#田舎暮らしはじめます
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20241207 山歩きとお風呂とカフェの日。お風呂とカフェ
一度家に戻り洗濯物を取り込んでお風呂に向かう。
冬の広いお風呂は良いなぁと湯船に浸かりながらしみじみ思う。青い空に白く儚げな月が見える。こんな青空の下でゆったりと湯に浸かるなんて贅沢だ。何度も言うが外の炭酸泉が好きだ。湯温もちょうど良いし冷たい風が吹いていく中、顎まで湯に浸かって手足を伸ばしきらきらゆらゆらと揺れる水面を眺めるのが良い。体がふやけるまで浸かる。サウナ↔︎水風呂はやったことがない。急な温度変化が苦手なのでやったら整うどころかおかしくなりそう…。でも塩サウナは入る。塩サウナに入ると手洗いと消毒でガサガサになった指先が滑らかになるし、肌もすべすべになるから不思議。
お風呂から出たら化粧水やらシートパックやら美容液やら普段あまり時間をかけてできな���肌のケアをする。それだけでも自分を大切にしているような気分になる。髪の毛も同様に。見た目には変わらなくてもひとつひとつ丁寧に時間をかけた、という自己満足が大事だと思う。
ほかほかになってさっぱりしてお風呂屋さんから出る。空すっかりは夕暮れを過ぎ薄暗くなっていた。冬は日が落ちるのも早い。海まで夕暮れの空を見に行くのも考えたけれど今日はお風呂を選んだ。満足。
さてこれからどうしよう。
友達がLINEギフトでスターバックスのチケットをくれたので出かけてるついでに行ってみよう。田舎に住んでいることもあって自分からはあまり行かないからありがたい。正直どうやってオーダーするのかも分からない。お店に入ってチケットを頂いたんですけどどうやって使いますか、とレジの男性に聞く。
「この金額ですとこのサイズで、甘くないのがお好みでしたら今ですとこのメニューがおすすめです。チケットの金額に近くなるようにこれとこれをトッピングしたらいかがでしょう?フードの方はこのドリンクにはこれが合うと思います。ただチケットより少し価格が出てしまうので差額はお支払い頂くことになります。」とメニューを見せてくれながら丁寧に説明してくれた。おすすめされたものをそのまま頼む。飲んでみたいなと思ったドリンクと食べてみたいなと思ったものだったので驚いた。実際の支払いは51円だった。51円でこんなに優雅な時間と美味しいものを頂ける、感謝しかない。
その場で写真を撮ってチケットをくれた子に送りありがとうと伝えたら、自分のための時間に使ってくれてありがとうと返信が来た。大好き!と思った。
ゆっくりジンジャーラテ(シナモン、ハニートッピング)とケーキをいただきながら、スケジュール帳にその日のことを書く。記念にレシートはスケジュール帳に挟んである。
山歩きをして景色を眺め大きなお風呂に入ってのんびりして、夜にはカフェで自分時間。今回は本当にやりたかったことなのかは分からないけれど、何かしら体を動かして分かりやすく充実した休みの日にしたかった。自分本意で一日を自由に使うのは良い。
これが丸一日何もせず髪も顔も寝起きのままスウェットで寝て過ごしたとしても全然良いし、そんな日だってきっとある。
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18世紀フランスを専門とさせていただいておりますオタクです。これは非常に稀な例なため訂正させてください。修道院というのは純潔であってほしいと願う父親に入れられる娘が大半で、ガチ無垢お嬢様がほとんどです。なので元々淫乱シスター設定はやめてください!淫乱覚醒シスター設定でお願いします! 私は18世紀フランスガチオタクニキですが、史実に基づかないファンタジーえっちも大好きです。ただし、史実に沿ったという前提で元々淫乱シスターぶち込まれ修道院ハッピーライフはやめてください!男に夢見てるふわふわお嬢様たちが男を知るという方向性こそが史実に沿った本物のエロです!! ちなみに、修道院には元娼婦や公娼などが入ることもあります。ただ一度自立した彼女たちを「ぶち込む」権利は誰もなく、大抵実家とも縁を切っているので「出家」のような自主入院です。つまり、元水商売女たちは修道院で返り咲くことはなく枯れ果てています。もう昔の暮らしには戻らないと誓っています。 追加で言わせていただくと、当時、女性は男性に比べて性への過ちは一発アウト事案でしたので、淫乱になる前に修道院にぶち込まれることが大半です。なので、ちょこっとだけえっちなこと知っちゃった子が修道院にいる可能性は極たまぁにありますが学年に一人いるかいないかレベルかと思われます。
昨今のシスターキャラに王道の清楚キャラが希少なのは歴史的に正しい��→野生の18世紀フランス専門オタクによる修道院のガチ解説コミュニ���ィノートが投下 - Togetter [トゥギャッター]
あと、これ言っちゃうとほぼ全ての悪役令嬢ものをぶちのめすことになってしまうので、出来ればここだけの話にしたいのですが、爵位のある女性は仲介人の女性または肉親の男性が居ない場所で、初対面の男性と二人きりになるだけで終わりです。社交界ではもう咲けません うぅ、あと、これもここだけの話なんですが…婚約破棄ってあるじゃないですかぁ…あれ、たまぁに他の女に婚約者取られた系あるじゃないですか…あれマジで有り得なくてぇ…史実!あくまで史実!であれば!寝取った女は淫乱売女呼ばわりされて二度と表に顔を出せません!あんなドヤ顔で主人公見れない! つまり、史実に基づく婚約破棄ざまぁモノにするならば、「あれ?私何もしてないけど王子様に気に入られて乗り換えられたら貴族の反感買って田舎に追放されました!」なんですよね…立場が逆なんですねぇ!!惜しい!!
赤ト 果那(@red_to_kana)さん / X
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「3年後に、君はいくらの給料が欲しい?」
会社員時代、私は採用面接のたびにこんな質問を候補者に投げかけていた。するとその大半は「う〜ん」と首をひねって、答えに困ってしまう。この質問に正解はない。年収500万円でも、1000万円でも、1億円でもいい。中には「サーフィンが大好きで、千葉の九十九里の海沿いに住みたい。生活費は手取りで月15万円あれば十分です。その代わり、波がいい日は休ませてください」。そんな交渉を持ちかけるのだってありだ。私が知りたいのは、目の前の候補者がこれからどんな人生を歩みたいと考えていて、そのためにいくら稼ぎたいのかを根拠をもって具体的に考えているかどうか、だ。そして自分がその金額に値するのだと、私を説得してほしいのだ。
ところがほとんどの人は何も答えられない。中には「3000万円欲しいです!」と意気揚々と答えてくれる人もいるが、「何で3000万円なの?」と突っ込んできいてみると、「なんとなく」「それくらい稼いでいれば凄い」など漠然とした答えしか返ってこない。仕事の時間は人生の3分の1を占めるとも言われる。そんな大切な仕事を選択するための場でさえ、みんなどこか投げやりで他人任せだ。
仕事は、幸せに生きるための手段だ。つまりどんな仕事をするかを考える時には、そもそも「自分がどんな人生を生きたいのか」「自分はどこに向かっているのか」を考えなければ始まらない。
私は、会社とは電車のような乗り物みたいなものだと思っている。これまでに6回転職した私にとっては、会社を変わることは電車の乗り換えに近い。目的地を定めたら、そこまでどうやって行くかを考えて乗り物を選ぶだろう? 同じように自分の人生の目的に合わせて、どんな会社で働くかを決め、乗り込んでいく。途中で自分の目的地と会社の行き先がズレてきたなと思ったなら、そこで一度降りてまた別の乗り物に乗ればいいだけだ。
よく「良い会社」とか「人気企業ランキング」という記事を見たりするが、万人にとって良い会社などあり得ない。一人ひとり人生の目的はバラバラだし、どういう進み方をしたいのかも人によって違う。結局のところ「君にとっていい会社」があるかないかの問題だ。
東京に行きたい人もいれば、北海道に行きたい人もいる。とにかく早く目的地に着きたい人もいれば、寝台列車でのんびり進みたい人もいる。中には「今は目的地を決めず、気ままに流されたい」という人もいるだろう。大切なのは、自分が今どこに向かっていて、何を求めているのかを自覚しておくことだ。大阪から東京に行きたい人が、「目の前に来たグリーン車が座り心地良さそうだから」と、博多行きの新幹線に乗り込んでいたら意味が分からない。
ところがこんな意味の分からない選択が、人生という旅においてはよく見受けられるのだから困ったものだ。「人気だから」「プラチナチケットだから」「乗り心地がいい(福利厚生がいい)から」なんて、行き先も確かめずに人気の列車の椅子取りゲームをしている様子には疑問を抱いてしまう。
