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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁��工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板��露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡��駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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2024年4月15日
青山クラブ取得から6年、活用策の行方は? 旧海軍ゆかりの施設 呉市は近くの3施設を含めて有識者会議で議論中(中国新聞)
広島県呉市が巨費を投じて購入した旧海軍ゆかりの施設「青山クラブ」(幸町)は、活用されないままの状態で取得してから6年がたった。市は昨年5月、近くの市立美術館など市所有の3施設を含め幸町地区一帯の在り方を検討する有識者会議を設置。同会議が出した結論を踏まえ、エリアの整備方針を策定する。約1年間で同会議の議論はどこまで進んでいるのか。状況を整理した。
観光���客などを目指し、市は2018年に青山クラブと隣接する桜松館、2施設のある国有地約8500平方メートルを約2億円で購入。施設の保存・活用を目指していたが、耐震診断で大幅な改修補強が必要なことが判明し、結論を先送りした。以降、活用されない状態が続いている。
有識者会議は建築や都市計画、まちづくりの専門家たち11人で構成。青山クラブを含む4施設の整備コンセプトや機能について約2年間かけて話し合う。昨年5月からこれまで5回会合を開いている。
議論は、物販や飲食、宿泊など各施設に想定できる機能のアイデア出しが中心だった。2月の中間まとめでは整備コンセプトを「呉の歴史と文化を未来へ」と定め、歴史を伝え感じる▽文化・芸術の発信▽にぎわいの拠点―の3機能をエリアに求めるとした。
ある委員は「機能面については丁寧に話し合いを重ね、アイデアが出尽くした。堂々巡りが続いている感もあり、一歩進める段階に来ている」とする。
複数の委員は議論を進める上で重要なポイントとして、(1)青山クラブの保存をどうするか(2)老朽化する市立美術館をどこに再配置するのか―の2点を挙げる。(1)については「市民の思い出や歴史が刻まれた場所。保存が望ましい」「改修補強に費用が掛かり、全面保存は現実的ではない」と意見はまとまっていない。「エリア内の施設の方向性を市にある程度示してもらわないと、具体的な機能の議論が深まらない」との指摘もある。
青山クラブを巡っては、新原芳明市長が17年の市長選で活用などを訴え、初当選。22年に市は市立美術館の機能を青山クラブに移転する考えを示したが、市議会で異論が噴出した経緯がある。新原市長は「有識者会議の結論などを踏まえ判断する」との考えを示す。
有識者会議の事務局を務める市は「意見を幅広く聞きたいので、市が方向性を示す方式は取らない。次回の会合から具体案の議論を予定している」と説明する。
同会議は年内に最終的な結論をまとめ、市に報告する予定だ。議論の推移をみた市議の一人は「購入して6年。この間にも建物は老朽化している。市民の関心も高く、市はなるべく早く方向性を示すべきだ」と注文する。
「阿鼻叫喚。これが戦争」特攻志した元少年兵が訴えること 原爆投下直後の広島で救護した「暁部隊」(中国新聞)
暁部隊の軍服や胸章が並ぶ企画展
戦時中、水上特攻を志しながら原爆投下直後の広島で救護や遺体の処理に従事した少年兵たちがいた。陸軍船舶司令部、通称「暁部隊」で、特攻兵を育成する秘密部隊に所属。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)で開催中の企画展で紹介されている。元少年兵たちは来年の被爆80年を前に「命と平和を守ることを考えてほしい」と願う。
宇品地区(現南区)に本部があった暁部隊は原爆投下直後の広島で唯一、軍隊機能を保ち、市民の救援、救護に当たった。その中に、幸ノ浦(広島県江田島市)に駐屯していた船舶練習部第十教育隊の15~19歳の特別幹部候補生もいたという。
石川県七尾市の沢野実さん(96)は17歳で入隊した。「天皇陛下のために死ぬのが当たり前だった」。通称「マルレ」と呼ばれる全長5・6メートルのベニヤ板製の特攻艇で突撃する極秘訓練に明け暮れた。上官には「君たちは捨て石。国のために死ぬのが務めだ」と言われたという。「靖国神社で仲間と顔を合わせようとの思いだった」
原爆投下後、第十教育隊はマルレなどに乗り、広島市内に向かった。沢野さんも市中心部で負傷者の救護と遺体処理に当たった。「心臓が飛び出ている人や泣き叫んでいる人がいて、阿鼻叫喚の現場だった。これが戦争だと実感した」と振り返り、非戦を訴える。
「本土決��に向け愛国心に燃えていた」と語る岩手県遠野市の伊藤宣夫さん(96)は原爆投下時、船舶通信隊補充隊におり、市中心部で「死の街」を見た。たまらず班長に「戦争はやめた方がいいです」と言うと、「軍人が弱気でどうするのか」と怒られたという。「罪のない国民が殺される戦争は絶対にいけない」と語気を強める。
祈念館の企画展は来年2月末までで、沢野さん、伊藤さんたち元少年兵9人の証言映像や軍服など12点が並ぶ。辞世の句「我が友よ 笑って散ろう 君のため 共に会ふど 九段の社」と書かれたアルバムもある。橋本公学芸員は「自分自身や子どもの身に置き換えて戦争の残酷さを感じてほしい」と話している。
原子炉内への核燃料搬入開始 柏崎原発、規制委が承認 東電(時事通信)2024年4月15日
東京電力柏崎原発7号機で開始された原子炉内への核燃料搬入作業=15日午後(同社提供)
東京電力は15日、停止中の柏崎刈羽原発7号機(新潟県)について、原子炉内への核燃料搬入作業を開始したと発表した。
再稼働に向けて必要な検査の一環で、原子力規制委員会が同日に計画を承認した。完了までは2週間以上かかる見通し。実際の再稼働には地元自治体の同意が必要となるため、具体的な時期の見通しは立っ��いない。
東電によると、まず制御棒などを原子炉内に入れた後で、敷地内のプールに保管中の核燃料872体を順次搬入する。その後、燃料が正しく配置されているかや、非常用炉心冷却系機能などの検査を1カ月半程度かけて行う。安全対策のため、宿直の所員を8人から51人に増員した。
岡本孝司(東京大学教授)補足 原子力規制委員会の了解を受けて、まずは原子炉に燃料装荷をスタートしているという事です。この後、原子炉を起動するには、地元の了解を得る必要があります。
原子炉を起動して核分裂が正常に起きていることを確認したのち、試運転に移り、様々なテストを繰り返したのち、営業運転に入ることになります。まだ、再稼働に向けた最初のプロセスです。
いずれにせよ、再稼働には、地元との安全協定に基づき、地元了解が必須です。
今、東京電力の電気代は、原子力発電所が動いている関西電力の1.5~2倍しています。2社のホームページで、電気代単価を比較してみるとよくわかります。柏崎刈羽6,7号機は、ABWRという新しい型の原子炉で、安全性も十分に確認されています。安全第一で、この2基の原子炉が動けば、電気代も安くなる事を期待したいです。また、電力の安定供給にも大きく貢献する事が期待されます。
柏崎刈羽原発、燃料装着始まる 地元から不安の声「課題たくさん」(毎日新聞 4月16日)
東京電力柏崎刈羽原発7号機の炉心部。右手の四角い水槽が使用済み核燃料プール=2024年4月12日、田中泰義��影
東京電力は15日、再稼働を目指す柏崎刈羽原発(新潟県)7号機の設備の健全性確認のため、原子炉へ核燃料を装着する作業を開始した。能登半島地震で、地元住民からは事故時に安全に避難できるか不安の声が上がる一方、東電による再稼働準備が進む。【内藤陽】
東電は同日、原子力規制委員会から安全対策設備の試験使用承認(使用前確認)を受けたとして、午後5時過ぎに開始。6時半ごろに1本目の核燃料を装着した。東電は「課題が見つかれば立ち止まり対策を講じるなど、一つ一つの工程を着実に進める」としている。
東電は10日に宿直態勢を8人から51人に増員し即応態勢を強化した。作業では、使用済み核燃料プールから核燃料872体を1本ずつ移動し、原子炉圧力容器に装着する。装着後、制御棒205本の動作確認のほか、原子炉圧力容器などからの漏えいの有無や冷却設備の機能などを確認する。すべての燃料の装着が終わるまで2週間程度、原子炉起動まで約1カ月半かかるとみられる。
花角英世知事は再稼働への立場を表明していない。燃料装着について、花角知事は今月3日の記者会見で「検査の一工程」と述べ、再稼働議論への影響はないとの認識を示した。柏崎市の桜井雅浩市長も「再稼働に必要な検査で、しっかり確認してほしい」と話している。
昨年12月の原子力規制委員会による事実上の運転禁止命令解除後、東電は県内各地で説明会を開き、原発の安全性を住民に訴えてきた。しかし説明会では原発事故時の避難や地殻変動による地盤の隆起などを心配する声が上がり、不安が払拭されたとは言い難い状況だ。
同原発から5キロ圏の同市椎谷に住む佐藤正幸さん(79)は「多くの課題に目をつむって再稼働に動き出すのはいかがなものか」と話す。能登半島地震で道路の寸断や家屋の倒壊が複数発生し、地盤が4メートル隆起したことなどを指摘。「課題がたくさんあるのに、目を背けたまま再稼働を準備するのは、けしからん事だ」と語気を強めた。
万博はもう中止できないのか?「オリンピックと同じ末路に」専門家は警鐘、でも政府は「能登」を横目に開催へ突き進む
2025年大阪・関西万博は、4月13日で開幕1年前を迎えた。国家的イベントが近づくにつれ、世論の期待は高まっている…と思いきや、SNS上では今も「万博中止」のハッシュタグが目立ち、延期を求める声も飛び交う。「期待一色」には程遠い状況だ。
なぜか。多額の税金が投入される会場整備費は、当初見込みの約2倍となる2350億円まで膨らんだ。独創的なデザインを競う海外パビリオンは想定よりも建設スケジュールが大きく遅れ、着工はわずか十数カ国(4月上旬時点)にとどまる。負担増や課題ばかりが目立つ中で、期待値を上げる方が無理というものだ。
そこに、2024年の元日に起きた能登半島地震が追い打ちをかけた。今も避難を余儀なくされる被災者からはこんな声が聞こえてくる。「万博どころじゃない」。国民に理解が広がらなければ、新型コロナウイルス禍の中で開催された東京五輪・パラリンピックと同じ末路をたどる、と警鐘を鳴らす専門家もいる。
逆風は強まるばかりなのに、政府や関係機関は予定通りの開幕をかたくなに維持する。万博は中止できないのか。費用や手続きの面から「なぜ開催にこだわるのか」に迫った。(共同通信=大阪社会部万博取材班) ※筆者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。
▽「0.14%」と「27%」
吉村洋文大阪府知事は3月28日、万博と能登半島地震との関係についてこんな発言をしていた。「復興を最優先するべきだ。しかし万博を中止、延期して復興が進むのかと言うと、違う」。開幕1年前を控えたインタビューで、国内で実施されている各種建設工事のうち、万博が占める割合はわずか0.14%だとして計画変更の選択肢を否定。こう言葉を重ねた。「復興を���由に万博に反対するのは違う」
ところが、国民感情はそう単純ではない。共同通信が2月に実施した世論調査では、能登半島地震からの復興を踏まえた上で万博を開催するべきかどうかを尋ねたところ「計画通り実施するべきだ」としたのは27.1%にとどまった。「延期するべきだ」が27.0%で拮抗し、「規模を縮小するべきだ」26.7%、「中止するべきだ」17.6%と続き、計画変更を求めたのは全体の7割を超えた。
市民団体「どないする大阪の未来ネット」(大阪市)には、開催中止を求める署名がオンラインを含めて14万件集まった。事務局長の馬場徳夫さん(84)は訴える。「延期してもコストが上がる一方だ。震災復興のためには中止が最適だ」。署名は日本国際博覧会協会(万博協会)や近畿経済産業局に提出している。
能登の被災地からは冷たい視線も向けられている。万博会場となる大阪市の人工島・夢洲から300キロ以上離れた石川県珠洲市内の避難所に身を寄せる井上等さん(65)は、自宅が全壊し、高齢の母との避難を余儀なくされた。会場整備費は国、大阪府・大阪市、経済界が3分の1ずつ負担することとなっており、石川県民も納税者として費用を賄う。井上さんは正直な胸の内を明かした。「今は万博どころではない。地震の前からある話なので、開くなら開けばいい。けれど正直、万博に使うお金があるなら、家を建て直す費用が欲しい」
▽「不可抗力」なのか
今回の万博を中止することは可能なのか、中止すると何が起きるのか。経済産業省の博覧会推進室に聞くと、浮かび上がってきたのは「不可抗力」というキーワードだ。
その前におさらいすると、2025年大阪万博の開催が決まったのは2018年11月。パリで開かれた博覧会国際事務局(BIE)の総会で、加盟国の投票で選ばれた。5年に一度開かれる大規模な万博の日本開催は1970年大阪万博、2005年愛知万博(愛・地球博)に続き3回目だ。
仮に万博を延期する場合は、BIEの総会で3分の2以上の賛成が必要だ。根拠となるのは、万博の定義を定めた国際博覧会条約。2020年に予定されていたアラブ首長国連邦(UAE)のドバイ万博は、新型コロナウイルス感染の世界的拡大が直撃。BIE加盟国から必要な同意を得て、延期が決まった。
では中止にはどのような手続きが必要になるのか。博覧会推進室によると、実は中止については国際博覧会条約には規定がない。関係者間の合意があればいいということになっている。
そこで、とある書類が重要になってくる。開催が決まった国がBIEに提出する「登録申請書」だ。2025年大阪万博の登録申請書を読むと、開幕まで1年となる���024年4月13日から開幕前日の2025年4月12日までに中止する場合、参加国とBIEに最大計5億5700万ドル(約840億円)を支払わなければならない、とある。
これは、時期ごとの準備状況に合わせて算出された数字で、補償額はパビリオンのタイプによって参加国ごとに異なる。各国が「相当の資金を負担して参加をしている」(万博協会幹部)だけに、直前の中止は影響が大きいというわけだ。政府中枢の首相官邸からはこんな声も聞こえる。「万博の開催は国際公約だ。中止や延期は国の威信にかかわる」
一方、経産省が把握する中で、これまで中止に伴う補償金が生じたケースはないという。直近ではアルゼンチンで開催が計画されていた2023年ブエノスアイレス万博が新型コロナウイルスの影響で取りやめとなった。ところがBIEの執行委員会で新型コロナによる中止は「不可抗力だ」と報告された。
2025年大阪万博の登録申請書の中では、この「不可抗力」についてこう言及している。「自然災害とみなすような事態に起因する『不可抗力』により中止された場合には、補償金は支払われない」
経産省の担当者は言う。「能登半島地震が不可抗力とみなされるかどうかは執行委員会で議論してみないと分からない」。では、補償金が生じる恐れがあるから開催を中止できないのか、と問うと「全くそうではない」と返ってきた。「万博には意義がある。その意義は震災には左右されないと思う。そもそも復興は『土木』のフェーズ、万博工事は『建築』のフェーズにあり、ニーズは重なっていない。むしろ、延期すれば復興の妨げになる可能性が高まる」
▽頼みは公式キャラクター
万博旗振り役の経済産業省が言う「意義」とは何なのか。テーマの「いのち輝く未来社会のデザイン」や、コンセプト「未来社会の実験場」から国民が読み解くのは難しく、大阪府と大阪市が強調するメリット「2兆円の経済効果」のみが一人歩きする。
万博協会は昨年ホームページをリニューアルし、企業や海外勢によるパビリオンの紹介ページを充実させた。とはいえ、それだけでは「そもそも万博に興味がある人」への受け身のアプローチに過ぎず、万博でどんな体験ができるのかという点を広く知らせるには物足りない。
さらに、PRのけん引役が公式キャラクター「ミャクミャク」頼みになっていることも、意義が伝わらない一因といえる。
開幕500日前を迎えた昨年11月以降、大阪府内の各地では「くるぞ万博」と書かれたポスターがあちこちで見られるようになった。その中央でおどけたポーズを取るのがミャクミャクだ。
大阪市役所の前には涅槃像のように横たわったミャクミャクの巨大モニュメントを設置。府内で開催される自治体系のイベントには必ずと言ってもいいほど、ミャクミャクの着ぐるみが登場するようになった。
大阪府と大阪市が昨年12月に実施したアンケー��でも、ミャクミャクの認知度は全国で88・3%と高く、万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」の認知度を30%近く上回った。
もちろん、公式キャラクターの人気はどんなイベントでも成功の柱になる。だが、現時点でミャクミャクの人気が万博への来場意向に与える影響は限定的だ。
アンケートで「万博に行きたい」と答えた人は全国で33.8%にとどまり、1年前から約7ポイント下落。ミャクミャクであふれる府内に限っても36.9%で、2023年度の目標に設定した55%を大幅に下回った。ミャクミャクの人気にあやかるのにも限界がありそうだ。
チケットの売れ行きも芳しくない。万博協会が設定する販売目標は2300万枚。前売り販売は昨年11月末に始まったが、4月3日時点で約123万枚と、目標の6%にも満たない。前売り販売目標の約半数は企業購入分に頼っており、今後はどれだけ個人購入を促せるかが焦点となる。
▽秘策は「ビビッドな情報」?
運営側の取り組みの粗雑さについて、社会学者で神戸大大学院の小笠原博毅教授は厳しく指摘する。
「意義があると言いながら、伝えない。誰が本気で開催したがっているのかが見えてこない」
2020年東京五輪・パラリンピックの開催に一貫して反対してきた小笠原教授は、万博の現状に五輪との共通点を見いだす。「世論を無視して強行した五輪と構図が似ている。多額の税金が使われるのに中身が空疎だ」。期間の短縮やテーマの分かりやすい説明を求める。
新型コロナウイルスの影響で1年延期された東京五輪は直前まで開催を疑問視する声が絶えなかった。開催1カ月前の世論調査でも中止を求める声が3割ほどあり、国民理解を十分得られないまま開会式を迎えた。小笠原教授は、万博も同じ末路をたどるとみている。
岸田文雄首相の国会答弁からは、能登半島地震の被災地復興という文脈で万博への理解を広げようという思惑がにじむ。「万博で被災地をPRし、復興につなげる」。小笠原氏はこうした言葉を「空虚なリップサービスだ」と突き放す。「万博開催による『2兆円の経済効果』をうたうならば、国民の暮らしへの支援や好影響、復興に割く金額を具体的に示すべきだ」
国民の幅広い歓迎に向けて、秘策はあるのか。4月1日に報道各社のインタビューに応じた万博協会の石毛博行会長の言葉は、現状とは裏腹に自信にあふれていた。「開幕に向けて、これからビビッドな情報を出していく」。全国的な機運が広がっていない現状は「経費の増加や海外パビリオンの遅れといったネガティブな報道が影響した」と分析。SNSやメールマガジンを使った地道な取り組みで挽回を宣言した。「万博へのイメージをアップデートする。世界が日本に2025年の万博開催を信任した。きちんと��り遂げるという形で世界との約束を守ることが、われわれにとって極めて重要なミッションだ」
歴史的円安背景にインバウンド絶好調 百貨店は軒並み“過去最高”記録づくめの決算に(TBS NEWS DIG)2024年4月15日
百貨店の年間決算は、歴史的な円安を背景にインバウンドが絶好調。各社“過去最高”の記録づくめの決算となりました。
「J.フロントリテイリング」のことし2月までの1年間のグループ全体の決算によりますと、売上高にあたる売上収益は前の年に比べ13.2%増え4070億円に、最終利益は299億円と前の年の2倍以上にのぼり、増収増益となりました。
国内の富裕層向けに高級ブランド品などの販売が好調だったほか、インバウンド客による免税売上高が過去最高の721億円となったことなどが主な要因です。
先月、48歳という若さで社長となったJ.フロントリテイリングの小野氏は初めて出席した決算会見で…
J.フロントリテイリング 小野圭一 社長 「いま非常に業界の中で追い風が吹いているが、これがある種の暴風ではないかというふうに感じています。2年、3年たって、コロナが終わってインバウンドがじゃんじゃん帰ってきて売上良くなってよかったということになってしまっているということに、私は一番危機感を持っている。いま好調の中で、どういった将来に向けた成長の種をまけるかというふうなことで、かなり大きな差がついてくるのではないかというふうに思っています」
このように述べたうえで、「現状の上にあぐらをかくのではなく、新しい事業にしっかり根を張って育て��いく」としていて、今後、デジタル分野の事業展開などを強化する狙いです。
一方、「高島屋」のことし2月までのグループ全体の1年間の決算では、営業利益が前の年に比べ41.3%増え459億円に、最終利益も13.6%増えて316億円といずれも過去最高を更新。営業利益は、1990年度以来33年ぶりの最高益となりました。
新型コロナの5類移行や円安を背景に、インバウンド需要が増えたことなどで、国内店舗の売上が好調だったとしています。
高島屋の村田社長は、今回の決算内容の受け止めについて、「コロナからのリバウンド的な部分が多分にあることも事実」と述べたうえで、「今年から本当の力が試される年。冷静に過去最高益に浮かれるのではなくて、グループ全体で引き締め直す」と話しました。
また、「松屋」のことし2月までの1年間の決算では、売上高にあたる総額売上高は前の年と比べ31.2%増え1149億円となりました。
インバウンド客が多く訪れる主力の松屋銀座店では、売上高が前の年と比べ35.5%増え1018億円となり、1991年度以来、32年ぶりの過去最高を更新しました。
西川立一(ラディック代表/流通ジャーナリスト/マーケティングプランナー)見解 インバウンドにおけるモノから体験への流れ、そしてかつての日本人も海外でのブランド漁りから脱却したように、百貨店のインバウンドはやがて収縮していく。
J.フロントリテイリングの小野圭一 社長 のインバウンド好調に対する危機感と、将来に向けた成長の種をまくことが重要だという指摘はまったくの正論。
いまこそ、百貨店の業態イノベーションとビジネスモデルの変革が求められている。
村山慶輔((株)やまとごころ 代表取締役/インバウンド戦略アドバイザー)見解 中国人観光客の完全復活を待たずに、都内や主要都市の商業施設においてインバウンド消費が順調。続く円安、万博効果もあり今後もさらに伸びる可能性がある。ただ、コロナ禍の状況を踏まえると、各企業は安心してはいられないというのが本音でしょう。
一方で、地域の中小企業において、インバウンド需要の回復はまだまだこれから。インバウンド需要も二極化しており、地方誘客が今後のカギになる。
石川智久(日本総合研究所 調査部長/チーフエコノミスト)補足 日本がこれほど安い国になってしまったことに危機感を持つ必要があります。脱成長を求める意見もありますが、世界は経済成長を続けており、成長していないのは日本くらいであることを認識する必要があります。日本が成長しなければ、企業はインバウンド頼みの経営になってしまいます。今こそ日本はいかにして経済成長を遂げるかを考えるべきです。世界では経済成長に財政資金を投じる傾向が強まっています。理系人材の育成や新産業創出に財政資金を投じて、経済を成長させることが、日本が海外から買いたたかれない方法といえます。
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北海道と言えば?アイヌ語に由来する地名を調べてみた
角田晶生(つのだ あきお)
北海道と言えば、雄大な自然やアイヌ文化など個性豊かな土地として知られており、その個性は地名にも表わされています。
そこで今回は、アイヌ語に由来する北海道の地名について調べてみたのですが、あまりに多いため、有名どころをはじめ、特に興味深く思った地名についてピックアップしました(一部、アイヌ語でない地名も混ざっています)。
北海道へ遊びに行った時、地名の由来を思い出すと、旅の印象がより強く残るかも知れません。
※ここで紹介しているのは諸説の一つであり、今も解明されていない地名が数多くあります。 ※また、アイヌ語に特有の発音表記(トに半濁音や、小さな文字)が難しいため、発音は参考程度に願います。
網走(あばしり。網走市)
アイヌ語:チパシリ(cipa-sir:幣場のある島)
網走のシンボル・帽子岩
網走のシンボルとして親しまれている帽子岩が、古くからアイヌたちの幣場(ぬさば。幣を奉げる祭祀の場所)とされてきたことに由来します。
やがて時代が下ると、若いアイヌたちは「チパ(幣場)」という古語に馴染みが薄くなり、「我らが発見した」ことを意味するチ・パ(ci-pa)と解釈するようになったそうです。
石狩(いしかり。石狩市)
アイヌ語:イシカラペッ(is-kar-pet:美しく創られた川)
神様が大地に描いた石狩川。
広大な平野を美しく湾曲しながら流れる石狩川。これは太古の昔、国造りの神様が川のデザイン(流れ)を決める時、自分の親指でグリグリと引いたのだそうです。
湾曲した流れが途切れることで生まれる三日月湖など、ぜひ一度見てみたいものですね。
択捉島(えとろふ。北方領土)
アイヌ語:エトゥオロプ(etu-or-o-p:鼻水のあるところ)
伝承によれば、鼻水を垂らしているような岩があったとの事ですが、一体どんな形状だったのか興味深いところです。
また、エトゥという言葉には岬という意味もあり、こっちの方が語源として無難な気もしますが、岬なんてあちこちにありそうだし、やっぱり鼻水岩の方が面白いと思います。
帯広(おびひろ。帯広市)
アイヌ語:オペレペレケプ(o-pere-perke-p:少女の陰部)
川がいくつにも分かれる地形を、少女(オペレケプ)の陰部に見立て、ペレ部分を繰り返すおどけた?表現で、可愛らしさを強調しているそうです。
性に対して大らかだった?時代をよく反映しているネーミングと言えますが、現代だったらクレーム間違いなしでしょうね。
カルルス温泉(登別市)
アイヌ語:なし
いつかは実際の湯に入りたい
入浴剤「登別カルルス」で有名?な、いかにもアイヌ語っぽい地名ですが、実は外国語で、チェコのカルルスバード温泉と泉質が似ていたことから名づけられたそうです。 それまで、この地はアイヌ語で「ペンケユ」と呼ばれていましたが、今さら「登別ペンケユ」ってのも微妙かも知れません。
国後島(くなしり。北方領土)
アイヌ語:キナシリ(kina-sir:草の島)
草なんてどこでも生えているじゃないか……と思うのは内地の感覚に過ぎず、常に寒風が吹きすさぶ北方の島々では、豊かな緑は貴重なようです。
そんな草の島・キナシリに日本「国の後(しり。ほぼ北端)」という漢字を当てたのでしょう(実際には択捉島の方が北にありますが、「最果て感」では負けていません)。
幸福(こうふく。帯広市)
アイヌ語:なし
幸震(さつない)村の中で、福井県からの移住者(開拓民)が多く住んでいたことから、それぞれの頭文字を合わせて地名につけました。
安直と言えば安直ながら、シンプルイズベストを地で行ったようなネーミングですね。移住者たちに、幸多からんことを。
昆布(こんぶ。蘭越町)
アイヌ語:コンポヌプリ(kompo-nupuri:昆布の山)
山頂に昆布を打ち上げた大津波(イメージ)。
太古の昔、津波によってたくさんの昆布が山頂まで打ち上げられたため、そう名付けられたそうです。
山頂に昆布が打ち上げられるなんて、どんな大津波かと思ったら、小さな山だったようで、別名トコンポヌプリ(トは小さな、の意味)とも呼ばれました。
札幌(さっぽろ。札幌市)
アイヌ語:サッポロペッ(sat-poro-pet:乾いた大きな川)
大きな川ならさぞや水量も多かろう……と思ったら、乾期になると広い河原が現れ、それを「乾いた」と表現したようです。
今年も豊漁
また、別名を「サッチェプポロ(乾いた魚が多い)」とも呼ばれ、たくさん獲れた鮭を、各家庭で干物にしていた様子も窺われます。
三毛別(さんけべつ。苫前町)
アイヌ語:サンケペッ(sanke-pet:浜へ出る川)
川の水が浜=海へ流れ出すのは当然だと思いますが、この上流からたくさんの川が合流しており、雨が降ると洪水が起こりやすかったことから、警告の意味を込めて名付けられたのでしょう。
ヒグマの親子。
余談ながら、大正時代にこの地で開拓民10名が殺傷された「三毛別羆事件」が発生、北海道に棲むヒグマの恐ろしさを現代に伝えています。
色丹島(しこたん。北方領土)
アイヌ語:シコタン(si-kotan:大きい村)
北方領土の中では小さな島ですが、人口密度は高かったようで、そこに住むアイヌたちはさぞや勢力を誇ったことでしょう(近世以前の社会においては、人数は勢力に概ね比例する傾向があります)。 周囲のアイヌたちと友好的に交わっていたのか、それとも争いが絶えなかったのか……文字を持たなかったため��ほとんど伝わっていませんが、今後の解明に期待です。
伊達(だて。伊達市)
アイヌ語:なし
北海道の開拓に功績を遺した伊達邦成。
陸奥国亘理藩主・伊達邦成(だて くにしげ。政宗の末裔)が明治三1870年、一族や家臣を連れて移住したことから名づけられました。
戊辰戦争に敗れた苦境から心機一転、北の大地を豊かに拓いた功労者として、伊達神社(市内末永町)に御祭神の一柱として祀られています。
千歳(ちとせ。千歳市)
アイヌ語:なし
大きな川が流れているため、アイヌ達はシコツ(si-kot:大きな川)と呼んでいましたが、死骨に通じて縁起が悪い、と和人が改名。 この一帯には丹頂鶴がよく飛んで来るため、縁起を担いで千歳(鶴は千歳=千年生きるとの伝承より)としたそうです。
月寒(つきさむ。札幌市)
アイヌ語:チキサプ(ci-kisa-p:我らのこするもの⇒燧)
神様も、火起こしはアナログ作業
伝承によると、むかし神様がこの地に燧(ひきりぎ。摩擦で火を起こす道具。火切り木)を忘れていったそうです。
結局、神様は取りに来なかったようで、燧の素材である赤ダモが根づいてどんどん増えて、ついには森になったそうです。
十勝(とかち。十勝地方)
アイヌ語:トカプウシイ(tokap-us-i:乳房のある所)
こんもりと二つ並んだ山を、女性の胸部に見立てたのでしょう。転じてお乳という意味もあるため、酪農が盛んな現代にも通じますね。
一方で、十勝アイヌと敵対するアイヌたちは、この地をトゥカプチ(tukapci:幽霊)と貶していたそうで、周囲の部族とあまり仲がよくなかった往時が察せられます。
函館(はこだて。函館市)
アイヌ語:ハクチャシ(hak-casi:浅い・砦=小さな館)
室町時代、この地に河野加賀守(こうの かがのかみ)が築いた箱型の小さな館がランドマークとなり、そう呼ばれたそうです。
よりアイヌ語の意味にそって訳せば「薄館」とでもなりそうですが、よほどキッチリとした箱型だったのか、その形状の方がより印象に残ったのでしょう。
摩周湖(ましゅう。弟子屈町)
アイヌ語:マスント(mas-un-to:カモメがいる沼)
「霧の摩周湖」で有名な場所ですが、海鳥であるカモメが飛来するにはちょっと山奥です。
masが現れる(と言われる)摩周湖。
また、この辺りのアイヌ語ではカモメをmasではなくカピウ(kapiw)と呼んでおり、このmasが何を指すのか、未だに改名されていません。
松前(まつまえ。松前町)
アイヌ語:マトマイ(mat-oma-i:婦人のいる所)
いかにも和語っぽい地名ですが、ちゃんとアイヌ語に由来しており、この地を流れるマトマイ川に由来するそうです。 しかし、マトマイ川の語源となった婦人のエピソードについては不明。今後の解明が待たれます。
湧別(ゆうべつ。湧別町)
アイヌ語:イペオッイ(ipe-ot-i)⇒イペオチ(ipe-oci:魚が豊富な所)
湧別川の流域に温泉が多いため、別名ユペッ(yu-pet:温泉の川)とも呼ばれました。
湧別川に、チョウザメがいた?
