#草津近鉄
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午後から献血の予定をしていたので歩いて出かける。
大橋悠依選手の出身高校の横を流れる葉山川。
イトマンからフィットネスの賑やかな音が聞こえてくる。
JRのアンダーパスを潜る。
草津近鉄に寄ってちょっと時間潰をして、びわ湖草津献血ルームで献血。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)5月30日(木曜日)
通巻第8271号
未入居の、幽霊マンションを地方自治体が買い取り転売か、公営住宅に
工事途中の物件は完成を急がせる、って掛け声はかけられたが。。。。。。。
*************************
中国全土が幽霊屋敷状態となって、このバブル破裂の後始末をどうするか。
鬼城(ゴーストタウン)はすっかり日本でもおなじみの語彙になった。ゾンビマンションは、じつに30億人分だという実態を日本のメディアも報じ始めた。
筆者が鬼城の典型を撮影に行ったのは、もう二十年は前だ。内蒙古省パオトオ市の南オルダスの郊外、カンバシ新区にタクシーをチャーターして撮影した。あのときの凄まじい光景をわすれることが出来ない。
中国経済は破綻しますよと警告を発し書籍も出したが、日本の経済論壇はひややかで、中国経済の足を引っ張るな、おまえはどこを見ているのだと酷評を受けた。
そのカンバシ市に最近も日本のテレビが入った。
セメントが黴び、鉄骨が腐り始め、なにしろ百万都市に二万数千人しか住んでいない。土地を明け渡した農民が代替物件をもらって「ほかに行くところもなく住んでいる」という人がすこしいるだけ。
ところがバブル沸騰当時、このマンション群、中央部分の物件は完売だったのである。すべてを投機で、現地をみることもなく、ベンチャー企業の株を買うように投機好きな人達が争って買った。そのうえ2008年頃まで値段は上昇していたから目先の利くひとはさっと売り逃げただろう。
別荘ブームも凄かった。雲南省の山奥に突如、数千戸の別荘群、とまったホテルから全貌を撮影したが、だれも住んでいないわびしい風景。遠隔地であり、購入したのは投機目的であって、物件はすでに草ボウボウ、ヴィレッジ入口にあったコンビニも当てが外れて手持ち無沙汰だった。
中国当局は、第一に未完成物件の完成をいそがせる。第二に未入居マンショなどは地方自治体が買い取り、中産階級に適正な価格で転売する。あるいは公営住宅とするという。
簡単に言うが、中途で工事中断の物件はタイルがはがれ、壁は変色し、電気は来ていないし、フロも湿気で新品と取り返す必要があり、押し入れは蜘蛛の巣。入口は建材が投げ捨てられて��り、床は泥だらけ、庭��草ボウボウ。工事に携わった労働者への賃金未払いが多い。建設労働者が集まらないだろう。
▼砂漠に水をまくような財政出動という愚策
このために財政出動が6兆円強、国債を21兆円起債して、人民銀行が買いとり原資とするなどが決められた。
どの物件を選ぶのか、適正価格とはいくらか、住宅ローン破綻者はおいだされているが、この問題をどうするのか?
具体的なことは何一つ決まらず、基本の方向が示された。もし全額が支給されても28兆円程度。恒大集団の一社の負債だけで34兆円。地方政府の債務がすくなく見積もっても1200兆円、つまり砂漠にバケツで水をやるていどの綻び修理でしかない。
問題はなにか。住宅購入者の救済ではない。銀行救済の方策なのである。
住宅ローン不払いは銀行の焦げ付きになる。率直に言って不良債権だ。適正価格というのは値崩れのことを意味する。要するに「担保割れ」となる。銀行の不良債権が暴発すれば中国の経済は命脈を喪う。中国共産党の脅迫観念とは国有銀行をつぶせないのだ。
一方、オフィスビルやビジネス複合ビル、シッピングモールにテーマパークなど、救済使用にも民間プロジェクトはほったらかしになるだろう。
バブル破綻の象徴となったのが天津に建てた「金融117ビル」。「チャイナ117タワー」ともいう。597メートル。多くの銀行、証券、保険企業が入居予定だった。総工費1兆円。2008年に着工し、2015年に工事中断、外壁が錆び付いている。117階屋上にクレーンが取り残されている。ほぼ廃墟とみて良い。嘗て北朝鮮が建てた101階の残骸幽霊屋敷を上回ることになる。
天津は国際金融都市の条件をえられず、上海と深センに市場を取られてしまった。
さて習近平が政治生命をかけて建設途次は雄安都市で総工費10兆円。まもなく砂漠に廃墟という鬼城が誕生することになる。
夥しい空のマンションはホームレス収容所、刑務所に転用したらどうか。
アクセルのよい物件はネットカフェ基地とか、長期滞在ホテル��、またテーマパークの再利用の妙案は農地転用だろうか。
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あくまでも京都駅を起点で考えた場合。大阪発の場合だと、東方向は+30分、西方向は-30分で考えればいいかな。知らんけど。 ■高松片道4時間。自分的には香川県は青春18きっぷを買ったときに必ず行く場所。瀬戸大橋を超えるときのテンションの高さと、やたらとガタンガタンいう音が旅情を誘う。高松駅前の時点で、うどん屋が多くあるなら、うどんだけ食いたいなら、そこだけで満足できる。時間かあるなら栗林公園まで行ったり、瓦町の方まで行ってもいい。瓦町FLAGの変わり方を年々眺める楽しみもある。ちなみにうどんだけ食いたいなら、坂出で降りても良いかも。 ■琴平片道4時間半。坂出での接続があまり良くないので、高松に行くより時間は掛かる。こんぴらさんこと金刀比羅宮の観光が主になる。ここも香川なのでうどん屋も多い。なお、こんぴらさんは奥社まで行く根性はなかったので、御本宮までしか行ったことがない。 ■尾道片道4時間半。さすがにしまなみ海道に行く時間はないので、尾道での観光がメインになる。行きか帰りかのどちらかはロープウェイを使わずに歩き回ってみるのも一興。尾道ラーメンも食おう。 ■鳥取片道5時間。山陰線経由は接続が悪いので、智頭急行経由が基本になる。18きっぷシーズンは智頭急行のフリーパスが発売されてるので、往復で使えればかなり得。一応、行きは山陰線、帰りは智頭急行というルートの大回りならダイヤ上は割と可能。鳥取と言えばやっぱり砂丘か。駅からはそこそこ離れてるので、バスの時刻表を要確認。砂の博物館もセットで行こう。あと、生きたイカをその場で刺身にしてくれる店が好き。 ■城崎温泉片道4時間。時間があるなら、少し西にある餘部で降りて鉄橋を見て行ってもいいかも。外湯巡りのフリーパスがあるので、できれば替えの下着を何枚か持っていて、色んな温泉に入るのも楽しい。今の時期だと、すぐに汗をかくから、温泉に入る度に下着は変えた方がいいと思うぞ。ちなみに山陰線オンリーで行くのと、京都線~神戸線~播但線経由は、距離が1.5倍くらい違うのに時間は10分くらいしか変わらないから、気まぐれで使い分けるのもあり。 ■下呂温泉片道4~5時間(時間帯によってかなり変わる)上の城崎温泉と行き帰りの時間は似たような感じ。こっちは温泉には行った後、辺りをブラブラする感じになるか。とりあえず鰻を食う。 ■名古屋片道2時間半。京都から意外と近い。時間帯によっては米原での乗換だけで行けるし、18きっぷ初心者にはおすすめ。一応都会なので、目的なくうろついても充分楽しめる。東海道本線で日帰りで行けるところまで行こうと思うと、静岡辺りが限界か。乗り換えで降りたことはあっても、観光で行ったことはないけど。 ■松本片道6時間始発、終電で行けば4時間くらい滞在できる。松本城に行ったり、街中をぶらつくくらいは全然大丈夫。まあ、一泊して下の安曇野とセットで旅行した方が良いと思うけどな。 ■穂高片道7時間水の綺麗さで有名な安曇野の中心駅。大丈夫、始発と終電で行けば、2時間半滞在できるから、大王わさび農園くらいなら充分行ける。わさびを買おう。わさび定食を食おう。ちなみにVAIOの本社も安曇野にあるので、せっかくだから見物に行っても良いかも。 ■敦賀片道2時間。新快速の最果て地点で、乗り換えなしで行ける。もうすぐ新幹線ができるから、駅前がスゲー綺麗になってる。敦賀と言えば原発だけど、美浜原発PRセンターに行くには時間が掛かるし、何よりバスの本数も少ない……。やっぱり日本海さかな街で海鮮を食うのと、氣比神宮に行くか。 ■西舞鶴、東舞鶴片道2時間~4時間スムーズに行ければ2時間くらいなんだけど、舞鶴線はとにかく本数が少ないから、計画を立てていかないと最悪4時間以上も掛かることになる。西舞鶴で降りて、とれとれ市場に行って海鮮を食って、東舞鶴で観光する感じか。なお、東舞鶴にある赤レンガパークと引き揚げ記念館では、戦争に対する空気が違いすぎて笑う。 ■福井片道3時間。福井と言えば恐竜。ただし、恐竜博物館は勝山市にあるから福井駅から私鉄とバスを乗り継いで一時間以上掛かる。東尋坊は、恐竜博物館と真逆の位置だから、日帰りで両方を回るのは無理だな。だから恐竜博物館のコースと、東尋坊→芦原温泉のコースのどちらを選択する感じ。福井駅の駅そばは結構好き。 ■九頭竜湖片道4時間半。福井にある盲腸線の九頭竜線の終点。名前はカッコいいが、何もない。駅前にファミマと道の駅はあるが……。そしてこんな駅名だけど、肝心の九頭竜湖は結構遠い。九頭竜線は途中の越前大野で降りた方が楽しめそう。 ■金沢片道4時間半。観光地が固まってるので、兼六園・金沢城公園→ひがし茶屋街→近江市場のコースは日帰りでも余裕で回れる。なんなら全部駅から歩いて回れる。ただし、今年は暑いからずっと外にいるのは勘弁したい。とりあえず着いたらチャンピオンカレーでも食って、海鮮は帰りにするか。帰路は福井で40分くらい接続待ちがあるから、8番ラーメンでも食おう。 ■紀伊半島大回り京都→大阪→和歌山→紀伊田辺→新宮→多気→亀山→柘���→草津→京都 で一周合計15時間43分。紀伊田辺で1時間半接続待ちがあるから、お昼はそこで。乗り換えアプリで見ると多気で1時間の接続待ちがあるけど、到着後に少し待てば名古屋行きの快速みえが来るから、それで津まで行って、そこで晩御飯を食べた方がいい。紀伊半島の南の方になると、海岸線スレスレを走ってるから、ようこんなとこに線路が引いてあるなと思う。なお、白浜の日帰りはどう考えても無理だから、パンダが見たいなら泊まるか特急にしとけ。 ■高山本線大回り京都→敦賀→金沢→富山→猪谷→美濃太田→岐阜→米原→京都 で一周合計13時間57分。金沢から富山は三セクを通るから1290円払う必要があるのをお忘れなく。18切符の特例は高岡から富山までだから、金沢からだと適用されないぞ。全体的に余裕がない乗り換えなので、1時間ほど早く出発すれば、富山で1時間の乗り換え待ちが発生するから、そこでお昼を食べよう。寿司が旨いぞ。高山本線は猪谷で一度乗り換えがあるだけで、美濃太田まで乗りっぱなしが続くし車内は空いてるから、弁当を買って車内で食うのもいいかも。鱒寿司を食おうや。
京都発 青春18きっぷの日帰り旅行
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税��藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠��夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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雑記20241109
イオンシネマで『ゼンブ・オブ・トーキョー』を観ようと思って調べたら、一番近所の草津でしか流れていないという奇跡。しかもなんだよこの時間。観終わって家に帰ったら即寝る時間だよ。いや、下手したら上映中に寝てるぞ。久御山でしか掛かってないとかだったら諦めてた。
正直、イオンシネマだと駅から近い桂川とか近江八幡のほうが便利。地方だとこういうときに面倒だね。神奈川なら選び放題だったし。
イオンモールKYOTOのTジョイだと朝9時からの1本だけだし、大作じゃない映画はみんなこんな程度の扱いなんだと知る。地元の映画館、ユナイテッドシネマ大津じゃ当然のようにやってないし。
株式おじさんたちのアイドル、GENDAが買収したGAGA制作・配給の作品だけど、これで儲け出てるんかな。アイドル映画だから一定の需要は見込めるとして、それでペイできるのか、映画業界の事情はよくわからない。
しかもイオンの株主がオーナーズカードで1000円で見ようとしてるしな、本当にあさましい。このイオンへの忠誠心の高さよ。
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イオンモール草津なら、自転車でちゃっと行って帰って来れる距離だから、こういうときに自転車が欲しくなる。原付でもいいけど。
なんだろう、やっぱり根がケチなんだろうね、固定費が掛かるものってパッと手が出ない。簡単に処分できないものもそう。買う前からメンテナンスと廃棄のことを考えるから「やっぱいいや」ってなる。
車が好きとか自転車が好きとか、興味があれば迷いなく買うんでしょうけど、単なる移動手段として考えたらトータルリターンは低いんですよね、僕の場合。使う頻度が低いだろうし。そもそも歩いたり走ったりが好きっていうのもある。
じゃあ借りればいいんじゃね、自転車。と思って調べてみたら大津周辺には観光用のレンタサイクルみたいなのは結構あるんだけど、観光向けだから高いんだよね。
悪名高いLUUPを見たらすごいことになってたわ。京都はLUUP以外も多いよね。むしろこれでいいんだわ。滋賀県にLUUPなんて需要無いもんな。
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ネットの記事を読んでいて、タイトルにこれが付いていると大体読む価値がないというパターンがあることに気付いた。要するに、タイトルで集客しようという魂胆が見える記事のことです。
具体的な数字が入っているもの 例)年末までにやっておきたい3つのこと 例)老後を乗り切るためのたった一つの鉄則
人の劣等感や優越感につけ込むもの 例)頭の悪い人がしがちな行動3選 例)きれいな人は必ずやっている! お風呂にまつわる必須ケア
「常識」や「思い込み」を否定するもの 例)みんなが知らない体に悪い野菜の食べ方 例)ディズニーランドが混んでいる?いいえ、本当は違うんです
枚挙に暇がないのですが、大体こんな感じ。ちなみに例は僕が適当に考えました。1回クリックしてくれるだけで目的が達成されるので、中身がスカスカなことがほとんどです。
まあ、焼き畑農業みたいなもんですね。
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創作意欲に燃料投下
書きかけの原稿からでも、それなりに学び取るものはあると思います。わたくしはもう、続きを書き上げる気力も体力も残っておりません。
個人的には、読者としてのわたくしは、説明文は読みません。少し厳しい言い方をすると、画で見せてくれないと読めません、と言うことです。特に一人称は、一人語りになりやすいので、注意が必要です。本気で目指すのであれば、という但し書きをつけておきます。
それが、趣味で簡単にできる才能があれば一番良いとは思いますが、やはりプロの世界へ行きたいのであれば、そう簡単ではないと思います。どういう生き方も個人の自由で、精神的に満たされているのが一番ですが、自分が何がしたかったのか、判らなくなることがあります。
目的が地位や名誉への渇���になってしまっていないか、振り返ってみることも必要かもしれません。
そういう意味では、わたくしはもう続きを書くことはないでしょう。
ーーーーー
イァヌヴィルズ宮殿。鉄の砦と喩えられる巨大な要塞の中心部に、その建造物はあった。土の中から這い出して来たかのような尖塔が、いくつも立ち並んでいる。
「世界でも非常に珍しいものをお持ちしました」
そう言う商人の風貌はいかにもみすぼらしく、灰褐色のすり切れたマントからは、しばらく風呂に入っていないであろう、洗濯もしていないのであろう異臭が漂っていたし、口から漏れる吐息からも嗅ぎ続けるには耐えがたい強烈な臭いがした。
「もう少し離れろ」
その持ち込みたいという珍品の是非はさておき、検問に立っている衛兵はまず離れるよう命令した。商人はくふふ、と気味の悪い笑いを漏らしながらも「へえ、すみません」と素直に応じた。離れたところで衛兵は、商人の頭からつま先まで上を下を、嘗めるように見ながら尋ねた。「してその物とは、どのようなものなのだ」
商人は勿体ぶりながら、手のひらほどの大きさの木箱をマントの内側から取り出すと、衛兵の向きに蓋をぱかりと開けた。箱の中には小さな植物の種が一粒、ぽつんとあるだけだった。衛兵はがっくりしたように声を落とした。
「何だ? それは。それだけか」
隣で寡黙に二人のやり取りを見ていた若い衛兵が、ここで口を開いた。
「こいつ、うまくして我が城に入り込もうと企む、不逞の輩じゃあありませんか」
その言葉に、初めの衛兵が声を荒げた。「何だと、こいつめ! そういうことか、許さんぞ」警棒を振り上げて今にも飛びかかろうとする衛兵に、商人はたじろいだ。
「ちょ、ちょいと待ってくださいよ、旦那さん方! あたしは無実です。これは正真正銘のお宝、ドルムの種です……これはちょっと、そうそう簡単には手に入りませんぜ」
慌てふためきながらも相変わらず、商人は気味の悪い微笑を絶やさない。言い終えたところで箱を大事そうに閉じて、また懐に仕舞った。そして続けた。
「不要とあれば致し方ありません。うーむ、これはそうですな。隣国にでも持っていきますか。あちらならば、高値で買い取ってもらえるやも」ぶつぶつと独り言ちて、わきに置いていたぼろ袋を持ち上げ担ぐと、商人は踵を返した。
衛兵二人は顔を見合わせていったん思案したが、慌てて商人を引き留めにかかった。
「ま、待て! もう少し、そのう。うん、詳���く聞かせてくれ。内容によっちゃ、上に話を通さん、でもない」最後は言葉に詰まりながらも、ただでは帰せないというように止めにかかった。
