#佐野厄よけ大師
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅳ
花鳥誌2024年4月号より転載
日本文学研究者
井上 泰至
6 葛城の神臠はせ青き踏む
大正六年二月十日、松山に帰省の途中で京阪に寄った。白鳥吟社主催堺俳句会(於開口神社)で出句。西山泊雲・野村泊月・岩木躑躅・原田濱人・島村はじめ・久保田九品太・青木月斗・大橋櫻坡子らが出席。『ホトトギス』の同年三月号「堺俳句会の記」に詳しい。
この句会は、大阪の『ホトトギス』派の旗揚げに位置する記念碑的な一件で、その詳細は櫻坡子の『大正の大阪俳壇』に詳しい。この句は『新歳時記』にも登録された、虚子の自信作である。大和と河内の国境に位置する葛城山の神一言主は醜貌の女体と言い習わされ、夜しかお出ましにならなかったと謡曲にも出てくる(「葛城」)。
その引きこもった神に向かって、麓の春を足で確かめて野遊びしております。「山の上からせめて密かに御覧ぜられ度い」(虚子自注「俳句朗読原文」)と悪戯っぽく詠んでみせたのである。「みそなはす」とは、「ご覧になる」の最上級敬語表現で、これまた謡曲に神を主体とした用例がある(「高砂」など)。
「臠」の字は画数も多く、呪術的なイメージを���来持つが、虚子の字は軽く「糸」の二か所が崩されていて、内容の「滑稽」と対応している。これは活字でなく、虚子の書によってこそ鑑賞が可能で、「臠」は一句の眼目であったことが了解される。
神や霊魂に命令形を以て呼びかける表現は、江戸俳諧からある。
塚も動け我泣声は秋���風 芭蕉
五月雨の空吹き落せ大井川 芭蕉
笈も太刀も五月にかざれ紙幟 芭蕉
これらの芭蕉句は、痛切な哀しみや祈りが託されているが、虚子は次にあげる蕪村の例などに学んだか(『蕪村句集講義』)。
裸身に神うつりませ夏神楽 蕪村
蕪村の敬語表現「うつりませ」は、祈りとともに一種の滑稽というか余裕があって、そこが夏の禊を「裸身」で具象化する視線と対応している。虚子も、「野遊」の軽々と晴れやかな気分を、この敬語の命令形に託した。命令形は、祈りではあるが、痛切なそれと、軽い挨拶の二種があって、この句は山本健吉の言う俳句の本質「滑稽と挨拶」の典型例と言ってよい。
ちなみに水原秋櫻子系の俳人の命令形には、自己に執着し、自己に言い聞かせる気分の命令形が多い。
木の葉降りやまず急ぐな急ぐなよ 加藤楸邨
柿若葉多忙を口実となすな 藤田湘子
逝く吾子に万葉の露みなはしれ 能村登四郎
このあたり、命令形の二系統は、俳人の質や俳句観をも照らしだす「鏡」と言ったら言い過ぎだろうか(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
7 雨の中に立春大吉の光あり
大正七年二月十日、『ホトトギス』発行所句会のものと『五百句』に注記される。
実景は雨だが、「立春大吉」の御札とその文字に、心中春の光を予感し、見て取る主観句である。もちろん、雨や雨粒にはわずかな光はあるかもしれない。だとしても、それを読み取ろうとする構えから生まれた心象を詠んだ句であることに変わりはない。特にこの句で詠まれた「光」に対する予感は、「立春大吉」の文字から触発されたものであることは、肚にとめておく必要があろう。
虚子の揮毫では、この「立春大吉」をことさら御札めいて、黒々と墨書したりはしていない。ただし、注意深く見ると「大吉」の「大」の撥ねと、後に来る「光」の字の撥ねとは、対応している。
そもそも「大」の字の運筆は、先に左に筆先を払い、取って返して右に払うもので、本来撥る字ではない。ところがこの句の虚子の「大」は右の払いの最後が若干撥ねていて、後にくる「光」の右撥ねの呼び出しになっている。こうして一句の眼目は、「光」であることが視覚的にも確認できるところに、虚子の揮毫で句を鑑賞する醍醐味が出てくる。
「立春大吉」とは、立春の時期に玄関や部屋の入口に張る厄除け札のことである。あたりは雨だが、外界との通路である門口に貼られた「字」から��眼には見えない「光」を感じた。その意味で中七を字余りにする「の」はこの句の重要なレトリックである。
一般に「中八」の言葉通り、字余りの中でも、中七を字余りにするのは禁忌とされる。俳句のリズムの研究は、五七五が実は休拍・無音の一拍を加えて、六八六であること、さらに前と後の六は伸びる傾向にあることを計測・実証した(別宮貞徳『日本語のリズム』)。これを前提にすれば、中七は延ばして詠まないものなので、ここでの字余りは、おおむねダレるのである。
ただし、上五で既に字余りがある場合、続く中八は字余りの反復となり、このダレが感じられない。所詮リズムとは反復と同義なのである。
春や昔十五万石の城下哉 子規
掲句も上五・中七の連続の字余りだが、掲句の「立春大吉」に、わざわざ「の」を加えた意図は何だったのだろう?類例を挙げよう。
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 能村登四郎
やはり「中八」を、堂々とやっているばかりか、上五に字余りはない。しかし、この句は「槍投げ槍に」ではいけない。あえて「て」を入れ、ひと呼吸を置くことで、投げた槍に歩み寄る主人公に焦点があたる。「槍」の繰り返しが独自のリズムを作っており、中八も気にならない(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
掲句で言えば、まず上五に「雨の中に」と「の」が用意周到に置かれている点が注目される。この字余りを際立たせる「の」の印象を引き継いで、「立春大吉の」の「の」があることが了解される。
加えて、「の」の繰り返しは、求心性をもたらす。
ゆく秋の大和の国の薬師寺の 塔の上なる一ひらの雲 佐佐木信綱
この庭の遅日の石のいつまでも 虚子
掲句も字余りの「の」の反復を行うことで、光など一切ない春の雨の中、「立春大吉」の文字にのみ「光」を感じたことを焦点化して見せたのである。
最後に、先の「葛城」の句との関係で言えば、神仏への祈りというテーマのつながりもある。このあたりに編集の妙を認めることも可能かと思う。
『虚子百句』より虚子揮毫
7 雨の中に立春大吉の光あり
8 さしくれし春雨傘を受取りし
国立国会図書館デジタルコレクションより
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井上 泰至(いのうえ・やすし) 1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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230105 2023→2024
あけましておめでとうございます2024
ということで年が明けました!
こんな日くらい家族写真を載せようかと思ったのだが、年末年始の家族四人が写った写真がおそらく1枚もなかった...なんてこった。というわけでなんとなく大晦日に撮った息子二人を貼りました。今年も私にとって世界一かわいい2人でいておくれ。
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今年は1/1から大きな地震があり、正直生きた心地がしないスタートだった。
私たちはその時、実家の車を借りて家から1時間くらいのところにあるスキー場を訪れており、ゲレ��デでもめちゃくちゃに揺れた。そしてとにかく海沿いの地域にあたる実家が心配でならなかった。
万が一津波が来る!ってなったとき、車がなかったら避難できないのでは?と不安が募る。幸いにして避難することはなかったので良かったのだけども。(お隣さんも高齢のおばあちゃんがいる我が家のことを心配して見に来てくれたそうで、いざとなったら車で乗せていってくれると話していたそうな。田舎のご近所づきあい、有難い。)
山から海の方に向かう形になる帰路につくと、普段車とすれ違うことなどほぼ無い山道で、対向車にガンガン出会う。みんな山のほうに避難している車たちということ。そんな中、海に向かうのは正直怖かった。改めて海沿いに住んでいるんだということを考えさせられる。
何度も鳴る地震警報の音は心臓に悪いし、とてもじゃないけれどご馳走を食べながらお酒を飲む雰囲気ではない。そんなお正月。
今年もスケートにソリすべりに(31日も1日もスキー場へ行った。庭に雪がほとんどなくて!)息子たち二人はたくさん楽しんでいたけれど、なんだかそんな思い出が霞んでしまうのも寂しいので写真だけでも楽しい思い出を。
31日は二人とも生まれて初めての年越し蕎麦を食べ、なんと0時まで起きていた!
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その後1/2群馬に移動。つむぐの手荷物が大荷物すぎ、ウケる。
親戚との集まりはいつも通りで、子どもたちが仲良さそうにしている姿は見ていて幸せ。しかしその夜に事件が勃発した。パパのリュックが見当たらないのである。なんと実家に来る時の在来線に忘れてきたみたいで、問い合わせたところとんでもなく遠い駅に届いていた��苦笑 本人も私も夜まで誰も気づかなかった。とんだポンコツ一家である。
翌日は栃木の駅までリュック(中には財布や会社スマホやiPad入り!!!)を取りに行き、帰りに有名な佐野厄除け大師に寄ってきた。
新年早々何やってるんだか、なので、全ての厄を落としてきたと思いたい。おみくじ、ぬいは大吉。あとみんな吉。私は「まだ動く時期じゃない」みたいなことが書かれていた。神様、転職のことを書いてますか!?苦笑
最後の2枚は義実家地元の小さな遊園地。乗り物券1枚70円というローカルな値段感が良い。じいしばあばと一緒に。
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どうも年末からついマイナスな出来事ばかりが目についてしまうのだけど、ここから辰のようにのぼるしかない!って思いたい!
