#東日本大震災12周年
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東日本大震災の発生から12年が経ちました。国立図書館によるアーカイブ『ひなぎく』によると、亡くなった方の中で未だ53人の身元が確認されていないそうです。ここからオンラインで献花ができます。
また以下の通り、オンラインによる法要・礼拝・シンポジウム等が開催されます。
3月11日(土)
高野山金剛峯寺 14:30頃〜 https://www.koyasan.or.jp/news/2023/03/09/7773/ 築地本願寺 14:46梵鐘〜 https://tsukijihongwanji.jp/news/7347/
立命館大学 災害復興支援室 13:00~ https://ritsumei-ac-jp.zoom.us/j/98417459135 上智大学 東日本大震災と心のケア 15:00~ https://eipro.jp/sophia/events/view/IIC20230311OL
3月12日(日)
日本基督教団 14:30頃〜 https://www.youtube.com/watch?v=XG1mfKKI1i0
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先日、根津美術館で開催中の『仏具の世界 信仰と美のかたち』展に行って参りました(写真)。広大なお庭とおしゃれなカフェを併設している、南青山の真ん中にあるオアシスを満喫して来ました。
古今東西、人々が神と繋がるために祈りを捧げる、という信仰なしには、美術品や工芸品は生まれて来なかったでしょう。どの民族も宗派も神に近づく為、その存在に限りなく近い完璧で美しいモノを丹精込めて作り上げ、それを神に供え、捧げてきたのです。このブログで何度も言及していますが、私にとって神や霊は決して怖い存在でも禍々しいものでもなく、美しくて完璧な存在です。そして、それと同じものを私たちは皆、持っています。
グラフィックデザインの仕事で、壁紙やラッピングペーパーのような続き柄パターンをデザインすることがあります。上下左右に永遠に続いていく美しい完璧なパターン、図案、幾何学模様です。始まりとなる基礎の部分に収まる図案が放射状に広がってゆき、何の矛盾も変化も起こすことがない世界。それは、私たちの内なる神と大いなる大神霊とが、同じ完璧な図案を内包していることを連想させます。
お目当ての弘法大師の名書『崔子玉座右銘』もじっくり鑑賞して来ました。他にも女性の信仰に焦点をあてた展示や、焼き物の展示が充実しています。会期は3月31日までです。
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2月26日に開催したサンデーサービスの中で行ったサーモンをご紹介します。読みやすいように後から編集しています。
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今、目の前に梅の花が見えてきました。白や赤、ピンクの可憐な梅が春の訪れを告げています。最近少しずつ、春の気配を感じるようになりました。皆さんも、季節の微細な変化に気づいているのではないでしょうか。
気配という言葉は、はっきりとは目に見えないけれど、なんとなく漠然と感じるという意味です。周囲の微妙な様子や変化、雰囲気または兆候を私たちは日常的に、意識的または無意識に感じ取っています。
気配という言葉の最初の文字の『気』という字は、他にも色々な言葉の中に使われています。私たちの周りにある空気、天気の他にも勇気や元気、あるいは雰囲気、景気など、固定されず、常に変化し、とどまらないものです。
今日はこれから『気』について少しお話ししたいと思います。
『気』とは、エネルギーのことです。インドではプラーナ、中国ではチィ、日本では気と呼びます。『気』は波動です。高い波動から低い波動までバラエティに富んださまざまなレベルがあります。
気持ちという言葉は、心の中で起こるさまざまな種類のエネルギーが心のスクリーンに映った状態を指します。気づく、気が利く、という言葉にも気という文字が使われていますが、それは周りのエネルギーの状態に目を向け、それを理解し、そのエネルギーを有効に使い、隅々まで行き届かせる、という意味があります。
『気』と呼ばれるエネルギーは、オーラの色やシンボリックな図形とな��て私たちの肉体を包んでいます。それを肉眼や第三の目を使って見ることができます。人の姿をじっと観察していると周りに光の輪郭が見えることがありますが、それがその人の放つ気、エネルギーの状態です。
明るくポジティブな人は、そのエネルギーが周りに大きく広がっていると言われています。明るいエネルギーをもつ人がいるだけで、瞬時に雰囲気が良くなったり、ポジティブな人がその影響力で周りに活力を与えるのも、繊細で美しい気、エネルギーをその人が放っているからです。
旅立つ人や出かける人に対して、気をつけてね、元気でね、と言って送り出しますが、その言葉には気を身につけることで自分を守ってね、という意味合いがあります。また、お互いの気が調和して穏やかな状態になると、気心が知れたりします。
それとは反対に、気というエネルギーの状態が減っている、つまりオーラの広がりが少ないと短気、つまり、気が短くなったり、気が進まなかったり、気が散ったりします。
こんなふうに、私たちは日常的に意識しなくても、たくさんの『気』に囲まれています。そして無意識に影響を受けています。けれどどの気も、どのエネルギーも、一過性のものです。現れては消え、また現れては消える、その繰り返しを永遠に続けています。
それらの『気』エネルギーは、宇宙エネルギーと繋がっています。気は生命エネルギーです。宇宙の意識と情報と、叡智をすべて含んだ波動なのです。そうした宇宙の波動が、私たちの生活全般に影響しています。生活面だけでなく、人間の精神面、肉体面と密接に関係しています。また、人間だけでなく、地球上の自然界の全て現象に影響しています。
私たちは見えないそのエネルギーをオーラと呼んだりします。霊性開花が進むと、その色や大きさが見えるようになったりしますが、私たちにとって一番大切なのは、エネルギーを見ることではなく、その気をどう役に立てていくか、なのです。 私たちは日常的に『気』を感じ、それを活かす経験をたくさん与えられています。寂しそうな人がいたら声をかける、助けて欲しそうな人がいたら手を差し伸べる、くじけそうな人がいたら励まし、悲しみに暮れている人がいたら肩を貸す。そんな時にあなたの勇気、元気、覇気を使ってください。
また、病気というネガティブに思える言葉にも、『気』という字が使われています。なぜかというと、病を経験して初めて気づくことがあるからです。私たちは元々、肉体を持たない魂ですが、あえて肉体を持ち、その肉体という制限の中で病だけでなく疲労や肉体的な限界、老いというものを経験します。
人間の視点から見ると、それらは全て悪いことのように感じますが、病や老いなど、それら自分の意思だけではどうにもならない、思い通りに行かない現象にどのように立ち向かい、それを受け入れ、それらネガティブなものを全て感謝に変えて行くことが求められます。それらの不都合でネガティブに感じられる気、エネルギーも���た同じ宇宙エネルギーから私たちに与えられるものです。元々は同じところから来ているのです。同じ意味を持つのです。
つまり、全てのエネルギーは善も悪もなく、可も不可もなく、私たちを正しい方向へと導き、私たち一人ひとりを尊いものとして支え、強くしなやかに育んでゆくものなのです。こうした全てのエネルギーが、私たちにもたらされた私たちの魂の成長に必要なメッセージなのです。
そのことに気づいたら、深い呼吸をしてください。するとすぐに、宇宙からの無条件の愛が、その呼吸を通して私たちの魂に染み渡ってゆきます。大宇宙と一体となります。清々しい慈愛に満ちた、純粋なエネルギーと一つになり、繋がりましょう。深い呼吸には浄化の力がみなぎっています。雑念を追い払ってくれます。集中し、心が落ち着いてきます。
それが、私たちの本当の姿なのです。
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3月25日(土)より、夏学期クラスのお申込受付を開始いたします。
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今後のイベント・ワークショップ
・4/9 アイイス・スプリングフェスティバル(一口500円からの寄付金を受け付けています)
https://us02web.zoom.us/j/85445747688
ミーティングID: 854 4574 7688
・4/21, 22, 24 プラクティカル・ミディアムシップ お申し込みはこちらまで
・4/27 アイイス・ドロップイン・ナイト お申し込みはこちらまで
#awareness#unfoldment#spiritualism#spiritual growth#spirit communication#mediumship#東日本大地震#東日本大震災12周年#震災#弘法大師#空海#密教#buddism#buddhist#kukai
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輸出大国が産業空洞化を経て停滞に至るという現象から思い返されるの例は日本です。周知の通り、日本は金融危機後の超円高に喘いでいる最中に東日本大震災が発生し、2011年当時の日本企業は六重苦と直面しているとの論評が注目されていました。ドイツは日本を追うのでしょうか? 具体的には①円高、②経済連携協定の遅れ、③法人税率の高さ、④労働市場の硬直性、⑤環境規制、⑥電力不足・電力コスト高です。過去の本欄や拙著で繰り返し論じている点ですが、日本企業が対外直接投資を加速させ、日本の貿易収支赤字が定着したのがちょうど2011~12年頃でした(そして2013年以降、日本はヒステリックな円高局面を経験しなくなっている)。
ドイツの産業空洞化~日本の二の舞はあるのか?~|唐鎌大輔(みずほ銀行 チーフマーケット・��コノミスト)
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天壌無窮の皇運を扶翼すべし
3月 14, 2017
FBに短文を投稿しようかと思ったけど、ここは一発話題の教育勅語を考察してみようか。 12の徳目が素晴らしいから教育勅語は正しいんだという論調は全く問題ないんだが、教育勅語が気に入らないと言っている人達が一番気に入らないのは 「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」 ここでしょう? ここを論じ���ことなくしては、議論にならないわけだ。 正面突破しようか。 この一文の前にある 「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」と繋げて 「国が危機的状況に陥ったら自らを犠牲にして天皇陛下のために死ね」 と訳して、軍国主義だ〜〜〜とやるわけだ。 「一旦緩急あれば」はまさしく「国の」とは明記していないものの、確かに「危機的状況」には違いない。 「義勇公に奉じ」はもちろん「勇気を持って公の為に尽くしなさい」となる。 「以て」それにより 「天壌無窮の」天地に永遠に続く 「皇運を」後に回す 「扶翼すべし」助けなさい。 ここで皇運をどう捉えるかが問題だ。 皇=天皇陛下と捉えれば 皇運、即ち陛下の運、運命ないしは皇室の運という事になる。 ************ よく考えてみてくれ この教育勅語は 「朕おもうに我が皇祖皇宗「国」をはじむること広遠に 徳をたつること深厚なり」 皇祖:天照大神 皇宗:神武天皇以降歴代の天皇 は、遠い昔に日本国を建設され、代々その徳は深く厚いものだった。 つまり「国」を語るところから始まっている。 そして以下のように続く 我が臣民(略)億兆心を一にして代々(よよ)その美をなせるは これ我が国体の精華にして教育の淵源また実にここにそんす 日本国民は全国民心を一つにして代々その美しさを体現してきたのは、これはこの国の在り方そのものが発露したものであって、正に教育の根がそこにあるのです。 となる。 その後12の徳目が列挙されるわけだが、 なぜ国家を語るところから始まって 一旦緩急あれば、の段に突然天皇陛下お一人のことに話が変わるのか。 全体を読めば「天皇のために死ね」と解する事のおかしさが分かる。 この場合皇運とは皇国の運命と訳すべきで有り、即ち日本国の運命という事になる。 よって「緩急」とは単なる危機的状況ではなく 国家を揺るがす一大事に於いては、と訳すべきで有り、 義勇公に奉じ:その際には自らを顧みず皆のために全力を尽くし、 これをもって 天壌無窮の:天地に永遠につづく(べき) 皇運を扶翼すべし:日本国の運命を助けよ。 となる。 陛下だけ守って国民が居なくなれば、これは国ではなくなる。 公に奉じておいて、陛下だけの運命を守れ、では辻褄が合わない。 6年前の東日本大震災のおりに自衛隊の方々は、自分たちも余震に脅かされいつまた周辺の瓦礫が崩れ自らも二次被害に遭うかも知れないという状況にありながら、必至に行方不明者の捜索を行い、一人でも多くの被災者の命を救おうとしてくれた。 もちろん先の大戦の折にも、硫黄島に向かった兵士達は自らが生きて帰って来れないことは重々承知していた。しかしながら硫黄島が獲られればそこから本土に空襲に向かう爆撃機が飛び立つことが出来る事も知っていた。だからこそ、彼らが一日でも長く抵抗することが本国の愛する家族を守ることになる。だから5日で占領出来ると考えていたアメリカに対して1ヶ月以上も粘り続ける事が出来た。 昨今日本の道徳心が低下した等と言われるが、私は、日本人の心は根底では変わっていないと思っている。 話がずれた。 ************************* 皇運=日本国の運命 を理解するためには、そもそも天皇陛下と我々臣民(国民)との関係を理解している必要がある。 仁徳天皇の民の竈の話は有名だ。 日本独自の伝統~仁徳天皇 詳しい内容は上記リンクに譲る。 臣民(国民)の竈から煙が出ていない、すなわちご飯が食べられていない事を知り、年貢の徴収をとりやめた。おかげで皇居に雨漏りがするほど貧しくなってしまった。この事を苦にした皇后陛下に対し 臣民(国民)が貧しいことは自らが貧しい 臣民(国民)が富めるときは自らも富んでいる と答えられた仁徳天皇。 そして、竈に煙が戻り充分食べられるようになった人々は、 陛下の心に答えて自ら集って皇居を治した。 という話。 この話が事実かどうかは些末な問題だ。 それ以上に1300年近く前に編纂された日本書紀に書かれたこの話が、以降1000年以上の長きにわたって日本で語り継がれ、模範とされてきた事実が重要だ。 日本に於いて天皇陛下と我々国民の関係は、互いにその幸せを願い、助け合う存在だという事。時に人はこれを親と子になぞらえて語る。 陛下は国民を「たから」とよび我々は陛下を敬う。 この陛下と国民との関係を理想として、我々はこの国を代々継承してきた。 この関係は住民を自らの富のために搾取してきたヨーロッパの王の姿とは大きく異なる。結果フランスでは革命が起こり王が処刑される。 時にそのような理想的な天皇陛下に恵まれなかったことも歴史の中にはあったかも知れない。 それは正に夫婦と同様、仲むつまじい夫婦という理想を追いかけながら、現実は夫婦喧嘩もし、日々の様々な��題を乗り越えていく。 同様に、陛下と我々国民の間も長い歴史の間に於いて理想通りに行っていない時期もあったかも知れないが、それでも理想的関係を模索しながら切磋琢磨してきた歴史なのではないだろうか。 そう考えると、現代の我々国民のありかたは、はたして理想的姿を体現出来ているのか、幾ばくかの疑問が残ることを否めない。 また話がそれた。 天皇陛下の国民への思いは今も変わらない。 国民に知ってほしい陛下の祈り 詳しくは上リンクに譲るが、陛下は元旦早朝より日本の国の平穏を願い祈りを捧げる。 また、毎日祈りを捧げてから一日を始められるそうだ。 国民の平和と繁栄を第一に思う陛下だからこそ、日米開戦に最後まで反対されたのは他でもない天皇陛下だった。 大東亜戦争開戦前の御前会議 上リンクより引用
昭和16年9月6日、日本は昭和天皇の前で御前会議を開きます。その席で昭和天皇は、「外交が主か、戦争が主か」と閣僚たちに尋ねられました。及川海相が「重点は外交にある」と答えました。すると昭和天皇は、懐から紙片を取り出され、御自らお詠みになられた。 よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風の たちさわぐらむ四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか。そう詠まれたこの歌は、明治天皇の御製です。昭和天皇のこのお言葉に、列席した閣僚たちは、全員、ただうなだれるより言葉がなかった。しばらくの間、誰もがうつむき、言葉を発する者さえなかった。
そして終戦を決断出来なかった政府に、終戦の聖断を下したのも陛下だった。
「迫水久常の手記」(終戦時内閣書記官長)天皇の聖断で受諾した“ポツダム宣言”
上リンクより引用
そして、いまにして思えば、終戦ができたのも、一に天皇陛下の御仁徳のおかげであった。陛下の真のご信念はいつも平和にあった、ということを、私はそのときほど強く感じたことはない。戦争終結の動機も、実にそのご信念から発したものであった。
陛下は常に国と国民の平和と繁栄を望み、その為に祈っている。 だからこそ我々は陛下のため、即ちこの国のため、この国に住む家族全ての同胞の為に資力を尽くす。 これを君民一体という。 これが理解出来れば、 皇運がすなわち我々全て日本に住む国民の運命だという事が容易に理解出来るはずである。 ******************* 最後に教育勅語のそもそもの在り方を好く現していると思う末尾を語って締めくくろう。 この道は(略):即ち12の徳目 古今につうじて謬(あやま)らず:昔から今に至るまで変わらないことで 中外にほどこして悖(もと)らず:外国の人達に伝えても正しいことです。 「朕汝臣民と共に拳々服膺して みなその徳を一にせんことをこいねがう」 私は、あなた方国民と共にこの正しい道理(12の徳目)を両手で大事に抱くように大切にしします。だから我々みながこの徳を一緒に体現していくことを願ってやまないのです。 教育勅語を支配者である天皇が従属者である国民に対して、あたかも命令のように下したものであると主張する旨が如何に根拠のないものか、この最後の一文を理解すれば良く分かると思う。
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桜林美佐の「美佐日記」(252)
「地震予知」から建築物・インフラの強靭化へ
桜林美佐(防衛問題研究家)
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おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、252回目となりま
す。
前回、お休みし、時間が空きましたが、柳澤真一さ
んについてご感想を頂戴しました。「柳澤さんは、
陰徳を励行する方だったのですね。人は、よいこと
をすると、ついつい、言いふらしたくなりますが、
それではよいことをしたことにはならないと、私も
考えています。私も、引き続き、柳澤さんをお手本
にして、できる限り、陰徳を積んでいきたいと思い
ます」
同感です。ありがとうございました。
先週は台湾で大地震が発生し、沖縄にも津波警報
が発令されました。自衛隊ではまだ能登半島地震の
災害派遣が続いており、恐れているのは、このよう
に複合的に災害が発生する事態です。
もはや現在進行中の災害派遣は報じられなくなっ
てしまっていますが、ファストイン・ファストアウ
トが鉄則のはずの自衛隊をここまで長期間にわたり
使うというのは、やはり問題があると思います。水
道などインフラのダメージが大きいことは承知して
いますが、派遣が長期間に及ばないよう国や自治体
は全力で努力してもらいたいです。
そうした中、地震学者である島村英紀さんと対談す
る機会がありました。内容は私にとっては目から鱗
が落ちる話ばかりでした。
島村先生は東大理学部物理学科で博士課程を修了
し、北海道大学教授、国立極地研究所所長も務めた
方で、海底地震観測を世界中で実施し、研究のため
の海外渡航歴は76回、船上で地球12周を過ごしたと
いう、まさに地震研究のエキスパートと言っていい
方。
その先生から出た日本の地震研究に関する言葉は
衝撃的でした。結論から言うと「地震は予測できな
い」というのです。
震度7を記録した能登半島地震は、政府機関��ある
地震調査研究推進本部では「能登半島が今後30年
間で震度6以上の揺れに見舞われる確率」は、わず
か「0.1%未満」だったといいます。
なぜ、こんなに大ハズシをしたのか?を問うと
「地震予測はできない」とひと言。そもそも「マグ
ニチュード」という言葉を考案した地震学者のチャ
ールズ・リヒター氏もこんな言葉を残しています。
「地震を予知できるのは、愚か者とウソつきとイカ
サマ師だけである」と。
それなのに、日本では「地震予知は可能」という前
提で、1978年に「大規模地震対策特別措置法」
(大震法)が制定されました。予測の信頼性がない
ことから「見直すべき」との声が上がっているもの
の、依然としてこれが有効になっていることに先生
は警鐘を鳴らしています。
これには、地震学会に属する3000人の会員の
抵抗があるようです。国費で維持されている地震研
究だけに、これを止めてもらっては困るというわけ
です。
しかし、数々の地震予測をあざ笑うかのように、
悉くノーマークの場所で大地震が発生してきたとい
います。
2016年の熊本地震の時は、発生前に「今後30
年以内の地震発生確率はほぼ0%から0.9%」と評
価されたそうで、これが安心情報になったことが、
