#颯爽別邸
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20221127-28
広島で食べた4杯
ばくだん屋にて広島つけ麺
麺場神徳にてつけ麺
颯爽別邸にて 鶏そば、汁あり担々麺 連食
広島はお好み焼き屋さんが非常にたくさんあり、多くの店で待ちの行列を見かけました
一方、ラーメン店はどこもガラガラでしたー
今回、あまり調べもせず4杯食べた
颯爽別邸の鶏そばは満足した
スープは少なくジュレになったカエシ?鶏油?をよく混ぜて食べるもの
スープの味は良い
麺も美味しかった
でっかい水菜みたいな葉っぱは食べにくく邪魔
他の3杯は食べなくても良かったかな〜
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🅃🅁🄸🄿 -6-
4日目は広島へ移動。広島では宮島に行く予定でしたが、大渋滞と駐車場がどこも空いてなく断念。広島市内へ移動してランチ♩*。
『颯爽-別邸』
汁なし坦々麺をいただきました。痺れる辛さが美味しすぎた!辛さと味のバランスも良き〜✧*。
中村屋
気になっていた喫茶店。どこか教会のようなレトロクラシカルな造りで雰囲気が素敵でした✧*。 奥のシャンデリアが点いてなかったので、ママさんに点くのか聞いてみたら点けてくれました〜♡ チョコレートケーキも美味しかったし大満足〜◡̈*❤︎
広島平和記念資料館
Architect : 丹下健三
3度目の訪問でしたが、設計は丹下健三さんて初めて知りました!国際的に高い評価を受けた最初の戦後建築。美しいモダニズム建築で1955年に建てられたとは思えない佇まいに改めて感動✧*。
おりづるタワー
Architect : 三分一博志
原爆ドームに隣接する場所に建つ、全国的にも珍しいオフィスビルのフルリノベーションの複合ビル。原爆ドーム周辺は市の景観規制で高さ制限があり建て替えでなく改修で対応することとなったそう。(旧躯体を新躯体が東西から挟み込む形で耐震補強) 屋上は展望台として生まれ変わり広島の街並みを望める素敵な空間でした✧*。
展望フロアの下12階に「おりづる広場」が整備され、来館者が折ったおりづるをガラスで吹き抜けになった「おりづるの壁」に落とすことが出来ます。平和への祈りを込めて折りました!久しぶりすぎて折り鶴の折り方忘れてたけどなんとか折れて良かったw
#広島#広島旅行#ランチ#汁なし坦々麺#喫茶店#喫茶#喫茶店巡り#純喫茶#レトロ喫茶#純喫茶コレクション#純喫茶巡り#kissa#広島平和記念資料館#平和記念公園#おりづるタワー#折り鶴#建築巡り#建築#建造物#iphone#iphonephotography#旅行#旅行写真#旅の記録#夕暮れ時#夕暮れ#travel#trip#レトロ#昭和レトロ
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『八月の光』、分厚いですよね(後半)
後半です。前半ではクリスマスとジョアナを中心に愛と承認についてうだうだ書きました。後半では腹を括って書ききれなかった「信仰とはなにか」問題について書かねば��りません。書き切るためにも、とにかく気合でページを進めるのみです。デスマーチ……(私はものを読むのが得意でない)。 後半で取り扱う人物がまー軒並みクズでして、奴隷労働をさせられることになった怒りをフォークナーに癒してもらうために読み始めたはずが、より一層怒り狂うはめになりました。
【主な登場人物】
リーナ・グローヴ:神がジェファソンに導き給うた。そろそろ産まれそう。
ジョー・ブラウン:自分が作った酒でアル中になるバカ。
ジョー・クリスマス:愛した女を殺し家を燃やして逃走中。賞金首。
ジョアナ・バーデン:愛の渦に飲み込まれ死亡。享年44歳。
バイロン・バンチ:おれがリーナを守る!夫に会わせてやるからな!
ゲイル・ハイタワー:実はバイロンとマブダチ。本は結構読むらしい。
それでは参りましょう。悪態が炸裂して大変なことになりそうです。
【目次】
383ページ 頭蓋骨に蛆が詰まっているとしか思えない
395ページ 「確信」への憧憬
403ページ ハイタワーの受け取った「おつり」
474ページ まるで死が賜物であるかのように
495ページ 黒人の神様
498ページ 罪を抱えきれない弱い人間
526ページ リーナの出産
574ページ このタイミングで新キャラ出すの何なの
631ページ ハイタワーの死/リーナの再出発
やっと読み終わりました(656ページ)
383ページ 頭蓋骨に蛆が詰まっているとしか思えない
前半冒頭で「走る下半身」として紹介したジョー・ブラウンという男がいましたね。こいつの名前は偽名です。リーナの夫になることから逃れるために町を移り、名を変えました。本名(かどうかも怪しいが)ルーカス・バーチ、バイロン・バンチと名前が似ていた偶然がリーナを彼のそばまで運んできたのです。必然でしょうね。 このクソ野郎は、リーナから逃げて流れ着いたこの町に同じく流れ着いたストレンジャーであったクリスマスとつるんで密造酒の製造販売で儲けようとするのですが、脳が5gくらいしかないのであちこちでヘマをやらかしてクリスマスに睨まれます。とはいえクリスマス自身もストレンジャー特有の警戒心があり他に仲間にできそうな人もなく、同じくストレンジャーであるブラウンと一緒に過ごすことを選びました。宿のない彼をジョアナに与えられていた小屋に招いて共に暮らすようになると、ブラウンはクリスマスとジョアナが男女関係であることを知るようになります。へえ、こいつはおもしれえや。あの北部人の女とね。のみならず、クリスマスが酩酊して「自分には黒人の血が流れている」と独白するのも聞く。いよいよこいつの弱みを握ってやったぜ。こいつは使えそうだ。 それで、火事の現場に偶然居合わせたブラウンに容疑がかかった際、相棒クリスマスの複雑で繊細な事柄をぜんぶ、ぜーんぶぶちまけて、自分の利益に替えようとするわけです。我が身の安全とクリスマスの首に懸かった賞金の千ドルのために、知ってることをすべて警察に打ち明けて、「あいつが殺したんだ!あいつが悪人だ!」と喚く。「俺は何もかも知っている!犯人を明らかにしたんだから千ドルよこせ!」とぎゃんぎゃん叫ぶ。なんなんだこの下劣野郎は。最悪すぎる。
ブラウンはしゃべりたがった、熱心に大声でしゃべりたがり、どうやら彼がそうするのも千ドルの賞金が欲しいためだとすぐに明らかになったのだった。 「おまえは共犯証言をして自分の罪を軽くしたいわけかね?」保安官が尋ねた。 「俺はそんな証言したくねえよ」ブラウンは表情も声もやや荒っぽく、突っかかるように言った。「誰がやったか俺は知ってるんだ、千ドルくれれば話すんだ」
