#認知症デイケア
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てくてく通信〜夏祭り〜
夏といえば夏祭り‼️夏祭りはてくてくでは一大イベントの一つです😊
利用日でない方にも声をかけて、沢山のご利用者様に参加して頂きました✨
手作りのお神輿を担いで盛り上がり✌️
フラダンスも披露しました☀️
みんなでお祭りマンボを歌って踊り盛り上がり🎶
午後��らは昔懐かしいヨーヨーすくい、射的、千本くじを楽しみました😊
千本くじは何が引けるかドキドキ💓
景品も喜んで頂きました✌️
たこ焼きやチョコバナナ、クレープも食べて身も心も満腹で楽しい夏祭りでした✨✨
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いやいや保険証で顔認証のみだと家族が代わりに手続きとかできずに困るでしょ・・・実際父のデイケアの支払いに行ってるけど、家族が代理の場合は暗証番号使うから。認知症で本人連れて来いは結構大変。
[B! マイナンバー] 暗証番号 設定必要ないマイナンバーカード 12月中に導入へ | NHK
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【神の導きにそって、生きる、生き方の伝承。あのへ】
林檎、佳子、あの、そろそろ、「神の導きによって生きる」ということが、どのようにしたら、実践できるのか?ということを、「伝授」する時期がきたので、ここに記す。まず、たとえば、何かの情報を知りたいと願い、インターネットで情報を集めるために、検索したり、図書館に足を運んだとする。まぁ、三人は、後者はまずないと思うが。インターネットで説明すると、たとえば、親の認知症について、気が��りで、「認知症」とインターネットで検索したとする。しかし、その時に、知りたかった情報が見つからなかったとする。それで、普通の人であれば、「自我」があるので、もっと、検索ワードを絞って欲しい情報にヒットするように検索かけるよな?👀しかし、違うのだ。この、知りたい情報を、とことん追求していく行為は人間の「自我」によって生きる「行為」であり、せっかく「神様」が「新しい方向へ導いて」あげようとしてくださっているのに、「人間の自我」によって、邪魔されているのだ。たとえ、自分の知りたかった情報がその時、見つからなかったとしても、その時、出てきた、あまり関係のなさそうな情報で、少しでも気になる情報が目についたら、(まったく、気になる情報がなければ読む必要はなし、知りたい情報を絞って次の検索をかけてよし)迷わずそのページを開き、読んでみること。本当は、早く、「認知症」についての詳しく、知りたいと思う気持ちがあり、さっさと、最初開いたページを閉じて、次のサイトにいきたい気持ちをぐっと我慢して欲しいのだ。最初、開いたページの角に、「認知症」については、まったく関係のない事柄が記入されているむしろその文章の中に、「神の導き」が「隠されている」のだ。だから、人生の軽い寄り道と考えて、そのページに記載された文章に目を通すこと。勿論、すぐに、その読んだ文章が、今の自分にとって必要なこととは、限らない。しかし、実は、あとあと重要になってくる。でも、その時、読んで、感じた感情や、文章は、特に暗記したり、覚えておく必要はない。しかし、もし、その文章が自分にとって「大切な情報」と考えるなら、ブックマークなり、ホーム画面に落とすなりして、保存しておくことはOK。とにかく、自分の「自我」である、知りたいと思っている「認知症」についての感情を少し「我慢」して、「関係のないページ」に目を通す。これが、「自分本位」の生き方ではなく、「神の導き」によって生きるという生き方なのだ。つまり、早い話が、「一つの知りたい情報にこだわらず」、毎日毎日ネットサーフィンしまくれって話😂村上春樹先生の「海辺のカフカ」に登場する、猫と話せる、知的障害の「中田さん」の行動がお手本。彼の生き方こそ、「神の導き」によって、「素直に」生��ているのだ。で、他には、自分が望んでいる方向に物事が進まなかったとする。たとえば、髪の色を変えたとする。しかし、自分が思った髪の色とは違っていたとする。そこで、普通なら美容師に腹を立てるだろう。「人間本位」のものの考え方であれば。じゃないのだ。「神の導き」によって生きるという考え方であれば、「神様は、今の自分には、自分が思いえがいていた髪の色ではなく、この、今、美容師の手によって染められた髪の色こそ、今の自分に必要な色であって、これでいいのだ」と、最初は無理矢理でもいいから考える癖をつけること。で、実際、その「神の導き」によって、染められた新しい「髪色」を見た、あの、林檎のファンのなかには、自分(あの、林檎のこと)にとって、必要のないファン(あの、林檎をマイナスな方向に向かわせる、鬱陶しいファンのこと)は幻滅して、離れて行き、(ありがたや、ありがたや)自分(あの、林檎)にとってプラスになるファンが、あのや、林檎に新しく、つくのだ。勿論、佳子の着る服、ヘアースタイルも同じことが言える。で、もし、仮に、自分が最初思いえがいた、髪色にこだわり、美容師に憤慨して、クレーム、もしくは、美容室を変えて、自分の求めてる髪色に再度染め直ししたとしたらどうだろう?👀勿論、林檎、あのにとって、鬱陶しいファンは、いつまでもついてくるし、あのや、林檎にとってプラスになるファンは新しく加わってこんよな?👀つまり、こういう生き方をしてる「自我」たっぷり、「自分本位」たっぷりの生き方が人生を狂わせていくんよ。つまり、「結論」で言うと、「自分がかわいくなることがすべてではないんよ👀」だから、あのが金髪になったのも、イエス様のお導きなんよ👀だから、時期がくれば、黒髪に戻るから、今は、我慢して、金髪を受け入れろな👀あの👀それに、結構、かわいいやんな、あの?👀実際、俺、昨日、林檎、あの、佳子に、この「はてなブログ」に書きかけの、野生動物たちの続きの文章を書きたいんやけど、「神の導き」によって生きる生き方を、俺は実践してるから、我慢してこの「神の導き」によって「生きる」という文章を、林檎、あの、佳子に共有するために「今」書いてるんよ👀勿論、今、ムズムズしてて気持ち悪いよ👀だって、昨日の野生動物たちの文章、書きかけなんやからね👀でも、その欲求を満たすことを「主」が「今」は、臨んでおられないから、複雑な気持ちでこの文章を書いてるんよ👀そう、野生動物たちの続きの文章は、あとで書いていいんやけど、「今」じゃないんよ👀もっと、言うなら、俺、さっきまで「zshingoの日記」書いてる途中やったんよ👀でも、デイケアのメンバーで、やりともないゲーム我慢してやってたら、ふと、林檎とあのと佳子に、【「主」の導きによって生きる生き方】を共有せなあかん気持ちが、何故か?このタイミングでムクムクって湧き上がってきたから、書きかけの日記を中断してこの文章を書いてるんよ👀つまり、イエス様から俺に司令がくだされたんよ👀そう、【自分の自我を優先せんで、「神様」の導きに沿って生きるつまり、禅仏教で言うところの、『行雲流水』の「生き方」を実践して、貫くことは、「楽じゃない」のよ👀】もっと、言うなら、俺、精神病院に入院している時に、林檎には前、話したけど、俺のお気に入りのピンクのクリアフレームのメガネを、イエス様から、ある時に叩き壊せって言われたから、叩き壊したんよ👀で、そのあと、長かった髪もバッサリ切れって、精神病院入院中の時にイエス様に言われたんよ👀(病院に2週間にいっぺん床屋くるんよ👀)で、俺、切りとうなかったから、それだけはカンベンしてくれ、そもそも、イエス様だって、髪長いじゃないですか?って言ったんよ👀そしたら、精神状態どんどん悪くなって、一般病棟から、PICUって言う、「緊急治療室」(精神病の重症者が閉じ込められる、鍵のかかった部屋、共同のフロアで飯を食う時なんか、重症の精神病者がそこらへんで垂れ流した糞や小便の臭いかぎながら飯を食うことが日常茶飯事のとこ)ところ入れさせられて、勿論、PICU入ることは、任意だから拒むこともできたんやけど、主治医にうまいこと丸め込まれて強制的に入れられたんよ👀あとからわかったことなんやけど、本当は、入る時には、受領書って紙に、患者のサインして、患者の印鑑もらってはじめて、PICUに入れることが、医師の責務らしいのよ👀でも、俺、そんなこと何も告げられず、PICUに叩き込まれたんよ👀そして、そこに入れられて、重度の認知症のおじいちゃんがいたのよ👀で、俺、もう一発で見抜いたんやけど、その人、わけのわからんたわごとブツブツ言って、そこらへんで、糞したり、小便も、ズボンおろして食堂でジャージャーするような重症患者なんやけど、ちゃんと「霊天上界」の人と交信してるのがわかったんよ。こんなこと、よう言うてたな、そのおじいちゃん。「私は、今日、どこで待っていれば、いいのですか?