油断を招き、被害を大きくした可能性も指摘されて
います。
では、緊急地震速報は何なのか、と思いますが、
これは地震予知ではないので誤解してはいけないと
いいます。
この原理は単純で、全国に設置されている地震計
のいずれかで揺れを感じたら震源を計算して、まだ
揺れが届いていない場所に警報を送るという仕組み
で、直下地震には対応困難なのだそうです。
地震予知研究は始まって以来、1兆円近い国費と
数百人の公務員が増員され、それも大学だけではな
く、気象庁や国土地理院をはじめとする数々の省庁
に資金が投入されてきたといいます。
これだけの巨額な投資が容認されてきたのは、私
たち日本人にとって、難しいとは分かっていても地
震予測は悲願だったからでしょう。
天気予報が可能なのは、大気の運動方程式がすで
に分かっているからだそうです。しかし、地震や火
山の噴火は同じような方程式がまだ分かっていない
のです。
余震などの前兆を観測していれば何らかの規則性
が見いだせるのではないかという期待に基づき研究
は進められてきたものの、残念ながら、前兆に規則
性や共通性はなく、前兆のない大地震も数多く起き
ているといいます。
世界には地震の起きない国もあるようですが、4
つのプレートがせめぎ合う日本では、現在言われて
いる南海トラフや首都直下などだけでなく、いつで
もどこでも「起こり得る」というのが答えのようで
す。
一体、どうすればいいのか、と思いますが、島村
先生は何より建築物の強靭化や木造住宅密集の解消
など「あらゆる地域で」インフラを強くすることを
優先すべきだと説きます。
問題はそこに国費を注ぐと、地震研究に充てる資
金が減りかねず反発が起こるという、大いなる矛盾
です。
また「地震が起きない地域」を謳って企業誘致を
したり、逆に地震の可能性のあるなしで不動産価格
も左右するなど、影響は他にもあることでしょう。
しかし「ここでは地震が起きない」という安心情報
によって被害を広げているとしたら、これは見過ご
せません。
私たちは今、宇宙への進出やAIなどの先進技術
を目の当たりにし、科学の進歩を実感しているとこ
ろです。しかし、地震研究も長くて千年単位のデー
タでしかなく、何万年のスパンでの調査はできてい
ません。海底調査も数キロの範囲で、宇宙に進出す
るよりも困難です。AIといっても、存在する情報
を使用しているにすぎません。
結局、まだまだ人間の力ではどうにもできないこ
とがあるようです。
今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
どうぞ良い1週間をお過ごし下さい!
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「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。 安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。 「鳥山石燕 画図百鬼夜行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。 「佐賀町に堀田様の下屋敷があって、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太���”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、「陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。 煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。 民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。 (吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ) 五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に 乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。 ( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下 永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、��中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収) のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。 湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。 アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。 『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。 一つ目あるいは、二つ目がついた傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪学入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた) 猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざむき、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。 このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三���化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭 鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、 「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なりとぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「列仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船 ◇ 河童(『耳袋』) 江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河童が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。 ◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館�� 深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く 反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた ◇ 河童の伝説(『江戸深川情緒の研究』) 安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴り殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。 この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古���雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。 日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画にも多く描かれた。 一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。 男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。 ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。 轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広西、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらないが、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。 日本の轆轤首は、こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっている��うである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」に「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを旅人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊離する魂ということ で説明ができるだろう。 轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐く入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。 松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。 「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。 ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を聞くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。 長野県東筑摩郡教育委員会による調査資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。 東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央公論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋 「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。 「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。 (曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり」 とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら湯を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。 【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下) 家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。 昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪のしわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・それは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延べ、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根 鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。 庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。 石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ち���うちん
四世鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう一人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。文政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪 談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね) 長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地でいわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつぶされるといわれている。 同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を���えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。 管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいないので、人に憑くことはないという。 (石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。 昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があったという。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。 しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。 寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。 新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。 島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。 (民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川端豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布団の上 江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。 石燕��引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火とは、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
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2023.9.8fri_tokyo
8時半起床、夜中に流れてきた岡田索雲さんの「追燈」というネットcomicを読み始めて、読み終えた後眠れなくなって3時に寝たので眠いです。漫画は関東大震災が起きた100年前の東京を舞台に、朝鮮半島出身者の男の子が目の当たりにした出来事のお話。受け止めなきゃと思いながら、人間の狂気が怖くて眠れなかった。 ※リンクから無料で読めます
ちょうど昨日、俳優のカトウシン��ケくんに偶然あって、彼が出演している現在上映中の”福田村事件”の話をしたところ。これも関東大震災直後の実話に基づくお話で、映画の予告を見ると「十五円五十銭」と言わされるシーンがあり、胸が痛すぎる。漫画にも出てくる狂気の言葉。映画、絶対見なければいけない。
そういえば5時半に寒くて一回起きてしまったのだった。暑すぎた夏だったけど、もう寒くてかけ布団を探すなんて。寂しい気持ちになりながら、台風が近づいている雨の音に耳をすます。静かにしとしと、地面や草花に雨が当たる音、きれい。
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7月から、下北沢のボーナストラックという施設を運営している会社で、週に2回くらい働き始めていて、10時半からはその金曜定例会議。雨が強すぎるので、オンラインで参加することにして準備。こないだ鎌倉で買ったパラダイスアレイのパンを食べながら(酸味がうま〜)、報告内容をまとめる。余った時間で、個人活動として動いている案件を進める。秋に開催のいくつかのイベントの更新や、各所にメールの返信をするも、永遠にタスクが溜まっていくのだ。告知もめっちゃ溜まっている。自分のキャパせま、おそ、つら。うそ、順番にやるしかないだけなので、シンプル。やる。
新しい仕事が始まってからは、インプットが多い毎日で、リズムがうまく生み出せなくて、この2ヶ月は、飲み会もライブも遠ざけてきた。人と話すのも、音楽聴くのも、ちょっとキャパオーバーで断りまくり。(みなさんごめんなさい)特に音は聞けない泣 だけど9月に入ってから、これだ!っていう感じで、うまく気持ちを抜けるようになってきたので、心も暮らしも復活してきた。それでも、コロナが落ち着いてきたここ半年くらいの世の中の急な全力疾走にはついていけなくて。けど、ついては行かずに、でも、止まらずに歩いて行き先を決めていくことをしながら、バランス取って休む。みたいなことができるようになった。あと、毎日歳もとっているので。
10時半。会議は毎度面白いなーと思う。毎回約10人が参加していて、それぞれ発言の時間があるのだが、発表の仕方も話の聞き方にも個性があって、勉強になる。自分が今進めていることも信じてくれることとか、すぐに自由にやらせてもらえることとか、とても嬉しいし��力になるし応えたい。
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12時に終了して、今日は朝からずっと卵焼き食べたいと思ってたので、白米を食べようと、ささっと茄子の味噌汁も作る。家に必ず常備している鳥取の”陶山商店”さんの乾物のうるめ(ワカメみたいだけど強い食感がおいしい)と奥出雲の干し椎茸で出汁をとる。うまい〜 この乾物シリーズには太田夏来さんのレシピがついていてそれも最高なのだ。納豆と、山クラゲの和物、キューリ塩揉み、茗荷の梅酢漬、質素で簡単なご飯だけど、こういうのが一番贅沢。10分で準備して、15分間で食べる。テレビも音楽も聞かずに携帯も遠くに投げて、食べるだけをする時間をする。食べるを意識することだけの時間、だいじ。
14時から打ち合わせがあるので、カッパを着て駅まで向かい電車で3分の下北沢へ。施設で毎月開催している本のマルシェの担当になるので、施設内の本屋さんとも、もっと連動できないか相談と、これからの進め方について。やるからには、自分が一番楽しいと思えることがやりたいし、諦めるをしたくないので、伝える。いい話ができた1時間だった。無理なく、だけど熱量を持ってやっていきたい。
この後の会議の前に、施設内ギャラリーでやってる新潟のツバメコーヒーさんの10周年を記念した、”工芸と工業のあわいにあるもの”という展示会へ。今展示会で初お披露目のオリジナルドリッパーを試しながら自分でコーヒーを淹れることができるので、久々にコーヒーを淹れる。「丁寧に淹れますね」と言われるが、自分にとっては心地よいリズムなのと、どんなに癖のある豆を使っても、コクとかを飛ばして、スッキリシンプルな味わいになっちゃうのが悩みだったので、相談すると、「スッキリって何事にも良くないですか」と返してくれた。ツバメの田中さん、すごくおもしろそうな方だった。もっと喋ってみたかった。
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16時からのイベント反省会は、みんなが正直ですごく良い会議だった。ここが好きだよ!ここむかついたよ!気づかなくてごめんね!みたいな、正直な大人たちの優しいぶつかり合い、大好き。会社のみんなは本当に個性強くて、それぞれのやり方や、得意・不得意があるけど(自分も然り)人の話をちゃんと聞いてくれる優しい人たち。頭の回転が早く、柔軟で、おもしろい。ちゃんと愛があるし。
そんなブレストは2時間を超えて、飲み会へと移行されていき、それぞれの人生における大事な音楽を発表→みんなに聴いてもらう→それについてみんなで語る。という、胸熱な時間になっていきました。久々に聞いたラポン・シュポンのライブ映像、めちゃくちゃよかった。
最初はカラオケの順番みたいに、ルールを守ってたけど、最後はみんなかけたいタイミングで音楽を流していく始末(とてもいい始末)。時間は流れていき、舞台を見るために途中抜けしたはずのあやかたんも(まだやってるの?笑 と)戻ってきてくれて、酒を飲みながら、スナック菓子をひたすら食べまくる永久時間は終電ゴングで終了。雨が降っていなければ、半分はチャリメンだから、永遠に終わらない飲み会だったので、終電様感謝。雨も小雨になってきた。
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その後、降りる駅が一緒のミヤジと歩いて帰りながら「この信号が変わったらもういくからね!」を繰り返して30分後、無事帰宅。 今日のタスク全然終わってない、やばいな…………みんなごめん…って思いながら、顔だけ洗って寝転んで、さらに超眠いのに、どうしても「ハヤブサ消防団」が見たくて、パソコン開いてTverつけたままご臨終。
日記で振り返りながら、今年は特に、1日が終わっていくのが、1週間が、1年が早すぎる。仕事も友達と遊ぶのも大好きで大事だけど、それより何より、誰かとデートがしたいです。旅行いって、ダラダラする感じ、やらないと。改めて感じたのであります。赤裸々日記終わりでございます!
