#福岡市役所周辺道路
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【チャリを交通の主役に 魅力発信、片山右京の挑戦 疾走チャリノミクス(1)】 - 日本経済新聞 : https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFK132ME0T10C21A2000000/ : https://archive.is/XQzTa 2021年3月21日 2:00 (2021年3月22日 2:00更新)
環境に優しく、健康によく、密も避けられる夢の乗り物――。脱炭素や新型コロナウイルス禍で改めて脚光を浴びる自転車。チャリンコと侮るなかれ。IT(情報技術)などの最新テクノロジーを取り込み、自転車経済圏は国内外で広がる。競技から開発、安全対策までそれぞれのフィールドを全速力で走るチャリダー(自転車乗り)を追う。
■《自転車競技の中心にカミカゼ右京》 東京五輪の競技運営責任者に、新設するプロリーグのチェアマン――。いま日本の自転車競技界の中心には、元F1レーサーの片山右京(57)がいる。かつて怖い物知らずの走りから「カミカゼ・ウキョウ」と呼ばれた男だ。
{{ 図版 1 : 東京五輪の自転車競技スポーツマネジャーも務める片山 }}
「あなたの街へ興奮と感動を届けます」。こんなうたい文句で3月27日にシーズン1年目の幕を開ける自転車ロードレースのプロリーグ、ジャパンサイクルリーグ。新設に汗をかいた一人が片山だ。チェアマンとして組織体制作りやスポンサーの獲得に奔走。メインスポンサーには不動産大手の三菱地所が就いた。「多くの人たちが自転車に関心を持ち、スポーツとして応援しようとしてくれている」
人生最初の挑戦は小学校5年生の時、三重県から神奈川県の自宅まで走破した自転車旅行だったという。いったん遠ざかったが、F1レーサー時代、体力トレーニングで再び自転車に乗るようになった。引退後はその魅力に取りつかれ、数々の市民ロードレースに参加。2012年には自らロードレースチームを立ち上げた。「40代半ばから本格的に始めても、毎年記録が上がったり、200キロメートル以上走れたりする。頑張った分だけ確実に力がつき、生きてるという感覚をもらえる」
■《登山で環境破壊に危機感》
自転車に託すのは競技への思い入れだけではない。F1引退後、自転車とともに登山にのめり込み、キリマンジャロなど世界6大陸の最高峰登頂に成功した。だが、そこで見たのは消えゆく氷河やプラスチックゴミなどの環境破壊だった。
人力でペダルをこいで進む自転車は二酸化炭素(CO2)を一切出さない。脱炭素への意識が世界的に高まるなか、究極のクリーンモビリティとして注目され始めた。片山は「今後30年で公共交通の構造が変わり、自転車はその中心の一つになる。皆が自転車に乗って動き回るようになれば、自動車が入りにくい裏通りの価値も変わる」と訴える。
■《日本の自転車利用、拡大の余地》
特定の移動手段の利用頻度から算出した「交通分担率」をみると、日本の自転車は13%。最も高いのは自動車の48%だが、国土交通省の調査によると、自動車の移動距離は5キロメートル未満がうち43%を占める。同省は「短距離の移動で今後、自動車から自転車へ交通手段がシフトする可能性がある」(道路局)とみている。
{{ 図版 2 : 日本の交通分担率の内訳 主要国の交通における自転車分担率 }}
■《車椅子に乗る15歳の社長》
「自転車産業はITとの融合でもっともっと成長する」。シェア���イクル事業、チャリチャリを展開するneuet(ニュート、東京・港)の社長、家本賢太郎(39)は、真っ赤な自転車が並ぶ本社内のガレージで力を込める。家本は15歳でネット関連のコンサルティング企業、クララオンライン(同)を立ち上げた異色の経歴を持つ。
{{ 図版 3 : クララオンラインとニュート社長を兼務する家本(東京・港) }}
脳腫瘍の手術の後遺症で14歳から18歳まで車椅子生活を送った。電車など公共交通機関での移動に大変な不便を感じ、「移動に選択肢があることは幸せと感じるようになった」。特に羨望のまなざしで見たのは、自らの力だけで自由に移動できる自転車だ。
車椅子生活を終えた後、自転車は家本の趣味になる。そしてITを武器にアジアへ事業を拡大した際、中国で目の当たりにしたのはシェアサイクル事業の勃興だ。鍵となっていたのが、あらゆるモノがネットにつながるIoTだ。ITに精通した家本は「これなら自分にもできる」と思い立つ。
■《ITからシェア自転車に》
17年秋には福岡市でシェアサイクル事業を展開しようとしていたメルカリから「一緒にやりませんか」と声がかかり、IoT関連のサポートなど裏方仕事に携わった。そして19年夏、「ここから先は僕にリスクを取らせてほしい」と事業譲渡を持ちかけ、チャリチャリとして再スタート。今は名古屋、東京と事業を広げ、専用駐輪場(ポート)は430カ所、保有台数は2000台に達した。
{{ 図版 4 : シェアサイクル「チャリチャリ」の専用駐輪場は430カ所に達した }}
チャリチャリはITの塊だ。利用者はまずスマートフォンにアプリをダウンロードし、付近のポートにある自転車を探す。見つけたらサドルの下にあるQRコードをアプリで読み取り、解錠。利用後は近くのポートに駐輪し、施錠する。料金は1分4円で、アプリに登録したクレジットカードに課金される。24時間365日利用できる。
全地球測位システム(GPS)が搭載されているため、万が一ポート以外に放置されても、すぐに見つけ出せる。買い物や通勤などの短距離移動はシェアサイクル、サイクリングなどの遠出は自分の自転車と住み分けが進めば、「日本が長年抱える放置自転車の解決につながる」。
日本のシェアサイクル事業は地方自治体が関わっていることが多いが、チャリチャリは行政から補助金を一切貰っていない。自立には利用率の向上が必須で、昼間人口の多さや人口密度の高さに加え、公共交通機関の乗り換えが不便な場所などを狙ってポートの候補地を探す。「シェアサイクルが日本でちゃんと事業として成り立つことをみんなに見せたい」
■《環境派市長「パリをつくり替える」》
チャリノミクスは国境を越える。「環境保護を進めるため、今すぐパリをつくり変えなければいけない」。市長のアンヌ・イダルゴ(61)は自転車でパリ中心部を疾走する。優先レーンを作るなどして、全ての道で24年までに危険なく自転車を利用できるようにする目標を掲げる。
{{ 図版 5 : イダルゴ市長は環境保護のため、市民に自転車の利用を呼びかけている(パリ)=ロイター }}
14年に就任したイダルゴは環境派として、セーヌ川沿岸の一部を自動車進入禁止にするなどの政策を取ってきた。コロナ禍で人との接触を避ける動きが強まったのをきっかけに自転車の利用を一層促す。20年には自転車用レーンを60キロメートル分延ばすと表明した。
かつて自動車で混雑していたルーヴル美術館前の有名なリボリ通りはいまや、自転車で混み合うほどの様変わりだ。「大気汚染や騒音が著しく減っている」。イダルゴは胸を張る。
フランス政府も自転車の利用を後押しする。コロナ発生後、自転車の修理費を50ユーロ(約6500円)まで補助すると発表した。一時は数カ月待たないと予約が入らないほど修理業者がにぎわった。市場は爆発的に拡大している。仏テレビLCIによると、20年の仏自転車販売台数は330万台と19年比3割近く増えた。
■《自転車経済、年7%で成長》
今後も世界的に自転車市場の拡大は続きそうだ。英調査会社テクナビオによると、20年の世界の自転車市場は約540億ドル(約5兆9000億円)で、25年まで年平均7%で成長するという。
{{ 図版 6 : スポーツ自転車が大きく伸びている(1店舗あたりの国内販売台数の前年比) }}
日本国内の20年の自転車市場規模(国内生産と輸入の合計)は約1300億円。最近では特にスポーツ自転車の伸びが大きい。野村証券チーフエコノミストの美和卓(53)は「スポーツ車は単価が高いだけでなく、ヘルメットやライトなどを追加購入しないと走れない。アパレルや付属品など周辺市場の広がりに期待できる」と話す。自身も約15万円でロードバイクを購入し、本体以上のお金をかけてギアやホイールを好みの部品に取り替えた。
{{ 図版 7 : ロードバイクで通勤をする野村証券チーフエコノミストの美和(東京・千代田) }}
前日のニューヨーク市況のチェックから始まる美和の朝は早い。西東京市の自宅から東京・大手町の職場まではロードバイクで1時間半。夜の喧噪の名残ある新宿の繁華街を抜け、大手町が近づくころには皇居のお堀に反射する荘厳な朝日が見えてくる。6時過ぎに会社近くの駐輪場に愛車を止め、サイクルジャージからジャケットに着替えると、今日も美和の一日が始まる。
=敬称略、つづく
(生田弦己、松本萌、福井環、パリ=白石透冴)
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 ���� 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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北九州ライフスタイル 北九州市は、日本の九州地方に位置し、その多様な生活スタイルの選択肢は都市生活の魅力を象徴しています。この都市は工業の中心地として発展し、豊かな自然環境も併せ持つ場所として知られています。ここでは、北九州市の多様な生活スタイルの選択肢に焦点を当て、その背景や影響について詳述していきます。 北九州市はその広大な面積と多様な地形から、異なる生活スタイルを求める人々にとって魅力的な選択肢を提供しています。市内には山岳地帯や海岸線、都市部など多岐にわたる地域があり、それぞれが異なった環境とライフスタイルを提供しています。例えば、戸畑区や小倉北区の都市部では便利な都市生活を楽しむことができ、一方で八幡東区や若松区では自然に囲まれた静かな住環境が広がっています。 工業都市としての北九州市の歴史は、多くの人々がここでの生活を選ぶ要因の一つです。市内には多くの企業が立地し、産業が盛んに行われています。これにより、市民は安定した雇用や経済的な安定感を得ることができ、多様な職業やキャリアパスを追求することが可能です。工業がもたらす経済活動は、市全体の発展を支え、生活の質を向上させる役割を果たしています。 一方で、北九州市は豊かな自然環境も有しており、これが市民に多様なレジャーやアウトドア活動の機会を提供しています。例えば、門司区の海岸線では海水浴や釣りが楽しめ、八幡西区の山岳地帯ではハイキングやキャンプが人気です。自然とのふれあいは心身のリフレッシュにつながり、ストレス社会での生活において重要な側面を担っています。 また、北九州市は教育や��化の面でも多様性を誇っています。市内には多くの教育機関や文化施設があり、子育て世代や学生、文化活動に興味を持つ人々にとって充実した生活環境を提供しています。例えば、小倉北区には大学が立地し、教育研究の拠点として機能しています。また、戸畑区には歴史的な建造物や美術館があり、文化に触れる機会を提供しています。 さらに、交通の利便性も北九州市の魅力の一つです。福岡市や周辺地域とのアクセスが良好であり、ビジネスや観光、また日常生活においても便利に移動することができます。公共交通機関の充実や道路インフラの整備が、市民の生活を支える重要な要素となっています。 しかしながら、北九州市の多様な生活スタイルの選択肢には課題も存在します。例えば、人口集中が都市部に偏っており、地域間の格差が生じていることが挙げられます。このような課題に対処するためには、地域間の均衡発展を図る施策や、地域住民の参加を促進する取り組みが必要です。 総括すると、北九州市はその工業の中心としての側面と自然の豊かさが融合し、多様な生活スタイルの選択肢を提供しています。市民はそれぞれのニーズやライフスタイルに応じて暮らしを選び、それが市全体の活力となっています。今後も市の持続可能な発展と、多様な生活スタイルのさらなる充実が期待される地域であ���ことは間違いありません。 ********************* 北九州市八幡西区 不動産買い取り Tel. 093-691-2103 株式会社ミカワ www.fudosan-mikawa.com *********************
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会場は日本なのに…中国国内“ライブ禁止”のロック歌手の歌を聞くためだけに多数の中国人来日し涙 日本人が知らない“中国”の一面
国際取材部
2024年5月31日 金曜 午後6:30
4月下旬から約10日間かけて、あるロック歌手のツアーが日本全国5都市で行われた。全会場でチケットが完売し、1万人もの観客が涙を流し熱狂したが、コンサート会場にいた客の大半は中国人だった。しかもわざわざこのコンサートを見るためだけに来日した人も多い。彼らはなぜ、多くの金と時間をかけ、わざわざ日本に来たのか?その答えは、彼らの視線の先で歌う1人の中国人���性の歌に込められている。その歌手は、共産党の監視の目が光る中国国内では、公の場で歌う事ができない。この事実を知る日本人は、ほとんどいない。
以下の文章は、東京大学のある中国人訪問学者が執筆し、東京大学大学院の阿古智子教授が翻訳したものを編集した記事である。
満場の観客が流した涙
数千人規模の会場は満員。そのほとんどが中国人。涙を流している人が多い。
日本ではほとんど知られていない45歳の中国人ロック歌手が、ツアーのため来日し、4月20日の大阪を皮切りに名古屋、福岡、仙台、東京で公演を行った。ツアーはどの回も満席だった。
最終公演の東京では、歌手が最後に「自分のような農家の息子が日本でコンサートができるなんて。それになんと、チケットは完売だったんだ!」と語ると、観客は笑い、涙を流した。PANDA RECORD公式SNSより
この記事の画像(9枚)
一部の観客にとって、このコンサートに来るのは、そう簡単なことではない。
現場で観客にランダムに聞いてみたところ、80%以上が航空券を購入し、わざわざ中国から日本に来ているようだった。
さらに、中国ではチケット購入用のウェブサイトにアクセスできないため、コンサートの予約をするためには、VPNなどでネット規制を回避してサイトにアクセスしてチケット代を払い、さらに、ビザの申請、航空券の購入、ホテルの予約もしなければならない。そこまでして、初めてコンサートに来ることができるのだ。
実際に大阪のコンサートに行って中国に一旦帰り、その後また仙台に行き、東京に行ってはまた中国に戻るというように、日本と中国を行ったり来たりするのを2、3回繰り返している人もいるという。
彼らに話を聞くと、「どの会場でも泣いていた」「曲が始まるとすぐに、涙が顔に溢れた」という。
誰かが冗談で、どのコンサートも「大規模なお葬式の会場」のようだったと言った。
歌手は「南京市民の李さん」
歌手は1978年に中国・江蘇省の農家に生まれた李志(リージー)。 現在、南京をベースに活動しており、「南京市民の李さん」と呼ばれている。李志さん PANDA RECORD公式SNSより
しかし、彼はここ数年間、中国では公演ができない状況に追い込まれている。
彼の曲は、経済発展によって激動する中国の40年間の「小人物(普通の人々)」の、「どうしようもない人生のあれこれで構成される生活の断片」を描いている。
たとえば、南京の通りの名前と同じ「熱河」というタイトルの曲の歌詞は、このようなフレーズだ。
熱河通りには長年営業している理髪店がある どんな髪型のカットでもたった5元 店の主人とその妹は椅子に座り、何も言わずに鏡を見つめている 彼らのふるさとは安徽省全椒県の岸辺にある この街に移ってから896日が経った 熱河通りはいつも同じ顔をしている
李志の歌は、埃っぽい中国の普通の人々の無力さを歌ったものであり、政府の公式メディアが毎日宣伝する「ポジティブなエネルギー」とは相容れないものだ。
しかし、李志の歌が禁止されたのはそれが原因ではない。直接の理由は、2018年に彼が著作権侵害で中国の大手商業プラットフォームを訴え、「権利擁護」の道を歩み始めたからだと思われる。
この「権利擁護」が中国政府に嫌われたのだろう。だから、禁止されたのだろう。PANDA RECORD公式SNSより
彼が発表した有名な楽曲のうち、中国で聞けなくなっているのは、1989年の天安門事件を想起させる「広場」や「人民に自由は必要ない」だ。
中国で大きな自由を望むことはできないが、かといって「人民に自由は必要ない」と言うこともできないらしい。だから、中国でこの曲を聴くことはできない。
コンサートを開催してくれた日本に感謝
李志は中国に多くのファンがいる。
中国には、2つの世界があるようだ。1つは当局の宣伝の中の中国であり、戦狼外交官やロシアのプーチン大統領とハグしている指導者がいる。しかし、その外側にまた別の世界がある。そこでは、誰もが互いを知らず、共に関わり合うこともできない。市民団体が政府に危険視されているからだ。だから、コンサートに誰が来ていたのかわからない。
コンサート会場内での携帯電話の使用は禁止されていた。コンサートについて調べても、中国のソーシャルメディアにはほとんど痕跡が残っていない。感情のこもった感想文を書いても、それは友人同士で共有することしかできない。
李志の背中の写真をソーシャルメディアに投稿した者もいたが、それはすぐに削除された。だから、コンサートから1カ月経った今、コンサートに行き、共に歌い、泣き、笑ったという記録は非常に少ない。実際に起こっていることすら記録できない。コロナ後の中国ではよくあることだ。
だが、誰も文句を言わなかった。コンサートが開催されただけでもありがたいことだ。中国の人々はこのコンサートを開催してくれた日本に感謝している。PANDA RECORD公式SNSより
この公演を主催した日本のPANDA RECORDは、李志という歌手とそのバンドを、より多くの日本の人に知ってもらおうと企画したという。実際には、日本人よりも、中国人の熱意が彼らの期待を大きく上回ったにちがいない。 多くの観客が中国から飛行機で来るとは予想していなかっただろう。
PANDA RECORDの喜多直人社長は、「チケット販売システムで購⼊者の国籍や居住地が集計できないので分からないが、中国からわざわざきた観客もいた。チケットは完売��、およそ1万人が来てくれて、コンサートは大成功だった。彼らは素晴らしい演奏、音、照明を披露してくれた。今後も中国の素晴らしい音楽を日本で紹介していきたい」と話している。
人々で埋め尽くされる会場を眺めながら、ここに来るために必要な航空券、ホテル、消費額について考えた。中国の厳しい統制によって、日本にもたらされている、この「自由経済」(Freedom Economy)の規模の大きさに、日本の経済アナリストは気づいているのだろうか。コンサート会場には日本人はほとんどおらず、誰も分析できていないと私は思っている。
今回、李志は「熱河」のような「安全な」曲を歌い、 観客は携帯電話を専用の袋に入れて封をし、コンサートの間、使うことができなかった。つまり、彼は「一線を越えた」わけではないが、数年ぶりに彼のステージを見て、彼の声を聞くことができただけで、多くの人が涙を流した。
涙の理由…言論統制で覆い隠される悲劇
なぜ観客は泣くのか、おそらくそれは、これが「普通で自由なコンサート」だからだ。
日本人には中国人の痛みを理解するのは難しいかもしれない。 言論統制が行われている中国では、毎日のように悲劇が起きている。
5月1日未明、広東省梅州市で築10年にも満たない高速道路が崩落し、50人近くが死亡した。政府系メディアの報道はすべて、事故に遭う前に車を止め、高速道路の真ん中でひざまずき、後方の車に停車するよう促している運転手に焦点を当てた。これによって多くの命が救われたわけであり、確かに感動的な話だ。しかし、高速道路の建設の質に関わる政府の説明責任と調査結果は、どこに報じられているのか。中国のほかの災害の犠牲者と同様、亡くなった50人の名前は伝えられない。
5月13日、元弁護士で女性市民ジャーナリストの張展氏が刑期を終えて釈放された。張氏は、新型コロナウイルスがまん延した武漢で起きたことを携帯電話で記録したことが原因で拘束され、2020年12月に「騒乱挑発罪」で懲役4年の判決を受けた。 出所から1週間以上経ってようやく、外の世界が彼女のことを知った。彼女は未だ限られた自由しか享受できない。中国には、刑務所の外にいても、政権にとって「危険な」人々を監視し統制する大規模なシステムがある。出所した張展氏 Xより
5月中旬から、邢燕軍という企業家が中国の法曹界で注目されている。彼は李志と同年代で、「居住監視」という制度で拘束されていた。これは、当局が指定する特定の場所に居住させられ、監視と取り調べを受けることを指す。彼は4月3日に死亡し、家族が説明を求めている。
悲劇は実際に常に起こっている。
5月2日の東京コンサートには、周雲蓬という���目の中国人ミュージシャンがいた。 彼は2007年に「中国の子ども」という曲を書いた。もちろんこの曲は、中国では演奏できない。曲の中に中国の子どもたちに関連する多くの悲劇に言及しているからだ。たとえば曲の中に、1994年新疆ウイグル自治区のカラマイ市で起きた火災のことが書かれている。教育委員会の指導者を歓迎する文化公演の最中に火事が起き、「指導者を先に逃げさせるのだ!」と生徒たちに指示が渡った。結局、指導者たちは無傷だったが、小中学生288人が死亡するという大惨事になった。
ほかには、沙蘭中央小学校の水害のことも曲の中に。2005 年、黒竜江省寧安市沙蘭鎮の沙蘭川上流で突然大雨が降り、最も高度が低いところにあった沙蘭中央小学校に激流が押し寄せ、105人の子供たちの命を奪った。