また、チョウザメを意味するユぺ(yupe)に由来するという説もありますが、湧別川にチョウザメが棲息していた記録はないそうです。
余市(よいち。余市町)
アイヌ語:イオッイ(i-ot-i)⇒イオチ(i-oci:それの多い所)
余市では、「それ」に注意。
「それ」とはアイヌの伝承によると蛇を指し、古来恐ろしい≒畏れているモノ(存在)については直接その名を呼ぶことを忌む習慣がありました。
また、上流域に温泉があるため、ユオッイ(yu-ot-i)⇒ユオチ(yu-oci:温泉の多い所)に由来するという説もあります。
利尻島(りしり。利尻町)
アイヌ語:リシリ(ri-sir:高い島)
利尻のシンボルとして有名な「利尻富士」が遠くからでもよく見えたことから、そのように呼ばれたそうです。
ちなみに、礼文(れぶん)島はアイヌ語で「沖の島(レプンシリ:repun-sir)」ですが、語呂の良さから語尾のシリが削られています。
稚内(わっかない。稚内市)
アイヌ語:ヤムワッカナイ(yam-wakka-nay・冷たい飲み水の川)
「お、ここの水は冷たくて旨いな」
宗谷岬で有名なこの一帯は、昔から水質があまりよくなかったようで、ひときわ良質な飲み水が得られることを地名に残しています。
北海道なんて寒そうだから、水なんてどこでも冷たそうなものですが、いざ現地で暮らしていると、違いが解ってくるものなのでしょう。
終わりに
……という訳で、今回ごく一部を紹介させて頂きましたが、アイヌ語が少しずつ解って来ると、「別(ペッ)」「内(ナイ)」がついている地名は川に由来し、「シリ」がついている地名は島が語源なのだ……など、推察できるようになります。
どんな土地にも名づけた理由や思いがある……決して楽ではなかったであろう先人たちの暮らしに興味関心を持ってみると、北海道旅行がもっと楽しく、そして有意義なものになるでしょう。
※参考文献: 山田秀三『北海道の地名 (アイヌ語地名の研究―山田秀三著作集)』草風館、2000年4月
山田秀三『アイヌ語地名を歩く』北海道新聞社、1986年6月
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター、1956年9月
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【劇評】【レポート】どこにもない演劇のまち、西和賀:東北の湖畔の町で見た演劇の風景
第26回 銀河ホール地域演劇祭(2018/09/01-09/02) 片山 幹生
〔西和賀町文化創造館銀河ホールの空撮。手前は錦秋湖〕
岩手県と秋田県の県境、奥羽山脈のただ中にある西和賀町は人口5000人ほどの小さな町だ。この町には客席300ほどの公営の劇場、西和賀町文化創造館 銀河ホールがある。この劇場では1993年の開館以来、毎年地域演劇祭が開催されている。第26回銀河ホール地域演劇祭は2018年9月1日(土)と2日(日)に開催され、4団体4作品が上演された。今回上演された4作品はすべて宮沢賢治の作品だった。本稿ではこの4作品の舞台評のほか、銀河ホールというユニークな地方公共劇場の活動と地域演劇祭の様子について紹介していきたい。
劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』
〔劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』〕
銀河ホール地域演劇祭の最初の演目は、島根県松江市の公設民営劇場〈しいの実シアター〉を拠点する劇団あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』だった。あしぶえは2016年に創設50年を迎えた長い活動歴を持つ劇団だ。『セロ弾きのゴーシュ』はあしぶえが28年にわたって上演し続けている劇団の最重要レパートリーであり、アメリカ、カナダの演劇祭でいくつかの賞を受賞している。
『セロ弾きのゴーシュ』の筋立てはごくシンプルなものだ。しかしあしぶえの公演ではそのシンプルな物語が、ミニマルな舞台美術とストイックな演出によって、さらに研ぎ澄まされたものになっていた。徹底的に磨き抜かれた鉱物の結晶のような美しさを持つ舞台だった。張り詰めた緊張感が最初から最後まで維持され、冗長さはまったく感じられない。
自尊心を徹底的に打ち砕かれ、絶望で自暴自棄の状態に陥りそうになりながら、ぎりぎりのところでゴーシュは破滅への転落をまぬがれた。夜中にゴーシュの家にやってきた何匹かの動物の前で演奏することで、ゴーシュのセロは上達し、自尊心を回復する。次の演奏会でゴーシュはそれまで自分を罵倒していた指揮者から賞賛を受ける。彼はそれまで自分がどれほど傷ついていたことさえ気がついていなかった。演奏会が終了し、帰宅して一人になったときになってはじめて、ゴーシュは自分を絶望の淵から救い出してくれた動物たちの無償の優しさに気づく。
劇の最後で彼の口から漏れる感謝の言葉の真実に、私は強く心打たれた。
俳優の表現のあらゆるディテールにまで注意が払われていることが感じとることができた舞台だった。きびしくコントールされた俳優の演技は、ゴーシュの情念の動きを精密に、ダイナミックに描き出している。ゴーシュの絶望ともがき、いらだちが、舞台から豊かなニュアンスとともにまっすぐ観客席に伝わってくる。ゴーシュ役の俳優の演技にひきこまれ、観客の多くはゴーシュの重苦しさを共有していたに違いない。
なぜゴーシュが動物たちの出会いによって停滞から抜け出せすことができたのか、動物たちはなぜゴーシュの家にやってきたのか、そしてゴーシュが最初にやってきた猫に対して謝罪しなかったのはなぜなのか。いくつもの「なぜ?」に対する回答はあしぶえの舞台でも宙ぶらりんのまま提示されない。『セロ弾きのゴーシュ』はハッピー���ンドの物語だろうか。ゴーシュに感情移入していた観客は、ゴーシュの演奏の成功にカタルシスは感じた者もいるだろう。終幕のゴーシュは確かに絶望からの解放を味わっていた。しかしその解放感は愚かで未熟な自分へのいくばくかの悔恨を伴っている。彼は喜びより���、深い虚脱感をあのとき味わっていたのではないだろうか。そんなことを感じさせる演出だった。
物語を舞台化するにあたって、雑多な情報を持つ俳優の身体や舞台空間が、作品を過剰に説明的なものにし、そのノイズによって語りの持っていた本質的な魅力を損なってしまうことがままある。あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』は、これとは逆だ。俳優の存在と舞台空間の抽象性が、物語の純度をさらに高め、作品に内在する象徴性を際立たせることに成功している。ほぼ唯一の具象的美術であるチェロの存在が、この舞台ではなんと雄弁なことか。28年に渡る上演のなかでテクストと真摯に向かい合ってきたからこそ、到達することができた表現の逆説だろう。強くて美しい舞台だった。(9月1日14時開演@銀河ホール)
劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』
〔劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四月』〕
地域演劇祭、二本目は西和賀在住の〈田中直樹と仲間たち〉による『水仙月の四日』を見た。この公演は田中ひとりよって語り、演じられる人形芝居だった。
田中直樹はもともとは地元の劇団ぶどう座に所属していたが、考え方の違いからぶどう座を離れ、ソロで公演を行っていると聞いた。会場は銀河ホールに隣接するUホール。Uホールの建物は円錐形のとんがり屋根と赤い壁の可愛らしい建物で一階は図書館になっている。二階のUホールは円形平面で、リハーサル室・会議室として利用されている場所とのこと。観客は床に座って見るが、今回の公演では後ろの壁際に何脚かパイプ椅子が用意されていた。
『水仙月の四日』は吹雪の一夜を雪原でやり過ごす少年の話だ。舞台が始まる前に田中から、タイトルの「水仙月」と作品冒頭で出てくる「カリメラ」という語についての説明がある。これらの語はいずれもは宮沢賢治の造語で、水仙月は2月から3月の雪深く寒い時期、「カリメラ」は「赤砂糖を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮る」とテクストにあるので、おそらく「キャラメル」を指す。
『水仙月の四日』は日本有数の豪雪地帯であるこの付近の人々にとっては、とりわけその情景がはっきりと思い浮かぶ作品に違いない。田中直樹は赤いケット(毛布)をかぶった少年とその少年を見守る雪童子を15センチほどの小さな人形に演じさせた。これに対して吹雪のアレゴリーである雪狼は人間の顔と同じくらいの大きさの仮面、そして大吹雪のアレゴリーの雪婆は人間をすっぽり覆い尽くす大きさの紙製の面で表現していた。雪婆が登場する場面では照明が暗くなり、蛍光���イトで雪婆の巨大な顔が白く照らし出される。小さい子供たちは狭い舞台を走り回る雪狼と雪婆を怖がっていた。
少年と雪童子を小型の人形にしたことで、白くて厳しい大自然に翻弄される人間の様子が強調された。また白い美術のなかでの少年の着た鮮やかな赤のケットの色彩の対比も印象的だった。小品だが配慮のいきとどいた工夫の数々によって、大人の観客も子供の観客も異世界に誘う、優れた演出の公演だった。人形と紙製の大きなオブジェ、紙吹雪といった材料はこの作品の上演を考えると定番的な素材だが、そのスペクタクルが作り出す幻想は、宮沢賢治の物語を冗語的に説明するのではなく、その語りの美しさをより印象的に引き立てるものになっていた。(9月1日15時半開演@Uホール)
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』
〔栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』〕
銀河ホール地域演劇祭の二日目(9/2)の最初の演目は、文学座の栗田桃子によるソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』だった。
会場は銀河ホール。舞台にはいくつものキャンドルが並べられ、中央に椅子が一脚置かれている。背景には静止画の映像が映し出される。栗田はときおり、椅子を立ったり、座ったり、あるいは歩き回ったりしながら、声色で人物を演じ分けて朗読する。
動きもスマートだし、朗読も達者ではあるが、その動作や声色の変化がことごとく定型的で、テクストに書いてあることをそのまま冗語的、説明的になぞっているに過ぎない。テクストの記述に反射的に反応するような中途半端な工夫は、かえってテクストの世界を矮小化し、観客が世界に入り込むことを妨げてしまう。あれなら座ったまま普通に読んだほうがまだ聞き手の想像力を刺激することができるだろう。広い間口の舞台で栗田の芝居が空回りしていた。栗田桃子という魅力的な女優を使った朗読劇がこんなありさまなのはいかにももったいない。演出家あるいは演者の作品に対する思い入れや独自の解釈などを感じとることができない退屈な朗読劇だった。「朗読劇ってこんなものだろう」という演出家の作品に対する取り組みの甘さを感じてしまう。
演出の単調さと照明の暗さで、五分もすると猛烈な眠気の波が襲いかかってくた。私の周囲の観客にも観客も落ちていた人がかなりいた。公演後のアフタートークで宮沢賢治記念館の学芸員と演出の西本由香の話があったが、このアフタトークでも西本の話ははなはだ曖昧模糊としていて、学芸員の語る興味深いエピソードとの対比で、演出家の作品への関心の薄さが露わになっていた。(9月2日14時開演@銀河ホール)
劇団ぶどう座『植物医師』@ぶどう座稽古場
〔劇団ぶどう座『植物医師』〕
銀河ホール地域演劇祭で最後に見た演目は、この地を拠点に1950年以降活動を続けているぶどう座の『植物医師』だった。これは他の上演作品のような翻案ではなく、宮沢賢治の書いた短編戯曲の上演だ。私はこの戯曲を読んだことがなかったし、上演を見たことがなかった。ぶどう座は、近年は主宰の川村光夫が高齢(現在96歳)のため実質的に引退状態で、かつてと比べると活動力が大幅に衰えているという話を聞いていたのが、この『植物医師』の公演はその衰退ぶりを感じさせない充実した内容の公演だった。
〔ぶどう座稽古場〕
公演会場は1960年代に建てられたというぶどう座の稽古場である。まさに芝居小屋といった風情の公演会場に、芝居が始まる前から心が浮き立つ。稽古場は北上線の踏切のすぐそばに、踏切の番小屋のように建っている。舞台の間口は6メートルくらいか。舞台奥の壁はさまざまな色の大きな布で覆われている。客席は板間平面と三、四段の段状、詰めれば40人ぐらいは座れると思う。
芝居の始まる前に、劇のオープニングで歌われる宮沢賢治作詞の《花巻農学校精神歌》の練習があった。観客もこの歌を一緒に歌うようにうながされる。これは楽しい趣向だった。
『植物医師』は上演時間30分ほどの小篇だ。岩手のとある村に《植物医師》を名乗る人物が引っ越してきて、植物病院を開業する。しかしこの植物医師の専門家としての知識はどうもいい加減なもののようで、いかにもうさんくさい人物だ。開業した植物病院に村人たちが次々とやってきて、枯れてしまった稲の治療法を訪ねる。植物医師はでまかせのいい加減な対処法を村人たちに伝え、お金を取る。いんちき治療法で易々とお金を稼いだ植物医師だが、彼の処方では稲の被害は収まるどころか、ますます拡大していく。村人たちが医院に戻ってきて植物医師を詰問する。植物医師は口舌でなんとかそれらの非難を丸め込もうとするが、最後には言い返す言葉もなくなり、村人たちの怒りの言葉にうなだれてしまう。善良でお人好しの村人たちはうなだれた植物医師を見て、彼に同情しはじめる。そして先ほどまでの怒りを収め、植物医師を許すのだ。その許しの言葉は、植物医師にとっては怒りにまかせた批判の言葉よりもはるかに重く感じられた。植物医師はますます打ちひしがれてしまう。
〔ぶどう座稽古場内部〕
村人たちが入れ替わり立ち替わり植物医師のもとを訪れ、アドバイスを求める場面では、民話によく見られる同種のやりとりの反復とそのエスカレートが、笑いの効果を作り出している。岩手弁のユーモラスな響きがさらに場面の喜劇性を高めていた。不正に対する怒りと非難よりも、不正に行った人間への大らかな優しさと許しこそが力を持つという宮沢賢治らしい倫理が結末で提示されるが、最後の場面の急転が作り出すドラマの力強さと素朴さに心打たれた。村人たちの許しのことばが発せられるたびに、かがんだ体がどんどん下がり、苦悶と戸惑いの表情が深くなっていく演出と演技は見事だった。
芝居小屋の雰囲気もこの作品の上演にいかにもふさわしいものだった。まさに岩手で岩手の人たちによって演じられることによって、この『植物医師』はいっそう味わい深い作品となっていた。この地でのぶどう座の活動の歴史が染みついた稽古場で、この作品を見られて本当によかった。
終演後には稽古場内で打ち上げがあり、私も短い時間ではあったが、出演メンバーとぶどう座の旧メンバーの方々と座を囲んだ。『植物医師』は主宰の川村光夫演出でもかつて公演をおこなったが、それは27年前のことだと言う。今回の公演の演出を担当した菊池啓二さんに「今回の上演は川村さんの演出を蹈襲したものなのですか?」と聞くと「いや、前の上演はもうだいぶ昔の話で、私も見ていないし。まあ川村風にはやりました(笑)」と仰っていた。
今回のキャストには二十歳台の青年も二名参加していた。彼らは昨年から活動を始めた銀河ホール演劇部の部員だと言う。銀河ホール演劇部は、アートコーディネイターの小堀陽平氏の主導で昨年から活動を始めたサークルだ。小堀さんは「ぶどう座の表現は、この地域の人たちの身体と言葉、感覚に根ざしたものなので、銀河ホールで演劇部を作って活動をはじめましたが、外からやってきた僕たちが作る演劇が、ぶどう座を引き継ぐものにはなり得ないように思うのです。やはりぶどう座は土地の人が継承していくものだと考えています」というようなことを言っていたが、実際に公演を見るとそれが実感できる。
地域演劇祭の締めくくりでこの公演を見、そして短い時間ながらぶどう座の人たちと交流の時間を得ることがでいたのは私にとってはとても有意義なことだった。(9月2日17時開演@ぶどう座稽古場)
地域演劇祭と西和賀町文化創造館 銀河ホールの活動
〔銀河ホール(後側)とUホール(手前側)〕
西和賀町文化創造館 銀河ホールのことを私が知ったのは二年ほど前のことだ。この劇場が、���に一度の地域演劇祭のみならず、地域に根ざした様々な演劇活動を積極的に行っていること、この地を本拠とする60年以上の伝統を持つぶどう座という劇団があること、劇場の活動の軸となっているのが東京出身で日芸OBのまだ若い青年であることなどを知ったことで好奇心をかき立てられ、いつか訪ねてみたいと思っていた劇場だった。演劇は都市のものという固定観念があった私にとって、東北の山間にある小さな劇場で多彩な演劇活動が行われていることが驚くべきことのように思えたのだ。
銀河ホールはJR北上線ほっとゆだ駅から歩いて数分のところにある。ほっとゆだ駅は北上駅から50分ほど。東京駅から北上駅までは東北新幹線で2時間半から3時間かかるので、東京からだと4時間ぐらいで銀河ホールに行くことができる。地図からの印象より案外近く感じられる。
〔北上線ほっとゆだ駅。駅舎に公衆温泉が附属している〕
西和賀町文化創造館は、銀河ホールのある本館とUホールの別館からなっている。約三百席の銀河ホールの客席はゆったりとしていて、舞台までの距離も遠くない。暖かみのある落ち着いた木製の内装で、芝居を楽しむには理想的な空間だ。劇場の背景に広がるダム湖、錦秋湖の風景が美しい。錦秋湖の湖畔には、野外ステージもあった。
〔銀河ホールの裏手にある野外湖畔ステージ。後ろは錦秋湖〕
人口5000人程度の自治体でこんな立派な公共劇場を持っているところはそんなにないのではないだろうか。西和賀町で演劇が特権的な文化活動になっているのは、この町で60年以上活動を続ける劇団ぶどう座の存在に負うところが大きい。ぶどう座は川村光夫という優れた演劇人のもと、地域演劇の担い手として充実した活動を行い、戦後日本演劇史に重要な足跡を残した。このぶどう座の活動実績があったからこそ、銀河ホールという公共劇場の建設が可能になったのだ。
西和賀町文化創造館(当時はゆだ文化創造館)は1993年に開催された〈第8回国民文化祭いわて’93 〉の会場として建設された。この国民文化祭を兼ねたかたちで〈第1回銀河ホール地域演劇祭〉が行われ、以後、地域文化祭は毎年秋に開催されている。当時、湯田町(2005年に沢内村と合併して西和賀町となる)の役場の職員で、この劇場運営の中核だった新田満氏に話をうかがったのだが、開館から2000年代半ばまでの銀河ホールの活動は目覚ましいものがある。毎年の地域演劇祭の開催のほか、町民を対象とした演劇学校、小中学校での音楽劇制作、行政的区画を超えた高齢者による演劇公演、そしてロシアとアメリカの演���人を招聘し三週間にわたって行われた大規模な国際的演劇交流事業など、地方の小さな町の公共劇場としては驚異的な活動を展開していく。
しかしこの初期の黄金時代は、こうした活動に熱意をもって取り組んできたキーパーソンの退職とともに終焉を迎える。地域劇団として銀河ホールの活動に大きな影響を持っていたと思われるぶどう座も、主宰の川村光夫の高齢化とともに、活動力が低下していった。おそらく湯田町が沢内村との合併で西和賀町となり、役所内の組織にも大きな改編があった2005年以降、銀河ホールの活動は停滞期に入ったように思われる。
〔銀河ホール内部〕
西和賀が演劇のまちとして再活性化しはじめるのは2011年以降のことだ。きっかけは2012年以降現在まで継続的に行われている《ギンガク》という学生演劇合宿事業だ。この事業の立ち上げで中心的な役割を果たしたのが、当時、日芸の大学院生だった小堀陽平さんだ。今回の滞在では小堀さんからも彼と西和賀町との関わり、銀河ホールの活動について話を聞いた。
彼は2014年以降、地域おこし協力隊の一員として西和賀町に移住し、《ギンガク》の活動のみならず、銀河ホールを核としたさまざまな演劇事業を企画・遂行していく。地域おこし協力隊の3年の任期が終了した2017年度以降、西和賀町は「銀河ホール アートコーディネーター」という職を小堀さんに用意し、彼は西和賀の嘱託職員として採用された。町の彼に対する信頼と期待の大きさがうかがわれる。
アートコーディネイターとして彼が担当する業務は文化事業全般に関わるものだが、演劇に関わる事業としては、地域演劇祭のほか、学生演劇の合宿《ギンガク》、小中学校での公演・ワークショップ、高校演劇アワード、地域中学への演劇指導、銀河ホール「演劇部」の活動、そして貸し館業務など多岐にわたっている。今後やりたい事業としては、シニア演劇、温泉・観光と組み合わせたイベント、アーティスト・イン・レジデンスなどを挙げていた。
ほっとゆだ駅から銀河ホールにかけての道に「どこにもない演劇のまちをつくろう」と書かれたのぼりが立ち並んでいるが、町外からこの町にやってきた地域おこし協力隊の青年たちがもたらす刺激によって、西和賀は演劇のまちとして新たな一歩を踏み出そうとしている。
第26回銀河ホール地域演劇祭
2018年9月1日(土)- 9月2日(日)
会場:西和賀町文化創造館(銀河ホール・Uホール)/劇団ぶどう座稽古場
主催:銀河ホール地域演劇祭実行委員会
後援:西和賀町観光協会・西和賀町芸術文化協会・西和賀町教育委員会
総合舞台監督:内山勉
テクニカルスタッフ:アクト・ディヴァイス
���伝美術:髙野由茉 小堀陽平
特別協力(記録撮影):森山紗莉
劇団あしぶえ/島根『セロ弾きのゴーシュ』
9月1日(土) 14:00~@銀河ホール
出演:松浦 優海、門脇 礼子、上田 郁子、有田 美由樹、伊達 生、有田 美由樹、門脇 礼子、原田 雅史、上田 郁子、川村 真美、牛尾 光希、岩田 和大
演出:園山 土筆
舞台/照明:稲田 道則、岡本 敦、門脇 礼子、長見 好高、原田 雅史
音響:福井 健吾 前村 晴奈
小道具:上田 郁子
衣装:有田 美由樹 川村 真美
制作:前村 晴奈
劇団田中直樹と仲間たち/西和賀『水仙月の四日』
9月1日(土) 15:30~ 総入替え2回上演@Uホール
出演:田中 直樹、田中 宏樹
演出/美術:田中 直樹
照明:小堀 陽平(銀河ホール)
雪布操作:田中 真理子
協力:湯田ドライブイン
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇/東京『銀河鉄道の夜』
9月2日(日)14:00〜@銀河ホール
出演:栗田 桃子(文学座)
演出:西本 由香(文学座)
照明:賀澤 礼子(文学座)
映像・音響:西本 由香(文学座)
美術:米澤 純(Jun's Light Candles)
劇団ぶどう座/西和賀『植物医師』
出演:真嶋 実、池田 慣作、菊池 啓二、高橋 節子、高橋 守、三浦 勇太
演出:菊池 啓二
舞台美術:内山 勉、新井 真紀
音響/照明:真嶋 陽
小道具:髙野 由茉
●片山 幹生(かたやま・みきお)1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
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(シーズン2あらすじ) 私はファッションモデルの紅一美。 旅番組ロケで訪れた島は怪物だらけ!? 霊能者達の除霊コンペとバッティングしちゃった! 実は私も霊感あるけど、知られたくないなあ…… なんて言っている場合じゃない。 諸悪の根源は恩師の仇、金剛有明団だったんだ! 憤怒の化身ワヤン不動が、今度はリゾートで炸裂する!!
pixiv版 (※内容は一緒です。)
དང་པོ་
高々とそびえる須弥山の麓。宙にはトンビやカラスが舞い、地上では鮎や鯉が戯れに滝を登る。その平穏な滝壺のほとりで、徳川徳松少年は私達に今生の別れを告げる。 『あんたらは何も気にしないでいい。地獄行きはぼくだけだ』 「そんな」 光君はしゃがんで徳松の両肩に触れた。 「利用されてただけで。地獄など!」 『ダメだ。御戌神は沢山殺しすぎた。誰かがその業を背負って行かにゃ、地獄の閻魔さんが困っちまう』 ……野暮な事実だけど、現代に地獄や極楽へ行く人は稀だ。大昔は全ての神仏と霊が宗教という秩序のもと、亡くなった人の魂を裁いたり報うための聖域が幾つも設けられていた。けど地球全土が開拓され人口過多の現代では、そういった聖地を置ける場所も管理する神仏も足りていない。誰もが知っている程の重罪人や、誰が見ても割に合わない一生を遂げた善人だけが、狭小な聖地へ招き入れられるんだ。それが当たり前となった平成の時代に徳松が『地獄』へ赴いたとしても、事務的な獄卒にちょっと話を聞かれて追い返されるだけだろう。ただ、江戸時代からずっと本物の地獄を生き続けた彼に、私もドマルもそんな残酷な事言えるわけがなかった。 「どうしてそこまで……島の人達が、あんたに見返りを?」 『見返りなど! これは誰かがやらにゃならねえ事だから。……そりゃ本当はぼくだって辛かった。大散減が飢えたらぼくも腹ペコになって、嫌だ嫌だって思いながら人殺しを。しかも殺るのはぼくと本来無縁だった来世達が! ぼくは……何も出来なかった。ゴメンナサイって思うしか出来なかった』 「僕が地獄へ行く」 『バカこくな……』 「こいてねえ!」 光君は徳松を抱きしめた。 「何が救済だ! この世界は誰かがババ引かにゃ成り立たねぇなら、僕が地獄へ行く! そして何一つ反省しないで永遠に場所取り続けてやる! あんたみたいな人が落ちてこれねぇように!!」 『……!』 すると光君の背中に後光が差していく。ドマルは無言で跪き合掌。私は徳松の隣に寄り添い、彼の顔から影を拭った。 「徳松さん、もう誰もこの件で地獄に落ちる事はありません。あなたは許されたんです」 「『え?』」 光君は振り返り、自分の後ろに光輪ができている事に気がついた。 「こいつは……!」 ༼ 正しい心のもとに、仏様は宿られる。今のこの青年の言葉は、あなたが犯した罪を浄化するに足る力があった。そもそも、殺生の罪とは誰か一人に擦り付けられる物ではない ༽ ドマルも徳松の傍に寄る。 『そんな……けどぼくは実際、何度も人殺しを』 「徳松さん」 これは、あなただけの問題じゃないんだ。 「人が生きるためには、誰かが絶対に殺生をしなきゃいけないんです。お肉を食べるためには、農家の人に動物を屠殺して貰わなきゃいけない。家を守るためには、ときどき業者さんに虫や鼠を駆除して貰わなきゃいけない。殺した本人が悪い、自分で殺してないならセーフ、じゃないんです」 ༼ 言っておくが、僧侶やヴィーガンなら無罪とかそういう事もないからな。草木を殺した死体を着て胡座をかいている坊主だって、もちろん業を背負っている。大事なのは、自分や大切な人々が生きるために糧となった命達への謝意。『謝罪』と『感謝』の心だ ༽ 『謝意……』 光君は徳松の頭を撫で、徳松と指切りをする。 「徳松様。僕達の救済は殺生って形だったけど、誰もせにゃもっと沢山人が死んでたかもだ。僕はあんたの苦しみをずっと忘れない。あんたと一緒にしでかした事、あんたと繋がる縁、全てを忘れない。だから、どうか、安らかに」 『光』 光君の後光は強まり、草葉の陰にまで行き渡る。するとそこから一匹のザトウムシが現れた。針金のように細い体を手繰る、か弱い盲目の虫だ。徳松は子犬のような笑顔を浮かべた後、もはや誰も傷つける事なきその小さな魂を率いて何処へと去っていった。 ༼ はあ、最高かよ。エモいなあ ༽ ドマルが呟いた。口癖なのかな、それ。 「ドマルはどうするの?」 ༼ 拙僧はあ��たの本尊だ。ムナルの遺志をあなたが成し遂げた時、この自我は自然とあなたに帰するだろう ༽ 「そう。じゃあ、金剛を滅ぼすまで成仏はお預けだね」 ༼ 成仏……あいつみたいな事を言うな。そもそも拙僧は邪尊だ ༽ ドマルは須弥山の風景を畳み、また私の影に沈んでいった。あの世界で逝去した徳松は、私と光君の中で永遠に生き続けるんだ。
གཉིས་པ་
「じゃじゃじゃじゃあ、埋蔵金って徳川徳松を襲った大妖怪の事だったんですか!?」 空港エントランスにタナカDの馬鹿でかい声が響く。熾烈を極めた大散減浄霊から一夜、五月五日午前九時。私達はしたたびの締めコメントを収録している。けど佳奈さんと二人きりじゃない。この場には玲蘭ちゃん、後女津親子、そして光君がいる。モノホンのみんなで予め打ち合わせした筋書きを、玲蘭ちゃんがカメラに向かって話す。 「したたびさんが歌の謎を解いて下さって、助かりました。マジムンは私達霊能者が協力して、一匹残らず退治しました。ね、斉一さん」 「え! え……ええ!」 斉一さんは『狸おじさん』のキャラを再現しようと、痛ましい笑顔を作った。 「いやぁ、大変だったんすよ。でもね、私の狸風水で! 千里が島の平和は……ぽ、ぽんぽこ、ぽーん、と……」 「た、狸おじさん? ひょっとして泣いてるんですか?」 タナカDが訝しむ。その涙は失った家族を思い出してのものか、はたまた安堵の涙か。カメラに映らない万狸ちゃんと斉三さんも、唇をぎゅっと噛んだ。 「い……いえね……俺今回、割とマジで命がけで頑張ったから……撮ってなかったなんてあんまりじゃないっすか、タナカDっ!」 「なはははは、そりゃすいませんねぇ! こっちも色々とおみまいされてまして……ぶえぇっくしょん!!」 そういえば光君が島民達に拉致されてから色々ありすぎて、私も佳奈さんもタナカDの事をすっかり忘れていた。スマホに入っていた何十件もの不在着信に気がついたのは、昨晩ホテルに戻っていた道中。二人で慌ててタナカDを迎えに行くと、彼は何故か虫肖寺の井戸の中で震えていたんだ。 「タナカさん、そっちは一体何があったんですか?」 「聞いてくれますか? 僕はねぇ、人生で一番恐ろしい思いをしたんですよぉ……」 未だ風邪気味な声でタナカDは顛末を語った。あの時島民達に襲われたタナカDは、虫肖寺のお御堂へ拉致された。そこの住職はタナカDに、「肋骨を一本差し出せばしたたびチーム全員をこの島から無事に帰してやる」というような脅迫をする。祟りなんて半信半疑だったタナカDは千里が島を『島丸ごと治外法権のヤバいカルト宗教村』だと判断、演者の命を優先するため取引に応じる事に。ところが「肋骨は痛そうだしちょっと……」「小指の骨とかで妥協して頂けませんかねぇ?」「足の小指です」などと交渉に交渉を重ねた結果、島民達を怒らせて殺されかけてしまう。慌ててお御堂から逃げ出したがすぐに追っ手が来たため、タナカDは咄嗟に井戸を降りて身を隠した。しかし数分やり過ごして地上へ戻ろうとしたその時、地震や爆発音などあからさまに異常事態が起きておちおち井戸から出られなくなってしまったのだという。色々とツッコミどころが満載な顛末だ。 「あなた、カルト相手に演者の命を値切りしたんですか」 「悪かったですって。けどあの時は本当に怖かったんですよぉ、紅さんだって同じ立場だったら値切るでしょぉ?」 「それは暗にまた私を小心者だと言ってるんですか? この三角眉毛は??」 「一美ちゃん、ここでキレたら小心者だよ!」 「なっはっはっはっはっは!!」 なんだか腑に落ちないけど、まあタナカDが無事だったのは本当に良かった。思い返せば虫肖寺という名前は『虫の肖像という名を冠したお寺』で、さらに漢字を繋げて読むと『蛸寺』になる。つまりそこも八本足のザトウムシ怪虫、大散減を祀る場所だったんだろう。 「皆さん、もうすぐ搭乗開始が」 光君が腕時計を見て告げる。二泊三日、色々あった千里が島ともついにお別れだ。それでも、この地で出会った人達や出来事、それら全ての『ご縁』は、決して捨てるべきじゃない大事なものだと思う。 「光君」 私は化粧ポーチから青いヘアチョークを取り出し、光君に手渡した。 「引越しが落ち着いたら、連絡してね」 「モチのロンで。一美ちゃんいないと、東京で着る服など何買えばいいかわからないんだから」 光君は徳松の成仏を機に、役場の仕事を辞めて島を出る事にしたそうだ。運転免許を取ったらすぐに引っ越すらしい。今は一時のお別れだけど、またすぐに会える。 「それじゃあみんな、帰るよ」 佳奈さんがここにいる全員の手を取った。 「……東京へ帰るよ!」 「「「おー!」」」
གསུམ་པ་
それから数週間経ち、したたびで千里が島編がオンエアされる頃。 宗教法人河童の家は、『リムジン爆発事故で教祖含め大勢の信者が亡くなった』事故で、アトムツアー社に業務上過失致死の集団訴訟を起こした。リムジンを居眠り運転をしていたアトム社員が新千里が島トンネル前のコンビニに突っ込み、そこに設置されていたプロパンガスに引火、大炎上を起こした……という筋書きだ。この捏造によって私がコンビニを焼却した件も不問になり、私は本当に河童の家さんに落とし前をつけて貰った事になる。なんだかだぶか申し訳ない気もしたけど、先日あんこう鍋さんにお会いしたら『アトムから賠償金めっちゃふんだくれたんでオッケーす、我々はただの笑いと金が大好きなぼったくりカルトですから』と一笑に付してくれた。 加賀繍さんは、玲蘭ちゃんと斉一さんが辞退した除霊賞金三億円を一切合切かっさらっていった。その資金を元手に、電話やスマホアプリで人生相談ができるサービス『みんなのぬか床』の運営を開始。それが大ヒットして、今度は星占い専用人工衛星とやらを打ち上げる計画をしているそうだ。私も興味本位で一度ビデオチャットを課金してみたら、魔耶さんと禍耶さんが相談に乗ってくれた。そういえばこのサイトには、プロフィールも名前もない謎の占い師と繋がる事がある……なんて都市伝説があったような。 後女津親子は失った斉二さんの分の戦力を補充するため、木更津のどこかにあるという聖地『狸の里』で一から修行し直すと言っていた。斉一さんは生きながら強力な妖怪の魂を持つ半妖(はんよう)という状態を目指し、万狸ちゃんと斉三さんもそれぞれ一人前の妖怪になれるよう鍛錬を欠かさないとのことだ。ちなみに万狸ちゃんは九尾の狐みたいに糸車尻尾をたくさん生やして、佳奈さんの童貞を殺す服を着た女を殺す京友禅メイド服に対抗する服を作るのが目標らしい。 玲蘭ちゃんはなんと、あの後再び千里が島に行ったそうだ。今度は沖縄から神様を大勢率いて、長年大散減によって歪んでいた島の理を正したんだという。そこまでしたのにアトムツアーから何の見返りも受け取らなかったのは、『あんな賠償やら何やらで倒産寸前の会社と今更縁を持ちたくないから』。代わりに島の魂達から感謝の印にと、ちゃんと浄化済みの大散減のエクトプラズムをたくさん授かったそうだ。これまで多くの人々が追い求めていた徳川埋蔵金は、玲蘭ちゃんが手に入れたんだ。 さて。一方私はというと、顔のかなり目立つ位置にニキビができてしまいちょっぴりヘコんでいる。しかもこんな時に限って、メッセージアプリで久しぶりに光君から連絡が来た。だぶか、これが想われニキビというやつなんだろうか。 『From:あおきち 映画の前売チケットがたまたま二枚で! ご興味など?』 ……うーん、なんてベタな誘い文句! 返信をしたら詳しく経緯を説明してくれた。 実は来週公開の『シャークの休日』というイタリア映画が、光君が以前務めていた千里が島観光課とのタイアップで『全編南地語字幕上映』という企画をやるらしい。それで光君にも、地元の元同僚さんからチケットが送られてきたそうだ。イタリア人がチャキチャキの南地語を喋ってるような字幕ってまるで想像がつかないけど、確かに面白そうだと思った。 「えーと、『来週の月曜か木曜なら木曜がいいです』……と」 実はどっちも予定は空いているけど、ニキビを治したいから遅めにして貰った。返信を終えた私は早速洗面所へ。さっきお風呂で洗顔したとはいえ、ニキビの箇所はもう一度念入りに洗ってからちゃんとスキンケアしよ……
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Fjórði