去年の大晦日の日記を見返したら、穏やかで心地良いペースを見つけたいと書いていた。今年はそこから一歩踏み出して、自分がより充実していると感じる毎日を目指したい。自分がここから先どんな私として生活していきたいのか。しっかり考えて、できることなら満足した着地点を見つけたい。
最後は東京へ戻るところ。
体調も崩さず行って来れてよかったね
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2023.08.03
足利市立美術館に「顕神の夢ー霊性の表現者ー超越的なもののおとずれ」を見に行った。 元々JRの,のんびりホリデーパスを使い倒したいという願望があり,丁度端っこにある足利で展覧会をやっていることに気づき,数日前から通い��めた都立図書館の休館日に合わせて,急遽予定を組み立てた次第である。 何度かTwitterで見て興味はあったものの,足利ってどこだ,というくらいの認識で,なかなか行けそうには思っていなかった。けれども,私の住まう町から2時間半もあれば,到着してしまうことが判明し,東京ー広島間の4時間半に耐えた身としては,臍で茶を沸かすようなものだった。結局,修論も,見えないけれどある世界,と,どう対峙していくか,ということになりそうだし,逃れられないところに来ている。
降り立った町足利は,沼津にも似た地方都市で,基本的に駅の目の前は栄えていないことがわかった。街を歩いていると,古いものと新しいものが共存する姿は鳥取にも似ていて,面白さを感じる。街が造られた時代もあるのかもしれない。 事前情報では知っていたものの,足利市立美術館は,美術館の上にマンションタイプの住宅がある。いざ,目の前にしてみると,なかなかに奇妙な光景である。「足利市立美術館」と掲げられた文字の下に,団地のような佇まいの家々があり,その下にはガラス張りの美術館がある。それらは,平坦な足利市街からは,飛び出していて,より一層奇怪さを醸し出している。 平日の,開館から30分位しか経っていない時間なのに,会場にはそこそこの人がいて,面食らうとともに安心した。生物群さんのtweet(https://twitter.com/kmngr/status/1685286401242447872?s=20)にもあったが,”場の歪み”を感じた。あ,やばいところにきた,という感じで,鳥肌が立った。ここに一人で取り残されたらいてもたってもいられなくなるだろうな,という感じがした。
展示は出口なおの自動書記から始まり,次々と続いていく。最初に出口なおを持ってくるあたり,やってんな,と思う。字も書けない農家の一般女性が,神がかりにあった途端,神の言葉が書けるようになるなんて,なかなかどうして信じ難い。でも,彼女の筆跡は「かみさま」の「ま」だけ,どの字も大きく張り出していて,その緻密さが,歪で異常だった。 見えないものが見えるとは,こういうことか,と感心させられる。私が見えていないだけで,世界は存外広く豊かなものだと痛感させられる。宮川隆の絵が好きだった。人間の顔がみな仏の顔をしていて,あぁ見えちゃったんだな,と笑ってしま��た。京都の三十三間堂を思い出した。どこかに自分の知ってる顔の仏様がいる。線がとても良い。今川宇宙ちゃんが昔よく描いていた,イラストの線によく似ている。どこかで同じなのかもしれない。 花沢忍も良かった。図録に書かれていた,おばさんが夢に出てくる話はよく知っていることだった。私もそういう夢を見たから。だからこそ,そのことを,向こう側との垣根のなさに捉えているのが嬉しかった。おんなじように世界を捉えようとしている人がいることを知れて嬉しくなった。 あとは,全般的に解説が,「無いとされているもの」に対して寛容で,けれどもあちら側には行かず,その存在を認めた上で,こちら側に立って話をしてくれているのが良かった。彼らのことをフラットに手渡してくれる書きぶりに好感が持てた。 眺めていると,視線が気になった。作品に描かれている人,自画像であっても,どの人も眼差しが強い。見られている,という感覚に陥る。看取られている。見透かされている。その眼差しの異様さに怯えてしまう。 道中に読んでいたデイヴィッド・アーモンドの『肩甲骨は翼のなごり』を思い出す。ウィリアム・ブレイクをこよなく愛する母子の眼はとても強く,あらゆることを見通すような眼差しだった。そういうことか。見えている人特有の眼があるのだ。彼らはみな無意識かどうかその眼を知っているのだ。その眼は日常とは異なっているから,ズレが生まれるのだ。不思議なところでつながりが生まれるから,どうしたって世界に触れることは面白い。今まで話したことを全て覚えている彼女に「強い眼をしている」と言われた私はどうだろう。何が見えているんだろう。 エネルギーが吸い取られるのを感じながら,図録を買おうか迷いミュージアムショップへ向かう。宮川隆の作品集『みやこ』を発見したため,即購入する。出会うべき時に出会った本は,ただちに買う。
ぶらりと入った喫茶店でカレーを食べ,チャイを飲みながら机に齧り付くようにして宮川隆の作品集を読む。隣の席には上品な車椅子のおばあさんと息子夫婦と思しきグループがいて,チラチラと様子を伺ってしまった。 その後,炎天下の中足利学校と鑁阿寺(ばんなじ)に行き,フラフラになりながら渡瀬川を見にいく。暑さのせいであまり記憶がないが,一人でものびのび行動できる自分に戻ってきた。そこから佐野に移動し,フラフラと佐野厄除け大師に向かう。一応寺院なのに,間違えて拍手をして参拝してしまった。方位���であることが発覚し,お守りを買おうかどうか閉場ギリギリまで迷っているとアリに足を噛まれたので,買えと言うことか,と思い,諦めて900円の方位よけを買う。高かった。水子供養の大きな塔があり,水子にお供えを!などというお菓子の自販機もあり,少し背筋が寒くなった。自分が妙齢の女性であることに気付かされる。何もなければ良い。 せっかく佐野に来たのだから佐野ラーメンでも食べるか,と思い,近くでGoogleマップの評価が良さそうな店に行く。店先で長髪の男性が佇んでおり,すわタバコを吸いに���た客かと思うが,あにはからんや店主であった。「お食事ですか?」「あ,いいですか?」「中へどうぞ」と言われ店内に入る。休憩中だったのであれば申し訳ないことをしたな,と思い,気まずさを隠しきれないまま,店の隅で小さく座る。とっとと食べて出て行こうと思った。佐野ラーメンはあっさりしていて美味しかった。いよいよ食べ終わる段になって,「ここ,地元の人ですか?」と聞かれ,店主と話をする。意外と話好きなようで,今日の美術館のこと,足利市が山姥切りを買ったこと,佐野市の美術館のこと,自分の息子のことなどを話してくれた。久々に人とこういう形で会話をしたので,その新鮮さに感動していた。帰り際にさのまるの話をすると,マンホールカードをくれた。お前はこういうところがあるから気をつけなくてはいけない。
ゆらゆらと列車を乗り継いで帰る。小山ー大宮間で見た夕焼けがひどく綺麗だった。紺と橙のあわいが空に溶けていて,いい旅をしたと思った。車窓の左端はもう夜になっていて,右側だけがまだ微かに昼の明るさを残していた。まさに越境だった。いい絵だと思った。
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#Goodevening * 昨年の#御礼参りに#🙏 つってもチュー坊がやるよなお礼参りとチゲーよ😅 * #佐野厄除け大師 #temple #arigato #thankyou #sano #tochigi #japan #佐野厄よけ大師 #佐野 #大師おみくじ #吉 #ナカナカいいコト書いてあった #イマソラ #sky #nature #beautiful #instapic #instagood #instadaily #instacool #instajapan #20210211 * 来年は厄除けでまた来ます🙏 今日食ったイモフライはイマイチ⁈イマニだった💦 来年リベンジ😋 #お疲れちゃん #Goodnight 🌠 (佐野厄除け大師) https://www.instagram.com/p/CLJu3zHAt3e/?igshid=y7qdkuakdd4t
#goodevening#御礼参りに#🙏#佐野厄除け大師#temple#arigato#thankyou#sano#tochigi#japan#佐野厄よけ大師#佐野#大師おみくじ#吉#ナカナカいいコト書いてあった#イマソラ#sky#nature#beautiful#instapic#instagood#instadaily#instacool#instajapan#20210211#お疲れちゃん#goodnight
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この前、#syd こと#佐野やくよけ大師 へ #後厄払い のお礼参に行った帰りに寄った #ラーメン 屋さんです。 一番希望のお店は #大大大行列 だってので、検索してこちらの #ゆたかや へたどり着きました。 #ラーメン大好き #麺類大好き (佐野らーめん「ゆたかや」青竹手打麺) https://www.instagram.com/p/B9G9gNbnVc7/?igshid=xfglhorsvlx6
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Doc Martin(ドクターマーティン)1-1
このところ、イギリスのドラマ「ドクターマーティン」にはまっている。 現在、Season9まで放送されており、NetflixでSeason1から8まで配信中だ。来年にはSeason10が放送予定というなかなか息の長いドラマではないか。 たまたまイギリス英語を模範にして発音改善に取り組んでいたこともあり、Doc Martinを題材として英語学習に取り組んでいる。自身の学習記録も兼ねて、ストーリーや気になった単語・表現を一話一稿形式で書いていきたい。
Doc Martinの紹介
youtube
先ずはDoc Martinというドラマを簡単に紹介しておこう。 ロンドンの一流外科医であったDr. Martin Ellinghamが血液恐怖症をきっかけに外科医を辞め、コーンウォールの田舎町Portwennに地域のかかりつけ医として赴任する。医���関係ではあるが、個人の成長・恋愛・家族・友情・共同体など幅広いテーマの人間ドラマが主体だ。大学や都会の大病院を舞台に権力闘争と人命救助の葛藤を描く、よくある医療ドラマとはかなり毛色が異なる。
本作の魅力といえば、堅物マーティンとPortwenn住民の多様で奇天烈な個性、そしてそのギャップだろう。序盤ではマーティン中心の話がほとんどだが、Seasonを経るにしたがって現地住民それぞれにスポットライトを当てることが増え、ドラマは群像劇の様相を呈していく。 また、劇中を通して描かれるコーンウォールの自然と街並みが美しく、BBCのドキュメンタリーを見ているようでもある。
さっそくSeason 1の1st Episodeを振り返っていこう。
気になる語彙・ノート(追記予定)
医療
- dilated pupils:散瞳、瞳孔散大 - mydriasisという医療語もあるらしい - コカインや大麻の使用による典型的症状でもあるので、海外ドラマでも登場することは多そう
- acute glaucoma:急性緑内障 - 眼の中を循環する水の排出先である隅角の閉塞によって眼圧が高まり、視神経にダメージを生じる病気らしい
- sphygmomanometer:血圧計 - 日常会話ではblood pressure monitorが使われる
- gynecomastia:女性化乳房 - 遺伝やホルモンバランスの乱れによる乳腺発達による
- asylum:(古)精神病院 - psychiatric/mental hospitalの古い言葉。精神病患者がlunatic/idiotなどと呼ばれ、ある意味隔離されていた時代の言葉
- Hippocratic Oath:「ヒポクラテスの誓い」、医療倫理 - 古代ギリシャのヒポクラテスとその一派が打ち立てた医療倫理の始原といわれるが、実際は後代に成立したものとされる - 劇中では、Portwennでは数少ない教養人が、単に医療倫理を指すために使っている
- HRT cream:女性ホルモン補充クリーム - 更年期障害への対症療法として一般的なエストロゲン補充を目的としたクリーム - 身体に幅広く塗布する
- complaint:(患者が訴える)病状
- beta-blocker:交感神経受容体βブロッカー - 緑内障に点眼薬などとして処方される���眼圧を下げる薬
- lumbago:腰痛 - low back painとも
- arthritis:関節痛 - rheumatoid arthritis(関節リウマチ)など
一般
- lay member:市民委員、外部委員
- 日本でも行政への市民参加を求める動きが盛んになってきているが、そうした身分での行政・委員会等参加者をいう
- innit:~だろ?、~だよね? - イギリスのスラングで、三単現に限らず付加疑問として使われる。エレインのように、付加疑問ですらなく語尾にお構いなしにつけることも
- In you go:さあ中に入って - Off you go、in you comeなどCSVの倒置型が多く使われる - 子供など目下の人への使用が普通か
- with one’s tail between one’s legs:しょんぼりして、負けて - 都落ちして帰ってきた人などに使うのが最適
- lad:やつ、あいつ、友達、同僚 - ladやchapはアメリカ英語のbro・man・dudeに近いか
- stich up:(厄介ごとなどから)救う
- Lieutenant Colonel:中佐 - イギリス英語だとFの発音が入り、leftnantという発音になる。かつて下士官が上長の左に立った慣習から、さらに韻を踏む形で定着したという説もあるが、どうだろうか
- chap:やつ、あいつ、友達、同僚
- Bodmin:madに同じ - 劇中では盛んに使われるが、リアルではどうだろうか笑
- arse:assに同じ
- bags of:lots of に同じ - この手の表現は話者によって半ば自由に作出可能とみるべきか
- splinter:木のささくれ、とげ - 広島出身であれば「すいばり」という言葉が完璧
- swanky:豪奢な、きらびやかな - 外資の弁護士や投資銀行家なども、いわゆるswanky professionだ
- see hide nor hair of sb:なんの兆候も見聞きしていない - 狩猟が身近だった時代の名残だろうか。道中でジビエを処理して食べると骨・皮・毛などが残り、そうした残滓の有無・状態によって人をトレースできた。そうした兆候すら無いということ - 独立した息子・娘が一向に手紙も寄こさないときに使うとよい
- plumber:配管工、水道屋 - マリオ・ルイージ兄弟がまさにこれ
- plumbing:配管、水道
- lot:もの、やつ、stuffに近いか
- hang on to one’s hat:まあ見ていろ、焦らず見ていろ - あまり実生活では聞かないが、ドラマなどではちょくちょく
- pull one’s chain:���戯言で)ちょっとからかう - yank one’s chainでも同じ
- in a jiffy:一瞬で
- endearing:lovelyに同じ
- barmy:madに同じ
- treat yourself to:(褒美として)自分にふるまう - treat yourself to a cake
- moor:湿原、原野 - 英国の典型的な泥炭地
- granite:花崗岩、御影石 - 劇中のgranite skyはなかなか文学的表現ではないか
- fount:fountainに同じ - fount of knowledgeの形で頻出
- skulk:こそこそする - 悪いことをした挙動不審なガキんちょ
- stickler:こだわる人、杓子定規な人 - He’s a stickler to/for the rules!