若いうちから自分の目的地が明確に決まっている人は稀だと思うが、それにしても「海か山か」「東か西か」「暑い場所か寒い場所か」「都会か田舎か」くらいの大まかな目的地の方向性くらいは定めておいてほしいものだ。
どこへ向かうかも考えず、とりあえず世間体や居心地の良さで乗り込む先を決めてしまい後悔している人を私はたくさん知っているからだ。彼らの中には、もはや引き返すこともできずにいつのまにか「会社に乗っかること」が目的となり、会社という乗り物にしがみ続けるしかない日々を送っている人もいる。
「また月曜日がきたよ……」と憂鬱そうに満員電車に乗り込む。
理不尽な転勤も、クビになるから断れず、泣く泣く家族と離れて暮らす。
誰にでもできる単純で退屈な仕事を、ひたすらこなす。
すべてを捧げてきたのに、定年と同時に強制的に降ろされる。
そんな会社の奴隷のような働き方だけは、君にはして欲しくないというのが父としての私の本音である。
「働く」とは本来、とてもエキサイティングで楽しいことだ。ビジネスこそ最強のオンラインゲームでチームスポーツだと言ってもいい。���社に振り回され仕事のために生きてはならない。
幸せに生きるために仕事を味方につけるんだ。
https://twitter.com/tabbata/status/1645577690207096833?s=46&t=XBYGx0NYt69itB5p-cHcLg
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アメリカでは小学校低学年のうちから、大統領選挙についてクラスで議論するなど、政治的トピックを話題にすることを厭わない。 長引く大統領選の中で「中絶を認めるなんてあり得ない」「銃を使うのは私たちの権利でしょ」と当然のように口にするホストファミリーや友達と議論することに、私はだんだん疲れていってしまった。 みんな、とっても優しくしてくれる。でも、一つの例に過ぎないが、「まさかダーウィンの進化論を信じているの?私たちの祖先がサルと一緒だって言うの?あり得ないわ!!」などと捲し立てられたりすると、拙い英語では反論できない。 ちょうどアイダホに来てから4ヶ月、毎日の課題に追われ、英語もなかなか上達せず、気晴らしできる場所もない。孤独感が募り、ストレスが溜まった私は、その後色々とあり、もう少し大きな街に移ることになった。 (移った先のホストペアレンツとは非常に仲良くなり、無事に残り数ヶ月の留学生活を送ることができた。新しいホストファミリーは、大卒の建築家夫婦だった)
超保守の白人しかいない田舎、アメリカ北西部のアイダホで暮らした記憶を辿る|あいの
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引力
疲れ切って家で食べるコンビニの飯は知ったような味がして情けなくなるが、旅先で啄む分には申し分ない。生来の計画性のなさでガタガタになった旅路にハマるのはこういう断片的な食事であると理解している。気取った飯については小忙しく、まったく落ち着かない。したがって、サービスエリアで食べる味噌ラーメンや山菜そばについて、私は大いに歓迎している。車の運転に集中して夕食どきを逃してしまい、その数時間後に行き場を失って食べるサービスエリアのラーメンが一番美味しいと思っている節がある。
実際には私もSNSで評判の食い物を食べてみたいという気持ちもある。ところがそういった店は事前の期待値を上回ることがほとんどない。最初から腑を提示してしまっているのだから、事前に期待した通りのものが出てくるか、プロモーションの内容を再現できずに不満がでる。まあ酸っぱい葡萄と言われたらそうかもしれない。実際食べたら美味しいと思うけどなんだかんだ理由をつけて気が乗らない。
人間の気持ちが充足するのは事前期待を上回ったときである。世の中に批判的な人は良くも悪くも世の中に期待し過ぎているのかもしれない。そういえば、先月久しぶりに訪ねた東京でも、ホテルの近辺にあった中華料理屋の冷やし中華がそっけなくて美味しかった。店員は明るくて乱暴な中国人だった。「何食べる?冷やし中華もおいしいよ?早く頼め」と彼女は言っていた。黒酢が効いて薄味で外食に疲れた舌には嬉しかった。
こういったことに理解のある女にはなかなか出会ったことがない。当初は私の性質に諦めた様子であっても、どこかで必ず文句が出る。あの時はアアであった、全くもってろく��なしのその日暮らしであった、この宿六について行ったらコンビニの飯を食わされた、というように。ところが女房と付き合うまではそんな私以上に食事に興味のない女にも出会ったこともなかった。こんなことをいうと彼女の機嫌をさらに損ねるだろうが、まるで彼女はザリガニのような食事を取るものだ。缶詰、納豆、偏った野菜(おそらく茹で過ぎている)。聞けば大学時代には恋愛に勤しんだ経験がなく、他人からうまいものを食いたいというわがままを提出されたこともなく、そのような食事がまかり通っていた、というのである。私にはアフリカに行って昆虫を食べるくらい理解できない。
その日は計画性のなさと女房との折り合いの悪さから日本列島をほとんど横断するような旅になった。大学時代から付き合いのある友達(彼女からすれば私は友達の元彼ということになる)がたまたま東北地方のある場所へ来ているというのである。隣の県だし大した距離ではないだろうとタカを括っていたのだが、実際に地図を読み直していくと、最短距離を行こうとすれば峠をいくつも越えなければならない。かと言って太い道路は巨大な迂回路で燃料も高速料金も工面しなければならない。ちょうど中間地点にある女房の実家を経由しようという考えまではよかった。その後、どうしようもないことで喧嘩になり、そこからは娘とのふたり旅になった。
自分がいいと思っているものが娘にとっていいとは限らない。同行者は小さな娘一人といえども、普段はほとんど世話をしないから男の手には余るものだった。長時間の移動や、見知らぬ人々との出会いに娘は疲れているようだった。ただ座ったり私の両腕に抱かれているだけだとしても、腹は減るものだ。おむつも替えてやらなければ不愉快なことになっているだろう。そう思っていても、ほとんど土地勘のない場所でもあるしどこに何があるか見当もつかない。途方に暮れていたときにマクドナルドの看板が目に飛び込んできて、「お昼はハンバーガーを食べようか?」と後部座席の娘に聞くと「うん、シーたん、はんばーがーたべゆ」といって満面の笑みであった。
店内は混雑していて、私のような子供を連れた親が結構いた。自分が子供を授かるまでは、店の中に子どもが何人いようが知ったこっちゃなかったが、今では自然と気にしている。娘にはパンケーキ、私はビックマックを食べる。大した食器もいらないし、小さい子供には楽だなあと思った。すごいと思ったのは、床に何か落としたり、口の周りに何かのソースをつけたり、指が汚れたりして、ナプキンが欲しいなあと辺りを見渡していると、どこからともなく���笑み「どうぞお使いください」とさっきまでレジにいた女性が持っていきてくれる。今までマクドナルドで感謝したことなんてなかったが、この日ばかりは本当にありがたいことだった。どおりで子どもがたくさんいるわけだ。この国のこの店舗に限った話かもしれないけれど、世界中にチェーン店があって然るべきだと感じた。何もかも効率化した先に、疲れ果てた親父にナプキン一枚持ってくるような非効率的な接客が起こりうるわけだから素直に感心してしまった。
私はマクドナルドで働いたことがないけれど、一体どうやってこのモチベーションを保っているのか不思議だった。自分がビックマックにしゃぶりついている間はくだらないおまけのおもちゃでずっと遊んでくれるし、これは半端じゃないことだと思った。子どものセットに無料でおもちゃをつけようと考えた人は本物の天才かもしれない。知らなかったけれど、それなりのクオリティの絵本もオモチャの選択肢に入ってくるのである。店内も混んでいる割には清潔に感じた。
完全に事前の期待を上回った瞬間である。一度良くしてもらった店とか、なんとなく店員が余裕ある店には吸い寄せられるように通ってしまうもんだ。ホスピタリティは引力のようだと思った。飲食店が生き残る条件はフードレイバー比率ではなく、愛されるかどうかだなと思った。あまりに感心してマクドナルドのIR資料まで見に行った。2022年からの中期経営計画には「信頼と愛着の更なる醸成」「お客様の期待の一歩先を行く体験の創造」と記載があった。「おもてなしリーダーの採用」ともある。この店舗に限った戦略ではないと知り、まんまと術中にハマったような気がした。こん���ド田舎でどうやって従業員の高いモチベーションとQSCを実現するんだろうか。本当に不思議だ。
