#東京大学理科学研究科付属植物園
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2023.7.16 日光植物園
アキアカネと夏の花 キレンゲショウマ、クサアジサイ、ヒヨドリバナ、ウマノミツバ
#dragonfly#flower#nature#tokyo university of science#Nikko Botanical Garden#日光植物園#東京大学理科学研究科付属植物園#とんぼ#アキアカネ
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへ���まみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧���擁衣肩圏零酸兄罰���滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フラ��シス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって��拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろし��話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語で���なくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースー��は言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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(注)、これは、本編となる別途作成予定ファイルの資料編です。1952年5月1日のメーデー事件から50年以上経った現在も、人民広場における戦闘状況、その前後の様子は、「藪の中」にあります。このファイルは、その真実解明のための第一次資料7篇と解説です。添付地図は4枚とも、『メーデー事件裁判闘争史』にあります。写真9枚は、『昭和史14』(毎日新聞社、1984年、絶版)、『グラフィック昭和史11』(研秀出版、1960年、絶版)、『メーデー事件写真集』(メーデー事件被告団、1967年、絶版)からの複写です。
〔目��〕
1、解説(宮地)
1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
2、資料編題名『広場における戦闘』 人民広場地図
3、広場の七人が語る〔真相〕
2、資料編
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
由井誓 『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
1、解説(宮地)
〔小目次〕
1、芥川竜之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
2、資料編題名『広場における戦闘』
3、広場の七人が語る〔真相〕
1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
この小説と、それを原作とした映画は、平安の乱世、都に近い山科の藪の中で、旅の武士が殺された事件をめぐるストーリーです。そして、その経過をめぐって、7人または4人が、それぞれの視点で語る〔真相〕をそのまま描いて、結論を出さないというユニークな構成になっています。
『藪の中』の7人が語る〔真相〕 登場人物は、木樵り(きこり)、旅法師、放免、媼(おうな)、多襄丸(たじょうまる)の白状、清水寺に来れる女の懺悔、巫女の口を借りたる死霊です。
『羅生門』の4人が語る〔真相〕 映画のシナリオは、それらを、多襄丸(三船敏郎)、真砂(京マチ子)、巫女の口を借りた武士(森雅之)、杣売り(そまうり、志村喬)に絞っています
いずれも、一つの事件について、関係者めいめいが主張する〔真相〕通りに、繰り返し描いています。しかし、かんじんなところでは、全員が食い違っています。人間、誰でも自分をかばうエゴイズムから、どこかで嘘をつき、結局、真実はわかりません。私(宮地)は、気に入った映画を繰り返し観るのがくせで、一番多いのは、エイゼンシュテイン監督『戦艦ポチョムキン』の7回ですが、『羅生門』も5回観ました。黒澤明のダイナミックな演出や、宮川一夫の微妙な光と影を写し撮る撮影技術には、その都度引き込まれます。
1952年5月1日、サンフランシスコ講和条約発効から3日目、米軍占領終結後初の首都メーデー中央集会が、神宮外苑で開かれました。そこから5つのコースでデモ隊が出発しました。そのうち、日比谷公園で流れ解散する予定の中部・南部コースのデモ隊が、人民広場と呼ばれる皇居前広場に入り��した。その広場で起きた事件が、メーデー事件です。
このメーデー事件の〔真相〕については、数百の記事、証言が語ってきました。このファイルは、資料編と解説であり、広場の7人が語る〔真相1~7〕を、結論を出さずに提出します。
2、資料編題名『広場における戦闘』
ただ、資料7篇とはいえ、それらの資料選択をした私(宮地)の価値判断をまったく出さずにおくわけにもいかないので、ここに、本編の骨子一部のみを書きます。この内容は、メーデー事件の全体像・真実を描くんだとする、大それた意図に基づくものではなく、私が50年後に主張する〔真相8〕に該当します。私自身を、『藪の中』の8人目として登場させるわけです。その視点は、ソ連崩壊後に発掘された朝鮮戦争をめぐるスターリン・毛沢東・金日成らの膨大な秘密暗号電報・公文書(アルヒーフ)データや、50年間で判明してきた後方基地武力かく乱戦争行動実態資料から、メーデー事件を、ソ連共産党・中国共産党の朝鮮戦争参戦軍事命令に完全従属していた日本共産党の広場突入軍事行動という一側面から捉え直すことです。ソ中両党の思惑とアメリカ「軍」・GHQの動向とを合わせて、国際的視野から、メーデー事件を位置づけることです。その詳細は、本編で分析します。
それを分析する上で、まず、メーデー・吹田・大須事件などの武装闘争を実践した主体は、徳田・野坂分派という分裂した共産党の一部なのか、それとも、“統一回復”をした日本共産党そのものなのかを、明確にしておく必要があります。1951年10月初旬、宮本顕治は、スターリンの「宮本らは分派」との裁定に屈服しました。国際派とは、スターリン直筆の「コミンフォルム批判」の即時無条件受諾=暴力革命路線への転換と武装闘争即時遂行を強烈に主張したスターリン盲従派だったのです。その国際的隷従体質が、国際派と呼ばれる所以(ゆえん)です。なかでも、宮本顕治のスターリン盲従・崇拝度は、あまりにも極端だったので、中央委員の80%、専従の70%、党員の90%が、彼に反発を抱き、国際派は、まったくの少数分派に転落していました。スターリンは、日本共産党を朝鮮戦争に参戦させ、後方基地武力かく乱戦争行動を展開させるために、もっとも熱烈に自分を信奉してくれている“愛すべき”宮本顕治ら10%少数派を切り捨て、ソ連NKVDスパイ野坂参三と徳田球一らの主流派に軍配を上げたのです。
スターリン崇拝者・宮本顕治は、やむなく、自分の少数分派=全国統一会議を解散し、主流派・軍事委員長の志田重男に、「新綱領(スターリンが直接書いた51年綱領)を認める」との自己批判書を提出しました。彼の屈服により、反徳田5分派はすべて主流派に屈服・復帰し、日本共産党は、“統一回復”をしました。
宮本屈服数日後の1951年10月16日、五全協は、軍事方針をさらに具体化し、武装闘争の実践に踏み出しました。それ以後、1953年7月26日の朝鮮戦争休戦協定成立日までの1年9カ月間の武装闘争とは、まさに、ソ中両党の軍事命令に隷従した“統一回復”日本共産党が、朝鮮戦争に参戦した後方基地武力かく乱戦争行動でした。
『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの動向、宮本顕治のスターリン盲従度
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』たった8字の宮本顕治の自己批判書
人民広場とは、皇居前広場のことで、日本国民は、米軍占領下でも、メーデーなどに40数回使っていました。ところが、吉田内閣とGHQリッジウェイ最高司令官は、スターリン・毛沢東・金日成ら3カ国共産党・労働党が仕掛けた朝鮮侵略戦争が勃発すると、その10カ月後の1951年4月27日、その兵站補給後方基地日本における治安維持のために、人民広場のメーデー使用を禁止しました。よって、それ以来、「人民広場奪還」スローガンは、東京・関東地方における正当な国民的要求になっていたのでした。
一方、アメリカは、日本を反共の永久的な不沈空母基地にするために、占領をやめ、独立させることのほうが上策との東アジア支配・米ソ冷戦戦略に転換しました。そこから、熱い朝鮮戦争最中にもかかわらず、1952年4月28日に向けて、単独講和条約締結の準備を進めました。その日本国内では、ソ中両党が出した朝鮮戦争参戦命令に盲従していた日本共産党の四全協・五全協による武装闘争・軍事方針とその遂行が勃発していました。それだけでなく、北朝鮮系在日朝鮮人45万人と、在日朝鮮人日本共産党員を中心とする祖国防衛隊(祖防隊)が、金日成らによる朝鮮侵略戦争を、祖国解放戦争ととらえて、総決起していました。当時、在日朝鮮人の活動家は、朝鮮労働党ではなく、日本共産党に入党し、共産党中央の民族対策部(民対)の指導下にありました。アメリカ「軍」は、朝鮮半島で、最終的にアメリカ兵3万4千人(アメリカ国防省発表数字)を戦死させる激戦を続けていました。片や、日本経済は、朝鮮戦争特需によって、急速に復興しつつありました。4月28日講和発効後の日本国内治安対策こそ、アメリカの日本占領「軍」と吉田内閣にとって、最重要課題の一つに浮上してきました。なぜなら、まさに、その3日後には、「人民広場奪還」をめざすメーデーが計画されていたからです。政府・警視庁とGHQは、日本共産党が、五全協軍事方針の最大の実践として広場突入軍事行動を決定し、3カ月前から周到に準備し、突入部隊の軍事訓練をしていることを、公安調査や中核自衛隊員・祖防隊員などの中から飼育したスパイ情報によって、刻々とつかんでいました。
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』北朝鮮系在日朝鮮人組織と運動の3段階
1952年4月末時点、朝鮮半島で、朝鮮侵略戦争を遂行しているマルクス主義前衛党「軍」は、朝鮮労働党人民軍10万人、中国共産党人民義勇軍のべ300万人、ソ連共産党空軍のべ��万数千人でした。後方基地にいるソ中両党従属下の日本共産党「軍」は、結成途上でした。それでも、都市部の中核自衛隊500隊1万人、独立遊撃隊、山村工作隊、在日朝鮮人の祖防隊数千人がいました。共産党の軍事指令が浸透する大衆団体には、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組、産別の金属労組、前進座、および、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)などがありました。
朝鮮侵略戦争を遂行中のソ中両党、および、その完全従属下にある日本共産党北京機関と中央軍事委員会にとっても、1952年メーデー「人民広場奪還」作戦こそは、6カ月前に決定した五全協の軍事方針を実行する最初で最大の後方基地武力かく乱戦争行動会戦に浮上したのでした。アメリカGHQ・吉田内閣・警視庁の7つの方面本部部隊数千人と、ソ中両党・徳田野坂の北京機関・日本共産党軍事委員会とは、それぞれ正反対の思惑を秘めて、五全協後の半年間、メーデー人民広場会戦に向けて、戦争作戦準備と戦闘体制を整え、5月1日、デモ隊鎮圧治安行動と広場突入行動とを激突させたのです。これら準備の詳細については、本編ファイルで分析します。
しかし、共産党の戦闘作戦は、敵=政府・警察軍と共産党「軍」だけによる人民広場会戦ではなく、メーデー参加の一般国民を、どれだけ、いかに巻き込むのか、それによって首都東京で革命的情勢をいかに人為的に醸成するのかという戦略目的を持つものでした。言い換えれば、共産党は、講和3日後に50万人が参加するメーデーこそ、共産党による一般人民利用の絶好の舞台であると設定したのです。なぜなら、共産党は、最初から、広場突入作戦を、自分たちの共産党「軍」だけでやり、警視庁の7つの方面本部部隊数千人との戦闘をやる意図・計画などをまるで持っていなかったからです。
5月1日の人民広場における戦闘の参加者と、その比率を確認します。
第一、共産党系大衆団体を合わせた日本共産党「軍」数千人
中核となる共産党員部隊は、中核自衛隊、独立遊撃隊、山村工作隊、祖防隊です。党中央軍事委員会が、馬場先門を突入入口とする中部デモ隊に配備した大衆団体は、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員、前進座などでした。そして、祝田橋を第2の突入入口とする南部デモ隊の先頭には、一般国民を広場突入に誘導する目的で、産別の金属労組、都学連一部、北朝鮮系在日朝鮮人組織の民戦2000人を配備しました。さらに、前進座には、陣太鼓10個以上を持ち込ませ、その鳴らし方で、広場突入または一時後退の合図とする指令を、各中核部隊に周知徹底させていました。前進座陣太鼓の後に設置した、広場突入指令のメーデー会場内秘密共産党本部には、東京都内5地区・三多摩地区軍事委員会から、各数名づつの軍事レポ要員(各戦闘部隊への連絡員)を配備しました。表にでる本部代表には、岩田英一を任命しました。
桜田門 二重橋
馬場先門
第二、人民広場に入った中部・南部コースのデモ一般参加者2万数千人
中央メーデー大会参加者は、50万人でした。デモ5コース中、日比谷公園で流れ解散予定の中部・南部コースのデモ一般参加者は、十数万人です。彼らは、東京地裁の使用許可決定が出ているのに、なお人民広場を使用させない政府の対応に怒りを持ち、人民広場奪還の要求を正当と認めつつも、大会実行委員会による抗議声明と広場進入をしないという決定に賛成していました。実力で、広場突入をすべきと考えた一般参加者は、日本共産党「軍」数千人を除けば、ほとんどいなかったでしょう。ましてや、彼らは、軍事委員会の広場突入作戦計画の存在などまったく知りませんでした。共産党の扇動・誘導部隊が突入したので、かつ、馬場先門・祝田橋において、警察が阻止行動を謀略的にほとんど行なわなかったので、自然発生的に人民広場に入ったというのが、一般参加者2万数千人の実態です。よって、警視庁の7つの方面本部予備隊が、警棒・催涙弾・ピストルで、3次にわたる違法な先制襲撃をしてくるなどとは、予想もしていませんでした。その激戦になることを予想し、準備していたのは、日本共産党「軍」数千人だけでした。ただ、違法な襲撃を受けた一般参加者が、それに怒って、投石・プラカードなどで反撃したのは、当然で、正当防衛の行為といえます。
第三、政府「軍」=警視庁7つの方面本部予備隊4100人
中部コースからの全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員が、馬場先門から突入しようとしたとき、馬場先門の阻止線に配備されていた警察隊は、450人でした。祝田橋阻止線の警察隊も120人でした。二重橋前の本部でも、210人でした。不思議なことに、馬場先門の警察隊長は、警視庁本部から「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで���せ」との命令を受けていました。その裁判証言どおり、彼らは、若干の小競り合いを演技しただけで、さっと左右脇に引き下がって、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員らを、人民広場に“逆誘導”したのです。祝田橋でもほぼ同じでした。
中部コース隊が、人民広場に入っていった時点で、警視庁は、第3の桜田門から、続々と警視庁第2~第7方面本部予備隊を、広場に投入しました。全体で4千人以上の警視庁予備隊・約28個中隊は、警棒・催涙弾・ピストルなどで、完全武装していました。予備隊とは、現在の警察機動隊のことで、7つの方面本部は、この時すでに、その下に各4個中隊の首都治安維持・デモ鎮圧目的の機動隊を結成・配備していました。そして、警視庁本部の襲撃命令に基づいて、3次にわたる違法な先制攻撃という戦闘を遂行しました。そこでの攻撃対象は、日本共産党「軍」部隊と一般国民との区別をまるでしません。それは、まさに、警察側の全武器を使った無差別テロ襲撃でした。
政府・警視庁の意図・目的を露骨に示した証言があります。それは、田中栄一警視総監が、事件の翌日5月2日、東京都議会で行なった報告です(『メーデー事件裁判闘争史』闘争史編集委員会、1982年、P.173)。「各署それぞれ自己の勢力によって自衛体勢をとるということを建前にいたしまして、予備隊その他メーデーに直接関係のある、あるいは出発地、あるいは開催地などの署員を合算いたしまして、大体四千百名の勢力によってこの五つのメーデーを取締りするという計画を立てたのであります。そして皇居前広場にこれを導入いたしまして、やがてこの五つのメーデーが逐次解散をするとともに勢力を引き上げまして皇居広場にこれを注入いたしまして、そしてこの大集団を処理するという予定を立てておったのであります。ところがこのメーデーの行進がきわめて迅速であり、またそうしたために勢力を集中することが時間的に若干ずれが生じました」。
これは、政府・警視庁の意図と具体的な広場戦闘作戦が、「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで通」し、「皇居前広場にこれを導入」し、「四千百名の勢力を、順次、皇居前広場に注入」し、「この大集団を処理するという予定」だったことを、翌日、誇らしげに報告したものです。彼らは、共産党「軍」の明白な朝鮮戦争後方基地武力かく乱戦争行動の目的とは別個に、講和条約発効3日後のメーデーにおいて、人民広場突入会戦を仕掛けた側を、わざと皇居前広場に導入しておいてから、完全武装の警視庁「軍」の3次にわたる先制攻撃によって、無差別の集団処理をし、それを通じて、日共の戦争犯罪を国民の前に暴露し、同時に、日本の治安体制を、独立3日目から一挙に打ち立てようという壮大な目的に基づく人民広場会戦にしたのです。
彼らは、警視庁本部に刻々と入る公安・スパイ情報を分析しながら、共産党「軍」が広場突入軍事作戦を決行してくれることを逆手にとり、首都の治安確立をし、かつ、警察予備隊=機動隊28個中隊に暴徒鎮圧大戦闘を初めて実体験させる上で、願ってもないような絶好のチャンス到来であるとして、待ち構えていたのでした。
さらにもう一歩踏み込んだ別の言い方をすれば、日本共産党「軍」は、広場突入会戦において、一枚上手の政府「軍」のわなに見事にひっかかったといえます。なぜなら、メーデー事件の全経過を見ると、政府・警視庁は、警視庁隊4100人を待ち伏せさせ、共産党「軍」を、2つの門の阻止線を空にして、人民広場に突入させるという逆誘導をしておいてから、解散警告なしに警棒を使った第一次先制襲撃をしたのです。そして、桜田門側から続々と注入した新武装部隊による催涙弾・ピストルを使った第二次包囲殲滅・広場追い出し襲撃に移行し、さらには広場外へも大追撃戦を展開して、大量逮捕の第三次掃討戦闘を遂行するという、3段階にわたる緻密な戦闘作戦を、事前に持っていたと推定できるからです。
それにたいして、志田ら共産党軍事委員会は、広場突入後の敵の出方、敵「軍」が3段階にわたって、日共「軍」殲滅作戦をするのではないかという想定をまるでしないままで、一般国民2万数千人を、“自分たちの戦争”の道連れにしたのではないかと推定できます。
戦争において、敵「軍」の侵略・突入作戦計画を事前に十分知りつつ、敵「軍」をして、先に戦争を仕掛けさせておき、国際・国内世論を味方につけ、それから、完璧な戦争システムで“正義の反撃戦争”に進むという手口は、アメリカ「軍」が得意とする常套手段です。第1のケースは、日本海軍によるパールハーバー突入・奇襲攻撃です。ルーズヴェルトが、日本「軍」の暗号電報解読などで事前に知っていて、突入をやらせ、「Remember Pearl harbor!」で、アメリカ世論を参戦に転換させる謀略作戦をとったということは、今や常識に近いでしょう。第2ケースは、スターリン・毛沢東・金日成の共謀による朝鮮人民「軍」10万人の38度線突破侵略戦争です。トルーマン・マ��カーサーが事前にその情報を得ていて、先に侵略をやらせたことについては、萩原遼が『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰��』(文芸春秋社)で、アメリカ側データの分析により、完璧に論証しました。
メーデー事件当日は、朝鮮戦争の真っ最中であり、かつ、3日前まで、アメリカ「軍」が日本を軍事占領していました。吉田内閣・警視庁だけでなく、GHQも、アメリカ「軍」がたたかって、5万人ものアメリカ兵が最終的に戦死した激戦状況において、日本共産党「軍」の広場突入作戦が、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動であり、かつ、それは、ソ連共産党・中国共産党による日本共産党への軍事命令に基づく一大会戦の性格を持つことを認識していました。そもそも、敗戦後40数回も使用してきた人民広場を、朝鮮戦争勃発の10カ月後に、使用禁止の占領軍命令を出したのは、GHQです。GHQは、人民広場使用または突入の政治的軍事的意味を、もっとも正確に理解していました。したがって、このメーデー事件めぐる動向は、アメリカ「軍」の常套手段としての第3のケースになるというのが、国際的視野から見た私(宮地)の見解です。この事件の背景には、GHQと政府・警視庁トップらによる、朝鮮戦争がらみの共同謀議が、メーデー当日前に成立していたと判断できます。
占領・行政・反乱鎮圧体験を豊富に持つ米日権力「軍」にたいして、日本共産党「軍」は、ソ中両党の完全従属下にあり、敗戦7年後で戦争拒絶の国民意識を自主的に分析する能力に欠け、中国共産党「劉少奇テーゼ」という植民地型の人民解放戦争スタイルを、発達した資本主義国日本でやれとの毛沢東・劉少奇の軍事命令に盲従した軍事方針で立ち向かったのです。人民広場における武器量・武装力の違いだけでなく、広場突入会戦の戦略・事前作戦計画・相手方の情報収集戦の段階から、共産党「軍」は、敵の出方のわなにはめられていたといえます。メーデー事件に関するGHQレポートが、アメリカ政府・国防省に送られ、保管されているはずです。それが発掘されれば、『藪の中』の真実解明に一歩近づくでしょう。
3、広場の七人が語る〔真相〕
以下の七人(組織)以外に、マスコミ報道、映像、メーデー参加者の発言、裁判における検察側・弁護側証人の証言、第一審・二審判決文という資料が膨大にあります。それらの内容は、概況的なものから、各個人の断片的な体験記など、それぞれ数百人が語る〔真相〕です。その中から、このファイルでは、広場の七人が語る概況的な〔真相〕のみを、資料編として抽出します。
ただ、芥川龍之介も黒澤明も、各自が主張する〔真相〕のうち、いずれが「真実」なのかを結論づけず、多面的な視点をそのまま提出して、小説・映画を終えています。『羅生門』の視点は、日本国内上映当時、不評でした。それにもかかわらず、ヨーロッパ近代個人主義の風土において、1951年、ベニス国際映画祭グランプリをとったのは、各自が主張する〔真相〕と、事件の「真実」とは異なり、真実は『藪の中』にあり、そのいずれかを絶対的真理と断定することを拒絶するという相対化思考がありました。メーデー事件は、この受賞の8カ月後でした。
私(宮地)も、メーデー事件から50年以上を経過した現在、別ファイルの本編において、〔真相8〕宮地健一『メーデー事件における広場突入軍事行動―志田・宮本が隠蔽した裏側の真相』を書いて、藪の中の「真実」解明の一員に参加する予定です。