どの事故も心が痛むような内容だが、この曲を中国で演奏することはできない。
観客には中国出版業界の人が何人もいた。彼らは非常に厳しい検閲の下で、書籍を出版してきたが、撤去もされ続けている。何人も健康上の問題を抱えている。
観客席には中国の弁護士の姿もあった。彼は「法の支配」を可能な限り守ろうとしているが、本当の意味の「法の支配」は中国にあるのだろうか。
爆買いやタワマン購入だけが“中国人”ではない
2024年の東京で、こんな特殊なコンサートが行われたのだ。歌手も、観客の学者、弁護士、出版人も、ほとんどが40歳以上の中高年だった。歌った内容は中国のごく普通の生活の断片に過ぎなかったが、誰もが涙を流しながらそこに立っていた。PANDA RECORD公式SNSより
日本では、タワマンを購入し、投資する中国人について数多くの報道が行われている。中国に関する分析の多くは経済関係のもの。それこそが、唯一合理性に叶っていると見ているからなのか。
しかし、老いる親と小さい我が子を抱える中年の中国人たちが、どのような状況で故郷を離れ、文化も言語も異なる国で人生をやり直す決心をしているのか、日本人は考えたことがあるだろうか。
コンサートで中国人が流した涙からさらに理解を深められるのではないだろうか。
※コンサートの写真はすべてPANDA RECORD公式SNSより東京大学大学院 阿古智子教授
阿古智子 東京大学大学院総合文化研究科教授。 大阪外国語大学、名古屋大学大学院を経て、香港大学教育学系Ph.D(博士)取得。 在中国日本大使館専門調査員、早稲田大学准教授などを経て現職。 主な著書に『香港 あなたはどこへ向かうのか』『貧者を喰らう国―中国格差社会からの警告』(新潮選書)など。第24回��論新風賞を受賞。
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ユネスコ無形文化遺産登録記念イベント「祭 WITH THE KYUSHU」 日田祇園の曳山行事を見に行こう♪ ユネスコ無形文化遺産登録記念イベント「祭 WITH THE KYUSHU」のご案内です。 九州の山・鉾展示場所・巡行時間 場所:福岡市役所周辺道路 日時:5月13日(土)18:00~20:00 5月14日(日)13:00~14:50 【福岡空港から】 福岡空港に直結した市営地下鉄「福岡空港」駅から、 「天神」駅へ(所要時間11分)、下車徒歩約4分 【JR博多駅】 博多駅に直結した市営地下鉄「博多」駅から 「天神」駅へ(所要時間5分)、下車徒歩約4分 八代妙見祭の神幸行事 唐津くんち曳山行事 博多祇園山笠行事 戸畑祇園大山笠行事 日田祇園の曳山行事 九州ユネスコ登録記念イベント運営委員会 [福岡市/北九州市/唐津市/日田市/八代市] #ユネスコ無形文化遺産登録記念イベント #祭WITHTHEKYUSHU #九州の山・鉾 #八代妙見祭の神幸行事 #唐津くんち曳山行事 #博多祇園山笠行事 #戸畑祇園大山笠行事 #日田祇園の曳山行事 #九州ユネスコ登録記念イベント運営委員会 #福岡市 #北九州市 #唐津市 #八代市 #日田市 #山鉾 #祭 #ユネスコ無形文化遺産 #travel #tour #観光 #福岡市役所 #福岡市役所周辺道路 #日田下駄 #日田やきそば #祇園祭り #大分県日田市 #hita #love (日田温泉 亀山亭ホテル (Kizantei Hotel))
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戦後の事件簿 「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた 図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった 1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察��警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した 1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない 1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した 1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した 1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した 1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている 1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した 1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された 1946年9月26日~29日、新潟��報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した 1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた 1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した 1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊��を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった 1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された 1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された 1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった 1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き���ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された 1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた 1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察��6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた 1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された 1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した 1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した 1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午���1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還など��求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された 1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した 1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った 1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した 1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳���をするために村役場に押しかけた 1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した 1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された 1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している 1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった 1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついに��「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した 1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議し��いた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え���サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した 1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった 1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った 1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した 1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した 1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した 1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した 1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった 1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した 1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害した��して、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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1人が死亡し18人がけがをした福島県郡山市の飲食店の爆発事故で、死亡したのはこの店で行われていた改装工事の現場監督だった仙台市の50歳の男性と確認されました。警察と消防はプロパンガスによる爆発とみて詳しい状況を調べています。
30日午前9時前、福島県郡山市島2丁目にある飲食店、「しゃぶしゃぶ温野菜郡山新さくら通り店」で爆発がありました。 店の中で男性1人の遺体が見つかり、警察が身元の確認を進めたところ、仙台市太白区の会社員、古川寛さん(50)と確認されました。 警察などによりますと、爆発が起きた店は新型コロナウイルスの影響で4月から休業し、その期間中に店舗の改装を行っていたということです。 古川さんが勤務する仙台市の設計施工会社によりますと、古川さんはこの店の改装工事の現場監督で、壁紙を塗装したり床を貼り替えたりする作業を行い、ガス関係の工事は請け負っていないということです。 今回の爆発では、このほか周辺の銀行のATMを使っていた人や近くの会社の事務所にいた人など、20代から80代の男女18人がけがをしました。 このうち40代の女性2人が重傷ですがいずれも意識はあり、残りの16人は軽いけがだということです。 消防によりますと、爆発が起きた建物の敷地にはプロパンガスのボンベが6本倒れていて、このうち3本でガスが漏れ、バルブが壊れていたということです。 警察や消防はプロパンガスが爆発の原因とみて詳しい状況を調べています。
仙台市にある設計施工会社の小西造型は、今回爆発が起きた現場の店舗で壁の塗装や床の張り替えなどの工事を請け負っていました。
この工事は、今月23日から始まり、30日は、店の看板を補修する予定だったということです。
古川さんは30日朝、宮城県内の自宅から会社の車で現場に向かい、午前8時10分ごろ、現場に着いたことを会社に連絡していました。
契約している警備会社に、古川さんが午前9時の数分前に現場の建物の鍵を開けた記録が残っているということで、それ以降は連絡が取れていないということです。
当時現場にいた社員は、古川さん1人だったということです。小西造型は「古川さんは仕事熱心で、誰よりも現場に詳しい優秀な方でした。事故の原因は分かりませんが、亡くなってしまったことは非常に残念です」としています。
爆発による衝撃 数百メートルにわたる
爆発現場となった郡山市島2丁目付近は、郡山市役所から西に1キロほど、JR郡山駅から、西に3.5キロほど離れています。
市の中心部で、商業施設や住宅地が広がる地域です。
爆発による衝撃は、数百メートルにわたって伝わったとみられ、周辺の店舗や住宅に、窓ガラスが割れるなどの被害が出ています。
このうち、現場から南に150メートルほどの離れた桑野協立病院では、職員が地震と間違えるような震動を感じ、1階から4階までの窓ガラスがあちらこちらで割れているということです。
また、現場から東に370メートルほど離れた郡山女子大学付属幼稚園でも、ド��という大きな音とともに窓ガラスが1枚割れる被害が出ています。
爆発は改装工事中のフランチャイ���店
「しゃぶしゃぶ温野菜」の運営会社を傘下に持つ外食大手の「コロワイド」によりますと、爆発があった「郡山新さくら通り店」は直営店ではなく、いわゆるフランチャイズ経営の店舗だということです。
平成18年に開業し、これまでに店側からガス漏れのトラブルが報告されたことはなかったということです。
この店舗は、ことし4月23日から新型コロナウイルスの影響で休業していて、今月21日から31日までの予定で改装工事を行っていたということです。
隣の電気工事会社 5人けが
爆発があった飲食店の東側にある、電気工事の会社に勤務している65歳の男性によりますと、当時、社内では100人ほどが勤務していたということで、男性は天井から落ちてきた照明が頭にぶつかりけがをしました。
また、この男性も含め合わせて5人が割れた窓ガラスが当たって首に切り傷を負ったり、崩れてきた壁で背中を打ったりするなどの軽いけがをしたということです。
男性は「とても大きな衝撃で、飛行機が墜落したかと思いました。事務所の窓ガラスが数多く壊れて、突然落ちてきた照明に頭をぶつけ、けがをしました。会社が再開できるように、いち早く復旧したいという思いです」と話していました。
100メートル余り離れた高校では
爆発が起きた飲食店から南へ100メートル余り離れた高校では、爆発の衝撃で教室の窓ガラスが割れ、けが人はいませんでしたが、生徒たちの間には動揺が広がっていました。
郡山女子大学附属高校は、夏休みが短縮された影響で31日までが登校日で、爆発が起きた当時は朝8時40分から全校で試験が行われていたということです。
学校によりますと、爆発による爆風や揺れで30枚ほどの窓ガラスが割れたりひびが入ったりしたほか、天井の配管がずれたり、ドアが壊れたりする被害があったということです。
けが人はいませんでしたが、被害を受けて、その場で泣きだしたり、過呼吸になった生徒が少なくとも10人はいたということで、担架や車いすを使って保健室に運び、休ませたということです。
もっとも被害が大きかった2年1組のクラスでは、校舎の北側にあたる窓ガラス2枚が大きく割れ、すぐ近くの机の下に落ちていました。
窓側から2列目の席に座っていたという生徒は「耳が痛くなるくらいの大きな音がして、同時にガラスが割れ、すぐに体を投げ捨てるようによけました。とても怖かったです」と話していました。
また、隣のクラスにいた40代の男性教諭は「窓が揺れるような風圧がものすごく強く、試験中だったが、生徒たちも動揺し、自分自身も恐怖を感じた。生徒には大きなけがの報告はないが、非常に動揺している」と話していました。
約120メートル離れた病院では
現場から北におよそ120メートル離れた病院に併設されたリハビリ施設でも爆発で大きな衝撃がありました。
施設の中にある浴室の脱衣場では天井の一部が崩れ、火災報知器が垂れ下がった状態になっていました。
また、リハビリなどを行う部屋でも天井についていたエアコンのカバーが2つ外れたということです。
そして、施設の中にある時計は8時55分のままで、爆発の衝撃で止まったものとみられます。
爆発当時、リハビリ施設で勤務していた理学療法士の海藤寛喜さんによりますと、施設には利用者とスタッフおよそ30人がいましたが、けが人はいなかったということです。
海藤さんは「耳が痛くなるような大きな音と地震のような大きな振動を感じ、最初は何が起こったのか分からなかった。利用者の安全性の確保を最優先に考えました」と話していました。
現場近くの病院看護師「爆発音が2回 すごい音と風圧だった」
爆発があった現場から南に100メートルほどの桑野協立病院では、現場側の病室などの窓ガラス、およそ90枚が割れ、さらに病棟内の一部の電灯も落ちる被害がありました。
当時、病院には入院患者およそ80人と看護師などのスタッフおよそ120人の合わせて200人余りがいましたが、けがをした人はいなかったということです。
病室にいた看護師は「突然、爆発音が2回して、すごい音と風圧だった。窓が粉々になって、外を見ると辺りは灰色の煙に覆われて見えなくなっていた。何が起きたか分からず、必死に患者の安全を確認した。振り返ってみるととても怖く全員が無事だったのは奇跡だと思う」と話していました。
病院は、30日は外来診療を休止し、31日からは一部を除いて再開する予定だということです。
美容院で働く女性「建物の近くの道路に人が倒れている様子確認」
福島県郡山市で爆発があったとみられる現場から東側に450メートルほど離れた美容院で働く女性は、当時の様子について「ドンという爆発音を聞いたので急いで店の外に出てみると、建物から煙があがっていました。建物の近くの道路には人が倒れているような様子も確認できました」と話していました。
また、この美容院の周辺の店舗などでも窓ガラスが壊れるなど被害がでているということです。一方、この美容院には被害はなかったということです。
郡山市が避難所を開設
福島県郡山市は、爆発の影響で住宅に被害を受けた人などを受け入れるため、午前10時から、市内の亀田1丁目にある「桑野地域公民館」に避難所を設けています。
総務省消防庁 現地に職員派遣
総務省消防庁は原因の調査を支援するため、消防研究センターの職員を現地に派遣することを決めました。
また、消防庁の職員も管轄の消防本部に派遣することにしていて、爆発が起きた状況などを詳しく調べることにしています。
専門家「漏れたガスの量もかなり多かったのでは」
東京消防庁のOBで、市民防災研究所の理事、坂口隆夫さんは「映像を見るかぎり、プロパンガスが室内に漏れて、何らかの原因で着火して爆発したと考えられる。店の天井や壁が全体的に吹き飛んでいて、骨組みだけになっている。周囲も4つの方向すべてで被害を受けている。漏れたガスの量もかなり多かったのではないか」と指摘しています。
そのうえで、「これだけ激しく建物が壊れているので、建物は耐火構造ではなく、簡易的な構造だったのではないかと推測される。耐火構造であれば、壁などがすべて吹き飛ぶということは、よほどの圧力が加わらないと起きないと思われる」と分析しています。
この飲食店は新型コロナウイルスの影響で4月から休業していて、その間に改装を行い、31日から営業を再開する予定だったということです。
こうしたことも踏まえ、爆発の原因については、「通常の状態であれば、ガス漏れはそう簡単に起きるものではない。営業再開に向けて改修工事をしていたならば、ガスの配管、あるいは器具の近くで工事などが行われていた可能性があり、それによってガス漏れが発生したのではないか、ということがまずは考えられる」としています。
また、長期の休業を経て営業を再開するほかの飲食店についても「ガスの元栓を閉め、店舗内にガスが供給されないような状況にしてほしい。ガスの元栓や配管の点検をしっかり行うことが必要だ」と注意を呼びかけています。
過去の主な爆発事故
建物が突然、爆発し死者やけが人が出た事故は過去にも相次いでいます。
おととし7月の西日本豪雨では、岡山県総社市のアルミ工場に近くの川からあふれた水が流れ込んで爆発が起きました。
周辺の住民数十人が骨折などのけがをしたほか、飛び散ったアルミで住宅が焼けるなどの被害が出ました。
また、おととし12月には、札幌市の不動産会社の店舗で爆発があり、周辺の住民など40人以上が重軽傷を負ったほか、まわりの建物の窓ガラスが割れるなどしました。
この事故では、店舗内で除菌消臭用スプレーを大量に噴射したことで可燃性ガスが充満し、給湯器のスイッチを入れたことで爆発が起こったとみられています。
さらに、今月5日には、静岡県吉田町の工場の倉庫から火が出て爆発的に燃え広がり、消防隊員3人と警察官1人の合わせて4人が死亡しました。火元を調べていた4人が、突然、爆発のようなものに巻き込まれたとみられています。