-プロフィール- 鷹取愛 40 山ト波 @opantoc
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2023年9月1日、関東大震災から100年、虐殺から100年
東京都/小池百合子による7年に渡る追悼拒否に加え、都の“人権部”が虐殺の歴史に関わる作品を検閲/弾圧し始めた……という最悪な所業。
今年はそこに更に、東京都がヘイト団体にお墨付きを与え、日本政府/岸田政権そのものが虐殺の歴史と記録を否定しだした。公権力による、歴史修正/公文書否認が、ゼノフォビアが、より一層、悪化している。
大手メディアも、今起きている“公人”“公権力”による差別扇動と歴史否定については……はっきり報じない/批判的に触れない媒体ばかりであるのが(きちんと報じているメディアもあるが、やはり少数派で、WEBのみに留まったりする傾向がある)ゾッとする。その不均衡に、沈黙に、怒りしかない。しんどい。
大震災から100年、虐殺から100年。記事や動画、展覧会や書籍の情報などを、Tumblrでも共有/記録。
・TBS報道特集「朝鮮人虐殺はなぜ起きた」(23/09/09)
youtube
23.09.18にこの特集全編のURLを追記。
・関東大震災100年 流言による惨事は"過去のこと"か |NHK解説員室(2023/08/21)
「1923年9月1日に発生した関東大震災は激しい揺れに加え、大火災が東京東部や横浜の市街地の大半を焼きつくし、死者10万5000人という未曽有の災害になりました。その混乱のなか多くの朝鮮半島出身者が殺害されました。きっかけは地震の直後から流れた流言、いわゆるデマでした。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「2000人の朝鮮人が武器を持って襲ってくる」など根拠のないうその情報が広がりました。」
「殺害された人数はわかっていませんが、国の中央防災会議がまとめた報告書は「千人から数千人に上る」と推定しています。この中には中国人や朝鮮半島出身者と間違えられた日本人も含まれています。」
「コロナ禍でも外国人などへの攻撃がネットなどで横行したことがわかっています。」
ここ数年内に日本国���で起きているヘイトクライム、排外主義とゼノフォビアも取り上げている記事です。
・Radio Dialogue 125 ゲスト:飯山由貴さん「関東大震災から100年」(2023/8/30)
・ヘイト団体があえて朝鮮人虐殺追悼碑の前で「慰霊」集会を開く構え 政府、東京都は見て見ぬふりのナゾ(2023/09/01)
「1923年の関東大震災時のデマにより殺害された朝鮮人犠牲者の追悼碑がある横網町公園(東京都墨田区)で、3年前に都にヘイトスピーチ発言を認定された団体が、きょう9月1日にこの碑の前で集会を行うと公表した。
ヘイトが起きる恐れがあるとして、公園の利用制限を求める抗議声明も相次ぐが、都の対応は鈍い。国や行政が虐殺の史実と向き合わないことが、足元の差別をあおる状況を招いている。」
・漫画 「追燈 / 追燈 - 岡田索雲 」| webアクション 、無料公開
・国際シンポジウム「関東大震災の朝鮮人虐殺から100年 レイシズムと歴史否定を考える:国連特別報告者を迎えて」(2023年8月11日東京大学) アーカイブ
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・特集「関東大震災100年。朝鮮人虐殺の実態とその教訓」加藤直樹×新井勝紘×荻上チキ×南部広美(2023/09/01)
・高麗博物館【関東大震災100年展】7月5日(水)~12月24日(日)
・東京大学韓国学研究センターからの声明
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2023.3.12(日)
今日は日曜日で開店待ちの列。(私は別のお店 ↓ で食事済み。)
11時(上のお店は11時半に開店)
新メニューではなく、台湾まぜそば+ご飯。
唐揚げは前回頂いたサービス券利用 ~ 4月末までのサービス券を配布してました。
昼過ぎ ~ 3時頃から雨が降り出し、6時頃には土砂降りになりました。
九州新幹線(鹿児島ルート)全線開通12周年 ~ 東日本大震災の翌日。
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2024/10/22 8:00:20現在のニュース
無印良品、販売空白地域解消へ コープさっぽろにも供給 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/22 7:57:33) JAL、成田空港からの生鮮輸出を拡大 タイ富裕層狙う - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/22 7:57:33) どこからでも本社勤務 生活配慮、キャリア形成に一役 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/22 7:57:33) ホテル高騰で商機、民泊利用3割増 「旅行先の条件に」 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/22 7:57:33) スマホで解錠「スマート南京錠」、インフラで導入広がる - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/22 7:57:33) コニカミノルタ、超音波診断装置の新機種 AIで神経検出 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/22 7:57:33) 順天堂大学、パーキンソン病を腸内細菌で治療へ 2024年内にも患者に移植 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/22 7:57:33) Microsoft、「自ら判断する」AI全面公開 投資回収急ぐ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/22 7:52:14) 月9000円でゴルフ場回り放題 サブスクで愛好者育成 ゴルフ、ブームを止めるな(2) - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/22 7:52:14) 衆議院選挙、自民党応援は旧派閥が軸 麻生太郎・茂木敏充氏ら行脚 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/22 7:52:14) 候補者の横顔 千葉11区、12区<衆院選ちば>(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/22 7:52:03) 停戦へ日本も動いて ガザに心寄せる市民らが柏で毎週スタンディング 旗振り役・児島さん、政府へ方針転換訴え(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/22 7:52:03) カツオ漁370年の歴史網羅 高知・土佐清水出身の元通信士が本出版(毎日新聞, 2024/10/22 7:51:05) 大谷翔平の年俸は多い?少ない? 経済学で見るスーパースター効果(朝日新聞, 2024/10/22 7:41:01) 自民党本部襲撃、火炎瓶投げる前にクマ撃退スプレーを噴射…機動隊員3人が喉に軽傷([B!]読売新聞, 2024/10/22 7:39:22) <衆院選かながわ 生活の現場から>防災で命守る まちづくり 横浜・中区本郷町3丁目地区協議会 識者「自助・公助に民間支援の検討も」(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/22 7:36:41) 神奈川県選管、候補者もバタバタ… 新首相就任から解散・投開票 戦後最短(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/22 7:36:41) 投票所をバリアフリーに 横浜市、記入補助具など導入(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/22 7:36:41) 1万発が夜空彩る 川崎市制100周年記念花火 21万人が来場(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/22 7:36:41) <行ってみたら>ウィーン・フィル コンマスと共演 能登地震・豪雨被災者支援 来月14日、友好音楽祭オケ(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/22 7:36:41) <行ってみたら>「ロミオとジュリエット」を巡る 昭和の青春恋愛コメディー 31日〜11月2日 中目黒のキンケロ・シアターで上演(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/22 7:36:41) <行ってみたら>表参道・青山に欧州発の人気店(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/22 7:36:41) 航空燃料、国内で不足 合理化の誤算 ガソリン生産減の余波、訪日客需要取りこぼし - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/22 7:33:25)
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2024年10月15日
島根原発2号機 中国電力が原子炉に核燃料入れる作業を申請(NHKニュース)
中国電力は、12月に再稼働を計画している島根原子力発電所2号機について、原子炉に核燃料を入れる作業を今月28日から行いたいとする申請書を15日、国の原子力規制委員会に提出しました。そのうえで12月上旬にも原子炉を起動する方向で調整を進めています。
中国電力は2012年以降停止している松江市にある島根原発2号機について、ことし12月の再稼働を計画していて、準備を本格化させています。
そして一連の安全対策工事が予定どおり進んだとして、原子炉に核燃料を入れる作業を今月28日から行いたいとする申請書を、15日、原子力規制委員会に提出しました。
作業は1週間程度を見込んでいるということで、そのあとの安全確認などが順調に進めば、12月上旬にも原子炉を起動する方向で調整を進めています。
島根原発2号機は事故を起こした東京電力の福島第一原発と同じ沸騰水型と呼ばれるタイプで、このタイプで再稼働するのは、今月29日にも原子炉を起動する工程を示している東北電力の女川原発2号機に続き2基目になる見通しです。
中国電力は「引き続き安全確保を第一に検査を進めるなど、再稼働に向けた一つ一つの準備を着実に進めてまいります」とコメントしています。
島根原発、12月上旬に再稼働 2号機、10月末に燃料装填(共同通信)
島根原発2号機、12月上旬再稼働 中電、10月28日に燃料装荷開始(中国新聞 10月15日)
島根原発2号機、12月上旬再稼働 中国電、10月末に燃料装荷(産経ニュース 10月15日)
島根原発2号機 28日燃料装荷開始 12月上旬再稼働へ(BSS 山陰放送 10月15日)
島根原発2号機、再稼働は「12月上旬」10月28日に燃料装荷開始 中国電力(山陰中央新報 10月15日)
島根原発2号機、12月上旬に13年ぶり再稼働 28日から燃料装荷(朝日新聞 10月15日)
島根原発2号機再稼働認めない仮処分退ける 広島高裁松江支部(NHKニュース 5月15日)
再稼働に向けた準備が進む松江市の島根原子力発電所2号機について、広島高等裁判所松江支部は、地元の住民が地震や火山の噴火などの想定が不十分だと主張して再稼働を認めないよう求めた仮処分の申し立てを退ける決定を出しました。
松江市にある島根原発2号機は、定期検査で運転を停止した2012年から稼働しておらず、3年前に原子力規制委員会の審査に合格したことなどを受けて、中国電力はことし12月に再稼働させる計画で準備を進めています。
これに対し、島根県と鳥取県の住民4人は、地震や火山の噴火などの想定が不十分だとして、去年3月に再稼働を認めないよう求める仮処分を、申し立てました。
これまでの審理で住民側は、「中国電力が想定する原発周辺での最大規模の地震の揺れは低すぎるほか、島根県内で火山が噴火した場合に降り積もる灰の量も過小評価している」などと主張したのに対し、中国電力側は「想定される地震の揺れは科学的知見を踏まえた合理的なもので、住民側が指摘する規模の噴火が起きる可能性は十分に小さく具体的な危険はない」などと反論していました。
これについて、広島高等裁判所松江支部の松谷佳樹裁判長は、15日、住民側の主張を認めず、申し立てを退ける決定を出しました。
「あまりにも早急」島根原発2号機 28日から核燃料装てん・12月再稼働に抗議 市民グループが中国電力に申し入れ(RCCニュース 10月16日)
中国電力が島根原発2号機を12月上旬に再稼働させると明らかにしたことを受けて、市民グループが抗議しました。
抗議の申し入れをしたのは広島県内の5つの市民グループです。中国電力の担当者は抗議文書を関係部署に伝えるとして受け取りました。
中国電力は15日、10月28日から島根原発2号機の原子炉に核燃料を装てん、検査などが順調に進めば12月上旬に原子炉を起動し、再稼働させることを明らかにしました。
申し入れでは、島根原発2号機が停止して13年が経つことから、「部品の劣化や原発の運転員の未経験者が増えていることなどが考えられるため、再稼働は危険だ」などとしています。
上関原発止めよう!広島ネットワーク 溝田一成 共同代表「地震に耐えられるかどうかなどそういうことをもう一度考え直してから、燃料装荷してほしい。あまりにも早急すぎる。」
島根原発2号機の運転再開は、定期点検で停止した2012年1月以来となります。
原発5キロ圏の児童ら避難訓練 12月再稼働、島根2号機(共同通信 10月19日)
中国電力島根原発2号機が立地する松江市は19日、原発から約5キロ圏内の予防防護措置区域(PAZ)にある幼稚園や小中学校に通う子どもを対象に重大事故を想定した避難訓練を実施、一部を報道陣に公開した。島根2号機は12月に再稼働を予定している。
訓練には園児や小中学生、保護者ら約千人が参加。幼稚園や学校から、退避所となる市の体育館にバスで移動した児童らを保護者に引き渡す手順を確認するなどした。