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田舎のおばあちゃんの家には、フロッキーという小型のチワワがいた。母の20歳の誕生日記念にやってきたというフロッキーは、私がおばあちゃんの家へ帰るたびに短い足をパタパタを走らせて玄関まで出迎えてくれたものだった。当時、生き物を可愛いなどと思う感情がまだ育っていなかった私には、フロッキーはペットというより風景に近かった。朝や昼、テーブルの横でおばあちゃんにご飯をもらうフロッキーを見たり、見なかったりしながら、私もおばあちゃんが育てたじゃがいもにバターを塗って食べていた。
フロッキーは私が小学校3、4年生の頃に死んだ。母の20歳の誕生日記念にやってきた犬だったから、相当長生きをしたんだと思う。いつだったか、フロッキーは目が見えないんだと聞かされた。数歩歩けば廊下の壁にぶつかる姿をよく見ていたから、すぐに納得した。フロッキーのお墓はおばあちゃんの家から車で数分のところにあるフカバに立てられた。フカバとは、孵化場と書く。フカバにはいくつか堀があって、そこにいる魚たちはそこで生まれ、どこかへ旅立ったのちまたその場所へ帰って卵を産んでいくから、「卵が孵化する場所」で、孵化場と呼ばれていた。フカバはもともとひいおじいちゃんの家だったようだが、ひいおじいちゃんは私の顔を見ずに死んでいったから私もひいおじいちゃんの顔を知らない。数年早く生まれたいとこのことはよく可愛がっていたようだった。フロッキーの骨はそこ��埋められた。フロッキーの墓前で手を合わせても、フロッキーのいないおばあちゃんの家へ帰っても、フロッキーの死んだことを実感することはなかった。おばあちゃんも、おじいちゃんも、その後に死んだ。家はそのままに、別の知らない人が移り住んで暮らしている。その田舎にあった先祖の墓は、母の兄夫婦が住む土地へ移動され、おばあちゃんもおじいちゃんもひいおじいちゃんもそこで眠っている。田舎には、母がまだ小さい頃に散々世話になったという人が住んでいて、母のことを子どものように可愛がっていたその人は母の娘である私のことも孫のように可愛がってくれる。祖父母が死んでからは、今年で84歳になるというその人へ会いにいくためだけに田舎へ帰っている。フカバへ行く道は数年前に封鎖されていて、そこへ立てられたフロッキーのお墓がどうなっているかはもうわからない。
都会で生まれ育った私には、田舎で過ごす夏休みは刺激的で、常にわくわくしていた。畦道を走り、川にかかる橋を歩き、17時の鐘が鳴るまで汗を流して遊んだ。家に戻るとおばあちゃんがじゃがいもを蒸していて、ソファに腰掛けるおじいちゃんの隣にはいつもフロッキーがいた。今はもうその風景はない。都会で生まれ育った私は、きっとこの田舎には住めない。店もなく、あるのは川と畑だけ。立ち並ぶお墓に生けられたお花だけがまだここに人がいることを教えていた。
フロッキー、会いたい。思えば、最初に崩れた風景は、フロッキーだった。数年ぶりに帰った田舎で、短い足でちまちまと畳を歩く足音が、蝉の声よりよく聞こえるようだった。
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– ものは、自分のものにしたくなったとたんに、あらゆるめんどうがふりかかってくるものさ。運んだり番をしたり…。僕は、なんであろうと、見るだけにしている。立ち去る時には、全部、この頭にしまっているんだ。そのほうが、かばんをうんうん言いながら運ぶより、ずっと快適だからね – ものの持ち過ぎで苦しむのは、自分だぞ – 僕のものではないよ、だけど僕が見ている間は、僕のものなのかもね – 昔ある所に、自分の持ちものをとても愛している奥さんがいた。奥さんは喜びも悩みもなく、働いたり食事を作ったりする必要もなかった。他の人がどう思うかなんて気にもしなかった。だけどね、奥さんは、遊び心というものを失っていた。つまり、とてもさびしい毎日をすごしていたんだ – その奥さん、親戚は多いし知り合いも沢山いたんだ。でもね、言うまでもなく”知り合いが沢山居たって友達が一人も居ない”って事は有り得るんだよ – 心の繋がった仲間こそ、ルビーにも勝る美しいルビーさ – 世の中にはね、自分の思い通りになってくれない相手のほうが多いんだよ。おべっかばっかり使って友達になろうとするやつも同じくらい多い。だけどムーミン、僕はそんなやつが大嫌いさ
スナフキンの名言集 | 旅族-旅行情報/ライフスタイル/移住/田舎暮らし/雑学
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読んだ本の余韻をそのままに小旅行の記録を残す
三重県の丸善でその本を見つけた時、私はこれを確実にこの年末に読もうと決心したのだった。
私の年末は読書の為にある。
正確に言うなら読書の為にもある。他の目当ても沢山ある。例えば、友達に会うこと。例えば、街を歩いて故郷の空気を胸いっぱいに吸い込むこと。
さて、この年末とは即ち令和6年、西暦2024年12月29日日曜日から31日火曜日までの3日間のことだ。
そしてその本とは古川日出夫「京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る」だ。
だから私はこれを携えて西へ帰った。
即ち名古屋から京都へと。
私の実家は京都ではないし、一度も住んではいないが、仮住まいもなかったのだが、「帰った」と言ってはばからない程には故郷のように愛している街である。
私は道中、読んだ。
しかし京都では読んだか。題に謳われし京都に着いて以降は読んだのか。読まなかった。
その代わりに京都を歩いた。
これには書かれていない京都を。即ち洛外を。
洛外のどこであるか。それは京都市伏見区だ。伏見区の稲荷大社だ。
一人でか。否、もう一人いた。大学時代の友人がいて、だから二人だった。
私たちが約束したのは令和6年、西暦2024年12月29日だった。
日曜日と言い添えるべきか。いや、もう書かずとも構わない。
バカンスに曜日は意識されない。
我々はわざと隣の駅で待ち合わせて、二人とも遅刻していて、しかしお互い気にしないで、挨拶を交わして、それから歩いて。
すぐに稲荷大社へ向かう訳ではない。
隣の駅で待ち合わせたのは訳があり、見たいものがあったからだ。
目的の一番目を達する為、京阪電車の龍谷大前深草駅を降り西へ向かう。
そこは普通の文教都市の住宅地である。しかしそこは京都の住宅地だ。並みの街とは、風格が違う。
実はそこにはカタカナ地名がある。漢字を受け入れる前の、日本の、この国の、古い古い記憶が残されている。
それを見る。標識に、看板に、自治会掲示板に。
まず、駅を降りるとそこはススハキ町である。
それからまっすぐ西へ歩き龍谷大学深草キャンパスと京都府警察学校との間を抜けていくとヲカヤ町。
誤字ではない。
地名であるにも関わらずーーー現今の国語体系ではまずありえないことにーーー「を wo」の字を冠する町がある。
それを確認して嬉しくなった所で大学の学舎群に沿ってぐるりと回って戻って来ればケナサ町に至る。
固まって所在する三つの旧い町を見、満足して私達は北進する。
するとすぐ、国際観光都市京都の、Kyotoの、面目躍如であった。
当然日本人もいて、地元の人々や九州人や関東の人がいて国の言葉が飛び交う。しかし同等かそれ以上かと思われる程に肌や、眼や、言葉の違う人がいる。コーカソイドがいて、モンゴロイドがいる。
私たちは本命の目的地に着く。
巨大な二本の鳥居の下を通り、歩く。
山を、神域たる山を登っていく。
千本を優に超えていると思われるほどの夥しい朱の鳥居が続く。
くぐる。
歩いて。
登って下って。
鳥居に挟まれた道は狭い。
狭い参道を歩いて、登って下って、鳥居をくぐり続ける。
参道で産道を連想する。
しかしこの場所で生まれるーーー生まれ直す人の数が、多い。
だから、混んでいる。
稲荷神社の狐は多産の象徴だから正しい状況とすら言えるかも知れない。
自撮りする旅人を抜かし、恋人を「映えスポット」で撮影するこれも旅人をそっと待ってから進み、家族写真を手伝おうか迷って、足を止めるが友人は行ってしまうので追う。
二人は黙って歩いていたのではない。しかし会話を続けるには狭くて、混んでい���。
だから途切れ途切れに言葉を交わした。
私たちは久方の再開をおざなりに寿ぎ、散策を開始し、以降休まず歩き続けているのだった。
体がほぐれ、心拍が上がる。
狭い参道で人を避ける為に縦一列になりまた戻りを繰り返した。並んでいても遠ざかったり肩が触れ合いそうな距離を歩いたりした。
状況に応じて左右を入れ替わったりしている内に奥社奉拝所に出た。
それぞれに願を掛け、おもかる石に挑戦した。
また、歩く。
四辻まで辿り着く頃にはすっかり日が傾いていた。
森は緑から黒に移ろい、濃さを増していた。
