#角田清兵衛商店
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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好意外,居然是由這位香港僑生,來講出我們這一輩台灣人的老故事,而且出奇的完整,實在教人驚異,這真是台灣人最幸福的時代!
*原文刊載於《文創達人誌》60期,可惜~永~遠~回~不~去~了!
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林野,那個沒有手機的年代,《文創達人誌》60期,2018. 09。
*原文刊載於「文創達人誌」60期,2018. 09
▶應該是本名【溫德生】的另一位筆名同為【林野】的作家。 [溫德生]本籍廣東新興,出生地“香港”,1957年來台。此資訊也與本文內容所謂「從香港舉家遷台」事情相符合。 詳見 國立台灣文學館 檔案資料 :
https://db.nmtl.gov.tw/site4/s6/writerinfo?id=815
上個世紀的五十年代,從香港舉家遷台,因不會說國語,學校硬將我降一級從小三讀起,每次老師口頭規定課後作業,因沒聽懂,不是寫錯,就是沒寫,第二天少不了被打手心,一度視上學為畏途。
第二學期總算克服了語言障礙,從此國語科考試成績突飛猛進,有一次月考考燈的單位,全班沒人答對,惟有我寫的「一盞燈」得到一百分,那一個兇巴巴的女老師就不再打我了。
學期結束,學校發給學生的獎品都很寒酸,不過是墊板一塊,以及有橡皮頭的「雄獅」鉛筆四枝。記得這個牌子算是比較高級的,有時候也會改發「月光」香水鉛筆,至於手刨鉛筆機還不多見,大家都是用「手掌牌」的小刀削。五年級時的導師是一位師大畢業的女僑生,作風比較闊氣,她買給學生的獎品是「王樣」水彩盒,可惜僅教了一年就回香港了。
在那個家庭收入捉襟見肘的時代,孩童沒有什麼零嘴可吃,餅乾是秤斤兩賣的,鐵罐裝的「金雞餅乾」則是餽贈親友的好禮。
有些父母將麵粉加點砂糖乾炒,當作子女的甜點,成為日後古早味的麵茶;每逢爆米花的三輪車過街,孩童就帶着裝米的罐子蜂擁而至,圍觀小販的震天一爆。以前用過的克難物品在懷舊的柑仔店裡已不多見,像「天鵝牌」非肥皂、「百雀羚」面霜、「窮人木頭」的竹器、升火的煤球爐等,許多嬰孩是吃「仙童牌」代奶粉長大的。
「白雪公主」泡泡糖搶先在「夢夢」口香糖之前銷售,風靡全台,5角一盒,縱使不會吹泡泡,也會迷上它附贈的彩色卡片。或許這是台灣第一種「文創」商品,以三國演義、封神榜的人物引誘購買慾,宣稱集滿100號可換自行車一台。我曾經花了幾年,收集到的卡片六十多張,卻在初二的數學課被老師整盒沒收,下課後哀求她賜還不成,幾乎恨她一輩子。
當年的自行車最初是以倒轉踏板剎車的,��來纔改進為手剎車。一台��伍順牌」自行車售價要幾百元,許多公務員分期付款作為上班代步的交通工具,學生如果能有一輛,簡直是奢侈品。不可思議地,那時規定前輪的車柱要掛車牌繳稅,無牌上路會被警察攔下,這種怪法規到高中畢業後終被取消。
三、四年級最懷念的童年讀物,八成會說是葉宏甲的諸葛四郎漫畫。從「大戰魔鬼黨」看到「大破山嶽城」,儘管老師禁止帶到學校,還是偷看不誤,這也成為日後整套時出版,廣被老讀者們的訂購,至於優良讀物「東方少年」還沒它那麼流行。
有時隨父親上台北,他會帶我逛重慶南路挑幾本回頭書,整條街都是櫛次鱗比的書店,知書達禮的人很多,現在老字號書店已剩下沒幾家了。
九年國民義務教育尚未延長之前,初中入學有聯考,學生開始用鋼筆寫作業,記得SKB是最普及的品牌,吸墨水時要拉下筆桿側邊的開關,當時擁有一支美國製的派克21鋼筆可真叫人羨慕。老師批改作業還是使用沾水鋼筆,墨水有兩個牌子─「銀行牌」和「派克牌」,用久了需要換筆尖,後來陸續出現的國產「利百代」和「玉兔牌」原子筆,兩者都會漏油,法國製的Bic和Reynolds 原子筆,趁勢進佔文具市場。
武俠小說開始盛行,臥龍生、司馬翎、諸葛青雲等人的作品成為市俗的大眾文學,故事中的刀光劍影、江湖風雨,常帶給人們想像空間的快感。坊間的租書店也多,不知何故,書的版面狹窄,封面和底面都裝訂了厚紙板,好像是為了偷看的方便,後來有了菊16開的版本,終於大方地行俠天下。
上了高中,瓊瑤的言情小說取而代之,成為早熟少男少女的喜愛,那時的學校皆以「禮義廉恥」為共同的校訓,男生的頭髮很短,女生裙子很長。每學期的軍訓課都會到三張犁打靶,國文課本裡打了圈的文章都要背誦,考卷會有一段默寫。「文星」和「水牛」出版的口袋書流行起來,高三時好奇地讀完王尚義的「野鴿子的黃昏」和「狂流」。
1962年台視首先開播,黑白電視機改變了人們的生活,慎芝主持的「群星會」,打響了綜藝節目的第一砲,接着田邊製藥贊助的「五燈獎」也不遑多讓。
1969年中視也跟着開播,家裡終於有了一台電視機,兩部連續劇「晶晶」和「情旅」的劇情雖已模糊,但猶記得後者的主題曲中幾句歌詞:「在寂寞的旅途中 偶然的與他相逢,他的笑靨,使我神往;他的眼睛,使我迷惘」,引起許多人坐火車的遐想。
不久入伍當兵,那陣子台視每星期會播映一次日本的職業摔跤節目,晚點名剛解散,士官兵就湧向中山室看兩頭怪物,豬木和馬場在擂台上打鬥,超過10點,值星班長就跑來趕人就寢。至於夜間看少棒是默許的,祇要向衛兵登記,時間一到就會叫你起床。在台灣青少棒所向披靡之年,上班族犧牲睡眠,深夜觀戰,每場勝仗都振奮人心。
退伍後愛上洪小喬主持的「金曲獎」節目,她的闊邊草帽半遮臉孔,吉他輕撥彈唱,直到最後一集纔揭開廬山真面目。
1972年美國總統尼克森訪問大陸,1978年中美斷交,刺激了國內年青人的文化覺醒,於是校園民歌萌芽,發展成為國內流行音樂的主流。學歷高的民歌手轉向用自己的語言,創作自己的歌曲,形成靡靡之音外的一股清流。
七十年代彩色底片夢幻成真,美國的「柯達」和「伊士曼」,日本的「富士」和「櫻花」是我儲存大學繽紛記憶的道具。當年「柯達」製作了一支非常經典的反越戰廣告,一個返鄉的士兵走下火車,畫面忽響起湯姆・瓊斯的Green green grass of home,印象深刻。最初因沖洗費不便宜,故不敢多拍,後來各地快速冲印店的興起如雨後春筍,加上操作簡易的傻瓜相機上市,生活的點滴皆可信手捕抓。
此一時期,市面上出現TDK和SONY的卡式錄音帶,成為學習英語,考TOEFL的工具,從此音樂卡帶變成方便的載體,完全攻佔了黑膠唱片的市場,我買的第一個卡帶是理查・克萊德門(Richard Clayderman)的浪漫鋼琴演奏。隨身聽也繼之應運而生,成為愛樂者的新潮電器,我買的第一台是獨眼龍商標的「戴陽」,體積幾近磚頭般大,由於嫌它笨重,又買了一台SONY推出的Walkerman趕上時髦。
迄今不少人會將參加過的救國團活動和黃金歲月畫上等號,昔日夏令和冬令戰鬥營在軍方的支援下,報名人數極踴躍,常有向隅之憾。我在大三的寒假被學校保送參加交通大學舉辦的「歲寒三友會」,記得參加者皆是大專和軍校社團的菁英,文武青年交融成一片,聆聽講師的領袖培養課程,遊戲間學習團隊合作,惜別時刻依依不捨,有人也在活動結束後仍藕斷絲連,找到未來的妻子。
經國先生主政的年代,吏治澄明,推動十大建設,加上孫運璿等清官,帶給台灣空前的繁榮,人民對經濟起飛亦與有榮焉。當時的生活雖嫌單調平淡,但學校有規矩,社會有秩序,人人睡眠充足,因為三家電視台到了深夜12點就唱國歌停播,商店的霓虹燈有節電管制,夜店甚少,也沒有24小時營業的7-Eleven。
七十年代老三台播映的美國電視影集,很受國人青睞,從中視的「愛之船」開始,啟發我對美國文化的認識,出國前買了「三人行」學英語。記憶較深的是「法網恢恢」,劇中的小兒科醫師理查・金波為了昭雪沉冤,在各州浪跡天涯,據說真相大白的最後一集收視率高達五成七,然而來到美國始終沒看到電視的重播。幾年前我買到它的第一季影集,完結篇卻是從網路下載的,以前看過的「勇士們」和「虎膽妙算」也陸續找到,當作記憶的時光標本。
九十年代學成歸國,公車上有人手持「黑金剛」打電話,公共電話亭越來越少,心態一時不能調適變化中的大���境。諸如e世代追求次文化,言行率性,祇要我喜歡有何不可?21世紀到臨,智慧型手機帶來想像不到的方便,但人際關係反而變得複雜。回想那個打電話要投幣的年代,收到朋友的來信時,心情是超愉快的,因它是經過書寫和投遞的,具有溫度。
幾年前的小學同學會,有人提起那位打人很兇的導師,次日和同學到天母去探望她,快90歲了,大家合送一個紅包,據說她壓在枕頭下,捨不得花。當年沒收我收集泡泡糖卡片的數學老師,也在初中的同學會中遇到,我趨前向她敬酒,如果那些卡片依然無恙,可是柑仔店裡稀有的古玩。那個沒有手機的年代是民風淳樸,社會有感覺,人間有情義的年代,好似一張純樸無華的黑白照片,不以色彩取勝。
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五篇 追加 その一
伊勢音頭で伊勢の山田と歌っているのは、和名抄の陽田からとったのだろうと思うほどその町は大きい。 十二もの村からなっており人家は、九千軒もあるだろうか。 商店が軒を並べどの店もそれほど派手ではないが、こまごましたところに神経を使っているようだ。 まさしく神都の風俗が自ずから備わり、柔和にして荘厳な雰囲気は他の国にはない光景だ。 参宮の旅人は絶え間なく訪れ、繁昌さらにいう言葉もない。
弥次郎兵衛と北八はあの上方者といっしょに、この町の入り口に着いた。 見ると両側の家ごとに、御師(『おし』と読み伊勢神宮の神職の一つ)の名を書いた板がまるで、竹林のように立っている。 更にその板には『用立所』とも書いてある。 ここで袴・羽織をひっかけた男と、何人となく行き違う。 どうやらこの男たちは往来の旅人を、御師に迎えるているようだ。
そのうちの一人の侍が、弥次郎兵衛に近づいてきた。 「もしあなたがた、どこへ来られたのでございますな。」 「言わずもがな、太神宮さまへ参ります。」 弥次郎兵衛が神妙な面持ちで答えると、 「いやいや、太夫はどなたで。」 「たゆう?」 弥次郎兵衛が聞き返すと、 「そう御師のことでござる。」 「ああ太夫は竹本義太夫殿さ。」 と��瑠璃で有名な人物の名を口から出任せに言う。 男は、きょとんとした様子で、 「はあ義太夫というのは、どこのどなただ。」 とつぶやくように言うので、弥次郎兵衛が、 「その義太夫というのはな江戸ならわかるが、はて大阪ならさしずめ道頓堀だろうか。」 と、小首を傾げながら答える。 北八が調子に乗って、 「そう京では四条、お江戸では葺屋町で、永らく御評判になっておりました。」 と言うと、そこで男はからかわれていることに気が付いて、 「道頓堀で有名な、見世物小屋の者はお前方だったのか。」 と、洒落る。 「ふざけたことを言うと、ひっぱたくぞ。」 と今度は北八が、からかわれたことが判ってそう言うと、 「えらい、威勢がいいことじゃな。ははは。」 と、笑って行き過ぎる。
上方者が茶屋を示して、 「ちと、休んで行こかいな。」 と言うと、北八が、 「ここらは、汚い所のようだ。 みな御師の便所らしく、ようたし所と書いている。」 と言うと、 「つまらないことを言う。ははは。」 と弥次郎兵衛が答えて、三人である茶屋に入りしばらく休む。
そのうち向こうより上方の参詣者が、大勢そろいの格好でやってきた。 女も何人かいるらしく聞こえてきた歌には、華やいだ色がある。 「ござれ、夜みせは~、順慶町の~、通り筋からそれ、 ひょうたん町を~、やあ、とこさあ、よいとこさあ、ちちち、ちんちん。」 弥次郎兵衛らが、その方を見ると、 「ひやかしや~、浮かれ騒ぐは~、阿波座のからす。 そりゃさ、かわいかわいも~やあれ、格子さき、 やあとこさ、よういとなあ、ありゃやこりゃや、 このなんでもせ~、ちちちん、ちちちん、ちんちん、ちんちん。」 と、通り過ぎる。
その後から太太神楽(だいだいかぐら)を奉納する、太太講(太太講)の連中がやってきた。 二十人ばかりいるだろうか、御師より向けられた迎えのかごに乗ってくる。 御師の使いの者が、先に立って、 「さあさあ、これじゃこれじゃ。 さあどなた様も、ここで御休息なさいませ。」 と案内してくると、かごは残らず茶屋の角にとまってしまう。 どうやら太太講は江戸の者らしく、いずれも全身絹の優雅な身なりで短い太刀を腰に挿している。
連中はめいめいかごを出て座敷に通りだしたのだが、その中の一人の男が弥次郎兵衛を見つけて、 「いやこれはどうだ。弥次殿きさまも参宮か。」 と声をかけてきた。 弥次郎兵衛はびっくりして見れば、町内の米屋の太郎兵衛である。 江戸をたつ時この米屋の払いをしないでないしょで旅立ったので、何となく居心地が悪くて弥次郎兵衛はしょげかえって、 「や、これは太郎兵衛さまか。よくお出かけなさいました。 しかしここで、あなたのお目にかかってはめんぼくない。」 と、頭を下げる。 太郎兵衛は、ニコニコしながら、 「いやいやわしも仲間の太太講で、その上この連中の世話役というものだから、しかたなく出かけたがよい所であった。 旅先ではとかく、同じ国の人が懐かしい。 まあ奥に来て、一杯やろうじゃないか。」 と誘ってきた。 「ありがとうございやす。」 と弥次郎兵衛は、かしこまっている。 「連れは誰だ。ははあ、まんざら知らぬ顔でもない。」 と太郎兵衛は、北八を見つけてそう言うと弥次郎兵衛の方を見て、 「そうだちょうどいい。太太講に参加しないか。 それも飛び入りとなると、ちょっとばかりだが金が出るから不躾だがわしらの供になると、一文も使わず腹いっぱいご馳走になっておがまれるというものだ。どうだ。」 と、言う。
弥次郎兵衛は、ちょっとびっくりして、 「それは願ってもないことで、ありがとうございます。 しかしそんな事が出来ましょうかね。」 と問うと、太郎兵衛が、 「はてわしが講親だもの。どうにでもなる。まあ、とにかく奥に来い。」 と弥次郎兵衛をつかまえて奥に連れて行こうとする。 「はいそれなら。すまんが上方の。ちょっとばかりここで待ってくんなせえ。」 と弥次郎兵衛は振り向きながら、連れの上方者にいうと、 「よいわいの。いってきなさい。」 と、言っている。
太郎兵衛が、 「さあさあ二人とも、こっちこっち。」 とこの太郎兵衛にいざなわれ弥次郎兵衛も北八も、わらじをとって奥に通る。 この間上方者は店先でひとり、酒など飲んで待っていることにした。 奥では太太講の事なので御師よりのご馳走で、さいつおさえつ大騒ぎの真っ最中である。 と又表に一群れのかごが、十、四五ばかりやってきた。 この連��も太太講らしく、御師の使いが先にたって案内する。 かごかきが、 「ほう、よいよい。えっこらさっさっさ。」 とこれも同じく、この茶屋に入ってくる。 御師の使いが、 「さあさあ、御案内御案内。」 と言いながら連中をこの茶屋に通すと、茶屋の女中が、 「いらっしゃいませ。さあ、奥へお通りなさいませ。」 と奥に上げる。 女中はすぐに酒と肴を持ち出して、太太講、二組の大騒ぎが始まった。 さてこの座敷でもいろいろあったのだが、あまりクダクダしいので略す。
やがて奥の酒盛りも終わりお立ちといことになったのだが、なんと二組の太太講がいっしょになってしまった。 わいわいがやがやと二組の太太講が奥から出てくると、最初の方の御師の使いが一番先にたって、 「さあさあおかごの衆これえこれえ。どなたもさあおめしなされませ。」 と、あっちこっちをかけまわりかごにのせ始める。 それより遅れて後から来た方の、御師の使いも同じく駆け回りて、 「こちらのおかごは、これへこれへ。」 と横付けして、みなを乗せ始めた。
米屋の太郎兵衛はろれつの回らない口調で、弥次郎兵衛の手をとると、 「おい弥次公。貴様は俺のかごに乗っていけ。」 と弥次郎兵衛に言ってきた。 「いや、とんだことをおっしゃる。」 と弥次郎兵衛は、手を振り払い言う。 「いや俺はここから、酔い覚ましに歩いて行く。 貴様、洒落に乗っていけ。」 となおも太郎兵衛がしつこく言うので、弥次郎兵衛は、 「なるほどそれなら、乗らしてもらおう。」 とかごに乗ることにした。
さあ、お立ちじゃと両方のかごがいっしょに担ぎ上げると、混雑しているからかそれともただの間抜けか弥次郎兵衛の乗ったかごの人足は、後から来たほうのかごの中へ紛れ込んだのに気が付かないでさっさと担いで行く。 ところが他の連中もこの混雑の中で、誰もそれにきがつかない。 だんだんと急いでいくほどに、山田のまん中すじかいという所で米屋の太郎兵衛がいる太太講は内宮の御師へ行くので左へ、もう一つの太太講は外宮の御師なのでここで右の方に行きやがて、田丸街道の岡本太夫宅に着いた。
門前には盛り砂がありほうきで掃き清められ、更に打ち水で清められている。 玄関には幕がはってある。 御師が羽織・袴で迎えに出ると、太太講の連中はみなかごを降りて玄関から奥に入って行く。 弥次郎兵衛も促されるままに座敷に上がったのだが、みな知らない顔ばかりである。 それもその通りである。 かごかきの失敗で間違った方向にやってきたのだから。
「はて、どうしたことだろう。もしもし米屋の太郎兵衛さまはどこにいらっしゃいます。」 と弥次郎兵衛がうろうろしていると、そばにいた男が、 「なんじゃいな、太郎兵衛さんとは。わしゃ知らんわいな。 それにお前さんはまるっきり見ん顔じゃが、誰じゃいな。」 と、詰め寄って来た。 「はい。私はそれ太郎兵衛さんの町内のものじゃが、はてなんだか場違いな気がする。北八はどうしたろう。」 と弥次郎兵衛が無性に、うろうろきょろきょろとまごついていると、みんなもびっくりして互いにそでをひきあいて荷物を片側に寄せてささやきあいだした。
つづく。
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FRaU 2019年11月号(No.534)美しくなる、秋田への旅
講談社
「白神山地、清らかな水を巡る旅」取材、執筆
「美しい友、秋田犬」取材、執筆
「秋田の手しごとに宿るもの」柴田慶喜商店、白岩焼和兵衛窯、中川原信一、藤木伝四郎商店本店 取材、執筆
「今行きたい、あたらしい秋田!」角館山荘侘桜 取材、執筆
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たち��、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、���い世代に後事を��し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で���ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の���期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(���衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメート��夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変��わずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタ��プでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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三十石 1/2
