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#若狭三方縄文博物館
brackheracles · 2 years
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道の駅三方五湖にて 朝散歩🐾 #corgi #コーギー #brackheracles #myphoto #道の駅三方五湖 #若狭三方縄文博物館 (Japan) https://www.instagram.com/p/ClIflLpJmqF/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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abiruman47 · 2 years
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先週末は… 福井の若狭町でにて挙行された『縄文キャンプ』- JHOMON🏕CAMP に Let's la go🛻💨 普段はキャンプは出来ない場所でのキャンプで… 今回で去年に続いて2回目だそうです🎪 火起こし体検あったり、黒曜石体検あったり、激ウマスパイスカレーを頂いたり、けん玉したり、スラックラインしたり、鹿肉焼いたり、焚き火したり、で 飲んだくれたり🍻 また夜には #若狭三方縄文博物館 では『ハロウィンナイトミュージアム🎃👻』もありましたよぉ♪ 年1開催は勿体無い🤣 是非とも3ヶ月に一回、お願いいたします🙇‍♂️ #福井県 #若狭町 #wakasa #三方五湖 #三方湖 #湖畔 #縄文ロマンパーク #dokidoki会 #湖畔キャンプ #abiyoshi_gear #新型キャンプウイルス #ダイハツ #ハイゼット #S201P (縄文ロマンパーク) https://www.instagram.com/p/CkYCpjCJYW-/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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papatomom · 5 years
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2200224(月)
「若狭三方縄文博物館」と「年鎬博物館」 同じ敷地にあります。今回は時間がなくてゆっくり見ることができなかったけれど、結構よかった。 「若狭三方縄文博物館」の縄文人制作?の土器の「さかな」と「かえる」の展示物。面白いね!それと小さな土偶のお土産とか売ってて、ほしかったな! 「年鎬博物館」では皆さん学芸員にいろいろ聞いて説明を受けてました。地球環境について関心が高いんですね。
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takumiligand · 4 years
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今日は三方五湖の博物館巡りへ。 年縞博物館の建築を見に行ったんやけど、考古学に引きずり込まれました。隣の縄文博物館もセットで堪能しました。ランチの時間を過ぎたので帰ってきて、すじコン炊いて、豚バラブロックでチャーシュー2種類仕込んで、糠床仕込んでと食べる事に関しては面倒くさいと思う事ほぼないねんな〜。 出張中に精神を病むのは嫌やから本能の赴くまま呑み食いするのが健全なんやでって話し。 #福井県年縞博物館 #若狭三方縄文博物館 #うなぎ食べたかったなぁ #ストレスで太る #馬鹿にしてたけど #今ならわかる気がする #出張めし #出張中自炊 https://www.instagram.com/p/CMHIkUBjMdt8_3fWZl19boQnNPj5qPlhUFjblw0/?igshid=1kof0eqnfdtm9
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utapan · 5 years
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午後は道の駅を巡りつつ、 久しぶりの場所へ。 若狭三方縄文博物館。 私は数年前に来たことがあるけど、 旦那さんは初めてなので入ってみました‼︎ そしたら、何と敷地内に年縞博物館が新しく出来てて、 こちらも行ってみました‼︎ 前回、縄文博物館に来た時に長谷先生に年縞について詳しくお話ししてもらってたので、 なんとなくわかってはいましたが、 今回は館員の方?が側について丁寧に説明して下さり、 さらに色々知ることができ、 興味深く拝見しました。 うまく説明出来ないですけど、 すごいところでした😁 #福井珍しく海三昧じゃない旅 #福井県年縞博物館 #年縞のステンドグラス #若狭三方縄文博物館 https://www.instagram.com/p/B0Nlu6EFKZx/?igshid=1wx4fogu39gif
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mokuson2015 · 4 years
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若狭三方縄文博物館
2020.09.14
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shibaracu · 4 years
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●歴史まとめ
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●歴史まとめ ◆民衆の思い積んだ行基の十三重土塔(堺市) 古きを歩けば(15)2012/1/10 https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37578820W1A221C1000000/ 歴史博士 堺市郊外の住宅地に、瓦で包まれた奇妙な小山がそびえ立っている。土で築いた階段状の仏塔、土塔(どとう、国史跡)だ。奈良時代の僧、行基が故郷の和泉監大鳥郡に築き、全面が瓦で覆われていたという、国内に類例がほとんど無い珍しい遺跡だ。 往時には7万枚の瓦 堺市にある国史跡・土塔。ピラミッドの頂部を切り取った形をしている ピラミッドの頂部を切り取った形状をしており、一辺約53メートル、高さは約9メートル。麓から頂部まで13の段が重なる「十三重塔」で、土を盛り上げ、往時は7万枚を超す瓦で表面を覆っていたとみられる。 発掘調査では庶民を中心に幅広い層の名を刻んだ瓦が出土。 多くの人々がこの塔の建立に携わった様子が浮かび上がった。...1/3   ◆大阪に「都」があった7世紀難波宮跡(大阪市) 古きを歩けば(14)2011/12/20 https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37262320U1A211C1000000?channel=DF280120166609&style=1 歴史博士 大阪はかつて首都だった。7世紀に「大化の改新」として知られる政治改革の舞台となり、官庁を集約して建て並べるなど先進的な構造の難波宮(なにわのみや)が造営された。この遺跡を守り伝���ようとする研究者や市民の取り組みは、今も続いている。 大極殿の基壇が復元された難波宮跡公園。演奏会の練習やペットの散歩など市民の憩いの場となっている(大阪市中央区) 古代から現代まで一望 大阪府庁の近くに緑に包まれた広々とした公園がある。犬を連れて散歩する人、楽器の練習をする人。この都心部にぽっかりあいた空間が難波宮跡だ。北隣には大阪城があり、その向こうに高層ビル群が見える。「ここでは大阪の古代、中近世、現代が一望できます」。30年以上、調査に携わってきた大阪市教育委員会研究主幹の植木久さんはこう話す。...1/3   ◆戦国耐えた仏 伝え続ける守り人赤後寺(滋賀県長浜市高月町) 古きを歩けば(13)2011/12/13 https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37052230W1A201C1000000?channel=DF280120166609&style=1 歴史博士 厨子(ずし)の扉が開くと、痛ましい2体の仏像が現れた。