#伝統文化御披露目
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コード77
ソーラーコード77「運命の過酷さに打たれた向こ��見ずな若者の頭に、豊かな思索家の魂が芽生える」
コードの現象化形態:社会的リーダーシップ。精神的成長や知的成長。強い精神的苦悩。精神的苦痛をともなうショックな出来事。グループや集団内における立場の上昇と責任の増加に伴う重圧。諦めずにチャレンジを続けることによる成功。精神的苦しみをともなう恋愛や、まれに離婚。
テロ攻撃に関する計画。テロリストや過激派の攻撃の失敗や計画の発覚や頓挫や逮捕。著名人の離婚、離別、不運、傷病、死。有名または実績のある作家や哲学者や科学者の離婚、離別、不運、傷病、死。有名または実績のあるスポーツ選手の離婚、離別、不運、傷病、死。スポーツ選手の頭部の負傷や、それを原因とする死亡事故の増加。
ルナーコード77「頭と足に羽の生えたギリシア神話の知恵の神(ヘルメース、足軽)が、天国と地獄の間を忙しく行き来する」
コードの現象化形態:良いことと悪いことが一挙に訪れる。プレッシャーやストレスのある状況下で、多忙さと格闘する。知的成長。知的リーダーシップ。精神世界の学びへの適性。ギリシャやローマやイタリアやフランスでの犯罪やテロ事件、あるいは国家的ネガティヴの増加。
有名スポーツ選手(特に、サッカー選手やマラソンその他の陸上選手やスプリンターやキックボクサー[一部ボクサー]や格闘家など足をメインに使うスポーツ競技の選手)を狙った凶悪犯罪やテロ攻撃。そうした人々のけが、病気、手術、入院、事故、交通事故、犯罪、犯罪被害、死亡。高級服飾ブランドの不運。高級服飾ブランドの経営者や幹部やデザイナーなどの不運(病気、事故、怪我、犯罪被害、死亡など)や醜聞、不祥事、犯罪、地位の低下、失脚(話)、辞任(話)、引退(話)など。エルメス、その他の伝統的高級ブランドにとっての良くない問題の発生。飛び降り自殺。首吊り自殺
【コード77】 ■対向コード:257 ■統合コード:283 ■直角コード:167
オズの魔法使いの主力スターゲート・コード77「天国と地獄を行き来する神の伝令にして強盗と泥棒の守護神ヘルメス(エルメス)」
コード77もコード123も、顕著な「自殺コード」です。コード77は「飛び降り自殺」や「首吊り自殺」を強く誘発し、コード123は「服毒自殺」や「���薬自殺」や、その他ガスなどの有害物質による自殺を強く誘発します。さらにそうした故意の他に類種の事故も誘発します。
ソーラーコード77「運命の過酷さに打たれた向こう見ずな若者の頭に思索家の魂が芽生える」は、人に(ときには、自殺さえ考えさせてしまう)「強い苦悩」をもたらします。
コード文にある「思索家の魂」というのは、毒盃による死を受け入れた際の哲学者のソクラテスのような死への覚悟や悟りの境地を(広義には含めて)表しています。このコードの現象化傾向の代表的なものは、事故、病気、死、金銭苦、生活苦、犯罪、犯罪被害、トラブル、苦悩、自殺、不運、逮捕…など。
ルナーコード77「兜と足に羽の生えたギリシア神話の知恵の神ヘルメース(エルメス)が、天国と地獄の間を忙しく行き来する」は、とりわけ(各界の著名な)賞の受賞者、教師、大学教授、学者、化学者、科学者、哲学者、研究家、作家、文筆家、クリエイター、ミュージシャン、デザイナー、スポーツ選手、アスリート、格闘家、泥棒、強盗、学生や若者の〈シグニフィケーター〉(=それらを表わすもの)となっています。
ヘルメースが音楽や牧畜(牧場、牛・羊・豚・山羊・鶏)の神であることから、そうした職業の人、および関係者や動物にもコード77のエネルギーは強く波及します。ヘルメースが被っている兜は、軍人(自衛隊含む)や工事関係者、パイロット、競輪・競艇・競馬の選手や野球選手など、ヘルメットを被る人、帽子に関係する人に、そして、ヘルメースが手に携えている医療のシンボルにもなっている魔法の杖は、医師・医療・病院関係者に、このコードの不運凶事[MNC]のエネルギー(現象化形態)を強く波及させます。
コード77には「天国と地獄」というキーワードが含まれていますため、容易にコード111と同語シンクロ相互強大相乗作用をともなって現象化します。
ソーラーコード111「有名な歌手がオペラ『地獄のオルフェ』(天国と地獄)の公演で、その妙技を披露し、有名な映画監督は水鏡に倒れ込んだ男(ナルシス)の最後の姿をフィルムに収める」
コードの現象化形態:有名大物歌手の体調不良・病気・入院・手術・死、その他の不運凶事の多発。有名映画監督や有名映画俳優女優の体調不良・病気・入院・手術・死、その他の不運凶事の多発。(ときに)多数の犠牲者をもたらす大地震や大洪水などの大災害の発生。水死。溺死。(風呂、温泉、川・滝・池・湖・貯水槽・ダム・貯水槽・用水路など、各種)水場での事故や重症や死。
ルナーコード111「体調不良をおしてステージに立った歌手が、歌の途中でめまいを起こしてしゃがみ込み、慌てた数名のスタッフが、走って彼の��に駆け寄る」
コードの現象化形態:有名大物歌手の体調不良・病気・入院・手術・死、その他の不運凶事の多発。
コード77は、「神の砦」の「オズ(バフォメット)の魔法使い」の「聖戦と正義の復讐の法の魔力」が、4次元を飛ばしてこの地上(3次元の人間界)にダイレクトに侵入してくるスターゲート(超時空次元接続特異点コード)です。
それゆえに、人も魔界(アカシック)も、その「奪い殺す力」を防ぐことはできません。 アレイスター・クロウリーは『第77の書 オズの書』にこう記しています。 「われらには、殺す権利あり。」
オズは火星(マーズ=ホルス)。「神の家」「戦争の砦」に満ちるコード77の力。それは大きく地を揺るがし、堅固な建物の中に居る者も死の力で脅かす。コード5の天鷲蝶の地震る神天使メダリオンとコード77のオズの魔法使い死天使アザゼルが一つになった時、その力は最強になる。エピファニー(神の力の御公現)。コード257の「イースター」(復活祭)。即ち、タロットの大アルカナ20番「最後の審判」(ホルスのアイオーン)の前に来る先触れのしるし。
「神居即自然、自然即神居」とは、別の言い方をすれば、「エヒエ・アシェル・エヒエ」(われは、在りて在る者なり)ということです。 KAMVI(カムイ われらが母なる大地のごとく)=20+1+40+6+10=77=OZ(神の砦、軍隊、超常能力、ヌーメン)
【ホルスの言葉】 王家の館とは、天の単眼から放たれる最後の審判の日の雷電を冠としてその頭上に戴く神の使徒たる魔法使いたちの無敵の砦のことである。そしてその数は77である。
【マスター・アマラルマヌの教え】 309+128=437(400[ケルビム、すなわち生命の輪の沈黙の監視者たる動物天使たちと神の人からなるイデア的世界]・30[真理と正義の女神マートの審判の広間]・7[神剣])=77(オズ、砦、軍隊、力、霊力・超能力[フォース])イルミナティの「鷲の目」はすべてを射抜く。「火よ、われと共に歩め」。コードは「不可知」の中で燃え尽きる墓標の真実を物語る。 ヘルメースよ。来たりて、その灰を集め、ヨグ・ソトートの大いなる暗黒の目の深淵に投げ込め。
おお!わが至高の魔力によりてなされるその魔法式の数は、77+152+286=155なり。 見よ、こはハムハゼルの数ではなかったか。かくて証はここになされた。 わが元にある��「戦争と復讐の神」ラー・ホール・クートのすべての力。
われはイルミナティの最高位の女祭司、かの「緋色の女」なり。「火よ、われと共に歩め!」「汝、火の声を聞け!」 われはOZの魔法使い。77は、その力の偉大な門なり。 われは世界の三部の学、哲学・天文学・自然科学を極めたヘルメース・トリスメギストスより当然のごとく偉大なる者なり。われが「世界の救世主」であることを明かす、これなる三重の印において。 77+186+309=212 エア・フォース! フェニックス! ラー・ホール・クイト! そしてわれはサタンの蛇を捕える!!
【ホルスの言葉】 もしお前が、幸福や豊かさや満足を目指しながらも、なかなかそこに到達できず、もがき苦しんでいるのだとするなら、おそらく今のお前にまだ足りないのは、幸福や豊かさや満足ではなく、さらなる苦境や欠乏や試練なのだ。これは私がたんなる意地悪で言っているわけではなく、アカシックのエネルギー上のパラドックスについての真理なのだ。「地獄下り昇天」という言葉がある。多くの人、いや、ほとんど全ての人は、まず天国を真っ先に目指し、そしてほぼ100%近く失敗する。ゆえに、真の賢者がまず目指すべきは、天国の安楽さではなく、地獄の試練(試罪法X)のほうなのだ。終わりよければ全てよし。だから、「楽園」に向かう途中にある苦しみについては過大評価するな。聖と俗、光と闇の戦いが避けられぬ以上は、楽園を実現するために苦しみが存在することもまた避けられぬことであるのだから。そしてそれが自然の理なのであれば、逆に、苦悩するのではなく、苦しい時こそ、なんとかして笑いを生み出せ。いまいる場所に(たとえそこが地獄であっても)、超人の笑いを生み出せるように生きよ。これはコード77とコード226の教えである。 【〈哲学者の毒盃〉、あるいは〈超人の笑い〉、あるいは〈逃走=闘争線〉の術式】 77+226=303
コード5+コード77=コード82 メダリオンとアザゼルが、コード82のゲートを領しました。 このコード82は、これまでセドラという悪魔が、そこからエネルギーを吸い、そして、光の子らを苦しめるためにそのゲートを使うことが多かったのですが、今後は光の影響の方が、より強まることになります。
コード77 頭 手 足
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2024/10/21 8:00:15現在のニュース
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅴ
花鳥誌2024年5月号より転載
日本文学研究者
井上 泰至
8 さしくれし春雨傘を受取し
『五百句』には「大正十三年」と注記され、初出は翌大正十四年八月の『ホトトギス』で、「近詠」とのみ題されている。『年代順虚子俳句全集』第三巻の大正十三年の項には、「四月(日不明。)小樽高商を卒へたる長男年尾を伴ひ京阪地方に遊ぶ。その時の句?」とあって、『虚子百句』では次の九番目に挙げられる「天日のうつりて暗し蝌蚪の水」の後に掲出されている。成立は前後していたか。
しかし、『虚子百句』では、この句の方を先に挙げた。その理由は、単純に『五百句』の掲載順に拠ったとも考え得るが、加うるにこの句の前の七番の句が「雨の中に立春大吉の光あり」なので、「雨」の句で一組としたか。この後九番は「天日」で晴、十番は「思ひ川渡れば又も春の雨」と雨の句となる。単調さを避け、季節の進行に晴雨の交代を入れ込んだ編集の妙でもあったか。
この句の問題は、「春雨や」と持ってこず、「春雨傘」と中七に造語としてわざわざ置いたのは何故かという点にある。ここから考えてみよう。
「さしくれし」の「し」は、一般に「過去」の意味の助動詞「き」の連体形だと言われるが、室町時代末期から、現在もその動作が続いている「完了」の意味を持つようにもなってきていた(井上・堀切克洋『俳句がよくわかる文法講座』第2章)。有名な、
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 正岡子規
の「し」も、「つまってしまった(そして、現につまっている)」の意味でないとおかしい。ただ過去の動作が終わったとか、あるいは過去の動作の影響が終わってしまったということなら、子規は死んでしまっていることになるが、この句は自分の最期の姿を「佛」と客観視して詠んだのであって、「今まさにちょうど」という意味でなければならない。やはりよく知られる島崎藤村の「まだあげ初めし前髪の/ 林檎のもとに見えし時」という『若菜集』「初恋」の一節も、現前する女性のうなじを詠んでいるのだから、「し」は「あげたばかりの」という意味でなければならない。
掲句も、上五の「さしくれし」を受けて「受取りし」と応じた、この呼吸が一句の眼目なのである。��り返される「し」は、過去でなく完了の意味でなければならない。そこで中七の「春雨傘」の造語が使われることになったものだろう。
そこに気づいてみると、おそらくは女性が手渡してくれた傘を阿吽の呼吸で、虚子か、あるいは虚子が見ていた人物が受け取った動きのある一場面に焦点を当てたことがわかる。
「春雨」は本来京都独特の、鴨川の水面を観て雨を知るような細やかで繊細なそれであるから、この一瞬の「艶」なる場面をつなぐ重要な小道具の属性を知らせるのに、十二分の役割を果たしているのである。当然『喜寿艶』にはこの句は掲載されている。
なお、京都の三業(料亭・待合茶屋・置屋)の女性の品を様々に詠むのは、虚子句の一傾向であるが、
美人手を貸せばひかれて老涼し 昭和二七年
夕立に傘傾けてはつ子来ぬ 昭和三〇年
など京都の女性の「手」や「傘」を材にした同傾向の句を確認すると、虚子にとって「傘」と女の「手」のしなやかさや姿態は、発想の起点であったことが確認できる。
9 天日のうつりて暗し蝌蚪の水
『五百句』には「大正十三年」とのみ注記。『年代順虚子俳句全集』には、前の句の解説で示したように、小樽高商を卒業した高濱年尾を伴い、関西を訪ねた四月の句か、としている。『ホトトギス』大正十三年六月号の「消息」欄で年尾は、滞在十八日、京都・大阪・神戸・堺・大和を回り、特に京都の嵯峨・御室・東山、さらに琵琶湖から比叡山・大原を回り、京都の風光の良さを特記している。
掲句は、二つの解釈が一応想定できる。太陽が位置を傾け、それまで日が当たっていた場所が暗くなり、そんな中をお玉杓子が泳いでいる、というもの。
今一つの解釈は、「沢山のお玉杓子が孵ると水一面が黒くなるほどで」「日の光が水に当っても暗いような感じがする」という『虚子百句』の高濱年尾のような受け取り方である。清崎敏郎も「玉藻研究座談会」で同様の解釈を披露している。
大野林火もまた後者の意味に捉え、「くろずんた蝌蚪」と「水面の日輪」とが重なり、「不思議に重々しい空気を伝えてくる」としている(『虚子秀句鑑賞』)。
こう考えてくると、一句の解釈の分岐点は「うつりて」が「移りて」なのか、はたまた「映りて」なのかというとこにあることが見えてくる。
まず、この句が詠まれていた時、年尾が同伴していたということであれば、後者の解釈に軍配を挙げる客観的証言である可能性は頭に置いておく必要があろう。
さらに、「うつりて」を「移りて」と解釈してしまっては、太陽の移動を説明しただけのことになってしまい、何が何してどうな��た式の句として、値打ちが下がる。やはり「映りて」と受け取って、太陽の姿と光は池に映ってはいるものと理解して初めて、句に情趣が生じる。
そもそも「て」は、単純な接続ばかりでなく、「ではあるが」という逆接の含意を俳句では持たせることがままある(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
面白てやがて悲しき鵜ぶね哉 芭蕉
糸瓜咲いて痰のつまりし佛かな 子規
蝌蚪生れて未だ覚めざる彼岸かな 松本たかし
この句も、「太陽の光とその姿は池に映ってはいるものの」と屈折した意味を読み取るべきであろう。
深見けん二は、やはり「玉藻研究座談会」で、「天日」の語の選択について、「何かそこからずうつと広がって行く大きな宇宙なり世界といふものが感じられる」と発言し、敏郎とのやりとりの中で、「太陽」よりも「天日」の語を選ぶことで、客観的な状況が単純化され、それに伴って、個々の細かい現象より、もっと大きな世界を把握し表現することが可能になったと確認しあい、生前虚子は「単純化していくとそこに個性が出て来ますよ」と語っていたことを引用している。
