#3時間全く漕がず
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ari0921 · 2 months ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和六年(2024年)10月8日(火曜日)
    通巻第8449号
 嘘と偽善と贋物は中国四千年の文化である
  血縁と地縁いがいは何も信じない硬直さ、他人は裏切りの対象
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 野村総研(NRI)香港に『次の大国 中国』(1994年、サイマル出版会)の著者でもあるウィリアム・オーバーホル���が在籍していた時代。彼とはハーマンカーンの愛弟子時代からの知り合いだったので、香港へ行く毎に議論に出かけた。97年香港返還前にも現地取材へ『諸君!』の特派で赴いた。
 筆者は中国の躍進という表面的な事象より、本当に中国の庶民、とくに奥地の農民の暮らしから判断しても沿岸部はのびる可能性は高いが、アンバランス解消は不可能であり、全体として中国が先進国入りすることはないとした。
反対にオーバーホルトは、楽観論だった。
 当時の野村證券グループは中国に積極的に関与し、中国企業の株式に強気な予測をたてていた。
 しかし楽観論者が立脚する中国の公式データはまったく信用出来ないシロモノである。
 中国の若者の失業率が、2024年9月に18・8%と公表され、それほどの不景気かと驚いた人が多いが、これは真実を反映してはいない。低すぎる数字だからだ。
 中国の失業率の定義は「過去3カ月間、求職活動をしており、適切な仕事があれば 2 週間以内に働き始めることができる人」である。 調査対象は、12万戸で、訪問調査をもとに算出されている」
つまりサンプリングが少ない、地域の選び方は恣意的であり、問題は「求職活動をしている人」を如何にとらえているのか、ぶらぶらしている人間は算定されず、農家に戻った大量の建設労働者は農民人口に置き換えて失業の範疇に加えていない。
日本はハローワーク速報でも雇用情勢がつかめるし、失業保険需給状況からも正確な数字がでてくる。
中国の「国家統計局」なる機関は1952年に国務院直轄の行政機関として発足した。だから国務院総理(首相)が適宜適当に数字を改竄したり、地方政府幹部が北京に陳情に来て、統計局長に「良い数字にしてくれ」と賄賂を運ぶと、数字は上方に訂正される。国家統計局長が愛人とフランスへ高飛び寸前に北京空港で逮捕される事件も起きた。賄賂は桁外れに大きかったからだ
「あんなもの(中国の経済統計の公式データ)を信用しているのですか」と駐北京米国大使に発言したのが、李克強首相その人��ったことを私たちは鮮明に思い出す。
2024年度の中国GDP成長率が5・2%で名目4・6%と発表されたが、こんな作り話を報道する日本のメディアはどうかしている。「三割水増しが常識」というのが筆者の持論だが、「水増し」(中国語は「灌水」)ではなく「捏造」だと石平がいう。
 中国人社会は嘘で成り立つ国であり、誰もが産まれてから死ぬまで嘘をつく。朝から晩まで、いや夢のなかでも嘘をついている。そうしないと生きていけないからである。
 嘘と偽善と贋物は中国四千年の文化であり、血縁と地縁いがいは何も信じない精神性の硬直姿勢はかれらの宿痾と言って良い。
となると役所も役所なら企業経営者にあっては三重帳簿が常識で、税務署提出用、銀行と株主総会提出用、そして自分用である。
 官僚は収賄、企業側は賄賂、これらが社会の潤滑油である。だから毒入り餃子、石灰入りのペットフードや薬品、グッチ、ルイビュトンの贋物なんぞ朝飯前。公共工事は政治家の利権だから手抜き工事は当たり前。橋梁がおちたらなかに鉄筋ではなく生ゴミがはいっていたっけ。そしてばれても決して謝罪しない。つぎはもっとうまくやると誓う。デジタル人民元最大の目的は、じつは偽札対策なのだ。
 
 警察とヤクザはグルである。これを「十警九黒」、あるいは「警匪一家」という。贋物商人らの認識では「無奸不成商」(阿漕に稼がなければ成功しない)となる。筆者が講演でよく喩えるのは「中国では石川五右衛門と長谷川平蔵は同一人物なのです」
 
 日本人が美徳とする「知行合一」の発想は中国人にはない。「陽明学」は中国で生まれ、日本で純粋培養された。中国で陽明学とは「殺人の哲学」として忌み嫌われている。
したがって「文武両道」は理解不能、中国では「尚文卑武」である。だから利にさとい権力と結んだ商人が出世し、軍人は「最低の職業」となる。軍のモラルは信じられないほどに低い。このような社会構造の中国が、今後も経済成長を持続させるにはたいそう困難をともなうだろう。
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xx86 · 1 year ago
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起きる機会を見失ったものたち
5年前ぐらいからTumblrの下書きを溜めるようになり、気づいたら下書きだけで200を超えそうになったので、今更出せない記事をごちゃまぜにしてみた。ある意味総集編。
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このあと何しようとなった時、美術館を提案してくれる人って素敵だなと思う。その時コンラッドにいたというのもあると思うけれど。あの辺りは美術館が多い。
傷ついているのはわたしで、痛いのはわたしだとずっと思ってきた。だけれど、あなたの反応を見てああわたしが傷つけたのだ、と思った。恐らくわたしが大切な人にされたら1番傷つくやり方でわたしは線を引いた。
この前名駅に行ったら袴姿の女の子達がたくさんいて、ああ卒業式の季節かと思った。金箔も水引も出てきた当時誰がやるんだこれと思ったけど、見慣れるとカワイイし尖っててクールでいい。私たちの卒業式の頃の流行りはドライで、ドライってやわ過ぎてぽろぽろしてフケみたいになるの、なんか嫌だったから。
卒業式、受付が始まった頃ヘアセットが崩れて、慌てて着付け会場だった近くのホテル電話して、小走りで駅を逆走していたら、丁度卒業式会場に向かうところだった友人にそっちじゃないよと手を取られたの、懐かしくて愛しい思い出だ。あとは宗教に洗脳された同じ学年の子が校長先生の話の後急に壇上に上がって話はじめたのが怖かったのが強烈に残っているぐらい。
全然食べたくないどん兵衛のニンニクバター味噌にお湯を入れる。全然食べたくない味がした。お湯を入れすぎたのか、若干味が薄い。最後スープを流したら容器の底から信じられないほどみじん切りにしたニンニクが現れてゾッとする。すぐさま水切りネットを変える。
段ボールを開けたらすべておなじにおいがした。洋服もスタンドライトも山吹色の土鍋も。私の部屋は、私はこんなにおいだったのだな、と思う。
お酒を飲んで、帰りたくなくて、近くの公園でアイス食べて花火してブランコを漕いですぐ気持ち悪くなって笑った。夏。ブランコを勢いよく漕いでヒールを飛ばして笑いながら拾ってくれるところまで含めて夏。ブランコ漕いだのなんて何年前だろう、と思いながら去年もそういえばブランコを漕いだ事を思い出した。夏だった。高台にある、動物のいる細長い公園。
深夜の公園は酔っ払った若者か、犬の散歩をしてる人か、ダンスをしてる人しかいない。気づいたら2時を過ぎていて、それぞれタクシーを呼んで帰る。今日もタクシーの運転手に近くてごめんなさいね、って言うんでしょと言われてよく分かってるなあと嬉しくなった。まだわたし達出会って1ヶ月ぐらいしか経ってないのにね。
やめられた��輩や上司達がずらりと並ぶ飲み会で、黙々と枝豆を食べなが周りのペースに合わせてビールを飲んでいたら、現先輩方から怪訝な顔をされた。やだしおらしいの変だよ、え?松田さんっていつも違うの?、全然違いますよーわたし達のこと先輩って絶対思ってないですもん、そうなんだ意外〜。ガヤガヤした店内に甲高い先輩の声が響く。まん丸にした目を向ける上司に言える言葉もなく、ただ苦笑いを返した。自分のつまらなさに苛立つ。
ちなみにいつものわたしと言うのは、先輩方にほぼタメ口で話し、名前にちゃん付けで呼び、飲み会では先輩に取り分けてもらい、みんなの制止を振り払って日本酒を煽るような女である。こんな後輩を可愛がってくださる先輩達の心の広さたるや。平伏してしまう。大好き。
もちろん先輩方にも最初からこんな態度を取っていたわけではない。2年目までわたしは趣味は裁縫とおかし作りで、ピンクのフリフリのワンピースを着て、淑やかでおとなしい子だと本気で信じられていた。そんな事は一言も言った事はないけれど。
わたしは所謂猫かぶりというやつだ。猫かぶりというか、初対面で慎重にいくタイプだと言って欲しい気もする。23年間生きてきて、わたしの性格というのが個性として簡単に受���入れてもらえないことを痛いほど学んできたから。わたしはどの学校でも1年生の10月ぐらいまではろくな思い出がない。どれだけ己を押し殺してひっそり生きているつもりでも、強烈すぎて受け入れられなかったと言われたりする。
わたしはWikipediaにつらつらと肩書きが沢山連なって結局何をやってる人なのかよく分からないって思われたいの、とあなたに言ったら君らしいねと穏やかに笑ってくれた。わたしらしいってなんなんだろう。
運命の恋なんて転がっていないし、運命の人なんて待っていたところで迎えにきてくれやしないのだ。
あなたが第2の故郷が軽井沢だというので、わたしの第2の故郷はどこにしようかなと言ったらお前は鎌倉やろ、と返してきた。よく覚えてますねと驚き半分であなたの顔を見たら、あたりまえやん何年の付き合いやと思っとるねんと得意げに言われたので、強めに叩いておいた。本当にそういうどうでもいいことばっかり覚えているのだ、この人は。たいせつなことは全部わすれてしまったくせに。
怖い夢か過去に大好きだった人と幸せになる夢ばかり見るから寝るのをやめた。頭が重たい。布団はちっともあったまらない。高速道路がすぐ近くにあるこの家は、深夜になるとよくトラックの走る��がする。朝5時をすぎるとスズ��が鳴きだす。朝8時半になるとびっくりするような声をあげる子供達が外で遊ぶようになる。9時を過ぎると1時間おきにお寺の鐘が鳴る。この3週間で全部覚えた。
隔離されていた間に季節は確実に春に向かっていて、私はそれが悲しかった。片付けても片付けてもすぐ散らかる部屋の片隅に座り込んで春ってろくなことないから春なんだよなあと思う。ほんっとにろくなことない。部屋のファンを回す。すぐに夏が来るのだろう。きっと今年のゴールデンウィークは暑い。菜の花をダメにしてしまったのでひどいにおいがする。夏になるし気をつけなければ。
本当はもうあの時死んでしまいたかった、いや消えてしまいたかったよとあなたに言うと、そんなの俺が許さないと真っ直ぐ目を見て言ってくれた。ばかみたい。あなたはわたしが消えてしまっても別に何にも失わないのにね。わたしはあなたが死んでしまったら失うから死なないで欲しい。二度と会えなくなってしまっても、あなたがこの世界のどこかで息をしてると思えればわたしも生きていける。
新しい仕事何にしようとDODAをスクロールしていた時、どうしようもなく泣けて泣けて仕方なかった去年の夏。15の時から夢見て20で叶えて、たったの4年で諦めなければいけなかった夢。音が鳴らない黒のぺたんこ靴。オレンジ色のスカーフ。資生堂のルージュルージュを引いて無理やり鏡の前で笑顔を作る瞬間。しょっちゅうボリュームを調整しなければいけないインカム。もう二度とあの仕事は出来ないような気がするし、あの仕事をしたいのかと言われると分からないけれど、懐かしくて思い出す度胸が締め付けられる。
精神が安定している時は自分の精神が弱っていることなんてひとつも思い出さないのに、まるでアドレナリンが切れたスポーツ選手よろしく一定期間精神が落ち着いたらきちんと一定期間精神をおかしくする。まあでもだいぶ冷静になってきたんじゃないだろうか。冷静なふりが出来るようになったの間違いかもしれない。
世界が混沌としている今、こんなことでだめになっている私は贅沢なんだろうか。先生に言われた通りとんぷくを飲んだせいで今日は1日だめにした。だからあの薬は嫌い。嫌い嫌い嫌い。薬なんて大嫌い。大嫌いなのに一向に私の飲む薬は減らない。やんわり拒絶されているような気持ちになってへこむ。
お金で買えない幸せがある、と言われる度鼻の奥がツンとなる。知ってるよ、それが欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて、でも無理だったからお金で買える幸せを片っ端から手に入れていたのだ。
