#行幸啓
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地元のルールを守れない観光客も駄目なら、いかにも海外メディアが「ホラ、日本は特殊ですよネー」って飛びつきそうな黒幕を設置する手を選んだ行政も駄目 誰も幸せにならない
大体、観光客なんて、こういう無法な奴らが多数だから 日本人が海外の観光地で歓迎されるのは、日本人だけは立ち入り禁止区域に入り込んだり、ホテルの部屋を壊したりという無法をほとんど働かないから
今まで日本には、少数の金持ち層の中で日本に興味をもつという極少数派が来てたから、そりゃマナーは良かった でも今インバウンドとか言ってやってくるのは海外の大衆層 デフォでルールを守らないし、世界中どこに行っても俺様の気分で行動しようとする
日本もある程度観光で生きていくなら、こういう無法観光客と共存する工夫をするしかない ほかに富士山がキレイに見えるところをわかりやすく案内するとか、通じないのを覚悟してずっと啓蒙、対策をし続けるしかない そのうえでガチ犯罪者でレイシストというしかない観光客もいるから、そういうのは遠慮なく逮捕して日本の刑法で裁けば良いだけのこと
京都とか奈良の神社仏閣の関係者は、観光客って実は恐るべき破壊者だってことはよく経験でわかってると思う 日本人ですらそうなんだから、ましてや外人に日本のルール、規範を守れというのは無理
だったら、外人がルールを破りをする前にもっとマシな違う行動に誘導するしかない 話せばみんなわかってくれるなんていう妄想は有害無益 通じない奴には通じない だからそういう相手に対するには社交性が必要 社交性って無駄に明るいことではなくて、およそ考え方が異なる相手と何とか共存する方法を探す能力のこと 今日本中でこの社交性が必要だ
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弁明を拒んでいる自民党議員ら73人と不記載額(万円)※敬称略 【衆院】 二階俊博(3526)=和歌山3 三ツ林裕巳(2954)=埼玉14 萩生田光一(2728)=東京24 堀井学(2196)=比例北海道 中根一幸(1860)=比例北関東 平沢勝栄(1817)=東京17 簗和生(1746)=栃木3 林幹雄(1608)=千葉10 杉田水脈(1564)=比例中国 宗清皇一(1408)=比例近畿 菅家一郎(1289)=比例東北 小田原潔(1240)=東京21 衛藤征士郎(1070)=大分2 大塚拓(994)=埼玉9 和田義明(990)=北海道5 柴山昌彦(896)=埼玉8 関芳弘(836)=兵庫3 吉野正芳(660)=福島5 尾身朝子(623)=比例北関東 細田健一(564)=新潟2 西村明宏(554)=宮城3 高鳥修一(544)=比例北陸信越 根本幸典(420)=愛知15 義家弘介(369)=比例南関東 若林健太(368)=長野1 亀岡偉民(348)=比例東北 上杉謙太郎(309)=比例東北 鈴木英敬(280)=三重4 木村次郎(236)=青森3 青山周平(230)=比例東海 稲田朋美(196)=福井1 谷川とむ(188)=比例近畿 佐々木紀(184)=石川2 井原巧(168)=愛媛3 宮内秀樹(161)=福岡4 福田達夫(98)=群馬4 越智隆雄(84)=比例東京 山田美樹(76)=東京1 小森卓郎(70)=石川1 田畑裕明(68)=富山1 鈴木淳司(60)=愛知7 藤原崇(14)=岩手3 宮下一郎(12)=長野5 加藤竜祥(10)=長崎2 【参院】 大野泰正(5154)=岐阜 山谷えり子(2403)=比例 宮本周司(1482)=石川 堀井巌(876)=奈良 丸川珠代(822)=東京 羽生田俊(818)=比例 岡田直樹(774)=石川 加田裕之(648)=兵庫 末松信介(584)=兵庫 山田宏(560)=比例 石井正弘(378)=岡山 上野通子(318)=栃木 佐藤啓(306)=奈良 森雅子(282)=福島 江島潔(280)=山口 赤池誠章(268)=比例 吉川有美(240)=三重 太田房江(214)=大阪 松川るい(204)=大阪 井上義行(178)=比例 北村経夫(118)=山口 長峯誠(116)=宮崎 野上浩太郎(100)=富山 衛藤晟一(80)=比例 酒井庸行(58)=愛知 山本順三(58)=愛媛 石田昌宏(26)=比例 高橋はるみ(22)=北海道 山崎正昭(4)=福井
裏金議員73人、政倫審に応ぜず閉会 「レッテル貼られるだけ」 [自民]:朝日新聞デジタル
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(...) 同時に思うのは、嫉妬は、我々が無自覚のうちに内面化させられている自己責任論や、「できる人間になれ」という抑圧とも“双子”なのかもしれない、ということだ。ベーシックインカムを受け入れられないのは、まさに「自分の損得とは無関係に隣人の幸福を許すことができない」(41p)の典型例であり、ここに自己責任論や「できる人間になれ」の抑圧が重なってくることで、政治/社会という他者に頼る怠惰な者は許せない=自分は頼らず我慢してできる人間になろうとしているのにずるい、という嫉妬に支配されることになる。
巷に溢れる自己啓発的な言説、つまり「他者と比較するのをやめてありのままの自分を愛そう」「政治や社会のことを考えてイライラするよりも自分磨きをしよう」といったものは、一見すると嫉妬から解放される手段を提供しているように思えるかもしれない。しかしそういった言説そのものが、「他者と比較せず生きられるほどに自信に満ち溢れた者」や「政治や社会を堂々と批判できる者」に対する嫉妬から生まれているのだとしたら、やはり我々に必要なのは嫉妬から逃げずに正面から向き合う(あるいは背後から観察する)ことになるのではないか。
しかし、言うは易し行なうは難しであるのもまた事実。嫉妬を完璧にコントロールすることは、先人たちの誰ひとりとして達成できなかったのだから。スッキリする解は見つからない。しかし「嫉妬に何かしら意味があるとすれば、それはこの感情が「私は何者であるか」を教えてくれるから」(235p〜236p)なのであれば、まずはそこから始めてみるのがいいのだろう。
嫉妬という感情は「私は何者であるか」を教えてくれる/『嫉妬論 民主社会に���巻く情念を解剖する』書評
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今日は日本民藝協会のアカウントでも投稿しているのですが、こちらでも再掲します。『民藝』4月号が刊行しています。当店でも取り扱っておりますので、ご覧いただけますと幸いです。
===以下協会アカウントに投稿した内容===
『民藝』4月号巻頭連載「展覧会この一点」より、日本民藝館所蔵「染付縞に梅文皿」と解説。
日本民藝協会発行の機関誌『民藝』を発行するにあたっては、編集委員会という組織がその役割を担い、委員会の皆が会議やzoom、slackといった場を通じてさまざまな事柄を日々検討しています。そんな日々の出来事からその一端を、 #民藝誌制作日記 とでも題し、これから時折お伝えしてまいります。
さて、今号の「古染付」特集ですが、本号において最後まで迷っていたのは……まさにこのタイトルそのものでした。「古染付」という言葉から、皆さんはそれが「中国・明代末期、特に天啓期(1621ー1627年)を中心とした時代に、現在の江西省東北部、景徳鎮という地域で、しかも官窯ではなく民窯で焼かれた染付の磁器」を示す、ということがわかりますでしょうか?骨董に関心がある方であればもちろん多くの方がご存知の事柄かとは思いますが、え、古い伊万里とか有田とかは違うの?と思われませんでしょうか。それが迷いの始まりです。
ということで、我々編集委員会ではたくさんのタイトル案について検討を行いました。いくらなんでも「中国の磁器」ではぼんやりしすぎ、日本民藝館の展覧会タイトル「古染付と中国工芸」をそのまま使えばいいのでは?と言われそうですが、本号の図版は��べて古染付で構成されているのです。民藝館所蔵の中国工芸を楽しみに手に取っていただいた方にはとんだタイトル詐欺になってしまいます。柳宗悦は「天啓前後の染付と赤絵」と文章に記しているのでそれを使おうか、といったん決まったものの、「前後」という言葉に違和感を抱いて没。「古染付 中国磁器の魅力」とサブタイトルを付ける?なんだか煩雑では?表紙写真の古染付と文字が重なってしまわない?等々。
ということで、悩みに悩んでぐるっと一周し、シンプルに「古染付」として世に出しました。図版をご覧いただき、また寄せられた文章を通読いただけますと、古染付の楽しさがぐっと深まる一冊です。もちろん、展覧会の覚えとしても。手に取っていただけますと幸いです。(高木)
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2023年 加茂野やや大きいのすべて。
みなさんい、サウナ、こんばんはー。
この1年、俺は頑張りました。本気で。そんな想いを込めて、この一年の活動を網羅的に振り返っていこうと思います。
1/14(土)@高円寺HIGH
In Case vol.9
WRENCH、MOZU、computer fight
痛郎さんからお誘いいただいた。吉祥寺NEPOでの、たしかAKUTAGAWA FUNCLUBとのライブの際に声をかけていただいてからの縁で(違ったらすいません)、それからずっと目をかけてもらっている。本当にありがたい。WRENCH、MOZUという90年代オル��ナの大先輩たちの共演を前に何かできることはないかと、チャレンジな取り組みとしてライブ用イヤホンをつけて練習や本番に挑んだりしたが、全然意味がない上に変なミスを招きかねないので辞めた。間近で見る菅野さんのドラムがとにかく強烈で、シンプルなフレーズでも音量やキレが自分とは比べ物にならないほど良かった。
2/19(日) @西荻窪FLAT
「毎日何にもすることなくて啓蒙している」
computer fight、the bercedes menz、din remoter、タオル
同時に、suburban bluesのフィジカルリリースも行った。ベルセデス、ディンリモは既知だったが、タオルのライブには度肝を抜かれた。最小限で、なのに必然性に溢れた音の群れ。俺は甚く胸を打たれ、後日の浜松TEHOM参加の際の動機にもなった。
4/22(土) @吉祥寺NEPO
MYFUNERAL INC. presents【TOKYO SWING special】
PANICSMILE、トリプルファイヤー、[O.A] computer fight
今思うと、ありえんくない?というイベントにOAで出演。いまだに後悔しているのは、次の日、職場のしょーもないイベントに参加するためにPANICSMILEの演奏をほとんど拝見できなかったこと。眼前で凄まじい演奏が行われている中、機材を背負ってライブハウスを出た時、自分は何になりたいんだと混乱した。そしてそんな混乱も、船の出航時間が近づくにつれて睡眠への不安に置き換わってしまうのが嫌だった。
この頃は、島での団体活動の長になり(そうしないと団体が無くなる危機だった)、さまざまな人間の要望を聞いては日夜ペンを走らせてイベントの企画などをしていた。もちろん業務外である。本当に辛かった。
そして、ずっと一緒に暮らしていたデグーのたわしが亡くなった。今でも思い出すだけで涙が出てくる。かわいいかわいい、世界一の相棒だった。最後は家族で看取ることができたが、本当はもっと長く一緒にいられたのに、俺のせいで早くいなくなってしまったのではないかと繰り返し自問して、火葬したお骨を持って家に帰る道中は、自分の不甲斐なさに怒りと切なさでいっぱいだった。島で楽しく暮らしているすべての人間が憎かった。
この件がきっかけで、俺は島での団体活動とは一線を引くことにした。たわしが最期にどう思っていたかは定かではないが、幸せに逝けたことを願う。
5/13(土)@静岡県浜松��TEHOM
「ROOMPARTY」
computer fight、やっほー、SUPERMOURNING、タオル
初の遠征ライブ。TEHOMはすごくソリッドな音のする箱で、我々の演奏と相性が良かったと思う。諦念くんはこのライブを「至っていた」と評していて、俺も今でも聴き直しては、当時の体制での内向性や情動、演奏力を再確認している。やっほーさんのライブがめちゃめちゃ面白くて、シンバルキックを3回やって3回失敗していた。楽曲のクオリティーが高くてしっかり聞けるライブだったことも最高だった。鈍行列車で岡山から浜松まで来たらしい。世の中は広いと思った。
5/14(日)@西荻窪FLAT
ハイパーパンチ自主企画ライブ「鋼の拳」@西荻窪FLAT
ハイパーパンチ、ヘクトーよるをまもる
ハイパーパンチでも、自主企画を打った。このライブではとにかく対バン探しに苦労した。準備って大事。その中でも出演を快諾してもらったヘクトーには感謝している。我々の演奏としてはかなり荒削りではあったものの、楽曲の持つアイデアやユーモア、ポップセンスは披露できたんじゃないかと思う。
5/18(木)@恵比寿BATICA
RINGOOO A GO-GO
Haze / サトビ / Y's CAMP / ハイパーパンチ / HALLEY / PHOEBE