小学生の子と参加した松江市の会社員津森哲郎さん(48)は「実際に事故が起きたとき、訓練があるのとないのとでは違ってくると思う」と話した。
【速報】金の国内小売価格が過去最高値を更新 初の1万4000円台に(テレ朝news)
中東情勢の緊迫化などを背景に、金の需要が国際的に高まり、日本国内の金の小売価格が過去最高値を更新しました。
金の国内小売価格の指標とされる、田中貴金属工業のきょうの店頭販売価格は、1グラムあたり1万4069円となり、営業日として最高値を更新しました。
金の価格は、およそ1カ月で1000円以上上昇しています。中東情勢が緊迫していること��、アメリカの金融政策が利下げに転換したことなどが要因とみられています。
金は「有事の金」ともいわれ、戦争や災害など世界経済を揺るがすような事態が発生すると需要が高まる傾向があります。
アベノマスク契約めぐる訴訟 裁判長も「全て口頭で?」と突っ込み(朝日新聞)2024年10月15日
大量の在庫が問題になった新型コロナ対策の布マスクを巡り、業者との契約過程を示す文書を開示するよう上脇博之・神戸学院大教授が国に求めた訴訟で、複数省庁による「合同マスクチーム」のうち業者と直接やりとりした職員ら3人が15日、大阪地裁(徳地淳裁判長)に証人出廷した。「やりとりは口頭が基本で、文書は残していない」と口をそろえた。
マスクは2020年4月に安倍晋三首相(当時)が各戸配布を表明し、政府が400億円超をかけて約3億枚を調達したもので、「アベノマスク」と呼ばれた。需要の乏しさから約8300万枚が残り、国会などで税金の無駄遣いが指摘された。
この日の証人尋問で経済産業省からチームに出向した職員は、「募集に応じた業者からはチーム宛てに電話やメールが毎日のように来ていた」と説明。ただ自身が受け取ったメールは「容量が限られているため2~3日に1度消去し、保存していない」と証言した。
「文書作っている余裕ない」に、反応した裁判長
原告側から業者選定のためにやりとりを記録しておかないと「不便では」と問われると、「いちいち文書を作っている余裕はなく、上司が近くにいる時に口頭で価格や数量、納期などを報告していた」と話した。
徳地裁判長からも「単価や枚数は間違えると大変なことになる。全て記憶して口頭で報告していたのか」と突っ込まれると、「そうです」と答えた。
原告側が裁判所に求めて業者側から入手したチームとのメールには、この職員が業者の担当者と会って直接打ち合わせをした記録が残っていた。
職員は「どんな業者か確認するために上司から頼まれたら打ち合わせをセッティングしていた」としつつ、原告側から打ち合わせで話した内容や同席職員を問われると「覚えていない」と証言。その時の記録は「余裕がなくて作った記憶がない」とした。
行政文書管理規則では、意思決定の過程や事業の検証に必要となる行政文書の保存期間は「原則1年以上」とし、共有フォルダーに保存するとしている。メールもこの対象に含まれうるが、職員は「スピード感を求められていた。残した記憶はない」と話した。
事業規模小さい会社に大量発注、原告側「不自然」
続いて出廷した経産省の課長補佐(当時)は、マスクチームのメンバーではなく「サポートする立場だった」と説明。募集の意思を示した業者に枚数や納期を聞き取り、チームに報告していたという。
課長補佐が担当した会社は、20年の時点で設立3年弱でウェブサイトを持たず、従業員が5人しかいなかったことが原告側のとった登記簿などで判明している。会計検査院の報告書によると、政府はこの会社と2カ月で計約30億円の契約を結んでいた。
原告側は事業規模に見合わない大量の発注をしているのは不自然だとして、受注能力を登記簿などで事前に確認したかを尋ねた。課長補佐は登記簿も決算書も「確認していない」が、「金額や枚数、納期の点では問題がなかった。ベーシックなところは確認した」と証言。やりとりを示す文書は「保存していない」とした。
上脇教授は20年7月までに複数回、情報公開請求をした。契約書は開示されたが、経過を示す文書やメールは「不存在」とされたため、「巨額の税金が使われた契約の過程を国民に説明する義務が国にはある」として21年2月に提訴していた。
裁判はこの日で現職の省庁職員6人全員の証人尋問が終わった。次回12月24日に原告・被告双方が最終的な主張をして、結審する。(大滝哲彰)
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綿野恵太(文筆家)【視点】 <「徳地裁判長からも「単価や枚数は間違えると大変なことになる。全て記憶して口頭で報告していたのか」と突っ込まれると、「そうです」と答えた」
なかなか常識的に考えられないですよね。たとえ同じ職場の人間であっても、伝達ミスを防ぐためにメールで記録を残したりするものですが……
明石順平(弁護士・ブラック企業被害対策弁護団)【視点】 全部口頭。まあ嘘であろう。火事場泥棒を隠そうとしているようにしか見えない。マスク配布を奇貨として政府関係者に金を配っただけではないか。それがばれるのが怖いから、こんな言い訳をしている。
あの布マスクはサイズが小さ過ぎる上に、素材が布であるから、感染予防の観点からも不適切であった。また、1世帯2枚しか配られなかったので、数の点からも中途半端である。
感染予防効果からすれば不織布マスク一択であるが、国が粗悪な布マスクを配ったせいで、同じく感染予防効果の低いウレタンマスクなども許容される状況が生まれたと感じる。したがって感染対策について実害が生じていたと私は思う。
安倍総理だけがアベノマスクをかたくなに着用し、周囲が不織布マスクを着用している光景は異様だった。
単なる思い付きにすぎない有害な政策ですら誰も止められない状況は、国家機能不全状況を示す象徴的なものだった。
このアベノマスク問題は絶対にうやむやにしてはいけない。
ダースレイダー(ラッパー)【視点】bコロナ対策の検証がなぜ必要か? それは今後、新たな感染症や災害に見舞われた際にどの対策がどのように有効で、どれが失敗したかを後世の人たちに参考にしてもらうためです。
全国一斉休校もマスク配布もどのような効果があったか? あるいは無かったか?今回の裁判で明らかにされたような意思決定が為され、検証可能な証拠が何も残っていないとすれば、その点を持ってして対策として失敗しています。
政治家がよく使う未来のためにというフレーズは、具体的には上記のような検証作業を繰り返すことで実現するものだと考えます。
今、まさに選挙が行われています。例えばこのマスクの件に対してどういう態度を取るか?だけでも資質がわかると思います。
岩尾真宏(朝日新聞名古屋報道センター長代理)【視点】 血税が投入された新型コロナ対策の布マスク配布をめぐって、やりとりが本当に「口頭で」なされていたとすれば、あぜんとするばかりです。ただ、役所の習性を踏まえると、この説明を真に受けるには無理があるように思います。この当時、忙しかったことは事実でしょうが、これほどの規模の事業に関することを「口頭で」進めていくでしょうか。
ちなみに、石破茂首相は首相就任前の2020年6月のブログで、この「布マスク」が早急に届いていないことに触れた上で、次のような指摘をしています。「届いたマスクには生産したメーカーの名も、連絡先も記載がありません。マスクには法的な表示義務はないものの『全国マスク工業会』の自主的な表示基準として記載すべき事項が列挙されているのですが、これら事項の表示もありません。内閣総理大臣肝いりの政策がこんな杜撰なことでよいわけがありません」
ご指摘の通りで、内閣総理大臣肝いりであろうとなかろうと、税金を投じた事業について、後にその決定過程を検証できないようなことでよいわけがありません。
いま、過去の自身の発言が色々とはね返ってきている石破首相ですが、「納得と共感」のためにも、以前の政権下での政策検証もぜひ取り組んで頂きたいと思います。
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紫陽花の花が咲き始め、もうすぐ梅雨が訪れることを教えてくれていますね。我が家のバラたちも2番花を待つ間、一旦お休み中です。
5月19日に行ったサンデーサービスの霊界通信のデモンストレーションの様子をダイジェストでお知らせいたします。(読みやすいように編集しています)ご参加いただきまして、心より感謝いたします。いただきました寄付金は日本赤十字の能登半島地震災害義援金とした寄付いたしました。ご協力いただきまして、どうもありがとうございました。
・・・・・・・・・・
森:まずは女性がいらっしゃっていて、お身内だと思うんですけれども、目鼻立ちがはっきりしていてすごく可愛らしい感じで、若々しく見えます。10代後半から20代に見えるんですけれども、割と急に亡くなっている感じなんですね。で、あんまり父方とか母方とかという感じがしないんですよね…あと、姉妹みたいな感じで見せてくださっているので、複数の女の子を見せてくださっていて…三姉妹なのか…若くて亡くなっている方。お身内に三姉妹がいる方っていらっしゃいます?〇〇さんはどうですか?
男性:あのですね、身内っていうか、私の妻が三姉妹です。
森:奥さんは亡くなっていらしゃいますよね、そのことは知っていましたけど、三姉妹だということは知りませんでした。で、目鼻立ちはハッキリしていらっしゃいます?
男性:それはうちの家内のことですか?
森:そうだと思う。
男性:あ〜はい。
森:可愛らしい、すごく純粋で若々しい方でした?
男性:はい。
森:割とすぐに亡くなった感じなんですけど。最後にあまり一緒にいる時間を過ごせなかった感じがします。
男性:そうですね。
森:亡くなってから奥様が夢に出てきたりとかしたと思うんですが、いかがです?
男性:なかなかそこがなくて…あの、退行催眠で一度会いました。
森:そのことをおっしゃっていて、(夢に)見たいと思いますよね、だけどこの方は聖なる存在として、一段階あがっちゃったような感じなんですよ。
男性:あの…今の妻が、ということですか?
森:そうです。
男性:そう感じます。
森:大きな視点を持っている聖女みたいな感じで、遺族の方に会いに行くという個人的なドメスティックな役目じゃなくなって、霊界でのお役目が大きくなっている感じです。身辺に亡くなった愛する人の気配が感じられなくて寂しい、と思っている方もいると思います。でも、もちろん奥様もご自身のことを応援されていますが、ご自身にも自分のことを応援してもらいたい感じですね。本当は逆なんですけどね、(霊は)こちらを応援してくださる立場なんだけれど、ご自身がライトワーカーとしてのお役目があるように、奥様も霊界でのお役目がある、ですからお互いに頑張りましょう、切磋琢磨してより上を目指しましょう、という事だと思います。
男性:ありがとうございました。
森:続きましては…う〜んと、お父さんとお母さんが来ているんですけど、このご夫婦は役割が逆、みたいな感じなんですね。お母さんは本当に「男」って感じで、ガタイがいいっていうか首が太くてガッチリした感じのお姿で見せてく���さっていて、一から叩き上げで、知識とか何にもわからないことでも自分で勉強して自分のものにして乗り越えて、すごいビジネスセンスがある人ですよ。お父様は逆で割と細身でちょっと浮世離れした感じの芸術家タイプに見えます。思い当たる方はいらっしゃいますか?
女性:あの、うちの主人の両親ではないかと思います。
森:で、結構可愛がってもらいました?
女性:はい。
森:自分達の娘のように?
女性:そうです、そう言われてました。
森:もしかして、義理のご両親は女の子が欲しかったのかな��
女性:そうかもしれないですね。
森:(義理のご両親には)女の子のお子さんはいなかったですか?
女性:はい。
森:で、義理のお母様は首が太くて、苦難困難を乗り越えて…。
女性;はい、とても頼りになる母でした。
森:義理のご両親が結婚したきっかけは、お母さんの一目惚れだったのかな…。
女性:そうだと思います。義理の父はすごいいい男だったです。ちょっと外人ぽくてすらっとしていて。
森:芸術家タイプ。
女性:そうですね、人にないような技術を持っているというか。
森:ご自身はお子さんはいらっします?その子の面倒を(義理の両親が)見ているような感じなんですよね。
女性:もう自立していますけれども。
森:見守っている感じで面倒を見ているような感じです。男の子ですか?
女性:いえ、女の子です。
森:失礼ですが、お孫さんはいないですよね?
女性:(笑)ナイショです。
森:ナイショなんだ!(笑)プライバシーのことはあまり言わないようにしましょうね。(笑)ご自身よりも下の世代の人の面倒を見ている感じ。
女性:あ〜、そうかもしれない。
森:あなたは気にしないで自分のやりたいことをやりなさい、っていう意味だと思います。
女性:ありがとうございます。義理の母が亡くなったのは私の娘がこれからという時だったので、心残りだったと思います。母は人の手助けをしたい性格だったので。
森:ですから、自由に羽ばたいてください!
女性:ありがとうございます。
森:次は先祖・身内・知人霊のサイキックアートをしたいと思います。お婆さまがいらっしゃっていて、割とオシャレな方なのかな…髪の毛がふんわりとしていて白髪で、横分けのショートですね。あまりベタベタ甘やかすタイプの方ではなくて、颯爽としている感じ。瓜実顔、という感じの細い顔をしていて、ちょっと垂れ目なのかな。背は160cmくらいで実際よりも高く見える感じなのかな。なんとなく70代後半から80代ぐらいに見えますけどね。ちょっと目が悪かったようですけど、メガネはかけていないですね。ちょっと方言がある感じがします。東北弁なのか、イントネーションが標準語とちょっと違うんですよね。女の人に囲まれている感じがしますので、そういう職場なのか環境にいた感じですね。瞼がちょっと垂れている感じ。働いている人です。先生っぽい、しっかりした感じの方ですね。思い当たる方、いらっしゃいます?〇〇さんは、父方のお祖母さんは亡くなっていらっしゃいます?
男性:はい、亡くなっています。
森:で、働いていらっしゃいました?
男性:そうですね。
森:ショーカットな感じでした?
男性:う〜ん、まあ、はい。
森:(上の写真の絵を見せて)似ています?
男性:もうちょっと丸顔だったと思うんです。
森:亡くなった年齢はどうですか?
男性:79歳でした。
森:体はどうです?160mくらいでした?
男性:はい。
森:じゃあ、ご自身だと思います。それではメッセージいきますね。最近同じような悩みとか、まぁ人間関係だと思うんですけど、ご自身を阻む邪魔をする人、職場でいます?
男性:そこまでじゃないんですけど、苦手だなって思っていた人が3ヶ月くらい前に辞めていきました。
森:そのことを言っているのかな。新しい技術とか資格とか、そういうものを求められる職場ですか?
