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“デザイナー”なんて大したことはしていない。でもそれは高尚な仕事だ。
デザイナーは“すごい”?
ご存じの通り、僕はプロのデザイナーです。
こうやって名乗ると十中八九「かっこいい!」だとか「オシャレ!」だとか「センスあるんだね!」といった言葉をかけてもらえます。
ガッツリ本音を言いますが、大変嬉しいですし、全部合っていると思います。
(小さな頃、親に「謙虚な人間が将来成功するんやでぇ」と言われたのを思い出しましたが、今回はガッツリ無視します)
実際、クリエイティブ職と言われるデザイナーたちはカッコ良いですし、作り上げるデザインはオシャレなものばかりです。当然ながら、センスも持ち合わせています。
だからこそ多くの人が“なんちゃらデザイナー”を目指して今日も頑張っているわけです。
確かに、「デザイナーはすごい!」というのは事実だと思います。
誰もがなれる職業ではないですし、実力勝負の世界。そこでプロを名乗れるというのは確かにすごいことだと思います。
ですが、僕は今日この記事を通して、デザイナーを必死で目指す人たち、プロのデザイナーとして活躍して慢心している人たちに、
「デザイナーなんて大したことはしていない」
ということをお伝えしたいと思います。
デザイナーなんて大したことない
僕は今Webやらアプリやらのデザインを仕事にしています。
僕のようなデザイナーの存在無くしてWeb、アプリは完成されませんが、やってることは大したことありません。
Webやアプリで実現したいユーザー体験を考え、XDを使って画面のデザインを作る。
この「デザインを作る」というのが本当にどうしようもないくらい、大したことないのです。
(大前提として、僕は自分の仕事に誇りを持っていますが、それ以前に自分の仕事が大したことないという、そんな考えも併せ持っています。)
様々な制約条件の中で最高のデザインを作り上げたとしても、そのデザインは「動き」ません。
デザインは常に「見た目」だけであって、その裏に本来あるべき「機能」を実現していないのです。
例えばメルカリのようなフリマアプリの場合、デザイナーが作成できるのはアプリの動線やページの見た目だけ。
仮に出品ボタンをデザインして、そこを押したら詳細入力ページに進むアクションを付け、「出品する」のようなボタンをつけたとしても、その情報がデータベー��に格納されることもなければ、アプリ内で表示されることも無いのです。
ちょっと専門的な話になりましたが、デザイナーが作り出せるのはせいぜい上っ面の見た目だけ。その中身までは作り出せないのです。
それを誰が作り出すかと言えば、まさにそれこそがエンジニア。
彼らが開発にかける労力はデザイナーの数倍。何かを作る上で一番大変で重要なのは、中身を作る人なのです。
そういった意味で、デザイナーなんて、大したことないのです。
でも、やっぱりデザイナーはすごい?
全てのデザイナー的に回す発言を繰り返してきた僕ですが。僕もひとりのデザイナー。デザインも魅力やデザイナーにしかできない役割については重々理解しています。
デザイナーはまさに「設計士」。デザイナーがいなければ誰も完成するプロダクトのイメージが掴めず、プロジェクトは確実にうまく行きません。
世の中のほとんどのものは優秀なデザイナーによって設計されています。
あなたが使っているWebサイトやアプリ、それを表示させるパソコンやスマートフォン、お店の内装やそのお店が入っているビルそのもの、ひいてはあなたが今生活している街ですら、デザイナーによって設計されているのです。
この事実を知ってから知らずか、皆デザイナーはすごいと思っているようですが、はい、やっぱりデザイナーはすごいです。
私たちが今も便利に安全に生活できているのは、デザイナーたちのアイディアやスキルがあるからこそです。
では、結局僕は何を訴えたいのか?
僕がデザイナーを目指す人たち、デザイナーとして慢心している人たちに訴えたいのは、
「奢るな」
ということです。
どれだけ美しいデザインを作り出せても、それを具現化したり実際に使えるように作り上げるのは別の人たちです。
そしてそこにかかるコストはデザインよりもはるかに大きい。
だから、今あなたがどれだけすごいデザイナーでも(もしくはすごいデザイナーを目指していたとしても)、「奢る」ほど大したことはしていないのです。
「センスがある」などという言葉に踊らされて自分を過大評価したり、自分のデザインしたものを作り上げる人たち(エンジニア、大工さん、その他様々な職種の人たち)を下に見たり。
この世には、そんなデザイナーが多いように思います。
あなたが作り出すデザインは美しいかもしれませんが、ただそれだけ、その程度です。
あなただけの力ではそれを具現化させることはできません。
だからこそ、あなたの力など大したことないのです。
無論、僕も同様です。
作り出すデザインは大抵お客さんに喜ばれ賞賛を浴びていますが、所詮はその程度。見た目を作るだけの大したことない存在です。
だからこそ、僕たちはもっと多くのものに感謝をするべきです。
上流でアイディアを出したり用件を決めたりする経営層やディレクター。
下流でひたすらものづくりの励むデザイナーや大工さんたち。
その人たちに感謝をし、決して上からものを言わず、常に尊敬の目を向ける。
自分のスキルに慢心せず、自分一人では何もで���ないことを自覚する。
そうすればきっとデザイナーという職業は今よりもっと必要とされるし、デザインが持つ力が今よりもっと社会を良くする。
僕はそう思っています。
デザイナーがやっていることなど大したことはありませんが、それは高尚な仕事だと思っています。
だからこそ奢らず、自分を特別なものだと勘違いせず、常に周りを見ながらプロジェクトに参画する必要があります。
僕ももちろん大したことない存在。だからこそ日々努力を欠かしません。
何かを作る上で無くてはならないデザイナーになれるよう、共に頑張っていきましょう。
Takuya Ogiyama / Designer
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デザイナーに必要なのは「本質の理解」と「情報整理」。僕がイベントで語ったこれからのデザイナーに必要なスキルについて
先日、縁あって人生で初めてイベントに登壇する機会がありました。
これまで僕は様々なイベントに参加してきましたが、当然ながらいつも話を聴く側。
でも今回は自分自身が前に立ち、デザインについて話すという貴重な機会を得ました。
その時話した内容が、なんだかすごく的を射ている気がしたので、今回はそれをまとめつつ深掘りをしていきたいと思います。
僕が登壇した「デザインと情報整理」についてのイベント
今回僕が登壇したイベントはミッドタウン日比谷で行われた割と小規模なイベント。
参加人数は20名くらいで、参加者の皆さんはデザインを学んでいる最中の社会人・学生たちでした。
参加者には予め主催者のスピーチを聞いてもらい、その内容をデザインするという課題が与えられました。
その課題が終わった後、お手本として作成したデザインを見せながら「どのように情報整理を行うべきか」ということについて語る。
それが、このイベントでの僕の役割です。
中学生の頃は生徒会長として大勢の前で話す機会の多かった僕ですが、大学生・社会人になってからそういった機会はほとんど無くなっていました。
久しぶりに大勢の前で話すので緊張していましたが、デザインについての話だったせいか不思議とスラスラ話すことができました。
このイベントでは、「複雑な情報をどうやってデザインするか」がテーマとなってい��ので、表層的なデザインについての話をする場ではありませんでした。
なので、手を動かすデザインよりも一歩手前、デザイナーとしての情報整理について語りました。
これからのデザイナーに求められることとは?
