meisousheep
おひつじ
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meisousheep · 8 months ago
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たまたま思うところがあってすげー久しぶりに読み返して、ほんで、べしょべしょになって泣いた
偲、常和 (じょうわを しのぶ)
※この文章は、自分自身の整理を付けるために行き帰りの新幹線や、移動中の車中などで書き殴ったものなので、そこまで推敲はしておらず読みにくいことこの上ないです。
また、かなり個人的かつ内面の���なので、明るくもなく…
長年、澱(おり)のように積み重なっていた自分の中にあったことを吐き出してすっきりとさせるために書いた、あくまでも自分用備忘録であることをあらかじめ記しておきます。
****************
2018年9月11日の朝、祖母が亡くなった。
父方の祖母で、すなわち母からすれば姑で、娘の目から見れば、(仲が悪かったわけではないものの)なにかと方針の異なる祖母と母はずっと折り合いが悪かった。
母は祖母の振る舞いが気に入らなければ、悪口を絶えず言っていたし、それを聞かされて育ったので、祖母のことを好きになってはいけないんじゃないか、と思ったりもしていた。
幼い頃、人よりも気がつかず、おめでたくて卑屈、怠け者と呼ばれていたわたしは、よく母から叱られていた。わたしに対して気に入らないことがあれば、あんたは見た目も性格もおばあちゃんにそっくりだ、そういうところが本当に似ている、と言うものだから、自分が祖母と似ていることが、誇らしく思えなくなったり、自分を卑下することばかりに繋がって、祖母のことをどう思えばいいのか全くわからないまま複雑な幼少期を過ごした。
祖母みたいになっちゃだめだ、と強迫観念的に植えつけられながら、祖母みたいになってゆく気がする自分が見え隠れして、それっていけないことなのか?と、時々どうしようもない気持ちに襲われるようになった。母の言葉で、重苦しい鎖に捕らわれていく感覚が、いつもそこにはあった。
祖母は私や妹を可愛がってくれた。
遊びに行くと、そんなに広くはない長屋の一間しかない部屋で、精一杯のもてなしをしてくれた。祖父も一緒だった。祖母も、祖父も、控えめで、田舎の人って感じで、とりたてて洗練されてるわけでも、博識なわけでも、お金があるわけでも無かったが、父がそう、育っていったように、優しく穏やかな人達だったことは覚えている。見栄を張ったり、人にものをあげたりするのが好きで、お金の使い方的には間違ってるかもしれないなぁ、と思って見てはいたが、借金まみれになるわけでもなかったし、今思えば干渉するようなことでもない。
何より、決して、人の悪口を言ったり、相手をコテンパンに追い詰めるまで口汚く罵るような人達ではなかった。ただひたすらにこにこと、優しくいるのだった。
祖父も平均寿命あたりまで長生きはしたが、晩年心臓を患って入院がちになった。自力で中々起き上がれなくなってからは、祖母が介���をするには持て余してしまい、結局自宅療養はできずにずっと入院したまま、世を去った。
祖父は亡くなる直前、自宅に帰りたがったが、祖母はそれを受け入れられず、拒否していた。それを、母は冷たいとなじった。
しかし、私たちは祖父母のいる大阪からは離れた土地に暮らしていて、祖父のことも祖母のことも、間近で力を貸せていたわけではない。
祖母には、祖母の苦悩があったのかもしれない。元々、メンタルがそこまで強くはない人だろうな、とは察していた。
祖母は、結婚後パートはしつつも、ガチの社会生活は送っていないし、1人息子の父を育て、炊事洗濯、家事全般が趣味だったと聞く。ザ・専業主婦人だったのだろう。社会の荒波第一線で、単身赴任だった父のことを気にかけながら、仕事をしつつ、二人の娘の子育て、とゴリゴリに奮闘してる母とは感覚が違うのも自然なことで、両者の置かれている前提が違うのだから互いの感性が理解し合える訳もないのだが、そのことについて、幼いわたしが気づくには少々難題だったな、と振り返る。
祖母は、祖父と、父に囲まれた、小さな生活の範囲で、幸せで満足だったのだろうと思うし、そのささやかな均衡の中でだけは心身共に健康であれたのかも知れない。
だからなのか、13年前、祖父が亡くなった時、先のことを考えられない性質とメンタルの弱さが輪をかけて、寂しさに囚われてしまい、絶えきれず貯水池に飛び込み入水自殺を図った。
周囲の気を引きたいだけだ、狂言だと母は言ったが、わたしは祖母の気持ちを慮るとどうしようもない遣る瀬無さと悲しさに襲われたのを、よく覚えている(わたしだって、家人を失ったら後を追いかねないと常々思っているからだ)。
入水自殺を図ったものの、うまく溺れきれずに水中に浸かってる状態で保護された祖母はその後、おそらく統合失調症や躁鬱、その類がつけられ、精神病院の隔離棟に入院し、そのまま、数年そこで小康状態を保っていた。
そこには幾度か見舞いに行ったが、鉄格子の扉を2つ越え、スタッフの詰所を抜け、もう一度特殊ガラスの扉の向こう側に行き、ようやく病棟内に入れたので、よく覚えている。
中は見かけ上普通の病院と然程変わらなかったが、病室は同室の患者たちの干渉を受けるので(外からの見舞客が珍しいのかして絡まれるのだ)、白い壁面に全て囲まれ、扉に小窓がついた小さな面会室に通されると、そこで車椅子に乗せられた祖母がやってくるのだった。
小窓はたい��い、他の患者たちがじいっと覗き込んで来たり、大声で扉を叩いて来たりしたので、最初はビビったが、だんだん慣れていった。
祖母はこの時点で自分含めて他人の判断があまり明確にはつかなかったので、簡単な会話程度しかできなかったが、それでも家族の写真を見せながら好きなお菓子を一緒に食べるなどすると、記憶の断片を思い出してくれたのか、誰かわからぬが親切な人が来てくれたなという愛想笑いなのか、なんとも判断もつかないような様子で、それでも嬉しそうに笑ってくれた。
ある時、面会室から出て、祖母の病室までついていったことがある。祖母のスペースには、衣類を入れているロッカーがあり、その壁面に朝顔の塗り絵が貼られていた。デイケアのリハビリで塗ったものだと言う。画一的な赤や青ではなく、全体的に黄色味がかったような、枯れ色エフェクトをかけたような、不思議な、それでいて、絵とは無縁の世界にいるような人とは思えないような、寂れた雰囲気の中にぬくもりが見えるような色使いに、えもいわれぬ思いにかられたことを鮮明に覚えている。
それから10年程が経過し、患っていた心の病と共に、緩やかに認知症等が進んでゆき、精神的なケアよりも介護のケアが必要となり、特別養護老人ホームに入居した。入居してほどなく、肺炎が治りにくくなり、市内の改築されたばかりの医療センターにここ3年ほどは幾度となく入退院を繰り返すようになった。
今年の8月のお盆休みは、祖父の13回忌だった。法事を終えて、見舞いに行くと、改装されたてで設備の整った、スタッフも粒の揃っている様子と思われる環境で、弱々しくかろうじて息をしている状態で祖母はそこに居た。意識はあったりなかったりの朦朧とした状態で、呼吸すら苦しいのかして昼夜問わず、呻き声や喚き声が大きいため、個室に入れられていた。
こもった湿度が気になって換気をしようと窓を開けてふとベランダに目線を落とすと、蝉が力なく仰向けになっていた。
これまでも幾度となく入退院を繰り返していたが、この夏が最期なのかもしれないという予感がその時にあった。もちろん、そんなことは誰にも言えない。
わたしは、元々生まれ持ったメンタルはそこまで強い方ではない。何かで自分の思い描く予定通りでない流れになり、そして予測がつかない事態に追い込まれ続けた途端、思考停止が起こり、判断力が極端に落ちる。臨機応変さが損なわれ、自分の精神状態によっては「咄嗟の判断」が普通の人以上にヘタクソな自覚がある。
本能的にそれを嗅ぎ取っているからか、仕事や私生活において、普段から思いつく範囲で想定対応策を考え続ける癖がある。しかし、それでも本当に目の前で突然のことに出くわしたり、自分自身の許容範囲を超えてゆくと、あっさりと思考停止になってしまう。昔からこうだった。どんなに努力しても、程度の差こそあれ。
キャパシティを超えると、思考を放棄し、誰かのせいにし、酸欠の池の鯉のようにぱくぱくとしきりに口を動かし、声にも言葉にもならない妄想の混ざったうわごとを唱える祖母。祖父に精神的に頼りっきりで、自力では何もしようとしなかった、出来なかった祖母。
人がいると水を得た魚のようにはしゃぎ回るのに、人がいないと塞ぎ込んで、落ち込んでしまい、祖父亡きあと程なくして心を病んでしまった祖母。祖父を亡くした時、祖母のキャパは超えてしまったのだろう。そこが、己とよく似ている気がして、重なるのだ。
母からの言葉の鎖に囚われた幼少期とは別なる観点として、自分が大人になってゆく過程で祖母と接しながら見つけたこととしては、自ら責任を持って背負うような業がなく、戦火を免れつつびっくりするほど運がよく、人懐こく、世話焼きで、初対面の人とでもずっと世間話ができるほどの話し好きで、そして、寂しがりでひとりきりでは生きられないタイプの人なのだろうということだった。しかし、それははたから見た感覚でしかなく、祖母の心のうちは、やっぱり祖母にしかわからない。
母の言葉の呪縛は幼少期の間のことであり、大人になってからも言われ続けた訳ではないのでとっくに解き放たれても良いようなものだが、それでも己の無力さや愚かさを恥じるたびに、何故か脳裏に浮かぶのは祖母のことだった。要するに、己で己の心を縛り付けて己の行く末を勝手に恐れていた(だから、今となっては母を責めるつもりもない)。わたしも、こうなるのだろうか。悪いモデルケースとして祖母を思い描くたび、身内なのに、家族なのに、あまりに失礼で、心の中でその度に申し訳なさと自己嫌悪に苦しく悲しくなって、「おばあちゃん、ごめん、ごめんね」と謝っていたことは、誰にも話せたことはない。
祖父が亡くなってから13年、止まり続けた時の中で生きていた祖母は、食べることが何より好きだったのに、満足に好きなものを食べることも叶わず点滴だけを繋がれて、最期の1ヶ月間を過ごした。父も母も、幾度となく祖母を見舞い、転院や治療のたびにいろんな手続きをし、手を尽くしていた。わたしも妹も、行ける時は大阪に足を運んだ。
亡くなる3日前、わたしは再び祖母のいる病室にいた。
「典型的な老衰ですから、ゆるやかに衰弱していきますが、苦しんではいませんよ」と医師に言われていたものの、祖母の弱り切った姿を見守り続けるのは正直辛かった。耳は遠くなっていなかったので、会話はおそらく聴こえているのだろう、話しかけると喚き声を止めてうっすら閉じた瞼の下で瞳が必死にこちらをむこうと動いているのがわかった。風呂にもあまり入れていないのと、身体のあちこちから、己の分泌するものや老廃物を代謝しきれないのだろう、アセトンやアンモニアに近い刺激臭がする。
祖父が亡くなった時は、入院はしていたものの最期は急だったので、俗に言う、死臭に近い匂いを知ったのは初めてだった。
気管支が反応して咳が止まらなくなったが、吸気量を2L/hrに落とされてしまったほぼ意味をなさない酸素マスクが口元から外れそうな勢いで何かを伝えようと呻きながら、うあうあと口を動かし続ける祖母を見ていると、そんなことはどうでもよくなった。
「おばあちゃん また来たで。わたしやで。わかる?」
語りかけると、それまで苦悶の表情でイヤイヤ、と首を振るように動いていた祖母が、表情を和らげ、うん、うんと頷いているように見えた。
「聴こえてる?」
…うん、うん。ありがとなぁ ありがとなぁ なんも 言うことあらへんわ。
「痛(いた)ない?しんどない…?…しんどいよなぁ…おばあちゃん。」
…ありがとなぁ ありがとう もうなんも言うことあらへん。ほんまに、うれしわぁ、うれしわぁ
「そんなに…一生懸命口動かしたら…疲れるやろ、ええて 聴こえてる わかってるって…」
それでも、祖母は懸命に何かを喋り続けていた。
ありがとなぁ、ほんまに ほんまにおおきになぁ。おおきにやでぇ。うれしわぁ、うれしわぁ。
声には聞こえないが、口の動きや顔の動かし方で、テイよく捉えれば、そう言ってくれているように聞こえた。それらは、嬉しい時、お礼を言いたいときの、定型文的な祖母の昔からの口癖だった。何にありがとうなのか、意味もなくとりあえず言っとけ的な安直さを感じていた捻くれ学生当時、語彙力なさすぎか、と思うこともあったが、いまわのきわで振り絞ることばが「ありがとう」という謝意であることが、たとえ口癖で妄言だったとしても、わたしはこれまでの祖母へ抱いていた複雑な思いと見比べてみて、己を恥じるしかなかった。
おばあちゃんごめんなあ、わたしはおばあちゃんのこと、もっともっと好きになりたかったんよ。好きやのに、好きやでってちゃんとよー言わんかった。勝手に、否定的な考え方でおばあちゃんのことを思ったりして、ほんまにごめん。おばあちゃんは会いに行けば手放しで喜んで、可愛がってくれたのに、ほんまにごめん。
骨と皮だけになってしまった頬に触れて、ひたすら謝り続けることしかできなかった。
それから3日後、息を引き取った後の祖母は、最期に会った時の苦しそうな表情から一転し、安らかに微笑んでいるかのような顔になっていたので、悲しさと共に心底ホッとした。
