris Expo is bought at the request of the King of Belgium at the time and exists in Brussels.) The subway built by connecting the suburbs from the venue and the monster occurring there. Kuderuka who finished the episode of the comic version in the series of Ace Next magazine visits Paris due to circumstances that are not based, and is caught up in the strife of ghosts who nest underground. (The first line of the Paris Metro opened without ceremony on 19 July 1900,[4] during the World's Fair (Exposition Universelle - that is what is meant by subway) Actually, the sequel to Kudelka is made up to the 4th in my head. Part 1 England, Part 2 France · · · If you do, the third part is the United States. The era greatly jumped, in 1973 America was Chicago. The hero is a cultural anthropologist, Kurdelka Roadmel, who teaches at the University of Chicago. Kuderuka's daughter Amelia is a child who gave birth to the United States later, that is, it is a grandchild. With the end of the Vietnam War, the evil spirits brought back by the returning soldiers will solve various murder cases with the help of living Roger yet. (By the way, Roger comes out wearing a suit) (lol) And the fourth part was Nara in 1984. Kurdelka who visited the origin of a religious scholar of a friend taught at Kansai University is targeted to someone, and it will be fought against the Yin Yang masters and the expression god. The megalithic tomb of Nara and the townscape of Kyoto will contribute to the atmosphere building. Unfortunately, for the moment I have no plans to make those sequels, but if it's like a novel, I wonder if I can write it. --- RocketBaby: At what age did you become interested in music? Hiroki Kikuta: When I was ten years old, I met up with the music of Emerson, Lake & Palmer. I had never heard such marvelous music before. It was quite an impact for me. A few months later I heard that Keith Emerson was using a particular instrument called MOOG synthesizer. RB: At what age did you start writing music? HK: When I was twelve years old, the Folk blues movement came over to Japan from America. I studied Acoustic Guitar and started to create an original song immediately. I wanted to be a singer/ songwriter... if I wasn't a terrible singer. Actually, Digital equipment opened up my potential as a music composer. Without a musical sequencer, I can't create any complicated tunes. When I first acquired a YAMAHA SY-77 synthesizer/sequencer, I felt as if I got a ticket to a different world. RB: Why did you start Sacnoth? HK: I had held many original ideas about video games and visual expression for a long time. The most important purpose is to create an entertainment. When I was searching for a way to achieve my dream, I met a dominant business advisor. He introduced me to the chairman of SNK. I told him about many pitfalls that every existing RPG had. I thought those were lacking a comprehensive insight and a integrative interpretation. It is a structural defect of game production. To resolve the problem, it is necessary to get the picture of each element of game creation at the same time. I have an ability to do that. I established a company SACNOTH and took up my position as CEO in order to produce a new horror RPG project, Koudelka. But unfortunately... Though I conceived a grand scheme to realize an innovative game system and visual expression, many old staffs from SQUARE were not able to accept real change without hesitation. I say that the person who will have no change is already dead. After termination of Koudelka project, I retired as CEO of SACNOTH. It was my choice. RB: As a composer how should music effect the game? As a developer how should the music effect the game? HK: A music composer wants to create a good tune with utter simplicity. But if you want to create a good game as a developer, it is not enough. Because good music does not necessarily fit a good game. The most important problem is adjustment of each of the elements. If the visual element exactly synchronizes with the musical element, a dramatic effect will be generated.. And I take it for granted that everybody wants to hear a good melody in the end. RB: What were your influences for Koudelka? HK: In the first instance, I designed all concepts and fundamental settings of the Koudelka's world. I gathered various graphic and text materials in London and Wales. I did character design, map design, event design, scenario writing, direction of computer graphics movie, direction of motion capture... I got involved with all of the integral parts of Koudelka except battle and game system. Especially, I had no influence in battle section. I still have a great regret. I wish I could have designed it. And a quick digression, I consulted many movies and books for Koudelka. A most impressive movie is The Name of the Rose (Jean Jacques Annaud 1986). I also read the original book which was written by Umberto Eco. It is a definitely masterpiece. If you want to know some origins of Koudelka's world, you may read Carnacki the Ghost Finder written by William Hope Hodgson and The Case of Charles Dexter Ward written by Howard Phillips Lovecraft. Many fantasy novels by Lord Dunsany (His his full name and title is Edward John Moreton Drax Plunkett 18th Lord Dunsany) are also important. If you want to know about visual origin of Koudelka, see photographs created by Bob Carlos Clarke and Jan Saudek and Holly Warburton. Those are extremely exciting works. RB: How did you manage to write, direct and compose the music for Koudelka? HK: Writing a scenario. Directing a CG movie. Composing a BGM. Each of those is no more than a single face of game creation. When I imagined the world of Koudelka, I figure graphic elements and story elements and sound elements all at once. Because, those are mingled with each other organically. So I think that It is rather easy to manage multiple affairs. RB: What was the easiest aspect of working on Koudelka? What was the hardest? HK: The easiest aspect is music composing. Because I can create a music by my lonesome. It makes me free and I feel comfort. Hardest aspect is behind-the-scenes maneuvering of power game in company organization. I am so tired to do that. Let's get something straight, I am not a buccaneer but rather a creator. All aspects about creation are really pleasant for me. RB: Why do you make music? Why do you make games? HK: Music composing is a natural behavior for me. Like breathing. I usually conceive a good melody and a harmony without suffering. So I have no reason to make music. I think that it is my vocation. Meanwhile, creating video game is not my vocation. It is my wish. I want to produce high quality entertainment in the future. When