#ジグムント・バウマン
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mreiyouscience · 9 months ago
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本書は医療人類学の権威である
「アーサークラインマン」の著書である。
この書籍の副題にあるように
「不確かで危険に満ちた時代を
道徳的に生きるということ」
がテーマである。
社会学者「ジグムント・バウマン」が
言及しているように
現代社会は
「リキッド・モダニテ��」
―すなわち変動性が激しく、
先行きが不透明で予測が立てにくく、
複雑で分析が困難を極め、
原因があいまいな社会―
である。
このような「リキッド・モダニティ」において、
個人として
社会に属する集団の一員として
真剣に向き合うことで得られる体験・経験を
「アーサークラインマン」は
「道徳的・人間的体験」と呼んでいる。
そして先に言及したこの体験によって
個人は
人間として生きることの意味を
定義づけるのである。
すなわち、
「道徳的・人間的体験」とは
存在をかけて生きていくということ、
他の人々と
価値ある関係を築いていくということ、
我々にとって意味あることを成していくこと、
そして存在をかけて
懸命に活動している他の人々と共に、
ある体験の場で生きていくこと
を意味するのである。
しかし、
このような道徳が必ず
倫理的な意味での善と
同義でないことに注意されたい。
人々が共有する
「道徳的・人間的体験」は
善とは遠くかけ離れていることがあるのである。
それどころか
有害な場合すらあるのだ。
つまり、
我々が表明し実行に移す価値観が
場合によっては
相手に残酷な体験をもたらすことが
あり得るのである。
少数民族を
スケープゴートにしたり
弾圧したりする
地域社会、
あるいは、
奴隷制度、
児童買春、
女性への暴力、
様々な虐待を容認する地域社会
などについて考えれば
おのずと明らかになるだろう。
ちょうど
ユダヤ人大虐殺や奴隷制度に関与した
ごく普通の男女がそうであったように
そこでの「道徳的・人間的体験」が
おぞましい行為と
共犯になってしまうことは
あり得るのである。
本書は
このような
「道徳的・人間的体験」の只中にあって
道徳的人生を生きようとした
人間の物語である。
以下その人々の物語である。
1第二次世界大戦を兵士として生きた
 アメリカ人男性の物語
2内戦のアフリカで戦った
 一人の民間人女性の物語
3文化大革命から今を生き抜き
 成功した中国人男性の物語
4性的空想から慢性頭痛に苦しんだ
 ある牧師の物語
5麻薬中毒とエイズを克服した
 ある女性の物語
6著者自身の物語
7一人の人類学者、精神科医の
道徳的・人間的体験の物語
このように生きた
これらの人生の物語から
著者は
道徳的人生を変容させる要因は
三つあると結論付けている。
主観性、
社会的体験
(日々の人々との関わり合い、会話、エピソード)、
文化的表���の場
(政治経済体制、文化のあり方)
である。
最後に私見を述べたい。
私はこの三つの要因こそが
道徳的人生を変容させ
「ジークムント・フロイト」が主張する
性的欲求(リビドー)を
メタノイアさせ(魂を浄化させ)、
生命の泉(すなわち聖杯)にするのだと
考えている。
*メタノイア;心の転換のこと
メタ ;「~より上の」、「~を超えた」
ノイア;「こころ」
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rakuhoku-kyoto · 6 years ago
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『退行の時代を生きる――人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』  ジグムント・バウマン  伊藤 茂 訳
2018年10月25日
四六判、並製、224頁
発行 青土社
ISBN978-4-7917-7113-4
オビのことば 社会学の巨人が遺した最期の言葉。 社会には暴力が歯止めなくあふれ、格差は拡大の一途をたどり、弱くなる国家や強まる自己��任論は人びとをよりいっそうの不安と孤独へと追いやっている。前途が見えず、過去に憧憬をいだく時代に、わたしたちはどこに向かうのか。巨人がみつめた、いま、そして未来。
 装幀を担当させていただきました。
 目次など、詳しい書誌情報は 青土社 をご覧くださいませ。
ジグムント・バウマン Zygmunt Bauman(1925‐2017) ポーランド生まれ。イギリスのリーズ大学名誉教授。邦訳書に、『リキッド・モダニティ――液状化する近代』、『近代とホロコースト』(いずれも大月書店)、『コラテラル・ダメージ――グローバル時代の巻き添え被害』、『社会学の使い方』(いずれも青土社)、『コミュニティ――自由と安全の戦場』(筑摩書房)他多数。
訳者 伊藤 茂(いとう・しげる) 翻訳家。訳書に、Z・バウマン『新しい貧困――労働・消費主義・ニュープア』、『自分とは違った人たちとどう向き合うか――難民問題から考える』(いずれも青土社)、A・グプティル他『食の社会学――パラドクスから考える』(NTT出版)、R・コーエン+P・ケネディ『グローバル・ソシオロジーⅠ・Ⅱ』(共訳、平凡社)他。
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juneabeppo · 3 years ago
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『テクノロジーとロシアとファシズムの関係』  
ティモシー・スナイダー(Timothy Snyder 歴史家)
インタビュー・編 吉成真由美
ティモシー・スナイダー(Timothy Snyder 歴史家)イエール大学教授(中東欧史、ホロコースト史)。著書に『ブラッドランド』『ブラックアース』『The Road to Unfreedom』(未翻訳)『暴政:20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』など。ハンナ・アーレント賞他受賞。
「最大の暴力は『考える』ことをせずに素直に指示に従ってしまう善良な一般人によって行われる」──ハンナ・アーレント(1906 - 1975 政治理論家)
人間は多種多様であるという事実を受け入れなければならない。人間であるためには、いろんなやり方があるものだ。完全なる独立を求めず、「快い相互依存」をしよう。完全なる独立には、幸福ではなく無意味な人生と想像を超えた退屈だけが待っている。──ジグムント・バウマン(ポーランド出身の社会学者)
 ティモシー・スナイダーの『ブラッドランド──ヒトラーと���ターリン、大虐殺の真実(上・下)』(2010年)と『ブラックアース──ホロコーストの歴史と警告(上・下)』(2015年)は、冷戦時代に「鉄のカーテン」でブロックされていた東欧側の膨大な資料に基づいて書かれたもので、世界中に衝撃を与えた。それによると1400万人に上る犠牲者を出したホロコースト(大虐殺)は、ドイツ国内でドイツ人によって行われたのではなく、ドイツ人が侵略する以前にソ連によって国家破壊が行われた東欧で、「市民権を失った人々」が殺され、しかも、ソ連のNKVD(スターリンの下でソ連の秘密警察や諜報機関を統括していた内務人民委員部)やドイツのSS(ヒトラー率いるナチ政権の武装親衛隊)のみならず、多くの地域住民によって大量殺戮が実行されたのだった。
 そしてファシズムは、1920年代に当時のグローバル資本主義と共産主義へのアンチテーゼとして、イタリアで誕生したが、今日再び、世界各地でポピュリズムや極右政党の台頭が見られる。今後グローバリゼーションによって引き起こされた富の格差問題や難民問題を解決するため、そして福祉国家を建設するためという、当時とまったく同じ理由によって、ファシズムが台頭する可能性が大いにありはしないか。
 スナイダーは、情報寡占大企業が支配するインターネットが、ファシズムや暴政の温床になりつつあることを指摘して現代社会に警鐘を鳴らすとともに、リベラル派がとってきた「すべては意見の違い」で片づけてしまおうとする態度も鋭く批判し、民主主義を守り暴政を避けるための具体的な20のレッスンを提示している。
 民主主義とは多数決のことかと思っていた、というような人も少なからずいるわけで、スナイダーは、民主主義の本質とは何か、私たちにとって大切なこと、重要なこととは一体なんなのか、という基本的な部分を、実にわかりやすく説明する。民主主義とは、「法の支配」のもと、何度も間違いを犯すことを可能にする制度であり、国家が「時間」を稼ぐためのシステムだからこそ、不完全であることを許容し、多様性を内包できて、社会が次第に安定していくのだと。
 そして、全体主義やファシズムに流されないためには、基本的な考え方ができていればいいのであって、個々人の小さな踏みとどまる意志や真実を大事にしようとする小さな抵抗が、結果として大きな力をもつのだということを、期待させてもくれる。
 インタビューは、オーストリアの、街中に音楽があふれるウィーン市にある「人間科学研究所 Das Institute fur die Wissenschaften vom Menschen (IWM)」の所長室で行われた。この研究所は、人文科学および社会科学の独立した高等研究所で、もともと東欧と西欧の学術交流、学術分野と社会との交流、ならびに学術的な研究などを目指して、オーストリア政府、ウィーン市、ポーランド政府、チェコ政府からの基金により、1982年に設立された。近年はヨーロッパやアメリカのみならず、アジアやグローバルサウス(南半球の発展途上国)へもその研究領域を広げてきており、毎年のべ100人くらいの研究者たちがここで研究に勤しんでいる、(2018年10月収録)
「テクノロジーとロシアとファシズムの関係」
●格差問題是正がファシズムにつながる理由
──ファシズムはしばしば他の権威主義と関連して認識されています。たとえば全体主義や、ナチズム、国粋主義、民族主義などですね。あなたはファシズムをどのようにとらえておられますか。
スナイダー ファシズムというのは基本的に、われわれは個々の人間ではなく、グループであり、一族であり、民族であり、種族であると考えます。ファシズムにおける政治は、「われわれには何が共通しているか」から始まるのではなく、「敵を選ぶ」というところから始まるのです。まず敵が誰であるかを認識するところから始まる。
 さらにファシズムは、世界の現状やグローバリゼーションの影響などを見て、そこに「問題や課題がある」の考えるのではなく、誰かによる「陰謀の結果だ」のいうふうに考えます。政策によって解決すべき問題だととらえるのではなく、特定のグループによる攻撃の結果だととらえる。ファシズムとは政治形態の一つであり、グローバリゼーションへの対処の一方法でもあります。
 そしてファシズムの基本には「神話」があります。「われわれの良識」と「世界の現実」を脇におしのけて、そこにできた空間に「神話」を押し込むのです。「われわれはグループとして互いによく似ていて、リーダーと神秘的な関係を結んでおり、われわれが『神話』を作り、それを変えていくことをリーダーが指導する」というストーリーですね。
──ファシズムは、1920年代にグローバル資本主義と共産主義へのアンチテーゼとしてイタリアで生まれたわけですが、そもそもイタリアのファシズムは、民族主義的なナチズムとは大きく異なっていて、強い政府の統制のもと、当時のグローバリゼーションによって引き起こされた富の格差を解消すべく、福祉国家の建設を目指して誕生したというふうに理解しています。
 そうだとすると、今日の世界でも、「グローバリゼーションによって引き起こされた富の格差問題を解消するため」、そして「福祉国家を建設するため」というまったく同じ理由によって、ファシズムが台頭する可能性が大いにあるということになりませんか。
スナイダー それは実に興味深い質問です。イタリアをはじめとしてファシズムは、「富の再分配」を主眼に置いていました。ファシストたちが言ったのは、格差があるのはマイノリティのせいだ、ユダヤ人のせいだと。だから再分配のための最良策は、国家による産業を立ち上げると同時に、他の人たちから富を奪うことだと。ファシズムには確かに「再分配」の概念が含まれていますし、資本主義の失敗もファシズム台頭の理由の一つです。
 2008年(世界的な経済破綻)以降、確かに一般的に収入格差が広がって、人々は「自分の問題はメキシコ人や中国人やユダヤ人たちによって引き起こされたんだ」といった言説に惑わされてしまう傾向にあります。トランプ氏のような政治家は、こういった状況を都合よく利用して、たとえば「グローバリゼーションはプロセスの問題ではなく、人々の問題だ」と言うわけです。グローバリゼーションには顔があって、われわれはその顔をブーツで踏みつぶしてやるんだ、と。これが彼の政治観です。
 トランプ氏もプーチン氏も1920年代、30年代のアイディアや手法、つまり嘘をばらまいたり「神話」を繰り返し唱えたりといった手法をとり入れていますが、違いは、彼らは「再分配」にはまったく興味がないということですね。この点は大きな違いです。プーチン氏やトランプ氏は、彼ら自身がオリガーク(寡頭財閥人)で、彼ら自身が大金持ちだということです。プーチン氏は本当の大金持ちですし、トランプ氏は大金持ちになりたい人です。彼らは「再分配」したい人たちではないし、するつもりもまったくない。そこが大きな違いですね。
●ポピュリズムは「法」や「体制」をなし崩しにする
──では、ポーランドやハンガリー、オーストリア、ドイツ、フランス、そしてアメリカでも、ポピュリズムや極右政党の台頭が見られます。これはファシズムにつながる現象ととらえて心配すべきなのでしょうか。
スナイダー 民主主義を大切にしたいから心配すべきですが、それよりも根本問題は、「一体われわれは何を望んでいるのか、何がなくなることを心配しているのか」という内容のほうです。
 私自身は「法の支配」や「民主主義」「個人の権利」が摩減していくことを心配しています。ポピュリズムや権威主義、ファシズムは、これらの素晴らしいものをわれわれから奪ってしまうという理由で、大きな懸念材料です。
 問題は、脅威や懸念材料については大いに話題にされるけれども、一体何が素晴らしいもので、何をわれわれは望んでいるのか、なぜそれらが素晴らしいのかという肝心な事柄について、深く議論したり考察したりしないというところにあります。
「ポピュリズム」が、人々に声を与えるという意味であれば、それはOKですが、「ポピュリズム」が、人々に嘘をばらまくことを意味するなら問題ですし、「ポピュリズム」が、「人々」という名のもとにシステムのルールを破壊することを意味するのであれば、最悪です。このことを私は心配しています。
