#付け合わせのパスタが主役
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pezo-pvntp · 2 years ago
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今宵の晩ごはん ハンバーググラタン また順序逆、、 久しぶりのグラタンらしい グラタンだったけど、、 グラタンパスタだった #付け合わせのパスタが主役 #ほぼ終始巻いてた #山本のハンバーグ札幌miredo店 https://www.instagram.com/p/Co97yFNyuApAET0PLX8PSqE9Mo0Up-UTKkz8gA0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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daruma1004 · 6 months ago
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みんな知らない「実は略語」の言葉をまとめました。詳しくは...
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食パン:主食用パン
食パンの語源に関しては複数ありどれが正しいかわかりませんが、有力な説を2つ紹介します。1つは、「主食用パン」の略。パンが日本に入って来た当時はイースト菌などもなく、比較的小さな菓子パンだけが作られていました。それからパンが大きく膨らむようになり、米の代わりになり得るようになったため、「主食用」と名付けられました。もう1つは、消しパンではない「食べられるパン」の略。昔は美術のデッサンなどでパンを消しゴム代わりに使用していたためです。
ブログ:ウェブログ
ウェブサイトの一種で日記形式のもの。英単語でも”blog”がありますが、もともとは”Web”と記録を意味する”log”が合わさった言葉である”web log”の略です。
軍手:軍用手袋
元々軍隊用の手袋として使われていたためです。日露戦争の際に、寒冷地を戦場とする兵士に支給するために考案されたものです。その後、荷物運搬や土いじりなど日常生活で使われるようになりました。
演歌:演説歌
元々は自由民権運動の政治運動家(壮士)たちが演説の代わりに歌った壮士���が始まりとされます。1930年代にジャズやクラシックが大衆歌に組み込まれていき、歌詞も政治とは関係のない叙情詩的なものに変わっていきました。
教科書:教科用図書
主に小・中・高および特別支援学校などで学ぶ時に配布される中心的な教材のことで、「教科用図書」の略です。教科書と教材の違いは、文部科学大臣の検定に合格したものが教科書と呼ばれます。
チューハイ:焼酎ハイボール
焼酎とハイボールを組み合わせた「焼酎ハイボール」の略語。焼酎やウォッカなど無色で香りのない酒類をベースに、炭酸で割ったものを一般的に指しますが、炭酸ではなくウーロン茶で割ったウーロンハイもチューハイの一種です。
ジャガイモ:ジャガタライモ
ジャガイモはそもそも南米原産の食材であり、日本には16世紀末にインドネシアのジャカルタからオランダ人により伝えられました。そのため当時は「ジャガタライモ」と呼ばれていましたが、後に略されていきました。ちなみに日本では中国語由来の馬鈴薯とも呼ばれます。
ワイシャツ:ホワイトシャツ
主に男性が背広の下に着るシャツのことですが、元々は和製英語である「ホワイトシャツ」の略。よく「Yシャツ」と記載されることがありますが、これは完全に当て字です。一方で、「Tシャツ」はアルファベットのTの字に似ているためこう呼ばれるようになりました。
割勘:割前勘定
友人との飲み会などでよくある割勘は「割前勘定」の略。割前とは分割してそれぞれに割り当てることを意味する言葉です。江戸時代後期の戯作者で浮世絵師として有名な山東京伝が発案されたと言われており、当時は「京伝勘定」と言われていたそうです。ちなみに世界的に見ると割勘の文化は少数派で、男性や年上が払うのが一般的のようです。
カラオケ:空オーケストラ
歌のないオーケストラの意味で、「空(から)オーケストラ」から「カラオケ」と略されました。カラオケは日本で1960年後半に誕生したとされ、その後世界に広がっていきました。そのため英語でも”karaoke”と書きます。ちなみに中国語では「卡拉OK」と突然アルファベットが出てくる不思議です。
バス:オムニバス
ラテン語で「すべての人のために」という意味の「オムニバス」が語源で、フランスの乗合馬車の発着所の雑貨屋の看板に書かれていたことに由来します。そこから多くの人が利用する乗合自動車をオムニバスと呼ぶようになり、その後略されました。
リストラ:リストラクチャリング
英語で「再建」を意味する”restructuring”から略されたものです。リストラと聞くと人員削減をイメージしますが、��来の意味は事業構造を再構築することです。その中の一環として、人員削減が起こります。
リモコン:リモートコントロール
英語で「遠隔操作」を意味する”remote control”から略されたものです。TVなどに向かってリモコンから赤外線をデジタル信号で送ることでチャンネルや音量などを操作することができます。
ソフトクリーム:ソフト・サーブ・アイスクリーム
海外では「柔らかいクリーム?」となり伝わらない和製英語です。英語では” soft serve icecream”であり、ソフトクリームサーバーの製造などを行っている日世の創業者・田中穰治が日本でソフトクリームを広めるのにわかりやすくするために省略したとされています。
ペペロンチーノ:アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ
唐辛子をオリーブ油で炒めたパスタ料理。正式名称は「アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」と言います。イタリア語で「アーリオ」は「ニンニク」、「オーリオ」は「オリーブオイル」、「ペペロンチーノ」は「唐辛子」を意味しています。
経済:経世済民
中国の晋朝について書かれた歴史書である『晋書』に書かれた「経世済民」を略した言葉です。現在の政治と同じような意味で昔から使われていました。明治以降、”economy”の訳語として頻繁に使われるようになったようです。
首相:首席宰相
首席はトップを意味し、宰相は辞書で調べると「古く中国で、天子を補佐して大政を総理する官。総理大臣。首相。」と載っています。首相の言葉の中に首相が含まれている二重表現のような言葉です。ただ「首相」は日本国憲法に記載された言葉ではなく、報道などで使われる内閣総理大臣の通称です。
切手:切符手形
お金を払って得た権利の証明となる紙片のことを古くから「切手」と呼んでいました。日本の近代郵便制度の創始者である前島密が、“郵便物に貼って支払済を表す印紙”に「切手」という言葉をそのまま当てたそうです。
出世:出世間
元々は仏教語で、仏陀が衆生を救うためにこの世に出現することを指す言葉で、「出+世間」でした。そこから略され、日本では僧侶が高い位に上ることを意味するようになり、世間一般でも役職が上がることなどを指す言葉となりました。
断トツ:断然トップ
2位以下を大きく引き離すことを指す言葉ですが、元は「ずば抜けて」の意味を持つ「断然」と首位を表す英語の”top”が合わさった言葉の略。そのため「断トツの1位」という表現は二重表現になります。
押忍:おはようございます
朝��挨拶である「おはようございます」から「おっす」と短くなり、さらに「おす」へと略されました。そこから「自我を押さえて我慢する」という意味を込めて「押忍」という漢字が当てられました。
デマ:デマゴギー
大衆を扇動するための政治的な宣伝を意味するドイツ語の「デマゴギー」を略したものです。元の意味の通り、政治的な意味合いを持つ言葉でしたが、昭和になってから、単純に「嘘」や「根拠のない噂」の意味で使われるようになりました。
おなら:お鳴らし
屁を「鳴らす」の名詞である「鳴らし」に「お」をつけて婉曲に表現した言葉で、そこから一文字略されました。元々の言い方の方が上品な感じがあって良いですよね。というのも、一般庶民は昔から「屁」と言っていましたが、宮中に仕える女房たちは隠語として用いていたためです。
電車:電動客車
電動客車をより細かく表現すると、「電動機付き客車」または「電動機付き貨車」となります。電車は架線あるいは軌道から得る電気を動力源として走行しています。
電卓:電子式卓上計算機
計算機という本来役割を表す意味の言葉が略されています。1963年に世界初の電卓が登場し、1964年に現在のシャープから日本初の電卓が発売されました。当時の価格は53万5千円と車を買えるほどの値段でした。今では100均で売られているものもあるのに驚きですね。
ボールペン:ボールポイントペン
英語で”ball-point pen”と言い、これを略した言葉です。ボールという単語が使われている理由は、ボールペンの構造上、先端に小さな回転玉(ボール)があるためです。
インフラ:インフラストラクチャー
英語で「下部構造」や「基盤」を意味する”infrastructure”から略されたものです。電気・ガス・水道・電話・道路・線路・学校や病院などの公共施設など、私たちの生活に欠かせないものを指す言葉となっています。
シネコン:シネマコンプレックス
「コンプレックス”complex”」が「複合の」を表す英単語で、同一ビル内に複数のスクリーンを備えた複合型映画館のことを表します。国内の代表的なものとしては、TOHOシネマズ、イオンエンターテイメント、MOVIX、ユナイテッド・シネマなどがあります。
シャーペン:エバー・レディー・シャープペンシル
シャーペンが「シャープペンシル」の略ということを知っている方は多いと思いますが、実はこれも略語。1838年にアメリカで「エバーシャープ」という筆記具が登場し、その後1915年に現シャープの創設者である早川徳次氏が国内初となるものを考案し、「エバー・レディー・シャープペンシル」という商品名をつけヒットさせました。
��アノ:クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ
イタリア語で「小さい音と大きい音を出せるチェンバロ」という意味です。いつの間にか「小さい音」を表すピアノだけに略され、楽器を表す名詞となりました。元のピアノの意味は今でも音の強弱を表す「メッゾピアノ」や「ピアニッシモ」と合わせて音楽記号として使われていますね。
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kennak · 16 days ago
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奮発して、すげえ高いイタリアンのコースを食ったわけですよ(つっても庶民なので、ひとり一万円はしないくらい)(とはいえ、逆にいうと一万円近くはするわけだ!) まあ美味かったですよね… すべての皿に驚きがあり、それぞれの皿の中に変化があり、なんというか、たとえば俺が6畳の部屋で自炊したヤキソバを5分でかっ食らうような普段の「食事」とは雲泥の差があった マジで、文字どおり泥と雲くらい違った 栄養補給とかじゃなく、あれはひとつの旅、ジャーニー、アドベンチャーだった ○前菜 イチジク・クリームチーズ・生ハムのベルガモット風味オリーブオイルがけ まあそれはうまいですよね フルーツと生ハムを一緒に食うっていうのは、さすがにガキじゃねえから概念としては知ってるわけですが、そうはいってもやはり日常的にはやらないわけだ そういうのをサラリとやってきて、そんですげえうまいんだよ 生ハムもなんつうか、ひと山いくらの軟弱なやつじゃなくて、ハード系の、味に芯があるやつ 生クリームとイチジクの風味が広がる中で、流されずにそこにあり続ける そんでベルガモットというのが一体なんなのか分かってないんだけど、たしかにオリーブオイルには何か華やかな風味がありました つまりうまいということだ ○ホタテとトマトのカルパッチョ 俺はじつは貝類がけっこうダメで、クセなんてほぼないホタテの貝柱すらわりと苦手としてるんだけど、カルパッチョなんていう生っぽい調理法なのに、このホタテは全然クセがなく、うまさだけがあった 食感もこう、なんの抵抗もないって感じで、なんていうのかな、流れるように過ぎていく一皿だったな ○自家製カンパーニュ カンパーニュってなんのことか分かってないんだけど、まあなんかこう、硬めのパン?みたいなことだと思っている そういう、黒っぽい、ハード系のパンがひと切れ、皿に置かれているわけですよ 華やかさは全然ない ナメてんのか?と思いながら食うと、マジでびっくりするくらいうまい パンはパンであり、パン以上のなにか具なんかが入っているわけではないんだけど、もはや料理と言っていいくらい「味」があった ランチパックのタマゴサンドとあのカンパーニュだったら、実際のところマジでカンパーニュのほうが「味が濃い」と言っていいと思う(ランチパックだって悪くはないけどよ!) オリーブオイルとバルサミコ酢?が小皿でついてきて、それにつけて食うこともでき、そうするとまた非常にうまかった バルサミコ酢はブドウっぽさを感じさせる味わいで、少しジャムのようですらあった たぶんコース全体の主食ポジションとして、ほかの料理と合わせてゆっくり食っていく想定で出てきてたんだけど、完全に単体で主役を張れる味だったというか、料理としてしか認識できないほどうまかったため、普通にすぐ全部食ってしまった… ○さつまいものポタージュ 牛乳ベースというか、生クリームベースというか、そういうクリーミーな白く冷たい液体の中に、粗いさつまいものペーストが入っている 塩気も甘味も控えめなんだけど、それがいい 滋味がある��というにはうますぎるんだが、しかし方向性としては滋味があるということになるんだと思う さつまいもがペーストなのがよかった ペーストは底の方にいるんで、最初上の方の汁だけ飲んで、あー!確かにサツマイモだ!と思い、その後本当のサツマイモを発見する そういう流れがありましたね ○自家製サルシッチャ ロンティーユ これまでのメニューがどちらかと言えば「抑えた」食材だったのに対して、これはもう完全にメイン感のあるものだ サルシッチャというのはソーセージのことですからね  そんでまあ、メチャクチャにうまい ロンティーユというのはレンズ豆のことみたいで、トマトベースの味付けがされたレンズ豆の煮付けが太いサルシッチャに添えられていて、バルサミコ酢もかかっている 全てを口に入れると、もう爆発的にうまい ここにきて肉の旨みだ それはまあうまいですよ そんで、添えられたみかんマスタードも非常によい 北イタリアあたりにモスタルダっつう、果物のマスタード漬け料理があるらしく、それを意識したものらしい 粒マスタードのプチプチした食感、マスタードの風味、柑橘の爽やかさ これがサルシッチャに加わって最強となった ○牛肉炭火焼き メインのメニューだ これがうまくないわけがない ピンクの断面が目に嬉しいステーキ トリュフ塩・わさび・さっきのモスタルダという、3種類の調味料がそれぞれ皿の上にあって、好きに選んで食える 白アスパラガスが添えてあるんだけど、これがただ焼かれてるだけじゃなくて出汁で煮込んであって、単体でも美味い トリュフ塩で食うと肉の甘みが後味に感じられる いちばん肉を食っている感じがする わさびで食うと、なんというか爽やかだ 俺の表現力ではもはや美味いとしかいえねえ モスタルダもやはり爽やかで、酸味や柑橘の風味が印象的 ワンディッシュとは思えない複雑さであった ○きのことマスカルポーネのパスタ マスカルポーネチーズがひと握りくらい乗っていて、もうその時点で嬉しい ニンニク、というよりガーリックと言った方がいいのかもしれないが、そのガーリックの香りが激しく効いていた キノコも全部ジューシー けっこう満腹感がでてきたところにパスタなんだけど、すぐ食えてしまうし、むしろもっとあってもい��とすら思えた ○ガトーショコラ アイス添え 冷たく、なんというかソリッドな甘さ、というか在り方であり、コースの締めくくりにピッタリだった 渋かった もう一度食いたい   高えコース、うめえですわ 俺はわりと余計な金なんていらねえと思っていたけど、高えメシ・うめえメシをバンバン食えると思うと、金ってやっぱすげえわ でも、高いからうまいってわけでもないとはもちろん思う いい店だからうまいんですよね いい店だった……
高いメシ、うまくてワロタ
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fantasybrade · 1 year ago
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ディスガイア7クリアした
なんか勢いで買ってクリアした 自分はずっと最近の日本一ソフトウェアからは距離を置いていた
あ~~~ もうその辺から全部もうかいとこ…
中学生の時にプリニーの体験版をPSPでプレイしてからこのシリーズにのめりこんでいた 1234とプレイし、青春はディスガイアの中で過ごした
自分がディスガイア周りに「ん…?」ってなりだしたのはD2からで プレイ開始直後からバストアップイラストの異様な数の少なさや、なんか面白みのないGUI、キャラクターのアイコンイラストが新規でない、などの、細かいところがすごく気になっていた いざクリアすると、初代ディスガイアの続きのストーリーなのに影も形もなくなった地球勇者一行とか、なんかよくわからない女体化エンドや突然に現れたメインキャラの兄・妹 なんか、怪しい雰囲気がしていた
しばらくして発売した5で、「ん…?」は「んんん…………??」くらいになってた 発売前はドット絵のクオリティが4以上に上がっていたり、キャラデザがカラフルでわくわくしたし、GUIもかなり仕上がっていて今までにないディスガイアを体験できると楽しみにしていたんだけど とにかくシナリオが変で、なんだ、これ…?みたいになっていた
5のストーリーはそれまでと比べても特に王道っぽいんだけど 妙にノリが強いというか ディスガイアのキャラにしては、なんかアクのない面子が集っている感じがあって それぞれが自分たちの心に何か重たいものを抱えていて、それを一人ずつ克服して「家族」になっていく そういう、自分がディスガイアに求めていない優しさみたいなものが作品にすごい詰まっている感じがして 妙な違和感 キャラクターが出会って面子が揃うと、そのままそれぞれのキャラクターの過去克服成長パートが始まる 一章につき一人一人が順番に過去を克服して成長していく ここらへんで「なんか、順番にやってんな…」みたいな感じになってかなり変な感じがするんだけど キャラが自分たちで「今度は◯◯さんが過去を克服するんだね!」みたいな感じで自分たちでそのシナリオを茶化し始める え、え…?みたいになったのを今でも覚えてる
やっていることはこれまでのシリーズも同じようなもので キャラクターが一人ずつ増えていき、パーティメンバーが揃い、そしてそれぞれの過去を克服して、黒幕を倒す 同じはずなのになんか、なんかメチャクチャ雰囲気違うな…と思った
ノリが寒いとか言いたいのではない ディスガイアはそもそもノリが寒い 俺はそのノリの寒さがメチャクチャ好きだったんだけど 寒さの種類が変わっちゃった感じがあって 急にいきなり受け入れられなくなった
で、ディスガイアRPGっていうソシャゲが出るわけですが ここで、なんか決定的にノリの合わなさを感じて、日本一ソフトウェアと距離を置いた ここらへんで気づいたんだけど多分おれはなってしまっている、反転アンチに 自分が見ていた頃のディスガイアのスタッフではない人が作っているディスガイアを受け入れられなくなって発狂してしまった
6が発表されて、キャラグラフィックが3Dになった時は仰天した ここまでドット絵のクオリティを上げてきたのにここで3D サモンナイトが死んだ道を歩き始めたと思った 3D化があまりにショックで6はシリーズで初めて買わなかった いずれやろうとは思っているんだけど、値段に尻込みしてしまう シリーズにのめり込んでる時は値段とか全然見てなかったのに
それで、6から間もなくしてすぐ7が発表されて…
7を買ったのにはいくつか理由があった ・ピリリカがかわいい ・ピリリカの声がかわいい ・鬼滅ブームにスーパースピードで乗っかるのおもろい ・7なので7人の侍ってこと?おもろ! ・公式サイトに書かれてるあらすじがいい感じに怪文書っぽくてディスガイアらしさを感じた
そしてなにより、「ガレリア」のこともある D2に疑問を感じ、5にショックを受けている間、自分はずっと魔女シリーズの方にのめり込んでいた 初めてプレイしたのが「プリニー」だったのもあって、泉氏がディレクションするディスガイア感がすごく肌に合った 魔女と百騎兵に衝撃を受けて、「ルフラン」の完成度の高さに惚れ込んで、「ガレリア」もプレイしたんだけど 「ガレリア」には、正直なところ複雑な気持ちがある ストーリーもぼろぼろ泣いたんだけど、それ以上に未完成なゲーム部分がすごく目についてしまって(公式設定資料集の1ページ目がディレクターの謝罪文から始まるゲームってどうなの?の気持ち) それに、なんかシナリオ部分も妙な尖り方をしていて… ディスガイアシリーズとはまた違った意味で、こちらにもなんというかすごく複雑な思いを抱くことになってしまった 好きなんですけどね
そういうのもあって長らく目を背けていたディスガイアシリーズにもまた触れてみようかなという気持ちになっていた
それで、7をクリアしたんだけど もうディスガイアは完全に自分の知らないものになってしまった
まず、3D空間上のイベントシーンが一つもない 全てがバストアップイラストの掛け合いで行われる その場で起きている出来事を絵で説明できないから、キャラクターが出来事をすべてセリフで喋る 「ものすごい勢いで◯◯さんが建物を破壊しながらこっちに近づいてきます!!」みたいな チュートリアルも���ャラ同士のかけあいの中ひとつひとつ教えるのではなく、ゲーム開始直後にいきなり17ページある文章を読まされる こういうの細かい部分だとは思うし作り手側の様々な気持ちを組み切ることはできないんだけど 私にはこれらがとにかく印象として悪かった
ストーリー部分も、自分はほとんどついていけなかった ノリは相変わらずだと思う キャラクターが仲間になる過程、それぞれの抱えてた問題が発覚する過程、いろんな部分に極端な描写不足を感じる 成り行きで集まったメンバーのはずなのに、なんかいきなりみんなメチャクチャ仲良く打ち解けているというか あまり具体例を上げたりするとちょっと悪口っぽくなって嫌なんだけど
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例えばこういうところで、「いや、お前が言う…?」みたいな気持ちになったり(他のキャラからフォローがない) シーフォーとスイセンは特にヤバかった印象 次回予告はこれまでのパロディに加えてネットネタも多く、にぎやかだったとは思うけど これもほぼついていけなかった
ディスガイアは、4以降明確に「絆」を描くことに徹底している印象がある 私は4の、主人公の思い描く絆のイメージ像が一般的なものと少しズレているような、それでいて、他のキャラクターたちもちょっと困惑しているような、ああいった部分に味わいを感じていた 5,7で描かれている絆に、正直私は平坦な印象を受けた キャラクターの相関の矢印がどれも同じ大きさの友愛であり、感情に大小がなく、一致団結している
4は良くも悪くもシリーズの方向性を決定付けたような印象があり、そこに自分と制作スタッフの解釈の違いが生まれてしまっているのだろうと思う
総評として、このシリーズと自分には大きな距離があることを再確認してしまったことに���るんだけど 7はユーザーにとにかく好評で、6で失った信用を見事に取り戻した印象がある 自分はここまでダラダラと文句を言ったわけだけど、自分以外はとくにこういう問題を感じていない メインのユーザーが満足しているならシリーズの作品として何一つ文句はない
自分は魔女シリーズが大好きだけども 毎回のように延期して、挙げ句ガレリアに至っては未完成品を提供して画集で謝罪しているDを見て、かなり複雑な気持ちになった 対してディスガイアは、6でユーザーから出た不満を全て解決した上に、かなり短い開発期間の中で削れるところは削り、力を入れるところはとことん力を入れて、延期もせず予定通り発売して5万本を売り上げている。6があれほど酷評されたというのに… 失った信用を迅速に取り戻し、これからのシリーズに繋げながら一作としてもとても良い作品になっている そういう意味で、自分の離れてしまったシリーズが今もちゃんと生きていることを確認できたような感覚があって、そこはすごい嬉しかった 今作を担当したDや、現在のディスガイアスタッフにたいする巨大な尊敬があります それに7は、テキストの節々に「ディスガイア節」のようなものを感じることがたくさんあって、それもなんか嬉しかった 全体のノリにはずっと馴れなかったものの、「これこれ!」みたいになるシーンはとても多かったように思う
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インフィニットの「俺様が暗殺されたぞ~!」といい、ディスガイアにはこういうテキストをよく見かけるイメージがある
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ピリリカは喋るたびに面白い
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この辺は、「おお、俺はディスガイアのテキストを読んでいる・・・!」みたいな大きな感動がありましたね 「悪魔将棋」に関してはいかにもディスガイアの世界に存在するバカすぎるゲームって感じで、ノリに懐かしさを感じます
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それに、いろんな部分で過去作から削られたものを感じながらも、新しい「魔界観光」システムなんかは作品に対するスタッフの愛を感じてなんか嬉しくなった このパスタ屋さん、こうやって後から話しかけることができるだけで、ぽっと出のキャラとしても印象がガラッと変わる 過去作ネタの入れ方とかも、しれっとバレないように仕込んでる感じがあって、スタッフはシリーズが好きなことがすごく伝わってくる
今作は「ピリリカ」と「フ��」、どちらも主人公だと捉えられるようなストーリーになってたけど、そこにも納得があった ピリリカ、(物語の役割としての)ポジションはフロンなんだけど、同時にこのキャラクターはヴァルバトーゼ的でもある(執事がいるし、超・性善説の描写を見るに明らかに意識されていると思う) 2つをうまく混ぜたような造形で(まあそれより遥かにマチカネフクキタルなんだけど) 彼女が物語の中で主人公がいるべき場所に居続けるのには大きな納得があった フジはラハールのように自分の父親を乗り越えるのだけど、過去に抱えた問題にはキリアを彷彿とさせる部分もある ピリリカが死んだフジを蘇らせるシーンには、初代ディスガイアに対する大きなアンサーのようなものを感じた 死ぬ方と生き返らせる方が、ディスガイア1と反対になってる ネタ部分で今作はジェンダーレス的な部分に触れまくっていた感じもあって、ここらへんかなり楽しめた って、ストーリーの骨組みだけを見ると、自分は結構この作品が好きで ただノリだけがずっとわからなくてついていけなかった 彼らの間にある絆やそれぞれの思いみたいなものが、描かれていることだけはわかるけど、描かれているということ以外はわからなかったというか まあどう考えてもユーザーとしての自分が間違えてる
ようはシリーズに対しての愛情の方向性が、1ユーザーとしての自分と、制作者の間で少しだけズレていただけなんだろう
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魔女シリーズの方も、ディスガイアに対する愛情を節々に感じるのですが こちらはこちらで愛情が歪な形すぎてちょっと困惑するところがあります 魔女シリーズって新作出るのかな…
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yotchan-blog · 3 hours ago
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kuzumisakuya · 1 month ago
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目指せ60キロキープ!!ダイエット日記、10月9日です。61キロです(o^∇^o)
こんばんは、久住咲夜(くずみさくや)です。 いつも日記を見てくださり、本当にありがとうございます! 嬉しいです。
体重が、61キロになりました! で��今日いっぱい食べたから62キロ、もしかしたら63キロに なるかも。
今日は友達と、「シャンゴ」という群馬でパスタならここという お店に行ってきました。
本当は、ランチは月曜日の予定だったのですが シャンゴの定休日だったので、 水曜日に変更になりました。
久しぶりにがっつり食べました!