家族とごく僅かな親戚だけでこぢんまりとした葬儀をし、確執あった生臭���主と話し合いをし(これ��ついては言いたいことあれど、今はしない)、納骨の準備だのを両親が進めていくのを手伝いつつ、ただひたすら 祖父と祖母のいたあの長屋に遊びに行った幼少期の時のことばかり思い出していた。1つ屋根の下で、遊んでもらい、夏休みの宿題をし、ご飯を食べさせてもらい、布団を敷き詰めて川の字で並び、昔話をしながら寝かしつけてくれた。
幼い妹と一緒に手を引き、遊園地に連れて行ってくれたこともあった。
どれも楽しい思い出だった。
祖父母に暖かく迎え入れてもらい、その愛情を感じることができたこと、誰もが元気で笑顔だった時のこと、それも20年以上前の事を、なぜか唐突に思い出しているうちに、お経もお焼香も気がつけば済んでいた。
棺を閉じる前のお別れの時の末期の水(まつごのみず)のため、樒(しきみ)の葉っぱを手渡されて、少ない身内が、一言ずつお別れの言葉を告げながら、祖母の唇を水で濡らした樒の葉で潤してゆく。
わたしがかろうじて手繰り寄せられた言葉は、「ごめんなさい」と「可愛がってくれて、ほんとうにありがとう」だった。
安らかな死に顔の祖母が、口癖の「ほんま、おおきになぁ」と言ってくれた気がした。
荼毘に付された後の祖母のお骨を集めて、骨壺に入れ、元々小柄だった祖母は、本当に小さな姿になってしまった。
本来は四十九日まで納骨しないが、種々の事情と、遠方である関係もあり、事情を話して大きなお骨壺だけ先に兵庫にある納骨堂に納めさせてもらった。分骨用の小さなお骨は連れて帰り、地元で四十九日を行うことにした。
祖父のお骨のとなりに祖母のお骨を置いた時、お経をあげてくれた其処の納骨堂の僧侶が教えてくれた。
「お骨壺には、骨を入れておくもの、という道具的な意味だけでなく、仏様の子宮を骨壺に見立てて、その中に亡き人を入れて置く、という考え方があります。荼毘に付された骨を骨壺に入れて、蓋をし、お墓や納骨堂に入れることは、仏様のお腹の中に子供の姿で帰ってゆく、という事です。そうして、仏様のもとで教えを請いながら、仏様の子供となり、安らかに過ごされ、皆様を見守っているのです。仏様に手を合わせるということ、お骨を納めるということは、形式的な振る舞いではなく、こういう意味があることなんだな、と思って手を合わせたりすると、また違った思いで、亡き人を偲ぶことができるかもしれません。」
祖母は、これから黄泉の旅に出て、あれほど会いたかったであろう祖父と13年振りに再会するのだろう。
ふたりは子供の姿になって、先祖たちとも再会して、あらゆる苦しみからも悲しみからも解放されて、にこにこと笑っている。
そう考えたら、わたしが囚われていた重苦しくて悲しい贖罪の思いは、���うやく晴れてゆく気がした。宗教の考えなど、あれほど嫌っておきながらも、救われて欲しいと願う時に人を納得させるだけの力があるから、わたしも多少は受け入れざるを得ない。
釋 常和 (しゃく じょうわ)、祖母の戒名だ。
常に人の和(輪)が好きで、話好きで、穏やかだった祖母にぴったりだと思った。
祖母の旅路に幸多からんことを、そして祖父に早く再会出来ますように。わたしは、おばあちゃんに似て良かったのだと、残りの人生を胸を張って生きていくので、どうか見守っていてください。そして、再会した時には、ちゃんとありがとう、と、大好きやで、という事と、ごめんなさいを言わせてください。この言葉たちを、その時が来るまで忘れずに大切にして、生きていきます。
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meisousheep · 6 years ago
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偲、常和 (じょうわを しのぶ)
※この文章は、自分自身の整理を付けるために行き帰りの新幹線や、移動中の車中などで書き殴ったものなので、そこまで推敲はしておらず読みにくいことこの上ないです。
また、か��り個人的かつ内面の話なので、明るくもなく…
長年、澱(おり)のように積み重なっていた自分の中にあったことを吐き出してすっきりとさせるために書いた、あくまでも自分用備忘録であることをあらかじめ記しておきます。
****************
2018年9月11日の朝、祖母が亡くなった。
父方の祖母で、すなわち母からすれば姑で、娘の目から見れば、(仲が悪かったわけではないものの)なにかと方針の異なる祖母と母はずっと折り合いが悪かった。
母は祖母の振る舞いが気に入らなければ、悪口を絶えず言っていたし、それを聞かされて育ったので、祖母のことを好きになってはいけないんじゃないか、と思ったりもしていた。
幼い頃、人よりも気がつかず、おめでたくて卑屈、怠け者と呼ばれていたわたしは、よく母から叱られていた。わたしに対して気に入らないことがあれば、あんたは見た目も性格もおばあちゃんにそっくりだ、そういうところが本当に似ている、と言うものだから、自分が祖母と似ていることが、誇らしく思えなくなったり、自分を卑下することばかりに繋がって、祖母のことをどう思えばいいのか全くわからないまま複雑な幼少期を過ごした。
祖母みたいになっちゃだめだ、と強迫観念的に植えつけられながら、祖母みたいになってゆく気がする自分が見え隠れして、それっていけないことなのか?と、時々どうしようもない気持ちに襲われるようになった。母の言葉で、重苦しい鎖に捕らわれていく感覚が、いつもそこにはあった。
祖母は私や妹を可愛がってくれた。
遊びに行くと、そんなに広くはない長屋の一間しかない部屋で、精一杯のもてなしをしてくれた。祖父も一緒だった。祖母も、祖父も、控えめで、田舎の人って感じで、とりたてて洗練されてるわけでも、博識なわけでも、お金があるわけでも無かったが、父がそう、育っていったように、優しく穏やかな人達だったことは覚えている。見栄を張ったり、人にものをあげたりするのが好きで、お金の使い方的には間違ってるかもしれないなぁ、と思って見てはいたが、借金まみれになるわけでもなかったし、今思えば干渉するようなことでもない。
何より、決して、人の悪口を言ったり、相手をコテンパンに追い詰めるまで口汚く罵るような人達ではなかった。ただひたすらにこにこと、優しくいるのだった。
祖父も平均寿命あたりまで長生きはしたが、晩年心臓を患って入院がちになった。自力で中々起き上がれなくなってからは、祖母が介護をするには持て余してしまい、結局自宅療養はできずにずっと入院したまま、世を去った。
祖父は亡くなる直前、自宅に帰りたがったが、祖母はそれを受け入れられず、拒否していた。それを、母は冷たいとなじった。
しかし、私たちは祖父母のいる大阪からは離れた土地に暮らしていて、祖父のことも祖母のことも、間近で力を貸せていたわけではない。
祖母には、祖母の苦悩があったのかもしれない。元々、メンタルがそこまで強くはない人だろうな、とは察していた。
祖母は、結婚後パートはしつつも、ガチの社会生活は送っていないし、1人息子の父を育て、炊事洗濯、家事全般が趣味だったと聞く。ザ・専業主婦人だったのだろう。社会の荒波第一線で、単身赴任だった父のことを気にかけながら、仕事をしつつ、二人の娘の子育て、とゴリゴリに奮闘してる母とは感覚が違うのも自然なことで、両者の置かれている前提が違うのだから互いの感性が理解し合える訳もないのだが、そのことについて、幼いわたしが気づくには少々難題だったな、と振り返る。
祖母は、祖父と、父に囲まれた、小さな生活の範囲で、幸せで満足だったのだろうと思うし、そのささやかな均衡の中でだけは心身共に健康であれたのかも知れない。
だからなのか、13年前、祖父が亡くなった時、先のことを考えられない性質とメンタルの弱さが輪をかけて、寂しさに囚われてしまい、絶えきれず貯水池に飛び込み入水自殺を図った。
周囲の気を引きたいだけだ、狂言だと母は言ったが、わたしは祖母の気持ちを慮るとどうしようもない遣る瀬無さと悲しさに襲われたのを、よく覚えている(わたしだって、家人を失ったら後を追いかねないと常々思っているからだ)。
入水自殺を図ったものの、うまく溺れきれずに水中に浸かってる状態で保護された祖母はその後、おそらく統合失調症や躁鬱、その類がつけられ、精神病院の隔離棟に入院し、そのまま、数年そこで小康状態を保っていた。
そこには幾度か見舞いに行ったが、鉄格子の扉を2つ越え、スタッフの詰所を抜け、もう一度特殊ガラスの扉の向こう側に行き、ようやく病棟内に入れたので、よく覚えている。
中は見かけ上普通の病院と然程変わらなかったが、病室は同室の患者たちの干渉を受けるので(外からの見舞客が珍しいのかして絡まれるのだ)、白い壁面に全て囲まれ、扉に小窓がついた小さな面会室に通されると、そこで車椅子に乗せられた祖母がやってくるのだった。
小窓はたいてい、他の患者たちがじいっと覗き込んで来たり、大声で扉を叩いて来たりしたので、最初はビビったが、だんだん慣れていった。
祖母はこの時点で自分含めて他人の判断があまり明確にはつかなかったので、簡単な会話程度しかできなかったが、それでも家族の写真を見せながら好きなお菓子を一緒に食べるなどすると、記憶の断片を思い出してくれたのか、誰かわからぬが親切な人が来てくれたなという愛想笑いなのか、なんとも判断もつかないような様子で、それでも嬉しそうに笑ってくれた。
ある時、面会室から出て、祖母の病室までついていったことがある。祖母のスペースには、衣類を入れているロッカーがあり、その壁面に朝顔の塗り絵が貼られていた。デイケアのリハビリで塗ったものだと言う。画一的な赤や青ではなく、全体的に黄色味がかったような、枯れ色エフェクトをかけたような、不思議な、それでいて、絵とは無縁の世界にいるような人とは思えないような、寂れた雰囲気の中にぬくもりが見えるような色使いに、えもいわれぬ思いにかられたことを鮮明に覚えている。
それから10年程が経過し、患っていた心の病と共に、緩やかに認知症等が進んでゆき、精神的なケアよりも介護のケアが必要となり、特別養護老人ホームに入居した。入居してほどなく、肺炎が治りにくくなり、市内の改築されたばかりの医療センターにここ3年ほどは幾度となく入退院を繰り返すようになった。
今年の8月のお盆休みは、祖父の13回忌だった。法事を終えて、見舞いに行くと、改装されたてで設備の整った、スタッフも粒の揃っている様子と思われる環境で、弱々しくかろうじて息をしている状態で祖母はそこに居た。意識はあったりなかったりの朦朧とした状態で、呼吸すら苦しいのかして昼夜問わず、呻き声や喚き声が大きいため、個室に入れられていた。
こもった湿度が気になって換気をしようと窓を開けてふとベランダに目線を落とすと、蝉が力なく仰向けになっていた。
これまでも幾度となく入退院を繰り返していたが、この夏が最期なのかもしれないという予感がその時にあった。もちろん、そんなことは誰にも言えない。
わたしは、元々生まれ持ったメンタルはそこまで強い方ではない。何かで自分の思い描く予定通りでない流れになり、そして予測がつかない事態に追い込まれ続けた途端、思考停止が起こり、判断力が極端に落ちる。臨機応変さが損なわれ、自分の精神状態によっては「咄嗟の判断」が普通の人以上にヘタクソな自覚がある。
本能的にそれを嗅ぎ取っているからか、仕事や私生活において、普段から思いつく範囲で想定対応策を考え続ける癖がある。しかし、それでも本当に目の前で突然のことに出くわしたり、自分自身の許容範囲を超えてゆくと、あっさりと思考停止になってしまう。昔からこうだった。どんなに努力しても、程度の差こそあれ。
キャパシティを超えると、思考を放棄し、誰かのせいにし、酸欠の池の鯉のようにぱくぱくとしきりに口を動かし、声にも言葉にもならない妄想の混ざったうわごとを唱える祖母。祖父に精神的に頼りっきりで、自力では何もしようとしなかった、出来なかった祖母。
人がいると水を得た魚のようにはしゃぎ回るのに、人がいないと塞ぎ込んで、落ち込んでしまい、祖父亡きあと程なくして心を病んでしまった祖母。祖父を亡くした時、祖母のキャパは超えてしまったのだろう。そこが、己とよく似ている気がして、重なるのだ。
母からの言葉の鎖に囚われた幼少期とは別なる観点として、自分が大人になってゆく過程で祖母と接しながら見つけたこととしては、自ら責任を持って背負うような業がなく、戦火を免れつつびっくりするほど運がよく、人懐こく、世話焼きで、初対面の人とでもずっと世間話ができるほどの話し好きで、そして、寂しがりでひとりきりでは生きられないタイプの人なのだろうということだった。しかし、それははたから見た感覚でしかなく、祖母の心のうちは、やっぱり祖母にしかわからない。
母の言葉の呪縛は幼少期の間のことであり、大人になってからも言われ続けた訳ではないのでとっくに解き放たれても良いようなものだが、それでも己の無力さや愚かさを恥じるたびに、何故か脳裏に浮かぶのは祖母のことだった。要するに、己で己の心を縛り付けて己の行く末を勝手に恐れていた(だから、今となっては母を責めるつもりもない)。わたしも、こうなるのだろうか。悪いモデルケースとして祖母を思い描くたび、身内なのに、家族なのに、あまりに失礼で、心の中でその度に申し訳なさと自己嫌悪に苦しく悲しくなって、「おばあちゃん、ごめん、ごめんね」と謝っていたことは、誰にも話せたことはない。
祖父が亡くなってから13年、止まり続けた時の中で生きていた祖母は、食べることが何より好きだったのに、満足に好きなものを食べることも叶わず点滴だけを繋がれて、最期の1ヶ月間を過ごした。父も母も、幾度となく祖母を見舞い、転院や治療のたびにいろんな手続きをし、手を尽くしていた。わたしも妹も、行ける時は大阪に足を運んだ。