京都見物にまいりましたふたりの男が、円山二軒茶屋、八坂の塔、高台寺、清水坂、大谷鳥辺山、大仏さん、耳塚三十三間堂と見物いたしまして、でてまいりましたのが、伏見街道でございます。 「さあ、早よう歩き、なにをぼーっとしてるねん?」 「べつにぼーっとしてるわけやないけど、なんぞ子どものみやげを買《こ》うて帰ろうおもうて、なにを買おうと、思案《しあん》してるねん」 「ほな、伏見人形でも買うて帰りいな」 「伏見人形てなんや?」 「この稲荷山の土で焼いた人形や。ここの人形はな、持って帰って破れても、その土が、もとの稲荷山へかえるというねん」 「ほう、えらいもんやな……そんな人形を売ってるか?」 「このへんは、人形屋ばっかりや……みてみ。だんだん職人がじょうずになるのか、器用になったんか、人形も焼き物とみえぬ羽二重細工《はぶたえざいく》のようやろ? ……どうや? 所帯道具かて、なにひとつないものはないわ。みな焼き物でできてるやろ?」 「そうかいな? ……けども、みわたしたところ、横槌《よこづち》がないな」 「これっ、焼き物の横槌がつかえるか?」 「おまえ、焼き物でなんでもあるというたがな」 「そら、いうたけど、焼き物の横槌があるかいな……そのほかのもんなら、あるというねん」 「ほうきがない、ほこりたたきがない。十能《じゆうのう》がない」 「おい、おまえ、ないものばっかり選《よ》ってるがな。あの棚にある大黒さんが、えびすさんの耳をほじくっている。あの肉づきといい、にたっと笑うてるとこは、ものでもいいそうやな」 「やあ、こっちののれんのあいだから首をつきだして、鼻たらしてる丁稚《でつち》もようできてるわ」 「どれいな?」 「あののれんのあいだから顔をだしてるやないか」 「あほ! あれは人間やがな」 「ああそうか……人形屋はん、ごめんなはれや」 「おいでやす。どうぞおかけ」 「おまえ、どれでも売るかえ?」 「へえ、どれでも商《あきな》います」 「ほな、あののれんのあいだから首だしてる人形、あれ、きれいに鼻ふいてなんぼや?」 「のれんのあいだから首だしてる人形? ……これ、あたまひっこめてい……あれは、わたしのせがれで……」 「なんや、おまえはんのむすこか……けったいなむすこをこしらえたんやな。あんなせがれ、大きなってもろくな者になれへんで、いまのうちに売ってしまい」 「ひとりしかないせがれを売ってしもうたら、跡とりがなくなります」 「なかったら、またこしらえたらええがな」 「こしらえたらええがなというて、じきにできるものやおまへん」 「そこをうんときばって……」 「なにほどきばったかて、わたしのような年になったらだめどす」 「ほな、わいが手つどうてこしらえよか?」 「いや、それにはおよびまへん」 「そうか。わいならすぐこしらえるんやがな。おしいな……棚にあるあたまの長い人形、あれはなんや?」 「へえ、福禄寿《ふくろくじゆ》どす」 「なんぼや?」 「あの福禄寿、百七十文どすが、百六十にまけておきます」 「なんや? 百六十が百七十やが、百六十にまけるのか?」 「いいえ、福禄寿、百七十を百六十にまけますので……」 「ややこしいねだんやな。値を聞いて肩がこってしもた……この小さい人形は?」 「へえ、この人形は、肌身につけていただきますと、��などに酔わぬまじないで……」 「これはなんや?」 「へえ、寝丑《ねうし》と申しまして、子どもに瘡《かさ》ができましたら、この丑《うし》に、坊《ぼん》の瘡を食べてくれ、嬢《いと》の瘡を食べてくれとたのむと、ふしぎとその瘡がなおりますねん」 「ふーん、お医者はんみたいな丑やな」 「値はなんぼや?」 「三百だす」 「この小さい、きたない寝丑が三百とは、ねうしがないな……やあ、いろいろな丑があるなあ」 「へえ、これが黒丑で、これが赤丑、こっちが斑丑《まんだらうし》だす」 「ああ、さよか……ほな、背なかにすき鍋を背負うて、なかに葱《ねぶか》と焼き豆腐いれると、ジューと鳴く丑はないか?」 「そんなすき焼きみたいな丑はおまへん」 「とにかく、寝丑と、この小さい文づかいと虚無僧《こむそう》の人形をもらうわ。みんなでなんぼや?」 「へえ、五百だす」 「だれがぼやくねん?」 「いえ、ぼやくやおまへん。五百だす」 「ああそうか……ほな、銭はここへおくで」 「ありがとうさんで……」 「えらいじゃまをしたな。それ、みやげができた」
やってまいりましたのは、伏見寺田屋の浜で、夕方になりますと、三十石の夜船に乗るお客さんを呼んでおります。 「へえ、あんさんがた、お下《くだ》りさんやおまへんか? もし、そちらの顔の色のわるいかた、あんた下《くだ》らんか?」 「いや、結《けつ》して(便秘して)こまってんねん」 「おい、なにいうてるねん」 「え?」 「結してこまってるとは、なんのこっちゃ?」 「あの人が、わての顔をみて、下らんかというてたずねてはるさかい、結してこまるというたんや……わてな、一昨日《おとつい》から便所《ちようず》へいかずや」 「ちがうがな。船に乗って大阪へ帰ることを下らんかというてるのや」 「ああ、そうか。ほな、大阪へ帰って下ります」 「そないていねいにいわんでもええ……おい、船はすぐにでるか?」 「へい、すぐにでます。どうぞご一服を……」 「そんなら待たしてもらおう」 二階へあがりますと、お客さんがたくさん待っておりますが、そこへまいりましたのが、船宿の番頭さんで、 「へえ、どちらさんも、えらく長らくお待たせいたしました。もうほどなく船がでます。今日《こんにち》は、えらいおつかれのことでござります。宿の番頭でござります。みなさんのおところとお名前を帳面に書かしていただきます。役場へとどけますのんどすが、どうぞてんご(じょうだん)をいわんように、ひとつていねいにいうていただきとうおす……ええ、あんさん、どちらさんでござりましょうか?」 「わいはな、大阪船場っ」 「わあ、きたないな、つばがはねまっせ……ええ、大阪船場どすな」 「今橋二丁目」 「へ……ええ、お名前は?」 「鴻池善《こうのいけぜん》右衛門《えもん》」 「ええ? ……鴻池はんのお手代《てだい》で?」 「いやいや、手代やない。わいが鴻池善右衛門」 「そんな、あんた、無茶いうたかてあきまへんで……鴻池はんにはごひいきになっておりますので、よう存じております。鴻池��旦那《だん》さんは、もっとよう肥えてはったようにおもいますが……」 「米高がこたえて、どかっとやせたんや」 「米高��やせた? てんごばっかりおっしゃって……もうすこうし背が高かったようにおもうてますが……」 「道中をして歩いてるうちに、ちびって背が低うなったんや」 「ちびった!? なにいうてなはる……そっちの旦那《だん》さんは?」 「おいどんは、鹿児島は本町通り二丁目、西郷……」 「え? 西郷!?」 「西郷ひくもり」 「どうぞなぶらんように……そっちのおばあさんは?」 「みずからは、小野《おのの》小町」 「いやあ、きたない小野小町やな。みずからちゅう顔やないわ。塩辛《しおから》みたいな顔をしてなはる。そっちの坊《ぼん》は?」 「ムチャチボウベンケイ」 「なんや、お子たちまでなぶりなはる……そっちのご出家は?」 「愚僧は、高野山弘法大師、これなるは、円光大師……おんなぼきゃ、べろしゃな、まかぼたら、まにはんどまじんばら、ばらはりたやむ……真言経を二十一ぺん書け」 「どうぞなぶらんように、ていねいにいう��おくれやす……あんさんは?」 「ほなら、わたし、ていねいにいうよって、ていねいに書いてや」 「へい、ていねいに書きます」 「仮名で書いてや」 「へいへい、仮名で書きます」 「おうさかより、さんりみなみにあたる、せんしゅうさかい……」 「それなら、最初《はな》から泉州堺でええのどす」 「ていねいにと、いうたやないか」 「ていねいすぎますがな……泉州堺……へえへえ」 「だいどうくけんのちょう、ほうちょうかじきくいちもんじかねたか、ほんけこんぽんかじもときゅうざえもん、なごやししんまちどおりにちょうめ、おなじくしてん、にょうぼ、さよ、せがれ、まんきち」 「もし、それはなんどす?」 「こんどな、堺から名古屋へ庖丁《ほうちよう》の店をだそうとおもうねんが、ちらし(広告)のところ書きは、それでわかるかしらん?」 「知らんがな、そんなこと……そちらさんは?」 「わいは、大阪|西渡海里町《にしとかいりちよう》じゃ」 「へえへ、こりゃほんまや。大阪西渡海里町、へえへ、お名前は?」 「八文字屋徳兵衛、近江屋|卯兵衛《うへえ》、福徳屋万兵衛、大黒屋六兵衛、大和屋徳七、河内屋太郎兵衛、紀州屋源助、泉屋与兵衛、浪花屋清七、山城屋喜三郎、堺屋治助、赤穂屋太三郎、備前屋佐兵衛、讃岐《さぬき》屋喜平、肥前屋角兵衛、伊勢屋三郎兵衛」 「えーえ、おっしゃったのは、どなたはんとどなたはんどす?」 「おっしゃったのは、こなたはんおひとりや」 「え? おひとりで? ……あの……名前をぎょうさん書きましたが……これなんどす?」 「去年、うちのおとっつあんが死んでな、香奠《こうでん》をもろうたんやが、香奠がえしをせんならん、何軒あるやろ?」 「もし、うだうだいいなはんな。帳面がまっ黒になりましたがな」 番頭はん、ぶつぶついいながら下へおりてしまいました。 しばらくいたしますと、川から船頭の声が聞こえてまいります。 「さあ、だしまっすぞー」 この声に、みながどやどやと下へおりてきますと、下では、女中さんがべんちゃら(お世辞)を申しております。 「へえ、どなたさんもおしずかにどうぞ、おはようお上がりを……もし、��んたはん、わらじをお召しにならんでもよろしゅうござります。すぐに船に乗るのんどすので、そこにてまえかたの下駄がおす。それをはいてお越しあそばせ。川端へぬいでおいていただきましたら、わたしのほうの焼き印が押しておすので、あとでひらいにまいります……あの、あんさんのお弁当、これにこしらえてござります。なかに高野豆腐《こうやどうふ》がはいってござります。お汁《つい》は、しぼってござりますが、せっかくのお召し物にしみがつくといきまへんので、わらび縄でさげるようにしておす。どうぞ、さげてお越しあそばせ。ありがとさんで。どうぞおはようお上がりを、ありがとさんで、おしずかにお越しあそばせ……まあ、これは、船場の旦那《だん》さんどすかいな。おみそれ申しておりまして、まことに失礼をいたしました。まあまあ、これはこれは、坊《ぼん》さん、大きゅうおなりあそばしたことわいな。先年お越しのときは、乳母《おんば》さんに抱かれてござったのに、こんなに大きいおなりあそばして、かわいおすわいな。お帰りになりましたら、ご寮《りよう》人さん(奥さん)によろしゅういうていただきますように……さきほどは、ご祝儀《しゆうぎ》をいただきまして、ありがとうさんどす。あの、おもよどんという女中《おなごつ》さん、まだ奉公しておられますか? まあ、さようでござりますか。ご忠義なおかたわいな。どうぞお帰りになりましたら、寺田屋の竹が、『よろしゅういうてくれと申しました』と、いうていただきますように……さよーならー、どなたもおしずかにお下りやーす」 「わあ、あいつ、なんや? 大きな口あきよったな」 「みんなのあたまへおしずかにをふりかけよったんや」 「ああ、そうか。ほな、さよーならー」 「これ、おまえ、なにしてるねん?」 「うん、あいつがおしずかにをふりかけよったんやさかい、わいは、さよならをゆすりこんだったんや」 「そんなしょうむないことをしないな」 「おーい、早よこい、早よこい」 「どなたもおしずかに……」 「早よこい、早よこい」 「おしずかに……」 「おい、おまえ、女中《おなごし》と船頭とみくらべて、なにうろうろしてるねん?」 「船頭は、早よこいというし、女中《おなごし》はおしずかにというし、どないしたらええねん?」 「なに、あほなこというてんねん、早ようこんかいな」 「おーい、お客さんがた、早よこい、早よこい」 「船頭はん、このお客さん、ひとりで五人前とっとくれ。こちらのお客さん、ひとりで二人前、三人で五人前、二人で三人前とっとくれ」 「あれは、なにをいうてよるねん?」 「あれはな、ひとり前の場所やと、混《こ》みおうてくると、坐ってられへんさかい、ひとりで二人前とってゆっくり坐るとか、三人で五人前の銭を払うて足をのばすとか、ひとりで五人前の場所買うて寝るとかするねん」 「ああそうか……おい、船頭はん、ふたりで、ひとり前とってんか?」 「なんやて? ひとりでもせまいのに、ふたりで、ひとり前どうして坐りなさる?」 「ひとり坐って、ひとり肩車するねん」 「そんなあほな……肩が痛《いと》うて、大阪までいかれへんがな」 「肩が痛うなったら、枚方《ひらかた》で、上と下と交替するわ」 「なにいいなさる。早よう乗りなされ」 お客さんが船に乗りこみますと、それへ物売りがまいります。 「どなたも、おみや(おみやげ)はどうどす? おみやはどうどす? おちりにあんぽんたんはどうどす? 西《にし》の洞院紙《といんがみ》はよろしおすか? おちりにあんぽんたん……もし、あんた、あんぽんたん」 「こらっ、なにぬかしやがるねん。あっちへいけ」 「おい、おまえ、なにをおこってるねん?」 「この物売り、わいの顔みて、あんた、あんぽんたんやいいよるねん」 「そりゃ、おまえのことやない。あんぽんたんという菓子の��やがな」 「ほんまか?」 「かきもちのふくれたんに、砂糖の衣《ころも》がかかったあるのや」 「ふーん、おかしな名やな」 「東山というのやが、俗にあんぽんたん」 「そうか……おちりてなんや?」 「ちりがみのことを、京ことばで、やさしくおちりというねん」 「ほな、便所へいたら、おちりでおちり(お尻のしゃれ)をふくか?」 「きたないしゃれをいいな」 「西の洞院紙てなんや?」 「大阪ですきなおし、京で西の洞院紙、江戸で浅草紙いうねん」 「えらい名がかわるねんなあ」 「まあ、ところによって名がちがうのやな……大阪でなんきんを、京でかぼちゃ、江戸で唐《とう》なすというそうな。ところによって唱《とな》えがかわる。浪花《なにわ》の芦《あし》も伊勢の浜荻《はまおぎ》というでな」 「妙なことをいうねんな。こらっ、物売り、買えへんわい。あっちへいけ!」 「まあ、あんたはん、いっかいお声どすなあ」 「こらっ、いっかいといわずに、大きいといえ」 「そんなことをおいいかて、京のことばや、しかたがおへんえ」 「なにいうてんのや。京がどれだけえらいのや?」 「京は、王城の地どすえ」 「なんや? 王城の地? ……青物ばっかり食《くろ》うて往生の地やろ?」 「まあ、あんなことおいいる。京は、一条から九条まで法華経普門品《ほけきようふもんぼん》が埋めておすえ」 「そんなもん埋めんと、ちょっと石でも埋めえ。歩きにくうてかなわんわい」 「あんなことをおいいる……京の御所のお砂をおつかみてみ」 「なんぞになるのか?」 「どんなおこり(熱病)でもおちるえ」 「おこりがおちる? ……ほな、大阪の造幣局の金をおつかみてみ」 「おこりがおちるんどすか?」 「首がおちるわい」 「おい、そんな無茶いいないな……物売り、怒って行《い》てしもうたわ」 「京のやつがものいうと、生《なま》ったれてるんので腹が立つ」 「そんなこというたかてしょうがない。郷《ごう》に入《い》っては、郷にしたがい、ところに入っては、ところにしたがうということがある。そう、おまえのようにいうもんやない」 「けったくそがわるい。寝てこまそ」 「これ、お客さんよ、こんなとこへ寝なはったら、じゃまになるがな。のきなはれ」 「こらっ、なにをしやがんねん、人のあたまをなぐりやがって……」 「お客さんよ、船頭はしておりますが、お客さんのどたまをどついたりはしません」 「いいや、いまなぐりやがったわい」 「どつきやしまへん。じゃまになるで、どきなはれと突いたで、おまえのどたまが鳴ったんじゃろう」 「こらっ、人のあたまをなぐっといて、鳴ったんじゃろとはどうや?」 「どつきやしまへん。どきなはれと突きや、おまえのどたまが鳴ったんじゃろ……よう鳴るどたまじゃ」 「こらっ、よう鳴るどたまとはなんじゃい? 太鼓みたいにぬかしおって……なぐったわい」 「おまえさんは、なぐったといいなさる。おれは、なぐらんという。こりゃ、おさまりがつかんがな……おまえさん、なぐったといいなさるなら、なぐられたという書き証文持っとるかい?」 「こらっ、なにいうてんのや。なぐられるのに、いちいち証文を書いてなぐられるやつがあるかい」 「これ、角《かく》よ」 「おーう」 「いつまでお客人をとらまえて、からこうとるかえ? ……お客さんよう、そいつは、国からでてきて、まだ間がない者じゃで堪忍《こらえ》まいよ」 「おまえのようにやさしくいうてくれたらええのに、人のあたまなぐっといて、よう鳴るどたまやというによってに、腹が立つねん」 「それじゃから、こらえまいよというのじゃ」 「そういてくれたらええの���。銭をだして乗ったら客や、その客のあたまをなぐるというやつがあるか?」 「それじゃから、こらえまいよというのじゃ。銭をだしたといいなさるが、この船は、船行船《せぎようぶね》(水死人を供養するための川施餓鬼をおこなう船)じゃござんせんで、銭ゃあいただきます……こらえまいよというに、こらえられんか? こらえられんなら、こらえられんとぬかしてみくされ。どたまからかちまく(なぐる)ぞ」 「うわあ、こわやの。あいさつ人の船頭のほうがこわいわ。どたまかちまくいいよる」 「そやかて、おまえがわるいがな。船頭の通り道に寝てるよってに……」 「船頭になぐられるわ、おまえにしかられるわしたら、わいの立つ瀬がないがな」 「そないに怒りいな。あないにいうてるが、馬方、船頭、お乳《ち》の人というて、ことばは荒いが、気立てはええもんや。あないごつごついわんと、この大きな船がうごかされへん。馬方かてそうや。馬の手綱持ったら、年中怒ってよる。『どう、長いつらさらして、張りたおすで! どちくしょうめ! 脛節《すねぶし》いがんでるがな』……まあ、ようあんな無茶いいよる。むかしから、馬の丸顔みたことないで。みんな長いもんや。馬かて張りたおされたら痛いよってに、顔をみじこうしたいやろが、でけんさかい、気のええもんで、鼻で笑うてる、『ヒヒン』とな……『どちくしょう』て、馬はちくしょうにきまってる。脛節いがんでるて、いがんでるので歩けるのや。まっすぐやったら歩かれへんがな。けどな、ああいうよってに、馬がうごくねん。やさしいのがええというて、京ことばで馬を追うてみい。馬はうごけへんで……『ちゃいちゃい、お歩きんかいな? なにしとるねん、あんたはん、長《いか》いお顔どすな。お足《みや》ゆがんどすえ』というてたら、馬が、『そうどすか』いうて、寝てしまうわ。船かていっしょや。『どきなはれっ』てな調子でやるさかい、船がうごくねん。なあ、船頭はん」 「やかましいわい」 「それみい。おまえのために、わいまで怒られるがな」 「おい、船頭はん、早ようだしいな」 「おい、だしますぞう!」
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| 下午茶.東京.吉祥寺 | 【Hattifnatt】滿滿童趣插畫的療癒下午茶---大人也可以童心未泯!
之前說好了要把東京行特別喜歡的地方,
用單篇的方式來詳細的分享一下~
第一彈就要介紹給大家這間位在吉祥寺、超療癒的咖啡廳
『Hattifnatt』。
常常覺得自己還是個小孩,沒想到已經出社會四年了...
來到這裡,終於可以堂堂正正的幼稚了!!!
因為『Hattifnatt』就是一個繪本小世界,
走進去,妳就是童話故事的主人翁~♥
從吉祥寺站的北口出來以後右轉,
沿著高架橋一路直走,大約走10~15min就會抵達,
店面小小的,很像小精靈住的地方。
光是店門口就可以感覺到這間小小咖啡廳,肯定是萌度破表的!
167公分的我得稍稍低頭才能進得去,
這是為小隻女設計的店嗎?
看到一樓小小又溫馨的座位,已經覺得很療癒了,
但不要急,二樓才是焦點喔!
沿著超級小又超級窄的樓梯,直通二樓,
(這裡真的是小矮人的家,身高超過170以上在裡面看起來就是巨人了!)
二樓的牆面,是滿滿的插畫啊啊啊啊啊!!!
而且全部都是由我超喜歡的插畫家夫妻
『marini*monteany』所繪製,
是真的一筆一畫,親筆彩繪的牆面喔~
在這個有好多小動物、
小男孩、小女孩的夢幻森林裡一起下午茶真是太甜蜜了♡
本篇原文連結:
http://lala198942.pixnet.net/blog/post/43483080
環顧四周,幾乎每個角落都被插畫包圍著,而且圖案沒有重複~
不管坐在哪一個座位都可以享受到獨一無二的可愛壁畫喔!
小小窗框裡,是誰在看你呀?
木頭鋪的地板和木質的桌椅,一整套溫馨感覺^__^
鮮豔繽紛的色彩,讓人心情整個UP UP!
還有插畫家的水彩作品懸吊在空中呢!
連MENU都超卡哇伊!
以下附上完整MENU內容~
(也可以直接上官網看更清楚唷►點我到官網)
熱飲的拉花太萌!
(怎麼辦整篇詞窮,除了可愛、萌、療癒、卡哇伊,我已經說不出別的啦!!!)
本次點了:抹茶拿鐵、焦糖牛奶和拿鐵,都是熱的~熱的才有拉花。
鹹食的部分沒有嚐到有點可惜~期待下次
蛋糕都是家常手作的風格!
點了生巧克力燒(第一排左邊數起第三個)
和南瓜蘋果蒙布朗(第二排左邊數起第三個)。
如果有朋友生日,還可以事先預定客製的生日蛋糕唷!
不僅壁畫是marini*monteany的作品,連餐具也是唷!
水杯長這樣,太犯規了吧!!!!!!
(等等告訴你哪裡有賣這水杯~請看到最後~)
接著來看看我們的下午茶長什麼樣子嚕~
將將!
全員大集合~
本次下午茶的甜點和飲品們☺
拿鐵跟抹茶拿鐵的拉花是小男孩兒,焦糖牛奶是小熊熊。
抹茶頗甜的,覺得沒那麼適合搭配甜點,會有點膩!
可是上面的小男孩真的勾錐的我不要不要der...
焦糖牛奶的熊熊拉花是我最喜歡的,
但味道卻是我最不喜歡的XD
因為真的甜得過頭了,我要水~水~
(一秒變海倫凱勒...Wa..wa..water)
小男孩拿鐵是這次表現最好的乖寶寶,
就屬你最適合配甜點嚕~
無糖最美,甜點相隨~
表情超俏皮!
南瓜蘋果蒙布朗,
外層是南瓜蒙布朗,裡面是冰涼涼的蘋果
(認真的蘋果,不是蘋果醬)
但蘋果真的滿冰的,還好我沒有敏感性牙齒~哇哈哈!
基底是千層派皮。
生巧克力燒,基本上就是滿滿的生巧克力啦!!!!
(只是有烤過)
搭配著跟巧克力最麻吉的新鮮覆盆子,
整體來說滿濃郁的,搭配拿鐵剛剛好,
可是如果跟含糖的飲量一起服用的話...
(咳咳)
真的會太甜啦!
對了對了,其實這裡還有三樓喔!
但是大概只有個頭比較小的上得去,
如果帶個身高180的男友恐怕會把屋頂頂破...
廁所也是好迷你,旁邊的門已經夠矮了,廁所門更矮~~
呼叫愛麗絲,我需要縮小藥水!!
嗯...身高過高的男士們請憋尿吧(!?!?)
沒有啦,開玩笑der~XD
彎個腰,還是過得去的喔(燦笑)
以上Hattifnatt,總結一個字
”萌“。
什麼都不必談,
就讓我坐在裡面揮發掉憋屈了一整年的少女心吧!
啊啊啊,差點忘記要告訴大家那個水杯哪裡買。
就在Hattifnatt的隔壁,有間幾乎跟Hattifnatt長得一模一樣的小屋子,
那是個雜貨舖!裡面賣很多不同插畫家自創品牌的小東西,
當然也有marini*monteany的商品嚕~
從窗外就可以看到啦~超可愛,
水杯竟然有那麼多顏色啊啊啊!!!
雖然我最後沒買水杯,
但還是手滑買了別的東西...
明信片和收納購物袋簡直不下手都很難啊~~
到Hattifnatt下午茶,務必要到這間小雜貨舖逛逛唷!
希望大家跟我一樣有被吉祥寺的這間繪本咖啡廳萌到
^__^
趁著冬天還沒結束,一起到東京吉祥寺把心情也變得暖暖的吧!