慌てる衛兵の様子を見て商人は楽しそうに「へえ、へえ、さようでございますか。それでは早速」と言って、足を引きずりながら中へ入ろうとする。気おくれして見ていた衛兵は慌てた。
「待て、待て! こちらへこい、こっちで話を聞いてやる」
検問所の脇へ商人を誘い、若いほうの衛兵が中から椅子を用意してきてやった。商人は引きずっていた足をさすりながら「へえ、あたしはこの通りでして。これは助かります」と言い、ゆっくりと椅子へ向かった。
「ドルムの実は何でも、育てるのが大変に難しいとかで。市場に出回ることはめったにありません」椅子に座ってから、商人はひと息ついた。
「ドルム。聞いたことがないな」衛兵たちは目を見合わせて首を傾げた。商人はまた嬉しそうに相槌を打った。
「ええ、ええ、そうでしょうとも。何せ発祥は大陸のはるか北の果て、ミィグヴィッツァーという山間の農村で、文字通りの田舎村。あたしたちの言葉はほとんど通じません。野蛮人ともっぱらの噂で、ちょいと余所者が入ろうもんなら、鎌やら鍬やらを振り上げての大騒ぎになるそうで」
「へえ、ミィグヴィッツァーねえ。それでそんな辺鄙なところからあんたは、何だってそん
なものを持ってきたんだい」
「ええ、ええ、そんな寒村でこのような物が採れるとは、あたしも正直驚きました。このドルムから採れた油はなんとバァル蝋の十倍、いや、百倍のエネルギーがあるとも言われております」
「バァル蝋の百倍」繰り返してまた衛兵たちは、顔を見合わせた。
「想像もつきませんでしょう? この小さな粒にそれほどの威力があろうなどとは。いかがです、気になりやしませんか」
商人はいよいよ厭らしい笑みで衛兵たちを見据えて再度、懐へ手を入れた。
「ま、まあ待て」衛兵は商人を制止した。「それほど大事なものであれば、そう簡単に表に出すものではない。それに、そのようなものをわざわざ我が城に持ち込む理由もいまだ判然とせん。一体、お主の目的は何だ」
単刀直入に問い質す衛兵の言葉に、はた、と商人の笑顔が張り付いた。しかしそれもつかの間、ごほんともっともらしく咳払いをして商人は答えた。
「もちろん、これでございます」言いながら親指と人差し指で円をつくり、ちらつかせるように指を振った。若い方の衛兵は呆れ顔で、やれやれと首を振った。初めの衛兵は顎をさすって、まじまじと商人の顔を見つめた。「お主、名は?」
商人は満面の笑みを顔に浮かべた。「ガルム。ガルム・ニズホッグと申します」
「ふむ。ガルムとやらよ。お主の名はしかと、然るべきお方へ届ける。明朝この時間に再度、こちらへ来られよ。ああ、身だしなみもそれなりに整えて、な」最後は言い聞かせるように、鼻をつまんで扇��仕草をしながら商人ガルムへと伝えた。ガルムはわざとらしく畏まったように頷くと、満足したように立ち上がって城門を後にした。
「大丈夫ですか」得体の知れぬ輩を、と言いたげなところを口ごもらせて、若い衛兵は初めの衛兵の顔を見た。
「なあに、良くいる金目当ての半ぐれの手合いさ。金貨の何枚かでも受けとりゃ、大喜びだろう。心配はいらんよ、俺たちはただの門番。すべてはおかみが決めること。報告するまでが、俺たちの仕事だ」言って若い衛兵の肩を、ぽんぽんと叩いた。納得のいかない顔をしながらも、若い衛兵は頷いた。
あくる日の朝、予定より何時間も早くにガルムは姿を現した。風体は相変わらずだった。
「お主には身だしなみという言葉の意味が、よく分かっとらんようだな」衛兵の嫌味にしかし、ガルムは恬として言った。「はて、何のことやら」
あくまでもしらばっくれる様子に、衛兵はしかめ面をして続けた。「それに予定よりも時間が早すぎる。人の話を全く聞いておらんようだな。ガルム殿の行いは逐一、報告させてもらうぞ」
はたして衛兵の牽制には全く耳を貸さない様子で「はあ、そうですか」とだけ言って、ガルムはその場で荷を下ろして腰を据えた。衛兵は座り込んだガルムにそれ以上は何も言わず、門番の役目を思い出したように腕を組んで、門前に立ちはだかった。若い方の衛兵もそれに倣って、背筋をぴんと伸ばした。
無言の暇がしばらく続いた。陽がてっぺんまで昇ったところでようやく、城のほうから歩兵を引き連れた一行がぞろぞろと向かってきた。威厳ある歩き姿に、衛兵たちの身が引き締まる。しかしガルムはまったく委縮する様子も見せず、一行が一歩一歩近づいてくる様子を見守った。残り数歩と近づいたところでようやく、ガルムはゆるりと立ち上がった。
衛兵たちが守衛する城門の前に到達したところで、行列は一斉に立ち止まった。と、行列の合間を縫って、中から腰の曲がった老爺が顔を出した。長い髪と長い眉毛、長い髭がすべて白髪で染まっていて、顔を覆い隠している。薄手の白いローブをまとい杖をついて、衛兵たちの前まで歩み出た。「客人はどちらで?」
老人の言葉に、ぴんと背筋を伸ばした若い衛兵が答えた。「はっ、はい! あちらであります」
衛兵が手を差し出した方向では、ガルムが興味津々といった面持ちで一行を見ていた。そして立ち上がって足を引きずりながら歩み寄り、あらためて名乗った。
「わたくしめが、ガルム・ニズホッグでございます」
老人はガルムの挨拶に頷き、親愛の意味で両手を差し出した。毛むくじゃらに覆われた顔は、表情が見えない。ガルムは素直に両手をとった。
「私はイァヌヴィルズ内で科学研究に携わっている、ヘイティと申す。遠路はるばるの長旅、ご苦労である」言いながらヘイティはガルムの両手を握って何度も揺すり、鼻の先まで顔を近づけた。ヘイティの毛髪の隙間から見える表情には、まったく変化する様子が見えない。ガルムの顔から少しずつ笑みが薄れていく。ヘイティが次の言をとった。
「ドルムの実を持ってこられた、とお聞きしたが?」
ガルムは両手をとられたまま、真顔で言った。「へえ、さようでございますが」
ヘイティはやっと、両手を離した。「何と、はるか遠方の異国の種を、たった一人で運んで来られた。その足で! これほどの武勇があろうか! のう、皆の衆よ」
大げさに言いながらヘイティはくるりと振り返り両手を広げて、初めて目に見えるほどの大口を開けて笑った。話を振られた兵たちは一瞬、引きつった顔を浮かべたが、すぐにヘイティに呼応するように笑い、さらには拍手喝采が起こった。しかし喝さいの受け手であるガルムは破顔することもなく、場が静まるのを待った。拍手がまばらになってきたところで、ガルムが口を開けた。
「ご歓待をありがとうございます。しかしあたしは」ガルムの言葉をヘイティが遮った。
「まあ、まあ、ガルム殿。そう急ぐこともありますまい。旅のお話など、じっくりとお聞かせください。ささ、こちらへどうぞ」ヘイティは城の方へといざなった。歩兵たちがざっ、と一斉に両脇へ退いて、人ひとり通れる道ができた。
「足の不自由なお客人のために、輿を」ヘイティが声を上げるとすかさず、道の向こうから金飾りの煌めく豪奢な籠が担がれてきた。屋根の四隅に垂れ下がった金飾りが、きらきらと揺れては品のいい音を出した。ガルムの目の前に下され、出入りの引き戸が開けられる。
「どうぞどうぞ、遠慮なさらず」ヘイティは乗り気でなさそうなガルムを押し込むように、背中を押した。ガルムは堪忍したように首を下げて、籠の中へ顔を入れた。ガルムが入りきって戸が占められると、ヘイティは手を上げて合図した。「お連れしなさい」
ヘイティの命令に従った行列は、回れ右をして城門前を出発した。始終、様子を見ていた衛兵二人は呆気に取られていた。ヘイティは衛兵たちに「ご苦労」とだけ言いおいて、行列とともに場を離れた。行列が米粒ほどに小さくなってからようやく、衛兵は呟くように言った。「さあて、仕事仕事」
若い方の衛兵も狐につままれたような顔をしながらも、元通り持ち場へ戻った。人気のなくなった門前は、すっかり静まり返った。
***
イァヌヴィルズ宮殿は、様々な専門街区がひしめき合い、多くの人間がそれぞれの職務に就いている。労働者たちの売買交渉、折衝や笑い声、それぞれの活動により絶え間なく賑わっている。その一角、特権階級専用の特区ヴィルムの一室に、極秘裏に集まる三人がいた。
「ほう、これが」
実りよく膨れた黄金色の穂を一本、指で摘まみ上げて、プリュフェン国家総事長付秘書官のグラバックァが感嘆を漏らした。
「ええ、ドルムの実でございます。ミィグヴィッツァーの、特にイオロヴェリア地方で栽培されている。彼らがすがる唯一の希望、命���源泉と言っても過言ではないでしょう。アンニョルで絞ったドルム油、ドランニョルのもとになります」
内国特任調査官のハァルがこっくりと頷いて、自信たっぷりの顔でグラバックァの顔を見た。グラバックァはふーん、と唸って摘まんだ穂をくるくると回した。ハァルは続けた。
「わかりやすいように、照明を落としましょう」
手元にある火種を残して部屋の四隅にあるオイルランプの灯をすべて消すと、窓一つない室内は夜のように暗くなり、赤い絨毯も白い壁も、テーブルクロスの上に置かれた燭台や金銀の飾り物もほとんど、判別がつかなくなった。ハァルはその場でくるりと振り返って、研究科学省長官のヘイティに手を叩いて合図を送った。「どうぞ始めてください」
ヘイティは心得た様子で深く頷いて、グラバックァに「そちらの皿へ、ドルムを置いてください」と指をさして伝えた。グラバックァは素直に聞き入れて、目の前にある黒い陶製の皿へドルムの穂を置いた。ヘイティは手元近くに置いてあったマッチを手に取り、擦った。そして点火した火種をさっと皿へ投げ入れる。途端にドルムの穂は勢いよく炎を上げた。予想以上の火の勢いに、グラバックァは一瞬怯んだ。
「……これが」平静さを取り戻しつつ声を上げたその後を、ヘイティが引き取った。
「これがドランニョルの力です。しかし彼らはまだ、この力を使い切れていない。いや、本当の力をわかっていない。宝の持ち腐れです。しかし豊かな気温変化と充分な水分量を誇るイオロヴェリアの大地の恵みであり」炎はあっという間に燃え尽きた。「高温かつ乾期の長い、我々プリュフェンの地ではなかなか育たない。となれば」わずかな燃え滓だけが皿の上に残った。ヘイティは言葉を切った後、ただ満足そうに皿の上を見つめている。
炎が消えた後ハァルは、再び室内のオイルランプへ火を入れ始めた。一つ、また一つとランプを点火しながらぐるりと移動していた足を止めると、ハァルは挑むような眼をグラバックァへ向けた。
「我々にはこれを手にする権利、いや、義務があります。ゆくゆくは統一せねばならない、大国としての責務が。人民を死に物狂いで守らなければならない、その責務が」
完全に落ち着きを取り戻したグラバックァから、笑いがこぼれた。
「たしかに。これは素晴らしい。かねてより探し求めてきた、エネルギー不足を補うための救世主に、よもやこのような形でまみえるとは。それに、期待以上の潜在力。実に魅力的だ」
「ふふふ……エネルギーだけではございません。しばらくお待ちください。さらに調合を重ねてゆけば、いずれ万能の妙薬としての力をお見せすることができましょう」
ヘイティの不敵な言葉を聞いて、グラバックァからまた笑いが漏れた。
「――楽しみにしている」グラバックァは言いおいて、善は急げとばかりに扉を押し開け、靴音を響かせて出て行った。扉が閉まるのを見届けた後、���イティはゆったりとした口調で囁いた。「さて。これから忙しくなりそうですな」
***
歌うような、鳥の声しか聞こえてこない。カラフルな幾何学のグラスの窓の向こうから、白い朝日が透過し差し込んでくる。静謐な室内には、神聖な時間が流れている。一堂に会したイーピルの民が目を閉じて、右手を左側の胸の上に、左手を右側の胸の上に交互��おいて両腕を抱くような格好で、静かに祈りを捧げていた。
この祈りの時間は、エルナにとって一番好きな時間だった。しかし今は、神妙に眉根を寄せて硬い顔をしている。隣の母、フィーマにしてもそうだ。強い願いごとを天に届けるかのように、両腕を抱いて強くまぶたを閉じている。厳かに奉じられた祈りは、数分ののちに終わりを告げた。
「さあ皆さん。目を開けてください。今日の朝のお祈りもきっと、アースキル神様の袂へと届いたことでしょう。来たるべき日までしっかりと信心を忘れず、心身の修練を心がけてください。そしてこれからも尊き献身を。ウェズル・マグゥイン」
ウェズル・マグゥイン。神父の言葉に倣った全員の合唱が、教会内に響いた。続けて神父が口を開く。
「今日は皆さんに、尊いお知らせがあります。こちらにいらっしゃる、エルナ・ヤーヌヴィズさん。さ、前へどうぞ」
名前を呼ばれてエルナは、はっと目を見開いた。緋色の瞳がたっぷりと濡れている。大きな目を一心に瞬いて、エルナは口角を上げた。神父はほっとひと息ついて、年輪の入った顔に微笑を蓄える。こちらは灰色の瞳を和ませて、エルナを見返した。着古した淡黄色の法衣の下から、さっと手を出す。エルナは差し出された神父の手を取って、立ち並んでいる民の前に立った。神父は隣に立ったエルナを見ながら、にこやかに紹介した。
「エルナ・ヤーヌヴィズさんは今日、十六歳のお誕生日を迎えられ、晴れて我が国、ミィグヴィッツァー軍の仲間入りとなります。この栄誉に感謝のお祈りを捧げましょう。ウェズル・マグゥイン」
再度の祈りの言葉が、今度はエルナに向かって投げかけられた。エルナは複雑な面持ちでそれを受け止め、皆と同じように瞑目した。
「さあエルナさんの栄えあるこの旅立ちの日に、大いなる祝福を。そしてミィグヴィッツァーのもとに聖なる勝利を。皆さん、お祝いください
瞬間、大きな拍手が起こった。エルナは祝福に感謝するように、何度も頭を振って民たちの顔を見た。瞳と同じ、緋い色の髪の毛が踊るようにしなやかに揺れた。
「ではエルナさん、頑張ってください」
最後に神父はエルナの両肩を抱くようにしてぽん、と叩き、今度は歩みを促した。エルナは緊張した表情で、ゆっくりと一歩を踏み出した。すり切れたワンピースのスカートの裾が、ひらりと揺れた。皆が両脇に退いて、エルナのために道を開く。開かれた道を見て、戸惑いながらエルナは左右を見た。フィーマと目が合った。心配そうに見つめられて、込み上げるものを振り払うように、エルナは視線を逸らして顔を伏せた。フィーマは目を潤ませて口元を手で押さえた。エルナは思いを断ち切るように真剣な眼差しで顔を上げると、一歩一歩踏みしめながら出入口へと向かった。左右からは祝いや応援の言葉が投げかけられる。
エルナは唐突に扉の一歩手前でぴたりと立ち止まると、動かなくなった。どよめきが広がる。それからさらに数秒後、エルナは飛び跳ねて勢いよく振り返った。
「行ってきます!」
目いっぱいに張り上げた声が、協会内に響き渡った。エルナの精いっぱいの返答に、ひと際大きな声援が飛び交った。口元を押さえていたフィーマが、涙をぬぐって顔を上げた。そして静かに口元で答えを返した――いってらっしゃい。
それを見てこくりと頷くと、エルナは教会の外へと駆け出して行った。
***
透き通るようなしんとした空気に、割って入る振動。一気に空気は震えた。波立つ音が、鼓膜をも刺激する。続けて大粒の雨が降り注ぐように、ばらばらと地上を打ち付けてくる弾の音。赤い飛沫が宙を舞った。と同時に悲鳴が上がる。
「助けてー!」
「伏せろ!」モガー・ヴァーランドが怒鳴った。
破壊されつくした国境の町、バーグヴィーはほぼ隠れる場所を失っていた。なおも敵の照射は降り続く。僅かに残っていたブロック塀が、当たった弾によって砂埃を上げた。粉塵が舞い上がり、人々の鼻腔に入り込む。何人かがむせた。モガーは口元を覆って、上空を見上げた。
「くっ!」一瞬にして、ことは起こった。人頭一つ分程度の大きさの物体がいくつか落下してくる。それに気づいていた幾人かは「爆弾だ!」「隠れろ」などと叫んだ。しかし散り散りに逃げる彼らよりも爆弾の落下速度の方がはるかに上回っている。日中にもかかわらず、巨大な閃光は目にしっかりと焼き付く。爆発音が耳をつんざいた。
爆撃を受けた瓦礫の山がさらに崩れ落ちた。派手な音を立てて崩れる建物群のもと、あちらこちらから悲鳴が上がる。木材や衣類など燃えやすいものから火は燃え移って、町は炎につつかれた。逃げ惑う人々で、地上は大混乱に陥った。
「言わなくともわかると思うが、隊を乱すなよ。今こそ我々の真価が問われる時だ。行くぞ」
モガーが話すと、隊員たちは目に力を込めて頷いた。エルナも真剣な眼差しでモガーの顔を見て返答した。
「了解!」
枯草色の軍服を身に着けた集団が町へ躍り出ることで、群衆はさらに混乱した。
「何事だ!」
「みな、落ち着いて聞いてくれ! 我々が先導する。合図に従ってくれ」
「おい、し��かりしろ! 士気を保つんだ! お前たちが先導しなくてどうする。何の��めにここにいるんだ!
モガーは茫然と立ち尽くす幾人かの隊員に怒鳴った。
爆撃を受けた隊員の体が引きちぎられた。もがれた腕や足がそこここに飛び交う。頭蓋に衝撃を受けた者の眼球が、飛びぬけて瞼からだらりと垂れ下がっている。あらぬ方法へ頭が捻じ曲がった者は、力尽きて倒れこんだ。目の前で吹っ飛ぶ肉塊を見て、エルナは嘔吐感に堪え切れず涙を流しながら、びしゃっと胃液を吐いた。「うえええ」
蒼白の表情で周囲を見回した。千年以上の歴史を持つというバーグヴィーのシンボル塔、バーヴスは無残にも崩れ落ち、その周囲に密集していた礼拝堂や集会所、市場など見る影もなくなっている。さらなる爆破が、ここから一切の人間の営みを奪おうとしている――エルナは打ち震えた。
粗方、このバーグヴィーの破壊とミィグヴィッツァーの隊員たちの命を奪うと満足したかのように敵機、プリュムフェイマーの戦闘機たちは悠々飛び去って行った。
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Trip to Korea, September 2024 - Day 2: DMZ tour: Imjingak and Dorasan
I don't tend to do much touristy stuff (usually, my theme of the trip is to enjoy beer and food in the city), but this time, since it was my first time in Korea with a friend, I decided to take a DMZ tour.