 ポピュリズムによって出てきたある人物が、「自分は人々の声の体現者である」と言いつのることによって、その人と人々との間にある「法」や「体制」といったものが意味不明を失っていき、それらは単なる障害物と化してしまって、それらが払拭されることにつながっていってしまう。これこそが危険であると思いますし、こうしてポピュリズムはある種のファシズムに変化していくのだと考えています。
──グローバル企業をコントロールして富の再分配をするためには、世界政府を作って制御していく必要があると考える経済学者たちもいます。それは人々にとって新たな脅威となる可能性も大きいわけで、それならむしろグローバル企業による寡頭支配のほうがまだましなのではないかという気もしてしまうのですが。
スナイダー 世界政府でもなくグローバル企業による寡頭支配でもない、別の方法はどうですか(笑)。
 一つの解決法としては、「法」や「市場」を真剣にとらえるということです。
 プーチン氏やトランプ氏が支配する世界では、市場は「法の支配」を免れますし、市場が「法の支配」をまったく受けないゾーンがいつくも存在します。オフショア(規則のみゆるい海外)の銀行口座やオフショアの企業、匿名の取引、といったものがトランプ氏を作ったのです。「作った」というのは、彼が金儲けをすることを可能にしたという意味であり、彼の世界観を形成したという意味でもあります。つまり「法」は冗談であり、金や権力のみが重要であるという考え方ですね。これはトランプ氏とプーチン氏に共通するもので、プーチン氏もそのように考えています。ロシア全体が、アメリカ資本主義の末端にあるグレーゾーン(合法か違法かスレスレの領域)部分に匹敵すると言ってもいいでしょう。
 たとえばグローバル企業が、税金逃れをせずに、タックスヘイブン(租税回避値)を避けて、匿名の取引も行わない、という真っ当なやり方だってあるわけです。これは世界政府という方向ではありませんが、こうすることでオリガーキー(寡頭財閥)を制御することにもなる。なぜなら真の問題は、オリガーク(寡頭財閥人)たちが国の力を逃れていることにあるからです。そして、彼らが国の力を手にした場合、今度は自分たちが国の力から逃れられるようにもっていくために、その力を利用する。
 プーチン氏はロシアの国をコントロールしていますが、それを何に使っているかというと、たとえば自分の友だちのチェロ奏者に20億ドルあげるために使っている。これは国のコントロールを逃れたものです。トランプ氏は国の力を手にしていますが、それを何に使っているかというと、自分が世界中にホテルを作るための資金調達に使っている。国の力から逃れるために国の力を利用している。ですから、問題の核心は、国々がどうやってこれを制御していくかということになります。
  ロシアと中国問題
●ロシアは「前近代的」国家だ
──そのロシアですが、以前ロシアを「マフィア国家」だと言っておられましたが、ロシアはどういう観点から見てマフィア国家のなのでしょうか。
スナイダー 多くの人がそのフレーズを使ってきていますが、私自身はどちらかというと「オリガーキー(財閥による寡頭制)」というフレーズを使いたい。そのほうがギリシャ時代にさかのぼる歴史的な意味合いが含まれますから。古代の民主主義の議論では、オリガーキーというのは民主主義がうまく機能しなくなると台頭してきます。アリストテレスは、民主主義のリスクの一つとして、金持ちがそうでない階級を欺くために民主主義を使うこともあると言っていますが、現実にもそっくりそのまま当��はまりますね、
 ロシアの特徴は、富が限られた人々に集中していて動かないという点にあります。そのために、ロシアには従来の意味での「法の支配」というものがありません。そのことをもって「マフィア国家」と表現するのであれば、そのとおりです。「法」が機能しないことと、社会的な流動性がないことが、ロシアの大きな特徴になります。
 この場合、権力を握っている人々は、このやり方が唯一の方法なのだと市民を説得することでのみ、自分たちがサバイブしていくことができる。この部分が、マフィアという比喩では十分でなくなります。マフィアは、「他のやり方はない」というような説得はしませんね。ロシアのような国家は、他の選択肢はないと主張するわけです。力のある者が統治し、富める者が統治する。他のどこの国でもこれが自然の成り行きというものなのだから、現状に満足しなさいと説得するわけです。
──さらにリーダーは常に自分に対する「忠誠」を要求しますよね。
スナイダー まったくそのとおりです。「忠誠」の要求はトランプ氏とプーチン氏の大きな特徴でもあります。大事なのは「ルール(法)」ではなく個人的な「忠誠」であると。その点では確かにマフィアですが、一歩下がって見てみると、彼らのやり方は「前近代的」だという見方もできます。国家ができる以前の状態ですね。
 国家ができる前は、一族というものがあった。一族の中では、特定個人に忠誠を誓うことが大事だったし、忠誠を誓った人たちは、さまざまな報酬が配られた。プーチン氏やトランプ氏には、こういうモデルが最もしっくりくるんですね。
 しかし近代政治の歴史は、人々がこのモデルから抜け出すために努力して作り上げられてきたのです。一族のリーダーに忠誠を誓わなくともいいように、政治的にも経済的にも人々が自由に移動することができるようなプリンシプル(原理原則)を作り上げてきたのです。
──ちなみになぜロシアでは、性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)の話題が大きな問題として取ませんとり上げられるのでしょうか。イワン・イリン(プーチンが信奉するロシア出身の哲学者、1883 - 1954)のファシスト的な哲学の影響があるからですか。
スナイダー イワン・イリンの影響はそれほど大きくないと思います。むしろ自分たちと彼らとを区別するいい方法だからでしょう。腐敗しているのは彼らのほうで、われわれは清く正しいということを強調するための方便ですね。もちろんファシズムとも関連しています。ファシズムは非常にはっきりとした男女の役割を提示しますから、とくに現代ロシアの男性的なものに対する崇拝という気運ともしっくり合っているからですね。
●ロシアにとっての本当の威厳は中国だ
──プーチン氏の「ユーラシア経済連合」構想は、ロシアがユーラシア全体のリーダーとなり、中心となるべきだと提案しています。ロシアの「ユーラシア経済連合」構想と中国の「一帯一路」構想とは、双方ともスケールの大きなものですが、どのように対照して見ておられますか。
スナイダー 私自身は中国よりもロシアについてよりよく知っていますが、両者の主な違いは、中国には、自国のパワーを広げていくための、影���力を増していくための、ある種のプランがあるように見えます。対してロシアには、自国のパワーを広げていくためのプランはないですね。ロシアのプランは、他国のパワーを下げることです。ヨーロッパを弱くすることで、ドイツやフランスの力を弱くすることです。自国を強くするより、西側の国々の力を現在よりも弱めたい。
 両者の構想をつき合わせて見てみると、明らかなのは、ロシアがやろうとしているのは地政学的な自殺だということです。なぜなら、長期的にはロシアにとっての本当の問題は、フィンランドでもスイスでもスペインでもなくて、中国だからです。ロシアは、西欧の力を弱めようとしているわけで、いちばん自分たちの味方になる可能性がある国々を攻撃しようとしていることになります。
 西欧の力を弱くするというのは、自分たちのエゴを満足させます。だからそうしているわけで、気分のいい派手な騒ぎを起こすことになるし、自分たちの権力を正当化させることになるし、自分たちに力があるように感じることができるし、市民に自分たちの力を宣伝することにもなる。シリアを爆撃したりウクライナを侵略したり、アメリカの大統領選挙を攪乱すれば、自分たちはスーパーパワーであると感じることもできる。しかし実際には、墓穴を掘っているようなものです。
 ロシア国家がサバイブしていくためには、西欧と中国とのバランスをとることが必須になりますから、西欧を攻撃することは、このバランスを自ら崩すことになってしまいます。ロシアのやり方は、一人の終身独裁者のために短期的な勝利を求めている、ということですね。
 中国のほうは、ある経済政策を展開して、長期的にはロシアを追い詰めることを狙っているとも言えるでしょうし、確実に彼らはそうするでしょうね。そこが大きな違いです。
──中国のどのような点が、ロシアにとって深刻な脅威なのでしょうか。
スナイダー むしろ中国がロシアにとって脅威でない点があるだろうか、というくらいですよね。
 人口統計を見ても、ロシアの人口(約1億4400万人)に対して、中国は桁違いに多い(14億人)。投資額を見ても、中国のほうがロシアよりも多くシ��リアに投資しています。資源の点では、中国は天然ガスと水が必要ですし、将来的には食料も必要になるでしょう。ロシアにはそれらがすべてあります。現時点では、中国はロシアのエリートたちを買収することでこれらを手に入れていますが、将来的には中国は別の方法でこれらを入手することになるかもしれない。ロシアのエリートを買収するのか、直接奪取するのか、あるいはロシアの南側にある国々を中国側につけることによって入手するのかはわかりませんが、中国は確実に資源獲得に乗り出してくるわけです。
 西欧はロシアにとって実際には、痛くもかゆくもないフェイクな敵であって、本当の脅威は中国なのです。
  「テクノユートピア」と民主主義
●嘘は、人々から抵抗力を奪う
──カリフォルニア大学バークレー校の人類学者アレクセイ・ユルチャクは、1950年代から80年代の終わりにかけてのソ連社会の状況を、「ハイパー・ノーマリゼーション」と呼んでいます。システムが機能していないことを誰もが知っているにもかかわらず、代案を思いつかないので、政治家も市民もシステムが機能しているという嘘を信じるようになり、社会に嘘が蔓���して、人々が嘘に慣れてしまうという状況です。
 社会に嘘が蔓延していると、一体何が本当で、何が嘘なのかがまったくわからなくなってしまうので、人々は抵抗する意欲そのものを失ってしまいます。この「嘘をばらまく」という手法は、ロシア政府がコントロール手法として、自国内のみならず世界中で実行しているやり方なのでしょうか。
スナイダー そのとおりです。しかも、おっしゃるように特定の嘘をばらまくだけではなく、すべての人々を常に不信感で満たすというやり方です。そして、確実な事柄なんてあるんだろうか、という疑いの気持ちを人々に植えつける。
 不信感をぬぐえない場合、人々は家にこもる。私はこれを「カウチ(長椅子)ファシズム」と呼んでいます。旧来のファシズムでは、外に出て行進しなければならなかったけれども、プーチン氏もトランプ氏も人々に行進などしてもらいたくはない。
 それよりもむしろ家にこもって、「ホントかどうかちょっとわからない。嘘かもしれない。だからテレビを見てみよう、インターネットを見てみよう」となる。そういう状況にもっていければ、彼らの勝ちです。
 旧来のファシズムでは、真実を払拭して生まれた空間に「神話」を押し込むわけですが、この場合の「神話」とは、「この土地を侵略すべきだ」といったような具体的な行動を伴うものでした。現在のそれは、「何も真実ではない、だから何も行動すべきではない」というものに変わっています。われわれがすべてのお金を獲得して、われわれのやりたいようにやるから、あなた方は家にこもっていなさい、と。確かにこれは非常に効果的な策略で、使っているほうは、その効果を十分に承知しながら使っています。
 では、これに対抗する唯一の方法は何か。それはつまり、
「知識は重要だ」
「確認できる事実はある」
「事実は大事だ」
という倫理的な立場をしっかり認識することです。
 われわれは自己防衛のために消極的な態度をとってきていて、それは確実に権威主義を下支えすることになっています。すべては単なる意見の違いだとか、あなたの意見も私の意見も両方ともいい、と言ってしまう。地球は平らだ──いや丸い、チョコレートは甘い──いやレモンのようだ、など、(明らかに事実と違っていることでも)みんなさまざまな意見をもっているんだ、ということで放っておく。リベラルな人たちや左側の人たちは、現実の世界というものに無関心で、事実をしっかりと確認することから逃げてきた。一方で、金持ちやメディア操作に長けている人たちが、こういった態度を利用して、リベラルを攻撃することに用いてきたのです。
 ですからここで今一度古いやり方に戻って、事実を見つめ、現実をしっかりと手中に取り戻さなければならないと考えています。
●完全な「透明さ」とは全体主義のこと
──これらを踏まえて、インターネットについて伺いたいと思います。
 IT産業に携わっている人たちは、テクノロジーは個人の力を増して、分散型社会をもたらし、それによって世界はより安全に、より透明に、そしてより民主的になっていくと言います。「テクノユートピア」と呼ばれる考え方です。彼らによると、より多くの人々がソーシャル・ネットワークを使ってつながり合うことで、恐怖や、外国人恐怖症、偏見、差別といったことから解放されていくと言います。
 しかし現実には、インターネットは個人ではなく、ますますもってごく少数の大規模情報企業やプラットフォーム会社によってコントロールされていますし、マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究者が行った大規模なツイッターアカウント追跡調査結果によると、インターネット上では、嘘は真実より70%もリツイートされる可能性が高く、6倍も速く広く深く伝わることが明らかにされました(Science, March 8, 2018)。
 しかも、インターネットの普及率は2006年の20%から、2018年には50%まで上がっているのですが(Statista:Global internet access rate 2005-2018)、ポピュリズムの人気も2000年には8%だったものが2018年には25%まで上がっていて(Milken Institute Symposium, Europe: Past Tense, Future Perfect?, July, 2018, Yascha Mounk [ハーバード大学]の発言)、インターネットの普及が必ずしも民主主義を下支えすることになっていないわけです。
 あなたは「情報の分野で成功した人たちは、むしろナイーブな世界観をもっている」(Big Think, Sept 18, 2018)とおっしゃっています。
スナイダー つまり「なぜ『ナイーブ』という表現を使って、『悪徳 sinister』という表現を使わなかったのか」という質問ですか(笑)?
