#自然の風景シリーズ第3集
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都城市の関之尾滝 (宮崎県)
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2024-7月号
アンビグラム作家の皆様に同じテーマでアンビグラムを作っていただく「月刊アンビグラム」、主宰のigatoxin(アンビグラム研究室 室長)です。
『アンビグラム』とは「複数の異なる見方を一つの図形にしたもの」であり、逆さにしたり裏返したりしても読めてしまう楽しいカラクリ文字です。詳しくはコチラをご参照ください⇒アンビグラムの作り方/Frog96
◆今月のお題は「猫」です◆
今月は参加者の皆様に「猫」のお題でアンビグラムを制作していただいております。今月も逆さまな作字が集まっておりますので、ごゆるりとご鑑賞ください。今号は失礼ながら簡易的なコメントとさせていただいております。皆様のコメントがいただけますと幸いです。
「猫/ネコ」 図地反転型:ぺんぺん草氏
「猫」の隙間に「ネコ」が見える、ラングドン御大の作品でも見られる伝統的Figure-Groundタイプ。我々が現在定義している図地反転型の定義より弱いアンビグラムとはなりますが、ネコっぽいタイポグラフィも楽しい良い作品ですね。
「三毛猫」 旋回型:ヨウヘイ氏
「三毛」を回転重畳すると「猫」になる作品。文字幅がアンバランスでも読みやすくて面白いです。
「虎/猫」 旋回型: いとうさとし氏
虎のような模様のネコ。アンビグラマビリティは高くない語句だと思うのですがキレイに回っていて素晴らしいです。
「わんこ/ねこ」 交換型:kawahar氏
「わんこ」をうまく敷詰めると「ねこ」になり、さらに重ねるようにすると犬か猫かのような絵になる面白いデザインです。
「捨て猫」 回転重畳型:ラティエ氏
「捨/猫」の共存対応がキレイです。背景の絵も併せて回転重畳になっているのがすごいですね。素晴らしい。
「ネコ/液体」 敷詰振動型:Jinanbou氏
「液」の敷詰と「体」の敷詰と「ネコ」の敷詰が一致するようになっています。確かにネコは液体であるようです。
「肉球」 回転型:lszk氏
猫と言えば。図形を欠けさせつつ読ませるデザインに驚愕です。
「CAT TOWER」 図地反転鏡像型:ちくわああ氏
「TT/W」のハマり具合が気持ちいいですね。折り返しの「O」の自然さに驚きます。
「熊猫」 図地反転敷詰鏡像型:松茸氏
「熊」はパーツ反転しています。「正図」「図地反転」「逆図」「逆図地反転」を敷き詰めると、「非自明な対称軸や回転対称中心」が現れるのでアンビグラムの定義に当てはまる、という意図の驚異の作品。
「家族同然」 鏡像型:.38氏
「家/然」の対応がキレイですね。「族」の変形が楽しいです。
「ギコ猫」 旋回型 「ゴルァ」 回転型:無限氏
匿名掲示板で流行したAAの一つ「ギコ猫」とギコ猫のセリフ「ゴルァ」をAAベースのアンビグラムに仕立てるという面白い作品。
「逝ってよし!」 回転型:うら紙氏
こちらもギコ猫のセリフより。吹き出しとしんにょうの一体化が面白いです。
「猫娘」 図地反転型: いとうさとし氏
ゲゲゲの鬼太郎より。「猫」は字画がバラバラになっているのに重要なパーツ分けはしっかりしているので読めてしまいます。
「F.D.C.WILLARD/CHESTER」 回転共存型:兼吉共心堂氏
科学論文誌を執筆した物理学猫の名前より。F.D.C.ウィラードがペンネーム、チェスターが本名です。文字数の差の吸収のさせ方に注目です。
「ドラえもん」 図地反転回転型: いとうさとし氏
言わずと知れたネコ型ロボット。読みやすくていうことがありません。
「仲良くケンカしな」 回転型:繋氏
「トムとジェリー」の主題歌の歌詞より。同作のロゴ風の処理ですね。「ケ」第一画の思い切った処理が好きです。
「ねこねこ日本史」 回転型:あおやゆびぜい氏 日本の史実の人物を猫にして歴史を描く4コマ漫画シリーズでアニメ化もされました。読みやすくなるように文字組が工夫されていますね。「ね」のループは飾りとして処理しやすいのですね。
「黒船屋」 回転型:douse氏
竹久夢二の代表作の一つ��、和服の女性が黒猫を抱いているさまを描いた絵画。「船」の自然さをはじめ、「黒/屋」も自然に読めすぎて脱帽です。
「吾輩は猫である」 回転型:きいろいビタ氏
夏目漱石の代表作。ひらがなをすべて袋文字風にすることで漢字との字画密度差を解消していますね。素晴らしいです。
「猫の手も借りたい!」 回転型:peanuts氏
近松門左衛門の浄瑠璃の一節が由来と言われています。文字組が面白いですね。最後の「!」が工夫できれいに対応付くようになっています。
「猫に小判」 回転型:つーさま!氏
猫の付くことわざと言えば。ひっそりと猫の横顔と猫の目のようなあしらいが楽しいですね。
「猫も杓子も」 回転型:lszk氏
何もかも。「杓子」の二つのハネがちょうど猫耳になるのが気持ちよいですね。
「猫の恩返し」 回転型:douse氏
図案が非対称のため共存型と見る方が良いかも知れません。全体的に網目のような文字が面白いです。
「宅急便」 内包型:螺旋氏
3重内包型。本家ロゴに似せているのもあり一目で読めますね。内包の関係にあることの発見が素晴らしいです。
「観測するまで猫の生死は判らない」 内包型:超階乗氏
現実に書いたものを実際に重ねて表現された3重内包。細かい調整と猫の絵が見所ですね。
「窮鼠猫を嚙む」 敷詰振動式旋回型:Σ氏
「窮鼠+を」の敷詰と「猫+噛む」の敷詰が一致します。「窮/猫」「鼠/噛」「を/む」の対応がピッタリですね。
最後に私の作品を。
「異郷で会える猫」 回転型:igatoxin
旅先で猫に出会う。
お題 猫 のアンビグラム祭、いかがでしたでしょうか。御参加いただいた作家の皆様には深く感謝申し上げます。
さて次回のお題は「夢」です。真夏の夜の夢、レム睡眠、無我夢中、夢の島、トロイメライ、枕、荘子、儚、夢窓国師、枯野 など 参加者が自由に 夢 というワードから発想 連想してアンビグラムを作ります。
締切は7/31、発行は8/8の予定です。それでは皆様 来月またお会いしましょう。
——————————–index——————————————
2023年 1月{フリー} 2月{TV} 3月{クイズ} 4月{健康} 5月{回文} 6月{本} 7月{神話} 8月{ジャングル} 9月{日本史} 10月{ヒーロー} 11月{ゲーム} 12月{時事}
2024年 1月{フリー} 2月{レトロ} 3月{うた} 4月{アニメ} 5月{���園地} 6月{中華} 7月{猫}
※これ以前のindexはこちら→《index:2017年~》
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2022年 八景シリーズBest5
新幹線、保存車両、モノレール。様々な鉄道を八景シリーズで紹介し、今年は制作数271作品、総掲載枚数1000枚以上を突破した。
今年から「鉄道の利用風景」を中心としたテーマを設けてみた。あるときは80年代や90年代を想像するような作品にしたり、あるときは普段使いを意識した作品にしたり、毎回テーマを設けて安直にならないように心掛けた。撮影はテーマを意識した場面を考え、撮影後に作品構成を決めたらレタッチでよりイメージに近いもの実現しようと細かく調整をしてみた。
アーカイブで確認も出来るが、せっかくなのでランキング形式で5作品をピックアップ。Tumblrでは紹介できなかったちょっとした裏話も入れつつ、今年を振り返ろうかと。
第5位 No.412 湘南八景 空中バス-湘南モノレール
(12/23投稿)
モノレールや新交通システムの登場が多かった。それぞれ「未来」を土台とし、どんな未来なのかより深掘りしたテーマを考えてみた。湘南モノレールでは「昭和の未来」がパッと浮かび上がり、それに合いそうなものを撮影した。
例えば平成の車両だがこのボックスシートはどこか古臭さがあり、窓の映り込みを利用し自然体な乗車風景を撮影した。広告の色味が邪魔なのもそうだが、この形をよりダイレクトに伝えたいと、モノクロにトーンダウンし古いイメージが先に来るようにした。
未来をテーマにした中では好評だったようでピックアップした。
第4位 No.272 多摩八景 ありがとう8631F
(6/16投稿)
来月引退予定の東急8500系。今年は7作品(No.144、No.272、No.286、No.318、No.353、No.361、No.410)で登場し、引退間地かの日常風景を紹介している。
「他人とは違う写真をつくりたい」。そんなことを考え始めたのが、この電車がきっかけだったとか。八景シリーズが始まる前は、この車両をSNSやブログで掲載したりするが、たまにSNSに出す友人の1枚がうまくて、あの作風に憧れたのを思い出す。
投稿の大半は8637Fだが、今回は8631Fの作品をチョイス。やはりスタンダードな車両を好んでいた人間としては、この編成の引退でひとつの歴史が終わったような気分である。
第3位 No.340 湘南八景 Everyday 江ノ電
(10/2投稿)
きっかけは江ノ電の写真だった。江ノ電は作品でもたびたび登場しているが、朝の江ノ電は撮ったことがない。いつも混んでいる江ノ電が、日が出ている時間帯でも空いているのは見たい。そんな好奇心で朝6時に鎌倉からスタートしていた。
内容は生活感を重視したいため、海沿いを走る区間は外し、鎌倉の狭い住宅地 を中心に絞った。生活感の中にもちょっとした珍しさを入れたいと思い、朝の連結や夜の分割を入れた。作品ではおまけ程度の登場だが、連結と分割は一つの作品にしたいと考えNo.341を作成した。
構成だが、当初は「朝」、「昼」、「夜」と段々と変わる構成だった。ただいつも通りで、つまらないと感じていた。変えるにしてもどう変えよう、「毎日って何?」、「生活感ってどう表現する?」ともう一度根本的なところから考えてみた。
そこでふと思った。毎日は1日だけではない、何度でも来る。当たり前だが、このことに気づかされた。構成を一度白紙にし、「朝」、「昼」、「夜」、「朝」、「昼」とコロコロ変わるようにした。一つずつ伝えるのではなく、作品全体を伝えることを意識しよう、そんなきっかけになった作品だったかと。
第2位 No.348 武蔵四景 旧型 西武2000系
(10/10投稿)
西武といえば黄色い。その残党も主要路線では2000系を残すのみで、西武へ行く度に記録していた。 “No.348”では記録したものを寄せ集めし、作成作品数を増やそうと水増ししたような作品とか。たまにアクション数(リブログといいねを合わせた数)がちょっと伸びる程度で、11月には完全に忘れ去られるぐらいの勢いだった。
転機は12/7のことだった。いつもはたまに来る程度だったアクティビティの通知が、急に異様な盛り上がり、しかもこのNo.348だけ。何があったと思ったら、tumblr 日本語スタッフ( @nihongo)で紹介されたようで、ちょっとしたコメントを残してくれた。それをきっかけに拡散され、しばらくはいいねの通知が続いている。
影響力のあるアカウントからの紹介、改めて凄い。おかげで他の作品にもいいねを貰えて、ささやかではあるが嬉しさを感じていた。改めてtumblr 日本語スタッフ( @nihongo)に感謝申し上げます。
西武を象徴する西武2000系だが年々数を減らし、見かける機会が減ったようにも思える。80~90年代の映画やアニメの舞台を再現するには必要な車両だが、その舞台と共に遠ざかろうとしている。
第1位 No.363 横浜八景 静→動-京急金沢文庫増結
(10/30投稿)
技術者達も驚愕。かつて京急に部品提供を行っていたドイツのシーメンス社の人たちが現地視察した際、そんな逸話を残した朝の金沢文庫増結。この光景を一度は見たいと、朝早くに向かった。
なんでも5分ごと、多いときは2線同時に作業が行われる。乗客の列は作業途中の動いている電車に近づき始め、それも増結を行うたびに同じ動きをする。日本の朝ラッシュは嫌なほど知っているが、増結作業と慣れた乗車光景が平然と行われることに、日本人でも異様な光景に思えた。 写真は明暗のバランスを均等にして修正しやすいようにと考えたが、そんな暇はなかった。目まぐるしく変わる作業、瞬時にアイディアを出し、それをすぐ形にする。ファインダー越しを信じ、ひっきりなしに行われる増結作業を、無我夢中で撮影していた。
構成は目まぐるしく行われている様子をイメージして、増結、合図を次々と変わるように盛り込んだ。もう少し様々な内容を詰めたかったが、増結シーンは8枚の制約で1つの構成に仕上げた。あまりたくさん詰め込むより、一つの作品で目まぐるしさを大切にした。
その代わり、Instagramでは出せなかったシーンを中心に投稿してみた。それがかなり好評だったようで、投稿するたびに盛り上がりがあり、過去最高の反応もあったとか(ドア開 11/22投稿)。 tumblrでは大人しいリアクションだったものの、あの光景の凄さとInstagramの盛り上がりが印象的で、今回トップにした。
いかがでしょうか。まだまだ紹介出来ていない作品も多くあり、それを眺めるだけでも正月の暇��ぶしにはなりそうかと。 来年もシリーズを継続しつつ、何か新しいことが出来たらいいですね。それではよいお年を。
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--深海人形-- 空母内で、潜水中で、飛行船の中で、ファミレスで自爆決行するおじさん
※趣味:復活(※98でのプロフィールデータより)
※閲覧&キャラ崩壊注意
※某対戦剣戟ゲーの自決(※4632start)ネタあり
※ネタも話題も雑多(※闇鍋)
※今回は格ゲーネタ多し(※格ゲー分からない人へ済みません)
昔、楓の声帯やってる中の人が某パチスロ台(※多分デコトラ)に出てて嬉しかったな(※昔話自体レア)。で、ソロモンの悪夢ガチ勢なら月華の剣士/The Last Bladeオススメ(※特に第二幕。末期のsnkが遺した名作の中の名作です)。
…。
メトロシティでAP⚪︎Xごっこをやった時にありがちな事(※ケアパッケージがドラム缶)。
…。
ちりてのち のざらす者の 悲しさよ
橘右京 サムライスピリッツより
イグニスいおりん紅丸京サマも其うですが、美形キャラは、基本的に中国、半島人気が高いそうです(※…其う、無論右京さんも)。
…。
…紅丸は編を跨いでも裏主人公的な所がある。先ずオロチ編の出番(※小説、ドラマCDでも)多いし、ネスツ編でも毛走、クーラたそに深く関わって来るし、アッシュ編でも相変わらず存在感処か主役級の仕事を任されてるし、最新作のXVに至っては、新人主役少年達の先輩やってる。…最早、二度目の最盛期(※京サマのライバルで、良家出身で有能ってだけで待遇良過ぎ)。
…。
KOF最高傑作八傑集
98UM
98
02
02UM
NEOWAVE
XI
XIII CLIMAX
あと一つは?
…。
ライン移動する奴が相手なら鳳凰脚を使わざるを得ない(※ライン移動しなくても使う)。
…。
ヴァンパイア セイヴァーで好きな背景一覧
Green scream 此れは140アメスポチームくらい好き(※単位が理解不能)
Concrete cave これは700アメスポ
Vanity paradise 653アメスポ
Tower of Arrogance 此れは3ニューフェイスチーム(※二個目の謎単位出現)くらい好き
の曲が流れる各ステージ
好きな性癖発表ドラゴン「俺の出番は?(※出番無いの?)。」
ワイ「食えない爬虫類は嫌いだ(※爬虫類は食用であるべし派)。」
好きな性癖発表ドラゴン「あ゛っ゛?(※NAOYA並感)。」
…関係無いけど、Fetus of GodステージのRシリーズとX-∞の最終面めいた背景を見ると(そしてBGM)流石C社とアイレムは兄弟だな……と思う(※詳しくはggると分かる)。
…。
此方秦(ジン)で、彼方宗(ゾン)ね(※間違え易いね)。
…。
…望月双角は餓狼じゃなくて龍虎かサムスピに居そうな感じがする(…其れでも、敢えて餓狼に居るのが良い)。
…。
…どうせバイオじゃなくてモータルコンバットか魔界村を参考にしたんだろうけど、セイヴァーのホラー格ゲー路線堪んないね!(※…尚、格ゲー部分と一部のキャラストーリーとエンディングにホラー要素一切関わって来ない模様)。
…。
在勲「父さん!悪が鳳凰脚パクってるよ!」
キムさん「百も承知だ!だがな!……鳳凰脚自体には知的財産権は適応されないのだ……私の身内も誰も特許を取って居ないのだ……在勲よ……。」
在勲「父さん……。」
東煥(……親父、…其の方面の知識あんのか……)
…。
KOF自体ネスツ編アッシュ編含めて、神秘主義の色合いが非常に強い。
あのネスツでさえ、神秘主義的な思想(※何が何でも神になりたい、概念上最強になりたい)を拗らせたボスが、同時に、科学技術への偏執を拗らせると如何なるか?…と言う正に良い例(※…然し、…其れを言うと、C社のヴァンパイア セイヴァーも中々……)。
…。
賢者は、同じものを、誰とも違う視点で見てるから、其う呼ばれて居るんだ。
…。
…最近、重度の偏頭痛か中程度の群発頭痛で酷く頭部が痛む事があって、…其の時に「もう自分も長く無いな(※預言)。」…と思った(※悟り)。
…。
わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
----コヘレトの言葉 1:12~14
…何の成功も闘争も無く、平凡か底辺の暮らしをして居て非好戦的で善良なチート能力者を見ると、何故、其のチート能力を有効活用しないのだ?(真顔)。」…と、言い出す人が居るが、其の人達は、自分が強大な力なんて持った事無いから其う言える。
現に、其う言う強大な力を得ると、其れを持って居る事で得られる喜びとか全能感を一瞬で、世界への悟りとか自分の力を持ってしても世界は何も変わらない事への諦めとか虚無感が飛び越えてしまって、其のチート能力者達は、途方も無く人生と言う物を諦め初め、虚しくなってしまう。
なので、スケールの大きな目的、やりたい事が無い限りは、しょうも無くて、能天気で、雑な使い方をする(※…其れでも、人生を、世界を諦め無かった奴は偉大な悪者)。
…。
日本人の創作精神は常に自分の手先からはじまります。誰かの手先からはじまったものを奪うのが普通だと、此んな事なんて思いもよらないでしょうが。あとは自分達の色に塗り替えるのも同じく。
…。
そーけつの自決(4632start)は、天を仰ぎながら、自らの首に向かい天に四本の矢を放って、其の四本の矢を首で受けて、「勝負あり!」…って言う演出が良い(※尚、本家零サムの琉球ビキニ娘さんは只単に敵前で戦意喪失して死合放棄する模様)。
館主様
今度は腹では無く首の横に一撃(※原作読んだら分かる)。
ふーけつ
何故か車に跳ねられる(※要は事故死)。
…。
※…天サム、零サム、零サムSP原作の時点で、総じて『自決』と言う大層な名前の癖に、何故か事故死、他殺、敵前逃亡、死合放棄、降参する者が多い模様。自決とは(※哲学)。
…。
悪が相手だと言うのならば、鳳凰脚を使わざるを得ない!
それでは皆さんご一緒に!「おは鳳凰脚!」
…。
ネオジオラー「おいww公式wwトゥードゥー(の娘)を出せww」
S社「はいwwでもな、残念やったなww娘の方やwwトゥードゥー本人やないでww」
C社「…其んなに御前等トゥードゥーの事好きなんか!!!!!!!…其処迄の需要あるんなら、今度のカプエス2に出したるわ!!!!!!」
ネオジオラー達「はぁ?????????????」
S社「はぁ??????????????????トゥードゥー本人なんかよりも娘さんの方出した方が皆食い付くで???!!!!!??」
C社「よっしゃ!!!!!!!!!娘の方も出したる!!!!!!!!!!!」
※当然の様にC社は分かってない奴扱いされた。…然も、必殺技が一つだけでは無い為、カプエス2のトゥードゥーを偽物扱いするネオジオラー達迄発生した(※参考:民明書房)。
…。
何がコンプラコンプラだよ!自分で何もしねぇのに表現の自由だけは縛りやがって!