あんまり観光っぽいことをしない性分(だいたいは街中でグルメとビールが旅のテーマ)なのですが、今回は初韓国の友人と一緒ということもあり、せっかくだから参加してみようかなと、DMZツアーを申し込み。
DMZとは DeMilitarized Zone(非武装地帯)の略。韓国の場合は、北緯38度線をベースに引かれた国境の南北2km以内のエリアを指し、その間は武器の持ち込みと民間人の立ち入りを禁止している「軍の管理エリア」のことです。
私が申し込んだのは、klookアプリの「DMZツアー」。団体の日本語ツアーで、早めの時間帯(朝8:00集合)のもの。¥5,598/1名。
🚃7:00 ホテルを出て、江南駅からぐるっと地下鉄で弘大入口駅へ。乗り換えがないから便利っちゃ便利。
(なお、ツアー予約サイトには「ホテルまでお迎え」と書いてあったけど、前日の集合メールには「弘大入口駅8:00集合」になっていて、「あれ?ホテルに迎えに来てくれるんじゃなかったの?」と思ったのですが、実際は結構な団体ツアーだったので、言ったところで無理だったろうなあ。)
🚌8:00 弘大入口駅で集合し、大型バスに乗車。
今回は日本語のツアーを予約したので、だいたい15名程度の他のお客さんと一緒にツアーを回ることに。週末はもっと予約が多いらしく、立ち入り人数制限のあるDMZエリアには、朝一のツアーでもかなり時間がかかることもあるそうです。
🚌9:00 バスに揺られて約1時間(結構寝た)、最初の目的地に到着。
◼️臨津閣平和公園
ちょっと大きめなパーキングエリアみたいな感じ。観光バスが10台以上止まってました。
(めちゃくちゃ天気が良くてよかった!)
イムジン河のほとりにあるこの公園は、DMZの手前で民間人が行ける最終エリア。ここから先は有刺鉄線の貼られたDMZになります。 ここでDMZへの立ち入りの申請を行います。
申請まで時間があるということで、ちょっとだけ自由時間。屋上の展望エリアへ。
目の前の田んぼの手前に引かれている有刺鉄線の境界。もともと、イムジン河周辺は農業が盛んで、特に���数の米の産地らしく、DMZになってからさらに人や車の立ち入り少なくなったせいか、水が綺麗で美味しいお米が取れるそうです。
DMZ内に行ける「平和ゴンドラ」の出発地点もここに。(いいお値段するので乗りませんでしたが)
▲有刺鉄線の向こう側で、草刈りをしている兵役の方。そういう仕事もあるのね、そりゃそうか。
立ち入り申請が完了し、指定の時間までは臨津閣平和ヌリ公園内をいろいろ説明をいただくことに。
まずは2000年1月に建てられた「平和の鐘」。兵器を溶かして作った鐘で、お正月と、あとはここを起点にしている「平和マラソン」のスタートの際に鐘が鳴らされる��のこと。
そして「望拝壇」。
故郷を思って祈る方達のために作られた祭壇のようなもの。韓国と北朝鮮の分断となった朝鮮戦争の勃発は1950年で、その時に故郷を離れた方々ももうお年を召しているので、ここに祈りに来る人もだいぶ少なくなったとのこと。
「自由の橋」。
そして「京義線の線路」と「破壊された蒸気機関車」。
▲日本統治(併合)時代に建設された鉄道路線。枕木とかはそのままらしい。
▲ソウル(旧名で「京城」)から新義州(北朝鮮)をつなぐ路線だった「京義線」。分断されてからは「ソウル〜都羅山駅(しかし、実質電車で行けるのは2駅手前の文山駅までみたい)」のみが韓国側に。 一時、北朝鮮側に作った「開城工業団地」までも開通していたようなのですが、関係悪化によりそれも終了。今は線路があるのみ。
▲何も走らない、有刺鉄線の向こう側の線路。
かつて、軍事物資を乗せて走っていた蒸気機関車。
北側に使われてしまうくらいなら破壊してしまおうということで、都羅山駅を超えた先の長湍駅あたり(今のDMZの中��あった駅。現在は廃駅になっている)あたりで無数の銃弾を受けて停止・放置されていたもの。
おびたたしい銃撃痕の数。
ずっと放置されていたけど、なんとか回収して綺麗にして、今はこの臨津閣に保管・展示されているそう。
▼実は日本のメーカー(川崎重工)製で、車体に「三菱」、車輪に「住友」の刻印もされています。
たくさんの人が見学に来ていました。
私自身は「朝鮮戦争」は歴史の教科書の中のことなのですが、1900年代は近現代なんだよね。そしてその分断がいまも続いている、のは、なんとも難しい問題だなと思いました。
他にも「平和を願うリボン」や、「2体の少女像」も。少女の像は、南北統一ができたら、1体は北側に渡そうということで2体ここにあるそうです。この少女像、日本と韓国の関係が悪くなると出てくるというもの。ちょっと複雑ですね。
キャンプサイトや遊園地があり、「臨津閣観光地」と表現されていることもあり、できるだけ多くの人がくる場所にしたい、ということでした。生生しい歴史遺物と、目の前のまだ戦争状態という現実で、なんだか複雑な気持ちになるエリアでした。
AM10:30 再びバスに乗って、いよいよDMZに入ります。
検問を通ってDMZ内へ。(検問では、乗車している全員のパスポートと顔のチェックがあるよ)
▲1998年に現代グループの会長の私財投資によって作られた「統一大橋」。会長は北側の出身だそう。 会長は南側に来る時に、家族が売った牛1頭のお金を盗んだことがあるらしく、この橋の開通時には逆に500頭の牛を連れて渡ってきたという逸話。
🚌10:40 DMZに入って、まず最初の目的地へ。
◾️都羅展望台
ここから国境や板門店、ひいては北朝鮮側を見ることができます。(このあたりの旅程は、軍側から「先に〇〇に行ってください」というような指示があるらしい。管理人数の調整してるのかな)
駐車場になっていたのは「旧展望台」の前のエリア。
▲老朽化につき、新しく展望台が作られたよう。こっちは2018年10月で終了。
駐車エリアから新展望台まではちょっとした坂道。「この坂では写真撮影はしないでくださいね」という指示あり。(それでも撮ってる海外観光客いたけど...)
▲展望台入口側からの韓国側(坡州市 ぱじゅし)の風景。
▲ちょっと右側にあるのは倉庫地区。もともと、開城工業地帯で生産されたものを保管しておく物流倉庫だったそう。今は全部空っぽ。
半年くらい前から北朝鮮側が汚物を風船にくくりつけて投げてくる「汚物爆弾」のせいもあり、屋上の展望台は封鎖中。(ていうか、このエリア全体がマジでめちゃくちゃ畜産臭くて、この匂いが汚物爆丸なのか...!?!?という懸念すらあった。違ったけど。)
なので、建物横のフェンスからと、建物内の展望エリアからのみ見ることができました。撮影は概ねOKになっています。
▲こちらが新展望台。
見える...あれが北朝鮮か...
草も木も空も、反対側と何も変わらない。でも向こうは違う国で、さらに誰も行けない閉鎖された国。なんだか現実味がないようで、でもこれが現実。
北朝鮮の旗が立っているエリア、時間によっては田畑で作業をしている人も見えるらしい。そりゃそうか、人が住んでいる”国”だもんね。でも、韓国から見えるエリアは結構ハリボテで、大きな建物は立っているけど、実は全然人が住んでいないらしい。
展望台��中にあったエリアのジオラマ。本当に国境近く、まさにDMZにいます。
何も変わらない青空。
北朝鮮に向かって立っているスピーカーからは、K-POPが流れている。こういう地道な活動が、向こうに住んでいる若者に刺さるら、とのこと。でも、それで北朝鮮から出て行きたくなった人がいたとしてても、難しいのが現実なのよね。
展望台の入り口にいた猫。君はどこから来たのかな。���には国境は関係ないのかもしれない。
🚌11:45 再びバスに乗って、次は第3トンネルへ。
(写真が多くて上限に来てしまったので、ここからは次の投稿へ)
【2024年9月 ソウルの旅】 ・Day 1 └ サムボプデチゲ └ 60年伝統新村黄牛ホルモンカンナム駅直営店 └ アートモンスターカンナム店 ・Day 2 └ DMZツアー └ 臨津閣平和ヌリ公園・都羅展望台 👈THIS └ 第3トンネル・統一村 └ Seoul Gypsy └ プチョンユッケ ・Day 3 └ 神仙ソルロンタン └ Seoul Brewery └ タルメクスーパー └ Chillhops Itaewon Project └ トヤジンガ └ Craftbros Taproom └ オダリチプカンジャンケジャン
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2024.06 武甲山
山頂からの眺めは非常に良いが、空気が澄んでいるとなお良い
友人と一緒に武甲山へ。数年前に一度登ったことがあるが、そのときは浦山口駅からの往復だった。今回は横瀬駅からスタートするルートにしてみる。
横瀬駅から武甲山。ちょうど電柱とかぶってしまった。
横瀬駅から登山口まではタクシー使用(片道2400円、歩くと40分くらいか?)。タクシーの車窓からは石灰岩関係の大きな工場がたくさん並んでいて壮観だったが、砂埃や排気ガスがかなり濃い道を延々と何十分も歩くのはちょっと苦痛だな、特に気温が高い日は。タクシーで正解。
約10分くらいの乗車で一の鳥居登山口到着。30台ほどが停められる駐車スペースあり。
【コースタイム】一の鳥居(0905)→不動滝(0935)→武甲山(1050-1110)→橋立林道終点(1220)→橋立鍾乳洞(1255)
しばらくは舗装された歩きやすい道。
登山道に入りそれらしい道になる
約30分歩いたところにある不動滝、ここでは山頂トイレで使用される水を汲み上げるための、水が入ったペットボトルがたくさん用意されており、ボランティアで山頂まで運ぶ。自分は一番大きな3Lくらいのを2本両手に持って進んだ(なので6kgくらい?ザックには入らない)。日帰り登山で荷物は軽量だったため、トレーニングとして自ら修行を課す。ずっと手に持っていたのだがさすがに指がつかれてきて、肩の上に乗せるように運んだら非常にラクだった。重量物を頭の上に乗せて運搬する人たちの写真をよく目にするが、あの運び方はかなり都合がいいらしいと身を持って実感。
少し急であったり緩やかだったりと緩急交互だが、総じて初心者にも優しく登りやすい。
スタートから2時間もしないで山頂に到着。水をおろしたらトイレ脇のマンホール開けて水を全量流し込む。約6kgの荷重が無くなり、足がかなり軽い。
山頂は晴れていれば抜群の景色。けどやはり空気が澄んでいる時期のほうがきれいだな。山頂はオオスズメバチがずっと登山者に接近してくるので、危ないのでササッと写真をとってその場を離れる。
山頂の少し下に寺社と休憩スペースあり。ちょうどお昼時なので少し休憩。
帰りは前回も通ったことのある浦山口駅へのルート(といってももう何も覚えていないが)。まずは青い草が斜面全体を埋め尽くし、まるで草原のような非常に気持の良い緩やかな下り坂。樹林帯だがところどころ景色も良い。
その先はかなり狭く急な道が5分ほど続く。初心者は危険と感じるかもしれないが、焦らずに進めばなんの問題もない。今回のルートの核心部はここかな。
その先はずっと緩やか。石灰岩を採掘している山だけに、看板には「発破」とか書いてある。
この日は麓が30℃くらいに達するかなり高温の日で、半分以上下山したら気温も高くなるわ風はほとんど吹かずで暑い。
最後は深い谷を蛇腹のように折り返し下るだけの単調な道。ここを通過するのに体感で15-20分くらいかかっていたような気がするが、景色が全く同じでとても長く感じる。終わりに近づくころには川の音が聞こえてくるので少し涼しさを感じる。
長い下り坂が終わると清流が現れる。気温高く風がほとんどなかったので、川べりに寄って水を浴びて体を冷やす。水が冷たくて気持ちいい!!
川の上にかかる橋を渡ったり、滝があったり、こちらの道は変化に富んで面白い。
ここは林道終点だったか?このしばらく前から道は舗装されていたが、あとはラクな道に・・・コンクリートの道は熱の輻射で非常に暑い。
浦山口駅に向かう���中で寄り道。見上げるとものすごい岩の壁があり、その真下に食事処や鍾乳洞が現れる。鍾乳洞は入場料たった200円なので、事前に下調べせずなんとなく入ってみたが、これがすごかった。真っ直ぐ立っていられないくらい低い天井のトンネルに一歩足を踏み入れた瞬間、嘘みたいな冷気に包まれる。トンネルを下降していく最中も、狭いが周りは今なお成長中の鍾乳石だらけ。途中からぐんぐん上昇していってトンネルを抜けるのだが、これ200円って嘘でしょと思うくらいのアトラクション。トンネル内の写真は写真撮影禁止のため何も見せられないが、近くに行ったら必ず立ち寄るべし!
あとはすぐちかくの寺社仏閣だったり、小洒落たカフェ、休憩処「土津園(はにつえん)」。土津園でくるみそば食べたが、まず蕎麦そのものがかなり美味しい。そして細かくしたくるみと一緒に食べると、これまたくるみの風味が足されて美味しい。この周辺はくるみ蕎麦が名物なので、鍾乳洞とセットでぜひ(すぐ隣同士)。
浦山口駅で秩父鉄道に乗り御花畑駅で下車、徒歩で西武秩父駅に移動。さっき登ってきた武甲山が、山が削られている側を向いてよく見える。西武秩父駅の隣接する施設で休憩し、特急に乗って帰宅。
武甲山は見るだけでも面白いという珍しい山。下山後は西武秩父駅でくつろげるし、西武秩父駅までがそもそも安い・都心から近いのでオススメである。
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西の河原公園 #温泉 #温泉旅行 #温泉旅 #温泉に行こう #温泉街 #温泉宿 #spa #onsen #草津温泉 #西の河原源泉
2013年8月11日撮影 西の河原公園は、草津温泉の西側に位置することでこの名前がついたとされています。付近一帯は上信越高原国立公園の特別地域に指定され、河原のあちこちから毎分1,400リットルの温泉が湧き出し湯の川となって流れ出しています。この風光明美な景観は四季折々にも美しく変化し、源泉「湯畑」とともに草津温泉ならではの温泉情緒あふれる散策コースになっています。
日頃から乗り鉄、温泉巡り、旅行の際に撮影した自然に関する動画を上げています。是非チャンネル登録お願いします! https://www.youtube.com/channel/UCdNmvNpdpyZ9oeNuw95XftQ?sub_confirmation=1
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2/23 講演会「野路小野山製鉄遺跡を考えよう~滋賀県の中からみた野路小野山製鉄遺跡~」
2/23 講演会「野路小野山製鉄遺跡を考えよう~滋賀県の中からみた野路小野山製鉄遺跡~」
滋賀県の中から見た野路小野山製鉄遺跡とはどのような遺跡なのか学んでみる講演のようです。
●講師 大道和人氏(滋賀県立安土城考古博物館)
●月日 2月23日(祝・金)
●時間 14:00~16:00~(13:30受付)
●場所 草津市役所大会議室8階市役所
●定員 100人(当日先着順)
●問合 歴史文化財課 Tel 561-2429
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)12月27日(水曜日)参
通巻第8070号
AIは喜怒哀楽を表現できない。人間の霊的な精神の営為を超えることはない
文学の名作は豊かな情感と創造性の霊感がつくりだしたのだ
****************���********
わずか五七五の十七文字で、すべてを印象的に表現できる芸術が俳句である。三十一文字に表すのが和歌である。文学の極地といってよい。
どんな新聞や雑誌にも俳句と和歌の欄があり、多くの読者を引きつけている。その魅力の源泉に、私たちはAI時代の創作のあり方を見いだせるのではないか。
「荒海や佐渡によこたう天の川」、「夏草や強者どもが夢の跡」、「無残やな甲の下の蟋蟀」、「旅に病で夢は枯野をかけ巡る」。。。。。
このような芭蕉の俳句を、AIは真似事は出来るだろうが、人の心を打つ名句をひねり出すとは考えにくい。和歌もそうだろう。
『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山』(持統天皇)
皇族から庶民に至るまで日本人は深い味わいが籠もる歌を詠んだ。歌の伝統はすでにスサノオの出雲八重垣にはじまり、ヤマトタケルの「まほろば」へとうたいつがれた。
しかし人工知能(AI)の開発を米国と凌ぎを削る中国で、ついにAIが書いたSF小説が文学賞を受賞した。衝撃に近いニュースである。
生成AIで対話を繰り返し、たったの3時間で作品が完成したと『武漢晩報』(12月26日)が報じた。この作品は『機憶(機械の記憶)の地』と題され、実験の失敗で家族の記憶を失った神経工学の専門家が、AIとともに仮想空間「メタバース」を旅して自らの記憶を取り戻そうとする短編。作者は清華大でAIを研究する沈陽教授である。生成AIと66回の対話を重ね、沈教授はこの作品を「江蘇省青年SF作品大賞」に応募した。AIが生成した作品であることを予め知らされていたのは選考委員6人のうち1人だけで、委員3人がこの作品を推薦し
「2等賞」受賞となったとか。
きっと近年中に芥川賞、直木賞、谷崎賞、川端賞のほかに文学界新人賞、群像賞など新人が応募できる文学賞は中止することになるのでは? 考えようによっては、それは恐るべき時代ではないのか。
文学の名作は最初の一行が作家の精神の凝縮として呻吟から産まれるのである。
紫式部『源氏物語』の有名な書き出しはこうである。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」
ライバルは清少納言だった。「春は曙、やうやう白く成り行く山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」(清少納言『『枕草子』』
「かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経るひとありけり」(道綱母『蜻蛉日記』)
額田女王の和歌の代表作とされるのは、愛媛の港で白村江へ向かおうとする船団の情景を齊明天王の心情に託して詠んだ。