2、資料編
〔小目次〕
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他
(注とコメント)、これは、共産党中央委員会発行の非合法機関誌『国民評論40号』(1952年7月1日)に、軍事委員メンバーが、ペンネーム大橋茂で発表した論文です。この全文を捜しましたが、私(宮地)の手元にまだありません。よって、大井廣介『左翼天皇制』(ぺりかん社、1976年、絶版)に載っている抜粋文(P.104~108)の全文を転載します。他1篇は、同じく、非合法機関誌『組織者11号』(1952年6月1日)に発表された論文の一部で、大井著書(P.108)にあります。この論文は、日本共産党が、広場突入を、まさに人民広場戦争と位置づけていたことを示す証拠文書であり、その内容は、共産党「軍」側が描いた広場突入会戦の生々しい戦記レポートといえます。
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『メーデー事件の軍事的教訓』 『国民評論40号』
中核自衛隊、行動隊による宣伝は会場内の空気を変え、全大衆を人民広場へみちびく雰囲気をつくりあげた。……このメーデー事件の全体をつうじて行動隊の宣伝活動がひじょうに大きな役割をはたしている。(中略)
○時四十分にデモがはじまった。中核自衛隊、行動隊等は大衆を人民広場へ導くために全力をつくした。日比谷にむかう南部、中部デモ隊のほかに、渋谷にむかう西部デモ隊は七千が渋谷へ、一万二千が人民広場へむかった。北部でも、愛労に指導され新宿にむかうものと人民広場へむかうものとに別れた。……デモ隊はアメ公帰れ、吉田を倒せ、戦争反対等のスローガンを叫び、自由党本部前では石を投げて攻撃し、パトロールカー、首相官邸前交番等へも石による攻撃を行い、革命的に行動した。(中略)
この大衆の人民広場への行動を弾圧するために、敵は周到な計画を立てていた。かれらは日比谷交叉点、GHQ前、丸ノ内署前に、丸ノ内署長の指揮する約三百名の警官を待機させ、馬場先門には三田署長の指揮する水上中隊、祝田橋入口には高輪中隊、桜田門には小田小隊等総数二百をあて、そのほか第一方面予備隊三箇中隊を出動させていた。それらの部隊ではデモ隊をそ止しえないことは明らかである。
かれらの計画は、この少数の警備隊によって、デモ隊を人民広場の中央にゆう動し、ここで包囲攻撃をすることにあった。かれらはそのために、第三方面予備隊四箇中隊、第四方面予備隊四箇中隊、第五方面予備隊四箇中隊、第六方面予備隊四箇中隊、第七方面予備隊三箇中隊を人民広場の周辺に待機させていた。しかも、これらの部隊には、ガス班長の指揮する約十名単位のガス班も数十組も組織していた。
デモ隊は、二時二十分頃日比谷交叉点および馬場先門で警官隊と小ぜりあいを行ない、この警官網を突破して馬場先門から二重橋前に到着��た。ここで大衆は万歳を叫びアカハタをたてた。大衆は大会を開き、解散する準備をはじめていた。ところが、敵は皇居警護官約百名、第一方面予備隊三箇中隊、三田署部隊約二百名の他に、さらに第七方面三箇中隊を増強し、これを一つに集中した。かれらは乱暴にもコン棒をふるって攻撃を開始した。大衆はこれを二重橋前に押しつめた。敵と味方の間隔は数米しかない状態だった。
この対峠したなかで、デモ隊から「さがれ」という号令を叫ぶものがあった。大衆はうねるようにしてさがった。官憲は前進してきた。すると大衆は、これを引きずりこみ、プラカード等で攻撃を加えた。あわてた敵の指揮官は「警官隊さがれ」と叫ぶ、敵が後退する。デモ隊はふたたび包囲環を縮めた。このような前進と後退が数回くり返された。そのたびに敵は打撃を受けた。これはまったく創意的な戦術だった。
しかし、この時期は戦術的にはもっとも重要な時だった。敵の兵力は約九百、味方の行動実勢力は約五千とみられる。しかも敵は動揺し、味方の志気はたかかった。したがって、ここで集中した敵の力を分散させ、これを個別的に攻撃することは可能だった。ところが、この有利な条件を戦術的に運用することがなされなかった。弱い敵の集中にたいし、味方の体制も密集体形から変化させることができなかった。この結果敵はだいたい八十名よりなる一箇中隊を単位に最後まで組織的に行動することができた。かれらは全滅する条件にさらされ、指揮官自身があわてて発砲するようななかで、部隊として大きな被害を受けなかったのである。
いま一つ味方の弱点は、全体がデモ隊のなかに解消し、予備行動のための強固な遊撃部隊を組織していなかったことである。このために、敵の弱点を機動的に集中的に攻撃することができず、また敵の増強部隊にたいしてそなえることができなかった。
包囲された敵は、不法にも拳銃を発射し、ガス弾を使用した。第一方面の長岡第二、永井第四部隊が攻撃の主力になっていた。かれらはこの時五十発のピストルと六十八個のガス弾を使っている。デモ隊は勇敢にもガス弾を投げ返し、敵に損害をあたえたが、全体としては相当の犠牲を受け後退した。この後退した場合も敵を引きこみ、包囲することは可能だったが、密集体形のまま祝田橋通りを挟んで敵と対時した。この戦闘において味方の弱点は味方の部隊を大きく動員し、敵を包囲する体制に指揮することができなかったことである。
この対峠したなかで、デモ隊は敵にたいして、「お前達は何しに来たのか」「泥棒をつかまえろ」「アメ公の番犬」「どちらが悪いか考えてみろ」「税金つぶし」などと叫んで攻撃を加え、敵にたいする憎しみをバク発させていた。敵がコン棒を振るとデモ隊は石を投げて攻撃した。敵のなかからも「片っぱしからつかまえろ」「あいつをやれ」など号令をかけてきた。とくに、四十歳位の頭髪の薄い指揮官が六尺棒を振って大衆をなぐりながら指揮していた。見物している者もこの官憲の残酷さにあきれ、全体がデモ隊を支持していた。見物��大衆のなかから官憲にたいしてバ声や石つぶてが飛んでいた。先遣デモ隊は人民広場に入ってからこの時まで約一時間にわたって勇敢に闘い抜いたのである。このことは国民武装の可能性を事実によって示した。(中略)
先遣デモ隊がガス弾ピストルの攻撃を受け、祝田橋通りへ後退しつつある時、中核自衛隊の一部は後続デモ隊に急を知らせるために走った。後続デモ隊でも「人民広場へ」「仲間を孤立させるな」が大衆の声となった。社会民主主義者はこの大衆を押え先頭の速力をおとして先遣デモ隊を孤立させようとした。しかし大衆はかれらをツルシあげながら三時二十五分頃から続々と祝田橋を渡り人民広場へ入った。広場の大衆は熱狂してこれをむかえた。新しい部隊を加えてデモ隊は馬場先門通りをはさんで大きく二つの群に別れた。この時、敵もまた増強しつつあった。先ず第六、第七、第三各方面予備隊七箇中隊が桜田門より入り、第一方面予備隊と合流した。大衆は再び体勢を整え、風上へ風上へと向いながら二つの群が一つとなり敵を二重橋前に圧迫した。これによってデモ隊は第二の勝利をかちとった。この闘争の中で最も重要と思われる時機をつかんだのである。しかし、誰も敵を圧迫した重要なこの時に更に何を行なうべきかを大衆に示すことが出来なかった。デモ隊を指揮していた人々も、この瞬間に何をやるのか決断がつかず躊躇した。従って、大衆の意志と行動を一つの方向にむけることができなかった。この結果大きな戦術的な行動を組織する機会はにげ去ってしまったのである。
この時敵の兵力は、予備隊十五箇中隊を主力とする約千五百、味方は敢闘して結集しているもの約一万、同調的なもの約二万合計三万とみられる。従ってここで開いながら革命的な大会を持ち、解散することも不可能でないし、これを妨害し、攻撃する敵を第一回に敵を圧迫した時と同じように分断して攻撃することも可能であった。ところがこの大きな機会を失ない味方を守勢に立たす危険に陥ったのである。この闘争全体を通じてこの高揚した大衆を指導する能力と体制に欠けていた。これが決定的な弱点であった。この弱点をすくったのは、大衆の革命的な行動であった。敵は、再びガス弾とピストルでもって攻撃を開始した。中核自衛隊を中心とする大衆は、この攻撃に勇敢に抵抗した。石、プラカード、旗竿等を武器にして、敵を引きこんではこれを打ちのめし、反撃しては敵に打撃を与えた。敵も味方もここで大きな犠牲を出した。この闘いの中で見物に集まった大衆の数は数万に及び、益々増えつつあった。この大衆もデモ隊に声援を送った。
敵は祝田橋を占拠し、大衆とデモ隊を断ち切り、デモ隊を包囲する作戦であった。そのための行動が数回にわたってくり返された。しかし、これは成功しなかった。この包囲をゆるさなかったのは、デモ隊の勇敢な攻撃力と祝田橋から馬場先門に及ぶ見物している大衆の圧力であった。デモ隊は敵のピストルと闘いながら祝田橋通りを通り抜けようとする占領軍の車輌にもしばしば攻撃を加えた。味方は一つの密集部隊として攻撃しているのに対して敵は一箇中隊を単位として行動していた。このことは敵の弱勢を補った。この戦闘中に敵は更に第三方面四箇中隊、第四方面四箇中隊、第五方面四箇中隊、その他参議院警備中の予備隊等約十三箇中隊を増強した。その他四時過ぎには、��署から召集されたもの約二千名が加わった。この部隊を大きく横隊に組み両翼と中央の三方面から圧迫を加えてきた。大衆は、これを三回はね返した。
四時十五分頃デモ隊から流れでた一部が、日比谷公園側で占領軍の乗用車を襲い、これに火をつけた。これは、人民広場事件の政治的な性格を最もあざやかに示したものであり、大きな意義ある出来事だった。しかもこれは人民広場の中で闘っているデモ隊にとって行動の新しい方向を示したことになった。敵の圧迫によって、デモ隊の一部は祝田橋から電車通りへ退却した。これに続いて全デモ隊が見物の大衆に擁護されながら馬場先門と祝田橋から街頭に流れ出た。敵は残虐にもこの後退するデモ隊を背後からねらい打ちにした。特に見物の少い馬場先門寄りで最も残虐な攻撃を加えた。このためデモ隊には多くの犠牲者が出た。
占領軍の乗用車を焼きはらった経験は、すぐ一般化した。大衆は十五人位が一組にたり、次々と車を倒し、流れるガソリンに火をつけた。このため祝田橋から日比谷までの間に、米軍の自動車十三輌、警察の白バイ一台が焼きはらわれた。この事件の全体で八十三輌の事輌を襲撃している。もえあがる車輌を消火するために、丸ノ内、有楽町、永田町をはじめ各消防署から二十台の消防車と米国消防隊三隊が出動した。しかし大衆はこれを妨害し、ほとんど到着させなかった。デモ隊は丸ノ内一八二中隊の消防車を破壊し、中崎署長、長井司令補等十名をたたきのめした。有楽町一八二中隊のホースはほりに投げこみ、五中隊のホースは切断した。
この人民広場の事件で、敵は危篤四名・重傷七三名・軽傷七四三名・占領軍の負傷者四名と発表している。味方の死者、負傷者等正確な数字はわからないが千名近くにおよんでいる。この大闘争の中で国民救援会は大きな役割を果した。救援会救護班のトラックは、プラカードを立てて、ガス弾とピストルの飛ぶ中で負傷者を収容し、病院にはこんだ。見物の大衆は、カンパを行なってこの救援活動を援けた。
街頭に流れ出たデモ隊の一部は、日比谷公園や三信ビルの横に結集し、ここで小さなしかし鋭い闘いをくり返した。それは夜八時過ぎまでつづいた。(中略)
米帝と吉田の一味共は、この事件によって新しい敗北をなめた。これは全世界の平和勢力を勇気づけ、新しい国際的な実力闘争のノロシになろうとしている。日本の労働者階級は、この闘争によって、勝利の確信を固め、武装行動を目指す実力闘争を前進させつつある。この実力闘争、武装行動に守られ、広汎な国民の民族解放民主統一戦線は前進しつつある。われわれは、この闘争をいろんな角度から分析し、戦術的にも幾多の教訓をくみださねばならない。それによって発展しつつある闘争に役立てることが必要である。
『人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について』 『組織者11号』
日比谷公園の市街遊撃戦は前後三時間に亘って行われた。敵はジリジリと押してき、遂にその一角をすて日比谷映画附近から有楽町に至り、解散後も全都的に行われたものである。この闘争では、完全に敵をホンローした。敵はつかめないデモ隊に極度に神経を疲らせ、日比谷では映画見物帰りのアベック二組がなぐり倒され、中年婦人が意識不明に陥り、大衆の罵倒の的となった。(中略)
当夜デモ隊側でつかんだ彼我の損害は次の通り、
警官死亡三(うち一名は丸の内久保次席)重傷二八、負傷五三。堀へ投げこまれたもの六。ブル新カメラマン一名のばさる。
アメ兵、水兵二名、GI一、ガード一、堀へ投げこまる。高級車炎上十台、日比谷~馬場先門~都庁前のもの軒なみガラス破カイ。アメ公大型バスガラス破カイ(三台)。
自由党本部、明治ビルガラス破カイ。
デモ隊側死亡-都庁高橋正夫氏、東大一、法大一、をふくむ五名。うち一名はMPに射殺(当夜国救しらべ)。負傷者約三〇〇名(重傷多数を含む)。
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他
(注とコメント)、これは、警察庁警備局『戦後主要左翼事件・回想』(1967年、絶版)に載っている17事件の一つの「メーデー事件の概要」全文(P.132~134)です。別に、回想として、警察官3人の手記があります。それらの内容は、広場にいた警察官側からのメーデー事件です。共産党「軍」側から見れば、警視庁「軍」は敵であり、警察側から見れば、共産党「軍」と一般参加者は暴徒となります。他一篇は、警察文化協会『戦後事件史』(1982年、絶版)第7章「日本の独立―破防法の成立」にある「血のメーデー・検察側の見解」(P.362~367)です。
ただ、警視庁・東京地検側の『メーデー騒擾事件の総括』に関する極秘文書があり、そこには、メーデー事件裁判でも隠蔽した詳細なデータや、公安・スパイ情報が含まれているはずですが、現在まで、外部に漏れていません。これが、発見されれば、『藪の中』の「真実」にぐっと近づくのですが。というのも、『吹田・枚方事件の総括』に関する大阪府警・大阪地検の極秘文書が漏れ出て、枚方事件被告の脇田憲一が入手し、その秘密データも含めて、『吹田・枚方事件』を執筆・出版する予定になっているからです。
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『皇居前メーデー騒擾事件』
昭和二十七年のメーデーは、日米講和条約発効後初めてのメーデーであったが、当時は、破壊活動防止法反対闘争直後のことであり、また、朝鮮人団体は出入国管理法実に強く反対していたなどの情勢に加えて、厚生省が皇居前広場の使用を禁止したことなどもあって、革新系諸団体の気勢が大いにあがっていた。
大会は、午前十時三十分より明治神宮外苑において約一五万が参加して行なわれ、午後零時十分閉会、ついで五コースに分かれ��会場を出発し、デモ行進に移った。当初、北部コースに編入されていた日本共産党員、学生、朝鮮人ら約三、〇〇〇人は、デモ出発の直前、急にコースを変更し、日比谷を解散地とする中部コースに加わってその先頭に立ち、途中、各所で投石やジグザグ行進などを行なって日比谷公園にはいった。
その後、この梯団は、気勢をあげながら皇居前広場をめざして不法デモに移り、これを阻止しようとした警察部隊に対し、竹槍(やり)、こん棒をふるって阻止線を突破し、さらにGHQ(連合軍総司令部)前で自動車一九台を破壊するなど、暴徒と化し、一気に皇居前広場に殺到した。さらに、三々五々、皇居前広場にはいった者もこれに合流し、暴徒の数は約四、〇〇〇人に達した。
午後二時三十五分ごろ、各所に配備されていた警察部隊は、急拠、二重橋前に転進集結し排除に当たったが、暴徒は、激しい投石を浴びせ、竹槍、こん棒などをふるって部隊に突入し、ついにけん銃を強奪するという事件にまで発展した。このような状況から警察側は、催涙ガスを使用するなどしてこれが鎮圧に当たり、遭遇戦さながらの状況を呈するに至ったが、暴徒の圧倒的勢力に押され、警察官に多数の重傷者が続出したため、やむを得ずけん銃を発射してこれを威嚇し、午後二時五十五分ごろ、一応、祝田橋通りまで制圧した。
一方、同時刻ごろ、南部コースの先頭梯団にいた朝鮮人約二、〇〇〇人が、日比谷公園から皇居前広場へ向って殺到し、祝田橋でこれが阻止に当たった警察部隊四八人全員に重軽傷を負わせてこれを突破し、さきの暴徒と合流した。このため、暴徒の数は七、〇〇〇から八、〇〇〇人となった。膨張した暴徒は、ますます気勢をあげ、竹槍を構えた朝鮮人約二〇〇〇人を先頭に激しく投石を加えながら攻撃をかけてきたので、警察部隊は、再度、催涙ガスを使用して、一せいに前進、制圧を加え、彼我(ひが)入り乱れて激しい攻防を展開し、ついに午後四時十五分ごろ暴徒を皇居前広場から排除した。
排除された暴徒は、付近に駐車中の外国自動車および警察車両十数台を次々に破壊、または放火炎上させ、日比谷公園内外および有楽町駅付近、馬場先門外等の各所において小部隊の警察官を襲い、重軽傷を負わせるなどの残忍な暴力を振るい荒れ狂ったが、午後七時ごろに至ってようやく平穏に復した。
メーデー騒擾事件における被疑者の逮捕は六九三人にのぼったが、一方、警察官も八三二人が負傷(生命危篤八、重傷七一、軽傷七五三)したのである。
『血のメーデー』 検察側の見解
計画的に会場から 先鋭分子が誘導 秘密会議で決定
皇居前事件について佐藤検事総長は、「デモ隊がコン棒その他をもっていた点などからみて、一部のものの計画的犯行だと思う」むねを語っているが、検察当局はこの事件を左翼先鋭分子の仕組んだ“計画的暴行事件”の色彩が強いとみている。ではデモ隊の一部はどのようにして“デモ終点”の日比谷公園から皇居前広場へ誘導されたか――以下は当局の調べ、目撃者の話などから総合したそのいきさつである。
○警視庁の情報では、今回の事件は去る二十九日、東京工大内で日共系先鋭分子により秘密のうちに決定された予定の行動だという。それによると、同���午前十一時から午後六時の間に同大地下食堂で日共系青年祖国戦線の主催により「反戦権利擁護労働青年全国会議」が開かれ全学連、祖防隊、民青など四十四団隊、七十五名が集って「人民広場を労働者の実力をもって奪取しよう」との決議を行い、全国の日共系先鋭組合と各種団体に指令したという。
○この指令を裏書きするように、この日、外苑の中央会場では午前十一時半すぎ、組合代表の演説が後二、三人で終ろうとするころ、共産系組合員、全学連、日傭労務者とみられる一群の約二百名が中央ステージに殺到「人民広場へ行こう」と騒ぎはじめた。重盛議長が「この度は統一メーデーだから統一的行動をしよう」と説得に努めたが、聞き入れられず、演壇は一時、この一群の人たちに奪われ混乱した。しかし、日共幹部の岩田英一氏が両者の間に入って代表に一席演説させることで混乱は収まり、式は終了した。
○かくて〇時二十分、デモ行進に移ったが、この時に学生、朝連系団体とみられる一群は、外苑の道路にピケラインを張って「人民広場へ行こう」とアジリはじめた。渋谷コースを行進していた西部デモ隊のうち学生を主力とする約二百名の一団は、これと呼応するように、青山四丁目角に差しかかると隊列をはなれ、日比谷の方向へ転進、日比谷コースを進んでいた中部デモ隊も赤坂表町付近にさしかかったころ、全学連の約五千名がデモ隊の先頭を追い越して口々に「人民広場へ行こう」と叫んだので、デモ隊の足並みは乱れてきた。
○虎の門コースを進んでいた南部デモ隊も文部省にさしかかった午後一時半ごろ金日成氏の肖像をプラカードにかかげていた北鮮の一隊が「人民広場へ」と叫びつつジグザク行進に移り、警官隊と小ぜり合いを演じ、外人乗用車に石を投げたりしはじめた。このころ中部デモ隊も永田町付近で自由党本部に小石を投げ、正面窓ガラスを破ったが、先鋭分子ははじめから小石をポケットに相当用意していたと見られるという。
○赤坂表町付近で行進の先頭に抜けがけして行進のイニシアチブを握った都学連、北鮮人、日傭労働者などの一群は、二時ごろ日比谷公園に入ると一応音楽堂付近に集った。この時十五、六のグループに分れて整列していた全学連の五、六番目に並んでいた「民主青年西部地区」というプラカードの一隊が「人民広場へ行こう」という叫びをあげた。これをキッカケに、デモ隊はドッと公園外に流れ出し、馬場先門方面へと濁流のように押して行き、これが時間の経過とともに、ふくれ上がって行ったのである。
正しく血のメーデーとなってしまった。働く者の祭典であるはずが、暴行集団となってしまったことは、世界中の電波に乗った。中でもアメリカ人にすれば恩を仇で返される思いがしたことであろう。メーデーの歴史を汚した事件として記録されている。
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』
(注とコメント)、これは、メーデー事件裁判闘争史編集委員会編の822ページの大著(白石書店、1982年、絶版)から、事件の概要を書いた「序章」(P.12~16)の全文転載です。事件・裁判記録については、被告��長岡本光雄『メーデー事件―昭和史の発掘』(白石書店、1977年、絶版)があり、そちらでも事件概要を詳しく書いています。いずれも、被告・弁護団側からのメーデー事件と裁判闘争史です。検挙1232人、騒擾罪起訴被告261人でした。上記の解説でのべましたが、さらに区別すれば、これは、4種類の被告からなっています。
第一、広場突入軍事命令を遂行した日本共産党「軍」メンバーです。広場に入った3万人中、中核自衛隊員・独立遊撃隊員・山村工作隊員・日本共産党員である北朝鮮系祖防隊員や、それらが突入の指導をした大衆団体は、数千人います。しかし、被告261人において、彼らが何人いるのかは、共産党が公表しないので、分かりません。日本共産党は、広場突入軍事作戦計画の存在を、裁判開始時も、六全協後も、全面否認しました。日本共産党は、共産党員被告だけのグループ会議を秘密に開き、否認を指令しました。共産党「軍」の被告も、その軍事方針については、党中央命令に従って、完全黙秘しました。よって、広場突入軍事命令を出した党中央軍事委員は、誰一人逮捕も、起訴もされていません。
第二、共産党「軍」以外の共産党員で、たまたま人民広場に付いて行き、警視庁「軍」の3次にわたる違法襲撃に怒って、反撃し、逮捕・起訴された被告です。共産党中央委員会は、第一と第二の比率を当然知っています。なぜなら、共産党中央委員会・党中央法規対策部は、共産党員被告の秘密グループ会議を、20年7カ月間の裁判過程で、何回も招集しているからです。もちろん、被告団の共産党細胞指導部(LC=Leader Class)も、党中央法規対策部員と共産党員弁護士・国民救援会細胞とを合わせて、結成し、裁判対策を、一般被告団会議の前に決定していました。この裁判グループ細胞結成は、吹田事件・大須事件においても、常識です。
第三、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)2000人と祖国防衛隊員(祖防隊員)たちで、逮捕された131人の内、起訴された日本共産党員です。彼らは、金日成らが仕掛けた朝鮮侵略戦争を祖国解放戦争ととらえ、朝鮮民主主義人民共和国国旗を先頭に、人民旗数百と金日成の写真プラカードを掲げ、第2の広場入口である祝田橋の先頭部隊の一つとして突入しました。彼らは、1955年の六全協まで、日本共産党員でした。同時期に、民戦は、朝鮮総連に組織転換し、それとともに、在日朝鮮人日本共産党員は、離党し、朝鮮労働党に入党し直しました。日本における朝鮮労働党組織は、学習組(がくしゅうそ)になりました。朝鮮総連も学習組も、本国の朝鮮労働党の直接指令を受けます。よって、1955年以降、メーデー事件裁判被告団は、その中に、朝鮮労働党員被告を含み、彼らは、朝鮮労働党の指導下で行動しました。
第四、共産党の広場突入「軍」に扇動・誘導されて、人民広場に自然発生的に入り、警視庁「軍」の3次にわたる無差別襲撃を受け、それに怒って反撃したが、広場突入作戦などまるで知らなかった一般参加者2万数千人の中で、逮捕・起訴された被告です。261人中、これら4種類の被告の比率は、共産党軍事委員会と六全協後の野坂・志田・宮本らごく一部幹部だけが知っています。メーデー事件の大弁護団も、グループ会議に参加する一部の共産党員弁護士以外は、これらの比率を知らされていないでしょう。