今日は、私は行くつもりがありません。時期を見合わせようと考えているのですが?」てきな、独り言を大声でブツブツブツブツ言ってるんよ👀もう、めちゃくちゃ、うるさいんよ👀で、話しはもとに戻すと、そのおじいちゃんと、PICUで、俺が、はじめて出会った時に、最初、そのおじいちゃん面白そうな人やなと思って、おじいちゃんが座っている向かいのテーブルの席に座ったんよ👀俺から👀で、途中から、おじいちゃん、なんも喋らんくなったから、なんとなく、気まずくなって、俺、立ち上がってテーブル離れたんよ👀で、俺、お決まりの、同じところぐるぐるまわってたんよ👀(アカシジアの影響)食堂付近を。そしたら、おじいちゃんが、手招きしてきて、さっき俺が座ってた、おじいちゃんの向かいの席にもう一度、座れって言うてきたんよ👀勿論、座ったよ👀そしたら、おじいちゃんまた、わけのわからんたわごとブツブツブツブツ言い出して、ある時、俺の方を向いてこう言ったんよ『これからは、あんたが、「中心」になっていくんやから』って👀そう、イエス様は、はじめから、その認知症のおじいちゃんと俺を出会わせて、おじいちゃんが言った言葉(これからは、あんたが、中心になっていくんやから)を俺に伝えたかったんよ👀イエス様は👀そのために、俺が、精神状態悪くなるような、メガネを叩き壊させたり、髪を切れって言ってきたのよ👀イエス様は👀イエス様は、俺が、髪を切りたくないって、反発してくることもお見通しやったんよ👀で、俺、イエス様の司令に反発したって罪悪感で精神状態どんどん悪くなっていったんよ👀で、もっと言うなら、叩き壊されたメガネを見た看護師がちゃんと、報告書(主治医が患者の状態を把握するためのもの)に、メガネが叩き壊されていたことを書いてるのよ。それで、PICUへ入る道がどんどん開けていったんよ👀だから、最初から、イエス様のご計画は、俺の精神状態狂わせて、認知症のおじいちゃんと俺を出会わせて、俺が、これから担う仕事を認知し、理解してもら��たかったんよ👀
⭐まだ、文章は、続くからな👀
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運動と認知症予防②
先日、運動と認知症との関連について書かせていただきました。認知機能のトレーニングとしては、脳トレ(例えばしりとりやじゃんけんなど)をしながらの有酸素運動(歩行や自転車など)が一番脳を活性化すると言われています。そこで、デイケアにある iPadで麻雀をしながら自転車を漕いでもらいました笑
脳の活性化は最大限できそうですが、運動をしながら思考するのはご高齢の方のみならず難しいため、考える時に足��止まってしまいました。認知機能を高めるようなトレーニングをいろいろ考えていきます。
運動が嫌いな方でもYouTubeで好きな歌や旅行で行った場所・行きたかった場所などを観ながら運動するのは大変好評をいただいています。好評につきiPadを2台に増やしてもらいました。Googleマップで故郷をみたり、囲碁やオセロ、麻雀をしたりと楽しみ方も様々にご利用いただいております。
家に篭り、テレビを観ながら1日を過ごすだけでは脳は活性化せず認知機能が低下する可能性が高いと思われます。それどころか、身体機能も低下する一方です。デイケアで様々な人や職員との交流、運動などで心身共に鍛えていきませんか?ぜひお問い合わせください。
デイケアきぼうの木 tel: 0155-49-1212
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皆さんヒッププロテクターってご存知ですか? 大腿骨頸部骨折の予防に繋がる画期的な商品です。 今回は、転倒が非常に多くその多くが大腿骨頸部骨折につながるという内容を解説しており、どういう人が転倒しやすいか、またどんな対策が必要かを解説しています。 youtube 整トレ研究所 大腿骨頸部骨折を予防するヒッププロテクターについてを検索してみて下さい☺ 医療施設で勤務している方や、高齢者を自宅で介護しているご家族の方は最後まで是非ご覧ください。 #大腿骨頸部骨折 #ヒッププロテクター #介護福祉士 #看護師 #看護師の勉強垢 #老人保健施設 #デイサービス #デイケア #老人ホーム #こける #病院 #医療施設 #医療系 #介護 #認知症 #認知症介護 #骨折 #リハビリ #予防医学 #予防意識 #怪我 https://www.instagram.com/p/By8p5srBDuG/?igshid=1e1g1wurko5cu
#大腿骨頸部骨折#ヒッププロテクター#介護福祉士#看護師#看護師の勉強垢#老人保健施設#デイサービス#デイケア#老人ホーム#こける#病院#医療施設#医療系#介護#認知症#認知症介護#骨折#リハビリ#予防医学#予防意識#怪我
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自殺未遂
何度も死のうとしている。
これからその話をする。
自殺未遂は私の人生の一部である。一本の線の上にボツボツと真っ黒な丸を描くように、その記憶は存在している。
だけど誰にも話せない。タブーだからだ。重たくて悲しくて忌み嫌われる話題だからだ。皆それぞれ苦労しているから、人の悲しみを背負う余裕なんてないのだ。
だから私は嘘をつく。その時代を語る時、何もなかったふりをする。引かれたり、陰口を言われたり、そういう人だとレッテルを貼られたりするのが怖いから。誰かの重荷になるのが怖いから。
一人で抱える秘密は、重たい。自分のしたことが、当時の感情が、ずっしりと肩にのしかかる。
私は楽になるために、自白しようと思う。黙って平気な顔をしているのに、もう疲れてしまった。これからは場を選んで、私は私の人生を正直に語ってゆきたい。
十六歳の時、初めての自殺未遂をした。
五年間の不登校生活を脱し高校に進学したものの、面白いくらい馴染めなかった。天真爛漫に女子高生を満喫する宇宙人のようなクラスメイトと、同じ空気を吸い続けることは不可能だと悟ったのだ。その結果、私は三ヶ月で中退した。
自信を失い家に引きこもる。どんよりと暗い台所でパソコンをいじり続ける。将来が怖くて、自分が情けなくて、見えない何かにぺしゃんこに潰されてしまいそうだった。家庭は荒れ、母は一日中家にいる私に「普通の暮らしがしたい」と呟いた。自分が親を苦しめている。かといって、この先どこに行っても上手くやっていける気がしない。悶々としているうちに十キロ痩せ、生理が止まった。肋が浮いた胸で死のうと決めた。冬だった。
夜。親が寝静まるのを待ちそっと家を出る。雨が降っているのにも関わらず月��照っている。青い光が濁った視界を切り裂き、この世の終わりみたいに美しい。近所の河原まで歩き、濡れた土手を下り、キンキンに冷えた真冬の水に全身を浸す。凍傷になれば数分で死に至ることができると聞いた。このままもう少しだけ耐えればいい。
寒い!私の体は震える。寒い!あっという間に歯の根が合わなくなる。頭のてっぺんから爪先までギリギリと痛みが駆け抜け、三秒と持たずに陸へ這い上がった。寒い、寒いと呟きながら、体を擦り擦り帰路を辿る。ずっしりと水を含んだジャージが未来のように重たい。
風呂場で音を立てぬよう泥を洗い流す。白いタイル���砂利に汚されてゆく。私は死ぬことすらできない。妙な落胆が頭を埋めつくした。入水自殺は無事、失敗。
二度目の自殺未遂は十七歳の時だ。
その頃私は再入学した高校での人間関係と、精神不安定な母との軋轢に悩まされていた。学校に行けば複雑な家庭で育った友人達の、無視合戦や泥沼恋愛に巻き込まれる。あの子が嫌いだから無視をするだのしないだの、彼氏を奪っただの浮気をしているだの、親が殴ってくるだの実はスカトロ好きのゲイだだの、裏のコンビニで喫煙しているだの先生への舌打ちだの⋯⋯。距離感に不器用な子達が多く、いつもどこかしらで誰かが傷つけ合っていた。教室には無気力と混乱が煙幕のように立ち込め、普通に勉強し真面目でいることが難しく感じられた。
家に帰れば母が宗教のマインドコントロールを引きずり「地獄に落ちるかもしれない」などと泣きついてくる。以前意地悪な信者の婆さんに、子どもが不登校になったのは前世の因縁が影響していて、きちんと祈らないと地獄に落ちる、と吹き込まれたのをまだ信じているのだ。そうでない時は「きちんと家事をしなくちゃ」と呪いさながらに繰り返し、髪を振り乱して床を磨いている。毎日手の込んだフランス料理が出てくるし、近所の人が買い物先までつけてくるとうわ言を言っている。どう考えても母は頭がおかしい。なのに父は「お母さんは大丈夫だ」の一点張りで、そのくせ彼女の相手を私に丸投げするのだ。