稲荷山参道の四辻は開けていた。視界が。街に向けて。西を向いて。
国立天文台の発表によると、令和6年、2024年12月28日の京都市における日の入り時刻は16時53分だ。
だからこの思い出はその時刻の頃だった、と後からでも断じることができる。
しかしその日の私はそこで時計を検めなかった。
スマホのカメラを夕焼けに向けながら、しかし画面の隅の時刻は確かめなかった。
バカンスに曜日は必要なく、もう時刻すらも煩わしくなっていた。
ここで明かしておくと、私は稲荷山を登るのは初めての事ではない。
なので四辻が眺望という観点ではゴールであることを知っていた。
なので念の為に尋ねた。友に。まだ、進むのかと。
進む、と友。
応、と私。
四辻の先、山頂へ向かうルートはすぐに角度を増した。我々は試されていた。
我々の腿が、ふくらはぎが、踵が、心臓が。
三の峰、二の峰、最後の一の峰に着く頃には、混雑ではなく疲れから口数が減っていた。
しかし引き返すという手はなかった。
かわりに足を出して歩み続けるのだった。
裏稲荷、という言葉は存在しないが、四辻で右を選び、一の峰、すなわち山頂からそのままぐるりとまた四辻へ戻る道は正に裏、といった風情だった。
日は暮れていた。下り道が続いた。お喋りは減り続けて今や殆ど止んでいた。
電灯がかろうじて鳥居の内側を照らしてるだけで、外側はもう全くの暗がりだった。
自分たち以外の観光客も殆ど見なかった。
四辻でまた観光客を認め、進んで三ツ辻へ再び差し掛かって、先に来た方角へは戻らず、北向きのルートへ入った。
登りと同じだけ人がいるのが道理だと思うが、目の届く範囲が無人であることが多くなる。
二人きりになることが増えた。
闇に包まれているが自分達の道筋だけは明るい。
不安定な傾斜の中で、お喋りの途切れた時、不意にこれまでに感じたことのない種類の親密さを傍らの友に覚えた。
音のない森の中で、それがいつかも分からず、方角をも知らなかった。
上と下、前と後ろ、内と外の別だけがかろうじて残っていた。
幽玄で原始的な感覚の中で傍らの人の存在は強烈だった。確固としていた。
肩が触れた。
そっと手を取りたくなってーーー迷って止した。
今日は本当に楽しかった、私は言った。
そやね、またね、友が言い、分かれた。
互いに交わり合うことのない観光客同士で混雑する、JR稲荷駅と京阪電車伏見稲荷駅の中間地点で、私たちは一人ずつに戻った。
高揚は続いていた。
私は実家へ帰る道すがらまた本を読み、実家で読み、名古屋で帰る道中でまた読んだ。
僅か三日の経過がめぐるましかった。
日常があり、今やそれは休んでおり、非日常なひと時があり、そこで新たな感覚を得、虚構の世界に入り、また出ていこうとしていた。
京都には私の過去が、今が、そして虚構すらもが重なっていた。
境目はあやふやだった。
混ざりつつあった。
帰名の道中、梅田スカイビルを見た。
JR西日本の新快速に乗り、僅か十五分揺られるだけで乗り換えの京都駅に着いた。
乗り換えの合間に京都駅舎を内から外から眺め、観察し、原広司の世界を楽しんだ。
作中、古川が住んでいたという原広司事務所策の借家を思った。
私はこの本のカバー裏に京都駅来訪記念スタンプを押すことにした。
改札の近くまで行くと、南西アジア系の浅黒い肌をした観光客がはしゃぎながら先にスタンプを操作していた。
すぐに私の番になった。
この思い付きはーーー迷わなかった。
ハンドルを下げ、抑える。
手を上げてみると案外インクが薄く、期待外れだったが、これで全てが繋がったと思った。
内と外も。リアルとフィクションも。過去と今も。
ここを地獄の、とは言わないでおく。
ここは国際観光都市Kyoto。
愛する街を離れながら、私は次の本を開いた。
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秋の夜。街中の公園を散歩していて、リーリーリーと甲高い、大音量の虫の音に包まれたことはないだろうか。スズムシでもコオロギでもない、聞いたことのない虫の音。「いったい何者なのか」と、疑問を抱いたことはないだろうか。その虫の正体は、横暴な外来昆虫第3弾のアオマツムシだ。 大音量で知られる秋の虫の代表は、かつてはクツワムシだったが、都市近郊ではあのガチャガチャという鳴き声を耳にすることが、ほとんどなくなった。代わりに登場してきたのがアオマツムシだ。クツワムシは体が大きいので、あの大音量も納得なのだが、アオマツムシはさして大きな虫でもない(スズムシよりやや大きい程度)のに、ともかくうるさい。 羽を広げて鳴くアオマツムシのオス。その音量はすさまじい。 何度か捕まえてきて、飼ったことがあるが、たった1匹でも、こいつと一緒の部屋ではとても眠れない。室内での飼育はやめた方がいい。マンション生活なら、ベランダに出していても、お隣から苦情が来る。公園などでやつらが集団で鳴き出すと、セミの大合唱より騒々しい。 原産地は中国と言われ、1900年ごろから国内の記録があるので、日本滞在歴は長い。しかし急増し始めたのは1970年ごろからという。昆虫記者が都心でこの騒音を気にし始めたのは2000年ごろだった。田舎に行くとあまり目につかなくなるので、都会派の虫なのだろう。 鳴き声(羽をすり合わせて出す音)は伊達ではなくメスを呼ぶ求愛行為 ほーら、メス(手前)が寄ってきた。すさまじい音量の成果ですね。 どうやら無事カップル成立のようです。 アオマツムシは樹皮下のほか、人工物の隙間にも産卵するらしく、基本的に樹上生活者なので、土の地面が少ない都心の公園や、道路脇の並木でも、何の苦もなく繁殖できる。 そんなアオマツムシは、コンクリートジャングルの中で暮らす都会人にとって良き相棒なのかもしれない。童謡「虫の声」のような風情はないものの、遠くで鳴くアオマツムシの声は、都会人の心を潤すかもしれない。在来種の本家マツムシは急減していて、店で買うと値段は定番商品のスズムシの何倍もする。これに対し、アオマツムシは無料で、近所で簡単に捕まえられる。 下の写真が本家のマツムシ(メス)。今ではマツムシと言えば、アオマツムシのことと思っている人も多いらしい。 地味な本家のマツムシ 店で売られている秋の虫の代表はこのスズムシ。 しかし、これだけは、しつこく警告しておく。「安眠を望むなら、アオマツムシを家に連れ帰るべからず」。まあ、アオマツムシを飼おうなどと思うのは、昆虫記者などごく少数派なので心配には及ばないだろう。でも「怖いもの見たさ」ということもあるかもしれない。
都会を代表する秋の虫の地位を不動のものにした外来のアオマツムシ(天野和利) - エキスパート - Yahoo!ニュース
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)8月28日(水曜日)
通巻第8386号
チャイニーズ・ヒルビリー・エレジー(その3)
「大学卒業」=「失業」という意味だった
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北京でも上海でも、夜の人出がめ��きり減ったが、逆に増えたのが屋台ビジネスへの新規参入という皮肉な現象。
その屋台も新卒が乗用車に機材を積んでくる即席ショップである。ゴミ拾い、空き缶集めも競争状態となった。アリババの配達員はつねに人員不足だが中国全土に1000万人!
正社員でもアルバイトでもない。随時契約で長時間労働、一件につき150円。20件配達できても(集中高率地区はベテランが抑えている)日銭3000円あるか、ないか。
農村への赴任は募集しても応募者は少なく、都会の生活になれてしまった若者は人生設計に田舎暮らしなど感覚的に追いつかないのだ。日本はまったく逆で都会から田舎へ引っ越し機能する若者が目立つようになった。
一方、公務員を募集すると定員の30倍以上が常識の狭き門。女子学生にも募集がかかるが、家政婦のなり手はない。昔、あった美人達のパパカツもゼロに近い。
つまり「ゼロコロナ」から「ゼロ雇用」となった。
8月26日、IBMは上海のR&Dセンターを縮小し、1000名を削減すると発表し、業界にショックを与えた。
IBMが中国から去る嚆矢となるのか。ほかの米国企業などはインドに移行しているから遅きに失した観もあるが、中国の若者で理工系の優秀な人材も、行き場がなくなっている。
それでも余裕のある若者がいないわけではにない。ひとつの証左は新ビデオゲーム「悟空」が発売三日間で1000万コピィも売れたことだ。
テンセント系ゲームサイエンスが製作、中国では38ドル、米国では60ドル。三日間で4億5000万ドルを稼ぎ出した(『サウスチャイナ・モーニングポスト』、2024年8月27日)。
大失業時代にゲームをやっている暇人が、単純計算で1000万人もまだ居ることになる。
▼新生大学は雨後の竹の子のように
それにしてもどうしてこんなことになったのか?