- catch one’s drift:話の顛末・意図を察する - witにとんだ話やジョークあるいは皮肉の真意をつかむこと
- know sb in the biblical sense:肉体関係がある - 聖書翻訳の都合で、あるヘブライ語を一律にknowで訳したことから - 日本でも「男/女を知る」という近い用法があることを思うと、概念に対する人間の普遍的な姿勢を感じる
- slapper:bitchに近い
- dreary:わびしい、もの寂しい
- squidge:bitに同じ
- chipper:lovely, cheerfulに同じ
- tend:に向かう、世話をする - tend to doの用法ではない、本語の本質的用法
- tosh:ごみ、ガラクタ
- stall:屋台、ブース
- tosser:ばか、まぬけ
- mar:台無しにする
- antagonize:反感を買う、敵にまわす
- bog:沼、トイレ - アングロサクソンを含むゲルマン系は、その出自からか森林や沼地に関する語彙が豊富だ。bog, fen, moor, mire, heathなどの違いはいずれ別稿でまとめたい
- tow:牽引する
ストーリー・感想(※ネタばれ注意)
本エピソードでは、主人公マーティンがGPとしてPortwennに赴任し、奇天烈な現地住民の手痛い歓迎に戸惑いながら開業準備を進める様子が描かれる。
本作では、一エピソード中に複数のストーリーラインが埋め込まれることが多い。本作の長期的かつ主たるストーリーを構成するマーティン自身の血液恐怖症・人格・家族愛・恋愛などの話や、医療の問題発生・原因追及・解決の話、そして現地住民などの人間ドラマなどが多い。本エピソードも入れ子状の二つのストーリーラインで構成されているとみえる。
一つは、マーティンが開業準備を進める中で現地住民とのカルチャーギャップに苦い思いをするも、半ば開き直ってPortwennでGPの仕事を始める意思を固めるストーリーだ。 二つ目は、女性化乳房という珍しい症例の診断・治療を通じて現地住民の不倫問題に巻き込まれてドタバタするというところか。
主人公であるマーティンはロンドンの一流外科医という過去を持ちながら、血液恐怖症によりGPとして片田舎へやってきた。その経歴や社交性の無さも相まって、現地民からのウケはよろしくない。
エピソード1では、そうした現地民の主要メンバーと出会っていく。 先ずは美人小学校教師であるルイーザ。彼女のマーティンに対する評価・態度はシリーズを通して右に左に揺れまくる。ときに彼の失礼な振る舞いに憤慨し、ときに彼の医療に対する姿勢や技術あるいは暖かく優しい心根に感銘を受ける。Portwennにおいては常識人に見えるし本人もそう自認している節があるが、思い込みや気性が激しく、トラブルのタネになることも。
診療所では、受付を担当するエレインと出会う。 強烈な性格をしており、Londonerであるマーティンと村民とのカルチャーギャップを表出させる。”innit?”や”you was”を連発するなど、彼女の語彙・文法・訛りはかなり強いし、遅刻・上司であるマーティンをパシる・診療所の電話を長々と私的利用するなど都会的職業倫理を大いに欠いている。 一方で、来客者に茶菓子を振る舞い、年寄を気遣うなど性根の優しいところもある。 我々日本人にもなじみ深い構図で、日系企業のおじさんがベトナムの田舎で工場を立ち上げたり、都会人が田舎へ引っ越したりするとこうなる。
Portwenn郊外ではマーティンの叔母ジョウンが農場を営んでいる。 世話好きで、いかにも田舎の親戚という風情である。 マーティンにとってはPortwenn唯一の肉親であり、シリーズを通して心の支えとして、またマーティンの複雑な家庭環境を解き明かすカギとしての役割を果たす。
診療所の配管修理業者としてジョウンが手配したのが、バートとアルのラージ親子だ。バートはよくいる田舎のおっちゃん、アルはこれまたよくいる田舎の気弱いあんちゃんだ。この二人は今のところ全シリーズを通して出演しており、準主役級の活躍をみせている。それぞれ味があり、コメディパートにおけるバートの貢献や、アルの成長を通じた人間ドラマは本作の魅力の一つだろう。
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台風19号により、長野県を流れる千曲川の堤防が決壊した。家族ら3人が避難した2階まで泥流が迫り、家屋を呑み込む危険が迫っていた。
雲は低く垂れこめていたが、自衛隊のヘリコプター「ブラックホーク」が低空飛行で現れ、その3人をロープで吊り上げて救助した。
自分の命が危機に陥れば、一刻も早く救助に来てほしい。誰もがそう思う。悪天候や夜間でも、派遣されるのは自衛隊のヘリや救難飛行艇だ。
だが、いつでも、どこにでも、短時間で、派遣されるかと言うとそうではない。
救助を求める場所がヘリ基地の近傍にあれば、短時間に到着できるが、基地から遠いと、時間がかかる。
経路上の山に厚い雲がかかっていれば、救助を諦めて、途中で引き返さなければなら��いこともある。
台風による災害が広域に発生した場合、特に悪天候であればあるほど、航続距離が長く、高性能の「ブラックホーク」による救助活動が効果的だ。
私は、空挺部隊の降下長(Jump Master)の資格を持ち、かつヘリ偵察の経験者として、救助するヘリについて紹介したい。
なぜなら、この救助活動は、淡々と実行されているようだが、実は悪天候などの場合には、このヘリのパイロットも救難員も、誤れば死という境界で行動しているからだ。
命懸けの緊急救助活動
霧・雲・雪の中や、月も星もない夜、突風を受ける気象条件下で、ヘリが救助のために被災者に接近し、被災者をロープで吊り上げて救出する。
テレビでよく見る光景だ。見ている人には、普通に淡々と行われていると映っているだろう。
実は、厳しい訓練を積み重ねて、特殊な技能を持った者だけが、恐怖を克服して、やっとできるものだ。
私は、彼らが「天候気象が悪い危険な現場で、必死に黙々と行動している」ことに、賛辞を送りたい。
では、雲がかかっているとなぜ飛行が難しいのか。私の経験から述べる。
前方がガラス張りの小型のヘリでは、薄い霧のような小さな雲の中を通過するだけで、一瞬、前方が見えなくなる。
雲の塊に入ると、牛乳の中に入ったような感覚を受ける。小型ヘリでも時速200キロで飛行する。
空港の周辺では航空管制の誘導を受けるので安全だが、そこから外れると視認できなければ、高圧線や他の航空機に衝突することもある。
見えない状態��まま時速200キロで飛行することは、極めて恐ろしい
悪天候の中飛行し、山に衝突して、ヘリがバラバラに砕け、搭乗員が死亡する事故が起きている。厳しい気象条件のもとで、事故なく常に安全に飛行できているわけではないのだ。
1994年12月、奥尻島の救急患者を空輸するため、航空自衛隊の救難隊のヘリが、雪の降る悪天候にもかかわらず、千歳空港から奥尻島に向けて発進した。
警察や消防のヘリも飛べなかったところを、千歳救難隊のヘリが任務を受け、飛行中に雪山のユーラップ岳に墜落して、搭乗者全員が死亡した。
2007年、徳之島の救急患者を空輸するため、夜の11時過ぎ、濃霧の中、陸上自衛隊のヘリが沖縄から徳之島に向かい発進した。
星明りもない海の上や山々を飛行することは、前方が見えなくて極めて難しい。このヘリは、目的地である徳之島の山に激突して、搭乗者全員が死亡した。
機長は、産経新聞社から国民の自衛官賞を受賞したほどの、誠実かつ献身的に任務を遂行してきた人物で、あと数カ月すれば定年を迎えるところだった。
このほかにも、多くの自衛隊ヘリパイロットが、緊急を要する人命救助などを優先するために、悪天候にもかかわらず飛行して殉職している。
一方、事故にはならなかったが、危険であることを覚悟して飛行し、任務を遂行した例も多い。
例えば、福島第一原子力発電所の建屋が爆発し、放射線が大量に放出され、原子炉を早急に冷却することが求められた時に、被曝して生命の危険があったにもかかわらず、自衛隊のヘリが原子炉の真上を飛行し放水したことなどである。
自衛隊ヘリ基地には反対の声
自衛隊のヘリ部隊が配備されている基地では、騒音苦情や建設反対の声が強い。
2014年に御嶽山が噴火し、今年の台風19号で長野県や栃木県では河川が氾濫し、多く登山者や住民が救助を求めた。
そこに、駆けつけたのが群馬県と栃木県に配置されている陸上自衛隊第12師団第12ヘリ隊だ。
この基地のヘリは、首都圏で大災害が発生した場合には、空から短時間で救助に駆けつけ、災害派遣部隊を迅速に空輸することができる。
ヘリは、固定翼機と異なり航続距離が短いので、ヘリ基地が被災地の近くでなければ、迅速かつ効果的な救助活動はできない。
この意味で、この2つの基地は重要な位置に設置されているということだ。
だが、榛名山の麓にヘリ基地を置くことに対して、建設前に、周辺地域の住民からに大反対の声が上がった。
静かだった村に大型ヘリが来れば、騒音で住みにくくなる、丹精込めて作ったぶどう園に砂ぼこりがかかるなどで営業できなくなるといった理由だった。
反対の意見は理解できる。私は当時、この地にある師団司令部の幕僚をしていて、自治体や地域住民の理解を得ることが非常に難しかったことを覚えている。
司令部では、「ここにヘリ基地ができないようであれば、自衛隊はこの地から撤退せざるを得ないかもしれない」という話も出た。
それでも、説得に説得を重ね、防衛行動や災害派遣の任務の理解を得ることができて、建設することができた。
もし、地域住民の理解が得られず、この地にヘリ基地が建設されていなかったら、現在発生している災害に、ヘリを使った効果的な救助活動はできなかったであろう。
将来、もし首都圏で大災害が発生した場合、緊急を要する救助活動に支障をきたすかもしれない。
自衛隊のヘリ部隊が配置されている基地は、災害救助の際にはなくてはならないものだ。
夜間に訓練する時は、特に苦情が多い。
災害派遣時の気象条件が悪い時を想定し、夜間でも事故なく飛行し、救助活動を行うために、日々、厳しい訓練を行っている。
だが、騒音問題などで、周辺住民からの苦情が多い。
災害救助はいいが、訓練の音は困る。命は助けてもらいたいが、ヘリが出す音には我慢できない、別のところでやってくれということだ。
自衛隊は、住民がなるべく騒音を感じないように、運用方法を考え、飛行規則を作る。必要最小限の騒音を引き受けることも、受け入れてほしいものだ。
佐賀空港への自衛隊輸送機オスプレイ配備計画を巡っても、地域住民の反対がある。理由は、前述のとおりだ。
このオスプレイは、南西諸島防衛に運用されるのだろうが、首都圏で大災害が発生したときには、佐賀から群馬県に移動して、首都圏まで飛行してきて、救助活動に当たり、多くの人々の命を救うであろう。
憲法で認められていない
自衛官は、危険なことを承知で任務を遂行しなければならない時がある。
自衛官も、普通の人間だ、恐怖心も持っている。その任務を遂行できるように、厳しい訓練を積み重ね、危険を乗り越える力を付けている。
だが、現実に、困難な状況下の災害派遣任務において危険を避けられず、多くの自衛官が殉職している。
待っている家族が、辛い思いもすることがある。
殉職者の奥様が、喪服を着て、子供の手を引っ張って、そして、棺の前に立ち、両手を合わせる。誰でもが、自衛隊を退職するまでに、こんな光景を何度も見る。
自衛隊がこのような任務を遂行していても、国会では、自衛隊は「合憲だ」「違憲だ」という議論になる。
国会に招致された憲法学者は、自衛隊は憲法違反だと発言する。これは、自衛官やその家族は、国民の一部から、お前たちは憲法違反だと言われ続けているようなものだ。
国土と国民の生命を守る軍隊が、憲法などに違反していると言われるのは、日本だけだと思う。
国会議員は、この国家の問題をいつ解決するつもりなのか。もう、後回しにする問題ではない。
国家の問題を解決できないことが日本の弱みであり、中国・韓国・北朝鮮から、歴史問題を悪意で歪められ、誇張して宣伝されるなど、そこにつけ込まれているのではないか。
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"学校に行けなかった僕~大人になったいま伝えたいこと~"
【地域交流ゾーン見学会】
高円寺南3-67-1 二階レクリエーション室 で
毎月第一火曜に開催中
予約: 不要
もちもの:貴重品(ぬいぐるみ 等)
※未就学児入場可 *・゜゚友人の家族や親戚と遊びにきてね.。.:・*
日程:9月3日火曜
イベント名:「第一火曜 魔ゼルな規犬たちの企画する日」
会場:高円寺「無力無善寺」 https://muzenji.web.fc2.com 杉並区高円寺南3-67-1
開場18時 開演18時15分 料金:千円+1ドリンク
LIVE(あいうえお順) 「桑原耀平」 「ゴキブリパラノイア(パラノイア花太郎」 「じゅんじゅん」 「大河もん土」 「野田伊佐也」 「魔ゼルな規犬(演奏)・ゐ忌レ(舞踏)・???」
開運四柱推命:「終末亭厄丁」 超能力人生相談:「謎の超能力者戸田」
=お時間配分の予定===
18:00開場 18:15~「ミラクル伊佐也」 18:45~転換 18:50~占い「終末亭厄丁」 19:30~転換 19:35 ~超能力人生相談「謎の超能力者戸田」
20:15~転換 20:20~「ゐ忌レ��魔ゼルな規犬」 20:35~転換 20:40~「じゅんじゅん」 21:05~転換 21:15~「ゴキブリパラノイア」 21:40~転換 21:45~「桑原耀平」 22:10~転換 22:15~「大河もん土」
<会場へのアクセス>
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<当イベントについての諸注意など>
<出演者詳細>
18:15~「ミラクル伊佐也」(野田伊佐也)
野田伊佐也 さん! ミュージシャン。
2010年代に強い思想から日々JR送電線の放火配信
その配信1ヶ月後に逮捕され4年も拘留、
18:50~占い「終末亭厄丁」
新進気鋭の占い師。四柱推命なのですごい当た��!