「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕こぎ出いでな」(『万葉集』)。
「昔、男初冠して、平城の京春日の郷に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。」(『伊勢物語』)
▼中世の日本人はかくも情緒にみちていた
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(『方丈記』)
『平家物語』の書き出しは誰もが知っている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ」。
『太平記』の書き出しは「蒙(もう)竊(ひそ)かに古今の変化を探つて、安危の所由を察(み)るに、覆つて外(ほか)なきは天の徳なり」(『太平記』兵藤祐己校注、岩波文庫版)
「つ��づれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(『徒然草』)
古代から平安時代まで日本の文学は無常観を基盤としている。
江戸時代になると、文章が多彩に変わる。
井原西鶴の『好色一代男』の書き出しは「「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」
上田秋成の『雨月物語』の書き出しはこうだ。
「あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉(もみぢ)見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々」。
近代文学は文体がかわって合理性を帯びてくる。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある」(夏目漱石『坊っちゃん』)
「石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓つくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒らなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば」(森鴎外『舞姫』)。
描写は絵画的になり実生活の情緒が溢れる。
「国境の長いトンネルをぬけると雪国だった」(川端康成『雪国』)
谷崎潤一郎『細雪』の書き出しは写実的になる。
「『こいさん、頼むわ』。鏡の中で、廊下からうしろへ這入はいって来た妙子を見ると、自分で襟えりを塗りかけていた刷毛はけを渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据みすえながら、『雪子ちゃん下で何してる』と、幸子はきいた」。
「或春の日暮れです。唐の都洛陽の西の門の下に、ばんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました」(芥川龍之介『杜子春』)
▼戦後文学はかなり変質を遂げたが。。。
戦後文学はそれぞれが独自の文体を発揮し始めた。
「朝、食堂でスウプをひとさじ吸って、お母様が『あ』と幽(かす)かな声をお挙げになった」(太宰治『斜陽』)
「その頃も旅をしていた。ある国を出て、別の国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた」(開高健『夏の闇』)
「雪後庵は起伏の多い小石川の高台にあって、幸いに戦災を免れた」(三島由紀夫『宴のあと』)
和歌もかなりの変質を遂げた。
正統派の辞世は
「益荒男が 手挟む太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐えて今日の初霜」(三島由紀夫)
「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」(同)
サラダ記念日などのような前衛は例外としても、たとえば寺山修司の和歌は
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや。」
わずか三十一文字のなかで総てが凝縮されている。そこから想像が拡がっていく。
こうした絶望、空虚、無常を表す人間の微細な感情は、喜怒哀楽のない機械が想像出来るとはとうてい考えられないのである。
AIは人間の霊感、霊的な精神の営みをこえることはない。
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天皇氏族の特徴
天皇氏族―天孫族の来た道 (古代氏族の研究⑬) | 宝賀 寿男
ここでは、天照大神や神武天皇の日本列島内における祖系を遡って探究するとともに、この天皇氏族・天孫族の様々な特徴を探り、それに関係した諸氏についても見ていく。検討すべき問題が多種多様で、それぞれが大きい問題を含むから、本書が紙数の制約のもとにあることを念頭におき、これまで検討してきた結論的なものを整理して、予めある程度示さざるをえない(このことを先ずお断りする)。
わが国天孫族の主な動向
これまで公刊してきた拙著『「神武東征」の原像』や『息長氏』など古代氏族シリーズ)を通じて、天皇氏族の基本的な人物たる神武天皇と一族近親、臣下・関係者について、各々の原像を具体的に示してきた。それらなどを踏まえて、以下に要点を記す。
神武天皇などの初期天皇:神武は、当初に居た北九州の筑前海岸部(天孫降臨伝承にいわゆる「日向」。具体的には筑前の早良・怡土両郡あたり)から、兄・彦五瀬命とともに畿内に東征を試み、紀伊の紀ノ川滞上ルートで大和侵攻に成功して、奈良盆地南部地域あたりを押さえ、大和朝廷の初代の大王(天皇)となった。治世時期は概ね紀元一七五~一九四年の約十九年間とみられる(資料編に掲載の表「古代天皇の治世時期の推定」を参照)。この東征は、邪馬台国本体の東遷ではなく、筑前の支分国の庶子・一族関係者による小勢力の東征活動にすぎない(要は、「神武東征」という事件はあったが、それは「邪馬台国本国の東遷」ではない。当地での前途を悲観した庶子たちによる他地への分岐活動という意味)。
神武に関連して現れる随行・敵対の人々と崇神天皇関係者とを比べれば、それぞれがまったく異なっており、「神武=崇神」という同一人物のはずがない(神武は崇神の五世代ほど前の祖先る)。鏡を象徴とすろ太陽神信仰(この奉祀勢力)の中心が北部九州から畿内に移動したと認めても、それが直ちに邪馬台国東遷だとみるのは論理の飛躍である(筑後川流域と大和盆地の地名の類似も、物部氏東遷の影響のほうが強いか)。
北九州の在地には、神武東征当時はまだ邪馬合国もその怡土支分国もともに残り。その後の一世紀半ほどの期間は、北九州と畿内に各々の王権勢力が列島内に並存した(三世紀中葉頃は、畿内のほうの勢力はまだ小さいから、列島内で二強の王国が並立という構造。規模ではない)
神武の後のいわゆる「闕史八代」の諸天皇は、実在性を否定する根拠に乏しい、。邪馬台国の九州残滓勢力は四世紀中葉頃には滅ぼされたが、これは、最終的には畿内王権・景行天皇の九州巡狩に因る(従って、古田武彦氏の言う「九州王朝説」は成り立たない)。大和王権がほぼ確立した崇神天皇の時代には、日本列島のうち本州主要部を版図としたが、西側は吉備ないし安芸くらいが西限であって、その勢力は北九州にはまだ達していなかった。
神武の父はは、天孫・瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊(山幸彦)で、母は海神族首長の娘・玉依姫である。
『記・紀』に神武の父とされるウガヤフキアエズノ尊(彦波瀲尊)は山幸彦嫡出の長子であって、実際には神武の嫡兄である。その子孫が怡土支分国の王家を継いでいったとみられるが、後裔の系譜や存続の詳細は不明である。
天照大神:高天原を主宰する男性神であり、名を天活玉命(生国魂神)ともいう(論拠は様々に異なるが、山片蟠桃以降、男性神説もかなり多い。天照大神は、卑弥呼ではないし、推古天皇や持統天皇など実在者の反映でもない。後世に造作された架空の人物でもない。本書では詳説しないが、拙著『「神武東征」の原像』『息長氏』等を参照のこと)。天稚彦の親として神代紀に記される「天国玉」や、天照御魂神にも相当する(鈴木真年著の『古事記正義』)。
天照大神は天皇家の遠祖だが、決して抽象神ではなく、神武の四代祖先という具体的な生身の人間である。長子の天忍穂耳尊(天忍骨命)の嫡子が天火明命(この神は物部祖神ではないことに注意)で、この系統が本国・高天原(筑後川の中下流域で、久留米市の高良山麓に本拠)の邪馬台国王を継いでいった(これも後商やその存続の詳細が不明で、大和王権側の記録には残らない。景行天皇の九州巡狩や神功皇后遠征の時の討滅対象のなかにあったものか)。
天火明命の弟が、高天原から筑前の「日向」へ天降り(移遷)した者で、これが瓊瓊杵尊である。祖先の居住地から支庶の者が分かれて新天地に遷ることを、東北アジアのツングース系の上古伝承では、「天からの降臨」という形で把握する傾向があり、日本列島でもその例にもれない。東北アジアの習俗・伝承を視野に入れない議論だから、こんなことは実際にありえず、後世の造作だと安易な速断をすることになる。東アジアの太陽神は、殷の太陽神俊や高句麗の例のように、全てが男性神であった。なお、記紀のいう「高天原」及び「日向神話、出雲神話」の舞台は、全て北九州にあった。
日本列島への到来者:本書では、以下に具体的に検討を加えるが、天孫族の分派が初めて分かれるのは、天照大神の諸子から始まるという形の分支流の系譜などから見て、天照大神のあまり遠くない祖先が北九州に到来したとみるのが自然であろう。
「倭人」を江南にあった呉の太伯(周王朝ど同族で姫姓)の裔とする伝承は、『魏略』逸文などに見えるが、種族・経路や時期等から見て、その支配層については疑問が大きい。すなわち、上古の「倭人」』の人々の大宗を占める海神族が越人(タイ系種族)と同種族とは認められるとしても、二世紀前半以降に北部九州における倭国連合体の長たる地位についた天皇家の先祖は、これとは系譜・種族が異なる。国の主な住民とその上に立つ支配層とは、朝鮮半島古代の例を見ても、別途考えることが必要である。
弥生時代に日本列島に渡来した主な種族・人々では、江南から(朝鮮半島南部を経て、稲作・青銅技術などの弥生文化をもって渡来した部族と、これにかなり遅れて、東北アジア地方(とくに中国東北部及び朝鮮半島)から渡来して鉄鍛冶技術をもった部族という二系統の部族があった、これら種族と、縄文時代から列島原住の人々(一種族ではないかもしれないが、とりあえず一括して「山祇族」としておく。総じて、クメール系種族)との混合体が「弥生人」とされよう。だから、単一種族として弥生人を捉えてはならない。なお、始皇帝によって東海に派遣され斉国の琅邪郡から船出した徐福が日本列島にある国の祖となったと言う「徐福伝説」は、肥前佐賀や紀州熊野などにあるが、とるにたらない。
天孫族の始祖・スサノヲ神
わが国における天孫族(皇統)の具体的な始祖から検討に入ろう。この始祖神としては、天照大神ではなく、「五十猛神(伊達神、射楯神)」(イタケル、イタテ)があげられる。この神は、『書紀』に言う、たんなる新羅からの渡来神ではない。別名を「渡し神(和多志神)、度津神」と言い、これは外地の韓郷から渡来してきたことに因る。佐渡一宮で式内社の度津神社(新潟県佐渡市羽茂飯岡)は海上交通の守護神として五十猛命を祀るなど、日本各地で同名で祀られる(『神道大辞典』など)。
この神の記事は少ないが、『書紀』第八段(宝剣出現)の一書第四および第五の記事に見える。��戔嗚尊が子の五十猛神を率いて先ず新羅国に天降り、そこから舟を作って出雲に渡ったとあり、また、五十猛神が天降りの際に多くの木種を将来したが、韓地には植えずに、筑紫より始めて列島内に木種を播いたとある。そうすると、韓地からの最初の到来地はむしろ筑紫になるし、渡来航路的にはそのほうが自然である。このように、韓地(朝鮮半島南部)からの渡来が『記・紀』に明確に記されるのは、天日矛(天日槍)より前の時代の神・人では、ほかにいない。五十猛神と妹二神(大屋姫命、抓津姫命。実態は妻神か)が「伊太祁曽三神」として紀伊国名草郡の名神大社で篤く祀られており、奉斉者が紀伊国造よりも紀臣氏(系譜は皇別とされるが、実態は天孫族系)とみられる事情にも留意される。
記紀神話では、その父「スサノヲ」は、高天原にあっては天照大神を困らせる暴れん坊神で、天照大神と争って敗れており、それによる追放後の「出雲」では開拓者的に描かれる。その終焉の地が出雲という伝承もあり、出雲市佐田町須佐の須佐神社(風土記・延喜式に記載)が祀られる。その攝末社に天照社・厳島社・須賀社などがあり、境内に千数百年という老杉や蘇民将来の祭もある。スサノヲの子の大国主神の子、加夜奈留美(女神?)の子孫と称する須佐氏が永年奉斎するが、少なくとも系図の初期段階などには疑問があり、出雲国造一族が祭祀に関与したか(瀧音能之氏が須佐神社周辺の地をスサノオ神の本貫とみるのは疑問で、ここには同神は到来しておらず、子孫と称する家が祀っただけのこと。出雲国造一族が奉斎した神社も当初は熊野神社が主で、杵筑神社(現・出雲大社)でも長い間、祭神がスサノヲであった)。
スサノヲは、その子孫という大国主神を通じて地祇の三輸氏・賀茂氏や住道首などにつながるという系譜を伝える。これが『姓氏録』大神朝臣条や『旧事本紀』地祇本紀などに見える子孫の系譜であり(前者の大神朝臣条では、素佐能雄命の六世孫が大国主と記される)、『古事記』では「いわゆる出雲系」の多数の神々に通じる系譜が紀載される。しかし、五十猛神と大国主神との関係はこれら系譜では不明なままである(五十猛と大国主とは、祖先・子係の関係にない。出雲の大国主神の父は天冬衣命と伝え、その祖系のなかにも五十猛は見えない)。
このため、「スサンヲ」という神には複数の神格(人格)がおるようにみられている。実際には、このような名・通称で呼ばれる者が一族・同系統で複数いたり(部族長の通称的な使用もあるがか)、子孫が祖先の伝承を伴って各地へ移遷、展開したともみられる。朝鮮神話に見える檀君も、スサノヲに擬せられたり、高句麗からの渡来系氏族・八坂造氏が京都祇園(感神院祇園社)で祀る「牛頭天王」も、中国神話で牛首人身神とされる炎帝神農氏(赤帝)や蚩尤(兵主神)という頭に角をもつ武神(戦神)、兵器製造神にも通じる。わが国ではこれら神々の実体がスサノヲ神(ないし大己貴命)に通じるとされることが多い。蚩尤が鉄神とも言われる。
この「スサノヲ」の名は、同一部族(天皇氏族)の根幹系統を通じて、遠い祖先から見える「通称」ではないかと把握される。すなわち、五十猛神自身がスサノヲ(の一人)に相当するとしたほうがよい。五十猛神を祀る式内社は、出雲六社、播磨二社、紀伊二社など全国合計で十五社もあり、これら地域分布からは天孫族系の出雲国造族が主に奉斎したことが窺われる。これに関連して、わが国で兵主神を祀る式内社は、近江国野洲郡及び大和国磯城郡など名神大社三社を含め、合計で十九社もあり、うち但馬七社、因幡二社、近江二社、播磨二社、丹波一社などという地域分布に留意される(この辺に着目すると、但馬出石に落ち着いた天日矛一族が、韓地の新羅あたりから当該兵主神をもたらした可能性も考えられる)。
兵主神社の祭神は、いまは大己貴命、素戔嗚神などとされて、特に前者とされることが多い。これは、本来の祭神で鍛冶神たる八千矛神が、大穴持命に通じる大己貴命と混同され、出雲に兵主神の神社分布が多い事情に因るものか。八千矛神という神は、『書紀』には見えず、『古事記』で高志の沼川比売の求婚譚などに見えて、大国主神の別名として扱われる。同神の子には、「御井神」も見える。御井神は木伺神ともいわれ、多くの樹種をもって天降り、広く大八洲に播種したと伝える五十猛神の縁者というのがふさわしい。滋賀県蒲生郡日野町の八千鉾神社は、大屋彦神(五十猛神のこと)を祭神とする。銅矛・銅戈や銅剣は分布が北九州に多くあり、銅矛の出雲出土はあまり多くないので(最多出土の荒神谷遣跡でも、銅矛十六本に対し、銅剣が三五八本の多数で出土)その意味でも出雲の大国主神が八千矛神とされるのにはしっくりこない。
八千矛神とは、実はイタテ神(伊太弓、伊達、射楯こと五十猛神)のこととみられる(その場合、御井神とは高魂命〔高木神〕のことか)。銅矛・銅戈の出土が肥前唐津辺りに多く、銅剣も含めて銅製武器が北九州に多く出て、これが「銅剣銅矛分布圏」という把握もある。日本列島では、弥生Ⅰ期に朝鮮半島から銅矛が到来し、鉄矛は同Ⅲ期に出現して古墳時代中期以降盛行した(『日本考古学事典』)、とされるから、鉄矛も併せ持って渡来したのが天孫族か。天孫族の広い範囲に入るとみられるのが、新羅からの渡来を伝える天日矛(天日槍)である。唐津市の宇木汲田遺跡からは多数の銅剣・銅矛や多鈕細文鏡などが出土しており、天孫族の足跡を示すものか。
イタテの神は新羅系の韓鍛治の奉祀した神だと窺えると、真弓常忠氏は指摘する(『古代の鉄と神々』)。中国の原型である「兵主神」が額に角を持ち鉄を食べる蚩尤(上記)とされており、わが国で同神にも比定される五十猛神が角凝魂命(「角+鉄塊の意味の凝」)という別名をもつのも肯ける。吉野裕氏は、『風土記』の研究などから、早くに『風士記世界と鉄王神話』(一九七二年刊)や『素尊鉄神論序説』(一九七三年刊)を著し、スサノヲが鉄神だとみた。この鉄神性を同神に認める見解が多い。
端的にいえば、複雑な性格ゆえにスサノヲ神(素戔嗚神)の位置づけが難解であり、たいへん重要なのである。これが、記紀にイザナギ・イザナミニ神の子で、皇祖神たる太陽神・天照大神の「弟」とされたり、大己貴命の祖先とされたりと様々に混同が生じた(実際、記紀で天照大神と争った「戦った」という意味をもつ「スサノヲ」は、大己貴など海神族系の祖という性格では、別神としたほうがよい。現実の出雲と、実体が葦原中国〔筑前海岸部の那珂川波域〕たる記紀神話の「出雲」とを、八世紀段階の記紀の編者たちは混同したことなどに因る。