ネットでは味に賛否両論があったのですが、 名物らしい「シャンゴ風」パスタを食べました。
ミートソースパスタの上にとんかつがのっています。
そのミートソースが黒っぽくて、甘いおみそみたいな感じで トマトペースとは違うような味でした。 お肉はゴロゴロ入っていました。 sサイズでも、麺が150gで、美味しいのですが食べていて 途中から苦しかったです。
とんかつは脂身が無く、やわらかくてサクサクでした。
一度でいいかな(^_^;) 量があり過ぎて、ちょっとこのお店は向かないかも。
その後、けやきウォークにいってわいわいしつつ 友達と再会を願って、おわかれをしました。
「X」をしています(o^∇^o) SnowManのこと、阿部ちゃんのこと、楽天ROOMのことを ポストをしています。
気軽に来ていただけると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
タイトルを、今までは「55キロキープ」だったのを 「53キロキープ」にしたかったのですが 年末の爆食いでリバウンドしましたー!! なので���目標体重は60キロにして、 がんばります!!
16時間断食ダイエットをしていました。 上手く自分の時間を見つけられれば、 とても効果があるダイエット法だと思います。
摂取カロリーが少なすぎたので、ダイエット方法を変えて 食べつつ、健康的に痩せて リバウンドをしない事を、目標にします。
1200カロリーを目標にしたいのですが、 慌てず、少しずつカロリーを増やしていこうと思います。 でも、今日は軽く1500カロリーは行っていそう(汗)
今日のSnowManは、さくやは阿部ちゃんが大好きです!!
明日のラジオ「素のまんま」はあべなべ♪ 楽しみです!
雑誌「ファインボーイズ」かな? 表紙の阿部ちゃんが、カッコいいのに艶っぽさもあって もうもうもうっ!! 最高です!!
友達がふっかさんが表紙の雑誌を買いたいというので、 けやきウォークの本屋さんに行きましたが 私は立ち読みだけで…と思ったのに 思わず購入しちゃいました!
阿部ちゃんファンの方には必見です!!
「小説家になろう」で、お話を投稿しています。 崎谷紫 名義です。 読んでいただけたら嬉しいです。 主従関係からの悪役令嬢ものです。 https://ncode.syosetu.com/n2234ib/
※障害年金の申請から頂けるまでの事を最初から、まとめました。  障害年金とはどういう感じか戸惑っている方、  申請しようと思っている方、  申請中で長い待機時間に悩んでいる方に見ていただけると、  嬉しいです。 https://note.com/kuzumisakuya/n/n8aaf9de65ebc
それでは本日のダイエット記録です。
10月9日 起床5:20(二度寝をしました。)
朝 なし
昼 シャンゴでパスタAセット
夕 なし
体重 61キロ
カロリーは盛りだくさん
150gの麺のミートソースパスタに、とんかつがのっているので カロリーはとんでもないと思います(×_×;) あとはミニサラダと、コーヒーを飲みました。
友達はケーキも食べていましたが、私はお相手と食べたかったので 今回はやめておきました。
Fc2ホームページで「くずみさくやのすみか」を作ってみました! めちゃくちゃ試行錯誤をしました。 ホームページを作っている方々ってすごいです。 来ていただけると嬉しいです(´ー`) https://kuzumisakuya.web.fc2.com/
恥ずかしかったので、体重を書かずにいたのですが、公表します。
現在 61キロ です。
2024年の目標体重は、60キロ です。(55から変えました。) でも、リバウンドをしたので 今月は62キロキープを目標に行きます。
頑張ろう!! 気合。 流水の鼓動!
今日のパスタで、体重が増えたかも。 でも幸せだったからオッケーです。
一番体重があった時は、102キロありました。 41キロ痩せると、 色々な方にも「痩せた」と、気付いてもらえます。 これからもコツコツ頑張りたいと思います。
2024年10月も、よろしくお願いいたします! 友達は今月で群馬を離れて行きます。 また会えるといいな。 これが最後では無い事を願って。
みなさんは、何かお願い事がありますか?
ではでは♪ 読んでいただきありがとうございました。 いつも読んでくださる方に感謝です。 楽天ROOMも、よろしくお願いいたします(o^∇^o)
気軽にフォローをしていただけると、舞い上がって お邪魔いたします♪ クリックもよろしくお願いいたしますm(__)m
ありがとうです。
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fkumnk · 6 months ago
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PHPカンファレンス香川実行委員会2024を連れてきたよ
今一番COOLで凍ってる(Twitter)アカウントが、みんなのいる社会と断絶された陽の光の射さない氷河の奥底からションボリ加減でお届けするぜ!
PHPカンファレンス香川2024 https://phpcon.kagawa.jp/2024/
PHPカンファレンス香川実行委員会2024?
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この画像は内部資料の1つで、今年の開催日当日はこのような布陣で進行を行いました。
ということで、各ポジションではどのような任務が遂行されていたのかをここに個人的主観で1言ずつ紹介していこうとおもます。
※主観なので、間違ってたり偏りがあったりするかも。すみませんすみません。
好きなスタッフ紹介ドラゴン
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― コアスタッフ ―
HQ ヘッドクォーター
ちゃちいさん 実行委員長です。人々は概ね実行委員長の持つビジョンによって集まって来ます。ちゃちいさんはずっとこの土地でPHPカンファレンスを開催したいというビジョンを公言していて、その言葉に呼応する人たちが少しずつ着実に集まった結果、今回の開催が無事に執り行われる事になりました。次のビジョンは継続を掲げていて、これは始める事と同じくらい挑戦的な試みになるでしょう。
hamacoさん PHPerKaigiをはじめ様々なカンファレンスの運営に携わっていて、距離的にも実行委員長が相談しやすい場所に居る実質的な副実行委員長の役割と、当日の写真撮影担当を兼任されました。当初からhamacoさんをはじめクルービットチームがちゃちいさんのそばに居た事で、距離の離れた会場側にいる僕の方もかなりの安心感がありました。
会場チーム
fkuMnk ぼくです。関西方面で目撃されるワンダリングカンファレンススタッフ※だった事も。今回は歩いて会場に行ける距離に棲息している現地の人を担当しました。例え誰も来なくとも当日の会場がカンファレンス会場として機能する事を最低限維持する現場担当者の役割です。
tfujitaさん 藤田さんは数少ないネイティブ現地出身者で、会場の維持管理及びセッションルーム進行チームの1人として活躍しました。実行委員結成当初からのコアスタッフで、スポンサー周りや学生招待などの周知も担当しています。また会場機材の協力や、彼らの主催するAgile459の協力によって事前に音響調整や空調管理のリハーサルを行う事ができました。
■ PHPerKaigi 2024 https://phperkaigi.jp/2024/
■ Agile459 - connpass https://agile459.connpass.com/
■ ワンダリングカンファレンススタッフ ぼくが勝手に呼称している概念で、全国各地のコミュニティカンファレンスに現れては協力を惜しまない一部の人々を指しています。
― 当日スタッフ ―
受付チーム
ぷぷさん PHPerKaigiのスタッフやエンジニアティールームを主催されていて、今回はくろさん達と協力して受付にまつわる全てをその場で発案し遂行する重要な役割を担当されました。アンチボッチランチが行われたのもぷぷさんのお陰です。まじ感謝。個人的にも初めてゆっくり話す機会を得て、お互いの共通点を認識しつつ反省会を行うなど今後に繋がる良い経験となりました。
ユーリモビッチさん こちらも貴重な現地在住のスタッフで、交友関係ゼロからのカンファレンス運営初参加でありながら、受付の担当を中心として近隣の情報などを交えつつ参加者やスタッフの交流を促進する役割を担当されました。
ふくいさん 現地出身で現在は東京と香川を往復しなから活動していて、昨年のPHPカンファレンス2023でもスタッフをされていました。今回はメインで午前の混雑時から受付の担当をされ、ぷぷさん不在の間も代行で参加者対応を行って貰うなどとても助かりました。また年末のPiOで!
受付チーム&遊撃
くろさん 仙台を拠点に地球上で活躍するワンダリングカンファレンススタッフです。くろさんは遊撃の他、ぷぷさん達との協力で受付進行の策定も担当されました。遊撃は当日の進行を支える重要な役割で様々な変化への柔軟な対応が求められます。あと個人的にも1月の札幌でのくろさんとの邂逅で得た感銘が現在までの行動に直結していて、信頼して課題を預けられる1人です。信頼し過ぎて窘められたりもしています。これからもどうかよろしくです🙇
スポンサーブースチーム
ことみんさん 登壇者であり、スタッフであり、全てのPHPカンファレンスを回ろうとしている強者で高専生はすべてマブダチなので、今回の学生を招待するプロジェクトにおいて暗黙的にかなりの心強さがありました。また前日の設営の脆弱性を見抜き、当日の改善に繋がるファインプレーを放つ等の強打者でもあります。逆にスポンサーブース関連についてはこちらから上手く連携出来ずお任せ状態で完璧な対応をして貰い大変恐縮です。
スポンサーブースチーム&遊撃
kojikaさん 東京のPHP勉強会主催者の1人で、今回は設営・撤去の場面で会場チームの至らない部分を全てカバーしてもらった感じがあります。本当に助かりました。こうした遊撃担当の自発的な行動は少なからず初参加スタッフの行動の模範ともなっていたようで、前日準備を経た本編当日にはスタッフ間の連携が劇的に向上していたようにおもいます。
懇親会チーム
大沼さん、かすがいさん、かるぴすさん 懇親会チームという名称ですが実態は、実行委員長の腹心を担う役割で、彼らの存在のお陰で諦めかけていたいくつかのイシューを実現出来たりし、調理場という特種な場所ににぎわいが生まれる素晴らしい結果になりました。役割的に会場チームとは独立していたので個人的にあまり話す機会が取れなかったのはちょっと心残りでした。
セッションルームチーム
SAWさん、あかつかさん 2月に復活を遂げたPHPカンファレンス関西のスタッフで、その後kwadを立ち上げて主催されています。その流れで当日スタッフにも関わらず、藤田さんと共に開催前から打ち合わせを重ねて、セッションルームで起きる事の全てを調整するルームディレクターの役割を担当されました。併せて前代未聞の機材の調整を行いながら参加者の前で登壇する役割も遂行して貰いBIG感謝です。かなりの不躾な無茶振りを快諾して頂き、こちらも頭が上がりません。
かわむらさん、しみたかさん、まさとさん、サワさん、パスタさん、カリヤさん、��んさん セッションチームの役割は各セッショントラックの秩序を保ち、円滑な進行と参加者の交流を促進するような役割を持っています。今回は3トラック同時進行で、ルームを統括するリーダー(ディレクター)、司会者、タイムキーパーの役割をチーム全体で交互に担当するかたちを取りました。 かわむらさんは、PHPカンファレンス関西でもルームの担当をされていて今回も当日の最低限のやりとりで色々察して貰えたのがとても助かりました。しみたかさんはカンファレンスを支えるウィルゲート勢で、突然の司会業もそつなくこなされていました。まさとさんは大阪からの参加で、翌日の撤収時もkojikaさんと共に尽力してくれました。サワさん、パスタさんは、東京からのクルービット組で音響の調整をはじめ、ルーム全体をよく把握して適切なアドバイスを伝えてくれました。カリヤさんは藤田さんの同僚にあたり、参加表明は最後半でしたがお陰様でTracCを適切に運営できる目処がたちました。れんさんは今回唯一?の学生スタッフで、運営側に参加するのも初めてとの事でしたが、最後にれんさんが加わったことで、セッションルームチーム全体が円滑に進行できるような体制になりました。
撮影チーム
wadakatuさん PHPカンファレンス関西2024で一緒に撮影チームとして活動した仲間で、大阪在住の香川県出身者です。今回は撮影チーム全体を統括して当日の調整を行う役割を担ってくれました。
koyhogeさん 我々ワンダリングカンファレンススタッフの大先輩のような方で、昨年のPHPカンファレンス2023での撮影スタッフなど、様々なカンファレンスへの協力を行われています。今回も撤収時まで協力して頂き、機材の返送も予定通りに余裕を持った時間で行うことができました。
nrslibさん 今回のゲストスピーカーでありながら、撮影スタッフとしても加わっていただき、なんか凄いカメラで様々なドラマティックシーンをバシバシ切り取ったり、迷える学生の相談役となったりの活躍をされました。
■ エンジニアティールーム - connpass https://eng-tearoom.connpass.com/
■ PHP Conference Hokkaido 2024 https://phpcon.hokkaido.jp/
■ PHP Conference Japan 2023 https://phpcon.php.gr.jp/2023/
■ PHP勉強会@東京 - connpass https://phpstudy.connpass.com/
■ PHPカンファレンス関西2024 https://2024.kphpug.jp/
■ kwad | Web App Developer Community in Kansai - connpass https://kansai-web-app-dev.connpass.com/
―― BIG感謝 ――
チーム北海道
tadsanさん、tomio2480さん、yamato_sorarikuさん なんとスタッフでは無いにも関わらず、アンチボッチランチの実現や懇親会待機、アフターイベントの進行など様々な場面でご尽力頂きました。本当にありがとうございます。
玉藻公園管理事務所の皆さん
会期までのおよそ10ヶ月間、度重なるこちらからの問い合わせや要望など様々な面での多大なご協力を頂きました。この協力あっての今回の開催の実現だったとおもいます。重ね重ね感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
以上です。
このような素晴らしいスタッフの連携により、「四国には人が住んでいない」と揶揄される中で、全国各地の人々が集結して地方カンファレンスを実現するという、割と類を見ない感じの歴史的事実を残す事ができました。 これも、リモートワークなどのオンライン化社会を経た、新しい協力関係の形のひとつなのではないかなとおもい、とても感慨深い気持ちです。 今後の動向にもぜひご期待下さい。
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👹「お前も香川県民にならないか?」
――― 筆者感想文
10ヶ月前の自分の想像だと、会期終了後にコミュニティ的役割を全て終えてワイも社会から消えるのだろう...みたいな気持ちが強かったんですけど、その前にTwitterアカウントが凍り世界から消失しましたwww
それはそれとして、1月に札幌へ出かけた事で世界が360度広がったみたいな感じがあり、もうちょい生きながらえてみるかという気持ちで半年間駆け抜けてきた甲斐があったようにおもいます。 まだ、来月もあるけどw みたいな事がずっと続いていくと楽しいなとおもいつつ、そういう訳にもいかないこともあるので、直接運営に参加しなくても何らかの形でコミュニティカンファレンスに協力していける働き方、生き方? に徐々に変化させていきたいなという考えになってきました。
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doctormaki · 1 year ago
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春先までは晴天予報でも曇天でお日様さえ見えなかったハンブルグは、ここ数週間は最高気温が28度まで上昇して、暑い。乾燥しているので、木陰に入ると涼しく、朝夕はジャケットが無いと寒い。しかし、逆に日照り続きで、あれだけ毎日雨が降っていたのを忘れてしまう位だった。が、今日は、一点、夕方から雷を伴う夕立。ワシのアパートは西向きで西陽が入るので、���後は完全にサウナなので、今日の激しい夕立は有り難い。
今日は朝から晴天だったので、ここから歩いて20分ほどの超高級住宅街にある土曜朝の市場に初めて行ってみた。野菜や果物、パン屋さんに生パスタ屋さん、肉屋に魚屋と、民族博物館前の小さな広場前に市場ができていた。お買い物に来ている人々も落ち着いていて、近所の市場がこんなにも良いものだと初めて知った。日曜朝市のFischmarktと違い、カードも使えるのが嬉しい。サクランボやブルーベリー、ほうれん草やアスパラガス、ジャガイモなどに加えて、なんだか見たことのない茶色のPfirze(キノコ)を購入。見るからにドラッグクイーン系のおっさんが売る生タリアテッレも購入。
汗ばむ位の陽気の中、ついでにスーパーに寄って牛乳も買う。家に帰ってから謎のキノコ、ほうれん草と生パスタで昼食を作った。生パスタはとても美味しい。感動的。キノコは香りが無いが、歯ざわりが良い。糠漬けにしたミニトマトをアクセントにして、とても美味しく頂きました。
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この木曜日から、ハーバードとケンブリッジとここハンブルグを繋いで、ハンブルグを会場に3日間に渡るマネー(貨幣)についての国際会議が開催されていた。友人のIsabelが主催者の一人なので、泣きつかれてしまい、急遽、穴が空いたセッションのパネルチェアになる。green financeについてのパネルで、四本もの論文を事前に読み、セッションチェアとして臨んだ。マクロ経済もミクロ経済も金融論も学部レベルの基礎知識しかないので、最初は焦ったが、何てことはない。基礎知識さえあれば、別に4本とも読めてしまった。そして、いざという時の為に、それぞれ4本の論文につき、15分のディスカッションの口火を切るべく、3つずつほど質問も準備。
ワシが天才なのか、はたまた、今どきは世界中の現象として学問レベルが低いのか、最新の金融理論は、複雑なようで案外ダサい。腑分けすると、大した事を言っていない論文が多く、ふーん、こんなもんかと思った。私のパネルは大盛況で、ワシの差配が優れていたのもあり、議論も盛況だったが、時間通りに終わらせた。おまけに、ワシも議論を聞きながら、チェア特権を活かして言いたい事は言わせて頂いた。オーストリア、オランダ、イギリス、フランス、ベルギー、スペイン、スエーデン、スイス、ルクセンブルク、アメリカの研究者達と、ここ数日、食事中に良く議論した。ヨーロッパの国の違いが、少しずつ分かってくる。