(ps. Hattifnatt有兩間!本次是到”吉祥寺“店,別找錯地方嚕~)
店家參考心心值(滿分五顆心):
環境 ❤ ❤ ❤ ❤
服務 ❤ ❤ ❤ ❤
美味度 ❤ ❤
位置 ❤ ❤ ❤
整體值得造訪 ❤ ❤ ❤ ❤
店家資訊:
►官方網站:
http://www.hattifnatt.jp/
►官方FB:
https://www.facebook.com/hattifnatt.jpn
►官方IG:
https://www.instagram.com/hattifnatt_kichijoji/
►電話:
0422-26-6773
►地址:
東京都武蔵野市吉祥寺南町2-22-1
►地圖:
延伸閱讀咻咻傳送門:
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塵封百年的彩照
美國國會圖書館近來公布一批非常珍貴的攝影作品,它們是沙俄時期的攝影家及化學家謝爾蓋·普羅庫丁-戈爾斯基在1905年~1916年間所拍攝的彩色照片,至今已經有一百多年的歷史。
自攝影誕生的那天起人們就對彩色攝影有了追求,但在1960年代之前,黑白攝影一直是主流。而商業化的彩色攝影技術其實在1930年代就出現了,1935年,柯達公司推出了革命性的Kodachrome膠卷。可當時的黑白攝影技術已經成熟,無論膠卷顆粒的細膩度,還是對光的敏感度正趨於完美。而且彩色膠卷的沖印極其昂貴繁雜,柯達公司當時的口號是"You press the ,we do the rest",即"你只須按下快門,剩下的全由我們來做",顧客拍完照後,要將膠卷寄給柯達公司沖印,再將底片和照片寄回給顧客。攝影界主流也一直視彩色攝影為旁門邪道,認為黑白攝影才是真正的攝影。這種情況一直到上世紀六十年代,柯達公司的柯達彩膠Kodachrome開始在市場大力推廣,同時Agfa公司開發的小型沖印設備也普及開來,社區內的照相沖洗店就能沖印彩色膠卷,而勿須寄往柯達公司的大型沖印車間。到七十年代彩色攝影的成本愈趨下降,才得以進入千家萬戶而被廣泛接受。
至於中國國內,彩色攝影要到八十年代才開始普及,因為與彩色攝影相關的基礎設施,如彩色膠卷制造,彩色沖印設備,彩色沖印所需的化學藥劑都需要極大的人力、物力、及財力的投入。我記得1983年在南京青島路中學的初中畢業照就是黑白照片。以南京作為省會城市,又處於東部沿海地區,在初中畢業的場合還只能用黑白照片,可見當時彩色攝影在國內還沒有普及開來。
世界上第一張彩色攝影影像,拍的是花格呢打成的花結。
其實,人們對彩色攝影的追求早就開始了。1861年,蘇格蘭數學家、物理學家James Maxwell,就是那位推出號稱物理學中最優美的方程組 --- 麥克斯韋電磁方程的人,他拿出世界上首張彩色影像。在該年皇家學會一場關於色彩理論的講座上,麥克斯韋爾依據三原色分析及合成的原理,首次演示了彩色攝影。單反相機的發明者托馬斯·薩登(Thomas Sutton)是實際的操作拍攝者。因為他們兩人都以蘇格蘭人為榮,所以就以蘇格蘭傳統服飾,一個用花格呢打成的花結為拍攝對象,分別在鏡頭前加裝紅色、綠色、及藍色濾光片拍攝了三次。然後再以三架投影儀分別加裝紅、綠、藍三色濾光片,將前面拍攝所得的底板上影像合成重疊投影到一塊屏幕上,就得到了彩色影像。因為薩登所用的照相膠板對紅光根本不敏感,對綠光也僅略微敏感,所以拍出的結果遠稱不上完美。如今看到的這張保存下來影像中的紅色部分其實是膠板上的鹵化銀顆粒對紫外線的感光結果。這也是為什麽早期的攝影暗室裏可以點紅色燈泡,而不用擔心沖洗膠卷過程中意外曝光。
另一位在此領域的開拓者是德國科學家阿道夫.米特埃(Adolf Miethe)。米特埃是位感光化學家,他發現單純鹵化銀晶體顆粒無法吸收紅光波段的能量,所以不能對紅光感光。經他研究發現有一類化學物能吸收紅光波段的電磁波,同時又會放出另一波段的輻射,而後一波段的輻射卻能為鹵化銀所吸收並感光。這就是攝影技術裏致敏作用的原理。此舉極大改善了黑白攝影材料的全光譜性能,而該種性能可以運用於彩色攝影。1906年,米特埃還坐進熱空氣球進行了歷史上首次空拍。
謝爾蓋·米哈羅維奇·普羅庫丁-戈爾斯基出生於俄國的一個具有悠久軍事傳統的貴族家庭。後來他舉家遷往聖彼得堡,謝爾蓋就在此進入聖彼得堡的帝國理工學院學習化學,他師從於著名的俄國化學家,發現元素周期律並制定首張元素周期表的門捷列夫。同時他還在帝國藝術學院兼修音樂與繪畫。
1890年,普羅庫丁-戈爾斯基與安娜·拉夫羅娃結婚,他嶽父是當時俄國著名的工業家,並且還是俄國帝國技術學會的會員。普羅庫丁-戈爾斯基因此成為拉夫羅夫家族金屬公司的董事長,並加入了俄國最悠久的攝影協會,即帝國技術學會的攝影技術分部。他在會中發表論文,還舉辦攝影科學的講座。
普羅庫丁-戈爾斯基所采用的攝影方法沿承於麥克斯韋爾,但憑當時所能得到的攝影材料無法拍出好的效果。1901年,普羅庫丁-戈爾斯基在聖彼得堡創立了自己的攝影工作室及實驗室。自此,他終於有了自己的攝影化學實驗室,可以對彩色攝影中遇到的各種化學過程進行研究,探索,及改善。1902年普羅庫丁-戈爾斯基首先在學會裏闡述了運用三色攝影來制作彩色幻燈片的技術。
改善彩色攝影有兩條途徑,第一是加快曝光速度,這樣就能拍攝到快速移動的事物狀態;第二是提高復制相片的可能性,普羅庫丁-戈爾斯基在此兩方面都有所建樹。
該年,他前往柏林,在當時位居德國攝影領域最前沿的感光化學教授阿道夫·米特埃(Adolf Miethe)手下學習色彩致敏和三色攝影技術。1905年,普羅庫丁-戈爾斯基發現了一種化學結構復雜的新型色彩致敏劑,性能明顯優於先前德國化學家Miethe和Traube所用的致敏劑。用他的致敏劑制成的溴化銀感光底板,能對可見光範圍內所有波段的光線都同樣敏感。
這些年中,普羅庫丁-戈爾斯基憑籍攝影領域的成果,發表的論文與幻燈片,在俄、德、法三國的科學家與攝影家圈子裏聲名漸著。1906年的第六屆國際應用化學大會上,他宣讀了"對自然色彩的觀測與研究"及"俄國的應用攝影"兩篇論文,期間還展示了他的作品。同年,普羅庫丁-戈爾斯基當選為帝國技術學會攝影分會的會長,並出任俄國最權威的攝影刊物《業余攝影》的總編輯。
阿道夫·米特埃說設計的彩色相機,根據普羅庫丁-戈爾斯基所留下的底板分析,他很可能使用同款相機。
米特埃於1903年設計了一款連續曝光型的高級相機,交由Bermpohl生產並推向市場。其中最常見的型號采用了一塊9厘米 x 24厘米的膠板,與普羅庫丁-戈爾斯基留下的底板尺寸符合。它還采用了不常見的藍-綠-紅的曝光次序,這也是普羅庫丁-戈爾斯基保存下來底板的特征。
照相膠板是在一片薄玻璃表面塗上一層感光膠體,當時攝影者偏好用膠板而不是軟式膠片,一方面是塑料軟式膠片尚未成熟,再則就是當三張原色底片要對齊以獲得彩色影像時,玻璃底板具有更好的平面穩定性。
普通相機也可以拍攝三張原色圖像,只是在曝光間需要更換濾色片。但早期的彩色攝影者通常自制或訂購特制的相機以便於操作並節省時間。當時彩色攝影所用的相機分為兩種類型,一類是在相機內設置一個分光器生成三束光,這樣就能在同一視角下同時拍攝並曝光在三塊膠板上。這類相機盡管理論上很完美,但其內部的光學結構異常復雜,特別精致,還易於失調。另一類更結實的相機其實就是在普通相機的機體上加一個裝有膠板及濾光片組合的滑動框架,以便每一組都能及時到位並曝光。整個操作過程可以用彈簧裝置或氣動機構來達成部分或全部自動化。
當三幅濾光影像不是同時拍攝時,任何物體如果在拍攝過程中無法保持靜止,每一幅單色成像就好出現細微的位移,三張單色膠板上的影像無法完全重疊,隨後得到的彩色影像裏,該物體的邊緣未能重疊的部分就會出現彩色條紋。若是移動過程跨越整個場景,就會出現三個色彩明顯的幻像。
攝影時的曝光時間取決於當時的光照條件、膠板的類型、以及相機的構造。至於普羅庫丁-戈爾斯基攝影時的曝光設定,後人從他留下的筆記中發現,當年他為托爾斯泰拍攝肖像時,在陽光充足的情況下還須有曝光六秒鐘。
至於彩色照片的洗印,普羅庫丁-戈爾斯基采用的是Carbro過程,具體步驟為:三張單原色的底板上的影像投影放大至三張有溴化銀塗層的紙上。每張紙再從溶有膠體色素的化學液裏浸一遍。已經曝光的溴化銀經顯影劑催化再與膠體色素結合並定影。將未定影的膠體色素洗去後,就能得到洋紅、青、以及黃的三張單色影像。這三張影像經對齊後再小心地覆蓋到一張相紙上,結果就是一幅彩色照片。這是一項非常細致而又復雜的操作,每一步都需要絕對的精確。每一張照片都使普羅庫丁-戈爾斯基耗費2~3個工作日,所以它們的成本非常昂貴,但其結果極為耐久保存。
普羅庫丁-戈爾斯基於1908年在Yasnaya Polyana為裏奧·托爾斯泰拍攝肖像的石印版。
普羅庫丁-戈爾斯基生涯中最著名的作品獲許就是為俄國大文豪托爾斯泰拍攝的彩色肖像,這幅畫像後來被翻版到眾多的刊物及明信片上,還被裝幀成畫框。由於該肖像及他於早期拍攝的俄國的風景名勝的聲名所致,俄國皇室分別在1908與1909年兩度邀請他到去展示作品。
1909年在受邀前往沙皇村展示他的攝影作品期間,沙皇非常欣賞他的成果。普羅庫丁-戈爾斯基向沙皇列舉了彩色攝影的各種用途,然後隨口說道:"陛下也許會有興趣想不時地看一下您治下真正的俄國,她的名勝古跡,還有祖國那美麗而又多樣的自然風光。" 沙皇聽了後龍顏大興,表示一定會全力支持這項計劃。可見適當場合下,馬屁是多麽的重要。
早在1905年,普羅庫丁-戈爾斯基就開始設想與規劃利用日漸進步的彩色攝影技術來系統地記錄沙俄帝國。他計劃在十年內,拍攝了一萬多幅照片。這是一個雄心勃勃的計劃,他最終目的是憑籍他的彩色光學投影儀,將這幅員廣大帝國的多元歷史、文化、及正在進行的現代化傳授給俄國學生。
根據沙皇尼古拉二世頒布的禦旨,普羅庫丁-戈爾斯基獲準對沙俄帝國全境進行彩色攝影與記錄。他將沙皇提供的一節普爾曼客車車廂進行改裝與配備成一間特種鐵道暗室。在遇上要走水路的情況,俄國交通部為他配備了一艘蒸汽輪船,包括了全班航運人員,還有一艘適合淺水航行的蒸汽船,以及一艘汽艇。為了要在烏拉爾山及葉卡捷琳娜堡周邊的烏拉爾地區拍攝,沙皇政府專門給他配備了一輛福特越野汽車。
普羅庫丁-戈爾斯基從沙皇的首相府申請到了兩張特別許可證,憑證他可以進入各禁區,還可以要求整個帝國的官僚體制配合他的計劃。從1909年到1915年間,普羅庫丁-戈爾斯基全身投入了這項工作,跋山涉水,奔波於俄國各地。同時他還舉辦了多次幻燈及圖片講座。他的攝影作品生動地展現了一個已經消失的世界 --- 即一次大戰前夕及即將面臨十月革命的沙俄帝國。他的作品主題極為廣泛,從代表舊俄國的中世紀教堂與修道院,到體現一個正在發展中工業國的鐵道與眾多工廠,再到反映俄國民族極其多元化的日常生活。
普羅庫丁-戈爾斯基於每年夏天出行拍攝。每次拍攝完成回來後,他就將攝影材料集合為冊本,展示給交通部長,然後在沙皇村演示他的幻燈片。
十月革命爆發後,因時局所限,他不得已終止該項計劃。新政府專門在新成立的攝影與電影學院內為他設立一個教授職位,但他可能已經看出風頭不對,認為像他自己這樣背景的人,在新政權下決不會有善終。於是在1918年8月離開俄國,輾轉經芬蘭、挪威流亡海外。所以說政治嗅覺靈敏的人,能夠審時度勢,只要秉持"亂邦不入,危邦不居",就一定活得命長。出國後,他繼續從事彩色攝影領域的科學研究,在英語攝影刊物上發表文章,還在德、英、法、及意大利四國申請並獲得了專利。
1922年,普羅庫丁-戈爾斯基在巴黎與他的妻兒團聚,他和他的三個成年子女合作創立了一家攝影工作室,到1930年代,年事已高的普羅庫丁-戈爾斯基將攝影工作室的日常商業經營交給了他的子女,而他自己則專註於為流亡法國的年輕白俄們舉辦講座,並展示他所拍攝的帝俄時期的照片。1944年9月27日,盟軍解放巴黎一個月後,普羅庫丁-戈爾斯基去世。
根據普羅庫丁-戈爾斯基在離開俄國前的私人記錄清單估計,他那時有約3500張底板。在出境及出口他所有的攝影材料時,俄國當局沒收了大概一半的照片,因為他們認為照片內容所涉及的信息對正處於戰時的俄國具有戰略意義。有些底板被羅庫丁-戈爾斯基當作禮物送給別人了,還有一些被他藏起來了。不過矣今為止,除了美國國會圖書館的收藏之外,還沒有發現任何一張底板。
普羅庫丁-戈爾斯基去世時,沙皇及他全家早已在俄國革命中被處決了,曾經的沙皇俄國也處於共產黨統治下。成箱的相冊與易碎的玻璃底板被保存在巴黎一棟公寓樓的地下室內,他的家屬擔心它們遭受潮濕及黴菌損害,但當時正值戰爭剛結束,歐洲大地滿目瘡痍,各國都著力於戰後重建,哪裏顧得上保存這些寶貴的資料。1948年,美國國會圖書館以3500~5000美元的價格從羅庫丁-戈爾斯基的繼承人手中買下了全部收藏。經國會圖書館清點,總共有1902張底板以及相冊中的710張沒有底板的照片。
如果要從這批底板用人工合成彩色照片,需要非常專業的設備,而且極其耗費人力及時間。所以在國會圖書館收藏該批資料後的半世紀內,只合成過一百多張照片,出版成書或供學術研究。直到數碼圖像處理技術成熟後,才使得大批快速合成彩色影像成為可能。自2000年起,國會圖書館開始計劃把所有來自普羅庫丁-戈爾斯基的影像資料轉換為數字掃描文件。該館還雇請攝影家華爾特弗蘭克豪瑟爾(Walter Frankhauser)將單色底板合成為彩色影像。他運用了數字套色法合成了122張圖像,據他反映每一幅圖像他要花費六到七個小時來對齊,清理,矯色。
2004年,國會圖書館又雇用計算機專家布賴塞(Blaise Agüera y Arcas)來開發軟件並自動地將1902張底板的高清晰圖像合成為彩色圖像。他運用了一種算法來補償曝光與所有底板色彩組成之間的差異。隨著國會圖書館將所有底板的高清圖像免費提供給大眾,許多機構或個人根據這些材料自己合成了彩色圖像,而且這些原始素材也成了很多計算機圖像處理實驗室的熱門試驗臺。
數碼合成彩色圖像的步驟,原始素材是1911年,普羅庫丁-戈爾斯基為布哈拉汗國的埃米爾 --- 阿裏姆·罕拍攝的肖像。
從普羅庫丁-戈爾斯基的底板到最後合成彩色數碼圖像的步驟:
1)普羅庫丁-戈爾斯基將一塊3英寸x9英寸的狹長玻璃膠板垂直放置於相機中,他再分別在鏡頭前加裝紅色、綠色、及藍色的濾光鏡對同一場景進行三次連續快速拍攝。
2)從普羅庫丁-戈爾斯基的相機中望去,鏡頭裏顯示的是正在拍攝場景的倒影。
3)在數碼轉化時,原來的三片單色底板水平放置後,從上方用數碼相機在灰度模式下進行掃描。圖像編輯軟件在把整片底板的掃描結果由負色轉化為本色,並將倒影轉為正常朝向影像。
4)整張底板的影像經縮減後成為8位碼的灰度模式。放大後,影像中的每一部分都要從明暗反差,色彩分離程度,膠體的損失程度,以及其它會影響最後合成圖像質量的細節等方面進行檢查。
5)全部三張掃描影像重疊對齊,邊緣未能重疊的單色模糊部分須予以切除。
6)每一組經對齊並切邊的三色底板影像組成了一個有三個層次的電子文件,每一層都要標明該層的顏色,最後的合成圖像就由這一電子文件生成。
7)在灰度模式下,��(R)、藍(B)、綠(G)三層經對齊重疊後就形成"RGB"合成色彩,此一步驟是最困難的一步。
8)RGB(紅綠藍)色彩合成影像再進行一次切邊,把所有三層共享部分外的區域切除。
9)經切邊後的彩色合成圖像須進行整體調節以獲得適當的反差,恰當的明亮與陰影細節,以及優化的色彩平衡。
10)對合成彩色圖像某些具體的,局部的區域進行微調,以便減輕普羅庫丁-戈爾斯基原本的玻璃底板上曝光過度或不足、沖印、膠體老化帶來的缺陷。
11)合成完的彩色圖像還要經過再潤色修描,以便減輕存放期間的老化與故障帶來的缺陷。
普羅庫丁-戈爾斯基的采風紀錄旅程
中亞地區 --- 1906~1911年間,普羅庫丁-戈爾斯基多次前往中亞地區,在撒馬爾罕、布哈拉、及饑餓草原等地記錄了突厥斯坦和阿富汗斯坦,即如今的哈薩克斯坦和烏茲別克斯坦。
1907年元旦(這是俄國采用的凱撒歷法,換成格利高裏公歷應該是1月14日),在位於天山的薩留克廷礦山頂上觀察全日食。
布哈拉汗國的埃米爾
布哈拉汗國的埃米爾阿裏姆罕神情嚴肅地留影。這張照片攝於1911年,他剛繼位不久。隋唐時期,布哈拉屬於西域的"昭武九姓"中的安國,即"安息國",與中原地區來往很頻繁。在普信伊斯蘭教的中亞地區,身為一個自治城邦的統治者,埃米爾如同絕對君主一樣,對他治下的汗國的內部事務有著獨斷專行的權力,盡管自十九世紀中葉起,布哈拉已經淪為受沙俄帝國控制的一個保護國。隨著蘇聯勢力在1920年進占布哈拉,這位埃米爾只得逃亡阿富汗,直至1944年去世。
布哈拉汗國的內政部長
當時在街頭抽水煙的典型煙鬼
布哈拉的監獄,1906-1907
五名囚犯從一個辛旦 - 即中亞傳統的監獄向外張望。這種監獄其實就是地上挖出的坑,其上再蓋以低矮的建築結構。手持俄制步槍及刺刀的看守立於一旁,他的制服與靴子也是俄式的。
撒馬爾罕是世界上歷史最悠久的,有人持續聚居的城市之一。創建於公元前700年,亞歷山大大帝在公元前329年曾攻占過它。唐朝時,它是"昭武九姓"中的康國,當時有大量康國人旅居中原,其中最有名的,莫過於"安史之亂"的罪魁禍首安樂山、史思明兩人,他們都是康國人的後裔。1370年,也就是明朝洪武年間,帖木爾汗國定都於此。1868年,俄軍上校阿波拉莫夫(Abramov)率軍攻陷城堡,撒馬爾罕自此落入沙俄帝國統治。
夕陽之下的夏伊信德陵園,1912年
撒馬爾罕傍晚的夏伊信德(Shah-i Zindeh,波斯語原義是"在世之王")陵園,遠處的帕米爾群山為它提供了一幅壯觀的背景。這裏埋葬著中世紀中亞地區最偉大的統治者帖木爾的家眷,以及該王朝的軍事行動宗教領袖。
只見賣瓜老王,卻不見吃瓜群眾。中亞地區和新疆一樣,因為日照時間長,晝夜溫差大,是以盛產瓜果。
一位城裏薩特老人(薩特 Sart,是相對於遊牧人,當地對城鎮定居人的稱呼),1905-1915
這張攝於撒馬爾罕附近的照片中,一位可能是塔吉可族的老漢手持一只剛捕獲的鳥。撒馬爾罕及其周邊地區以民族多元而聞名,包括烏茲別克人、塔吉克人、波斯人、阿拉伯人,還有最近才到的俄羅斯人。
一群猶太男童們及他們的老師
撒馬爾罕作為絲綢之路上的一個歷史悠久的商業、文化、和信仰中心,多方交融下,發展出非常多元化的人口族群。在十九世紀中葉起,撒馬爾罕以及整個西突厥斯坦地區並入沙俄帝國,這種族群多元雜居的情況一直保留至今。
遊牧的吉爾吉斯人,1911年
許多中亞民族,例如吉爾吉斯人、哈薩克人、烏茲別克人在草原上,山谷裏,沙漠中遊牧為生,他們隨著季節逐水草而居。相片中這個穿著鮮艷的傳統民族服裝遷徙在哥羅德納伊亞(Golodnaia 即饑餓)草原上,大概位於如今的烏茲別克斯坦與哈薩克斯坦。
盛裝的烏茲別克婦人
在這張照片裏,普羅庫丁-戈爾斯基拍攝到了一位烏茲別克婦人的傳統服裝,首飾,及發型,她站在鋪於圓頂帳篷門口,裝飾精美的地毯上。這種可以拆卸攜帶圓頂帳篷是中亞遊牧民族普遍使用的居所。自十九世紀中葉征服突厥斯坦後,俄國政府對遊牧民族施以重重壓力以迫使他們放棄這張生活方式,轉而永久定居在村、鎮和城市裏。
馬林斯基水道 --- 1909年夏天,普羅庫丁-戈爾斯基由西向東沿著馬林斯基水道拍攝記錄,以紀念該水道開始興建200周年。馬林斯基水道又名伏爾加-波羅的海運河,當年彼得大帝為了將伏爾加水系及其支流範圍內的俄國腹地與波羅的海相連接而修建。
聖彼得堡東四十哩,拉多加湖邊,Shlisselburg小鎮附近彼得一世運河上的木排。
84歲的平赫斯·卡林斯基是位有66年役齡的老兵,他如今是Chernigov泄洪閘的管理員。
可以看出因為波浪不斷起伏,導致前後三次曝光時,單色底片上水波位置發生錯移,結果最後的合成彩色照片中水面出現色差。
Kirillov鎮附近,沿著Sheksna河畔的鄉村地區農家少女。
位於俄國歐洲部分北部的白湖附近,一群俄羅斯兒童背對著教堂和鐘樓倚山坡而坐。攝於1909年
下船上岸處附近的幹草田地,攝於1909年
在水上討生活,是真正的"靠天吃飯",命運無常。所以這處水邊的祈禱亭寄托著水上人家對自然的敬畏,有些類似於中國東南沿海的媽祖崇拜。
攝於1909年的一幅初秋景象,一群農民在收割幹草之余短暫休息吃飯。雖然不知拍攝的具體地點,很可能是歐俄部分的中北部車瑞坡維茨(Cherepovets)。
人工河道當然不能挖了就了事,還須時常維護。圖中這艘挖掘及采石船(斯維爾斯卡婭2號)的任務就是對馬林斯基水道的航道疏浚並拓深。1909年
為了配合普羅庫丁-戈爾斯基團隊對馬林斯基水道的采風考察紀錄,帝國交通運輸部專門提供了一艘蒸汽船"謝克斯納號"。這是船員們的合影。
高加索及黑海地區 --- 普羅庫丁-戈爾斯基前往高加索地區完成了對包括黑海沿岸,以及附近Artvin和第比利斯的一系列考察。如今這些地方分別處於土耳其、格魯吉亞、俄國、及阿塞拜疆。
從聖大衛教堂的高地上俯瞰格魯吉亞的首都第比利斯。1904-1912
這張全景照片展現了坐落在高加索群山環繞谷地裏的第菲利斯城。它如今叫第比利斯,是獨立的格魯吉亞共和國首都。在1910年左右,拍攝這張照片時,此城聚居了來自各國的居民,包括格魯吉亞人、亞美尼亞人,俄羅斯人、波斯人、波蘭人,韃撻人,以及猶太人。
在礦泉旁度假,衣著講究的一家人
瓶裝的礦泉水正在裝車,看來這行業的歷史蠻悠久的。
利堪尼宮(Likani)