この句に虚子の「個性」を読み取るならば、「金亀虫擲つ闇の深さかな」「蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな」「大寒の埃の如く人死ぬる」のような闇の世界を見つめ、それすら客観視しようとする世界に通じると言えば言えようか。
最晩年の「この池の生々流転蝌蚪の紐」(昭和三十一年)も、細部にこだわった客観写生から出発して、掲句のような「単純化」を経て、たどり着いた表現と境地と見ることも可能だろう。「天日」という世界観を含んだ語の実験が、晩年の自在を生んだと考えたい。
なお、虚子の揮毫は『虚子百句』全体に、かすれた墨痕で、視力が弱くなった老年の筆を感じさせるが、掲句に限っては鮮やかな筆づかいとなっている。意図的なものなのかどうかは、本書全体から見直してみる必要があり、機会を改めたい。ただし「我心或時軽し芥子の花」など明らかに、居住まいとただした書きぶりも認められる句が少ないながらあることは、単純な墨継ぎの問題で収まるのか否か注意を要することは、心覚えに書きとどめておきたい。
『虚子百句』より虚子揮毫
9 天日のうつりて暗し蝌蚪の水
10 思ひ川渡れば又も花の雨
国立国会図書館デジタルコレクションより
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井上 泰至(いのうえ・やすし) 1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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Republic of Palau
初めて日本を出たのが小学4年生。母の意向で市の友好青年使節団の研修へ参加し、10代は日本と戦時中に関わりがあった幾つかの国々を研修で訪れた。
友好青年使節団の渡航準備は、まず半年をかけた研修から始まる。定期的にフォーラムに参加し、渡航先と日本がどのように関わり合っていたのか、彼らの文化はどのようなものなのか、戦時中何が起きたのか。事前に相手の国へ行く目的をはっきりさせてから行った。文化交流の一環として、相手の国民的な歌を覚えて合唱曲を互いに送り合ったり、時にはホームステイもした。言語の壁を越えていく適応力と、歴史的・文化的背景を知り、多角的な視点を持って相手に歩み寄ることをここで着実に学んだ。
使節団として私が渡航した最初の国が、パラオ共和国。私はパラオ無人島体験のプログラムに参加した。初海外で無人島島流し体験、私が何も考えてない子供でよかったね、と思う。
パラオは西太平洋に位置する、500以上の島が集まってできた共和国だ。日本とは歴史的な関わりが深い。第一次世界大戦後に日本の統治領土として一時的に統治されていたことが大きく影響している。パラオ語の中には日本語が混ざっていることで有名。
参加時はもちろん戦地学習としてぺリリュー島などの激戦地には行ったけど、無人島で過ごした時間が衝撃的すぎて全く覚えていない。大人より子供の多い無人島サバイバルツアーが組まれ、今となっては考えられないようなプログラムが組まれていた。子供達のメンバーはうろ覚えだけど、明るい子、教室の隅にいるような子、不登校の子、など、決して外交的な人間が揃えられたわけではなかった気がする。大人はマジシャン、理科講師、主催者、現地のツアーガイド数名だった。「理科」「エンタメ」「現地民」「計画者」、そしてさまざまな性格の子供たち。今思うとほぼ漂流教室。やばすぎる。
プログラムがスタートしてパラオのコロール市に数泊した後、いよいよ無人島へと皆でボートで向かった。日中、干潮の時間に水の中をじゃぶじゃぶと歩きながら島へ上陸したのを覚えている。海とその島以外、何もなかった。
白い砂浜を米粒ほどの小さなヤドカリがウヨウヨと歩いていた。島に入ってすぐ見えるヤシの木には、前年度のプログラム参加者が作ったお手製の木のブランコがかかっていた。
無人島生活は、まずシュノーケリングから始まった。小判鮫がウヨウヨいる海を泳いだ。エメラルドグリーンに包まれながらずっと向こう側まで澄み切っている海。海そのものの世界が、水族館くらい透き通って見える。私の横をスイスイと泳ぐ魚たち、とサメ。サメ、ほぼサメ。とはいえど、小判ザメだ。人間を襲いにくる様子もなく、ちいさな群れを成して悠然と泳いでいた。最初は怖くて仕方がなかったが、何もしてこないとわかると俄然楽しくなって、一緒に近くで泳いだのを覚えている。
午後はテグスと小さな針のみで魚釣り。釣った魚はその日の晩御飯になると聞き、みんな果敢に挑戦し、小判ザメを釣ったり、小さなミノカサゴを釣ったり。「食べなければ生き残れない」という無意識のもとで命を獲り、それを食べる。「人間という動物」らしい瞬間だ。海を生きるものと泳ぎ、その群像の一つを食べた。このサイクルを体感して、命がもっと不思議になった。
日が沈んだ頃、壁のない木の小屋に集まり、釣った獲物の鍋を突いた。マジシャンがマジックを披露していた最中、その向こう側からふらっと現れた巨大なヤシガニに一同騒然とした。ヤシガニはマジックのタネではなかった。ガイドが木の枝を使って捕まえて、理科講師が「ヤシガニのハサミは人の親指をパチンと切る」と言っていた。鍋で煮て食べた。捕食者でよかった。私の指は残った。ヤシガニのハサミは美味しかった。
ひとしきり食べ終わった後、みんなで浜辺で焚き火をした。ここで理科講師「おじい」が星の名前を教えてくれた。南十字星という、南の島でしか見れない星が稀にあることを覚えた。私たちは見ることができなかった。見れなくても美しかった。
焚き火を囲みながら、ずーっと将来の話をしていた。火を知ってから夜を知ったんだな、人類って。6年生の男の子がやたら悩んでいたような気がする。元気かなー。
そのあとは硬い木の床にみんなで雑魚寝した。肌が砂でざらつき、湿気でベタついていた。少しぬるい風を感じた。月が大きかった。『時間』という概念を忘れられた。何もかもが自然の流れと共にあった。
夜明け、薄明かりに照らされて起き上がり、理科講師おじいを起こした。一つだけ光る星に、「あれは何の星?」と聞いた。「あれは朝と夜の間にしか現れない金星という星だよ」と教えてもらった。朝日がすでに登ろうとしていたからなのか、眩しくて仕方がなかったのを覚えている。このパラオの旅で、もっとも忘れられない瞬間。
無人島から帰る時、「帰りたくない」と駄々をこねた。ガイドさんに「残るか?」と聞いてもらったのを覚えてる。泣く泣くホテルに帰り、夕方にレストランで、コウモリをそのまま煮たスープを食べた。コウモリはシャケの味がした。ホテルに帰ってベッドで寝ても、食事だけは相変わらずビーストモードだった。パラオでの無人島体験は、地球と邂逅した時間。
当時、日本の児童館でPCで毎日フラッシュ倉庫やYouTubeを漁っていたザ・インターネットキッズの私にとって、すでに情報の海はみじかなもの。タイピングも上手くなってきた頃、全ての電子機器を置いて無人島に行った。今もインターネットは好き。今はさまざまな情報をもっともっとインターネットで簡単に得られる時代。なんだって知ったような気になれる。サイテー。
でも、地球は大きく、広く、丸く、そして変化し続ける命。その未来には私たちと同様、死が待っている。四角いフレームや文字の羅列で切り取れるようなサイズの事柄は、最初から地球にはない。知り尽くせない文脈がある。本物を知りたければ、自身の身体を持って、本物に触れたらいい。そのアクションはとてもパワーがいる。エネルギーがいる。
旅好きな訳じゃない。どっちかというと、いつもは家にいるのが好きだし、観光目的で旅をしようとするとすぐ帰りたくなる。スタンプラリーが嫌い。単純に、私は知ることに興味がある。かつて起きたこと、起きていること、起きるであろうこと、地球にあることは知り尽くせない。遺跡、美術、絶景、人物、動物、エンターテイメント、文学、音楽、どれにしたって、「概要」を知っていても、本質に触れることとは知の獲得において、天と地ほどの差がある。本物に触れることで、真実そのものが伝わってくる。そして新しい感覚がこの体に生まれる。「そういうことだったのか」と、言葉にならない体験的な知の財産を得る。「知る喜び」こそ、私が旅に出る理由だし、私の人生の純粋な、何にもとらわれていない喜びなんだと思う。
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2024年2月24日
宮沢元首相の「日録」見つかる 戦後40年間克明に「第一級の史料」(朝日新聞 連載:宮沢喜一日録 戦後政治の軌跡 第1回 プロローグ)2024年2月24日
宮沢喜一・元首相(1919~2007)の40年間に及ぶ詳細な政治行動記録が見つかった。期間は、佐藤栄作内閣の経済企画庁長官に就任した66年12月から死去前年の06年9月に及ぶ。保守本流の政治家として戦後日本の軽武装・経済重視路線を築いた宮沢氏の折々の行動や考えがうかがえるほか、自民党内の権力闘争をめぐる具体的な記述もある。
記録は大学ノート185冊に及び、宮沢氏の事務所の執務室に、木箱に入れて保管されていた。政治学者で東京大学名誉教授の御厨貴氏が遺族から託され、研究者グループを組織して朝日新聞と共同研究。「宮沢喜一日録」として内容を分析するとともに、データベース化を進めてきた。
「日録」は宮沢氏が最晩年まで自らの政治活動の記録として手元に置いて活用していた。原則1日当たり2ページが充てられ、左のページには秘書が作成したその日の細かい日程が、会合の出席者とともに記されている。右のページには宮沢氏の直筆で、会談内容や簡潔な感想のほか、帰宅後に受けた電話の相手や内容などが記されている。
「宮沢喜一日録 戦後政治の軌跡」はこちら 「日録」には、宮沢元首相の最大の強みであった外交政策、蔵相などとして手腕を発揮した経済・財政政策、首相として直面した政治改革など、宮沢氏自身と戦後日本の歩みが刻まれています。各テーマについて日録を手がかりに取材した記事を25日以降も随時配信します。
金丸元副総裁の逮捕「やむなし」
たとえば、自民党総裁選に勝利する2週間前の91年10月11日には「竹下派宮沢支持決定を知る。これにて大勢きまる」。93年に脱税事件で金丸信・元副総裁が逮捕された当日には「逮捕やむなし」との書き込みがある。
92年の米大統領選の際には、共和党の現職大統領ブッシュ(父)の敗北を告げるキッシンジャー元国務長官の電話での言葉が記されている。
94年に非自民連立の細川政権と野党自民党の間で政治改革関連法案が焦点になっていた際には、後任の党総裁河野洋平氏に早期決着を助言していたことも、日録への本人の書き込みで判明した。
宮沢喜一「日録」の記載例
御厨氏によると、戦後政治の一線で活躍した主要政治家の数十年単位の行動記録で、欠損のない史料は例がない。ほかの政治家や官僚らの記録と照らし合わせることで史実の検証や横断分析が可能になることから、「これから戦後政治の研究をする際に必ず参照しなければならない第一級の史料だ」と評価する。
宮沢氏は護憲・ハト派の代表格だった一方、首相(在任期間91~93年)としては国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させ、自衛隊をカンボジアに派遣している。
首相在任中は今日と同様に相次ぐ政治とカネを巡る事件に直面。政治改革への対応を迫られた。当初から選挙制度改革よりも腐敗防止策を重視しながら実現できず、自民党の分裂を招き、結党以来初の下野を経験した。日録には当時の詳細な足跡が記録されている。
御厨氏は「高度成長と冷戦が終わった後、新たな国のかたちが見いだせないまま、失われた30年が過ぎた。宮沢氏は吉田茂元首相の下で戦後の政治と経済の骨格を実質的につくった人物。今こそその軌跡を日録でたどり、これからの日本の針路を探すことが求められている」と語っている。(池田伸壹)
朝日新聞社は宮沢喜一氏の「日録」について、東京大学名誉教授の御厨貴氏を中心とする学者グループと共同研究を続けてきた。日本語と英語の手書き文字をテキスト化するなどしてすべてのページと添付資料をデジタル化。当時の朝日新聞の記事や国会議事録、首相動静などと横断検索できるデータベースの構築を同社メディア研究開発センターで進めており、将来公開する時期や方法を検討している。デジタル化によって他の史料との横断分析も容易になるため、「戦後政治史研究を革新する新たなプラットフォームができた感がある」と御厨氏は語る。
未解決の���閥とカネ、重い検証資料���政治部長・松田京平
政治家の動静を確認することは、権力監視の基本だ。宮沢喜一氏のように、首相、閣僚として長く政権中枢にいた人物の行動記録は、戦後80年を控えた日本の政治史の断面を浮かび上がらせ、自民党派閥の裏金事件で問われる政治改革を考察することにもつながる。
日録には宮沢氏の直筆によるメモや補足のような走り書きがあり、本音や衝撃が垣間見える。後年振り返って書く回顧録と違う臨場感がある。
吉田茂、池田勇人、佐藤栄作という歴代首相に仕え、戦後日本を牽引した政治人生の前半。後半は首相として、自衛隊の海外派遣など国際貢献を問われ、蔵相時代に始まったバブル経済の後始末、行き詰まりをみせた自民党政治の立て直しに追われた。政敵さえも認めた知性と教養、キャリアを持ちながら、保守本流、護憲派の信念と現実政治をどう取り結ぶかに苦闘した日々を日録は飾ることなく粛々と記している。
日録の記録は精緻だ。実は、政治への関心が高かった祖母から宮沢氏の足跡を教わった影響で、私は高校生のころ手紙を書いた。1989年以来、宮沢氏との文通は5往復。その縁で、記者になる前を含め94~05年に計3度面会しているが、すべて時間が分単位で私の名前と共に日録に残っていた。
「新聞の影響力、落ちていますね。しっかりやってください」。最後の面会となった05年11月2日、25分間の多くが激励で、身が引き締まる思いだった。
同じ広島選出で自民党派閥「宏池会」会長を後に継承した岸田文雄首相の名前は、88年に岸田氏自身の結婚披露宴に出席したのが最初。個別の面会や電話など計85件、登場する。
派閥の政治資金事件で宏池会解散に踏み切った岸田氏は、縁戚でもある宮沢氏について著書で「政治の師とも呼ぶべき方」と記している。宮沢氏が30年前に直面した政治改革は、派閥とカネの問題を解決できぬまま今回の事件に至った。国民の政治不信と首相の指導力。今の岸田氏に突きつけられた課題は重なる。当時の行動を克明に残す日録は、首相のありようから政治を見つめ直す重い検証資料でもある。
牧原出(東京大学先端科学技術研究センター教授)【解説】 宮澤喜一日録研究会には、私も出席しており、あえてそのさわりだけでも紹介したいと思います。この日録は、秘書のつけた毎日の動静が左ページにあり、右ページは余白となっています。宮澤は鉛筆で主としてこの右ページにメモを書き込んでいますが、全体としてはあまり多くはありません。主たる情報は、秘書の記した会見の場所、日���、移動先などです。夜の会合についてもきちんと記されています。その意味では、巨大なデータセットとしての価値が高い資料だと言えます。研究会でもこうした動静データから、数々の興味深い洞察が展開されていました。派閥運営についてもメモは多く、派閥解消が叫ばれる今となっては貴重な歴史資料です。
私自身は、戦後史のなかで内閣官房長官の動静がここまで詳細に記された記録は他にないことに気づき、その箇所を丁寧に読みこみました。「『事故係』というあだ名がついた宮沢官房長官」と当時は語られていたようですが、日録には外交関連の事項が多く、宮澤氏ならではと思います。伊藤正義外相が鈴木善幸首相とのあつれきで辞任するくだりは、官房長官の冷静なメモが光っていました。このとき外務次官に辞任を慰留するなど、全体として人事案件で辞任を申し出る高官への慰留に努めるというメモが多く、リーダーシップに動揺が見られた鈴木善幸内閣での官房長官の対応と見ることができるかもしれませんが、政治の継続性に意を払うのは、政治家宮澤喜一ならではとも言えるでしょう。やはり、この長大な日録は、『佐藤榮作日記』と並んで、戦後政治の一級資料です。
