#一節脚本
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一節脚本217 「系統」
A
その曲良いよね!推しが歌ってて好き〜。結構流行ってるよね。これ誰が歌ってるの?えっこの人の曲だったんだ。なんか面白い声だね。へぇ〜ねぇ話変わるんだけどさ、なんかこないだ好きって言ってた芸人いたじゃん。あの人。あの人炎上してるよね。あの人面白いかもしれないけど、なんか人とし��好きじゃない〜。なんかパートナーにああ言う人が友達にいたらめっちゃ嫌じゃない?なんか喧嘩した日とか全部ああ言う人に筒抜けになりそうで嫌〜。異性として見ないで〜って言いながらめっちゃ典型的なシスヘテロだよね。シスヘテロ。わかんない?普通の人って事!あっ最近あれ見た?めっちゃ宗教ネタとか右翼左翼のネタあったよね。あんまり外で見れないけどさ、ああ言うネタで笑える理解力あって良かったなって思う〜ほんと。得してる気分。あっねぇ昨日も推しが可愛過ぎたから写真送るね〜見て〜
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その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こう��た事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 ���子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対���る責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。���くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険は��いか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
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リズム - Wikipedia
■言語におけるリズム 人間の音声言語における「リズム」とは、何らかの音の単位が、一定の時間で規則的に繰り返されるパタンのことを指す。このようなリズムの特性を「等時間隔性(isochronism)」と呼ぶ。繰り返される音の単位が何であるかは、言語によって異なる。また、詩などの韻文を作る韻律の基礎として、特に重要な性質である。なお、リズムは国際音声記号では[|]で表される。 ●強勢リズム 英語やロシア語などは、強勢のある音節がリズムを作る。発話の中で、強勢のある音節がほぼ等しい時間間隔で規則的に出現し、それがリズムとなる。具体的には「強勢のある音節から次の強勢のある音節の直前までのまとまり」が、リズムの単位となり、これを「脚(foot)」と呼ぶ。例えば、This is the house that Jack built.という文を脚で分類すると、以下のようになる[14]。 │This is the│house that│Jack built.│ 脚(foot)というリズムはAbercrombie(1964, 1971)が唱えたもので、その後、Halliday(1967, 1970)、Albrow(1968)、Kiparsky(1979)らに受け継がれている。上記の例文は、Albrow(1968)にて提示されたものである[14]。 また、強勢リズムをもつ言語の自然な発話では、音節の数に関係なく、すべての脚の長さが同じになるように発音される傾向にある。よって、脚に含まれる音節の数が多くなればなるほど、個々の音節の時間的な長さは短くなり、逆に脚に含まれる音節の数が少なければ少ないほど、個々の音節の時間的な長さは長くなり、比較的ゆっくりと発音される。 verse(韻文、詩)における脚(pes; foot)については、「韻脚」を参照。 ●音節リズム 音節リズムはスペイン語やフランス語などに見られ、各音節が時間的にほぼ等間隔で現れることによって生じる。 ●日本語のリズム 日本語のリズムは音節ではなくモーラ(拍)が基本的な単位となっている。 詳細は「モーラ」を参照。
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Letter from Kondo Isami dated May 20, Genji 1 (June 23, 1864) to Nakajima Jirobei (中島次郎兵).
The second line from the left reads, "Male sexuality is popular" (男色流行).
Original letter
(本文略) 尚々、御家内中様御尊父始メ御勇猛之至奉恐賀候。陳者尊兄健次郎様事市ヶ谷辺江御縁談之由、恐悦至極奉存候。 次ニ下拙義も素□愚魯身不顧尽忠報国有志御募リ相成、然馬合之局中ヲ預リ、州鄙客申述頻ニ心配致ゆへ□哉意外多病相成、依而去二月肥後守殿□なるへく温泉致候様、依之罷越候処僅七八日ニ而俄ニ 肥後守殿御役替ニ付飛脚到来、其夜五十丁十六里帰京致候。 併相応度候哉当節大丈夫ニ相成候間、御懸念可被下候間敷、且乍憚一統様暫時処公然様奉願上候。 一、扨先年府中宿おいて御同様始楼登リ、妄戯仕事時々思ひ出申候。就而者当節婦人戯候事聊無之。局中頻ニ男色流行仕候。尚帰府之上申上度。以上
Translation
(Text omitted) I would like to express my heartfelt gratitude to all of you, including your dear father, for your bravery. I am very pleased to hear of your older brother Kenjiro's marriage proposal and move to the Ichigaya area. Next, I have been recruiting volunteers to repay the nation with loyalty without regard for my own life, and have been entrusted with the affairs of bureaucrats. I've had too many worries on my mind and I have been unexpectedly very ill. Last February, Higo-no-kami-dono asked me to visit a hot spring, so I did. After just 7 or 8 days, a courier suddenly arrived with news of Higo-no-kami-dono's change of position, so overnight I returned to Kyoto at a distance of 50 blocks and 16 ri [16 hour walk]. At the same time, I would like to express my sincere gratitude to you for your concern. For the time being, I can only offer my best wishes. Now, I sometimes recall that last year when I was in Fuchu, we visited brothels and indulged in raunchy games. In that regard, people no longer play around with the ladies these days. Male sexuality is popular frequently throughout the headquarters. I would like to mention this to you upon my return to my home province. That is all.
Commentary
In the main text (omitted), he writes that he was disappointed in the Shinsengumi's position and its role, and that he considered disbanding the group, but was consoled, and so on. [T/N: This was before Ikedaya]
In the postscript, in addition to congratulating the Nakajima family on their happy event, he wrote that he had fallen ill due to hard work and went to a hot spring for treatment, as recommended by Katamori, but after about a week, Katamori informs him that he was to be reassigned to a different position. It is written that he returned to Kyoto, sick and beaten.
He then fondly remembers how they used to indulge in "raunchy games" together at a brothel in Fuchu, and tells them that these days there is no such thing as playing with women at all, and that "danshoku" (male sexuality) is prevalent within the Shinsengumi.
(source: www.toshizo.com)
Translator Notes
Instead of interpreting it as Kondo complaining about the prevalence of male sexuality, doesn't it sound like he's actually trying to convince Nakajima to go for male prostitutes together next time?