私は、ドイツ人と話す時、とても言葉が出てこなくなり、英語が下手くそになるのだが、それ以外の国の人々とだと大丈夫らしい。べらべら自分でも驚く位に、難なく普通に話す事ができる。相当ドイツ人に精神的に参らされているのだろうと、自分でも流石に自覚した。ドイツ人からはどうも見下されているように感じ、とても苦手だ。
こちらに来て、会議の度に様々な国の研究者と会うが、総じてイタリア人は頭が悪い癖に自己主張強めで話がやたらと長い。自己弁護大好き。ドイツ人は、細かなツッコミ大好きでかなり自己主張強め。オランダ人は可もなく不可もなく、人が良い人が多いバランス型。フランス人は、自己主張強めだが、人の話を聞く。ベルギー人も、フランス人に似ているが、自己主張はそこまで強くない。スペイン人も、別の意味でお喋りだが、フランス人よりも親しみやすい。スエーデン人はあまり喋らないが、静かに分析はしている。スイス人やオーストリア人も同じ。色々と話をして打ち解け��ば、彼らは、こちらを値踏みした上で相応の対応をしてくれる。しかし、スイス人は杓子定規な人が多く、独自ルールを持っていて、それに従っていると相手が判断している限りにおいて、である。ドイツ人と似ている。つまり、私の人間性レベルでは、オーストリー、フランス、スペイン、スエーデン、オランダの研究者達と話が合う事が多い。イタリア、ドイツはカラッキシダメ。なんであんな奴らと一緒に戦争したのか、意味不明。
今回の国際会議はハンブルグの社会経済研究所との共催で、昨年末依頼、久しぶりに社会経済研究に行く。一軒家を改造してあるのだが、機能的でシンプルな研究所のお庭はバラや矢車菊が満開。綺麗なお庭を観察していると、矢車菊の上で、昼寝しているハチがいた。死んでいるのかと思ったら、モゾモゾするので、疲れて寝ていたらしい。首から背中にかけて生えたウブ毛に花粉をつけて、可愛らしい。
3日間、朝9時から夜10時まで、みっちりやった会議で、ワシはハッキリ言って疲れた。昼食を食べてからは死んだように眠る。そして雷様に起こされた。こちらはフワフワと植物の種やアブラムシが沢山空中を漂っている。窓を半開きに開けてあると、こちらは網戸が無いので、掃除してから数日もすると窓枠には小さな羽虫達の死骸と植物の種だらけになる。今朝は朝から3日分の掃除、洗濯をしたのでスッキリしたが、空気も雨で洗って貰って、少しは、ホコリや虫がいなくなれば良いのだが。。。ドイツ人達は花粉症の人が多いが、まつ毛や鼻毛長くても、大量の植物の種(タンポポの綿毛のような、ホコリ玉みたいな種です)とアブラムシにやられているらしい。私はせっせと、ひまし油で洗眼し、塩水で洗鼻しているので、くしゃみはするけど、なんとかサバイバル中。スギ花粉やホコリ、臭いの方が、私はダメみたいだ。つまり、ドイツ人達よりも、ワシはより細かな粒子に反応しているらしい。
仲良くなったオーストリア人のお兄ちゃんに、ドイツ人の事を聞く。ドイツ人はウィーンに行くと、オーストリア人から差別されるらしい。少なくともワシの周りには、オーストリアに対して、すごい被害者意識高めのドイツ人が多いのだ。兄ちゃんは、あーそーかもね。彼らは違うドイツ語話すから、オーストリア人じゃないってすぐ分かるしと、めちゃくちゃサラリと当然のように言う。おまけにドイツ語を公語としているだけで、別にドイツ人達と色々な面において文化共有していないしね、と。彼らから見ると、ドイツ人は野蛮で文化無いくせに金だけ握りしめて、文化を買い叩くヤクザ集団にしか見えないらしい。
帰宅途中まで一緒に夜のお散歩を楽しんだフランス人のおっさんも、笑っていた。いやぁこっちに来て俺が口にするワインはフランス・ワインばかりなんだよ。パリですら飲んだ事のないワインだから笑っちゃうよ。ドイツ人は、文化無いって自覚ありすぎだよなぁ、と。ワシ、日本でもワイン作っとるよと教えると、飲んでみたいなーと、ワシの顔をのぞき込んで笑う。でもさ、マキは東大東文研で貨幣史やっているクロダって知っている?うん、名前知っている。あーそう。アイツはねフランスカブレしていて、マキみたいに日本文化を知らないんだよ。僕はここ十年位、クロダと研究を通して親しくしているけど、僕が東京に行く度に食べさせられるのはフランス料理、飲まされるのはフランスワインなんだよ、僕は嬉しくないんだよ、日本で日本料理と日本酒を楽しみたいよ、と苦笑する。クロダは日本人の癖に、自分の文化にホコリが無い。僕は、クロダがパリに来たら、今度は日本料理を食べて日本酒を飲ませようかと思うよ、と。二人で大笑い。そして今朝は東大経済学部の講演を聞きながら、クロダをググって、あ、やっぱワシが知ってた奴だ!と、フランス人教授のお話しを思い出しながら、二度目の大笑いをさせていただきました。ガハハなのだ。全く。。。フランスカブレの典型的おバカである。
ちなみにフランス人教授には、ウェブレンの顕示的消費(conspicuous consumption)なんじゃね、と一言いうと、あーそーかと神妙に頷く。そして、クロダは僕にステータス教示をしてたのね、と云う。まーね、東大の教授なんだろ、クロダ、とワシ。うーむ。じゃ、クロダはつまらないねぇ。まぁ彼の研究もそんなに面白くないんだけど、そういう事なのか。僕は、日本人的オ・モ・テ・ナ・シかと我慢していたんだけど、違うのか。。。いや、まぁ、ワシなら友人が日本に来たら、否、別に相手が日本人でも食事する時には、Christianが何を食べたいか聞いてから店決めるけど。それに、タダの自己趣味の押し付けこそ、ウェブレンが批判していた産業革命以降の新たな中産階級による、ある種の顕示的消費の一形態と言えるんじゃね、パワーの誇示ちゅーか。。。と言うと大笑いしていた。
いやぁクロダさん。ありがとう。アナタのお陰でChristian教授と、楽しくお喋りしましたよ。がはは。ワシもワシの見知らぬ日本人研究者達に、役立っているんだろうなぁ、こんな感じで。。。と思った。
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esoterics-posts · 2 years ago
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夢の中で
某宗教の尊師、徳を積んでいるが霊的なパワーに執着している。生きている間は必要な食べ物、山芋とパスタ?超能力で治す形而上の存在と副作用の心配。光と色で治す塗料の帯のあるローブを着た精神科医?何もが毒にならない程の耐性が付与されている視覚化された化学構造体がある。『脱洗脳』
夢の中にて
地球近似惑星が山程視える。霊は夢の中では行き来��きるようだったー。どの惑星に入るのも中がどんな状態になっているのか?数ある中でどの惑星に入れば良いのか?分からないー。
ところで、現在の霊的ヒエラルキーは金星から1,850年前に地球にやって来た一団であるー。『異惑星』
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①主観、③客観、②④⑥間主観性
①頭脳、②直感、③理解の光線、④想像力に依る洞察、⑤記憶知性、⑥論理的思考、⑦創造的技術(スキル)
⑤記憶的知性の欠如に依る③数学的理解の欠如、⑥歴史的記憶の欠如、⑤化学的構造、⑥夢、①②④⑥⑦素粒子��想像力のシニフィアン、シニフィエのシーニェ。
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夢の中にて『筏が2つ』
振り向くと街並みが一変。疑うデイケアメンバーはもういない。行き道を戻ると来た道だと隠秘学的に文字が暗示。逆を向いて老女の一団を右手にーさて、電車に乗りたいが物価!古びた電車の撫でられ看板のある駅舎にて12500円超の掲示。両替の為に駅員に話しかける処で目覚め。
夢の中で
昨日、在りし日の昔の姿の同級生O君が余りにも不釣り合いな驚くほど背の大きな茶色の犬を連れている。直ぐ後の現実の予知夢?だった。
その後のテレビの国際ニュースで海外で犬と一緒に喜んで授業を受ける子ども達とそのユニークな取り組みが放送されていたー。『#元型』『#集合的無意識』
限界次元
夢��、英語のロゴがある2つのスタジオが併設されて並んでいて音楽の授業に遭遇する。ある講師に依れば4次元時空を越えた時点でsoupDimensionsの中で人は輪廻できずに死んでしまうー。赤の方のChristMaitreyaに出逢い脚を踏まれた事を言う。自転車に乗りながらイヤホンから音楽が聴こえる。
夢の中で
じゃがバター(ジャガバイト)
上戸彩さんの声で、「メキシコ🇲🇽はマヨジャガだから速いんだもんねー。」(そんなわけない?)アプリが顕れてタップしたら1Gだけ爆速!
スマホでWi-Fiでも予想外(ヨソウガイ)に速かった。(ヨソウガイです。)
iPadとAppleペンシルはアーティスト向けですー。
夢の中で
母が三菱の書いた文字が送れられる鉛筆?の端末?を紙袋一杯に買ってあるのを見ていた。
肉体に対して、抽象的な状態と光子について意見に述べようとするがかき消されて声が出ない。
肉体頭脳・機械頭脳・素粒子頭脳・生物的コンピュータについてのアイディアについて構想を巡らせていた。
夢の中では
有名衣服ブランド✕非営利団体✕『建築』
イブ・サンローラン プラダ グッチ エルメス
シャネル などが別々の施設に重ねられている。
H田先生の所持の西洋修辞学の本 光 闇 炎 氷 水 風 雷 毒などの英語の類義語の属性が文学的文体で書かれているものを読んでー。『文学』
#宇宙レベル
頭を下げて無頼漢や商人や王族や盗賊や諸侯などがクリスタルや魔石などの戦利品と自分の処遇を全部預けて配下になってしまうファイナルファンタジーシリーズの雄大な星のストーリーで、VR(仮想現実)とAR(拡張現実)と統一された物語でした。
夢の中で半分失神してしまいましたー。
イエスとゾロアスター
夢の中でー神の光線で🇬🇧から🇩🇪にトランスワープ。神は一者。独国なのに英語を話すぼくを笑う輩。ドイツ人の想像力(①即物、⑤化学、③進化論、④創造性のヴァリエーション)哲学的異文化の霊的な相互矛盾と⑦多様性と豊穣さについて居酒屋で哲学するー。『#創造論と進化論』
夢の中で
視察中に首都直下大地震が来て核融合炉から火が出て、安全装置が働くから待てと言われて爆発してぼくは必死で窓に何本にも張り巡らされたポールにしがみついて事なきを得たー。命からがら皆がビール🍺を飲む砕けた祝勝会場のような役員会に参加した。与党や政治家に個人的な恨みはないです。
夢の中で
O野くんとテストを受けているが、子どもの頃のようには頭脳に偏極がないから上手く解答できない。文章題は難解だから飛ばして分かる所だけ解く様に言われる。やっぱり、肉食は霊的には良くない様です。再テストを受け、終了後に音楽アプリの会で会おうと、別れた。後で西洋人が集合したー。
夢の中で
次元の間の神竜が守るラグナロク攻撃力140と、
聖なる剣のエクスカリバー攻撃力110を二刀流で
(騎士剣は片手持ちは重たくて無理。ナイトでも両
手持ちが普通!)携えた、よしひろが、攻撃力140
セイブザクイーンを携えた英国のキャプテンディッ
シュと闘い、ほぼ互角に渡り合ったー。
夢の中で
今は亡き愛犬のミニーを呼んだら直ぐ側まで来てくれた。恥ずかしそうにクッションに顔を伏せて見せた。ぼくが愛しているのを知っている様子。名前を何回も呼んだ!愛してくれて💖ありがとうー🌟
生前、ぼくの想いに答えて愛してくれた。束の間でも想いが通じて、ぼくは幸せだったよ。(^ω^)
夢の中で
ぼくの生涯で1番大好きな声優さんの事をテレビで観て、また、人生の最期にも会いたいと思う。S原君や家族にバレて笑われる?急いでチャンネルを変えた。N田君が自分の #素粒子 と #分子構造 の描かれた診察用紙を見ている。ぼくは素敵な #SONY?の少し分厚いタブレットを持っていた。
メランコリー
夢の中の卒業制作展において第4光線の故に葛藤を通しての調和の光線が多く、作品の模索の時間が思いの外、長く懸かる。3つの光線のバランスをK崎先生と話し込んで、大きなモノではなくて小さな作品でも良い。T君の世界観に引き摺り込まれた本が書店にあり、其処で作品に出逢うー。
夢の中で
高校の夏休みの補習に参加せず後悔。下級生?がいる。家の目の前が本屋で自宅の書庫に山程購入した本。その中から、イタリア語の詩集、文法、を手にする。肉食をしなくても、#プラーナ(#光子 #エーテル)からエネルギーを取れる人は #見る人 #プルシャ #霊我 #大師 #Adept #アデプト に近い。
日向さん
⑥双魚宮の女子高の卒業式の先生と生徒の中に『覚者方』(⑤段階)の1人として参加し��いる。と、皆に見えているようなので詳細を話す。告白の後、目が覚めて母の眠る現実の中の自宅に帰ってきたらカイダンに彼女の姿が視えるが、目が覚めて、まだ身体持ちのぼくは⑦宝瓶宮の初めの方にいる。
夢の中で、
返すべきか?
ヨハネ黙示録は危険だから、読んではいけない。
キリスト・マイトレーヤはダリの真我である?ぼくの愛する人が桁を間違えて、緑豆を280個も頼んでしまった。うんざりするほどの量で食べきれない。一緒に居てくれた幸せー。隣には幼稚園児。➕の型の天井のある部屋で待機。
エセO村隆史、T島君がリーク、ぼくの機械での所業にクレーム。ほぼほぼ、生きている間に覚者にはなれない。ダ・ヴィンチ、ゾロアスター、イエス・キリスト、クリシュナルムルティ、他でもギリギリ届かない。生まれつきはクリシュナ、孔子、ティアナのアポロニウス、キリスト・マイトレーヤ、他。
夢��中の夢
寝ていたら28000円のTMNetworkのガジェットが当選しましたとの紙製の広告を母と父と見る。夢の中で視えた通りに、試しにデモ機を弾く。小室さんがトレーの上で1つ目に、ぼくは「会うときは其の姿で良い」軈て🐍に。蛇が通路の左の部屋に入る。ぼくは真ん中の部屋。其処で目が覚めたー。
夢の中で
③物質性が高くない②④描画を模索し、④音楽を聞きながら絵を描いている。
自宅のステレオで④②電子音楽を聞きながら、③⑦絵を描くことよりも④音楽を④③作曲することを夢見ている。
プレイステーション(白水晶)でストⅡ。睡眠中に波動拳、昇龍拳を操作した。
寿司で③玉を食べる。
マスター🌟🌟🌟
#宇宙人 ー『プロメテウスの交響詩』 次元拡大
#地球人 ー『文化人類学の本』 平面張力
瞑想と発見の文体 #クリシュナムルティ
#ベンジャミン・クレーム
妄想 #ダリ全画集 
#キリスト・マイトレーヤ
#宮村優子 #新世紀エヴァンゲリオン
#FFRK  #ファイナルファンタジー
夢の中で
ダリの薄い画集(新品)本人が表紙になっているものや、違う製品を含むものが他にも何冊もある。画集の高い方の一万円越えの値段のものにはぼくの言葉が入る?異なる次元の違う作品集が、重ね合わせるように、夢の中では、現実を越えて、超現実の中に、複数同じに存在できるようだったー。
夢で
結構広い間取りの素敵な部屋に元気な母が🇰🇷韓国語を聞く。来世が在ることが分かって、「きっとエネルギーが導くよ!」すっかり元気に。ぼくはFF7を大きなテレビでゲーム���テレビ中継。登校。昼食に恋人に会うために、30分も車で運転。女性は居合いの、アピールするも希望者多数にて時間切れ。
夢の中で
お爺さん想いの孫がいる老人養護施設にて死について話す。タモリさんに、「生きているという現実は依然として其処に在り、生きている以上、皆、死んでしまう。」ドッキリを仕掛ける女性の罠に、知らない振りをする自分と、隠れた場所から驚かそうとする2人の女性看護婦の漫画の姿が視える。
夢の中で
氷の結晶のアイコン(実際に手で持てる薄いCG)を
手にしてゲーム開発者の集い。第六光線は群青ではなく青緑にすべき事を覚る。はい×3、遊ぶのをやめました。
部屋程もある猫に襲われそうになり、もう少しでタブレットを割る所だったー。
60歳になって、幅広い見解を持つ者を弟子にした。
自分の部屋には壊れた?プレステと重なるように置いてあった(レコード盤?ポートフォリオ?のように薄い物)。寝ている筈の父の横に外付けHDのついたPC?でCDのバッハがかかっているのをCDを替えようとすると父が起きて、「人が寝ているのに、お前が出張してくれたんか?」と聞かれて目が覚めたー。
夢の中での洞察
⑦物質性の大主方の悪の住処は固まって動かない。太陽の黒点運動を観測していたレオナルド・ダ・ヴィンチは予めイニシエートのリストをベンジャミン・クレームに書かせて、自分の生涯の食べる量と寝る時間を計算して、丁度、自分の役割を全て果たして、死なずに次元が固まるのを希望。
信仰
夢の中で、薬を求める若者でいっぱいだったが、母が帰って来ると、皆が蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。壁には一面に顔面崩壊した死人のように悲惨な相貌の面々の写真。「ティアナのアポロニウスを信じなさいー。」水色のカバーのAndroidのタブレットを(神様が)夢の中で作ってくれたー。
マスター
夢の中でも、ぼくのゲームの腕は、まあまあですが、其れに対して、ゲームキングのO田君は電車の中で死んで?夢の中に戻り、泣く子も黙るほどの本領発揮ー。そして、FF、マリオ、その他全クリア、🎖️。一躍時の人にー。巧すぎて一同大爆笑でした。外人のキャスト?にも、大ウケしていました。
餓えと飢え
生き甲斐と意味のある意義深い人生についてー。
数ある書物の中で神智学(宇宙の霊学)の本を手にするぼく。(ぼく自身は哲学以外には音楽や美術には興味があるが、俳優はしたこともなく、尚更、まるで、演劇論には興味がない。)K野��が夢の中で老酒と酒の宛を口にする。食事がエネルギー。
三日が何分
売れ残った785円のパンを手にするが返そうとして、女性に助けられてO野克矩と再会。一緒に歩いて降り場で別れ、引き返して駅で緊急🚨システム作動!職員に補導され、あるがままを説く。前日にM井一郎。H下徹に保護され「百年前の発明。頭悪い、無冠。」母の声が聞こえて目が覚めたー。
夢の中にて
水屋に啓示され、直観した卒業制作として描くべき霊人の類型としての普遍的象徴としてのセフィロートと、腐ったオレンジ🍊。#グラマー #Glamour #幻惑
①#モリヤ覚者
②#クート・フーミ覚者
③#ジュワル・クール覚者
④#セラピス覚者
⑤#ヒラリオン覚者
⑥#イエス覚者
⑦#ラコーツィ覚者
#ニューアトランティス
夢の中で、#幽霊 を作る両翼のようなコピー機械の様なCMだった。#アストラル界 の幽霊 (複数)が複製されているような様子だった。オカルト科学が機械で複製される霊で養われた魔法物理なのか?其ともイニシエートの #霊的偏極 の結果としての #心霊現象 なのか?『非常識』
夢の中で
作家の皆に出逢えた事に感謝して、寸時、沢山の楽しい想いをして、思いの外、素敵な夢だったという事以外ほとんど記憶に残っていないー。チベットにいる生きている間の在りし日のベンジャミン本人に(ぼくはあなたのファンです。)作品を沢山、遺してやってください。」と言って目が覚めたー。
闇の館
ぼくの夢の中で皆で手を繋ぎながら支えあって、地震に備える旧友達だった。子どもの頃からのままの姿で、その繋がりは延々と続いて行くー。其れは丁度、愛の欠如のせいで、覚者方であっても、破壊をもたらす輩がいないわけではないようであった。皆の命を守りたい一心からの行動だったー。
夢の中で
ぼく(甲斐性なし)と釣り合いのとれる女性は早々はいないが、バツ3?のアラフォーのママ(繰り返し身籠った)とならぼくの初婚である再々婚は可能か?