亡くなる3日前、わたしは再び祖母のいる病室にいた。
「典型的な老衰ですから、ゆるやかに衰弱していきますが、苦しんではいませんよ」と医師に言われていたものの、祖母の弱り切った姿を見守り続けるのは正直辛かった。耳は遠くなっていなかったので、会話はおそらく聴こえているのだろう、話しかけると喚き声を止めてうっすら閉じた瞼の下で瞳が必死にこちらをむこうと動いているのがわかった。風呂にもあまり入れていないのと、身体のあちこちから、己の分泌するものや老廃物を代謝しきれないのだろう、アセトンやアンモニアに近い刺激臭がする。
祖父が亡くなった時は、入院はしていたものの最期は急だったので、俗に言う、死臭に近い匂いを知ったのは初めてだった。
気管支が反応して咳が止まらなくなったが、吸気量を2L/hrに落とされてしまったほぼ意味をなさない酸素マスクが口元から外れそうな勢いで何かを伝えようと呻きながら、うあうあと口を動かし続ける祖母を見ていると、そんなことはどうでもよくなった。
「おばあちゃん また来たで。わたしやで。わかる?」
語りかけると、それまで苦悶の表情でイヤイヤ、と首を振るように動いていた祖母が、表情を和らげ、うん、うんと頷いているように見えた。
「聴こえてる?」
…うん、うん。ありがとなぁ ありがとなぁ なんも 言うことあらへんわ。
「痛(いた)ない?しんどない…?…しんどいよなぁ…おばあちゃん。」
…ありがとなぁ ありがとう もうなんも言うことあらへん。ほんまに、うれしわぁ、うれしわぁ
「そんなに…一生懸命口動かしたら…疲れるやろ、ええて 聴こえてる わかってるって…」
それでも、祖母は懸命に何かを喋り続けていた。
ありがとなぁ、ほんまに ほんまにおおきになぁ。おおきにやでぇ。うれしわぁ、うれしわぁ。
声には聞こえないが、口の動きや顔の動かし方で、テイよく捉えれば、そう言ってくれているように聞こえた。それらは、嬉しい時、お礼を言いたいときの、定型文的な祖母の昔からの口癖だった。何にありがとうなのか、意味もなくとりあえず言っとけ的な安直さを感じていた捻くれ学生当時、語彙力なさすぎか、と思うこともあったが、いまわのきわで振り絞ることばが「ありがとう」という謝意であることが、たとえ口癖で妄言だったとしても、わたしはこれまでの祖母へ抱いていた複雑な思いと見比べてみて、己を恥じるしかなかった。
おばあちゃんごめんなあ、わたしはおばあちゃんのこと、もっともっと好きになりたかったんよ。好きやのに、好きやでってちゃんとよー言わんかった。勝手に、否定的な考え方でおばあちゃんのことを思ったりして、ほんまにごめん。おばあちゃんは会いに行けば手放しで喜んで、可愛がってくれたのに、ほんまにごめん。
骨と皮だけになってしまった頬に触れて、ひたすら謝り続けることしかできなかった。
それから3日後、息を引き取った後の祖母は、最期に会った時の苦しそうな表情から一転し、安らかに微笑んでいるかのような顔になっていたので、悲しさと共に心底ホッとした。
家族とごく僅かな親戚だけでこぢんまりとした葬儀をし、確執あった生臭坊主と話し合いをし(これについては言いたいことあれど、今はしない)、納骨の準備だのを両親が進めていくのを手伝いつつ、ただひたすら 祖父と祖母のいたあの長屋に遊びに行った幼少期の時のことばかり思い出していた。1つ屋根の下で、遊んでもらい、夏休みの宿題をし、ご飯を食べさせてもらい、布団を敷き詰めて川の字で並び、昔話をしながら寝かしつけてくれた。
幼い妹と一緒に手を引き、遊園地に連れて行ってくれたこともあった。
どれも楽しい思い出だった。
祖父母に暖かく迎え入れてもらい、その愛情を感じることができたこと、誰もが元気で笑顔だった時のこと、それも20年以上前の事を、なぜか唐突に思い出しているうちに、お経もお焼香も気がつけば済んでいた。
棺を閉じる前のお別れの時の末期の水(まつごのみず)のため、樒(しきみ)の葉っぱを手渡されて、少ない身内が、一言ずつお別れの言葉を告げながら、祖母の唇を水で濡らした樒の葉で潤してゆく。
わたしがかろうじて手繰り寄せられた言葉は、「ごめんなさい」と「可愛がってくれて、ほんとうにありがとう」だった。
安らかな死に顔の祖母が、口癖の「ほんま、おおきになぁ」と言ってくれた気がした。
荼毘に付された後の祖母のお骨を集めて、骨壺に入れ、元々小柄だった祖母は、本当に小さな姿になってしまった。
本来は四十九日まで納骨しないが、種々の事情と、遠方である関係もあり、事情を話して大きなお骨壺だけ先に兵庫にある納骨堂に納めさせてもらった。分骨用の小さなお骨は連れて帰り、地元で四十九日を行うことにした。
祖父のお骨のとなりに祖母のお骨を置いた時、お経をあげてくれた其処の納骨堂の僧侶が教えてくれた。
「お骨壺には、骨を入れておくもの、という道具的な意味だけでなく、仏様の子宮を骨壺に見立てて、その中に亡き人を入れて置く、という考え方があります。荼毘に付された骨を骨壺に入れて、蓋をし、お墓や納骨堂に入れることは、仏様のお腹の中に子供の姿で帰ってゆく、という事です。そうして、仏様のもとで教えを請いながら、仏様の子供となり、安らかに過ごされ、皆様を見守っているのです。仏様に手を合わせるということ、お骨を納めるということは、形式的な振る舞いではなく、こういう意味があることなんだな、と思って手を合わせたりすると、また違った思いで、亡き人を偲ぶことができるかもしれません。」
祖母は、これから黄泉の旅に出て、あれほど会いたかったであろう祖父と13年振りに再会するのだろう。
ふたりは子供の姿になって、先祖たちとも再会して、あらゆる苦しみからも悲しみからも解放されて、にこにこと笑っている。
そう考えたら、わたしが囚われていた重苦しくて悲しい贖罪の思いは、ようやく晴れてゆく気がした。宗教の考えなど、あれほど嫌っておきながらも、救われて欲しいと願う時に人を納得させるだけの力があるから、わたしも多少は受け入れざるを得ない。
釋 常和 (しゃく じょうわ)、祖母の戒名だ。
常に人の和(輪)が好きで、話好きで、穏やかだった祖母にぴったりだと思った。
祖母の旅路に幸多からんことを、そして祖父に早く再会出来ますように。わたしは、おばあちゃんに似て良かったのだと、残りの人生を胸を張って生きていくので、どうか見守っていてください。そして、再会した時には、ちゃんとありがとう、と、大好きやで、という事と、ごめんなさいを言わせてください。この言葉たちを、その時が来るまで忘れずに大切にして、生きていきます。
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meisousheep · 7 years ago
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ブログばかりじゃちょっとつまんないかなって思って入れとこ デーモンダンスイタリー
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meisousheep · 8 years ago
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おひつじイタリアへ行く.Ⅳ
ヴォン・ジョルノ、この日は終日フィレンツェ市街を自由散策する。 フンワリとだけ決めていた、中心部に位置するドゥオモ、セント・デル・フィオーレ(世界遺産)に向かう。自分の両親がこの地を訪れた5年前、当時はこのドゥオモの大きな丸型の屋根部分に早朝は無料で登れたという情報を頼りにして。 しかし、8時半頃にドゥオモに到着するも、まだ正門は空いていない。どこから登ればいいんだ?と2人で建物周囲をウロウロ。立て看板を見つける。(チケット販売所/並ぶ列の待機場所)ふむ…。 その看板を眺めて、「どうも無料じゃないみたいねえ、チケット購入だなんて書いてある」などと話をしていると、同じくヨーロッパ系の旅行客が。「チケット売り場どこ?」「わたしたちも来たばっかりでわからないんです」「あらそうなのね」と軽いやりとりをし、旅行客は去っていった(意外とこの聖堂に関しては入るための情報が希薄で、我々も出たとこ勝負で現地に行くしかなかった)。
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どうやらこのドーム部分(建築上、クーポラと呼ぶそうだ)に上がるにはチケットがいるらしい。おや。自分たちが持っている情報と早くも違う(笑)。そこで、この教会の後方にあるミュージアムショップで其れと思しき数か所に入れると言われている通しチケットを購入しようとしたら「今日は教会の上部分には登れない。チケットは3日間有効だから、その間の時間をリザーブしてくれ」と言われる。まじかよ。3日もフルでこの街には居ないぞ。っていうか並んでる人たち居たけど??(おそらくその人たちはリザーブ済みだったのだろう)…明日朝イチはウフィッツィ美術館に行き、そのまま昼前にはイタロという特急でベネツィアに行かなきゃだからイチかバチか…しかし、通した機械の最短リザーブ可能時間は無常に翌日の11:30を示す。ウッ。明日のその時間には駅にいなければならぬ。16€出したが無理か…ッ。昨日は日曜(安息日だもんね)で教会自体が休みだったし、訪れるチャンスは今日しかない。そして通し券が行ける、もう一か所の観覧スポットのミュージアムは12:30からなので、これは後だ。
どのみち教会のカテドラル部分(クーポラではなく聖堂内部)には無料で入れるので、教会オープンまで30分ほど教会脇の列に並ぶ。一番解せなかったのは、ここで「Excuse me,where is the chicket prace?」ってカタカナ英語交じりで質問してきた大学生くらいの日本人女子!!おい。思わず「…日本人ですよね?(笑)」「あっ(笑)」って話しかけましたよね。なぜ英語で話しかけた。(笑)おそらく、韓国系にでも見えたのでしょう。日本人でも韓国人との見分けってつかないもんねえ。
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内部は広く、見上げるとあのドーム部分の内側には荘厳なフレスコ画が。
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かなり大きく、しばらく見上げていてもちっとも見終わらない。フレスコ画のところどころにのぞき穴のようなものがあって、��て、あれは何だろうと思っていたが、帰国して家族に聞いてみたところ、上部に上るとあのドーム周りを取り囲む形で外壁とフレスコ画との中腔部分に階段が張り巡らされているらしい。所々明かり取りのため開けられていたというわけだ。くそう。もっと間近であのフレスコ画が観たかった。いつか再訪の際は、チャレンジしたい。
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さすが世界遺産だなあ。内部を見学して、ぐるっと一周。どこにもスキなんてありゃしない。スペインのサグラダファミリアに行った時も思ったけど、もう、なんか、物言わぬ生き物みたいなんだよな。建物にも思念がありそうと言うとマユツバだけど、まるで訪れた人を静かに見守ってきたかのような。建物自身にもそうだし、手がけてきた人たちの執念にも似た想いが流れ込んできて、コロッセオを訪れた時も思った、自然に対する畏怖のような念に近い。
ドゥオモと略されがちだがサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(花の聖母マリアの意を成す)はイタリアの世界遺産の一つ、フィレンツェ歴史地区内にあるカトリック教会だ。中央部分にあるドゥオモ(大聖堂)、サン・ジョバンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の3つで構成されている、まさしくフィレンツェのシンボルでもあり、1296年から140年以上もかけて建設された。当時この地を支えた産業の一つ、フィレンツェ羊毛組合により指名されたアルノルフォという建築家により設計されたが、彼ら建築家も死没し幾度となく建築は中断を余儀なくされた。ドゥオモと呼ぶとドームと混乱を招きがちだが(実際わたしは混乱した)、丸い卵型の屋根部分は先ほども触れたようにクーポラと呼ばれ、建築されたこの建物群の中で最後の難関とされており、14世紀の時点では完成は困難と言われていた。どうにかこうにか、1434年には一応の完成を見せた。当時木枠を組まずにこの規模のクーポラを建造したのはここが初めてであり、建築当時において世界最大であったという。(Wikipedia等より抜粋)
イタリアの至る所にレオナルド・ダ・ヴィンチの足跡をたどることもできるが、このクーポラ上部のブロンズ製の球部分のデザインにも関わっていたとかで、聖堂地下にあるミュージアムショップではレオナルドグッズも多く扱われていた。
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隣接するジョットの鐘楼。ここも登れるはずなのだが、この日の登れる定員は超えてしまったそうで…残念。周囲を観察するだけでもかなり見ごたえはある。そうして、時間になったので教会背後部分にあるこの教会にまつわる博物館に行ったら…どういうことだ、これは…!!
