#トラック便着払い
Explore tagged Tumblr posts
ujiki-oo · 1 year ago
Text
Tumblr media
View on Twitter
WordPress
0 notes
kennak · 1 year ago
Quote
羽田空港発着の国内線 5日も200便以上欠航 1月2日の事故発生後、羽田空港を発着する国内線は連日200便以上の欠航が続き、5日は、国内線のうち、▼日本航空が102便▼全日空が98便▼スカイマークが1便▼スターフライヤーが14便とあわせて215便の欠航が決まっています。これによって、▼日本航空で1万5060人▼全日空で1万8500人あわせておよそ3万3560人に影響が出る見込みです。このほかの航空各社も、欠航や大幅な遅延の可能性があるとして、最新の運航状況をホームページなどで確認してほしいと呼びかけています。また、全日空では、成田空港を発着する便を臨時で11便増やして運航することにしています。ダイヤの乱れは、事故の起きた滑走路で航空機の撤去と安全確認が終わり運用が再開されるまで続く見込みで、6日も▼日本航空で100便▼全日空で96便の欠航が決まっています。 能登空港は滑走路が閉鎖 5日も全便欠航 小松空港は往復3便欠航 能登空港は地震の影響で滑走路が閉鎖されていて、5日も羽田便全便の欠航が決まっています。小松空港は羽田空港の滑走路の制限により、日本航空の羽田便往復2便、全日空の羽田便往復1便の欠航が決まっています。 《鉄道》 NEW 石川 のと鉄道全線 復旧めど立たず 新幹線などは平常どおり運行 【JR】北陸新幹線と、北陸線の特急・普通列車は始発から平常どおり運行する予定です。一方、石川県内のJRでは、七尾線が高松駅と和倉温泉駅の間で線路の設備に被害が出た影響で運転再開の見込みが立っていません。JR西日本によりますと、地震で運行の取りやめなどが発生したことから、元日から5日までを有効期限に含む北陸新幹線や在来線などの切符について、払い戻しや有効期間の変更を手数料なしで行うとしています。【のと鉄道】七尾駅と穴水駅を結ぶのと鉄道は、線路などが大きく壊れ、全線で復旧のめどが立っていません。【IRいしかわ鉄道】IRいしかわ鉄道は、平常どおり運行する予定です。【北陸鉄道】北陸鉄道の石川線と浅野川線は平常どおり運行する予定です。 新潟 JRの一部区間で運転見合わせ 【JR】JRは越後線と大糸線の一部区間で運転できなくなっているほか、線路が凍結している影響で上越線の一部区間で運転を見合わせています。そのほかの鉄道各社は平常通りの運行です。【佐渡汽船】平常通り運航しています。 《道路》 「のと里山海道」と能越自動車道 一部区間で通行止め続く 能登地方に向かう自動車専用道路の「のと里山海道」では、上棚矢駄インターチェンジから穴水インターチェンジの間で通行止めが続いています。また、能越自動車道の穴水インターチェンジとのと三井インターチェンジ、それに七尾インターチェンジと富山県の高岡インターチェンジの間で通行止めが続いていて、解除の見通しは立っていないということです。 能登半島 複数の道路寸断 復旧作業進む 今回の能登半島地震で、能登半島では道路の陥没や土砂崩れなどで複数の道路が寸断されまし��。その後、応急復旧が進められ、国土交通省によりますと、4日の時点で、穴水町から輪島市役所までの区間は、県道1号と303号、271号、それに「輪島市道」を通って大型車も行き来できるようになったということです。また、穴水町から能登町役場と穴水町から珠洲市役所までの区間は「珠洲道路」などの応急復旧が終わり大型車も通行できるようになったということです。一方、能登半島の北側の沿岸部を通る国道249号は、トンネルの入り口や斜面が崩れたりするなど大規模な被害が複数あり復旧に時間がかかっています。このため、沿線の自治体のところどころで地域が孤立し、海上のルートも使って支援物資の輸送が行われています。このうち海上保安庁は、輪島港と七尾港を利用していますが、岸壁にできた段差でトラックが近づけないなど、大量の物資を運ぶのに支障が出ていることから港でも復旧が進められています。
【地震 羽田 交通影響 5日】羽田空港発着の国内線200便以上欠航 航空機が衝突した事故の影響で | NHK | 令和6年能登半島地震
2 notes · View notes
yotchan-blog · 1 month ago
Text
2024/12/2 21:00:12現在のニュース
3年連続で最も暑い秋に 気象庁、9〜11月「異常気象」 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:57:53) 従来の保険証新規発行停止、マイナへ本格移行 自治体窓口に相次ぐ人(朝日新聞, 2024/12/2 20:56:24) 「3号廃止」「基礎年金���全額税財源に」経済同友会、年金改革で提言(朝日新聞, 2024/12/2 20:56:24) 石破首相、言質与えぬ「守り」答弁目立つ 党内配慮で持論封印続く(毎日新聞, 2024/12/2 20:55:16) 富士通、AWSとの提携拡大 クラウド導入を全業種で - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:51:22) 秋田のスーパーに2日間居座ったクマ、箱わなごと軽トラックで店外へ…体長1mほどの成獣か([B!]読売新聞, 2024/12/2 20:50:18) 宮崎の鶏農場で鳥インフル疑い 陽性確認されれば3万4500羽殺処分(毎日新聞, 2024/12/2 20:47:54) クマの市街地〝居座り〟相次ぐ 環境保全進み頭数増加、捕獲には「箱わなが最適」と専門家([B!]産経新聞, 2024/12/2 20:46:07) クマに襲われた店舗、補償は?専門家「施設は火災保険適用」でも全額まかなえるとは限らず([B!]産経新聞, 2024/12/2 20:46:07) 首相「短時間正社員の活用を」 若者・女性の不安払拭 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:45:28) [社説]中小の生産性向上こそ本丸だ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:45:28) 女性正社員、非正規上回る 若手の伸び大きく 24年上半期、人手不足で03年以来 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:45:28) シャネル銀座でボヤ、イルミネーションが焼ける…高級ブランド街が一時騒然([B!]読売新聞, 2024/12/2 20:43:14) スーパーに侵入のクマを処分 わなで捕獲 秋田 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/12/2 20:42:28) 女川原発差し止め訴訟、住民側は上告せず 判断枠組み示した点を評価(朝日新聞, 2024/12/2 20:41:27) 阿蘇市の元職員、市税など計52万円着服 帳簿改ざんし隠蔽も(毎日新聞, 2024/12/2 20:40:20) 政策活動費廃止法案 立憲、今週中に野党共同提出目指す方針を確認(毎日新聞, 2024/12/2 20:40:20) 維新、前原誠司氏を共同代表に選出 「吉村代表と考え方共有」(毎日新聞, 2024/12/2 20:40:20) 「レッドライン脅かされる」産油国反発 プラ汚染防止、生産規制で溝(毎日新聞, 2024/12/2 20:40:20) 静岡県磐田市に新ホテル、庭園や温泉売り物 婚礼需要も - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:39:37) 中央発条、インドで車ケーブル合弁生産 25年12月目指す - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:39:37) NEXCO中日本社長「トンネル工事を自動化」 防災へ4車線 中部企業 針路を聞く - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:39:37) 中部の10〜12月景況感、2期ぶり改善 中経連調査 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:39:37) ジェイテクト、名古屋の新興拠点「ステーションAi」に入居 連携で事業創出 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:39:37) 公的年金、来年度1.9%増 上げ幅抑制、3年連続 民間試算 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:39:37) JTBとスカイドライブ、空飛ぶクルマの観光利用で提携 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:39:37) 名古屋の百貨店、11月売上高11%増 冬物用品に動き - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:39:37) トヨタ紡織、車シートの縫製や検査を自動化 ライン公開 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:39:37) 授業料目安「53万円」 国立大学長、維持派と改定派が拮抗 本社調査 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:39:37) JR東京駅で障害者らの作品展開始 舘ひろしさんコラボTシャツも | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/12/2 20:37:46) 島根2号機12年以来稼働へ 全国唯一の県庁所在地立地 避難の実効性課題([B!]産経新聞, 2024/12/2 20:33:40) ジェットスター、「賃金支払いミス」問い合わせたら出勤停止処分… 組合役員への懲戒「無効」と判決(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/12/2 20:32:23) マイナ保険証で救急患者確認 9日から、本人同意は不要 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:32:10) 鈴与、川崎に医療機器物流施設 輸入手配や検品にも対応 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:32:10) ベネッセコーポレーション社長に岩瀬大輔氏 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:32:10) マイナ保険証、きょう一本化 利用率なお1割台、利便性の浸透課題 従来型は最長1年有効 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/2 20:32:10) 阪神大震災の追悼行事、縮小か ルミナリエ準備でスペース制約(毎日新聞, 2024/12/2 20:32:02) 船井電機の破産手続き反対、元環境相が民事再生法の適用申請…「グループで200億円の資産」([B!]読売新聞, 2024/12/2 20:31:06)
0 notes
tsuntsun1221ts · 2 months ago
Text
2024.08 モンゴル(ウンドゥルシレット)
Tumblr media
海外旅行がしたいと思っていた頃、欧米は円安&物価高で高いためアジアにしぼり、せっかくならあまり人が選択しないであろうモンゴルへ。
ツアー会社
大手旅行会社でもモンゴルツアーは扱っておらず、またネット上でも情報はかなり少ない。いろいろ探したところ「ファイブスタークラブ」というツアー会社がモンゴルツアーを取り扱っていたので今回はそこにお世話になることに。
ちなみに現地では英語がほぼ通じない。また現地空港ではCIMカードやPocket WiFiの貸出が見当たらずネットも通じない。したがってガイド同伴のツアー旅行を強くオススメする。
4泊5日のツアーを申し込み、全てコミコミで一人当たり19万円-24万円(時期による)。今回の旅の目的のひとつでもある、遮るものがなにもない大草原の星空を満���するためには満月は絶対NG。日程調整で最優先したのは、月齢や月の出が星空観賞に影響を与えないこと。
移動(飛行機)
Tumblr media
成田や大阪からウランバートル空港へ毎日直行便が出ている。成田からだと搭乗時間は5-6時間。韓国でトランジットした方が安い場合がある(モンゴル旅行は特に韓国人に人気だとか、実際ウランバートルでは韓国人をよく見かけた)。ツアーで用意された航空会社はMIAT Mongolian Airlines。エコノミーではコンセントやUSB充電なし、モニターなし。飛行機のWi-Fiに接続すれば現在位置などは確認できるが、自分の携帯はなぜか繋がらなかった。まずおやつに何かの種(美味しい)が配られ、その後機内食でビーフorチキンが1回、ビールやワインの提供も可能。ビールはモンゴルのもので、サッポロ黒ラベルみたいな味で美味しかった。
飛行ル��トは韓国→北朝鮮を避けるように国境すれすれを通過→中国→内モンゴル自治区→モンゴルという順。上空から北朝鮮の領土が見えたが、韓国・中国では当たり前のようにある建物が、全く何も無いさら地で興味深い。また内モンゴル自治区からモンゴルにかけても同様に何も無い草原が広がっていた。延々と同じ平らな大地が広がるのみ。
入国審査は顔写真と指紋登録(両親指・左手指)と宿泊場所確認くらいで、���顔で「サンバエノー(こんにちは)」て言えば温かく対応してくれる。日本への入国よりかなりザルで、入国カードも書かなかったし荷物検査もされなかった。モンゴルは犯罪の温床になりにくいのか?
移動(車)
まず空港で出迎えてくれたのが、英語が話せる通訳(日本語は☓)と運転手の2名。本来なら日本語話せるスタッフが来る予定だったのだが、あとからきいていろいろトラブルがあったらしく、この日だけの代打。空港からウランバートル市内まで車で1時間(空いていれば40分だが渋滞のため)。空港の周囲は大草原。
Tumblr media
ウランバートルが前方に見えたときは、まるで砂漠の中のオアシスのように突然と大都市が現れる。1日目はウランバートル市内のホテルに宿泊し、移動のみで終了。
2日目以降は日本語が話せる本来のガイドさんが案内してくれた。ウンドゥルシレットへは当初の予定だとウランバートルから4時間(200km)とのことだった。実際は幹線道路を2-3時間、そこから外れて不整地の道を2-3時間。ガイドさんも初めて訪れる場所とのことで、特に不整地の道で迷い6時間以上かかったような。
Tumblr media
幹線道路。ウランバートルからまだ近いため道路脇にポツポツと建物が建っている。離れると草原しかなくなる。ちゃんと舗装されている真っ直ぐな一本道で、80-120km/hと高速道路並みにスピードを出している。
Tumblr media
幹線道路とはいえ周辺には当たり前のように家畜が放牧されている。もちろん道路と草原を隔てる柵のようなものは無い。ご覧の通り道を塞がれることも(対向車が)。
Tumblr media
不整地の道は大草原のど真ん中を突っ切る。周囲には何も目印など無いのに、どうして行きたい方角がわかるのか不思議に思うが、初めて通る道でも勘でなんとなくわかるらしい・・・マジで理解不能。
ガイドは見ていなかったよう��けど、こんな道でもGoogleマップにはちゃんと登録されているのがまた面白い。
Tumblr media Tumblr media
不整地でもマシになるとこんな感じで平坦な箇所あり60km/hほど出せるが、基本的には凸凹が激しく20-40km/hがやっとのノロノロ運転である。このため不整地の道は幹線道路よりも距離が短かったにもかかわらず通過にかなりの時間を要した。
Tumblr media Tumblr media
周辺に家畜は当たり前のように存在する、慣れて全然めずらしく亡くなった。
Tumblr media
牛に道を塞がれた。牛は車を認識しているがびくとも動こうとしない。だけど車から人が降りて追い払うと動いてどっかへ行く。
ウンドゥルシレット
モンゴルの草原への旅先として最も有名なのがテレルジ。大体の観光客はそこへ行く。一方ウンドゥルシレットは旅行客の中でも日本人しか知らないとのこと。クボタのCMや、椎名誠監督の白い馬という映画のロケ地になったことから日本人の間でのみ知られうようになったらしい。このことからキャンプ場を管理しているのもここで10年以上暮らす日本人で(経営はモンゴルの会社)、食事も日本人の好みに合ったようなものが出てくる。ただし案内してくれたガイドはいろいろ気に食わないところあるみたいで、例えば本来ならもう少し気を���けてくれるはずだとか(日本人特有の、他人との適切な距離感によるもの?)、食事も高すぎるとか(一食あたり1500-2000円、市内の2-3倍、まあ辺境の地だし)
延々と広がる草原を車で駆け抜け、ウランバートルから6時間ほどかけて到着し、まずは遅い昼食。自分たちがシーズン最後の客とのことで貸し切りだった。自分たちの滞在中、ガイドさんも同様にゲルで過ごし、食事も一緒に。
Tumblr media
宿泊者様のゲルは14棟。これとは別にスタッフ用のゲル、トイレ・シャワー棟、食事棟がある。トイレは水洗、シャワーの水流は極めて弱いがお湯はちゃんと出る(夕方の指定時間のみ)。
Tumblr media
周囲は山(というより丘?)
Tumblr media
キャンプ場のすぐ近くにはトーラ川が流れる。離れてみるとキレイだが、近くまで寄ると薄茶色に濁った濁流。流れは意外と早く、日本の大きな河川と同じくらいだった。数日前に大雨が降って増水しているらしい。この川は遠くウランバートル市内を経由しロシアの方まで流れているらしい。
山と川に囲まれキレイだが、このような地はモンゴル内であれば他にいくらでもあるような?もっと市内に近いところとか。なぜこんな僻地がロケ地になったのか。でもこんな広大な大地で良く見つけたな。ウンドゥルシレットには2泊3日の滞在だったが、雨・晴れ・快晴と異なる気候で光景は異なる。登山時の景色のように、ずっと見ていても飽きない、とても美しい場所。
乗馬
Tumblr media
2日目ウンドゥルシレットに到着した日と、3日目は一日中乗馬。モンゴルですることと言えば、乗馬しかない。キャンプが近くの遊牧民から馬を借りてきて、遊牧民が乗る馬に先導され後ろをついていく。ヘルメットとゲイターは貸出あり。ゲイターをはめるため底が平べったい靴は☓。
馬の後ろには絶対に���たないこと。乗馬中に草を食べようとしたら手綱を強く引っ張り阻止し、上下関係を叩き込む必要あり(馬が歩かなくなる)。
アブミは足のつま先と中央の間くらいで踏むとちょうど良い。鞍の前の方に座ることを意識。少し空気椅子みたいにすればおしりは痛くならない。
基本は常歩で、速歩を通り越して駈歩は慣れた頃にすこしだけ(人間の方が疲れるので初心者は1分くらいが限界か)。大草原を馬で自由に駆けれたらすごく気持ちいいのだが、それができるのは一瞬。
往復2時間でくらいでゲルから2-3km歩いたか。往路よりも復路の方が1.2倍ほど速度が早くなる(馬が早く帰りたくなるため、とのこと)
乗馬中、バイクに乗って馬を探している遊牧民と出会う。よくどこかへ行ってしまうらしい。人にも夜が、遊牧民は馬を100頭とか多く飼っていても、顔を見れば自分の馬か判別がつくんだとか。一応焼きごてで体に印はつけている。遊牧民でもお金持ち多いみたい、車やバイクは当たり前に持っている、むしろゲルを移動させるために今は必須アイテム?家畜の迷子以外でも草原で出会った遊牧民とは必ずと言っていいほどおしゃべりする(おそらく初対面でも)登山で挨拶するみたいなものか。
最初はゲルも家畜も珍しかったが、ここで1日過ごせばそれが当たりまえの生活だと気がつく。
Tumblr media
どこからか犬が湧いて現れた(牧羊���?)。だいぶ人懐こく遊んでほしそうにちょっかい出されるのだが、病気など持っている可能性もあるので残念ながら触れ合ってはいけないとのこと。自分たちと遊んでもらえない代わりに、馬の行く先に先回りして自分たちが来るのを待っている。
1kmくらい離れたところのゲルに遊牧民訪問、ミルクティーとお菓子、酸っぱい何か(現地の食べ物、ホエイを固めたもの?)でおもてなし。水はどこでも掘れば地下水が湧くらしい。ここのお父さんは30年前日本の仙台で2年間ジョッキーやっており、ごく僅かな日本語なら話せた。日本の写真も何枚か飾ってあった。多い人は年4回とかゲルを移動させる人もいれば、まったく移動しない人などそれぞれ。モンゴルでは役所が今どこに誰がいるか一応把握しているとのこと。これから移動をするため場所を予めとっておくこともするらしい。
ゲルを出るとき頭をぶつけた、いいことが起きるという言い伝えがあるらしい(やはり昔からみんなよくぶつけるということか)。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
気球
0600集合し気球の準備。トラックからバスケットを下ろし、バルーンと接続→バルーン広げる→風を送る→燃焼でさらに広げて立ち上げる。4人乗りでも気球自体は20数mの高さ、ビル6-7階の高さと大きい。8人乗りバスケットもありその場合はバルーンの体積も3倍(高さ1.5倍)の大きさとなる。スタッフが準備している間は周囲のモルゲンロートを眺めている。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
3人で乗り込み、とてつもない高度感、今年最高高度1500mまで上昇したが、言われるまで気が付かなかった。知らない間にそこまで上がっていた。
Tumblr media Tumblr media
トール川の蛇行、もともと川が流れていたであろう地形跡、丘、ゲルなどを一望。ゲルは周囲より少し高い場所に建てているのがわかった(遊牧民も初めて来る場所はどこが浸水するなどわからないため)。遠くには途中で通過したウンドゥルシレットの小さな村、朝日などなど。
Tumblr media Tumblr media
風に乗って移動するためどれだけ速い風でも相対速度ゼロで無風。高度差による気温変化はあるが風は感じないため、そこまで寒さを感じない。
Tumblr media
車で気球や人間を回収するため、地上では運搬トラックが追尾している。
上昇下降も気球が反応するまで一定の時間差あり、強制ベントでも同じ。高度によって風の向きや速さ異なり、それを読みながら運転する。今回の気球のパイロットは女性、旦那さんと一緒に競技気球をやってるとのこと(決められたゴール地点にいかに早く精度良く着陸できるか競う)
着陸時が最も危ない。地面と接地する際「想像の5倍は衝撃が来るからとにかく注意」とのこと、実際ドカンと何度もバウンドして、地上スタッフ総掛かりで気球を抑え込んでようやく停止。落ち着くまではバスケット内にしゃがんで固定器具をしっかりと掴む。横転する車の中にいるかのような感じ(実際横転して止まった)。
気球をトラックに収納し、自分たちも同じトラックに乗ってゲルへ戻る。気球はオプションでひとり3万円と最初は高いと感じたが、終わってみれば十分に3万円の価値あり、係留気球とは全く異なる世界。滞空時間40分くらいだったか?ただしめちゃくちゃ怖い。バスケット内で人が移動すると高高度でグラグラ揺れる。
星空
モンゴル旅行の大きな目的のひとつ、周囲にひとつも光源なく、遮るものがない草原で真の満点の星空を見る。気象に恵まれ雲ひとつもない快晴、新月ではないものの、月はまだ出ていない時刻。360度の地平線まで星が見えるのはモンゴルならでは。流星が3-5分に1つ流れる。ゆっくり移動する人工衛星は5つほど発見した。1時間くらい眺めていた。重要なのは月光で、満月の有り無しで見える景色はだいぶ違うかも。満月でなくても月の明かりの影響は多少あるため、月齢や月の出の時刻を確認して日程調整するのが良い。ゲルより銀マットの貸出あり。草原は冷えやすく時期によってはひざ掛けなど持ってい���たほうがいい。
ウランバートル観光へつづく
0 notes
bailonglee · 8 months ago
Text
【満洲・北京引揚体験】「現在の北京から引き揚げた105世帯は、日本に到着した時には3世帯だった」
youtube
頭でっかち、理屈だらけ、殴り合いすらした事ない、ホワイトカラーは、
軍備増強
を叫ぶ…
サステナビリティだか何だか知らんが、
現実を見ろ!、大卒のくるくるパーども。
これが、
戦争だ。
戦争とは、殺し合いだ。
目を覚ませ、耳かっぽじって、戦争体験者の話を聞け!