I write a story and a plot, I usually suffer by myself. Though it is very hard and thorny, I feel maximum accomplishment. RB: What inspires your melodies? HK: Many great works of famous composers and musicians inspire me. If I must respect only one person or group as a music composer(s), I will take Pink Floyd. RB: What are your hobbies and why? HK: Good question. Riding bicycles is my hobby. I also love my yellow Peugeot MTB made in France. I also have some fun playing with my cat. She is extremely pretty. RB: When did you begin working at Square? HK: I began work at Square in 1991. I was twenty seven years old. In those days, the production studio of Square was placed in Akasaka Tokyo. It was small and homey, different from now. I remember that Nobuo Uematsu and Kenji Ito interviewed me in their office. We talked about progressive rock music and famous guitar player Allan Holdsworth with each other. I created sound effects for Romancing Saga at the start of my career. A few of graphic staff worked with me to design a lot of novelty sounds. We worked hard in night and day. RB: How much freedom did you have making music at Square? HK: In a sense, I had perfect freedom. Because, the planning staff of Square put none of the assignments relevant to the menu of music work and schedule in my hand. Nobody explained to me about game detail which they were producing. I had to think and imagine what kind of music was needed for our game project. Changeover,changeover, and more changeover of specifications. It was difficult to foresee the final image of it. But I did. RB: What is favorite game that you worked on at Square and why? HK: May be Seiken Densetsu 2 (Secret of Mana). I think that it was a pretty good game except for the big BUG. The multi player system was extremely fresh and delightful. In the aspect of music, I was fully challenged in regard to sound expression using 8 voice PCM system of SNES hardware. Please see and hear the opening sequence of Seiken Densetsu 2. It is so simple but so lyrical, isn't it? I am really proud of my visual direction and music composition. RB: Did Nobuo Uematsu influence your work? HK: I think there is no influence from Nobuo Uematsu. I have never taken any lessons about composing game music. The style and the melody of my music are totally conceived by myself. Just the same, every staff composer at Square were free from influence of somebody else. Originality and personality were cheerished in our studio. It was the policy of Nobuo Uematsu. RB: What are the best and worst memories that you have of Square? HK: Hmmm... Best memory... it seems a trip to MANA island of Fiji republic. After a production of the game Secret of Mana, I and my friend decided to visit an island placed in South Pacific Ocean. We played skin diving everyday and watched some corals. Those were extremely beautiful. It looks like a blue heaven. I will never forget the view of the sunset from Mana's beaches. It is one of my treasures. By the way... Worst memory is a dissolution of the game team in which I was supposed to participate. I wanted to propose an innovative game system using music and sound effects. RB: Who is your favorite Square composer and why? HK: I recommend Jin Sakimoto (Hitoshi Sakimoto). His works are extremely dense. RB: One of our favorite soundtracks of yours is Soukaigi. The sound quality and styles are some the best for a game. HK: Soukaigi has many characters of sound. I designed it with different complex styles. House music meets real performance, fusion meets folk choirÖÖ It was an adventure for me. To tell you the truth, the style of music does not a matter. I don't dwell upon it. Though I put a high value on counterpoint it does not bind me. It is only a method. In the case of Soukaigi, I was mainly influenced by East European pops like Varttina. RB: Why did you leave Square? HK: I wanted to direct not only musical expression but also visual expression. And of course, I wanted to write a fine scenario which is different from existing one. I had felt a big complaint against those juvenile works. But unfortunately, I couldn't get a chance to take a part in those kind of production works in Square. I suffered terribly for a long time. After all is said, I left Square and established new company Sacnoth to achieve my idea. RB: Do you perform your music live? HK: If I have a chance to do that, I wish to play my music as a live performance. I didn't make an attempt to do that in Japan yet. Do you want to hear my music in front of your eyes, ya? RB: Who would you like to make music with? HK: Jin (Hitoshi) Sakimoto. Because, I could not collaborate with him on composing game music when we were hired together by Square. I respect him. Except for game music composer, I want to collaborate with Allan Holdsworth, a fusion guitar player. His music is a miracle. RB: How do you think game music compares to other genres of music? HK: I think that is similar to movie soundtracks. It is important to synchronize the music with visual element. It has an expressive purpose. If you want to create a game music, don't forget to construct it as an emotional device. RB: How will the next generation consoles allow you to express yourself as composer and game designer? HK: I feel a strong attraction to X-box and Game Cube. A big visual capability makes me hot. I have many ideas to display fascinating characters using real time computer graphics. They will sing and dance and talk with real emotion. Don't you want to play the Musical RPG on Network? I want to play it. RB: What would your advice be to people who: A. People who want to create game music. HK: Listen to as much music as you can. Don't confine yourself to your room. The genre of music is meaningless. If you want to find your treasure, you must challenge the common practice at any one time. B. People who want to create games. HK: Video games are not art. They are an entertainment. You must amuse your audience first instead of amusing yourself. I am always conscious of the feeling to accommodate someone with a fun service. Can you create a lot of gimmicks for the player? If you work so hard and push yourself enough, the day will come to collaborate in some way with me for sure. Let's think of a next game together. RB: What is in the future for Hiroki Kikuta? HK: I will be involved in some new game projects that are not directed by me. I will be a technical advisor. I will create computer graphics and sounds. But soon, I hope to form my studio and develop my own game project. So now I am looking for new investors around the globe. RocketBaby would like to thank Mr. Kikuta for chatting with us.
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