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精神医療改革運動の中で当事者運動は、もっと言えば『精神病患者会』ほどないがしろにされてきたものはない。当事者運動の中で最も大きな顔をしてきたのは、全家連を中心とする家族会であり、活動家団体としての全国「病」者集団であり、精神医良心派改革派のプシ共闘なのであり、それこそ、運動体としてのナンタラ共闘会議ドウタラ連絡会議等々全国ナンタラ日本ドウタラ等々であった。もちろん、その意義は一定程度はあったのだと想う。特に政治的運動的には。そもそも、そう「当事者運動」と云うのなら、家族も精神医も看護士も当事者だ。だが、そうだからこそ、我々のようなキチガイのキチガイによるキチガイのための「精神病患者会」為る在り様からの異議もまたアッタのである。
Ⅱ. 地を這う患者会列伝
大体が、名前からして全く違う雰囲気を醸し出している。愛媛松山の「ごかい」(言わずと知れた「わしらの街じゃあ」「天上天下病者反撃」のキーサン患者会の親分である。キーサン患者会、地を這う患者会の希望の星であった)静岡藤枝の「藤枝友の会」(地元の精神病院内の患者自治会から発展して地域患者会として作業所に変化も拒否し、徹底して会員の会費だけでたまり場を維持し続けている類まれな患者会である)神戸の「ニューカトレア会」(阪神三人衆と言われたカチコミの親分達が言っていた、山本深雪氏が大阪人権センターだの大精連だのと目立ち始める前は、ここにパラシュートして来て元々から居るような顔して、クスリ飲んでるとこなんかいっこも見たことない、と)博多の「福岡わらびの会」(今現在に至っても手書きの会報を発行し続けている凄いトコロである)東京亀戸の「新松橋亭」(しんまつと親しみを込めて呼んでいた。東京の下町で、「天上天下病者反撃」を読んで感動して作ったのだとのことで、クボタクリニック脱藩組の支援者たちもナカナカの人物である)大阪高槻の「灯会」(言わずと知れた精神病患者会の老舗中の老舗、俳句を作り続けている)堺の「ガンバロー会」(全国各地にあった精神病院の患者自治会出身の会である。このころは、浅香山病院、岩倉病院、光愛病院等々の全開放を目指した病院には、もれなく患者自治会があったものである)住吉の「旅立ちグループ」松江の「つぼみ会」「麦の会」山形の「こまくさ会」信州の「プチノマド」「ひなたぼっこの家」広島の「モスク」(南座を惜しむすき者の会の頭文字をとったそうである)名古屋の「雑草会」清瀬の「一寸五分の会」(ここの会報は毎回面白いものだった)岡山の「すばる」鹿児島の「わかち会」土佐の「西風の会」北海道の「すみれ会」(回復者クラブと自称し始めた最初だと想う。道回連も名乗っていたかも。その後セルフヘルプグルーブだのマインドだのと、イロイロな名乗りがうまれたが、その後どうなったのだろうか。但しココは、セーカツの匂いはとてもしていたと想う)東京の「友の会」(患者会の元祖かもしれない)富山の「ルナの会」福井の「らばの会」いや「ろばの会」だったか記憶が定かではない。
キリスト教系を前面に打ち出した「心の泉会」(各地の教会に集う月一くらいのたまり場をたくさん網羅していたので、考えてみれば、ココこそがある種実質的な全国的連合体だったかもしれない)全国「病」者集団の名古屋分会「ゼロの会」京都分会「ひまわりの会」全精連の県連としてあった「松ぼっくりの会」(ココは本当に患者会としてのセーカツの実質があった)全精連とは独立した立場の「兵精連」(全精連系の活動家が名乗る前に勝手に名乗ってしまおうと云うノリであった。実質はあったのかなかったのか)「大精連」(「病」者集団とも全精連とも独立した第三の制度政策提言路線政治大好き山本深雪氏の牙城と言っていいだろう)などもある。
そして我が京都山科の「前進友の会」(1976年十全会病院を脱走した病者、命からがら退院した患者、アルバイトスタッフだった学生たちで結成した。初期のころは学生部隊の反十全会闘争と多彩なレクに特徴があった。88年からは、患者会が設立母体で運営主体である共同作業所も運営しつつ)である。こうやって、ココに想い付く限りの患者会の名前を並べ得ただけでも、書かせてもろうただけでも、ありがたいことなのである。地を這うように70年代から80年代にかけて、精神病患者同志のレクと食事会とたまり場から澎湃としての沸き起こり活動を続け、全国ドウタラとか少しもかかわりも持たず、90年代少しづつ減っていきそして大方は21世紀には、消えていた。
Ⅲ. 全国「病」者集団的なるものとの対決
ところが不思議なことに全精連為る団体が93年に、厚生省の役人を発足大会に来賓として迎え、鳴り物入りで出来上がってくるのである。何が不思議かと言えば、各地の特色ある患者会は段々と活動を縮小していっているときに全国の連合体が出来ていったのである。ご丁寧なことには、県連と云うものもできていった。本当に実態があったのだろうか。現在の全精連の現状を考えてみれば、答えはおのずから明らかであろう。もう一つおまけには「病」者集団はこの動きに対して「歴史的な意義がある」として賛成しその宣伝ビデオに赤堀さんまで出演させてしまった。当時、不思議でかなわんかった。だって、全国「精神病」者集団と云う歴史ある全国組織があるのだから、結集したければソコに結集すれば良いことだったから、、、「地を這う」ように各地にあった患者会は、結局はその「病」者集団にも、新手の全精連にも積極的に合同していこうと云う動きには為っていかなかった。では何故にそうはならなかったのか。結論から言えば、このあたりから、「ごかい」「藤枝友の会」「前進友の会」と云う「キーサン患者会」「地を這う患者会」と自称していた我々と「病」者集団との対立が決定的になっていったのである。それは、当事者運動総体の歴史から見れば、ある種不幸なことだったかもしれない。もちろんその責めはえばっち自身もキーサン患者会も負わねばならぬが、また、大野萌子氏も「病」者集団も負わねばならぬだろう。
ここで重要なのは、本質的には、大野萌子氏と対立していたのであって、山本真理氏と対立していたと云う事ではない事だ。山本氏は大野氏��『代貸』に過ぎなかったのだから、当然であろう。90年代を通して我々が対立していたのは大野萌子氏の路線であった。70年代80年代、偉大な先駆者であり指導者だった大野氏は、誰もが敬い「世話になった」と言うほどの存在であった。それは確かなことだと想う。当事者としての大野氏の存在がどれほどのものだったのか、全国精神「病」者集団がどれほどの存在であったのかは、筆者が書く必要もあるまい。この資料集成のそこかしこにちりばめられているはずである。だが、その「偉大なる」大野萌子氏も、赤堀さんを奪還して以後は決定的に路線を誤った、とそう想う。90年代以降、個人的にも運動体としても誰もが逆らい得ななかった大野氏に面と向かっておかしいと言い始め、問い続けたのが、キーサン患者会だったわけだ。
はっきりとした対立軸は、ナンだったのだろう。全精連をどう規定するかは、大きかった。キーサン患者会は「アリャ御用団体だ」とそう公言していたところに、「病」者集団は「歴史的意義がある」と、言ってしまった。手帳制度の問題も大きかった。大阪での手帳のヒアリングを「ごかい」がカチコミを掛けて、完全に粉砕してしまったぐらいだった。我々は反対の立場だった。保安処分の『監察札』になってしまうぞ、と言っていた。一方「病」者集団は精神障害者にも手帳をとばかりその名も『赤い手帳』が欲しいと、ニュースに書くありさまだった。大野氏の路線だった。この辺から「制度政策提言路線」に急速にはまり込んでいく。その延長線上に山本真理氏や関口明彦氏らの活動家が、30万を超える入院中の患者を、圧倒的なナニも知らずに呻吟している病者を鉄格子とあの厚い鉄の扉の向こうに『置き去りにしたまま』国会の参考人になったり与党か野党か知らんが政党の検討委員やナンかの公的な機関の審議委員やあまつさえ精神医の学会の理事に為ったりしていった。それどころか、自分に敵対する者の口を封じるのに刑訴や民訴や第三者機関やらの権力に売り渡すことまで平然として、他の患者を脅しながら自分から手を挙げて国会の参考人になりに行くという桐原尚之氏のような若手を作り出してしまった。大野萌子氏の「病」者集団型制度政策提言政治活動家論客路線の当然の帰結であろう。
しかし、そもそもの対立軸は、根本的な精神病患者会の存在自体をどうとらえるかと云う点にあったと想う。「病」者集団の立場は、つまるところ、大野萌子氏は、常々こう言っていた。「医者が作ったものは、患者会とは認めない、だから「ごかい」や「藤枝友の会」は、患者会では、ないのだ」と。これは、筆者が、「病」者集団の事務局会議に参加していたときに、直接そう聞いた。コレを聞いたとき、チガウなぁぁぁぁぁーーと想った。実際に「藤枝友の会」や「ごかい」の食事会に参加させてもらっていて、ソウ感じた。デモ、なんとなく、少しは、少しは、当たっているようにも想えた。「ごかい」と笠陽一郎医師との関係や「藤枝友の会」と中江清員医師との関係のことを言っていたのだろうが、そうはっきりと斬って捨てられるような薄ぺらたいものではないんですよ。だが、その上で、笠医師も中江医師も、精神医たちは相当強く患者会の意思決定に影響を与えているのもまた事実であった、と、そう想う。それを全否定してしまうのもまた、事実とはチガウと想うのである。今にして想えば、相互にその微妙なトコロを理解し合えていれば、と、そう想う。患者会とはキーサンのセーカツと病状と支援者のノリの上に微妙に成り立っているものなんですよ。
キーサン患者会、全国の地を這うような患者会とは、本当に、重たい病者中心のセーカツ共同体的な側面が強かった。だからこそ、レクと食事会であった。一緒によく飯を喰った。患者会には患者会独自の味があるのです。「藤枝友の会」の駿河親子は、うまかった。「ごかい」で食べたあのカレーの味は忘れられない。「福岡わらび」のあの博多水炊きは激ウマだ。「しんまつ」で食べた、あれはナンだったのか冷しゃぶだ、美味しかった。たしか「ごかい」でも食べた。みんなで、お皿を回して、あれは高知全家連大会にカチコム前日の夕食だったか帰ってきてからの夕食だったか。だから、「病」者集団の食事会に参加させてもらっていた時に、コレは患者会の食事会じゃないな、会議参加者の休憩時間だなとは想ったし、「病」者集団の名古屋分会「ゼロの会」の食事会は、確かに患者会の食事会にはチガいないものの、参加者全員が大野萌子氏に過剰なくらいのおべっかを使いながら食べているのがよく分かった。本当に過剰なまでの阿諛とお追従に満ち満ちていた。味なんか忘れてしまった。そうそれは、患者会の食事会ではなかったのだ、まさしく、大野萌子氏を囲む会だったのだし、大野萌子氏の食事会であった。 だから、「病」者集団は、活動家集団から、一歩も出ずじまいだった、のだ。本当に重たい病者中心の患者会ナンて、出来るはずがない。本当に口の重い身体の重い病状の重いクスリの重い病者たちが集まってくるには、そう、やはり精神医は必要なことだったのだ。重たい病者たちは、活動家風の健病者風の患者を、最初のとっかかりには決して信用はしないのだ。だって、部屋長と配膳係と、そしてすぐに退院していくヤツ等なんだから、、ソコのトコロを分かってはいないと、キレい事風の活動家集団になるだけのコトだ。そしてそのキレい事が、大野萌子氏の独裁体制を担保していた。ジッサイのところ、本当に患者会を作り、維持し、活動し、セーカツし続けていくのは、ムズカシイことなのだ。その最初のとっかかりに、そしてその継続にも、精神医や医療従事者や、健常者や健病者達は、必要だったのだ。モンダイは、その後、患者会側と、精神医とが、どのような関係性を構築するか、なのだ。特に、主治医ー患者関係にある精神医が、患者会の設立メンバーである場合には、その関係性によって、患者会側の主体性と精神医側の医療内容が、問われることに為るの、だ。患者会を維持するにあたっても、実は、健常者も、精神医も、そして、健病者も、居る必要があるのだ。だって、維持するには、ケッコウな金も、パワーも、手仕事も、必要になってくる。精神病患者会とは、結構な手間ひまと気力体力が必要なのである。その時の役割分担を考えてみたら、よい。モンダイは、分裂病圏、うつ病そう病躁鬱病圏、精神医はじめ支援者達、AC気味不登校気味やノイローゼや神経症圏の屈折した青年健病者達、四者の関係性に在るのだ。役割分担の在り方と、発言力の調整と、人間関係にアルのだ。支援者としての、形式会員でよい我が医療の監視をしてくれ、口は出さぬが手は貸そう、口も出さぬしカネも出さぬがヤレルことはヤルと云う精神医、看護婦看護士、ワーカーが必要なのだ。だが、発言力に制限を設けねばならぬ、そして、ドウいうなかまたちの意向が、まず優先なのか、、、、なのだ。ソコの微妙なトコロを分かり合えなかった「病」者集団も伝えきれなかったキーサン患者会も相互に誤っていたのだ。今なら、両方の誤りが見える、気がするのだが、、、、えばっちの妄想か幻覚か、、、 ハナシを戻そう、それでいて、大野萌子氏は、プシ医師達からの積極的カンパを当てにしていた。精神神経学会での募金箱を持っての金集めには、ビックリした。学会最終日の総会議場でのあの光景は、実に異様なモノだった。アレじゃあ確かに、総会の壇上占拠ナンて出来るはずはない。理事会や運営委員会に、当事者を入れろと云う方向に走るハズである。一方キーサン患者会の側は、90年代を通じて、学会レク「カチコミ」をぶちまかしていた。松山学会、長崎学会、大阪学会、長岡学会、仙台学会、高知全家連大会、静岡全家連大会、大阪手帳ヒアリング、我々にとってはレクだった。シンドいキビシい病状を掛けたレクだった。クルシカッタ。精神病患者の病状を伴った怒りの爆発をソノマンマ、レクとして壇上占拠して叫び続けるのである。「造反無理」であった。造反するものに理屈は無いのである。大野萌子氏は「論客になって論破せよ」とのことであった。それが出来得る精神病患者がどれだけ居ると云うのだ。「造反有理」と「造反無理」の対立であった。
Ⅳ. 岡田さんとの出会い、それは羅針盤の意味
最後に岡田さんとの出会いと驚きを書いておこう。それが「羅針盤」の意味となろうから、、、あれは、15年の春、八王子ホットスペースの20周年記念の御祝い会の場で同じテーブルに座ったのが、キッカケだった。どちらが先に声を掛けたか記憶が定かではない。たった3年前のことなのに。戦後版の精神医療資料集成をしているとのことだった。その後、手紙のやり取りから、反十全会市民連合の資料などを送るようになった。その中で、これほどの資料を残そうとしている人が、なんと精神病患者会の会報を何一つ持っていないことが分かった。驚愕した。「ごかい」のあの大部の「3冊セット会報縮刷版」も、「藤枝友の会」が毎年23号にわたって作り続け、病地学会で一冊一冊手売りしていた「ひとりぐらしのうた」も、前進友の会の「兄弟だろ」も「友の会通信」も、各地のたくさんの「地を這う患者会」の会報を、実物を何一つ持っていないとのことだった。精神病当事者団体で、ちゃんと持っているのは「病」者集団関係のモノだけ、とこれは電話口で言われたのか、その時の驚きは本当に曰く言い難い。なんというコトだと、参ってしまった。だからこそ、即座にミカン箱一箱に、友の会の事務室で目につくものはあらあら送った。「興奮している」と云うお返事を頂いた。ぎりぎりで間に合ったのだと想った。助かったとそう想った。これで、少しは遺せそうだと想った。ただ、これだけ「地を這う患者会」があって、それぞれ特色ある会報を出し続け、「キーサン患者会」がバクチクをぶん鳴らし、叫びまくって学会の壇上占拠をし続けていたが、歴史史料として、残すことがどれだけ難しいことか、想い知った。この出会いがなければ、全国にこれほどの「地を這う患者会」が活動をし続けていたことが、忘れ去られていくだけであっかもしれない。この資料集成に、いかばかりかでも精神病患者会の会報が掲載されたことは、感謝のみである。我々「キーサン患者会」が『敗北』していったとは、実に、こういうことではなかろうか。「病」者集団の方は、桐原尚之氏はじめ、国会の参考人として、17年の国会は勝利だ勝利だと大宣伝中である。我々の方は、高齢化し、亡くなる者はみんなあちらに行き、精神病院へ死にに戻っていく、そして、最終的に患者会なるものは、ほぼ無くなっていくことだろう。バラバラになりつつである。そも、どのくらいの会が今の日本で残って活動しているのだろうか、とも想う。『敗者』とは実にこう云うことではなかろうか。
この資料集成を読むにあたって、研究するにあたって、キーサン革命の鬼からの「羅針盤」が、以上である。これが羅針盤に当たらないと思われる方々は、出来得る限り、せめて作業所や精神病院やデイケアや診療所などといった直接に精神病患者と付き合うような場には来ないで頂きたい。コンなコトを言いつのっているのだから『敗北』するはずである。
「キーサン」とは、「ヤクザ」が「ヤーサン」なら、わしら「キチガイ」は「キーサン」やと云う誇りを持った生命の底で居直り、セーカツの底で居直り、街に居座り精神病院で生き延びるための自尊自衛自主自立の自称である。
キーサン革命バンザイ!!!!!
献呈 この拙文を故桜庭章司さんに献呈したい
桜庭章司さんは、僕が知る限り、唯一の、たった一人の『精神医に直接的実際的オトシマエをつけた偉大な先輩病者』である。若い時分、短期間の間文通させていただき、拘置所からのご本人の依頼で、何回か裁判資料などを全文コピーさせて頂くと云うお手伝いをしたことがある。少しは、お力になれたのだろうか。桜庭さん、桜庭さんの『オトシマエ』には、及ばないかもしれませんが、えばっちの『オトシマエ』は、患者会を維持し続け、最も身近な精神医療と福祉に文句を言い続け、精神病患者会のことを世間様に遺し続けるのが、僕の『オトシマエ』ですよ。ゆっくり眠ってください。キーサン患者会は、叫び続けます。
六花出版 「精神障害者問題資料集成 戦後編 第十巻患者会運動」 所収原稿
2017年11月14日
前進友の会 キーサン革命の鬼えばっち 江端一起
えばっちのホームページ 乾坤一擲
http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html
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裁かれる霊感商法 統一協会ダミー初公判ヘ
裁かれる霊感商法 ① 統一協会ダミー初公判ヘ
しんぶん赤旗 新聞赤旗
2009年9月1日(火曜日) 【社会 · 総合】 B版 (14)
霊感商法を裁く初の刑事裁判(「新世」事件)が10日、東京地裁で開かれます。被告人は印鑑販売の有限会社「新世」と幹部2人。世界基督教統一神霊協会(統一協会)のダミーです。正体を隠して人々に接近するのが統一協会の手法。健康食品、仏具、宝石店やボランティアを装うことも。裁判が、どこまでその構図に踏み込むことができるのか―。 (柿田睦夫)
「新世」は主にJR渋谷駅周辺で活動。通行人に声をかけ、運命鑑定と称して事務所に誘い、「あなたは転換期」「先祖因縁があり、このままでは不幸になる」と脅し、「因縁転換のために」などと言って印鑑3本セッ卜を16万~120万円で買わせていました。
鍵を紛失すると「それは神の忠告。献金するしかない」と言われたり、家系図鑑定で数百万円払ったという例も。2000年以降、約2000件、6億7000万円を稼いだとみられています。
捜査で、「新世」が統一協会の集金担当部門であり、社長の田中尚樹被告が教団幹部に営業報告をしていたことも分かっています。
「新世」は販社(店舖)と呼ばれる教団の末端組織。日本統一協会は本部(渋谷区松濤)の下に、全国を十数地方に分けた「リージョン」、その下に「教区」、「教域」があり、「新世」は都内8教区のうち「南東京教区」に所属しています。
▲ 記者会見で「事件の全容解明」を求める全国弁連=7月28日
全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)が被害相談を通して掌握している販社は全国で240店余り。印鑑、薬品、宝石、絵画、和服…と、さま���まな看板を出していますが、すべて統一協会の偽装(ダミ―)組織。入り口で扱う商品は違っても、そこ から先は「新世」と同じコースをたどります。
これまで霊感商法の刑事事件は、略式の罰金どまり。公判廷で裁かれるのは今回が初めてです。被告人側は犯罪の組織性や金の流れの解明を避けるため、起訴事実はすべて認めて早期結審に持ち込む狙いとみられます。全国弁連事務局長の山���広弁護士は「事件の背景を解明することが司法の責務だ」と指摘しています。 ________________________ 「新世」事件 警視庁公安部は6月、統―協会渋谷教会(東京・渋谷区)、同豪徳寺教会(世田谷区)などを捜索し、印鑑販売会社「新世」の田中尚樹社長、古沢潤一郎取締役と女性販売員3人を特定商取引法違反(威迫、困惑)容疑で逮捕。東京地検は7月、「新世」と田中、古沢の両被告を起訴。残る3人は略式で罰金刑が確定しています。
(つづく) ________________________
2009年9月2日(水曜日)【社会 · 総合】 B版 (14)
裁かれる霊感商法 ② 真の狙いは「信仰」教育
印鑑販売「新世」の田中尚樹被告らの霊感商法が統一協会の組織的活動だということと、その真実の狙いは何かということを示す有力な物証があります。
2002年末から03年1月ごろ、統一協会東東京教区であった内部学習会の受講メモ。金国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)が入手しました。
東京・江戸川教会の壮婦(壮年の女性信者)約30人が受講。講師が田中被告でした。田中被告は渋谷区などを管轄する南東京教区所属。それが東東京教区で講師をした のは、「新世」での実績を評価されたからと、金国弁連はみています。
受講メモによると、田中被告が強調したのは「(印鑑の)販売以前に、私達は宗教家であり、伝道者である」こと。印鑑を買わせるのは「種植え」であり、「いかに良い種を植えるか、良い動機の種を植えたら信仰教育。難しい事はいらない」と教えています。
