#映画 感想
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SALAAR/サラール(Salaar:Part 1 Ceasefire)見た〜。
ちょっと展開がもたついてる感じはあったけど、画面にケレン味と勢いがあって、テルグ映画らしくて面白かったです。歌も結構良かったけど、ちょっと覚えにくいかな?踊りも全くなかったし、もうプラバースは踊る気ないのかしら。
元になった監督の過去作であるカンナダ映画とは違って?友情が軸になるのでお相手のヴァラダも重要な役回りだけど、演じるプリトヴィくんはなかなか渋い良い感じの役者さんで良かったな〜。プラバース演じるデーヴァは可愛らしさをもうちょっと見たい…て感じですが、悪鬼(ラクシャサ)のような立ち回りが厄災て感じで良かった。しかしこの展開だとそのままの印象では支障が出そうな気がする…。次回はどうなるのかな〜。ボビーシンハー含め、脇役も味があって良かったです。
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入学は卒業のはじまり
先輩と呼ばれる前のみつあみをゆらして風は画面の外へ
ターコイズブルーの靴底 踊り場の端に予鈴がパタパタ積もる
俯瞰するチョークが波を書いていく 光は直進して戻らない
カーテンを引いて昼間の教室に投影される惑星軌道
本棚のカニぬいぐるみ持ち上げてしばらく読んでないマンガ貸す
寄宿舎の棚から私の棚になり誰かの棚へ 三年周期
図書室の地球儀掃除するときの世界でいちばん大きな私
文化祭の青い看板描きあげて自分の名前を知らない少女
3-AのクラTを脱いだ級友を見上げる眩しさ 手拍子爆ぜて
遠くから見たとき光に青春と名前をつければ灯るスクリーン
膝丈に記憶混じりの制服のスカート揺れて旧友笑う
音漏れを背後に聴いて師は回る 観測されない惑いの軌道
まなざしはくるくる混ざる 少女からかつては少女だった全てへ
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チケット・トゥ・パラダイス
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お気楽エンジン全開両親からこんなに賢い娘がよく生まれたものよ……
「子供の心配するふりして昔の自分に忠告してるだけ」って金言だなと思った。面白かった!し、我が身を振り返させられる映画だった。
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お気に入りのお皿に、ひとくちゼリー。
子どもの頃に実家で見かけたような、淡い花柄。
どこか懐かしさを感じるようなお皿が好きだ。
アマプラで『aftersun (アフターサン)』を観ました。
思い出という名の小箱を開けて、昔の出来事や映像を
なぞる時。当時は気が付かなかったけれど、今になって
「ああ、そうだったか」という気づきを得ることがある。
明るい光の中に潜む、青みを帯びたような思いの数々。
もはや取り返しのつかないものたちを、手のひらにのせて
包みたくなるような、そんな映画でした。
暦の上ではもう秋だけど、まだ残暑は続きそう。
沢山食べて、頑張りましょう。
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映画を観に行こう、と思いつく
仕事終わりの時間なら、料金も安いしね
選択肢はふたつ。韓国の『不思議の国の数学者』か、モンゴルの『セールスガールの考現学』か。
数学という響きに弱くて、数学が絡むと大体選んでしまう私だけど、モンゴルの映画ってなかなか観る機会ないし(ってか初めて!)…。
だいぶ迷って、モンゴルを初体験
**************
『セールスガールの考現学』
モンゴルという国のこと、本当に知らない。
けれど、映画が始まって、驚いた。
あまりにも違和感なく映画の世界に入れたから。
出てくる人たちの顔だち、街の様子、��語の展開…
あらら。
変わらないよ。
日本で暮らしていて、地方によってある違い、その程度の違いくらい。
あらすじは、主人公の女子大生がアダルトグッズのお店で
バイトを始めて。
毎日、その日の売り上げを店のオーナーさんに届ける。
オーナーさんと言葉を交わすことも増え
食事に連れていってもらったり
ドライブにでかけたり。
経験豊富そうなオーナーさんの
人生のウンチクをきいたり…
年齢差のある同性の友だちっていいなぁ
なんて思うけど、
誤解があって、
主人公はバイトを辞めてしまう…
けれど、
バイト以前の
なんだか冴えない表情で過ごしていた主人公が
オーナーとの出逢い以後、
自分のやりたいことに向かって動きだす
爽やかな感じのいい映画でした
何より、映画で使われていた音楽がよかった。
モンゴルのアーティストさんだけど、
いい感じの声、曲♪
モンゴルの映画、音楽と出逢えて
すごく嬉しいなぁ
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『マッドマックス:フュリオサ』を観てきました
ヒャッハーーーー!!!観てまいりましたよ『マッドマックス:フュリオサ』をwith姉!!マジありがとうジョージ・ミラー監督。
余談ですが退館後高架下にある自転車置き場に行ったら橋脚にスプレーでこんな落書きがしてあって姉と「いやちょっと待てwww!!!」と大笑いしました。こんな落書きです↓
もしかして名古屋、はぐれウォーボーイズおるか(撮影して載せたかったのですが人目を気にしてしまいました。撮るべきだった……)???
映画の感想はというと……激熱でしたね。色々語りたいことがありすぎて逆に語れないのと、本当は日付を超えてでも視聴したその日である昨日に書くべきだったのですが寝落ちして記憶が少し飛んでいます(最悪)。本当すいません!6/30に書くべきでした本当に!!
ここから先、がっつりネタバレを含みますのでご注意ください。
☆前作のオマージュ
今作は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(以下MMFR)の続編であり、大隊長・フュリオサの若き日を描いた前日譚でもあります。今作だけいきなり観に行るのは、個人的にはあまりお勧めしません。恐らく世界観等が理解しづらいであろうことと、純粋に前作視聴後に観た方が間違いなく楽しいであろうことからです。ネトフリのリンクを貼るので俺を見ろ!!
頭蓋骨から蜥蜴が這い出てきた瞬間「これは……!!」と思ったら期待通りの展開(※別に蜥蜴が嫌いで死んでほしいとかではない)になったのでにっこりです。そして【俺を見ろ特攻】も!やはりマッドマックスと言ったらウォーボーイズによる高空からの自爆特攻ですよね(※すいません当方シリーズ中2作しか鑑賞しておりません)!今作は前作以上に"高さ"を感じられる演出が多く、思わずアガりました。
あと生体メカニックの彼は最初はディメンタス軍団所属だったんですね……。
☆ラストについて
ラストでフュリオサがディメンタスを鎖で拘束した時、私はてっきりフュリオサは意趣返しとしてジャックがされたことをするのだとばかり思っておりましたが、全然違いましたね。まぁバイクで引きずり回すのと車で引きずり回すのは手応えが全然異なるでしょうしね……。ディメンタスによるフュリオサへのご高説、まーーー鬱陶しいこと笑!!その場で殺さなかったフュリオサの忍耐強さと執念よ……。
その後いきなりお笑い漫画道場で富永一郎が描きそうなカット(今時の若者が絶対分からない比喩やめろ)が出てきて私はかなり動揺したんですが、周囲の誰もが特に反応していなかったのでますます動揺しました。え、あれ笑っていい場面じゃないんですか!?不意打ちであの絵面出てきたら絶対笑うんだが!?