オーディションに出ましょう!ということで参加、特に思い入れはないけど、とにかくPHOEBEがめちゃくちゃ良かった。なんというか信念が見えるライブというか、背景が滲むライブというか。めっちゃいいねー!とダダンダンと話していたら、りんご音楽祭本戦にも出場していて、自分のように嬉しかった。
5/20(土) @調布Cross
mwmw、SleepInside、Uztama、computer fight、カルト3
5/21(日)@落合 soup
EXECUTE
Pot-pourri 、computer fight
島で所用があり、代役で田辺さんにお願いして出演してもらった。
俺はこの頃、バンド活動と、ペットの治療費にお金を注ぎ込んだ結果、貯金を使い果たして、家族に借金をするほどやばい状態だった。この日は島で用事があったというのもあるが。今現在は、借金も返済してなんとかなったが、当時はなかなかに苦しかった。
この頃、本名くんと実験くんの脱退が決まった。訳あって俺は少し遅れて報告を受けたのだが(これは、本当にちゃんとした理由があって遅れて報告を受けた)、すごく動揺した。受験に落ちたときのような、取り返しのつかない取りこぼしがあったような気持ちになった。2人が辞めて、島で働いていて活動を制限している俺が残っていいのか?と一瞬考えたが、本当に一瞬だった。やめるとか考えられないなぁとぼんやり思うほど、ドラムは、バンドはとても楽しい。みんなおすすめだよ。
そして、畠山くんと喉笛くんが加入した。畠山くんはボーカルの公募に応募してくれて、その他応募してくれた皆様と同様に、諦念くんとスタジオに入って面接(?)がてらセッションを行い、その動画を共有してもらったのだが、佇まいというか、フロントマンとしての素質をあらあらと感じたのを覚えている。おまけにトランペットも吹けるときた。楽器こそ違うが、james chanceの文字が頭によぎった。ほぼ満場一致で畠山くんをお迎えすることになったこの数週間後、彼には住む家がなくなってしまうのだが、それはまた別のお話…。
喉笛くんは、実は俺が島に行ってしまう前にも一度諦念くん喉笛くん俺の3人で歌モノをやるバンドをしましょう!ということでスタジオに入ったことがある。その計画自体は頓挫してしまったのだが。その時にもボーカルを公募して、候補者6名に対して1曲ずつ渡せるようにと、喉笛くんが諦念くんのリフをもとに1日で6曲作ってきたのが印象的だった。喉笛くんのベースは、弾くと殴ると削るのちょうど中間を、ぎゅっと束ねて一本にしたような、途切れることなく押し寄せる現象のような音がする。そして諦念くんと同じくらいピッキングが早い。実験くんの時にストロークで弾いていた楽曲の一部は、喉笛くんのダウンストロークでまた違うテイストになったと思っている。
6/23(金) @秋葉原CLUB GOODMAN
【Fantastic Attack Types. 3】
bossston cruizing mania、LOOLOWNINGEN&THE FAR EAST IDIOTS、computer fight、THE WAMEKI、デーメーテール
新生computer fightの初ライブ。ボスクルのカシマさんとMYFUNERAL.INCのハヤセさんはcomputer fightをとてもよく評価してくれていてありがたい。このライブもメンバー交代前にお声がけ頂いたのだが、ライブまでの間にメンバーが変わってしまったものの、快く参加を受け入れてくれた。結成初期なので当然ではあるのだが、かなり演奏が粗かったのを覚えている。ただ、パフォーマンスという意味では今までのcomputer fightとは打って変わって、引き寄せるものからこちらから引き摺り込むようなテイストに変わった、転換を感じさせるライブだった。
7/23(日)@下北沢SHELTER
突然少年TOUR 秘宝2023
突然少年、computer fight、DJ: theodora katz
畠山くんの前身バンド(?)、pine shop時代からの縁で実現したライブ。未来.EPの発売ツアーの初日という、記念すべき場に呼んでもらった。決まった時は奮えたなぁ、俺は突然少年の火ヲ灯スという曲が大好きで、特に離島で暮らすことになって、船や飛行機で内地に戻り、これからライブだ!という時によく聴いていた。そんなバンドと対バンできるなんて、得難い幸福だ。
話は変わって、この夏は俺の住んでいる離島にはたくさんの友達や家族が来てくれた。しかし、なぜか悉く来訪の日程と俺のライブの日程が被ること被ること!突然少年のライブも、前日から親友の夫婦が島に遊びに来てくれていて、リハギリギリに会場に着く飛行機で内地に帰ったりした。これははっきりと原因があって、俺が友人や家族の皆皆様に「おいでよ!東京の離島!」と宣伝をかけたからである。来年は程々にしようと誓った。
8/27(日)@下北沢THREE
New LP "schedars" Release Party
schedars、SPOILMAN、computer fight
DJ:daizo、ueda、chun chun
こちらはschedarsのボーカル、sioさんからお誘いいただいた。schedarsとcomputer fightは音楽のルーツやフィーリングが重なる部分もあり、諦念くんからも「このライブは絶対出よう!」とグッと来られていた。先日のライブ同様、この日は大学の頃の親友たちを島に招いていたのだが、ライブに間に合わせるために彼らを島においての帰省となってしまい、流石に申し訳なかった。
schedars、対バンしてみて改めて思ったけどすごいバンドだ。自由度をもってインダストリアルに奏でるギターベースドラムと枠内で狂うサックス、そしてフロントマンとして責任を全うするsioさんのボーカル(この表現で失礼はないか心配である)は、操り人形のように、バレリーナのように、歪んだ引力を持っていた、と思う。
9/9(日)@法政大学市ヶ谷キャンパス外濠校舎地下1階多目的室1
FREE FOR ALL
THE GUAYS、computer fight、5kai
法政大学の企画団体、YADORANGのお誘いで実現したライブ。久しぶりの大学(というか法政大学は入るのすら初めて)はやや緊張した。そして同時に、大学でのライブは歓迎され招かれた上でアウェーで演奏するものであるということを知った。
9/15 EP「gushagushavinyl」リリース
新体制での初音源リリースをした。録音は隙を見て行った。振り返ってみると、よく録音まで行けたよな〜と思う。6月にレコーディングした当時は「新体制を世に知らしめるために絶対必要!!」と意気込んでいた。ちなみにこのEPのうち2曲は実験くんが作曲し、ベースで参加している(NGUYHC、思わない)。このほかにも実験くんの作曲曲はいくつかあるが、どれかは秘密。
10/26(木)@下北沢CLUB QUE
“In Case vol.13”
MOZU、computer fight+山崎春美、SPOILMAN
痛郎さんからのお誘いで実現したライブ。諦念くんから「山崎春美さんのバック���演奏しないかと言われている」と聞いた時、びっくりしたなぁ。バンド加入時に諦念くんから手渡されたガセネタの荒野は彼のバイブルであり、付き合いは浅いながらも彼の信念の一端に触れられたと思った。そんなわけで活動初期は「まあまあ、ビールでも飲んでエンジョイしなよ」の件にあやかって共演者がバコバコ飲酒してるのを指を咥えて眺めてみたり、バンド結成の同期を聞かれた時に「なりゆきで…」などと答えたりしていた。
俺の頭の中の山崎春美は、過激で過剰、時には全てを時にはインタビュアーを問い詰めてしまうような人だった。スタジオでリハをした時に、扉を開けて山崎春美���スッと入ってきた時は、なんと言うか、抜き身の刃物を構えられたようなピリッとした気持ちになって、勝手に身構えてしまった。実際にお会いした春美さんは、想像より何倍も柔らかい物腰の方だった。…冷静に考えたら、俺の引用する山崎春美は30-40年も前の情報なわけで、今現在も全く同じなはずがない、先述の通り冷静に考えればわかることなのだが、それほどに当時の自分は浮かれていた。もちろん浮かれていたのは俺だけではない。リハーサルでも本番でも、諦念玲奈が今まで見たことのない笑顔でギターを弾いていて、こちらまで嬉しくなってしまった。
ライブでは、父ちゃんのポーがきこえる、社会復帰(リハビリテーション)の2曲を披露した。コピー自体はガセネタの4曲全て行っていたが、ライブの尺の関係もあり全部はやらなかった。いつか披露できたらいいなーと思う。楽屋や終演後の打ち上げでは、ガセネタの荒野やTACOの話、書物でのみ見聞きした場所の話を本人の口から聞けると言う貴重な体験をした。そしてこの日、現メンバーに交代してから初めて、ライブでガッチリ演奏がハマった。よくパズルのピースがハマったなどと形容されるそれは、まだ途上の我々の中で何かが完成される感覚があったことを意味する。その完成がこの日であったことは、決して偶然ではないと思う。
10/28(土)@吉祥寺NEPO
ハイパーパンチ自主企画「PRO ACTION REPLAY」
ハイパーパンチ、カタカナ、プールと銃口、Mimi cries
ハイパーパンチ2度目の自主企画。音楽のルーツを同じくする先輩バンドであるカタカナ、ダダンダンの盟友であるジンくんのプールと銃口、大学の先輩後輩で結成されたMimi criesをお呼びして行った。今後活動するにあたって、これまでサポートメンバーに入ってもらっていた農協(chatoe)とセキユウシくん(highty-tighty)から、新たにザッキーとけーさん(ex.the super charm)を招いての活動となった。
ザッキーは大学の後輩で、ベーシストでありメタラーである。俺はメタルに疎いが彼のベースと演奏に対するメンタリティが大好きで、大学の時は快速東京やガガガSPのコピーバンドをした。今年行われた大学軽音サークルでのOBライブでLAST ALLIANCEを披露していたのだが、そこで見せたパフォーマンスが良かったと言うのも、今回お誘いする動機となった。
けーさんは、先述した諦念喉笛やーさんポップスバンド計画に応募してくれた6人のうちの1人である。俺はその歌声に甚く感銘を受けて、何かバンドでお誘いできる場面があったら絶対呼ぼう!と決めていたので、すぐに声をかけた。けーさんがギター以外にどんな楽器をできるかなどは分かっていなかったのだが、歌が500000000点なのでそれ以外は練習すればいけるっしょ!という無責任なお誘いを、快く受けてくれてありがたい。
メンバー交代や新曲の披露と、練習期間も短い中ではあったが、個人的にはめちゃめちゃいいライブができたと思っているが、それは楽曲が素晴らしいと言うことに尽きる。あとは我々のパフォーマンスが良くなればなるほど、もっといいバンドになっちゃうよなぁ!?!?
11/11(土)@桜台POOL
"TOKYO SWIPE“
computer fight 、HAIZAI AUDIO 、HYPER GAL、PICNIC YOU 、Ruins alone、ZVIZMO 、高倉健、DJ :土屋光、SHOP:光るヒナ子
高倉健の企画に出演した。桜台POOLは工場の一部を打ち抜いたようなソリッドな作りで、客席とステージの境目の少ないフロアは、我々の演奏スタイルと合っていた。そして何よりお客さんの盛り上がりが凄まじくて、1バンド目の高倉健から最後の我々まで絶叫と振動、蕩揺が止まらなかった。ギターを弾きながら持ち上げられる諦念玲奈を観れるのはこれが最後だったかもしれない。他の出演者では、吉田達也さんの意味のわからないドラムと、HAIZAI AUDIOさんのパフォーマンスが素晴らしかった。特にHAIZAI AUDIOさんは、日本中のスクラップ置き場と持ち主不在のゲーム部屋を切り貼りして作ったパッチワークをブラウン管のテレビに繋いで、音声だけを無相応にデカいアンプと接続して出しているような、バリバリと響く音楽だった。
computer fight+山崎春美「社会復帰(リハビリテーション)、父ちゃんのポーが聞こえる」ライブ音源リリース
先日のライブを録音した音源を発売した。これはそれ以上でもそれ以下でもない。自分でも良く聞き直すが、1発撮りとは思えないすごいクオリティである、と自画自賛しておく。
12/10(日)@秋葉原CLUB GOODMAN
【Fantastic Attack Types. 6】
bossston cruizing mania、Anderson、H Mountains、左右、SPOILMAN、schedars、酩酊麻痺、computer fight、ギニョルズ、NA/DA
ボスクルのカシマさん、MYFUNERAL.INCのハヤセさんにお誘いいただいた企画。今回も島での業務都合と、ちょっと体調を崩していたこともあって田辺さんにサポートをお願いした。すごくいい対バンだったのでぜひ出たかったのだが…来年はこういう、いいライブをスカしてしまうことは避けるように、なんとか仕事を頑張っていきたいと。
12/24(日)@西荻窪FLAT
computer fight自主企画 終わりなき日常を���きろ
computer fight、TACO (山崎春美+森田潤)
一年の最後を飾る自主企画。1月のライブで(厳密にはもっと前からだが)痛郎さんと共演して山崎春美さんの話を聞き、その後メンバーの変遷を経て、新旧の縁から経験を重ね、10月には憧れの存在と共演することとなった我々が、最後にはTACOとの対バンが実現した。カルト3の疎過くんは「継続することの力を実感した」と呟いていた。ありがとう。
