#道の駅頓原
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kinop37p · 2 years ago
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ari0921 · 1 year ago
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我が国の未来を見通す(77)
『強靭な国家』を造る(14)
「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その4)
宗像久男(元陸将)
─────────────────────
□はじめに
 前回、字数の関係で先送りした“論点”を先に紹
介しておきます。先日、都内某駅前の道路を歩いて
いた時、ある建物の入り口いっぱいに「軍拡より生
活 平和な未来を」と2行にわたる大きなポスター
のような看板が目に入ってきました。確かにそのよ
うな主張する政党などもありますので、政党か何か
の建物かと思って注意深くみてみますと、何と、立
派な“病院”でした(細部はあえて省略します)。
しばらくの間、「病気やけがを治し、人の命を救う
病院の玄関にふさわしいのだろうか」との疑問が頭
から離れませんでした。
最近、沖縄の与那国島では「自衛隊が来たからミサ
イル攻撃の目標になるのが怖い」と発言する住民の
声があたかも島民の大多数の考えのように報道され
たり、石垣島では「自衛隊を人口に含めるな」との
某地元紙の社説も波紋を呼びました(さすがに後日、
謝罪記事を掲載したようですが)。
現役時代から、何度もこのような主張を耳にしてき
ましたが、立場上表立った反論はできませんでした。
今はもう“失うものはない”ので、あくまで個人的
な率直な印象のみを述べておきたいと思います。
病院の看板は、「軍拡、つまり防衛力を増強すれば、
生活が苦しくなり、平和も壊れる」と言いたげなフ
レーズですが、逆に「軍拡さえしなければ、生活が
豊かになり、平和も続く」と信じ込んでいるのでし
ょうか。
言うまでなく、防衛力を増強し、自衛隊を国土の隅
々まで配置する目的は、現在の国民の生活や我が国
の平和が永遠に続くよう万全を尽くすとともに、万
が一にもそれが侵されそうな事態になった時には、
まさに“病院が病人やけが人を治す”ように、被害
を最小限にするための処置です。つまり、上記のフ
レーズは、言葉���代えれば、「病院があるから、病
人やけが人が出る」と言っていることと同じなので
す。優秀な医者の先生方の集まりである病院がなぜ
そのことに気がつかないのか、不思議でなりません。
残念なのは、このような方々は、「普段の生活や平
和がどうやって維持されているのか」などには全く
考えが及ばず、それどころか、「何も抵抗せずにし
て外国に占領されても、普段の生活や平和が維持で
きる」と勝手に思い込んでいる節があることです。
古くは欧米列国の植民地、現在でも中国の占領下に
あるチベットや新疆ウイグルで何が行なわれている
かを知れば、そのような考えは一挙に吹っ飛ぶはず
です。
関係しているマスコミ人も同様の認識なのでしょう。
「表現の自由」を盾に、「自衛隊がいなくなれば、
簡単に占領されてしまう可能性がある」ことなどに
は全く思いが至らず、“思慮が至らない”街中の声
をあたかも真っ当な意見のように報道するのだと思
います。
我が国は、戦後70年余りの間に、どうしてこのよ
うな“能天気な大人たち”を大量に輩出してしまっ
ているのでしょうか。それでも、一般の国民の皆様
には正確な情報が届かず、学校でも教えられず(た
ぶん、逆のことを教えられ)、国の防衛などについ
て考える機会も余裕もなかったと言い訳ができるこ
とでしょう。
しかし、一部のマスコミや政治家、そしてその道で
は優れた知見をお持ちの高名な有識者の中にも同じ
ような思想を持っている人がかなりおられるのはシ
ョックです。一例を挙げましょう。最近、手に取っ
て読ませていただいた1冊に『主権者を疑う』(駒
村圭吾著)があり、「主権者とは何か」を考えさせ
てくれる、私に取りましてはとても興味深い1冊で
した。
しかし、その「はしがき」には、「改憲と言う重大
なプロジェクトの前提となるような���“今そこにあ
る危機”や“忍び寄る危機”がどうしても見当たら
ない。少なくともそれらが“国民に共有される”よ
うなかたちで議論が展開されていない」として、著
者は、「憲法改正を否定しているわけではないが、
私が否定的なのは、意味不明な政治状況で改憲が提
案され、議論されることに対してである」との立場
を述べていました。
ことさら批判する気はありませんが、正直、「これ
ほど優秀な方が、またこれほど勉強しているのに、
もったいないな」との印象を持たざるを得ませんで
した。��籍を発刊するような有識者は、少なくとも
国民を誤って誘導するような言動は厳に慎むべきと
思いますが、現時点においても我が国には様々な課
題が山積しており、近未来も、遠い将来も、国内外
の情勢がますます厳しくなる可能性が大と考えます。
一方、これほどの「危機」が差し迫っていても、
“眼をふさぎ、耳を閉じ、関心を持たなければ”何
も見えません。そして、そのような自分自身を、不
勉強とも、偏っているとも、恥とも思っていないこ
とでしょう。
私が「もったいない」と考えたのは、少しでもそれ
らに気がつけば、また違った視点で「主権者」につ
いて解説できたのではないか、と考えたからでした。
このような認識の方々から導かれる結論は、せいぜ
い「今のままで何が悪いのか」でしょう。かなり多
くの政治家、マスコミ人、有識者、そして我が国の
未来などに関心もなければ考えたこともない、大多
数の国民はこのような認識で留まっているものと想
像します。そして、そのような“現実”を知ってい
るから、小室氏のような方でも“歩き出す”で止ま
ってしまったではないでしょうか。
我が国の最大の課題・問題点は、小室氏が「アノミ
ー」と表現した社会現象に代表され、かつ「権利の
み主張し、義務を果たさない国民」とか「3メート
ル以内しか関心がない若者」と揶揄されるような、
多くの日本人の「行動原理」にあると考えます。そ
れが「政局と選挙しか考えない政治家」とか、自己
主張に固守し「目立つことしか考えない言論人」な
どを生み出し、それが巡り巡って、このような現状
を“矯正”できない主要因となっていると考えます。
よって、少数の先見者が様々な形で警鐘を鳴らして
も、あるいはウクライナ戦争のような具体例をもっ
て注意喚起してもほとんど届かないのでしょう。
我が国が少なくとも現状程度の「国力」を保持し、
国際社会で「名誉する地位」を保ちながら、後世に
この日本を残すために、私たちの世代がやらなけれ
ばならないことは、「国力」の要素のどれ一つとし
て簡単なものはないと思います。どうしても「ソフ
ト・パワー」として、個々の要素を束ねて向かうべ
き方向を定める「国家戦略」のようなものが必要と
考えていた矢先でした。
偶然にも「戦略は統治を超えられない」という言葉
を見つけ(『軍事と政治 日本の選択』(細谷雄一
編)より)、再び立ち止まりました。歴史を振���返
ると、大正時代の政治家や有識者たちも当時の内外
情勢の変化などに無頓着で、主に大日本帝国憲法に
謳われている我が国の「統治機構」がこのままでよ
いのか、などには露ほども思いが至らなかったよう
ですが、それが「激動の昭和」を迎える大きな要因
にもなりました。
見方によっては、大正時代と現在は“よく似てい
る”と考えますが、最大の違いは「主権が国民にあ
る」ことでしょう。つまり、最終的には、どうして
も“統治”の主役である「主権者」の「行動原理」、
その基となる「国民の精神」に行き着くのです。
「戦略は統治を超えられない」は、改めて、「現憲
法下で我が国は未来へ立ち向かうことができるのか」
を私達に突き付けているような“重い言葉”となっ
て響いてきます。そしてその先に、大方の“能天気
な国民の精神”を、戦争や天変地異や外圧に委ねる
ことなく、“内側からの改革”として、どのように
変えていけばよいのだろうか、という命題に突き当
たるのです。
細部はいずれまた触れることにしますが、またして
も「任重く道遠し」の感を一層強くしながらも、気
を取り直して、今回以降、再定義した「国力」のそ
れぞれの要素を分解しつつ、我が国が向かうべき方
向、私たちの世代があらゆるものに優先してやるべ
きこと、やらなければならないことを微力ながら導
き出そうと思います。
▼「人口」が「国力」に及ぼす影響
「はじめに」が長くなりました。さっそく 前回取
り上げたように、「国力」の柱となる「ハード・パ
ワー」のそれぞれの要素から考えてみましょう。そ
の筆頭は「人口」です。
これについては、本メルマガの第1編で18回にわ
たり、様々な角度から割と詳しく分析し、書き綴り
ました。興味ある方は、バックナンバーをお読みい
ただきたいと思います。それにしても、最近、「少
子化対策」などを取り上げる記事や解説が目立つよ
うになりました。「少子化」などの文字自体が多く
の国民の目に触れることはとても良いことと思いま
す。
私はすでに、「少子化対策」として「“3人産んだ
ら家が建つ”くらいの超異次元の政策が必要」と主
張しましたが、マクロ経済学の専門家・小黒一正氏
も「第3子以降、1時金1000万円に」と抜本的
な対策を提案していました(産経新聞6面(7月9
日朝刊))。小黒氏は、「“既婚者にさらに一人で
も多く産んでもらう”『有配偶出生数』を引き上げ
ことに資源を集中すべき」として、そちらの方が婚
姻率などを高めることなどより“近道”としていま
す。
最近、マスコミでは��500万円の壁」が話題にな
っています。内閣府の資料では、男性の有配偶者の
年収「500万円」が“子供を持つかどうかを分け
る最低ラインになっている”とのことです。一方、
既婚男性の年収は400万円台が最多で、不足分は
共稼ぎによって「500万円の壁」を突破している
ようですが、そうなると、出産・子育てを機に仕事
を辞めざるを得ないケースも珍しくありません。
すでに、パパ育休制度の推進とか児童手当の増額な
ども「こども未来戦略方針」に盛り込まれています
が、「月額数万円を増額したことで結婚や出産に踏
み切る人は少数派だろう」と分析されていることも
事実です。その対策として、公務員やサラリーマン
など社会全体で、“子育てが終了した世代の賃上げ
は抑制してでも、若者世代の賃上げを優先する”よ
うな、思い切った給与制度の改善なども必要なので
しょう。
イマイチ盛り上がりに欠けることに危機意識を持っ
たのでしょうか、岸田首相は、「政策を気兼ねなく
活用してもらうために社会が変わらなければならな
い」として、「少子化対策国民運動」をスタートす
ることを決意したようです。
しかし、今後、この国民運動が盛り上がるかどうか
は疑問でしょう。「どうやって社会自体をかえてい
くか」の提示もなければ、「最近の支持率低下を防
止するためのその場凌ぎ」などと揶揄されているよ
うでは、首相の“発信力(本気度)”が国民に届く
可能性が低いように思えてなりません(読む限り、
関連記事も1回のみでした)。
メルマガですでに取り上げましたが、我が国は、非
嫡出子が2.3%と50%を超えるフランスや北欧
諸国などと比較してとても低いことを例示しながら、
「日本の『少子化』の原因は、『直系家族病の病』」
だ」とするような意見(『老人支配国家日本の危機』
(エマニエル・トッド著))もあります。
トッドは、「核家族」化が進んできたとはいえ、
「日本に依然として強く残っている『家族』の過剰
な重視が『非婚化』や『少子化』を生み、逆に『家
族』を消滅させてしまっている」というのです。そ
の対策として、欧米のように、子育ても老人介護も
公的扶助によって「家族」の負担を軽減させる(ほ
ぼゼロにする)必要があると提言します。
これは、後に述べる日本の「文化」の問題でもある
のですが、「人口」は「経済力」と正比例の関係に
あることから、「国力」維持の“一丁目一番地”と
も言��るでしょう。その「人口」を確保するために
は、我が国の伝統的な「文化」の領域にまで踏み込
んで考える必要があるという点には私も同意です。
さて、「人口」の中の要素の「人的資源」について
これまでほとんど触れませんでした。世界に誇れる
「ものづくり」の精神や技術、及び(すでに紹介し
ましたような)無形の価値としての「インタンジブ
ルス」のようなものはすべてこの「人的資源」に包
含されると考えます。
一方で、後に詳しく述べる「教育」の実態や最近の
若い世代の価値観、そして「働き方改革」などによ
って大きな曲がり角にある雇用環境など考える時、
「将来の『人的資源』は大丈夫だろうか」との懸念
を払しょくできないことも事実です。
「少子化」になればなるほど、一人ひとりの「真の
力」が試される機会が増えることは間違いないでし
ょう。幸い、AIをはじめデジタル化やロボットの
活用など、人的資源を補完する資源が増える傾向に
ありますが、それらを有効かつ適切に使いこなすの
は何と言っても「人間」でしょうから、「人口」の
質的側面の尺度としての「人的資源」は、“その時
代時代に適合する人材をいかに多く抱えるか”に集
約されると考えます。そのような視点に立った教育
や人材育成が求められてきていますが、それぞれの
“現場”はどうなっているのでしょうか。この続き
は、「教育」のところで触れたいと思います。
「高齢化」の問題点については第1編で詳しく取り
上げましたので省略しますが、焦点は、“「少子化」
がさらに加速すれば、国が滅ぶ”との「危機意識」
を全国民が共有できるかどうか、そしてどのように
して共有するか、にかかっていると考えます。
このような発言をすると“袋叩き”に遭うような気
もしますが、かつての日本には「産めよ、増やせよ」
という時代があったのです。この後に「地に満ちよ」
と続くフレーズは旧約聖書の言葉ですが、大東亜戦
争最中の昭和16(1941)年1月22日に閣議
決定されました。いわゆる“敵国”のフレーズをそ
のまま引用して人口増加を目論んだ当時の為政者た
ちは相当先の日本まで思い描いていたことでしょう。
今では、「軍国主義の象徴的な人口政策で、個人の
権利を侵害する決定であった」旨の批判もあります
が、翌日の「朝日新聞」1面は、「日本民族悠久の
発展へ」の大見出しで本閣議決定がトップ記事で紹
介されていました。敗戦はしましたが、この「��導」
(当時は、このように呼んでいました)のもとの国
民精神が全国津々浦々に行き渡り、終戦時の約7千
2百万人から、終戦直後のベビーブームを含めて、
現在の1億人を超える大国になるまで成長させたの
でした。
ちなみに昭和26年生まれの私は、7人兄弟の末っ
子ですが、私たちの親の世代は、終戦後の食料事情
が極端に悪い中でも、我が国の未来のために子孫を
残してきたのです。「時代が違う」と言えばそれま
でですが、戦争を体験した世代のご苦労に比べれば、
「500万円の壁」などはさほどの障壁ではないと
思ってしまいます。要は、国民がこぞって「危機意