胸糞の悪い映画さながらの日々であった。現実の歯車がミシミシと音を立てて狂ってゆく。いつの間にやら天井のシミが人の顔をして私を見つめてくる。暗がりにうずくまる家具が腐り果てた死体に見えてくる。階段を昇っていると後ろから得体の知れない化け物が追いかけてくるような気がする。親が私の部屋にカメラを仕掛け、居間で監視しているのではないかと心配になる。ホラー映画を見ている最中のような不気味な感覚が付きまとい、それから逃れたくて酒を買い吐くまで酔い潰れ手首を切り刻む。ついには幻聴が聞こえ始め、もう一人の自分から「お前なんか死んだ方がいい」と四六時中罵られるようになった。
登下校のために電車を待つ。自分が電車に飛び込む幻が見える。車体にすり潰されズタズタになる自分の四肢。飛び込む。粉々になる。飛び込む。足元が真っ赤に染まる。そんな映像が何度も何度も巻き戻される。駅のホームは、どこまでも続く線路は、私にとって黄泉への入口であった。ここから線路に倒れ込むだけで天国に行ける。気の狂った現実から楽になれる。しかし実行しようとすると私の足は震え、手には冷や汗が滲んだ。私は高校を卒業するまでの四年間、映像に重なれぬまま一人電車を待ち続けた。飛び込み自殺も無事、失敗。
三度目の自殺未遂は二十四歳、私は大学四年生だった。
大学に入学してすぐ、執拗な幻聴に耐えかね精神���を受診した。セロクエルを服用し始めた瞬間、意地悪な声は掻き消えた。久しぶりの静寂に手足がふにゃふにゃと溶け出しそうになるくらい、ほっとする。しかし。副作用で猛烈に眠い。人が傍にいると一睡もできないたちの私が、満員の講義室でよだれを垂らして眠りこけてしまう。合う薬を模索する中サインバルタで躁転し、一ヶ月ほど過活動に勤しんだりしつつも、どうにか普通の顔を装いキャンパスにへばりついていた。
三年経っても服薬や通院への嫌悪感は拭えなかった。生き生きと大人に近づいていく友人と、薬なしでは生活できない自分とを見比べ、常に劣等感を感じていた。特に冬に体調が悪くなり、課題が重なると疲れ果てて寝込んでしまう。人混みに出ると頭がザワザワとして不安になるため、酒盛りもアルバイトもサークル活動もできない。鬱屈とした毎日が続き闘病に嫌気がさした私は、四年の秋に通院を中断してしまう。精神薬が抜けた影響で揺り返しが起こったこと、卒業制作に追われていたこと、就職活動に行き詰まっていたこと、それらを誰にも相談できなかったことが積み重なり、私は鬱へと転がり落ちてゆく。
卒業制作の絵本を拵える一方で遺品��整理した。洋服を売り、物を捨て、遺書を書き、ネット通販でヘリウムガスを手に入れた。どうして卒制に遅れそうな友達の面倒を見ながら遺品整理をしているのか分からない。自分が真っ二つに割れてしまっている。混乱しながらもよたよたと気力で突き進む。なけなしの努力も虚しく、卒業制作の提出を逃してしまった。両親に高額な学費を負担させていた負い目もあり、留年するぐらいなら死のうとこりずに決意した。
クローゼットに眠っていたヘリウムガス缶が起爆した。私は人の頭ほどの大きさのそれを担いで、ありったけの精神薬と一緒に車に積み込んだ。それから山へ向かった。死ぬのなら山がいい。夜なら誰であれ深くまで足を踏み入れないし、展望台であれば車が一台停まっていたところで不審に思われない。車内で死ねば腐っていたとしても車ごと処分できる。
展望台の駐車場に車を突っ込み、無我夢中でガス缶にチューブを繋ぎポリ袋の空気を抜く。本気で死にたいのなら袋の酸素濃度を極限まで減らさなければならない。真空状態に近い状態のポリ袋を被り、そこにガスを流し込めば、酸素不足で苦しまずに死に至ることができるのだ。大量の薬を水なしで飲み下し、袋を被り、うつらうつらしながら缶のコックをひねる。シューッと気体が満ちる音、ツンとした臭い。視界が白く透き通ってゆく。死ぬ時、人の意識は暗転ではなくホワイトアウトするのだ。寒い。手足がキンと冷たい。心臓が耳の奥にある。ハツカネズミと同じ速度でトクトクと脈動している。ふとシャンプーを切らしていたことを思い出し、買わなくちゃと考える。遠のいてゆく意識の中、日用品の心配をしている自分が滑稽で、でも、もういいや。と呟く。肺が詰まる感覚と共に、私は意識を失う。
気がつくと後部座席に転がっている。目覚めてしまった。昏倒した私は暴れ、自分でポリ袋をはぎ取ったらしい。無意識の私は生きたがっている。本当に死ぬつもりなら、こうならぬように手首を後ろできつく縛るべきだったのだ。私は自分が目覚めると、知っていた。嫌な臭いがする。股間が冷たい。どうやら漏らしたようだ。フロントガラスに薄らと雪が積もっている。空っぽの薬のシートがバラバラと散乱している。指先が傷だらけだ。チューブをセットする際、夢中になるあまり切ったことに気がつかなかったようだ。手の感覚がない。鈍く頭痛がする。目の前がぼやけてよく見えない。麻痺が残ったらどうしよう。恐ろしさにぶるぶると震える。さっきまで何もかもどうでも良いと思っていたはずなのに、急に体のことが心配になる。
後始末をする。白い視界で運転をする。缶は大学のゴミ捨て場に捨てる。帰���し、後部座席を雑巾で拭き、薬のシートをかき集めて処分する。ふらふらのままベッドに倒れ込み、失神する。
その後私は、卒業制作の締切を逃したことで教授と両親から怒られる。翌日、何事もなかったふりをして大学へ行き、卒制の再提出の交渉する。病院に保護してもらえばよかったのだがその発想もなく、ぼろ切れのようなメンタルで卒業制作展の受付に立つ。ガス自殺も無事、失敗。
四度目は二十六歳の時だ。
何とか大学卒業にこぎつけた私は、入社試験がないという安易な理由でホテルに就職し一人暮らしを始めた。手始めに新入社員研修で三日間自衛隊に入隊させられた。それが終わると八時間ほぼぶっ続けで宴会場を走り回る日々が待っていた。典型的な古き良き体育会系の職場であった。
朝十時に出社し夜の十一時に退社する。夜露に湿ったコンクリートの匂いをかぎながら浮腫んだ足をズルズルと引きずり、アパートの玄関にぐしゃりと倒れ込む。ほとんど意識のないままシャワーを浴びレトルト食品を貪り寝床に倒れ泥のように眠る。翌日、朝六時に起床し筋肉痛に膝を軋ませよれよれと出社する。不安定なシフトと不慣れな肉体労働で病状は悪化し、働いて二年目の夏、まずいことに躁転してしまった。私は臨機応変を求められる場面でパニックを起こすようになり、三十分トイレにこもって泣く、エレベーターで支離滅裂な言葉を叫ぶなどの奇行を繰り返す、モンスター社員と化してしまった。人事に持て余され部署をたらい回しにされる。私の世話をしていた先輩が一人、ストレスのあまり退社していった。
躁とは恐ろしいもので人を巻き込む。プライベートもめちゃくちゃになった。男友達が性的逸脱症状の餌食となった。五年続いた彼氏と別れた。よき理解者だった友と言い争うようになり、立ち直れぬほどこっぴどく傷つけ合った。携帯電話をハイヒールで踏みつけバキバキに破壊し、コンビニのゴミ箱に投げ捨てる。出鱈目なエネルギーが毛穴という毛穴からテポドンの如く噴出していた。手足や口がばね仕掛けになり、己の意思を無視して動いているようで気味が悪かった。
寝る前はそれらの所業を思い返し罪悪感で窒息しそうになる。人に迷惑をかけていることは自覚していたが、自分ではどうにもできなかった。どこに頼ればいいのか分からない、生きているだけで迷惑をかけてしまう。思い詰め寝床から出られなくなり、勤務先に泣きながら休養の電話をかけるようになった。
会社を休んだ日は正常な思考が働かなくなる。近所のマンションに侵入し飛び降りようか悩む。落ちたら死ねる高さの���物を、砂漠でオアシスを探すジプシーさながらに彷徨い歩いた。自分がアパートの窓から落下してゆく幻を見るようになった。だが、無理だった。できなかった。あんなに人に迷惑をかけておきながら、私の足は恥ずかしくも地べたに根を張り微動だにしないのだった。
アパートの部屋はムッと蒸し暑い。家賃を払えなければ追い出される、ここにいるだけで税金をむしり取られる、息をするのにも金がかかる。明日の食い扶持を稼ぐことができない、それなのに腹は減るし喉も乾く、こんなに汗が滴り落ちる、憎らしいほど生きている。何も考えたくなくて、感じたくなくて、精神薬をウイスキーで流し込み昏倒した。
翌日の朝六時、朦朧と覚醒する。会社に体調不良で休む旨を伝え、再び精神薬とウイスキーで失神する。目覚めて電話して失神、目覚めて電話して失神。夢と現を行き来しながら、手元に転がっていたカッターで身体中を切り刻み、吐瀉し、意識を失う。そんな生活が七日間続いた。
一週間目の早朝に意識を取り戻した私は、このままでは死ぬと悟った。にわかに生存本能のスイッチがオンになる。軽くなった内臓を引っさげ這うように病院へと駆け込み、看護師に声をかける。
「あのう。一週間ほど薬と酒以外何も食べていません」
「そう。それじゃあ辛いでしょう。ベッドに寝ておいで」
優しく誘導され、白いシーツに倒れ込む。消毒液の香る毛布を抱きしめていると、ぞろぞろと数名の看護師と医師がやってきて取り囲まれた。若い男性医師に質問される。