……真面目に書きますと、フュリオサから日常を、母を、恋人を奪った挙句彼女の希望を否定しひたすらに絶望しかないと唱え続けた男が最後(最期?)「希望(※)」の苗床として生かされる痛快なオチに感動しましたね。林檎又はそれに似た果実を取りに行った結果彼女は攫われディメンタスとその一味に目の前で母を殺されたのですが、最後は彼女がディメンタスを果実のなる樹の苗床として利用し、いずれ母となるであろう前作でいう「子産み女」の女性達に実を分け与えるのです。ディメンタスはフュリオサに最早希望などないと散々喚き散らしておりましたが、前作……時系列���は後日なんですが(ややこしいな)、フュリオサは自身と同じように攫われ砦(シタデル)へ連れてこられた、或いはそこで生まれ育った子産み女達を解放し、自身の生まれ育った「実りの大地」へ戻る為にウォー・タンクを率いて離反します。これは彼女の中に希望が残っていたからこそ成せたことでしょう……ディメンタスの完全なる敗北ですね。実りの為に母を殺した男の最後が母(子産み女)の為の実りを生み出す苗床なんて、流れが美しすぎますよ。 ※個人的な解釈ですが最後に出てくる林檎の果実は母を失い絶望を味わったフュリオサが地獄の日々を乗り越えた果てに母(子産み女)を守る為に育てている希望の象徴みたいなものかな、と勝手に思っています
※林檎の実についての興味深い資料がありましたのでよろしければどうぞ 出典:敬和学園大学
「表象としてのりんご 」
☆イモータン・ジョー
以下イモータンと表記します。ディメンタスが言ったように、彼の行いは「搾取と奴隷労働」ではありますが、ディメンタスと異なり余興や見世物の様に仲間の命を奪ったりすることは決してありませんし、何なら前作で描かれていたように水もちゃんと分け与えています。もっといい配り方してやれよとも思いますが
ノブレス・オブ・リージュ……ではないのですが、支配者としてきちんと統治してはいるんですよね、イモータンは。実際ガスタウンや弾薬畑も施設としてかなり立派でしたし、だからこそあそこまでウォーボーイズ達に盲信されているのでしょうね。なんだかんだでディメンタスの煽りを受けても乗っからずにうまく返して撤退させていましたし、終盤の再襲撃に逸る配下達の意見ではなくフュリオサの案を採用しましたし、状況判断に長けていますよね……うっかり装置の誤作動で殺す予定ではなかった人質を殺めてしまったディメンタスとはわけが違いまさぁよ!!
ディメンタス軍団は全員ガチムチ!殺し合い上等!な感じでしたが(冒頭でバイク軍団に選ばれた女性、終盤まで終始前線で奮闘していてすごかったですね)、イモータン達やシタデルにいる人間達はディメンタス軍団の様に元気な体!って感じではないんですよね。MMFRで水の配給を待っていた人達は高齢者や体のどこかに障害や疾病を抱えている(ように見える)人達ばかりでした。リクタスは大型で筋肉質で肉体こそ元気ですが知能がちょっと怪しいですし、スクロータスは顔つきが一般的な人間とはやや異なっており皮膚が独特の様相を呈しています。ウォーボーイズは短命ですし、その中でもボミーノッカー係だった赤ちゃんは完全に奇形児でしたしね……これ、もしかしたらディメンタス軍団は肉体が健康でない者はもしかしたら処刑なり何かしらの手段で選別されている可能性も出てきましたよ……ざわ……ざわ……。もしかしたら流れてきた"そういう者達"を、シタデルが受け入れているのかもしれません。知らんけど
……こう書くとイモータンがまるで人格者のように思えてきますが、ディメンタスよりはマシというだけであって別にいい人ではないので気を付けてください!本当に!!
☆フュリオサ
シャーリーズ・セロンに較べるとどうしても華奢さが目立つアニャ・テイラー=ジョイですが、悪くはなかったのではないでしょうか。フュリオサ、ここからMMFRの間に体躯をめっちゃマッチョに鍛えたのかもしれませんしね!
☆ディメンタス
お前の事誰が好きなん?
いやーーー本当にこいつは……こいつは本当に……キャスティング良すぎィ~~!!クリヘムことクリストファー・ヘムズワースを持ってきた人にもうあげちゃうわッ…あたしの銀のスプレー!
ガタイのいい俳優は履いて捨てるほどいますが、ディメンタスという悪辣で愚かで豪快な脳筋人格破綻者を演じるにはクリヘムのそこはかとなく漂う陽キャ感が必要だったように感じます。もしこれがステイサムだったら首尾一貫スマートに片づけそうな気がしません?少なくとも乳首を吹き飛ばすような真似はしないでしょう
あの腰につけているぬいぐるみは息子の形見と言っていましたがあれ本当なんですかね。本当のような、攫ってきたばかりのフュリオサに心を開かせるためについたその場しのぎの出まかせのような……うーん。
ディメンタスは随所に余り賢くない描写が挟まれており、「シタデル」と聞いて「何デル?」みたいなことを言う、乳首を吹き飛ばす、生き字引として常に「賢者」を伴っている、はぐれウォーボーイズの発煙筒を自分で被る、等。もし彼が賢かったならきっとフュリオサを傷つけることなくうまく彼女のいた土地を陥落できたのでしょうが、彼は暴力と殺戮と支配を選んでしまったので、結果的に実りの大地への道は閉ざされてしまったわけです。有能な№2でもいたらきっともっとうまく様々な土地を手中に収められたのでしょうが、彼の周りにいるのは支配によってイエスマンと成り果てた者ばかりでしたね……その点イモータンは一応人食い男爵達に(採用するかは置いておいて)発言権は与えていたりするので、やはり格が違うんですよねぇ。仲間をウォーボーイズに仕立て突撃するために撃ち殺したり、或いは死体を自らの身を守るための盾として使ったり、気に入らないものは首を吊らせたり……この点でも、喜んで自ら命を捨てるウォーボーイズの育成に成功しているイモータントの対比を感じます。小物感!
すいません眠くてまともな文章が書けなくなってきてしまったため、ここらでクローズといたします。ジャックについても書きたかったのですが……。海外版山田孝之!なルックスで「あんまりシュッとした感じの人じゃないな」などと思っていたら処刑シーンでブタ野郎呼ばわりされていてちょっと申し訳ない気持ちになりました(最悪)。しかし本当にあの処刑シーンは余りにも人の心がなかったですね。邦画だったら逃げ切りそうなところを……。
最近ちゃんとした長文を書けていない為、リハビリ目的で頑張りましたが全然ダメでした、さーせん!でも映画はめっちゃよかったです!!!