駒木明義(朝日新聞論説委員=ロシア、国際関係)【視点】 ロシア初代大統領のエリツィン氏について何を書き残しているのか、非常に興味があります。
宮沢氏の首相在任は1991年11月5日から1993年8月9日で、ソ連崩壊による新生ロシア誕生からの3年間と、ほぼ重なります。
宮沢氏はソ連崩壊の2日後には早くもエリツィン氏に親書を送り、平和条約締結に意欲を伝えました。
92年1月には、ニューヨークで初会談。終了後に記者団に「自分としては潮時と思っている」と手応えを語りました。日本に帰る機中では「There is a tide in the affairs of men」とそらんじました。「人のなすことには潮時あり」。シェークスピアのジュリアス・シーザーの一節です。傍目にも高ぶった様子だったといいます。
ところがエリツィン氏は、92年9月9日、公式訪日の予定の4日前に、宮沢氏に電話でキャンセルを告げました。宮沢氏はドタキャンにずいぶんとショックを受けていたといいます。
結局エリツィン氏は93年10月に訪日。宮沢氏はすでに退任しており、細川護熙首相が首脳会談に臨みました。
ジェットコースターのようだった日露関係とエリツィン氏について、宮沢氏直筆の所感が残っているかも、と思うと興奮します。
林尚行(朝日新聞GE補佐=政治、経済、政策)【視点】 始まりました。息の長い企画になりそうです。なにより宮澤家の皆様、御厨先生はじめ政治学者の皆様、企画に向けてご協力・ご尽力いただいた皆様に感謝申し上げます。まずは政治取材の最前線から「宮澤日録」を考察する政治部長論文、宮澤政治を形作った外交について日録の記述を引きつつ紐解く概論的な記事、宮澤氏を直接知る政治学者お二人による日録のガイドブック的対談、30年前の政治改革をめぐる宮澤氏の知られざる動きを明らかにする記事ーーなどを順次、紙面とデジタルでお届けしていく予定です。その他の分野についても、随時発信していきます。政治が混迷を深める今だからこそ、読者の皆様に多角的に戦後政治を考える手がかりになるようなコンテンツをお届けできるよう、取り組んでいきたいと考えています。連載ページ(https://www.asahi.com/rensai/list.html?id=2076)もローンチしました。アプリの方は、ぜひとも連載フォローしていただければ幸いです。よろしくお願いします。
吉岡桂子(朝日新聞記者=中国など国際関係)【視点】 宮澤氏は漢詩にも通じた日本の伝統的な教養人だと中国の人たちからも思われていました。「片氷心在玉壺」。日経の私の履歴書の結びも唐詩選から引いています。私が取材をしたのは98年から01年にかけての蔵相・財務相時代ですが、日本の証券・銀行危機からアジア通貨危機と重なります。取り付け騒ぎが起きかねない怒濤のような日々をどのように過ごしていたのか、ほぼ同じ時期に日本が当時は「裏庭」視していたアジアを襲った通貨危機とどう向き合ったのか。米国との溝もありました。中国からの日本への批判もありました。外務省が前面に出る交渉は外交史料として黒塗りであっても残るのですが、経済外交、とりわけ大蔵・財務省の一部がコントロールする通貨外交は、通貨マフィアとの言葉のとおり、記録に残らないものがたくさんあります。それだけに大臣としてどのように過ごしていたか、それとも、やはり危機対応は官僚の仕事で大して気にしていなかったのか。今に続く日本の失われた時代を象徴する時代であり、今の中国やアジアとの関係の伏線だった時代でもあり、とても興味があります。
要職にある方は、その責任としていろんな形で記録を残してほしい。自分が関与した出来事が後世に語られるとき、自分の声が消されることなく、歴史に響かせることにもつながると思う。
金沢市 支援物資の提供を改めて呼びかけ(NHKニュース 2月24日)
金沢市は、市民などから寄せられた支援物資を、地震直後から被災者に届けてきましたが、物資の数が減ってきているとして、改めて提供を呼びかけています。
金沢市では、1月6日から定期的に市民や企業などに支援物資の提供を募り、多いときは1日720件ほど寄せられていましたが、23日は25件にとどまるなど、次第に数が減ってきているため、改めて提供を呼びかけています。
特に必要とされているのは、断水している被災地向けの水で、500ミリリットルか2リットルのペットボトルです。
また、常温で保存が可能な野菜ジュース、携帯トイレも要望が多いということです。
このほか、お茶のペットボトルやカップ付きのみそ汁とスープ、パックごはんとレトルト食品、それにカセットコンロや去年1月以降に購入したガスボンベも求められています。
いずれも新品、未開封のもので、飲料や食料については、賞味期限がことし6月以降のものにしてほしいとしています。
提供方法は持ち込みに限り、2月26日までの午前10時から午後4時の間に金沢市泉本町の「泉本町倉庫」で受け付けています。
23日は、市民が車で訪れ、段ボール箱に入った飲料水や野菜ジュースを届けていました。
提供した金沢市の40代の女性は「できることは限られていますが少しでも役に立てるよう物資を届けに来ました」と話していました。
金沢市能登被災地支援本部生活物資支援班の河野裕介さんは、「被災地ではまだまだ支援物資が求められている状況です。みなさんの協力をお願いします」と話していました。
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突如現れた #編笠行列 #神戸花嫁道中 #伝統文化御披露目 #宮川徳三郎商店 #宮川徳三郎 #京都 #神戸 #三宮 #花嫁道中 #狐の嫁入り #プロデュース #伝統文化 #職人技 #伝統文化をアップデート #着物好きな人と繋がりたい https://www.instagram.com/p/Ceh3M2tLojs/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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エンリケ後悔王子
※本テキストはPCでご覧頂いた場合雑誌風の縦書き表示となります。
先が見えない。行き詰まりのどん詰まりで我々は今抗ったり、受け容れたり、或いは諦めたりしている。想像した未来はもっと華やかで便利で、そうじゃないとしてもマトモだったはずなのに。
効率化を突き詰めればその先には『死』しかない。バンドは非効率の極みだ。その非効率を更に極め、自ら修羅の道を行く痴れ者たちことエミリーライクステニス。今回メンバー全員にインタヴューを敢行することにより、その哲学がヴェールを脱いだように思う。まずは唯一のオリジナルメンバーであるエンリケ後悔王子だ。
(聞き手:早瀬雅之)
友達もいないけど、いじめられるでもない。何もない。毎週ブックオフに行ってた
●まず生い立ちを訊こうかなと。
「出身は群馬の前橋っていう県庁所在地なんですけど」
●結構中心地というか栄えてる?
「いや、死んでますね(笑)。オリオン通り商店街っていうのが近所にあったんですけど、ブラックビスケッツが一体五万円の木彫りのブラビ像を売っていて、どうしても売れなかった最後の一体を買い取ったのがその商店街で。商店街の人が『この通りの名前もブラビ通り商店街にしましょう!』って言ってた(笑)。そんな街です」
●ええ…。今もその名前なの?
「多分…。僕が大学生くらいの時にその近くにモールが出来ちゃって、商店街は蹂躙されちゃったんですけど、そこに新星堂があってD☆SELDOMっていう安いオムニバスと、フリーペーパーを毎月取りに行ってた記憶が」
●ああ、出してたね。それが情報源みたいな。
「そうそう、音楽雑誌かそれ。タワレコは高崎に行かないとなかった。県庁は前橋なんですけど高崎の方が栄えているんですよね」
●何か栄えているイメージがあるよね。
「自分の思春期で結構(高崎に)���ってかれたかな。ヤマダ電機の本店とか」
●ライブハウスもclub FLEEZが高崎に移って。
「そうそう、G-freak factoryの根城でお馴染みの」
●家族構成はどんな感じだった?
「祖父母と両親と姉と兄と…」
●三人兄弟?
「姉貴が九個上で兄貴が二つ上ですね。だから僕が小学生のうちに大学進学で家を出ていきました」
●何か姉弟仲が良いイメージがある。
「今でも年数回会うし、兄貴も姉貴もうみのてのライブ観に行ったことがあったはず(笑)」
●その節はどうも(笑)。
「洋楽を最初に教えてくれたのが姉貴で、後は兄貴とオルタナを掘ってたかな」
●なるほど。やっぱり上に兄弟いると強いというか影響受けるし、早熟になるというか。
「そうですね。一番最初は小学生の時に、姉貴がミスチルのファンクラブに入ってたので、当時出たDISCOVERYかな。あと深海をずっとカセットで聴いてた記憶が」
●いい入りなんじゃない?
「入門編としては(その二枚は)間違っているような(笑)。あとは兄貴がビーズが好きだったから聴いてましたね」
●じゃあ結構音楽には入っていきやすい環境だったんだね。
「両親は大学の合唱団か何かで知り合ったんだっけな。あとはクラシックが好きで。音楽番組を観てると「最近のは全然わかんねーな」って機嫌が悪くなるような感じの人でした」
●タチが悪いやつだ。
「かと言ってクラシックを強要するでもなかったですけどね」
●学校ではどんな感じだったの?
「小学校入るまではものすごく引っ込み思案で。それが小学校入ってからすごい、何か陽キャみたいになって」
●え?そうなの?
「文集のランキングに入ってる『面白い人』とか『将来有名になりそうな人』とかあらかた名を連ねてるんですよ。今じゃ考えられないんですけど(笑)」
●何でこうなってしまったんだ、みたいな(笑)。
「いわゆるクラスの中心人物だったんですよね。アクティブな。でも小五くらいからかな、今思うと些細なことですけど、自分の家庭が新しいガジェットに対してものすごい嫌悪感を出すというか。プレステとかアドバンス買ってくれないみたいな。それで段々みんなの話題についていけなくなって、翳りが見えてきた(笑)」
●(笑)。
「結局小学生の「面白い」「つまらない」の尺度って如何に話題を共有できるかがほとんどじゃないですか」
●そうだね。特にゲームとか。
「あと漫画、昨日のテレビ、流行りの音楽くらいか…。段々それについていけずに、スクールカーストが下がっていく(笑)」
●でも野球やってたし、運動なんかは出来る方だったの?
「小学生までは自分が主人公だったから(笑)。少年野球で打率六割くらいあったし。『ヒット打つの簡単じゃないですか?』とか言って調子に���ってた」
●ムカつくなぁ(笑)。
「シングルヒットしか打てなかったんですけど。早熟だったのかな。当時は背も小さくて痩せてて。段々みんな身体が大きくなって。中学くらいだともう置いてかれちゃったみたいな」
●今の感じに段々近づいてきたね(笑)。
「中学くらいで陰と陽が逆転して陰の者に(笑)。タウン&カントリーの黒い方になっちゃった」
●陰陽のマークね(笑)。部活はずっと野球?
「中学は野球で、高校も途中まで軟式をやってたけど「勝つぞお前ら!」みたいな顧問に代わって…。高校の軟式野球ってすごいヒエラルキーが低いんですよ」
●そうなの?
「甲子園もないし。甲子園決勝の一週間後に明石の球場で偽甲子園みたいなのをやってるけど、誰も気にしてないというか」
●硬式と軟式ってまったく別物?
「全然違う。硬式はボールがまず痛い」
●(笑)。
「練習が好きだったんですよ。でも試合は緊張するから嫌いで。それと硬式は甲子園を目指してレギュラー争いもそうだし、負けたらお終いみたいな…。野球は好きだけど、競争とかバトルしたくない、みたいな精神性でしたね」
●ああ、そうなんだ。
「こっちは楽しく野球やりたいのに、強要するなよ。って。その顧問は初心者をすごくないがしろにしていたし。それで辞めちゃった」
●勝ちたいよりも楽しみたかった��だね。高校のカーストは?
「中学で底辺で…。紅白戦でわざとデッドボール当てられたりするんですけど」
●イジメじゃん(笑)。
「『先輩、塁に出られてよかったッスね』みたいな。だからとにかく、輩とかしょうもないいじめっ子がいない進学校に行くしかないっていう強迫観念だけで勉強してました」
●その頃は頭はよかったんだ
「うん。学年で十番以内だった」
●おお、すごい。
「それで前橋高校っていう男子校の進学校に行って。そこはね、スクールカーストがなかったんですよ、何もない。いい大学行けるように自由にやれ。みたいな」
●グループがないの?
「いや、グループはあるしもちろんイケイケな奴もいましたけど、男子校なのでカーストを思い知らされる現場に遭遇しない。『あ、あいつ俺の好きな子と一緒に帰ってる…!!』みたいなシーンを見ないで済むというか。たぶん九割以上童貞だったはずですよ」
●男子校だとそういう劣等感は生まれにくいのかもね。
「そう、友達もいないけど、いじめられるでもなく。何もない。部活が終わったら自転車圏内にある三つのブックオフを毎週ローテーションするだけ。三週間後に行くと微妙にラインナップが変わってて。あとはツタヤで安い日に下北系を借りまくる日々」
●なるほど。
●話が戻るというか変わるけど、兄弟の影響とかありつつも、高校くらいは自分の意思で音楽を聴いてたの?
「そうですね。中学終わりくらいまで洋楽を聴いてなくて。兄貴がツェッペリンとかハードロックが好きで聴かせてきたんですけど、ハードロック伝説みたいなエピソードある��ゃないですか」
●はいはい。ありますね。
「オジーオズボーンがコウモリ食べたとか、ホテルでグルーピーと…とか。それがすごくカッコ悪く感じて」
●ああ、ロッククラシック的なエピソードが。
「『俺たち、ロックだぜ』みたいなのが嫌だったんですよ。でも中三の時に姉貴がWEEZERを『これ聴きやすいよ』って貸してくれて。それですごく衝撃を受けた。こんな冴えない人がバンドやってるんだ!みたいな」
●大味なロックバンドよりもうちょっとパーソナルなのが好みだった?等身大の。
「そうそう、等身大の。中学の野球部引退した後から邦楽のギターロックにハマりだしたんですよね。くるりから始まりモーサムとかシロップとか。ちょうどその頃全盛期だったんですよ。アジカン、アシッドマン、レミオロメンの御三家を筆頭に…」
●一番アツい時期だね。後に続けとたくさんのバンドが。
「あとアートスクールとバーガーナッズかな」
●UKプロジェクトとかQuipマガジン的な。下北が盛り上がってた頃だ。
「で、洋楽はWEEZERからオルタナとかシューゲイザーにハマっていった」
●今でもその辺りは好きだと思うんだけど。その時期に聴いていたものがバンドのルーツになってる?
「そうですねぇ、初めてやったバンドはNIRVANAのデモみたいな音質の、汚くて演奏が酷い感じだったような(笑)」
●ライブ初体験は?
「一番最初は中三の時に行ったゴーイングアンダーグラウンドかな」
●おお、意外。
「受験期にハートビートが出て、ずっと聴いてたんですよ。後は高校のとき、FLEEZにアートスクールとか観に行ってた。早瀬さんも行っていたとされる…」
●パラダイスロストのツアーだっけな。モーサムと。
「あと結成当初の秀吉が出ていた」
●意外と群馬はバンド大国だよね。
「当時はメロコアと青春パンクが強かったですね。で、陽キャがそういうのを聴いてるから逆張りで内省的なギターロックが好きだったのかも知れない。バンドに一切罪はなくても、銀杏とかが聴けなかった」
●ああ、自分が入っていく余地がないみたいな?
「そうですね」
●そこから大学に行くタイミングで上京?
「はい。東京じゃなくて横浜だったけど」
橋本君に『こんなくだらないとこ、さっさと抜け出そうぜ』って言って軽音部を辞めた
●そういえば楽器っていつ始めたの?