識」を持つかどうかにあると私は考えます。
そのためには、目先の「少子化対策」とか、言葉だ
けが先行している「こども未来戦略方針」などの内
容では何とも不十分で、冒頭に述べたような、「国
の形」を問う「国家戦略」の範疇に及ぶものと考え
ます。それについてはのちほど取り上げましょう。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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shukiiflog · 1 year ago
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ある画家の手記if.84 後編 雪村絢視点 告白
話せば通じる範疇の人だと、そう思ってたーーー直にぃの これが、現実…
翌日。 直にぃにメールしたら、今もまだ友人ーーーー冷泉慧鶴、って人の家に居候してるらしい。 この人についても、情香さんから聞けた。 データにははっきりそうとはどこにも書かれてなかったけど、情香さんの話では、直にぃの元恋人らしい。今ではだいぶ違う関係に落ち着いてるって言ってた。「信用するかはお前が決めろ。私にとっては信頼できるいいダチだけどな」って。 それから直にぃは俺のこと、この人にも話してるって。 意外にも直にぃは外部に頼れる存在をちゃんと持ってた…ってこと? 熱は下がってたから、直にぃが仕事終わってその人のマンションに帰ってくる時間聞いて、その人の部屋で会うことにした。 かなりの危険人物に三連続で会うことになるのか。 昨日の疲れもまだ残ってて、あれこれ考えてたらリビングのソファでキリン抱いたまま眠り込んでた。
目を覚ましたときにはもう夕方だった。 時計を見る。直にぃとの約束の時間にはギリ間に合う。 急いで支度して家を出た。 まだ決めかねてる、俺は直にぃに、どう働きかければいいのか。 昨日の情香さんの話…  あれは情香さんなりの名廊直人へのアプローチだ。個人的な感��に寄ってるけど、でも直にぃにギリギリ通用するのはそういうものしかなかった。 …香澄が直にぃを変えた…  どっちにも自覚あんまなさそう。 でも結局は直にぃは、香澄から公序良俗を言葉で説いて教えられたとかいうことじゃなくて、香澄への愛情を基軸に生きた結果、社会規範から逸脱すると香澄と共生できないから今は落ち着いた暮らしに身をおさめてる、てことなのかな。なら今も昔も、直にぃへのアプローチで有効なものは特に変わってはない…のか? 直にぃが今の暮らしの中で自発的に社会性とかを学んだりしたかどうか、あやしい。
駅からおりて徒歩五分。いい場所だし、11階だから結構いい景観だろうな。 建ったばかりみたいに綺麗なマンションに入ってって、エントランスで1112号室のインターホンを押す。 名乗る前に解錠されてインターホンから『入れ』って一方的に言われた。直にぃの声じゃない。閉まる前に急いでエレベーターの前まで来たけど、……これって危ないほうじゃないの… とりあえずエレベーターに乗って部屋の前まで行ってみた。インターホンを押すか迷ってたら突然内側からドアが開いて腕ひっぱられて部屋の中に引き込まれた。 めちゃくちゃ危ないことになって内心で動揺してたら、俺を半分無理やり部屋に入れた人が目の前に立ってた。片手に透明の液体が入った綺麗なガラス細工のグラス、口つけて飲んでる。 俺よりちょっと背が低い…俺より痩せてる、立派な骨格が大きく浮いて、均整のとれた長い手脚、美しく凛と伸びた姿勢から弱々しくは見えないけど、女性にも男性にも見える、写真より髪が少し伸びてて…印象が違った。髪も肌もだけど、目の色素が薄くて、グレー…金色の散った薄いブルー?その人だけ西洋の映画の中から抜け出てきたような浮世離れした美貌、それだけでもなくてちょっと人間離れした感じが怖い。部屋の中なのに手袋してる… 「雪村絢くんで間違いないか」 「…はい。」 「昨日情香から電話で少し事情を聞いた。前の名前を迂闊に口にするなとか、目立つ接触は避けろとか、そういう最低限きみに対応するときに必要な注意事項だけな」 情香さん、信条的に人の事情をよそでペラペラ喋るようには思えないから、経緯省いて俺を守るのに必須な部分だけを話してくれたのかもしれない。 「必要ないかもしれんが用心にエントランスや部屋の前での不要な会話も避けた。不躾で乱暴な手段になって悪かったな」 「いえ…お気遣いありがとうございます…」 だから名乗りもしないし名乗らせて��らう暇もなかったのか。 「知ってるかもしれねえが俺は冷泉慧鶴。美術講師で、直人の知人だ」 情香さんの、信頼する人。…でも俺は俺で、信頼に足る根拠を自分で見つけたい。 冷泉家の人… 「直人兄さんが信用してるってだけじゃあなたを信用できない」 「いい判断だ」 思ったことそのまま口にしてみたら笑ってそう返された。…笑うとだいぶ、人間ぽさが出る。でも感情はうまく読めない。 ていうかここに直にぃいるのか? 「直人なら寝室でくたばってるぞ」 リビングに通されて、テーブルの上に用意されてたグラスを渡される。無臭…水?飲んで平気かなこれ。 じっとグラスを見てたら、その人は手袋を外してシンプルなデザインの黒いレザーのソファに放った。二つのグラスを持って、一つの部屋の前まで行って、グラスで塞がってる両手が使えないからなのかドアを膝で蹴やった。 びっくりして思わず目が丸くなる。外見から内面とか性格が読みづらいなと思ったけど…ちょっと荒っぽい…?のか…? 「直人、開けろ」 少ししてドアを開けて直にぃがおそるおそる部屋から顔を出した。 「…慧、なんか怒ってる…?」 「俺をキレさせんのはてめぇの特技だろ。例の子がきたぞ」 直にぃは今まで眠ってたのか少しぼんやりしてる。俺と目があってやっと頭がはっきりしたみたいだった。
「直人と話す間、俺はここに居るのと、どっかに出かけとくのと、きみはどっちが安心できる」って聞かれて、ここにいてもらった。 直にぃと二人で話す間、勝手に出ていかないことを示すためなのか、その人はリビングを経由しないと出ていけない自室に黙ってこもって、俺と直にぃがリビングで話をすることになった。
「情香さんと会ったよ」 ソファに向かい合って座って俺がそこから話を始めたら、直にぃはグラスの水を飲みながら答えた。 「そっか…。僕がお願いしたんだ、香澄を一人にするのはやっぱり心配だったから」 「人選としてはベストなんじゃない? て思った。情香さん、もっとドロドロした人かと思ってた」 「ドロドロ…?」 「ただの俺の偏見の話。それはいいとしてさ、香澄の自傷、どうして止まらないか直にぃは考えたことある?」 今は止まってるんだけど伏せとこ。 「………………」 あまりにも長い間直にぃが黙ってるから、話進めたほうがいいのか迷いながらも、様子を見る。 直にぃは迷いながらも話し始めた。 「絢に…話すことなのか、わからないけど…………   物事の…原因や結果、や理由を…考えるのが、僕は………」 ーーーーできない。…いや、できなかったんだ 物事が連続したものとして繋がってるように考えるのが難しい、自然にそう捉えて生活してるはずなんだけど、香澄と会うまではほとんどそういうことを考えるどころか頭に浮かべたこともなかった気がする、それで生活できてた、一人で居ることが多かったから特に不自由だったことはない、物��れが激しかったし人のことすぐ忘れるから人付き合いでたまにトラブルはあったけど、情香ちゃんと結婚してることもよく忘れた、結婚してるか他人に聞かれてしてないって答えてたかもしれない、会えばちゃんと思い出すけど、会わない時間に情香ちゃんを思い出すことはなかった、兄さんのことは頭に浮かぶことがあったけど他は…誰のことも思い出せなかった、傷つけた記憶だけが残ってる、たくさんの人を 香澄に対しても最��はそんな感じだったと思う、僕が覚えてないことも多いのかもしれない、でも香澄と…一緒に居るためには、それじゃ だめ で…
ここまで話したところで、姿勢よく座ってた直にぃが体勢崩した。テーブルに手をついてじっとガラス製の透明なテーブルを見つめながら何か考えてる。長い髪がうつむいた顔を隠す。 それから直にぃの口から無意識みたいに出てきた言葉は たぶん俺に向けられたものじゃなかった
とめどなく出てくる、たぶん香澄と出会ってからこれまでの経緯を語ってる、でも物語のように整然としたものじゃなくて、すべてが直にぃの心象風景だけでなんとか形を保つような、そうだと思ってよく聞かないとなんの話かわからない、それでもほとんど意味不明だった、直にぃは当時の自分の感覚を語ってるようだったけど、俺にはなにがどうしてそうなったり思ったりしたのかまるで分からなかった、なにひとつ予測もたたない無軌道な情緒は突然引きちぎられるように途切れたり後退したり不必要なまでに追い込まれて、そして自殺未遂や怪我や近しい人の死の事実が脈絡もなく唐突に出てくる、今の心情と当時の心情も絡み合いすぎてただの過去話とさえいえない、初めから終わりまで、ーーーーめちゃくちゃだった ずっと呟き続けたと思ったら直にぃはつい今までに考えたことも喋った、最後に、ひとこと、小さな声で虚空に向かって    香澄に会わせて     って、言った
「…………」 正直、呆気にとられてた。 少なくとも俺が知ってる直にぃは、子どもみたいでボケたとこはあるし頼りないけどちゃんと真剣に話せばわかるような人だった。そういう印象でいた。無頓着で無神経で危うい、でもふつうの範疇の人だと。 本人いわく、対峙してる相手には普通に接せられるけど前後関係ははっきりしてなかったんだ、どうしてそんなことになったのか、とにかくそれじゃ香澄と関われないからほとんど人格を崩壊させるような手順を踏んで、直にぃは少しずつ変わりながら香澄と一緒にいた 直にぃが今語ったことは本人に自覚があるから語れたんだ、形をなさない曖昧な自覚だけど、元の状態を聞く限り自覚を持ててるだけでも奇跡に近い。 情香さんの話を聞いたときから嫌な感じはしてたけど、さらに予想を超えたものが出てきてしまった 直にぃが画家をやめたのはーーーもう戻れないほど画家だった自分を徹底して壊してしまったから 「………」 俺がなにも言えずにうつむいて黙ってると、ふといつの間にかあの人が直にぃの横にきて立ってた。 「直人。外で食ってきたんなら今日はもう薬飲んで寝ろ」 その人は直にぃを無理やり立たせて寝室に押し込むとドアを閉めて、キッチンの流しで手を洗ってからドアノブを除菌剤かけた布で拭いて、俺の斜め前の壁一面のガラス窓の前に立った。 そして静かに言った。 「あいつから、聞きたいことは聞けたか?」 「……それって皮肉ですか」 「別居を勧めたのはきみだって聞いたぞ。ここまでの予測はついてたんじゃなかったのか」 別居して、どうなるか。俺の心配は香澄のほうにあった。 …直にぃはどうとでもなる、もういい大人なんだから、って でも 「大人か。年月をどう重ねたかだろ。狂いに狂ったままぎりぎりの生命維持活動と幸運で今の年齢に辿り着いた直人みたいなのもいる。時間は均等でも平等でもない、だろ?直人にも公平に与えられたものじゃなかった。誰もが順当に学びを得ながら成熟した人間に到達できりゃあ何もいうことはねえんだがな」 「………」 「昼間は仕事に行ってここでも割に普通の生活してるぞ。ただし本人にその記憶はない。だいぶ焦ってたのを俺が宥めて落ち着かせた。あれでもここにきた時に比べれば落ち着いたほうだ」 「…記憶がない?」 「仕事に行ってなくて一日中眠り込んでたと本人が訴えるから俺が大学の友人に電話で確認した。普段通りに出勤して、変わった様子はなにもなかったそうだ」 「……いつから」 「別居前、香澄といた頃から。そばにいてもどうにも事態が好転しねえってんで、自分が一方的に香澄を愛してる事実だけでなんとか自身も満ち足りることができなくちゃあいつの精神が続かない事態に陥ったんじゃねえか。 その状態を以前の直人は当たり前のものとして過ごしていた。香澄と過ごすうちに変わっていったのはある意味よかったものの、ここに来て昔の自分の状態に立ち返ってしまった、それは変わったからこそ直人の中ではもう狂った異常なーーーあいつの弁では”不誠実な”ものとしてしか受け止めきれなかった、それで受け入れられない部分の記憶が落ち始めた。香澄を愛すことで確立していった自我だ、香澄と引き離すタイミングを誤ればこうなる、ってことかね。それもこれもまあ人間の精神に…妥当な理屈をつけるならって話だ。 変わるってのは取り返しがつかねえな」 その人は俺の斜め前のソファに座って薄く笑って言った。 「あいつを叱り飛ばして考えるのを一度やめろと言ったら、きみの名前があいつから出てきた、絢に考えろと言われたから自分にはなにか考えなくちゃいけないことがあるんだと。だからさっききみに聞いたんだ、あいつから聞きたいことは聞けたかってな。あいつが責任転嫁しようとしてきみの名前を出したとは思えねぇが、きみは何か目的があって直人にそうけしかけたんじゃないのか。きみの弁を借りるなら、きみももう立派に成人した"いい大人"だろう?」
そのあと、帰り際に玄関先で苦い顔して謝られた。 「きつい物言いになって悪かった」 そのあとその人は小さく苦笑して続けた。 「事態の責任すべてをきみに問おうってわけじゃない。逆だ。きみの態度から”自分がなんとかしないといけない”なんて使命感じみたものを感じた。気のせいならいいんだが」 ……使命感…なんて立派なものじゃない、香澄のことは大事だけど、それよりたぶんまだ俺は 身の置き場に彷徨ってるんだ 「少し肩の力を抜いたらどうだ。香澄には情香がついてる、直人は俺が見ててやる。必要なら他にも頼って、最悪の事態だけはなんとしても防いでやる。別居期間にきみのすることは、一度あの二人への責任感を捨ててみることじゃないか」 責任感を…捨てる… 「……でも…発端は俺にあるから…」 「その責任を取るのが俺や情香やーーー大人の役目だ」
そのまま電車に乗って帰って、真澄さんちに着いてから、せめてシャワー浴びなきゃと思ったけど脚が動かなかった。 熱がある。感覚鈍ってて、ただ疲れてるのか、火傷のせいなのか、これから雨が降るのかも分かんない。 リビングのソファに座ってたキリンを抱いてソファの上に倒れこんだ。
…あの人の語気が少しだけ俺を責めるようなニュアンスになった箇所を思う。あの人は、そこでだけは少し本当に怒ってたんじゃないか 年齢…  誰もに平等に与えられた時間って意味合いのこもったような概念を、あの人は…憎んでるんじゃないか 当然のようにそれを基準に思考をスタートさせる人間のことも…嫌ってるのかも 冷泉慧鶴さん 情香さんも 直にぃの人生の内側に居ようとし続けた人たちの…言葉 ーーーー肩の力を抜いて 責任感を捨てるーーーー 初めて言われたような…   いや、真澄さんが言ってた自分を大事にしろって、もしかして似たようなことなのかな… 俺、諌められたのか…? 今日会ったばっかの人なのに…? 膨大に入ってきた情報量で頭が処理落ちする 俺もう少し好きなことやってていいのかな…それがわからないから二人のために奔走して でも 必要なことを必要に応じてやる以外の…こと ーーーー「最悪の事態だけはなんとしても防いでやる」
たくさんの人に守ってもらってるような気がした
そのまま眠ってしまう瞬間、かくんと首が落ちるのと一緒に、目元に溜まった涙がキリンの上に溢れていった
.