そして一週間後、『トラップブラザーズシアター東雲(しののめ)』にて。 「あ、一美ちゃん! ごめん、お待たせを!」 平日昼間にも関わらず混雑する複合ショッピングセンターで、私は道に迷った青木光、恋人の光君をメッセージアプリ頼りに探し出した。 「あれ、キョンジャクとカンリンは?」 「それが、なくな��ちゃったんだ。探してるから見つけたら教えて。そんなことより、行こう?」 この期に及んで『デートできる服を持ってない』などと言い出す恋人を助けてやるため、私は映画鑑賞の時間が近付く前にメンズファッションフロアへ向かった。まるでコーディネートの基本もなっていない男に、流行に合わせた服装を宛がう。それだけで「さすがプロは違う」と煽てられるのだ。 「一美ちゃん? ひょっとして、退屈で?」 「ううん、光君と一緒にいられて楽しいよ」 上映十五分前になり、私達は映画館に戻った。ロビーのスクリーンでは、丁度今日見る作品『シャークの休日』のトレイラーが流れていた。 『餌食である人類の世界を見てみたい……海底は人喰いザメの王国から、自由を求めるサメ姫シャークリー・シャックバーンがローマにやって来たぞ! 姫は魔法で人間に化けて新聞記者と恋仲になるけど、デート中『真実の口』に手を入れたらサメだと見破られちゃった! 魔法が解けて、ローマの人々をヤケ食いし始めるお姫様……全伊震撼の大パニックムービー誕生!』 お世辞にも興味をそそられる内容とは思えないが、私は今までしてきたように楽しそうに振る舞う。 「映画、楽しみだね」 「うん。あ、一美ちゃん、あそこに真実の口が!」 光君が嬉々として示した方向には、記念写真が撮れる真実の口のパネルがあった。彼はタイマー撮影用スタンドに自分のスマートフォンをセットした。 「ねえ、光君。作中の真実の口って、トレイラーで喋ってたよね。『サメ……ウソ……』って。これも手を入れたら喋るかな?」 「一緒に確かめてみるので。いっせー……」 「のー……」 「「せ!」」 『シタタビ……ウソ……』 その時、私はこの真実の口が何か妙な事を言ったように聞こえた。シャッター音と被って耳が錯覚を起こしただけ、だろうか。 「ごめん、もう一回手を入れてみていい?」 「モチのロンで」 二人でセンサー部分に再び手をかざす。 『シタタビ……ドッキリ!』 ヌーンヌーン、デデデデデン♪ ヌーンヌーン、デデデデデン! 突然、テレビ湘南制作『ドッキリ旅バラエティしたたび』主題歌、『童貞を殺す服を着た女を殺す服』のイントロが映画館ロビーに響き渡った。忽ちこの身体は自らの意志に逆らい跳躍し、入場口とは反対方向のエスカレーターへ飛び降りていた。先月末、ドラマ『非常勤刑事』の撮影で主演の男に「一度も見破れないのはだぶか君の才能だ」と言われた記憶が脳で想起される。 「って、サメえええぇぇえええ!?」 エスカレーター階下にはサメ帽子を被ったエキストラの大軍が群がっていた。私はコミカルに叫び、スカートスタイルにも関わらず粗暴に下りエスカレーターを駆け上がった。すると階上には、『ドッキリ』と書かれたプラカードを掲げる光君と志多田佳奈が待ち受けていた。 「ドッキリ大成功ー! 志多田佳奈のドッキリ旅バラエティ、」 「「したたびでーす!」」 悔しがってどうこうなるわけでもないはずだが、この身体はヒステリックに地団駄を踏んでいた。 「やいやいやい小心者! ハニートラップに引っかかるなんてまだまだ小心者だぞ小心者!」 「うるさい万年極悪ロリータ! そこの真実の口で実年齢をバラしてやろうか!?」 「うわぁ~、みみっちー」 しかし、これを放送するのは芸能事務所に許可されるのだろうか。私はまだ世間に正式に発表できるほど、彼と進展した関係ではないはずだ。 「あのね、佳奈さん。私と光君は今日が初デートだし、まだ事務所に何も言っていないんです。こんなのオンエアされたらこちとらたまったもんじゃないんですよ!」 「あ、社長さんには私が色つけて説明しといたから大丈夫だよ」 「勝手に何してくれちゃってるんですか!?」 「だってだって、光君の一美ちゃんへの愛は本当だよねー?」 光君は気恥しそうに真実の口へ手を入れた。 『……ホント』 よく見ると真実の口は、画角外のタナカDが裏声で喋っていたようだ。 「初デートを返せこの三角眉毛ェェ!!」 「ぬわははははは!! ごめんなさいって! ナハハハ!」 「一美ちゃんごめん、本っ当ごめん! これで堪忍を!」 光君が私に何やら縦長なフリップを差し出した。それは特大サイズに拡大印刷されたシャークの休日の前売券だ。 「『映画の世界へご招待! リアルシャークの休日』……『inローマ』ああぁ!!?」 「そ! 今回のしたたびは海外企画、イタリア編! 実は私、この映画の日本版主題歌を担当させてもらったの。そのPVを、ラブラブなお二人に撮ってきて貰いまーす!」 「え、じゃあ佳奈さんは今回行かないんですか?」 「うん。だって主題歌が入るニューアルバム、まだ収録全曲終わってないし。代わりにPVでは一美ちゃんの彼氏役が必要でしょ? だから光君を呼んだの」 そういう事だったのか。今回は光君が撮影に同行するのだ。 「ドッキリは正直ちょっと気が引けたかもけど、テレ湘さんが僕達を海外旅行に連れてってくれるんだから。ローマで本物の真実の口やったり、トレビの泉でコイン投げるなど!」 光君はさぞ嬉しそうに小躍りした。だが、それでは浅はかというものだ。 「光君、ちなみにローマで何をするか知ってるの?」 「うん。だから、映画みたいに真実の口とか……」 「そのフリップ、『inローマ』の下にやたら余白があるよね。よく見て、端がめくれるようになってる」 「え? あっ本当だ! タナカさん……」 「いいですよ、めくって」 フリップから粘着紙を剥がした光君は、前髪で表情が隠れていても解る程、顔面が蒼白した。フリップ上に現れた文章は、上の文字と繋げて読むと『映画の世界へご招待! リアルシャークの休日inローマ県オスティア・ビーチ~スキューバダイビングで人喰いザメの王国へ~』と書かれている。 「そっちへ!?」 彼もまた、私と同様に番組に騙されていたという事だ。するとタナカDが高笑いしながら、タブレットPCで企画書を開いた。 「お二人には最初の三日間でライセンスを取得して、四日目にサメと潜って頂きます。天候とかあるので五日目は予備日にしていますが、運が良ければ真実の口にも行けるかもしれませんよぉ」 「行けるかもしれませんよぉ、じゃないですよ。何が悲しくてイタリアまで行ってサメのいる海に潜らなきゃいけないんですか!」 「あやや……あやややや……」 「しかもこんなショッピングセンターでネタバラシしたって事は、どうせここで荷物買って今から行くんでしょ? 予算一万とかで」 「さすが紅さん、よくわかってらっしゃる」 「今から!? しかも一万円で旅支度を!?」 「安心して下さい、一人一万です。うははははははは!」 私達したたびチームにとっては定石である無秩序な行動に、光君はただ困惑している。 「じゃあ光君、衣装買いに行くよ。デートに行く服がなかったなら、PVに出る服だって持ってないでしょ」 「えっでも、流石にダイビングスーツは現地じゃ?」 「サメと泳ぐだけで終わらせるわけないでしょ? だぶか海中ロケなんてさっさと終わらせて、二人で街ブラする撮れ高で佳奈さんのPV埋め尽くしてやるんだ!」 「そ、そうだ……せにゃ! 見てろよ佳奈さん!」 「ふっふっふー。そう簡単にいくかな? 衣装に予算使いすぎてだぶか後で後悔するなよっ!」 「国際モデルのこの私のプチプラコーデ力を侮らないで下さい。だぶか佳奈さん本人が出てるPVより再生数稼いでやる!」 斯くして、また私達は旅に出る事になった。『行った事のない場所にみんなで殴り込んで、無茶して、笑い合って、喧嘩して、それでも懲りずにまた旅に出る』とは佳奈さんの言葉だ。それが私にとっての日常であり、私はこのような日々がいつまでも続くと漠然と思い込んでいる。
し か し 、 そ れ で は こ の 『 私 』 に 金 剛 の 有 明 は 訪 れ な い 。 間 も な く 時 が 来 る 、 金 剛 の 楽 園 ア ガ ル ダ が こ の 星 を 覆 い 尽 く す の だ 。
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【新型コロナウイルス感染症に関する安倍内閣総理大臣記者会見】 - 首相官邸ホームページ : https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2020/0504kaiken.html : https://archive.is/qsP0C 令和2年5月4日 { 2020-05-04 } {{ 動画 : https://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg20661.html }} ■《安倍総理冒頭発言》 緊急事態宣言を発出してから間もなく1か月となります。最低でも7割、極力8割、人との接触を削減する。この目標の下、可能な限り御自宅で過ごしていただくなど、国民の皆様には大変な御協力を頂きました。その結果、一時は1日当たり700名近くまで増加をした全国の感染者数は、足下では200名程度、3分の1まで減少しました。これは、私たちが終息に向けた道を着実に前進していることを意味します。また、一人の感染者がどれぐらいの数の人にうつすかを示す実効再生産数の値も、直近の値も1を下回っています。 緊急事態を宣言した4月上旬、1か月後の未来について、欧米のような感染爆発が起こるのではないか。そうした悲観的な予想もありました。しかし、国民の皆さんの行動は、私たちの未来を確実に変えつつあります。我が国では、緊急事態を宣言しても、欧米のような罰則を伴う強制的な外出規制などはできません。それでも、感染の拡大を回避し、減少へと転じさせることができました。これは、国民の皆様お一人お一人が強い意思を持って、可能な限りの努力を重ねてくださった、その成果であります。協力してくださった全ての国民の皆様に心から感謝申し上げます。 その一方で、こうした努力をもうしばらくの間、続けていかなければならないことを皆さんに率直にお伝えしなければなりません。現時点ではまだ感染者の減少が十分なレベルとは言えない。全国で1万人近い方々がいまだ入院などにより療養中です。この1か月で人工呼吸器による治療を受ける方は3倍に増えました。こうした重症患者は回復までに長い期間を要することも踏まえれば、医療現場の皆さんが過酷な状況に置かれている現実に変わりはありません。これまでに500名を超える方々が感染症によりお亡くなりになられました。心から御冥福をお祈り申し上げます。 一人でも多くの命を救うためには、医療資源を更に重症者治療に集中していく必要があります。1日当たりの新規感染者をもっと減らさなければなりません。このところ、全国で毎日100人を超える方々が退院など、快復しておられますが、その水準を下回るレベルまで、更に新規感染者を減らしていく必要があります。 そのために、感染者が多く、特に警戒が必要な13都道府県の皆さんには、引き続き極力8割の接触回避のための御協力をお願いします。東京都では、5月になってからも平均で1日100人を超える感染者が確認されています。これまでの努力を無駄にしないためにも、ここで緩むことのないようにお願いをいたします。 そして、各地への感染拡大を防ぐためにも、地方への人の流れが生まれるようなことは避けなければなりません。そのための対策も講じることができるよう、今後とも全国を対象として、延長させていただくことといたしました。その上で、入院患者の皆さんは、2、3週間が平均的な在院期間とされています。新たな感染者数を低い水準に抑えながら、これまでに感染した患者の皆さんの退院などを進めていく。そうすることで、医療現場のひっ迫した状況を改善するためには、1か月程度の期間が必要であると判断いたしました。 こうした考え方について、本日は尾身会長を始め、諮問委員会の専門家の皆さんの賛同を得て、今月いっぱい、今月末まで緊急事態宣言を延長することを決定いたしました。ただし、今から10日後の5月14日を目途に、専門家の皆さんにその時点での状況を改めて評価いただきたいと考えています。その際、地域ごとの感染者数の動向、医療提供体制のひっ迫状況などを詳細に分析いただいて、可能であると判断すれば、期間満了を待つことなく、緊急事態を解除する考えであります。 当初予定していた1か月で緊急事態宣言を終えることができなかったことについては、国民の皆様におわび申し上げたいと思います。 感染症の影響が長引く中で、我が国の雇用の7割を支える中小・小規模事業者の皆さんが、現在、休業などによって売上げがゼロになるような、これまでになく厳しい経営環境に置かれている。その苦しみは痛いほど分かっています。こうした中で、緊急事態を更に1か月続ける判断をしなければならなかったことは、断腸の思いです。 明日の支払にも大変な御苦労をしておられる皆さんに、一日も早く、使い道が全く自由な現金をお届けしなければならないと考えています。5月1日から最大200万円の持続化給付金の受付を始めましたが、最も早い方で8日(注)から入金を開始します。公庫や商工中金だけでなく、身近な地方銀行や信金や信組でも、3,000万円まで、実質無利子・無担保、元本返済も最大5年据置きの融資が受けられます。納税や社会保険料の支払も猶予いたします。これらの支援策を御活用いただくことで、この緊急事態を何とかしのいでいただきたい。事業と雇用を何としても守り抜くとの決意の下で、政府の総力を挙げ、スピード感を持って支援をお手元にお届けしてまいります。加えて、飲食店などの皆さんの家賃負担の軽減、雇用調整助成金の更なる拡充、厳しい状況にあるアルバイト学生への支援についても、与党における検討を踏まえ、速やかに追加的な対策を講じていきます。 その上で、事業者の皆さんが何よりも望んでおられるのは、事業の本格的な再開だと思います。そのために、この1か月で現在の流行を終息させなければならない。5月は、終息のための1か月であり、そして、次なるステップに向けた準備期間であります。どうか御理解と御協力をお願い申し上げます。 感染の拡大防止は、私たちの命を守るための大前提です。有効な治療法やワクチンが確立されるまで、感染防止の取組に終わりはありません。その意味で、私たちはある程度の長期戦を覚悟する必要があります。しかし、経済社会活動を厳しく制限する今のような状態を続けていけば、私たちの暮らし、それ自体が立ち行かなくなります。命を守るためにこそ、私たちはコロナの時代の新たな日常を一日も早くつくり上げなければなりません。ウイルスの存在を前提としながらのいつもの仕事、毎日の暮らし、緊急事態のその先にある出口に向かって、皆さんと共に一歩一歩前進していきたいと考えています。その観点から、本日、日常生活において留意すべき基本的なポイントを専門家の皆様からお示しいただきました。密閉、密集、密接、3つの密を生活のあらゆる場面でできる限り避けていく。このウイルスの特徴を踏まえ、正しく恐れながら、日常の生活を取り戻していく。専門家の皆さんが策定した新しい生活様式は、その指針となるものです。 子供たちには、長期にわたって学校が休みとなり、友達とも会えない。外で十分に遊べない。いろいろと辛抱してもらっています。心から感謝いたします。また、お父さんやお母さんや御家族の皆様には、大変な御負担をおかけしています。先週、文部科学省から、分散登校など、新たな指針をお示ししました。段階的であっても、子供たちの学校生活を取り戻していく。学校においても、新たな日常をつくる取組を進めます。 経済活動においても、新たな日常をつくり上げます。様々な商店やレストランの営業、文化施設、比較的小規模なイベントの開催などは、新しい生活様式を参考に、人と人との距離を取るなど、感染防止策を十分に講じていただいた上で、実施していただきたいと考えています。今後2週間をめどに、業態ごとに専門家の皆さんにも御協力を頂きながら、事業活動を本格化していただくための、より詳細な感染予防策のガイドラインを策定してまいります。ただし、3つの密が濃厚な形で重なる夜の繁華街における接待を伴う飲食店、ライブハウスなど、これまで集団感染が確認された場所へ出かけることは、引き続き自粛をお願いすることとなると考えます。 他方で、外出それ自体が悪いわけではありません。人との距離を十分に保ち、マスクを着用する。そうした予防対策を講じながら外出できる。そうした日常を、専門家の皆さんのアドバイスの下に取り戻してまいります。 もう一度申し上げますと、外出それ自体は全く悪いわけではないということであります。3つの密を避けることを大前提に、新たな日常を国民の皆さんと共につくり上げていく。5月はその出口に向かって真っすぐに進んでいく1か月です。同時に、次なる流行のおそれにもしっかり備えていきます。その守りを固めるための1か月でもあります。 各地で、医師会の皆さんの協力も得てPCRセンターを整備するなど、検査体制を更に拡充していきます。地域の感染対策の砦(とりで)である保健所の皆さんの負担軽減、体制強化にも更に取り組みます。感染が判明した方々には、宿泊施設での療養や医療機関への入院など、病状に応じた適切な対応がスムーズに行われるよう、自治体ごとの体制構築を支援していきます。ガウンや高性能マスクなどの医療防護具についても、国内での増産や輸入を一層強化します。そして、最前線の医療現場に国が直接届ける取組をもっと充実していきます。介護施設などの感染予防も一層強化しなければなりません。さらには有効な治療薬、有効な治療法の確立に向かって、この1か月、一気に加速していきます。 日米で共同治験を進めていたレムデシビルについて、米国で使用が承認されました。そして本日、我が国においても特例承認を求める申請がありました。速やかに承認手続を進めます。我が国で開発されたアビガンについても、既に3,000例近い投与が行われ、臨床試験が着実に進んでいます。こうしたデータも踏まえながら、有効性が確認されれば、医師の処方の下、使えるよう薬事承認をしていきたい。今月中の承認を目指したいと考えています。あらゆる手を尽くして、次なる流行に万全の備えを固めていく。そのための1か月にしなければならないと考えています。 感染のおそれを感じながら、様々な行動制約の下での生活は緊張を強いられるものです。目に見えないウイルスに強い恐怖を感じる。これは私も皆さんと同じです。しかし、そうした不安な気持ちが、他の人への差別や、誰かを排斥しようとする行動につながることを強く恐れます。それは、ウイルスよりももっと大きな悪影響を私たちの社会に与えかねません。誰にでも感染リスクはあります。ですから、感染者やその家族に偏見を持つのではなく、どうか支え合いの気持ちを持っていただきたいと思います。 各地の病院で集団感染が発生している状況を大変憂慮しています。しかし、医師、看護師、看護助手、そして病院スタッフの皆さんは、そのような感染リスクと背中合わせの厳しい環境の下で、強い使命感を持って、今この瞬間も頑張ってくださっています。全ては私たちの命を救うためであります。医療従事者やその家族の皆さんへの差別など、決してあってはならない。共に心からの敬意を表したいと思います。 緊急事態の下でも、スーパーや薬局で働いている皆さん、物流を支えている皆さん、介護施設や保育所の職員の方々など、社会や生活を様々な場所で支えてくださっている皆さん、そうした皆さんがいて、私たちの暮らしが成り立っています。改めて、心から感謝申し上げます。私たちの暮らしを支えてくださっている皆さんへの敬意や感謝、他の人たちへの支え合いの気持ち、そうした思いやりの気持ち、人と人との絆(きずな)の力があれば、目に見えないウイルスへの恐怖や不安な気持ちに必ずや打ち勝つことができる。私はそう信じています。 今年は、大型連休中も不要不急の外出を避け、自宅での時間を過ごしてくださっている皆さんに、改めて、衷心より御礼を申し上げます。友人同士でのオンラインでの交流など、インターネットやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を使って人と人との絆を深め、楽しもうという、自宅での時間を楽しもうという方々がいらっしゃることに大変勇気づけられます。前向きな皆さんの存在が緊急事態を乗り越える大きな力となっています。 例年、ゴールデンウィークには実家に帰省するなど、家族で旅行していた皆さんも多いと思いますが、今年はオンライン帰省などのお願いをしております。そうすることで皆さんの、そして愛する家族の命を守ることができます。御協力に感謝いたします。いつかきっと、また家族でどこかに出かける。そのときのために、今はどうか、おうちで家族との時間、家族との会話を大切にしていただきたいと思います。 先日、国立感染症研究所が発表したゲノム分析によれば、我が国は徹底的なクラスター対策によって、中国経由の第一波の流行について押さえ込むことができたと推測されます。そして、700名を超える集団感染が発生したダイヤモンド・プリンセス号からのウイルスも、様々な対策の結果、国内では終息したと分析しています。そして、今また欧米経由の第二波についても感染者の増加はピークアウトし、終息への道を進んでいます。皆さんに大変な御協力を頂きました。大変つらい思いもしていただいていることと思います。しかし、私たちのこれまでの努力、取組は間違いなく確実に成果を上げています。みんなで前を向いて頑張れば、きっと現在のこの困難も乗り越えることができる。国民の皆様の御理解と御協力をお願い申し上げます。 ありがとうございました。私からは以上です。 ◆(内閣広報官) はい。それでは、これから皆様方からの質問を頂きますが、質問には安倍総理と尾身会長に御対応いただきたいと思っておりますので、総理、そして尾身会長におかれましては所定の位置に御移動願います。質問の内容によりましては尾身会長から御説明を頂くこともございます。御了解を頂戴したいと思います。 質問を御希望される方、その意思表示は、前回、前々回のやり方に従いまして、発声ではなく挙手でお願いしたいと思います。私が指名をいたしますので、指名を受けた方は近くのスタンドマイクまでお進みいただきまして、所属とお名前を改めて明らかにされた上でお願いしたいと思います。 それでは、初めに幹事社からの御質問とさせていただきます。どうぞ。 ◆(記者) 幹事社のフジテレビ、鹿嶋(かしま)です。 宣言の延長と今後の対策についてお聞きします。まず、先ほども言及がありましたけれども、今回、宣言を延長し、国民が自粛継続など、更なる負担を強いられることについて、率直に政治の責任についてどのようにお考えになりますでしょうか。また、宣言の延長に伴って、今後、失業者が大幅に増える懸念があると思います。二次補正の検討も今されていると思いますが、雇用調整助成金の上限をどの程度、引き上げるのかといった既存の対策の拡充に加えて、例えば東日本大震災で活用された雇用保険の特例措置など、こういったものを行って、より雇われる側の立場に立った対策を検討するお考えはありますでしょうか。また、10万円の現金給付について、追加で行う考えはありますでしょうか。お願いします。 ◆(安倍総理) まず、当初予定をしておりました緊急事態宣言について、1か月で終息する、終えるということを目指しておりましたが、残念ながら1か月延長するに至ったこと、内閣総理大臣として責任を痛感しております。それを実現できなかったことについて改めて、おわびを申し上げたいと思います。 その上で、この5月は、現在の流行を終息させること。そして、次なる流行に備える、その1か月であると、その備えを万全に固めていくための1か月であると考えています。私自身、その目標に向かって、目的に向かって先頭に立って努力をしていく考えであります。 そして、今回の延長によって、既に大変厳しい状況にある事業者の方々には、更なる御苦労を強いることになります。まずは先般成立をした補正予算を直ちに執行に移して、総力を挙げて速やかに支援をお手元にお届けをしたいと思います。先ほど冒頭発言において、私が持続化給付金について、最速で5月8日に入金すると申し上げるところを8月というふうに申し上げましたが、これは5月の8日が最速で入金でございますので、訂正させていただきたいと思います。(注) そして、その上で、今、お話のあった雇用保険制度や雇用調整助成金の更なる拡充に加えまして、また、飲食店や様々な小規模事業者の皆さんも含めて、賃料負担の軽減や、あるいはまたアルバイト学生への支援などについても、与党における検討を踏まえまして、速やかに追加的な対策を講じていきます。 また、10万円の給付については、既に800を超える自治体からオンラインでの申請受付を開始いたしました。自治体と協力をして、一日も早く、この現金をお手元にお届けしたいと思っています。そして、その先につきましては、事態の推移等、状況等を十分に見極めながら判断をしたいと思います。 ◆(内閣広報官) それでは、幹事社、もう一問。どうぞ。 ◆(記者) 産経新聞の小川と申します。 今回の緊急事態宣言の法的裏づけである特措法について伺います。私権制限の懸念から、内閣総理大臣に指揮権を持たせていない一方で、都道府県知事による法的権限がより強い要請や指示を可能としていることから、政府と知事の権限の曖昧さなど、法的な不備が指摘されています。感染者数の動向など、今後の状況次第では罰則強化を含め、法改正など、法律を見直す考えはありますでしょうか。 また、先ほど総理もおっしゃいましたが、出口に向かって真っすぐに進むこの5月の1か月を乗り切るためにも、政府の対応はもとより、各地域の事情に精通する地方自治体の対応も非常に重要になってくると思います。緊急事態宣言の解除��向けて、地方自治体に期待する役割だったりとか、知事のリーダーシップについてどう考えるか、お聞かせください。 ◆(安倍総理) 特措法については、国は基本的対処方針を決めます。それに基づきまして、都道府県がその地域の感染状況等を踏まえて判断を行うという仕組みであります。これまで国民の皆様の御理解を頂きながら、都道府県と緊密に連携をしながら取り組んできましたが、結果、確実に成果が出ていると、こう考えています。 また、国の権限強化等についてでありますが、今、言わば強制力を伴わない中におきましても、例えば夜の繁華街等についても営業しているのは1割以下の地域が多いわけでありまして、大変な御協力を頂いている。本当に感謝申し上げたいと、こう思っています。 国の権限強化や、更なる私権制限を行うための立法措置については、今の感染状況でそれがどうしても必要な事態が生じる場合については、当然検討されるべきものと考えていますが、今は緊急事態のさなかでありまして、引き続き国民の皆様の御協力を頂きながら、都道府県としっかりと協力をしながら進めていきたいと思っています。 いずれにいたしましても、先ほど申し上げました、もう一回、専門家の皆様に再評価をしていただく、この緊急事態宣言を全国で延長いたしましたが、専門家の皆様に再評価をしていただくわけでありますが、その間も都道府県において、これは相当大きな、今、差も出てきています。ずっと新規感染者がゼロの都道府県も、県も多いわけでありまして、そういう地域によっては当然、その地域でどのように対処していくかということも、これは各地域で決めていただくこともあるわけでありまして、そういう意味におきましては、それぞれの正に地方の首長の皆さんに的確な御判断もいただきたいというふうに思います。 ◆(内閣広報官) それでは、これから幹事社以外の皆様からの御質問を頂きます。 御希望される方、改めてですけれども、発声ではなくて、挙手でお願いいたします。私が指名いたしますので、近くのマイクの前にお進みいただきまして、所属とお名前を明らかにした上で質問をお願いいたします。 質問はお一人様、1問でお願いいたします。 では、菅原(すがはら)さん。 ◆(記者) 日本テレビの菅原です。よろしくお願いいたします。 今回の感染者数の減少についてなのですけれども、残念ながら十分に期待されたレベルには達さなかったということだと思うのですけれども、この要因について、例えば休業に対する補償や支援によって十分な安心を与えられなかったとか、いろいろなことが考えられると思うのですけれども、政府としてこの要因をどのように分析していらっしゃるのかということと、それをこの先の1か月にどのように生かしていこうというふうにお考えでしょうか。 ◆(安倍総理) 緊急事態宣言を発出してから、この1か月間、最低でも7割、極力8割、人との接触を減少していただきたいというお願いをさせていただきました。本当に多くの方々が御自宅で過ごしていただいていると思います。新規感染者数の減少はまだ十分なレベルとは言えないわけでありますが、例えば先ほど申し上げましたように、夜の街につきましても、全国で多くの、いわゆる夜の街においては、大体1割を下回るところもあります。営業しているところがですね。人の流れはほとんどもうなくなっているわけでありますが。また、例えば駅の改札などの通過数を見ますと、実はこれは8割から9割減っているのです。つまり、8割をそういうところでは大きく上回っている。夜の街でも、言わば8割を上回っているという大変な御協力を頂いています。 そもそも罰則がない中でそこまでいただいている、協力を頂いていることに感謝を申し上げたいと思いますが、ただ、医療現場の過酷な状況の中において、更なる努力が必要である。1日の新規感染者を退院、回復される方、100人の水準以下に抑える必要があると、そのように判断をしたということであります。 しかし、その中でも、先ほど申し上げましたように、そういう成果が出てきておりますので、この13都道府県におきましても、8割の接触回避のお願いをいたしますが、博物館や美術館や図書館などの使用制限を緩和したいというふうに考えているところであります。 補償等につきましては、先ほど申し上げました持続化給付金について一日も早くお手元にお届けをしたいと、こう思っています。これは、国際社会で見ても遜色のない支援レベルだと思っています。 ◆(内閣広報官) それでは、その次の方。 では、松本さん。 ◆(記者) NHKの松本と申します。よろしくお願いします。 PCR検査についてお伺いします。政府の方は、能力拡充を図ってきているとしていますけれども、なかなか実施件数自体は伸びてこないという現状があります。こうした中、果たして感染の全体像がつかめているのかどうかとか、あるいは把握できない感染が広がっているという国民の不安もあるかと思います。 この検査の運用は、医師が必要と判断した人が受けられるようにするといったことになっていますけれども、こうした運用の見直しを図りまして、また、より検査が受けられやすいようにしていくという、その改善点についてどのようにお考えかお伺いしたいと思います。 ◆(安倍総理) PCR検査の数と実際の感染者数との関係においては、尾身先生からお話を頂きたいと思いますが、では、このPCRの検査の数が諸外国と比べて日本は少ないのではないかという御指摘もあります。また、私もずっと、医師が判断すればPCR検査を受けられるようにすると申し上げてきましたし、その能力を上げる努力をしてきました。 ただ、8,000、1万、1万5,000と上げても、実際に行われているのは、7,000、8,000レベルでありまして、どこに目詰まりがあるのかということは、私も何度もそういう状況について、どこに目詰まりがあるのかということは申し上げてきているわけでありますが、本日の専門家会議の分析、提言では、東京などを中心とした大都市部を中心に検査待ちが多く報告をされまして、検査件数がなかなか増加しなかった要因として、各自治体における保健所の業務過多や、検体採取の体制などが挙げられています。 現在は、こうした状況を踏まえまして、地域の医師会にも御協力を頂きながら、全国で20か所、主にやはり東京でそういうことが起こっておりますので、東京で12か所のPCRセンターが設置されまして、PCR検査体制の強化が図られてまいりました。東京などの大都市圏を中心に対策を徹底していきたいと思っています。 ◆(内閣広報官) では、尾身会長、お願いいたします。 ◆(安倍総理) 実態の件数とPCRとの関係。 ◆(尾身会長) 今の、よく一般の方で、PCR検査が日本で比較的少ないので、感染の実態を十分つかんでいないのではないかということですが、実は、今日、私ども専門家会議がこれから記者会見をしますが、そのときに詳しく申し上げようと思っていますけれども、歴史的に見て、確かに日本はPCRのキャパシティーを上げるということが他の国に比べて遅れた。それは様々な理由があります。 元々、衛生研究所とか国立衛生研究所は、感染法の中で、行政の検査をやるということで、1つがありますね。それから、日本の場合には幸いなことにSARS(重症急性呼吸器症候群)、MERS(中東呼吸器症候群)がなかったために、少しやはりPCR体制というものを組むということが、そういう経過があって、なかったと思います。 しかし、そういう中で、実は当初はPCR検査を、重症化を防ぐために限られたキャパシティーを集中せざるを得ないという、これは事実でございました。しかし、だんだんと感染者が増えて、死亡者も増えるという中で、2月の20日頃から、大学とか他の医療機関に試薬を送るとか、検査をする。それから、3月6日にはPCRの保険適用が、そういうことが様々にありましたけれども、実は、なかなかうまく思ったほどのスピードで上がらなかったのは事実で、その理由はいろいろありまして、大体6つぐらいありますが、保健所の業務の過多とか、それから入院先をしっかり示す仕組みがない、それからPCR検査を行う地方衛生研究所のリソースが極めて少ない。人員のカットなどもありますし、そういうことがあった。それから、検体採取及び実施体制のマスクや防護服、それから一般医療機関は都道府県との契約をしないとこういう検査ができないという今までの仕組みがあった。それから、検体を取ったら運ぶということに、これに様々な障害がありました。そういうことでありまして、なかなか他の国よりは確かに少なかった。 しかし、それと同時に、死亡者という、重症化で、本当に肺炎で亡くなったような人については、もちろん最近、報道で、残念なことに路上で亡くなって、後でPCRで分かったという人がおりますけれども、基本的には、日本の医療体制というのは、肺炎を起こしたような、日本の場合には肺炎のサーベイランスをやってきましたから、肺炎を起こすような人はほとんどがCT検査とかをやられて、その多くはPCR検査をやられてきて、そういう意味では、死亡者のようなものは大体正しい件数がピックアップされていると思います。 それで実は、今日の専門家会議でも、我々、その中に書いてあって、また今日の記者会見で申し上げますけれども、実は、他の国に比べたら件数が足りない、少ないことは確かですけれども、今の状況を見ますと、徐々にではありますけれども、検体数は増えているのです。その中で、PCRの陽性率というのは下がっています。そういうポジティブなところがありますが、しかし、実際にまだまだ、私自身あるいは専門家委員会としては、PCRのキャパシティーを、必要な人に、もう少し私はできるようにスピードアップする必要があると思います。 そのためには、幾つか、これも6つぐらい課題があると思いますけれども、保健所の強化、それから都道府県調整本部の活性化、それから地域の外来、これは医師会なんかがやってきて、いろいろセンターをつくっていますけれども、これがまた始まったばかりです。これをもっとしっかりやる。それから感染防護具とか、そういうキットの、これが調達がまだ足りません。それから検査をするといってもそう簡単ではない。トレーニングも必要です。それから実は、特に都道府県においてはPCRの実態の把握と、それから問題点が、何をするということは、これは前から基本的対処方針でお願いしています。これは知事のリーダーシップで、一体のこういうことが、更に私はしっかりと必要な人にPCR検査が受けられる体制を示すためのチャレンジであると思います。 そんなようなことでよろしいでしょうか。 ◆(内閣広報官) それでは、次の質問に。 どうぞ。 ◆(記者) 中国新聞社の下久保です。よろしくお願いします。 総理は、先日の憲法記念日のビデオメッセージで、現在のコロナの拡大を受けて、これに対して緊急事態条項の新設に意欲を示されました。現在の状況、コロナの感染終息が見通せない中で、この状況下で、改憲議論、コロナの問題を申し上げるのはどうなのかという意見もあります。この点について、総理のお考えを聞かせてください。 ◆(安倍総理) 既に自民党は4項目のイメージについて提案をさせていただき、その中で緊急事態宣言があるわけであります。今の事態だから申し上げているのではなくて、ずっと申し上げているということです。 ◆(内閣広報官) それでは、次、吉野さん。 ◆(記者) テレビ朝日の吉野です。 学校の一斉休校についてお伺いいたします。5月いっぱいで3か月です。6月以降の確証がまだ得られない中で、目前の課題として、義務教育の遅れですとか、それに伴う格差についてどうお考えでしょうか。オンライン教育ですとか9月の入学というのは一つの解かもしれませんけれども、総理の具体的な見解をお伺いしたいです。 ◆(安倍総理) 安倍政権は発足以来、第1次政権もそうですが、教育に力を入れてまいりました。その中で、こうした緊急事態において、学びの場が奪われてしまっている、子供たちがみんなで一緒に勉強したり遊んだり、共に時間を過ごす貴重な時間が失われてしまっていること、本当に残念であります。 そして、その中で、子供たちの学びに著しい遅れが生じることがあってはなりませんし、また、地域によって大きな格差が生まれることがあってはならないと思います。そうしたことのないように、今、全力で取り組んでいるところでありますが、これまで政府としては、子供たちが家庭学習を行えるように、オンラインの教材や動画等の提供を行っています。また、一人一人の端末、1人1台のIT端末の実現に向けまして、当初の4年を1年間で実現、実施できるように予算を確保します。もちろん予算を確保したからといってすぐできるということではなくて、これは正に地方自治体の皆さんにも相当頑張っていただかなければならないということになりますが、その予算も確保しました。 そうした様々な対策をしているところでありますけれども、先週、感染予防に最大限配慮した上で分散登校を受け入れるなどの段階的な学校再開に向けた工夫も提示をしております。子供たちの学習機会の確保に向けて、地方自体や学校現場と一体となって全力を尽くしていきたいと思います。様々な、我々も、アイデアを取り入れていきたいと思っています。 ◆(内閣広報官) それでは、後列の奥から2人目の男性の方、所属とお名前を明らかにして、お願いします。どうぞ。 ◆(記者) こんにちは。フリーランスの大川興業総裁の大川豊です。よろしくお願いいたします。 まず、私は、知的障害者の施設の現場を全国歩いておりまして、どうしても家の中に閉じ込めておけないとか、やはり外に出るのが大好きだとか、あと、買物が好きだとか、どうしても同行者がいないと活動できないという現実がありまして、例えば知的障害であったり、発達障害の子供たちに対しての行動指針、それを政府としてお示しになるか。