次日本がまた戦争したら、間違いなく、本土決戦、次こそは、
日本人は皆殺しにされます。
何が国益だよ、おまえらは戦いの何たるか知らず、俺たち庶民に、実際の殺し合いをさせた。
次、本土上陸されたら、てめらの温かいオフィスも、国会議事堂も、鮮血で染まる…
庶民だけじゃなく、作戦だの寝言こいてきたてめえら上級な国民も、皆殺しだよ。
その時になって初めて、
『戦争は良くなかった!!』
と後悔しても、もはや日本は無くなってんだよ。
プライド叫ぶ軍備増強の馬鹿どもよ、
現実を見ろ!これが戦争だ。
��静になれ。
いくら成長良くなったとて、体のでかい西洋人と、殺し合いで勝てるわけないだろが!
馬鹿なのか?インテリ層は全員?
合気道の、精神しかないんだよ。
戦う者は、必ず負ける。
そうではなく、皆が皆、自分を高める事を考えればいいと思う。
全体主義、合理主義、数の論理、金の亡者、西洋人の真似して、西洋人の土俵で、我らアジア人が勝てないのは、当たり前なんだ。。
私達の、路線をゆきましょう。
西洋的価値観を、無視だ。
それは、長い憧れだったのかもしれない。
だがしかし、我らの目は青くないし、肌も白くない。
そしていくら忖度し、背伸びしようが、永久に目は青くならないし、肌は白くならないw
顧みましょう。
私達の良さを。
気功を知り、易経や陰陽道を知り、木の家を愛し、自然を楽しんだ我ら日本人。
何を西洋にいつまで憧れる?
電気じゃなく、行灯でもいいはず。
私達が西洋人にイエローモンキー言われるなら、西洋人はさしずめ、
白い豚どもだよ。
ま、悪口はお互い良くないw🤣
要するに、お互い過干渉すべきじゃない。
憧れも、もう要らないでしょ。
私達は、私達がストレスなく生きれる、そんな世の中を目指しましょう。
西洋的インフラを全て失っても、牛や馬は、助けてくれる。
未開人言われたとこで、地球🌏を捨てた西洋人より、よっぽど日本人は🌍を愛してるんだ。
アメリカは、下手したら砂漠化するんじゃないか?
もうそうなったら、私達はおしまいだと、もう一度、頭を冷やし、私達は地球🌏の動物であり、決して機械ではない事、思い出した方がいい。
歴史上、同じ失敗を繰り返すのは、バッタ並みの知能、
いくら東大や京大出ようが、馬鹿は馬鹿なんだ。。
追記:
私は1967年生まれ。
七五三は綺麗な洋服を着せられ、ラジコンを買ってもらい、プラモデルを買ってもらい、肉はたらふく食い、日曜日は遊園地に連れて行ってもらってた…
今考えたら、まるで王様のように育ったw🤣
改めて、父や母の戦争世代を、想う…
そんなみじめな敗戦下、物も、食料も無い…
だからこそ、働いた、子供を持った、子供に贅沢をさせた、自分達が子供の頃、何も無く、虚しかったから。
だから、私は過去の私が、恥ずかしい…
父と揉め、18歳で家出した。
だから、わかった…
いかに、金銭面では、贅沢をさせて貰っていたかを。。
だから、56歳、父は亡くなり、思う。
金銭面で、必死にくれた、父母。
だとしたら、僕らの世代は、
『心の面での、日本回復』
に、尽力をしたいね。
焼け野原の、敗戦日本。
そこに心の回復など、まだまだ無い…
闇トラックが物資運び、少しずつ、食生活は回復した。
でも、その反動で、日本までもが、物質主義、金の亡者大国になったんだ…
高度経済成長、乱れた男女関係、西洋文化、ゴーゴーダンス、コインロッカー・ベイビーズ…
バブルとは、決して良い側面だけじゃない…
そんな闇も、あった…
僕らは西洋人に憧れ、西洋人になろうとした。
お人好しの我ら日本人は、明治以降、2度も同じトラップに引っかかった…
第一次世界大戦。
日本は、漁夫の利を得た。
繊維、紡績が盛んだったイギリスが戦争し、物資不足で、その調達先が、日本になった。。
1919年、日本は牛や馬を追い払い、自動車を走らせ、第一次世界大戦で、儲けたわけだ…
《大国にならねば!》
…しかし、日清戦争も、日露戦争も、ユダヤに金借りてまでして、勝った。
しかし、内需もボロボロ、物資もボロボロ…
要するに、イギリスやアメリカのトラップに、まんまと引っかかった…
そして、敗戦後の、高度経済成長。。
経済大国になるかと思いきや、
日航機123便虐殺事件、消費税開始、プラザ合意…
そしてパンデミック、ワクチン接種…
我ら日本人は、アメリカ、イギリスに、持ち上げられては、叩きつけられ、持ち上げられては、叩きつけられた、2回も!!!
簡単な話。
福沢諭吉を西洋に連れ回し、世界中の女を抱かせ、梅毒にもなりw🤣、富国強兵を打ち出させた。。
大日本帝国をかかげ、西洋かぶれ日本が、誕生したわけだ。。
私達日本人が、ストレスを感じない社会に戻すのが、先決。
それには、我々一人一人の自立、西洋インフラからの、離脱だと思う。
簡単な話が、AmazonやTemuの中華粗悪品の拒絶、自家発電の開発、1日1食、そんな地味な活動こそ、西洋インフラにとり、悪夢だと思うw🤣
毒親たちが、一斉に受験社会からの離脱、不登校中学生を、許容。
そして、新しい食生活、新しいインフラ。
私達庶民が、変わる。
グローバリストたちは、ぶら下げた人参を追いかけない日本人には、困り果てるだろうw🤣✨
人民服を捨て、アメリカ人のコピーみたいになった、中国人たち…
アメリカに戦争で勝ったが、まるでアメリカ人のコピーみたいな生活習慣の、ヴェトナム人たち…
じゃあ日本は?
アダルトビ��オの次は、港区パパ活…
せどり、転売などの、詐欺まがい…
最終的には、家に引きこもり、ゲーム、働かない…
これが、アメリカかぶれの結果じゃん、答えはもう見えてる。。
日本は、自滅を始めたんだよ…
だからこそ!!!
修験道、修験宗であり、合気道なわけ。
肉体、なんだ。
人間は、肉体を使い、生きる生き物。
日本人の多くは、それを知っていたはず。。
自立であり、回帰だ。
西洋人の中ですら、禅の素晴らしさを知る人らも、増えた。
西洋人が絶対にしなかった、
“内観”
、己を見つめ直し、己を高める…
日本人はそれが出来てたのに、失ったんだ。。
簡単な答え、失ったんなら、また取り戻せばいい😉✨✨✨
0 notes
benikonikoniko · 2 years ago
Text
代行業者を通さない魔法少女系玩具タオバオ個人輸入レポ
⚠️注意⚠️
ここに書かれている内容はすべて2023年6月現在の情報です
これを読んで個人輸入をされてトラブルが起こっても当方は一切責任を負いません すべて自己責任の上行った個人のレポートというか日記というか覚書みたいなものです
Tumblr media
今回買ったものです まじかわいい
・必要なもの
タオバオアカウント登録用電話番号、トラブルがあっても中国語or英語で対応する気合、翻訳アプリ、日本のクレジットカード、心の余裕
・代行業者を通さないメリット
→料金体系がわかりやすい、手数料と送料を水増し増しされない
前に何もわからず代行業者使ったときは相場の倍近く送料取られたので
→セール・クーポンの適用ができる!
・デメリット
→トラブルが起きたとき全部自分でやらないといけない これは気合と翻訳アプリがあればわりとどうとでもなると思う
これが無理なら素直に代行業者に頼みましょう、安心を金で買おう
→今回大きいセールのタイミングで買ったので荷物のロスト等の���ラブルが起きる可能性があった
・登録はアプリから
→タオバオはアプリから登録するとアカウントロックされにくい(らしい)
→アカウントロックされると自力で問い合わせして解除してもらわないといけないみたい、英語は通じるらしい
・日本のクレカを使えば商品代も送料も日本円で支払える
・国を日本にしておけば商品価格に日本円も併記される
→TTSレートに為替手数料が上乗せされている?その日のレートベタ計算したよりは高い
→不正利用が心配だったのでわたしはLINE payのバーチャルプリペイドカード(VISA)をつかいました(銀行口座登録と本人確認が必要 審査は数時間で終わる、入金したぶんだけ引き落とされるので安心、おすすめ)
・天猫マークのあるセラー、商品を選ぶと安心
→いろんな厳しい審査をくぐりぬけたちゃんとしたセラーなので、ソシャゲ会社の公式ショップとかはだいたいこれ
→コスプレ衣装とか公式ぬいを扱うセラーは、有名なところでも天猫マークがないところがあるのでそこはレビュー口コミ等で自己判断
・日本への発送に使ったのはタオバオ公式転送サービス・官方集运
→運送業者は菜鳥(ツァイニャオ)と佐川急便
→複数のセラーで買った商品を上海の倉庫でまとめて、一括で日本まで発送してもらえる
→(‼️重要)送料は容積重量換算(重要‼️)
すべてまとめた大きさの分で計算されて国際送料の請求がきます
箱がでかくて軽いものは送料がすんごいかかる 今回は4000円くらいかかりました
箱物はサイズがだいたい書いてあるし、気になる場合は注文前にセラーに問い合わせたほうがいいと思う
→官方集运は禁輸品が多いのでよく調べたほうがいい(食品、化粧品、食器等は×)
以下余談
子供用のおもちゃは禁輸品になるとの情報が出てきてバクバクだったのですが、なりきりおもちゃや人形は大丈夫でした 食品衛生法が関わってくる乳幼児向けのおもちゃがアウトなのかもしれない
剣の形のおもちゃがアウトな転送業者さんもあったので、銃刀法にひっかかりそうなものもだめかも(禁輸品にならなくても税関を通れなさそう)
・注文してからの流れ
→5/31 注文・クレカで支払いをする
 6/1 23時ごろ「注文した商品ひとつ在庫がないからまとめての発送になってもいい?」と連絡が来る
 チャット返信したらBANされたので焦る
 6/2 深夜0時ごろ 「ごめん在庫あったから発送するね!って連絡がくる」ただしこちらのチャットはBANされたまま(なんだったんだ…)
 6/2 セラーから発送される
Tumblr media
すごい詳細にトラックがトラッキングされててびびる
 6/3 上海の倉庫着、国際送料の請求がくるのでカードで支払う→発送準備に入る
 6/5 目的地に向かって発送されたお知らせが出る
 6/9 国をこえたよ〜のお知らせが出る
 (ここまでタオバオアプリ内で通知も追跡も見られる 便利〜)
  おそらくこのあたりのタイミングから佐川の追跡がきくようになる
 6/12 土日挟んでようやく日本到着
Tumblr media
・関税について
→個人輸入は送料含まず16666円以下だと課税されません(品物にもよります!!調べよう) 今回はボーダーよりかなり下だったので課税されませんでした
調べてたら先方のミスで品目が間違えられてたり商業輸入と思われてガッツリ取られた人もいたので���入数とか運も関係してくるかも
・6/13 届いた
Tumblr media
梱包が雑!やぶれてる!草
箱がベコベコどころかブリスターまでこわれててびっくりした、おもちゃの箱は捨てる派なのでいいんですが箱取っておく派の人とか神経質な人はしぬかも 中身こわれてなかったのはラッキーでした
他のセラーでなんか買って倉庫でまとめてぐるぐる巻きにしてもらったほうがよかったかな…と思いました
・謎
電池が入ってると関税で抜かれると聞いてたのですが、セラーが入れてくれた単4電池がダンボールにふつうに入ったまま届きました
なぜ
おもちゃ内に入ってなかったからセーフなのかEMSじゃなかったからなのか…
ボタン電池で絶縁シートが入ってるタイプのおもちゃもセーフでした
6/14追記
乾電池・新品のボタン電池の国際配送は問題なし
リチウムコイン電池、リチウムイオン電池(USB充電式の電化製品や小物とか)はアウト
・総括
→いつも中華スーパーの中華食材って高いな〜と思ってたけど、仕方ないな〜と思えた
→意外となんとかなったので閃暖陸服4周年で欲しいグッズが出ても安心だぜ!来い!!の気持ちになれた
→また輸入したいなァ 巴啦啦小魔仙のねこちゃんの杖とコンパクトがほしいんだ……
・役に立ったサイト
→ タオバオ備忘録・じゅりバオまとめ
 先人の知恵が本当に役立ちました……ありがとうございます……このwiki見ればだいたいなんとかなる……
0 notes
crazystrangetraveler · 2 years ago
Photo
Tumblr media
2023年1月17日(火) 出張旅行記その43 【1月11日】 楽しみにしていたビエンチャン→ルアンパバーンの鉄道の旅。あろうことか,電車は乗客を後ろ向きにして走り出しました。 ま,まあ,いいんですけどね。いいんですけど🥲 隣���座席を見れば,新幹線と同じように足元にフットスイッチがあり,あれを踏み込めば座席が回転するはずです。しかし,全員が乗車したこの状態で,いちいち通路に出て座席を回転させるもの億劫で,もうこのままでもいいでしょう。日本の電車は自動的に座席が回転しますが,あれ,本当に便利な技術なんですね。 隣のお兄ちゃんは,おばちゃんといろいろ話ししていましたが,そのうち店主にも話しかけました。店主がラオ語で答えると,おっ!ラオ語を話せるのか!おばちゃん,彼,ラオ語話すよ。と喜び,いっとき会話に花が咲きました。 友達が昨年末始めたレストランの手伝いも兼ねて,ルアンパバーンに行くそうです。とてもいい店だぞ,と紹介されたので,せっかくなので行きたい場所登録をGoogle Mapさまにしておきます。 ふと,店主がテーブルの上に出して書き込んでいるiPadを見て,仕事しているならそっちに集中してくれ,と若いお兄ちゃん。なんという気配りでしょう。先ほどからおばちゃんに対してもそうですが,店主とは異なる種の人間ですね。絶対モテるだろうなあ。 電車の旅は本当に快適です。まず,揺れというものがほとんどありません。そして,座席も新幹線とほぼ同じじゃないでしょうか。新幹線の方が,少し座席の間隔が広いかな。でも,狭いと思うほどではありません。 これまでビエンチャン⇄ルアンパバーンは,バスだと12,3時間はかかっていたかと思います。途中曲がりくねった道も多く,トラックの後ろにつくとスピードも出せず,かなり苦労した覚えがあります。最近は途中のバンビエンまで高速道路が通っていると聞いているので,もう少し早く着くでしょうが。 それがわずか2時間で着くのですから,242,000キープは,破格の値段だと思います。夜行バスだと130,000キープは払っていたように思います。 途中険しい山々が見えます。おばちゃんと若いお兄ちゃんに習って店主も撮影を試みたのですが,やはり通路側席だと難しいですね。最近のラオスは,北部を中心にトレッキングツアーも人気です。マラソンと登山の苦手な店主は,おそらく行くことはないでしょうけど。 ルアンパバーン駅に着きました。お兄ちゃんとはFacebookでつながったので,またいつか会いましょう。 駅を出て,乗合タクシーに乗り込みます。ビエンチャンよりは街中まで近いとはいえ,やはり乗り合った分,安く済みますね。次回は,こういうのを上手く使えるように工夫します。 さて,ここで店主のとった行動とは。ルアンパバーンに住む友達に,今ルアンパバーン駅に着いたんだ。今日の晩,もしも都合がつけば,みんなで会わない?とメッセージを送ることでした。 あの若いお兄ちゃんの気配りの1/10でも持ち合わせていたら,もう少しモテた人生を歩めた���しょうに。 友達から返事が来ました。晩はお店をやっているので,ちょっと難しいです。明日の昼か,または明日の晩,私の店でもいいですよ。これ,全部日本語でメッセージが入っています。日本の旅行会社のルアンパバーン支店で働いていた友達たち。3人とも日本語堪能です。 そこで,急遽予定を変更。当初一泊だけにしていたルアンパバーンに,2泊することにします。お兄ちゃんの紹介してくれた店にも行きたいし。 乗合タクシーに行き先を告げるために,この場でホテルを決めます。今はネットで予約できるので,本当に便利です。直接交渉よりちょっとだけ高くなりますけど。 駅に着いて20分もしないうちに,ルアンパバーンでの予定があらかた決まりました。さあ,パバーン編の始まりです。 【お知らせ】 ベトナム,ラオスへの買い付け旅行のため,しばらくの間休業いたします。ご迷惑おかけしまして申し訳ありません。 2023年1月28日(土) 19時からの営業再開を予定しています。 ご来店,お待ちしております。 【身体のセルフケア】 2023年2月4日(土),3月11日(土)の開催を予定しております。 16:30~18:30 上福島コミュニティーセンターにて 詳細、お申込みはメッセージにてご連絡ください。 カフェ #バー #東南アジア料理 Cafe & Bar ສະບາຍດີ(#サバイディー ) 大阪府大阪市福島区鷺洲2-10-26 📞06-6136-7474 #osaka #fukushimaku #cafe #bar #福島区グルメ #福島区ランチ #福島区バー #ラオス #ベトナム #チキンライス #ラオスの旅 #鉄道の旅 #変わろう日本 https://www.instagram.com/p/CngYkykyZd5/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
enomoto22 · 4 years ago
Text
次世代へつなぐ・わがまち榎本へのエール
※ふれあいえのもと通信39号(9/26発行)掲載
楽生会会長座談会 2020.8.5(榎本福祉会館)
平均年齢は80 歳越え。榎本地域を支える続ける楽生会(老人会)の 4 人の会長さんにお話をお聞きしました!