"I know we used to play around with women, but no one does that anymore. Here at the Shinsengumi HQ, we do male love all the time. Just something I wanted you to know before I visit you ;)" 😂
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2023/12/27〜
12月27日 出勤したらデスクにコシヒカリが置いてあり、今年もこの季節か…!と、昨年同様に良くしてもらっている職員さんに私の分も持ち帰ってもらう。 炊飯をする術もお米を食べる気もまだまだ起きない。
いよいよ年賀状をまだ印刷できてない、デザインを作れていないことが気がかりになり、今年は年を越してしまうかもしれないとか考えながら出勤した。
溜まっていたメールやお仕事を打ち返すように1日を終えて、少しだけ関西出身の方に大阪の報告をした。帰りは一期下の方が待っていてくれて一緒に帰ってもらって、博物館の話や名建築巡りっぽいことをした話などをたくさんしてしまって、なんでだかいま不安になっている。たくさん聞いてもらってしまった。 お仕事の困り事などを職場の方々の関係性の中で相談したり解決できるようになったのはよかった気がしていて、でも最近はもっと個人的な話までを職場の中まで持って帰るようになっている。 お仕事が個人的な生活に入ってくるのと同じように。
今日は今年最後の満月。
12月28日 昨晩からとてつもなく腰がだめになってしまい、ロキソニンに頼りっきり。痛みがないと動いてしまうので、効果が切れた時にどっと辛さが出てくる。1日の疲れと相まって夜がとても辛い。 生活の質が下がってい���す。
駆け込みで夕方に初めて行く整骨院を予約する始末。 そしてその予約のために終業のチャイムと共に急いで帰ってしまい、年末の良いお年を、職場の方々と良く交わせなかった。誰も気にしてないけれど、個人的になんかもう全て終わり!みたいないっときの開放感で交わされる年末の挨拶の感じが好きだったので、今年はそれができず、なんとなく明日からもまだお仕事が続きそうな元気さを保ってしまっている。
写真を撮りたくて三脚を持って出かけたけれど、出勤時に数枚しか撮れなかった。
昨日、職場の関西出身の方へ大阪のお土産(長崎堂のヴァッフェル)を渡したところ、ちょうどご実家から他店舗のヴァッフェル(京都のお土産とのこと)が送られてきたので、と一ついただく。 いちごのヴァッフェルだった。
明日の予定がキャンセルになってしまい悲しい年末年始休みの始まり。友人が体調を崩されているようで、会えず残念だし予定が狂って大変だけれど、でも本当に身体を大切にするべき。 今のわたし自身が、本当はこの帰り道にたくさん写真を撮ったり、帰宅してお掃除大会をしたりしたかったけれど、ほとんどの意識が腰のお見舞いに持って行かれている。
年賀状も作りたい。
一先ず、明日からは朝なるべく早く起きて、夜ではなくて朝にお掃除や片付けごとや年賀状作りをしたと思います。
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『 からだの錯覚 脳と感覚が作り出す不思議な世界』小鷹 研理 著 (講談社)
のびます。
第1章 「からだ」とはなにか~自分として感じられる身体と物体としての身体 身体と触覚がバラバラ~痒みを感じる足と、目の前にある足/身体の感覚とはなにか/身体内部の位置感覚!?――固有感覚とはなにか/一つの感覚では成り立たない「からだ」/地面に映る影はなぜ「からだ」ではないのか/からだの錯覚の基本――ラバーハンド錯覚/「からだ」の場所はなぜあちこち彷徨うのか/自分の「からだ」はどこまでか/「『からだ』と触覚がバラバラ」をふたたび考える/本当は、皮膚は石のように硬いかもしれない!/錯覚による「物質からの解放」 第2章 目で見る視覚と頭の中にある視覚――目を閉じることで広がる「からだ」の感じ方 錯覚しやすいかどうか、試すならこの2つの方法/触覚だけで「自分の身体を見つける」!?/「外的な視覚」と「内的な視覚」/セルフタッチ錯覚のバリエーション/背中の後ろの自由な錯覚像/身体に近接する仮想空間 第3章 弾力のある身体――空想の世界にも想像しやすいものとそうでないもの��ある アバターを自分の身体のように感じる錯覚/腕や脚が伸び縮みするVR錯覚/空想世界の身体状態でも、受け入れやすいものと受け入れにくいものがある/夢で空を飛べるのは、なぜか/指が伸びる錯覚/ダブルタッチ錯覚――接合型のラバーハンド錯覚 第4章 からだの錯覚は思い込みと何が違うのか――錯覚が生まれる、その時脳は…… 錯覚は思い込みではないのか/錯覚していることを証明する――「共感覚」は思い込みではない/からだの錯覚の脳内マーカー――身体ではなく「からだ」を認識するとは 第5章 「身体」なのか「モノ」なのかーー自分のような自分じゃないような「きもちわるさ」の由来 錯覚で感じる「きもちわるさ」の正体/主体感と所有感のねじれ/節操のない自己と融通のきかない自己/身体の中の「モノ」!?/所有感が部分的に奪われる錯覚/外傷のない痛み/スライムハンドの衝撃 第6章 幽体離脱を科学する――不思議な現象が導く、さまざまな可能性 幽体離脱は実在するのか/幽体離脱の脳科学/多角的な視点からイメージできる人は、幽体離脱が起こりやすい/動かない体、動きたい心/幽体離脱はラバーハンド錯覚の拡大版か/天空を見下ろす/リセットされる夢、リセットされない幽体離脱/とりかえしのつかない遊び
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「Can You Catch A Cold?」サンプル5
字幕大王2024.06.25
サンプル4はこちら
水俣病の混乱
細菌論に夢中だったために伝染病と間違われた病気は栄養不足だけではない。1956年5月のこと、5歳の少女が日本の水俣市の病院に入院した。水俣は八代海に面した人口約5万人の小さな漁村だった。その少女は、けいれん、歩行困難、言語障害などの異常な神経症状を呈し、急速に体調を崩していた。数日後、彼女の妹と町内の他の3人もまったく同じ症状で病院を訪れた[45,46]。
その後、数週間から数ヶ月で、村の人々が病気になるケースが急増したが、罹患したのは村人だけではなかった。大量の魚が奇妙な泳ぎ方になり、やがて死んで陸に打ち上げられた。海鳥は飛べなくなり、異常な行動をとるようになった。これらの動物を捕食する猫も具合が悪くなり、口からよだれを垂らし、気が狂ったかのようにぐるぐる走り回った[47]。動物と人間の間で何らかの病原体が伝播したのだろうか。誰も確かなことはわからないが、この大流行は伝染病の特徴をすべて備えているように思われた。最初の患者が出た後、村に住む人々が次々と同じ症状で倒れ始めたのだ。そのため、ある種の「奇妙な伝染病」が発生したという噂が広まった[48]。やがて、この病気は伝染性髄膜炎であるという未確認の報道が出始め、地域社会は大きなパニックに陥ったのである[49]。
謎の病気への恐怖は極めて大きく、近隣の町の人々は水俣人を排斥し始め、長い間築かれてきた密接なコミュニティの絆は急速に失われていった[50]。伝染病まん延を抑えるため、家屋は消毒され、��人は隔離された[49]。この対策にもかかわらず、伝染病が地域住民を襲い続けた。初期の報道によれば、少なくとも55人が感染し、17人が死亡した[45]。
しかし、約3年後、研究グループはついに病気の原因が地元の肥料製造会社であると突き止めた。同社が、合成肥料製造の廃棄物であるメチル水銀27トンを水俣湾に投棄していたのだ[51]。この水銀が地元の水路を汚し、何百平方キロメートルもの海を汚染した。かつては美しく肥沃な自然の珊瑚礁であった水俣湾は、有毒な荒れ地となり、かつては豊かであったその恵みを不運にも口にした人間や動物を毒した。
1963年2月、水俣病の発生原因を調査していた研究グループから正式な発表があった。誰もが落胆したが、水俣病の原因は感染性微生物ではなく、メチル水銀に汚染された水俣湾の魚介類の摂取によるものだった[49]。長年にわたって、この環境破壊の犠牲者たちは、日常生活で出会う人々に伝染性ではないと安心させねばならなかった[52]。この災害によって900人以上が死亡し、200万人が慢性的な健康被害に苦しんだ[51]。
水銀中毒の混乱
水俣で起きた出来事にもかかわらず、医療関係者は今日に至るまで、水銀中毒を感染症として誤って診断している。2018年8月のこと、15歳女性、13歳女性、11歳男性の3人兄弟が救急外来を受診した。彼らには、発熱、筋肉痛、皮疹、倦怠感など、非特異的な症状が進行していた。検査は陰性の連続であり、その結果、「ウイルス性症候群」と診断された。子供たちは休ませるために家に帰らせられたが、その3日後、兄弟はさらに悪化した状態で救急部に戻ってきた。うち一人は神経障害を起こしていた。子供たちは溶連菌性咽頭炎(連鎖球菌性咽頭炎)と猩紅熱(しょうこうねつ)と診断された。彼らには抗生物質が投与されて退院した[53]。
その数日後、子供たちはセカンドオピニオンのために別の救急外来を受診した。この時までに、症状はかなり悪化しており、激しい頭痛、息切れ、手足のしびれ、全身の脱力感などが生じていた。結論に飛びついてウイルスやバクテリアのせいにするのではなく、救急医たちはさらに詳しく調べた。すると、子供たちが自宅で水銀の瓶で遊んでいて、それがカーペットにこぼれていたことがわかった。母親はこぼれた水銀を掃除しようとして掃除機を使った。母親はそうとは知らず、これが水銀を加熱・気化させて、子供たちはうっかり吸い込んでしまったのだ。不思議なことに、母親には何の症状も現れなかったので、この病気は小児感染症のように思われたのだ。
子供たちが水銀中毒であることを知った医師たちは、水銀除去のためにキレーション療法を開始した。二人の子供は完全に回復したが、1人は関節、背中、筋肉の痛みが続き、歩行器が必要になった。この出来事はケーススタディとして記録され、2020年2月の医学雑誌に掲載された。著者の結論としては、水銀中毒が感染症に似ている可能性があることだ[53]。子供たちは同じ家で暮らしており、似たような症状を呈していたため、最初の病院の医師は、小児期の伝染病が兄弟間で広がったに違いないと誤って考えたのだ。ここでもまた、一面的なレンズを通して世界を見ることが誤った思い込みを招き、正しい診断と治療を遅らせたのである。
なぜこれが重要なのか?