9世紀の十一面千手観音は42本の腕のうち残るは12本だけで、頭上にいただいていたはずの十一面もない。10世紀の聖観音も手首から先がない。滋賀県長浜市高月町の赤後寺(しゃくごじ)の仏は、戦国の傷を今に伝える。...1/3   ◆鳥獣に乗る菩薩と13歳の願い 古きを歩けば(53) 観智院(京都市) https://style.nikkei.com/article/DGXNASHC02044_X00C13A5000000?channel=DF280120166609&style=1 獅子、象、馬、孔雀(くじゃく)。動物園の光景ではない。インド神話の鳥類の王、迦楼羅(かるら)も加えた5体の像が、背中に智恵をつかさどる菩薩(ぼさつ)を乗せている。京都市南区の観智院は、鳥獣座に乗る珍しい五大虚空蔵菩薩像の本尊で知られる。...1/3   ◆STORY5 古代国家を支えた下毛野氏基盤の地 宇都宮の歴史と文化財 https://utsunomiya-8story.jp/story/story5/ 倭の五王の時代のうつのみや 大和王権が力を伸ばしていた5世紀、日本最大の大仙古墳が造られます。このころ、うつのみやの地でも市内最大の笹塚古墳が造られます。全長105mの前方後円墳です。埴輪、葺石、二重の周掘をもつ古墳です。この場所は現在のインターパーク付近で、近くでは豪族の居館跡や大規模な集落跡が見つかっており、当時、この地域の中心であったと考えられます。   ◆倭の五王は、いつの天皇なのか? - 歴史まとめ.net https://rekishi-memo.net/kofunjidai/wa_no_goou.html 5世紀、当時の日本の大和王権は中国南朝の「宋」と外交関係を持ち、倭国王に冊封された。 当時の中国の歴史書「宋書」倭国伝には、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)といわれる五人の倭王(倭の五王)が、約1世紀の間に使者を派遣した事が記されている。 これらの王を、日本側の史料である「古事記」による天皇と照らし合わせると、讃=仁徳or履中、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略の各天皇ではないかと推測される。 最初の二人、讃と珍は事実であるか疑わしい推測なのだが、済・興・武の三人に関しては、現在、確実視されている。 最後の武の雄略天皇が、敵対する有力豪族たちを滅ぼし、天皇の権力を強化させてた。 そして、武を最後に、宋への遣使は派遣されていない。   ◆古代国家支えたメガ「王墓」 造山古墳(岡山市) 古きを歩けば(10) https://style.nikkei.com/article/DGXBZO36504410V11C11A1000000/ ■全国最大級のスケール 岡山市に“全国最大”を誇る前方後円墳、造山古墳がある。墳丘長は約350メートルで全国4位。ただ大阪府にある上位3つの古墳はいずれも宮内庁が管理する陵墓で、一般の立ち入りが禁止されている。自由に立ち入れる古墳では、造山が最大というわけだ。...1/3   ◆145年前に見る「丸腰の安全保障」の教訓 古きを歩けば(54) 土佐 .. https://style.nikkei.com/article/DGXNASHC1301A_V10C13A5000000 2013/05/21 現在でも起こりうる国同士の偶発的な軍事衝突。乏しい情報や丸腰に近い安全保障体制の下では、どんな結末を迎えるのか。さらに、政権移行期の混乱が加わったら……。 ■フランス兵を制止した土佐藩士 宝珠院境内にある土佐藩士11人の墓 ひとつの答えが1868年2月の堺事件にある。連座し切腹を命じられた土佐藩士11人の墓は堺市の宝珠院の系列の宝珠学園幼稚園(宿屋町東3)の一角で、180人の園児の歓声に包まれ、移り行く時代を静かに見守る。墓石は砂岩で風化が進んだ部分もあるが、「土佐」「二十五歳」などの文字が読み取れる。幼稚園でも毎年2月には「烈士祭」を実施、園児らが並ぶ墓石に小さな手を合わせているという。...1/3   ◆忠臣蔵、410年目のお城再興 赤穂城(兵庫県赤穂市) 古きを歩けば(12) https://style.nikkei.com/article/DGXBZO36889450Q1A131C1000000/ 1701年、藩主の浅野長矩が江戸城内で刃傷事件を起こし切腹――。急を知らせる使者到着から城明け渡しまで、赤穂の1カ月の動きは忠臣蔵の前段のヤマ場だ。その舞台、赤穂城は明治期に廃城となったが、約40年前から往時の姿への復元が進んでいる。...1/3   ◆大阪に「都」があった7世紀 難波宮跡(大阪市) 古きを歩けば(14) https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37262320U1A211C1000000/ 大阪はかつて首都だった。7世紀に「大化の改新」として知られる政治改革の舞台となり、官庁を集約して建て並べるなど先進的な構造の難波宮(なにわのみや)が造営された。この遺跡を守り伝えようとする研究者や市民の取り組みは、今も続いている。...1/3   ◆元寇船や人骨…歴史塗り変える発見、ハイテクで実現 https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37785720V00C12A1000000/ 東日本大震災と原発事故に揺れた2011年。大きなニュースの陰に隠れがちだったが、考古学会では我が国の歴史を塗り替えるような大発見が相次いだ。長崎県松浦市鷹島(たかしま)沖での元寇船のほぼ原形をとどめた形での発見、福井県若狭町の鳥浜(とりはま)貝塚遺跡での世界最古の漆の枝の発見、沖縄県石垣島(石垣市)の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡での日本最古の人骨の発見――。いずれも日本史の謎の部分を解き明かしたり、日本文化や日本人のルーツにかかわる通説を覆したりするかもしれない発見。この一連の「世紀の発見」を可能にしたのは、考古学とは直接関係のない資源工学や理化学の分野で使われているハイテク技術だ。...1/5   ◆アルバート・パイク - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/wiki 弁護士。フリーメイソン。南北戦争時の南部連合の将軍。 フリーメイソンの正装を着たパイク(1865-1880年頃)。 秘密結社フリーメイソンに所属していたと言われている。「メイソンの黒い教皇」とも呼ばれている。古代や東洋の神秘主義を研究して、構成員を増やした[要出典]。オハイオ州シンシナティに本拠地にしていた「ゴールデン・サークル騎士団」の名前を変えたと言われる。また1871年、イタリアのフリーメイソンのジュゼッペ・マッツィーニ(イタリア建国の父)に送った手紙には、第一次世界大戦と第二次世界大戦、更に第三次世界大戦についての計画が記されていたという説が陰謀論者の間で広がっている。   ◆武市半平太〜その栄光と挫折 https://ryo-ma.net/ryoma-hanpeita 月形龍之介 「月様、雨が…。」 「春雨じゃ。濡れて参ろう。」 これは、戦前、舞台や映画で大流行した、行友李風(ゆきともりふう)作の戯曲『月形半平太』の有名な一節です。   ◆武市半平太〜その栄光と挫折 | 「龍馬はん」/嶺里ボー - Part 2 https://ryo-ma.net/ryoma-hanpeita/2 土佐勤王党結成 しかし半平太は、あくまで一藩勤王の実現を目指すべきだと自重を促しました。 これによって吉村虎太郎は脱藩、それに続くように坂本龍馬や沢村惣之丞も脱藩します。 半平太は、その龍馬の脱藩について後に「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴。   ◆坂本龍馬人物伝 「土佐の国にはあだたぬ奴だ」と http://bit.ly/y3xCON 坂本龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は幕末、日本の政治家・実業家として活躍しました。 28歳の時に土佐藩を脱藩。その事を聞いた同じ土佐藩の武市瑞山は「土佐の国にはあだたぬ奴だ」といった。「あだたぬ」とは土佐弁で包容しきれぬ人という意味です。その後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、幕末の志士として活動しました。 