「中学の選択授業で体育選んだのに手違いで音楽になっていて、ピアノも辞めちゃったしどうしよう。ってなって」
●ピアノやってたんだ。
「小一から小六までやったのに何も身につかなかったけど。ト音記号の場所しかわからない。コンクール用の曲をひたすら半年前から練習してやり過ごしてたと思う。で、その授業でどうしようかなと思っていたら、いとこで駅でギター弾いている子がいて、その人がギターを貸してくれて。ゆずの楽譜とともに(笑)」
●まったく(ゆずを通った)イメージない(笑)。
「それでその曲は簡単だから何となく発表も乗り切れて。でもある日家に帰ったら兄貴がギター弾いてて、既にFとか抑えられるんですよ。『俺が借りたのに!』って。すごくムカついて(笑)」
●ああ、利用されたみたいな。
「そう。それでロクに弾いてなかったけど、高校受験の直前にギターロック聴きだしたからエレキが欲しいってなって。親に受験終わったらいいよって言われたんです。そしたら兄貴が『絶対ベースを買うべき。エレキは俺の弾けばいいから。ベース弾ければ高校でバンド組むとき重宝されるぞ』って言うんですよね」
●そうかな…。
「そしたら受験真っただ中で最初に話したオリオン通りにある新星堂が潰れることになって、弾くのは受験終わってからって約束で閉店セールでベースを買ったんです。で、勉強しててこっちは弾けないのに兄貴が弾いてるんですよ(笑)」
●ズルい奴だな(笑)。
「結局自分が弾きたいから弟に買わせると」
●それで「ベースを買った方がいい」って力説してたんだ。
「そうなんですよ。で、兄貴が僕が高二のときに大学進学でエレキ持ってっちゃって。家にアコギとエレキベースだけがある状態(笑)」
●厳しいね。
「しょうがないからアートスクールのベースをずっと耳コピしてて。部屋を暗くしてコンポ爆音でヘッドフォンつないで、小さいアンプからベースを弾いてる。親からしたら心配ですよね。子供部屋から重低音だけが鳴っている」
●うちの息子は大丈夫かって(笑)。
「受験の時もそうだしいろいろと心配をかけましたね」
●大学はどうやって選んだの?
「結果論というか、もともと大学デビューしたくて関西の方の大学を目指してたんですけど、高校の先輩が行ってた大阪大学ってところを志望校にして。センター試験って会場が適当な高校に割り振られて受けるんですけど、なんと会場が自分の高校の自分のクラスだったんですよね」
●えーすごい偶然だね。
「そのホームグラウンドで何故か受験科目を間違えて(笑)」
●何で(笑)。
「一日目にロッカー開けて確認したら『あ、阪大受けられないじゃん』って。それでやる気がなくなって高校も行かずに、もうA判定のとこならどこでもいいやって思ったら国公立の前期も落ちて、たまたま後期で引っかかって、気づいたらビーズの稲葉の後輩になっていたと。進路が決まったのが三月の二十日過ぎだったと思う」
●めちゃくちゃギリギリだな。
「ロックコミューン(立命館の音楽サークル)に入りたかったですね。くるりを輩出したでお馴染みの」
●あとヨーグルトプゥね。
「そうそう(笑)」
●そこでエミリー結成したの?
「満を持して『バンドをやるぞ!』って軽音サークル入ったんですけど。上下関係が厳しくて。しかもみんなメタルのコピバンをやっている。学園祭になるとOBたちが集結してジューダスプリーストとかやってるみたいな(笑)」
●すごいサークルの良くない感じが出てるね。
「新入生はすぐバンドを組んで五月にお披露目ライブで一曲や���なきゃいけないんですけど、僕は何故かたまたま同じ大学に進学した高校の同級生三人とバンドを組んだんですね(笑)」
●意味ないじゃん(笑)。
「陰の者同士で(笑)。それで何かコピーしようとしたけど全員下手過ぎてコピー出来なかったんです。ドラムはドラムマニア上がりでベースとギターはほぼ初心者で。だからオリジナル曲をやることにしたんです。で、同時期に橋本君ていうサークルの同期のミクシィが炎上しちゃった子がいて。『軽音部は内輪ノリでクソ寒いカスの集まりだな』みたいなのが先輩に見つかって」
●うわ怖いなー。
「その子もお披露目ライブで頭脳警察みたいなオリジナル曲やって。すごいカッコいいんですけど、めちゃくちゃ物を投げられるんですよね。ライブ中に。その後何故か僕のバンドも物を投げられまして(笑)」
●すごい荒廃してるな(笑)。
「終わった後橋本君に『こんなくだらないとこ、さっさと抜け出そうぜ』って言って辞めましたね。で、他の音楽サークルにロバートジョンソン研究会っていうのがあったんですけど」
●なんだそりゃ(笑)。
「あんまり研究してる感じはなかったかな(笑)。まぁ、ブルースとかハードロックのコピーをする割と穏健派のサークルだったんですけど。新歓行ったら最後に名のあるOBみたいなのが袖からわらわら現れて、十人ぐらいで「いとしのレイラ」を弾いてるんですよ(笑)」
●それは、ダメだね(笑)。
「ここもダメだって(笑)。で、ある日ロック研究会っていうサークルが大学の路上でライブをやってて。JR ewingっていうノルウェーのハードコアバンドのカバー…その時はカバーって知らなかったんですけど。それを演奏してて、ドえらいカッコよかったんです。赦先輩の同級生たちだったんですけど。で、そこに入ろうと思ったら、『ここはサークルというか半年5000円でスタジオ利用権をバンド単位で買う人たちの集まりだから、まぁ好きにしなよ』みたいな」
●へー。
「当時赦先輩はすごい怖い先輩とスリーピースやってて、赦先輩も怖かったんですよね」
●ちょっとイメージと合わないね(笑)。
「そうですね。『後のバンドメンバーである』って漫画だったらナレーションがつく」
●『この時はまだ知る由もない』みたいな。
「(笑)」
今日大学ですごい面白いことあったのに、ライブで今歌ってるの、めちゃくちゃ暗い歌詞だなぁコレ
●なかなかエミリー結成しないね…
「いや、その同級生とのバンドが大学一年の終わりくらいに解散しちゃって、遅いハードコアをやってたんですけど」
●遅いハードコア(笑)。
「で『よし、今度はシューゲイザーをやろう』ってエミリーライクステニスが結成された」
●シュー…ゲイザー?
「当初はギタボが自分で、ベースが女の子で、ドラムは残留して、あとギター兼フルートがいた」
●編成だけ聞くとそれっぽいね(笑)。
「そうなんですよ。で、新歓ライブをやったらフルートが『カッコ悪いことしたくないわ』って抜けちゃって」
●曲はオリジナル?
「全部自分が作ってましたね。で、スリーピースになっちゃって、ギター二本ないとキツいわって思って。当時僕とドラムがポストパンクにハマってたんで、じゃあそういうのをやろうってなって。それが2008年の夏くらいかなぁ」
●なるほど。バンド名はずっとエミリー?
「そう。でもその後ドラムがギャンブルにハマっちゃって」
●ああ、良くない方向に。
「どうしたんだよ、って家に行ったらスロットの筐体が置いてあって」
●もうダメだ。
「それで脱退して途方に暮れてたらバイト先にクロアチア人が入ってきて。『ドラム出来ます』って言うからあ、ちょうどいいじゃん!って。デヤンさんっていうんですけど」
●加入したの?
「��ん。クロアチアン・パンク時代ですね」
●そんなのあるの?
「いや、わかんないです(笑)。で、その人がライブの前日に『もうすぐ子ども生まれるからライブ無理かも』ってメールがきて、マジかと思ってたら翌日普通にリハ来てるんですよ(笑)」
●(笑)。
「『赤ちゃん大丈夫?』って訊いたら『昨日生まれて今ガラスん中入ってるから大丈夫』って」
●ガラスん中(笑)。
「それがきっかけかわからないけど、家族の圧により2009年の春くらいに脱退して。その後ベースも辞めるってなって」
●とうとう一人に。
「そう、で、どうしようと思ったんだけど、サークルの一学年後輩に泉君っていう毎日JOJO広重のブログを読んでる子がいて」
●だいぶオルタナティブだな(笑)。
「その子にベースをやってもらって、あと二つ下の武井君って子がドラムに加入した」
●だいぶ変わったね。
「でもその頃の音楽性はポストパンクとニューウェーブみたいな感じのままですね。で、どこでライブやっていいかわからないから、横浜…中華街の近くのライブハウスに毎週出てた」
●あーあそこね。
「そう、あれは本当に時間の無駄だった」
●(笑)。
「ブッカーにすごいナメられてたんですよね。暇な大学生の穴埋めバンドって」
●学生のバンドっていうのはねぇ…。
「酷い時は『来週の水曜日出れる?』みたいな。で、『面白いイベントになりそうなんだ』って言うから出てみたらアコースティック・ナイトってイベントで(笑)」
●酷いな(笑)。ありがちですね。いや、ありがちじゃよくないんだけど。じゃあ横浜が多かったんだ?
「あと下北のいろんなところに、殊勝にもデモを送ってたんですよ。モザイクとか251とか、今思うとちょっと違うんだけど(笑)」
●カラーが違うね(笑)。でもちょっとずつ広げようとする気持ちが。
「あと当時MySpace全盛期で」
●流行ってたね。
「そこでモーションとグッドマンと…葉蔵さん(中学生棺桶、例のKのボーカル)が働いてた頃のバベルかな。誘ってもらって。『あ、あっちから誘ってもらえることあるんだ!?』みたいな」
●『音源を聴いて連絡しました』みたいなのね。
「そうそう。まぁ、いわゆる平日の条件で今思えばアレですけど、それでも嬉しかったですよね。だからその人たちの悪口は言えない」
●(笑)。見出してくれたから。
「別にそこから鳴かず飛ばずですけど(笑)」
●(笑)。でもそこで知り合ってまだ付き合いがあるバンドがいる。
「そうそう。だから初めてモーション出たときのブッキングは今でも覚えてて、クウチュウ戦(現Koochewsen)、ギター大学、プラハデパートっていう」
●すごいメンツだな(笑)。
「すごいですよね。で、クウチュウ戦なんて年下じゃないですか。なのに上手過ぎて。『え!?東京ってこんなにレベル高いの??』。もう、幽遊白書の魔界統一トーナメントみたいなモンですよ」
●こんなすごい奴らが何の野心も持たずに…っていうやつね(笑)。
「そう、雷禅の喧嘩仲間のくだりね。で、初めてバンド友達が出来たというか。otoriとかもかな」
●音楽性的にも共鳴出来て。
「同世代だし。そんな感じでやってたんですけど、ライブやった後めちゃくちゃテンション下がるんですよね。当時の音楽性が」
●自分たちの音楽性のせいで?
「そう、お葬式みたいな気持ちになるというか。早瀬さんは四人になってからしか観てないと思うんですけど。当時は歌詞も暗いし」
●今とは全然違うね。
「うん。リフとか再利用してるのはありますけどね。普段部室で泉君とムーの話とか未解決事件の話をいつもしてて、そういう瞬間はテンション高かったり楽しかったりするのに、ずっと暗いことを歌ってなきゃいけないのはしんどいなって」
●最初の部活の話と少し繋がってくるかもね。
「うん。あと暗いバンドをやっていると暗くなきゃいけないと思っていて。打ち上げはしちゃいけない。みたいな思い込みもあり(笑)」
●イメージに縛られ過ぎてる(笑)。
「でも『死にてぇ』とか歌ってた人が打ち上げで乾杯してたら違和感あるじゃないですか。そういう強迫観念で自家中毒になってしまったというか。『今日大学ですごい面白いことあったのに、ライブで今歌ってるの、めちゃくちゃ暗い歌詞だなぁコレ』って」
●過敏だったんだね。
「センシティブだったんですよ。グッドマン出ても(ブッキングの)鹿島さんにすごいディスられてたし」
●ダメ出しが。
「で、MCだけすごい褒められる(笑)。当時三曲くらいやると僕が小噺をして(笑)」
●面白エピソードみたいなのを。
「『この間バイト先で…』みたいな。今思うとああ、平日のモーションだなぁって思うんですけど(笑)」
●そうだね(笑)。
「でも『この後もカッコいいバンドばっかり出るんで最後まで楽しんでいってください』とかは言ったことないですよ」
●『名前だけでも覚えて帰ってください』みたいな奴ね。
「(笑)。そう、それも言ったことないです。で、だんだんしんどくなってきたんで、どうしようかなと。当時の曲作りが僕がリフを持っていって、泉君がめちゃくちゃにするみたいな感じでやっていて。ドラムの武井君はすごいいい奴なんですけど、当時から曲の展開が多くて、たまに展開を忘れて、止まっちゃうんですよドラムが(笑)。ドラムの音がなくなったその瞬間僕と泉君がキレて楽器を投げつけてしまう。そういうことをしてたら『正直もうしんどいッス』って言われて、本当に申し訳なかったなと思いますけど」
●行き詰ってるね…。
「当時二学年下に獣-ビースト-とT-DRAGONがいたんですよ。僕が四年生、泉君が三年生の時です。みんなロック研究会にいたからそれなりに話してたんですけど、T-DRAGONは当時ノイカシのシグマとよくわからないバンドをやってて、あんまりパっとしなくて。獣-ビースト-はもっと謎で、時折八時間くらいスタジオ抑えてるんですけど、一人で入ってて何やってるかよくわからないんですよ」
●怖いな(笑)。
「本人曰くテクノっぽいのを作ってたらしいんですけど、結局一度も日の目を見ることなく。で、見た目がセドリック(At the Drive-Inのボーカル)っぽいじゃないですか。当時今よりもセドリックっぽかった。それでT-DRAGONに武井君の代わりに叩いてってお願いしたら、ライブとか観に来てくれてたのもあり割と快諾してくれて。で、獣-ビースト-に『At the Drive-Inみたいなバンドをやることになったから。ボーカルやって。この日スタジオいるから』ってメール送って。返事がなかったんですけどちゃんとその日スタジオに来てくれて、漸く今の編成の原型が出来たんですよ」
●やっと今の形に!
「いやー長いですね。この時点で大学卒業する直前ですね」
仕事に好きとか興味とか求めない方がいいな。土日休みならバンド出来るから
●就職とかはどうしたの?
「大学三年の秋くらいに『どうしよっかなぁ』って出版社とか何となく受けていて。で、僕はマルチタスク機能がものすごく低いんですよ。いろんな会社を同時に受けるみたいなのが出来なくて、一社受けてそこそこのところまで行って、落ちて、また別のところにエントリーして、みたいな」
●落ちるとゼロになっちゃう。
「そう。変に真面目なところがあるんですよ。面接で絶対「弊社が第一志望ですか?」って訊かれるんだからそこ以外受けちゃダメだよな。みたいに思っていた。あと某音楽雑誌の会社も受けたんですけど圧迫面接だったんで逆ギレして帰った」
●えー圧迫面接なんだ。
「エントリーシートに物凄い熱量をぶつけたんですよね。そしたら面接官に鼻で笑われたというか。『随分音楽が好きなんですね。ハハッ』みたいな。ライターの坂本真里子が好きだったんで受けたんですけど。まぁ入る価値のない会社ですね!って」
●すごいな。
「そういう感じで疲弊してきたからとりあえずモラトリアムを伸ばそうと、大学院行こうかなぁって思ったんですよね。そしたら親もそうだけど姉がすごい説教をして。うちの姉はすごい傾き者なんですよね(以下、傾き者エピソード)。で、大学院も行かない方がいいか、と。それでもう仕事に好きとか興味とか求めない方がいいな。土日休みならバンド出来るから。って今の会社に入ったんですよ」
●就職してからバンドとの両立はどうだった?
「難しいというか、当時僕が一番年上で唯一社会人だったからノルマとかスタジオ代全部負担してたんですよね。それがキツかったかな(笑)。たぶん2014年初頭くらいまで」
●結構最近までじゃん(笑)。
「獣-ビースト-とかT-DRAGONが就職するまでは基本的にあまり負担させないようにしようと。赦先輩も当時サポートだったし。でもグッドマンとモーションは本当に良くしてもらったから。あと両立と言うか…。僕大学を卒業する時に大学の近くに引っ越したんですよ」
●卒業するときに?
「意味がわからないんですけど。入った会社が家賃補助がないということに気づいて、極限まで安いところに住まなきゃって。本当にヤバい、タックルしたら崩れるような家。後にT-DRAGONもそこに住むんですけど」
●安いってどれくらいなの?
「えっとね、18000円」
●安すぎでしょ!!
「七畳+キッチン+風呂トイレ別でそれですからね。本当は20000円だったけど入るときに『大学院生です』って言ったら安くしてくれた(笑)」
●いいなぁ。
「いや全然良くない。ボロいなんてもんじゃないですよ。木造の長屋を三分割して三部屋になってるんですけど。築は…五十年くらいかな。で、風呂が外にあるんですよ」
●共用?