TACOのライブの直前に、春美さんから自分をガムテープや器具で拘束するようにお願いされ、畠山くんがその役割を担っていた。特にその理由は語られなかった(し、わざわざ聞くのは野暮すぎる)が、パレスチナ問題への提起であることは間違いない。恥ずかしながら、10月の共演以降に改めてパレスチナ問題について本を読んだり、解説動画を見るなどして、改めて勉強し直して、この世の地獄があることを知った。ステージで政治について、世界情勢について、語ることの意味や価値を俺はあまり重く考えてこなかったが、春美さんと共演してからその考えは少しずつ改まっている。というか、今のこの景色は何を意味するのか?何を表したいのか?を、この一年で、手探りではあるが自分から考え調べるようになったと思う。それはバンドメンバー、特に諦念くんのおかげであり、共演者の皆様のおかげでもある。
computer fightはこの日のライブで、今年演奏した16曲、新曲2曲の計18曲を披露した。尊敬する先駆者に対して、文字通り今出せる全てを出したつもりだ。45分近くに及ぶ演奏は体の全てを消耗し、past manの直前では腹筋が殴られたかのように痛んだし、終演後は腕は指先から肩の付け根まで全部筋肉痛になった。足の親指の付け根は擦り切れて、脛は夜中の船の中で攣ってしまいうまく寝付けなかった。本当に、いいライブをしたと思う。息をする間もなく、どこ見ればいいのかわからないほど脈打ち痙攣し全てがそこに存在するような素晴らしいライブだった。
俺にとって、演奏とは誠実さが全てで、誠実は後悔しない。準備してきたものを吐き出して、すっからかんになってまた一からやり直す。初めからずっと最後の1曲のように、終わり、終わり、終わりを繰り返す。粉砕機に太い伐採木を繰り返し押し込むように、分厚くつながりのある塊が、俺の演奏を経由して粉々に砕けていく感覚。この誠実を得るために、毎日はかくも苦しく、かくも卑怯で、かくも思い通りにいかなくても、耐え忍び疲弊して摩耗して圧潰されることを受け入れているのだ。それが俺はとても誇らしい。
そして、この日も業務都合でライブが終わった瞬間に船に飛び乗って島に帰るやーさんなのであった。打ち上げで春美さんの話をもっと聞きたかった。トホホ、あたしゃもうイキそうだよ。
以上が2023年の俺の全てだ。この一年、大切な家族を失ってすごく辛かったし、諦念くんとは少なからずギスギスとなった。島と東京を行き来する生活は心身ともにかなり消耗して、体調を崩したことも1度あった(1度で収まっているのがおかしいという説もある)。俺は苦しくなるたびに、andymoriの「愛してやまない音楽を」の一節を思い出す。
「本気になるなら 喧嘩もするし たまに嫌になることもあるだろう」
今年は1年間、バンドに本気だった。来年も引き続き島から本気でドラムを叩きにきます。computer fight、およびハイパーパンチを引き続きよろしくお願いします。
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今年の8月末日、短編小説と音源がセットになった『JAGUAR』というZINEを制作した。200冊限定ナンバリング入りで、現時点(10/13)での在庫が30冊程度となった。ところが4月にリリースした『ほんまのきもち』と違って、本作についての感想がほとんど聞こえてこない。もちろん直接口頭、あるいはソーシャルメディアのダイレクトメッセージで読後感を伝えて下さった方々は沢山いる。しかし書評と呼べるものは実はいまのところ皆無に等しい。批評することを躊躇わせる斥力のようなものが作品に内包されていたのかもしれないと密かに勘繰ってみたりした。虚しかった。そこで、である。敢えてこの場を借りて、稀有で貴重な『JAGUAR』評を紹介しようと思い立つ。当ブログへの転載を快諾してくれた評者の方々にはとても感謝している。ほんまにありがとう。早速おふたりの素晴らしいレビューを読んで頂きたいのだが、いましばらく当方の四方山話にお付き合い下さい。
まず最初に『JAGUAR』という物語がかれこれ10年以上も前に執筆していたものであるということを前提に、すでに読んで下さった方々には当時の僕の意識混��っぷりが窺い知��る内容になっていると思う。ビルメンテナンス会社の営業職に就いて忙殺される日々、精神と肉体が泥のように疲弊していくなかで書き上げた小説。大袈裟でなく、このままでは生きるという行為を自ら手放してしまうのではないかという危うい精神状態だったが、幸運にも当時に知ることができた偉大な哲学者、思想家、精神科医たちの言葉に背中を押され、結果的に今日まで生きのびた。以下に引用した名著の言葉たちが『JAGUAR』と僕を根底から支え、励まし、作品を世に放つ機会を与えてくれた訳だ。特に大気を裂く稲妻のように強烈な『千のプラトー』は、書かれている内容がわかるわからないというスノッブな価値観を遥かに超越した位置から自分を叱咤激励してくれた。こんなにぶっ飛んだ内容の読み物は他にないし、未読の方は絶対、ぜぇぇったいに読んでほしい。
小説は、自分の名も、自分が探しているものも、していることも、すべて忘れ、記憶喪失、運動失調症、緊張症となった登場人物、なすすべを知らない登場人物の冒険によって定義されてきた。(中略)。宮廷愛小説の騎士のすることといえば、自分の名前、自分がしていること、人が自分に言ったことを忘れることであり、どこに行くのか、誰に話しているのかも知らずに、たえず絶対的脱領土化の線を引き、またたえず道を失って立ち止まりブラック・ホールに転落することである。『千のプラトー』ドゥルーズ+ガタリ著
各人は、他者の世界の中での一客体であるばかりではなく、自分の世界の中で自分の体験や構成や行為がそこから生じるところの、時空間における一つの場所でもある。人は自分自身の視点をもった自分自身の中心である。そしてわれわれが見つけたいと思っているのは、まさに、他人と共有する状況において各人がもつところのパースペクティヴである。『狂気と家族』R.D.レイン/A.エスターソン著
私にはひとつ、ことばを≪見る≫という病気がある。ある風変わりな欲動があり、それは、願望がまちがった対象に向かうという点で倒錯的な欲動なのだが、そのせいで、本来なら単に聴くべきものが、私には一種の≪ヴィジョン≫として現れるのだ。(中略)。言語活動に関して、私は自分が幻視者で、また、のぞき見の倒錯者であるような気がしている。『彼自身によるロラン・バルト』ロラン・バルト著
そして小説版『JAGUAR』と一蓮托生の身である特級呪物、音源版『JAGUAR』については、僕が最も敬愛する女性DJにその制作を依頼した。マルコムXの演説を逆再生させたところから始まるMIXは、いくつかの世界線が交錯と混濁を繰り返し、正気と狂気の狭間を湿気をたっぷり含んだ低空飛行でかいくぐり、やがてひとつの景観ヘと辿り着くまでの過程をコラージュを交えた手法でドキュメントした、とんでもない内容に仕上がっている。揺るぎないベースライン、不意に降り注ぐ天啓となる言葉の数々、妖艶極まりない夜の気配、そして匂い。ぜひとも爆音で体験してほしい。以上のことをふまえて、OBATA LEO、moanyusky両名による書評をご覧下さい。
「JAGUAR」評① :評者OBATA LEO(ROLLER SKATE PARK作者)
土井政司の新作「JAGUAR」を読んだ。内容の理解云々以前にまず、地を這いずるような具体性の塊、描写に喰らった。自分が普段労せずざっくり物事を把握するための便利な道具として使っている言葉という同じものを使って、この作品はレンズのように細密にものを描き出す。ひとがきちんと見ずに済ませているような部分にまで光を当てる。そんな驚きもありつつ、やはり気になる。「JAGUAR」とは何なのか?
-「彼女は常に超越的な地位にあり、私たちとは隔たれた外部に位置している。そうであるにもかかわらず内部であるここにも存在しているのだからタチが悪い。絶えず外にいて内にあるもの、それがJAGUARだ。」最も端的にJAGUARについて書かれたこの部分を読んで、体内・体外の関係を想起した。普段「体内」と何気なく口にしているが、胃袋のように体には空洞がある。皮膚や粘膜などの体表に覆われて血液が流れている内部を体と呼ぶのだとしたら、その空洞は体に囲まれた「体外」ともいえて、私たちは体内に体外を抱えているという言い方もできるというわけで。それで繋がるのは、口腔内の歯の溝に落ちたタブレットを舌で触る場面である。「体内」でありながら自分では視認することのできない、舌で探るしかないその空��は確かに「体外」であるし、JAGUARもまた、己にとって内なるものでありながら断絶した他者でもあるような何かとして捉えられるのかもしれない。そんな線で読んでいくと、-「だが実際に私の目の前で何者かの手によって鍵の施錠は実行され、おまけに用心深くレバーハンドルを何度か動かしてしっかりと鍵がかかっていることを確認した。」という作品の終盤に出てくるこの部分で、文法的なエラーに感じる違和感は、そのまま私とJAGUARとの関係の違和感そのもののように思えてくる。得体の知れない何かに鍵をかけて、何食わぬ顔で電車に乗って仕事場へ行くなかでの体の軋み、のような何か。体といっても、いわゆる「(近代的な)身体」というキーワードで片付けるにはあまりに繊細な、大いにパーソナルな部分を含む体の感覚が、この作品にはあると思う。
出かけた「私」は、電車のなかで女性が着ている服のボーター柄の反転を目にするが、ここまで読み進めてくると、気持ちの良い幻惑に襲われはじめる。異常にディティールが詳しいのでそうと気づいていなかったが、やはりこのフィクションの中で起こる出来事たちは、出来事の形をとった何か夢やイメージのようなものだったのではないか。そして冒頭のリフレインまで突き当たると、この作品は初めから何についての話だったのだろうかと、今までひとつひとつ理解しながら読んできたはずの物語が全く違う相貌を携えているように見えてくる。そんなぐにゃんとした気持ちになるのは、良い小説を読む醍醐味のひとつだ。
「JAGUAR」評②:評者 moanyusky(音楽レーベルprivacy主催)
当たり前の様に無造作にある事で、それを見るか見ないか、それだけのことだと思います。土井政司の最新作「JAGUAR」を読みました。ここではJAGUARとなっていますが、人によってそれの名称は変わると思っています。よくわからぬ相手との対話や闘いがあるかどうかというところが、この作品の感じ方が分かれるところだと思っていて、私はどちらかといえば、その相手に困らされた事があったので、この作品を読んで、え!土井さんもやったんやとびっくりしました笑。ここは勘違いして欲しく無いところなのですが、人それぞれという言葉があるようにそれは一緒ではないのですが、構造はかなり近いと言ったような事でした説明がつかないわけですね。私は人の「想像」は人を殺しにかかるような死神として、隙があれば、それは現れるわけです。世の中ではアートであったり、想像力は良いように言われていますが、全くもってそれは何かが隠されているわけで、私は良かった試しが無いわけです。出来れば普通のルートで現代社会を楽しみたかったです。でも多分知っていくという事はそういう事なのかもしれない。想像力に悩まされてきた身としては、この作品は、別の場所で、それと闘って、きっちり答えが出ているというところ、しかも、10数年前の作品という事で、私は土井さんに出会って、色々な対話を交わして、初めて彼の濃厚な苦悩との生活に出会う事となったわけです。各人の時間軸が理解の範疇を超えて、重なり合って手を取ったのだと思っています。その時に置いてきぼりになってしまう、その真ん中で産まれゆく、刻まれた何かがずっとどこかで成長していたら、人は正気を��てるだろうかと思ってしまいます。誰かが入ったであろう、部屋のノブをあなたは回せるかどうか。私はそれには名前をつけなかったが、もう二度と会いたくないですし、いつまた来るのだろうと、恐れを感じます。彼は人が地面を無くした時に現れるように思います。浮遊した瞬間、命をもぎ取ろうとする。
でもそれはオカルト的なアレとか、スピリチュアル的なアレなんてものではないのですね。確実に自分、自分を構成する設計図の謎のようにも思え、それが薄らぐために生活をやり、音楽をやり、愛し合い、話し合い、何かを育てるのだと思います。現実社会で経験した摩擦は地面をはっきりさせ、そいつのいる世界から距離が出て、薄めてくれるように思うわけです。だからこそ。JAGUARの言葉を借りれば「痛みと不安から自分自身を取り返し、その自分に立ち止まるために語りを紡ぎ出す」。が救いの言葉となっているように思います。2部構成で出来上がる、この作品のバランス感覚は、人と創作の関係性をSFとして描いているように感じます。同じ場所にて語る事は嫌がられるかもしれませんが、私が映画を観に行った時に続々と子供たちが外へ出て行った宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」を出したタイミングと、土井政司がこれはいけると思ったタイミングで出されたJAGUAR。それは何もかもを抜きにして考えると、世の中の人たちに対して彼らは同じことを思っているのだと思います。今それを出さなければならなかった。その「灯り」の意味を考えなければならないのです。
〆はもちろんこの曲で!