 確かに初期のころは「ナイーブ」な人たちもいました。インターネットはできるだけ自由にしておいて、広告費で運営するという形でいいと無邪気に考えていたまじめな「リバタリアン(個人的な自由と経済的自由を求める、自由至上主義者)」たちがいたのも確かです。
 ただ、ある時期を越えたら、たとえば最初の10億ドルを稼いだ後は、もはや無邪気であるとは言えませんね。若いころそのように考えていて、ソーシャル・プラットフォームを立ち上げ、世界で屈指の金持ちになったら、もはや「ナイーブ」とは言えない。その時点ですでに「悪徳」です。「善良さ」を偽った悪徳ですね。あるいは「オプティミスト(楽観主義者)」を装った「悪徳」です。
 インターネットの問題としてあなたがあげたことはすべてそのとおりです。インターネットの根本問題は、「透明さ」が必ずしも良いとは限らないという点です。われわれが自由であるためには、自分の一部はプライベートでなければならない。(集団としてではない)自分自身の夢をもっていなければならないし、自分の行動や性質のパターンは自分のものでなければならないし、人間関係の一部は外から覗いただけでは理解できないようなものでなければならない。
 完全な「透明さ」とはすなわち全体主義のことです。全体主義とは、パブリックな部分とプライベートな部分の区別がないという意味です。「自由」が存在するためには、プライベートとパブリックの区別が存在していなければならない。ですから、社会のすべてが、「透明になる」というのは恐ろしい予測です。ロシアのどこかにあるマシーンが私の脳の化学変化���分析するというのは、考えただかでも恐ろしいシナリオです。でもわれわれは他人のプライベートライフについては興味があるので、このシナリオに乗ってしまう。そうすると結局、自分たちのプライベートライフも、よく考えずに公開してしまうことになる。これが「透明になる」ということが意味するものです。
 もう一つあなたがあげた「恐怖」は、重要なポイントです。ソーシャル・プラットフォームは、何がわれわれを不安にさせるのか、何がわれわれに恐怖を感じさせるのかということを探知するのに長けています。しかもそれを使って、ますますわれわれを不安や恐怖に陥れ、インターネットにより多くの時間を使って広告を目にするよう仕向ける。そうなるとわれわれは、ある意味で自分自身のパロディ(滑稽な分身)と化してしまうのです。
 私の知っている人たちがそうなってしまったのを、この目で見ています。あなたもおそらくそういう人を身近に知っているでしょう。かなり複雑で深い世界観をもっていた人たちが、ある種の恐怖にからめとられてからは、それがますます重要なことになって、そればかり話題にするようになってしまった。それがインターネットがもたらす影響なのです。
 さらに根本的なことを言えば、「インターネットは人間ではない」ということです(笑)。
 インターネットはそのほとんどがアルゴリズム、つまりコンピューター・プログラムなわけですね。そしてこれは誰も言わないけれども、非常に本質的な点なのですが、「インターネットはわれわれのことを親身になって心配していない」ということです。全然、まったく(笑)。
 インターネットは、海や宇宙がわれわれのことを心配してなどいないように、まったくもって気にかけていない。子猫や、子犬が画面に現れて、一見親しみやすそうに見えますが、プログラムはわれわれのことなどまったく無関心なわけです。
──確かに非常に興味深い点です。
●インターネットはスパイの温床になる
──では、インターネット上で行われている、サイバー戦争についてはどうですか。アメリカは2016年のサイバー戦争でロシアに完敗したということですが、その原因はテクノロジーと人々の生活の関係が変わったために、ロシアの諜報機関が得意とするいわゆる「積極工作 active measures(さまざまな心理操作やメディア操作により、敵を攪乱・分断・崩壊させることを目的とした諜報活動)」の活動員たちに、大きなアドバンテージを与えることになったからだというものです。でもこのやり方は、アメリカの諜報機関がずっと世界中で行ってきたことではないですか。なぜロシアにとくにアドバンテージがあるとお考えですか。
スナイダー まず言っておきたいのは、ロシアがアメリカの大統領選挙で勝利したという本を読んだからといって、それでわれわれ(アメリカ人)のほうは無実だと言いたいわけではありません。私自身が最も嫌うものの一つは、「自分たちは何も悪いことはしていない、相手がひどいことをしただけだ」というような「無実」についての主張や議論です。もちろんアメリカも他の国の選挙に干渉してきました。これはひどいことです。どこの国であろうと、他国のみ選挙に干渉するのは倫理的にやってはいけないことです。だから、アメリカが中南米の国々の選挙に干渉するのは、ひどいことですし、ロシアがアメリカの選挙に干渉するのも、ひどいことです。一市民として、これらは忌避すべきことであると考えています。
 こう前置きしたうえで、2016年のアメリカ大統領選挙へのロシアの干渉についてですが、特��すべきなのは、われわれのオープンかつナイーブなインターネットに対する態度というものが、おっしゃったような旧来の諜報活動メカニズムが働くための大きな通路をひらいたということです。
「積極工作」という旧来の手法は、まずあなたの心理についてよく研究して、それを今度はあなたを陥れるために利用する、というものです。一見良さそうに見えるけれども、よく考えてみたらあなたにとっては不利なことだったというような結果を招くわけです。
 ただこの「積極工作」を、従来のように人間同士の間で実行するのは容易なことではありません。人間同士の関係性を築いて、最終的にはあなたが夢にも思わなかったようなことをあなたにさせるようにもっていく。非常に難しいことですね。ところがテクノロジーをもってすれば、これがかなり容易くなるのです。スケールを大きくすることでこれが実行できるようになってしまう。
 もし現実世界で「積極工作」をあなたに仕掛けようとするなら、いろいろな周囲の人間関係を巻き込んで、さまざまなシナリオを築き上げなければならないわけで、それらをすべてが破綻しないようにもっていくのは至難の業です。
 ところが、この「積極工作」の対象が、あなた個人ではなく1億4000万人(フェイスブックを通じてロシアのプロパガンダに接した人の数)以上のアメリカ人ということになると、このスケールの大きさを利用して、これらの人々に働きかけることになります。そうなると、すべての人々を説得する必要はまったくなくて、その中のごく一部の人々を説得して自分たちの望む方向に誘導すればいい。それだけで選挙結果を左右して、自分たちに都合のいい勝利をもたらすことができるのです。
 そしてこれは重要な点ですが、その際彼らが私を「信用する」必要などまったくないのです。
 従来の「積極工作」の場合、あなたが工作員を信用する必要があります。「あなたに自分の利益に反する行動をとらせる」という最終目的に達するまでのシナリオを、あなたがすべて信用しないことには成り立たないからです。
 ところがコンピュータの場合、人々はなぜかコンピュータを信用してしまうんですね。
 自分で作ったものでもないのに、自分のコンピュータだと思ってしまう。インターネットも自分のものだと勘違いしてしまう。しかも画面上に出てくるウェブサイトは、自分がそれを選択しているのだと錯覚する。実際には彼ら自身が選択したものではなくて、広告会社や宣伝目的で雇われたひとが、ユーザーの性向や嗜好をフォローして、あらかじめより分けて提供しているのです。
 ロシアはフェイスブックを通して、あなたの好みを把握すると同時に、それらを使って人々をある方向に誘導し、社会を攪乱・分断させた。これが実際に起こったことです。
 テクノロジーは、悪意をもってわれわれを操作しようとする人々の前に、われわれを容赦なく裸でさらしたのです。今後はこれを教訓として、国家のみならず個人のレベルでも、こういった操作に容易に引っかからないようになることを願っています。
──確かに私たちはインターネットに対して非常にナイーブで、もたらす結果の重要性をあまり考えずに、自分たちを簡単にネット上にオープンにしてしまいます。
スナイダー そうです。
 すべての国は長所と短所を備えているわけで、アメリカはどちらかというと相手をすぐ信用する「高信用社会」ですね。アメリカ人がある領域で素晴らしい能力を発揮するのは、あるレベルの相手をすすんで信用するという性質がある���ら。ロシアとは異なります。ロシアは相手をなかなか信用しない「低信用社会」です。
 アメリカでは、自分とある程度似ている他の人を信用する傾向があって、それがビジネスに役立ってきたのです。ロシアはインターネット上に、アメリカ人が自分たちと似た人たちがいると錯覚するようなサイトをたくさんでっち上げた。もっぱらアメリカ人をターゲットにして、彼らの興味や嗜好に合わせて別々のサイトを用意しました。黒人用のサイト、白人至上主義者用のサイト、南部の人たち用のサイトをそれぞれ作って、彼らが自分たちと似たような人たちとコミュニケーションしているんだと錯覚するように操作した。だから人々はそれらに引っかかったのです。
 これはバカだったとしか言いようがありません。アメリカ人にとっていちばん難しいのは、自分たちが騙されたことを正直に認めることです。誤りを犯した、インターネットに騙された、ロシア政府に一杯食わされた、と素直に認めるのが本当に難しい。だからそうする代わりに、これはロシアがやったことではなくて、自分がこれを信用して選んだんだ、というふうに自己納得させようとします。
 これはアメリカ人に限ったことではありません。われわれは誰もが、インターネット上で騙された経験をもっているはずです。まずそれを認めることが重要です。
  最悪の暴力と「良い不完全」
●市民ではなくなった時に、最悪の悲劇が起こる
──ご著書について少し質問させてください。
『ブラッドランド』と『ブラックアース』は、これまでのホロコースト観を大きく変えるインパクトをもたらしました。
 まず「1933年から1945年の間に、バルト海と黒海の間そしてベルリンとモスクワとの間の地域で、約1400万人の人々が意図的に殺害された」わけですが、ご著書によると、次のような一般に知られていなかった点を指摘されています。
①「反ユダヤ主義」が戦争の主な原因ではなく、食料を確保するために農耕地を求めたことが主理由であって、当時の食料は現在の石油のような重要性をもっていた。
②ホロコーストは、ドイツ人国内でドイツ人によって行われたのではなく、むしろドイツ人が侵略する以前にソ連によって大規模な侵略殺害が行われた東ヨーロッパの地域でこそ、主に実行に移された。
③大量殺害は、ソ連のNKVDやドイツのSSによって行われたのみならず、多くの地域住民によって実行された。彼らは自らサバイバルを懸けて、ドイツのために働く以前はソ連のために働いていた。
 これらを踏まえて、なぜある国々ではユダヤ人はほぼ生き残って、別の国々ではその多くが殺されてしまうことになったのか *1、お話しいただけますか。
*1 エストニアでは99%のユダヤ人が殺され、オランダでも75%のユダヤ人が殺されたが、デンマークでは親ナチ政権だったにもかかわらず99%のユダヤ人が生き残り、フランスでも75%のユダヤ人が生き残った。
スナイダー 『ブラッドランド』では、誰がどこで死んだのかを記録しようとしました。「ホロコースト」には地理部分が欠落していましたから、一体どこでユダヤ人たちが死んだのかを検証したわけです。そして、ユダヤ人たちが死んだ地域では、他の東たちも何百万という単位で死んでいった。その背景には理由があるはずだと考えたんですね。
 たとえば、ドイツもソ連も(食料確保の目的のために)肥沃なウクライナに大いに関心があった。ウクライナには多くのユダヤ人が住んでいて、ドイツがウクライナに侵攻するには、さらに多くのユダヤ人たちが住んでいたポーランド領域を通る必要があった。
 私の論点は、ヒトラーはユダヤ人を最終的な敵として見ていたけれども、実際に戦争を始めるまでは、彼らを殺害するには至らなかった。で、その戦争はウクライナの領地をめぐってのものでした。ですから二つの事柄が同時に起きたことになります。ドイツは食料確保のためにある他国の領地をコントロールしようとしたけれども、その領地にはたまたま多くのユダヤ人が住んでいた。戦争がひどくなっていくに従って、次第に領地のコントロールよりも、ユダヤ人殺害そのものが目的となっていった、ということです。
『ブラックアース』で言いたかったのは、人々を殺害するための条件を整えようとする場合、最初に行われるのは、インスティテューション(国家や組織といった体制)をとり除いてしまうことです。権威主義や国家主義というものは、それだけでは大量殺戮には直接つながらないということを言いたかった。大量殺戮とは、別の国がもっている権力を払拭することで、まず人々を一挙に脆弱にし、その後で国家権力を行使する形で行われるのです。
 これは少し説明がいります。われわれは、強い国家権力はその市民を虐げると思いがちですね。それもそのとおりで、たとえば現在中国は、実際ウイグル人のイスラム教市民を抑圧し、彼らをキャンプに収容していますし、ミャンマーでも、イスラム教市民が抑圧されている。これらは強力な国家権力が、自国市民を抑圧している例です。ですから、そういうことも確かに起こります。
 しかし最悪の暴力とは、ある国家が別の国家の領地に侵入していって、その領地そして国家を破壊したうえで行使される時のものです。このやり方がヨーロッパにおける帝国主義の全歴史です。ドイツが、ここにはポーランドは存在しない、ソ連も存在しない、だからこの土地にいる人々をどうしようとまったく構わないのだと宣言した、そういう条件がそろった状況で初めて、ユダヤ人の大量殺害が可能になったのです。
 ある国はもはや存在しない、とドイツが宣言した地域においてはユダヤ人の大量殺戮が実行されたけれども、ドイツの同盟国では、多くのユダヤ人が生き残った。そういう国が、たとえ権威主義国家や、極右支配国家や、親ナチ国家だったとしても、国家権力が自国の市民を殺害するとなると、これは一挙に難しくなるからです。
 つまり、国家がある国によって破壊されると、別の国がその地域を蹂躙してホロコーストを始めることを促進することになる。二度の侵略を受けた地域では、ユダヤ人は非常に高い確率で消滅していった一方、国家が存続していたところに住んでいたユダヤ人は、高い確率で生き残ったのです。
──ヒトラーとスターリンは、両者とも領地と食料を求めて戦争をしていたわけですが、どういった点が大きく異なっていたのでしょうか。
スナイダー 二人は似たところがありました。グローバリゼーションに対処するアイディアというものをもっていた点、一党独裁で国家を運営していくことが可能だと考えていた点、そして両者ともあらゆることを、つまり歴史や時間というものを加速度的に進めようとした点。