司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている   ◆聖徳太子が歴史から消える日~ 『世界一受けたい授業』河合敦さんが教える、日本史教科書のミステリー 河合 敦 歴史研究家 多摩大学客員教授 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48884 あの聖徳太子は別の人?? 「聖徳太子は、推古天皇の摂政として冠位十二階、十七条の憲法を制定し、遣隋使の小野妹子を派遣した」 「日本で一番大きな古墳は、仁徳天皇陵である」 「日本最古の貨幣は、和同開珎である」 「鎌倉幕府の創立は1192年」 みなさん、これらの文章を読んでどう感じましたか。懐かしいなあ。そうそう、昔一生懸命憶えたよ。…そんな感想を持った読者も多いかも知れません。 もしもあなたが、この文章に何の違和感もおぼえないとしたら、あなたが学校で学んだ歴史は、もう時代遅れと言わざるをえません。.....1/4   ◆あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ  ここまでわかった!「日本史」の最新常識 山岸 良二 : 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師 https://toyokeizai.net/articles/-/118796 2016/05/25 10:00 かつて「伝説の学習参考書」と呼ばれた名著をご存じだろうか。1973年に初版が発行され、多くの受験生のバイブルとして版を重ね続けてきた『大学への日本史』である。 作家の佐藤優氏も、外交官時代、「座右の書」として肌身離さず持ち歩き、何度も読み返してきた。その学習参考書が今回、装いも新たに『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』、『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わった。 特長は、リニューアル復刊にあたって、監修者が全編チェックして「古い学説」は改訂し、最新の研究成果によって以前の内容にはなかった「新たな歴史の常識」も数多く盛り込まれ、「いま使える内容」になっていること。 本連載では、同書の監修を担当した東邦大学付属東邦中高等学校の山岸良二氏が、そんな「最新の日本史」を紹介していく。
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archi-amorphe · 9 years
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予言者としての建築家 architect as prophet ――― 日本の建築批評の位相
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日本では、建築批評という領域が一般ジャーナリズムにおいて確立されていない。 文学、映画、美術、音楽、などは新聞に定期的に批評が掲載されるが、建築の批評が掲載されることはほとんどない。このことから一般に建築が人々の日常的な 関心の的となっていないのだと類推される。文化の一ジャンルとして受け入れられるのでなく、むしろ生活からかけ離れた行政や企業の経済行為であると受け止 められているのかもしれない。建築批評家は職能として自立しえないどころでなく、建築批評自体が期待もされない。 建築批評はしたがって、一般の人々の教養というより、建築家予備軍のための戦略テキストという性格を持つ。そこではつくるという行為の現場からの声が専ら関心の対象となり、生活の現場からや、味わうという観点からの批評は欠落する。 もともと建築家は優れた批評眼を持つはずだ。批評が求められる土壌を社会が持たないなら、いきおい、優れた建築批評眼を持つものはそのまま建築家の道を歩もうとする。そこで、なおさら建築家の言説のみが新しい建築を予告する声として待たれるという状況を生む。 ここには建築界の閉塞的な状況も一役買っているだろう。批評の欠如は作為(intentionality)に対する自然(naturallity)の優 位、つまり他者性の欠如にあるからである。明確な意図や計画を欠き、さまざまな利害を調整するだけ。あとはなるようになると考えているとしか思えない事勿 れ主義(a "peace-at-any-price" principle)が幅を利かせている。 ところで、概して日本では過去や現状への批評に欠ける嫌いがある。どちらかといえば、批評は未来への提言の形をとりがちである。 たとえば日本には、「過去は水に流す」(forgive and forget)という言葉がある。それは、基本的には美徳であるが、場合によっては一貫性の無さにも通じる美意識(a sense of beauty)でもある。過去は問わないという潔さともとれるが、過去や現在は問題だらけでコメントするにも値しない、未来がすべてである、という気分も その内にある。 こうした気分はとりわけ敗戦で焼け野原となり、それまでの価値観が完全にひっくり返されて以来、より強まってきているといえるだろう。 たとえば都市づくりひとつとってみても、都市の現在はいつでも否定すべき対象として見られている。とくに日本の建築家にとって、都市は敵対的な環境として 立ち現れる。なぜなら彼らは都市に密接に関わって仕事をせざるをえないにもかかわらず、都市から基本的に疎外されているからだ。 日本は、建築家が都市計画に積極的に関与することができないシステムをとっている。そこで、建築家は都市の現状の実践的な課題への解答を求められることはないという立場に置かれる。 そこでは、良く言えば未来に対する先見的な、悪く言えば実現可能性のない構想のみが求められる。 概括してみよう。閉鎖的な状況をつくりやすく、他者性が希薄で、文化としての建築という観点も未成熟な日本の風土において、広く一般の人々に訴えかける建築批評は成立しにくい。 日本における建築批評行為はほとんどが建築家から建築家予備軍に向けてなされる建築家の言説であるのはそのためである。 批評家の不在と建築家による予言的言説、これが日本の建築批評の位相である。 歴史の転回点としての1970年の意味 アポロが持ち帰った月の石が展示された1970年の大阪万博で、日本は戦後の高度成長期のピークを迎えた。そして1973年オイルショックの後、低成長期に突入する。 戦後モダニズムをリードした丹下健三が、大阪万博を見届けた後、日本経済の暗転とともに、その主たる活動の場を日本から海外へシフトした。1970年、戦後という時代は大きな曲がり角をまわった。 70年の元旦の新聞は華々しい未来図に彩られていた。しかし、大阪万博が終了し、未来図の白々しさがひとときの宴のあとのけだるさとともに人々の胸に忍びこみつつあった秋、三島由紀夫の自決の報が、街を駆けた。 腹切りという衝撃的な作法ともあいまって、多くの人々はそのアナクロニズムに当惑しながらも、それまであえて目を背けてきた日本のアイデンティティーとい う問題が突きつけられたのを感じた。三島は日本の歴史の忘却に異議申立てを行うと同時に、敗戦の事実と戦後のアメリカナイゼーションによるアイデンティ ティー・クライシスを個人の死で表現したのだった。 世界的な学生運動の徹底的な異議申立てとその失速は、70年をはさんで社会に内省的な雰囲気をもたらした。日本においてとりわけ象徴的だった72年2月の 浅間山荘事件は、学生によって組織された連合赤軍が山荘に立てこもり、警察と銃撃戦を行った事件だが、人々に深い絶望感を与えたのは行軍中に仲間を次々と 粛正していったという事実だった。同年5月、テルアビブの日本赤軍による乱射事件が続いて、学生運動が急速に社会から見放されていった。 日本の学生運動の主要なターゲットはアメリカ帝国主義だったが、そこにアメリカの庇護の下にある国家に対する、三島とは逆向きのベクトルの、アイデンティティー確認要求という側面を指摘することができるかもしれない。 政治的には、沖縄の返還協定調印(71年)、日中国交回復(72年)をもって日本の戦後は新たな段階に入った。最大の激戦地であり、敗戦の象徴でもあった 沖縄の返還は、過去の追慕を禁じられた日本のアイデンティティー不在の感覚を、心の痛みとともに呼び覚ました。しかも沖縄にはアメリカ軍の基地が存在した ままであり、今なお存続している。そこからベトナムへと飛行機が飛び立っていったのだった。 中華人民共和国との国交も、日本の頭越しにアメリカが結び、日本も追随する形となった。 経済環境もドラスティックに変化した。1ドル360円であった円とドルとの固定相場がはずされ、71年8月には変動相場制へ移行。