「テレフォンドール」とゆう世界1可愛い子とのバンド活動している
何にでも翻弄されやすい。
19:35 ~超能力「謎の超能力者戸田」
~天使のゆびさき☆きらふわ魔法教室 ~
催眠サークル人間失格代表を務めている
゜゚・*:.。.謎の超能力者戸田先生'・*:.。.゜゚・* による魔法教室
20:20~「ゐ忌レ・魔ゼルな規犬」
舞踏をしている少年と 魔ゼルな規犬の演奏
20:40~「じゅんじゅん」
すんごいナイス人物。そしてすごいソウルなシンガー!女性では日本一かな。ジャニスジョップリン感!じゅんじゅんさんを嫌いな人は存在しない感じ!
21:15~「ゴキブリパラノイア」
やばい音のDJさんでライブでもやばい音・入れる音を生み出します!
21:45~「桑原耀平」
何か病名はつくかもしれない!素晴らしい青年!
1ライブハウスに1人欲しい存在だと思う
22:15~「大河もん土」
未来の現代の日本と世界の宝!
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各地句会報
花鳥誌 令和6年4月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年1月6日 零の会 坊城俊樹選 特選句
ドッグラン鼻と鼻とで交はす賀詞 荘吉 裸木のはるかを白く光る街 要 頰切るは鷹の翔つ風かもしれず 順子 人波をこぼれながらの初詣 光子 焼芋の煙たなびく志んぐうばし 和子 群衆といふ一塊の淑気歩す 順子 寒雀神馬と分かちあふ日差し 光子 寒雀入れ神苑の日のたまり 同 寒の水明治の杜のまま映す 小鳥
岡田順子選 特選句
跼り清正の井を初鏡 昌文 本殿につぶやく寒紅をつけて 光子 楪の浴ぶる日我にゆづらるる 慶月 肺胞に沁み込んでゆく淑気かな 緋路 冬草や喧騒去りて井戸残し 眞理子 馬見えぬ乗馬倶楽部の六日かな 六甲 寒鯉来おのれの色の水を分け 緋路 寒椿落つれば湧くや清正井 眞理子 寒の水明治の杜のまま映す 小鳥
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月6日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
一束もいらぬ楪もて遊ぶ 成子 深井より羅漢に供ふ冬の水 かおり 赤なまこ横目に買ひし青なまこ 久美子 畳みたるセーターの上に置くクルス かおり 再会のドアを開けばちやんちやんこ 朝子 半泣きのやうに崩るる雪兎 成子 火を見つめ男無口に薬喰 かおり 歳晩の一灯母を照らすため 朝子 悴みて蛇となる能の女かな 睦子 その中の手話の佳人やクリスマス 孝子 悪童に悲鳴をはなつ霜柱 睦子 凍空とおんなじ色のビルに棲み かおり かくも典雅に何某の裘 美穂 唐突に雪投げ合ひし下校の子 成子 楪や昔硝子の磨かれて かおり 奥伝の稽古御浚ひする霜夜 愛 出会ひ重ね寿限無寿限無と年惜む 美穂 冬灯一戸に遠き一戸あり 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月8日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
流れ来し葉屑も霜を置いてをり 昭子 御慶述ぶ老いも若きも晴れやかに みす枝 初春の光りまとひし石仏 ただし 神なびの雨光り落つ氷柱かな 時江 地震の中産声高き初笑ひ ただし 歌留多とり一瞬小町宙に舞ふ みす枝 まだ誰も踏まぬ雪道新聞来 ただし 奥の間に柿餅吊し賑はへり 時江 さびしさの枯野どこまで七尾線 昭子 万象の音の鎮もり除夜の鐘 時江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月9日 萩花鳥句会
初句会吾娘よりホ句のファクシミリ 祐子 書き初め震何んぞ訳あり辰に雨 健雄 吹雪突き突進するエネルギー 俊文 日本の平安祈る今朝の春 ゆかり こがらしが枯葉ころがしからからと 恒雄 平穏な土地にて食べる七草粥 吉之 御降や茶筅ふる音釜の音 美惠子
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令和5年1月10日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
被災地にすがりし木の芽盛んなる 世詩明 的中の乾いた響き弓始 誠 初場所の桟敷の席の晴れ着かな 同 初御空耶馬台国は何処にぞ 同 石段を袖振り上がる春著の子 同 細雪番傘粋に下駄姿 幸只
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月11日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
年上の夫に引かるる初詣 喜代子 地震起こり慌てふためく大旦 由季子 曇り拭き笑顔映りし初鏡 さとみ 地震の地にぢりぢり追る雪女 都 冴ゆる夜の天井の節をまじまじと 同 男衆が重き木戸引き蔵開き 同 寒月や剣となりて湾の上 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月12日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
海鳴や雪の砂丘は祈りめく 都 初電話卒寿は珠のごと笑ひ 同 針始友が未完のキルト刺す 同 授かりし神の詞や竜の玉 悦子 蜑に嫁し海山詠みて老いの春 すみ子 焚上げの火の粉加勢や冬銀河 宇太郎 古傷を思ひ出させて寒四郎 美智子 枯葦の透き間に光る水一途 佐代子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月12日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
寒の雨誦経とよもす陽子墓碑 文英 寒林を上り来よとて母の塔 千種 顔消えし元禄仏へ寒菊を 慶月 道祖神寄り添ふ寒の雨うけて 慶月 就中陽子の墓所の蕗の薹 幸風 裸婦像の背にたばしる寒の雨 同
栗林圭魚選 特選句
信州へ向かふ列車の二日かな 白陶 寒林を上り来よとて母の塔 千種 晴天の初富士を背に山降る 白陶 大寺の太き三椏花ざかり 幸風 空までも続く磴なり梅探る 久 はればれと良き顔ばかり初句会 三無 就中陽子の墓所の蕗の薹 幸風 五姉妹の炬燵の会議家処分 経彦 走らざる枯野の車両咆哮す 千種 凍蝶のポロリと落つる影哀れ れい 三椏の開花明日かと石の門 文英
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月13日 枡形句会(一月十三日) 栗林圭魚選 特選句
嗽ぐをどる喉越し寒の水 幸風 七福神ちらしの地図で詣でをり 多美女 七福神詣りしあとのおたのしみ 白陶 凍て鶴の青空渡る一文字 幸子 金継ぎの碗に白湯汲む女正月 美枝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月15日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
曇天に寒紅梅や凜と咲く のりこ 寒梅のつぼみの枝の陽の仄か 貴薫 青空に白き寒梅なほ白く 史空 朝の日に紅色極め寒椿 廸子 我が机散らかり初めし二日かな 和魚 倒れ込む走者にやさし二日かな 三無 釦穴に梃摺る指や悴かみて あき子 夢てふ字半紙はみ出す二日かな 美貴 二日早主婦は忙しく厨事 怜 りんご飴手に兄妹日向ぼこ 秋尚 雪遊びかじかむ手の子包む母 ことこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月16日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
幼子の運を担いで福引へ 実加 寒空や命尊きこと思ひ みえこ ことわざを子が覚えをりかるた取り 裕子 元旦の母と他愛もない話 同 元旦や地震の避難を聞くことに みえこ 初詣車椅子の児絵馬見上ぐ 実加
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
古里に温石と言ふ忘れ物 雪 師の墓に愛子の墓に冬の蝶 清女 寒の月見透かされたり胸の内 眞喜栄 鴨浮寝無言の中にある絆 同 降る雪を魔物と今朝を天仰ぐ 英美子 藪入りも姑の一言行けぬまま 同 庭仕事今日冬帝の機嫌よき かづを 玻璃越に霏々と追はるる寒さかな 同 正月が地獄の底に能登地震 みす枝 雪しまき町の点滅信号機 ただし お御籤の白き花咲く初詣 嘉和 若狭より繋がる水脤やお水取 やす香 水仙の香りて細き身の主張 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
寒紅の濃き唇が囁きし 世詩明 お雑煮の丸と四角と三角と 同 正月の馳走其々ある謂れ 千加江 新年の風も言の葉も美しく 和子 磯の香も菰巻きにして野水仙 泰俊 捨て舟を取り巻くやうに初氷 同 左義長や炎崩れて闇深し 同 去年今年形見の時計よく動く 同 ふと今も其の時のマフラーの色 雪 天地に誰憚からぬ寝正月 同 迷惑を承知の猫に御慶かな 同 不器用も父似の一つ初鏡 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 鯖江花鳥句会(一月十七日) 坊城俊樹選 特選句
而して九十三の初鏡 雪 蛇穴に入り人の世は姦しく 同 紅を差し眉ととのへて近松忌 同 懐手おばあちやん子を憚らず 同 鬼つ子と云はれて老いて近松忌 同 着膨れて顔ちさき女どち 一涓 歌かるた子の得て手札取らずおく 昭子 年新たとは若き日の言葉とも やす香 新年を地震に人生うばはれし 同 元旦を震はせる能登竜頭めく 同 裂帛の気合を入れて寒みそぎ みす枝 風の神火の神乱舞どんど焼き ただし 八代亜紀聞きをり外は虎落笛 清女 寒怒濤東尋坊に砕け散り 同 波の腹見せて越前浪の華 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月19日 さきたま花鳥句会
月冴えて城址うろつく武者の翳 月惑 仲見世を出て蝋梅の香に佇てり 八草 枯菊や木乃伊の群の青き影 裕章 寒鴉千木の反り立つ一の宮 紀花 合掌す金波銀波の初日の出 孝江 青空に白き一機や寒紅梅 ふゆ子 初詣令和生まれの児と犬と ふじ穂 白鼻緒水仙の庫裏にそろへあり 康子 激震の恐れ記すや初日記 恵美子 お焚き上げ煙を浴びて厄払ひ 彩香 我が干支の年につくづく初鏡 みのり 家篭りしてをり冬芽萌えてをり 良江
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令和5年12月1月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
師を越ゆる齢授かり初鏡 雪 初笑玉の如くに美しく 同 大晦の右大臣左大臣 同 猫の名は玉と答へて初笑 同 天が下縁深めゆく去年今年 数幸 能登の海揺るがし今日の空冴ゆる 和子 しろがねの波砕かれて冴え返り 笑子 語り継ぐ越前の秘話水仙花 同 雪降れば雪に従ふ越暮し 希子 皺の手にマニキュア今日は初句会 清女 初電話親子の黙を解きくれし 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
蟷螂を見て戻りたるだけのこと 雪 もて余す老に夜長と云ふ一つ 同 蟷螂の緑失せつゝ枯れんとす 同 小春日や袱紗の色は紫に 泰俊 正座して釜音聞くや十三夜 同 海沿ひにギターの調べ文化の日 千加江 枝折戸をぬけて紅さす返り花 笑子 祇王寺の悲恋の竹林小鳥来る 同 大胆な構図を取りし大銀杏 和子 宿の灯も消して無月の湖明り 匠 秋の海消えゆくものにますほ貝 天空 落葉降る賽の河原に降る如く 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