 違いは、スターリンの敵は資本主義でしたが、ヒトラーは民族ということに焦点を絞っていて、ユダヤ人による陰謀ということを考えていた。とくに30~40年代、スターリンは大きな領域をコントロールしようとしたのに対し、ヒトラーは大きな領域を変えようとしていた。��してスターリンは自国領の末端部分の人々を殺したけれども、ヒトラーはポーランドとソ連と戦争をしながら、その領域で主に殺戮を行ったわけです。
●「われわれ VS 彼ら」という対立構図を避けよう
──ナチ党の主要指導者の一人であったヘルマン・ゲーリングは、こう言っています。
「もちろん人々は誰も戦争などしたくはない。しかし、政策決定するのは国の指導者たちなのであって、それが民主主義だろうとファシスト独裁主義だろうと議会制だろうと共産主義独裁だろうとまったく関係なく、人々を(戦争に)同意させるのはいつも簡単なことなのだ。単に、われわれは攻撃されたんだと言いふらし、平和主義者たちを、国に危機をもたらす愛国心を欠いた卑怯者だと言って貶めればいいだけのことだ。どの国でもこの方法は必ずうまくいく」(Nuremberg Diary, Gustave Gilbert, 1947)
 つまり、人々の「生き残り本能」を刺激すれば、彼らの意見や意志を変えることなど朝飯前だというわけです。確かに9・11後のアメリカで、2003年にイラク戦争を始める際には、この方法が効力を発揮しました。
 このような落とし穴に落ちないようにするには、どうしたらいいのでしょうか。
スナイダー まず初めに、いかなる場合でも「われわれ VS 彼ら」という対立構図を作る政治のやり方は大いに危険であると、常に意識していることが大事ですね。確かにありとあらゆるシステムでこの(ゲーリングが指摘した)やり方が可能ですが、その効果には差があって、この方法が容易く実行できてしまうシステムと、そうでないシステムもあります。
 市民権が弱く、報道機関が脆弱な国ほど、この手法が効果を発揮する。たとえば今日のアメリカでは、トランプ氏は、メキシコや中国への過激発言をすることで、かなり多くの人々を煽動することができますが、すべての人々を動かすことはできないし、明日メキシコを侵略するぞと宣言しても、すぐにそれに対する強力な不支持に突き当たることになります。
 ですから、ゲーリングの言っていることはある程度正しいのですが、いつも必ず効力を発揮するとは限りません。肝心なのは、「われわれ VS 彼ら」という対立思考に代わるものとして、一体どのような考えを人々の中に広めていったらいいのか、という点ですね。これは先ほど話に出た「事実を探求すること」につながります。事実の探求は、「われわれ VS 彼ら」という単純な対立構図をずっと複雑なものにします。
 それと、「ポジティブで倫理的な民主主義」とはどういうものかということを、積極的に考えてみることが大事です。民主主義とは、単にわれわれがもっている制度だというふうにとらえるのではなく、政党や労働組合やさまざまな組織を通じて人々を社会的につなげる制度であるととらえる。そうすることによって、状況は複雑になり、人々が「われわれ VS 彼ら」という単純な構図をとりにくくするわけです。もしメキシコ人が同じ労働組合や教会のメンバーだったら、それだけですでに、われわれが善いほうで彼らが悪いほうだという「われわれ VS 彼ら」という区別をするのを少しためらうでしょう。
 加えて、権力の分散が重要です。トランプ氏は、もし彼自身が指さすだけで、ある国や地域を侵略することができるのだったら、大喜び��しょう。ホワイトハウスで働く人たちが証言していることですが、トランプ氏は、実際にそうしようとしたことがすでに何度もあるようですね。そうさせないよう彼を説得したと。権力の分散は、大統領でさえそれによって制約されることを意味します。メキシコの例に戻るならば、もしトランプ氏が実際にメキシコを侵略しようとしても、現在の分断した米国議会でさえ、(共和党と民主党が)そろって阻止しようとするでしょうし、他の公的機関も阻止するでしょう。
 ゲーリングの言ったことはそのとおりです。これはいつの時代でも起こりうることですし、その傾向はいつの時代にもあります。大事なのは、われわれは、社会が多様性を包容できるようにもっていくことができるのか、社会がプロパガンダに対して懐疑的になるようにもっていくことができるのか、ということですね。
●国家はサイエンスに投資すべきだ
──『ブラックアース』の結論部分で、「ホロコーストを理解することは、おそらく人類存続のための最後のチャンスになるだろう。••••••国家というものは、将来について冷静に思考するためにサイエンスに投資すべきだ。時間が思考を支え、思考が時間を支える。構造が多様性を支え、多様性が構造を支える」と書かれていますが、「ホロコースト」はどのような新たなレッスン(教訓)を今日の世界に提供できるのでしょうか。また、国家はなぜサイエンスに投資するべきなのか、お話しいただけますか。
スナイダー あの本は2014年に書いたものですが、未来をわれわれ自身の手でなんとかしなければならないという強い思いがあって、将来、気候変動問題がさらに深刻化して、資源確保をめぐっての競争が激しくなり、食料や水、領地をめぐって、人々の恐怖意識と闘争意識が高まっていって、「われわれ VS 彼ら」という対立が際立ってくるだろうという危機感がありました。
 未来を考えるにあたって、二つのやり方があります。まず、ヒトラーが言ったように未来とは「避けられない闘争」であると考えるのか、それとも「われわれ人間は理性的に世界をとらえて、道具を創造し、それらの道具が時間を生み出すことを可能にする。それによって将来の悪いシナリオを避けることが可能となり、2年、5年、10年、20年という時間がわれわれに与えられ、子どもを作って、その彼らにも未来があるのだと想像することを可能にする」と考えるのか、ということです。
 これまであまり注意が払われてこなかったのですが、この本で指摘したかったのは、ヒトラーがサイエンスに反対していたという点です。ヒトラーは「サイエンスが未来を作るというのは、ユダヤ人が生み出した幻想だ。テクノロジーは使えるかもしれないが、それによって『われわれ人間は闘争する存在だ』という原理原則が揺らぐようなことはない」のだと言っていました。
 サイエンスは重要です。それは歴史と同じく、原因と結果についての研究で、そこには過去と現在と未来という軸があります。サイエンスは、われわれ人間に未来というものを期待させてくれるから重要なのです。
 もしサイエンスを支持するのであれば、そこには原因と結果があると認識することになる。現在の状況には過去の決断の影響があると認めることになり、現在のわれわれの決断が未来に影響を与えるということを認めることになります。サイエンスは多くの事柄の基本です。
 現アメリカ大統領と行政府は、サイエンスと人文科学の両方に対して非常に敵対する態度をとっています。人文科学はどこに問題があるかを指摘し、サイエンスがそれをどのようにして解決するかを提示するのですが、現行政府は(問題を解決するどころか)次々と新たな問題を生み出しているというのが現状です。
●民主主義は時間を稼ぐ
──では、その大統領を選出した民主主義についてですが、「最も不完全な民主主義でも、最も完全な独裁主義よりまだはるかにましだ」と言う人もいますが、賛同されますか。
 また、「民主主義とは、何度も間違いを犯すことを可能にする制度であり、国家が『時間』を稼ぐためのシステムだ」とおっしゃっていますが、なぜ繰り返しやり直すことができることがそれほど重要なのでしょうか。
スナイダー これは世界を基本的にどうとらえるかということと関係しています。
 私自身は「完全(パーフェクト)な独裁主義」などありえないと考えます。なぜならパーフェクトな独裁者など存在しないからです。いちばんいい時でも、われわれは誰一人としてパーフェクトではありえない。完全な独裁主義がありえない理由は、世界全体を把握するアイディアというようなものは、決して作りえないからです。そのような完全さはありえない。
 われわれに必要なのは、「良い不完全」というものです。あなたも私も、誰もがしばしば間違いを犯すのであって、あなたの倫理観と私のそれとは異なっていて、一致してはいないということを、オープンに言うことができるシステムです。どのようなシステムが、ひどい犠牲を払わずに「不完全」であることを許容できるのか。自分とは倫理観の異なる人たちを踏みつぶすことなく、自分の倫理観を表現できるのか。実はこれらこそ「民主主義」や「多元主義」が可能にしている事柄なのです。
 これらのシステムでは、われわれは自分を表現することができて、勝つこともあれば負けることもあるし、自分の倫理観に基づいて投票することはできても、ほとんどの場合、自分の意見を他人に強要することはできません。世界が不完全だからこそ、「民主主義」が良いシステムなのです。
 良い民主主義のもとでは、多様性というものが祝福されます。あなたと私とは常に異なる人格をもった人間だという認識、個人主義というものが祝福される。これはいいことです。ある特定の人物があなたや私を完全に代表することはできません。(たとえば国家といった)インスティテューションこそが、多様性を許し、表現の自由を許すのです。だから民主主義が良いシステムなのです。
 そらから、神でない限り、いかなる独裁者も必ず死にます。そのことだけでも完全な独裁者というものが存在しないことは明白ですね。誰でも必ず老いて死ぬわけだから。そして老い際に、システム全体も道連れにして崩壊させることになります。独裁主義のもとでは、特定の個人そのものがシステムだからです。
 民主主義はもっとカジュアルです。民主主義のもとでも、人々は病気になったりして死にますし、選挙に負けたりもする。それでも「手続き」というものが存在していて、その「手続き」が時間を稼ぐのです。そうすることで、たとえリーダーが亡くなっても(選挙によって代わりの人を立てることができるし、人が交替してもシステムそのものは機能しつづけるので)、続けて国家も一緒に崩壊してしまうのではないかと心配している人々がパニックを起こすようなことは避けられます。この点が重要なのです。
──ちょうど種の多様性の増大が、地球を安定化させてその耐性を高めてきたことと似ていますね。
スナイダー それはいい例です。
  暴政を避けるためのレッスン
●忖度による服従をするな
──あなたの『暴政:20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』(2017年)は、とても身につまされ励まされるものでした。たとえば、
「言葉を大切に」は、貧しい言葉が全体主義を招くというジョージ・オーウェルの『1984年』の世界を思い起こさせますし、「真実を大切にせよ」と��よく調べよ」は、嘘を遠ざけて自由を守るためには必須の態度ですし、「職業倫理を忘れるな」と「できうる限り勇気を持て」、いずれも実行するのはそう簡単ではないですが、常に意識していないと、つい不本意なことに引きずられる結果となってしまいます。
 で、まず第一にあなたがあげた「忖度による服従をするな」というレッスンについてですが、アメリカの社会心理学者スタンレー・ミルグラム(1933ー1984)の実験 *2 を紹介していました。それによると、人々は、「命令に従うことが、社会をより良くするために自分が果たすべき責任である」と信じた場合、いかに残酷な命令であっても良心の呵責をまったく感ずることなくそれに従うことができる、と。
 そしてご存じのように、ハンナ・アーレントは『エルサレムのアイヒマン』の中で、アイヒマン個人は、「『反ユダヤ人』という考えをまったく持っておらず」「検察側のありとあらゆる努力にもかかわらず、誰の目似も明らかなのは、この男(アイヒマン)は『モンスター』などではまったくないということだ」と語っています。すなわち誰でもアイヒマンになる可能性があるのだと。
 私たちには優れた想像力というものが備わっているので、ごく自然に他人が一体何を欲しているのかを知ろうとします。それは幼児や老人や病人の世話をする際には、とても素晴らしい働きをしますが、同時に「忖度による服従」というような行動を生むことにもなってしまうわけです。
 一体どうやってこのごく自然な人間の性向というものに抵抗したらいいのでしょうか。
*2 アメリカの社会心理学者スタンレー・ミルグラムによる「隷属行動の研究」実験は、一般市民が特定の命令のもとでは非常に残酷な行為を平気で行うことができることを証明するもの。教師の役を与えられた被検者は、壁の向こう側にいる生徒役の人物に簡単な単語問題を出し、生徒が間違えると生徒に電気ショックを与えるよう指���される。電圧は15Vから始まって最大450Vまで15Vずつ上げていくことができ、加圧量に従って、生徒に反応する声が聞こえるように設定してある。生徒役には実際の被害はないのだが、被検者にはそれがわからず、本物としか思えない声が聞こえてくる。実際生徒の、痛みを訴える声から、絶叫、そして苦悶の金切り声、失神して無反応になる、まで聞かされるのだが、指導者から静かにかつケンイテキニ実験継続を施されると、驚いたことに、生徒が絶叫して実験中止を懇願する300Vまでは、なんと100%の被検者が加圧し続け、最大の450Vまでスイッチを入れた者は65%にものぼった
スナイダー 今おっしゃったことの中にすでに答えがあります。市民であるということは、自分が置かれている状況がどのようなものなのかをしっかりと識別するということです。
 たとえば街の会合(タウンミーティング)に行くとします。まず会場に入って椅子に座る。これ���誰もがやっていることだから、そうすべきことですね。しかし数人が手をあげて、「町の工場が汚染された廃液を川に流しているけれども、それは許容範囲だ」というような発言をした場合、たとえ大勢の人が許容側であったとしても、「とんでもない、それは許容できない」と、しっかり反対意見を言うべきなのです。重要なのは、椅子に座るという皆と同調した行為と、肝心な時には反対意見を述べるという行為との違いを、はっきり認識するということです。
 先ほどの「多様性」の話に戻りますが、たとえば野球を観にいくと、みんなと同じように声援を送りますが、時には他の観衆とはまったく反対の行為をすることもあるわけです(たとえばヤンキー・スタジアムで、並みいるヤンキースファンの中で、レッドソックスを応援するようなもの)。個人として自立するためには、これら両者の違いがわかる必要があります。
 それこそがわれわれをして独立した個人たらしめるものです。この違いがわかるためには、繰り返し練習する必要があります。どこで線を引くのかということですが、誰もが同じところで線引きをする必要もありません。でも線を引くことができなければならない。だから第一レッスンが「忖度による服従をするな」ということなのです。
 場合によっては、「これは今の私にとって普通(ノーマル)じゃない」と、しっかり言うことができなければならない。すべてのことをノーマルだと許容するのであれば、結果として権威主義を許容することになってしまうからです。
●組織や制度を守れ