…。
…FEXLのゲストキャラで崇秀出すの、意外と行けるんじゃない??(※コマ投げあるし)。」でも、どうせ、「…何で此奴なんだよ?兄貴の方出せや!!!!!!(※秦兄弟は兄派の意見)。」…って、散々言われるだけ(※予言)。
…。
※…以下。…何時もの過激ネタ、クロスオーバー注意
殆ど蛇を使わなくなった罦傑は、暗器使いになり、メリケンサックで殴ったり、暗器針を相手に差し込んだり、火炎瓶で燃やしたり、短い鎖で相手を殴ったり、口の中に幼体毒蛇仕込んで妲己魔香殺したりする。闘魚のヴィレンか某ジャニスかレイレイ、笑龍、まりんみたいだ(※滅茶苦茶弱いけど)。
…。
操弾打っても緊急回避か前転回避される上に、物の見事に馬乗りバルカンパンチかシェル美スパイラルみたいな幸せ投げ(不幸投げ)される優しい世界(※無闇に操弾撃つ位ならゲームシステムについて勉強して置こうね⭐︎)。
…、
後は、伏せかしゃがみで、ライン移動で避けられるか(※基本、格ゲーは飛び道具に厳しい)。
…、
ザキヤマ「ほら!返すぜぇ!」
此んな感じでこf(…と言うか、新日本企画格ゲー全般で)は、飛び道具反射マン(ウーマン)多いよな(※地を這う飛び道具と同じで新日本企画名物)。
…、
飛び道具相殺って言うシステムも結構搭載されてるよね(※…其の上、りゅうこチームに至っては、銃弾すら受け流せるしな……)。
…、
館主様は多分、『秦兄弟(ライ・シュウ)同士を足して二で割った性能(※…但し、限り無く弟寄り)』。
…。
ソロモンの悪夢さんとか木星帰りに、ヘブンズアーチ、天翔��姫、色咒、シェル美スパイラル他幸せ投げ食らって貰いたい(※幸せ投げじゃないけど、ルミナス、ダークネス イリュージョンとサングェ=パッサーレ、プロヴァ=ディ=セルヴォも同じくどうぞ♪)。
…。
如何足掻いても、館主様は中々対戦相手に勝てないので、男の格闘家及び格闘素人からはボコられ(※完全にトレモの木偶化)、格闘家の少女達、御姉様(※おばさん含む)方に可愛がられる羽目に(※最早ハーレム)。
…。
シェル美さん「りんやんくんだーいちゅき♡りんやんくんは、くりちゅとは違う魅力があって、もうたまんないわ♡。」…尚、絶賛シェル美スパイラル中の上、太腿でリンヤンの頭を掴んでる最中。
社「又好みの少年に向かって痴女ムーブしてんのか。」
くりちゅ「良いじゃない。…此う言う女なんだから。」
シェル美さん「流石ね♡くりちゅは私の事分かってる♡。」
館主様「貴様等!良い加減此の女を如何にかしろ!
社「彼奴は俺達の大事な仲間だし何も出来ねぇ。つー訳で自分で何とかしろ。じゃーな!」
くりちゅ「館主様⭐︎ バイバイ!精々頑張ってね!」
館主様「…下郎共がーー!!(外道がァー!!並)。」
…。
木星帰り「あっ!デーモン五郎だ!シバいて良いかな?!(※逆に天地返しか地獄極楽落としでシバかれるフラグ)。」
「…良いぞッ!(※下衆顔)。」
…。
木星帰り=ルガール説(※京サマ説の方が、真実に近いであろう ※適当)。
…。
ジェノサイカッタッ!、鳳凰脚っ!辺りは、木星帰りでも、確実に、出来るだろうし、…其れに、彼奴が、真空波動拳だろうが覇王翔吼拳だろうがカイザーウェイブだろうが撃てるんなら、ワイだって同じ様に撃てるよ(真顔)。
…。
在勲「父さん!悪が鳳凰脚パクってるよ!(然も龍虎乱舞要素入ってるよ!)。」
キムさん「悪は許るさん!(何時もの構えで速攻)。」
木星帰り「ん?」
〜〜暫く御待ち下さい〜〜
東煥「…悪に実力で負けてんじゃん……(呆れ)。」
在勲「父さん!めげないで下さい!父さんには空を飛べる程の正義の力があり溢れてるでじゃないですか!(孝行息子の鏡)。」
キムさん「悪は許るさん!(再戦)。」
〜〜暫く御待ち下さい〜〜
在勲「結局負けてるー?!(ガビーン!!)。」
…。
京サマ「…『京へ、今日は木偶役を親父狩り狩り感覚でスカウトしたから、其奴をボコって鍛錬して見ろ⭐︎』…とよ、トンだ最悪親父だぜ(※実はボコる気満々。例のムエタイパンツかもしれないから)。」
木星帰り(※全身を鎖で縛られて居る上に、捨てられた犬の目)
京サマ「……此奴ボコったら祟られそうだわ(※勘の良い留年高校生)。」
…そして、京サマは近々追試があるのでちゃんと勉強しました(※偉いっ!!)。
…、
木星帰り「…其処の答えは、『溶媒』だぞ(※頭滅茶苦茶良い)。」
京サマ「…一々煩ぇよ!…御前、家庭教師のつもりか?!(迫真)。」
影から見守るいおりん「…京の奴が全うに勉強して居るだと……?!(明日はきっとイグニスかオロチが復活する……!)。」
…。
自決(4632start)
ソロモンの悪夢
拳銃を口に咥えて引き金を引く
「すみません……閣下……。」
野獣大尉
拳銃を口に咥えて引き金を引く
「あばよ!」
元メトロシティの英雄
何処から共無く白い布切れを棒に括��付け旗を振りながら降参する
「徹底抗戦だ〜〜〜!!」 ※某何処にも救いが無い事で知られるロボアニメネタ
基地ガイ忍者
突然レナがトンファーを持って出て来てガイを気が済む迄殴り昏倒させる
「な、何故、…レ、レナ……何故、此処に?…おふっ!!」
※本当に文字通りの『自決』する奴は偉いと言う風潮(※原作のゲームでも本当の自決をする者は、数名しか居ない)。
…。
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2023年の文化活動(一覧)
昨年もたくさん行脚しました。特筆すべきはコロナ禍からの本格的な脱却、夏休みの北海道旅行、勤続30年目のリフレッシュ休暇で西日本周遊、だろうか。行きつけの美術館は展示替えの都度、再訪するルーチンが確立。思ってたよりコンサートにもたくさん行ってた(クラシック系が多い)。地方の美術館(県立レベルの)を攻略する楽しさを知ってしまったので、今年も隙を見て行ってみたい。
星野道夫 悠久の時を旅する@東京都写真美術館
プリピクテジャパンアワード@東京都写真美術館
野口里佳 不思議な力@東京都写真美術館
パリ・オペラ座─響き合う芸術の殿堂@アーティゾン美術館
ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台@東京都現代美術館
MOTコレクション コレクションを巻き戻す 2nd@東京都現代美術館
DOMANI・明日展 2022-23@国立新美術館
クリストとジャンヌ?クロード 包まれた凱旋門@21_21 DESIGN SIGHT
ハンドメイドジャパンフェス冬2023@東京ビッグサイト
室内楽・シリーズNo.22 デュオの世界 <チェロとピアノのための>@東京文化会館
驚異の声、驚異の言葉─未体験の音空間へようこそ!@横浜みなとみらいホール
Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎@東京オペラシティーアートギャラリー
3331によって、アートは『 』に変化した@3331 Arts Chiyoda
恵比寿映像祭2023@東京都写真美術館へ
同潤会アパート渋谷@白根記念渋谷郷土博物館・文学館
引き寄せられた気配@トーキョーアー��アンドスペース 本郷
東京都水道歴史館
開館60周年特別展「横山大観と川端龍子」@龍子記念館
0~8848M・地上の紋――中国空撮写真展@日中友好会館美術館
毎年恒例の岡本太郎現代芸術展@岡本太郎美術館
六本木クロッシング2022展:往来オーライ!@森美術館
わたしたちは生きている!セタビの森の動物たち@世田谷美術館
それぞれのふたり 萩原朔美と榎本了壱@世田谷美術館
平原まこと 50周年 メモリアルコンサート@東京国際フォーラムCホール
吉松隆オーケストラ傑作選 吉松隆の<英雄>@東京芸術
動物会議 緊急大集合!@ギンザ・グラフィック・ギャラリー
VOCA展2023@上野の森美術館へ
藤子不二雄のまんが道展@豊島区立トキワ荘マンガミュージアム
昭和レトロ館
ヴォクスマーナ 第49回定期演奏会@豊洲シビックセンターホール
第52回邦楽演奏会@国立劇場
ダムタイプ|2022: remap@アーティゾン美術館
アートを楽しむ 見る、感じる、学ぶ@アーティゾン美術館
画家の手紙@アーティゾン美術館
重要文化財の秘密@東京国立近代美術館
明治美術狂想曲@静嘉堂@丸の内
今井俊介 スカートと風景@東京オペラシティアートギャラリー
収蔵品展076 寺田コレクションハイライト(前期)@東京オペラシティアートギャラリー
ブルターニュの光と風@SOMPO美術館
情景の地 ブルターニュ モネ、ゴーガン、黒田清輝が見た異郷@国立西洋美術館
エドワード・ゴーリーを巡る旅@松濤美術館 応挙と蘆雪@東京黎明アートルーム
「ラ・フォルジュルネ2023」 公演番号:313止まらない!若き活力の横溢と抒情 公演番号:324大作曲家に楽器の制約ナシ!SAXカルテットによる名曲の解答
島じまん2023@竹芝桟橋
デザインフェスタ vol.57@東京ビッグサイト
東京みなと祭@東京国際クルーズターミナル
ルーヴル美術館展@国立新美術館
清澄庭園
大阪の日本画@東京ステーションギャラリー
第63回 海王祭@東京海洋大学 越中島キャンパス
マティス展@東京都美術館
都美セレクション グループ展 2023
夢と自然の探求者たち―19世紀幻想版画、シュルレアリスム、現代日本の作家まで@群馬県立館林美術館
原始神母 THE DARK SIDE OF THE MOON 50th ANNIVERSARY@日比谷公園大音楽堂
本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語@東京都写真美術館
TOPコレクション セレンディピティ 日常のなかの予期せぬ素敵な発見@東京都写真美術館
田沼武能 人間讃歌@東京都写真美術館
発掘・植竹邦良 ニッポンの戦後を映す夢想空間@府中市美術館
プレイプレイアート展@ワタリウム美術館
下町七夕まつり@かっぱ橋本通り
モネ・ルノワール 印象派の光@松岡美術館
フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン@東京都庭園美術館
川崎水族館
F.A.T.2023 Summer Concert FireBird & AzBand & TAKEBAN@月島社会教育会館ホール
山下清展 百年目の大回想@SOMPO美術館
ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ@アーティゾン美術館
野又 穫 Continuum 想像の語彙@東京オペラシティー アートギャラリー
没後10年 映画監督 大島渚@国立映画アーカイブ
熊谷守一美術館
三井高利と越後屋@三井記念美術館
北海道旅行 ファーム富田 旭山動物園
恋し、こがれたインドの染織@大倉集古館
ブラチスラバ世界絵本原画展@うらわ美術館
特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティワカン@東京国立博物館
誰かのシステムがめぐる時@TOKAS本郷
東京大学総合研究博物館
第21回東京音楽コンクール(ピアノ部門)の本選@東京文化会館
テート美術館展@国立新美術館
ガウディとサクラダファミリア展@国立近代美術館
ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会@森美術館
コレクション展2023-3@青森県立美術館
大巻伸嗣 地平線のゆくえ@弘前れんが倉庫美術館
弘前昇天教会
旧五十九銀行本店本館(青森銀行記念館)
旧東奥義塾外人教師館
旧弘前市立図書館
山車展示館
弘前城
津軽藩ねぷた村
カトリック弘前教会
荒木珠奈 展@東京都美術館
ARTBAY TOKYO アートフェスティバル2023 CIRCULATION -ひともまちもせかいもめぐる‐@臨海副都心エリア
生誕140年 モーリス・ユトリロ展@横浜高島屋ギャラリー
全日本模型ホビーショー@東京ビッグサイト
デヴィッド・ホックニー展@東京都��代美術館
「あ、共感とかじゃなくて。」@東京都現代美術館
ステファン・サグマイスター ナウ・イズ・ベター@ギンザグラフィックギャラリー
福田美蘭 「美術ってなに?」展@名古屋美術館
生誕120年 安井仲治YASUI NAKAJI: PHOTOGRAPHS@愛知県美術館
フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築@豊田市美術館
漆の彩り・黒と金の幻想 - 高橋節郎@豊田市美術館(髙橋節郎館)
コレクション展 歿後20年 若林奮@豊田市美術館
2023年度 第2期 コレクション展@豊田市美術館
山田寅次郎展@ワタリウム美術館
Japan Mobility Show 2023@東京国際展示場
黒田記念館(特別室開室)
横尾忠則 寒山百得展@東京国立博物館
東京国立博物館の寒山拾得図
デザインフェスタ vol.58@東京ビッグサイト
永遠のローマ展@東京都美術館
上野アーティストプロジェクト2023 いのちをうつす ―菌類、植物、動物、人間@東京都美術館
動物園にて ―東京都コレクションを中心に@東京都美術館
第64回 日本版画会展@東京都美術館
「今こそ、ルーシー!」 ~LUCY IS HERE~@スヌーピーミュージアム
大原美術館
そして船は行く@高知県立美術館へ。
大塚国際美術館
コレクションハイライト@福岡市美術館
芥川龍之介と美の世界 二人の先達─夏目漱石、菅虎雄@久留米市美術館
遠距離現在 Universal / Remote@熊本市現代美術館
第3期コレクション展:宮崎県立美術館
MOTアニュアル2023 シナジー、創造と生成のあいだ@東京都現代美術館
MOTコレクション歩く、赴く、移動する 1923→2020 特集展示 横尾忠則―水のように 生誕100年 サム・フランシス
大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ@国立新美術館
第4回カルチャー芸術展@国立新美術館
第12回 躍動する現代作家展@国立新美術館
21世紀アートボーダレス展(2023)@国立新美術館
JAGDA国際学生ポスターアワード2023@国立新美術館
第63回全国矯正展@東京国際フォーラム
ゴッホと静物画―伝統と革新へ@SOMPO美術館
ピカレスク・ニュー展 Vol.8@ピカレスク
モネ 連作の情景@上野の森美術館
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20230402
Specialthankssp:蒼の世界は、イントロとAメロのギターフレーズが特にグッときます。高校時代、カバーしたことがありますが、あれを弾きながら歌う藤巻亮太さんを神のように崇めていたことを思い出します。笑 twitter.com/specialthankss… [https://twitter.com/Specialthankssp/status/1642488333367672833] remi_mai2:SING LIKE TALKING 佐藤竹善のアンダンテ | Kiss FM KOBE | 2023/03/29/水 21:00-21:30 radiko.jp/share/?sid=KIS… #radiko #藤巻亮太 3回シリーズだったんですね。 1,2回分、聴き逃してしまいました😭 竹善さんとどんなお話をされたのか...残念。 ギターリフ、アレンジ、ほんと素敵で大好きです🎸💕 [https://twitter.com/remi_mai2/status/1642472868436119552] sorama_zofu:【対談:岸谷香×藤巻亮太 後編】このミュージシャンが好きだ、この音楽が好きだって感じられる人たちと一緒にやることこそが最高の刺���(ぴあ) #Yahooニュース news.yahoo.co.jp/articles/a36bc… [https://twitter.com/sorama_zofu/status/1642396631667728385] sorama_zofu:「心と体、両方のバランスが…」藤巻亮太 “自分らしさ”を取り戻した“フットサル仲間”との活動(TOKYO FM+) #Yahooニュース news.yahoo.co.jp/articles/14fae… [https://twitter.com/sorama_zofu/status/1642386657629597700] sorama_zofu:@Ryota_Fujimaki スピードスターライブのメール読んでくれてありがと! あれから私は藤巻亮太というアーティストの沼に ハマったのです 目に写る景色が今までと違って見えます🧡 [https://twitter.com/sorama_zofu/status/1642381300274458625] Ryota_Fujimaki:【ファンクラブ更新情報】 FC会員限定の動画をアップしました。 先ほどOAされた「#FM藤巻」収録直後の #藤巻亮太 を直撃! fujimakiryotafan.com/movies/84730 [https://twitter.com/Ryota_Fujimaki/status/1642376316866691075] harusameboxer:FM藤巻 | FM FUJI お疲れ様でした! ありがとうございました! 3年目突入おめでとうございます! 温泉の話を聞いていたら私も温泉に行きたくなってきた……! Mt.FUJIMAKI当たりますように! radiko.jp/share/?t=20230… #radiko #人気アーティストトーク #音楽との出会いが楽しめる #藤巻亮太 #FM藤巻 [https://twitter.com/harusameboxer/status/1642374879034089473] soRaguMO_hisei:Sunshine最高!!! #藤巻亮太 [https://twitter.com/soRaguMO_hisei/status/1642368470666051585] harusameboxer:FM藤巻 | FM FUJI 待機! radiko.jp/share/?t=20230… #radiko #人気アーティストトーク #音楽との出会いが楽しめる #藤巻亮太 #FM藤巻 [https://twitter.com/harusameboxer/status/1642361171461414912] hiroko_fujimaki:ウッカリしちゃいそうだから早めにスタンバイ❗️ 通信速度制限されてる状態だけど無事にリアタイで聴けますように~‼️🙏(でないとdocomoの予約時間、午後にした意味なくなる💦) FM藤巻 FM FUJI 2023/4/2(日) 12:00-13:00 radiko.jp/share/?t=20230… #radiko #藤巻亮太 #FM藤巻 #人気アーティストトーク [https://twitter.com/hiroko_fujimaki/status/1642360048260378624] Ryota_Fujimaki:【まもなく📻】 #藤巻亮太 の「#FM藤巻」はこの後12:00から 今回の放送は💬 Sunshine全国ツアーを無事完走した藤巻が今の心境と今後の活動について語る🗾 そして!4月の📧テーマ「温泉」についてのトークも!♨ お聞き逃しなく🎧 #FMFUJI はPC/スマホからも👀 radiko.jp/#!/ts/FM-FUJI/… pic.twitter.com/XXebFrEfDp [https://twitter.com/Ryota_Fujimaki/status/1642346144100651008] remi_mai2:こちらで最高の歌声、圧巻のステージが体験できます✨ 初めての方は無料視聴期間もあるようなので、ぜひお試しを! 因みに #藤巻亮太 さんの出演は(残り)2:24辺りから始まります♪ あの新曲も!! 最高のツアー���終わってロスの方、必見です!! 🎸アーカイブ配信期間は4月9日まで。 何度も観ちゃお💕 twitter.com/watch_UNEXT/st… [https://twitter.com/remi_mai2/status/1642334131358138370] Specialthankssp:蒼の世界が一位かー! 季節になると毎年聴きたくなる一曲です。藤巻さんの風情のある歌詞が印象的です。イントロのあのギターフレーズを弾きながら歌う藤巻亮太さん、カオス! twitter.com/nneeeeeeji/sta… [https://twitter.com/Specialthankssp/status/1642320141731123200] JekeiJJ:✨#ジェジュン ✨🌟✨ #僕を見つめて 作詞:伊秩弘将 作曲:藤巻亮太 諦めないで いつも一緒さ どんな時でも見守ってるよ ハイレゾ🎧🎶💕 mora.jp/package/430000… @bornfreeonekiss 甘美でやさしい歌声J_JUN💙 pic.twitter.com/eRUgeqVrFW [https://twitter.com/JekeiJJ/status/1642309262700613633] hiroko_fujimaki:今日も朝からこれを観る‼️😆✨ 亮太さんが素敵すぎて他の部分、まだ全然観れない··😅 #LIVEtheSPEEDSTAR #ビクターロック祭り #藤巻亮太 #この道どんな道 #3月9日 #朝焼けの向こう #UNEXT video.unext.jp/livedetail/LIV… pic.twitter.com/3ZmE0z1XuP [https://twitter.com/hiroko_fujimaki/status/1642306179828436992] nneeeeeeji:第1回 レミオロメン・藤巻亮太君 アルバム選抜 集計期間:2023年3月14日~2023年4月1日 投票者数:50名 総投票数:557票 結果 レミオロメン:1位 蒼の世界 19票 ソロ :1位 指先 22票 たくさんの投票、ありがとうございました! #アルバム選抜 #レミオロメン #藤巻亮太 pic.twitter.com/rL2fiDlaAE [https://twitter.com/nneeeeeeji/status/1642205478888550401] rami1557:そして1日だけ参加でも2泊3日、2日通しだと3泊4日必要、宿泊先はどうする…などなど。 中々大変だということはわかった。 でもまだまだ時間はたっぷりあるから、ゆっくりワクワクしながら考えるとしましょうか! #藤巻亮太 #マウントフジヤマ [https://twitter.com/rami1557/status/1642194165340708866] kmit32:バクホンもGRAPEVINEもつじあやのもスペアザも藤巻亮太も斉藤和義もみんな私の音楽好きになったきっかけの一部をくれた方々。すごく良かった。もちろん他の方々も。 そしてSAKEROCK経由の星野源さん。 やっぱり音楽好きな私を開拓してくれた人。過去が、蘇るほど良かった。 #SP30th #星野源 [https://twitter.com/kmit32/status/1642191783064133642]
