#突如始まる無線機コント
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このメンツだとダントツでレイードが主役っぽいのが不思議で笑える。冷静でそつなく視野角も広いのに、なぜか事件遭遇率が高いのおもしろいんだよなぁ、、、
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仕事場で死にたかった・・
水道橋博士のメルマ旬報』過去の傑作選シリーズ~川野将一ラジオブロス 永六輔『六輔七転八倒九十分』~
芸人・水道橋博士が編集長を務める、たぶん日本最大のメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』。 突然ですが、過去の傑作選企画として、今回は2016年7月10日配信『水道橋博士のメルマ旬報』Vol89 に掲載の川野将一さん ラジオブロス「Listen.64 永六輔『六輔七転八倒九十分』(TBSラジオ)」を無料公開させていただきます。 本原稿は、川野さんが永六輔氏の番組終了に伴って執筆し、死去の報道の前日に配信したものです。 是非、一人でも多くの人に読んでいただければと思っています。 (水道橋博士のメルマ旬報 編集/原カントくん) 以下、『水道橋博士のメルマ旬報』Vol89 (2016年7月10日発行)より一部抜粋〜
川野将一『ラジオブロス』 -----------------------------------------------------------◇ Listen.64 永六輔『六輔七転八倒九十分』(TBSラジオ) ( 2015年9月28日〜2016年6月27日 毎週月曜 18:00〜19:30 放送 )
【訃報】「永六輔、ラジオ生放送中に大往生」 昨日午後7時20分過ぎ、TBSラジオ『六輔七転八倒九十分』の生放送中に パーソナリティの永六輔氏(本名・永孝雄)が東京都港区赤坂のTBSのスタジオで 亡くなった。先週までの1か月間は体調を崩し番組を休んでいたが、昨日は病院の 診察を受けてから娘の永麻理さんとともに参加した。しかし、番組後半のコーナー 「六輔交遊録 ご隠居長屋」で永氏の反応が全くないことに出演者のはぶ三太郎が気付き、 一同が呼びかけ救急医も駆け付けたがそのまま息を引き取った。永氏の最後の言葉は、 外山惠理アナウンサーに対して言い間違えた「長峰さん」だった。享年83。
本人が望んでいた最期とは、例えばこんな感じだったのだろうか。 1994年出版、200万部を売り上げたベストセラー『大往生』の最後に自分への弔辞を書き、 1969年放送の『パック・イン・ミュージック』(TBSラジオ)では旅先のニューギニアから 帰国できなくなったアクシデントを逆手に、"永六輔、ニューギニアで人喰い人種に喰われる!" という番組を放送し、各メディアが巻き込まれた騒動の大きさから警��にも怒られた。
これまで度々、自らの「死」をネタにしてきた偉大なるラジオの巨人ではあるが、 冷静に考えれば生放送中に亡くなることは、机の下のキックやマイクで殴ることよりも悪質である。 しかし、冠番組を失った今、その有り難いいやがらせを受けるチャンスもなくなった。
1967年から2013年まで、平日の10分間、46年間続いた『永六輔の誰かとどこかで』。 1970年から1975年まで、毎週土曜日6時間半放送された『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』。 1991年から2015年まで、24年半続いた『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』。 さらに1969年から1971年の間の土曜深夜は『パック・イン・ミュージック』も担当し、 1964年から2008年放送の『全国こども電話相談室』では回答者としても活躍。 子供に向け、若者に向け、高齢者に向け、ある時期のTBSラジオとは「永六輔」のことだった。 重要なポイントは生放送の番組はすべて週末に固めていたことである。
「放送の仕事をするならスタジオでものを考えてはいけない。 電波の飛んでゆく先で話を聞いて、そこで考えてスタジオに戻ってくるべきだ」
ラジオパーソナリティの仕事を始めた時、恩師の民俗学者・宮本常一に言われたことをずっと守り、 平日は全国各地へ。1年のうち200日は旅の空。久しぶりに家に帰ると「いらっしゃいませ」と 迎えられるのが常だった。1970年から始まって今も続く、永とは公私ともに長い付き合いである 『話の特集』元編集長の矢崎泰久が初代プロデューサーを務め、自身がテーマソングを作詞した 紀行テレビ番組『遠くへ行きたい』(日本テレビ系)もそのスピリッツを受け継いだものだった。 いつも、自分で足を運び、自分の目で見て、自分の耳で聞いたことが、その口から伝えられてきた。
だからこそ、かつてのように自らの足で自由に出かけられなくなったとき、 自らの口からはっきりとした言葉で伝えられなくなったとき、激しく悔やんだ。 2010年、パーキンソン病が確認された永は「ラジオを辞める」ことを考えた。 だが、ラジオ界の盟友である小沢昭一に相談すると、激しく鼓舞された。
小沢「やめんな!絶対やめんな!しゃべらなくていい!ラジオのスタジオにいればいいんだ!」