──20のレッスンの中で、とてもユニークなものの一つは、「組織や制度を守れ」というものです。この「組織」の中には、いかなるサイズの組織も含まれるのでしょうか。たとえば宗教組織とか結婚なども。
スナイダー それは面白い点です。私が意味した「組織」とは、政府組織や、さまざまな非政府組織のことです。「ホロコースト」研究からみちびかれた結論は、これはちょっと保守的に聞こえるかもしれませんが、どんなに不十分な組織であっても、まったくないよりはましだということです。そして、うまく機能していない組織があった場合、それを壊してしまうよりは、改良して使えるようにするほうが望ましい。
 たとえば、私自身はアメリカの最高裁判所が下した判決に対して大いに不満をもっていますが、だからといって憲法まで破棄してしまおうとは思わない。一般的に言って、国家の組織は、物事が急激に変わってしまうのを防ぐ役割を果たします。これによって体制が激変しないよう防御すると同時に、個人が孤立してしまうのを防ぐ役割も果たします。
 アメリカでは現在人々が選挙に立候補していますが(2018年11月の中間選挙)、立候補することで彼らは「議会制度」を守っているのです。票を集めるために、他の人たちと一緒に活動することになるからです。非政府組織も同じです。労働組合でもボーイスカウトでもローカルな野球チームでも、そしておそらく結婚でも、それらの組織や制度は、人々が一人になってしまうことを防いでくれる。人間はまったく一人になってしまったら、完全に負けです。
 アメリカにおける「自由」のコンセプトは誤解を招きやすいところがあります。たとえばよくアメリカ映画に出てくるのは、たった一人のヒーローが最後に世界を救うというようなストーリーで、宇宙からの敵を相手にするにしろ何にしろ、いつもたった一人のヒーローが救済するわけですが、実際には、たった一人になったヒーローは必ず負けてしまうのです。言い換えると、一人にしてしまえばその人を必ず敗北させることができるということでもあります。
 組織は、われわれは一緒だということを自覚させてくれます。その中で初めて、個人が一人で何かをするということが可能になる。ですから国家組織と非国家組織の両方ですね。
──宗教組織もですか。
スナイダー (躊躇しつつ)一つ以上存在することを許すなら、ですね(笑)。
●相手の目を見て世間話をせよ
──もう一つのユニークなレッスンは、「相手の目を見なさい。そして世間話(スモールトーク)をしなさい」というものです。私たちはどちらかというと「世間話」というのはとるに足らないものだと教わってきましたし、インターネットを通じたコミュニケーションが増えることで、ますます相手の目を見つめる機会が少なくなってきています。なぜ相手の目を見ることと世間話をすることが重要なのでしょうか。
スナイダー このレッスンについては、ほとんどすべての人が質問してきます(笑)。
 おそらくほとんどの人が、これは真実だと直感的にわかっているからでしょう。お互いに相手が人間であることを認識し合うことが大事だと知っているからだと思います。このレッスンの本質はここにあります。
 コンピュータと目を見つめ合うことはできません。目線を向けることはできても、見つめ合うことはできない。コンピュータは見つめ返してくれません。動物たちと見つめ合うことはできるし、人間同士見つめ合うこともできます。見つめ合うということは、相手がそこにいることを認識することであり、エレベーターの中でも、バーにいても、誰かが目を見つめたら、必ずわかります。目を見つめられたら、それを無視することは非常に難しい。
 なぜこのレッスンを入れたかというと、人々が分裂してしまうことや細分化してしまうことをできるだけ避けたいと思っているからです。現実の世界で実際に他の人たちと直接接触できる貴重な機会があった場合には、それらの人たちと一緒にいるということを実感したい。
 目を見つめるということは、同時に肯定することも意味します。政治が悪いほうに傾いてきて、人々が孤独を感じたり抑圧されていると感じたりする場合、彼らの目を見つめることは、彼らを認識することにつながるわけです。「避けて通る」ことの逆が「目を見つめる」ということになります。
 世間話をするのも、相手がリアルな存在だと受け入れることを意味します。現在アメリカでは世間話をするのはとても大事です。なぜなら、重要な話(ビッグトーク)はしにくい状況になっていますから(笑)。
 自分とは異なる視点をもった人たちともつながろうとするなら、他のさまざまなトピックについても話ができなければならない。「真実でない事柄」を信じている人たちとコミュニケートするには、まずお互いに人間であると認め合うところから始める必要があります。直裁に「真実でない事柄」の部分から話を始めるわけにはいかないからです。
 まず、その人たちが大切に思っていること、たとえば天候や食べ物や子どものことといった普通のことを、あなたも大切に思っているんだと伝えます。その後で、彼らとは異なる意見の部分を提示する。それでも彼らは同意するとは限りませんが、少なくともあなたを人間だと認めることになりますし、異なる意見をもった別の人間の存在を認識することでになります。
●愛国者(パトリオット)は歓迎するが、国粋主義者(ナショナリスト)は願い下げ
──レッスンの一つは「愛国者であれ」というものですが、オルダス・ハクスリー(1849ー1963)は、「愛国心というものの最大の魅力の一つは、自分たち自身は深く���良であると感じながら、相手をいじめたり欺いたりするという、われわれの最悪の欲望をみたすことができるからだ」と言っていますし、バートランド・ラッセル(1872ー1970)も、「愛国心というものは、つまらない理由のために殺したり殺されたりする意志のことだ」と言っています。
 あなたはどうやってハクスリーとラッセルを説得しますか。
スナイダー オスカー・ワイルド(1854ー1900)も「愛国心とは悪党の最後の砦だ」と言っていますし、リストはまだまだ続きます(笑)。
「原則」の問題と「実践」の問題を考えています。
 まず原則について考えてみましょう。自分自身のアイデンティティが自分の外側に向かっていくことによって集団の原則となるわけです。「愛国心」と言った場合、自分の国が正しいとか誤っている、といったようなことを問題にしているのではないですね。私はある原則というものをもっていて、それは国家の原則でもあるべきだ、というふうに考えるのが「愛国者」です。
 アメリカではたとえば「自由」がこの原則に当てはまります。そして愛国者は、個人だけでなく国家もこの原則に従うべきだと考える。この意味での愛国者は、決して満足するということはないですし、「リーダーがやることはなんでもOKで自分はそれに従う」などとも言いません。
 アメリカの原則を「自由」だとするなら、愛国者だったら、国旗に対して敬礼をしなければならないと考えるのか、それとも(たとえば大統領の態度に反対して国旗に敬礼しないという態度をとるような)抵抗を示してもいいと考えるのか。もし原則が「自由」ならば、もちろん抵抗してもいいというふうに考えるはずですよね。抵抗することはむしろ歓迎されるべきことになるはずです。愛国者というのは、国をしてある方向に向かわせようと努力する人々のことだと理解しています。
 これに対して「国粋主義者」のほうには、あなたがおっしゃった事柄がすべて当てはまります。国粋主義者は、リーダーの言うことにすべて従うことはOKで、これは私の国で、私の国は常に正しく、グループの名のもとに抑圧行為をしても許されると考えるのです。
 原則として、万能な人間などいないですし、完全に純粋な人間も存在しません。可能なのは、自分が所属するグループをある共通するスタンダードにもっていこうと努力すること、これが愛国心です。「愛国者であれ」というのは、「国粋主義者にはなるな」という意味でもあります。
「実践」の問題としては、もし人々が自分の国について、つまり実際の政治が行われるところについて、そして愛国心というものについて、語り合うことを躊躇するならば、結果として国に対する良い感情を逆の側(極右側)に利用されることになります。これはまったくの愚策ですね。自分の国に対してなんらかの発言をすることを躊躇していると、極右側にいい口実を与えてしまうことになる。「左側や中道派の連中は自分の国を恥じているんだ」と極右側が主張するのを助けることになってしまいます。
 私自身は、自分の国を恥じてはいないし、自分の国を愛していると、ハッキリ言えます。今よりずっとましな国であるべきだとは思いますが(笑)。
 そしてそのために政治というものがあるのです。政治とは、「自分の国は瑕疵のない素晴らしい国だ」と言いまくることじゃない、それは政治ではなく怠慢です。
 政治とは、「われ��れはこれらの事柄を大事にしているし、この国を愛している。だからこの国にはこれらの良い制作やアイディアを採用してもらいたいし、この国に住むさまざまな人々にとって、そして次の世代にとって、より良い国になっていってもらいたい」というふうに言うことです。これが私がこのレッスンで意図したところです。
●���史を学ぶことが未来を生み、民主主義を支える
──最後に、歴史を学ぶ重要性についてお話いただけますか。
スナイダー われわれには歴史が必要です。なぜならわれわれには「時間」というものが必要だからです。われわれの後ろには、これまで人類が営々と構築してきた大きな遺産があるということを意識する必要があります。われわれはこの瞬間にのみ生きているのではなくて、われわれの存在は海の波のようなものです。海の波がこの瞬間に打ち寄せるのは、それ以前に何千キロメートルにもわたる波の構築があるからですね。この波が打ち寄せるまで、ずーっとその波は続いてきたし、さまざまな周囲の影響があって初めて、この波はこの時この場所で打ち寄せるわけです。
 われわれの現在というものは、この波のようなものです。われわれは、何かが起こると驚くわけですが、もし現在というものがこれまでの長い過去の蓄積の上にあると理解すれば、それほど驚くことにはならないでしょう。過去を知れば知るほど、現状に対して冷静に対処することができるようになります。
 同時に、われわれには未来が必要だから、歴史が必要なのです。
「歴史の終わり」を宣言することの問題点は、そうすることで「未来の終わり」をも意味してしまうからです。実際に1989年(東欧革命:東欧の共産主義政権崩壊が起こり、アメリカの覇権が現実になった年)以降、西欧では「歴史の終わり」ということがさかんに言われた。やはり選択肢というものはないのだと。そういう見方の問題点は、いったん「過去」について考察することをやめてしまうと、つまり過去が現在とどのようにつながっているのかという流れを感じることができなくなると、「未来」についても考えることができなくなってしまうということです。考えられるのは「現在」だけになってしまう。そして想像できる未来像が貧弱になってしまい、想像できる未来とは、単なる現在の続きとしてのそれだけに限られてしまうのです。
 インターネットが良い例です。インターネットの一体どこが未来的なのでしょうか。現在の最も重要なテクノロジーですが、これらがもたらしたことといえば、われわれを以前よりやや野蛮にしたということです。
 そこには何も未来的な要素がありません。インターネットのことを話題にしている人々は、実際にどのような未来像をわれわれに提供しているのでしょうか。
 彼らの描く未来像とは、太平洋に彼らだけのための人工島を作ったり、彼らだけが火星に移住したり、彼らだけが永遠の命を手にすることができたり、かくせんそうになったら彼らだけニュージーランドの核シェルターに入ることができたりするもので、これらを「未来」と呼ぶことはできません。
 歴史を把握しないと、可能な未来像というものが見えなくなります。これはわれわれを圧倒的に品質にしてしまう。社会を貧弱にするのみならず、民主主義を困難にしてしまう。民主主義というのは未来に対する「賭け」であるべきだからです。ある候補者やある党に投票するのは、彼らが将来これらの政策を施行してくれる可能性がありそうだし、それは将来われわれにとっていいことだと思うからです。
 もし現在にのみとらわれて、未来のことを考えないようになったら、権威主義者が勝利してしまいます。未来がないのであれば、権威主義者たちは、過去にあった脅威に焦点を当てたり現在の感情に焦点を当てることになるからで、「過去」と「現在」だけが政治の対象になったら、権威主義がはびこってしまいます。民主主義が残っていくためには、「未来」への展望がなければならない。
 歴史��そが、未来に向かった考察というものを可能にするのです。歴史は、過去にどのような選択肢が可能だったのかを見せてくれますし、時間の流れる方向を示してくれます。未来は明確なものではないですが、少なくともわれわれが影響を及ぼすことのできる「未来」が存在する、ということを実感ささせてくれるのです。
 歴史とは、人々が感じているよりもずっとじゅかな役割を果たしています。
 歴史が重要でなくなることと民主主義の衰退とは強く関連していると思います。原因と結果という関係にあると。
「嘘と孤独とテクノロジー──知の巨人に聞く」
著者 吉成真由美(インタビュー・編)
(株)集英社インターナショナル
2020年4月12日発行(インターナショナル新書)第二章ティモシー・スナイダー「テクノロジーのロシアとファシズムの関係」より
吉成真由美(よしなりまゆみ)
サイエンスライター。マサチューセッツ工科大学卒業、ハーバード大学大学院修士課程修了。元NHKディレクター。著書に『知の逆転』『知の英断』『人間の未来AI、経済、民主主義』(インタビュー・編、すべてNHK出版新書)、『進化とは何か:リチャード・ドーキンス博士の特別講義』(編集・翻訳、早川書房)等。
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memochang · 5 years ago