「いや、共用じゃなくて、もう一つのプレハブ長屋みたいなのがあって、それが三分割されてるんですよ」
●なるほど。
「で、その外風呂が、外からしか鍵がかから��い(笑)」
●閉じ込めることしか出来ない(笑)。
「そう。で、大学が近いので土日のスタジオは大学でやってたんですよね。ライブは基本土日で。平日のライブの時は誰か後輩に楽器を託して…。無理やりやってましたね」
●その頃はもう割と東京のオルタナシーンに食い込んでる感じの。
「確かうみのてと対バンしたのが2012年初頭で」
●一月だった気がする。
「グッドマンでね。あれが転機っていうと大げさですけど」
●いわゆるライブハウスに良く来る人たちに知られた感じかもね。
「その頃はやたらトリプルファイヤーと対バンしてた気がする。2012年から今でも親交がある人と一緒にやり始めた」
●まだ2012年だ。
「長いですね。とりあえず赦先輩が入るまでの話をすればいいかなって…」
●いつだろ
「2013年の春くらいかな。で、2012年の春に泉君が大学院に進学するんですけど、関西に行っちゃったんですよね。もう続けられないねって。で、サークルのかなり下に内海君ていうスキンヘッドの子がいて、見た目がいいから誘った。それが失敗だった(笑)」
●まぁいろいろ、あったね(笑)。
「うん、いろいろあった(笑)。それでバンド辞めてもらって。赦先輩はしばらく連絡もとってなかったんですけど、サポートやってもらえませんか?ってお願いして。で、なし崩し的に正規メンバーになってもらった。現在に至る」
●赦さんが入ってだいぶ音楽性に幅が。
「内海君の頃までほとんど僕が考えてたんですけど、赦先輩が入って初めてスタジオで曲を練り上げる、みたいな。バンドっぽくなってきた」
●他のメンバーのエッセンスが入ってきて
「こういうフレーズはどうかな、とかイメージを膨らませたり」
●やっとバンドらしいエピソードに(笑)。
「そこまで辿り着くのに五年くらい要してる(笑)」
●そこからは今に至る。
「メンバーは変わらないけど、音楽性はだいぶ変わったかな。ハードコアが薄れて…何というかメタ的な曲が増えた」
●そうだね、ハードコアでもプログレでもない、何とも言えない。
「何とも言えない(笑)。演劇の要素だったり、曲の中にもう一曲あったりとか」
●はいはい。
「構ダンカンバカヤロー!を観て『あ、こういうのでもやっていいんだ』とかボーダーを再確認させてもらってますね」
●アウトとセーフの線引きを。
●バンドの成り立ちはこれくらいにして、曲のアイデアとかどういう時に考える?
「基本のリフは今でも僕が考えるんですけど、スタジオで試して、カッコいいだけだとボツになるんですよ(笑)」
●(笑)。
「後はコンセプトをみんなで固めて。リフのパーツを無数に作っておいて、当てはめる感じ。シチュエーションとか」
●コンセプトありきでそこから曲と歌詞?
「それがないと今は逆に作りづらいですね」
●歌詞は誰が?
「今はほとんど獣-ビースト-です。Brand-new suicides(エミリーの楽曲の中に登場する架空のバンド)の曲だけ僕ですね」
●そうなんだ(笑)。ライブの時の意識は変わってきてる?
「昔はカッコよく思われたいみたいなのが多少あったと思うんですけど、今はもうとにかく面白いかどうか、みたいな。『さぁ、消費しろ!』って。最悪『何も思い出せないけどとにかく楽しかった』でいいや。って。『よくわかんなかったけど面白かった』でいい」
●それはすごくいいことだと思う。
「『よくわかんないけど凄い』という方向だと絶対勝てないじゃないですか。グランカとかルロウズとか。最高峰に。そっちは無理だから、変化球で攻めるしかない」
●ライブ中ってどういうことを考えてる?
「なるべく仕事のことを考えないようにしている(笑)」
●(笑)。
「ハンターハンターのシャルナークのオートモードみたいな。あれに近い感じになると割といいライブが出来ますね。今何を弾いてるとか一切考えずに弾けるときがあって。逆に『このフレーズ難しいんだよな』とかふと思い出すと弾けなくなっちゃう」
●邪念が入ってくるとね。
「だからなるべくオートモードで弾くようにしたい」
●展開がすごく複雑だから身体が覚えるまですごく時間がかかりそうな印象があるけど。
「でも正直、曇ヶ原(エンリケ後悔王子が過去在籍していたプログレバンド)より全然覚えやすいですよ」
●マジか(笑)。
「曇ヶ原はA→B→フォントが違うA→フォントが違うBみたいな感じで繰り返しが多いけど微妙に違ってて。でもエミリーはとにかくAからZまで覚えるだけなので(笑)」
●なるほどね。
●平日はどういう生活をしてる?
「仕事に行って、帰って、疲れて寝る。みたいな(笑)。『無』でしかない」
●仕事終わった後に何かするって難しいよね。
「平日何も出来ない病なんですよ。かれこれ十年」
●音楽は聴いてる?
「精神的にキツいと音楽も聴かなくなるというか、耳馴染みがいいやつしか聴けない時がある」
●新しい物を受け入れる体力もない時はあるよね。
「昔のJ―POPとか、中高のとき聴いてたのとか」
●最近はどんなのを?
「ジャンル的にはユーロビートですかね」
●ええ!?
「あれって速いんですけど、リフ的にオイシイというか。ファミレスで言うとミックスグリル定食みたいな曲ばっかなんですよ。キラーリフてんこ盛りみたいな」
●詰め込んである感じで。
「これは意外とヒントがあるなと」
●なるほど。バンド的に取り入れるぞ!って意識で聴いてるの?
「サウンドは取り入れようがないので、和音のリフとかフレーズを参考にしている感じ。あとは昔J―POPとして聴いてた、例えばglobeとかSPEEDとか、それをCDで聴き返すとめちゃくちゃ発見がある。『この曲のバンドサウンドすごいな』とか『あ、あの曲のパロディーなんだ』みたいな」
●メロディーしか覚えてなかったけど、聴き返すとアレンジがすごい、みたいなのはあるよね。
「そうそう。小さい頃はマイラバの声は『すごい声だな』って。オーバーダビングの概念がないから(笑)。みんなホーミーみたいにああいう声を出せるんだと。ミスチルとかめちゃくちゃハモれてすごいなって(笑)」
●すごい技術だ(笑)。
記録媒体として一番長持ちするのは石か壁画なんですよ。レガシーをね、遺したい
●バンドをやってもう結構な歴があるけど、やってなかった���どうなってた?
「うーん。土日関係ない仕事をしてたかなぁ。あの…中学の時の夢が『オリックスの球団職員になること』だったんですよ」
●球団職員なんだ(笑)。
「プレイヤーとしての限界は悟ってたので(笑)」
●裏方でもいいから野球に携わるという。
「もっと前は小説家とか、マンガ家とか。いわゆるキッズが憧れるクリエイティブ職になりたかったけど。バンドやってなかったら…。ちょっと想像つかないですね」
●例えば今の生活からバンドが何らかの理由でなくなったとして、今の仕事だけ続けてくのは気持ち的にしんどい?
「しんどいですね。実際今それに近い状況になっているけど…。表裏一体というか、それでバランスとってたんだなぁって。普段はバンドと野球とハリエンタルラジオだけで生活出来たらいいなって思ってたのに(笑)」
●なるほどね。
「仕事以外のコミュニケーションが欠乏してて、ストレスが溜まっていく。バンドメンバーって十年近く、今まで少なくとも二週間に一回は会ってたのに。その人たちに一ヵ月以上会わないのは違和感がすごくて」
●フラストレーションが溜まってる感じ?
「この間スカイプでバンド会議みたいなのをして『いやぁ、楽しいなぁ』って(笑)。普段赦先輩がスタジオ遅刻するとすごく嫌な対応をみんなでしてたのに(笑)」
●失って初めてわかる大切さみたいな。
「前よりも優しくなれるかも知れない(笑)」
●今はこういう状況ですけど、また落ち着いた頃にこうしていきたいとかバンドである?
「昔の自分みたいな、基本的に陰の者に『楽しいなぁ。バンドやってみたい』とか思われたいですよね。以前モーションで話しかけてきた男の子が、二十歳くらいなんですけど。『僕もバンド組みたいです!』って言ってて、あ、嬉しいなって思って。その後コンパクトクラブで群馬に行ったときにその子がまたいて『僕、バンド組みました!』って嬉しそうに報告してくれたんですよ」
●普通にいい話だ(笑)。エミリーは水とかうちわとかいろんな形態でリリースしてるけど、今後こういうのを出したいとかある?
「そうですね。僕が考えていたのがダウンロードコード付土地なんですけど]
●(笑)。
「10万円くらいの離島の土地を買って、そこに看板とQRコードを貼って、辿り着きさえすればフリーでダウンロード出来るみたいな(笑)」
●なるほど。
「アドベンチャー型音源」
●面白いな(笑)
「石碑でもいいけど。記録媒体として一番長持ちするのは石か壁画なんですよね。だから最終的にはそれでリリースしたいんですよね。将来オーパーツみたいになるかも」
●遺跡として遺っていくかもね。
「レガシーをね、遺したい」
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イコロの森「北海道中 四股くりげ」編集後記・阿寒湖のこと①
阿寒湖の雄阿寒岳さんから始まりました、本日のブログ。 ここではほとんど仕事か、仕事の後は飲んでいるかの2択しかなかったため、地域の魅力を伝えると言いながら風景写真がほとんどなかったことにうすうす気づいていたわたしです。 冒頭写真は昨年のBEAMSさんとのお仕事がひと段落した7月に桟橋から撮影した雄阿寒岳。 夏の雄阿寒岳さんは、なんというか・・まだまだお若いですね!って感じがします。 四股くりげでご紹介した阿寒湖の四股写真の中に、足湯をバックにした一枚がありましたが、この写真でいうと、右に小さく映っているホテル「阿寒湖壮」のあたりにあります。
はい、こちらです。 いつだったか、その時もお仕事がひと段落した夕暮れ時。 恒例の飲み会が始まる前にダッシュでコンビニに駆け込み、缶ビールを買ってこの足湯につかりながら、夕日とカンパイしたのを覚えています。 最高でした。 またいいお仕事をして��ここでこっそりカンパイするのが今年のささやかな目標です。 現在、この辺りは「カムイルミナ」というプロジェクションマッピングを駆使したアトラクションのスタート地点になっています。(※2020年は中止) 昨年、BEAMS fennicaのディレクターさんと一緒にカムイルミナ体験をしました。 その時の写真はもうなにがなんだかわからないので、掲載は控えさせていただきます。 フクロウおじさんとともに美声の持ち主カケスくんのリズム感を取り戻すため、一緒にリズムを刻みながら神聖な森の中を冒険するというストーリー。 (すごくざっくりです) リズムを刻むのに重要なのが、リズムスティックという棒・・杖です。 要所要所でフクロウおじさんから「刻むのじゃ!」と号令がかかります。 音楽にあわせてこの棒・・杖を降ることで映像と音楽が調和し、暗い森がキラキラと光に照らされて、なんとも幻想的。 カケスくんのため、fennicaディレクターさんと一心不乱にリズムスティックを振り回したあとに、感動のフィナーレが待っていました。 エンディングに流れる絵美さんと富貴子さんの歌声を聞きながらゴール。 よい思い出になりました。 プロジェクションマッピングのスケールの大きさもさることながら、ステージとなっている森は国立公園で、昼間はリアルな動物たちを見られることもしばしば。 ボッケとよばれる泥火山もあり、一日中楽しめるスポットです。
カムイルミナ、今年は残念ながら中止となりましたが、阿寒湖には他にも魅力的なツアーや、演目が目白押し。 アイヌの古式舞踊などを体感できるイコロシアターでは、あの夏木マリさんがナレーションを務める演目「ロストカムイ」が上演されています。 伝統的な古式舞踊にストーリーが加わり、映像、音楽とともに披露される迫力のダンスは必見。 昨年からさらにパワーアップしているようですよ。 また、アイヌ文化をたっぷり楽しめる「anytime ainutime!」という新しいツアーもスタートしました。 このツアーでガイドを務めるのが、今回の四股くりげで「チカライタ」に文様を彫った瀧口健吾さん。 伝統的な衣装に身を包み、アイヌ文化を紹介しながら森を案内してくれます。 オプションで「ポロンノ」さんのあの血肉飯「オハウセット」も食べられるそうです! N村一押しの「夕暮れ足湯でカンパイツアー」はまだ商品化には至りませんが、そのうちカムイルミナストーリーのどこかに加わって、わたしも「カンパイじゃ!」と号令をかける日がくるかもしれません。 そろそろ誰かに怒られ��うなので、今日はこの辺で。 みなさんの夢にも阿寒湖の美しい風景が登場しますように。 おやすみなさい。
定宿「御前水」さんのお部屋から。 スノーモービルの音で目覚める阿寒湖の冬。
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『天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典』が9日、皇居前広場で行われた。シンガーソングライターのイルカ、俳優の片岡鶴太郎、高須クリニック・高須克弥
院長、声優の水樹奈々など各界の著名人が出席し、天皇陛下の御即位をお祝いするメッセージを寄せた。
【写真】その他の写真を見る
国民祭典のコンセプトは、新しい時代に向け陛下が常に祈念している世界平和、その根源となる「水」、人と人との「絆」。さらに、次世代を担う子どもたちの元気な姿を舞台上でダイナミックに表現し、会場の参加者全員が一体となって、国民とともに歩まれる陛下を寿ぎ、その凛々しい姿を国内外に発信する。
『国民祭典』は2部構成で、午後1時から第1部「奉祝まつり」として、皇居外苑と内堀通りにて奉祝パレード(郷土芸能、音楽隊)、奉祝神輿(みこし)などがスタート。午後5時10分からの第2部「祝賀式典」は二重橋前特設舞台および皇居前広場で催され、披露される奉祝曲は、作詞が岡田惠和氏、作曲が菅野よう子氏、ピアノは辻井伸行氏が務め、嵐が歌唱する。式典の司会は俳優の谷原章介とフリーアナウンサーの有働由美子が担当。また、歌舞伎役者の松本白鸚や女優の芦田愛菜がお祝いのメッセージを述べる。
■国民祭典出席者の「天皇陛下の御即位をお祝いするメッセージ」
・イルカ(シンガーソングライター)