次元が書き変わり軈て訪れたコロナの収束?以前の撲滅された天然痘のようなウイルスの様になればいいのですが。これがいつまで続くのか?
夢の中で
1つ前の夢は無意識の中に飲み込まれて、忘却されて失われてしまった。もう1つの夢は、池のようないっぱいの水の中に咲き誇るいくつものシャリンバイ?の花と一緒に浮かんだ朋ちゃん(華原朋美)が視えるというものだった。花がドロップされて、家にも3つ手に入れていたようであったー。
夢の中で
理由も分からないままに東京に呼ばれて、何故か下着とズボンで街を彷徨うぼくは自宅に電話で行き先を聞く。建物の上から指差されて暗がりの場所へー。ホテルの鍵を持った西洋女に辿々しい拙い片言の英語で話すとTOEIC 100点ぐらい?と聞かれて「弁護士合格を目指します!」と言う男がいた。
♓➡️♒夢
覚者方は知識のツールを与える。かつては、スピリチュアリティは聖書であり、新聞でした。タブレット端末は(霊性と物質性の媒体であり)魔法的であり、昔はなかった。最近まで信仰の対象となるのは、心と理想主義と精神性だけでした。①文学、②絵画、③彫刻、④音楽、⑤化学、⑥夢、⑦建築
#Air  
科学と常識ー夢の中のミニマムの思考実験 
電気はある➡️紙に絵が出るアストラル光で教育OK!
食べ物がない➡️セレブが庭に東洋麺を設置。
スペースもない➡️小人は✈️飛行機でも空気抵抗極大➡️夢の崩壊
#音楽 が #オーラ になる #風の民
#方向音痴 は重力運動しないせい?
『#兜率天』
#素粒子物理
夢の中で、浜ちゃんが50時間テレビに参加していました。壺や印鑑を高額で御布施で買わせて破産させて巻き上げた金を韓国に送る統一教会でも頭のいい人はいるのか?ただ単に頭脳の想記力がいいだけ?#素粒子論 を書いた人は真の #哲学者 であると一緒に勉強しました。あぶない🪒の刃。
夢の中にて
#タカオカ目線 でお馴染みの、高岡さんの授業を受けていました。
最後まで残って、遺伝子の本、暗記系の本、漢字の辞書(新字源)、その他を持って、ぼくは物覚えが悪い(右から左)のでどうすれば、勉強ができるようになるのか?聴きに職員室に行きました。特に解決方法もない様ですがー。
#宇宙意識
#異惑星 はガス状態(多くは地球人には耐えられない毒状態)でできており、生存するのに耐えられない #地獄界 であり、戻れる身体が此方の地球にあるから、御霊にて夢の中の其処へ行く事ができる。身体持ちでの #テラホーミング(異惑星への参入)は現実的ではない。美しい #霊界 は何処に?
夢の中で
漫画の本を読んでいたら、ぼくの未来予想図(放送予定のアニメの番組編成のイラストと設定資料集でぼくのアバターとその他の登場人物の相関関係がびっしり)描かれていた。ところで、もちろん内容は㊙️です。感謝しています。ありがとう!夢の中で昔のアナログ式のテレビを点けたら本が溶けた。
レトロブーム
夢の中で、プレステを1万5000円(!)で、プレステONEを2万5000円(!)で、売ろうとしていました。今となってはそんな値段で売れる筈もないですが、プレステ(今も持っています)とプレステONE(ぼくは買ってないので持っていない筈のモノ)がありました。自宅で、父と母と一緒です。
夢の中で
小林武史さんと夢の中であってほんの少しだけ、話をした様でした。ぼくはファンである事を言いました。遮るようにスタッフに促されて?直ぐにその場を去りましたが、最近は、日頃あまり聴いていない旨も述べました。ディテール「細部」は記憶の彼方にすっかり忘却され曖昧で、ごめんなさい。
夢の中では
父と母とぼくの家に地震が起こり、硝子が割れ、下の階に落ちる。小室さんが危険な運転。SuperCarで左右を確認しながらも、追い越しの車?が走ってくるのに、右折も左折も減速もせず、右側を直進。(#straightrun) 相手の車に、向かって左側の路側帯から、超小型機が突っ込んで、追撃した。
夢の中で
瞑想中に、一瞬の間、気を失いかけて、うとうとしていると、タブレット端末の色違いの1回目のオレンジ、2回目にはブルーの其々の #Doodle の壁紙 #Pixel4 が視えたー。
夢の中で
右手の丸い��っ手がハズレて、その覗き穴から倉庫に色気のある本のコレクションが大量にあったのがバレて、父と母に掃除された。慌てて、ぼくも回収しようとする。
アラブ雑貨店
店主が書物やタブレット(激安)まで売っている。『魔法の本』が目を引く。幅広く書籍が並べられていたー。
夢の中で
この世に生まれる事は霊的進化の目的を達成する為に行われる犠牲的行為である。其れ以外に生まれ変わる理由なんてない。#ベンジャミン・クレーム 他、が意外に元気そうだった。ぼくも自分にできる事だけはしていたい。目覚めるぼくに「今から起きるの?」苦言を呈する医者の一団であったー。
夢の中で
白と金色の光の中で母と道に迷う新しい光の町。建物の一階で、#ベンジャミン・クレーム の #VHS を掛けようとして、一部から歓声が上がったが、やっぱり止めたー。
先日には、夢の中で #仏陀の徴 である白い光を受けたー。
夢の中で
カイダンを上がる浜田雅功とぼくでした。丘を越えてどんどん進む。
延々と歩く🚶🚶‍♂️軽快な足取りで滅茶苦茶速い。ぼくはヒョロヒョロで付いていくのがやっとでしたー。
母が入れた水にぼくが大きな氷を加えたら、殆ど溶けて水となる筈が、何故か殆ど水蒸気となって水は消えてしまったー。
#小室哲哉 #キーボードマガジン
夢の中で、#スピーカー、#PC, #オーディオ 関連のサイトのイメージが、極薄のカミ媒体に広告されていました。手にとって、視てみると何れも、今となっては、残念ながら、以前の前時代的な代物でしたー。今でも、音楽は好きですが、直ぐに飽きが来るので困りますー。
夢の中で
青瓢箪ではダメなんでと、少し鍛えた様子のO野君、久し振りに会った。今からでも、また友達だったら良いの��なー。良い夢だった。
ローズクオーツ色(!)の #イヤホン とケーブル、そして箱の中にアダプターがあるようだった。自分の部屋に戻って、組み立てようとしていたら目が覚めたー。
夢の中で
#北島三郎 さんが夢の中で #小室哲哉 さんに、「ぼくも一曲書いて貰おうかなー!」と言っているのを視ていたー。手には小室さんの🎻?、裏面に🎸を持つ小室さんの載っているアルバムー。の2枚の異なるジャケットを持っているのを見せてくれたー。音楽プロデューサー #TK こと 小室哲哉。
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kokoro-m · 3 years ago
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Never Ending Playlist
「賢い刑務所生活」に続いた「賢い医師生活」。
あまりにも愛溢れるドラマの場合、終わりというものが来るのが一年の早さほどに信じられずとりわけ悲しくなる。大好きな登場人物たちに会えなくなるから。それでも終わりを迎えてしまいました。
賢い医師生活を最初に見たシーズン1の1話、いつものように登場人物の顔と名前を一致させつつ物語を楽しむことにした。あの頃は一斉配信だったので割と早い段階で完走した組で、周りで共有できる人が少なかった。なんだかいいドラマだな、そう思って見終わってすぐなのにまた再生して、気づかぬ間にとびっきりの物語、構成、演出、音楽、その全てに魅了されました。ロマンスありきの韓国ドラマも胸に来る切なさや夢見るようなシチュエーションが詰まって最高なのに、賢い医師生活は完全に一線を画していました。これは大変なものに出会ってしまった。
ドラマはまさに、ヒーリングでした。
物語の最初で同じ病院に勤めることになった医大時代の同期5人。イクジュン、ソンファ、ジュンワン、ソッキョン、ジョンウォン。それぞれ違う分野の科を担当し、目も回るほどの忙しさの中で、一人の提案から大学時代にやっていたバンド活動をまた始めることになる。一人が選んだ月ごとの練習曲が、出会う患者と自分たちの生活とリンクするかのように、ときに背中を押し、ときに過去や未来を慰めてくれる。
ドラマを見ているとき、誰かに感情移入したり羨ましくなったりして次が見たくなる、という訳ではなかった。ただただ主演の5人(1999年大学入学組なので99ズと呼ばれている)の関係性、ゆえに繰り出される会話と空気があまりに暖かくて、ずっと見ていたいだけなのだ。もう彼らを知らない人生に戻れないという感じ。物語に特別な事件は起こらない。不条理な会長も、お金絡みで怪しいヤクザも、裏がありそうな患者だって現れない。今までの韓国ドラマで慣れている視聴者側が「何かあるはず」と思えば思うほど、このドラマの良さに気づくことになり呆れてしまうほど。そうだこれは今までのドラマじゃない、「賢い医師生活」だったんだ、と。医師と患者、取り巻く家族、出てくる人物たちの、確かにそこに存在する人生をゆっくりすくい上げるように描いた物語である。
毎度のように泣いてしまうのは、ドラマに対して情が深すぎるのは抜きにしても、人間の心の琴線に触れるのがあまりに上手すぎる脚本の完成度が大きい。どっと目頭から涙が溢れる体験はそうそうないのに、このドラマを見ていると自然と湧き上がる感情に幾度も遭遇する。誰かの言葉に、誰かの表情に自分の心が揺れ動いては抑えられない。そんな脚本を体現する出演者の俳優さんたち、通常フューチャーされる主演陣以外にも丁寧な配慮が物語を通して当たり前に感じれるドラマはこれが初めて。まず99ズの演技力と団結力は言うまでもない。見たらわかる。なるべく素に近いキャラクター設定はメイキングを見たら明瞭で、キャスティング時点で完璧。出会うべくして出会ったような5人がだんだんと砕けて役そのものの関係性のように近づく姿は動物の動画より癒しになる。やっぱり土台がないと役の膨らみには限界があるんだな、と改めて実感する。土台が固まれば固まるほど、上に乗せれるものは多くなる。経験豊富な主演陣を支えるようにとても多くの俳優さんがインターンや外科生、教授や同期役で出演されている。医療モノは登場人物や関わる人がとにかく多いイメージだったので、どうやって全てを配役してキャラクターを肉づけるんだろう、あまりに真ん中の人たちのクオリティが高すぎるし…と思っていたシーズン1序盤、これまた私の中のドラマ常識が崩れる。
とにかく、全員、上手い。余すことなく全員の演技がうますぎる。特に悲���い結末を持つ患者側の家族の方々は表情や空気の作り出し方が只者のそれではなく、完全に領域が桁違いというか、ここのこんな役で、ここまでの深みを出せるの…?と毎回衝撃。そのおかげで一切の緩みのない、本当に真摯なシーンが作られているんだなと感激でした。こんなに丁寧に作られるドラマは、本当にない。そして何と言っても豪華なゲストの数々。流石のシン・ウォノ監督、配役に一切の無駄も手加減もない。大御所ー!あの人だー!誰この人知らないけどめちゃめちゃ素敵!!そんな感想が湧き上がる中、画面からは「喜んで!」と俳優さんから伝わるような愛を感じる友情出演の多さ。韓国ドラマファンとして大興奮でした。たまらない。生み出される登場人物と彼らが持つ無数の感情が、流され���ことなく積み重なって一つの物語を豊かにしているんだな、と感動します。
さらなる醍醐味は、人生において欠かせない幸せの瞬間、「食べる」!三度のご飯は元気の源、誰かが美味しそうに食べている姿はなんだか胸がほっこりするはず。賢い医師生活でも食事シーンは必見。ぽんぽん飛び交う身内ネタ混ざりの会話にサムギョプサルの焼ける音、麺をすする音、鍋いっぱいのラーメン、疲れた時に沁みるトッポッギとビール。ご飯は一人より、誰かと食べる方があったかい。韓国ドラマは何故か毎回コーヒー頼んだばっかなのに「もう行こうか」とお店を出たり、フォークを刺してもないパスタを残してお腹いっぱいと言ったり、ご飯好きには心が痛い演出が多くて何かと気になっていました。(関係ないけど、あとはニット着たまんま寝たり)ちょっとしたことで 「ああ、これは作り物だもんな」 と割り切ってしまうシ場面が多かったのです。賢いにはそれがない。どれほど嬉しかったことか!!!リアリティに忠実で、役としてのリアルを追求してくれるおかげで、物語以外に気になる暇もない。純粋に話を楽しめることが幸せ。
そうしてコメディな要素も満載なため、まるで友達との会話を思い出し笑いするかのように普段からシーンを思い出してしまうのです。あのネタ面白かったな、あんな言い方最高だったな、と。面白い友達の話を誰かに共有したくなるような気持ち。「昨日イクジュンがさ〜〜、あっ賢いの話なんだけど。」
そして、賢いシリーズに欠かせない「音楽」という大スパイス。選曲から流すタイミング、全てが完璧。「はじまりのうた」や「シング・ストリート」を思い出すような、韓国作品昇華版。どうしてこんなにぴったりな曲を、慄く。映画やドラマでも雨はいつもキーポイントになりますが、賢いでも同様。「雨」や「涙」が歌詞に多く出てきました。私が大好きなのは、「With my tears」 「Already one year」 「I like you(チョ・ジョンソクバージョン)」です。シーズン2の選曲がドタイプでした。ジュンワン恋物語曲は胸が締め付けられて聞くたびにあの眼鏡の奥のおぼろげな瞳思い出して泣きます。シーズン2の1話のギョウルとヨヌオモニ with 「Rain and You」 、正直過呼吸なるかと思いました。夕焼け見ながらの 「Already one year」 は滝涙。未見の方、涙の枯れない私をここに置いて、今すぐNetflixを開いてもらいたいです。
ビハインドを見るたび、出演者のインスタを見るたび、インタビュー記事や動画を見るたび、その顔色の良さ、監督の演出する姿、全部に「愛」が見える。愛の具現化=賢い医師生活。
迎えた今回のシーズン2は前と同様、各回放送終了後ツイッターで賢医ヲタクの皆さんが繰り広げる考察大会を私も血眼になって追いながら全力で共感しつつ、同じ温度で賢医が好きな友人に怒涛のラインをする。前シーズンの膨大なメイキングと番外編(主演5人がキャンプをするというこの世で一番平和なバラエティ動画)をYouTubeでBGMかのように再生しながらご飯を食べ、服を選び、メイクをして、仕事へ向かうのが定番。そうしていつの間にか迎えた毎週木曜、私は早寝なので23時の配信を眠らせた金曜の午前中に見て、同日二回再生して復習をするのがルーティーンでした。これからも何度だって見れるし何度も会えるけれど、たった今あの5人は何を食べてどんな患者さんと向き合ってそれぞれがどんな道を歩んでいるか、それを追えないのが悲しくて仕方がない。
偶然にも窓の外は強めの雨が降る中で、室内の私はベッドシーツを涙の跡で濡らしましたが、物語が一度終わったからといって冷める愛で2年間過ごしていません。いつか賢い医師生活がまた始まることを祈って、信じて、また明日からの私の人生を軽やかに歩むつもりです。あー悲しい!寂しい!もう会いたい!でも再履修のしがいがある!全てのキャストさんの次回作が楽しみ!ミドヌナとイェジン様らのドラマも、ギョンホさんの舞台続報も、追う情報はたくさんあるし、これからもきっとずっと仲の良い99ズが存在しているだけで良い。このドラマに出会ったおかげで私自身も大きく成長できる気がしてならない。いつかもしも私が大成して、賢いキャストの皆さんとお会いできる世界線を目指します。日本を代表する賢いヲタクの一部でありたい。
人生で一番好きな「賢い医師生活」というドラマについて少し語って見ましたが、再度、見ていないという方は、ぜひ見てもらいたいです。必ず幸せな気持ちになれます。離脱した方もいつか戻ってきますように。このドラマを作ってくださった全てのスタッフ陣、キャスト陣、制作の方々、本当にお疲れ様でした。大きな感謝と愛だけ抱えて。
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yfukuoka · 3 years ago
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【3047日目②】2021-05-21 家族(兄弟)で食事。カレー3兄弟です。 . japanese spice curry WACCA@八丁堀 ‪_____________________ 雑誌RiCEのイベントで、衝撃のポークビンダルーを生み出したwaccaさんと三男タケナカリー。あの、とんでもないビンダルーを含むフュージョンコース料理をいただきました。 . 【前菜】 海鮮&スパイス ◎海鮮カレパッチョ スパイス漬けマグロの赤身、脱水したウニ、イクラ。コースの一品目は、この後の展開を占う料理でもありますが、え?こんなところから始まるのか!と思わせるワクワクする逸品。マグロのポーションが大きい^^ . パキスタン&北海道 ◎無水チキン パキスタン発祥であり、北海道の「カラバト」発祥である無水チキンカレー。濃縮された旨みや甘いスパイスの香りは無条件に旨い。 . イタリア&スパイス ◎熟成ラム赤身 無水チキンには乾燥したブラックペーパーを。こちらには生のブラックペッパーを。シェフの三浦さんの遊び心がチラチラと見える楽しい展開。 やわらかお肉の熟成仔羊肉には、これまた羊のチーズを山盛りに積み上げています。多層的な旨みと塩味の広がりに、家族の会話は、「うまい、うまい」しか言わなくなってきました。 . ◎キャベツのポリヤル ◎フルーツトマトのコンポート 箸休めのポリヤルはシャキシャキのキャベツとココナッツ。トマトのコンポートは口の中でブシュっと潰して、酸味とシロップ漬けの甘みを楽しみます。 . 前菜と言う名ですが、ほとんどが肉料理。でもそれが良い。「前菜」と言う日本語訳はちょっと誤解を生みますね。 . 【サラダ】 NY&インド ◎マサラナッツのチョップドカチュンバル 長男から、「好きなもの一つも入ってないのに、めっちゃうまい!」と名言が出ました。 確かに、ただのカチュンバルサラダとは違い、ナッツの甘さだったり、ちょっとした油脂分感、あとは小魚の存在ですね。 コース全体にリズムが生まれます。 . 【魚料理】 イタリア&インド ◎鯖とトマトパスタとキーマ目前 三浦さんは、長年イタリア料理の世界で活躍されていたということもあり、��の準備を裏切る絶品のパスタが出てきました。 ただのトマトパスタと思うことなかれ、ふんだんに使ったオリーブオイルと爽やかなトマトの風味。少し固めの平細いパスタとよく合う。 鯖は、オレガノやシナモンなどスパイスとハーブ入りの餌を食べて育ったハーブ鯖。つまり、カレーを食べてた鯖をさらに僕達が食べる。火入れが絶妙で、めっちゃおいしい鯖でした。こちらにホールコリアンダーの爽やかな香りの玉ねぎのマサラを混ぜると……あら不思議。鯖キーマに変身。 「キーマ目前」とは、これを混ぜたら、鯖キーマになるよ。でも、ちょっと前だよ。という意味。 . 【口直し】 フランス&ベンガル ◎キャビアとオーベルジーヌボルタ 焼いた茄子の香りがギュッと…しかも、冷製のグラニテになったボルタ。ピリッとマスタードの風味、そしてキャビア。この美味しさは、実際に食べないと伝わりませんね。 焼き茄子の香り、ふぁぁぁ。 . 【肉料理】 トンカツ&ゴア ◎ポークビンダルー ◎トリュフのバスマティリゾット . 本日のメインディッシュ。 ポルトガル植民地下の影響で生まれたインド・ゴア州の名物カレーをトンカツ料理にしてしまうとは。こんな解釈ありですか? 手前のペーストの酸味と辛味は間違いなくビンダルー。ひと舐め、ふた舐め、あっっ、あっっっ…うまああい。 . 桜色のカツのお肉には、こっそり下味が付いていて、ビンダルー無しの一人ぼっちでも主役級の美味しさ。サクっ…じゅわっ…うまっ。この豚カツにビンダルーペーストをのっけて食べると、衣の中から溢れる油と豚の脂がビンダルーペーストと溶け合って…カツカレーのような美味しさに。 . トリュフのリゾットも良かった。キノコとライスの相性は最高。塩味のある味にビンダルーペーストを混ぜても旨い。旨いしか無い。 . 【ドリンク】 ◎黒糖ラッシー 【デザート】 スリランカアレンジ ◎とろけるワタラッパン 最後にスリランカのプリンを日本人好みにアレンジしたスイーツを。器の底にカラメルソースが仕込まれているのがとても良い。 大人のスイーツです。 . すべてが創意工夫に満ちていて本当に面白い料理でした。「アレンジするからには、本物を超えた美味しさにしたい」と語る三浦さん、本気でプロの料理人が遊び出すとこんなことになるんだな。 東京に移転してから半年。まだまだ未知数であることが、楽しみで仕方がない。 . ‪‪_______________________ 🇯🇵🇮🇳🇵🇰🇮🇹🇫🇷🇺🇸🇵🇹🇱🇰 #wacca ‪#instafood ‬#asianfood #asia #spice #foodpic #foodstagram #tasty #spice #currystagram #curry #ワッカ #八丁堀 #スパイス #カレー #カレー好きな人と繋がりたい #フクドローン #ふくすたぐらむ #カレー3兄弟 ↓japanese spice curry wacca @sekime.wacca (Wacca) https://www.instagram.com/p/CPUHC2AgO8R/?utm_medium=tumblr
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harinezutaka · 4 years ago