ちょっと頭蓋骨に蛆が詰まっているとしか思えないですね。それとも、この時代、1930年代のアメリカの南というのは、ここまで人を貶めなければ自分が生き延びることができないような時代だったのでしょうか。
2020年を生きる私はブラウンのキャラクターに対してはっきりと憎悪をもっていますが、当時の土地や時代のことや、信仰のもう手に負えないほどの形骸化のことに鑑みるに、彼が神を無視し、慣習を無視し、父親となってこの世に囚われることを拒み、逃げ、逃げ続け、この世に反抗して生きられるのならば何だってやる、という態度を選択するのももしかすると一つの生き様なのかもしれない、とわずかな同情の余地をもつこともできます。彼の発言や行動の迂闊さと利己心をみるに、そこまで確固たる思想があるとはまったく思えないけど、絶対��いとは言い切れないよね。
もちろん、どう擁護しようと、こいつのせいでリーナは孕んで共同体から疎外され、こいつのせいでクリスマスはリンチに遭って死ぬわけです。 ですが、彼を悪であると断じていいのかどうかはわかりません。
リーナはすごく晴れ晴れしく旅を続けています、この男を追う旅を。この小説のラストシーンは再びリーナの歩みで締めくくられるのですが、そのリーナの姿の晴れやかなことといったら。生きる勇気をもらえるラストシーンです。この美しさ、晴れ晴れしさは、未読の方には是非読み通して味わっていただきたいものです。 クリスマスは、これは想像にすぎないけれど、多分ジョアナを殺して一人になった時からずっと死にたかったのだろうと思います。二人で死ぬつもりだった女を一人で死なせて、彼はもう生きていくことはできなくなったような気がする。二人で死のうとしていたような女を一度人生に置いて、それから再び一人になるということはできないような気がします。
ジョー・ブラウンの存在は、「引き金は意思を持たない」ということを示しているのかもしれません。事実、この世には、明確な意志で以って引かれる引き金なんかほとんどないのです(私たちが抗いながらも自殺に憧れる理由でしょうか)。
395ページ 「確信」への憧憬
これまでこの記事では愚昧な男バイロン・バンチと追放された牧師ゲイル・ハイタワーのことにはほとんど触れずにきました。どちらも物語の主要人物なのですが、どうも魅力に欠いて、それは彼らに主体性がないからだと思います。自己についても他者についても社会についても責任を有していない。呆れたことですが、一般的なことかもしれません。 動くことはもちろんsurviveするための能動的選択ですが、不動のまま耐え続けることもまた生き延びるための一つの選択肢でしょう。とくに共同体から疎外されては生きてゆかれないような状況では、動くことのほうが愚策であることが多い。 バイロンとハイタワーの両者は「耐える」ことを選んだ者でした。 ある側面では、この小説の結末について思えば、これはそういった「どこに自分を見出せばいいかわからない」ような生を生きてきた彼らを救済する物語であるとも言えるかもしれません。
「彼女はいまあなたがしているように僕を見つめてて、それから言ったんです、『その黒ん坊の名は何というの?』まるで神様が見るみたいに、人間の嘘から知りたいことだけを、尋ねもせずに、見つけだしちまうんです」
バイロン・バンチがリーナに恋をするのも頷ける話です。確信を持つ人間は、従い続ける人間にはあまりにも眩しく見えるものでしょう。
バイロン・バンチは、よりによってジョアナ��死体と家が燃え上がっているまさにその時にジェファソンにたどり着いたリーナと偶然出会って恋に落ちます。「ルーカス・バーチ(下半身ジョー・ブラウン)を探していたら、バーチじゃなくてバンチならここにいるっていろんな人に言われたわ。バンチってあんたなのね。」みたいな感じで話します。今書き出してみて気づいたけど、売野機子の描く物語の登場人物にこういう話し方をする子がけっこういますね。『かんぺきな街』とか。
バイロンがリーナを保護し、彼女の望みを叶えるためにブラウンに会わせてやろうとするその健気さ、甲斐甲斐しさというのは、明らかに当時理想とされていた男性像から逸脱したものです。言ってしまえば性役割が反転しています。ここがリーナというキャラクターの底知れなさで、この人、主語が一貫して「あたし」なんですよね。前半の登場人物紹介で「電波」と書きましたが、彼女を電波と言わしめる社会順応性のほうがどう考えても悪ですね。
403ページ ハイタワーの受け取った「おつり」
『いかん、わしはせんぞ。わしはお役ご免の株を買ったんだ』。それがいまは口でしゃべる言葉ほどになって、繰り返し、執拗に、主張するように、『わしはそのために支払ったのだ、値段をごまかしはしなかった。誰にもそうは言わせんぞ。わしはただ平和が欲しかっただけだ。言い逃れもせずに彼らの値段どおり払ったんだ』。
『 』は作中人物が頭の中で考えた会話や独白を示すそうです(原文では ‘ ’ )。ゴシック体(原文はイタリック)となっている“意識の中を走る「思考の流れ」”との違いが相変わらずよくわかりませんね。より強く現実に即している思考ってことなのかな。
本書ではバイロン・バンチとハイタワーの対話に少なくない紙面が割かれているのですが、この箇所ではバイロンがハイタワーにクリスマスを助けるための嘘をついてくれないかと懇願し���す。 バイロンはハイタワーに頭を下げつつ、「悪人と同様に善人にも負債が——償わねばならぬ負債が——あるとあなたに言いましたね」と話しています。ハイタワーはそんなこと、つゆほども承知していない。 先に「耐える」者として触れたとおり、そして上記の引用からも見て取れるような、「ただ悪事を犯さないというだけで“善人”である」というスタンスをとっていたハイタワーには、自分が支払わなければならない負債なんか到底あるとは思えないのです。 しかしその後、ハイタワーはほとんど自らの意志で「おつり」を受け取ることになりました。
この場面の前後で、クリスマスの祖父母が新たに登場します。ここにきて新キャラ出すのやめろ。クリスマスの(微妙にたいしたことない)出生の秘密が明らかになると同時に、前半で触れた孤児院の「番人」はクリスマスの祖父だったことが判明します。孤児院のシーンでの描写でも完全に��バい男でしたが、何がどうなってあんなにヤバかったのかが明らかにされて私も安心しました。詳しくは後ほど。
474ページ まるで死が賜物であるかのように
それでいてなおその音楽は冷酷で執念ぶかい性質を持ち、用心ぶかくて、わが身を犠牲にする情熱もなく、頼み、懇願するのだが、それは生をではなく、死を請い願っているのであり、他の新教音楽と同様、人々に生命を禁じるその高い調子は、まるで死が賜物であるかのように、死を請い願っているのだ。