男性:技術的なことはたくさんあります。
森:それを一つ一つクリアしていくと、あまり周りのことが見えなくなります、とお祖母さまが言っています。
男性:あ〜、はい。
森:あんまり人間関係が気にならなくなって、自分の中に技術が増えるとそれが一番の頼れる同僚、みたいになります。周りよりも自分に焦点を当てて、ステップアップしてくださいとお祖母さまがおっしゃっています。
男性:ありがとうございます。
・・・・・
サンデー・サービス(日曜 12:30〜14:00)詳細はこちらから。
6月30日 担当ミディアム:本村・森
ご参加は無料ですが、一口500円からの寄付金をお願いしています。
当日は以下のリンクよりご参加ください。
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吉田の英断 海水注入騒動 免震棟では、水素爆発をした1号機に、現場が被ばくの危険を冒しながら粘り強く敷設し直した消防ホースを通じて、午後7時4分から海水注入が始まったことに安堵の空気が流れていた。水素爆発から4時間、絶望の淵からなんとか這い上がった。荒れ狂う原子炉をなだめようとする長い闘いが再び幕を開けた。その現場を率いる吉田は、次なる指揮をどうすべきか休む間もなく目まぐるしく頭を働かせていた。 午後7時25分。その吉田に電話が入った。総理官邸にいた武黒からだった。 「お前、海水注入は?」 「やってますよ」 「えっ?」 「もう始まってますから」 「おいおい、やってんのか。止めろ」 「何でですか?」 「お前、うるせえ。官邸が、もうグジグジ言ってんだよ」 「何言ってんですか」 電話は、そこで唐突に切れた。 吉田は、すぐにテレビ会議を通じて本店に武黒からの電話を短く報告し、本店は聞いているのかと尋ねた。 本店は、武黒から同じ趣旨の連絡があったと話したうえで、ちょっと判断を曖昧にしていると含みを持たせる言い方をした。吉田は、一瞬、この話を本店の判断で握りつぶそうとしているのかと思った。しかし、本店は「官邸が言っているならしようがない」と言い出した。でも、午後7時すぎから海水注入はすでに始まっている。本店は、試験注入という位置づけにしようと提案してきた。ホースを繋いだ注水ラインが生きているかどうかを確かめる試験注入をしていたが、その後止めて、本当の注入を始めるかどうか判断を待っていた。そういう話にしよう。官邸の意向に沿って事実を書き換えて辻褄を合わせる。組織に染み付いた処世術が編み出すいつもながらの知恵だった。 だけど、と吉田は思った。すでに一度できている注入をやめて、もし事態が悪くなったら、誰が責任をとるのか。吉田は自問自答した。本来、本店が止めろというなら、そこで議論できるが、まったく脇にいるはずの官邸から電話までかかってきてやめろというのは、一体何なのか。指揮命令系統が完全に崩れている。これは、もう最後は自分の判断だ。吉田は腹をくくった。 現場の、部下の命を守るのは所長である自分しかいない。吉田は、消防注水を担当している防災班長のそばに歩み寄り、周りには聞こえないように小声で囁いた。 「ここで海水注入を中止するとテレビ会議で命令するが、絶対に中止しては駄目だ」 防災班長は、身体を固くして頷いた。次の瞬間、吉田は、テレビ会議のマイクに口を近づけ、免震棟中に響き渡るような大声で本店に向かって言った。 「海水注入を中止する!」 テレビ会議を見ていた本店はもちろん免震棟の誰もが吉田の命令を微塵(み じん)も疑うことなく聞いていた。 午後7時55分。官邸では、班目や武黒らが菅に改めて海水注入の必要性とリスク対策を説き、菅も納得した。 午後8時10分。武黒から吉田に海水注入を開始してよいという連絡が入った。午後8時20分。吉田は素知らぬ顔をしてテレビ会議に向かって大声で「海水注入を開始する」と指示を出した。しかし実際には、午後7時すぎから1時間あまりの間、海水注入は一度も中断されることなく、ずっと続けられていたのである。これが、後に語り継がれる海水注入騒動の一部始終だった。 事故後、この顛末が明らかにされると、1号機の事態悪化を食い止めた英断だと、日本中が吉田に喝采を送った。一方、官邸や本店の意思決定の乱れは、様々な角度から検証され、悪しき現場介入と批判された。 海水注入騒動は、吉田の名を一躍あげた。しかし、事故から5年半がたった2016年9月、思わぬ後日譚が明らかにされた。 日本原子力学会で、事故後長く原子炉の注水を分析してきた国際廃炉研究開発機構が最新の研究結果を発表した。その発表は、1号機への注水は、注水ルートを変更した3月23日までは、原子炉冷却への寄与はほぼゼロであるというものだった。にわかには信じがたい解析結果だった。3月12日の時点では、1号機への注水は、配管の様々な箇所から漏洩し、ほぼ原子炉に届いていなかったり、メルトダウンした核燃料に注がれていなかったりして、冷却にほぼ寄与していなかったというのである。実は、これより2年前の2014年8月に東京電力が事故をめぐる未解明事項の2回目の検証結果を発表した際、1号機の消防注水は、原子炉に通じる一本道の注水ラインの10ヵ所で水漏れしていたという見解を明らかにしていた。国際廃炉研究開発機構が発表した1号機への注水が3月23日までほぼ原子炉に届いていなかったという研究結果は、東京電力の消防注水の水漏れの検証結果をさらに進めたもので、より衝撃的な結果だった。 その後、NHKと専門家が「サンプソン」を使って行ったシミュレーションでも同様の結果が出たことから、3月12日から23日まで1号機の原子炉へ水がほぼ入っていなかったことは、定説になりつつある。 吉田が、菅が、武黒が、はからずもそれぞれの生き様をあらわにして必死に考え、行動した結果が織りなした海水注入騒動。しかし、膨大な核のエネルギーを放つ原子炉は、人間の意思をまったく超えたところで、事態をさらに悪化させていたのである。 さらに連載記事<1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」>では、発災直後の緊迫した様子を詳細に語っています。
「お前、うるせえ。官邸が、もうグジグジ言ってんだよ」…福島第一原発への「海水注入」をめぐる「緊迫したやり取り」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
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こんばんは。豊島美穂です。所属している。今日は3月11日土曜日になります。
とうとうさ、日曜更新の予定のポットキャストなのに、土曜日の夜にとってるっていう状況になってしまった。今週がですね、確定申告の作業を前半やってたんですよね。そんなこんなでね、後半まで何もせずに引っ張ってきてしまいました。
早速なんですけど、今日はお便りから読ませていただきたいと思います。愛知県のミリさんからいただいたお便りです。
こんにちは。トシさんの小説やブログが大好きで、大学生時代や仕事の研修時代に心の支えにしていたものです。ありがとうございます。そんな私も今やアラフォーワーママとなりました。ワーママね。わあ、ママ働いてるお母さん。
前のブログが閉鎖された際には、あまりの寂しさにかなり動揺してしまい、産後のおかしなテンションでファンレターまで送りつけてしまいました。すみません。
かっこ。もしかしたら怪しげな手紙と見なされると、出版社さんがブロックしてトシさんには届かないかもですが。届かないのかもですが、
ファンレターが届く仕組みって実はよくわかってません汗過去と時これね、ご指摘の通りいただいてないです。このお手紙 ブログが。前のブログを閉じたのが、3年前ぐらいだったかなと思うんですけど、3年前か4年前、そん時ぐらいに、出版社さんから、なんか、お手紙の転送でいただいたっていうのは、1回もなかったですね。
なんか、怪しげな、でも、手紙だったっていうよりも、多分、私がやっぱり現役じゃないから、転送してくれない。なんか、その、現役サッカーでも、手紙を転送してもらうのって、なんかの用事のついでとかだったりするから、たくさんたまったらか、あと、本が出た後とか、
すごい送ってくれたりするけど、なんか、2か月分溜まったとか、なんか、そんな感じだったりもするので、なんか、現役でさえ、そんな感じだからさ、もはやいつかかいない作家だと、 作家というかのねたパンピーだと、もう手紙をね、転送してもらえなかったんだと思います。すごい申し訳ありません。せっかく書いてくださったお手紙がどこかに消えちゃったっていうことでね、ちょっと申し訳なく思います。続きます。でも、今またこうしてポッドキャストで発信してくださっていて、本当に本当に嬉しいです。
毎朝、あー仕事行きたくない。と本当に憂鬱なのですが、通勤中の社内でトシマさんのラジオを聞いていると気持ちが和み、トさんも今も生きているんだから、私も頑張ろうと思います。これからもトシマさんの生活と健康を優先で配信続けてくださると嬉しいです。ということでした。ありがとうございました。こうやって通勤中に聞いてくださってるんですね。
なんかすごいこのお便り嬉しかったです。なんかね、やっぱりこうして1人で喋ってるとすごい人の反応別に見てるわけじゃないから、一緒に友達と喋ってあははってやってるわけじゃないから、すごい滑ってないかなとか。あとはさ、なんていうの。
やっぱり。うん、なんか1人でやってることだから余計なんだけどね。前も確かなんかどっかの回で言ったと思うんですけど、世の中、3分の1の人は自分を生理的に嫌いで、3分の1の人は何もしなくても好きで、3分の1の人はニュートラルっていう、 その説を信じてるんだけど、その3分の1のさ、私を嫌いな人たちの反応みたいなのに、なんていうの。別に誰もそんなことわざわざ言ってこないですけどね。匿名のあれとかでもさ、
言ってこないけど、でも、なんか、そういうのを自分で勝手に、なんか私のこと嫌いな人が聞いたら、これ相当うざいだろうなって、なんか、しゅんってなってる時もあるので、なんか勝手に考えて、勝手に、なんかこう、てんて てなってる時もあるから、こういうね、こういう風に聞いてますっていうお便りいただけて、とてもありがたかったです。メリさん、ありがとうございましたね。お手紙のペンは本当に申し訳ないです。そしてね、私がずっと先、声がガラガラだから、健康まで気遣ってくださったんですよね。本当すいません ね。引き続き、この声でお送りしていきます。
そしてね、やっぱりこの声なので、今週も短縮版でね、なんかさくっとお送りしたいと思います。お便り、本当はもう1ついただいてるんですけど、なんか回答がやや長くなりそうなので、来週以降に読ませていただければと思います。すいません。
今週ね、喋ろうと思ってるのは、今日が3月11日じゃないですか ね。震災から12年、干支一周したんですよね。でも自分的にこのシーズン振り返ることがね、振り返るべきことっていうか、そういうのが去年1個増えてしまって。去年のですね、
3月に私は祖母を実は亡くしてまして、明日が1周期なんですよね。
なんかそれもあって、今日はね、なんか祖母の思い出で、祖母との思い出で、なんか差し支えない部分、今日はね、差し支え、なんか喋ってても大丈夫そうなことだけを、今日は喋ろうと、喋ってみようかなと思っております。
ちょっとね、何が差し支えあって何が差し支えないかっていう話は後でゆっくり行きたいと思います。じゃあ、早速行かせていただきます。第22回になります。聖なる欲望ラジオ
ですね。何か話そうかな。以降、祖母ゃなくてばあちゃんって語らしてもらいますが、うちのばあちゃんはですね、 去年、私、41歳の私のばあちゃんが去年亡くなって。亡くなってるじゃない。去年死んだっていうことはね、皆さんご想像の通り、かなり歳がいってまして、96歳だったんですよね。
大往生っていうやつで、自宅で最後まで、2月の半ばまでは割と普通に過ごしてて、普通って言っても、ちょっとしたね、手伝いが全然いらないっていうわけではなくて、東京のね、母がことしたところが面倒見てくれてたと思うんですけども、
言っても、自分で移動できて、生活できて、移動って、その、家の中をね、家の外には出れなかったけど、 まあ、まあまあ、96歳としては、健康にさ、持病がいっぱいあるんだけど、薬を飲みながら、健康に生きているっていう96歳だったんですよね。去年の2月に、こう、急に体調が悪くなって、そっから寝たきりっていうか、寝たきりで3月まで過ごして ね、そのまま死んでしまった感じなんですけども、おおむね、なんていうの。なんか、最後に大病したとかさ、そういう感じではなくて、最後まで、家に入れてね、
なんていうのかね、ね、さっきも言いましたけど、本当に、大王女っていう感じだったんですよね。そうそう、ばあちゃん、ばあちゃんって言ってますけど、ばあちゃんは、母方の祖母で、だから、母の家に、私は暮らしてたんですよね。その、通常は ね、その、核家族じゃないと、お父さんの実家に住んでることが多いと思うんですけど、うちは、母の実家で住んでたんですよね。だから、うちの家族構成っていうのは、私が生まれた時は、私と両親と、その母の両親
で、そのさらに、私から見て、祖父の母ね、ひいばあちゃんですねっていう家族構成だったんでね。それで、うちの両親が共働きだったんで、私は小さい時は、ほぼほぼ祖父母と育った感じなんですよね。
でも、なんか、世の中のさ、おばあちゃんこ、おじいちゃん子みたいなのとだいぶ違うっていうか、なんか世に出てくるさ、そういう、おばあちゃんとか、おじいちゃんって、結構、その、なんか、ヒット曲の、親の神様とかに出てくるおばあちゃん像とかって、すごい、なんかこ、まっすぐで、ピュアじゃないですか。
なんか、おばあちゃん子、おじいちゃんこっていうのも、なんかこう、おじいちゃん、おばあちゃんみたいな、孫みたいな、なんかそういう、そういう、なんていうの、なんか割と、ずっとした関係性っていうか、 なんか、じいちゃん、ばあちゃんの、こう、すごい法要感、全てを包容してくれた祖父母みたいなさ、感じだと思うんですよね。もしくは、そういう寛容系じゃなかったら、なんていうの、なんかもっといろんなことを語って、祖父母をリスペクトし��いるみたいなさ、そういう、おじいちゃん、おばあちゃんこみたいなのもありますよね。
でも、私はそうやってさ、小さい頃、祖父母に育てられ、育てられたって言っちゃダメだけど、小さい頃の時間を、ほとんど祖父母と過ごして、おじいちゃん、おばあちゃん子かて言われると、やっぱん。ってなるんですよね。
なんか、そういうふうに言うには、なかなかこう、特にその、おばあちゃんの方がさ、結構、癖強めだったから、なんか、その、一般的なおばあちゃんっていうさ、フィクションとか、jpopの中のおばあちゃんと、だいぶ違うなっていう感じだったんですよね。
だから、こう、なんていうの、この祖母の思い出って言うとさ、なんかみんなさ、なんかこう、ぐっとくるさ、なんか感動系のさ、おばあちゃん話をちょっとね、予想してるかもしんないですけど、なんか、そういうのとちょっと違うんですよね、私の中では。
で、だから、去年youtubeやってた時に最初に紹介した本が、井上康の明菜の物語だったんですけど、あれに出てくるさばあちゃん、井上靖の、ま、エッセイとかにも出てくるんでしょうね。私、まだ読んでないんですけど、その、有名なさばあちゃんについて書いたやつとかをさ、読んでないんだけど、あの、明菜の物語にもフィクションの形で出てくるおばあちゃんみたいな、