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side-i · 3 months ago
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9/4
久しぶりに毎日日記を書いてみようか。質が下がることは承知で、しかしそれを恐れずに、3週間くらいやるか。1週間くらい溜めてから投稿するのがよいか。
ここ数日、仕事終わりに3駅分歩いて帰ってみている。だいたい50分くらいだが仕事のクールダウンにちょうどいい長さだ。ただし家に着くと本就寝前に一眠りせずにはいられず、結果的��夜寝つきづらくなるのが難点。
むかし飲み会で、酒を飲んでいないのに飲んでいるようなノリでいると言われたことが何度かあるが、もしかして自分はうっすら酩酊状態で生きているのではないかと疑うことがある。
9/5
ふと、何年も溜め込んでいた決して作ることのないレシピのスクショやブックマークを全部消した。一時期料理にハマっていたが、今はカレーと麻婆茄子と魯肉飯の3つで回している。手順を覚えてしまって楽というのもあるが、同じものを食べ続けるのがスキなのだ。
食べるものに一切気を遣っていないが、よく噛んで食べることをたまに心がけている。
9/6
先週の日曜日はまだ案外暑かったが、月曜日から夏が終わった感じがある。それでも意外と長い夏だった。日本の夏の終わりはようやく涼しくなる嬉しさと、なんか切なさの混ざった感慨があるが、こちらではただの天候の変化としか感じない。これは季節全般に言える。それぞれの季節に積み重なった思い出があってこそなのか?でもやはり日本では季節とその移り変わりに意味を持たせる文化が強いと思う。
9/7
有給が20日付与されているが、せいぜい10日分くらいしか使いきれる見込みがない。取ろうと思えば断られることはないが、結局休んだ分あとが大変だし、休んでやりたいこともあまりないので別に消化しなくてもいっかと思っている。情で働くよ。
仕事が楽しくなくてはいけないとも思わないし、忌み嫌う対象であって当然とも思わない。楽しくも嫌いでもない生活の自然な一部だ。もともとあまり世間に左右されるほうではないが、この何年かで私は私の世界で生きるので、、というマインドが完成に近づいている。不要に人に干渉されない環境に生きているのも大きい。
9/8
最近はシングルスカルを漕ぐ機会がたくさんあって楽しい。シングルスカルはボートの全てを教えてくれる。うまくいくのもいかないのも全て自分次第。オールをスッと水に入れてパシッと出す一連のシークエンスが綺麗に決まると禅(Zen)っぽい感じすらある。良い漕ぎは水に乗る感覚と音に出る。日常のなかで我を捨てて目の前のことに最も没入できるのはボートを漕いでいるときだ。
9/9
こんなのはロンドンにいても初めてだが、10人くらいのピンクに身を包んだ20代半ばくらいのクソ女集団が電車に乗り込んできて大熱唱を始めた。しかも足踏みのおまけつきである。
周りの乗客はというと、ちょっと苦笑いをしたりおいおいやばいのが来ちゃったよ?と困惑の表情をするも干渉しない。ロンドン��電車の乗客は全体的にジェントルでありがたいが、こういうときに日本だったら誰か一人くらいジジイが対抗してキレて冷めさせてくれたんじゃないかと、変な形で日本のキレジジイを懐かしく思った。おれもどこかの駅で一人づつ抱えて車外に追い出そうかとくらいまでは思ったので、いずれはキレジジイの役を担うことになるかもしれない。
9/10
また風邪をひいて仕事を休んだ。気温の変化のせいだと思うが、1ヶ月前にも風邪をひいたばかりなのでえーッという気持ちだ。人生のうちで1ヶ月で2回も風邪をひいたのははじめてだと思う。
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kennak · 7 months ago
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◆報道後も3億円かけ100トン除去 都は、2019年以降も2度にわたって、さらに計17トンのカキを除去。2021年夏の東京五輪は乗り切った。 ただ、カキ問題はこれで終わりではない。 都は、五輪後も4回にわたって計83トンのカキの除去を余儀なくされた。4年前に東京新聞がカキの大量発生を報じた後も、カキの除去に計3億円の経費がかかっていた。 このままだと、またカキが付着してしまう。 海の森水上競技場は、五輪のレガシー(遺産)として、五輪閉幕後も解体せず活用。一般に開放するほか、国際大会や全国大会の誘致を目指していた。 五輪会場の後利用のために、カキ対策は避けては通れなかった。 ◆「カバーに効果」でも20年間で14億円 都は2021年7月から専門家を招き、抜本的な対策を検討し始めた。 候補に挙がったのは、 ①海水を電気分解して貝の付着を抑える次亜塩素酸を発生させる ②装置にカバーを取り付ける ③定期的に装置をワイヤーで吊り上げる ④消波装置を石積みで下から支える の4つの案。 5回にわたる検討会議の結果、消波装置にカバーをかけてカキの付着を防ぐのが最も費用対効果が高いと結論付けた。装置の編み目をビニール製のカバーで覆うことで、稚貝をくっつきにくくする狙いだ。 専門家が「最も経済的な案」と判定したカバー案。それでも消波装置のうち316基に付けるとなると、その費用だけで1億5000万円がかかった。 これでカキ対策も万全と思いきや、「カキの発生を完全には防げない」(施設の運営を担当する東京都スポーツ施設部)というのだ。 カキの幼生は肉眼では見られないほど小さく、カバーの隙間から消波装置に付着する可能性が高い。東京都スポーツ施設部の浅田宗(そう)・前施設整備担当課長(3月当時)は「今後も年に1回は装置を陸に引き揚げて清掃する必要がある」と話す。 すでにカキ対策に6億円を投じている都だが、カバーを設置しても2042年までの20年間で計14億円かかるというのだ。 試算額に、浅田課長は「正直、決して小さな額ではない」と認める。「当初想定しなかったカキの大量発生があった中で、健全な競技環境を整えなければならない。必要最低限の費用で、効果的な対策をとるよう知恵を出して努力している」と理解を求める。 ◆「負の遺産」強化合宿は今も戸田で 「すごい��そんなにお金がかかるとは…」 カキ除去に14年間で20億円かかるとの都の試算に、埼玉県ボート協会の和田卓理事長は一瞬、言葉を詰まらせた。 和田氏は、海の森水上競技場の建設前から「風や波が強く、競技に不向きだ」と疑問を投げかけてきた。 和田氏の指摘に、「波や風の対策を講じるので問題ない」と言い張ってきたのが東京都だった。その結果、五輪が終わっても莫大な維持コストが都民にのしかかることになった。 和田氏は「当時、懸念していたことが、そっくりそのまま現実になった。競技に適さない場所なのに無理やり作ったツケだ」と憤る。 和田氏によると、海の森水上競技場ができた今も、1964年東京五輪のボート会場だった「戸田漕艇場」(埼玉県戸田市)で強化選手の合宿が行われているという。 都は、海の森水上競技場を戸田漕艇場に代わる新たな「ボートの聖地」にしたい考えだ。しかし、五輪後、海の森が一般開放されても、首都圏の大学や社会人の練習拠点は戸田漕艇場に残ったまま。 和田氏は「海の森水上競技場は、海水なので舟が傷みやすいし、消波装置があっても波が高い。使えない上に、たくさんの税金を垂れ流すだけの負の遺産でしかない」と言い切る。 波を防ぐ装置に発生した大量のカキを除去するため、今後も20年間で14億円かかることが判明した海の森水上競技場。一方、波とともに懸念されていた強風対策でも毎年、費用がかかることに。そのコストたるや…。 ◆100年前は東京産が全国トップ カキの産地といえば、広島県や宮城県が有名だが、東京にそのイメージはない。農林水産省の統計では、東京都の養殖カキの収穫量はここ20年ほどゼロが続く。 なぜ大量発生したのか。明確な原因は、都も分からないという。 文献を調べてみると、意外な事実が分かった。 実は古くから、東京湾の台場や葛西、大森周辺には多くの天然ガキがいた。明治期には養殖も盛んになり、昭和初期にかけて、東京都がカキの生産量や金額で全国トップだった時期もあった。 「東京都内湾漁業興亡史」にまとめられた東京都のカキの生産高。明治~昭和初期には全国トップだった時期もあった 「東京都内湾漁業興亡史」にまとめられた東京都のカキの生産高。明治~昭和初期には全国トップだった時期もあった 東京都漁連内の団体が1971年に発行した「東京都内湾漁業興亡史」によると、東京都は1905(明治38)年に養殖カキの生産量が全国1位。1926(昭和元)年と1931(昭和6)年には、天然カキの販売金額も、それぞれ全国1位だった。 東京都水産課の担当者は、「隅田川や荒川、江戸川、多摩川をはじめ多くの河川から水が流れ込む東京湾は栄養が豊富で、本来は漁場としての生産性が非常に高い。 高度経済成長期に海面を埋め立て、都市開発を優先して漁業権を廃止するまで、東京都はアサリや��マグリ、ノリなども含めて漁業が盛んでした」と説明する。 漁獲されていなかっただけで、これまでずっと東京湾の至る所にカキは存在していた。 海の人工構造物にすみ付きやすいカキにとって、突如出現した海の森の消波装置は表面の編み目がくっつくのにぴったりだった。 陸揚げされた消波装置の編み目に付着したカキ殻=東京都江東区で 陸揚げされた消波装置の編み目に付着したカキ殻=東京都江東区で ◆新しいご当地グルメに? 今回大量発生したのは、カキの中でもマガキと呼ばれる種類。国内で一般的に流通し、生食やフライ、鍋物などでよく食べられている。 予期せぬ事態を逆手にとって、ご当地グルメとして売り出すことはできないのか。 カキの衛生基準に詳しい、日本牡蠣協会オイスターズジャパンの三村大輔代表(41)は、「健康上の懸念から、難しいでしょう」ときっぱり言う。 「東京湾には水質がきれいで現在も漁業が行われているところもある。あくまでも競技場周辺のエリアの話だが、埋め立てで水質が悪化したことに加え、大雨などでオーバーフローした下水が河川を通じて流れ込むことがあります。病原性大腸菌の数が多く、食用には適しません」 味に関しても、評価は厳しい。 「そもそも国内で流通するマガキはほぼ100パーセント養殖物で、味や形を整えるために生産工程が管理されたもの。カキは海中の浮遊物を取り込むので、そのエリアの海のにおいがそのまま食べたときの香りやにおいになる。佃煮にしたらまだごまかせるかもしれませんが…たぶん、おいしくないですよ」
まだ続いていた東京五輪の戦い…相手は「カキ」 東京都が億単位のカネを投じて延命する「負の遺産」:東京新聞 TOKYO Web
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ichijimak · 8 months ago
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24/3/26 Big day
ついに初めてのレースの日を迎えた。高校のときコックスとしては何度も試合に出たが、漕手としては初めてだ。しかも距離が異次元の6.8km。高校のレースはいつも1kmだったのでその感覚からするともはや別種目。漕ぎ切れるかどうかも未知数。今回のレースは自分がストロークで、自分がリズムを作らなきゃいけないので責任がある。
別に何もかかっていないので緊張こそしないが、やはり当日の朝はレースがある日の独特のソワソワ感を久々に覚えた。せっかくなので人生で初めて弁当を作ってみる。その辺に売っている特にうまくもないサンドイッチでは力が出ないというものだ。
最近まで知らなかったが、ボートのレースには2種類あって、一つは何艇も並んで止まった状態から同時にスタートする「レガッタ」、これが自分が親しんでいた方。今回は一艇ずつスピードに乗った状態でスタートラインを通過し、タイムを記録する「ヘッドレース」というものだった。
今回は300艇以上がエントリーしていて、我々はその最後の出順だった。エントリーNo.1がスタートしてから1時間半くらい延々と他の船がスタートするのを艇上で見届ける。その間あられが降るなど過酷。
いざ始まると周りに船はいないし、最初から最後まで独走なので練習の延長のようだったが、なんかアドレナリンが出て普段より力が出た。途中沿岸から応援などもあって楽しい。
なんとかトラブルなく最後まで漕ぎ切った。しかしその後今度は同じ道を逆流のなか戻らなくてはいけないのが何よりしんどく、行きの2倍以上の時間をかけて戻ったころには足が棒。
まぁ初めてのレース、思ったよりまともに漕げたねとみんなでそれなりに満足して長い1日を終えたが、その晩レース結果を見たらなんと完漕した全クルーの中でビリだったという衝撃的な事実が発覚した!ビリ!?