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774 · 2 years ago
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当駅は、東急玉川線(軌道線)時代にあった真中(まなか)電停とほぼ同じ位置にある。新玉川線開業に際し、駒澤大学に近い玉川線駒沢電停の位置(国道246号駒沢交差点付近)ではなく、やや渋谷よりの上馬に設置された。また、当時の仮称は駒沢公園駅であった。 1968年に新玉川線の建設ルートが当初の蛇崩川ルートから、玉川線に沿ったルートに変更された際に発表された図面には、仮称・駒沢公園駅の設置場所は、駒沢電停付近となっていた。 しかし、1969年2月28日に東急が世田谷区交通対策委員会に於いて発表した計画図面では、仮称・駒沢公園駅の設置場所は駒沢電停付近でなく、真中電停付近と変更されていた。駒沢電停付近に駅が設けられないことに納得しない地元と駒澤大学は���あくまでも駒沢電停付近に仮称・駒沢公園駅を設置するように要望したものの受け入れられず、事態の収拾を図るために世田谷区長も乗り出したが交渉は頓挫、調停案も不調に終わり、ついに1970年2月に、駒澤大学理事長・地元各商店会会長・各町会長らが原告になり、東京陸運局長を被告にする行政訴訟に発展した。 結局、裁判では原告側の主張は受け入れられず敗訴となり、その後、駅名は「駒沢大学駅」とすること、駒沢方面への地下通路を東急の負担で建設することなどという協定が結ばれて、駒沢大学駅は現在の場所に建設されることが決まった。改札口と駒沢公園口を結ぶ連絡通路(国道246号駒沢大学駅前交差点のすぐ先まで)は、この協定により作られたものである。
駒沢大学駅 - Wikipedia
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chamon115 · 2 years ago
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✨ 変わったパンケーキでした。 #頓原道の駅 #パキポディウム初心者 #塊根植物初心者 #パキポディウム仲間と繋がりたい #パキポディウム実生 #パキプス #アガベ #恵比寿笑 #塊根植物 #塊根植物のある暮らし #塊根植物好き人と繋がりたい #植物のある暮らし #𝘊𝘢𝘶𝘥𝘦𝘹 #𝘈𝘨𝘢𝘷𝘦 #𝘗𝘢𝘤𝘩𝘺𝘱𝘰𝘥𝘪𝘶𝘮 #めだかのいる暮らし #めだか飼育 #めだか仲間募集中 #めだか好きと繋がりたい #観賞魚めだか #𝘮𝘦𝘥𝘢𝘬𝘢𝘭𝘪𝘧𝘦 #𝘮𝘶𝘴𝘤𝘶𝘭𝘢𝘳𝘥𝘺𝘴𝘵𝘳𝘰𝘱𝘩𝘺 #筋ジストロフィー #𝘯𝘰𝘵𝘭𝘰𝘴𝘦𝘵𝘰𝘥𝘪𝘴𝘢𝘣𝘪𝘭𝘪𝘵𝘺 #障害に負けない https://www.instagram.com/p/CgsjC8fBqGP/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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shu-sumie · 2 years ago
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🇺🇸アメリカデジタルアーティスト Mitchell Schwartz様 ( @mitch_schwartz_digital_art )ご依頼の墨絵作品を Mitch様のデジタルブレンド ✨ちなみにこの原画作品は既にSOLD OUT✨ ページ1〜4がデジタル ページ5が原画 元々の原画もキラキラしてる作品です😊✨ デジタル化すると見えてくる世界 墨絵の良さを残しつつ、デジタルで世界観を作るMitch様のアート流石です‼️ 人はイモムシは嫌うけど、蝶々は好きな人が多い いずれ綺麗になるとはわかっていても、なぜイモ���シは嫌がられるのだろう?? これを投資に例えると、イモムシの段階で労力を注ぐことが、未来への自分の為にもなる。そう思うと人生て、いかにイモムシを好きになれるかどうか?イモムシの段階からケアできるかどうか? にかかっているのかな〜〜 と思ったこの頃☺️ 皆さんどう思うかな? Mitch様今回も素敵なデジタルブレンドありがとうございました🙇‍♂️ めっちゃ素晴らしいです☆☆ ✨✨✨✨✨✨✨✨ 7/9(土) しもつかれビスコッティ新商品イベントが終了‼️ 最高でした‼️大盛況でした‼️ ここまでこれたこと 皆様に感謝申し上げます 商品送付ご希望の方は、順次送付致します。もう暫くお待ち下さい🙇‍♂️ 今回ビスコッティの他、作品レプリカや手描き提灯も売れ、 マグカップグッズも好評でした ✨✨✨✨✨✨✨✨✨ 元HSBC社長立澤様コラボ企画 『常識を逸脱したアート個展』 in 東京 下記日時・下記場所で開催予定 【日時】 8/6(土)午前設営/午後スタート 【場所】 GALERIE du JURA(ギャラリエ・ジュラ) 〒107-0062 東京都港区南青山2-12-1 ミヤコヤビルF 東京メトロ銀座線 「外苑前」駅下車 4a番出口より徒歩3分 東京メトロ銀座線/半蔵門線/大江戸線 「青山一丁目」駅下車 5番出口より徒歩7分 in 大阪 【日時】9/10(土) 午前設営/午後スタート 【場所】Imagine & Design 〒542-0081 大阪市中央区南船場2-6-12 【電車】 地下鉄御堂筋線「心斎橋」駅下車①番出口徒歩5分・クリスタ長堀北⑤番出口すぐ 地下鉄堺筋線「長堀橋」駅下車 2-B出口徒歩2分 地下鉄長堀鶴見緑地線「長堀橋」駅下車 2-B出口徒歩2分 【車】 阪神高速1号環状線「道頓堀」出口から約5分 阪神高速3号神戸線「西長堀」出入口から約5分 専用駐車場はございませんので、近隣有料駐車場をご利用下さい。 すぐに会場が埋まってしまいますので、 お早目のご連絡をDMへお願いします🙏 東京か大阪どちらに参加かDMください🙇‍♂️ 【参加費】 数千円程(そこまでかからないと思いますが、追って連絡します) 【イベント内容】 ❶元HSBC立澤社長とのコラボトークショー ❷ハンド墨絵ライブパフォーマンス ❸墨絵作品鑑賞会 参加希望の方、大変恐縮ではございますが、立澤( @kenichi_tatsuzawa )または、荒川( @godloveyou1204 )のDMへご連絡下さい🙇‍♂️ 当日のイベントでお会いできることを心から楽しみにしております✨😊 #東京でイベント開催 #大阪でイベント開催 #筆を使わない墨絵師 #墨絵師 #墨絵 #sumie #ハンドドローイング #handdrawing #日本を代表する墨絵師 #墨絵アーティスト #書道好きな人と繋がりたい #画家さんと繋がりたい #飛墨 #hisumi #唯一無二の墨絵師 #唯一無二の墨絵アーティスト #しゅう墨絵 #shusumie #生きる墨絵 #UNESCO #世界遺産 #墨絵個展 #人形のわたや #蝶々墨絵 #デジタルアート #digitalart #しもつれビスコッティ #七尾の狐 #妖狐 #玉藻前  https://www.instagram.com/p/Cfz1uE7vvSI/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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deepspeed · 3 years ago
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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
パリ市街戦(アバンタイトル1) 物語中では赤く染まった姿で登場するパリ市街とエッフェル塔。エッフェル塔は戦闘で大破し、マリには武器がわりに使われる。赤く荒廃したパリ市街地に、上空のWILLEの旗艦ヴンダーから艦隊とマリの乗るEVA8号機、そしてリツコが率いる作業員たちが降下し、「ユーロNERV第1号封印柱」の復旧作業を始める。途中NERVのEVAによる妨害を受けるが、8号機がすべて撃破する。復元作業を終えたパリ市街地は元の美しい姿を取り戻し、WILLEは旧NERVユーロ支部に保管されていたEVA2号機の修理パーツと8号機改造のための追加パーツを入手できた。
第3村(アバンタイトル2からAパート) 前作『Q』のラスト後、アスカはシンジ・レイ(仮称)を連れ、救助を求めて赤い大地を放浪していた。やがて三人は大人になった相田ケンスケに救助され、ニアサードインパクトの避難民村「第3村」へ辿り着く。同じく大人になった鈴原トウジ・ヒカリ夫妻らに歓迎され、彼らと共に第3村での生活を始める。レイ(仮称)は鈴原家の世話になり、挨拶を教わったり、赤ん坊���鈴原夫妻の娘・ツバメ)の世話や、村民に農作業などの仕事を教わる交流を通じて、人間らしい感情や言葉を覚えていく。一方シンジはアスカとともにケンスケの家に泊まるが、重すぎる罪の意識やショックから声が出せなくなり、廃人に近い状態が続いていた。その様子をアスカに責められたシンジはケンスケの家から家出し、NERV第二支部跡地で一人で過ごすようになる。そんな中でもシンジはレイ(仮称)やケンスケたちに見守られ、次第に元気になっていくが、その矢先、レイ(仮称)がLCLとなって死亡する。その日、NERVとの最終決戦に向け準備を進めるヴンダーが第3村に寄港し、船に戻るアスカに対し、シンジは乗船を志願する。再びヴンダー(Bパート)ヴンダーに戻ったシンジは爆薬が設置された隔離室に収容される。ヴンダーは衛星軌道上で決戦準備を進め、NERVのEVA第13号機を無力化する「停止信号プラグ」を完成させる。また、2機のEVAも「新2号機」「改8号機」への改造が施される。一方、ネルフ本部は「黒き月」とともに旧南極のセカンドインパクト爆心地へ移動する。
ヤマト作戦(Cパート) WILLEはNERVを壊滅させる「ヤマト作戦」を発動させる。旧南極のNERV本部に対し、大気圏外からヴンダーで強襲、冬月が乗る同型の2番艦による迎撃を切り抜け本部を爆撃、さらにアスカの新2号機とマリの改8号機を投下する。両機はMark.07の大軍を突破するが、新たな小型EVAの敵軍により改8号機が足止めされ、新2号機は単独で第13号機へと向かう。アスカは、まだ停止している第13号機に停止信号プラグを打ち込もうとするも失敗。アスカは自身と新2号機を第9の使徒と化すことで事態の解決を図ろうとするが、突如第13号機が再起動して新2号機は大破し、現れた式波シリーズのオリジナルによって第13号機の中へ連れ去られる。第13号機が新2号機からプラグを抜き取ると、新2号機はLCLとなって崩壊する。
ヴンダーと交戦していた2番艦と3番艦が戦線離脱し、光の羽を展開、黒き月をもとに2本の槍を生成する。ヴンダー側はこれを好機と見て反撃しようとしたが、4番艦の不意打ちを受けて大破、Mark.09-Aによって再び制御システムを乗っ取られてしまう。改8号機はMark.09-Aを捕食吸収してアダムスの器の能力を手に入れる。無力化されたヴンダーの甲板に突如ゲンドウが現れ、ヴンダーの主機であった初号機を奪い、第13号機に乗り込みさらに深層の「マイナス宇宙」へと向かってゆく。甲板に出たシンジはEVAに乗ってゲンドウを追うことをミサトに願い出る。ミサトはそれを認め、シンジの行動の責任は全て自分が負うと宣言した上で、彼に託したいとクルーを説得する。シンジは���サトと最後の会話を交わし、マリの改8号機に同乗してゲンドウを追う。
マイナス宇宙(Dパート) シンジとマリの乗った改8号機はマイナス宇宙へと突入するが、ゲンドウの第13号機は量子テレポートを繰り返して接近を阻んでいた。そこでシンジは初号機に残っていたレイに呼びかけ、改8号機内から初号機に乗り込む。シンジは初号機を覚醒させ、第13号機と格闘しながらマイナス宇宙内を流れていく。やがて初号機と第13号機両機は「ゴルゴダオブジェクト」と呼ばれる巨大な構造物へと到達する。気が付くと、シンジは14年前のNERV本部の第7ケイジでゲンドウと対峙していた。人類はマイナス宇宙をそのまま認識することはできないため、シンジの過去の記憶が再現されているのだとゲンドウは説明する。