陛下がお生まれになった時から存じ上げている私達の世代にとって「即位礼正殿の儀」は格別に感慨深い事でした。その歳月の中でお話をさせて頂いた「秋の園遊会」では「幼い頃から歌を聴かせて頂いていましたよ」と思いもかけぬ事を仰って頂き、今も嬉しく心に響いています。御即位の際のお言葉の中で「世界の平和」が大きく世界中に注目されました。これこそが陛下からの大切な御心と思い「令和」の未来を明るく感じています。
・片岡鶴太郎(俳優・画家)
この度は天皇陛下におかれましては御即位なられましたことを謹んで御祝い申し上げます。常に国家と国民の平和を御想いになられる温かい御言葉は我が国が今後更に飛躍する原動力となって居ります。ひとりの国民として心より感謝申し上げます。天皇皇后両陛下の御健勝と皇室の御繁栄を心より御祈り申し上げます。
・桂由美氏(全日本ブライダル協会会長)
御即位、心よりお慶び申し上げます。通訳を介さず各国要人と会話される両陛下の御姿に、これからの日本にとって最も重要と思われる国際協調に大きな力を及ぼされることと実感致しました。わたくしたち国民も、両陛下が我々の統合の象徴であることを誇りに思い、新しい令和の時代を真摯に築いてゆくことを誓いたいと思います。
・門田隆将(作家・ジャーナリスト)
即位礼正殿の儀で高御座の帳が開けられた瞬間の天皇陛下の穏やかで威厳に満ちた表情が瞼から離れない。平安絵巻さながらの束帯と十二単の皇族のお姿と併せ、国際社会が息を呑むシーンだった。“世界最古の長編小説”を持つ国の伝統の儀式。興亡をくり返し、国家が移り変わるのが世界の常識。しかし日本人は万世一系の天皇家を守り抜き、遂に“世界最古の国”に。まさに日本人の誇りの象徴である。皇室の弥栄を心から祈念致します。
・高須克弥氏(高須クリニック院長)
戦中戦後を生き抜き、戦後復興を担った世代を代表し、天皇陛下の御即位に対しお祝い奉ります。戦後の価値観の変容と思想の多様化に戸惑う我々に一つ心の不動の光明をお与え下さったのは天皇陛下であります。天皇陛下のもとで繁栄することが我らの喜びであります。天皇陛下弥栄。
・つのだ☆ひろ(音楽家)
天皇皇后両陛下、心よりお祝い申し上げます。我々国民の心の拠り所であるお二人の御姿は眩いばかりに輝く希望の朝日の如く、国民を照らし、人々の愛を繋ぐ光に他なりません。日本という国になくてはならぬ皇室の要として千代に八千代に栄え、国民を明るく照らすと共に国民とより深く堅い絆が築き上げられますようお祈り申し上げます。両陛下と皇室の弥栄を祈念し、萬歳、萬歳、萬歳を三唱致します。御目出度う御座��ます。
・鶴田真由(女優)
天皇陛下の御即位を謹んでお祝い申し上げます。天皇、皇后両陛下の御心のもと、国民一人一人がそれぞれの美しい花を咲かせられるようお祈り致しております。私も、芸能を通して人と世界を繋いでいけるよう、これからも精進してまいりたいと思います。
・野村萬(日本芸能実演家団体協議会会長)
陛下は、「即位の礼」に置かれまして、「上皇陛下がお示しになってきたことに深く思いを致し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」と宣明なさいました。私達、伝統に身を置く者にとって、先の時代に築かれたことを受け継ぎ、更に歩みを進めることが何よりも大切であることを、新たなる思いをもって心に刻みつつ、令和の御代が、陛下のもと、弥栄ならんことを、心より祈念致します。
・百田尚樹(作家)
今上陛下の御即位は日本国民の喜びです。先般の御即位の儀におかれ、にわかに雨上がり、青空から皇居に明るい陽が差すとともに、東京上空に美しい大きな虹がかかったことは、まさに天の祝福であると同時に、陛下と日本国そして日本国民の未来を暗示させる慶事でもありました。どうか末永く国をお守りく
ださい。ここに臣民として、謹んでお祝いと感謝の言葉を申し上げます。 令和元年霜月吉日
・藤岡弘、(俳優)
天皇皇后両陛下の御即位、誠におめでとうございます。令和元年、厳かな伝統行事が行われ、日本国民として、共に素晴らしい時を迎えることができたことを、心より嬉しく喜ばしく、感動した次第でございます。世界に例のない、確固たる2000年以上続く、威厳と厳粛なる皇室の歴史。伝統を守り、国民の精神的支柱として、日本国民との深い絆を大事にされるお姿に、感動と、あらためて日本国民として、誇りを感じさせていただきました。皇室の弥栄を心より願う次第であります。心よりお祝い申し上げます。合掌
・林真理子(作家)
先日、即位の儀に参内するという光栄に浴しました。平安の世界そのままの儀式を拝見して、日本人であることの誇りと喜びを感じた人は多かったことでしょう。即位の日の私たちの感動と、両陛下への尊敬は、この国をさらに愛する心へとつながっていくはずです。新しい時代の新しい愛国心。それを考えながら、この令和という時代を迎えたいと思っています。
・水樹奈々(声優・歌手)
天皇陛下のご即位を謹んでお祝い申し上げます。祝賀式典にお招きいただき、大変うれしく、光栄に思います。知性と慈愛、国際感覚に満ち溢れておられる天皇皇后両陛下のお姿は、私たち世代の憧れです。私も国民の一人として、ま��日本のアニメーションや音楽文化に携わる一人として、この瞬間に立ち会うことで思いを新たにいたしました。令和が平和と発展の素晴らしい時代となることに期待を寄せるとともに、両陛下のご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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1887年にヘレン ケラーという少女にアン サリヴァンという家庭教師を紹介した男は、その13年程前の1874年に、何やら奇妙な装置を製作し不思議な実験を行っていた。彼は死亡した男性の耳と頭蓋骨の提供を受け、鼓膜に針を取り付け、その針の先に煤を塗ったガラス板を置いた。組織が乾いてしまわないようにグリセリンを塗って湿らせて、その死んだ男性の耳に話しかけた。彼の声は、ガラス板の煤の上に振幅として記録されたという。
人類が文明の最初期に発明したもののうち、現在でも使われているものは「壁」と「車輪」だ。 壁に穴を開け、煙突をつけ、空気を循環させて、見続けると目が焼けるほどの火力を手に入れたことは、人類が「概念」を手に入れたことを意味する。概念は言葉によって集められ、整理され、仮説を生み、それが試みられることで、たくさんの物が作られた。 「言語」「火(の管理)」「車輪」という人類の三大発明は、ルネサンスの時代に「活版印刷」「火薬」「羅針盤」という三大発明によって更新される。それによって、ルネサンスの時代には古代ギリシャなどに倣って「イデア(アイデア)」とも呼ばれた「概念」はどのように影響されるかというようなことが考察され、哲学や文学、芸術として表現された。ただし、この言い方は現代の解釈であって、近世においては、イデアというのは「神の論理(ロゴス)」や「精霊(精神、スピリット)」などと密接に関連するもので、社会や人間の考えの変化などに影響を受けるようなものではなく、考察され表現されたものは、いつの間にか本来的なものから遠く離れて迷ってしまっていたところから帰り道を探すようなものでもあった。 産業革命において、電信技術による通信革命、石炭火力と蒸気機関によるエネルギー革命と交通革命が起こる。
1874年、死んだ男性の耳に話しかけていた男は、その奇妙な装置を、フォノトグラフという1857年に発明された装置を参考にして作った。(フォノトグラフは音声を波形図に変換して記録する装置で、音を記録する装置としては最古のものだが、フォノトグラフによって作られた記録は機械的に読み取らせることはできず、記録された音声を再生させることを含む録音ではなかった。録音再生する製品として最初に登場したのは1877年のエジソンによる蓄音機である。) 死んだ男性の耳に話しかけていた男は、耳の機能と音の性質を探るためにその奇妙な装���を作った。彼はその前年まで聾学校の教師をしながら、関心事だった音響の研究を続けていた。研究と実験を繰り返す中で、ある重大なアイデアを得て研究に専念し始めた頃だったが、必要な実験器具や試作品を作れずにいた。そんな中、電気や機械に熟達したトーマス A ワトソンと出会い、翌年の1875年には金銭的な支援者を得てワトソンを助手として雇うことができ(、とは言っても、支援は十分ではなく、研究の傍ら教職を続けなければならなかったし、金に困ったときは雇っていたワトソンに金を借りたことさえあるという。 )、アコースティックテレグラフィという装置を開発し、その特許申請書を書いた。1876年に認可された。その装置は、鼓膜ではなく金属の薄板にあてた声を電気的な信号に変換し、その電気信号を遠隔地の装置に伝えて再生するという装置、すなわち「電話」で��る。 アレクサンダー グラハム ベルは、特許広告の3日後の1876年3月10日、電話の実験に成功した。電話の実験の最初の言葉は、「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」だった。ワトソンは隣の部屋の受信機でその言葉をはっきりと聞いた。 ベルは公開デモンストレーションと講演を行い、この新発明を紹介し、1876年のフィラデルフィアでの万国博覧会で電話を公開して国際的注目を集めた。ヴィクトリア女王にオズボーンハウスに招待され、観衆の前で電話を披露した。そのようにして、この革命的機器の普及の土台を築いていった。
近代という時代はヴィクトリア女王の時代(1837年-1901年)に最盛期を迎える。ヴィクトリア女王の後援もあり、英国では膨大な数の美術品が生み出された。ヴィクトリア朝の芸術家は、産業革命の成果と社会や道徳観の変化を描き出していった。文筆家や芸術家は、様々な社会的背景を持つ幅広い層に受け入られることを目指した。娯楽と共に教養を提供し、社会で幅広く議論された。複雑化する社会を反映し、多様で複雑な大衆文化を作っていった。 産業革命によって、「理論的に正しければ生産できる」というような考えが広まった。これは「科学的に正しい手順によって考えは実現する」とか「正しい様式(マナー)で考えれば真実に到達する」などとも言い換えることができる。この時代の表現の多くは、例えばロマン主義とリアリズムのように相反する表現のどちらであっても、「詳細」と「真実」を重視し、技法(テクニック)を重視した。また、今日から見るとどれも英国絶頂期の理想が反映されているが、表現者も批評家も「理想化」という言葉をやや否定的に使っている。選ばれた人間が神秘的な力で何でも解決するというニュアンスでの「理想」は拒絶され、どんな境遇であっても上昇志向を鼓舞する表現が目指された。
コナン ドイルによるシャーロックホームズシリーズは第一作の長編『緋色の研究』が1887年に発表され、第三作に当たる短編『ボヘミアの醜聞』が『ストランド マガジン』1891年7月号に掲載されて大人気となる。 (「切り裂きジャック」事件が起きたのが1888年で、この事件は世界的なメディアヒステリーを生んだ。犯人は捕まらなかった。) 『ストランド マガジン』の寄稿者には19世紀を代表する作家たちが名を連ね、ここから「科学系小説」とか「科学ミステリー」、「怪奇小説」というジャンルが広まっていった。H G ウェルズや、レフ トルストイ、サマセット モーム、ウィンストン チャーチルも寄稿した。 マハトマ ガンディーは1887年から1893年までロンドンにいた。(学生だった。) レフ トルストイに影響を受けたという。 ガンディーは1888年に神秘思想結社 神智学協会の会員と出会い、これをきっかけに『バガヴァッド ギーター』を読み、英語を通じてインドの伝統を学ぶようになった。 ドイルは、1880年代に心霊現象に関心を持ち、1893年に心霊現象研究協会に入会する。入会時の会長はアーサー バルフォアだった。(バルフォアはシャーロックホームズに登場する人物(『マザリンの宝石』の依頼人である英国首相、『海軍条約文書事件』の依頼人であるフェルプス氏) のモデルになっているとも推測されている。) 19世紀半ばから世界各地で盛んになっていた心霊主義は、ヨーロッパやアジアでの流行に触発されるかたちでイギリスにやってきたが、一度やってくるとイギリスが一番心霊主義の盛んな国となった。心霊現象協会の目的は、心霊現象の真相を究明するための科学的研究を促進することだった。心霊現象研究協会は1884年に神智学協会のトリック暴きで名をあげた。 科学技術の発達によって、電波などの人間には見えない領域が観測され、利用され始め、それに対する心理的な反応もあり、技術的または心理的トリックを使った詐欺のようなものもあって、心霊現象の科学的研究や議論を必要とした。また、科学的方法を用いて伝統や宗教、文化などを研究することで、世界の真実とか本質に到達できるだろうという期待があった。
ドイツの物理学者ヴィルヘルム レントゲンがX線を発見したのが1895年末で1896年頭に発表された。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の前でX線写真撮影の実演もしている。 X線写真という視覚的また直感的にわかりやすい結果を伴った発表だったこともあり、この情報は急速に世界を駆け巡った。 H G ウェルズの小説『透明人間』は1897年発表された。主人公の科学者は薬と特殊な照明をあてる機器を併用する事によって透明化し、非道の限りを尽くす。この物語はギュゲスの指輪という伝説を元にしている。 ギュゲスの指輪は、自在に姿を隠すことができるようになるという伝説上の指輪で、リュディアの人ギュゲスが手に入れ、その力で王になったという。プラトンの『国家』において、ギュゲスの指輪を元に議論が展開される。指輪の所有者は自身の意のままに透明になることができるため、不正を犯してもそれが発覚することがない。そのため悪評を恐れる必要がなくなるが、それでも人は正義を貫くかどうかが検討されている。 『国家』の中で、 ソクラテスは、正義はこの社会的構造から派生してきたものではないと主張し、不正に身を委ねるのは、自らを精神の中の醜く汚れた部分の奴隷にすることであり、外的な状況がどうあろうとその状態はみじめだと答える。
19世紀と共に世紀末思想に結びついた心霊現象ブームは終わり、1901年1月ヴィクトリア女王がオズボーンハウスで崩御した後、時代の空気は大きく変わっていく。
