#ニヒリズム
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straycatboogie · 2 years ago
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2023/01/10
BGM: Radiohead - My Iron Lung
ふと今日、「やりたいことをやりなさい」という言葉について考えてしまった。恐らく読んでいた小坂井敏晶の本の影響によるものだろう。「やりたいこと」……私はずっと自分の「やりたいこと」として書くことを選んできた。リルケやカフカに倣って、半ば祈るように書くことを続けてきた。ある時期までは(いつも書いているが)それで生活を支えられればと思っていた。でも、もしそんな夢が叶うことがないとするなら、自分は書くことを諦めるだろうかとも思った。そこから出てきた答えは、恐らく自分は諦めないだろうというものだった。書くことはただそれだけで満ち足りていて、楽しい。だから一生かけて続けるだろうと思う。
その昔就職活動をしていた時、孫正義が「皆さん、夢を持ちましょう」と語りかけていたのを覚えている。その後就職活動がさっぱりうまく行かなくなって酒に溺れ始めたのもいつも書いている通りだが、そんな失意にあった自分にとってはその「夢を持ちましょう」は(相当に卑屈に聞こえると思うけれど)「強者の論理」だった。あなたは功成り名遂げた人間だからそんな風に言えるんでしょ、と。逆に言えば私はずっと自分自身を弱者であり不幸な人生の主人公と思っていたので、それゆえに自分自身を無力な若造/青二才と思い込んでいたのだった。
レディオヘッドに「プラネット・テレックス」という曲がある。どこへ行っても聞こえてくる「何もかもぶち壊しだ/どいつもこいつも壊れている」というメッセージについて語られた曲だ。私がこの曲を荒唐無稽と片付けられないのは、私自身にとっては日常生活自体が「夢を持ちましょう」というメッセージに支配されているとすら言えるのではないかと思うからだ。反感を買うのを承知で言えば、その「夢を持ちましょう」という言葉が人を追い詰め「壊して」しまうのだとするなら、それに抗ってニヒリスティックに「夢なんてない」「人生に意味なんてない」と居直る方がまだしも救いになるのではないか、とさえ思う。
夢とは、ある種呪いのように働くところがあるのかもしれない。見果てぬ夢を見続けることが現実と夢とのギャップを自覚させ、人を苦しめる。自分の限界を知らないままに夢を見ることが、いつの間にか夢に追い立てられプレッシャーとなり、うまく行かない自分の現実を惨めに思わせられ、それでもウォルト・ディズニー的な「夢は必ず叶う」という希望を捨てられず、苦しむ。だから私は自分の人生に夢や大目標といったものを設定していない。日々、小さな達成を重ねる。日記だって「1年間続ける」なんて大目標を設定したことは一度もない。その日その日書くとそれがいつの間にか大きな達成になっている。これが私の生きる道、だ。
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anamon-book · 7 months ago
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イエスとニヒリズム 八木誠一 青土社 装丁=奥野玲子
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psyetz · 1 year ago
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「知性」を「生きる技術」であるといったのは喜劇詩人アリストパネスの伝記を書いた柳沼重剛です.「やり切れないような状况やけしからん行為に対して嘆いたり愚痴をこぼしたり怒ったりする事は感覚が正常に働いてさえいれば誰にもできる」が「笑いの種にするには知性による濾過が必要」と言うのです.
より正確には「知性による濾過」を「生きる技術」だと言っています.アリストパネスはアテナイの社会問題を滑稽なものとして笑いの種にしていますが,この濾過作業は単なる諦めやニヒリズムではなく命がけだったわけです.そしてこの濾過が軽んじられたとき知性の価値が損なわれるのかもしれません.
──古代ギリシャのヘルメス(@kodaigirisyano)
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lastscenecom · 1 year ago
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「人間は幻想なしには生きていけない。今日の男女にとって、進歩に対する不合理な信念がニヒリズムに対する唯一の解毒剤かもしれません。未来が過去よりも良くなるという希望がなければ、彼らは先に進むことはできません」 ―ジョン・グレイ
The Myth of Human Progress. “Humans cannot live without illusions… | by Erik Rittenberry | Medium
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shinayakani · 10 months ago
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240111 状況と言葉(断層のただ中で)
 さて何から書いていこうか、などと書き出せるのならまだいいものの、書きたいことが全く見当たらない。年末年始にまで至る数ヶ月の間は雑事に追われていたこともあるが、持ち前の怠惰が遺憾なく発揮されていた(能動的な怠惰って何?)と、弁明せずに言えばそれに尽きる。しかしそれとは別に、私が言葉を綴ったところで、その言葉たちがどんなものであっても、現実と対峙するにはおそろしく安直で愚劣なものにしか映らなくなってしまうような出来事が、現在進行形で起こっている。いや、そもそも何十年もの間ずっと起こり続けていた。
《教えてください。/非暴力で訴えても世界が耳を貸さないのだとしたら、銃を取る以外に、ガザの人たちに他にどのような方法があったでしょうか。反語疑問ではありません。純粋な疑問です。教えてください。》――岡真理『ガザとは何か』
 国際法は機能していない。「暴力が支配するところ、暴力だけが助けとなる」。おそらく。私はそんな世界で生きていたくないし、人間は生き続けることができない。しかしまた、あからさまな暴力や不正が行われ続けているにもかかわらず、あたかも何事もないかのように隠蔽され取り繕われた日常を生きることが、どこまでできるだろうか。一つの固有名、パレスチナ――これまでの「歴史」が一気に凝縮されたかのような土地の、名――を避けるようにして、それどころかあたかも存在すらしていない/いなかったかのように書かれる言葉の欺瞞。私もその欺瞞を共有している。遠く離れた土地での出来事だって? いまでは訳知り顔で「恥辱」という言葉を使うことも、自身を省みて「ヒューマニティー」を易々と鼓舞することすらも耐え難い。だがそれでいて、沈黙することは許されていない。苦境を生きる者(当事者、マイノリティ…)や傍観者(非当事者、マジョリティ…)というお馴染みになった区別は、出来事を語る際にただ自身の安全を担保して距離をとるための手段になってしまうのなら、適切なものとは言えない。そして長く続くこの惨状に関して、外地への収奪によって駆動し続けた末に現在まで至った「近代」の歴史を少しでも顧みれば、発言する者の複数の立場などというものは、もはや存在しえるのだろうか。現在の虐殺を、いまに至る占領を止めさせること以外に。
(240104)
《ツィフェル「ちょっといっておきたいことがある。民衆が権力を奪取するのは、ぎりぎりの窮地に追いつめられたときだけだよ。このことは、概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある。首筋まで水に漬かったときだけなんだ。ひとびとはカオスを、革命を恐怖する」