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映画感想『鈴木さん』
2022年、日本。 公式サイト https://suzukisan-movie.com/
!トリガーワーニング:視聴上の注意 エイジズム(年齢差別)、戦争・徴兵、暴力(個人、権力によるものなど)、死、望まない結婚、ワンオペ労働、感情の揺さぶり など
【あらすじ】 現神「カミサマ」が見守る架空の美しい国(どこでしょうねぇ)のとある地方を舞台にしたディストピア映画。いとうあさこさん演じる「ヨシコ」はもうすぐ45歳になろうとしている。45歳で独身のままだとに市民権を失う「美しい国を守る法」が彼女に迫る。ヨシコは誰かと「結婚」するか「市民権を失うか」それとも「徴兵」されるか、迫られる中で友人は徴兵を決め、彼女が務める(というか守っている)高齢女性ばかりのケアホームでは結婚をせっつかれ、世間ではスパイ狩りと称して市民権を失った人々が狩られ始め…。
映画を見たのは約半年前、しかし、感想を書くのが今になったのはこの映画が持つメッセージを強く受け取ってしまい、感情が複雑に絡まった紐のようになって、解けず落ち着けたのが今だからです。 作品全体には技術や予算の不足(公式にある監督のコメントによると、撮影から公開までの間に新型コロナがあったようで…、その混乱ももしかしたらあるかもしれない)によるであろうと思われる未熟さも見えるのですが、社会的意義が大きく、無視できない作品だと思います。こうした未来が「在り得る」かもしれないと私はうけとめています。
!以下は大きなネタバレを含みます。
過去、浅倉南(38独身)と年齢と結婚を揶揄したネタで大うけした、いとうあさこさんが『鈴木さん』を引き受け、年齢で追い詰められる役を演じた。年齢を重ねた時、若さとの狭間に悩み開き直ることも、多分、裏で死ぬほど悩んでいることもあるであろうヨシコのような部分も、どちらも現在進行形で表現という分野でやり切っているいとうあさこさんの全力さを改めて応援したくなります。
映画で描かれている独身徴兵制は可能性が残されていると思いますし、結婚を始め、子どもを産まない(産めない)女性に対する社会的圧力は現在でも様々な国・地域で大きくあります。 子どもを産み育てるのには労力がかかりますが、相対的貧困(飢えるほどではないけれども、生きるのに必要な道具が購入できない状態)は高い状態にあり、「子育て罰(チャイルドペナルティ)」「母親ペナルティ」という言葉が聞かれるようになりました。男女の賃金格���について指摘しているのが昨年ノーベル経済学賞を受賞したクラウディア・ゴールディンさんです。
・相対的貧困について 朝日新聞/SDG’s ACTION 「相対的貧困とは? 定義と現状、解決につながる対策を紹介」 https://www.asahi.com/sdgs/article/14844785 ■結婚・出産に対する圧力 生活ニュースコモンズ:シリーズ都知事選「小池都政チェック」 官製婚活の行き着く先は 1996年に廃止されていた「東京都結婚相談所」 https://s-newscommons.com/article/3074 Choose life project:【 #Choose大学 】7月 公共政策と公共性-官製婚活から考える-第1回 「官製婚活」って何? 講師:斉藤正美(社会学者•富山大学) https://youtu.be/qCUGSpQY34s?si=afHWXItO-vKBwNgX (※Choose life projectは立憲民主党から応援資金を貰っていたことが問題となりました。この点は指摘しなければなりませんが、富山大学の斎藤正美教授の授業を始めとした特に日本で受けにくい人権に関する教育について授業を無償で受けられるChoose大学は良いプロジェクトだと思いますし、官製婚活についての問題について考える良い動画だと思うのでオススメします) ・朝日新聞デジタル:「子どもの少ない人は反省を」 笹川尭元総務会長が自民会合で発言 https://www.asahi.com/articles/ASS772JH1S77UTFK00GM.html ・東京新聞:「女性と出産」またぞろ問題発言…政治家はなぜ懲りない? SNSでは論点をすり替えてまで擁護に走る動き https://www.tokyo-np.co.jp/article/328775 ・毎日新聞:「またか」…政治家「出産」巡る発言 麻生氏「産まないほうが問題 https://mainichi.jp/articles/20190204/k00/00m/010/254000c ・朝日新聞:女性都議へのヤジ問題 https://www.asahi.com/topics/word/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E9%83%BD%E8%AD%B0%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%83%A4%E3%82%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C.html ・PRESIDENT ONLINE:塩村文夏都議。セクハラやじ騒動、初めて明かす顛末(ヤジを受けた塩村議員本人による記事) https://president.jp/articles/-/13782?page=1 ・ANN NewsCH:セクハラやじ発言で鈴木都議が塩村都議に直接謝罪(14/06/23) https://www.youtube.com/watch?v=FhvLtuMacMw 10年前からこんなニュースがありました。
調べてわかりやすいものだけでも載せましたが、こうした「産め」という圧力はずっと続けられています。アメリカ大統領選に名乗り出たカマラ・ハリスにさえあります。一応補足として、彼女はステップ・マザーです。
・在日米国大使館と領事館:カマラ・ハリス https://jp.usembassy.gov/ja/bio-vice-president-harris-ja/ ・BBC:【米大統領選2024】ヴァンス副大統領候補「子供のいない猫おばさん」批判を説明 発言への非難受け https://www.bbc.com/japanese/articles/c3gvy7ky327o
その圧力が如実になった架空の国(どこなんでしょう)で、独身であるヨシコは選択を迫られる。友人が徴兵を選び、後に戦死して帰って来たことからこの架空国は静かに戦争が続いているのだとわかる。ヨシコは上からも下からもせっつかれる。ヨシコが徴兵か市民権を失えば、ケアホームがどうなるかさえわからない。ここに高齢女性たちのずる賢さがある。
そんなヨシコの前に「鈴木さん」という一人の男性が現れる。ヨシコは彼と「結婚する」と宣言することで市民権剥奪と徴兵から免れる。映画中では書かれていないか、私が気付かなかったのかもしれませんが、同性婚は認められていない世界だと思います。この架空国家では、徴兵制を逃れるための偽装的結婚は異性愛者にだけ認められている権利であるというのも指摘できます。どっかの国に似てますね。