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広坂早苗『未明の窓』5首選
ブログの記事を移管シリーズその3。
これは広坂さんの歌集批評会があった後に二次会で平和園で喋ったこと。なんか振られそうな気がして、念のために五首選をしといたのが当たった。
ここからスタート
↓
「まひる野」の広坂さんの第二歌集『未明の窓』の批評会が昨���名古屋であったのだが、仕事の関係で二次会にしか行けなかった。その二次会で歌集の感想を振られたのでお話ししたのだが、こちらにも記したいと思う。
桃ジャムを煮るリビングの一隅に雷魚と雷魚を描く子がいる/12p
→雷魚二匹描いているということだと思うのだけれど、この「雷魚と雷魚」に間違いではないけれど謎の面白さがある。発言した後に思ったのは、ジャムを煮る片手間にしか子の描いているものを見れなかったので、「雷魚」の一匹目と二匹目を別の時に認識したからこういう「雷魚と雷魚」という表現になったのではないかと推測するけどどうやろうか。
植木算は木を描きながら解くのだと子はいう枝に葉をつけながら/13p
→「枝に葉をつけながら」のディティールの強さと自然さ。「ながら」が二回出てきてややうるさい感じがしなくもないが、それでもこの歌の最後の「ながら」は韻律に無理をさせてない上手さがあるよな、と思う。
タンブリン打ち鳴らしつつ子がうたう春の朝は時計が狂う/35p
→「春の朝は時計が狂う」と言われるとだんだんなんかそんな気もしてくる感じがしてきて、歌の中の呟きに騙されそうになることが多々ある。春という季節のはじまりの時期と「時計が狂う」の取り合わせは読者を力技で納得させにかかっている。
それとさらに言うと、上の句の「タンブリン打ち鳴らしつつ子がうたう」の後にあるとそのせいで時計が狂ったように見えて不思議。
尋ねたら沖まで連れていかれそうで早退許可の印のみ押しぬ/100p
→「自分はこういう境遇でこういう生活を送りこういう状況である」という設定や状況の説明の為に歌をたくさん費やす様な歌集がちょいちょいあるが、広坂さんの歌集にはその毒気がほとんど無かった。この歌は職場の光景なのだが、上の句の「尋ねたら沖まで連れていかれそうで」という主体の迷い、戸惑いとも言えそうな感情の表現に惹かれた。自分はこういう状況であるという設定では無く、何ともいえない感情が読者に手渡される。
子めだかのすきとおる背に影が添う風より秋に変わりゆく朝/195p
→歌集の最後の歌。この歌集には水棲生物がよく出てくる。後は子どもさんの歌もよく出てくる。この歌自体もとてもいい歌だが、この歌が歌集全体を象徴している感じがする。それはちょっと僕の読みすぎなのかなとも思うけど、でもここに出てくる「影」は何回も読むと主体の暗喩にもやはり思えてくる。
いい歌集でした。ありがとうございます。
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タカザワケンジ展「郷愁を逃れて」 ステートメント 顔のない写真たち タカザワケンジ
写真の中の顔に魅了されてきた。
私だけではなく、たいていの人がそうだろう。風景の中に人間がいれば、目は人間に吸い寄せられる。風景写真のセオリーは人間を排除することだ。風景に集中させるために。
人間の顔の面白さについてはこんなエピソードがある。生まれたばかりの赤ちゃんに、顔の要素をばらばらにして組み換えた図いくつかと、正しい配置図を見せる実験を行った。赤ちゃんがもっとも頻繁に頭と目を向けたのは顔の配置が正しい図、つまり人間の顔の模式図だったという。
プリンストン大学心理学部教授のアレクサンダー・トドロフは、1975 年のキャロライン・ゴーレンらのこの実験などの例を紹介し、こう述べている。
「新生児が顔を好むという知見は、現在に至るまで時の試練を耐えてきた。新生児は、顔の要素の非常に特定的な構成に注意を引かれる。このことは、霊長類の脳は顔をそれ以外のものから区別する顔の部位に注意を向ける能力を進化的に発達させてきたという仮説を是認しなければ説明がつけにくい。私たちは生まれた瞬間からジャンプスタートできる能力をそなえて生まれてくるのだ。とはいえこの能力も、人生を離陸させる時にしか役立たない。その後私たちを前進させるのは、人生の初期に頻繁に顔にさらされることと、他者に対して興味と依存心を抱くことだ。」(『第一印象の科学』みすず書房、2020)
赤ん坊が人間の顔に反応するのは、大人の加護がなければ生きていけないからだろう。長じて大人になっても、人間の感情に敏感なことは生きるうえで有利に働く。人間の顔色に関心が高い人は人間関係にも敏感なはずだ。うまく立ち回れば快適に生きられる。
したがって、写真を見る時に人間に関心が向くのは当然だ。しかし、写真家にとっては、人間の顔が示す情動表現の豊かさは諸刃の剣である。顔は見るものの関心を引くが、写真家の意図を被写体の表情が裏切ることがある。被写体は表情によって、撮影の主導権を写真家からもぎ取ることもできるのだ。
また、写真は被写体の氏名や属性を剥ぎ取った「人間」を表現することが難しい。写っている人物は実在する個人であり、写真家とは無関係に人生を生きている(それが家族であっても)。画家にとってのモデルとは違い、被写体と個人ががっちりとひも付けされ、その人と同一視されるのだ。そのため、写真家はさまざまなやり方で写真に写った人を「個人」と認識させないように工夫してきた。
19 世紀のピクトリアリズムの写真家たちは、絵画にならってコスチュームや役割を用意して、モデルを物語の登場人物に仕立てた。20 世紀に入るとモデルたちは無表情に徹し、何かを象徴する人物になりきろうとした。そのどちらも、写真にフィクションの要素を加えることで、個人との関係を回避しようとする企てだった。
現代に近いところでは、ドイツの写真家、トーマス・ルフがいる。《「Portrats(ポートレート)」シリーズ》で証明写真のようなポートレートを巨大なプリントに引き伸ばした。ヒューマンスケールを越えることで象徴的な「人間」として意識させようとしたのである。
個人を判別するうえでもっとも大きなものは顔だ。顔を消すことは個人から離れる手っ取り早い方法である。
十文字美信の初期作品に「首なし」という作品がある(英題は「Untitled」)。首から下しか写っていない写真のシリーズであり、その多くは十文字本人だという。顔のない写真は謎めいていて不気味だ。顔がないということは自己同一性が認められないということであり、それが誰であってもおかしくはないということでもある。作品は服装(または肉体)が現代社会の階層や、キャラクターを象徴することを表現しており、普遍性を持たせるために顔は不要だったのだろう。
英国の写真家、アルマ・へーザーは写真の顔の部分を切り出し、紙を折って立体──折り紙──にして、顔の位置に置き再撮影する。顔は変形し、個人の特定は難しくなる。奇妙なかたちに変形した顔は個人から離れるが、かえって顔に意識が集中するという逆説も生んでいる。
澄毅の方法も印象に残る。モデルを使って撮影したポートレートの、顔の部分に小さい穴をいくつも開け、写真の後ろから光をあてて発光させる。その状態で写真を撮影する。顔が発光したように見え、美しい。私が今回、顔を消した方法と表面上は似ているが、澄のほうがイメージをつくることへの意欲が強く、美的に洗練されている。
デジタル写真では、山崎雄策の試みがユニークだ。渋谷でストリートスナップを撮影し、写った人の顔に画像処理を加え、存在しない架空の顔につくりかえる。「(佐藤 愛)」と題されたこの作品は、肖像権の問題をクリアすると同時に、どこにも存在しない顔を持った人物が街を歩くという薄気味悪い画像を私たちに提示する。デジタルが作りだしたゴースト。AI やロボットを連想することもできるだろう。AI やロボットに個人という概念は必要ない。
ここでは5 人の例を挙げるだけにとどめておく。 ポートレートを個人から引き剥がそうとする作品は少なくない。それだけ顔は個人と強く結びついている。写真のように正確な描写をするツールは、その結びつきゆえに社会的な役割を果たしているともいえる。証明写真はその典型だ。
さて、私の今回の作品について少し解説を。
ご覧になっていただければわかるが、ほとんどの写真が顔が見えないようになっている。いずれもその個人を撮影しようと意図したもので、撮影時には顔立ち、表情への関心や愛着、執着があったものだと思われる。
顔が見えない写真を見て、違和感を覚えたり、もやもやとした感情を持つ方もいるだろう。私が観客でも同じようなことを感じるかもしれない。そのもやもやの理由について考えてもらうのが、この展覧会をやろうと思った理由の一つである。
私たちは顔に引きつけられる。写真になった時、顔は見られるだけの対象になる。品評され、勝手に感情を推理される。見る側にとってはそれが楽しい。しかしそれは少し後ろ暗く、背徳的な喜びである。個人の顔を穴があくほど見て論評するなど、倫理的に正しいとはいえないという負い目がある。
ではその後ろめたさから逃れたらどのような感情がわくのだろうか。
タイトルを「郷愁から逃れて」としたことを、たったいま後悔している。プレスリリースに書いたようにはじめは郷愁の原因を人物の顔に求め、その顔を消すことで郷愁から逃れることを意図したのだが、それは見当違いだったことを認めなければならない。
私が本当にやりたかったのは「顔からの逃走」だったのだ。「Escape from the faces」が正しかったのである。
写真展をやることは、目の前にある写真を構成し、作品につくりあげていくことだ。無意識のうちに撮った写真に潜んでいる、何か──誰かに見せるべきもの──を探すことであり、それ���の写真がアカの他人とどのように接点を持つかを見つけることでもある。したがって、展覧会の前に答えが出ているとは限らない。
もちろん、「郷愁から逃れて」というタイトルが示すような、約25 年前と現在とを比較するという意図を捨て去ったわけではない。人物がにこやかに笑っている写真が、郷愁を募らせてしまうことも否定できない。写っている人たちには非礼かもしれないが、その顔は必要なかった。だから、半分はこのタイトルで合っているのかもしれない。
いや、だったらせめて「Escape from Freedom」をもじって、「郷愁からの逃走」とすべきだった。1990 年代といういまよりもずっと野蛮だった時代を、自由な時代だったと都合良く解釈しないために。
タカザワケンジ展「郷愁を逃れて」 2020年9月9日(火)~10月3日(土) 時間:12:00~20:00 休廊:日曜日・月曜日・祝日 IG Photo Gallery https://www.igpg.jp/exhibition/takazawakenji20.html
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Facebookで7日間ブックカバーチャレンジという、いわゆるバトンが回ってきたので今日までやっていました。
バトンが流行っていたあの時代、最初はノリノリでやっていたものの次第に面倒くささや少しのモヤモヤに飲み込まれ遠ざかっていきました。
正直なところ今でも少し苦手ですが、基礎疾患が多く厳重に引きこもる何も起きない日々……苦手なルールを排除してやってみようと思った訳です。
以下敬称略です。
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1
『寺山修司少女詩集』 角川文庫
著:寺山修司
とある病気で手術をし入院生活を送っていた時に常に持っていた詩集。短い詩も多いため音読をしたり書き写したりと、リハビリの供として大変お世話になりました。
『ヒスイ』という詩が作曲家の信長貴富によって合唱曲と独唱曲になっており、主メロがとても好きなのでいつか歌えないものかと思って楽譜を眠らせています。合唱になっている詩なら『飛行機よ』も好きです。曲がまた最高なんですよ、冒頭のアカペラがホールに響く気持ちよさ……いかんいかん、合唱ができない日々に悶々として合唱の話をしてしまう……。
2
『これは のみの ぴこ』 サンリード
作:谷川俊太郎 絵:和田誠
表題の「これは のみの ぴこ」から始まる壮大な言葉遊び(ネタバレになるので言葉遊びとしか言えません)……黄金コンビの谷川俊太郎と和田誠による詩の絵本です。和田さんがレタリングしたのだろうと思うのですが、絵にぴったりのフォントが良いです。
四歳頃全文を暗記、今でも暗唱出来るというのが私の地味な特技です。ページを繰るごとに一文が増えていくこの絵本、繰り返し繰り返し読み聞かせをする側は大層地獄だったと思います。ごめんなさい。でもまあ、あくまでも絵本なのでそんなにお時間は取りませんから、うんざりせずに読んでください。全文暗唱出来るという地味な特技が出来るかもしれません。
3
『指輪物語』評論社
著:J・R・R・トールキン 訳:瀬田貞二・田中明子
映画『ロード・オブ・ザ・リング』の原作で文庫版は全10巻にも及ぶ超大作ファンタジー小説です。全ファンタジー小説の始祖的な物語。前日譚の『ホビットの冒険』も含めた中つ国の物語がとても好きです。文字や地図に歴史、文化。その全てが著者による創作なのに、隙を感じさせないところが最高。この長さで挫ける人もいるとは思います……でも、面白いです!こんな時にファンタジーはいいかもしれませんね。
映画も好きで何度も観ていますが、小説版は映画を観たあとでも十分楽しめます。レゴラスはいいぞ!!もう、映画だけでもいいから!映画もめちゃくちゃ長いけど!!映画だったら、王の帰還でピピンが宰相の前で歌う曲がいいです。作業中に映画のサントラを流すと壮大な気持ちになれておすすめ!
4
『七色いんこ』秋田文庫
作:手塚治虫
手塚治虫といえば火の鳥、ブッダ、アトム……いろいろありますがあえての七色いんこです。漫画類が禁止されていた幼少期に祖父がぽんとくれたのが七色いんこ5巻でした。火の鳥は親と共に行った人の家に全巻あり貪るように読んでた気がします。ブッダは小学校の時教室にあったなあ。あれは何故だったんでしょう。
七色いんこの話に戻ります。なんと言っても、いんこがカッコいいんですよ。あとトミー。ルパン三世しかり、世界各地にある秘密基地、老若男女誰にでも変身出来るマスク……ロマンが溢れます。こういうの、憧れる時があると思うんですが、え?ないですか?またまたぁ。ラストに犬のタマサブローが主人公のお話があり、そこに私の推しのタコブネ(のようなもの)が出てきます。タコブネ、かわいいタコブネ……。
5
『学研の観察図鑑2 昆虫2・クモ』学研
監修:国立科学博物館 友國雅章
小学生時代、旅行でも持ち歩いていたポケット図鑑です。自然についてや、カメラやボードゲームについて教えてくれた方との思い出もたくさん詰まっています。これは○○アブ!あれは△△アブ!それはハエ!それはハチ!!とかやってましたね……。
幼少期に愛読書=図鑑の時期があると思うんですが、それが昆虫倶楽部という特殊な部活に入部したことも相まって相当長引いていたように思います。ビビりなので普通に害虫(Gとか)は嫌いですが、無駄に知識だけはモリモリあります。そういえば、昔ディスカバリーチャンネルでGの研究者がその身体能力について嬉々として語るとか見てたな……あいつら脚の動きがね、すごいんであんなに速いらしいっすよ。
6
『鳥の王さま ショーン・タンのスケッチブック』
著:ショーン・タン 訳:岸本佐知子
アニメーション作家でもある著者による画集です。眺めているだけで本当に幸せになれる本。去年、ちひろ美術館東京で開催された展覧会も見に行きましたし、翻訳されている絵本はかなり持っています。ちひろ美術館では展覧会の画集と『セミ』という絵本を買いました。可哀想で可愛いセミ。自由だ!セミ!
風景や人物スケッチは当然素敵なのですが、何より不思議生物達が可愛い。本当に可愛い。大してない語彙力が消滅します。眼福眼福……。いつかこんな絵が描きたいけれど、描けないだろうなあと思って寂しくなるくらいお気に入りです。この人の毒はゴーリーのような即効性はありませんがじわじわと優しく効く毒です。絵本『エリック』もいいぞ!(ゴーリーだったら『うろんな客』がいいぞ!)
7
『アヒルと鴨のコインロッカー』創元推理文庫
著:伊坂幸太郎
伊坂幸太郎の小説が好きでこれまたたくさん読んでいるのですが、ここは一番最初に読んだ本を。
新幹線の中で読もうと東京駅の本屋で手に取ったのがこれで、ここだけの話旅行より夢中でした。以来、伊坂幸太郎に限らず、ばらまかれた伏線達が最後に集合し結実するカタルシスの虜です。映画もいいよ。他におすすめするなら、初期作品は当然なんですが是非『フィッシュストーリー』を。短いのですんなり読めます。映画も最高。もうすっかり結末はわかってるのに何度も観ちゃう。斉藤和義の作った劇中歌も最高なんで。止まらなくなるので切り上げますね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上、ブックカバーチャレンジは終了です。
1、詩集
2、絵本
3、ファンタジー
4、漫画
5、図鑑
6、画集
7、ミステリー
このようにジャンル分けをし、思い出のあるものを中心に無理矢理絞り出しました。なのでちょっと中途半端な気もします。
図書館に行ったら上限冊数借りてきてしまうような、いわゆる本の虫には酷なバトンでした。他にもオーデュボンの祈りとかボッコちゃんとか儚い羊たちの祝宴とかぶらんこ乗り、エッシャーの画集、やっぱりオオカミ、ことわざ辞典、伝記類……はてしない物語ギリシャ神話ラブクラフト全集バスカヴィル家の犬青い鳥聖☆おにいさんオズの魔法使い怪盗探偵山猫不思議の国のアリス腕貫探偵おおきな木福家警部補……切りがないので解散!!
お付き合いくださいましてありがとうございました。最後に、今読んでいるのは
『不穏な眠り』文春文庫
著:若竹七海
探偵葉村晶シリーズ最新刊です。葉村晶シリーズ一巻目『依頼人は死んだ』は短編集なので入りやすくこのシリーズの醍醐味が詰まっていて、導入として最高です。ドキドキハラハラ……えっ……あ……うわあああああああああってなれます。
以上です。では。
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Hikawa Ryusuke’s Akira Article(jp)
Hikawa Ryusuke is probably the most famous Japanese anime critic. He wrote an extensive article on the anime industry before and after Akira, articulating what lead to Akira and how Akira influenced the industry thereafter. This article was published in "Akira Animation Archives” which is rather hard to find in good condition, so I thought I might copy the article somewhere. It’s in Japanese nonetheless, as I’m not capable of translating such a sophisticated text, but I hope me publishing this article would lead to someone being interested in translating it. I believe it contains some pretty useful and valuable information.