1912年4月14日の夜から4月15日の朝にかけてのタイタニック号沈没事故について、マスコミ各紙がこぞって乗客や船員たちの英雄的行動やメロドラマを書きたてる中、その空気に反発し、噂や作り話を実際の英雄譚かのように書きたてるマスコミの扇情的体質を批判した文学者ジョージ バーナード ショーに対し、ドイルは友人をタイタニック号沈没事故で失っていたため、乗客や船員たちの英雄神話をぶち壊そうとするショーを許せず、論争となった。ドイルは英雄譚に誇張あるいは捏造があったとしても問題視せず、批判は悲しみに沈む人々をさらに悲しませるだけの行為だと語り、この事件によってイギリスの栄光が失墜してしまうことを怖れた。 1914年8月に第一次世界大戦が勃発するとドイルは愛国者として全面的に政府に戦争協力することを決意した。しかし一方で軍部による社会監視も強化されていき、ドイルの書く歴史書も軍の検閲で修正、削除されることが多くなり、苛立ちは募った。さらには大戦中、身内を多く失う悲劇にも見舞われた。 ドイルは第一次世界大戦中にロシアで起きた共産革命を強く嫌悪した。ロシア革命について「まるで一人の強健な人物(帝政ロシア)が、突然目の前でドロドロの腐敗物(ソビエト連邦)と化してしまったかのようだ」「やがていくばくもなく共産主義政権は崩壊し、再び強固で健全なロシア人が甦るだろう」という感想を漏らしている。またイギリスの労働党の緩やかな社会主義も非英国的と見て嫌っていた。 最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と最後のロシア皇后アレクサンドラ(ロシア皇帝ニコライ2世妃)はヴィクトリア女王の孫にあたる。「ヨーロッパの祖母」とも呼ばれ、 歴史上最も多く地図にその名を刻んだヴィクトリア女王の時代が過去のものとなっていった。 ドイルのは第一次世界大戦後の心霊主義への傾倒を強める。これは共産主義に対する反発でもあったようである。 また、シャーロック ホームズとワトソンが活躍したヴィクトリア朝の栄光に輝いていたイギリスの精神の復活を願ってのことだったようだ。
高速で回転する車輪のスポークは見えなくなるし、知っている星座だったら星と星を繋ぐ線が見えるような気にもなる。
2021年12月(1/2) 存在の波動
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街中に 突如現れた、 #留袖 行列 #神戸花嫁道中 #伝統文化御披露目行列 #宮川徳三郎商店 #宮川徳三郎 #京都 #神戸 #花嫁 #花嫁道中 #伝統文化 #伝統文化をアップデート #着物好きな人と繋がりたい (阪急三宮駅) https://www.instagram.com/p/CepLuwQvncs/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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中世の文学と尺八📖 「閑吟集」
とある世捨て人によってまとめられた歌謡集⁉️
「ここにひとりの桑門(よすてびと)あり。」
と、なんともカッコいい文句で始まるこの歌謡集ですが、作者については不詳ということです。
前回のブログ、中世の文学と尺八「宗長手記」篇の作者、連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)をあてる説もあるそうです。
↓「宗長手記」についてはこちらをご参照下さい。
閑吟集の成立は、1518年秋8月に書かれたとされ、十有余年、富士山を遠くに望む草庵生活を送った僧形(そうぎょう)の一隠者が、風雅な宴席に交遊した往時を回顧しながら、老後懐旧の慰みのもと、青春時代からの諸歌謡を収録したもの。
尺八についての記載が序文や歌謡にあります。
漢文と仮名文字で書かれたものがあり、まずは漢文で書かれた「真名序」といわれるものから。漢文は、明治時代までは公文書で使われていたんですね。
真名序(和書の、漢文で書かれた序文)
竺支扶桑、翫音律吟調子、其揆一也。悉説。中殿嘉会、朗唫罷浅々斟、大樹遊宴、早歌了低々唱。弄小扇之朝々、共踏花飛雪、携尺八之暮々、独立萩吹風。爰有一狂客。編三百余首謳歌、名曰閑唫集。伸数奇好事、諭三綱五常。聖人賢士至徳要道也。豈小補哉。于時(日之)永正戊寅龝八月、青灯夜雨之窻、述而作、以貽同志云爾。
〈漢文訓読〉
竺支扶桑(じくしふそう)の、韻律を翫び調子を吟ずること、その揆(みち)は一つなり。悉く説(よろこ)ぶ。中殿の嘉会には、朗唫罷(ろうぎんや)みて浅々として斟(く)み、大樹の遊宴には、早歌了(おわ)りて低々として唱ふ。小扇を弄ぶ朝々(あさなあさな)は、共に花の飛雪(ひせつ)を踏み、尺八を携ふる(の)暮々(ゆうべゆうべ)は、独り荻(おぎ)吹く風に立つ。爰(ここ)に一狂客あり。三百余首の謳歌を編み、名づけて閑唫集と曰(い)ふ。数奇好事を伸べ、三綱五常を諭す。聖人賢士の至徳要道なり。豈小補(あにしょうほ)ならんや。時に永正戊寅龝(えいしょうぼいんあき)八月、青灯夜雨(せいとうやう)の窻に、述べて作り、以て同志に貽(のこ)すと云爾(しかいう)。
【竺支扶桑】天竺(インド)・扶桑(日本)。扶桑は東海の日が出るところにあるといわれた神木。転じて日本の別称
【韻律を】音楽の調子を楽しみ、声高らかに歌うこと
【揆】軌に同じく道の意。
【悉く】「ヨロコビヲツクス」「コトゴトク(ツマビラカニ)トケバ」とも訓める
【中殿】中殿御会とは、内裏の清涼殿で行なわれた管絃と和歌の会のこと。
【浅々】次の「低々唱」と対句
【大樹】「大樹将軍」の略『後漢書』の故事による。「中殿嘉会」に対して将軍家における宴遊をさす
【小扇】次の「携尺八之暮々」と対句をなす。扇を用いて拍子を取る。扇拍子の意。
【尺八】一尺一寸一分の一節切。隠者が愛用
【狂客】風狂の客。編者の謙辞。当時は遁世者と称し、狂に隠れて姓名を秘する者が多かった。
【数奇】数奇は好のあて字。趣味・芸道などの風流の道を好む物好き。
【三綱五常】三綱は君臣・父子・夫婦間の道。五常は儒教で説く仁・義・礼・智・信の五徳の道。
【豈小補】小補はほんのわずかな助けの意。編者自身の謙遜のことば。実は編者の抱負を示す。
【永正戊寅龝】1518年秋
【青灯夜雨】青い布や紙を張った読書用の燈火(とうか)
(番号をふると元の文がごちゃごちゃになってしまうので、言葉の意味のみを並べました)
〈訳〉
インド・日本の人々が(宴席などで)音楽の調子を賞翫し、時には声に出して歌うこと、その心は全く同一である。常にこれによって無常の歓を尽くすためである。清涼殿における和歌や管弦の御会(ぎょかい)などで、詩歌の吟詠が終わってから小酒宴をもよおし、将軍家の遊宴の折りには、早歌の披露がすんでから小歌を低く口ずさんだものである。
また扇拍子をとる朝(あした)には(小歌を口ずさみつつ)風に飛ぶ雪のような花びらを踏みしだきながら、共に春の桜花を愛で、尺八を携える夕暮れには、ひとり荻の上を吹きわたる風のもとにたたずんで(その旋律をたのしみつつ)秋の月を賞した。さて、ここに、一人の風狂者がいる、三百余首の歌謡を編纂して、これを名づけて「閑唫集」という。風雅な思いを述べながら、三綱五常を諭したものである、明らかに聖人や賢士の至徳要道にも適ったものである。どうして少しばかりの助けをいうべきであろうか。時に永正十五年の秋八月、青い燈火(ともしび)のもとで、古人のことを述べ伝え、己が新たにつくったものをも加えて、もって同好の士のためにのこしておくこと、上述のとおりである。
清涼殿で行なわれた管絃と和歌の会とはこんな感じ↓
建保中殿御会図 藤原信実 画(国立国会図書館蔵)
男性ばかりで堅苦しそうですが…😅
「中世の文学と尺八」シリーズでやった、紫式部の『源氏物語』に���、欄干で太鼓を叩いたり尺八を演奏した場面が描かれていましたが、この場所ですね。なんで広間とかじゃなくて、欄干なんでしょうね〜🤔酒宴は開放的な場所が良かったのかな。
著者か自分のことを「風狂者」というあたり、謙遜の意味もあるようですが、普化禅師の影響を受けているのでしょうか。今までの長い人生を思い浮かべながら三百余りの歌を編纂しましたよ。との前書きです。
次は仮名序で書かれた前書きです。
仮名序 (仮名文で書かれた序文)
閑吟集近世文芸叢書 第11(国立国会図書館より)
ここにひとりの桑門(よすてびと)あり。富士の遠望をたよりに庵を結びて、十余歳の雪(1)を窓に積む。松吹く風に軒端を並べて、「いづれの緒より」(2)と琴の調べを争ひ、尺八を友として秋の調子を試むる折々に、歌の一節を慰み草(ぐさ)にて、隙行く駒に(3)任する年月のさきざき、都鄙(4)遠境の花の下(もと)、月の前の宴席にたち交はり、声もろともにせし老若、半ば古人となりぬる懐旧の催しに、「柳の糸の乱れ心」(5)と打ち上ぐるより、或は早歌(6)、或は僧侶佳句(かく)を吟ずる(7)廊下の声、田楽、近江、大和節になり行く数々を、忘れがたみにもと思い出づるにしたがひて、閑居の座右に記しおく。これ吟じ移り行くうち、浮世のことわざ(8)に触るる心のよこしまなければ、毛詩(もうし)三百余篇になずらへ、数を同じくして閑吟集と銘す。この趣于をいささか双紙の端にといふ。命にまかせ、時しも秋の蛍に語らひて、月をしるべに記すことしかり。
【雪】中国の孫康(そんこう)・車胤(しゃいん)が雪の光によって読書したという故事に基づく。
【いづれの緒より】『拾遺集』(しゅういしゅう)雑上・斎宮女御(さいぐうにょうごの「琴の音に峰の松風通ふらしいづれの緒より調べそめけむ」による。《通釈》 琴の音に、峰の松風の音が通いあっているらしい。一体この妙なる音色はどの琴の緒から奏で出し、どこの山の尾から響き始めて、ここに相逢ったのだろう。」 この句から、「琴の音か、松風と混じり合う音が、いづれの音にしても、」という意味。
【隙行く駒に】年月の早く過ぎ去ることのたとえ《「荘子」知北遊から》白い馬が走り過ぎるのを壁のすきまからちらっと見るように、月日の経過するのはまことに早いことをいう。
【都鄙遠境(とひ)】都や田舎や遠国(おんごく)の春秋の風雅な宴遊の席につらなること。
【柳の糸の乱れ心】「花の錦(にしき)の下紐(したひも)は 解けてなかなかよしなや 柳の糸の乱れ心(ごころ) いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影」巻頭の小歌。
【早歌 (そうか)】宴曲の一節を謡う短い歌謡。鎌倉中期から室町時代にかけて、貴族・武家・僧侶の間で流行した歌謡の一。院政時代の雑芸 (ぞうげい) ・今様 (いまよう) の系統を引き、これに天台声明 (しょうみょう) の節まわしを取り入れたもの。作者には天台宗の僧、明空・月江などがいる。内容は物尽くし、道行きの歌で、多くは七五調。初めは伴奏なしの扇拍子で、のちには尺八の伴奏で歌われた 。
【僧侶佳句を吟ずる】僧侶が寺院の長い廊下を歩みながら吟じた五山(ござん)禅林好みの漢詩句。
【ことわざ】事と業(わざ)の意。
訳
ここに一人の世捨人がいる。富士山を遠望できる地に草庵をつくり、すでに十余年の歳月を過ごしている。松風吹く風の中に軒端を構えて「いずれ��緒より」という古歌同様、その風の音に和して琴をかきならしたり、また尺八を伴侶として春秋の季節にふさわしい調べを吹きすます折々に、小歌の一ふしを慰みの種として、早くも過ぎ去ったこの歳月を思いやるに、時として都や田舎の遠い国までも、春は花の下、秋は月の前と四季折々の風雅な宴席につらなり、共に歌った老いも若きも、今では半ば故人となってしまったその昔が恋しさに「柳の糸の乱れ心」と巻頭に謡い出したのをはじめとして、あるいは早歌、あるいは僧侶が和漢の名句を吟唱しつつ歩む廊下での歌、さらに田楽節、猿楽の近江節や大和節に至るまで、数々の歌を(自分の死後の)忘れがたい記念のもと、思い出すままにつれて、閑静なすまいの座席のそばに記しておく。これらを歌い暮すうちは、浮世の繁多なことがらにわずらわされる邪念も起こらないから、かの『詩経』三百十一篇に見立て、同数の歌を集めて『閑吟集』と命名する。この趣意を少しばかりこの草子のはしに書きつけておく。余命あるにまかせ、折りも折かすかな光をともする秋の蛍に語りかけつつ、月の光のもとでこのように記したものである。「いづれの緒より」と琴の調べを争ひ、尺八を友として秋の調子を試むる折々に、歌の一節を慰み草(ぐさ)にて、隙行く駒に任する年月のさきざき、都鄙遠境の花の下(もと)、月の前の宴席にたち交はり、声もろともにせし老若、半ば古人となりぬる懐旧の催しに、「柳の糸の乱れ心」と打ち上ぐるより、或は早歌(そうが)、或は僧侶佳句(かく)を吟ずる廊下の声、田楽、近江、大和節になり行く数々を、忘れがたみにもと思い出づるにしたがひて、閑居の座右に記しおく。これ吟じ移り行くうち、浮世のことわざに触るる心のよこしまなければ、毛詩(もうし)三百余篇になずらへ、数を同じくして閑吟集と銘す。この趣于をいささか双紙の端にといふ。命にまかせ、時しも秋の蛍に語らひて、月をしるべに記すことしかり。
こちらも先程の漢文の序文と同じような事がもう少し詳しく書かれていますね。今度は作者が狂客(風狂者)ではなく、桑門(世捨人)となっています。余生を富士山の見える小さな家に住み、昔を邂逅しながら歌謡集を作るなんて、なんて素敵な人生なんでしょう…。
次はそのたくさんある中の歌謡の中から、尺八を詠ったものを一つ。
我らも持ちたる尺八を 袖の下より取り出(い)だし 暫しは吹いて松の風 花をや夢と誘ふらん いつまでかこの尺八 吹いて心を慰めん
【我ら】自称の「われ」「われら」は、相手を尊敬するか、または謙遜の意を示す語。
【吹いて】吹くは風の縁語。松に待つわかけ、尺八を吹く意に松風の吹くことを利かせる。
【花】花を夢のようにはかなく吹き散らす意。暗に恋しい人に逢うことができない恨みを示す。
訳
「私も携えてきた尺八を袖の下から取り出して、しばし吹き鳴らして待つとしようか。待つといえば、折から松を吹く風も桜の花をはかなくも吹き散らしてしまうであろうが、人に逢うこともかなわぬまま、いつまで尺八を吹いてわが心を慰めたらよいものか。」
誰を待っているのでしょうか…。
自分自身を慰めることのできる人生の友、尺八と言えども、いつまで吹いたらいいのか?