この映画に対してこうした方が良いのではないかな、という思いが幾つかあって、一つは、老人と若者を悪しく描きすぎている部分。 私は新しい世代の若者たちは自分よりもはるかに賢いと思っている。環境問題と密接にかかわる(産まれた瞬間から酷暑や逃れられない温暖化と共にある)と思っているし、流行の変化も速いし、大学費用の値上がりの話題もあって、のほほんと過ごしていられない。 高齢女性たちはヨシコに世話になりつつ、ヨシコを追い詰める存在として描かれる。先ほど「高齢女性たちのずる賢さ」と書いたけれど、彼女たちはヨシコがいなくなればケアホームが無くなることにも気づいているから、ヨシコを留めたいという思いがあるのではないかと感じたからだ。裏を返すと、彼女たちはヨシコがいなくなれば住む場所が無くなる。彼女たちにはヨシコに結婚して“もらう”しか選択肢がなかったのである。 もう一つ、現神である「カミサマ」の写真をもっとあちこちにベタベタ張った方がよかったのではないかと思った。ただ、それだとエンディングに繋げるのが難しいと思うので、この辺は悩ましい。
スパイ狩りが始まるシーンから最期、鈴木さんが化粧をしてボロボロのスーツを纏い、「私は神様です」と宣言しながらも村人に撃たれるシーンはここ数年(性表現に関しては苦言もありますが)名作とされる『福田村事件』と重なる瞬間がありました。テーマとしては通底して同じだろうと思います。結局鈴木さんが何者だったのかは明かされないのですが、彼は「番号を持っていない」(日本人としての国籍を有していない)と言うことを思えば、暗に…ということ��。それは観る人の感想にも���るのでしょうが。
最期のシーンは鈴木さん一人が全てを引き受けようとしてしまうという君主国家の問題にも見えるし、何事も一人で引き受け、解決しようとする男性社会の限界にも見えた。恐らくそれは私がフェミニズムに関する本を読み、フェミニズムに関する批評文などを眺めているからだろうと思うけれど、鈴木さんの行動でヨシコがある意味「延命する」ように見えるのだが、延命しているだけで、ヨシコに纏わりつく根っこの問題の解決になっているとはいえない。それどころか、鈴木さんを失ったことで、ヨシコはまた市民権の問題を抱えるのかもしれない。 そして、国によって植え付けられた市民が持つ「差別の種」が国を崩壊させていくだろう。
そうした意味でやはり、この『鈴木さん』という映画はフッとどこか現実と重なって、架空の国家ではない今とリンクする瞬間がある。もう一度いうけれど、私は独身徴兵制が遠くて近い未来の話としてあり得ると思っているし、それが実現する国であってほしいと思わない。同じ焦りをこの映画から感じた。この映画に映し出される様々な問題、どれかから似たような焦りを感じる人もいると思う。 その焦りには政治的な無関心に原因があるのだと思う。選挙の権利があるうちに使おう。そしてせめて、映画を観た人の間でそれを共有しよう。
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考えてみる、サバイバル
今年は元日に突然携帯の地震を知らせるアラームが鳴り出し、ギョッとなった。まもなく、能登で大きな地震があったことを知った。本当にいつどこで地震に遭うのかわからない今日この頃だ。日頃の備えが大事というが、どんな備えをすればいいのだろうか。どうすれば、自分や家族や周りの人の命や財産を守れるのだろうか。
「サバイバルファミリー」という映画を観た。どういう話かというと、主人公は東京のマンションに住む、中年の夫婦と高校生の息子と娘の一家。お父さんは平凡なサラリーマンで、会社から帰れば、晩酌しながらテレビをみている。息子と娘は親に関心がなく、勝手なものを食べている。お母さんはひとり台所で、実家の鹿児島から送られてきた大きな丸一匹の魚を捌こうと格闘しているけれど、誰も手伝わないし、食べたがらない。
そんなある日朝、突然電気という電気がみな停まってしまう。電気ばかりでなく、乾電池や車のバッテリーも全く働らかなくなる。お父さんと子どもたちは、文句を言いながらとりあえず会社や学校に向かう。自分のマンションだけでなく、かなり広範囲に停電していることがわかってくる。スマホで検索しようと思っても、画面には何も映らない。お母さんがスーパーに行くと、みな買い出しに来ているが、レジが動かずそろばんで計算するので、長蛇の列となる。
三日ぐらいは、ロウソクとカセットコンロとレトルト食品で凌いでいるが、水道からの水も出なくなり、会社や学校も休みとなり、���くの人がだんだんと東京脱出を始める。大勢の人が家族を伴って、ガラガラとスーツケースを引いていく。この一家はお父さんがうまく調達したおかげで、一人一台自転車がある。途中の商店では、ペットボトルの水が一本2500円の高値で売りに出されている。この家族も高値承知でありったけを買い占め、旅を始める。お母さんの実家の鹿児島を目指して。途中のお米屋さんでは、水や食べ物を持って行くと、お米一合と交換してくれる。そこにロレックスや高級車の鍵を持って交換に来る人物が現れるが、「そんなもの食えるかい! 」と突き返される。
「大阪から先の関西では電気が来ているらしい」という噂が飛び交い、今や車の走らない東名高速道路を大勢の人が歩いたり、自転車だったり、中には荷車を引く人も、西に向かう。途中のサービスエリアで野宿。寒い季節ではないのが、まだよかった。寝ている間に、水を一本盗まれて、息子がすぐに追いかけるのだが、盗んだ家族には赤ちゃんがいて、取り返すのをやめる。
脱出から16日目高速道路を降りて、川で洗濯をする。水が一見きれいだからと飲んだお父さんが下痢をする。強風に煽られて転倒し、自転車やお母さんのメガネが壊れる。次に通りかかったちょっと大きい街の無人のホームセンターを覗くと、食べ物はとうに無いが、キャットフード、精製水( コンタクトレンズに使うもの? )、自転車の修理材料などを手に入れる。火おこししようとしたもできないお父さんを横目で見つつ、おいしくないキャットフードを食べる。
さらに高速道路を走り続ける。長いトンネルの入り口で報酬と引き換えに、トンネルの案内を買って出る盲目のお婆さんたち。無視してトンネルに入るも、真っ暗な中、停まっている車や障害物に阻まれて進めなくなり、盲目のお婆さんに手引きしてもらう。
次はいやに元気な家族と遭遇する。彼らは日頃サイクリングしながらキャンプをしているらしく、装備も揃っていて、みなで楽しそうに食事をしている。「食料や水はどうしているんですか」と尋ねると、山の中の岩場の間から湧き出ている水は、周りに苔が生えていればそれは安全な証拠なのでそういう水を汲んだり、地面から直に生えているオオバコのような植物は食べられますよ、セミなどもおいしいですよ、と教えてくれる。
43日目、やっと大阪に到着。電気は来ていない。通天閣のタワーの入り口には、たくさんのメモ紙が貼ってある。「岡山のおじさんのところに行く。◯◯」などの伝言が。娘がブチ切れて「もう嫌だ! お父さんが大阪に来ればなんとかなるって言ったよね?」「そんなこと俺いったか? 」「ほら、そうやってまたいつもの責任のがれ」「親に向かってなんだ、その口の聞き方は! 」すると息子が「親らしいことしてくれたことあったかよ! 」今度はお母さんが、「いい加減にして! そんなこととっくにわかっているじゃないの、お父さんがそういう人だってこと」ここでお父さんはがっくりとなってしゃがみ込んでしまう。水族館の前で、飼っている魚を調理した炊き出しの列に並ぶも、自分たちの前で終わってしまった。お父さんは調理していた人に、土下座をして「せめてこの子たちだけにでも何か食べ物を」と懇願するが、「無いものは無い」と断られる。
