Link
0 notes
Quote
カシオドロスが「ヴィヴァリウム(養魚場)」を、ベネディクトゥスが「修道院(モナステリウム)」を設立したのと同じ時期になる紀元五二九年、東ローマ帝国皇帝のユティニアヌスは、ギリシアのアテネになったアカデミアの廃校を公表している。 紀元前四世紀にプラトンが創立し、ローマの時代になってからも、支配者ローマの子弟すらも留学するほどの地中海世界きっての最高学府の名がゆるぎもしなかったこの哲学の牙城も、九百年に及んだ歴史を閉じたのである。疑問をいだくよりも服従することを人間の「徳(ヴィルトゥス)」と考える時代に、決定的に入ったと言う事であった。ユスティアヌス大帝によって廃校にされてしまったアカデミアだが、これが再興されるのは、一千年後の十五世紀のルネサンス時代になって、フィレンツェのコシモ・デ・メディチによるまで待たねばならない。
塩野七生『ローマ人の物語 ローマ世界の終焉[下]』
0 notes
Quote
ストイックな日常ということならば、「ヴィヴァリウム」も「ベネディクトゥス修道院」も、代わりは無かったのである。だが、いくつかの面ではやはり違った。 第一は、労働。カシオドロスの学園(スコーラ)の学生たちには、自らの食い扶持を稼ぎ出すための労働は課せられなかった。そのためにもわざわざ、財団組��にしたのである。 第二は、祈りである。カシオドロスの「ヴィヴァリウム」では、「読書」は文字通り書物を読むことであったが、ベネディクトゥスが定めた修道院での時間表にある「読書」は、聖書を始めとするキリスト教関連の書を読むこと、しかも声をあげて読むことである以上、「読書」と言うよりは「祈り」である。声を張り上げてコーランを読む少年たちは、読書しているのではなく祈りをしているのであるから。 違いの第三は、集団生活の前提が、ベネディクトゥスの修道院では「絶対服従」であったことだ。これは、カシオドロスの「養魚場」での、自由な精神とそれに基づいた活発な意見の交換とは反対のものであった。 ただし、このベネディクトゥスの修道院は、これらの特色を明らかにしたことによって、また、後にはギリシア・ローマの著作の筆写も「労働」に加えたことによって、中世ヨーロッパの修道院のモデルになっていく。イタリアのみではなく、ヨーロッパの各地に設立されるようになり、中世時代の精神の一大砦となっていく。しかも、現代にまで続いている修道院も少なくない。それに反してカシオドロスの「養魚場(ヴィヴァリウム)」は、いつとなく消滅してしまったのである。ベネディクトゥスの修道院のほうが時代に合致し、カシオドロスの学園は時代に合わなくなっていたからだ。
塩野七生『ローマ人の物語 ローマ世界の終焉[下]』
0 notes
Quote
考えれば、あれほども怖れられていたフン族も、戦闘らしい戦闘をした途端に敗れたのだった。蛮族とは、防衛も充分でない民間人を襲う場合にだけ強かったのか、とさえ思ってしまう。
塩野七生『ローマ人の物語 ローマ世界の終焉[中]』
0 notes
Quote
『いかに悪い結果につながったとされる事例でも、それがはじめられた当時にまで遡れば、善き意志から発していたのであった。』 ガイウス・ユリウス・カエサル
塩野七生『ローマ人の物語 最後の努力』
0 notes
Quote
『キリスト教徒狩りのような、罪ある者とはいえその彼らを、強いて追い求めるような行為はしてはならない。ただし、正式に告訴され自白した者は処罰されるべきである。とはいえ、棄教者に対しては相応の配慮はなされねば成らないが、それには、われわれの神々を敬う気持ちを明確に示し、後悔の念も明らかにする必要がある。それさえ明らかになれば、過去がどうであろうと免罪に値する。 また、無署名の告発は、いかなる法的価値もないものとする。そのような行為を認めるのは、われわれの時代の精神に反することになるからである。』
塩野七生『ローマ人の物語 迷走する帝国 [下]』トライアヌス
0 notes
Quote
『どの神を信じようと占いに頼ろうと、それは個人の自由である。だが、軍団の行動が、この種のことに左右されるような事はあってはならない。民間人に対しては、常に親切に礼儀をもって対さなくてはならない。外出の際に争いごとでも起こそうものなら、その者には撲殺の刑が待っていることを、ここで明らかにしておく。』
塩野七生『ローマ人の物語 34 迷走する帝国[下]』
0 notes
Quote