円は上昇を続け(ちなみ に99年2月9日現在1ドルは116円)、日本の労働者の賃金も相対的に上がって、国際競争力の側面で日本は新たな局面にさしかかった。そして73年秋の オイルショック。中東からの石油がストップするという危機感から、インフレと物不足の危機感が煽られ、日用品の買いだめが起こり、パニックとなった。日本 の産業構造は大きな変化に見まわれる。 人々は否応無しに歴史の転換点に立っていることを思い知らされた。政治的にも経済的にも国際社会の荒波に投げ出され、もはやアメリカの鏡に映る自らの姿に アイデンティティーを投影するだけでは生きていけなくなったことを朧げに感じはじめた。敗戦後の茫然自失から国際社会の一員としての自覚へ。アメリカの無 条件の庇護の下に成長を夢見る時代は、70年を境に、過ぎていたのである。 戦後、日本の未来の指針はアメリカだった。昨日の敵は今日の友。「過去は水に流」された。敗戦の処理を通して、自らの過去は断罪され、封印された。アイデ ンティティーは未来の可能性に求めるよりなかった。このことは日本に過去や現在に対する批評が不在であることと関係しているかもしれない。 アメリカナイゼーションからの離脱も70年以降の風潮である。アメリカが体現したものとは、わかりやすく単純化してしまえば、民主主義と家庭電化製品。理 想のアメリカに対して現実の遅れた日本があった。ところが技術が追いついてくるにつれて、意識の上でのアメリカ離れがおきた。自動車の嗜好もアメリカン・ カーでなくヨーロピアン・カーへと移った。 しかしながら、日本のジレンマは、アメリカへの不信を決して自問しえぬところにあった。少なくとも安全保障面においては対米従属を余儀なくされていたから だ。日本は軍隊を持つことを憲法で否定している。1 そして本当はその態度が正しいと信じたいのだが、今のところ丸腰で生きて行けるほど世界は善意に満ちてはいない。 後に90年の湾岸戦争でそのジレンマに基づく苛立ちはピークに達する。金を出しても感謝はされない。アメリカの庇護の下にいることの違和感が70年以降深 く潜行した分、強まっているといえるだろう。。戦後は1970年で終わっている。1970年以降を<戦後・後>と呼んでもいい。いまや<戦後・後>を再び <戦前>とせぬ努力と覚悟が求められている。 ふりかえれば、日本が世界の中の日本という意識を名実ともに持つようになったのが1970年。この頃を境に人々の年代の数えかたも、日本独自の年号である 昭和何年代から西暦へと変化する。昭和20年が終戦だから、20年代、30年代という数え方は敗戦から10年ごとというわかりやすい指標であった。人々の 意識における西暦への移行は、敗戦をもはや時代の区切りとする必要のない時代、国際社会の一員としての日本という時代への参入を意味しているのである。 70年代以降を代表する3人の建築家の言説<解体・否定・内省> 丹下健三が退席し、経済が失速した70年以降の建築界の言説をリードしたのは磯崎新、篠原一男、原廣司の3人であった。 磯崎新 丹下健三がリードしてきたモダニズムを批判的に継承したのがi磯崎新であった。実際にも彼は丹下の弟子であり、70年万博において彼は丹下の下で、中心施 設であるお祭り広場を担当している。60年代���彼はその著「空間へ」(71年)で総括し、「心情的に脱落した」という言葉で70年万博への距離感を表明し た。 「建築家にとって最小限度に必要なのは、彼の内部だけに胚胎する<観念>」であり、「設計のときに動いた手の軌跡によってはじめて観念はささえられて実在 する」という言説は、大上段に振りかぶった社会性を背景にしたそれまでの建築家の言説をたちどころに色褪せたものとして、個人の内省に向かう時代の転換点 を宣言し、アイロニカルな批評精神と卓抜した時代への洞察を示した。 ベトナム戦争が終結した年、1975年に「建築の解体」は出版された。それは、当時の世界の新しい建築思想の鮮やかな収集展覧であると同時に、磯崎自らの 戦略に即した批評でもあって、すぐさま日本の若い世代のバイブルとなった。ホライン、アーキグラム、ムーア、プライス、アレグザンダー、ヴェンチューリ、 スーパースタジオ/アーキズームという一連の建築家を論じたこの使徒列伝は、モダニズムのバイブル、ギーディオンの「空間・時間・建築」に取って代わっ て、いわば新約聖書となった。旧約のモダニズムに対して、この新約を総じてポストモダニズムと称しても今やさほど問題はあるまい。 もちろん磯崎はこの本の中でポストモダンという言葉をどこにも用いてはいない。しかしながら、この新しい流れを日本にもたらした磯崎自身が情報のもっとも 鋭敏なアンテナであり、水先案内人として、日本のポストモダンを導いてゆくことになる。日本におけるモダニズム批判の流れはこの一冊によって決定的になっ たと言っていい。 磯崎は、自らの鋭敏な感覚で新しい建築思潮を世界から吸収し、また的確な判断に基づく発信を続けることによって、70年以降の日本の建築言説の軸となって ゆく。 原廣司 1931年生まれの磯崎より5歳年下の、1936年生まれの原廣司は、「建築の解体」の翌1976年、岩波の「思想」誌上に「均質空間論」を発表する。これはより徹底した、文明史的視点に立ったモダニズム批判であった。 1967年に出版された「建築に何が可能か」において、すでに建築という思考が思想を行為に移すための方法論にほかならず、「歴史と(個人の)抒情の隔た り」を架け渡すものの在り方を決定する方法を、モダニズムの再検討を通して発見するという目標を設定していた原にとって、歴史的な課題と個人の課題は統合 可能なはずの問題設定であった。60年代とモダニズムは歴史の中における個人の思想の可能性として、検証されていった。この問題意識が「均質空間論」に結 実する。 原はミース・ファン・デル・ローエの建築に、モダニズムの究極の到達点を見る。普遍的な記号のシステムであり、人類一般に適用可能な方法を求めたインター ナショナリズムでもあったモダニズムは、ミースの構想したガラスの箱の実現をもって完成した。ミースはどのような機能も形態もオールタナティヴな関数とし て書き込み可能な座標を提案したのである。これを均質空間と呼んで原は根底的な批判を加えた。 均質空間の一番の逆説は、それが自由を求めながら、支配の空間と化してしまうところにある。空間配分の自由は使用者側でなく管理者側の手に握られるからだ。 世界の主要都市の中心部はこの形式の建物で埋め尽くされる。均質空間はいわば文化の支配的な空間概念となった���この均質空間が、個々の人間を量と記号に還 元するモダニズムの限界を露呈する。しかし現在のところこれに取って替わる空間は残念ながら見出されていない。これが原の認識である。 建築誌でなく一般誌である「思想」に掲載され、長期的な史的展望を持ったこの論文は、建築を論じた批評に珍しく、広く一般知識人に読み継がれ、現代の古典となった。 原は70年万博には批判的な立場に立ち、70年代は世界の集落を踏破しつつ周縁から自らの思想を鍛えるという道を選ぶ。モダニズムに対する原理的な批判を試み続ける原を、アンチモダンと位置づけていいだろう。 篠原一男 磯崎より6歳年長にあたる1925年生まれの篠原一男は、60年代の高度成長にも70年万博にも背を向け、ひたすら純粋に住宅を問い続けた。しかも極めて作家的な方法をもって。 たとえば彼はこう語っている。「60年代の日本に流行した、壮大なコンクリート・インフラストラクチュアによる都市デザインを私は夢見たことはない。70 年大阪万国博覧会に最盛期をつくった楽天的技術合理主義よりも、日本の伝統のなかに”非合理的なるもの”として閉じ込められている”意味の空間”に限りな い興味を抱いていた。」2 篠原にとって建築は社会や経済や政治にコミットする方法でなく、ひたすら個人の内面に関わる芸術であった。 一貫して内省的方法を取り続けてきた篠原にとって、70年以降の内省の時代は、時代の方が勝手に自らの構図のなかに飛び込んできたようなものだっただろう。 はじめ数学を学び、後に建築に転向した篠原にとって、原点は彼自身が繰り返し述べるように日本の伝統的建築にあった。 日本の多くの建築家が、戦後の課題を、日本の伝統からの切断、モダニズムの日本的受容形態の追及と捉えたのに対して、一人篠原のみが、日本の伝統からの創造を唱えた。 日本のモダニストたちは、伝統を問うにしても、敗戦を通して否定された日本の伝統的形態を意識的に避け、また日本の歴史書(これも戦争を推進した神話とし て否定されていた)に記述された時代、すなわち天皇の時代をも避けて、一気に先史時代である縄文(約1万年前から2200年前)や弥生(2200年前から 1800年前)を対立項として取り上げた。それが日本の「伝統論争」であった。 