異ならず枯蟷螂も人老ゆも 雪 世の隅に蟷螂は枯れ人は老い 同 無造作に残菊と言ふ束ね様 同 冬ざれや汽車に乗る人何を見る 泰俊 石膏でかたまりし腕冬ざるる 和子 山眠る小動物も夢を見る 啓子 路地裏の染みたる暖簾おでん酒 笑子 冬ざれや路面電車の軋む音 希子 おでん屋の客の戯れ言聞き流し 同 風を背に連れておでんの客となり かづを にこにこと聞き役おでん屋の女将 同 冬紅葉地に華やぎを移したり 同 街師走見えざるものに背を押され 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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今日も一日よろしくお願い致します。 良い一日を。 #カタツムリラボ #katatumuri_labo #wine #vin #vino #vinnature #vinnaturel #julienpeyras #syrahnostra #vindefrance #syrah #ワイン #自然派ワイン #栃木県 #佐野市 #大分県 #大分市 出身 #佐野プレミアムアウトレット #佐野ラーメン #佐野厄除け大師 #佐野元春 https://www.instagram.com/p/BwISbTeh2gc/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1gebkl09uhh3m
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限定塩ラーメン & ラーメン & チャーシュー丼 & 餃子 @麺屋ようすけ 別次元の旨さ。材料を引き出してる感。濃いめ。 皮が凄くモチモチの餃子。想像の2倍のデカさ。 日曜日、恒例の佐野厄除け大師初詣の後、12時に行って入店まで1時間半🤣要防寒🤣 #ラーメン #佐野ラーメン #鷲津 (麺屋ようすけ) https://www.instagram.com/p/CoCvAoIpIvv/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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佐野厄よけ大師
少子高齢化には自動化で対抗。偉い人にはそれが分からんのですよ。
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茨戸編での尾形は何だったのか あるいは沈黙する破戒神父・鶴見中尉はなぜ死神を自称するのか
ガッツリ本誌176話まで。
1、序 鶴見と尾形の言説の不思議な酷似
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
こと江渡貝母への発砲については、私は鶴見の言い分をずっと好んできた。ここでの鶴見の江渡貝への殺害の示唆は正しく思える(母君は元々死んでいたから私にも倫理的禁忌感がない)。鶴見は時折とんでもない正しさで私を苦しめる。硬直した仲間の死体に向かって「許せ」と言う男。同じ4巻の回想には、マシュマロでゴールデンカムイには珍しい雲吹き出しで内面が記されていることも教えて貰った。
まるで死の行進曲のようなマキシム機関銃の発射音 この無駄な攻略を命令した連中に間近で聞かせてやりたい
私は鶴見中尉の内面描写が少ないという通説をとてもとても疑問視している。これはもはや読み手の願望に近く、検討するのであれば幅広い読解が必須であろう。ゴールデンカムイの人物は総じて内面描写が少ない。それところか、当初は梅ちゃんと寅次についてあれだけ饒舌だった杉元の内面は、「俺俺俺俺俺俺俺俺俺」という叫びとは裏腹に、「俺」も、その内面も、徐々に欠落を始めてしまったのだ。15巻にはアシㇼパの顔を思い出せていないのでは無いかと思わせるカットすらある。15巻で杉元の『妙案』が宙に浮いたままであるのは象徴的だ。私たちの心が取り残され、疑問は解決されず、1つの核心だけが深まるーー杉元佐一は自分を失っている、と。この話は杉元が梅ちゃんに認識されるような自分を取り戻す話出会った筈なのに(そしてそれを認知できない杉元は、梅ちゃんに自分を認識してもらえるように視力回復に躍起になる)、旅の過程で彼はますます自己を喪失していく。
これから延々と鶴見の話となる。
2、死神の自称
鶴見は意図的に自分を失わないために死神になることを選んだ男である、というのが私の基本的な考えである。それは「脳が欠けているから杉元佐一は自分を見失っている」という説を遠回しに否定する存在である。だいたいにして脳が欠けていなかったら杉元はスチェンカで相手を殴り続けなかったと言えるのだろうか。まぁ、杉元の話はさておくとして、それはおそらく尾形のこういった態度と対照づけることも出来る筈だ。
俺のような精密射撃を得意とする部隊を作っておけばあんなに死なずに済んだはずだ
今となってはどうでも良い話だが
鶴見は「今となってはどうでも良い」をやり過ごさなかった男である。一度は鶴見の腹心の部下であった筈の尾形は、戦後も心を戦場に置いてきたのではなく、戦場の側を自らに引き寄せようとする鶴見(や土方)にたいして冷笑的な視点を浴びせ続ける。
仲間だの戦友だの……くさい台詞で若者を乗せるのがお上手ですね、鶴見中尉殿
変人とジジイとチンピラ集めて 蝦夷共和国の夢をもう一度か?一発は不意打ちでブン殴れるかもしれんが政府相手に戦い続けられる見通しはあるのかい? 一矢報いるだけが目的じゃあアンタについていく人間が可哀想じゃないか?
ここでの尾形の「正しさ」は、鶴見の「正しさ」とは違い私の心の拠り所になっていた。尾形が「いい人になれるよう 神様みていてくださろう」に適合するような行動をすると私はいちいち救いを求めてしまい、彼の行動がいつも噛み合わず言説が否定されるのを見てこの男の救いのなさに頭を抱えていたのだ(まさに本誌の『176話 それぞれの神』で現れた関谷の神にすがる心情である)。そして鶴見は、月島をある意味救ったが、尾形を救うのには失敗した。むしろ鶴見は尾形を利用するだけ利用していたように思えた。
尾形と鶴見と親殺しは4度交錯する。江渡貝。花沢中将。月島。ウイルク。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
たらし めが…
尾形にとって鶴見の取り巻きであることが幸せなのかどうかは分からないが、他の造反組や、あるいは役目を見つけて下りた谷垣とは異なり、尾形は鶴見を『切』った、数少ない人物である。尾形は、月島同様戦前から鶴見の計画に加担していたのにもかかわらず、鶴見中尉から月島と同じ様に扱われなかった人間でもあった。
江渡貝の母殺しに関しては鶴見にも見るところがあると考える私も、この鶴見の花沢中将殺しにおける尾形の扱いが原因で、長らく鶴見のことをよく思えずにいた。さらに15巻149話、150話で鶴見が月島を父親殺しから救った(?)事実や、本誌にて戦前から尾形が鶴見の命で勇作を篭絡および殺害しにかかっていた事が判明した事を鑑みて、鶴見の風見鶏的態度に辟易していた。加えて言うのなら、ゴールデンカムイの中に時折現れる聖書に基づく表象や、それに対するキリスト教に軸足を置いた読み解き方というのは私が最も苦手とするところであったが、一方で鶴見が71話の表紙にて不完全に引用された聖書の一節を通じて『にせ預言者』(マタイ7:15)であると示されていることを筆頭に、いくつかのキリスト教的モチーフを(ところどころで反語的に)取り込んだキャラクターであることも否めずにいた。
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。(wikisorceの口語訳より)
そもそも鶴見もまた、その他大勢のキャラクターおよび我々と同様、多面的な人物として描かれている。偽預言者であり、彼の演説はヒトラーのパロディとして描かれるほど(作者によるとミスリードらしいが。Mislead? Misread?)だ。そして、外敵に対しては自らのことを死神と称しながらも、仲間に対してはむしろ告解をうける神父の役割に近いものを演じ、坂本慶一郎とお銀の息子の前では聖母マリアとなり、月島や杉元と共有する傷は、スティグマと見ることも出来るだろう。キャラクターデザインには、明らかに鶴の要素が取り入れられている。さらには編集者のつけた仮面を被る悪魔、という表象ですら許容される向きにあるのだから、鶴見も大変である(悪魔という呼称は江渡貝の母によっても齎されている)。私がこの鶴見という、出自も分からぬいろんな人形が載せられたクリスマスケーキを長らく食べる気になからなったのは、そこに土俗の信仰と西洋的信仰が混ざり合って、あまつさえ鶴や死神の細工菓子まで載っていたことを考えると不思議ではあるまい。
私はどこかで、にせ預言者としての鶴見、という表象の正当性についてすら、もしかして議論になるのではないかと辟易している。不信の徒である私の読み解ける事項など限られていることは重々承知だし、そもそも私はゴールデンカムイを読み解くときに、作中での記載を第一に考え、外的世界に存在するマキリで作品をチタタプしない様に細心の注意を払ってきた。最近ラジオが出現したことで、ようやく文言に尽くし難かったそのバックグラウンドをまとめる事ができたような気がするが、私は解釈を取り払った読み方が先にくることを好むし、そもそも『らしさ』への拘泥は私の目を曇らせるのではないのかと考えている。とりわけキリスト教を扱う時には、竹下通りで千円で買った十字架のアクセサリーを身につける女の子のようにならないためには、むしろ触れずにいるのが一番なのではないかと長く考えていたものだった。それが私の最低限の敬意の示し方であった。
とはいえ、キリスト教と日本の間での困難を感じていたのは何も私だけではなかった。多くの作家がそれに苦しみ、むしろその困難を以って、日本を描き出そうとする作家もいた。もちろん私の考えでは、作家の作るものに於ける宗教的解釈は、仮に異端であっても一つの芸術作品になり得る一方で、評論家の宗教的解釈の異端さは、単なる誤読として片付けられる可能性がより高く、慎重を期するものであるのだが…。しかし私はだんだんと、そういったキリスト教と日本の狭間で描かれた作品であれば、鶴見像を見出せるのではないかと思う様になっていった。もっと言えば、私がキリスト教的表象を前にして立ち竦む、その逡巡自体を語ることならできるのでは無いか、と思う様になったのだ。
「にせ預言者ー貪欲な狼」「ヒトラー(ミスリード)」「マリア」「告解を受けるもの」、そして「聖痕」…を持つ「悪魔」で「死神」…の「鶴」をモチーフとした「情報将校」。
「にせ預言者ー貪欲な狼」に対してのとても簡潔な読み解き方は、単に鶴見が偽の刺青人皮を作ろうとしている、というものである。もう少し解釈を広げれば、鶴見が北海道の資源を活用して住むものが飢えない軍事帝国を作ろうと嘯くことであろうか。
軍事政権を作り私が上だって導く者となる お前たちは無能な上層部ではなく私の親衛隊になってもらう
これはヒトラーとして描写されていること(繰り返しとなるが、作者によるとミスリード)でもあり、ヒトラーとはたとえばその土地の出身では無いという点などでも共通点が見られる。実際には北海道はロシアと違って天然資源には恵まれておらず、またその後の軍事政権というトレンドの推移、戦争特需にも限りがあることを考えれば、金塊を持ってしても独立国家としての存続がおよそ不可能であっただろうことは見て取れる。
3、マリア、そして告解を受ける破戒的神父としてのあべこべさ
面白い事に、聖母として描かれる鶴見はほとんどもって無力であり、子をアイヌ的世界に属するフチに預ける事しか出来ない。
一方で「告解を受けるもの」、すなわち神父としての鶴見は極めて破戒的である。鶴見への告解は子羊たちの救済を意味しない。鶴見は誰とも共有すべきではない告解を共有することで、結束を強める「見返り」を期待する者である。教会に於いては告解の先には主による赦しがあることが期待され、十字架に架けられたキリストの苦難がそれを象徴していた。一見してキリストの苦難は鶴見の告解室においては「戦友は今でも満州の荒れた冷たい石の下だ」で代替されている。しかし鶴見の厄介さはその様な単純な構造におさまらないところである。一方で満州を彼らのいる北海道と分けて見せるそぶりを見せながら、時として「満州が日本である限り お前たちの骨は日本人の土に眠っているのだ」と口にし、それどころか戦争の前から月島・尾形らと何かしらの謀略を図っていたことすらわかり、『我々の戦争はまだ終わっていない』という悲壮にも満ちた決意が段々と『戦争中毒』である鶴見のハッタリであったことに我々は気づかされる。