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ドナテロ作、「悔逡するマグダラのマリア」。娼婦とされたり複数男性との関係をもっていてそれが罪深いとされた、など諸説あるが、イエスに7つの悪霊を追い出してもらってからは改心をし、キリストが処刑の際も、復活の際もそばに居た、ということで有名である。(個人的には、相当近い位置にいたんじゃないかとか懇ろだったのではとか、ダヴィンチコード的な話を学生時代の時に創作として読んで衝撃を受けた、印象深い登場人物である。キリスト教の中ではわりと隠れキーパーソンのように描かれる気がする。わたし程度のにわかの印象ですが。)マグダラのマリアは晩年、自らの罪を恥じて信心深く禁欲的な生活を行うことで悟りを開き、その険しく厳しい絶食・不眠生活で砂漠を放浪した暁に見せたであろう表情には、鬼気迫った生活の向こうで見つけた祈りの境地においてどこかほっとした様子すら漂っており、ドナテロの木彫りの巧みな技と勢いの為せる技…っていうかこんなところで!ってひたすら度肝を抜かれた印象。個人的にはこれが観れてよかったです。きりがないくらい綴れてしまうけど、いろいろ考えさせられもし、生きていく先に見えるものが彼女のように穏やかで、美しくなくとも美しく見えるこの人間らしさの塊みたいな終幕なら、幸せだろうと思うのでした。
さて、フィレンツェに来たからにはどうしても行きたい場所がもう一箇所あった。それは…
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見苦しいものを出してすみません(試着の図。結局これは買わず)。
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そう。サルヴァトーレ・フェラガモの本店。
今さあ、信じらんないぐらい値上がりしてんのね。日本で事前に見てみると、上記のオーソドックスなデザインで日本価格なら9.5万��~なのだ。うわっ。
購入するならおそらくこの本店が一番安いというわけで来たのですが、数年前と比べると€も爆上がりしているし、昔は3~4万で購入できた(と聞いていた)ものも、6.5万円~(!)
試着してみた新色のグレー、相当可愛かったし、日本では入手困難or見かけても倍ぐらいするよ、と言われたのですが、初心者にいきなり色物は…とさんざ悩んだあげく二の足を踏み、日本でも購入できると知っていながらオーソドックスな黒エナメルカラーにした。それでも、日本で買うよりは安い。更に、免税も入るので、トータルでいけば4万円くらい安い。ボーナスよサヨウナラ。いいのだ。いい歳をした大人が、どこにでも通用するフォーマルな靴を1足くらい持っていなくてどうする。いい靴はいい場所に連れて行ってくれるという素敵な諺もあるじゃぁないの(※それはフランスの諺)。
この日は買い物をする日と決めていたので、家人も革製品の鞄を見ようと意気込んでいたものの、チェレリーニという目当ての店は15:00オープン(季節によってオープン時間が変動する)。というわけで、先にランチに向かうことにする。
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これはどこかの建物の中から撮影した、ポンテ=ヴェッキオ橋。橋の上は古くからの銀細工商が立ち並ぶので、景観もさることながら買い物客でも賑わう。とりあえず、フィレンツェに行くならTボーンステーキを食え!とあらゆる人から言われたので、家族が言っていた場所(この橋を渡り南側の路地を進んだ場所近辺にあるとかなんとか言われた)とガイドブックになんとなく近そう?な店にアタリを付けていった。
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(なんて読むのか忘れちゃった。)時間は14:30を回っていたがお店はお客さんでいっぱい。ステーキ以外にも料理は色々あったけど、400gだったかな。このステーキ単品で2人でシェアしてかなり満腹になった。ハーフサイズとか出せばいいものを、肉を小さくして提供すると味が落ちたり��くなるなどの理由があり、フィレンツェでTボーンステーキを注文すると大きいサイズで出��くる。ただ、しっかりした肉質でジューシーで、赤ワインと一緒にいただくと案外ペロッと食べれてしまったのだった。
食後、家人が「この近くに探している場所がある」と言い出すので、ついていく。ステーキを食べたお店から15分くらい、小さな土産物屋さんが立ち並ぶ街を散歩していると彼の言う目的地にたどり着いた。
フィレンツェの南側は大きな川が流れており、ポンテヴェッキオ橋以外にもいくつか大きな橋が市街地を結ぶため架けられている。ここはひとつ(かふたつ)南隣の橋の袂にあった、GELATERIAというジェラート屋さん。言わずと知れた、荒木先生おすすめのジェラート屋さん(!)らしい。
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こじんまりとした店内。しかし、お客さんは絶えず入ってきている。
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写真の取り忘れで掲載していないが、前日にもgromというジェラート屋さんに行った。フィレンツェはイタリアの中でもジェラート激戦区と聞く。どこも美味しいが、gromより個人的にはGELATERIAの方がクリーム系を得意としているのか、好みだった。(しかし、このあとVenchiという更に上を行くジェラート屋を見つけることになる)
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ちょっと雨がぱらつきつつも、ポンテヴェッキオ橋を見ながらもう一つの橋を渡りつつ市街地に戻る。
革製品の街ということで、革の鞄を探していた家人は、チェレリーニという店のオープンを待って再度訪問したが結局のところフルオーダーの店ということもあり敷居が高く、購入を見送った。さて、どうするか。
この地には移民系の人も多く店を連ねており、そこで購入すると30~50€とかで格安の革の鞄を購入することもできる(もちろん、それも一つの魅力だ)。しかし、せっかくフィレンツェに来たんだものご当地製品が欲しいよね!という話になる。
フェラガモの靴が入った紙袋を持っていたので持ち歩くのもいい加減疲れてきたし、一旦ホテルに戻り荷物を置きがてら作戦会議。
ホテルのWifiで検索していると(どういうわけかこの日はWifiの通信制限がかかってしまっていた)、Ottino(オッティ―ノ)という老舗ブランド(フィレンツェ王室御用達)と、Clamori(クラモーリ)、そのほか数件を候補としてざざっと挙げて再び街の中へ。結論からいくと、OttinoとClamoriでいずれも気に入るデザインのバッグに出会ってしまった家人は、双方のお店でバッグをそれぞれ購入する(!)ことに。家人は鞄をなかなか購入できないタチだと言っていたので、よほど気に入ったのでしょう。
Ottinoはフィレンツェが発祥の老舗店。イタリアでは購入しやすいが、日本では購入するには通販しかなく、それも高価になってしまう。本家フィレンツェで購入するとかなり種類も多くかつ安く、免税もかなり利いていた(フェラガモより免税率が高く見えた)。家人が仕事用の鞄を選んでいる間に、自分も思わず手触りのいいバッグを購入してしまった。デザインは洗練されていて、かつ、革の質感を生かしたものとなっており世代もファッションも選ばず好まれると思う(※私物のため写真は未掲載)。店員さんは、物腰の柔らかい素敵なマダムで、アタフタとお店に入って色々見せてもらった挙句、「閉店は何時ですか?もう一箇所行きたくて」と聞いたら「19:00までよ。行ってらっしゃい、待ってるわね。」と優しく見送ってくれた。結局舞い戻ってきて時間ぎりぎりまでお買い物した時も嫌な顔一つせず「エレガンスでとってもいいお買い物よ!」と面倒な免税手続きをしながら接客してくれた。(鞄を探すなら、ほんとにおすすめ。デイリーにも仕事にも使えそうなデザインだしオシャレ鞄も可愛かった。)
Clamoriは人懐こいお姉さんが店番をしていた(後でここの店主の奥さんが登場したが、もしかしたら娘さんなのかもしれない)。Ottinoとは異なりここ1店舗しかない小さなお店だが聞くと夫婦で鞄づくりをはじめて、オリジナル製品にこだわって製作を続けているのだそう。クラッチバックが相当に可愛かった。(我慢した・笑)女性向けでカラフル、他と被らない鞄ならここだろう。メンズのバッグも数点置いててあり、家人は深緑(!)のバッグに一目惚れし購入していた。
時刻は19:00を回り、何とか二人とも目当ての買い物を終えホッとする。お気に入りを見つけられてよかった。他にも数店ローカルブランドのお店はあったのだが、アタリを最初に見つけてしまったので、またの機会に訪れた時の楽しみに取っておこう。
ローカルブランドとしてその地で、あるいはその国の中でしっかりと根をはり、その地の人々に愛されている製品を購入できることはある意味で出会いであり、幸運である。Twitterにも書いたが、そしてこの後訪れるベネツィアでも同じような事を思ったが、2束3文でお土産として売られている、本当はMade in Italyではない既製品でも十分話のタネにはなると思う。しかし、これから数年後、数十年後もこの地を支える職人さんたちの収益になるようなお金の使い方ができてよかった、と作り手、誇りを持って売る売り手たちとカタコト��英語を通じてコミュニケーションをしながら、暖かい気持ちになったのだった。
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プラプラと街を歩き、バルで軽くビールを飲んで宿に戻って荷物を置く。フィレンツェ最後の夜は宿からほど近い場所にあった地中海料理のお店。前菜で出てきたトマトとモッツアレラチーズ、タケノコの炒め物はシンプルな味ながらチーズのまろやかさがたまらない。手長エビのパスタも魚介の濃厚な出汁がきいていて美味しかった。フィレンツェは本当はもっと探索できる場所がある。ピッティ宮殿や庭園、そして数多くの美術館があり、明日経つのがもったいないと思わせてくれる素晴らしい街だった。帰国して1か月たたないが、次訪問するのが早くも楽しみだ。
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meisousheep · 8 years ago
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ブログばっかり続くのも何なので小休止的な感じで絵を挟む
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meisousheep · 8 years ago
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おひつじイタリアに行く.Ⅲ
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朝食を食べていたらウミネコが来るなどする、そんな朝。抜け目なく客のパンやサラミを狙ってやがるぜ!