篠原はそれに対して、ごく素直に、天平時代を代表する寺院建築である唐招提寺(759年創建)を「美しいと思った」と語るのである。戦後の思想空間の中で追憶を禁じられた時代を、平然として、「私の建築の原イメージの多くは甘美な追想の中にある」3 と振り返るのである。 篠原は他の建築家が日本の伝統との断絶から出発することを当然とした時代にあって、堂々と日本の伝統を出発点にすると宣言したのであった。つねに時代の潮 流から超然として、自らの道を行く。これが篠原一男の強さであり、最大の戦略であった。 そして時代が転換点を迎えるとき、篠原一男の言説はつねに、事後的にex post facto、時代を予見した形となった。これはその後も、10年から20年の時差をもって繰り返された現象である。篠原はポストでもアンチでもなく、シノ ハラであった。そして88年には自らモダンネクストと称するようになる。4 76年に彼は「篠原一男2/11の住宅と建築論」という美しい作品集を出し、その巻頭に「野生と機械」という論文をおいた。ここで彼は70年が彼にとって も伝統から「無機質な空間」「中性の空間」への転換点であると述べ、さらには「空間から事物への遡行」を標榜し、やがて「裸形の事物」という言葉に到達し ている。 篠原の純粋な個人作家としての言説のスタイルは、70年代から80年代前半という、内省の時代の多くの建築家を魅了した。篠原の姿勢に共鳴する若い作家た ちの集団は、篠原スクールとすら呼ばれた。この中には伊東豊雄や長谷川逸子など、後に世界的な活躍を見せる建築家が含まれていた。 85年:新たな切断点、そして<形式・肯定・越境>へ 1985年あたりを境に、日本の景気が本格的な上昇傾向に入り、中曽根=レーガンの内需拡大路線の呼応もあって、いわゆるバブル・エコノミーに突入していく。 85年は筑波科学博も開催され、このあたりで70年から15年ほどの「内省の時代」、あるいは「解体と否定の時代」が収束したと見ていいだろう。 その予兆は80年代前半のパリにあった。 79年から80年にかけて開かれたパリの個展をきっかけに、篠原一男が「プログレッシヴ・アナーキー」という概念を提示。そのモデルとなった都市「トウキョウ」は、バブル期の変容の予感を秘めて、時を待っていた。 82年、パリ、ラ・ヴィレット・コンペ。磯崎新が審査員の一人となり、バーナード・チュミ、レム・コールハースがトップを競った。佳作となった原廣司の提 案は、空間の重ね合わせという方法において、レム・コールハース案とも響きあっていた。彼はこれを「多層構造」と呼び、後の「様相」概念に流れ込む重要な 概念となった。 磯崎は異質の他者を並列したり重ね合わせたりする方法に鋭く反応し、「ディスジャンクション」や「衝突」といった言葉がその後の彼の言説に頻繁に顔を出す ようになる。 単一の美学でなく、異質の他者が共存する美学へ。「建築の解体」でウィリアム・エンプソンの「曖昧の7つの型」と関係づけて彼が詳しく分析したように、そ れはヴェンチューリ([COMPLEXITY AND CONTRADICTION IN ARCHITECTURE (1966)]によってすでに引かれた道筋であったが、ラ・ヴィレット・コンペは、物理的な実体のデザインというよりむしろ純粋な関係のデザインにおける 新しいコンフィギュレーションの出現であった。 そしてそれは、日本にもともと存在した美学でもあって、そこでは実体より関係あるいは気配のみが関心の対象となる。80年代後半のトウキョウは、曖昧で衝 突に満ち、ランダムでカオティックで、強度を持った無気味な姿を露わにしつつあった。いわば要素のデザインでなく布置の明滅であり、不在の事物の共鳴であ る。パリのこだまによってトウキョウは活気づいたといってもいいかもしれない。 少なくとも磯崎・原・篠原は、自らの言説や方法論と時代との感応に、強い確信を持つ時代を迎えた。解体や否定や内省から、形式や肯定や越境extraterritorialへと言説もまた変化していく。 1985年をまたいで、彼らのこうした言説の基調音を裏付ける作品が完成されていく。 1983年、磯崎による「筑波センタービル」、1986年、原による「ヤマトインターナショナル」、1987年、篠原による「東工大百年記念館」。 70年代から80年代を通して、磯崎による活発な評論は、毎年のように出版され、ここですべてあげることは差し控えるが、その言説は、時代の微妙な動きを的確に読み取り、短期間の予言を繰り返しながら、時代を導く役割を果たした。 篠原は20年程度を結果的に視野に収めた予言的発言を行ってきた。強度を持ち、詩的な含みを持つ言葉を用いるぶん、余計に予言的な印象が強い。 原はほとんど50年から100年、時にそれ以上のオーダーで歴史に向かい合っているから、はじめから予言として言葉が発される。たとえば、1987年に出された「空間<機能から様相へ>」はこのような表現に満ちている。 「建築は、失語症の哲学である.ここで、いささかのちゅうちょもなく予言しておきたいのは、21世紀には、建築をはじめとする芸術は、哲学にとって替る。なぜかといえば今日がそして来世紀が、<空間の時代>であるからだ。」5 1985年をまたいで、3人の建築家は70年のモダニズム批判と「解体・否定・内省」の乗り越えについて、明快な展望を開いたといっていいだろう。 もともとモダニズムにとどまらず、建築そのものを問題にしてきた彼らにとって、そしてまた建築が思想であり、なおかつ現実にコミットする行為にための思想 であり、それが構築の原理、組み立てる、創り出すという行為の論理を問題にする思想である以上、彼らの言説には建築という思考の方法の運動の軌跡が刻まれ ている。 実はこの渦中にあるという言説の性質が、日本で専ら建築家による言説が流通し、日本の建築批評を導いてきた理由なのかもしれない。 超越的な視点を立てて、あるいは外部に出て、客観的に冷静に物事を語るというスタイルを、あるいは本質的に日本人は好まない。密接に自体にコミットしつつ状況を語るという語り口がむしろ好まれる。現場の声の尊重、である。 一芸に秀でた人々は無条件に尊敬される。はたから批判するだけの人間は、嫌われる。そして日本人は一般に嫌われることを嫌う。嫌われたときの逃げ場がない社会だからだ。 そしてさらに言うなら、理想や理念や弁証法的に導かれるはずの真理という普遍的な価値や意味に対して、おそらくは根底のところで違和感を持っているのである。真理を支える神を持ったことがないからである。 ともあれ、渦中にありながら、彼らが建築を問い直しつつ開いたそれぞれの世界とその関係は以下のようなものであった。 三者の言説の関係<解放・凍結・破壊> 磯崎は「建築の解体」というタイトルでも明らかなように、それまでの建築という概念を解体しようとした。解体とは狭い意味ではモダニズムの規範の解体であ り、その意味で真性のポスト・モダニストである。ただそれは広い意味では、建築概念自体の解体、すなわち拡張や移動や変形や圧縮や抹消をも含めての再吟味 を意味していた。 ただし磯崎が建築という概念を通して見据えていたのは、西洋古典建築のメインストリームであり、ついに彼がどうしても解体し尽くせぬものとして取り出した のは「大文字の建築 architecture with initial A」、すなわち単純化していってしまえばクラシシズムの建築原理であった。正確には18世紀中期の古典主義的言語の崩壊に果てに出現した超越的な概念であ ると語られる6 が、クラシシズム概念を拡張すれば、磯崎の意図するメタ概念が、これに基づく建築原理をさしていると理解していい。 解体作業の果てに、西洋の思想を貫き、建築の定義そのものともいえるこの建築原理にぶつかって、建築概念そのものを支える体系性、形式性を問い直すことの 自己言及的な構えに気づいた磯崎は、建築という概念さえ実は正確には通用していない日本の言説空間への啓蒙の意味も込めて、あらためて「<建築>という形 式」というエッセイを、新建築誌上に1年間にわたって毎月連載する。ここで<建築>とは「大文字の建築」を指すと彼自身が語っている。 つまり、磯崎は建築を解体しようとして解体しきれぬ<建築>(=大文字の建築)にぶつかり、ついにこれを強化する役割へと向かうのである。 これは日本において、もとより原理的な思考が不在であり、したがって、建築という形式が不在であるという事情とも関係している。世界は建築の解体に向かっ ているが、日本はまず解体すべき建築が不在である、形式の確立が先である、という日本建築の歴史的な使命感に燃えたといってもいいかもしれない。 原はこうした建築観から少しずれた地点にいる。もともと彼は周縁からのまなざしで世界を捉えてきた。