なんていうの、愛情あるけど癖強めみたいな。あれ読んだ時に、そ、そうそうそうそうっていう、すごい、また、ばあちゃんともちょっと違うのは違うんだけど、癖の強さとしては結構似た、方向性は違うけど、濃さは同じみたいな感じだったから、でも、そこまでじゃないか。ばあちゃん、かなり強いたもんな。
もうちょっと手前ですけど、もうちょっと一般の範囲内に収まる感じですけど、結構、ばあちゃん像への共感みたいのがあって、ぐぐっと、こう、物語との距離が近くなったっていうところがあったんですよね。でも、だからって言ってさ、その折よ、ばあちゃんとしてさ、今日、全てを物語ってしまうと、
ちょっとね、問題もあって、問題っていうか、私の中でなんですけど、その母の母なわけですよ。祖母はね、当たり前ですけど。
そんで、私が祖母と過ごした時間って、幼少期は、そのね、保育園がうちの田舎だからさ、2年保育で、 4歳ぐらいまでまるまで家にいたりとかしたから、すごい。時間の濃密さとしては、かなり祖母といた時間って、幼少期は長いなっていう風に感じるけど、なんだかんだ、祖母と同居で暮らしてた期間って、
その、高校2年生までと、その、下宿するまでねと、小説家を辞めて、田舎に帰って、こう、手戻り期間出して、合計19年しかないんですよね。
それはね、祖母だけじゃなくて、父とも母とも家族だった時間って同じなんですけど、 でも一方で、その母はさ、実家暮らしであった母はさ、祖母と何年一緒に住んだかなんか、ある時、ふっと、そういえばお母さんって、何年ぐらいばあちゃんと住んだのかなって
計算してみたらね、そのばあちゃんが死んだとね、なんとね、その大学でいなかった4年間と、新婚でいなかった1年間を引いて、60年以上ね、ばあちゃんと暮らしてた計算になったんですよ。
もう、ひえ、と思って。なんかさ、その60年家族であるっていうことって、もう想像のつかない領域じゃないですか。
でも、皆さんのね、家族でも、こういう風にね、じいちゃん、ばあちゃんがこなんか七だと、同居してる家族は結構長く一緒にいるなっていうことって、そんな、めっちゃ珍しいことではないと思うんですけど、でも、なんか、自分の人生にそういうことがあるかっていうとさ、その、実家暮らしじゃなくなった
人間としてね、私は正直こう、自分が実家に戻るっていう線は、もう、夫を途中でなくすぐらいしか考えられないから、なんか、そういう ことで言うと、でも、両親の元に戻っても、60年の家族にはなれないし、自分の子供が35での子供がいますけども、その子供が私と60年一緒にいるっていうのも、多分ないですよね。
なんか、私としてはちょっと望んでないっていうか、普通に自立してくんねえかなって思ったら、別に別に嬉しくないしね。なんか、60年かと思って、なんか。そんで、その母が、なんか祖母のことを振り返って、うんうん、なんだかんだすごい立派な人だったって、立派な人だったって締めくくってたから、
うんうん。みたいな感じでさ。なんかこなんていうの、そこに私の感想を差し挟む権利があんまないなって思っちゃったんですよね。いや、別にいいのかもしんないけど、 このポッドキャストを母が聞いてるかどうかわからんから、聞いてたとしても母の自由だから、それはさ、聞いてるのは自由だし、私が喋ってるのも自由でしょ。っていう感じかもしんないけど、やっぱ、なんか、私としては、 なんか、その、60年の家族の前では、控えておこうかなっていう気持ちにね、割となったんですよね。なんかね、本当は、なんか、ばあちゃんのさ、面白いおかしい話とかも、めっちゃ喋りたい。なんか、その、きつかった話とかもしたいけど、なんか、
今回はやめといて、割と無難な話にしとこうかなって思ってます。でもね、ここは具体的な思い出話に入っていくんですけど、 うん、本当にね、小さい時は、さっきも言ったけど、一緒にいた時間が長くて、あたしね、後追いの記憶があるんですよ。その後いって、その小さい子がさ、 1歳とか2歳とかの子が、
母親のさをさおってさ、なんかちょっと家事でいなくなっただけでも、ててててって、こう、はいはいとか歩きとかで来て、なんかぴえんって待ってよみたいな感じで、どこまでもついてくるっていう現象をあいって言うんですけど、それを自分がやってた記憶があって、 祖母に対してなんですよね。母に対してじゃないんですよ。
なんか母は別にいなくても追いかけない。だって仕事で普段から全然いないしね。でもなんかこう、日中祖母と家にいる時に、なんか祖母が急に吸っていなくなると、なんか急にさ、不安になっちゃってさ、なんか、ばあちゃんって言って、なんか、ばちゃんどこ。ばあちゃんどこ。って言って、こう、なんか歩いていくと、大体これなんですよね。
そで、んで、ばあちゃんが、なんかトイレの方に私が歩いて行くと、ばあちゃんが、こう、トイレの中から、ベジャガーって返事するんだけど、なんか中に入れてくれないんですよ。
なんか、それで、それで、なんか便利だなって、
いいじゃん、中にいてくれても、中に入れてくれてもいいじゃんって思ってる記憶がすごいあって、何歳ぐらいなんだろう。あれ。なんか妹が、下手したら妹いない。生まれてない気がするから。
ま、生まれててもすごいね。なんか、さらについてくるみたいな感じゃない時だから、言ってても2歳半とかなのかな。本当、そういう記憶があって、
なんか、でも、自分の時はさ、自分が子供に後援された時には、だから、トイレもね、入れてあげました。なんか、みんなどうしてんだろう。トイレについてこようとする子供を中に入れるか入れないか問題ってありますよね、なんか。でも、私としては、別にうちのトイレのイカは聞かなくない。って思ってるから、そこに座らせとくけど。
あと、別にトイレを見ないのはしょうがないと思ってるけど、なんかうちのばあちゃんはどう。しょうがないと思わなかったみたいですね。なんかやっぱ大正生まれの奥ゆかしさを感じるなって、後でこう、自分が親になって振り返った時思いましたね。
だから、そういうね、幼少期の、うん、親代わりじゃそこまでってね、ちょっと一応親一緒にいたわけだから、悪いけど、育ててくれたっていう気持ちはすごいおっきいんですよね。
私は保育園に通ってた時は、送迎は じいちゃんがね、基本はしてくれてたんですよ。なんかママチャリでさ、冬は車なんだと思うけど、雪積もるまでは、自転車のなんか荷台に乗っけてさ、今みたいな、こう、ちゃんとしたさ、チャイルドシートじゃなくて、なんか、なんか適当なとこにね、ヘルメットもしてないし、今、もうともう、ぎゃーって思いますけど、乗せてもらって
ね、送り迎えしてくれたんですけど、ある時ね、なんか、じいちゃんが用事で来れない日ってたまにあって、そうすると、ばあちゃんが来てくるんですよね。
そのばあちゃんは、自転車に乗れないし、車も運転できないからね、世代的に、その春まで、家からさ、歩いて来てくれる時があって、それがすっごい嬉しくて、なんか1回ね、ばあちゃんが迎えに来てくれた日がすっごい大雨で雷になってたんだけど、 もうばあちゃん来てくれたから嬉しくて、遠回りして帰ろうって言って、その大雨の中をさ、遠回りして帰らせたことがあるんですよね。でも、あの話で、本当の被害者はばあちゃんじゃなくて、家に残ってた妹で、
妹はちっちゃいから、なんか私がどうしてもその送迎が必要だったから、ばあちゃんが出てきたけど、妹は隣の家に預けてきたんですよね。やっぱそのご近所付き合いがさ、脳みな田舎だから、お願いしますって言って出てきたんだけど、 妹はなんか1人でも大丈夫だから帰るって、なんかもう帰るって言い張ったらしくて、なんか結果、でもなかなか遠回りしてるから帰ってこなくて、 すごい雷が鳴って光ってるし。妹がさ、机の下に隠れて、なんかすごいテーブルクロス。昔のテーブス、なんか裏が白いやつでモコモコして、なんか模様が書いてあったりするじゃないですか。
あの、いのさん、白いモコモコをずっと爪の先でペリペリペリペリ話してて、これ笑い事じゃないかもしんないんだけど、本当妹に申し訳ないんだけど、やっぱちょっと思い出すとなんか笑っちゃうんだよね。あの妹を発見した時のこと思い出して、以来、妹雷が怖くなってしまったっていう ね、悲しいエピソードがあるんですけど、そんぐらい、私は小さい時はやっぱこう、ばあちゃんを慕ってたんですよね。別になんか、その後も、別に仲が悪かったとか、そういうわけではないんですけど、 うんね、やっぱこう、成長するにつれて、すごいばあちゃんが厳しくてさ、厳しいし、なんか
口うるさいって言ったらあれですけど、なんかこう、結構ね、行動に制限をかけてくタイプのばあちゃんで、なかなかね、やっぱ中学生とか高校生ぐらいの時は、 そうそう、なんか別にね、関係が難しくなったとか、ギスギスしたとかっていうことは全然ないんですけど、なんか、その途中の、ばあちゃん、何もわかってくれない感ていうのは、結構大きかったですよね。
その分、なんていうの、そういう時期って、普通に両親に育てられてるっていうかさ、育てられてるって言い方変だけど、なんかこう、私の中で、幼少期の、本当に小さい時は祖父母が育てて、もうちょっと大きくなると、両親が育てたっていう感じに、後で振り返るとなってんですよ。
なんか、そういう、なんていうの、本当に小さい時の生理的なお世話みたいなとこは、じいちゃんとばあちゃんが担ってくれて、小学校上がって以降の、なんかもうちょっと知識をつけるとか、文化的な面に関しては、両親が担ってくれたかなっていう感じがしてて。だからこう、親の役割が分担されてるみたいな感じなんですよね。
ね、ちょっと祖父母が。だから、親代わりみたく言っちゃうと、ちょっと違う、それは言いすぎだなっていう感じがするしね。やっぱ、小学校上がって以降の両親の影響っていうのもさ、その、私を漫画エリートとして、漫画読みのエリートとして育ててくれた両親の影響はすごい大きいから、その部分はもう、その、じいちゃんばあちゃん子っていう感じでは全然なかったんですけど、 うん、そうね。特にもうここ入っていこうのばあちゃんの口うるささたるや、
もう勉強、勉強勉強。みたいな感じで、もう口を開けば、勉強、勉強やってるなとかみたいな、もう勉強したら宿題やったとかみたいな、なんかそんなことしか言わなくなって、うん、ばあちゃんと思ってましたね。
ね、それだけでって言ってんじゃないですよ。いろんなエピソード、ここでは言えないうちのばあちゃんのエピソードが色々あるんですけど、そんなこともありつつ、私はそのまま高校2年でね、経済的には全然、養ってもらってるけど、実家を出てたっていうのもあれだけど、 実質的な生活の場は、下宿に移って、毎日ね、その、実家の家族と一緒にいるっていう感じではなくなったんですよ。
で、そのまま、予備校行って、大学行って、こっちで仕事して、っていう風になってくから、戻ったのが、実家に戻ったのが、私が、27、28だっけ。その辺のさ、2009年の春だったんですよね。
なんか、そっからが、うん、結構、もう1回、ばあちゃんと過ごした思い出の日々になりますね。
うん。なんか、その、帰ったぐらいの時が、ばあちゃんがギリ外に出て歩けるぐらいの最後あたりで、なんか、帰ってすぐ、皆既日食だったんですよね。実家に帰ってすぐ、
なんか、その時に、なんか、私がずっと取っておいた、小学生の時からずっと取っておいたさ、学系のさ、科学、何年の科学みたいなやつの、付属の日食観察シートをさ、 30年、30年じゃないか、20年とってた日食観察シート出して、 なんか、ばあちゃんと、隣のおばあちゃん、そのね、さっきの保育園の帰り道事件の時に、妹の預預け先になってくれた隣道のばあちゃんとさ、3人で、こう、日食をね、シートを通して日食を観察したっていう思い出とか、あと、小学校のね、シンボルツリーが倒れちゃった時は、それも私が帰ってすぐのこと。だって。
うちのばあちゃんは、その小学校の出身ではなかったんですけど、そこで教員をしてた時期があって、その木がやっぱり思い入れがあるっていうかさ、そんな、めっちゃ思い出を語ったりはしてなかったけど、その、倒れたって聞いたら、じゃ、行くべってなって、 こう、2人でさ、その、すっごいばあちゃん、足遅くなってて、その時、その、ここかみたいな、そのおばあちゃんたちを、してるやつあるじゃん、引いて、ゆっくりゆっくり学校まで歩いていったなとか、なんかそういうこともあったなとか、
なんかやっぱ、年取ってくると丸くなるっていうかさ、もうニートの孫に何も口うるさく言うことはないですよね。言うのかもしんないけど、一般的には言うのかもしんないけど、私は、私が言わせなかったのかもしんないけど、 なんかこう、帰ってすぐに、やっぱなんか父と母は、もうどうしようもないかと思って、私をさ、見守る体勢に入ってたけど、ばあちゃんだけは、なんか、 ごめんな、やっぱ無職っていうのはよくね。って言ってきて、なんか肌がねって、すごい説教してきて、なんかお金というのは、みたいな話になったから、私が、
いや、ばあちゃん、お金っていうのはさ、お金っていのは、死ぬ時、どうせ余る余るべって、なんか、なんか知んねえけど、死ぬ時絶対余ってるべという言葉使たら、使った分だけどっかが湧いてくるのよ。
お金を使うのは。そ、お金を稼がない時期があっても、なんでもねえって言って、それ、そういうすごい極論を展開したら、ばあちゃんすごい目がしとくよ。となってしまって、以来何も言わなくなったんですよね。私に対してね。だからなんか本当に ね、うるさくなくなったっていうか。そう言って悪いけど、やっぱ人間年取ると丸くなるしかないんだなと思いましたね。でも、その時期にすごいなんかさ、
その思い出のエピソードとか、こんなことをばあちゃんが語ってくれたみたいな話があるわけでもないんですけど。
で、なんか、そのエピソードトークみたいな、よく聞いてたけどね、そのばあちゃんの、ばあちゃんのエピソードトークのよくあるやつはさ、すごい、高校の時に、なんかの古文か世界史の先生がすごい嫌いで、すごいやっつけたくて、すっげえめちゃめちゃ予習 してって、なんか間違いを指摘しまくるみたいな、成績が伸びたっていう話と、すごい若い子、死んじゃったお母さんが、めっちゃ本好きだった、本の虫だったっていう話と、お父さんが、やや
いいとこの訪問だったけど、なんか、それに、世間知らずで、こう、お金を貸しちゃう、貸して返ってこないみたいなタイプの人で、色々苦労したみたいな話と、なんかそういうね、エピソード、トークは聞いてるんですけど、なんかこう、人生訓みたいなのがあるわけじゃないんですよね、 なんか、その、ばあちゃんとの、なんか熱い話みたいなのが出てくるかっていうと、出てこないんですけど、なんか、ばあちゃんすげえみたいな、お母さんが、そうやって、その、 じゃあ、リスペクトする気持ちが、その、若い時の、大変だった、嫁に来て、大変な思いをしながら働いて、
実家で、私は秋田に、2009年から、そうやって、しばらくね、事務職でいたわけですね。やっぱり震災のその日。だから、思い出すと、 震災の時に、その、私の家はね、秋田であって、その時もね、私がまだ実家にいて、震災のその日って、状況がわかんなかったんです。停電した、その県内、全停電していて、ラジオのニュースが、 やっぱ映像見てないし、なんか、なんていうのかな、レポーターがさ、別に言ってるでしょ、そんなこと本当に起こってないでしょっていうことしか言わないから、
やっぱその日って状況が全然飲み込めてな。で、電気が次の日の午後2時くらいで、で、そこでやっとこう、テレビがついて、携帯が鳴り出してみたいなのがあって、 何が起こってるかってのはだんだんわかっていったんですけど、明日は、 最初の日は自分たちも被災者だと思ったけど、次の日になったらああ、私たちは全然被災者じゃないや、ただ停電してた地域の人間だけだってなって。