「切ったの?」
「切りました」
「どこを?」
「身体中⋯⋯」
「ごめんね。少し見させて」
服をめくられる。私の腹を確認した彼は、
「ああ。これは入院だな」
と呟いた。私は妙に冷めた頭で聞く。
「今すぐですか」
「うん、すぐ。準備できるかな」
「はい。日用品を持ってきます」
私はびっくりするほどまともに帰宅し、もろもろを鞄に詰め込んで病院にトンボ帰りした。閉鎖病棟に入る。病室のベッドの周りに荷物を並べながら、私よりももっと辛い人間がいるはずなのにこれくらいで入院だなんておかしな話だ、とくるくる考えた。一度狂うと現実を測る尺度までもが狂うようだ。
二週間入院する。名も知らぬ睡眠薬と精神安定剤を処方され、飲む。夜、病室の窓から街を眺め、この先どうなるのかと不安になる。私の主治医は「君はいつかこうなると思ってたよ」と笑った。以前から通院をサポートする人間がいないのを心配していたのだろう。
退院後、人事からパート降格を言い渡され会社を辞めた。後に勤めた職場でも上手くいかず、一人暮らしを断念し実家に戻った。飛び降り自殺、餓死自殺、無事、失敗。
五度目は二十九歳の時だ。
四つめの転職先が幸いにも人と関わらぬ仕事であったため、二年ほど通い続けることができ��。落ち込むことはあるものの病状も安定していた。しかしそのタイミングで主治医が代わった。新たな主治医は物腰柔らかな男性だったが、私は病状を相談することができなかった。前の医師は言葉を引き出すのが上手く、その環境に甘えきっていたのだ。
時給千円で四時間働き、月収は六万から八万。いい歳をして脛をかじっているのが忍びなく、実家に家賃を一、二万入れていたので、自由になる金は五万から七万。地元に友人がいないため交際費はかからない、年金は全額免除の申請をした、それでもカツカツだ。大きな買い物は当然できない。小さくとも出費があると貯金残高がチラつき、小一時間は今月のやりくりで頭がいっぱいになる。こんな額しか稼げずに、この先どうなってしまうのだろう。親が死んだらどうすればいいのだろう。同じ年代の人達は順調にキャリアを積んでいるだろう。資格も学歴もないのにズルズルとパート勤務を続けて、まともな企業に転職できるのだろうか。先行きが見えず、暇な時間は一人で悶々と考え込んでしまう。
何度目かの落ち込みがやってきた時、私は愚かにも再び通院を自己中断してしまう。病気を隠し続けること、精神疾患をオープンにすれば低所得をやむなくされることがプレッシャーだった。私も「普通の生活」を手に入れてみたかったのだ。案の定病状は悪化し、練炭を購入するも思い留まり返品。ふらりと立ち寄ったホームセンターで首吊りの紐を買い、クローゼットにしまう。私は鬱になると時限爆弾を買い込む習性があるらしい。覚えておかなければならない。
その職場を退職した後、さらに三度の転職をする。ある職場は椅子に座っているだけで涙が出るようになり退社した。別の職場は人手不足の影響で仕事内容が変わり、人事と揉めた挙句退社した。最後の転職先にも馴染めず八方塞がりになった私は、家族と会社に何も告げずに家を飛び出し、三日間帰らなかった。雪の降る中、車中泊をして、寒すぎると眠れないことを知った。家族は私を探し回り、ラインの通知は「帰っておいで」のメッセージで埋め尽くされた。漫画喫茶のジャンクな食事で口が荒れ、睡眠不足で小間切れにうたた寝をするようになった頃、音を上げてふらふらと帰宅した。勤務先に電話をかけると人事に静かな声で叱られた。情けなかった。私は退社を申し出た。気がつけば一年で四度も職を代わっていた。
無職になった。気分の浮き沈みが激しくコントロールできない。父の「この先どうするんだ」の言葉に「私にも分からないよ!」と怒鳴り返し、部屋のものをめちゃくちゃに壊して暴れた。仕事を辞める度に無力感に襲われ、ハローワークに行くことが恐ろしくてたまらなくなる。履歴書を書けばぐちゃぐちゃの職歴欄に現実を突きつけられる。自分はどこにも適応できないのではないか、この先まともに生きて���くことはできないのではないか、誰かに迷惑をかけ続けるのではないか。思い詰め、寝室の柱に時限爆弾をぶら下げた。クローゼットの紐で首を吊ったのだ。
紐がめり込み喉仏がゴキゴキと軋む。舌が押しつぶされグエッと声が出る。三秒ぶら下がっただけなのに目の前に火花が散り、苦しくてたまらなくなる。何度か試したが思い切れず、紐を握り締め泣きじゃくる。学校に��く、仕事をする、たったそれだけのことができない、人間としての義務を果たせない、税金も払えない、親の負担になっている、役立たずなのにここまで生き延びている。生きられない。死ねない。どこにも行けない。私はどうすればいいのだろう。釘がくい込んだ柱が私の重みでひび割れている。
泣きながら襖を開けると、ペットの兎が小さな足を踏ん張り私を見上げていた。黒くて可��らしい目だった。私は自分勝手な絶望でこの子を捨てようとした。撫でようとすると、彼はきゅっと身を縮めた。可愛い、愛する子。どんな私でいても拒否せず撫でさせてくれる、大切な子。私の身勝手さで彼が粗末にされることだけはあってはならない、絶対に。ごめんね、ごめんね。柔らかな毛並みを撫でながら、何度も謝った。
この出来事をきっかけに通院を再開し、障害者手帳を取得する。医療費控除も障害者年金も申請した。精神疾患を持つ人々が社会復帰を目指すための施設、デイケアにも通い始めた。どん底まで落ちて、自分一人ではどうにもならないと悟ったのだ。今まさに社会復帰支援を通し、誰かに頼り、悩みを相談する方法を勉強している最中だ。
病院通いが本格化してからというもの、私は「まとも」を諦めた。私の指す「まとも」とは、周りが満足する状態まで自分を持ってゆくことであった。人生のイベントが喜びと結びつくものだと実感できぬまま、漠然としたゴールを目指して走り続けた。ただそれをこなすことが人間の義務なのだと思い込んでいた。
自殺未遂を繰り返しながら、それを誰にも打ち明けず、悟らせず、発見されずに生きてきた。約二十年もの間、母の精神不安定、学校生活や社会生活の不自由さ、病気との付き合いに苦しみ、それら全てから解放されたいと願っていた。
今、なぜ私が生きているか。苦痛を克服したからではない。死ねなかったから生きている。死ぬほど苦しく、何度もこの世からいなくなろうとしたが、失敗し続けた。だから私は生きている。何をやっても死ねないのなら、どうにか生き延びる方法を探らなければならない。だから薬を飲み、障害者となり、誰かの世話になり、こうしてしぶとくも息をしている。
高校の同級生は精神障害の果てに自ら命を絶った。彼は先に行ってしまった。自殺を推奨するわけではないが、彼は死ぬことができたから、今ここにいない。一歩タイミングが違えば私もそうなっていたかもしれない。彼は今、天国で穏やかに暮らしていることだろう。望むものを全て手に入れて。そうであってほしい。彼はたくさん苦しんだのだから。
私は強くなんてない。辛くなる度、た��さんの自分を殺した。命を絶つことのできる場所全てに、私の死体が引っかかっていた。ガードレールに。家の軒に。柱に。駅のホームの崖っぷちに。近所の河原に。陸橋に。あのアパートに。一人暮らしの二階の部屋から見下ろした地面に。電線に。道路を走る車の前に⋯⋯。怖かった。震えるほど寂しかった。誰かに苦しんでいる私を見つけてもらいたかった。心配され、慰められ、抱きしめられてみたかった。一度目の自殺未遂の時、誰かに生きていてほしいと声をかけてもらえたら、もしくは誰かに死にたくないと泣きつくことができたら、私はこんなにも自分を痛めつけなくて済んだのかもしれない。けれど時間は戻ってこない。この先はこれらの記憶を受け止め、癒す作業が待っているのだろう。
きっとまた何かの拍子に、生き延びたことを後悔するだろう。あの暗闇がやってきて、私を容赦なく覆い隠すだろう。あの時死んでいればよかったと、脳裏でうずくまり呟くだろう。それが私の病で、これからももう一人の自分と戦い続けるだろう。
思い出話にしてはあまりに重い。医療機関に寄りかかりながら、この世に適応する人間達には打ち明けられぬ人生を、ともすれば誰とも心を分かち合えぬ孤独を、蛇の尾のように引きずる。刹那の光と闇に揉まれ、暗い水底をゆったりと泳ぐ。静かに、誰にも知られず、時には仲間と共に、穏やかに。
海は広く、私は小さい。けれど生きている。まだ生きている。