原の眼からは、西洋古典主義建築も、イスラム建築も、 ベルベル人の集落も、アフリカの円形住居も等価である。建築史の山脈の頂を形成している輝きと同時に、谷や裾野にある見逃されがちな輝きも視野に入ってい る。個物と普遍はつながっていると見ているからだ。 歴史のメインストリームに目を凝らすのでなく、身を引いていって全体を眺め渡す構えを取る。その分視野が広角レンズに捉えられたそれとなる。原が「世界風 景」という言葉を使うのも、こうした姿勢が関係しているだろう。その言説から伺える、時代から少し離れて遠くを見ているような態度が、彼の予言の射程を延 ばしている。 磯崎はこうした原の姿勢が歯がゆいらしく、いつか「原は<建築>に出会っていない」と述べていた。磯崎の標準レンズで中心に捉えられるものが、原のレンズ からは風景に溶け込んで見えるのである。磯崎の焦点が「大文字の建築」にぴたっと合って揺るがないのに対して、原はいわば「反大文字の建築anti」を眺 めている。 篠原のレンズはほとんど接写に近い。個人的に関心を引かれるものにぐっとよっていって、そのエッセンスを掬い取る。対象の選択はほとんど直観的といってい い。しかしそのフレームには、結果的に時代の「次」が映し出される。歴史の全体像を捉えて、という迂遠な回路を通らない。方法的にも「非大文字non」と いえるだろう。 磯崎が60年代の「解体」の現場から70年代の「手法」に向かい、ついには80年代「形式」の再確認にいたったとするなら、原は70年代世界の「集落」を 巡り、80年代に「様相」なる概念に到達する。篠原は60年代の「伝統」との対話を経て、70年代「キューブ」から「不確かな事物」へ、そして80年代 「機械」と「カオス」へと歩を進めた。 磯崎はもっともオーソドックスにヨーロッパーアメリカ軸で歴史を捉え、原はそれに対して喩えて言うなら非西欧ーイスラム軸で歴史を捉える。篠原は言ってみれば日本ーフランス軸。究極の位相のみで全体を表象する。 これらは歴史に対するさまざまなスタンスであって、日本という国の地理的な位置と、日本の��代という過渡的な時代を表象もしていよう。 磯崎は最終的にややニヒルなスタンスで、建築という「形式」の向こうに「廃虚」という「不在」の相貌を見ざるをえないと達観しているように思える。原は 「意識ののぞきこみ」というやり方で、「世界風景」を描きつつ、「記号場」という言葉で「意識の状態」の写像を試み、そこに自らの建築と言説の歴史的な役 割を位置づけようとしているように思える。篠原は「零度の機械」という言葉に見られるようなぎりぎりの還元作業の彼方に、とてつもない「力」の表現を見定 めているように思える。 ついには死に向かう人間の、建築がその生の証しであって、しかもエロス(個体としての生の在り方を守ろうとする欲望)をタナトス(個体の生を普遍的な「生 命の流れ」に解消しようとする欲望)へと転換する装置であるとするなら、三人の建築家の言説を辿れば、それがちょうどフロイトの言う「死の三形態」に対応 するのが面白い。 しかもこのフロイトに対する言及は、「建築の解体」における磯崎によるホラインの解説から引用しようとしているから、ウロボロスのようにここで円環が閉じ る。 フロイトは死を意識の解放、時間の凍結、肉体の破壊の三つの位相で捉えようとしたという。解放はニルヴァーナにいたり、凍結はモニュメントにいたり、破壊は廃虚にいたる。あるいは不在、それともユートピア(どこにもない場所)にいたる。 これはそのまま原、篠原、磯崎の建築と言説に当てはまるといっていいだろう。原は「世界風景」や「非ず非ずの論理」にニルヴァーナ���見、篠原は「透明な力 の幾何学」に永遠のモニュメントを夢想し、磯崎は「廃虚」に不在のユートピアを透視する。言うまでもなく、ニルヴァーナは「状態」であり、モニュメントは 「力」であり、ユートピアは「形式」である。 日本の現代を導く建築家の言説は、死をめぐる三角形の予言となっている。 90年以降:歴史へのスタンス 理念や理想、そしてそれを支える共同体のアイデンティティーへの信頼が崩壊した戦後の日本の言説空間においては、個人のアイデンティティー、そしてこう 言ってよければ予言者の言説に、自らのアイデンティティーを仮託せざるをえない状況がより強く生み出されていた。建築家はある意味でこうした特権的な個人 でありえたのかもしれない。 90年、日本のバブル経済が崩壊する。89年にすでにベルリンの壁が崩壊し、やがて91年にはソヴィエト連邦が解体する。91年には湾岸戦争も勃発。95 年は神戸地震が起き、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。97年、神戸で中学生が小学生を殺し、首を学校の校門に晒すという事件が起きた。 世紀末を間近に控えて、日本は政治的にも経済的にも社会的にも不安定をきわめている。 かつてバブル経済がそれに拍車をかけた、豊かさの消費形態としての「ポストモダン」も、バブルの崩壊とともに姿を消し、「ディコンストラクティヴィズム」も崩壊した神戸の風景と重なって、色が褪せた。 ポストモダンの代表とされ、消費社会的シニシズムを生きてきた日本社会も、いまや消費の欲望すらが希薄となった。 こうした相対的な差異の消費を、かつて磯崎は差異の戯れをもって加速し、原は差異の中の同一を求めて脱出し、篠原は差異の強度をもって切断したのだったが、やがて磯崎は固有の場所へと回帰し、原は共有の意識へと反転し、篠原は固有の形へと凍結する方向に向かった。 日本には60歳をもって循環的な時間がいったん閉じて、再生を果たすという風習がある。これを還暦(暦が一巡してもとにもどること)という。 篠原一男は1985年に、磯崎新は1991年に、原廣司は1996年に還暦を迎えた。 それぞれ篠原は、東工大百年記念館の設計を終え、磯崎はMOCAから始まる世界巡回展とANY CONFERENCEを開始し、原は還暦をはさんで新梅田シティーと京都駅という巨大プロジェクトを完成させた。 ほぼ5年おきの彼らの還暦の年が、90年という日本のもうひとつの節目をまたいだ。85年から90年という日本の有史以来空前絶後の繁栄の時代(バブル時代)をまたいだ。 日本にはいまだ建築批評は欠如している。そして歴史観を持った建築家も彼ら三人以降はほとんど出ていない。おそらく日本において建築批評が予言の形を取 る、という事情は、これまで説明してきた理由以外にも幾らも見出せるだろう。ただそうである限り、批評を担う建築家に歴史観が要求される。そして歴史観を 持つことは自身の中において自己と他者との対話がなされることを前提する。 それぞれの歴史へのスタンスを強引に一言で述べてしまうなら、磯崎は状況史、原は文明史、篠原は個人史、ということになろう。だからそれぞれの言説の射程 が、磯崎は短期的であり、原は長期的であり、篠原は中期的である。磯崎は微分的であり、原は積分的であり、篠原は母関数そのままといえよう。 磯崎は他者そのものであろうとし、篠原はあくまでも自己に固執する。原は他者の誘惑に導かれる予言者となろうとしている。磯崎は世界そのものであろうと し、篠原は自己のうちに世界を築こうとし、原は世界の誘惑に魅了される精神であろうとする。 しかし世界の座そのものは空虚である。引き受けるべき歴史が日本では否定されているからである。心を一つにして民族のアイデンティティーを追求すること が、国際社会において悲惨な結末をもたらす歴史を少なくとも我々は知っており、核爆弾という技術がその物理的な破壊を可能とすることを自ら体験してしまっ たからである。 理想を持たず、理念を持たず、しかし朗らかに未来へ向かって歩んでいくための思想的な支えを、われわれは建築という思想の実践の現場で模索し続けているのかもしれない。そしてそれはそのまま、この3人の予言者から引き継ぐわれわれの使命となるだろう。 竹山聖 (オランダの建築誌「アーキス」1999年5月号より)
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me4kids · 7 years
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【沖繩】逛這三間「永旺夢樂城沖繩來客夢、AEON北谷店、AEON那霸店」。〈沖繩購物新玩法〉就是要買得瘋,再開車到蔚藍的天空和海岸兜兜風。
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夏天就是要到南國正面迎擊!雖然很熱但沒關係,因為有購物可以買個瘋。若自駕的話不用拎大包小袋,直接放進後車箱,再到蔚藍的海岸兜風,好好玩個過癮!台北到沖繩不用一小時,好好讓自己放個假,跳島擁抱蔚藍的天空和無敵海景!來吧~到琉球就是要玩不一樣的沖繩!