ハイタワーが今は自分の所属先ではなくなってしまった教会、そこで奏でられるパイプオルガンの音色について回想しているこの箇所は、明らかにイエス・キリストを擬人化(擬人化?)した挙句クリスマスに重ねている文章ですね。 この、クリスマスの心情を髣髴とさせる一節をハイタワー(堕落した牧師)の思念として描き出すのもなかなか皮肉に満ちていながら、……もしかすると、「わかりあえなさ」を強調しているのかもしれません。
この人々は喜びや陶酔には耐えられぬようであり、そこから逃避するために暴力と酒と喧嘩と祈りを用い、破滅するときにも、また、同様に、きまって暴力を用いるのだ だから彼らの宗教も当然のことに、彼ら自身やお互いを、十字架上に追いあげるようなものになるのだ と彼は考える。この音楽の内奥には、あの人々が明日はせねばならぬと知っているものに対する彼らの宣言と献身とが聞きとれるように思える。また、前の週は奔流のごとく過ぎ去り、明日に始まる来週は深淵であり、いまだけは瀑布(ばくふ)の落ち口に集まった水の流れが一つに調和して厳粛で朗々たる響きをあげているといったふうなのだ、それも弁明のためでなくて自らの落下を前にしての末期の挨拶であり、それを神へではなくて鉄棒のはまった監房に死を待つあの男へであって、その合唱ばかりか他の二つの教会の音楽も聞えてくる監房にいる男に、彼らは喜んで磔のための十字架を建てようとしているのだ。(太字箇所はここではゴシック体)
『というのも、あの男を憐れんだりすればそれは彼ら自身への疑問を生むことになるからだ、彼ら自身を憐れむ希望と必要を生むことになるからだ。だから彼らは喜んであの男を磔にする十字架を建てるのだ、喜んで。それが恐ろしいことなのだ、まったく恐ろしい、恐ろしい』
思念はイエス・キリスト、クリスマス、そしてハイタワー自身が民衆から受ける仕打ちを重ね合わせながら、自己を守るために他者の理解を拒むという民衆的暴力の陰惨さに辿り着きます。 この箇所を他人事として棚上げすることは許されないように思われます。私たちが他者を拒むとき、それが暴力の行使にあたることにはほとんど気づきません。しかしそれは、『八月の光』あるいは聖書に描かれる実際上の血祭りとなんら変わりないと、ここにはっきりと記されていました。
ハイタワーとクリスマスは、それこそクリスマスの死の瞬間まで一切、直接に接触することはありません。隠居しているハイタワーは、クリスマスの存在を知ってはいるものの、バイロンの噂話で聞きかじる程度です。 こうしてかつての自分が民衆から受けた迫害にあらためて思いを馳せる夜を経たことで、その後ハイタワーはクリスマスを暴力と死から逃そうとする行動をとることになるのですが、結局守りきれず、無力感に包まれたままハイタワーもまた孤独に息をひきとりました。
直接に愛し合うことのない人間がほとんど唯一の理解者としてこの世に存在しうるということは、絶望でしょうか。それとも希望でしょうか。自分が生きながらにして享受できない救いははたして救いなのでしょうか。生前評価されなかった画家を死んでから愛でるというおこないの下劣について、私たちはどう折り合いをつければいいのでしょうか。
死が賜物であると宣べるとき、私たちはこの生の耐え難い無力感から解放されることの安堵に支配されてしまうのでしょう。その安堵に抵抗し続けることの困難に、それでも立ち向かわなくてはならないのですが。
495ページ 黒人の神様
『坊や、なんであっしばかり見つめとるだね?』するとその子(引用者注:孤児院時代のクリスマス)は言った、『おじさん、どうして黒ん坊になったの?』それで黒ん坊が言った、『あっしが黒ん坊だなんて誰が教えたい? ええこの白人の父(てて)なし子め!』するとその子が言うんだ、『ぼく黒ん坊じゃないよ』、そして黒ん坊が言った、『おまえはそれより悪いだ。自分が何だか知らねえんだから。それもだ、これからずっと一生知らねえだ。おまえは行きて、そいから死ぬだがそれでも死なねえままだ』
呪いがすごい。この呪詛によって、人種差別の罪、暴力でもって黒人を奴隷として使役してきた白人の罪のすべてがクリスマスに注がれています。神なき人の子に重すぎる原罪を背負わせるのやめろ。
そしてその子が言うんだ、『神様は黒ん坊じゃないよ』、そしてその黒ん坊が言うのさ、『おまえは神様が何だか知ってるにちがいねえな、だっておまえがどんな人間かは神様だけが知っとるんだからよ』。
「神様は黒ん坊じゃない」! その次の黒ん坊のセリフもまたすごいものですが、「神様は黒ん坊じゃない」という一節に衝撃を受けました。そうだよな、黒人の歴史においては、キリスト教が布教される(あるいは強制される)その担い手は白人だったわけで、それは書物ではなく口承と絵図とモチーフのみによって教えられたわけで、イエス・キリストは黒人の姿をしていない……。一度も考えたことがなかった。黒人にとっては、神の子は自分と同じ肌の色をしておらず、よりイエス・キリストの姿(と思い込まされているもの)に近い白人たちのほうが上等な生き物であると思わされてきたのかもしれない。白人たちも当然その傲慢に染まっていたことでしょう。聖書におけるイエスの肌は褐色であるにもかかわらず。 ここで私が割って入って「神様は黒ん坊でもないけど白人でもありませ〜〜ん残念でした〜〜〜!」と叫びながらハリセンで���リスマスの頭をはたけたら何か変わっていたかもしれません。悔やまれます。
その直後の黒ん坊のセリフ「おまえは神様が何だか知ってるにちがいねえな、だっておまえがどんな人間かは神様だけが知っとるんだからよ」、こっちが真実ですね。どんなに正しいことに触れても、それが正しいと知らなければ受け取ることは叶わないのはやるせないものです。私もきっとおびただしい正しさを取りこぼして過って生きているのだろうな。
それにしても、構造が明らかになるにつれフォークナーの筆力にひれ伏すばかりです。私事ですが、ここ何年かは、複雑きわまりない人生から「咀嚼可能なていどに簡易化をほどこした物語」を抽出することに取り組んできましたが、そろそろ「複雑な物語構造を組んで現実を再構築する」ということに取り組んでみたい気がしています。
498ページ 罪を抱えきれない弱い人間
クリスマスの祖父について少し触れておきたいと思います。老ハインズと呼ばれている、町で噂のキチガイ爺です。「番人」の描写の時もやたらと神神神神言ってましたが、この人もまたあんまりよろしくない形で神と共にあり神を都合よくつかって救われたがっている人です。彼は常時、神と会話(対話でなく会話です)をしています。
老ドック・ハインズはあれが馬車に乗って出てゆくのを見送ってから、神様がおいでになるのを待っとると神様がやってきて老ドック・ハインズに申された、『おまえも行ってよろしい。おまえはわたしの仕事を果した。あとはもう女の悪業しか残っておらぬが、それはわたしの選んだ手先に見張らせる値打ちもないものじゃ』。