ここから必ず這い上がる!
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tutai-k · 11 months ago
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2023年が終わるらしい
2023年のはじまりは、3月から転職も決まっていたし、持病の悪化による日常生活への不安もあったので、2月いっぱいまで休職した。 療養もかねて尾道に一週間滞在したが、出発の日に地元が大雪ですっころび、カメラのレンズを破壊するという暗黒の始まりを告げるなど、つらいことがたくさんあった。 2月も、結局、休養することがないまま、次の職の仕事をずっとしていた。どこかで休みたいと思いながら、全く休めないまま、2023年が終わりそうだ。 意外だったのは、誰の力も金銭的援助も借りずに十年近くひとりでやってきたこと、というのは、なんだかんだ「使える」ということだった。通用するんだ、これが。というおどろきは大きかった。手応えがあったとか、結果が出たとか、そういう意味ではなく、するっと不安なくやっていける。いままでやってきた、他人の顔色をうかがい、他人の動作に合わせて平均的に働くというのとは違った。積んできたものが、無駄にならない機会に巡り会えてよかったと思う。 休みたいと思いながら、休めないでここまで来たし、年始の休みも8日まであるけど、いろいろと休めないことが多い。雇用契約のある労働は休みだが、個人的な仕事はいくらでもあるし、なんなら山積みになっている。九日間で終わるのだろうか…と思いながら一日目をもう半日終えてしまった。(2024年のしいたけ占いには、おまえはだいたい気づいたら働きまくっていて休んでない、みたいなことが書かれていてちょっと悲しかった)
毎年毎年、何を年間のまとめに書いていただろうかと思うわけで、今年も悩んでいるわけだが、全然答えが出ない。とりあえず、読んだ本とか作った本をまとめていたような気がするから、それをやる。
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★作った本★ 1月 『山梔の處女たち』 pixivのいつだったかの百合文芸で佳作をもらったオメガバース百合「首輪とロマンス」、恋愛/性愛から離れたところで手を取り合う少女たちの魔法学園小説「魔女の選択」収録の短編集。Kindle版は、いつだったかのKino-Kuni文学賞で大賞をもらった滅び行く漁村の女二人の物語「迎え火」も収録している。
5月 『けものと船乗り』 現代物、というか、現実世界の不均衡や理不尽に焦点を当てたものがたりを多く書いてきたな、という自覚もあり、あと「幻想文学はもう書かないんですか」とたくさん声をかけてもらったりもしたので、ひさしぶりに幻想文学らしい幻想文学を。 全ての船を沈めてしまうけものが棲むという「島」を望む岬でまちのひとたちにこれまた「けもの」と呼ばれている存在が、船乗りを拾って海へこぎ出そうとするお話。 『ヤールルカ』 写真家の女の短い物語。撮ること/撮られることの暴力を考えているので、そのこととかを中心に、これは短い物語だったが、もう少し長く書けたらいいなと思ってちょっとずつ書いてる。ひとつ、暴力的な経験を「してしまった」ので、それも書けるか…とすごくいやな気持ちになりながら思っており、だが、これは書くことでしか報復も抗議もできないという思いがあるので、この物語とは2024年以降きちんと向き合いたいと思う。
9月 『ゆけ、この広い広い大通りを』 日々詩編集室から出た本。二児の子持ちの専業主婦・バイクと音楽がすきなトランスの女性・都会で働けなくなったフェミニスト、三人の同級生が「地元」でささやかな試みをするお話。 「ちがいのある人がともに過ごせる共有地をつくる」をコンセプトにしている団体を母体にもつ出版社から出る本だったので、いろいろ考えたし、思っていた以上にいままで読んでくれていたひと以外のひとに受け取ってもらえてよかった。自分が持つ切実な課題とかもたくさん載せた物語だったので、ベストをつくしたし、2023年のベストだと思う。この物語に全力をつくしていたので、2023年は、ヨモツヘグイニナでは大きめの物語は作らなかった。 この本は、ヨモツヘグイニナの通販の他に、本屋lighthouseさんとか、シカクさんとか、mychairbooksさんとか、日々詩編集室とかでも買えるので、お気に入りの書店さんで買ってもらえるとうれしい。 『いづくにか、遠き道より』 再録短編集。たくさんたまっていたのでつくった。2014年に書いた小説とかをおそるおそる読み返したら、思っていた以上に「小説」だったのでほっとした。
11月 『アルバトロスの語りの果てへ』 売れない作家のノイと、そのパートナーで人気役者のターが、アルバトロスの繁殖ボランティアに参加するお話。 物語を自分自身が語るとき、そこには当然自分も含まれている物語のこともあるし、そうでないこともある。だけど、埒外にあっても内にあっても、ひとは、語ったり語られたりせずとも、勝手に他者に物語を見いだし、それを消費してゆく構造がある。『山梔の處女』収録の「魔女の選択」によく似た内面を持つ物語だと思うが、他者のふるまいや言動に「物語」を見いだすとき、「なにを見ているか」に自覚的になりたいよね…というようなことを考えながら書いていた。
12月 『浜辺の村の大みそか』 日々詩編集室で出た小さい本。『浜辺の村でだれかと暮らせば』の番外編みたいなやつ。いまから日和と八尋がやったような大晦日をわたしも過ごします。
★読んだ本とか観た映画そのほか★ 色々読んだけど、印象深かったものについて。 『銀河英雄伝説』全巻 銀英伝のコンセプトバーやカフェにいくので読んだ。相変わらずめちゃくちゃおもしろい。 『豊穣の海』全4巻 来年参加する八束さんのアンソロジー父親の死体を棄てに行くやつの資料(?)イメージをつかむのに読んだ。今西が金閣寺のように燃えて、それを本多が眺めている(『暁の寺』)がよかった。あと、大人になって読み返し��みると松枝清顕……「全部おまえが悪いじゃん!」ってなるのがおもしろかった。勲に対しては共感するところも多かったし、あいかわらず『天人五衰』が一番好き。 『雨の島』 今年の1月1日に読み終えてた。呉明益の本、『歩道橋の魔術師』も読みたいんだけど、未訳のチョウチョのなんとか…?が読みたい。 『苦海浄土』 ネイチャーライティングをやろうとすると必ず出てくる石牟礼道子、の代表作。水俣へ3月と10月といくことになったし、石牟礼道子を筆頭に水俣関係の本をとてもたくさん読めた一年だった。とてもよかった。来年は『水俣病を旅する』『苦海浄土』(全3巻)を読みたい。 『アフターヘブン』 八束さんの本。めちゃくちゃよかった。 『フィリックス・エヴァー・アフター』 すっごくおもしろくて、何度でも読み返したい! 『鋼鉄紅女』 最高だった……「地獄へようこそ……」って武則天が宣言したところから、もう一気に読んだ。家父長制と、男女の二人の「ペア」というかたちに反旗を翻す最高のSF小説。 『私と夫と夫の彼氏』 2023年で読んだ中で、一番一番おもしろかった漫画!11巻が待ち遠しい! 『琥珀の夢で酔いましょう』 この漫画もめっちゃおもしろかった~! 『父の時代、私の時代』 堀内誠一の自伝的エッセイ。「ウッチェロ!!!!!!!」澁澤龍彦・瀬田貞二との思い出を添えて。めちゃくちゃ古本価格高騰していたので文庫で出してくれてありがとう! 『ガザに地下鉄が走る日』 ずっと読みたかったけど、なかなか読めずにいて(岡真理さんの本は『記憶/物語』を2020年に読み、もう一度これも今年再読した)やっと読む。見過ごしてしまわないように、何が出来るかを考え続け、アクションを取る、できることをやるしかないんだけど、「人間が人間として生活するということ」が、誰にでもある世界にたどり着きたい。 本だと、吉田育未さんの翻訳作品を井上彼方さん/紅坂紫さん編集の『結晶するプリズム』で知り、『聖なる証』『星のせいにして』を読む。めちゃくちゃおもしろかった!年越し読書本は『イエルバブエナ』。「このひとが翻訳している本ならぜったいおもしろい!」という翻訳者さんに出会えたのがうれしかった。 映画もいろいろみたけどとくに『バービー』『his』『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』がよかったな~。結局体力がなくて窓際のトットちゃんを見に行けなかったのがちょっとさみしい。 さいたま文学館で開催されていた澁澤龍彦の展示にはいけ��。パンケーキも食べた。 12/24にITOプロジェクトの『高丘親王航海記』を見に行く。それについてのくわしいことは静かなインターネットに書いた。
★旅行★ 「今年はいろんなところへ行ったんじゃないですか?」と言われたけど実はあんまり行ってなかったりする(さみしい) 1月 尾道 ライターズインレジデンス尾道でまたみはらし亭に滞在する。だいたい伊勢うどん食べてた。 3月 水俣 はじめて水俣へ。というか九州自体がはじめて。いろんなひとに出会い、いろんなことを学び、いろんなおいしいものを食べた。『常世の船を漕ぎて』を水俣病歴史考証館で買った。 5月 東京 行ったという記憶しかない。なにしたっけ…?なにもしてないのか…もしかして…。 9月 大阪 銀英伝のバー「海鷲」へ行く。ロイエンタールの透けてる板を買った。文フリ大阪も行った。 10月 東京 銀英伝のカフェ「イゼルローンフォートレス」へ行く。かおりさんと会う。ながいことSNS上ではお付き合いがあるのに生身で会うのは初めてで、だけど「すっぱいものきらいだもんね」とか長年付き合ってきた人間同士の会話ができてとてもおもしろかった。次の日は吉祥寺や多磨へいき、緑色のインコとオナガを見る。 水俣 ふたたび水俣へ。熊本市内も立ち寄ったが、土砂降りだったので熊本大学と、橙書店へ行く。島尾ミホと石牟礼道子の対談集というめちゃつよBOOKを買った!めちゃくちゃ楽しかった。 11月 文フリ東京。ヒマラヤ鍋を食べる。次の日は埼玉文学館へ。武蔵野うどんに衝撃を受ける。
★来年の予定とか★ 1月14日に文フリ京都。辰年なので澁澤龍彦のコラージュみたいな『兎島にて』という本をだします。こういう物語で「兎」って単語がでると、誰か特定の人をみんな思い浮かべると思うんですけど、その特定の人は卯年のわたしです。他の誰でもありません。 3月までに出さないといけない原稿がめっちゃいっぱいあるので頑張ってます。 オープンにしてるのは八束さんの家父長制アンソロだけだけど、そのほかもまた媒体に載るなどしたらお知らせします。 やりたいことは、三宅島・舳倉島・天売島、この三つのどれかの島にいきたい!2023年は労働が忙しすぎてぜんぜん鳥写に行くことがなかった(かなしい)一年になっちゃったから、2024年はちゃんと鳥写したいです。 あと、日々詩編集室から『ゆけ、この広い広い大通りを』もでたことだし、もうちょっと小説を書いて発表する幅みたいなものをひろげたいかなと思っている。つらいことがたくさんありすぎたから、アンソロは主催も参加もいやだったけど、そういうのとか……あと、書いたらお金がもらえるタイプの原稿とかも、書ける媒体があるのなら書いていこうかと思っている。 これはずっとそうなんだけど、賃労働をしながらほかにわたしの体力で「できる」ことが「小説を書く」ことしかなかったので……。タイミングや機会があれば、頑張ってみようと思っている。
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ichinichi-okure · 11 months ago
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2024.1.6sat_tokyo
鳥の声で目が覚めた。ちゅんちゅんちゅん。こんな朝の起き方理想的すぎないかと思うのだが、朝、雀がめっちゃ庭に来る。ちゅんちゅんちゅん。
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と言っても今は10時、正月の名残ということで昨日はわざと目覚ましをかけずに寝た。わざとじゃなく1月3日は目覚ましをかけ忘れて、新年最初のイベントには遅刻した。