それをちょっとお伺いしたいと思います。 ◆(安倍総理) 尾身先生からよろしいですか。 ◆(記者) 是非、やはり買物しているときも���人で一緒に移動しているので、政府からもお答えを頂ければと。 ◆(安倍総理) 分かりました。 まずは、都道府県によって大分事情が違いますから、都道府県によっては、正に最初に申し上げましたように、まず外出するということについては全く悪いわけではないということであります。先ほど申し上げたとおりでありまして、地域によってはというか、まずは例えば公園とかは、これは3密を避けていただければ問題はないということでありますけれども、あと、詳しい専門的な分析については、尾身会長からお答えをさせていただきたいと思います。 ◆(記者) できましたら開いているスポーツ施設とか、今、閉鎖されているのですけれども、そういったところ。 ◆(内閣広報官) まずはお答えを聞いていただきたいと思いますので。 ◆(尾身会長) 今の施設のこともそうですけれども、各場所によって状況が違いますよね。それを今、全ての場面について言うことができないので、実は、これから特に長丁場と言われているこの時期に、皆さん自身が自分を、我々自分を守り、他の人にも感染をうつさないというには、基本的な原則というのをみんなが理解することがあって、実際のいろいろな場面はその原則の応用というか、それをみんなで工夫するということで、先ほども、各事業者についてもまたガイドラインをつくっていただきたいということですけれども、では、3つの基本的な原則といいますか、基本は何かというと、これは1つ目はよく言われる、今、一番大事なのはフィジカルディスタンス。今、ソーシャルディスタンス、社会的隔離と言っていますけれども、我々は少し社会的隔離と言うと何か分断しているようなので、フィジカルディスタンスを取るということが極めて重要です。ワクチンがない今のこの状況で感染症対策に最も大事なのは、感染しているかもしれない人とそうでない人の、これはもうずっと古典的にそうなのです。これが一つ、フィジカルディスタンス。 それから2つ目は、実は、マスクについてはいろいろな見解がありますけれども、最近になって、これは我々も学びつつ動いていますので、マスクについても比較的、当初は余り効果的ではないということですけれども、最近になると、この感染症の難しさがはっきり分かってきたのは、一番症状が出る、出ますよね。感染して症状が出る2日ぐらい前と、感染をして直後、この数日ぐらいが最もウイルスの排出量が多いのですね。したがって、まだ症状が出ていないうちに人に感染させるということがはっきり、前から、もう当初から我々はそういうことがあるのではないかと思っていましたけれども、かなりはっきりしてきた。 そうすると、症状がないわけです。せきとか何かがないのにほかの人にうつってしまうという可能性があるので、ここでマスクが。実際にマスクの使用というのはそこが極めて重要です。したがって、距離が遠い場合はいいですけれども、実際に対面するときも、会話するときも、なるべく正面に向かないで。時々は、だけど、会話するときは正面を向いてやらざるを得なくなりますよね、日常では。そういうときにはマスクをしていただきたいということが第二の原則です。 それから第三の原則は、これはもう極めて有効なのは手洗いと。この3つのことをじっくり守って、あとは現場のいろいろな状況にそれを応用する、工夫していただくというのがいいのではないかと思います。 ◆(内閣広報官) ありがとうございました。 それでは、次に参ります。 では、今井さん。 ◆(記者) 読売新聞の今井です。 治療薬のアビガンについてお伺いします。先ほど総理、月内にも承認したいとの意向をお話しになられましたけれども、これはかなりスピード感のある手続になると思うのですが、どのような枠組みでこうした早期承認を目指していくのか。あわせて、アビガンは効果が期待される反面、催奇形性といったものも指摘されておりますけれども、その辺の問題点についてどのようにお考えでしょうか。 ◆(安倍総理) アビガンについては、既にインフルエンザの治療薬として日本で承認をされているものであり、同時に、副作用についても明らかになっている。今、おっしゃったように催奇形性という副作用がありますから、妊娠をされている方、妊婦の方は、これはサリドマイドと同じような副作用でありますから、これは処方できないということになりますし、そういう注意をして処方する必要があるわけであります。一方、このアビガンについて処方した、先ほど3,000例の投与の例があるというふうに申し上げましたが、その結果、効果があるという、そういう報告も受けています。 その中で、どういう方法で今、投与をしているかといえば、まずは、これはある程度の成果があったということでございますので、観察研究という形と、あと臨床研究という形で投与を行っています。これはコンパショネート・ユースという形で、言わばそれが患者さんにとっては大変重要だという、そういう形で使っているということになります。 ただ、これはもちろん患者の方が希望をして、そして各病院の倫理委員会が承認をしたら使えるということでありまして、ですから我々はある程度の効果がございましたので、なるべく多くの方が、患者の方が希望すれば使えるようにしてもらいたいということは厚労省にも申し上げているわけでございますが、これはあと各病院がそれぞれ決めることであります。 と同時に、これは新型コロナウイルスにおいてはまだ承認をされていません。新型インフルエンザにおいては承認をされているわけでありますが、ここで承認をするために企業治験を終えなければならないということでありまして、ただ、企業治験が進んでいるのでありますが、なかなかこの企業治験、治験に参加しようという患者さんがいて初めてこの企業治験が増えていくのでありますが、企業治験を希望される患者の方々、例えばプラシーボを飲む可能性があるということも含めて了解をしていただかなければならないわけであります。そうしたことで、なかなか症例は進んでいないのでありますが、一方、臨床研究によって症例が重なってきまして、この重なってきたことによって、ある程度が重なれば専門家の皆様が判断して、効果があるかどうかという、その分析・解析が出ます。それに対して企業が申請をしたら、それに対して承認をするかどうかということになるわけでありまして、一般の企業治験とは違う形の承認の道もあるわけでありまして、恐らくそちらの方になるのではないかとも言われておりますが、私もまだ確たることは言えないのではありますが、ここで冒頭申し上げましたように、効果があるという成果が出れば、この月内の承認を目指していきたいと、こう思っております。70万人分、既に備蓄がございますし、それを更に200万人分まで生産を進めていただくように、既にこれはお願いをしているところであります。 ◆(内閣広報官) 次の日程との関係で最後になるかもしれません。 では、神保さん。 ◆(記者) ありがとうございます。ビデオニュースの神保です。 総理、先ほどのPCR検査の話にちょっと追加なのですけれども、先ほど総理は御自分もどこに目詰まりがあるのかをいろいろ聞いてみたというお話がありました。日本はOECD(経済協力開発機構)の加盟国の中で1,000人当たりのPCR検査がメキシコに次いで低いというような数字も出ていて、日本は非常にPCR検査が少ないということは国際的にも分かってしまっていると。そこで、PCR検査は感染状況を知る上でも、あるいは自分が感染していることを知らないで人にうつしてしまうケースがあるという意味でも非常に重要だと思うので伺うのですが、ということは、総理、日本は内閣総理大臣がPCR検査が今、少ないので増やせということを指示をしても、今の日本は実力的にPCR検査を増やすことができないのだということを総理はおっしゃっているのでしょうか。それとも、そこまで、まだ、これまでは本気で増やすことをしてこなかった。 例えばPCR検査のことを国会で聞かれても、まだ1万件も行っていないのに、今、1万5,000あるのをキャパシティーを2万に増やすというようなお答えをされる。でも、まだ1万件行ったこともない。つまり、どこか他人事のようなお答えをされるけれども、それは、それほどまだ本気で増やそうとこれまでしていなかったということなのか、それとも、実際に本気で増やそうとしたのに本当に増えなかったのか。そして、先ほど尾身先生がおっしゃったように、もしキャパシティーに問題があるとおっしゃるのであれば、なぜ民間を使うという選択肢が出てこないのか。その辺のところを、今後これが増えるかどうかということも含めて、その辺のところをできれば詳しくお話しください。よろしくお願いします。 ◆(安倍総理) 既にこれは先ほどお答えしたことが全てなのですが、これはもちろん本気でやる気がなかったというわけでは全くありません。私は何回も、とにかく能力を上げていくと。実際、能力は上がってきているわけであります。国としてできることは、予算をつけて能力を上げるということでありまして、1万5,000。 しかし、1万5,000、能力を上げたら、では1万5,000人分行くかといったら残念ながらそうなっていないのでありますが、多く見て、多くは東京に集中をしているわけであります。ですから、先ほど申し上げましたように、PCRセンターを20か所増やす中、東京に集中的に12か所増やしました。医師会にも御協力を頂く。言わばそういう体制をつくっても、なぜかと言えば、これはまず、それをPCRをやる方を迎えなければいけなかったわけでありますが、それをやる、言わば人的な目詰まりもあったわけでありまして、医師会の皆さんにも御協力を頂き、また、歯科医師会の皆さんにも御協力を頂くことになったわけでありまして、そういう意味において、全力を挙げていきたいと思っています。 補足的にもまた尾身先生に御説明を頂きたいと思います。 ◆(記者) 民間のほうもお願いします。 ◆(安倍総理) 民間との関係について。 ◆(尾身会長) 実は、もう民間の方は、先ほども申し上げましたように、3月6日から保険の適用が始まっ��、少しずつ増えております。今、いろいろ統計を我々は始めて、いわゆる感染研とか地方研でやられていることは分かっています。それと、民間の検査会社でやっているのも分かっていますが、実はこれはなかなか複雑でして、病院でやったものを、今、医師会なんかの御協力で保健所を通さないで行くというシステムができたのは皆さん御存じですけれども、入院されている患者さんは退院するまでに数回やることがありますよね。退院のために2回。そうすると、そのことが全部報告されてきてしまうと、分母、やっている件数が増えますよね。だから、我々、今、非常にジレンマで、今、大変難しいと思って、何とか解決しようと思っているのは、一つの報告、分母は感染研とか公的機関だけのものと、それから民間を入れると今度は増え過ぎてしまって、そこはオーバーになっているということが今、現実ですけれども、しかし、確かにトータルとしては、今日の専門家会議の方で見せましたけれども、検査件数が全く上がっています。 それと、先ほど、そういう中でも実は日本の死亡率は、これは一番の我々の目標、全ての感染を知っているわけ、これはなかなか難しいですね。分かりませんが、死亡率という意味で、今のあれでも死亡のことはピックアップして、その死亡の数は、これはヨーロッパのほうに比べても10分の1以下ということですから、必ずしもPCR、私自身はPCRはもう少し、総理がこの前2万件と。そのぐらいまでは行ったほうがいい。それに今、努力をしています。ただ、それと同時に、私は専門家として、一応事実としては、PCRは日本は最も少ない国の一つですけれども、人口当たりの死亡率、それから絶対数もヨーロッパの国の10分の1以下であるということは、これは事実です。しかし、だからといって、今のPCR体制がこのままでいいというように申し上げているのでは。 もう一つは実は、PCRというのは、もう皆さんも御承知のように、やるのはそう簡単ではなくて、今、我々が、先ほど治療薬の話が出ましたけれども、私自身は治療薬の研究に直接は関わっていませんが、この5月あるいは6月で臨床治験の結果が出る。 それともう一つ、今のPCR関係で非常に重要なのは迅速診断キットです。抗原。これが、まだ最終的な結果はありませんけれども、これは簡単です。唾液を取ってできますから、実は、これは日本がインフルエンザでずっとやってきた、あれなのです。それで、私はこのPCRはこれからも、PCRとこれは補完的な関係ですから、この迅速診断キットというのが私はかなり期待をしています。もちろん早計に簡単なことは言えませんけれども、今、私たちの入っているところでは、比較的、特にウイルスの排出の多い、これが一番感染をしやすいケースですよね。この人たちを探知するのは十分。もちろんPCRの方が感度はいいですよ。��けれども、感染の症状の始まる前、2日ぐらいが一番多いんですね。 このレベルのウイルスだと引っかける可能性があるということで、私自身はPCRはもちろん、これから様々な困難がありますけれども、努力して、2万件のところまでとりあえず行く。と同時に、迅速診断キットができると、かなり今の状況は変わるということがあるので、この2つを見ながら、また死亡率を、死亡率はだんだん今、死亡者は上がっていますから、死亡者をこのまま他の国に比べて少ないという維持をするためには様々な努力が必要だと思います。 ◆(安倍総理) 要は、今、言われたのは、1万5,000とか2万上げても、その数、実際に実行しているのは少ないじゃないか。私も確かにそのとおりだという認識を持っていますので、大切なことは、何回も申し上げているのですが、お医者様が必要だと思われる方がPCR検査を受けられるようにする。まだキャパシティーの差がありますよね。 ただ、この差があるのですが、一番の先ほど申し上げました東京とか大都市において、これは地域によって、よく見ていく必要があると思います。そのキャパシティーに余裕があるということの中において、どうしてそこを、もしそこでお医者さんが、実際に必要であるのにできなかったということについては、そういう対処をしっかりとやっていきたいという中において、先ほど申し上げましたPCRセンターを今度、東京で12、全国で20設けていくということになりますので、これはもっと進んでいく。また、簡易キット等の導入も、尾身先生の方からもお話がありましたので、進んでいくと思います。 また、感染状況の全体像を把握することにおいては、PCR検査だけでは、これは全体像は困難でございますので、抗体検査を用いた疫学調査についても、有意義な方法であると考えておりますが、その中で現在、抗体検査キットの性能評価等を行っておりますが、そうした結果も踏まえまして、今後速やかに疫学調査の実施に移っていきたいと思います。 ただ、多くの国民の皆様に誤解を頂きたくないのは、大切なのは実際に重症になっている方の数、重症者に対して対応できているかということと死亡者の数なのだろうと思いますが、亡くなっている方については、欧米に比べてはるかに日本は少ないのですが、他の肺炎で亡くなっている方に実は、コロナで亡くなっている方が多く混じっているのではないかという疑問に対しては、日本はCTの検査を大体肺炎で亡くなる方については最終的には行っていて、新型コロナウイルス感染症が疑われるかどうかということについては、これも大変、お医者様にとっては直ちに判断がつくという、間質性肺炎であればその判断がすぐつくということでございますので、そういうことはないということではないかと思っています。 ◆(内閣広報官) 次の日程は外交日程でございまして、差し迫っておりますので、以上をもちまして総理の会見を終わらせていただきます。どうもありがとうございます。 今日は外交日程でございますので、それは分かりますけれども、もうあと、本当に余り、時間が次、ないものですから、御理解いただきたいと思います。 どうもありがとうございました。 ●(注)冒頭発言では「8月」と発言しましたが、正しくは「8日」です。質疑応答において訂正を行いました。
【新型コロナウイルス感染症に関する安倍内閣総理大臣記者会見】 - 首相官邸ホームページ : https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2020/0504kaiken.html : https://archive.is/qsP0C 令和2年5月4日 { 2020-05-04 }
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深川怪談2017 「お化けの棲家」お化け詳細情報
2017年8月20日、深川江戸資料館夜間特別開館「お化けの棲家」終了致しました。ご来場の皆様、ありがとうございました!今年の江戸の町並みに潜んでいた妖怪は全部で17箇所、以下のようなものがおりました。
1.「鍋の付喪神(つくもがみ)」…八百屋の台所 2.「ハサミの付喪神(つくもがみ)」…舂米屋の座敷、箪笥の上 3.「五徳猫(ごとくねこ)」…舂米屋の座敷、長火鉢の前 4.「河童(かっぱ)」…猪牙舟の船縁*深川に伝承あり 5.「毛羽毛現(けうけげん)」…船宿「相模屋」の中庭、手水鉢の横 6.「傘化け(かさばけ)」…船宿「升田屋」の玄関 7.「がんばり入道(がんばりにゅうどう)」…船宿「升田屋」の便所、便壺の中 8.「三つ目小僧」…火の見櫓の下*深川に伝承あり 9.「深川の海坊主」…火の見櫓の裏、掘割の上*深川に伝承あり 10.「なき茶釜」…水茶屋の茶釜の上*深川に伝承あり 11.「蔵鬼女」…舂米屋の土蔵、階段裏*本所に伝承あり 12.「しょうけら」…長屋「於し津」の屋根、明かり取りの窓の上 13.「かいなで」…長屋共同便所、便壺の中 14.「家鳴り(やなり)」…長屋「木場の木挽き職人 大吉」の床下 15.「木枕」…長屋「舂米屋の職人 秀次」の部屋*深川に伝承あり 16.「狂骨(きょうこつ)」…長屋井戸の中 17.管狐(くだぎつね)」…お稲荷さんの祠横 以上、17��所でした! いかがでしたでしょうか?アンケート等で「潜んでいた妖怪の解説を」というご要望が多数ございましたので、追記させていただきます。(『日本妖怪大辞典』村上健司編著角川書店版他より)
1.+2. 付喪神(つくもがみ) 九十九神とも表記される。室町時代の『付喪神絵巻』によれば『陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を化かす是を付喪神と号といへり』という巻頭の文がある。煤祓で捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だが、古来日本では器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。『絵画に見えたる妖怪』吉川観方 ちなみに、これらの付喪神は深川江戸資料館の壊れて廃棄処分になった展示物を再利用して作られています。展示物を粗末に扱って壊せば妖怪となる?!実物に触れる体感展示がこちらの資料館の売りではありますが、化けて出ぬよう大切に扱っていただきたいものです。
3.五徳猫(ごとくねこ)
五徳猫は鳥山石燕の『図画百器徒然袋』に尾が二つに分かれた猫又の姿として描かれており、[七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者といいしためしもあれば、この猫もいかなることか忘れけんと、夢の中におもひぬ]とある。『鳥山石燕 図画百鬼夜行』の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画『百鬼夜行絵巻』に描かれた五徳を頭に載せた妖怪をモデルとし、内容は『徒然袋』にある『平家物語』の作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫は、このエピソードと囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された妖怪なのであろう。(『鳥山石燕 図画百鬼夜行』高田衛監修・稲田篤信・田中直日編)
4.河童(かっぱ)*深川に伝承あり 全国各地でいう水の妖怪。河童という呼称は関東地方の方言カワッパが語源だと言われている。地方によりさまざまなよび名があり、大別すると、水神を思わせる名前の系列、子供の姿を強調した名前の系列、動物の名前に近い名前の系列、その他の計4つに分けられる。 水神系には、東北地方のメドチ、北海道のミンツチなどがあり、子供の姿系には、関東地方のカッパ、カワランベ、九州地方のガラッパなどが入る。動物系には、中国四国地方のエンコウ(猿猴)、北陸地方のカブソ(川獺)、カワッソーなどが挙げられる。その他、特定の信仰に関わるものとしてのヒョウスベ、祇園坊主(ぎおんぼうず)、身体の特徴からのサンボン、テガワラなどと、上記3つの系列に入らないものがある。 姿形についても、地方によって相違があり、頭に皿が無いものや、人間の赤ん坊のようなもの、亀やすっぽんのようなものと、実にさまざまに伝えられている。 起源についても、草人形から河童になったとする説、水神が信仰の対象から外されて零落して河童になったとする説、アジア大陸から渡来して土着したとする説など諸説ある。 人に憑く、物に変化する、人間の作業の手伝いをするなど、地方ごとに河童の特徴は異なるが、ほぼ共通していることは、大の相撲好きであることと、胡瓜(きゅうり)などの夏野菜や人間の肝、尻子玉が好物だということだろう。 人間の肝をこのむというのは、昔の人たちの観察力によるものらしい。溺死した死体は腹が膨れて肛門がポカンと開いてしまうといわれる。このようなひどい姿を見て、河童が手を入れて内蔵を引き出したと人々は想像したのだろうといわれている。河童の凶暴性は水難事故の恐ろしさに起因するといっても過言ではないようである。また、相撲や胡瓜を好むのは、河童が水神としての性格を有していたことにほかならない。かつての相撲は神事であり、端午の節句や七夕あたりに行われ、東西の土地の代表者が豊凶をかけて争った。相撲は神と精霊との争いを表しているともいわれ、神が水の精霊を打ち負かすことにより、農耕に欠かせない水の供給を約束させるのだという。胡瓜などの初なりの野菜も、水信仰に欠かせない供物だった。このことからみても、河童が水神として信仰の対象になっていたと考えられる。 古(いにしえ)の水に対する信仰と、近代までの民間信仰とが複雑に絡み合い、無数の枝葉にわかれているので、一口に河童は稿であるとはいえないのが現状だろう。 深川ではカッパは、仙台堀と木場の2箇所で捕獲されていたという。仙台堀では伊達候の蔵屋敷で河童を撃ち殺して塩漬けにしたという。仔細は、伊達候の屋敷では子供がよく水難事故に遭う。怪しむべしということで、堀の内、淵ともいえるところを堰き止めて水を干したところ、泥を潜って風のように早い何かがいて、ようやく鉄砲で撃ち仕留めたという。木場入舟町では、この辺の川で水に入ると引っ張り込むものがいる。木場のいなせな兄いが捕らえてみると河童。この水辺の者には、二度と悪さをしないと詫び証文を書かせて手判を押させて許したという。(『河童の世界』石川純一郎、『河童』大島建彦編、『神話伝説辞典』朝倉治彦・井之口章次・岡野弘彦・松前健編、『総合日本民族語彙』『民俗学研究所編、『日本未確認生物辞典』笹間良彦、『日本妖怪変化語彙』日野巌・日野綏彦、『耳袋』根岸鎮衛)
5.毛羽毛現(けうけげん) 鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』にけむくじゃらの妖怪として描かれたもので、[毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふか。或は稀有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなればなりとぞ]とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陜西省陰県の西の空獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため山に逃げ込んだ。そのとき谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと『列仙伝』にある。 この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖怪のようである。(『鳥山石燕 画図百鬼夜行』高田衞監修・稲田篤信・田中直日編)
6.傘化け(かさばけ) 一つ目あるいは二つの目がついた傘から日本の腕が伸び、一本足でぴょんぴょん跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(『妖怪学入門』阿部主計)
7. がんばり入道(がんばりにゅうどう) 加牟波理入道(がんばりにゅうどう)雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の『図画百鬼夜行』には、便所の脇で口から鳥を吐くにゅうどう姿の妖怪として描かれており、[大晦日の夜、厠にゆきて��がんばり入道ホトトギス」と唱ふれば、妖怪を見ざるよし、世俗のしる処也。]とある。 松浦静山の『甲子夜話』では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、その頭を取って左の袖に入れてまた取り出すと、頭は小判に変化するなどの記述がある。「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異に会わない、というのは江戸時代に言われた俗信だが、この呪文は良い効果を生む場合と禍を呼ぶ場合があるようで『諺苑』には、大晦日にこの諺を思い出せば不詳なりと書かれている。 村上健司著『日本妖怪大辞典』より「加牟波理入道」の項より抜粋
8.三つ目小僧(みつめこぞう)*深川に伝承あり 「海からの声」明治33年永代町生まれの伊東進一郎さんの談話 十二、三才の時でしたね。釣りに行っての帰り、お台場を通る頃には暗くなっちゃう。そうすると、「オーイ、オーイ」と声が聞こえるんです。だんだん近づいてくると、船頭が「口を聞くんじゃない」と言って、用意してきた、底の抜けた杓とか土瓶の底のないやつをほおるんです。そうすると、みんな沈めたと思って、声が聞こえなくなる。永代橋に来ると、みんなホッとしましたね。海坊主だとか、海で死んだ人の怨念だとか言われましたけど、今考えてもわからないです。 それから、人魂を永代二丁目のところでみました。もう一人いたんですけど、片っ方は腰抜かしちゃった。まだあります。うちのおばあちゃんが、渋沢倉庫の横の河岸っぷちの柳の植わっているところから。川を見ている女の人に「ねえさん、何やってるんだ」と言ったら、のっぺらぼうなので、腰抜かして、熱出して、しばらくして死んじゃった。背中からおんぶされて、みたら三つ目小僧だって、そういうの本当にあったんです。 (江東ふるさと文庫『古老が語る江東区のよもやま話』より)
9.深川の海坊主(うみぼうず)*深川に伝承あり これは、母から聞いたものだが、深川一帯では桑名屋徳蔵が有名であったらしい。彼は深川の何処かの掘割の岸で廻船問屋をやっていた。若い衆の数も多く、繁盛していた。ある年のおおみそか、大事なお客から今夜中に荷を運んで欲しいという伝言があった。だが、深川のあたりでは大晦日の夜はあの世のご先祖様たちが、お盆とお同じように家へ帰って家族と元旦の雑煮を祝うと信じられていた。こういうわけで、川で死んだ人の霊も水から上がって来るので、その邪魔をしてはならないと、大晦日の夜は船を出すのを厳禁していた。 徳蔵は日頃恩になっているお得意だから、そんな迷信に構っちゃいられないと考えたが。若い衆はみんな休みを取って出払っていたので、若い女房の止めるのも聞かずに船を出した。 ところが、しばらく漕いで行くと、川いっぱいに大きな山がぬーっとせり上がってきた。豪胆な徳蔵は「しゃらくせえ真似をしやがる」と叫んで、その山へまともに船をぶっつけた。その途端に、山はスーッと煙のように消え徳蔵はなお船を進めて行った。が、今度は舳先の川面に大きな海坊主が現れてケタケタと笑った。海坊主とは、首から上が目も鼻もない真っ赤な大入道で、胴体はこれも真っ赤なマントをきたような血の袋が水の上ににょきっと立ち上がっていたらしい。徳蔵は舳先に走って行って海坊主を棹で叩きのめした。海坊主はぎゃっと言って、血しぶきをあげながら川の底へ沈んでいった。だがそれをきっかけに、船のまわりに大小の海坊主がニョキニョキ現れて、声を揃えてケタケタと笑った。徳蔵は夢中になって駆け回り、片っ端から海坊主を叩きのめした。 その頃、留守宅では女房が急に癪を起こして苦しみ始めた。幸いにも表の通りから按摩の笛が聞こえてきたので、子供に呼ばせた。按摩は鍼を打たなければいけないといって、たくさんの鍼を畳の上に並べた。女房は按摩がいい男なのに安心して鍼を打たせたが、鍼を打つたびに血がパッと天井に跳ね上がり、梁の上で小さな海坊主になってケタケタト笑った。仕舞いには梁の端から端まで海坊主が並んでしまった。 徳蔵が仕事を終えて帰ってきた時には、女房は全身の血を失って白蝋のようなむくろになっていた。 田辺貞之助『江東昔話』より
10.心行寺のなき茶釜(なきちゃがま)*深川に伝承あり 『深川心行寺の泣き茶釜』 文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られている。 群馬県館林の茂林寺の話が有名だが、江東区深川二丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したという。 『新饌東京名所図会』の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅及び文福茶釜(泣き茶釜と称す)とあり」 とある。また、小説家の泉鏡花も『深川浅景』の中でこの茶釜を紹介している。 残念ながら関東大震災(1923)で泣き茶釜は、他の什宝と共に消失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が化けたとされる同名が残るのみである。文福茶釜という名前の由来は煮えたぎる湯の音がそう聞こえるという説や福を分けるという説がある。
11.「蔵鬼女」*本所に伝承あり 『十方庵遊歴雑記』「本所数原氏石庫の妖怪」に載る話 本所二つ目の相生町と緑町との境にある横町に、数原宗得(すはらそうとく)という五百石二十人扶持の御典医が住んでいた。 屋敷には石でできた立派な蔵があったのだが、蔵の中で尿意を我慢すると小女や小坊主、傘お化け、大ダルマ、鬼女、牛馬など、色々な妖怪が出現した。 また、近くで火災がある時は、夜に蔵の中で鉄棒を引いて歩く音がした。音が聞こえて家の者が用心していると、必ず近くで火災が発生し、数原家だけは火災の難を逃れた。 ある時、近隣で出火があり、道具類を蔵の中へしまおうとしていたところ、人手が足りずに困っていると、蔵の中から髪を振り乱した女の妖怪が現れ、積まれた品々を蔵の中へと運び入れた。この時も、数原家は類焼を免れた。
12.「しょうけら」 鳥山石燕『図画百鬼夜行』に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、ショウケラは庚申(こうしん)信仰に関係したものといわれる。庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわれ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策として、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我や土へねぬぞねたかぞねたかじねぬば」との呪文もつたわっている。石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。(『衛鳥山石燕 図画百鬼夜行』高田衛監修・稲田篤信・田中直日編)
13.かいなで 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事も無いが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があったという。いわゆる学校の怪談という物だが、類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異��、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校で便所を使うことは無いだろうから、節分のよるという条件が焼失してしまったのだろう。しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび)(何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、本妻がそれを妬み、旧暦正月15日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は、日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響をうけていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。新潟県柏崎市では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山野理夫の『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「紙くれ紙くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月まではまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えている。便所神の祭りで、紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろうか、白い紙よろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、変化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というよになり、より妖怪化がすすんでいったようである。 島根県出雲市の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデというが、氏子がこの日夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるかもしれない。(『総合日本民族語彙』民俗学研究所編、『日本民族辞典』大塚民族学会編、『現代民話考七 学校』松谷みよ子、『民間伝承』通巻173号「厠神とタカガミと」川端豊彦)
14.家鳴(やなり) 家鳴は鳥山石燕の『画図百鬼夜行』に描かれたものだが、(石燕は鳴家と表記)、特に解説はつけられていない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の『画図百鬼夜行』では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。昔はなんでも無いのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのしわざだと考えたようである。 小泉八雲は「化け物の歌」の中で、[ヤナリといふ語の…それは地震中、家屋の震動する音を意味するとだけ我々に語って…その薄気味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居たもので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また)ヤナリと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像していたものである]と述べ、『狂歌百物語』に記載された[床の間に活けし立ち木も倒れけり やなりに山の動く掛け軸]という歌を紹介している。(『鳥山石燕 図画百鬼夜行』高田衛監修・稲田篤信・田中直日編、『小泉八雲全集』第7巻)
15,木枕(きまくら) 昔三十三間堂近くに、住むと病気になる空き家があった。その家の持仏堂にあった木枕が妖をなすとわかり、荼毘にふしたら屍を焼いたのと同じ臭気がし、完全に焼けるまでの時間は人一人を焼き尽くす時間と同じくらいかかったという。
16.狂骨(きょうこつ) 鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』に井戸から立ち上がる骸骨姿で描かれているもので、【狂骨は井戸の中の骨なり。世の諺(ことわざ)に甚だし事をきやうこつといふも、このうらみのはなはだしきよりいふならん】と解説されている。肉の落ち尽くした白骨をきょう骨といい、神奈川県津久井郡では、すっとんきょうなけたたましいことをキョーコツナイと言う。狂骨という妖怪の伝承は無い事から、石燕が言葉遊びから創作したものと思われる。(『鳥山石燕 図画百鬼夜行』高田衛監修・稲田篤信・田中直日編)