這座位於格魯吉亞博爾卓米(Borjomi)的豪宅原本是俄國羅曼諾夫皇室尼古拉斯·米哈羅維奇大公的夏宮,如今是格魯吉亞共和國的總統官邸。
說起這位大公,不由得讓人感嘆人生的不可測。尼古拉斯·米哈羅維奇是末代沙皇尼古拉二世的堂叔,這位大公是羅曼諾夫皇室裏少有的持自由政見的成員,也因此在保守的皇室圈子裏不太受待見。不過他誌趣不在宮廷權鬥,而是專心研究歷史,尤其專精於拿破侖戰爭時期的法俄關系,還撰寫了多本專著。他是法蘭西學術院的院士,也是柏林大學的榮譽博士,還擔任俄羅斯帝國歷史學會和地理學會的會長,是一位典型的學者皇族。他因為政見而被放逐到鄉間的莊園,俄國革命發生後,他得以獲得自由並返回聖彼得堡,只是他對當時的政治風向毫無知覺,無視力量越來越強的布爾什維克,還若無其事地繼續住在聖彼得堡。等到布爾什維克徹底掌權後,想跑都跑不了,所有羅曼諾夫皇室成員必須去秘密警察契卡那裏登記,並限制自由,後來他們都被送往內陸的沃洛格達。期間他在國外的親友全力設法營救,甚至輾轉托到新政權的文學標桿作家高爾基,高爾基前往列寧處為尼古拉斯求命,拿到了一張列寧的手條。等到高爾基趕到聖彼得堡,剛下火車,在站臺上的報攤拿起一份報紙,頭版上寫著:羅曼諾夫皇室成員全部被槍決。在聖彼得於聖保羅城堡外的死刑現場,他與弟弟喬治米哈羅維奇大公及堂兄弟季米特裏與保羅兩位大公一起遇害,重病中的保羅甚至是躺在擔架上被槍決。看來辨別政治氣候風向大概屬於情商的範疇,與智商無關,所謂千金難買早知道。
恰克維(Chakvi),一條栽滿風車棕櫚樹的谷地。
一般人很難將俄國與亞熱帶風情的棕櫚樹聯想起來。但位於高加索山脈以南,黑海東岸的外高加索地區,北面有雄山擋住冷空氣,西面又受海洋的溫潤,是當時沙俄帝國境內少有的亞熱帶地區。也因此成了俄國上層社會的度假勝地。
一群希臘裔的采茶女工,攝於恰卡瓦(Chakva),1905~1915年
經普羅庫丁-戈爾斯基辨認後,發現這些女工都是希臘裔。在當時沙俄帝國的南部,黑海東岸的地區,包括如今的烏克蘭,摩爾多瓦,格魯吉亞分布著相當多的希臘裔少數民族,他們中有的家族歷史可以追溯到拜占庭帝國時期甚至更早的古典希臘時代,因為這裏曾經受拜占庭的東羅馬帝國統治,而且古希臘時代黑海沿岸地區深受希臘文化的影響。
恰克瓦的一座茶莊,來自中國的種茶大師周勞章,攝於1905~1915年
在巴圖米(Batumi)城北的小鎮恰克瓦的一座茶園與茶場裏,中國工頭站在栽種成功的茶樹與新插的植株之間留影。在如今格魯吉亞的黑海沿岸地區,當地的亞熱帶氣候非常有利於茶樹生長。這位周姓工頭胸前還別著俄國政府頒發的勛章。其實歷史上中國對外的茶葉貿易中,主要是由東南沿海及華南的港口出口到歐美,但還有一部分來自兩湖及四川地區的茶葉則是經由蒙古、河西��廊、新疆等地出口到俄國。茶葉在中俄兩國貿易中占據大宗,沙俄帝國還在漢口開辟租界,其最大的產業就是磚茶加工。而引發辛亥革命的武昌起義,也是因為革命黨人在俄租界制炸彈不慎爆炸,花名冊被搜出而不得不提前爆發。
從小村莊斯維特(Svet)看到的阿特溫(Artvin)全景,1904。巴圖米以南55公裏處的阿特溫小城緊鄰楚拉河,如今這裏屬於土耳其。
穿著傳統服裝的亞美尼亞婦人
一百年前阿特溫是在亞美尼亞境內,但如今屬於土耳其的一部分。照片中這位亞美尼亞婦人的穿著就表明了她是基督教徒。公元301年,亞美尼亞於世界上首次將基督教定位國教,該國以文學和建築聞名。
鹽峽(Saltinskoe),位於達吉斯坦崎嶇的高加索山中
達吉斯坦人物,1904-1905年
達吉斯坦在土耳其語裏是"山地"的意思,境內居住著許多民族。照片中是一位遜尼派穆斯林男子,穿戴著傳統服裝及帽子,腰挎一把入鞘的匕首。
格拉佛夫卡村裏的移民家庭,1907-1915
高加索山以南,裏海以西的姆幹平原上,俄羅斯裔的移民建立一座小型聚居點格拉佛夫卡(Grafovka),該地緊鄰與波斯的邊境。向沙俄帝國非歐洲部分的疆域,尤其是邊疆地區遷徙俄羅斯裔移民,即俄國版的"移民實邊",向來為俄國政府所鼓勵。這也是西伯利亞、遠東地區、及高加索地區大部分俄羅斯人的來源。
從提維爾裏神父的房間裏看到的諾維阿方修道院(Novi Afon)及黑海海岸全景。
在卡羅利茨哈裏(Karolitskhali)河邊,攝於1905~1915年間
普羅庫丁-戈爾斯基在一條山溪旁留影,據認,這條溪流是黑海東岸,發源於高加索山區的卡羅利茨哈裏河(Karolitskhali)。
1812年法俄戰爭時期拿破侖戰役所涉及的地區 --- 1911~1912年,普羅庫丁-戈爾斯基沿著自莫斯科以西的莫紮伊斯克(Mozhaisk)開始,終於馬羅-拉羅斯拉維茨的環形路線進行考察。
德文斯克(Dvinsk)的羅馬天主教堂,1910
維特別斯克(Vitebsk)城局部及西德文那河(Dvina)。此城是由中歐地區從波羅的海沿岸前往聖彼得堡必經的一個重要據點。
波洛迪諾(Borodino)的高爾基村附近,科羅齊河(Koloch)陡峭的河岸。
波洛迪諾是拿破侖進軍莫斯科前的最後一處要地,雙方估計有二十五萬人馬於此進行了一場慘烈的戰役,傷亡至少達七萬多人。照片中的這片田地就是以前的戰場。托爾斯泰在《戰爭與和平》中描述的最激烈的場面就發生在這裏。如今只剩下無垠的田野,頗有"九裏山下古戰場,牧童拾得舊刀槍"的意境。
從聖母升天大教堂的鐘樓頂上俯瞰斯摩棱斯克北半城,1912年
斯摩棱斯克坐落於第聶伯河畔。這座四面圍著城墻的古城在歷史上遭遇數次摧毀。拿破侖和希特勒侵略俄國時,它都正處於他們的入侵道路上。這張照片顯示了1941年斯摩棱斯克戰役之前的城市景貌,那場戰役後,此城百分之九十三都給徹底摧毀了。那些歷史悠久的名勝就此永遠消失了。
從西南方遠眺聖尼古拉斯大教堂,1911年
莫斯科以西,莫紮伊斯克(Mozhaisk)那些外表普通的民宅建築之間,一條土路通向了色彩鮮艷,建於1802 - 1814年間的聖尼古拉斯大教堂。
特維爾察(Tvertsa)河右岸隔河遠望基督復活女修道院,攝於1910年,托兒佐克鎮(Torzhok)。托兒佐克是俄羅斯特維爾州的一個鎮,以民間傳統的金線刺繡而聞名。
烏拉爾山區及烏拉爾工業區 --- 1910年,普羅庫丁-戈爾斯基兩次前赴烏拉爾工業區采風。第一次他從佩爾姆(Perm)出發,先往東南方向,然後西折,止於米尼亞(Minyar)。第二次他從米尼亞朝東北向,一路到車爾丁(Cherdyn)。
薩京斯基工廠的煉鐵高爐,1910年
工藝鑄造的翻砂工序
創建於1747年的卡斯裏鐵工廠,它坐落於烏拉爾工業區的中心葉卡捷琳堡(Ekaterinburg)於車裏亞賓斯克(Cheliabinsk)之間鐵礦蘊藏豐富的地區。該廠以精良的鑄鐵產品及手藝高超的鑄造匠人而聞名。在此照片拍攝時,人數達三千多之眾。
科爾切旦斯科耶(Kolchedanskoye)村,1912年
葉卡捷琳堡東南方的烏拉爾山區,一條土路越過一座石橋,通向科爾切旦(Kolchedan)小鎮。在1673年建立時它還只是個邊防木寨,到1912年拍攝這張照片時,該鎮已經發展成了一個砂巖開采及加工中心,鎮上還有兩座規模不小的石砌教堂,包括了一座帶附屬學校的女修道院。
三代人
位於烏拉爾山區裏的工業城鎮茲拉圖斯特(Zlatoust)內,卡爾甘諾夫與他的兒子及孫女祖孫三代一起合影。其中兒子與孫女都在茲拉圖斯特兵工廠工作。照片中卡爾甘諾夫還穿著傳統的俄羅斯服裝並留起大胡子,而其兒孫更趨向西方的現代穿著與發式打扮。
架於石砌橋墩上,在佩爾姆(Perm)附近跨越卡馬河(Kama)的西伯利亞鐵路大橋。
泛西伯利亞大鐵路的建設者們在興建該條從俄國的歐洲部分到太平洋沿岸,長達6000多英裏的線路時,這條河流只是只是他們面臨的自然障礙之一。
佩爾姆市內烏拉爾地區鐵路管理總部,1909年
佩爾姆市內的夏季交易所,1909
西姆斯卡亞小站(Simskaya)附近的路邊一景,1910年
幹草貯存的方法,攝於瓦伊亞卓瓦伊亞小站,1910年
緊鄰西伯利亞大鐵路的瓦伊亞卓瓦伊亞(Vyazovaya),原木搭建的幹草及糧食倉庫。後方背景是茂密的松樹林。照片中可以看到,因為取暖生火或炊煙升起,導致三色底板上影像錯位,所以出現了紅、綠、藍三色煙霧的幻像。
瓦伊亞卓瓦伊亞(Vyazovaya)小站外的鐵路彎道。
西姆斯基紮沃德(Simskii Zavod)附近的山丘
烏拉爾山區及西西伯利亞的水路考察 --- 1912年,普羅庫丁-戈爾斯基在西西伯利亞沿堪姆斯考-托布爾斯基(Kamsko-Tobolskii)水路溯流而上,從Perm城外穿過葉卡捷琳堡周邊,再向東北一直到托布爾斯克(Tobolsk)。
秋明(Tyumen)市內的圖拉河,右岸是三一修道院
秋明是俄羅斯在西伯利亞的第一個移民城市,該城於1586年,作為沙俄東擴的一個重要軍事據點而建立。也是西伯利亞最古老的城市,也是烏拉爾山以東最重要的工業與經濟中心。因為地處數條商路的交匯點,又有便捷的水路,秋明很快從一個小軍事據點發展成為大型工商城市。市中心的老秋明城區還保留著許多貫穿該市歷史的建築。
北面的耶穌變容大教堂的鐘樓頂上俯瞰托布爾斯克(Tobolsk)。
自其於1587年建城到1800年代後期,托布爾斯克是西伯利亞最大而且最重要的城市。數世紀以來,托布爾斯克擔任俄國在西伯利亞統治的軍事、行政、及政治中心。這張全景照片的前方是伊爾泰什河(Irtysh),然後自市中心以遠則是寬廣而平坦的西伯利亞大平原。
久拉特庫爾(Zyuratkul)湖畔的漁人。
寂靜的西姆河畔
伊塞特河邊的老翁獨釣
靜靜的薩特卡小河(Satka)。
托卡熱夫卡村(Torkorevka)旁的臨河峭壁。
米尼亞爾(Minyar)附近的西姆河谷。
烏法(Ufa)舊城區全景,前景的奧倫伯格木浮橋上車來人往。由於三色攝影曝光時間相對較長,故而橋上的車看不到影像,只有一塊塊的洋紅色,靛藍色,與黃色的斑點。
自高爾尼(Gornyi)區長的官邸望去對岸的葉卡捷琳堡水邊美景。
阿莎-巴拉肖夫斯基(Asha-Balashovskii)小站附近的西姆河邊。攝於阿莎村,1910年
在楚索瓦亞河(Chusovaya)邊的過夜營地
照片中是普羅庫丁-戈爾斯基與他的攝影團隊在營地過夜。營地臨近歐亞分水嶺烏拉爾山西側的楚索瓦亞河邊。
伏爾加河上遊地區,從源頭到卡利亞辛(Kalyazin)--- 1910年,普羅庫丁-戈爾斯基乘坐一艘由帝國交通部提供並操作運行的蒸汽船考察了自伏爾加河源頭至卡裏亞辛的河段。第二階段他繼續在卡辛到馬卡熱夫之間的伏爾加河地區進行考察。第三階段(1911年)考察的是伏爾加河上遊,雅羅斯拉夫(Yaroslavl)、弗拉基米爾(Vladimir)、考斯特羅馬(Kostroma)、羅斯托夫維兒勒基(Rostov Velikii)等支流間的流域。
彭諾湖(Peno)附近,西德文納河的源頭。1910年
從斯維爾特利察(Svetlitsa)看到的修道院
坐落於塞裏格湖(Seliger)中斯陶羅伯尼亞(Stolobnyi)島上的聖尼爾修道院,它的經歷正好可以說明俄國東正教會的命運。1528年,聖尼爾於此建起了一座小修道院。到1600年代早期,他的信徒們將其建成帝國境內最大,最富有的一座修道院。到1927年,蘇維埃執政後,修道院被迫關閉,而這些場地建築曾被用於各種用途,包括集���營與孤兒院。1990年,全部房產又歸還給了俄國東正教會。
位於戈羅夫(Grove)的耶穌復活大教堂,1910年
傳說,商人基裏爾伊薩科夫(Kiril Isakov)在從英國運來的一批染料中發現了一小桶黃金。他隨即寫了封信寄往倫敦的公司,對這批意外之財估了價。對方如此回信道:用這批黃金做善事吧。因此在1652年,基裏爾伊薩科夫就建起了這座漂亮的教堂。
弗拉迪卡夫卡茲(Vladikavkaz)城中的大清真寺。
位於羅斯托夫維裏基(Rostov Velikii)城堡裏的基督復活大教堂,1911
伏爾加河畔的特維爾城(Tver)
祖貝措夫鎮(Zubtsov)及其旁繞流而過的伏爾加河。
伏爾加河緩緩流經托爾卓克鎮(Torzhok)
從鮑裏斯和格萊布雙聖大教堂看到伏爾加河沿岸的斯塔瑞察(Staritsa)鎮
奧卡河及蘇茲達爾 --- 1912年,普羅庫丁-戈爾斯基在莫斯科以南的奧卡河上沿流自戴德諾沃(Dednovo)考察到蘇茲達爾(Sudal)。
亞歷山德羅夫市(Aleksandrov)內的三一修道院全景,1911年
鐵路、弗拉基米爾小城(Vladimir)、克裏亞茲馬河(Kliazma),以及遠處的水草豐美之地,1911年
卡門卡河(Kamenka)畔的蘇茲達爾(Suzdal)景色。
莫斯科東南,臨近德丁諾沃(Dedinovo)小鎮,在準備為跨越奧卡河的水壩基礎澆築水泥混凝土的間隙中,工人們與監工一起合影。
奧卡河上的鋸木廠
摩爾曼斯克鐵路 --- 1915年,普羅庫丁-戈爾斯基考察紀錄了摩爾曼斯克鐵路系統,從羅德伊諾伊坡勒往北直到克姆(Kem)。
摩爾曼斯克鐵路上,在彼得羅紮沃茲克附近乘坐一輛手搖軌道車,1915-1916年
在彼得羅紮沃茲克(Petrozavodsk)附近,奧涅加湖邊的這段摩爾曼斯克鐵路上,普羅庫丁-戈爾斯基與一位鐵路官員乘坐一輛手搖軌道車上,動手推搖的是三名奧地利戰俘。
摩爾曼斯克鐵路建設的工程與管理團隊,1916年
一戰時,被俄軍俘虜的奧匈帝國戰俘的營地,1915年
在一次大戰初期,普羅庫丁-戈爾斯基拍攝了一群來自奧匈帝國的戰俘。這些人大概是波蘭人、烏克蘭人、以及其它斯拉夫民族成員。這張照片之所以沒有像其它內容涉及政治敏感的相片那樣被沒收,可能是表面上,它的題材內容不那麽明顯。
從陸地上看向索羅維茨基(Solovetskii)修道院,1915年
位於白海中的一個島上,建於十五世紀早期的索羅維茨基修道院,是數百年來俄國最重要的修道院及文化機構。修道院的部分毀於早期的蘇聯,這裏成了古拉格系統的第一座重要集中營。蘇聯崩潰後它又重歸為東正教會的修道院。
漁村一角,1916
基瓦齊(Kivach)瀑布邊,1915年
普羅庫丁-戈爾斯基在基瓦齊瀑布邊的自拍像。移動物在三色攝影中通常會引起"幻影",因此他開始以快速流動的水流進行攝影實驗,結果出奇的好。
其它類型 --- 除了在各地采訪紀錄外,普羅庫丁-戈爾斯基還拍攝了一些其它題材的照片,有人物肖像,工業設施,花草樹木等。
普羅庫丁-戈爾斯基在瑞士參加國際學術會議時,所拍攝的盧加諾湖美景。
書房裏的婦人肖像,攝於1904-1905年間
普羅庫丁-戈爾斯基的大部分照片都是在自然背景中取景,但這一幅拍攝於影室內的照片,是他作品集裏難得的例外。
倚門而立的貴婦人。
裝置在摩爾加布河上的水電站的發電大廳裏,原產於奧匈帝國布達佩斯的大型整流器。1906 – 1911
棉紡廠的車間
裝了施密特(Schmidt)鍋爐的復合蒸汽機車頭,後面背景處的車廂就是就是普羅庫丁-戈爾斯基一路采風紀錄旅程中照相工作室與生活場所。
盛開的紫羅蘭
瓶中花
野地裏的罌粟花
猞貍標本,來自車爾丁(Cherdyn)阿林(A·P·Alin)先生的收藏。這是普羅庫丁-戈爾斯基作品中及罕見的以動物為主題的照片,盡管只是動物標本。
整篇文章的篇幅確實太長,但有些圖片太美,有些則是內容獨特,還有一些則是深具時代特色,總之三個字:舍不得。所以隨著圖片一張張地挑出,文章也一段段地加長。但這次的素材的確特別,因為在數碼攝影技術日新月異的今天,用物理和化學手段進行彩色攝影已經日趨式微。柯達公司已經宣布物理方式的黑白攝影已經是歷史性的過程了(historic process),也就是柯達將不再生產黑白膠卷並提供相應的化學沖印服務了。以後攝影愛好者想要做實體的黑白攝影,就須自己從頭做起,包括配比藥水,暗房沖洗。彩色的實體攝影看來也將步之後塵,而且不同於黑白攝影,個人愛好者可以在自家設置暗室,彩色攝影需要一整套的相關工業體系配合,一旦淘汰,舊一去不復返了。也許一些面向小眾市場的廠家還會提供這方面的產品及服務,不過那代價與成本就另說了。
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香港酒店優惠 -大埔一田超市新裝開幕!8 大美食專櫃新登場,開店企画「一田和食の秋祭り」:浜燒海鮮屋台即燒即食、巨型南瓜甜薯打卡位;消費送紀念版「秋日南瓜野餐袋」
香港酒店優惠 -大埔一田超市新裝開幕!8 大美食專櫃新登場,開店企画「一田和食の秋祭り」:浜燒海鮮屋台即燒即食、巨型南瓜甜薯打卡位;消費送紀念版「秋日南瓜野餐袋」 https://www.jetsoday.com/%e9%a6%99%e6%b8%af%e9%85%92%e5%ba%97%e5%84%aa%e6%83%a0-%e5%a4%a7%e5%9f%94%e4%b8%80%e7%94%b0%e8%b6%85%e5%b8%82%e6%96%b0%e8%a3%9d%e9%96%8b%e5%b9%95%ef%bc%818-%e5%a4%a7%e7%be%8e%e9%a3%9f%e5%b0%88.html 大埔嘅街坊注意喇!一田超市(大埔)自今年6 月起裝修近 4 個月後,今日終於重新開幕!由 10 月 13 日至 21 日,一田超市(大埔)更會於店內及 1 樓商場中庭舉行「一田和食の秋祭り」,1 樓商場中庭將會變身近 3,500 平方呎嘅「森の紅葉名所」,會場每一角落滿佈紅葉及南瓜掛飾,會場中央仲有 2 米高巨型南瓜、甜薯打卡熱點等等,將秋天氣息由戶外帶到室內!秋祭自然唔少得好嘢食!場內特設多個特色美食攤位區,大量日本秋收當造食材,包括:大玩甜薯大集結,以及秋季期間限定人氣「栗子星星卷 / 番薯星星卷」等菓子,仲有「浜燒海鮮屋台」,可以即燒即食旬鮮靚蟹、北海道帶子等,正啊! 新店加入唔少新元素,當中包括新進駐的「8 大美食專櫃」,入面分別有 3 大和食專櫃、3 大甜食美饌,以及 2 大食事処,啱晒鍾意食好嘢嘅人!令人超期待嘅「匠工房秀吉」,主打明太子醬/他他醬章魚燒 (特價 HK$38)、日式燒餅等日本街頭小吃,同時聯乘日本人氣軟雪糕 CREMIA,獨家推出香港始創、開店限定嘅 CREMIA 可麗餅 (推廣價HK$45)。另外,仲有首次進駐一田超市、主打原汁原味和風家常味道便當嘅「彩SAYA」,部分食材選用日本各縣名物,堅持即叫即製,最人氣嘅一定係獨家熱賣 2 cm 厚切 Jumbo 吉列肉餅 (特價 HK$15/件)!另一個必試嘅仲有來自築地嘅「魚兵衛」,以日本空運鮮捕漁獲,每日限量推出源自京都、只有一口大細嘅手鞠壽司盛合,造型圓滾滾好可愛 (推廣價: HK$158/盒 ,每日限量20 盒)! 除此之外,仲有主打甜點嘅「Italian Tomato」、「A-1 BAKERY」同埋「Co-Chap! 」進駐,同時仲有「清新沙律Bar – FRESH KITCHEN」和「Deli& Hot Foods
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莆田確診病例四成以上為12歲以下
莆田確診病例四成以上為12歲以下
2021-09-16 12:59來源: 未知
9月15日0—24時,31個省(自治區、直轄市)和新疆生產建設兵團報告新增確診病例80例。其中本土病例49例(福建48例,其中莆田市38例、廈門市8例、泉州市2例;雲南1例,在德宏傣族景頗族自治州),含9例由無症狀感染者轉為確診病例(均在福建)。新增無症狀感染者13例(均為境外輸入)。
福建
福建莆田累計報告本土確診病例129例
四成以上為12歲以下小孩
9月16日,福建莆田市召開疫情防控新聞發佈會,介紹當地疫情防控最新情況。
自9月10日至9月15日24時,莆田市累計報告確診病例130例(其中境外輸入1例、本土129例),無症狀感染者3例。在130例確診病例中,普通型53例,輕型77例。確診患者正在診治,總體病情穩定。
目前129例本土確診病例中,14周歲及以下共有58人(其中12周歲以下57人),按照國家疫情防控規定,新冠患者收治期間不允許有陪護,如患者大人和小孩均是陽性病例,醫院會儘量安排在同一間病房。
福建泉州多個地區暫停線下教學
繼泉州泉港區、石獅市、惠安縣等地發佈暫停線下教學的通知後,9月14日至15日,泉州鯉城區、豐澤區、洛江區、德化縣等地也相繼發佈通知,宣佈當地各級各類學校在全體師生員工完成核酸檢測後從線下教學轉為線上教學。
其中,泉州鯉城區要求全區各級各類學校原則上在9月15日前組織全體師生員工完成新一輪核酸檢測工作。泉州德化縣要求全縣各級各類學校原則上在9月16日前組織全體師生員工完成新一輪核酸檢測工作。
15日,在福建省泉州晉江市實驗幼稚園,醫護人員為幼兒進行核酸檢測。
福建漳州一社區實行封控管理
16日,福建漳州台商投資區新型冠狀病毒感染肺炎疫情防控工作指揮部發佈通告:16日起,對漳州角美鎮萬益學府花園社區實行封控式管理。封控區域居民只進不出,非本區域居民謝絕進入。社區將組織對相關區域進行全方位消殺。
雲南新增1例本土確診病例
雲南
據雲南省衛健委16日消息,15日0—24時,雲南省新增新冠肺炎本土確診病例1例。
確診病例詳情
林XX,男,46歲,福建福州人,普通型。
該病例於9月15日在瑞麗市集中隔離酒店重點人群核酸檢測中發現,轉運至定點醫院隔離診治。結合流行病學史、臨床表現和實驗室檢測結果,診斷為新冠肺炎確診病例。
北京
北京朝陽1例咽拭子初篩陽性復核陰性
臨時封控區域已解封