被告・弁護団の裁判闘争方針は、共産党「軍」の広場突入戦争作戦が現実に遂行されたのにもかかわらず、その存在を否認しつつ、騒擾罪無罪のたたかいをすることを強いられました。そこには、かなり無理がありました。なぜなら、メーデー人民広場突入事件の裏側の一側面は、政府・警視庁���軍」4100人の違法な先制襲撃という面だけでなく、ソ中両党の軍事命令に盲従した日本共産党「軍」が、まさに、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動として行なった最初の大会戦そのものだったからです。2つの『裁判闘争史』を読むと、その苦渋、停滞、被告団内の対立がにじみでています。共産党員以外の第四の被告たちは、警視庁「軍」の襲撃に怒るとともに、共産党「軍」の広場突入戦争作戦の存在と実態を明らかにせよと、共産党に強烈な批判と要求とを突き付けました。
私(宮地)の立場は、『裁判闘争史』の内容について、共産党の広場突入会戦遂行の諸事実問題とそれに関する記述以外では、『裁判闘争史』の見解と、騒擾罪無罪の判決内容を支持するものです。ただ、被告弁護団側が、4種類の被告を抱えて、被告団の統一を維持していくためには、「メーデー事件は、極左冒険主義の実践ケースではない」とする立場を貫かざるをえなかったことを理解します。といっても、それは、共産党が、広場突入軍事行動に関して、具体的な総括をし、それを公表すべきであるという前衛政党としての結果責任の取り方とは、別問題です。その結果責任には、“統一回復”共産党が、自分たちの朝鮮侵略戦争参戦のために、一般国民2万数千人を利用し、道連れにし、被告216人中の何人かを、20年7カ月間メーデー事件裁判の第四の被告にしたという道義的責任も含みます。これは、警察・検察側による弾圧、でっち上げ裁判という問題とは異なる、かつ、それに解消させることのできない共産党側の政治的道義的問題です。
私は、名古屋市生れ育ちで、大須事件の現場を熟知しています。また、愛知県の民青・共産党専従15年間において、大須事件の被告たち十数人を個人的に知り、話を聞いています。その裁判闘争においても、4種類の被告を含み、同様な問題が発生していました。大須事件検挙者は、日本人119人、在日朝鮮人150人でした。実刑判決確定で下獄した3人中、1人は在日朝鮮人でした。大須事件の共産党員被告だけのグループ会議が、私の共産党専従時代、所属する名古屋中北地区・愛知県委員会事務所の3階会議室で開かれるのを、私は何度も目撃しました。私は、騒擾罪判決が唯一確定した7・7大須事件も、5・1メーデー事件と6・25吹田事件と同じく、騒擾罪無罪であると確信していま��。それだけでなく、3番目の事件として、警察・検察側による騒擾罪でっち上げの謀略性という面では、大須事件がもっとも悪質だと判断しています。大須事件の一端については、HPファイル『「武装闘争責任論」の盲点』で分析してあります。なお、下記文中の太字は、私(宮地)がつけました。
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一九五二年(昭和二十七年)五月一日――首都の労働者は第二十三回メーデーを迎えた。明治神宮外苑のメーデー会場から五つのコースに分れてデモが出発した。中部・南部二つのコースは日比谷公園を解散予定地としていた。いくつものデモ隊がそのまま日比谷公園を通り過ぎ、人民広場(皇居外苑広場)へ向かって進んだ。シュプレヒコールが湧きあがった。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
三日前の四月二十八日、「単独講和」と呼ばれ、その賛否をめぐって世論を二分した「平和」条約が発効した。七年に及ぶ占領は終った。だがアメリカ軍は帰らなかった。朝鮮戦争が続いていた。占領時代の抑圧政策もそのまま引きつがれていた。メーデー会場に人民広場を使うことは許されなかった。「独立」後最初のメーデー――禁じられていた言葉、いや「占領政策違反」という「犯罪」でさえあった、人民の叫びがほとばしり出た。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
午後二時二十分過ぎごろ、先頭のデモ隊が馬場先門に到着した。
この時馬場先門には約四百五十名の警官隊が配置されていた。二重橋へ向かう車道入口に阻止線を張った、わずか一個小隊三十数名の警察官もなぜか左右に開いた。デモ隊の前に人民広場への道がまっすぐに通じていた。車道一杯に広がり、スクラムを組んで広場へ入ったデモ隊は、広場へ入ったというその喜びのおもむくまま、やがて駈け足に変って行った。
二重橋前の砂利敷広場は、たちまち、万歳の声と打ち振られる赤旗、そして笑顔、握手、踊りの人波で埋まった。人びとは、二年間禁じられていたこの広場の土をその足で踏んだ。誇らかな満足感、解放感、ほっとした安ど感、疲労感。それぞれにかみしめながら、談笑し、歌い、あるいはひと息入れて、人びとは集っていた。
午後二時四十分。事態は急変した。
全く突如、警官隊が襲いかかったのである。馬場先門からデモ隊を追尾してきた警官隊が、デモ隊の先頭に回り込むやいなや、全体を二重橋側の堀際に押しつめるように、警棒をふりかざして殴り込んだ。一瞬にして起こる大混乱。警棒で頭を割られ倒れろ者、眼前に迫る警察官の形相におびえて後退する者、つまずき倒れる者。逃げまどう者の頭に、背にめった打ちされる警棒、傷つき倒れる者をさらに踏みにじる泥靴。
混乱するデモ隊の中に、二分後催涙ガス弾が、五分後拳銃弾が撃ち込まれた。数千のデモ隊は、多くの負傷者をかかえて、銀杏台上の島から楠公銅像島へ後退した(第一段階)。法政大の学生近藤巨士は、この時警察官に後頭部を強打された。五月六日未明、慈恵医大東京病院で、彼は二十二歳の生涯を閉じた。
午後三時過ぎごろ、新しいデモ隊が祝田橋から人民広場へ入った。中部コースの後続隊と、つづいて南部コースを行進してきたデモ隊である。
祝田橋上には約百二十名の警官隊がいた。一応阻止の隊形をとった警官隊と、デモ隊の先頭のごく一部との間で小ぜり合いがあった。だが、警官隊はすぐ広場の中へ引きあげてしまい、デモ隊の大半はなんの抵抗もなく祝田橋を渡った。中部コース後続のデモ隊の多くは、祝田橋を入ってすぐ右手の芝生、楠公銅像島に上がった。そこには、二重橋前で警官隊の襲撃に会い、追い散らされてきた人びとがいた。
そのころ、楠公銅像島上のデモ隊に対峠(じ)する形で、中央自動車道路をはさむ反対側の芝生、銀杏台上の島には、三個中隊約三百名の警官隊が隊列を整え、警戒配置についていた。つづいて祝田橋から入った南部コースのデモ隊は、この警官隊の前を通って中央自動車道路をまっすぐ行進し、やがて左折中央自動車道路に面した楠公銅像島上のデモ隊に対峙していた警官隊は、この時いっせいに引きあげ始め、二重橋前の砂利敷十字路付近に移動した。二重橋前砂利敷十字路……一九四六年(昭和二十一年)の第十七回メーデー以来、そこが大きな大衆集会の会場となった。つまり人民広場の中心であった。
楠公銅像島にいたデモ隊の中で、警官隊のいなくなった銀否台上の島へと移って行く動きが起こった。「解散集会だ。」「集会に集まろう。」呼びかけが伝わった。銀杏台の島に上がったデモ隊の一部も、銀杏台上の島の方へ移動し始めた。人びとは、この日人民広場へ入ることができたというだけで、満足だった。禁じられていた場所をとり戻した、という勝利感でもあった。目的はもうすぐ達せられる。しめくくりの解散集会だけが残っていた。
その期待で、デモ隊は、二重橋前砂利敷十字路をなかばとり囲むように、銀杏台上の島を中心に、右は銀杏台の島へ、左は桜田濠沿い砂利敷路面へと延びる形で、結集していった。祝田橋から人民広場へと入るデモ隊は、まだあとを絶たなかった。広場にはもう三万を越えるデモ隊の人びとがいた。一方、警官隊も続続と増強されていた。
三つの方面予備隊(当時、全都を七つの方面に分け、それぞれに警備実施を主任務とする予備隊がおかれていた。いまの警視庁機動隊にあたる)から動員された八個中隊約八百五十名が、二重橋前砂利敷十字路に横隊で整列し、その三分の一は桜田門方向に、三分の二は馬場先門方向に面する形をとった。L字型隊形である。後方二重橋の前に二個中隊約二百名が控えた。
二重橋砂利敷十字路に展開 ―→ 警官隊の攻撃開始 ―→ 警官隊の攻撃と
した警官隊のL字型隊形 とデモ隊の崩壊 デモ隊の抵抗
(これら3地図は、『メーデー事件裁判闘争史』P.193、195、199に掲載されたもの)
午後三時二十五分ごろ、再び警官隊の襲撃が始まった。警官隊の前に立った指揮官が、高くかかげた警棒を前に打ち振り、「進め」と号令した。L字型隊形のうち桜田門方向に向かっていた警官隊が、まず前面のデモ隊に殺到した。解散集会をめざして集まりつつあったデモ隊にとって、それは突如始まり、そして全く一方的なものであった。桜田濠沿いの砂利敷にいて、この突然の攻撃を受けたデモ隊は、たちまち蹴散らされた。理不尽な暴挙をまのあたりにしたデモ隊の一部は、警官隊に向かって進み、抵抗した。
だが、この時、密集するデモ隊の中へ催涙ガス弾が撃ち込まれた。攻撃開始前ガス班があらかじめ桜田濠に沿って進み、デモ隊の後方に回っていたのである。催涙ガスが急速にデモ隊の上をおおった。全警官隊がいっせいに警棒を振りかざして突進した。あちこちで拳銃も発射された。
デモ隊全体はまたたくまに総崩れとなり、潰走した。逃げまどう人びとの頭を割り、肩といわず腰といわず、全身を打ちのめす警棒。目をのどを痛めつける催涙ガス。誰かれかまわずに突きつけられ、そして発射される拳銃。倒れる人びとを踏みつけて、警官隊は進んだ。デモ隊の多くは再び楠公銅像島に逃げた。芝生の上のいたる所に負傷者が横たわり、これを介抱する人や、互いにかばいあう人たちの群れがあった。祝田橋から広場を出た人も少なくない。警官隊は銀杏台上の島を猛進し、中央自動車道路の線で停止し、再び隊列を整え直した。この間十数分である(第二段階)。
午後三時四十四分ごろ、日比谷公園に沿う都電通りの祝田橋近くで、一条の黒煙がのぼった。アメリカ軍人の自動車に火がつけられたのである。警官隊の攻撃を受け、広場から逃れ出た人たちのうちごく少数の者が、怒りのおもむくがままにとった行動でもあろうか。しばらくあとのことになるが、都電通りのもっと日比谷交��点寄りに駐車してあった十台近くの自動車が、同様ごく少数の人たちによって、ひっくり返され、火を放たれた。どれもアメリカ軍人の乗用車である。こうしたできごとの中でも、広場内への警官隊の増強がつづいていた。
午後四時。広場の中では、さらに残虐な警官隊の総攻撃が、いっせいに開始された。新たに広場に投入された二つの方面予備隊七個中隊六百名余を加え、警官隊は徹底した暴力で、デモ隊を一人残らず広場から追い出そうとしたのである。二度にわたる警官隊の先制攻撃は、非道な暴力に抵抗する力をさえ、デモ隊から奪っていた。デモ隊はもはやちりぢりにされた群衆であった。
警官隊は、ほんの数分間で、楠公銅像島の群衆を一掃し、その大半を日比谷濠土手に押しあげ、追いつめた。狭く逃げ場もない土手の上で、人びとは混乱し、警棒の乱打を浴び、無気味に向けられる銃口で脅かされながら、やがて最後に、警察官の悪ばを背に馬場先門から追い払われた。それは、文字どおり袋のねずみを追うむごたらしさであった(「掃討戦」)。
この総攻撃開始の直後、東京都の職員高橋正夫は、背後から拳銃弾で心臓を射ち抜かれ、即死した。二十三歳である。
警官隊は、広場から追い立てられ逃げ散った群衆を追って、組織的暴力を市街地にまで拡大した。ただの通行人も、アベックも、老人も、婦女子も、見さかいのない暴力の対象であった。警官隊の暴行脅迫は、日比谷公園、有楽町一帯、丸の内から東京駅付近に及び、午後六時ごろようやく終わった。
この日、警官隊が発射した拳銃弾七十発、投じた催涙ガス弾七十三発。デモ隊側のぎせい、死者二名、重軽傷千数百名である。一九五二年五月一日人民広場の内外で起こったできごと――メーデー事件そのものがまぎれもない政治的弾圧である。
そして、メーデー裁判は政治的弾圧の継続である。その日午後三時四十分ごろ、警視庁と東京地方検察庁は、デモ隊側の計画的集団犯罪として、この事件に騒擾(じょう)罪を適用すると決めた。人民広場の中で警官隊の組織的暴力がまだつづいている、その時である。疾風のように大量検挙が始まった。警官隊がその手で加えた傷害こそ、まずなによりの目印とされた。二週間で逮捕者は八百三十八名にものぼった。総検挙者数千二百三十二名。東京地方検察庁が騒擾罪で公訴を提起した被告人の総数二百六十一名である。
第一審・・・・・
東京地方裁判所は、当初、八合議部による分割審理方式を提示した。被告・弁護団はまずこれとたたかわなければならなかった。獄中被告の出廷拒否、合同面会など新しい経験を重ねながら、ともあれ刑事第十一部による統一審理方式がかちとられた(もつとも不幸ながら「分離組��と呼ばれる人たち二十余名がいた)。
第一回公判一九五三年(昭和二十八年)二月四日。判決まで実に十七年。その間公判を開くこと千七百九十二回。取調べた証人は、検察側五百四十九名(総論関係二百四十四名、各論関係三百五名)、被告・弁護側三百四十四名(総論関係二百七十一名、各論関係七十三名)、合計八百九十三名(延べ千三百二名)に達している。そして、十四人の被告たちが世を去っていた。判決言渡し一九七〇年(昭和四十五年)一月二十八日(「分離組」は二月十三日)。
判決は、二重橋前の第一段階における警官隊の実力行使を違法としたが、第二段階以降についてはデモ隊側に騒擾罪の成立を認めた。無罪百二十名。有罪百十七名(ただし十五名は騒擾罪以外で有罪)。一月二十八日統一して判決を受けたうちの有罪被告は、全員控訴を申立てた。その日の被告団総会は、無罪となった者もそのまま被告団にとどまり、ともにたたかうことを誓い合った。「分離組」で有罪となった中から三名の人たちが控訴を申立て、この被告団に加わった。控訴審における被告人は、結局百名になった。
第二審・・・・・
一九七一年(昭和四十六年)九月三十日東京高等裁判所第六刑事部に控訴趣意書が提出された。第一回公判同年十二月十四日。審理はかなり迅速に進んだ。公判回数二十二回。取調べた証人は、被告・弁寺側の請求した二十六名である。判決言渡し一九七二年(昭��四十七年)十一月二十一日。判決は、第二段階における警官隊の実力行使をも違法と断定し、騒擾罪の成立を全面的に否定し、騒擾罪については全員に無罪を言渡した(公務執行妨害罪などで十六名が有罪となった)。一九七二年十二月五日――騒擾罪全員無罪の判決は確定した。検察官が上告を断念したのである。
二十年七か月――たたかって、たたかい抜いてかちとった勝利である。被告・弁護団が一貫して主張したこと、それは「つくられた騒擾罪」ということである。本書は、「つくられた騒擾罪」とのたたかいの歴史である。
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
(注とコメント)、総評常任幹事会声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.20)にあります。労働界を二分する意見の分裂内容は、増山太助『血のメーデー』に書かれています。これは、〔真相6〕増山太助ファイルから抜粋しました。
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総評常任幹事会声明 1952年5月2日
五月二日総評は常任幹事会を開いて声明を発表した。その政治部長島上善五郎は第二十三回中央メーデー実行委員長であった。
「(一)第二十三回メーデーは、平和と民主主義を守る国民的行事として全国労働都市において未曽有の大動員をえて、日本民主化の主柱がいよいよ強大となったことを示した。
(二)しかるに中央メーデー行事解散ののち日本共産党分子がおこなった集団的暴力行為は遂に流血の惨事をまきおこした。このことについては総評労闘が何ら関知するところではないが、民主的労働組合の責任において甚だいかんにたえない。
(三)今次事件は民主的労働組合が営々としてつみあげてきた民主主義をいっきょ後退させ、反動ファッショ勢力を誘発するに至る危険があり、明らかに階級的裏切り行為と断ぜざるをえない。われわれは極左極右のいずれをとわず、かかる一切の暴力行為にたいし厳正な批判を加え、断固排撃するものである。
(四)わが総評は今日まで反動資本と共産党支配とに抗争する民主的統一戦線を強化拡大し、破防法案、労働法改惑などにあらわれた吉田政府の逆コースに対して整々たる三〇〇万の労闘ストをもってたたかってきたが、その間共産党勢力のシュン動を許さずいよいよ全国民の信頼をかちえてきたところである。
(五)しかして吉田政府は、必ずや破防法の必須を訴えるであろうが、すでに本事件はソウジョウ罪をもって対処しているのであって、みづから破防法の不要を証明しているではないか。
(六)いまや今次事件を口実として破防法案、労働法改悪等をもつて基本的人権をじゅうりんし総評の打ちだす労働運動を弾圧しようとするならば、いよいよ内外与論に訴え、さらに頑強な実力行使をもつて、これらを阻止するところまでたたかい、吉田政府の反動政策をあくまで追及し対決するであろう。
一九五二年五月二日 日本労働組合総評議会」
労働界を二分する意見の分裂
記者団に囲まれたメーデーの実行委員長、総評政治部長の島上善五郎は、「この事件はメーデー行事が終った後に共産党系分子と、その影響下にあると思われる一団によって行われた不祥事で、実行委員会としては関知しない。これは反労働者的行為である」「しかし、政府が、破防法をはじめとする露骨な弾圧政策をとり、とくに皇居前広場の会場問題について裁判決定を無視した態度は暴力行動に絶好の条件をあたえたもので、さらに警察の発砲、催涙弾の乱射は事態を激化させたもので、政府の反動政策強行には断乎反対する」と語った。なお、総評の高野事務局長は沈黙を守り、「民族感情の爆発だ」といった副議長の太田薫にたいし、炭労の諸富義高は、「予定した共産党の暴動演習だ」とくってかかったのが、労働界を二分する代表的な意見であり、民労連はもちろん、新産別も後者の意見に組した。
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
(注とコメント)、3つの資料を載せます。いずれも、日本共産党中央軍事委員会が準備・計画し、広場突入指令を出した事実について、完璧に隠蔽しています。そして、軍事委員会作戦・広場突入命令を、下記にある「一部の人」にすりかえる詭弁を使っています。
第一、日本共産党国会議員団声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.21)にあります。議員団の中に、党中央軍事委員会メンバーはいなかったので、彼らは、広場突入作戦を、事前に知らされていなかった可能性があります。
第二、メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会、その内容は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.285)に載っています。懇談会に出席した野坂参三答弁は、軍事作戦発令者による真っ赤なウソです。というのも、朝鮮戦争2年目の真っ只中において、後方基地武力かく乱戦争行動の最初で最大の戦闘となる広場突入会戦は、少なくとも3カ月前に決定されており、その最終的作戦計画決定権者は、志田重男一人であるはずがありません。朝鮮半島における激戦を指揮しているソ中両党のスターリン・毛沢東・劉少奇と、北京機関の徳田・野坂、日本国内軍事委員長志田らによる戦争作戦計画だったからです。しかも、この当時、暴露されていませんでしたが、野坂参三は、1945年以来のソ連共産党NKVDのスパイでした。野坂共産党第1書記・軍事委員長志田・指導部復帰者宮本顕治らは、フルシチョフ・スースロフ・毛沢東・劉少奇らから、「六全協で、武装闘争の具体的総括をすることを禁止する。極左冒険主義と抽象的に誤りを認めることだけは許す」との命令に屈服していました。スパイ野坂第1書記は、当然のように、ソ中両党の利益・命令を上に置き、メーデー事件被告・家族をあざむいたのです。
第三、共産党の公認党史である『日本共産党の65年、70年、80年』(80年は、P.120)は、いずれも、この分量しか記述していません。しかも、メーデー事件と広場突入作戦との関連を隠蔽しています。そこから、まったくの第三者的で、広場突入会戦の戦争責任を放棄した書き方になっています。〔真相7〕石田雄ファイルにあるように、丸山眞男が、この事件を念頭に置いて、『戦争責任論の盲点』を書き、日本共産党が、戦前だけでなく、メーデー事件についても具体的な総括を公表して、前衛政党としての結果責任を果すべきと批判したという石田雄の推論は、さもありなんという説得力を持っています。
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日本共産党国会議員団声明 1952年5月1日
日本共産党国会議員団は、即日「本日の事件は人民広場の使用を吉田内閣が不法にも禁止したことから起こったもので事件の一切は吉田内閣が負うべきものである。今日の弾圧こそ破壊活動防止法案をすでに実行に移したもので、わが党は日本国民の自由の名において厳重に抗議する」旨の声明を発表した。
メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会 1955年10月24日
十月二十四日夜メーデー事件被告、家族と共産党との懇談会が産別会館講堂で開かれた。日本共産党から第一書記の野坂参三のほか松本三益、長谷川浩が出席した。
懇談会は、その名に比してはかなり激しく、メーデー事件の評価に関する意見、疑問、共産党に対する批判、不満が交わされる場となった。党員被告を名指しで非難したり、被告同士で論争する場面も見られた。二、三の人から、敵の挑発というだけでは納得出来ない、あの日のメーデーに極左冒険主義の方針があったのではないか、という疑問が出た。野坂らはこう強調した。メーデーに対する党の方針とメーデー事件と呼ばれているものとは客観的に区別して評価すべきである。党が騒擾事件を計画、指導したことは断じてない。「人民広場へ行こう」というのは広範な人びとの当然の要求であった。問題は、これを全体的行動に組織するという観点に立つのでなく、一部の人たちの行動に頼ろうとしたところにあり、極左冒険主義の誤りの影響と言ってよい。権力はこの弱点を利用し、挑発・弾圧を加えた。人民広場へのデモの正当性とともに、警官隊の攻撃に抵抗した行動の正しさも消えるものではない。
日本共産党中央委員会『日本共産党の80年』 2003年1月20日
(メーデー事件に関する全文)……六全協後における唯一の公的な事件評価記述
この闘争のさなかの五二年五月、いわゆる「血のメーデー」事件がおこりました。占領軍と吉田内閣は、五〇年六月いらい、「人民広場」とよばれた会場(皇居前広場)をメーデーその他の集会に使用することを禁止していました。この日、中央メーデーに参加したデモ隊の一部が、この不法な措置に抗議しながら、「広場」に行進しました。警察当局は、デモ隊を「広場」内に誘導したうえで、数千の武装警官隊をもって攻撃し、警官隊のピストルなどで二人が殺害され、千人をこえる重軽傷者がでました。
(『日本共産党の65年、70年』の上記同一記述から削除した文) ……削除の理由は不明
この事件は、占領支配と単独講和にたいする大衆的な怒りと抗議の一つの反映であった。
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
(注とコメント)、ここには、4つの資料を載せます。増山太助は、入党後、党中央文化オルグ・全国オルグを経て、関東地方委員、1950年初頭から東京都委員、「50年分裂」のときには、主流派内の東京都ビューロー幹部であったが、裏側で、武装闘争反対の活動を行なっていました。