イタリア人はあまり朝食をがっつり食べるという文化は無いらしい。世代がある程度上になると、朝はエスプレッソに砂糖を大量に入れて、それでおしまいという人もいるそうだ。一般的には、クロワッサンとエスプレッソorカプチーノが主流で、サクッと済ませる。観光客相手のホテルではどこでも生ハム、チーズやサラダ、スクランブルエッグ等のビュッフェスタイルだったが、あまりバリエーションはない。ちなみに、イタリア人は保守的で、カプチーノは朝にしか飲まないとしている。観光客が昼や夕食後にカプチーノを頼むと、怪訝な顔をされるらしい。へえ。(※エスプレッソは食後もよく飲まれている)紅茶も食後に飲むには奇妙らしい。へえ。(2回目)
この日以降はいよいよ完全フリーでオプションも何もない、自分たちのプランに沿って行動する予定となっていた。午前中の時間を使ってローマ市内を観光し、午後からフィレンツェに移動する。今回一番緊張していたのは実はこのタイミングだった。ローマ市街はロマ(ジプシーのこと。不法入国や国籍を持たないため、スリ等で生計を立てるしかない。)や移民系も多く、スリや恐喝も多く聞くので、個人の旅行者かつ日本人はどうやったって目立つし、恰好のカモにされがちなのだ。
宿泊先のホテルに昼過ぎまでトランクを預かってもらうことにし、10時頃チェックアウト。Termina(テルミナ)駅からメトロのA線に乗る。メトロの構造はシンプルで、A線とB線の2種類しかなく、Termina駅はその2つの路線が交差する、いわばターミナル駅ということだ。当然多くの観光客も、地元の人たちも行き交い、この日は日曜という事もありA線沿いのバチカン市国では大きな祭典があり世界中から礼拝者たちが来るという日でもあった。地下鉄東西線じゃねえかってくらいどの車両も混んでいる。混んでいる場合は1本くらい地下鉄を見送ろうと家人と相談していた(満員電車が一番スられやすい)が、いつまでたっても混雑しているため手荷物をぐっと抱きかかえ覚悟を決めて乗り込む。案の定、観光客と胡散臭い集団に囲まれ物理的に身動きができない状況になる。この日はアクセサリーも外し、Tシャツジーンズだったが、それでもやはり話しかけられる。「あんた、財布落としたよ、あんたのじゃないの?」��元に目線だけ落とすと小銭が散らばった財布。気を取られてしゃがんだり会話を真剣に取りあったりしたらアウトだと本能的に思った。(親切心を装って話しかけてきて気を逸らさせて複数人で物を盗るというのが常套手段。悲しい話だが、疑心暗鬼になってしまう。)そもそもわたしはすべての貴重品を服の中に入れるか、バッグとヒモで連結しているので、そんなトンマはやらかさない。「わたしのじゃないです」英語で言っても英語がわからないのだろう、話しかけられ続ける。首を振り続けるわたし。家人はその間、わたしの後ろにいた2人組の中東系の男がわたしをずっと見て何かをしようとしていたらしいのでずっと彼なりに目を光らせてくれていたらしい。ふう。まだ話しかけられ続けるので、「わたしのじゃないってば!」ちょっと声を荒げたら、目の前に居た観光客とおぼしきおっさんが足元に気づき「あ、あぶねあぶね」って感じで小銭のポーチを拾い上げて自分のポッケにねじ込んでいた。お前のかよ!
結局話しかけてきた人はロマだったのかなんだったのかわからずじまいだったが、考えないことにした。
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メトロは普通にラクガキがされてしまっていたりね。
たった数駅だったが、割と緊張しながらスペイン広場駅に降りたつ。
イタリアの地下鉄は以前は90分間で2€程度(行先ではなく時間制)で、改札が無いため専用機で打刻しないと罰せられてしまう。事前に調べた情報ではそうだったのだが、行ってみるとどこにも打刻機が無い。代わりに自動改札機があり、そこになんとなく時刻が印字されているように見えた。ガイドブックに載っている情報も刻々と変動しているのだろう。
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スペイン広場にて。今、ここは飲食禁止なので、残念ながら「ローマの休日」でオードリーヘップバーン演じるアン王女よろしく、腰かけてジェラートを食べるなんてことはできない。
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スペイン広場は小高い丘に沿って階段が広がっており、上に登って見下ろすと人の集まり具合が見て取れる。案外狭いスペースにこういった広場が至る所にある。Termina駅もそうだし、この後訪れる観光地、歴史的遺産の周囲もそうだったが、多くの人が訪れるからであろう、そういった場所にはイタリア軍のジープと、機関銃を携えた兵士たちが物々しい雰囲気で警備にあたっていた。唯一、ベネツィアだけは軍の警備も入れないくらい水路だらけで、水上ポリスを見かけたくらいか。
EU諸国の中でも、フランスやイギリス、ベルギーと同じく移民も多くいつテロが起こってもおかしくないイタリア共和国だが、いまのところは昨今の組織だったようなテロの被害には遭っていない。むしろ被害に遭っていないのが奇跡で、いつ起こってもおかしくないんだろうな、という緊張感をこの後も肌で感じることになる。
スペイン広場までせっかく来たものの、時間が早い&日曜のためお店は結構閉まっていたため、周辺の散策はせずにトレヴィの泉まで歩くことにした。
地図で見るとスペイン広場からだいたい600~700mくらい。今は海外Wi-fiレンタルすればスマホも使えるので、現在地を把握しながら移動ができる便利な時代になったものだ。逆に、Wi-fiが上手く機能しないと途端に大海原にコンパスなしで投げ出されたような気持ちになり、不安になるのだが。ただ、至るところに「◎◎通り」「△△広場」と書かれているので、手がかりは多い。
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トレヴィの泉にて
人が映り込まないように頑張って撮影したが、実際はものすごい人だかり。長らく修復工事されていたそうだが、2015年より再公開されている。泉へ背中を向けてコインを投げると、ローマに再び訪れる事ができると言われている。
実は10歳の時、当時弾丸ツアーで親達の旅について行きここは訪れたことがある。思えば20年が経過している訳で(この際、ここまで読むのに付き合ってくれている人たちに自分の年齢が知れる事は今更大した問題ではない)、20年ぶりに、次は自分たちだけの力でこの地を踏み、コインを投げ入れることができたことは感慨深い。1枚投げると再度ローマを訪れる事ができ、2枚投げると大切な人と永遠に一緒にいることができる。当時何枚投げたのか忘れてしまったが、とりあえず再訪できたし、大切な人と来れたので言い伝えは本当だと思うことにする。
ちなみにこの回想を綴っていて調べて知ったのだが、3枚投げると恋人、伴侶と別れる事ができる(!)らしい。これは知らなかった。
当時のキリスト教が(今はどうなのかよく知らない)離婚を禁じていたという歴史の名残だそうだが、果たして。
ここまで行っても、まだ列車の時間に余裕がありそうだったので、地図を眺める。家人がぽつりと言う。「時間があるなら、ベネツィア広場に行きたい」
おう。ノーマ���クだったが歩ける範囲ぽいし行こうか。
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普通ツアーで行くと、有名ではありながらも降りて見学しましょう~とはならずバスの中から軽く解説される程度で済まされがちな場所の印象。実際結構開けた場所にあり、荘厳な造りの国立ベネツィア宮博物館がそびえる。そして見えづらいだろうが、(ここでは見切れてしまっているかもしれない)博物館の左後方にうっすらとコロッセオが見えている。
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やらずにはいられなかったが、この時わたしは愚かなことに5部を読み始める前だった。(読んでから来ればよかった…。帰国してから慌てて読み漁って地団太を踏んだ)家人がこの時、周辺を一生懸命観察したり、カメラに収めていたのだが、その理由がわかった。
(※ここから先、一部、ジョジョの奇妙な冒険 第5部のネタばれっぽい箇所がありますので必要なら読み飛ばしてください)
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ここは、5部の大詰めのエピソードの一つ、ブチャラティVSチョコラ―ト戦でここからコロッセオまでの道のりの間、死闘を繰り広げた場所だったのか。
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実際、ここからコロッセオは広場の後方向に伸びている道を400~500m(平坦でコロッセオが大きいのですぐたどり着けそうにみえるが距離は意外とある)ほど歩く。この距離感は漫画で読んでみると鬼気迫るシーンが続き、まだ辿り着かないのか!って気持ちになったが、振り返ってみると忠実に再現されていて鳥肌モノだなと思った。ちなみにこの左右にもフォロ・ロマーノといった当時の政治・経済・歴史の礎になった建築物群の遺跡が無造作にむき出しの状態で横たわっている。ここら辺だけ解説付きガイドと散策しても1日あっても足りないくらいだろう。
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ベネツィア広場から��いは続き、ブチャラティは気力と使命感だけを糧にこの道の地下を潜り最後の目的地コロッセオを目指し逃げ切ろうとしたのだろう。
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コロッセオに到着。
実際はこんな感じでやはり観光客がわんさか。長蛇の列で、さすがに内部に入ると列車の時刻が心配なのでやめておいた。それこそ20年前に来た時は、親達に連れられ中に入ったらしいがンン…勿体ないぜ…子供心にはこの素晴らしさはうっすらとしかわからなかった…今となってはなんて贅沢なことを…と思うわけで。
コロッセオのすぐ隣から、メトロB線コロッセオ駅がある。これに乗れば、Termina駅まで15分足らずで戻ることができた。ホテルまで一旦戻り、預けていたトランクと共にTermina駅に向かう。
さてここから次なる試練が待ち受ける。フィレンツェに行くためユーロスターという新幹線を予約したのだが、今のTermina駅は改札近辺の工事が終わっておらず、何やら半透明のボードのようなもので駅内とホームを仕切っているだけ(!)この半透明ボードが一か所だけ空いていて、そこに駅員みたいな人がいて予約確認書見せてください~って言ってくるけど、あんまり真剣に見てる感じもしない。バーコード確認するとか、そんな作業もないぞ。目視か。おおらかだね。
ホームは1~30番台まであり、端から端まで歩くと数百mはある。前日現地のオプショナルツア―(Ⅱにて記載)の際、ガイドさんから仕入れておいた情報では、このTermina駅に限らず、イタリアの鉄道はとにかく遅延も多く、アナウンスもろくすっぽされない。乗車する列車の到着するホームは、大体何番台と決まっているが、急遽変更されることも多いらしく、あってないようなものだそうだ。
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駅内のロマに狙われないよう気を付けつつ、自分たちの乗るユーロスターがどのホームに到着するかを頼りにできるのはこの電光掲示板だけだ。ユーロスターは遅延はなかったものの、到着するホームが出発予定時間の10分前くらいまで表示されなかったので割とドキドキしながら待つ。これに乗れなかったらフィレンツェに行くほかの方法を自力で手配するのは至難の業だからだ。
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来たきた。示されたホームに向かうと、乗る予定のユーロスターが入ってきた。改札という概念がないので、バウチャー���予約確認書)を印刷した紙を握りしめていたが乗る時も結局あんまり確認もされずええのんか?これで?と思いながら乗る。もちろん、無賃乗車すれば高い罰金が課せられるのだろうが、自動改札は結局どこにもなかったし車内で一度車掌さんみたいな人が確認に来ただけでそれもなんかちゃんと確認できてるのかは最後まで怪しかった。笑
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車両内はこんな感じで、普通に犬を連れて乗っている人もいた。おおらか。
Terimina駅を出発し、90分程だったか。16:00前頃にフィレンツェ市街の最寄り駅である、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅に到着。
駅から歩いて5~6分程度のところにある、ホテルアルバーニに到着。
内装が一番好みだった。壁一面黄緑色で、家具はシックな濃茶系の木材でまとめられており、さりげない絵画の飾り方が小洒落ていた。シャンパンサービスと言われ、グラスかなと思ったらフルボトルで部屋に置いてあった(!)