運命鑑定で心をつかんで物を買わせ、洗脳教育施設であるビデオセンター(力ルチャ―センターを装うことが多い)に入れる。さまざまな名目で献金をさせ、夫復帰(夫を入信させる)や万物復帰、祝福などを体験させ、「前線部隊」に編入…。霊感商法の「被害者」を新たな「加害者」に仕立て上げるカリキュラムです。
カリキュラムに出てくる「万物復帰」は統一教会の重要教義。サタン(悪魔=一般市民)のもとにある財産を本来の所有者である神(文鮮明教祖)に「復帰」させるのだからどんな方法でも救いの行為になる…と、霊感商法も合理化します。
同じく「祝福」は、教祖との「血分け(セックス)」を象徴する集団結婚(合同結婚式)のこと。既婚者は「既成祝福」に出させます。
霊感商法は「万物復帰の活動」であり、「宗教活動ないし布教活動の一環」(1999年9月広島高裁岡山支部)民事裁判ではこのような判決が何回も出ています。
「起訴された『新世』はそんなに目立つ存在ではなかった」と金国弁連の山口広弁護士。全国弁連に持ち込まれた被害相談は「新世」を含む東京の販社(統一協会の店舗)だけで08年に4355万円、09年は6月ですでに3673万円に達しています。(つづく)
____________________________ 2009.09.03 日刊紙 14頁 社会
裁かれる霊感商法
③
偽装で社会に潜り込む
統一協会は「偽装(ダミー)集団」です。偽装は霊感商法の販社(店舗)だけではありません。さまざまな偽装で市民社会に潜り込んでいます。 「たんぽぽ」。東京・足立区のボランティアサークルです。中国やフィリピンの小学生支援名目の募金活動、荒川河川敷の清掃奉仕、区内の祭りや催しへの協力…。その活動に参加する区議会議員もいます。 「たんぽぽ」の事務所は同区千住のマンションにあります。外階段で2階と地下1階に行ける構造で、2階にあるのが統一協会「足立教会」。サロン風の地下1階はビデオセンターと呼ぶ洗脳教育施設。3階と10階にも関連施設があります。 足立教会は北東京教区の拠点。婦人部、青年部や販社があり、「たんぽぽ」もその一つです。 「たんぽぽが協力した催しで、主催者から感謝状をもらったこともある」と言うのは、04年に入信し06年に脱会するまで同教会の通教組織「びぎん」に所属していた女性。 通教とは、入信後も市民生活をしながら統一協会の活動をすることで、「びぎん」には160人が所属。美容師や保育士、医師、看護師、教師らもいたそうです。 「手相を見せてください」と声をかける街頭勧誘。「真の家庭連合」の名で地域のフェスティバルに参加。選挙で自民党系や民主党候補の運動員として駅頭に立ったこともあったといいます。 霊感商法の販社と協力して宝石展や着物展を開催。宝石展では700万円の売り上げ目標を達成したそうです。 「たんぽぽ」の奉仕活動には、行事案内を見た一般の青年や主婦の団体が加わることもありました。この人たちに共感を広げ、統一協会のセミナーなどに誘うのも活動のひとつでした。 ボランティアを偽装する全国組織は「野の花会」や「しんぜん」。数人がワゴン車に寝泊まりしながら戸別訪問で珍味売りやニセ募金に歩きます。関係者によると、1日の売り上げは4~5万円。1人で月に100万円にはなるそうです。 大学でサークルの名で活動する原理研究会、世界平和女性連合、国際救援友好財団からリトルエンジェルスやユニバーサルバレエ…。すべて統一協会の偽装組織です。(つづく)
____________________________
2009.09.04 日刊紙 14頁 社会
裁かれる霊感商法 ④ 信者に引き込む「因縁」
「裏トーク」。狙った相手を霊感商法に引き込み、さらに信者に仕立て上げるトークマニュアルです。別名「因縁トーク」。 まず、ビデオセンターなどで「霊界」を実感させます。テレビのスピリチュアル番組も小道具になります。その上で、トークはこんな筋書きです。 ▽人生には母体の中の胎中生活、地上生活と、永遠に続く霊界生活があり、80年前後の地上生活は霊界に行く準備期間である。 ▽霊界には天国、中間霊界、地獄があり、どの霊界に行くかは地上での生き方で決まる。天国は「二人の国」の意味であり、地上で「真の愛を完成した夫婦」(つまり集団結婚参加者)が行ける。 ▽地獄に行った者は自力で上の霊界に行くことができない。「地上で犯した罪は、地上で償わなければならない」からであり、地獄の霊は「地上の子孫に救いを求めてきます」(統一協会誌『グラフ新天地』08年10月)。 2代、3代とさかのぼれば先祖は大勢います。生前、統一協会の教えを受け入れず、地獄に行った先祖を霊界解放(救済)しないと自分や家族も不幸になる。仏教の「先祖供養」は慰めにすぎない。そこで統一協会の霊能者が登場し、「氏族のメシアであるあなたが、血と汗と涙のすべてを天(文鮮明教祖)にささげなさい」と教えます。 マインドコントロールの状態にある信者は地獄の先祖を救い、自分の地獄行きを避けるためひたすら献金し、霊感商法に励むという筋書きです。 統一協会は信者にさまざまな名目で献金の摂理(指示)を出します。 「聖本」と呼ばれる文鮮明説教集は一冊3000万円。これを買わせるのも神の特別の許しをもらう「特赦」の課題です。 元信者が損害賠償を求めた民事訴訟(札幌地裁)で、原告側が提出した証拠のなかに「聖本愛国特赦路程」(00年2月27日~4月20日)という内部文書があります。 4月14日時点の「聖本勝利数」は北海道3教区で11冊。原告代理人の郷路征記弁護士によると、これが販売実績。11冊で3億3000万円です。 「聖本の意義」という内部文書にはこう書かれています。 「日本列島全体を売ってでも勝利しなければならないのが今回の『40日特赦路程』であり『聖本』摂理である」 (つづく)
____________________________ 2009.09.05 日刊紙 14頁 社会
裁かれる霊感商法
⑤
被害1兆円 芽つむとき
「新世」グループ起訴直後の7月、全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)が「霊感商法110番」を開設しました。4台の電話は鳴りっ放し。3時間で受けた相談は39件で被害額は2億円(うち統一協会26件1億7000万円)。 「予想以上。潜在的な被害の多さを改めて痛感した」と、山口広弁護士が言います。 全国弁連がまとめた全国の被害相談件数は2008年で1510件37億円。弁連結成の1987年からの総計は3万件1060億円に達します。 これは「だまされた」と気付いて相談を持ち込んだ数。氷山の一角にすぎません。実際の被害はどれほどのものか。 07年5月1日付の統一協会の内部文書があります。この日に全国72の教区から本部に納金された金額の一覧表です。 全国1位は西広島教区で9800万円。西東京7600万円、兵庫6780万円…とつづき、最下位の岩手教区でも260万円。何日かけてこれを集めたのかは不明です。 95年に入信し07年に脱会した男性が裁判所に出した陳述書と内部文書があります。98年以降、九州のある県(県全体で1教区)で総務を担当。リージョン(方面本部)を通して本部が指示した金額を傘下の教域に振り分け、集まった金を本部に送金する係でした。 送金先は統一協会本部の近くにある関連ビルで、当時の受取名義は「○○銀行小山田秀生」。94~95年と01~06年の2回、日本統一協会会長を務めた人物です。5000万円の札束をリュックに詰めて本部まで運んだこともあるそうです。 裁判所提出資料のなかに、04~06年にこの県が献金や霊感商法で集めた月別集計表があります。04年1年間に本部に送金した金額は13億1400万円。05年12億円、06年7億7000万円。別の資料によるとこの県の送金実績は全教区の下から5分の1程度。それがこの金額です。 霊感商法が社会問題化してから30年近く。「実際の被害は1兆円をこすだろう」と全国弁連の紀藤正樹弁護士。初の刑事裁判を前にした記者会見でこう指摘しました。 「遅すぎる捜査だが、ここで被害の芽をつまなければならない。国の放置責任が問われる段階にきている」 (おわり)
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First criminal trial of a front company of the Unification Church of Japan to be held – for doing ‘Spiritual Sales’
Head of the Unification Church of Japan to step down after losing a CRIMINAL case (2009)
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土地利用規制法案 基地騒音の上 住民監視か 声あげる人の個人情報丸見え 2021年5月26日【3面】
「ただでさえ騒音がひどいのに、踏んだり蹴ったりだ」。東京都昭島市に50年近く住む盛岡暉道(てるみち)さん(85)は憤ります。自宅は米軍横田基地の滑走路南端から約600メートルに所在。同基地は在日米軍司令部と自衛隊の航空総隊司令部がおかれ、日米の中枢基地であるため、区域指定される可能性が大いにあります。3350メートルの滑走路を有する同基地周辺には多くの民家や農地が広がっています。
盛岡さんが住む昭島市美堀町では1960年代に米軍機の騒音被害により住民が集団移転し、跡地を防衛省が買収。しかし跡地で雑草が生い茂り、火災の発生など環境が悪化。そのため住民が長年管理・活用してきましたが、2019年に防衛省から明け渡すよう求められました。
盛岡さんは「住民は団体をつくって防衛省と交渉している。法案で運動している人の思想・信条などのプライバシーが暴かれて、悪用されれば容易に分断が持ち込まれる」と懸念します。「低空飛行訓練など騒音がひどくなる中、住民を監視する法案なんて許されない。政府は『外国資本による土地購入に住民の不安が広がっている』と言うが、でたらめだ。聞いたことない」
横田基地から徒歩2分の団地に住む田中高子さん(73)=瑞穂町=は、「横田基地の撤去を求める座り込みをしていますが、法案が通れば、だんだん参加できなくなる」と声を落とします。48年間住んでいますが、最近はオスプレイやC130輸送機の訓練が増加し、タッチ・アンド・ゴーの際には数十秒間隔で騒音にさらされるといいます。近所で自転車に乗っているときに、真上を米軍機が通過すると「心臓が飛び出る」ほど驚くといいます。
田中さんは、「戦争中は特高が『戦争反対』と声を上げる人を調査していた。今回も『基地反対』と声を上げる人の個人情報を丸見えにして、活動させないのが目的ではないか」と話します。「政府でも住民を監視する権利はないはずだ。こんな法案は通してはいけない」と語気を強めました。
政府に白紙委任ばかり 情報提供範囲・「阻害行為」具体例… 国会審議を通じ「土地利用規制法案」の問題点が浮き彫りになっています。
立法事実なし そもそも法案には法律制定の必要性や正当性を根拠付ける立法事実がありません。小此木八郎領土問題担当相は11日の衆院本会議で、北海道千歳市と長崎県対馬市の自衛隊基地周辺で「外国資本による土地の取得について地域住民の不安が広がっている」、「全国各地の地方公共団体から土地の管理を求める意見書が提出されている」ことから法案を提出したとしました。
しかし、21日の衆院内閣委員会で日本共産党の赤嶺政賢議員が、全国約1800の自治体のうち意見書提出は16件で、千歳市と対馬市からは意見書が提出されていない事実をつきつけると政府もこれを認め、「不安」に根拠がないことがはっきりしました。
法案の中身も欠陥だらけ。あらゆる項目が政府に白紙委任するものとなっています。
法案では、内閣総理大臣は、調査のため、地方公共団体などから「注視区域」の土地や建物の利用者らの氏名や住所などの情報を提供させるとしています。しかし、その情報は「その他政令で定めるもの」とし、法律で限定していません。政府判断で職業、活動歴、思想信条、所属団体、交友関係��どあらゆる情報が際限なく収集される危険があります。
分断持ち込み さらに調査が必要な場合、内閣総理大臣は「土地等の利用者その他関係者」に報告や資料の提出を求めることができます。
21日の衆院内閣委員会で立憲民主党の本多平直議員から「その他関係者とは」と問われた小此木担当相は、土地等の利用者が法人である場合、法人役員や下請け事業者などを挙げました。一方、「法律上、特定の者に限定することとすれば調査の目的を達成し得なくなることから適当でない」とも答弁しており、歯止めがかかる保証はありません。
報告や資料提供に応じなければ処罰されます。調査に従うことを強制しています。個人情報の提供を余儀なくされ、密告・分断にもつながりかねません。
重要施設や国境離島の「機能を阻害する行為」やその「明らかなおそれ」がある場合、内閣総理大臣が利用中止の勧告・命令をし、応じなければ処罰します。「機能を阻害する行為」の具体的な内容は、法案成立後に政府が定める「基本方針」に委ねています。
21日の審議で政府は、阻害する行為について「構造物の設置」「土地の形質変更」を挙げるだけで「特定の行為を普遍的、代表的な機能阻害行為として法案に例示することは適当ではない」と答弁。「基本方針」で例示するとしますが、「可能な限り」(小此木担当相)というだけです。
全国各地で「注視区域」対象に 政府は、自衛隊・米軍基地以外も「土地利用規制法案」の対象にしています。
▽海上保安庁の施設 当面、尖閣諸島周辺海域で領海警備する第11管区海上保安本部と石垣海上保安部の2施設とする考えです。
▽「生活関連施設」 原子力関係施設や自衛隊と共用している民間空港を例示。資源エネルギー庁によると、全国の原子力発電所は15です(2020年3月時点)。自衛隊が共用する民間空港は、秋田、山形、新潟、名古屋、八尾、福岡、熊本、那覇の8カ所。ただ、これらにとどまる保証はありません。
▽国境離島 無人であり民有地が所在する40島を区域指定する「必要性、緊急性」が高いとしています。有人国境離島地域離島のうち領海「基線」を有する61島の基線近くが、区域指定の検討対象となります。
(しんぶん赤旗、2021年5月26日)
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仙台公演のレポートと第3期の総括です。
3月31日の土曜日、まだ桜が咲き始めたばかりの肌寒い仙台、東京エレクトロンホール宮城(宮城県民会館)にて東北ユースオーケストラ演奏会2018の仙台公演を行いました。この冒頭の写真はフォトグラファー丸尾隆一さんによるオフィシャルフォトです。このあと差し込んでいく写真でも、わたくしのライブ感と短距離感だけが取り柄の素人写真との違いを一目瞭然お気づきになるだろうと、あえてクレジットいたしません。丸尾さん、毎度のオフィシャル写真撮影をありがとうございます。
さて、21日の東京公演から10日間のブランクが空き、指揮の栁澤寿男さんとしては、「みんな、これまで出してきた注意、指示を覚えてくれているかなぁ」と不安そうです。
合同練習や合宿など集まる機会には必ず忘れ物が出てくる東北ユースオーケストラですが、演奏楽曲は身体に染み込んでいると期待したいところです。
リハーサルにあたって坂本龍一代表・監督から「今年度の締めくくりとなる、集大成となる演奏を」と柔和な檄が飛びます。
演奏会の構成も忘れているかもねと、舞台上の動き含めて演奏順に曲をさらっていきました。
コンサート前半を盛り上げて締める『Three TOHOKU Songs』は、団員の地元3県の民謡「大漁唄い込み」(宮城)、「南部よしゃれ」(岩手)、「相馬盆唄」(福島)をメドレーとして現代音楽の作曲家である藤倉大さんによる編曲作品です。
東北の民謡独特のグルーブ感にこだわる坂本監督は、本番直前でもパーカッションセクションに溶け込んでの手拍子指導です。
威勢のいい拍子木を響かせるのは気仙沼の高校生、三浦瑞穂さんです。以前伺った三浦さんのご実家のお隣まで津波で流された体験談は鮮烈に覚えています。この三浦さんのお祖父様がつくられた農園のいちごを差し入れでいただきました。
三浦さんお祖父様は民謡の先生でもあって、昨年は「ちょいさーのさーっさ」の掛け声のリズムとイントネーションについてご指導に来ていただきました。1年前の東京公演での『Three TOHOKU Songs』の演奏の様子はYouTubeでご覧いただけます。一聞は百見に如く。ぜひお聴きください。
youtube
一通り演奏と動きを通した後に、冒頭の開演前のカゲアナ隊の練習です。携帯電話を切りましょうなどの諸注意事項を団員が表に出てお伝えする演出です。この仙台公演はもちろん仙台市出身で固めました。
右から畠山茜キャプテンはちょうど仙台市出身。坂本彩雲さん、中学1年生、フルート担当。木島悠太くん、中学1年生、ヴァイオリン担当。浅野海輝さん、高校1年生、パーカッション担当。狩野諒也くん、大学2年生、ホルン担当。曽我ひかるさん、大学4年生、コントラバス担当は、実は仙台市のお隣の多賀城市出身でした。
そして、開演を告げる団員の福島市の高校1年生、堤英純作曲の金管八重奏を、トランペット中村祐登くん、秋葉大地くん、井出大雅くん、ホルン曽根瑞貴さん、田嶋詩織さん、トロンボーン江見悠希くん、バストロンボーン新川和弘くん、チューバ冨澤悠太くんが、今日は花道で演奏します。
本番前にOGが激励に来てくれました。
見事大学に合格して来期から復帰してくれる郡山市の芦名さん(妹さんは第3期からのメンバー)と今年から宮城県の中学校で音楽教師となった初代キャプテンの長谷川桃さんの二人が、「ジャージ姿ですみません」という栁澤寿男さんを挟んで記念撮影です。
お昼のお弁当はJA共済連の今日は宮城県本部さんからいただきました。JA共済連さんには毎度毎度、団員の血になり骨になる食事をご提供いただき本当にありがとうございます。
リハーサルで疲れた身体には美味しさのあまり縦のお弁当になりました。
ごちそうさまでした!そして、東北ユースオーケストラオールドボーイズも応援にかけつけてくれました。
懐かしい顔の中でも注目したのは一番左の岩花くん。昨年度まで岩手県宮古市から福島市の練習会場まで片道5時間かけて巨大なチューバとともにやって来てくれていたのですが、中学生の一年間見ない間に大学生と同じくらいの身長になっていました。思春期の雨後の筍のような成長には目を見張るものがありますね。
こちらは事務局の「おかーさん」こと岡田さんにTYOオリジナルハンカチーフを巻いてとねだる列。
本番準備が進んでいるのは舞台裏だけでなく、舞台表も同様で。
今年もJA共済さんのご厚意で、わたくしの駄文とノリだけの写真で活動記録のパネル展示をしていただいていました。
ロビーでの寄付受付コーナーもお客様を待つばかり。
昨年で卒団したリケジョ楢山さんがシックな黒づくめの出で立ちで、東京に引き続き地元公演の受付係にボランティアで参加してくれました。右隣は福島事務局の大塚真理さんの姪っ子さん、 菅藤 さんも就活スタイルで手伝っていただけました。そして、今回返礼品を無償提供いただいたアウドドアのプロダクトで世界的に高名なパタゴニア日本支社、自らアウトドアマンの辻井社長以下のスタッフのみなさんも、どうもありがとうございます!そもそものTYOロゴにはじまり返礼品にTYOロゴをあしらうデザインをしてくれた、TYOの美術教師長嶋りかこさんもありがとうございました!
開場直後からの「ロビコン」つまり、ロビーコンサートチームのご紹介です。 ホルン八重奏「3つのエピソードより第一楽章/真島俊夫」 千葉大輝、佐藤咲良、狩野諒也、立谷隆太郎、千田捺月、田嶋詩織、曽根瑞貴、磯貝雛子。
トロンボーン7重奏「Bosco Rosco / Tommy Pederson」大谷龍陽、江見悠希、大波さくら、筒井温之、橋本幸歩、新川和弘、冨澤悠太。
木管五重奏「木管五重奏のためのディベルティメントより第1楽章、第4楽章/ハイドン」菅野桃香、関根慧、田嶋詩織、西村優里、木戸口夏海と クラリネットカルテット「クラリネットポルカ」木戸口夏海、山中陽香、黒須菜月、阿達弘将のチーム木管。
ヴィオラ六重奏「G.P.テレマン/4本のヴィオラの為の協奏曲第1番より第3楽章」村岡瞭、服部未来子、高橋奈々、鈴木祥子、佐藤ひかり、紺野未帆。
さあ、開場しました。列をなしてお待ちいただいていた熱心なお客様に次々とアンサンブルを披露していきます。
団員のご家族ご親戚お友達も聴きに来られているのが呼びかける声からもわかります。これでこそ地元公演ですね。
カゲアナ隊が舞台袖に登場してきました。
続いてオープニングファンファーレの金管八重奏隊も。
団員が続々と下手の舞台袖に集まって来ました。
恒例の坂本監督とのタッチによる送り出しで、みんながステージに。
ピンボケ写真でもわかるのは監督に笑顔で応じるフルートの菅野さん。
オープニングは『Behind The Mask』。坂本監督YMO時代の作品です。
実はこの曲、東北ユースオーケストラが企画物として初登場したルツェルン・フェスティバルARK NOVA松島の2013年に演奏されていました。今回のために監督自らアレンジを見直され、開演にふさわしく管の響きが鮮やかな曲となりました。
二曲めは『戦場のメリークリスマス』。毎年の団員の演奏希望曲アンケートでは必ず何人かが挙げてくれていましたが、ついにTYOとして今年初披露できました。
三曲めは『ラストエンペラー』。初年度の夏合宿地の宮古島でシーサーをつくりながら皆んながこのメロディを口づさんでいたのが懐かしい、こちらおじさんの感傷に舞台袖でひたっていました。
滑り出し三曲は東京公演よりも落ち着いたいい演奏になった気がしますよ。司会の渡辺真理さんの流麗な進行につられ、坂本さん栁澤さんともに東京よりもリラックスされているのか饒舌気味で、客席にも笑いが起きています。
そして、次の出番を控えたあの方が!