67日目、食料も水も無くなり、岡山あたりの田舎道をとぼとぼ歩いている。と、一頭の豚が目の前を通り過ぎていく。えっ、となり夢中で追いかける。四人でやっと捕まえてみたものの、どうやってとどめを刺すのと手間取っているところ、後ろから「うちの豚に何をする! 」とお爺さんの怒鳴り声。お爺さんのうちの電気柵が働かなくなり、豚たちが逃げ出したのだった。お爺さんが、持っていたナイフで手早くとどめを刺し、豚を運ぶのを手伝い、そのお爺さんの家に。庭先の井戸水を汲ませてもらい、ごくごく飲む。久しぶりの白いご飯に、卵や野菜のおかずに豚肉の燻製。近所のお婆さんがキャベツや大根を届けてくれる。「あれまあ、お客さん? お孫さんたちが帰っているのかと思った」お爺さんの家族はアメリカにいて、連絡もつかないのだ。
ご飯の後は、さっきの豚の解体を手伝う。バラバラにした肉に塩をすり込む。一週間ほど熟成させてから燻製にするのだそうだ。逃げた他の豚も、みんなで追いかけ回して捕まえる。井戸水をバケツで汲んでは、お風呂に運び薪でお風呂を沸かす。何十日ぶりのお風呂に入り、夜はお孫さんたちが着る予定だった新しい寝巻きを貸してもらい、これまた久しぶりの布団に横になる。
毎日薪割りしたり、洗濯をしたり、お爺さんの手伝いをして過ごす。一週間後、豚肉を燻製にしながらお爺さんが語る。「お前さんたちさえよければ、ここにずーっと住んでもいいんじゃぞ。わしも年取って、一人で車も洗濯機も使えない生活では大変でなぁ・・」と誘われるが、この一家は鹿児島にいるお母さんの実家のお父さんの安否も気になっていて、結局お爺さんの申し出を断り、たくさんの食料をもらって、また自転車の旅を続ける。
そのあともいろいろあって、命の危険にも晒されて、奇跡的に誰かが動かしてくれたSLに拾われて、ようやく108日目に鹿児島のお祖父ちゃんの家にたどり着く。お祖父ちゃんは元気だった! お祖父ちゃんは浜で魚釣りをしていた。それからは村人同士���け合って、魚を捕りに行ったり、畑をしたり、鶏の世話をしたり、お婆さんに機織りを教えてもらったりして、みんなで元気に楽しく一生懸命に暮らし始める。
それから、2年と126日目の朝、突然村のスピーカーから埴生の宿のメロディーが流れてくる。みんなが驚いて家を出てみると、街灯が次々と点き始めた。すっかり忘れていた電気が戻ってきたのだ。そして場面は変わって、東京の一家のマンション。日常を取り戻し、以前の生活に戻る。テレビからは、「世界同時停電の原因は、太陽フレアか彗星の異常接近ではないかと、専門家からは語っている。サイバーテロの疑いはなくなったとのことです・・」停電前はそれぞれ勝手に心もばらばらに生きていた家族だったのが、思いやりのある温かい家族になっていた。
とまあ、そういう話であったが、いろいろといいヒントがあった。非常時にはアナログが強いこと。キャンプ生活などに慣れておくこと。北杜市に住んでいて、地震などで自分の家が壊れていない限りは、ここにいた方が湧き水もそばにあるし、薪や焚き木を燃やして暖を取ったり煮炊きすることもできる。むしろここは、首都圏からの避難地域となるだろう。今できることといったら、いつでも人を迎えられるように、家の中を整えておくこと、食料や薪を備蓄しておくこと?
もうひとつ気になるのが、「年長者としての知恵」のようなもの。年長者はパソコンやスマホに弱く、操作方法などは若者に訊かないとわからないことばかり。でももしパソコンやスマホが一切使えない世の中になった時に、どこまで年長者がサバイバルの知恵を出せるだろうか。本当に長く生きた分だけいい知恵があればいいけど。
さっきの映画の話では、最初はばらばらだった家族の気持ちもだんだんとひとつになり、お互いにかけがいのない家族として心が結ばれる。停電が終わり東京に戻るのだけど、本当に戻る必要はあったのかなぁ。鹿児島にいた二年半は、みなで漁をしたり、畑をしたり、はた織りしたりして、お金も介在せずに生きていたわけだ。これからこの地震や災害の多い日本で生き抜くには、都会を出て地方でコミュニティを作って、いろんな年齢の人が、各々出せる力を合わせて生きていく以外の得策は無いのではないかしら。
2024年1月
映画「サバイバルファミリー」は、2017年2月に公開された。監督 矢口史靖。
主演 小日向文世、深津絵里、泉澤祐希、葵わかな
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長々と「ゴーストワールド」考
私がテリー・ツワイゴフ監督の映画「ゴーストワールド」と出会ったのは、2000年代中盤のことだった。映画館ではなく、ツタヤでDVDを借りて実家のリビングで観た。コロナ禍によってビデオ・DVDレンタル屋としてのツタヤが街から消えた今になって振り返ると、あの日からずいぶん遠くに来てしまったことを実感する。
映画冒頭、アップテンポなジャズが流れ出し、こぶしの利いた男性シンガーの声が重なる。「シャンフェケシャンフゥ」--何語だか分からないが、気分を高揚させる陽気なグルーヴ。しかし、映像はアメリカ郊外の白いマンションで、音楽の古めか���さと不釣り合いな印象を与える。
カメラはマンションの外から窓の中を捉えつつ、右へと移動する。それぞれの窓の向こうにいる住人たちが部屋でくつろいだり食事をしたりといった光景がいくつか展開された後、濃いオレンジの壁紙の部屋が映し出される。部屋の中央で、黒縁眼鏡をかけたぽっちゃりめの女の子が、黒髪のボブを振り乱して踊っている。傍らには昔ながらのレコードプレーヤー。そこから大音量で流れる「シャンフェケシャンフウ」--アメリカにおけるサブカル眼鏡女子の強烈な自己主張は、無機質な郊外の光景へのレジスタンスのようだ。
細かい台詞やキャラクターは忘れてしまっても、このシーンだけは鮮烈に頭に残っている。この映画が何を描こうとしているのか、冒頭を観ただけで分かった。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさ。そんな存在を愛おしむ監督の眼差し。
2時間弱の物語の中では、高校を卒業したものの進路が決まらない主人公イーニドが迷走に迷走を重ねる。そして、彼女が何かを成し遂げるようなラストも用意されていない。
ありがちなティーンエイジャー文化に埋没する無個性なクラスメイトや郊外の退屈な人々を馬鹿にしている割に自分自身もぱっとしないイーニドの姿は痛々しいが、十代の自分にも確かにそんな一面があったことが思い出され、いたたまれない気持ちになる。それでも、映画を見終えた私の心には温かい余韻が残った。監督が最後までイーニドに寄り添い続けていることが伝わってきたから。
2023年下旬、何の気なしに見ていたX(旧twitter)で、ゴーストワールドのリバイバル上映を知った。絶対に行かなければと思った。あの名作と、映画館で出会い直したい。 上映が始まって約1ヶ月後の2024年1月、再開発によって円山町から宮下に移転したBunkamuraル・シネマの座席で、私はイーニドたちと再開することになった。
改めて観てみると、最初に観た時の感動が蘇ったシーンもあれば、初見では気付かなかった要素が見つかったシーンもあり、希有な鑑賞体験になった。 これ以降、個人的に気になった部分を列挙してみる。