‘80時代----「Akira」が”ANIME”にもたらしたもの
本書では、アーカイヴよしてアニメーション映画「AKIRA」の現存する制作資料を句能な限り良好な状態で収録した。完成フィルムとは異なるプロセス上熱気や思いが、そこに見えたことと思う。では、こういった成果物を生んでいった周囲の状況はどうだったのだろうか。あるいは歴史の中で「AKIRA」という作品はどう位置ずけられるのだろうか。あとがきにかえて、ここにその俯瞰図をまとめてみた。
アニメ史から見た’80年代
アニメーションは今や会社にとって、子供のための娯楽映像という存在のみの状態から完全に脱皮し、広く青年、大人へ、あるいは世界へと観客層の拡がりを見せている。
そのきっかけは、1977年、「宇宙戦艦ヤマト(映画版)」の巻き起こした”アニメブーム”である。ところが「AKIRA」の上映された1988年。。。それかれあ約10年が過ぎたころには、原初のアニメブームが持ってータ熱は冷め、明らかに大きな陰りと断層が見えていた。富野由悠季監督作「機動戦士ガンダム」(1979年作品)を産み、アニメブームを牽引した巨人ロボットアニメ作品がTVから一時撤退しているのがそれを象徴しており、オリジナリティや作家性に期待されたビデオアニメもぱっとせず、時代の節目となる兆候がいたるところに見られた時期である。
ブームを陰らせた原因は、大きく以下のつではないかと推定される。
1つ目は学生時代に「ヤマト」や「ガンダム」でアニメに目覚めたいわゆる第1世代(1960年生まれ中心)が、だいたい1982年ごろから「卒業」し始めて会社人になり、’80年代中盤ごろにはほど全員の「卒業」が完了したこと。2つ目は、娯楽性を持った新メディアとして家庭用ゲーム機(ファミコン)が五すぐ急成長したこと。これによって「ドラゴンクエスト」(’86)など高い物語性を有るし、観客が参加する句能なRPGという、アニメよりもおもしろいものを購買層が見つけてしまう。3つ目は、この時期にレンタルビデオが300~500円という価格で全国配備完了したこと。これ以後アニメはハリウッド娯楽大作と同額という、激しいコンペティションに常時さらされていくようになる。
こういった状況下では、アニメ企画も変化さざるを得ない。作品企画をたくさん回して何本か当たるものがあれば良いという風潮よりは、いわゆる”選択と集中”が行われ、セグメンテーションがシフトしていく。ひとつの例がビデオアニメの変化だ。1987年ごろまで、オリジナルビデオアニメ(OVA)の主流は「プチ劇場アニメ」であった。つまり興業規模や尺の観点からすると映画館にかけられるほどではないが、スター性のあるスタッフやキャストを前面に押し出してセールスする方向性だった。これが輝きを失った対抗策として、1988年の「機動警察パトレイバー」が30分6本シリーズの新フォーマットとブロックバスター価格(4,800円)を提示し、逆転ヒットを果たす。結果、OVAは「プチ劇場」から「デラックスなTVアニメ」へとセグメンテーションをシフトさせていった。「AKIRA」が登場した1988年は、日本のアニメーション界自体が、こういった大きなパラダイム・シフトにされされていた時期であった。この周囲状況の変化を念頭におくと、なぜ「AKIRA」がこのような作風となったか考えるとき、理解の一助となるだろう。
’80年代前半、劇場アニメの新時代到来
ビデオアニメという、”TVアニメ以上劇場アニメ以下”というジャンルが新設されたことは、逆に劇場アニメに要求される価値レベルを上げた。それと呼応するように、劇場用アニメーションは’80年代前半に新時代を迎えている。
1983年末に、成人向け以外で初のOVA「ダロス」がバンダイビジュアルから発進する。同年春には角川書店がアニメ制作に進出、マッドハウス制作「幻魔大戦」を公開する。それがキャラクターデザインに大友克洋を起用した初の作品であるのも因縁めいている。1984年には、それを迎撃するような動きがある。講談社が夏に同じマッドハウスで「SF新世紀レンズマン」を制作。だがこれは慘敗に終わる。一方、徳間書店は春にアニメージュ誌に連載されていた「風の谷のナウシカ」を原作者・宮崎駿目身が監督という形で劇場アニメ化、大ヒットとなる。
結果、東映長編漫画映画の血脈を持つ宮崎駿監督と盟友・高畑勲監督の作品をつくる目的で徳間書店の出資によるスタジオジブリが結成され、1986年の「天空の城ラピュタ」を経て1988年には「となりのトトロ」が「火垂るの墓」と2本立て興行で公開、”ジブリ” ”宮崎アニメ” というブランドこの時期に完成した。
玩具や出版に携わる会社は、アニメブームの当初は著作権のニ次使用者であった。ところがその利用側だった会社が発信側に回って一次著作者となるとともに、コンテンツを多彩な展開に使うことを開始、勝者を生み始めていった時期と見ることができる。
「ナウシカ」と同じ1984年春には、押井守監督の名を一躍有名にした「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」が公開、その作家性を世に知らしめた。同年春には「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」が劇場公開。河森正治が弱冠24歳で監督し、それまで版権イラストでしか描かれなかったような細密な描き込みを行ったことで、大きな話題を呼んだ。
こういった”作家性” ”緻密さ” ”リアリティ重視” ”若手” ”新規参入会社” という流れの頂点に立つのが、1987年の「王立宇宙軍 オネアミスの翼」である。この映画はバンダイ制作による劇場アニメの第1作で、のちに「新世紀エヴァンゲリオン」(’95)を制作するガイナックス初の作品でもある。山賀博之監督以下、中核スタッフは大阪でSF大会用映像をつくっていたアマチュア集団ダイコンフィルムの出身で、いわゆるオタク第一世代にあたる若手だ。
彼らの劇場映画「王立宇宙軍」は、そういうパロディ色の強いフィルムになるというおおかたの予想を裏切り、市井の若者が持つ等身大の挫折と野心を当時としては画期的なリアリティをこめて描ききった野心作として公開された。
リアル系作品を貫く人の流れ
このように、’80年代の動きを追っていくと、やがて’90年代になって世界に日本発の”ANIME"���名をとどろかせるべき、ほとんどの役者(アニメクリエイターと会社)が出そろいつつある様が見えてくる。
この流れに、’80年代後半の2つの出来事を追加したい。一つはビデオアニメの覇者「機動警察パトレイバー」が1989年に映画化され、その制作現劇が後に「攻殻機動隊」(’95)をつくるプロダクションI.Gになって、ビデオシリーズから格段にアップグレードした映像を見せたこと。そしてもう一つが本書で取り上げた作品「AKIRA」---そのもたらしたアニメ映像への考え方と、人の流れである。
’90年代につながる流れを見ておこう。「AKIRA」制作末期には、スタジオジブリで「となりのトトロ」を終えたばかりの原画マン(高坂希太郎、 二木真希子、金田伊功)が参加。その”お返し”という意味か、ジブリの次回作「魔女の宅急便」(’89)には森本晃司、井上俊之らが原画で参加している。ここで森本晃司と当時ジブリの制作デスクを担当していた田中栄子が出会い、片渕須直や佐藤好春らとともにスタジオ4Cを結成。大友克洋原作・監督「MEMORIES」(’95)や大友克洋XX成・総監修の「スプリガン」(’98)生む母体となっていく。
また、「AKIRA」における出会いが北久保弘之監督作品「老人Z」(’91)を生み、大友克洋は原作・脚本・メカニックデザインを担当している(キャラクターデザインは江口寿史)。この作品には緻密な絵を描く漫画家として知られていた今敏(こん・さとし)が美術設定でアニメ初参加。今敏は大友克洋のアシスタント経験もあり、実写映画「ワールド・アパートメント・ホラー」(’91)を漫画化した作家だ。「MEMORIES彼女の想いで。。。」の脚本を経て、マッドハウスで「パーフェクトブルー」(’98)、「千年女優」(’02)を監督する今敏は、「老人Z」で北久保弘之、沖浦啓之と机を並べていたという。
インタビューページにもあるように、沖浦啓之は「人狼 JIN-ROH」(’00)、北久保弘之は「BLOOD THE LAST VAMPIRE」(’00)と、90年代未にプロダクションI.Gの成表作を監督することになる。
ここでこういった流れを全部追うことはできないが、「AKIRA」を振り出しにした連鎖反応は多い。人と人に展する技術は流れ、人の進団たる会社を媒介として継承されていくという認識は重要だ。そのように見ていくことで、作品と作品の間に血が通い、ときに遺伝子のように形質を移し替えながら進化をうながす、そういった有機的な結合が見えてくるからだ。この認識を持った上で、アニメーション映画「AKIRA」の位置ずけと、この作品がもたらしたものへの考察をもう少し進めていこう。
アニメーション界に到来した二度の”黒船”
こういう説はどうだろうか。日本のアニメーションは、”黒船”の到来を二度受けているというのは?
非常の失礼な考え方かもしれないが、鎖国をしていた日本が欧米から開国させられ、欧米文化を取り入れて”近代日本”になったように、”アニメーションの国”に”漫画の国”から黒船がやってきて、大変革があったーーーそういうイメージが、どうしても脳裏に浮かぶのである。
一度目の”黒船”とは、手塚治虫のTVアニメ「鉄腕アトム」である。手塚漫画の功績は、乱暴にまとめると、描き割りじみた平面的な日本の戦前漫画に、映画的・映像的なカット割りと構図を連想させるコマ割りを導入し、エポックをもたらしたということになる。
しかし、手塚がアニメ版「アトム」で導入したのは、逆に電気紙芝居と揶揄されたほど非映画的で、止め絵のズームや強引なカットバックでフィルムをつないだものだった。これは、漫画のコマ割りの間にある断層をそのまま持ち入んだような作法である。TVシリーズ予算の問題に対する解決案として、よく槍玉にあげられる3コマ打ち(★1)の導入よりも、このカット割りの方が後世に対する影響は強いのではないか。よく動かそう、アニメ―トしようと見せ場をつくるよい、1枚絵の密度を上げ、少ない枚数、場合によっては止めの積み重ねで見せていくという”アニメ”(呼称も省略形が似合う)の手法は、これは現在でもTV作品の主流になっている。
こう考えて来ると、二度目の”黒船”が大友克洋の本作「AKIRA」という考え方も、何となく成立するように思えてる。”アニメ”は、ここで”ANIME"(★2)への第一歩を踏み出した。。。というと、作り手側は違和感を覚えるかもしれないが、観客サイドからのこういう整理もアリと思って大目に見て欲しい。
1980年前後、大友克洋が漫画界へもたらしたショックは、かつての手塚治虫に匹敵するものがった。日本人の”日本人らしさ”を骨格、骨相とも正確にとらえた人物造形、メカニズムやビル群といったものを緻密に描き込んで厚みを加えられた世界観、映画的な構図とコマ割りなど、漫画に新しい潮流をもたらした。実際、大友克洋以前と以後では、漫画全体に密度感やリアル感という要素は、もし定量化できるとすれば明らかに増大しているであろう。
「AKIRA」以前以後の変化��その要因
問題は、アニメーション「AKIRA」の場合に何が起きたか、「AKIRA」以前以後で何がどう変化したかということに紋られていく。
まず、「AKIRA」の公開時によく言われた「2コマ打ち、リップシンクロ」については、新規技術でも何でもないフルアニメーションの本来的な定義である「画面内にあって動くべきものはすべて自然に滑らかに動かす」という観点からすれば、対費用効果を無視すれば当然の手法である。クイックアクションレコーダー(★3)も制作プロセス上の省力の問題であり、表現には影響しない。黎明期のCG導入(スペシャルパターンの回転)も、光学合成の代用的な使われ方しかしておらず、見せ場となったわけでもない。
こういった宣伝向けに言われてきたことではなく、もっと表現の根幹部分に、むしろ本質的な変革があったように思われる。
キーワードとしては、大友が漫画に与えた影響の劇合と同じく、密度感とリアル感(リアリティ)が中心に来るのでないか。
「AKIRA」で新しい試みのように言われていることは、実はディズニーを代表とするフルアニメーションの作法であった。では、それを導入して「AKIRA」がディズニーのようなアニメーションになったかというと、それとはまた違うところがおもしろい。ここで密度感とリアル感の問題が浮上してくる。ディズニー的なアニメーション作法は、教科書の1ページ目に「スクオッシュ&ストレッチ(漬しと伸び)」と書いてある。つまり、実際の自然現象を省略と誇張することによって、人間の動体に対する感覚をブーストしてある種のトリップ感を引を出すということが、彼らのアニメーション哲学というか、大前提の考え方として存在しているわけである。
ところが、これがわれわれの目からすると、このゴムのような動きはリアリティを損なうものと映る場合が多い。これはディズニー的なものを貶めているわけではなく、文化・作法の差の問題だ。では、「ゴムのようにグニャグニャしないフルアニメーション」があるかというと、それはある。太平洋戦争中のフライシャーによる短編アニメ「スーパーマン」がまさしくそうだ。ここに登場するメカニカル・モンスターは、重心を移動させながら足を出して歩くと、一瞬遅れて手がぶらつくといった、破綻なくもっともらしいアニメートを見せることで確保されたクオリティが、リアリティの震源地である。
だが、それと比較しても「AKIRA」は異なっている。「AKIRA」の場合、ショット全体が抱える重みと、それがフィルムの流れの中で生み出していくリズムが、密度感とリアリティを発生させているように思えるのである。その重みの大半は、作画(原画)段階のモーション部分もあるが、大半はそれ以前の画面の設計図であるレイアウトの段階で盛り込まれている。
ここで大きく要求されるのは、情報量の盛り込み方と取捨選択、すなわちコントロールである。
仮想映画的な考え方
アニメーションの構図は、実はアニメート優先で考えられてきた歴史がある。連続的に絵を積み重ね、軌跡を追って描くときに有利なアニメ的画面構成というものが存在する。歪みのないやや広角気味のレンズ、ピントはパンフォーカス、ライティング位置下明(平行光線の屋外)、そして足が地面につかないようややアオリ気味にして背景が楽になる空、室内なら天井が大きく映り、人物の傾きはシチサン(7:3)でという、ひどくスタンダード臭の漂う画面である。
「AKIRA」原作者の大友克洋は、自主映画で監督をつとめるほど実写映画のフィルムメイキングの演出に詳しく、漫画にもそれを仮想映画的なものとして反映してきた作家である。対して当時のアニメの水準では、そのような”仮想映画的に撮る”という考え方は、まだ主流ではなかった。レンズを意織した構図をとり、フレームを決め、ショット内に重みをもたらす飾りつけを行い、観客のエモーションを巻き込む求心力となる役者やメカの芝居といったものを細かく指定し、極力雑多な情報を少しでも多く取り込み。。。という、実写的な姿勢、考え方は、「AKIRA」の絵コンテからレイアウトいたる段階まで通底している。
そして集ったアニメーターは、その考え方に基づくレイアウトが次にアニメーション段階で求めるもの。。。当時としてはまだ夢のようであった”仮想的リアリティ”という要求条件に対して苦闘し、スタジオが解散した後も見果てぬ夢のようにそれを望み続け、各々の作品で各人なりの咀嚼で追求することを始めていったにちがいない。もちろん、そこから離れる場合もあったろうか、しかし何かを意識して離れるということは、実はその何かを求めることと、そんなに遠い行為ではないはずである。
ここで言う要求条件とは、作品に臨場感をもたらすためのものである。なぜ臨場感が必要かとさらに突っ込めば、”絵で描いた世界”に没頭して物語を世界ごと”そこにいる感覚で”楽しむためである。
ごく当たり前のことだ。だが、その一番当たり前のことも、すべて
が作り物のアニメーションのフィルム中では、実は非常にいろんなことを意識的に考え、実行しないと違成できないということなのかもしれない。
15年目の 「AKIRA」
こういった考え方がスタッフにじわじわと浸透しながら完成したフィルムが、「AKIRA」なのだろう。クリエイターたちがそこで夢見ながら違成できなかったことを追求し、続く作品でどんどnアニメーション表現を深化させ、リアリティ追求をエスカレートさせていったのが、その後15年の”ANIME”の歩みと総括できるかもしれない。
もちろん「AKIRA」だけが単独でこういう考え方をとっていたわけではない。恐らくそれは時代の要求だったのだろう。「王立宇宙軍」が代表するように、同時代的にいくつもの作品、何人ものスタッフが挑戦していった果てのことだ。だとしても、世界的知名度やセールスの成功事例として、「AKIRA」がきっかけであり分水嶺であったとは確実に言えるだろう。
結果的に作画や背景の描き込みは年を追うごとに幾何級数的に増え、人間のアクションは細かい関節部まできちんと追われ、レイアウトはパースに狂いがなく、光源は常に意識され、特殊な仕上げや撮影効果は常時ふんだんい。。。と、青天井のようにアニメーション作品の密度は濃くなる一方だ。初公開時にはあれほどリアルに思えた「AKIRA」が、今観ると非常に漫画的にも見えるのが、何よりの証拠だろう。
臨場感のせいで「リアルな作品」呼ばれるようになったがゆえに、レアリティ追求のため、底なし沼のようにアニメ作品は情報量を飲み込むようになっていた。情報量とはアニメの場合は人手そのものであり、金であり時間である。そして、スキルやノウハウは人に溜まるから、「リアル作品」とは非常に属人性の強いものとなる。その状況は、この種の作品リストから原画マンやレイアウトマンの名前を横に並べたりすれば、すぐに理解できることだろう。
15年を経過して、「AKIRA」に匹敵する新たら分水嶺は、はたしてどのような形で来るのだろうか。それには大友自身の新作「スチームボーイ」がある回答を提示してくれるのだろうか。非常に楽しみである。
次の15年を考えるために、15年前のブレイクスルーがヒントになるかもしれない。
そのためにも、本書が役立てば幸いである。
★1「3コマ打ち」---同じ絵を3コマずつ撮影して動きを設計するアニメーション技法。「打つ」というのはアニメーターがタイムシートに番号を書き込む行為を感常的に表したもの。それまでのアニメーションは、2コマ打ちが標準で速い動きのみ1コ��打ちだった(フルアニメーション=1コマ打ちは誤った定義)。3コマ打ちだと滑らかさは喪失するが、当初TVはブラウン管自体に残像があるので良い等とされたという。ところがこれはコスト削減にも直結するため、やがて劇場作品も経営者によって3コマをスタンダートとするようになっていく。
★2「ANIME」---マスコミで使われる”ジャパニメーション”という単語は、X称(ジャップのアニメーション)という説がある。事実、米国の雑誌や店頭ではほとんど目にしないため、ここでは”SAMURAI”のように日本語がそのまま英語化した”ANIME”を用いた。
★3「クイックアクシオンレコーダー」---’80年代から導入きれるようになった機械。アニメーターは何枚かの原画・動画が完成するごとに、指でパラパめくって動きに狂いがないかをチェックする。通称、「指パラ」と呼ばれる作業で、これは動きをチェックする第一段階だ。当然「指パラ」だけでは確認しきれない、複雑な動きも出てくる。米国でのフルアニメーション制作にはライン・テスト(ペンシル・テスト)という工程があり、ペイントする前に動画にブレ等の破綻がないかチェックする。フィルム撮影を使用するため、コストの関係で国内ではほとんど省略されていた(間に合わせのダミーとして線画を撮影することはあるが、目的が違う)。それを擬似的に行う装置がこれで、ビデオによってタイムシート通りに動画をビデオに取り込み、完成フィルムではどう見えるか、ペイント前にチェックする機械である。「AKIRA」のクイックアクションレコーダーによる画像が、「AKIRA DVD SPECIAL EDITION」(バンダイビジュアル)に特典映像として収録されている。
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ツイキャスプレミア配信 松岡英明×奈良部匠平LIVE《DUO #05》 初回配信:2021年4月23日(金)20時
松BOWが たった一人で挑む《The One》シリーズは オリジナルを基調にしつつ、 『最新』の『松岡英明の音の世界』を見せてくれるのに対し、 二人で臨むライブシリーズ《DUO》は、 松BOWとゆかりの深い ゲストミュージシャンとのコラボにより、 オリジナルとは異なった 楽曲の魅力を見せてくれる 人気ライブシリーズ。 初回はギタリストの鈴川真樹氏を迎えての ステージだった。 #02、#03は作曲家、アレンジャー、ディレクターとして、 世界でも活躍中の奈良部匠平氏を迎えて。 そして、#04は、〈松岡英明×奈良部匠平×鈴川真樹〉という スペシャルメンバー3人で東名阪ツアーを行うという ファンにはたまらないライブツアーだった。 が、その後、新型コロナウイルスの影響で 停止していた《DUO》シリーズ。 その《DUO》が、ツイキャスプレミア配信にて活動再開! #05は、《DUO》オンラインライブ(Chocolate TV presents)の初回である。
今回も、初回配信のほか、 2度の再配信による視聴会が開催された。 松BOWはもちろん、 奈良部氏もコメント参加され、 制作にまつわるエピソードを 交えつつ、 視聴者と和やかで 楽しい『おうち時間』を過した。
まずはセットリスト。
《DUO》初お披露目の楽曲も何曲か。 オープニングは、夜明け前を思わせる 暗いステージ。 そこへ静かにアンビエント・ミュージックのような ナチュラルで心癒されるイントロが流れ、 奈良部氏の姿、そしてマイクに向かう松BOWが浮かび上がる。
なんの曲だろう?と考えていると間もなく ステージが明るくなり、 同時に歌いだす松BOW。 【01 新世界】!