第一に大學を創りすぎたことだ。90年代まで中国で「大學」と聞けば、エリートだった。2000年に中国全土に1100校、インスタントな駅弁大學ができた。それなりに「教授」も揃った。
かねてから、即席大學の校舎建築、敷地確保なども問題だが、そうやって最新技術、再診の国際的レベルを知った上での知識を教える人材が、地面から湧いてくるように輩出したのか、不思議だった。
まさに中国に於いて新説大学は雨後の竹の子のように、2024年には2800もの大學が出来て、ことしの新卒が1179万人。はじめから『大学は出たけれど、どうなるか}は分かっていた。
「大学卒業」=「失業」という意味だった。
公式発表による中国の若者の失業率は21・3%(おそらく真相は50%を超えている)。ちなみに日本の若者の失業は4・2%で、大概がニート、引きこもりである。アメリカは7・5%。フランスは昔から労組が強く、若者への職配分がすくなく、16・3%だ。
貧窮生活の苦況と絶望を描いた中国映画「逆行生活」は中年のプログラマーが失業し家族を養うためにフード配達をするストーリ-。すでに500万人が見た。他人事ではないからだ。
正面玄関から配達しようとすると警備員から「通用門に廻れ」といわれ、エリート意識が瞬間的に奪われたことを実感する悲哀さ、中国人の感性もかわってきた。
しかしその一方で元気なのが中国の老人たち(前期高齢者)。上海の夜のカフェ。65歳以上のカップルがあつまった「新しい恋愛を語る『トワイライト・ラブ』が発展中だ」とニューヨークタイムズ(8月27日)が写真入りで報じた。
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別荘目的で地方の中古ワンルームマンション買うってのもアリな気がしてきた。家族だろうが人間と一緒に暮らす事自体がストレスだからな。
一人暮らしすればいいんだけど、親とも一切口を聞かないので、そういった話をするのも難しい。フリーターの俺は保証人いないとアパート借りるのは無理だろうしさ。買うんなら無職だろうが学生だろうが関係ないからな。
とりあえず移住先だけでも確保しておけば、何も言わず突然家出したっていいわけだ。
そういえばこの間スーモで見た時、地元で160万円ぐらいで売られてたやつは消えてた。この辺りは大体今は最低でも200万円以上するから、これは割安過ぎじゃね?いやそれは安直な考えかな?と思ったけど、やはり間違いではなかったようだ。
マンションは流動性が高いから比較的売りやすく、戸建ては立地が良いか築浅でなければ売れない傾向にある。空き家バンクの物件は格安なのに何年も掲載されてる物件が沢山ある。
なので始めは中古マンションを購入し、終の棲家として田舎の戸建てにシフトして、そこでまあ10年ぐらい半自給自足生活して50~60歳ぐらいで死ぬ、というのが理想的なプランだな。その頃には親も亡くなっているだろうし、俺は早死にしたいし。
中古マンションはとりあえず群馬県辺りには100万円台の物件も結構あるみたい。毎月の維持管理費も安いのでその辺を狙いたい。使わない間は貸し出せば維持費と相殺出来るから損にもならないと思う。
でも普通のマンションでもマンスリーみたいな短期貸借とか出来るんだろうか?俺が住むってなった時に、キチンと家賃払ってる人を無理矢理追い出すのも道義的に問題があるから。短期貸借なら自分が住む前に次の募集を止めればいいだけだしな。
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240626
いつもより早く起きて札幌へいく。 近所のパン屋でパンを買って、朝食。 ふたつ山のクリームのはさまったパン。柔らかくて甘くておいしかった。 札幌にくるたびに札幌って遠い、と思う。 北海道という括りだけれど東京―静岡くらいの感覚。 あと、都会。帯広が田舎であると気づく。 水族館にいって、みたかった写真展へいく。 夏帆の写真。 写真に写ったのがたまたま夏帆だった、というような雰囲気が心地いい。 写真ってひかりだ。 写真みたいな絵を描いてみたい。 リアルな、というのではなくて、空気感を捉えるというか。
帰路は夕方の陽の光がきれいで、街も山も木も、全部が思い出みたいだった。
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240627
これから新しくアルバイトを始めるから早起きを習慣づけていきたい、と思って、少し早く起きた。 今日は研修。 ホテルの部屋やカフェのいたるところに本があって、ここで働くならきっと大丈夫、と思っていた。『かなわない』植本一子、とか三角みづ紀さんの詩集たちとか。十勝での暮らしの本もあるみたいで読んでみたい。 少し疲れてしまった。 帰宅して、床でごろごろとして、米を買いに行った。 5㎏の米、意外とすぐになくなる。
友人から沖縄土産と東京のおすすめの品が届く。 ぎっしり詰まっていて、わくわく箱だった。 お土産リストにきゅんとした。 ちんすこう…沖縄土産の定番。クッキーみたいなかんじ のどぐろだし塩…お土産じゃないけど、最近はまって使ってるやつ
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240628
朝、鼻がつまっている。 そういえば、一昨日くらいからくしゃみもよく出る。 風邪だろうか。何かアレルギーだろうか。 今日は天気がいいから毛布の洗濯をする。 展示初日がスタートした。 ずっとそわそわしていた。 大丈夫かな、と不安。ギャラリーの方が写真を送ってくれて、棚いっぱいに展示していただいていることを知る。見ることができて、安心���でもやっぱり自分の目でも見たかったな。 お金が満足にないから、こういうときの行動が制限されてしまう。くやしい。
夜、『どこにでもあるケーキ』を読んで、ねた。
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移住した経緯(その玖)
設定条件に適合しそうな物件が一番多かったのは南伊豆エリアだった。伊豆は言うてもそれなりに知られた観光地で、首都圏からアクセスし易いこともあり、中古物件も割高な傾向にあると聞く。しかしその分、他の地域と比べて田舎暮らし物件の情報は多く、移住用としての需要が有ることがうかがえる。
ある程度候補を絞ったので、実際に現物を見に行くことにした。とは言え、不動産会社の案内で1日に回れる数には限界があるし、取扱会社が違う物件ならなおさらだ。そんなわけで、何度か足を運ぶことを覚悟した上で、一つの不動産会社に内見の申込をした。
その会社が仲介する中古3物件を内見する予定��ったが、売り主の都合で1物件が販売取り止めとなり、当日は残りの2物件を見ることになった。自宅から不動産会社の事務所までは自分の車で移動し、そこからは担当者が運転する車に同乗し現場に向かう。移動の間さまざまな雑談をしながらこの地域の特徴などについて情報を得るが、助手席から見える景色に多様性を感じられたのは大事なポイントだった。この辺りはこれまでに観光で何度か来て車で走ったはずだが、そのような印象を持ったことはなかった。状況が変われば自ずと視点も変わってくるというわけだ。
最初に訪れたのは、家屋に隣接した7000平方メートルの土地を持つ物件。敷地内には小川も流れ、初夏の頃には螢も舞うらしい。ただ長いこと人の手が入っていないため敷地内は高く伸びた草に覆われており、そのうち草の中でガサガサと大きな獣が動く音がしたため(驚)、敷地全容の確認は諦めることに。代わりに家屋の方を見ることにしたが、こちらも大量の蔓植物に覆われており、その一部が部屋の中に侵入しているのを外から確認出来た。「中に入って見ますか?」と聞かれたが、外観からある程度想像がついたので必要ないと断った。
田舎暮らし生活をしようとする者にとって広大で自由度が高い敷地はとても魅力的だが、あまり大きすぎても維持管理が大変だろう。この物件の売値は広さからすればかなり安く買い得だと思うが、家屋のリフォームが必須で、その分の費用も見込めば著しく大きな出費となってしまう。無理して買って移住後の生活資金が足りなくなるようでは意味がない。同行の担当者いわく「��ャンプ場なんかには向いてるんですけどね」(苦笑)。我々は車へ戻り、次の物件へ移動した。
(その拾に続く)
⇨ 移住した経緯一覧へ
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2024/08/25
結婚してから初めて親戚が集まる会に出た。
どうしてそんな親元から遠いところに行ってしまったの?どうしてそんな人と結婚してしまったの?どうして仕事なんかしているの?どうして子供を産まないの?どうして結婚してから何年も経つのに子供がいないの?子供はほしくないの?仕事と子供どちらが大事なの?どうして夫を置いて実家に帰ってくるの?どうして夫を支えないの?そんなんだから遠くで1人で子供もいないのよ?
ご飯を食べている時にそんな言葉をたくさん投げかけられた。答えを求められていないのは分かっているので申し訳なさそうにしておいた。
今思うと、大学進学、就職までは周りから見て特にケチをつける点はなかったんだろう。ようやく付け入る隙を見せたのだから、そりゃここぞとばかりに小言を言うのもわかる。
何が正解なんでしょう?親元に近い都心部に住んで、"良いとこ"の旦那さんをもらって、パートタイムで働いて、子供を一男一女でもうけて、親戚付き合いにも嫌な顔せずよく顔を出す、慎ましく嫌味のない静かな人が花丸をもらえますか?