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高山義浩 · 2月16日 · 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の臨床像について、おおむね分かってきました。敵を知ることで、戦い方も見えてきます。そのための封じ込め(時間稼ぎ)でしたから、まずは発生初期における目的に至ったと言えます。次は流行の立ち上がりに向けて、個人、家庭、学校、施設、病院、事業者・・・ それぞれに必要な備えをとりましょう。 新型コロナに感染したときの臨床像は、2つのパターンに分けられます。 まず、風邪症状が1週間ぐらい続いて、そのまま軽快するというもの。この経過をとる人が大半です。新型コロナといっても、重めに発症するわけではありません。ほんとに風邪です。ただ、普通の風邪は2,3日で治りますが、新型コロナだと長引くのが特徴です。 次に、風邪症状が1週間ぐらい続いて、倦怠感と息苦しさが出てくるもの。体がむくんだり、下痢が重なる人もいるようです。高齢者や基礎疾患のある方において、この経過をとる人が多いのですが、健康な壮年層にも見られることがあります。一方、この経過を子どもがとることは極めて稀とされています。 感染してから発症するまでの潜伏期間は5日(1-11日)ぐらいで、入院を要するほどに重症化するのは、さらに10日(9.1-12.5日)経ったころだと見積もられています。感染力が強いのは、発症から3~4日目ぐらいだと考えられていますが、重症化すると感染力も維持されて院内感染を引き起こしやすくなっています。 若者と高齢者で臨床経過が異なるので、重症化率と致命率についても世代別に考えた方がよいと思います。いまだ、世代別の疫学報告はありませんが、私個人のざっくりとした印象で言うと・・・、若者の重症化率と致命率は、統計的に見れば、ほぼゼロ%でしょう。一方、感染した高齢者の1割ぐらいが重症化して、1%ぐらいが死亡するのではないかと感じています。これは、やや甘めの見積もりであって、要介護高齢者や入院患者では、さらにリスクが高まるものと考えてください。 というわけで、これから私たちは何をすべきか。もはや、流行を抑止することは主たる目的ではなくなってきました(やれることはやるべきですが)。むしろ、重症化する人を減らし、とくに新型コロナに感染して死亡する人をできる限り減らすことに力を注ぐべきです。 つまり、高齢者や基礎疾患のある人に感染させないようにしましょう。そして、院内感染を防ぎましょう。これに尽きます。なお、基礎疾患のある人とは、糖尿病や高血圧、腎臓病など慢性疾患があって、定期の内服薬を要する人だと考えてください。以下、これらの方々をハイリスク者と呼びます。 ハイリスク者がいる家庭では、ウイルスを外から持ち込まないように、玄関先にアルコールを置いて帰宅時の手指衛生を徹底してください。アルコールが手に入らないなら、おしぼりでもいいです(やらないよりはマシ)。とにかく、ドアノブなどあちこちを触ってから、洗面台に行っても手遅れだってこと。 同居する家族が風邪をひいたら、ハイリスク者と接触しないよう症状が治まるまで家庭内で隔離してください。そして、風邪をひいている人が部屋を出るときは、マスクを着用させて、アルコールで手指衛生をしてください。部屋の外では、できるだけ余計なものは触らないこと。トイレに行った後は、触った場所をアルコールを染みこませたペーパータオルで拭うこと。お風呂は最後に入ること。バスタオルは絶対に共用しないこと。 こうした対応を発症してから7日間は頑張ってください。それが困難であるなら、一時的にハイリスク者を親族の家などに疎開させることも考えてください。 なお、風邪症状に過ぎないのに新型コロナかどうかを確認するためだけに、救急外来を受診することは避けてください。そこには、体調を悪化させたハイリスク者がたくさん受診しているのです。彼らへ感染させないように協力してください。また、救急外来には新型コロナの重症患者もいるかもしれません。あなたが「ただの風邪」だったとしても、救急外来を受診することで新型コロナに感染して帰ってくることになる���もしれません。 流行期には、ハイリスク者の方々が人混みを避け、なるべく自宅で過ごしていただくことも大切ですね。感染リスクのある病院に行く回数を減らすためにも、1カ月おきの外来受診を3カ月おきなど、長期処方とともに予約延長してもらうことも考えられます。かかりつけの先生に相談してみてください。 高齢者施設の感染管理は極めて重要です。100人の入所者がいる施設で新型コロナがアウトブレイクした場合、30人以上が発症し、10人以上が救急搬送を要して、数人がお亡くなりになるというイメージが必要です。このような事態を避けるためにも、全力で感染管理に取り組みましょう。 まず、外から持ち込ませないこと。流行期にあっては、原則として面会はすべて中止。物品の搬入なども玄関先で行います。どうしても入らなければならないのなら、玄関先でアルコールによる手指衛生を行って、トイレも含め共用の場所には立ち入らないように求めます。 職員についても、当然ながら玄関先で手指衛生。そして、毎朝の検温と症状確認を自己申告ではなく、管理者による指差し確認を行います。もし、軽微であっても症状があれば、絶対に休ませてください。絶対にです。勤務中であっても症状を認めたら、絶対に休ませてください。もう一度言います。絶対にです。 なお、流行期においては、出勤できる職員数が半減することも想定しなければなりません。このとき、すべての業務を継続させようとしたり、現場の判断で場当たり的に仕事をさせるのではなく、優先的に継続させるべき中核業務を決定しておくことが必要です。入居者の協力のもと、どこまで業務をスリム化できるかが勝負です。 一方、悩ましいのは通所サービスですね。ここでの感染管理を徹底することは不可能でしょう。デイケアやデイサービスをどのように運用するのか・・・。最善の方法は、流行期にはすべて休止させることです。 もちろん、その分、訪問系サービスを充実させる必要があります。通所サービスの職員に、利用者宅を巡回させるなど工夫してください。これは事業者だけで解決できる問題ではないので、市町村が主導するなどして、どうすべきかを急ぎ話し合っていただければと思います。いま、話し合ってください。 === 【追記1】ここに紹介した文章も図表も、著作権主張しません。皆さん自由に使ってください。それぞれの現場の実情に応じて改変されるのも自由ですが、その際は私の名前を引用元としないよう御配慮ください。 【追記2】神戸大学の岩田先生より、冒頭の段落において「達成した」としたのは「成功した」という印象を与える恐れがあるとの指摘がありました。政府が行ってきた検疫強化などの封じ込め策には、エビデンスを収集するための時間稼ぎという目的があります。しかしながら、その目的に「至った」のは、政府による封じ込め策による成果とは言いきれず、あるいは中国や日本国内の医療者からの迅速な臨床情報の提供など、様々な要因によるものだったと考えられます。また、政府の施策が妥当であったかについては、今後の検討を要することだと思います。そこで、ご指摘に従って「達成した」を「至った」と改めました
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ところが、そんなことは二年も三年も続かない。そのうちに、大きな大きなタイヘンな仲間たちの死に直結するような事件が勃発する。事故のような事件かもしれない。ところが、その事件を糊塗するために、さらなるウソと不和とがまき撒き散らされる、ついには不義・・・無仁義と言えるような状況に立ち至る。
ここまでくると、気が付かなかったスタッフたちも、巻き込まれ過ぎ、余裕がなくなりすぎ、状況と事件によっては『鬱的な神経症』みたいになってくるスタッフたちも出てくる。ますます、オモタい病者たちに支援の手が届かなくなり、再入院者や病状を崩すなかまたちが増えてくる。そいつは、我関せずのように何も感じていないかのように、自分のことだけを進めようとする。さすがに、ここら辺でみんなが気づく、なかまたちにとっては、そいつがジブンだけがエラく為ったり、学者や活動家や何らかの名分を得るためだけに、そのためダケに利用されたんだと云うことに気が付いてくる。そして、本当に友達と言えるのかどうかわからなくなる。
そういえば、最初から、トモダチは要らなかったように思える言動ダッタと気���く。
裁判がやりたくて、弁護士が必要だっただけ。その法廷に傍聴人が必要だっただけ。何かの文章を発表するのに、有名な雑誌媒体が必要だっただけ。何かをやるための名分の御立派な組織が必要だっただけ。
学会の理事会や評議員になりたくて、その推薦してくれたり紹介してくれたりするスタッフが必要だっただけ。そう、だから、通所者のオモタい病者の友達は、ハナッからいなかったのだ。友達になる気はなかったのだ。