第3新東京市、ミサトのマンション、レイの団地など目まぐるしく変化していく記憶の場所を舞台に、初号機と第13号機はそれぞれの槍を手にして戦う。しかし初号機は第13号機に敵わず、決着をつける手段は力ではないとゲンドウに諭されたシンジは、彼との対話へと踏み出す。場面転換し、シンジとゲンドウは古い電車の中で対話を始める。ゲンドウはシンジに、自らの過去や内心や願いを吐露する。そして実在しない架空のEVA「エヴァンゲリオン・イマジナリー」へと到達したゲンドウは、自身の目的は虚構と現実とが渾然となる「アディショナル・インパクト」にあることを明かし、エヴァンゲリオン・イマジナリーに2本の槍を使ってアディショナル・インパクトを起こす。一方でマリは2番艦へ辿り着き、冬月と久しぶりに再会する。冬月は自身の役目を終えたことを告げ、「後はよしなにしたまえ」とマリに伝えてLCL化し死亡する。
改8号機は冬月が用意していたMark.10 - 12を捕食吸収し、2 - 4番艦を撃破する。ヴンダーはほぼ壊滅状態であったが、残った力で初号機に必要な新たな槍を生成する。クルーを退避させ一人操縦席に残ったミサトは、ヴンダーもろともエヴァンゲリオン・イマジナリーへと突撃。生成された「ガイウスの槍」はシンジの元へと届けられる。ミサトが命を捨てて送り届けた槍を受け取るシンジを見て、ゲンドウはシンジが他者の命を受け止めるほど成長したことを知り、同時に自らの計画が頓挫したことを悟る。ゲンドウはシンジのなかにユイの姿を見いだし、それまでの自身の行いをシンジに詫びて、一人電車から降りてゆく。それと入れ替わりにシンジの前にカヲルが現れ、後の役割を引き継ぐと語る。
ここからは、アスカ、カヲル、レイの魂の救済が描写されていく。
まず、シンジがアスカの魂に呼びかけると、彼女は自身の過去や内面を吐露する。そこでは、泣いている幼いアスカの横に大人のケンスケが寄り添っていた。赤い海の砂浜で横になるアスカにシンジとマリが別れを告げ、アスカが乗った第13号機のエントリープラグが射出され、救済は幕を閉じる。
次に、カヲルとシンジ、カヲルと加持の対話が続く。実はカヲルは���数人存在し、繰り返されて来たエヴァンゲリオンの作品世界で、シンジを幸せにするために何度も手助けして来たと告げる。しかし、本当は自分自身が幸せになるためにシンジを幸せにしたかったのだと気付いたカヲルは、加持と話しながらシンジのもとを去っていく。
最後に、シンジは初号機の中のレイに語りかける。シンジは、世界をEVAのない新しい世界へ作り変えることを伝えてレイを見送る。シンジは世界を作り変えるため自らと初号機を槍で貫こうとするが、彼を守るかのようにユイが現れ、シンジを元の世界へと送り返す。そして初号機はユイを、第13号機はゲンドウを中に残したまま自らに槍を刺し、消滅する。続いて他のEVAも立て続けに槍に貫かれて消える。
送り返されたシンジは、青い海の浜辺に座っていた。そこにマリが帰還し、彼女が機体から飛び降りた後、最後のEVAとなった彼女の機体もまた消滅する。大人の姿になったシンジは宇部新川駅のホームのベンチに座っていた。向かいのホームには会話して��るレイとカヲルの姿があり、それとは別にアスカの姿もある。シンジのもとにマリが現れ、マリはシンジのDSSチョーカーを外す。2人は手を繋いで階段を駆け登り、駅の外へ走っていった。
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liliyaolenyeva666 · 3 years ago
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🎼 1578 「All Grown Up」。
えっと、2021年の終わり頃に観た映画を書き留めた それをテキトーに載せます。
"この作品は 家田荘子の原作をもとにフィクショナルに作られたものであり、登場する人物及び団体等の名称は架空で、実在するものとは何等関係ありません" という前書きと、エキスポランドと書かれた大観覧車の下で 岩下志麻さん似の女性が "凶" のおみくじを引いたところから始まります、シリーズ8作目な東映映画 「極道の妻たち 赫い絆」 を観ています。関本郁夫監督作品。突然に 古田新太さん似の男に襲われた 岩下志麻さん似の女性クムラ・キワは、割れた鏡の��片を握り 返り討ちを喰らわせたことで 5年の懲役刑を受けます。5年後、亭主とも別れ、総武線を降りた新宿近くのあたりで一人暮らしを始めたキワは スーパーで働きはじめるのですけれど、次から次へとお客さんが現れたりして なかなかしずかに働くことが出来ません。ある日の仕事中には命を狙われたりして これではいけないと 東京を離れます。そんなところに父が何者かによって暗殺され、葬儀に駆けつけるのですけれど、そんな中で 元亭主の夢の事業 (ドリームランド建設) が頓挫して 煙草を吹かす余裕も無くなってしまいますこの映画、エキスポランドも大観覧車も現在は無いみたいで さういう意味では貴重な映画です。
つづいて
木造の家の扉が開き、小さな和服姿の女の子の元に 岸田今日子さん似の女性がバナナを手渡すところから始まります、幼少時 母親に 復讐を吹き込まれた娘の 残酷な日々を描いた 松竹角川映画 「この子の七つのお祝いに」 を観ています。増村保造監督作品。とある女性が惨殺され、その事件を追っていた警察と新聞記者は 犯人探しに躍起になるのですけれど、そんな最中、新聞記者が自宅で変わり果てた姿で発見されます。そんなこんなで 会津若松に飛んでまもなく亡くなった新聞記者の後輩が事件を追うことと相成ります この映画、新幹線ひかりが 劇中ビューンっと駆け回ります。
つづけて
"この物語は、家田荘子の原作をもとに、フィクションとして創作したものであり 登場する人物、団体等の名称は架空で、実在のものと何ら関係ありません" といった前書きと 手術中と点灯された手術室の前に 岩下志麻さん似の女性が駆け込んだところから始まります、シリーズ10作目 「極道の妻たち 決着 けじめ」 を観ています。中島貞夫監督作品。物語は 三ヶ月前に遡り、組織同士のお金の揉み合いの中で強風が吹き荒れる中、キンキンが巻き込まれてしまう この映画、さくらやがあったころの新宿の街並みがチラッと映ります。
つづけて
しっとりと雨が降る中で おいちゃんの夢を見て涙した 寅さんが目覚めたところから始まります、シリーズ第5作目 「男はつらいよ 望郷篇」 を観ています。山田洋次監督作品。おいちゃんが長くはないという (うそ) 知らせに 上野からタクシーに乗って飛んで帰って来た 寅さんは "かつがれた!" と おいちゃんに食ってかかって喧嘩になってしまいます。そんなところへ 札幌のマサキチ親分が危篤との知らせが届いた寅さんは なけなしのお金を持って 北海道に飛びます。ということで、小樽に飛んで (蒸気機関車の車両基地がどでんと映ります) タクシーで小沢駅まで D5127を追い掛けてどうのかうのする この映画、柴又駅前の売店に置かれた雑誌が時代を物語っていま��た (下手上段から 少年キング、少年サンデー、少年マガジン、明星、平凡、週刊TVガイド、週刊実話、別冊少年サンデー、旅行読売、情報トップ、漫画ストーリー、漫画ボイン、平凡パンチほか)。
つづけて
"この物語は、家田荘子の原作をもとに、フィクションとして創作したものであり 登場する人物、団体等の名称は架空で、実在のものと何ら関係ありません" なんて前書きのあと、なっかなか 岩下志麻さんの姿が見えなくてドキドキさせられます、シリーズ9作目な東映映画 「極道の妻たち 危険な賭け」 を観ています。中島貞夫監督作品。いつの世の中も 跡取りというものは 平和的には解決されないやうで、とある組織の四代目の跡目争いは 肉を斬り、血を噴き出させても なかなかビシッと決まらなかったりして それらに属する男どもは イライラします。そんなこんなで 跡取りをどうしやうかで悩みまくりなこの映画、返り血を浴びまくりな 岩下志麻さん似の女性が美しすぎて 何の映画を観ているのか分からなくなります。
つづけて
土手で、4人の小学生が揉めていた のちの世界、とある眼鏡男子が 見てはいけなさうなものを見てしまったところから始まります、とんでもない世界に足を踏み込んでしまった とある書店員の日々を描いた、ホラーな松竹映画 「さんかく窓の外側は夜」 を観ています。森ガキ侑大監督作品。物語はさておき、今の横浜ってこんな感じなんですねって思いました。
つづけて
"グリニッヂ標準時 3時0分、ニューヨーク時間 22時0分、パリ時間 4時0分、モスクワ時間 6時0分、ブラザビル時間 4時0分、ペキン時間 11時0分、サイゴン時間 11時0分、日本標準時" という文字のあと 一昔前の新宿駅前で 男が褌一丁になるところから始まります、シュールさが眩しい 表現社映画 「新宿泥棒日記」 を久しぶりに観ています。大島渚監督作品。未だ 新宿駅東口前に カメラのさくらやや銀座ワシントン靴店がどがでんとお店を構えていた頃の 新宿、1968年夏、土曜、午后五時半。懐かしさが心に沁みる 紀伊國屋書店新宿本店で ひとりの青年がお金を払わずに本を持って2階の階段を潜り抜けお店を出て行かうとします。捕まります。盗んだ本は "泥棒日記 (ジャン・ジュネ)" ほか。翌日も懲りずに 青年はお金を払わずに 本を持って行くかどうかのところで捕まります。途端に物語は 男女の性がどうのかうのといった話になって 映画に置いて行かれていかれさうな気持ちに (何度観ても) なってしまいますこの映画、突然に カラー映像に切り替わってドキッとさせられますし、一昔前の紀伊國屋書店の店内に下がった "お勘定場" って案内にキュンとさせられますし、佐藤慶さんの声がステキ過ぎて痺れますし (映画のラスト、1968年6月30日 淀橋署東口派出所を破壊する輩の映像も含めて) もう大変です。
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tieslog · 5 years ago
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3月に入ってから御言葉で異性の罪、情の罪についてのお話があったので、なんとなく警戒していたのだけれど、やっぱりというか、案の定というか、異性から告白されるというイベントが発生した。
有料記事を読んでいる方は既にご存知の通り、信仰を持つとサタンが堕落させようと必死で信仰者に恋愛イベントを持ち込み出します。
今までモテと無縁だった人でも謎のモテ状態になる。異性の罪が一番重い罪だとサタンは知っているからです。
異性の罪と聞いて有料記事未読の方は何がなにやらだと思うんですけど、神様と疎通して恋人同士になることが本来人間にとっての「幸せ」というものなんだよという話であり、世の中の男女が上手く行かない原因の根本がこれなのです。
アダムとエバがまだ霊的に成長してないのに身体の関係を持ってしまって、人生が狂った。そして彼らは神様が人類の救いの為に立てた中心者でもあったので、人類の運命も狂った。それを聖書の中では木の実を食べたで表現している。ことを私はRaptさんのブログで初めて知りました。
まあ異性の罪についての詳しい話は有料記事をお読み頂くとして、今回どうやって告白イベントをクラッシュして乗り切ったかを書き出し、分析して、自己反省していこうと思います。
告白されたのはコロナ休校で学校に通わなくてもよくなった休校中でした。
そう。私はつい最近まで通学していました。
その前はアルバイトをしていたのですが(アルバイトする前はポルターガイスト現象に見舞われたりしながら半ば世捨て人というか、ニートみたいな感じで、そもそも社会に参加してなかったんだけど、それは人によっては馴染みのない話だからまたの機会に)、
個性才能を発見したいというか、手に職をつけたほうがいいなとか…
いや本音を言うと、御言葉の中に電気的なことや工学的な話が出てくるから、それを理解できるようになりたいなという理由で学生になることにしたのでした。スマホの中身とか仕組みが分からないし、コンピュータやネットの概念が自分の中でフワッとしていたからです。
私はもともと小さい頃は図鑑を読んだり図工をしたりするのが好きで、小学校では本ばかり読んでいたし(バレエもやってたけど)、中学では美術をやって、高校は霊現象に見舞われてたから中退したけど美術部の先生には入部を誘われていた(寮生で門限とかもあったから���れなかったわけだけど…)所謂どっちかといえば文系人間であった。
でも今回通ったのは理系分野だったので、もう、それはそれは未知の世界だったわけなのですが、意外や意外、文系は設計などのモノ作りの世界に向いてるっぽい?