で、そっからやっぱり、なんていうの、すごい。その時を生���てた人たちはみんなそうだと思うけど、別に東北在住じゃなくても、九州の人も北海道の人もみんなそうだったと思うけど、特殊な日々が始まったわけじゃないですか。心理的に。なんかそん時に 父はまだ働いてたんですよね。定年前で。ただ、母は父より年下なんだけどと早期退職して、早期退職の1年目ぐらいで、 その年その年度は家にいたんです。だから家にはいつも相当母、私って3人がいる状態になって。で、父だけが出勤してたんですけど、父が震災があって忙しくなる子の仕事だったんです。
あの時、2極か東北の人たちは忙しくなるか、物流とかがないから何もすることがなくなって仕事が休みになっちゃうか、どっちかだと思うんですけど、父は すごい残業残業みたいな感じになって、なんかいろんな対応ですごいピリピリしてて。母は母です。なんかその、テレビをすごいテレビにじーって、こう、ずっとくっついていて、その時の本当に自然な感情だしちゃ、全然 なってて、なんか私は、でも、うん、正直、その時テレビを直視できなくて、全然見てないわけではなかったと思うけど、ご飯時とかは、やっぱり普通に見て、
こういう人災だったっていうこと、別に全然知らなかったとかではないけど、この、なんていうの。ご飯の時間以外もにテレビにいるっていうことしないでさ、別に無職だから、やることないんだけど、やることなさすぎて。
そうそうそう、石油が来なくなって、石油。灯油ですね。灯油が来なくなったから、無駄に暖房かけなくなって、家じさ、今だけやっぱり 履いてたんですけど、他のとこには書かなくなって。本当に馬にいるしかないから、することもないんですけど、本来的には何もすることはないんだけど、
こうやってね、なんか、身体と向き合う気持ちがどうしてもできなくて、なんかその間とか、掃除してたんです。家の、なんか、家に50体ぐらいいるポケを全部磨いたりとか、 なんかひたすら掃除とかをして、何も考えないように、こう、手を動かして、そういう風に。家が、別になんかこう、顔合わせた時に見学な状態ではなかったけど、なんか、 なんていうか、言ってしまえば、そう、互いをいたわり合う感じではなかったわけですよね。
なんかあの時って、随分早い段階でマスコミがこう、絆とか言い出したなっていう感覚が私の中にはあるんですよ。それが本当に正しい記憶なのかどうかわかんないんですけど、自分の感覚、 もしかして1か月ぐらいたってからかもしんないけど、もう1週間ぐらいの段階で、そういう絆であるとか助け合いであるとか、そういう言葉がすごいメディアの前面に出てきて。
うん、もちろんね、それが必要な言葉であったから前に出てきたのかもしれないけどね。それに助けられた人はやっぱすごくたくさんいると思うんだけど、なんかこう、それが
うまくいってないことを確認する人もいっぱいいるだろうなって、私はそん時思ったんですよね。
いや、なんか、別にマスコミを責めてるわけじゃないけど、なんかそうすべきではなかったとか言ってるわけじゃないけど、でも、なんか、なんていうの、やっぱそういうことがあると、家族で助け合うとかっていうことが、すごく当たり前 であるかのように言われてね。こんな時だからさ、ね、お互いを気遣って、なんかいたわり合ってやっていこうみたいな。当然あっていいと思うんだけど、でも、そう言われることで、なんかこう、
そういうのは対岸だなと思う人間もいっぱいるだろうなって思ったんですよね。ね、本当、世の中仲いい家族ばっかりじゃないっていうことね。別にうちが仲悪い家族だって言ってるわけじゃないですよ。
なんかすごいお父さんとお母さん、声聞いても怒んないほしい。怒んないでしいんですけど、なんか別にそういうことを言いたいわけではないんだけど、ただ、それが難しい家族っていうのもたくさんあっただろうなっていうことを言いたいだけなん。
本当に。うちの場合もさ、なんか別に父と母がそれぞれまだ若かったっていうか、自分がやんなきゃいけないと感じてることがあったから、
父は当然仕事に出ないといけなかったし、母はさ、やっぱテレビ見て、なんかこう、自分がここに助けに行かなくちゃいけないんじゃないかっていうこと、すごい強く感じたみたいで。で、なんか、ボランティアに行くって言い出して ね、それ、言ってもらえばよかったのかもしれないですけどね、今思えばね、なんか止めちゃったけど、なんか、いやいやいやって、なんか、この、この家はどうなるねんっていうことをね、私、言っちゃったかなと思うんですけど。なんか、でも、いや、ニートのお前頑張れよみたいな、
お前、飯作るよっていうのも、ちょっと思うけど、今になればね、なんか、それで、お母さん、行かせてあげてもよかったかなっていう気もするけど、 なんか、だから、その、母が、別に悪かったとも、私は思わないけど、離れてみて、今、そのね、出来事から離れてみても、そうやっていかなきゃって感じたことは、いいことだったんじゃないかなって思うけども、 なんか、一方で、なんて言うのかな、なんかこう、私はさ、なんかね、すごいお恥ずかしい話なんですけどね、その時、29歳だからね、もう30も目前だからね、非常に恥ずかしい話ではあるんだけど、
私としてはさ、なんか、まだ踏ん張れる年じゃなかったっていうか、自立してなかったんですよ。気持ちがね。うん、なんか、だからさ、すごいそういう時期に、 そういう状態であることでさ、なんかこう、別に態度に出さなかったけど、内心なんかふわーってなっちゃって、なんていうのかな、なんか寂しいなって思ってて。
え。そんな、そんな、すごい、本当にめっちゃ寂しい。めっゃ寂しいとか思ってたわけじゃないけどさ、その友達と1週間ぶりに会って、わーって、大丈夫だったわ。みたいなこともやったしさ。でも、そん時、彼氏とかはいなかったですね。
その秋田では、私は一切ね、彼氏ができる兆しもなかったからさ、そういうとこでさ、別の部分で絆を確認するっていうことができなかったわけなんだけど、寄りどころが実家の他にはないっていう。職場もないしね、無職で。
だから、寂しいというよりも、チューブありな感じになっちゃってね。本当にね、重ねて恥ずかしい話だけど、本当は夜とか、やっぱ怖かったんですよね。その、1人で寝るのがさ。ん。でも、 そんな、30でさ、両親の部屋にさ、行くわけでもなし、
なんか、それで、なんていうのかな、なんかこう、まだ気持ちがさ、すごい守られたいみたいな甘えがあって。だからね、私、考えたんですよ。なんか、どうにかして甘える方法はないかっていうか、なんかこう、誰かと距離を知覚する方法はないだろうかって思ってさ。
その時に私、ばあちゃんにさ、なんか寝る前に、ばあちゃ��、足マッサージして、蹴る。って言ってさ、蹴るっていうのは、私がマッサージしてあげるよっていうことですね。
私がさすがにしてもらうじゃないですよ。その80超えたばあちゃんに、私がマッサージしてもらうわけではないんですけど、ばあちゃん、循環器が結構悪かったから、なんか夜なると足がパンパンだってよく言ってたから、その震災の後から、 ばあちゃんの足をマッサージするっていうのを、こう、自分的に日課にしたんですよね。なんか、そうすることでさ、他人の肌に触れることができるから、あれなんですけど、なんか、他に触れる機会がね、決してないからさ、そうやって生きてるとさ、そんな環境で、田舎で、無職で生きてたらね、 それで、ばあちゃんの足さ、毎晩、そっか、マッサージしたんですよ。
なんか、クリームみたいなの塗ってたな。あれ、でも、どのばあちゃんが毎晩塗るクリームだったかな、なんか、あるんですよね。なんか、病院で処方されたやつがあって、それを塗りながら、こう、本で見たやり方で、こう、私ね、マッサージなんて本当は全然得意じゃないんですよ。
なんかその型うまい人とかいるじゃないですか。
私逆で、そういう人間の体に対する勘みたいのが一切働かない人で、なんとなくイメージ通りだと思うんですけど。だからそのマッサージとか、もう本当になんていうの。本に書いてあるままにただやってるだけで、なんか違うような気もする。なんか手応えがない。よくわからない。でも少しは、少しは役に立てるといいなと思ってやったんですよね。
そしてそうすると、やっぱ自分の心が結構落ち着いていったんですよ。
ばあちゃんはあんまりこう、震災に対して、なんかこう、反応がすごい、なんか、心の中で何か思ってたかもしれないですけどね、当然、ボランティアに行くとか、もうね、外に行けない人だから、言わないし、そういう、ある種、やっぱ、現役を引いてるからこその、 なんていうの、焦燥感のなさっていうのはあったと思うから、なんか、そういう感じで、なんかすごい、震災に対してダメージを受けているっていう感じで、あるようには見えなかったから、本当はわかんないけどね。
それで、なんかこう、私も落ち着いて、そういうことができたっていうか、甘えられたんでしょうね。
うん。でも、結果としてね、なんか、何日ぐらいやったのかな。多分、20日ぐらいやった時に、ばあちゃんにもういいって言われて、なんか多分、多分、入れたかったんですよね。すごい。全く上達しなくて、全く心地よくなかったんでしょうね。なんか、すごいばあちゃんに我慢させてただけだった。20日間 っていうのはね、うん、思い出じゃないですけど、ちゃんと自分の関係性を表すエピソードだなって思ってます ね。でもね、20日間我慢してくれたけど、やっぱちょっと我慢できないなって、ばあちゃんは思ったんでしょうね。でも、そうやって密かにさ、なんか裏技的に甘えてたわけだから、あそこですいませんって言ってやめて、
でも、その辺から日常に戻っていったっていうかね。うん、そんなすぐに日常に切り替えられるわけじゃないけど、 その辺で、多分、文芸屋でもね、その、チャリティ同人とかも動き出して、なんかこう、違う方に向かっていったのかなと思いますけど。震災に関してね、そんな思い出がありますね。震災と、バージョンに関してね。本当、なんか今の震災の話、ちょっと恥ずかしい。なんか恥ずかしいっていうか、情けないっていうかね、 やっぱとても言えないよね。言えないから、今まで言わなかったんですけど、言っちゃった。だから、何も偉そうなこと言えた筋合いじゃないんだけどね、この時になると、色々そんなことも思い出しますね。
ね、自分の話ばっかりしちゃったけど、うん、その時のね、大変なことを今も抱えて生きてる人とかもいるだろうしね、それぞれの3月11日があったかと思います。
じゃあ、こんなところでね、私とばあちゃんと、震災、震災の話にね、半分になってたけど、の話は終わりにしようと思います。
なんか、今、ばあちゃんの話を最後に、なんかこう、ばあちゃんへの感謝の気持ちとかで締めくくらなかったことに対して、え。って思った人もね、もしかしたら、いるかもしれないんですけど、
なんか私、こういう身内っていうかさ、すごく関係が近かった人の話を、すごいありがとうで終わるの、なんか苦手なんですよね。
なんか、ち、なんかね、もう片方の父方の祖母の方は、お別れの手紙にさ、ありがとうってかけたんですけど、すごい遠く、遠くってか、そんなめっちゃ遠くじゃないけど、秋田市から 10キロぐらい離れてるんですけど、そっから見守って、手をかけて育ててくれたおばあちゃんに対しては、ありがとうって言ったんですけど、なんか、同居してた祖母の方には、書かなかったんですよ���。なんか、
うん、別に感謝してないとか、全然感謝してないよみたいな、そんな感じではないし、感謝してる部分もあるけど、なんか、そういう風に折りたたみたくないような気持ちがある。なんか、うん、そういう様式美みたいなのに、こう、収まりきれない、収めたくない気持ちが あるんですよね。だから、でも、そういうのこそ、甘えなのかもしれないですけどね。その距離が近かった人に対するね。
でも、いつかはそうやって、ありがとうって思う日が来るのかもしれないですね。今は、なんか、ばあちゃんばあちゃん、私のことめっちゃさ、心配してくれてたの、よくわかるんだけど、そんなことはわかってるんだけど
ね、なんかすごい孫たちの中で、私だけをさ、団地で心配してたから、その、ニートになる前からね。そう、変な高校、高で不登校になるよりも前からさ、なんか、私 のみをすごい気にかけてるっていうのは気にかけて、他の子も気にかけてたとは思うけど、 私への心配感だけがすごい突出してすごかったから、なんかそれに対して、うん、なんなんでよ。って思う気持ちがなんかまだあってね、そうやってすっと締めくくれないのかもしれないですね。
この間なんか、前紹介してもらった、この番組で紹介してもらったpodcast藤岡ミナミさんのオサナイトっていうのを聞いてたら、死んだおじいちゃんが夢に出てきたみたいな、割と最近の本が書いたと思うんですけど、そういう話があってさ、やっぱりバイトをなくして、そんなにたってないおじいちゃんの夢を見たっていう話なんですけど、 なんか私ね、正直さ、ばあちゃんと私の中だから、夢に出てくんじゃね。と思ってたけどささ、なんか、夢に出てこない
なんていうの、なんか、1回だけね、な、死んだ後に、1回だけ出てきたけど、なんか、じいちゃんと一緒にさ、ニコって笑って、それで終わりだったの。なんか、なんか、ゅ、終了みたいな。なんて言うの。
なんか私になんもないのはいいんだけどさ。ね。何もないみたいですね。そんなこんなで、すごい短く喋るつもりだったのに、なんか短いバージョンで。みたいなことを始まる前に言ったのに、めっちゃ長くなってますね。すいません。
長い話、最後までこんな微妙な話を聞いてくださった皆様、ありがとうございました。
この番組では、ご意見窓口としてマシマのアカウントを解説しております。概要欄にリンクがありますので、こんな話してほしい。こんなこと聞きたい。みたいなご要望、あとはもちろんご感想がありましたらお気軽に送ってみてください。匿名サービスですが、ラジオネームや年齢、ぼかした居住地など書いてもいいよという情報がある方は一緒に書いてくださっても大丈夫です。書いてくださると嬉しいです
ね。このお便り読み上げと、お便り募集の読み上げと、次からの曲紹介を最近ずっとはしょってたんですけど、そして今もしてるんですけど、今日編集全部切ったと思うけど、曲紹介、今日はね、行こうと思います。ちょっと長くなってるから、ほんとさくっと行かせていただこうと思います。
この番組では、spotifyのmusicクラストップ機能を利用して、j-pop大好きな私がテーマにまつわる曲を選び、番組の終わりに流すということをしています。spotifyで番組をお聞きの方以外も、曲紹介を。
曲紹介まではお気軽にお付き合いいただけますと幸いです。今日はね、おじいちゃんおばあちゃんの曲。
なんか調べてみたら、結構世の中にあるんですね。私はそのさ、ダイレクトにおじいちゃんおばあちゃんに歌った曲って、トイレの神様ぐらいしか思いつかなかったけど、なんかもっといっぱいあった。
なんか。でも今日はね、私の趣味で聞かせていただきたいと思います。やっぱj-pop界のさ、おじいちゃんとかおばあちゃん子を選ぶとすれば、やっぱり中村和義ですよね。中村和さんは、 なんかご両親が離婚したと。おじいちゃんとおばあちゃんと同居して、だから両親のどっちとも住まないで、祖父母と住んで、
なんかそこで白6でデビューアルバムを作り上げたという伝説の人なんですけど、私も中村和めっちゃ大好きなんですよね。だから、なんていうの。