自由という試練
物語の序盤で、主人公イーニドと幼馴染みのレベッカは、揃って高校を卒業する。式が終わると、イーニドとレベッカは会場から走り出て、卒業生が被る伝統の角帽を脱ぎ、校舎に中指を突き立てる。二人とも大学には進学せず就職もしないので、これからは受けたくない授業を受ける必要もなく、大人として自分の道を選ぶことができる。スクールカースト上のポジションに惑わされることもない。
しかし、コーヒーのチェーン店で働きながら親元を離れて暮らすためアパートを探し始めるレベッカとは対照的に、イーニドは将来のビジョンを持てないまま高校の補講に通い、髪を派手な色に染めてみたり、映画館のアルバイトを一日でクビになったりしている。ルームシェアをする約束を果たす気があるのかとレベッカに問い詰められれば「自立、自立って馬鹿みたい」と滅茶苦茶な言葉を返して怒らせ、家に帰ってからベッドで泣く。イーニドは自由を満喫するどころか、自由を持て余しているように見えた。
高校生の頃は、学校の教員たちが決めたルールに従い、与えられたタスクをクリアすることが求められていた。経済的に親に頼っている分、親や家族というしがらみもある。大人の介入を避けられない年代にいるうちは、人生の問題を大人のせいにすることもそれなりに妥当だ。
しかし、高校を卒業してしまえば、もう人生の諸問題を安易に大人のせいにできない。複雑な家庭の事情に悩まされていても、「もう働ける年齢なんだから、お金を貯めて家を出ればいいんじゃない?」と言われてしまう。
自分の進路を選び、やるべきことを見極めて着実に実行することは、何をすべきなのか指示してくる人間に「やりたくない!」と反抗することよりもはるかに難しい。与えられた自由を乗りこなすだけの自分を確立できていないイーニドの戸惑いと迷走は、滑稽でありながらも、既視感があってひりひりする。
シスターフッドの曲がり角
この映画には、イーニドとレベッカのシスターフッド物語という側面もある。十代を同じ街で過ごし、お互いの恋愛事情も知り尽くしている二人が、高校卒業という節目を境に少しずつ噛み合わなくなってゆく過程が切ない。二人とも、相手を大切に思う気持ちを失ったわけでは決してない。それでも、環境の変化が二人の違いを鮮明にし、今まで通りではいられなくなる。
イーニドもレベッカも、世界をシニカルに見ている点は共通している。派手に遊んでいたクラスメイトが交通事故で身体障害を負ってから改心し、卒業式のスピーチで命の尊さを語っていたことに対して「人間そんなに簡単に変われるわけない」と陰で批判したり、卒業パーティーでも弾けたりせずぼそぼそ喋っていたりと、どこかひねくれた態度で生きている。世の中が用意する感情のフォーマットに素直に乗っからない低温な二人の間には、確かな仲間意識が見て取れた。
しかし卒業を契機に、二人の関係はぎくしゃくし始める。 イーニドは仮に卒業できたものの、落第した美術の単位を取得するため補講に出なければならない。スムーズに卒業したレベッカはカフェのチェーン店で働き始め、アルバイトではあるが社会に居場所を得る。卒業したばかりの頃はイーニドと一緒にダイナーに行き、新聞の尋ね人欄に出ていた連絡先にいたずら電話をするといった行動にも付き合っていたレベッカだったが、アルバイトも続かずルームシェアの部屋探しにも消極的なイーニドに徐々に愛想を尽かす。イーニドが中年男性シーモアとの関係を隠していたことが、さらに二人の距離を広げてしまう。
イーニドは古いレコードを集めるのが好きで、一癖あるファッションを身に纏い、多少野暮ったい部分はあるにしても自分の世界を持っている。バイト先でも、上司の指示に違和感を覚えれば分かりやすく態度で示す。表面的にはリベラルな国を装いつつ水面下では依然として差別が行われているアメリカ社会に対しても、批判的な眼差しを向けている。
しかし、それを表現した自分のアート作品が炎上した際、イーニドは作品を批判する人々に対して展示の意義を説明せず、展覧会の会場に姿を見せることすらしなかった。どんなに鋭い感性があっても、表現する者としての責任を全うする姿勢のないイーニドは、アーティストにはなれないだろう。黒縁眼鏡の媚びない「おもしれー女」ではあってもカリスマになる素質はなく、かといってマジョリティ的な価値観への転向もできないイーニドの中途半端さは、何とも残念である。
一方レベッカは、シニカルな部分もありつつ、現実と折り合いを付けて生きてゆけるキャラクターだ。店に来たイーニドに客への不満を漏らしながらも、上司に嫌味を言ってクビになったりすることはない。経済的に自立して実家を出るという目標に向かって、地に足の着いた努力ができる。
そして、レベッカは白人で、イーニドより顔が整っている。二人がパーティーに行くと、男性たちはユダヤ系のイーニドに興味を示さず、レベッカにばかり声を掛ける。 どう考えても、社会で上手くやってゆけるのはレベッカの方なのだ。
卒業を契機に、高校という環境の中ではそれほど目立たなかった二人の差が浮き彫りになる。置いて行かれた気持ちになるイーニドと、現実に向き合う意欲が感じられないイーニドに苛立つレベッカ。どちらが悪いわけでもないのに、高校の時と同じ関係ではいられない。絶交するわけではないけれど、何となく離れてゆく。
人生のフェーズに応じて深く関わる人が変わってゆくのはよくあることだし、どうにもならない。それでも、楽しかった長電話が気まずい時間に変わったり、昔だったら隠さなかったことを隠すようになる二人を見ていると、人生のほろ苦い部分を突きつけられるようで、胸が締めつけられる。
シーモア:大人になりきらないという選択肢
冴えない中年男性シーモアは、この映画におけるヒーローでありアンチヒーローだ。平日は会社員だが、休日は音楽・レコード・アンティークオタクとして自分の世界に耽溺し、友達も似たような同性のオタクばかり。せっかくライブハウスで女性が隣に座っても、音楽の蘊蓄を語って引かれる。そのくせ「運命の出会い」への憧れをこじらせている。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさを、これでもかと体現しているキャラクターだ。
イーニドとシーモアの出会いは、イーニドのいたずら電話がきっかけだった。新聞の尋ね人欄を読んでいたイーニドは、バスで少し会話をした緑のワンピースの女性にまた会いたいと呼びかける男性の投書を発見し、この気持ち悪いメッセージの発信者を見てやろうと、緑のワンピースの女性を装って電話をかける。会う約束を取り付け、待ち合わせの場所に友達と共に向かうと、呼び出されたシーモアがやって来る。
待ちぼうけを食らうシーモアを陰で笑いものにするイーニドだったが、別の日に街で偶然見かけたシーモアを尾行して、彼がレコードオタクであることを知り興味を持つようになる。シーモアのマンションで開かれたガレージセールで、イーニドはシーモアが売りに出した中古のレコードを買い、会話を交わし、徐々に距離を縮めてゆく。
シーモアが自宅でレコードオタクの集まりを開いた日、イーニドはシーモアの部屋に入る機会を得、彼のコレクションと生き様に驚嘆する。
恐らくイーニドは、シーモアという存在から、アーティストやクリエーターにはなれなくても自分らしさを手放さずに生きられると学んだ。たとえ恋愛のときめきが去ったとしても、シーモアの残像はイーニドの中に残り、社会と折り合いを付けられない彼女の行く先をささやかに照らすのではないだろうか。