後ろ姿から後光が差してる気もする小百合様。
ご登場です。
朗読される詩をまとめられたお手製の製本が左手に光りますね。
このパートでは坂本監督指揮による『Still Life』に合わせての朗読となります。
まずは団員の地元である岩手県は花巻市出身の宮沢賢治の詩から二篇「村娘」「星めぐりの歌」から
そして広島、沖縄の平和を願う詩をそれぞれ一篇、原民喜「永遠のみどり」安里有生「へいわってすてきだね」、最後は東日本大震災をきっかけに福島の小学5年生だった関根妃奈乃「あの山を登れば」です。
圧倒的な存在感がありながら、優しく包み込むような吉永小百合様の朗読は、やはり「日本の母」。東京公演の、のんさんの「妹の力」(©️柳田國男)とは個性のまったく違う時間が流れました。公開中の映画『北の桜守』のプロモーションでご多忙を縫ってのご出演ありがとうございました。わたくし個人的には、この日小百合様からリアルに「宏和さんは」と話題にされ、旧約聖書で神ヤーウェにいきなり名前を呼びかけられ、「なぜ神は私の名前をご存知なのか!?」と感動に震えたアブラハムのごとく畏れ多さに跪きそうになりました。(事前にわかればスマホで録音したのに・・・)
さて、続いては今年初めての企画、団員のオリジナル作曲作品を団員が演奏披露するコーナーです。昨年の12月に藤倉大さんによる作曲ワークショップを行い、親交のあるヴィオラ奏者の安達真理さんにも当日お越しいただき、数々の特殊奏法を紹介してもらいながら、それらを参考につくった団員の出来立てほやほやスコアをその場で実演してもらい、藤倉さんと坂本監督が講評するというものでした。当初の「ほとんど誰も作曲できないのでは」という予想をいい意味で裏切り、全員が2時間で作曲できたのです。人間の創造性というのは、環境と動機づけ、それを導く人次第で引き出されるのだということを実感しました。
今年の演奏会で作品を発表したい人を募りましたところ、6名が手を挙げてくれました。ここ仙台では、東京公演とは違う3名による作品を3名が演奏しました。坂本監督もステージに残り、会場の全員が耳をそばだててソロ作品を聴くという緊迫したコーナーです。
最初は福島県浪江町出身の大学1年生菅野桃香さん作曲作品「当たり前の幸せ」を岩手県北上市出身の大学4年生、木戸口夏海さんがクラリネットで演奏。
直前合宿でのリハーサル時に菅野さんの出身地を入団申し込み時のデータから「いわき市」と紹介したのですが、本人から「実は浪江町出身で、いまは実家は取り壊され、避難していわき市に住んでいます。浪江町で紹介をお願いします」と明るく言ってくれたのには胸にこみ上げるものがありました。タイトルがまた「当たり前の幸せ」ですからね。重く響く題名をつけられた作品が軽やかなクラリネットで奏でられました。
続いては、福島市出身の大学3年生、佐藤実夢さん作曲作品「チェロのための音遊び」を福島市の高校1年生の誉田憲丸さんがチェロで演奏。
高校1年生、緊張したと思います。途中特殊奏法も含まれる作品でしたので、間違ってもお客さんにはばれにくいという利点もあったかとは思いますが、1500人以上を前に堂々とした演奏でした。
そして、トリは仙台市の大学3年生、中村祐登くん作曲作品「ホルンのためのimpromptu」を同じく仙台市出身の大学3年生、千葉大輝くんがホルンで演奏します。
「impromptu(アンプロプテュ)」とはフランス語で「即興曲」の意味。千葉くんは『火の鳥』のソロより緊張したそうです。
団員作品発表コーナーの後は、団員たちの眠れる作曲家としての資質を見事に開花させてくださった藤倉大さん編曲の『Three TOHOKU Songs』で前半終了。
栁澤寿男さん、前半の出来栄えに上機嫌です。
そこに割って入ってくる中村くん。
ちゃっかりしてるなあ。後半に向けて頑張っての意を込めてパチリ。
カメラを向けると必ずポーズの田嶋さんにつられて、同じホルンの赤間奏良くんもピース。繰り返しますが、中学生の身長の伸びには目を見張るものがあります。たぶんこの3年間で20センチは伸びたのでは。
今年のホルンはみんな元気で、パート��しての一体感がありました。
左の狩野くん、
ハイタッチでリラックスしてるなと思いきや。
団員全員が板付いたところで、急に舞台袖に「やばい、やばい」と走り込んできました。もうチューニングがはじまっています。楽屋に戻っていったみたいです。
しばらくしてまた「やばい、やばい」と階段を降りて来ました。もうチューニングは終わってますよ。
なんとミュート(消音器)を忘れて楽屋に取りに戻ったようです。忘れ物が多い東北ユースオーケストラですが、本番での楽器の忘れ物は初めてでした。団員への楽器忘るべからずの教訓としてご紹介しておきます。
後半のメインの楽曲の最初は、クロード・ドビュッシー作曲の交響詩『海』です。坂本監督、団員の演奏を指揮者モードでチェックです。
栁澤さんの指揮も自然と大振りになる『海』です。
今日も録音のために来られているサウンド・エンジニアのオノ・セイゲンさんのブースで。
坂本監督、サウンドチェックに夢中のあまり、人知れず指揮!
こちら反響板の隙間からいい撮影スポットを見つけました。
降り番メンバーも舞台袖で応援しながら聴き入っています。
順調に『海』の演奏が進みます。
エンディングを舞台袖特設カメラで録画してみました。
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20分強のドビュッシーの『海』の演奏が見事に終わりました。満員の観客からの拍手を受けて下手袖に下がる栁澤さん。
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とりあえずひと山超えたぞー、の笑みですね。
ひと呼吸置いて、舞台袖で待ち受けていた坂本監督と。
続いて今年のメインの2曲目となるイーゴリ・ストラヴィンスキー『火の鳥(1919年版)』の演奏がスタート。
こちら降り番は余裕でしたが、
舞台上では緊迫した熱演が。しかし、東京公演よりものびのびした演奏になっているような気がします。そして大団円と呼ぶにふさわしいエンディングを迎えると、このひと時を残したいと思わず舞台袖特設カメラの録画ボタンを押しました。
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胸に染み入る会場からの鳴り止まない拍手です。
そして、ついにアンコール。司会の渡辺真理さんが代表・監督の坂本龍一さん、指揮の柳澤寿男さん、ゲストの吉永小百合さんをお一人づつ舞台に呼び込んで、今日の感想コメントを聞いていきます。
東北ユースオーケストラ第3期の最後の演奏となります。坂本監督の1984年の作品で前身の楽器修復プロジェクト『こどもの音楽再生基金』からのテーマ曲『ETUDE(エチュード)』。5年前のルツェルン・フェスティバルARKNOVA松島での演奏がアップされていましたのでリンクをはってみます。
ステージでは吉永小百合様も手拍子でご参加。
ついに東北ユースオーケストラ演奏会2018のすべてのプログラムが終了しました。
舞台袖に引き上げてくる出演者、団員。
仙台出身の畠山茜キャプテンは地元公演で第3期の活動の幕を降ろしたことに感無量の表情です。
お互いのパフォーマンスを称え合う時間、
「引率の先生」役としては1年で一番うれしい時間です。
東北ユースオーケストラの活動では、いつもは意識的に距離を取っているはずの高橋姉妹もそろって感極まっています。
ピンボケでも姉妹だとわかりますよ。
小百合様にも堂々と握手を求めに行く団員たち。
みんな、泣いているのか、笑っているのか、両方なのか、もはやわかりません。
ひとつの舞台を一緒につくったという意味において、
日本を代表する大女優も世界的音楽家も、
マエストロも有名なアナウンサーも、
小学生も明日から社会人になる大学生も、
ステージに立った一人一人の全員がフラットに仲間になる瞬間です。
お疲れ様でした。
左隅の曽我さんと話している福島事務局の竹田学さんも涙。栁澤さんご不在の時には代わって指導していただいたおかげで今日の演奏が成し得たと思います。どうもありがとうございました。今期の裏方MVPです!
大型楽器の搬出を終え、きれいになった舞台袖。
ここから団員の記録係、福島の大学2年生、阿部“だんでぃ”秀捷くん(チェロ担当)の写真を使って、今年初のイベント、大学4年生の卒団者送り出し会の模様をお伝えします。
まずは緊張の本番から解放された笑顔たち。
団員にはホールの客席に座ってもらって卒団生を一人一人紹介していきます。
まずはヴィオラの服部未来子さん。
時にあえて団員に苦言を述べる憎まれ役を買って出てくれて、本当に頼りになる存在でした。そして、北海道の鉄道会社勤務になる身でありながら、東北ユースオーケストラOBOG会をつくり、初代会長になると宣言してくれました。
チェロの下村鈴之介くん。
自衛隊勤務の異色の経歴の持ち主で、確かなチェロの腕前で坂本監督とのカルテットやトリオの演奏もしてくれました。
コントラバスの曽我ひかるさん。
ここで、居ても立っても居られず、「わたしがコメントを拾います」と、
渡辺真理さんがハンドマイクを持って客席に。この機転のきく行動力にいつも助けられています。ありがとうございます。
オーボエの鳥居紗季さん。
三年間にわたって盛岡駅から新幹線に乗る岩手県組の面倒をみてくれました。
送り出し会は、この立派なホール貸切状態で進んでいきます。
次はホルンの曽根瑞貴さん。
第1期からのメンバーで4月からは仙台市の職員として保育園の先生に。OBOG会の経理を担当してくれるそうです。心強い限りです。
クラリネットの木戸口夏海さん。
4月からはプロの演奏家を目指すとのこと。TYOには引き続き指導や何かで関わっていきたいと、有難いことを言ってくれました。
フルートの佐藤星香さん。第3期からのメンバーでありながら、貫禄の溶け込み具合でしたよ。
ひと通り卒団生の紹介が終わったところで、坂本監督からのサプライズ。
2年間キャプテンの大役を務めてくれた畠山茜さんに特別に花束のプレゼントです。
畠山キャプテン、アイドル風に感謝の挨拶。
わたくしが最近眼にした『常勝キャプテンの法則――スポーツに学ぶ最強のリーダー』という本がありますが、この2年は畠山さんのキャプテンシーがあってこそだったと思います。
ここで仙台公演にも来られた一般社団法人東北ユースオーケストラの代表理事、押木 正人 さんからも一言いただきます。
東京と仙台の演奏会への労いと今後の一層の発展を願うお言葉を述べられた押木さんは、この4月からヤマハの国内販社であるヤマハミュージックジャパンの代表取締役社長に就任されます。
「こどもの音楽再生基金」の立ち上げメンバーである押木さん、引き続きのご支援をよろしくお願いします。
最後はこれも恒例となってきた、坂本監督の音頭による指1本からはじまる五本締め。
お疲れ様でした〜。
このあとは怒涛のごとく監督に群がる即席サイン会&記念写真大会です。
東京に戻る新幹線に間に合うギリギリまで快く応じる監督。
しかし、みんなとのお別れの時間です。
団員も家路に着く、こちらは仙台駅経由で福島駅まで向かうバスの車内を。
仙台公演も数々のメディアに取り上げていただきました。 当日のNHK仙台放送局のニュースになりました。 理事社で主催の河北新報の記事、同じく理事社の福島民報の記事、毎日新聞の記事、産経新聞の記事、電通報も東京公演も含めて記事に。
東北ユースオーケストラ第3期の活動が終わりました。今期はせっかくいただいた寄付をカタチにとパーカッションを購入し自前で保有し、福島民報本社のホールをお借りして、定期的な練習場所となるホームを持つことができました。3年目にしてようやく活動の足腰となる基盤が整った気がします。また前期から2年目のキャプテンとなった畠山茜さんのもと、団員の役割分担が組織化され、とりわけ自らがクラウドファンディングで予算を調達しながら、被災地に有志演奏会を行うという自主的な試みは、東北ユースオーケストラの存在意義を強く感じる活動でした。それらに伴い、JR東日本発足30周年の東京駅でのエキコン出演や三菱商事のCM音楽演奏、宮城県の311追悼メモリアルイベントでの演奏やバドミントンリーグのトーナメント戦のオープニングアクトを務めるなど、活動の幅も外へと広がってきました。
音楽を「言葉」という意味の世界に閉じ込めるのは、音楽が表現する「言語獲得以前」の人間の豊かな感性を抑圧する蛮行だという考えを持つわたくしでありますが、今年の『海』と『火の鳥』が象徴する意味の思いがけない広がりには、最後に触れておきたいと思います。今期をスタートさせるにあたって、演奏会でのメインの楽曲選考の過程で、団員のアンケートも取りつつ、最終的に坂本龍一監督とマエストロ栁澤寿男さんのやり取りでクロード・ドビュッシーの交響詩『海』とイーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ組曲『火の鳥(1919年版)』と決まりました。『海』の選曲については、津波被害が甚大であった東日本大震災を契機に生まれたオーケストラが『海』を演奏するのはどうかという声がいくつか挙がったのは事実です。TYOの初年度の夏合宿で、ひょんなご縁から沖縄県の宮古島に伺い、東洋一と言われる美しい海岸で顔をつけ、「しょっぺえー!」と叫んだ子供を忘れることはできません。東北ユースオーケストラの団員にとっては「入ることができない海」でした。今期の石垣島合宿でも「生まれて初めて生の海に入った」団員ばかりか、「怖くて震災の後、海を見ることすらできなかった」という声を聞きました。
沖縄の見事な色合いを刻々と見せる海を2度体験したことは、団員にとっての「恐ろしい海」のトラウマを癒すには大切な過程だったのだと思えます。今年が没後ちょうど100年にあたるドビュッシーの作品は、団員の実力ではとても太刀打ちできるものではなく、石垣島では『海』のスコアを前に音を出すことすらできない団員を前に柳澤さんがメロディを歌っていた。そんなレベルからのスタートでした。
実際、3月の直前合宿に入る段階では「本当にお金を払って観に来ていただくお客様に満足してもらえる演奏になるんだろうか?」との不安が絶えませんでした。プロのオーケストラでも難しいという『海』『火の鳥』なのだから、うまくいかなかった時はご愛嬌で許してもらえるんではなかろうかと無理に楽観的に考えることもありました。しかし、最後は何とかするミラクルオケ、東京公演、仙台公演を経て、プロのオケでは出せない、東北ユースオーケストラならではの、青々と瑞々しい『海』と『火の鳥』を堂々と演奏しきってくれました。
今期のキックオフが7月17日の「海の日」で、トランペットのパートリーダーでクリスチャンの中村祐登くんのFB投稿で知ったのですが、今期の最後の演奏となった仙台公演の3月31日はイースター(復活祭)。『火の鳥』は世界各地で不死鳥や鳳凰として表象される再生・復活の象徴です。つまり第3期は『海』ではじまり、心理的にも『海』を乗り越え、技術的にも『海』を克服し、『火の鳥』という復活を遂げるドラマトゥルギーの中にあったと言えます。坂本監督と栁澤さんの2曲に込めた選曲意図が、たまたま7月17日の海の日と、3月31日のイースターという時間軸でシンクロした。これが誰かの意図的な計らいであったのではなく、偶然性のもとに仕掛けられたドラマであったことに大きな驚きを隠しえません。さらには3月31日はオーケストラの日であったと聞きました。なんでも「耳に1番」の語呂合せとのこと。だったら「オーケストラの日」でなくても、「ビッグバンドの日」でも「弾き語りの日」でもよいのではないかと思いますが、そこはご愛嬌。キリスト教も日本的駄洒落も味方につけたいものです。東北ユースオーケストラは意図せざる時の良き差配を受ける、偶然性の祝福に恵まれたオーケストラなのだと自信を持って大きく構えてみたい気がします。先日、「“たまたま”の人生を楽しむ」という紹介で日本テレビのニュース番組でコメンテーターを務めたわたくしにとってみると、東北ユースオーケストラは人智を超えたパワーで存続しているのだとでもうそぶいてみたくもなります。
さて、類い稀なTYOの肯定感に浸りながらも、「海を乗り越えた」第3期は東北ユースオーケストラにとって、シーズン1が終わった一区切りのような気がします。もう夏合宿は沖縄でなくていいんじゃないかという運営上の都合だけではなく、より音楽性や創造性を磨いていくシーズン2のはじまりだと考えています。その意味で、せっかく出来上がったTYO流の『海』や『火の鳥』は折に触れて繰り返し演奏したらいいのではと個人的に思います。『火の鳥』は全曲版もあることだしと言うと、火を噴く人も出てきそうなのでこの辺でやめておきます。
演奏会2018年にご来場いただいたみなさま、実現のためにご支援ご協力いただいたみなさま、どうもありがとうございました。
東北ユースオーケストラはみなさんから活動資金をいただくことで存続している団体です。来期第4期の活動に向け、現在クラウドファンディングで呼びかけさせていただいています。 https://japangiving.jp/campaigns/33779 引き続きのご支援をどうぞよろしくお願いいたします!