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桜くつ器
「くつ」というのは今自分で考えた動詞で、その場に固定するみたいな意味です。くくりつけるとか、打つとか、木槌で叩いてぴんと固定させる感じ。なにかいい漢字がないかなと思ったけど、思いつかなかった(と思ったが、「繰つ」というのがいいかもしれない、口が3つもあって硬そうなところがいい)。桜くつ器というのは、桜が固定されて飾られている器の意。
カウンセリングに行ってカウンセラーの先生に3ヶ月ぶりに話をしてもらい(ずっと予約の電話をかけることができず、3ヶ月ぶりとなってしまった)、さまざまなことが整理され、やっと、ここ数週間のうつ状態��らすこし回復したように思われる。とくに一秒ごとに噴出していた希死念慮は無くなった。帰りに蔦屋書店に寄ってしまい、まさかここで本を買うとは思わなかったのだが、文庫本4冊をレジに持っていっていた。まだ前に買った本を読み終わっていないのになぜかこのようなことをしてしまう。これは23歳くらいからずっとそう。恐ろしい書籍購買依存症だ。「本を買う」という行為にのみ意味があり、読むことは全然しない。たまには読むが、1冊を頭から終わりまで読み切るということは殆どない。最近はその事に罪悪感も苦悩も呆れも何も覚えなくなってきた。この数ヶ月本を買うことをやめられていたのに、いきなりこのように浪費してしまい、衝撃もあるが、まあいつもの自分だなと思った。『京都SFアンソロジー』『貝に続く場所にて』『クララとお日さま』『実力も運のうち』の4冊。京都SFは暴力と破滅の運び手さんの「ピアニスト」が読みたくて買った(まだエチ小賞アンソロも読み終わっていないし、ブラームスの乳首も読み終わっていないのだが)。貝に〜は、書店で見て、芥川賞と群像新人賞の受賞作で、言語に関する物語とあったので、かなり気になって買ってしまった。講談社文庫はビニールが最初からかかっていて中が見えないのだが、帰宅してビニールを破って(この作業、省略したい。講談社は早く正気に戻って文庫本にまでビニールを掛けるのはやめてほしい)中を見たら、かなり余白の多い組版で、行間もひろく、見た目のうつくしさに拘りを感じた。いかにも芥川賞受賞作という感じで良い(組版への拘りというと黒田夏子の『abさんご』を思い出す。あれもかなり好きだった)。クララとお日さまは、ことこさんに内容を教えてもらった時に読みたいと思い、文庫化もしたことだし、と買っておいた。ひじょうによい子のAIの一人称で、カズオ・イシグロのいつものあれですよ、と言われたので(語り手の認識と世界との齟齬というかズレが特徴的なことが多い)、そして立ち読みしたところクララ(AI)にかなり好感を持ったので、読もうと思った。マイケル・サンデル(実力〜)は、かなり西洋哲学やキリスト教的価値観を引いて解説している(おそらくアメリカ人の状況を)と感じたので買った。『資本主義の〈その先〉へ』(大澤真幸)を読んでいるところなので、かなり内容に惹かれた。昔からだが、やはり「アメリカ」というものの面白さが私の冒険心を掻き立てる。同じくらい「日本」というものも面白いのだが、日本には一見してわかるような一貫性がない。だからこそ歴史の追いがいもあるのだが、やはりプロテスタントの「理想国家」として作られた人工物のアメリカのほうが理解しやすく、直截的なエキサイティングが得られる。昨日観劇したミュージカル「ラグタイム」では、二十世紀初頭のアメリカのフランス系アングロサクソン、ラトビア系ユダヤ、アフリカ系黒人の三つの民族の交わりがえがかれており、面白かった。私はスウィング・ジャズが好きなので、音楽としてのラグタイムにもっと言及があるのかしらんと思ったが、そこは特になかった。ミュージカルとしては、クラシック、ラグタイム、スウィング、ポップスと、割とオーソドックスなラインナップだったので、音楽的にはそこまでラグタイムに特化していたわけではなかった。そもそもこのラグタイムという語の、本来次の音が来るであろう箇所(次の拍)ではまだ音が来ず、ラグがあって少し拍より遅いところで次の音が来るシンコペーションのことを表している本来の意味とともに、さまざまな人種や民族がアメリカに絶えず流入し、立場がさまざまに変わりながら、「アメリカ人」になっていくまでのラグタイム(過渡期、猶予期間のようなイメージ)を描いているということなのかもしれない。私は音楽的なラグタイムは、クラシックとジャズを繋ぐ時期のもの(リズム、シンコペーション)という認識なので、まさにラトビア(欧州、クラシック)から移民としてアメリカ(新大陸、ジャズ)へ渡って、映画監督として「アメリカ人」として認められるまでのターテ(俳優は石丸幹二さん)の不遇の期間のことと考えると自然だ。音楽を、ジャズを主体としたミュージカルというのが見てみたいと思う(映画でも)。そういう作品はたくさんあるので、そのうち出会えるといいなと思う。そういえば前回日生劇場で見た「ジャージーボーイズ」はジャズを通り越してポップス…というかブルー・アイド・ソウル(白人がアレンジしたR&B)またはロックの話だったが、アメリカの商業音楽の世界を存分に楽しめた。ジャズのミュージカルとしては誰に焦点を当てるかだが、誰に当てても大物だらけの舞台(要素がもりだくさん)になってしまい、かつミュージカル・ナンバーもジャズにし���いと成り立たなさそうだが、日本のミュージカル俳優はジャズ・シンガー(の歌い方)ではないので、なかなか難しいのではないかと感じる。「ラグタイム」ではサラ(黒人女性)役の遥海さんの歌唱が圧倒的で(彼女だけミュージカルの発声ではなく、全編通してソウルの歌い方だった)、歌だけでいえば主役の3人を凌駕していたのではないかと思う。完全に自分の声を縦横無尽に舞台全体で走り回らせ、かつコントロールも完璧だった。ミュージカルの歌い方では、ああいう芸当はできないというか、そもそも方向性が違うのでなんとも言うべきではないが、ソウルやジャズの歌い方もできるミュージカル俳優というのがもしいたら最強だろうな、ということを夢想した。クラシックの基礎の上にジャズの歌い方もマスターしているとなると、日本��は平原綾香やKOKIAが私などは浮かぶが(上の世代だと美空ひばりや森山良子だろうか)、芝居も歌も極める上に、歌は2種類も、というのはやはり難しいのだろうか。我らが東啓介氏(私が舞台刀剣乱舞のバックステージ映像で好きになり一時期ガチで応援していた俳優)に関しては、私は今回もあまり納得が行かなかった。同行した友人は「28歳だし、そんなにすぐに変わる(成長する)ものではなく、熟達を求めるのは10年後とかかなあ」というようなことを言っていて(記憶違いがあったら申し訳ない)、私は東啓介にあまりにも多くを求めすぎているのだろうか、と思う。応援していることは応援しているのだが、追っていた頃の急成長と比べて、本格的なミュージカル俳優となってから、舞台上で分かりやすい「成長」というのが感じられないため、刺激に飢えているのかもしれない。演技もいつも同じに見えるし、発声の仕方も特に試行錯誤するでもなくいつも変わらず、なんかこう、変化…バリエーションが無い。それがつまらなく感じる。育ちが良く上品な所作、という当て書きのような役柄を続けて見てしまっているせいもあると思う。5DAYSの時みたいな、もっとしょうもない若者とか、マタ・ハリの時の恋に狂った青年とかの、本人の育ちの良さを封印するような役の方が見てみたいなあと思う。もっとヘドロの中を生きてきたような役を与えられた時に、果たしてどこまで生来の「品の良さ」を封印できるのか。というのは、彼を起用する演出家やプロデューサーが、どこまで東啓介の演技に期待してくれるのか、という問題も関わってくると思う。舞台上の発声はもっと先輩俳優の声の響きを聞いて試行錯誤してみてほしい。声が小さくても響かせるための発声。歌い方も最初の子音の破裂音というか呼気が入りすぎているが、これも前回から変化なしで、歯がゆい気持ちになった。歌はロングトーン以外でも「聴かせ」なければならないが、今のところロングトーンがないと東啓介の歌声はあまり目立てないというか、ほかの歌声との差別化が為されない。これに関してはどうすればいいのか素人にはわからないが、とにかく今までの練習や方向性を踏襲するのではなく、さまざまなやり方、歌い方、技法、発声方法を試して、もっと声に色をつけてほしい。ファンレターに書けばいいことを長々と書いてしまった。ファンレターに書きます。
夜、じゅんえん先生と話していたら赤森さんが来訪し、最終的に2時過ぎまでウエルベックの小説や文化や価値観の違いについて話してしまった。私は『ある島の可能性』を見つけて買って持っているだけでまだ最初の3ページしか読んでいないのだが、今日あらすじを聞いて、中身を結構拾い読みして、どんどん読んでいきたいと思った。ウエルベックを紹介する時の赤森さんは「��にかく中年男性主人公がキツい(見ていてキツい、キショい)」ということを語るのに非常に活き活きとしていて面白い。赤森さんはもともと面白い方なのだが、ウエルベックを語る時の赤森さんは「主人公のここが無理」ということを鮮烈に話してくれるし、ストーリーの面白さもきちんと伝えてくれるので、凄いなあと思う。ちなみにファフナーをTwitter上で語っている時の赤森さんもかなりのエンターテイメント性がある。
じゅんえん先生は酒が飲めない、かつ所得の低い私のことを気遣って、飲みに誘わないでいてくれたのだが(とても優しくて感動した)、今後は数回に一回は混ぜてくれるらしい。私があまりにも拗ねすぎたなと思ったのでやや反省した。
2023.9.19
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Minimal Explosion presents Thursday, July 20, 2023@Ogikubo club Doctor open 19:00 start 19:30 adv 2000yen door 2500yen Minimal Explosion, Heiwado, Tigris Flowers
Minimal Explosion 村上常博(G)、宮崎理絵(B)、 沢田守秀(Dr)、狩俣道夫(Voice,Fl)、Sachiko(Voice, electronics, melodica)。2018年結成。ロック系完全即興ユニット。ギター、ベース、ドラムに、ボイス&管楽器、電子音を加えた5人組。空間に溶け込む様にスタートし、お互いの気配を感じつつ進行する。構築とノイズ���狭間を行き来しながらクライマックスを目指す。時として崩壊し、精気を持て余し��まま突き進む。それもまた一興。
平和堂 都内で活動するジャーマンプログレを彷彿とさせるバンド。 映像が浮かぶ様な美しい演奏から心揺さぶる様な演奏迄心がける。 メンバー : ドラムス・打楽器・管楽器・エレクトロニクス・大谷Koike昌功 / エレドラ・Per・神山 敬太 / ベース・エレクトロニクス・安藤 岳 / キーボード・Posenbo・山本 啓 / サックス・パーカッション・佐伯武昇 / (ゲスト)フルート・ボイス・エレクトロニクス・双葉(From Mizukagami)
Tigris Flowers 田畑満 g、横山玲 b、一樂誉志幸 ds 2014年4月結成、この3人では2015年6月より活動。インストゥルメンタルを中心に即興演奏を組み入れたトリオならではの自由奔放な演奏形態が持ち味で、それぞれの楽器���楽曲の中で離合集散を繰り返しながら、サイケデリックな空間を表出させている。2021年6月2日ファースト・アルバム(CD)リリース。絶賛発売中!
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2022年総括
2022年は、2021年から引きずっていた宿題をようやく完済できたかなという一年だった。とはいえ前半は体調が悪く滅入る日々が続いた。夏になるにつれて持ち直し、長く取りかかっていた原稿を完成させることができたのでホッとしている。
◎「光や風にさえ」を頒布
2020年の終わりごろから制作をはじめた長編小説「光や風にさえ」を完成させ、秋の文学フリマ東京で発行した。 花嫁移民として異国に渡った日本人女性が、人生の終末期に差しかかって、自分の半生を語りはじめる……という建付の話。
・自家通販 ・Kindle
発行して一ヶ月ほど経ち、書ききれなかったこと、不十分だったことがさまざま自分のなかで浮上してきており、無力感で胸がいっぱいになっている。それでも読んでくださる方がいるのはほんとうにありがたいことだと思う。あるいはこれでしばらく私の話はいいかな、と思われるかもしれないが、また未来にでも、気が向いたら手にとってもらえるとうれしい。私自身、この話を書いたことで多くの課題をもらったので、また次の話に取りかかる動機を得たように思う。
◎ テネブレの電子書籍化
前段の「光や風にさえ」を発行する際に、電子書籍で同時発行したいと考えていた。いきなり新刊で試すのは抵抗があったので、以前発行して完売した小説を試験的に電子書籍化することにした。 テネブレは2017年ごろに初版を出した同人誌。 岩塩鉱床を擁する霧深い土地に蔓延する奇病と、200年前に滅んだ一族をめぐる物語。 これまで出した本の中ではかなりたくさんの方に読んでいただいた小説だと思う。今はなき創元ファンタジィ新人賞で1次選考に残った、思い出深い小説でもある。
・Kindle
テネブレ自体、長年電子書籍にしたいと思っていたが、作業が面倒そうで後回しにしていた。やってみたら呆気なくデータを作ることができ、拍子抜けした……。凝ったことはまだ難しいが、要領はわかったので、今後も積極的に同人誌の電子書籍化をやっていきたい。
◎その他
2020年に発行した「不幸な少女アンソロジー シンデレラストーリーズ」が沖縄県久米島町の図書館に所蔵された。 アンソロ参加者のご家族が寄贈※してくださったそうで、ほんとうにありがとうございます。同人誌の頒布という形ではリーチしづらい層にも届けられる可能性を思うと、何だかロマンがある話……。 ※本の寄贈を受け入れる基準は図書館によってまちまちなようです。
今年読んでよかった本は、 ショクーフェ・アーザル著「スモモの木の啓示」を挙げたい。イラン・イスラーム革命に翻弄される家族を、ひとりの少女の視点から書き切った物語。マジック・リアリズムは現実の痛みを和らげるかもしれないが、けっして現実を超克しない。その重み、手ざわりを感じることのできる小説だった。
◎2023年のこと
2023年にやりたいこと。
・文学フリマ東京36で新刊「アフター・ヘブン(仮)」を発行する 今プロット作業をしている。 女の子��たりをメインにした中編小説の予定。 ・「聖なるもの」を電子書籍化する 在庫が残り10部を切っており、これが完売したら電子書籍に移行したいと考えている。これも来年中にやりたい。 ・短編、中編を書く しばらく長編にかかりきりだったのもあり、来年は短い話をいっぱい書きたい。長編だとどうしてもアウトプット行為自体に時間がかかってしまうので、短・中編で作劇の練習をできれば、と考えている。 機会があれば公募型のアンソロジーなどにも積極的に参加していきたい(が、現状予定はない……)