松BOWいわく、 『配信初の《DUO》のオープニングは 【新世界】にしたいと思っていた』そうで納得。 リバーブのたっぷりかかった ギターの音(多分)が心地よい。 ゆっくりと夜(それは闇かもしれない)が明け 柔らかな光に世界が満たされるような 幸福感あるアレンジ。 お二人の作り出す空気感にも 合っている。 オリジナルと異なるのに、 オリジナルのイメージを壊さない。 けれど、新しい楽曲のようでもあり。 これこそ待ち望んでいた《DUO》だ!! 再スタートうれしい!!
【新世界】は《DUO》では初お披露目の楽曲。 再スタートの初っ端から こんな感動的って この後どうなるのだろう!? ワクワクさせるオープニングだった。
曲が終わると松BOWが 『ようこそ松岡英明と、奈良部匠平の音の世界へ!』 奈良部氏のお人柄が表れる 穏やかな微笑みに心和む。
そうそう、この時の衣装を書き記さなければ。 配信ライブ(2回目からは収録ライブを配信)となってから、 本編中の衣装替えが恒例となったのもうれしい。 (2020年5月に配信された初の配信ライブなんて、 生だったのに 本編中に早着替えされていて仰天した) この日の このターンは オレンジ系の開襟シャツに ネックレス。 深紅のベルベットジャケットに ボトムは黒っぽい(ピンストライプ有りかも)パンツ。 奈良部氏は、黒の丸首のカットソーに 黒のジャケット、ボトムはキーボードに隠れて良く見えないが 多分黒。 お二人ともシック。
音楽に話を戻す。 【02 天使】も《DUO》初お披露目。 シンプルで洗練されたアレンジ。 松BOWのボーカルも冴えわたる。 おおらかで大きな包容力を感じる。 ふと思ったのだが、 たった一人で挑むステージの《The One》は 正真正銘、純度100%の『松岡英明』で 隅々まで松BOWの魅力を感じられるのだが、 《DUO》では、 ご自分でも気づいていない魅力を 発しているのではないだろうか。 というのは、《DUO》の時の歌い方と 《The One》の時の歌い方が違うと感じるから。 松BOWの楽曲と松BOWのことを よくよくご存知の奈良部氏。 その奈良部氏がアレンジした曲を 生き生きと歌う松BOWを見ていると、 松BOW自身も無自覚で未開拓な魅力を 引き出されているような気がする。 個人的な感想だが。
お二人の天才の魂が 共鳴しているその瞬間に立ち会える、 そしてこの心にもその共鳴が響く 《DUO》シリーズ、 感動せずにはいられない。 【03 ときめきの居場所】 【04 きみが忘れても】は 以前の《DUO》で聴いた時よりさらに洗練されていた。
特に【きみが忘れても】のブラス系の音とピアノの音が 素敵だと思った。
【05 Edge of Space】のイントロにビックリ! なんと、クラシック音楽が忍ばせてある! シューベルトの『アヴェ・マリア』! そこから違和感なく歌へと繋がる。 音楽性豊かで遊び心のある素晴らしいアレンジ!!
奈良部氏いわく、 『宇宙を漂うMATT(松BOW)をイメージ』したアレンジだそう。 広大な宇宙を感じさせ、 ロマンティックな雰囲気を醸し出している。 聴くたびに好きになる曲だけれど、 素敵なアレンジに心酔♪
【06 百年の恋】にも驚き。 トランペット(ピッコロトランペットだそう)の音が入っている! ビートルズ的なオーケストレーションは 松BOWのリクエストだそう。 なんなのその素敵な発想! そして、 それに難なく応えて 素晴らしくアレンジしてしまう奈良部氏の偉大さ! トランペットの個人的なイメージは、 己や、人の心を奮い立たせる 炎のようなものだったが、 ピッコロトランペットは、 『希望』をイメージする光彩。 【百年の恋】という楽曲の持つ力強さに 輝きが加わり、 なんとも美しい光景だった。
【07 恋はあせらず】��ラテンアレンジは 《DUO》ではおなじみとなりつつある 人気アレンジ。 毎回少しずつアレンジを変え、 常に新しい【恋はあせらず】が聴けるのもうれしい。 難しいことは考えず ただ音楽に身を任せた。
そして! 今回の最大トピックスのセクション! 【08 IT】 オリジナルはミステリアスな雰囲気の ダンサブルな楽曲。 それをジャジーなアレンジで 全く違う曲のようなのだが、 どこか怪しげで世の理(ことわり)の不思議を 表している点が同じという印象。 ……とか努めて冷静に書いているけれど、 初めて聴いた時はぶっ飛んだし、 何度聴いても『凄い!』とか、 『カッコ良い!!』しか言葉が出なかった(笑) 本当に感動した時って 言葉を失う。
ちなみに、 《DUO》アレンジを聴いた後で オリジナルを聴いたら、 今まで聴いていた曲とは 違うものに聴こえ、 見えていなかったものが見えた。 『松岡英明と奈良部匠平の音の世界』 恐るべし!
続いての【09 LOOK@ME】もさらに驚愕! オリジナルは疾走感あふれる楽曲。 胸がドキドキして大好きなのだが、 《DUO》アレンジは 少しテンポを落とし、 ダンサブルでセクシーな雰囲気を醸し出しており、 別の意味でドキドキ。 そして、踊らずにはいられない! 【08 IT】も【09 LOOK@ME】も 《DUO》ライブでは初お披露目曲。 奈良部氏のアレンジの素晴らしさと、 いつも以上に楽しそうに歌い踊る松BOWに こちらのテンションも爆上がり! 日々落ち込みがちな気持ちが どこかへ行ってしまった。 ライブ最高!
そうそう、【07 恋はあせらず】からの 衣装を。 白のフリルたっぷりブラウスに ネックレスは同じかな? ネイビーのベルベットジャケット。 奈良部氏は黒のキャップにチェンジ。 衣装が変わると目にも楽しい♪
そしてキタ! 【10 Visions of Boys 2020】 衣装は花柄リボンのブラウスに 深紅ベルベットジャケット。 奈良部氏はキャップを取った 最初のスタイル。
奈良部氏がイントロから拳を突き上げたり 両手で振りをしたり ノリノリ!! こちらもすでに《DUO》にはなくてはならない 大人気曲! ツイキャスコメントも沸くし 画面に送られた 花火やらクラッカーやら キャラクターやらで賑やか賑やか! 視聴者の思いがダイレクトに 配信者(松BOW)に伝わるのがうれしいし、 視聴者としても、 生ライブでは出来ない 楽しみ方も楽しい!
配信ライブでここまでテンション上がるって 思いもしなかったことだ。 それにしても、 サビの松BOWのボーカルの伸びやかさの極み! 胸に響きまくった。
曲が終わって、 松BOWが 『バイバーイ、またねー』と言っているのに 余韻が覚めない。 終わり? もう終わりなんだ……と呆然。 いや、待てよ? ふと頭をかすめる『もしかして……?』。
キタ!アンコール!! 【11 Strawberry Kiss Kiss】 イントロが流れると自然と涙があふれそうに。 どこまでもやさしく美しい、 奈良部氏のピアノに心洗われる。
松BOWのボーカルは、 最初柔らかく語りかけるように、 終盤になるほど熱を帯びて、 感情ほとばしるボーカルが 胸が苦しくなるほどに迫って来る。
長く続くコロナ禍。 疲れたときなんかは特に 大好きな曲すら聴けなくなって そんな自分に呆然とするのだけれど、 こんな風に 心を揺さぶられ、 涙が溢れそうになると、 『まだまだ大丈夫』と思える。
演奏後、お互いを紹介し合い、 ハイタッチする風景も感動的だった。
ステージの照明が次第に落とされ、 それとともにカメラは引きの画面に。 段々小さくなる手を振るお二人。 余韻の残るカメラワークは、 なんと本業はレコーディングエンジニアの 湯村謙一氏! ステージでは、 かろうじてお二人とわかるシルエットが 向かい合い、 ガッチリ握手をしているのが見えた。
松BOW、奈良部さん、 『松岡英明の音の世界』を ありがとう!!
そして、カメラマンとしても活躍された湯村さん、 (舞台に向かって右、下からのアングルや 左、ステージ奥まで広く見えるアングル、 『ファン心理をわかってる!』とコメント欄絶賛の 松BOWのドアップ♪ ラスト【Strawberry Kiss Kiss】のワンカメ映像など、 素晴らしかったです!) rebirthの店長の志多さん (エンドクレジットによると、ライティング担当)に 深く深く感謝。
そしてそして 忘れてならない松BOWによる映像編集!!
撮影された映像を 曲に合わせての、 カメラアングルを切り替え方も絶妙だし、 タイトルのロゴや位置やサイズ、 エフェクトなど、 すべて洗練されていて、 才能を持っている人は 多方面でもその才能を 発揮されるのを実感。
そして、 エンドロールの最後に
Special Thanks to Rebirth
and
YOU (andからYOUまでの間の長さにグッと来ました)
どこまでファンを感動させれば気が済むのだろう!(涙)
感謝するのはこちら!! それはこれからも 『松岡英明の音の世界』や 『松岡英明と奈良部匠平の音の世界』を 目一杯楽しむことで 感謝の気持ちを伝えたいと思う♪
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目次
表現不自由勢力 = 異論封殺派 2019年8月3日午前11時、私は名古屋市東区の愛知芸術文化センタービル10階の愛知県美術館チケット売り場に並んでいた。 この日の名古屋は最高気温34・8度が示すように朝からぐんぐんと温度計の目盛りが上昇。汗がねっとりと首にまとわりつく典型的な熱暑の一日だった。 広い吹き抜けの空間は冷房があまり効いておらず、汗が滲む中、チケット売り場には、2百人近くが並んでいた。 だが、窓口には職員が2人しかいない。緩慢な切符の売り方に、列は時間が経つごとに長くなっていった。窓口の2人も、やがて片方が消え、1人だけの販売になる。あまりのサービス精神の欠如に、私は近くの職員に「この長蛇の列が目に入りませんか? なぜ売り場が一人だけなんですか。おかしいと思いませんか」と言った。 しかし、職員は「申し訳ありません」というだけで何もしない。私は同じフレーズをこの入口だけで別々の職員に3回も言う羽目になる。 しかも、チケットをやっと買って中に入っても「順路」の案内がない。仕方がないので左側に歩を進めたら「順路はあっちです」と職員に注意されてしまった。順路を示す印も出さないまま「順路はあっちです」と平然と言う職員。これほど観覧者をバカにした芸術祭も珍しい。 芸術祭のテーマは「情の時代」である。パンフレットには 〈「情の時代」とは、いかなるものでしょうか。そこではきっと、私たちの習慣的な知覚を揺さぶる視点、例えば、動物の視点、子供の視点、いま・ここから遠く離れた「誰か」の視点などが盛り込まれることでしょう〉 とある。何が言いたいのかよくわからない文章だが、芸術祭にはままあることだ。 私は、まず10階の展示をひとまわりした。この手の作品は、作家の意図が伝わるものと、そうでないものとが明確に分かれる。いったい何を表わしたいのだろう、という作品もあれば、ストレートに心に飛び込んでくるものもあった。ひと通り10階の観覧を終えた私は、いよいよ「表現の不自由展・その後」の会場がある8階に向かった。 同展示は、日本国内の美術館やイベント等で撤去や公開中止になった作品ばかり20点以上を集めた企画である。すでに公開中止になったものを集めて展示するのだから、「あいちトリエンナーレ」にとって当然、覚悟の催しということになる。私も、「いったいどんなものなのか」と興味が湧いた。 8階には長い列ができている場所があり、すぐに「あそこか」とわかった。近づくと職員が「待ち時間は1時間ほどです」と叫んでいる。 すでに百人以上が並んでおり、人々の関心の高さが窺えた。やがて30分ほどで会場の入口が来た。 「展示品の写真撮影は結構です。ただし、SNS(ソーシャルネットワーク)への使用はお断りしています」 観覧にあたっての注意事項をスタッフが一人一人に伝えている。また、そのことを書いた「撮影写真・動画のSNS投稿禁止」という注意書きが入口手前に掲示されていた。どうやら「表現の不自由展」には、観る側も「不自由」が強制されるものらしい。そういう不自由さについて訴えるはずの展示なのに、「自己矛盾」に気づかないところが主催者のレベルを物語っている気がした。
入口には、白いカーテンがかかっている。めくって中へ入ると、幅2メートルもない狭い通路に、ぎっしり人がいた。左右の壁に作品が展示されており、それを人々が食い入るように見つめている。 手前の右側には、いきなり、昭和天皇を髑髏(どくろ)が見つめている版画があった。最初から“メッセージ性”全開だ。 反対の左側に目を向けると、こっちは昭和天皇の顏がくり抜かれた作品が壁に掛けられている。背景には大きく✕が描かれ、正装した昭和天皇の顏を損壊した��版画だ。タイトルは「焼かれるべき絵」。作者による天皇への剥き出しの憎悪がひしひしと伝わってくる。 皆、無言で観ている。声を上げる者は1人もいない。 その先には、モニターがあり、前にはこれまた「無言の人だかり」ができている。 やはり昭和天皇がモチーフだ。昭和天皇の肖像がバーナーで焼かれ、燃え上がっていくシーンが映し出される。奇妙な音楽が流れ、なんとも嫌な思いが湧き上がる。次第に焼かれていく昭和天皇の肖像。すべてが焼かれ、やがて燃え残りが足で踏みつけられる。強烈な映像だ。作者の昭和天皇へのヘイト(憎悪)がストレートに伝わる。よほど昭和天皇に恨みがあるのだろう。これをつくって、作者はエクスタシーでも感じているのだろうか。そんな思いで私は映像を見つめた。思い浮かんだのは「グロテスク」という言葉だった。 画面は切り替わり、若い日本の女性が、母親への手紙を読み上げるシーンとなる。「明日、インパールに従軍看護婦として出立します」「私の身に何が起こっても、お国のために頑張ったと誉めてくださいね」 そんな台詞を彼女は口にする。インパール作戦は、昭和19年3月から始まった補給もないまま2千メートル級のアラカン山脈を踏破する過酷な作戦だ。とても看護婦が同行できるようなものではない。 私自身が拙著『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ第二部の「陸軍玉砕編」でこの作戦の生き残りに直接取材し、飢餓に陥って数万の戦死・餓死者を出し、退却の道なき道が“白骨街道”と化した凄まじいありさまをノンフィクションで描いている。おそらくこの映像作品は真実の歴史など“二の次”なのだろう。 やがて、海岸の砂浜にドラム缶が置かれた場面となり、そのドラム缶が爆発し、宙に舞う。まったく意味不明だ。私の頭には、「自己満足」という言葉も浮かんできた。これをつくり、展示してもらうことで作者は溜飲を下げ、きっと自らの「創造性(?)」を満足させたのだろう。 私が取材させてもらった老兵たち、つまり多くの戦友を失った元兵士たちがどんな思いでこれを観るだろうか、ということが頭に浮かんだ。そして一般の日本人は、これを観て何を感じるだろうか、と。当時の若者は未来の日本を信じ、そのために尊い命を捧げた。私たち後世の人間が、二度とあの惨禍をくり返さない意味でも先人の無念を語り継ぐことは大切だ。少なくとも私はそういう思いで10冊を超える戦争ノンフィクションを書いてきた。 しかし、この作者は違う。そのことを肌で感じる作品だった。 少女像が展示されているのは、この作品群の先である。通路を出て広い空間に出たら、そこにはテントのような作品がまん中に置かれ、左奥に少女像があった。 少女像を人が取り囲んでいる。いきなり、「やめてください」「なぜですか!」そんな怒号が響いてきた。観覧者の一人が少女像の隣の椅子に座り、紙袋をかぶっている。どうやら、その紙袋を少女像にもかぶせようとしたらしい。それを阻止されたようだ。少女像のある床には、〈あなたも作品に参加できます。隣に座ってみてください。手で触れてみてください。一緒に写真も撮ってみてください。平和への意思を広めることを願います〉という作者の呼びかけがあり、それを受けて隣の席に座ろうとする人間もそれなりにいるようだ。 「やめてください」と叫んだ人は、どうやら展示の案内人らしい。観覧している人から質問をされたら答え、抗議されたら、それに応えるためにここにいるようだ。ご苦労なことだ。なかには過激な抗議をする人もいるだろう。いちいちこれに対応するのは大変だ。 少女像と一緒に写真を撮りたい人がいれば、この人はシャッターも押してあげていた。この日、美術館で最も大変な“業務”に就いていた人は間違いなくこの人物である。 怒号はすぐに収まり、何事もなかったかのような空間に戻った。日本人はおとなしい。ひどい作品だと思っても、ほとんどが抗議をするでもなく、無言で観ていた。その代わり、ひっきりなしにカメラやスマホのシャッター音が響いている。 少女像自体は、どうということはない。あのソウルの日本大使館前や、世界中のさまざまな場所に建てられている像だ。その横にはミニチュアサイズの少女像も展示されていた。さらにその左側の壁には、元慰安婦の女性たちの写真も掲げられている。説明書きには〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する〉と書かれている。 英語の解説文には、「Japanese Military Sexual Slavery」(日本軍の性奴隷制)という言葉が書かれていた。「日本軍」の「性奴隷制」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されている。日本の公式見解とは明らかに異なるものであり、これらの説明には二つの点で「虚偽」があった。 まず、慰安婦は「性奴隷」ではない。あの貧困の時代に春を鬻(ひさ)ぐ商売についた女性たちだ。当時の朝鮮の新聞には 〈慰安婦募集 月収三百圓以上 勤務先 後方〇〇部隊慰安所 委細面談〉 などの新聞広告が出ていたように、上等兵の給料およそ十圓の時代にその「30倍以上」の収入を保証されて集まった女性たちである。彼女たちの収入は、当時の軍司令官の給与をはるかに凌駕していた。 恵まれた収入面については、さまざまなエピソードがあるが、ここでは触れない。ともかく慰安所(「P屋」と呼ばれた)には、日本人女性が約4割、朝鮮人女性が約2割、残りは……という具合に、あくまで日本女性たちが中心だった。ちなみに日本女性で慰安婦として名乗り出たり、補償を求めた者は一人もいない。 もちろん喜んで慰安婦になった女性は少ないと思う。貧困の中、さまざまな事情を抱えて、お金のために慰安婦の募集に応じざるを得なかったのだろう。私たち日本人は大いに彼女たちの身の上に同情するし、その幸せ薄かった人生に思いを致し、実際に日本は代々の首相が謝罪し、財団もつくり、その気持ちを談話として伝え、現金支給も行っている。