第一、彼は、主流派に所属しつつも、当時の日本の情勢、労働運動の状況、国民の意識実態から、武装闘争を遂行することは誤りであると考え、ビューロー幹部5人を中心として、主流派非公然ビューロー内における非公然グループを作り、武装闘争実践を骨抜きにする面従腹背行動を組織し、展開していました。その組織・行動内容については、『武装闘争責任論の盲点』の「2派1グループの実態」で分析しました。
第二、武装闘争を行なった幹部たちについて、8人の人士群像を描きました。これは、HPに転載してあります。
第三、メーデー事件の概況を『血のメーデー』で描きました。これも、HPに転載しました。
第四、増山太助は、メーデー前日の東京都ビューロー会議にも出席して、人民広場突入作戦に猛反対しました。東京生え抜きのビューロー員も、全員が反対しました。激論の末、結局、他のビューロー員も含め、突入方針は否決され、人民広場使用不許可にたいする抗議だけにすることが全員一致で決定されました。その決定を裏切って、志田軍事委員長は、その深夜から5月1日早朝にかけ、規定方針どおり広場突入せよとの軍事委員会命令を徹底させたのです。当時の共産党組織は、4つに分かれていました。(1)北京機関と自由日本放送、(2)合法の臨時中央指導部(臨中)、(3)非合法の地下政治指導部ビューロー、(4)非合法の地下軍事委員会Yです。
非合法地下の都ビューロー会議で、広場突入軍事行動が否決されたのに、志田軍事委員長→非合法地下の東京都軍事委員会Yというルートで、広場突入軍事方針が決行されました。増山証言は、共産党が広場突入軍事行動を行なったことを証明する重要なデータの一つです。この資料は、増山太助『五〇年問題覚書(下の二)、―「柴又事件」の前後から「血のメーデー」へ―』(『運動史研究8』、三一書房、1981年、P.100~125)の内、「五」(P.120~125)を、一部中略して、ほぼ全文を転載したものです。このHPへの転載については、増山太助氏の了解をいただいてあります。
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第一、『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの実態=増山太助らの武装闘争反対グループ
第二、増山太助『日本共産党の軍事闘争』軍事闘争の先頭に立ち、指導した8人の群像
第三、増山太助『血のメーデー』メーデー事件の概況
第四、増山太助『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
ところで、五二年という年は、年頭から荒れ模様の情勢となった。スターリンは、元旦のメッセージで、日本人民の総決起をうながし、臨中は、これにこたえる声明を発表して呼応した。一方、占領軍と日本の支配階級は、四月二八日に予定された、単独講和・安保両条約の発効と、それにともなう総司令部(GHQ)の廃止にそなえて、つぎつぎと積極的な手をうってきた。労働者階級は、年末闘争にひきつづき、“占領終決”という画期を前にして、いよいよ“不屈な面魂”をもって決起しはじめた。一月一六日、賃金共闘は、弾圧法規反対で、総評と統一行動をとることを決定し、一八日には、労働法規改悪反対闘争委員会が代表者会議をひらいて、当面する情勢の分析と戦術をねった。
ところがその三日後の二一日に、突如、北海道で白鳥警部射殺事件がおきた。そして、これが敵側に利用されて、いっそう弾圧体制が強化され、「新たな従属・支配体制」を強める契機となった。だが、労働者階級は前進しつづけ、二六日には、総評、労闘、官公労共催の弾圧法規反対労働者総決起集会がおこなわれ、三万人を結集した。吉田首相は、三一日に、警察予備隊を切りかえて、防衛隊をあらたに設置するという、威嚇的な方針を言明。二月一三日には、安保条約に基づく日米合同委員会の設置が本決りとなった。そして、一五日から、日韓両国の正式会談が開始され、米・日・韓の防衛体制を強めながら、国内弾圧諸法規の整備に馬力をかけはじめたのであった。
一方、二〇日には、東大でいわゆるポポロ事件―ポポロ劇団発表会に私服警官が潜入―がおき、京大では第一次京大事件―小林多喜二祭に警官が潜入―が同時多発して、その摘発闘争・弾圧反対のたたかいが燃えあがった。さらに、翌二一日の反植民地闘争デーには、全国二六カ所で高揚した集会が決行され、激しいデモが敢行された。その結果、五七名もの検挙者を出したが、たたかいは持続する様相をしめした。なかでも、東京・南部の反植民地闘争デーの集会には、武器を持った労働者の集団が公然と姿をあらわし、一時、蒲田・椛谷地区を解放地区にした。政府は、二八日に、日米行政協定に調印、日米合同委員会を発足させた。二月末日現在、『アカハタ』弾圧以来の後継紙で発禁処分になった紙種が八一八に達した。まさに、彼我の攻防は目にみえてつばぜり合いの形になってきたのであった。
こうした状況のなかで、二月以降、五全協の「軍事方針」がつぎつぎと具体化され、下部に浸透していった。その代表的なものは、「中核自衛隊の組織と戦術」「軍事行動の前進のために」であり、「組織と戦術」のなかでは、「武力革命」の段階を三つに分け、第一段階では、軍事委員会の指導下に中核自衛隊を組織し、大衆闘争に武装行動の必要性を認めさせつつ、これを革命的闘争へひきあげていくこと。第二段階では、中核自衛隊の指導下に、広範な大衆を抵抗自衛組織に組織していくこと。第三段階では、大衆闘争を国民的規模にまで拡大し、抵抗自衛組織を人民軍に発展させ、武力革命に突入する、という構想をあきらかにしていた。そのために、『栄養分析表』で、(一)時限爆弾、(二)ラムネ弾、(三)火焔手榴弾、(四)タイヤパンク器、(五)速燃紙(硝化紙)などの構造や製法が、軍事委員会の単線指導で下部に流されていった。
前述したように、“単独”講和、「独立」ということは、軍事占領下にあって制約されていた政治的自由を、一定のカッコつきではあるが「国民のもの」にしなければならない、ということであるから、それ以前に、占領軍と日本政府は、革命勢力とその組織を出来るだけ弱体化させておかなければならない。そして、総司令部廃止後、かれらがいっきょに政治的進出をはかれないようにしておかなければならない。だから、この時期におこなわれた一連の弾圧措置は、朝鮮戦争前夜の軍事的予防措置とはことなり、「独立」を保持するための政治的予防措置であったわけだ。したがって、この措置のあとには、当然、党の合法的活動の拡大が予想されていたにもかかわらず、党中央は、むしろ、これを逆にみて、「サンフランシスコ体制と安保条約」による「占領制度の永久化・制度化」に「軍事行動」を対置して、突破しようとしたのであった。
三月に入ると、たたかいはにわかに激動した。一日、総評、労闘主催の弾圧法粉砕総決起大会が開催され、これには一〇万人の労働者が結集、全国的には延一千万人以上の労働者が、事実上ストライキをうって参加した。そして、わが国最大の政治的示威行動を展開した。これにたいし、政府は、二七日に、「治安維持法」の復活といわれた、破壊活動防止法案要綱を発表して対決し、また、これを撃って、翌二八日と三一日の両日、総評、労闘合同拡大戦術委員会が、破防法反対に、断固、ゼネストをもってたたかう方針を決定した。
こうした攻防のなかで、党の「軍事行動」は、いよいよ発動しはじめたのであった。関東地方では、神奈川県委員会が先頭を切り、三月一九日の未明、横浜の進駐軍物資集積所へ火焔ビンが投げ込まれ、二九日の夜八時には、吉河特審局長宅へ火焔ビン投入の襲撃がかけられた。これにたいし、国警は、二八日に、後継紙『平和と独立』の印刷所、配布所など、全国で一、八五〇カ所を捜査。二九日には、三多摩の山村工作隊にはじめて手入れがおこなわれた。これに反発して、三一日には、川崎の米軍資材置場、横浜市の「エリア・2」とよばれる進駐軍住宅付近に時限爆弾をしかける攻撃がおこなわれた。また、同日、総評、労闘は拡大戦術会議をひらき、破防法反対のゼネスト第一波を四月一二日、二波を一八日に決定して、対決の決意を表明した。
私は、この時期、宣伝・教育部門を担当していたが、破防法反対の宣伝活動に全力をあげ、このたたかいを広範な大衆自身のものにするために努力した。(中略)
しかし、四月から五月へかけて、私たちは、ビュー・ロー・キャップの枡井トメを中心に、連日、たたかい���指導に没頭していた。そして、四月一二日の破防法反対の第一波ゼネストには、三〇万人の労働者を結集、破防法案が国会に上程された翌日、一八日の第二波には、政府の恫喝をけって、一一〇万人がゼネストに参加するという、成果をおさめた。また同日、これに同調する都学連一五〇〇人の国会請願デモが組織され、全学連は二八日に破防法反対のストを決行した。いうまでもなく、この日、一九五二年四月二八日は、対日平和・安保両条約が発効した日であり、第二次世界大戦に敗北した日本が、七年間の占領から、沖縄を残して、一応とき放たれた日であった。だが、私たちは依然として潜行をつづけ、この二八日の前後には、メーデーの開催方法をめぐって、都ビューロー内部で深刻な討議をくり返していた。
五二年の中央メーデーは、前年同様分裂メーデーになったが、それだけではなく、会場も皇居前広場の使用が許可されず、結局、神宮外苑に押し込められてしまったことが、破防法反対闘争の高揚のなかで、戦闘的な労働者の憤激をよびおこした。そして、その怒りは、占領時代における軍事的・植民地的支配にたいする反抗のあらわれでもあり、同時に、日本が一応「独立国」になって、占領法規が効力を失った途端に、占領軍を肩代りして前面におどり出た、国家権力の暴力装置にたいする反抗でもあった。それだけではなく、その底流には、反革命戦争としての朝鮮戦争にたいするうっ積した怒り、とくに在日朝鮮人組織の抜きがたい不信と激怒があった。
中央メーデー準備委員会周辺の討論を反映して、都ビューローが討議をくり返した問題点は、戦後“革命期”に、“人民広場”と呼称されて、たたかう労働者・人民の“意志の確認”“決起”の場所となっていた皇居前広場を、「独立」を機に、実力で「奪還すべきだ」という意見にたいする賛否をめぐる問題であった。当初、キャップの枡井は、「占領下の制約はなくなった」「其のメーデーは人民広場で」の主張であり、組織部を担当していた浜武司や、労対の益子正教らもこれに同調していた。しかし、東京はえ抜きの他のビューロー・メンバーのほとんどが、これに反対する立場をとった。私は、メーデーの主力部隊である総評の意向を尊重すべきだと考えていたし、なかでも、「平和四原則」を守り、総評を“ニワトリからアヒル”に変えるために奮闘していた高野実ら左派の立場を強めることが、「独立」後の彼我の状況を有利に展開するポイントであると確信していたから、共産党が系列下の組合や全学連をつかって、「人民広場」に固執し、実力で“奪還”することには反対であった。これにたいし、枡井らは、「少なくとも、共産党の部隊は人民広場に入り、使用させなかったことの不当性を抗議すべきではないか」と主張しつづけた。
しかし、真剣な討論の末、しかもメーデーの前日に終日の討議をおこなった結果、全員の意見が完全に一致し、「人民広場には入らないこと」、「中央コースのデモ隊は、広場側を通過の際、シュプレッヒコールで人民広場使用不許可の不当性を訴えて、抗議の意思表示をおこなうこと」、「人民広場突入を強く主張する自労や学生部隊などをデモ隊の先頭に立たせず、後部に回し、市民を先頭に立てて、予想される敵の挑発から大衆を守るために、金属労働者や官公労の労働者たちによる統制を強めること」などを決定した。私たちは、この決定を生み出してホッとした。そして、「独立」後第一回のメーデーが、労働者、人民の血気さかんなメーデーになることを期待したのであった。
私は、メーデーの当日、会場にいけない無念さを晴らすために、メーデー終了後、妻と娘たちに会い、せめて家族水入らずの祝盃をあげる予定を組み、その連絡をとった。そして、その文面のなかに、「人民広場へは入らないことになった。僕の分もふくめて、先頭に立って堂々と行進して下さい」と書いた。ところが、周知のように、メーデーはいわゆる「軍事行動」を展開して、“血のメーデー”になった。先頭に立っていた妻と娘は、祝田橋よりはるか手前で警官に襲われ、妻は頭部を殴打されて三針ぬう重傷、娘は腰部を打たれて大きなアザをつくった。二人は通りがかりのひとに助けられ、傷の手当をして、私の友人の家に逃げ込み、かくまわれた。私がこのことを知ったのは、夕飯を食べないで待っていた夕刻近くであったが、私は、思いもよらない“血のメーデー”に驚き、家族がそれにまき込まれたことに愕然とした。同時に、「ついに、東京都委員会の決定は守られなかったのか」と残念に思い、ともかく現場近くまでいって情報をつかもうとした。そして、私が友人の家に駆けつけたときには、まだ、その周辺にも、この日の昂奮が無気味な余韻を残していた。みると、友人宅の戸棚のなかにかくれていた妻の顔は青ざめ、娘はおびえてふるえていた。私は二人を見守りながら、まんじりともせずに一夜を過したが、ひさしぶりに会う妻と娘に、こういう状態で会おうとは夢にも思わなかった。やたらと涙があふれ出て、複雑な怒りが全身に充満し、どうすることもできない感情にさいなまれつづけた。
翌日、東京都委員会は緊急ビューロー会議をひらき、善後策を協議した。まだ、現場の情報が十分収集できなかったが、何人かのビューロー員は、「あれほど慎重に討議して決めたのに……。なぜ、東京の党組織はああいう行動に出たのだろう」「これは、Yのひとり歩きではないか」と、Yを兼任していた枡井に、「おばさんだけは知っていたのではないか」と質問するひともいた。しかし、枡井も「知らなかった」といい、「ともかく、こうなったからには……、不当弾圧抗議の声明を出そう」ということになり、枡井が執筆することになった。その内容は、メーデーの日から放送を開始した、北京からの「自由日本放送」と趣旨が一致していたので、後日、枡井は得意気であった。この放送原稿は、NHKをレッド・パージになり、中国へ渡って「自由日本放送」の仕事にたずさわっていた藤井冠次の証言(『伊藤律と北京・徳田機関』)によると、伊藤律が書いたということであるから、枡井と伊藤律の評価は、だいたい一致していたことになる。
また、六全協後の東京都委員会の総括のなかで、私は、“血のメーデー”における「軍事行動」の責任を追及したが、そこであきらかになったことは、前日ひらかれた東京都委員会のビューロー会議終了後、浜武司が中央へよびつけられ、「人民広場へ突入せよ」と指示されたという。これを伝えたのは、志田の命をうけた沼田秀郷であることも、本人の証言によってあきらかになった。浜は、夜を徹して各地区を歩き、「中核自衛隊」の動員手配をおこない、「全く自分の責任で、当日の行動を組織した」と証言していた。
だから、私の推測では、中島誠が書いているような(『流動』一九七八年一一月号)「メーデーをきっかけに、『人民広場』を奪い返し、日本の首都のどまん中に一種の革命的状況をつくり出そうと計画し、動員を組織し、広場へのなだれ込みの順序、入り口の分担、隊列の組み方、そしてそこでの『戦闘』のやり方に至るまで何日も前から綿密に計画を練り、練習をも積み、『人民広場』での革命的状況をさらにどのようなものに展開してゆくかまで展望していた」というようなものではなかったと思う。もし、中央軍事委員会にそのような机上プランがあったとしても、“血のメーデー”は、党の「中核自衛隊」と党員を主力としてたたかわれたもので、大衆の蜂起を党が下から支えて、組織したもので���なかった。だから、「革命的状況」を「展開」し、「展望」をきりひらくことは、全く不可能なことであった。
ついでに付記しておくと、この総括会議をおこなっていたときには、志田の「お竹事件」はまだ“闇”のかなたにあり、志田と官本顕治はアベックで全国の党大会に出席していた。したがって、この“協力体制”をくずさないために、「志田の政治的責任は追及すべきではない」というのが、反“主流派”のひとたちの共通した意見であった。つまり、このときには“分裂した一翼”の“極左冒険主義”について、“国際派”のひとたちも“関わらない”のではなく、“不問に付する”態度であった。
(中略) 血のメーデーにつづく「五・三〇事件」記念日の岩の坂、新宿、大阪吹田などの交番襲撃事件―火焔ビン闘争が多発して、ようやく盛りあがった大衆的な労働運動―破防法反対闘争に水をさす結果をもたらした。すなわち、破防法反対闘争の中心部隊を形成していた社会党や総評左派を動揺させ、右派単産幹部を狼狽させて、多数の部隊を脱落させた。(中略) こうして破防法は、七月四日の衆議院において可決成立し、二一日に公布され、同時に公安調査庁も発足したのであった。
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
(注とコメント)、これも、HPに転載してあります。石田雄現東大名誉教授は、メーデー事件当日、東大職組の一員として、人民広場に入りました。警察は、東大職組の2人を逮捕しました。丸山眞男は、広場にいませんでしたが、東大法学部教授会として、その対応にあたりました。日本共産党宮本顕治は、丸山眞男の『戦争責任論の盲点』にたいして、異様なほどの丸山批判キャンペーンを13回も展開しました。宮本顕治は、それによって、その丸山論文だけでなく、共産党批判をする丸山眞男の全学問業績の否定とその社会的抹殺を謀ったというのが、私(宮地)の判断です。共産党の丸山批判キャンペーンの実態と本質については、2つのファイルで分析してあります。
石田雄論文は、丸山眞男論文の一背景に、メーデー事件に関する日本共産党批判があったとする証言です。
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石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
『共産党の丸山批判・経過資料』13回の丸山批判キャンペーン
『志位報告と丸山批判詭弁術』1930年代のコミンテルンと日本支部
以上 健一MENUに戻る
(関連ファイル)
『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
由井誓 『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
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【アンケート企画】「2016年の3本」その2
年末年始にかけて募集しましたWL年末回顧アンケート「2016年の3本」の後編です。16人の方の印象深かった観劇をご紹介します。
その1はこちらからご覧いただけます。
西村 俊彦 (俳優・ナレーター) ・劇団きらら『ガムガムファイター』(王子スタジオ1) ・劇団だるめしあん『魔法処女☆えるざ(30)』(花まる学習会王子小劇場) ・阿佐ヶ谷スパイダース『はたらくおとこ』(本多劇場) 印象に残った三本は、どれも、今と戦ってる感がありました。 自分の身近な「今」に深く迫ってくる『魔法処女☆えるざ(30)』 社会の「今」を、おじさんを通して描く『はたらくおとこ』 そこに団体の今が重なってきた『ガムガムファイター』 演劇の今日性はジャーナリズムにある、というのもよく聞く話ですが、僕は、むしろ普段光の当たらない「今」だったり、毎日の中であまり意識しない「今」をふと意識させてくれるものが好きだなと、思ったりしました。どの作品も、「どこにも行けない」ような人たちが、どこかに行こうともがいている様を、丁寧に描いていたように思います。劇場を出た後、ほんの少し、世界の見方が変わる、そんな3本を選びました。 (年間観劇本数:55本)
りいちろ (会社員) ・FUKAIPRODUCE羽衣『イトイーランド』(吉祥寺シアター) ・あやめ十八番『雑種 花月夜』(花まる学習会王子小劇場) ・風琴工房『4センチメートル』(ザ・スズナリ) 音楽劇の当たり年でした。その中から特に心に残った3本を。全作品は観ることができませんでしたが伊藤靖浩「一人芝居ミュージカル短編集vol.1」なども圧巻。どの作品も、ストレートプレイでは表現しえない作意を新たな感覚として渡すオリジナル楽曲の力があり、その世界のふくらみに心を満たされました。 今年一番強い印象が残ったのは座・高円寺1での「残花-1945 さくら隊 園井恵子-」、丁寧に描かれた時間とそれが滅失する一瞬の光と静けさ。舞台から訪れた静謐で抱えきれない衝撃は忘れ得ないものでした。 優れた中・短編にも巡り合えた一年、劇団競泳水着のリーディング公演「ある盗聴」 /「復讐と美味しい料理は後を引く」、第27班番外公演「どこまでも行けるのさ」(短編2本×3の上演)、チタキヨ「ショーツ」、日本のラジオ「ムーア」など���戯曲の企みがこれまでにない味わいで観る側を虜にする作品が数多くありました。 (年間観劇本数:300本強)
かいらくえんなつき (演劇ウォッチャー) ・ハイバイ『おとこたち』(三重県文化会館、ロームシアター京都) ・木ノ下歌舞伎『義経千本桜―渡海屋・大物浦―』(愛知県芸術劇場 小ホール) ・追手門学院高等学校『あゆみ』(大阪市立芸術創造館) 若者と言えなくなりつつある年のせいなのか、はたまた、そこまでの作品に出会えなかったのか、不感症といってもいいぐらいに心を動かされることが少なかった今年、それでも心を動かされてたまらなくなった3本を選んだら、いずれもリメイク・再演作品になりました。 保守的な人間になんかなりたくない!新しく、刺激のある、心震わさられる作品に来年はもっともっと出会いたいです。 (年間観劇本数:たぶん150本くらい。)
須川 渡 (研究者) ・維新派『アマハラ』(奈良 平城宮跡) ・シャンカル・ヴェンカテーシュワラン/シアター ルーツ&ウィングス『水の駅』(京都芸術劇場 春秋座) ・大阪芸術大学舞台芸術学科『真田風雲録』(兵庫県立芸術文化センター) そのほとんどは関西で観劇した作品でした。 惜しまれつつも最終公演となった維新派『アマハラ』はこれまでの維新派作品を反芻しながらの観劇となりました。屋台村もいい思い出です。 『水の駅』は、太田省吾氏の沈黙劇がインドの社会や文化的背景と見事に調和していたという驚きも含めて。海外との共同制作という意味では、鳥の劇場で行われた『麦克白!맥베스!!マクベス!!!』も印象に残りました。 今年は実践系の大学の公演を観る機会が多く、その中でも面白かったのは大阪芸大が行った『真田風雲録』。内藤裕敬氏の演出と学生のエネルギー、客席に若い人が多かったこともあって、活気のある舞台でした。かつての関西演劇の熱気とはこのような雰囲気だったのだろうか、と思わせてくれました。 (年間観劇本数:98本)
高野 竜 (劇作家・演出家) ・劇団石(トル)『在日バイタルチェック』(在日大韓基督教川崎教会) ・日立一高演劇部『白紙提出』(同校旧定時制給食室) ・多摩南中等教育学校演劇部『幕があれへん』(同校特別講義室) 演劇のための安定した演劇でなく、それぞれの内的必然と社会における立場とを咀嚼しアピールする方法として手法から見直して再構築した演劇のスタイルに到達している3本。幾世代にもわたる在日朝鮮人生活者の生の言葉、性同一性嗜好のカミングアウトに関する懊悩、悪意と退廃にまみれたネットスラング世界を演芸として身体に落とす方法、がそれぞれのテーマだった。いずれも愛を表明し、同時代性に充ち、かつホームシアターと客層を確保している。メタ演出にも借景演劇にも堕さない、見事な空間の立ち上がりを見せていた。 (年間観劇本数:31本)
山城 秀之 (活動写真弁士・紙芝居屋) ・パンダジョッキー+ドリルチョコレート『奴らの影踏む千葉』(シアター711) ・日本のラジオ『ゼロゼロゼロ』(スタジオ空洞 ) ・有末剛緊縛夜話『魔法少女 喪失篇』(ザムザ阿佐ヶ谷) 1本目は今頃なんで克美しげる? と思ったが途中からそんなことどうでもよくなったくらい面白かった。 2本目、劇場の無機質な佇まいごと世界を作り上げていて唸った。 3本目、生緊縛に尽きる。 今年の演劇の動向は、私ごときにはまったくわかりません。見えてもきません。 (年間観劇本数:37本)