どこまで実現できるかわからないけれど、来年も無理しない程度に創作活動に励みたい。 2023年もどうぞよろしくお願いいたします。
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『「呪術」の呪縛』下巻の読書ノート
江川純一・久保田浩編『「呪術」の呪縛』(下)リトン、2017年。
第一部 呪術概念の再検討
鶴岡賀雄「「呪術」の魅力:「永遠のオルタナティブ」の来歴と可能性についての試論」
「マギア」を人類学的・宗教学的分析概念としてではなく西欧精神史の構成要素として見て、古代ギリシアから、中世神学、ルネサンス、近世キリスト教、現代芸術に至るまで、マギアの位置づけを跡づける。 そこでは、マギアがつねに、公共宗教や哲学といった正統的な知や生き方に対して、劣位に置かれた人々による代替行為として位置づけられる。しかし、この民衆の低級知は正統知でないがゆえに、かえってそれを批判的に超える超高級知ともなりうるものであった。 近世神秘神学における神的/悪魔的/自然的という三分法が、人類学・宗教学における宗教/呪術/科学の三区分に改鋳されていったのではないか、という指摘はなるほどなあと感じ。また、世間的・民衆的な低級知たるマギアがつねに物を介するというのも、フェティッシュとの関係で興味深い。 「神秘主義」概念の検討については別稿に譲るとされているが、その「別稿」とはこれですね。→ 鶴岡賀雄「「神秘主義」概念の歴史と現状」『東京大学宗教学年報』vol. 34、東京大学文学部宗教学研究室、2017年、pp. 1–24。 https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/47687# なお、本論文の中で、サラマンカ大学の学士アマドール・デ・ベ��スコが持っていたグリモワール(魔術の指南書)をめぐる事件の話が出てくるが、最近、魔術のことを考えすぎて、先日、江川さんから「grimoireとは魔術書のことなんですよ」と教えてもらう夢を見た。 山崎亮「社会学年報学派の呪術論素描」
ユベールとモースの「呪術論」は混乱に満ちた論文であり、その一因として呪術のアポリア(呪術は私的なものであるが、社会的な性格ももつ)が挙げられる。この混乱を理論的に整理したのがデュルケームの聖理論であるが、ユベールとモースは納得していなかった。 江川純一「「magia」とは何か:デ・マルティーノと、呪術の認識論」
イタリア宗教史学におけるマジーア概念を、特にエルネスト・デ・マルティーノの『呪術的世界』とその後の転回にしたがって明らかにする。宗教学において一般的に、「呪術」は「宗教」のネガとして語られがちだが、宗教史学はこの対比・対立を認めない。 デ・マルティーノは『呪術的世界』において、呪術的世界は「自分の魂の喪失の危機とそこからの解放」という実存のドラマによって根拠づけられるとして肯定的に評価したが、この世界を歴史的時代であるとしたがゆえに、進化主義的宗教論と見分けがつかなくなってしまった。 「呪術的心性と原始的心性を混同している」という師ペッタッツォーニらの批判を受け、デ・マルティーノは後年、「呪術的世界」という想定を取り下げ、神話ー儀礼の結合物としての「呪術ー宗教現象」を探究するようになる。 注にある、「今後、20世紀の宗教学思想を振り返るときには、ペッタッツォーニ、デ・マルティーノ、エリアーデのトライアングルによる、神話ー儀礼的技術としての「呪術ー宗教」の考察が軸となるであろう」という指摘が興味深い。
なお、A. C. ハッドンが報告したボルネオのトゥリク族の男の話(ある男は鉤形の石を頑なに手放そうとしなかった、その石は魂が自分の身体を去るのを引き留めているのだという)がラトゥールのファクティッシュのようで面白い。
第二部 事例研究:古代~中世
渡辺和子「メソポタミアにおける「祈祷呪術」と誓約:「宗教」と「呪術」と「法」」
なかなか論争的ですごい論文であった。一言ではまとめづらいが、アッシリアの『エサルハドン王位継承誓約文書』(ESOD)の構成や文法を分析することで、誓約と儀礼、「言うこと」と「すること」の宗教的な結びつきを考察する。 アッシリア学者の重鎮オッペンハイムは、西洋人として祈りと儀礼が結びつくことに耐えられず、「メソポタミア宗教」は書かれるべきではない、とまで言う。また、ESODの誓約と儀礼という形式こそが、契約(誓約)宗教としての一神教の成立と後のキリスト教の成立にも影響を与えたという。
高井啓介「その声はどこから来るのか:腹話術の魔術性についての考察」
叙述がトリッキーで面白い。腹話術が古代の神学者たちによって魔術として扱われ、近代に脱魔術化していった過程が示される。旧約聖書サムエル記上の「降霊術」がギリシア語に翻訳される際にἐγγαστρίμυθος(腹話術)と訳されたために腹話術の魔術化が始まった。 降霊術が腹話術と見なされることで、腹話術師は腹の中に悪霊をもつことになり、霊媒は魔女扱いされるようになる。しかし、腹話術の魔術性を否定し、単なるトリックだとしたのが、『百科全書』で数学に関する項目を多く書いているジャンバプティスト・ドゥ・ラ・シャペルの『腹話術』であった。
山本伸一「カバラーにおける神名の技法と魔術の境界」
ユダヤ教のカバラーにおいて、正当な呪術と禁じられた魔術の境界は不分明である。このことを15世紀のカバラー文学、ルネサンスの自然魔術の影響下のカバラー、18世紀のエムデン=アイベシュッツ論争という3つの事例に即して考える。 15世紀スペインのカバラー文学の共通点は、主人公であるカバリストが終末とメシア来臨を促すために悪魔を追放しようと立ち上がるも、悪魔に騙されて取り逃がしてしまい、逆に魔術に手を染めた悪人として非難される、という物語。中2っぽいというか、『進撃の巨人』(デビルマン)フォーマットだなと。 青木健「ゾロアスター教神官マゴスの呪術師イメージ:バビロニア文化の影響と呪術師イメージの由来」
マゴスには「呪術師」「神秘主義の達人」「放蕩」といったイメージが付与されるが、ゾロアスター教の神官の職能を検討してみると、実態は王朝に仕える官僚であり、吉凶暦や蛇占いといった副業の方がイメージの形成要因となったと考えられる。 青木健『古代オリエントの宗教』は、渡辺論文の注で、紀元前2世紀から13世紀までのオリエントの宗教史を扱うものなので、「書名と内容が一致していない」と批判されていた。 毛利晶「古代ローマにおける凱旋の儀式:トリウンプスに関する最近の研究動向を中心に」
ローマで戦争で勝利を収めた将軍が行う凱旋の儀式トリウンプス(triumphus)。そこでユピテルの扮装をする凱旋将軍の役割は神か王か。近年の論争を踏まえて、著者は元々ユピテルの儀式であったものが後に将軍自身を讃える儀式へと変化していったと推測する。 凱旋式挙行の要件が、①命令権(imperium)、②鳥占権(auspicium)、③軍隊指揮(ductus)、④幸運(felicitas)の4つだったというのが、統治(王)・呪術(宗教)・軍事の三権が一人に集中しているようで興味深い。 野口孝之「近代ドイツ・オカルティズムの「学問」における「魔術」」
19世紀後半から20世紀初頭に展開されたオカルティズムにおける「魔術」の位置づけを、キーゼヴェッター、エスターライヒ、シュティルナーという3人の思想を中心に検討する。 ドイツの代表的なスピリチュアリスト、カール・ドゥ・プレルの概念das transzendentale Subjektを「超越的主体」と訳しているけど、「超越論的主観」では。このドゥ・プレルの理論を援用するキーゼヴェッターはオカルティズムをGeheimwissenschaftと呼び、先人としてスウェーデンボルグを挙げている。 ちなみに、スウェーデンボルクを批判したカントの『視霊者の夢』の第一部第二章のタイトルはgeheime Philosophie(オカルト哲学)である。
寺戸淳子「「呪術ではない」祭儀:「秘義」としての聖体拝領」
大変勉強になった。キリスト教の「聖体拝領(聖餐)」「実体変化」「神秘的肢体」といったややこしい話を基本的なところから丁寧に教えてくれるので、これらの神学的議論に関心がある人におすすめの入門的論文。 12世紀に「実体変化」の教理が確立したのと同時に、「神秘的肢体」(Corpus mysticum)論も確立していった。Corpus mysticumは元々、食べる方の「聖体」を意味していたが、秘義的ニュアンスがよろしくないため、それまで「教会」を意味していた「キリストの体」Corpus Christiと呼ばれるようになった。 12世紀に「実体変化」の教理が確立したのと同時に、「神秘的肢体」(Corpus mysticum)論も確立していった。Corpus mysticumは元々、食べる方の「聖体」を意味していたが、秘義的ニュアンスがよろしくないため、それまで「教会」を意味していた「キリストの体」Corpus Christiと呼ばれるようになった。 逆に、教会はCorpus mysticumと呼ばれるようになった。つまり、聖体と教会の呼び方が入れ替わったのである。この教会を指す「神秘的肢体」がやがて法人のような擬制的人格一般を指すようになっていった。カントーロヴィチぽいなと思ったら、カントーロヴィチが参照されていた。 佐藤清子「19世紀合衆国における回心と「呪術」:チャールズ・G・フィニーの新手法擁護論とその批判を中心として」
きわめて明晰な論文。19世紀アメリカの第二次大覚醒の時代を代表する牧師フィニーは「新手法」と呼ばれる礼拝方式を導入して革新をもたらしたが、それは回心を意図的・合理的に促す手法であり、限りなく呪術に接近していく。 フィニーはスコットランド啓蒙思想の影響の下、自然法則の学習・応用という方法論を採用し、自らの回心の方法を「科学」あるいは「哲学」であると称した。他方で、呪術・宗教・科学の三区分で知られるフレイザーもまた、同じくスコットランド啓蒙の思潮に影響を受けていることは興味深い。 フレイザーは呪術を稚拙な科学であるとしたが、もし仮に「回心」を心理学的な技術によって達成できるようになったとしたら、それは科学なのか呪術なのか。実は科学と呪術���区別は、その知識や技術の程度の差異によるのではないのではないか。 フィニーの「祈り」についての議論も面白い。回心は聖霊の働きによるが、人間は聖霊をコントロールできないがゆえに、回心も究極的には神に委ねられている。しかし、フィニーは回心と聖霊の間に「祈り」という人間の行為を介入させる。とはいえ、人間は祈りによって神を操作できるわけではない。 フィニーによれば、祈りはそもそも聖霊の働きによって可能になるのだから、祈ることができること自体がそれが叶えられる可能性があることの証拠となる、という。ここには、祈りのアポリア(祈りは効果があるならば、祈りにはならず、効果がないならば、祈る必要がない)を解く鍵があるように思われる。 久保田浩「近代ドイツにおける「奇術=魔術」:奇術とスピリチュアリズムの関係に見る〈秘められてあるもの〉の意味論」
19世紀ドイツで機械仕掛けの奇術を行う奇術師は、トリックを説明(klaeren)可能なものとしながら、それを驚嘆すべきものとして提示する者であり、スピリチュアリストの種明かし(erklaeren)をして詐欺を暴く啓蒙(Aufklaerung)の意義も担っていた。 奇術師がスピリチュアリストを科学的に暴いたり、宮廷からお墨付きを得た「宮廷奇術師」が登場したりと、『鋼の錬金術師』が好きな人にお薦めしたい論文。スピリチュアリストが、奇術師は本人も気づいていないけれど実は霊媒であり、本人が奇術だと思っているのも霊媒現象なのだと主張する話が面白い。
井上まどか「ロシアにおける呪術概念の検討」
前半が現代ロシアの事典や概説書における「呪術」概念の分析、後半が16世紀に編纂された『百章』における「呪術」の用法について。「準備的覚え書き以上のものではなく」という著者の言葉通りの文章であった。 『金枝篇』の著者名が「D. D. フレイザー」となっていて、目を疑った(ロシアだとJもGもDなんですか)。それ以外にも本書は誤植が非常に多い印象。上巻目次のタイトルからして既に間違っている。
西村明「呪術としてのキリスト教受容:ミクロネシア・ポンペイ島を中心に」
最終章でいよいよ真打ち「マナ」登場。ミクロネシアのポンペイ島における宣教でキーワードとなった「マナマン」から、マジックワードとしての「マナ」概念の歴史的形成の議論へ。 まず、宣教師は植民地主義的視点で現地の宗教的・呪術的実践を裁断するが、しかし、その視線は一方向的なものではなく、現地民もまた、自分たちの価値体系の中にキリスト教を位置づけて理解する。ポンペイ島で、二つの異なる価値体系を通訳した概念が「マナマン」であった、という話が面白い。 さらに後半、この「マナマン」(ミクロネシア)と同族語である「マナ」(メラネシア・ポリネシア)という概念が辿った数奇な運命が論じられるが、これも面白い。 「マナ」とはそもそも、コドリントンが『メラネシア人』(1891)において初めて��術的議論に導入した語で、その後、超自然的力を指す普遍的な概念として人類学・宗教学で多用されていった。しかし、コドリントンが現地調査したモタ島とバンクス諸島は、当時、ポリネシア人と宣教師の影響を受けていた。 メラネシアの「マナ」が形容詞や動詞としての含意があったのに、ポリネシアでは名詞として用いられた。メラネシアの宣教師たちは先にポリネシア語に通じていたために、「マナ」を名詞的に理解してしまった。こうして、コドリントンがやってきた頃には、既にバイアスのかった「マナ」となっていたのだ。 このように、「マナ」とは、ポリネシアとメラネシア、現地民と宣教師、そして世界各地の多様な宗教間といった、異質な価値体系を通訳=通約する概念として強力な力をもつようになっていったのである。異質な体系の間の界面に生じる通約的概念という意味では、「フェティッシュ」にも似ているように思う。