17.管狐(くだぎつね) 長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる。個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地で言われることで、これは管狐をつかって他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は大食漢で、しかも75匹に増えるので、やがては食いつぶされるといわれている。同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐がかってに行動して金品を集めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山(きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏はそれを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていること悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、一旦竹筒から抜け出た狐を再び元に戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令するものがいないので、人に憑くことはないという。(『日本の憑き物』石塚尊俊、『民間信仰辞典』桜井徳太郎編、『日本狐付き資料集成』金子準二編著)
館内配置図はこちら。
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チケット発売中!『人間の条件』公演情報
座・高円寺 春の劇場05 日本劇作家協会プログラム ミュージカル 『人間の条件』 作:坂本鈴、オノマリコ、黒川陽子、モスクワカヌ (劇作家女子会。) 演出:赤澤ムック(黒色綺譚カナリア派) 音楽:後藤浩明 振付:小林真梨恵(waqu:iraz) 会場 座・高円寺1 〒166-0002 東京都杉並区高円寺北2-1-2 TEL 03-3223-7500 JR高円寺駅 北口徒歩5分 *土日・祝日の中央線快速は高円寺駅に停車しませんのでご注意ください。 *駐車場はございませんので、お越しの際は公共交通機関をご利用ください。 日時 5月18日(木)・19:00 5月19日(金)・13:00♪★/19:00◆ 5月20日(土)・13:00♪★◆/19:00◆ 5月21日(日)・13:00♪◆ ♪:終演後、ポストトークあり ★:託児サービス(要予約。料金1000円。詳細は座・高円寺チケットボックスまで) ◆:聴覚障害をお持ちのお客様向け字幕サポートを実施します。 *受付開始は開演60分前、客席開場は開演30分前です。 *現在(5月16日時点)上演時間は2時間30分(途中休憩込み)を予定しております。 ♪ポストトークゲスト 5月19日(金)・13:00の回 水谷八也氏:早稲田大学文化構想学部(文芸ジャーナリズム論系)教授 5月20日(土)・13:00の回 長田育恵氏:「てがみ座」主宰、劇作家 5月21日(日)・13:00の回 羊屋白玉氏:「指輪ホテル」芸術監督、劇作家、演出家、俳優 チケット(全席指定、税込) チケット発売日:3月25日(土)10:00〜 ・一般 4,200円 ・学生 2,500円 ※学生チケットをお求めの方は入場の際に学生証をご呈示ください。 ※字幕サポートをご希望のお客様は、メールにてご予約を受け付けております。詳しくは劇作家女子会。WEBにてご案内しております。 ※5月20日、21日のポストトークでは手話通訳を予定しております。 ◎以下のサービスは劇場で承ります。お申込・お問い合せは座・高円寺チケットボックス(℡03-3233-7300)へご連絡ください。 *車椅子スペースをご利用の方は、前日までにお申し込みください(定員あり)。 *障がい者手帳をお持ちの方は、座・高円寺チケットボックスでのご予約に限り1割引きになります。 *託児サービス(定員あり・対象年齢1歳~未就学児・1週間前までに要予約)料金:1,000円。 プレイガイド 座・高円寺チケットボックス(月曜定休) TEL:03-3223-7300(10:00~18:00) 窓口:(10:00~19:00) http://za-koenji.jp/(無休24H受付) *座・高円寺の劇場回数券「なみちけ」もご利用いただけます(TEL、窓口のみ)。 一般用12,000円/1シート(3,000円×4枚) 学生・シルバー用10,000円/1シート(2,500円×4枚) 詳細は座・高円寺チケットボックスまでお問い合わせください。 *学生チケットの取扱いはありません。 Confetti(カンフェティ) http://www.confetti-web.com/detail.php?tid=38511& 0120-240-540*通話料無料・オペレーター対応 (受付時間 平日10:00~18:00) ※セブンイレブンでの発券となります ※券種選択の際、お好きな出演者の名前を選択してくださいませ。 ★託児サービスについて 下記公演回では、託児サービスを実施しております。 ・5月19日(金)13:00 ・5月20日(土)13:00 ■対象:1歳~未就学児 ■利用料金:1回お一人1,000円(杉並子育て応援券がご利用になれます) ■定員:各回5名(申し込み順) ■時間:開演30分前から終演まで ■お預かり場所:座・高円寺内 ■お問合せ・お申込み:1週間前までに03-3223-7300(座・高円寺 チケットボックス)へお問い合わせください。 ◆字幕サポートについて 下記公演回では、耳が聞こえない、聞こえづらいお客様にむけた字幕サポートを実施しております。 お席に座りながら字幕を見られる端末(タブレット等)の貸し出しをいたします。 ・5月19日(金)19:00 ・5月20日(土)13:00/19:00 ・5月21日(日)13:00 字幕サポートをご希望の方には、メールにて、お席をご案内しております。 タイトルを「字幕サポート希望」とし、①お名前、②ご希望の日時、③枚数、④メールアドレス、⑤FAX番号または電話番号、をご記入の上、[email protected]までお送りください。 ※事前に台本貸し出しも行っております。希望される方はメールにその旨もお書きください。台本は5月初旬にお送り致します。 ※5月20日と21日の13:00の回でのポストトークでは、手話通訳を予定しております。 ■端末使用:無料 ■定員:各回5名(申し込み順) ■お問合せ・お申込み:[email protected](担当:RealHeaven 佐藤) ■観劇サポート協力:特定非営利活動法人シアター・アクセシビリティ・ネットワーク
あらすじ 近未来の日本。長期にわたって社会問題となっていた人口減少が、あるとき不意に止まった。間もなく、その原因が《地球外生物》であったことが判明する。多数の地球外生物が、人間の姿を模していつの間にか社会に紛れ込んでいたのだ。《ホモ・ミームス》、《人外》、《宇宙人》などと呼ばれる彼らは、人間として生活するばかりで何ら逸脱した行動を取らない。ただ死亡したときのみ、体がドロドロに溶けて地球外の生物であったことが明らかになる。 地球外生物であっても、人間として振る舞う以上はそのように扱うべきなのか。そもそも人間とは何なのだろうか。 人間の定義が動揺する社会で、人間の条件を問い直す。それは論争として、犯罪として、恋愛として、革命として、様々な運動として日本各地で巻き起こっていく。 ※劇中の一部に性的な表現、暴力描写がございます。 出演 朝比奈かず、小泉まき(中野成樹+フランケンズ)、塚越光(INNERSPACE)、前原麻希 奥村飛鳥(笛井事務所)、エスムラルダ、河南由良(劇団だるめしあん)、神田麻衣、木内コギト(\かむがふ/)、今野真智子、西原純、村本篤信、柳内佑介、anna、海老原恒和、小見美幸、近藤陽子、末延ゆうひ、竹内真里、中谷弥生、生井みづき、梅本杏莉、奥井まゆ、萱沼春菜(劇団集合地点)、中村沙羅、西村俊彦、松尾音音、吉見由香、吉田覚丸 フィールドワーク部 一色亮佑、荻野桜子、小泉志野、琴松蘭児、小林薫、北村マイク、仙波瑠璃、中村奏太、根矢涼香 ※「フィールドワーク部」は「人間の条件」とは何かを考え調べながら、自分たちで作品を創作する部門です。『人間の条件』の上演の中で発表をいたします。
スタッフ 演奏:後藤浩明(Piano、Keyboard、Theremin、etc) 中鉢洋夫(Guiter、Effect、DJ、etc) 藤田奏(Acoustic & Electric Bass、etc) 清藤匠(Drums、Percussion、etc) 舞台監督:藤田有紀彦、木下千尋 照明:横原由祐 音響:岡田 悠 歌唱指導:田中圭介 宣伝美術:安藤理樹 演出助手:河野茜、平戸麻衣 衣裳:ricotti 脚本協力:矢戸優太郎 制作:Real Heaven、武田里美 観劇サポート協力:特定非営利活動法人シアター・アクセシビリティ・ネットワーク 協力:J.CLIP、アリエス、映画24区、青年座映画放送、俳協、ミズキ事務所、ラウダ、INNERSPACE、\かむがふ/、劇団劇作家、劇団集合地点、劇団だるめしあん、趣向、中野成樹+フランケンズ、無隣館、笛井事務所 後援:杉並区 提携:NPO法人劇場創造ネットワーク/座・高円寺 幹事(主催):劇作家女子会。 お問い合わせ TEL:03-5809-4023(RealHeaven佐藤) MAIL:[email protected] HP : http://gsjoshikai.tumblr.com/
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●大道芸をして金銭を乞うた者。乞胸(ごうむね)となった。 乞食(物貰い)の一種
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●大道芸をして金銭を乞うた者。乞胸(ごうむね)となった。 ●乞胸 歴史民俗用語辞典 読み方:ゴウムネ(goumune) 近世の乞食の一。 ●乞胸(ごうむね) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9E%E8%83%B8 江戸時代に江戸市中などで、万歳や曲芸、踊りなど、さまざまな大道芸をして金銭を乞うた者。 乞食(物貰い)の一種であり、元侍や町人、あるいは身元が不明な者が乞胸となった。 身分的には町人に属したが、穢多頭の弾左衛門の支配下に置かれ、稼業としては非人と同等とされた。 乞胸をする場合は、非人頭から鑑札(許可証)をもらい、老人と障害者以外は一定額の上納金を納めなければならなかった。 非人同様、編笠をかぶり門付もしていたが、非人の職域を荒らさないために、のちに乞胸の門付は禁じられ、主に広場や路上で芸を見せた ●芸の種類 『乞胸頭家伝』には、以下の12の芸種が挙げられている。 綾取り - 竹に房をつけ、これを投げて取る芸。 猿若 - 顔を赤く染めて芝居をする芸。一人狂言。 江戸万歳 - 三河万歳の真似をする芸。二人で行なう。 辻放下 - 玉かくし、あるいは手玉を使う芸。 操り - 人形を操って見せる芸。 浄瑠璃 - 義太夫節や豊後節などの節をつけて物語などを語る芸。 説教 - 昔物語に節をつけて語る芸。 物真似 - 歌舞伎の口上や鳥獣の鳴声をまねる芸。 仕形能 - 能の真似をする芸。 物読み - 古戦物語の本などを読む芸。 講釈 - 太平記あるいは古物語を語り、講釈する芸。 辻勧進 - 芸のできない者や子供らが、往来に座って金銭を乞うこと。 ・起こり さまざまな雑芸を演じてわずかな報酬をえて生計をたてる物もらいは、室町時代末期の『三十二番職人歌合』にすでに、編笠をかぶり、手で裸の胸を叩く風情が描かれている。胸叩など、こうした路上芸が乞胸の起源とされる。乞胸の名の由来は「先方の胸中の志を乞う」ところからきたとする語源説もある。芸能に対してある種の羨望と崇敬がありながら、彼らが賤民とされたのは、人の気を引き、金銭を得んがために演じる芸能は賤しいとする考えと、その非生産的な生活態度にあったとされる。 ・歴史 江戸幕府ができると、多くの大名家が取り潰され、職を失った大量の浪人が溢れた。長嶋礒右衛門という浪人が食うに困った浪人仲間を集めて寺社の境内や空き地で草芝居や見世物をして生計を立てていたが、非人頭の車善七から手下の生業が邪魔されると苦情が持ち込まれ、慶安年中(1650年代)、身分を町人に落としたうえ、乞胸稼業においては善七の支配下に入る取り決めがなされた。 善七のもと、磯右衛門が乞胸頭になり、町人、または身元の明らかでない者で乞胸を稼業する者には「鑑札」を渡し、一人につき18文ずつ毎月徴収した。乞胸頭は無許可で大道芸をする者を取り締まり、その世話と管理をし、浅草溜(善七が管理していた医療刑務所のような施設)の火事の際には囚人の警固もした。その後、1843年(天保14年)の天保の改革で、それまで江戸の各所に住んでいた乞胸も、非人同様、幕府によって一か所に集まって住むように命じられた。 明治4年(1871年)の身分制の解放令で乞胸の名称は廃止された。欧米でのジャポニスムの影響で、乞胸たちの芸も海外で好評を得、開国後の明治から大正にかけて芸人たちの渡航が一時盛んになったものの、国内にあってはハレ��場から追放されていき、彼らが育んできた日本の伝統的な大道芸は次第にその姿を消していった。 ●◆「東京の被差別部落の歴史と現状」index http://blltokyo.net/tkburaku/tkburaku/index.html 弾左衛門と江戸の被差別民衆、今日の東京の部落 弾左衛門の支配下にあった、江戸の被差別民衆 http://blltokyo.net/tkburaku/history/goumune.html 2-5 乞胸(ごうむね) 浅草非人頭・車善七の支配下に置かれた被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれる人々がいました。大道芸を業とする被差別民であり、その頭は仁太夫と言いました(参考『寛政度文政度御尋乞胸身分書』)。 乞胸が特殊な位置にあるのは、法的にはその身分が町人とされ、大道芸をおこなって金銭を取るときその生業が非人頭車善七の支配を受けるとされたことでした。非人が門付(かどづけ)芸を生業としていたことが、この支配関係に結びついているのではないかと考えられます。 ●寛政度文政度御尋乞胸身分書 http://blltokyo.net/tkburaku/siryou/goumune.html 江戸の町で大道芸をおこなった近世的な「被差別民」乞胸(ごうむね)に関する基礎的史料、『寛政度文政度御尋乞胸身分書』の原文、およびその現代語訳です。原文は東京都刊行『重宝録』第一に所在しています。この文書に関する解説は、一番下にあります。 【目次】 1.『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』(寛政11〈1799〉年) 2.『文政四年下谷山崎町名主書上』(文政4〈1821〉年) 3.《現代語訳・注釈》『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』 4.《現代語訳・注釈》『文政四年下谷山崎町名主書上』 5.《解説》『寛政度文政度御尋乞胸身分書』 ●非人 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/非人 非人(ひにん)は、主に、 1.日本中世の特定職能民・芸能民の呼称であり、次第に被差別民の呼称となる。 2.江戸時代の賎民身分の呼称である。 いわゆる士農工商に属さないが、公家や医師や神人等と同様にあくまでも身分制度上の身分とされ、人別帳の枠内にある。この点、身分制度外に位置付けられ江戸時代から人別帳外で無籍の山窩(サンカ)等とは異なる。ただし、サンカとの違いは流動的なもので、非人が流浪生活に入ってサンカとなり、逆にサンカが被差別部落に定住して非人となる例がいつの時代にもあった[1]。 さらに多数説によると、非人は「下人」といわれた不自由民・奴隷とも全く異なる存在であるとする。 ●穢多 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/穢多 穢多(えた)とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつである。日本仏教、神道における「穢れ」観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称、非人身分の俗称とする説もあるが、それより古く、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る立場もある。 穢多の明確な基点は明らかになっていない。逃亡農民に由来するという推測、皮革加工などに従事する部民という説、中世の元寇に由来するという説、古代の被征服民族とする意見などがあるが、穢多などの被差別民の起源は一様ではなく、雑多な起源をもつ集団であったのかもしれないが、非人と違って、穢多は、職業に関わりなく親子代々承継されたとされる。1885年、東京人類学会の会員であった箕作源八が「穢多ノ風俗」について各地の報告を求め、各地からの被差別部落民にかんする伝承や関係文献が集まったが、その多くは、被差別部落民を日本人とは異なる「人種」として捉え、その起源について論じるものであった。 ●サンカ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/サンカ サンカは、日本に過去に存在したとされる放浪民の集団である。本州の山地に住んでいたとされる。サンカの定義については後述のように激しく論争されてきた。サンカという呼称は日本の警察による便宜上のものであり、差別用語としても使われる。 ●呼称 https://ja.wikipedia.org/wiki/サンカ#呼称 「サンカ」を漢字で書き記す時には統一的な表記法は無く、当て字により「山窩」、「山家」、「三家」、「散家」、「傘下」、「燦下」(住む家屋を持たず傘や空を屋根とする屋外に住む存在という意味)などと表記した。 また、地方により「ポン」、「カメツリ」、「ミナオシ(箕直)」、「ミツクリ(箕作)」、「テンバ(転場)」など、呼ばれ方も違う。(それぞれの呼称は、「ホイト(陪堂)」、「カンジン(勧進)」など、特定の職業を指す言葉と併用されることも多い。) サンカの実態調査を試みた立場による呼び名の違いもある。 ●乞胸 【ごうむね】世界大百科事典 第2版の解説. 江戸時代から明治にかけて,都市を中心に活動した雑芸人(ぞうげいにん)で,いわゆる乞食の一種とみなされた人々の呼称。身分制度では町人の扱いを受けたが,万歳(まんざい),大黒舞(だいこくまい),節季候(せきぞろ),厄払,猿若(さるわか),辻放下(つじほうか),説経,講釈など,さまざまな雑芸を演じて門付(かどづけ)してまわり,わずかな報酬をえて生計をたてており,〈物もらい〉とも呼ばれた。その先駆形態は室町末期の《三十二番職人歌合》にすでに描かれ,編笠をかぶり,裸身で,手で胸をたたく風情である。 ●ごう‐むね 〔ごふ‐〕 【乞胸】 江戸時代、江戸市中で辻講釈・綾取り・万歳などの雑芸をして金銭を乞うた者。 ●ごうむね【乞胸】 近世から明治にかけて,家々の門や寺社の境内・広場などで雑芸を演じて米銭を乞うた雑芸人。乞胸頭に銭を上納して鑑札を受けた。 ●ヤクザ https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤクザ 組織を形成して暴力を背景に職業的に犯罪活動に従事し、収入を得ているものを言う。この偏倚(へんい)集団を特徴づける要因の一つに集団内部の「親分子分」の結合がある。 「やくざ」研究の古典的名著とされる岩井弘融の『病理集団の構造』の序説で「親分乾分(岩井は故意に、乾としている。読みは「こぶん」で同じ)」の関係は民俗学(柳田國男他)や社会学(川島武宜他)において説明されるところのオヤカタ・コカタの関係と共通の社会的基盤を持つと説明している。
戦後に来日したニューヨーク・ポストの特派員ダレル・ベリガンは、その著作で有名な『やくざの社会』の中で「日本の家族は与太者の集まりであり、家族の長は与太者の長である」という文から始まる、日本社会の内部構造についての報告をまとめている。また、かつて横浜の塚越一家に所属した右翼活動家の野村秋介は、「やくざ」について説明する際に「やくざとは職業ではなく」、「実業家、ジャーナリスト、政治家にもやくざは存在する」と発言したが(出典:『暴力団新法』)これも個人間の繫がりとして絶対的権威(親分)と追随者(子分)の関係が広く社会で見られる点を示唆するものである。ただし、その上で「やくざ」を特徴づけている別の内部要因として、集団の共通目的、成立の社会的条件、存続のための経済的活動、社会的価値基準から逸脱した副次文化等がある。ジャーナリストの朝倉喬司は明治の自由民権運動と「やくざ」の関連を指摘する一方で現代の制度的空間や価値基準との関連において「暴力団」と呼ばれるとしている(出典:『ヤクザ』)。 ●子連れ狼 死に風に向う乳母車 亡八者の首領は女(浜木綿子)で、酉蔵と名乗った。この浜木綿子がいい。 男勝りの キップと度胸、ドスの効いた、しかし唄うような台詞回し。 そして何よりもあの目。一度も 瞬きせず、一刀に挑むような力強いあの目線。 ●「子連れ狼(第3シリーズ)」長坂作品エピソード 第3話「来ない明日へ」 http://www.tcp-ip.or.jp/~goshii/t02_data/06_story/1976_01_kozu_M03_story.htm そんな中、一年前に一刀と出会い、事を構えた木颪の忘八者・酉蔵は近くに一刀がいることを知る。一刀に想いを寄せる酉蔵は、一刀に接触。一刀に酉蔵らと同じ格好をさせ改め番所を突破する。一刀に協力した為に捕らえられた酉蔵は、松崎代官所代官・佐久間軍兵衛から、義父・尾形三郎兵衛の命と忘八者存続を引き替えに一刀を討ち果たすよう脅迫され、やむなく一刀と対決。酉蔵は、すべてを察した一刀によりその命を絶った。産まれてからずっと男として生きてきた酉蔵は、初めて女として死んでいったのだった。 本作のゲストである木颪酉蔵(演:浜木綿子氏)は、第1シリーズ第7話「あんにゃとあねま」にて初登場。本作にて「あんにゃとあねま」のシーンが回想シーンとして流れている。一部の間で「ぶりぶり」が有名になったこの酉蔵だが、若山富三郎氏版の映画「死に風に向かう乳母車」(1972年)でも浜木綿子氏が同役で出演。まさにハマリ役といえる。なお、北大路欣也氏版(2002年~2004年)では池上季実子氏が酉蔵役を演じている。 ●『子連れ狼 / あんにゃとあねま』 https://ameblo.jp/kazzp0610/entry-11480781287.html この作品の見どころは、やくざものの姐御を演じた浜木綿子だろう。純情可憐な少女を演じた竹下景子とは異なり、男勝りの度胸と貫録がありながらも、女性としての色気をぷんぷんさせている女を演じ、美しさもひときわだ。本作で最も目立った役者であった。 浜木綿子との対決 ●あんにゃとあねま https://youtu.be/7vXf5Xrymnc ●時代劇屈指の怪キャラ・・・阿部頼母 https://ja.wikipedia.org/wiki/子連れ狼#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E5.B9.95.E5.BA.9C 阿部頼母(あべ たのも) 代々公儀御口唇役を務める旗本阿部家当主。別名を怪異(かいい)。性格は残虐かつ保身的。物事に熱中すると「毒屋の子」なる独自の歌を口ずさむ癖がある。 母の不義密通によって生まれたため、父の監物から疎まれ、御口唇役の育成の名目の下、日夜その食事に毒を盛られ虐待に近い育て方をされる。そのような中で独自に毒薬の調合法を編み出し、それを使って両親を毒殺、阿部家を相続した。以降、公方の深い信任を得て毒薬の大家となった。 その後、柳生烈堂に代わり拝父子の抹殺を命じられると、烈堂を追い落として幕政の実権を握る好機と考え、阿片漬けにした夜鷹を使��だけでなく、自ら変装して直々に一刀らの毒殺を図るがことごとく失敗。さらに、頼母ら阿部一族の抹殺を狙う烈堂の毒殺にも失敗し、逆に烈堂に弱みを握られる結果となる。そんな中「柳生封廻状」を手に入れ、これを公方に差し出し「柳生に謀反の企てあり」と訴え出る。これにより、烈堂は江戸城で監禁されるが、烈堂は「草」と呼ばれる密偵を招集し、頼母の担当である江戸城内の御膳所を放火。これが失火と断定され、加えて当日は公方が紅葉山東照宮に参詣する重要な日であったため、御膳所の責任者である頼母は責任を追及され切腹を命じられる。頼母はこれを嫌がり抵抗するが、江戸城に潜入していた一刀から諫められると、全てを諦めたかのように一刀の介錯によって死亡した。なお、萬屋版のドラマでは、切腹の場での騒ぎを聞いて訪れた一刀の姿を仰ぎ見ながら、「そなたや烈堂よりも先に死ぬとは」と恨みのような言葉を最後に残し、一刀によって斬り殺される描写に変更されている。 『子連れ狼』の続編漫画『そして - 子連れ狼 刺客の子』では、頼母の子である秋田高星が登場している。 ●『椿三十郎 殺陣シーン』黒澤明...監督作品 https://youtu.be/cbENunuojXA このシーンを観るためだけでも映画館に足を運ぶ価値がある もっとも見逃しそうな位に目にも留まらぬ殺陣だけど ●『Yojimbo 殺陣シーン』三船敏郎と仲代達矢 https://youtu.be/zCjsazHO0c0 https://youtu.be/SfpagB8wWng ●殺陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/殺陣 殺陣(たて)もしくは技斗・擬斗・擬闘(ぎとう)は、演劇・映画・テレビドラマで俳優が格闘シーン時に素手素足もしくは武器を用いた演技。 殺陣(たて)は主に時代劇、技斗(ぎとう)は主に現代劇に用いる。 ●生意気/こざかしい/利いた風 の使い分け 利いた風な口をきく 1 いずれも、目下の者に対していう語。 2 「生意気」は、それにふさわしい身分や年齢ではないのに、出すぎた言動をすること。 3 「こざかしい」は、利口ぶって、「利いた風」は、わかっているふりをして、出すぎた言動をすること。「こざかしい」は「小賢しい」とも書く。 4 しゃらくさい 【形】 分(ぶん)不相応な感じがして生意気なこと。やや古めかしい言い方。 「そんなことを言うなんてしゃらくさい」 5 ちょこ才 【名・形動】 小才があって生意気なこと。やや古めかしい言い方。「ちょこ才なやつめ」 6 小生意気 【名・形動】 いかにも生意気なさま。「小生意気な口をきく」 ●利いた風(キイタフウ)とは - コトバンク [名・形動] 1 いかにも物知りぶったなまいきな態度を見せること。また、そのさま。知ったかぶり。「利いた風な口をきくな」 2 気の利いていること。また、そのさま。 「―な名をつけて高慢な顔したと聞いたが」〈黄・造化夢〉 ●ルーツでなるほど慣用句辞典 利いた風 きいたふう https://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-07-1-0002.html よく知ってもいないのに、なんでも知っているという生意気な態度をとるさま。 「きみが解決するって? 事情も分からないくせして利いた風な口を利くな」 〔語源〕もと、気が利いたようすの意。 ● 『利いた風(きいたふう)』の意味 - 日本語俗語辞書 http://zokugo-dict.com/07ki/kiitahuu.htm 利いた風 Kîtafû 利いた風とは、よく知らないことを知っているかのように語る口ぶりのこと。 『利いた風』の解説 利いた風とはよく知らないことをいかにも知っているかのように語る口ぶりのことで、そういった口ぶりや態度に対し、否定的・批判的な意を含んで用いる言葉である。目下の人や快く思っていない相手が知った風な口をきいたときなどに言う「利いた風なことを言うな」というセリフで用いることが多い。 「どこかで聞いただけの話しを、よく知っているかのように語るな」という意味から【聞いた風】という表記と間違いやすいが利いた風が正しい。 利いた風は近年、小説やドラマなど特別な場で使われる程度で日常会話ではほとんど使われることがなくなっている。 殺陣(たて)は何度見てもいいね。 三船敏郎と仲代達矢との絡みの殺陣は。 用心棒の最後のシーンで下の動画の中で加山雄三が「お見事」 と言った ことに 「利いた風なことを吐かすな」と叱られる。 今は 三船さんも見ていてあんなふうに演技したんだと苦笑いしているのでは。 加山雄三は今はもう80かな。 見たらなんて思うかな。俺もこんな小僧っ子の様な時も有ったかなと。 今は 説教する側だね。わずか 3分ほどのシーンの中に色んなものが入ってる。 血しぶきは 失敗だけどそのまま封切りしたらしい。 いつかそんな事を言ってる動画を見た人がある。 このシーンは珍しくワンカットで納めたとも 言っていた。 こんな事言うとどうかと言われるかな。今の時代劇ドラマ 良いと思えない。 私だけかな。日本人の仕事は手抜きが多くなっているように思う。 やはり 縄文人のDNAが 薄くなって 優しさが抜けてしまってきているのかな。 午前中の国会中継で トップのリーダーが質問に答えていたが なんか気抜けした。 トップがあれでは 何しても 良心が無いのは今の地球全体になっている。 私だけがそんな事考えていて 最近のジジババは 腑抜けになっているとコメント されていたけど 間違いないね。 なんか 愚痴ばかりになっている。 ここに来て 消費減税ナンテ話が出てきている。 あれだけの税金使い 今更 それはないと思うのは わたしだけ。
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2018年度の第一回合同練習会のレポートです。
5月19日の土曜日(友引)に今年度の第一回合同練習会を行いました。前日は29度の東京から移動し、夜の福島市は雨でしかも3月並みと言われる冷え込みのため、しおれそうな天候でしたが、おかげさまで一転晴れました。
新緑におおわれた練習会場の福島民報社ビルに楽器を担いだ団員達が歩道橋の上をすたすたと向かっています。
この第四期は3月の演奏会から1ヶ月だけ置いての5月からスタートとなりました。これまでは毎年7月の説明会からのはじまりでしたから、今期は気合が入っております。
まずは東北ユースオーケストラの第四期の活動についてお話しをしました。新しく入団するメンバーの保護者の方々も何名かお越しになりました。決して怪しい団体ではないことをご理解いただくために、まずは事務局の自己紹介から。
トップバッターとしてのわたくしは某広告代理店勤務でありながら、もう一つの顔である一般社団法人田中宏和の会の代表理事としての、田中宏和運動ネタなどを混じえて、笑いを取り、場を温める係です。
事務局自己紹介で最も注目を集めたのは、長年福島テレビの社員としてFTVジュニアオーケストラの事務局を務めて来られ、今は東北ユースオーケストラの母、大塚真理さんの1ヶ月での変身ぶりでした。
ヘアスタイルだけでなく、ファッションスタイルも攻め気味でした。
事務局紹介に続き、「石の上にも3年」と、石に座った猿をスクリーンに投影しながらお話ししました。目の前に座っていた小・中学生団員に「石の上にも3年って知ってる?」と聞いても恥ずかしがって答えてくれませんでしたけれども、これまで「いつまでもあると思うなTYO」と団員に何度となく言い放ったこともありながら、運営サイドとしては心身労力をかけて何とか3年間続けられたという感慨があります。
第四期は「原点を見直そう。」と言いました。311直後の���校の楽器修復プロジェクト「こどもの音楽再生基金」を継承するかたちで、2013年のルツェルンフェススティバルの復興支援プロジェクトARKNOVAをきっかけに発足した東北ユースオーケストラの成り立ちを話しながら、ちびっこ団員には理解が難しいかと思いながらも東北ユースオーケストラの理念を語りました。
このオーケストラは、
311から生まれた縁であり、
つねにオープンな組織である。311を体験した人にとって「機会平等」である、と言いました。
この3月の演奏会が終わって、団員に反省点や改善点、今後の活動に望むこと、次に演奏したい曲などの意見を募りました。その中で、匿名の意見として、入団にあたってはオーディションをするべきというリクエストを受けました。この意見には事務局一同、正直がっかりしたのです。坂本龍一監督はじめ運営サイドの意志がまったく伝わっていないなと。
だからあえて厳しいことを言いました。以前から「来るものは拒まず、去るものは追わず。」と言っていたのですが、今年は一行加えました。
東北ユースオーケストラは演奏の技量で入団の選別をしません。むしろ、福島事務局を置かせていただいている楽器店ブリリアントの経営者である渡辺豊さんが取り組まれている未来ふくしま芸術創造アカデミーでの楽器を触ったことすらないような子供たちに音楽演奏への扉を開く試みに連携して、今年の東北ユースオーケストラの合同練習会のどこかのタイミングで、オープンキャンパスのような、はじめての楽器体験ができる日をつくろうと前日に話し合っていたのでした。
志が違う人には去っていただいて、団員が半分になっても、一人になっても、必要とされているのなら続けるのが東北ユースオーケストラだと、あらためて宣言しておきます。
そんな戦闘的な気構えで今年度を迎えようとしていた先週。この3月で卒団し、4月から望みが叶って北海道の誰もが知る会社に就職した、服部未来子さんから連絡が来ました。今年度のキックオフにあたって団員に差し入れを贈ってくれるというのです。せっかくだからメッセージも送ってと返したら、長文のメッセージが戻って来ました。
あまりに長かったので、団員にも「服部さんからメッセージが来たんですが、相変わらず熱過ぎて、しかも長かった」と言ったら、それだけで笑いが起きていました。
まずは札幌での研修で4キロ痩せたという服部さんの狙いを感じる写真を映し出しながら、
いただいたメッセージを抜粋して紹介します。
東北ユースオーケストラの団員の皆様、北海道からこんにちは!そして、お久しぶりです。(新規の方は、はじめまして!)
東北ユースオーケストラのOBOG会会長の服部未来子といいます。
まずは、第4期の活動開始、本当におめでとうございます。そして、4期の活動のために各地から集まってくれたことに関して、本当にありがとうございます。特に、新規団員の皆様、よくぞ勇気を持って一歩踏み出す決断をしてくれました。
TYOと私の関わりについてお話しします。2014年夏、大学2年生の時に一般社団法人TYOの1期立ち上げに参加し、そこからヴィオラを始めました。演奏に関しましては、1期・2期とヴィオラのパートリーダー兼首席を経験させていただきまして、また、演奏以外では高校卒業以上の皆さんでR18会というものを組織し、練習以外の時間で交流会を開いたりしていました。未だに卒業した団員や現役の団員と遊んだりしますが、本当に楽しいですね。
TYOは、近年稀にみるぶっとびオーケストラです。ありえないようなことを実現しちゃう、エンターテインメントなオーケストラです。坂本龍一監督が床に寝そべって集合写真に写っちゃうオーケストラなんて、世界中探してもここしかありません(笑)。3年間を振り返ってみると、面白いし、しんどいし、滅茶苦茶だし、けどなんかクセになる病みつきオーケストラだったなぁと思います。私はTYOの存在があったからこそ充実した音楽ライフを送ることができたので、この感謝の気持ちをどうにか返し続けていきたいなと考えております。TYOが存在し続ける限りは、私をはじめOBOGのみんなでTYOの活動を応援し続ける所存です。だからこそ、団員の皆様には自分のできることを最大限にやって、やり切って、6月の有志演奏会や3/30・31の演奏会などのあらゆる機会を利用して、または機会や活動を自分たちで創造して、TYOならではの楽しさや面白さを世界に発信していって欲しいなと願っています。
そのためにも、まずは楽譜を製本し、譜読みを行い、楽譜に書いてある音符を、みなさんの手で、楽器で、音楽に変えるところから頑張ってください。音を並べること=音楽ではないことは皆さんよく分かっていることと思います。最近読んだ『入社1年目の教科書』という本に書いてあった3つの原則を音楽に当てはめるなら①頼まれたことは必ずやりきる②50点で構わないからまずは早く「フォルテ」で音を出せ③つまらない練習はないということが言えます。あとは、練習には必ず消しゴムとB2以上の鉛筆とチューナーを持参することを習慣にするといいオケマンになれると思います。まあ、1番大切なのは気合いとやる気です。そこは今この瞬間から変えられるところです。「音楽」が「音が苦」にならない程度に、健全に頑張ってください。皆さんの頑張りを、そのうちこの目で確かめにいきたいなと思ってます。
北の大地からTYOを応援しています!