15日,北京市朝陽區疾病預防控制中心發佈情況說明稱,當天,朝陽區在對重點人群例行核酸檢測中發現1件咽拭子樣本初篩陽性。
朝陽區第一時間對樣本進行復核,採取臨時封控措施,對涉及人員及環境進行核酸採樣,新冠病毒核酸結果均為陰性。經疾控部門研判,排除新冠病毒感染。目前,臨時封控區域已解除封控,恢復正常。
9月15日晚,廣東省疾控中心發佈重要提醒:當前廣東新冠肺炎疫情形勢總體平穩,但國際國內輸入風險持續存在。中秋、國慶假期人員流動大,疫情傳播風險進一步增大,市民要時刻繃緊疫情防控這根弦,不到中高風險地區、非必要不出境,減少人員聚集、做好個人防護。
為做好廣東中秋、國慶期間疫情防控工作,保障市民的身體健康,如果您要出行,廣東疾控給出以下建議——
出行前做好準備
出行前,到政府相關疫情網站提前瞭解目的地病例報告及中高風險地區情況,隨時瞭解疫情及防控資訊,注意查詢目的地相關防疫政策。
提前做好出行攻略,科學規劃出行。提前瞭解景區景點情況,儘量選擇通風良好的景區景點。提前網上預約,避開景區景點的高峰時段,錯峰出行。
出行前,備足出行期間所需的口罩、清洗劑、紙巾等用品,還可以適當備一些免洗手消毒液,在沒有洗手設備時可以用於清潔雙手。
出行中做好防護
2H2D持久液 德國黑螞蟻
美國黑金 日本藤素美國黑金
持久液 壯陽藥
全程做好個人防護。在搭乘火車、高鐵、飛機、長途大巴等公共交通工具的期間建議全程佩戴口罩,並且儘量減少在途中摘下口罩的頻次和時間;在密閉場所、人流比較擁擠、與他人近距離接觸和交談的時候,建議正確佩戴口罩;儘量與他人保持1米以上的距離。在咳嗽和打噴嚏的時候注意禮儀,用紙巾和曲肘來作遮擋。
錯峰入景區景點,儘量不去人群密集、空氣不流通的場所。配合景區景點等公共場所的測溫、健康碼查驗,主動掃碼;在景區景點不要隨地吐痰、扔垃圾,使用過的口罩要綁好或用垃圾袋裝好扔進垃圾桶。
建議選擇衛生狀況較好、通風設施比較完善的賓館和酒店。入住後建議經常地開窗通風透氣,進出酒店儘量避免用手直接觸摸樓梯扶手、欄杆、電梯按鈕等公共區域物體表面,從公共場所回到酒店之後,第一件事是徹底清洗雙手;使用馬桶時要���意衛生,先將馬桶板蓋上才沖水,以免散播病毒。
2H2D持久液 德國黑螞蟻
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持久液 壯陽藥
注意在旅途期間的飲食衛生。旅行期間建議優先選擇分餐制和自助餐,與其他用餐旅客保持適當的距離。不吃未燒熟煮透的食物、未經消毒的奶、生的蔬菜,不喝生水,拒絕食用野生動物和其他非正規途徑購買的食物。
減少不必要的聚會。不宜舉辦或參加人員較多的聚餐聚會,避免在密閉空間聚會,活動盡可能簡短並注意開窗通風。參加活動的人員要做好個人防護,與他人保持安全距離,聚餐建議使用公勺公筷,減少交叉感染,杜絕帶病聚餐聚會。
提倡非現金支付。出行建議儘量使用移動線上支付或者是掃碼支付,儘量減少現金支付。建議儘量保存購物的小票、景點的門票、乘坐交通工具的相關記錄等,萬一發生疫情,有助於第一時間確定是否與涉疫場所、涉疫的人員有關,有利於快速做好防控的工作。
返程後做好健康監測
返程後做好14天自我健2H2D持久液 德國黑螞蟻
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持久液 壯陽藥
康監測。外出歸來後,應密切關注自身及家人的身體狀況,如出現發熱、乾咳、乏力、咽痛、嗅味覺減退或喪失等不適症狀立即就近就診,就醫途中全程佩戴口罩,避免乘坐公共交通工具。
密切留意疫情走勢。返回後若您發現近14天到過中高風險地區以及有本土疫情報告的城市、與陽性人員同乘交通工具或活動軌跡有交集請主動向社區報備,並配合做好疫情防控措施。
具體防控措施參照下圖:
同時,為了您和家人的健康,宣導您從外省返程後主動進行一次核酸檢測。
來源 | 綜合羊城晚報、央視新聞、人民日報,版權歸原作者所有
文字 | 部分內容來自羊城晚報全媒體記者 餘燕紅 通訊員 粵疾控
編輯 | 木言 校對 | 朱曉明 審簽 | 周樂瑞
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【アンケート企画】 「ふりかえる私の2020年」
WLでは恒例のこの1年に見た舞台作品の中で印象に残った3本を観客のみなさんから募るアンケートを実施しました。WLスタート以来毎年行っているこの企画、6回目の今回は13名の方にご参加いただきました。ご参加いただいたみなさん本当にありがとうございました。
2020年は舞台芸術界にとってもとても厳しい特別な年となりました。そんな1年を振り返り、2021年もまたみなさんといっしょに舞台を見守っていきたいと思います。
リリィ(会社員) 2020年の観劇本数:5 ・梅棒『OFF THE WALL』(スペース・ゼロ) 今年はとにかく見た本数が少なかった。特にコロナ後は「絶対に外したく無い」という劇団の舞台しか観劇しなかった。
まなぶ(司書) 2020年の観劇本数:3 ・渡辺源四郎商店『どんとゆけ』(渡辺源四郎商店しんまち本店) ・渡辺源四郎商店『だけど涙が出ちゃう』(渡辺源四郎商店しんまち本店) ・ヴェルディ/歌劇(演出・振付)矢内原美邦『ラ・トラヴィアータ』(白河文化交流館コミネス) 舞台ものはほんとにこの3つしかみることができなかった…。渡辺源四郎商店の観劇時、米軍によるイラン革命防衛隊司令官の殺害がニュースとなっており、劇中の権力による殺害としての死刑との符合が感じられた。昨年観劇した『福島三部作』の当日パンフレットを読み返していたところ、作劇対象との時間的・空間的距離感の重要性やジャーナリズムの一つとしての演劇が持つ機能について谷賢一が語っていた。適切な距離感で2020年のこの気分を描いた舞台芸術がいつの日か創造されることを期待している。忘れられない一年とか言いながら全て忘れるのがにんげんなので。
ウルコフ(自営業) 2020年の観劇本数:72 ・東宝『天保十二年のシェイクスピア』(日生劇場) ・新国立劇場『リチャード二世』(新国立劇場 中劇場) ・梅田芸術劇場『憂国』(日生劇場) 古典を現代に上演するという意味を多角的に見せてくれた3本。
薙野信喜(無職) 2020年の観劇本数:88 ・COCOON PRODUCTION『フリムンシスターズ』(シアター コクーン) ・Q『バッコスの信女-ホルスタインの雌』(城崎国際アートセンター) ・ケムリ研究室『ベイジルタウンの女神』 (北九州芸術劇場 中劇場) コロナ禍で多くの公演が中止や延期に追い込まれたので、観劇本数は昨年の6割ほどにとどまった。観たもののなかでは、公演が比較的多かった大衆演劇や演芸の割合が増えた。 選んだ3本は、いずれもいち早く公演を再開した劇場や劇団によるもので、コロナ禍の不十分な環境のなかでよくぞ創ってくれた、という質の高い舞台だった。 ブログ「のんちゃんのつれづれ」
米谷郁子(大学教員・研究者) 2020年の観劇本数:26 ・劇団フライングステージgaku-GAY-kai 2020 『贋作・十二夜』(新宿シアター・ミラクル) ・名取事務所パレスチナ演劇上演シリーズ 『帽子と預言者』『鳥が鳴き止む時-占領下のラマッラー』(「劇」小劇場) ・小松台東『シャンドレ』(こまばアゴラ劇場) 小松台東は、狭いローカルな場で吐き続ける毒を、実は至るところにある普遍的なものとして、延棒のように観客の中に行き渡らせる松本哲也の才能にしびれた。名取事務所は、政治批評をフィジカルに見せる生田みゆき演出と、杉山至の美術で、強いられたロックダウン下にあるパレスチナの閉鎖恐怖的不条理を上演。異物とそれをめぐる状況、田代隆秀の名演のそれぞれが多色発光するさまは、現状と深いところで響き合う。フライングステージgaku-GAY-kai贋作シェイクスピアシリーズは、舞台を新宿二丁目に翻案し、90分間にゲイ、ドラァグクィーンたちの生を織り込む見事な上演。今回は間に歌や踊りがないぶん対話劇に集中でき、役者の手抜きなしの存在感が沁みた。どの人物にも救いが用意され、ひかりの方へ向かう想像力を手放さないことの大切さを、毎年末、関根信一演出は教えてくれる。小劇場での地道な表現、かつ深く広がりゆく、3本。
北村紗衣(研究者) 2020年の観劇本数:56(226) ・劇団フライングステージgaku-GAY-kai 2020 『贋作・十二夜』(新宿シアター・ミラクル) ・三島由紀夫没後50周年企画『MISHIMA2020 (死なない)憂国』(日生劇場) ・『リチャード二世』(新国立劇場) 今年は配信を170本、劇場で見るものを56本見ました。3本はとりあえずライヴで見たもののみにしてみました。
片山幹生(大学教員) 2020年の観劇本数:45 ・板橋演劇センター『終わりよければすべてよし』(板橋区立文化会館 小ホール) ・劇団サム『水平線の歩き方』(練馬区立生涯学習センター) ・カクシンハン・スタジオ『ロミオとジュリエッ���』 板橋演劇センターは40年前から板橋でシェイクスピア劇の上演を続けている団体。105歳の現役女優、三條三輪さんは、舞台にいるだけですごい。演劇の化け物のような人たちの情熱を感じ取ることができる舞台でした。劇団サムは中学演劇部のOBOGと顧問による劇団。キャラメルボックスが活動休止している現在、劇団サムほどキャラメルらしい舞台を上演できる団体はないでしょう。カクシンハン・スタジオの『ロミオとジュリエット』はyoutubeの配信舞台でした。三人の出演者による70分に圧縮されたスピード感のある現代的な『ロミオとジュリエット』でした。
中西理(演劇舞踊批評) 2020年の観劇本数:150 ・恋を読むvol.3『秒速5センチメートル』(ヒューリックホール東京) ・堀企画『水の駅』(アトリエ春風舎 ) ・劇団あはひ『どさくさ』(本多劇場) 個人的にはコロナ感染の影響とそれに対応しての演劇概念の拡張を今年は���えざるを得ないと思っており、ZOOMを活用したリモート演劇である笑の内閣オンライン演劇「信長のリモート 武将通信録」(高間響作演出)やKAATプロデュース(岡田利規×内橋和久)「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」を今年の収穫として挙げたいが、劇場公演に限るとの条件から上記の3作品を選んだ。 中西理の下北沢通信
齋藤理一郎(会社員) 2020年の観劇本数:133 ・別冊根本宗子『超、Maria』(神奈川芸術劇場 大スタジオ) ・モモンガ・コンプレックス「わたしたちは、そろっている。」(東京芸術劇場シアターイースト) ・KAAT×東京デスロック『外地の三人姉妹』(神奈川芸術劇場 大スタジオ) 3月末から6月末までコロナ禍で舞台を観ることかなわず。ただ、その間の配信による表現の進化には目を瞠るものがあった。 また再開してからも暫らくは作る側も観る側も手探りの歩みだったが、9月中頃からは制約は変わらずあっても、上演メソッドや表現手法などに歩みがあって従前のような舞台の感触が戻ってきたように思える。劇場を訪れるたびに作演・俳優・スタッフの矜持や熱意や創意工夫や研がれ方が感じられ、感謝いっぱい。 選んだ3本は、いずれもこれまでにない表現の感触があった舞台。『超、Maria』にはそのまま海外にもっていけるような斬新なグルーブ感があった。『わたしたちは、そろっている』が劇場空間全体で編む心風景の揺蕩いにも捉われる。『外地の三人姉妹』がチェーホフと時代設定を舞台美術や俳優の際立ちで共振させる世界の先には新たな戯曲の広がりと歴史観が訪れた。
町田博治(会社役員) 2020年の観劇本数:133 ・ロロ『 四角い2つのさみしい窓』(こまばアゴラ劇場) ・てがみ座『燦々』(東京芸術劇場 シアターウエスト) ・Q『バッコスの信女 ーホルスタインの雌』(神奈川芸術劇場 大スタジオ) コロナ禍の中でどう演劇を続けることができるか模索が続いた1年だった。劇場で拝見した作品からの3本 ロロ『 四角い2つのさみしい窓』 観終わった後、本当に演劇って良いな、堪らないと。5人の役者が凄い演技で、演出がこれぞ演劇だと。仕掛けがあって、美術も音楽も照明も良かった。 てがみ座『燦々』 ぐっと来る思いに引き込まれ、次にはエンターテイメントとして楽しませて貰う。これぞ演劇だ。初演と比べ、濃淡が増し、軽やかさも増していた。役者が素晴らしい。主演の二人が素晴らしい。そして石村みかさんの演技の深みが。 Q『バッコスの信女』 凄いものを観た。主演の兵藤公美/川村美紀子/永山由里恵さんの演技と中川絢音さんとコロスの皆さん、大きな構成要素の額田大志さんの音楽、市原佐都子さんの演出(&戯曲)が一体となって襲って来た。川村美紀子さんの身体が凄い。地底妖精/妖精の問題/毛美子不毛話からこの作品へと繋がる。
kiki(地方公務員) 2020年の観劇本数:61 ・扉座『10knocks』(紀伊國屋ホール) ・あやめ十八番『江戸系 宵蛍』(吉祥寺シアター) ・東宝『天保十二年のシェイクスピア』(日生劇場) 2020年は、新型感染症の影響で多くの公演が中止や延期となり、上演できた作品もこれまでとは異なる葛藤や苦労を抱えることとなった。そんな状況下で幸運にも拝見できた作品から次の3本を選んだ。 ・扉座『10knocks』:予定していた演目の代わりに過去作品10本の日替わりリーディングを行って、団体の歴史とエネルギーを感じさせた。ただ、1公演だけれど1本と数えていいかどうかは迷うところ。 ・あやめ十八番『江戸系 宵蛍』:政治的な題材を取り上げつつ、このユニットらしいエレガントさとさまざまな仕掛けで観る者を魅了した。 ・東宝『天保十二年のシェイクスピア』:チラシにあった「絢爛豪華 祝祭音楽劇」というフレーズどおり華やかで盛りだくさんの音楽劇。上演期間途中に上演中止となったことも含め、自分にとって今年を象徴する1本となった。
でんない いっこう(自由業) 2020年の観劇本数:11 ・ホリプロ『ねじまき鳥クロニクル』(東京芸術劇場プレイハウス) ・Monkey Biz KAKUTA『往転』(本多劇場) ・埼玉県芸術文化振興財団『作者を探す六人の登場人物』(彩の国さいたま芸術劇場大ホール) ①原作を読んでどの場所がどの様に表れてくるのか楽しみだった。舞台装置もダンサーの入れ方も面白い。吹越満の逆さセリフが素晴らしい。 ②バスの事故による2人の死亡者と1人の行方不明者の物語。どれも引き込まれ、桑原裕子の作⋆演出に���笑む。 ③KAATの時は題名に惹かれて観た。今回は若いネクスト達の演技を楽しんだ。原作の面白さが伝わった。 今年は1、2月と年末しか観られなかった。
小泉うめ(観客発信メディアWL・舞台感染対策) 2020年の観劇本数:130 ・Seisen Fringe+『ロミオとジュリエット(英語上演)』(清泉女子大学本館・旧島津家本邸) ・中野坂上デーモンズ『終わる』(OFF・OFFシアター) ・Ahwooo『パンと日本酒』(スタジオ空洞) 20年以上感染症に関わる仕事にたずさわってきて理論的なパンデミックの到来は覚悟していても、まさか舞台芸術のためにその経験を活かす日が来るとは思っていなかった。選んだ3本は実際にその創作の現場にも関わった作品で身贔屓と言われれば特に否定もしないが、選出理由は決してそうではない。 『終わる』は一旦途切れた舞台を再起動するにあたって、マスク、口パク、換気などによる演出はその後の流れをいち早く提示した。ラストシーンでは演劇が演劇であらねばならない理由を教えてくれた。 『パンと日本酒』は奇妙なSFの中で今現実に起こっている様々な社会問題を想起させられた。2人の役者の奮闘も記憶に鮮やかだ。 『ロミオとジュリエット』は無観客となり奇しくも演劇は誰のためのものなのかを問うような上演となった。この戯曲が疫病に翻弄された恋を描いていることもあらためて感慨深い。
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五人まわし
女郎買いふられて帰る果報者という川柳もありますように、あの廓《さと》へ足をいれてもてると身のためにならないと申します。むかしから、女郎買いをせっせとして、ごほうびをいただいたなんていう人はひとりもありません。足しげく通っているうちには、持っている金はなくなる、親からゆずりうけた財産がなくなる、家、土蔵《くら》がなくなる、他人の信用がなくなる、ただいまはそういうことはありませんが、むかしは瘡《かさ》をうけて鼻の障子がなくなるという。なくなるものばかりで、ふえるものは借金。なるほど、ふられて帰る者のほうが、果報かも知れません。しかし、どなたでも、あの廓へ足をいれたが最後、身のためになるから、どうにかしてふられてみたいなんていうかたはあまりないようで、たいがいはもてるりょうけんでおでかけになる。むかしから、もてんとすべからず、ふられずとすべしなぞといわれております。なるほど、もてようとしてでかけるより、ふられまいとしてでかけるにかぎるんだそうで……もてりゃああのくらいやすいものはありません。そのかわりふられると、あのくらいつまらないものはありません。 ところで、京都、大阪あたりの関西の遊廓では、その晩、登楼すれば、その女郎は、朝までほかの客はとらなかったのですが、東京では、まわしといって、ひとりの女が、いく人もの客の相手をしましたので、なじみの客が一晩にかちあうと、女がなかなかまわってきませんから、客のほうでは、売れのこった木魚みたように、ふとんの上にちょこなんと坐って、女のくるのを、いまか、いまかと待っているということになったもんで……
「あーあ弱ったなあ、今夜は、もののみごとにしょい投げを食った。全体ゆうべの夢見がよくなかったよ。債券にあたってありがてえとおもっていたら、うちのなかへ水雷艇《すいらいてい》がはいってきやあがったからねえ。どうかんがえてみても、水雷艇なんてえものは、陸《おか》にあがるもんじゃあねえからなあ。なんかわりいことがなけりゃあいいとおもっていたら、今夜はこのしまつだ。ちぇっ、いやになるなあ。今夜ここの楼《うち》でいくらか銭をつかうくらいなら、質屋から帯でもだしときゃあよかった。女郎買いにきてこんな里心《さとごころ》がでちゃあおしまいだねえ。おれの部屋はさびしいが、となりの部屋はまたやけにもててるなあ……ええ、おしずかにねがいますよ。となりには独身者が住居しておりますよ。しずかにしろ、こんちくしょうめ、さっきからだまって聞いてりゃあべちゃくちゃしゃべってばかりいやあがって、しずかにしろい!いま、腹を立ってるところだぞ。こっちはなにをするかわからねえや。ひさしく人間の刺身を食わねえぞ。いやだいやだ、たばこの火は消える、命に別条ないばかりてえんだ。かなわねえな、こうなると……こりゃあまた、障子だの、壁だのに、おそろしく落書をしたねえ。ふられたやつのしわざだよ。落書にいい手はねえてえが、まったくだ。えー、なんだと……『この楼《うち》は、牛と狐の泣き別れ、もうコンコン』だと、ちくしょうめ! ……こっちのはなんだって……東京駅から神戸までの急行列車のあがり高がみんなもらいてえだってやがら……いきなことを書くやつがあるもんだねえ。こういう人とつきあってみたいねえ。おたがいに長生きするよ。やあ、またそばへ書きたしたやつがあるな。ぼくも同感、ふざけちゃあいけねえや。のんきなやつもいたもんだ……どうにかして女のくるような思案をめぐらさなくっちゃあ……『火事だ、火事だ!』とさわぎだすか? しかし、女のきたところであとのおさまりがつかねえからねえ。『ちょいと、火事はどうしたの?』『じつはねぼけたんだ』なんてえのはいけねえな。廊下へでて、すっぱだかでころがっていようか? 人が多勢あつまってくるだろ��な。『なにをしてるんです?』と聞かれたら、『どじょうの丸煮のかたちだ。駒形のどじょう屋で研究をした』なんてえのは���あんまり女っ惚《ぽ》れのする芸当じゃあないねえ。いまから帰るったって時間ははんちく(はんぱ)だし、そればかりじゃあねえ。宵勘《よいかん》てえんで、もう勘定は宵にとられちまったんだからなあ。まったく女郎買えのつけなんてえものはあとでみるもんじゃあねえや。金五十銭也、娼妓揚げ代。ちぇっ、ふざけちゃあいけねえ。なにが揚げ代金だ。あげるにもさげるにも、てんで手がかりがねえんじゃあねえか。それに、こうなってみると、この二度めのすしの代金だけはよけいだったねえ。こんなことになると知ってりゃあ、とりゃあしねえや。あんちくしょうめ、『ねえ、ちょいと、さびしいじゃあないか。代《かわ》り台《だい》(遊廓でとる料理を台のものといい、そのおかわりの意)でもおいれな』てえから、おれもいい間のふりをして(ちょい気どって)、『ああ、弥助(すし)でもいれな』なんて高慢なつらをしたんだが、とうとう七十五銭|玉《たま》なしだ。吉原《なか》で七十五銭の弥助とくると、いくつもねえんだからねえ。すしよりも笹っ葉のほうが多いんだからな。のりまきばかりうんとあって、たったひとつしかねえまぐろを女が食っちまやあがった。おらあ、のりまきを二本しきゃあ食わねえよ。