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■産廃汚泥を下水に垂れ流し業者5人逮捕、創業当初から30年間?産業廃棄物の汚泥を公共下水道に垂れ流したとして、神奈川県警生活経済課と大和署は9日、廃棄物処理法違反の疑いで、横浜市南区の産廃処理業「松本建設」(破産手続き中)の実質経営者の女(66)=同区南太田1丁目、同社役員の男(65)=同市金沢区富岡東5丁目=両容疑者ら男女5人を逮捕した 元スレ 1ばーど ★2020/09/10(木) 06:40:51.06ID:YP7yQVaH9 ■産廃汚泥を下水に垂れ流し 業者5人逮捕、創業当初から30年間? 産業廃棄物の汚泥を公共下水道に垂れ流したとし て、神奈川県警生活経済課と大和署は9日、廃棄物処理法違反の疑いで、横浜市南区の産廃処理業「松本建設」(破産手続き中)の実質経営者の女(66)=同区南太田1丁目、同社役員の男(65)=同市金沢区富岡東5丁目=両容疑者ら男女5人を逮捕した。 県警によると、同社は横浜市の許可を得た産廃の中間処理業者だが、約30年にわたってスーパーの廃棄食品や道路工事などで出た汚泥を無処理で下水道に投棄し続けていたとみられる。県警は5人の認否を明らかにしていない。 逮捕容疑は、共謀して昨年5月16日〜7月30日、5回にわたり同市金沢区福浦1丁目の同社処理施設近くの公共下水道内に汚泥約470トンを投棄した、としている。 県警によると、処理施設の収容場所にためた汚泥をそのままポンプで下水道に流す手口だった。施設内に処理設備はあったが、約30年前から不具合で機能しない状態だったという。周辺の健康被害は確認されていないが、県警が汚泥を分析したところ、下水道法の排基準値の最高で約160倍の亜鉛、約130倍の鉛などが検出された。 9/9(水) 21:07 カナロコ by 神奈川新聞 …
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【アンケート企画】 「2017年の3本」
WLでは読者のみなさんから2017年に見た舞台作品の中で印象に残った3本を、その理由などを書いたコメントとあわせて募るアンケートを実施しました。WLスタート以来毎年行っているこの企画、3回目の今回は20名の方にご参加いただきました。掲載は到着順です。
雨宮 縁(会社員) ・劇団四季『ノートルダムの鐘』(四季劇場〔秋〕) ・ホリプロ『パレード』(東京芸術劇場 プレイハウス) ・ホリプロ『ファインディング・ネバーランド』(東急シアターオーブ ) 『ノートルダムの鐘』は何が悪なのか? 怪物は誰なのか? 人間の業と差別について圧倒的なクワイアの歌声で問われる秀逸な作品。 ミュージカル『パレード』はストレートプレイを見ているようなミュージカル。アメリカ南部で起こった実話の冤罪事件をミュージカル化した異色作。ある少女殺人事件をきっかけに人種差別や成功者への妬みなどから警察やマスコミ、政治家様々な立場の人達により犯人に仕立て上げられていく恐ろしさ。これが物語ではなく実話であるというさらなる恐ろしさに声が出ない程の衝撃だった。実力者ぞろいの出演者達で見応え満点だった。 ブロードウェイミュージカル『ファインディング・ネバーランド』は来日公演。ミュージカルらしい作品。イマジネーションの世界は自由だと夢のあるミュージカル。窮屈な現実から解き放される感動作で前向きな気持ちにしてくれます。(年間観劇本数:24本)
小田島 創志(大学院生・非常勤講師) ・KAAT『オーランド―』(KAAT神奈川芸術劇場) ・やみ・あがりシアター『すずめのなみだだん!』(小劇場てあとるらぽう) ・地人会新社『豚小屋』(新国立劇場 小劇場) 1.KAAT『オーランド―』…ジェンダー、言葉の意味、文化慣習、時代精神などの脱自然化を、舞台上で緻密に表現。観客の想像力を喚起する役者さんの演技も白井さんの演出も圧巻。「男である」「女である」のではなく、「男になる」「女になる」というボーヴォワール的な価値観を、演劇的にスタイリッシュに表現していて素晴らしかった。 2.やみ・あがりシアター『すずめのなみだだん!』…個人と社会、個人と宗教の関係性を、コミカルかつ丁寧な言葉を紡いで描いた意欲作。テーマが複層的で、観客側の思考を誘う。 3.アソル・フガード『豚小屋』…個人よりも集団が過剰に優先され、個人の犠牲の上に集団が成り立つ状況下で、戦争に駆り立てられる庶民の「受難」を、北村有起哉さんと田畑智子さんの壮絶な演技で伝えていた。(年間観劇本数:53本)
豊川 涼太(学生) ・ロロ『父母姉僕弟君』(シアターサンモール) ・木ノ下歌舞伎『東海道四谷怪談 通し上演』(あうるすぽっと) ・ままごと『わたしの星』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) 今年の3本を選んでみると、全てが再演(初演はどれも観ていない)だった。 特にロロ『父母姉僕弟君』はキティエンターテイメントプロデュースで、より大きなサイズで大きなスケールで上演できていた。 他の方々も語るように、再演賞を設ける等、演劇界全体で再演文化の定着に力を入れて欲しい。(年間観劇本数:50本程度)
なかむら なおき(観光客) ・月刊「根本宗子」『スーパーストライク』(ザ・スズナリ) ・劇団四季 『ノートルダムの鐘』(四季劇場〔秋〕) ・こまつ座『イヌの仇討』(紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA) 『スーパーストライク』は良し悪しの前にもっとも欲していることが届く作品だったので。『ノートルダムの鐘』はあえて出来事だけを表現して観客に判断を任せているのが面白かった。そして『イヌの仇討』は忠臣蔵を下敷きに目に見えない得体の知れない大きな力を描いていて続々としたなぁと。あ、これらは趣味です。 で、上演された作品を見ると、今の世の中に応答するような作品が多いように思うのです。そして小劇場界隈で育ってきた演出家が大劇場の演出を務めるようになってきているように思うのです。また少し変わったかなぁと思うのです。(年間観劇本数:100本ぐらいですかね)
北村 紗衣(研究者) ・ケネス・ブラナー演出、トム・ヒドルストン主演『ハムレット』(RADA) ・カクシンハン『マクベス』(東京芸術劇場 シアターウエスト) ・モチロンプロデュース『クラウドナイン』(東京芸術劇場 シアターイースト) 今年は『ハムレット』を6本見て、アンドルー・スコット主演版や川崎ラゾーナ版なども良かったのですが、ヒドルストンの『ハムレット』が一番好みでした。ハムレット以外の若者役を全員女性にするキャスティングが効いていました。カクシンハンの『マクベス』はまるでゴミみたいなセットでしたが、内容はゴミとはほど遠いエネルギッシュなものでした。『クラウドナイン』は大変面白かったのですが、あまりよく考えずに「レズ」とか「少年愛」などという言葉を使っているマーケティングは大変残念でした。 (年間観劇本数:121本)
町田 博治(会社役員) ・青☆組『グランパと赤い塔』(吉祥寺シアター) ・小松台東『山笑う』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) ・ SPAC『アンティゴネ ~時を超える送り火~』(駿府城公演特設会場) 『グランパと赤い塔』 吉田小夏が人の綾なす思いを紡ぎ、丁寧に織り上げられる。 背筋が伸び厚みと洒脱さを合わせ持つ老紳士を佐藤滋が見事に演じ、福寿奈央の初老の妻も見事。二人が作品に一本の筋を通す。 裏の主役とでも言うべき女中役を大西玲子が、目線、ことば、仕草、身体で見事に演じていた。役者が皆素晴らしい。 『山笑う』 兄と妹、地方と都会、肉親ゆえの諍い。 静かに光る小さな宝石の様な作品。 松本哲也の演出がシリアスさと笑いをバランスさせ絶妙。厚みのある演技、役者達のバランスも絶妙。 『アンティゴネ』 冒頭女優石井萠水がミニ・アンティゴネを演じ客を引き込む。 舞台は一面水。灯篭が浮かび明かりが揺れる。あの世と現世の境としての水、水上で舞台が静かに進む。背後に投射された動きが影となり、台詞、歌唱が絡み、幻想的。 「弔い」にこだわるアンティゴネ、最後、円く連なってゆく静かな盆踊りが弔いを暗示胸を締め付ける。(年間観劇本数:299本)
文月 路実(派遣社員・フリーライター) ・ゴキブリコンビナート『法悦肉按摩』(都内某公園) ・NODA・MAP『足跡姫』(東京芸術劇場プレイハウス) ・ 範宙遊泳『その夜と友達』(STスポット) 「五感を総動員する」と謳っていたゴキコンの本公演は、まさにその通りの悪夢だった。入り口で目隠しされ、何が何やらまったくわからない状態で味わう地獄。四方八方から泥水や血糊や汚物や虫が飛んでくる。突然役者が飛び出してきて身体の上に載る。内容はいつも通りのひどい話だ。テント内はかなり暑く、なにやら異臭がすごい。終わったときには頭に虫がとまり、レインコートは泥や血糊でぐしょぐしょ、汗で眉毛が半分消えておったとさ。そんなに過酷だったのにもかかわらず爽快感を覚えたのは不思議。普段使わない感覚を刺激されたからか。これこそが演劇の力なのでは。『足跡姫』は勘三郎へのオマージュ。ここ数年の野田作品のなかで一番ストレートに「想い」が伝わってきて、純粋に美しいと思った。『その夜と友達』は、生きづらさを抱えた「夜」というキャラクターが個人的に刺さった。「しんどさ」を知ってしまった人間にも希望はあるのだと信じたい。(年間観劇本数:42本)
永田 晶子(会社員) ・努力クラブのやりたくなったのでやります公演『フォーエバーヤング』(人間座スタジオ) ・燐光群『湾岸線浜浦駅高架下4:00A.M.(土、日除ク)』(ザ・スズナリ) ・dracom Rough Play 『ぶらんこ』(OPA_Lab) 上演日順です。 ・説明が削られ、描くべきことだけ残った合田団地氏の劇作は、努力クラブの魅力のひとつです。同世代の俳優による静かな演技で、人生における中途半端な時間の儚さをより楽しめました。 ・燐光群の公演で、劇場という閉ざされた空間が持つ危うさを確かめました。戯曲に負けない強い演技と、暗闇にわずかな光を感じるラストシーンが印象的でした。失われた街に思いを馳せる機会にもなりました。 ・既存戯曲を本読み一回・稽古一回で上演するラフプレイを観て、演劇は一度きりの瞬間に在ると思いました。会場全体に広がる「わかりあえなさ」に、戸惑いつつも笑いました。戯曲を忠実に辿ろうとするデッサンのような行為は、dracom の新作での慎重な表現にも繋がっていたと思います。(年間観劇本数:100本くらい)
青木 克敏(地方公務員) ・SPAC『アンティゴネ〜時を超える送り火〜』(駿府城公演特設会場) ・ロシア国立サンクトペテルブルク マールイ・ドラマ劇場『たくらみと恋』(世田谷パブリックシアター) ・NAPPOS PRODUCE『SKIP〜スキップ』(サンシャイン劇場) あまりぱっとしない演劇状況に思えました。その中で、SPACの宮城聰さんの取り組みは素晴らしいものに感じています。アンティゴネは構成がしっかりとしていて分かりやすいかったですが、私の価値観を揺るがしてくれるほどの感動を、与えてくれました。たくらみと恋では、俳優陣をはじめとして芸術レベルの高さを見せつけられました。そして、スキップ。なんだかんだ言っても、キャラメルボックスは、夢と希望をいつだって分かち合おうと走り続ける劇団です。(年間観劇本数:32本)
矢野 靖人(一般社団法人shelf代表理事・芸術監督) ・WORLD STAGE DESIGN『The Malady of Death』(台北国立芸術大学) ・HEADZ『を待ちながら』(こまばアゴラ劇場) ・SCOTサマーシーズン2017『サド侯爵夫人 第二幕』(新利賀山房) The Malady of Death”はバンコクの盟友、僕がいちばん信頼している僕自身のプロデューサー的存在でもあるリオンが演出する作品とあってわざわざそれを観るためだけに台湾まで行った作品。そういうことが出来る/したいと思える仲間がいることに感謝。今年いちばん記憶に残っている。デュラス晩年の最後の恋人は実はゲイで、しかし献身的にデュラスを愛し、デュラスに尽くしたという。美しく儚い作品だった。鈴木忠志「サド侯爵夫人 第二幕」はこの超絶技巧のこのアーティフィシャル(人工的)な日本語台詞をねじ伏せた俳優陣に快哉。久しぶりに劇場で観劇した飴屋法水さんの「を待ちながら」はこちらが思っていた以上に泣けるほどに清々しくベケットで。選外に1作品、APAFワン・チョン氏演出の「Kiss Kiss Bang Bang2.0」を。ノンバーバル且つインターナショナルな演劇の新たな可能性を垣間見せてくれた。(年間観劇本数:43本)
野呂 瑠美子(一観客) ・劇団昴ザ・サードステージ『幻の国』(サイスタジオ大山第1) ・劇団チョコレートケーキ『熱狂』(シアターウェスト) ・文学座創立80周年記念公演『中橋公館』(紀伊国屋ホール) どの時代をどういう切り口で、どのように選ぶかは作者の意識と力量による。劇団チョコレートケーキの古川健さんは、大きな歴史の流れを巧妙に切り取り、多大な資料を元に、新たに肉付けをして、その時代がどんなであったかを観客に見せてくれる。『幻の国』『熱狂』ともに、3時間ほどの舞台からは、困難な時代に置かれた人々の思いと息遣いが伝わってくるようであった。文学座の真船豊の『中橋公館』も、殆ど知られることがなかった、外地・北京で敗戦を迎えた日本人の様子をよく伝えていて、感心した。どの作品も、過ぎ去った時代を描きながら、実は現代をきちんと映し出している秀作揃いで、感動とともに、印象深い作品となった。最近あまり見なくなった歌舞伎だが、今年は仁左衛門の『千本桜』がかかり、おそらく彼の一世一代の知盛であろうと思われて、拝見した。人生は速い。(年間観劇本数:80本)
片山 幹生(WLスタッフ) ・SPAC『病は気から』 (静岡芸術劇場) ・ゴキブリコンビナート『法悦肉按摩』 ・平原演劇祭2017第4部 文芸案内朗読会演劇前夜&うどん会 「や喪めぐらし」(堀江敏幸「めぐらし屋」より) ノゾエ征爾翻案・演出のSPAC『病は気から』は17世紀フランス古典主義を代表するモリエールの喜劇の現代日本での上演可能性を切り拓く優れた舞台だった。ゴキコンはいつも期待を上回る斬新で過激な仕掛けで観客を楽しませてくれる。高野竜の平原演劇祭は昨年第6部まで行われ、いずれも既存の演劇の枠組みを逸脱する自由で独創的なスペクタクルだったが、その中でも文庫版200頁の小説を4人の女優がひたすら読むという第4部の企画の体験がとりわけ印象的だった。食事として供された変わったつけ汁でのうどんもおいしかった。(年間観劇本数:120本)
kiki(勤め人) ・日本のラジオ『カーテン』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) ・あやめ十八番『三英花 煙夕空』(平櫛田中邸/シアトリカル應典院) ・風琴工房『アンネの日』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) カーテン:この一年で拝見できた日本のラジオの作品はどれも面白かったが、結局一番好みにあったのがコレ。劇場の使い方や題材の面白さに加えて、奥行きのある人物描写で15人のキャストの魅力が充分に生きた。 三英花 煙夕空:あやめ十八番初の二都市公演で、東京と大阪の会場がどちらも物語によく似合いつつ印象はガラリと変わって面白かった。音の響きや照明も変わり、キャストも変わって、���京公演では濃密な仄暗さが、大阪公演ではエッジの効いた明暗がそれぞれ印象に残った。 アンネの日:風琴工房の題材への取り組み方にはいつも心惹かれるが、観る前には地味だろうと思っていたこの作品がこの一年で最もツボにハマった。描かれた人々の誠実さと強さ、それを演じるキャスト陣の説得力が魅力的だった。(年間観劇本数:155本)
りいちろ(会社員) ・第27班 キャビネット公演B『おやすみ また明日 愛してるよ』(シアターミラクル) ・コマイぬ『ラッツォクの灯』(石巻 GALVANIZE gallery) ・アマヤドリ『青いポスト』(花まる学習会 王子小劇場) 2017年も足を運ぶ先々に多彩な舞台の力がありましたが、中でも常ならぬ舞台の密度や呼吸を感じた3作品を。 この一年、くによし組や劇団ヤリナゲ、劇団普通、KAZAKAMI、遠吠え、キュイなど若い作り手たちの作品にも心惹かれつつ、てがみ座『風紋』、風琴工房『アンネの日』、青組『グランパと赤い塔』、うさぎストライプ『ゴールデンバット』、ワワフラミンゴ『脳みそあるいてる』など実績のある作り手の更なる進化を感じる作品も数多く観ることができました。FunIQの5人の作演での連続上演の試み,ロロの「いつ高シリーズ」やシンクロ少女の『オーラルメソッド4』のように過去作品と新作を合わせて上演することも作品の世界観を再認識させ作り手の進化を感じさせる良いやり方だったと思います。またあやめ十八番や水素74%などの歴史建造物での上演にも、スイッチ総研の諸公演やガレキの太鼓ののぞき見公演などの企みにも捉われました。(年間観劇本数:315本)
矢作 勝義(穂の国とよはし芸術劇場 芸術文化プロデューサー) ・ イキウメ『天の敵』(東京芸術劇場 シアターイースト) ・TBSテレビ『俺節』(TBS赤坂ACTシアター) ・風琴工房『アンネの日』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) 『天の敵』は、戯曲・演出・美術・俳優など全てのピースが寸分の狂いもなく組み合わされた、これまで観たイキウメ作品の中で一番素晴らしい舞台でした。 『俺節』は、主演の安田章大の歌・芝居ともに素晴らしく、回りを固める小劇場系の俳優も一丸となり、見事に劇世界を支えていました。何と言っても、脚本・演出の福原充則の仕事ぶりが充実していました。 風琴工房の詩森ろばさんは、2017年の1年間で多数の作品を生み出していましたが、なかでも『アンネの日』は、教養エンターテイメントと名付けたいと思います。事実の羅列や解説にとどまらず、それをエンターテイメントに昇華しながらも、一つの物語として創り上げられたとても素敵なものでした。 番外として、自身の劇場制作の、青木豪作、稲葉賀恵演出の「高校生と創る演劇『ガンボ』」と桑原裕子作・演出の穂の国とよはし芸術劇場プロデュース『荒れ野』を上げておきたいと思います。(年間観劇本数:132本)
須川 渡(研究者) ・ dracom『空腹者の弁』(ウイングフィールド) ・山下残『無門館の水は二度流せ 詰まらぬ』(アトリエ劇研) ・アイホールがつくる「伊丹の物語」プロジェクト『さよなら家族』(AI・HALL) 今年も関西で多くの作品を観ました。劇場の閉館はたびたび議論になりますが、dracomと山下残はこの問いかけに作品という形で応答していました。dracomはウイングフィールドという場所で演劇を続けること、山下残はアトリエ劇研がなくなることの意味を、どちらも非常に挑戦的な方法で示していました。『さよなら家族』は、伊丹という場所と時間をかけて丁寧に向き合った秀作です。スタイルは様々ですが、観客である私も、同じ場所にとどまって演劇を観続けるとはどういうことかに思いを巡らせた1年でした。 (年間観劇本数:133本)
かいらくえんなつき(演劇ウォッチャー) ・ロロ いつ高シリーズvol.4『いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した』(こまばアゴラ劇場) ・悪魔のしるし『蟹と歩く』(倉敷市立美術館 講堂) ・範宙遊泳『その夜と友達』(STスポット) 2017年も前半は大阪にいたので、関東近辺の演劇はそこまで多くは観ていません。とはいえ、ここにどうしても挙げたいと思う関西の作品に出会えなかったのは、残念。 選んだのは今後ずっと忘れないだろうなと思う観劇体験だったものです。 この他に挙げられなかったのは、FTで上演された『忉利天(とうりてん)』 (構成・演出・美術:チェン・ティエンジュオ)。 これだけをみていうのもと思いますが、それでもいいたくなるぐらい、中国の勢いを感じさせられ、それと裏返しの日本の閉塞感を感じました。 2017年は(も?)色々と区切りとなる出来事の多かった1年だったような気がしています。 毎年同じようなことを書いている気がしますが、2018年はもっともっと新しい刺激的な作品に出会いたい!!(年間観劇本数:おそらく150本くらい)
薙野 信喜(無職) ・ Schauspiel Leipzig『89/90』(Berliner Festspiele) ・Akram Khan Company「Until the Lion」(Main Hall, ARKO Arts Theater) ・日本総合悲劇協会『業音』(西鉄ホール) 2017年は、海外で観た20数本の作品の印象が強い。パリで観たオペラ・バスティーユ『ラ・ボエーム』、オデオン座『三人姉妹』、コメディ・フランセーズ『テンペスト』、ベルリンドイツ劇場『フェードル』『しあわせな日々』、ソウルで観た Yulhyul Arts Group『Defeat the ROBOT 3』、明洞芸術劇場『メディア』の印象が強烈だった。
九州に来演した作品では、ヨーロッパ企画『出てこようとしてるトロンプルイユ』、サードステージ『舞台版ドラえもん のび太とアニマル惑星』、イキウメ『散歩する侵略者』、トラッシュマスターズ『たわけ者の血潮』 などが楽しめた。 九州の劇団では、劇団きらら『プープーソング』、そめごころ『ちずとあゆむ』、転回社『夏の夜の夢』 がおもしろかった。(年間観劇本数:156本)