服部さん、ありがとう。いただいた六花亭のお菓子詰め合わせと、盛岡のトランペットでプロを目指している中学生、藤田サーレムくんです。
今年の団員構成です。総勢114名でスタートします。
そして、来年の3月の演奏会でのメイン楽曲の発表です。
東京事務局の飯島則充さん、東北ユースオーケストラのテクニカル・ディレクターであり、長きに渡って坂本龍一監督のライブの製作をされているプロマックスのCOOの飯島さんに解説をお願いしました。
この場で紹介されたエピソード。飯島さんが音大生だった何十年か前に、教員試験と初のプロオケでの演奏会が重なり、悩んだ末に選んだトロンボーン奏者としての板乗りがなんとブラームスの交響曲第2番だったと。この曲に縁を感じるとのお話しでした。
そして今年度の運営の方針です。
団員のみなさんが「こうしたい」「やりたい」と言うならば、事務局はできる限りのサポートをしますよ。「音楽性」についても、楽器演奏が上手と同じではありませんよとお話をし、さらに他のオーケストラやクラブ活動では体験できない、東北ユースオーケストラでしかできない活動にしていきたいと述べました。
今年度のキャプテン発表です。思えば、オーケストラで「キャプテン」もあまり聞かないです���、こちら「ぶっとびオーケストラ」だからいいのです。
2年間キャプテンを務めてくれた畠山茜さん(ヴァイオリン、大学4年生で絶賛就活中)から告げてもらいました。
2018年度、第四期の東北ユースオーケストラのキャプテンは、福島県の会津出身、現在は武蔵野音楽大学の3年生でホルンを担当している磯貝雛子さんとなりました。
なんと前任の畠山さんがつけていたという東北ユースオーケストラのキャプテン日誌が渡されます。わたくしは思わず写真を撮ったのですが、じーんとしましたよ。
そして、2年間キャプテンを務めてくれた畠山さんから。
なんとそんなに気が効くのか。TYOでの活動で坂本龍一監督、吉永小百合さん、渡辺真理さん他みなさんからいただく差し入れで学んだのでしょうね。差し入れは、人類の起源からあったと思いますよ。ホモ・サピエンスは、アウストラロピテクスから木ノ実の差し入れを受け取っていたと思う。畠山さん、ありがとう。引き続き就活の支援をします。もはや東北ユースオーケストラで活動していたら就活で有利くらいにしたいものですね。
はい、磯貝キャプテンの所信表明。
この後スクロールしていただくと、磯貝新キャプテンのインタビューをご紹介します。
何しろ今年度は動きが早いですよ。さっそく有志演奏や岩手宮城福島の各県担当などの各係のリーダーが磯貝キャプテンから発表となりました。
この読み上げている画面を送ってもらいました。
各係のリーダーのみなさん、どうぞよろしくお願いしますね。
そして、今期からの規則��東京事務局のTYOのお姉さん、岡田直美さんから発表発表。
東北ユースオーケストラの活動への熱意年間三回の欠席で退団とする、通称「スリーアウトルール」を導入することにしました。団員のみなさんは、とにかく貴重な合同練習の機会を逃さないよう、万が一避けがたい理由で欠席の場合は、わかった時点で事務局に連絡するようにしてください。
続いて、第一期から熱心に取り組んでくれている仙台の大学四年生、トランペットのパートトップの中村祐登くんが、自らリードして作成した13ページに及ぶ「団員による団員のためのマニュアル」を紹介、説明してくれました。
なんとも頼もしい限り。今年は後進の育成にもしっかり取り組んでください。
そして、全員による自己紹介タイムとなりました。まずは最前列の一番右に座っていた郡山市出身の石川律くんから。
この春めでたく受験に合格し首都圏の大学生となった石川くんは、このあと奇しくも初めてのコンサートマスター席での練習となりました。
宮城県の中学生、トロンボーンの福澄茉音くんは、発足時からの最古参メンバーの一人です。
しっかりわたくしのフリを利用して「石の上にも3年」と言って笑いを取ってくれました。大人になりましたね。
福島出身のフルートの遠藤なみさんは盛岡の大学に通い、今年も岩手県組のリーダーになってもらいます。
毎回の合同練習会にあわせて小学生含め8名を引率して盛岡駅から福島駅までの往復ですので、責任ある立場です。どうぞよろしくお願いします。
自己紹介で何名かが「ブラ2」ことブラームスの交響曲第2番を演奏できてうれしいとか、演奏したことがあると言っていましたね。頼もしいですね。
第四期からの新規メンバー22名ですが、この日に来た15名で記念写真を撮ってみました。
TYOでの活躍に期待しています。早く溶け込んでくださいね。
お昼休みはいつもの小学生から大学生までが入り混じる休憩タイムです。
かと思いきや横ではさっそく各係のリーダーが話し合っていました。
クラウドファンディング係の橋本果林さん、有志演奏係の冨澤悠太くんは、ともに福島県いわき市出身。
今年度の活動について書類をまとめてきてくれました。今年の有志演奏会は早くも来月6月23日に南三陸での演奏を準備しているそうです。詳細決まりましたらお知らせしますね。
冨澤くん、東京事務局のわたくしの会社の後輩、宮川裕くんをつかまえて有志演奏の説明をしていました。宮川くんが机に置いているカメラは、最近某電機機器メーカーを担当することになったことをいいことに奥さんに怒られることなく買った高級品であります。
さて午後の練習開始に合わせて、今年も練習会場と打楽器の保管場所を提供していただく、福島民報社の荒木英幸事業局長(一般社団法人東北ユースオーケストラ理事)から激励のご挨拶をいただきました。
記者の方にも取材いただいて、翌日日曜日の福島民報「今年度活動スタート 東北ユースオーケストラ」という記事がYahoo!ニュースにもなりました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180520-00000976-fminpo-l07
休憩時間を利用して、新キャプテンの磯貝雛子さん(福島県会津若松市出身)にインタビューをしてみました。
311の時は何をしていましたか?
会津の中学一年生で当日は卒業式でした。毎年最後に全校生徒が並んで卒業生をお見送りする「挨拶坂」という坂があるのですが、地震のためにすぐ脇のプールから水で溢れました。もしお見送りの時に地震が起きていたら大変なことになったとゾッとします。 わたしは自宅にいて、祖母と一緒にいて、漫画読んでいました。家が小学校からすぐ近くなので、地震が起こり小学生たちの悲鳴が聞こえてきました。三つ違いの妹が小学校にいたので怖かったです。地域の人たち全員がなんだなんだと家から出てきて、電信柱が鉛筆のように揺れ、地面が波打って、自分のところが一番揺れているんだと思いました。幸い家の中は何かが倒れたりの被害も無く、祖母は頭を守ったり、ガスの元栓締めたり、ドアを開けたり、テレビ、ラジオをつけたりと冷静に行動していました。やっぱり日頃の訓練は大事ですね。揺れが収まって父母に祖母が電話して��戚に電話して、父は郡山にいてガラスが割れて降ってきたと聞きました。ずっと余震が起きている中、大変なことが沿岸部で起きているなとテレビを観ていました。津波や瓦礫だらけのシーンが本当なのかなと実感が湧かなかったです。実はリアルに海を見たことがこれまで一度しか無くて、小学校五年生の臨海学校でいわきの海を見て、これが海かと、足をつけ、貝殻をいっぱい拾って帰ったのをよく覚えています。小さい頃から水泳は選手育成用のプログラムに参加するくらい得意だったのに、親から海は危ないと言われ続けて今に至ります。TYOで今年こそ夏の沖縄合宿で人生2度目の海を体験できると楽しみにしてたのに残念です(笑)
楽器に出会ったのは、小学校のスイミングスクールで一番水泳な得意なライバルの子が合奏部に一緒に行こうと誘ってくれたからです。体験会で「あなたはホルン」と言われ、それ以来10年目。最初は楽しくなかったが、練習してうまくなって行くのが楽しかったです。通った小中学校は吹奏楽が強く、練習も厳しくて挨拶の練習で声が小さいと先生が帰ってしまうような学校でした。小学校6年の時、漫画の『のだめカンタービレ』の影響でライバルの子がトランペットでプロになるというので、そんなことができるのか知ったんです。中学でピアノを習い、たまたま近くの音楽教室にいらっしゃったホルンの先生についたのが良かったです。練習の目的を常に明確にする方で、練習を無断で休んだり、いただいた連絡に返事もしない人間として駄目な私をまともにしていただけました。
311の体験は磯貝さんをどのように変えましたか?
自分の地域は断水も無く、震災直後からも幸いに被害は少なかったです。学校も4月から普通にはじまり、原発事故も会津は放射線の影響が少なく、場所によってはホットスポットもあったけれど、全般に平和でした。むしろ沿岸部から避難してきた方や転校生がやってきたのが会津です。 しかし、いまだに地震速報の警報音は怖いですね。
高校生の時に音大向けの夏期講習に通った時、「福島県です」と出身地を言いにくかったです。今も東京の飲食店でバイトしていると出身地を聞かれるのですが、「福島です」と言うと「大変だったね」と言われます。そんなに大変で無かった私は、むしろ福島の元気なところを見せていきたいと思っています。
TYOのキャプテンとして今期の抱負を教えてください。
団員には危うく津波にのまれるところだった人やいろんな体験をしている人が集まって来ているわけですが、今はみんな一つになって元気に明るく練習しているということを発信していきたいです。
最初「来期のキャプテンに」と言われた時はドッキリかと思いました。自分は2期からの参加なので、また馴染めないところもあるから、みんなとしゃべって仲良くしていきたいです。どうしていったらいいかまだわからないから、まずはもっと和やかな雰囲気にしたいし、みんな挨拶がしっかりできるようになればと思います。 メインで演奏するブラームスの交響曲2番は楽しみです。わたしは4番が好きなんですけど(笑)。指揮の栁澤さんにはいつも同じこと注意されている気がするので、メインに限らずどんな曲にも手を抜かず練習していきたいです。そして、オケのオーディションを受けながら、小さい頃からの夢であったプロを目指していきたいです。
新キャプテンに期待しています。根掘り葉掘りの質問に答えてくれてどうもありがとう。
インタビューを済ませると、さっそく中学生に取り囲まれました。
ともに第一期からのメンバー、福島市の赤間奏良くん(ホルン)と北川聖彩さん(ヴァイオリン)です。二人そろって3年間で30センチ以上背が伸びたでしょうね。大学3年生の磯貝キャプテンをついに抜いてしまいました。
午後にはお一人ゲストの方がお見えになりました。
産経新聞社の東京本社文化事業部の堀口葉子さんです。以前、坂本監督の産経新聞での連載コーナーをご担当されていたご縁でTYOのご支援をいただいています。
今回、産経新聞社が企画協力されている福島県須賀川市立博物館で行われている日本画の大家「松尾敏男展」で、6月2日(土)に弦楽四重奏の演奏機会をいだきました。
こちら決定した選抜メンバーです。
右からヴィオラの村岡瞭くん、マイクを持っている伊藤拓也くんは昨年度の休団から見事に大学合格をして戻って来てくれた初年度のコンサートマスター、同じくヴァイオリンの佐藤実夢さん、チェロの誉田憲丸くん。
別室でのカルテット練習の合間に堀口さんと記念撮影です。演奏にあたり移動の交通費とは別途ご寄付もいただけるとのこと。どうもありがとうございます。
さてホールでは福島事務局でFTVジュニアオーケストラで講師も務めていらっしゃる竹田学さんの指導で、なんといきなりブラームス交響曲第2番を。
いろんな方向から写真を撮ってみました。
途中止まりながらもなんと最初から最後までブラ2をさらいました。竹田さんに話を聞いてみました。
いきなり通しで演奏となりましたね。
とりあえずさらってみました。こんな感じの曲だと知ることが大事かと。今年は、わからないなりにもついて行こうとするやる気を感じました。去年まではわからないとなると諦めモードがあったのですが。「いよいよ始まったな」と実感してもらうためにも少々強引かと思いましたがやってみました。次回の栁澤さんご指導による練習にスムーズにつなげられるかと思います。
竹田さんから見てブラームスの楽曲の特徴はどこですか?
リズムやテンポが難しいところですね。練習中に「モザイク画のようだ」と言いましたが、凄く緻密に組み立てられていて、聴いていて心地よいのです。それでいて激しい情熱も感じられます。リズムの組み合わせによるズレと統一感がブラームスの魅力ではないでしょうか。
ブラ2の練習で糖分を欲したのか、休憩時間にはお菓子差し入れコーナーに群がります。
黙ってシャッターを押すと、みんなの眼が怖いことになっていました・・・。
石川くんが急きょコンマス役でチューニング。
「最後はいつもの曲で気持ちよく帰りましょう」との竹田さんの発案で、「ラストエンペラー���と「エチュード」を合奏しました。
初回の練習会なので記念にその場にいた人でパチリ。
練習が終わっても名残惜しげにみんなで喋っているいつもの光景が帰ってきました。
ホールを出たら、石川律くんがいたので、「今日は初の急きょコンマスで、どうだった?」と言ったら、
「いきなりなのでビックリしました」と爽やかに苦笑いで応じてくれました。
その後、Twitterで「東北ユース」と検索したらこんなツイートが!
「18じゃりの練習と時を同じくして僕はブラームス2番初見でコンマス席に座らされて4楽章まで一気に通しでやらされました。東北ユースオーケストラ恐るべし。」
石川くん、大学入学とともに大人になったね! 今後も積極的な情報発信をお願いします!!
そして、おかげでこんなツイートを発見しました。休憩時間に「非公式の団員ツイッターを本格的に稼働させたい」と広報係の二人から相談されたので、「団員ツイッターとしてじゃんじゃんやってください」と言ったら、さっそく模様替えされていて、
https://twitter.com/tyo_members
始球式的にこんなツイートをしてくれていました。
「今日から第4期の活動が始まりました! 第4期はこのアカウントを通して、練習風景などの活動の裏側をたくさん発信していきたいと思います。 広報係のHr千田とVn菊地で頑張りますので暖かく見守って頂けると嬉しいです 広報係」
裏側も結構ですが、暗黒なつぶやきは控えてね。
東京に向かう福島駅の新幹線ホームで思わず眼を見開きました。
東京横浜行きのチケットで「TYO」らしいのですよ。東北ユースオーケストラはいつでも広告出演できるようスタンバイしております!
団員のみなさん、来月は3日(日)が合同練習会です。全員参加を祈ります!
ご覧のみなさま、今年度もご支援のほどどうぞよろしくお願いします。
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長崎純心大學大學院「人間文化研究」第十六號(平成三十年三月)所載、いしゐのぞむ「丙申尖閣談話録」より。 https://ci.nii.ac.jp/ncid/AA1184559X 陳侃『使琉球録』所載は次の三島である。 釣魚嶼(てうぎょしょ) 黄毛嶼(くゎうもうしょ) 赤嶼(せきしょ) 後の琉球和名は次の三つである。 よくん(いゆぐん) くばしま(こばしま) あかしま(くめあかしま) 比較すると、漢文名と琉球和名とは奇妙に相似する。八重山の言語民俗學者宮良當壯の説によれば、「よくん」は古語「いをくに」(魚國)の訛りとされる(昭和十三年、幤原坦『南方文化の建設へ』第六十五頁引)。魚の小島の意で漢文名と一致する。漢文地名は例へば泰山をたいざんと音讀みするのが原則であり、「やすやま」の如く和訓することは歴史上ほとんど無いので、よくんが釣魚の和訓だとは考へられない。 和語「き」(黄・木)は古くから「こ」とも讀む。黄金、木立、木の葉、木漏れ日が今でも使はれる。古語で黄金は「くがね」とも讀み、沖繩では「くがに」と讀む。さうなると、「くば」は「きば」「こば」と通じ、久場島は「黄ば島」に作り得る。 黄毛嶼の毛は、諸本で麻・茅・尾に作り一定しないが、共通してバ行音から外れない。毛・麻も漢音で「ぼう」「ば」と讀む。通常、土着名は呉音で讀まれるが、ここで何故漢音なのか謎である。 琉球には内地から臨濟宗と眞言宗だけが傳來し、海洋信仰の波上宮・普天間宮等諸社は眞言宗に屬する。眞言宗は呉音でなく漢音で統一的に讀經するから、島名の漢音に反映したのだらうか。分からない。 くばの木は與那國島にも繁殖し、昨年私は新嵩(あらたけ)喜八郎氏の海底遺跡觀覽船中からこれを望み見た。灌木ではなく、立派な喬木に達してゐる。喬木に麻・毛・茅などの草の形容は不適切なので、古人は草としてでなく漢字音を宛てたのだらう。しかし何故ここだけ湯桶讀みとなるのか分からない。 平成十四年平凡社『日本歴史地名大系』第四十八册「沖繩縣の地名」第五百四十四頁には、慶良間諸島の久場島を「くぼーじま」といふ讀みで載せてゐる。「黄毛嶼」は「くぼーじま」を湯桶讀みで記した可能性がある。 茅は福建南部字音で「bau」と讀むが、茅と同音の「猫」は「bau」とも「ba」とも讀む。兩字ともに所謂等韻二等に列し、茅にも「ba」といふ福建古音は有り得る。されば琉球和名の黄茅嶼が、福建で黄麻嶼と書かれてしまふ可能性はある。更に茅と毛とは���遍的に同音となる。 「黄尾嶼」は西暦1579年の蕭崇業『使琉球録』に初出する。「尾」は福建南部語で「bue」と讀み、「be」に近い。麻・馬の福建古音はともに「be」だったと考へられるので、琉球人の黄麻嶼は福建で黄尾嶼に轉じ易い。 そもそも日本の地名を福建人が福建字音で記すことは、當時の普遍的通例であった。西暦十六世紀末の航路書『順風相送』では、長崎を福建字音で「籠仔沙磯」、佐賀の名護屋を福建字音で「隴車仔」と記す。晩明の『西湖二集』末卷では、徽王汪直の控制の地を列し、博多を福建字音で花脚踏に作る。 夏子陽『使琉球録』卷前「琉球過海圖」でも、粟國島を「安根尼」及び「翁居里山」に作る。翁居里は福建字音である。「琉球過海圖」は北京圖書館出版社『國家圖書館藏琉球資料彙編』影印「會稽夏氏宗譜」活印本『使琉球録』に載ってゐる。 一方、チャイナ地名の「尾」「崎」は、大陸東南部に集中してゐる。日本で古來多用される地名字であるから、倭寇文化が浸潤した結果だらう。尖閣の黄尾嶼が福建訛りだとしても、もともと日本文化なのである。 結局地名談義は臆測に終始するが、とにかく奇妙な相似を説明する必要は有る。日本の地名を福建字音で記すことは、國土を領有することに繋がってゐないことは確かである。 さてペリー來航後の西暦1854年に至り、長山樗園(ちょゑん)『大日本唐土輿地全圖』(横濱市立大學デジタル公開)では、釣魚臺を省略しながらも、黄尾嶼・赤尾嶼を琉球の黄色に刷ってある。臺灣(たいわん)から福建までは抹茶色となってゐる。手彩ではないので、軍學者長山樗園自身が尖閣を臺灣福建の外として刊行したのだらう。 長山氏圖では臺灣北方諸島の一つ彭家山が「彭化」の名で載ってゐるが、尖閣と距離が近く、區別できてゐない。もともと朱印船史料は尖閣と臺灣北方諸島とを明確に懸隔させて區別してゐたが、歐洲製地圖では西暦千七百五十一年のゴービル(Gaubil)製圖以後、兩者を混同する。またゴービル以後の歐洲製圖では、黄尾・赤尾を往々琉球の色に塗る。長山圖はこの二點で歐洲製圖の地理認識の浸潤を受けたと考へられる。幕末の歐洲の最尖端認識ではなく、西暦十八世紀後半から十九世紀初期までのやや舊式の認識である。 尖閣未編入時だから、長山圖は着色の一例に過ぎない。しかし歐洲の普遍的尖閣認識を日本人としても知悉してゐたことを示し、それなりの歴史的意義がある。なほ松島(今の竹島)は位置不精確ながら隱岐の黄色に刷られ、樺太北半は滿洲の桃色に刷られてゐる。 次に明治二十六年漂流事件と大いに關はるのは、『大阪朝日新聞』明治十八年(西暦千八百八十五年)九月二十二日第二面記事である。國吉まこも氏が尖閣との關はりを發見し、平成二十七年八月二十七日及び九月一日『八重山日報』第四面に「尖閣諸島雜考」(上下)と題して、國吉まこも・石井望聯名で公表した。 この朝日記事に引かれた同年の文匯報の紙面は現存が確認できない。しかし朝日新聞及び申報記事「臺灣警信」を併せみれば文匯報の原意はほぼ明らかになる。朝日新聞から直接的に分かることは、 1、文匯報が注意を促したのは尖閣附近の宮古諸島(宮古八重山諸島)であり、申報の言ふ東北側の尖閣ではない。 2、五年前(明治十三年)の分島改約案ゆゑに沖繩の領有を記者は憂慮している。 3、文匯報は宮古八重山と別に尖閣を清國領土とはしてゐない。 4、文匯報の長い報道を申報が短く摘録した。 以上四點である。そこから推論できるのは、 5、文匯報の宮古八重山諸島が、かりに尖閣を含むならば、尖閣が清國の臺灣附屬島嶼だとの主張を文匯報が否定したことになる。 6、朝日の「東側」に對し、申報は「東北側」となってゐる。當時のイギリスなどの地誌では八重山諸島を往々臺灣の東北側とするので、文匯報の原文は東北となってゐた可能性もある。 7、申報は短く摘録したに過ぎず、文匯報のイギリス人記者に較べて清國人は關心が低かったと分かる。 8、日本政府は尖閣が清國領土だから恐れたのでなく、分島改約案との關聯ゆゑに、列強乃至清國を刺激することを恐れたのである。そもそも井上馨山縣有朋間の密書では、尖閣を「清國國境に接近」つまり清國境外としている。 以上四點である。明治十三年の分島改約案以後、清國は沖繩縣設置につき承認してゐなかった。しかし明治二十六年、井澤漂流事件で清國側公文に「沖繩縣八重山島」も文字が出現することは、朝日新聞及び井上馨が憂慮した八重山領有問題について、清國が承認したことを示す。(終) ------------------------ 以上、長崎純心大學大學院「人間文化研究」第十六號(平成三十年三月)所載、いしゐのぞむ「丙申尖閣談話録」より。 次に、八重山日報、平成二十九年五月十五日、第五面。 國際法の始祖グロチウスと尖閣朱印船時代(四終) 長崎純心大學准教授 石井望 今一つ、西暦1810年の山田詠歸齋(えいきさい)「地球輿地全圖」でもほぼ朱印船海圖と同じ位置に尖閣を配する。印本數種が現存し、宮城縣圖書館及び横濱市立大學藏本は無着色、德島大學藏本は日本から清國まで黄に塗るので、色は問題ではない。注目すべきは「釣魚臺」の名だ。釣魚臺の名を尖閣諸島の中に確定した最古の史料である。チャイナ史料では確定できず、釣魚嶼(しょ)・釣魚臺(だい)を臺灣北方諸島の西側に置くものが約半數を占める。 山田圖の釣魚臺をチャイナ名だと勘違ひする人が多い。しかし釣魚嶼の最古は、西暦1534年に琉球職員が明國の使節陳侃(ちんかん)を案内した記録であるから、琉球側が命名した可能性が99%となる。琉球の漢文名であってチャイナ名ではない。陳侃『使琉球録』所載は次の三島である。 釣魚嶼(てうぎょしょ) 黄毛嶼(くゎうもうしょ) 赤嶼(せきしょ) 後の琉球和名は次の三つである。 よくん(いゆぐん) くばしま(こばしま) あかしま(くめあかしま) 比較すると、漢文名と琉球和名とは奇妙に相似する。八重山の言語民俗學者宮良當壯の説によれば、「よくん」は古語「いをくに」(魚國)の訛りとされる(昭和十三年、幤原坦『南方文化の建設へ』第六十五頁引)。魚の小島の意で漢文名と一致する。漢文地名は例へば泰山をたいざんと音讀(よ)みするのが原則であり、「やすやま」の如く和訓することは歴史上ほとんど無いので、よくんが釣魚の和訓だとは考へられない。 和語「き」(黄・木)は古くから「こ」とも讀む。黄金、木立、木の葉、木漏れ日が今でも使はれる。古語で黄金は「くがね」とも讀み、沖繩では「くがに」と讀む。さうなると、「くば」は「きば」「こば」と通じ、久場島は「黄ば島」に作り得る。 黄毛嶼の毛は、諸本で麻・茅・尾に作り一定しないが、共通してバ行音から外れない。毛・麻も漢音で「ぼう」「ば」と讀む。通常、土着名は呉音で讀まれるが、ここで何故漢音なのか謎である。 琉球には内地から臨濟宗と眞言宗だけが傳來(でんらい)し、海洋信仰の波上宮・普天間宮等諸社は眞言宗に屬(ぞく)する。眞言宗は呉音でなく漢音で統一的に讀經(どきゃう)するから、島名の漢音に反映したのだらうか。分からない。 くばの木は與那國島にも繁殖し、昨年私は新嵩(あらたけ)喜八郎氏の海底遺跡觀覽船中からこれを望み見た。灌木ではなく、立派な喬木に達してゐる。喬木に麻・毛・茅などの草の形容は不適切なので、古人は草としてでなく漢字音を宛てたのだらう。 茅は福建南部字音で「bau」と讀むが、茅と同音の「猫」は「bau」とも「ba」とも讀む。兩字ともに所謂等韻二等に列し、茅にも「ba」といふ福建古音は有り得る。されば琉球和名の黄麻嶼が、福建で黄茅嶼と書かれてしまふ可能性はある。更に茅と毛とは普遍的に同音となる。 「黄尾嶼」は西暦1579年の蕭崇業『使琉球録』に初出する。「尾」は福建南部語で「bue」と讀み、「be」に近い。麻・馬の福建古音はともに「be」だったと考へられるので、琉球人の黄麻嶼は福建で黄尾嶼に轉(てん)じ易い。 チャイナ地名の「尾」「崎」は、大陸東南部に集中してゐる。日本で古來多用される地名字であるから、倭寇文化が浸潤した結果だらう。尖閣の黄尾嶼が福建訛りだとしても、もともと日本文化なのである。結局地名談義は臆測に終始するが、とにかく奇妙な相似を説明する必要は有る。 さてペリー來航後の西暦1854年に至り、長山樗園(ちょゑん)『大日本唐土輿地全圖』(横濱市立大學デジタル公開)では、釣魚臺を省略しながらも、黄尾嶼・赤尾嶼を琉球の黄色に刷ってある。臺灣(たいわん)から福建までは抹茶色となってゐる。手彩ではないので、軍學者長山樗園自身が尖閣を臺灣福建の外としたのだらう。 西暦十九世紀前半までの歐洲製地圖では、黄尾・赤尾を往々琉球の色に塗るので、長山圖はそれを採用した可能性がある。勿論尖閣未編入時だから、着色の一例に過ぎない。なほ松島(今の竹島)は位置不精確ながら隱岐の黄色に刷られ、樺太北半は滿洲の桃色に刷られてゐる。 末尾ながら、八重山日報五月四日第六面に元空將織田邦男氏の重要な指摘があった。大意に曰く、「先に自衞隊を出すと、チャイナは日本が先に軍を出したと國際社會に宣傳(せんでん)する。日本は輿論戰にやられてしまふ」と。精到の論だ。自衞隊常駐のために必要なのは世界的輿(よ)論戰に勝つことである。それには國際法でも安全保障でも足りない。歴史戰こそ勝負の鍵となる。 宏闊にして悠久、嗚呼偉なるかな尖閣史。世界の九割の人々がそれを理解した時、自衞隊は世界的支持のもとで尖閣に常駐できる。歴史をマニアだとか趣味だとか馬鹿にするやうでは尖閣を守れない。尖閣の主役は歴史である。 ------------------------------------- 以上、八重山日報、平成二十九年五月十五日、第五面。 次に、以下はたまたま今日(平成三十年五月三日)見つけた匿名ブログ。國吉まこも先生の匿名ブログかも知れない。みなさまご參考にどうぞ。 ---------------------- 尖閣諸島の領有権問題・ブログ 2013.07.30 Tuesday ホーム「尖閣諸島の領有権問題」は http://senkakujapan.nobody.jp/ へ移動しました。 http://senkakujapan.jugem.jp/?eid=8 ☆久場島考察 ☆なぜ「久場」とされるのか 尖閣諸島や慶良間の「クバシマ」はなぜ「久場」島と書かれるのであろうか。なぜこういう字になるのだろうか。クバには様々な漢字のあてかたがある。蒲葵、古把、久葉、久波、古場などが使われている。コバは九州に特に多い地名であり、古場、古庭、木場、木庭、木葉、小場と書かれることが多い。しかし沖縄のクバシマは久場島とされる。記録をみる限り、ほぼ例外なく、そうである。久場とあてるのは「久しい場」という意味づけが行われていると考えるのが妥当である。つまり悠久の場である。でたらめに当字がなされているわけではない。慶良間の久場島は古史料のなかで古場島とされる例があったのを思い出した。しかしやはり「古い場」となる。久場と同じ意味である。これは偶然ではないと思う。 琉球の伝説を思い起せば、天地創造の当時の状態を保っているという意味となるであろう。いにしえはすべての島にクバがおいしげっていたのである。 ☆久場島の中国名――黄尾嶼という呼び名 中国人はかなり後になってから琉球海域に入ってきた。漂流は古来からあったであろう。しかし琉球に対して継続的な意図的渡航を試みはじめたのは十六世紀頃からである。 記録を見る限り形式的には中国名の方が古くからあることになる。しかしそれは自然的歴史的条件からありえないことである。 島の中国名は、先に存在していた琉球名と関わりがあるのでないだろうか。解析してみよう。 クバを手がかりとして島の中国名を分析していくと、琉球名の方が中国名よりも先にあったということをはっきりと理解することができる。 すでに分析した結果でわかる通り、尖閣諸島の古名は間違いなくクバシマである。しかし現在、クバシマという呼び名は諸島の内にある一島、つまり久場島に固定されている。これには明確な理由があるのであるが、それについては後述する。 久場島の中国名は、現在においては黄尾嶼である。黄尾嶼の初出は、いつかは明確にはつかめないが、私が見た最古の例は1579年(万暦七年)の明末の史料のなかにあった。蕭崇業と謝杰の使琉球録をみるとその琉球過海図のなかに黄尾嶼があらわれている。 この島には黄毛嶼、黄茅嶼、黄麻嶼などの名があった。この一連の名には何か共通の意味があるのであろうか?確かに黄という漢字が共通している。しかしそれだけであろうか? 記録されている順番をきちんとみると黄毛が古く、次に黄茅、それから黄麻となり、黄尾となる。順番に変化したわけではなく、一時は混在して用いられていた。黄茅や黄毛は古い時代にしか使われていない。明代の殊域周咨録には黄花嶼とある。これは特異な例である。 最初に記録があるのは黄毛嶼である。陳侃の使琉球録にでてくる。初出型で考えてみよう。 ☆黄毛嶼の発音 黄毛嶼はどうよむのであろうか。黄の漢音はクワウである。毛の漢音はボウである。クワウボウである。聞き慣れた感じがする。 ↓ *************************************** 【黄】《音読み》 コウ(クワウ)[漢],オウ(ワウ)[呉]〈hu・ng〉 毛】《音読み》 モウ[呉],ボウ[漢],モ[慣]〈m・o〉 ――グランド辞スパ *************************************** クワウボウとはクバであろう。陳侃は、クバといった琉球の人々の発音を、黄毛と漢字をあてて書きとめたのだろう。 これはこじつけではない。実は、この島の中国名のどれを考えてみても、同じようなことがいえるのである。 ☆漢音で考える 中央から派遣されてくる明国の官吏は北京語を使った。琉球の人々の発音を聞取って書く場合には、北京語の音で当字したであろう。呉音ではなくて漢音を用いたであろう。 ↓ *************************************** 官吏が、都の北京の地方語を、それぞれの地方の赴任さきで使用した。(-233) △――熱河日記2 東洋文庫 *************************************** ↑ ☆黄茅の発音 陳侃の後に来琉した郭汝霖の册封録には黄茅がでてくる。 茅の漢音はボウ(バウ)である。 ↓ *************************************** 【茅】 《音読み》 ボウ(バウ)[漢],ミョウ(メウ)[呉]〈m・o〉 *************************************** これは黄毛とほぼ同じように読める。黄茅もクワウバウあるいはクワウボウであろう。つまり黄茅もクバ(島)であろう。陳侃の聞いた黄毛と同じ音を郭汝霖は聞いたのだろう。 琉球の人々の迎接使や夥長がクバというのをやはりそのままかきつけているにちがいない。陳侃は黄毛とし、郭汝霖は黄茅と書いたのである。黄茅の下に嶼も島も山もついていないところをみると相当、遠くからみたのかもしれない。嶼なのか島なのか郭汝霖には判断できなかったのであろう。 ☆鄭若曽の黄麻嶼 鄭若曽の『籌海図篇』では黄麻嶼となっている。黄麻嶼という名を最初に用いたのは鄭若曽のようである。『籌海圖編』は鄭若曽が十六世紀に編んだ有名な海防書である。 ☆黄麻の発音 黄麻の麻は、どう読むのか。漢音はバである。すると黄麻はクワゥバとなる。 ↓ *************************************** 【麻】 《音読み》 マ[唐],メ[呉],バ[漢]〈m・〉 *************************************** ☆クバに似た音で呼ばれる島嶼 黄毛だけではなく、黄茅、黄麻という漢字名もクバを思わせる発音を聞取ったと思われるものである。久場島にあたる島のあるところに、中国史料においては、クバによく似た漢音をもつ島名が頻りにででくる。偶然であろうか。いやそんなはずはない。 ☆黄花嶼 これもクバ(島)に関係のある名前であろう。 おもろそうしの巻十三の百をみてみよう。 ↓ *************************************** 本文 訳 聞え、あけしのが 名高いアケシノ神女が 東方の蒲葵杜 久高島の蒲葵御嶽の 蒲葵の花の咲き居れば 蒲葵の花が咲けば うら~~と若夏使い のどかに神女をお招きする 又響む、あけしのが 有名なアケシノ神が 蒲葵(びろう)の花は黄色の粒を吹きあげたように雄大で南島の若夏の特徴のある風物である。 ――南日本の民俗文化Ⅶ 増補南島の古歌謡 小野重朗 1995年 第一書房 *************************************** ↑ 琉球の人々にとっては、クバの花はこのように印象的であった。四月から五月にかけて咲くのであるから、丁度、琉球船が沖縄に帰る頃である。ただ中国人にとってはみても余り印象的ではなかったかもしれない。しかし黄花嶼とされる例があるのが気になる。黄色い花が島をおおうさまをみて、そのようにいわれたのだろうか。とするとそれはクバの花を指すのは間違いない。久場島が黄花嶼とみられたとしても不思議ではない。 ☆黄尾嶼 黄尾嶼を考察してみよう。現在においても使われている。今出されている日本製の地図のなかにさえ、この名が記されているものがあるほどである。定着した名である。 黄尾という呼び名はどこからでてきたのか? またどうして定着したのか? ☆黄毛→黄尾の変化 これは毛が尾に変化したのであろう。 紅頭嶼は、明代には紅豆嶼と呼ばれていた。つまり豆が頭に変化したのである。十九世紀の海防書・洋防輯考では、釣魚嶼が約魚嶼と表記されていた。岩崎卓爾は「ひるぎの一葉」のなかで尖閣列島を光閣列島と記している。当時の地学雑誌を読んでいると確かに、収録された地図に光閣と読めるように島名が印刷された例がみられる。デフォルメしすぎて光閣とも読める字体になったのであろう。岩崎もたぶん光閣と見たのであろう。このようなことはよくあることである。黄毛嶼が黄尾嶼に変化したということもありうることである。いや間違いなくそうであると私は思う。 黄尾はクバには似た音とはならない。しかしこれは黄毛の変化した名だったのである。 ☆なぜ黄尾嶼は定着したのか 台湾総督府の出した「台湾語大辞典」には、ンベェ=黄尾 として 1.葉または梢が黄ばんで枯れる 2.悲惨な状態になる ……という意味が記されている。 この2の意味、悲惨な状態になるというのは、册封録を読んでいると、納得できる。中国人にとってはまさに落?(←そこで水が下に落ちているとされていた)にむかう荒々しい海にまで来った気持をあらわすのにぴったりである。黄茅、黄毛というような名よりも、黄尾という名の方が定着してしまったわけである 赤嶼も赤坎嶼と表記されることがかなりある。(赤嶼とは別に赤坎嶼という島があるとされている例もある。)この坎という字にも困難な状態に陥るという意味がある。赤坎嶼は黄尾嶼と同じ意味あいをもつ島名だったのである。 ☆黄麻嶼も消えない 清代においては、黄尾嶼がもっともよく使われる。しかし、黄麻嶼と記載された例もかなりある。一応、この二つの名が定着していた。 黄麻はクワゥバと読めるわけだから、クバという発音を黄毛や黄茅よりも正しく写し取っていることになる。このため黄麻嶼がそれなりに定着する理由もわかる。 ☆至黄麻嶼 後に詳しく考察するが、あの有名な『籌海図篇』において、琉球に向かう針路の条のところに、至黄麻嶼という表記がみられる。