また、アテネの社会のあり方が、この閉鎖傾向をさらに助長した。都市国家アテネは、王政―貴族政―民主政と移行し、別名「ペリクレス時代」と呼ばれた民主時代に、最も繁栄を謳歌した国である。民主主義は、その時代のアテネ人の創り出した政体であることは、二千五百年後の現代でも常識になっている。 しかし、民主政体(デモクラティア)とは、有権者である市民全員の地位が平等でなければ成立しえない。有権者各自の能力が平等というよりも、持つ権利が平等でなければ成り立たないということだ。一票は、誰が持とうと同じ一票であることが、基本理念であったのだから。 全員が平等でなければならない社会では、異分子、即ち他国人に対して、閉鎖的になるのは当然の帰結である。昨日まで他所者であった人を、今日からわが家の一員だとして同等の発言権を与えて仲間に加えた場合を考えてほしい。昨日まで長い歳月を「わが家の一員」でがんばってきた側から、反撥が起こるほうが自然ではないだろうか。全員平等とは、異分子導入にとっては最もやっかいな障害になるのである。
塩野七生『ローマ人の物語 迷走する帝国[上]』
0 notes
Quote
『 転戦中のローマ軍が、危機に陥ったときのことだった。その危機を救ったのは、神々のおかげとしか思えない恵みだった。クワディ族は、騎馬を得意とする彼らにとって有利な地勢にローマ軍を追い込み、包囲にもっていった。ローマ兵たちはそれに、盾をすき間なく並べることで上からと横からの攻撃を避けながら、勇敢に防戦していた。(これはローマ軍団の典型的な戦闘隊形の一つで亀甲隊形という。) 蛮族たちはこれを見て、攻撃をやめた。平原に容��なく照りつける夏の暑さと渇きで消耗したローマ兵が、待っていても降伏してくると思ったのである。ローマ軍は完全に包囲されていたので、近くを流れる川に近づくこともできなかった。それに蛮族は、数でも優勢であったのだ。 ローマ軍は、困難きわまる情況にあった。疲労が激しかった。傷の痛みも耐えがたかった。照りつける太陽、声も出ないほどの渇き、攻める事もならず、退くこともできなかった。太陽に焼かれながらも自分たちの場所を保持すること、しかできなかったのだ。 ところがそのときだったのだ。一天にわかにかき曇り、雷光が光り轟いたと思ったら、猛烈な雨が降ってきたのだ。ローマ兵は誰もが盾をはずし、顔を上に向け、雨が顔を打ち開けた口から入るにまかせた。そうした後で彼らは、今度はかぶとや盾の内側で雨を受け、それを傷ついた兵や馬に飲ませた。 情勢の急変に驚いた蛮族は、豪雨の中ではあったが攻撃を再開した。これにローマ兵は、迎え撃つのと雨を飲むのを同時にやりながら対抗した。傷を受けた兵士でも、かぶとから流れ落ちる雨水とひたいから流れる血の両方を飲みながら闘い続けた。 このときの雷光と豪雨は、敵をも見舞ったのである。だが、それによって陣を乱し大混乱に陥ったのは、ローマ兵ではなく蛮族のほうであった。』
塩野七生『ローマ人の物語 終わりの始まり [中]』カシウス・ディオのローマ軍評
0 notes
Quote
七歳になっていたマルクスに与えられたのは、ラテン語ならば「サリウス・パラティヌス」(Salius Palatinus)、訳せば「軍神マルスの祭司会」の一員という称号である。イタリア半島には昔からあった祭儀で、それを担当するグループは首都ローマだけでも二つあり、それぞれが十二人の少年で構成されていた。軍神マルスを祭る祭日は、一年に二度ある。三月の十九日と十月の十九日で、戦闘に適した季節の始めと終わりを意味した。
塩野七生『ローマ人の物語 終わりの始まり[上]』より
1 note
·
View note
Quote
事実、プラトンの創設による「アカデミア」も万物の蔵書で知られた「ムセイオン」も、教育機関というよりは研究機関であった。本来的な意味での、大学院大学と言ってもよい。この種の最高学府に学んだ経験を持つローマ人は、アテネ留学の経験のあるキケロや詩人のホラティウスをはじめとして少なくは無かったが、最高権力者の皇帝となると一人もいないのが面白い。アウグストゥスに至っては十七歳で政争の世界に放り出されてしまったので、高等学校さえ終えていない。軍団のたたきあげ組に入るヴェスパシアヌス帝やトライアヌス帝はもちろんのこと、叩き上げとはいえないハドリアヌス帝も、大学の経験は無しであった。ローマ時代では、出世には学歴は無関係であったのだ。ところが、学歴不問の世界であったにかかわらず、ローマ帝国は「アカデミア」や「ムセイオン」には、国庫から助成していたのである。研究機関だけは国立であったのだ。教授たちには、事務官僚並みにしろ年給が払われている。これは実に、興味ある現象である。
塩野七生『ローマ人の物語 すべての道はローマに通ず[下]』
0 notes
Text
『この世界の片隅に』7回目観覧
私は、福岡市博多区住吉の��キャナルシティ博多』にあるユナイテッド・シネマ キャナルシティ13で昨年11月12日から鑑賞していますが、公開当初はスクリーン3やスクリーン4という収容数140人程度の小規模シアターでしたが、今回鑑賞しに行ってビックリしたのが、375人収容の最大シアター・シアター13で上映されていたことでした。
公開当初を覚えていますが、まさかここまで…上映を開始して映画の評価が上がって、シアターの規模が変わるという初めての経験をしております。
ブロックバスター映画扱いです。これはスゴイです!!!