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わたしたちが我先にとパニック買いに走る深層には、トイレットペーパー騒動でも露わになった不安と消費の切り離せない関係性がある。  わかりやすく言えば、わたしたちに付きまとうさまざまな不安が買い物によって「一時的に解消される」のだ。信頼できる証拠やもっともらしい注釈などはもはやどうでもよく、いわば真っ白に光り輝くトイレットペーパーに象徴される商品だけが、わたしたちの内部から発せられる悪臭のような不安を拭ってくれるのである。現在も少なくない人々が「新型コロナウイルスに効く」「免疫力を上げる」といった真偽不明の情報をうのみにして、昨日までは見向きもしなかった商品に殺到している(そのために特定の商品が品薄状態になっている)。まさに「溺れる者はワラをもつかむ」であり、その奥底には「消費による救済」を夢見る心境がある。  かつて社会学者のジグムント・バウマンは、「不確実性という悪魔」から逃避する手段としての消費に着目した。「悪霊払いとしてのショッピング」である。  バウマンは、「買い物癖、買い物中毒には、不安、不信というかたちで、夜な夜な出没する身の毛のよだつ妖怪の、日中おこなわれる悪霊払い(エクソシズム)の儀式という機能がふくまれているにちがいない」と主張した。(中略)あきらかな不完全性、欠陥にもかかわらず、悪霊払いが重要であり、続けられているのは、その不思議な性質のためだろう。悪霊払いが有効で、好ましいのは、実際に妖怪を退治できるからでなく(実際、退治されたことなどめったにない)、儀式の実行自体に意味があるからである。悪霊払いがおこなわれている��ぎり、妖怪にもまだ敵が残ることになる」と。  どのような些細な出来事にも不吉な兆候が見いだせる「不確実性という悪魔」に覆われた現代において、「未知のウイルスのパンデミック」という巨大な不確実性による長期的な抑圧は、わたしたちにさらなる「消費による悪霊払い」を行わせる絶好の素地を提供しているのだ。「儀式の実行自体に意味がある」ことに本質があるのだから、究極的にはどのような商品の購入も「不確実性を遠ざける」効果が期待できるといえる。  だが、そのような「悪霊払い」も商品の供給が途切れないことに決定的に依存している。恐るべきことに、度が過ぎた「悪霊払い」(パニック買い)によって日々の「悪霊払い」(ショッピング)までが支障を来たす始末になっているのである。
「買い占め」に走る人々を突き動かす強烈な不安(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース
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ellenilly · 7 years ago
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03/08/2017
レス・バック(2014)『耳を傾ける技術』せりか書房
・自分の関心を信じること  「世界が「何か変だ」という感覚、あるいはレイチェル・ダングリー・ジョーンズが最近述べたような「皆が完全に確信していることをよくわからないと思う感覚」は、社会学的調査についてある種の保証をしてくれます。なぜなら最も興味深い最良の研究課題は、こうした不安定でいらいらした好奇心の中に、はっきりと現れてくるからです。」
・思考を記帳しておくこと  「アイデアというのは出てきて欲しいからといって出てくるわけではありません(中略)買い物や、街に出かけていたり、あるいはまったく関係のない会話をしていていて目の前の人に付き合わなければならなかったり、そんなとき、アイデアが思いつくのです。わたしがアドバイスしたいのは、こういう予期せぬ訪問者のための準備をしておくこと(中略)いつもノートを持ち歩いて、こうしたアイデアを記録しておくこと。あなたは自分の思考が時間とともにどのように進化していくかを記録するシステムを考案する必要があります。」
 修士過程に進むなら社会学にしようと思っていた。歴史と文学が好きだったわたしの散り散りになるかもしれなかった興味関心を適切な処置で繋ぎ止めたのが社会学だった。歴史は今ある社会の成り立ちを示し、文学はその様子を鮮明に投影する。そのどちらも切り捨てる必要がなさそうだという判断できたとき、どれほど身体が軽くなったか、わたしはあの開放感を表現する術を持たない。とにかくわたしの学ぶべき、というよりわたしを捉えて離さない疑問たちと対峙するにあたって必要な武器(出来ればスナイパーがいい) を提供するのは社会学で間違いなさそうだ。彼らは勝利を保証しないが、その精度は信じるに足る。ただいくら性能のよい武器だって、それを取り扱うものに技術がなければ、宝の持ち腐れだ。試練。食い縛れ。思考を鍛えよ。
 「私たちは同じような問題に取り組んできた思想家や著者たちと仲間なのです。ジグムント・バウマンはこの大きなプロジェクトについてこうまとめています。「社会学をすること、社会学を書くこと。これは今とは異なるあり方で生きる可能性、つまり人々の苦難をできるだけ少なくしながら共に生きる可能性を見つけ出すためのものである。この可能性は日々保留され、見過ごされ、信じられなくなっている。この可能性を見ないこと、求めないこと、それゆえに抑圧してしまうことは、それ自体が人間の苦悩であるし、またそれを長引かせている一番の要因である」。自分の持っている最大限の力で頑張ってください。���してあなたの研究を、今とは別の生き方の可能性を探求するより大きな社会学的対話の中に位置付けてください。」
メモ:ヘミングウェイ『移動祝祭日』 / スティーブン・キング『書くことについて』 / ラッセル・ジャコビー『最後の知識人』 / ハワード・ベッカー『社会科学者のためのライティング』 / ジョージ・オーウェル『政治と英語」 
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lovecrazysaladcollection · 8 years ago
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“つまりは、気まぐれに結婚し、適当に仕事をし、飽きたらクールに離婚し、とくに相手を占有しなくったって好きにセックスができ、いつだって自分の所属する社会からの撤退や逃走ができるというその感覚を、うっかり「クール」と名付けてしまったのだった。  これがいつしか日本の「かわいい」現象と結びつき、ときに“ジャパン・クール”とか“クール・ジャパン”などともてはやされて、それにぬけぬけと乗っている連中がアーティストや評論家たちにもぶちぶち多くなっていることは、ぼくが指摘するまでもないだろう。” - 『コミュニティ』ジグムント・バウマン 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇 (via do-nothing) (via proto-jp) (via theemitter) (via tessar) (via ssbt) (via oosawatechnica) (via ki4nb) (via srgn) 2010-05-27 (via gkojay) (via raikoudengeki) (via senninmemos) (via ishida) (via oosawatechnica) (via konishiroku)
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kafka1989 · 8 years ago
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バウマンは一貫してポストモダニズムの批判者であった。彼が注目したのは、現代社会における再生産のメカニズムが消費と誘惑とに基づいているということだった。  ジグムント・バウマンの仕事は過程として私たちは扱ってきた。ひとつひとつ彼の本を手に取ると、その都度どのように近代を解釈するのか、そして新しいテーゼがどのように過去の著作と関係するのかと戸惑うのである。今日、大きな悲しみとともに受け止めなければならないのは、ジグムント・バウマンの人生と歩みはその全てを終えたということだ。  バウマンの仕事は常に勢いに特徴づけられていた。60年代の知の形成条件について書く時でも、90年代の消費について書く時でも、広範な社会思想の諸問題について彼の考察は及んでいたーー解放と疎外、自律と支配、アイデンティティと他者性といった問題だ。彼の書物の重要性を決定づけているのは、実際的なものへの感受性が、自由・近代・そして現実を超えて得られる力への希望をつくりあげる能力としっかりと一体化している点だ。これに彼が文章を書くときに用いた明快で優美な言語を付け加えれば、彼が高名な学者であるだけでなく大衆に好まれる書き手である答えがわかる。彼は人々に個人の問題がどのように集合的運命と結びついているかを説明しているのだ。  わたしの見立てでは、現代の人文学に対するバウマンの仕事の比類なさは以下の三点によって決定づけられる。社会的プロジェクト(近代化?)の予期しなかった結果に関する考察、その結果がもたらした排除のシステムとしてのポストモダニズムの分析、そして「非逃避的(”nieunikowej")」な倫理を創設しようという試み、この三つだ。  その他にも、『近代とホロコースト』や『立法者と翻訳家(Prawodawców i tłumaczy)』などの著者としてバウマンは、どうすれば理想的な社会的秩序を築くための希望が暴力と支配のシステムーー秩序を脅かし、つまり世界はまだ完璧ではないということを気づかせて人々を排除するシステムーーへと変貌しうるのかを見つめた。非常に正確で驚くほど共時的に聞こえる分析は、最終的な現実の様相を探求するゆえにしばしば大きな無秩序、相反する感情と不安をかきたてた。こうしたものは、われわれを悪意に満ちた出来事の渦に閉じ込めるフラストレーションと敵対心を生む。  『立法者と翻訳家』の作者はポストモダニストのしみを持ち、また彼のテクストからは、しばしば個人主義的選択によって実現されたユートピアこそが近代性であるという確信をもたらし、アンソニー・ギデンズの著作とも似ているにもかかわらず、バウマンは非常に一貫したポストモダニズムの批判者であるということを覚えておくべきだ。彼が注視したのは、現代社会における再生産のメカニズムの基礎が消費と誘惑であり、イデオロギーと規制でもないのに、同時にこのシステムが排除と支配を内にもつことだった。ホームレス、貧者、消費の敗者、難民、不法移民がおり、彼らはグローバルキャピタリズムによってコミュニティの座席から振り落とされた、いわば皆「そぞろ歩く群衆」だ。この看過された主体に、バウマンは議論の場を与え、��人が富むことの負の側面や他者によって払われた対価について忘れてしまいそうな個人の良心をもがきとろうとした。  ジグムント・バウマンは伝統的倫理規範の限界について自覚していたし、人間の生における大きな問題については用心深い姿勢を保った。しかし同時に、彼はニヒリストになったこともなければ、神の摂理を守る信奉者になったこともない。不正に対抗することを可能にする倫理を追い求め、しかしそれと同時に過去の遺産にしがみつこうともしなかった。その規律は、一方では、私たちへの倫理的挑戦に対して真摯に行動する責任を原則とするレヴィナスを思わせ、他方ではアダム・オストルスキ(Adam Ostolski)がかつて言ったように、視点を覆す命を実行した。  グレゴリー・ベイトソンは、精神の働きを説明するなかで、滑らかな板の上に指を滑らしているときに、チョークで表面を強く押したときにできるような深い穴に出くわしたときの差異を呼び起こす。ベイトソンによれば、「テーブルをこすっているときにどれくらい差異に出くわすのか。ある意味、それは偶然の出来事で、永遠に消失してしまうとき、それは私が死ぬときに『私』が無くなるとおいうことだ。また別の点から言えば、その差異は思想ーー私のカルマの一部ーーとしてこの本が読まれるその限りにおいて、あるいは他者の思想のなかで新たにつくられる発展に貢献する限りにおいて、残り続けるだろう。」バウマンの著作は現実への感受性を担保し、私たちにとっての不安と光明の源泉として尽きることはないだろう。
Maciej Gdula, BAUMAN POZOSTANIE BLISKO (バウマンはともにあり続ける)
 http://krytykapolityczna.pl/felietony/maciej-gdula/gdula-bauman-wspomnienie/
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web-horizon · 4 years ago
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イギリス「ガーディアン」紙のコラムニスト、スチュアート・ジェフリーは、「その役目を果たした」古いものを置き換えてしまう新しいタイプの関係を調査した結果、「かかわり合いをもちつづけることへの恐れ」が観察される傾向にあることを指摘し、「かかわり合いを軽くすることで、リスクにさらされることを最小限にする技術」がより一般的になっていることを発見している。 これが、モノにとどまらず、人間関係にも及んでいるのが「今」の流動化社会だと、ポーランド出身の社会学者のジグムント・バウマンは言う。
https://note.com/hirobou0731/n/n102e11d757b4?fbclid=IwAR0B3zHpP2JjlTvk4jsMi_vREEmEWwmBo2eFCjwNZYtGmsEnf9pzyvB4jrg
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tak4hir0 · 5 years ago