どういうわけだろうね? おらあこの女郎買えにくると、のりまきよりほかに食えねえてえのは? ……一度はさかなを食ってみてえとおもうんだが、習慣たあおそろしいもんだ。ついのりまきのほうへ手がいっちまうんだから……おやおや、まだ嘆《なげ》いちゃあいけねえよ。運勢地に落ちないところがあるねえ。おもて階段《ばしご》を、トーン、トーン、トンときたよ。しめしめ、これだよ、情夫《まぶ》はひけすぎ(遊女が店にならぶ、いわゆる張り店からひきあげる。午前二時すぎ)てえのは……いちばんしめえにおれんところへおみこしをすえるてえやつだ。『ちょいとすまなかったね。おそくなっちまって……なにね、酔っぱらいのお客があったもんだからさ。ようやくいま寝かしつけてきたところだよ。今夜はよくきてくれたねえ』てなことを……おや、足音はどこへいっちまったんだい? そのまま立ち消えは心細いぜ。おやおや、こんどはまた階段《はしご》を足早にトントン、トントン、トントン……なんだ、むこうの部屋だ。廊下バタバタ、胸ドキドキ、いやんなっちまうなあ……三度めの正直というぜ。こんどは、上ぞうりをひきずりながらバタバタやってきたな。待てよ。こいつは、起きているてえやつも、いいようでわるいねえ。かんがえもんだよ。『あら、ちょいと、起きてたの?』『うん、待っていた』なんてえのは甚助《じんすけ》(やきもち)すぎるからなあ。といって、寝たふりをしていて、『あらちょいと、よく寝ているねえ。起こすのもかあいそうだから、ほかへまわしにいこう』なんていかれちゃった日にゃあ、とんだ川流れだからなあ。そればっかりじゃあねえ。友だちがそういったよ。『おめえは、人に寝顔をみせるな。おめえの寝顔をみると、たいていの者はおどろいて腰をぬかす』だって……ひどい寝顔なんだねえ。『じゃあ、起きてる顔はどうだい?』『起きてる顔は、なおよくねえ』『それじゃあ、おれは、どういう顔がいいんだい?』って聞いたら、『おめえは、死に顔がいちばんいい』だってやがら……ふざけちゃあいけねえ。死に顔なんぞよくったって、なんのたしにもなりゃあしねえや……むずかしいよ、こりゃあ、起きていていけず、寝ていていけねえんだからなあ。しかたがねえから、目をあいていびきをかいてやろう。だれがみたって、寝ているんだか、起きているんだか、さっぱりわからねえ。グー……グー……」 「へえ、こんばんは……」 「グー……おや、なんだい、若い衆かい。若い衆ならこんなことをするんじゃなかった。ええ、なんだ?」 「へい、お目ざめでござんすか?」 「なにを!」 「お目ざめでござんすか?」 「よくみろい。寝ている者が口をきくかい?」 「ええ、あなたさまは、目をあいていびきをかいていらっしゃいましたが……」 「なんだ?」 「へい、失礼ですが、おひとりさまで?」 「よくみろい。そばにだれも坐っていねえんだ。おひとりさまにきまってらい。それとも、てめえのうちには、お半分さまだの、四半分さまだのてえ人間がいるのかい? いるんならお目にかかろうじゃあねえか」 「どうもおさみしゅうございましたろうな?」 「おくやみにはおよばねえや。女郎屋のまわし部屋に、夜なかにひとりでぽつんと坐っているんだ。たいていおにぎやかじゃあねえや」 「まことにお気の毒さまで……あの妓《こ》さんなら、もうほどなくおまわりになります」 「ばかっ、なにいってやんでえ。おらあな、大掃除して、検査のくるのを待ってるんじゃあねえぞ。ほどなくおまわりになりますてえやがる。ばかにしやがんない。おまわりもちんちんもあるもんか。犬とまちげえんな」 「おそれいりました」 「こう聞きな。こちとらは、なにも女郎|買《け》えにきて、そばに女がいねえからぐずぐずいうような、そんな野暮《やぼ》なおあにいさんじゃあねえんだ。女郎買えにきて、もてるのはいけねえんだ。なるたけあっさりしているのがいいんだがな、あっさりしすぎらあ。こう、てめえにいってもわからねえがな。このあいだの晩だ。おらあ、ここの楼《うち》へ初会《しよけえ》であがってやると、ぜひとも近えうちにきてくれと、たのまれたから今夜あがってやったんだ。ふるのもいいから、きれいにふれい。宵に一ぺんでもきてよ、『今夜いそがしくってまわりきれないから、このつぎにきたときにゆっくり埋めあわせをするから、今夜はがまんをしておくれ』とか、なにか気やすめの文句のひとこともいってくれりゃあ清く帰ってやらあ。三日月女郎を買って、宵にちらりとみたばかりてえのは聞いているが、皆既月蝕《かいきげつしよく》でどうなるんだい?」 「まことに相すみませんで……もうじきにおみえになります。しばらくご辛抱を……」 「なにいってやんでえ。女にそういってくれ。なまいきなまねをするもんじゃあねえってな。あの女のつらなんざあ客をふるつらじゃあねえや。廊下へでて、けつでもふれい。どうみたって売れる女じゃあねえ。大一座の初会でもなきゃあ売れ口のねえ女じゃあねえか。さあ、てめえじゃあはなしがわからねえ。もうすこし人間らしい若え衆をよこしてくれ」 「へえ?」 「まだ死亡届けをしてねえ、区役所へいけば戸籍のある人間をひっぱってこいてえんだい。わからねえかい? もっと人間らしいやつをよこしてくれ」 「へえ、わたしは人間らしくみえませんか?」 「あたりめえよ。てめえなんぞはできのいい猿じゃあねえか」 「こりゃあどうもおそれいりましたなあ。できのいい猿とはひどいなあ……ええ、おっしゃるところはごもっともでございますがな、吉原には吉原の法というものがございますが、ひけ過ぎになりますと、不寝番《ねずばん》のわれわれが、お客さまの仰《おお》せをなんなりとうけたまわりますのが、これがむかしからの廓《くるわ》の法、すなわち廓法《かくほう》でございましてな」 「なに! やい、ばか野郎、モモンガー、チンケイトー、脚気衝心《かつけしようしん》、発疹《はつしん》チフス、インフルエンザ、ペスト、コレラ、肺結核、糸っくず、バケツ、丸太んぼう、鱈《たら》のあたま、スカラベッチョ」 「スカラベッチョてえのはどういうことで?」 「なにをいやあがるんだい。かんべんならねえことをぬかしゃあがったな、うぬは……すなわち廓法だと……ふざけたことをいうない。てめえのつらなんざあ、すなわちてえつらじゃあねえや。すり鉢《ばち》づらが聞いてあきれらあ。すりこぎ野郎め。てめえたちに吉原の法なんぞを聞かされてひっこむような兄《にい》さんとは、おあにいさんのできがちょっとちがうんだ。オギャーと生まれりゃあ、三つのときから大門《おおもん》をまたいでいるんだ。そもそも吉原というもんのはじまりはな、元和《げんな》三年の三月に、庄司甚右衛門というお節介《せつけえ》野郎があって、淫売というものを廃するために、公儀へねがってでて、はじめて江戸に遊廓というものができたんだ。むかしからここにあったんじゃあねえぞ。むかしは、葺屋町《ふきやちよう》の二丁四面というものをお上《かみ》から拝領をして、葺屋町に廓《くるわ》があったればこそ、大門通りという古蹟がいまだにのこっているんだ。それを替地《かえち》を命ぜられたのがここだ。もとは一面の葭《よし》、茅《かや》しげった原だというので吉原といったのを、縁起商売だからてえんで吉原《きちげん》と書いて吉原《よしわら》と読ましたんだ。近くは明治五年十月|何日《いつか》には解放……切り放しというものがあって、それからのちは、女郎屋が貸し座敷と名がかわって、女郎が、でかせぎ娼妓《しようぎ》となったんだ。吉原中で大見世が何軒で、中見世が何軒、小見世が何軒あって、まとめれば何百何十何軒あるんだか、女郎の数が何千何百何十何人いるか、どこの楼《うち》にゃあどういう女がいて、年齢《とし》がいくつで、情夫《いろ》がいるとか、仲の町芸者が何人、横町芸者がどのくらい、たいこもちがいくたりいて、おでん屋が三十六軒あって、どこのつゆが甘《あめ》えとか辛《かれ》えとか、こんにゃくの切りかたが大きいか、小せえか、共同便所へいくたりへえって、小便をしたやつがあるか、くそをたれたやつが何人だか、ちゃんと心得てるおあにいさんだ。ふざけやがって……ぐずぐずいわねえで、やい、玉代《ぎよくだい》(遊女揚げ代金)けえせ! まごまごしやあがると、あたまから塩をつけてかじ���ちまうぞ、この野郎!」 「ごめんなさいまし。ただいまじきにおいらんがうかがいますから……勘定はすくねえが、いうこたあ多いや……ああおどろいた。たいへんな野郎があるんだねえ。あれじゃあとても女にゃあもてないよ。あたまから塩をつけてかじるってやがら……生梅《なまうめ》とまちげえていやあがるのはひどいねえ。あのおいらんときた日にゃあ、どこへいっちまったんだろうなあ……ええ喜瀬川さんえ、ええ喜瀬川さんえ……」 「おい、くわーっ、小使い、給仕」 「ひらけねえやつもあるもんだ。女郎屋の二階へきて、小使いだの、給仕だのってやつがあるもんか。こらってえのはいくらも出っ会《くわ》したが、くわーってえのはおだやかじゃあねえね……へいへい、ただいまうかがいます。へい、こんばんは、およびになりましたのはこちらさまで?」 「や、ずいとすすみなさい」 「へい」 「つらをあげろ」 「こんばんは」 「年齢《とし》は?」 「えへへ、もういけませんで……」 「だまれっ、人間、もういけませんという年齢があるか。何歳に相《あい》なる?」 「へえ、四十六歳になります」 「なに、四十六歳? かくすとためにならんぞ」 「かくしゃあしません」 「今日《こんにち》、男子たるべきものが、四十六歳にもなって、分別もつかず、客と娼妓《しようぎ》と同衾《どうきん》するのを媒介しておれば、貴様なにがおもしろいか? 貴様の両親じゃとてそうであろう。相当の教育もしたであろうが、貴様の怠惰薄弱心《たいだはくじやくしん》からして、今日では、かかる巷《ちまた》に賤業夫となって、耳に淫声を聞き、眼に醜態をみる。今日を、無念無想、空空寂寂《くうくうじやくじやく》と暮らしておる。ああ、いまさらになって、両親をうらむなよ」 「いえ、うらんだりいたしません……意見をされるのはおそれいったねえ……で、ご用をうけたまわりたいもんで……」 「もそっと前へすすみなさい。貴様も三度のめしを食いおって、打たれたらいたいという感覚のある人間なら、ものをみたら黒白が判然するじゃろう。貴様の目で、いかにわが輩の部屋が一目瞭然《いちもくりようぜん》たるぐらいのことはわかっておろう。みらるるごとく、四隣沈沈、閨中寂莫《けいちゆうせきばく》、人跡途絶《じんせきとだ》えて、闃《げき》として(しんとして)声なきはちと心ぼそい。わが輩の部屋にひきかえて、むこう座敷をみなさい。かの娼妓なるものの待遇によってからに、喜悦の眉《まゆ》をひらいて、胸襟《きようきん》をうちひらき、喋喋喃喃《ちようちようなんなん》(男女が仲良く語りあうさま)としておるは、げにや艶羨《えんせん》(ひどくうらやむこと)の極《きわ》みではないかい?」 「どうもおそれいりました」 「ここに二個の枕がならべてある。一個は、むろんわが輩が使用するにきまっちょるが、のこる一個は何人《なんぴと》が使用するのか? いかにわが輩|寝相《ねぞう》がわるいというても、まさか掛けがえの枕じゃあなかろう?」 「なに、そのひとつは、あの妓《こ》さんのです」 「さあ、あのお妓さんにも、このお妓さんにも、まだ娼妓ちゅうものは一回もまいらんじゃないか。よく常識をもって判断をしてみなさい。今日、男子たるべきものが登楼をする目的とするところは那辺《なへん》にあるか貴様、女郎買いの本分たるや、なにによるか?」 「へい」 「ここに受取書というものに、酒食の代とあるはいいが、冒頭《ぼうとう》にある金五十銭也、娼妓揚げ代ちゅう点にいたっては、ほとほと解釈に苦しむ。いわゆる有名無実のものといってよかろう。それとも当家の娼妓にかぎっては、お酒の相手は十分にいたしますが、閨房《けいぼう》中の相手をせぬちゅうことが民法にでてでもおるのか? ただちに玉代をかえせ、玉代を! まごまごするとダイナマイトを使用するぞ!」 「ごめんくださいまし……ああおどろいた。たいそうなやつがいるもんだねえ。ダイナマイトを使用するだってやがら……とてもあれじゃあ女にはもてねえよ……ええ喜瀬川さんえ、ちょいとお顔を……」 「廊下をかれこれとご通行になる君、ここへもお立ちよりをねがいとうおすな。オホホホホ、オホン……」 「おやおや、黄色い声をだしゃあがって、おもいやられるねえ。へいへい、ただいま、こんばんは。こちらでござんすか?」 「さあ、ずいとはいりたまえ。はいりたまえ。清めたまえ……あとをしめたまえ。あとしめ愛嬌守り神なぞはいかがでげす?」 「いや、おそれいります」 「当家ご繁昌、君あればこそでげす。まさに当家の親柱、大黒柱、うけたまわれば、かの隣室の野暮てんどもがとやかくいうのを、君が風に柳とうけながしているぐあいは感心でげすな。さすがにや千軍万馬往来の猛者《もさ》だけのことがあるねえ。角がとれてまるいねえ尊公は……角がとれてまるいから、ちょうど到来物《とうらいもの》の角砂糖にひとしいねえ」 「あっ、さようで……」 「もそっと前へすすみたまえ。みうけたてまつるところ、尊公もオギャーと生まれて、すぐお女郎屋の若い衆さんでもありゃすまい? もとはずいぶんお道楽もあったにしたところが、このお女郎買いなるものがでげすな、ご酒《しゆ》をいただいている場合はともあれ、いざお引け、いわゆる閨中《けいちゆう》の場合となってから、そばに姫が侍《はべ》っているほうが愉快とおぼしめすか? はたまたご覧ぜられるがごとく何人《なんぴと》もおらんほうが愉快とおぼしめすか? 尊公のお胸に聞いてみたいねえ。おほほほ」 「どうもおそれいりました。なんとも申しわけがございません。あのお妓さんなら、もうほどなくおみえになります。しばらくご辛抱……」 「いえ、なにも姫のご来臨のないのをとやかくいうのじゃごわせんよ。傾城傾国《けいせいけいこく》に罪なし、通う賓客《まろうど》に罪ありとは、吉田の兼好《けんこう》もおつうひねりましたなあ。しかし、いまさら姫がご来臨になったところが、もはや鶏鳴暁《けいめいあかつき》を告ぐるころおい、いかんともせん術《すべ》がごわせん。玉代をかえしておくれでないかねえ。ついては、ちと尊公の背なかを拝借したい。そちらへおむけください」 「へい、どういうことになりましょう?」 「火ばしがまっ赤に焼けておりますから、これを尊公の背なかへジューッとあてがって、東京市の紋を書いてみたいよ」 「ごじょうだんおっしゃっちゃいけません。ただいまじきにうかがいますから……ひどいやつがあるもんだねえ……ええ、喜瀬川さんえ、喜瀬川さんえ……」 「おお、ちょいときてくんな、切りだし君、切りだし君、ちょいときてくれ」 「あれあれ、なんだい、切りだし君てえのは? ……ええ、切りだし君とおっしゃるのは、わたしのことでございますか?」 「てめえだ、てめえだ。てめえなんざあ、まだ妓夫《ぎゆう》(牛)の資格はねえや。妓夫(牛)のくずだから切りだし(こまぎれ)でたくさんだ」 「ひどいことを……妓夫のくずで切りだしとは……どうも、おそれいりまして……おや、どうなさいました? 夜具ふとんをすっかりたたんじまって、たたみをあげてしまいましたな。どうなさいました?」 「おう、ちょいとこっちへへえってくんな。なくなりものがあるんだ。どうみつけてもでてこねえんだ。ちょいとへえってさがしてみてくれ」 「へいへい。では、たたみのあいだへお銀貨でもおとしなさいましたか?」 「そうじゃあねえやい。おれが買った女がいなくなっちまったんだ。たたみをあげてもでてこねえんだ。おめえ、へえってきて、よくさがしてくんな。それでもでてこなけりゃあ玉代をけえしたほうが身のためだぜ」 「こりゃあわるいしゃれだなあ。もうじきにおいらんがまいりますから、しばらくご辛抱を……ああ、おどろいた。ちょいと類のねえまねをしやがるなあ。もっとも最初の切りだし君からおかしいとおもったよ。たたみをみんなあげちまやあがって、その上にあぐらをかいていばっていやがらあ。じょうだんじゃあねえ。おいらんはどこへとじこもっちまったんだろうな? ……喜瀬川さんえ、ちょいとお顔を……」 「あいー」 「どこでござんす?」 「ここだよ」 「あー、おいらん、あなた、すこしまわってやってくださいよ。お客がうるさくってしようがありませんよ」 「うるさくったって、あたしゃ、この人のそばをはなれるのがいやなんだもの」 「ねえ、杢兵衛大尽《もくべえだいじん》、あなた、おいらんをすこし、まわしにだしてやってくださいな」 「そりゃあ、おらあだって、商売《しようべえ》だから、ほかにもいったらよかっぺえと、こういったんだけどもねえ、喜瀬川はいかねえだ。おらあのそばをはなれるのがいやだってなあ……『そりゃあ、はあ、年期《ねん》があければ夫婦《ひいふ》になるだから、いまに、はあ、朝から晩までくっついていられるだ。だどんも、いまは苦界《くげん》の身だから、つれえけんども、まわしまわれっ』てえのに、まわりゃあがらねえでなあ。おっ惚《ぽ》れてるんだなあ、おらあに……それで、ほかの客は、なんちゅうとるかねえ?」 「へえ、玉代かえせってんで……」 「玉代けえせってか? ふーん、田舎《えなか》もんだねえ。おらなんざあ、こうみいても江戸《いど》っ子だあ……なんてまぬけなやつらだんべえ。そんなざまだから、女《あま》っ子に、もてねえだよ……で、ひとりけえ?」 「いえ、お四人《よつたり》で」 「どうも、あきれたもんだ。おいらん、どうするべえ?」 「玉代をかえして、帰ってもらっておくれよ」 「そうけえ。われがそういうなら、玉は、おらがだしてやるべえ……で、いくらだ?」 「えー、おひとりが一円ずつでございますから、みんなで四円で……」 「そいじゃあ、四両だしてやるだから、みんなに帰ってもらってくんろ」 「どうも相すみません。まことにおそれいります。では、ごゆっくり、えへへへ」 「さあ、これで、われも安心して、ここにいられるだぞ」 「だけどもねえ、もう一円はずみなさいよ」 「どうするだ?」 「わたしにくださいよ」 「なんで、われに一円だすだ? われとおらとの仲でねえか。われがものはおらのもの、おらのものはわれがものだんべえ?」 「けれどもさ、銭金《ぜにかね》ばかりは他人だというからさ。わたしにも一円くださいな」 「そうか。われがそれほどいうなら、さあ、一円やるべえ」 「これをもらえば、わたしのものだね?」 「ああ、やっちまえば、われのもんだ。そんなこと、聞くにゃあおよぶめえ?」 「それじゃあ、あらためて、これをおまえさんにあげる」 「あらためて、おらが���らってどうするだ?」 「後生《ごしよう》だから、お前《ま》はんも、これを持って帰っておくれ」
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Repost @725_kwhr - ・ ・ おはようございます。 ・ やってきました金曜日、#金魚の日 🐠🐠🐠 今日は#島本食品 様( @simamoto.mentai )の 【松前漬け】、海老、#えびこのいくら で#ちらし寿司 ・ この松前漬け、大振りの数の子が ゴロゴロ入っていて何とも贅沢✨✨✨ 甘く上品な味付けと独特の粘り気、 心地よい食感がたまらない一品です‼︎‼︎ 熱々のご飯は勿論、酒の肴にもピッタリ🍶 飲み過ぎても知らないよ〜♪(´ε` ) ・ ・ 紅葉シーズン真っ只中、 金時人参の🍁と黄色人参の銀杏を 散らして、、、 紅葉見納め弁当の出来上がり〜🍂🍂🍂 今年の秋ももうすぐ終わり、、、 いよいよ冬の到来だね。 って、今日は最高気温10℃でもう冬だな😅 よし‼︎ 来週からはクリスマスを意識した お弁当を頑張るよ〜〜🎄🎄🎄 ・ ・ 皆様今週もお疲れ様でした。 どうぞ素敵な週末を🎶 ・ ・ ・ #島本 #島本めんたいこ ・ ・ #今日のお弁当 #息子弁当 #男子高校生弁当 #おしゃ弁 #カラフル弁当部 #秋弁当 #胃袋ガッツリつかもう部 #oben365 #私のおいしい写真 #マカロニメイト #フーディーテーブル #豊かな食卓 #おうちごはんLover#丸弁 #角田清兵衛商店 #お料理好きな人と繋がりたい #snapdish #wp_deli_japan #igersjp #bento #obento #japanesefood https://www.instagram.com/p/B5cKRLkgzSo/?igshid=ey08vyk8mwtm
#金魚の日#島本食品#えびこのいくら#ちらし寿司#島本#島本めんたいこ#今日のお弁当#息子弁当#男子高校生弁当#おしゃ弁#カラフル弁当部#秋弁当#胃袋ガッツリつかもう部#oben365#私のおいしい写真#マカロニメイト#フーディーテーブル#豊かな食卓#おうちごはんlover#丸弁#角田清兵衛商店#お料理好きな人と繋がりたい#snapdish#wp_deli_japan#igersjp#bento#obento#japanesefood
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│高雄。景點攻略篇│玩轉高雄兩天一夜行程大公開!就讓我們安排輕旅行,搭乘高捷、騎著單車輕鬆遊港都吧!