壊血病、ペラグラ、水銀中毒といった病気の原因を正しく特定することが重要だったことは明らかだ。しかし、いずれの場合も、細菌論というレンズが真実を邪魔し、調査者を無益な捜索に向かわせ、一般大衆を無用なパニックに陥れた。これらの事例だけを見ても、間違った説明モデルを適用したことによる影響を定量化するのは難しい。数え切れないほどの資源、時間、人命が、存在もしない敵と戦い、追いかけて失われたのだ。また、どれだけの人々が仲間はずれにされ、孤立し、非人道的な扱いを受け、タイムリーで効果的な医療を拒否されたかを考えると胸が痛む。それは伝染病だからではなく、伝染病であること��恐れたからである。このように、我々が世界を見るレンズは強力だ。良くも悪くも、レンズは我々のあらゆる知覚を彩り、我々の見方に一致する結果をもたらす。
もちろん、今では良くわかっており、これらの病気を伝染病と見なすことはない。壊血病、ペラグラ、水俣病のような病気を振り返り、その過ちに気づくのは簡単なことだ。現在の我々から見れば、人間がハンセン病患者のような烙印を押され、治療を拒否され、檻に入れられた動物のように閉じ込められていたのは野蛮なことのように思える。後知恵とはおかしなものだ。我々は今、すべての答えを持っていると思い込んでいる。しかし、我々がいまだに伝染病だと考えているが、そうでない病気が他にもあるとしたらどうだろう?ここまで来たと誇らしげに振り返っても、まだ同じ過ちを犯しているかもしれない。プライドと甘さに目がくらみ、過ちを犯し続けていることに気づかないまま、我々は突き進むのだ。
今にして思えば、過去の研究者の一部が傲慢でなく、型にはまっていなかったのは幸運だった。彼らは謙虚であり続け、心をオープンにし、勇気を持って行動した。もし彼らが、受け入れられているパラダイムに挑戦しようと思わなかったら、今日の世界はどうなっていただろう?我々はまだそれらの病気を伝染病とみなし、かつてと同じ非効��的で非人道的な治療法を続けていたかもしれない。単純な食生活改善の代わりに、重金属を注射し、ペラグラのために隔離されることを想像してみてほしい。壊血病や脚気、くる病に他人から感染することを恐れて暮らすことを想像してみてほしい。おそらく我々は、ワクチン接種、手洗い、社会的距離、抗生物質、抗ウイルス薬、マスク、ロックダウンといった現代的な方法で、これらの(存在しない)細菌から身を守ろうとするだろう。そのあいだ、人々はライフスタイルや環境によって不必要に死に続けるのだ。そういった想像は難しくはない。例えば風邪やインフルエンザなど、他多くの病気についても、今日の世界はこのような方法で対処しているからだ。ただひとつ違うのは、現代の研究者たちが、伝染病モデルによってこれらの病気を正確に説明できると信じてこんでいることだ。この信念は現在、集団心理に深く刻み込まれており、間違いの可能性を受け入れるのは難しい。文化もまた変化しており、受け入れられているパラダイムに異議を唱える者は、狂った陰謀論者のレッテルを貼られる。
我々はあまりに自身を確信しすぎてしまっている。しかし、本章で示すことは、結果を観察して原因を誤って帰することが、いかに物事を間違えやすいかである。また、結論を急ぐのではなく、厳密に管理された(controlled)科学実験によって因果関係を確認することがいかに重要であるかを強調している。我々は過去にも過ちを犯したし、因果関係を正しく理解しなければ、我々自身がどれほど進歩していると考えていようと、過ちを犯し続けるだろう。誤った例が強調しているように、病気を伝染病と誤って診断することは、あらゆる種類の悪影響をもたらす。病人にとっては、適切な診断や治療へのアクセスが遅れ、より深刻な機能障害や身体障害につながる可能性がある。総合的には、これは広範囲に及ぶ影響をもたらす。実際、病気の原因を伝染病と混同してしまえば、より恐れを抱く回避的な社会が培われ、資源の配分を誤り(研究助成金など)、誤った経済(医薬品など)を支え、組織(政府など)に権力を譲り渡し、誤った道を進む間に、より多くの人々が病気になり、命を落とすという機会損失を最終的には被ることになる。
サンプル6はこちら
「Can You Catch A Cold?」サンプル5 | 字幕大王
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魔法じかけの林檎
誰もがその林檎を欲しいと思ったけど
千鈴は林檎しか食べない。どんな食事を用意しても食べないのに、林檎を切ってあげると、それは食べる。だから、お見舞いのときは、私は必ず林檎を持っていく。
精神病棟だから病室には行けない。けれど、看護師さんに手を取られて、千鈴は面会室には現れる。精彩のない無表情でソファに座る。待っているあいだに切り分けた林檎を並べたお皿を、私は千鈴の前に置く。
その甘い香りか、お皿を置いた音か、それは分からないけど、千鈴は林檎に目を落とし、ひと切れ、手に取る。そして、言葉はなく、しゃり、しゃり、とゆっくり林檎を食べていく。
姉の千鈴。妹の五鈴。私たちは、十三年前に一卵性のふたごとして生まれた。
幼い頃は、ふわふわのカールの髪に結ぶ、色違いのリボンが見分けるコツだった。それと、泣いているのはたいてい私で、褒められているのはたいてい千鈴。
千鈴は泣き虫の私を揶揄ったりもしたけど、けして意地悪ではなかったし、優しい姉だった。私は、よく千鈴のあとを追いかけて走っていた。私たちの毎日が壊れた、あの日もそうだった。
ふたごって何かかわいいねと言われながら、同じ小学校に上がった春だった。私たちは一緒に下校していた。
にぶくて泣き虫な私をまた揶揄って、千鈴は駆け足で先を走っていた。春風に、千鈴の髪を結う白いリボンがひるがえった。ひと気が減ってきた角を曲がり、「千鈴、待って」と息を切らす青いリボンの私は顔を上げ、はっと立ち止まった。
こちらを振り返って笑っている千鈴のすぐ背後に、知らない男の人が立っていた。私は千鈴の名前を叫ぼうとした。遅かった。男の人は、強引に千鈴を抱え上げ、そのまま路地に駆けこんでしまった。
茫然とする私の耳に届いたのは、服を引き裂く音、千鈴の泣き声、男の人の荒い息──
そのとき、偶然同じクラスの男の子たちが通りかかって、私は泣きながら千鈴が引きこまれた路地を指さした。私は何もできなくて、男の子たちが声を上げたり、大人を呼んだりしてくれた。
けれど、千鈴の心にはすべてが手遅れだった。その日から千鈴は、感情も記憶も喪失した、息をしているだけの人形のようになった。外出はもちろん、家庭で過ごすことさえ困難と診断され、精神病棟で過ごしていくことになった。
しばらく、千鈴は何も食べなかった。点滴��栄養を摂っていても、見る見る痩せていった。ふっくらした薔薇色の頬は蒼くこけて、腕も脚も折れそうになって、しっとり白かった肌もぱさぱさになっていった。
そんな千鈴を見るのをつらいと言い出したのは、私より両親が先だった。何かと言い訳をつけ、千鈴のお見舞いに行かなくなった。私が千鈴に会いたいとせがむと、「病気が伝染って人形になるから」とおとうさんは目をそらした。おかあさんは「千鈴のぶんまで、いい子にしてね」と虚ろな瞳で私の頭を撫でた。
それでも私は、千鈴に会いたかったから、そばにいたかったから、お小遣いを全部交通費に当て、両親には「友達と遊んでくる」と言って、こっそり千鈴のお見舞いに行った。
私と千鈴が幼稚園の頃に読んだ、子供向けにした神話の絵本の中に、こんな話があった。どんな病も傷も治す、魔法の林檎を果樹園で守る女の子がいた。彼女は、林檎を盗みにきた泥棒に殺されてしまった。その死を哀しんだ女神様によって、彼女は花のすがたとして生まれ変わった──
魔法の林檎は、半分食べれば、どんな病気も癒える。全部食べれば、永遠に若く生きられる。そんな、不思議な黄金の林檎。
ひとりになってしまった部屋で、その絵本を読み返した私は、その林檎が欲しいと思った。林檎が心まで癒すかは分からなかったけど、��んな魔法に頼らないと、千鈴は壊れてしまうのではないかと怖かった。
「ねえ、千鈴」
季節はあっという間に巡り、着こんだコートのポケットに、懐炉を入れておく冬になっていた。吐く息が白く、雪が舞う日も多かった。
家から駅まで歩いて、病院の送迎バスが来る駅までふた駅。ありがたいことに、マイクロバスの利用は無料だった。私はその日、お年玉をもらってお金があったので、千鈴のお見舞いに差し入れを持ってきていた。
「お花に生まれ変わった女の子のお話、憶えてる? もしあの子が魔法の林檎を食べてたら、殺されても死ななかったよねって一緒に話したよね。だからね、千鈴も林檎を食べたらつらくても咲えるかもしれないって、今日は林檎を持ってきたの」
かたわらに置いていたビニールぶくろから、駅前のスーパーで買ってきた林檎を取り出した。千鈴がめずらしく、ゆっくりとだけど視線を動かし、それを見た。私は精一杯咲って、「ちょっとでも食べよう」と千鈴の手に林檎を持たせた。
「林檎を食べたら、千鈴にも治る魔法がかかるから」
千鈴は何も言わなかった。でも、それから、林檎だけは食べてくれるようになった。
それが、千鈴の必死の声だったのだと思う。本当は千鈴も、食べたいし、しゃべりたいし、咲いたいのだ。でも、できない。あの体験がおぞましく焼きついて、自分を思い通りに動かせない。
いつか心が癒えるように、掠奪された自分を取り返して傷を乗り越えられるように、千鈴は願いをこめて林檎を食べた。
「……千鈴だったら、こんな間違いしないのに��
一方、千鈴が欠けた家庭で、おかあさんの態度がおかしくなりはじめたのは、事件から一年が過ぎた頃だった。