集中砲火にあったということは、もとからよく思われてはなかったのだろうということはわかっているんだけど、それでも手のひら返しをするようにここまで言われるとそれなりにへこんでしまう。
両親は私の選択に対して、全て「好きなようにしなさい」と言ってくれたので、その通り全て自分の思う通りにしてきた。きっと私の知らないところで色んな人から色んなことを言われてきたのだろうな。そんなことも私には全く感じさせず(これは私の察しがただ悪いだけなんだけど)、ここまで好き勝手させてもらって本当にありがたく思う。
SNSでよく見かける実家に帰りたくない話がまさか私にもふりかかるなんて思いもしなかった。
彼らが私に小言を言うことで自尊心を保てるならそれで良いか、田舎で貧乏暮らししかできないやつらの「それでもあいつよりマシ」という存在になってやろう、そうやってしみったれて死んでいけば良い、なんて思いながら申し訳なさそうにしておいた。
こういうところが彼らにも見え透いてしまうからこんな小言を言われちゃうんだ…!
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るろうサマー represent
母親に謝罪のLINEをした。うつ期間の明ける時と、また別のうつ期間中に、多大に浪費してしまい、母親にお金を借りるしかなくなった。こんなこと本当に情けなくて、こんなところに書きたくない。できれば全ての人に秘匿しておきたい。でも、ともかく謝罪と金の無心のLINEを送り、夜のエアコンの風の中でぼうっとしている。なぜ、突然1ヶ月分の生活費を浪費してしまうのか。なぜ、自分の「分」を守れないのか。なぜ、身分相応の振る舞いができないのか。このように、「なぜ」を考え始めると、自分の場合、何に対してであれ、もう末期であるということはわかっている。「なぜ」も何もない、とにかく「だめ」なのだ。できないことはできない。なし得なかったことは、なし得なかったことで、私の場合はだが、「なぜ」はただの呪詛である。だから、「なぜ」を考え始めてしまったら、意味の無いループに陥っていると気づき、なぜではなくて、これからのことを考えるべきである。これから。とりあえず、次の職場では、労働時間が増える。フルタイムとまでは行かないが、週4×7時間である。以前はだいたいこの週4フルタイムと、別のバイトを掛け持ちしていた。それでキャパオーバーになり、結局倒れる→実家に連れ戻されるを繰り返していた。しかし、今回はそうはならない。今回の独立生計は、もう今後一生のことで、二度と実家に戻ることはない。と言うと言い過ぎだが、母親の介護が発生するまでは戻らない。発生したら潔く田舎に戻り、免許を取って、スーパーのレジ打ちでもしながら実家で暮らし、兄の面倒を見る。まあそれにはまだあと10年くらい猶予があると思うので、そのあいだは本屋の店員という「将来の夢」を遂行し続ける。もちろん、今回は掛け持ちはなし。これは障害年金を受給しているおかげだ。これがなければ独立生計は成り立たない。私の場合���目安としては障害年金と家賃がイコールくらいです。だから食費やその他の生活費を稼げれば大丈夫。今までは貯蓄と、それが尽きて数月は母親からの援助に頼っていたが、今後、まず障害年金と給与だけで生計を立てられるように努力する。しかし、今後どの程度うつ状態を発症し、どの程度また浪費するか、それがわからないのが恐ろしい。私が戦うべきは、うつ状態が発生しないようにとにかく疲労をその日のうちに解消すること(疲労により薬が効かなくなるため)、また、浪費してしまう「その時」に、浪費を止める仕組みを作ること。その他にも、サブスクの継続の吟味や、UberEATSを使わざるを得ない場合(体調)の詳しい条件検討もしたほうがいいだろう。お金の計算がとにかく苦手であるが、今回こそは、なんらかのアプリに課金して、支出と収入を把握し、自分の人生を管理できるようになる。なりたい、じゃなくて、なる。なるしかない。もう本当にこんな当たり前のことを決意するのは恥ずかしい。何歳なんだ?という感じだが、意識がきちんとしてきたのが25歳で、その前の10年間ぼうっとしていたことを考えると、まあ10年遅れているので、今26歳くらいである。25以降も、療養で累計3年分くらいは寝たきりだったため、もっと幼いと思う。23歳くらいかもしれない。中身が23歳の36歳。最悪だ。最悪だが現実だ。こんな馬鹿みたいな、社会人1年生でみんながやっていることを、今やっているんです。馬鹿というか、頭がおかしいんです。こんな事言いたくねーけど。でも、他の人になんと言われようと、私は今が社会人1年生だと思って、お金のことをやっていくしかない。ほんとうに悲しい。この日記を見てくださっているかたにもドン引きされていることと思う。もう本当に、ドン引きされたり、友人付き合いを考えられたり、そういう感じで、私は1回社会に見放されたほうがいい。そうしないと分からないのだと思う。でも友達は失いたくないので、私がまともになったら、またお話してやってください。
もうひとつ。体重の増加が止まらないこと。今日、人生で初めて70kgを超えた。数字で見ると衝撃だったが、「ついにこの時が来たか」と思った。
なんのストッパーもなく食べている。もちろんこうなることはわかっていた。お腹の肉が邪魔で苦しい。階段の昇り降りも苦しい。ジーンズの脚の部分がきついため、全ての動きが制限される。
クエチアピンを睡眠薬がわりに使い、一旦夏バテから回復したので、またクエチアピンなしで睡眠をどうにかとる日々に戻ろうと思う。
加えて、食べることも減らしていく。(運動はラジオ体操からなのだが、まだ運動を考えられる段階ではない。)UberEATSでコンビニのインスタント食品とお菓子をバカスカ買って食べていたが、それをやめる。ただし、まだ��理をする体力や気力はないので、スーパーやコンビニの惣菜や冷凍食品を利用する。自炊は「できる」と思った時にやっていく。最初から上を目指さない。少しずつできることだけやる。バナナと牛乳と食パンを切らさないようにするところから。いつもそうだが、できなくなったら、できていたところまで戻る。戻って戻って、できるところから始めるしかない。米を炊く。冷凍する。夜ご飯に米を食べる。まずはそれを目標にする。こんなことは人間としてできて当たり前のことだが、今、私にはできていない。他の人はできても、私にはできない。ただそれだけのことなのだ、とわかるまでにかなりの年数がかかった。できないことはできない。できるところからやる。できなくなったら、やり方を考える。年金受給している精神障害者なのだという自覚を、悪い意味ではなく、自分を律するために持つ。
こういうことを、人生で何度繰り返してきただろう。本当に困難だと思う。ただ、私は楽天的なので、こういうことが何回あったかとか、そういうことはすぐに忘れる。うつ状態で生活が崩壊した回数など、100回を越えている。でも、過去などどうでもよくて、常にこれからどうするかを考えているから、あまり凹まずにすむ。これは自分の数少ない美点、かつ、生まれつきの性質だと思うので、遺伝子に感謝だ。
体につきまくっている肉が重くても、溌剌と未来に向かって動いていたい。私はそのための薬を飲んでいるし、その薬は効いているし、それができると思う。必要なことは都度考えて、実行していく。何もできない時には、仕方がないので休む。人生に締切は設定しない。逆算しない。目標を決めない。今できることをベースに、それを維持することを真剣にやっていく。私にできるのはせいぜいその程度の人生なのだということを、早く私にも納得してもらいたい。
2024.8.23
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https://music.apple.com/jp/album/%E9%9B%A8%E9%9B%86/1665035280?i=1665035285
Thursday,Aug1,2024
かなり早い時間に起きる。福岡に帰ってきてからのここ数日は、日付が変わる前にいつのまにか寝て、かなりの朝の時間に起きることを繰り返している。東京での暮らしに比べたら寝不足だけど(というかいつも寝すぎなんだと思う)、なぜかハキハキしてる。今日は京都に移動する日。姉の家に寄ることになって、母もついてくることになった(ホテルの部屋は別に取ってもらった)。昨日友達にもらった北九州のソウルフードのパン(練乳がやばい)をコーヒーと食べて、すぐに荷物をまとめて実家を出た。駅までは父の車、改札まで見送ってくれる。今回もほとんど腰据えて話してないけど(いつ話す時が来るのだろうか?)、父には優しさを感じる。