だから、よく考えてみると、自分にとって利用価値のある人間にだけ話をしていたはずである。そして、そう云うことがバレないように、上手く、立ち回らんがために、ウソや誹謗や中傷や不義や不和が必要だったのだ。だから、一��、良さそうに見えながら、非情な冷たさや冷酷さや、さらには、その場でヘゲモニーを握るために想像を絶するような汚いやり口のヘゲモニー争いのようなことが為されていたことに気付くのである。オモタい病者たちは、ただ単に利用されただけではない、バカにされ、否定され、虐められ続けられていたことに、やっと気付く。ところが、それに気付いたたときには、もはや遅い。ナニかの重大なジケンがおきてしまう。再入院者は出ている。死人も出ているかもしれない。そして、その場が実質上たまり場としての機能を失い、崩壊寸前であることに何人かは愕然とするであろう。その時に、恐怖を、想像を絶するような「こんなニンゲンもいたんだ」「いるんだ」という絶望と暗闇と後悔に苛まれることになる。
ところがこれでコトは終わらない。
この状況を改善して、再度やり直そうとしたときに、その動きを潰そうと、今度はなりふり構わず襲ってくるのである。
何故か、再度やり直そうとしたときに自然と、そいつのやり様ややり口を明らかにするところから出発せざるを得ないからである。だからなりふり構わず潰そうと躍起になる。ところが、それが再構築しようとする側にはなりふり構わずというように見えるのだけれども、実は、計算ずくのとてつもない冷徹な、例えば、第三者機関や適正化委員会やあるいは刑事法廷や民事法廷、さらには警察、そしてネット上のアカウント停止審査委員会や、市役所や県庁などを駆使した、しかも、その時には、何かの学会の役員などになっており、その学会も、あるいは、スタッフ側が何かの専門職の場合、その専門職能性の学会や協会の監査委員会や倫理委員会などの、ありとあらゆる権力機構を利用とするのである。そしてここまでくれば、これを外から見ている人達からは、まるで、そいつが『正義の改革活動家』のように見えたりもし、ということは逆に、その場をまるで掌中の珠のように、時間をかけてじっくりと育て上げてきた仲間たちとともに、重たい病者たちとともに、スタッフたちとともに、まるで自分の子どもの様に、自分の人生を賭けて守ろうとしている側が、打倒されなければならない悪の施設や専門職や作業所のように見えたりシテしまうのである。
これが、一つの典型例である。このような『無仁義なヤタラとヤカラ』な連中が、当事者として自分たちの名分として最大限利用しているのが、『ハッタツ障害』なのである。だから、『発達障害』に反対している。
だから、申し訳ないことながら、作業所患者自治会から『ハッタツ障害』のミナサンは出て行ってくれという言い方になってしまう。勿論、そういう人たちばかりでないことは分かっている。キーサンとして、十分分かっているつもりなのである。だから、そういう人たちは、分裂病圏や躁鬱病圏のなかま達に配慮してくれるなら、一緒にやって行こうと言いたいのである。
だから、だからこそ、上記のような『無仁義アクジ犯』があまりにも当事者として『ハッタツ障害』を名分とするので、『発達障害』に反対せざるを得ないのである。しかもさらに言えば、この点に関しては、また別項で書かなければならないのだけれども、書くつもりなのだけれども、さらに言えば、この『所謂言うトコロの発達障害』概念そのものが、上記のような『無仁義アクジ犯』を良いものだとするような方向性を打ち出しているのだと想う。だから、この『所謂言うトコロの発達障害』概念そのものが、『無仁義アクジ犯』たちを力づけ、勇気づけ、再復活を遂げさせていると想う。「再」と書いたのは、ムカシから、こういうヒトたちはいたからである。いたが、パシーーンんと「ええ加減にせなあかんぞ。このマンマなら出て行け!」と言えたのである。もちろん、みんなで話し合いを重ねた上でのことではあるのだが、、、それが言えなくなったのは、まさしく、この『所謂言うトコロの発達障害』概念そのものの持つ恐ろしいところであり、「再」と書いた所以である。そう、『所謂言うトコロの発達障害』概念に胡坐をかき、『我々も障害当事者だ』と云うワケなのだ。
だから、そう、これらの無仁義な行動を『所謂言うトコロの発達障害』概念が正当化してしまうのである。その最初の第一歩が、「コミュニケーションに障害があるので、人の話は聞きません」「人のことは知りません」「人の気持ちなんて理解しなくてもいいんです」「自分だけに支援者が付けばいいです」「好きなことだけします」「能力があるので、その能力を花開かせたいです」「そのためのサポートチームが要ります」「その上で、責任はとりません」「しかも、友人はいりません」「人と付き合いません」「でも、自分にとって必要な人は、いります」「挨拶もしません」「年長者も病気のオモタイ人も、弱い人も、関係ありません」「これが何で嘘なんですか?」「嘘だという証明をしてください」「こちらは、学者が学問が第三者委員会が裁判所が学会が、正当だと認めています」「間違いだと言うのなら、そちらが証明してください」「最後に、これが正義だ、と言わせてもらいます」「こうやるのは、これが正義だからです」「間違っているのはそちらだ」と云うカタチで、『所謂言うトコロの発達障害』概念に胡坐をかいて、好き放題、不和をバラまき、ウソをつき、どうも自分だけは右肩上がりの人生が歩めると思っているのが、そのためなら、ナンでも利用するものは利用すると云うのが『無仁義アクジ犯』の『ハッタツ障害者』なのである。ハッキリ言う。作業所患者自治会からは出て行ってほしい。来ないでほしい。それは、サロン自治会でも、デイケア自治会でも、一緒である。もう一層のこと、『無仁義アクジ犯』の『ハッタツ障害者』だけで会を作ってほしい。
ところがそうはならない。なんとなら��、利用する相手がいないからである。
喰い物にする相手がいないからである。だから、我々はそいつらが利用できるような対象にならないことが、最大の防御策である。
つまり、『キチガイのキーサンのオモタい病者中心の潰れかかった、汚い、風呂も入らない、口の意地汚いキーサンばかりが集まって、どこからも相手にされていない』もんで、こいつらもう利用のしようがない、と云うのが最大の防御策である。ところがそうもいかない。ドウイウワケダカ、こいつらが利用したいような名分や、ナンなのか分からないが、こちらはトンと解らぬが、ナニかがあるらしく、利用しようとして来るのである。更には、今回、新しく『意識的に』、作業所内にデイケア内にサロン内に、精神病者自身の通所者自身の病者自身の患者自身の自治会を作ろう、と言い出したのである。
これが、もしかしたら『意識的な』精神病者運動としては、最初の動きかも知れない。上手く行かないこともあろうが、みんなで、掌中の珠のように信頼関係を構築し合って、ナントカナントか、もし上手く行きかけたら、それこそ、利用するにもってこいの名分となるだろう。いや、来るのは確実なのであろう。まさに『利用するために来る』のである。
精神病患者会前進友の会やすらぎの里作業所
あくまでキーサン革命の鬼えばっち 江端一起
えばっちのホームページ 乾坤一擲
http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html
えばっちのはてなブログ
https://ebacciblog.hatenablog.com/
えばっちのタンブラー
https://kisanebacci.tumblr.com/
前進友の会やすらぎの里のホームページ
http://yuinoumi.web.fc2.com/zenshin-index.html
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認知症の研修を行いました
当院では定期的に認知症の研修を行っています。今月の23日に明日佳グループの一員である桜台明日佳病院の認知症治療病棟で働く増森美由紀看護師長さん(認知症看護の認定看護師)を講師として、研修を行いました。
参加者は看護師、介護士、リハビリ・デイケアのスタッフなど78名。
研修内容は、認知症の病型・症状・感情残像の法則(話したり、聞いたり、行ったことはすぐ忘れる��、その時の感情は残像のように残る)など、認知症の基本についてのおさらいでした。
今後も認知症の研修を継続し、より良いケアに繋げたいと思います。
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デイケア 涼夏の会
皆様こんにちは♪
デイケアさくらだいでは、7月19日に「涼夏の会」を行いました。
今年も暑い夏になりそうですが、皆さんで涼しく過ごそうという事で今年はすいか割りを行って、皆さんで美味しく食べました。
大きなすいかに皆さん驚いていましたが、さっそくすいか割りのスタート
目隠しをして挑戦します。
皆さんのサポートにも力が入り「右、右もっと右~」「行き過ぎた~」「そこそこ!」と沢山の応援の声が聞こえていました。
「えいっ!」と狙いを定めて・・・
固いすいかもだんだんと割れてきました!!あともう少し!!