イベントの冒頭でも語られていたことですが、今後デザイナーに求められるのは、単純な情報を美しく表現することでは無く“複雑な情報をシンプルで分かりやすく表現すること”です。
今や世界中に情報が溢れかえり、情報どうしが相互に関わり合うことで、情報の密度はものすごく濃くなってきています。
その複雑化した情報を丁寧に読み解き、一般の人に分かりやすく説明する。
いわば複雑化した情報との通訳となることこそが、こ���からのデザイナーに求められることだと、僕自身も考えています。
単純な情報を美しく整理できるだけのデザイナーは、正直あまり価値がありません。
そんなデザイナーは世界中に腐るほどいるからです。
でも、目の前にある複雑な情報を読み解き、分解し、それを誰にとっても分かりやすく再構築して表現できるデザイナーは本当に少ないです。
そういったデザイナーになれるかどうかが今後デザイナーとして生き残っていけるかを決めるといっても過言ではありません。
その上で、僕たちはどのように情報を整理するべきか?
では、目の前にある複雑な情報をデザイナーたちはどのように読み解いていけば良いのか。
これについて僕は幾度となく「本質を理解する」という言葉を使いました。
そもそも、何かを分かりやすく表現するためには本質を捉えている必要があります。
デザインの本質について自分なりに理解できていない人が、「デザインとは何か」を雄弁に語ることができないように、本質を理解できていない人はそれを分かりやすく伝えることができません。
デザイナーとしてプロジェクトに参加するときも、まずはそのプロジェクトの本質(目的やビジョン)を理解し、それに対するデザインを考えなければ、ズレたデザインが出来上がってしまうでしょう。
デザイナーにとって(というか、全てのビジネスマンにとって)本質を捉えることは最も重要なスキルであると同時に、最も基本的なスキルでもあります。
本質を理解せず、「ズレてるけど美しいデザイン」を完成させることよりも、本質を理解した上で「目的に合ったダサいデザイン」を作り上げる方がよっぽど意味があります。
それを踏まえると、デザイナーを目指す人たちが陥りがちなデザインソフトの技量を上げるという努力の方向性も、少し良く考えた方が良いです。
Illustrator,Photoshopが超高速で使える、ものすごく高度なグラフィック処理ができる、というのはそれ単体では本当に無価値です。
そこに「本質を捉える」というスキルが伴って初めて真価を発揮するのです。
実戦での立ち回りを全く理解していない武士が刀の振り方だけを一心に練習しても、戦場では何の戦果も上げられずに切り捨てられてしまいます。
それと同じように、もしあなたが今グラフィックソフトを使いこなすことに注力しているなら、それよりもデザインの本質を理解することに重点を置いた方が良いでしょう。
本質を捉えた上で、僕たちはどのようにデザインをするべきか?
“デザイン=設計”というのは僕の持論であり、多くのデザイナーが考えるデザインのあり方でもありますが、やはり僕たちは常に「設計者」であるべきです。
作るべきものを明確にし、それが���分な機能をもち、且つ美しく見えるように設計を行う。
そしてそれを作るための材料を集め、土台から順番に作っていく。
それこそが設計者の仕事です。
デザイナーも同じように仕事をするべきです。
本質を捉えることができたら、それを作るためにどんな情報をどんな順序で見せるかを考える。
その上で見た目がどのようになるべきかを考え、素材を集めた上で土台となる部分から順番に配置していく
全てのデザインにおいてこのプロセスは応用できます。
Webデザインであれば、そのWebサイトを作る目的を明確にし、そこに盛り込む情報を整理してどんな順番で見せるべきかを考える。
その上で、レイアウトを考えて、必要な文言や素材を集めて導入部分から順番にデザインしていく。
どんなデザインでも「本質の理解」と「情報整理」は必ず必要です。
この2つさえできていれば基本的に何でも作れます(“何でも作れる”ようになるために、初めてグラフィックソフトやコーディングのスキルが必要になります)。
「本質の理解」と「情報整理」。
これが僕の考えるデザイナーに最も必要なスキルです。
僕たちはどのようにしてデザインを学んでいくべきか?
では、「本質の理解」と「情報整理」という極めて抽象的なスキルをどのように僕たちは学んでいくべきか。
まずはひたすら話を聞くことです。
周りに何かを企んでいる人がいるなら、積極的に話を聴きに行きましょう。
自分でプロジェクトを立ち上げたりサービスを作りたいと考えている人なら、「デザイナー」の肩書をチラつかせれば簡単に話を聞くことができるはずです。
実際にそのチャンスを手に入れたら、目の前の相手が言おうとしていることを全力で聞いてください。
聴きながら、頭の中で分解→再構成をしてみてください。
相手はあなたに理解してもらおうと必死で話すはずですが、多くの場合その話には主観的な感情が入っているため完全に理解するのは難しいでしょう。
その話を聴きながら「この話の目的は何か」を理解し、「それを説明するために必要な情報はこれだ」という部分を見つけましょう。
それがきちんと理解できていれば、あなたはその人以上にうまくその話ができるはずです。
誰かの話を聴きながら、頭の中で常に思考を巡らせることこそ「本質の理解」と「情報整理」という最も重要なスキルを磨く一番の近道です。
もし今あなたがグラフィックソフトの使い方やHTML,CSSの書き方を必死になって学んでいるなら、それを今すぐやめろ、とは言いません。
ですが、その時間の半分くらいを誰かの話を聞くことに使うことをオススメします。
デザインの参考書を読んでも、デザインスクールに通っても、誰一人「デザイナーには『本質の理解』と『情報整理』が大事だよ!」とは教えてくれません。
でもそれを習得することこそが、デザイナーにとって最も重要で、最低限の義務だと、僕は考えています。
まとめ
今回僕はイベントでデザイナーに求められる「本質の理解」と「情報整理」について語る機会を得ました。
話しながら自分がぼんやりと考えていた内容が整理でき、これからデザイナーを目指す人たちにとって有益な情報を提供できたと思っています。
当日イベントにお越しいただいた方々、今この記事を読んで���る方々がこれからの時代を生き抜くことのできる優秀なデザイナーになることを期待しています。
一応、筆者の紹介
どうも、Takuya Ogiyamaです。
大学で農学を学んだ後、なぜかデザイナーになったわけのわからん人です。
大学時代から自称フリーランスとしてデザインの仕事をしていました。
現在都内のIT企業でUX/UIデザイナー・ディレクターとして働きながら、それ以外でいろんなプロジェクトにデザイナーとして参加しています。
グラフィックソフトよりも本質的なスキルが大事、とか語ってますが、Illustrator,AdobeXDの操作がクッソ早いです。
話を聴きながらその場でデザインのラフを作ることを得意としています。

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XII Zodiac by Olafool art
(Visit artist’s page to view Aquarius and Pisces)
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選択論。無数の選択肢の前で僕たちは何をどうやって選べば良いのか?