Tumblr media
◯さて榎本、いかがです? 〈‥ということでゆるゆるとプロローグ〉
濱田: 放出に生まれ、放出で育ち88 年。戦争の一番厳しい昭和18 年に卒業した榎本小の卒業生は250人。今も同窓会は続いていて、昨年は11人。今年はどうかな。
脇田: そやな‥小学校の思い出といえば、消��署を折り返してのマラソン大会。大きな建物もないから見渡せたし、ズルのしようもなかったな。
境: 放出に高層マンションが建ち始めた頃、この地に。東京オリンピックの頃には東京に、万博の頃には吹田住まい。ずっとサラリーマン生活で子どものPTAにも係ることもなく、楽生会が地域活動の始まり。
坂東: 大阪は仮の住まい、老後は徳島に帰るつもりで。しかし折角建てた故郷の屋敷も30 年間両親が住んだ後は空いたまま。広すぎて売りたくとも売れず‥。
◯ズバリ、榎本の魅力は?〈理由はわからんが何となく住みよい〉
濱田:寺が2つに神社が1つ。長い歴史財産をもつ放出。ずっとこの地で鉄工所をしてきたが、70 歳で車も仕事も全部卒業。11 年前に家内に先立たれたが、娘も息子も放出住まい。まだまだ百まで住みますよ。
Tumblr media
脇田:サラリーマン時代、転勤になるかなとも思っていたが、私がどこかに行こうと家族はここに住み続けると。便利やしね。特に娘には住心地良過ぎたかも(笑)
坂東:子ども3 人が榎本小、今津中と通ううち、家内が様々な活動に参加、榎本でネットワークができ、そして手芸クラブを立ち上げ定住。
境:転勤を重ねてきたが、ここに来て住まいを購入。もう動かないと覚悟を決めたのは、やはりその居心地の良さでしょう。
◯マイブームを教えて下さい〈次は八十の手習いやな、何しよう〉
坂東:60 過ぎて子どもの勧��で夫婦でパソコンを。家内は指一本打ちで株を始め、亡くなるまで1 ���1回はパソコンに向かっていたね。私は独学でCAD を習得。設計が好きなんでCAD なら精密な線引きができるし、酒も飲まんのでパソコンで遊んでいます。
境:津軽三味線を始め30 余年、この10 年ほどは鶴見区の小ホールで月に2 回、民謡の講習会を(現在は休止中)。民謡で人の役に立てればいいなと。
Tumblr media
濱田:放出は古くは水害の多いところ。児童公園の大きな石碑にも大橋房太郎さんの治水の偉業が記されてますな。
坂東:そのお陰もあってか、大阪っていうか、ここらは豪雨災害も少ないね。また大雨が降っても今津公園のポンプが作動するとみるみる引いていく。
脇田:それでも昔は雨降ったら、床下まではよく水に浸かっとったな。地震に台風、コロナも予想外の災害やね。
◯自粛期間はどのように?〈地域のイベントは引きこもりがちな高齢者を誘ういい機会〉
境: 1 年に20 や30 は演奏活動をしていたけど今は中止。教室も休止中。飲みに行くのも自粛中(笑)
坂東: コロナ以前から、特に男のひとり暮らしは外へ出てこない。年寄りが増えているのに、楽生会は減る一方。私自身50 歳になって町会の班長になり、地域に係わり始めて30 年。その頃に出そびれると、いよいよ億劫になるのかな。まつりや行事があると声かけて出る機会も作れるが‥。
脇田: 百歳体操なんかも中止で、みんな家でじっとしてどうにかならんかなと心配。卓球は再開したが、みんなで集まってできることはないかなと考えている。今年は盆踊りもないしな。
Tumblr media
◯ご家族のお話をお聞きしたいです〈元気の秘訣はやはり家族愛〉
境: 生家は製材業。兄弟は中学校卒業したら家業に勤めていた。私は林業試験場で技術を身に着け、28 歳の時、結婚して故郷を離れ東京へ。運輸会社でトラックの運転をしていたが大阪の営業所開設とともに転勤。35 歳過ぎて経理を習い、真面目が取り柄で勤めてきました。え、今?あはは。
坂東: 最近はずっと家内の病院へ行くのが日課のようになっていたが‥いくつもの病院へ出向き、夜間の付き添いも。車は特別仕様(接近アラーム付)ですが、今はキーも取り上げられて(笑)。初盆を迎え、老後の資金計画を含め、様々な面で家内には感謝しかない。また葬儀の参列者の多さに地域との関わりの厚さをあらためて実感。娘たちにも地域とのつながりの大切さが伝わった。「私らも出来ることはせなあかんな」との感想は嬉しい。
Tumblr media
◯児童の見守り活動も15 年〈声かけてくれるのは嬉しいな〉
脇田:馴染みの子どもも増えて、中学生や高校生も挨拶してくれるのは、長く見守り活動が続いている証拠かな。こっちからの声掛けは難しい世の中やけど、普段でも声かけてくれるのは嬉しいな。
境:見守り活動が始まった頃の子らが働きはじめて、年金を払う歳に差し掛かってる。回りまわって助けてもらってるんかもね。
脇田・坂東:昔の子どもいうたら、上が下を見るのは当たり前。それが自然につながってゆく。夕方遅くなっても、親も「どっかで遊んでんねんやろ」ぐらいにしか思ってない。親の言うことは聞かんでも年長の子が世話してたな。今は子どもも忙しいし、自由もなくてかわいそうやな。
◯今後の楽生会は?〈なんとか次へと繋げたい〉
脇田:鶴見区でも老人会は3 分の1 ぐらいに。大方は会長の引き継ぎが難しく潰れてゆく。本人は元気でも奥さんが認知症になったり介護が必要になったりと。榎本も役員の後継でそれぞれ苦労している。歳を重ねるごとに、頼みに来られた前会長の想いが分かってきた。
Tumblr media
◯榎本へのエールを!〈これからも地域のために〉
濱田:「奉仕」という気持ちを忘れたらあきません。そしてまだまだ地域のためにがんばりたい。
坂東:地域のためにと手伝ってきた事は間違ってなかった。身体が続く限り、楽生会のために尽くしたい。
境:地域との関係をできるだけ密にして、自分に出来ることが、少しでも人の役に立てばと願っている。
脇田:会議以外で、地域でこんな風に喋ったことはない。たまにはこんな時間もええな。
本年度は敬老慰安大会の開催も見合わされました。 マスクを外し自由に語り合い外出できる日常が1日でも早く戻ります様に。 和やかな時が流れ、癒やしの空気に満ちたこの日。 地域の先輩の皆さまに心より感謝いたします。
Tumblr media
脇田 広志 さん(榎本在住77 年)榎本・放出出身 NPO 法人理事会監事・榎本第3楽生会会長(2018 年楽生会会長就任) 一番の若手!
Tumblr media
濱田 照雄さん(榎本在住88 年)榎本・放出出身 榎本第1 楽生会会長、放出の歴史地域・中高野街道が南北に走る2町会
Tumblr media
坂東 尚さん(榎本在住50 年)徳島県吉野川市出身 榎本第2 楽生会会長。電気設備設計士。60 歳から独学でCAD 習得。
Tumblr media
境 傳(つとう) さん(榎本在住46 年)岩手県東磐井郡出身 榎本第4楽生会会長。50 の手習いで津軽三味線を。 日本民謡鶴見区連合会事務局長他
楽生会〜楽しく前向きに生きていこう〜
「カラオケ ・ 健康体操 ・ グランドゴルフ」の3つの部会を作り、年間行事としては歩こう会、菖蒲・紅葉・梅の花に誘われての行楽会などがあります。 平成17年より 子どもみまもり隊 を組織して週1回木曜日安全な下校を目指して12箇所に立ち、子どもに声を掛けています。 60歳以上で榎本校区に居住される方は入会できます。
2 notes · View notes
nemosynth · 5 years ago
Photo
Tumblr media
<海外シンセ興亡記 II : Emu Systems Emax S.E review >
●メーカー名
E-mu Systems Inc.(イーミュ)
シーケンシャルを創業したデイヴ・スミスに対し、もうひとりのデイヴおじさんこと、デイヴ・ロッサム(Dave Rossum)が興したシンセメーカー、E-μ Systems。1972 年に法人化、本社は合衆国。 このロッサムおじさんは、ポリシンセを創るのに欠かせないデジタルスキャニングキーボードを開発し、1973 年には特許も取得。Oberheim 4 Voice を始めとする世のポリシンセは、ほぼすべてこの特許をライセンス使用。これによりロッサムおじさんは「ポリシンセの父」とも言われる。
ところがその特許料を、シーケンシャルが解釈の違いから支払いをやめるという事態が発生。当時、7万ドルくらいもする大規模なアナログシンセ「Audity(オーディティ)」を開発中だったイーミュは経営危機に。やむなくコストがかかる Audity 開発は強制終了。
代わりに急遽ぱぱっと開発できてメシのタネになる新機種を!というので、従業員一同が知恵を絞ってると、’79 年 AES ショーにてオーストラリアからフェアライト CMI が出展。これを見たイーミュは「フェアライトは大規模な音楽コンピューターだが、サンプリングに特化すれば、よりコンパクトかつ安くできる」と考え「サンプラー」という機種名の、まさしく史上初のサンプリングマシンをマッハで開発。
そのさなか、ふとある従業員が「いいアイディアを思いついた」と、にんまり笑いつつロッサムおじさんのところへやってきて
「機種名をイーミュレーターにするのさ」
と提案。エミュレーターやエミュレーションというコンピューター用語のとおり、物真似する者を意味する「Emulator」、それもイーミュという社名に引っかけた名前をもつ機種「イーミュレーター」が、そう、誰あろう史上初のサンプラーである初代イーミュレーターが、ここに誕生。
1981 年に発売された初代イーミュレーターは、8bit、128KB RAM、5インチフロッピー、49 鍵、そんなんで当時定価 200 万円以上もしたとはいえ、またたくまにプロの間で大ヒットとなり、サンプラーの代名詞になった。後継機種 Emulator II にいたっては、512KB ~1MB RAM でもって、もはや不動の定番になり、すっかり業界標準機として定着。これでイーミュは食っていくことになった。
Tumblr media
だがそのあと、1984 年には米国 ensoniq 社 Mirage、さらにその後 AKAI S612、S900 をはじめとする、40 万円を切る価格破壊モデルともいうべき競合機種が出まわりはじめ、イーミュといえど安閑としてられなくなったのである。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
���機種名
Emax S.E(イーマックス・エス・イー) 1986 年発売 61 鍵、ベロシティのみ対応
E-mu 社初の廉価版サンプラー Emax。このシリーズには、以下の派生機種がある;
・Emax;素のサンプラー ・Emax S.E;倍音加算合成と、TM シンセシスとを追加 ・Emax HD と Emax S.E-HD;20MB の HDD を内蔵 ・EMAX II ;後継機種。Emax S.E をベースに、16ビット化、最大8MBの内蔵メモリー、固定サンプリング方式、デジタルフィルター、SCSI 標準装備、最終的にはステレオサンプリングも可能に
廉価版とはいっても、五十万円以上した。 私はそれを、まだまだ Emax が現役時代に中古で買った。そしてそののち、システムソフトウェアがアップグレードされ、Emax S.E となったので、そのアップデーターをフロッピーで入手、アプグレした。
二百万円以上もした伝説の名機イーミュレーターII を、1チップにまとめたという「E-Chip」なる独自開発のチップを採用。Emulator シリーズと同じく可変サンプリング方式。二代目 Emax II になってから、どうやら固定サンプリング方式になったらしい。固定サンプリングは開発するには難しいが、ピッチ可変幅が大きくとれるので有利。本稿で取り上げる初代 Emax シリーズには、これはまだ採用されていない。
OS をフロッピーディスクで供給するのはいいが、OS 用 RAM が小さいので、使用中もずっとドライヴもフロッピーを突っ込んだままにしておかないといけない。そしてエディットすると、いちいちフロッピーを読みにいってシークしたりするのが遅い。
ただ、イーミュレーター II が、5インチという当時すでにレガシーになりつつあったフロッピーを採用したのに対し、Emax シリーズは 3.5 インチという、当時流行していたメディアを使い、容量もハンドリングも有利であった。
●音源方式
オシレーターでの波形生成には、以下の3種類があり ・サンプリング ・サイン波倍音加算合成を利用したウェーヴテーブル ・TM シンセシス オシレーター以降は、VCF / VCA によるアナログ減算方式
よって、デジアナハイブリッド・サンプリングシンセとして使える。
Emax S.E ではなく素の Emax は、サンプリングした波形を減算方式で加工するサンプラーであった。その実態は2オシレーター構成の後ろに、各1基の VCF、VCA が続く。つまりコルグ DSS-1 とほぼ同じ構成で、ただし最後についてる内蔵エフェクトはコーラスのみ。メニュー体系や使い勝手も DSS-1 と似ていて、小さい液晶画面なのにとても使いやすい。
2オシレーター構成なのだが、彼らはそれを大々的に言わず、それどころか 「音をレイヤーしても発音数が減りません!」 などと魔法のような宣伝をしていた。なんのことはない、普段は1オシレーターのみ駆動し、レイヤー時に2オシレーター駆動しているだけなのだが!
A/D、D/A の解像度は 12bit。しかしディスクへ保存する時は、なんと8bitにまで圧縮する! 圧縮すれば音は悪いのか? でも、よぉ考えたら、そもそもデジタルそのものが圧縮である! せやかてデジタルは、アナログ曲線を離散値で量子化して間引いてまうやんけ!! そんなわけでかどうか知らんが、けっこう味のある音がする。 ちなみに 200 万円以上もした上位機種イーミュレーター II は徹頭徹尾、8bit である。いさぎよい!
メモリーは恐らく 512 KB で拡張不可。キロバイトといえど、この当時のプロ向けサンプラーでは標準的な RAM 容量であり、カシオ FZ-1 が1MB に達したときは話題となった。
鍵盤はベロシティのみ対応で、こんなに高い機種なのにアフタータッチがついていないことに驚愕したが、じつは二百万円したイーミュレーター II も同じであったと、のちのネット時代になって知った。
8パラアウト仕様だが、どうやら各アウト端子ごとに D / A がついているらしいところは、さすがサンプラー元祖のこだわり。
減算方式部分は素の Emax と同じだが、Emax S.E には、追加ですさまじいシンセ機能が装備されていた。これは、ソフトウェアのアプグレで可能であり、そのためのアップデート専用のフロッピーが販売されていた。
Emax S.E の S.E とは、Synthesis Enhanced の略だけあって、ただのサンプリングに加え、サイン波倍音加算合成(本機では Spectrum Interpolation Synthesis と呼ばれていた)を利用したウェーヴテーブル、そしてトランスフォーム・マルチプリケーション・シンセシス(Transform Multiplication Synthesis)という、とんでもない波形演算ができる演算が追加された。 すべて詳しくは後述。
●同時発音数
8音 当時としてはきわめて標準的。
●内蔵エフェクトの性能と傾向
コーラス内蔵 あるだけ御の字。
●内蔵波形、プリセットの傾向
サンプラーなので無い、って、ごめんなさいね 笑
●エディットの自由度と可能性
オシレーター部が凄まじい。
サイン波倍音加算合成は 24 倍音まで。なーんだ少ないと思うなかれ、こうして作った波形を 24 波まで時間軸上に並べることで、まさに PPG のウェーヴテーブルの簡易版のように、オシレーターだけで音色変化を創造できる! しかも開始波と終了波だけを作成し、間は自動演算で補完させることもできる。そのあとさらに倍音ごとの音量エンベロープも設定可能で、しかも倍音ごとにピッチ・エンベロープまでかけられる。そんな倍音、倍音って呼んでよいのか? ただし演算がノンリアルタイムなので、パラメータを設定してからいちいち演算実行せんと、音が聴けん。非力マシンが魅せる、ちからワザ。できた波形はフロッピーにセーヴ。99 もの波形をプリセットしたフロッピーまで、おまけについてくる。
そして TM 合成こと、驚愕のトランスフォーム・マルチプリケーション・シンセシス。
あまりにも名前が複雑すぎて、アメリカ人でも発音できず噛み噛み、私が訂正して発音してさしあげたら、復唱してきたのちに「サンキュー」と。
これは2つのサンプルから共通倍音のみを抽出し、それらを互いに乗算させるという、とにかくとんでもない演算。おそらく2つのサンプルをフーリエ解析し、基音を含む共通の周波数を持った倍音を抽出し、それらの振幅を乗算させたのち、リシンセシスしていると思われる。結果は、たとえばヴァイオリンが言葉を喋ったりするが、多くの場合予測不可能。強烈な金属倍音が激しく流出したりして、たいへんな結果に陥ることも多い。
しかももっと大変なのが、こいつも演算がノンリアルタイムであるという事と、しばしば演算に半時間以上もかかるということ! 最大 40 分くらいかかるらしい。なんでもスパコンに相当する演算を、32bit CPUと8bit コプロとちーちゃなメモリでやっているから、という事らしいが、とにかく「Synthesize!」とノーテンキなメッセージに促されるままに実行キーを押すやいなや「○分お待ち下さい」などと LCD に出てきたひには、失神しそうになる。しかし、すでになりふりかまわず Emax S.E は演算に突入。どえらい波形レンダリングをしているわけで、もはや誰にも止められない。英文取説では
「ま、ちょっと休憩でもどうぞ」
なんてこと書いてあったりして開き直っている!
おまけに、この演算を実行するには、最低 32KB の RAM 領域が必要とかで、これを割り込むと「足りん! サンプル減らせ!」と怒られる。キロバイト単位であっても、貴重なリソース。
このように強力シンセシスを駆使して作成した音は、サンプル同様に2つのオシレーターにアサインすることでレイヤーできる。
そのあとにくるアナログの LPF も効きが良く、ツィーンと鋭いレゾナンスはまるでプロフェット5のよう。事実、イーミュレーター II をワンチップ化したというだけあって、今度の VCF すなわち SSM 2047 によって、みるみるうちにサンプルがおもしろいくらい別の音への変わっていく。また、マルチサンプル各々の鍵域とは全く無関係に、フィルターをかける鍵域をいくつも定めて各々異なった設定にすることもでき、これは便利!
LFO 波形は、サイン波のみだが、パンニングを LFO でボイス毎に違う位相で揺らすことも可能、和音に良い。
16トラックの簡易シーケンサーも搭載。アルペジエイターもあって、休符もプログラミングできる凝ったもの。
2オシレーター構造の片方にはサンプルを、もう片方には変態シンセ波形を、そして後段の VCF / VCA へと、先人たちのアナログシンセを夢見つつ、無比の音色加工に溺れる。これでもって、D-50 ふうの LA 音源みたいな音色や、エンソニック SQ-80 みたく国産機にない自由な発想でクロステーブル音源を再現できる。イーミュ自身、それを奨励していたのは、ちょうど D-50 の音色がブームまっさかりだったから。
16 文字×2行の狭い LCD だが、メニュー体系が分かりやすく、しかもそれがフロントパネルにもシルク印刷されていて、やりたい事がすぐできる。ただし前述の 24 倍音加算しているときに、ピクセル幅しかない棒グラフが縦向きにひょろひょろと 24 本も表示され、それでエディットさせられるのには驚愕。
●拡張性
RS-422 端子装備! 特に古い Mac となら相性抜群? たしか Sound Designer とか Alchemy とかいったソフトウェアで波形編集できたはず。Sound Designer ですよ。この次の Sound Designer II なんか死んでも SDII フォーマットを遺した偉大な先人だが、初代 SD は?
●あなたにとっての長所
みょうに古い、メロトロンにも似た哀愁のあやしい出音。そして今となっては入手困難だろうが、豊富なライブラリー。クワイアーの音のあやしさなんか最高。VP-330 にも似た中高域と、メーテルの母のようなこわーい女性の低域。あれ、でもこれ「Male Voice」って書いてあるのに?