病とともに生きる永が自分を奮い立たせる意味も込めて度々披露するエピソード。 改めて、放送とはその場の"空気"を伝えること=「ON AIR」であることを再確認した。
2015年9月26日、 永はリハビリ���闘いながら、放送局は聴き取りにくいという一部リスナーの批判とも闘いながら 24年半続けてきた番組『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』が最終回を迎えた。 永の口から語られたのは、出かけた旅先と思い出と、出かけられなかった悔しさだった。
永「東北の地震で未だふるさとに帰れない人が多い。 デモには僕の仲間もいっぱい歩いてるんで気にはなっていた。 だけど、車椅子でああいうところに行くとものすごく迷惑になる。皆が気を使ってしまう」
1960年、日米安保条約に対して、永は大江健三郎や谷川俊太郎など、 同世代の作家や芸術家たちと「若い日本の会」を結成し反対運動をおこしていた。 当時、国会議事堂近くにアパートを借り部屋でテレビの台本を書いていた永は、 「部屋にこもって仕事をしている場合か」と国会前に駆け付け仲間達のデモに合流した。 台本がなかなか届かず待っていたテレビ局の担当者は、さては?と国会前に探しに来た。 見つかった永は「安保と番組、どっちが大事なんだ!」と問われ「安保です」と即答し、 構成を担当していた日本テレビの番組『光子の窓』(日テレ系)をクビになった。
2016年4月〜6月に放送された、黒柳徹子の自伝エッセーを原作としたNHK総合ドラマ 『トットてれび』。そのなかで角刈り姿の若き永六輔を演じたのが新井浩文だった。 1961年〜1966年に放送されたNHK初期のバラエティの代表作『夢であいましょう』を再現した シーンにおいて、錦戸亮演じる坂本九が「上を向いて歩こう」を歌うや、永は怒号を飛ばした。
「なんだその歌い方は!ふざけてるのか君は! ♪フヘフォムウイテ アルコフホウ〜、そんな歌詞書いた覚えないよ!」
永六輔が作詞し、中村八大が作曲し、坂本九が歌う。 「六八九トリオ」によって誕生し、同番組では「SUKIYAKI」のタイトルで広まったとおり、 すき焼きを食べながら進行する特集も組まれた、世界的大ヒット曲「上を向いて歩こう」。 だが、そのロカビリー少年の歌い方は、千鳥風にいうと"クセがすごい"もので、 当時、作詞した永が頭に来ていたのも事実だった。
永「僕ね、自慢じゃないけど、テレビのレギュラーで番組が終了になるまで続いたのは、 『夢で逢いましょう』くらいなんです。それ以外はだいたいケンカして辞めている」
『創』2009年5月号の矢崎泰久との「ぢぢ放談」で披露された永の"自慢話"。 1956年、コント・シナリオの制作集団「���談工房」の同じメンバーで、 2015年12月9日に亡くなるまで、永のラジオ番組に手紙を送り続けた野坂昭如。 パーティーでの大島渚との大立ち回り動画でもよく知られるそのケンカっぱやさは、 実は永六輔も持ち合わせ、2013年6月の『たかじんNOマネー』(テレビ大阪)での 水道橋博士にも受け継がれている、生放送での途中降板も常習となっていた。
1968年、木島則夫の後を引き継ぎ『モーニングショー』(テレ朝系)の司会に抜擢された 永は「僕は旅するのが好きだから」と急遽司会を断り全国を駆け巡るレポーターに変更。 番組第1回は北海道の中継先からオープニグの第一声を任されていたが、アクシデントで番組は スタジオから開始。ずっと雪の中で待っていた永はそのままマイクを放り投げて帰ってしまった。
1994年放送の『こんにちは2時』(テレ朝系)。 自身の著書『大往生』の宣伝はしないと取り決め出演オファーを受けたものの、 当日の新聞番組欄には「永六輔・大往生、死に方教えます!」と載っていた。 文句を言ったところ、冒頭で新聞に掲載されていた内容と異なることを説明するとして 出演したが、結局断りがないまま進行し「皆さんでやってください」と退場した。
「今行けば自分が先頭に立てる」と思い夢を持って始めた開局当時からのテレビの仕事。 構成作家として台本を書き、出演者としてしゃべりまくり、小説家の"シバレン"こと 柴田錬三郎から「テレビの寄生虫」と呼ばれながらも「何が悪い」と続けていたが、 我がままに嫌われるような行為を連発し、自ら発展の基礎を作ったテレビ界を撤退した。 以降、たまに出る度「テレビに出られて良かったですね」と言われることをネタにしている。
度々本人の口から語られるテレビ界の問題として「関わる人が多すぎる」ことがある。 責任の所在がはっきりせず、企画の趣旨がねじまがり、連絡ミスなども誘発しやすい。 裏方と出役の両方を体験する永の意見は現在においても的確で、優れているとされる 人気番組は、内容はもちろんだが、その目に見えない部分の環境の良さを聞くことも多い。
パーキンソン病の先輩、マイケル・J・フォックスが主演する、 1989年公開映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』。 そこで描かれた未来の舞台、2015年10月、 日本では永遠に続くと思われたラジオの未来が書き換えられた。
土曜日午前の4時間半の番組から、月曜日夕方1時間半の番組へ。 四半世紀続いた長寿番組の重荷を降ろし、2015年9月28日から新番組がスタートした。 47歳の永がタモリとともに『ばらえてぃ テレビファソラシド』(NHK総合)に出演していた頃、 1981年9月11日、東京・渋谷ジャンジャンで行われたときのイベント名は、 『六輔七転八倒九時間しゃべりっぱなし』だったが、ラジオ新番組のタイトルは 『六輔七転八倒九十分』。それでももちろん"しゃべりっぱなし"というわけにはいかない。