カレ「それを恐怖するばっかりに、とどのつまりは地下壕のなかに、頭上には爆撃の音を聞き、背後にはSS隊員の拳銃を感じながら、うずくまることになるんだ」
ツィフェル「そして腹のなかはからっぽになり、子どもの埋葬に外へ出ることもできなくなるんだな。しかし秩序は厳然と支配していて、ひとびとにはほとんど、ものを考える必要がなくなるだろう」
〔…〕
ツィフェル「きみに誤解されないように付け加えておくと、ぼくはひとびとを批判してはいない。批判するどころか���その逆だ。尖鋭な思考は苦しいもので、それをできる限り避けるほうが、理性的なんだ。ぼくが知っている国々のように、異常なまでの思考を余儀なくさせる国々では、ほんとの話し、とても生活は不可能だよ。不可能だよ、ぼくが生活と名づけるものは」》
 ――ブレヒト『亡命者の対話』ⅩⅣ章
 戦時中に異国の地を転々としていたブレヒトによって書き継がれていた本のなかで、上に掲げた対話は「革命と思考とにたいする恐怖について」と題された章で交わされる。私が住んでいる国においてはとりわけ、誰もその内実を知らない「革命」というものを、何も性急にぶち上げたい訳ではない(念のため。政治に関して言えば、その言葉が特に空疎なものに響くというよりは、私たちにはもっと最低限な認識すら欠けているのが現状だろう)。ここで気になるのは、「革命」と「思考」と呼ばれるものが、互いに密接に関係するものとして言われていることだ――《概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある》。
 人が何事かを思考しはじるのは、それを不可能にする事態に直面した時だけだとするならば、普段の生活において行っているものは、どこまで思考と呼べるものなのか。文中《厳然と支配していて》と言わるほど圧制的なものではないにしても、秩序は存在している。その中でそれなりの生活を享受している私たちは、一時的に「カオス」から守られもするだろうが、はっきりと目に見えてやって来る外部からの衝撃、またはそれまで(確実に存在していながら)眼前に一瞬だけ過るものにすぎなかった内部の破れ目から漏れ出したものによって、いつの間にか、これまでの自動的な習慣を取り繕いながら維持し続けることは不可能なものになって行く。そこにおいてこそ思考が発生する余地があると言うこと――だが、それ自体も「カオス」の領野に属するものを、受動性においてもなお引き受けなければならないというのは、困難な要請ではないか。何よりも身体が直接的な暴力(戦争、窮乏、災害、病い…)に曝されている状況にあっては、なおさら「思考」などと安穏に言ってはいられない。
 なるほど、人は自分自身が耐え難い災厄に遭遇してみないかぎりは、他者の苦痛を、よくても「想像を絶するもの」と片付けるだけで、それについての思慮を能動的に働かせるには及ばないのかもしれない。現在の生が、自分たちの安全が、維持されているかぎりは……。そんな風に呟きながら行き着く先が、偽装された政治的言説にお決まりの賢しらなニヒリズムに陥るか、道徳教師よろしく訓戒を垂れるだけならば、もっと救いがない。西欧流のヒューマニズムの復権なんてもうとっくに擦り切れていて、場合によってはそれが発言する者の利害に関わっているものにすぎないようにも思われる。しかし、そういった気分もまた、ともすれば単にシニカルな認識をもたらすだけならば、共犯的な愚かさだ。
 たとえ自身の罪悪感や無力さから出発したもの(ヒューマニズム?)であったとしても、人々を、どんな形であれ現状に抗する行動と思考に駆り立てる動機となるならば。狂気一歩手前で、「われらの正気を生き延びる道を教えよ」。兆候となる自発的な行動と、やって来るはずの未だ形を成していない思考が、これまでのヒューマニティとは異質の次元を切り開くものとなるならば……。
(240109)
 政治的な発言をする時、曖昧な言葉を繰り返し口に出すだけならば、それは有効な力を一切持たない。私の言葉は優柔不断なものに見えるのと同時に、読み返す気がまったく湧かないほどに、ひどく固まって動きのないもののように思えて、息苦しい。ここでいつも似たような言葉を書き綴っていたことにも言えるが、その度に経験と知識が足りないことを痛感させられる。言葉は、その意味が了���可能なものになり、さらに手垢に塗れた使用に慣れたものとなった時、すでにその役目を終えてしまう(言うまでもなく、政治的な性質を帯びた言葉に限った話ではない)。それに比べると、上に引いたブレヒトの言葉からは何度読み返しても不思議な魅力を感じる。事態は切迫していて、現実に彼の政治的な立場は明確なものであったと思うが、彼が書く言葉にはいつも奇妙な揺れがある。曖昧さとも異なる、この距離感と軽やかな(?)動きは、いったい何なのだろう。
 この本を読んでいたのは昨年の九月だったようだが、そもそもブレヒトを読みたくなったのは、同じ頃に久しぶりに手に取った『彼自身によるロラン・バルト』で度々言及されていたのがきっかけだった。
〈R・Bはいつも政治を《限定し》たがっているように見える。彼は知らないのだろうか? ブレヒトがわざわざ彼のために書いてくれたと思われる考えかたを。/「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどというのは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるかというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)〉――「ブレヒトからR・Bへの非難」
 バルトが上に引いている警句にも、どこか奇異な言葉の揺れ動きがある。そしてバルトは同断章の末に、政治的な言葉が反復されずにすむ(手垢に塗れ固定したものにならずにすむ)、まれな条件を三つ上げている。その中の二つ目はブレヒトに関わる場合(それも「控えめな場合」)として、こう言及する――〈著述者が、ことばづかいというものについて単に《知的理解》さえもっているなら――みずからの生む効果についての知識によって――厳密でありながら同時に自由な政治的テクストを生みだせばいい。そういうテクストは、すでに言われていることをあらためて発明し変容させるかのように働き、自身の美的な特異性のしるしについて責任をもつことになる〉。さらにまた、以下は別の断章で詳述されているもの。
〈ブレヒトの場合、イデオロギー批判は、《直接的に》おこなわれているのではない(さもなければ、それはまたしても、しつこい、同義語反復的な、戦闘主義の言述を生み出す結果となっていただろう)。それは、美的な中継を経ておこなわれる。反イデオロギーが、ある虚構の下に身をひそめるわけだ。リアリズムの虚構ではなく、《適正な》虚構にたよるのだ。たぶん、ここにこそ私たちの社会において《美的なもの、美学》の演ずる役わりがあるのだろう。《間接的でしかも他動詞的な〔現実に働きかける〕》言述のための規則を提供する、という役わりである(そういう言述は言語活動を変形することはあるけれども、みずからの支配力、みずからの善意を掲示したりはしない)。〉――「イデオロギーと美学」
 《美的なもの、美学》? 危機が切迫している現状において、それは慎ましいもの、どころか全く呑気で欺瞞的なものに響くだろうか? たしかに、あたかも外部の喧騒から逃れることができるかのように自律性を誇示するだけの言葉を書くだけならば、そうだろう。しかし、言葉を読む/書くという思考の次元というものがあるとするならば、それは、実際に身体が生きている現実から影響をつねに被り続けながらも、現実の生に対して謎めいたずれや断層を幾重にも孕んでいるものだ。言葉は現実そのもの(出来事やそれぞれの生)に対して、直ちに結び付くことはない――「早すぎる、遅すぎる」。ましてやそれが、当然のように久しく繰り返されてきた愚劣を打ち破るために、現在に介入しようと試みる言葉であるならば。もちろん、短絡的に大多数の人々に動員を促すことは、つねに心許ない。その意味で思考、言葉にできることは、あまりに慎ましいものだ。