昨日も朝から稼働した担当イベントの後に23時までコワーキングのラウンジでご飯も食べずに仕事した。えらい。帰ってから夜中に能登のニュースをずっと見てしまったので眠い。昨日は好きな人たちとたくさん話したし、地味に疲れて本当に体が動かないので、2度寝する。 11時にむくっと起きる。昨日水につけておいた小豆を炊く。大きい小豆のお汁粉大好き。いつも一応ちゃんと飾るお飾りも鏡餅も、なんだか気持ちが乗らなくてできなかったので、鏡餅用に買った餅を飾らないまま焼く。切り込みも入れたのに、ちくびみたいなお餅が焼けてしまった。おもろいな〜。
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来週は甲府にも行くし(楽しみにしてた天然ラジウム増富温泉・不楼閣にいく!)、夜もずっと予定があるので、今日明日はいろんな仕事を終わらせておきたいので頑張る。
15時、また動けなくなって地面に横になる。布団は危険だからだめ。こんな日は結構珍しいのだが、頭が考えることでパンクしてるのも影響してる気がする。無理すぎる。目を瞑る。考えることがたくさんある。GAZAのこと、戦争のこと、能登半島のこと、自分のこと、家族のこと、仕事のこと、近い未来のこと。
こういう時は音楽も、映画も、色々を見るのがキャパオーバーで難しくなる。なので家で作業する時はずっと無音。だけど、写真だけはみたい気がしていて、写美で始まったホンマタカシさんと、 松蔭美術館の牛腸茂雄さんや瀧口修造さんの展示は見逃さずに行きたいとぼんやり思う。
身体は地面に垂直のまま、石川県輪島市の知人である漆工の桐本滉平くんのインスタのストーリーをチェックする。今回の地震で、代々守られてきた、明治時代に工房として建てられた自宅が全壊全焼したと投稿していた。リアルな景色に目を覆いたくなるけれど、ニュースでは得られない、桐本くんのまさに今を切��取っている投稿を見ながら���今できることを考える。といっても寄付くらいしかできないのかもしれない。でも、こうやって遠くでも想うことができること、情報が共有できる時代というのは、本当に希望も多くある。 桐本くんは元旦から今もずっと、輪島の未来や、会ったことのない誰かを救うために、全力で動いていて、避難所のこと、道のこと、今この瞬間のみんなが必要な情報をSNSで発信し続けている。きっと本当に多くの人がこの投稿に助けられている。
私の1/1の16時6分は、埼玉のおばあちゃんちで10数人の親戚一同で集まっている時だった。お寿司を食べて、ビンゴ大会の手前でこの地震が起きた。まずはじめに私の携帯が聞きたくない大きな音で鳴った。その30秒後くらいにみんなの携帯が鳴って、すぐ地震が起きた。自分の携帯にはYahooの災害アプリが入っていて、画面には36秒後に地震が起きますと書いてあった。たった30秒だけれど、みんなの携帯とは30秒の差があったのだった。親の携帯にもアプリを入れなければ。そのままテレビをつけて、地震の情報を流しながらみんなで過ごした。私はXを見ながら地震や津波の情報を集めまくる。石川県には大事な友達たちもいる。途中お母さんが、血圧が高めで眩暈がすると横になりに寝室に行ったが、私は変わらず画面に張り付けになっていて、横にいたいとこの旦那のわたるくんが「ニュースも気になるけど僕は寝室の方が心配だよ」と言ってくれて、まさに…と思って、寝室に様子を見に行った。気持ちを落ち着かせながらその場にはいたけれど、帰る前に寝てた身体を起こして、お母さんから渡された”幸せが訪れますように”と書かれた封筒には3万円とビール券が入っていて、北の国からの泥だらけの1万円札くらい使えねえよ…………………………。とか考えながら、帰宅する電車の中でいろんな気持ちになり小さくバレないように泣いてしまった。
地震のSNSのこと。尊敬する、信頼する人たちからの情報はなるべく信じたい。そうなのだけど、発信をすることについて、映画監督の枝さんが信憑性の話をしていて、シェアができない、というようなことをSNSに綴っていた。良心を騙すような、いろんな詐欺も起きていて、ちゃんと調べてから行動したいと思いつつ、今は瞬発力なのではと思ったり、寒い季節がやってくるよなあと、頭がごちゃごちゃする。寄付について考えているとき、わざわざの平田はる香さんが「被災地に感情移入しすぎて普段の生活を失わないように。寄付はできる範囲で継続的に。1万円を一回より千円を10回百円10回でも。長期間にわたって支援しよう」と書いていて、まさにそう、1回で満足し��いで、何度でも、と頷いたり。でも、自分の暮らしもちゃんとしなくちゃとか、ぐるぐるする。
ガバッと起きて、下北沢ボーナストラックに向かう。自転車で10分ちょっと。ギャラリースペースではカレンダーマーケットが開催中で、友達や自分がお誘いした出店者さんがいるので、挨拶をしに。到着してすぐにミヤジが良いカレンダーを案内してくれておもろい。ビール飲んで、ゲラゲラしながら、出店中のヤマグチナナコちゃんと、SAITOEさんに阿部龍一ブースの良さを発表して満足する。阿部の作品や思考は本当に素晴らしい。
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同施設内にあるキッチンスペースでは、今日は養生家の鈴ことさなえさんと、mizudoriのまみさんが出店していて、場所を管理しているりさPが、紹介したいと言って連れて行ってくれた。以前山梨の0-siteで開催されたイベントで、ちまきとホットワインを購入したことがあって、さらに昨年末にeatrip soilで開催のイベントでも見かけて気づいてくれていたらしく、その話もしつつ嬉しい再開。美味しい白味噌の雑煮と、出汁割り、おこぼれで微発泡の日本酒、出汁もご馳走になる。残り福。身体にあったお出汁や日本酒のことをお話しして、一息つく。ほっとする。今年一緒に何かやりたいな〜とお話する。嬉しい。
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続けてラウンジで残って仕事をしようと思ったけど、真っ直ぐ帰宅する。帰り道、怒鳴りながら自転車を漕いでる人がいて、「こわ〜」と思いながら、私が動線を塞いだようになった瞬間に(絶対に悪くない)罵倒されてしまったが、心を無にして道を変えたら、矛先がなくなったからか、さらに大きな声で背中越しにまた罵倒された。さらに無になって大きく深呼吸して、「あの人にもあの人なりの理由があるのだ」とほんの少しだけ思考して、記憶装置から抹消した。毎日いろんな人がいろんなことを抱えて生きてる。
さっきお雑煮食べたので、夕飯は野菜だけのサラダにする。菜の花が美味しいよ〜。そのまま残った仕事をしながら、明日も担当のイベントがあるので早く寝なくちゃとお風呂に入ろうと思ったところ、建築集団 々の野崎将太さんが、インスタライブをしていたので開く。実際に野崎さんは地震が起きてすぐに被災地に向かっていて、現地で簡易トイレを作ったり、生のその日の様子をレポートしつつ、今何をするべきなのかを投稿に残していた。野崎さんとは1回しか会ったことがないけど、仲の良い友人たちが信頼している人で、場作りも含めて作る建築は本当にかっこいいなあと思う。人としても。今回はあやおさんという実際に被災をした方と話す機会を設けていて、報道やSNSで流れていることと、実際に体感したことの違いや、これから起こりえること、今実際に起きていることなどを話していた。現状、今は被災した家に侵入する盗難が多発しているらしく、家を守るために車中泊して見張っている人も多くいるという。被災地が渋滞になるから、ボランティアに来ないでくださいという投稿もよく見るけれど、実際緊急物資などは、一般の人が通れない大きな道を使っているので、現状実際には関係ないこと、スカスカの道もあること、言ってるようにすごく渋滞している道もあること、だけどそれは明日にはわからないこと、被災地には本当に若者がいないことなどを丁寧に話してくれた。これから雪深くなり、外に出れていた人が避難所の中だけで過ごすようになることでのストレスのことなど、本当に今起きていることを話してくれていた。
あと、桐本くんが、地震直後、楽天モバイルだけが使えたことや楽天のキャリアが一番先に避難所に到着して救われたことを書いていて、忘れないようにしようとか。災害メモ作らなきゃとか。色々また巡って��まい整理する。野崎さんは、阪神淡路大震災の時の経験が、今回の行動にもつながっているというようなことを話していた。身近な友達のアグネスも阪神淡路を経験していて、出かけるときはコンセントを全て抜くと話していた。私は3.11の時も京都に住んでいたので、大きな地震は経験したことがない。
お風呂に入った後に、GAZAのことを発信してくれている波田野州平くんのストーリーもチェックする。自分じゃ拾えない情報を集めてくれて、ずっと発信してくれている。戦争も本当にやだよ。自分にできることも考えるけど、もうちょっと勉強をすることもしなくては。自分は無知すぎる。 (そういえば1/13-19まで下高井戸シネマで2019年作の「ガザ 素顔の日常」という映画が上映される!見なければ)
お正月に起きたいろんなこと、秋から続く悲しい出来事、全部ぜんぶ終わりますように。願うし、動きたいし、できること考えたい。でも、まずは自分が悲しくなって倒れないように、心のケアもしつつ。メディアからも距離をとることをちゃんとして、一人で考えないで、隣の誰かと話すこと。会話して安心すること、みんなが考えてることを知ること。何もできなくてもちゃんと想ってるだけでもいいと思う。あとテンション上がりすぎないように、ちょっと落ち着くこと。余裕が無くならないように、自分のことも考えること。深刻になりすぎないように日常を過ごすこと。この日記も、そういう安心の場になるといいなといつも思う。日常をみんなに綴ってもらえるというかけがえのないこと、を、続けたいです。
元旦から文章にしたくて、自分の番じゃないけど日記を書いてしまいました。こんなことを考えながら、1m以上ある立派な泥ごぼうを夜中に炊き、ホクホクのごぼうができたよ。うまいです。幸せ。明日は楽しみにしてる新年会もあるのです。みんなに会えるの嬉しい。おやすみなさい。
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-プロフィール- 鷹取愛 東京 山ト波
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hitujijp · 2 years ago
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新しく始める系は避ける
3月第2週は確定申告の締め切り直前となり、オレ自身の確定申告はとっくに済んでいるが(先日予期せず戻ってきた還付金でギリギリ首の皮一枚繋がったのは勿論オレだ)、済んでいない人に巻き込まれる形で厳しい週になると予想される。
他にも病院に何度か行かないといけないし、貯まっている雑事も多く暇な時間は作るのは難しそうだ。平日はそれらの片付けに集中し、次の休日まで漕ぎ着けたいと思う。
懸念すべきは勝手に降ってくる用事やタスクだ。申し訳ないが、これらを全部受け止めていたら体が保たない。降ってくるタスクで成長出来る場合も少なくないのは事実だと思うが、今は時期が悪い。 3月の段階で何かを始めようとするのでは既に遅く、本当にやりたいなら遅くとも前年の秋ぐらいから計画をまとめておかないとダメだ。だから時期が悪いと述べた意味は、精確には「今更、新規案件を放り込まれても無理ですよ?」という意味である。 したがってすぐ片付く簡単なもの、肉体労働なら対応出来るが、長期間頭を占有する複雑な案件は原則回避が穏当。
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patsatshit · 1 year ago