しかし、朝日新聞や韓国は、これを日本軍や日本の官憲が無理やり「強制連行した女性たち」であるという“虚偽の歴史”を創り上げた。韓国は世界中に慰安婦像なるものを建て、性奴隷を弄んだ国民として日本人の名誉を汚し続けている。私たちは、この虚偽を認めるわけにはいかない。 まして「少女が性奴隷になった」などという、さらなる虚構を韓国が主張するなら、それはもう論外だ。そして、目の前の少女像は、その「虚偽」を世界中に流布させることを目的とするものである。日本人は少女像が虚偽の歴史を広めるものであることを知っており、少女像の存在は間違いなく「両国の分断」をより深くするものと言える。 しかし、韓国がどこまでもこの虚構にこだわるなら、もはや両国に「友好」などという概念など、未来永劫生まれるはずはない。 軍需工場などに勤労動員された「女子挺身隊」を慰安婦と混同した朝日新聞の信じられない大誤報から始まった虚構がここまで韓国の人々を誤らせたことに、私は両国の不幸を感じる。それと共に同じ日本のジャーナリズムの人間として朝日新聞のことを本当に腹立たしく、また悔しく思う。 私は、少女像の前に展示されていた作品にも首を傾げた。「時代の肖像―絶滅危惧種 Idiot JAPONICA 円墳―」と題されたその作品はテントのような「かまくら形」の外壁の天頂部に出征兵士に寄せ書きした日の丸を貼りつけ、まわりには憲法9条を守れという新聞記事や靖国神社参拝の批判記事、あるいは安倍政権非難の言葉��どをベタベタと貼りつけ、底部には米国の星条旗を敷いた作品だった。 Idiot とは「愚かな」という意味であり、JAPONICAは「日本趣味」とでも訳すべきなのか。いずれにしても「絶滅危惧種」「円墳」という言葉からも、絶滅危惧種たる「愚かな」日本人、あるいは日本趣味の「お墓」を表わすものなのだろう。日の丸の寄せ書きを頂点に貼った上にこのタイトルなので、少なくとも戦死した先人たちを侮蔑する作品と私には感じられた。 どの作品も「反日」という統一テーマで括られた展示だった。会場の壁には「表現の不自由をめぐる年表」も掲げられていたが、「表現の自由」といえば、チャタレー事件に始まり、四畳半襖の下張事件、日活ロマンポルノ事件をはじめ、ポルノやヘアをめぐって当局との激しい闘いの歴史が日本には存在する。 私は、これらが「なぜ無視されているのか」を考えた。つまり、展示はあくまで政治的な主張が目的なのであって、純粋な「表現の自由」をめぐる訴えなどは考慮にないのではないか、と感じたのである。 あいちトリエンナーレは、日本人の税金が10億円も投入され、公の施設で開かれる「公共のイベント」だ。そんな場所で、わざわざ他国が主張する「虚偽の歴史」のアピールをする意味は何だろうか。 それを許す責任者、つまり大村秀章・愛知県知事は余程の「愚か者」か、あるいはその韓国の主張に確固として「同調する人物」のどちらかなのだろう。 私は、こんな人物が愛知県知事という重責を担っていることに疑問を持つ一人だが、首長を選ぶのは、その地域の人たちの役割なので、私などがとやかく言う話ではない。 私は、試しに韓国や中国へ行って同じことをやってみたらどうだろうか、と想像した。たとえば韓国人の税金が投入された芸術祭で、何代か前の大統領の肖像をバーナーで焼き、その燃え残りを思いっきり踏みつけてみる。そして、その大統領の顔を損壊し、剥落させた銅版画や戦争で死んだ先人を侮蔑する作品を展示してみる。韓国人は果たしてどんな反応を示すだろうか。 また中国へ行って、中国共産党の公金が支出された芸術祭で、同じように毛沢東の肖像をバーナーで燃やしてみる……。どんな事態になるかは容易に想像がつく。作者は、おそらく表現の自由というものは、決して「無制限」なものではなく、一定の「節度」と「常識」というものが必要であることに気づかされるのではないか。イスラム社会で仮にこれをやったら、おそらく命が断たれるだろう。逆に私は「日本はいかに幸せか」をこの展示で感じることができた。 しかし、日本人にとって国民統合の象徴である昭和天皇がここまで貶められるのはどうだろうかと思わざるを得ない。昭和天皇、そして昭和天皇のご家族にとどまらず、自分たち日本人そのものの「心」と「尊厳」が踏みにじられる思いがするのではないだろうか。つまり、これらは、間違いなく日本人全体への憎悪を表現した作品なのである。 もし、これを「芸術だ」と言い張る人には、本物のアーティストたちが怒るのではないか、と私は思った。「あなたは芸術家ではない。偏った思想を持った、ただの活動家だよ」と。 それは昭和天皇を憎悪しない普通の観覧者にとっては、ただ「不快」というほかない作品群だった。少なくとも、多くの日本人の心を踏みにじるこんなものが「アート」であるはずはない。作者が日本人に対するヘイトをぶつけただけの醜悪な展示物だったと私には思えた。 私が会場を去って間もなくの午後5時。同センターで緊急記者会見した大村秀章・愛知県知事は、「テロや脅迫ともとれる抗議があり、安全な運営が危ぶまれる状況だ」と語り、突如、展示中止を発表した。芸術祭事務局に「美術館にガソリン携行缶を持って行く」との脅迫のファクスがあり、安全が保てないことを理由に「中止を決めた」という。開幕からわずか3日。信じがたい展開だった。 それは「あってはならないこと」である。「表現の自由」を標榜して展示をおこなっているなら、どんなことがあっても脅迫や暴力に「負けてはならない」からだ。まして大村氏は愛知県知事だ。愛知県警を大動員してでも、「暴力には決して屈しない」姿勢を毅然と示さなければならない立場である。 一方で私には「ああ、逃げたな」という思いがこみ上げた。あの展示物を見れば、常識のある大人ならこれに税金を投じることの理不尽さを感じ、非難がますます大きくなることはわかる。それを察知した大村知事は、テロの危険性をことさら強調し、自分たちを「被害者の立場」に置いた上で“遁走”したのだろう。 その証拠に4日後、実際にファックスを送った当の脅迫犯が逮捕されても大村知事は展示再開を拒否した。 芸術祭の実行副委員長である名古屋市の河村たかし市長はこの展示を知らず、慌てて観覧した後、「少女像の設置は韓国側の主張を認めたことを意味する。日本の主張とは明らかに違う。やめればすむという問題ではない」と大村知事と激しく対立した。 これに対して大村知事はこう反撃した。「(河村氏の)発言は憲法違反の疑いが極めて濃厚。憲法21条には、”集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する” “検閲は、これをしてはならない”と書いてある。公権力を持っているからこそ、表現の自由は保障しなければならない。公権力を行使される方が“この内容はいい、悪い”と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られても仕方がない。そのことは自覚されたほうがいい」 だが、憲法12条には、「表現の自由」などの憲法上の権利は濫用されてはならないとして、〈常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ〉と記されている。表現の自由をあたかも「無制限」であるかのように思い込んでいる大村知事の認識の甘さは明白だった。 もうひとつの問題点は、報道のあり方だ。産経新聞やフジテレビを除くマスコミは、少女像のことばかりに終始し、昭和天皇の肖像焼却や顔の損壊などのヘイト作品について一切、報じなかった。ただ「表現の自由が圧殺される日本」という報道に終始したのである。 もし、展示中止が妥当なほど作品がひどいものだったら、そもそも自分たちの論理は成り立たなくなる。そのため少女像だけの問題に矮小化し、いかに日本では「表現の自由」が風前の灯であるかという報じ方に徹したのだ。 真実を報じず、自分の論理展開に都合のいいものだけを記事化するのは、日本のマスコミの特徴だ。 8月4日の朝日新聞の天声人語では、 〈75日間公開されるはずだったのに、わずか3日で閉じられたのは残念でならない▽ある時は官憲による検閲や批判、ある時は抗議や脅し。表現の自由はあっけなく後退してしまう。価値観の違いを実感させ、議論を生みだす芸術作品は、私たちがいま何より大切にすべきものではないか〉 と主張し、8月6日付の記事では、 〈表現の不自由展 政治家中止要請 憲法21条違反か 応酬〉〈永田町からも危惧する声「政府万歳しか出せなくなる」〉 と、展示物の詳細は伝えないまま大村知事を全面支援した。 だが、ネットではいち早く作品群の詳細が伝えられ、芸術監督を務めた津田大介氏と企画アドバザーの東浩紀氏が昭和天皇の肖像を焼却する作品が展示されることを笑いながら話す動画など、さまざまな情報が炙り出されていった。 今回も新聞とテレビだけを観る層とネットを観る層との著しい情報量の乖離が明らかになった。いま日本は情報面において完全に「二分」されているのである。 ネットを駆使する人たちはマスコミが隠す情報さえ容易に手に入れることができ、一方では、偏った主義主張を持つメディアにいいように誘導される人たちがいる。そこには、大きな、そして根本的なギャップが存在している。 今回の出来事は、「芸術である」と主張さえすれば何でも通ってしまうのか、極めて偏った政治主張によるヘイト行為もすべて認められるものなのか、という実にシンプルな問題と言える。同時に、韓国への批判は「ヘイト」、日本を貶めるものは「表現の自由」という実に倒錯したマスコミの論理に国民が「ノー」を突きつけたものでもあった。 一部の反日、反皇室、親韓勢力による公的芸術祭の乗っ取りとも言える行為は、こうして途中で頓挫した。そして、日本のマスコミの「あり得ない姿」も露わになった。 今回の出来事を通じて、私たち日本人は日本の“内なる敵”マスコミと、特異な主張を展開する一部政治勢力への「警戒」と「監視」を疎かにしてはならないことを、あらためて学ばせてもらったのである。
「表現の不自由展」の真実を再び 2019年10月08日 門田隆将
紆余曲折の末、いよいよ「言論の不自由展・その後」が再開された。しかし1日2回に制限し、抽選で1回あたり30人に絞り、しかも鑑賞者は事前にエデュケーション(教育)プログラムなるものを受けなければならず、ガイド付きでの鑑賞になるそうだ。 まるで「鑑賞の不自由展」である。SNSでの拡散も禁止するという。
愛知県内で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、企画展の一つ「表現の不自由展・その後」の中止が決まった8月3日夜、芸術監督を務めるジャーナリスト、津田大介氏が会見を開いた。
「想定を超える事態が起こったことを謝罪する。僕の責任であります」と全面的に非を認めた津田氏の会見は当初の30分間の予定を大幅に超過し、1時間以上に及んだ。会見場には、地元名古屋市を拠点とする中日新聞や全国紙、通信社の駐在、テレビ各局、雑誌、フリーランスの記者など、ざっと50人はいただろうか。 津田氏の釈明もさることながら、質問を繰り返す一部の記者の発言内容には違和感を抱かざるを得なかった。
「(不自由展の中止を求めていた)河村たかし名古屋市長や(文化庁の芸術祭への助成に慎重姿勢を示した)菅義偉官房長官の発言は検閲だと思うか」「電凸(企業や団体などに電話をかけて見解を問いただす行為)をやれば、自分たちの気に入らない展示会などの催しを潰せるという成功体験を与えてしまったのではないか」 当然だが、たとえ気に入らない表現や作品でも、暴力による圧力や脅迫行為が許され���ことはない。とはいえ、彼らの質問は憲法21条が保障する表現の自由への介入を憂うものばかりで、昭和天皇の肖像を燃やす映像や慰安婦をモチーフにした「少女像」(以下、慰安婦像)のいったい何が「芸術」なのか、それを追及しようとする記者はほぼ皆無だった。 要するに、集まった記者の多くが、「表現の不自由展」を中止に追い込んだ抗議電話の殺到、脅迫行為、河村たかし市長をはじめとする政治家の主張だけをことさら問題視したのである。各社が後日報じ、論じた内容が、そういったトーンになったのは、ある意味必然だったのかもしれない。 放火予告のようなファクスを送り付けた脅迫行為は論外だが、一千件以上も寄せられた抗議電話もそれと同列の「テロ行為」であるかのように論じるのは明らかにおかしい。
一般論として、展示会の主催者が外部からの指摘で自主的に催しを中止することはあり得る。むろん、個人が展示内容を自由に論評・批判する権利もある筈だが、 8月6日付 朝日新聞社説《あいち企画展 中止招いた社会の病理》は 「人々が意見をぶつけ合い、社会をより良いものにしていく。その営みを根底で支える『表現の自由』が大きく傷つけられた。…中略…。一連の事態は、社会がまさに『不自由』で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい」 旨、主張した。「昭和天皇の肖像を燃やし踏みつける映像や慰安婦像の展示」を批判する意見・抗議の自由を、朝日新聞社は認めない。 言論に対して反論するのでなく法廷闘争で批判封殺をはかる朝日新聞社 らしい主張である。 そもそも、同展で展示された昭和天皇の肖像を燃やす映像やエッチング作品の何が芸術なのか。特定の政治的主張、あるいはプロパガンダに過ぎないのではないか。公金を使って展示することは、公権力がその主張なりプロパガンダに同調することにならないか。 「表現の不自由展」の中止問題を扱ったメディアの多くは、この問いについて論じようとしなかった。特にテレビの多くは昭和天皇の肖像を燃やす映像に触れることすらなかった。国民の多くに強い不快感や屈辱感を抱かせる刺激の強い映像を紹介することが憚られたのか、天皇をめぐる問題としてタブー視したのか。あるいは不自由展を応援したい番組側が、批判が集中するだろう映像を意図的に隠したのか。 活字メディアで中止問題を最も熱心に扱った朝日新聞は、「焦点となっている作品は、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品」(8月6日付第3社会面の特集)などと、たびたび映像について触れてはいる。しかし、芸術作品としての妥当性には踏み込まず、表現の自由の議論に持ち込むだけだ。 こうした議論の建て方は、同芸術祭実行委員会会長の大村秀章愛知県知事や津田氏とも共通する。
10日後、芸術祭アドバイザーの東浩紀氏が辞意を表明した。
〔東氏のツイート〕 7月末からの休暇が終わり、帰国しました。休暇中に、ぼくが「企画アドバイザー」を務めるあいちトリエンナーレ(以下あいトリ)で、大きな問題が起きました。 このアカウントは、7月の参院選直後に、あいトリの問題とはべつの理由で鍵をかけていたものであり、これからもしばらくは鍵は外しません。しかし、このスレッドについては、転記し紹介していただいて結構です。そのときは、一部を切り取らず全体をご紹介ください。 まずは今回のできごとについて、スタッフのひとりとして、愛知県民の皆さま、出展者の皆さま、関係者の皆さまにご迷惑をかけたことを、心よりお詫びいたします。 ぼくの肩書きは「企画アドバイザー」となっていますが、実行委員会から��嘱された業務は、芸術監督のいわば相談役です。業務は監督個人との面談やメールのやりとりがおもで、キュレイター会議には数回しか出席しておらず、作家の選定にも関わっていません。 けれども、問題となった「表現の不自由展・その後」については、慰安婦像のモデルとなった作品が展示されること、天皇制を主題とした作品が展示されることについて、ともに事前に知らされており、問題の発生を予想できる立場にいました。相談役として役割を果たすことができず、責任を痛感しています。 僕は7月末より国外に出ており、騒動の起点になった展示を見ていません。今後も見る機会はなくなってしまいましたが、そのうえで、展示について所感を述べておきます。以下はあくまでも僕個人の、報道や間接情報に基づく意見であり、事務局や監督の考えを代弁するものではないことにご留意ください。 まずは慰安婦像について。いま日韓はたいへんな外交的困難を抱えています。けれども、そのようないまだからこそ、焦点のひとつである慰安婦像に、政治的意味とはべつに芸術的価値もあると提示することには、成功すれば、国際美術展として大きな意義があったと思います。
政治はひとを友と敵に分けるものだといわれます。たしかにそのような側面があります。けれども、人間は政治だけで生きているわけではありません。それを気付かせるのも芸術の役割のひとつです。あいトリがそのような場になる可能性はありました。 ただ、その役割が機能するためには、展示が政治的な扇動にたやすく利用されないように、情報公開や会場設計を含め、もっとていねいな準備と説明が必要だったように思います。その点について、十分な予測ができなかったことを、深く反省しています。 つぎに天皇の肖像を用いた作品について。ぼくは天皇制に反対する立場ではありません。皇室に敬愛の念を抱く多くの人々の感情は、尊重されるべきだと考えます。天皇制と日本文化の分かち難い関係を思えば、ぼく自身がその文化を継承し仕事をしている以上、それを軽々に否定することはできません。 けれども、同時に、「天皇制を批判し否定する人々」の存在を否定し、彼らから表現の場を奪うことも、してはならないと考えます。人々の考えは多様です。できるだけ幅広い多様性を許容できることが、国家の成熟の証です。市民に多様な声の存在に気づいてもらうことは、公共事業の重要な役割です。 しかし、これについても、報道を見るかぎり、その役割を果たすためには、今回の設営はあまりに説明不足であり、皇室を敬愛する多くの人々の感情に対して配慮を欠いていたと感じています。この点についても、役割を果たせなかったことを悔いています。 政治が友と敵を分けるものだとすれば、芸術は友と敵を繋ぐものです。すぐれた作品は、友と敵の対立などどうでもよいものに変えてしまいます。これはどちらがすぐれているということではなく、それが政治と芸術のそれぞれの役割だと考えます。 にもかかわらず、今回の事件においては、芸術こそが友と敵を作り出してしまいました。そしてその対立は、いま、どんどん細かく、深くなっています。それはたいへん心痛む光景であり、また、私たちの社会をますます弱く貧しくするものです。それは、あいトリがもっともしてはならなかったことです。 僕は今回、アドバイザーとして十分な仕事ができませんでした。辞任を検討しましたが、いまは混乱を深め���だけだと考えなおしました。かわりに個人的なけじめとして、今年度の委嘱料辞退の申し出をさせていただきました。今後も微力ながらあいトリの成功に向けて協力させていただければと考えています。 あらためて、このたびは申し訳ありませんでした。力不足を反省しています。そして最後になりましたが、現在拡散されている4月の芸術監督との対談動画において、多くの方々の感情を害する発言を行ってしまったことを、深くお詫びいたします。
緊急シンポ「表現の不自由展・その後」中止事件を考える 8月22日(木)18時15分開場 18時30分開会(予定) 21時終了 定員:470名 参加費:1000円 会場:文京区民センター3階A会議室
第1部:18:30~19:50 出品していた美術家などが語る「何が展示され何が起きたのか」 安世鴻(写真家)/朝倉優子(マネキンフラッシュモブ)/中垣克久(美術家)/岡村幸宣(丸木美術館学芸員)/武内暁(「九条俳句」市民応援団)/他 第2部:20:00~21:00 会場討論「中止事件をどう考えるのか」 金平茂紀(TVジャーナリスト)/鈴木邦男(元一水会)/森達也(作家・監督)香山リカ(精神科医)/滝田誠一郎(日本ペンクラブ)/他 進行:篠田博之(『創』編集長)/綿井健陽(映像ジャーナリスト) 主催:8・22実行委員会〔『創』編集部/日本ビジュアル・ジャーナリスト協会/OurPlanet-TV/アジアプレス・インターナショナル/メディアフォーラム/表現の自由を市民の手に全国ネットワーク/アジア記者クラブ/他〕
「天皇陛下の味方」を標榜しながら「天皇陛下を冒涜する自由」を啓発するパネリスト
2019年9月5日夜10時、NHK「クローズアップ現代+」で「『表現の不自由展・その後』中止の波紋」が放映された。 筆者(門田隆将)は、展示中止から1か月以上経ってからの番組なので、ある1点に注目していた。それは、展示作品を番組が「正確に取り上げるかどうか」だった。 というのも、この問題では、展示作品を正確に伝えた「インターネット」と、都合の悪いものは報じず、一部だけを報じた「新聞とテレビ」とに明確に分かれていたからだ。 インターネットだけがこの1か月、展示された作品群の中身をきちんと伝えたが、筆者自身、展示中止になる当日の8月3日、ぎりぎりで観にいくことができた。そしてその作品群の明確なメッセージ性には驚かされたものである。 それは、ひと言でいうなら「反日ヘイト」と「皇室憎悪」だ。国民の税金を使ってこのような展示を愛知県が行うことについて、正直、筆者は首を傾げざるを得なかった。その作品をNHKは1か月を経てどう報じるのか。そのことに注目したのである。 作品がきちんと報じられなければ、いうまでもなく視聴者は正しい判断ができない。「正確に伝えない」ことは報道機関として許されることではない。 だが、結果は、筆者が危惧したとおりの番組になっていた。番組の主張に都合の悪い作品は、一切、報じられなかったのだ。つまり番組は、本来、問題のない「表現の不自由展」が、理不尽な反対や脅迫によって「中止に追い込まれた」ということを懸命に訴える番組構成となっていた。