クリスマスを孤児院から養父母に引き渡したあとのシーンですね。老ハインズは自分を神の使者だと思っているようです。 彼の一人芝居の滑稽さには正直ちょっと笑ってしまうのですが、直後に来るシーンはかなり切実で泣けてしまいます。
夜になると彼は言った、『神様、あの父なし子は?』そして神様が言われた、『あれはまだわたしの大地を歩いておる』、そして老ドック・ハインズは神様と連絡をとっておってそして晩になると彼は言った、『神様、あの父なし子は?』そして神様が言われた、『あの子はまだわたしの大地を歩いておる』、そして老ドック・ハインズはなおも神様と連絡をとっておって、そしてある夜に彼はもがいたり荒れくるったりしてから大声で叫んだ、『あの父なし子、神様! わしは感じます! わしは悪魔の歯と牙を感じます!』そして神様が言われた、『それはあの私生児じゃ。おまえの仕事はまだ終っておらん。彼はわたしの大地の汚れであり憎しみなのじゃ』
ぐううう……(ぐうの音)。いやね、今となっては「私生児くらいでそんな……」という感じですが当時は気が狂うほどの罪だったんでしょう。自分の手から放してしまった孫をずっと気にして、不安にかられて、神様、神様と唱え続けている老ハインズの哀れな姿に胸が締めつけられます。ついに不安も苦しみも罪の意識も自責の念も背負いきれなくなり、ハインズは神様に「彼はわたしの大地の汚れであり憎しみなのだ」と言わしめてしまいました。 貶めることで安堵しようとする。人間のそういう弱さはよくわかります。自分の罪を自分で抱えきるには人間は弱すぎる。老ハインズと同じことを私もよくやっていると思います。でも、人間が弱いからと言って、自らその弱さを手放しに許すことは堕落にほかなりません。生きる以上、私たちはこの弱さに抗っていかなければならない。
526ページ リーナの出産
さて、物語も終盤にさしかかっています。ついにリーナが出産するのですが、ブラウンが彼女を匿うことにしたのは実はジョアナ・バーデン邸の一角、クリスマス(とブラウン)が寝泊まりしていた小屋なんです。 クリスマスがジョアナを殺して家を焼いたそのすぐそばの小屋でリーナの子が産まれた瞬間、そこには、大人になったクリスマスに再会することで罪を許されたいと願ったものの叶わなかったクリスマスの祖父母(老ハインズら)と産婆役のハイタワーが集い、ここまできてもなお事態を我が事とみなしていなかったために医師を連れて来るのが間に合わなかった情けないバイロン・バンチが遅れてやってきて……なんというか、すごい構図ですね。ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(1897-98)を思い出します。
ゴーギャンこれ。好きなんだよね。
『哀れな女だ』と彼は考える。『哀れにも不毛な女。あと一週間だけ生きのびておれば、幸運がこの場所に戻ってきたものを。この不毛の破滅した土地に運と生命が戻ってきたものを』。
ハイタワーはリーナの小屋に医師役として通いながらこんなことを考えますが、ほんとにそうかなあ。ジョアナとクリスマスが破滅し、家が燃え上がって何もかも失われてしまったからこそ、ここに新たな生命が芽吹いたんじゃないのかな。わからないけど、そんな気がします。世界は運動し続けるもので、とどまることはないと思う。
574ページ このタイミングで新キャラ出すの何なの
おい、もうほぼ読み終わろうとしているこのタイミングでなぜまたも新キャラを登場させる。すごい度胸だフォークナー。登場させたペラッペラの新キャラにクリスマスを惨殺させる役割を担わせるのに何の意図があるんだフォークナー。 この新キャラ(警官パーシイ・グリム)は物語に颯爽と現れて颯爽とクリスマスを殺して消えます。なんなんだ。
留置所から逃げ出したクリスマスはハイタワーの家に駆け込み(クリスマスの祖母が彼に会いに留置所へ行き、ハイタワーが守ってくれるはずだと説いたためです)、ハイタワーも彼を追っ手の警官グリムから守ろうとするのですが、空しくクリスマスはグリムに撃たれて殺されてしまいます。
他の連中が台所に着いたとき、テーブルは横にのけられ、グリムは死体の上にかがみこんでいた。彼が何をしているのかと近づいて、一同は男がまだ死んでいないのを知った、そしてグリムのしていることを見たとき、彼らの一人は咽喉のつまった叫びをあげ、壁のほうへよろめいていって嘔吐しはじめた。グリムもまた、血だらけの大ナイフを背後に投げすてながら飛びさがった。「これで、きさま、地獄に行っても白人の女にいたずらできないぞ」と彼は言った。
このシーンは……ちょっとあまりにも悲惨で口を噤んでしまいますが……。直後に「尻や腰のあたりの切り裂かれた服の間からは」という記述があるので、おそらくそういうことですね。一体、警官には正義の名の下にそんな仕打ちをおこなう権利があるというのでしょうか。正義は最悪。いや……マジで最悪ですね正義……。正義によって私刑が正当化されると思っている人間は本当に吐き気のする悪でしかないですね……。おえ。
彼らはこの澱んで僧院めいた薄暗さの中へ、いま彼らが彼にしたばかりの残酷な夏の光に似た何かを持ち込んだのであった。 その光の残映は彼らの上に、彼らのまわりに、ただよっていた——それは光の持つ恥知らぬ残忍酷薄な明るさともいえた。
「八月の光」が何であったのか、端的に述べられた箇所です。 柔い光は人に優しく、あたりを照らして私たちに景色を与え、世に温度と色彩をもたらし、それは恩寵というべき恵みです。しかし、あまりにも強い光は私たちから視力を奪い、体を灼熱に焦がし、すべてを奪いつくす暴力と転じます。それは私たちの力ではどうにも操ることのできないもの、畏怖すべき自然です。 このグリム然り、『異邦人』のムルソー然り、どうも「太陽のせい」で人は道を踏み外しがちになるようです。それはお前が常日頃からきちんと責任について考えておらず、また畏れという意識のもとに生きてないからだと思います。バーカ。
631ページ ハイタワーの死/リーナの再出発
『いずれにせよ、人間の手で神様に非難や責任を押しつけえないものが、何かあるにちがいないのだ。どこかにあるにちがいない』。
終わりから2番目の章はハイタワーが息をひきとる間際におこなう回想に充てられています。祖父の栄光、父の真面目さ、自殺させた妻のこと、などなど。相変わらずあまり反省の様子は見受けられませんが……。初めて知ったのですが、死ぬ間際にはアメリカ人にも走馬灯が見えるようです。
それでも、上に引用したハイタワー��独白は、「八月の光」を否定しうる力強い一節に違いありません。この小説に登場した人物には、神を信じるのではなく、神に責任を転嫁したり、神を都合よく利用したり、神にすべてを預けて破滅へと堕ちていったりする者も多くありました。まともに神を信仰していたのは記憶の限りではリーナくらいでしょうか。 別に神を信仰することが圧倒的な是ということもなく、神のかの字も口にしないジョー・ブラウンのあっぱれな逃げっぷりもそれはそれでよかろうと思います。人倫には悖るし、局部を切り取られるべきはクリスマスではなくこいつなわけだが……。