むろん強力無比の個性派シンセシス。そしてディスク・セーヴ時には8ビットにまで圧縮してしまうので、フロッピー1枚でもアホほど多くの音色が入る。
象牙のような鍵盤も静かで適当に重いのに滑らかで弾きやすい。グリスなんか世界一楽。でもこれはバージョンにより違うらしい。
自己診断プログラムもあって、イーミュ(和名エミュー)というダチョウのような鳥が、画面上を元気に走り回れば ok。これがまたかわいい。
この動画は、Emax II で撮影されたものだが、まったくおんなじ;
youtube
ただ、これが自己診断機能だとは、どこにも書いておらず、取扱説明書に至っては:
「これは、内蔵姿勢制御装置を初期化し、過剰なジャイロ宇宙相対理論化を防ぐ機能です。注意深く画面を観察いただき、重力空間歪曲や明らかな時間の加速・遅延、鏡に映る物体が実際より近く見えるなど不安定化兆候が無いか、ご確認ください。 時に小さなエミューが Emax 内部に閉込められ画面上を走り回る事がありますが、これは安定化スキャン処理進行中の現象であり、Emax通常機能に影響はありません(超絶 Nemo 版和訳)。」
もうね、原文にある 「gyrocosmic relativation」とかバック・ロジャースのネタだし 「objects in mirrors appearing closer than they really are」って向こうの車のドアミラーに書いたーる警告文パロってるし どこにも「自己診断処理」て書いてないから 爆 それが自己診断機能だということは、生産完了後だいぶたってから、ネットかなんかで知ったw
そしてデザインが良い。Max Yoshimoto なる(日系?)イタリア人がデザインしたらしく、おしゃれな紫灰色ボディに落着いたくすみのあるパステルカラーのゴム製ボタン。テン・キーすら斜めに配置されているあたり、すばらしい。しかもデザイン重視なのに、メニュー階層と操作子とが分かりやすく、やりたいことをどうすれば実現できるか、すぐに分かる。
ちなみにフロントパネルの左はずれにあるスロット群は、スピーカーグリルではない。ただのデザイン。
Tumblr media
●あなたにとっての短所
でかい。
おもてはクールなのに、リアのロゴが不思議にダサい。ぼてっとしてダサい厚みもある。
当時は高かった。だって定価 50 万円以上。すでに先行して存在していた国産サンプラーは、10 - 30 万円くらいだったから、いくら廉価版とはいえ群を抜いて高かった。
●その他特記事項
かつて小室哲哉が TMネットワークに在籍しているとき、テレビ出演時に使っていたことがあって、少なからずともびっくりした。
当時のデペッシュ・モードのライヴでは、ドラムもギターも一切ステージに無く、ただただ Emax HD だけが4台、あとはカスタムメイドの MIDI パーカッション・パッドが少々あるのみで、いかにもテクノな感じのすっきりシンプルかつハイテクなステージ機材ぶりが印象的であった。ライヴビデオ「101」で、その様子が拝める。
Tumblr media
前述のとおり、史上初のサンプリングキーボードとなった Emulator は、
「イーミュレーター」ないし 「イミュレーター」と呼ばれた。今ふうに 「エミュレータ」などと読もうものなら、めんどくさいおっさんやじじいどもの集中砲火をあびるであろう。そんなことするから、めんどくさいおっさんやじじいどもは自滅するとも言えるのだが。
とまれ、イーミュという社名に引っかけて命名されたというのも、単語そのものは「競争者」「模倣者」という意味につき、まさに生音を模倣するサンプラーにふさわしい、センスの良い話。当時これしかなかったから、プロはみんなこれ使ってて、それがステータスモデルですらあった。
そこから Emax シリーズが、イーミュ社初の廉価版サンプラーとして登場。
Emax 発売が、1986 年。 EMAX II 発売は、1989 年。
そして生産完了となり、後継機種 ESI-32 へと取って代わるのは、じつに 1995 年のこととなり、Emax シリーズは、第2世代も含めて9年間にわたり販売されつづけるという、異例のロングセラーとなった。
Tumblr media
おのおの廉価版と言っても、50 万円以上した覚えがある。それでも老舗ならではの膨大なサンプル・ライブラリーが、しかも最初からたくさん用意されていて、たいへん重宝した。事実、9年間も売れ続けるというロングセラーぶりは、この独自のライブラリーに負うところがすべてである。
おそらくこれでイーミュ社は、日本製の低価格サンプラーに対し、価格競争に巻き込まれること無く、それでいてシェア拡大をもくろんだに違いない。つまりイーミュのネームバリューと、経験豊かなサンプリングの結晶たる質・量ともに圧倒的なライブラリーでもって、ハードの高性能化と低価格化ばかり追い求める日本メーカーに対し、貫禄あるソフトウェアの勝利を見せてくれようとしたのかもしれない。
そして、ネタが買えない人や、ありもののネタを必要と感じない人に対しては、自分でユーザーサンプリングした結果を加工すべく、そこんじょらに無いくらい強力な VCF や、そこんじょらにないくらい強力なデジタル合成たる TM 合成や、フレキシブルな 24 倍音加算音源がアシストしてくれる。
かくして、自分の声であっても、それが「あほんだらぇーい」と罵倒星雲するものであっても、フィルターで原型をとどめないくらい加工し、そのあとヴァイオリンと TM 乗算してしゃべらせるなりして、一躍有名な声になるかもです。
サンプラーとは、コンテンツ・ビジネスである。
Emax は、豊富なイーミュのライブラリーのみならず、自力でコンテンツを生み出せる、最強のサンプラーになるはずだったのだ。
私は苦労して買ったはずのカシオ FZ-1 を売り、そのカネで中古 Emax を入手、後にそれを Emax S.E にバージョン・アップした。当時、16bit サンプラーを売って 12bit に帰るのは私くらいなものだったが、それは膨大な中古ライブラリーをタダで入手できたからである。当時の私はローランド S-10 という初心者モデルでユーザー・サンプリングしまくっており、プロな音ネタに飢えていた。FZ-1 には謎のコンピューター端子と、元気なレゾナント DCF、8ステージ・マルチループなどの曲芸わざもあったが、音ネタも含むトータルでの格安さには勝てなかった。ソフトウェアの勝利。見事にイーミュ社の術中に。
ライブラリーとして供給されていた全てのフロッピーに起動システム・プログラムが入っていたために、S.E 版にするには一枚一枚ぜんぶアップデートせねばならなかった! あえて数枚だけ元のヴァージョンで残す。しかし、S.E にアップグレードして得た奇妙珍妙なる機能のおかげで、私にとってはむしろ追い風となった。自分でサンプリングしたネタも、強力に変態なシンセシスでよく加工した。
すなわちサンプラーたるもの、あたりまえだがネタに囲まれないと、これほど使えないものは無い。
そしてネタの管理が大変。どこにお気に入りの音色があったか、すぐ忘れる。だから管理しない。電源切ったら音色データがぱーぷりんになるくせに、ロード時間もいちいち数十秒かかるというのは、実にまどろっこしい。ばっちりハマる音色にたどりつくまでの試行錯誤たるや、はんぱでない。当時のサンプラーとは、面倒なしろものなのであり、カードリーダーに換装するのが、合理的。しかしあの当時は、プロはみんなよく使ってたから、忍耐強かった。
この後、各社から 20 - 40MB クラスのハードディスクを搭載ないし SCSI 接続できるハードサンプラーが出現し始めた。筆者も一時期アカイ S1000HD を使っていたが、本体内に複数のサンプルを保存できる上に、ロードが一瞬で済む画期的さに、単純に驚いた。だが高価。
しかしそれが、じつはハードが PC 化してゆく流れだったことは、Roland S-50 が CRT とマウスオペレーションを実現し、AKAI がエディターソフト MESA を開発することにより明らかとなった。それがゆえにソフトウェア・サンプラーの出現により、いきなりメモリーとストレージの上限が外れた上に、価格が数十分の一以下にまで下落、文字通り市場が崩壊し、さらに ReCycle! みたいな便利ツールまでがでてきて、純粋なハードサンプラーは絶滅。あおりくらって超高級機メーカー・イーミュ社も業績急降下、シンガポールのクリエイティヴ社に買収されたのち、おなじく同社の子会社と化したエンソニックと合併して Emu-Ensoniq となり、Emulator のソフトウェア版や、PC 用のオーディオボードを新開発するなどずいぶん様変わりした。現存するハードサンプラーとは、アカイ MPC シリーズのように、シーケンサーやらパッドやらツマミやらついた操作子ばりばりの曲作り重視パフォーマンス重視なワークステーション的な、言わば付加価値タイプのみと言って良い。
Tumblr media
かくして、純粋なハードサンプラーは絶滅し、楽器屋もきれいになり、知らん人が入りやすくなり、うさんくささもなくなり、あかるい家電量販店でホームユースのデジピを買い、あやしい Emax みたいな機種は、ソフトサンプラーと同じくネットの画面の彼方にて、オークションにて売買されるようになった。
サンプラーとは、コンテンツビジネスであった。 コンテンツは、ネタ勝負であった。
そこにまつわる諸問題へのソリューションを考えるとき。
まずロード時間;
すばやく効率よくネタを獲得するには、いちいちシーク時間が長いフロッピーというメディアは、あまりにも、とろすぎ。だからこそ MPC は、短いドラムサンプルに特化することで、このアキレス腱を回避。
ということは、普通のハードサンプラーであっても、ドライヴをカードリーダーに換装すれば、ロード時間問題は一気に解決できる。
次にユーザーインターフェイス;
MPC のような機種は、シーケンサーとユーザーインターフェイスと手を携えることで、生き延びる。
イーミュやアカイなどのサンプラーも、主要パラメーターが物理操作子で表に出ていたら、もっと使いやすいはず。
そして、どんな音色を求めるか;
ゼロ年代までのサンプラーとは、リアルな音の追求が至上命題であった。リアルであればリアルであるほど良く、だからこそ容量ばかり追求し、量的拡大がマスト。結果、ハードサンプラーは、容量制限がないソフトやアプリに駆逐されることになる。
だがその一方で、現実音を加工するシンセやエフェクトなども DAW へと結実し、DAW そのものがプラグインで現実音を加工するようになった。現実音を加工するほうが、倍音構成も複雑になり、リアルを超えたシュールレアルな世界が描ける。
リアルよりも理想的な音。
というわけで、なりふりかまわず何十分も演算しつづけ波形をつむぎつづけた TM シンセシスのように、なにか野心的なむちゃくちゃな蛮勇にあふれた試みが、それも自律してみずから音ネタをつくりだすための仕組みが、そろそろサンプラーにあっても良いのではないか? 私が知らんだけ?
そして敢えて問う、コンテンツビジネスとは、ネタありきだけでほんとうに良かったのか?
サンプラーは、ネタだけが勝負ではない、サンプラーとは楽器だったのではなかったか? 楽器としての完成度と使い勝手ではなかったか? Ableton Live が、Sequencing Instrument と銘打って飛び出してきた時、彼らはシーケンサーもが楽器であると言いたかったのではなかったか。
それに気づいたとき、ハードサンプラーとしての速度感と自由度の高さ、いい意味での限定という自由度の高さ、取り回しの良さが、再評価されるのではないか?
Tumblr media
2005 年ごろの私の部屋
謝辞; ハードサンプラーへの情熱を思い出させてくださった「まうんす@Pyro391」さん
なお、写真は私が撮影したもの以外は引用です。
Copyright © 2006-2020 Nemo-Kuramaguchi All Rights Reserved.
Revision log;  First edition posted on Feb 23rd, 2020. 
おまけ; 特に後半 Depeche Mode の音が出ま���る Emax SE の胸キュンな 1986 年サウンドライブラリー動画6分 45 秒
youtube
3 notes · View notes
xf-2 · 6 years ago
Link
毛沢東はソ連と仲違いした時、長年にわたって途方もない予算と将兵の養成が必要な通常兵器より、短期間に決定的な抑止力を高める核・ミサイルが効果的であると認識した。
 そこで人民の半分が餓死してでも「両弾一星」(原・水爆と人工衛星)を完遂するという決断をした。
 その根底には、中国という国家は人民(約8億人)の半分、4億人を犠牲にしても国家は生き残れるという意識であった。
 また、「政権は銃口より生まれる」と喝破したように、国共合作で国民党軍を日本軍と戦わせ、共産党軍は後方にいて増勢につなげ、続く内戦で勝利して政権奪取につなげる考えがあった。
 実際、430万人いた国民党軍は150万人となり、120万人しかいなかった共産党軍は400万人となり、累次の内戦で約800万人が戦死したとも言われる。
中華人民共和国の建国後の犠牲者
 毛沢東は建国10年後の1958年から61年までの3年間、人民公社を地方ごとに造って自給自足で生き延びることができるように大躍進運動を行う。
 しかし、公社間の競争精神は実体の伴わない過大報告となり、結果的には約2300万人が餓死したと言われる。
 毛は失敗を認めて国家主席を辞任。1962年1月の中央工作会議で劉少奇国家主席が「三分の天災、七分の人災」と述べて大躍進を批判する。
 しかし、建国以来続けてきた反右派闘争に勝利して1964年に���権する。この15年間に約950万人を虐殺したとされる。
 1966年からは10年に及ぶ文化大革命が続く。この間の政治的な痛めつけでの死亡(約2000万人)や餓死者はほぼ1億人にも上ったとみられている。
 3度の批判を生き残った鄧小平は毛の死去(1976年)後の78年末に「改革開放」の大号令をかけ、今日の大発展につながっていく。
 しかし、どこまでも社会主義市場経済で、共産主義体制の維持が前提であった。
 胡耀邦が総書記に就任(1980年2月)してチベットの惨憺たる有様に衝撃を受け、失政の責任は共産党にあるとして、政治犯の釈放や信教の自由と僧院の再建などの自由化政策を進めるが、共産党幹部の批判を受け87年1月解任される。
 続く趙紫陽も学生たちの民主化要求に柔軟な対応を示し、天安門広場に出かけ学生を説得するが失敗に終わる。
鄧小平は共産党政権維持への懸念を深め、中国人民解放軍による武力弾圧を決断し、民主的な抵抗を戦車で粉砕する(「天安門事件」、「6・4事件」とも呼称)。
 趙は3週間後(6月23日)に解任され、上海市委員会書記であった江沢民が抜擢される。
 天安門事件の死者は発表されていないが、米国の秘密文書によると、死者は1万454人、死傷者は4万人以上となっている(方政・釈量子対談「生き証人が語る 血塗られた天安門の虐殺」、『WiLL』2016.7号所収)。
 改革開放後の経済的発展は貧富の差を拡大させ、犯罪や暴動も頻発した。400万人の死刑囚収容施設は不足する状況で、死刑免除と引き換えに外国への労働者として派遣しているとも言われる。
すべてにおいてスケールが違う中国
 列挙すればきりがないが、広大な領土と巨大な人口、困難な統一、近代化の遅れ、そして何よりも言論の自由がない共産党独裁の強権政治で「物言えば唇寒し」だ。
 他方、愛国無罪が大きな「虚言」を蔓延らせる。
 日本では厚生労働省の為体で統計の信頼性が揺れているが、中国は国家ぐるみで、GDP(国内総生産)さえ疑問視されている。
 内乱や自然災害、イナゴの異常発生による蝗害などが絶え間なく起き、その都度100万単位の死者・餓死者を出してきたとされるが、何一つ正確な数字の公表はない。
 秦の始皇帝が即位したBC221年から共産党結成の直前1920年までの2140年間に160回の内乱があり、累計年数は896年で、13年おきに約6年間の戦闘が起きてきたとされる。
 また、この間に5150回の天災、うち1035回の旱魃、1037回の水害が発生。旱魃や水害は2年に1回、蝗害も含めた天災は5カ月に1回の頻度で発生してきたことになる。
 施政が行き届かない広大な領土ゆえに、何か起きれば大飢饉に直面した。1810年900万人、1811年2000万人、1849年1375万人、1876~78年1300万人の死者を出す大飢饉が発生している。
 20世紀に入ってからも、1928~30年の大飢饉では西安市のある陝西省で200万人が流民となり、1930~32年には1000万人が餓死している。
 なお、支那事変で日本軍が開封を占領した1938年、蒋介石軍が日本軍の追撃阻止のため、黄河の堤防を決壊させ、下流域(河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54000平方キロ、北海道の6割)の水没で100万人死亡、被害者は600万人に上ったとされる(『郭沫若自伝』は日本軍の無差別爆撃と対外宣伝した)。
 このため、3省の農地が農作物ごと破壊され、河南省では1942年に凶作、続く翌年は蝗の大群発生で、300万人が餓死したという。
 こうした餓死者が出ると、得体の知れない茸も食し、子供を交換して食すこともあったとされる(易子而食…子を替えて食らう)。
中国人による中国人の斬殺
 問題は人為的な残虐行為で、『揚州十日記』がある。
 明朝滅亡時、満清の軍隊が南下して勢力を南京に及ぼそうとした時、南京政府の要所、揚州城の攻防で王秀楚という人物が家族や兄弟と逃げ回る間に体験した記録である。
 わずか10日間の出来事であるが、中国社会で昔から蔓延るあらゆる慣習が見て取れる。
 指揮官の逃亡、兵士の略奪・強姦・放火・惨殺などの暴虐、金品の強要や強奪などが展開される。
 2人の女性が逃げ回り、足が泥の中にぬかって脛まで没している。「1人が女の子を抱いていたのを、兵卒は鞭で叩いてその子を泥の中に捨てさせ、そのまますぐ追い立てて行った」。
 数十人のものは牛か羊かのように駆り立てられて「少しでも進まぬと直ちに笞を加えられ、あるいはただちに殺された。女たちは長い綱で数珠を通したように頸をつながれ、一足ごとに躓き転んで、全身泥まみれになった」。
 「どこにもかしこにも幼児が馬の蹄にかけられ、人の足に踏まれて、臓腑は泥にまみれ、その泣き声は曠野に満ち満ちていた」
 「途中の溝や池には死骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた。池はそのために平らになっていた」
 逃げ回った挙げ句、通りに出た。
 「通りには人の首が重なりあって横たわっていたが、真っ暗で誰が誰やら見分けがつかなかった」
 「(中略)城壁の下には死骸が積み上げてあるため、歩くのに難渋した。何度つまづいては起き上がったか知れなかった。何かに驚かされるたびに、地面に倒れて死骸の真似をした」
 彼らは掠奪や強姦ばかりでなく、火災も起こす。四方に火事が起こり、「こっそり戸外に出て見ると、畑の中には死骸が積み重なっていて、中には息絶え絶えにまだ生きているのもあった」。
 男(兵士)は幼女と男児を連れた婦人を捕えた。
 「男の児が母を呼んで食べ物をねだった。その男は怒って一撃すると、脳が砕けて男の児は死んだ。男は婦人と幼女を引いて行った」
 隠れていた場所に「数人の兵卒がやって来て引き出されたことが二度ほどあったが、その都度少しばかりの金を握らせると行ってしまった」。
 こうして10日間で80万人が清軍の刀下で虐殺されるという血腥い「大屠殺」が展開され、繁華の揚州は凄惨な生き地獄と化したという。
揚州を落とした清軍は騎虎の勢で数日後に南京に入る。南京王朝の福王や陪臣はいち早く逃亡し、文武百官はみな薙髪して清軍に降伏する。
 余談であるが、清軍豫王とまみえた揚州督鎮は「史可法ここに在り!」と大呼するが、武運拙く、ついに捕えられる。
 豫王は「降れば則ち富貴ならん」と諭すが、史可法は「われは天朝の重臣なり。あにいやしくも生を偸(ぬす)みて万世の罪人となるべけんや。わが頭(こうべ)、断つべし、身屈すべからず」と断る。
 豫王は3日間説得し続けるが、最後は涙を揮って部下に斬らせたという。
中国の極刑さまざま
 手元に『図説 中国酷刑史』(尾鷲卓彦著、徳間書店)がある。
 酷刑とは残酷極まりない刑罰のことで、中国の酷刑を可能な範囲で紹介したものである。
 「彼らは手足を釘で打ちつけられ、鮮血をしたたらせて架刑(はりつけ)にされている劫賊(ごうとう)に、これっぽちの憐みすら寄せないどころか、その“五花斬人(きりきざみ)”のさまを観賞するという奇怪な光景まで演じた」
 「街頭や横丁において、首が切り落とされた様子を微に入り細をうがって、活き活きとしゃべりたてるかと思えば、われ先に鮮血にまみれた人頭や半裸の女性の屍体を覗き込む。なかには饅頭に血を吸いこませ、それを食べて肺結核を治そうとする者さえあった」などの記述もある。