(240110)
 ブレヒト=バルトの教え。リアリズムではない《適正な》虚構が、具体的にどのようなものであるかは、引用したバルトの文章からはそれ以上詳述されていないが、彼によれば《間接的でしかも他動詞的な》言葉は、読む者の言語活動を変形させる。さらにまた、その言葉によって語られる物事は、反復され自明視されたものとしてではなく、つねに奇異なものとして示し出される(再発見される)。出来事は、つまり、変容可能性に開かれたもの(変化の兆し)として見出される。
 おそらく、美的なものは、あらかじめ自律的なものとして創造されるのではなく、まず第一に外との折衝がなければ生み出されえない。どこまでも「政治的な」現実に対峙しながらも、現状を掻い潜るように揺れ動き、読む者の言語活動(思考の動き)を変形すべく働く言葉――現実に働きかける「問い」となる言葉を、いかにして書くことができるか。
 ここでふたたび、書く身体と読む身体の問題に帰ってくる。
《僕は一体的な作品群〔body of work〕を作り上げたいと考えたことは一度もない。ただ、僕らの体〔body〕――息をする、説明の付かない存在――を作品の中に保存したいとは思う。》
《偉大な本は政治的なものから自らを“解き放ち”、差異という障壁を“乗り越えて”、普遍的真理に向けて人々を一つにする、と人は言うだろう。それはとりわけ、技巧を通して成し遂げられる、と。では、その方法を具体的に見てみましょう、と人は言う――まるで、そうして組み立てられるものが、それを作った衝動とは切り離されるかのように。まるで人間の姿形を考慮することなしに、最初の椅子がこの世に現われたかのように。》
 ――オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』
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ari0921 · 1 year ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)11月11日(土曜日)
    通巻第7995号
 「プーチンの頭脳」と言われた、あのロシア思想家はいま
   NATOをフィンランド化、中国を分裂させ、日米同盟を離間させよ
*************************
ロシアの政治思想家アレキサンドル・ドゥーギンは、その後、どうしているか?
かれは「プーチンの頭脳」とまで言われた。娘のダリアが父親の車で走行中に爆殺され、身代わりになったと言われた。この狭隘なロシア民族主義を謳う思想家は、しばしなりを潜めていた。
 ドゥーギンの娘ダリアはギリシア思想史に詳しく学生時代には父親の思想とは距離を置いたが、しだいにロシア地政学と民族主義に接近し、ウクライナ侵攻作戦を支持する言論活動を展開していた。
 2022年8月20日に起きたダリア暗殺は、ウクライナのSBU(保安庁)の仕業と見られるが、犯人として手配されたのはアゾフ大隊の流れをくむ活動家だったともいう。享年29歳。
 ドゥーギンは明確なロシア至上主義を唱え、「プーチンのイデオローグ」と言われるのだが、最近の発言で「ロシアの真の同盟国はイラン、北朝鮮、ベラルーシといった『のけ者国家』だ」と自嘲気味な発言もしている。
彼は「���代のドストエフスキー」、「右翼のトロツキー」、「正教会の修道士」、「第二のラスプーチン」、或いは「もう一人のトルストイ」などと毀誉褒貶が激しい。
 ひと頃のドゥーギンンはパラノイア的な地政学を主唱し、「カリニングラードをドイツに返還し、NATO諸国をフィンランド化し、日本に千島列島を返還し、日米同盟を亀裂させて日本をロシアの同盟国とせよ。中国は分裂させるべきだ」などと唱え、その神秘主義あるいはオカルト的妄言は、パラノイア民族主義、あるいはウルトラナショナリストとも見られた。
だが、ドゥーギンはプーチンの側近でもなく、クレムリンとの絆は殆どなく、「プーチンの頭脳」というのは宣伝でしかない。
ネットのインフルエンサーとして、むしろ娘のダリアの影響力のほうが強かった。暗殺標的はドゥーギンではなく、テロリストは最初からドゥーギンの娘をターゲットとしていたとは佐藤優氏の分析だ。
 ▼オカルト的な神秘主義をプーチンが好むだろうか?
かれは多言語に精通し博学で社会理論、難解な文学、規範哲学に精通している。
ハンティントンの文明主義からアレイスター・クロウリーの悪魔主義、極左サンディカリズムから極右伝統主義と多彩なアプローチに対応してきた。モスクワ大学で教授を務めたほど博学だった。
ドゥーギンは基本的にはニヒリズムに立脚し、反自由主義革命を公然と呼びかけ、国際秩序の終焉を予言し、西側に対する完全な嫌悪感を示してきた。だからロシア人の愛国者でもドゥーギンの思想に戸惑いを感じた。
ドゥーギンの哲学的発言や政治的思想は、古典的な地政学、伝統主義、オカルティズム、フランスのポストモダニズム、ヨーロッパのニューライトなどの受け売り部分が濃厚にあって、もしプーチン大統領との共鳴部分があるとすれば、「新ユーラシア理論」である。
新ユーラシア主義を主唱するドゥーギンの考え方は、ロシアが「モンゴル帝国」のような伝統主義的なユーラシアの宗主となって、近隣諸国を包摂し統合することを理想とする。
この新ユーラシア主義がプーチンの外交政策立案に直接的影響を持ったことはない。
けれどもロシアに対する西側の長年の敵意、伝統的な陸上大国と海洋大国の間の避けられない戦い、邪悪な外国勢力によるロシア社会の転覆などとするドゥーギンの被害妄想的な地政学的分析が、プーチン政権の基本的な西洋観、歴史観と類似性があることは事実だろう。
ドゥーギンは2023年2月24日、珍しく日本のTBSのインタビュー���応じ、「ロシアが勝つか、人類が滅びるかであり、ロシアが勝てば世界は平和になる」と神秘主義的預言をしている。
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monogradation · 11 months ago
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欲みたいなものが僕は本当に無くなった。ニヒリズムというのだ。脳でなにかの病気が進行していたりしてね。
自己実現みたいなのを目指してる人を応援スべきだという理性は残ってる。
でもその応援にリアリティはない。
暇から逃れたい?それはあるのかな。
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soku812 · 1 year ago
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Art and Fashion Photography: A Japanese Renaissance Hayashi Fumihiro   今の日本に、本当の意味でのファッション・フォトグラファーは、僅かな例外を除いて存在しない。広告写真の影響力が強い日本の写真界では、広告、芸能といった商業写真での成功が、ほとんどの写真家の目標であるといっていい。ファッション写真は、広告カメラマンになるためのプレゼンテーションに過ぎない場合が多く、ファッション写真だけを撮り続ける写真家は皆無といっていい。さらに、欧米の文化、セレブレティーに対してコンプレックスの根強い日本のファッション写真界は、海外でこれほどまでに日本文化が注目されているにも関わらず、欧米の有名写真家の表層的な模倣に執着する。そのことは、東京の街に��濫するファッション企業のビルボードや広告ポスターを見れば一目瞭然だ。日本人の白人コンプレックスは根深い。また、最近のファッション誌は、ユニークな才能を持つ新人のファッション・フォトグラファーの作品よりも、素人の芸能人、スタイリスト等の知名度のほうに価値を感じるようである。