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一年前日記2(2020年1/8〜14)
1月8日
今日は大嵐だった。朝はやっぱり起きられなかった。お腹が空いて寝る前にお菓子を食べたのがよくなかったな。昼間もぼんやり眠くて、電車も乗り過ごしそうになった。夢をみた気もするしあまり寝られてなかったのかもしれない。今晩はキャベツと豚肉のごま塩鍋。北欧暮らしの道具店のスタッフさん考案の鍋。数年前のサイトの記事を読んでから気に入ってずっと作っている。この特集の鍋は全部作ったけど、どれも本当に美味しかった。水炊きもキムチ鍋もまた作ろう。鍋ってセンスのいる料理だ。全然簡単じゃないと思う。
1月9日
昨日ノートを書きながら1日の過ごし方に��いて考えてみた。まずは寝る時間と食事と運動の時間を固定するのが目標。ここが生活の主役と決めたので時間も贅沢にとる。そのほかの時間は、とりあえず自由にすることにした。とは言ってもお風呂に入ったり掃除したりすることはたくさんあるので、昼間予定がある日の自由な時間は晩ご飯を食べてからお風呂に入るまでの1時間程度かなと思う。日記を書き出して数日。スマホを見る時間が激減した。この日記もスマホで入力してるというのに、2時間ぐらい減った。日記ってすごいのかもしれない。だが、朝はまだ起きられなかった。7時間睡眠で計画したけど冬はもうちょっと寝たいのかも。今年初めての鍼。関西なので松の内は15日なのかなと思いつつもこの時期の挨拶は迷ってしまう。先生の方から「今年初めてですよね」と声をかけてくれたので新年のご挨拶をした。気温が高くて少しのぼせてるような感じがしてたのがよくなった。お腹も動き出した感じ。頭に鍼を刺してるときに、顔がかゆくなって困って少しかいた。刺してから少し離れていた先生が戻ってきたとき、あれ?という感じだったような気もする。前にも後ろにもお客さんがいて忙しそうだった。服を買って帰る。注文していたブーツが届いたので、服も欲しくなって。少し春っぽい店内だったが、裏起毛の黒のパンツとオートミール色のセーターを買った。お昼ご飯は冷凍していたカレーに温泉卵をのっけて食べた。夜は、鶏つくね、小松菜おひたし���ネギとハムのスープ。つくねにはえのきとオートミールを混ぜると食べ応えがあって美味しかった。献立考えるのがしんどい時期はレタスクラブの献立カレンダーを活用していて今日もそうです。でも野菜は、あるものを使うので出来上がるものは少し違う。オートミール色と実際のオートミールも少し違う。私が思っている色はオートミール色ではないのかもしれないが。
1月10日
昨夜はなかなか寝付けなかった。晩御飯のあとにミルクティーを飲んだのがよくなかったかも。最近カフェインがすごくよく効くようになってきた。本を読んで、「寝たまんまヨガ」をしてやっと眠れた気がする。起きたら7時半でした。今日はいい天気。うっすら気持ち悪いのが続いている。朝ごはんはご飯とオートミールのお粥、豚肉と酢漬けの野菜を焼いたの。電車に遅れそうだったので走ったら、5分遅れてて何とか間に合った。電車に乗り遅れないコツは、一番走ってる人を見つけてその人を追いかけること。誰も走ってる人がいないときはヤバイ。ていうか、もう電車に遅れそうになって走っていい年齢じゃないとおもいながらもいつも走っている。今日は事務所の新年会。年末は忙しかったので忘年会もかねてのフレンチのランチ。和草が生えているような(実際に生えていた)演出がどのお皿にも施されていてお皿が春だった。近くの席のお洒落な老夫婦はご主人の誕生日のお祝いだったようで、「いい誕生日でした」と言っていた。いいないいな。歳を重ねて2人だけでお互いを幸せにできるって、すごく努力がいることだと思う。身体はしんどくなるし、頭も衰えていき、苦しめあってしまいそうなものだ。帰り道で通りがかった花屋さんにもいつの間にか春の花が並んでいた。月も綺麗。明日は土曜日だけど夜勤明けの夫が寝ているのでうるさくできない。全然気にしないものだと思って何年か過ごしていたのだけど、先月だったか急に怒られてしまった。というわけで、夜のうちに掃除機をかけたり洗濯機を回したりできることをしておく。心身ともに満たされたので家事も楽しい。
1月11日
3時すぎに目が覚めた。お灸したり蜂蜜ウコンをお湯で割ったのを飲んだりする(どうやら気もふさがっていたようなのでシナモンも入れた)。本を読んでたら再び眠くなり、その後はぐっすりと寝過ぎてしまった。ちょっと落ち込むがそんな日もあるよと言い聞かせる。目が覚めた頃、ちょうど満月だったみたい。月光浴すればよかったな。起きたらすぐにCDプレイヤーの電源を入れる。古いYAMAHAのをハードオフで夫が買ってきたのだが再生できるまでに1時間半ぐらいかかる。これを壊れてるとみなすかどうかは使う人次第。生きてるっぽくていいじゃんと最近は愛着がわいてきた。音はいいし。無事に再生できたので、自分もそろそろ動き出そう。聞いた音楽は安藤明子「ふゆにおてがみ」です。お昼ご飯は、昨日実家に寄ったときに母が持たせてくれたサバの煮物(温めなおすときに青菜を入れた)、切り干し煮、黒豆入り納豆。まだ夫は起きてこないので、ひとりでご飯を食べていると見知らぬ音楽が鳴り出して何何?となる。電話の呼び出し音をいつの間にか変えていたようです。時々こういういたずらっぽいことをする。夜ご飯は豚肉と大豆のトマト煮込みとかぼちゃサラダ。 
1月12日
朝ごはん、ツナとキャベツのパスタ。パスタとキャベツに下味をつけて冷凍しているのをあたためてからツナを加えた。昼からポートアイランドで吟行の会。その前にギャラリー島田で震災のグループ展を見た。阪神大震災から今年で25年。地下では木下晋さんの展覧会をやっていた。味加味でロール��ャベツの定食をがっつり食べ、ポートライナーに乗って市民広場駅へ移動。鼻息で窓をくもらせながら。これで一句作りたいなと思った。他のところでお会いしたことがある人も何人か。遠くから来られている人も多かった。ポートアイランドは人が少なくて、でもいる人は何だかみんな幸せそうでこの時代に駅前に公衆電話が3台もあって、いろいろと嘘っぽいなと思った。1時から3時半まで歩いたり止まったりしながら作句して、その後は句会のように、好きな句を選んで句について話をする。それまでの間に初めての人とも何かしら少しは話をしていたので、その印象と選ばれる句のギャップみたいなものもあるのが楽しい。俳句はまだ好きかどうかわからないが句会はとても楽しい。自分の句にも多くはないが点が入って嬉しかった。家に帰ると夫が句会のことをハイカイと言っていた。何回も間違うのでわざとだ。
1月13日
今日も夜中まで寝付けず、明け方からストンと眠くなるパターン。この時期はいつもこんな感じのような気がする。年末年始にはしゃぎ過ぎてしまうんだろうか。宅急便のトラックが停まる音で起きる。今日はテレビが届くんだった。朝は昨日お土産に買ってきたケルンのパンとオムレツ、かぼちゃ、コーヒー。届いたテレビを夫がセットしている間、私は空の段ボール箱に入って待っていた。カルロスゴーンとか言って。テレビを買い換える理由については教えてもらったがあまり理解できず。お昼は餅キャベツ餅。土井先生のレシピ。カレーとバター味が餅でまろやか。録画をためている外付けハードディスクはそのまま使えると思っていたが一度空になっちゃうらしく、1.全部見てから消して使う 2.見ずに消して使う 3.新しいのをもうひとつ買う 4.テレビを返品する の4つの選択肢がありますと言われたが、私は1だったのだが、結局3しか夫は嫌らしく(来週のガンダムを録るけどそれまでに録画を見切ることはできない)だったら選択肢いらないじゃないかと思った。夜ご飯は焼き塩鯖の鍋仕立て。キャベツとひらひらのにんじんとゆずも入れる。生姜もたっぷり。お正月の残りのチーズと焼いたハムも食べた。寒気がしたので薬を飲んで早めに寝る。寝る前しんどくてごろごろしてたら夫の機嫌が悪くなってちょっと喧嘩する。喧嘩した勢いで明日やろうと思ったてた家事を片付けた。何だようー。いつもやってるのにさ。
1月14日
昨日今日とぐっと空気が冷たい。これぞ冬という感じ。一度ぐらいは雪も見たいけどそんな気配はあまりない。夜中に一度目が覚めたけど、その前もその後もよく眠れた。「昨日はごめんね」「そんなそんなこちらこそ」と軽く仲直りした。少し胃腸を休めたかったので、朝ごはんは軽く。バナナ半分とお弁当のスープの残りを少し食べた。お弁当のスープはコンソメ味のお雑煮。具はカリフラワーとハム。まだまだ餅を食べる。仕事の帰りに実家による。両親が町内会の新年会の買い物の件でもめていた。母が同じ物を二つ買ってしまったとかなんとか。
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r1ok4 · 4 years ago
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うまくなるぞくん
料理のことが好きです。
私は料理のことが好きなんですが、「料理をすること」自体が好きなので、味に関しては「なんとなく美味いっぽければよくね?」くらいのこだわりしかありません。"より美味い"を求めて調味料を調べたり配合を考えたりなんて一切しないし計量スプーンなんてものはうちにありません。容器からそのままドバドバぶち込みます。だって私には料理の他にも大事なことはあるし…進撃の巨人とか筋トレとか…
なので、今回はそんな味付け適当大臣である私が「なんとなく美味いっぽい」味を作るために気に入っているうまくなるぞくんたちを雑に紹介したいと思います。結論から言うと美味さってのは「いろんな味ぶっこんだら出てきた"深み"みたいなもの」なので、食材や調味料は組み合わせれば組み合わせるほど美味いです(ド雑)。だから鍋とか絶対美味しいんですよ、いろんな食材煮込んでるからその数の分だけ"深み"が出るので…あいつほんとずるい
・白だし
天才 初っ端から大優勝 最早麺つゆなど要らない 白だしを使うやつは全部わかってる つまり私はわかっている すべてを…
和食なら何に使ってもいい 何故なら天才だから
・GABAN ペッパーソルト
洋食はこれをかければ全て美味くなる 本当に もう既に味が"完成"されてるのでこれだけはこれだけで成立する 思うとる量の3倍使っていい
・ダシダ
中華風は飽きたけどいい感じの味付けがほしいな〜という方 お待たせしました 韓国が産んだ天才調味料 これでスープ作ると本当に美味い 全部新大久保になる いい感じのコクが欲しくなれば入れときゃok 私は辛ラーメンにも入れてる
・大葉、小口ねぎ、バジル
はっきり言ってこの3つを最後に乗っけときゃ全部なんとなくいい感じに見えるし美味くなる 和風なら大葉か小口ねぎ、洋風ならバジル 思うとる量の2倍使っていい
・オリーブオイル、胡麻油
オリーブオイルと胡麻油は「油」というより「調味料」。味。味がうめえ。パスタの主役はオリーブオイル。思うとる量の2倍使っていい
・ローリエ
月桂樹 ありとあらゆる洋風煮込み料理に一枚ぶっこんどけば全部美味くなる魔法の葉っぱ(危ない意味ではない)。ボロネーゼとかビーフシチューに最高 ワインとも相性が良いので煮込む際は家にある赤ワイン適当に一緒にぶち込もうな え?皆ワインくらい常に家にあるでしょ?
・酒みりん醤油
正直酒やみりんを入れることで風味がどう変わるかはよくわかってないけどとにかくこの3つは同割合でとりあえず入れとけばいいみたいなとこがあります 和食は考えるより先にまず酒みりん醤油 
・ニンニク
大体の洋食はオリーブオイルにニンニクを炒めて香りづけするところから始まる。ニンニクは食べ物なので思うとる量の2倍使っていい
・赤唐辛子
私にうまい飯食わせたければこいつを入れときゃ全部大丈夫になる 思うとる量の4倍使っていい
以上、私のうまくなるぞくん達です。最後に皆で復唱しましょう。「香辛料は思うとる量の3倍」。ほなまた。
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shunsukessk · 5 years ago
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あるいは永遠の未来都市(東雲キャナルコートCODAN生活記)
 都市について語るのは難しい。同様に、自宅や仕事場について語るのも難しい。それを語ることができるのは、おそらく、その中にいながら常にはじき出されている人間か、実際にそこから出てしまった人間だけだろう。わたしにはできるだろうか?  まず、自宅から徒歩三秒のアトリエに移動しよう。北側のカーテンを開けて、掃き出し窓と鉄格子の向こうに団地とタワーマンション、彼方の青空に聳える東京スカイツリーの姿を認める。次に東側の白い引き戸を一枚、二枚とスライドしていき、団地とタワーマンションの窓が反射した陽光がテラスとアトリエを優しく温めるのをじっくりと待つ。その間、テラスに置かれた黒竹がかすかに揺れているのを眺める。外から共用廊下に向かって、つまり左から右へさらさらと葉が靡く。一枚の枯れた葉が宙に舞う。お前、とわたしは念じる。お前、お隣さんには行くんじゃないぞ。このテラスは、腰よりも低いフェンスによってお隣さんのテラスと接しているのだ。それだけでなく、共用廊下とも接している。エレベーターへと急ぐ人の背中が見える。枯れ葉はテラスと共用廊下と���境目に設置されたベンチの上に落ちた。わたしは今日の風の強さを知る。アトリエはまだ温まらない。  徒歩三秒の自宅に戻ろう。リビング・ダイニングのカーテンを開けると、北に向いた壁の一面に「田」の形をしたアルミ製のフレームが現れる。窓はわたしの背より高く、広げた両手より大きかった。真下にはウッドデッキを設えた人工地盤の中庭があって、それを取り囲むように高層の住棟が建ち並び、さらにその外周にタワーマンションが林立している。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。そのちょうど境目に、まるで空に落書きをしようとする鉛筆のように東京スカイツリーが伸びている。  ここから望む風景の中にわたしは何かしらを発見する。たとえば、斜め向かいの部屋の窓に無数の小さな写真が踊っている。その下の鉄格子つきのベラン��に男が出てきて、パジャマ姿のままたばこを吸い始める。最上階の渡り廊下では若い男が三脚を据えて西側の風景を撮影している。今日は富士山とレインボーブリッジが綺麗に見えるに違いない。その二つ下の渡り廊下を右から左に、つまり一二号棟から一一号棟に向かって黒いコートの男が横切り、さらに一つ下の渡り廊下を、今度は左から右に向かって若い母親と黄色い帽子の息子が横切っていく。タワーマンションの間を抜けてきた陽光が数百の窓に当たって輝く。たばこを吸っていた男がいつの間にか部屋に戻ってワイシャツにネクタイ姿になっている。六階部分にある共用のテラスでは赤いダウンジャケットの男が外を眺めながら電話をかけている。地上ではフォーマルな洋服に身を包んだ人々が左から右に向かって流れていて、ウッドデッキの上では老婦が杖をついて……いくらでも観察と発見は可能だ。けれども、それを書き留めることはしない。ただ新しい出来事が無数に生成していることを確認するだけだ。世界は死んでいないし、今日の都市は昨日の都市とは異なる何ものかに変化しつつあると認識する。こうして仕事をする準備が整う。
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 東雲キャナルコートCODAN一一号棟に越してきたのは今から四年前だった。内陸部より体感温度が二度ほど低いな、というのが東雲に来て初めに思ったことだ。この土地は海と運河と高速道路に囲まれていて、物流倉庫とバスの車庫とオートバックスがひしめく都市のバックヤードだった。東雲キャナルコートと呼ばれるエリアはその名のとおり運河沿いにある。ただし、東雲運河に沿っているのではなく、辰巳運河に沿っているのだった。かつては三菱製鋼の工場だったと聞いたが、今ではその名残はない。東雲キャナルコートが擁するのは、三千戸の賃貸住宅と三千戸の分譲住宅、大型のイオン、児童・高齢者施設、警察庁などが入る合同庁舎、辰巳運河沿いの区立公園で、エリアの中央部分に都市基盤整備公団(現・都市再生機構/UR)が計画した高層板状の集合住宅群が並ぶ。中央部分は六街区に分けられ、それぞれ著名な建築家が設計者として割り当てられた。そのうち、もっとも南側に位置する一街区は山本理顕による設計で、L字型に連なる一一号棟と一二号棟が中庭を囲むようにして建ち、やや小ぶりの一三号棟が島のように浮かんでいる。この一街区は二〇〇三年七月に竣工した。それから一三年後の二〇一六年五月一四日、わたしと妻は二人で一一号棟の一三階に越してきた。四年の歳月が流れてその部屋を出ることになったとき、わたしはあの限りない循環について思い出していた。
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 アトリエに戻るとそこは既に温まっている。さあ、仕事を始めよう。ものを書くのがわたしの仕事だった。だからまずMacを立ち上げ、テキストエディタかワードを開く。さっきリビング・ダイニングで行った準備運動によって既に意識は覚醒している。ただし、その日の頭とからだのコンディションによってはすぐに書き始められないこともある。そういった場合はアトリエの東側に面したテラスに一時的に避難してもよい。  掃き出し窓を開けてサンダルを履く。黒竹の鉢に水を入れてやる。近くの部屋の原状回復工事に来たと思しき作業服姿の男がこんちは、と挨拶をしてくる。挨拶を返す。お隣さんのテラスにはベビーカーとキックボード、それに傘が四本置かれている。テラスに面した三枚の引き戸はぴったりと閉められている。緑色のボーダー柄があしらわれた、目隠しと防犯を兼ねた白い戸。この戸が開かれることはほとんどなかった。わたしのアトリエや共用廊下から部屋の中が丸見えになってしまうからだ。こちらも条件は同じだが、わたしはアトリエとして使っているので開けているわけだ。とはいえ、お隣さんが戸を開けたときにあまり中を見てしまうと気まずいので、二年前に豊洲のホームセンターで見つけた黒竹を置いた。共用廊下から外側に向かって風が吹いていて、葉が光を食らうように靡いている。この住棟にはところどころに大穴が空いているのでこういうことが起きる。つまり、風向きが反転するのだった。  通風と採光のために設けられた空洞、それがこのテラスだった。ここから東雲キャナルコートCODANのほぼ全体が見渡せる。だが、もう特に集中して観察したりしない。隈研吾が設計した三街区の住棟に陽光が当たっていて、ベランダで父子が日光浴をしていようが、島のような一三号棟の屋上に設置されたソーラーパネルが紺碧に輝いていて、その傍の芝生に二羽の鳩が舞い降りてこようが、伊東豊雄が設計した二街区の住棟で影がゆらめいて、テラスに出てきた老爺が異様にうまいフラフープを披露しようが、気に留めない。アトリエに戻ってどういうふうに書くか、それだけを考える。だから、目の前のすべてはバックグラウンド・スケープと化す。ただし、ここに広がるのは上質なそれだった。たとえば、ここにはさまざまな匂いが漂ってきた。雨が降った次の日には海の匂いがした。東京湾の匂いだが、それはいつも微妙に違っていた。同じ匂いはない。生成される現実に呼応して新しい文字の組み合わせが発生する。アトリエに戻ろう。
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 わたしはここで、広島の中心部に建つ巨大な公営住宅、横川という街に形成された魅力的な高架下商店街、シンガポールのベイサイドに屹立するリトル・タイランド、ソウルの中心部を一キロメートルにわたって貫く線状の建築物などについて書いてきた。既に世に出たものもあるし、今から出るものもあるし、たぶん永遠にMacの中に封じ込められると思われるものもある。いずれにせよ、考えてきたことのコアはひとつで、なぜ人は集まって生きるのか、ということだった。  人間の高密度な集合体、つまり都市は、なぜ人類にとって必要なのか?  そしてこの先、都市と人類はいかなる進化を遂げるのか?  あるいは都市は既に死んだ?  人類はかつて都市だった廃墟の上をさまよい続ける?  このアトリエはそういうことを考えるのに最適だった。この一街区そのものが新しい都市をつくるように設計されていたからだ。  実際、ここに来てから、思考のプロセスが根本的に変わった。ここに来るまでの朝の日課といえば、とにかく怒りの炎を燃やすことだった。閉じられた小さなワンルームの中で、自分が外側から遮断され、都市の中にいるにもかかわらず隔離状態にあることに怒り、その怒りを炎上させることで思考を開いた。穴蔵から出ようともがくように。息苦しくて、ひとりで部屋の中で暴れたし、壁や床に穴を開けようと試みることもあった。客観的に見るとかなりやばい奴だったに違いない。けれども、こうした循環は一生続くのだと、当時のわたしは信じて疑わなかった。都市はそもそも息苦しい場所なのだと、そう信じていたのだ。だが、ここに来てからは息苦しさを感じることはなくなった。怒りの���を燃やす朝の日課は、カーテンを開け、その向こうを観察するあの循環へと置き換えられた。では、怒りは消滅したのか?