人皇ノ鼻祖という鈴木真年の指摘
一般には、記紀神話の影響で、スサノヲ神の子ないし子孫(六世孫『姓氏録』ないし七世孫)が大己貴命(大国主神)で、いわゆる「出雲族」(あるいは海神族)の祖神がスサノヲ神と受けとられている。
しかし、大己貴命は海神族の系統の祖神であるが、そうであっても、スサノラヲ神とは男系血筋でのつながりがなく(スサノヲ神後裔の女性を妻の一人としたことは考えられるが)、両神が血統一系というのは原型・実態とは異なる(両神の血縁関係を否定する先学の見解はかなりある。例えば、瀧音能之・藤岡大拙氏など。スサノヲの子に「八千矛神」がおり(五十猛神のことか)、兵主神社で該られるが、これが大己貴命と混同された結果、スサノヲの子ともされたものか)。ともあれ、「出雲神族」という概念は紛らわしく、使用には留意される。
スサノヲによる八俣大蛇(八岐大蛇)の退治の伝承も、竜蛇信仰をもつ種族のトーテム獣を退治したのだから、海神族の祖神であるはずがない。もっとも「八俣大蛇=九頭竜」という見方もあるようである(ギリシャ神話に出る竜迷体の巨大怪物ヒュドラーも九つの首を���つ)。これが、『古事記』では「高志之八俣遠呂智」と表記されるが、「高志」が越すなわち北陸地方とまでは、スサノヲの活動地域から読みとれない。ともあれ、皇威に抗う荒神(荒ぶる水神)の象徴として大蛇がでてくることになる。
この伝承も、同神が居て活動したのが北九州だとしたら、竜蛇信仰をもつ種族・国々(海神族系種族の国、主に奴国か)の退治・平定を意味したのだろう.スサノヲについて、韓地から渡来の鉄器鍛冶集団が信奉する神という説はかなりある。火山の神という見方もあるが、これは火に関わる鍛治神の祖神、竃の神からの転訛の可能性もあろう。
明治期の国学者で系図研究者の鈴木真年は、その著書『日本事物原始』や『古事記正義』で、この神について概ね次のような主旨で記している。
「素戔鳥命トハ人皇ノ鼻祖二坐シテ、二神ノ真名子タリ。故二、天神此葦原中洲ヲ賜テ、国土ツ開闢セシム」(適宜、句読点を付した)と切り出し、高天原から天降って新羅の牛頭方(楽浪郡のうちの地)に至り、伊太氐命(亦名を五十猛命、大屋毘古命、伊太祁曽命、神平多命)・速須勢理比売を生み、その後、太白山(平安北道寧辺の妙香山に比定。平壌の東北方)の下に至り檀木の下に互市(陸上での交易)するなど人事や社会運営を教え、これを国人が追末して檀君という。また神櫛玉命(亦名を櫛御気野神、気津御子神。すなわち、熊野大神)ともいう。
その子の伊太氐命を率いて東海に入り、多くの樹木種ををもって出雲国に着き、須賀の地に宮居したが、伊太氐命は妹と協力して樹木の種を各地に分布した。素戔鳥命の子の天忍穂耳命を、天照大神は子として養って天子の位につけた。」(ここで天忍穂耳命を「子」とするのは、天安川の河原における天照大神との伝承から、スサノヲの実子と考えたものか。ただ、この見方には疑問あり、実際にはスサノヲの子孫となろう。後述)
こうした真年の把握には疑問な点もいくつかあるが、スサノヲ神がわが国の「人皇ノ鼻祖」だという基本は妥当な線だとみられる。天照大神が男神だという性格(夫婿が知られずに子孫を残す女性が古代大族の祖先系図にはまったく現れない事情もある)や忌部氏の上古系図等を参考にして、これら記紀の記事を総合的に考え併せる必要がある。そうすると、韓地から日本列島に渡来してきた、わが国天孫族の始祖(天照大神の更なる違い祖先)こそがスサノヲ神であって、五十猛神とも同神(ないしその父神)だとみるのが適当となる。朝鮮の始祖とされる「檀君」(後述するが、後世の造作神となろう)とほぼ同種の性格をもつ神という程度は認めて良い。
十世紀後葉の北宋に、日本の東大寺の僧・奝然らが雍熙元年(九八四)にやって来て、銅器や『王年代紀』などを献上したが、天御中主を初代とする皇統譜には、第十八代に素戔鳥尊(その前代が伊奘諾尊)、第十九代に天照大神尊、第二四代目に神武天皇の名前が記される(『宋史』日本伝)。平安中期の円融天皇治世のときに存在した『王年代紀』が何に基づくかは不明だが、天照大神の先代に素戔鳥尊があげられることに留意される。
スサノヲがスガの地に居たという上記伝承からか、全国の須賀神社はスサノヲを祭神とする例が多い。同社は、牛頭天王・須佐之男命を祭神とする祇園信仰の神社で、全国に広く存在し、島根県・高知県に特に多い。これら須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」「天王社」と称していた。牛頭天王は、播磨の広峯神社などでも祀られるが、同社は天孫族の針間国造の領域にあって、同じく凡河内国造一族が長く奉祀した。
なお、素戔嗚命の実体について、卑弥呼と対立関係にあった「狗奴国王」を考える説もあるが、これは根拠に乏しい想像論である(狗奴国の性格・習俗についての誤解が基礎にある)。また、習俗・祭祀やトーテムが異なる大国主神(海神族系氏族の祖)の父祖でもない。
八幡神の実体
豊前の宇佐八幡でも、祭神たる八幡神の実体が五十猛神だとみられる。応神天皇家や宇佐国造など天孫族の一派の実際の遠祖として、八幡神が考えられる。字佐国造は、高魂尊の裔孫の宇佐都彦(菟狭津彦)を国造初祖とするが、高魂尊の先が五十猛神とみられる。
弘仁五年(八一四)の太政官符や『宇佐託宣集』等に拠ると、字佐郡の小倉山の麓に八つの頭が一つの身体についた奇異な風体をもつ鍛冶翁がおり、金色の鷹となって示現し、その姿を見ようと近づく者の半数が死亡したが、神官(辛島勝乙目とするのが原型か)の祈持に応じて三歳児童の姿で八幡神が出現し、「我は始め辛国に八流の幡となって天降り、日本の神となって一切衆生を度する釈迦菩薩の化身なり」と託宣したという。こうした伝承などから、八幡神はもともと鍛冶神とする見方も古くからある(柳田国男氏ほか)。
後世では八幡大神にも擬せられる応神天皇は、実際の系譜は宇佐国造一族の支流の流れをひく鍛冶部族の息長氏に出ており、遠祖は神武に始まる王統と同じで、高魂命であった。金色の鷹は、金鵄や八咫烏にも通じる天孫族のトーテムである。
素盞嗚神という神は、海神族たる大己貴神(大国主神)の父祖としても伝えるが(記紀ともに見えるが、『古事記』のほうに多く伝える傾向)、その一方、熊野大神として、天孫族系統の物部連や鳥取部によって祖神として広く奉斎された。これら氏族の祖たる天津彦根命(天若日子)やその兄弟神は、素盞嗚神と天照大神との天安河原の誓約の際に息吹きのなかから誕生したと神話に伝える。
こうした両様の複雑な性格をもつ素盞嗚神は、本来は性格ごとに別々の人格神かとも考えるのがよいかもしれない。そのなかでも、最も主なものとしてはわが国天孫族の祖となる(こうした見方は、私の氏族研究の結論的な部分だけを記したので、分かり難いかもしれないが、紙数制約や論旨展開上の見地から、本書ではこのくらいに止める。以上の記述に関連して、本シリーズの『息長氏』『三輪氏」』などをご参照)。
天孫族の祖系と祭祀
現存の天孫族系統の系図では、天照大神より先へ遡る神統譜を記すものは少ないが、『姓氏録』では若干は記事が遺る。それが、角凝魂命を遠祖とする系譜をもつ諸氏(鳥取連・鳥取、委文連・宿祢〔倭文連・宿祢〕、竹原、美努連、税部〔鴨県主一族〕や額田部宿祢〔物部氏同族〕、雄儀連などで、殆どが少彦名神の流れ)である。
角凝魂命を祀る神社は全国で少ないが、鳥取連が奉斎した和泉国日根郡の式内社、波太神社(大阪府阪南市石田に鎮座。もと桑畑村、東鳥取村で、同国神名帳に従五位上波太岐社と記載。府社)の祭神として鳥取連の祖・天湯河板挙が垂仁朝に祖神を創祀したと伝える。波多の地名は肥前国松浦郡にもあり、当地に波多八幡神社(佐賀県唐津市北波多稗田で、宇木汲田遺跡の西南近隣)が鎮座する。「波多」は秦韓・辰韓に通じるものか。
忌部氏の系図(「斉部宿祢本系帳」」や「宮中八神」などを基礎にして、始祖の五十猛神以降の初期段階の歴代を整理、推定してみると、概ね次のようになる(第1図)。ただ、妻神(后神)は難解であり、推定の度合いが大きい。
各々の遠祖神が異なる複数の神名をもつことに留意されるが、天照大神は「斉部宿祢本系帳」では「天庭立命」として表記される(この名に近い「天壁立命」も天背男命の父神で左京神別の宮部造の祖とされるから同神となる)。
この神は、大阪市天王寺区の生国魂神社(東生郡の難波坐生国咲国魂神社)で奉音される神であるこれが、信濃国小県郡では名神大社の生島足島神社(長野県上田市下之郷)でも祀られて、その祭神が大八嶋を統べる「生島神・足島神」とされる。摂津国川辺都(兵庫県尼崎市栗山町)の生島神社では、生島神・足島神、天照大神、須佐男神、八幡大神、伊邪那岐・伊邪那美神をいま祀る(祭神の名に重複がある)。
この生島神・足島神は、天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀ともみられる八十島祭の主神とされる(この祭は、文献初見が文徳天皇の即位時の嘉祥三年〔八五○〕九月で、鎌倉前期まで廿二回確認されると言うが、由来は上古に溯るのだろう)。『延喜式』神名帳には、宮中八神殿で御巫祭神八座のなかで生産日神・足産日神(『古語拾遺』では生産霊・足産霊)として祀られ、神祇官に坐しては生島巫祭神二座として生島神・足島神があげられる。両名は併せて夫婦神(その場合、足島神のほうは妻神か)とみられ、男神は伊久魂命とも天活玉命ともいわれる。天照大神という名では、『延喜式』神名帳では宮中坐神三六座のなかに見えないし、『姓氏録』にも諸氏族の祖先として見えないことに留意される。なお、天活玉命を祀る神社は少ないが、越中の高瀬神社(富山県南砺市高瀬。同社は五十猛神も合祀)や讃岐の大麻神社(寒川郡の大蓑彦神社。香川県善通寺市大麻町)という式内社があげられる。
『書紀』には生申の乱の時(天武天皇元年〔六七二〕七月廿三日条)に生島神が見える。そこでは、高市社に坐す事代主神と牟狭社に坐す生霊神が神憑りして、神日本磐余彦天皇之陵(神武陵で、『書紀』にいう畝傍山東北陵か)に馬と種々の兵器を奉納すれば、両神が天武軍の前後に立って守護すると告げたが、この生霊神が生島神(生国魂神)に当たる。いま畝傍山の東北の裾、橿原市大久保町域(旧洞村)にある神武陵旧跡と伝える地の近隣には、生玉神社が鎮座する。
『古事記』には「天津国玉神」とも表記されるが、これは、天若日子(天稚彦。天照大神の子で別名が天津彦根命、天背男命、天湯河桁命であり、出雲国造や物部氏など鍛冶部族や鳥取部等の祖)が大国主神のもと(葦原中国)に派遣された事件に関連して見える。
その父神が高皇産霊尊であり、上記の宮中八神殿で祀られる高御産日神にあたる。この神のときころに筑後川流域に至って定着したとみられる。この神を天孫降臨の指揮者として皇祖神のはじめに置く見方が学究には多いようだが、上記系図に見るように更に父祖の神々を伝えることに多意される。
「宮中八神」の意義
ここまでに宮中八神にも触れてきたが、『延喜式』神名帳の冒頭に掲げる「宮中八神」には十分留意される。
すなわち、宮中神として大社三十座小社六座があり、そのうちの筆頭に「御巫等祭神八座」並大、月次新嘗とある神々で、①神産日神、②高御産日神、⑤玉積日神(玉積産日神)、④生産日神、⑤足産日神、⑥大宮売神、⑦御食津神、⑧事代主神、の八神があげられる。さらに、「座摩巫祭神五座」並大、月次新嘗として生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神の五神、「御門巫祭神八座」並大、月次新嘗として、櫛石窓神と豊石窓神が四面門各一座、「生嶋巫祭神二座」並大、月次新嘗として並大の生嶋神、足嶋神の二神があり(ここまでが「神祇宮西院坐御巫等祭神」とされて、合計が二三神)、更に、「宮内省坐神三座」並名神大、月次新嘗として薗神社、韓神社二座、「造酒司生神」大四座、並大、月次新嘗として大宮売神社四座が掲載される。
「宮中八神」の次ぎにあげれる神々は、御門神(八座)を除くと、おそらく八神の異名・異称で重複するものだろう(ただ、座摩巫が祭る五神は、「大宮地を守り坐す霊神」とされるが、その実体は難解・不明。五神はみな始祖神関係の異名かもしれず、「生井、福井、綱長井」で三井・御井、「波比祇、阿須波」が五十猛神に通じるか)。そして、その皇統譜のなかで大祖先神としての位置づけにあった神々ではなかろうか。具体的には、天照大神夫妻を含めそれ以前の三代の夫妻神とみられる。上記の「第1図天孫族の初期段階の系譜」は、こうした見方のうえで推定記載をした。
注意すべきは、最も重要な天照大神にあたる神の名が二つ(玉積産日神、生産日神)あり、対偶を持たない「事代主神」があって、合計で「八神」となっている点である。天孫族系統では、「八」という神聖数をもっていた。
さて、ここの「事代主神」の実体は何だったのだろうか。抽象神としての意味は、「神憑りして神託を��だす神」であり(松前健、佐伯有清などの諸氏)、特定の固有名詞とされる必要はない。ところが、この神は、一般には地祇(国津神)・三輪氏族の祖で、神武天皇の皇后の父神が指される。これは、後代の諸天皇の母系祖神として理解が出来ないわけでもないが、それならば、天照大神の邊遥か後代の神であって、宮中祭祀のバランスを欠く。
そこで、「姓氏録』を見ると、天神としての「天事代主命」(天辞代主命、天辞代主命)が存在したとわかる。この神を祖神とするのが、左京神別の畝尾連、右京神別の伊与部、大和神別の飛鳥直の三氏であり、これら諸氏の系譜を考えると、みな中臣連一族の初期分岐となる(伊与部条には高媚牟須比命の三世孫と記載も、これは疑問)。畝尾連の一族は和泉神別にもあげられ、そこでは「大中臣朝臣同祖。天児屋命之後也」と記載がある。しかも、高市郡明日香村に鎮座の飛鳥坐神社(並名神大)では、事代主神、高皇産霊神、飛鳥神奈備三日女神を祭神とする。すなわち、天事代主命とは中臣氏の大祖神(天孫降臨痔の天児屋根命の父祖神か)の位置づけということになるが、そうすると、天照大神も含め、この神から遡って三世代の夫神の誰かの舅神で、天孫族系統の母系の祖として特掲された可能性があり、この場合には「宮中八神」に所掲の神々の活動年代とも符合するものとなろう(現在の当該飛鳥神社の祭祀では、転訛された影響で、有名な三輪の事代主神と混同されている)。
なお、{宮中八神」のなかに、元は「倭大国魂神」(実体は九州所在の大己貴神)も含まれていたとみる見解(若井敏明氏『「神話」から読み直す古代天皇史』)には反対である。天照大神以前の上古歴代の舅神の位置にはいないからであって、『書紀』崇神天皇大年条の記事には疑問がある。不祭祀のイザナギ・イザナミの諾冊二神も、実体をもつ神ではなかった。
韓国イタテ神の列島渡来
『延喜式』神名帳のはじめに、宮中で祀られる神々が「宮中坐神三十六座」としてあげられる。そのなかに宮内省に坐す神の三座(並名神大)があって、薗神(園神)の社と韓神の社の二座がある。この「韓神」こそ韓(伽耶)から渡来した五十猛神を指す。ちなみに、御巫等祭神の八座にあげる神産日神も大始祖たる五十猛神にあたるとみられ、五十猛神の妻神の御食津神(御膳神)も同八座のなかに見える。この女神は豊受大神でもあり、食物主宰の倉稲魂神(稲荷神)で保食神なのだから、薗神にあたるとみるのが自然である。織物と酒造を司る女神、大宮売神にも当たりそうな可能性もあるが、それを留保しつつ、この関係では別神としておいた(関連して言うと、丹波国多紀郡式内社の大売神社【兵庫県篠山市寺内]は、大宮売神を祀るが、「オーヒルメ」神社と読まれている。大宮売がアメノウズメの別名だとする平田篤胤説や、これに通じる『古語拾遺』の記事は誤りとみられる)。
かつて、黒板勝美博士は、天照大神より前の神々が皇室の祖先として奉斎されていないとの理由で、それらの実在性は認めがたいと考えた。しかし、上記のように現実に別の神名で宮中で永く奉斎されてきた。出雲でも、神産日神も神魂神社の名で、意宇郡六社の一としてあり(松江市大庭町)、出雲国造が長く奉仕した。同社は神火相続の神事で知られる。
「園韓神」には一に大己貴神・少彦名神・大物主神をあてる説もあり、平安京遷都以前に京の地を支配したのが渡来系の秦氏だとして、園神・韓神は元々は秦氏が奉斎した神とみる説(水谷千秋氏)もあるが、ともに論拠薄弱である。
園韓神社は宮中では唯一の名神大社であり、応仁の乱頃までの宮殿の宮内省に鎮座した。この神格・鎮座地からみても、秦氏にふさわしいとはとても言えない。例祭は園韓神祭といわれ、『江家次第』では神部四人が榊・桙・弓・剣を持って神楽を舞ったと見え、『百錬抄』では大治二年(一一二七)の大内裏火災で園韓神の御正体を取り出そうとした折に神宝として剣・桙があったと見える。帝王鎮護の神という役割や、皇祖神の系統からみても、これは始祖神の五十猛神夫妻とするのが妥当であろう。もとからこの地にあって平安遷都に伴い遷座させようとしたら、帝王を護りたいという託宣が韓神からあったとも伝える(本来は鴨県主奉斎か)。
御食津神はオオゲツヒメ(保食神)でもあり、穀物神(稲倉魂命)でもあった。五十猛神は大屋毘古神とも呼ばれ、一緒に植樹につとめた妹・大屋毘売(大屋津姫)は、名前の対応から考えて、「妹」とは実際には「妻」の意であろう。紀州にはこの女神を祀る神社もある(和歌山市字田森に鎮座の大屋都姫神社など)。この妻神は白山信仰の菊理媛命にも通じ、水神の罔象女神であり、多様な神格と名をもつ。八幡大神の妻神たる比売大神でもあって、宇佐八幡宮で祀られる。水神が竜神に通じ、仏教での同種の弁財天にも通じる祭祀もある。
筑後国御井郡や豊前国田川郡(豊比咩命神社という名で、いま香春神社に合祀)など各地の「豊比咩神社」の祭神であって(神武天皇の祖母とされる「豊玉姫」ではないし、「神功皇后の妹」のことでもない)、伊勢神宮外宮の豊受大神にあたる。香春の豊比咩神が宇佐の比売大神に相当すると岡谷公二氏も指摘する(上掲書)。豊比咩(豊姫)については、高良神の妻神という見方もあり、この辺の可能性を留保しつつ、比売大神という見方で一応、考えたい。