自分を手放してしまうこと、抗うことを諦めてしまうこと、すべてを「八月の光」のせいにして責任を取らないまま都合よく救済されようとすること。生きるという重圧からの解放に誘惑され、ともすれば抗い難く飲まれてしまうそういった堕落に抵抗し続けることこそ、私たちが生きるこの世界にたいする責任を果たすことに繋がるのかもしれません。
ちゃっかり逃げおおせたブラウンを追って、リーナは再び立ち上がります。今度はバイロン・バンチも一緒です(残念ながらまだまだ片思いの模様。)。
『逞しいもんだ。男どもがあんたを踏みつけにして行っちまうと、あんたおはやつらの残したものを集めて、また進むというわけだ』
そのとおり。私たちは何度踏みつけにされても立ち上がるのです。
やっと読み終わりました(656ページ)
読み終わったぞーーー!!!ワーーー!!すごかった!!! 軽い気持ちで書き始めた感想文のために2周もするはめになり、私もリーナと一緒にずいぶん遠いところに来た気分です。私の読解力の低さゆえ一読では読みきれないところが結構あったので、こうして精読する機会を得られてよかった。
しかしフォークナーの筆力えげつないな……。
と言うのが今は精一杯です。人の人生を初めから終りまで描き切るようなことは、今の私には逆立ちしたってできっこありませんが、「人の人生を初めから終りまで描き切るようなことも人間には可能なのだな」ということをこの20代の終りに初めて知れたので、おそらくこれから先、見ようとするもの、見えることをわかっているので見ようとすることができるもの、が格段に増えてくると思います。とても嬉しい。嬉しいな。精読できてよかったな。
追うリーナ、逃げるブラウン、彷徨うクリスマス、助けるジョアナ、閉じるハイタワー、従うバイロン。人間同士を物語によって絡めあい、多様な生き様を浮き彫りにしつつ、フォークナーはけっしてその是非を問わない。善悪を診断しない。評価を下さない。優れた小説とはかくあるべし、というまさにお手本のような作品でした。これは個人的な感触にすぎず、後日もっと学びを深めたあかつきには撤回することになる謂いかもしれませんが、多くの小説においてはテーマがすでに正義を帯びているような気がします。気がするだけだけど……。
というわけで、拙い感想文に長々とお付き合いくださり本当にあり��とうございました。長かったでしょう……。読んでいただけて嬉しいです。ありがとうございます。 最後に、フォークナーがノーベル文学賞を受賞した際のスピーチより有名な一節を引用して締めくくりたいと思います。
I believe that man will not merely endure: he will prevail. He is immortal, not because he alone among creatures has an inexhaustible voice, but because he has a soul, a spirit capable of compassion and sacrifice and endurance.
——私は、人間とはただ耐えるだけの存在ではなく、打ち克つことのできる存在であると信じています。人間は永遠の存在です。あらゆる生き物のうちただ人間だけが尽きることのない声をもっているから、というわけではありません。人間に魂があるからです。他者を思いやり、自己犠牲を厭わず、忍耐強く耐え抜くことのできる精神を人間が備えているからです。
訳は拙訳でした。全文はこちら↓ https://www.nobelprize.org/prizes/literature/1949/faulkner/speech/
リーナの旅は続く。わたしは次は何を読もうかな。
(2020/05/17 16:21)
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【芸能】鈴木京香 元カレ因縁の “ロス豪邸” を2億円で売却していた!それでも長谷川博己との結婚が難しいワケ [爆笑ゴリラ★]
元スレ 1 :爆笑ゴリラ ★:2021/08/17(火) 09:02:14.12 ID:CAP_USER9.net 8/17(火) 6:03 SmartFLASH 鈴木京香 元カレ因縁の “ロス豪邸” を2億円で売却していた!それでも長谷川博己との結婚が難しいワケ 8月12日、姿を見せた鈴木京香 8月12日の昼下がり。高級マンションから颯爽と車に乗り込んだのは、女優の鈴木京香(53)だ。 鈴木は、寄り道した店でてきぱきと買い物をすませると、都内の別のマンションで暮らす母親のもとへ向かった。マスクと帽子の間から覗く、凛とした目元。酷暑を忘れさせるような、その清々しい様子にはワケがあるようで――。 「彼女が、ある決断をしたことがわかったんです。元カレとの “愛の巣”…
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25歳の夏休み
ヨーロッパでのバカンスについて、長くなりそうだけど、日を追って旅行の記録を残してお��うと思います。ちなみに旅程はパリ(ジヴェルニー)→アルル→ローザンヌという感じ。
9/15(土) 朝5時のアラームで目を覚ます。前日までバッタバタで仕事してたので、荷造り終わってなかったけどそのまま疲れて寝てしまったのでした。とりあえず5時に起きれば何でも解決すると思っている人間なので。 洗濯して、扇風機強風で乾かしながら、布団をしまって荷造りを終えて、だらーんとしていたらいつのまにか9時半になっていた。10時過ぎの新幹線に乗る前にタバコ買ってお金も下ろしておきたかったため、急いで掃除機をかけて家を出た。小雨が降っていたがバックパックから折りたたみ傘を出すのがめんどくさかったのでそのまま歩いたら、蒸し暑さで汗をかいてしまった。このあと40時間は風呂に入れないというのに。 旅行前でさえピシっとできないわたし、なんだかまだ現実感がわかない。実は飛行機取れてないんじゃないかとか、本当に今日から休みでいいんだっけとか、ていうかパリってどこ?みたいな気持ちになりながらなんやかんやで成田に着く。チェックインも荷物検査も出国審査もいつもどおりスムーズに通って、搭乗ゲート前で積読してた小説を読んだ。倉橋由美子の「暗い旅」。旅行のおともにするには向いてなさすぎるタイトルである。。 成田から、乗り継ぎのバンコクまでのフライトが30分押しで離陸。乗り継ぎ時間にそんなに余裕がなかったので内心気が気じゃないけど、隣の席になった同年代くらいの女性と仲良くなって、お互い旅行好きということで今までいった場所の話で盛り上がった。めっちゃいい人だった。バンコクでの乗り継ぎはやっぱりぎりぎりで、その人が一緒にいてくれなかったらたぶんわたし泣いてたと思う笑。彼女はそのあとロンドン行きということで、荷物検査を通った後にさようなら。名前すら交換しなかったけど、またどこかで会えたらいいな~。