片山 幹生 (WLスタッフ) ・国分寺大人倶楽部『ラストダンス』(シアター711) ・村田女子高校演劇部『MORE』(東京芸術劇場 シアターウエスト) ・京都造形芸術大学『繻子の靴』 (京都芸術劇場 春秋座) ベスト3というより、一年の観劇生活を振り返ってみて自分の記憶に強く残る作品を3本選んだ。国分寺大人倶楽部はこの公演で解散となった。生きることに付随するみっともなさに向き合い、だらしない日常を執拗に描き出しつつ、その生活のゴミ溜めの向こう側にこそ確認することができるような愛と希望を提示し続けたこの劇団の芝居が私は大好きだった。村田女子高校の『MORE』は高校演劇東京都大会で見た作品。彼女たちは自分たちの「女子高生」性を分析し、濃縮し、それを演劇的なかたちで見事に再構成していた。京都造形芸術大学の『繻子の靴』の全曲公演は、フランス演劇の研究者・翻訳者でもあり、演出家でもある渡辺守章の演劇人生の集大成となる公演だった。朗読を交えた上演形式となったこと、翻訳の難解さなどの問題点はあったけれど、20世紀フランス演劇の金字塔であるクローデルの大作がこうして日本語で公演されたことの意義は極めて大きい。 (年間観劇本数:126本)
なかむら なおき (会社員) ・飴屋法水×本谷有希子 『 』 (VACANT) ・月刊「根本宗子」『バー公演じゃないです。』 (劇場HOPE) ・ディレクターグ『女優の魂、続女優の魂』 (アトリエ春風舎) 作り手の気持ちがとても伝わったものとすぐ浮かんだ3作を選んでみた。 2016年も色々な作品を楽しむことができました。それだけでなく芸術公社の座学やゲンロンでの対談、F/Tのサポーターによる発表、など公演でなく演劇を感じる機会も多かったなと。さて2017年はどのような劇的な体験ができるのか、それがとても楽しみである。 (年間観劇本数:100本くらい)
でんない いっこう (自由業) ・ロべール・ルパージュ『887』 (東京芸術劇場 プレイハウス) ・ハイバイ『夫婦』 (東京芸術劇場 シアターイースト) ・鄭義信『焼肉ドラゴン』 (新国立劇場 小劇場) ①題名がいい。詩の朗唱の依頼を受けた俳優が練習しながら過去の自分へと記憶を辿る。美しいアパートの模型。映像で知らせるリアル。家族や友人との会話。切り離せない社会現象。形作られるバックボーンを様々な手法で魅せる。 ②実に面白い会話劇。アルアルアルっていう密着感。夫の進めてきた体に優しい腹腔鏡の手術を受けその傷跡を息子に見せる母親。母親役の山内圭哉のラストが何とも言えず可笑しい。 ③底に流れる脚本と俳優陣に暖かいものが満ちている。だから、末っ子が屋根から姿が消えるのが引き裂かれるように切ない。 他に『エダニク』『ゴド―を待ちながら』『ヘンリー四世』 (年間観劇本数:51本)
中西 理 (シアターアーツ編集委員) ・青年団リンク キュイ『止まらない子供たちが轢かれていく』『不眠普及』(アトリエ春風舎) ・マレビトの会『福島を上演する』(にしすがも創造舎) ・青年団リンク ホエイ『麦とクシャミ』(こまばアゴラ劇場) 平田オリザの青年団所属の若手による公演が上位を占めたのは単なる偶然ではなく、現在、現代演劇の最前線の動きの中核にあるのが、彼らであると考えているからだ。 現代演劇の新たな才能を輩出してきた青年団周辺で次の世代を担う才能を感じさせたのが綾門優季(青年団リンク キュイ)と山田百次(青年団リンク ホエイ)だった。綾門による「止まらない子供たちが轢かれていく」「不眠普及」(2本立て公演)、山田の「麦とクシャミ」にはいずれも刺激的な舞台で今後の彼らの活躍が期待されるものだった。 一方、松田正隆の「福島を上演する」はまだ試行の途上であるとも思われ福島に対するアプローチの手法も賛否両論を引き起こしたが、平田オリザとは異なるアプローチの新たな会話劇を模索するもので私は大いに評価したい。 (年間観劇本数:250本)
KEIKO TAKAHASHI (会社員) ・劇団☆新感線『乱鶯』(梅田芸術劇場) ・シアターコクーン オンレパートリー『元禄港歌』(シアターBRAVA!) ・劇団壱劇屋『シャドウ・トラフィック』(ABCホール) 今年観た舞台は57本。ほとんどはミュージカルなのですが、ストレートプレイから、今もアリアリと場面が思い出せる3本を選びました。 劇団☆新感線の「乱鶯」は救いようのない悲劇だったけれど、終幕で、全ての黒幕だった男を待ち受ける主人公と、何も気づかずに(或いは全て心得て?)スイカを下げてぶらぶらと彼のもとへ向かう男の佇まい、劇場に満ちる緊迫感に痺れました。 「元禄港歌」は、猿之助丈の凄さに尽きます。。。 「シャドウ・トラフィック」は関西の「劇団壱劇屋」の作品。身体能力が高い集団で、明滅する照明、トランス系の音楽、異様な世界観・・・スタイリッシュな作品でした!(年間観劇本数:57本)
吉植 荘一郎 (舞台俳優) ・ワジディ・ムアワッド「火傷するほど独り」(静岡芸術劇場) ・重力/Note『かもめ』 (テルプシコール) ・京都造形芸術大学『繻子の靴』 (京都芸術劇場 春秋座) ・火傷するほど独り…「炎 アンサンディ」や「沿岸 頼むから静かに死んでくれ」の作���は、俳優としても恐るべき人だった! ・かもめ…俳優が力をつけてきて、演出家の意図を具現化できるようになってきた期待のユニット。前年の「イワーノフ」の方が純粋に楽しめたかも。 ・繻子の靴…リーディング公演みたいになっていたのは意外だったけど、こんな巨大な戯曲があったのかと驚いた。いつか全貌を見てみたい。 (年間観劇本数: たぶん20本程度…。 )
平井 寛人 (学生) ・FUKAIPRODUCE羽衣『愛いっぱいの愛を』(パルテノン多摩 きらめきの池ステージ) ・シラカン『悠然とそびえる』(多摩美術大学) ・ロ字ック『荒川、神キラーチェーン』(東京芸術劇場 シアターウエスト) どれも、この時代におけるそれぞれの一つのピークを示していた。それは作家にとって、描き出す事、制作に成功した事であると私は思う。独我的でありながら、私たちが置いてけぼりを食わないような快作。客として、そうした成功作に立ち会え、この三作から感動を覚えたので選出する。 (年間観劇本数:15本)
しば まさよ (アルバイト、演劇の勉強をしています。) ・チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』(ロームシアター京都 ノースホール) ・鄭義信『焼肉ドラゴン』(兵庫県立芸術文化センター) ・鈴木忠志『世界の果てからこんにちは』(利賀芸術公園野外劇場) 2016年は様々な国の作品を観ることができました。選んだのは印象に残った作品ですが、後から見返すと国や文化的背景を感じるもので、記憶に残って離れない作品、観終わってから却ってしんしんと迫ってくる作品です。こんな力が演劇にあるとは思わなかった、そんな作品がたくさんあり発見の年になりました。 お客さんもそれぞれに特徴があって、客席や待合で聞こえてくる会話、幕開けを待つ間の数分に客席を満たす雰囲気などもコッソリ楽しませて頂きました。 もっと演劇作品を多くの人に観てもらいたいなと感じています。 (年間観劇本数:45本(能・歌舞伎含む) )
望月 正人 (観劇人) ・On7『ま○この話〜あるいはヴァギナ・モノローグス』(KAAT) ・FUKAIPRODUCE羽衣『イトイーランド』(吉祥寺シアター) ・パルテノン多摩×FUKAIPRODUCE羽衣『愛いっぱいの愛を』(パルテノン多摩 きらめきの池ステージ) 2016年はジェンダーにまつわる芝居に数多く接した。その代表として選んだのが、On7の『ま○この話』。自らの体験も交えながら赤裸々な表現に挑んだ7人の女優。そして生々しい話をスタイリッシュにまとめた谷賢一の演出と、美術や照明などのスタッフワークが光る。ジェンダー絡みの作品では、世田谷パブリックシアターの地域の物語『生と性をめぐるささやかな冒険〈女性編〉』も、参加者の圧倒的リアリティに打ちのめされる、素晴らしい公演だった。 FUKAIPRODUCE羽衣の『イトイーランド』は、羽衣の集大成的な大作。文句無しに楽しい祝祭的妙ージカル。 『イトイーランド』が円熟の作品なら、オーディションで選ばれた初参加メンバーが半分以上を占めた『愛いっぱいの愛を』は、巧拙を超えたヒリヒリするような生のリアリティに満ちた作品。とりわけ「茜色水路」の壮絶な美しさは、この年最も魂を揺さぶられたパフォーマンスだった。 (年間観劇本数: 数え方にもよるが延べで112本)
小泉 うめ (観劇人・WLスタッフ) ・TCアルププロジェクト『人間ども集まれ!』(まつもと市民芸術館) ・泥棒対策ライト『日々ルルル』(三鷹市芸術文化センター 星のホール ) ・ウミ下着『いつか みんな なかったことに』(KAIKA) 全体的にはベテラン陣の活躍が目立った。戯曲、演出、演技ともにその貫録を感じる作品が多く、そのおかげで安��感のある一年だったと思う。 若手・中堅陣からは「どうしてこれが初演時に各戯曲賞の候補にあがらなかったのか」とあらためて思うような優れた作品の再演が多かった。新作戯曲については現在準備の進んでいる話を聞いているものに楽しみなものが多く、2017年に大いに期待したい。個人的にはドラマへの回帰、もしくはポスト・ポストドラマ的な作品の出現を待っている。 3本については多くの観客に知って欲しいという思いで選んだ。2016年という今を象徴するような作品であったとも思う。ウミ下着は関東に、泥棒対策ライトは関西に、TCアルプは東西に紹介したい。それを求めて現地に向かう観客のフットワークと彼らがツアー公演できるような環境の充実を希望している。 (年間観劇本数: 366本)
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●歴史まとめ
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●歴史まとめ ◆民衆の思い積んだ行基の十三重土塔(堺市) 古きを歩けば(15)2012/1/10 https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37578820W1A221C1000000/ 歴史博士 堺市郊外の住宅地に、瓦で包まれた奇妙な小山がそびえ立っている。土で築いた階段状の仏塔、土塔(どとう、国史跡)だ。奈良時代の僧、行基が故郷の和泉監大鳥郡に築き、全面が瓦で覆われていたという、国内に類例がほとんど無い珍しい遺跡だ。 往時には7万枚の瓦 堺市にある国史跡・土塔。ピラミッドの頂部を切り取った形をしている ピラミッドの頂部を切り取った形状をしており、一辺約53メートル、高さは約9メートル。麓から頂部まで13の段が重なる「十三重塔」で、土を盛り上げ、往時は7万枚を超す瓦で表面を覆っていたとみられる。 発掘調査では庶民を中心に幅広い層の名を刻んだ瓦が出土。 多くの人々がこの塔の建立に携わった様子が浮かび上がった。...1/3 ◆大阪に「都」があった7世紀難波宮跡(大阪市) 古きを歩けば(14)2011/12/20 https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37262320U1A211C1000000?channel=DF280120166609&style=1 歴史博士 大阪はかつて首都だった。7世紀に「大化の改新」として知られる政治改革の舞台となり、官庁を集約して建て並べるなど先進的な構造の難波宮(なにわのみや)が造営された。この遺跡を守り伝えようとする研究者や市民の取り組みは、今も続いている。 大極殿の基壇が復元された難波宮跡公園。演奏会の練習やペットの散歩など市民の憩いの場となっている(大阪市中央区) 古代から現代まで一望 大阪府庁の近くに緑に包まれた広々とした公園がある。犬を連れて散歩する人、楽器の練習をする人。この都心部にぽっかりあいた空間が難波宮跡だ。北隣には大阪城があり、その向こうに高層ビル群が見える。「ここでは大阪の古代、中近世、現代が一望できます」。30年以上、調査に携わってきた大阪市教育委員会研究主幹の植木久さんはこう話す。...1/3 ◆戦国耐えた仏 伝え続ける守り人赤後寺(滋賀県長浜市高月町) 古きを歩けば(13)2011/12/13 https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37052230W1A201C1000000?channel=DF280120166609&style=1 歴史博士 厨子(ずし)の扉が開くと、痛ましい2体の仏像が現れた。9世紀の十一面千手観音は42本の腕のうち残るは12本だけで、頭上にいただいていたはずの十一面もない。10世紀の聖観音も手首から先がない。滋賀県長浜市高月町の赤後寺(しゃくごじ)の仏は、戦国の傷を今に伝える。...1/3 ◆鳥獣に乗る菩薩と13歳の願い 古きを歩けば(53) 観智院(京都市) https://style.nikkei.com/article/DGXNASHC02044_X00C13A5000000?channel=DF280120166609&style=1 獅子、象、馬、孔雀(くじゃく)。動物園の光景ではない。インド神話の鳥類の王、迦楼羅(かるら)も加えた5体の像が、背中に智恵をつかさどる菩薩(ぼさつ)を乗せている。京都市南区の観智院は、鳥獣座に乗る珍しい五大虚空蔵菩薩像の本尊で知られる。...1/3 ◆STORY5 古代国家を支えた下毛野氏基盤の地 宇都宮の歴史と文化財 https://utsunomiya-8story.jp/story/story5/ 倭の五王の時代のうつのみや 大和王権が力を伸ばしていた5世紀、日本最大の大仙古墳が造られます。このころ、うつのみやの地でも市内最大の笹塚古墳が造られます。全長105mの前方後円墳です。埴輪、葺石、二重の周掘をもつ古墳です。この場所は現在のインターパーク付近で、近くでは豪族の居館跡や大規模な集落跡が見つかっており、当時、この地域の中心であったと考えられます。 ◆倭の五王は、いつの天皇なのか? - 歴史まとめ.net https://rekishi-memo.net/kofunjidai/wa_no_goou.html 5世紀、当時の日本の大和王権は中国南朝の「宋」と外交関係を持ち、倭国王に冊封された。 当時の中国の歴史書「宋書」倭国伝には、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)といわれる五人の倭王(倭の五王)が、約1世紀の間に使者を派遣した事が記されている。 これらの王を、日本側の史料である「古事記」による天皇と照らし合わせると、讃=仁徳or履中、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略の各天皇ではないかと推測される。 最初の二人、讃と珍は事実であるか疑わしい推測なのだが、済・興・武の三人に関しては、現在、確実視されている。 最後の武の雄略天皇が、敵対する有力豪族たちを滅ぼし、天皇の権力を強化させてた。 そして、武を最後に、宋への遣使は派遣されていない。 ◆古代国家支えたメガ「王墓」 造山古墳(岡山市) 古きを歩けば(10) https://style.nikkei.com/article/DGXBZO36504410V11C11A1000000/ ■全国最大級のスケール 岡山市に“全国最大”を誇る前方後円墳、造山古墳がある。墳丘長は約350メートルで全国4位。ただ大阪府にある上位3つの古墳はいずれも宮内庁が管理する陵墓で、一般の立ち入りが禁止されている。自由に立ち入れる古墳では、造山が最大というわけだ。...1/3 ◆145年前に見る「丸腰の安全保障」の教訓 古きを歩けば(54) 土佐 .. https://style.nikkei.com/article/DGXNASHC1301A_V10C13A5000000 2013/05/21 現在でも起こりうる国同士の偶発的な軍事衝突。乏しい情報や丸腰に近い安全保障体制の下では、どんな結末を迎えるのか。さらに、政権移行期の混乱が加わったら……。 ■フランス兵を制止した土佐藩士 宝珠院境内にある土佐藩士11人の墓 ひとつの答えが1868年2月の堺事件にある。連座し切腹を命じられた土佐藩士11人の墓は堺市の宝珠院の系列の宝珠学園幼稚園(宿屋町東3)の一角で、180人の園児の歓声に包まれ、移り行く時代を静かに見守る。墓石は砂岩で風化が進んだ部分もあるが、「土佐」「二十五歳」などの文字が読み取れる。幼稚園でも毎年2月には「烈士祭」を実施、園児らが並ぶ墓石に小さな手を合わせているという。...1/3 ◆忠臣蔵、410年目のお城再興 赤穂城(兵庫県赤穂市) 古きを歩けば(12) https://style.nikkei.com/article/DGXBZO36889450Q1A131C1000000/ 1701年、藩主の浅野長矩が江戸城内で刃傷事件を起こし切腹――。急を知らせる使者到着から城明け渡しまで、赤穂の1カ月の動きは忠臣蔵の前段のヤマ場だ。その舞台、赤穂城は明治期に廃城となったが、約40年前から往時の姿への復元が進んでいる。...1/3 ◆大阪に「都」があった7世紀 難波宮跡(大阪市) 古きを歩けば(14) https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37262320U1A211C1000000/ 大阪はかつて首都だった。7世紀に「大化の改新」として知られる政治改革の舞台となり、官庁を集約して建て並べるなど先進的な構造の難波宮(なにわのみや)が造営された。この遺跡を守り伝えようとする研究者や市民の取り組みは、今も続いている。...1/3 ◆元寇船や人骨…歴史塗り変える発見、ハイテクで実現 https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37785720V00C12A1000000/ 東日本大震災と原発事故に揺れた2011年。大きなニュースの陰に隠れがちだったが、考古学会では我が国の歴史を塗り替えるような大発見が相次いだ。長崎県松浦市鷹島(たかしま)沖での元寇船のほぼ原形をとどめた形での発見、福井県若狭町の鳥浜(とりはま)貝塚遺跡での世界最古の漆の枝の発見、沖縄県石垣島(石垣市)の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡での日本最古の人骨の発見――。いずれも日本史の謎の部分を解き明かしたり、日本文化や日本人のルーツにかかわる通説を覆したりするかもしれない発見。この一連の「世紀の発見」を可能にしたのは、考古学とは直接関係のない資源工学や理化学の分野で使われているハイテク技術だ。...1/5 ◆アルバート・パイク - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/wiki 弁護士。フリーメイソン。南北戦争時の南部連合の将軍。 フリーメイソンの正装を着たパイク(1865-1880年頃)。 秘密結社フリーメイソンに所属していたと言われている。「メイソンの黒い教皇」とも呼ばれている。古代や東洋の神秘主義を研究して、構成員を増やした[要出典]。オハイオ州シンシナティに本拠地にしていた「ゴールデン・サークル騎士団」の名前を変えたと言われる。また1871年、イタリアのフリーメイソンのジュゼッペ・マッツィーニ(イタリア建国の父)に送った手紙には、第一次世界大戦と第二次世界大戦、更に第三次世界大戦についての計画が記されていたという説が陰謀論者の間で広がっている。 ◆武市半平太〜その栄光と挫折 https://ryo-ma.net/ryoma-hanpeita 月形龍之介 「月様、雨が…。」 「春雨じゃ。濡れて参ろう。」 これは、戦前、舞台や映画で大流行した、行友李風(ゆきともりふう)作の戯曲『月形半平太』の有名な一節です。 ◆武市半平太〜その栄光と挫折 | 「龍馬はん」/嶺里ボー - Part 2 https://ryo-ma.net/ryoma-hanpeita/2 土佐勤王党結成 しかし半平太は、あくまで一藩勤王の実現を目指すべきだと自重を促しました。 これによって吉村虎太郎は脱藩、それに続くように坂本龍馬や沢村惣之丞も脱藩します。 半平太は、その龍馬の脱藩について後に「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴。 ◆坂本龍馬人物伝 「土佐の国にはあだたぬ奴だ」と http://bit.ly/y3xCON 坂本龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は幕末、日本の政治家・実業家として活躍しました。 28歳の時に土佐藩を脱藩。その事を聞いた同じ土佐藩の武市瑞山は「土佐の国にはあだたぬ奴だ」といった。「あだたぬ」とは土佐弁で包容しきれぬ人という意味です。その後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、幕末の志士として活動しました。 司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている ◆聖徳太子が歴史から消える日~ 『世界一受けたい授業』河合敦さんが教える、日本史教科書のミステリー 河合 敦 歴史研究家 多摩大学客員教授 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48884 あの聖徳太子は別の人?? 「聖徳太子は、推古天皇の摂政として冠位十二階、十七条の憲法を制定し、遣隋使の小野妹子を派遣した」 「日本で一番大きな古墳は、仁徳天皇陵である」 「日本最古の貨幣は、和同開珎である」 「鎌倉幕府の創立は1192年」 みなさん、これらの文章を読んでどう感じましたか。懐かしいなあ。そうそう、昔一生懸命憶えたよ。…そんな感想��持った読者も多いかも知れません。 もしもあなたが、この文章に何の違和感もおぼえないとしたら、あなたが学校で学んだ歴史は、もう時代遅れと言わざるをえません。.....1/4 ◆あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ ここまでわかった!「日本史」の最新常識 山岸 良二 : 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師 https://toyokeizai.net/articles/-/118796 2016/05/25 10:00 かつて「伝説の学習参考書」と呼ばれた名著をご存じだろうか。1973年に初版が発行され、多くの受験生のバイブルとして版を重ね続けてきた『大学への日本史』である。 作家の佐藤優氏も、外交官時代、「座右の書」として肌身離さず持ち歩き、何度も読み返してきた。その学習参考書が今回、装いも新たに『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』、『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わった。 特長は、リニューアル復刊にあたって、監修者が全編チェックして「古い学説」は改訂し、最新の研究成果によって以前の内容にはなかった「新たな歴史の常識」も数多く盛り込まれ、「いま使える内容」になっていること。 本連載では、同書の監修を担当した東邦大学付属東邦中高等学校の山岸良二氏が、そんな「最新の日本史」を紹介していく。
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145:東京では一番のもみじ並木だと思います。@東京大学大学院理学系研究科付属植物園/小石川植物園(東京都文京区)
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2020.7.19 日光植物園
正式名は、東京大学大学院理学系研究科付属植物園日光分園 100年以上の歴史を持つ植物園です。梅雨の花散策に行ってきました。 ここは植物園といえども、まるで山野草の森。珍しい山の花たちがたくさんです。雨模様を想定していたら、意外にもお天気は晴れ。
山百合が乱舞、見たかったコウホネとキレンゲショウマが見れました!