比売大神については宗像三女神説(宇佐神宮・石清水八幡宮の立場か)もあるが、大分県杵築市の奈多宮では、沖合の市杵島(または厳島)と呼ぶ岩礁に比売大神が降臨したと伝えるから、主祭神八幡神(=五十猛神)の后神で、端的に市杵島姫神と考えたほうがよい(その系譜は不明だが、天照大神の娘のはずはなく、海神族的な色彩があるものの、幹地から共に渡来したか、既に北九州にあった種族の出かは判じがたい)。
この女神は、水神の性格からは淀姫(興止姫神、世田姫)にもあたる。肥前国一宮たる佐嘉郡の與止日女神社(河上社。佐賀市大和町川上)、予賀神社なども含め、肥前中心に二十数社の多くで祀られ、とくに佐賀県の嘉瀬川流域に六社もあって祭祀が集中する。夫神・五十猛神と同様、石神の性格ももつ(脊振山に鎮座の脊振神社は、弁財天社ということで本地垂迹で市杵島姫を祀るが、この神にもあたる〔瀬織津姫や蛇神の宇賀神にもあたる〕。山城国乙訓郡の式内社、与杼神社〔京都市伏見区淀〕でも写る。安芸宮島の上厳島神社〔伊都岐島神社〕や近江の竹生島神社〔浅井郡式内社の都久夫須麻神社〕、相模江ノ島でも、市杵島姫【弁財天】を祀り、竹生島では、併せ宇賀神・浅井姫・龍神も祀る。淀姫が、一に「八幡大神の叔母、神功皇后の妹」とされるのは訛伝)。
唐津市呼子の加部島(別名が姫島)の宮崎鼻に鎮座する田島神社(松浦郡の式内名神大社の田島内神社)は、肥前最古といわれ唯ーの大社とされる。本殿の裏には磐境(祭場)とみられる地があり、立った三個の巨石や二個の平石、太閤祈念石と呼ばれる巨石もある。
加部島は、韓地・大陸への交通を考えると「道主貴(ちぬしのむち)」の鎮座地にふさわしく、市杵島姫を含む宗像三女神が礼られる(神名帳には「一座」と表記)。そうすると、韓地釜山(ないし対馬)辺りから筑前大島・沖ノ島を通る海路が「海北道中」と一般に解されるが(「海北」=は朝鮮半島を指す)、当該経路は、倭韓間の海上交通における当初のメインルート「壱岐・対馬を経由の線」だとみる田中卓博士の見方のほうが正しいものか。宗像大社では、九州本土の宗像市田島の地に辺津宮(総社)として現在、市杵島姫を祀る(『古事記』では、市杵島姫は中津宮、辺津宮鎮座は田寸津比売と記す)。
道主貴は、『書紀』(巻一第六段の一書第三)に「筑紫の水沼君等が祭る神」と見えており、水沼君(水沼県主)は佐賀君(佐喜県主)と同様、火国造同族とみられるから、これら諸氏の祖神でもあろう。『旧事本紀』天皇本紀には景行天皇の皇子のなかに武国表別命をあげ、筑紫水間君の祖と記される(同人は、「円珍俗姓系図」に讃岐の和気公・因岐首の始祖とされ、九州の阿蘇君・火君らの祖とみられる。『書紀』景行段に見える水沼別の始祖・国乳別皇子かその近親にあたる。同書の記事では、「弟の豊戸別皇子。是火国別之始祖世」と続ける)。
水沼君氏一族は、筑後国三潴郡の豪族で、久留米市西南部の大善寺町にある大古墳、御塚(全長約一二〇詩という帆立貝式古墳。中期古墳か)及びその北隣の権現塚(外径が全長約一五〇計かともいう。後期古墳か)の築造者とみられている。東北方近隣の同市高良内町には、これらに先立つ石櫃山古墳(全長が百計超【最大で一一五潮というで、境輪式を出土)もあったが、消滅した。久留米市北野町赤司に鎮座の赤司八幡宮(御井郡惣廟を称)がもと豊比咩神社といわれ、與止比咩命・高良大神や道主貴(三女神)、すなわち宗像三女神が祭神で、祠官家が水沼君氏との伝え(境内碑文)もあるが、領域からやや離れる感もある。
「韓」を冠する五十猛神
延喜式の神名帳には全国各地の官祭に関わる多くの古社があげられるが、そのなかで「韓」が頭につけられる神は五十猛神のみである。多くの樹木の種を持って大八洲に植えたと伝えて、紀伊国をはじめ各地で多く祀られる。わが国では伊達神(射楯神)とか韓国伊太神、伊太祁曽神ともいわれて、延喜式内社の奉斎神としてはかなり多くあり、全国で十五社を数える。
とくに、出雲には最多で合計六社もある。それが意宇郡・出雲郡に集中するが、意宇郡では玉作湯社や揖夜社に付属して鎮座する。これらは出雲国造一族の奉斎に係るものか。そして、これら出雲国内の六社が全て、韓国伊太氐神と記されて、式内社では類例の少ない「韓国(辛国)」が冠として付けられる。当地の曽枳能夜神社境内の韓国伊太氐夫神社(島根県出雲市斐川町神水)揖夜神社境内の韓国伊太氐神社(同県松江市東出雲町揖屋)など、韓国伊太所神社が出雲国の九郡中で意宇郡と出雲郡とに三社ずつ見られる(出雲国意宇郡の条に、①玉作湯神社、②揖夜神社、③佐久多神社に「同社坐韓国伊太氐神社」があり、西側の出雲郡条にあっても、「同社(神)韓国伊太氐神社」としての阿須伎神社、⑤出雲神社、⑯曽枳能夜神社が同様)。
このほかの式内社では、薩摩国曽於郡の韓国宇豆峯神社(鹿児島県霧島市国分上井)も、五十猛神(又の名を韓神曽保里神)を祀る。ここでも、とくに「韓国」を冠した神社の名前になっていることに留意される。これらの事情も、ての神の韓国からの渡来を示唆する(千家俊信『出雲式社考』にほぼ同旨)。出雲の西隣、石見国では現大田市五十猛町に近隣して韓神新羅神社・五十猛神社の両社が鎮座する。
この朝神新羅神社、出雲国出雲郡の韓竈神社(産銅遺跡のなかに鎮座)や安芸国御調郡の賀羅加波神社のほうは、素戔鳴命を屯るというが、五十猛同神か。
五十猛神については、記紀に見えるのは上記の一箇所だけであるが、イタテ神としては、『播磨国風土記』餝磨郡の因達里(姫路市街地の北部)の条に伊太氐之神が見える。因達里の伝承が、神功皇后が韓地征討で渡海する際、先導神としてその御船の上に鎮座したのがこの神である、という内容なのだから、「韓国」を冠しないイタテ神の場合にも韓国との関係がみられると石塚俊氏は指摘する。これが、餝磨郡式内の射楯兵主神社(姫路市本町に鎮座)である。イタテ神が神功皇后の先祖・天日矛にも通じるとしたら、祖神たちの加護を受けてその祖国の韓土に進攻したことになる。関連して、九世紀後半の貞観期当時の対新羅関係の悪化という背景のなかで、日本を新羅から守る目的で韓国伊太氐諸社が建立されたという説(瀧音能之氏)は疑問が大きく、この神の祭礼の由来は更に古かった。
伝承では、イタテ神は韓地の新羅から直接渡海し、日本列島に着いて出役に入り、そこから紀伊に遷ったようにうけとられる。出雲・紀伊には関係社が多くあり、出雲の西隣の石見国安濃郡にも、現・大田市五十猛町に五十猛神社と韓神新羅神社がある。五十猛命の降臨地としては、奥出雲、出雲国仁多郡の鳥上峰(船通山、鳥髪山)という伝承もある。これも、天孫族関係者が高山に天降りするという所伝の一環である。
九州の太宰府付近にも鳥髪山に相当するような山(例えば基山〔後述」」とか砥上岳(遠賀川源流地)がある。一方、対馬、壱岐を経由して九州の有明湾岸に上陸とも伝えるから、多くの関係請社や遺跡などの分布を具体的に見ると、やはり韓地→対馬→筑紫という地理的に自然な経路をとったとみられる。そこで、次ぎに北九州の分布を見てみる。
九州の五十猛神
対馬では、対馬島の北端で河内湾に臨む地に鎮座する岩立神社(岩楯神社ともいう。対馬市上対馬町大字河内)がまずあげられる。素戔嗚尊が韓土よりお帰り(到来か?)の時に、この浦に船を寄せたと伝える。元来、本社は岩楯の地に在って神籠磐境だといい、社殿がなく森の中に磐石があって、これを神位とする。
同名社では、備前国和気郡にも、磐梨別君氏(垂仁天皇後裔と称するが、実際には息長氏の一支流の和気氏)の奉斎とみられる同名の石立神社(現・備前市麻宇那)があり、社殿の下に大磐石があって、岩石崇拝に創まるとされる(『神道大辞典』)。姫大神も祀られ、近隣の北側対岸には祇園神社・磐井神社、稲荷神社や荒神社もある。石立神社の南方の備前市域、日生には高良八幡もあって、その社叢もウバメガシが占める海岸林で知られる。対馬の那祖師神社(対馬市上対馬町豊。島大国魂神社も合祀)など数社も、五十猛神を祭祀する。
大和にも同名社が添上郡式内社であり、「天乃石立神社」と記載される。現社名を天石立神社(戸磐明神)といい、奈良市柳生谷、戸岩山の北麓(奈良市柳生町の岩戸谷)にあって、本殿をもたず、鎮座する巨岩を直接拝する形態をとる。四つの巨石の総体が天石立神社と呼ばれるが、なかでも中心の丸い巨岩(きんちゃく岩と呼ぶ)が日向神社で、これが天照大神を祀り、他の三つは門神(豊磐門戸命、櫛磐門戸命)と天岩戸別命に当てられる。地域的に考えると、同社は磐梨別君同族の山辺県主一族が祭礼に関与したものか。
北九州の五十猛神祭礼では、筑前国御笠郡の筑紫神社(福岡県筑紫野市原田)や同国早良郡の五十猛神社(同県福岡市西区金武)が著名である。前者では、筑前・筑後・肥前の交通要衝に、筑紫の国魂たる筑紫大明神として祀られる。その別名の白日別神は、太陽神にも「日向」になも通じる。早良郡の西職りの怡土・志摩両郡(現・糸島市域)にも、五十猛神を写る神社が多い。王丸の白木神社前原の酒神社、草場や西浦の白木神社などがそれであり、潤神社も含め、その旧名が「白木神社」とするものも多い。これらの白木神社の群や、密集する白木の地名は新羅に因むといい、朝鮮半島由来の遣跡や伝承に彩られる。
肥前では、基山を神体山とする荒穂神社(佐賀県三養基郡基山町宮浦)がある。筑紫神社の後背地にあたる基肄郡の基山山頂には五十猛神が祀られ、玉々石という巨石の磐座や五十猛神伝承による「日本植林発祥之地」という石碑がある。同名社は、基山の別宮として、遠賀川上流域の福岡県嘉麻市牛隈(旧・嘉穂郡)にもあるが、祭神がニニギの尊で、元宮が馬見神社という。
『筑後国風土記』逸文には、荒ぶる「麁猛神」が筑前と筑後の境界に居て、往来の人々の半数を殺すので、筑紫君等の祖・甕依姫を祝にして祀ったと見え、麓の荒穂神社で祀られる。この実体が五十猛神とみられる。この地に朝鮮式山城の基肄城が築かれ、瓊瓊杵命が基山で国見をしたとの社伝もある。アラは伽耶の安羅(慶尚南道の咸安あたり)にも通じるし、「基肄」は紀伊国造の紀直氏や武内宿祢後裔と称した紀臣氏の「キ」にも通じる。杵島郡の稲佐神社・妻山神社(ともに同県杵島郡白石町域)なども、五十猛神やその眷属神の祭祀で知られる。
日本列島に杉などの樹種をもたらしたことで、各地の紀伊神社や杉山神社の祭神とされることも多い。とくに武蔵南部(旧都筑・橘樹両郡や横浜市港北区域)には、五十猛神を祭神とする杉山神社の分布が多い。これは、五十猛神を奉じた人々・部族がこの地域の開拓を進めたことに因るものであろう。
九州に戻って、五島列島、福江島の北部に位置する五島市(前・南松浦郡)岐宿町岐宿に巖立神社(岩立三所大権現)があり、社叢は椎の大木やナタオレの木などの原生林として長崎県文化財に指定される。対馬のイワタテ同名社に通じ、ここでは宗像三女神等を礼るが、本来は市杵島姫を祀るものか。長崎市香焼町の岩立神社では、境内に樹齢推定二百年という古木のエノキ(市指定天然記念物)がある。
岩立神社について言えば、このほか、出雲の東隣の伯耆西部にも同名社があり(祭神はいま大山祇命とされるが、疑問)、大山中腹の鳥取県西伯郡伯耆町岩立に鎮座する。ここでも、樹齢推定二百年、という樅・杉・銀杏の巨樹群が社を深く覆うことで有名で、裏山には「岩滝さん」と呼ばれる古くから信仰の対象とされた巨石があり、周辺に岩立古墳群もある。近隣の金持神社(同県日野郡日野町)や石見の物部神社別天神(島根県大田市川合町)などに祀られるのが、天之常立神である。この神は天地開闢の際に、別天津神五柱の最後に現れた神で、天(高天原)そのものの神格化ともされるから、具体的には五十猛神を指すのかもしれない。国常立神は、国土守護神ともされる。
これら五十猛神と眷属神を祀る神社や関連遺跡は、北九州では天山を含む背振山地の周囲に濃密に点在する。天山は、同山地の西部側、佐賀県のほぼ中央部に位置し、唐津・小城・佐賀・多久の各市に史る。その標高一〇四六㍍は、同山地���部の最高峰、脊振山(標高一〇五五㍍)に次ぐ。
この辺の事情を踏まえ、天孫族の様々な特徴を次ぎに見ていくことにしたい。
鳥トーテミズム
天皇家・天孫族には、鳥トーテミズムや、始祖の卵生伝承らしきものなど、鳥にまつわるものが多くある。古くは「天の鳥船」や「八咫烏の先導」の伝承があり、倭建命の霊魂が白鳥となって飛び去ったという白鳥伝承も代表的であって、その墓の候補のいくつかには「白鳥陵」という命名がある。
河内の古市古墳群にある津堂城山古墳は、前期末頃の巨大古墳で、倭建命の陵墓に擬される。すくなくとも、当時の大王一族関係者の陵墓とみられており、辺十七㍍の方墳状の特殊な施設には、巨大な水鳥形埴輪三体が配されている。この水鳥はおそらく白鳥ではなかろうか。烏型の埴輪は全国的に分布するが、応神天皇陵に比定される誉田山古墳や継体天皇供の可能性が大きい今城塚古墳でも見られ、これらに先行する。古墳の周濠から鳥形木製品が出土した例もあり、天上と地上を結ぶ聖なる動物という意味以上に、こうした鳥トーテミズムが大王一族にあったから祭祀に使われたものだとみられる(鳥形木製品や鳥装シャーマンは弥生時代から見られるが、穀霊信仰の現れとするのは疑問か)。中国の長江中・下流域にあった河姆渡文化期には鳥と太陽が象徴化されるとの指摘もある。
こうした鳥トーテミズムは、同族の息長氏から出た応神王統にあっても同様である。『記・紀』などに見える大雀・隼・雌鳥・鷺などを名にもつ応神・仁徳近親の王族も、鳥トーテミズムの現れであろう。この系統の遠祖、少彦名神は鳥の神様ともいえ、天日鷺翔矢命の名ももつ鳥取部造の祖神でもあった。
応神天皇自体が、宇佐八幡の伝承に、金色の鷹が金色の鳩に変じし、さらに小児となって現れて「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗ったと伝える(『八幡宇佐宮御託宣集』)きも。この金色の鷹は、菱形池のほとりにいた鍛治翁の化身とされる。応神の前身(若い頃)は、垂仁天皇の皇子・ホムチワケ(品遅別、誉津別)として記紀に登場する(「ワケ」の名からして、垂仁の皇子ではありえないが)。ホムチワケは成人してもものを言わなかったが、空をいく白鳥の声を聞いて初めて話をしたので、山辺の大鶙が命をうけ捕らえたとの伝承がある(記紀に多少差異があるが、捕獲者は少彦名神後裔の鳥取部造の祖)。「大鶙」は鷲鷹類の鳥を表す名(通称)であり、これに対応して『書紀』に見える名の「天湯河板挙」とは、実際には祖神の名であって、少彦名神の親・天若日子(天稚彦)の別名とみられる。
全国各地には白鳥神社が多くあり、日本武尊(倭建命)の伝説に因むとするものが多い。これらは、総じて天孫族諸氏の祭祀にかかるとみられる。福岡県にも白鳥の地名や同名社が多く鎮座する。順不同であげると、朝倉市白鳥・柳川市三橋町白鳥・京都郡みやこ町節丸字白鳥など白鳥の地名や、久留米市荒木町白口、田川市猪国、嘉穂郡嘉穂町馬見、八女市黒木町大淵、八女郡矢部村北矢部などに白鳥神社が鎮座する。大分県にも同名社が多い。久留米市白山町や神埼市神崎町城原にある「白角折神社」(前者の地ではシラトリ、後者ではオシトリと訓む)も関係社とみられ、後者には樹齢千年起という楠の巨木がある。
神武の大和侵入に際しては、八咫烏が道案内し、金色に輝く霊鵄(実体は八咫烏同神で、少彦名神後裔によるトーテム表示)が皇弓の筈(弓の弦をかける所)に止まって、抵抗する長髓彦軍の平定に助力したという伝承もあり、天孫の徵表が天羽羽矢であったとも記される(『書紀』)。天日鷲翔矢命(少彦名神の別名)の后裔には、長白羽神(天白羽鳥命)、天羽槌雄神や鴨族諸氏がいる。鍛冶神たる天目一箇命や少彦名神兄弟の父・天若日子(天津彦根命)は、自ら雉を射抜いた「反し矢」によって殺害されたが、その葬儀に際して、川鴈・雀など多くの鳥が役割を担ったと『書紀』に記される(割註では、本文より多くの鳥の名をあげる)。
これは、『春秋左氏伝』の昭公十七年条に見える山東省南部の夷系の国、郯子国の多くの鳥の名を付ける官名に通じるようであり、松本信広氏は、死者の魂を他界に連れていく鳥の観念と関連すると説く。朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)でも、死者を天上に飛揚させるため、大鳥の羽根を用いて死者を送るという風習があった(『三国志』魏書弁辰伝)水上静夫氏も、中国の中原東方には郯子国など鳥トーテムをもつ諸氏族があり、殷族がこれらと一群の種族だとみる(『中国古代王朝消滅の謎』ー九九二年刊)。郯子国(郯国)は山東省郯城県(山東半島の基部の南方)の西南境に位置し、春秋時代に魯の属国であったが、東夷族の祖・帝少昊の後とされ、嬴姓の国とされるから、秦・趙や徐、黄、江、李などの国・君と同族である。山東にあった大国・斉は、もとは秦と同じく嬴姓の蒲姑(薄姑。殷代の侯爵国)の領域といい、少昊自体もその別名の「鷙」が手で鷹鷲をしつ執るという意味だとされる。
白川静氏も、金天少昊氏と山東の郯子とは同じ系列に属するとみる。殷は種族的には夷系に属するとし、殷の王朝的規模は、倭の五王期とあまり異なるものではなく、殷墟に残される十三基の地下王陵は、わが国の仁徳、応神の諸陵にほぼ匹敵し、殷が直接支配した地域も、西日本の全域程度のもので、絶対年代の異なることを除けば、両者の条件はきわめて似ている、と指摘する(『中国の神話』)
殷の始祖の舜には、もと太陽神であったらしい形跡があり、アマテラスの信仰と似ているといえよう、とも言う。
中国では、『春秋左氏伝』より更に古い『逸周書』の「王会編」に、鳥トーテムをもつ異族が見える。周王が成周(いまの洛陽)に壇を築いて万国を会集する状況を記述するなかに、森林が密集する山陵地帯の異族が多く奇鳥喘禽を献じており、鳥トーテミズムをもつ秦の出自がこの方面たあると白川静氏も指摘する(上掲書)。これら西方の庄爽は、黄河上流域山陵部の森林密集地帯(上古代の当時。内蒙古のオルドス地方か)のあたりに居たとみられる。
日本では、天若日子は、子の少彦名神を通じて、鳥取部造の遠祖でもあった。鳥の名をもつ人名(神名)も天孫族系統にかなり見られる。先にあげた天日鷲翔矢命の一族のほか、素戔嗚尊自体が須佐能烏命とも書かれる。出雲国造の遠祖・天夷鳥命(天鳥船命、武日照命)の実体が、鍛冶部族の祖・天目一箇命に通じると、別書(『越と出雲の夜明け』)で述べた。同国造の初祖の名は崇神朝の鵜濡渟命と伝える。国造家の遠祖・櫛八玉命(伊佐我命のことで、天夷鳥命の子)は、鵜となって水に潜り、水底で採取した埴土(赤土)で「天八十毘良迦」(多くの平たい土器)を作り、料理人となって大国主神に供膳したと伝えるが(『古事記』の国讓りの段)、その伝承を思わせる名である(すなわち、「鵜が潜く沼」だから、一種の通称か)。