 酷刑には官刑と私刑の別があり、官刑では「拷問・斬首・絞縊・首枷・足枷・站籠(立った姿勢で首枷)・抽腸・鞭打ち・凌遅(寸刻みで切り裂く)・銃殺・見せしめ」が列挙されている。
 私刑では「吊り下げ・熱湯あびせ・目えぐり・耳削ぎ・活き埋め・舌抜き・火あぶり・沈め殺し・釜ゆで・圧殺・宮刑・人喰い・足ぜめ・頭髪そり・入れ墨・首切断・バラバラ屍体」などが記されている。
 読んでいて、「心胆を寒からしめる」どころか、こんな国家・社会があるのかと恐ろしくなってくる。日本人には想像を絶する奇想天外な国家・社会のようだ。
 本多勝一著『中国の旅』にも、「飢えた軍用犬の餌」にした話(文庫本p20)や「電線にコウモリのようにぶらさげ火あぶり」にした話(同p231)、「腹をたち割り、心臓と肝臓を抜き取って食う」話(同)などがある。
 臓器を煮て食したのは日本兵ということになっているが、筆者には日本人の行動様式とは思えない。読者はどう思われるだろうか。
 月刊誌『SAPIO』(2015年7月号)は、「毛沢東は『資治通鑑』を17回も読み、ライバル抹殺の手本としていた」とのリードで、「『人ブタ』『食人』『生きたまま肉を削ぐ』 歴史書に描かれた中国4千年『残虐の伝統』」の表題を付けた一文を掲げた。
 その中で、「人ブタ(手足を切断し丸裸で厠に放る)」「凌遅」「大量虐殺(一族の公開処刑や赤ん坊を空中に投げ槍で刺す)」「人食い」「ムチ打ち・炮烙(銅製円柱に罪人を縛り付けて焼き殺す)」「站籠」などを挿絵入りで説明している。
中国人による日本人大虐殺
 拙論の本題は中国人が日本の軍民に暴行を加え、また惨殺・虐殺した事件の検討である。いくつもあるが、ここでは3つを取り上げたい。
(1)旅順猟奇虐殺事件
 日清戦争(1894.8~95.5)間の11月21日に起きた事件である。
 近代化に邁進中の日本は、戦争においては勝利することと国際法を順守する文明国家であることを強調する必要があり、戦場に国際法の専門家を同道し、第2軍司令官大山巌大将は「我軍は仁義を以て動き、文明に由て戦ふものなり」と訓示していた。
 勝利の報が続々と届いていた矢先の惨事に、影響を最小限にする方策で伊藤博文首相と陸奥宗光外相は振り回される。
 旅順市街に突入した日本軍兵士は、3日前に生け捕りされた3人の生首が、道路わきの柳の木につるされているのを見る。鼻はそがれ、耳もなくなっていた。さらに進むと、家屋の軒先に針金でつるされた2つの生首があった。
 米国人記者も「ワールド」紙で、「日本軍が旅順になだれ込んだ時、鼻と耳がなくなった仲間の首が、紐でつるされているのを見た。また、表通りには、血の滴る日本人の首で飾られた恐ろしい門があった。その後、大規模な殺戮が起った。激怒した兵士たちは、見るものすべてを殺した」と書いている。
 清国兵は残酷を極めた方法で傷をつけ、第2軍兵士の死体を放置した。
 死者、あるいは負傷者に対して���首を刎ね、腹部を切り裂き石を詰め、左腕を切り取り、さらに睾丸などまで切り取り、その死体を路傍に放置した。これは捕虜の扱いではなく、猟奇事件でしかない。
 この残酷さが日本軍に復讐心を燃え上がらせ、生首が兵士たちの激昂を誘ったとされる。
 攻撃の包囲網を狭められた清国兵は「袋の鼠」同然となり、軍服を脱ぎ捨て便衣兵となって民家に逃げ込んだ。
 復讐心は便衣兵の徹底捜査となる。また、市民の中には武器をもつ者もいた関係から、彼らも加害者とみなされた。
 歩兵第2連隊の加部東常七上等兵は「旅順市街に闖入するや、戸々軒々、家中を捜りて、(略)小暗き家の片隅に潜む一人の敵兵。オノレッ!とばかり・・・。直突一閃! 胸板深く突き通せば、彼、苦しさの余り、我剣刃を握れり。コワ・・・仕損じたり。と力を極めて引けば、四指を落としてがくりと倒るる所を亦一刺。魂、天涯に飛んで骸のみ」と手記に記している。
 この連隊では清国兵28人を斬殺した一等兵を筆頭に、21人、17人など、11人で166人の清国兵を屠ったという(以上、井上晴樹著『旅順虐殺事件』)。
 旅順郊外の萬忠墓には被難者計1万8百余名(かなりが便衣兵か)と明記されているそうである。数はともかく、事件は両国の将兵が確認し、内外の記者数名が報道し確認している。
 しかし、非は我に有りとのことか、中国は旅順の猟奇・虐殺をほとんど報道してこなかった。
(2)昭和2年の「南京事件」
 「長江(注:揚子江の上流域)流域上下二千浬(カイリ)に亘り、三千余名の在留邦人が暴徒の迫害から遁れて、財産を捨て地盤を棄てて内地への引揚げを断行したことは、我日本としては空前の史実であり世界的にも希有の事変である」
 「彼らの我邦人に対���る嫌悪と軽侮の念は、十数年来の排日によりて遺憾なきまでに蓄養された。その今日あるはむしろ予想されていなければならなかったはずだ」と悔しさを隠さない。
 これは、合法的に南京・蘇州・漢口・重慶などに居留していた日本人が昭和2年の春、中国人によって襲われ、引揚げざるを得なかった日本人襲撃事件の実相を、直後に結成した「中支被難者連合会」が証言や公文書を用いて再現した『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』の「序」である。
 少し説明が必要であろう。事件発生時までの3年間、外務大臣は幣原喜重郎であった。
 上海などで中国の横暴がしばしばあり、英米などは軍艦を出動させて鎮圧してきた。しかし、幣原外相は話し合い解決を主張し、軟弱外交と批判されていた。
 こうしたことから、南京の日本領事は「北伐軍を刺激しない」「無抵抗主義で対応する方が効果的」として、荒木海軍大尉らが準備した領事館前の土嚢を撤去し、機関銃は倉庫に隠した。
 そこに事件が起き、兵士と暴徒の侵入を許し、婦人までが凌辱・強姦の「忍ブベカラザル検査」(「検査」は領事の表現)を受けたのだ。
 中国が事件を起こしても、武力対処は一切斥けた。こうした日本外交に対する思いが「今日あるはむしろ予想されて」の謂いであり、悔しさが滲んでいる。
 これこそが「南京事件(昭和2年)」と呼ばれるもので、今日、「南京大虐殺」(昭和12年)として非難されているものは、事件でなく追撃戦であった。
(3)通州虐殺事件
 北京の東方約20キロのところに通州がある。「冀東(きとう)防共自治政府」の管理下にある通州保安隊に守られて日本人居留民は生活していた。
 盧溝橋事件から3週間後の29日(1937年7月)から翌30日未明の間に、保安隊は国民党軍と示し合わせたかのように警備を解き、女子供を含む邦人257人(日本の警備隊32人を含む)が惨殺された。
 居留民たちの救援活動を取材するために、たまたま来ていた同盟通信社の安藤利男記者も襲撃を受けるが九死に一生のチャンスを得て脱出に成功し、後に『虐殺の通州脱出記』を書いている。
 午前2時半ごろ保安隊の動きが怪しいとの電話があり、その後は不通。4時頃からは銃声も聞こえる。7時ごろになると市街南方辺りで白煙や黒煙が上がり、銃砲声も激しくなる。
 8時になると、記者たちが泊まっていた近水楼の支那人ボーイが他所から口も利けない状態で駆け込んできて、「特務機関付近の通りの邦人商家、カフェー辺りで、日本人が多勢殺されてゐる。太変です・・・」の第一報をくれたという。
 また、奇跡的に生き残った人たちも、色々と証言しており、虐殺事件の状況はかなり正確に伝わっている。
 1か月後には『主婦の友』が人気作家吉屋信子をカメラマンともども派遣。その時も証拠は至る所に残っており、女性の目で子細に記録している。
 しかし、平成28(2016)年7月、現地を訪ね『慟哭の通州―昭和12年夏の虐殺事件』を上梓した加藤康男氏によると、通州市は北京市に吸収されて、「もはやこのあたり一帯に通州虐殺事件に関連した建物は何一つ残されていない。旧城内は、90年代ごろから徹底的に破壊し尽くされてきた」という。
 事件から5カ月経った12月下旬(日本軍が南京で入城式を行った1週間後)、冀東防共自治政府と日本側との間で弔意賠償金の支払いや慰霊碑建立の決着が図られた。
 都合の悪い慰霊碑はいつしか地下に埋め隠されたが、再開発で偶然に発見された。
 その状況を「北京日報」(2001.8.24付)は、「日本軍が中国を侵略した証拠、通州区で慰霊碑が見つかる」との見出しで報じたという。
 「1938年日本軍のもので、我が国の抗戦軍民が倒した日寇のいわゆる『慰霊碑』だった。・・・文字はいずれもひどくかすれているが、『大東亜共栄』など日本の侵略理論も記されている」
 「通州区の文物所所長によれば、・・・1937年7月29日早朝に通州の2万人余が蜂起、この偽政府(注:冀東防共自治政府)を占領した上、日本人五百人余りを撃ち殺した。翌日、日本軍は大規模な報復を行い、偽政府に二つの慰霊塔を立てることを要求、塔の前には慰霊碑も立てた」
 殺害者二百数十人を「五百人余」に倍増し〝抗日の成果″を誇っているし、また5か月後の話し合い決着を「翌日」として日本の傲慢な要求に見せかける中国一流の誤魔化しがある。
 加藤氏は、「南京や盧溝橋はもとより、満州各地にある旧大和ホテルに至るまでが『対日歴史戦』の遺跡として宣伝利用されていることを考えると、雲泥の差である。『通州虐殺事件』の痕跡は極めて都合が悪いので、完膚なきまでに消し去ったものとしか考えられなかった」と述べる。
おわりに
 通州虐殺事件について、「東京日日新聞」(昭和12年8月6日付、毎日新聞の前身)は、「敵は第29軍の首脳部の命を受け26日頃から通州襲撃の保安隊及び正規兵と連絡をとり、北清事変議定書によって正規兵は天津市内に入るを得ざるを以て便服に着替へて大胆にもトラックを以て続々天津付近に侵入。機関銃、迫撃砲、小銃、青竜刀などを蔬菜や貨物の下に隠して運び込み、時の到るのを待って居た」と報道している。
 天津では中国軍から攻撃を受けるや否や、日本軍が反撃に出て撃滅したため大事に至らなかったが、通州虐殺事件は天津の日本租界・軍関係機関、その他の邦人多数居留区域と共に、2年前から襲撃計画が練られていた同時多発テロであったのだ。
 同紙は「約1万5千人を虐殺し、掠奪を恣にしたうえ、日本租界を占領しここに青天白日旗を翻して天津から邦人を一掃する」ことになっていたかもしれないと書いている。
 加藤氏によると、中国共産党は、通州事件を「反正」(過ちを正すこと、即ち冀東防共自治政府の消滅)として評価し公認しているという。それなのに、「なぜ痕跡を抹殺しようとするのだろうか」と疑問が沸く。
 筆者は次のように思う。旅順猟奇虐殺事件や通州虐殺事件は、虐殺現場の目��者があり、「事件の存在」が証明される。これらの事件を大きく取り上げると、「南京大虐殺」についても「事件存在」の「明確な証明」が求められる。
 しかし、習近平さえ英国女王の晩餐会で「存在の証明」で「友好のプレイアップ」を図ったが、逆に「非存在」の暴露になってしまい、“はい それまでよッ!”となりかねなかった。
 南京事件は大虐殺の「状況証拠」から離れていくばかりだ。いかがであろうか。
5 notes · View notes
country81writer · 3 years ago
Text
Tumblr media
友あり、遠方へ去る また寂しからずや Always On My Mind
個性満開の1970年代
授業にかける時間が足りず、卒業に5年を要した。 同期の連中は要領よく4年で卒業して行ったので、友のいない5年生はキャンパスに行くことも少なくなり、本業の陸送屋以外にも様々なアルバイトに明け暮れて日々は過ぎていった。 横浜の大学であるが仲間は殆どが地方出身で工学部系、ほぼ全員が製造業や建設業に就職してそれぞれの地元に帰った。 同じ文科系で一人、地元鹿児島の銀行に就職した男がいる。 あいつが?銀行マン?金を貸す? 噓だろ。いやぁ、さすが西郷どんの国は懐が深い。 その後の便りから、宴会マンとして活躍している由を知り、なるほど、お堅い金融界でも、いや、だからこそ、大学時代に鍛えたそっちの能力が生きるのだと大いに納得した。 横浜ではオイルショック直前の好景気のなか、多彩なバイトが存在した。
☆分譲マンションの先着順購入行列代行 寒風の中、物件前で購入予定者に代わって徹夜で並び、申し込み券をゲットする。 ひたすら寒いが行列を離れられない、意外に過酷な仕事。 ◎アイスクリーム配達屋 担当する何10軒かの町のお菓子屋さんを保冷車で巡回して、��の冷凍ケースに自分の判断で勝手に商品を詰める。 少な過ぎず、多過ぎず、店主のクレームが出ないように品種を決めつつ稼ぐのが難しい。アイスクリーム食べ放題の美味しい仕事。 ★中古自動車の近距離配送ドライバー 東京に住む退役米兵の自宅から、東神奈川にあったノースピアという軍用埠頭まで、深夜の国道をナンバープレートの無い元タクシー車両を走らせて届ける。 米軍の輸送船に載せてベトナムあたりに送るらしく、日本の法規を全く無視したブラックな仕事。 △医薬品等配達業 薬を載せたバンで開業医を回り、営業員から指示された薬を医院の冷蔵後に詰めて回る。 時に中身不明の封筒や、外国の写真雑誌なども一緒に冷蔵庫に詰める、妙な仕事。 ▽業務用厨房機器運送業 トラック運転手と2人で、業務用回転窯を荷台から降ろして厨房に搬入する。 長さ3メートル、重量1トンを超える物を、木の梃子とコロだけでどうやって運べたのか思い出せない、不思議な力仕事。
そういえば、下級生に「合否連絡電報屋」を自営している男がいた。 大学入試の日、キャンパスで地方からの受験生を捕まえて、合否の電報連絡を売り込む。合格発表を代わりに確認して即座に電報で知らせるという有料前払いのサービスだ。 金持ちの子息が受験する優良大学を選んで出張るらしく、バイトの手下まで使って手広く商売していた。実際には時間と経費削減のために電話で合否連絡していたらしく、 「はーい、こんにちは連絡屋です、サクラサク」 ガチャッ。 よくも考えつくもんだ。
Tumblr media
こうして1年は過ぎ、無事卒業して外資系の事務機器会社に就職した。 その会社は入社試験に筆記が無くクレペリン検査という心理検査のみ。代わりに面接がグループと個人の計2回。目黒のホテルで最終合宿選考という変わり種だった。 1泊2日の合宿で与えられた課題は、同族経営で傾いた会社を新しい役員陣で再建するというもので、4人ずつのグループに分けられ、営業部長だの経理部長の役割で再建案をロールプレイさせられた。 どのグループのプレゼンも失笑と爆笑の渦で、そりゃあ大学生には無理な課題というものでしょ。 ほぼ徹夜でプレゼン準備するために割り当てられた部屋の冷蔵庫には、何故か酒類がぎっしり詰まっている。 4人で、はたと考えた。これ飲んでいいのか。 ジャンケンに負けた僕が試験官の部屋に聞きに行く。 来たか、という顔でニヤリと笑った試験官が言う、 『自腹だぞ』 後で考えると、これも試験の一環だったと思われる。 同期入社の仲間には元スクールメイツの歌手、応援団部長、工場団地で賞味期限すれすれの格安パンを巡回販売して稼いでいた学生起業家、忘年会のたびにエルビス・プレスリーの格好で人力車に乗って会場に現れるロックンローラー男(当時、勤務地が東銀座・歌舞伎座の裏にあった)など、本当に新卒採用かと疑いたい連中ばかり。  配属された営業部で顧客だった某農協の宴会座敷に呼ばれ、パンツ1枚で柱によじ登り、「雨のフル(降る)キーよりもテンキー(天気)のほうが良い! ミーンミン Me 」とやって、自社のテンキー鍵盤型事務機器を受注したという豪傑セミ男もいた。 あの面接は個性的な学生を抽出するのが目的だったとしか思えない。ユニークなイタリア系の会社だった。 その後、僕は同様に外資の米国系IT企業に転職した。外資系に共通する特有の合理主義や個人主義は結構居心地の良いものだが、カタカナ社名を覚えられない母親には全く不評で、 『 ああ、いやだ嫌だ。また何でそんな会社へ、FBIだなんてさ。』 「 ん? イヤイヤ、おふくろ、そうじゃなくて、似てるけど、」
1 note · View note
ukanotuki-blog · 6 years ago
Text
産まれた時からずーっと借金生活
普通。に憧れていた。俺は末っ子で両親が40代で産まれた。
母親は俺が幼稚園から入退を繰り返し何度も手術をしていた。俺をおんぶし姉を連れて歩いている最中に股関節がずれるで1回、子宮がんで4回。
幼稚園のお弁当は母親が入院の時は、カップラーメンを職員室で食べたり、父が仕事の途中に幼稚園にコンビニで買ったサンドイッチを届けにきたり。それでも幼稚園の参観には可能な限り来てくれた母。ツラかったのにありがとう。
小学校に入ると本格的にお金がなくなり、給食費払えない、電気止まる、ガス止まる、借金取り来るのオンパレード。俺が低学年の時母が子宮がんになる。幼いながら母が死んだらと考え布団にもぐり泣いた。母は子宮全摘出は拒んだ、やはり女性としてなのか恐怖からなのか分からない。放射線治療も放射線が他の臓器に当たり人工肛門を付けた、尿も便もお腹に開けた穴から袋がぶら下がっていた。長男と父が小学校の先生と何か話しをしていた記憶がある。もうそんなに長くないとかだったのかな。小学校の時は虐めにもあった。悪口言われたり意地悪されたり。周りは習い事してる奴らばかりだったから体も小さい俺は狙われやすかったんだな。そりゃ毎日のご飯は母と父が固いご飯食べれないからご飯焚いてもびちゃびちゃのお粥みたいだったから仕方ない。食べれるだけましだ。栄養なんて無い。お金無いからおかずも選べない。
中学になり母のガンは放射線で消えたが腎臓が悪くなり1個取った。母は身体障害者になった。俺はテニス部に入り、兄が買ってくれたラケットを使い部活もさせてもらえた。
この時くらいから父が仕事を辞めた。ある時中学の先生に電話して俺を学校辞めさせたいと言っていた。義務教育すら受けれないほどお金無かった。何とか3年生になり俺は学校に行かなくなった、グレた訳じゃない。昼夜逆転してしまった。父は同居していた俺の兄が怖くて家から出ていった、近所の知り合いの家に少しお世話になり、ある時俺を連れて免許の更新に二人で行った。これで帰ってくるかと思うも家の近くになりここでサヨナラだと言われる。何で帰ってこねーんだよ!って一人で泣いた。しばらくして兄が父の車を見つけ連れて帰ってきた。父は近所のおばさんの伝で工事現場の仕事をするも今までトラックの運転をしてきた為か続かなかった。母はお金が無いから病院に行けない日もあった。俺は高校受験の時期になり、定時制に行く事にした。合格した事を電話で母に伝えると泣いていた事を思い出す。姉も定時制だった為特に深く考えてないフリをしていた。本当はバイトしながら学校行けて学費安いし奨学金貰えたから。朝バイト行く俺が乗る電車は昼間学校に行く同級生達もいる。会わないように時間や車両ずらして逃げた。
高校は4年間。周りは虐め���れてた奴や不登校だった奴らだから似た者同士。相変わらずお金は無いけど何とかやりくりしていた。
高校4年の夏を過ぎた頃、母は腎臓が悪くなり入院中。後半年くらいしか生きられないと姉から言われる。信じたくないが長男に電話すると本当だと。
消えていた癌が再発。5年再発なければ大丈夫の話が5年目で再発した。俺はバイト休みの日は昼から病院に行き手が震えてご飯が食べれない母を手伝いに行き夕方学校から学校の生活をした。ある時、病室に着くとお昼のおかずがベッドの下に落ちていた。当時看護婦が足りておらず誰も来てくれなかった。母親は俺が来ると気丈に振る舞う。ご飯食べるの手伝ってからトイレ行ってくると言い、個室に入り一人バカみたいに泣いた。母には再発と余命は言わない約束だった。ごめん。ごめん。ごめん。病室に戻るとお母さんこんなんでごめんね。。って言われた。今に始まった事じゃないから俺は大丈夫だよ。学校行くね。って言い病院出たら号泣した。ごめん。ごめん。ごめん。こればかり。
とうとう意識障害が始まりだしたから病院に泊まったりした。幻覚も見えてたみたいで痙攣もおこす。痙攣止めの点滴をした。最後は苦しまないようにしたいと先生に話す。先生は強めの痙攣止めを入れたら恐らくそのまま亡くなる可能性があると言った。それでも良いから苦しまないようにとお願いする。俺は未成年ながらタバコを吸っていて調度誰かと外に出てタバコ吸っていたら、姉の彼氏が走ってきてもうそろそろだぞ!と言われた。急いで病室に戻ると血圧が下が��だしていた。呼吸が止まり心臓だけがゆっくりと動いて完全に止まった。泣いている俺と姉に向かって兄が言った言葉、お前らのせいだぞ。忘れない言葉です
ご臨終です。母は頑張りました。最後それぞれ言葉を掛ける時に俺は産んでくれてありがとうと言いました。これからは母が居ない生活。母59才俺が18の時でした。