彼への告解は何もかもがあべこべであり、神父の皮を被りながら極めて破戒的である。洗礼後ではなく洗礼前――つまり第七師団入隊前――の罪を、谷垣に至ってはあまつさえ衆人の���で告白させ、傷を共有させる。告解が終わった後に司祭は「安心して行きなさい(ルカ7:50)」というものだが、鶴見は自分に付いてきてくれるように諭すのだった(「私にはお前が必要だ」)。
破戒というのはあまり神父に使う言葉ではない。それでも、島崎藤村の『破戒』は、聖書のモチーフを色濃く反映させながら、被差別階級とその告白を描いた作品だったのだから、やはり破戒、と言う言葉はここにふさわしい気がする。
『破戒』において島崎が真に目指したのは、「身分は卑しくてもあの人は立派だから別」という、個人の救済を批判することであった。そのような個人の救済は、いわば逆説的に被差別階級の差別を補強する、矛盾した論理であったのだ。
この論理は2018年にも広く流通した。杉田水脈氏がLGBTに生産性がないと発言したことに、一部の人が、アラン・チューリングやティム・クックといった生産性のあるLGBTの名前を挙げて反論を試みたのである。このような言説が流布した後、リベラル派は、自分たちの身内の一部に対して、「生産性のないLGBT」が仮にいたとしても、その人たちも等しく扱われなければならない、とお灸を据えなくてはならなかった。
これこそ私が鶴見の恣意的な月島の依怙贔屓を、そして尾形の利用を、いまだに批判すべきだと考える理由である。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
誰よりも優秀な兵士で 同郷の信頼できる部下で そして私の戦友だから
私はこの差異に於いて鶴見を許す気は毛頭ない。それは、私が谷垣を愛しながらも、アシㇼパ���人質に取った事を未だに許していないのと同等である。谷垣を受容するに至った経緯が、私に鶴見というキャラクターを拒絶する理由は最早ないことを教えてくれた。そしてよくよく読み解いてみると、この、一見すると月島への依怙贔屓ですらあべこべなような気すらしてくるのであった。
4、主格の問題 ー 「死神」という主語について
ここにおける問題は『主格』に於いても明らかだ。鶴見が月島に話す時の態度は、軍帽を脱ぎ、主語は「私」、時折「おれ」と自らを自称する親しみのあるものだ。その一方でしかし尾形へは軍帽またはヘッドプロテクター(仮面)を装着して主語をあろうことに「第七師団」に置いている。尾形の父殺しについては未だに謎が多く、発端が誰なのか(花沢中将自身・尾形・鶴見)、なぜ花沢中将が死装束を身につけられたのかを筆頭に、また鯉登少将への手紙をいつ誰が書いたのかも問題となろう。よって、尾形が鶴見への忠誠心を失いつつも自らの父殺しの願望を成就させるために鶴見の案に乗っただけなのかどうかは、よくわからない。とはいえ、自らが時に「どんなもんだい」と誇示さえする狙撃手としての腕を買わなかった第七師団への離反は、狙撃手と対称をなすような旗手としての勇作を評価し、勇作の殺害作戦を撤回した鶴見への、勇作の狙撃をもっての”謀反”を契機として、花沢中将死亡時に、すでに尾形の胸の内にあったと考えるのが自然であろう。加えて尾形も、どこかの段階で破戒的神父・鶴見への告解というステージを踏んでいたことも想像に難くない。
このように読み解いていくと、単に鶴見は月島にだけ心を許しているようにも読めるのだが、そうは問屋が卸さない。まずはいご草への呼称問題である。月島は自らのことを『悪童』ではなく『基ちゃん』と呼ばれる事に意義を見出しているのに、彼女の事を『いご草』と表現する(本当は鶴見との会話の上でも名前で呼んでいたのだろうが)。さらにそれを受けて鶴見は『えご草ちゃん』と彼女の非人格化を進め、さらには自らの方言も決して崩さないことで会話の主導権を握る。加えて、私は長らく、江渡貝と炭鉱での爆発に巻き込まれ、煤だらけで雨の中を帰ってきた月島への労いの少なさにも違和感を抱いていた。これも一つの「あべこべ」なのかもしれないし、あるいは月島への圧倒的信頼が根底にあり、彼なら心配に及ばないと考えていただけなのかもしれず、もしくは鶴見がヘッドプロテクターという仮面をつけた時の「死神」としての決意の表れかもしれない。
「死神」を自称すること。
そもそもにおいて、我々が日々感じている他人への判断、偏見、予断の集合体、例えば、あの人は秋田出身で大柄で毛が濃く少々ドジなマタギである、と言われたことによって”我々が想起する予断と偏見”と、漫画を切って話すことはできない。小説よりもさらに視覚的な漫画という分野においては、ステレオタイプと”キャラ”立ちするための記号化というのはほとんど隣り合わせにあり、分離することがむずかしい(この論だけで何百ページも割かなければ説明できないであろう)。それでも、だ。この作品のキャラクターほど、「あの人はこう言う人だから」と型に嵌める行為が適切ではない作品もないのではないか。
作品内で繰り返される「あなた どなた」という問い、あるいはその類型でのマタギの谷垣か兵隊さんの谷垣かどっちなのか、山猫の子は山猫なのか、という問い、そしてその問いに対するわかりやすすぎる「俺は不死身の杉元だ」という回答を、繰り返しながらもゆるやかに否定し続ける世界線の中で、「私はお前の死神だ」という言葉は鶴見の決意と選択を象徴しながらも、結局のところ杉元の「不死身」の様にアンビバレントな価値を持つ言葉の様にすら思える。
鶴見と杉元はスティグマを残す男である点も共通している。鶴見は月島が反射的に自らを守った際に微笑み、二人はその後スティグマータを共有する人物になった。
杉元と傷の関係については未だに謎が多い。彼自身が顔につけた傷についても多くが語られる事はない。時間軸として1巻以降で彼が顔に受けた傷跡はかならず治っていくのに、彼が周りに残していく傷は確実に相手に痕を残していく。なぜ尾形が撃った谷垣の額の傷跡は消えたのに、杉元が貫いた頬の傷はいつまでたっても谷垣の頬から消えず、尾形の顎には縫合痕が残り、二階堂は半身を失い続けているのか、分からないままだ。ずっと分からないままなのかも知れない。
そしてウイルクもまた、顔に傷を残す男性である。傷を残しても役目を終えない男たち。聖痕と烙印ーー両極な語義を内包するスティグマータを共有し合う男たち。それはかつての自己からの変容であり、拭い去れない過去の残滓でもある。そしてそれは、作中の男性キャラクターたちが「視覚」を中心として動き回ることと決して無関係ではないが、ここではその論に割く時間はない。
「あなた どなた」に対してあれほど口にされる「俺は不死身の杉元だ」を“言えない”こと。この言えない言葉について、私はどれだけの時間をラジオに、文章に、割いて来ただろうか。そのことを考えると矢張り、「あのキャラクターはこうだから」と言う解釈がいかに軽率にならないかに気を使ってしまう。たとえば鶴見においては、まさに本人が、「俺は不死身の杉元」よろしく「私はお前の死神だ」と言っているのだから、もうそれで良いではないかと言う気がする。「不死身の杉元」は杉元が不死身ではないからこそ面白みの増す言葉であるように、今まで見てきた通り鶴見も何も「死神」だけに限定するには勿体無いほどの表象を持っているが、その中で杉元が、ある種の悲痛な決意を持って、半ば反射的に「不死身の杉元」と口走る一方で、「死神」にはもっと計画的な、そして底が知れぬ意志の重みを感じるのは私だけだろうか。「不死身の杉元」にも感じないわけではないが、「死神」はより一層”選択”であった、という感じがする。偽の人皮を、扇動を、月島を、傷を、周りに振り回されることなく自ら道を切り開いて”選ぶ”という高らかな宣言が、「死神」である、という感じがする。
5、「運命」と「見返りを求める弱い者」
『役目』を他人に認めてもらうことが作品内でどれくらい重要なのかは難しいところだ。谷垣源次郎が役目を見出し、果たす事を体現するキャラクターとして描かれ、見出す事、果たす事の重要性は単行本の折り返しから我々に刷り込まれているとは思うが、その結果としての他者承認は必須なのだろうか。杉元や尾形が他者承認を執拗に追い求めている様に見える一方で、白石が、シスター宮沢、熊岸長庵、アシㇼパ、杉元と、認めないー認められないことをずっと体現し続けているのもまた面白い。
長年の谷垣源次郎研究の成果として、谷垣の弾けるボタンは、インカラマッが占いきれない予測不可能性と、それを元にした因果応報やら占いに基づく予測的行動の否定の象徴であると気付いて、私はだいぶスッキリした。網走にいるのがウイルクである可能性は彼女の占いに基づくと50/50であるが、これがウイルクではないと100/0で出ていたとしても、彼女は網走にそれを確かめに行かなくてはならなかっただろう。それは北海道の東で死ぬと知っていながら網走に行く選択をするのと同根であり、いずれボタンが弾けとぶと知っているからと言ってボタンを付けない理由にはならないこと、またはボタンが弾け飛ぶからといって、彼女が谷垣に餌付けするのをやめはしないことと共通する。そもそもにおいて自分の死期を悟っている、ある種の諦念を持つインカラマッの行動は、途中から愛に近しいものを手にいれるにつれ、淡い未来への希望と言語化されない献身を併せ持つものになりつつあった。未来への希望と言語化されない献身……そういったものの為に嘘をつくことすら厭わない女たちを総括して、二瓶は『女は恐ろしい』と称し、自分たちの行動原理では理解不能なものとして警戒していたのだった。二瓶の持つ『男の論理』は、明白な見返りを望むものだったからだ。谷垣もその例に洩れず、インカラマッは怪しい女だからといって救わずにいようとすらしたし、彼女と打ち解ける様になった後も、その『女の論理』の如何わしさを感じ取って、彼女と寝る際には、やましさから『男の論理』の権化である二瓶の銃を隠し、彼女と寝た後には、その求愛は彼女を守らせるための行動ーーすなわち明白な見返りを求めた打算ーーだと考えすらしたのだ。もちろん、彼女自身のかつての行いによって、それを谷垣に見えづらくして、当たりすぎる占いが谷垣の心を遠ざけているのも皮肉であるし、その当たりすぎる占いが全て占いではなかったことは皮肉であった。妹を亡くしていること、アシㇼパの近くに裏切り者がいること、東の方角が吉と出ていることは、すべてインカラマッが既に知っていたことであり(探しているのはお父さんだという占いも同等)、キロランケの馬が勝つかもしれない可能性や、三船千鶴子の場所を言い当てるだけの能力を持ちながら、占い師としての力を使わず内通者として動いたことで、彼女自身が彼女を『誑かす狐』に貶めてしまっていた。彼女が溺れる話の表題が『インカラマッ 見る女』なのは、そんな彼女の人間性の回復を示唆しており、それは彼女自身が占いから逃れて、弾け飛ぶボタンの行き先ような、予測不可能性に身を委ねることであった。
「最悪の場合、こうなるかもしれないからやらないでおこう」だとか、「相手がいずれ自分にそうしてくれるはずだから、今こうしよう」という報酬と見返りの予測に基づく行動とその否定は、ゴールデンカムイを読む上���極めて重要な要素だと考える。
予測に基づく行動の抑制を行わない登場人物たちの決定は、残念ながら愛のみではなく、殺しと暴力も含まれる。即断性という言葉で言い表すこともできるかもしれない。私はこれをよく『反射的』という言葉を用いて説明している。私に言わせれば、極めて幼稚な、原始的な論理であり、月島が鶴見を助けたのもこれに分類される。それで鶴見が満足をしたのは、それはそれで鶴見の孤独を浮き上がらせる。反射とは、結局のところ「そうするしかなかったんだ」という男たちの言い訳に使われるものでもであり、杉元が初めて尾形に会った時に川に突き落とした時の口ぶりと100話の口ぶりなどは、まさにその代表例である。杉元という人物の中では、そのような反射的な即断性と、殺したものの顔をずっと覚えているという保持性の二つの時間軸が交差しており、その内的葛藤が我々を強く惹きつけている。そしてそこから、杉元が持つ時間軸は「地獄だと?それなら俺は特等席だ」「一度裏切った奴は何度でも裏切る」という回帰性、または因果応報性にまで波及するのだが、その思考の独特さは「俺は根に持つ性格じゃねぇが今のは傷ついたよ」という尾形の直線性と対をなす。尾形は直線的に生きていかなければ耐えきれない程の業を背負っている。それでも過去は尾形を引き止めに来る、杉元が梅ちゃんの一言を忘れられないのと同等に。