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ホテルで一息ついて早速、フィレンツェ市街を散策する。
フィレンツェは中世時代から毛織産業と金融業で栄え、特に15世紀の頃当時のメディチ家によりルネサンスの発祥の地ともなった。
ローマ市街が古代ローマの礎を感じられる場所だとするならば、フィレンツェは芸術面における文化の華開いた場所だと言える。メディチ家はその財力により、政治的な実力はもちろんの事、レオナルドダヴィンチやボッティチェリ、ミケランジェロ等多くの芸術家を金銭面等で支援し、のちのルネサンス史に名を残す芸術家たちのいうなれば育ての親のような存在となった。(Wikipediaより抜粋)そして、芸術家たちのゆかりの地であるため美術館や博物館が非常に多く、銀細工や革製品、世界を代表する老舗ブランドのサルヴァトーレ=フェラガモ、GUCCIの本店等高級ブティックが軒を連ねる。市街中心部のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(これもまたドゥオモと呼ばれる)周辺部含め、街全体がフィレンツェ歴史地区として世界遺産に登録されている。
街の至る所にはメディチ家の家紋があしらわれたものを見ることができ、その6個の赤い球は丸薬もしくは病んだ血液を吸い出すガラス玉とも言われている。元々、Mediciの家名がしめすように、彼らの先祖は医師ないし薬種商であったという説があり、Medicine(英=薬という意味)の語源ともリンクすることは非常に興味深い。
そういういきさつもあり、わたしは何としても訪れたい場所があった。
サンタ=マリア=ノヴェッラ薬局。
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現存する世界最古の薬局だそうで、発祥は13世紀(1200年代~)にさかのぼる。当時この薬局の隣にある教会の修道僧たちが、薬草を調合して薬剤を調合しちたのがはじまり。薬局として認可されたのは1600年代に入ってからで、そのオリジナルの製品達の高品質さからメディチ家からは王家御用達の称号も与えられた由緒ある薬局なのだそうな。
当時は気絶した時の気付け薬や鎮痛剤、目薬等を扱っていた。
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修道院が経営しているだけあって、美しいフレスコ画が描かれ、買い物をしなくても当時使われていた器具などを眺める事ができて楽しい。
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ご丁寧に数カ国語で販売している製品のリストと紹介文が記載された紙があり、日本語版まであった。製品はどれも面白いが、恐ろしいことに価格は全く書かれていない。このほか、オーダーで香水、オーデコロンを作っているコーナーもあった。
試しにハンドクリームを試させてほしいと尋ねると、スッと塗ってくれた。ほのかに薫るレモンの香り。しかしお値段を尋ねると17€くらい(日本円にして2500円程度!さすが、お高い…)。価格を書くと買わない人も多いのだろう。なるほどね。尋ねた手前もあるし、元々頼まれてもいたので購入したけど、果たしてどんな風に作っているのかは気になる。パッケージを見ると製造所、成分、有効期限等なんとなく記載事項を確認することができた。(職業病でチェックしてしまうのだ。)天然素材中心なのだろう。
この時点で17:00を回り始める。家人がフィレンツェで行きたい場所の一つ、アカデミア美術館まで地図を��手に疾走する。美術館の閉館時間は18:30で、入館は18:00前迄なのだ。
若干迷いながらも、街の北部に位置するアカデミア美術館に到着。フィレンツェは3~5㎞四方の、徒歩で回りきれる街なのだ。
この日は日曜で、市街地の美術館はおおむね無料開放日。知らずに息せき切って受付に飛び込むと「はい、チケットだよ」とチケットを渡され驚いた。「おいくらですか」と慌てて財布を出そうとすると、「今日はフリー(無料)の日さ!」と入り口に通される。こういう習慣は日本にはない。日本も、寺院や日本国有の国宝については無料で開放する日を設けてもいい気もするのだが。結局、その方が、教養、育ってきた背景関係なく、歴史や芸術に対して触れる機会を提供し、それらを誇りに思い守ろうとする次世代が育つのではないかと考えるのだが。
アカデミア美術館にまさか、ストラディバリウスのヴァイオリンやヴィオラが展示されている(!)とは知らず、一石二鳥の気持ち。そうだ、クレモナ(ヴァイオリンの上質な木材が取れ、ストラディバリウスが多く名作を残した地)が近いんだもんね。それから、美術館にきて驚くのは、こちらでは多くの美術館が撮影許可しているということ。フラッシュをたいたり他人の迷惑にさえならなければ、撮影していても注意されない。おお。
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お目当てのダヴィデ像のほか、4体のミケランジェロの彫刻作品を見学することができた。また、数々のフレスコ画も展示されていた。
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近くで見るとかなり大きくて圧巻。
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その他、展示室には所せましと当時の芸術家たちの作品が並んでいた。(ここは入り口までしか開放されておらず、どの作家のものなのかまではわから���かったが、彫刻の表情豊かさを感じる事ができた。)
アカデミア美術館を出て市街地を特にあてもなく散策しつつ南へ突っ切り、ポンテヴェッキオ橋をぷらぷらと渡る。時刻は20:00を迎え、土産物屋さんは徐々に店じまいをはじめ、代わりにカフェやレストランが準備を始める頃合いだ。日没までにフィレンツェを見下ろしたいと、我々は市街地南部のミケランジェロ広場に向かった。
後で聞けばバス等うまく活用すればよかったのだが、うまく停留所を見つける前に自力で丘の上まで息を切らしながら登った。
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若干汗をかきながらも、夕暮れ時になんとか間に合う。iphoneだとこれが限界で、デジカメももう少し頑張ってくれはしたが、ここもやはり自分の肉眼に勝てるカメラは無いなとカメラを途中で放り出しフィレンツェの夕べを眺めることにした。
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日没後のフィレンツェ市街。ライトアップされた黄金色の暖かみある光もまた、美しい。
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日没が過ぎ丘の上で休憩した後、22:00頃街の中を歩いてガイドブックにあった王道のトスカーナ料理の店に入った。ラストオーダーが22:30にも関わらず嫌な顔一つせず迎え入れてくれ、メニューに悩む我々に「これとこれを悩むなら、おすすめは断然こっちよ!」名物と思われる料理 トリュフとイタリア牛のステーキを頼むと「最高のチョイスね!」とほほ笑んでくれる、人懐こい女性ホールスタッフと談笑しながらフィレンツェの夜は更けていった。
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振り返るとこの日は午前中ローマ市街にもいたので、かなり長時間観光していたことになる。旅行に行くと疲労より好奇心が勝って、ついつい欲張ってしまうものなのだなあと実感。
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meisousheep · 8 years ago
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おひつじイタリアへ行く.Ⅱ
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眼前に広がるはサンタ・マリア・マッジョーレ教会。
宿泊先のメチュナテ・パレスというホテルの屋上、朝食をとるフロアから眺める事ができる。爽やかすぎる。映画かよ。
イタリアの気候は6~8月が一番過ごしやすく、半袖Tシャツに薄手のストールや羽織物があれば十分だ。ただし、夜は少し冷える。
この日は無造作に世界遺産がそびえるローマ市街を華麗にスルーし、オプショナルツアーの郊外を尋ねることに。この日の参加者は我々2人と明日、日本に帰国するという女性が1人の3人というこじんまりとしたツアーであった。
いにしえのローマの歴史のルーツを辿る、すなわち(※)エトルリア人の足跡��触れるという少々マニアックな内容だ。
※エトルリア人:イタリア半島中部の先住民族で、紀元前8世紀~紀元前1世紀ごろまで存在していた。インド・ヨーロッパ語族に属さないエルトリア語を使用していた。古代ギリシアとは異なる独自のエトルリア文化を築いていたが、徐々に古代ローマ人と同化(もしくは追放され)、消滅した。
初期ローマ人はエトルリアの高度な文化を模倣したとされ、建築等様々な技術のルーツはエトルリア文化のそれに由来すると考えられている(中略)。(引用:Wikipediaより)ちなみに、エトルリア人の起源はヨーロッパ/インド系とされているが、諸説あり、未だわからないことも多いらしい。
朝イチで市街地を出発し、この日訪れたのは
ボマルツォ怪物公園→チヴィタ・デ・バニョレージョ→チヴィタ・デ・オルヴィエート の3箇所。
ボマルツォ怪物公園は市街地よりマイクロバスを飛ばして高速道路で1時間程度の小さな地方都市、イタリア共和国ラツィオ州ヴィテルボ県にある小さな町の中にある。1500年ごろに造られた奇妙な庭園で、この地の貴族であったオルシーニ公が、愛する妻を亡くし悲嘆にくれているさなか、その苦痛から逃れるために「亡き妻を楽しませ、一緒に夢の世界に迷い込めるラビリンスを作ろう」と自宅に造ったものである。なんとも切ない話ではないか。
その後、この奇妙な庭園は400年もの間、廃墟となり長らく放置されていた。1900年代に入り、とあるイタリア人がこの地を購入し、時間をかけ修復を行い、ようやく人が立ち入れるまでになったとのこと。
なぜ知っているかというと、2014年頃上野樹里さん出演の飲料CMのロケ地で使われていたのだ。ガイドさん曰く、「この怪物の口の中」では真実を語り、自分の内なる声を口にすると、その苦痛から解き放たれるとか。はてさて。
https://www.youtube.com/watch?v=AUTfnhrFSgM
(引用:Youtubeより)CM、無いかと思ったらあったよね。
鬱蒼とした、しかしそこはとなく手入れされた庭園内は大小20~25前後(あやふや)の石像が点在しており、迷路のよう。ちょっと怖いものから、ちょっとシュールなものまであり、日本人にとってみればマイナー寄りな観光地ではあると思う。朝イチの10時半頃だと人は我々以外見学者はおらず、神秘的な雰囲気だった。全部を載せきれなかったが、思っていたより見ごたえがあってB級感は全くなかった。怪物たちの雰囲気が満点で、廃墟時代のここを整備した人たちははじめてこれらを���つけた時ぎょっとしたんじゃなかろうか。
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ところどころ、ラテン語で綴られているのは名言や格言らしい。
これは何という言葉だったか聞きそびれてしまった。
新緑の中、迷路のような小道で木陰を通り抜ける風が気持ちいい。
庭園内や石像達の近くには腰かけられたり、入れたりするものもあり、のんびり散策ができるような構造になっている。オルシーニ公は亡き妻を忍び、怪物たちのいる庭園を散策しながら、心の中に在り続ける妻と共に一緒に空想の世界で旅をしたのだろうか。
一番奥まってわかりにくい場所にあった、件の「怪物の口」。
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ひときわ異彩を放つ存在感。中は結構広くて、不思議な空間だった。どれも重厚な造りの石像達は、生い茂る自然の中で静かに訪れる人たちを空想の世界に誘ってくれる、そんな気がした。
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入ってみるとこんな感じ。
時間があるならスケッチなどしてみても面白い場所だが、ここでの見学時間は75分ほど。うう。涙をのんで写真を撮ったり景色を楽しんでいたら徐々にローカルの観光客達で賑わってきた。日本人には遭遇しなかったけどね。訪れるなら、午前中がいいかも。
次なる目的地、チヴィタ・デ・バニョレージョ。ボマルツォ怪物公園から更に30分程車を進めた所だっただろうか。同じくヴィテルボ県にある、2500年以上前にエトルリア人によりつくられた都市。ガイドさんによれば、この時代、街を作るときは外部からの侵略者を拒むため切り立った崖で囲まれた丘につくられることが多かったらしい。チヴィタ、とは「古都」的な意味合いを持つらしく、イタリア共和国内にはこういったチヴィタ、と呼ばれる街はいくつか点在しているとのこと。
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見ての通り、すんごい場所にある。手前の撮影地の丘と向こう側にそびえる丘の街はその昔は繋がっていたそうだが、この地域一帯の台地辺縁部の地質は長年の風雨により、少しずつ削り取られこのように分断されてしまった。丘と丘をつなぐ陸橋を渡り、バニョレージョ内に入ることができる。