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 白く光沢のあるアトリエの床タイルに青空が輝いている。ここにはこの街の上半分がリアルタイムで描き出される。床の隅にはプロジェクトごとに振り分けられた資料の箱が積まれていて、剥き出しの灰色の柱に沿って山積みの本と額に入ったいくつかの写真や絵が並んでいる。デスクは東向きの掃き出し窓の傍に置かれていて、ここからテラスの半分と共用廊下、それに斜向かいの部屋の玄関が見える。このアトリエは空中につくられた庭と道に面しているのだった。斜向かいの玄関ドアには透明のガラスが使用されていて、中の様子が透けて見える。靴を履く住人の姿がガラス越しに浮かんでいる。視線をアトリエ内に戻そう。このアトリエは専用の玄関を有していた。玄関ドアは斜向かいの部屋のそれと異なり、全面が白く塗装された鉄扉だった。玄関の脇にある木製のドアを開けると、そこは既に徒歩三秒の自宅だ。まずキッチンがあって、奥にリビング・ダイニングがあり、その先に自宅用の玄関ドアがあった。だから、このアトリエは自宅と繋がってもいるが、独立してもいた。  午後になると仕事仲間や友人がこのアトリエを訪ねてくることがある。アトリエの玄関から入ってもらってもいいし、共用廊下からテラス経由でアトリエに招き入れてもよい。いずれにせよ、共用廊下からすぐに仕事場に入ることができるので効率的だ。打ち合わせをする場合にはテーブルと椅子をセッティングする。ここでの打ち合わせはいつも妙に捗った。自宅と都市の両方に隣接し、同時に独立してもいるこのアトリエの雰囲気は、最小のものと最大のものとを同時に掴み取るための刺激に満ちている。いくつかの重要なアイデアがここで産み落とされた。議論が白熱し、日が暮れると、徒歩三秒の自宅で妻が用意してくれた料理を囲んだり、東雲の鉄鋼団地に出かけて闇の中にぼうっと浮かぶ屋台で打ち上げを敢行したりした。  こうしてあの循環は完成したかに見えた。わたしはこうして都市への怒りを反転させ都市とともに歩み始めた、と結論づけられそうだった。お前はついに穴蔵から出たのだ、と。本当にそうだろうか?  都市の穴蔵とはそんなに浅いものだったのか?
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 いやぁ、  未来都市ですね、
 ある編集者がこのアトリエでそう言ったことを思い出す。それは決して消えない残響のようにアトリエの中にこだまする。ある濃密な打ち合わせが一段落したあと、おそらくはほとんど無意識に発された言葉だった。  未来都市?  だってこんなの、見たことないですよ。  ああ、そうかもね、とわたしが返して、その会話は流れた。だが、わたしはどこか引っかかっていた。若く鋭い編集者が発した言葉だったから、余計に。未来都市?  ここは現在なのに?  ちょうどそのころ、続けて示唆的な出来事があった。地上に降り、一三号棟の脇の通路を歩いていたときのことだ。団地内の案内図を兼ねたスツールの上に、ピーテル・ブリューゲルの画集が広げられていたのだった。なぜブリューゲルとわかったかといえば、開かれていたページが「バベルの塔」だったからだ。ウィーンの美術史美術館所蔵のものではなく、ロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館所蔵の作品で、天に昇る茶褐色の塔がアクリル製のスツールの上で異様なオーラを放っていた。その画集はしばらくそこにあって、ある日ふいになくなったかと思うと、数日後にまた同じように置かれていた。まるで「もっとよく見ろ」と言わんばかりに。
 おい、お前。このあいだは軽くスルーしただろう。もっとよく見ろ。
 わたしは近寄ってその絵を見た。新しい地面を積み重ねるようにして伸びていく塔。その上には無数の人々の蠢きがあった。塔の建設に従事する労働者たちだった。既に雲の高さに届いた塔はさらに先へと工事が進んでいて、先端部分は焼きたての新しい煉瓦で真っ赤に染まっている。未来都市だな、これは、と思う。それは天地が創造され、原初の人類が文明を築きつつある時代のことだった。その地では人々はひとつの民で、同じ言葉を話していた。だが、人々が天に届くほどの塔をつくろうとしていたそのとき、神は全地の言葉を乱し、人を全地に散らされたのだった。ただし、塔は破壊されたわけではなかった。少なくとも『創世記』にはそのような記述はない。だから、バベルの塔は今なお未来都市であり続けている。決して完成することがないから未来都市なのだ。世界は変わったが、バベルは永遠の未来都市として存在し続ける。
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 ようやく気づいたか。  ああ。  それで?  おれは永遠の未来都市をさまよう亡霊だと?  どうかな、  本当は都市なんか存在しないのか?  どうかな、  すべては幻想だった?  そうだな、  どっちなんだ。  まあ結論を急ぐなよ。  おれはさっさと結論を出して原稿を書かな���ゃならないんだよ。  知ってる、だから急ぐなと言ったんだ。  あんたは誰なんだ。  まあ息抜きに歩いてこいよ。  息抜き?  いつもやっているだろう。あの循環だよ。  ああ、わかった……。いや、ちょっと待ってくれ。先に腹ごしらえだ。
 もう昼を過ぎて久しいんだな、と鉄格子越しの風景を一瞥して気づく。陽光は人工地盤上の芝生と一本木を通過して一三号棟の廊下を照らし始めていた。タワーマンションをかすめて赤色のヘリコプターが東へと飛んでいき、青空に白線を引きながら飛行機が西へと進む。もちろん、時間を忘れて書くのは悪いことではない。だが、無理をしすぎるとあとになって深刻な不調に見舞われることになる。だから徒歩三秒の自宅に移動しよう。  キッチンの明かりをつける。ここには陽光が入ってこない。窓側に風呂場とトイレがあるからだ。キッチンの背後に洗面所へと続くドアがある。それを開けると陽光が降り注ぐ。風呂場に入った光が透明なドアを通過して洗面所へと至るのだった。洗面台で手を洗い、鏡に目を向けると、風呂場と窓のサッシと鉄格子と団地とスカイツリーが万華鏡のように複雑な模様を見せる。手を拭いたら、キッチンに戻って冷蔵庫を開け、中を眺める。食材は豊富だった。そのうちの九五パーセントはここから徒歩五分のイオンで仕入れた。で、遅めの昼食はどうする?  豚バラとキャベツで回鍋肉にしてもいいが、飯を炊くのに時間がかかる。そうだな……、カルボナーラでいこう。鍋に湯を沸かして塩を入れ、パスタを茹でる。ベーコンと玉葱、にんにくを刻んでオリーブオイルで炒める。それをボウルに入れ、パルメザンチーズと生卵も加え、茹で上がったパスタを投入する。オリーブオイルとたっぷりの黒胡椒とともにすべてを混ぜ合わせれば、カルボナーラは完成する。もっとも手順の少ない料理のひとつだった。文字の世界に没頭しているときは簡単な料理のほうがいい。逆に、どうにも集中できない日は、複雑な料理に取り組んで思考回路を開くとよい。まあ、何をやっても駄目な日もあるのだが。  リビング・ダイニングの窓際に置かれたテーブルでカルボナーラを食べながら、散歩の計画を練る。籠もって原稿を書く日はできるだけ歩く時間を取るようにしていた。あまり動かないと頭も指先も鈍るからだ。走ってもいいのだが、そこそこ気合いを入れなければならないし、何よりも風景がよく見えない。だから、平均して一時間、長いときで二時間程度の散歩をするのが午後の日課になっていた。たとえば、辰巳運河沿いを南下しながら首都高の高架と森と物流倉庫群を眺めてもいいし、辰巳運河を越えて辰巳団地の中を通り、辰巳の森海浜公園まで行ってもよい。あるいは有明から東雲運河を越えて豊洲市場あたりに出てもいいし、そこからさらに晴海運河を越えて晴海第一公園まで足を伸ばし、日本住宅公団が手がけた最初の高層アパートの跡地に巡礼する手もある。だが、わたしにとってもっとも重要なのは、この東雲キャナルコートCODAN一街区をめぐるルートだった。つまり、空中に張りめぐらされた道を歩いて、東京湾岸のタブラ・ラサに立ち上がった新都市を内側から体感するのだ。  と、このように書くと、何か劇的な旅が想像されるかもしれない。アトリエや事務所、さらにはギャラリーのようなものが住棟内に点在していて、まさに都市を立体化したような人々の躍動が見られると思うかもしれない。生活と仕事が混在した活動が積み重なり、文化と言えるようなものすら発生しつつあるかもしれないと、期待を抱くかもしれない。少なくともわたしはそうだった。実際にここに来るまでは。さて、靴を履いてアトリエの玄関ドアを開けよう。
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 それは二つの世界をめぐる旅だ。一方にここに埋め込まれたはずの思想があり、他方には生成する現実があった。二つの世界は常に並行して存在する。だが、実際に見えているのは現実のほうだけだし、歴史は二つの世界の存在を許さない。とはいえ、わたしが最初に遭遇したのは見えない世界のほうだった。その世界では、実際に都市がひとつの建築として立ち上がっていた。ただ家が集積されただけでなく、その中に住みながら働いたり、ショールームやギャラリーを開設したりすることができて、さまざまな形で人と人とが接続されていた。全体の半数近くを占める透明な玄関ドアの向こうに談笑する人の姿が見え、共用廊下に向かって開かれたテラスで人々は語り合っていた。テラスに向かって設けられた大きな掃き出し窓には、子どもたちが遊ぶ姿や、趣味のコレクション、打ち合わせをする人と人、アトリエと作品群などが浮かんでいた。それはもはや集合住宅ではなかった。都市で発生する多様で複雑な活動をそのまま受け入れる文化保全地区だった。ゾーニングによって分断された都市の攪拌装置であり、過剰な接続の果てに衰退期を迎えた人類の新・進化論でもあった。  なあ、そうだろう?  応答はない。静かな空中の散歩道だけがある。わたしのアトリエに隣接するテラスとお隣さんのテラスを通り過ぎると、やや薄暗い内廊下のゾーンに入る。日が暮れるまでは照明が半分しか点灯しないので光がいくらか不足するのだった。透明な玄関ドアがあり、その傍の壁に廣村正彰によってデザインされたボーダー柄と部屋番号の表示がある。ボーダー柄は階ごとに色が異なっていて、この一三階は緑だった。少し歩くと右側にエレベーターホールが現れる。外との境界線上にはめ込まれたパンチングメタルから風が吹き込んできて、ぴゅうぴゅうと騒ぐ。普段はここでエレベーターに乗り込むのだが、今日は通り過ぎよう。廊下の両側に玄関と緑色のボーダー柄が点々と続いている。左右に四つの透明な玄関ドアが連なったあと、二つの白く塗装された鉄扉がある。透明な玄関ドアの向こうは見えない。カーテンやブラインドや黒いフィルムによって塞がれているからだ。でも陰鬱な気分になる必要はない。間もなく左右に光が満ちてくる。  コモンテラスと名づけられた空洞のひとつに出た。二階分の大穴が南側と北側に空いていて、共用廊下とテラスとを仕切るフェンスはなく、住民に開放されていた。コモンテラスは住棟内にいくつか存在するが、ここはその中でも最大だ。一四階の高さが通常の一・五倍ほどあるので、一三階と合わせて計二・五階分の空洞になっているのだ。それはさながら、天空の劇場だった。南側には巨大な長方形によって縁取られた東京湾の風景がある。左右と真ん中に計三棟のタワーマンションが陣取り、そのあいだで辰巳運河の水が東京湾に注ぎ、東京ゲートブリッジの橋脚と出会って、「海の森」と名づけられた人工島の縁でしぶきを上げる様が見える。天気のいい日には対岸に広がる千葉の工業地帯とその先の山々まで望むことができた。海から来た風がこのコモンテラスを通過し、東京の内側へと抜けていく。北側にその風景が広がる。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。タワーマンションの陰に隠れて東京スカイツリーは確認できないが、豊洲のビル群が団地の上から頭を覗かせている。眼下にはこの団地を南北に貫くS字アベニューが伸び、一街区と二街区の人工地盤を繋ぐブリッジが横切っていて、長谷川浩己率いるオンサイト計画設計事務所によるランドスケープ・デザインの骨格が見て取れる。  さあ、公演が始まる。コモンテラスの中心に灰色の巨大な柱が伸びている。一三階の共用廊下の上に一四階の共用廊下が浮かんでいる。ガラス製のパネルには「CODAN  Shinonome」の文字が刻まれている。この空間の両側に、六つの部屋が立体的に配置されている。半分は一三階に属し、残りの半分は一四階に属しているのだった。したがって、壁にあしらわれたボーダー柄は緑から青へと遷移する。その色は、掃き出し窓の向こうに設えられた目隠しと防犯を兼ねた引き戸にも連続している。そう、六つの部屋はこのコモンテラスに向かって大きく開くことができた。少なくとも設計上は。引き戸を全開にすれば、六つの部屋の中身がすべて露わになる。それらの部屋の住人たちは観客なのではない。この劇場��物語を紡ぎ出す主役たちなのだった。両サイドに見える美しい風景もここではただの背景にすぎない。近田玲子によって計画された照明がこの空間そのものを照らすように上向きに取り付けられている。ただし、今はまだ点灯していない。わたしはたったひとりで幕が上がるのを待っている。だが、動きはない。戸は厳重に閉じられるか、採光のために数センチだけ開いているかだ。ひとつだけ開かれている戸があるが、レースカーテンで視界が完全に遮られ、窓際にはいくつかの段ボールと紙袋が無造作に積まれていた。風がこのコモンテラスを素通りしていく。
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 ほら、  幕は上がらないだろう、  お前はわかっていたはずだ、ここでは人と出会うことがないと。横浜のことを思い出してみろ。お前はかつて横浜の湾岸に住んでいた。住宅と事務所と店舗が街の中に混在し、近所の雑居ビルやカフェスペースで毎日のように文化的なイベントが催されていて、お前はよくそういうところにふらっと行っていた。で、いくつかの重要な出会いを経験した。つけ加えるなら、そのあたりは山本理顕設計工場の所在地でもあった。だから、東雲に移るとき、お前はそういうものが垂直に立ち上がる様を思い描いていただろう。だが、どうだ?  あのアトリエと自宅は東京の空中にぽつんと浮かんでいるのではないか?  それも悪くない、とお前は言うかもしれない。物書きには都市の孤独な拠点が必要だったのだ、と。多くの人に会って濃密な取材をこなしたあと、ふと自分自身に戻ることができるアトリエを欲していたのだ、と。所詮自分は穴蔵の住人だし、たまに訪ねてくる仕事仲間や友人もいなくはない、と。実際、お前はここではマイノリティだった。ここの住民の大半は幼い子どもを連れた核家族だったし、大人たちのほとんどはこの住棟の外に職場があった。もちろん、二階のウッドデッキ沿いを中心にいくつかの仕事場は存在した。不動産屋、建築家や写真家のアトリエ、ネットショップのオフィス、アメリカのコンサルティング会社の連絡事務所、いくつかの謎の会社、秘かに行われている英会話教室や料理教室、かつては違法民泊らしきものもあった。だが、それもかすかな蠢きにすぎなかった。ほとんどの住民の仕事はどこか別の場所で行われていて、この一街区には活動が積み重ねられず、したがって文化は育たなかったのだ。周囲の住人は頻繁に入れ替わって、コミュニケーションも生まれなかった。お前のアトリエと自宅のまわりにある五軒のうち四軒の住人が、この四年間で入れ替わったのだった。隣人が去ったことにしばらく気づかないことすらあった。何週間か経って新しい住人が入り、透明な���関ドアが黒い布で塞がれ、テラスに向いた戸が閉じられていくのを、お前は満足して見ていたか?  胸を抉られるような気持ちだったはずだ。  そうした状況にもかかわらず、お前はこの一街区を愛した。家というものにこれほどの帰属意識を持ったことはこれまでになかったはずだ。遠くの街から戻り、暗闇に浮かぶ格子状の光を見たとき、心底ほっとしたし、帰ってきたんだな、と感じただろう。なぜお前はこの一街区を愛したのか?  もちろん、第一には妻との生活が充実したものだったことが挙げられる。そもそも、ここに住むことを提案したのは妻のほうだった。四年前の春だ。「家で仕事をするんだったらここがいいんじゃない?」とお前の妻はあの奇妙な間取りが載った図面を示した。だから、お前が恵まれた環境にいたことは指摘されなければならない。だが、第二に挙げるべきはお前の本性だ。つまり、お前は現実のみに生きているのではない。お前の頭の中には常に想像の世界がある。そのレイヤーを現実に重ねることでようやく生きている。だから、お前はあのアトリエから見える現実に落胆しながら、この都市のような構造体の可能性を想像し続けた。簡単に言えば、この一街区はお前の想像力を搔き立てたのだ。  では、お前は想像の世界に満足したか?  そうではなかった。想像すればするほどに現実との溝は大きく深くなっていった。しばらく想像の世界にいたお前は、どこまでが現実だったのか見失いつつあるだろう。それはとても危険なことだ。だから確認しよう。お前が住む東雲キャナルコートCODAN一街区には四二〇戸の住宅があるが、それはかつて日本住宅公団であり、住宅・都市整備公団であり、都市基盤整備公団であって、今の独立行政法人都市再生機構、つまりURが供給してきた一五〇万戸以上の住宅の中でも特異なものだった。お前が言うようにそれは都市を構築することが目指された。ところが、そこには公団の亡霊としか言い表しようのない矛盾が内包されていた。たとえば、当時の都市基盤整備公団は四二〇戸のうちの三七八戸を一般の住宅にしようとした。だが、設計者の山本理顕は表面上はそれに応じながら、実際には大半の住戸にアトリエや事務所やギャラリーを実装できる仕掛けを忍ばせたのだ。玄関や壁は透明で、仕事場にできる開放的なスペースが用意された。間取りはありとあらゆる活動を受け入れるべく多種多様で、メゾネットやアネックスつきの部屋も存在した。で、実際にそれは東雲の地に建った。それは現実のものとなったのだった。だが、実はここで世界が分岐した。公団およびのちのURは、例の三七八戸を結局、一般の住宅として貸し出した。したがって大半の住戸では、アトリエはまだしも、事務所やギャラリーは現実的に不可だった。ほかに「在宅ワーク型住宅」と呼ばれる部屋が三二戸あるが、不特定多数が出入りしたり、従業員を雇って行ったりする業務は不可とされたし、そもそも、家で仕事をしない人が普通に借りることもできた。残るは「SOHO住宅」だ。これは確かに事務所やギャラリーとして使うことができる部屋だが、ウッドデッキ沿いの一〇戸にすぎなかった。  結果、この一街区は集合住宅へと回帰した。これがお前の立っている現実だ。都市として運営されていないのだから、都市にならないのは当然の帰結だ。もちろん、ゲリラ的に別の使い方をすることは可能だろう。ここにはそういう人間たちも確かにいる。お前も含めて。だが、お前はもうすぐここから去るのだろう?  こうしてまたひとり、都市を望む者が消えていく。二つの世界はさらに乖離する。まあ、ここではよくあることだ。ブリューゲルの「バベルの塔」、あの絵の中にお前の姿を認めることはできなくなる。  とはいえ、心配は無用だ。誰もそのことに気づかないから。おれだけがそれを知っている。おれは別の場所からそれを見ている。ここでは、永遠の未来都市は循環を脱して都市へと移行した。いずれにせよ、お前が立つ現実とは別世界の話だがな。