「パーキンソン病のキーパーソン」。 永は自身の病気の回復力について語る時、いつもそのように笑いを交えて伝えている。 それが議論の的になっているのは新番組が始まってからも変わらなかった。 『誰かとどこかで』で「七円の唄」というリスナー投稿コーナーが設けられていたように、 ハガキ1通7円の時代から始まった永六輔のラジオ番組の歴史。 今は52円となったハガキで、時にパーソナリティへの抗議が寄せられるのが切ない。
「病気の話を笑いながらしないで」「病気を楽しそうに話さないで下さい」...。 番組はいろんな病気を抱えている人が聴いている。だが、それを納得しながらも、 「楽しくしちゃったほうがいい、どうせ話をするなら」という姿勢を永は貫いている。 事実、永六輔には「すべらない"病気の"話」が多すぎる。その特選2話。
第1話「ジャカルタの留学生」。 リハビリの勉強のため日本に来ていたインドネシア・ジャカルタの留学生。 永の担当に付いた彼は「姿勢を良くして下を見ないで歩きましょう」と歩き方を指導し、 「日本にはいい歌があります。『上を向いて歩こう』って知っていますか?」と聞いた。 永が嘘をついて「知らない」と返すと、歌うジャカルタの留学生に付いて病院内を歩くことになり、 全ての医者や患者から注目を浴びることに。日本の先生に事態を説明すると、 「真面目に勉強をしに来ている若者に嘘を付かないでください」と注意され、 留学生に実は歌を知っていたことを打ち明け、「知っているのは僕は作ったからです」と言うと、 ジャカルタの留学生は、「あー、また嘘ついてる!」。
第2話「タクシーの事故」。 ある日、永が新宿からタクシーに乗ると別にタクシーに衝突される事故を起こす。 左肩打撲など全治三週間の大怪我を負いながらも、事故直後の警察からの質問に、 名前も住所もサラリと答える永六輔。救急車に乗っても救急隊員の真似をして「出発!」と言い、 慶応病院に受け入れを断られると、「こないだ、大学野球で早稲田が慶応に勝っちゃったから?」 とおどけまくる。そこで冷静になって気づいたのが、自分がパーキンソン病の患者であること。 それまでろれつが回らなくて困っていたのに、事故を受けてから流暢にしゃべっている自分。 そこから子供のころ、調子が悪いとき刺激を与え感度を良くしようとして、 それをひっぱたいていたことを思い出した。「俺はラジオかよ!」。
『六輔七転八倒九十分』になって放送時間は短くなったが "放送時刻"が夕方になったことにより「声が出やすい��という吉を招いた。 だが、本人の"調子の良さ"と"呂律の良さ"が比例しないのがパーキンソン病の やっかいなところで、本人がうまく話せていると思っていてもそうではない時がある。
永「僕は今、携帯を左手に持ちました」 「はい、今、下から上へ、フタを開けました。で?」
家族の安心、自身の安全のために無理矢理持たされた携帯電話。 2012年、『誰かとどこかで』で話題となった、遠藤泰子が特別講師を務めた、 79歳で挑戦する「世界一やさしい携帯電話の掛け方講座」シリーズ。 手紙を愛する永の文明・文化の進化に対する嫌悪はよく知られているが、 テクノロジーの発展のなかには、リスナーのために改善されたラジオの技術もある。
「永さん、声は技術でなんとかしますから大丈夫です」。 パーキンソン病を公表してからインタビューを受けた「東京人」2011年3月号で、 永六輔の「声」をオンエアしていくために検討されたスタッフとのやりとりを明かしている。 スタッフから知らされたその技術は、その場で発せられた声を5つに分割し、 その中で一番聴こえやすい音域だけを活かして、その他の聴こえづらい音域は消す。 アナログのレコードがデジタルのCDに変わるようなその提案を、永は丁重に断った。
永「その声は僕らしくない」 「だったら何言ってるかわかんなくていい」
何の言葉を言っているかではなく、その言葉をどのように伝えているのか。 ここに"活字"とは異なる、"音声"の「言葉」に対する永のこだわりがよくみえる。 それを象徴するような一曲がある。
「逢いたい」 作詞・永六輔、作曲・樋口雄右、編曲・久米由基
逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい
逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい
逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい
逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい
逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい ・・・
『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』で人気を博したコーナー 「あの人に逢いたい」で流されていた、ただ「逢いたい」という言葉が72回繰り返される曲。 同じ言葉がイントネーションによって変わり様々な物語を想像させるこの曲を、 言葉がひとつしか出てこないことを理由に、音楽著作権協会は「作詞」とは認めなかった。 2001年出版『永六輔の芸人と遊ぶ』のなかで永六輔は誓っている。 「話し言葉だから伝わるニュアンスが無視される危険性があります。 僕はそれを阻止するためにも、この『逢いたい』の著作権を認めさせてみようと思っています」。