でんない いっこう(自由人) ・東京芸術劇場『リチャード三世』(東京芸術劇場 プレイハウス) ・新国立劇場『プライムたちの夜』(新国立劇場小劇場) ・文学座『鳩に水をやる』(文学座アトリエ) 1.リチャード三世の人格形成に身体の障害を前面に出さなかったし、最期の苦しみを、脳内の様子が突然飛び出し襲い掛かるような映像と音響で訴えたプルカレーテ演出の意外性が惹きつける。 2.人は何に向って本心を言えるのか、自身の老後は応答するロボットを考えていたが、人型のAI・スライムなら2062年でなくとも頷けてしまう身近な物語であった。人を失した悲しみ、本来わかりえない存在、一個の人間。 3.童話作家だった男、今は認知症の鳩に水をやる男。誰にわかると言うのだ、その内面の心理が。過去を生きている男に通じる回路を持たない今を生きてる者達。次点は若い俳優、演出家の成長が嬉しい『その夜と友達』『ダニーと紺碧の海』『ナイン』気になる劇作・演出家で楽しかった『ベター・ハーフ』大野一雄に惹かれ、その時代の映像が見たくて、疑念を持ちながら観たのに何故か後半引き込まれてしまった『川口隆夫「大野一雄について」』等がある。(年間観劇本数:27本)
小泉 うめ(観劇人・WLスタッフ) ・点の階『・・・』(京都芸術センター 講堂) ・風琴工房『アンネの日』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) ・神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』(京都芸術センター 講堂) 前半は人生最高ペースの観劇本数だったが、後半は落ち着いて、おしなべてみれば例年並みの本数になった。そのため見逃したと思っている作品も多い。演劇が演劇であるが故の悔やみである。 『・・・』 ファンタジーという言葉だけでは済まされない不思議な観劇体験となった。窓の外の雪や隙間から入ってくる冷たい空気までもが演劇だった。 『アンネの日』 詩森の戯曲はいつも緻密な取材力とそこからの跳躍力に支えられているが、この戯曲からは一人の女性として、ひいては一人の人間としての彼女の姿が明瞭にうかがえ、彼女の代表作となるだろう。 『バルパライソの長い坂をくだる話』 神里のターニングポイントと言える。再び上演される機会もあるだろうが、あの場所であの役者陣でのスペイン語上演は、当然のことながら二度とないものを観たという印象が強い。 西日本での観劇も例年よりは少なかったが、結局KACで上演された2本を選んでいるあたりも私らしいところか。(年間観劇本数:355本)
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別れ話から殺傷…元交際相手と母親を逆恨みした非道男の身勝手(FRIDAY)
別れ話から殺傷…元交際相手と母親を逆恨みした非道男の身勝手
5/1(金) 13:02配信
2010年8月31日に犯行に及んだ河内明。犯行後、自分の腹も刺したが、こちらは全治2週間のケガ
約10年前の夏に愛媛県で発生した母娘殺傷事件。男は、わずか交際3ヵ月ほどから“本性”をみせ、DVが始まる。「家族会議」で別れを納得したはずの男だったが、その2ヵ月後に悲劇が起きた。ノンフィクションライターの小野一光氏が事件の背景を追う。就活女子大生をレイプした自ら「性獣」と名乗る住友商事社員******************** 2010年8月31日の午前3時半頃、愛媛県松山市の路上で、女性の悲鳴が響きわたった――。 現場を見下ろすマンションの住人は、後に取材に訪れた私に説明している。 「深夜に絶叫に近い感じで、女性の『イヤだー』や『やめてー』、『キャー、助けてー』という声が響きわたり、驚いて目を覚ましました。やがて救急車やパトカーが来たので、ベランダから下を見ると、女の人が倒れていて手足を動かしていました」 その場から加害者の姿は消えていた。被害に遭ったのは同市内の飲食店従業員・早田真紀さん(仮名、24)。彼女は胸と背中を刃物で刺されており、救急隊員が到着した際には「元カレに刺された」と口にしていた。 やがて愛媛県警の捜査員が真紀さんの自宅を訪ねたところ、室内で真紀さんの母・山形路子さん(仮名、62)が胸や背中を包丁で刺され、息絶えているのを発見する。その近くでは腹に傷を負った真紀さんの”元カレ”であるダーツバー店員・河内明(32)が倒れており、すぐに病院に搬送された。 犯行状況について、在京ワイドショーのディレクターは語る。 「病院に運ばれた河内は『自分がふたりを刺した』と認めています。まず路上で真紀さんを刺し、その場から真紀さんの車を運転して彼女の自宅へと向かい、路子さんを刺してから自分の腹を刺したそうです。自宅には真紀さんと前夫との間にできた3歳の長女がいましたが、無事でした」 事件発生直後の取材ではわからなかったが、時間の経過とともに、犯行時の詳細が明らかになってきた。路子さんの葬儀に参列した男性は言う。 「事件当日、路子さんは血相を変えた河内が家に乗り込んできたとき、真紀さんの長女をかばうようにして刺されました。長女は祖母が刺されるところと、河内が自分の腹を刺す状況を目の当たりにしており、服には血がついていました」 真紀さんと河内が交際を始めたのは事件の1年ほど前のこと。河内が勤めるダーツバーに、真紀さんが客としてやってきたことがきっかけだった。やがて真紀さんが借りていた松山市内のマンションに、河内が転がり込むかたちで同居するようになる。 当初こそふたりの仲は良かったそうだが、次第に河内は暴力を振るうなどの本性を見せ始め、真紀さんは別れ話を切り出すようになっていた。彼女の知人は証言する。 「河内と付き合って3ヵ月目くらいから、真紀さんは顔にアザを作るようになり、最初のうちは河内をかばっていましたが、今年(10年)2月ごろにはすでに愛想をつかしていて、『もう男はいらん。仕事に生きる』と話していました」 しかし、河内が真紀さんからの別れ話を拒絶していたため、事件前に彼女は自分のマンションを出て、路子さんの住む自宅に避難していた。 ◆DV、ギャンブル、借金まみれ 暴力団事務所にも出入り 河内に関して周辺で取材を進めると、次々と彼についての悪評が集まった。彼を知る飲食店従業員は次のように話す。 「河内は地元の高校を卒業後、最初は土木関係の仕事についていましたが、いつからかダーツバーで働いていました。完全に”元ヤン”といったタイプで、喧嘩っ早い男です。暴力を振るうのは男に対してだけではありません。以前、付き合っていた女性と飲んでいる時に、理由はわかりませんが、その女性を殴っている姿を見たことがあります」 また、別の知人は河内について、趣味はパチスロと賭け麻雀で、麻雀に関しては、地元の暴力団事務所に出入りして卓を囲むこともあったと明かす。 「河内はギャンブルで借金まみれ。延滞もあったことからブラックリストに載っていて、サラ金などでカネが借りられないため、友人にカネを借りては返さないということを繰り返していました。また、暴力団員を伴って知人を呼び出し、なかば脅すようにカネを借りることもあったそうです」 前出の真紀さんの知人によれば、別れを渋る河内に対して、路子さんやその姉妹を交えた話し合いが行われていたという。 「じつは事件の2ヵ月くらい前、松山市内の飲食店で河内と真紀さん、母親の路子さん、それに路子さんの妹の4人が集まって、今後についての話し合いをしています。そこで河内への説得が行われ、彼はその場で別れを承諾したはずだったのですが……」 そこでの協議の結果、河内は期限を決めてマンションから立ち退くことになっていた。前出の知人は続ける。 「真紀さんはエステシャンになる夢を持っていて、河内が転がり込んでいたのは、彼女がいずれ仕事場兼自宅にするつもりで借りた、2LDKのマンションでした。母親の路子さんが住んでいた自宅は、以前真紀さんが前夫と長女、それに路子さんの4人で住んでいた借家です。河内が出ていったあと、9月1日からは真紀さんと長女、路子さんの3人で、そのマンションに同居することになっていました」 フラれたことに逆恨みを抱いた男が、肉親だけで暮らそうとする元交際相手と、その母親に危害を加えるという、極めて理不尽な犯行だったのである。 路子さんを刺殺した直後にみずからの腹を刺し、全治2週間の傷を負っていた河内は、回復を待って逮捕され、10月21日に殺人などの罪で松山地検に起訴された。 また、一時は集中治療室に運ばれ、意識不明の重体だった真紀さんは、その後、片肺を失いながらも、日常生活が行えるほどに回復したとの情報を得ている。 11年5月には、殺人などの罪に問われた河内への、裁判員裁判による判決が松山地裁で下され、裁判長は「残忍な犯行で理不尽に命を奪った刑事責任は重大。被告に反省の弁はあるが、十分とはいえない」として、懲役28年(求刑懲役30年)の判決を言い渡している。 取材・文:小野一光 1966年生まれ。福岡県北九州市出身。雑誌編集者、雑誌記者を経てフリーライターに。アフガン内戦や東日本大震災、さまざまな事件現場で取材を行う。主な著書に『新版 家族喰い 尼崎連続変死事件の真相』(文春文庫)、『全告白 後妻業の女: 「近畿連続青酸死事件」筧千佐子が語ったこと』(小学館)、『人殺しの論理 凶悪殺人犯へのインタビュー』 (幻冬舎新書)、『連続殺人犯』(文春文庫)ほか
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最終更新:5/1(金) 13:31 FRIDAY
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source https://uyscuti.biz/2020/05/02/32077/
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003年4月15日夜、福岡市中央区の日本語学校に魏と王、楊らが職員室に忍び込み、現金約五万円を盗んだ。そこは王が在籍していた学校だった。王、楊はその1月にも、同区のファストフード店に侵入し、現金230万円を盗んでいた。ここは楊のアルバイト先。4月9日には魏が別の中国人留学生2人と共謀し、中国人留学生から現金約26万円を奪うという事件も起こしている。 「3人で何かやろう」 5月上旬には、楊のアルバイト先だった同市博多区のラーメン店経営者襲撃を計画する。「面識があると発覚の危険性が高い」として断念したが、この時すでに「殺害して金を奪う」ことを念頭に置いていた。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
中国人留学生
王亮(ワンリャン 当時21歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は土木会社を経営し、裕福な家庭に育った。02年春、日本の大学進学を目指して福岡市内の日本語学校に入学し、同級生とともに寮で暮らし始めた。当初授業の出席率は96%と高かった。(出席率が95%以下になれば入国管理局に報告されるという。さらに低くなると強制送還される)だが王はこの年の9月、同級生とトラブルを起こし、その時の学校の対応に不信感を抱き、ほとんど学校に出てこなくなった。同級生によるとこの頃から王の様子が変わっていったという。03年4月の時点で、王はMさん宅から700mほどのところにある家賃2万円のアパートに楊とともに住んでいた。5月15日に日本語学校から、このままで除籍処分になると通告された。就学生が除籍処分されると、就学ビザを取り消され不法滞在になる。王は1度中国に帰り、両親に再編入のための授業料の工面を依頼していた。だが、両親が王持たせたはずの授業料は学校に納めておらず、除籍処分となっていた。
楊寧(ヤンニン 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は長春市の中日友好協会に勤め、母親は同市の製紙工場に勤務。王とは両親同市が古くからの知り合いだった。01年10月に就学ビザで来日し、日本語学校を卒業した後、私立大学国際商学部に入学し、アジアの貿易経済について学んだ。02年には1科目を履修しただけでさぼり、後期には病気と称して休学したが、実際は福岡市内のハンバーガーショップでアルバイトをしていた。03年4月に1度は復学したが、年間50万円余の学費が払えず、納入期限の6月末を前に「親から学費を受け取るために一旦帰国する」と大学側に説明して出国した。この時、実家には戻っていない。
魏巍(ウェイウェイ 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
河南省出身。父は工場を経営する資産家。魏自身も高校卒業後、3年間人民軍(※)で班長を務めた。その後大連の外国語学院で日本語を学び、日本留学後は先端技術を学ぶという希望を持ち、01年4月、福岡の日本語学校に入学している。02年4月には予定通り、コンピューターの専門学校に入学した。ここでは成績もよく、奨学生候補だった。故郷には恋人もいて、ごく普通の学生だったが03年になると一転して学校を欠席がちになった。魏のアパートには中国人の女性が何人も出入りするようになり、4月には留学生仲間と中国人宅に押し入り、26万円を強奪、6月には知人の女性に暴力をふるったとして傷害容疑で逮捕された。この頃、インターネットカフェにしばしば通うようになり、王や楊と知り合った。4月9日にはかつて住んでいたアパートへ強盗を押しこんだこともある。また、他人名義で携帯電話を契約する詐欺も働いている。金にも対して困っていない優秀な学生だった彼が、03年春を境に突如犯罪行為を繰り返すようになっていた。
出典blog-imgs-34.fc2.com
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
Mさん一家
殺害されたMさん一家は、Mさん(41歳)、妻C子さん(40歳)、小学6年の長男K君(11歳)、小学3年生の長女H子ちゃん(8歳)の4人暮らし。 Mさんは1962年福岡市で生まれた。私立博多高校を中退し、中州のクラブ勤めを経て上京。東京・麻布十番の焼肉店などで修行した後、88年に福岡市中央区で韓国料理店をオープンさせた。この店は繁盛し、有名人なども多く来店、テレビでも紹介されるほど有名店になった。その後、東区にも別の焼肉店を開店し、売上も好調だった。 C子さんも福岡県出身。九州女子高校を卒業後、94年頃まで化粧品会社の美容部員として福岡空港の国際線ターミナル店で働いていた。MさんとC個さんは高校時代から交際しており、90年5月に結婚した。Kくん、H子ちゃんも生まれ、幸せ家庭を築いていた。 しかし、最初の悲劇が起こった。01年9月、BSE(牛海綿状脳症)騒動が起こり、その煽りを受けて経営していた両店は廃業に追い込まれたのである。 MさんはC子さんの親族と一緒に婦人服販売会社を始めるが、売上が低迷、さらに東区の焼肉店開店のために自宅を抵当に入れて借りた4000万円の返済も滞るようになった。 03年3月、夫婦は婦人服販売業の業績が上がらないことから、C子さんの親族から独立して、衣料品などをデパートに卸す仕事を始めた。その2ヶ月後、Mさんの知人から休眠中の会社「W」を継承して復活させた。C子さんを社長にして、衣料品販売業を本格的に乗り出した。 また失業し、金に困ったMさんは闇ビジネスと呼ばれる仕事にも手を広げていく。事件後、家宅捜索で福岡市中央区のマンションから大麻草が発見されている。Mさんは大麻草を栽培して、売りさばいていたとされている。 またMさん一家は94年から96年にかけて、外資系生保会社と、99年には国内の生保会社と、一家4人の生命保健契約を締結した。保健金額はMさんが1億2000万円、C子さんが2500万円、KくんとH子ちゃんが各2100万円の総額1億8700万円に上り、その月々の保険料は14万円近くになっていた。 ちなみにMさん一家は王、楊、魏の3人とは面識はなかった。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
強襲
凌遅刑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91
凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を��えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処された人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。この刑罰は李氏朝鮮(朝鮮王朝)でも実施されていた。また、これに酷似したものとして隗肉刑がある。
Mさんの帰宅
日付が変わって翌午前1時40分頃、Mさんが帰宅してきた。愛車のベンツC200に乗って、自宅の車庫前まで帰ってきた時、携帯電話で友人と会話している。Mさんは「今、家についた。これから駐車場にいれるから、後でかけ直す」と電話を切ったが、その友人に再び電話がかかってくることはなかった。家に入ろうとしてきたMさんを犯人達は玄関で待ち伏せていた。工事現場から盗んできた鉄パイプを、いきなり後頭部を殴りつけた後、前に向かって横から額を殴り、さらに左目周辺や頬を殴ったり、全身を蹴ったりした。さらに犯人達は2階で失神していたH子ちゃんを担ぎ下ろし、父親の目の前でいたぶったり殴打しながら、Mさんに何かを聞き出そうとリンチを加え続けていた。だが、Mさんはなにも答えず、「用がなくなった」ということで、H子ちゃんの首を絞めて殺そうとした。Mさんは土下座して、「娘だけは助けてくれ」と言ったが、彼らはこれを嘲笑し、殺害した。さらにMさんの首を白いビニール紐で絞め、気を失った彼を浴槽に浸けて溺死させた。 3人は一家の遺体を運びやすくするため、まずMさんの両手に手錠をかけ、首から足にかけて工事現場で盗んできた太い電線で縛り、H子ちゃんを背負わせる格好で固定した。また、ちょうど血のついて放置しておけない玄関マットがあったので遺体を覆い隠すために持ち出し、車を乗り捨てる際に近くの草むらに捨てた。 3人は一家4人をベンツに乗せ、その車に一緒に乗りこんだ。 博多港箱崎埠頭の岸壁に到着した3人は遺体を海に沈めるために、前もって用意しておいた重りを1個ずつつけ始めた。Mさんの腕とH子ちゃんの足を手錠でつなぎ、その手錠のチェーンの部分に別の手錠をつないで、鉄アレイをつけるなど、万全を期した。C子さんとKくんはそれぞれ両手に手錠をかけ、鉄アレイをつけた。千加さんは服を着ていないので浮き上がりそうだったので、特別に鉄製の重りを針金で巻きつけていた。 遺体を捨てた後、Mさんのベンツを運転して久留米市に向かった。これはNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)でも確認された。ベンツは「ブリジストン久留米工場」クラブハウスの専用駐車場に乗り捨ててあるのが発見されてい。3人はベンツ放置後、JR久留米駅から福岡に戻った。 20日午後、博多港箱崎埠頭付近の海中から一家の遺体が次々と発見された。これほど早く遺体が発見されることは、3人にとって誤算以外の何物でもなかったはずだ。 なお事件当日の行動については3人の供述をもとに書いたが、3人が責任をなすりつけ合ったり、供述そのものを変えているので、不確かな点も多い。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
3人の浮上
事件に使われた手錠は台湾製でレバー操作をすれば簡単に取り外しができる金属製のおもちゃ、鉄アレイは重量20kgのもので、それぞれ福岡市内にある量販店で売られていた。この店の防犯カメラにそれらを買った人物が映し出されていた。その映像から似顔絵が公開されると、日本語学校の生徒が「同級生(王)に酷似している」と証言、ここで王とその交友関係が洗われるようになった。ここで楊の存在が浮上し、楊の携帯電話の通話記録から魏の存在も明らかになった。 また、遺体に付けられていた直方体の鉄製の重り(重量30kg)は魏が過去に頻繁に出入りしていた女性宅がある福岡市博多区の賃貸マンションの所有会社が非常階段への鉄製扉を開放させておくために特別注文したものだった。 事件後、魏は出国2時間前に空港へ向かう途中の路上で、別の暴行事件により身柄を拘束された。だが、この時すでに王は楊とともに福岡空港から上海に出国していた。この航空券は犯行の3日前に楊が用意していた。2人は中国の公安当局に身柄を拘束されることになった。 供述 「窃盗目的で侵入した。黒幕は存在しない」(王、楊) 「Mさんは高級車を持っていて金持ちそうだったから狙った」 「5月下旬に王から『おまえは格闘技ができるだろう。それなりに荒っぽいが、カネになる仕事がある』と誘われ、楊を入れて3人でMさん一家を襲った。家族4人の首を絞めて殺した後、遺体をMさんのベンツでう実まで運んで投げ捨て、その車も遠くまで捨てに行った。王は誰かに殺��を依頼されていたようで、私は成功報酬として約1万円を受け取っただけだ。残りの報酬はまだもらっていない」 (魏) http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
出典kyushu.yomiuri.co.jp
公判を終え福岡地裁を出る魏被告
福岡一家4人殺害事件
王被告土下座にも消えぬ怒り 遺族、厳罰求める
出典kyushu.yomiuri.co.jp
福岡一家4人殺害事件
中級人民法院裏門で、通行人をチェックする職員
憤りは収まらなかった。昨年六月に起きた福岡市の松本真二郎さん一家四人殺害事件。遼寧省遼陽市の中級人民法院で十九日に開かれた初公判で、孫たちの命を奪った元留学生二人と初対面した遺族には、日本語での謝罪もむなしく響いた。「頭を下げれば済むと思っているのか」。一年四か月を経ても消えない激しい怒りが、異国の法廷に広がった。 王亮被告(22)は白いワイシャツ、白っぽい綿のズボン姿で法廷に姿を見せた。楊寧被告(24)は、黒いトレーナーに白っぽいズボンをはき、二人ともオレンジ色のベストを着ていた。両足には鎖、両手には手錠がかけられていた。 起訴状が読み上げられる間、楊被告は、検察側の質問に対し、はきはきと答えたが、何度もまばたきするなど緊張が見て取れた。王被告も時折、目元に手をやるなど、落ち着かない様子だった。 犯行現場となった松本さん宅の子供部屋や浴室、廊下に残された血痕などの写真がスクリーンに次々と映し出されると、王被告は終始目をそらし、楊被告も顔を上げようとしなかった。 静寂が破られたのは、王被告の意見陳述の途中だった。突然、後ろを振り返り、約三メートル離れた傍聴席の最前列に座っていた松本さんの妻千加さんの父親、梅津亮七さん(78)に向かって土下座し、約三十人いた傍聴席から驚きの声が上がった。さらに、裁判長に向き直った後、もう一度後ろを向き、日本語で三回、「すみません」と繰り返し頭を下げた。 数日前に遼陽市入りした梅津さんは、公安当局などを回り、両被告の逮捕に謝意を伝え、厳罰を要請したという。公判終了後、「頭を下げて済むものではない。それ以上にひどい目に遭わされた」と怒りが収まらない様子だった。 http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20090427-462876/news/20090427-OYS1T00564.htm