母とは新幹線も別々。好きな福山駅(工場街)の景色、いつの間にか通り過ぎてた。寝てたら広島から隣に座ってきたサラリーマンの唐揚げ弁当のにおいで起きた。おなかすいた。京都駅に着いてからホテルで荷物を置き、とりあえずホテルの近くのうどん・蕎麦・丼物屋へ。肉うどんと巻き寿司食べた。ほとんど外国の旅行客だったけど、店主のキュートなおじいちゃんは闊達に接客していた("Most popular!!")。扇風機の風に煽られながらうどん食べる(湯気が飛んでいく)。
電車に乗って姉の住む街へ。京都駅は30番線くらいまであって、でかすぎる。渋谷駅より雑多かもしれない。わたしはハリーポッターのキングス・クロス駅を思い出していた。姉が住む街は京都駅から30分で行ける。途中にはとんでもない渓流があったり、そこで川下りしている様子を眺められたりしてたのしい。この景色を以前見たのは実に六年以上前だ。久しぶりに会った姉とは別に何も話さなかった(というか、もう互いにどう接していいのかわからない感じがする)。姉は、妹としてのわたしのことをもうだいぶ前から諦めている気がするし、悲しいことに、姉のユーモアはわたしのユーモアではない(嫌いではないけど、健康で着実すぎるそれに口の端が痙攣しそう)。建築士の旦那が作った家は本当に立派だった。それしか覚えていない。姉の子どもが作りかけていたレゴを、こっそりすこしだけ壊してから家を出た。次いつ会うのかは、しらない。うまくできなくて後味はよくはなかった。
何をするかは決めてなかったけど、京都の好きなバンド(賢いユリシーズ)の人がSNSで引用していたイベントに行くことにした。たぶん東京の駅に置き換えてもわりと田舎の街。接続がよくなくて、全然知らない地下鉄やワンマン電車を三回乗り継いだ(携帯がある時代で本当によかった)。エスカレーターに並ぶのは右、久しぶりに体験。せっかくだから行ってみたかった四川料理の駱駝に行く。回鍋肉定食たべた。身体が喜んでる感じがした。夕陽がすごいけど薄暗い住宅街を歩いてイベントのあるバーに行く。tenniscoatsの植野さんの弾き語り。久々に感じたアウェーな雰囲気に飲まれかけた、わたしはこの街では完全によそ者だからどきどきする。東京でしばらく暮らして遊んでいたから、こういう感覚忘れてしまっていたな。山椒ウォッカおいしかった。
植野さんの前の武田菜月さんのライブ、よかった。小さいキーボードを二台、裸足でエフェクターを踏む。なんかへんな緊張感があって、気づいたら目を閉じてとんでた。神聖で、気持ちよかった。ライブ始まる直前にキーボードに置いてたパンを恥ずかしそうに退けていたのもよかった。tenniscoats植野さんのライブもよかった。わたしがライブの中で特に覚えていた曲は池間由布子さんの「全部ウソみたい」という曲らしい(帰りの地下鉄で調べた)。「遊んでるぜ全力で/優しさって必要ですか」。サブスクにないから、CD買おうかな。アンコールはaikoのカブトムシをカラオケしてた(京都スタイル?)。カラオケ行きたくなってしまった。
1000円ドネーションしていちばん早く会場を出た。最寄りのワンマン電車(路面電車)の駅まで歩く。行ってよかった。音楽ってどこにでもあるからすごい、と思った。tenniscoatsは今年に入ってから聴き始めたのだけど、今���はなんか原始的なもの(音楽含む)に惹かれている感じがする。壊れたキーボード、壊れたギター、もしくはそんなものが何もなくても、音楽ってどこにでもあってどこでもできて、なんでも音楽になるからすごい。植野さんが「僕はこんなに音楽でたのしくて、ラッキーな方だと思ってます」と言ってたこと思い出す。なにか音楽やりたいような気もした。最近いい音楽を目撃するたびにむずむずする。
23時過ぎの京都ってあまり人がいない。もっと遊ぶべきな気もしたけど疲れてる気もしたから、コンビニでアイス買って帰った。道に迷ってたら京都タワーが現れた。つるっとしている。駅前では若者がラップバトルしてた。お風呂入ってテレビのオリンピック流し見して、友だちと連絡取って寝た。
(後日談)武田菜月さんからInstagramのフォローが返ってきた。うれしい。Twitterで知らない人から「全部ウソみたい」はもともと植野さんの曲で池間さんもよくカバーしてる曲だと教わった。ライブ中に「よく池間さんのカバーって言われるんですけど」と言っていた意味がようやくわかった。
★★★★★★★★★★★★ ★★★★★★
https://music.apple.com/jp/album/%E6%82%AA%E3%81%82%E3%81%8C%E3%81%8D/1076760045?i=1076760276
Friday,Aug2,2024
京都は朝を出遅れるとまずい(と思っている)。モーニング絶対食べたいし、いろんな喫茶店行きたい(京都は喫茶店が本当にたくさんあって天国だ)。寝不足だけど起きるしかないから起きる。旅行の間ずっと晴れている、天気がいい。地下鉄で京都市役所前。地下鉄のオレンジの扉が昔好きだったこと思い出した。まだあんまり人もいないシャッターが閉まった地下街を、メシアと人人聴きながら歩く。イノダコーヒー意外に空いてた(というか、なんか昨日から思ってるけど京都は思ったより人がいない)。しっかりした制服を着込んだウェイターたち、たまごサンドとアイスコーヒーが懐かしい。箱崎で買った旅行記読む、絵が描きたくなる。テラス席の青のギンガムチェックのテーブルクロス素敵だった。友だちへのおみやげでイノダコーヒーのロゴ入りのティースプーンと、自分用のコーヒー粉買う。
商店街歩いて六曜社へ。実ははじめて行った。店員のお姉さんのエプロンかわいかった(きっと自前、うらやましい限り)。ドーナツは正午からの提供だったから、桃のパウンドケーキ食べた。コーヒーおいしかったな。隣の人たちの関西弁にどきどきしながら、昨日のこと思い出して日記書いた。マッチもらった。村上開新堂目指して歩く。あつい。銀行がなくて市役所の中なんかを歩く(本当に立派な建物)。迷って地下鉄に乗る。暑いの苦手(昨日のバーで隣の若者たちが明日は40度らしい・そんなの風呂じゃん、と言っていたな)。
無事に村上開新堂で焼き菓子を買う。近かったから、歩いて微風台南にも行った。座敷のテレビのそばのちゃぶ台に通される。テレビではリアルタイムの台湾のニュース番組が流れていて、漢字だけで内容を想像してた。大腸入りの麺を食べる。やさしい、おいしい。ついでに近くの誠光社にも寄る。いい本屋だった。ずっとほしかった谷川俊太郎の詩集といしいしんじのよさそうだった文庫買った。旅先で本を買うのはたのしい(別に東京でも手に入るものなんだろうけど)。ここらへんで暑さが限界になってきた、京都御苑の日陰のベンチでしばらくぼーっとして鳩を眺める。自転車でやってきた京都に住んでるであろう人たちが輝いている。なんか異常に松ぼっくり落ちてた、砂利をわざと蹴飛ばしながら歩く。近くにお香の松栄堂があったから寄った(以前母が京都のお土産で買ってきてくれてとてもよかった)。そこでも自分用のものと友だち用のもの買う。喜んでもらえたらうれしい。
本当はここから今出川に行って色々するつもりだったけどバテた。ふらふらするのでとりあえず同志社そばの喫茶店に適当に入る。渋すぎる、トイレがほぼ廃墟だった。それなのになぜか結構学生がいる(関西の若者はつよいのかもしれない)。同志社生たちの会話(ぜんぶ大学生特有の恋バナ、しかし関西弁)聞きながらレモンスカッシュ飲む。男の子たちが帰りぎわに「春学期お世話になりました」と言っていて、かなりよかった(「春学期」か....)。もう、一旦ホテルで休むことにする。レジで怖いマスターのおじいさんに重々しい「おおきに」を言われて、頭の中で反芻してしまった。「おおきに」か(おそらく一生言うことがない)...。帰ったらテレビでブザービートの再放送やってた。だらだら日記書く。