(そして、シーモアの姿が、一応仕事や勉学などで社会と折り合いを付けながらも、家庭を持たず読書や映画鑑賞や執筆に明け暮れる独身中年の自分と重なる。その生き様が誰かの未来を照らしたりすることはあるのだろうか。もちろん作家として誰かの人生に言葉で貢献するのが一番の目標ではあるものの、映画を観た後、最低限シーモアになれたらいいなという気持ちになった。初見の時と感情移入するキャラクターが変わるというのは、なかなか新鮮な体験。)
矛盾を抱えたアメリカ社会への言及
最初に観た時はイーニドや一癖あるキャラクターたちが織り成す人間模様にしか目が行かなかったが、二度目の鑑賞では、画面の端々に映り込むアメリカ社会への皮肉もいくつか拾うことができた。
ライブハウスのシーンに、ブルースに影響を受けたと思われる白人のボーイズバンドが登場する。ヴォーカルは「朝から晩までcotton(綿花)を摘む毎日さ」みたいな歌を熱唱する。確かにブルースにありがちな歌詞だ。しかし、綿花を摘む労働をさせられていたのは主に黒人であり、白人は黒人をこき使う側だったはず。労働者の心の拠り所として作られたブルースという文化を、ブルジョワである白人が無神経に簒奪しているという皮肉な現実が、この短い場面にそっと描かれている。
また、イーニドとレベッカが一緒にパーティーに行くとレベッカばかりが男性に声を掛けられる件には既に触れたが、声を掛けてくる男性はほぼ白人だ。アジア系の男性や黒人男性などがレベッカをナンパすることはない。たまたま二人の住む街が白人の多い地域という設定なのかもしれないが、このようなキャスティングが決まった背景には、制度上の人種差別がなくなっても人種によるヒエラルキーが社会に残っているという監督の認識があるのではないかと感じた。
そして、個人商店がチェーン店に取って代わられ、住宅地が画一的なマンションで占められ、街が少しずつ個性を失ってゆく描写もある。レベッカが働くカフェ(ロゴがスターバックス風)やイーニドがバイトをクビになるシネコン内の飲食店は、無個性なチェーン店そのものだ。モノやサービスが画一的になり、雇用や労働のスタイルも画一的になり、マニュアル通りに動けない人間が排除される世界へのささやかな批判が、様々なシーンの片隅にそっと隠されている。
この映画は、十代の葛藤を単なる自意識の問題として片付けず、矛盾だらけで個性を受け入れない社会にも責任があると言ってくれていた。改めて、監督や制作者たちのティーンエイジャーに対する温かい眼差しを感じた。
ラストシーンをどう解釈するのか
ネタバレになるので詳細は伏せるが、この映画のラストシーンは比喩的で、どう受け止めるのが正解なのか分からない。イーニドの人生に希望の光が差すことはなく、かといって大きな絶望が訪れることもなく、自分を命がけで守ってくれた人の思い出を胸に強く生きることを誓うみたいな展開にもならない。とにかく、分かりやすいメッセージのある終わり方ではないのだ。
(映画館を出た後にエレベーターで乗り合わせた若いカップルも、やはりラストの解釈が難しいという会話をしていた。)
私自身は、このラストを、イーニドが他力本願な自分から卒業することをようやく決意したという意味に捉えている。
これまでのイーニドは、心細��なれば友人のレベッカやジョシュを呼び出し、映画の中盤以降ではシーモアにも絡んでいた。人生に行き詰まれ��、誰かを頼って気を紛らわす。偶発的に何かが起こって道が開けないかな、みたいな感覚で生きているような印象だった。 しかし、物語の終盤で、一時はイーニドにとってヒーローだったシーモアが、突然遠のく。レベッカとも既に疎遠になっているイーニド。そして、不思議なラストシーン。イーニドは、私たちに背中を向けている。
イーニドは、自分を導いてくれるヒーローも、どう生きるべきか教えてくれる天使も、どこにもいないということに気付いたのではないだろうか。 人間は最終的には孤独で、自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかない。ラストシーンのイーニドからは、彼女が紆余曲折の果てに辿り着いた人生の真理が滲んでいるように思える。
そして、イーニドの後ろ姿は、スクリーンのこちら側にいる私たちに対しても「自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかないよ」と語りかけている気がする。どう生きるべきか、映画に教えて貰おうなんて思うなよ。自分で行動して、傷ついたり恥をかいたりしながら、自力で見つけるんだ。
以上が私なりの解釈だが、違う見方もあるのかもしれない。他の人の批評も検索してみたい。
おわりに
Bunkamuraル・シネマでの「ゴーストワールド」上映は明日で終わる。しかし、各地の名画座での上映はまだ続くようだ。これからも沢山の人がイーニドたちに出会うことを想像すると、自然と笑いがこみ上げる。
イーニドの冴えない青春は、観た人の心に何をもたらすのか。
これを読んで少しでも気になった方は、是非スクリーンで、ラストシーンまで見届けてください。
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ウェス・アンダーソン作品3作目。登場人物たちがチャーミングで、脱獄したり、スキーで追いかけたり、ホテルで銃撃戦をしたり、ハラハラする活劇もあり楽しく観られた。ポップな色使いやシンメトリー構図も観ていて楽しい映画。
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ライオン・キング:ムファサ(Mufasa:The Lion King)見たよ。
絵は立て髪が短い若きムファサの横顔に小さな花が舞っている様子。
リンマニュエルミランダの歌曲最高です。
お話は皆がさすらう状況に立ってしまい、それぞれがどのような選択をしていくのか、というのが通底としてあり、それが成長し、試練を乗り越えることで王となる、というシンバの物語のテーマとも繋がるのが面白かった。
タカ(スカー)はその試練を乗り越える機会を逃し、自らを卑屈に貶めていくのが悲しかったなぁ。最初は母を助けられず、しかしいつか勇気を出せるよ、と励まされるのだから、チャンスはあったのに拗らせていく過程が描かれていて、そこらへんは人間描写に優れているバリージェンキンス節なのかなと思った。
歌を先に聞いてたけど、ドラマと一緒に見たら二人の心境の深みがさらにギュンと伝わってきますね。tell me it’s you は映像を見てこれはオスカーノミネートしてほしい!となった。
まぁせっかくラフィキを出してきたのだから、もう少し神話的・幻想的な映像を作っても良かったのでは?と思った。だってこの展開って「そのもの蒼き衣を着て金色の野に降り立つ」とかバーフバリみたいな感じじゃないですか〜。超実写だからと言ってアニメ的表現を避けてるのだろうか?「バイバイ」とかもミュージカルシーンの演出としては弱い。
あと最後はもう少しムファサがスカーを許したい、しかしスカーがその機会を持てなかった、そして遺恨が残る、みたいな流れは強調して欲しかったかな〜。
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Hannibal Rising