その後も皆さんで力を合わせて・・・
「ぱっか~ん!!」と真っ赤で美味しそうなすいかが割れました♪
その後皆さんで力を合わせて割れたすいかを美味しく頂きました♪
「甘くて美味しい」「楽しかった」と皆さんからの声もあり無事に涼夏の会を終了しました。
皆さんお疲れ様でした♪♪
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てくてく通信
〜昭和写真館〜
てくてくでは、体操や回想法で度々昭和の話題で盛り上がります😊
昭和の激動を生活してきたご利用者様に、いつでも昔の事を懐かしんだり、思い出して頂きたく、〝ふ〟とした時に目が行きやすい場所に『昭和写真館』コーナーを作成しています📷
昔の事を思い笑顔になる様、写真館も更新してます🎞️✨
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自分が認知症になって初めて体験したことの1つは、週に1回、デイケアに通うようになったことです。私はこれまで、患者さんに「ケア職の人に接するのはとても良いことだから、週に1度や2度でもいいから行ってごらんなさい」と勧めてきました。それが、いまでは勧められる立場になったわけです。
(2ページ目)認知症医療の第一人者が語る「みずから認知症になってわかったこと」――2018上半期BEST5 | 文春オンライン
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【レビュー】消えていく家族の顔 ~現役ヘルパーが描く認知症患者の生活~
認知症の父の言動について、少しでも理解したくて入手しました。
外出しようとすること。 デイケアに行って、途中で「帰りたい」と言うこと。 以前「頭がもやもやして」と言っていたこと。 ありもしない話(悪意はない)をすること。
父の言動は、この作品に出てくる患者さんとは 異なることが多いけれど それぞれの登場人物のちょっとした言動、事象に 「ひょっとして」と考えさせられることがありました。
この作品を読んで、父の言動の全てを解明することはできませんが、 「こう思っているのかもしれないな」と考えられるようになれれば、 お互いモヤモヤ思うことが少なくなるかもしれません。
母や家族に伝えたいと思いました。
認知症患者さんをとりまく世界は厳しく 介護の現場でも様々なトラブルがあったりするものの、 それをや��らかなタッチの絵で表現してくれた作者に感謝します。
消えていく家族の顔 ~現役ヘルパーが描く認知症患者の生活~ https://www.amazon.co.jp/%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8F%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%81%AE%E9%A1%94-%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%81%8C%E6%8F%8F%E3%81%8F%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%97%87%E6%82%A3%E8%80%85%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB-BAMBOO-ESSAY-SELECTION/dp/4801922619/
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偲、常和 (じょうわを しのぶ)
※この文章は、自分自身の整理を付けるために行き帰りの新幹線や、移動中の車中などで書き殴ったものなので、そこまで推敲はしておらず読みにくいことこの上ないです。
また、かなり個人的かつ内面の話なので、明るくもなく…
長年、澱(おり)のように積み重なっていた自分の中にあったことを吐き出してすっきりとさせるために書いた、あくまでも自分用備忘録であることをあらかじめ記しておきます。
****************
2018年9月11日の朝、祖母が亡くなった。
父方の祖母で、すなわち母からすれば姑で、娘の目から見れば、(仲が悪かったわけではないものの)なにかと方針の異なる祖母と母はずっと折り合いが悪かった。
母は祖母の振る舞いが気に入らなければ、悪口を絶えず言っていたし、それを聞かされて育ったので、祖母のことを好きになってはいけないんじゃないか、と思ったりもしていた。
幼い頃、人よりも気がつかず、おめでたくて卑屈、怠け者と呼ばれていたわたしは、よく母から叱られていた。わたしに対して気に入らないことがあれば、あんたは見た目も性格もおばあちゃんにそっくりだ、そういうところが本当に似ている、と言うものだから、自分が祖母と似ていることが、誇らしく思えなくなったり、自分を卑下することばかりに繋がって、祖母のことをどう思えばいいのか全くわからないまま複雑な幼少期を過ごした。
祖母みたいになっちゃだめだ、と強迫観念的に植えつけられながら、祖母みたいになってゆく気がする自分が見え隠れして、それっていけないことなのか?と、時々どうしようもない気持ちに襲われるようになった。母の言葉で、重苦しい鎖に捕らわれていく感覚が、いつもそこにはあった。
祖母は私や妹を可愛がってくれた。
遊びに行くと、そんなに広くはない長屋の一間しかない部屋で、精一杯のもてなしをしてくれた。祖父も一緒だった。祖母も、祖父も、控えめで、田舎の人って感じで、とりたてて洗練されてるわけでも、博識なわけでも、お金があるわけでも無かったが、父がそう、育っていったように、優しく穏やかな人達だったことは覚えている。見栄を張ったり、人にものをあげたりするのが好きで、お金の使い方的には間違ってるかもしれないなぁ、と思って見てはいたが、借金まみれになるわけでもなかったし、今思えば干渉するようなことでもない。
何より、決して、人の悪口を言ったり、相手をコテンパンに追い詰めるまで口汚く罵るような人達ではなかった。ただひたすらにこにこと、優しくいるのだった。
祖父も平均寿命あたりまで長生きはしたが、晩年心臓を患って入院がちになった。自力で中々起き上がれなくなってからは、祖母が介護をするには持て余してしまい、結局自宅療養はできずにずっと入院したまま、世を去った。
祖父は亡くなる直前、自宅に帰りたがったが、祖母はそれを受け入れられず、拒否していた。それを、母は冷たいとなじった。
しかし、私たちは祖父母のいる大阪からは離れた土地に暮らしていて、祖父のことも祖母のことも、間近で力を貸せていたわけではない。
祖母には、祖母の苦悩があったのかもしれない。元々、メンタルがそこまで強くはない人だろうな、とは察していた。
祖母は、結婚後パートはしつつも、ガチの社会生活は送っていないし、1人息子の父を育て、炊事洗濯、家事全般が趣味だったと聞く。ザ・専業主婦人だったのだろう。社会の荒波第一線で、単身赴任だった父のことを気にかけながら、仕事をしつつ、二人の娘の子育て、とゴリゴリに奮闘してる母とは感覚が違うのも自然なことで、両者の置かれている前提が違うのだから互いの感性が理解し合える訳もないのだが、そのことについて、幼いわたしが気づくには少々難題だったな、と振り返る。
祖母は、祖父と、父に囲まれた、小さな生活の範囲で、幸せで満足だったのだろうと思うし、そのささやかな均衡の中でだけは心身共に健康であれたのかも知れない。
だからなのか、13年前、祖父が亡くなった時、先のことを考えられない性質とメンタルの弱さが輪をかけて、寂しさに囚われてしまい、絶えきれず貯水池に飛び込み入水自殺を図った。
周囲の気を引きたいだけだ、狂言だと母は言ったが、わたしは祖母の気持ちを慮るとどうしようもない遣る瀬無さと悲しさに襲われたのを、よく覚えている(わたしだって、家人を失ったら後を追いかねないと常々思っているからだ)。
入水自殺を図ったものの、うまく溺れきれずに水中に浸かってる状態で保護された祖母はその後、おそらく統合失調症や躁鬱、その類がつけられ、精神病院の隔離棟に入院し、そのまま、数年そこで小康状態を保っていた。
そこには幾度か見舞いに行ったが、鉄格子の扉を2つ越え、スタッフの詰所を抜け、もう一度特殊ガラスの扉の向こう側に行き、ようやく病棟内に入れたので、よく覚えている。
中は見かけ上普通の病院と然程変わらなかったが、病室は同室の患者たちの干渉を受けるので(外からの見舞客が珍しいのかして絡まれるのだ)、白い壁面に全て囲まれ、扉に小窓がついた小さな面会室に通されると、そこで車椅子に乗せられた祖母がやってくるのだった。
小窓はたいてい、他の患者たちがじいっと覗き込んで来たり、大声で扉を叩いて来たりしたので、最初はビビったが、だんだん慣れていった。
祖母はこの時点で自分含めて他人の判断があまり明確にはつかなかったので、簡単な会話程度しかできなかったが、それでも家族の写真を見せながら好きなお菓子を一緒に食べるなどすると、記憶の断片を思い出してくれたのか、誰かわからぬが親切な人が来てくれたなという愛想笑いなのか、なんとも判断もつかないような様子で、それでも嬉しそうに笑ってくれた。
ある時、面会室から出て、祖母の病室までついていったことがある。祖母のスペースには、衣類を入れているロッカーがあり、その壁面に朝顔の塗り絵が貼られていた。デイケアのリハビリで塗ったものだと言う。画一的な赤や青ではなく、全体的に黄色味がかったような、枯れ色エフェクトをかけたような、不思議な、それでいて、絵とは無縁の世界にいるような人とは思えないような、寂れた雰囲気の中にぬくもりが見えるような色使いに、えもいわれぬ思いにかられたことを鮮明に覚えている。
それから10年程が経過し、患っていた心の病と共に、緩やかに認知症等が進んでゆき、精神的なケアよりも介護のケアが必要となり、特別養護老人ホームに入居した。入居してほどなく、肺炎が治りにくくなり、市内の改築されたばかりの医療センターにここ3年ほどは幾度となく入退院を繰り返すようになった。
今年の8月のお盆休みは、祖父の13回忌だった。法事を終えて、見舞いに行くと、改装されたてで設備の整った、スタッフも粒の揃っている様子と思われる環境で、弱々しくかろうじて息をしている状態で祖母はそこに居た。意識はあったりなかったりの朦朧とした状態で、呼吸すら苦しいのかして昼夜問わず、呻き声や喚き声が大きいため、個室に入れられていた。
こもった湿度が気になって換気をしようと窓を開けてふとベランダに目線を落とすと、蝉が力なく仰向けになっていた。