9/16(日) 予定時間より少し遅れて、パリのシャルルドゴール空港に到着した。空港では、SNSで知り合ったパリジャンのニコラと、ニコラの友達のユカさんと会うことになっていた。ニコラは思ってたより背が高くて、初めましてのハグとビズをしたときに云われた言葉が忘れられない。「ちっちゃいね^^」。 ユカさんはパリでワーホリ経験のある、フランス語もしゃべれる人。。ちゃきちゃきしてて私の憧れるタイプの方でした。とにかく私はまだ実感がわかなくてふわふわしてて、切符の買い方から二人に教えてもらってしまった。それぞれのホテルに荷物置いてから、バス��ィーユ広場のマルシェを歩いた。野菜も果物もパンもチーズもでかい。。。あと広場にあった、回転遊具のスピードが尋常じゃなくて、乗ってたちっちゃい子が泣いてた笑 絶対に絶対にオルセー美術館には行きたかったから、二人に美術館まで連れてってもらえてありがたかった。そこから別行動になってしまって、最初はびびったけど、後から考えたら美術館なんて一人で見た方がいいから、よかった。私の好きな絵も見れたし、初めて見るけど美しくて感動した絵もあったし、大満足でした。美術館のテラスから見えたモンマルトルがおもしろそうだったので、一人で地下鉄に乗って行ってみることにした。 パリの地下鉄はスリが多いって聞いてたけど、私は一人で乗ってても全然危ない目には合わなかったよ。たまに音楽鳴らしたり歌ったりして乗客にチップせびってる人はいたけどね。あ、そういえばチュイルリー公園でお土産とか水とか売ってる人もいた。なんかネジ巻いて飛ばすトリコロールの鳥のおもちゃが微妙に怖かった。どこ落ちてくるかわかんないから。 モンマルトルはそういえば、フランス語の先生の大おススメだった。「まじでMagnifiqueだから、まじで。」みたいに云われたのでちょうどいいや~と思い、地下鉄を待ちながらガイドブックをちら読みしたところ、映画「アメリ」のロケ地になったカフェがあるそう。ついでに探してみよ~と思いながら駅から出たら、ここにもマルシェが開かれていた。そうか日曜日か。 サクレクールの階段はなぜかおしっこのにおいしたけど景色は本当によかった。景色見てもどれがオルセーだかよくわからなかったけども。中に入ると壮大なモザイク画が天井を覆っていた。(撮影禁止だそうなので写真は撮っていません。構わず撮ってる人も多かったけど。) それからよさげな路地を見つけるたびに曲がったり下りたり登ったりを繰り返していたら道に迷った。アメルのカフェは結局見つからず。疲れて地下鉄の駅を探すも見つからず。やっと見つけた駅は最初に降りたところから2駅離れてた。疲れた。でもよかった。本当はそのあとエッフェル塔にでも行こうかしらと思ったけど、たぶんモンマルトルから見える景色とそう変わりないだろうなと勝手に納得してやめた。ただエッフェル塔は広場がとってもきれいらしいので次にパリに来たら絶対行こう。 夜はニコラとユカさんと合流して、ビルのテラスにあるカクテルバーに行った。夕日を背にしたエッフェル塔を見たときに、やっと自分がパリにいることを実感した。 次の日ジヴェルニーに行く約束してユカさんとお別れして、ニコラともう一軒だけ行って、ホテルの近くでバイバイした。
9/17(月) 目が覚めたら夜中��3時で、昨晩23時まで飲んでそのままベッドにうつ伏せになっていたことを思い出す。ぱりっぱりのコンタクトを外して、シャワー浴びながら服を手洗いして、ホテルの部屋にあった扇風機の最強にあててまた眠る。朝の6時半のアラームでまた目を覚まして洗濯物を確認したところまあまあ乾いてたのでちょっとうれしくなった。外のカフェで朝ごはんを待ちながら道行くパリの人々を眺めていた。歩行者は信号守らないんだなあなんて思いながら一服していたところ、トラックの運ちゃんに「マダム、一本ちょうだいシルブプレ」とか云われた。そう、こんな私でもフランスに来ればマダムと呼ばれるのです。 思った以上に朝食に時間がかかり、急いでチェックアウトを済ませてサンラザール駅に向かったけど遅刻は確実で、「ごめん、遅れる、本当にごめん」とニコラにメッセージを送るものの読まれた気配がなく、電話も出ず。おかしいな、これじゃ落ち合えないぞと不安になり、急いでニコラのインスタから辿ってユカさんのアカウントを発見し、メッセージを送るとまだサンラザールにいてくれていた。ていうかSNSってすごいね?? ニコラは寝坊したのでユカさんと二人でジヴェルニーに行くことにした。切符を買ってから発車までかなり時間があったので、私のアルル行きの切符を買うのまで付き合ってくれた。駅員さんにフランス語で色々聞いてくれたりして本当に頼りになる優しいお姉さん。。わたし朝遅刻したのに。。本当にありがとうございます。 ジヴェルニーにはモネの家を目的に行ったんだけど、もうその庭が、植物いっぱいですごくかわいくて、ユカさんが「女同士で来れてよかった」って言ってくれて嬉しかったし本当その通りだと思った。なんとなくね、男性と花とか見て「きれい」って言っても、どっか感じてる部分が違う気がするんだって。なんかわかるね。あとねモネの家見てたら自分の家建てたくなった。そういう変な話もできるの、同じ場所にいる同年代の同じ言葉の女性同士だからって気がしたな。 お昼に食べたクレープがめっちゃ多くてふたりで苦しい~って云いながら、それもそれでいい思い出です。クレープと一緒にたのんだニース風サラダとモネの庭が似てるなって思った。 食べながら、日本での仕事の話とか、ユカさんのワーホリの話とか、典型的なフランス人の性格とか、いろいろ聞かせてもらった。ほんと、いろんな生き方があるね。たった二日しか一緒にいなかったけど、ユカさんが大好きになった。 二泊目のホテルに荷物を移動させてからこの日こそはエッフェル塔へ!と思ったけど、やっぱり疲れてたし暗くなる時間だったのでおとなしく諦めた。タバコ吸う場所ある?ってスタッフのおじさん、サムに訊いたら、「君も喫煙者なの?僕のマルボロあげるよ、こっちの窓辺で吸ってごらん!あ、スーパーでビール買ったの?部屋で飲むの?よかったらここで僕のロゼでも飲みなよ。そうそう、キウイもあるけど食べる?君はどこから来たの?日本人って本当にいい人ばかりだけど君はベリーグ��ドだね!夜のパリって本当にロマンチックだと思わない?あ、マルボロもう一本どう?」みたいな感じでめっちゃもてなしてくれた。マルボロもロゼもキウイもおいしかった♥またパリに来たら絶対ここ泊まる。