「人生は選択の連続だ」という言葉があるように、私たちは毎日途方もない数の選択をしている。 その数は1日に9000回にもなるという。 もちろん全ての選択が同じくらい重要というわけではないが、大小の区別なく計算すると9000というとてつもない数になるようだ。 人が1日6時間寝ていると考えると、18時間で9000回もの選択をするということは、1時間あたり500回、1分間で8回、つまり、10秒に1回以上の選択をしている計算になる。 経営者や起業家などのトップに立つ人たちはきっとその選択の数・質ともに高いレベルなのだろう。
一方で、僕たちは一つの選択に対しかなりの時間を使って悩むことがある。 もしかしたらそれは人生において重要な選択なのかもしれないし、もしかしたら他人から見ればどうでも良いことかもしれない。 でも、僕たちは悩む。 時には1日かけて一つの選択に対して悩むこともある。
人生が選択の連続だとしたら、その選択を素早く行うことがかなり重要になってくる。 逆説的ではあるけど、選択のスピードが早ければ他の人よりも長い時間を生きているということにもなる。 もちろん、中には重要な選択もあるからその選択には時間をかけたほうが良いけれど、それ以外のどうでも良い選択に時間をかけてしまうことはないだろうか? どちらを選んでも大した違いはない選択に時間をかけ、重要な選択にかける時間がなくなってしまうのはスマートじゃない。 選択のスピードを上げて悩む時間を少なくする(そして、重要な選択により多くの時間をかける)ことが、毎日を生きる上で重要になる。
それが、僕がずっと考えている理想的な生き方だ。
考えすぎて選択できなくなる。
でも、これが意外に難しい。 「人間は考える葦である」というのはフランスの思想家パスカルの言葉だが、多くの人は物事を深く考えてしまうせいで選択のスピードが落ちてしまっている。 無論、僕もそのうちの一人だ。
ある休日、家で本を読んだり家事をこなしたりしているうちに時刻は17:00になってしまった。 今日はこの後予定もないので、ガッツリとブログを書きたい。 そんなとき、僕の前には3つの選択肢が現れた。
自宅でブログを書く
歩いて10分のカフェに行ってブログを書く
2駅先のスタバに行ってブログを書く
どの選択肢も悪くはないし、結局やることは一緒なのでどうでも良い気がする。 でも、この中から一つを選ぶ以上、何か決め手が欲しいと思うのが人間の性だ。
だからそれぞれのメリットとデメリットを考えてみる。
1.自宅でブログを書く
メリット
お金がかからない
参考にする本が大量にある
他人の目を気にせず執筆できる
デメリット
集中力が持続しない
新しいアイディアが生まれにくい
2.歩いて10分のカフェに行ってブログを書く
メリット
お金はかかるが交通費は削減できる
集中できる
いつもいくカフェなので居心地が良い
デメリット
���ょっとお金がかかる
コーヒー一杯で長時間耐える必要がある
3.2駅先のスタバに行ってブログを書く
メリット
圧倒的に集中できる
スタバでmacを開いてドヤ顔ができる
コーヒーのお代わりを頼めば低コストで長時間過ごせる
デメリット
交通費と移動の時間がかかる
割とお金がかかる
と行った具合に、最適な選択をするべく、僕はそれぞれのメリットとデメリットをまとめてみた。(お分かりかと思うが、皆さんはもちろんこんな風に一つの選択を真面目に考えてはいけない。)
ここで問題になるのが、それぞれのメリットとデメリットが拮抗している、ということ。 3つとも最終的なゴールは「ブログを書くこと」ではあるが、それぞれの特徴が互いに競り合っているのだ。 例えば、「自宅だとお金がかからなくて良いけど、集中できない。でも、スタバに行くと時間もお金もかかってしまう...」と行った具合に。 これは心理学でいうところの「ゴールコンフリクト」という状態に非常によく似ている。 最近、メンタリストDaiGoの『週40時間の自由を作る 超時間術(DaiGo著,実務教育出版)』を読んで僕はこの言葉を知った。 「ゴールコンフリクト」はいくつもの目標・願望がぶつかり合ってしまった状態のこと。 上記の例は“目標”ということではなくそれぞれの“特徴”がぶつかり合った状態ですが、根本的な部分は同じだと思う。
なぜ選択できないのか?
さて、僕はこの3つの選択肢を比べて最適な選択をしようとかなり長い時間をかけて悩んだのだが、結果的にどの選択が正しいのか分からなくなってしまった。 というより、どれも正しいと思ってしまった。
そう思ってしまうのは、それぞれの特徴が別々の目線で語られているからだ。 例えば「交通費がかかる」というのは“金額”の話、「集中できる」というのは記事執筆の“効率”の話、「ドヤ顔できる」というのは自分の“気分”の話だ。 それぞれが別の目線から語られている以上、それらを同じ土俵で戦わせることはできない。
そうなると、最適な選択肢を選ぶ「決め手」を見つけるのは非常に困難になる。 頭の中で様々な目線からの意見が飛び交うカオスな状態の中で、一筋の光を見つけるというのはなかなかできることではない。 だから、この問題に明確な答えは存在しない。 答えのない問題に時間を使ってしまうのが無駄なことだって、小学生でも分かる話じゃないだろうか?