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今回は、2017年に発売され、国内外で高い評価を得た日本のRPGである『ドラゴンクエストXI』を扱う。「えっ、ドラクエはSFじゃないじゃん」と思われる方が圧倒的多数だと思われるが、この連載ではファンタジーもSFの仲間として(科学技術が日常にあふれ出してきた時代において、科学技術を作中に取り入れたフィクションであるSFと、拒絶し「自然」を虚構的に取り戻そうとしたファンタジーとは、表裏一体の関係にあるものとして)論じてきたので、その観点から本作も論じさせてほしい。 あえて「SF」と呼ぶとすれば、本作は「時間SF」だろうと思う。科学的な理屈付けや装置そのものは登場しないが、時間を行き来する内容は、『イースⅧ』や『時をかける少女』などがそうであるように、SFが紡いできた物語群の影響下にあるものと思われる。「過ぎ去りし時を求めて」という、プルーストの文学作品『失われた時を求めて』へのオマージュをサブタイトル示す本作のテーマは「時間」である。 堀井雄二自身も、インタビューでそのことは明言している。「30周年だったからです。30年というのは、とてつもなく長い時間です。そこで集大成的に色々なものを詰め込んで、30年の歴史を感じるような、時間をテーマにしたストーリー作品を作ってみたいなあ、と思ったんですね」(電ファミニコゲーマー「【堀井雄二インタビュー】「勇者とは、諦めない人」――ドラクエが挑んだ日本人への“RPG普及大作戦”。生みの親が語る歴代シリーズ制作秘話、そして新作成功のヒミツ」) また「僕は、けっこうミーハーなので、その時代の事件とか世相には、すごく敏感なんです。いろいろアンテナを張っているというか。そういう意味で、時代の影響を受けているともいえますね」(同)とも言っている。これらを根拠に、本作は、ドラクエのシリーズの流れに連なりながら、「時間」をテーマにし、堀井雄二のアンテナを経由した「時代」を表現しているという、特異な作品だと見做すことができる。その「時間」の扱われ方は、SF史的に見ても、なかなか興味深いものがある。 ドラゴンクエスト神話を再創造する新作 VIDEO 『ドラゴンクエストXI』(以下『ドラクエ11』)は、古き良きJRPGを現代風にアップデートしたもの、と理解されていることが多い。基本的なシステム(教会に行かないとセ��ブできない、ターン制のバトル)や、効果音などは、確かにファミコン時代からのドラクエのフィールに近い。しかし一方で、画面や演出、レベルデザインなどは現代的に非常に洗練されている。そのような二重化が折り畳まれた一作である、ということをまず確認するべきだろう。 発売形態も特異で、3DS版ではファミコン時代のような2Dと3D、PS4版では現代的なトゥーン調の3D、という三つに分裂している。堀井雄二はこのようにも言っている。「DQの30年の歴史をグラフィックで体験できる」(「BIG3座談会 導かれし勇者たちの冒険記」)のだと。ゲームのインターフェイスそのもので主題を語ろうとしている意識の存在が伺い知れる。  最近、作られるコンテンツが、続編やリブートばかりであるとは多くの人が感じていることだと思う。『ドラクエ11』も、その時代の流れで作られている。なぜ続編やリブートだらけになるかというと、かつて青春期にそれにハマった人たちが大人になってお金を持ったから彼らをターゲットにせざるを得なくなった、という商業的な状況に原因が帰されることもあるし、社会学者ジグムント・バウマンのように、それを時代の特徴と論じる向きもある(『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』)。 『ドラクエ11』は、この時代の感覚を織り込んだ作品 レトロトピアとは、「過去」を「ユートピア」とするイメージのことである。かつてあったと人々に想像される理想的な世界で、今よりも安定していて、感情的な絆が強かった時代であるとイメージされる世界である。本当実在していたかどうかは怪しいと考えられている。現在が不安定で忙しく流動的であるがゆえに、未来への不安や恐怖が生じ、過去がレトロトピアとして心理的に魅惑的に感じられるようになっているとバウマンは分析している。同族、家族、民族などのコミュニティに回帰したいというその願望は、現実に政治的な力を持っている。 令和時代に、東京オリンピックや大阪万博という昭和の「伝説」を再現しようとしていることもまた、このレトロトピア的現象に見える。令和という名前自体が、昭和の反復を祈願するかのような名称である、とは、多くの人が指摘していることである(『ドラゴンクエストⅤ』を映画化する山崎貴は、東京オリンピック・パラリンピックの開会・閉会式のエグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクターを担当している)。 それが良いか悪いか、好きか嫌いかは脇に置いておくが、現在はそのような時代であり、『ドラクエ11』は、この時代の感覚を織り込んだ作品であろう、ということは言ってもいいだろう。日本のRPGは、伝統的に、同時代の大きな課題を引き受け、多少強引にでもファンタジー的な展開であろうとも心情的に解決し昇華させることを行おうとする傾向があったが、本作もまたそれを強く���おうとする作品である。 あらすじはこうだ(ネタバレを容赦なくするので、用心してほしい)。ある城に赤ん坊が生まれるが、魔物に襲われ、落ち延びる。ある村で彼は育ち、「勇者」としてお城に向かうように言われるが、彼は城で「悪魔の子」と言われ、故郷の村は焼き払われる。彼が勇者なのか悪魔なのか、ということが、物語前半のサスペンスの中心になる。 世界を旅して仲間を集めて、最終的に分かるのは、王様に魔王(のようなやつ)がとり付いていて、王こそが魔物であったということだ。魔王は世界を壊滅状態にしてしまう。大敗を喫した主人公たちは、再び仲間を集めて、既に巡ったフィールドを「二週目」のように巡ることになる。そこでは一度目とは違った見え方がしてくる(復興のためにプライドパレードとお神輿の合成したようなお祭りで人々を元気づける場面がある。これは被災地でぼくが見たものによく似ている。個人的には、『ドラクエ11』の中で一番好きなイベントだ。本作が現代の日本や世界に対してどのような存在意義を自覚しているのかについての自己言及的なシーンだと思う)。 最終的に、ラスボスを倒す。ここまではいい。「仲間」と「復興」をテーマにした割と良く出来たRPG、というところだが、サブタイトルである「過ぎ去りし時を求めて」が登場するのは、ラスボス後である。ここからが長く、複雑なのだけれど、ついてきてほしい。 初めて魔王に挑んだ時に主人公は負けた。そこで、仲間が死んだ。普通に死んだ場合は教会にお金を払えば復活する世界観なのだけれど、そういう復活はできない形で仲間が失われる。実に悲劇的な展開である。その仲間を救うために、魔王との対決一度目の前に時間を戻ることになる(『君の名は。』や『イースⅧ』に非常に近い)。主人公以外のレベルは決戦以前に戻ってしまうが、仲間は生きており、世界の崩壊も防ぐことに成功する。 シリーズの「起源」を後から創造する そこで分かるのは、魔王が、かつての伝説の勇者である(ややこしい)ローシュの仲間のウラノスだったということだ。ウラノスは勇者ローシュを殺害。その後、ローシュの恋人であるセニカが時空を超えて勇者の命を救おうとして失敗。かつての勇者たちは邪心ニズゼルファと戦っていた。それが、主人公たちが時間を遡ったせいで蘇ってしまい、真のボスとして、現在の勇者たちの前に現れる。 で、苦労して、無事倒すと、色々なことが分かる。どうも、本作の世界ロトゼタシアは、ドラクエ1~3の「ロトシリーズ」の過去なのではないかと(ドラクエ1の勇者のカットシーンが入る)。発売順で言えば後から作られた11が、作中時間では過去である、というひっくり返しがある。つまり、ドラクエ3が、ドラクエ1の前日譚であると明らかになるあの大オチに相当するものをドラクエシリーズ全体に行うメタ的なポジションに、『ドラクエ11』はあるのだ。 またややこしくなるのだけれど、真のラスボスを倒したあと、お節介にも主人公の勇者は、また時間をいじくって、かつての勇者であるローシュとセニカを助けてしまう。その結果、二人は結婚し、子供が生まれる。そのエンディングの末尾で『ドラクエ3』の冒頭のセリフ「わたしのかわいいぼうや 今日はお前がはじめてお城に行く日だったでしょう?」が出てくる。子供の髪型は、『ドラクエ3』のパッケー��に描かれた主人公であるロトと同じである。つまり、『ドラクエ3』に接続しているのだ。 いわばシリーズの「起源」を後から創造する、先人を後から来た若い者が生かしなおす、という話になっている。災害をなかったことにしたいという欲望の産物である『君の名は。』などと比べると、そのように起源の神話や歴史を再創造することの善悪にまで踏み込んでいると思しいところが本作の面白いところである。 歴史を書き換えることの善悪・功罪  近年、「歴史修正」ということが問題になる。あったことをなかったことにしたり、なかったことをあったことにしたり、「歴史」を書き換えることで認識を変えることができるのだ。「歴史」の書き換え合戦、プロパガンダ戦争が起きていると言っても良い。それは結果として、「私たちは何者で、どこから来て、どこに行くのか」というアイデンティティの感覚をも揺らがして変えていく。 そこには、歴史的惨劇をなかったことにしたり、誰かを極端に悪い者に描いて冤罪を招くなどの弊害が確かにある。だから、「事実」を重視せよ、というのが「正しい」優等生的な解答なのだけれど、そういう観点から本作を批判するような平板な立場を採るつもりはない。 「歴史」と「認識」が揺らぐ感覚の中に生きている実存の感覚 たとえば、ナチスの子孫の人たちやネオナチの人々が、こういうことを言う。ユダヤ人虐殺はなかった、でっちあげだ、ナチスが悪者にされているのは、第二次世界大戦で勝利した国々のプロパガンダだ、だから私たちは「正しい」歴史に戻すことで尊厳を回復する……。 日本でも、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」の問題などでこれに近いことが主張されることがある。戦前・戦中の日本が悪く言われているのは、第二次世界大戦以後のGHQによる洗脳であり、プロパガンダである……。実際にはそんなことは起きておらず、中国と韓国のプロパガンダ戦である……。 ぼくはこの主張の真贋を問うたり、批判したり、裁いたりするつもりはない(しないと責められる可能性があるのは承知しているが)。客観的な歴史の真実を知っているなどと自惚れるつもりもない(実際にプロパガンダ戦や諜報戦、歴史戦は存在しているし、その複雑さはぼくの頭では到底処理できない)。ここ数年、このような主張を見かける機会がとても増えたと感じ、「歴史」と「認識」が揺らぐ感覚の中に生きている実存の感覚が、自分に確かにある、と言いたいだけであり、『ドラクエ11』が、確かにその感覚と共鳴し合うと感じることを言いたいのだ。 VIDEO 歴史を作り替えれば、当然、様々な善悪がひっくり返って見えてくる 「勇者」と「悪魔」が何度も逆転する本作のストーリーラインは、どちらが正しく、どちらが悪なのかの「認識」が何度も反転させられるこの時代の気分をうまくトレースしているように感じる。 勇者だったはずが「悪魔の子」と呼ばれるのが物語の開始時点だとしたら、終わりにもそれがある。邪神が閉じ込められていたのは「勇者の星」と呼ばれる場所であり、中に邪神がいるのだ。主人公を狩ろうとした王も、善なのか悪なのか、コロコロと見かけが変わる。魔王ウルノーガさえ、勇者の仲間の賢者であったり、主人公を導く予言者であったり、善なる顔に何度も反転する。他重人格者のようだ。 歴史を作り替えれば、当然、様々な善悪がひっくり返って見えてくるだろう。『ドラクエ11』はそのひっくり返りに翻弄される感覚���ドラマ化した作品であると言える。その「反転」の問題は、作中では解決されない。3DS版限定だが(筆者はPS4版をプレイしたので未プレイで語らせていただくが)、「冒険の書の世界」というものがある。11の書物があるが、それぞれ、過去のドラクエシリーズのサブタイトルが付けられている。その書物が「汚された」ので修復する作業を主人公はすることになる。 そして次々とクリアしていくと、「過ぎ去りし時の最果て」で、「時の破壊者」という大ボスと戦うことになる。戦うと、実は「時の守り神」だったことが明らかになる。過去のシリーズの「歴史」を書き直していく存在が、「破壊者」であると同時に「守り神」であるという二重の顔を持ったものと描かれる。これらの点に、「歴史を書き換えること」「起源の神話を創造すること」の破壊性と保守性に引き裂かれた作り手たちの自覚が少し見え隠れしていないだろうか。 VIDEO アウシュビッツや南京の例を出したので、「歴史修正」はとても悪いことだという印象になってしまっているかもしれない。しかし、地域アートの現場や地域プロモーションの現場を取材したり見学していて思うのは、観光地としてイメージづくりをしたり、競合相手に勝つために「キャラ立ち」するようにするブランディングもまた、過去の良いイメージをかいつまんで物語を創造し、ネガティヴなものはなるべく表に出さないようにするという意味では、「歴史修正」と似た行為を行っているのだ。それは、地域の産業を回したり、イメージを良くして観光客や移住者を集めたり、住民がアイデンティティやプライドを持って活き活きとしてくる、というプラスも確実に持っているし、それは生活のために切に必要なものであるし、世界を良くしている側面もあるだろう。しかし、やっている内容は、論理的には「歴史修正主義」と多分それほど変わらないのだ。とすると、あらゆるプロモーションやブランディングが倫理的に「歴史修正主義」と同じ問題を抱えていることになるのだろうか(そうではなく、どこかでちゃんと線引きは可能なのだろうか)。 ぼくが『ドラクエ11』と自分自身に共鳴する部分を感じるのは、この二重性に自分自身が引き裂かれる思いに苛まれ続けているからである。この引き裂かれは、時代の中で、多くの人に共有されているものだとぼくは思う。先に引用したインタビューで堀井雄二が「僕は、けっこうミーハーなので、その時代の事件とか世相には、すごく敏感なんです。いろいろアンテナを張っているというか。そういう意味で、時代の影響を受けているともいえますね」と語っていることは、その通りだなとぼくは感じた。その上で、教育的な善意に溢れたドラクエの物語は、ぼくたちに何を語ろうとしてくるだろうか。 家族的な想像力と死生観 本作の「時間」「歴史」に対するアプローチには、もうひとつ、重要な要素がある。「子供」「出産」である。最近子供が生まれたばかりで、「この世で最強のコンテンツは赤ん坊ではないか」とすら感じている人間として、どうもこの辺りが心に響いてしまった。 赤ん坊が関係するエピソードを列記していく。冒頭、生まれた赤ん坊が城から逃れていく。ナギムナー村では、人魚と恋し���男が、親無し子を拾ってしまったがために育てる決意をし、人魚の元に戻らないという悲劇が描かれる。ユグノア城跡では、殺されて幽霊となった主人公の父と出会う。そこで、主人公が産まれたときに、光のようなものが差して闇を払ったかのような描写がなされる。仲間の一人マルティナの父は、ラスボスであるウルノーガがとり付いている王である。ローシュとセニカからは『ドラクエ3』の主人公が生まれる。『11』の主人公も、村を復興させ、ダンジョンをいくつかクリアすれば、幼馴染のエマと結婚することができる。結婚したあとの家での会話では「あなたは一家の大黒柱なんだからできるだけ早く帰ってきてね。もうすぐ新しい家族もふえることだし……」というものがある。子供が生まれるのかと思いきや、犬が妊娠しているという「スカし」だとあとで判明するのだが、やたらと「結婚」「出産」系のエピソードが多いのだ(「冒険の書の世界」では、仲間たちに疑似プロポーズすることもできる。同性でも肉親でも可能)。 結婚、出産というモチーフは、家族的な感覚の中で歴史や時間の理解を促すものである これらの「生命の流れ」を象徴するファンタジー的な大仕掛けが、「命の大樹」である。どうやら世界の生命の流れの根源にあるもののようで、輪廻を司っているものとされている。輪廻というのは、仏教の考え方で、死んで、また別の生命体になり生まれ変わり、死んで、生きて、をぐるぐると繰り返すという考え方のことである。魔王や邪神はこれを破壊しようとしており、主人公たちはそれを守っている。安直に言えば、ゲームというのは、プレイして、死んで、生き返ってという経験を疑似的に行いうるということがメディアの特徴としてある。それが仏教的な輪廻と重なった表現になっている、と言えるかもしれない。 結婚、出産というモチーフは、家族的な感覚の中で歴史や時間の理解を促すものである。それに加えて「命の大樹」という設定があることにより、直接の血縁以外の人間やモンスターなども含めて、全て家族的なものと見做す想像力が促される。これが『ドラクエ11』の思想であり、死生観である。 この想像力に説得力を持たせていているのは、鳥山明のかわいらしいデザインであり、ぷよぷよと動くモンスターたちである。