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AEON MALL OKINAWA RYCOM〈永旺夢樂城沖繩來客夢〉,目前為沖繩最新、最大的購物商場,連沖繩本地人都會特別開車來此購物!
因為這裡約有60家美食店舖、座位約有5,500席、以及16家嬰幼兒、兒童用品專賣店、室內室外都還有的兒童遊戲區,5層樓裡的品牌集結了約235家專賣店;一樓大聽還有100頓大水族箱,裡面約有25種類1,000 條魚。這間新開的永旺夢樂城沖繩來客夢是不是超狂!
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要踏進購物之前,一定要先注意一件事,就是「退稅」!
AEON Mall Rycom 內的店家分二種退稅方式,標示綠色TAX FREE 的店家,代表可直接在店家內辦理退稅;標示紅色TAX FREE 的店家,則一起在1樓免稅櫃台集中辦理。〈店家資訊可參考官方說明;免稅店家詳情列表,也可在各樓層拿到DM〉
免稅櫃台不好找哦!是位於未進主棟商場的左側最裡面,明顯標地就是左側一樓「BLUE SEAL」冰淇淋旁。
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現在還有活動哦!只要在永旺夢樂城沖繩來客夢購物,含稅5,000日元以上,即可免費獲得152號巴士回程車票1張!兌換處就在免櫃檯旁的「觀光諮詢台」。
P.S. 那霸機場⇆永旺夢樂城沖繩來客夢,152號快速巴士單程約一個小時,票價為970円。
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光是看到這1~5樓商城的平面圖,就讓人腎上腺素激增,不但心跳加快,眼睛瞬間明亮,連肌肉也變得更有力量..........
1F 品牌專門店 Rycom Grand Square: Forever 21、OLD NAVY、AMERICAN EAGLE OUTFITTERS、南南風、水族箱、氣墊屋。 2F 品牌專門店 Rycom Grand Square:H&M、GAP、UNIQLO、mont-bell、SPORTS、STARBUCKS〉。 1F-2F 戶外 Rycom Village:Royal Host、ABC Cooking Studio、吊床咖啡館、くら寿司、大創百貨、未來屋書店。 2F-4F AEON STYLE:藥妝、花店、超市、嬰幼兒、兒童用品專賣店。 3F-4F Rycom Gourment World:BIC CAMERA、餐廳美食街、CINEMA RYCOM電影院、橡子共和國、玩具凡斗城。 5F Rycom Sky Dinner:頂樓用餐區,單價較高餐廳,連通戶外表演舞台、室外兒童樂園。
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 #1F RYCOM Village Floor Guide
從一樓〈 Rycom Grand Square〉開始最吸睛的就是那100噸的大水族箱,延伸至戶外還有餐飲及休息區。無論室內或戶外,樓層安排許多沙發、座椅,供旅客逛累了休息。
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水族箱週圍即是四個大品牌,AE、OLD NAVY、DESIGUAL、FOREVER 21。繞著水族箱也有多個配合兒童遊憩的遊樂區,像氣墊屋等。
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#2F RYCOM Village Floor Guide
二樓裡的名牌專賣店至少有70間,每間店裡的空間都超大、商品也超滿,每間品牌店無法隨便看看,因為根本無法下手!
雖然我已鎖定二樓手扶梯上的H&M、GAP、UNIQLO、mont-bell、SPORTS、HAPPINESS,但每間店還是讓我陷入無底深淵!好在外面的沙發超多。
現場的表演也多,表演居多在2樓往3樓的樓梯前,所以這邊的樓梯也坐滿人潮觀賞。
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如果想從二樓走到戶外的Village區,只要看到STARBUCKS 往外走就對了!
如果想找藥妝、超市的話,那往AEON STYLE那區走。〈所以二樓的平面配置就是東邊「戶外Village區」、中間「品牌Grand Square區」、西邊「AEON STYLE區」
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#1F-2F Rycom Village
戶外區很有南國風情,在精心的打造下,戶外的屋頂是沖繩傳統民屋可見的「紅瓦」,花草植栽讓戶外充滿沖繩休閒度假風。Village 又分為五大區塊:
在DAISO大創旁的為「Village A」,有小朋有愛的吃迴轉餐廳「くら寿司」;「Village B」北中城燒肉等4家異國料理餐廳;想看點書有「Village C」的未來書屋;超好逛且有南洋風及文創店的「Village D」,這區又叫Ametsuchi Terrace,裡面還有戶外吊床咖啡館;Village E 則有Royal Host等3家餐飲。
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這五區的中間有「沖繩招福獅 風獅爺」,站在這個點可是一個很好拍照的視野,IG 的熱點哦^^。購物城有個Village真的很不錯,有陽光普照、有綠意草木、還有瀑布造景,把大自然跟購物融合成一個休閒度假空間,愜意的不得了~
戶外特推二個地方,一個是「Village E」裡的ABC Cooking Studio(212),如果想學點心、咖啡,這裡都有好多鐘點型的課程;另一個就是「Village D」,又叫做Ametsuchi Terrace。
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「Village D」有二間店舖,一間名為「CAYHANE」販賣小島風情的文創商品及衣服配件,超級好買又好逛!累了,累了就到裡面一間「EARTH HAMMOCK CAFÉ;吊床咖啡館」,只要有消費就可以進店內歇腳或躺在戶外吊床上,吹海風喝咖啡!
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沖繩第一間「CAYHANE」就在這裡!個人建議若喜歡這類的東西先來逛這家!時尚服飾及雜貨的創作都以保護地球為基礎來創作的哦!所以幾乎都是日本製。
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店外頭的「吊床咖啡館」,可以一邊搖著吊床,一邊品嘗有機食材製作的點心。 因為旁邊就是海囉~~所以會ㄎㄠ風,雖風大就別到戶外了,因為會頭疼,但我喜歡這裡的設計,很讚的!
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#2F-4F AEON STYLE
AEON STYLE的2樓為藥妝、花店、超市的店舖;3樓為男性及女性個性化的商品、鞋子、週邊;4樓則為嬰幼兒、兒童用品專賣店,以及玩具反斗城。
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#3F-4F Rycom Gourment World
全部五層樓有60家美食店舖,像SUBWAY、ITALIAN BAR LIETTA、京都北白川拉麵、炭烤牛舌(仙台NATORI)、築地銀章魚燒、甜點王國、新宿勝博殿、博多炸天麩羅 、麥當勞、Malasada Garage、丸龜製麵、燒稻草燻製等。光是3、4樓就有2,500個座位!整棟則號稱有5,500個座位,看來這是地表最大的美食街了!