私のテストの答案を見ていたおかあさんが、ふとそんなことをつぶやいた。「えっ」と私がちゃんと聞き取れずに問い返すと、おかあさんは突然、答案用紙をびりっと音を立てて破った。
「千鈴なら、こんなテストぐらい百点が取れるでしょう!」
言われていることがとっさに分からず、ぽかんとおかあさんを見た。おかあさんはゆがんだ顔を覆って、フローリングにくずおれて、わっと泣き出した。どくどくとあふれる涙で、床に散らばった不正解だった私の字がふやけていった。
私はしばし突っ立ってしまったけど、「おかあさん」とこわごわその肩に手を置いた。おかあさんはその手を振りはらって、「あんたなんかいらない!」と金切り声で叫んだ。
「千鈴! 千鈴を返して‼ 私のかわいかった千鈴はどこなの、ねえ、どこに行ってしまったの!」
私ははたかれた右手を握りしめ、視線をとまどわせた。おかあさんは、砕けたガラスみたいに床に這いつくばって泣いている。その嗚咽に、千鈴の名前が混じる。
私なんかいなかったみたいに。自分の娘は千鈴だけであるみたいに。
ああ、おかあさんは千鈴に会いたいんだ。いつでも会える私なんか、どうでもいいんだ。おかあさんに必要なのは、一年前まで、無邪気に咲って、当たり前に私たちの中にいた、健やかな千鈴──
「ほ……ほんとに、五鈴は、ダメだよね」
何で、そんなことを言ってしまったのか分からない。
「私からも、五鈴にこれくらいできないとって、しかっておくから」
それが幼い頭でやっと考えついた、発狂しそうなおかあさんのなだめ方だったのかもしれない。
「おかあさん、泣かないで」
おかあさんが震えながら泣きやんで、鼻をすすって顔を上げた。
「私はここにいるよ」
おかあさんが手を伸ばし、私の頬に触れた。
「千鈴……?」
私はおかあさんに向かって微笑み、うなずいた。その拍子、おかあさんは私を抱きしめて、また泣き出した。
でも、耳にきりきりする、痛ましい泣き方ではなかった。安堵で声をつまらせ、やっと家にたどりついた子供のような慟哭だった。
こんなに、おかあさんは千鈴を探していたのか。傷ついてしまう前の千鈴を求めていたのか。
だったら、私にできることはひとつだ。おかあさんの前では、私は千鈴を演じる。千鈴のふたごの片割れである私にしか、それはできない。
千鈴がいなくては、おかあさんが壊れてしまう。だから、千鈴が治るまでは、帰ってくるまでは、おかあさんの前では私が千鈴になる。
「五鈴は……つらいかもしれないけど」
その夜、おとうさんが帰宅する頃にはおかあさんは泣き疲れて、リビングのソファで眠っていた。「『千鈴だよ』って言ったら、おかあさん、すごくほっとしてくれたの」と私がつたなく説明すると、おとうさんは言葉を失くしたものの、私の頭に大きな手を置いて言った。
「おかあさんの前では、千鈴でいてくれるかな」
「うん。おとうさんも、私のこと五鈴って呼んじゃダメだよ」
「……ごめんな、五鈴」
「千鈴、だよ」
「ごめん、……ごめん千鈴。守ってや��なくて、本当にごめん──」
おとうさんにぎゅっとされて、スーツの糊の匂いの中で、「大丈夫だよ」と私は言った。
その言葉が、五鈴としてだったのか、千鈴としてだったのかは、分からない。おとうさんの腕に力がこもったのも、五鈴に対してだったのか、千鈴に対してだったのか、分からなかった。
それから、私は家庭では千鈴を演じるようになった。千鈴のように勉強も運動も、口調も身だしなみも頑張った。「五鈴」はいなくなったわけではなく、いつも偶然その場にいないかのように振る舞われた。私だけでは修復しなかった家庭が、私が千鈴になることで、少しずつ明るくなっていった。
もちろん、私を「千鈴」と呼んで、買い物に行けるようにもなったおかあさんについて、近所の人は怪訝そうにひそひそ話をした。私がひとりのとき、「無事だったのは五鈴ちゃんよね?」と心配そうに声をかけられることもあった。私はあやふやに咲ってかわし、家に駆けこんで、おかあさんに百点を取ったテストを見せた。おかあさんの穏やかな笑顔が、私のきしみそうになる心を支えた。
本物の千鈴のお見舞いに行くのは、相変わらず私だけだった。家のことを、千鈴には話したほうがいいのかと思ったけど、刺激を与える話は先生を通してからと看護師さんに言われていた。
近所の人の訝る目を思い出し、あんまりお医者さんには言いたくないなと思った。やっと見つけた落ち着く手段を、やめたほうがいいとか言われたくない。
千鈴は事切れた瞳のまま、静かに林檎を食べている。私たちは、いつ千鈴が帰ってきてもいいようにしているだけ。だけど、千鈴が戻ってきたら、私はどうなるのだろう。
どんどん希薄になっていく五鈴という私は、まだあの家に存在しているのだろうか。帰ってきてほしいと思って、私だけがこうして本物の千鈴を見捨てていないのに、千鈴が帰ってきたら、きっと私が一番報われない。
私が演じる千鈴は、周りの理想を裏切らないように、美しく築かれていった。言葉ひとつ、仕草ひとつ、細心の注意で千鈴らしくした。千鈴以上に千鈴だったかもしれない。
おかあさんが外では私を「千鈴」と呼ぶし、家に来たクラスメイトたちは、「あれ……五鈴ちゃんだっけ? 千鈴ちゃんだっけ?」と混乱して、いつのまにか「えーっと、千鈴ちゃんだよね!」と思いこんでいった。
テストや教科書に名前を書くときも「千鈴」と書いた。さすがに本名を把握している先生たちは、最初は「え?」という顔をするものの、私もクラスメイトも──何より親が「あの子は千鈴ですよ」と言うので、触れてはいけない、あるいは関わりたくないと思うらしく、次第に何も言わなくなった。
私は人前では淑やかに咲う反面、部屋でひとりになると、自分の鼓動がうるさくて過呼吸になるときがあった。
私は綺麗。私はいい子。私は──違う、全部千鈴だ。綺麗なのは千鈴。いい子なのは千鈴。じゃあ私は? 私は何なの? 私はどこに行ったの?
千鈴の偽物として生活していて、私自身の価値はどうなってしまったの?
どんなに演じても、千鈴本人になれることもないのに、なぜ私は不毛な嘘をまとっているの?
千鈴として咲うほど、私は咲えなくなっていく。千鈴として振る舞うほど、私は何も感じなくなっていく。
自分を切り崩していく中で、中学生になった。最近��公立中学は物騒だからと私立に進んだ。私を千鈴としてあつかうことは、ご家庭の事情があるから、と小学校の先生が伝えたらしい。生徒証などの公的な書類になるもの以外では、私は千鈴として通った。
葉桜の緑が鮮やかな五月、一年生の中間考査では首席を取れた。ほっとして貼り出しから教室に戻ろうとしたとき、「あ、おいっ」という声がして肩をつかまれた。
私は立ち止まって振り返り、そこにいたブレザーの男の子に首をかしげた。黒いさらさらとした髪、まだ童顔の大きな瞳、誰なのか心当たりはなかった。けど、「千鈴なのか?」と声変わりもしていない声が言う。私は貼り出しにある名前が、千鈴であるのを一瞥した。
「……そう、だけど」
「えっと……元気にしてたか」
「ええと、あなた──」
「洋介だよ。谷村洋介。その、……あのとき、妹のほうが俺とか和義を呼び止めて。俺は、学校まで先生を呼びに行ったんだけど」
私はその男の子を見つめた。引っかかる記憶はなかった。
あのとき、どんな男の子たちに声をかけたかもよく憶えていない。クラスメイトではあったはずだけど、特に彼に印象はない。
「ちゃんと、学校にも来れるようになったんだな」
「……もうずいぶん経ったから」
「そうか。あ、千鈴は何組なんだ?」
「A組よ」
「すげ、進学クラスじゃん。俺は一般のC組だけど、また今度、ゆっくり話でもできたら」
「そうね」
「よかった、ちゃんと生活できるようになったなら。ずっと心配してたんだ」
洋介くんは優しく微笑むと、「じゃあ」とそばにあった階段を降りていった。妹のほう。五鈴のことは、名前さえ出てこないのだろうか。
それから、ときおり洋介くんが声をかけてきて、私たちは話をするときがあった。この人、千鈴が好きなのかな。そう気づくまでに、時間はかからなかった。
幼い頃からの想いなのだろうか。再会して始まった恋心だろうか。
後者だとしたら、君が好きになったのは千鈴じゃなくて五鈴なんだよ、と伝えたい心がふくれあがってきた。幼い頃からの気持ちだったとしても、それなら彼には、本物の千鈴のことを言っておきたかった。
どうして、本当のことを知ってもらいたいと思うのだろう。知られたところで、状況をかき乱すだけなのに。
梅雨の合間に晴れた日、雨粒が芝生できらきらする中庭のベンチで、洋介くんとお昼を過ごしていた。洋介くんはお弁当を食べはじめていたけど、私はお弁当ぶくろを膝に置き、躊躇っていた。「食べないのか?」と言われて、曖昧にうなずいた私は、気を引き締めて洋介くんを向いた。
「あのね、洋介くんに知っていてほしいことがあるの」
「ん、何だよ」
「……これ、なんだけど」
私は胸ポケットから生徒手帳を取り出し、生徒証のページを開いて、洋介くんに渡した。洋介くんはそれを受け取り、怪訝そうにページを見つめた。
「これが?」
「名前を見てほしいの」
「名前──」
洋介くんの目が、そこに記��れる私の名前をたどった。まぶたが押し上げられる。
「え……これ、五鈴って」
「私��、ほんとは五鈴なの」
「は?」
「みんな千鈴だって思いこんでるけど、私もそう思われるように千鈴を演じてるけど、違うの。私は五鈴──」
「え……ちょっと、待てよ。演じてるって、じゃあ、ほんとの千鈴は?」
「千鈴、は──」
「てか、わけ分かんねえし。何でそんな演技してんだよ」
「ち、千鈴を演じないと、誰も私なんか見ない、し」
「はあっ? 千鈴はあんなことがあったんだぞ⁉ お前なんかどうでもよくなるのが普通だろ。……くそっ、最低じゃないか」
最低? 私が? 何で?