永「ラジオは嘘を付けない」
永から直に聞いた、しゃべりで真実が見抜かれてしまうラジオの恐さを 常に肝にめいじマイクに向かっている芸人に、カンニング竹山がいる。 鈴木おさむが構成&演出を務める竹山の定期単独ライブ『放送���止』。 その2013年版は「お金とは?」をテーマに、1年間365日、毎日違う1人に 「あなたの幸せと思う事に使ってください」と1万円を渡し続ける記録の講演だった。 その中で「1万円渡す時に最も緊張した人」の第1位に挙げていたのが永六輔だった。
1万円を渡すチャンスは『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』。 竹山がゲスト出演した時のCMタイム中の2分間に限られていた。 外山惠理は竹山とは当時放送されていた『ニュース探究ラジオ DIG』で コンビを組んでいるため、最悪フォローには回ってくれる。 だが、スタッフの懸念は、企画の趣旨を永が2分間で理解してくれるかにあった。 しかし、永六輔の反応はそこにいる全員の予想を裏切った。
永「あのねー、それ、おんなじこと、僕やってたよ。昭和30年代終わりか40年代かな。 1年お金配り続けたら面白いねーって言って、1000円配り続けた」
芸人の先輩として竹山の予想を出し抜き、 放送作家の先輩として鈴木おさむを陵駕する反応。 負けず嫌いなところを含めて、永六輔は現役感を剥きだしにして1万円を受け取った。 筆者が観覧した回、当の永六輔が東京・博品館劇場の観覧席にいた。 外山惠理の手を借りそろろそろりと退場していく様子を、観客一同が拝むように見送っていた。
2016年1月31日『ピーコ シャンソン&トーク 我が心の歌』 ゲスト:永六輔(体調がよろしければご出演) 2016年4月17日『松島トモ子コンサート』 ゲスト:永六輔(当日の体調が良ければ出演予定)
いつの頃からか、演芸ライブの会場には、 永六輔の断り書き付きのゲスト出演を知らせるポスターやチラシが目立つようになった。 残念ながらピーコのライブへの永の出演は叶わなかったが、ピーコ自身は、 『土曜ワイド』から引き続き『六輔七転八倒九十分』にもヘビーローテーションで出演。 昨今メディアでよく見る白髪の永によく似合う赤やピンクの服はピーコのチョイスである。 そんな身だしなみも含め、2001年に"妻の大往生"を迎えて以降、永は自分が現場に足を運んで 才能を見出してきた全ての人々から、大きな励ましと恩返しを受けている。
永「髙田(文夫)さんは出来ないの?」
2015年11月9日、松村邦洋がゲスト出演した回、 リスナーからのものまねのリクエストに矢継ぎ早に応えていくなか、 永が唯一自分からリクエストをしたのが、しゃべる放送作家の後輩「髙田文夫」だった。
1947年10月スタートの連合国軍占領下の番組、 音楽バラエティ『日曜娯楽版』(NHKラジオ)にコント台本を投稿した、 中学3年生の永は、高校生から構成作家として制作スタッフとなり、 早稲田大学の学生となってからその中心的メンバーに。三木鶏郎にスカウトされ、 「ト��ローグループ」の一員となり放送作家、司会者として活動を活発化させていった。
1969年から1971年、『パック・イン・ミュージック』の土曜日を担当し、 時に2時間半かけて憲法全文を朗読するなど"攻め"の放送を行っていた永のもとに、 ネタを送り続け採用を重ねていたのが、日本大学芸術学部で落研所属の髙田文夫だった。 ある時意を決し、長文の手紙に「弟子にしてください」と書いて���永に送った髙田。 永からの返事は「私は弟子無し師匠無しでここまで来ました。友達ならなりましょう」。
その20年後、『ビートたけしのオールナイトニッポン』の構成作家を経て、 『ラジオビバリー昼ズ』などで活躍をしている髙田に、永は再び手紙を送る。 「今からでも遅くはありません。弟子になってください」。
そんなパーキンソンの持病と心肺停止の過去を持つ、幻の師匠と弟子は、 2014年1月と9月に『永六輔、髙田文夫 幻の師弟ふたり会 横を向いて歩こう』を開催。 TBSラジオとニッポン放送、両局のリスナーが押し寄せた、 東京・北沢タウンホールの最前列で観たそのトークイベントが、 今のところ筆者が肉眼で観て聴いた、永六輔の最後の記憶である。
それ以前にステージで観たのは、2014年3月21日、東京・赤坂BLITZで開催された、 「我が青春のパック・イン・ミュージック」への特別出演だった。 「当時はまだ"深夜"に"放送"が無いのが当たり前だったから、 "深夜放送"という言葉も日本語として存在しなかった」という発言は、 車椅子に座って語られるからこその歴史の重さと有難みを感じた。
白髪と頭皮が目立つ観客席で40代の筆者が若造になる、 『パック・イン・ミュージック』の歴代パーソナリティが集う同窓会イベント。 晴れやかなステージを見上げながら、観客はそこには立てなかった、他界したDJの顔も 思い浮かべていただろう。野沢那智、河島英五、福田一郎、愛川欽也、そして林美雄...。