その後それぞれ兄弟は結婚したりで家を出て俺と父二人の暮らしが始まりました。父は母の5才上なのでこの時既に64才。母はきっと俺にお父さんお願いねと言うだろうから俺は父の傍にいる事にした。一人にしたら何するか分からないし幸せになった兄たちに迷惑かけないようにしようなって言ってたな。毎年小さくなっていく背中を一人で見ていく暮らし。そろそろ本格的な介護が必要と思い介護師等の手はずを済ませた2月28日、その日の夜には布団で寝てる父におやすみと言い部屋にいく。29日、遅番の為10時半に母屋に行くとカーテンが閉まったまま。急に何か感じ急いでドアを開けカーテンを開けると、父が仰向けで倒れていた。お父!と叫ぶ。手が動いていたので手に触れると凄く冷たい。直ぐに救急車を呼び搬送。姉と長男に連絡直ぐに病院にきた。泣きながら看護婦に状況を説明。低体温で全身の状態が悪い。体温を上げるが体温を上げてる最中に心不全が起きやすい、その時はAEDを使います。と言われる。なんとか体温があがり先生から説明を受ける
重度の肺炎で抗生物質が効きません。延命希望しますか?俺はしっかりしなきゃの気持ちで延命は希望しません。本人が病院大嫌いで痛いのも苦しいのも嫌いなんです。ですので最後まで痛い苦しいだけは感じさせないようにしてあげて下さいと伝えた。先生も泣いてた。皆泣いてた。数時間振りに父に会う。酸素マスクをし意識が無い。俺はひたすら謝った。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。一緒に暮らしてたのに気づいてあげれなくてごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。その日は姉の家に泊まる話しになり長男を送り帰りの道で病院から電話がきた。先生が話があるそうです。病院に戻るとレントゲンを見せられ肺に穴が空いてます。もって一週間です。
それから意識が戻り俺の名前を書いた紙を見せると読んでくれて目があった。泣いた。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。
もう何書いてるか分かんないよ。母も父も亡くなったんだよ、産まれてからの事を書きたくなってさ。支離滅裂で文才ないし、誰に伝えたいとかなくて。こんな人生だから周りが羨ましく思う。残されて一人で泣いてるしかなくて誰も分からないよ。眠れない。
1 note · View note
lostsidech · 3 years ago
Text
2-②
「おかえりなさい、旦那様。お疲れでいらっしゃいますか?」 「何してんだよ」
 ホテルの部屋に帰ってくると莉梨がいた。しかも何故か胸元にホテル名の入ったメイド服を着、髪を小さなお団子にして編み込んでいる。
 突っ込むと莉梨は肩をすくめて部屋のベッドに勝手に腰かけた。望夢はいちおう連れてきた翔成と相部屋なのだが、観光にでも出ているのかその姿はない。望夢としてはお前のところのお嬢様なので帰ってきて面倒を見てほしい。  莉梨は片手で前髪を梳きつつ、 「もう少し素敵な反応をしませんか? 貴方が言った通りです。頭数に莉梨が入ってるから、滞在中少なくとも一回は、出入りして用意された部屋を使ってるふうに見せてあげないといけないでしょう? 今日は裏からなのでホテルメイドに紛れて潜入を」 「お前ならまばたき一つで最初からいたふうを装えるだろ」 「まあそんな悪女みたいな」  口元に手を添えて彼女は軽くウィンクする。解釈相性優位の望夢でなかったら軽く臣下になってしまいそうな女王様のウィンクだ。 「というのは冗談、ではないけれど説明不足です。堂々とホテルの宿泊者名簿を漁るのに、楽しいのでちょっと制服をお借りしました。たしかに能力を使って莉梨を目にする人に違和感を抱かせないことはできるのだけど、衣装も借りず演技をするのも非効率ですからね」 「宿泊者名簿?」 「指定ホテルなので、日本以外の大会参加者も宿泊してるんです」  しっかりコピーしてきたのか、やっぱりちょっと悪いお嬢様はファイルを取り出して顔の横で振った。 「公式宿泊者との齟齬や変更がないか、また大会で公表されている以外に張り込ませているらしい関係者がいるか。ひととおり調べたいところですね」 「……助かる。調べてる中に、シオンってガキはいない?」 「シオン? アメリカSEEPのですか?」  枝葉の質問だったのだが莉梨にはしっかり通じた。しばらく滞在していただけのことはあり、この地域の異能事情にも詳しいようだ。 「アメリカ代表、それもニューヨーク出身ですよ。ホテルに泊まる必要はないでしょう」 「そっか。それもそうだな」 「あ。その顔、会ったんですか?」  急に莉梨が興味深そうな顔つきになって望夢を見つめてきた。 「確かに、サウスブロンクスの情報屋に立ち寄ったらいてもおかしくないですものね。���を育てたのはあの街だと聞いています」 「彼?」  思わず目をしばたいて訊き返した。シオンは少女……ではないのか? 「ああ、莉梨が知った時は男の子だったんです、ごめんなさい。可愛い子でしょう? 見た目ではわかりませんけど、公式的に元々は男の子だったんですよ。まだ一二歳ですから、行政の対処としては早いほうです。年下ですね」  莉梨は指を二本立ててプロフィールを説明した。望夢は少し嫌な気持ちになった。スターと呼ばれるシオンの存在が、『行政の対処としては早い方』の宣伝のように感じたのだ。  莉梨もおおむね同じ気持ちらしく、 「これを言っては無粋ですけど、彼女の振舞いや容姿も、現在のアメリカSEEPの看板にふさわしいのでしょうね。貧しい生まれを気にせず、好きな性別でいて、自信をもって話す。少女でも少年でもあるアイコン」 「……だろうな」 「当人がいいならいいんですけどね。どうにも」  イギリス生まれの莉梨は毒を吐くと、空気を切り替えるようにぽん、と手を叩いた。 「プリンセス・シオンはじめ、アメリカの子たちはそれぞれ滞在場所があるので追えません。けど、私がちょっとだけ危惧してることがあります」 「……なに?」 「大会参加者側にすでにヒイラギ会の息がかかっている可能性ですね。それを調べるためのリストです」  莉梨は自分の持ってきたファイルを指さして言った。 「直近の公表されている大会参加者はすでに経歴や行動を洗って目星をつけてありますが、周辺人物は分かりません」  望夢は聞きながら頷く。当然のこと、ありえなくはない話だ。ヒイラギ会の活動の痕跡は異能の気配ではトラックできない。  ヒイラギ会をおびき寄せるための大会だ。彼らも事前に策を講じ、根を張っていてもおかしくない。 「どう、今のとこ。大会ごと乗っ取りに来るようなことって考えられる?」  莉梨に向かって尋ねる。莉梨は少し空中を仰いだ。乗っ取る──と言えば互いに意味は伝わるだろう。最も怖いのは、このイベントはたくさんの人が集まるものであり、世界に向けて発信されているということだ。彼らの洗脳兵器、クォリアフィルタは映像でも働くという証拠があった。 「彼らがもし実際に入り込んでいたら、注目に便乗してヒイラギ会式の洗脳を行う可能性は、もちろんゼロではありませんが……」  莉梨はそこで一度言葉を切り、 「多人数を対象にするような技術ではないと思いますね。それが可能なのなら今までにも動画でやっているはずです」  そう判断を述べた。所感には望夢も変わりはない。今まで目にしたクォリアフィルタの用法は、基本的に彼らがすでにパーソナリティをよく知る者への揺さぶりに限られていた。  次いで尋ねる。 「まだできることを隠してる可能性はどう思う?」 「一つ内緒話をしましょう。ホムラグループの、この秋に失踪した研究員が、ことによってはクォリアフィルタの応用研究に使える資料を持ち出しています」  さらりと、莉梨は自分のグループの不祥事を口にした。女王はあくまで冷静だった。 「『私』を実験台に行った、洗脳時の科学的な条件変化の実験データ」  急な話に少し戸惑ったが、頷いて答える。 「……なるほどね。確かにヒイラギ会の当人たちから、クォリアフィルタは莉梨の妖術がモデルだとは聞いてる」 「ええ、私もそれは調べがついています。そしてその実験では、『私』の術はあくまで認識した人物との関係をもとに構築するもので、一般集団を対象には適用できないと結論づけられた」  莉梨の妖術は、莉梨の姿や声を知覚した相手に問答無用で言うことを聞かせる。複数名を一気に配下に加えることも当然できる。しかしその細かな方法は、使い手の莉梨自身が繊細に調節しているものだ。相手に自分がどう見えているか、相手は今どこに立っているか、周囲の空気がどんなコンディションかでも、常に術の形は変わる。 「強いて言えば、特定の同じ文脈を持った集団を対象にするなら、一般化したアプローチを掛けること自体は可能です。でも、一般化すればするほど個人への影響力は弱まるし、環境要因は予測しづらい。対象が増えるほど、効果は確実じゃない。  今回の場合、この大会への関係者を最も広く取るのなら『参加者、観客、世界の視聴者全員』となりますが、少なくとも今わかっているヒイラギ会の手札で、それは現実的ではないでしょう」 「オーケー。ってことは、やっぱり、警戒するべきなのは個人レベルのスパイや勧誘だな」  それなら自分たち「補欠」がいる意義も十分にある。 「整理できて助かる。会期中も動きがあったら情報共有しよう」 「うふふ、お役に立てたなら何より。莉梨も貴方の感知能力が借りられるならとっても助かります。それで、情報屋リストのほうもどうでした?」 「勉強になったよ」  話が移る。アメリカの情勢についてもまだこちらから聞きたいことがいくつかあった。望夢はポケットから当該リストを取り出そうとし、一緒に入れていたチョコレートを取り落としそうになって指先でキャッチした。 「っと。……そういえばお礼にでも、これ、要る?」 「なけなしのお代ですね」  これは莫大な情報料を代理で支払ってくれたお嬢様の当然の見解。チョコレートの単価はせいぜい一ドルだろう。受け流されたと思ったが、メイドに扮した女王様は、ベッドに載せた膝に頬杖を突いて眉を下げて笑った。 「いただきますよ。いまのは意地悪」 「……ん。はい」  自分で口に入れようかと丁度包装紙を剥がしていたところだった。迷ったあとそのままチョコレートを差し出す。莉梨が口を開けた。一瞬戸惑うが、手を止めるほどのことはない。開けられた唇に向かってチョコレートを運ぶ。  少しの間、会話に隙間が生まれる。かち、かち、と妙に時計の音が響く。  と、そこへ扉が開いて、ホムラグループの小姓にして今回は協会の代理出席人こと、日沖翔成が入ってきた。 「あ、戻ってたんですね。莉梨さんのお遣いでホムラグループアメリカ支社に──おっと」  戸口で危うく踵を返されかけた。 「待て」 「翔成くんだ。おかえりなさい。お邪魔してます」  望夢が振り向いた隙に、莉梨が乗り出してぱくりとチョコレートを頬張った。そのまま口をもぐもぐさせながらお行儀悪く翔成に挨拶する。翔成は引き留められて立ち去り損ねたていで扉にひっついた。 「あのねえ、莉梨さん。来るなら来るって連絡して、ついでにコスプレしてるって予告してください」 「コスプレじゃないです。お仕事です」 「いや絶対楽しんでるでしょ」  望夢もそう思う。  後輩の視線が続いてこっちを向いて、 「というかおまえも逢引きするなら別の部屋でやってくれ」 「逢引きじゃない」  聡い後輩ではあるがこれに関しては否定させてもらいたい。ついでに言うと俺がメイド服を着せたわけでもない。そこは断じて。 次>>
0 notes
kentarouchikoshi · 3 years ago
Link
 題名には少々問題があるように感じますが,内容的にはとても参考になる記事ですね。  近年,鉄道でもバスでも旅客便に貨物を載せて輸送する「貨客混載」が進められています。ドライバー不足といった問題への対処としても,また輸送手段の効率化という点でも効果が見込める施策ですが,近年では鉄道会社やバス会社の新たな収入源としても期待が持たれていると言えるでしょう。特に昨今はコロナ禍により鉄道もバスも利用の減少に悩んでいます。しかしながらパンデミック中といえども日常の社会運営は通常通り継続しており,またこのパンデミックが永遠に続くことは有り得ない以上,そう簡単には廃線にすることは出来ません。特に鉄道は一旦廃止してしまうと復活させることは非常に困難であり「コロナ禍で乗客が減ったので廃線にしたら,パンデミック鎮静化後に需要が戻って大混乱」などということにもなりかねません。バスはそれほどでもありませんが,それでも路線を一度廃止してしまうと今までバスを利用していた人も運転免許を取得したり自動車を購入したりしててマイカー利用に切り替えることになりかねず,需要を無駄に減らしてしまうリスクがあります。そういう意味で今は人が乗らない状態でも安易に路線を廃止するわけには行かないし,そのためにも荷貨物の輸送による新規収入獲得が強く求められている現状だと言えるでしょう。  現在,この貨客混載の取組は鉄道とバスと双方で進められています。両者とも積極的に進めていくべきであることは論を俟ちませんが,早期に実用化を図れるのはバスの方でしょう。鉄道の場合は「いつどの駅で積み込みや積み下ろしを行うのか」「駅まで・駅からからの輸送についてはどうするか」といった問題を解決する必要がありますが,バスだと「始発前・終着後に市場に寄る」といった形でそれらの問題は比較的容易に解決出来ます。むしろ「バスで先行的に経験を積み,それを鉄道のほうに応用する」ということも検討に値するといえるのではないでしょうか。  この記事で紹介されているのは兵庫県における神姫バスの取組です。三田市内のみを走る短距離路線での輸送ですが,それでも「今まで山道を自分で運転して出荷していた高齢の農家が,その負担から解放された」「ちょうど品薄になる時間に届くので,販売所での品切が発生しなくなった」などなどのメリットがあるようですね。何より,実際に貨物を運ぶ神姫バスが得られるようになった収入は1日あたり70人分の運賃(それも起点から終点まで全区間の乗り通し)相当というのですから,これは決して小さなものではありません。そしてこうした数々のメリットは,この三田市内の1路線でたまたま発生しただけというわけではないようです。西脇市・小野市といった地方都市と大都会である神戸市を結ぶ路線でも同様の取組が成功を収めていることが紹介されていますね。「西脇市内の喫茶店が手がけるフルーツサンドや、小野市内で人気の食パンをバスで運び、当社の神戸三宮バスターミナルで販売するといった取り組みも始めています」とのことで,地域の名店の品がこうして大都会でも紹介されることは地域活性化という面でも良いことですし,何よりそれらのお店にとっては新たな顧客を得ることにも繋がるでしょう。  とはいえ,これだけではこの「貨客混載」はまだまだ不十分だと僕は感じます。神戸市から地方都市に向かう便では荷貨物輸送を行っていないようですが,そんなことでは駄目でしょう。大都市である神戸市には有名なレストランやパティスリーなどもあるのだから,そういったお店の品物を地方都市に運んで即売したり商店で販売したりして地方の人たちに大都会の味を届ければ,これはきっと喜ばれるに違いありません。同じ県内とはいえ地方都市から神戸に出向くのはそれなりの手間ですし,まして今はコロナ禍で遠出を控えるようにと常に呼び掛けられているのですから。  僕は以前,一代で地域最有力と称される大きな運送会社を興した実業家とお話をしたことがあります。一体どのように他社よりも多くの品物を運び収益を上げたのか。顧客の要望に迅速に対応したり遅延や破損を起こさないように細心の注意を払ったりするのは当然のことですが,それはどこの会社でも心掛けていることであって,それだけでは大会社は築けません。その実業家は教えてくださいました。「1台の車両を倍に使うことだ」と。具体的には目的地に貨物を届けた帰りに通常の会社ならば空車で帰ってくるだけですが,その方は「帰りの車でも別の貨物を輸送する」ということを鉄則にして他社に倍する収益を上げることに成功したのだとか。先の三田市内の路線では貨客混載で70人分の運賃相当の収入を得たとのことですが,仮に帰りのバスでも同じ量の荷物を運べれば新規収入は140人分の運賃相当額になるわけです。  ここでこの記事の題名について種明かしを致します。題名だけを見ると「貨客混載で乗客が増えるのか」と思ってしまいますが,それは事実とは言えません。この記事で取り上げられている神姫バスの担当者が「地域が元気になれば、バスの乗客増加にもつながります」と言っているし全くの無関係ではないかもしれませんが,これは「風が吹けば桶屋が儲かる」と同工異曲の話に過ぎませんね。厳しい言葉で言えば読者をミスリードするような題名をつけるのは如何なものかと苦言を呈したい思いです。しかし「新規に運賃140人分(しかも繰り返しますが,起点から終点まで全区間の乗り通し)に相当する収入を得られるようになる」ということであれば路線の収支を大きく改善することが可能になりますし,場合によってはバスの増発すら視野に入ってきます。増発によって利便性を向上させることに成功すれば,これは本当に乗客を増やすことも不可能ではなくなってくるでしょう。「運転士がそもそも不足しているのではないか」というご指摘もあるでしょうが,バスによる荷貨物輸送が増えてくればトラック等による輸送はその分減少し,そちらのドライバーに余剰人員が発生します。そうしたドライバーにバスを運転して頂くことも一案でしょう。トラックの運転手の中にも大型二種免許を保有している人は存在しますし,仮に現状では所有していなくても大型自動車運転の専門家なのですから,免許取得による転身は決して不可能ではありません。  また,先ほど「バスで先行的に経験を積み,それを鉄道のほうに応用せよ」と申しましたが,将来的には鉄道とバスとの連携も検討に値しますね。「駅と駅との間は鉄道で,駅から先の輸送についてはバスで輸送」というのは旅客においては珍しくありませんが,荷貨物輸送においても同様の取組を行うのは有益なことではないかと思われます。「バスは殆ど走っていないが,列車ならたくさん走っている」という区間は少しも珍しくありません。  バスや鉄道における貨客混載による荷貨物輸送,まだ始まったばかりで改善すべき点も大きいのですが今後も是非促進していくべきでしょうし,その余地は非常に大きいと思われます。
0 notes
trumpq · 4 years ago
Text
【パトリック・バーン】 2021/2/4 23:55 JST
Tumblr media
https://www.deepcapture.com/2021/02/how-djt-lost-the-white-house-chapter-4-the-christmas-doldrums-december-23-noon-january-6/
ディープキャプチャー DJTはい��にしてホワイトハウスを失ったか 第4章:クリスマスのドルドラム(12月23日~1月6日正午 私はそれから数日間、DCに滞在した。フリンとシドニーは数日間、それぞれの世界に旅立ったが、マイクが旅立つ前に私たちは会話をした。この機会に、マイク・フリンについて少しお話したいと思います。私は現場で働いていた人たちからフリンが何をしていたかは知っていました。
※以下、4章の和訳。マール・ア・ラーゴ。激励会。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - DJTはいかにしてホワイトハウスを失ったか、第4章:クリスマス・ドルドラム (12月23日~1月6日正午)
2021年2月4日 14分読む
私はそれから数日間、DCに滞在した。フリンとシドニーは数日間でそれぞれの世界へと旅立っていったが、マイクが去る前に我々は会話をした。この機会にマイク・フリンについて少しお話したいと思う。
現場で働いていた人から、フリンが沼の敵になるべく何をしたのかは知っていた。彼がイラクに到着したとき、空襲で得た物資は袋に束ねられ、「搾取」および分析のためバージニア州へ出荷され、また1、2ヶ月後に有益な情報が最前線の部隊へ戻された。フリンは起業家のように世界を見ており、プロセスを再設計することに着手した。搾取と解析をイラク内に基づいて行うことで、ループは18時間に短縮された。次の夜に人々が襲撃に出かけるときは前回の夜の働きから得た洞察を理解した状態だった。
最終的にループはとてもきつくなり、夕方とある場所での襲撃が、夜通しの調査によって、資料が作られ、夜明け時にまだ進行中の襲撃について報告するようになったのだ。私が知っていて信頼を置く、現場の人々が言うにはフリンという男には賞賛者もいれば、反感を持つ者もいた。反感を持つのは主に昔の少年のようなアプローチに慣れている人たちが中心で、彼が物事を揺さぶり、諜報機関の快適なやり方に現代的なアイデアを持ち込んでいることに不満を持っていたのだ。キャリアが進むにつれ、フリンのエスタブリッシュメントに対する分裂は伝説的なものとなったが、私の経験では、私が知っている明るくて元気で使命感のある連邦職員と思われる男女はフリンのことをよく褒めていたし、中道派はフリンを嫌っているように見えた。