ぽかんとしてしまうと、洋介くんは忌ま忌ましそうに立ち上がって、中庭を出ていってしまった。私はそれを見送り、本当にわけが分からなくて、洋介くんの反応が正常なのか異常なのかさえ判断できなかった。
だって、私が千鈴にならないと、大人たちはまるで歯車が合わなかったじゃない。なのに、私が間違いだったの?
そのとき、突然気づいた。魔法の林檎になっているのは、私なのだ。おかあさんにとって。おとうさんにとって。あの事件から目をそらしたい人、すべてにとって。
私という林檎が、麻薬のようにみんなの意識をごまかし、ひととき忘れさせて、麻痺させている。私が千鈴になることで、千鈴が傷つけられた事実はゆがめられ、偽りの安心をみんなに与えている。
やがて、太陽が白光する夏が来た。季節外れでちょっと高い林檎を買って、私はまた千鈴のお見舞いに行った。
千鈴は林檎を食べる。しゃく、と噛み砕く音と共にこぼれる甘酸っぱい香りに、私は涙が出てくる。
このままでは、私が壊れてしまう。私が見せる幻覚は、薬でなく毒だ。そんな調和は、今すぐやめないといけない。
ふと、口元に冷たい酸味が触れた。はっとすると、虚ろな表情のままだったけど、千鈴が私の口に林檎を分けようとしていた。私は千鈴の瞳を見つめ、久しぶりに、五鈴として咲った。
林檎を受け取り、さわやかな味を頬張った。口の中に、新鮮な味がふわりと広がる。
林檎を食べていたら、女の子は死ななかった。でも、もう死んでしまった。だけど、女神様によって花に生まれ変わった。
千鈴もきっと生まれ変われる。綺麗な花としていつかまた咲える。私も弱い大人の犠牲になり、千鈴が花になれたすがたを演じてみせなくていい。そんなことをしなくても、千鈴は咲けるから。その千鈴の生きる力を信じることが、魔法じかけの林檎になって、五鈴としての私を癒やしてくれる。
千鈴じゃなくていい。弱い心に見せる幻にはならなくていい。そんなことをしていても、今度は私が死ぬだけだ。
再び咲えるようになる千鈴と共に、私は私のまま、嘘偽りなく生きていっていいんだ。
私がこくんと林檎を飲みこむのを見た瞬間、確かに千鈴の瞳が、ほころぶようにほのかにやわらいだ。
FIN
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一節脚本216 「考えすぎ」
美里 あーむり行けない
紗枝 えっ
美里 ちょっと遠回りしていい?
紗枝 どしたの
美里 あそこに知り合いいてさ
紗枝 どれ?
美里 パーカーと白シャツ
紗枝 うん
美里 なんか悪口言ってる気がするから
紗枝 仕事の人?
美里 うん
紗枝 んじゃああっち行こうか
美里 うん
紗枝 職場でうまくいってないの?
美里 そんな事はないんだけど、たまにこっち睨んでる気がして
紗枝 へぇ…心あたりあるの?
美里 ある気がするけど、なんかすっごい、あの、些細な事しか思いつかない
紗枝 例えば?
美里 現場離れたいって言ってるのが気に食わないのかなとか、あんまり上下関係ない感じで接しすぎたかなとか、いろいろ
紗枝 ふーん…
美里 なんもない気もするけど
紗枝 なんもないよ
美里 ないかな
紗枝 いやわかんないけどね
美里 そりゃね
紗枝 まぁ時間が解決するんじゃない?
美里 するかな…
紗枝 それはする
美里 …そうね
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ちよ旅オカルト編2024夏④
崇徳天皇御陵(香川県坂出市)
ここが今回ちよ旅の一番の目的であり、
人生で一度は必ずお参りしておきたいとこでした
この御陵に眠る崇徳院は所謂「怨霊」です
現代では祟りが恐ろしい平将門や天神様としての地位を確立した菅原道真の方がメジャーですが、
元天皇が島流しに遭ったという前代未聞のことで、当時の人々にはかなりのインパクトでむかえられ、正直言って崇徳院はレベルが違う怨霊として扱われ、「日本最大の大魔縁」とまで呼ばれました
色々とその怨念の深さを想像させるエピソードが伝わっていますが有名なのでこれらは割愛させてもらって、
チヨハ的には怨霊を創るのは怨念なんかじゃなく、その人物の生前から偲ばれる「執念」と遺された人々の「罪悪感」だと思ってます
上田秋成による江戸時代の怪奇小説集「雨月物語」の「白峰」の段で、この崇徳院の怨霊の話が語られま��
この話にはその怨霊観がよく現れてると言えます
白峰の段では京での暮らしと政治への執念を捨てきれなく、生きとし生けるものの不幸を願い嗤う、恐ろしくも浅ましい魔王としての崇徳院の姿があります
そんな崇徳院の魂を鎮めるのが西行法師です
生前の崇徳院とも親交があった彼は、
崇徳院の崩御から数年経ってもその御陵で手を合わせることが出来ていないことに後ろめたさを感じており、ついには遠く讃岐の地まで旅に出ます
天皇を勤めた方の終の住処とも思えないほど荒れ果てた陵墓を前に夜通しの供養を行っていると、怨霊と成り果てた崇徳院が現れ、問答を始めます
西行法師の必死の説得を受け、ついには自らの王道を思い出し穏やかさを取り戻して夜明けと共に崇徳院は消えていくのです
西行法師は元々は武士、つまり相当な家柄を持つ家系に生まれ、文武共に優れていたのですが、そうしたものを全て捨てて仏門に入った人物です
執着を全て捨てた者だからこそこの世のあらゆる欲にとらわれながら苦しんでいた霊魂を救えたということですね
崇徳天皇御陵の側には白峰寺という崇徳院を供養する寺があり、そこには西行法師の石仏と、西行法師が歩んだであろう「西行の道」が整備されています
さて、日本最大の大魔縁となった崇徳院は天狗を眷属として従えたそうです
雨月物語にも「化鳥」として「相模」という天狗が現れます
そんなワケで崇徳院を供養する白峰寺にも天狗がたくさんいます
烏天狗みくじもありました
かわいいですね
天狗のモチーフは山伏だとする説があります
山伏とは山岳信仰の行者です
この白峰寺も山寺なのですが、そもそも四国自体が空海を中心に山岳信仰の気が濃く、そういう文化も混じり、崇徳院と天狗が融合したのかもしれませんね
物語上では色々語られ、これらは脚色にしろ、でもきっと本心でも京都へ帰ることを切に望んでいた崇徳院が京都に帰った、つまり御霊が京都に移されたのは、実は明治になってからなのです
この時、やっとはじめて、人々の胸にずっとあり、崇徳院の怨霊の姿で取り憑いていた罪悪感が払拭されたのではないでしょうか
さて一方西行法師ですが、
「願はくは花の下にて春死なむ」
(どうせ死ぬなら花の季節に死にてえな)
という有名な詩を残して、その通り春に亡くなりました
その死に様に心打たれて多くの人を羨まがらせたと言います
幸せに生きて死ぬためには
足るを知る、ということが大切なのかもしれませんね
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SFではなく、現実の話だ。 こういう記述を読むと、すごい! SF的な未来だ! とSFが好きな僕のような人間はいいたくなるが、重要なのは「これはSFではない」ということだ。確かに現代の義足はすごい。しかし──完璧ではない。幻肢痛と神経痛はいまだに解決が難しい。ソケット調節はうまくいく人もいればいない人もいて、合わない場合義足をつけるのは苦しみの日々だ。突発的な痛みや合併症が起こることもよくある。 現代には「オッセオインテグレーション」といって、断端と義足を接続するソケットをつけるのではなく、脚の骨に直接チタニウムのインプラントを接合し、義足を直接繋ぐ技術もある。骨から直接義足に繋がるので安定感が高く一日中歩いていられるほど楽で、ソケットが調節できない人にも有用だという。しかし、骨はインプラントを受け入れるために中心部を抜かなければならず、骨折のリスクや骨の深部での感染症の危険を増やす。技術は進歩しているが、夢ばかりでもないのである。 障害を受け入れて前に進む。 本書には著者も含めてたくさんの義肢装着社が出てくるが、みな自分なりのやり方で現実に立ち向かっている。著者は退役後画家や小説家、そしてこうした義足についてのノンフィクションを書いているし、近い時期にアフガニスタンで両脚を失った友人は、いまでは博士号を取得して義足技術をデザインしているのだという。 著者の最初の義足を調整してくれたのも、バイク事故で足を失ったのをきっかけに義肢装具士として再訓練を受けた人だった。『彼らは、自分の置かれた状況をもう少しだけ思いどおりにしようとした人たち、日々の暮らしのなかで障害が生み出す課題を解決しようとしていた人たちだった。』(p.106)。
戦場で両脚を失った作家がハイブリッドの世界を語る、現時点の今年ベストノンフィクション──『ハイブリッド・ヒューマンたち──人と機械の接合の前線から』 - 基本読書
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伊勢神宮へ 酔いと音の古殿地
先日、友人のピアニストであるふじいさんと伊勢神宮に行った。初めて観光地で昼間からお酒をのむということをし、今までの観光のなかでいちばん心地よく頭のまわらなさ、とてもよい小旅行だった。またわたしは偶然、京都の伏見と混号になっている伊勢特集のブラタモリを所持しており、これが今回とても役に立った。前の週に予習として読んだときは(ふ〜ん、)というくらいだったが、伊勢までの電車の中で読むと既に実感を伴い、(知識にも入れどきってもんがあるのよ〜)となった。わたしの人生初のお伊勢参りは午前中だったからか観光地としては非常にちょうど良いくらい��人の多さ(多くなく)で、曇り雨予報もお伊勢参り中は全く降られることなくとても良かった。神宮のつくりと見かけ、また観光地としての佇まいはとても美しく、気高く、tidyな賢さのある観光地であった。おおきく見ていてうれしかったポイントとしてはふたつある。