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 実際、人には出会わなかった。一四階から二階へ、階段を使ってすべてのフロアを歩いたが、誰とも顔を合わせることはなかった。その間、ずっとあの声が頭の中に響いていた。うるさいな、せっかくひとりで静かに散歩しているのに、と文句を言おうかとも考えたが、やめた。あの声の正体はわからない。どのようにして聞こえているのかもはっきりしない。ただ、ふと何かを諦めようとしたとき、周波数が突然合うような感じで、周囲の雑音が消え、かわりにあの声が聞こえてくる。こちらが応答すれば会話ができるが、黙っていると勝手に喋って、勝手に切り上げてしまう。あまり考えたくなかったことを矢継ぎ早に投げかけてくるので、面倒なときもあるが、重要なヒントをくれもするのだ。  あの声が聞こえていることを除くと、いつもの散歩道だった。まず一三階のコモンテラスの脇にある階段で一四階に上り、一一号棟の共用廊下を東から西へ一直線に歩き、右折して一〇メートルほどの渡り廊下を辿り、一二号棟に到達する。南から北へ一二号棟を踏破すると、エレベーターホールの脇にある階段で一三階に下り、あらためて一三階の共用廊下を歩く。以下同様に、二階まで辿っていく。その間、各階の壁にあしらわれたボーダー柄は青、緑、黄緑、黄、橙、赤、紫、青、緑、黄緑、黄、橙、赤と遷移する。二階に到達したら、人工地盤上のウッドデッキをめぐりながら島のように浮かぶ一三号棟へと移動する。その際、人工地盤に空いた長方形の穴から、地上レベルの駐車場や学童クラブ、子ども写真館の様子が目に入る。一三号棟は一〇階建てで共用廊下も短いので踏破するのにそれほど時間はかからない。二階には集会所があり、住宅は三階から始まる。橙、黄、黄緑、緑、青、紫、赤、橙。  この旅では風景がさまざまに変化する。フロアごとにあしらわれた色については既に述べた。ほかにも、二〇〇もの透明な玄関ドアが住人の個性を露わにする。たとえば、入ってすぐのところに大きなテーブルが置かれた部屋。子どもがつくったと思しき切り絵と人気ユーチューバーのステッカーが浮かぶ部屋。玄関に置かれた飾り棚に仏像や陶器が並べられた部屋。家の一部が透けて見える。とはいえ、透明な玄関ドアの四割近くは完全に閉じられている。ただし、そのやり方にも個性は現れる。たとえば、白い紙で雑に塞がれた玄関ドア。一面が英字新聞で覆われた玄関ドア。鏡面シートが一分の隙もなく貼りつけられた玄関ドア。そうした玄関ドアが共用廊下の両側に現れては消えていく。ときどき、外に向かって開かれた空洞に出会う。この一街区には東西南北に合わせて三六の空洞がある。そのうち、隣接する住戸が占有する空洞はプライベートテラスと呼ばれる。わたしのアトリエに面したテラスがそれだ。部屋からテラスに向かって戸を開くことができるが、ほとんどの戸は閉じられたうえ、テラスは物置になっている。たとえば、山のような箱。不要になった椅子やテーブル。何かを覆う青いビニールシート。その先に広がるこの団地の風景はどこか殺伐としている。一方、共用廊下の両側に広がる空洞、つまりコモンテラスには物が置かれることはないが、テラスに面したほとんどの戸はやはり、閉じられている。ただし、閉じられたボーダー柄の戸とガラスとの間に、その部屋の個性を示すものが置かれることがある。たとえば、黄緑色のボーダー柄を背景としたいくつかの油絵。黄色のボーダー柄の海を漂う古代の船の模型。橙色のボーダー柄と調和する黄色いサーフボードと高波を警告する看板のレプリカ。何かが始まりそうな予感はある。今にも幕が上がりそうな。だが、コモンテラスはいつも無言だった。ある柱の側面にこう書かれている。「コモンテラスで騒ぐこと禁止」と。なるほど、無言でいなければならないわけか。都市として運営されていない、とあの声は言った。  長いあいだ、わたしはこの一街区をさまよっていた。街区の外には出なかった。そろそろアトリエに戻らないとな、と思いながら歩き続けた。その距離と時間は日課の域をとうに超えていて、あの循環を逸脱しつつあった。アトリエに戻ったら、わたしはこのことについて書くだろう。今や、すべての風景は書き留められる。見過ごされてきたものの言語化が行われる。そうしたものが、気の遠くなるほど長いあいだ、連綿と積み重ねられなければ、文化は発生しない。ほら、見えるだろう?  一一号棟と一二号棟とを繋ぐ渡り廊下の上から、東京都心の風景が確認できる。東雲運河の向こうに豊洲市場とレインボーブリッジがあり、遥か遠くに真っ赤に染まった富士山があって、そのあいだの土地に超高層ビルがびっしりと生えている。都市は、瀕死だった。炎は上がっていないが、息も絶え絶えだった。密集すればするほど人々は分断されるのだ。
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 まあいい。そろそろ帰ろう。陽光は地平線の彼方へと姿を消し、かわりに闇が、濃紺から黒へと変化を遂げながらこの街に降りた。もうじき妻が都心の職場から戻るだろう。今日は有楽町のもつ鍋屋で持ち帰りのセットを買ってきてくれるはずだ。有楽町線の有楽町駅から辰巳駅まで地下鉄で移動し、辰巳桜橋を渡ってここまでたどり着く。それまでに締めに投入する飯を炊いておきたい。  わたしは一二号棟一二階のコモンテラスにいる。ここから右斜め先に一一号棟の北側の面が見える。コンクリートで縁取られた四角形が規則正しく並び、ところどころに色とりどりの空洞が光を放っている。緑と青に光る空洞がわたしのアトリエの左隣にあり、黄と黄緑に光る空洞がわたしの自宅のリビング・ダイニングおよびベッドルームの真下にある。家々の窓がひとつ、ひとつと、琥珀色に輝き始めた。そのときだ。わたしのアトリエの明かりが点灯した。妻ではなかった。まだ妻が戻る時間ではないし、そもそも妻は自宅用の玄関ドアから戻る。闇の中に、机とそこに座る人の姿が浮かんでいる。鉄格子とガラス越しだからはっきりしないが、たぶん……男だ。男は机に向かって何かを書いているらしい。テラスから身を乗り出してそれを見る。それは、わたしだった。いつものアトリエで文章を書くわたしだ。だが、何かが違っている。男の手元にはMacがなかった。机の上にあるのは原稿用紙だった。男はそこに万年筆で文字を書き入れ、原稿の束が次々と積み上げられていく。それでわたしは悟った。
 あんたは、もうひとつの世界にいるんだな。  どうかな、  で、さまざまに見逃されてきたものを書き連ねてきたんだろう?  そうだな。
 もうひとりのわたしは立ち上がって、掃き出し窓の近くに寄り、コモンテラスの縁にいるこのわたしに向かって右手を振ってみせた。こっちへ来いよ、と言っているのか、もう行けよ、と言っているのか、どちらとも取れるような、妙に間の抜けた仕草で。
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nagako · 5 years ago
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2020.04.05 四月馬鹿
日頃、ルールは破るためにあるものとして扱いがちな私だが、それは超個人主義者だからこその自己責任を伴う自分事の言動においての話。自分以外の他者も含む集団がある問題を解決するために決定した措置については、その是非や賛否にまつわる個々に異なる主張を堪え、集団の目的のために定められたルールを守る必要が生じる時もある。
無論、個々の解釈による意見交換は健全に為されるべきであり、ルールの制定者はその制定方法の正当性について、集団のひとりひとりにオープンに明示する必要がある。とはいえ、ひとりひとりは立場も解釈も理解力も異なる。ひとりひとりが納得するルールなど作りようがないし、急を要する場合、ひとりひとりを口説く時間もない。
だからこそ制定された火急のルールには、集団の目的の明確化が必要となる。また、ひとりひとりは集団全体の目的を、個々の解釈と都合とは切り離して(あるいはパラレルワールドのように個と並行分離させて)認識する必要があると考える。
何の話かといえば、もちろん新型コロナウィルスの件。東京都による不要不急の外出自粛要請は、感染被害拡大を防ぐというこれ以上ないほど明確な目的がある。世界の主要都市の被害や厳重警戒報道を鑑みて、当方は政府による生活補償と自粛の厳格化を望む者だが、それとこれとは別の話として、不要不急の外出自粛に応じない人々がいる事実に驚いている。
SNSでは、渋谷で遊ぶ若者とか、高尾山に集まる登山客とか、巣鴨の商店街の賑わいとか、ナイトクラブに通う中高年とか、旅行をすすめる衆議院議員等、コロナにめげずに楽しみを謳歌する人々の話題を見かける。その真偽や集いの人数の程度の問題はさておき、個の解釈とは別のベクトルにある集団の明確な目的を、個の解釈によって軽やかに台無しにするあっけらかんとした発想が、このご時世において存在することそのものの無頓着さに面食らう。
こんな状況だからこそ、気晴らしを求める気持ちはわかるし、責めるつもりもない。接客業の方々がお店を開ける事情や、その他仕事や家庭の都合で外出せざるを得ない方々の都合も理解する。私自身も3月いっぱいは、母の入院という超要火急の事情により派遣バイトに赴き、密閉、密集、密着のいわゆる三密にごりごりに該当する現場で労働していた。
マスク、手洗い、アルコール除菌などはもちろん行うものの、万が一にもコロナに感染してしまったらと想像すると不安を拭えない。というのも、コロナは心臓や肺や糖尿病の基礎疾患があると重症化すると聞いている。私はそれに該当する慢性閉塞性肺疾患なので、この職場環境にいるのは戦々恐々とする。
さらには、母は肺がんだ。私がコロナに感染したとして、さらに彼女に感染させてしまうわけにはいかない。命に関わる。それでも母は3月は入院中とあり、病院も原速的に面接禁止の策を打ち出していたので、私は母とは会わず、経済問題の解決に徹した。が、3月末には退院して自宅療養となった。そうなると、三密労働を続けるわけにはいかないので辞めた。私だけ別の住居を構えて鬼のように稼ぐというプランもあったが、4月以降の仕事は軒並みキャンセルとなった。
困窮の不安が募る一方で、何より母の体調が心配で、極力外出しないよう努めた。が、先日は自分の定期検診があり、薬を処方して貰う必要があり、久しぶりにバスや電車に乗ったところ、普通に混雑していて驚いた。浦島太郎感。
飲食店は空いていたが、なぜかマクドナルドが密着大行列。広い店舗ではないし、テイクアウトの客が多かったのだろうが、近隣にテイクアウト対応の店がたくさんあるというのに、マクドナルドだけ店外にも行列が出来ていて仰天した。こんなご時世でも並ばなければ気が済まないような美味しいメニューが発売されちゃったのかなとTwitterに投稿したものだが、友人とのやり取りを介し、庶民に親しまれている味、愛着のある味は、不安な今、安心できる味、安定剤なのかもしれないと思うに至る。
思えば、スーパーに買い出しに行くたびに、パスタやインスタントラーメンの棚がスカスカになっている状況に遭遇し、いやそんな勢いで買い占めなくてもいいじゃんとか、経済的な不安によりストックしておきたい心境だろうかとか、暇だからこそ時間をかけて安く作れる凝った料理作っちゃおうかなとかいろいろ考えるが、ともすれば、子供の頃から慣れ親しんだレトルト食品に安心感を見出すようなお守り感覚も作用しているのかもしれない。そう考えた私が咄嗟にカゴに入れたのが、サッポロ一番塩ラーメン1袋と焼酎白霧島紙パックとあたりめ。1人宴会する気満々で、全然サバイバルにむいていない。
しかし、母とコロナと労働における今春の私事情は、確実にサバイバルというにふさわしい難局である。なんとか自分らしく、同居している妹や行政とも連携して乗り越えたいものだが、当の母の気力・体力が感じられず、自分の先行きも含めてどうしたものかと考えあぐねるばかりの今日この頃だ。
一点、良かったと思うこともある。母の部屋のテレビが壊れたので、私のテレビを譲ったのだが、それ以来、非常に静かな毎日を過ごしている。今日日、ニュースや見たいテレビ番組はインターネットで確認できるので、不便はない。ラジオやインターネット動画ももちろん利用しているが、なぜかテレビがなくなってから、それらも目的をもって見る以外は、漫然と視聴することがなくなった。そして、そうか、これまではなんとなく漫然と視聴覚情報を感受していたのだなと気が付いた。
世界は静かで、聞こえてくるのは、母の咳と愛犬サスケの鳴き声。妹と甥っ子の笑い声。夕方の4時を知らせる市役所のチャイム。それだけ。ただひたすらに、世界は静かであるということ。それらの音をもってしても静かだと捉えるほど、感受する音の情報が過剰であったこと。反省ばかりの我が人生とは言え、こんなにも当たり前のことを感知できなくなっていた私は、とても鈍感で馬鹿だ。
静かな世界は、死生観を淡々と揺さぶる。都知事が不要不急の外出自粛を要請した翌日には、美しく花咲きほころぶ桜の木々に、静かに染み入るように雪が降り積もった。生命に、死の静止が浸透していったかのようだった。
お前の不安は、他者情報に振り回された結果としての混乱ではない。お前由来だ。自分の不安に焦点が当たらないように他者情報を求めたり、暇を潰したりするごまかしも、もう通用しない。その不安や憔悴は、お前自身の中にあるものだよ。つまりお前自身だ。受け入れるしかない。対峙するしかない。
静かな世界は、そう言う。私はますますナーバスになる一方で、静かな冷めた目で世界の終わりでも眺めているような諦観を抱く。静かで絶対的なものに捕われた時の、決して逃げられない淡々とした恐怖。それを有り体に、観念して受け入れることは、自分を許す慈愛となる。無論、私は馬鹿馬鹿しいほど足掻く。誰かが私を許してくれたとしても、解決にはならない。私が私を許す��めに、その馬鹿馬鹿しさを、静かに受け入れる。
テレビのあるなしひとつでそう思案するほど、ナーバスが際まったかといえば、実際のところそうでもない。静かに淡々と、解決という目的を見据えているからこそ、己の不安と向き合える者のメンタルは、強い。しぶとい。
情報を削ぎ落と��た世界で、今は己の芯を再認識し、磨き直すタイミングと心得る。誰かのために、社会のお役に立つために生きる人間なんか全員自己満足の正当化を他者や社会を利用してマスターベーションを行いたいだけの他力本願者であり、その心理は善意ではなく泥棒根性に依拠すると主張してやまなかった私が、私の自己満足のために、他者や社会への貢献を志す。
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写真は三月の賢いサスケ PHOTO BY 甥っ子
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yrkhang · 5 years ago
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「選ぶこと」について
すごい個人的な話をすると、というかここは個人的な話をする所なので別に断らなくてもいいのだけど、すごい個人的な話を勝手にするのもどうかと思うので一応断っておきたくて、ああそれで何だっけ、そう、個人的な話をすると、盆に実家に帰ってきており、滅茶苦茶疲労感がある…。
実家に帰ってくると普段自宅でしている仕事が単純に十倍くらいになってしまいがちなで、端的に言うと横になった瞬間地球の重力に魂を引かれ全身が石のようになり、大地と一体となってそのまま動けなくなる傾向がある。世の実家に帰る人たちはちゃんと実家に帰っているのでえらいなと思っている。というか、実家、やることが多すぎる。
何度か書いている気もする(そうか?)が、実家、最寄りのコンビニまで徒歩30分くらいあるド田舎なので原則として何もなく、概ね空を眺めて暮らすこととなる。空、意外と眺めていて飽きることがなく、あ、僕の地元は僕の知っている映画監督の出身地に近いのだけど、氏が「この景色に救われてきた」みたいなことを言う気持ちもちょっとだけ分かる気がする。
泥になるほど疲れているので話をする。
先日『天気の子』を観てきた。
で、すごいのすごくないのうんたらみたいなことは僕にはよく分からないので、自分なりに感じたり思ったりしたことについての話を残しておきたい。
どうでもいい話をする。
っていうか、田舎、マジでやることが多過ぎる。あと変に標高が高いせいでやたらと涼しく完全に関東で溜めまくった夏の疲労も一気に噴き出してしまうので歩いていても目の焦点が定まっておらず、控えめに言っても良くないと思う。世の実家に帰る人たちはちゃんと実家に帰っているのでえらい。神では?
今日の僕がんばった日記などを書いてみる。
本日は朝起きて犬の散歩をしたあと収穫した野菜の梱包と出荷を手伝い、家じゅうの掃除をし、昼飯にありったけの野菜を雑に放り込んだパスタを仕上げた後片づけをし、とうもろこしを湯がき、提灯などを発掘し、網戸の張替えをし、猫とゴロゴロしてから犬の散歩をし、この後晩飯を作る訳だけど何作ろうかな、脳がまったく動いていないので適当な晩飯が練成される予感がある。→雑に作った。実家の野菜が大体そのまま食べてうまいので雑に作っても大体うまいのだけは助かる。疲れた!
書き出してみて思ったけどえらいのは僕では?