しかし、マイク・フリンと一緒にいることで、彼のことを初めて知った。例えば、61歳のマイクは生涯民主党員として登録されていたが、アイリッシュ・カトリック系の、ボストン南部の北プロビデンスのジャック・ケネディ的な(現代の左翼的な「憲法をズタズタにしてしまおう!」というタイプではない)人物だった。彼は憲法に造詣が深く、私が知っている中では(私以外にも)数少ない、会話の中でフェデラリスト・ペーパーズを番号で引用する人物の一人である。アメリカの現代戦争について議論するとき、彼はチョムスキアンのような口調で、アフガニスタンとイラクでの戦争は15年前に終わるべきだったが、戦争を支援する企業に何千億、何兆ドルもの資金が流れ込み、その資金の流れから利益を得ている企業はとても太っていて、多くのロビイストを雇っていて、戦争を継続させるためにDCで戦っている、と話した。我々は冗談を言い合った、戦争はただの、「もう一つのワシントンがDCを、アイスクリームコーンが自分を舐めるようなのもの」だねと。
言い換えれば、『捕獲』。時々、私と同じように、全く異なる背景を持ちながらも、国家としての問題の根底にある争点を認識するようになった人に会う。その問題とは、強力なエリートたちが、政府の意思決定のサイクルを捉え、自分たちの私的な目的の方に変えてきたということだ。異なる経歴、異なる人生経験を持ちつつも、この国の何が間違っているのかという同じ根本的な分析に辿り着いた事実が、私の新しい相棒が正しい男であることを示してくれた。
「将軍、一体ここで何をしているんですか?」というような会話を何度も何度もした。
クリスマスは一人でDCにいたが、トランプの軌道の誰かから電話がかかってきた。電話の相手が言うには、フロリダに降りて、マール・ア・ラーゴの近くのどこかに行くべきで、それからトランプ氏ともう一度、10分程度の短い会談ができるように手配されているという。私はその時点までに、トランプ氏は健全な人々の話を聞いておらず、ある意味では大局を見落としていると完全に確信していたので、その招待状を受けて、DCからフロリダのマール・ア・ラーゴから数マイル離れたホテルへと向かった。私はチェックインし、連絡を待った。
ほどなく、実際にどれほど緊密な関係にあるのかは知らないが、トランプ氏と公に関係している有名な人物から電話がかかってきた。その電話に出ていたのは彼の同僚で、彼らは私に「マール・ア・ラーゴに行って、『アイリーン』(罪のない人を守るために別名にする)を呼んでくれ」と言っていた。アイリーンの苗字を聞いたら 「アイリーンを呼んで来い」と言われ、アイリーンの役職を聞いたら「アイリーンと言ってくれ」と言われた。「出来るだけ早くマール・ア・ラーゴに行って、アイリーンを呼んでくれ」。私は、そのようなやり方で仕事をするのは本当に嫌だ、行く前にもっと知りたいと答えた。するとまたしても断固として「マール・ア・ラーゴに行ってゲートに行ってアイリーンを呼んでくれ」との返事が返ってきた。「準備はできている」とのこと。不安を抱きながらも、自分の最高のヨガウェア(他のものはクリーニングに出していた)に身を包み、マール・ア・ラーゴに向けて出発した。Uberに電話してみると、乗っていたのは数年前の古ぼけてボロボロのトヨタカローラだった。
マール・ア・ラーゴの門に到着した私は、カローラを道へ送り出した。シークレットサービスの警備員に近づき、アイリーンに会いに来たと言うと、連邦捜査官はみな信じられないような顔をした。「アイリーンって誰?」彼らは尋ねた。「知らない」続けて「アイリーンに会いに行くように言われただけだ」「私は大統領と短い会議をする事になって」「呼ばれてここに来て」「アイリーンを呼んでくれと言われた」と答えた。「アイリーンって誰だ?」 と言われた。またしても私は知らないと答えるしか無かった。シークレットサービスの捜査官のせいではなく、彼らの混乱と義務感のせいで、会話はそこから急降下した。私はこの状況を助けられなかったのかもしないが、捜査官の一人が軽い中国訛りの女性であることに気付き、状況を落ち着かせてラポールを確立しようと、彼女と北京語でラップを始めた。かなりの時間話したが、他の捜査官の緊張感は増すばかりだった。その頃から、私は、この状況を打開して逃げ出し、電話で解決するのが最善の方法ではないかと考え始めもしたが、エージェントたちは許してくれなかった。
やがて、監督するエージェントがやってきた。彼は、一度会っただけで、相手にする人間ではないとすぐにわかるような人物だった。彼はまだきちんとしていたが、かなりの攻撃性を持っていた。「もう一度始めよう。我々はあなたの話を知りたい。あなたは誰で、ここで何をしているのですか?」
何から話せばいいのか分からず、私はこのように始めた。「20年前、オーバー��トック・ドットコムという会社を始めました。私の名前は…」彼は「そうだ、君はパトリック・バーンだね」と笑いながら中断した。突然、私は、トヨタのカローラ、私のヨガの服、中国の....、を手に入れた。免許証を見せて、今度は全てが一致した。そして、フリンとシドニーと私の活動が注目されていることにも気がついた。それまでは自分たちがやっていることがどれだけ注目されているのかよくわかっていなかったが、ちゃんと意味をなしていたのだ。
いずれにしても、シークレットサービスのエージェントは親切になったので、私に頷き、何人かは私が敷地外に出て橋を渡り、別のUberに乗ることを許可してくれ、「あなたのしていることに感謝します」と言ってくれた。
私はさらに数日間、状況が改善されるのを待っていた。一度もなかった。しかし、その間、私はマール・ア・ラーゴの群衆の周辺にいたし、何百もの共和党のプー・バーの家族が休日のために集まって、周辺のホテルのほとんどを占拠していた。共和党の大物とその権力者たちの周辺で泳いでいるうちに、すべてのことの本質を感じることができた。そこには、イベントだけでなく、アイデアについても深い会話を交わすことができる、素晴らしい若者や知識人が何人かいた。私と同年代か少し上の女性で、フォーチュン50社の元役員で、定年退職した人がいたが、その人はとても強くて、有能で、知的だった。そして、私が見た限りでは、他の人たちは無法者だった。ピカピカの車に乗っている人、うるさくて不愉快な人、自己中心的な人、好事家、気取り屋、詐欺師、詐欺師、プラスチック・ファンタスティックの妻や夫やドイリーの子供たちは、自分たちが奪われたと感じるどんな話題においても公然とワインを飲んでいた。炎上していても小便したくなるような人間はほとんどいない。私が見なかったのは、信者、ビジョンを持っている人たち.... あるいは計画を持っている人もいなかった。
大晦日の前日、ジョージアの男から電話があった。フルトン郡(アトランタのある郡)では、郡の選挙活動が「イングリッシュ・ストリートの倉庫」と呼ばれる場所で行われていることはすでに知っていた。アンティファの女が500ドルで倉庫に潜入して写真を撮り、白紙の投票用紙を押収した。これらの投票用紙は、法医学的に検査された。私は、元旦に働いてくれる連邦政府認定の法医学文書検査官(この分野の古株)を2人手配して、大晦日にジョージア州に行った。
ジョージア州では、この取り組みに関わった何人かの人の家に泊まった。私が初めてジョバン・ピューリッツァー氏に会ったのはその時だ(私のサイバー仲間とジョバン氏の間には数週間前から連絡があったようだが)。また、マイクロソフトの上級セキュリティ専門家も同席していた。ジョージア州サバナでの集計作業で状況を把握していた人物だ。この人物によって、集計機には無線カードが入っていること、壁にはスマートサーモスタットがあり、そのサーモスタットは投票機に無線で接続されていたことが判明した。さらに調査すると、チャイナテレコムの誰かがインターネットを経由してスマートサーモスタットに接続し、投票機に接続していることが確認された。サイバーセキュリティの専門家は、選挙マシンの衝撃的な脆弱性、10年から15年前のOSソフトウェアで動作する傾向、そして一般的には技術がいかにスイス・チーズであるかについて、残りの時間を費やし語ってくれた。我々は真夜中まで脆弱性のカタログを作成していた。
元旦の午前3時にフリン将軍からメールが来た。彼はまだ仕事をしていた。彼はソーシャルメディアに公開された写真を送ってきた。マール・ア・ラーゴでは、ルディと側近たちが新年に沸き立っていた。ルディ、ドン・ジュニア、キンバリー・ギルフォイルがシャンパンを飲んだり、踊ったり、1999年のようにパーティーをしている写真がソーシャル・メディアを駆け巡っていた。またしてもフリンと私は呆れたような沈黙の瞬間を共有した。
元日は、連邦政府公認の法医学文書検査官の研究室にいた。彼の同僚が夜通し車を走らせそこまで運んでくれたのだ。検査官らは静かでプロフェッショナルだったので、私は彼らに仕事を任せた。1時間後、報告によると、投票用紙のうち2枚はある印刷���で印刷され、もう1枚は別の印刷所で別の用紙、別のインク、別の印刷方法で印刷されていた。郡が2つの異なる印刷所に投票用紙を注文した可能性は非常に低く、これは少なくとも1つの投票用紙が偽造であることを示していた。
ジョージアの男はアトランタの倉庫を監視していた。望遠レンズを持った奴らが撮影していた。許可を得て、発見したものに短い説明をつけてツイッターにあげた。数時間後、レンタルされたエンタープライズ社の引越しバンが倉庫に到着し、投票用紙のパレットがバンに移された。
次の日、隣の郡のシュレッダー会社は、裁断するので取りに来てほしいとの依頼の電話を受けた。呼んだトラックは、約3,000ポンドの投票用紙でいっぱいになった。支払いは「ドミニオン投票」からの人物によるカード払いだったと確認されている。裁断用トラックは走り去った。どういうメカニズムかは説明しないが、その裁断用トラックは妨害されて、作業が中断され、最終的に1万ポンドの裁断物が地元警察署の床に捨てられた、そうだから、証拠の連鎖があるのだろう。裁断物の約3,000ポンドは投票用紙だった(残り7,000ポンドは先客からのもの)。ドミニオン投票の従業員が注文した裁断方法は、通常の裁断(物を長い短冊状にする)ではなく、特別な方法(物を紙吹雪にする)でもなかった。それは、超超軍事級で採られている、投票用紙を裁断した後に砕いてドロドロにする方法だった。
アトランタのDHS(※国土安全保障省)の捜査官が到着し、指揮を執った。裁断された投票用紙の中には、完全に裁断されていないものもあった。実際、数枚はゴミ箱の壁にくっついていて丸ごと残っていた。さらに、私が聞いた話では、投票用紙箱の外面に残った領収書と出荷ラベルも発見された。これらの領収書と出荷ラベルは、中国南部にある中国の印刷屋から送られてきたものだった。DHSの捜査官がこれらをすべて入手したという(そして、その特定の仲介人は、中国の問題に精通していると聞く)。
その瞬間を「T=0」と呼ぶ。アトランタからの継続的な報告をもとに、次の2日間の展開をご紹介する。
・T + 6時間。ルディ・ジュリアーニが、何が起きているのか知らされる。 ・T + 9時間。マーク・メドウズが、何が起きているのか知らされる。 ・T + 18時間。FBIが引き継ぎのために現場に到着する。DHSは抵抗。 ・T + 24時間。問題のDHS捜査官から政治的な圧力を受けていることに非常に不快感を抱いている、というメッセージを受け取る。私の理解が正しければ、マーク・メドウズ本人(ホワイトハウス参謀長)から電話があり、調査を手を引くように言われたという。私がただの傍観者としてそのメッセージを受け取っていたのか、それともDHSの仲介者が、私がそれについて何かできるかもしれないという誤った希望(例えば、大統領に知らせる)を抱き、意図的にそのメッセージを寄越したのかどうかは、はっきりとはわからない。 ・T + 36時間。FBIが作戦の主導権を握る。FBIはシュレッダー会社を呼び戻し、1万ポンドを引き渡し、裁断を完了させ、その後、通常業務を続けるよう指示をした。すなわち、裁断された素材は、水と酸を混ぜて、溶け、再編成されてしまった。リサイクルペーパーとして。
上で話したような物語の様々な側面は写真やフィルムに記録されている。
その間、私はDCに戻っていた。私はまだトランプ氏ともう10分でも話をしようとしていた。もし、1月6日に負けるのを待ってから我々のプランを試しても、それは負け惜しみにしかならない、と繰り返し言っておきたかった。しかし、まだ数日の猶予が残っていて、もし彼が引き金を引くなら、問題のある6つの郡についての回答を得られるだろう。我々が1月6日前にそれを完了すれば、上院は情報に基づいた選択をしてくれるかもしれないし、1週間猶予を与えてくれるかもしれない等々……
ここで重要なサブストーリーを一つ挿入しておく。当時、ちょうど大統領に近しい様々な人たちと一緒に泳ぎ回っていた頃、トランプ氏の側近に非常に近しい人物からあることを聞かされた。それは、メラニアは政府高官から、もしトランプがもう一期務めるならJFKのようになるだろう、と通告されているのだと。シークレットサービスの誰かが「我々は守りきれないだろう」という意味で警告したのかもしれない。脅迫の中には、もう一人の家族も含まれていたそうだ。シークレットサービス自体がそんなことを言うとは信じがたいが、私にとってその情報源は、他の点は汚れのないものだったし、メラニアにこのようなことを言ったのが誰であれ(おそらくシークレットサービスか、おそらく他の誰か)、そのような主張を真面目に受け止めてもらえる人物だったのだ。メラニアはドナルドに対し、戦わないように、そしてシンプルに負けを認め家族と一緒にワシントンから出て行くようにと懇願していた。
フリンと私は再びDCで一緒になり、1月6日が近づいてくるのを、イライラした鷹のように見守っていた。私は何度かインタビューを受けたことがあるし、少数の演説でも次のように主張してきた「私たちは暴力を振るわないし、その点他の奴らよりも優れている。もし暴力をふるえば負けだ。」と。あまりにわかりきったことだと思っていた。
私は集会を企画する「ウーマン���フォー・トランプ」から、1月6日の朝、南芝生での講演に招待されていると知った。私は要点を2つに絞って話に備えた。第一に、被治者の同意する我々のシステムがいかに、自由で、公正で、透明性のある選挙に依存しているのか、ということ(11月の選挙はそうではなかった)。第二に、我々は暴力をふるわない、ということだ。(※追加注:『被治者の同意(consent of the governed)』とは、公権力・国家権力を行使する政府の正統性や道義性は、その権力が行使される対象である人民ないし社会によって同意される場合にのみ、正当化かつ合法化される、とういう政治的概念。)
非暴力についての要点を考えるにあたり、私はどちらの方法をとるか迷っていた。
・ジェリー・ガルシアとグレイトフル・デッドから非暴力に関する話をする(ディープ・キャプチャーにも書いたことがある:『ジェリー・ガルシアの対峙と「主立ったクソ野郎」について』)
・モルドバについての話をする。数年前に行ったことがあるのだが、バーテンが2009年の選挙の話をしてくれた。選挙の不正が原因で親プーチンの男が当選したが、人々はそれを知っていて抗議の声を上げていた。プーチンは、首都キシナウに何百人もの男たちを派遣していたが、彼らにはある任務があった。プーチンの男たちは、抗議が起こるたびに、抗議を暴力的なものにすることを目的として抗議に潜入し、政府の建物の前で抗議をするだけでなく、抗議をしたり、窓を割ったり、占拠したりしていたのだ。モルドバの人々はとても賢いのでプーチンの策略を知っていた。プーチンは、双方が、モルドバの中産階級という観客のために演じており、抗議者を挑発して実際に政府の建物を襲撃させることができれば、中産階級をうんざりさせ、大衆の支持を失うことになることを理解していた。モルドバの人々は、自分たちを律し、自分たちがそのような道に導かれることを拒み続けてきた...そして最終的には、政府は屈し、新たに公正な選挙が行われ、プーチンの取り巻きが大敗した。その話も書いた:『全米の民兵へのメッセージ、チンピラ左翼と工作員について[ランジェリーではない]』
ホワイトハウスの芝生の上で、どちらの話を使うか迷った。5日になって、私は群衆はジェリー・ガルシアが誰だか知らないかもしれないと判断したので、その話をオンラインで書き上げ、DCに到着した群衆に数回ツイートし、1月6日の朝、演説に使うと決めたモルドバの話について簡潔に説明するリハーサルをした。
マイク・フリンも講演すると知らされていたので、マイクと私は、お互いに何を言おうとしているのか、群衆は何を聞く必要があるのか話し合った。この機会がユニークで歴史的なものだと認識していたのだ。おそらく30分で、選挙を混乱させ、結果を変えてしまった可能性の高い不正行為を世界に向けて説明しなければならないだろう。我々はその挑戦に応えるために準備をした。サイバー忍者や科学者など、一緒に仕事をしていた彼らもまた、簡潔に説明できるよう備えていることは理解していたが、その中から誰がスピーチをするかは主催者側が決めることになっていた。
マイク・フリンと私は、1月6日の朝はこのような流れになると考えていた。演説は、ホワイトハウスの南芝生で行われる。マイク・フリンは「人々の将軍」として、この瞬間を歴史的な文脈に置いて話をする。私は、自由、公正、透明性のある選挙の基本的な意義について、それからモルドバの話をする。その後、2-3 人のサイバー忍者や科学者に交代し、それぞれが 5-10 分間ずつ話し、市民の良心を悩ませるべき不正の最も明らかな点を説明する。私は経験から、彼らのうちの一人が5分から10分も話せば、良識ある人は2020年11月の選挙について重大な疑念を持ち始めだすと知っていたが、3人が話し終えた後、世界中の視聴者の80%は2020年の選挙結果がなぜ無視されるべきなのかを理解するだろうと思った。
その日の夕方、私が話すと予想していた科学者の一人から電話がかかってきた。彼は、自分の講演枠がキャンセルされたと知ったので、DCには行かないということを知らせたかったのだそうだ。その科学者は非常に物腰が柔らかく、教授のような人で、心を開いて話を聞いてくれる人には説得力があると思っていたため、私は戸惑った。11月3日の週に起こったことに深く懐疑的であるべきだと、何百万人もの視聴者を説得するために、彼よりも良い仕事ができる誰かを見つけたのだろうかと考えた。
1月6日の朝、フリンと私と他十数人でホワイトハウスの南側に歩いて行った。 特別な手配がないことに驚かされつつ、人ごみの中を必死で駆け抜けた。我々二人はスピーカーバッジを渡され、前方の特別席に着席して....その後、自分たちの講演がキャンセルされたことを知った。我々は控えめに言って途方に暮れ、我々と同じように状況をなんとか説明できる誰かがいるのだろうかと驚いていた…
ショーが始まり、すぐにフリンと私は絶望のあまり席に沈んでしまった。トランプの子供の一人が立ち上がり、ガールフレンド、あるいはボーイフレンドに「ハッピーバースデー」を歌った。ルディが立ち上がって、ジョー・フレージャーが投票したことについて、また話をした。別の弁護士が立ち上がって話した。ドン・ジュニアが立ち上がり、胸を膨らませてステージを闊歩し、共和党のブランドがトランプのブランドになったとか、トランプのブランドが共和党のブランドになったとか、ブランディングの話をしていた。その頃、フリンと私は目が合うと、互いに恐怖の表情を見て取った。後で判明するに、どちらも、この場を離れたいのかどうか尋ねており、互いに誤解したようだ。(※フリンの様子が?ステージが?)あまりにもひどかったので、主催者の中で分別のある人が心変わりし、フリン将軍にステージに立つかどうかを聞きに来たのだが、辞退した。悪ふざけが1時間以上続いた後、トランプ氏が登場し、選挙イベントや激励会と同じように話した。実際、全体は多かれ少なかれ、「私は権利を奪われた」を推す会だった。群衆に向けて、1時間後に投票を始める上院議員たちに向けて、自宅で視聴するアメリカ人に向けて、自由で公正で透明性のある選挙の先導者としてのアメリカに期待を寄せる世界に向けて。2020年11月の選挙で何が間違っているのか、そしてなぜ我々は徹底した調査を要する深刻な不正があったと信じているのか理由について、説明しようとする努力は全くなされなかった。大した努力は一切ない。
代わりに、激励会を行った。それだけ。「私は奪われた」トランプ激励会。
前列から離れることができた瞬間、私とフリン、そして私と一緒にいた全員が、出口に向かってダッシュした。感想を話し合ったとき、フリンは怒りを抑えるのがやっとの様子だった。これが全世界に状況を説明する最後のチャンスだったのに、トランプは激励会に利用したのだ。「彼はそれを理解していないだけだ」と、我々はホテルに向かって群衆の中を嵐のように駆け抜けながら、お互いに繰り返した。「彼は自分事ではないのだとわかっていない。彼はクソ激励会をした。彼は自分のことではないと理解していないんだ」と怒りと絶望の中で何度も何度も繰り返した。15分後、ホテルに戻ると、二人とも荷物をまとめ、二人とも胃が痛くなり、議事堂に向かい移動する群衆に合流しようと出発することはなかった。