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(自創作)Phyxellerのメモ
ツイートだと何かで埋もれちゃうので記事として残しておこうという作戦 PhyxellerというサイバーとかSFとか近未来というワードの似合う感じの創作話
キャラ紹介だけにしようとか思っていたのにいつの間にか世界観とかも書いちゃった……
Phyxeller(ふぃくせらー)は一応仮題程度のタイトル。
Phyxellerって?
まずPhyxel(フィクセル/Physical+Pixel)という造語があって、意味は物理的ピクセル、つまり手で触って動かせる画面上のあのドットみたいな、いわゆるSFにある「浮いて触れる液晶画面」の素子みたいなやつ……と、3Dプリンタの「命令次第で立体的な物が作れる」の特徴を兼ねたような存在。 そしてそれにPhyxellerはソレにerがついて「フィクセルを操る人」という意味。
世界
めっちゃくちゃに退廃してる。SFだとおなじみだね。
あるとき地中からデミオンという有害物質が煙のようにモクモクと出て、浄化しきれなくなったと判断した国々は半球状の巨大なバリアを作って遮断することでデミオンから身を守ろうとした。
やがて長い年月を経て、バリアの外にあった街や自然を含むほとんどの生命はデミオンによって死滅し、焦土のような風景が広がり外界と区別されるようになった。 それに対して中はホログラムで彩られた空や自然があり、発達した機械文明で人は不自由なく暮らしている。
デミオンは吸って即死というものではなく、デミオンの含まれた空気を吸って体内に一定量蓄積されると痺れや目眩や倦怠感なんかを引き起こし、もっと吸い続けると呼吸器や心臓、抵抗機能などなどが停止して死んでしまう。 ある程度なら吸っても時間経過によって体内で浄化されるけど、衰弱の反応が起こると浄化機能も衰弱するので、デミオンを相殺する物質リミオンの摂取以外では回復しなくなる。
ちなみにリミオンは外界に点在する泉やガスの噴出口などから採れるが、デミオンの流出量に比べるとかなり少ない。
外界に出てそれらの物質の調査を行ったり、時折国内に侵入しようとする外界生物(大体はデミオンによって突然変異した獣)を駆除する組織があって、それをBLOXという。 BLOXは予てより活動の補助的技術だったフィクセルを、武器や重機などのメインの技術として扱う実験を始めた。最近打ち出されたのは「意のままにフィクセルを操る」実験。これが後にフィクセラーを生むことになった。
薄紫髪の子
たまに落描きと称して描いていて、なおかつPSO2でも再現して遊んでるこの青年の話👋
▲ちなみにこの武器の青い部分なんかを作っているのがフィクセル。本来はその土台である装置ごとに作れる形が決まっているけど、フィクセラーはこれを自在に変形させられる。
名前はミカバ・キルヒコ もともと名前のキルヒコに漢字表記はなく、名字のミカバは弥伽婆と書く。 ただし文化的に漢字が廃れてしまったので弥伽婆と書けるのは彼くらいしかいない。
デミオンによる突然変異で、生まれた時からライラックの髪色をしている。(こういった遺伝異常は割と常識)
小さい頃から寡黙で真面目でいわゆる勉強しか趣味のなさそうな凹凸のないガリ勉気質で、しかして国が定めた知能基準を超えている、稀にみる天才児。 フィクセルを自在に操るための命令変換用チップを脳や体に埋め込む実験の実験体に選出され、その手術に同意してコンピュータと並ぶ計算能力とスキャン用の機械眼(左目)を得てBLOXに所属するフィクセラーになった。
しかしチップを埋め込んだ副作用によって余計に機械的な人格になり、フィクセラーのコンセプトであった「意のままに」の「意」さえ発生しない状態になってしまった。
第一主人公
よく描いておきながらキルヒコは第二主人公で〜す。 それで、無感情で非人間的な状態に陥った彼を戻そうとした研究所に残った最後の方法が「手術前の日常を続ける」こと。
そうして招かれたのは彼の唯一の親友であり主人公のこいつ。
シグレ・ケイ ロケットエンジンによって浮遊する「フライトボード」を使ったスポーツを趣味にしている生意気で負けず嫌いで小難しいことが嫌いな青年。漢字では四暮 京。
フライトボードは一般家庭でも移動手段として用いられる機体でありスポーツの一種。 彼は生まれ故郷のクリムゾンで、このボードアクションの大会で3冠を達成するほどの上級ボーダーだった(現在住んでいるのはスマルトという国)。 キルヒコにボードに乗る楽しさを教えて中級ボーダーレベルにまで仕立て上げた張本人。
手術によって機械的になった彼の人格矯正に関わり、研究者の言いつけも破ってボードに誘い出したり口論の末に殴りかかったりするなどをして(最低…)、人格を少しずつ復活させることに成功。 キルヒコがフィクセラーに選ばれたことについては喜んでいたが、人格が落ちて片目を機械眼に換えられたということを聞いてめっちゃキレた。
昔のある時からデミオンに対する耐久力を失い、室外で活動する時はリミオンの含まれたパッチを顔や体に貼っている。 粗暴な性格やそういった体質があってBLOXに所属できる素質は全くないのだが、フィクセラーの行動管理人という裏口を設けられ強制入隊させられている苦労人。
互いに感情的になることの大切さと冷静になることの重要さを教わっているようなそんな仲。 後に一緒に任務に出たりする良きバディでもある。
※ここからもホントに仮案くらいだし超ややこしいのでテキトーに読んで()
国とか
国の全てには半球状のバリアが張られており、その根本に厳重なゲートを設け、そこを出入りして国々を移動できる。 バリアの内側は空を映すホログラムで満たされていて、ある程度決まった流れで晴れや曇りや朝夕なんかを映して旧来の空を再現してる。 半球状というと東京ドームみたいな大きさを想像するかもしんないけど、規模的には北海道くらいあるんじゃないかな。(適当)
国ごとにキーカラーを定めていて、特に外界調査に出ている時は国の判別に困らないようにエンジンが出す光の色などに適用している。
BLOXは三大都市に一つずつ設置されていて、政府や軍隊とは別でそれなりの権力がある。
スマルト ほぼメインになっている三大都市のひとつで、晴れ渡る空色のネオンが特徴。 守りと安心に徹した国づくりをしていて、バリアが最も堅牢で空気中のデミオン濃度も最も低い安全国。医療技術やAIやそんなハイテク技術がめざましい印象。 その代わり中に住む人々は他国に比べると消極的で神経質な傾向にある。クリムゾンの人間を自己中心的で横暴な人だとして避けたがる。
クリムゾン ケイの故郷でもある国。夕暮れの赤いネオンに包まれ、街中が派手な電光と騒音で彩られる国。 大きさから三大都市のひとつとして数えられるけど、度々バリアの根本を掘って侵入する外界生物がいて安全性はとんでもなく低い。そして掘った穴からデミオンが流れ込むためデミオン濃度も高く、耐性の弱い人間は住むことができない。 外界生物の駆除のために武器開発が進んでいて、各国のBLOXや軍隊にも普及している。 デミオンの遺伝作用や不安定な環境が連鎖して、人々は攻撃的な性格になりやすく、治安の悪いスラム大国でもある。 スマルトの人間をやさしい環境でぬくぬく育った甘チャンだと罵る人が多い。
ジョンブリアン 身体の一部を機械に置き換えることでデミオンの悪影響を無効化する技術を進め、それの成功によって様々な国を取り込み三大都市のひとつに成り上がった技術大国。乱立する工場が放つ黄色い照明光に照らされる国。 手足を義手義足に変えた人々が多く、中には頭以外の全てを機械化した人や、部品をフィクセル製にすることで変形自在な身体を手に入れた人もいる。いわゆるサイボーグの国。 対応力と修復度が高く、侵略や汚染を受けてもすぐに立て直せる力があり、比較的安全ではあるが、工場の乱立によって別の大気汚染が心配。
そのほか
食生活 いわゆるディストピア飯はまだ普及してない……けど、都市が増え自然が減った影響で、肉や野菜などなどの自然食材は高級品扱いになったため、食感等々を似せた合成食品の研究は騙せるくらい進み、それのおかげで逆に普通に料理が味わえる状態。 近未来なので1つ食べるだけで1食分の栄養素が〜という食品はたくさんあって、そういうのはBLOXの調査隊や作業員などが利用する。 ついでにデミオンの濃度や耐久力の関係でリミオンを定期的に摂取しないと健康に支障が出る人は、リミオンの含まれたアメとかグミとかタブレットみたいなものを持っていて、一息つくごとにヒョイっと食べたりしてる。ケイの使っているパッチは遅く長く効くというタイプなのであれは別。
動物と自然 ペットや家畜や動植物園で保護されている生物は繁殖に失敗していなければ大体生きてる。 スマルトではほとんどの地域がペット禁止で野良犬や野良猫もほとんどいない。ジョンブリアンは割と自由。クリムゾンは野良犬だと思ったら外界生物だったということがザラにある。 渡りの習性を持った鳥はバリアにぶつかって死んでしまう(orバリア形成時までに帰ってこなかった)ことがあって、カラスのような知能のある鳥とかニワトリみたいな飛ばない種族だけが中に残った。 建物の乱立や地下開発などで植物が根を下ろす場所はもう鉢の中くらいしかないけど、水栽培や空気栽培などの技術もあってホソボソと存続中。 街中で見れる植物はほとんどフィクセルとホログラムの掛け合わせで、季節や気温に沿って変化はするけど、所詮はやっぱりホログラム。う〜んディストピア。
敵 外界ではデミオンの作用でクリーチャー化して生きている外界生物がいて、しょっちゅう外界調査の妨げになる。 自分より汚染されていない個体を捕食しようとするので、別に人間相手でなくても外界生物同士が争うことはある。 首が3つあるとか毒ガスを吐くとか超常的な進化を遂げているやつが多くて、変化の仕方によっては建物の残骸が体にくっついて無機的なゴーレムみたいになってる生物もいる。 廃墟や手付かずの地下施設がそのまま巣になっている。
生物のいくつかが変化しながら生きているんだとすれば、人間だって生存可能な気もするけど……。
フィクセルとホログラムって違うの フィクセル→触れる ホログラム→すり抜ける
エネルギーとか そこらへん工学っぽいのホント分からないので適当に言うと殆どが電気。 燃焼系のものなんかは発電のために使われる程度。(じゃあロケットエンジンは?) 反重力とかすごいギジュツがあると思う。乞うご期待。
総括
SFとかファンタジーって技術関連をどこまで教科書みたいに体系化させたらいいのか分かんないよね。この記事を書く時にいちいちWikipediaのジェットエンジンとかロケットエンジンとかネオンとかのコーナーを読んでしまったが全然分からん…なんだこれは……。
ロボメカの練習として彼らや世界の物ものを描いていきたい所存。ジョンブリアンの人々はエグいくらいの改造人間デザインにしたいデスね。あと外界のクリーチャーとか。
創作はコレ以外にもあったりするけど、それの紹介はまた別の機会で。 興味を持ってくれた方々ありがとうございましたです。
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鬼怒川
鬼怒川ライン川下り
おさるの山
鬼怒川温泉丸山(温泉神社)
霧降の滝
平の高坊
平家狩人村
東京大学大学院理学系研究科付属植物園
東部ワールドスクエア
ライン川下り
名勝「楯岩」
積木岩
ゴリラ岩
おさるの山
鬼怒川温泉丸山(852m)
一本木
温泉神社
商売繁盛、家業隆盛、諸願成就。
霧降の滝
華厳ノ滝、裏見ノ滝とともに日光三名瀑の一つ。霧降川にかかる滝は上下2段になっていて、上段が25メートル、下段が26メートル、高さは75メートルある。下段の滝が、まるで霧を振られるかのように水が岩に当たり、飛び散って流れ落ちる。その様子からこの名がついたといわれる。
大笹牧場
平の高坊
平家狩人村
東京大学大学院理学系研究科付属植物園
東部ワールドスクエア
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欧州旅日記
6月12日(日)
成田→(アムステルダム)→(ジュネーブ)→ベルン
成田からアムステルダム経由でジュネーブに到着。すべて順調。オランダ航空のスチュワーデスさんたちは体の大きい人が多かった。はきはきした応対が気持ちがよい。機内で11時間。アムステルダムに着く直前に、隣の男性が声をかけてきた。村上春樹の「海辺のカフカ」なんて読んでいるから、ちょっと気取った奴かなと勝手に思っていたが(ゴメンなさい!)、海外のITがらみの投資企業に勤め(ニューヨーク在住)、ロンドンや東京を行き来する、気心の優しい国際ビジネスマンだった。私がNPOの仕事で電磁波問題の海外取材に行くのだと話すと、素直に「それは大事な仕事をなさっていますね」と共感してくれた。名詞を交換して「よい旅を!」と声をかけあった。
ジュネーブからベルンに行く電車にぎりぎり間に合った。外国で電車に乗るときはいつもどぎまぎする。チケットの扱い、路線、行く先……どれも日本と要領が違うし、標識もわかりにくいものが多いからだ。途中、ローザンヌを通ってベルンに向かったのだが、レマン湖の周辺の景色のきれいなこと! 迫った山の連なり、点在する石造りの家々、湖面の深い青……���れらがなんとも見事に調和している。スイスは観光で生きていける国だと感じさせられた。車窓から見る限り、路線に沿って家々はまばらで、企業のスマートなビルや中規模の工場が時々姿を現す以外は、畑と牧場だった。牛の姿を久しぶりに見たが、その数は決して多くはない。観光以外では、スイスの人たちは主に何で生計を立てているだろう?