ひとつめは古殿地のシステム。古殿地というのは、伊勢神宮は20年毎に1回式年遷宮という正殿を筆頭にいくつかの社殿を真横にそっくりそのまま建て替えるということをする。古殿地とはそのための土地、要するにholyな空き地である。この20年を節目にして建て替えられるというのは飛鳥時代の620年あたりからで、ここまでのべ62回の造り替えが行われてきたそうだ。社殿に使われる装具品なども全て作りなおされるので、伊勢神宮はトラディショナルだが常に新しいということである。して、それの何がよかったのかというと、完成された社殿に開発できるスペースが常にあると言う状態がこの神宮の格式の高さだと思えたからだ。これをふじいさんに伝えようと思ったときに何に例えると良いだろうかと参道を歩きながら考えた。大抵いつもこういう感動を伝えやすいのはエンジニアの友人であるカイくんで、彼だったらプログラミング、書ききったコードにあらかじめバッファを残すやり方とかそういうものがありそうだな、、とか思ったが、その辺のプログラミングの素養がわたしにはないし、プログラミングに例えてもわたしもふじいさんも納得感が薄い感じ〜となりそうと思うと、ピアノのスケールに例えられる気がした。スケールというのは順当に並んだ音階のこと、単純言うとドレミファソラシドという音列(これはCメジャースケール)のことで、これをたとえば片手で1オクターブ分のスケールを引くときには、(右手で弾く場合)15音に対して指は5本しかないので運指を少し工夫する必要がある。ドレミまで123(親指から番号を振り)の指で引きファの音で指を潜らせて1の指で引いてやると次のドまでの音階を残った2345の指で弾いてやることができる。これを左手で行うと(小指から逆順に番号を振り)5432/1321の運指でありここまではとても美しいシステム、指の運びだなとわたしは思うのだが、わたしが気にしているのは2オクターブ以上引くときの運指である。音の始めはいずれにしても1の指からなのだが1オクターブ上のドに辿り着く指はいずれも345の流れである。つまり2オクターブ以上引くときには間で指を潜らせたり跨がせる所作をさらに加えて行う必要がある。具体的には右手の場合は123/1234/123/12345。左手だと54321/321/321/4321となる。このときの右手の運指に問題がある。1オクターブ引き切る前に2オクターブ目のス��ールに向かうための運指の変化があるのだ。��まり1オクターブのスケールを弾くときと2オクターブ引くときの指を流れが違う。1オクターブ弾き切ってから(ア!もう1オクターブいきたいかも)にシステムとしては対応できていない。というようなことをつい先日スケールの練習をしているときにそういうことを考えていたことを思い出した。たとえばクラシックではそんな場面はあまりないかもしれないが、たとえばジャズでインプロビゼーションなどするのであれば土壇場でもう一音階上がりたいという場面があってもおかしくないのではと想像したのだ。前置きが長くなったが、どこまでも上がり下がりする音階をつくるためには一般的な運指ではなくあらかじめ次の音階に上がれる「音(指)の古殿地」が必要かもしれないということ。それを彼女に話すと、よくそんなこと思いつくと言ったあと、でもそういった場合たとえばペダルを併用したりもう一方の手でカバーを入れたりして澱みなく繋ぎ直す方法もあると教えてくれて、わたしはとても愉快になった。ふじいさんはとてもピアノが上手いし、いつも話を聞いているとピアノに対しての甘えのない人だ。そしてこの彼女がシステムを超えるためのアドホックな技巧があること、またそう言ったときの(おそらく演奏というものは必ずしもそういうことではない)というような毅然とした態度に、わたしは増してわくわくした。
ふたつめは終点の標識。伊勢神宮には愛知から名古屋を経由し国道23号線をずっと走ってくると伊勢神宮までたどり着くことができ、そこには国道23号の終わりがある。標識の23の文字の下には白地に黒文字で終点と書かれており、ことは内務省より「東京より伊勢宗廟に達する路線」 として国道9号が指定されたのが1885年、1920年には旧道路法に基づく変更にのり国道1号となり名実ともに日本を代表する幹線道路だったわけだが、終戦後に再び何度かの道路改正があり、一級二級といった区別がなくなり今の一般国道23号線になったのは1965年のことだそうだ。この終点の標識ひとつとっても、当時からの伊勢神宮の位の高さが伺える。神宮としてあり続けるために観光面においても、御司という平安から明治の初めにかけて多くいた伊勢神宮への参拝のための旅行コンシェルジュのような存在や、江戸の街並みを再現したおはらい町など、伊勢神宮の気高さは街全体がつくってきたのだ。そして終点もそのひとつ。観光地が維持されながらも同時にアップデートされていく一端を見れてとてもうれしい心持ちであった。なんといっても「終点」 というのが良い、目的地のなかでも終点と言われてしまえば(真に目指す必要のある場所だ!)と思うのも頷ける。
とりあえず外宮と内宮を見て周り、初お伊勢参りとしては十分及第点だろうといったところで、そのまま横に流れ、おはらい町へ。てこね寿司を食べ���うと思ったが、ふじいさんがそんなに乗り気ではないように思われたので、とりあえずコロッケのおいしいという店でコロッケとメンチカツを頼んだタイミングで、焼酎をのもうと言われ2号をふたりで飲んだら、すごくきれいに酩酊。わたしは観光地ではいつも専ら学習モチベーションが高く、神宮でも、最高な巨木!美しい五十鈴川。気高き社殿群と、直感的には伊勢の空気に触れつつもしばしばブラタモリを開いてはふむふむしていたお昼まで、初めて旅行先の外でしっかり酔っ払いとても愉快であった。神宮に行く前に伊勢うどんを食べたこともあり、めちゃくちゃ腹減りという感じでもなく、すっかり機嫌の良いわたしたちは観光地とはおおよそ関係の希薄そうなアイスクリームを食べ、こちらは子供サイズというひと巻きかふた巻きほど少ないのが大きさのものがあり、一個は多いが、というニーズにぴったりであった。その後は本店の赤福を食べ、ふじいさんの友人の谷さんいわくお土産の赤福とは一線を画すとの前情報であったが、たしかに、食感においていつもの赤福より餅が柔く、餡も心なしかみずみずしいように感じられた。このあたりでは少し酔いが覚めてきて、非常にちょうど良さではあったが、良さのもう一段上、更なる心地よさへの高みに想像がはたらき(酔いの古殿地)、別のお店であともう一杯だけ日本酒をのむと、それはなんとも贅沢な昼の心地であった。そうこうしているとおおよそ帰路に着く時間に近づいてきていたので、わたしのリクエストでバスで宇治山田駅へと向かう。かく宇治山田駅もお伊勢参りの後援として一役買っている重要な場所である。1931年に建てられたこのモダン調の駅舎は近鉄電車、大阪のなんばから宇治山田駅間を2時間ほどで繋いでおり、関西から参拝にくるひとの多くが利用するルートのひとつである。ちなみにブラタモリには駅舎のテラコッタ色のタイルが印象的であると書かれていたのだが、わたしが見る限りではどこにテラコッタ色のタイルはなく(見つけられず)、それは少し悔やまれたが、しかしそんなことはどうでも良いと思わせるほどのサプライズがあった。なんと宇治山田駅にはストリートピアノなるものが設置されていたのだ。開けた構内には普段であればちょっとピアノ弾くか迷うくらいのひとの多さがあったが、ここで追い日本酒がほどよく効いていたのもあり、純粋に突如現れたグランドピアノにテンションがあがった。思いもしないタイミングでふじいさんの演奏を直に聴くことができるのがうれしい。確実に演奏家として彼女の方がはるかに上手に弾くだろうと思ったので、先に私から演奏する。すこし音をならすと、非常に良い調律というか鍵盤の硬さで(あとでピアノの写真を見返すとYAMAHAであった)、初見でこんなに手に馴染むピアノがめずらしく、また酔いも助けてわたしはとても良いモチベーションで演奏できた。楽しく弾くことができたし聴き手からしても楽しさ〜という演奏になっていたように思う。あとからあれはBLUE GIANTの2巻でダイが、「音楽はいいな〜音楽はスゲェな〜を吹きます」 のシーンの心持ちだった。それからふじいさんの演奏。連弾用に椅子が二脚あり横に座って聴いたのだが、彼女の演奏はとても流暢で、酔いのなか、彼女としてはどんな出来だったのかは分からないが、とても軽やかで流れのある水を撫でているような心地よさ、砕けたいうにはいささか繊細な粒子の細かいフランクな音でとてもよかった。彼女の手の動きは見ていてもおもしろかったし、途中からは音楽に身を委ねて目を瞑って聴いたのであった。彼女は2曲(だったと思う)弾いてくれ、一曲はラヴェルだと言っていた(もう一曲はなんだったんだろう)そのあとは少しだけふたりでポロポロと弾いたり弾かなかったりした。あらためてとても良い旅であった。
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『四季』のビバルディ、20世紀半ばまで200年も忘れ去られていた | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