即断性/反射的の反語はなにも計画的/意図的なことだけではない。極めて重要な態度として、保留があり、現在この態度はインターネットが普及して、即時的な判断とその表出のわかりやすさが求められるようになったことで、価値が急速に失われつつあるが、明治期においても軍隊の中では持つことが叶わなかった態度であっただろう。保留を持つキャラクターの代表格こそ、白石由竹であることは言うに及ばないであろう。
保留を持ち得なかったものたちが代わりに抱くのが反発か服従であり、造反組は勿論のこと、気に入らない上官を半殺しにした杉元と、諦念に身を任せて問いすら捨てた月島を当てはめることができるであろう。
その即時性や保留や反発や服従を生み出すのが、自らを死神に例える鶴見であり、鶴見はまさに意志の人、意図の人、計画の人である。そして仲間に対して「相手がいずれ自分にそうしてくれるはずだから、今こうしよう」という見返りを期待して関係を構築する人である。これも、私が彼を苦手としていた理由の一つであった。しかし繰り返しになるが、鶴見の”選択”は、「即時性や保留や反発や服従」を生み出す。そして本編では、どちらかというと出だしから鶴見からの離反者ばかりが描かれ、人たらしの求心力を持つ魅力的な人物であるということを読み解くまでに、私はじっくりと長い期間をかけなければならなかった。「先を知りたくなる気持ち」「ページをめくる喜び」を強く求められる男性向けの週刊連載において、保留の態度を試されていたのは、読者の方であったのだ。
それでもなお私は、裏切られる鶴見、離反される鶴見というものを立ち返って見るにつれ、この男の立場の脆さというのを改めて重要な要素として捉えるようになったのだ。
それは「死神」とは遠く、自らの周りを賞賛者で固めた男の、ともすれば惨めとすら言える姿であった。そして私は遂に「死神を目指す弱い男」、鶴見を見出したのであった。
そこで大事なのは、鶴見が「死神」になろうとしている、というただ一点であった。それはおそらく尾形が銃に固執するのと同等の、自己決定権のあくなき希求であった。
11巻で尾形は言った。「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものですが」。その11巻で鶴見は愛を見出していた。「あの夫婦は凶悪だったが…愛があった」。そして同じ巻で、鶴見はふたたび高らかに宣言したのだ、「私は貴様ら夫婦の死神だ」ーーと。
以上の文章は既に3週間以上前に書いたものだったのだが、本誌ではさらに「神からの見返りを求める弱い男」として関谷が登場した。この「弱い」という言葉は私の元ではなく、イワン・カラマーゾフが『カラマーゾフの兄弟』の一節『大審問官』にて述べた、大部分の信者を指す言葉である。さらに本誌では、私が谷垣とインカラマッの関係に見ていた「予測不可能性」を、ある意味逆手に取った様に、自分への逆説的幸運をもたらす人物として門倉が描かれ始めた。私は一読して彼は谷垣の類型であると感じ取ったが、それは即ち尾形の「かえし」である事も意味することを忘れてはならない。尾形はキロランケが神のおかげだと言った直後に、「俺のおかげだ」「全ての出来事には理由がある」と神の采配を否定するような男だからだ。
すべてのあやふやな存在に輪郭を持たせ、弾け飛ぶボタンを先にむしり取っておこうという「覚悟」。その覚悟の名前が「死神」。私にとっては、それが最もしっくりくる「死神」の捉え方であるような気がした。
覚悟については鶴見の口から15巻でこのように語られる。
覚悟を持った人間が私には必要だ 身の毛もよだつ汚れ仕事をやり遂げる覚悟だ 我々は阿鼻叫喚の地獄へ身を投じることになるであろう 信頼できるのはお前だけだ月島 私を疑っていたにも拘らず お前は命がけで守ってくれた
そう思うと尾形と月島の扱いの差にも、月島へのあの苦しい弁明も納得がいくような気がした。
6、月島への『言えなかった言葉』
話は最後まで聞け 月島おまえ… ロシア語だけで死刑が免れたとでも思ってるのか?
初読時にはこの物言いは癪に障った。そこまで自明のことだと思うのなら。そうやって父の悪名を利用して月島を助けたのなら。月島にそう言えばいいじゃないか、と思っていた。しかしそれは、結局の所「ゴールデンカムイ」の根底を為す、『言えなかった言葉』の一種であったのだ。9年間、鶴見は自分の工作を月島に明かすことが出来なかった。それは杉元が、いずれ梅子に再び見出してもらう未来を目指している期間(つまり本編)よりもっともっと長い時間であるような気がする。その事実だけがまずは大事で、それに対して色々な意味づけをする前に、私は鶴見が”言い淀んだ”事実に向き合わなければならなかった。私は鯉登でも宇佐美でもないのだから、鶴見を信望する必要などなかったのだった。裏切りたくなるほど痛烈に、その存在を意識すればいいだけであった。
そして、理由はどうであれ『言えなかった言葉』を9年間抱えていた鶴見には、やはり弱さという単語が似合った。もし、もし本当に、月島の父親の家の地下から掘り出されたのが白骨であったのなら、10日前に行方不明になったいご草ちゃんが月島が逮捕されてすぐに掘り出されたのだから、白骨化するのには時間がかかりすぎるので、ジョン・ハンターよろしく骨格標本を作るような細工でもしない限り、髪やら服やらで誰だかすぐに分かってしまう。だから、きっと鶴見の工作は説得力のある良く出来たものであったのだが、それですら、月島に言えなかった、という事実の確認。
月島をどうしても手元に置いておきたかったのだろう。「告解を受けるもの」であった鶴見が月島の前では弁明をする男に成り下がる。それでもそこで「スティグマ」が2人を繋ぎ止める。鶴見は言った。「美と力は一体なのです」。そして彼の言葉にある”美”の定義は彼の顔の傷をも厭わないものであった(二階堂が本当にヒグマを美しいと言ったかどうかは大きな疑義が残るが)。この点に関しては、私はずっと鶴見の考え方に感心させられていたものだった。自らを美しいと定義してしまえば、もはや何も恐れるものはない。
ますます男前になったと思いませんか?
これは鶴見が自らの容姿に(杉元のように)無頓着であるとか、または本当にますます男前になったと考えている訳ではない、と考える。15巻で大幅に加筆された鶴見のヘッドプロテクター装着シーン。
どうだ 似合うか?
鶴。
杉元の言を借りよう。
和人の昔話にも「鶴女房」って話があってね 女に変身して人間に恩返しするんだけど 鶴の姿を見られた��たんに逃げていくんだ
鶴の頭部を模したヘッドプロテクターは、おそらく杉元が被り続ける軍帽と同種のものである。とはいえ杉元は軍帽をなぜか捨てられない男として描かれているのに対し、鶴見はむしろ「覚悟」の顕在化としてヘッドプロテクターを装着している。そしてその内部には、自ら御することすらできない暴力への衝動があり、その暴力を行使する時に、そのヘッドプロテクターからあたかも精液/涙のように変な汁が”漏れ出る”。編集の煽りによるとこれは「悪魔」の「仮面」である。たかだか煽りの一文を根拠に、悪魔かどうかを議論するのはかなり難しいが、それでもやっぱりヘッドプロテクターが「仮面」であるというのは、意を得た一文と言って良いのではないだろうか。それは不思議にも姿を隠す鶴の昔話に符合する。
正直に言おう!鶴見が悪魔だったらどれだけ解読が楽だった事か!原典が山ほどある。しかも悪魔は二面性を持つ。ファウスト 第一部「書斎」でメフィストフェレスはこのように話す。
Ein Teil von jener Kraft, 私はあの力の一部、すなわち
Die stets das Böse will und stets das Gute schafft. 常に悪を望み、常に善をなすもの。
Ich bin der Geist, der stets verneint! 私は常に否定し続ける精霊。
Und das mit Recht; denn alles was entsteht, それも一理ある、
Ist wert dass es zugrunde geht; すべてのものはいずれ滅びる。
Drum besser wär’s dass nichts entstünde. であれば最初から生まれでない方が良かったのに。
そしてイワンの夢の中で、スメルジャコフは「メフィストフェレスはファウストの前に現れたとき自分についてこう断じているんです。自分は悪を望んでいるのに、やっていることは善ばかりだって。」と、ファウストに言及するのであった(第四部第十一編九、悪魔。イワンの悪魔)。
このファウストの素敵な一節にはいずれ触れるとして、鶴見は悪魔を自称はしないことを念頭に先を急ごう。
この情報将校を語る上で、最も大事な事象は彼が自身を「死神」と定義することだと私は考えている。そんな中で、数々の日本的ーキリスト教的装飾に彩られ、たとえば「スティグマ」というキリスト教的文脈で鶴見に聖痕/烙印という聖別を与えることを全く厭わない私からも、「死神」がキリスト教的であるかどうかには首をひねってしまう。よしんばキリスト教のものを作者が意図していたとして、「死神」という訳語を当てるのは、デウスに大日という訳語を当てたザビエルの如き、弊害の多いものであるように思える。もしかしたら鶴見はpaleな馬に乗った男であり、隣に連れるハデスが月島か何かであり、第一~第三の騎士が鯉登、宇佐美、二階堂のいずれかの人物であるのかもしれないが…それにしても示唆する表現が少なすぎるのだった。このことは私を悩ませた。というのも鶴見をキリスト教的に読み解くという行為は、私にとって禁忌だからこそある程度の魅力を感じさせるものだったからである。ましてや鶴見を「弱い神」と位置付けるならなおのことであった。日本におけるキリスト教的神��、決して強者たりえない。強者だと感じていたらこの程度の信者数には収まっていない。そもそもゴールデンカムイには何となくキリスト教を思わせるような描写が散りばめられており、それでもいかにそれが合致していてもその文脈で語る必要はないのではないかと思われる事象も多々ありつつ(たとえばアシㇼパによる病者の塗油をサクラメントとして読み解く必要はないと感じるなど)、その禁じられた評論とやらを、試しにやってみるとこうなる。
そもそもにおいてまず、キリスト教に触れること自体に禁忌感がある、というのは既に記した通りだ。「スティグマ」「マリア」一つに取っても、私にとっては言及する前に、日本的キリスト教観について長大な考えを巡らせることがそもそも不可欠であった。キリスト教自体は現地の土俗宗教を取り込んで来たが、こと日本においてはそれすら叶わず、日本的キリスト教観というのは、おおざっぱに言えば日本の多神教感との習合ということが出来るかもしれないが、むしろ、日本の側がキリスト教の本質を捉えることなくキリスト教を取り込んでいく、という逆転現象の方が著しいほどだ。
評論家における教義の解釈のズレは、ともすれば不勉強や読み違えとたがわない為、私も慎重にならざるを得ない。しかし創作者における教義や解釈のズレは、等しく芸術となり得る力を持っているのであって、私はそれを読み解いて良いのかどうなのかずっと逡巡していたのだった。日本に於いてキリストを描くことの可能と不可能は、作家自身がキリスト者であった遠藤周作が身をもって体現していた。遠藤の描く神は一部で絶賛を受け、2016年にマーティン・スコセッシが映画化したことも記憶に新しいが、一方でカトリック協会の一部からは明白な拒絶を受けた。そして彼の描く神は、誰かを救う力を持つような強い神ではなく、弱い誰かに寄り添うような神であった。
鶴見は「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふや」であるものに、覚悟を持って形を付けていった。それは日本人に許された特権であるかもしれない。ゴールデンカムイの作品世界の中で「神」「運命」「役目」が目に見えぬ大きな力としてキャラクターを飲み込む中(そしてそれが本誌に置いてリアルタイムでますます力を持とうとし、ともすれば谷垣のボタンすらそれに組み込まれてしまうのではないかという恐怖に怯えながら)、鶴見はひたすらに自律できる人生を求めている。運命を意のままに操ることへの飽くなき渇望。その裏返しとして彼は大嘘つきとなった。
そんな大嘘つきの鶴見ですら、嘘すらつけなかった事実が月島をあの手この手で自らの手元に置いておこうとした事実であった。9年間も彼はその努力をひた隠しにしようとした。それは大嘘つきの死神に存在した「俺は不死身の杉元だ」と同義の『言えなかった言葉』であった。奇しくも遠藤周作は、まさにこの国での神との対話の困難さについての一片の物語を、まさしくこのように著したのである――『沈黙』と。