9/18(火) アルル行きのTGVに乗るために、早朝にチェックアウトしたにもかかわらず、サムは嫌な顔ひとつせずまたねありがとうって手を振ってくれた。暗い時間の地下鉄は少し不安だったけど、やっぱり危ない目にはひとつも合わず、無事にパリリヨン駅に着いた。日本みたいに行先によってホームが決まっているわけではなくて、その電車ごとに電光掲示板に発着ホームが発表されるみたい。空港みたい。 私はアルルまで直通のTGVを予約していたから、そのホーム番号を確認して席に着いてすっかりリラックスしていたら、なにやらフランス語でアナウンスがかかり、みんな途中駅のサンテグジュペリ駅で降り始めた。「?」って顔してたら通路挟んで隣に座ってた若い男の子が「フランス語しゃべれる?アナウンスわかった?ここで乗り換えなきゃいけないんだよ」って教えてくれた。なんて親切なんだ。自分が逆の立場だったら同じことができただろうか。。。ありがとうムッシュー。しかし本当になぜ乗り換えなければいけなかったのか今となっては謎のまま。 そしてアルル駅を出た時の気持ちを決して忘れない。太陽と飛び交う言葉と土埃や建物の色。水の色。いよいよ一人旅が始まったんだなっていうのと、こんなに美しい場所に一人で来てしまってよかったんだろうかっていう思いと。もうもったいなさすぎて、友達にテレビ電話しちゃったよね。シェアしたさすぎて。あ、そう、思ったんだけど、一人旅でもネットが使えれば何にも心細くないんだなって!迷いそうになったらナビアプリもあるし翻訳アプリもあるし、シェアしたくなったらSNSもあるしね。 行先としてアルルは、まじでなんとなくで決めてたから何を見ればいいかわからず。。とりあえず一番目玉っぽい円形闘技場に行ってみたら、そのへんの遺跡とかミュージアムとか回れるパスが売られてたのでそれを買った。このこのへんからいよいよ一人旅が楽しくなってくる。パスと一緒にもらった地図を眺めながら、次はこの道を通ってここに行こうとか、おやちょっとこの路地が雰囲気いいから寄り道しようとか、時間が迫ってるけどもう一か所行けそうだから小走りで行っちゃえ!とか。うん。一人旅は楽しい。そしてアルルを選んでよかった。アルルのいいところはもうひとつ、パリと比べて英語が得意じゃない人が多いから、カフェのウェイターさんとか、こんなわたしにもフランス語で話しかけてくれるところ!下手くそでもフランス語通じて嬉しかったな。 人生初のドミトリーを経験したのもアルル。行く前は、他の人が部屋にいるのに洗濯物とかどうやって干せばいいんだろうって思ってたけど、開けた瞬間でっかいブラが干してあるの目に入って、その心配は吹き飛びました。でも部屋まで案内してくれた男性スタッフがちょっと気まずそうにしてた笑。同室の台湾人がめっちゃフレンドリーで、夕ご飯一緒に食べに行って、そのあとスーパーで次の日の朝ご飯と、ロゼを買い、フランスって水よりロゼが安いってほんとだねなんて言いながら、二人で円形闘技場の下で乾杯した。今までの経験したことのない特別な夜だった。おかげでロゼ、めちゃくちゃ好きになりそう。
9/19(水) 朝ご飯に、台湾人と一緒にオムレツを作った。日本にいる感覚で半熟卵にしちゃったけど、「台湾では卵に細菌がいるから絶対にしっかり焼いて食べるんだよ」なんて聞かされてからその日ずっと気が気じゃなかった笑。そんで午前中に急ぎ足でアルル観光の続き。ゴッホが病んで耳を切り落とした昔の療養所が意外と近くにあって、そこに寄ってポストカードを買った。療養所の庭はなんとなくモネのそれに似ていた。それからスーパーで適当にお土産用のお菓子を買い、レジ袋をもらえないので全部手にもってまた急ぎ足でゲストハウスに戻った。アルル、もっとゆっくりいたかったけど。でも次の目的地のスイスまではアルルから6時間かかるししかたないね。南仏は絶対またゆっくり遊びに来ようと心に決めました。いえ、円形闘技場に誓いました。その日が来るまで私の心はあそこに置き去りです。TGVの乗り換えで30分だけいたマルセイユもすごく眺めがきれいだった。海で遊びたいなあ。 6時間って、切符買ったときはすごく長く感じたけど、実際、電車に乗ってる間はそうでもなかった。移り行く景色がすごく新鮮で刺激的だったから。トウモロコシ畑!岩山!牛!羊!協会!赤い屋根!みたいな。スイスに入った瞬間は思わずナビアプリでスクショ撮ってしまった。 陸路で国境越えるときって入国審査とかどうするんだろうって思ってたけど、ジュネーブ駅からスイス鉄道に乗り換えるときにシェパード犬を従えた国境警察の前を通らなきゃいけなくて、そこで一人一人チェックすんじゃなくてランダムに呼び止めてIDを提示させてた。私は見るからに外国人だけどスルーされた。どういう基準だったんだろうか。スイス鉄道の車窓の景色もまた美しくって、あこがれのレマン湖をやっと望むことができて感動した。 ローザンヌのゲストハウスは丘の上にあって、バックパックをしょって歩くのはちょっとだけ大変だった。しかもスイス涼しいと思ってたから厚着しちゃってたし、汗かくし、喉渇くし。着いてみたらとってもきれいで近代的なゲストハウスだった。レセプションのお姉さんがちょっとそっけない感じだったけど毎日朝から晩までわけのわからない外国人相手に仕事してたらそうなるよね~しゃーないしゃーない。 荷物置いてちょっと休んで、スーパーを探したけど見つけられず、結局また坂を下って駅の売店で買った水が飲んでみたら炭酸入りでした。部屋に戻ったらかわいらしい台湾人の女の子がいて、その子もまた人懐っこい感じで色々しゃべってくれた。「スイストラベルパス買ってないの?これさえあれば電車もバスも船も乗れるしミュージアムにも入れるしめっちゃお得だよ。」と教えてもらい、そこから必死にネットでお得に買う方法を検索する。どうやらローザンヌ駅で買うのが一番よさそうだと思ったので、朝一で窓口に寄ろうと決心して寝た。
9/20(木) 寝坊しないか心配だったけど、ワクワクしすぎて6時前に目が覚めた。ドミトリーだったので周りを気にしつつ、ひっそり身支度を整えているとわたしより遅く起きた昨日の台湾人の女の子が、わたしよりも先に部屋を出ていった。颯爽と。 ローザンヌ駅でまた下手くそなフランス語で「スイストラベルパスを買いたい」と伝えたところまあなんとなく通じて、無事にゲット~そのままモントルーへ向かう電車に飛び乗った。モントルーは何があるのか知らないけどまあとりあえずフランス語の先生があそこはめっちゃきれいだよ!って言ってたしとりあえず行ってみるという感じで、電車の中で観光地をぐぐっていた。進行方向右手にレマン湖、左手にブドウ畑と、たぶん目玉が4つぐらい足りないなあと泣きそうな気持ちをこらえる。 モントルーといえばこれしかないっしょみたいな観光地、シヨン城というところを目指すことに決め、とりあえずレマン湖畔にあるらしいことだけ確認したので湖沿いをぐるりと歩くことにした。モントルーはレイクリゾートで有名なエリアなので、高級そうなホテルが立ち並んでいる。