いや、単に神様がそう導いてくれただけの可能性のが強い?
入学試験の日に面接があって、面接官をやっていた先生たちが「女の人他にいないけど大丈夫ですか?」って訊いてきたので、「え?女の人だと困る事例が今までにあったのでしょうか?」って訊き返したら、「いやそういう話は特にないです」と返されたので、なんだそれは…どういう意図の会話だったのだ…?と疑問に思いました。
一応卒業生に女の人は何人かいるんだけど、学年飛び飛びで発生するからお互いに写真でしか知らない感じです。
最終学年の夏季休暇より前だったかに会社見学先で会った女性の先輩は、2人きりになった瞬間に「女の人1人だけだと大変ですよね…」って切り出してきたから何かあったんだと思う。
そして先生たちには相談できなかったんだと思う。女の人は、いや人は、「この人に相談したところで解決しない」とわかっている相手に相談したりなどしないからである。この先生たちはあまり頼りにならない存在だとみなされていたんだろうなと思う。
私も入学早々話しかけてきた男の人(クラスメイト)相手に頭痛と吐き気を覚えたことがあって、「授業内容に関わること意外で私に話しかけないでもらえますか?何故か頭痛がするんで」と素直に伝えたんですけど(読んでる人は笑ってもいいです)、「え?なんで?いろんな雑談するほうが楽しくない?」みたいにヘラヘラ食い下がってきたし、それから1年くらいはしつこかった。
本当に面倒臭かった。めっちゃ滅びを祈ってた。どうせサタンに主管されてた人だと思ったから。そう、彼が他のクラスメイトと話す内容は大変下品な下ネタか、目下年下の人間を見下す高圧的で卑劣なもので、あと無い学歴で高学歴マウントをとろうとする(たまにいるよねこういう謎の行為するやつ)などの老害行為とか、とにかくこの世の地獄のような思想を煮詰めた煮こごりみたいな人だった。
そんでその下品な男の人は1年くらいして、ようやく私のことを「最初から生理的に受け付けなかったし」と言って避けるように(無視するように?)なってくれた。私はそれまでずっと「好き嫌いという以前に、人として生理的に受け付けないので関わりたくないです」とめげずに伝え続けてきたので、その台詞はパクリでは?と思いながらも、あと最初からそう思ってくれて話しかけないでくれていたなら私も楽だったのに…とか相手の発言に矛盾を感じながらも喜びました。
今まであなたによって発生してしまった無駄な時間はなんだったんだろうな?あとあなたが勝手にメルカリに出品した私が制作したキーホルダーも返してくれると嬉しかったけどそれは返してくれないのな?(追記:返してもらえませんでした)まあいいよ悪人が離れてくれればそれで。この世の物品など平和な生活に比べたらなんてことないぜ。
そんなこんなで、私は紅一点ながらも下心を持った男の人には塩対応する部分をみんなに見せてきたので、その後謎アタックしてくる人や、謎アプローチしてくる人はいなくなりました。他の科の頭のおかしい人が名前を連呼しながら横を通過したりとかはあったけど、その他は概ね平和に過ごせたと思う。
男子生徒と女子生徒で態度変えるタイプの男の先生たちからは「人使いが荒い」と言われていたし、クラスメイトにも「まあ…あの人はクレイジーだから…」とか「誰よりも男らしい」とか言われていたので、まあ大丈夫だろう、みたいな。
まあ大丈夫じゃなかったことが今回発覚したんだけど。
突然の休校が決まったのはニュースで臨時休校が話題になってからずっと後で、その前は周りに建っている小中学校や高校が休みになる中うちの学校はというと、スカイプを使ってのんびり他校とロボットカーレース的なことをしていた。
会社によってはリモートワークの環境作りに四苦八苦していたようだけど、流石は電気系の先生が多めの学校というか、大会におけるスカイプ空間は学校の設備と先生たちの私物によってサクサク構築されていった。やっぱり最近売れてる自撮り用の小さいながらも高性能なカメラは便利そうである。結構高いみたいだし、海外製は当たりハズレもあるみたいだけど。
そんな感じでのんびり過ごしていたのに突然休校することになったのは周り(東京都の偉い人とか)の目を気にして焦ったからなのか?
ちなみに学校から感染者は1人も出ていないし、もちろんインフルすら出てない。
まあコロナはインフルなのでパンデミックの報道はデマなんだけど、学校は男の人ばかりであるせいかみんな基本的に不健康な生活を送っていたので、そういう暮らしを目にすることに私は若干辛みを感じていたので、休暇は素直に嬉しかったです。(なんで男の人は健康な食事にあそこまで無頓着なのだろうか?)
休暇だけど最終学年なので、つまりは卒業であり、ある意味クラスメイト達とはこの先恐らく二度と会わなくなることを意味します。
それでサタンも焦ったのでしょうか?今回は卒業制作を一緒に仕上げた人間から告白されたんですね。
学校最終日、私はいつものように普通に登校しました。
休校になることは突然知らされたので、荷物や教科書を全て持って帰らねばならなくなったこともあり、まあまあ驚きましたが、それ以上に驚いたのがその日はなんとなくカートをゴロゴロ引いて登校してきたので、スムーズに荷物が持って帰れるという偶然でした。(いや、神様は偶然はないと仰っていましたから神様が霊感で持たせて下さったのでしょう。よって私は神様に感謝しました)
それまでの授業ではラズパイでサーバを構築してHPを作る授業が行われていたのですが無事終わったので、持ち込んでたモニタをもって帰ろうと思ってカートを持ってってたんですね。そこで突然の休校です。
午前中は後輩に教室を明け渡す為に作業場を掃除したりして過ごして、午後は後輩たちのプレゼン大会が予定されていて、いつもより授業の始まる時間が遅かったので私は一旦家に帰ることにしました。あとなんか掃除中にヘアゴムが切れてしまってピンチで、そのへんにあった針金で留めていたので、家でまとめ直したかったというのもある。
やばいピンチだ…と針金で留め直してたとき、思い返せば今回告白してきた人が髪を下ろしたらどうなるのか的な質問をしてきて、「どうって、邪魔ですよね。作業するのに」と返したら「そっか」と笑っていたけど、なんか違和感を感じたやり取りだったのだけど、そういうことだったのかね?
思い返せば中学生の頃プールの授業のあとで髪を下ろして乾かしてたら、当時学校にいた私のことを観察する会的な謎の集団がわざわざそれを見にやってきたことがあった。だからそう、こういう髪に関することで注目してくる男の人はもうなんか駄目なんだと思う。そういうことだったのかも。
そんで家に帰ってから髪を留めて、なんとなくハンカチを新しいものに替えて、また学校へと出発しました。
ちなみに家に着いたとき、たまたま祖母が家にいて何故かご飯を炊いていて、「ちょうど出来たから食べていく?」っていうので、いつもはお昼ごはん食べないんだけどその日は食べてから出発したのでした(よってちょっと出遅れた)。いつもは一駅歩くのだけど、遅刻は嫌なので駅のホームで電車を待っていたら、若い女の人達が「〇〇駅ってどうやって行くんだっけ?」とワイワイ喋りながらスマホで乗り換え検索しながらこちらに向かってきた。でも〇〇駅は反対方向の電車に乗ってから乗り継がなければならないので声をかけてそれを伝えたら、ちょうど反対側に電車がくるところだったのもあり「ありがとうございます!」と言いながら彼女たちは駆け足でギリギリセーフで乗車していった。(そこで私は思った。ああそうか、それで私は家を出遅れたのかも。神様ありがとう!)
なので学校に着いた時刻はプレゼン予定時刻ギリギリだったんだけど、予定が押したみたいでまだ余裕であった。神様ありがとうございます。
後輩達は私達の学年より真面目な子達が多いので、プレゼンはとてもクオリティが高かった。んだけど中に仏教かぶれの人がいて若干むむってなった。仏教は悪魔崇拝だからです。まあネタ化されてたからガチではないのかもしれないけど。全ての神社仏閣が滅びますように。
最後はなんか、お別れの挨拶をそれぞれ述べて終了という流れになったんだけど、プレゼンを指導していた外部講師の方が今日で十数年に渡る講師活動を終えるとのことで泣きながら色々と思い出を語っていた。熱血タイプの先生なので涙が思いと一緒に溢れてしまったのだろうと思う。私達も突然で驚いたけど色々とタイミングが良すぎである。もういっそ今日が卒業式ってことで良いのではと思った。
お化粧が崩れるのも構わず泣いている先生を見ていて、「そういえば私何故か新しいハンカチ持ってきてたな」と思い出し、そのハンカチを渡した(この時新しいハンカチを持たせて下さったのは間違いなく神様だと思った)。
彼女は潔癖症なので未使用であることを伝えて渡した。「もう学校最後だから洗って返せない。どうしよう!」と言うので、「あげますよ」って言ったら、「洗わないでとっておこうかな(笑)」とか言いだしたので、潔癖症なのにご冗談をと思いながら「いや洗いましょう。何か繁殖しちゃうかもしれないじゃないですか」って返したら「コロナとか?」と笑われたので、私はその流れのまま「コロナはインフルエンザなんですよ」って話をした。
(私最近会う人会う人誰とでもコロナはインフルの話をしているけれど、まだ誰にも否定されたり拒絶されてない。Twitterの工作員とは随分反応が違うよね)
そんなこんなで授業もおわり、作業室で卒業制作で作ったマシンを班員と二人で動かしたりして遊んだ。校長先生を乗せる約束をしていたのにまだ乗せてなくて可愛そうだという話があったので、久々の起動に様子を見ながら発進させてたんだけど、校長を呼んで乗せてたらしばらく動いてマシンは死んだ。
FETが爆発したりしたわけじゃないから、多分ダイオードが死んだとかじゃん?という結論になったんだけど、調べないとわからん…わからんけどもう時間がないので、あとはもう後輩たちが好きにすれば良いんじゃん?ということになった。大掃除のときにモータドライバの同人誌を託したことだし(次回はデジタルアイソレータとか入れてみてほしい)。
校長先生や担任の先生たちとのお喋りも今日で最後か…というわけで、せっかくなのでコロナの画像がサンゴ礁の写真を加工した画像だった説や、タピオカヤクザの話や、蓮舫議員の闇のお婆ちゃん陳杏村の話をした。私は学級日誌でも毎度こんな話しか書いてなかったので先生たちも慣れていたのもあると思うんだけど、割とスムーズに受け入れてくれました。東京都からお金が出てパーツとか買ったりする学校だったけど、都知事をディスったところで咎める者は誰もいなかった。小池百合子はやはり都の職員からも嫌われているのではないか。
このまま興味を持って色々調べるようになってくれれば嬉しいのだがどうだろうか。調べてくれますように。
そして私の知らないところで同性に伝道されるなり、ネットで伝道されるなりすれば良いと思う。
先生たちには「忘れ物があったら取りにおいでね」と言われたけど、学校まではルート的に結構距離があるので、私は「思い出と一緒に置いていきますね」と答えた。そしたら「じゃあ思い出が欲しくなったらいつでも来て下さい」と返されてしまった。グヌヌ被せボケ…
最後まで一緒に残っていたもうひとりのクラスメイトは「あと2時間くらいお話していたいですね!」とか言っていた。勘弁してほしい。
死にかけのマシンはホールに飾られることとなった。
試作の小型機は班員が夜なべして書いたプログラムのお陰か元気に走ったので、最後に走らせて展示場に到着させた。
班員は小型機にゴリアテと名付けようとか言い出して、私はゴリアテ倒す派なので(ダビデの話参照)その場で反対したのだけれど、その後どうなったのかは分からない。今思えば何かの暗示であったのかもしれない。今回告白してきた人間はこの班員であるからである。
そんなこんなで帰りが遅くなってしまったのが良くなかったんじゃないかと今では思う。
校門を出たら外は真っ暗だった。冬だったので星がキラキラしていて大変綺麗で良かったんだけど「星が綺麗ですね…ってもう寝る時間じゃん!」と焦った。私は早く寝て早く起きて祈ったりしたいからです。
さてさよならするぜと班員に別れを告げるとき、私は特に台詞が思い浮かばなかったので、「とりあえず禁煙したら」と言った。彼は喫煙者だったからである。そしたら今までは絶対無理とか言っていたのに、今回は珍しく「禁煙外来に行こうと思う」と言い出した。
喫煙者が減ることは良いことだし、そのことは普通に嬉しかったので神様に感謝して、私は家に帰った。
その日は風が強くて、家の近所の庭的な広場に誰かのTシャツが落ちていたので、風向きから推測したマンションに届けに行った…のはいいものの、どこに置けばいいのか分からなかったから、そこら辺にいた住人らしき方に訊いて、エントランスに引っ掛けてきた。住人らしき方は見ず知らずの私にお礼まで言ってくれて、最近世間がピリピリしているというのに、優しく対応してくれてありがとうと思った。
それから1週間くらい経った頃だろうか。なんだか体が重かった。生理でも無いのに日中眠かった。
勉強したくても頭がモヤモヤするというか、お祈りの時間に起きられてもなんだか体が重かった。そういう日が数日続いた。
そんなある日、制作課題用に作ったSNSルームに置きっぱにしていたファイルをダウンロードしようとPCを立ち上げログインしたら、告白文が踊っていた。
いや、その前から��活どう?的な情報交換はしてた(私の就活はゆっくりでギリギリだったので先生やクラスメイトたちが私の代わりに心配していたというのもある)のだが、まさかこれを���って告白されることになるとは。そういう素振りを相手が見せたことがなかったので余計に驚いた。
読んだ瞬間はいつものごとく目眩と吐き気に襲われた。なぜ私は異性に好意を向けられたと認識した途端に吐き気と頭痛がしてくるんだろう?神様を信じるようになってからそうなるようになったのね。霊魂の苦しみが脳を通して肉体に伝わるからでしょうか?その仕組が知りたいのですががが。
ところで異性の罪は重罪なので、思わず「ブルータスお前もなの…?」と呟いてしまった。
霊魂は肉体と違って異性の罪によって、まるでウジやハエや汚物を飲まされているかのような地獄を味わうのだと、以前主が御言葉の中で仰っていました。
相手にこうして罪を犯させるような行動を私はどこかでしてしまっていたのだろうかとか、なんかそんな感じでショックを受けたついでにそのままブルータスについてググったら、なんと告白された日とカエサルが殺された日が同じ3月15日だったので思わず笑ってしまった。
よくイルミナティたちが日付にこだわって重要人物を殺したりするけど、確かその中に3月15日もあった気がする(そういうツイートを前に読んだ気がする)。
サタンが験担ぎして告白させたのかもしれんな。はっはっは…(真顔)
(そういえば志村けんが死にましたね。やっぱり小林麻央が海老蔵に生贄として殺されたみたいな感じで他殺なんでしょうか?)