1970年〜1974年に放送された『林美雄のパック・イン・ミュージック』。 柳澤健の近著『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』にも 記されている通り、若者たちのカルチャー、アンダーグラウンド文化の担い手となった、 木曜日深夜3時からのその枠は、本来、同期入社のTBSアナウンサー・久米宏に任されていた。 だが、結核により久米は1か月で降板。病気を治して暇を持て余しているところを、 『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』のレポーターに抜擢され人気を獲得した。
"ゲラゲラポー"から"ケンポー"まで。 永の想いを受け継いだ「憲法ダンス」を考案したラッキィ池田の 『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』でのレポートの模範には、 マイクが集音する響きの良い革靴の音を研究し、ヌード撮影現場などの 過激な現場も土曜午後用の生の言葉で伝えてきた、久米宏の高い中継スキルがある。
以降、久米宏は、永が一線を画したテレビを主戦場にしたことが大変重要で、 2年半前、この連載の第1回で『久米宏 ラジオなんですけど』を取り上げたのは、 テレビから還った"ブーメラン・パーソナリティ"としてのラジオでの存在価値からだった。 『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』の直後に始まる番組として、 東日本大震災時、リスナー1人ずつとリレーしながら「見上げてごらん夜の星を」を歌うなど、 毎週リレートークを行う永を敬いながらも刺激を与えてきた。
『六輔七転八倒九十分』でも体調不良から休むことが多くなった永六輔。 たまにスタジオに来たときにサプライズ扱いされることは逆に心苦しかっただろう。 日頃は永が来ないことに不満なリスナーも、久々の精一杯の声を聴いたら聴いたで、 「本当��大丈夫なんですか?」「どうぞ家でゆっくり休んでいてください」と心配にまわる。 その日のニュースや天候よりも、永の体調を確認することが生放送の趣旨になってしまっていた。
永も番組でその名前を挙げたことのある、同じパーキンソン病のモハメド・アリ。 その訃報が伝えられた1週間後、番組のXデーも永の所属事務所からの手紙により伝えられた。
「永六輔は昨年の秋ごろから背中の痛みが強くなり、またその痛みは寝起きする時や 車椅子の乗り降りの際、つまり体を動かす時に特に強く現れていました。(中略) 永六輔本人はリスナーの皆様にまた声をお届けしたいと思っており、日々努力しておりますが、 パーキンソン病ということもあり、十分な体力回復にどのくらいかかるかはまだめどが ついておりません。ここは一旦、自分の名前の付いた番組については締めくくらせて いただいた上で、ぜひまたお耳にかかる機会を得たいと考えている次第です」
返事を書かないのに「お便り待っています」とお願いするのはありえないと、 番組にお便りをくれたリスナーの一人一人に返事を書いていた永六輔。 そんな真摯な気持ちを持つパーソナリティだけに、自分が不在の冠番組の存在は 体の痛みを超えるほど、どれだけ心を痛めるものであっただろうか。
2016年6月27日放送、最終回のスタジオにも永六輔の姿はなかった。 長峰由紀は永から「書けない漢字、読めない漢字を使うな」と叱咤された思い出を話し、 永とは長い付き合いの精神科医で元ザ・フォーク・クルセダーズのきたやまおさむは、 「くやしかったらもう一度出て来いよ!」と戦争を知らない世代の代表として激励した。 そして番組後半、最後の最後にテレビの収録を終えた黒柳徹子が駆け付けた。
2005年9月、『徹子の部屋』(テレ朝系)の収録にペ・ヨンジュンが来たとき、 ゲスト控え室の「ペ・ヨンジュン様 ○○個室」と書いてあるボードを見た徹子は、 「ここのスタジオにいることが分かったら大変!」と名前を「永六輔様」に書き換えた。
対して、永は『誰かとどこかで』の鉄板ネタとして黒柳のエピソードを持っている。 その昔、静岡に行った時、黒柳は駅から見えた綺麗な山を見て地元の人に 「ねえ、あの山、なんて言うんですの? ねえ!ねえ!」と聞いた。聞かれた女性は 本当に可哀想な人を見るような目付きでぼそっと答えたという。「・・・富士山です」。
通算40回。テレビを卒業した永も『徹子の部屋』だけは出続けている。 テレビ・ラジオの創世記から活躍する、そんな関係性の二人だからこそ、 ただ1人だけに向けられたエールを、リスナーも温かく見守ってくれる。
黒柳「永さーん、起きてるー! ラジオって言ったら、永さんしかいないのよー!!」
翌週、2016年7月4日から同枠で新番組が始まった。 『いち・にの三太郎〜赤坂月曜宵の口』。 メインパーソナリティは先週まで永のパートナーとしてしゃべっていた、 毒蝮三太夫の弟子である、株式会社まむしプロ社長の、はぶ三太郎。 その相手役を長峰由紀と外山惠理が交代で出演する、信頼の顔ぶれである。
テーマ曲には永が作詞した「いい湯だな」が使用され、 「六輔語録」というコーナーがTBSに残された永の様々な時代の音源を流す。 もちろん、これが引き継いだ番組としての正しい在り方なのだろう。 だが僕は、思い切って「永六輔」を一旦完全に失くすことも望んでいた。 それが、後ろ盾をなくした自分で切り開くしかない新パーソナリティへの励みにもなり、 自分の声も名前も失われたラジオの存在こそが、永六輔の新しい始まりに繋がるからだ。