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日頃の自分たちの頑張りを労って家族旅行を企画した。因みに豊田道倫がパラダイス・ガラージ(PARADISE GARAGE)名義で1995年にTIME BOMBから発表した不朽の名作『ROCK'N'ROLL 1500』には「家族旅行」という美しい曲が収録されている。
(名曲「家族旅行」は29:48あたりから聴ける)
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タラウマラの定休日にあたる第3木曜日に出発するので、自ずと息子たちは小学校をズル休み。担任の先生も「楽しんでおいでや」と快く我が子の背中を押してくれた。向かった先は播州赤穂、6月に鳥羽に旅行した際、ホテルの大浴場で言葉を交わした同じ年頃の子を持つお父さんが「赤穂も良かったですよ」と教えてくれて、それを聞いた息子たちは以降ずっと「行きたい行きたい」と言っていた。ほなみんなで旅行貯金するぞってことで、この数ヶ月それぞれに頑張ってきた。親は親、子は子で楽しみや目的はあるものの、こうして親子で共有できる目標があることは幸せだと思う。和太鼓やスケボーや日々のお絵描きもそう、将来それが何かに結実することを望��でいる訳ではなくて、ただひたすらに「いま」が大事なんです。大切な「いま」を共有するために、子どもに学校を休ませる親もいる。もっと大きく言えば「世の中にはいろんな人間がいる」ということを息子たちにも伝えていきたいだけ。休むからにはやらないといけないことも多々ある訳で、安易な正攻法なんてものはどこにも転がっていない。だだっ広い敷地面積を有する赤穂海浜公園にはノスタルジーを刺激する遊具やアトラクションがいくつもあって、息子たちは大喜び。恐らくは未就学児を対象としているであろうそれらの遊具にしおんもともねも夢中だ。ふたりともめちゃくちゃに良い笑顔。パンクだなんだと偉そうなこと言うてたくせに結局はお前も綺麗事かよ、と一笑に付されるかもしれないが、この笑顔のためなら何だってできるような気がする。ふたり乗りの珍奇自転車を楽しそうに漕いでいる我が子の姿を見て、親バカながら少し泣く。どこにでもいる年の近い兄弟、そんな息子たちだって毎日、何かしらストラグルしていることを少なからず知っているから。
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物心ついたときから、長男しおんは次男ともねのことをとても大切にしていて、保育園の友人たちにも自分はさておき、弟のことを褒めたり自慢したりする感じだった。「ともね、凄いやろ!」が口癖で、自分の友人にも弟のことをいつも得意気に紹介していた。やがてふたりとも小学生になり、ともねは次男特有の器量の良さで周囲を魅了し、しおんにとっては明確な比較対象となった。何をやっても「弟に劣る兄」とまわりからイジられ、やがてしおんの同級生がともねだけを遊びに誘い出すようになる。それでもしばらくは「ともね、行っておいでーや」と送り出すしおんだったが、3年生になった頃、遂に感情を爆発させた。「俺はともねが嫌いや。俺の真似ばっかりすんな」そう叫んで学校で暴れてしまうことになる。その日を境にしおんは教室で授業を受けずに、会議室でリモート授業を受けていた。それでも学校に行きたくないとは決して言わない。自宅でも兄弟喧嘩を繰り返しつつ、なんだかんだで仲良く遊んでいた。そんなふたりが、近所のゲームセンターでクレーンゲームをしていた日のこと。次々に目当てのものをゲットしていくともねに反して、しおんは失敗を重ねてとうとうゲームセンターの閉店時間まで何ひとつとして商品を掬い上げることができなかった。しおんは家族のそばから離れて柱の影で、ひとり悔し涙を流していた。それを見兼ねたスタッフのお姉さんが「お兄ちゃん、諦めたらあかんよ。最後にもう一回���ャレンジしてみて」と言って、閉店作業の手を止めて、なんとクレーンゲームのぬいぐるみをほんの少しだけ取りやすい位置に移動させてくれたのだ。その場にいる全員が固唾を飲むなか、しおんは無事にぬいぐるみをゲット。みんな声を上げて喜んだ。お姉さんも目に涙を浮かべて喜んでくれた。しおんは消え入りそうな小さな声で、ありがとうございますと言い、お姉さんに頭を下げていた。帰りの道中、ともねは「やっぱりともの方が何でも上手いよな!奇跡やんな」とハッスルしていた。兄弟には親にもわからない兄弟なりの想いがあるのだと強く感じた僕は、2023年の春に『ほんまのきもち』という小説を書いた。あれは息子たちの気持ちを代弁したものではなく「見るもの」と「語るもの」の狭間に横たわる絶え間ない葛藤を、自分なりに掬い上げたものに過ぎない。だから物語の核心となる「俺」が学童の担任教師に抱えられてはじめて感情を吐露する場面では、その気持ちを言語化することを意識的に避けた。そのような作品に『ほんまのきもち』というタイトルを付けるなんて些か捻くれすぎかとも思ったが、それ自体がそもそも僕の「ほんまのきもち」なのだからどうしようもない。
(https://wdsounds.jp/ca40/4300/p0-r-s/で購入可)
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newyorkdiary7th · 13 hours ago
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JOE MARTIN QUARTET
NOVEMBER 22
Joe Martin – Bass Mark Turner – Saxophone Kevin Hays – Piano Marcus Gilmore – Drums
あぁもう!最高of最高だった、2024年11月22日、金曜日のファーストステージ。
ジョーマーティンさんは存じ上げなかったのだけれど、マーカスギルモアは会った事あるし結構好きだしディスクも持っているし、これにしよう、とNYライフの初週にチケットを買った。あの頃は、11月22日に自分がどんな感じにNYで過ごしているのか想像もつかず、漫然とした楽しみの気持ちがあった。
さて、何から綴ろうか。時刻は既にミッドナイトを周り、そんなにタラタラ書いてもいられない。でも書き残しておきたいことで溢れんばかりの私。 チケットを買った頃の話はもう端折ろうか、とりあえず今日の日記にしましょうか。
今日は雨。昨日も雨。親知らずを抜いた痛みと格闘中のサティアが、こんなに雨が降ったのは2,3ヶ月ぶりだ、と言っていた。NY来て初めて、なんてレベル���ゃなかったんですね。私はすこぶる雨が好きな人間なので、気分はよろしゅうございました。 雨とは言ってもザァザァ降るやつ、そうウガンダのようなざんざん降りではなくて、小雨だし、時々止んでいる。 雨だと分かっていても自転車を手放さないほどの自転車狂と化した私は、夜のVillage Vanguardまで部屋に戻らない支度をして昼過ぎに自転車でアパートを出た。でも出てみたらちょっと本降り気味のタイミングで、このまま40分ライドは辞めようとすんなり駅へ向かう。そういえば、めっぽうチャリばかり乗っていて地下鉄は随分ご無沙汰だ、という気分でホームへ。
ところで、NYの地下鉄には、自転車も犬も、みたことはないけどきっと亀でも猫でも、まるでトランクをひいているくらい当たり前に乗せることができる。良いよねぇ、行動の幅がどれほど広がることか!
お決まりの図書館の部屋に入って、もう何回目かわからないや、と思った。冊子作業を進めて、暗くなってしまったので出る。チェルシーにでも寄って、ちょっとギャラリー数件散歩して、ヴィレヴァン近所のカフェで20時を待とう、そう思ってセキュリティーをくぐって外に出たら、雨はさらに強まっていた。Uターンをしてもう一度セキュリティでカバンを開けて館内のトイレへ行き、レインコートを着た。結局、登山グッズは何にでも役に立つねぇ、とNYPLのトイレで思うわたくし。 自転車は今日も無事盗まれていたなかった。Jimさんのアドヴァイスを受けて、前輪にも鍵をかけるようになった今週のわたくし。さて、この雨の中寄り道をする気力を無くしたので、一挙にヴィレヴァンを目指そう、ということになった。良さげなカフェで本でも読もう、そうしよう。
7th Aveをひたすらに下るだけ。本当に本当になんて分かりやすい仕組みなことか。いつ漕いでいてもその唖然とするほど利便性に長けた地理に脱帽ですね。雨もそこまで気にならない。ついに雨の中も走っちゃうほどの自転車ラバーになったのか、と感じながら普段以上の注意を払って滑走した。夜だし、チャリダーは皆フードで視界が狭く、歩行者は皆傘で視界が狭く、オンボロちゃんのブレーキはきっと雨には耐性が低い。そして毛糸の手袋と雨は相性が抜群に悪いだろうと我慢した素肌の手はばっちばちに冷たい。でも気持ちい、やっぱり自転車はいつ何時��も気持ちい。濡れた夜の7th Aveの路面はトラフィックライトでピカピカと鮮やか。気づけば目の前にマディソンスクエア。そういえばここのクリスマスツリーは有名なんだって?と寄ってみた。それらしきものは見つからなかったから引き続き滑走していたら、あっという間になんかみた事ある景色になったので、止まって地図を確認したら、目的地を少し通り過ぎていた。戻って、ヴィレヴァンの隣のカフェに入ることにした。
Fellini Coffee. いつだったかインスタで見かけていたカフェ。かの巨匠、フェデリコフェリーニとの関係は全くわからないけれど、まぁ名前だけでそそられちゃうわよね。このカフェなら、何時くらいから入場の列ができるのか分かるし、ちょっと高くても長居の予定だしたまの贅沢ということで!と入店。 窓際の丸テーブル最高。床のモノクロタイルがシネマティックで最高。テーブルに常備されているガラスの水ボトルが到底出会ったこともなければ到底出会うことのなさそうなレベルで重かった。
メニューを見たら一番上のDOLCE VITAという文字が目に入る。やはり巨匠とは何らかの関係があるらしい。甘いキャラメルラテ、とのことで、ほんとは美味しいドリップコーヒーを飲みたい日だったんだけど、この店名にしてこの名前の飲み物を頼まないなんてことは無理があるってもんだった。みんなDOLCE VITA以外に何を頼もうっていうんだろう?(ハッピーアワーでワイン飲んでいる人が多そうだった。) そこからはもうご機嫌極まりない時刻だった。音楽もノリノリ。まぁいっそのこと50年代のイタリア音楽かけて欲しかったりもしたけれど。 読書が進むこと進むこと。
ふと母のセリフを思い出した。ちょうど同い年くらい、29歳の時にNYにひと月いたという母が、「思えば、本屋のそばのカフェで、日がな一日時間を気にせずに読書していた事とか、そんな貴重なことってなかったなって思う」そんなようなことを、私がNYに行くことにしたと言ったら話していた。その話を聞いた時は、知らず知らずに親の足跡を辿っている事がおかしかった。 そして不意に本を読んでいる最中の私の思考がふわふわと独り歩きを始めて、目は文章を追っているのに、思考は別のことを考え出した。母はNYでどんな本を読んでいたのだろう、と。日本語だろうか英語だったのだろうか?小説?エッセイ?何を読んでいたんだろう。その疑問が今の今まで湧かなかった、という事実がくっきりと感じられた。 そう、一人で過ごす時間の好きなところはこういう瞬間にある。妙に思考がクリアになって、秒単位での時間が染み込んでくる、そんな感覚に包まれる時間の流れ方に身を置くこと。 最近もちらりと思っていた事だけれど、一人での経験を充実させればさせるだけ深く、他人との時間が有意義��ものになる、そんな摂理が訴えてくる今日この頃。
話を戻そう、DOLCE VITAに。LA DOLCE VITA、1960年、敗戦後イタリアの歴史的傑作。25,6歳の私に、いつかあなたはFelliniという名の店でDOLCE VITAというドリンクを飲む日が来る、と言ったら、笑うだろうか。間違いなくあの頃、LA DOLCE VITAというタイトルの散文を書き散らしたけれど、あれは一体どこに保管されているのだろう。読み返した事がないな。映画のイメージを裏切らない仕上がりの味だった。ブランデーが鼻の奥を香水のように刺激して、舌の上には濃厚な甘み。久しぶりにフェリーニが観たくなってくる。(そんな体力、30にもなってあるんだろうか?)