ベルンに到着し2日間滞在することになるホテルにたどり着いた。予約しておいたホテルの部屋がやたら大きいことに驚く。洗面と風呂場がひとつになった部屋がなんと6畳はおろうかという広さだ。これでもユニットバスと呼んでいいの?? トイレで用を足しながら妙な気分になった。
明日は一日をかけてベルンをじっくり歩きまわる。
6月13日(月) ベルン 昨晩は早く寝たので、今朝は朝4時に起床。驚いたのは、朝5時、つまり夜が明けてくる頃に、3種類ほどの鳥の声が聞こえてきたことだ。首都のど真ん中のホテルでこんな感じだとすると、市のいたるところに小さな森がたくさんあるのかもしれない。午前5時から7時までの2時間、「電磁調理器使用に伴う低周波磁場の被曝量計量モデル」を考える。朝食をホテルでとって8時半に出かける用意ができた。朝食に出たパンがやたら美味しい。ついついたくさん食べてしまう。ベルンの中心街は地図で見る限り2時間もあれば一周できそうな感じだったが、ホテルから出て歩き始めて、それが本当だとわかる。道に沿って並んでいる建物や家屋のきれいなこと! 1階部分はアーケードで連なっていて(全部あわせると長さが6キロにも��って、ヨーロッパで最長とのこと)、しゃれた感じのお店が延々と続く。大聖堂や時計台をはじめとする背の高い中世の建物、そして道路に点在する噴水や彫像がアクセントをつけ、どの建物も全体と調和を保ちつつ一つ一つが目を引く要素ももっている。まるで一人の人間が設計したものが長い時間を経て熟成したかのような落ち着きとしっくり感がある。世界遺産に登録されるのも、むべなるかな。午前9時半頃にあいにく雨が降り出し、バラ園を訪れたときにはずいぶん降られたが、その後はさっと雨が引き、少々暑く感じるほどに晴れ上がった。 道行く人々を見下ろす位置にあるレストランのテラスで雨上がりの涼しい風に吹かれながら昼食をとり、午後にはベルン自然史博物館に出かけた。(ベルンの施設は月曜日は休館、もしくは午後2時からの開館となっていて、この自然史博物館もそうだった。)動物の剥製が多いことは前もって知っていたが、いやー、この博物館はすごい。ロンドンの自然史博物館をある面では超えていると思う。剥製技術の精巧さは言うに及ばず、網羅的に生物の種を示そうとする収集へのこだわり、内部の解剖や骨格、運動の様子なども含めて、生きている身体の様子や周りの環境とのやりとりをあの手この手を使って再現させようという点など、面白い博物館のお手本のような展示がいくつもあって、びっくりした。蟻を何千(何万?)匹も飼って巣を作らせ、その活動の様子を見せるために透明なチューブで結んだ3つほどの大きな透明なケースに住まわせて行き来させるやり方には圧倒された(人によっては猛烈な数の蟻が蠢く姿を見て、気持ち悪くなるでしょう)。生きたカブトガニも初めて目にすることができた。アンモナイトや羊歯類の化石の数や大きさも半端ではない。巨大な哺乳類、非常に多数の鳥類、そして超精巧な製作技術を要するようにみえる両生類など小さな生き物の剥製や骨格標本……いずれも作る者の執念を感じさせるこだわりの品々だった。(説明がドイツ語しかなかったのは残念。) ベルンの街の主だった通りを歩きまわってすごした一日だったが、東京の繁華街のどこと比べても人の数がうんと少なくて、混雑した感じがまったくないのは、うらやましい限りだ。アーレ川が中心街全体をぐるっと取り囲むようにU字型に流れ、その外側にはまた街全部を覆うように、小高い丘(というか山)に緑鮮やかな木々が生い茂る。至る所に赤いゼラニウムの花が咲き、家々の屋根はすべて赤茶けた色の煉瓦屋根に統一されている。落ち着いた時間の流れを感じるのは、こうした中世の風情が残っているためだろうか? こんな街に住んでみたい、と思わないではいられない。
6月14日(火) ベルン→ジュネーブ 今日は午後から「スイス健康局」(スイス連邦公衆健康局)に取材に出かける。これは日本の厚生労働省に相当する政府の省庁だ。事前に申し込みをしていたMartin Meierさんにお話をうかがう。 午前中少し時間があったので、昨日月曜日は休館だった「ベルン市立美術館」に入る。パウル・クレーの作品が2000点以上も収められていると聞いていたので、大いに期待して入ったのだが、なんとなんと、少し離れた丘の方に6月20日に開館する新設の「クレー美術館」へ、1点を除いて全部移したのだとこと。残念でならなかった。ただ、アンケルやホドラーといったスイスの画家やドラクロワ、セザンヌ、モネ、ムンク、ブラック……など、どれも1点か2点ずつであるものの、重要な作品が展示されていて、じっくり眺め入った。帰りにクレーの絵の絵葉書を2つ買う。 その後、正午までの時間で、ベルンの大聖堂の中に入り、長くて細い螺旋階段を延々と上ってすばらしい展望を楽しむ(足元から急転直下の切り立った所からの見晴らしなので、ほんとのことを言うと、かなり怖かったです)。高さ100mのこの大聖堂はほぼ500年をかけて造られたのだという。礼拝堂は20mはあろうかと思える高さのドーム状の天井を持ち、後期ゴシック様式の彫刻とステンドグラスがじつに見事だ。美しく装飾された巨大なパイプオルガンもあり、静かな音楽が奏でられていたが、それが礼拝堂全体をなんとも美しい響きで満たしていた。造られた当時に音響設計の複雑な計算などなされたとは思えないのだが、これほど美しいオルガンの調べと響きは耳にしたことがない。職人が自身の感性を研ぎ澄ませたところに成立する技術は、奇跡的なことを可能にするものだという気がする。 午後は健康局に向かった。連邦政府の官庁なのだが、コンクリート打ちっぱなしの飾り気のない箱のような建物が郊外のだだっ広いところにポツリポツリと建っているという感じなのだが(研究都市のつくばを連想させました)、中に入ってびっくり。きわめて斬新なデザインで、個々のオフィスがガラス張りになっているところが多く、外から中の様子が眺められる。扉も開けっ放しにして誰でも出入りできそうなオープンな感じが全体に漂っている。カフェテリアで約束の時間が来るまでを過ごしたのだが、職員や研究員たちは背広を着ている人はほとんどいなくて、みなとてもカジュアルでインフォーマルな姿だ。なんと言っても若い人が多い。大学の自然科学系研究室の仲間たち、といった感じだ。 Meierさんが迎えに来てくれて、彼のオフィス(研究室)に通される。30歳半ばくらいに見える男性で、柔和な表情が印象的。生物学と物理学のPhDを持つ。私がなげかける質問に「国の政策についてはそれほど詳しくはないのだか」と断りながら、電磁波規制に関する取り組みや現在の問題点について丁寧に語ってくれた(話の中身は別のところで詳しく取り上げる)。貴重な資料もコピーをいただいたいり、情報源を教えていただいたりした。 公衆衛生・健康に関して予防原則の尊重を法的に規定しているため、個々の環境問題で予防的措置をとることに、日本とは比較にならないほど前向きである。ほとんどまったく普及していないIH調理器についても、家庭内の熱システム全体からの電磁波被曝を調べようとするプロジェクトの中で調査対象のひとつと位置づけられていることからも、それは伺える。 バスでベルン中央駅に戻り、鉄道ICでジュネーブに向かった。夜の(といっても明るいのですが)7時にホテルに到着。明日からWHOのワークショップだ。
6月15日(水) ジュネーブ ジュネーブの中央の中央駅であるコルナバンからバスに乗って10分のところに、国際機関が集中して立ち並んでいる一角(アッピア通り)がある。不覚にも、今朝はいくつもあるバス停-しかもかなり距離的に分散している-のどれからその通りに向かうバスが出ているのか、4人ほどの人に尋ねたのだが、みんなはっきりわからず、ワークショップの開始時間のこともあったので、やむを得ずタクシーを使う。 10階ほどの巨大な建物だが全体がガラス張りで細長い直方体の形をしているので威圧感はない。周りに緑が多い。入り口でパスポートを示して参加証となる名札をもらい中に入る。昨年のワークショップでもお目にかかった日本からの参加者SさんとOさんの姿が見えたのでご挨拶する。今回は他にも日本人が4,5人参加している。中央に円卓を配して、その周りを正方形状に囲むように机が並ぶ。TVで映る国連の会議場の雰囲気とやはり似ている。 ワークショップのテーマは「携帯基地局と無線ネットワーク」だ。主たる話題は、携帯基地局からの高周波電磁波が人体にいかなる影響をもたらしているか、科学的にどこまでわかったかを検討しようというもので、1日目は「携帯通信革命」「高周波電磁波の被曝量計測」「基地局電磁波の健康影響研究の評価と今後求められる研究」……といった話が続く。30分のプレゼンで濃い内容をつめこもうとほんとんどのスピーカーがかなりの早口でまくし立てる感じだ。こちらは聞き取るのに必死。やはりあまりに専門的な内容になるとわからない部分も出てくる。幸いパワーポイントの大きな画面がスクリーンで映し出されるので、おおよそのところは把握できるが、的確な質問を瞬時に返せるくらいに聞きながら内容をつかみとるのが難しい。これは英語圏に属さない参加者にわりと共通した悩みなのではないだろうか。というのは、やはり質問する人がかなり限られているように思えるからだ。ワークショップの中身については、講演予稿集もあるので、別の機会に詳しく紹介することになる。(帰国して間もない26日に簡単な報告をする機会もある。) 日本でワークショップ形式の専門家会議を行うときと比べて、少し違うなと思えるのは、ブレイクの時間が長いことだ。昼食(1時間半)を別にして、午前に1回、午後に1回、30分の休憩が入る。コーヒーなどの飲み物とスナック類が用意される。会議中に質問の時間が十分とれなかったことを、これで補おうとしている感じさえする。 1日目の会議が終わって、簡単なレセプションパーティーがあった。数人の参加者といろいろおしゃべりした。台湾の2人の研究者(毒性学、環境アセスメント)、ドイツの社会学者、オーストリアの政府で環境関連の仕事をする女性……なかなか楽しかった。こちらがNPOだと言うと「どのようにして資金を得ているのか」という質問が必ず出てくる。オーストリアの女性はどうも私と年が同じくらいで、しかも生物学を専攻していて途中で方向転換したところも似ているので話が弾んだ。「大学に入りたてのときは、よし分子生物学を研究して癌を撲滅させるための画期的な発見をするのだ、と息巻いていたわ」と語っていた。私が発生生物学を専攻したことを述べると、「それこそ生物学で一番興味深くて核心的な分野ね」と反応してくれた。女優のジョディ・フォスターによく似た美人で、にこっとするときの知性的な笑顔が素敵だった。
6月16日(木) ジュネーブ WHOのワークショップの2日目。 今日のテーマは携帯基地局のリスクアセスメントやリスクコミュニケーション。一番興味深かったのは、各国の事例紹介の中でスイスが予防原則をそう生かして高周波の規制を行っているか、という点とイタリアがはやり独自の規制を設けていて、それが現実に守られているかどうかをモニタリングする方法を編み出している点だ。イタリアは全国に100箇所を超えるモニタリングポイントを設け、環境中の電磁波を定点計測していると同時に、を全国で「青バス」という名をつけたバスをいくつかの都市部などで街の中を走らせて、気になる環境に赴いての計測も行っている。この2つの国は携帯基地局の問題で紛争がないわけではないのだが、それを解決していくために賢明な政策的対応をなしていこうという姿勢が著しいように感じた。 一昨日スイスの健康局でインタビューした際に紹介されたバウマンさんがスピーカーとして話をされたので、ブレイクの時間につかまえてお話をした。スイスでは家電製品からの電磁波漏洩の問題は“環境問題”として扱わないので、電磁波規制をしていく対象としてとらえていないが、全部の家庭に共通する要素(たとえば熱供給システム)や職場に固有の要素については“環境”として扱うので、規制の対象としてとらえていく傾向がある、との指摘をされていた。 会議は夕方5時半まで続き、様々出た意見をどうまとめるのか、なかなか明確にみえないまま、幕を下ろした。WHOの電磁波プロジェクトがこの問題に一定の見解をfact sheetとして示すのがいつになるのかはわからないが、世界各国でもめている携帯基地局設置の問題だけに、メディアからも大いに注目されるだろう。 昼食の後に、各国の状況を伝えるための自発的なショートプレゼンテーションの受付け��あった。日本人の参加者の中から某国立研究所に所属するある若い方が5分ほど発表をしたのだが、あまりにお粗末で筋違いな発表だったので、唖然としてしまった。「各国の報告」とは、基地局をめぐる状況を伝えることだ。何を考えているのか、総務省のホームページの紹介そのままといって過言ではない、「日本には電波防護指針があり、その中で規制をしている。生体電磁環境推進委員会があり、各種の研究をしています」といった類のことを述べただけ。基地局の設置に関する問題点や紛争のことは一言たりとも触れない。日本は他の国と比べても基地局のことでは解決すべき課題を多く抱えているはずだが、この人はとにかく上司から「日本のことを伝えてこい」と言われて、総務省のスポークスマンになればよいと考えたのだろうか。英語も非常につたなかったけれど、それ以前の問題として、他の参加者をポカンとさせることを自分がしゃべっているという事態がわかっていない。それが恐ろしい。 ワークショップを終えて、夕方の涼しい風に吹かれながら、レマン湖の突端にあたる場所(「英国公園」があるあたり)を歩きまわった。ベルンと違ってやはり大都会だ。道行く人々も様々な国籍の人がいるように見受けられる。テラスにテーブルを構える店が軒を連ねるあたりを見つけ、1軒を選んでテーブルにつき、注文する。メニューがすべてフランス語なのでよくわからなかったが、あたりをつけて3品を頼む。ここのところ野菜不足だったので少し大き目のサラダと、オムレツ(なぜか量が少ない!)とパスタ。そしてビール(これも量が少ない!)とグラスワイン(同様!)。スイスは物価が高いと聞いていたいが、これら全部をあわせて日本円で4500円もしたので驚いた。
6月17日(金) ジュネーブ→(パリ)→ブリュッセル 今日は移動の日だ。ジュネーブからパリを経てブリュッセルに向かう。鉄道での移動は初めての旅で一番不安を掻き立てる要素だ。電車の指定席を手に入れても、ちゃんと出発の時刻までにその駅にたどり着けるか、ヒヤヒヤすることがあるからだ。今日も、パリでいったん地下鉄に乗ってブリュッセル行きの電車に乗り換えることになったのだが、この地下鉄、どれがどこ行くのかがわかりにくい(パリ駅のインフォメーションセンターのお姉さん、こちらが英語で尋ねた内容がわかっているくせに、英語で返事しないでフランス語のメモ書きをポンと渡すだけ、というのはやめてよね)。荷物も抱えているし、載り損ねたら大変だし……と、どうしても焦ってしまう。でも無事ブリュッセルに到着。朝10時に電車に乗って、待ちや乗り継ぎを経て、夕方4時20分に到着。長い車中旅行だった。面白かったのは、ジュネーブからパリに向かう列車から見た風景だ。ジュネーブを出てすぐにフランスに入ったはずだが、そこからパリの直前まで特急延々2時間半ほどの間、見渡す限り農場と牧場が広がっていたことだ。「フランスは農業国」とはよく言われることだが、それを実感させる光景ではあった。 ブリュッセルの街は立ち並ぶ建物こそ中世風の造りをとどめているといえ、軒を連ねる店舗やオフィスはモダンだし、駅の周辺や中央広場付近には高層のビルがいくつもそびえている。ホテルにはタクシーで向かったが、いったん街に繰り出してみると方向がわからず、そもそも手元に地図を持っていないので(ベルギーだけの観光マップを手に入れることができなかった)、とにかく街に掲げてある大きな地図を見つけて、どこをどう歩けばいいのかを把握しようとやっきになった。車が多くて、けっこうスピードを出しているものもある。歩道はやたら広くて(スイスでもそうだった)、これに慣れると日本に戻ったときつらく感じるだろうなと思う。広大な植物公園がホテルから歩いて10分くらいのところにあった。中をぐるっと回りたかったが、どうもいくつかの部分はもう閉まっているらしい(夕方6時)。そこをあきらめて、目抜き通りを歩く。銀座に雰囲気がよく似た通りだ。大きく違うのは、道往く人々の国籍が多様であるという点(どういうわけだか、トルコやイランンなど中東から来ているとおぼしき人が多い)、そして通りのうんと先が見通せてそこには巨大な宮殿が控えているという点だろう。 期待のベルギービールを2種類飲んだが、どちらもきわめて美味しかった(ひとつはすごく甘みの強いビールだった)。お店の給仕の男性もがっしりとしているのに動きが軽やかで、無口だけれど笑顔が素敵な、まるで映画俳優のような雰囲気を漂わせた人だった。ベルギー人とフランス人やドイツ人を見分けるのは難しい(というよりたぶんできない)が、全体として日本人よりやや大柄といった背丈で、少し北欧系の肌の白さが強い(そして目が青い人が多い)という印象を持った。 明日は憧れの街、ブルージュを訪れる。
6月18日(土) ブリュッセル→ブルージュ→ブリュッセル 今日は土曜日。ベルギーのブリュージュを訪れた。ブリュッセルから電車で2時間弱。素晴らしい晴天に恵まれて、期待に胸が膨らむ。駅前の広場から街に聳え立ついくつかの聖堂や塔が見える。街の中央部に到るいくつもの道があるようだが、とにかく一番高い聖堂を目指して歩くことにした。 歩き始めて直ちにここが「屋根のない美術館・博物館」と呼ばれる理由がわかる。 車と観光客がいなければ、中世にそのままタイムスリップしたと錯覚するような光景。どの道もどの建物もすべてが一つに溶けあっている。美しい川と馬車と至る所に生い茂る大きな樹木と小鳥たちの囀り……。石造りの家々が石畳の道に沿ってどこまでも続く様は、これは映画のためのセットではないかと目を疑いたくなるほどだ。電柱や電線は一切ない(あたりまえか……)。観光客を乗せたボートや馬車がゆったりと行き来するのが、なんとものどかだ。 昼食はベルギーの名物ムール貝と美味しいビールをいただいた。 歩き疲れて川べりで寝そべり、空を見上げた。たくさんの葉っぱが太陽をさえぎったり透かされたりしながら、川の水の流れを映して刻一刻と変化する微妙な緑のグラデーションを生じている。風に吹かれて枝がゆっくりと揺れ、それがまた陰影の変化をもたらす。聞こえるのは水が流れる音、風に吹かれて葉がすれあう音、小鳥の声だけ。僕自身もこの街に溶け込んでしまいそう……。 心ゆくまでのんびりとこの美しい街で一日を過ごせたことは、一生忘れられない思い出となるだろう。
6月19日(日) ブリュッセル→デン・ハーグ 今日は国境を越えてオランダに移動する日。そう言うと大そうに聞こえるが、実際はブリュッセルから特急で2時間ほど乗るだけ。電車待ちの時間が1時間近くあったが、���し前もって時刻表など読めるようになっていれば、その待ち時間も短縮できる。ブリュッセルの駅もそうだったが、デン・ハーグの駅も1つではない。つまり「中央」があり、「北」があり……で3つも同じ名前で始まる駅名であったりする。これが混乱のもとなので、ホテルを予約する際は要注意だ。デン・ハーグのホテルは特急が到着した駅から近いのかなと思っていたが、まず中央駅まで一駅電車で向かう必要があった。そこからインターネット入手していた地図を手がかりにホテルに向かったのだが、この地図には駅が示されていないので、まず方角で迷う。ドイツと同じでオランダにはすべての通りに名前がついているので、一つだけでもその通りが認識できれば後は大丈夫。しかし、大きな地図に細かな道がたくさん記されていると、求める名前を探すこと自体が大変だ。大きな荷物を抱えながら目的のホテルにやっとのことで到着した(初めから路面電車のルートが分かっていれば、もっと楽だったろう)。 デン・ハーグの街は日曜日であるせいなのか、とても閑散としていた。駅前に超近代的な高層のビル(デザイン的にすぐれている)があると思えば、宮殿風の非常に大きな古い建物が運河沿いに続いている。(後で分かったのだが、オランダの国会議事堂だった。なんと立派な!)自転車道路、路面電車道路、車道、歩道と4つがきれいに分かれていて、道路が全体としてとても広いせいか、街の見通しがよく、気持ちがよい。花壇や街路樹も到るところに目にするし、洗練されたショーウィンドを持つお店などが並ぶ路地も面白い。なぜか書店、ギャラリー、古本屋が多い。日本人が着ても似合う人は少ないだろうなと思える、いかにも高級で見栄えのするスーツやドレスのお店も目に付く。もちろん、教会の聖堂や塔もある。 ただ、日曜日だということでレストランがほとんど閉まっていて、探すのにちょっと苦労した。1件見つけて入ったのはおよそ午後4時半。夏の盛りに入っているのだろうか、非常に日差しが強く、かなり暑い(蒸し蒸しはしないけど)。美味しいビールを飲んで、まったくわからないオランダ語のメニューを見ながら給仕の人にひとしきり説明を受けて、海産物の取り合わせがいろいろある品を注文した。海老やイカの揚げ物や炒め物が中心だったが、なかなか美味しかった。いつものうように、店の外にテーブルを並べているテラス風のスペースで(正式にはなんて言うのでしょう、こういうスペース?)食べたが、60席くらいあるところに数組しかおらず、日本だったらかかっていそうなBGMもまったくなく(これは街全部がそうです)、なんとも静かでさんさんと明るい夕方だった。こちらのカラスに相当するのか、日本のカラスの半分ほどの大きさのカラスが、もの欲しそうにテーブルのまわりをちょっと高めのトーンの「カァ」という鳴き声を出しながらうろついているのがおかしかった。 夜は9時半頃まで明るいので、食後もデン・ハーグの街をぶらつきながら、明日のインタビューや明後日の「被曝モデル」の相談、そして日本の友人たちのことを考えた。国際電話をかけてみようかなと思ったが、時差が7時間ほどあるので、日本は真夜中。さすがにあきらめました。
6月20日(月) デン・ハーグ デン・ハーグでの取材の日。 朝一番に、取材先である「オランダ健康評議会」が入っている建物を探す。駅からホームページにあった指示通りに歩いてみると、なんと昨日デン・ハーグの駅に着いてすぐに通りがかった巨大でモダンな建物の中にあることが分かった。この建物自体は「健康、福祉およびスポーツ省」という政府の省庁であり、その中に健康評議会が入っている。 今日も朝から相当暑かった。部屋には冷房が欲しいほどだったが(ちょうど朝の日差しが部屋に入ってくる位置だった)、安いのホテルの悲しさで、空調はなく、トイレとシャワー室も共用。少し落ち着かない感じでシャワーを浴び、インタビューの準備をする。 お昼の2時頃に永瀬ライマー桂子さんが宿に到着。1年ぶりに再会する。今日と明日のインタビューの通訳していただくためだ。本日のオランダ健康評議会は英語でのインタビューも可能であると知らされていたが(というより、オランダ人にとってドイツ語を使われることはむしろ若干嫌われる傾向がある、第二次大戦でのドイツによる支配の歴史があるから)、相手にドイツ語で話を進めてみることを承諾してもらえるようならそれでいき、専門用語などで差し障りが生じるようなら英語を随時使うという方針にした。 インタビューの時間(午後4時半)を迎えて建物の中に入っていったのだが、ベルンの時にもまして、とても省庁とは思えない見事なデザインと構造になっていることにまず驚かされる。入口で電子入館証となっているカードをもらい、目的の部屋まで歩いていったが、階段といい、各部屋といい、資料が並べてあるスペースといい、モダンな博物館・美術館といった雰囲気がしてならない。健康評議会の入口には、何ゆえか日本の着物とおぼしきもの(ただし人が着るものの2倍くらいはありそう)が飾ってある。秘書さんが待ち構えていてくださって、部屋に通され、冷たい飲み物をすすめられた。普段から打ち合わせに使っていると思えるそのオフィスのものも、明るくて落ち着いたオレンジっぽい色調で統一されている、広くて清潔感にあるれる部屋だった。 インタビューに応じてくださったのは、健康評議会のヘッドの地位に相当すると思われるExecutive DirectorのPasschierさん。白髪の60歳ほどのお年にみえるいかにも厳格な学者を思わせる感じの方だ。マースリヒト大学のリスク分析の特任教授もしておられる。105年の歴史を持つこの健康評議会が、公衆衛生や健康にかかわる政策決定をなすにあたって必要な専門的情報や判断を政府や国会に提供するための研究機関であり、かつ審議・諮問機関でもあることから話が始まった。200人ほどの専門家(科学者、公衆衛生関係者)を擁して、政府からは独立しながらも、科学技術政策のためのブレインとして機能する極めて重要な機関だ。 Passchierさんの話は脳死臓器移植や環境問題、予防原則の一般論にも及び、驚くほど守備範囲が広いことを伺わせたが、さらに驚いたのは、おそらく扱う領域の一部でしかないはずの電磁波問題に関しても、こちらが言及した、国際的にある程度知られた報告書やデータのことはどれもよくご存知で、「日本にはこういうタイプの専門家はほとんどいないのではないか……」と感��ないではいられなかった。Passchierさんは「予防原則は科学的根拠に立脚しつつ適用することができるものだ」との考えを示されていたが、オランダが予防原則をどう政策に適用していくかの方針に関わる報告書を現在まとめておられるとのことだった。年末に英語で報告書がまとまるらしい。私の直感だが、これは世界的に見て、予防原則に関する重要な文書になるのではないだろうか。インタビューの詳しい内容は、また別の機会に紹介する。 取材を無事終えて、永瀬さんが前もって教えてくれていた「オランダはインドネシア料理が美味しいのですよ」という教えにしたがって、ホテルの近くのインドネシア料理店に入る。食べ物が美味しかったのはもちろんだが、お店の店主やウエイトレスさんたちが大変フレンドリーで、思いっきりくつろげた。店を出た後もホテルの軒下のカフェ・スペースで引き続きビールをいただき、気づいてみれば4時間ほども楽しいおしゃべりに興じたのだった(次々と面白い話題が飛び出してきて、笑いすぎてお腹が痛かったです)。