ホテルを出て、少し暑さの落ち着いた中、友達に教えてもらったお店「わや」(一乗寺)に行く(京都滞在中に二度も叡山電鉄に乗ることになるとは)。お店のお母さんがかなりパワフルな人だと聞いていたのでどきどき。お店に入るとお母さんは「ひとり?!誰かに紹介されてきた?!」と既に闊達。友だちの名前を出すと話が弾んだ。ひとりでお店でお酒を飲むのは初めてだ、そのデビュー戦が京都の辺鄙な場所になるとは。お母さんは名前を聞いてくれて、すぐに智春ちゃんと呼んでくれた。携帯を持たない主義のお母さんはお店に来た人と電話するのが好きらしく、電話番号を書かされてさっそく着信が来る。登録名は「わやのお母さん」にした。「痩せてるのによく食べる」と言われながらどんどん飲む。ひとりで飲むのって意外とたのしくて楽。隣にいた関西のカップルが帰ってからはずっとわたしの前に座って話す。お母さんの人生や生活のこととかお店のこと、何度も「この仕事が大好きなの」と言っていて美しかった。21時を過ぎると「けったい」で「いけず」なお客さんが来ないためにお店の看板の電気を引っこ抜かされる(「この仕事は普段常連さんにしかやらせないのよ」と言っていたので光栄)。お母さんは「智春ちゃん最初入ってきた時ぎこちなかったもん、どんどん笑顔になって本当その顔見れてよかった〜、智春ちゃん笑ってる方ががかわいいもん」と言ってくれた。最近母親に言われたことと同じだ、びっくりしてしまった。わたしは結構意外に心の城壁が高いひとらしいので、当たっている。顔にぜんぶ出る。本当はいつでもやわやわの心でいたい。帰り際、お母さんが「ふたりで写真撮ろう!マスター!」と奥にいるマスターを呼んでくれて記念撮影会。「本当にあたしいつもは写真とか頼まれても撮らないのよ!智春ちゃんだから!珍しいのよ、本当に!」とよく喋る。マスターも携帯を持たない人らしく、ぎこちなく撮ってくれた写真にはマスターの指が入っていた。「いまから河原町なんて行っちゃダメよ!母心!」と言われながらお見送りまでしていただく(「動画も撮っていいですか?」と聞いたら「恥ずかしいからそれはまた今度来た時!」と言われた)。角を曲がる前に振り返ったらお母さんはずっと手を振ってくれてた。「ばいばーい!」と大きな声でわたしも返す。本当に行ってよかった、京都に母ができた気分。「本当に京都に引っ越してきたらいいじゃん」とお母さんに言われたことを帰りの電車の中で考える。本当、そうなるのかな。そうなったらどうしよう。かなり酔っ払った。
帰りに梅湯に寄った。京都の夜は暗い、川のそばで大量のカエルが鳴いている。暗闇の中で見えないのにたしかにいる何か。暗い道を歩いていくと急にそこだけ明るい梅湯があった。若者もたくさんたむろしてる、夢かと思った。ハキハキしたお姉さんに案内されて脱衣所。若い女の子ばかり、かなりわたしの今住んでる街の銭湯とは違う(わたしの近所の銭湯はみんなおばあちゃんだ)。はじめて行く銭湯は目が悪すぎて何もわからないので手さぐり。お湯が熱かった(サウナも行きたかったけどかなり酔っ払っていたのでやめた、また次回)。まだ冷めないお酒に浸された頭で、ネクターと梅湯のグッズ何個か掴んでレジに行く(ライターは先着一名の誰かにあげるよ)。ネクター飲みながら駅まで歩く、途中のたばこ屋でたばこ吸う。鴨川の橋を渡った時、最近覚えてる中でもいちばん気持ちがよかった。すこし泣きそうなくらい気持ちよかった、ずっとこのままがよかった。電車乗り間違えながらなんとかホテルに辿り着く。長い一日が終わった。眠りについた記憶はない。
★★★★★★★★★★★★ ★★★★★★
https://music.apple.com/jp/album/be-my-baby/341560010?i=341560012
Thursday,Aug3,2024
さすがのわたしも疲労困憊になってきた。隣の部屋に泊まっている母にホテルの朝食を誘われ、母の電話で起きる。顔も洗わずに服だけ着替えて朝ごはん食べる。眠すぎて、ブロッコリーをちゃんと食べなさいと怒られたことしか覚えてない。朝食を食べてから母の部屋に招かれ、奈良のおみやげのひこにゃん(超かわいい)のぬいぐるみをもらう。母の部屋には書きかけの日記帳みたいなのが置いてあって、マメな人だと思った。母とはそこで別れる。東京に暮らし始めてから五年間、こんなに長く一緒にいたのははじめてのことだった。しらない街でも隣の部屋に知っている人が眠っていることは大きかったかもしれない。
自分の部屋に戻って一旦ベッドに横になる。動けない、うっすらと眠いのに眠れない。本当は朝から出町柳に行って出町ふたばの豆大福を買い、糺の森を散歩して行き損ねていた恵文社に行こうと思ってたのに。京都の夏は暑すぎてだめだ。結局一時間くらい眠っていた。やっと起きてパッキング、部屋を出て河原町の方に行く。荒木陽子『愛情生活』の京都旅行記に出ていた築地という喫茶店に行く。河原町の築地、この前行った恵比寿の銀座という喫茶店くらいまぎらわしい。クラシックすぎる店内とメニューにうれしくなる。アイスコーヒーを頼んだらデフォルトで生クリームとガムシロップが入っていた(京都のコーヒーはやっぱり甘いのが多いのかな?)。だらだら昨日の日記書く。この一週間はいつもより早く眠って朝早く起き、午前中のうちに喫茶店で昨日の日記を書くリズムができていた。ずっとこうならいいのに。店員のお兄さんのピンクの網タイツにいいね、と思いながら退店。また行きたい。
すこし歩いただけで何も考えられなくなるくらい暑い。高校の友だち(今は大阪に住んでいる)と食べる昼ごはんのお店を考えながら錦市場を練り歩く。そういえば幼少期の京都のイメージはここらへんの街並みだった。無事によさそうなお店が見つかって、友だちが来るまでどこかに避難したかった。適当に歩いていたら昔泊まったことのある鴨川のそばのホテル、そのそばにある喫茶店(吉田屋)を見つけた。入りづらい外観だけど、そんなこと構ってられないのでとりあえず入る。ピリッとした感じのおばあちゃんが出迎えてくれる。とりあえずすこし休む。途中から来たおじいちゃんとお店のおばあちゃんが「今日は淀川花火大会やな〜」と話していた。うらやましかった。闊達な「おおきに」を言ってもらいながら退店。
友だちと会う。いつぶりだろう?相変わらずあんまり久しぶりに会った感じがしない。路地裏にある小さい定食屋に入って、ふたりとも鱧の天ぷら膳を頼む。天ぷらも、つるむらさきと豆腐の小鉢もおいしかった。小さい店なのにもう話(というかふざけた軽口)が弾みすぎてしまった。ずっと行きたかった八坂神社のそばの喫茶店(ぎおん石喫茶室)に行く。噂どおり、宝石屋を通り抜けて二階へ。店内がすごい!美術館みたい。レモンゼリーとコーヒー頼んだ。ずっと場にふさわしくない感じのアイドルの話してた。なんかこんなに大笑いしたのも久しぶりな感じした、たのしかった。10代の頃の友だちってすごい。
八坂神社もちょっとだけ行ったけど暑すぎてだめだった。移動ができない。わたしの新幹線までの時間を潰すためにまた喫茶店に入る。ここら辺から手の震えが止まらなくなってしまった。わたしはなんかすぐに熱中症になるな、自分の身体に鈍感すぎる。地下鉄を乗り継いで京都駅、友だちが改札までお見送りしてくれた。かわいいおばあちゃんになる!と言っていた友だち、いつだってかわいい。友だちの爪にはキティちゃんがついていた。また会おうね。駅で柿の葉寿司買って新幹線乗った。夜の新幹線は外の景色がなんにも見えないからたのしくない。どんどん京都が遠ざかっていく、できることなら帰りたくなかった(でも帰る場所があるから旅行は輝くことだって知ってる)。柿の葉寿司食べて、tenniscoats聴いていたら爆睡してた。品川で降りる。とりあえずカーネーションのEdo riverを再生。
なんかあっけなく東京に帰ってきてしまった。この一週間は夢みたいにたのしくて、久しぶりに生きてる感じがした(しかも、すごく生きてる感じ)。山手線のモニターに流れる毎日見てたつまらない広告、相変わらずつまらない。渋谷・新宿・原宿を通りすぎる、またゆっくりもとの生活に引き戻される音がする。福岡や京都の暗闇の道を思い出す���さっきまで見ていたあの景色。東京にいながらも西の方で感じたあの気持ちや心地よさをなくさないでいる方法はないのかな?わたしは最近いろんなことに近すぎていて苦しかったんだと思う、ちょうどいい塩梅で暮らすこと、ひとりで考えていくことだね。
あっという間に最寄りの駅に着いた。スーツケースを持ったまま銭湯の前でたばこを吸っていた���、よく見る猫がやってきた。そういえば京都で全然猫見なかった、やっぱり暑すぎるのかな。家の前で鍵を出すのに手こずる、久しぶりに見た自分の部屋はなんかちょっと知らない人の部屋みたいだった(わたしって本当にすぐ色んなことを忘れる)。少し休んで荷ほどきし、みんなに買ってきたおみやげを仕分ける。母にもらったぬいぐるみはカーテンレールの上に落ち着いた。わたしの家の神棚。暮らすように旅行してみたいというテーマ、だいぶできた気がする。本当に楽しかった、色んなことを忘れたくない。東京のみんなに会っておみやげを渡すのもたのしみ、おやすみなさい。
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