本の方は、こんな偶然ってあるだろうか、というほど、今いる界隈が舞台となっている小説で、行き過ぎた偶然を驚くことも忘れて楽しく読み進める。 大きな犬が入ってきて、外国だなぁと感じる。 マンハッタンはあるかと聞いたら、うちはない、と言われたので、ハッピーアワーはまだ良い?と終わる1分前に駆け込み。中々の重いボディの赤でした。
さて、時刻は18時、開園2時間前。19時には並ぶだろうな、などと思いながら、読書を堪能していると、18:20頃になんともう!数人が列を作り出した。1時間40分待つの!?この3℃の雨の中!?もう少し人が来出したら出るしかないか、と本を読み進めているとちょうど良い区切りに差し掛かったので、出ることにした。極暖ズボンを履きにトイレに行って、整列の準備を万全にしていざ。ワインがきっと身体を温めてくれたはず、なんて願いながら。 結局40分くらい待ったのだろうか。とっても前の席に座れた!大体どれくらい早く来なくちゃいけないのかがわかったので、それは良かった。 迷ったけれど結局またクランベリージュース。ホットコーヒーは置いていないと言われちゃったので。ペルグリーノにしたかったけど、ジュースの倍額だったので。ヴィレヴァンとクランベリージュースは、もしかするとタバコとオレンジジュースのようなマリアージュをいつしか構築するかもしれない、そんな思考がよぎった。 ヴィレヴァンの席はすこぶる暗いけれど、本を読み続けた。暗い中の読書は目を悪くする、子供の頃よく言われたっけ。
「ワインを被るのは人生で2度目だ」というメモを取ったのはきっと19:45くらいの出来事。びっくりした、何の前触れもなく白ワインが後ろから飛んできた。まぁ、前触れのある飛行なんてあるわけ無いのですが。My apologies!とスキンヘッドのおじさまが謝っていた。近所の人は皆いいよ~という感じでフキフキ。あたいの盛り上がっている本のページにワインが沁みていく。あたいの着すぎているセーターの背中にチラホラ飛んでいる。それからは何となく、空気に白ワインが混じっているような香りが充満していた。ちなみに人生で1度目の引っかぶり��、これもやっぱり突然の出来事だったけれど、でもその時は前から飛んできたので、全くなんの前触れもなく、というよりはコマ何秒かは覚悟があった。(何だそれ。)そしてあの時も冬だったなぁ。良いよ~と、謝る友に心からそう言って、洗濯をしたらセーターはえらい縮んだ。今でもよく着るそのセーターの縮み具合が、いつもあの時間を思い出させる。新橋の蒸し料理屋さん。あのレストランにまつわるいろんな時間が瞬時に漂う。
さて、20時。始まる。 2メートル前に、アーティストがいる、そんな世界に今自分がいる。始めましてのジョーマーティンさん。ピアニストはパックマンみたいな顔立ちだった。博士論文書いている学生みたいなつるんとした髪型で、黒いスーツ、おとなしそうな雰囲気。サックスさんはジャケットの中にダウンベストを着てらして、冬だなぁ、と思った。マーカスギルモアは、あれは制服なのかなぁ?あのアフリカンな上着、なんか見たことある気がする。 あぁ、最高だ。すごいことだぁ。 一つの音が完璧に揃う時、質の高さが迫ってくる。
生のジャズを聴かない生活は、読書をしない生活と同じくらいあり得ない事だ。
我がジャズ師匠がコロナ前まで毎年NYにジャズのために来ていた事実が、今はもう、理解できる。やっぱこの手軽さは凄すぎる。日本の半額以下で、あり得ない迫力の席で、同等のアーティストがわんさか毎晩プレーしている。ジャズの街なんだ、世界一の。完膚なきまでに理解した。 娘のために描いた曲なんだ、とジョーさんが言う、ここに娘も今来ているんだ、というとめちゃくちゃ盛り上がった。アメリカンだなぁと思った。 この滞在はやはり、ジャズに集中しようか、そんなことを思った。クラシックコンサートもブロードウェイも、美術館も、行ってみたいところは山ほどあるけれど、そんなに多方面に行けるだろうか。ジャズに絞るのも一つの手かもしれない。こんなにも最高の体験なんだもの。
すごいラインナップが毎晩なので、正直決めるのが大変。日本だと、この人は行きたいな、と自ずと時々の贅沢になる。こっちでは毎晩スゴいので、何は逃せないのか、に悩む。そんな中で来たこのカルテット、最高、ほんとそれしか言えないや。
美術館で心を掴む作品に出会う時。写真展で心が躍る時。作品に心が答え出す時、自分の過去が呼び覚まされる。無秩序に突拍子もな��過去が浮上する。 生死。葬式でお坊さんが言っていた言葉が浮かんできた。 現在は同時に過去であること。過去の全てが今の自分であること。そんな事象が浮かんできた。 今の自分の行いが、未来の自分にとってどんな時間になるのか。宝石のような時間になるんじゃ無いだろうか。少なくとも今夜はそうだ。ワインが飛んできたことも、何もかも吹き飛ばす音楽の中に入れた。ふと涼さんとイスラエ��人のジャズラバーとブルーノート東京に行った時間も漂ってくる。あの時感じた事の全く同じ事を、涼さんはいち早く言葉にした。インプロヴィセーションが物足りなかった、と。 今回のカルテットもやや優等生すぎるクリーンな音楽かなと感じていた。いつホットになるんだろう、と。まぁそう慌てなんさ。超優等生なクオリティでチューニングが済んだならば、始めるのです、どこまで上り詰められるか、競争のような協奏が。早まるテンポに部屋中の温度が上がっていくあの感じだ。ピアニストの表情、トランペットがクラリネットになる曲。ジャケットが、ダウンベストが、一枚また一枚と剥がれていく。 最高of最高だった。
演奏中に席に回って精算するヴィレヴァンのスタイル。お姉さんにバインダーに挟んだカードを渡した瞬間、なぜだか突然自分が大人になった気がした。もうとっくにオトナの歳なのだけれど、ふと実感がよぎった。どうしてあの瞬間なのか、不思議で不明。
だから私は小説を読むのが好きなんだ、と流れ着く思考。この不思議で不明な人生の一瞬を、世界のどこかにたった一文で表してくれる作品がある。そんな一文に出逢い続ける幸せが、私の小説好きの原因である。
寝よう。
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ari0921 · 2 months ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和六年(2024年)10月1日(火曜日)
  通巻第8436号 <前日発行>~
  日本児童殺害事件以後、中国からの撤退が本格化
    しかし今頃引き上げても手遅れである
*************************
 外国企業の中国への直接投資は、ドイツを除き激減、とくに目立つのは台湾企業の集団的撤退である。くわえて反日活動家の日本人児童殺害事件が起こり、「生産拠点におけるリスク分散において常に最も優れてきた日本が、日本少年殺害事件を契機に、中国共産党の長期にわたる反日プロパガンダの影響状況に照らした結果、台湾に次ぐ外資の中国撤退の波を形成しつつある」(在米華字紙『博訊新聞網』、2024年9月29日)。
 米国有数のシンクタンクCSIS(戦略国際問題研究所)は、「分断ではない多角化 ─台湾の産業は戦略地政学的リスクに対応している」とする研究結果を発表した。
「台湾企業の57.4%が撤退プロセスにある。中国本土から離れたか、撤退を検討している。2023年末時点で台湾企業610社へインタビューした結果である」。
 
 撤退理由としての回答順では(1)高すぎる人件費(33%)、(2)サプライチェーン中断の可能性(25.9%)、(3)投資政策の変更(25.2%)となった。一番の理由と想定された。安全保障上の憂慮は下位だった。理由の四番目が海峡両岸戦争のリスクに対する懸念(24.1%)だった。日本でも有名な「鼎泰豊」も中国市場からの撤退を発表した。
 台湾企業のなかには「撤退が遅れるとコストがかかる」という分析がある。これから撤退しても、基本的に手遅れである。一例として闇ルートを通じて人民元を海外に送金する際の手数料が3%から12%に上昇し、最近では20%を超えている。阿漕なヤクザの高利貸し並みの金利だ(ただし、これは金利ではなく手数料である)。
 中国共産党はまた、税務調査、土地使用調査、あるいは突然の規制変更などで身ぐるみはがそうと躍起であり、台湾企業の経営者の一部は事実上『夜逃げ』同然の逃亡をなして、身の安全を守った。
 進���初期には地方政府から安価な土地補助金があり、この制度を利用して進出したが、いまや不動産使用権を売りたくても売れない。工場施設の中古市場も壊滅しており、スクラップにするしかない。
 台湾企業の中国投資は最初、給料の安さだった。そのうえ台湾対岸の福建省は同じビン南語だから言葉が通じる。この時代、台湾へ行くと食堂に五、六人の経営者仲間があつまって、「中国に妾をおいているが毎月1万5千円だ。能率給を導入したらよく働く。台湾の人件費の十分の一でいい」などと自慢し合っていた。
 
 ▼台湾企業の中国進出は落とし穴だったのか
 台湾の大企業の本格進出は台湾プラスチックだった。筆者は同社本社に王永慶をたずね、「台湾併呑をいっている中国に進出して大丈夫ですか」と訊いたことがある。「中国人と台湾人は言うことと遣ることが違う。かれらの本心はよくわかるさ」と言っていた。当時、李登輝政権は海外への直接投資を5000万ドルが上限としており、台湾の世論は台湾プラスチックの本格的進出に慎重だった。
 そうこうしているうちに台湾企業、台湾と合弁する日本企業の進出が本格化し、台湾馬淵モーターのCEOに会うと「蘇州名誉市民に選ばれ、行くとパトカーが先導する」と言っていた。
 そして時代がまた変わり、奇美実業の許文龍までがパネル工場を大陸に建てた。許は台湾独立運動のスポンサーとしても有名だったから、社員を人質に取られ、「台湾独立に反対」の意見広告を台湾全紙に打たされた。李登輝は「許さんの心境は台湾人なら理解できる」と発言したものだった。
 過去30年間に台湾企業が25000社、日本企業の13000社が中国に投資した。中国の高度成長を支えたが、人件費もまた高度成長、加速度が付いて、台湾の人件費と並んだ。コストメリットは消えた。
23年、三菱自動車工業が撤退し、新日本製鉄も中国の宝山鉄鋼公司との20年間の協力関係を終了する。
いずれ「誰もいなくなった」工業団地があちこちに出現し「鬼団地」(ゴースト・インダストリアル・パーク)となる。
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rikumatsuzawa · 8 days ago
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2024.11.19
日本人の多くは仏教徒だよね。君は仏教徒か?10日間のスリランカでこの質問を何回されただろう。初めのうちは、無宗教だけど仏教の教えとは身近に生きてきた。と答えていたが聞かれれば聞かれるほど、仏教徒というのは何を意味するのだろうかと考えさせられた。