大多数の日本の雑誌のファッション・ページは、美意識やクオリティーに対する判断力を利益至上主義で失ってしまい、さもしいカタログ的な自己顕示欲の坩堝と化してしまった。   ただ、これは90年代後半、バブル経済崩壊から続いた経済的不況に影響された、日本の“失われた10年間(ジャパニーズ・ロスト・ジェネレーション)”時代の話である。この10年間で、日本人の美意識、倫理観、価値観は、大きく変化、堕落し、虚無主義と拝金主義が世の中全体を覆っていった。そして、壊滅的なモラルの崩壊、無秩序な混沌が極まった今やっと、日本文化は、ルネッサンス的な新しい変革の時代を迎えようとしている。その最も大きな流れは、まず白人コンプレックスからの脱却から始まった。子供たちを熱狂させるマンガ、アニメーション、コンピューター・ゲームなどのオタクカルチャー、健康志向からの日本食や禅、高性能のハイテクノロジー、海外の人々が伝統文化のみならず、日本の現代文化に大きく影響を受ける現状を実際に感じた、欧米(特にヨーロッパ)で教育を受けたクリエイター達の帰国は、その変革の重要なきっかけとなった。彼らは、海外の地において、“オリジナリティーとは何であるか”という事を徹底的に教え込まれる。そのことは、自分は日本人であるという事を強烈に再認識させることになる。欧米文化への憧れ、模倣ではなく、欧米文化との違いが創造の源であることに気づくのである。彼らが、影響を与える時代、ポスト・ロストジェネレーションが始まったのである。今考えれば、“失われた10年間”は、DJ的なサンプリング・カルチャーとアメリカ的な大量消費文化に、日本のファッション界が大きな影響を受けた時代であったと言えるのではないか。サンプリング、コラボレーションという心地よい英語のフレーズによって、模倣に何の疑問を持たなくなった日本のファッション界は、オリジナリティーを片隅に追いやり、業界自体を異形で未熟な物質主義に変容させてしまった。   このような、現在の日本のファッション写真界を取り巻く状況を理解した上で、読んでもらいたい。   日本のファッション写真の大きな転機は、やはり90年代であった。そして、この90年代の東京のイメージを決定付け、その後の日本の写真界全体に、最も影響を与えたのがホンマタカシであろう。日本人独自のロリータ趣味を全面に押し出した現実感溢れるポートレイト風のファッション写真は、アートとファッション写真、ドキュメンタリーとファッション写真の融合であり、彼の写真から���烈に感じられるニヒリズムは、近未来の日本への警鐘のようであった。無機質に殺菌されたシステムの中で、自らのアイデンティティーを見失い、凶暴なグローヴァリズムに翻弄される日本への、誰しもが持つ漠然とした不安、終末の予感。ホンマタカシの写真は、ジャンルを超えて多くの人々に支持され、多くのフォロワーを生み出す。今や日本を代表する作家となった、ヒロミックス、佐内正史、本城直季らは、多かれ少なかれホンマタカシが切り開いたスタイルの延長上に独自の世界観を築き上げたといっていい。そして、彼の広告、アート、ファッション、ヌード、グラビア、建築、編集、映画等のあらゆる分野へボーダレスな進出は、良しにつけ、悪しきにつけ多くのカメラマンの指針となったのである。   もう一つ、90年代の日本のファッション写真に大きな影響を与えたファッション誌が、パリで出版されるPURPLE誌である。アートとファッションの融合をテーマに、一貫したインディーズ・スタイルで数多くの新しい才能を世に送り出してきたこの雑誌は、日本のカルチャー、サブカルチャーにも早い段階から興味を示している。そのため、日本人アーティストも多く参加しているが、その中でも別格なのが、このPURPLE誌で創刊以来、ファッション写真をとり続けている鈴木親であろう。鈴木親は、今の日本では数少ない純粋な意味でのファッション・フォトグラファーであり、世界に通用するオリジナリティーを持ち合わせている。彼のファッション写真は、マルタン・マルジェラに代表されるアントワープ系の内向的なデカダンスの影響を色濃く受けながらも、日本の伝統的な文化の品と静謐さを感じさせる。そこには日本人しか表現する事の出来ない情緒がある。彼は、ファッション写真家であることにこだわり、ファッション写真と作品以外は、ほとんど撮影しない。商業主義一辺倒の今、鈴木親の隠者のような撮影のスタイルは、彼のオリジナリティーを磨き上げた。その独特の色彩と間を感じさせる作風は、世界に影響を与えるファッション写真家になることを予感させるに十分である。   ただ、このような日本のファッション写真界の曖昧なあり方は、決して悪い事ばかりでもない。その、通過儀礼的なポジションから、様々な分野の写真家がファッション写真を撮るために非常に多様性のあるものになっている。例えば、アフリカ、中東、東南アジア、南米等の“滅びゆく少数民族”のポートレイトの作品で、ファビアン・バロンに絶賛され、写真集“TRIBE”を出版した小林 響は、欧米のファッション界では、90年代最も評価された日本人写真家であろう。荒木経惟、植田正治、ヒロミックス、新津保建秀、富永民生、久家靖秀、佐内正史、石坂直樹、ザ・グレート・ザ・歌舞伎町、平野太呂、本城直季、米原康正、井賀孝といったアート、グラビア、広告、ルポルタージュ、スポーツ等のジャンルで活躍するファッション写真家以外のファッション写真���これほどまで沢山見る事のできるのは日本だけだろう。そして、ファッション写真を変革するのは、実は、他のジャンルから来た異端者の価値観である。マーティン・ムンカッチは、スポーツカメラマン。アーヴィング・ペンは、画家。ヘルムート・ニュートンは、報道カメラマン。スティーヴン・マイゼルは、ヘア&メイク。マリオ・ソレンティは、モデルであった。そう考えると日本のファッション写真界は、可能性に満ち溢れている。止まれる者の出現。。日本人としてのオリジナリティーを追求して、美意識と技術を極めた上で、ファッションという世界に魅せられ、美の本質を探究したい写真家が現れたときに、きっと日本のファッション写真界はドラマティックに変わるはずである。サンプリングの達人から、オリジナリティーへ、欧米コンプレックスからジャパニーズ・ルネッサンスへの意識の変化。それが、近い将来であることだけは間違いない。
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kennak · 1 year ago
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支持者がこういう事件を良しとしている。なぜ良しとするかと言えば、自分も賄賂を送って利権奪取したいとか、「与党とは、政治とは、こういうモノだ」と訳知り顔をしたいからとか、そういうニヒリズム
[B! 汚職] 秋本議員 議員会館で現金約1000万円受け渡しか 風力発電めぐる事件 | NHK
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xf-2 · 1 year ago
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『ドラゴンボール』の主人公・孫悟空、『ONE PIECE』のルフィなど、世代を超えて愛されてきたコミック界の人気キャラたち。最近でも『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『東京卍リベンジャーズ』『SPY×FAMILY』『【推しの子】』など、ヒット作は数多く生まれているが、かつてのような“圧倒的スター”キャラはいないように思う。その背景には、電子書籍の定着が関係しているようだ。また、支持される“ヒーロー像”にも多様化が見られる。国内最大級の品揃えを誇る総合電子書籍ストア・ブックライブに、令和の人気キャラの傾向を聞いた。 【写真】泉里香の“ナミ”に絶賛の声、爆弾たわわボディを大胆披露で「完成度高すぎ!」
■「令嬢もの」がトレンドなぜ? ハラハラより“安心感”、お決まり展開求める電子読者層