番組で紹介されたのは、ごく一部の作品で、あの展示の性格を表わす肝心の作品群のことは伏せられた。なぜ伏せられたのか。理由は簡単だ。それを報じれば、自分たちの主張の方が「間違いである」ことが白日の下に晒されるからだ。 「ああ、この表現の不自由展の実行委員会には、もともと2001年に大問題となった『問われる戦時性暴力』をつくった曰くつきの元NHKプロデューサーが入っている。番組は最初からそっちの線で描くことに決まっていたんだ」 筆者はそう思った。公平な番組ができるかどうかを期待していた自分が逆に恥ずかしくなった。では、まず実際の展示にはどんな作品があったのか、それを先に説明しておこう。 8月3日昼、白いカーテンをくぐって当該の展示コーナーに足を踏み入れた筆者の目に真っ先に飛び込んできたのは、2メートルほどの狭い通路の両側に展示された昭和天皇に関する作品群だった。 右側には、正装した昭和天皇の肖像を髑髏(どくろ)が睨んでいるもの、左側には昭和天皇の顏の部分を剥落(はくらく)させ、背景には大きく赤で✕が描かれた銅版画が掲げられていた。タイトルは「焼かれるべき絵」。作者による天皇への激しい憎悪が剥き出しにされた作品だった。 その先の右側にあったのが、昭和天皇の肖像がバーナーで焼かれていく映像作品だ。奇妙な音楽が流れ、なんとも嫌な思いが湧き上がるような演出の中、次第に焼かれていく昭和天皇の顏。すべてが焼かれ、やがて燃えかすになると、今度はこれが足で踏みつけられる。人間の尊厳というものをズタズタにする強烈な映像作品である。 よほど作者には昭和天皇への恨みがあるのだろう。これをつくって、作者はエクスタシーでも感じているのだろうか。そんな思いで筆者は映像を見つめた。思い浮かんだのは「グロテスク」という言葉である。 少女像が展示されているのは、昭和天皇へのヘイトを全開にしたこの作品群を通り抜け、右側に広がった空間の一角だった。少女像の手前の広い空間の真ん中には、テントのような作品が置かれていた。 題して「時代の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」。かまくら形の外壁の天頂部に出征兵士に寄せ書きをした日の丸を貼りつけ、まわりには憲法九条を守れという新聞記事や靖国神社参拝の批判記事、あるいは安倍政権非難の言葉などがベタベタと貼りつけられ、底部にはアメリカの星条旗を敷いた作品だ。 idiot とは「愚かな」という意味であり、JAPONICAは「日本趣味」とでも訳すべきなのか。いずれにしても「絶滅危惧種」「円墳」という言葉からも、絶滅危惧種たる「愚かな」日本人、あるいは日本趣味の「お墓」を表わすものなのだろう。 日の丸の寄せ書きを頂点に貼った上に、このタイトルがつけられているので、少なくとも戦死した先人たちへの侮辱の作品であることはわかった。筆者は戦争ノンフィクションを10冊以上刊行しており、これまで最前線で戦った多くの元兵士を取材している。今ではほとんどが鬼籍に入られたが、その先人たちを貶める目的の作品であると感じた。 そして少女像。これはどうということはない。あのソウルの日本大使館前や、世界中のさまざまな場所に建てられている像だ。英語の解説文には、「Sexual Slavery」(性奴隷制)という言葉があり、「性奴隷」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されていた。 説明書きを読んでみると〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する〉と書かれている。 慰安婦のありもしない強制連行を否定する日本側の見解とは明らかに異なる主張を持つものだ。少女像の左側の壁には、元慰安婦の女性たちの写真も掲げられている。筆者には、これらが「反日」という政治的メ��セージを訴えるための作品群であることがわかった。 しかし、クローズアップ現代には少女像の作者が登場し、「(これは)反日の象徴として語られていますが、筆者たちは平和の象徴と考えています。(戦争の)悲しみと暗い歴史を語る象徴なのです」というインタビューが放映された。慰安婦であることの明確な説明書きと矛盾しているのに、番組では、それを指摘もしない。 つまり良心的な作家が「平和を祈ってつくった作品が脅迫で圧殺された」という番組にしたかったのだろう。そのためには、昭和天皇や戦争で死んでいった若者たちを損壊、侮蔑する作品群だったことは「報じられない」のである。 この番組の悪質性は、自らの主張に「都合のいい作品だけを取り上げた」という点にあり、この展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長には、当然“悪者”というイメージが植えつけられた。 日本では、公の電波を使ってこのような一方的な番組が放映されることを防ぐために放送法4条に以下の条文が定められている。 (1)公安及び善良な風俗を害しないこと (2)政治的に公平であること (3)報道は事実をまげないですること (4)意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること クローズアップ現代は明確に(2)(3)(4)に違反している。放送中から筆者のもとには「こんな番組が許されるのか」「作品の中身がこれだけネットで明らかにされているのにNHKはまだこんな番組をやっている」という訴えが相次いだ。 実は、日本の新聞やテレビがよくやるこのやり方は「ストローマン手法」と呼ばれる。対象となる出来事、あるいは対象者の発言の一部を切り取ったり、主旨をねじ曲げて報じて自己の主張に添うように記事や番組をつくるものだ。ストローマン(straw man)とは、もともとは藁(わら)で作られた人形(藁人形)を指す英語である。つまり案山子(かかし)だ。都合のいいように事実をねじ曲げて報じるのだから、「倒す」のは簡単なことからついたとされる。 ちなみに、これは欧米の言論界で最も軽蔑されるやり方として忌み嫌われている。
実は、産経新聞とフジテレビを除いて、この1か月間、これらの作品群の真実を報じたメディアはほとんど見られなかった。報じたら忽ち「そんな酷い展示だったのか!」と非難が高まり、「表現の自由が圧殺された」という趣旨の記事や番組ができなくなってしまうからである。 クローズアップ現代には日本文学研究者のロバート・キャンベル氏が登場し、こんなコメントをした。「筆者は“エビデンスのない共感”と呼んでいるんですが、自分にとって心地よい考えに出会った時や物の見方をみた時に、それに連動して、リツイートをしたり、コメントしたり、拡散していくということはあるわけですね。その傾向が今、世界中で広がっている中で、今回のケースは、日本の中で極めて特徴的なものとして現われたのかなと思います」 筆者は耳を疑った。このクローズアップ現代こそが、目の前の作品群の真実を封じて少女像だけの問題に矮小化し、“エビデンスのない共感”を大衆に求めたのではなかったのか、と。 筆者は、こういう公平性を欠いたマスコミ報道、特に新聞を取り上げて5月末に『新聞という病』(産経新聞出版)を出版した。3か月余りを経た現在、これが10万部を超すベストセラーになっている。 国民がいかに「事実をねじ曲げる」新聞に怒っているかを痛感した。だが、NHKも同じだ。筆者は「NHKという病」を追及する必要性を痛感している。なぜこんな放送局に税金が投じられ、国民が受信料を払わなければならないのか。国会での徹底追及をお願いしたい。
リベラル勢力の二重基準 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止となった。憲法違反だとか、さまざまな物議を醸したが、そもそも公費を使ってやるようなイベントなのか。その上、昭和天皇の御真影を燃やす映像などはもはや芸術とは呼べない。 作家の竹田恒泰氏は、展示の中止を「憲法違反」や「検閲」と指摘する声に対し、一つ一つ論理的に反論。反日の偏った思想に基づいた作品しか展示されておらず、公平性もないため、実体は「反日展」にすぎないと断じた。 著書が「表現の自由」を逸脱するとして朝日新聞に訴訟を起こされた文藝評論家の小川榮太郎氏は「私の表現の自由���無いのか」と、自身の言論を封殺した勢力の一方的でゆがんだ構図を糾弾する。 産経新聞大阪正論室は実際に展示会場をルポし記者会見も取材。大阪と神戸を舞台にした「御代替わり朝礼」非難報道や幼児図鑑「絶版」騒動とあわせて、平気でダブルスタンダード(二重基準)をふりかざすマスコミの病理をあぶり出す。 「表現の自由」を盾に、昭和天皇の御真影を燃やすなどという非芸術的行為を擁護する勢力は横暴だ。
愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で中止となった企画展「表現の不自由展・その後」について、1週間後の展示再開で、芸術祭実行委と不自由展実行委が合意し、展示中止のポーズを解除した。さらに、開会時の内容を維持し、必要に応じて教育プログラムを実施することや県が来場者に対し、中止になった経緯などを検証した中間報告の内容をあらかじめ伝えることも告げた。 これに伴う批判の殺到を怖れた知事は、ツイッター上で、自身を誹謗中傷するアカウントをブロックする旨、宣言した。
ブロックされれば強制的にフォローが解除され、ツイートを読んだりリツイートしたりできなくなる。早速、「見事にブロックされちゃった」と大村知事のブロックを示す画像が次々と投稿された。「誹謗中傷」の基準を質問するだけでブロックされたと主張するユーザーや、愛知県民であるにも関わらずブロックされたという声もあった。 大村知事は、批判的意見・質問をブロックするにとどまらず、韓国軍の蛮行について論ずる自由は無い旨、言い放った。 企画展「表現の不自由展・その後」は、昭和天皇の写真を焼いたような映像や「慰安婦像」として知られる少女像の展示などが批判を浴び、脅迫ファクスが届いたことを口実に企画展を中止していた。大村知事が津田氏と並んでピースする画像をツイッターに投稿し、その後削除したことも話題になった。 不自由展が提起した問題の一つは、文化庁などの助成基準との整合性だ。 「表現の不自由展・その後」では、政治的論争のある慰安婦像や昭和天皇の写真をバナーで燃やした灰を踏みつける動画など、日本国民の感情を害し心理的な傷を与える展示があった。
2019年10月8日、「表現の不自由展」再開に抗議する為、名古屋市の河村たかし市長は、同展会場前広場で座り込みを行った。河村氏は芸術祭の実行委員会の会長代行だが、再開についての協議はなかったといい、「(再開決定は)無効だ」と批判している。 河村氏はこの日、約30人の支持者らと抗議活動を実施。座り込みで約10分間、「県は公金の不正使用を認めるな」「知事は名古屋市民の声を聞け」などとシュプレヒコールを上げた。
マイクを握った河村氏は、とくに昭和天皇の肖像を燃やすような動画について問題視し、「愛知県や名古屋市が主催しているところで展示すれば、県や市が認めたことになる」と指摘。「表現の自由の名を借り、世論をハイジャックする暴力だ」などと再開に強く抗議した。 会場前の広場には、同展に反対するプラカードを掲げた人たちの姿も見られた。その場に居合わせた名古屋市民は「天皇を公然と侮辱するようなものを芸術と呼べるのか、不自由展ではなく不愉快展、市民として黙っていられない」と憤る。 同日の 大村秀章氏ツイート は、画像の通り
検証委は、中間報告で「誤解を招く展示が混乱と被害をもたらした最大の原因は、無理があり、混乱が生じることを予見しながら展示を強行した芸術監督の行為」と津田氏の責任を指摘した。しかし、津田氏は、責任を感じるどころか、文化庁の補助金交付を求める署名活動を支持し、政治的な対立を煽り続けている。 検証委は、大村氏については、「検閲」を禁じた憲法の制約、リスクを軽減するガバナンスの仕組み欠如等を理由に、責任を不問にしているが、陳腐な言い訳で説得力はない。
朝日新聞社は、公権力が表現活動を抑圧した旨報道し、さらに「ヘイト行為の一般的なとらえ方に照らしても、少女像はそれに当たらない」という検証委の指摘に賛同している。特定法規が定義する「ヘイト」の概念に該当しないことを論拠にしているが、これは、日本人を食い物にする発想方法である。 2015年に、朝日新聞社は、①故吉田清治氏の慰安婦に関する証言の誤報取り消しが遅きに失したこと、②吉田調書報道の取り消し、③池上彰氏の連載掲載見合わせ をおわびする旨、自ら 発表した が、そのことを忘れてしまったのだろうか? この展示がもたらしたハラスメントは、多くの人に国民としての自尊心を過度に傷つけられただけでない。自分たちが納めた税金を利用して行われたことによって、さらに傷ついている。 しかもこの展示は、芸術監督の自発的な意図として成立した、むしろ積極的で公的なハラスメントともいえるものだ。日本国民の被害感情を軽視する人々が、メディアや文化人界隈に少なからずいることに驚かざるを得ない。 因みに、「展示スペースの大きさや実際の展示費用などを計算しカットした補助金を交付すべき」旨、補助金ルール無理解な三浦瑠麗氏が述べている。
表現の不自由展 きょう午後再開 警備強化 金属探知機も 2019年10月8日 愛知県で開かれている国際芸術祭で、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次いだため中止された「表現の不自由」をテーマにしたコーナーについて、愛知県の大村知事は、警備を強化したうえで1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で、8日午後から再開すると発表しました。 8月1日から愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」では、「表現の不自由」をテーマに、慰安婦問題を象徴する少女像などを展示するコーナーが設けられましたが、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次ぎ、開幕から3日で中止されました。 愛知県は、中止前の状態と展示の一貫性を保ちつつ、安全対策などを講じて再開することを目指してきましたが、展示の在り方などをめぐって協議が難航してきました。
芸術祭の実行委員会の会長を務める愛知県の大村知事は7日夜、記者会見し、コーナーを8日午後から再開すると発表しました。 具体的には、 ▽抗議の電話の専用回線を設け、会場の警備を強化するといった安全対策を講じ、 ▽事前に抽選をして作品の解説を行う教育プログラムを受けてもらったうえで、 ▽1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で再開するということです。 さらに、 ▽鑑賞の前には手荷物を預かり、金属探知機でのチェックを行うほか、 ▽動画の撮影も禁止するということです。 芸術祭では、中止に抗議して作品の展示を辞退するなどしていた国内外の作家たちの作品も8日からすべて展示されるということで、大村知事は「円満な形で日本最大級の国際芸術祭の完成を目指したい」と述べました。 8月1日から愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」では、「表現の不自由」をテーマに、慰安婦問題を象徴する少女像などを展示するコーナーが設けられましたが、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次ぎ、開幕から3日で中止されました。
愛知県は、中止前の状態と展示の一貫性を保ちつつ、安全対策などを講じて再開することを目指してきましたが、展示の在り方などをめぐって協議が難航してきました。 芸術祭の実行委員会の会長を務める愛知県の大村知事は7日夜、記者会見し、コーナーを8日午後から再開すると発表しました。 具体的には、 ▽抗議の電話の専用回線を設け、会場の警備を強化するといった安全対策を講じ、 ▽事前に抽選をして作品の解説を行う教育プログラムを受けてもらったうえで、 ▽1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で再開するということです。 さらに、 ▽鑑賞の前には手荷物を預かり、金属探知機でのチェックを行うほか、 ▽動画の撮影も禁止するということです。 芸術祭では、中止に抗議して作品の展示を辞退するなどしていた国内外の作家たちの作品も8日からすべて展示されるということで、大村知事は「円満な形で日本最大級の国際芸術祭の完成を目指したい」と述べました。
・「 表現の不自由展 」は安全地帯での覚悟なき玩弄。表現の自由は侵されず。 ・米国でも「表現」で一大騒動。NY市長助成金カットと立ち退き要求。 ・中国、韓国はもちろん、米国でも「表現」によっては日本より遥かに厳しい。
2019年10月14日、 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」 の 「表現の不自由展・その後」 が、突然の中止、「不自由な」限定再開を経て、会期終了と共に閉幕した。 主流メディアの多くは、最も問題視された、昭和天皇の写真を焼き文字通り踏みにじる映像については触れず、もっぱら慰安婦少女像が不寛容な勢力に攻撃されたかの如き「表現の不自由」を体現したような報道を続けた。
主催者である 大村秀章愛知県知事 と 津田大介芸術監督 の責任について、「企画アドバイザー」だった 東浩紀氏 が、当事者として的確に指摘している。 「『表現の自由』vs『検閲とテロ』という構図は、津田さんと大村知事が作り出した偽の問題だと考えています。…今回『表現の不自由展』が展示中止に追い込まれた中心的な理由は、…天皇作品に向けられた一般市民の広範な抗議の声にあります。津田さんはここに真摯に向かい合っていません」
今回、表現の自由は、常識的意味において、何ら侵されていない。 せいぜい、税金の補助を受ける対象から排除されただけである。問題となった一連の「作品」群は、破壊も没収もされておらず、民間の場に移せばいくらでも再展示できる。写真や動画のネット拡散により、むしろ当事者の予想以上に多くの人が「表現」の実態に接した。 これが中国で、毛沢東の写真を焼く映像を展示したのだとしたら、関係者は既にすべて獄中、ネット拡散した者も国家安全部に拘束され拷問という展開になっていただろう。 あるいは韓国で、慰安婦の写真を焼いて踏みにじるパフォーマンスをしたなら、やはり関係者は、元慰安婦が共同生活を送る「ナヌムの家」で土下座謝罪の上、何らかの罪状を付けられ服役となったろう。 「テロ脅迫」に責任転嫁を図った大村、津田両氏の行為は、日本という安全地帯における、覚悟を欠いた「表現」の玩弄に過ぎなかった。
政治性と宗教性という点で違いはあるが、 アメリカでも1999年、「センセーション」と題したブルックリン美術館の特別展示が一大騒動を巻き起こした。
問題の作品はイギリスの黒人画家 クリス・オフィリ(Chris Ofili) の 「聖処女マリア」 で、デフォルメされた黒人女性の乳房のコラージュ(貼付)部分と台座に象の糞が使われていた。また画面に多数飛ぶ蝶のような物体が、近づいて見ると、突き出した女性のヒップの写真であった。 経緯は後述するが、同作品は現在 ニューヨーク近代美術館(MoMA) に収蔵されており、「MoMA, Ofili, Mary」で検索すると同美術館の説明入りで 画像 が見られる。 「センセーション」展を開催したブルックリン美術館は、ニューヨーク市の財政補助を受け、市所有の建物に入居している。 当時のルドルフ・ジュリアーニ市長(現在トランプ大統領の私的法律顧問)は、「嫌悪すべき企画に表現の自由は適用されない」と、作品を撤去しなければ助成金を打ち切り、美術館自体の建物からの立ち退きも求めるとの姿勢を打ち出す。 事態は法廷で争われるに至ったが、特別展示終了で作品が建物外に搬出されたこともあり、結局、市側は美術館に対する立ち退き要求を取り下げた。
その後この作品は、460万ドル(約5億円)である富豪が落札し、昨年(2018年)ニューヨーク近代美術館に寄贈された。ところがその際は騒動とならなかった。
最大の理由は、 同美術館はロックフェラー財団など民間資金で運営されており、税金が入っていないこと にある。 日本でも同様、個人美術館や朝日新聞あたりが「表現の不自由展」を引き取り、自らの費用と責任で展示する覚悟を示せばよいのである。 またオフィリの作品には、題名以外に聖母マリアを思わせる要素は乏しく、構図や色彩にアートとしての面白さを感じる人々が少なくない。象の糞も彼が好んで使う画材で特に冒涜の意図はなかったとされる。 もっともアメリカでも、例えばマーティン・ルーサー・キングの写真を焼いて踏みにじる映像を展示したなら、主催者は囂々たる非難と資金引き上げ、訴訟に見舞われるだろう。その点は、日本より遙かに厳しいはずだ。
島田洋一 (福井県立大学教授)
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第1回 勉強会れぽ 2018年3月31日
(会場となった京都市立芸術大学 芸術資料研究センター)
毎月第1日曜日(もしくは土曜日)に京都市立芸術大学で開催する、勉強会。みんなで「ものしり」になることを目標に、ゆるっとおこなっています。
今回のれぽ担当者は佐々木です。(出席者:岡本、大槻、豊増、西原、佐々木)
——テーマについて
第1回目は「富岡鉄斎」がテーマでした。
2月の作品展で主催の岡本さんの作品を見て、橋本���雪や富岡鉄斎がおもしろいのではないかと教えてくださった方がいらっしゃったことがきっかけとなり、今回の勉強会の開催にいたりました。
富岡鉄斎(とみおかてっさい、1837-1924年)について、簡単に説明します。
『日本美術館』(小学館、1997年)を参照すると、 「新しい概念や制度から距離を保ちつづけた最後の文人」 と書かれています。
鉄斎の作品についてはこちら
近代の絵画では南画・文人画はあまり好まれず、制度的にも冷遇されるようになりました。
そのような時代のなかで、鉄斎は「詩書画三絶(漢詩、書、画、いずれも超絶していること)」の書画を描き、美術団体からは距離を置いて、徳を高める生活をおくっていました。
鉄斎は西洋のセザンヌに匹敵するほどの役割を果たした最後の文人画家であったそうです!