今もなお、この地域の浸食は進んでおり、崩落が進めば建築物は崩れる危機にさらされている。それ故、「死にゆく街」と呼ばれている。
以前ネットで見た限りではこの街の住人は12人程度との事であったが、ガイドさんによれば最新の状況では現在の住人はたった3人であるとのこと。
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当時のエトルリア人の技術には目を見張るばかりだ。街の入り口はこのように岩をくりぬいて、その上にアーチを渡している。天空の城ラピュタのモデルの一つになっているのも頷ける。ラピュタの遠景は南フランスにあるモン=サン=ミッシェルとまさしく同じだなと思ったが、ラピュタの内部構造はここヴァニョレージョの静けさと緑溢れるのどかさに近いものがあり、巨神兵が物陰からいつゆっくりと出てきてもおかしくないような雰囲気があった。
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街の中は観光地となっていて、こじんまりとした土産物屋が数件立ち並び、奥の展望台からは景色が一望でき、とても「死にゆく街」と呼ばれるような雰囲気は感じられない場所だった。
ひとは儚いものに思いを馳せる。すべての形あるものは、何らかの力を得ないと必ず消えてしまうとわたしは思う。世界遺産の多くはそれを何とか守りたいと願う人達の願いにより、修復され守られ続けてきたと言っても過言ではないだろう。この地を開きローマ人たちに画期的な技術をもたらしたエトルリア人と同じく、この小さな街も、このままでは数十年後には消えてなくなってしまうだろう。彼らのルーツすらわかっていないことが多い中、彼らの足跡を示す手がかりを失う事は大きな損失ではなかろうか。日本人の多くは既に世界遺産となった場所を訪れるし、(わたし自身もそうであったが、)それらは「蓄積された評価」をなぞる行為でしかなく、はじめはこの地と同じようにローカルの人しか知らない場所だったであろう。外国人としてここを訪ねたわたしができることとすれば、こんな場所があるということを、自分の目で確かめ、その価値を人に知ってもらうことだと思う。いつかは世界に知られ、守られる地になり、消滅してしまった文明の持ち主たちの謎が解き明かされる手がかりになることを願ってやまない。
さて、ここから更に1.5時間ほど北部に移動し次なる目的地、チヴィタ・デ・オルヴィエートへ。
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遠景だが、奥側の丘上に建物群が横たわるのが見える。あれが、丘の上につくられた要塞都市、オルヴィエートだ。
古くからエトルリア人が住んでいたが、紀元前280年頃にローマ人に攻め落とされ、以後は中世の美しい街並みを残す地として世界中から人々が訪れる地となった。
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チヴィタよりもかなり広く、お店も観光客も多く賑わっていた。観光地ではあるが、チープなものを叩き売るというよりは、ローカルの職人さんたちが、革製品や玩具、皿、チーズなど手作りの品々を小さなお店で細々と売っているという印象。ベネツィア入りする前にここで思わず革製の仮面を購入したが、同じような製品はベネツィアではついに見かけることはなかった。
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イタリアもキリスト教の国であるため、あちこちに美しい大聖堂(ドゥオモ)を見かける。ここオルヴィエートにも、街の中心地にひときわ美しい大聖堂があり、内部のフレスコ画に魅入ってしまった。
個人的には、この数日後にフィレンツェにある世界遺産のドゥオモにも行くのだが、こちらのフレスコ画の方がより近距離で見れて繊細かつ内部全面に描きこまれており非常に見ごたえがあった。
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宗教自体は、実はあまり好きではない。神を信じることを云々言いたいのではなく、それを拠り所にしすぎて自分の意思を見失ったり、宗教上の理由で食生活等の生活を制限し他人にそれを強制したり、あまつさえ戦争の理由にもなりかねないことは、本当に茶番だと常々思っている(信心深い方がいたら、申し訳ない。)。しかし、当時読み書きができず聖書に書いてあることがわからなかった人に対しても、思想をわかりやすく伝えるツールとして広がっていった宗教画については、文字や音楽以外の情報源として興味深く観察することができる。描いてあるシーンはわりと共通していることが多いので、よく知らなくてもだいたいどういうことが言いたいか察する事ができるのは、非常に面白い。お金も学もなく、拠り所のない��しい人にとって、今以上にあらゆる差別は存在したというのは察するに余りあり、そんな人々が美しい教会を訪れ祈りを捧げながら神のなせることをこれらの絵画を通じて学び、感じ取り、そして救われていたのなら、それはそれで大切なことだったのだろう、と考えることができた。
この街にはいくつか見どころがあるが、そのうちの一つがこれ。サン・パトリツィオの井戸。16世紀にローマ略奪の為この地に逃れてきた教皇、クレメンス7世が作らせたもので、直径13m、深さ62mという大きな縦穴だ。
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面白いのは、水を汲みに降りる人と水を汲み上げた人が道ですれ違わずに済むよう、2重螺旋構造になっていることた。バニョレージョと同じくこのオルヴィエートも丘の上に立つ街、水を確保するため固い岩盤を堀り当時の技術でここまで成し遂げ、あまつさえ2重螺旋構造という発想はなかなかに画期的だったのではなかろうか。
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現在は使われておらず、実際に下まで降りて見学することができる。なんとも幻想的な光景だ。
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この街はまた、白ワインの名産地でもあり、お昼から白ワインをいただいたがすっきりほの甘く、香りはあるが食事を邪魔するほどではなく、非常に飲みやすかった。チーズも豚もこの地域の名産とのこと。
一度忘れ去られたが蘇ったのがボマルツォ怪物公園、消えかけている街がチヴィタとするなら、オルヴィエートは生き残った街と形容するべきだろうか。古き良き中世ヨーロッパの街並みは、エトルリア人の足跡と、そのあと移ってきたローマ人たちの2つの文化を経験しており、それぞれが興味深かった。
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オルヴィエートを後にし、2.5時間ほどかけてローマ市街まで戻るとPM17:00頃。この日はもう一つのオプションとしてカンツォーネディナーを組んでいたので、小一時間ほど休憩しつつ翌日以降の移動ルートを下見するなどして時間を待った。
カンツォーネとは、イタリアの民衆に広く愛唱されている音楽で、日本では「イタリアの大衆曲」と思われていることが多い(らしい)。本来はこれに振付や演劇的な要素が加わって音楽劇となり、オペラになっていったとのことで、元はオペラの素材(劇中歌的な意味合い)だそうだ(知らなかった)。
カンツォーネ自体は日本でもCMなどでよく聞かれるボラレ、等が有名。
https://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%9c%e3%83%a9%e3%83%ac+%e3%82%ab%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%83%ac&&view=detail&mid=BDE0795F013F7BBF8BA1BDE0795F013F7BBF8BA1&FORM=VRDGAR
(引用:Youtube)
実際はコンサートホールやオペラ座のようなホールで聴く格式高いものから、観光客向けにレストランで食事しながら楽しめる敷居の低いものまで様々だ。
しかし実際カンツォーネディナーをやっているレストランは年々減っており、旅行代理店によればローマ市内では現在2件ほどしかないらしい。意外と稀少。
この日はレストランは満員で、我々2人以外はホールいっぱいに広がるフランス系、アメリカ系観光客でいっぱいだった。定番曲のボラレなど、皆が知っている曲では、アメリカ人たちもおじいさん同士が踊りだすなどの盛り上がりようだった。
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バゲットにトマトやチーズ、生ハムを載せたもの、リゾットと娼婦風パスタの2種盛。ナスと牛肉のアマトリチャーナ、ティラミスまで(!)
イタリアに来ると太ってしかたない。お酒も食事もデザートも美味しいんだもの。
Ⅲに続く。
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meisousheep · 8 years ago
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おひつじイタリアにゆく.Ⅰ
Twitterでさんざ画像を垂れ流していたので今更だが、6/2~6/9までの間、イタリア旅行に出かけた。わたしにとっては初めてのEU圏個人旅行だったこともあり、印象深いことが多かった。既にTwitterで話した内容とはできるだけ重複しないよう配慮しつつ、忘備録兼ねてこの文章を打っている。
通勤・通学の暇つぶしにでもしてもらえたら幸いだ。
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元々ツアーで行くつもりだったが、家人の仕事の都合が合わずハイシーズンのこの6月、3月末時点で大手旅行代理店はどこも数組以上キャンセル待ちという状況。ツアーだと猛烈高いのね、ひどいと1人45万円~とか(!)そこまでお金を積んでもキャンセル待ちってどういうことヨ!と思っていたら「個人旅行だとオプション入れても1人20~せいぜい25万円台におさまるよ」と家人。それは確かに安いぞ。��額近いじゃないか。しかし英語圏ならいざ知らず、イタリア語は拙者無理だぜぇと不安がったものの、新婚旅行という特権を振りかざして1週間近くの休みをぶんどれるのは後にも先にも今しかない。聞けば家人は学生時代にも友人二人で個人旅行でローマ・ナポリに行ったと言う。こりゃ案外なんとかなるかもナ~と思ってしまい気づけば予約をしていたのだった。
6/2(金) 木曜までの仕事の事は頭の隅に追いやり成田空港へ。行きはアリタリア航空エコノミークラス。まー、狭いわシート固いわで本気でどうしようか焦ったけどなんと観たかった映画が軒並み視聴できちゃうことに気づいてからは苦も無く12時間のフライトのうち8時間を映画鑑賞に費やしたのだった。かなりおんぼろ飛行機だったように思う。中型機だったし。
この日、午後に出発し同じ6/2(金)の現地時間PM7:00頃ローマにあるフィウミチーノ空港に到着。いつも思うんだけど日本が(ほぼ)一番、東端の国なので海外に行くと時間が巻き戻ってお得な気分になるのわたしだけ?地球の自転と逆走しつづける方向に勤務が続くCAやパイロットがいたとしたら、彼らは歳をとらないのだろうか。いつも映画インターステラーのことを思い浮かべ、途方もない感覚に襲われ、考えるのを辞める。(相対性理論からやり直してください)(物理の単位ぎりぎりだった人間が出まかせをいっているのであてにしないでください)(無責任)
フランチェスカ氏と名乗るイタリア人ガイドの運転する車に乗り、ローマ市街地へ。我々「日本語できますか?」フラ氏「ニホンゴ?pocopoco」ポコポコてなんやねん。聞くと、「僅か/ちょっと」的な意味らしい。まじすか。「英語はできますか?」「エイゴ?pocopoco」まじすかー。(笑)
時刻はPM8:00を回った。ローマ市内に入り夕焼けに照らされるコロッセオの脇を通り過ぎる。美しい。
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観光客が集まる反対側の広場とは違い、車道に面していたこのスポットからは人も映りこまず、気の遠くなる年月其処にあり続けたという確かな主張をしている、この後たびたびこの感覚に襲われるのだが、世界遺産や名画、名もなき誰かの確かな仕事ぶりやそれを守る人々の思いを感じ取るたびに、ものすごい「圧」(※スピリチュアルな事を言うつもりは毛頭ない)を感じ畏怖の念で魅入ってしまうのだった。
���テルに到着し、ここでフラ氏とはお別れ。。(彼の役目は空港からホテルまでの僅かな時間の案内人)日本には仕事で18回行ったそうだが、やはり日本語は相当難しいそうな。そうだよね、わたしもそう思うわ。部屋に入り荷物を降ろしてホッとしていたらようやく日が暮れてきた。(この国もサマータイムを導入しており、本来は8時間の時差だが、日中の時間を長く使うため3月末~10月末迄7時間時差になっている。おいおい 勘弁してくれ。ただでさえ自転方向と逆走した事実について無い頭を使って考えてみて混乱をきたしているのに!)日没はPM9:00。翌朝の事も考えて、Termina駅近辺のホテルをとっていたので、旅行会社手作り(!)の現地案内パンフレットを片手に夕飯を取りにでかけた。