(『四季』のビバルディ、20世紀半ばまで200年も忘れ去られていた | ナショナル ジオグラフィック日本版サイトから)
ビバルディの『四季』と言えば、クラシック音楽のなかでも最も愛されている不朽の名作の一つだ。それぞれの季節を表す4つの協奏曲から成る音楽は、1725年に発表された当時と変わらず、今も人々の心を躍らせる。 ところが、第二次世界大戦前は、音楽家の間でもこの曲を聴いたことがある人は少なく、アントニオ・ビバルディという名前すら、音楽史の脚注で言及される以外ほとんど知られていなかった。
1800年代初頭、バッハの音楽への関心が改めて高まると、バッハがビバルディから影響を受けていたことが明らかになった。そのおかげでビバルディの作品も徐々に掘り起こされるようになったが、1900年代初頭まではまだ曲が演奏されることはめったになく、バロック音楽の専門家以外にはほとんど知られていなかった。 それが大きく変わったきっかけが、レコードの登場だった。『風と共に去りぬ』や『カサブランカ』などハリウッド映画のサウンドトラックでの演奏で有名な米国のバイオリニスト、ルイス・カウフマンが1947年、ニューヨークのカーネギーホールで『四季』を演奏し、録音した。人々が自宅の蓄音機で気軽に上質な音楽を楽しむようになっていたおかげで、ビバルディの名はほぼ一夜にして世界中に知れ渡った。 それ以来、ラジオ、テレビCM、映画のサウンドトラックなどで四季やその他の作品が広く聴かれるようになり、クラシック音楽の巨匠としてのビバルディの地位は不動のものとなった
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15.
どんな数字も通過点にしか過ぎないけれど、ここを通ることが出来ること、何より幸せだと思います。本日、デビュー15周年を迎えさせていただきました。15年前の今日、オーディションでアミューズ事務所に入らせて貰って。あの時15歳だった僕も、気づけば30歳。たくさんの作品に出会い、たくさんの役の人生を生き、たくさんの人と関わり、たくさんの景色を見てきました。そのひとつひとつが今の僕を創り、繋げてくれたものだと感じています。役者、吉沢亮として。こんな風に今こうして15年の節目を迎えられたこと、本当に感謝しています。ありがとうございます。僕はあまり、賞に拘ったり、役に憑依したり、役を引きずるようなタイプの役者ではありません。ひとつ終わればまた次、次、と。あまり後ろを振り返らず、前だけを見てこれまでやってきました。勿論、思い出はどの作品にもありますが、あまり昔を振り返ったりするようなタイプじゃないなと自分では思います。でも、こうして15年を迎えて、自分なりに今まで出会った役や作品について考えました。本当に、様々なジャンルに挑戦させてもらったなと。初めての連続ドラマ、夢だった仮面ライダー、青春を過ごせた学園ドラマ、ずっと好きだった漫画のやりたかった役、大好きな作品の声優、賞に拘らない僕でも特別だと思えるものを頂けたシリーズ、大河ドラマの主役、憧れていた月9、尊敬する脚本家さんの作品。本当に、どれもが大切な僕を築いてくれた僕の一部です。そして、この前撮り終わった大作。これから迎える新しい作品。今はまだ、もっともっと役者がやりたい。もう満足した!と言い切れるまで、まだまだ作品に向き合いたい。あ、ちなみに今日は上海にいました。7月には個人イベントもやらせてもらいます。16年目も、その先も。吉沢亮として、これからも僕らしく、ひとつずつの作品に丁寧に向き合い、この役を吉沢にやらせてよかったと思って貰えるように日々精進していきたいと思います。出会ってくださったすべてのみなさんに、大きな感謝を。ありがとう。そして、これからもどうか。共に歩んでいけますように。
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木製茶筒の試作
茶筒には様々な材質の物があるが、ブリキ缶の物が最も一般的である。高い遮光性や密閉度が茶葉を湿気や酸化から守ることに加え、軽量で充分な強度があることや、製造コストが比較的リーズナブルであることもその理由��ろう。
ギフトセットなどでは写真のような様々な図柄の茶筒があるが、いざ茶筒だけ欲しいとホームセンターなどで探しても1種類置いていればいいほうで、とても選ぶような品揃えはない。インターネット通販で探せばいろいろあるけど、嵩があるから送料で結構な値段になっちゃうよね。以前ワークエクスチェンジで当地に滞在した人は、ここで作った自家製茶を保管するのに、同じデザインの安価な茶筒を入手し、違う絵柄の和紙をその表面に巻き付けて種類分けしていた。外観も綺麗にアレンジされて良いアイデアだと思うね。
ちなみに毎年春に大量に製茶する自分は、茶葉を大きなタッパーに入れて冷蔵庫で保管しているので、現状では茶筒を必要としているわけではない。にもかかわらず木製の茶筒を作ってみることになったのは、
・倒木材の活用研究 ・所持工具や設備の加工能力の検証 ・加工プロセスの研究 ・当地滞在者へ木工アイデア提供
といった理由からだ。
薪狩りに出た際にいろいろ物色したが、程良い太さのヒノキ倒木を見つけ、硬さもこれぐらいが丁度良いんじゃないかと考え、一部を切り出して工作室に運び込んだ。さらにそこからクラックや節穴などが極力少ない部分を選んで必要充分な長さを切り出した。
デコボコした表面に鉋がけをして大まかに円筒を作っていく。この時点でヒノキ独特の木目と芳香が醸し出される。両端の切断部も側面部に垂直になるよう削って調整していく。
この円筒を本体と蓋になる部分に分割切断し、印籠構造で接合出来るようにそれぞれの端部を加工していく。先ずは蓋側を一定径および深さになるよう掘り込んでいくのだが、これにはボール盤を使う。汎用ドリルビットで出来るだけ密に開孔した後、ボアビットに変えて粗仕上げしていく。この方法をとるのは、以前別の製作をした時に、ボアビットだけで切削していったら負荷が大きく、時間も多く掛かり非効率だった経験から。
本体側の端部もノミとヤスリで削りながら、蓋部と絶妙な「はめあい」になるよう調整していく。さらに蓋を填めた状態で本体との間に段差がないよう鉋で側面を削って調整する。
印籠構造が確立できたら、本体の内部をくり貫いていく。方法は蓋部と同じだが、深くて一度の切削では奥まで届かないのでボール盤の作業テーブル高さを変更し、二段階のプロセスで掘っていく。
さらにその後、ひっくり返して底部を切削する。こちらは筒の安定立ちが目的なので、周囲に脚部となる土手を残し中央を数ミリだけ掘り下げる。
ヤスリを使い、ガタなく立つよう底面脚部を摺って調整し、蓋の頭頂部も滑らかに丸みを帯びるよう削ったら、最後��外側をラッカースプレーでコーティングして完成。本当は外側だけでもじっくりサンドペーパーなどかけて磨き上げてやれば、表面の傷も凹凸も無くなり木目もより鮮明に浮き出て格段に綺麗に仕上がるが、いかんせん忙しく時間も無い中突貫で作ったから恐ろしく荒さが目立つが、今回は試作と言うことで(言い訳)。
木製の茶筒も茶葉保管性は良好とされるが、今回使用したヒノキのような材料は良くも悪くも独特の芳香を持っている。それらが茶葉に移っても全く気にしないとかむしろ歓迎だと言う場合は直接入れて保存しても良いと思うが、そうでない場合は写真のようにポリ袋に入れた物を茶筒にしまえば問題ないだろう。ちなみに今回試作した物は自家製茶50g強を入れる事が出来た。挽いたものならその何倍も入るけど、逆にそれ用にするならもっと小さく作ってもいいよね。粉末はより酸化して風味が劣化しやすいから茶筒にしまうメリットも大きいかも知れない。
#田舎#田舎暮らし#里山#自給自足#移住#倒木#木材#木工#工作#工芸#道具#茶筒#自家製茶#保存#デザイン#クラフト#diy#countryside#rural life#self sufficiency#tree#wood#woodworking#tool#wooden case#tea caddy#self made#preserve#craft
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みなさんおはようございます。
本日も私みーらが、皆さんの背中をそっと後押しいたします。
えーまず初めのお便りから。ラジオネーム「縦縞コリー」さんです。
お風呂で疲れを取るコツは、お湯を入れすぎないことだと思います。お湯は浅めに入れて、熱き温度に設定すれば、体調不良からすぐに回復するはずです。湯浅熱きってな。
ということなのですが、ハンシン浴ってのはそういうことじゃないと思いますねー。
続きましてラジオネーム「緒田舞里」さんです。
後輩に「36期が入ってきてもそうやって後輩に甘えるんですか?」と言われました。何がダメなのでしょうか。
ということなのですが、少なくとも私はニコニコ見ておりますので、問題ないと思います。撫でて撫でなられての関係にいる人たちを眺めることにも、ある種のプラシー的な効果があると思うんですよね。いや、思い込みかな。やっぱりセラピーボ効果かもしれません。
どんどんいきましょう。ラジオネーム「帝京魂」さん。
今のままでいいのかなぁと悩むことがよくあります。周りから何か言われたわけでもないですが、何かが違う感じがします。何が違うと思いますか?