かつて『全国こども電話相談室』で小学2年生の女の子に、 「天国に行ったらどうなるんですか?」と聞かれ、永は答えた。 「天国っていいとこらしいよ。だって、行った人が帰ってこないもの」。 確かに晩年までマイクの前に座っていたラジオ界の神様たち、 小沢昭一も、秋山ちえ子も、かわいそうなぞうも天国から帰ってくる気配は来ない。 だからこそ、大往生を遂げる前に、永六輔にはやるべきことがある。
物心がついた子供の頃からラジオで様々な演芸に触れ、 中学時代に投稿し、高校時代から70年間ラジオ制作に関わってきた人間は、 初めてラジオから離れた人生を過ごす今、何を想い、何を感じ、何を考えるのか。 もう一度スタジオに来て、ブースに入り、マイクの前に座り、 それをスピーカーの向こうの、リスナー1人1人に伝える必要がある。
それまでゆっくり待たせてもらおう。 ただ情けないことに、リスナーの僕たちは それが叶っても叶わなくても、目からこぼれてしまうのだろう。 例え、上を向いて歩いても、きっと涙がこぼれてしまうのだろう。
『水道橋博士のメルマ旬報』
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映画「ら」のメモ
▼公開時に観ようと思っていたものの、時間がとれず観れなかった。が、DVD化されていたのを知りようやく鑑賞。
▼監督の水井真希さん自身に起きた拉致強姦(未遂?)体験を元にした”リアルな“ 描写と、絵本のようなファンタジックな描写が入り混じる不思議な映画だった。
▼タイトルの「ら」とは、「拉致」の「拉」のこと。先述したとおり、映画は、監督の実体験を元にしつつ、認知件数年間8000件(認知されていないものを含めるとその7~10倍)ともいわれる拉致強姦に潜む「ある構造」を浮かびあがらせる。
▼映画では、道行く女性を次々と襲う拉致強姦犯の男と、彼に狙われた4人の女性(と、男の彼女らしき女性1人)の姿を描き出す。
▼中でも、監督自身の体験に基づいているとおぼしき1人目の女性「まゆか」と強姦魔とのやり取りには、通常「拉致強姦」と聞いて思い浮かべるイメージを覆す、不思議なリアリティがある。
▼ある夜、焼き肉屋でのバイトを終え、家路を急ぐ女子大生?まゆか。
▼そんな彼女の背後から突然、ナイフを突きつける男。
▼「待って。咳が。待って。髪の毛痛いです…」というまゆかの言葉も聞かず、手足や顔面にガムテを巻き付けていく男…そして、車に拉致され…
▼通常ならば、ここでまゆかは哀れにも服を破られ、無理やりのしかかられて…という展開になりそうだが(実際2番目の女性の時はそんな展開になっている)…そうなっていかな��…
▼「う…気持ち悪いです」「え?吐くの?吐くんならバッグの中で吐けよ」…と、期せずして強姦魔をひるませたかと思えば、「車の運転好きなんですか?運転うまい人好きなんですよ」などと、世間話に持ち込み男の欲望をクールダウンさせていく…しまいには、「お友達になろうよ。なれば警察いかないから。」「何かすれば恥ずかしくて警察に行けないだろ?」「恥ずかしくない。ここで舌を噛み切って死ぬ。」「…」と、まゆかの方が会話のマウントを取る場面すらやってくるのだから…
▼予想を覆す展開の連続。とりわけ、「なんか話してくれよ」と、強姦男に言われ必死にトークを盛り上げようとするまゆかのくだりは、コントのようで不謹慎にも思わず笑ってしまう。
▼ま「あの、さっきDVD観るって言ってたじゃないですか?どんなジャンルを?」
▼男「何でもみるよ。」
▼ま「ほんとですか?私も映画みるのが、嫌いじゃないっていうか、むしろ好きなんですよ。だからおすすめとかあるのかな?って思って。」
▼男「いや、買っては観ないから。ネットで落ちてるやつだから。タイトルとかはわからない。」
▼ま「…ああ…あ…じゃあ、アイドルとかは興味ないんですか?Nガールズとか。」
▼男「ああ、体は最高だよね。」
▼ま「……でも、知ってるんですよね?ミドリはどうですか?ダンスうまくないですか?」
▼男「ああ、ケツがエロいよね。」
▼ま「…いや…そこは…あんまみてないっていうか…。」
▼男「生でやらせてくれそう。」
▼ま「…わかんないですよ、そんなのは。」
▼「買っては観ないから」には笑ってしまった。「いや、分かるけど。FC2とか分かるけども。かつ、それってたぶん映画じゃないよね」と。…貧しい。もういろんな面で絶望的に貧しい(笑)。そして、あまりに「氷点下の会話」すぎて「切なおかしい」…
▼さらには…
▼突如、カッターを出し、まゆかの手に巻かれたガムテを切ってやろうとする男。だが、彼女の手首をみると、なんと、リストカットの跡が…。すると…
▼男「何してんだよ。」
▼ま「・・・自分で切ったの。」
▼男「何してんだよぉ。ちゃんと自分のこと大切にしなきゃ。」
▼ま「でも、最近は切ってないよ。」…それを聞いた男は、まゆかを抱きしめる…
▼「『自分のこと大切に』とかどの口で言うとんねん!というか、もうなんやねん!この流れ!」と、腹をかかえてしまう(笑)
▼こうした「笑ってしまうほどのリアル」には強く惹かれる。こう書くと不謹慎にみえるかもしれないが、リアルとはこちらの予期や先入観を覆すものであり、だからこそ不意を突かれて笑ってしまう。
▼また、笑ってしまう場面以外でも、男の機嫌をとるため言っているのか、少し彼の言動に共感してしまっているのか、それとも、その両方なのか…観てる側にも、そしておそらく本人も分からなくなる状況が幾度も描かれており、これまたリアルに感じる。