裁判経過
楊寧被告人は1審で死刑判決を受け、控訴棄却を経て2005年7月12日に死刑執行された。一方、王亮被告人は遼寧省遼陽市人民検察院により無期懲役が確定した。 日本で逮捕起訴された魏巍被告人は1審の福岡地裁で事実を認めた後、ほぼ黙秘を通し、死刑判決を受けた。2審では、一転して動機や犯行過程、3人の役割、遺族への謝罪などを詳細に証言したが、控訴は棄却された。上告したが2011年10月20日に最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は上告を棄却して死刑が確定した。 2014年現在、魏巍は福岡拘置所に収監されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
出典stat.ameba.jp
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
日中の捜査共助と問題点
同事件は主犯格2人が中国に逃亡したため、中国との捜査共助が最大の焦点となった。結果的には日本国内の反響の大きさに配慮した中国当局が積極的に協力したため、早期逮捕が実現したが、一方で他の事件では日中間の捜査協力がほとんどなされていない実態や、アメリカ、韓国以外と犯罪人引渡し条約が結ばれていない現状も指摘され、国際化する犯罪に各国捜査当局の対応が遅れている点が浮き彫りとなった。 また、福岡地裁で行われた魏巍被告人の公判では、中国公安当局が作成した王亮、楊寧両被告人の供述調書が日本の裁判で初めて証拠採用された。これまで日本の刑事裁判では、海外の捜査当局が作成した調書は「証拠能力なし」とされることが多かったため、この判断は「国際犯罪の捜査に道を開く」と評価されたが、黙秘権が存在しない中国の調書を問題視する意見もあり、議論を呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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六花出版 「精神障害者問題資料集成 戦後編 第十巻患者会運動」 所収原稿
患者会運動の資料を
史料として残すための
羅針盤として
Ⅰ. 資料の大海を渡る羅針盤
歴史とは、無残なものである。無慈悲なものである。それは勝者によって書かれ、勝者にとって最大の利用価値として残されるからである。精神病患者会運動の『勝者』とは何者であろうか。患者会運動とはキチガイのセーカツそのものなのではないのか。この二つの奇妙でキョーレツな問いが「資料の大海を読み解く羅針盤」となる。全国「精神病」者集団的・全精連的な在り方と、地を這う患者会・キーサン患者会的な在り方との対比が、羅針盤である。セーカツとウンドーを対比しつつそのバランスが羅針盤となる。
この資料集成そのものは、おそらくは、敗者のためにある。何故って、精神医療改革運動為るものは、厚生省と精神病院経営者と精神医の学会によって散々に敗北をさせられてきたからである。だからこそ後世のために残すことそのものに意義がある。だが、精神医療改革運動の中で当事者運動は、もっと言えば『精神病患者会』ほどないがしろにされてきたものはない。当事者運動の中で最も大きな顔をしてきたのは、全家連を中心とする家族会であり、活動家団体としての全国「病」者集団であり、精神医良心派改革派のプシ共闘なのであり、それこそ、運動体としてのナンタラ共闘会議ドウタラ連絡会議等々全国ナンタラ日本ドウタラ等々であった。もちろん、その意義は一定程度はあったのだと想う。特に政治的運動的には。そもそも、そう「当事者運動」と云うのなら、家族も精神医も看護士も当事者だ。だが、そうだからこそ、我々のようなキチガイのキチガイによるキチガイのための「精神病患者会」為る在り様からの異議もまたアッタのである。
Ⅱ. 地を這う患者会列伝
大体が、名前からして全く違う雰囲気を醸し出している。愛媛松山の「ごかい」(言わずと知れた「わしらの街じゃあ」「天上天下病者反撃」のキーサン患者会の親分である。キーサン患者会、地を這う患者会の希望の星であった)静岡藤枝の「藤枝友の会」(地元の精神病院内の患者自治会から発展して地域患者会として作業所に変化も拒否し、徹底して会員の会費だけでたまり場を維持し続けている類まれな患者会である)神戸の「ニューカトレア会」(阪神三人衆と言われたカチコミの親分達が言っていた、山本深雪氏が大阪人権センターだの大精連だのと目立ち始める前は、ここにパラシュートして来て元々から居るような顔して、クスリ飲んでるとこなんかいっこも見たことない、と)博多の「福岡わらびの会」(今現在に至っても手書きの会報を発行し続けている凄いトコロである)東京亀戸の「新松橋亭」(しんまつと親しみを込めて呼んでいた。東京の下町で、「天上天下病者反撃」を読んで感動して作ったのだとのことで、クボタクリニック脱藩組の支援者たちもナカナカの人物である)大阪高槻の「灯会」(言わずと知れた精神病患者会の老舗中の老舗、俳句を作り続けている)堺の「ガンバロー会」(全国各地にあった精神病院の患者自治会出身の会である。このころは、浅香山病院、岩倉病院、光愛病院等々の全開放を目指した病院には、もれなく患者自治会があったものである)住吉の「旅立ちグループ」松江の「つぼみ会」「麦の会」山形の「こまくさ会」信州の「プチノマド」「ひなたぼっこの家」広島の「モスク」(南座を惜しむすき者の会の頭文字をとったそうである)名古屋の「雑草会」清瀬の「一寸五分の会」(ここの会報は毎回面白いものだった)岡山の「すばる」鹿児島の「わかち会」土佐の「西風の会」北海道の「すみれ会」(回復者クラブと自称し始めた最初だと想う。道回連も名乗っていたかも。その後セルフヘルプグルーブだのマインドだのと、イロイロな名乗りが��まれたが、その後どうなったのだろうか。但しココは、セーカツの匂いはとてもしていたと想う)東京の「友の会」(患者会の元祖かもしれない)富山の「ルナの会」福井の「らばの会」いや「ろばの会」だったか記憶が定かではない。
キリスト教系を前面に打ち出した「心の泉会」(各地の教会に集う月一くらいのたまり場をたくさん網羅していたので、考えてみれば、ココこそがある種実質的な全国的連合体だったかもしれない)全国「病」者集団の名古屋分会「ゼロの会」京都分会「ひまわりの会」全精連の県連としてあった「松ぼっくりの会」(ココは本当に患者会としてのセーカツの実質があった)全精連とは独立した立場の「兵精連」(全精連系の活動家が名乗る前に勝手に名乗ってしまおうと云うノリであった。実質はあったのかなかったのか)「大精連」(「病」者集団とも全精連とも独立した第三の制度政策提言路線政治大好き山本深雪氏の牙城と言っていいだろう)などもある。
そして我が京都山科の「前進友の会」(1976年十全会病院を脱走した病者、命からがら退院した患者、アルバイトスタッフだった学生たちで結成した。初期のころは学生部隊の反十全会闘争と多彩なレクに特徴があった。88年からは、患者会が設立母体で運営主体である共同作業所も運営しつつ)である。こうやって、ココに想い付く限りの患者会の名前を並べ得ただけでも、書かせてもろうただけでも、ありがたいことなのである。地を這うように70年代から80年代にかけて、精神病患者同志のレクと食事会とたまり場から澎湃としての沸き起こり活動を続け、全国ドウタラとか少しもかかわりも持たず、90年代少しづつ減っていきそして大方は21世紀には、消えていた。
Ⅲ. 全国「病」者集団的なるものとの対決
ところが不思議なことに全精連為る団体が93年に、厚生省の役人を発足大会に来賓として迎え、鳴り物入りで出来上がってくるのである。何が不思議かと言えば、各地の特色ある患者会は段々と活動を縮小していっているときに全国の連合体が出来ていったのである。ご丁寧なことには、県連と云うものもできていった。本当に実態があったのだろうか。現在の全精連の現状を考えてみれば、答えはおのずから明らかであろう。もう一つおまけには「病」者集団はこの動きに対して「歴史的な意義がある」として賛成しその宣伝ビデオに赤堀さんまで出演させてしまった。当時、不思議でかなわんかった。だって、全国「精神病」者集団と云う歴史ある全国組織があるのだから、結集したければソコに結集すれば良いことだったから、、、「地を這う」ように各地にあった患者会は、結局はその「病」者集団にも、新手の全精連にも積極的に合同していこうと云う動きには為っていかなかった。では何故にそうはならなかったのか。結論から言えば、このあたりから、「ごかい」「藤枝友の会」「前進友の会」と云う「キーサン患者会」「地を這う患者会」と自称していた我々と「病」者集団との対立が決定的になっていったのである。それは、当事者運動総体の歴史から見れば、ある種不幸なことだったかもしれない。もちろんその責めはえばっち自身もキーサン患者会も負わねばならぬが、また、大野萌子氏も「病」者集団も負わねばならぬだろう。
ここで重要なのは、本質的には、大野萌子氏と対立していたのであって、山本真理氏と対立していたと云う事ではない事だ。山本氏は大野氏の『代貸』に過ぎなかったのだから、当然であろう。90年代を通して我々が対立していたのは大野萌子氏の路線であった。70年代80年代、偉大な先駆者であり指導者だった大野氏は、誰もが敬い「世話になった」と言うほどの存在であった。それは確かなことだと想う。当事者としての大野氏の存在がどれほどのものだったのか、全国精神「病」者集団がどれほどの存在であったのかは、筆者が書く必要もあるまい。この資料集成のそこかしこにちりばめられているはずである。だが、その「偉大なる」大野萌子氏も、赤堀さんを奪還して以後は決定的に路線を誤った、とそう想う。90年代以降、個人的にも運動体としても誰もが逆らい得ななかった大野氏に面と向かっておかしいと言い始め、問い続けたのが、キーサン患者会だったわけだ。
はっきりとした対立軸は、ナンだったのだろう。全精連をどう規定するかは、大きかった。キーサン患者会は「アリャ御用団体だ」とそう公言していたところに、「病」者集団は「歴史的意義がある」と、言ってしまった。手帳制度の問題も大きかった。大阪での手帳のヒアリングを「ごかい」がカチコミを掛けて、完全に粉砕してしまったぐらいだった。我々は反対の立場だった。保安処分の『監察札』になってしまうぞ、と言っていた。一方「病」者集団は精神障害者にも手帳をとばかりその名も『赤い手帳』が欲しいと、ニュースに書くありさまだった。大野氏の路線だった。この辺から「制度政策提言路線」に急速にはまり込んでいく。その延長線上に山本真理氏や関口明彦氏らの活動家が、30万を超える入院中の患者を、圧倒的なナニも知らずに呻吟している病者を鉄格子とあの厚い鉄の扉の向こうに『置き去りにしたまま』国会の参考人になったり与党か野党か知らんが政党の検討委員やナンかの公的な機関の審議委員やあまつさえ精神医の学会の理事に為ったりしていった。それどころか、自分に敵対する者の口を封じるのに刑訴や民訴や第三者機関やらの権力に売り渡すことまで平然として、他の患者を脅しながら自分から手を挙げて国会の参考人になりに行くという桐原尚之氏のような若手を作り出してしまった。大野萌子氏の「病」者集団型制度政策提言政治活動家論客路線の当然の帰結であろう。
しかし、そもそもの対立軸は、根本的な精神病患者会の存在自体をどうとらえるかと云う点にあったと想う。「病」者集団の立場は、つまるところ、大野萌子氏は、常々こう言っていた。「医者が作ったものは、患者会とは認めない、だから「ごかい」や「藤枝友の会」は、患者会では、ないのだ」と。これは、筆者が、「病」者集団の事務局会議に参加していたときに、直接そう聞いた。コレを聞いたとき、チガウなぁぁぁぁぁーーと想った。実際に「藤枝友の会」や「ごかい」の食事会に参加させてもらっていて、ソウ感じた。デモ、なんとなく、少しは、少しは、当たっているようにも想えた。「ごかい」と笠陽一郎医師との関係や「藤枝友の会」と中江清員医師との関係のことを言っていたのだろうが、そうはっきりと斬って捨てられるような薄ぺらたいものではないんですよ。だが、その上で、笠医師も中江医師も、精神医たちは相当強く患者会の意思決定に影響を与えているのもまた事実であった、と、そう想う。それを全否定してしまうのもまた、事実とはチガウと想うのである。今にして想えば、相互にその微妙なトコロを理解し合えていれば、と、そう想う。患者会とはキーサンのセーカツと病状と支援者のノリの上に微妙に成り立っているものなんですよ。
キーサン患者会、全国の地を這うような患者会とは、本当に、重たい病者中心のセーカツ共同体的な側面が強かった。だからこそ、レクと食事会であった。一緒によく飯を喰った。患者会には患者会独自の味があるのです。「藤枝友の会」の駿河親子は、うまかった。「ごかい」で食べたあのカレーの味は忘れられない。「福岡わらび」のあの博多水炊きは激ウマだ。「しんまつ」で食べた、あれはナンだったのか冷しゃぶだ、美味しかった。たしか「ごかい」でも食べた。みんなで、お皿を回して、あれは高知全家連大会にカチコム前日の夕食だったか帰ってきてからの夕食だったか。だから、「病」者集団の食事会に参加させてもらっていた時に、コレは患者会の食事会じゃないな、会議参加者の休憩時間だなとは想ったし、「病」者集団の名古屋分会「ゼロの会」の食事会は、確かに患者会の食事会にはチガいないものの、参加者全員が大野萌子氏に過剰なくらいのおべっかを使いながら食べているのがよく分かった。本当に過剰なまでの阿諛とお追従に満ち満ちていた。味なんか忘れてしまった。そうそれは、患者会の食事会ではなかったのだ、まさしく、大野萌子氏を囲む会だったのだし、大野萌子氏の食事会であった。 だから、「病」者集団は、活動家集団から、一歩も出ずじまいだった、のだ。本当に重たい病者中心の患者会ナンて、出来るはずがない。本当に口の重い身体の重い病状の重いクスリの重い病者たちが集まってくるには、そう、やはり精神医は必要なことだったのだ。重たい病者たちは、活動家風の健病者風の患者を、最初のとっかかりには決して信用はしないのだ。だって、部屋長と配膳係と、そしてすぐに退院していくヤツ等なんだから、、ソコのトコロを分かってはいないと、キレい事風の活動家集団になるだけのコトだ。そしてそのキレい事が、大野萌子氏の独裁体制を担保していた。ジッサイのところ、本当に患者会を作り、維持し、活動し、セーカツし続けていくのは、ムズカシイことなのだ。その最初のとっかかりに、そしてその継続にも、精神医や医療従事者や、健常者や健病者達は、必要だったのだ。モンダイは、その後、患者会側と、精神医とが、どのような関係性を構築するか、なのだ。特に、主治医ー患者関係にある精神医が、患者会の設立メンバーである場合には、その関係性によって、患者会側の主体性と精神医側の医療内容が、問われることに為るの、だ。患者会を維持するにあたっても、実は、健常者も、精神医も、そして、健病者も、居る必要があるのだ。だって、維持するには、ケッコウな金も、パワーも、手仕事も、必要になってくる。精神病患者会とは、結構な手間ひまと気力体力が必要なのである。その時の役割分担を考えてみたら、よい。モンダイは、分裂病圏、うつ病そう病躁鬱病圏、精神医はじめ支援者達、AC気味不登校気味やノイローゼや神経症圏の屈折した青年健病者達、四者の関係性に在るのだ。役割分担の在り方と、発言力の調整と、人間関係にアルのだ。支援者としての、形式会員でよい我が医療の監視をしてくれ、口は出さぬが手は貸そう、口も出さぬしカネも出さぬがヤレルことはヤルと云う精神医、看護婦看護士、ワーカーが必要なのだ。だが、発言力に制限を設けねばならぬ、そして、ドウいうなかまたちの意向が、まず優先なのか、、、、なのだ。ソコの微妙なトコロを分かり合えなかった「病」者集団も伝えきれなかったキーサン患者会も相互に誤っていたのだ。今なら、両方の誤りが見える、気がするのだが、、、、えばっちの妄想か幻覚か、、、 ハナシを戻そう、それでいて、大野萌子氏は、プシ医師達からの積極的カンパを当てにしていた。精神神経学会での募金箱を持っての金集めには、ビックリした。学会最終日の総会議場でのあの光景は、実に異様なモノだった。アレじゃあ確かに、総会の壇上占拠ナンて出来るはずはない。理事会や運営委員会に、当事者を入れろと云う方向に走るハズである。一方キーサン患者会の側は、90年代を通じて、学会レク「カチコミ」をぶちまかしていた。松山学会、長崎学会、大阪学会、長岡学会、仙台学会、高知全家連大会、静岡全家連大会、大阪手帳ヒアリング、我々にとってはレクだった。シンドいキビシい病状を掛けたレクだった。クルシカッタ。精神病患者の病状を伴った怒りの爆発をソノマンマ、レクとして壇上占拠して叫び続けるのである。「造反無理」であった。造反するものに理屈は無いのである。大野萌子氏は「論客になって論破せよ」とのことであった。それが出来得る精神病患者がどれだけ居ると云うのだ。「造反有理」と「造反無理」の対立であった。
Ⅳ. 岡田さんとの出会い、それは羅針盤の意味
最後に岡田さんとの出会いと驚きを書いておこう。それが「羅針盤」の意味となろうから、、、あれは、15年の春、八王子ホットスペースの20周年記念の御祝い会の場で同じテーブルに座ったのが、キッカケだった。どちらが先に声を掛けたか記憶が定かではない。たった3年前のことなのに。戦後版の精神医療資料集成をしているとのことだった。その後、手紙のやり取りから、反十全会市民連合の資料などを送るようになった。その中で、これほどの資料を残そうとしている人が、なんと精神病患者会の会報を何一つ持っていないことが分かった。驚愕した。「ごかい」のあの大部の「3冊セット会報縮刷版」も、「藤枝友の会」が毎年23号にわたって作り続け、病地学会で一冊一冊手売りしていた「ひとりぐらしのうた」も、前進友の会の「兄弟だろ」も「友の会通信」も、各地のたくさんの「地を這う患者会」の会報を、実物を何一つ持っていないとのことだった。精神病当事者団体で、ちゃんと持っているのは「病」者集団関係のモノだけ、とこれは電話口で言われたのか、その時の驚きは本当に曰く言い難い。なんというコトだと、参ってしまった。だからこそ、即座にミカン箱一箱に、友の会の事務室で目につくものはあらあら送った。「興奮している」と云うお返事を頂いた。ぎりぎりで間に合ったのだと想った。助かったとそう想った。これで、少しは遺せそうだと想った。ただ、これだけ「地��這う患者会」があって、それぞれ特色ある会報を出し続け、「キーサン患者会」がバクチクをぶん鳴らし、叫びまくって学会の壇上占拠をし続けていたが、歴史史料として、残すことがどれだけ難しいことか、想い知った。この出会いがなければ、全国にこれほどの「地を這う患者会」が活動をし続けていたことが、忘れ去られていくだけであっかもしれない。この資料集成に、いかばかりかでも精神病患者会の会報が掲載されたことは、感謝のみである。我々「キーサン患者会」が『敗北』していったとは、実に、こういうことではなかろうか。「病」者集団の方は、桐原尚之氏はじめ、国会の参考人として、17年の国会は勝利だ勝利だと大宣伝中である。我々の方は、高齢化し、亡くなる者はみんなあちらに行き、精神病院へ死にに戻っていく、そして、最終的に患者会なるものは、ほぼ無くなっていくことだろう。バラバラになりつつである。そも、どのくらいの会が今の日本で残って活動しているのだろうか、とも想う。『敗者』とは実にこう云うことではなかろうか。
この資料集成を読むにあたって、研究するにあたって、キーサン革命の鬼からの「羅針盤」が、以上である。これが羅針盤に当たらないと思われる方々は、出来得る限り、せめて作業所や精神病院やデイケアや診療所などといった直接に精神病患者と付き合うような場には来ないで頂きたい。コンなコトを言いつのっているのだから『敗北』するはずである。
「キーサン」とは、「ヤクザ」が「ヤーサン」なら、わしら「キチガイ」は「キーサン」やと云う誇りを持った生命の底で居直り、セーカツの底で居直り、街に居座り精神病院で生き延びるための自尊自衛自主自立の自称である。
キーサン革命バンザイ!!!!!
献呈 この拙文を故桜庭章司さんに献呈したい
桜庭章司さんは、僕が知る限り、唯一の、たった一人の『精神医に直接的実際的オトシマエをつけた偉大な先輩病者』である。若い時分、短期間の間文通させていただき、拘置所からのご本人の依頼で、何回か裁判資料などを全文コピーさせて頂くと云うお手伝いをしたことがある。少しは、お力になれたのだろうか。桜庭さん、桜庭さんの『オトシマエ』には、及ばないかもしれませんが、えばっちの『オトシマエ』は、患者会を維持し続け、最も身近な精神医療と福祉に文句を言い続け、精神病患者会のことを世間様に遺し続けるのが、僕の『オトシマエ』ですよ。ゆっくり眠ってください。キーサン患者会は、叫び続けます。
2017年11月14日
前進友の会 キーサン革命の鬼えばっち 江端一起
えばっちのホームページ 乾坤一擲
http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html
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