ということなんですがね、多分芸名が違うんだと思います。
続いてラジオネーム「水琴冬雪」さん。
高校の頃の思い出が忘れられません。失って初めて気づく尊い日々に目を奪われて、日々が薄れて見えます。
ということですが、それな。私も生徒会室で働いていた日々が忘れられません。忘れる必要などありません。一生思い出しましょう。
もうなんかここにつける語のネタが切れたので、ちょっと簡略化します。ラジオネーム「七枚目」さん。
ここ数ヶ月、不幸に見舞われすぎています。パソコンは壊れるし、家に蜂の巣はできるし。でもそんな生活をなんだかんだ楽しく過ごす自分もいて、なんだか不思議な気持ちです。これが人生なんですか?
ということですが、それを人生だとしてしまうと、不幸を感じない生活=死になってしまう気がして、それはそれで嫌ですね。
ラジオネーム「苔丸」さん。
気持ちの良い日を過ごすコツは、健康的で優雅な朝食を摂ることだと思うのですが、忙しいとどうしても朝食作りが億劫になってしまいます。何か朝食作りに困らないオススメの方法はありますか?
ということですが、そんな時にはカフェテリアかさねの朝食営業!平日の8:00〜9:00で朝食を販売しているぞ!おかずとご飯と味噌汁も小鉢の栄養バッチリなセットで396円!
あ、すみませんコマーシャルが挟まってしまいました。申し訳ありません。
ラジオネーム「岡崎仁美」さん。
ここ数年の制作チーフが全然他劇団への宣伝訪問や挟み込みをしません。した方がいいと再三言っているので、「耳聞こえねぇのかよ」って思います。いやこれ私のセリフじゃないわ。
ということなのですが、ごめんなさい。制作チーフがアサギだったら、こうはならなかったと思います。
ラジオネーム「西峰ケイ」さん。
芸名変え合戦でみそかに負けたくありません。なんかもう、変えなかったら負けかなって思ってます。とはいえ考えれば考えるほど負けた気がするのもまた事実です。私は一体どうすれば良いのでしょうか。
ということなのですが、そういうときは芸名じゃなくて、語尾で攻めるブビよ〜!
ラジオネーム「あろハム権左衛門」さん。
お昼ご飯のカップヌードルトマトチリ味と、おやつのポッキー抹茶味を一緒に買ったら、どんな食べ合わせだよと言われました。一緒に食べるわけないですよね。カップヌードルトマトチリ味と合わせるのであれば、せめてじゃがりこチーズ味とかだと思います。
ということですが、失敗から生まれた料理ってのも数多くありますよね。
ラジオネーム「大福小餅」さん。
公演情報入力中に漢字を変換しようとすると、大福子持ちになってしまいます。ししゃもじゃないんだから、と思います。ということで、次回公演では「ししゃも子持ち」に改名したいと思います。
ということですが、これを変換してみたら「死者も子持ち」になって、たいそう意味深になってしまったので、大福のままでもちもちしていればいいと思います。
ラジオネーム「肆桜逸」さん。
後輩が僕の足を避けません。避けなかったくせに蹴られたとか言って騒いでます。うるさいです。早急に���をつぐんで欲しいです。かくなる上はポケカで黙らせたいと思います。
ということですが、きっとスチルさんに怒鳴られたりなんかした日には、多分普通に大人しくなると思います。笑顔でいてくれるのが嬉しいです。
ラジオネーム「たぴおか太郎」さん。
「たぴおか太郎」に一文字足して、もっと腹と心を満たす方法を思いつきました。「たぴお肩ロース」です。タピオが何なのかはよくわかりませんが、多分柔らかいと思います。
ということですが、他に考えることないんですかねーこの人。
ラジオネーム「ミル鍋」さん。
これからどんどん暑い季節が近づき、次第にミル鍋という芸名が暑苦しくなるような気がします。先日、別の劇団で活動している「フィーユ」の方からも連絡があり、曰くこっちもいい加減芸名を変えたいとのこと。どんな芸名がいいと思いますか?
ということですが、「冷やし中華」と「はじめました」にすればいいと思います。
ラジオネーム「園堂香莉」さん。
同じ授業を受けている同じサークルの人が、やけに他人行儀というか、よそよそしい感じがします。照明チーフとして2公演もお世話をしてやっているというのにこの態度とは、一体どういう神経をしているんでしょうか。もっと予めドリンクを買ってきて差し出すとか、それくらいのことをするべきだと思います。
ということなのですが、多分普通にまだ恐れ多いだけだと思います。嫌じゃなければ仲良くしてやってください。
ラジオネー��「海泥波波美」さん。
舞台のイメージもないまま脚本を書かないでほしいです。舞台のイメージのない脚本なんて、夏休みのない8月のようです。あるいは、耳のないミッフィーみたいなものです。脚本書いてから舞台を考えるから、僕達みたいに苦労する人が生まれるんです。だからやっぱり、日本は9月入学にするべきだと思います。
ということなのですが、確かに「保湿」って漢字は見れば見るほど難読漢字みたいですよね。
ラジオネーム「衿君」さん。
本当は私がこの形式の役者紹介をするべきなはずなのに、演出にパクられました。こんなのただのネタ潰しだと思います。散々色んな役やらせといて、最終的にやりたいネタはやらせてもらえないなんて、許せません。どうしてやりましょうか。
ということなのですが、その筋肉があればいとも簡単に勝てると思います。
ラジオネーム「大門宙羽」さん。
みなが寝静まった夜に限って、ワクワクして眠れません。どうすればよく眠れますか?
ということなのですが、朝は朝食をしっかり食べて、夜はしっかりお風呂に入りましょう。
ラジオネーム「テキストを入力」さん。
別にある特定のものに限った話ではありませんが、〆切ギリギリにならないとやる気が出ません。やる気を出すにはどうすればいいですか?
ということなのですが、これ本当に共感。結局追い込まれた方が強いんですよね、人って。
ラジオネーム「黒井白子」さん。
こっそり作ったXアカウントの使い道が決まっていません。別に投稿したいこともないので、このままROMアカウントになりそうですが、それでいいのでしょうか。
ということですが、これは大問題ですね。Xなんて呟いてなんぼですからね。Xで呟かないなんて、魚市場で財布無いみたいなもんですからね。
いやお前の名前が一番ラジオネームっぽいだろ
近未来ミイラ
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