▼そして、そんな「ゆらぎ」や「乱数」に満ちたコミュニケーションの果てに、強姦男がまるで母親に抱き着く少年のように、まゆかに覆いかぶさり、それに彼女が背中を「ポンポン」して応じる…という、「そんなバカな」と思わせつつも「こういうことが、ひょっとしたらありうるかもしれない」とも思わせる光景が繰り広げられ…
▼最後には、なんにもされずに、家の近くまで強姦魔に車で送ってもらうという「レイプ映画」史上前代未聞の超展開へと結実する…
▼だからといって「拉致強姦といってもうまくやれば切り抜けられますよ」ということを描きたいワケではないだろう。
▼実際、この後、男は近所に住む祖父に弁当を届けに行った帰りの女子高生を拉致するや、強姦。コトが終わった後も、車のシートを血で汚したといって逆上し、女子高生を再度強姦…と、むごたらしい光景が描き出され…
▼その次の女性には、声をかけるや「気安く触んないでくれる。というか話しかけないでくれる。キモいんですけど!」と、超絶塩対応を受けるものの、その腹いせというべきか、4人目の女性の帰宅を待ち伏せし、カッターで顔中を切りつけるなど残虐なシーンが続いていく…
▼では、こうして次々と男に狙われていく女性たちを描くことで何を浮き彫りにしたかったのか?それは、いわば「”ら”を巡るロシアンルーレット」とでも名付けるべき構造についてだと思う。
▼映画では、強姦されることなく、車から降ろしてもらったまゆかの「その後」が描き出される。過ぎ去っていく車をみながら、すかさずナンバーを控えるまゆか。
▼そして、アパートに戻り、すぐに警察に電話。だが、警察はまじめにとりあってくれない。ここで強く言うべきだったが…自分が助かった時点で「あの強姦魔を許さない」という気持ちが薄れてしまっていたようで、諦めて電話を切ってしまう。
▼そのことが塩対応による未遂を含み、第二、第三…の女子暴行被害を生んでいく。
▼後に、彼が逮捕されたことを報道で知り、強姦魔による連続婦女暴行事件の裁判記録を取り寄せるまゆか…
▼「塩対応による未遂」から「むごたらしい拉致強姦」まで…映画を観るうち、「ここまではナンパ」で「ここからはヤバい」と線を引くことが難しく感じるようになっていく。
▼「拉致」には至っていなくても、いわば「ら」の状態のものが女子(男子)が生きる中でそこここに潜み、それがコミュニケーションや関係性のわずかな「ゆらぎ」や「乱数」を介し「拉致ー強姦」につながったり、つながらなかったりしているだけ…
▼さらに、自分が「拉致」に至らなかったことが、別の女性の「拉致ー強姦」可能性を、高めることにつながってしまう。
▼あたかも、ロシアンルーレットで自分が「空弾」だったことが、次の人の「実弾」可能性を高めてしまうように…映画はそんな世界観を映し出す。
▼とはいえ、こういう書き方をすると「いや、まゆかがちゃんと通報すればよかっただけで、そんな大げさな構造などないのでは?」と、疑問を抱く人もいるだろうが、そのことについては後述する。
▼そして、この難儀な構造が浮き彫りにされた後、映画は、絵本のようにファンタジックなシークエンスへと移っていく。
▼ただ最初に言っておけば、ここから先のくだりは「いかにもな寓話」という感じがしてあまり評価はしていない。
▼とはいうものの、この描写を通じ、何が言いたいかを探っておこう。
▼強姦男の裁判記録を見ながら、自分以外の女性たちが陥ったであろう光景を「我がことのように」想像するまゆか(実際、想像上で犯されたり、傷つけられたりしている女性の顔は、まゆかの顔になっている)。
▼そして気づけば森の中で倒れていた…。彼女の心の中の光景なのだろう。
▼足をみると、木の枝が太ももに深く刺さっている。激痛を感じながら枝を引き抜くまゆか。すると、足が治るどころか、傷口が拡大。血の斑点のようなものが太もも中に広がっていく…
▼おそらく、「”ら”を巡るロシアンルーレット的構造」に思いが至った後では、「自分が受けた心の傷から癒えること事体が罪になる」ということだろう。
▼自分が「空弾」だったことが、他の女性の「実弾」可能性を上げてしまったのだから、そこから癒えることは、他の女性の強姦可能性を上げてしまった罪から逃げることになってしまう、と。
▼その後、森の中をはい回りながら、救いを���めるように美しい花に手を伸ばすまゆか。だが、花に触れるや、それは熱を帯び始め彼女の手を焼き尽くさんとする。「ううっっっ」…
▼さらに、ふとみれば、まゆかが警察に通報しなかったせいで、餌食になってしまった3人の女性達の姿が。「あなたが捕まえていればこんな目に遭わずにすんだのに…」…女子たちの糾弾を受け、何度も土下座し、手首を切るまゆか。(注1)
▼そんな彼女の姿を離れた場所から無言でみている者が。タキシード姿のフクロウだ。苦しみにもだえるまゆかを、ただただ見つめているだけのフクロウ。
▼そんな彼女をよそに、人型の人形に食らいつくドラキュラのような男の姿が映し出される。みれば、まゆかたちを苦しめたあの強姦魔。
▼目の前に展開する光景に耐えられず「助けてよ」と叫ぶまゆか…すると、フクロウ��言う。「あなたは何にも悪くない。」
▼それを受け、人を喰らうドラキュラを刺し殺そうとしていたまゆかは、殺しを思いとどまる。
▼これは一体何なのか?このフクロウは何者なのか?「あなたは悪くない」とはどういうことか?そして、なぜまゆかは憎い強姦魔の殺害を思いとどまったのか?