嗨!連假期間大家可有規劃出遊計劃呢??至於西姐嘛......哈哈哈,還正在想正
在想耶....
但今天呢?西姐非常真心誠意想要推薦我的故鄉高雄給大家呢~ (是是是,西姐
是一位正港的高雄人啊...)
那是因為這些天啊~西姐公司同事知道姐我乃是一位正港高雄人,拼命抓著我
問說~啊,高雄究竟哪裡好玩啦!!
(啊~同事就想說既然要帶女朋友到高雄玩,總不能漏氣,想說行程一定要排
好排滿排到盡善盡美的境界咩~)
我想....
對中、北部的朋友來說,每每想要安排高雄港都之旅,想說難得走一趟,總得
絞盡腦汁安排最完美的行程才安心(笑)
而港都高雄呢,更是有著許多值得旅人探尋的魅力,等著大家親自前往好好感
受呢....
所以囉....
西姐趁著連假的到來,趕緊提供許多高雄景點,重點是大部份利用高捷或是簡單
的交通工具即可抵達喔^^
那就讓西姐帶領大家暢遊港都高雄,一起來發掘這裡的真善美。
※第一天行程※
O13 大東站→大東文化藝術中心、大東濕地公園
O10 衛武營站→衛武營都會公園
O5/R10 美麗島站→光之穹頂
O1 西子灣(哈瑪星)站→打狗鐵道故事館→天空雲台→駁二藝術特區
→駁二大義倉庫群 → 椅子樂譜
※第二天行程※
高雄武德殿→打狗英國領事館官邸→旗後燈塔、旗後砲台→星空隧道
→彩虹教堂→風車公園
※高雄優質景點※
高雄市立圖書館總館、紅毛港文化園區、中都濕地公園、月世界地景公園、
大崗山一線天、後安社區彩繪巷、大樹舊鐵橋天空步道、秀拉兒童遊戲場(鉛筆公園)、海洋文化及流行音樂中心、林園公12海洋溼地公園
最後再加碼→高雄美麗璀燦夜景
首先......
高捷輕旅行第一站我們來到位於※O13大東站※ 的大東文化藝術中心.....
【高雄。鳳山區】來~讓我們一起來放五彩繽紛的天燈吧~大東文化藝術中心
▼呼....
漂亮吧!!一座座五彩繽紛的大型天燈就近在你眼前,讓妳看到眼睛都捨不得
離開呢。
而��位於大東藝術中心正對面的大東濕地公園也非常值得旅人探尋啊......
林立樹木與湖水輝映,眼前美麗景緻,可是被大家號稱高雄迷你版的忘憂森林
呢,很威吧!
而這有著迷你版忘憂森林稱號的景點....
即是位於大東文化藝術中心對面的大東濕地公園,這裡經過高雄市政府規劃之
後,整個呈現出不同樣貌喔。
【高雄。鳳山區】激推私房景點!號稱高雄版迷你忘憂森林的『大東濕地公園』,搭捷運就能直通的小小秘境喔!
▼登勒!!
是不是是不是很有南投忘憂森林的FU啊......
杉木底下圓形木樁與那水中倒影,一瞬間錯覺,以為我們來到那美麗的忘憂森林
啊。
▼大家可別小看這塊塵囂中的綠寶石,眼前的人工濕地,是一座以生態棲息、
淨水機制、人文遊憩的整合性濕地。
※O10 衛武營站※ 衛武營都會公園
說到這個衛武營都會公園啊.....它可是大有來頭呢!
它可是與壽山並稱高雄的左右肺,聽起來很了不起吧....
但更不簡單的是.....
它的前身卻是那一板一眼又嚴肅根本靠近不了的陸軍新兵訓練的軍營喔......
【高雄。鳳山區】這是真的!昔日一板一眼嚴肅軍營搖身變成秘密後花園~衛武營都會公園
【高雄。鳳山區】衛武營都會公園~昔日軍營變身休閒踏青好去處+亂入螢光豹紋指甲貼
▼但現在卻變身為一座大型休憩公園,真心覺得高雄市民好有福氣唷^^
▼原有軍營三棟彈藥庫整修成生態教學中心,三連棟建築外觀塗上數位迷彩的
圖案,而這屬於春暖花開的季節,紫色花朵襯托著冷冰冰的軍營建物卻有著一
股特殊美感。
※O5/R10 美麗島站※ 光之穹頂
美麗島站曾經獲得知名旅遊網『BootsnAll』,評選為全世界第二美的地鐵站。
無非就是靠這座大型藝術品~光之穹頂,呼~即使西姐看過NNN次還是覺得好美
啊.....
光之穹頂位於高捷紅橘線交會點的美麗島站內,為全世界最大單件玻璃藝術,
這可是由國際知名藝術家水仙大師歷時四年半時間的作品。
光之穹頂有著深深涵義,中間兩根柱子,藍色代表陰,紅色代表陽,陰陽調合成
就這個世界.......
【高雄。前金區】高捷中央公園站~油亮黃色小鴨+美麗島站~光之穹頂+永清國小~綠色隧道
【高雄。前金區】沒錯!這座賞心悅目的公園不必千里迢迢到國外,就在咱們南台灣就見著囉~中央公園+城市光廊
※O1 西子灣(哈瑪星)站※ 打狗鐵道故事館→天空雲台→駁二藝術特區 →駁二大義倉庫群 → 椅子樂譜
打狗鐵道故事館位於高捷O1西子灣(哈馬星)站,而它的前身則是台鐵高雄港站,
它於2010年10月24日縱貫鐵道全通紀念日當天,以「打狗鐵道故事館」的新面貌
開門營業。高雄港站的保留與再利用,成為小型的鐵道博物館。
老車站有了新生命,所以誕生了打狗鐵道故事館,轉換成另一個觀光身份....更讓
這個老車站能夠有足夠支持動力走下去。
【高雄。鼓山區】充滿回憶的舊驛站+駁二特區裝置藝術~打狗鐵道故事館
▼有趣的是,就在故事館外圍,真有停著幾輛已經退休的火車,旅人們可是爭先
恐後搶著與它們拍照留念呢。
同樣位於高捷O1西子灣站(哈瑪星)的天空雲台,只要有機會站上高台往前眺望,
套一句菊姐說的話,真的是站著發呆也過癮啊......
【高雄。鼓山區】強力激推!高雄新亮點~站著發呆也過癮的美麗新去處~天空雲台
▼要到天空雲台可說是非常容易,只要利用高捷橘線坐到終點站:O1西子灣站,
然後從二號出口走出來,往前直行約幾百公尺就可抵達。
瞧瞧順著階梯爬上天空雲台,就讓我們一起俯瞰哈瑪星鐵道園區遠眺高雄港遊輪
吧!
緊接著....
讓我們一起走到一旁來去瞧瞧有趣又新奇的駁二藝術特區吧!
【高雄。鹽埕區】不會吧!變形金剛居然偷偷藏在這裡唷~駁二藝術特區
▼哇哇哇~別懷疑,大家沒有看錯....
眼前這一座大型的變形金鋼正直挺挺站立在駁二藝術特區一角呢,有沒有,一整
個就是整裝待發準備飛上天際拯救地球呢。
呼~近距離欣賞還真的是很大一座,不愧是駁二藝術特區的扛霸子啊。
▼呵呵,有兩位逗趣的裝置藝術正坐在屋簷上,正帶著一抹微笑看著來來往往
的旅人們啊......
高雄鹽埕│駁二藝術特區-大義倉庫群
地點資訊:駁二藝術特區大義倉庫群
地址:803高雄市鹽埕區大勇路1號
電話:07 521 4899
【高雄。鹽埕區】歷史紋理的老舊倉庫,加上古樸自然紅磚鋪面,再結合水岸及老樹,形成獨樹一格的文創園區,『駁二藝術特區大義倉庫群』,讓旅人置身其中細細感受,超有異國風情的fu呢~
▼有別於大勇、蓬萊倉庫以展覽活動為主,大義倉庫群則是以文創商店為主要
訴求。
▼是不是就連擺在園區裡面的.....嗯嗯.....嗯嗯.....一隻小狗狗都可以這麼可愛啦XD
喔 ,對了,大家要是逛累了一旁有可以休息的椅子,請不要一屁股坐到狗狗背上
去嘿,這作品可是禁止大家攀爬坐上去唷。
▼老樹們見證著大義倉庫群的興盛、從前與未來的轉變,我想~它們還是會繼續
屹立不摇 地在這裡守護著大義倉庫群。
高雄鹽埕│椅子樂譜
地點資訊:駁二藝術特區大義倉庫群旁邊大義公園內
地址:803高雄市鹽埕區大勇路1號
電話:07 521 4899
【高雄。鹽埕區】人氣網美景點!是啊~讓我們一起坐上回憶時光機回到小時候,好好感受『椅子樂譜』裝置藝術所帶給大家從前的校園記憶吧!
▼就在去年高雄駁二藝術特區大義倉庫群的大義公園內,打造一座新的裝置藝術
"椅子樂譜",以1137張木製椅子堆疊成一座圓形堡壘。
▼西姐放眼望去,深棕色、棕色、白色、綠色等國小木椅層層堆疊,整齊排列
著,成為一座圓形堡壘,真心覺得獨特景觀值得旅人探尋啊。
▼椅子樂譜與藍天、大樹進行一場記憶與生命的對話,偶爾也會有類似旅人西
這樣的旅人加入這一場美好饗宴。
還有…..西姐是用生命跟靈魂在寫文章(胎胎有浮誇~),請按個讚給我鼓勵一下吧^^
西莉亞玩樂人生
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隔天一早....
建議大家可以安排前往南高雄鼓山、旗津逛逛網友們激推必去的景點....
疑....??你們問說昨天有捷運可以坐,那今天這些景點捷運可是去不了!!
來來來...別懷疑,在高雄旅遊可是很方便低,建議大家可以在高捷西子灣站1號
出口租借單車(價格100~400元/次,要看單車種類價格會不一樣)
哈哈,是不是,只要一車在腳??就可以繼續暢遊高雄囉!
※第二天行程※
高雄武德殿→打狗英國領事館官邸→旗後燈塔、旗後砲台→星空隧道→彩虹教堂→風車公園
第二天一早,第一站我們來到高雄武德殿.....
這一座日式建物就位於鼓山國小後方,它是當初日本人所建造,在第二次世界大
戰前,日本人為提倡武士道的尚武精神,每一郡治至少皆設有一棟以上的武德
殿,其中高雄這座即為武德會於高雄支部之首。
【高雄。鼓山區】原來就在港都高雄也有著充滿日式異國風格的建築呢~高雄武德殿
▼呵呵.....
就連西姐這種在地高雄人,都不太清楚就在往旗津渡船口路上靠近鼓山國小
後方,居然有一座從日據時代就遺留下來的日式建物呢。
哈哈哈,接著我們來到打狗英國領事館官邸,這裡是國家二級古蹟,台灣第一棟
洋樓,是結合西方設計與東方巧藝之建築。
.................痾,只是西姐姐找不到照片,請大家有興趣的話,直接跳到文章賞文
去嘿XD
【高雄。鼓山區】打狗英國領事館官邸+旗津風車公園+海濱海產餐廳
好囉.....
鼓山區逛的差不多的話,就讓我們牽著單車坐上渡輪,來去旗津探尋有趣又好玩
的景點唷^^
約莫5分鐘船程.....我們終於抵達旗津渡船口囉.....
首先.....
就讓我們先到市定三級古蹟旗後燈塔(高雄燈塔)跟旗後砲台走走逛逛吧!!
【高雄。旗津區】呵呵,站在純白燈塔前靜靜地欣賞一望無際港灣好風光~高雄燈塔(旗後燈塔)
▼也許是因為高雄是西姐的故鄉,總覺得高雄燈塔是我見過全台灣最美的燈塔,
呵呵,要是我不說它是燈塔的話,總會有一種錯覺,好似來到歐洲某小鎮有著
田園好風光呢~是不是~
旗後山扼守高雄港口(打狗港),早在清初康熙年間即設有營汛砲台鎮守,並設有
大砲六尊。
同治二年(西元一八六三年)打狗開港與外人通商,使得旗后砲台軍事地位更加顯
得重要。(資料來自網路)
【高雄。旗津區】感動~親眼見證清朝初期保護打狗港之砲臺古蹟~旗後砲台
▼旗後砲台是用鐵水泥與紅磚砌成的,淡淡的磚紅色,有股懷舊的味道。
星空隧道位於津津醫院後方,走廟前路(海產街),往海水浴場方向前進,進入海
水浴場向右轉,沿著指標一直向前行,順著木棧道轉彎即可抵達星空隧道.....
長長古隧道有木棧道鋪底,並以夜光彩繪、漂流木、蓄光石等素材將隧道裝飾出
12星座圖樣,就像似夜空下仰望點點星空。
不過可惜的是....
目前12星座圖樣並未點燈,所以只能憑空想像囉。
【高雄。旗津區】哇~那猶如時空隧道般神秘,咻~一瞬間卻來到蔚藍海岸~星空隧道
▼出隧道之後迎面而來的是.....
一條長長的海堤將海面一分為二,海堤外海浪洶湧,海堤內卻是風平浪靜,
再回頭看那億年幻化的筆直珊瑚礁,不禁佩服大自然萬物的偉大。
這兩座新造景彩虹教堂就位於旗津貝殼館的旁邊,也就是在恐怖大貝殼海珍珠反
方向喔。瞧~往貝殼館盡頭走去,色彩繽紛幾何造形的美麗景象就出現在西姐眼
前,興奮的咧!
【高雄。旗津區】港都高雄又一新亮點!旗津貝殼館變身成為海天一色『彩虹教堂』,這眼前景象美的讓人狂按快門
▼其實.....
會有這兩座新造景是因為高雄有家婚紗業者向觀光局承租幾乎已經成為蚊子館的
旗津貝殼館,花上千萬元大手筆改裝成婚紗拍攝基地。
(不過說旗津貝殼館是蚊子館也不太對,因為對西姐來說貝殼館冷氣開超強,炎熱
海邊有這一處好地方,根本是天堂來著,好嗎?)
呵呵呵.....
今天旅人的腳步幾乎都留在旗津半島呢.....
畢竟旗津有太多好玩又有趣的景點值得旅人探尋啊。
最後.....
再帶大家前往旗津風車公園,來去跟這一些蝦兵蟹將玩遊戲吧!
【高雄。旗津區】黃色風車浪漫迎風旋轉,就連蝦兵蟹將也來參一腳~旗津風車公園
好囉,大家對這樣安排兩天一夜高雄輕旅行是不是超級有興趣啊......
老話一句,大家不妨趁連假到來,趕緊旅館訂一訂,南下高雄好好感受南台灣
暖暖的溫度吧!
不過!今天分享還沒有完呢.....
堂堂大高雄地區可不是只有以上的優質景點而已喔.....
照西姐在高雄走跳多年玩下來,其實高雄真的有好多好多值得旅人探尋的優質
景點呢。而接下來繼續介���西姐曾經去過的景點,分享給大家參考唷。
※高雄優質景點※
高雄市立圖書館總館、紅毛港文化園區、中都濕地公園、月世界地景公園、
大崗山一線天、後安社區彩繪巷大樹舊鐵橋天空步道、秀拉兒童遊戲場(鉛筆公園)、海洋文化及流行音樂中心、林園公12海洋溼地公園
最後再加碼→高雄美麗璀燦夜景
首先,我們來到高雄總圖館.....
接著就讓我們稍微先認識一下這棟造型特殊的綠能建築吧!
歷經4年的等待,全球首度嘗試懸吊式建築圖書館的高雄市立圖書館新總館於11月
13日落成,
新總館以「樹中有館、館中有樹的綠��築文化地標」獲得國際評圖首獎。
此外....
「室內無柱空間」及「由上往下施工」更是兩大建築工法特色,除了強調人、
書與樹的關係,更記錄著一場史無前例的市民運動美好遠景。(資料來自網路)
【高雄。前鎮區】哇~又一港都新亮點,漂亮呈現綠能與知識結合環保綠建築~高雄市立圖書館總館
▼真心欣賞總圖書館的書架擺設,超級有國際級圖書館的規格.....
想不想走在觀看山海美景的天空步道啊??
想不想感受大船入港的強烈震撼啊??
想不想坐在高字塔旋轉餐廳裡面享受美食啊??
來~就讓我帶著大家到高雄小港的紅毛港文化園區,來去近距離接觸及感受專屬
於港都文化的力與美 ^^
【高雄。小港區】這裡!絕對可以看見專屬於港都獨特的風情~紅毛港文化園區
【高雄。小港區】來唷來唷~只有這裡才能近距離體會大船入港的震撼啊~紅毛港文化園區
▼這裡利用老房子的架構,結合仿古建築手法,重塑紅毛港聚落生活的虛擬實
境,尚未完成的型態,讓遊客輕易即可透視房子興建的過程及建材的運用,重
溫紅毛港的興盛時期。
▼呵呵,當下西姐頂著烈日@@站在觀海平台上,準備欣賞難得一見大港出港
show囉~
中都濕地公園有系統地收集、保育與再生台灣濕地植物,還原高雄歷史中曾擁有
的海岸林帶,修補城市環境系統,兼具生態教育、物種多樣性保存、國土保安防
洪,與市民休憩功能等等........(資料來源自官網)
登登登~~最了不起的是......
2012年更代表台灣參加有建築界奧斯卡金像獎之稱的「二○一二全球卓越建設
獎」,再度獲得國際專家學者肯定,榮獲環境復育類首獎,受到國際間的強力
支持與肯定。(大家請掌聲鼓勵鼓勵~~)
【高雄。三民區】別驚訝!我不在巴里島~這裡是正港河海濕地紅樹林自然生態的最佳詮釋~中都濕地公園
▼漂流木與茅草搭建的樹屋,予人格外悠閒的感受。
呵呵,我呢~~則稱它是發呆亭,因為太陽公公太熱情,所以我走進發呆亭任由
著徐徐微風輕撫我的臉~~一瞬間真有種在東南亞某個小島渡假的fu呢^^
▼生態島上的步道以低度開發為原則,讓民眾在不打擾生物的情況下融入大自
然。
眼前這荒蕪淒涼地形就位於田寮區的月世界地景公園,大家應該不陌生,因為
月世界最出名的也是這猶如月球表面的特殊景象。
【高雄。田寮區】這裡!有著特殊地形淒涼美感,眼前景象還誤以為去了一趟月球表面呢~月世界地景公園
▼呵呵,一定要跟這牛角麵包月亮造型的竹編作品來一段回憶,身為觀光客代表
的西姐確定到此一遊啊....
(其實這兒有個很美的名稱,叫做弦月眺景台,好嗎?)
▼站在眺景台遠眺眼前月世界泥岩相連起伏,要不是有這公園,我想要一窺
這壯麗景色,應該是有難度吧!
其實說到大崗山風景區....
早期高雄市岡山區與田寮區交界處的大崗山,位於岡山區東北6公里處,是一座隆
起於平原上覆舟似的台狀小方山。
民國七十年代之前,由於軍事需要的理由,大崗山的大部份地區均劃入軍事管制
區,一般遊客可都是禁止進入;
因此,也讓外界對於大崗山的印象蒙上一層神秘的面紗。(資料來自網路)
時至今日,軍事管制區域縮減了,大量遊客湧進大崗山,不過大部份都只是在前
山活動....其實後山巖還隱藏著更多自然景觀。如一線天、石母乳、瘦身洞、密婆
洞、清涼洞、日據軍用洞穴都是可看景點。
【高雄。田寮區】就在南台灣隱藏著一處壯觀的雄偉峭壁,想不想體驗走在山璧夾縫中的刺激快感啊?那就來去走一趟『大崗山一線天』吧!
▼石灰岩的地形因溶蝕作用而易有溶蝕溝、溶蝕洞等地形,而一線天則因為受構
造抬升,並有地震緣故,而自然產生特殊的張裂性谷地,在經過水的溶解後而有
了較寬的空間可讓人通行。(資料來自網路)
位於高雄仁武區的後安社區彩繪巷,很得西姐的喜愛,呵呵,就為這些彩繪作品
西姐居然跑了二趟....
至於有何精彩之處呢??
1.彩繪作品以目前在小小姐妹界最有名的冰雪奇緣兩位女主角為主題....
啊....就是那個姐姐艾莎公主跟妹妹安娜公主啦,Let It Go Let It GoGoGoGo...
那個啦...
2.全台彩繪村或巷通常以素人來作畫......
但是!仁武後安社區不一樣,當地社區里長為了美化社區,請來曾經做過手繪
電影看板壁畫家蔡先生來進行壁畫創作。
【高雄。仁武區】哇~不會吧!侏羅紀公園居然出現在『後安社區彩繪巷』!趕緊讓我們走一趟,來去瞧瞧栩栩如生恐龍彩繪精彩作品吧!
【高雄。仁武區】甚麼啊?冰雪奇緣Elsa公主出沒在南台灣?這可妙的咧~後安社區彩繪巷
▼看看這變形金剛,要是不講說這裡是彩繪巷,還真的誤會是某家電影院外的
電影壁畫。
▼重點是.....日本著名的東大寺也來參一腳耶,好可愛的小沙彌唷^^
它...嗯嗯...年紀有點大,算是老爺爺等級,很巧,剛渡過一百歲生日沒多久。
它...以前專門是躺在那裡??讓火車跑來跑去的。 (噗!好爛的形容唷..)
它...外型猶如優美的彩虹一道道地掛在天邊。
它...可是有著曾經是亞洲第一長橋的封號。 (丟係依啦....)
它...就是位於高雄大樹區的舊鐵橋天空步道....登勒!
【高雄。大樹區】優美的虹狀型舊鐵橋。新生命~就讓我們一起體驗吧~大樹舊鐵橋天空步道
▼1983年台鐵為了安全性考量,新建鐵路電氣化新高屏溪橋(鋼筋混凝土預力樑
橋)於鐵橋北側,所以囉.....行走在天空步道上面時,就可以輕易近距離見著一旁
火車經過唷.....
▼左邊→新高屏溪橋與右邊→下淡水溪鐵橋,這新舊傳承畫面,嗯嗯...會讓人
感動....想想....曾經有過多少歷史過往,都發生在眼前這般場景呢.....
高雄鼓山│秀拉兒童遊戲場(鉛筆公園)
地址:高雄市鼓山區美術館東二路50號
【高雄。鼓山區】哇~超萌放大版彩色鉛筆出現在『秀拉兒童遊戲場(鉛筆公園)』,這讓少女心大噴發的都市角落,絕對可以成為超夯IG打卡點!
▼鉛筆是大家小時候經常使用的文具(其實西姐上班也還在用啦~),而位於
高雄美術館公園旁,『秀拉兒童遊戲場(鉛筆公園)』有10多支巨型鉛筆佇立
環形廣場,雖然只是一處小小社區公園,但近期在IG上卻相當熱門。
▼大家印象中的鉛筆就這樣被放大,這簡直是好不可思議的畫面啊~
一整個就是讓西姐內心粉紅小宇宙瞬間給它爆發啦!
真的是非常好拍的一座公園,害西姐立馬假掰起來,難怪在IG界會這麼火紅,
不是沒有原因的。(笑~)
高雄苓雅│海洋文化及流行音樂中心/小型展演廳6座
地址:高雄市苓雅區海邊路29號
【高雄。苓雅區】IG打卡新寵兒!台灣唯一、亞洲最棒的娛樂港灣空間『海洋文化及流行音樂中心/6座小型展演廳』讓我們一起輕軌旅行高雄港灣~光榮碼頭!