これと同祖の鍛冶部族・三上祝氏一族でも、鳥鳴海命(三上祝の祖)、速都鳥命(穴門国造の祖)、意富鷲意弥命(師長国造の祖)等の鳥の名の人々が見える。長門の穴門国造の系譜は、「国造本紀」には桜井田部連と同祖と見えるくらいだが、鍛冶神天目一箇命の後裔で天孫族たる近江の三上祝の一族であり、代々が式内の住吉坐荒御魂神社(現住吉神社。山口県下関市一の宮)に奉仕した。その由来は、託宣を行って韓地征討に功績のあった住吉三神の荒魂を、践立が神主となって当地の山田邑に祀つた、と『書紀』神功皇后摂政前紀に見える。同社(長門一の宮)及び近隣の忌宮神社(二の宮)では、特殊神事「スホウテー(数方庭)」があり、竹竿の頭に羽根を挿し鈴をつけた道具を用いる風習がある。
北九州でも、吉野ヶ里貴跡を始め弥生時代の出土品には、杆頭にとりつけられる木製の鳥製品が頻出する。このような竹竿は、朝鮮半島の「鳥杆」(鳥竿。杆頭に木製の鳥をつけて寺院の入口等に立てられ、「ソッテ」などとも呼ほれた)や「蘇塗」(大木に鈴鼓を懸けて鬼神を祭祀った)につながる。鳥杆に似たものが、佐賀県神埼郡千代田町の託田西分遺跡でも出ている。こうしたソッテの習俗は、ウラル・アルタイ族に普過的な信仰である北方的祭天儀礼と位置づけられ、シャーマニズム文化に帰属する(萩原秀三郎氏の「稲と鳥と太陽の道」)。
始祖の卵生神話
高句麗の祖・朱蒙(東明王)は、日の光に感精して生まれた卵から成長し、弓の名手であった鶏卵のような��気が天上から降りてきて女が妊娠し生まれたとも伝える。こうした所伝は早く、「好太王碑文」等にも見えており、始祖鄒牟(朱蒙のこと)は天帝(ないしその太子の)の子で卵を割って出生したとある。東夷の祖神・帝少昊の子(一に子孫)の揮は初めて弓矢を作り、張姓を賜ったと伝えるが、わが国の鳥取部・弓削部・矢作部を管掌した氏(鳥取連・弓削連・矢作連)は天孫族の出で、いずれも遠祖が少彦名神であった。
『魏書』やっ『隋書』等の高句麗伝では、高句麗の高官や使者は冠に「二本の鳥の羽」を挿すと記されており、これも鳥トーテミズムに関係しよう。「東明編」(高麗の李奎報の叙事詩。一一九四年成立)には夫余の祖・解慕漱(へ・モス)が頭に鳥羽冠をかぶり五竜車に乗り、百余人のお供はみな白鵲に乗って天降りしてきたと記される。この解慕漱が河伯の娘・柳花を娶るに際して、河伯との変身合戦で最後に鷹に変じて圧倒したので、ほんとうに天帝の子だと認めたという記事もある。高句麗には烏骨という城(遼寧省鳳城市に残る鳳凰山城で、高句麗最大の山城)、烏拙という大官(十二官位のうち第六)もあり、鬼神・社稷・霊星(農業神)を祀った。
古くは『逸周書』」王会篇に、周王朝第二代の成王が諸侯を招集したとき、高夷が見えており、これが高句麗族の源流だと、『隋書』を編纂した唐代の孔穎達が言い、鵠(白鳥類-のトーテムを祀るとする。「高夷」は遼寧省撫順市周辺に居たともいう。
新羅の国王初代で朴王家の祖・赫居世、金王家の祖・金閼智や昔王家の祖・脱解や、伽耶の金官王家の初祖・首露にあっても、卵生神話や誕生時に鳥にまつわる伝承(金閼智の場合は、その到来を白鶏が告知)がある。
わが国の天皇家には、鳥類にまつわる卵生伝承は端的な形では見られないが、これが天孫降臨の際の真床覆衾に関連するといわれる。この真床覆衾は、殷の王権・即位の儀礼に見られる「綴衣」という先王の用いた衾に通じると白川静氏がいう(『中国の神話』)。殷は東夷系で、玄鳥(燕)の卵を呑んで懐妊した女性の子・契(『荀子』に「契玄王」という表記あり)という者が始祖で、商の地に封じられたという卵生説話をもった。先祖の王亥は鳥形神の字形で表され、その神像は両手で鳥を操り、まさにその頭を食らう、と白川氏が『山海経』やト辞を踏まえて表現する。鳥トーテムの強い色彩があり、王は巫祝としてシャーマニズムが盛んであった。殷の子孫が周王朝の祭儀に客神として参加して降服の儀礼を再演し白鷺の舞を献じたことは同様に記される。
殷の伝承などから、この殷族を貊民族の一分派とかツングース族とみる見解(文崇一や、シロコゴロフの『北方ツングース族の社会構成』)がある。殷の起源は、祭祀・主食(オオムギ)などから考えて、西方からの侵入説(西方系の遊牧民族の一派とみるもの)を水上静夫氏が唱えており、これもおそらく妥当であろう。この場合、西戎は東夷に通じる模様である。
鳥のトーテムとシャーマニズムの関係でいうと、もとの筑前国怡土郡にあたる糸島市有田の上鑵子遺跡では、鳥の羽飾りをつけた鳥装の司祭の絵を刻んだ木板が出ている。これは弥生中期頃からの遺跡とされる(奈良時代の製鉄跡もある)。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町大曲の瀬ノ尾遺跡(旧東脊振村域で、吉野ヶ里遺跡の東側の丘陵に位置)からも、羽飾りをつけた烏人とみられる絵を刻んだ弥生期の土器が出土した。吉野ヶ里遺跡の西方近隣、神埼市神埼町竹にある川寄吉原遺跡からも、頭に羽をつけた人物を刻んだ鐸形土製品や銅鏃が出た。韓国のシャーマン(巫師・祈祷師。「シャマン」とも表現される)は、今日でも雉の羽がついた帽子をかぶる。吉備でも、弥生中期頃の新庄尾上遺跡(岡山市北区御津新庄)から出た絵画土器には、鳥に扮した人(嘴とトサカ状の装飾がついた人)が描かれる。烏スタイの9シャーマンには山口博氏も注目するが(『大麻と古代日本の神々』、}、わが国の祭祀担当の忌部氏一族(中央及び阿波・安房に分布)は天日鷲命の後裔であった。
中国・吉林省南東部の集安市は高句麗の旧都だけあって、同市人民政府の庁舎前には高句麗の象徴である「三足鳥」(太陽に住むとされ、足が三本あるカラス。林巳奈夫氏は、実は龍山文化から伝統のある大型猛禽のイヌワシだという)の銅像が立つという。その案内板には「太陽鳥(三足鳥)は中国古代の伝説に登場する。高句麗の壁画の三足鳥は高句麗民族と中原民族が同じ太陽鳥を崇拝したことを示す」と書かれていた。現実に高句麗の古墳壁画に太陽の中に描かれた三足鳥が見られる。これは、わが国鴨族の祖・八咫烏にも通じ、三足鳥で描かれる。
イヌワシ(金雕)を現在でもトーテムとすることで知られるのが、中国・新疆ウイグル自治区に西隣する中央アジア・カザフスタンのカザフ族で、古代鳥孫の末后裔という(二〇一五年一月二九日のNHK第一テレビで、イヌワシを扱う少女鷹匠の話が「世界最古のイーグルハンターモンゴル・カザフ族」として放映された)。ウイグル族・タジク族や清朝(満州人)、エヴェンキ族・ホジェン族などのツングース種族も鷹をトーテムとした。鷹が天神テングリの使者であり、女人との間に生んだ男子が最初のシャーマンだと伝える(以上はネットの「百度百科」)。イヌワシをトーテムとする信仰が上古の華北文化に存在したとの指摘もある。四川省広漢市の三星堆遺跡(約三千年前の殷代晩期のものか)から発掘された青銅神樹(扶桑樹、太陽樹)の枝には九羽のイヌワシが止まっており、この鳥が太陽を表すとみられている。
太陽神の祭
鳥トーテミズムは、世界各地で太陽神信仰や鍛冶屋伝承に結びつくことが多い。中国の射日神話では、弓の達人・羿(ゲイ。后羿ともいう)が帝堯の命を受け、人々を苦しめる十個の太陽のうち、一つだけ残し九個の太陽を射落としたが、この射落された太陽の実体が三本足のカラス(火鳥)だつたという。鳥が霊魂を運ぶ太陽の使者だとする中国の神樹思想にも通じる。殷の王族は太陽の末裔だと当時考えられていた。十個の太陽(十日)は、帝俊(帝舜)と妻・義和との子とされる(『山海経』大荒南経)。なお、帝俊の妻・常羲(嫦娥)は天照大神に通じるともみられ、また、后の妻ともいわれ、これが月神ともされる。
わが国の天孫族もこの例に漏れず、鍛冶部族で鳥トーテミズム、太陽神祭祀をもった。皇祖神の天照大神が天岩戸に神隠れしたことで、高天原を含め世界が真っ暗になったという天岩戸神話が有名である。もっとも、こうした「日隠れ神話」は世界中にあり、上記の射日神話にも通じるから、わが国天孫族に限った話ではないが、天皇家が祭祀などで太陽神信仰セをもったことは疑いない。太陽神を祀る朝鮮半島・日本の巫覡に女性の数が多かったこともあり、これが推古・皇極・持統などの女帝出現とあいまって(推古女帝の出現が直接の契機か)、日本では太陽神が後に女性神に転化したが、原型は男性神であった。三浦茂久氏も、天照大神は本来、月神であったとみており、高天原神話に見える天照大神の機織りは月神の特徴だとされる(『古代日本の月信仰と再生思想』二〇〇八年刊)。
天照御魂神こと天照大神に代表される太陽神を、天皇家は伊勢皇太宮などで奉斎し、これに奉仕する日置部も天孫族の流れから多く出た。日置・日置部を名乗る氏には諸流あるが、応神天皇皇子の大山守王の後(『姓氏録』右京皇別)、忌部首の一族(同・未定雑姓和泉の日置部)や土師連の一族(出雲国造袋)などが知られる。
渡来系にも日置があって、高句麗に出自の日置造(左京・右京・大和・摂津の諸蕃)、日置倉人(大和諸蕃)の諸氏が「『姓氏録』に見える。こちら諸氏は高句麗の権臣・淵蓋蘇文(泉蓋蘇文、蓋金、伊梨柯須弥)の族裔であり、高句麗王家と同族の蓋(盖)氏の流れであった(遙かな遠祖は、天孫族と同じか)。この一族は、京都に居住して八坂造氏となり、祇園で牛頭天王ことスサノラヲ神を祭礼した。日本での先祖で、『書紀』斉明二年条に見える高麗の副使の伊利之とは、権臣の泉蓋蘇文の従弟の蓋須のことであった。その子孫には、日置造と八坂造との二大系統があって、後世に永くつながった。八坂造は後に紀朝臣氏と通婚し、紀姓を称した。泉蓋蘇文は高句麗五部のうちの順奴部の出で、父は東部大人、大対慮の宮職にあり、父の職務を承け高句麗軍事の大権を握り、主君栄留王と多数の支持者を殺害し、宝蔵王を擁立して大莫離支(宰���)にもなって、唐と対抗した。
天孫族の一派、鴨族の祖・鴨健角身命(天日鷲命ともいい、実体は少彦名神)は異名が「八咫烏」ともいわれる。その子孫が、神武の大和侵攻を先導した伝承のある八咫烏(先祖と同じ通称)であり、光り輝いて敵の戦意を消失させた金鵄にも化身した「(「金鵄=八咫烏」の平田篤胤等に同意。この「烏」の実態がイヌワシなら、後頭部の羽衣は光沢のある黄色で、英名〔Golden Eagle〕の由来でもある。林巳奈夫氏の著『中国古代の神がみ』では、青銅神樹に止まる「太陽の鳥」は、体つきから見ても、龍山文化から伝統のあるイヌワシだとする)。この八咫烏が、忌部首や日置部の遠祖でもあった。律令時代において、主殿寮に仕える名負五氏のなかに日置・鴨県主があり、日置氏と鴨県主が火を受け持つ類縁の間柄にあった。葛野郡の名神大社、木嶋坐天照御魂神社も鴨氏族の奉斎にかかる。
各地に多く針座する天照御魂神社は、祭神が物部氏祖神(饒速日命)とか天火明命だと受けとられることが多いが、基本的には皆、男神の天照大神のことである(穗積氏の伝えた系図には、天忍穗耳命の父として「天照御魂太神」と記される)。対馬の天道(天童)信仰も特徴的で(日ノ神、殻霊、祖霊の信仰という)、当地には扶余と同様な太陽感精神話も伝えられる。天孫族は渡来の経路として一族や祭祀・習俗を対馬に遺した。「国造本紀」には、津嶋縣直をあげ、始祖の建弥己己命は高魂尊の五世孫で、橿原朝(神武天皇)の頃に置かれたと記される。この官の設置の時期はに早すぎるが、系譜は出雲国造の同族の出であった。
太陽神信仰と鳥トーテミズム・卵生神話が合わされば、霊山信仰・霊鳥伝承や「天帝」の子孫の降臨・天降りやゃ国見の伝承にもつながる。広く伽耶まで含む東北アジア地方諸国の王家や天皇家について、祖先が高山(ないし、その山頂の高い樹)に降臨したという伝承が多い。それ故に、これら各々の国の聖山(新羅の吐含山、百済の北漢山〔高木山〕、金官伽耶の亀旨峰〔金海の亀山洞〕、大伽耶の伽耶山や、日本のクシフル岳(糸島市の高祖山のことで、原田大六などが言う。南九州の日向国ではない〕)として祭礼対象とされる例が多い。匈奴や鮮卑(遼西の朝陽付近の弾汗山)・烏丸、扶余などでも各々が聖山をもち、山上祭天の儀式をした。『三国遺事』には、天帝桓因の子、桓雄は父から三つの天符印(「鏡・剣・鈴」という)を授かり、大勢を率いて太伯山(今の妙香山〔平壌の東北方〕とされる)の頂上の神檀樹の下に天降っており、その教示に基づき人間になることに成功した「熊女」(熊トーテム族の女性と解する李丙燾氏に同意)との間に檀君を生んだ、という神話が見える。新羅の脱解王は、高麗時代にも「東岳神」と言う山神として祀られた。東嶽(東岳)とは、慶州市街地の東方の吐含山のことであり、新羅五嶽のうちに数える同市の最高峰で、日本海を展望できる護国の鎮山として神聖視され、天に祭祀を上げた聖山として知られる。脱解については、日本列島の出身で海路到来と伝えられ、天孫族や天日矛と同族の出とみられる(後述)。
ここまで、天孫族の祖系や祭祀・習俗などを見てきたが、天皇氏族の特徴的なもののうち、主に考古遺物・遺構などに絡まる関係は次の章で見ることにしたい。
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各地句会報
花鳥誌 令和5年12月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年9月2日 零の会 坊城俊樹選 特選句
売られゆく親子達磨の秋思かな 三郎 初秋の六区へ向かふ荷風かな 佑天 浅草にもの食ふ匂ひして厄日 和子 秋の風六区をふけばあちやらかに 光子 蟬一つ堕つ混沌の日溜りに 昌文 中国語英語独逸語みな暑し 美紀 神谷バーにはバッカスとこほろぎと 順子
岡田順子選 特選句
ましら酒六区あたりで商はれ 久 レプリカのカレーライスの傾ぐ秋 緋路 鉄橋をごくゆつくりと赤とんぼ 小鳥 ぺらぺらの服をまとひて竜田姫 久 橋に立てば風に微量の秋の粒 緋路 秋江を並びてのぞく吾妻橋 久 提灯は秋暑に重く雷門 佑天 浅草の淡島さまへ菊灯し いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月2日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
さざなみの落暉の中の帰燕かな 睦子 流木を手に引き潮の夏終る 同 無干渉装ふ子等や生身魂 久美子 秋暑し右も左も行き止まり 愛 秋の虹までのバス来る五号線 同 バスを降りれば露草の街青し 同 投げやりな吹かれやうなり秋風鈴 美穂 先頭の提灯は兄地蔵盆 睦子 なりたしや銀河の恋の渡守 たかし 指で拭くグラスの紅や月の秋 久美子 くちびるに桃の確かさ恋微動 朝子 法師蟬死にゆく人へ仏吐く たかし 息づきを深め白露の香を聞く かおり 燕帰るサファイアの瞳を運ぶため 愛
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月4日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
恐ろしき事をさらりと秋扇 雪 美しき古りし虹屋の秋扇 同 秋扇想ひ出重ね仕舞ひけり 千加江 秋扇静かに風を聞ゐてみる 同 鵙高音落暉の一乗谷の曼珠沙華 かづを 秋夕焼記憶に遠き戦の日 匠 補聴器にペン走��音聞く残暑 清女 夕闇の迫りし背戸の虫を聞く 笑 秋扇閉ぢて暫く想ふこと 泰俊 曼珠沙華情熱といふ花言葉 天空
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月6日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
片足を隣郷に入れて溝浚へ 世詩明 野分中近松像の小さかり ただし 吹く風の中にかすかに匂ふ秋 洋子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月7日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
何事も暑さの業と髪洗ふ 由季子 染みしわの深くなり行く残暑かな 都 膝抱き色なき風にゆだねたり 同 秋の灯を手元に引きてパズル解く 同 のど元へ水流し込む残暑かな 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月9日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
枯蟷螂武士の貌して句碑に沿ふ 三無 籠に挿す秋海棠の朱の寂し 百合子 一山の樹木呑み込み葛咲けり 三無 風少し碑文を撫でて涼新た 百合子 守り継ぐ媼味見の梨を剥く 多美女 葛覆ふ風筋さへも閉ぢ込めて 百合子 かぶりつく梨の滴り落ちにけり 和代 秋雨の音の静かに句碑包む 秋尚 梨剥いて母看取り居ゐる弟と 百合子 たわわなる桐の実背ナに陽子墓所 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月11日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
登り来て峙つ霧を見渡せり エイ子 太鼓岩霧に包まれ夫と待ち のりこ 秋茄子の天麩羅旨し一周忌 エイ子 秋茄子の紺きっぱりと水弾き 三無 散歩道貰ふ秋茄子日の温み 怜 朝の日の磨き上げたる秋茄子 秋尚 山の端は未だ日の色や夕月夜 怜 砂浜に人声のあり夕月夜 和魚 四百段上る里宮霧晴るる 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月11日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