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這裡必點的2個人氣甜點,分別是「JACK IN THE DONUTS甜甜圈」,那鬆軟的甜甜圈咬下去就是會讓人一口接一口;另一間台北也有的「世界第二好吃的現烤冰淇淋菠蘿麵包」,菠蘿麵包是現烤,熱熱的麵包外脆內鬆軟,然後再夾入冰淇淋〈口味有經典香草、抹茶、紅芋、巧克力〉,冰火雙重口感特別不同。
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 #5F Rycom Sky Dinner
我沒上去,聽說是頂樓用餐區,這上面因為視野好,且為景觀餐廳,相對單價較高;連通戶外有表演舞台,也有號稱目前室外最大的兒童遊戲區。
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 ◎ 永旺夢樂城沖繩來客夢【AEON MALL Okinawa Rycom│MAPCODE:33 530 406】
營業時間: ◆Rycom Sky Diner(5F)11:00~23:00 ◆Rycom Village(1F-2F)10:00~22:00 ◆AEON STYLE(2F大型超市)8:00~23:00 ◆AEON STYLE(3F-4F購物中心)9:00~23:00 ◆Rycom Gourmet World(3F-4F)10:00~22:00
 〈還有哦,請繼續往下看......〉
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 買完了之後呢?來點日本購物的新玩法吧^^
本地人最經典的玩法,請先參考:奧特萊斯購物中心〈Ashibinaa Outlet〉最划算!大肆採購後再到〈豊崎海濱公園〉享受沙灘BBQ +水上運動 的樂趣,只要3分鐘!
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下面介紹三個 AEON MALL鄰近有特色,且可以順遊的「無料景點」
1.) 永旺夢樂城沖繩來客夢 + 中城公園(溜滑梯、跳床、迷宮)or 殘波岬公園(沙灘、遊樂設施、山羊動物園)
2.) AEON北谷店+日落海灘(城市度假海灘,著名的日落景點)
3.) AEON那霸店+波之上神宮(黑色的鳥居「波上宮」、市內唯一海灘「波の上海灘」)
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上圖照片來源引用〈沖繩公園情報〉。從永旺夢樂城沖繩來客夢離開可至二個無料景點玩:
一個是目前地表最大有巨大組合遊樂設備,猶如遊樂園的「中城公園」,約有10分鐘的車程;另一個則是可看海、也有大型遊樂設施,還有一個小的山羊動物園的「殘波岬公園」,車程約40分鐘。
「中城公園」橫跨中城村與北中城村兩村,也是目前沖繩最大的縣營綜合公園。主要分為「南區遊具廣場」有2座巨型跳床〈上為白色軟式跳床、下為紅色巨型攀爬網〉、4個溜滑梯〈螺旋型及超長型〉;「中央遊具廣場」有4樓高的滾輪式溜滑梯、泰山吊索、翹翹板;「西區遊具廣場」主要給幼兒遊戲,偏向沙池、小型溜滑梯、搖搖馬等;另外還有「健康遊具廣場」及「大草原廣場」。
◎ 中城公園 地址: 沖縄県中城村登又1319 / MAPCODE:33 410 668(西區停車場) 沖縄県北中城村荻堂平田原370-2 /MAPCODE:33 440 128(北區停車場) 備註:免費入場,免費停車。
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為什麼我沒進離「永旺夢樂城沖繩來客夢」只有10分鐘的「中城公園」呢?因為光是看進停車場的車在排隊,就知道一定很多人!所以立馬轉往約40分鐘的「殘波岬公園」!
「殘波岬」為日本沖繩最美的三岬之一,這裡除了有雄偉壯觀的斷崖絕景,還可以走上10層樓高,登高眺望360度無死角的海天一色。從殘波岬公園進入時,可吃點「金城Parlor」販賣的熱狗、漢堡、刨冰等。公園裡還可看到知名的「泰期雕像」、「西之神之屋」、「東之神之屋」、「潮吹穴」,以及像舞台又像遺跡的巨大的琉球石灰岩塊。甚至可以走到殘波岬休閒廣場,廣場入口前有一座高7公尺的「殘波大獅子」,獅子後方的船型建築及遊具,則是給孩子們的遊樂場,同時也是非常受人喜愛的觀景台。觀景台後方為山羊動物園,可以在這裡跟山羊來個親子互動。如果肚子餓了休閒廣場裡也有「いこいの広場 Ti-da33」餐廳,這個餐廳同時也是沖繩最大規格的BBQ公園。若想看點表演,也有互動型的沖繩忍者娛樂劇場「LEQUIOS THEATER IN 殘波」。
◎ 殘波岬公園 地址:沖繩縣中頭郡讀谷村字宇座 Map code: 1005685380*00 備註:免費入場,免費停車。
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美國村機能真的很好,足夠逛上一整天!來~~再來複習「美國村」三個必去的重點:「AEON北谷店、日落沙灘、大國藥妝北谷店」。美國村在那霸市東北的北谷町,是模仿美國風情的都市型休閒地,也是當年美軍駐日基地遺址,所以美國人真的比日本人還多,而且是在地仔,美國村集中了很多娛樂景點和個性化商店,集結了餐廳、服飾、配件、生活雜貨等約50間店舖的複合式設施。頂樓是已經成為街道地標的大摩天輪,白天能欣賞絕美的海景,夜晚能享受輝煌的夜景。村內也有電影院、大型超市、大飯店、餐館、咖啡館等。【美國村藥妝百元店攻略】。
AEON北谷店及週圍必逛介紹,請看專文→【2017 沖繩戰利品大公開】藥妝、零食、伴手禮、土產 攻略
◎AEON北谷店 住址:中頭郡北谷町字美浜 8番地の3 電話:098-982-7575
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來到北谷町的美國村,就別錯過這座人工沙灘「日落海灘〈SUNSET BEACH〉」,無大風大浪,海水清澈,還有些遮陽棚呢!日落海灘鄰接美國村,總之只要跟著穿比基尼、或是拿著泳圈的人走就對了!這裡是觀賞美麗落日的人氣景點,躺在白色沙灘上,悠閒地欣賞眼前的夕陽,很讓人容易就進入發呆狀態。夕陽的餘暉灑在海面上,孩子在沙灘上的腳,滿滿的笑聲,那一刻迄今還記著呢♡ 
◎日落海灘 地址:沖繩縣北谷町美浜2 MAPCODE:33 525 205*74
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AEON那霸店,我們最愛一樓的JUSCO 超市,裡面零食、伴手禮、各類生活用品都!另外3樓的大型家電量販店「BEST電器」也好逛,想要一次買齊衣服,休閒服飾品牌「UNIQLO」這裡也,鞋子、皮包、書籍、生活雜貨、文創商品等等,AEON那霸店算是很齊全,不過小聲的說若要買藥妝,就到對街的「ダイコク藥妝店」買哦〈這間也有百元商店)。專文:【AEON那霸店:藥妝、零食、伴手禮、土產 攻略】
◎AEON那霸店 住址:那覇市金城5-10-2 電話:098-852-1515 備註:單軌「小禄駅」2F 天橋直通AEON那霸店
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「波上宮」已超過700年歷史是琉球八社之一,不但是當地居民份量第一的神社,亦是國外旅客具有代表性的人氣造訪處之一,更特別的是波上宮是建設在珊瑚礁岩石上。見過櫛比鱗次的紅色鳥居,這回倒是第一次見到黑色的鳥居,感到非常特別。
參拜完後往下走記得看看左手邊,就會發現「波の上海灘」。在藍天下的沙灘上散步好悠閒又舒服,沖繩的海清澈又透亮,小小浪花及小小貝殼都好美。在沙灘上往上望去,這塊岩石好像印地安酋長啊~〈專文:波上宮怎麼去?〉
◎波の上海灘 地址:沖縄県那覇市若狭1-25-11 電話:098-863-7300
還有哦
【沖繩】逛這三間「永旺夢樂城沖繩來客夢、AEON北谷店、AEON那霸店」。〈沖繩購物新玩法〉就是要買得瘋,再開車到蔚藍的天空和海岸兜兜風。 原文出處: 睡天使醒惡魔成長日誌 :: 痞客邦 PIXNET :: http://naughtyangel.pixnet.net/blog#ixzz4gpd0tgiU Follow us: @Me4child on Twitter | Me4child on Facebook
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