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■旦那さんと同じタイプかも。力になれれば。 anond:20240606113439 注意(2024/06/09 追記) この投稿が、双極性障害の方、HSPの方、日頃から感謝を伝えてる方への偏見を招き、肩身の狭い思いをすることのないよう追記する。自己啓発本を不快に感じる人は読まないほうがいい。この投稿に科学的根拠はない。増田ってジャーナルだったっけ?自分も、素人が書いた増田を鵜呑みにせず、精神科に行ったほうがいいと思う。ただ、元増田が旦那さんを病院に連れてくことが難しいのと、俺自身「病院行け」って言われるのが嫌だったから、あくまで病院に行くきっかけになればと思った。ただ、この投稿を実践するより、奥さんだけでも内緒で精神科に行って相談してみてもいいのかもね。もっと良い解決方法を知れるかも。旦那さんに映画や本を読ませたり、感謝させろって言ってるわけじゃない。きっと見る余裕ないだろうし、無理に勧められたら嫌だろう。他人を変えるのは無理。伝えたかったのは「奥さんから感謝を伝える選択肢があること」。ただ対策だけ提示しても唐突なので、それに至る経緯として映画や本に言及したまで。ちなみに旦那さんを変えられる可能性は低いと思う。期待したら、今度は奥さんがイライラすると思う。離婚よりも修羅の道なんじゃないかな。あくまで「自分は感謝を大事にしたら上手くいった一例の紹介」だよ。万人に効くわけじゃないので、元増田に上からアドバイスも、オススメするつもりもない。自分が辛かったとき、とりあえず改善の選択肢や自分と同じ境遇をたくさん知りたかったから自分の例を出しただけ。当時は藁にもすがる思いで、自己啓発本だろうが、科学的根拠がなかろうが、自分の体で試して合わなければやめた方が、エビンデンス集めるより手っ取り早いと思ってた。そんでN=1だけど効いたのを並べてるだけ。今なら病院行くのが一番だって思うけど、行きたくない気持ちは痛いほどわかる。 「うろ覚えでテキトーな部分がある」と書いてたものの、双極性障害やHSPというセンシティブな話題について、あまりにもテキトーに書きました。ごめんなさい。双極性障害についてはhttps://anond.hatelabo.jp/20240609120330 で整理してくれてる(本当に精神科医かは知らない)。HSPについては https://www.japansensitivityresearch.com/ が信用できるのかな?「HSPは血液型占い」と言う人もいるが、医学用語ではないだけで、心理学用語なのでは? https://www.japansensitivityresearch.com/media-evidence には「〇〇型HSP」というタイプ分けが血型診断みたいと言ってるだけで、HSP自体は学術的に認められている用語なのでは? 「アドラー心理学」や「HSP」という言葉を見ただけで、読む気が失せる人が一定数いるのだと知った。用語自体に罪はないが、悪徳商法で使われたり、いい加減な自己啓発本により誤った解釈が蔓延し、嫌悪する人も多いみたい。ただ、これらの用語を大して調べもせず反射的に拒絶するのは、自己啓発本を鵜呑みにするのと変わらないと思う。ただ、自分の投稿も、誤った情報を蔓延させる一助となっていたので反省してる。ちゃんと論文を読み、間違ってる部分は適宜修正していくつもり。建設的な批判をしてくれた方々ありがとう。この投稿を鵜呑みにする人も減るだろうし、自分も勉強になった。「ありがとう」とコメントくれた方々もありがとう。こんな眉唾な投稿に肯定的な意見を書くだけで自分も非難の対象になるリスクあるのに。 「ありがとう、ありがとう、うるせーなコイツ。宗教じみててきめーな!」と思っていただいてかまわん。昔の俺も同じこと思ってたと思う。あとで自分の首が締まらないよう、批判もほどほどにな〜〜。本文旦那さんは躁鬱かも。自分も5~6年前までは旦那さんと同じく短気だった。電車から降りる人より先に乗ろうとする人、傘の先端を後ろに振って歩く人、横断歩道を無視する車、政治家の汚職や不倫のニュースなどを見るたびにイライラして、文句を口にしていた。今思うと、これは躁鬱の症状だったと思う。自分が躁鬱だと自覚・改善するきっかけになったものを書いていく。今はイライラと上手��付き合えるようになり、人生が楽しくなった。それから、付き添ってくれた妻には本当に感謝している。あなたの旦那さんが自分と重なってしまい、自分もあの時気づけてなかったらと思うと、いてもたってもいられずに書いた。少しでも力になれれば。※以下で紹介する情報は数年前に触れたので、うろ覚えでテキトーな部分があるかも。あくまで今の自分の解釈なので、鵜呑みにせず、旦那さんの心の準備ができたら精神科の受診をオススメする。ツレが鬱になりましてこの映画がきっかけで鬱だと気づけた。鬱のイメージが変わった。「鬱はぐったりと元気のない精神病。気弱な人がなるもの」と思っていたが、実際は「些細なことにイライラしがちな人がなりやすい病気で、イライラと元気のない状態を繰り返すもの(=躁鬱)」だと知った。まさに主人公も自分もそういう人間で、共感しすぎて見終わったら泣いてた。特に、妻に辛く当たった後に自己嫌悪に陥るシーンは、自分にとってはあるあるだった。見終わった後、妻に改めて感謝し、改善していきいたいと思えた。ちなみに鬱は 「完治させる」のではなく「改善していく。上手く付き合っていく」 と考えた方がいいみたい。焦って治そうとすると、治らないことにイライラして再び自己嫌悪。嫌われる勇気この本が改善のきっかけ。特に学びになったのが 「評価は人の居場所を奪い、感謝は人の居場所を作る」 こと。評価とは、人間に良し悪しをつける行為。愚痴やネットでの誹謗中傷がそうだし、あなたの旦那さんや私が、待ちゆく人やテレビに対して言う文句もそう。他人を評価することは、相対的に自分を評価することになる。例えば、電車でマナーの悪い人にイライラするのは、その人を悪く評価してる反面、マナーを守ってる自分を良く評価してることになる。評価を繰り返すうちに、理想のみが高かまっていき、自分が追いつけなくなると居場所を失う。居場所を守るために自分に厳しくしてると、許容量を超え、次第に矛先が他人に向き始める。余計に他人にイライラする。負のスパイラル。また、意外だが「褒める」ことも評価であり、人の居場所を奪う。「あの人は優秀」とか。優秀な人を見ると自分がダメに思えて悲しくなるのは、勝手に自分も評価して居場所を無くしてるから。また「お前に褒められても嬉しくねーよ」って感じるのは、自分より下だと思ってる人間に居場所を奪われる不快感だと思う。感謝は逆に人の居場所を作る。だから、居場所を得たければ、他人に感謝をされること(他者貢献)をするといいらしい。本にはここまでしか書いてなかった。それを知ってからは、いろんな場面で親切を心がけるようにした。ただ、だんだん感謝されないとイライラするようになった。そこで気づいたが、自分は「感謝されたい」という気持ちでいっぱいになっていた。逆に、世の中には自分と同じように「感謝されたい」人がたくさんいるんじゃないかとも思った。そして、感謝を伝えることは誰かの居場所を作れるということであり、それ自体が他者貢献 になるのでは?と考えた。それ以来、一切の評価を辞め、些細なことにも感謝するよう心がけた。例えば、今日も飯が食えることとか。生きてることとか。他人を褒めそうになったときは、感謝に置き換えた。例えば、活躍するスポーツ選手のニュースを見たら「すごい」じゃなく「頑張ってる姿を見ると、自分も頑張ろうと思えるな。ありがたい」とか。次第に、悪いことより、ありがたいことに目が向くようになり、「自分の人生、恵まれてんじゃん」と幸福度が増した。イライラも減った。また、人間は良いことよりも悪いことに敏感らしいので、気づくと感謝を忘れてイライラが再発した。なので、感謝を習慣付けるため、以下の2つに取り組んだ。 寝る前に夫婦で感謝し合う感謝日記をつける寝る前に夫婦で感謝し合う自分は3つ言うようにしてる。少なくとも1つは言う。些細なことでいい、「洗い物ありがとう」とか。ただ、厳格にルール化するとしんどいので、もちろん忘れちゃう日があってもいい。次第に、寝る前以外も自然と感謝が言えるようになる。小っ恥ずかしいけど、互いに居場所を作ることができ、それが夫婦円満に繋がる。感謝日記をつける日記といっても毎日はしんどいので、誰かに何かしてもらったときだけスマホにメモるくらいでいい。メンタルがしんどくなったときに見返すと「そーいや、こんな嬉しいことあったっけ」とマシになる。家族や同僚のミスも「こんだけありがたいことしてもらえてたんだよな」と許せるようになる。あと、この日記は意外な場面でも役立つ。記念日や友人の結婚式、同僚の退職時など、メ��セージを考えるのに困らない。「次また同じことやったらどうするつもりなの?」への返し自分だったら「二度としません」だけじゃなく、 原因:なぜ起きたのか対策:どういうときに、どうすればいいかを言ってほしいかも。そうしないと、何度も「二度としません」を繰り返すことになる。自分と妻がそうだった。旦那さんは、きっと 安心や信頼が欲しい んだと思う。旦那さんに一緒に考えてもらうのもいいと思う。自分も妻と一緒に具体的な再発防止策を考えるようになってから、感情的な口論が減った。アンガーマネジメントアンガーマネジメント超入門 「怒り」が消える心のトレーニング [図解 (特装版)] 自分も読み途中だが、怒りを抑えるだけではなく、そもそも怒りづらくなる方法や、怒りを上手く伝える方法なども書いてある。ちなみに、自分は今まで以下の考え方で怒りを鎮めてきた。そもそも他人に期待しない。期待して裏切られるから怒る。電車の中はマナー違反な野郎ばかりで当たり前だと思う。逆にマナー良い人に感謝できる。 人を見下したり、非難しているときは、その人が羨ましいとき。イソップ寓話の酸っぱい葡萄。 人を嫌うときは、その人が自分に似ているとき。同族嫌悪。 嫌なことをされたら、自分も同じことをしないよう気をつける。過去に自分も同じことをしてたら、嫌な思いをさせた相手に対し反省する。対象を他者から自分に向けることで、ムカつく相手の情報をシャットアウト。自分が大切な人に同じ思いをさせなければオッケー。HSP「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる 「繊細さん」の本旦那さんは、ひょっとしたらHSPかも(病気じゃなく性質)。HSPだと細かいことに気づきやすい。いい意味でも悪い意味でも。もし、飲み会など大人数の集まり後にグッタリしたり、光や音に敏感だったり、お腹すくとすごいイライラしたりする場合は、その可能性あるかも。ちなみに自分もHSPで、この本を読んだら楽になった。自分の妻は非・繊細さんなのだが、繊細さんと非・繊細さんの上手い付き合い方が載っていて、互いに勉強になった。不眠対策もし、体調不良が不眠から来るものだったら、以下が効くかも。 寝る2時間前に風呂。体が熱を逃がすタイミングで眠くなるらしい。個人差あり。自分は1時間前。あずきのチカラ 首肩用。これから夏だから使えないけど。首肩、耳を温めると自律神経が整って眠りやすくなる。ストレッチ。自律神経整う。肩こりは肩甲骨、腰痛は股関節をやるといい。YouTubeで調べて。おでこに冷えピタ。嫌なこと思い出して、グルグルずっと考えて寝れないときの最終手段。前頭葉の活動を抑えてくれるらしい。頭を冷やすとは良く言ったもんだ。最後にわかってらっしゃるとは思うが、上記を本人に無理矢理、読ませるのは逆効果。自分も会社にアンガーマネージメント講座を強制されたときはキレた。本人が知りたいと思ったときに、そっと差し伸べる程度で。ただ、本人に任せてたら状況は変わらないので「評価は居場所を奪い、感謝は居場所を作って、イライラを抑えられるんだって〜」くらいのノリで、 奥さんから日頃の感謝を伝えてみる のがいいのかも。相手は変えられないので。結婚はしたのだから、きっと旦那さんにも素敵なところがたくさんあるはず。楽しかった思い出を振り返ってみて。人生をつまらない文句やイライラではなく、楽しいことで満たしたいよね。しばらくはしんどいと思うけど、峠を超えて、旦那さんがあなたが付き添ってくれたことに感謝してくれる日が来ることを願う。ただ、他人を変えるのは相当大変なことなので、ヤバくなったらあなた自身の人生を最優先してくださいね。長文失礼。Permalink | 記事への反応(17) | 04:48 ツイートシェア
旦那さんと同じタイプかも。力になれれば。
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2023ドクトリン再考査
オレの持つドクトリンは大別すると4つの要素の組み合わせながら、その拡張を目指すモデルだと定義出来る。4要素は文化、身体、哲学、環境がこれに充たり、単に一個人に限らず集団や国家、それ以上の枠組みにも適用可能である様に意識して考える癖は��けているつもりだ。
しかしながらこれらの根本として存在するオレ本人の精神特性(形質)はただ一つ「作るという行為」のみで、それは自分探しを最早必要としない程に明確だ。もっとも自分の持つ形質などと大層でも格好良くもなく、どうしても抑えられない欲動、我慢を重ねようとしても出てきてしまう気質みたいなもので、ともかくオレは常に何かを作る行為に携わっていないと我慢がならないのである。
少し話が逸れてしまったので元に戻すと、4要素の現在の進捗と目指されるべき形についてここ1年での情勢変化を踏まえて再整理すると、まず環境の面における拡張とは恐らく最も分かり易く物質的に版図を広げ、活用可能な資源を獲得するそれを指すのだが、この点については大規模な資本を必要とする為、オレには出来る事が殆ど無い状況は変わっていない。 宇宙分野に関しては過去に勉強するにはしたが適性は無い様だ。最終的に自分でやるより新進気鋭の専門家に任せた方が良いだろうと判断し、僅かながらではあるが投資という形で貢献している。既に5年以上経つが資金の引き上げは予定していない。月や火星に多大な期待を抱くのは危険だが、人類の栄華も曲がり角に差し掛かっておりチャンスは残り2世紀ほどと思われる。それを逃せばもう温暖化や目先の生活への対処で手一杯になり大規模な宇宙進出の道は閉ざされるだろうから、やれる時にやっておく意義は有る。幸い平和の時期が終わり再び世界は冷戦の様相を呈し始めている。技術革新に覇権争いは不可欠なのだから追い風は一応吹いている様だ。
次に身体の面を挙げれば、自分個人について言えば先日示した通りのトレーニングと健康維持方針に努めるしか無いが、どこかの段階でサイボーグ化やゲノムへの働きかけを試みる必要性を以前から感じているし、何よりそれを面白そうだと感じている。特にサイボーグ化や仮想空間への対応は現状の技術でも検討に値する。またオレ個人の人生には関係ないが、人類は元来放射線飛び交う宇宙への進出と、核戦争や原発事故すらものともしない強い放射線耐性の獲得を急ぎ、人体サイズの小型化による資源節約もゲノムへの働きかけを通じて検討すべきだろう。
哲学の面に関しては既に大枠は完成していた。ここで書き記すと膨大な量に至るので割愛するが、近年の微修正によって特に神についての解像度は宗教よりも科学に近い形に寄せて整理する内に素朴にして明快な形に高まったと感じている。4大宗教に関しては尊重はしているが、いずれの枠内にしろそれに留める形で収めようとは思わない。
最後に文化面に関して述べるが、国の本質とはまさしく文化に他ならず、在地文化が滅びた国には植民国家としての惨めな末路が待ち構えている。別に文化を担うのがどんな肌の色で有ろうが、どんな出自だろうが構わないのだ。重要なのは土地に根を下ろし定着し、土地の産物で腹を満たし、土地の水で喉を潤し、血と肉とを土地と一体化する中で土地と切っても切り離せない文化を継承してゆく点に在る。
その土地の強みと環境特性を生かし、なるべく運輸に資源を割かず完結する仕組みを営むのが重要である(グローバル化より地産地消を優先すべきだろう)。また祭りの効果も忘れてはならない。少なくとも日本の場合、祭りを中核として共同体文化圏を線引き出来るし、有事の際は祭りの機関要因と参加者に少し手心を加えるだけで動員すら可能な程だ。これを活用しながら地域文化の深化(拡張では無い)を方針とする事で長期的には独自性と独自性に裏打ちされた人材、そして観光資源が捻出される。