——課題図書について
さて、今回の課題図書は、戦暁梅『富岡鉄斎の画風についての思想的、藝術的考察 : 鉄斎画の賛文研究を通じて』です。
戦暁梅『富岡鉄斎の画風についての思想的、藝術的考察 : 鉄斎画の賛文研究を通じて』
鉄斎に関する文献は多くありますが、この本は鉄斎の絵画論に注目しているのが特徴的です。
作品の画と賛文とを分けて論じてきたこれまでの研究に対して、鉄斎の「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」という発言をとりあげて、画と賛文をともに読み解く試みがなされています。
第一章では、文人画家である鉄斎の生涯とその陽明学の思想が整理されており、鉄斎の性格や生き方が読み取ることができます。
第二章からは具体的な作品をとりあげて、画題と賛文の関係を探っています。
ところどころに日本と中国の文人画の紹介があり、興味を広げやすいテキストでした。
——文人画について
文人の余技として芽生えた文人画は、北宗と南宗とで系譜が分かれていきます。
詳細にいうと、まず、山水画には清時代まで大きく二つの流派がありました。 華北系・李郭(りかく)派と江南系・董巨(とうきょ)派です。 江南系・董巨(とうきょ)派から生じた文人画は、明中期から盛んになります。 さらに明末期に董其昌(とうきしょう)が南宗を高く評価したことがきっかけとなり、北宗=職業画家に連なる系譜、南宗=文人画家(董源・巨然から元末四大家)に連なる系譜という図式ができます。 元末四大家の作品はこちら
これらが日本に伝わり、日本では「南画」として発展します。
日本文人画としては富岡鉄斎が最後の巨匠となり、その後は南画においては伝統技法が継承されてきたようです。
——鉄斎の評価について
海外での評価について、まず、鉄斎はアメリカ、ヨーロッパどちらで先に評価されたのでしょうか。
1957年に開催された「アメリカの鉄斎展」では、 批評家が鉄斎と「抽象的表現主義」との関係性を示しています。
以下、引用 そして最近日本から帰ってきたメトロポリタン美術館極東美術部長のアラン・プリーストの言によれば、「鐡斎の美術史的位置がセザンヌのそれに相応することは、日本人も西洋人もともに認めるところである。 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の美術批評家、エミリー・ヂェナウァー——『東洋の藝術家の古典的理念であるところの「典雅なる精神の表現」が、鐡斎の真骨頂で、しかも、鐡斎の精神は、典雅なるのみならず、陽気で愉快であり、そこに鐡斎の魅力がある。』更に、ヂェナウァーは、三人の賢者が同じ舟に乗っている「聖者舟遊図」や、儒・道・佛の三宗教の代表者を示した面白い「三老吸酢図」を例にとって、鐡斎の魅力の根拠としての「フモール」について述べた。 ニューヨーク・タイムズ紙美術批評家のハワード・デヴリー——『鐡斎展について言えば、遠い中国絵画の伝統の趣を留めながらも、その個性と熱情との力により、例えば風景画に於けるボカシの仕方など、今日の表現主義的手法に近い感がある。いや、あちこちにフォーヴ的筆致もある。色彩は豊富ではないが、有効にアクセントを与え、空間処理と本質的に抽象的な形体の把握とは驚くべき完璧度に達している。タイム誌は『聖者周遊図』を掲げ、『鐡斎の作品は、日本画の精緻優雅な伝統から、大胆にも抜けだして、荒々しくも衝動的な筆遣いを用い、もはや東洋的といわんよりは西洋的な感じを起こさせる。…その筆力のほとばしる所、今日西洋で「抽象的表現主義」と呼ばれている、あの近代絵画の原型を、誇らかに示すのである』* (本文、7頁より) (*は レスリ・J・ポートナー氏「アメリカの鐡斎展」『藝術新潮』第8巻第7号、1957年7月より)
1957年ごろといえば、ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning, 1904-1997年)の『女』シリーズがすでに発表されていた時期です。
たしかに鉄斎の晩年の力強い筆跡には、共通点が見られるかもしれません。
一方、鉄斎の画風からの繋がりで考えると、 アンドレ・ドラン(Andre Derain, 1880-1954年)に代表されるような フォーヴィスムを連想することもできます。
(勉強会の様子) 具体的なものを立体物として写実的に描くのではなく、 むしろ光との関係といった見え方の本質を捉えた表現を追求した点に、 鉄斎との類似性があるのではないかと考えました。
日本においては、岡本太郎をはじめとする画家たちに一定の評価を得ている点も鉄斎の高評価の理由です。
——鉄斎の人間性について
第一章では鉄斎と陽明学との関係がくわしく述べられています。
陽明学は朱子学から発展したものですが、より人間の心や情を重視しました。
王陽明は、あるべき姿である「理」と、人間的な「心」は相反するものではなく、むしろ、人間的な「心」こそ規範となるべきであると説きます。
人間の直感感覚を肯定しており、人間の情の側面を重視する態度がみられます。
もともと鉄斎は「石門心学」という学問を学んでいたのですが、 その思想は、人間の本質に関わる部分においては陽明学ととても似ていました。
そのため、鉄斎は若い頃に陽明学に傾倒します。
鉄斎は生涯において「言行一致」「知行合一」を追求しました。
さまざまな相反するような思想をも自身のなかに取り入れ、吸収していく器の大きい性格だったことがうかがえます。
社会活動に熱心で国粋主義的な一面もあったことは、自由な制作活動を展開する鉄斎のイメージとはまたちがった印象を受けます。
もちろん、時代の波があり、作風も年代に沿って変化していく様子がみられます。
余談ですが、年齢による作風の変化というものはやはりあって、花鳥画のように繊細な絵になると、年をとるにつれて描きにくくなると一般的に言われています。
禅の作品などに共通して見られるゆるやかな曲線などは、年齢を重ねた身体の変化によるものでもあったのだろうかと考えさせられます。
——セザンヌとの比較
さきほど、新印象主義との関連性を述べましたが、テキストでは鉄斎とセザンヌとの関係性について、「輪郭を無くした混沌味」と「鮮やかな色彩」が共通点としてあげられています。(本文、8頁)
「輪郭を無くした混沌味」とは、たとえば作品《浮島原晴景》において、境界線は明示されず、色彩の明度によって対象の立体感を表しているが、その境界はぼかされ、細部は見えなくなり、全体の統一感が重視される様子と言うことができるでしょうか。
とはいえ、鉄斎の作品では部分のモチーフがある程度確認できるため、平面性が見られる点において、セザンヌのとの類似性が指摘できます。
また、鉄斎の作品においては、細かな線によってびっしりと画面が埋め尽くされるように描かれていることも特徴的です。
——《三聖吸酢図》(50代)について
さて、第二章からは、具体的に画と賛文を同時に見ることで、作品の解釈をおこなっています。
気になったのは、鉄斎50代のころの作品《三聖吸酢図》についての部分。(本文、41,42頁)
この「三聖吸酢図」の画題は鉄斎が40代から80代にいたるまで描きつづけたものでした。
三聖とは、道教の黄山谷、儒教の蘇東坡、仏教の佛印のことです。
佛印が訪れた黄山谷と蘇東坡に、上等な桃花酸(お酢)を差し出し、味見しようと誘います。
そのとき3人がそのお酢を味見して、3人ともそのお酢によって眉をし��めたことから、三教の説くところは異なるけれども、起源は同じだということを意味します。
賛文には以下のような意味が書かれています。
老子は、好んで清らかにし��虚しきものを談じ、釈迦は専ら舎利を説く。孔子がこれを聞いて笑いこけている。(本文、41頁)
これまでの指摘では、「三聖吸酢図」についての内容ではないため、画と賛文が一致しないと考えられてきました。
ここで、筆者は画に注目し、「三聖吸酢図」ではありつつも、そのなかでも桃花酸(お酢)に興味を示している場面を描いているとし、 そのため、一見賛文は異なる内容を書いているようには思えるが、好奇心や面白みといった内容から考えると、同じことを追求していると述べます。
この面白みというのは難しく、主観的な意見であり、話し合いでは完全には納得できなかった部分です。
もともと画賛は画家本人ではなく、別の人が書くものでした。画と賛文の関係も興味が尽きない題材です。
——広がりとして
話し合いの結果、持ち帰って、 今後調べていくことになったのは以下の2つです。
①文人画 テキスト中には、中国文人画の「京派」「海上派」「嶺南派」が取り上げられていました。
そもそも文人画とはということを、遡って学びたいと思います。
②「写意」 テキストに「写意」という言葉が出てきたのですが、 これは家に帰って、
蘇軾 「形似」に対する「写意」(西洋の抽象表現主義に相当)
(中国絵画史ノート 宋時代 北宋花鳥画の革新 文人画の芽生え、http://www.geocities.jp/qsshc/cpaint/china9.html、2018年4月2日アクセス)
というものを知りました。
勉強会中では、この「写意」とは、たとえば岸田劉生がいう「質の実感」こそむしろ「写実の美」と考える思想のことだと考えていました。
(ちなみに岸田の思想は以下を参照 物体の正面から光線を与えて、影を作らぬと、その物体は厳しい写実的画境を与えられる。それに反し、そこに多くの影を造るときはそこには厳しさのかわりにロマンチックな感じが生じる。
西洋の美術が多く、美を厳粛なる写実境に見出せず、ロマンチックなところに求めたのは、その材料が皮想の如実感を出すに適し過ぎたが為ともう一つはその民族の科学的気凛に基するものという事が出来る。
(岸田劉生「東西の美術を論じて宋元の写生画に及ぶ」『岸田劉生美術思想集成 うごく劉生、西へ東へ 後編・「でろり」の味へ』書肆心水、2010年、190頁)
この文では岸田は、西洋の美術のように陰影をしっかりと描き、あたかも3次元空間に立っているかのように描くものは、ロマンチックな感じが生じると述べています。
しかし、東洋画では陰影を描かず、厳しい写実的画境を描き出します。
そこでは、形を超えた精神を描き出していると言えます。
質の実感も無論、形を超えたものである。美である以上それは形ではない。只心に影ずる時も、又それが表現される時も、形に宿るだけである。畢竟美とは形に宿る形以上の形である。かくて質の美は質の与える美的精神的感動である点で更に深きものと同じく無形である。しかし、更に深き美術の域の美的感動はその感じに於ては形に即さない。[中略]つまり、何が美しいというのではない。物の美ではない。作に籠る精神、又は画因に宿る精神と言うてもよい。
(岸田劉生「写実論」『岸田劉生美術思想集成 うごく劉生、西へ東へ 前編・異端の天才』書肆心水、2010年、227頁)
そのようなわけで、この「写意」については、「蘇軾 「形似」に対する「写意」(西洋の抽象表現主義に相当)」という意味があることを知り、これについては今後もくわしく調べていきたいと思います。
——余談
これから読みたい本
戦暁梅『鉄斎の陽明学』 (今回のテキストの同著者の本。興味が広がる)
岡﨑乾二郎『抽象の力』 (「写意」つながりで) 東田雅博『シノワズリーか、ジャポニスムか : 西洋世界に与えた衝撃』 (この図書自体が受けている影響について理知的に考えるため)
村山斉『宇宙は何でできているか』 (参加メンバーのおすすめ、ダークマターについて。鉄斎とは特に関係はない)
竹浪遠 『唐宋山水画研究』 (京芸の愛すべき東洋美術史の先生の著書。今回扱った近代とは時代が離れているのが残り惜しい)
『中国近代絵画と日本』京都国立博物館 編 (「海派」と「京派」について書かれている。わかりやすい。別の記事で紹介します)
「石岡さんと本屋に行こう!」http://www.kaminotane.com/series/1386/ (こんなふうに本が読めるようになりたい)
西槇偉『中国文人画家の近代 ――豊子愷の西洋美術受容と日本』 (受容研究の参考になった本。とてもよい。なにがよいかというと、豊子愷の絵からは愛情しか感じない。目の保養になる。そんな図版がたくさん。それから、作品記述がまるで物語のよう。こんな記述ができるようになりたい)
(桜がきれいに咲いていました)
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広坂早苗『未明の窓』5首選
ブログから移管シリーズその3。
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「まひる野」の広坂さんの第二歌集『未明の窓』の批評会が昨日名古屋であったのだが、仕事の関係で二次会にしか行けなかった。その二次会で歌集の感想を振られたのでお話ししたのだが、こちらにも記したいと思う。
桃ジャムを煮るリビングの一隅に雷魚と雷魚を描く子がいる/12p
→雷魚二匹描いているということだと思うのだけれど、この「雷魚と雷魚」に間違いではないけれど謎の面白さがある。発言した後に思ったのは、ジャムを煮る片手間にしか子の描いているものを見れなかったので、「雷魚」の一匹目と二匹目を別の時に認識したからこういう「雷魚と雷魚」という表現になったのではないかと推測するけどどうやろうか。
植木算は木を描きながら解くのだと子はいう枝に葉をつけながら/13p
→「枝に葉をつけながら」のディティールの強さと自然さ。「ながら」が二回出てきてややうるさい感じがしなくもないが、それでもこの歌の最後の「ながら」は韻律に無理をさせてない上手さがあるよな、と思う。
タンブリン打ち鳴らしつつ子がうたう春の朝は時計が狂う/35p
→「春の朝は時計が狂う」と言われるとだんだんなんかそんな気もしてくる感じがしてきて、歌の中の呟きに騙されそうになることが多々ある。春という季節のはじまりの時期と「時計が狂う」の取り合わせは読者を力技で納得させにかかっている。
それとさらに言うと、上の句の「タンブリン打ち鳴らしつつ子がうたう」の後にあるとそのせいで時計が狂ったように見えて不思議。
尋ねたら沖まで連れていかれそうで早退許可の印のみ押しぬ/100p
→「自分はこういう境遇でこういう生活を送りこういう状況である」という設定や状況の説明の為に歌をたくさん費やす様な歌集がちょいちょいあるが、広坂さんの歌集にはその毒気がほとんど無かった。この歌は職場の光景なのだが、上の句の「尋ねたら沖まで連れていかれそうで」という主体の迷い、戸惑いとも言えそうな感情の表現に惹かれた。自分はこういう状況であるという設定では無く、何ともいえない感情が読者に手渡される。
子めだかのすきとおる背に影が添う風より秋に変わりゆく朝/195p
→歌集の最後の歌。この歌集には水棲生物がよく出てくる。後は子どもさんの歌もよく出てくる。この歌自体もとてもいい歌だが、この歌が歌集全体を象徴している感じがする。それはちょっと僕の読みすぎなのかなとも思うけど、でもここに出てくる「影」は何回も読むと主体の暗喩にもやはり思えてくる。
いい歌集でした。ありがとうございます。
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名古屋で写真展、始まってます。 3月25日まで。 「非写真家 non-photographer」 MUNO RAINROOTS *二カ所は歩ける距離です。RAINROOTS付属の壁paperback でも展示中。 写真展についてのコメント(タカザワケンジ): 東京神保町のオルタナティブ・スペース「The White」で行った3つの写真展(うち1つは大阪のギャラリー176に巡回)に新作を加えた名古屋初の個展。 ★MUNOで展示されている作品について。 ■「偶然の写真史」(2017)。 金村修との共著『挑発する写真史』刊行に合わせて行った展覧会「写真史(仮)」で発表した写真群。 大阪のギャラリー176へも巡回した。 私はレクチャーに必要な写真集の複写を日常的に行っている。その際、三脚にカメラを据え、インターバル撮影を行う。5秒に1度切れるシャッターは、しばしば私の手を写し込む。それをエラーとして捨てていたが、あるとき、その写真に魅力を感じた。 『挑発する写真史』をつくる過程で、これらの写真を使って写真史を語ることを構想。写真の発明者の1人、タルボットの「自然の鉛筆」からウォルフガング・ティルマンスの図録までを展示構成した。 また、展示を見るためのガイドとして、今回、新たに新作3点を展示した。 1点は 「展示を見る(タカザワケンジ「偶然の写真史」2017)」(2018) 。The Whiteで展示した際の壁面のクローズアップ写真を9分割したもの。もう1点は「本をめくる 二重のエラー/ロラン・バルトへのオマージュ(ロラン・バルト著、花輪光訳『明るい部屋』みすず書房)」(2018)。ロラン・バルトの著名な写真論のエラー複写を9分割プリントし、その1部を入替え、二重のエラーとしたもの。そして、「本をめくる/小松浩子へのオマージュ(小松浩子『Port Area, Sakai, Osaka 12:00 - 14:00, May 4, 2010』私家版」(2018)。現代写真家の小松浩子の写真集をめくっている写真を3点セットにした。 展示を元にその前半部を写真のHistory/Storyとしてつづったテキストを加えた同名小冊子(2017、triplet)を刊行。初版100部は売り切れたため、今回、30部のみ増刷した。 ★RAINROOTSでの展示は以下。
■ 「CARDBOARD CITY」(2015)。 2014年に3泊4日宿泊食事案内人付きの、いわば監視体制のツアーに参加した。街を自由に歩くことはできなかったが、バスの窓越しの撮影は自由。ただし、そのルートは何度も同じ道を通るというものだった。 テレビや雑誌などのメディアを通してしか見る事のなかった街の風景に興奮し、シャッターを切った。帰国して見直した写真には、バスの中からでは気づかなかったさまざまなモノが写っていた。写真を見ることで発見した街の記録。 ■ 「未視の街 Unseen city」(2018)。 新作。移動する列車のなかから一度も窓外を見ることなしに撮影したシリーズである。 写真家、渡辺兼人の第7回木村伊兵衛写真��受賞作『既視の街』(2015、AG+ギャラリー、東京綜合写真専門学校出版局)の新版を構成し、解説を寄稿した折に考えた「既視」と「未視」についての思索をもう少し広げるための試作である。また、写真を構成するにあたって、私が 『既視の街』 に寄稿した解説を複写した写真を9分割プリントし、組み込んだ。 また、展示を見るためのガイドとして、「本をめくる/渡辺兼人へのオマージュ(渡辺兼人『既視の街』AG+ Gallery・東京綜合写真専門学校出版局」(2018)(9分割プリント)を展示した。 ★paperback( RAINROOTS裏手の屋外展示 )での展示は以下。
■「Kanemura's People」。 2016年に「Osamu Kanemura's New Work?」として発表した作品の改題・再構成。写真家・金村修の展示作品の細部をスナップ撮影したシリーズ。展示を行った経験を元にした金村論を収録した冊子『Kanemura's People』(2016、triplet)を発行した。今回はその冊子を元に再構成している。 壁は2面あり、1面は 金村修の展示作品の細部をスナップ撮影した 写真をプリント。もう1面は『Kanemura's People』 の全ページをインターバル撮影で複写。自分の手が入ったエラー写真を含め見開きページ40点をプリントし、ページネーションを無視して面として展開した。 タイトルを「非写真家 non-photographer」としたのは、タカザワは写真家ではなく評論家であるという理由から。また写真家がやらないことをやるという意味も込めている。 私自身は写真家の作品を論じるうえで、作家へのインタビューを基本に置いている。写真家に対する関心を持ち、フィールドワークの対象としている。写真家にしか表現できないことが写真表現を多様化させてきたことは疑うべくもない。 しかし、その一方で、才能に恵まれなかった普通の人々の写真にも強く惹かれる。退屈で膨大なそれらのなかにも写真の可能性はあると思う。 「非写真家」は、写真を撮る喜びや興奮、上手いか下手かといったことからいったん離れることで、写真について考えてみようとする写真展である。
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