スリランカの第二都市であるKandyでSadunとSamanに出逢った。スリランカに到着してから土着の人ではないという理由だけで毎日数えきれない人たちからお金を乞われたり、ぼったくろうとされた。2人に最初に声をかけられたときは、またか、と思いながら適当にあしらおうとしていたのだが、少し話をしていると純粋に話したかっただけのようだった。結局その日はKandyを半日案内してもらい、宿まで送ってもらった。翌日からはスリランカを訪れるきっかけとなったGeoffrey Bawaが建てたHeritance Kandalamaに行く予定だと話すと、どうやって行くのかと訊かれた。バスだと答えると、Kandalamaまでの道中には見るべきものがいっぱいある、バスだとそういうところに寄れないからトゥクトゥクで送ってあげるよ、君にとってもきっといい経験になる。と言われた。KandyからKandalamaまでは2時間ほど離れている。バスの方が安いからバスで行くと伝えると、いくら払うかは自分で決めていい、その答えがタダならタダでもいいと言われ、うますぎる話に半信半疑ながらもその誘いに乗ることにした。翌朝8時に宿まで迎えに来てくれて、まずはKandyの中心部から20分ほど離れた小さい村にあるSamanの家に行き、彼の家族とセイロンティとともに団欒した。Kandalamaまでの道中、のどかな田畑と熱帯系の植生の景色が続く小さな村に、ぽつんと仏教寺があった。スリランカ全土には小さい寺院が数千と存在し、その寺院がある村々には100-150の家族が住んでるという。そして一家族が1日ごと順番に僧侶たちの食事を用意すると教えてくれた。自分を犠牲にして人々のために全てを捧げた仏陀、つまり僧侶たちへの感謝の行為であり、これはスリランカで2700年以上続く伝統であるらしい。スリランカに来てから、SadunとSamanだけでなく色々な人からカルマという言葉もよく耳にした。良い行動は良いカルマとして自分に返ってくると。そういえば昨日Kandyを案内してくれたのにも関わらず、お金は一切求められなかった。半日私の行きたいところやしたいことに付き合ってもらった上に、彼らの商売道具でもあるトゥクトゥクで移動していたので、宿に着いたときに私の気持ちのお金を渡した。そのときにも、ありがとう。これはgood moneyだ。私たちは本当にカルマを信じていて、Rikuにもgood karmanがきっとあるし、訪れる。と言っていた。私は村人が僧侶たちのために食事をつくるという伝統の話を聞いたときに、仏教というのはどういうものなのかということを深く理解した。それと同時に2人のことを少しでも疑った自分を恥じた。もちろん仏教徒であっても(スリランカでは約70%が仏教徒である)皆が皆良い人とは限らない。スリランカに来てから、押しの強い客引きや、わざと同情を利用した行為に良い気分がしなかったことも何度も起こり、人にもお金にも敏感になっていた。しかしそのとき私は、清らかなさらさらとした心地よい中で生まれた、心が押しつぶされるような気持ちをどこにもやりようがなく、トゥクトゥクの後部座席に座りながら静かに泣いていた。
景色がいいところで停まったり、昼食を共にしたり、約2100年前にDambullaという都市にある巨大な岩山を掘ってつくられた洞窟の中にある寺院を訪れたり、途中トゥクトゥクを運転させてもらったりしながらホテルに到着した。翌日の予定を訊かれ、5世紀に栄えた王国Sigiriyaの遺跡に行くつもりだと伝えると、10時をすぎると暑くなる(マチュピチュのような遺跡で入り口から頂上までは1時間ほどかかる)から早朝に出発した方がいい、よかったら明日も送ってあげるよ。友達の家が近くにあるから私たちはそこに泊まる。その辺りには原始的な生活をしている小さな村もあって、そこで触れられる体験はRikuもきっと気にいると思う。と言われた。その日彼らとずっと話していて、彼らがどういう人間か理���し、私がどんな人間でどういうものを求めているのかも理解していてくれていたので、今回は迷うことなくお願いした。ホテルで夕食を食べると高いだろうから、また夜迎えにくるから友達の家で一緒に食べないかとも誘われたがGeoffrey Bawa建築を堪能したかったし、連日の移動の疲れと自分の中で消化したいこともあったので、その誘いは断ることにした。
翌日遺跡を訪れた後、Samanの弟の娘が働いているフルーツジュースが美味しいカフェで少し休憩し、人里離れた村へと向かった。トゥクトゥクで行けるところまで行き、そこからは水牛に引かれてジャングルとも森ともつかない景色の中、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつくのを感じながらゆられていた。20分ほど進んだ先には、東南アジアの原風景(スリランカは南アジアだがここだけは少し違っていた)という言葉が似合う景色が広がっており、村人たちが長い年月をかけて歩いてつくった轍が続いていた。横には湖、反対側には家が小さく見える。湖岸には村人が手でつくった小舟が数隻あり、そのうちの一つをだしてもらった。風も声もなく、ただ静寂が漂い、平和そのものだった。Sadunがたまに陽が沈んでから友達や家族と飲んだり話したりすると言った瞬間、私はその光景を想像した。今みたいに肌を焼く太陽は姿を隠し、月明かりが湖一面を照らす。もしかしたら夜は虫たちの歌声が聴こえてくるかもしれない。澄んだ静寂は愛する人たちとの会話で掻き消されるが、この平和はそこにあるままだ。これ以上何を求めるのだろうか。水面を覆う蓮の葉で帽子をつくってもらったりもした。昼食をそろそろ食べようかということで湖岸へは私が舟を漕いだ。先ほど遠くに見えていた家に到着すると、まだこの世に生を受けて10ヶ月しか経っていない子どもを腕に抱えながら料理をしている30代ぐらいにみえる夫婦が待っていてくれた。家の柱や壁、台、椅子などは木と土で、屋根はココナッツの葉でつくられていて、窓はない。電気やガスは通っておらず、水も近くの井戸に汲みにいくという。土でできたかまどの前で奥さんが子どもをあやしながら、土鍋で炊いている米の具合を確認していて、旦那さんは裏の庭でとってきたココナッツを割ってウェルカムドリンクをだしてくれた。裏庭で採れた野菜とスパイスでつくった3種類のカレー、ココナッツから抽出した油をつかった湖で釣った魚のフライ、ココナッツの果肉をトマト、スパイス、ライム汁を合わせてすり潰したもの(これが一番美味しかった)、すべて自分たちでつくったもので昼食を振舞ってくれた。お腹いっぱい食べた後には屋根になるココナッツの葉の編み方も教わった。彼らは住処を建てられて、舟の作り方も知っていて、近くでは魚も釣れて、フルーツや野菜の育て方も知っていて、またそれを余すことなく食べて、残った食べられない部分の他のことへの使い道も知っている。もしかしたら”教育”こそ受けていないかもしれないが、彼らは”自然”をよく知っている。
Sadunが言っていた。ここの村では気候が比較的いいので人々は”自然と生きる”伝統文化が残っている。他には酪農や陶磁器、ジュエリーなどその土地の環境に適したそれぞれの伝統が色濃く残っているらしく、お互いの伝統を交換して足りないものを補い合い、支え合いながら伝統を守っている。ここでの生活はシンプルでお金は持ってないが皆、”生きる”ために仕事をして平和に幸せに暮らしているのだと。しかしスリランカでも現代化が急速に進んでおり、今の若者はこの生活を知ることはなく、遠くない未来にはそれらの伝統は消え去るだろうと嘆いていた。Sadunは知識が豊富で、今世界で何が起こっているのか、何が流行りの思想なのかも知っていた。だからこそ彼は、私をここに連れてきたかったのだろう。
これを書いていると2人の顔が見たくなりSadunに電話(Samanは携帯を持っていない)をすると、彼の気持ちのいい笑顔が画面に広がった。内臓が少し悪く、この数日間入院していたと言われ心配したが、今は回復して翌日には退院できると聞いてひとまず安心した。電話中にちょうどSamanがSadunの見舞いにやってきた。本当に仲がいいなとこちらまでほっこりし、最後2人と別れたときのことを思い出した。私が3日間の感謝の気持ちのお金をSadunに渡したとき、Samanに気づかれないようにその3分の1を受け取り、残りをSamanに渡していた。仏教の教えに「自他不ニ」というものがある。Samanが見舞いにやってきたことも、Sadunが自分の取り分を少なくしたことも、彼らが私にしてくれたことも、そのすべてがその教えを体現していた。
私は自分を仏教徒だと思ったことはない。スリランカでの体験をした今、なおさらそう簡単に口にはできない。しかし、今まで以上に仏教の教えとは身近に生きたいと思うようになった。2人に感謝する。
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aoiyhvh · 1 month ago
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OKINAWA3日目#2
実質のファイナルである、3日目後半。
灯台から、またブルーシールに。赴いた時間と、本店人気もあり、2日目夜とのギャップが激しかった。
混雑の、それ。アトラクションか、という。いうても1時間なんて待っていないと思うが、ギャップによる絶望感がすごかった。
思い出したが、灯台からここまでがまた、渋滞も凄まじく、ここに向かう途中のブルーシールをまず目指したのだがアメリカンビレッジの中のブルーシールであり、そもそもどこにも駐車ができなかった。からの…だったので、絶望感ひとしお(一入、と書くらしい)。
で、食べた。私はバナナで挟んで3つアイス選べるという素晴らしいものがあったのでそれにしたが、バナナに合うアイスというのが難しく、全て外す、且つ、要らんローストアーモンドやらシリアルなども入っており、混濁テイスト…普通のにするべきであった。
帰路につき、写真はないが、最後にひとsup。本来の楽しみ方と異なり、とにかく船漕ぎを楽しむのだが、当初はボードに跨って、足を水中に落としたままで漕ぐことをしていたが、足も乗せしまい漕いだところべらぼうにスピードアップすることが分かり、だいぶ遠方まで行って、波に乗って(もちろん座って)帰ってくる、をくり返し、日が暮れた。
最後の夕飯もなかなか苦戦し、予約もなく向かった4軒ほどに断られ、最後、ホテルに程近い、まだできたばかりであまり人入りが構築できていない洞窟地下牢みたいな居酒屋で、食べた。
OKINAWA4日目。
最後の朝食を食べ、飛行機が早めだったので、二度寝もなくチェックアウト。
車で空港まで1時間、滞りなくレンタカーを返却、空港到着、飛行機搭乗、フライト、着陸。羽田からも、40分ほどで帰宅。
ちょい休んで、三田で早めの夕飯を済ませた。
終わり。
…まあなんせ、疲れていたようだ。タイムリーには、そんなに露見しない疲労、プラスアルファが、私を襲うのである。少し時間をおいて。
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kennak · 1 year ago
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今日、出勤したものの、上司と2人でラーメン屋に行く約束が嫌すぎて、冷や汗が止まらず気分が悪くなり即退勤した。人数が少ない部署なので、同僚の人には悪いと思ったけど、あまりにも嫌すぎて、自分がこんなに嫌だと思ってることに驚きつつも休んでしまった。明日はちゃんと行こうと思っている、し、もしも明日ラーメン食べに行こうってなっても行けると思う。今日たまたま体調とかメンタルの調子が良くなかったんだ。 上司は55〜59歳で、自分の部署の一番上の人。5人しかいない部署で、狭い部屋で一緒に仕事をしている。上司と自分は4月に同時に異動してきた。仕事上、頼りになる人だし、自分も特に仕事面で心配なことはない。残業も少なくて、先輩も聞けば教えてくれる理想的な環境。 上司は職場でパワハラセクハラで有名だ。前の部署では2人ほど長期の休みに追い込んで、1人辞めさせている。それでも上司が干されないのは、仕事をこなせるからということと、休む側にも問題があるということからだと思う。まあ、休む側の問題というのも無いとは言えないなって、当時人事担当だった自分は思っていたわけよ。 でも一緒に仕事して3ヶ月で、だいぶしんどさがわかってきた。この人と1年仕事してキッパリ退職した女性の先輩がいるけど、すごい我慢したんだろうなってあらためて思った。 とりあえず、4月から自分ががその都度記録して、記録するたび読み返して憎しみを燃やしたメモを見てくれるかな。 ちなみに自分は25〜30歳の女だ。上司には自分と同い年の息子もいる。この情報も踏まえて読んでくれると、よりキモさをわかってもらえると思う。【4月上旬】・「俺は昔から不良だった」「覚せい剤を手に持ったこともある」「本物のヤクザと知り合いだ」 上記のような内容で自分を強く見せようとしている?事実だとしても別に尊敬できる内容ではない。・一人では飲食店に入れないから一緒に行ってくれと何かにつけて言われる。