 常時1万冊以上の無料漫画を配信し、利用者数は1500万人以上に上るブックライブ。2011年のサービス開始以来、同社が牽引する形で電子書籍が徐々に浸透し、コロナ禍でさらに加速。斜陽と言われ続けた出版業界だったが、急伸した電子書籍の売上により、21年には市場全体でV字回復を遂げている。  いまや幅広い層が電子漫画を読む時代となったが、同社の書店員を務めるすず木さんは、人気作品の多様化を実感しているという。 「昨今は作品自体が多様化しており、分かりやすい王道もありますが、現在流行として外せない��ャンルは“令嬢もの”や“異世界転生”。とはいえ、人気作品はバラバラであり、さらには入れ替わりの早さ、消費されるスピードも早いのが特徴と言えます」(ブックライブ書店員・すず木さん/以下同)  紙媒体が主流だった時代は、作品の世界観にどっぷり浸かり、主人公が辿る軌跡や物語の行く末をじっくりと味わう読者が多かった。しかし、電子漫画が主流となり、SNS上でも作品が投稿されるようになった今、スキマ時間や移動中などでもサクッと手軽にいつでも読めることから、Z世代を中心に、分かりやすく、展開の早い作品を好む層が増えてきた。  趣味の分野においてもタイムパフォーマンスが重視される昨今、漫画にもスピード感が求められ、結末がどうなるか分からないハラハラ感よりも、予定調和な安心感が得られる作品が多い。その点、トレンドの“令嬢もの”は、婚約破棄されました、でも今は新たなイケメンに溺愛されています…、という分かりやすいシンデレラストーリーが心地良いのだろう。  また、『巨人の星』のような汗水たらす苦労ばかりでなく、「その人に合った頑張りをすればいい」という意識の変化も見られる。そもそも努力のない、いわゆる「俺TUEEEE」系だと、元々主人公は最強であり、バッタバッタと敵をなぎ倒す爽快感ある作品も増えている。 「友情・努力・勝利のような王道も人気は変わらずありますが、例えば、今春映画化され話題となった『BLUE GIANT EXPLORER』の宮本大は、サックスをめちゃくちゃ練習しているはずですが、暑苦しい修行シーンとしては描かれていない。コミック界全体的に努力の押し付けが消え、どんどんサクセスしていく姿を見たい、結果を早く見たいといった読者のニーズに沿った展開が多くなった印象です」
■圧倒的スターは不在? 従来のヒーロー像とは「真逆」のキャラが新たな人気者に
 人気作品の多様化に伴い、支持されるキャラクターも一辺倒ではなくなってきている。同社では、日々の勇気や感動、豊かさを与えてくれるキャラクターたちに対し感謝を贈る賞として、2年前に『マガデミー賞』を設立したが、ノミネートされたキャラクター勢にもその傾向が顕著だという。  これまでに2回開催され、今年で3回目。「第1回主演男優賞」には『ミステリと言う勿れ』の久能整、翌年の同賞には先述の宮本大が選出された。審査で最重要視されるのは、“今”にふさわしいか否か、ということであり、その時代を象徴する人間性を持つキャラクターが浮かび上がってくるアワードだ。  年間2000冊以上の漫画を読むというすず木さんは、初回から審査員を務めており、「読者の方々の強い推薦を��に選ばれる賞ですが、特に2022年の結果で顕著に思ったのが、“圧倒的なカリスマは減ったな”という印象です。絶対的1位はおらず、審査が難航することも多々あります」と明かす。  これは「主演男優賞」を見れば著しい。第2回受賞の宮本大(『BLUE GIANT EXPLORER』)は、世界一のジャズプレイヤーを目指す従来の熱血ヒーロー。一方で、第1回受賞の久能整(『ミステリと言う勿れ』)は“頑張らない”が、多角的な視点で、人が日頃からモヤモヤしていることを言語化して人にぶつけるという、これまでになかった新しい価値観を持ったキャラだ。令和に愛される2人のヒーローに共通点がないのだ。翻って過去を見れば、先述の悟空やルフィ、『北斗の拳』のケンシロウ、『ベルセルク』のガッツ、『ガラスの仮面』北島マヤに姫川亜弓など、わかりやすいカリスマキャラが多かった。  久能整に関しては、天然パーマで見た目は冴えず、インテリで奥底にはコンプレックスを抱え、ちょっと“面倒くさい”性格。従来の主人公の「真逆」とも言えるキャラクターだ。すず木さんは、昭和、平成、令和の価値観が混在し、様々な世代間ギャップがぶつかっている今だからこそ、支持されたキャラクターなのではないかと分析する。 「上の世代の人の言うことを聞く、決められたことに従う、と言う時代ではなく、それぞれがそれぞれの主張を発信し、上の世代も価値観のアップデートが求められる時代です。ハラスメント問題、炎上、LGBTQ問題、さらにはコロナ禍があり、人々がそれによる価値観のずれやストレスを抱える中、そういったモヤモヤを言語化してくれる整くんが時代の代弁者として評価されているのではないかと思います」
■ちいかわ人気の根底に「漫画」あり、辛い現実生きる現代人に突き刺さるニヒリズム
 昨年は、審査員特別賞に「ちいかわ」が受賞したことも話題になった。2020年にTwitter上で誕生した漫画「ちいかわ」は、21年に単行本刊行、22年にはアニメ化され、日本キャラクター大賞グランプリ、SNS流行語大賞を受賞。一過性の人気にとどまらず、現在もあらゆる分野で絶えず発売されているコラボグッズの数々は、飛ぶ勢いで売れている。その根底には、「漫画」が起因しているという。 「『ちいかわ』は単なるかわいいだけのキャラでなく、そのシュール感、ニヒリズムが上手く掛け合わさって癖になる面があると感じます。また、従来のキャラクターのようなハッピーな��界ではなく、アンハッピーな世界で生きるという、かわいい系では未だかつてなかったキャラ。その中で、不満を言わずに頑張る姿が応援したくなるのでしょう」  ちいかわは、コロナ禍の時期に誕生し、急激に人気を伸ばしたキャラクターだ。現在も物価高騰、戦争など暗い話題が多く、大勢の人々が苦しい生活を強いられている。そういった辛い現実に向き合う中、ハッピーしかないファンタジーには入り込めず、自分達以上に過酷な状況で頑張るちいかわの姿がリアルな共感を呼んでいる、ということらしい。  かように時代によって求められるキャラは変わっていく。人気アニメや実写の数多くが漫画原作であり、世界に誇る日本のキャラクター文化は漫画から生まれていると言っても過言ではない。今年も5日より、『マガデミー賞2023』の一般推薦がネット上で始まった。今回はどんな顔ぶれが揃い、いかなる世相が浮かび上がってくるのか、期待したい。
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ophelia333k · 1 year ago
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2023年5月27日 相米慎二、ニヒリズム、繰り返し
 朝、頭がぐるぐると回転する変な虫が部屋の中を歩いていて、その虫を追いかけていたら、いつのまにかその虫が黄色っぽい縞模様の猫に変わっていて、その猫を部屋��ら締め出そうとするものの、液体のようになって入り込んでくる、という夢を見た。
 ***
 相米慎二の「夏の庭 The Friends」を見た。相米慎二の映画を見るのは「台風クラブ」、「お引越し」に続いて三作目。「夏の庭 The Friends」は湯本香樹実の同名の小説が原作であることもあり、ストーリーは分かりやすく、相米作品としては比較的マイルド(?)な印象を受けた。
「お葬式どうやった? 面白かった?」
 と聞く子供に対して、別の子供が「面白いわけないやろ、人が死んでんねんで」、「お葬式は、ただのお葬式やった。ほんで、人は死ぬと焼かれるねん」と答える。
 死に興味を持った子どもたちは、ボロボロの家屋に一人で住む老人をのぞき見して、死ぬところを見ようとするものの、結果として、その孤独な老人との交流が始まり……。あと、言うべきこととしては、商業施設の柵みたいなところを歩いていくときのカットが好きだった。あとは、夏休みの生命力に溢れる雑草たちの香り。
 