早朝の人の少ない散歩道をすがすがしい気持ちで歩いていたのだけれど、一人、バスタオル一枚で湖畔にたたずんでいる女性がいてちょっとびっくりした。治安いいからな~(?) シヨン城見終わってからはバスでまたモントルー駅に戻った。そういえばスイスってバスも電車も乗り降りするときお金払ったりしない。ばれなきゃ無賃乗車もし放題。ただ、不意打ちでチェックされることもあるらしく、そのときチケット持ってなかったらけっこうな額の罰金を払わされるんだって。スイストラベルパスがあれば大丈夫なんだけど、その路線が有効かっていうのがわかりづらかったから、知らずに使えないやつ乗っちゃってたらこわいなあとは思いました。 バス降りてからさすがにおなかが減っていたので、ブランチにカフェでパニーニを食べたのだけど、中に入ってたトマトが白いTシャツにこぼれてしまい、天気よかったし気温も高かったので脱いでしまうことにした。日本だとタンクトップ1枚でって歩き回りづらいけど海外だと全然気にならなくなるのなんでなんでしょうね。両肩から指先にかけて空気にさわる感覚がとっても気持ちいい。パニーニ食べながら次どこ行くか調べて、グリュイエールという村に行ってみることにした。そこは牧歌的な景色の中にある小さい村なんだけど、映画「エイリアン」のデザイン?をしたHRギーガーの美術館がある。わりと気持ち悪い作品しかなかったけどあの景色の中にあるから逆にいいんだろうな~と感じた。そこからもう少し丘をのぼったところにグリュイエール城があったのでそこにも立ち寄って��テラスから見える景色とか庭とか、いかにもスイスっぽい空気を堪能しました。このときだけは、誰も自分を撮ってくれる人がいないという状況をもどかしく感じた。 この日、ゲストハウスに帰ってから、また台湾人の女の子とおしゃべりしたんだけど、「グリュイエールってどこ?なんで行こうと思ったの?」とか聞かれて何も答えられなかった、、笑 ほんとに理由なんてなかったから「ただ私の足が選んだの」みたいな。
9/21(金) 朝っぱらからブドウ畑を見に行った。これも、台湾人の女の子の話を聞いて、行かなきゃ!と思ったから。(ドミトリー泊っていいね。はまりそう。)朝8時過ぎだったからか、ここも観光客が誰もいなくて、斜面にぶわ~っと広がるブドウ畑と朝日を映すレマン湖を独り占めしていた。熟れたブドウが放つ少しつんとしたにおいが祖父母の畑のにおいを想起させて、そっかこのへんの農家さんにとってはこの景色が日常なんだななんて思ったりした。丘の上の駅から湖畔の駅まで下るコースを歩いたんだけど、ゴールの駅で電車を待ってる間に湖の波打ち際まで行ってみたらちょっとした海水浴場みたいなつくりになっていて、9月も半ばを過ぎたというのに泳いでいる人がいた。こんなにあったかいって知ってたらわたしもそのつもりで水着とかもってけばよかったな~。 そのあとはヴェヴェイという町にあるチャップリン博物館に行った。晩年にチャップリンが住んでいた邸宅を博物館として公開しているところ。等身大の人形とか、映画のワンシーンとか、アカデミー賞授賞式の映像とか、映画で実際に使われてた小道具なんかも展示されていて、ファンとしてはぐっとくるものがありました。団体さんは地元の小学生とか、欧米からのご年配とかが多かった。みんな、流れてる映像を見て声をあげて笑っていて、いいな~と感じました。なんとなくチャップリンが演出してる笑いの表現って日本人にはピンとこないものも多いというか、だから子どもがああいう感じで笑ってるのを見て意外に思いました。 ヴェヴェイから船でローザンヌに帰り、そういえばローザンヌって全然観光してなかったなと気づいたので、とりあえず遠くからでもよく見える大聖堂に行ってみることにした。近くまで行ってみたら、美術館と博物館が隣接してあったのでまずそこに入った。美術館でクレイアニメの展示やってて、そういうのって言葉がわからなくても楽しめるしラッキーでした。ちょうど近所の学校が終わったぐらいの時間だったのか、学生カップルも何組かいた。大聖堂はステンドグラスがすごかった。パリのサクレクールに行ったときも思ったけど、宗教って芸術を生み出す力があるよね。信じてなきゃあんな細かい装飾できないよ。 そしてこの日が最後の夜だったんだけどついにマックスに会うことができ��。彼もニコラと同じSNSで親しくなった人。見た目も話してる印象も思ってた以上にいいやつだった。ビール飲んでごはん食べて、小雨が降っている中だったけどローザンヌを少し案内してもらった。いつもマックスが服を買ってる店とか、日本食のお店とか、好きなビールとかね。ローザンヌ駅で、わたしがお土産でもっていった上善如水を二人で飲んだ。彼は日本のアニメが大好きで、特にナルトがお気に入りらしいので、「カゲブンシンノジュツ」とか「シャリンガンとか「カトン・スイトン・ドトン」とか、そういう日本語よく知ってるらしい笑 「ちょっと影分身の術やってみせてよ」って言ったら一生懸命印結んでて純粋な人だなあと思いました。 ちょっと寒かったし、おそらくあのせいで軽く風邪ひいたけど、思い出に残る特別な夜でした。またいつか会えるのかな。「来年僕が日本に行くね。約束だよ」なんて正直あまり期待してないんだぜ。
9/22(土) 日本に帰るため、ローザンヌからチューリッヒへ。。だから朝からゲストハウスを出なきゃいけなかったんだけどあの台湾人の女の子の方が先にチェックアウトしてしまって、「Bye」とだけ短く交わした挨拶が今思い返すととても寂しくなる。 そこから先、電車も空港でのチェックインも搭乗もすべてがスムーズに進んでいった。マックスがくれたチョコを食べたり、ブレスレットをいじってみたりしてるとやっぱり寂しくなったので、絶対にわたしはまた来ようと決めました。だから英語もフランス語ももっと上手になりたい。今の職場で2年勤めあげたらヨーロッパに移る。そう考えたらとってもワクワクするし何も寂しくないって思えるね。いろいろやり方はあるだろうけどいちばん理想的なかたちを求めていけば間違いないはずです。
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とにかく帰国してからの時間の流れが早すぎて、これを書きながら、あのとき確かにそう感じていたはずのこともこんなにも薄まってしまうのかと自分にがっかりしております。だから昨日フランス語のレッスンでも先生に軽く決意を伝えてみたりした。ていうか昨日知ったけど先生は今ワーホリビザで日本にいるからもうすぐいなくなっちゃうのね。やっぱり1年後とか2年後とか言わずすぐ行動できることを探さないと年齢制限あっというまに来ちゃうなあなんて、焦ったりしてます。
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