告白文の内容は概ねこんな感じであった。
最終日にそちらから告白を受けたが(してないんですが?)、過去に色々あって二股かけて失敗しているのと(なんですと!?)、一緒に住んでる腐れ縁のルームメイトが人生に問題を抱えていてこれからも自分が助けになり支えていきたいので(誰のことだ?)、貴方の気持ちには応えたいが応えるわけにはいかないと思った。けれど前から可愛いと思っていたし称賛する気持ちは絶対に伝えたいと思っていたので今回告白に至ったと。その他、私と会うのを楽しみに学校に通っていたこと、可愛さにため息がとまらない(?)、私が小型機を操縦している様がキラキラして見えた(?)、ここ1週間ほど私のことを考えていた、買い物しに車を出して気付けば学校まで運転しておりそのまま夜空を眺め続けてしまった(重症では?)ことなどが書かれていた。
()は私の感想です。
そんで、うーん…?私そもそも告白してないけど?どういうこと???ってなった。
私としては、突然相手が目の前でサンドペーパーを敷きだしたと思ったらそのまま助走をつけて全裸で一気にスライディンクした挙げ句血まみれになりながら「どうもすみませんね…」とヨロヨロ退出していったような、こちらとしては見てはいけないものを見てしまったような、そんな���分である。
というか、1週間念を送られていたから具合が悪かったのかもしれないな…?
なんか頼もしいとか崇高とかいう文字も文章内に組み込まれていたので一応リスペクトしてくれてたっぽいことは分かるんだけど、恋愛フィルターを通してそう見えてただけだと思うと素直に受け取るわけにはいかないですよね。だって正気じゃないんだから。
校長先生が入学当初、学校の仲間は将来同じ分野の仕事仲間にもなるわけだから仲良くして情報交換していくといいよ的なアドバイスをお話してくれてた気がするんだけど、でもそこで相手に恋愛フィルターがかかっちゃったらさ、相手が間違ってるときに情が邪魔して相手を正論でコテンパンにしてあげられないわけだからもうその時点で良き仕事仲間とは言えないじゃん。
それに男の人って(弟もそうなんだけど)相手を褒めるときもそんないちいち褒めたりしないですよね。あっても一言で終わるじゃないですか。「スッゲ」「ヤベえ」「ウケんだけど」「流石ですな」「かっけえ」みたいな。だからこうやってリスペクトしてますよ感出して長文ぶつけてくるときは告白じゃなくとも下心があると疑った方が良いっぽい。よ。
可愛いに関してもよくわからなかったんだけど(私には可愛げがないという定評がある)、告白文を見るに、どうも頑張っていた姿がいじらしく見えたとかそういう意味での可愛いということであったらしい。ということは、男の人に比べたてまだまだ頼りない部分があったために可愛いに繋がってしまったのかもしれない。ネットで調べたところ庇護欲を掻き立てる女性はモテるらしいので、こいつは一人でもやっていけるなと思わせるキャリアウーマン的な女性にならないといかんなこれはと思ったし、反省した。
しかし腑に落ちないのが私が告白したことになっている部分なんだけど、どうも「星が綺麗ですね」と最終日に言ったことが告白と取られたらしいのね。
でも「月が綺麗ですね」は聞いたことがあるけど「星が綺麗ですね」はちょっと聞いたことがない。
それに夏目漱石が「月が綺麗ですね」と言ったという話はデマであることがわかっているし、それを告白に持ってくる現代っ子がどれくらいいるのかね?
わからん。
わからんので調べたら、出てくるわ出てくるわ…
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ちょっとバリーエーション増やしすぎじゃない?
これじゃあ異性の前で景観を褒めてはいけないことにならないかい?
しかも「星が綺麗ですね」はタロットが元ネタだと?悪魔崇拝者��め…なんと迷惑な。(ちなみに占いもタロットも、悪魔崇拝からきた文化です)
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なので私は告白してないのでそれは勘違いだし、一応漱石はデマだよと伝えた。
(あとうっかりここにたどり着いてこれを読んでる方で陰謀論よくわからない人向けにお知らせしとくと、夏目漱石の名前の由来はフリーメイソンなので、興味が湧いた方は調べてみて下さい。)
あとキラキラして見えるとかため息が止まらないとか深夜徘徊とか目に余る異常行動が気になったのでそっちも調べたんだけど、人は恋に落ちると脳内麻薬が出て、なんかそういう状態になるらしい。
というか、完全に病気だよね。
脳内麻薬で脳が酸欠になるらしい。煙草でも脳は酸欠状態になるっていうのに、お前さんはこのまま死ぬつもりか?
冷静になあれ。
とりあえずセロトニンが不足するとそういう情緒不安定状態になるらしいので、日光浴をおすすめしといた。
そしてSNSからは重要ファイルをサルベージした後離脱した(Twitterにおけるブロックのようなものです)。
しかし業務用のSNSで告白って公私混同って感じで普通にルール違反だと思う。勘違いとは言え、気持ちに応えるわけにはいかないからと理性で踏み留まってくれたのは、有難いっちゃ有難いけれど、結果告白してしまったのでは無意味なのではないか。それは踏み留まれているとは言えないわけで。
恋は病気。
愛は理知。
冬の星が綺麗な理由は太陽が早く沈むから残照の影響が少なく湿度も低いためにその分光がこちらに届くから。
よって、さらばだブルータス。
というか以前「背中を押すのは友人の特権だ」とか発言してたような気がするのだけど、友達だと思ってくれていたのは嘘だったということか?
まあ私は私で男友達ですら御免だしこの先男とはプライベートで仲良くするつもり無いですって言ってたわけだけど、大事なことだからそれ2回くらい伝えたはずなんだけど、聞いてなかったのかねブルータスは。
ちなみに「ブルータスお前もか」は「月が綺麗ですね」と同じく言ってないのに言ったとされてる言葉の一つなのであった。綺麗にオチまでついてしまったのであった…
実はその後、学校に卒業書類貰いに行かなきゃいけない日があって、ちょっと憂鬱だったんだけど、エンカウントしないように祈って早めに登校したら、早めに書類もらえたし、早めに帰れたのでブルータスには会わずに済みました。
神様ありがとうございます!
あと水筒持ってくの忘れたんだけど何故か先生が自販機の飲み物奢ってくれるっていうのでお水を買ってもらえました。
先生ありがとうございました。
おしまい!
帰りが遅くなった最終日、家族が私の身を案じて祈ってくれていたそうである。私は本当に、神様に、みんなに助けられて生きてきたし、今もそうである。感謝します。どうかみんなの信仰生活も守られますように。
今サタンが絶賛大暴れしているそうなので、他の信仰者の方々もゲリラ告白をされたりしているのだろうか。どうか無事に撃退できますように。
あと恋の脳内麻薬は3年くらい出続けるらしいから3年は会わない方がいいっぽい。先生には悪いけど文化祭も行かないほうが良さそう。
異性の罪を犯したときに3年くらい期間を設ける話はもしや脳内麻薬にも関係しているのだろうか?まだまだ分からないことが沢山ありますね。
しかし思いがけずスムーズに荷物が持って帰れたり、知らない人が電車に間に合ったり、奇跡的なタイミングでハンカチを差し出せたからといってなんだっていうんだろう。神様にとって有益かというと、そうでもない。
結局学校は神様に意識を向けて生活し辛い空間だったことが証明されただけなんだと思う。卒業が早まってよかった。それこそ、神様に感謝すべきことだったのではないか。
唯一連絡手段が残された相手と縁が切れたことも、信仰生活を送るうえでとても有難いことであったと思います。ありがとうございました。
あと私は異性からの好意に気付かなさすぎであるということが発覚したので、これからもっと遠巻きにしてもらえるように頑張ろうと思いました。
そして恋愛コラム的なことが書かれているサイトって、全部占いへ誘導するようなものばかりで、この世の中に恋愛の文化を広めたのがサタンであることがよくわかる構図だなと思いました。
人間との恋愛は人間を幸せにはしません。不幸への入り口です。
占いは闇です。何も解決しません。
何事も神様に求めるべきです。神様に相談しましょう。
今回色々あった中で私にとって良かったことって、コロナはインフルだって話ができたことくらいじゃないでしょうか。もっとディープな話をスムーズに展開できるようになりたいですね。
反省!