 「台風クラブ」「お引越し」でもそうだったけれど、相米作品の子供の描き方は、徹底して子供視点な感じがしていい。まったく同じ場所(たとえば学校、住宅街)でも、大人が見る世界と子供が見る世界は根本的に異なっている。
 
 ただし、今回の「夏の庭」の場合は、「台風クラブ」等の作品ほど子供の側の視点が徹底されているわけではなく、いくらか大人の視点も描かれる(その意味で、「台風クラブ」はほんとうに、徹底して子供の側から見た世界なのがよくて、あの「遊び」性の火花みたいなもので、心がヒリヒリと焼かれるような感覚がある)。
 
 「遊び」性という意味では北野武の『ソナチネ』も間違いなくそうで、沖縄で次々と殺されていくヤクザたちが海岸で花火をするときの、あの一瞬の遊びにだけすべてが賭けられている感じ。あえて「台風クラブ」と比べるのなら、子供の場合は、見ている世界すべてを「遊び」へと転化することができる(たとえば「台風」)ものの、大人の場合はそう簡単にはいかず、しかし、生と死が入り混じったような特殊なあの沖縄の海岸ではそれが偶発的に起きる、と言ってみることもできる。
 
 ***
 
 思考を分節する能力が低いので、自分の悩みをほとんど切り分けられていないし、それぞれの悩みの優先順位や重要性などの整理が一切できていないので、「悩みは何ですか?」と聞かれても、どれが自分にとって話すべき悩みなのか分からない、みたいなことがよくある(というツイートをした)。
 
 表層的かつ重要なことを挙げれば「お金」の悩みというのはあって、考えている時間はかなり長い。自販機でジュースを買うとか本を買うとか映画を見るとか薬をもらうとか、自由に移動するとかそうい��ことができない、という不便さはあるものの、日本で生きている限り、衣食住��すべて失う、みたいなことにはならないので、「どうにもならない」という線を超えないという保証はある。
 
 もう少し内面的なところで言うのなら、すべてがむなしい、すべてに等しく価値がない、というある種のニヒリズムが完全に身体化されていること。別に、単なる思想や思弁として考えているだけならよいのだけど、身体感覚としてすべてに等しく価値がなく、むなしい、ということが刻まれている以上、どうすればよいのだろう。
 
 生きることにも働くことにもキャリアアップすることにも等しく価値はない、ということはずっと前からこの身体に刻まれていたことだったけれど、それでも、文学や芸術だけは特権的に価値を持っていた。人生には価値も意味もないものの、文学や芸術にはある種、特権的な価値があった。
 
 でも、今はその文学や芸術という特権的な価値すらも揺らいでいて、なぜなら、文学にしろ芸術にしろ、社会とは根本的に異なった原理で動いているわけではなく、たとえば会社や学会やスポーツがそうであるように、何らかのゲームのルールに従って価値が生じているだけだから、という感覚に抗えなくなってきたからかもしれない。
 
 サッカーはサッカーというゲームのルールに従って勝ち負けが決まるし、会社は会社というゲームのルールに従って運動し、勝ち負けが決まったり、価値が定められる。同様にして学会(あらゆる学問)であれば学会というゲームのルールに従って価値が定められ、結局のところ、芸術や文学においてもそれは変わらない。文壇、というほど固定的なシステムは解体されつつあるとはいっても、文学というゲームの内部の権力関係やルールに従って価値が定められる。
 
 だから、すべては単に既存のゲームのルールに従って上手くやる、ということでしかない。もちろん、芸術や文学の場合、ゲームのルールそのものを変更できるわけで、それは一つの光なのかもしれないけれど、それでもやっぱり虚しいな、と思う。
 
 ただ、この話はある意味当たり前のことでもあるし、すべてのことに等しく意味も価値がなくたって別にただそれだけの話なのだけど、問題なのはそうなると、この世界が根本的に無根拠で底のない、得体のしれないものとして見えてくる、感じられているということで、そのとき、意味を持たない、無根拠な世界が自分の中へと浸透してくるような怖さ、こわさ、を感じる。
 
 たぶん、自分の場合には離人症(depersonalization/derealization)の問題もその背後にある気がしていて、どうすればよいのだろう、という感じ。更に言えば、物事の「内側」に入ることができず、常に外側から眺めてしまうということに対して、唯一そうではない状態として眠剤の時間がある。
 
 離人症については、その起源がいつなんだろうと思って調べた(というより、英語版のWikipediaを見た)ことがあって、英語版wikipediaによるのなら、Henri-Frédéric Amielというスイスの哲学者・詩人が1880年に
 
「私は自分自身の存在を、あたかも墓の向こう側、別の世界から来たかのように感じています。私にとってはすべてが奇妙だ。いわば、私は自分の身体や個性の外側にいます。私は人間性を失い、孤立し、漂流しています。これは狂気ですか?」(I find myself regarding existence as though from beyond the tomb, from another world; all is strange to me; I am, as it were, outside my own body and individuality; I am depersonalized, detached, cut adrift. Is this madness?)
 