対話の不可能さには逆説的な神性がある。
それはアイヌのカムイにおいても同じである。だからこそ送られるカムイに現世の様子を伝えてもらおうとし、それでもバッタに襲われた時にキラウシは天に拳を振りかざして怒ったのだ。しかしカムイとキリスト教的神の間には決定的な違いがある。キリスト教的神は全てを統べているのだ。そして「知って」いる筈なのだった。長年このことは日本の作家を悩ませていた。遠藤の『沈黙』においても、主人公は繰り返し、聖書におけるユダの記載、そして「あの人」がなぜユダをそのように取り扱ったのかを問うている。
だが、この言葉(引用者注:「去れ、行きて汝のなすことをなせ」)こそ昔から聖書を読むたびに彼の心に納得できぬのものとしてひっかかっていた。この言葉だけではなくあのひとの人生におけるユダの役割というものが、彼には本当にところよくわからなかった。なぜあの人は自分をやがては裏切る男を弟子のうちに加えられていたのだろう。ユダの本意を知り尽くしていて、どうして長い間知らぬ顔をされていたのか。それではユダはあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。
それに……それに、もしあの人が愛そのものならば、何故、ユダを最後は突き放されたのだろう。ユダが血の畠で首をくくり、永遠に闇に沈んでいくままに棄てて置かれたのか。(新潮文庫 遠藤周作『沈黙』p.256)
当時若干25歳の萩尾望都が抱いたのも全く同じ疑問であった。編集から1話目にて打切りを宣告されるも、作者自ら継続を懇願した結果、その後少女漫画の祈念碑的作品として今尚語り継がれる『トーマの心臓』において、萩尾は以下のようなシーンをクライマックスに持ってくる。
ーーぼくはずいぶん長いあいだいつも不思議に思っていたーー
何故あのとき キリストはユダのうらぎりを知っていたのに彼をいかせたのかーー
“いっておまえのおまえのすべきことをせよ”
自らを十字架に近づけるようなことを
なぜユダを行かせたのか それでもキリストがユダを愛していたのか
その後も「知ってしまうこと」は萩尾望都の作品の中で通底するテーマとして描かれ続け、時にそれはキリスト教的なものとして発露した。『トーマの心臓』の続編『訪問者』はもちろんのこと、『百億の昼と千億の夜』ではまさに遠藤が指摘した通りの役回りをキリストとユダが演じ、そして敢えてキリスト教的な赦しを地上に堕とした作品として、『残酷な神が支配する』を執筆することとなる。
私は日本に生まれた非キリスト者であるからこそ、むしろ不遜に、無遠慮に、宗教的な何かについて切り込んでいけるのではないかと常々感じていた(例えば私にとっては聖典とされる教義の中でも聖書に記載がないのではないかと思う箇所がままある)。そしてその鏡写しのように、概して宗教が封じ込めるものは懐疑と疑念と疑義と疑問ではないか、と考え���きたのだった。
神とは何か、愛とは何か。
そういった問いを挟まないために自らが神になることを決めた男。
それはおそらく弱さを自認した上での自らへの鼓舞であった。
はたして私のような不信の徒が、どのような表象にまで「神」を見て良いのか、いつも憚られると同時、そしてその弱い神をまさに、ドストエフスキーは『白痴(Идиот-Idiot)』として現代化を試みたのではなかったか、という思いがある。『白痴』という和訳は今からするとやや大袈裟なきらいもあるが、それでもやはり、罪なく美しい人間というのは、当時のロシア社会において『Идиот』としてしか発露し得ないというドストエフスキーの悲痛でやや滑稽な指摘は、裏を返せば知恵の実を食べた狡猾な『人間』であるためには、罪を犯し汚れる覚悟をしなくてはならないということであり、それをナスターシャ・フィリッポブナとロゴージンというキャラクターに体現させていた。このような本作を、黒澤明は、日本的なキリスト映画の『白痴』として図像化したのである。このように日本において不思議と繰り返される弱い一神教の神としてのキリストという存在は、ますます持って私の鶴見観を固めていく。
罪を犯し汚れる覚悟は、鶴見によっては以下のとおり示されているものかもしれない。
殺し合うシャチ… その死骸を喰う気色の悪い生き物でいたほうが こちらの痛手は少なくて済むのだが… 今夜は我々がシャチとなって狩りにいく
一方でキリストを『Идиот』と呼ぶことすら厭わないその姿勢は、私にとっては極めてロシア的なものである。信仰において美しく整っていることは最重要課題ではない。そのような本質性がロシアでは”イコン”に結実している。家族が毎日集まって祈る家の片隅のイコンコーナーの壁に掛けられた、決して高い装飾性や芸術性を誇るわけではなく、木片に描かれたサインすらない御姿の偶像。しかしそれこそが最も原始的な「信仰」のあり方なのではないか。ゴテゴテとした教会の装飾でも着飾った司教の権威でもなく、余分なものが根こそぎ取り払われて、日々の礼拝と口づけの対象となる木のキャンバス。真に信仰するものへの媒体としてではあるが、特別な存在感と重みを持つ象徴的なイコンという存在は、英語では「アイコン」と読み下されるものであり、文脈を発展させながらポップカルチャーにおいてもその役割を大きくしていったことは周知の通りだ。
7、親殺しの示唆と代行 ー 尾形の場合
翻って尾形の新平の親殺しはどうか。
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
鶴見も尾形も親殺しの事を「巣立」ち、という同じ形容を使うという事実。きっと何度も語られてきたことだろうけど、改めて15巻にて新たな父殺しが描かれてたことで、その関連性に驚く。父親の妾を寝取りながら、自らが手を汚す事もなく、両親が絶命した事で自由を得る新平のような人物は、私が『因果応報のない世界』として称するゴールデンカムイの特徴である。あるいは『役目』重視の世界とでも言おうか。そこで『役目』を果たしたのは意外にも尾形と彼の「ムカつき」であった。ただし尾形は、他人を結果的に助けてもその事を認識されない人物であるので、この『役目』もまた誰にも認識されることなく消えていく。
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
江渡貝の母は既に死亡していたが、江渡貝には支配的な母の声が聞こえ続けており、その声は鶴見に与することに反対し続けていた。母は江渡貝を去勢していたことすらわかっている。そんな母を殺せと示唆する鶴見。何より面白いのは「決めるんだ 江渡貝君の意志で…」という鶴見らしくない言い回しである。しかし結果として齎される“対象の操作””偽刺青人皮の入手”という点では功を奏しているので、単に相手によって取る手法を変えていて、それが本人にとってプラスに働くこともあれば、そうでないこともあるだけかもしれない。
ここで関谷のような問いを死神たる鶴見に投げかけるとこうなるーー鶴見は江渡貝から得る『見返り』がなくても江渡貝を助けただろうか?
これは関谷への以下の問いはこのように繋がるーー弱く清い娘を殺し、殺人鬼たる関谷を生かす神だったとして、関谷は神を信じ続けただろうか?
善き行いをした者に幸運しか降りかからないのであれば、なぜこの世に不遇は、不条理は、戦争はあるのであろうか。
これに対して「すべての出来事には理由がある」とする尾形が、自分の置かれた環境と新平の環境をダブらせた上で、親を殺す事が出来ず(巣立つ事が出来ず)大口を叩くのみの新平に対する「ムカつき」であることは明らかでありながらも、そこで結局新平が「救われた」事の偶発性、蓋然性、見返りのなさは見逃してはならないであろう。
同時に、墓泥棒を捕まえるのは自分の仕事ではない、と語る鶴見が、なぜ遺品の回収をしていたか(出来たか)、そして「傷が付いていた」という詳細、のっぺらぼうがアイヌだということまで尾形に情報共有していたという二人の結びつきを考えるのも実に面白い。アイヌを殺したのは誰なのか? そこにいたと分かっているのはもはや鶴見だけなのである。
兎にも角にも、鶴見は、むしろその「不遇、不条理、戦争」の側に立つ事で、幸福を齎そうとする者なのである。
それは奇しくも、イワン・カラマーゾフが大審問官で言わせた「われわれはおまえ(キリスト)とではなく、あれ(傍点、悪魔)とともにいるのだ。これがわれわれの秘密だ!」のセリフと合致するのであった。
8、デウス・エクス・マキナの否定
と、ここまで書き上げた中で、本誌でキリスト教の神を試すキャラクター関谷が出てきた事で、私は論考を一旦止め、その後176話が『それぞれの神』というタイトルで柔らかく一信教を否定する日本的描写にひどく満足し、自らの「弱い神」「死神」の論考を少しだけ補強のために書き加え、大筋を変える事がなかったことに安堵した。
既に触れたファウストでの悪魔の発言、「すべてのものはいずれ滅びる であれば最初から生まれなければよかったのに」は、自らの死に対して諦念を、そしてウイルクとの再会に疑念を抱いていたインカラマッを連想させる。インカラマッ、そして関谷がこだわった『運命』は、やはり緩やかに谷垣によって、そして土方・門倉・チヨタロウによって否定される(このあたりはまさにドストエフスキー論的に言うポリフォニーというやつだ)。
関谷の持つ疑問は「ヨブ記」に置いて象徴されている。ヨブは悪魔によって子供を殺されるが、信仰を捨てず、最終的に富・子供をもう一度手にいれる。『ファウスト』では、やはり悪魔がファウストを試すが、最後に女性を通じて神がファウストを助ける。『カラマーゾフの兄弟』では、神を疑ったイワンは発狂・昏睡に陥る。つまりヨブ記を元にした作品群では、一神教の神は勝利している(『カラマーゾフの兄弟』のドミートリーのストーリーラインは除く)。これは演劇において「デウス・エクス・マキナ」と呼ばれる手法であり、最後に神が唐突に出てきて帳尻を合わせていく手法の事である。
関谷は自らの死にそれを見た。自らの悪行に等しい罰、裁きが下され、意志の強い土方が奇跡を起こしたと考えることで神の実在を感じたのであった。もっとも、我々読者にとっては、関谷への裁きは遅すぎるし、それが娘の死の何の説明にもならないため、関谷がどう捉えようと我々には神の存在が十分に確認できた「試練」ではなかった、と指摘しなければならないだろう。ただ、「デウス・エクス・マキナ」はむしろ因果応報を覆す超常的な描写であり、関谷が見た「意志の強い人間の運命」や「奇跡」、「裁き」という物差しすら飛び越えるものであったので、皮肉なことに、かえって関谷を包む状況とは一致を見せるとすら言えるのであるが……。おおよそにおいて良作とは、物語も人物も「あべこべ」で「矛盾」と「パラドックス」を抱えるものであるため、関谷とヨブ記についてまとめた記載をするには、稿を改めた方が良いと思われる。
それでも関谷についての序章を、本稿の終章に持ってきたかったのは、まさに、新平への運命を急に出てきて変えていく尾形が、あくまで人として、それも銃の腕を除くととてつもなく弱く、惨めな人間として現れ、新平の親の殺人によって新平を救ったという、いわば「デウス・エクス・マキナ」の”変形という名の否定”ではないか、と指摘したかったからである。
時に死神でなくとも、人の子も人を救う。その一端が、尾形の「ムカつき」であったこと、そしてそれが本誌の白石や1牛山に引き継がれていくことを指摘して、この文の結論とする。
そこに「見返り」はない。尾形は新平を助けようとしたわけではないし、白石はアシㇼパを助けても依頼主の杉元が生きているかどうかすら知らないし、チヨタロウは牛山を失って自身に新たな力を得たわけではない。
だからこそ、「見返り」を問題にしてはならないーー外れてしまうとしても、ボタンを縫い付ける必要はあるのだから。
そしてインカラマッはきっと、情を持たず自分を守ってくれないとしても、谷垣に愛を伝えなくてはならなかったのではなかったのかと思うのだ。
読んでくださってありがとうございました。
過去��文をまとめたモーメント。
マシュマロ。なぜ書いているってマシュマロで読んでるよって次も書いてって言われるから書いているのであって、読まれてない文も望まれていない文も書かないですマシュマロくれ。と言って前回こなかったので人知れず本当に筆を絶ったのであった。そのことを誰にも指摘されなかったので、やっぱそんなもんなんだなって思ってる。
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