そう、僕たちは悩んではいけない。 この問題に限らず、僕たちがある選択肢に直面すると、頭の中では様々な目線からの意見が飛び交ってしまう。 人間が優秀な生物であるが��えの“悩み”だ。 一番スマートな解決方法として、一つの目線に���ってそれだけを考える、というものがある。 例えば「僕にとってはお金が全てだ!」と思うなら最も安上がりな「1.自宅でブログを書く」を選択するべきだ。 でも、人間はそう簡単に一つの目線に絞って物事を考えることはできない。 それに、全ての選択肢に対して「お金」の目線を最も重要視していたら、人生の幸福度はとてつもなく低くなってしまう。
では、どうするか? 全ての選択肢に共通する「目線」を一つ持っておいて、それを判断基準にする。 これが一番良い。
そしてその目線は限りなく自分の内的な部分に近いものでなければならない。 僕が大切だと思う目線は「自分にとって気分が良いことは何か?」ということだ。
たった一つの目線で選択をする。
「自分にとって気分が良いことは何か?」だけを考えると、自ずと答えが見えてくる。 先に挙げた1〜3の中だったら、圧倒的に「3.2駅先のスタバに行ってブログを書く」だ。 わざわざ時間とお金を使ってでも、スタバでドヤ顔する方がずっと気分が良い。(誤解しないでほしい、実際にはスマートな表情で慎ましくブログを書いている。)
だから僕は他の2つの選択肢を排除して、スタバに行く。 お金がかかろうが時間がかかろうが関係ない。 なぜなら重要なのは「自分にとって気分が良いことは何か?」だからだ。
ただし、全てを自分の気分だけで選んでいると、これまた人生の幸福度は下がる。 気分が良いからと行ってお金を使いまくれば満足のいく生活はできないし、時間の使い方を間違えれば理想的な人生を送ることはできない。(ただ、確実に「お金」を最も重要視する、というパターンよりはずっと良い。) だから、後でその選択を振り返って自分の中でルールを作る必要がある。 例えば、今日はスタバに行って良い記事がかけたけど毎日スタバに行くとお金がかかりすぎる。 だから3時間以上滞在できる時だけスタバに行って良いことにして、それ以外の場合は自宅で書こう! と行った具合に。
こうすれば気分の良い選択ができて、しかもお金や時間に対する不安も消える。 それに、ルールを決め手しまえば今度同じような選択の際に悩むこともない。
そして重要なのは、このルールを作ることができるのは「選択をした後」だけだということだ。
僕が考える選択と実行のサイクル
人生はトライアンドエラーだというのが、僕の中にある信条だ。 生まれてから今日までにものすごい数の挑戦とそれと同じくらいの失敗をした。 だから僕は成長できたし、全ての人がそうやって成長していくのだと思う。
だからこそ、そのフローは人生において最も大切だ。 僕はそれを日々の選択にも応用すべきだと考えている。
悩んでしまった時は、まずは一つを選択する。 そしてその後で、その選択について振り返ってみる。 次も同じ選択で良いと思うなら、きっとその選択は最適だったのだろう。 もし何か後悔しているなら、その原因を探ってルールを作る。 全てはこれで解決する。
何を選べば良いのかなんて、今の僕たちに理解できるはずもないんだから、その中で一番気分が良いものをとりあえず選択してみる。 トライアンドエラーの「トライ」に入る前に時間を使うのは、何よりも愚かなことだ。
僕のこの考えをもう少し分かりやすくするために、よ��ある「PDCAサイクル」というものを少しいじってみよう。 PDCAサイクルはPlan(計画する)→Check(振り返る)→Do(実行する)→Action(改善する)の流れを繰り返し実行することで物事の効率化を図る手法だ。(僕はこうやって無駄にアルファベットの頭文字を取って新しい言葉を生み出すのが嫌いだ。だがあえて、今回はそれにならってみようと思う。) まあ、悪くはない。 でも、最初のPlanの段階で多くの人がつまづくことを考慮できていないのが問題だ。
これまでの僕の意見をまとめるなら、PDCAではなく「DCRサイクル」となるだろうか? Do(実行する)→Check(振り返る)→Rule(ルール化する)といった流れだ。 よくあるビジネス書の例にならって図式化してみよう。

まあ、言ってること自体は大したことない、本当に無駄な図だ。(ビジネス書の慣例に対するアンチテーゼとして捉えてほしい。) まずはPlanすることなく、気分が良い選択肢を実行(Do)してみる。 その後でその選択を振り返って(Check)、そこで気がついたことをルール化(Rule)する。 それだけで、僕たちは重要ではない選択に悩まずシンプルに考えることができるはずだ。
きっとそれが良い選択だ。
人生は選択の連続だ。 だが全ての選択をクソ真面目に考えていたら時間がもったいない。 重要では無い選択には時間をかけず、「自分にとって気分が良いことは何か?」というたった一つの選択肢で判断をする。 後で振り返ってそれが正しかったと思うならそれで良いし、間違っていると思うのならルール化してしまえば良い。 もしそれで大きな失敗をしたとしても、僕たちは自分にとって気分が良いことをやったんだ。 何も選ばずに時間だけを失うより、よほど良い選択をしただろう。
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選択論
「あの時、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。」
「あの時、もっと良い選択肢があったんじゃないのか。」
僕たちは考える。
いつだて僕たちはそんな風に過去の選択を悔やんだり、それに疑問を感じたりする。
それはすごく大事なことだ。 僕たちはそうすることで、次の選択をより良くすることができるし、過去の失敗を「経験値」として記憶することができる。
だが、あなたがそうやって過去の選択を悔やんだ時、最後に何が残っただろうか。
もっと良い解決策が見つかっただろうか?
仮に見つかったとして、それは現在の自分の糧になれど、決してあなたの過去を変えることにはなりはしない。
そんなことを考えても、僕たちの心に最後に残るのは、 堪え難い後悔と、冷たい虚無感だけだ。
僕は決して、過去を振り返るのはやめよう! と、提案したいわけではない。
ただ、もし、今あなたが過去の選択に縛られているのならば、いかにそれが不必要なことであるかを知っておく必要がある。
僕たちは、朝起きてから寝るまで、途方もない数の選択を迫られている。
朝起きた瞬間にあらゆる選択肢があなたの前に現れ、数秒単位での選択を迫る。
朝食には、シリアルを食べるか、それともベーコンと卵を食べるか? 今日はどんな服を着て行こうか? 朝はどんなニュースを見てから出ようか?
外に出れば、それ以上に多くの選択が、道や学校、オフィスやカフェに転がっている。
僕たちはその数え切れないほどの選択に、晒され、打ちひしがれて生きるしかない。
なぜなら、選択することこそが生きるということであり、 あらゆる選択を放棄することは、死という形をもって実現するほかないからだ。 人生は選択の連続で成り立っているからだ。
僕たちは、選んでいる。 ありとあらゆるものを。
そして大抵、多くの選択は僕たちの無意識によって行われる。
全てを意識的に選択して生きたならば、僕たちの頭はたちまち限界を迎えてしまうだろう。
毎日、幾つもの選択をしているからといって、あなたが後悔するような重大な選択と、朝食をシリアルにするか、といった選択では明らかにその重要性が異なる。
シリアルを食べようが、一手間かけてベーコンと卵を調理しようが、どうでも良いことだ。
それが一体僕たちの人生に何をもたらすというのか?
それに対し、僕たちが後悔するような重大な選択は、その結果次第で僕たちの人生を大きく変え得る。
だからこそ、慎重に考えるべきだし、ベストな選択をするべきだ。
これには大いに賛成。 反論の余地はないのだが、
もし、どんな選択もその重要性は同じで、結局のところ「どうでも良い」と考えることはできないだろうか。
僕たちが縛られ、いつまでも後悔し続ける、過去の選択。
あの時、こうしていれば。
もっと良い選択肢があったはずなのに。
仮に選択肢が2つあったとして、自分が選んだ1つの選択肢によって、僕たちがひどく後悔することになったとしよう。
では、もう一方の選択肢を選べば、僕たちは幸せだったのだろうか?
思いつくことのできた選択肢が1つだけで、それ以外にもっと良い選択肢が無数にあったような気がする。 そんな時でも、 その時見えていなかった無数の選択肢は、僕たちを幸せにしただろうか?