星月夜庭石いまだ陽の温み 時江 サングラス危険な香り放ちけり 昭子 団子虫触れれば丸く菊日和 三四郎 羅の服に真珠の首飾り 世詩明 無花果や授乳の胸に安らぐ児 みす枝 蜩に戸を開け放つ厨窓 時江 秋立つやこおろぎ橋の下駄の音 ただし 曼珠沙華好きも嫌ひも女偏 みす枝 長き夜を会話の出来ぬ犬と居て 英美子 妹に母をとられて猫じやらし 昭子 長き夜や夫とは別の灯をともす 信子 蝗とり犇めく袋なだめつつ 昭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月12日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
鳳仙花見知らぬ人の住む生家 令子 秋の灯や活字を追ひし二十二時 裕子 露草の青靴下に散らしたる 紀子 父からの裾分け貰ふ芋の秋 裕子 かなかなや女人高野の深きより みえこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月12日 萩花鳥会
秋の旅ぶんぶく茶の茂林寺に 祐子 胡弓弾くおわら地唄の風の盆 健雄 大木の陰に潜むや秋の風 俊文 月今宵窓辺で人生思ひけり ゆかり 天に月地に花南瓜一ついろ 恒雄 月白や山頂二基のテレビ塔 美恵子
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令和5年9月12日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
蜩や五百羅漢の声明に 宇太郎 我が庭は露草の原湖の底 佐代子 水晶体濁りし吾に水澄める 美智子 手作りの数珠で拜む地蔵盆 すみ子 蝗追ふ戦終りし練兵場 同 病院を抜け出し父の鯊釣りに 栄子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月15日 さきたま花鳥句会
虫しぐれ東郷艦の砲弾碑 月惑 熱帯夜北斗の杓の宵涼み 八草 兵の斃れし丘や萩の月 裕章 夕刊の行間うめる残暑かな 紀花 校庭に声もどりをりカンナ燃ゆ 孝江 八十路にもやる事数多天高し ふゆ子 子供らの去り噴水の音もどる ふじ穂 杉襖霧襖越え修験道 とし江 耳底に浸みる二胡の音秋めけり 康子 敬老日いよよ糠漬け旨くなり 恵美子 重陽の花の迎へる夜話の客 みのり 新涼の風に目覚める日の出五時 彩香 鵙鳴けり先立ちし子の箸茶碗 良江
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令和5年9月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
昼の星遺跡の森を抜けて来て 久子 曼珠沙華もの思ふ翳ありにけり 三無 いにしへの子らも吹かれし秋の風 軽象 明け六つの鯨音とよむ芒原 幸風 秋の蟬さらにはるけき声重ね 千種
栗林圭魚選 特選句
朝涼の白樫の森香の甘し 三無 莟まだ多きを高く藤袴 秋尚 艶艶と店先飾る笊の栗 れい 榛の木の根方に抱かれ曼珠沙華 久子 揉みし葉のはつかの香り秋涼し 秋尚 風に揺れなぞへ彩る女郎花 幸風 秋海棠群がるところ風の道 要 秋の蟬さらにはるけき声重ね 千種
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月20日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
江戸生れ浅草育ち柏翠忌 世詩明 神谷バーもつと聞きたし柏翠忌 令子 柏翠忌句会横目に女車夫 同 旅立たれはやも四年となる秋に 淳子 桐一葉大きく落ちて柏翠忌 笑子 虹屋へと秋潮うねる柏翠忌 同 言霊をマイクの前に柏翠忌 隆司 若き日のバイク姿の柏翠忌 同 一絵巻ひもとく如く柏翠忌 雪 柏翠忌旅に仰ぎし虹いくつ 同 柏翠忌虹物語り常しなへ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月24日 月例句会 坊城俊樹選 特選句
秋天を統ぶ徳川の男松 昌文 秋の水濁して太る神の鯉 要 眼裏の兄の口元吾亦紅 昌文 秋冷の隅に影おく能楽堂 政江 群るるほど禁裏きはむる曼珠沙華 順子
岡田順子選 特選句
身のどこか疵を榠櫨の肥りゆく 昌文 カルメンのルージュみたいなカンナの緋 俊樹 口開けは青まはし勝つ相撲かな 佑天 光分け小鳥来る朝武道館 て津子 蓮の実の飛んで日の丸翩翻と 要
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年8月2日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
炎天下被るものなき墓の石 世詩明 夫恋ひの白扇簞笥に古り 清女 野ざらしの地蔵の頭蟬の殻 ただし 一瞬の大シャンデリア大花火 洋子 三階は風千両の涼しさよ 同 素粒子の飛び交ふ宇宙天の川 誠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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信楽へ
草津線 電車が入ってきました。
貴生川駅の近江線。彦根に行けるのか。徐幹があれば乗ってみよう!
貴生川駅の階段。忍者がいます。
信楽高原鐵道 ディーゼルが入ってきた。観光客が10数人。カメラ持ってる人も。鉄道ファンかな。
信楽といえばたぬき!
車内から。結構登ってきます。いつも信楽が近畿の最低気温の紹介があるのが、わかる気がします。
短い時間の鉄道の旅でした。
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人生初の有馬温泉
有馬温泉といえばコレ!!
有馬兵衛の向陽閣へ!!
貝塚市水間町 新築 リフォーム坂口建設
泉州のおっちゃんおばちゃんにはおなじみ、
サンテレビで子供の頃にせんど聞いたコマーシャルソング、
グランシャトーやハトヤの大漁苑、未だになにか切っ掛けさえあればすぐにでてきて「口遊ん」でしまいます。
「くちずさむ」ってこんな漢字書くんですね。
その1つに この代表的なCMが
youtube
「有馬兵衛の向陽閣へ!」
今日はジュディーのお母ちゃん、有馬に行ったことないから死ぬ前に1回行ってみたいということで日帰り温泉旅行に。
昨年義理の父が亡くなり何かと気忙しく過ぎ去った日々、やっと落ち着きも見えて、みんなで行くかと。
コマーシャルでそのまま歌ってたけど、そういえば「ひょうえい」てなんやとぼんやり思ってたら、これも名前やったんや!
知らなんだw
日本三名泉といわれ草津温泉、下呂温泉と並び、
また日本三古泉では道後温泉、白浜温泉と1300年前の日本書紀にも登場する有馬温泉。
大阪人にとっては太閤秀吉さんが湯治に通ったとしても有名な温泉!
そやのに泉州でも生まれてこのかた1回も行ったことない人って多くないですか?
坂口家だけ???(^_^;)
まぁ、私が幼い頃は南泉州の人間は白浜行きのビザしか発行されてなくてね、
南泉州人は兵庫県との国交が断絶してまして、入国できなかったんでしたね(^_^;)
特に泉ナンバーの車両はねw
知らんけどw
でもね、今日は朝9時過ぎに家を出て到着が10時30分と結構近いですね。
��馬温泉って言わずと知れた金泉と言われ鉄分が混じった茶色のお湯が有名ですが、銀泉と言われラジウム泉も有名らしい。
お風呂に入って
美味しい食事
そして有馬といえばテレビで出てくる町並みと
やっぱり焼きたての炭酸せんべいですかね。
せんべいはうまし、安定の味!
でも言うもんの、あんまり見るとこないのよね(^_^;)
まぁ 母は大満足で、金泉入って200歳まで生きるらしい!
うちの小ザビエル君はテーブル下でなんかゴソゴソして怒られてます。
家族仲良うしてるのが1番の世界平和ですかね。
いったことない方は是非一度、兵衛向陽閣に日帰り温泉旅行いってみてくださいませ。
また紅葉も始まりそうですからね。
今週も頑張っていきましょう。
貝塚市 岸和田市 泉佐野市 泉大津市 和泉市 泉南市 阪南市 熊取町 忠岡町 田尻町
天然素材スイス漆喰カルクオウォール
リボス自然塗料取扱店
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study abroad diaries 〜番外編〜
みなさんこんにちは☀️ 人間科学部3年の川嶋健悟こと「けんけん」です!今回はイタリアでの3週間に渡る教育ボランティアとしての活動の日々を少しでも共有できたらなと思います!留学とは一味違ったものになるので海外で働いてみたい!って人は是非とも参考にしてみてください〜!
私は2023年の夏に約3週間、イタリアのローマにボランティアに行ってきました🇮🇹 留学でも良かったのですが、現地のコミュニティに入れる点や海外の子供との交流ができる点が魅力的だったのでボランティアにしました。国はいくつか選択肢があったのですが、「ヨーロッパに行きたい」というエゴと「英語を母語としない国」という2つの観点でイタリアにしました!イタリア語に関しては渡航が決まってから日常会話や汎用表現などは勉強したくらいです。
今回は①イタリア/ローマについて ②ボランティア内容 の2つのセクションに分けてお話しします!
(Fountain di Trevi / 人が多過ぎて、コインを投げる余裕はないです。)
【① イタリア/ローマについて】
イタリアはとにかく日差しが異様に強い!! でも湿度は低めなので日陰は結構快適です。また夏は日照時間がとっても長くて、6:00~20:00で日が昇っています🌞 私は朝型人間なので1番暑い時間帯に行動していましたが、一般的には日が傾き始める16:00くらいから活動を開始するらしいです。なので水の持ち歩きは必須!! もし飲み干してしまったとしても街中には水を汲める場所がたくさんあるので、それを使っていました。ちなみにトレビの泉でも汲めます。
主な交通手段はバス・電車・タクシーでした。でもバスが時間通りに来ないのは日常茶飯事。1つが遅れると乗り換えもスムーズに出来ないのでgoogle mapで立てた全てのプランが崩れます。通常は45分で行けるところが90分かかることはザラにありました笑 しかもたまに予定より早く来るため、時間通りに行ったら次の便まで待たされることも… だから時間通りに行きたい場合はタクシーを使うことをオススメします🚕 ちなみに自分は空港からタクシーでキャンプに向かったのですが、150km/hでハイウェイを飛ばされる上、通常の5倍の金額をぼったくられました。許さん。でもアプリを使って呼べば基本どこでも来てくれる上、先に料金がどれくらいかかるのかを知ることができるので安心でした。
ちなみに裏話ですがイタリアではバスや鉄道の支払い方法がとっても雑で、ほとんどの人は無賃乗車をしています。私も買おうとはしたもののバスでは買えず、見渡しても何もなかったため結局買えませんでした。でもバレませんでした。現にバスでも刻印機にチケットをかざす人は5人くらいしかいませんでした。稀に係員が確認しに来て、もしバレたら56ユーロの罰金らしいです。5日以内に払わないと106ユーロに跳ね上がるので気をつけてください。
治安は本当に場所によりけりですが、観光地にはミサンガや帽子を押し売りする人がいました。一度話しかけられましたが、イヤホンをしていたのでそのまま逃げ切りました。スリも多いと言われているのですが、荷物を前にして持っておいたり南京錠をつけておいたりすることで防げました。夜はその数が増えるみたいなので、不安な人はあまり夜に動かないようにすると良いと思います。また夜は出来るだけ複数人で行動した方が安心です。
泊まるところはこんな感じで、なんと無料で10時間使えるプールもついており、毎日多くの人で賑わっていました🏊 プールでは常にEDMがガンガン流れていて、パリピだなと思いました。他にもボランティアであれば無料で使えるレストラン、食料を確保できるマーケット、ランドリーなどかなり充実してました。よくレストラン前でライブが開かれていて、常に賑やかでした。 ちなみに今もプール近くでフルーツ片手にこの記事を書き進めています。
(こういうロッジ?に2人で泊まりました!
ルームシェアだとより多くの時間英語を話せる一方で、1人の時間を確保しづらいという点があります。)
最初の週はフリーだったため、ローマ市街へ行ってきました!
訪れた場所は以下の通りです!
・Starbucks Montecitorio (東京と同じくらいたくさん並んでました)
・Pantheon/パンテオン
・Fontana di Trevi/トレビの泉 (後ろ向きにコイン投げると人に当たるくらい混んでいました)
・Piazza Navona/ナヴォーナ広場
・Monumento a Vittorio EmanueleⅡ/ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂
・Piazza Venezia/ヴェネツィア広場
・Foro Romano/フォロ・ロマーノ (世界史好きなら絶対行くべき!!)
・Colosseo/コロッセオ
・Arco di Constantino/コンスタンティヌスの凱旋門 (コンスタンティヌス帝懐かしかった)
・Castel Sant’Angelo/サンタンジェロ城
・Piaza di Spagna/スペイン広場 (近くにある Limon'è というマーケットはおすすめ!)
至る所にジェラート屋があって、どこもありえんくらい美味しかったです。基本的にはカード決済が主流だったので、支払いはカードを使っていました。
(激アツすぎたコロッセオ)
(Limon'èの丸ごとレモンジェラートはめちゃくちゃ美味しかったです🍋)
【② ボランティア内容】
私はIVHQという仲介団体を通して、ImpacTripという団体のYouth Supportのプログラムに参加しました。
最初の月曜日にオリエンテーションがあり、活動概要の説明やイタリアの文化に関するレクチャー、他のボランティアとの交流などがありました。ボランティアは自分含めて10人くらいいて、国籍はアメリカ、イギリス、フランス、ジャマイカ、メキシコ、ベネズエラ、イタリア、中国、カナダの人がいました。職業も小学校の先生から放射線技師、高校生まで多岐に渡っていました。Youth supportの場合は「教育に携わっている人」や「子供が好きな人」が多かった印象があります。各国の教育事情や問題意識を共有できたので、とても有意義でした。
最初の週はFerragosto(イタリア版お盆)らしく、この日を含む週は国全体が夏休みとなるので、私はAnimal Careに2日間、Farmingに2日間参加しました。
Animal careのメンバーの国籍はアメリカ、イギリス、フランス、メキシコで、みんなでシェルターに行きました。そこには保護された猫が260匹もいて、彼らの餌替えや部屋の清掃などをさせていただきました🐈 と言っても割と早めに終わり、あとは猫と戯れたりボランティア同士で各国比較の話をしたりしてました。
(Animal Shelterの敷地内にある廃病院探索🏥 血液検査や歯型がまだ残っていました笑)
Farmingは近くにある農場?的なところで植物への水やりや雑草刈りなどをしました。これは2時間くらいで終わりました。めちゃくちゃホワイト企業です。
基本的に自分は朝のシフトに参加していたので8:30前後にキャンプを出て、13:00くらいに帰ってきてた感じです。ボランティア後は完全にフリーだったので廃病院を探索したり、ローマ市内を探索したりしてました。結構自由時間が多くて、気楽でした笑
Animal CareもFarmingもめちゃくちゃ蚊や蜂が多かったこと以外は楽しかったです!全ての指示や会話が英語 (たまにイタリア語)で出されるため、聞き取るのにめちゃくちゃ苦労しました…
[平日の主な活動時程]
6:30 起床
7:30 敷地内のレストランで朝ごはん
9:00 キャンプを出る
10:00 朝のシフト
14:00 ランチ
15:00 午後のシフト
19:30 レストランで夜ご飯
20:00- 自由時間 (部屋でのんびりしたり、洗濯したり…)
22:30 就寝 (イタリアでも健康生活を続けました。)
2週目にYouth Supportに参加しました。学校的なところに行くのかなと思いきや、Summer Campの一環で屋外教室?みたいなところに行きました。小学生くらいが大半で、一緒に遊んであげる感じでした。何かマニュアルがあるのかなと思いきや、ボランティアがなんでもやっていいそうで、一緒にボランティアに来ていたアメリカの音楽の先生は楽器を使って合奏を行なっていました。私は折り紙を持ってきていたので紙飛行機大会を開いてみました。また別の日にはボランティアと協力し、イタリア語-英語-スペイン語-日本語での表現や言語レッスンをしました。みんなにとって「日本」は非常に物珍しかったらしく、興味津々で聞いてくれました。彼らはイタリア語しか話せなかったので、簡単な英語やボディランゲージで意思疎通をとっていました。また思ったこととして、子供の遊びがクリエイティブで身の回りのものを使った遊びをたくさんしていて面白いなと思いました。1週間しかYouth Supportには参加できませんでしたが、かなり仲良くなれたと思います!
(アメリカの音楽の先生と子供たちによる合奏)
(みんな折り紙を気に入ってくれました!!)
(最終日には子供たちがハグしてくれました!!)
キリが良いのでこの辺で終わろうかと思います。
「非英語圏へのボランティア」を通して、その地域のコミュニティに入ることができたのはとても良かったなと思いました。また良い意味で忖度なしの英会話に触れることができたのも非常に有意義な経験でした。その上で自分からも日本のことについて発信する機会がとても多く、学び直しが必要だなと痛感しました。近々仲良くなったボランティアが日本に来るらしいので、もう一度日本のことを学び直そうと思います。
書ききれていないことも多々あるので、もし何かあればいつでも聞いてください!
最後まで読んでくださった方々に感謝申し上げます。
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