これまでも幾度となく入退院を繰り返していたが、この夏が最期なのかもしれないという予感がその時にあった。もちろん、そんなことは誰にも言えない。
わたしは、元々生まれ持ったメンタルはそこまで強い方ではない。何かで自分の思い描く予定通りでない流れになり、そして予測がつかない事態に追い込まれ続けた途端、���考停止が起こり、判断力が極端に落ちる。臨機応変さが損なわれ、自分の精神状態によっては「咄嗟の判断」が普通の人以上にヘタクソな自覚がある。
本能的にそれを嗅ぎ取っているからか、仕事や私生活において、普段から思いつく範囲で想定対応策を考え続ける癖がある。しかし、それでも本当に目の前で突然のことに出くわしたり、自分自身の許容範囲を超えてゆくと、あっさりと思考停止になってしまう。昔からこうだった。どんなに努力しても、程度の差こそあれ。
キャパシティを超えると、思考を放棄し、誰かのせいにし、酸欠の池の鯉のようにぱくぱくとしきりに口を動かし、声にも言葉にもならない妄想の混ざったうわごとを唱える祖母。祖父に精神的に頼りっきりで、自力では何もしようとしなかった、出来なかった祖母。
人がいると水を得た魚のようにはしゃぎ回るのに、人がいないと塞ぎ込んで、落ち込んでしまい、祖父亡きあと程なくして心を病んでしまった祖母。祖父を亡くした時、祖母のキャパは超えてしまったのだろう。そこが、己とよく似ている気がして、重なるのだ。
母からの言葉の鎖に囚われた幼少期とは別なる観点として、自分が大人になってゆく過程で祖母と接しながら見つけたこととしては、自ら責任を持って背負うような業がなく、戦火を免れつつびっくりするほど運がよく、人懐こく、世話焼きで、初対面の人とでもずっと世間話ができるほどの話し好きで、そして、寂しがりでひとりきりでは生きられないタイプの人なのだろうということだった。しかし、それははたから見た感覚でしかなく、祖母の心のうちは、やっぱり祖母にしかわからない。
母の言葉の呪縛は幼少期の間のことであり、大人になってからも言われ続けた訳ではないのでとっくに解き放たれても良いようなものだが、それでも己の無力さや愚かさを恥じるたびに、何故か脳裏に浮かぶのは祖母のことだった。要するに、己で己の心を縛り付けて己の行く末を勝手に恐れていた(だから、今となっては母を責めるつもりもない)。わたしも、こうなるのだろうか。悪いモデルケースとして祖母を思い描くたび、身内なのに、家族なのに、あまりに失礼で、心の中でその度に申し訳なさと自己嫌悪に苦しく悲しくなって、「おばあちゃん、ごめん、ごめんね」と謝っていたことは、誰にも話せたことはない。
祖父が亡くなってから13年、止まり続けた時の中で生きていた祖母は、食べることが何より好きだったのに、満足に好きなものを食べることも叶わず点滴だけを繋がれて、最期の1ヶ月間を過ごした。父も母も、幾度となく祖母を見舞い、転院や治療のたびにいろんな手続きをし、手を尽くしていた。わたしも妹も、行ける時は大阪に足を運んだ。
亡くなる3日前、わたしは再び祖母のいる病室にいた。
「典型的な老衰ですから、ゆるやかに衰弱していきますが、苦しんではいませんよ」と医師に言われていたものの、祖母の弱り切った姿を見守り続けるのは正直辛かった。耳は遠くなっていなかったので、会話はおそらく聴こえているのだろう、話しかけると喚き声を止めてうっすら閉じた瞼の下で瞳が必死にこちらをむこうと動いているのがわかった。風呂にもあまり入れていないのと、身体のあちこちから、己の分泌するものや老廃物を代謝しきれないのだろう、アセトンやアンモニアに近い刺激臭がする。
祖父が亡くなった時は、入院はしていたものの最期は急だったので、俗に言う、死臭に近い匂いを知ったのは初めてだった。
気管支が反応して咳が止まらなくなったが、吸気量を2L/hrに落とされてしまったほぼ意味をなさない酸素マスクが口元から外れそうな勢いで何かを伝えようと呻きながら、うあうあと口を動かし続ける祖母を見ていると、そんなことはどうでもよくなった。
「おばあちゃん また来たで。わたしやで。わかる?」
語りかけると、それまで苦悶の表情でイヤイヤ、と首を振るように動いていた祖母が、表情を和らげ、うん、うんと頷いているように見えた。
「聴こえてる?」
…うん、うん。ありがとなぁ ありがとなぁ なんも 言うことあらへんわ。
「痛(いた)ない?しんどない…?…しんどいよなぁ…おばあちゃん。」
…ありがとなぁ ありがとう もうなんも言うことあらへん。ほんまに、うれしわぁ、うれしわぁ
「そんなに…一生懸命口動かしたら…疲れるやろ、ええて 聴こえてる わかってるって…」
それでも、祖母は懸命に何かを喋り続けていた。
ありがとなぁ、ほんまに ほんまにおおきになぁ。おおきにやでぇ。うれしわぁ、うれしわぁ。
声には聞こえないが、口の動きや顔の動かし方で、テイよく捉えれば、そう言ってくれているように聞こえた。それらは、嬉しい時、お礼を言いたいときの、定型文的な祖母の昔からの口癖だった。何にありがとうなのか、意味もなくとりあえず言っとけ的な安直さを感じていた捻くれ学生当時、語彙力なさすぎか、と思うこともあったが、いまわのきわで振り絞ることばが「ありがとう」という謝意であることが、たとえ口癖で妄言だったとしても、わたしはこれまでの祖母へ抱いていた複雑な思いと見比べてみて、己を恥じるしかなかった。
おばあちゃんごめんなあ、わたしはおばあちゃんのこと、もっともっと好きになりたかったんよ。好きやのに、好きやでってちゃんとよー言わんかった。勝手に、否定的な考え方でおばあちゃんのことを思ったりして、ほんまにごめん。おばあちゃんは会いに行けば手放しで喜んで、可愛がってくれたのに、ほんまにごめん。
骨と皮だけになってしまった頬に触れて、ひたすら謝り続けることしかできなかった。
それから3日後、息を引き取った後の祖母は、最期に会った時の苦しそうな表情から一転し、安らかに微笑んでいるかのような顔になっていたので、悲しさと共に心底ホッとした。
家族とごく僅かな親戚だけでこぢんまりとした葬儀をし、確執あった生臭坊主と話し合いをし(これについては言いたいことあれど、今はしない)、納骨の準備だのを両親が進めていくのを手伝いつつ、ただひたすら 祖父と祖母のいたあの長屋に遊びに行った幼少期の時のことばかり思い出していた。1つ屋根の下で、遊んでもらい、夏休みの宿題をし、ご飯を食べさせてもらい、布団を敷き詰めて川の字で並び、昔話をしながら寝かしつけてくれた。
幼い妹と一緒に手を引き、遊園地に連れて行ってくれたこともあった。
どれも楽しい思い出だった。
祖父母に暖かく迎え入れてもらい、その愛情を感じることができたこと、誰もが元気で笑顔だった時のこと、それも20年以上前の事を、なぜか唐突に思い出しているうちに、お経もお焼香も気がつけば済んでいた。
棺を閉じる前のお別れの時の末期の水(まつごのみず)のため、樒(しきみ)の葉っぱを手渡されて、少ない身内が、一言ずつお別れの言葉を告げながら、祖母の唇を水で濡らした樒の葉で潤してゆく。
わたしがかろうじて手繰り寄せられた言葉は、「ごめんなさい」と「可愛がってくれて、ほんとうにありがとう」だった。
安らかな死に顔の祖母が、口癖の「ほんま、おおきになぁ」と言ってくれた気がした。
荼毘に付された後の祖母のお骨を集めて、骨壺に入れ、元々小柄だった祖母は、本当に小さな姿になってしまった。
本来は四十九日まで納骨しないが、種々の事情と、遠方である関係もあり、事情を話して大きなお骨壺だけ先に兵庫にある納骨堂に納めさせてもらった。分骨用の小さなお骨は連れて帰り、地元で四十九日を行うことにした。
祖父のお骨のとなりに祖母のお骨を置いた時、お経をあげてくれた其処の納骨堂の僧侶が教えてくれた。
「お骨壺には、骨を入れておくもの、という道具的な意味だけでなく、仏様の子宮を骨壺に見立てて、その中に亡き人を入れて置く、という考え方があります。荼毘に付された骨を骨壺に入れて、蓋をし、お墓や納骨堂に入れることは、仏様のお腹の中に子供の姿で帰ってゆく、という事です。そうして、仏様のもとで教えを請いながら、仏様の子供となり、安らかに過ごされ、皆様を見守っているのです。仏様に手を合わせるということ、お骨を納めるということは、形式的な振る舞いではなく、こういう意味があることなんだな、と思って手を合わせたりすると、また違った思いで、亡き人を偲ぶことができるかもしれません。」
祖母は、これから黄泉の旅に出て、あれほど会いたかったであろう祖父と13年振りに再会するのだろう。
ふたりは子供の姿になって、先祖たちとも再会して、あらゆる苦しみからも悲しみからも解放されて、にこにこと笑っている。
そう考えたら、わたしが囚われていた重苦しくて悲しい贖罪の思いは、ようやく晴れてゆく気がした。宗教の考えなど、あれほど嫌っておきながらも、救われて欲しいと願う時に人を納得させるだけの力があるから、わたしも多少は受け入れざるを得ない。
釋 常和 (しゃく じょうわ)、祖母の戒名だ。
常に人の和(輪)が好きで、話好きで、穏やかだった祖母にぴったりだと思った。
祖母の旅路に幸多からんことを、そして祖父に早く再会出来ますように。わたしは、おばあちゃんに似て良かったのだと、残りの人生を胸を張って生きていくので、どうか見守っていてください。そして、再会した時には、ちゃんとあ��がとう、と、大好きやで、という事と、ごめんなさいを言わせてください。この言葉たちを、その時が来るまで忘れずに大切にして、生きていきます。
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運動習慣とアルツハイマー型認知症
こんにちは。デイケアきぼうの木です。十勝の寒さもピークを迎えつつあり、氷点下15度位は日常となってきています。北海道は冬季に路面の凍結があるためあまり散歩などで歩かず、おそらく本州などと比較して通年の運動量は低くなる傾向があるように思います。
そんな中、運動習慣と認知症との関係を研究したデータを見つけましたので、記載しております。簡単に申し上げますと、運動しない人は認知症になりやすいという結果になっています。運動(特に歩いたり自転車などの有酸素運動)は脳血流を増加させるため、認知機能を低下させない可能性がとても高いです。冬季は運動ができない方もデイケアでは安全に歩行や自転車、マシンによる筋力トレーニングが実施できます。お気軽にお問い合わせください。
tel:0155-49-1212 デイケアきぼうの木
出典: The Osaka Health Survey: Diabet Med 17, 53-58, 2000
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