番組でいつかかけたいなって思ってる曲って、中村一義の曲でいくつかあったんですけど、なんかね、なんかそこにかっこつけるのもなんかなっていうテーマの時になっちゃって。なんか直感でね、1曲選ばしてもらいました。
中村一義名義じゃなくて、バンドになってからのね、100式になってからの桃とせという曲でいきたいと思います。そんなにね、なんか歌詞の意味わかってるわけじゃない。なんか中村一義の全てを私は全然理解してないと思うけど、なんかもうバシッとね。バーじゃん。10歳に近かったし。桃とせはあれですね、平仮名でもとせって書くんですけど、100年とか10歳とかの意味ですね。
もうそれだけです。今回は何のひねりもありません。工夫がなくてすいません。
まははっぽい曲でもあるんで、中村知らないよっていう方もちょっとよかったら聞いてもらえればと思います。spotifyでお聞きの方はこの後曲が流れますが。いや、ちょっと待って。ちょっと今回告知事項があった 告知、お知らせしたいことが2つあります。なんか前回の前回の回で詳しく喋ってますけど、ある18文学賞新聴者のね私がさたか読書書いただいたある18文学賞が今最終候補の公開と投票の真っ最中でございます。
3月17日金曜日までなので、今週金曜日までなんで、よかったら前回紹介したけどまだ読んでないよとか、まだコメントしてないよって方はお急ぎください。私はコメントしてきました。あともう1個のお知らせはですね、こっちも自分の話じゃないんだけど、 私が去年、その本紹介youtubeでしてる時にさ、紹介したロンバケロングバケーション。あれねえ、96年のドラマのノベライズがなんとまだ18がかかってるっていうので、っていう風に紹介したと思うんですけど、
なんか調べた時に、配信がその時見れなかったんですよ。配信もないし、なんかどっかで、その、今風のサブスクだけじゃなくて、なんかitでお金払ってみるとかできるわけでもなく、 なんかもう、どうにかして、中古dvd買う以外の方法では見れないっていう感じだったんですよね。去年調べた時は。なんか、だから、ノベライズいつまでも読まれてんのかなっていうこともちょっと考えたりしたんですけど、なんか、その、ロンバケがですね、 3月10日から、つまり、もうですよね、tverで配信されています。私もね、そ、小説めっちゃ面白かったけど、ドラマ見たかっていうと、見てないはず。だから、これから見るのもすごい楽しみにして、
さっき見たらね、第1話しか配信されてなくて、なんか、どういうスケジュールで配信してくるのかよくわかんないんですけど、とにかくロンバケっていうタイトルがね、tvで見れるようになったみたいですから、お知らせしておきますね。同世代の方、いっぱい聞いてらっしゃるでしょうから、 懐かしのでドラマ、この機会にぜひ見てみてはいかがでしょうか。じゃあ、ポキファイでお聞きの方は、この後曲が流れますが、朝とはここでお別れになります。今回も長時間、こんなあまりこによくない構想に1時間お付き合いくださりありがとうございました。またお耳に書かれましたら幸いです。それでは聞いてください。100式でモモとセ。
clovanote.line.me
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『吉田 五十八』 - 吉田建築における「いき」の構造 - (2017)
吉田五十八の建築を九鬼周造の『いきの構造』に沿って論じたく思う。
なぜ、『いきの構造』によって吉田の建築を論じたく思うかといえば、かの建築に「いき」性が感じられるとの直感ゆえである。具体的には、軽やかさ、明朗さ、すっきりさ、しゃんとしていること、多分な含みをもっていること、などが感じられた。また、吉田が日本橋の薬��屋の生まれということもあり、その心身のうちに江戸の気風が宿っているだろうという想起に背中を押され、吉田建築のもつ座標を構造的に確認することは妥当性のあることだと思うのである。吉田五十八(1894 - 1974)。九鬼周造(1888 - 1941)。彼ら二人の日本人は、ともに近代化による西洋との対峙を求められた。時間の流れの偶然と必然のもと、語り、記述され、定位される歴史の中で、同時代の空気を吸い生きた人びとの織りなす色あやはどのようなものであったのだろうか。
九鬼周造は東京帝国大学で哲学をロシア人哲学者・音楽家ラファエル・フォン・ケーベルに学び、1921年から1929年のあいだヨーロッパへ留学する。『いきの構造』は1926年12月、留学先のパリにおいて書かれ、帰国後の1930年に雑誌『思想』1月号と2月号により世に問われた。九鬼の留学先はフランスとドイツであったが、フランスではベルグソンに面識を得、ドイツではハイデガーに師事し、彼ら二人に高く評価された。『いきの構造』において、九鬼は西洋の論理スキームに沿って、日本語民族に特有の意識現象としての「いき」の構造を分析した。
1925年、吉田はヨーロッパへ旅行した際、ロンドン、オランダ、ドイツのモダニズム建築を見て失望する。しかし、フィレンツェでのルネサンスやゴシックの建築を見て感銘を受ける。そしてそれらの様式はヨーロッパの血肉から生まれ出でたものであり、日本人である吉田自身が取り組む必然性はないと踏んだ。そうして、近代以降の時代意識を持ちつつも、日本に生きる感性から生まれる建築の姿を求めた。
私には彼ら二人の人物が一対の鏡像のように見える。九鬼は西洋の論理により日本の生を見つめ、吉田は日本に心身を置き西洋を見つめた。西洋的方法により現れる日本の姿と、日本的方法により照射される西洋の相対的な姿。
ここでは、吉田が九鬼の論文を実際に手に取っていたか、それを自身の建築的方法とすることに意識的であったかの如何は問題とせず、吉田建築に受肉した感性としての「いき」について確認したい。
まずは、九鬼による「いき」の概念の措定について記述する。九鬼の論じるところを要約するならば、「いき」とは”対立する二元のあいだのゆらぎによる、多義性と緊張”である。「いき」の意識現象は、男女の間の媚態や、言葉づかい、身振り、状況、所作、顔の表情、衣服、衣服の模様、色、建築や音楽などの形式芸術などに認められる。それは、男女の間のやり取りでは執着しない諦め、しなやかでしゃんとした身振り、湯上り姿、流し目・目配せ・伏し目などの表情における媚態などであり、その特徴を言い換えて言明するならば、”平衡をやぶり常態を崩すこと”、“可能性を可能性のままにし硬直させないこと”と言える。吉田建築にはいくつもの概念的な層において、二元の間のどちらともつかないバランスがあり、九鬼による「いき」の措定が当てはまるように思える。それを以下、いくつかの項目において確認してゆきたい。
『いきの構造』では「いき」な建築の分析として茶屋建築が精査されている。そのような、「いき」の意識にかなうとされる建築的表現においても、”対立する二元のあいだのゆらぎ”という「いき」の構造的な特質が認められる。例えば、竹材や杉皮材ときめ細かな木材との二元的対立であったり、天井と床の対立が両者の材料の相違により強調されていたり(竹天井・黒褐色の杉皮の天井・天井を不均等に二分して大きい部分を棹縁天井とし、小さな部分を網代天井とする・一部分は平天井とし、他の部分を懸込天井とする)することなどである。
吉田建築にあっては、西洋近代建築の構成と日本建築の構成との二元の間をゆらいでいた。そうして、そのような上位構造(西洋近代建築と日本建築の二元の間のゆらぎ)の流入が吉田建築の表現においても認められる。そこでは西洋近代という鏡により日本自身の姿が映し出され、対象化され、認識され、反省が生まれた。その省察により生み出された態度は様々な価値を生み出した。
まずは建築表現上の技法である。第一に、日本建築の線の多さを減算・単純化した点がある。これは物質性から観念性への上昇であり、明朗さが生まれる。”目を細めてテクスチュアをころして建築をみよ”との吉田の言葉にもあるように、そこには抽象性への志向がある。ここには近代化され装いをすこし変えてはいるが、明朗ときっぱりした態度を是とする「いき」の命脈が確かに息づいている。図式的には従来の線の多い日本建築を野暮とし、吉田建築を意気とした二元がある。
次に原理と事象に関するものである。そのことに関して、かたちとして大壁を用いたことに触れたい。吉田が大壁を用いたのは関東大震災の悲惨を受けた、防火や耐震構造上の必要からであった。これは構造表現主義をうたう当時のストレートなモダニズムからは反立し、建築家の浜口隆一から”シャム・コンストラクション” = 偽の構造との批判を受けた。しかし、このことは、生活の中で起きる事象や与条件を受け止めたしなやかさがあり、建築家として誠実な態度であると思われる。ここには、建築形式の原理的整合性と生活の営みの中での状況の多義的な不整合とのゆらぎがある。
また、面的な大壁の表現は、建築を経験する主体と建築との関係を簡素で明朗なものとし、このことにも軽やかな「いき」の様態が見て取れる。加えて、面へと還元された構成は重層的な構成であり、多義的なシークエンスを生む。建築形式としては人の動きを予測し、計画されてはいるが、それはすべて先回りして機能として予定調和し補完されているのではなく、創発的な行為へと開かれた多義的な余白を持ち構成されている。これは“可能性を可能性のままにし硬直させないこと”と言える。
そして、寝殿造のようなおおらかさや、「家のなかに庭がある」のではなく「庭のなかに家がある」というような、自然の中に溶け込んで主体性が消え去るような日本性も吉田建築の特徴と言える。それは、丹下健三のような構造合理主義、理性原理主義、大陸的な国際性でもない、単なる日本の民家でもない、ケネス・フランプトンならばクリティカル・リージョナリズムと分類するだろうアティチュードが見て取れる。建築家の富永譲は日本におけるアルヴァ・アアルトであろう、と述べている。
『いきの構造』にはこうある。「いき」は過去を擁して未来に生きている。
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本イベントは参加受付を終了いたしました。
この度、百年(ペンニョン)は、高麗博物館にて、「NOジェノサイドのワッペンをつくって、かたろう!〜関東大震災朝鮮人虐殺と植民地主義〜」ミニレクチャーとワークショップを開催します。
1923年9月1日、関東大震災の直後から、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こそうとしている」といったデマが広がり、多くの人の命が奪われました。2023年の今年は、関東大震災からちょうど100年目です。
百年(ペンニョン)では、若い世代が中心となり、荒川河川敷での追悼式の主催をはじめ、映画の上映会や、虐殺現場を歩いて回るワークショップ、資料や写真のアーカイブ化に取り組んでいます。
今回のワークショップでは、 関東大震災朝鮮人虐殺やペンニョンの活動に関するミニレクチャーを行った後、テーブルを囲みながら、それぞれのNOジェノサイドの想いを込めたワッペンを作ります。
節目の100年目を終えても、決して「過ぎたこと」「終わったこと」ではありません。虐殺は、今もこの世界で起こり続けています。
ペンニョンメンバーと一緒に手を動かしながら、関東大震災朝鮮人虐殺と植民地主義について学び、考え、話しませんか?
ワッペン作りは、小さな布切れに、ひもやビーズなどを縫い付けるような簡単な作業です。
縫い付けたい材料や、使い慣れた裁縫セットがある方は、是非お持ちください。
◆百年とは
ほうせんか100周年追悼式実行委員会。「ペンニョン」は百年の韓国・朝鮮語読み。朝鮮人虐殺のことを学ぶため、墨田区八広にある「ほうせんかの家」に各々集まった20代〜40代で、2021年冬に結成された。
「関東大震災時に虐殺された韓国・朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」(一般社団法人ほうせんか)が1982年から毎年9月荒川河川敷で行ってきた追悼式を継承し、2023年追悼式の企画・運営を担った。 若い世代が中心となり、映画の上映会や、虐殺現場を歩いて回るワークショップ、資料や写真のアーカイブ化に取り組む。
web ▶ https://100nyeon-housenka.tumblr.com/
instagram ▶ https://www.instagram.com/100.nyeon/
◆こんな人におすすめ
関東大震災朝鮮人虐殺、植民地主義、社会運動について知識はあまりないが、考えたい、語りたい方
社会運動の経験があまりないが、今後関わりたいと思っている方
◆当日の流れ
17:30 開場(イベント開始まで、高麗博物館の展示を一部ご覧いただけます。)
18:00 百年(ペンニョン)より、関東大震災朝鮮人虐殺やペンニョンの活動に関するミニレクチャー
18:30 テーブルにわかれてNOジェノサイドワッペン作り
19:30 完成品お披露目、感想共有
19:45 高麗博物館の方からお話
◆定員
15名
本イベントは参加受付を終了いたしました。
◆申し込み方法
以下のフォームから必要事項をご記入ください。
◆申し込み期限
2023/12/8(金)
※定員を超えた場合は先着順となります。
◆参加費
中高校生:200円(入館料のみ)
30歳未満:500円(入館料400円+100円)
30歳以上:1000円(入館料400円+600円)
◆その他
情報保障の必要など、なにかお困りごとや心配事などございましたら、申し込みフォームへご記入ください。
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都立横網町公園は慰霊と伝承の公園です。 大正11年(1922年)、東京市は、陸軍被服廠(ひふくしょう:軍服などを作る工場)の移転に伴い跡地を買収し、公園の造成を進めていました。その最中に発生したのが、翌12年(1923年)9月1日の関東大震災です。まだ空き地状態だった被服廠跡に周辺の人たちが家から布団や家財道具を持ち出し、続々と避難してきたのです。 ちょうど昼時であったことと、台風の余波で強風が吹いていたこともあり、各所で火災が発生しました。やがてこの被服廠跡にも強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が持ち込まれた家財道具などに燃え移りました。激しい炎は巨大な炎の竜巻、火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込みました。この地だけで、3万8千人もの尊い命が失われました。 関東大震災の死者は、当時の東京府市合わせて7万人を超えるといわれています。この諸霊を弔慰するため四十九日に相当する大正12年10月19日に、この地において東京府市合同の大追悼式を挙行したのが、この公園の歴史を刻む最初の出来事でした。 翌大正13年9月1日、東京府市合同で震災殃死者一周年祭並びに法要が行われ、以来絶えることなく今日まで続けられてきました。 当初「大正震災記念公園」と仮称された公園でしたが、昭和5年(1930年)には、慰霊堂(当時は震災記念堂)や鐘楼、日本庭園が、時の皇室から庶民までの尊い寄付を受けて完成し、9月1日、横網町公園として開園しました。翌年には、復興記念館も完成し、ほぼ現在��横網町公園のかたちが出来上がりました。
都立横網町公園の歴史|公園利用の方|都立横網町公園
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