運命論のようなことを説きたいわけではない。 もし、運命というものを全面的に肯定するならば、どんな選択をしても、僕たちは後悔していたし、そもそもその選択肢を選ぶことは運命によって決定されていた、 と、そんな意見になるだろうが、これが正しいとは思わない。
ここまで自分の意見を述べてきておいて、こんな結論に帰着することを先に謝っておきたい。
だが、これが事実。
結局のところ、「わからない」のだ。
その時の選択が間違っていたのか、他の選択をすればどうなっていたのか、僕たちには分からない。
それが分かる超能力者でもいれば、話は別だが、僕たちにその真偽を確かめる術はない。
これから立ちはだかる選択についても、同じことが言える。
何も、分からない。
少しだけ、予想することはできるし、過去の経験から判断して今実現できる最善の選択をすることはできるだろう。
だが、「最善」の選択が常に「最高」の選択だとは限らない。
僕たちは、せいぜい、その選択の先にある結末を憂いたり、かすかに期待することしかできないのだ。
僕たちにはその程度の力しかないのだから。
僕たちにできることは、「悔いのない選択」をすることだけだ。
それ以外の何も、僕たちには決められない。
何一つ分からない、無数の選択が目の前に現れたなら、 僕たちは、その中から、「悔いのない選択」するしかない。
理論や予測、そういったものを持ち出しても、結局のところ、その選択が正しいのかは分からない。
なら、僕たちは僕たちなりに、悔いのない選択を選ぶように努力しようじゃないか。
正しいか、正しくないかではなく、 後悔しない方を選ぼうじゃないか。
もちろん、その選択肢が本当に後悔しない選択肢かどうかは分からない。
でも、僕たちはこれまでに「正しい」と思う選択肢を選んで「後悔」してきたんじゃないだろうか。
飛躍した言い方をすれば、あまりにそれはおこがましく、奢った行為なのかもしれない。
「正しい」かどうかを僕たちが判断することなど、できないのだ。
でも、「後悔しない」かどうかを判断することならできる。
僕たちが悔いている過去の選択の数々は、コインを投げて表裏を当てるような、それくらい、どちらでも良いような選択なのかもしれない。
どちらを選んでも、確率は50%。
半分は幸せで、半分は不幸。
もしくは、両方とも幸せか、それとも...。
僕たちには分からない。
誰にも分からない。
これから先、僕たちはいくつもの選択を迫られるだろう。
でも、分からない。
だから、せいぜい、僕らは未来の僕らが過去の選択に縛られないように、 「悔いのない選択」をしようじゃないか。
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ブログ移行しました。
やはり、自分の考えを自由に伝えられる場所は非常に重要だ。
僕にとってそれはこのtumbrlに間違いなかったのだけど、ブログを移行することにした。
移行先は僕がデザイナーとして活動するときに使用しているポートフォリオサイトだ。
移行した理由のほとんどはポートフォリオサイト内にブログページを設置したかったからなのだが、僕の考えをグラフィカルに伝えたいというのも一つの理由だ。
今後は主に以下のURLから飛べるポートフォリオサイトでブログを更新していこうと思う。
興味があれば是非チェックしてほしい。
こちらにある記事も新たなサイトに移行した。 グラフィカルなサムネイル付きなので、もっと楽しく見れると思う。
http://www.takuyaogiyama.com/blog
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Project "atopic"
「アトピク」というプロジェクトに参画している。
これは僕が代表という立場以外で初めて参画するプロジェクトとなった。このプロジェクトのメンバーは2人だけ。デザイナーとして入っている僕以外に、代表が一人いるだけだ。彼は現在3人のお子さんを育てながらプロジェクトの立ち上げと運営を行っている。現在は育児休暇中なのでフルコミットできている。
僕とかなり年齢の離れた代表と初めてあったのは、とあるイベントだった。知り合いが主催するイベントで、確か起業家とエンジニアをマッチングさせるという趣旨だったはずだ。そういえば、僕がそこに行ったのは一人の起業家としてだった。進めているプロジェクトに協力してくれるエンジニアを探していたのだ。そう、その時の僕は自分をデザイナーと呼んではいなかった。かといって、起業家と自信を持って言える段階でもない。そもそも、起業していないし。
そのイベントで彼の進めているプロジェクトを聞いた時、正直あまりうまく行くとは思わなかった。ビジネスとして進めるにはあまりに弱く、収益を見込めるようなフィールドではない気がした。プロジェクトベースで進めるとしても、今後具体的にどのように進めて行くか明確にわからない部分があった。
だが、結局僕は彼のビジョン実現に向けてデザイナーとして協力することになる。その大きな要因となったのは、彼が「理解していた」からだ。
ここで、アトピクの概要について述べよう。
アトピクは”アトピーをコントロールできる生活”を実現するためのプロジェクトで、現在はiOSアプリの開発を行っている。これは、アトピー患者のためのSNSで、自分の症状の管理や他の人との交流をする場で、ユーザーはここで様々な情報交換や悩みの共有をすることができる。これを通して、ほかの人に隠し、孤独に治療に取り組みがちなアトピーを、仲間達と楽しく治療するものへと変えて行くことがアトピクのミッションだ。
彼の説明の多くは開発中のアプリについてだったが、「なぜこれを作るのか」という質問に対しては熱を持って明確に回答していた。アトピーの人がいつもどんな思いで生活をしているのか、その原因は何か、そして、それをどう変えることが重要なのか。多くの参加者は彼を単に「良い人」のように捉えたと思うのだが、僕は違った。彼は理解していると思った。
なぜ、僕がそんな風に感じたのか、その答えは簡単だ。
僕自身がアトピーの患者だからだ。
幼少期からアトピーだった僕は、皮膚科に通い続け��ずっと治療をしてきた。しかし、大学が終わる年齢の今になってもアトピーは治らず、治療を続けている。僕のアトピーはそれほど重いものではないが、これは僕が自分の体調を管理しているからだ。だから、あまりに忙しく、食べるものや睡眠をないがしろにしてしまうと、全身に症状が出てくる。こうなると、外に出るのも嫌だ。
こういったことは、友人に相談することはない。多くのアトピー患者がそうだろう。だから、一人でなんとかするしかない。 アトピーは外見に症状が出るため、悪化すると精神的にもキツい。
もちろん、そういったことを羅列して、「ああ、自分は不幸だ」などというつもりはない。ただ、彼のビジョンを理解するにはアトピーに対するこれくらいの認識が必要になる。彼はアトピー患者のことを深く理解し、どうすればぞの不安や悩みを取り除けるのかをわかっていた。
僕は一人の患者として彼の考えるビジョンに共感したし、起業家としてもその熱意を尊敬した。
そして、自分の進めるプロジェクト以外に、何か課題解決に取り組みたいと思っていた僕は、彼のプロジェクトに参加したいと考えた。
その時簡単なチラシぐらいしか作った実績のなかった僕だが、デザイナーとして参加したいと彼に申し出た。それは、思いつきのようなものだった。
アトピクに参画したことで、少しずつデザインをやるようになってきた。フリーランスのように、毎日いくつもの案件をこなして生活しているわけではないが、プロジェクトの内部に入って中心メンバーとともに進めることができるので、僕には合っているんだろう。
今では自分からアプリのUI/UXデザインをやるといったり、アイコンの作成をやるといったり、かなり無責任な動き方をしているが、このプロジェクトに参画することで、それができるようになったのだと思う。
これからもアトピクに、一人の患者として、一人のプロジェクトメンバーとして、一人のデザイナーとして、力を尽くして行きたいと思う。
それから、どんどんいろんな分野のデザインに挑戦して行きたいと考えている。
まずはその布石を打っていこう。
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あとがき
先日、SEEDTREEにて傘のシェアリングサービスを開発中の、丸川照司氏を取材した。
僕は以前、傘のシェアリングサービスについて個人的に構想を膨らませていたのだが、画期的なシェアのシステムが浮かばず結局プロジェクトとして動く事はなかった。実際、僕の自宅には未だにビニール傘が十数本ある。これは、いつかシェアのプロジェクトが動き出した時に使えるよう、飲食店などから回収してきた傘たちだ。
しかし、自宅に十数本の傘があれども、出先で急な雨に見舞われれば、新たな傘のメンバーが加わることになる。その度に僕はお金を払って新たな傘をリクルートしてしまうので、どんどんその数は増えて行った。そんなこともあって、僕の家の前には多くの傘が積まれることになった。この傘たちがいつかシェアされて社会で活躍する日を願ってやまない。今彼らは完全にニート状態だ。
記事本文でも触れたが、丸川氏の提案するシェアの仕組みはまさに「シームレス」。違和感なく私達の日常に溶け込むように思われた。
そもそも、なぜ傘をシェアする必要があるのだろうか?