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なんてことはない風景だが、よく見ると下の方に「復興」の文字が。でも、日本食料理屋ではなく中華料理屋だった。適当かよ。
Termina駅周辺は賑やかで観光客もまあまあいるが、この時間になると徐々に減ってくる。駅の北側にでるといよいよヤバそうな雰囲気をまとったおっちゃんが居たりして、速足で駆け抜けた。
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Termina駅のなんかさびれた側(北か南か忘れてしまった)の路地を行った先にあるレストラン。21:30を回っていたがお客さんで賑わっていた。
ポルチーニ茸のパスタと子羊肉(!)のグリル、トマト系リゾットをシェアする。イタリアはどこのお店も結構ボリュームのある料理を出す。なので、1皿ずつ注文し、少し肉などをシェアしたら結構おなか一杯になるのだった。
なんせワインが安い。何なら水より安い。(水が3~4€、グラスワインが2.5€から)(※ちなみに、2017年6月頭で1€=約122円)ハーフカラフェを頼んだがフルサイズじゃね?て大きさのカラフェに入れられて白ワインが運ばれてきた。
フラ氏がホテルに我々を送り届けてくれた際に教えてくれた、ホテル横の小さなジェラート屋さんも22:30を回っていたが営業していた。Sサイズでいっか~って3€出すとカップなみなみとジェラートが盛られて出てきて、我々は早くもピッコロサイズ(一番小さいサイズ)が日本でいう所のSサイズなんやな、と気づいたのだった。
Ⅱ.につづく。
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①ちなみにこの後この旅ではこれでもかというくらいジェラートを食べることになるのだが、ジェラートはね、ローマよりもベネツィアよりもフィレンツェが一番おいしい(ミラノもおいしいのかもしれないけど今回は旅程に入れなかった)。
②ところで思いのほか長文になってしまった。Ⅱ以降はもう少し端折って書こう。反省。
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meisousheep · 8 years ago
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漠然とした恐怖
生まれ持っての心配性だ。 執着を嫌っていながら、結局自分が何かと狭い範囲には執着する性質なので、使い慣れた服、生活、空間、行きつけの場所など、これまで使って・親しんで来たもの・習慣を失うことを非常に怖がる。
もう数年以上前の話、当時は一人で生きていく選択をしていた。
一生孤独である代償に、何かあったとしても迷惑は自分にしかかからないし、自分が努力さえ怠らなければお金も時間も自由という選択をした時、今思えば投げやりで、かつ相当に気楽なものだった。
自分が死んでも子供は遺せない、でも自宅があれば身内の誰かしらが使うだろうし、ひと財産にはなるだろうという安直な発想で、気付けばマンションのローンを組んで、ひとりだだっ広い3LDKに住んでいた。
それで満足だった。世の中が何を持って勝ちなのか負けなのか、くだらない格付け合戦にはもうこりごりだった。
雑音だらけの世界からひとり、数千万の借金を抱えてみせて、誰もが羨みながらも抱える物の大きさに黙るという選択に、静かに満足したので後悔はしていない。
思わぬ形でそれらは方向を変えることになる。 どういうわけか結婚をし、そうならば自分でもいつの日か(可能ならば)子供というものを持ってみたいと思いながら、家人と生活をしている。 家人は真面目で穏やかな性質で、気性の荒いわたしはずいぶんと助けられている。このまま二人だけでの生活ならば、何不自由なく生活を送れるだろう。
しかし、出産できる年齢には限界というものがある。加えて、自分にも家人にもかけがえのない兄弟姉妹というのがいて、その存在に助けられたことも多いから、できることなら子供を持つなら一人ではなく、二人以上などと絵空事を考えている。
問題はここだ。 少し前のニュースで、埼玉県近郊・子供二人を育て、一般的な物資に囲まれた生活(おそらく、TV、スマホ、パソコン、車(地域によるとは思うが)、全自動の洗濯機等であろう)を行いながら教育費なども考慮した場合、世帯月収が50万円は必要だということ。 今の社会では、もう、専業主婦若しくはパートタイマーなんて神話なのだろう。 これは決して他人事ではなく、もし置き換えてみた場合、少なくとも我が家の家計では、二馬力ならば余裕だが、ひとりならば早々に住む家を手放しアパートに引っ越さなくてはならないだろう。赤裸々だが実情だ。
産休、育休の期間は会社によるが1〜1.5年、その間別に休みというわけではない。子供を育てながら、毎月のローンの支払いは変わらずやってくるのだ。支払いに産休もクソもない。まあ、これは家賃に置き換えても同じことだが。
加えて、もしも体調を崩したり、戻れる場所がなくて仕事を辞めてしまった場合、再就職したとて収入はどうやっても減るだろう。したがって、糞食らえと思うことがあったとて仕事を簡単には鞍替えできなくなったわけだし、上司とは良好な関係を維持しておくに越したことはないわけだ。その上司も、数年後には定年を迎えるわけだが。 こうして退路は絶たれる。 死ぬまで全力で仕事をしなくてはならないと腹を括ることは、数千万の借金を背負った時にしたはずなのに、滑稽なものだと自嘲する。
今できることは、新しい生活から馴染んだ生活にしていく互いの創意工夫を交えつつも、家人だけの収入の期間を迎えたとてなんとかやっていけるだけの資金を必死にわたしは貯めなければならないということだ。 家人は協力的だが、いちどきにいろんなことを求めてもパンクしてしまう。(誰だってそうだ) 見通しを立てるのが苦手なひとがいるなら代わりにわたしが立ててやるしかないわけだが、口煩くアレは高いだのこれは安いだの、みみっちいことを言うのが大嫌いなのにその役割を自分が背負うのが嫌でたまらない、というのは小さな愚痴。
そしてわたしたち夫婦は思う。両親の偉大さを。我が子達をひもじい思いもさせず何不自由なく育て上げ、お稽古事をさせ、大学を出るまで惜しみなく学ばせ、旅行に連れて行き。 恥ずかしい思いをさせぬよう知性をつけさせてくれた。知性は品のある家庭にしか宿らない。 品のあるとは、つまり、精神的、場合によっては金銭的余裕のあることだ。 「金が全てとは言わない」という発想ができること自体、余裕のある接し方、愛情のある接し方をしてくれていたからこそだ。
死ぬまで親には勝てないが、そんな親にならなくてはならないと思う。
漠然とした恐怖を具体的な解決策に変えて、大人たちは生きていくのだろう。 その手法を模索するのは、家庭ごと、個人の性質ごと、時代の特性にもよるので、解答はないのだろう。
冗長な文章になってしまったが、思考回路を前向きにするために必要な作業だったので許してほしい。
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meisousheep · 8 years ago
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2016.5〜2017.4間に描いた漫画的なものたち
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meisousheep · 8 years ago
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シゴト≒仕事、私事
ご存知の方も居るかと思うが、2017年4月1日に入籍した。相手とは2年半ほど交際期間を経て、無事双方の家族に受け入れられ、2月中頃から一緒に生活を始めている。
併せて、長らく悩まされていた自分の関わりたい業務内容が、ほぼ同時期に色んな理由によりようやく携われるようになったこと、そしてモメていた職場の人間から遠ざかれたことで、心���的負荷は減った。しかし、同時に、先輩が背負っていた新しい業務内容を自ら背負うことになり、精神的プレッシャーが新たにのしかかってはいる。仕事と私事の大きな変動は常々、重なるものだ…。
傍から見れば同棲、結婚だなんて大きな環境の変化に見えるだろうし、私自身もいざ同棲を始めるまでは、そう思っていた。 入籍、結婚したこと自体よりも、同棲の方が私にとっては大きな事だったと思う。 なぜなら、独り暮らし歴も10年を越えると、他人と同じ屋根の下で暮らすなんてこと、窮屈で無理だと思っていたからだ。自分の親姉妹に対してすらそう思っているタイプの人間が、全くの他人と共同生活だなんて、土台無理な話だと思っていて、結婚する事が決まっていても最後まで実感がわかないまま相手が引っ越してくる日を待った。 引っ越してきて、あまりに妙な生活の癖があったらどうしよう?逆に、家人にとって耐え難いような私の習慣があったとしたらどうしよう?色んな不安があったのもこの頃かもしれない��
実際は、一緒に暮らし始めた当日から、家人は横でスヤスヤと寝息を立てて眠っているし、普通に自分の私物の居場所をせっせと見つけていく様子を見て、あ、家人の適応能力ってすごいなと思った。越してくる家人の方が、環境が変わって負担も大きいだろうに。受け入れる私の方が、せせこましい感覚に支配されていたな、と小さく反省し、慌てて大きく陣取っていた自分の私物たちを動かして家人の為のスペースを作ったのだった。
4月1日に婚姻届を提出し、結婚式を挙げたことよりも、そこまでの同棲開始時期の方が心境的には大きな変化だったと思う。婚姻届を出す前と出した後で変わったことといえば、私の名乗る名前と各種名義と名刺が変わったことくらいだ。見た目上なにも変わらないし、婚姻届を出した事実だけが、結婚という形で契約を証明しているだけの、あっさりしたものなのだった。 だから、多くの人は何らかの形で結婚式を挙げるのだろう。そうでもしないと、全く実感がわかないと思う。結婚式を挙げた人間ですら、そう思ってるくらいだから。まあ、最近は挙げない人も、増えてるみたいなんだけどね。色んな理由で。
結婚式前は、ひたすら準備やなんやかやの手配に二人して追われていて、ケーキ入刀なんかより遥かに前から共同作業は始まってるんだと思った。そして、4月1日はエイプリルフールで、多くの人が私たちの結婚を疑ったが、事実であると受け入れてくれ、晴れて多くの方に祝福いただけたので、私たちにとって4月1日は大きな意味を持つ日になった。たくさんモノを作ったり、絵を描いたりして、それなりに大変だったが、多くの人が楽しんでくれたと聞く。わたしたちが満足したように、来た人達にとっても良い日にできたなら、何よりだ。
結婚式��ら一週間近くが経過するが、式前と式後でやはり生活も心境も変わったことは何もない。次に何かを実感するのは、子供を持った時なのだろうか。
左手の薬��に鈍く光る金色の輪だけが、静かに私たちのことを証明してくれている。
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meisousheep · 8 years ago
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meisousheep · 8 years ago
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遊牧民
3年半愛用していたTwitterが存続の危機に面している、らしい。そうは言っても、公式からは何も語られていないし、存続の危機事態は一年程前から囁かれていたので、今無くなるのか、来年無くなるのか、結局無くなりはしないのか、わからないままだ。
…とかなんとか言いつつ、SNSとして優れた場所であるTwitterを失うことは考えたくは無いものの、もしかしたら無くなる場合も考えて、候補の一つにTumblrに辿り着いた。わたしは失ってからあたふたするのが嫌で、結局この模索が無駄に終われば良いと思いながらも、万が一を考えて動けるうちに準備だけしてみようかなと。ここはブログにもなるし、イラストも今まで通り投稿できる。Twitterに近く拡散機能も持っているし、リプライに近いコメント機能もあるにはある。すでに耕された色んなSNSを見回して、住み心地の良い場所を見つける有様は、さながら遊牧民のようだなとも思った。
兼ねてからSNSの距離感には、悩まされもし、励まされもしてきた。文字だけで綴られる人となりに、わかった気でいきなり0至近距離で来て、勝手に嫌われたと嘆いて攻撃的になる人。些細なツイートが、まるで自分を攻撃されたと思い込んで卑屈になってしまう人。逆に、こちらのほんの少しの気持ちの機微を汲み取って、ホッとする言葉をかけて下さる人。人付き合いというものは兎に角苦手で無精なわたしが、Twitterを3年半も続けられたのは、そういう、実生活でも心地よい距離感を作れる人達がTwitterにも居たからだ。
これから先、どうなるかなんてわからないことが多いのは、Twitterだけじゃ無い。仕事のこと、生活のこと、将来のこと。自分はずっと絵を描き続けて居たいけど、これまでの通り頻繁に絵を描いて人と交流し続けられるような精神的・時間的余裕は減ってしまう気もする。でも、それは悲観的な意味ではなくて、これからもどんな形になっても、自分が満足して楽しめる絵を描き、形に残せる居心地の良い場所を探し、見つけていくのだろう。そして、その居心地のいい場所が訪れてくれた人達にとっても居心地の良い場所であるなら、幸いだ。
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