これは死ぬまで吹きつづけなければいけないというオチですね…
参照・『閑吟集』浅野建二 校注
ひゃ〜💦たった3ヶ所の尺八の記述の説明が、長かったですね〜😅
日本人なのに、知らない日本語ばかり!実は私は国語が苦手でした…💦
今になって楽しくなってきました💚
日本語の悲しき事情をロバートキャンベルさんが分かりやすく話してくれています。なるほどです。
そして、この閑吟集を書いた一狂客のように、私も桑門になるゾ!という新たな希望がわいてきたのでした(笑)
目指せ!風狂者!💓
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品川経済新聞/有限会社ノオト運営
【広告記事】 *安全・軽量のピンスポットライト「LUXA」と「さくらLED」開発秘話 *ハマナカデザインスタジオのデジタルファブリケーション最前線 *ネット操作の「わからない」を画面共有でスマートに解決! “コブラウズ”サービス「Withdesk Browse」
【ニュース記事】 *大井町にカフェデリ「ガジェット」 クラフトビール20種類以上、漬け込み酒も *武蔵小山商店街に24時間営業「バルクスジム」 山本義徳さん監修ブランドの1号店 *大井町に火鍋専門店「江戸火鍋」 薬膳麻辣スープと白湯スープを用意 *旗の台に「元祖豚丼屋 TONTON」 豚丼4キロ30分完食で無料も *白金高輪に「ベジボンドカフェ」 十文字ヴィレッジの野菜や果物使う *戸越銀座に「大人古着」 24時間無人営業、米国の輸入品を中心に *清泉女子大学でウクライナ医療支援チャリティーコンサート 世界の医療団と *白金高輪に「パスタスタンド パスタパスタ」 麺やソース、具材をカスタム注文に *品川シーズンテラスで「品川やきいもテラス」3年ぶり開催へ 初披露の品種も *「御殿山さくらまつり2023」開催迫る 人工水蒸気の「春霞」、夜間ライトアップも
※敬称略
2020年・2021年のニュース記事は下記にまとめています
【2021年】 *田町に「フラック���カフェ」 フィットネス事業会社が運営、高タンパクメニューも *大森に「神戸 かつ丼吉兵衛」 品川エリア初出店、デリバリー専門で *田町に会員制サテライトオフィス「ジザイ田町2」 三田駅直結、15分単位の従量制で *三田に高級食パン専門店「銀座に志かわ」 白金台店に続いて出店、3年で100店舗達成 *三田に居酒屋「古民家の宴」 店長は宮崎出身、もつ鍋に合う日本酒の提案も *白金高輪に配信専用「プラチナスタジオ」 恵比寿から移転・増床、コロナ禍の需要に応えて *品川駅前・ウィング高輪に「スタジオジュノー」 動画配信専用、手ぶら利用可に
【2020年】 *田町にソムタム専門店「ソムタムカフェ」青パパイアの魅力に着目 *田町に「拉麺 五瞭」牛骨白湯スープにこだわり、ハヤシライス販売も *田町に「ゼロワンカレーA.o.D」大阪から移転、インド料理おせち販売も *アクアパーク品川で「ROLAND魚録展」トップホストROLANDさんの名言コラボイベント *目黒川沿いに「五反田リバーステーション」完工 舟運と防災の拠点として整備 *青物横丁に「品川区立障害児者総合支援施設」児童精神科クリニックやカフェも併設 *大井町の「ネスカフェ 睡眠カフェ」に新コース 専門家監修の映像プログラム導入 *五反田で「TEDxGotanda」開催 品川区初のTEDx *田町に「フレンチ×酒場Seed」 料理長はフランスで修業 *田町に「とん汁とからあげの専門店 ばくばく」 オリジナルみそを使う *NEC本社ビルに社員向けのレジレス型店舗 顔認証システムで決済完了 *学研が「Gakken英語合格トレーナー」を専用サイトで無料公開 臨時休校中の英検対策に *戸越銀座商店街に「トミーズプリン工房」 「イタリアン」コンセプトに低温調理 *武蔵小山にネパール料理店「チャチャフイ」 4年ぶり再出店、スパイスにこだわり *荏原町駅近くに日替わり総菜店「にこ」 店名は煮込み料理と笑顔に由来 *戸越銀座に「芋 stand BY ダンポテト」 なると金時のスイートポテトを販売 *五反田有楽街に「ドン・キホーテ」 6フロア展開、昼夜それぞれの需要に対応 *西五反田に居酒屋「牡蠣入レ時々海栗」 カキの創作料理、夏季はウニも *武蔵小山商店街パルムに「カカオエットパリ」 中目黒のパティスリー2号店 *田町に「伝統文化交流館」 芝浦花柳界の見番を保存、地域の歴史資料展示 *武蔵小山商店街パルムに「茶寮ベーカリー」 溶岩窯で焼き上げた食パンを販売 *五反田で「文具女子博 #インク沼2020」開催迫る 漫画家・星野桂さんコラボインクも *北品川・旧東海道にシェアオフィス「GOODOFFICE品川」 ビル1棟をリノベーション *JR田町駅構内に英国風パブ「ザ・ローズ&クラウン」 フランチャイズ1号店 *五反田TOCにアクリルフォトの印刷サービス直営店 オフィス改装・併設で *品川の船宿で「ENJOYしながわ屋形船キャンペーン」 5000円上限で乗船料を補助 *三田にチーズケーキの店「加藤洋菓子」 ステーキハウスのデザートを新業態に
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【2018年秋冬ミラノコレクション ハイライト6】ミラノ閉幕/ドローンでバッグコレクションを披露したドルチェ&ガッバーナの他、アルマーニ、ウジョー、アツシナカシマなど
(写真 ドルチェ&ガッバーナ/Courtesy of Dolce&Gabbana)
最終日は日本人デザイナーのウジョー(UJOH)とアツシ ナカシマ(ATSUSHI NAKASHIMA)が登場し、7日間に渡るミラノファッションウィークのフィナーレを飾った。25日に行われ、ハイライト5で紹介しきれなかった注目のショーと合わせてフォーカスする。
◆ドルチェ&ガッバーナ(DOLCE&GABBANA)
(Courtesy of DOLCE&GABBANA)
SNS時代の流れに敏感に対応し、それをショーに反映してきたドルチェ&ガッバーナ(DOLCE&GABBANA)。最近はミレニアル・ジェネレーションをモデルに使うことが多かったが、今回のファーストルックはモデルではなくデヴォーションバッグ。ショーの開始前にはWIFIを消すようにとのお達しがあり、最後の一人が消すまでショーは始まらないという厳重なチェックぶりだったが、その理由はドローンだった。新作バッグたちはなんとドローンで登場してランウェイを旋回。
というわけで今回のテーマは「FASHION DEVOTION」。ファッションへの愛や信仰心をルックに込めたコレクション。会場に響くグレゴリオ聖歌、教会のセットや天使モチーフ、そしていっぱいのロゴが体現する、“聖ファッション”のための巡礼。
メインとなる宗教的なアイコンは、黒レースやサテンを使った敬虔なる修道女風ルックから教皇冠のような金の帽子や宗教儀式用品モチーフのアクセサリー、そして各所に登場する天使のプリントやアップリケ、天使の羽根をつけたスタジャンまで登場する。
そこに、同ブランドがお得意とするスタイルが混ざり合っていく。例えばルーシュのドレスから着ぐるみのようなシマウマのドレスに至るアニマル柄のピースたち。または細身の3ピースメンズスーツやタキシードのマスキュリンなルック。ヴェロアに金糸刺繍や金ボタンのジャケットや紋章モチーフを使ったロイヤルイメージ等々。そこにポップデザインやスローガンなどが入ったスカジャンやボンバージャケットなどヒップホップ的な要素も。
そして、全体的に「FASHION DEVOTION」、「AMOR」、「LOVE」、「SANTA MODA」など様々なファッションへの愛と献身を表すメッセージたちが散りばめられている。哲学を追い求めたり、現代の社会状況を背景にしたりしてファッションを難解に考えがちな今日この頃だが、そうではなくファッションを純粋に愛し、美しさを追求しようというドルチェ&ガッバーナのメッセージなのかもしれない。
◆ジョルジオ・アルマーニ(GIORGIO ARMANI)
(Courtesy of GIORGIO ARMANI)
24日にはジョルジオ・アルマーニ(GIORGIO ARMANI)、25日にはエンポリオ・アルマーニ(EMPORIO ARMANI)と連日ショーを行ったジョルジオ・アルマーニ。
ジョルジョ・アルマーニのテーマは「ATMOSFERA」。この「Atmosphere=雰囲気」というのは、西洋、東洋から中東まで様々な文化やスタイルを取り入れて自分の中で作り上げた独特の雰囲気を表している。境界線を越えたものを取り入れてエレガンスを追求する。そんなエキゾチックなニュアンスは特に東と西の文化の混ざり合うトルコやウズベキスタンあたりのイメージだろうか。
チュニックドレスのようなワンピースやシームで縫ったラグラン袖のカーディガンコート、フリンジや刺繍の施されたアクセサリーやパンツなどエスニック要素を各所に入れながら、前半に登場するスモーキーピンクやライトベージュのカシミアアウターたち、フェザーやベロア、メタルコーティング、ビジューやスパンコールなどでエレガントに仕上げている。
◆エンポリオ・アルマーニ(EMPORIO ARMANI)
(Courtesy of EMPORIO ARMANI)
一方、エンポリオ・アルマーニは、テーマを「p.m」とし、夜にドレスアップする際の装いの要素をデイタイムに落とし込むという提案をした。全体的にはスリムなフォルムに、イブニングにふさわしい黒を基調としつつ、グリーン、ターコイズ、ライトブルーなどの色を織り交ぜ、華やかで新鮮なテイストを入れ込んでいる。
膝上丈のミニスカートが多用されたり、大きくスリットの入ったパンツなどフェミニンかつセクシーな要素とマスキュリンなジャケットとミックスしてコーディネート。またはミラーやビジュー、光沢素材などの煌びやかな雰囲気の中に、大きなフードやリボンのアクセント、またはEAのロゴを入れたり足元にはカウボーイシューズをあわせたりと若々しくスポーティな要素を混在させる。
◆アルマーニ/ラボラトリオ(ARMANI/LAVORATORIO)
(Courtesy of ARMANI)
また、コレクション期間中には、アルマーニ/ラボラトリオ(ARMANI/LAVORATORIO)という、ジョルジョ・アルマーニが映像業界の若いクリエーターたちをサポートするプロジェクトによる完成作品の御披露目上映会が。11月に始動したこのプロジェクトは、公式サイトでの公募によってえらばれた若いクリエイターたちのショートムービー製作を応援し、完成までサポートするというもの。
監督、脚本、写真、編集、衣装製作、メイク、セットデザイン、スタイリングという8つの部門の8人のクリエーターたちは、アルマーニ・シーロスにてそれぞれの分野で活躍するプロたちから定期的に指導を受け、その成果を1本のショートムービーとして完成させた。
これまでも若いデザイナーのサポートのため、ジョルジョ・アルマーニ社所有のアルマーニ/テアトロをショー会場として開放するなどのサポートを続けてきたが、今度はそれを映画製作の場に。
◆ウジョー(UJOH)
(Courtesy of UJOH)
2016年秋冬コレでミラノデビューしたウジョー(UJOH)は今回でミラノ3回目。今シーズンのテーマは「ブリティッシュ・トラディショナル」。英国の伝統的・普遍的な着こなしを、上質な服を着崩すことが流行ったころの80年代の日本の若者たちのスタイルと組み合わせたのだとか。
それはラペルの片方だけ内側に入った作りのグレンチェックやネイビーのダブルのジャケットだったり、80年代のボンタンをイメージしたテーパードパンツをジャケットの上からはきこんでコーディネイト。チェスターコートは袖なしで、サージキルティングコートとレイヤードされていたり・・・とクラシックなアイテムを仕立てやコーディネートで崩している。片腕だけのニットや、様々な素材を繋ぎ合わせたようなコートなども。
春夏コレクションではドンズバで「アシンメトリー」をテーマにパタンナーとしてスタートした経験とセンスを見せつけたデザイナー西崎暢だが、今回もその不均衡な絶妙のバランスがコレクションの味になっている。
◆アツシ ナカシマ(ATSUSHI NAKASHIMA)
(Courtesy of ATSUSHI NAKASHIMA)
いまやミラノコレクションの常連となったアツシ ナカシマ(ATSUSHI NAKASHIMA)は今回のミラノファッションウィークの大トリを務める。コレクションノートには「歴史によって創造された象徴的な芸術。退行的思考」と書かれているが、これを洋服において突き詰めると、歴史上、目的をもって作られたアイテムへの再構築、となるのであろう。
それをふまえて主役としているのがミリタリーウエア。カーキやオリーブグリーンを多用し、フィールドジャケット、リブパンツやミリタリーパンツ、ジャンプスーツなどがモダンにアレンジされて登場する。そんな中にクラシカルなスーツスタイルやデニムのセットアップなど全く違うテイストのモノをフラッシュ的に入れているのもうまい。同ブランドと音楽コラボをしている堂本剛のプロジェクト名「ENDRECHERI」がロゴになっていたり、山と日の出の太陽を組み合わせ日本をイメージしたオリジナルロゴ、洋服全体に散らした洋服のサイズや品質表示のタグなどキャッチ―なロゴやモチーフ使いが今っぽい雰囲気を加えている。
複数の色や様々な素材のピースを縫い合わせたり、または対局するテイストのアイテムを繋ぎ合わせて一つの服を作ったりといった崩しの技で知られるアツシ ナカシマだが、今回はこれまでのイメージをあえて裏切ったような、中島流のミリタリーの再構築。5回目となるミラノコレクションでは、今までのイメージ通りの洋服をあえて作らないことでいい意味で期待を裏切り、新しい側面を見せるアツシ ナカシマ。さらに一歩、大きくステップアップしたようだ。
Text by Miki Tanaka
#mikitanaka#report#2018aw#milano18aw#dolceandgabbana#atsushinakashima#ujoh#emporioarmani#giorgiorarmani
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TEDにて
デビッド・マキャンドレス :データビジュアライゼーションの美
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
デビッド・マキャンドレスは、複雑なデータセットを美しいシンプルなダイアグラムへと変え、隠れたパターンや関連を引き出します。
良いデザインは、過剰な情報の海を渡る最良の方法であり、私たちの世界の見方をも変えられるのだと彼は言います。
データという数値化された根拠ある証拠とこれを裏付けるようなデザインによって、物質の設計方法のように仕様に基づき、組み立て完成することに非常に似ています。
物質よりも自由度が幅広いという点では、仕様の自由度も無限となり、このコンセプトは、フラットデザインとして様々なパソコンやモバイルのユーザーインターフェイスの設計にも応用されています。
創造力とインスピレーションが重要になってきます。
日本の仏教の曼荼羅?のような図形が導かれてしまうという不思議なアトラクターパターンにも似ています。脳の神経ネットワークの電気信号のパターンにも似ています。
アトラクターとは、意味がないように見える大量のデータから生じた確認できるパターンに名前が与えられたものである。全て、支離滅裂に見えるものの中に一貫性が隠れています。
伝統的なニュートン物理学による因果関係が、非線形なデータを省いた理由は、そのような情報が当時のパラダイムに当てはまらなかったためである。しかし、アインシュタイン、ハイゼンベルグ、ベル、ボーアなど、ほかの偉大な革新者たちも含めた彼らの発見によって、私たちのユニバース観は、急速に拡大した。
高度な理論物理学者において、量子レベルで宇宙の全てが互いに微妙に相互作用しあっている。ということが証明されています。
私たちは過剰な情報に苛まれているように感じています。でも、簡単な解決法があるのかも?それはもっと目を使うことです。情報の可視化は、重要なパターンや関連を見えるようにし
情報にデザインを与えることで、意味が引き立ち、ストーリーが伝わり、重要な情報だけに集中できるようにします。そうできないなら、単に小奇麗な見かけにすぎません。
違う景観をお見せしましょう。世界の恐怖の景観は、どのようなものになるか想像してください。見てみましょう。このモグラ塚みたいなのは、時系列で表した世界のマスメディアの狂乱です。
後で、すぐご説明しますが、高い山は、マスメディアを賑わした特定の恐怖の高まりを表しています。いくつか見てみましょう。このピンクは豚インフルエンザ
これは、鳥インフルエンザ。茶色っぽいのがSARS。覚えてますか?それに2000年問題。ひどい災難でしたね。
これは、マスメディアがその時々に伝えてきた恐怖なのです。ジャーナリストとして、私が惹かれるのは、隠れたパターンを見つけ出すことです。このデータには、面白い奇妙なパターンが隠れており、可視化によって明らかにできます。
だから、情報は美しいのです。それで、自分も美しくできないかと思いました。これは視覚的にした私の履歴書です。うまくいったかは、何とも言えません。角々していて色も冴えません。
でも、私は伝えたいことがあったんです。私は最初プログラマーでそれから、ライターを20年ほど。出版、オンライン、広告とやって、ほんの最近になって、デザインを始めました。
デザイン学校に行ったことはなく、アートの類を学んだこともありません。ただ、やりながら覚えていったのです。そして、デザインを始めた時、奇妙なことに気付きました。私はデザインを理解していたのです。
すごい才能があるということではありません。ただ、グリッドやスペースやアラインメントやタイポグラフィといったものに敏感だったのです。長い間、メディアに触れることでデザインの基本が気付かぬうちに身に付いていたのです。
私たちは、みんな毎日、情報デザインに晒されています。Webを通して私たちの目に流れこみます。私たちは、みな視覚的な人間なのです。私たちは、みな情報を視覚的なものとして求めています。
視覚情報には、何か魔法のようなところがあって、苦もなく、文字通り流れ込んでくるのです。そして、深い情報のジャングルに入り込んだとき、美しいグラフィックスや愛らしい可視化データを見るとホッとします。
ジャングルの中で開けた場所に出たかのようです。こういうことに興味があったため、デンマークの物理学者ノーレットランダーシュの仕事に辿り着きました。コンピューターの単位で表した感覚の帯域幅です。
これは、感覚を通して毎秒流れ込む情報量です。
視覚が最も速くコンピューターネットワーク並の速さがあります。
次が、触覚でUSBの速さがあります。
それから、聴覚と嗅覚はハードディスクほどの速さです。
そして、哀れな味覚は、ポケット電卓並の速さしかありません。この隅の赤い四角の部分で全感覚の0.7%になります。
だから、大部分の情報は、視覚から流れ込むのです。気付かぬうちに。そして、目というのは、色や形やパターンの変化に対し、ものすごく敏感なのです。目はそれを好み、美しいと言うのです。
それは、目の言語なのです。目の言語を心の言語である言葉や数字や概念と組み合わせると、2つの言語が同時に語られ、それぞれが互いに強め合うようになります。
目が捕らえ、概念へと落ちるのです。そうやって、2つの言語が同時に機能するのです。
可視化は、データや数字を超えて行くことができます。私は、アイデアやコンセプトに情報可視化を適用するのが好きです。これは、政治の諸相を可視化したもので、世の仕組みを理解しようとする私の試み���す。
アイデアは、いかに政府から社会や文化、家族、個人。その信条へと浸透していくのか?どう、フィードバックしてサイクルが形成されるのか?この絵が気に入っているのは
コンセプトから出来ていることで、我々の世界観を探究して、他の人の考えがどこから来ているのか?知る手がかりになるからです。
まとめましょう。デザインというのは、問題を解決し、エレガントな解決法を提供することだと思えます。そして、情報のデザインというのは、情報の問題を解決するということです。
現在、私たちの社会には、情報の問題がたくさんあります。情報過多や飽和。信用や信頼の崩壊や手に負えない懐疑主義。透明性の欠如。そして、無関心さえも問題です。
私は、情報は面白すぎると気付きました。私を引き寄せる磁力のようなものがあります。
情報の可視化はそういった問題への即席の解決法を与えることができます。そしてこれは美しいものです。
なお、ビックデータは教育や医療に限定してなら、多少は有効かもしれません。それ以外は、日本の場合、プライバシーの侵害です。
通信の秘匿性とプライバシーの侵害対策として、匿名化処理の強化と強力な暗号化は絶対必要です!
さらに、オープンデータは、特定のデータが、一切の著作権、特許などの制御メカニズムの制限なしで、全ての人が
望むように再利用・再配布できるような形で、商用・非商用問わず、二次利用の形で入手できるべきであるというもの。
主な種類では、地図、遺伝子、さまざまな化合物、数学の数式や自然科学の数式、医療のデータやバイオテクノロジー
サイエンスや生物などのテキスト以外の素材が考えられます。
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