こうして自分を省みる機会を与えて下さった神様とRaptさんに感謝します。どんなに神様が機会を与えて下さっても、Raptさんの宣布する御言葉がなければ理解できないし、悟れないからです。それから私の為に祈ってくれた方々にも感謝します。本当に命拾いしました。ありがとうございます。
コロナのデマが世界中の人々にバレますように。
あと最近初めて行った公園が心臓の形してる気がした。
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そして電車の広告にあった有名テニスプレイヤーの顔がそっくりで、2人は血縁かもしれないと思った。
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この春あちこち散歩したけれど、東京都民は都知事の言うことなんて心の底では信じていなくて、パンデミックは演出不足であるなと思った。
だって人がわんさか住んでる団地で1人も感染者出てないし、誰も死んでないし、噂好きなおばさまも誰かが死んだ噂すら聞かないって言ってるし、というか2月も3月も全然救急車来てないし(12月と1月は夜でもバンバン来てたのに。餅かな?)。
都民はみんな訝しがっている。
陽の光を浴びながら元気に遊ぶ子どもたちを見ながら散歩したけど、あれはあれで免疫力がアップしてインフルにかかりにくくなって良いのではないかと思った。
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xf-2 · 5 years ago
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たち��「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日��三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日���特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学���(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、���みじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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2ttf · 13 years ago
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usamin0325 · 5 years ago
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音楽
私は人をまとめたり動かしたりするのが極端に苦手な性分で、今でも人と仕事をするのが苦痛で仕方なく、例えば、ある作品の評論を書いてくれと依頼があっても、依頼主の意向を無視したものを書き上げてしまい、折角の仕事の話を頓挫させてしまったことが幾度となくある。
「井原西鶴はスタンダールやバルザックと同じリアリズム文学の創始者であり、当時、大阪はパリに匹敵する文化的都市だった、だからこそ、大阪維新の会のような文化破壊をあたかも道徳のように行う政党は許してはならない」と書いて、失笑されること数回。十三の風俗嬢とその馴染み客の恋愛を書けば、織田作の模倣に過ぎないと馬鹿にされ、踏んだり蹴ったりの私。それでも井原西鶴や織田作、宇野浩二、武田麟太郎、林芙美子を見習い、軽佻浮薄にケラケラ笑いながら私は生きている。
そんな私だから、音楽なんてとうの昔に辞めて正解であった。もともと不器用なんだから音楽なんてそれはそれはとても私の技量にかなうものではなかった。
しかし、音楽について語れとなると話は別だ。私の音楽の趣向は以前よりも幅広くなり、軽音楽の域を出てしまっている。
Miles Davis、Sun Raなどのジャズから、The ClashやSex Pistolsなどのパンク、LoveやThe Byrds、Jimi Hendrixなどのサイケ、Derrick MayやDinosaur L、Larry Heardなどのハウス、Biggie SmallsやPharcyde、Wu-Tang Clanなどのラップ、Burning SpearやSizzlaなどのレゲエ、New Age SteppersやScientistなどのダブに至って、我ながら多岐にわたり、結果、私は何が一番好きなのか、分からなくなるありさまだ。おかげで私のiPhone容量256GBはパンパンになる寸前だ。
だからとて、それを自慢したいわけではない。音楽のことをこれだけ知っとるぜなんてやるのは、幼稚なリスナーのすることで、私の趣味ではない。これだけの趣向を凝らして発展的なものを創り出すことが重要であると私は考える。しかし、残念ながら、私の興味は音楽よりも文学に大きく傾いており、それゆえ、残念ながら具体的な方針がないのが現状だ。
しかし、何としても音楽から透けて見えるものについて思索をめぐらしたい。それは、イギリスの保守言論人のダグラスマレーが、著書「西洋の自死」のなかで、ヨーロッパの文化的衰退とその自滅について書いた視点をこの日本でも応用できるのではないかという思いだ。
つまり、日本も西洋と軌を一にして自滅する運命にあるということを、彼の著書を読み、私は直感した。それは政策や経済だけの話にとどまらない。これは、歴史という大きな大河のような流れをも含む話である。日本は歴史的に作られた国家という点でヨーロッパと共通する部分も多く、況してや、移民流入を許す出入国管理法改正案が昨年末国会を通過したからには、決して移民で苦しむヨーロッパの自死は他人事ではない。
著書の中で、彼は第二次世界大戦以後の哲学者は、ポストモダンの流れの中で、脱構築ゲームに嵌り、徐々に社会的基盤や常識を見失ったとし、その観点から、芸術を論じている。それに倣おうというのが、私の試みである。
これに成功するならば、微弱ながらも、私と同じように、この日本も自滅すると自覚する人間が生まれるのではないか、そんな淡い期待をして、私は筆を走らせたい。
先日、諸用で大垣行き東海道本線の電車に乗ると、10年ほど前に関西0世代として持て囃されていたバンドの女とたまたま乗り合わせた。相変わらず、リストカットの跡が生々しく、プリキュアか何だか分からぬが、女児用のアニメキャラが描かれたTシャツ、下には寝間着の様なものを履き、ボロボロのスーツケースを枕にうつらうつらしていた。社会不適合の私も人のことは言えないけれど、この女もそろそろ40に差しかかろうとしているのに、年齢を経ることを放棄した哀れさがその姿、風貌から強く感じられてかなわなかった。まだ救いがあるとしたら、童顔であることくらいだろう。しかし、いつか人は老いて、その醜悪さから逃れられない。
少しばかりインディーズバンドにかぶれていた若い頃、私もいろんな媒体から情報を取ったり、デモテープ等を聴いたりしてみたが、彼らの作品に一貫しているのは、自己完結する歌詞のなかからもわかるように甚だしいほどの自閉的な兆候であり、パンクやフォークのようにわや、人と人を有機的に繋ぐ役割がないといえるものであった。共感もできず、ただこれらの事情に通じていたいという邪な感情でライブハウスに足を運ぶ、それが当時、恐らく多くの人が持っていた思いではなかろうか。本音を言えば、私は彼らの音楽に本当は興味などなかったのだ。それに彼らの個々の作品には個々の価値基準というものがあってそこを理解してくれと彼らは歌詞からも音楽からも暗示しているように、私には思われ、参加している読書会や文学同好会で、趣味の悪い私小説を読まされている、そんな気まずい気分で、彼らの演奏を聞いていた。
ギターのハウリング、歪んだベースの振動、スネアドラムの破裂音、雄叫びのようなボーカル、聴いているだけで耳が痛くなり、はよここから出たいと、何かと理由をつけ、ライブに同行していた友人をちょろまかし、自室で好きな音楽を聴きながら、タバコを吸うか、大学の社会学部の落し物箱から拾った古典の本を読むかして、売春街や西成のドヤ街を散策する、それが私の青春の大部分を占めていた。永井荷風のように一冊の本を片手に市バスか阪急電車に乗って街をぶらつく、音楽よりもそちらの方が私の気性にはあっていたようだ。
当時、本ばかりを読み焦る耳年増な私であったから、早熟ながらも、小林秀雄や福田恆存等の評論の論旨に敷衍して物事を考える癖がついており、やはり自室で一人、彼らインディーズの演奏に思い返すと、個性と特殊性を履き違えたものだと結論せざるを得なかった。
画家のゴッホが偉人であったのは、彼の持病であると考えられた精神疾患を絵画の中で普遍性に耐えるものへと昇華したことによるもので、ゴッホ自身、自分の気狂いという特殊性を忌み嫌っていたことは彼の書簡や弟に宛てた手紙からも明らかである。葛飾北斎も同様で絵の世界の中で自身の狂気を封じ込めること、それに成功したからこそ、彼の作品は偉大であったのであり、なにも北斎の放埓な生活習慣が偉大であったわけではないのだ。
このあたりを勘違いして、形から入り、気狂いのように振る舞う馬鹿が大勢いるのはどうしてだろう。その多くは、自分がまともではない、まともな社会生活を送れないなどの言い訳をそこに見つけたいという思いがあってのことだろう。それか、世間に受け入れられるべき人間であるのに
どうして弱者でいつだって辛酸を舐めなくてならないのかという苛立ちからか。
いずれにしても過去に名を馳せたミュージシャンとは違い、個性を自身で発掘する野心は、彼らからは感じられない。だって自分の作品に自分たちだけの価値基準を設けている限り、普遍性を持ったものを作り得ないのだ。
現在、日本の国会等でまともに議論が行われていないのもこれと似たような現象ではなかろうか。つまり価値基準を共有していないがため、我々はその時その場面その場所に合わせて常に考え方の軸の変更を強いられている。
互いの主張が、「自分の現実はこうだ」と、価値基準がバラバラの主張を繰り返し、互いに反目するか、若しくは、意思決定が、ある特定の人たちに有利な形で進められているかしている。
民主主義とは価値基準の共有が危うくなればなるほど、専制政治へと傾きやすい。したがって経済格差や世代間の思考の隔たり等を政治がなるべく是正する必要は、民主主義の場合だと、尚のこと重要になる。
普遍性、政治の場合だと、時間の経過に耐え得る政治決定が、現在、ほぼ不可能となった。ー「今だけ、金だけ、自分だけ」ー 米英と中共の代理戦争の体を成している香港でのデモを見て、未だに、日系企業は呑気に中国への投資を続けている。ーこれだけ見ても、今の日本人の意思決定が価値基準が曖昧なまま行われていることは明らかである。このような事態を放置していると、恐らく50年後くらいには日本は中国の勢力圏に入っていくと思われる。ー
例えば、経済政策が典型的だが、小泉純一郎氏が、特定郵便局等の、かつての共同体や組合や派閥をぶっ壊したばっかりに、政治的な意見を各々の共同体で集約することが不可能となった今、個々の政策が、力のある者(今だと経団連を始めとする財界)の意図が大きく、国会や内閣、省庁で反映される有様で、弱者や利害関係者の本音を汲み取れていない。また、価値基準が曖昧なままとなり、後々、問題をより悪化させている事態を引き起こしている。
たしかに世間を疎ましく思う気持ちは良くわかるものの、理解されない、受け入れられない苦しみの原因は、こうした政治的社会的な要素に見出すべきで、芸術とは無関係であると私は思う。
この長期デフレ、財界と大手マスコミに乗っ取られた政治と文化、理不尽な自己責任論を吹聴し押し付け、分断されゆく社会ー彼らインディーズはもっとこれらに着目すべきだった。そしたら、きっと特殊性と個性を履き違えた馬鹿げたパフォーマンスなんてする必要はなかった。しかし、彼らインディーズは、社会的政治的要因に自身の不条理な現実を見出すことは決してなく、どころか、個性を磨く野心さえも捨て、奇抜なパフォーマンスに終始して自閉的な世界に留まっている。これこそ日本文明の自滅の現れではないか。そう、起きている現実の問題から目を背け、ひたすらに、有機的なつながりを捨てて、自己完結する世界にどっぷり浸かる、その果てにあるのは、ミシェルウェルベックやボーヴォワールが書いた世界、つまり虚無しかない。
文化こそ虚無の防波堤だと私はそう信じているが、その文化の一部を形成するインディーズ界隈が、個性を見つける野心を捨て、特殊性ばかり強調して虚無しか生み出さないのは、それこそ自滅行為に近い。それに彼らの作品が時代の経過に耐え得るとはとても想像し難い。
かつて小林秀雄がどこかの大学の講演で言っていたように、実際は、自身の特殊性をどのような場合にあっても克服することでしか、普遍的な個性を勝ち得ないのだ。
従って、音楽で大成するには、いつの時代も自身の特殊性を乗り越えて、普遍性に堪え得る個性を如何にして手に入れるべきか考え実践することが大きな課題であると徐々に分かってきた私は、自身の無能さと自閉性に呆れ返り、そそくさと自分の持っていたギターを質屋に入れたのだった。
正直に言えば、音楽に夢中になっている人々、とりわけ自身の特殊性を躍起になって誇示する人々との関わり合いこそ、私には無益であり有害と考えたのだ。
それから10年ばかりの時を経て、東海道本線大垣行きの電車でそのインディーズバンドの女と隣り合わせたのだった。
名古屋駅から尾張一宮駅までの間、彼女は、ひたすらiPhoneを握りしめ、通知が鳴る度に、眠気を堪えて、操作をし続けていた。人のことなど興味がないように思われた。
彼女の動かす右腕のリストカットの跡、それらは大きく膨れ上がっており、とても正視できるものではなく、私はそれを見て、毎日ライブだの何だのをやり通しで如何にも充実しているように見えたこの女の哀れさは相当なもの��と思うた。必ずしも得られやしない麗しい青春めいた喜びを絶えず求め、年をとることを拒否する虚しさ、切なさ…、思いを巡らすとキリがない。
私がふと、視線を落として、プリントされたキャラクターが薄汚く擦り切れた彼女のTシャツを見たとき、全てを悟った。
ーこの女の行き着く先には、虚無以外何もないー
もう駄目だった。
尾張一宮駅で私が降りようとしたとき、彼女はこう口を開いた。
「見たことあると思えば、10年前、難波かどっかで、あっしと呑んで、言い争いした事、あるよな」
「うん、でももうそれはいいじゃない。過ぎたことやよ。」
あまりに単調で退屈な会話だった。
「名古屋でライブするんよ。だから…」
彼女がそう私を誘いかけた時の目は、灰色に曇って、その視線はどこか虚しく漂い、悲しそうだった。
音楽は、彼女にとって虚勢をはる道具に過ぎず、ただそれはこの女を焦燥に駆り立てる、そう思い、ただ、私にはこの女を安心させるだけの抱擁を誰かがしてくれることを祈るしかできなかった。
私はきっと彼女が行う名古屋でのライブには行かないだろう、それが賢明だ。
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va134on · 6 years ago
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おめでたい
 なぜかというと年が明けたから。年が明けたのは3ヵ月ほど前のことだけど、あれほどみんなでおめでたいと言い合ったのだからいまだにおめでたいはずだと思う。ちなみになぜ年が明けるとおめでたいのか理由を知っている人がいたら教えてください。
 出不精の私には非常に珍しく3月は2回も旅行に行ってしまった。人生で飛行機に乗るのも新幹線に乗るのも二桁年ぶりぐらいなので非常に緊張した。なにせ一本乗り逃しただけで一万なんぼもお金をロストするのだから怖い。でも見栄っ張りなので新幹線用の改札を通るとき年間80回ぐらい新幹線を使っている顔をして通り過ぎた。駅員に泣きながら道を尋ねることもなかった。
 新幹線に乗った先は新大阪で、私は大阪の人に強い偏見があるので新大阪では全員がボケと突っ込みを繰り返し行き交う人がガヤのような笑い声をあげているものだと思っていたのだけれど、特に誰もボケていなかった。ただエスカレーターの右側がきれいに埋まっていただけだった。
 そのまま高速バスで向かった有馬温泉はずいぶん賑やかで、静けさのなか硫黄の匂いにまみれる那須塩原をつい振り返って思い出した。あまり混んでいる場所は落ち着かないので、ごてごてと入り組んだ坂道を登ってホテルの屋上にある風呂に入った。お風呂なので大声で男性器の話ばかりしていたら「学生時代はもうちょっとしっかりしていたのに、どうして男性器の話しかしない人間になってしまったのか」と問われたので、心配事と人間関係の軋轢が少ないからだよと答えた。人間心配事が少なくなると男性器の話が多くなるはずだ。
 有馬温泉の近くは炭酸ガスが噴き出していて昔は砂糖だけでサイダーが作れるお得な土地だったらしい。炭酸ガスで虫や鳥が死ぬのでガスが噴き出す地点に「虫地獄」と書かれた石が置かれたが、今はガスもないので石の下に湿った土があるだけだった。「虫地獄」というネーミングがよかったという理由だけでわざわざそんなものを見に行ってしまったことをやや後悔した。のどが渇いたので帰り道にあった家庭的すぎるカフェ(民家の一階をカフェスペースに直している)で蜂蜜をお湯に溶かしたものを300円出して飲んだ。「ビタミンミネラルたっぷり」とお経のように唱えながら手渡されたので曖昧に頷くほかなかった。
 二日目は大阪の中心地を回った。関東から来たことが知れたら語調の強い関西弁でまくしたてられジャンプさせられて小銭までむしり取られるのだろうと怯えながら梅田に向かったがこてこての関西弁など誰も使っていなかった。梅田の街並みと東京の区別は最後までつかなかった。東京と同じようなビルで同じようなものを売っているので知らない街なのに全く新鮮な感じがせず、並行世界の池袋を歩いているような気分になった。ちょっと怖かった。
 道頓堀に沿って歩いたとき観光客向けの遊覧船から手を振られつい手を振り返したが観光客同士で馴れ合ってもしょうがないのだった。道頓堀の色あいを眺めていたら急にタピオカミルクティーが飲みたくなり、タピオカぐらいどこかで飲めるだろうと思いながら街をうろつくも本当にタピオカミルクティーが見つからなかった。タピオカミルクティーのない街なんばという記憶だけが残った。結局東京でもありそうなチェーン店でカフェラテを飲んだ。
 最後は通天閣に登り、自撮りが大してうまくいかなかったことに憤慨した。見下ろした大阪の街並みは発展具合のわりに人間と車が少ないので変な気分になった。むしろ蟻のごとく人が沸く東京がおかしいのかもしれない。でも私は都民なので東京が大好き。レイア姫に会ったら「八王子と共にあらんことを」って言ってくれると思う。多分。住民票横須賀にあるけど。
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switch-souken · 6 years ago
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【詳細発表!!】 江戸まち たいとう芸楽祭 冬の陣オープニングステージ 「浅草新仲見世商店街スイッチ」
2019年の幕開け!新春の浅草で賑々しく上演される、おめでたい<商店街型スイッチ>の詳細発表です!!