 と書いていることが一つの起源みたいで、離人症(Depersonalization)という言葉が初めて使われたのは、1898年にudovic Dugasが臨床用語として使った時らしい。
 (離人症の歴史については、Depersonalization: A conceptual historyという論文が詳しいです)。
 
 英語版のwikipediaを読むのはけっこう楽しくて、他にも「Existential crisis(存在の危機)」や、「Ethereal wave(エーテルの波)」のページを見たりしていた。
 ***
 ここまでで3000文字くらいだから、少し書きすぎてしまった。今は午前4時20分で、外は暗いのに、鳥のさえずりが聞こえてくる。
 いまは筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』を読んでいるけれど、これを読み終えたら村田紗耶香の『地球星人』を読みたい。あとは何だろう、とりあえずの目標は何とかしてお金を集めて、薬をもらうことかもしれない。
 最後に、いま聴いている音楽は、ある種のポエトリーリーディングである「ポストずんだロックなのだ」という曲。そこにはすでに自分の中では壊れているはずなのに、何事もなく繰り返し、リフレインされ続ける日常の平坦さ、世界の恒常性みたいなものが歌われていて、ポエトリーリーディングであることの強さみたいなものを感じる。
 
 
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htmillll · 1 month ago
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#自分を”観察者”と思い込んだ加害者の、妙なニヒリズムにどう対応すればいいのか
#そのうち被害者からもつくクレーム
#くそ大切やけどカスどもがやけ太る
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spreadherwing · 1 month ago
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転載、逆順
責任を持たせるのは早かったんじゃねーのってのが一方
大人気ねーなってのがもう一方で
サポート的なもんあったんだろうか。
周りの大人ェ...
それをするというかさせられる状況に置かれた不幸もあるのかもね。
点数付けちゃうのに躊躇がないってのも��うかと思うんだよね。
何かを、あるいは誰かを評価するって、マトモな神経してたら、責任を伴うわけだから、できればやりたくないくらいのことなはずなんよな。ただ権力を持つことでもあるから、それに憑かれる、あるいは支配されるのもわからんではない。
その”天”がないってことでもあるんかなあ
天に唾する方が可愛げあるもんな
年齢を考慮してもちょっとなあ
知ってか知らずか周りの人間に[自己規制]まき散らしてんだもんな。敏感な人は感じ取って悪感情抱くのも無理ないか。
ヘイト稼ぐのにも理由なくはないわな。
利己に基づいてるのに気づいてねーんだろううなあ
シレっと”評価する側”に立つのって割と最悪のニヒリズムなんだよね。
自分が公平になれると思ってるならそれこそ驕りなんじゃねーかなあ
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flmlips · 2 months ago
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ようやく口をひらいた彼は、こう続けた。「昔はどんな文明においても、誰かに一目おいたり感心したり、評価の決め手となったのは、その人が実際に生をどう生きたかでした。ブルジョワ的名誉だって、まずはかりそめの言顔にすぎず、あとは本人がそれに恥じないよう誠実に生きなければならなかった。子供の命を高く評価するってことは、その子供が将来どうなるか、利口になるかバカになるか、天才になるか犯罪者になるか、はたまた聖人になるか、まるでわからないわけですから、実際の行為に価値をおかないことになります。我々の英雄的行為や利他的行為、作ったものもしたことも、達成したことはすべて世間にとって無価値になる。すなわち、自分自身にとっても、たいして価値をもたなくなる。こうして生きる意欲も意義も失われる。まさにニヒリズムというやつです。未来ばかり見て、過去と現在を軽視する。
ミシェル・ウェルベック『滅ぼす』
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yymm77 · 2 months ago
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「葉隠」が暗示しているような死は、選ばれた死であろうか。
「葉隠」が暗示しているような死は、選ばれた死であろうか。 では 、「葉隠」が暗示しているような死は、それとはまったく違った、選ばれた死であろうか。わたしにはそうは思われない。「葉隠」は 一応、選びうる行為としての死 へ向かってわれわれの決断を促しているのであるが、同時に、その衷には、殉死を禁じられて生きのびた一人の男の、死から見放された深いニヒリズムの水たまりが横たわっている。人間は死を完全に選ぶこともできなければ、また死を完全に強いられることもできない。たとえ、強いられた死として極端な死���の場合でも、精神をもってそれに抵抗しようとするときには、それはたんなる強いられた死ではなくなるのである。また、原子瀑弾の死でさえも、あのような圧倒的な強いられた死も、一個人一個人にとっては運命としての死であった。われわれは運命と自分の選択との間に、ぎりぎりに追いつめられた形でしか、死に…
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thetaizuru · 2 months ago
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 ダグラス アダムズの『銀河ヒッチハイクガイド』は、1978年にBBCラジオドラマからスター���したSFシリーズであり、小説版第1作(1979)のタイトルである。  ラジオドラマがスタートした当初から人気があり、小説版はベストセラーになり、テレビドラマ、演劇、コミックス、コンピュータゲームなどにもなった。アダムズは2001年に死去するが、小説版の5作品は存命中に世界で1500万部以上売れた。2005年には映画化もされた。  本当かどうかはわからないが、イギリスで最初にMacを購入したのはアダムズだと言われていて、初期のインターネット文化の擁護者だったとも語られる。『銀河ヒッチハイクガイド』作中に登場する重要なフレーズというかジョークである「ドント パニック」や「42」は、SNS以前のインターネットにおいて「インターネットミーム」として認識される最初期のものの一つになったとも言われる。  「ミーム」という語は、文化現象の広まる原理を説明するために、文化の伝播を遺伝子になぞらえ、脳から脳へと伝わる文化の単位として、進化生物学者であるリチャード ドーキンスが1976年に『利己的な遺伝子』という著書の中で造語したものである。アダムズとドーキンスは友人で、共に無神論者であることを公言していた。ドーキンスの著書『神は妄想である』(2006)はアダムズに捧げられており、アダムズの「妖精が隠れていることを信じなくたって、庭は十分美しいじゃないか」という言葉が引用されている。
 去年の末くらいにイーロン マスクがインタビューで、影響を受けた作品として『銀河ヒッチハイクガイド』を挙げていて、それを聞くとなんとなく言ってることのノリがわかる気もして印象に残っていたが、改めて読んでみると何言ってんのか全然わからなくなってくるというか、わからなさをジョークにした作品である。  『銀河ヒッチハイクガイド』は、荒唐無稽な展開を起こすためにSF的な用語や形式をとってつけた「バカSF」であり、政治、宗教、社会制度から科学まで、さらにはSF自体をも風刺して皮肉った「ナンセンス文学」である。  イーロン マスクがこの本を愛読書として挙げているのは大分前からよく知られた話らしく、今年7月の、心理学者ジョーダン ピーターソンによるインタビューにお��ても、自身の考えの基礎を作った本として紹介していた。マスクはこの本を、人生に意味を見出せないと悩んだ少年期に、「ユーモアを装った哲学」として読み、「正しい問いを探すことこそが重要だ」という考えに救われたという。それを「宗教的な信念」と呼びたいならそれでもいいし、それなら「好奇心という名の宗教 (レリジョン オブ キュリオシティ)」だということになるだろうと言っていた。  このインタビューの話の流れでマスクは、自身は「宗教的(レリジャス)な」人間ではないが、キリスト教の原則はとても良いものだと思っていると語り���そこでピーターソンが、無神論者として有名なリチャード ドーキンスが最近「自身は文化的なクリスチャン(カルチャル クリスチャン)だ」と語り多くの人を驚かせたことに触れ、それについてマスクが「だったら自分も文化的なクリスチャンかもしれない」というようなやりとりがあった。  このインタビューの中でも、両者共に「WOKEカルチャー」を批判していたが、WOKEカルチャーが宗教や伝統文化、特にキリスト教文化を攻撃対象にしているのに対し、他方では、伝統的で宗教的な文化に回帰しようという、「リバイバル」と呼ぶ人もいる文化的な動きも起きている。このインタビューでピーターソンも指摘しているが、WOKEカルチャーの中心にある思想であり、近年の様々な問題の根本だとも考えられるものは、虚無主義(ニヒリズム)と、意志を欠いた虚無主義として現れる快楽主義(ヘドニズム)であり、それは反動的あるいは漂流的なリバイバルの中にもある。これは20世紀の問題に通底したものでもあり、それを予言的な正確さで指摘していたのがニーチェだった。だが、ニーチェが解決策として挙げたものは、「超人」になることという、何を言ってるのかわからない、わかったとしてもかなり無理そうなものだった。