オレ個人の取り組みとしては、消失の恐れの有る武芸や天然砥石文化を対象とした保全と啓発に趣味の楽しみも含めつつも関与し、まずまずの手応えを得ている。
いずれの計画も寿命を超えかねない程の長期関与が不可欠であり、取っ替え引っ替えせわしなく行う類いの取り組みでは無い。毎年微修正は加えるが、たかだが数年程度でやる事は基本的に変わらず、現代人の時間に対する尺度とは異なる点には注意しなければならない。その為いつもいつも代わり映えの無い生活を送っている様に見られ、時には自分ですら退屈を感ずるが、あくまで長期計画に従う以上そうなるのはやむを得ない。時間尺度の違いに惑わされず計画通りのマイペースで履行したいと思う。
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今年度もサイセイ自動車-廃車ネット-に沢山の廃車、廃車手続きのご依頼を頂きまして本当にありがとうございました。
早いもので今年もあとわずかとなりました。今年も廃車ネットにたくさんの廃車依頼のご依頼をいただき誠にありがとうございました。 2023年も、長年のご依頼を頂いているお客様、新規のご依頼様に沢山の喜んで頂けるようなサービスを深く追求しご提供をして行きたいと思っている所存であります。 本当に毎年素晴らしい方々達のご縁に幸せを感じ今年の業務を終えたいと思います。 誠に勝手ながら、来る2022年12月31日(土)〜2023年1月9日(月)まで、年末年始休業とさせていただきます。※2023年1月10日(火曜日)より、通常営業致します。 ご不便をおかけいたしますが、何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。 関係者 各位 拝啓 師走の候、貴社益々御清栄のこととお慶び申し上げます。本年もお取引を戴きまして誠にありがとうございます。ご繁忙の折、皆様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、なにとぞ、ご高承のうえ、よろしくご協力くださいますようお願い申し上げます。ご不明な点などございましたら、ご遠慮なくお問い合わせ下さい。 2022年もサイセイ自動車に沢山の廃車、廃車手続きのご依頼を頂きまして本当にありがとうございました。 Read the full article
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「なぜ、ビジネスにアート思考が必要なのか?/世界の見方を変えるアート思考」第16回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ講演者:森夕花氏 〔2022年12月9日(金)20時~〕
「なぜ、ビジネスにアート思考が必要なのか?/世界の見方を変えるアート思考」第16回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ講演者:森夕花氏 〔2022年12月9日(金)20時~〕 チケット:https://scic20221209.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/576877384242593 ■日時:2022年12月9日(金)20時~22時(オンライン開催) ■講演概要:アーティストは見えないものを見るようにする役割を担い、その時代や社会の中で、「問い」を私たちに問いかけながら常識を揺さぶり、今までにない価値や意味を提示してきました。近年、ビジネスの舵取りは非常に難しくなってきています。企業は従来の古い価値観、世界観から抜け出し、直観的、感性的な創造性が求められ、ますます「アート思考」の必要性が高まっています。 アートには「唯一正しい答え」はありません。観察者が自由に解釈することが可能であるため、考えたことを、それぞれの独創的視点で物語化し、語り合うことで、互いの深い部分で共感がおこり、創造的無意識が自然に開かれていきます。このプロセスを通じて、新しい価値や未来が創造される「安心安全な創造の場」が作られ、クリエイティブな組織へと発展を遂げることが可能となるのです。 ■講師:森夕花(もりゆうか)氏 プロフィール: カングロ株式会社 取締役 執行役員COO/マスターライフコーチ・PXファシリテイタ・フィロアーツ研究会主宰 ●神奈川県横浜市出身。音楽学校のピアノ科卒業後、銀行系信販会社に入社。三井住友カードに転職した後、ドイツのフライブルクに留学。フライブルグ市の行政と市民による持続可能な世界を目指す社会システムと、ユーゴスラビア紛争で、ドイツに逃れた難民の方々との出会いを通じて、平和で精神的な豊かさを基本とした「サステナブルな社会作り」に興味を抱く。帰国後、三井住友カードに再び戻り、お客様対応や、クレジット決済端末機の管理システム“TACシステム”の開発に携わる。 ●帰国して5年が過ぎたころ、戦争や内乱に巻き込まれ傷ついた子供達を救済するためのNGOドイツ国際平和村の存在を知り、世界の平和と心の癒しに携わることが自分自身の使命と感じ、ヒーリングセンターアルケミストでカウンセラー、セラピスト、講師を務め、2008年に独立。2015年1月、カングロ株式会社 執行役員に就任。現役ライフコーチとして、ベンチャーから大手企業の多くのビジネスリーダーを受け持ち、個々の潜在意識にアプローチし、ビジネス ・プライベート両面における、変化、成長をサポートしている。 ●2021年より京都芸術大学芸術学部芸術教養学科に在籍。創造的思考によって「モノの見方、感じ方」を変え、仕事と暮らしをより良く変化させる「アート思考講座」を開催している。 ●自らの内面の探求のため、インドに十数回訪れ、心理学、禅、認知行動学、ジョーティッシュ(インド占星術)、手相、メディカルハーブ、中医学(中医食療士)などにも深い知識がある。 ●趣味は声楽(オペラ)・読書・映画鑑賞・美術鑑賞・ぶらり旅・歴史探訪・日記を書くこと。最近はウェルビーイングを軸とした、地域コミュニティー・組織つくりに関心をもつ。 ■Zoomオンライン:URLは、Peatix経由によるチケット購入者に自動送信されます ■タイムスケジュール:基調講演(約90分 Q&A含)後に、講師を囲み、対話を行います。 ■オープン・ダイアログ参加対象: ※どなたもご参加頂けます ・SCIC正会員 ・SCBC修了生&SCBC受講生 ※SCIC未会員 ・一般参加(社会人) ※SCIC非会員 ・特別ご優待枠 ・学生(中学~大学院生) ■参加料: 一般参加者(社会人)※SCIC非会員\5,000 SCBC修了生&受講生 ※SCIC非会員\3,000 SCIC正会員 無料 特別ご優待枠 \3,000 学生(中学~大学院生)\1,000 ■SCICとは: SCIC(Shock Coherent Innovation Club)は、ショック・コヒーレント基礎講座(SCBC)修了生をベースとした会員制クラブです(ご入会頂くためには、SCBCを受講し修了証明が必要となります)。 https://scic2023.peatix.com/view ●目的:SCBC修了生同士の交流と創発の加速。私たち自身が動き、世界に奇跡を起こす ●概要: ①月例会の開催 ②会員同士のコラボ醸成 ③SCC訪問視察ツアーの企画 ④会員の生業のサポート ⑤その他創発事 ※いずれも参加できる時に参加 ⑥基礎講座の復習フォロー(基礎講座への復習参加は原則全回無料)↓ https://scbc2023r.peatix.com/view ●SCICに関する問合せ: [email protected] -------------------------------- ■『Shock Coherent(ショック・コヒーレント)』とは: 現代社会は今、破壊的な人間活動によって、エントロピー(無秩序・乱雑さの度合い)を加速度的に増大させています。故に、地球環境の悪化による気候変動や自然災害、絶え間ない疫病の発生、人心荒廃による貧富の格差拡大、資源収奪、世界各地で紛争や戦争が頻発化し、世界の指導者たちが核兵器の使用をほのめかす事態となり、もはや地球生命全体の未曾有の危機に陥っています。これを人々は、VUCAワールドと呼び、行先不透明な生き難い時代の合言葉となってしまっています。 このような時代において、「私は、これからどう生きれば良いのか?」と、多くの人々が、自問自答を繰り返し、五里霧中の状態に陥っています。このままでは、時代に翻弄され、本来あるべき使命を全うすることなく人生を終えてしまうことになるやも知れません。そうならないために、私たちに何が出来るのか。当講座は、そうした社会の強い要請により、30年に及ぶ研究の集大成により創発的に完成した稀有なプログラムです。 当講座では、様々な立場の仲間と共に、自分自身の「存在意義(パーパス)」を見つける5ヵ月間の不思議な旅に出て頂くこととなります。即ち、この「存在意義(パーパス)」が、自己変革への道標となるのです。そして、感性を刺激し、心を揺さぶる独自のアプローチフレームを活用し、固定観念の融解を起こし、事例や課題から自己変革へのヒントを得、仲間やファシリテイタとの多くの対話や繋がりから閃きをもらい、自身でも予期せぬ“創発”を起こしていきます。 このワークショップは、個人が真の意識変革を興すことを目的として、カングロ株式会社によって開発されたプログラムです。私たちは、この講座を多くの方々にお届けすることを使命とし、日々事業を営んでおります。そのことを通じて、真の道を啓く方が増え、社会そのものの変革を成し遂げられたら本望であります。ぜひ、講座で会いましょう。 (プログラム開発者:藤井啓人) ■ショック・コヒーレント基礎講座 第5期生絶賛募集中! ■第5期『ショック・コヒーレント基礎講座』VUCA世界を突き破り、己の道を啓け~パーパス(存在意義)によるシン変革ワークショップ:2022年9月13日~2023年1月24日全10回講座 チケット: https://scbc05r.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/323129486509872 ■第1~5期「ショック・コヒーレント基礎講座」全アーカイブ・オンデマンド映像集(有料コンテンツ) https://vimeo.com/ondemand/shockcoherent ----------------- ★特別提供映像: 【ダイジェスト版動画⑮】「VUCAワールドに効く個人と組織の視点の再構築~自己や地者、そして世界への認識の見直し」第15回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:楠徳生氏 (2022年11月11日) https://youtu.be/-wIwXLX4ZUQ 【ダイジェスト版動画⑭】「破壊と創造~壊れると、新しく生まれる/コロナ禍で悪者だった飲食店はどう変化していくのか」第14回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ/講演者:福本浩幸氏(2022年10月7日) https://youtu.be/ygxXywmvQ1w 【ダイジェスト版動画⑬】大企業病への挑戦 第2章~認知科学の実践における人間性と抽象度の壁/自分を変え、常識を変え、世界を変えていく/第13回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:内藤礼志氏 〔2022年9月9日) https://youtu.be/qBNlFTor9hw 【ダイジェスト版動画⑫】新しい『構造』がうつ病から復活させ組織も前進させる~うつ病経験者が語る、ストレスとつき合い未来をつくる方法/第12回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ/講演者:堀北祐司氏(2022年8月5日) https://youtu.be/HudMdpphjEI 【ダイジェスト版動画⑪】The 事業承継~当社流、バトンの受け方、渡し方/第11回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:大島右京氏/2022年7月8日【ダイジェスト版】 https://youtu.be/dWnOtXQAmqw 【ダイジェスト版動画⑩】心理的安全性のリーダーシップを身に付ける方法~組織パフォーマンス最大化の処方箋/第10回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:倉持茂通氏(2022年6月8日)https://youtu.be/DuUvRzcqJD0 【ダイジェスト版動画⑨】100年企業研究から見えてきた、コロナ禍だからこそ変えなければならないこと、変えてはいけないこと/第9回Shock Coherent Innovation Clubオープンダイアログ/講演者:小山貴子氏(2022年5月13日) https://youtu.be/0juftCrZ1mQ 【ダイジェスト版動画⑧】人事制度のミライを探求する~ノーレイティングを超え給与を自己申告する人事制度への挑戦/第8回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ/講演者:福留幸輔氏(2022年4月15日) https://youtu.be/XEm-OdMYwMY 【ダイジェスト版動画⑦】「パーパスと共に生きる時代/パーパスとはいったい何なのか?宇宙の営みから壮大なタペストリーを読み解く」第7回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:森夕花氏(2022年3月11日) https://youtu.be/vNaK4qH94fA 【ダイジェスト版動画⑥】「部署なし管理無し評価無し、VUCA時代に挑む選択できる組織作りへの挑戦」第6回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/金光広樹氏(2022年2月18日) https://youtu.be/33DyPirlM7c 【ダイジェスト版動画⑤】「新規事業における企業の在り方」第5回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/長島壮洋氏(2022年1月13日) https://youtu.be/eM3sRZDo0Ng 【ダイジェスト版動画④】「ティール組織の作り方“レシピ”」第4回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/嶋田崇孝氏(2021年12月10日) https://youtu.be/JDp0srEGxGE 【ダイジェスト版動画③】「こころの病との上手な付き合い方~仕組みがわかれば予防ができる」第3回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/中田健士氏(2021年11月5日) https://youtu.be/_OW88883t7o 【ダイジェスト版動画②】「混ざると、新しい事業価値が生まれる。」第2回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/星野良太氏(2021年10月8日) https://youtu.be/fZJWaFmhAD4 【ダイジェスト版動画①】「大企業病への挑戦~認知科学の理論と実践」第1回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/内藤礼志氏(2021年9月3日) https://youtu.be/aV8ux6Ha-9M ■「Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ」アーカイブ・全オンデマンド映像集(有料コンテンツ) https://vimeo.com/ondemand/scic ■主催:カングロ株式会社 https://www.kanglo.co.jp 協力:サステナ塾/SDGs超実践者委員会/イノベーションサロンZ/システムD研究会/フィロアーツ研究会