0 notes
Quote
最後に我々はあらゆる人に全体として忠告したいと欲する。すなわち、知識の真の目的を考えること。知識を心の楽しみのためとか、争いのためとか、他人を見くだすためとか、利益のためとか、名声のためとか、権力のためとか、その他この種の低いことのためにではなく、人生の福祉と有用のために求めること、それを愛のうちに成し遂げ支配することである。それというのも力への欲から天使は堕ち、知識への欲から人は堕ちたのだが、愛には過ぎることはない。天使も被とも愛によって決して危険に陥ることはないからである。
フランシス・ベーコン『ノヴル・オルガヌム 新機関』 序言より
0 notes
Quote
先日、本を執筆しながら私はアメリカを蝕んでいるように思える「権利意識」についてしばし考えた。その発端は二、三年前、彗星のように現れて巨額のお金を稼ぐスーパースターやロックスターが若者たちに大きな影響を与えたことから出現した、いわゆる「すぐに結果を求める風潮」ではないだろうか。急に猫も杓子も、こうした極一握りの人々が手にしたものを自分も手に入れて良いはずだ、とか、彼らは「一夜にして」スターになったのだから自分だってそうなるはずだ、と思うようになった。実際にはスターになるのはごくわずかの人々であり、「一夜にして」成功することなど稀にしか起こらない。彼らは特例であって、普通の人々ではないのだ。しかし、スターたちはメディアに大きく取り上げられるため、多少苦労していたり何年も努力しているような人々は、自分だけが取り残されているとか、不公平に扱われているという感情を持ってしまう。世の中に何か貸しを作っているような気になってくるのだ。
ドナルド・トランプ『トランプ思考 知られざる逆転の成功哲学』
0 notes
Text
『この世界の片隅に』評論2017年1月26日
「この世界の片隅に」は、かつての戦争映画とは異なり、説教臭くない映画だ。・・・と良く言われます。これは片渕監督の最も注意した点であろうと確信せずにはいられません。
「反教条主義としての”この世界の片隅に”」
今回は、「説教臭さ」とは何か? と「なぜ”この世界の片隅に”は説教臭くないのか」そして、以前私が評論した通り、なぜ”この世界の片隅に”が古典に成り得るのか結論したい。
1.「説教臭さ」とは何か?
映画を構成するシーンや時代背景、呉市や広島市の情報、片渕須直監督は「後世のニュースではなく出来る限り、当時の絵日記や新聞記事を参考にした」と述べています。これは、情報に方向性を持たせない一次情報を作品に与えたかったからと言う事に他ならない。
私にとって、情報には二種類あると考えている。「スカラー」と「ベクトル」がそれである。今回、本映画に使用された情報は「スカラー」である。したがって、普遍性が存在する。a=aなのだから。反対に「ベクトル」と言うのは、方向性を持たせた情報である。情報取得者を、どの方向に向けさせたいのかという「目的」が存在する。
「説教臭さ」とは何かと言えば、「 どの方向に向けさせたいのかという「目的」 」を指す。結果ありきの��論を行う事を、教条主義と言うが、「この世界の片隅に」は、かたくなに教条主義を拒絶している。
普遍性ある情報は、ともすれば見る人の価値観を反映してしまう物だ。しかしながら、であればこそ、古典足り得るし「かつて存在した政治思想」という時代を経た陳腐化もしないのである。
これこそ『意味を宙吊りにする』の答えであり、恐らくロラン・バルトが生きていれば『この世界の片隅に』は賞賛されていたに違いありません。
2017.01.26 16:52 Kawano.Yuichiro.Michiari
カメラアングル等のレトリック解説は、別の機会に持っていきたいと思います。あまりに冗長だと読む気を失せさせるし、この映画は古典に成り得るのだから、このネットにupした評論も、30~50年スパンで検証される厳しいものになっていくと思われます。
これはまたの機会に・・・。
0 notes