【4月中旬~5月下旬】・かなりしつこく一緒に自転車に乗ろうと誘ってくる。 体力がないので、日焼けしたくないので、暑い時期はちょっと、と言って断り続けるが、「諦めろ」「腹をくくれ」など。職場の上司と出かけるなんて、よっぽど仲がいいかせめて同性でしょ。・「体力的に難しくて漕げなくなったら背中を押して並走してあげる」触んなクソボケ。・「Aさん(女)もBさん(女)もCさん(女)も俺と出かけた」←めちゃくちゃしつこいから。・「退職したら養ってくれ」キモすぎる。・おいしいラーメン屋や飲食店があるという話があると「今度一緒に行くか」嫌すぎる。【6月後半】・出張に行けないかわりに上司と自分で、昼食を食べに行こうという話になった。断り切れず寿司をおごってもらった。味がしなくて残してしまった。・学校の教師は敵だから、俺たちよりも下だと思ってる、と繰り返し言う。過去に教師に「腐ったミカン」だと言われたらしい。周りの人間をダメにする人間のことを、言い得て妙だと思った。・前の部署時の話になると怒りだしてしまう。病気みたい。人事(自分の古巣だ)はあの時人をくれなかった。予算つけなかった。と責めてくる。(自分が原因で療養している人が複数いることは棚上げなのだろうか?)・前部署の部下Sさん(若手・男性)のことは、折を見て悪く言う。これは上司のお気に入りだったYさん(若手・女性)に対してSさんが言った「心の扉を開けたい」「妻に残業してこいと言われている」などの発言を根に持っているみたい。どう聞いても、Sさんの人柄を鑑みても、冗談で言っているとしか思えない内容だが、こういう隙のある発言をすると、上司は同じ群に自分のメスを誑かそうとするオスがいる!と思って、Sさんを攻撃して、結果Sさんは長期のお休みに入ってしまった。・Aさん(前部署の部下で、上司に詰められてやっぱり休んじゃった・中堅・男性)、Sさんについては100%相手が悪いと思っている。・一方でYさん(上司のオキニ女性)に対しては、良い仕事を回して大変なところだけ他の部員にやらせておいて、美味しいところを手柄にしてあげるというエコ贔屓具合。「Yさんはオレが守ってあげる」と言ったらしい。このYさんはどういう気持ちかわからないけど、上司のことをキモがらない稀有な人材なので、上司の運命の人になってあげてほしいと常々思っている。・上司「前部署時代から朝早く出勤している。俺が雑用をしていると、後から来た下の人が『自分がやります』と言う。自分がやると言うくらいなら俺にやらせないようにしろ。俺より先に気づけ。」←自分本位すぎる。世界が自分中心に回っているのか??頭北極か???マジでいるところにはいるんですこういう人が。・どれだけ自分が仕事をして、どれだけ大変だったか、どれだけ残業したかを繰り返し話す。部分的に、確かに大変だったろうと共感するところもあるが、自分の言動が仕事量を増やしていることに無自覚だったり棚に上げたりするのがはっきりわかるので不快。・健康診断の結果が悪いと、すぐに「俺死ぬから、あとよろしくな」「俺がいなくなってよかったな」と言う。今時「そんなこと言わないでよ~そんなことないよ~」待ちなのか?女子中学生みたいだ。・病院の検査で尿道にカメラを入れられた話してくる。別に聞いてない。話の流れで「偶々~~」といったら「金玉の話してんのかと思った」と言われた。頭金玉か?全身海綿体か??・もうとにかく自分と自転車で一緒に出掛けたいらしい。寿命が短いから生殖本能が活発になってるのかもしれないと思う。【7月】・近所のラーメンに一緒に行こうと誘ってくる。他の部員の人は誘われていない。行きたくない。・飲み会は絶対に飲めと言われる。上司が飲めなくて車を運転するので、飲まない理由が無いだろうという論調。飲み会後の車の中で一番最後に私を残す。位置的な問題もあるだろうけど、個人的にこれがかなり怖い。・「のどが痛い。一回1錠の薬をめんどくさいから2錠飲んでやった」とイキっていた。自傷自慢がとにかくすごい。これ、後から思い返すと、自分が風邪っぽかった飲み会の直後に言い始めたんだ。つまり上司が言いたいのは「風強ぽい部下のコと、飲み会後イイ感じにやることやっちゃって風邪が移っちゃった★」ってことなんじゃないか!?と勘繰ってからマジでキモくてしょうがない。・おしゃべり相手がいないのをあわれに思い、アレクサの購入を促した。・何かと質問に答えると「そういうところ素敵だと思う」と言う。言われても嬉しくない。純粋に気持ち悪いなと思う。口説き文句じゃなくて普通の誉め言葉はないのか?・自分が入院して離婚した時の話で、今後は●さん(自分)に退院するときの荷物取りに来てもらうからな!と言われた。嫌だ…。私はお前の何なんだよ。・元奥さんとの離婚の経緯や自分の恋愛観について二人きりの時にずっと話している。●さんの恋愛観って何?と聞かれる。脳内ピンク色すぎる。どうやったらそんなに恋愛のことを考えていられるのかわからない。再婚するなら俺のありのままを受け入れてくれる人がいいな!とか言っている。やたら再婚の話を振ってくるのでリアクションに困る。・元奥さんと結婚しようと思ったきっかけは、初デートの初ディズニーで駐車場が混んでいて、イライラして「帰ろう」と言った時、元奥さんが「いいよ」と笑って言ってくれたことらしい。そんな人、今後二度と現れない。・部屋に上司と二人になると話しかけられてしまい、仕事が手につかない。・ラーメンを二人で食べに行く約束���させられた。当日涙が出るほど嫌だった。生理的に嫌すぎる。今ココ。以上です。 ねえ、皆さん。このくらいの人、世の中にはいっぱいいるんでしょうね。 そして勘のいい人は読んでて大体わかったと思うけど、この上司は妻と離婚して一人暮らしのおじさんなんだ。もうとにかく毎日寂しくてしょうがないの。でもね、職場の自分の息子と同い年の女性をその捌け口にするのはやめてくれと。勘弁してくれと。お前なんかと食うラーメンはゴメンだよどんなに美味しくても。寿司すら味しなかったんだから。 そしていろんな誘いをハッキリ断れない自分も、きっと批難されるべきなんでしょう。「ラーメン?2人じゃなくて3人なら行きますよ」 これさえ言えればいいので。でもねえ、色々考えるわけよ。例えば自分がそっけない態度をとったとして、きっと上司はしつこく色んなこと聞いてくるし、5人しかいない部署で同僚に気を使わせてしまうのも悪いと思うし。上司には逃げ道もある。「俺はそんなつもりなかったけど、●さんがそう感じたなら悪かったね」。これだけでいいからね。 あ〜ほんと、明日はちゃんと出勤する。同僚に謝って、仕事して、必要とあらば上司とお昼一緒に食べる。味がしなくてもね。そうやってやり過ごせばいつか終わるんだ。 読んでくれてありがとうございます。
上司とラーメンに行き��くなさすぎる。
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hide10com · 3 months ago
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くつろぐサスケ(2024年8月23日の写真日記)
涼しいフローリングでくつろぐサスケ いつでもほっそりのチャコ 夜に飲み会があるのでシェアサイクル通勤したんだけど、今朝のシェアサイクルは大はずれ。まずはロックが解除できなくて、解錠→施錠→解錠を繰り返して何とかロックが外れた。液晶画面は完全に死んでいて、本当に映ってるのか何度も確認するレベル。何とか走り出しても、車輪の回転が悪く平地でもアシストが必要になる。おまけにサドルの締め付けが悪いのか、漕いでるとサドルが回って体が斜め向きに。無駄に汗をかいたわ… 夜は会社近所の居酒屋で歓迎会。2時間制と言われたので途中で追い出されるかと思ってたのに、気が付くと3時間以上も居座ってた。
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ymifune · 3 months ago
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ボートの舵を漕いでいる
8月19日。できたことを中心に。 新曲"Endorphins"を作り続けている。ビートパターンは完コピをした。先にメインボーカルのメロディーを弾いておいた方が上物を作る時の参考になるかと思い、メインボーカルのメロも手で弾いて打ち込んだ。アウトロでサンプラーに取り込んだメインボーカルをチョップして新しいフレーズを紡いでいる箇所があるのだけど、そこは要らないかと思い、まだやっていないのだが、一応そこも打ち込んだほうが曲作りを進めやすそうだ。 上物、コード進行に関しては完コピするかどうか考えたのだが、結局、思いっきり我流に寄せたコード進行にしてしまうかもしれないという方向でコードを打ち込んでいる。 カバー曲がオリジナル曲より作るのが簡単かと言われたらそんなことは全然ないと断言したい。元々がもう充分かっこいい曲があるのに、それを敢えて自分がもう一度歌うにあたって、そのままやってもオリジナルに勝るでもなし。何か自分なりにこう受け取ったという解釈を加えないと自分のものにはならないし、それで何か視聴に耐えうるものにするには物凄く地道な研究が必要なので、そんなに簡単なことではないと思うのだ。 今日もあと少しだけコード進行を紡いだら寝ようと思う。 意外とね、・・・いや意外とでもないのかな。自信がないのだ。かっこいい曲にできるかどうか、作り始めてみるまでわからない。そもそも、最後まで作り通せるかどうか、自分のスキルで太刀打ちできるのかどうかすらわからないままやっている。 先日も書いたかもしれないのだが、
"Feel fear, and do it anyway"
という状態で延々とボートの舵を漕いでいる気持ちがしている。音に向き合っている時間は楽しいのだけどね。 夏休み中にしたいことリストも着々とこなしている。 押せ押せになっていた歯医者も行った。 今日、親友のCちゃんにも会って、一緒にご飯を食べてきた。 最近、特に京都から帰ってからぐらいかな。Instagramの使用頻度を意識して下げた。少し昔の話になるけれども、少しどころじゃないかな。2014年ぐらいのイギリスの研究チームが発表した人間のメンタルヘルスに最も悪影響があるのはInstagramだという研究結果があった。で、それとはまた別に、間断なくInstagramはメンタルヘルスによくないという報告やニュース、または個人の体験談としてInstagramを削除したというようなニュースを目にしているように思う。 で、私はどうかという話なのだが、私もそのInstagramの精神衛生への悪影響は感じてはいると思う。が、何というか、私はInstagramに依存しているとまでは思わないのだが、頼ってはいる。ここは長崎県の出島というか、私��とって、私がこれこれこういった音楽を作っていますと発表できるプラットフォームが今の所、Instagramしかないので。 ただ、使用頻度を下げることならすぐできるよなと思った。一番大切な音楽の情報をリリース時にパーンと伝えられさえすればあとはおまけみたいなものなので、#photobomb のような塊で最近撮れた綺麗な写真をまとめて見せることはするが、何というか絡まりは見せないようにする、というのは徹底していると思う。 それすらね、三船の人生は順風満帆、輝いて見えるのに対して、俺の人生は何なんだ・・・みたいなきっかけにならないとも限らない。だから、投稿頻度はできるだけ控えめに、少なくともよく撮れた写真を発表するみたいなところからはブレずに使おうかなと思っている。 明日は夏休み中のお出かけシリーズの最後か。MOTとアーティゾン美術館の梯子というのをやる。朝起きられた時間でどちらを先に行くか変えると思う。アーティゾン美術館の方は時間入れ替え制なので。 では少し音楽を作って、寝よう。 夏休みも残り3日となった。 今週も生き延びるので、どうか見守っていてほしい。 これを読んでくれた方も平穏無事な1週間を過ごしてもらえれば。
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