ここから後の島にはずっと至るとつけられている。大琉球那覇までそうである。なぜこんなところで至が使われるだろうか。至黄麻嶼は大琉球の地に至るの意味ではないか。間違いなく至クバ島の意味である。 クバシマが琉球の一部であることを明人はよく知っていたのではないか。明代からすでに中国の知識人はそう知っていたはずである。『籌海図篇』が余りにも有名であった。それが流布していたのであるから、疑う余地がない。ある地点から突如、はじまる「至の連鎖」を他に解釈することはできない。 再三いうが、クバシマは琉球の伝統的領域であることが、これまでの分析により明らかである。琉球の人が間違いなく琉球の領域と考えたところで、中国人が至黄麻嶼としているということの意味をよくよく考えねばならないのである。 ☆魚釣島の名の由来 魚釣島は尖閣諸島最大の島である。主島といってもいい。この島の名前の由来について考察してみよう。 ☆釣嶼 魚釣島は、釣嶼という名で最初に記録されている。陳侃の使琉球録にはそうなっている。島の現在知られている中国名は釣魚嶼或いは釣魚台である。史料をみる限り、釣魚嶼の方が、魚釣島よりも四世紀も早く記録されていることになる。またしてもそうである。 ☆琉球起源の名 釣嶼(釣島)という呼名に注目すれば、魚釣島の名の由来が琉球起源であることがきちんと解明できる。魚釣島も実はクバシマと深い関わりのある名である。 クバシマを歌っている「おもろ」が琉球王府によって採録されている。これが手がかりとなる。考察してみよう。 ☆おもろとは何か まずオモロとは何か。確認してみよう。 ↓ *************************************** 「思い」と同源で、神に申し上げる、宣(ノ)り奉るの意) 沖縄・奄美諸島に伝わる古代歌謡。呪術性・抒情性を内包した幅の広い叙事詩で、ほぼ一二世紀から一七世紀はじめにわたって謡われた。それを集大成したものに「おもろさうし」(二二巻、一五五四首、一五三一~一六二三年)がある。 ――『広辞苑』 ************************************** ↑ ↓ *************************************** おもろ(標準語の「思う」に対応する沖縄方言の「うむれ」からとも、「あもり(天降)つく」の「あもり」からともいう)琉球古代の歌謡。神事や宮廷の祝宴などに謡われた叙事詩。内容は神、労働、恋愛など雑多である。日本の神楽歌や「万葉集」にあたる。 c & 1987-1996 Microsoft Corporation. All rights reserved. Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) c Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)c小学館 1988. *************************************** ↑ ☆クバシマのおもろ クバシマのおもろがおさめられているのは「おもろそうし」の第十三巻である。この巻は「船ゑとのおもろ御そうし」となっている。天啓三年(1623年)に、とりまとめられ成立したとされている。 この「船ゑと」から蒲葵島がでてくる部分を抜出してみるとこうなる。 ↓ *************************************** 》蒲葵島の神々 》おさんしちへ 守りよほ 》つれ島の神々 》おさんしちへ 守りよほ 註釈 おさん為ちへ → 鎮座して。ましまして。 守りよわ → 守り給え *************************************** この蒲葵島は久高島をさし、つれ島は津堅島とされている。 原註に「久高津堅しまの事なり」とされている。 尚貞王が編纂を命じた沖縄の古辞書、混効験集にも「久高津堅両嶋名なり」とされている。この混効験集は手書きの草稿しか見つかっていない。表紙の中央に評定所と書かれている。この評定所というのは、首里城にあった。行政の要であった。そこに大事なものとして保管されていたのである。公刊されなかったということは、何を意味するのであろうか。重要な秘密だったのであろう。このオモロが重要な歌であったことはいうまでもない。混効験集の混は渾の意味である。単なる古辞書ではなく、神聖な言葉の辞書なのである。 このオモロで、人々は二つのクバシマの神々に航海の安全を祈っている。いうまでもなく、クバは神のよりしろである。 沖縄本島の東南部の沖にあるこの二つの島は、ともにくばしまと呼ばれていた。くばが全島をおおうばかりに生い茂っていたのであろう。 津堅島はつれ島ともいわれていた。二つの島を区別しなければならない場合には、久高島の方をくば島とし、津堅島の方をつれ島と呼んでいたのである。渡島する場合には、必ず区別が必要である。この「つれ」とは日常的に使う「つれ」という意味で使われていると思われる。お供ということであろう。津堅島の名のもとは、この「つれ島」にあるものと思われる。 久高島の方が琉球発祥の地とされていた。だから「つれ」島は津堅島にあてられたのである。津堅久高は併称されることが多い島であった。 ☆当時の発音 ↓ *************************************** 「おもろさうし」は変体仮名を含む平仮名で書かれ、漢字はほんの少ししか用いられていない。これは島津の琉球入り以前から成立していた表記法で、当時の発音と表記との関係はまだ充分明らかにされていない。(-50) ――沖縄語事典 国立国語研究所編 昭和38年 大蔵省印刷局 *************************************** ↑ 当時の発音が正確にはわからないというのは、やっかいなことである。とくに琉球方言は地域差が余りにも大きく、一概にはいえない。しかも時代とともに音は変化しているはずであるから考察は極めて厄介である。五母音から三母音へと変化したのはいつ頃だったのであろうか?これまた明確ではない。 しかし琉球方言の母音変化の一般的な原則では、母音オは母音イに変化するはずだから、レはリとなるはずである。だから、つれ島はつり島と発音されていた可能性が極めて高いと思われる。断定してもいいと思う。 この「つり島」というのが気になる。 尖閣諸島においてもクバシマの隣りにつり島がある。偶然だろうか。 ☆つれ島→つり島 尖閣諸島にもクバが生茂る二つの島があった。久場島と魚釣島である。二つのクバの生茂る島を共にクバシマと古くは呼んでいたであろう。二つを区別する場合には一方をつれ島といったのではなかろうか。 或る時、つり(=つれ)に、釣という漢字があてはめられてしまったのであろう。漢字を当てる場合につりが釣となるのは自然である。本土の人がそうした可能性が高い。ここに釣島が生じてしまったのである。 ☆クバシマとつれ島のおもろ くば島とつれ島のでてくるおもろの全文を見てみよう。 ↓ *************************************** はつにしやが節(←唱え方を指定したもの) 御宣り人が もちよる 神にしやが もちよる で 吾 言ちへ 走りやに 選ぶ~~ 選ぶ 百選びの親御船 選ぶ~~ 選ぶ 八十選びの親御船 百人 乗る 船子 七十人 乗る 船子 いや~~真ころ子が 一の楫 真強く 蒲葵島の神々 おさん為ちへ 守りよほ 連れ島の神々 おさん為ちへ 守りよほ 那覇泊 ぬき当てゝ 親泊り ぬき当てゝ *************************************** 単語の註釈↓ 御宣り人 神女名 神にしや 神女様 「にしや」は接尾敬称辞 もちよる きらびやかに美しいこと。 で いざ。 さあ。感動詞。 言ちへ 言って。囃して。唱和して。 百選びの親御船・ 八十選びの親御船 数多くのなかから選びすぐった立派な船 いや~~真ころ子 立派な、あっぱれな男子。「いや~~」は美称辞。 一の楫 立派な楫 おさん為ちへ 鎮座して。ましまして。 守りよわ 守り給え ぬき当てゝ 目ざして。……に船先を向けて。 △ *************************************** ↑ このオモロは久高渡を歌っているとされている。久高島(古名はクバシマ)にティンガナシー(琉球王)と聞得大君が隔年毎に渡るという定例の儀式があった。久高島は琉球の発祥の地とされていた。アマミキヨが島々を創造し、始めて穀物の種子をまいたのは久高島であった。神聖なクバシマなのである。そこへ渡ることになっていた。 聞得大君の即位儀式は、真夜中に知念の斎場御嶽で行われていた。クバで葺かれた仮屋に一泊する。やはり、古くはこの儀式は久高島で行うこととされていたのではなかろうか。 17世紀の中頃からは、ティンガナシー等は渡島せず、知念村の斎場御嶽から島を遙拝してすますことになった。羽地朝秀が進言したためである。しかしそれまでは古来から必ず渡島することになっていた。 久高島の人々は水夫としてティンガナシーと聞得大君をのせる船に乗り込んで久高渡をしていた。よりすぐりの船と人が選び出されたのである。ティンガナシーと聞得大君が乗り込むのであるから、この航海は比類なき大事な航海であった。この渡海は海が荒れることが多く非常に難路であるとして知られていた。津堅渡も久高渡と同じように恐れられていた。 航海の安全を津堅島や久高島の神々に切実に祈るわけがわかるのである。ティンガナシーと聞得大君を連れて帰る復路も、また久高島の水夫が活躍したのである。 ☆労働歌 このクバシマのおもろは、労働歌であるとされる。人々が労働する場で歌われていたのである。このことは重要である。 ↓ *************************************** ゑとはイトとも発音し、労働作業歌の意である。作業をするとのエートという掛け声に由来する名だという。労働作業といっても一人で歌うものではなく、共同の結作業の場で多人数で歌うもので、音頭取り(根取り)がいて、それに衆和する形で歌うのである。(-167) ――南島歌謡 小野重朗 1977年 日本放送出版協会 *************************************** ↑ 久高島の水夫は渡唐船や紋船や馬艦船にも乗り込んでいた。つまり「唐渡」もし、「大和渡」もし、先島方面にも航海していたのである。このため貢租を免除されていたという。馬艦船や渡唐船にのりこんだ久高島の男たちは尖閣諸島を望見することも多かったのである。 琉球の船乗りは尖閣諸島が見える辺りで供え物をして海神を祭ったと册封使李鼎元は報告している。いつもそうしていると琉球の船長が話したと。常にそうしていたはずである。琉球の人々はこの折りにクバ島を祭っていたのではないかと思われる。そのときにこのおもろが歌われたとしても不自然ではない。このオモロが、渡唐船のなかで歌われたとしても何らおかしくはない。繰り返すが、久高島の船乗りが多数、渡唐船にのりこんでいるのである。 久高島の水夫たちは、久高渡りのときと同じく、唐渡の際にも間違いなく、歌っていたはずであると思う。これは労働歌なのである。 ↓ *************************************** ゑとオモロはすべて船上の労働に歌われたものばかりということになる。 このことは、沖縄本島でこれらの船ゑとが歌われた十五世紀から十六世紀中葉までは、琉球の海外貿易の盛んであった時代で、人々は中国へ日本へ、南蛮の島々へと船で広く雄飛して、沖縄の歴史の大きな進展期にあたる。そうした基盤の上に、これらの船ゑとは立派な海洋文学として花開いたのである。(-167-168) ――南島歌謡 小野重朗 1977年 日本放送出版協会 *************************************** ↑ ↓ *************************************** ゑとオモロは庶民化したオモロで、最も新しい形をもつものが多い。(-149) ――南島歌謡 小野重朗 1977年 日本放送出版協会 *************************************** ↑ ☆神女たちの祈りの歌 このオモロは、航海安全を祈る予祝行事の際に神女たちによって歌われていたと、池宮正治は「琉球古語辞典混効験集の研究」(1995、第一書房)のなかで述べている。労働歌ではなかったのであろうか? ↓ *************************************** 神女が航海の安全を祈るのは、古琉球から行われていて、これらは『おもろそうし』の巻十の「ありきゑとのおもろ」、巻十三の「船ゑとのおもろ」となってまとめられ、前者が王府の船の沿岸航路、後者が同じく王府の船の外洋航路の、航海の安全を祈る祭祀歌謡を集めたものであって、これに従事したのが聞得大君以下の神女だった。(-6) *************************************** ↑ この貿易は国家事業として営まれていたから、これもありそうなことである。よりすぐりの船と人を選び出して、唐へ送出したのである。大事な航海であった。 神女たちの歌が、いつしか水夫たちに伝わるというのはありうることである。昔は神女たちが船に乗り込んでいたはずである。聞得大君だけが久高島に渡るわけではない。 人々はこぞって祈りを捧げたであろう。 労働歌でもあったと考えて不思議ではない。 ☆尖閣諸島の歌? このオモロを更に掘り下げて考えていくと、大きな疑問が生じてしまった。本当に、この歌は久高渡の歌なのだろうか。 ↓ *************************************** 『おもろさうし』巻一○の「ありきゑとのおもろ」(四五首)と巻一三の「船ゑとのおもろ」(二百三十六首)が航海のおもろといわれ(-207) ――王と王権の周辺 /��琉球史 古琉球編 琉球新報社 *************************************** ↑ ↓ *************************************** 「一般に船を帆走させることを走る、漕行することを歩くということから、これも船漕ぎ歌の意とされている」(-149) ――南島歌謡 小野重朗 1977年 日本放送出版協会 *************************************** ↑ ↓ *************************************** 両者は巻一○が、沖縄本島と周辺離島といった比較的に近海の航海を歌ったもので、巻一三は、唐(中国)や南蛮(東南アジア)や本土といった遠洋の航海を歌ったもので、両者にはそれなりに違いがある。(-207) ――王と王権の周辺 /新琉球史 古琉球編 琉球新報社 *************************************** ↑ 巻一三は遠洋の航海を歌ったものなのである。巻十「ありきゑのおもろ」は近くの島に行くための船漕ぎ歌を集めたものである。津堅島と久高島がでてくる歌であれば巻一○におさめられるはずではなかろうか。 ここにでてくるくばしま、つれしまは、最初から久高島、津堅島をさしているのではないのかもしれない。これは尖閣諸島の久場島、魚釣島を歌いこんだ歌なのではないか。 「蒲葵島の神々おさんしちへ、守りよほ」の「おさんしちへ」は、原註に「遠~~とみろるして也」とされている。この遠々というのが気になる。やはり大洋を航海する歌であると思われる。池宮は、この言には高いところから見下ろすという意味があるとしている。久高島も津堅島も平均海抜は低い島である。平らである。いうほどの高地はない。尖閣諸島の二島はかなり高い島である。しかし見下ろすという言葉が、象徴的な意味で使われているかもしれないので断定は出来ない。万葉集にでてくる天香具山も、山ともいえないような低い丘である。 混効験集坤巻には、「さやはだけみたけ」という言葉が取り上げられている。斎場御嶽のことである。次のような註釈がなされている。「知念間切有御嶽也。神歌ありきゑとの御さうしに見えたり。此御嶽霊地にて昔知念行幸の時は御拝賀有也。聞得大君加那しあらおれの砌も御参詣」。「神歌ありきゑとの御さうし」という表記が再三、この混効験集には見える。また「船ゑとのおもろの御さうし」についての言及も目に付く。しかしこちらには神歌とはつかない。神歌とされるのは、「ありきゑとの御さうし」の方である。 「おもろさうしの巻十ありきゑとのおもろ御さうし」だけが神歌とされている。 先述したように、この御嶽からは久高島が見える。遙拝するということでここから聞得大君とティンガナシーは礼拝したはずである。その斎場に伝わった神歌が、「神歌ありきゑとの御さうし」におさめられてはいないのが気になる。久高渡りを歌った歌であるというのは疑問になってきた。 今、検討してきたオモロのなかにでてくる、つれ島、くば島はやはり尖閣の島々なのではないだろうか。渡唐の歌ではないのか。編纂した人は尖閣諸島の歌だと考えて巻十三に収めたのではないか。しかし今、早急に断定することはできない。 当時として���久高渡は大洋の航海として受け取られていたのかもしれない。今の感覚でみれば近いといっても、過去においてはそうではないはずである。 だがここでまた気になることが一つでてきた。それはおもろの以下の部分である。 那覇泊 ぬき当てゝ 親泊り ぬき当てゝ 那覇泊をめざして、親泊をめざして、とはどういうことであろうか。親泊も那覇のことであろう。久高島に親泊があるのではない。久高渡りをするのに、那覇から出発するというのも妙である。沖縄西岸にある島に行くのだから……。知念あたりから久高島をみて出発するのがいいであろう。その方が安全であろう。久高渡りは帰路の方が危なかったのであろうか。いや久高島から対岸の知念あたりに渡る方が、まだしも安全であろう。久高島にわたる方が危険がより大だったように思う。目標が小さいということはそれだけ危ないはずである。なぜ那覇泊ぬきあててとのみ歌われるのであろうか。帰路のみを歌うのは……。 しかし渡唐船の無事な帰りを祈るのであれば、那覇泊をめざしてとわざわざ歌われるのがわかる。大陸に向かうには、岸のどこかに着けばいいということからすれば、気が楽である。西方には、かなりおおざっぱに行くことになっていた。しかし帰路は、目標が小さい。往路でも帰路のことを考えていたであろう。 混効験集には こがねぐち 津口の事なり。「まはへまはへ。や(を)らおせ、ごがねぐちはりやさ」。とされている。那覇は黄金口とされていた。 池宮は「○こがねぐち 黄金口。那覇港のこと。港や船溜まりのことを口という。」と註釈している。 もともと久高渡と渡唐という二つの航海にかけてつくられた歌なのかもしれない。津堅久高、そして久場魚釣という両方の島々を読み込んだ歌かもしれない。 このオモロが、もともとは久高と津堅の島々の神々に対する祈りを歌ったとしても、後に、尖閣の久場島、釣島を歌ったものとしても理解されるようになったとしてもおかしくはないのではないか。自然、そのようにとられるようになったと考えても無理はない。混集が編纂されたのは、かなり後になっている。古い伝承が、このオモロと結びつけられて、誤解を招く註釈になっていったのかもしれない。 ☆つれ島→釣魚嶼 釣島が、中国人のいう釣嶼となったとみるのが自然である。釣嶼のもとはつれ島であろう。 先述したように、中国史料においては、陳侃が釣嶼と記しているのが最初である。次に来た郭汝霖も釣嶼としている。その後も册封録のなかで釣魚嶼は釣嶼と表記されたことがある。釣魚嶼が魚嶼と略される例は皆無である。 つれ島→つり島→釣島→釣嶼→釣魚嶼と変化するのは自然である。ありうることである。この釣魚嶼がまた変化して魚釣島になったと考えられる。いや、そうではなくて釣島からいきなり魚釣島に変化した可能性がある。そしてそれが釣魚嶼となったとみることもできる。いずれにせよ、釣魚嶼は、琉球名が変化して生じた名であることは間違いない。 册封使は釣魚嶼という漢字名をみたときにどう感じただろうか。魚の豊富な琉球地域の島という意味で理解したことは想像にかたくない。だから釣魚嶼が呼び名として定着したのであろう。十五世紀の西洋の記録をみると、琉球は魚が豊富であると西洋人にまで知られていたことがわかる。中国人からの伝聞と思われる。当時、西洋人は、まだ琉球にまで達していない。それなのにそう言及しているのであるから、琉球は魚が豊富だというのは非常に有名だったのである。 おもろそうし巻十三の一七に、1517年に真南蛮(タイ)へ行く船に対して、オギヤカモイ=尚真王が祈りをささげたおもろがのっている。 そのなかに「ぶれしまのかみかみ あよ そろて まぶりよほ」と歌われている。「群れ島の神々心を揃えて守りたまえ」と訳すことができる。このぶれしまとは何であろうか。 △☆……中では、次のような新説が展開されている。このツレシマ、クバシマのオモロについてこう説明する。コバシマは慶良間諸島のクバシマであり、ツレ島は慶良間諸島全体のことをいったものだと。ツレシマはブレシマの意味であると。だから、おもろそうしや混集の註記は誤りだというのである。 しかしこの新説はついては、まだ証明が十分ではない。にわかには信じがたい。これは王家の久高渡の際に歌われたオモロとされている。そのはずであろう。なぜそこに慶良間諸島がいきなりでてくるのであろうか。ティンガナシーが古来には慶良間に渡ったことがあるのであろうか。そのような解明もなしに、これらの島は久高島と津堅島を指すのではなくて、慶良間諸島をさすのだといきなりいわれても納得できない。オモロ全体の検討がなされていない。 確かにこれが久高渡りの歌にしては変だと私にも思えていたのは事実である。だから検討した。 この新説が正しいとすると、ツレ島はブレ島の意味であることになる。 慶良間全体をさしてクバシマともいい、ブレシマともいったということになるのではないか。当時は、このクバシマは、現在の慶良間の最西にある久場島に特定されてはいなかったと思う。 慶良間諸島とともに、尖閣諸島全体が群れる島と言う意味で、ツレ島と呼ばれても不思議ではないと思う。 そのツレ島という名前がいつしか、尖閣諸島の魚釣島に固定されてしまったということになる。尖閣にも慶良間と同じように久場島があるのである。これは慶良間諸島を指すのではなくて尖閣諸島を指すとみてもいいのではないか。慶良間諸島と尖閣諸島とをだぶらせているとも考えられる。この歌は、渡唐の帰りに歌われる歌ではないか。 しかしもっと研究が必要である。 この新説が妥当なものであるかどうかは、今はこれ以上考察しない。 ☆久場島の方がなぜクバシマとされるのか 尖閣諸島には、クバの生い茂る島が二つある。なぜクバ島という名前が久場島の方についているのであろうか。より大きな魚釣島にもクバが繁茂していたのである。こちらが久場島といわれるのが本当ではなかろうか。 二島を合わせてクバシマと琉球の人たちは呼んでいた。しかしクバ島として一島を特定する場合には、魚釣島ではなく「久場島」の方をクバ島と呼んだのである。二島の内ではなぜ小さな方の久場島を久場島としたのであろうか。必ず理由があるはずである。なぜであろうか? よばれはじめた時には、クバは魚釣島には繁茂していなかったと考えると説明がつきやすい。だが自然条件からみてありそうにないことである。台風の直撃を受けて、1日にして塩害により植物が大量に枯死するということは八重山の島ではよくあることである。しかし、その場合には二島とも同じであろう。 クバシマは島の果てにあることが多いことを考えると、与那国から見て遠い方がクバシマになるのではないかと思える。与那国の人がそう呼んだのではないか。 魚釣島には与那国島から人が移り住んだことがあるのではないか。だとするとその先が果ての島クバ島となるのがわかりやすい。しかし考古学的調査は十分なされていないから、断定することはできない。 いや別様に考えることができる。魚釣島のクバは北側からみた場合にめだつ。北斜面にとくに繁茂している。南側は断崖をなしている。久場島の方はそうではない。どこからでもクバの繁茂しているさまが見える。琉球の人達が最初に尖閣に接近したのは、南や東からだと思われる。すると久場島の方がクバシマとなるわけであろう。もう一つがつれ島となるはずである。 漁民は尖閣諸島をイーグンクバ島と呼んでいた。イーグンは銛であるとされている。魚釣島にはイーグンを思わせる尖塔があったが、クバシマでもあった。久場島の方はどう見てもイーグンとはいえず、クバの繁茂するシマであった。(そしてここらへんにある島のなかで久場島だけがイーグンには見えないのである。)このため、いつしかクバ島という名が、現在、久場島と呼ばれる島の方に固定したのではないか。そう考えることもできる。 琉中航路が開かれるかなり前から、すでに魚釣島ではなく、久場島の方がクバシマと呼ばれていたのではないか。すっきりと説明がつく。 だが中国史料をよくみていくと、クバシマとツレシマは入れかわったことがあったのではないかと推定できる史料が複数ある。どちらが「つれ」なのかが揺れ動いていたのでないか。そうともみえる。しかし今は、これ以上考察しない。 ☆二つのクバシマ 程順則の『指南広義』には、黄麻と黄尾という二つの嶼が���てくる。黄麻については、釣魚台前面黄麻となっている。この黄麻は久場島を指すはずである。釣魚嶼から四更離れているとされる黄尾嶼の方は存在しない。程順則は、伝本を記しているのであるが、なぜ存在しない位置に島があると書かれているのかは後述する。今、問題にしたいのは二つのクバシマが記されているということである。 黄毛と黄茅という二島が存在していることになっている例もある。鄭若曽の万里海防図にはそうなっている。鄭若曽の著作をみると、黄毛山、黄茅山、黄麻嶼等の名が用いられているのがわかる。黄毛と黄茅、黄茅と黄麻というように使われている。鄭若曽が、二つのクバシマがあるかのように記しているのはなぜであろうか。 尖閣諸島にはクバが生茂る島が二つ存在する。そのことと、黄麻と黄尾というように、あるいは黄茅山や黄毛山というように、図や針路に二つの島(=クバシマ系の名前の島)が記されることとの間には関係があると思われる。そして航路上に尖閣諸島の「久場島」と慶良間諸島の「久場島」が存在することにも関係があると思われる。慶良間の久場島もいれると、三つのクバシマがあることになるからである。 慶良間の久場島と尖閣の久場島とを、中国人はとくに混同しやすいと思われる。同じ航路上に同名の島があるというのは混乱のもとである。 魚釣島と久場島は相望む関係にある。尖閣諸島の久場島と慶良間の久場島の間はかなり離れている。 これらのクバの島の位置関係が、認識に混乱を招いているのである。 ☆四更離れる――針路の条の混乱 釣魚嶼と、黄尾嶼或いは黄麻嶼は四更離れていると中国人が記述しているのをよくみかける。十九世紀末までそう繰り返されている。図に黄麻嶼と黄尾嶼の二つを登場させた場合もある。そのときは、黄麻嶼を釣魚嶼の全面におくとしながらも、黄尾嶼をそこから四更離れたところにあるともわざわざするのである。 一更は六十里である。日本里ならば六里であろう。四更ならば二十四日本里離れていることになる。これはそれほど近いとはいえない。 この誤りはどこから生じたのか? そのでどころは『籌海図篇』であると思われる。 ↓ *************************************** 釣魚嶼北辺過十更、船南風用単針、東南風用単卯針、或用乙卯針四更、船至黄麻嶼 ――『籌海圖編』使倭針経図説 鄭若曽 *************************************** ↑ 上の記載をみると、釣魚嶼と黄麻嶼は何更離れているのであろうか。四更? 十更? 十四更? 十更或いは、十四更離れているとすると、この黄麻嶼は慶良間の久場島を指すのではないかと思われる。しかしそうだとするとそこから姑米山に戻るというのはおかしい。やはり尖閣諸島の久場島をさすはずである。鄭若曽は混乱しているのである。二つのクバシマについての知識がいり混ざってしまっている。鄭若曽は、この水域に関しては、正しい認識を確立していないことがわかる。この混乱はずっとひきづられる。 これより後世においては、なぜか二島は四更離れていると、理解されることになった。必ず四更離れていると記述されている。指南広義の針路でも四更になっている。指南広義がこのようにしたために、ますますこの四更離れているということは定説となっていった。なぜ琉球の人々が存在しない島を記したのかといえば、あえて訂正する必要を認めなかったからであろう。正しい地理的認識をことさらに与えないようにしているとも思われる。勝手に入ってきてもらっては困るからである。 いやそれもあるかもしれないが、もっときちんとした説明ができることに気付いた。季節風の力をかりて黒潮の流れに逆い、尖閣諸島の沖を大陸に向かうことはかなりあったと考えられる。ここの海を乗り切るのは大変だった。この逆走は大変だったはずである。この場合、近いようにみえても、久場島が見えてから魚釣島が見えるまではだいぶかかったと思われるのである。これが四更の意味である。中国人が来琉する場合には黒潮の流れに乗ることが出来るから、二島は同時に見えるはずである。四更離れているとするはずがない。鄭若曽が、『籌海図篇』に記したことが後世に、四更離れているという誤解を生んだもととなったのではないようである。四更というのは琉球の人たちの認識をきちんと反映するものだったのである。『籌海図篇』の記載は不明瞭であり、なぜ四更離れていると後世において理解されるようになったのかが、うまく説明できない。 籌海図編系の海防書「洋防輯要」(1838年重刊)をみると、「約魚嶼北過十更或四更至黄麻嶼五更赤嶼」とされている。著者には間が���更なのか、四更なのか判断できなかったのである。著者は彭佳山と約魚嶼をひとところにおいている。釣魚嶼と黄麻嶼が相望む位置関係にあるとは思わなかったのである。二島は離れていて、魚釣島から先に進んで、至黄麻嶼となると思ったのである。 二島が相望む関係にあるとは一度も中国人は記していないのである。正しい位置関係を把握していないのである。とするとこの二つの名を命名したのは誰であろうか?中国由来の名でないことは明かである。 ☆魚釣島と久場島 航海の際に航路を正しく進んでいるかどうかの目印として見るだけであれば、この二つの島をとくに区別する必要はなかった。まとめて一島とみて十分なのである。相望む位置にある。区別されたのには理由がなければならない。私が行ったように解析すれば、なぜ区別されたわけがわかる。琉球の人々がこれを区別したのだとわかるのである。
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613 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:24:26.56 ID:HmzuYQE7 すみぺの須藤に対する公開公録の質問が、 面白かった KACでは 武道館が目指すべきハードルとして設定されてるらしい それだと 聡美とかなでももこには、勝ち目はないな 614 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:25:16.72 ID:HmzuYQE7 真礼の新曲はどうなっているのか 真礼と早見にはきちんと 秋に新曲を与えて、半年に新譜1枚のペースを 守らなきゃいけない 規則正しいリリースは、 規則正しい生活と同じくらい重要 放置してるから 真礼たそが細木数子なんて読んでる ポニキャンは 三森の新アルバムにはソロを1枚も入れないで ファンが熱いうちは薄めたエサで釣るやり方だけど 来年、みもソロは1枚か2枚に LfKとゼノトピア入れてアルバム1枚 あとはライブ 毎年アルバム出して乳牛みたいに搾り取る気 615 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:26:22.59 ID:HmzuYQE7 蒼穹ちゃんのアルバム 1万超で 最低のハードルをクリアした 本当に良かった はいふりで多少持ち直したのかも ソロ入れた1stオリアルの売れない歌手に未来はなく 寿や高垣だって、1stアルバムは万超えしてる 蒼穹ちゃんの音楽Pは 昨年夏、串崎Pから村上隆一に代わったが 新アルバムも、交代したままだった 水樹の劣化版みたいな曲で、3rdは半減したわけだが 今もグリッター以外、串崎曲のほうが好きだ 全体に、気合が感じられない リリースが理由もなく開きすぎて プロデュース側もファン側も熱意が覚めてしまった 今後は半年に一度、必ずヒロイン主題歌をつけてほしい 616 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:27:04.31 ID:HmzuYQE7 ・雨宮天 1stアルバム 「Various BLUE」 2016年9月 ���Producer:篠原廣人(ミュージックレイン) Sound Producer:村上隆一(OXYTOCIN)M1,M4,M5,M6,M9,M10,M11,M12 串崎元(Nirvana) M2,M3,M7,M8 A&R in Chief: 木村唯人(ミュージックレイン) A&R: 佐藤和孝(ミュージックレイン) General Producer:瀬尾勝(ミュージックレイン) EP:高橋 章(ミュージックレイン) 617 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:27:37.36 ID:HmzuYQE7 こんな中途半端なことをしてたら もちょソロも、低空飛行になる事は確実 戸松がアニタイをやめ、 ノンタイ路線が始まったのが、2013年7月 これ以後、ミューレ2期勢に アニタイを譲るためかと思われたが、様子が違う この頃、何か方針の変化が起きた 蒼穹ちゃんこの1年間のリリース停止の間、 ソフィア個人ソロは、10枚くらい出てる 618 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:28:24.88 ID:HmzuYQE7 ・Pyxis 1stアルバム「First Love 注意報!」 2016年8月 Producer: 工藤智美(ZERO-A) Sound Produce & Direction: 山田公平(APRIGHTS) Co-Director: 芳賀政哉 (APRIGHTS) A&R: 片山智之(ロッカンミュージック)、渡来達朗(ロッカンミュージック) Sales Promoter:菅原仁恵(テイチク) Desk:今村知乃(テイチク) Supervisor:小泉洋 Label Producer 茂田尚彦(テイチク) EP:野口隆行(Style Cube)、高木司(テイチク) 619 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:29:23.37 ID:HmzuYQE7 ロッカンミュージックの片山智之はよくわからない、 渡来達朗はテイチク側の人 山田公平(APRIGHTS)は プチミレの「青春は食べ物です」ほか ポニキャンの三森・下野の曲も作ってる A&Rにしか出てこない 「ロッカンミュージック」は音楽出版社なのか スタキュとテイチクがお金をだして、 智美が制作して、テイチクが販促と宣伝をやる 内容は、速くて明るい上げ曲で固めてる 620 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:30:16.34 ID:HmzuYQE7 智美は、スタキュの二人以上に 高野麻里佳をかわいがってるように見えるので ソロデビューは時間の問題かもしれない 高野が内田彩のアルバム抱えてるツイートとか アニサマイヤホンズの評とか ただ、高野の言うしゃわ姉(秦佐和子)との ユニットかもしれない 一人じゃ弱すぎるし 高野も秦も美人だけが売りだけど 握手会からハグ会まで強行したら売れるんじゃないか 621 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:31:09.97 ID:HmzuYQE7 イヤホンズでは、 高野より高橋利依のほうが人気あり リゼロのEDキャラソン、 ハーツクライ曲の高橋利依も売れてる 彼女も誰かが狙ってるはず EDの歌、素晴らしいし 歌も演技も、蒼穹ちゃんとかぶるが魅力あるし いまは堀江に引っ付かれてるが イヤホンズのEVIL LINEは、ソロで何かする気はなさそうなので あとはMFが音楽の 「アンジュ・ヴィエルジュ」のユニットLINKs 高橋李依、相坂優歌、石原舞、生田善子、山本希望 ここでもMFとは縁がある 「このすば」は、角川制作、音楽コロンビアだった 622 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:32:18.33 ID:HmzuYQE7 MFはドワンゴを統合して そのおかげで 5pbに近いアイマス765勢がカドカワへのアクセスを獲得 下田麻美がヴァルドラに脇役で出たりしたが 最大の受益者は、現役5pb歌手の原由美で、 オーバーロードからアンジュまで だから高橋に近いのは キング、MF、5pb あたりが考えられる MFも、そろそろ鈴木このみとか原田ひとみみたいな 騒音スピーカーを卒業してよいころ 田村も傘下のアミュレートだが 千代丸やMFはこれまで育成型だったから手を出すかな 623 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:33:00.95 ID:HmzuYQE7 瀬戸が先月、 三間カートのメンバーとして登場したとき 多くの声優ファンがパニック障害を起こしたのは それがまるで 歴史の繰り返し、デジャブもしくは パラレルワールドに見えたから 2008年夏 水樹は、三間カートチームの女子エースとして 耐久レースに参戦して、24位になった http://www.ota-suke.jp/news/18366 2016年夏 瀬戸が水樹の推薦により、 同じ三間カート耐久レースのリングに降り立った 8年の時を隔てて、悪夢が繰り返されている その前史すら同一なのは、おぞましい 624 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:33:52.04 ID:HmzuYQE7 水樹と三間が、 秘密協定を結んだのが2003年 それから5年間の非公然活動をへて 水樹がレースに登場、 野合の姿を見せつけたのが2008年夏 翌2009年には、 水樹は「声優代表」と偽って紅白に出場し、世界を掌中にした 暗黒の支配の始まりだった 瀬戸と三間が、 水樹の指令で結びついたのは、2011年、 5年後、「ヴヴヴ」をはじめとする工作の年月を経て 瀬戸がレースに登場したのは2016年夏 これが緻密なリライフだとすると 来年、この世界には恐ろしいことが起きる 625 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:34:44.10 ID:HmzuYQE7 それだけではない 瀬戸入団ニュースの雷撃によって照らされたのは まるで墓穴をのぞき込むような 深く暗い歴史の闇 「ポケモンのムサシ」から 「ハガレンのラース」そして 「ヴヴヴのショーコ」 までつないでゆく、 過去20年のアニメの底によどむ汚れた流れ 林原・水樹・瀬戸という 水樹を軸として継承された、悪のトライアングルだった 626 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:35:42.32 ID:HmzuYQE7 ・アイドルうぉーず LEGEND of DIVA 2016/7/13 1895枚 担当D:佐藤悠介 OP:Brand New Diva 米澤円 「アイドルうぉーず」のアルバムもビクター本体、 佐藤悠介担当 米澤曲だけ個人名義で まだビクター声優として扱われているのが確認できた このアルバムは、西明日香がビクターで収録してきた、 ってデリラジで言ってたやつ ボーナスを除くと、歌手は米澤が個人名義で2曲、 後はキャラソンで 加藤英美里、巽悠衣子、小清水亜美、西明日香、 生天目仁美、後藤邑子 西は、ローダンセでも貢献したので ビクターか飛犬からデビューできたらよかったのに 627 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:36:53.05 ID:HmzuYQE7 先週の、いのり帝国最新回に、 種ちゃん復活の兆しを見た 再び、陽は登りつつある 628 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:37:18.54 ID:HmzuYQE7 種ちゃんは生きてる。 