 『銀河ヒッチハイクガイド』は、ある日地球に宇宙開発局というのがやってきて、銀河ハイウェイ建設工事の立ち退き期限が過ぎたので工事を開始すると言って地球を破壊してしまうところから始まる。その直前にひょんなことから宇宙船をヒッチハイクして生き残った地球人の主人公が宇宙を放浪するという物語である。  大昔ある宇宙人が「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」を計算するためにスーパーコンピューター「ディープ ソート」を作った。750万年かかって導き出された答えは「42」だった。皆は当然ディープソートの答えの意味が分からず、納得がいかない。ディープソートは言う。「究極の答え」に対応する「究極の問い」が分からないから答えの意味が分からないのです。しかし残念ながら私には究極の問いを計算する能力はありません。そこで代わりに究極の問いを計算する「この宇宙の時空で最もすぐれた」コンピュータを設計しましょう。  ディープソートが「問い」を求めるために設計した巨大コンピュータは生命体を取り込んだもので、あまりに大きいのでよく惑星と間違えられる。それは「地球」である。「地球」で計算を始めたが、「問い」がわかる5分前に「地球」は建設工事のために破壊されてしまう。こうして「究極の問い」は永遠に失われてしまった。
 SFでは、そこに登場するアイディアや技術などについて、科学的に「説明する」ことが求められる。が、『銀河ヒッチハイクガイド』は、そうした「説明」をもパロディ化し、ジョークにする。  常識的な約束事や論理性を無視し、壊そうとするような文学を「ナンセンス文学」という。「ナンセンス」は「意味のないもの」「馬鹿げたもの」を意味するが、ナンセンス文学の「ナンセンス」は、意味の欠如よりもむしろ意味の過剰によってもたらされる。「ナンセンス文学」の多くはユーモアを目的にしたものだが、「意味を成すこと」に���って面白みが引き出される大多数のユーモアとは反対に、「意味を成さないこと」によって成立するユーモアである。ナンセンス文学が読者に与える効果の一つは、「わかっているという思い込み」「知っているという妄想 (イリュージョン オブ ナレッジ)」を壊すということである。  人は常に何に対しても意味を求めるが、しばしばそれが過剰になることがある。相手を説き伏せたいと思っている人同士の口論などが典型だが、過剰に積み上げられた意味の大部分は、たとえ一つ一つが事実で、論理的に正しく組み合わされていても、なぜか、ナンセンス(無意味)なイリュージョン(妄想、幻想)になってしまう。積み上げられたナンセンスの中では、当然だが、意味が見出せず、虚無主義に陥る。ナンセンス文学は、それを皮肉ってジョークにする。  あらゆるものを皮肉った『銀河ヒッチハイクガイド』は、哲学的論争の風刺とも言えるものになっている。また、内と外を逆さまにして、根本からひっくり返すようなものの見方をジョークにして風刺につなげている。こうした視座の転換は、当たり前と思っていた物事を、懐疑的な目で見られるようにする。そしてそれは哲学的な問いかけを含むことが多い。  哲学を風刺すると同時に、「風刺としての哲学」ともなっている『銀河ヒッチハイクガイド』は哲学者たちを刺激し、作品の中の問いを哲学的に考察したり、作品内のエピソードを使って哲学を説明するというような本もいくつも出版されたらしい。それらを紹介し、それに加えてさらに、その時話題の哲学的あるいは科学的な議論などを説明するというような記事もいくつも書かれている。  例えば、「地球」が「究極の問い」を計算し終える5分前に破壊されてしまうというエピソードは、それだけで皮肉の効いたナンセンスなジョークでもあり、哲学的な疑問を呼び起こすような気もしてくるが、そこに哲学者バートランド ラッセルが提唱した「世界五分前仮説」という思考実験を紹介する。世界五分前仮説とは、「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説から様々な思考実験を行うものだが、この仮説は確実に否定する事ができない。つまり、世界は5分前に出来たのではなく、ひいては過去というものが存在するということを、論理だけで示す事は不可能である。例えば5分以上前の記憶があるという事は反証にならない。なぜなら偽の記憶を植えつけられた状態で、5分前に世界が始まったのかもしれないからだ。現在を「結果」とみなし、これに対応する「原因」が位置すべき過去が存在するはずだという主張、つまり「因果律」というのは論理的な必然性から導かれたものではなく、日頃の経験から無意識的にそれを前提として思考しているという類の仮定であり、因果律自体を論理的必然から導くことは出来ない。これは、事実だけを論理的に正しく並べてもなぜか「ナンセンスなイリュージョン」になってしまう理由のひとつでもある。そのため、こうした思考実験は「知識とはいったい何なのか」というような根源的な問いへと繋がっていく。世界は5分前に始まったのかもしれないし、地球の究極の目的は5分後に達成されるのかもしれないが、もう何を言ってんのかわからなくて爆発する。  『銀河ヒッチハイクガイド』に絡めて「哲学」を語る際に、多くの人がウィトゲンシュタインの次の言葉を引用している。 「   たとえ可能な科学の問いが全て答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されていはいない。そしてまさにそれが答えなのである。生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。 」 「  私を理解する人は、私の命題を通り抜け - その上に立ち - それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気付く。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子を上りきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)  私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。 」
 人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などないという考えは、すなわち「虚無主義 (ニヒリズム)」だが、意義も目的も真理も価値も、あらゆるものを皮肉った『銀河ヒッチハイクガイド』も虚無主義である。  ニーチェは、今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となる事態のことをニヒリズムと呼んだ。今まで最高の価値と人々がみなしていたものというのは、キリスト教の文化圏においては「神」であり「キリスト」が念頭にある。ダグラス アダムズは無神論者であることを公言していた。  ニーチェは、ニヒリズムという事態において、人が取りうる態度は大きく分けて次の3つだとした。一つは、従来の最高の価値を信じる精神力を失ったために、そうした価値を無意味に感じ、何も信じられない事態に絶望し、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度、「消極的、受動的ニヒリズム」である。もう一つは、精神力が高揚し、従来の価値を乗り越えてゆくがために、すべてが無価値、偽り、仮象だということを前向きに考え、自ら積極的に新しい価値を創造していく生き方、「積極的、能動的ニヒリズム」である。そのどちらも否定し、自分では何も考えずに、しかし他者からの干渉も価値がないものだと無視して生きるという態度を「無関心的ニヒリズム」とした。  ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定し、高揚した精神力と確立した意思でもって自らを創造的に展開していく「超人」としての道を切り拓くことをすすめた。
 ジョークは、人を笑わせようという、最も気高く美しい、崇高な形での人間精神の表れであり、積極的な意思である。それは必ず精神を高揚させる。面白くても、ムカつくほどつまらなくても。言った本人だけでも。
 世界の平和を祈っている。
2024年9月 オン ザ トラジェクトリー フロム ア ミラクル
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