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2023/07/03
BGM: Billie Eilish - Getting Older
今日、晴れて48歳になった。休みだったので朝、総合病院に行く。そして先生に会い、自分の精神状態について話す。この「ドクターとの信頼関係をいかにして結ぶか」という問題についても自分は苦労してきたことを思い出す。かつて、ぼくは先生に対して過大に期待していたフシがあったとも思う。「とにかくドカンと薬を出してくれ、そしてぼくを救ってくれ」というように。その一方で「どうせどんなにこちらが悩みを言っても、あなたは『ハイハイ』と『仕事』で処理するんでしょ」「1度も生活費に困ったことなんてないんでしょ。医者はサラリーもいいだろうし」なんてことを心のどこかで(いや、「心のド真ん中」で)考えていたとも思う。そう思うと実に自分はひねた、いやらしい患者だったなと思ってしまう。薬を出すにせよアドバイス(効く言葉)を出すにせよ、医師ができるのは患者をサポートすることがメインだ。そこから先、つまり「人生を実際に生きる」のは患者の役目なのだ。そう思うと過去に甘ったれていた自分を思い出す。実に汗顔の至りだ。薬をもらった後、LINEなどでお祝いのメッセージをたくさんいただく。涙がこぼれそうになった。綾波レイみたいだ。こんな時どんな顔をしたらいいのかわからない……。
マイルス・デイヴィス『クールの誕生』を聴きながら(分かる人だけこのチョイスというかタイトルにニヤッとして下さい)、今日の読書は磯野真穂・宮野真生子『急に具合が悪くなる』を読んだ。この本はガンで闘病を続けた哲学者・宮野とその彼女に真摯に答える人類学者の磯野の往復書簡で、実に読ませる1冊だった。ガンに侵されるというのはもちろん、「不運」な出来事である。だが、宮野はその運命を「不幸」とは思っていないと記している。これは実に毅然とした、「闘争」の「宣言」ではないかと思った。「不運」な出来事は確かに誰の身にも起こりうる。ぼくの話をするなら、ぼくが発達障害者として生まれてきたことも多分に「不運」な出来事であるだろう。だが、それを「不幸」な出来事として位置づけるかどうかはぼくが決められること、ぼくの解釈や考え方に由来/依存することである……と書くとなんだか自己啓発/セルフヘルプの書物が教えるポジティブ・シンキングに似ているかもしれない。確かにこの本はそうしたポジティブ・シンキングに導いてくれる本だが、同時に「コクのある」深みをも備えていると思った。
それはどうしてなのか考えるのだけれど……まだ1度だけ読んだきりなので見つからない。この本はぼくが一生かけて読み込むべき本ではないかと思う。だけど、この本から学んだのは確率的に「不運」に陥ることがあるとしてもぼくは(村上春樹的な命題/テーマになるけれど)、そこから何かを学ぶことはいつだって可能だということだ。そして、そうして学んだことを手がかりに言葉を紡ぐことも確たる軌跡/ラインを描いて生きることだって可能だということも。現在では発達障害者の割合は10人に1人くらいらしいけれど、そうしたことがわかっても「じゃ、何でよりによってこの『ぼく』がそう生まれたんだ?」という疑問・苦悩は消えやしない。かつてのぼくならそうした「不運」を嘆き、そこから「ぼくは発達障害者としてこの生を絶望とともに生きるしかないのだ」といじけて、自ら「不幸」に陥っていたと思う。この本でも指摘されているけれど、起きた出来事を消化する際にそうしていじけてしまうことが不幸の始まりなのだろうと思う。でも、そうしていじけずに前を向いて歩くのもしんどい。どうしたらいいのだろうか。これもぼくにとって「永遠のテーマ」になりそうだ。
いつもぼくはこの日記で「BGM(つまり『今日の1曲』)」を思いつくのに苦労しているのだけど、今日はふとビリー・アイリッシュを聴いてみたくなってこの曲「Getting Older」にたどり着いた。この曲の中でビリーは辛辣に、トラウマ的な過去を語りすぎることの愚を撃っている。「And maybe that's the reason every sentence sounds rehearsed(多分それが原因ね、何もかもがまるでリハーサルみたいなの)」。つまり、語れば語るほど「トラウマ語り」は洗練されていき本番前の予行演習になり、したがって嘘くささを増していくということだ。もちろん、それは一方では致し方ないところもある。語り続けることがそうして「リハーサル的」になりその人だけの力強い「ライフストーリー」「自叙伝」を形成することになるのなら、明らかな嘘が紛れ込まない限りにおいて「いいこと」「なすべきこと」とさえ言えるのかもしれない。だが、このビリーの辛辣な視点、つまり「求められるからそれに応じて嘘をついてしまう」「自分の嘘に慣れてしまいよりいっそう話を盛ってしまう」「自分のトラウマ語りが『芸』になってしまう」ことへの危惧の意識は心のどこかで(いや、これも「心のド真ん中」で?)保っておきたいと思った。ビリーのこの曲の歌詞と対訳はこちらのブログが参考になる。
http://oyogetaiyakukun.blogspot.com/2021/09/getting-older-billie-eilish.html
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かつて世界中で流行した幸福について (3333字)
7年前、突如としてこの世界から12月24日が消失した。 冷静に考えれば、我々が失ったのは365日のうちの1日でしかない。 とはいえ12月24日だ。多くの人々にとって特別な意味を持つ、替えの効かない日。 巨大な喪失感が深夜の歯の痛みのような冷酷さで世界中に染み渡った。 しかし予想外の早さで痛みが引くと、嘘みたいに忘れられた��� 今ではもう、12月24日を誰も憶えていない。 そして今年も12月23日の夜がやってきた。 服を脱いだ彼女は、カーテンも閉めずに窓辺に立っている。 冬の夜空には星々が正確に配置されていて、ガラスに映った彼女ときれいに重なっている。下着姿の星座みたいだ。脱ぎ散らかした服を足でどかして、彼女は4000円ちょっとの情けないサンタの衣装に身を包んだ。彼女の全身からばちばちと音を立てて蒼白い光が放たれる。 「今年も美しいな」 彼女は真面目な顔で言った。「私は」 「異論はありません」 僕は少し笑う。でも彼女と安っぽい衣装とのあいだには、歴史上一度も起こったことのない化学反応のようなものを感じる。 「気分が良い」 彼女は微笑んだ。「プレゼントは私だよ。などと冗談を言いたいくらいには」 「それは楽しみ」 じつは僕も、彼女へのプレゼントを隠し持っている。 だけどそれを渡すのは24時間後の話だ。 彼女はこれから、たった一人で失われた12月24日に忍び込むのだ。
もしかすると12月24日が失われたことよりも、サンタクロースがいなくなったことのほうが大きな事件だったかもしれない。7年前に起こった12月24日の消失は、同時にサンタクロースの消失でもあった。 だから12月24日が失われた最初の年には、子供たちにはプレゼントが一つも届かなかった。 ただでさえ暗い世の中にあって、子供たちの悲嘆に暮れる声というのは、あまりにも痛切に響く。体調を悪くする者も多かった。 そこで大人たちは協議の末、毎年25日になると、自分でこっそり用意したおもちゃをサンタクロースからの贈り物であると偽って、子供たちの枕もとに置くことに決めたのだ。 これが思いのほかうまくいった。 子供たちはその嘘をすっかり信じたし、大人たちも子供のために内緒でプレゼントを選ぶという楽しみを得た。 なぜ今までこの方法をとらなかったのだろう? 世界中の子供たちのプレゼントを、サンタクロース1人に任せていたことのほうが異常だったのではないか? 思うに、これは12月24日消失後の世界で、ほとんど唯一の良い方向への変化だ。 そもそも7年前に世界は終わりかけていた。悪意のぎっしり詰め込まれた出口のない箱のようだった。大がかりな戦争と個人的な戦争ばかりがそこらじゅうに転がっていた。そんな時代のさなかに12月24日は失われたのだ。最後のともしびが消えたかのように。 けれど少なくとも今では、大人は子供たちのためにプレゼントを贈るようになった。 世界は少しずつ良くなっていく。 それは僕の個人的な祈りでもある。 僕自身の生活はこの7年、少しも好転しなかった。毎日毎日、ほとんど寓話的といって良いような、つかみどころのない戦闘を強要され、ぼろぼろにすり減っていくばかり。自分がどんな目的で、どの方向に進んでいるのかもわからない。 でもきっと、それは僕だけに与えられた苦難じゃない。 誰だってそんなものだし、彼女の7年間だって似たようなものだったと思う。 なにしろ彼女は7年前に自分の名前をなくしてしまったのだ。 7年前の12月25日。 「次のサンタクロースは私なんだって」 僕の横で眠っていた彼女が跳ね起きて言った。「サンタクロースって啓示によって選ばれるものだったんだね。ぜんぜん知らなかったな」 起き抜けのキュートな寝癖を直しもせずに、彼女は犬みたいに目をらんらんと輝かせていた。 12月24日が消えた翌日。 世界中がショックに打ちひしがれている真っ只中のことだ。 「啓示? きみが次のサンタクロース?」 僕は寝ぼけていた。「じゃあ衣装を買ってこないと。ミニスカのやつを」 「そうだよ、早く買いに行かないと!」彼女はベッドから飛び降りた。「26日になったら、あんなのどこにも売ってない!」 僕たちは近所のドン・キホーテでサンタクロースの衣装を購入した。4000円ぐらいの。ぺらぺらの生地の。ばかみたいなミニスカートの。てっきり僕は、僕たちのマンネリ打破のためにそれが買い求められたのだとばかり思っていた。 だけどサンタクロースの衣装を着た彼女は、本当にサンタクロースになってしまった。 「私がプレゼントを配るのは、この世界の子供たちに対してではない。失われた12月24日に閉じ込められてしまった、幻の子供たちのために配るのだ」 彼女は政治家の物真似みたいな表情と口調で言った。でも、ふざけているにしては、あまりにもその衣装は似合っていたし、あまりにも説得力を持ちすぎていた。 そして本当に不思議な話だけど、サンタクロースになった瞬間から、彼女は自分の名前をすっかり忘れてしまった。 誰にも彼女の名前を思い出すことはできなかった。 僕にも思い出すことはできなかった。 役所で取り寄せた彼女に関するすべての書類の氏名欄には、「12月24日」 とだけ記載されていた。 サンタクロースの衣装を着た彼女は、世界中でただ一人、12月24日に侵入することを許された。といっても僕たち以外の誰もそのことは知らないし、12月24日はいまや彼女の中にしか存在しない。 幻の街の、幻のクリスマス。 そこで彼女は、幻の子供たちに幻のおもちゃを配る。 幻の笑顔。 幻の幸福。 幻の12月24日。 かつて世界の一部だったもの。 すべての子供たちに一晩かけておもちゃを配り終えると、彼女はようやく現実の12月25日に戻ってくる。眠っている僕のベッドにもぐり込む。サンタの衣装のまま僕に抱きつく。 幻みたいに冷えた彼女の体。 彼女も僕も、それぞれの世界でぼろぼろに傷ついている。 「12月24日は正確に保持されている」 彼女が僕の腕の中で言った。「夜空に星が正確に配置されているのと同じように」 「お帰り。今年もお疲れさま」 彼女はちょっとだけ微笑んで、そしてすぐ目を伏せた。 「この世界には罰が与えられたのだと思う」 「罰?」 「人々の考える幸福というものが、あまりにも一面的すぎたのだ。あるいは、幸福になるための手順が複雑になりすぎた。結果として、幸福になりたいのか、不幸になりたいのか、誰にもわからなくなった。幻みたいな幸福を奪い合って、世界は大小の戦いに埋め尽くされた。その罰として12月24日が取り上げられてしまった」 「酷いことをする奴だ」 「誰が?」 「誰もが」 「誰もが。そう、たしかに。私もそう思う」 彼女のため息が僕にかかる。「私は12月24日をもとの場所に戻したい。この世界に〈12月24日〉をプレゼントしてあげたいんだ。それがサンタクロースとしての私に課せられた仕事なのだと思う。やり方はまだわからないけれど……その日が来るまで、私は幻の12月24日を管理し続けなければならない」 「大変な仕事だ」 「だが私にしかできないことだ」 「その覚悟は立派だと思うけど……でも、きみは誰からもプレゼントをもらわなくて良いの?」 「サンタクロースはプレゼントをもらわない」 「そんなことはないよ」 「誰がくれるんだ」 「僕が」 「きみが? 私に? どんなプレゼントを?」 「何でしょう」 「愛かな」 「愛だよ」 「それはもう、もらっている」 「愛のほかにも」 「何をくれるの」 「きみの名前」 と僕は言う。「きみの名前は、7年前の12月24日に飲み込まれてしまった。僕は7年かけてそれを掘りおこしたんだ。僕にしかできない仕事だ」 「私の名前を?」 「そう」 「私はなんという名前だったの?」 「イヴ」 「イヴ」 彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。「ちょっと出来すぎな気がする」 「僕もそう思う」 「でも嬉しい」 イヴは僕の首筋に顔を埋めた。 イヴのなめらかな脚の感触が伝わってくる。 そのとき、少なくとも僕たちのあいだには、誰にも恥じることのない幸福があったんだと思う。世界は少しずつ良くなっていく。貧しくても、何もかもがうまくいかなくても、悲しいことばかりが起こっても、僕たちはこうして少しずつ、世界をもとに戻してゆけるのだ。
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