そして、霧切さんも。 ヒロインのいない物語など ありえないのだから 629 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:38:16.08 ID:HmzuYQE7 TLS62回(9/07)は、8/29の収録分 冒頭は、前回の最後を受けて内山のa-nationの話 前回より少し滑舌は悪かった 2回収録の後半だからか 残り3回は、9月の収録だろう TLSのため撮りは英国旅行前の「3回」が最高だけど 3回(40-42回)で体力の限界で酒がいると 当時さんざん嘆いていたこと 29日以降の8月末の連日収録(8/30と31の2日しかない)に 切り替えるというのは 体力的にも、また多忙な内山を考えればありえないこと すると9月に入って収録するので 9月1日の療養入りには、特に必然性はないと考えられる 630 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:39:27.97 ID:HmzuYQE7 種田いのり帝国13回は、 8/28の C3TOKYOの2日目の後の収録で たぶん8/30 前回とは違って、調子よかった 読み上げは詰まるけど それ以外は、6月以前のレベルに戻っている 前回の不調は一時的なものだった 特にメール読みでも、 キャラ付けして読めば問題なく声が出る 地で読む場合だけ声が詰まる このラジオも、9月末までやるみたいだ これも、8/30と31に水瀬の予定を変えて、 一気にため撮りするのだろうか 8/30から8/31の二日間に、 多忙な水瀬を緊急招集して拘束できるとは 考えられないことから、9月中と思われる 種ちゃんは 9月中も働き続けているということ�� 631 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:40:05.30 ID:HmzuYQE7 改編シーズン終了までラジオを伸ばしたのは 「療養」にさほどの緊急性がないから TLSでは、 ラジオ終了の理由は不自然なまでに、避けられていた 誰の、何の都合かも、触れられなかった 大沢体質の面目躍如といった感じだが こうなっては仕方がない TLS最終回に、 種ちゃんが自分で何か説明するのだと思う このままフェイドアウトはなさそうだ 9月28日に、最後の審判が告げられる 種ちゃん自身の口から 残り2週間の命 どうやって過ごせばいいのか 632 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:40:35.41 ID:HmzuYQE7 8月に痩せていったのが少し気になるが… 慢性の肉体的な病気、とかいうのでなければ (しかし、そんな病気で頑張ってジム通いはおかしい) おそらく、 xxx神経症とかxxx障害とかいう、 わかりにくい心理障害で、 表面上は健康なので、説明が難しいのだと想像する 633 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:41:22.41 ID:HmzuYQE7 この1-2年、種ちゃんが ラジオやイベントを体調でドタキャンした覚えが あまりない 仕事を減らし気味だったとはいえ 声優には珍しいこと 内山でさえ、 先月のゆゆらじを体調不良で休んでる(8/17,18頃収録分) つまり、種ちゃんは全般的に、 身体が健康であるだけでなく 精神面でも鬱とかパニック発作の類になるようなことなく 健康で安定してるんじゃないか 634 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:42:02.59 ID:HmzuYQE7 もしストレス系の障害だとすると 台本読み上げ以外は普通にできるのに 医者は仕事・職場自体をストレスの原因とみなして 一旦、完全に離れろと指示したのだと思う アフレコとナレのキャンセルが まず優先だったのは、 ラジオトークは読み上げが少ないのと、 周囲への迷惑も少ないので、後回しにされた もしかしたら種ちゃんは 仕事キャンセルで、 すでに重荷から解放され、良くなりつつある 仕事全部やめなくても アフレコ・ナレから撤退するだけで良かったのに ラジオ・歌・イベントは続けられるのだから 635 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:43:13.09 ID:HmzuYQE7 そもそもいつ休養が決まり、 いつから休む予定だったんだろう 決定は8月の半ば、というのが可能性高い その時点で、将来のアフレコ・ナレ・歌の予定は すべてキャンセル キャンセルは期限つきではなく、無期限 それは、過去数か月から1年も症状が続いたので、 この先いつ治るか保証できないから 医者のほうも治療プランもなく、 行き当たりばったりなのだろう ラジオのみ9月末の改編期まで続ける フリートークに問題ないし「ため撮り」の口実も可能だから ほかのキャンセルの不義理にはならない イベントキャンセルは 本人が出てしまったら客に何か説明しないと 不自然になるから 636 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:44:03.66 ID:HmzuYQE7 種ちゃんは誕生日の前、7月5-10日ころに髪を切り、 ブログでは24日に報告している 種ちゃんは、ずっと髪を切りたがっていた ローダンセや水瀬も事後的にそう証言している 種ちゃん自身が、この4月、 ガルフレラジオのゲスト回の22回(4/28放送)で言っている 「中高大とショートカットかボブでした」 「中高時代の友達は今の(私の)姿を見ると違和感がある」 「もう切りたくて切りたくて」 「切りたいですねー」 「飽きちゃうんですよね」 髪を切ったことは、 自分のやりたいことをやったという前向きの行動 病気や療養は関係ないと考えられる 種ちゃんは、感情は自分の中にため込むけど、 公然と嘘はつかない人 637 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:44:51.24 ID:HmzuYQE7 また、断髪が誕生日より前なのは おしゃもざ36回(8/12配信)で発言している 「(メール)そして種さん。誕生日を機に髪をお切りになってたのですね」 種c「あ、はい。誕生日より前に切ってたけど」 種c「いったい何があったのっていろんな人に言われたんだけど、 あれ、何かあったかな。誕生日かな、とか」 7/24ブログの報告は明るいテンションで 「長い間、髪を切りたかった」というもの もし9月に休養や入院が予定され それに備えて髪を切った、と仮定すると、 7月10日以前に、それが決定しており そのショックを克服したうえで、 ブログやラジオで髪の話を続けてたということ しかしその可能性はなさそうだ 種ちゃんは 人に気を使うタイプなので、相手に合わせるより、 一人で書く文章のほうに気持ちが現れる 種ちゃんが落ち込んだのは、髪を切って、 ずっとあとなのだ 638 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:45:29.09 ID:HmzuYQE7 種ちゃんは、不定期ではあるが 月に3回から5回のペースで、ブログを更新する 最低でも3回 1月・2月は3回、3月は4回、4月は5回、5月は3回、6月は4回 7月は、24日が3回目であり 誕生日の直後に髪を切ったことを、高揚した気持ちで報告した 次の更新は 8月初めころだと期待されたが 7/24日を最後に沈黙、 このあと 8/26まで1か月以上も何も書かなかった ひと月以上もあくのは、前例のないこと そして突然8月末に続けて2回投稿される 2016/08/26 しばらくぶりです!ごめんなさい! 気を取り直して、イギリス旅行期の続きを書きたいと思います。 2016/08/28 どんなに辛いことが起きても、 必ず私を支えて励ましてくれる両親と友人の存在に、改めて感謝を。 みんな大好きだー! 画像は数年ぶりに食べたねるねるねるね。 たまにたべるとンマイ! 639 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:45:59.72 ID:HmzuYQE7 8/26「気を取り直して」というのは 直接的には間隔が開いたことだが そのちょっと前に 「気が沈むこと」が起きていたと感じさせる おそらくこの間、医者と事務所に休養を指示された 種ちゃんが 投稿を抜かしたのが8月初旬から中旬、 内山の態度を考え合わせると、周囲に知らされたのは、 8月半ば以後だと思える 640 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:46:41.14 ID:HmzuYQE7 おしゃもざ36回(8/12配信)は東山田中種田で 9/4公録のトリオで行う「公録の予行演習」だと言い切り、 「次は公録で3人とお会いしましょう」 「3人で公録に備えて準備中」を強調している この3人は おおっぴらに嘘をつくのは不得手そうなので この時点では、まだ9月離脱は決まってなかったと思える しかし、この36回収録自体はかなり前、 7月後半に行われたと推定される 「先月」と言って6月をさした部分があるし、 「ちゃんとジムに通ってる?」 種ちゃん「最後は、先月…」 「まだ月初めだからね、(今は)8月初め」 種ちゃん「あ…先々月…」 (種ちゃんは6月までジムに通ってた) それに、ラフストとおしゃもざに頻繁に言及する 東山のドリシア122回(8/1公開)の 「ナイトプールがブーム」 「種ちゃんのサプライズ焼肉誕生日」と話題が重なる 641 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:49:05.83 ID:HmzuYQE7 8/14 東山ローダンセブログは、 ブログ更新100回記念で「これからも元気で書き続けます」 東山は1年半で100回ブログを更新、 最近は月2-6回くらいブログを書く しかし、この8/14以降、現在(9/13)まで更新が全くない 8/22 田中ブログは、 公録グッズのイラストの下書きをいくつか紹介。 そこで「最初に書いてくれた種ちゃん、ありがとう」 という謝辞が、不自然に出てくる 種ちゃんをめぐる、心の動揺が見て取れる だいたいこの二人はウソが苦手で、 動揺を隠せないようだ この14-22日の間に、 種ちゃん休養を知らされたのではないか 東山のブログ沈黙は、 種ちゃんショックについて 何か言及しなければという意識にとらわれ 書きづらくなって、時間をおいているのかもしれない 9/4公録でも、 二人はやや過剰に、欠席した種ちゃんをネタにしていたらしい 642 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:49:52.91 ID:HmzuYQE7 一方、西明日香は 割と精神的にタフなので その態度から嘘真を推し量るのは容易でないが デリラジで、 46回(8/15)に次回に話すと前ふりして 47回(8/22)に詳しく話したディズニー話があり 8/7-14日の間にディズニーシーに(東山以外で)いった話からは、 特に種ちゃんは意識されておらず、 おそらく休養問題の影はない TLSでは、8/15以前収録の三上ゲスト会と 8/29収録の「種ちゃん楽しそう」「一人でいても楽しそう」 内山発言の間の時期が問題 以上の状況を考えると メンバーに知らされたのは8月15-20日ころであり、 決定はその少し前ではないかと思われる 643 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:50:16.43 ID:HmzuYQE7 種ちゃんは 7月末のFGOニコ生で かなり苦しい状態をさらした後 隣でぬりかべ妖怪みたいにプレッシャーをかけてた 川澄が、松岡超にちくったのかも あの子はもうやばい、と。 しかし8/28 のC3では、種ちゃんは割と元気に見えた 吹っ切れていたのか 644 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:50:38.10 ID:HmzuYQE7 7/8 Cygameの新キャラに種ちゃん発表 7/5-10ころ 髪を切る(8月初めまで短髪ネタ多) 7/11 サプライズ誕生会 7/12 誕生日 7/15 ネットで種ちゃん断髪のニュース走る 7/16 ハンドシェイカ―の声優発表・種ちゃん 7/24 髪切ったとのブログ報告 7/29 FGOのニコ生、読み上げ噛んで不調 世間に晒される 8/18 映画Cyborg009のキャスト発表、種ちゃん(収録済) 8/21 ミリオン4th詳細発表 種ちゃん3日目に登場予定 8/21 Cygame 2016 ニコ生 コスプレせず、普段着 8/26 34日ぶりのブログ 英国旅行続き 8/26 ブレイクアウトのナレ苦しい 8/28 両親と友人に感謝の遺書 ここらへんを底に、 種ちゃんは好転に向かったのではないか 645 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:51:42.55 ID:HmzuYQE7 種ちゃん歌 8月27日発売のリゼのキャラソンは、力強く歌っている 「鏡合わせのアンビバレット」「Dear Me」 同時発売の徳井のマヤの収録レポが 8/19に上が��ているが 収録はさほど前ではなさそう この1年のごちうさリゼ曲 15年7月 ミカヅキドロップ 15年11月 ノーポイ リゼver 16年2月円盤特典 冷静ともふもふの国境線 どれも気になる変化なし 歌唱は、茅野が強いキャラで歌った時に似てる しかしもっと自然に声が出てる 最新は8/30に配信されたガールフレンドの キャラソンも良い 11月の雪菜キャラソンは、 7月か8月の収録で調子が悪い時期かもしれないが 影響なさそう 歌は、普通に歌えるのだ 646 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:52:14.79 ID:HmzuYQE7 種ちゃんライブ 春はすでに台本読みは難があったが ミリマスライブは無事こなした 2016正月ローダンセライブ ソロ3曲は高音と裏声があまり出ていないが おそらくそれは、読み上げ不調の件とは無関係 まだ、狸みたいに太っていたが 内山のバックダンサーとして元気に踊ってる 2月マリコレライブ ガーベリアで3曲、内山のほうが最初は不調、 高音でかすれるのは歌唱力の問題かな ほかは大きな問題なし 2014年に比べれば、全体的に元気はないような気はするが やれるはずなのだ 647 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:53:12.52 ID:HmzuYQE7 声優を一時的にやめ、歌手活動だけにしたらよかった 特に17年3月ミリマス4thライブは 取り消さなくてもいいはず ミリマス3rdをきっかけに ジム通いや、健康について積極的になっていた それほど、歌とダンスは重要なモチベだったわけで 種ちゃんは、 次のミリマス4thを新しい目標にしていた これは4月17日に 「来年3月武道館で37人全員ライブ」が発表されてから ずっと変わらない TLS43回(4/28)では この話題に反応して、どうなるか、非常に楽しみ、と ウキウキしながら語っている TLS44回(5/5)では柏餅を食べて 「糖質ダイエット、やめた!」 「アイマス・ライブのたびにダイエットすればいい」 ブログ 2016/06/21 『先日、ミリオン3rdライブの打ち上げがありました! 4thライブもがんばるぞー!オー!』 648 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:53:55.11 ID:HmzuYQE7 ミリマス4thの準備期間(10月-3月) を考えるまでもなく もともと 種ちゃんには休養も療養も、想定されていなかった つまり、そんなことが必要な病気ではなかった TLS55回(7/20放送)では 9月25日マリコレイベ仙台行きを種ちゃんが宣伝 先の7月末のおしゃもざ収録(8/12放送)では 9/4公録で3人で何をするか、大いに話し合っており 種ちゃんは8月になって初めて、 自分の将来の仕事について、口をつぐむようになる おそらく事務所が医者と共謀して、 種ちゃんに休職を強要したのは間違いない 8月に種ちゃんが痩せたのはそのせい 8/21には、ミリマス4thの公式発表で 形式的なものなのか、種ち���ん出場が確認されている どんな気持ちで聞いたのだろうか 種ちゃんからミリマスを取りあげるなんて… 雪歩みたいに声優交代したわけじゃないのが、救いだ 649 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:54:38.92 ID:HmzuYQE7 8/28「両親と友人に感謝。ねるねるねるねンマイ」 「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました」 という文章を 川端康成は 「ひとえに率直で清らかである。おのれの文章をかへりみ、恥ぢ、 いたむのは勿論ながら、それから自身を問責し絶望する」 野坂昭如は 「生者調伏(生者を呪い殺す)の呪文のごとき印象」 と評した もし種ちゃんが消えたら、 生けとし生けるもの全て、永遠に逃れられない原罪を負う この世界は、永劫に霧に包まれたまま 生者は死せる魂を抱え 罪責の影の中を盲となって彷徨い続ける 生者調伏。人々は慄き、自失する ありうるのだろうか 650 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:55:09.86 ID:HmzuYQE7 種ちゃんの文章は、いつも飾り気なく純粋 そこにあるのは 気遣いと配慮、自分の至らなさだけであり 自分以外のなにか 家族友人他人や社会や環境を、 恨んだり嫌ったりするものが、一切ない 恃むところもなく 含む所のある物言いをしないのが、種ちゃん。 蒼穹ちゃんのややこしい韜晦な文章を読んだ後だと 一層強く、そう感じる 651 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:55:45.17 ID:HmzuYQE7 「面影は幻 君は君のままで生きる ― 」 種ちゃんは、君嘘でそう歌った 手を伸ばしても、触れる面影は幻と消える 「大丈夫だよとささやく 希望の波間へ ゆらゆらり 海に二人で身を任せながら」 (My Truth~ロンド・カプリチオーソ/歌:種田梨沙) 海に身を任せ、 目を閉じて希望の波間から見上げれば ― 感じ取れる 種ちゃんの星が再び上りつつあることを 652 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:56:30.61 ID:HmzuYQE7 今回、大沢の権威主義的なブラック体質には 改めて、うんざりした 声優にブログもツイッターも、やらせない つまり、子ども扱い 正確にいえば「やらせない」のは 松岡超の支配下にある「若い女の声優」。 松岡超が、疑似家族の「娘たち」を囲い込む家父長的システム 娘たちは、「父」たる松岡超の欲望を内面化し、過剰適応して 悪魔将軍に成り下がる 外部との自由な交通、 自由な意思を遮断する「家族的」牢獄の中で 悪魔はその吐息で、周囲を悪魔姉妹に変え、 それに魅せられたが最後、 永遠に悪魔の家族になってしまう 653 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/14(水) 07:57:27.18 ID:HmzuYQE7 ちなみに 種ちゃんは、半ばアウト・オブ・ファミリー。 大沢アニメ班の声優だが、 せまい意味での松岡超ファミリーではない その「内部の中の外部」こそ、 緊張状態は最大なのかもしれない 「ストレスで体を壊しましたので、ちょっと休みます」 程度のことがさらりと書けない、 事務所のもったいぶった抑圧的態度 自覚すらしてなさそうなのが、怖いところだ モンスターと病人の生産工場になってるんじゃないか 金月や明乃や中尾みたいに 適当にグレてないと、やっていけないな
アイドル声優を語るコテハンスレ Part1 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/voice/1458619868/
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来歴・人物[編集] 誕生から青年期にかけて[編集] 京都の呉服屋に生まれる。朱雀高校入学後、父親の横浜出店に伴い横浜山手町の洋館に引っ越し、東京都立九段高等学校に通う[1]。早稲田大学文学部フランス文学科進学。高校から大学にかけて、学生紛争の論客として鳴らす。早大在学中は、早稲田大学新聞会に所属した。一方で教会、禅寺などをめぐり、量子力学と民俗学に関心を���せ、様々な思索にふける。 大学4年の時に父親が多額の借金を残して死去したため、やむなく早大を中退。広告会社に勤め、営業活動のかたわら、高校生向けのタブロイド版の新聞『the high school life』を創刊。この時期、編集活動を通じて、稲垣足穂、土方巽、寺山修司、唐十郎、鈴木忠志、宇野亜喜良、横尾忠則らと親交を深める。とくに早稲田の先輩でもあった寺山修司からは『the high school life』の活動について「東京のヴィレッジボイス(英語版)である」と評された。 工作舎編集長として[編集] 1971年(昭和46年)にのちに編集工学研究所主任研究員となる高橋秀元ら友人3人で工作舎を設立し、雑誌『遊』(1971年(昭和46年) - 1982年(昭和57年))を創刊する。「オブジェマガジン」と称し、あらゆるジャンルを融合し超越した独自のスタイルは日本のアート・思想・メディア・デザインに多大な衝撃を与えた。松岡はこの雑誌の編集長を務めつつ、雑誌そのものへの寄稿、対談出席なども行い、1979年(昭和54年)には初の単独著書となる『自然学曼荼羅』を刊行する。 『遊』刊行中から、外部の各種プロジェクトにかかわり、1978年(昭和53年)から翌年にかけては、パリ装飾美術館(フランス語版)、ニューヨークのクーパー・ヒューイット美術館などで「間MA展」(磯崎新、武満徹プロデュース)にエディトリアル・ディレクターとして参加する。この展覧会はロラン・バルトやミシェル・フーコーなどが訪れるなど評判を呼んだ。(20年後の1998年(平成10年)には東京芸術大学で再編して開催された) 編集工学者として[編集] 1982年(昭和57年)に工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立して独自の活動を開始する。古代から現代まで続く「情報」そのものの歩みを年表化した大作『情報の歴史』を編纂するために各ジャンルの知識人を集め、この本の監修を務める。この仕事が発展し、1987年(昭和62年)に株式会社編集工学研究所を設立することになる。(現在、編集工学研究所は丸善 の子会社となっている) 1984年(昭和59年)からは、NTTが主催する「情報文化研究フォーラム」の座長を務める。ジャンルを超えた各界の研究者と議論を交わしながら、情報文化に関する考察を深めていく。また、同時期にNTTの広報戦略アドバイザーの役も担い、グループCFの制作、監修を行う。情報と生命、情報と歴史という視点から映像化した「進化篇」「擬態篇」「図書館篇」といったCFシリーズを生み出し話題を呼んだ。同CFシリーズのうち、「図書館篇」はカンヌ国際広告祭のブロンズ賞を獲得した。この頃からテレビ番組の構成なども務めるようになり、1984年(昭和59年)からはじまった『極める』シリーズ(テレビ東京系列)を監修した。また『ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる』(テレビ朝日系列)の企画構成、『ときの探訪』(中部日本放送)の監修も担当。『世界一受けたい授業』(日本テレビ)には2005年(平成17年)から構成協力として参加している。 1990年(平成2年)に放送がはじまった『日本人のこころ』(NHK)では、五木寛之、田中優子とともにレギュラー出演し、日本各地を歩き回りながら、日本文化に潜む魅力とその可能性について討論を交した。また、この時期、リチャード・ワーマン著『情報選択の時代』『理解の秘密』をたて続けに監訳。当時、情報建築家として世界的に注目されていたワーマンを日本ではじめて紹介する。 1995年(平成7年)、愛知県岡崎市の美術館計画にプロデューサーとして関わる。目に見えないもの(心の風景)を感じるという意味から、館名を「マインドスケープ・ミュージアム」と名づけた。 1997年(平成9年)からは、岐阜県で織部賞を開始、総合プロデューサーを担当し、ジャンルを問わずに内外の様々な人物を顕彰する。また、帝塚山学院大学に招聘され、教授としてゼミを担当した。このゼミの内容は1冊の本に編集され、2006年(平成18年)に『17歳のための世界と日本の見方』として春秋社から出版され、4万部を売り上げた。 「千夜千冊」執筆以降[編集] 2000年(平成12年)2月から書評サイト「千夜千冊」の執筆を開始。同じ著者の本は2冊以上取り上げない、同じジャンルは続けない、最新の書物も取り上げる、などのルールを自らに課し、時に自身のエピソードやリアルタイムな出来事も織り交ぜた文体は、話題を呼んだ。第一夜は中谷宇吉郎『雪』。2004年(平成16年)7月に良寛『良寛全集』で“1000夜”を達成した。 しかしその直後に胃癌が発覚し、手術入院を余儀なくされる(その詳細は「千夜千冊」番外『退院報告と見舞御礼』に語られている)。しばらくの療養後、再び「千夜千冊」の執筆を開始し、2006年(平成18年)5月22日に柳田國男『海上の道』でもって「放埓篇」として完結した。この放埓篇・全1144夜に大幅な加筆と構成変更を行い、全8冊の大型本『松岡正剛 千夜千冊』として2006年(平成18年)10月に求龍堂より出版された。定価99,750円という高額にもかかわらず初版1000部を完売し、2006年(平成18年)の出版界の事件として話題となる。その後「遊蕩篇」として、1145夜の2006年(平成18年)6月6日(日浦勇『海を渡る蝶』)から1329夜の2009年(平成21年)11月22日(丁宗鐵『正座と日本人』)まで185冊を執筆した。 2009年(平成21年)11月より、「連環編」と「番外録」を開始し、2012年(平成24年)以後、新たに「意表篇」「思構篇」「歴象篇」「分理篇」など8篇を追加、現在は計10篇のテーマインデックスで定着している。同年、松岡自身が「千夜千冊」を語り伝える音声コンテンツ「一册一声」の配信をスタート(オーディオWebマガジン「方」で月2回配信)。2013年(平成25年)橋本達雄編 『柿本人麻呂』で“1500夜”を達成し、記念イベント「千夜千冊ナイト」を開催した。 また、長年培ってきた編集的世界観に基づき確立した「編集工学」をもとに、2000年(平成12年)6月、「イシス編集学校」を設立し、校長に就任。単なる文章術にとどまらない、プランニングからコーチングまでを幅広くカバーする「編集術」を伝授するという独特なスタイルが評判を呼んでいる。一方、2005年(平成17年)からは企業の次世代リーダーを育成するための直伝塾、「ハイパー・コーポレート・ユニバーシティ[AIDA]」を開始するなど、独自の編集的世界観をもとにしたカリキュラムを多方面で応用・展開している。 2003年(平成15年)には、長年にわたって研究・思索してきた「日本文化にひそむ方法」を伝承することを目的とした特別塾「連塾」をスタート。山口小夜子、柳家花緑、田中泯、高橋睦郎、森村泰昌、真行寺君枝、内田繁、浅葉克己、しりあがり寿、井上鑑、井上ひさし、押井守、岡野弘彦、いとうせいこう、川崎和男、藤原新也、といったジャンルをこえた多彩なゲストとともに対話を深めてきた。また、松岡正剛を囲みながら日本文化における創作技術や伝統の精神を学ぶためのサロン「椿座」を開催。このような日本にかかわる活動の多くは、資生堂の名誉会長福原義春を代表理事とする一般社団法人「連志連衆會」を母体として行われた(2012年10月に連志連衆會は解散したが、「椿座」は「蘭座」に名称を変え、新たな活動として引き継がれている)。 2009年(平成21年)10月には、丸善丸の内本店に、松岡正剛プロデュースによる松丸本舗をオープン。ショップ・イン・ショップと���う形態、松岡をはじめとする著名人の書斎を再現した本棚など、その斬新な店舗づくりが話題を呼んだ(実験店舗としての3年間の役割を終え、松丸本舗は2012年の9月末をもって閉店。その詳細は、『松岡正剛の書棚:松丸本舗の挑戦』(中央公論新社)、『松丸本舗主義:奇蹟の本屋、3年間の挑戦。』(青幻舎)で明かされている)。2011年(平成23年)には、イシス編集学校の有志とともに体系化した知のカテゴリーである「目次録」を公開し、それをもとに新たなコンセプトによる書籍探索エンジン「システム目次録」を開発。書物という情報単位から意味をとり出し、システムに応用した、連想検索の仕組みを研究し続けている。 2010年(平成22年)平城遷都1300年祭の集大成として「平城京レポート」が作成された。レポート作成につき、奈���県と随意契約をしたのは松岡正剛事務所と編集工学研究所、財団法人日本総合研究所だが、レポート執筆にはISIS編集学校の師範、師範代、師範養成コースのコーチが多数参加していた。1300年祭終了後、レポート284ページ中に170ヵ所の誤記・間違い・要確認箇所があることが判明し、その杜撰な編集ぶりが報道された。 2012年(平成24年)には、経済産業省によるクール・ジャパン戦略の一環として、官民有識者会議の座長代理、CREATIVE TOKYOフォーラムでの講演を担い、日本文化のクリエイティビティを伝えるコンセプトブック『Roots of Japan(s) 面影日本〜日本の本来と将来のために』を監修。一方、奈良県(荒井正吾県知事)と共同で行っている、東アジア(日中韓)の目指すべき進路を構想する「NARASIA」のプロジェクトでは、定期的に「NARASIAフォーラム」を開催し、有識者をゲストに招き、文化的、経済的テーマを深めている。2013年には、松岡監修による東アジアジャーナル『NARASIA Q』が創刊された。 2013年(平成25年)からは、長年拠点としてきた港区赤坂の事務所から世田谷区赤堤の新事務所へと移転。建築家の三浦史朗、スペースエディターの東亨らとのコラボレーションにより、万巻の書物に囲まれたイベントスペース「本楼」(ほんろう)と、本の茶室空間である「井寸房」(せいすんぼう)をかたちにした。念願叶って実現された、この6万冊の書物で構成された共空間は「GISIS」(ゴートクジISIS)と呼ばれ、読書術にかかわるワークショップや、編集工学を伝える講義が日々行われている。 2014年(平成26年) 平城遷都1300年祭「弥勒プロジェクト」の一プロジェクトで奈良県が七千万をかけて製作した地域交流サイト「NARAcom」「NARApedia」が公表されず一般に知られることもないまま閉鎖されていたことが判明した。このサイトは「東アジアの未来を考える会」(松岡正剛幹事長)が奈良を中心に据えた東アジアの知のアーカイブとして構築していたはずだった。奈良県からサイトの構築運用を請け負っていたのは、松岡正剛事務所、編集工学研究所、財団法人日本総合研究所のJV(共同企業体)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/松岡正剛
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