雨が降った日、自宅を出て5分ほど歩いた。駅まではあと10分ほどだが急に雨が降り始めた。しまった、傘を持ってくるのを忘れてしまった。走って駅まで行くのも一つの手だが、この雨ではきっと着く頃にはずぶ濡れになってしまうだろう。自宅に引き返すことも可能だが、待ち合わせの時間に間に合わない可能性があるので得策ではない。近くのコンビニに入り、店内を見回すと「ビニール傘 398円」が売っていた。自宅には傘があるので、ここで傘を買う必要はないわけだが、駅まで濡れずに行けるメリットを考えればこの価格を払うのも惜しくないかもしれない。逡巡している暇はない。結局そのビニール傘を買って駅まで向かった。待ち合わせの場所は駅の中のカフェだから、電車に乗ってから傘を使うことはなかった。帰る頃には、すっかり雨は止んでいた。
ここで問題になるのが、傘の使用頻度だが、実際に使ったのは駅までの10分。極めて短い時間しか傘は活躍しなかったことになる。
そしてもう一つ問題なのは、室内にいるときも傘を持っていなければならないということだ。当然ながら室内に雨は降らない。この状況では傘は完全にお荷物、私たちの片手を使用不能にするだけの邪魔者になる。
僕たちは無意味に傘を持っている時間が長すぎる。もし、その傘をとても気に入っていて、常に持っていたいという人がいたなら室内で傘を持ち続けるのも納得だ。だがそうでないなら、きっとあなたはこれから、もっと快適に過ごすことができるだろう。
傘は使いたいときに使えれば良い。そして使わないときは手元にあってはならない。
丸川氏の挑戦によって、これから、傘を持ち歩くということは当たり前ではなくなって行くだろう。その状況を丸川氏は、傘が「所有物」から「共有物」になる瞬間だと表現する。これによって傘の利便性が飛躍的に向上する、というのが丸川氏が描くストーリーだ。
インタビューは一定の形式に沿って行う予定だったが、熱く自身のビジョンを語る丸川氏の姿に感化されてか、度々私自身の意見を述べることとなった。丸川氏はそれに対して真摯に答え、自身の考えを語ってくれた。お互いの間を無数のアイディアが飛び交い、しばしば話題はあらぬ方向に飛んで行ったりもしたが、彼のビジョンとその先に見えている社会の姿についてしっかりと聞き出すことができた。
丸川氏は今、様々な人と意見を交換し合い、新たなアイディアを得ることを重要視している。それは我々が考えるSEED起業家にとってもっとも重要なことだ。より多くのブラッシュアップの機会を得て、より多くの視点から自身のビジョンを多角的に見ることによって、今ある障壁は取り除かれ、ビジョンは加速度的に実現に向かって進んで行くだろう。
丸川氏に興味のある方は気軽にメッセージを送ってみてほしい。彼自身もそれを望んでいるし、彼から刺激を受ける良い機会になるだろう。「アイカサ」に興味がある方、意見をお持ちの方。傘シェアのシステムに関心がある人、そして丸川氏自身に興味がある方。ぜひ気軽にコンタクトを取って、互いの考えをブラッシュアップする機会を得てほしい。
アイカサと丸川氏への連絡先はSEEDTREE記事本文にリンクを貼ってあるので、そちらをチェックしてほしい。
そしてもし、まだあなたがSEEDTREEの記事を見ていないなら、一度読んで見てほしい。今回の記事も素晴らしいものだが、過去に取材したSEED起業家たちも素敵なビジョンを持った方ばかりだ。
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僕が密かに進めていたプロジェクト”project_17”
結局ただの遊びである。
最近ではデザイナーとして参画するプロジェクトも増えてきて、小さな自信がついてきた。
だいたい僕はパソコンの前にいて、大抵facebookとillustratorを開いている。
何かをデザインするときの中心的なツールはillustrator、たまにphotoshopやIndesignを使ったりもするけど、やっぱりillustratorが僕には合っている。
最近は様々な書類の作成もwordやexcelではなくillustratorを使う。
デザインをやる上で一番最初に使ったツールだからだと思うが、僕にとっては何よりも使��易いツールとなった。
僕がやるデザインの作業といえばさっき言った書類の作成や、チラシのデザイン、ロゴデザインなどで、今後はアプリ開発のUIデザインやWenデザインもやっていくつもりだ。
やっぱり、ずっとパソコンの前にいるとくたびれてくる。
家にいるときやコワーキングスペースだったら、立ち上がって歩いたり、コーヒーを飲みに出かけることも可能だけど、カフェにいるときはずっと椅子に座ってなきゃいけない。
そこで、僕は息抜きに使い慣れたツールのillustratorで遊ぶことを考えた。
今でもそれは変わらず、結局のところ「遊び」でしかない。
一つのプロジェクトになるまで
そんなわけで息抜きに作ったグラフィックデザインをInstagramにアップするようになった。
もともと僕はアートが好きで、アーティストに憧れていたこともこういった行動に結びついた要因だと思う。
様々な作品を作るうちに、なんだかこれに価値があるように思えてきた。
それはちょっと洒落た言葉で言えば「アートとデザインの融合」とでも言えるだろうか?