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レクター博士の青年期の物語。ミーシャが亡くなったときから既にハンニバルの心は死んでしまったんだな…壮年期のハンニバルが生き生きしてるから忘れてたけど、すごく過酷な人生を送ってて悲しくなった。相手を痛めつけるやり方や詰めの甘さがハンニバルらしくなくて新鮮だった。初めての殺人だもんね。警察に普通に捕まっててやばいじゃん!!ってハラハラしてたけど、紫夫人が想像以上に肝の据わった女性だった。ウィルに食べさせたホオジロとか、レッドドラゴンの部屋とそっくりなハンニバルの部屋とか、テンポの速いGoldberg Variationとか、ドラマとの繋がりも垣間見れて面白かった。ギャスパー・ウリエルの気品があるけどどこか壊れてしまっているような美しい表情がすごく若ハンニバルっぽくて良かった…。
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2022年、映画館で観たまんまで、下書きに置きっぱ。
決して面白くなかったわけではなくて、筆不精を発症してたからで…
細かいところ、忘れてしまったのでふわっと感想など
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『アムステルダム』
戦場で親友となった2人の男性(ハロルドとバート)がさらに、謎めいた魅力的な女性(ヴァレリー)とであい、3人で固い友情を築く、が
突然、その女性は姿を消し、その数年後
弁護士になったハロルドと、医者になったバートは変わらず親友でいる
ある日、バートの元に遺体の解剖の依頼が入る。
が、解剖を依頼した女性が直後、事故に遭って亡くなってしまう
バートとハロルドはその女性の殺害の容疑をかけられてしまうなか
姿を消したヴァレリーとの再会があって
周りで起きている謎を解き、2人の容疑を晴らすため、ヴァレリーも加わって調査をはじめる、
サクッと謎と陰謀と友情と恋と、あれやこれやの絡んだほぼ実話(え⁉︎)という映画です
私が予想していたつくりの映画ではなくて、
はじめの数分、違和感を感じたりしたけれど、
結果的には、面白い映画でした
なんていうか
…雑貨屋さん巡りをしていて
偶然、アンティークの雑貨を扱うお店に入った時みたいな?
ワクワクな気分に加えて、アンティークがもつ懐かしさや暖かさ、タイムスリップしたみたいな不思議な時間を味わった時みたいな、そんな感覚が映画を観たあとの余韻として残りました
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『灼熱の魂(2010)』
久々にゆっくり映画観たな〜
評価も高いことさながら、おもしろかった〜
個人的に、オチの前にオチがわかってしまって後半答え合わせになったのでこのオチが最後までわからんかったら4.5はあったかなと。
個人的に共感できたセリフが
「秘書としてまともに働いた…母親としては…」
これが俺の家庭環境とほぼ一致だったのと
(まぁうちは母親でなく父親だけどねw)
「死を持っても物語は終わらない。必ず、痕���を残す」
が、かっこよかったねぇ〜
まぁオチがわかっても泣けたし『愛』がテーマの作品なんで子供のいる女性が刺さるイメージの作品でした!
おちまい
評価【4】
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映画感想『SUPER MARIO BROS. THE MOVIE』
実はやっと見ました。映画館に行く勇気もなく、レンタル開始されてもレンタルする気概もなく、Youtubeで広告が頻繁に入るようになり、めっちゃ評判がいいのも知っていた。「そろそろ避けられない!」と思ったので視聴しました。「良かった」って感じです。 ただ、ゲーマー且つフェミニストであるという自覚のある私は「ゲームのマリオシリーズ」と「映画のマリオ」と<設定は同じでリスペクトある別物��という意識での感想です。「映画のマリオもゲームと地続き」と言われてしまったら「映画版ピーチでも遊ばせろ!!!」と文句言うと思います。
超カッコよかったじゃんピーチ。 マリオ無双ならぬ、ピーチ無双出してほしい。
■映画のピーチ 映画版のピーチは原作となった『スーパーマリオブラザーズ』シリーズでさらわれる「お姫様」としてのピーチとはまた違い、キノコ王国という国というからには存在している国境を守るため政治、社会情勢、軍事にも明るいまさに君主としてふさわしいキャラクターとして異世界からやって来たマリオを導きます。二人は恋愛というよりも、同じ目標に向か���て戦う仲間という感じでしたが、キノコ王国に人間が一人しかいない理由なども含め、ゲームの「なぜ?」を映画なりに理由づけて映画としてまとめ、とても早いスピードで展開する様は視聴側を飽きさせない作り。悪く言えば、全体的にハイテンションなまま、緩急少なく物語が進み、とてつもなく印象に残ったシーンが少ないとも言い換えられはする。
でも、全体的に「これでいいのだ」(by赤塚不二夫)でまとめてあって、文句もなく。
■ゲームのピーチ 一方、ゲーム版のピーチは「さらわれるヒロイン」というジェンダー役割を抱え、「女らしさ」に縛られているステレオタイプなお姫様から脱却できずに今もいます。今年、ピーチが主役となる『プリンセスピーチ』作が新たに登場します(DSでピーチを主役にした作品が登場しては居るので、ピーチ主役のアクションゲーム初作品ではありません)が、映画版ピーチのアクティブ且つスタイリッシュさよりも、フェミニンなお姫様というステレオタイプから逸脱できていません。 でも、私はフェミニンでたまにマリオを誘って旅行に行ったりしているお姫様のピーチもキライではありません。ゲームの世界のピーチはピーチで、一応固まった個性があります。これは長い年数培われてきたゲームの『マリオシリーズ』が「ピーチという女性はどういう女性なのか」考えてきた結果だと思います。保守的な女性像だとは思いますが。 ピーチはピーチでお姫様としてのステレオタイプを抱え、マリオの後ろに控えつつ、楽しそうなことには積極的に挑戦していく女性なのだとは思います。それはそれでピーチの個性だと思います。
■映画版を見て思った、もしかしてクッパ周りの「王族」の女性不足? ところで…、クッパがあれだけ執拗にピーチを狙う理由というのは今までハッキリしていませんでした。ただ、ピーチがさらわれる理由として、クッパがピーチに恋心を抱いているという設定のようなものが付属されているのですが、正直「何で?」って思います。クッパとピーチ、種族も違うし。 そこが映画版を見て「もしかして、マリオの世界では“王族の女性”が不足しており、王族としての血を求めるクッパは嫁不足に悩んでいるのか?」という一つの可能性がこう、ふっと降りてきました。ヨーロッパの王侯貴族同士の結婚のような。(クッパが)一流の女性と結婚しなければならないと思っていて、キノコ王国の姫であるピーチ以外の王族がもしかしたら存在しないのかもしれません。もしくは、存在していたとしても文化が大きく違って、クッパの文化と近いところで高貴な女性というのがピーチしかいないのかもしれない。とか、そんなことを考えたりもしました。
なんだかんだいって面白かったよね。
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