大体いつもこんなかんじなので実家に帰ると全身が絶滅してしまう。世の実家に帰る人たちはちゃんと実家に帰っているので本当にえらい。僕もえらい。心にコウペンちゃんを飼ってゆきたい。
実家の猫が可愛くて毎度ヘッヘッヘという顔になる。うちの猫はチビのまんま大きくなって十ン年とかなので言動(言動?)なんかは子供の割に飯の量はご老人だったりして何だか変な感じがする。「おーしおしおーし」とムツゴロウさんごっこをやるとひとしきりゴロゴロした後フシャーとなり両腕がすごいことになる。何だお前。
実家には犬もおり、こちらは流石にもう歳という感じで碌に足が上がらなくなってきた。猫と同い年の筈なんだけどなあ。散歩しててもすぐ足がもつれるのでもうあまり遠くへは行けなくて、いつもあと何回こいつを散歩させてやれるだろうかみたいなことを考える。が一方、こいつはひとがうまそうなモンを食っているとものすごい勢いで駆け寄ってくる傾向があり、こういうときのコヤツの脚力は計り知れない。大人が引っ張ってもはがれないし、そもそもお前、さっきまでとは顔つき自体全然違うやんけ。老人感を取り戻せ。老人であれ。
動物、本当に気まますぎる。
どうでもいい話おわり。
https://www.youtube.com/watch?v=DdJXOvtNsCY
とりあえず貼っておく。
個人的に映画を観るときは概ね事前情報を仕入れる事が無くて、予告だけ見てから上映に臨むことが多い。
本作を観て一番強く感じたのは「ずるいなあ」という感想だった。
取り留めもなく印象的だったことを書いていく。
一番最初の方で、船がレインボーブリッジを越えて竹芝に向かうあたりで東京タワーがぱっと見えて「うわー東京だ!」みたいになる辺りの感じが良かった。これは完全に個人的な理由に基づくもので、さるびあ丸といえば夏の納涼船でよくお世話になっているのであの景色そのものに親近感があったことがひとつと、東京タワーがぱっと見えて「ああ東京だ」みたいになる、という話に強い記憶があったからだということによる。このシーンを観て欲しくて友達に本作をお薦めしたのだけど、逆に悪いことをしてしまったかなと反省していたりもする。本作ではここ以外にも個人的にとても馴染みのある景色が沢山出てきて(気象神社が出てきたのはちょっとびっくりした。よく見つけたなあ)、その辺りは単純に嬉しかったりしていたように思う。
雨の感じが良い。作画的にすごいというのは勿論、それがストーリーの前面ではないところで心理的に繋がっていたのが良かった。あと無関係なのも良かった。
「人」がかなり細かく描写されていたのが良かった。こういう描かれ方はこれより前の氏の作品にはあまり見られなかったように思う。
主人公の帆高についてはあまりうまく捉えられていないように思う。これは僕自身が既に大人であることもあるのかなと思っていて、ただ、彼に限らず、本作では大人と子供とでキャラクターとしての描かれ方がかなり違うなというふうには感じた。もしかしたら観る人にとって近しい立場の人に感情移入しやすいようなキャラクター付けがされているのかもしれないけれど、このあたりは今もちょっとよく分かっていない。
映像、特に背景を中心とした「そこに在る景色」の美しさは相変わらずすさまじい。ただ、今回はその中で東京という都市を遠くから俯瞰するカットが何度も差し込まれていたのはかなり印象深い。氏の映像作品ではあまり見ない視点のように思う。
料理のシーンがすべからく良かった。これはもう両手放しで素晴らしいと断言したい。陽菜のアパートのシーンが筆頭に上がることと思うけどここでは序盤の帆高の事務所での料理風景を特に挙げたい。っていうか帆高お前、家で手伝いとかしてこなかっただろ。あのなあ、��丁を!入れる時は!素材を押さえるのは!猫の手!猫の手なんだよァ!!おまけに親に向かって何だその玉ねぎは!料理ナメとんのかオオン!?ちゃんとやれちゃんと!包丁は!マジで危ないから!!と初見でマジ切れしながら観ていたこのシーンだったのだけど、これはそのまま帆高という子がこれまでどんな生活をしてきたかということがそのまま表れているシーンでありキレつつも微笑ましい。そして帆高のこのナめプがあることによりその後の陽菜のお、おめえすげーな…というママみが一層際立つのである。陽菜については色んな捉え方があるとは思うけど、ことこのアパートの料理シーンにおいての彼女は完全にママであり特にネギや豆苗をハサミで切っているのが特に良く、観る度に「いいぞっ!いけっ!そこだっ!!」などと心でエールを送ってしまう。エールの方向性が完全に間違っているが、とにかくこのシーンは本当にとても良い。100,000点。
また事務所といえばやっぱり外せないのが夏美さんで、後ろと会話しながら鶏肉を袋で揉んでいるのがたまらない。こっ、これは…!から揚げ!!とあがりを見なくても分かるのがいい。カットが帆高のシーンと同じなのかな?少なくとも似ているのでその分帆高のポンコツ具合が際立っておりとても良い。夏美さん、事務所のシーンだけ見ていると雑大人のひとりにも見えるけれど、こういった細かい日常の姿を見ていると実はこの人が「ちゃんとした人」であることが分かる。自分の将来のことも自分の周りの人々のこともちゃんと見ている彼女は、本作の中では数少ないまともな人だ。観る人によっては彼女に感情移入したりするのかも知れない。全然関係ないけど、個人的には彼女のから揚げを観ていると何故か強烈にとあるみそ汁の写真が思い出され、「飲みてえ��」となってしまう。勿論飲める機会は今後も見込めない。
料理の話になると暑苦しくなってしまうのだった。閑話休題。
ばーっと観ていって真っ先に感じたのは、「あ、これは<居場所>の話なんだな」ということで、それはつまり仕事の話なんだなでもあった。本作に触れた話の中でこれを「労働搾取の話」と捉えていた話を見かけたのだけど、僕がここで思ったのはその話とはちょっと違っていて、そういう構造の話とは離れた所で、仕事という「やるべきこと」を得た人が、そこに自身の居場所を見出してゆく過程が丁寧に描かれているなというすごく単純なことだった。
仕事の話というと概ね陽菜の話が挙がるようなのだけど、僕がそのことを意識したのはそれより前の帆高が須賀に雇われるあたりで、何でかというとこれを「彼の物語」として捉えたときに、それまでどこにも居場所が無かった帆高が「役割を与えられること」によって居場所を見つけた、というシーンにに読めたからだ。まあ明らかに第一級の労務ブラックぶりではありその生活も滅茶苦茶ではある(その上後で明らかになる給料もひどいし本当にひどい)のだけど、そんな滅茶苦茶な生活をしている彼の横顔は常にどこか楽しげで、それまでの彼とは全く違って見えた。それは、難しい労働の話とか、法律の話とか、大人の話を抜きにして見ても、「仕事をする」ということが媒介としての金銭に基づくものになるよりもはるか昔から持っていた、ある種の役割の話でもあるのだと思った。
勿論、これは陽菜についても同様だ。物語の流れで言えば後になって分かることだけれど、この街に居場所が無かったのは彼女も同様だった。僕がそれを知ったときに思った事は、彼女が彼に手を差し伸べたのは、そんな<似たもの>への想いだったのかも知れない、ということだった。
本作は「猫」の話である、と思った。
ひとつめにそう思ったのは帆高が猫と出会うシーンだ。氏の作品群をご存知の方には今更触れるまでも無いことだと思うけれど、氏の最も古い映像作品の中に『彼女と彼女の猫』という物語がある。それは東京を舞台にしたある女性と猫の話を描いた短編で、猫の主観に基づいた物語である。先のシーンを観て真っ先に僕が思い出したのが本作のことで、劇場でゲラゲラ笑ってしまった。(勿論ゲラゲラ笑ってはいない)
何も知らずやってきた都会のど真ん中でずぶ濡れになる彼は、なんだか僕の目には彼自身が一匹の野良猫のようにも見えた。
ふたつめにそう思ったのはどのシーンだったか、何だかんだと帆高を放り出せない須賀を観ていた時だ。「こいつ、野良猫拾ってきたような気持ちなんじゃねーの」と思っていたら後々そのまんまの台詞を夏美に吹っ掛けられていて爆笑した。(勿論爆笑はしていない)
そしてみっつめが、陽菜を観ていて思った事だった。物語序盤の彼女は帆高からしてみればお姉さん然としていて、観客の目からもとても頼もしく映る。けれど、玉ねぎの薄皮を剥くみたいに、そう見える彼女が実はそうではなかったことが明らかになってゆく。最終的に、本作終盤の大きな山場の中で、彼と彼女のお互いに向けられた想いが全くの対称を描いていることが観客に対して示される。ずぶ濡れた野良猫に手を差し伸べていたように見えた彼女もまた、この巨大な街の中で居場所を失くした一匹の野良猫に過ぎなかったのかも知れないと思った。この構造は須賀に対しても全く同じことが言える。これは、そういう「猫の話」なのだと、一面においては言う事が出来ると思うし、この彼らのどこかに見える、あるいは物語の進展に伴って見えてくる「居場所の無さ」が、先に挙げた「仕事」の話にも繋がっていると思う。
仕事の話に戻りたい。
「仕事」という観点で面白かったのは、その「仕事」を介することで彼ら、彼女らがその周囲の人々と、「社会」と、関わりをもっていったことだった。スマホやタブレットに表示される何気ない誰かのメッセージ。意味が無かったそれが、その向こうへと関わりを持とうとした段階から、彼らにとって違う意味合いを帯びてくる。「自分達にできることがある」という事実が、何でもない誰かの声と彼女たち自身を繋いでゆく。顔の見えなかった人たちの顔が見えるようになってゆくように、「人」を介して彼らの世界が広がってゆく。
仕事というのは当然ながら、社会に対して何らかの価値を提供する行為だ。どんな仕事であれ、その行いは誰かに何かの価値を提供することで仕事として成立するのだし、つまり同時に、その先には必ず誰か、人が居る。その存在については物語の中では陽菜が端的に言っていたように、仕事をしてみなければそこに人が居る事に気づけないという種類のものなのだと思う。そして、そこに「自らを必要とする誰かが居る」という事実そのものが、その人にとってその仕事をしてゆく理由そのものでもある。もっと言えば、そうなってゆくものなのだと思う。そしてその事実が、仕事という行為を通して、そこにその人が居られる場所にもなってゆくのだと思う。人の「居場所」には常に、それを認める人々の存在がある。本作の中には、そのようにして得られた関係性の先に見える人々の姿もまた素朴に細やかに描かれている。そこに居るひとりひとりの表情の中に、彼が、彼女が、そうしてゆく理由がすごくよく見える。いいシーンだと思う。
この物語を全体として俯瞰した上で遡ってみれば、本作の中の人々は、誰であれ何処かに孤独を抱えていたようにも見えてくる。法律違反の異邦人である帆高は勿論のこと、須賀も、陽菜も、何処か居場所を失くしたような横顔を持っている。だからこそ、彼ら、彼女らは自らに何らかの役割を求めていた。そんな風にも見える。居場所が無いから、それを得られた時にはっとしたりほっとしたりする。
陽菜は結果から言えば自らの身体を削るようにしながらその仕事に打ち込んでいく訳だけれど、その過程の中には常に、「求められること」への素朴な喜びがあったように見える。言うまでもなく誰かのそういう想いを前提としてその人に犠牲を強いるような行為は社会的にも、また僕個人としても認めることは出来ない。けれどもその一方で、求められている誰かに、あるいは何かに、応えてゆくことが単純に自身の喜びになるということは、「仕事」という誰かとの関わりを得てゆく中で、その関係性という点においてすごく重要なことだとも思っている。本作の中にもずるい大人たちの姿というものは沢山描かれていて、ある意味では須賀もそういう人物であるし、個人的に一番「お前なー」と思ったのは花火大会の時のスタッフで、あいつ本作の中でも一番ずるい他人の利用の仕方をしてる奴だろうと思ってしまうのだけど、例え、そういう人々が居るのだとしても、そこで得た自身の喜びみたいなものもまた嘘ではないと思って��る。
目の前の素朴な喜びが描かれてゆく一方で、彼らの周囲に広がる都市社会という巨大で無機質なシステムの姿もここには在る。
すごく個人的な感想で言うと、東京という街は僕にとってとても過ごしやすい街で、それは概ねそこに暮らす人々の「無関心さ」に基づいているように感じている。人がすごく沢山いる街なのに、時としてそれを全く感じない瞬間がある。人がそこに在る景色の一部に見えるというのか、この街は人と人との干渉がとても薄くて、時にその存在を見失う。ド田舎で暮らしたことのある人は分かるかも知れないけれど、ド田舎は概ねこれとは真逆で、人と人との結びつきがとても強い。そしてそれには良い面もそうでない面もある。
ド田舎がそのようになっている理由というのは恐らく、人の少なさに起因しているのだと思う。人の数が少ないし入れ替わりもさほどある訳では無いという環境は、結果的としてそこに居るひとりひとりをよく見ることが出来るという事に繋がる。また同時に、人が少ないという事はそこに暮らす人々が互いに力を合わせないと当たり前の生活をしてゆく事が難しいという事でもある。つまりここにもやはり人と仕事との関係が在る。
東京という巨大な都市はこのあたりが真逆だ。ひとりでボケッと暮らしていても全然問題なく生活が成り立つくらい高密度な社会インフラが整っているし、人の数も膨大でかつ入れ替わりも激しい街だから、多くの人は周りの人について関心を持たない。そうすることに意味が無いし、逆にこの街でド田舎のような人の��方を続けたらあっという間に頭がパンクしてしまうだろうとも思う。そのような都市を眺めていると「私に迷惑を掛けない限りにおいては他人がどう在っても良い」という、徹底的に人が分断されているが故の無関心さと寛容さを目にすることが度々ある。逆に言えば、この無関心さというものは、あまりにも人が多いこの街で人がうまく暮らしてゆく上での知恵なのかも知れない。1000万人を抱えるこの都市が、その概ねの人々にとって問題なく日々が回るようにするためのひとつの仕組みなのかな、みたいなことも少しだけ考える。
勿論、これには良い面もそうでない面もある。そして本作の中にはその両方が描かれていると感じた。子どもを石ころみたいに扱う大人。質問サイトの無下な回答。システマチックな店員や警官の言葉。そこに在るのは「その向こうに人が居ること」を遮断している人々の姿だ。観ていて、彼らに悪気があるようには僕には感じられなかった。彼らはただ無関心なのであり、そうある必要性とそうある日常に慣れ切った人々なのだと思う。けれど同時に、そのような人々の間で居場所を失った子供の姿もここでは描かれている。
ただ、都市の中の様々な人々の営みが描かれてゆく中に何度も差し込まれていた、東京という都市を遠くから俯瞰するカットが個人的には強く印象に残っている。本作は自然の営みという人よりも遥かに巨大なシステムを描いた作品でもあり、その視点から言えば、どれほど巨大な人のシステムも自然の前には小さなものに過ぎない、と言われているようにも感じられた。
この作品の中には、そうした人の巨大なシステムの中で、そこから足を踏み外しかけながら何とかうまいことやりくりしようと悪戦苦闘している人も居た。個人的には最も共感した人物だ。
須賀を見ていると本当に「やらしい大人の見本」としか言いようがない。たまたま命を助けたくらいで(くらいでもないけど)大の大人が子供にたかってみたり、どうせ困って行き場をなくすんだろうみたいなことを見越したような面で名刺渡したりするし、出たくない電話の番はさせるし、原稿の内容にダメ出ししつつ褒めたりもしてうまいこと何も知らない新人をいいように使い倒すし(これが本当に一番いやらしい)、給料は3,000円だし、でも上手い事経費を手当みたいにしてますみたいな言い訳するし、本当にろくでもない大人筆頭と思っていい。なんだお前、半笑いしやがって。
けれど同時に、彼の中にも素朴な大事なものがあり、目の前の譲れないものがあり、その為に彼自身もまた様々なものに気づかないふりをして、下げたくない頭を下げたり、乗りたくない話に乗ったり、うまいこと目の前の現実を誤魔化し誤魔化し取り繕いながら下手くそに日々を生きているということも描かれている。それでも彼は半笑いのままで、その半笑いの下に僕は彼の色んな表情を見た気がした。
「もう大人になれよ、少年」、相変わらずズルい事ばっかり言いやがって、相手の為、且つ絶対に譲れない自分だけの理由の為じゃねえか。合理的に、うまいこと八方丸く収めようとしやがって。そのくせその事に落ち込んで、禁煙破って深酒かまして。何だお前、ベソかきやがって。
そういう、本当にろくでもない大人筆頭の彼に、僕はとても共感する。瞼に焼き付くみたいに残ったシーンがあって、警察署を抜け出した帆高に彼が追いつくシーンなのだけど、ここまで来ても今更みたいに目の前の現実を取り繕おうとし続ける彼と、どう考えたってそんなことある訳ない話を微塵も疑わずに進もうとする帆高との対比がものすごく印象的で。「あそこから彼岸に行ける!」と帆高が指差したその先を一瞬見つめた彼の表情が僕には忘れることが出来ない。瞬間、聴こえた気がした台詞まで憶えている。「そこまでして会いに行きたい奴なんざ、俺にだって居る!」あの時の彼は確かにそう言っていたと思う。その気持ちは、僕にも何だかよく分かる気がする。勿論そんな台詞はない。
彼を中心に、というか、そういう大人の目線で本作を観ていると、これは群像劇なのだなと感じる場面が多々あった。
本作の中で好きな人物のかなり上位に、序盤で帆高に足を引っかけるスカウトの男が僕の中には居たりする(とか言うと滅茶苦茶性格が悪い)。何故この人を好きなのかというと、この人を見ているとなんだかこの作品のことが自分なりに良く分かる気がしたからだ。
彼は本編の中に4回登場していて、そのそれぞれのシーンにおける彼は、その立場というか、描かれ方が違う。すごく単にヤな感じの大人代表である冒頭、銃を向けられて「どうせ偽物だろ」と高を括って間抜けなことになる2回目、警察に追い回されてとんちんかんな言い訳をする3回目。そして、いつもの夏が来た朝の、空を見上げる人々の中で家族と呆けている4回目。そして、その描かれ方はそのまま、本作の主線である帆高から見た大人像にリンクしているように感じられる。本作の中に置かれた大人と子供の関係性だ。
本作の序盤、大人は子供である彼らの視点においては絶対的で逆らいようのない存在として描かれている。だから、子供である彼らはその気まぐれの足元を右往左往することになる。けれど、現実に大人である人なら良く知っているように、大人は意外と大人ではない。間抜けなところも、いやらしいところもあれば、頭を下げたりもするし、大事な家族だって居たりもする。空を見上げてアホ面を晒したりもするのだ。本作の中には、そういう様々な大人の姿が描かれている。その代表的な一人が須賀であり、もう一人がこのスカウトの男であるように僕には感じられた。
彼は、言ってしまえば本作の中で重要なポジションにいる人物ではない。少なくとも物語の本編に彼は大きく関わらない。けれど、そんな彼がこういう風に色んな側面を見せてくれていることが、僕にはとても意外で、とても好ましかった。そしてそれは同時に、帆高たち本作の主人公が「仕事」という関わりの中で人の表情が見えるようになってゆく過程と並行して観客に対して描かれた、そこに生きる人々の表情の話でもあるのではないかと思っている。
本作は、人の姿をとてもよく描いている。そんなふうに思う。氏の監督した作品群は俗に「セカイ系」と言われる。特に初期の作品を観ていると、そう言われる理由も分かる気がする。氏の初期の作品はとても登場人物が少ない。それはもしかしたら単純に予算や作画労力といった実務上の都合によるものなのかも知れないけれど、個人的には観ていて「ああ、この人は世の中をこういう風に捉えているのか」と感じたことをよく憶えている。
銃については、未だに自分の中でも答えが見つかっていない。現代の東京を綿密に描こうとしたとき、観客の大多数にとってリアリティを欠くであろうこのモチーフが必要だったのかということは、僕には分からない。ただ、氏の過去作品を踏まえてみれば銃というのは「大人の力」の象徴だと捉えることが出来る。勿論それは子供が持つには明らかに不相応なものだけれど、その不相応なものを手にしてしまった子供という描かれ方はとても良かったと思っている。まさか本物だとは思っていない最初の場面、不相応な力を行使してしまった事への恐怖が描かれている2つ目の場面、そして、不相応な力を借りても、という覚悟が見える最後の場面。そこで描こうとされたものを描く上でのこの道具はとても効果的に機能していたと思う。それでもやはり、そのためのモチーフとしてこの道具が最も適切だったかと問われたら、僕はうまく答えることが出来ない。
思った事一個いっこ書いておこうと思ったら全然終わらなくなってしまった。この記事は何とか今日中にあげてしまいたいので一旦ここで終わりにしたい。というか肝心な本作の主線であろう主人公たちの話、天気の話、作品としての構造の話がまるっきり出来ていない。余裕があったらそのうち下の方に書き足しておこうと思う。
たぶん、この作品は人によって色々捉え方が異なる作品なんだと思う。というか巷でもそう言われている。色んなひとの話を眺めていると、僕とは全然違う物語をこの作品から読み取っている人がいて個人的にはすごく面白かった。中でも印象的だったのは「『天気の子』は縄文文化の話!」っていう話で滅茶苦茶面白かった。世の中は広いなあと思う。
「選択」について。彼が選んだのは何なのか。個人的にはぱっと見てすごく分かり易い話のようにも思えたのだけど、巷を見てみると色んな捉え方がされていて、僕の見たものが本当に正しいのかは分からない。ただ、そう感じたという事で書いておきたい。
本作の物語の主線において、その主人公たる帆高はふたつ、大きな選択をしているのだなと観ていて思った。
ひとつめは、陽菜の存在と世界の平穏。人ひとりと世界全体を天秤にかけることがどういう事なのかは僕には分からない。けれど、少なくとも氏の過去作品における主人公たちの選択と、本作のそれとは大きく異なるのではないか、とは感じた。何故かといえば本作がこれまでになく人を、社会の中に暮らす人々の姿をよく描いた作品であり、その主人公たる彼は、その天秤のもう片側に乗った、人々の素朴な笑顔であったり、それによって彼自身にももたらされた、たくさんのものの存在がある事を知っている、少なくとも見てきてはいる筈だと思うからだ。それは、主人公たちとは隔絶された、壁の向こうの背景のような人々と比べることとは全く違うと思う。その選択が正しいものなのかどうなのかということは僕には分からない。けれど、ここで彼がしているのは、過去の氏の作品の中にあったそれらよりも、ずっと重い選択に違いないと思う。
そしてもうひとつは、本作のエンディングに示された選択だ。ここでは、それまでとはまるっきり変わってしまった世界の在り方と、それでも何だかんだでうまいこと変わらない日々を過ごす、強かな人間の姿。ちっぽけでしぶとい日常の景色である。
このシーンの中に桜の話があって。今年は天候も穏やかで桜も長く楽しめるでしょう、みたいな天気予報に、楽しみだねー、みたいな何でもない話で。そこに個人的にひっかかったのは、桜って雨が降ると本当にあっという間に散ってしまうから、それはおかしいのではないか、ということで。
ただ、よくよく考えたら桜の楽しみ方って別に一つではなくて、例えば花筏と呼ばれる川面に浮かぶ桜を眺めたりするのもあるなあ、ということを思い出して。たぶん、ここで言う「穏やか」というのは、天気が晴れる、ということではなく、単純に豪雨とか嵐とかにはなりません、くらいの意味なのかなあ、と捉え直した。そういう風に捉えて見ると、このシーンは人間のしたたかさみたいなものが良く表れているようにも思えてくる。雨が降って桜が楽しめなくなるのではなく、その楽しみ方そのものが変わる。天候が穏やか、という言葉が差す意味そのものが変わる。人間は適応する生き物だとはよく言われる。よくよく見ているとこのシーンには他にも壊滅した道路交通の代わりに水上バスがこれでもかと行き交っていたり、高島平の周辺には公営住宅らしき建物群が急ピッチで建てられているらしき様子も見られる。「人間なんてどうせしぶといんだから」と言われているような感じがした。
どうせしぶとい人間たちの、世界が変わっても変わらない社会。その在り様を示したうえで、本作はその主人公たちに決断を迫る。「お前たちのせいなわけないじゃねえか」と、甘く優しく、大人たちの常識に基づいて、そんなことはどうでもいいと言うように彼らに語りかける。その選択というのは、つまりはこういうことだと僕は思う。
https://www.youtube.com/watch?v=DdJXOvtNsCY
もう一度貼っておく。
映画館を出て、帰宅して、もう一度これを見てみた。口から出たのが「ずるいなあ」という感想だった。
「これは、僕と彼女だけが知っている、この世界の秘密についての、物語だ」
「あの景色。あの日見たものは全部、夢だったんじゃないかと、今では思う」
「でもそれは夢じゃないんだ」
「あの夏の日、あの空の下で僕たちは、世界の形を、変えてしまったんだ」
「ずるいなあ」と思った。この映像が示すところの意味が、本作を観る前と観た後とでは全く違う。
つまり、二つ目の「選択」は、ここに在る。
世界の在り様は変わらない。どうせ元に戻っただけ。お前たちのせいなわけねえ。
そこには、変わらない社会と、世界の変化の原因を常識の枠で捉えようとする人々の姿が在る。主人公たちにとっても身近な人々の姿。そうでない人々の姿。極端なことを言ってしまえば、あの空の上での出来事は実はまるごと彼らが見た夢で、東京は単に急激な気候の変化で水没したというだけなのかも知れない。少なくとも大人たちはそう考え、その前提の上に社会を再構築しながら暮らしている。僕自身、理性的に考えれば恐らくそちらの方が正しいだろうと考えるに違いない。
けれど、この選択においてはそのことはあまり重要じゃない。
重要なのは、「その時自分が、何を想い、何を選んだのか」ということ。つまり、ここでの彼には、常識的な価値観と合理性に基づいた責任のない世界と、例え夢の中でも<僕たちがこれを選択した>という、自己認識に基づく責任を負ってゆく世界という、二つの世界に対する認識のどちらを選ぶのかという選択が迫られている。そこで彼が選んだ答えは、作品が示したとおりだ。
すごくずるいなと思った。これまでの作品とは違って、ここには時間的な断絶も、空間的な断絶も存在しない。同じ場所、同じ街の、同じ景色を見ながら、そこに広がる世界の在り様は、彼らとその周りの人々とで完全に断絶している。つまり、本作が言っていることはすごく単純で、「自分が大切に思うものをきちんと選び、引き受けろ」ということだという風に僕は感じた。
そしてそれは先の映像の話にもどると、まるっきり新海監督自身の話のようにも思えた。この映像の前半部分を捉え直すと、氏がこれまで描いてきた作品の中で、ふたつの共通したものを描き続けて来たのだという事が見て取れる。そしてそれは、本作の中にも変わることなく存在している。前作『君の名は。』の公開にあたって、沢山の人に観てもらえたけれど批判もたくさん受けたという。本作における主人公たちの選択のかたちを見ていると、なんだか僕にはそれが、「自分にとって大切だと思うものをこれからも描き続ける」という、氏の高らかな宣言のようにも聞こえる気がした。勿論それが本当にそうなのかどうかは分からないし、冷静に考えればそんなことはどこにも書かれてはいないので、ただの僕の勘違いという方が冷静に考えれば正しい。けれど少なくとも僕自身はそのように感じていて、もし仮にそうなのだとしたら、その選択はすごく僕にとって嬉しい選択であることは確かなことだと思っている。
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