僕はその作品を作成しているときの自分を幽体離脱のように一旦自分から離れて客観的に見てみた。
そのときの僕は、確かにデザイナーだったが、アーティストであるようにも見えた。
以前、「アートとデザインの違い」について、僕なりの考えをまとめた記事を書いた。
そこで僕は僕なりにデザイナーとアーティストを定義してみた(今思えば、少し洒落た文章を書こうと努力していたようにも見える)。
そのときの考えは、そのときの僕にとってまったく正しい意見だったのだが、今では「アート」と「デザイン」はほとんど同じなんじゃないかと思っている。
最近表参道や銀座、渋谷などの主要な都市を巻き込んで開催された「Designart」なるイベントを目にした。
あらゆるジャンルのデザイナーやアーティストたちが自身の作品をショップなどに展示し、東京が数日間に渡って一つの大きな美術館のようになる素敵なイベントだ。
この「Designart」という概念は僕にとって非常に新鮮に感じられた。
designとartを区別することなどナンセンスで、それらをまとめて楽しんでしまおうという、そういった風潮を見た気がした。
作品を作っているときの自分も、ある種「desinsrtist」なんて呼べるんじゃないだろうか。
そんな思いから僕はこの活動にかなり大きな意味と価値を見出している。
そしてこれも僕がやるべき一つのプロジェクトだと気付き、
この一連の創作活動を「project_17」と名付けた。
なぜ、17なのか?
僕の作品を見てくれる人はそんなに多くはない。
でも、もし見てくれた人がいるなら「一体どういう理由で”17”なんだ?」と思わ��るを得ないだろう。
これもマグリットがかつてやったような手法を僕なりに真似て名付けたもので、17自体に意味なんてまったくない。
17はただの一つの数字でしかない。
なぜ、17かといえば、僕が好きな数字だからというより他ない。
理由を聞かれても微妙な答えしか出てこないが、あえて言うなら、他のどんな数でも割り切れない存在である素数だから、それからフォルムが素晴らしいから、ぐらいだろう。
ただし、17を表現する手法は数多くある。
16の次で18の前、9+8、7番目の素数。
こういった数学的な表現でなくとも、17本の線で表現したり、四角形を沢山配置して17を形作ったりもできる。
このプロジェクトのミッションをなにか決めるつもりはないけど、
「17という数字を通して様々な表現と視点を探し出す」
という価値があると思う。
しかも、デザインとアートの両方の立場からだ。
結局、これからも「遊び」
これから先も継続的に、ただし「遊び」として続けていくつもりだ。
今は、とにかく多くの人にproject_17という面白い取り組みがあることを知ってほしい。
そしてこれが、アートやデザインの敷居を下げることに少しでも貢献できたら良い。
あとは様々なアーティストとのコラボレーションも見てみたい。
もちろん、それは結構先になるだろうけど。
project_17アカウント
Instagram→project_junana
Facebook→Project_17
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Photo
poRtfoLio 11~20
Instagram→project_junana
Facebook→Project_17
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Photo
poRtfoLio 1~10
これまで作成した作品のうちNo.1~10まで。
Instagramで公開中。
アカウントは、「project_junana」
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SEED IDEA PITCH CONTEST
11/18(土)、僕が運営しているプロジェクトチーム「IDEAis」が主催するイベント"SEED IDEA PITCH CONTEST"が開催された。これは僕たちのプロジェクトがやっと一つの形になったものだ。これまで僕たちは共通のビジョンを持って活動してきたが、何か形に残るものを作り出せたか、と聞かれれば自信をもって答えられるようなものは何もなかった。
ただ、今回のイベントを通して、僕たちは確実にビジョンを一つのリアルなものとして形にできた。
僕のプロジェクトとは何か?
僕が運営していたり、協力しているプロジェクトは複数ある。どれが一番大事ということはない。全てが大事で、全てに意味がある。
”誰もがアイディアを形にできる社会”の実現を目指す「IDEAis」というプロジェクトは僕の考える自然(ナチュラル)な生き方を提案するものだ。100年後の社会では、資本主義が崩壊し、それに代わる統一的で普遍的な価値基準「プロジェクト主義」が現れる。そこではあらゆる社会問題は、個人ベースで民主的に解決される。これが「IDEAis」のストーリーだ。
そのほかにも、Webメディアを通してSEED期の起業家をサポートするプロジェクト、一般的だが誤解されがちな「アトピー」という病気の概念を変えるプロジェクト、「お金」による取引(僕の中では”古い”取引)が「スキル」による取引に大体される社会を描いたプロジェクトなどを進めている。
あとは、デザイナーとアーティストを少しずつかじっている。
これらの詳細については今触れるべきではないと思うので、「IDEAis」が行った素晴らしいイベントについて説明をしよう。
どのようなイベントを行ったのか?
今回IDEAisが行ったイベントを簡単に述べれば、「SEED期の起業家たちがアイディアのブラッシュアップと資金調達を行うイベント」となるだろう。
ただ、これではしょっちゅう開催されているほかのイベントと変わりないので、まずはこのイベントを通して目指すものについて述べたい。
そもそも、このイベントはなぜ開催されたのか?