▼映画の中でたびたび映し出される雲に隠れていく夕暮れの太陽、そして夕暮れの後上る月は…「ミネルヴァのフクロウは迫り来る黄昏に飛ぶ」を想起させる。
▼物事の本当の意味は、それが終わった後でようやくその姿を見せ始める…
▼4人の女性が狙われた後で浮かび上がった「”ら”を巡るロシアンルーレット」。それは、3人の女性がまゆかに糾弾したように「あの時あなたが捕まえていれば」止められた…というものではない。
▼こんなことを書けばバカにみえるかもしれないが、たとえば大澤真幸氏は言う。
「たとえば、いちいち『ここを触ってほしい』と頼んだり、『ここを触ってもよいかい』などと確認しながらなされるセックスを想像してみるならば、それは、レイプとあまり変わらないくらいに冒瀆的で、おぞましいだろう。それは、他者の身体を道具として用いた、マスターベーションにほかならないからだ」(『自由の牢獄』)
▼恋愛が他者本人すらも知り尽くしていない「他者の他者性」に触れることだとすれば(他者の全体を肯定することだとすれば)、そこにたどり着くには「他者の同意」をいくばくか超える必要がある(「嫌よ嫌よも好きのうち」という言葉はいかにもアホっぽいが一抹の真理を含むことになる)。
▼極論すれば恋愛にも拉致強姦的要素があるということだ(だからといって「恋愛もアウト」とか逆に、「強姦だって恋愛みたいなものだからいいだろ」、とかが言いたいわけではない)。
▼だとすれば、人間が性愛関係を生きる以上、「本人の意に沿わない他者の行為が帯びる暴力性」を指す「ら」は、性愛的コミュニケーションの「そこここ」に潜んでいることになる。
▼そうである以上、事はまゆかが、どうしたか?/しなかったか?で型が付くことで���ない。その意味では「あなたが悪いわけではない」。
▼そして、ドラキュラ強姦魔を刺したところで片付く問題でもない。
▼この構造を、知恵を使って把握することが大切なのだ、と(フクロウは知恵の象徴)。
▼それは確かにそうだ。けれど、それで終わるのか。その構造さえ知っていれば自分が「ら」から逃れたことが、他の女性たちの「ら」につながった…ことの罪から逃れられるのか?
▼映画のラスト。川辺の土手を歩くまゆかの姿。足は傷もなくキレイになっている…、だが「傷がない」とホッとしたその瞬間…また、足に血の斑点がにじみ始める。そして、再びあの森の中へ…。絶望のあまり過呼吸になってしまうまゆか。その苦しそうな声が森中に響き渡る中、映画は幕を閉じる…
▼「命の危機」だとして、もっと息を吸うよう指令を出す「頭」と、急にどっと入ってきた酸素に対応ができない「体」が引き起こす「過呼吸」。
▼それは、「自分の行動で型が付く問題ではない」ことを知る頭と、それでも「傷から癒える」ことは罪だとしてそれに抵抗する体が引き起こす「頭」と「体」の分裂とパラレルだ。
▼この「頭」と「体」の分裂はどうすれば一致させられるのか?いや、一致させるべきなのか?
▼「リストカット」を主題に、「心」と「体」の不一致を描こうとする水井監督の次回作に、その答えを探してみたい。(http://bylines.news.yahoo.co.jp/ogawatamaka/20150407-00044611/など参照)
▼(注1)
■そうはいっても、この映画で言いたかったことは、被害に遭った後、「泣き寝入り」してしまうことは、第二第三の被害を防がないのと同じで罪である…ということだろう。
■ただ、そういう高校生の作文のような主張をするために映画を作ったのだとしたら物足りない。だから、もう少し先を考えたくて上記のものを書いた。
■しかし、このことについて考えておくことも必要だろう。
■「自分が屈辱的な拉致強姦被害に遭った後、それを放置しておけばさらに被害が拡大する」とは、どんな被害者だって「頭では」分かっているだろう。ただ、それを実行に移そうとすると、屈辱を受けたトラウマで「体が動かない」…
■この時、「そうは言っても被害の拡大を防ぐために立ち上がるべきだ」と、いわば①「頭」に「体」を合わせるべきか?それとも「被害を受けたうえに、それを公にすることで二重の恥辱を受けずともよい」と、②「体」に「頭」を合わせるべきか?
■「頭」と「体」の分裂が引き起こす「過呼吸」をどうするか?が問題になる。
■簡単に答えはでないだろうが、被害を受けた後、名乗り出ないのは「②の選択をした」と決めずに「“まだ”名乗りでないだけなのだ」と考えたらどうだろうか。「立ち上がるポテンシャル」は残されているが、今はまだそれが行使されていないだけなのだ、と。時間の要素を差し込むことで、分裂を無理やりどちらかに吸収してしまわないこと。
■もちろん、その間にも被害は拡大してしまう。ただ、そこは罰則の強化による抑止など���の対処で考えるべきじゃないか。
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