※やたー訳したー。げそー。他の章はまだ途中。 ※1/6あのトランプの演説を見て、私もなんでこんなダラダラ同じような話ばかりするのか?あきれて割と絶望していたので、このバーン氏の記事を読んで、ほんと胸のすく思いがした。似た思いをした人がいたのか…ウルウル。���やバーン氏らの方がショック深刻だったろうし、いずれにせよ現在進行形でいい結末ではないけれど。あー面白かった。ノンフィクションは続きます。いつか選挙不正の証拠の数々がきちんと白日の下にさらされますように。そして本になりますように。
0 notes
skf14 · 4 years ago
Text
12150006
軽快なメロディが音割れしていることにきっと全員気付いているはずなのに、誰も指摘しないまま、彼は毎日狂ったようにそれを吐き出し続けている。
時刻は朝の8時過ぎ。何に強制されたでもなく、大人しく2列に並ぶ現代の奴隷たち。いや、奴隷ども。資本主義に脳髄の奥まで犯されて、やりがいという名のザーメンで素晴らしき労働という子を孕まされた、意志を持たない哀れな生き物。何も食べていないのに胃が痛い。吐きそうだ、と、50円のミネラルウォーターを一口含んで、押し付けがましい潤いを乾く喉に押し込んだ。
10両目、4番目の扉の右側。
俺がいつも7:30に起きて、そこから10分、8チャンネルのニュースを見て、10分でシャワー、10分で歯磨きとドライヤー、8:04に自宅を出て、8:16に駅に到着。8:20発の無機質な箱に乗る、その最終的な立ち位置。扉の右側の一番前。黄色い線の内側でいい子でお待ちする俺は、今日もぼうっと、メトロが顔を覗かせるホームの端の暗闇を見つめていた。
昨日は名古屋で人が飛び込んだらしい。俺はそのニュースを、職場で開いたYahoo!のトップページで見かけた。群がる野次馬が身近で起きた遠い悲劇に涎を垂らして、リアルタイムで状況を伝える。
『リーマンが飛び込んだ』
『ブルーシートで見えないけど叫び声聞こえた』
『やばい目の前で飛び込んだ、血見えた』
『ハイ1限遅れた最悪なんだけど』
なんと楽しそうなこと。まるで世紀の事件に立ち会った勇敢なジャーナリスト気取り。実際は目の前で人が死ぬっていう非現実に興奮してる変態性欲の持ち主の癖に。全員死ね。お前らが死ね。そう思いながら俺は、肉片になった男のことを思っていた。
電車に飛び込んで仕舞えば、生存の可能性は著しく低くなる。それが通過列車や、新幹線なら運が"悪く"ない限り、確実に死ぬ。悲惨な形を伴って。肉片がおよそ2〜5キロ圏内にまで吹き飛ぶこともあるらしい。当然、運転手には多大なトラウマを植え付け、鉄道職員は線路内の肉片を掻き集め、乗客は己の目の前で、もしくは己の足の下で、人の肉がミンチになる様を体感する。誰も幸せにならない自殺、とは皮肉めいていてよく表現された言葉だとつくづく思う。当人は、幸せなのだろうか。
あの轟音に、身体を傾け頭から突っ込む時、彼らは何を思うのだろう。走馬灯とやらが頭を駆け巡るのか、やはり動物の本能として恐怖が湧き上がるのか、それとも、解放される幸せでいっぱいなのか。幸福感を呼び起こす快楽物質が脳に溢れる様を夢想して、俺は絶頂にも近い快感を奥歯を噛み締めて堪えた。率直に浮かんだ「羨ましい」はきっと、俺が人として生きていたい限り絶対漏らしてはいけない、しかし限りなく本音に近い、5歳児のような素直な気持ち。
時刻は8:19。スマホの中でバカがネットニュースにしたり顔でコメントを飛ばして、それに応戦する暇な人間たち。わーわーわーわーうるせえな、くだらねえことでテメェの自尊心育ててないで働けゴミが。
時刻は8:20。腑抜けたチャイムの音。気怠そうな駅員のアナウンス。誰に罰されるわけでもないのに、俺の足はいつも黄色い線の内側に収まったまま、暗がりから顔を覗かせる鉄の箱を待ち侘びている。
俺は俯いて、視界に入った己のつま先にグッと力を込めた。無意識にするこの行為は、死への恐怖か。馬鹿らしい。いつだって、この箱の前に飛び込むことが何よりも幸せに近いと知っているはずなのに。
気が付けば山積みの仕事から逃げるように、帰りの電車に乗っていた。時刻は0:34。車内のアナウンス。この時間でこの場所、ということは終電だろう。二つ離れた椅子に座ったサラリーマンがだらりと頭を下げ、ビニール袋に向けて嘔吐している。饐えた臭いが漂ってきて貰いそうになるが、もう動く気力もない。死ね。クソ野郎が。そう心の中でぼやきながら、俺はただ音楽の音量を上げて外界を遮断する。耳が割れそうなその電子音は、一周回って心地いい。
周りから俺へ向けられる目は冷たく、会社に俺の居場所はない。同期、後輩はどんどん活躍し、華々しい功績を挙げて出世していく。無能な俺はただただ単純で煩雑な事務作業をし続けて、それすらも上手く回せない。ああ、今日はただエクセルの表作りと、資料整理、倉庫の整理に、古いシュレッダーに詰まった紙の掃除。それで金を貰う俺は、社会の寄生虫か?ただ生きるために何かにへばりついて必要な栄養素を啜る、なんて笑える。人が減った。顔を上げると降りる駅に着いていた。慌てて降りる俺を、乗ろうとしていた騒がしい酔っ払いの集団が睨んで、邪魔そうに避けた。何だその顔は。飲み歩いて遊んでた人間が、働いてた俺より偉いって言うのか。クソ。死ね。死んでくれ。社会が良くなるために、酸素の消費をやめてくれ。
コンビニで買うメニューすら、冒険するのをやめたのはいつからだろう。チンすれば食べられる簡単な温かい食事。あぁ、俺は今日も無意識に、これを買った。無意識に、生きることをやめられない。人のサガか、動物としての本能か、しかし本能をコントロールしてこその高等生物である人間が、本能のままに生きている時点で、矛盾しているのではないか。何故人は生きる?生きるとは?NHKは延々とどこか異国の映像を流し続けている。国民へ向けて現実逃避を推奨する国営放送、と思うと笑えてきて、俺は箸を止め、腹を抱えてしこたま笑った。あー、死のう。
そういえば、昔、俺がまだクソガキだった頃、「完全自殺マニュアル」なる代物の存在を知った。当然、本を変える金なんて持ってなかった俺は親の目を盗んで、図書館でそれを取り寄せ借りた。司書の本を渡す際の訝しむ顔がどうにも愉快で、俺は本を抱えてスキップしながら帰ったことを覚えている。
首吊り、失血死、服毒死、凍死、焼死、餓死...発売当時センセーショナルを巻き起こしたその自称「問題作」は、死にたいと思う人間に、いつでも死ねるからとりあえず保険として持っとけ、と言いたいがために書かれたような、そんな本だった。淡々と書かれた致死量、死ぬまでの時間、死に様、遺体の変化。俺は狂ったようにそれを読み、そして、己が死ぬ姿を夢想した。
農薬は消化器官が爛れ、即死することも出来ない為酷く苦しんで死ぬ地獄のような死に方。硫化水素で死んだ死体は緑に染まる。首吊りは体内に残った排泄物が全て流れ出て、舌や目玉が飛び出る。失血死には根気が必要で、手首をちょっと切ったくらいでは死ねない。市販の薬では致死量が多く未遂に終わることが多いが、バルビツール酸系睡眠薬など、医師から処方されるものであれば死に至ることも可能。など。
当然、俺が手に取った時には情報がかなり古くなっていて、バルビツール酸系の薬は大抵が発売禁止になっていたし、農薬で死ぬ人間など殆どいなくなっていたが、その情報は幼かった俺に、「死」を意識させるには十分な教材だった。道徳の授業よりも宗教の思想よりも、何よりも。
親戚が死んだ姿を見た時も、祖父がボケた姿を見た時も、同じ人間とは思えなかった俺はきっとどこか欠けてるんだろう。親戚の焼けた骨に、棺桶に入れていたメロンの緑色が張り付いていて、美味しそうだ。と思ったことを不意に思い出して、吹き出しそうになった。俺はいつからイカれてたんだ。
ずっと、後悔していたことがあった。
小学生の頃、精神を病んだ母親が山のように積まれた薬を並べながら、時折楽しそうに父親と電話をしていた。
その父親は、俺が物心ついた、4、5歳の頃に外に女を作って出て行った、DVアル中野郎だった。酒を飲んでは事あるごとに家にあるものを投げ、壊し、料理の入った皿を叩��割り、俺の玩具で母親の顔を殴打した。暗い部屋の中、料理が床に散乱する匂いと、やめてと懇願する母親の細い声と、人が人を殴る骨の鈍い音が、今も脳裏によぎることがある。あぁ、懐かしいな。プレゼントをやる、なんて言われて、酔っ払って帰ってきた父親に、使用済みのコンドームを投げられたこともあったっけ。「お前の弟か妹になり損ねた奴らだよ。」って笑ってたの、今思い返してもいいセンスだと思う。顔に張り付いた青臭いソレの感触、今でも覚えてる。
電話中は決まって俺は外に出され、狭いベランダから、母親の、俺には決して見せない嬉しそうな顔を見てた。母親から女になる母親を見ながら、カーテンのない剥き出しの部屋の明かりに集まる無数の羽虫が口に入らないように手で口を覆って、手足にまとわりつくそれらを地面のコンクリートになすりつけていた。あぁ、そうだ、違う、夏場だけカーテンをわざと開けてたんだ。集まった虫が翌朝死んでベランダを埋め尽くすところが好きで、それを俺に掃除させるのが好きな母親だった。記憶の改変は恐ろしい。
ある日、俺は電話の終わった母親に呼ばれた。隣へ座った俺に正座の母親はニコニコと嬉しそうに笑って、「お父さんが、帰ってきていいって言ってるの。三人で、幸せな家庭を作りましょう!貴方がいいって言ってくれるなら、お父さんのところに帰りましょう。」と言った。そう。言った。
俺は、父親が消えてからバランスが崩れて壊れかけた母親の、少女のように無垢なその笑顔が忘れられない。
「幸せな家庭」、家族、テレビで見るような、ドラマの中にあるような、犬を飼い、春には重箱のお弁当を持って花見に行き、夏には中庭に出したビニールプールで水遊びをし、夜には公園で花火をし、秋にはリンゴ狩り、栗拾い、焼き芋をして、落ち葉のベッドにダイブし、冬には雪の中を走り回って遊ぶ、俺はそんな無邪気な子供に焦がれていた。
脳内を数多の理想像が駆け巡って、俺は、母の手を掴み、「帰ろう。帰りたい。パパと一緒に暮らしたい。」そう言って、泣く母の萎びた頬と、唇にキスをした。
とち狂っていたとしか思えない。そもそも帰る、と言う表現が間違っている。思い描く理想だって、叶えられるはずがない。でもその時の馬鹿で愚鈍でイカれた俺は、母の見る視線の先に桃源郷があると信じて疑わなかったし、母と父に愛され、憧れていた家族ごっこが出来ることばかり考えて幸せに満ちていた。愚かで、どうしようもなく、可哀想な生き物だった。そして、二人きりで生きてきた数年間を糧に、母親が、俺を一番に愛し続けると信じていた。
母は、俺が最初で最後に信じた、人間だった。
父親の家は荒れ果てていた。酒に酔った父親が出迎え、母の髪を掴んで家の中に引き摺り込んだ瞬間、俺がただ都合の良い夢を見ていただけだと言うことに漸く、気が付いた。何もかも、遅過ぎた。
仕事も何もかも捨てほぼ無一文で父親の元へ戻った母親が顔を腫らしたまま引越し荷物の荷解きをする姿を見ながら、俺は積み上げた積み木が崩れるように、砂浜の城が波に攫われるように、壊れていく己の何かを感じていた。母は嬉しそうに、腫れた顔の写真を毎度俺に撮らせた。まるでそれが、今まで親にも、俺にも、誰にも与えられなかった唯一無二の愛だと言わんばかりに、母は携帯のレンズを覗き、画面越しに俺に蕩けた目線を送った。
人間は、学習する生き物である。それは人間だけでなく、猿や犬、猫であっても、多少の事は学習できるが、その伸び代に関しては人間が群を抜いている。母親は次第に父親に媚び、家政婦以下の存在に成り下がることによって己の居場所を守った。社会の全てにヘイトを募らせた父親も、そんな便利な道具の機嫌を損ねないよう、いや、違うな、目を覚まさせないように、最低限人間扱いをするようになった。
まあ当然の末路と言えるだろうな。共同戦線を組んだ彼らの矛先は俺に向いた。俺は保てていた人間としての地位を失い、犬に、家畜に成り下がった。名前を呼ばれることは無くなり、代わりについた俺の呼び名は「ゴキブリ」になった。家畜、どころか害虫か。産み落とした以上、世話をするほかないというのが人間の可哀想なところだ。
思い出したくもないのにその記憶を時折呼び起こす俺の出来の悪い脳を何度引き摺り出してやろうかと思ったか分からない。かの夢野久作が書いた「ドグラマグラ」に登場する狂った青年アンポンタン・ポカン氏の如く、脳髄を掴み出し、地面に叩きつけてやりたいと思ったことは数知れない。
父親に奉仕する母は獣のような雄叫びをあげて悦び、俺は夜な夜なその声に起こされた。媚びた、艶やかな、酷く情欲を煽るメスの声。俺は幾度となく吐き、性の全てを嫌悪した。子供じみた理由だと、今なら思う。何度、眠る父親の頭を金属バットで叩き割ろうと思ったか分からない。俺は本を読み漁り、飛び散る脳髄の色と、母の絶望と、断末魔を想像した。そう、この場において、いや、この世界において、俺の味方は誰もいなかった。
いつの間にかテレビ放送は休止されたらしい。画面端の表示は午前2時58分。当然か。騒がしかったテレビの中では、カラーバーがぬるぬると動きながら、耳障りな「ピー」という無慈悲な機械音を垂れ流している。テレビの心停止。は、まるでセンスがねえな死ね俺。
ずっと、後悔していた。誰にも言えず、その後悔すらまともに見ようとはしなかったが、今になって、思う。何度も、あの日の選択を後悔した。
あの日、俺がもし、Yesと言わなかったら。あの日の俺はただ、母親がそう言えば喜ぶと思って、幸せそうな母親の笑顔を壊したくなくて、...いや、違う。あれは、幸せそうな母親の笑顔じゃない、幸せそうな、メスの笑顔だ。それに気付けていたら。
叩かれても蹴られても、死んだフリを何度されても自殺未遂を繰り返されても、見知らぬ土地で置き去りにされても、俺はただ、母親に一番、愛されていたかった。父親がいない空間が永遠に続けばいい、そう今なら思えたのに、あの頃の俺は。
母親は結局、一人で生きていけない女だった。それだけだ。父親が、そして父親の持つ金が欲しかった。それだけだ。なんと醜い、それでいてなんと正しい、人間の姿だろう。俺は毎日、父親を崇めるよう強制された。頭を下げ、全てに礼を言い、「俺の身分ではこんなもの食べられない。貴方のおかげで食事が出来ている」と言ってから、部屋で一人飯を食った。誕生日、クリスマス、事あるごとに媚びさせられ、欲しくもないプレゼントを分け与えられた。そうしなきゃ殴られ蹴られ、罵倒される。穏便に全てを済ませるために、俺は心を捨てた。可哀想な生き物が、自己顕示欲を満たしたくて喚いている。そう思い続けた。
勉強も運動も何も出来なかった。努力する、と言う才能が元から欠けていた、可愛げのない子供だったと自負している俺が、ヒステリーを起こした母親に、「何か一つでもアンタが頑張ったことはないの!?」と激昂されて、震える声で「逆上がり、」と答えたことがあった。何度やっても出来なくて、悔しくて、冬の冷たい鉄棒を握って、豆が出来ても必死に一人で頑張った。結局、1、2回練習で成功しただけで、体育のテストでは出来ずに、クラスメイトに笑われた。体育の成績は1だった。母親は鼻で笑って、「そんなの頑張ったうちに入らないわ。だからアンタは何やっても無理、ダメなのよ。」とビールを煽って、俺の背後で賑やかな音を立てるテレビを見てケタケタと笑った。それ以降、目線が合うことはなかった。
気分が悪い。なぜ今日はこんなにも、過去を回顧しているんだろう。回り出した脳が止められない。不愉快だ。酷く。それでも今日は頑なに、過去を振り返らせたいらしい脳は、目の前の食べかけのコンビニ飯の輪郭をぼやけさせる。
俺が就職した時も、二人は何も言わなかった。ただただ俺は、父親の手口を真似て、母親の心を取り戻そうと、ありとあらゆるブランド物を買って与えた。高いものを与え、食わせ、いい気分にさせた。そうすれば喜ぶことを俺は知っていたから。この目で幾度となく見てきたから。二人で暮らしていた頃の赤貧さを心底憎んでいた母親を見ていたから。
俺は無邪気にもなった。あの頃の、学校の帰りにカマキリを捕まえて遊んだような、近所の犬に給食のコッペパンをあげて戯れていたような、そんな純粋無垢な無邪気さで、子供に戻った。もう右も左も分からない馬鹿なガキじゃない。今の俺で、あの頃をやり直そう。やり直せる。そう思った。
「そんなわけ、ねぇよなぁ。」
時刻は午前4時を回り、止まっていたテレビの心拍が再び脈動を始めた。残飯をビニール袋に入れて、眩しい光源を鬱陶しそうに睨んだ。画面の中では眠気と気怠さを見せないキリリとした顔の女子アナが深刻そうな顔で、巷で流行する感染症についての最新情報を垂れ流している。
結論から言えば、やり直せなかった。あの女の一番は、俺より金を稼いで、俺より肉体も精神も満たせる、あの男から変わることはなかった。理解がし難かった。何度殴られても生きる価値がない死ねと罵られても、それが愛なのか。
神がいるなら問いたい。それは愛なのか。愛とはもっと美しく、汚せない、崇高なものじゃないのか。神は言う。笑わせるな、お前だって分かっていないから、ひたすら媚びて愛を買おうとしたんだろう。ああ、そうだ。俺にはそれしかわからなかった。人がどうすれば喜ぶのか、人をどうすれば愛せるのか、歩み寄り、分り合い、感情をぶつけ合い、絆を作れるのか。人が人たるメカニズムが分からない。
言葉を尽くし、時間を尽くしても、本当の愛の前でそれらは塵と化すのを分かっていた。考えて、かんがえて、突き詰めて、俺は、自分が今人間として生きて、歩いて、食事をして、息をしている実感がまるで無い不思議な生き物になった。誰のせいでもない、最初からそうだっただけだ。
あなたは私の誇りよ、と言った女がいた。そいつは俺が幼い頃、俺じゃなく、俺の従兄弟を出来がいい、可愛い、と可愛がった老婆だった。なんでこんなこと、不意に思い出した?あぁ、そうだ、誕生日に見知らぬ番号からメッセージが来てて、それがあの老婆だと気付いたからだ。気持ちが悪い。俺が人に愛される才能がないように、俺も人を愛する才能がない。
風呂の水には雑菌がうんたらかんたら。学歴を盾に人を威圧するお偉いさんが講釈を垂れているこの番組は、朝4時半から始まる4チャンネルの情報番組。くだらない。クソどうでもいい。好みのぬるめのお湯に目の下あたりまで浸かった俺は、生きている証を確かめるように息を吐いた。ぼご、ぶくぶく、飛び散る乳白色が目に入って痛い。口から出た空気。無意識に鼻から吸う空気。呼吸。あぁ、あれだけ自分の傷抉って自慰しておいて、まだ生きようとしてんのか、この身体。どうしようもねえな。
どうせあと2時間と少ししか眠れない。髪を乾かすのも早々に、俺が唯一守られる場所、布団の中へと潜り込んで、無機質な部屋の白い天井を見上げた。
そういえば、首吊りって吊られなくても死ぬことが出来るんだっけ。そう。今日の朝だって思ったはずだ。黄色い線の外側、1メートル未満のその先に死がある。手を伸ばせばいつでも届く。ハサミもカッターも、ガラスも屋上もガスも、見渡せば俺たちは死に囲まれて、誘惑に飲まれないように、生きているのかもしれない。いや、でも、いつだって全てに勝つのは何だ?恐怖か?確かに突っ込んでくるメトロは怖い。首にヒヤリとかかった縄も怖い。蛙みたく腹の膨れた女をトラックに轢かせて平らにしたいとも思うし、会話の出来ない人間は全員聾唖になって豚の餌にでもなればいいとも思う。苛立ち?分からない。何を感じ、生きるのか。
ああ、そういえば。
父親の頭をミンチの如く叩きのめしてやろうと思って金属バットを手に取った時、そんなくだらないことのためにこれから生きるのかと思うと馬鹿らしくなって、代わりに部屋のガラスを叩き割ってやめた。楽にしてやろうと母親を刺した時、こんなことのために俺は人生を捨てるのか、と我に返って、二度目に振り上げた手は静かに降ろした。
あの時の爽快感を、忘れたことはない。
あぁ、そうか、分かった。
死が隣を歩いていても、俺がそっち側に行かずに生きてる理由。そうだ。自由だ。ご飯が美味しいことを、夜が怖くないことを、寒い思いをせず眠れることを、他人に、人間に脅かされずに存在できることを、俺はこの一人の箱庭を手に入れてから、初めて知った。
誰かがいれば必ず、その誰かに沿った人間を作り上げた。喜ばせ、幸せにさせ、夢中にさせ、一番を欲した。満たされないと知りながら。それもそうだ。一番も、愛も、そんなものはこの世界には存在しない。ようやく分かった俺は、人間界の全てから解き放たれて、自由になった。爽快感。頭皮の毛穴がぞわぞわと爽やかになる感覚。今なら誰にだって何にだって、優しくなれる気がした。
そうか、俺はいつの間にか、人間として生きるのが、上手くなったんだ。異世界から来てごっこ遊びをしている気分だ。死は俺をそうさせてくれた。へらへらと、楽しく自由にゆらゆらふわふわ、人と人の合間を歩いてただ虚に生きて、蟠りは全部、言葉にして吐き出した。
遮光カーテンの隙間から薄明るい光が差す部屋の中、開いたスマホに並んだ無数の言葉の羅列。俺が紡いだ、物語たち。俺の、味方たち。みんなどこか、違うようで俺に似てる。皆合理的で、酷く不器用で、正しくて、可哀想で、幸せだ。皆正しく救われて終わる物語のみを書き続ける俺は、己をハッピーエンド作者だと声高に叫んで憚らない。
「俺、なんで生きてるんだっけ。」
そんなクソみたいな呟きを残して、目を閉じた。スマホはそばの机に放り投げて、目を閉じて、祈るのは明日の朝目が覚めずにそのまま冷たくなる、最上の夢。
0 notes