最初は僕たちIDEAisチームが今応援したいSEED期の起業家たちから様々な話を聞く所から始まった。多くの起業家は素晴らしいアイディアを持っていながらも、それを形にできてはいない。そしてその原因として、様々な障壁が存在していることが分かった。その中でも、代表的なものは「アイディアの壁」、「資金の壁」、「仲間の壁」の3つだ。
「アイディアの壁」は”あと少し革新的なアイディアさえあれば次に進める”というアイディア不足の状態を作り出す。
「資金の壁」は、”自分のアイディアを形にする上でそのための資金がない”というように起業家たちの活動に制限をかける。
「仲間の壁」は、”自分のアイディアを形にしたいのに、共にそれを目指す仲間が見つからない”という孤立した状況を作り出す。
僕たちはこれらの壁を取り払うことで、アイディアを形にするのはもっと簡単になるのではないかと考えた。そして、その先には誰もがSEED起業家のように、アイディアを形にするために活動をするようになる社会を見た。
今回のイベントは主に「アイディアの壁」と「資金の壁」を取り払うことを目的にしたものだ。そのために、自身のアイディアを述べてそれをブラッシュアップし合うプログラムと、自分のアイディアを応援してくれる他の起業家たちから資金を得ることができるプログラムを考えた。
簡単な流れはこうだ。
まず、起業家たちには自分のアイディアを短い時間でピッチする時間が与えられる。ここでピッチするアイディアは、「ビジョン」という言葉に非常に近い。自分が進めているプロジェクトの詳細についてではなく、その先に目指す世界について語ってもらう。
次に、少人数のグループに分かれてピッチしたアイディアをブラッシュアップし合う。少人数のグループに分けたのは少ない人数の中で濃密なブラッシュアップを行ってもらうためだ。ここでは自分のビジョンを深掘りして、何が必要か、何をすべきかについて再度考え直すことを目的としている。
そのあとは、グループ等には別れずに個人同士でアイディアを出し合うプログラムだ。これは様々な角度からのアイディアを得ることで、自分にはない視点から自身のアイディアを見つめることを目的としたものだ。参加者は付箋に自分のアイディアを記入して、それを各参加者のホワイトボードに貼っていく。こうすることで、イベント終了後もその時もらったアイディアを忘れずに記録することができる。
最後に再びピッチを行う。このピッチは最初のピッチとは大きく異なる。実はこのプログラムの前に投票を行っている、それはこれまでのプログラムを通じて自分が応援したいと思う起業家を選んで投票するもので、ここで多くの票を集めた5名のみが最後のピッチに臨むことができる。もう一つ違うのは、最後のピッチの時間だ。最初のピッチは1分程度の短い時間で行うのだが、このピッチでは5分間の時間が与えられる。5分あれば自分のアイディアの詳細から、今取り組んでいること、そしてその障壁となっていることまで、事細かにピッチすることができる。
最後のピッチで最優秀賞をとった参加者にはプロジェクト運営資金として、かなり高額な資金がCAMPFIREから贈呈される。

強力してくれた人たち
そういえば、今CAMPFIREと言った。そう、今回のイベントにはCAMPFIREをはじめ、多くの協力をいただいた。
株式会社CAMPFIREは資金提供をしてくれた。これによって最優秀賞として「CAMPFIRE賞」を設置することができ、起業家に十分なプロジェクト運営資金を贈呈することができた。また、CAMPFIREの代表、家入一真氏にも当日お越しいただき、参加者の方との意見交換を行っていただいた。
Samurai Incubate Inc.も資金提供をしてくれた。本イベントでは最初の投票結果に応じて資金が分配されるのだが、Samurai Incubate Inc.の協力によって、その額は大幅に増額された。
あとは渋谷100BANCH。ここはPanasonicとLoftwork、CAFE CAMPANYが手を組んで100年後の未来を変えるプロジェクトをサポートする実験区だ。100BANCHが掲げるビジョンは、僕たちIDEAisのビジョンとすごく近いところにある。そんな彼らは、イベントの会場提供と集客に協力してくれた。

そのほか、新たな働き方を提案するSpacelook株式会社はスタッフを派遣してくれた。Spacelook株式会社は高校生が立ち上げたすごくクールな会社で、「デイワーク」を通して働き方そのものを変えようとしている。
今回のイベントは多くの協力があって開催できたものだ。協力いただいたすべての方に感謝している。
さあ、イベント開始だ!
実際のイベントについて述べるなら、本当に描いていた通りに目的が達成された、というのが一番正しい。
最初のピッチはかなり短かったが、参加者はその時間の中で自分の中にあるビジョンをしっかりと述べることができていた。どのビジョンも人を惹きつける魅力に溢れたもので、もっと詳しく聞きたいと思うものばかりだった。

少人数でのブラッシュアップでは、本当にすごく濃密な時間が流れていたように思う。起業家は皆、話し上手である以前に聞き上手だ。誰かの考えを聞く時の目線は真剣そのものだった。ほかの起業家の考えを自分の中に当てはめて、様々なアイディアを生産していることは一目でわかった。
次の個人同士の気軽なブラッシュアップは、やっぱり面白かった。みんな思い思いの参加者とアイディアの交換をし合い、互いの考えをぶつけ合う。そこを通り過ぎると、すごく面白いアイディアが聞こえてくるの���、僕はこのプログラム中会場内をくまなく歩き回っていた。会場には様々なアイディアが飛び交い、僕はそのどれもを虫取り網か何かで残らずキャッチしたい気分だった。

最後のピッチは全員が参加できるものではなかったので、残念な思いをした起業家は多くいただろう。しかし、選抜された5名のピッチが始まると、皆一様にまっすぐで真剣な瞳を登壇者に向け、その話に聞き入った。おそらく5分という時間は、本当に自分のビジョン達成を目指して活動していこうという起業家でなければ消化しきれない時間だ。その意味では、登壇してくれた起業家は皆、本気でアイディアを形にしようとしている人たちであった。
イベントは最後の最優秀賞を発表して幕を閉じた。
この模様については別のプロジェクトで運営しているWebメディア、SEEDTREEでも記した。
でも、こっちの文章の方が、もっとわかりやすくて僕個人の感想も入っているので面白いと思う。
この先に目指すもの。
さて、ずいぶん長々と書き連ねてしまったが、イベントは大成功だったと言える。
終了後には多くの起業家から感謝の言葉や、次回の開催を期待する声が聞かれた。もちろん次回以降もこのイベントは開催する予定だ。ただ、次回はよりIDEAisのビジョンにマッチするようにレベルアップさせて開催するつもりだ。
今回のイベントは僕たちIDEAisにとっては一番最初、僕個人にとっては主催するのは人生初となるイベントだったが、想像していた以上の成功を収めた。
この調子で、改善すべき部分などを洗い流してさらなるレベルアップを目指したい。
そしてもちろん、イベントの開催と運営のみが僕たちの目指すIDEAisの姿ではない。今は様々な場所で、様々な人にIDEAisが目指すもの、また僕自身が考えることを発信して、協力者やファンを増やしていく必要がある。
多分、僕たちのプロジェクトは少し異質なものになる。
それは僕たちを定義することができないからだ。とにかく、人間は何かを言葉や数字で当てはめて定義したがる。でも、僕たちは既存の言葉や概念では括ることのできないチームになっていくだろう。それは、僕たちが今法人ではなく全くの個人ベースで動いていることにも起因している。
まさしく、今のIDEAis自身が新たな働き方、生き方を提唱しているのだが、その話はまた今度改めて。
ひとまず、今は次回の開催に向けて様々な仕掛けを施してく段階だ。
何か共感することがあれば気軽にメッセージ等を送ってほしい。
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アートはどのようにデザインされるべきか?
アーティストが活躍できる社会は、どのようにデザインされているべきだろう?
今、僕と同い年ぐらいの人がアートの道に進むには、相当のリスクを負わなければならない。 しかもそのリスクは、利益として当事者に返ってくる類のものでもないような気がする。 街中にアート作品が展示されたり、様々な広告でアートが使われるようになってきた。 それでも、「個人でアートを買う」という動きは、未だに見受けられない。 誰もが売り手、買い手の両方に立てる時代になった今でも、それは変わらない。
本屋で本を買うことも、アートを買うということではあるが、実際に作者からアートを買っているのは出版社であって、個人がそのままアートを買っているわけではない。
そうなってくると、もはや個人がアートを購入するという事例は、お金持ちが自宅に飾るための絵を買うぐらいしかないんじゃないろうか?
もっと、アート作品が売られ、買われる状態を創るべきなんだろうか? それとも、そもそもアートは貨幣換算すべきものではないから、今の状態が正しいのだろうか? アートが社会においてどうあるべきか、はたまた、アーティストという存在がこれからの社会においてどうなっていくべきか。
僕たちはそれをどのようにデザインしていけば良いのだろうか? 社会におけるアートという存在は、どこまでデザイン可能なのだろうか?
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