芸楽祭夏の陣では浅草花やしきを賑わせたスイッチ総研が、冬の陣オープニングステージでついに浅草街なかへ!東西380メートルに伸びる浅草最大のアーケード商店街「浅草新仲見世商店街」にお邪魔します!
アーケード商店街として東京で最も歴史のある浅草新仲見世商店街。歴史と個性が溢れまくる素敵なお店にちなんだ、浅草ならではのスイッチを商店街各所で上演!会場ではマップ配布あり!
観音さまをお参りし、新春の浅草を闊歩して、一瞬の愉快な物語といい一年を始めるのは、あなたです!!
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江戸まち たいとう芸楽祭 冬の陣 オープニングステージ 「浅草新仲見世商店街スイッチ」 
 【作】 スイッチ総研
【総合演出】 光瀬指絵
【日時】 2019年1月6日(日) 15:00~15:30
【会場】 浅草新仲見世商店街各所 https://www.asakusa-shinnaka.com/ 各駅「浅草」駅より徒歩3分 ※当日会場では上演店舗マップを配布します
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【上演店舗】 ・おもちゃのサワダ(おもちゃ/昭和45年)  ※前身の食堂は戦後間もなく創業 ・今半本店(すき焼き/明治28年) ・帯源(帯地専門店/大正8年) ・プロマイドのマルベル堂(プロマイド/大正10年) ・マルイチベルト(ベルト専門店/昭和28年)  ※前身の呉服屋は大正時代の創業 ・舟和本店(芋ようかん・和菓子/明治35年) ・コマチヘア(かつら・かんざし/大正14年) ・やげん堀(七味唐辛子/寛永2年) ・永沢屋祭店(祭礼衣装/明治3年) ・浅草じゅらく(ファミリーレストラン/大正13年) ◆()内は(業種/創業年) ◆新仲見世商店街の東側(松屋浅草側)から順に記載
【料金】 無料、予約不要
【研究開発/出演】 大石将弘 光瀬指絵
<契約所員> 池田 亮(ゆうめい) 石倉来輝(ままごと) 小林義典(クロムモリブデン) 斎藤淳子(中野成樹+フランケンズ) 田島冴香(FUKAIPRODUCE羽衣) 田中祐希(ゆうめい) 細谷貴宏(ばけもの) 間野律子(東京デスロック) 矢野昌幸
<客員研究員> 板橋駿谷(ロロ) 伊藤俊輔(ONEOR8) 瓜生和成 佐藤銀平(サスペンデッズ/東京No.1親子) 島田桃依(青年団) 武谷公雄 立川がじら(落語立川流/劇団「地蔵中毒」) 福井 夏(柿喰う客/しあわせ学級崩壊) 福永マリカ 望月綾乃(ロロ) 山森大輔(文学座)
<非常勤研究員> 牛尾茉由(演劇集団円) えみこ 大川史乃 加藤優季 久保和支 齊藤 慧 さばみそちゃん 鈴木正也 鈴木麗華 深海哲哉(グンジョーブタイ/アマヤドリ) 高木友葉 豊島晴香 中口未ナ 町村明日香 吉田電話(クロムモリブデン) 因幡美佐(中3) 落合桜花(中3) 河野萌愛(中1) 倉持ひまり(中1) 妹尾健太(高1) 関口真生(高1) 千葉エミリ(高3) 山口真沙希(中2) 和田和美(高2) ★研究員出演シフトはこちら
【指示文言英訳】 クリス グレゴリー
※当日の会場付近はお参りや観光などで大変混み合うことが予想されます。混雑状況によっては、上演時間内に全ての作品をご覧いただけない可能性もございます。あらかじめご了承いただけますようお願い申し上げます。
※浅草新仲見世商店街はアーケードのある商店街です。公演は雨天決行ですが、荒天による中止の場合は公式サイトやTwitterでお知らせいたします。
<「浅草新仲見世商店街スイッチ」上演によせて>
スイッチ総研の十八番。と自らさり気なく言い張っている「商店街型スイッチ」。そのアイディアの片鱗が生まれたのは今から4年前、小豆島の道ばたででした。
その時はまだスイッチ総研はこの世に誕生しておらず、スイッチの単独公演も経験していない我々。ままごとの劇団員である大石現副所長と、ままごとの企画に呼んで頂いた客演の自分は「島で何かをして来てほしい」という柴幸男さんのオーダーを受け、企画メンバーと共に連日島の道ばたを文字通り右往左往していました。炎天下で島の特性を題材にしたスイッチを考え即試演し、みなで爆笑、即熱中症になったりしながら。
しかし、そもそも人口が減っていて通りに人の姿が少ない街でどんな演劇やスイッチが実現し得るのか?を考えていた時に目に入ったのが、街にぽつぽつとあった小さな飲食店や雑貨店、家族経営の床屋さんでした。どこも個性の一言では表せぬ雰囲気のあるお店ばかりで、「お店をテーマにしたスイッチを作って置いたら面白い」「お客さんには地図を見ながら巡って貰って」「いつか商店街でスイッチやりてー!」と笑いながら皆で雑談した事をよく覚えています。
それから約半年後。我々はスイッチ総研として、大都会六本木の商店街でひくほど大規模なオールナイトスイッチを敢行していました。その後も、道頓堀、下北沢、伊勢原大山、豊橋などの商店街にお邪魔し沢山のお店でスイッチを上演させて頂きました。
そして今回の浅草新仲見世商店街。人の姿を見つけることすら難しかった小さな島の道ばたでした雑談が、こんな事になろうとは。人生って面白い、そしてやっぱり演劇ってクレイジーだなあと思うとともに、これまで応援お力添えくださった全ての方に感謝せずにはおられません。本当にあり���とうございます。
演芸芸能の街、浅草。沢山のビビるほど歴史がある素晴らしいお店がスイッチの上演を快諾してくださいました。はっきり言ってこちらがビビるほどのご快諾振り。さすが浅草!!
若輩者の我々、浅草という街の胸をおかりするつもりで襟を正して全力でお邪魔させて頂きます。新春にお届けする、場の魅力をかりて生み出��一瞬の全力演劇と粋オブ粋な街の饗宴。ご覧いただけたら嬉しいです。よろしくお願い申し上げます!
スイッチ総研所長 光瀬指絵
[商店街型スイッチとは] 商店街にある10~15の店舗内外に設置されたスイッチを、地図を頼りに巡る作品形態。ツアー型とは異なり鑑賞の順路は決められていない。予約不要・無料で、通りすがりの方が1スイッチから気軽に押す事ができる。全てのスイッチは店舗の業態や扱う商品を題材に作られており、お店とスイッチの両方を巡る楽しさと共に「その商店街が持つ魅力」を感じられるような作品を目指している。 http://switch-souken.tumblr.com/03whatswitch
[新仲見世商店街] 浅草松屋と公園六区の振興街を結ぶ商店街。店舗数108、長さは 380m。年間3000万人もの人が訪れる日本を代表する歴史・観光のまち「浅草」の東西を結ぶ浅草最大のショッピングモール。通称、「しんなか」。<ホームページより> https://www.asakusa-shinnaka.com/
[江戸まち たいとう芸楽祭] 粋、豊かな人情、進取の気性など、心を感じる「江戸まち たいとう」で、先人たちが守り、育み、現代へ継承されてきた多彩な芸能・芸術文化を、肩の力を抜いて楽しめるお祭りです。<公式サイトより>
企画・制作:スイッチ総研  宣伝美術:天野史朗
主催:江戸まちたいとう芸楽祭実行委員会 http://www.taitogeirakusai.com/
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tomo2411 · 2 years ago
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☆伊勢参り 続き☆ 皇大神宮別宮 瀧原宮 @isejingu.official こちらは夏休みに行けてない 別宮の中でも特別な場所 元伊勢でもありゼロ磁場としても有名 道の駅 木つつ木館のすぐ近く 駐車場もしっかりあり とはいえそんなに人も多くない だけどしっかり聖域で神域を感じる パワースポットです 注意事項としては 別宮なので当たり前だけど 禁煙 夜間は参入できない 参道以外の宮域への立ち入り禁止 宮域内での飲食不可 ペットの参入、持ち込み、散歩不可 草、木、石などを持ち帰らない 参道の右側をゆっくり進む 途中途中大きな杉の木が生えてて その大きさに圧倒されるよ スマホ片手に見上げても 収まりきらない迫力 瀧原宮の御手洗場へ 階段が苔むしてるので 気をつけながら下へ降りる 伊勢神宮の内宮と同じ 川が御手洗場 「頓登川(とんどがわ)」は どこまでも澄んでいて とても綺麗な清流 水音に耳をすませながら 川に手を入れてると 穢れが洗い流されてくような ほんとに素敵な場所 すぐ上が道路なのに そんな気配を全く感じないほどの 聖域感がすごかった しばらく歩いた先に これぞゼロ磁場であると 具現化したような ねじれた杉の木に出会う この木に会いたかった 何とかここまで来れたよ 運転の疲れはどっかにいった瞬間 そしてその先に宮が2つ並んでいる 参拝順序も立札にある 1. 瀧原宮(たきはらのみや) 2. 瀧原竝宮(たきはらならびのみや) 3. 若宮神社(わかみやじんじゃ) 4. 長由介神社(ながゆけじんじゃ) この順番で参拝 そして帰りに御朱印をいただきました 後で知った3つの不思議 ハートの石が2つと 神の手があるみたい ハートの石の場所は人に教えてはいけないらしい 知りもしなかったんだけどね? 人為的には作れないような ハートの石 2つ見つけた人は良いご縁の到来間近だとか 神の手は木の根っこ 参道の途中に生えてる木の根っこの部分に 手や指のように見えるところがあるんだって だから「神の手」と呼ばれてる そんな楽しみ方もできる パワースポットでもあり 元伊勢でもあり 皇大神宮別宮でもある 瀧原宮はすてきなところ 皇大神宮別宮 瀧原宮 @isejingu.official 三重県度会郡大紀町滝原872 1月〜4月 5:00〜18:00 5月〜8月5:00~19:00 9月 5:00〜18:00 10月〜12月 5:00〜17:00 岡山から片道4時間強の運転 んでもって 別宮残り1つは ココからさらに1時間 運転が好きでよかったよ (皇大神宮別宮瀧原宮) https://www.instagram.com/p/CkdCdPOvwbe/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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xcdxemcwdwuf-blog · 6 years ago
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森塾 新規校舎 東大和校
【塾 川崎】森塾 川崎校 神奈川県川崎市幸区大宮町5-6 コ・オリナ・ビル8F
【塾 東大和】森塾 東大和校 東大和市南街5-66-6【塾 東大和】森塾 東大和校 042-516-1855
【塾 篠崎】森塾 篠崎校 東京都 江戸川区篠崎町7-27-23【塾 篠崎】森塾 篠崎校
【塾 鶴川】森塾 鶴川校 町田市能ヶ谷1-7-11-7-1【塾 鶴川】森塾 鶴川校 042-860-5046
【塾 飯能】森塾 飯能校 飯能市仲町2-2【塾 飯能】森塾 飯能校 042-983-6006
【塾 久喜】森塾 久喜校 久喜市久喜中央1-1-20【塾 久喜】森塾 久喜校 0480-29-1677
【塾 茂原】森塾 茂原校 茂原市千代田町1-5-2【塾 茂原】森塾 茂原校 0475-20-3003
【塾 五井】森塾 五井校 市原市五井中央西1-14-21【塾 五井】森塾 五井校 0436-26-8037
【塾 木更津】木更津校 木更津市大和1-2-6【塾 木更津】森塾 木更津校 0438-22-5115
【塾 鎌ヶ谷】森塾 鎌ヶ谷校 鎌ヶ谷市道野辺本町1-3-1【塾 鎌ヶ谷】森塾 鎌ヶ谷校 047-444-3011
料金 知り合いから、ほかの塾よりも高めだという声を聞きました。教材費など毎月の授業料とは別なので、ちょっと高いかな、と思います。
講師 数学の成績が悪く、学校では進みが早くてついていけなかったようなので、塾でも大丈夫かなと心配をしていましたが、担当講師の教え方が丁寧で、理解できるようになったら楽しきなってきたようです
カリキュラム 私立中高一貫校なので、塾のテキストでは深度も進度も違うので。
塾の周りの環境 駅ら近いので、学校帰りに直接塾に行けるので、とても便利。治安も悪くないので、安心して通わせられる。
塾内の環境 何度か塾に行ったことがありますが、きれいに整理整頓されていて、勉強に適した環境作りをしていると思いました
良いところや要望 年に3回、塾での面談があるので、子供の様子を知ることが出来ていいと思います。
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