▼呵~海洋文化及流行音樂中心玻璃帷幕特殊材質,襯托出美麗海洋及籃天,
讓兩個西姐映入這一幅浪漫畫面。
▼而這6座小型展演廳算是整個海洋文化及流行音樂中心的第三區域,而第三區
想要塑造出兩種不同風格的藝術大街:
一是充滿了文化活動的室內街道,連結6個可容納200、400及1000人等不同規格
型式的Live House,另一個則涵蓋7公尺高的海洋文化街道、水公園及自行車
道。(資料來自網路)
高雄林園│林園公12海洋濕地公園
地址:高雄市林園區半廓路
【高雄。林園區】港都又一亮點!探訪一群穿著白紗裙倒立跳舞的五彩水母好「趣」處~林園公12海洋濕地公園
▼公12海洋濕地公園位於高雄市林園區西溪、港嘴里交界,後厝路及半廓路交叉
口,地理位置臨海,沿海沙洲與沿岸所圍成水域形成的潟湖,總面積約6.2公頃,
為林園現存的海岸特殊景觀。(資料來自網路)
▼仙人掌雖有刺但卻跟那玫瑰花一樣,眼前這花朵卻是如此美麗地綻放著......
▼倒立水母白天會以倒立姿態,伸出觸手曬太陽,透過光合作用,藉此獲取能
量,待晚上再翻過來(卡哇依ㄋㄟ)。
雖然無法確定倒立水母從何處來,但西姐確定....湖水是鹹的!!
(為何知呢?因為西姐戴���帽子防曬,因照相太過專注,海風咻咻咻這麼一吹!!
我的帽子掉到水裡面,等撈起來一舔??鹹的!)
好!不囉唆!那就讓我帶著大家來一趟感受高雄越夜越美麗的驚豔氛圍吧!
看吧!燈光將整座圖書館包圍著,就像是閃閃發光的星星璀璨奪目,好美,
真的.....
【高雄。三民區】愛河之心越夜越美麗~華麗的燈光宛若鑽石般璀璨
【高雄。夜太美】激推!浪漫指數破表之暖冬輕旅行。來去港都夜景新亮點!
▼哇嗚....
夜晚的天空雲台靜靜地待在原位,平台上三三兩兩遊客,正望著遠方哈瑪星鐵道
園區,雖然我並沒有走上雲台,但我想那般景色一定很美很真吧~
▼就讓我們來去壽山上的忠烈祠一旁觀景台,好好地來欣賞專屬於高雄的百萬
夜景吧!
高雄景點持續更新中.....
『西莉亞玩樂人生』終於成立粉絲專頁啦!!
大家想不想知道西莉亞又跑去哪裡遊玩了呢?
齁齁齁........最新訊息都公佈在粉絲專頁嘿。
請大家幫忙按個『讚』就是對我最大的鼓勵,謝謝你們^^
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【台灣好行。關故西拉雅】如何利用台灣好行。關子嶺故宮南院線一日/二日無限搭乘車券玩轉西拉雅,暢遊關子嶺風景區,碧雲寺、 水火同源、寶泉橋、關子嶺老街、最後還要泡全世界稀有的泥漿溫泉做為這一趟旅程完美Ending啊
【台灣好行。關故西拉雅】台灣好行-關子嶺故宮南院線開駛啦!串聯亞洲人文藝術薈萃的故宮南院、世界級泥漿溫泉的關子嶺風景區、 無米樂社區、菁寮老街、土溝美術館,西拉雅二日行程大公開,通通一次玩到底!
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【山口一日遊】別府弁天池.琉璃光寺五重塔.湯田溫泉.獺祭酒藏見學.午餐:山賊村燒肉.晚餐:長州屋瓦そば.住:ホテル かめ福
【 旅遊部落客專欄 / 小虎 】
【日本-山陽-山口一日遊】別府弁天池.琉璃光寺五重塔.湯田溫泉.獺祭酒藏見學.午餐:山賊村燒肉.晚餐:長州屋瓦そば.住:ホテル かめ福
山陰山陽是中國地區的舊名,是個人在日本旅遊很愛也蠻常去的區塊,不太記得到底去過幾次(扮手指)..。最近,不少朋友在粉絲團問我到底「山陰山陽」有什麼好玩的?今天開始就以上個月的遊記為基礎來個山陰山陽五縣總整理吧,首先第一篇當然是九州和本洲連結最重要的「山口」縣囉!
秋芳町位於山口的西部,大家比較耳熟能詳的可能是美彌市這個在台北也有辦公室的���方。之前曾到訪過同在美彌市的「秋芳洞」,今次來介紹另一個也非常有名的「別府弁天池」。
看到「別府」兩個字可能以為是九州大分的那個別府,其實不是。說起「別府」它的意義指的是其他、另一個「府邸」的意思。這裡的水源是從後方的嚴島神社(和日本三景宮島的嚴島神社有一點關系)湧出的。另,這裡的湧池可是「也是日本名水百選之一」哦!
這個有著夢幻顏色,還會因為陽光、天氣而變色(據說七彩)的水池,常年維持在14度的常溫,日湧出量高達5萬5000噸、常温14度。
因為是從地底石灰岩所湧出的水,是以含有大量豐富的礦物質,也造就這了多變色彩的池子。也許因為池水帶著神祕感,流傳了一個喝上一杯水可以長生一年的說法,來此的遊客不妨喝上一杯試試(笑)。
這個號稱無菌的湧水,所以附近的居民,店家常常來此取水,或泡茶、沖咖啡,或洗米煮菜之物,好些甚至是整卡車的來載.....。然後要不要放錢,要放多少完全自己決定。
境內的神社「嚴島神社」雖然不大,卻一直保護著這座著名且美麗的湧池。
別府弁天池周邊有兩個體驗活動,分別是採葡萄和釣鱒魚,釣竿的費用是300日幣(含魚餌),但要注意的是釣到的鱒魚要帶回家得另外付170元(每100公克)的費用哦!
附帶一提的是這裡的養魚的水和剛剛我們看到「弁天池」的水是一樣的哦,這也讓這裡的鱒魚成了秋芳市的名物之一。
因為池子裡的鱒魚很多,所以隨便都可以釣上,要是這輩子沒釣上過魚的人來這,一定也可以輕易完成任務的XD。
釣上的鱒魚可以帶到嚴島神社後面的餐廳,再付上一尾300日幣的代煮費,就有美味的烤鱒魚可以享用囉!
餐廳就蓋在神社後面的樹林裡,一片綠蔭就算是炙熱的夏天來此也十分涼爽。
當然你不想釣,或是真的釣不到,這裡也有一些鱒魚料理可以享用,另外真不吃魚的朋友也有其他如咖哩、烏龍麵等日本家常料理可以選擇。
餐廳的魚料理可都是現點現殺現烤,所以等候的時間可能會長一點,但幸好林子的風景很美,等著時間一下就過去了。
像這樣的定食是1400日幣/人,除了烤鱒魚外,還有炸魚、魚肉生魚片、沙拉、漬菜和味噌湯。
比起定食的魚,我們釣到的可就大得多。在日本其實我也體驗過不少次釣鱒魚,也都是釣上來的魚現場處理,但多半是整隻下去烤,像這樣把肚子也清得乾乾淨淨倒是少見,但魚肉連皮也顯得特別的酥脆,然後因為魚只有簡單灑鹽沒有多餘的調味,更能嚐到魚肉本身的甜美。
別府弁天池:山口県美祢市秋芳町別府水上,詢問電話:0837-62-0305
交通方面JR火車到「新山口」再轉巴士約30分鐘,自行開車則上「美彌」交流道約20分鐘可達。
接下來我們的第二個景點來到之前來過的「香山公園」,這裡可是日本百選的歷史公園之一哦!
為什麼會在百選公園前加上「歷史」,那就得從「大內弘世」說起,大內弘世為日本室町幕府南北朝時期的武將,之後南北朝統一後移防到此(長州),但由於太想念京都的一切,於是仿照京都文化在此蓋了這座公園,也因此這裡曾有西部京都的美名。與公園毗鄰的是洞春寺,也是後來消滅大內氏的毛利家族之墓地所在。
香山公園中最著名的非日本三大名塔之一的「琉璃寺五重塔」莫屬,另兩個塔便是京都大大有名的京都的醍醐寺。和奈良的法隆寺,據說晚上的點燈會讓五重塔有不同的美,可惜我來了兩次都無緣見到。
琉璃寺五重塔為純木建造,塔頂是用檜皮葺(日本茅草屋用的草)造的塔寺(高塔的高度31.2公尺),建立的時間約莫是文明三年(1471年),在現存的最古老的五重塔中排第十位,它是日本國家指定的文物財,每年十月初的每個星期日開放塔寺外的木窗,可參觀當中珍貴的觀音像。
瑠璃光寺旁的曹洞宗寺院,山號「保寧山」(ほねいさん)。本尊藥師如來、開基(創立者)為陶弘房夫人、開山(初代住持)為大庵須益。
這邊除了日本神社常見的祈福、參拜等儀式外,有幾個比較特別值得介紹的,其一是對著地藏菩薩的石像淋水(水掛け地蔵),據說身體什麼地方不舒服就淋在菩薩相對應的身體部份,便能得到健康的身體。
另外這個佛足石也很有意思,純就中醫針炙的角度而言,腳地板有許多穴道,對應著身體的每一個器官健康,是以把錢幣放在相對應的地方,同樣也有祈求健康的意思,比方說心臟不好就放在相對心臟的穴道位置。
附帶一提的是香山公園外(對面馬路),有一家外郎專賣店是此間非常有名的拌手禮名店,來此的遊客記得帶上一份回家哦!
外郎基本上和羊羹有一點像,不管是口感還是味道,有一個說法是當年京都的羊羹隨著熱愛京都文化的大內弘世一起從京都來到山口,略有不同的做法成了之後的「外郎」,如今已是山口縣最具代表性的伴手禮。除了紅豆的原味外,現在也有抹茶口味,也有紅豆+粟子風味的外郎,相對來說比羊羹略為不甜,個人蠻喜歡吃的!另外,在名古屋也能吃到「外郎」,但山口縣的用蕨粉做的,所以口感柔軟,名古屋的用糯米所以稍微硬了些。
香山公園:山口県山口市香山町7-1,電話:083-934-6630
交通:JR山口站轉搭公車約5分鐘
瑠璃光寺五重塔官網
接下來,我們到山口縣個人很喜歡的溫泉區「湯田溫泉」泡個舒服的溫泉吧;這溫泉區約有三十多間溫泉旅館是許多人到山口秋芳洞、琉璃五重塔會選擇住宿的地方。湯田溫泉素有美肌之湯的稱號,對於神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺也有一定的功效
更多湯田溫泉的介紹/www.yudaonsen.com/
另外湯田溫泉又有一個白狐溫泉的別號,相傳很久以前,湯田一帶某間寺院裡有一座池塘。有一陣子每晚上都會有一隻受傷的白狐來這個池塘泡腳,觀察幾天後的寺裡小和尚發現這白狐居然神奇的在第三天傷完全治好,小和尚試著喝了口水發覺是溫的,於是鑿了池子後熱水就不斷的湧出,也開始流傳著能治百病的「白狐の湯(白狐溫泉)」。
小虎約莫是2015年來到湯田溫泉,那時這座「狐の足あと(狐狸腳印)」剛蓋好沒多久,裡面的設施也沒那麼完善,但對此卻留下很深刻的印象,這次能再來特別高興。
初進門覺得和一般日本觀光局的商店、餐廳、咖啡屋沒有什麼不同,但細看之下才發現它是依據��面白狐的傳說而建的。
餐廳內部有一座可以泡足湯的半日和式座位,前面的玻璃看出去就是一座有木頂的露天足湯。
這座足湯就是依著白狐療傷池子而建的,上面的石道上到處都有白狐的石腳印。
「狐の足あと」除了能泡足湯外,也提供山口縣不少著名的清酒,比方說台灣人最知道的「瀨祭」,還有同樣很有名的「東方美人」,還特別設計出幾套和歷史、名人有關的清酒SET,酷愛日本幕未、明治分期歷史的小虎自然選了「明治三傑的套酒」!
不好酒的朋友,這邊也有其他飲料,更特別的是有白狐或是歷史人物的拉花,第一次來時還有吃到白狐冰淇淋說!
2015年來時杯字還沒印上「狐の足あと」,感覺更特別,更有FU了呢!
白狐的拉花,配上有腳印的紙杯,不得不說日本人真的很會....。
當然,這裡也是有其他和白狐有關的產品,比方說擦腳的毛巾,是不是很可愛呢!
就連置物櫃的KEY都搞的這麼可愛是怎樣啦!!
天氣冷不想在戶外吹風的遊客,也可以選擇在室內舒服的泡足湯哦!
另外二樓也有不定的展覽,據說這是很有名的動畫「文豪野犬」。故事中的主要人物皆有特殊異能,而人物名與異能名皆與世界上的知名文豪或其作品有關。當中也有日本的國民作家「宮沢 賢治」(銀河鐵道作者)和動畫中的主角之一「中原中也」,他就是湯田人哦!
狐の足あと館的對面就是「中原中也」紀念館。
中原中也(1907年4月29日-1937年10月22日),日本詩人、歌人、翻譯,山口縣人。舊姓柏村,因過繼母系,改為中原,東京外國語學校(今東京外國語大學)専修科法語部畢業。1937年因結���性腦膜炎過世,享年30歲。他留下350篇以上的作品,在1945年日本二戰投降以後受到很大的歡迎。最有名的著作為《山羊之歌》。
狐の足あと:山口県山口市 湯田温泉2−1−3(湯田溫泉JR站步行8分鐘),電話:+81 83-921-8818,營業時間:8:00-22:00
狐の足あと官網
當晚我們用餐的地方是位於「狐の足あと」不遠的「長州屋」,這間餐廳主要的料理便是長州(山口戰國時的舊稱)料理。
用餐空間其實蠻妙的,有一點像木椿建成的迷宮...最少我在其他地方不曾見過這樣的隔間XD。
說到長州藩最有名的料理就是這個「長州瓦そば」,據說此料理是當初戰爭時士兵因為沒有煮具而取用倒落的瓦片炒麵而成的臨時料理,猜想當時也沒人知道這料理居然會變成山口最著名的代表性料理。
所謂「長州瓦そば」就是把そば和一些肉料食物放在燒燙的瓦片之上,上面放上大量的蔥花、蛋絲、海苔、檸檬片和辣蘿蔔泥。
然後像炒麵一樣的把そば和所有食材在瓦片上拌炒後食用。
有一點像廣州炒麵般一邊脆一邊酥,咬下後還帶そば的微Q咬輕,沾上特殊的甜醬油一起食用蠻特別、也挺好吃的!
另外這裡也賣一些居酒屋,串燒店、日式食堂的下酒料理,不管是雞肉串還是五花肉都烤得相當不錯,簡單的鹽調味更能吃出食材的鮮嫩。
炸雞和薩摩炸的炸功也了得,酥香不油膩的外表特別好吃,喜歡炸物的朋友千萬別錯過!
另外這個包了芥末的魚板脆Q脆Q口感極好,魚板本身的甜對和芥末的嗆辣非常搭,好好吃哦!
長州屋:山口縣山口市湯田溫泉4-1-7,電話:81-83-923-1678,營業時間:11:00-01:00
晚上我們住的是湯田溫泉區非常有名的「ホテル かめ福」,離湯田溫泉老街和車站步行都在十分鐘內相當方便,附近商店街和餐廳林位,各項生活機能都很完善。
飯店裡有好多曾經入住過的名人簽名板,可見在當地相當有名。
(溫泉照片來自官網)
這裡的溫泉也是非常有名,尤其是個人露天溫泉超愛,來這一定要記得給他泡上三次(笑)。
飯店裡有自己的小型商店街和晚上方便喝酒吃飯的小酒館。
房間可以選擇純日、純洋房型,也可以選擇像這種半和洋風的房間,房間非常的寬敞舒服。
早餐的選擇非常多,日、中、洋式都有,種類也相當多。
當中最特別的就是一些山口產的食材和當地的料理,這是小虎到各地一定會優先吃吃看的。
另外山口產的牛乳也相當好喝,還有我最在乎的早餐(麵包)。
隔天一早我們驅車前往日本清酒界的傳奇,也是台灣相當著名的清酒「獺祭」酒藏見學。上面寫著「山口山裡的小酒藏」...說真的十多年前,獺祭還真只是一個默默無聞的小酒廠,如今早是現代化聞名的大酒藏了。
這間新的酒廠是2013年花了30億和兩年時間才於2015年完成的。
一下車就立馬感受到這個小城市的空氣和明媚的山水風光,徐徐和風和暖暖的太陽,舒服極了。
眾所皆知獺祭最有名的就是「二割三」,所謂的二割三就是把釀酒的米磨到剩下23%再拿去釀酒,門口的這個石雕就是米的解剖面,中間的鐵球就是磨剩的23%米的模樣。
在日本我約莫參觀過二十來間酒藏,獺祭應該算是消毒衛生要求和關卡最多的一間了XXD。
但,當然也是因為這裡的見習最詳細也最不在乎人家拍..... 不管是磨米、洗米、煮米的過程都隨便你們拍...畫面中的洗米據說常年都是在5度的水溫下洗,夏天可能還好,但冬天可能就.....。
當天,帶我們參觀見學的小哥,特別拿了二割三和三割九的米給我們看,甚至是讓我們吃..說真的,這看起來好像磨碎的保麗龍屑哦..吃起來也沒什麼味道,或者應該說沒什麼米的味道....。
左邊是原米,再來是三種獺祭常見的精米步合度,分別是50%、39%、23%的米大小。
這是蒸米後的集米過程,這時的米已變成半透明狀,吃起來卻意外非常的Q實!!
然後就是冷卻和麹造り,這裡面非常的悶...顯示這工作非大的辛苦。
酒母造り→醪造り這個過程,需要每天都來觀察狀況,並適時攪伴,控制菌母的活動和溫度,也是釀酒過程中最重要的過程!
滓下げ(去除酒渣)後,剩下的就是所謂的酒粕,它可以用來增造各種副產品哦!
接下來還有濾過→火入れ(殺菌處理)→貯蔵・熟成→割水(加水調整酒精濃度)→等過程,獺祭都用大量的機器和數據去維持酒的品質,故然有一派的人將獺祭歸類為機器釀出來沒有溫度的清酒,但另一方面也顯現出獺祭清酒的穩定和其下的功夫。
然後就是最後的裝瓶和出貨。
參觀完現代化的酒藏後,記得一定要走到對面的賣場,因為那裡有很多台灣不好買,甚至是買不到的好酒!
純白的內外設計一如米和水的這兩大釀酒元素的純淨。
我也曾買過很多次送人的獺祭三兄弟禮盒,畢竟它在台灣算是知名品牌,送人比較有面子XD。
第一次知道原來獺祭也有燒酒,不過還真是不便宜XD。
另外還有一些比較少見的限量特別酒,喜歡清酒,尤其愛喝獺祭的絕對不可以手軟!
好想買這瓶原酒..但因為要低溫,不然真想帶回台灣(泣)。
最後就是獺祭的副產品,比方應該很多人吃過的獺祭蛋糕和煎餅,個人超推獺祭的蛋糕超好吃!
獺祭年輪蛋糕倒是第一次見,立馬敗了一盒回台灣臭屁一下XD
獺祭酒粕咖哩....這時我感到我的錢包一直在哭泣....。
居然還有各種化妝品...還好我不是女生(笑)。
獺祭酒藏:旭酒造株式会社:山口県岩国市周東町獺越2167-4,電話:0827-86-0120,見學需要於官網預約。 網站/www.asahishuzo.ne.jp/
離開山口前的最後一個景點,也是我最喜歡最推薦的一個景點,據說也是山口現在最火的景點,我們的午餐也在這享用。
這個地方叫「山賊村」,據說此間的山路是山口人拿到駕駛執照一定會開來的路段,因為早前這地方沒什麼人車,相對安全(笑),它的位置離著名的錦帶橋不遠,但交通有一點不太方便,因為不管是公車或是火車都要再步行20分鐘以上...坐計和車也許是最快最方便的,除了自駕外!
山賊村在山口一共有三間店,分別是周東店、錦店和這次我們來的玖珂店,村口掛滿了迎風飄提的鯉魚飄,搭配藍藍的天、白白的雲煞是漂亮!
村口外頭的建物雖說不免略商業,但卻是相當對我的眼,當然也對我的相機...光門口我就拍了十多分鐘,捨不得進去吃飯....。
這個山賊村是以這座曾經的古寺為中心,早前的寺名不得而知,總之現在叫「桃李庵」。
穿過好像每個地方都差不多的商店街,卻迎來一陣驚喜,因為一開始我以為它只是一間普通的餐廳...。
首先是這兩間我蠻喜歡的木屋,一看裡面擠滿人了就覺得一陣不妙,而且當天還是平常日....
再往前走是非常有氣氛的戶外用餐區,當天剛好溫度適中,大樹、木屋、古寺,涼風吹來好想好想坐在這用餐。
一旁還有一座挖出來卻像真的池塘還有個小瀑布累,真是漂亮的亂七八糟!!
本來我以為要在我很喜歡的戶外用餐,卻被帶進剛剛提到的那間古寺…我心想不會是��在廟裡吃素吧...。
在廟門口往剛剛樓下用餐空間拍出去,也是一整個有FU到炸,好不好!
一進屋我傻眼了,這也太漂亮了吧...從沒想過可以在像這樣的古寺裡用餐,而且還是舖者榻榻米的古寺。
巨大的屋梁和白色的大燈籠,牆上還有許多穿著古盔甲裝,我的天呀,我太喜歡這裡了,要說它是我在日本吃過的餐廳中最有氛圍最喜歡的也不為過!
當天我們吃的是3700日幣的山賊套餐,有一大盤的山賊燒肉、疏菜、香菇,烏龍麵和這裡最有名的山賊燒和一些我沒拍到的小點心...。
這邊的燒肉要上網前得先泡一下附上的醬汁,聞起來有一點像加了味噌、糖和味琳的醬汁。
燒肉油質相當不錯,甜度也夠,其實不沾那個醬也OK,但沾了醬再烤的確會多了香味,也比較不會沾網烤焦,但也略鹹了一點,所以後來我都沒再沾了。
怕吃不飽附上的烏龍麵,上面還有牛肉片,像是壽喜烏龍麵,也不錯吃。
最後就是這裡的名物山賊燒,其實就是巨大的烤雞翅,抹上的醬汁同樣略甜但不算太重,雞皮的油質不多,但肉質相當札實,因為取的肉比較靠近胸口,嫩度也有差。
更多料理參考/www.irori-sanzoku.co.jp/menu/
吃飽後,可以到後面的稻成神社(山口好像都管稻荷神社叫稻成)散步一下。
林間的神社佈置的相當不錯,也沒有太OVER的商業佈置,環境也挺清幽的。
裡面的帶子觀音據說非常靈驗,雖然看起來不是很起眼!
這裡是山賊村舉辦各式祭典的地方。山賊村各種祭典/www.irori-sanzoku.co.jp/module/info.php
除了桃子庵外,這裡還有另外兩個用餐空間,分別是山賊岩和一燈錢,不過當天都休息就是了。
山賊村(玖珂店):山口県岩国市玖珂町1380-1,電話: 0827-82-3115,營業時間:10:00-22:00
官網/www.irori-sanzoku.co.jp/
文章出自: 【小虎食夢網】台北捷運美食
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