スライムやベビーサタンたちを代表として、ドラクエのモンスターは造形として赤ちゃん的なかわいらしさを持っているし、特に本作での動きはよりそれを引き立てている(デジタルな、コンピュータの芸術であるゲームを、まるで生き生きとした生命であり人間味に溢れたものに感じさせる魔法こそが、ドラクエの、他のRPGと比較した場合の特異な魅力である)。 内部のシステムだけではなく、ゲームが置かれている商業的条件もこの「家族」という想像力に影響していると思しい。人気IPとして、ナンバリング以外にも様々な作品を生み出し、これからも精神的な子供たちに引き継がれ、新たに生まれていくであろう商品としての「ドラクエ」が生きている商業的な環境が、本作の出産・家族的な想像力に影響しているだろうし、逆に、本作がこのような物語を描くことで、今後のドラクエに関わる人たちが自身をそう理解するようになっていくだろう(自分は子孫である、新しいドラクエは子孫である、と。このようなアイデンティティの感覚を提供する「物語」が『ドラクエ11』であると言える。それは別に悪いものではない)。 「歴史の改変」「起源の創造」という主題の系列と、この「家族」的な生命の流れとは、どのような関係になっているのだろうか。先祖を救いたい、家族や子孫のために復興をしたい、豊かにしたい、そういう思いこそが「歴史の改変」に人を促し、正当化させるのだ、という話なのかもしれない。このような「歴史修正」を、心の底からぼくらが批判しうるのかどうか、ぼくは悩ましいと思っている。よっぽど強い原理がなければ、心情的に難しいだろう。そして、『ドラクエ11』は、ファンタジー作品として、非常に強く心情に訴えかける説得力を持っているのだ(特に、子供が生まれて、ホルモンやらオキシトシンやらがたくさん分泌されているぼくの脳には、割と効いてしまっている)。 ゲームであることと、時間を操作するということ 連載当初から、(日本)SFは、戦後日本において、「神の国」ではなくなり、科学技術立国と化し、精神的に根を失い彷徨する感覚を多くの人が覚えたがゆえに、「宗教の代理物」「神話の代理物」を提供する機能を果たしてきたという歴史観を提示してきた。サブカルチャーもその延長線上にある、とぼくは考えている。『ドラクエ11』も、明らかにその流れに位置付けることが可能な作品であると考えられる。 では、その系譜に位置付けるとして、本作における「ゲームならでは」の部分はどこか。本作と同じ堀井雄二と鳥山明が関わっている『クロノ・トリガー』の回で書いたが、ゲームとは、作品の内部で自律的な時間が実際に(コンピュータが演算して)流れるものであり、かつ、プレイヤーが時間の操作を恣意的に行いうる、ということが、他の芸術と形式的に異なる部分である。特にターン制のバトルのときに、入力するまで時間が止まって待っていてくれることを思い出せばいい。 エグゼクティブプロデューサーの三宅有は、そのことを意識しているようである 「ターン制の一番大きな違いは、自分で時間をコントロールすることができるんですよ。自分で止められるんです。でもアクションゲームはゲームの作り手の時間がずっと流れるんです」と三宅氏は堀井氏の説明に付け加えるように話した。」(クラベ・エスラ「徹底分析!「ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて」は海外でどこまでヒットできるか!?」) 「時間」をプレイヤーが自分で動かせる、ということが、ターン制のゲームの特徴であり売りである、と言っているかのようである。「時間」がプレイヤーによって操作可能なものだとするプレイ体験の積み重ねは、「歴史」もまたプレイヤーによってコントロールできるという感覚に導くかもしれない。それが、良いのか悪いのかは分からないが、個人的にはメディアの変化(ゲームやネット、スマホなどのインタラクティヴなメディアが支配的になること)が不可避的に起こす感覚の変化だと思っている。それを批判したり断罪するのは簡単なのだけれど、それをこの論でやろうとは思わない。 ともあれ、本作は非常に魅力的な作品であり、時代にアンテナを張ることで、時代の課題や問題をも引き受け、その矛盾や葛藤をも含みこんだ作品なのである。そしてそれがおそらく、ゲームを代表とするインタラクティヴなメディアによって促された感覚の変化(書物に権威がある時代であれば、もっとソリッドな権威性を備えていたであろう「歴史」そのものを、自分が能動的に書き換えられるリキッドなものと感覚するような変化)に応答し対応しようとしている、という点で、ゲームにしかできず、ゲームとしての責任を担おうとした一作であると言うことができる。 政治や経済は合理的に問題を解決するが、芸術や文学はそれをやる力がない代わりに、その矛盾や葛藤それ自体に留まり、その心情を重視し、美的に昇華を試みる、というところに存在意義があるとぼくは思う(��ちろん、一方で、美は、矛盾や葛藤を覆い隠し誤魔化すためにも使われる、諸刃の剣である)。その意味では、本作は同時代の(広義の)芸術が果たすべき課題を担った作品であるように感じられるが、いかがか。日本のRPGが伝統的にそのような「機能」を担ってきたことの不思議は、また改めて考察されなければいけないだろうが。
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book-chio-blog · 7 years ago
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coco-coco78 · 8 years ago
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独り言。『コミュニティ 安全と自由の戦場』ジグムント・バウマン
完全に独り言です。 でも知ることはやっぱり大切だと思った。 物事は常に表裏一体で、片方だけでは本当の意味での実感はないね。 多文化主義について。 オープンで、それぞれの違いにも寛容的で、現代的 確かに、聞こえは良い。 だけど不平等を押し付けてしまう危険を孕んでいることを忘れてはならない エスニック・マイノリティについて。 真にその文化や伝統を愛していて、自ら進んで選択し満足している場合には強制の産物とは言えないんじゃないかな… 幸福のあり方も人それぞれで選択できるから、成功者が必ずしも幸せとは限らないし。 安全と自由がそれぞれ引き換えになるのはわかるけど、安全が幸福の絶対条件ではない限り成功者の全員が幸せだとは言えないよね。 表面的なコミュニティでは安全は保証されなくても参加も離脱も簡単な分、それはそれでwin-winな気がする。 本当の意味でのコミュニティは安全が保証される分、それだけの責任や義務もあるし。 安全を中心に考えれば、本当のコミュニティの必要性は高い。 世界の流れを見てるとコミュニティの崩壊、撤退の時代に実際に入ってきているなと思う。 イギリスのEU離脱、トランプ大統領のアメリカファースト、納得出来ることが実際に起きている。 グローバリズム、多文化主義の本質である保守的な力。 あー!固くなってしまった!笑 失礼いたしました🙇‍♀️! coco
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aikider · 8 years ago
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安心の増進は常に自由の犠牲を求めるし、自由は安心を犠牲にすることによってしか拡張されない。しかし自由のない安心は奴隷制に等しい。一方で、安心のない自由は見捨てられて途方にくれることに等しい。 (ジグムント・バウマン『コミュニティ 安全と自由の戦場』)   「自由のない安心は奴隷制に等しい」という表現は、くしくも、「社畜」の端的な説明として読むことができます。
「男として順調な人生」ゆえの息苦しさもある | 男性学・田中俊之のお悩み相談室 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
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rakuhoku-kyoto · 8 years ago
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『自分とは違った人たちとどう向き合うか  ―― 難民問題から考える』
ジグムント・バウマン 伊藤 茂 訳
Strangers at Our Door, by Zygmunt Bauman
四六判 並製 134頁
2017年2月刊行
発行 青土社
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 分断に対抗するために―― イギリスのEU離脱から、ISによるテロ、そしてトランプというアメリカの選択……すべてが、移民や難民に代表される民族や文化や宗教の異なる人びとを排除する世界の風潮のなかで起こっている。これまでの社会や常識が壊れ、大きく変化しつつある世界をどう考えるか。
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ジグムント・バウマン Zygmunt Bauman(1925~2017) ポーランド生まれ。イギリスのリーズ大学名誉教授。邦訳書に、『リキッド・モダニティ―液状化する社会』、『近代とホロコースト』(いずれも大月書店)、『コラテラル・ダメージ―グローバル時代の巻き添え被害』、『リキッド化する世界の文化論』、『社会学の使い方』(いずれも青土社)、『コミュニティ―自由と安全の戦場』(筑摩書房)他多数。
伊藤 茂(いとう・しげる) 翻訳家。訳書に、Z・バウマン『新しい貧困―労働・消費主義・ニュープア』、Z・バウマン+D・ライアン『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について』(いずれも青土社)、A・グプティル他『食の社会学―パラドクスから考える』(NTT出版)、R・コーエン+P・ケネディ『グローバル・ソシオロジーI・Ⅱ』(共訳、平凡社)他。
● 詳しい紹介は 青土社 をご覧くださいませ。
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m0u0m7-2-blog · 8 years ago
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社会学
『グローバリゼーション 人間への影響』ジグムント・バウマン著、2010年(オリジナルは1998年)、法政大学出版局
文体が頭に入りにくくてなんか適当によんでしまった。
ポストモダニストということで、構成主義と対立するのかなと思って読んだのだが、ところどころで構成主義と共通するようなところが見られた。なぜなら彼はポストモダニストというよりはポストモダン時代のことについて論じているだけだからかな。そもそも、構成なしで何かを論じるのは不可能か。自分の認識の甘さもあるのだろうけど。
内容はグローバル化の中で可動性を持つ者はその移動のスピー��を上げて行くのに対して、それを持たない者はローカルに縛り付けられていくというもの。前者は一般的にエリートであり、社会の方向性を決める力を持っている。その中で、後者にあたる国家は権力を失い、前者である超国家的な存在、例えばMNCによる経済活動の歯止めにならないようなことしかできなくなっている。国家の弱体化には、多様化が一つ一つの権力の規模を小さくしていることも関係している。
国家のグローバル化を遮らない権力行使の一つの例として警察の仕事が挙げられていた。国家がその犯罪の対象とするのは、ローカルに生きる者のうちで何かを奪った者であり、例えばある小国の全ての国民から豊かさを奪うようなグローバルに生きる者の活動に対する取り締まりはなされない。
このような二極化の原因となっているのはその新しい階層の間でのコミュニケーションの不足であると論じている。そしてそれは手段の進歩によるものである。
《メモニキ》
社会的柔軟性は忘却と安価なコミュニケーションの依存。
サイバー空間では時間的、空間的な距離の概念がなくなっており、距離によって分かたれる地域の意味がなくなった。→でもぼくは距離はまだ問題だと思うし、地域の大切さは感じる。
メディアの世界は一見シノプティコンだが、パノプティコンのような、グローバルエリートのみが発信するような状況は変わっていない。→今は違うかもね。
多国籍企業の活動において、資本の所在地がないことから、グローバルな秩序の構築に圧力をかけることになる。
労働市場の柔軟性を求める投資家の要望に応えると、労働供給側がつらくなる。
111ページ “私たちの社会は消費社会である。…ポストモダンの段階において、近代社会は大量の工業労働者や徴兵による軍隊をほとんど必要としない。その代わりに、構成員には彼らの能力において消費者として従事してもらうことが必要である。今日の社会における構成員に貸す規範は、消費者の役割を果たす能力と威力である。” →感覚的に的確に社会を捉えている部分であると思ったが根拠づけがイマイチな気がする。もっとわかりやすく書いてほしいね。笑 掘り下げたみがある。
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rakuhoku-kyoto · 6 years ago
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『退行の時代を生きる――人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』  ジグムント・バウマン  伊藤 茂 訳
2018年10月25日
四六判、並製、224頁
発行 青土社
ISBN978-4-7917-7113-4
先日(10月22日、2018年)に投稿した記事への追加の書影画像 https://rakuhoku-kyoto.tumblr.com/post/179300442387/
 
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rakuhoku-kyoto · 6 years ago
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『退行の時代を生きる  ――人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』
 ジグムント・バウマン 著、伊藤茂 訳、青土社、2018年。 http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3220
 
 前途が見えず、過去に憧憬をいだく時代、過去に前途を幻視しようとする状況(ユートピアならぬレトロトピアの今日)――。
 
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