6月21日(火) デン・ハーグ→ケルン→フランクフルト 昨年も訪れたnova研究所(nova-Institute)でのインタビューのために、デン・ハーグからユトレヒトを経てケルンに向かう。ユトレヒト行きの電車が、通勤に利用されているのか、けっこう混雑していた。途中の駅で電車が何かのトラブルのために止まってしまい、「どうしたのだろう?」と思っていると、「ドアが開きません。今開けようとしています」とのことで、都合1時間近くも遅れることになった。でも乗客たちはそんなに焦っているふうでもなく、車内アナウンスが流れたときに苦笑している人が多かった。 ユトレヒトからケルンに向かう電車では、指定席のコンパートメントは4人が2人ずつ向かい合う形の座席だったが、同席したアメリカ人のビジネスマンが、同席のよしみで声を交わすうちに、なんと永瀬さんが学んだのと同じオランダの大学の同窓生であることが判明。ひょっとして同期かもしれないと、話が盛り上がった。彼は物理学を専攻して、情報系の会社、自動車メーカーと勤め、今は放送関係企業のIT関連の部署で働いている。一流のビジネスマンであり、極めて頭がよいように思われた。私が「電磁波問題でWHOのワークショップに参加した」と言ったら、俄然興味を示し、電磁波リスクのことやモバイルのシステムや規格のことなどで矢継ぎ早に質問を投げてきて、ひとしきり議論してしまった。日本では乗り合わせただけの他人とここまで話が弾むことはなかなかないので、これも国境を越える旅だからこその体験かなと思った。 電車のトラブルはあったものの約束の時間に10分遅れほど駆け込むことができそうなので、ケルンの駅について駅前の超巨大な大聖堂に見とれる暇もなく、すぐさまタクシーに乗り込んでnova研究所に向かう。 1年ぶりに再会したスタッフのPeter Nieβen博士およびMonika Bathow さんのお二人は、素敵なアパートメントの2階つながりの部屋を使った事務所で私たちの到着を待ち構えてくださっていた。「この1年の���動はどうでしたか?」と聞いてくださったので、食プロジェクト、ナノテクリスクプロジェクト、生命操作プロジェクトのことなどとともに、電磁波プロジェクトで行った、関東の鉄道会社13社への「電車内の携帯電話使用に関する公開質問状」のことなどもお話した。 nova研究所は、電磁波、過疎地域援助(EUから資金援助を受けて、旧東ドイツの産業不振地域などを対象に)、代替原料(ディーゼル→菜種油、木綿→麻などエコロジカルな原料の推奨・普及)の3つのテーマに取り組むNPOで、専属スタッフ20人、うち電磁波チームは4人でそのうちの2人が電磁波問題専属だ(インタビューに応じてくれた二人が専属である)。 このたびは、市民科学研究室の「電磁波プロジェクト」がIHクッキングヒーターの調査研究をすすめるにあたって、いかに被曝モデルを設計して有効な計測データを得るのか、そして得たデータをリスクの評価にどうつなげるかを相談するのが目的だ。ドイツではIHはほとんどまったく普及していないが(逆に「日本ではなぜ普及するのですか? 電熱器ではダメなのですか?」と訊かれました)、nova研究所が様々なところから請われて精密な電磁波計測(低周波ならびに高周波)を行っているので、私が考案した「IH被曝モデル」が妥当かどうかを議論していただこうと考えたわけである。 近くのレストランでの庭先のテーブルを囲んで、私が用意した資料などにも目を通してもらいながら、熱心に意見を述べてくださった。計測にあたっての具体的なアドバイスもいくつかいただき、本当に来てよかったと思った。2時間半に及ぶ話し合いが終わり(永瀬さん、通訳お疲れ様でした!)、お二人はアップルパイを私たちにおごってくださった。いやー、そのパイの大きいこと! お二人の心の広さ、暖かさに似つかわしい、大きくて美味しい手作りパイだった。 nova研を後にして、ケルンの駅で永瀬さんと別れ、フランクフルトに向かう。昨年泊まったのと同じ駅前のホテルを予約しておいたのだが、その場所が変わっていて、戸惑ってしまった。この欧州旅行の最後の夕食を、喉越しに気持ちよいビールとともにいただいた。ひと時の夕立も涼しい夜を招いてくれる恵みのように感じられた。
6月22日(水) フランクフルト→(アムステルダム)→成田 11日間の欧州取材旅行を無事終えて、11時の飛行機に乗るためにフランクフルトに向かった。フランクフルトは欧州最大の空港で、成田空港も作る際に日本から視察団が訪れて参考にしたといわれる。オランダ航空の便に南米からの一行が乗り合わせたのだが、陽気で騒がしく、この人たちもし12時間も飛行機で隣同士になったら大変だろうな、と思った。中継はアムステルダム空港だったが、これがまた大きい。トランジットで1時間半ほどあったので、御土産の買い物がてら時間をつぶしたのだが、「寿司バー」(カウンターで寿司とワインがいただける)あり、インターネットカフェあり、大きな書店あり、高級ホテル風のレストランあり……で飽きさせない。チーズを数種類買ったが、その際に搭乗券の提示を求められ、バーコードが素早く読み取られるシステムになっていた。 11時間のフライトは、窓際の座席の上の蛍光灯が始終点いたままになっていたので、快適とはいいかねたが(私は外が明るかったり、電灯が点いていたりすると、眠れないのです)、途中で延々と広がる雲の“大海”のはずれから太陽がゆっくりと昇る、極めて美しい“日の出”を眺められたのは嬉しかった。驚いたのは、機内でヘッドホンで聞ける音楽のうちクラシックのチャンネルをひねったら、ずいぶんと通(ツウ)向きの曲が流れていたこと。私が愛してやまない、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲たちの嚆矢、第12番の第一楽章が、久しぶりに聞けた。雲上で体験する“日の出”とボンの巨匠の流麗な音楽。ヨーロッパの旅の締めくくりにふさわしいな、と思った。
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数年分のコピペ002
「変態」⇒「ある種の知識に精通している」 「悪趣味」⇒「自分の世界を持っている」 「臭い」⇒「フェロモンが溢れ出ている」 「愛想が悪い」⇒「媚(こび)を売らない」 「愛想笑い」⇒「空気を読める」 「飽きっぽい」⇒「気持ちの切り替えが早い」 「浅はか」⇒「行動を起こすのが早い」 「いい加減」⇒「おおらか」 「意地っ張り」⇒「意志が強い」 「内気」⇒「おしとやか」 「おこがましい」⇒「威勢がいい」 「ガラスのハート」⇒「繊細」 「気が弱い」⇒「優しい」 「キモい」⇒「存在感がある」 「きれやすい」⇒「素直」 「暗い」⇒「落ち着いている」 「オンチ」 ⇒「誰にもマネできないアレンジ」 「計画性がない」⇒「行動力がある」 「愚痴を言う」⇒「スッキリする」 「孤独」⇒「自立している」 「寂しがり」⇒「優しさに敏感」 「舌ったらず」⇒「愛嬌がある」 「緊張感がない」⇒「肩の力が抜けている」 「ぐうたら」⇒「自分の気持ちに正直」 「睡眠不足」⇒「趣味をたくさんもっている」 「ずるい」⇒「頭がいい」 「短絡的」⇒「決断が早い」 「デブ」⇒「おいしく食事をできる」 「泣き虫」⇒「感情を素直に表現できる」 「能天気」⇒「前向き」 「ばか」⇒「素直」 「悲観的」⇒「想像力豊か」 「不公平」⇒「人間らしい」 「プライドが高い」⇒「誇り高い」 「利己主義」⇒「合理的」 「ルーズ」⇒「リラックス」 「わがまま」⇒「自分のことが好き」 「ヲタク」⇒「ある種の知識に精通している」 ネガティブな言葉をポジティブに変換する方法 (via petorushi) (tomtomjpから)
Wikipedia見てびっくり! 志位さんは「陸軍中将の孫」で おじが「関東軍情報将校」で 後にソ連の「二重スパイ」と公安に自白 志位正人 陸軍中将 志位正二 陸軍陸軍少佐 世の中、まだまだ知らない事が一杯あるわあ…
1位・新宿駅 2位・池袋駅 3位・渋谷駅 4位・大阪駅(梅田駅含む) 5位・横浜駅 6位・北千住駅 7位・名古屋駅(名鉄・近鉄含む) 8位・東京駅 9位・品川駅 10位・高田馬場駅 ※日本のではなく世界のランキングです あじゃじゃしたー - 世界の駅乗り降り数ランキグンwwwwwwwww (via darylfranz)
子供の頃に 「人類みな兄弟」「人は話し合えば気持ちが通じる」「世界平和」 などど子供の頃に平和ボケ教育を受けた奴らが役員になって 中国に進出とかしてるんだよ、 世界は平和なんかじゃない、 とくに中国と韓国は契約なんて守らない 非常に危険な国だった ちゃんと子供の頃から学校で教えてないとダメなんだよ ��拡散】日本企業の中国撤退は事実上不可能である事が判明!!!!! 退職金支払いや追徴課税、数年にも渡る税務当局の調査で撤退がどんどん先延ばしに!!!!! そして、万が一裁判を起こされたら一巻の終わり!!!!! 社長が物理的に出国不可能となる恐怖の法案「中国民事訴訟法231条」が発動する!!!!!! 2ch「おい、なんだこれ??」「チャイナリスクなんて言ってられるレベルじゃなくなってきた・・」「すっげぇ・・完全に民族ぐるみ、国籍ぐるみの乗っ取りじゃないか・・・」 - News U.S. 中国・韓国・在日朝鮮人崩壊ニュース (via 774rider) (koke-musumadeから)
世界中の科学者が集う学会の開催宣言にて スイスのある重鎮学者「科学の世界の公用語は皆さん、英語であるとお考えだと思いますが違います。科学の公用語は”へたな英語”です。どうかこの会期中、あらゆる人が進んで議論に参加されることを望みます。」 かっけえw
2015/7/28 大雑把に、こんな感じ? 70年間、中共の命令・指導下で( 日本侵略滅亡を目指していたが( 世界情勢の変化により方向性がずれてきた。 在日利権派: すぐに本格侵略より地方を朝鮮自治区にして利権を得る方がおいしくて現実的と思ってる。半島には帰る気はない。草加の多数はココに所属( 在日サヨク派: 北系在日多数と日本人サヨクが混ざってる。北の中共派粛正で中共サヨクと微妙になった。統一の多数はここに所属( 中共サヨク派: 中共の日本侵略をめざす。 232 :名無しさん@おーぷん :2015/07/28(火)22:56:51 ID:6n6 ( コミンテルンの関与が弱すぎ���( やり直し とりあえず( ヴェノナ文書でググろう( さすればGHQの影響が( 如何なるものだったかが理解出来る( 在日の問題はその延長に過ぎない ※参考 ベノナ - Wikipedia ベノナないしベノナ計画(英: Venona project、ただし一部機関では、VENONA と大文字表記する)は、1943年から1980年までの長期にわたって、アメリカ合衆国とイギリスの情報機関が協力して極秘裏に行ったプロジェクトである。主要任務は当時のソ連が第二次世界大戦後半に発信した暗号文を解読することであった。アメリカ合衆国とイギリスがこの作業に用いたコードネームは少なくとも13あったことが知られている。「ベノナ」はその最後のものである。「ベノナ」の意味は現在も不明。先立っては「JADE」、「BRIDE」、「DRUG」という名が使用されていた。この計画に関連した日本における出版物では、ベノナをヴェノナと表記したり、解読されたファイルを指してベノナファイルと表記されることがある。 極めて高度の機密とされていたが、1995年7月に原爆研究やマンハッタン計画へのソビエトのスパイに関する文書が公開され、さらなる公開で約3000に上る解読文書が公開された。( ・・・ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8E%E3%83%8A 第9回 追悼・感謝 英霊顕彰・県民の集い【ヴェノナ文書が暴いたルーズヴェルトの戦争責任】 | スタジオ日本 日曜討論 「ヴェノナ文書」が暴いたコミンテルンの戦争責任 ■コミンテルンのスパイを暴いた「ヴェノナ文書」の衝撃 第二次世界大戦前後の時期に、アメリカ政府内部に多数のソ連のスパイが潜入していることを暴いた「ヴェノナ文書」の公開以降、同国内では、「ルーズヴェルト政権はソ連や中国共産党と通じていたのではないか」という古くからの疑念が、確信へと変わりつつある。当然、当時をめぐる歴史観の見直しも進んでいる。しかも、そのピッチは近年、急加速していると言ってよい。 ヴェノナ文書とは、第二次世界大戦前後の時期にアメリカ国内のソ連のスパイたちがモスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、アメリカ陸軍情報部が秘密裡に傍受し解読した記録である。1995年、アメリカ国家安全保障局(NSA)が公開した。 これら機密文書が次々と公開され、その研究が進んできた結果、ルーズヴェルト大統領の側近であったアルジャー・ヒス(傍線は共産党員又は協力者と思われる人物。以下同じ)を始めとする二百人以上のスパイ(あるいは協力者)が政府官僚として働いていたことが立証されつつあるのだ。【略】( ・・・ http://touron.l-mate.net/archive/seminar130804.php 「『ルーズヴェルト政権はソ連や中国共産党と通じていたのではないか』という古くからの疑念が、確信へ」( 「ルーズヴェルト大統領の側近であったアルジャー・ヒスを始めとする二百人以上のスパイ」 233 :名無しさん@おーぷん :2015/07/28(火)23:04:57 ID:6n6 ( ヴェノナの次はミトロヒン文書な( とどめにフランクフルト学派を理解すれば( 現代にまで存続する陰謀の( 大半は氷解する 一人前の陰謀論者になりたければ( ここまでは頑張って欲しい
税金? 罰金? 稼いだら罰金 → 所得税 買ったら罰金 → 消費税 所有者は罰金 → 固定資産税 動かすと罰金 → 自動車税&ガソリン税 飲んだら罰金 → 酒税 吸ったら罰金 → タバコ税 死んだら罰金 → 相続税 継いだら罰金 → 相続税 貰ったら罰金 → 贈与税 住んでると罰金→ 住民税 働かないと賞金→ 生活保護
ロマンティック・コメディに必要な要素は以下の通りです。 その1「出会いはキュートに」 その2「反発しながら惹かれ合う」鉄板です。仕事のライバルでも可。 その3「嘘をついて接近する」もちろん愛が芽生えはじめた大事な瞬間にその嘘はバレます その4「婚約は一度は破棄される」バリエーションとして「結婚が無効になる」があります。最近だと「ラブ・アゲイン」はこのバリエーション。 その5「高嶺の花にはかならず手が届く」このままハッピーエンドになる場合と、振り向いてくれた憧れの対象ではなくて身近にいた相手に気がつくパターンに分かれます。 その6「デートもキュートに」デートアイデアを提供してくれないようなロマコメはロマコメではない。意外なところだと、アダム・サンドラ主演作のデートはいつもひねりがあって面白いです。 その7「プレイボーイ/プレイガールはかならず陥落する」高嶺の花とはまた違うパターン。各自が持っている「恋の法則」「恋の哲学」が使えなくなる時がかならず来ます。 その8「恋敵は上手に退場させる」これが難しい。ここでつまずくラブコメ多数。ノラ・エフロンさえ一度失敗している。「Baxter」は「退場する恋敵」を主人公にした映画で、ラストにツイストがありました。 その9「適切なアドバイスをする第三者がいる」影の重要人物です。「ここで恋を逃したら後悔する、行け!」『ステイ・フレンズ』のジャスティンには二人もいました。この「適切なアドバイスをする第三者」をオネエキャラのゲイ友にする脚本家はサボっています。 その10「失った相手は取り戻せる」どうやって取り戻してみせるかが脚本家の腕の見せ所。デート並みにキュートなアイデアが必要です。 その11「告白もキュートに」「好きだ」「愛している」の代わりに「黙って(カードを)切って」というのが映画です。今年一番良かった告白は「いつかパンケーキを焼いてあげる」(今年年末公開の映画) その12「ハッピーエンド」ロマンティックな曲がかかり、飛行機が飛び立つシーンで終われば文句なしです。
朝鮮の歴史というのは、服属した宗主国が没落崩壊していくのを、朝鮮が狼藉陵辱を尽くして溜飲を下げていった歴史と言っても良い。あまりにも、前宗主国への侮蔑が露骨で酷いため現宗主国の怒りを買った例すらある。その歴史において、前宗主国が復活した例は無いのだが、唯一の例外が日本国なのだ。韓国人にとって、日本ほど目障りな国は無いのかもしれない。
まず肯定 ・ゆっくり喋る ・早く反応し過ぎない ・正論が正しいとは限らないことを理解する ・言う必要がないことは言わない ・弱点をつこうとしない、探さない ・話を素直に聞く態度 ・疑問を抱き過ぎない ・断定系を使わず提案するような疑問系を使う 自覚はないのに「言い方がキツイ」「上から目線」と言われる原因と対策について考えてみた - Togetter (via fffff9)
11月 7, 2015 最近蚊が増えてよく噛まれるけど、Twitterで知った「蚊の毒は、50度で壊れる」のおかげでめっちゃ助かってる。ポットのお湯を紙コップに入れて、ちょっと水で温度下げて刺された所にチョイチョイと掛る。熱っ!ってなるけど、面白いほどピタッと痒み止まる。オススメです0 Twitter / ShadowCodex (via gkojax) (元記事: lastmomentlines (pipcoから))
11月 7, 2015 人って「して欲しい��と」をしてくれる人の優しさには気づきやすいのに「しないでもらいたいこと」をしないでいてくれる人の優しさには中々気づけなかったりするんですよね。何かの時に裏切らないでいてくれるとか、酷いことを言わない・しないでいてくれるとか…いざという時のそんな優しさ、超大事。 Twitter / chilime (via gkojax) (rebreから)
11月 5, 2015 1.国籍 2.魂(精神) 3.人種(民族)の内、国籍と魂は一致させるのが望ましい。 実は「そんな事をするのは日本人じゃない」と日本人が言うのは「魂」の事を言っている事が多いのだ。 日本人が意識した方が良い事として国籍と人種は違う事。 - 言霊と革命を超えて (via shinjihi)
11月 16, 2015 こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。 この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。 どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ? ちんゃと よためら はのんう よしろく
11月 16, 2015 一事を必ずなそうと思ったら、ほかのことがダメになっても嘆いてはいけない、人から悪く言われても決してきまり悪く思う必要などない。すべてのことを犠牲にしなくては、第一の大事はなすことができない(兼好法師) 11月 16, 2015 「言ってはいけない事を、最も言いたい時に言わない」のが大人 小池一夫さんはTwitterを使っています: “どンなに腹が立って怒りが込み上げてきても、相手の「魂の領分」に係わる事で相手をやり込めては絶対いけない。言った方は一時溜飲を下げるだろうが、言われた方は一生忘れない。人は舌でつまずく。「言ってはいけない事を、最も言いたい時に言わない」のが大人と言うものだ。(小池一夫)” (via c610) (sasami120gから)
11月 15, 2015 「水の如くであれ。水は障害物があるときはとどまり、なくなれば流れ出す。四角の器に入れば、四角になるし、円い器に入れれば円くなる。この謙虚さが、何よりも人間を強くする(老子)
11月 16, 2015 自衛隊の練度の高さはアメリカでも語りぐさになっているそうですな。 ・演習後、アメリカの誇るトップガン出のエリートたちが口をそろえて 「空自とだけは戦りたくない」と明言。 エリートのプライドを木っ端微塵に打ち砕かれたか、再教育志願者が続出した。 ・実弾射撃演習のためにアメリカ派遣された陸自砲兵部隊。ばかばかしいほどの命中率にアメリカ側が恐慌を起こした。 アメリカ側が、「超エリートを集めた特殊部隊を作っても意味がない」と本気で忠告してきた (もちろん陸自は通常編成のまま)。 ついでに、その演習を見に来ていたWWII&ベトナム生き残りの退役将校が、 「彼らがいてくれればベトコンを一掃できたし、あんなに死人が出なくてすんだのに」と泣いたというオチが付く。 ・ホークだかパトリオットだか忘れたけど、演習でアメリカ側の発射したトマホークの 迎撃訓練で、数十発を全弾撃墜した。 なお、数十発のうち、後半は超低空・対地誘導その他、隠蔽技術をフルに活用した上で この成績。 スターファイターでイーグル相手に撃墜判定をたたき出した故ロック氏の例を挙げるまでもなく、少数で、様々な制約を課せられているが故に、その制限枠内ギリギリ まで戦力を高めようとする努力の結果なんでしょうけどね。 人種の優越とか、 才能とかじゃなくて、文字通り体が擦り切れるような過酷な訓練の成果だと思うと、 自然と頭が下がります。 こんな人々に守られて、私らは平和と繁栄を謳歌してるんだなぁ、 としみじみ感謝の念を噛み締めることがありますよ。 (via shinjihi) (satobon99から)
11月 29, 2015 悪人は亡ぼすこともできる。だが、惑わされた善人ばかりは、どうすることもできない。 幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341)) / アーサー C クラーク - 電子書籍 名言まとめ (via rokuroku)
第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。 現代の人たちは、悲壮な顔をしてあくせく働いている人が多い。 成功や栄誉や勝ち負けにこだわってばかりで、熱中することを忘れてしまったんじゃないか。 好きなことに没頭すること自体が幸せのはずなのに。 「成功しなかったら、人生はおしまい」と決め込んでいるのかもしれないが、成功しなくてもいい。 全身全霊で打ち込めることを探しなさい。
第ニ条 しないではいられないことをし続けなさい。 打ち込めることを探すには、好奇心を大事にすればいい。 好奇心がわき起こったら、とことん熱中してみる。 そうすると、「しないではいられないこと」が姿をあらわす。 それでも見つからないなら、無我夢中で遊びや趣味に没頭した子どもの頃を思い出して見なさい。 初心に帰って、仕事にあらためて喜びを見出すのもいいし、ずっとやりたかったのに我慢していた趣味をやってみるのもいい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。 我を忘れて没頭できることを見つけたら、ひたすら自分の道を進めばいい。 周囲の目や評判を気にして「世間のルール」に合わせようなどとしてはいけない。 とことんやっていくと「奇人」とか「変人」と呼ばれるようになる。 実際、彼らは幸福な人が多いことが分かった。 あなたも奇人変人になりなさい。
第四条 好きの力を信じる。 水木先生が幸福だと言われるのは、勲章をもらって偉くなったからではない。 好きな道で60年以上も奮闘したから。 漫画を書くことが好きな水木先生は、漫画の筋を考えるため、売れなかった時代でも、原稿料の大半は漫画の筋を考えるのに役立ちそうな本や資料を買い込むのに使っていた。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。 好きなことにのめり込み、才能が開花してどんどん伸びたとしても、努力に見合う金はなかなか得られないもの。だからといって悲観してはいけない。ただただ好きな道で努力するべき。大好きなことに熱中すること自体が喜びであり、幸せです。その行為が金銭的に報われる方がいいに決まっているが、結果の良し悪しには運がつきまとう。
第六条 なまけ者になり���さい。 努力をしても結果はなかなか思い通りにはならない。だから、たまにはなまけないとやっていけないのが人間。中年を過ぎたら愉快になまけるクセをつけるべき。水木先生は中年を過ぎたころ、連載の本数を減らして、世界中の楽園や妖怪の住処を訪れる「世界妖怪紀行」を始め、今までに78回も世界を旅した。
第七条 目に見えない世界を信じる。 これは宗教の話ではありません。世の中には、人間の五感ではつかまえられないものがいる。世の中には「見えない世界」が広大無辺に広がっている。その代表が妖怪だが、現在絶滅の危機に貧していて、その存在が薄れるとともに、どうも人間はつまらなくなった。彼らは人間を活気づけ、生き生きとさせる不思議な力を持っているのです。 ********************************* 大正時代の貧しい家で生まれ、戦争に行ってはマラリアに掛かり、空襲で左腕を失いました。 帰国して職を転々とし、紙芝居作家になるが飯が食えず、漫画家になっても鳴かず飛ばず。 そんな水木先生が漫画で食べられるようになったのは40歳を超えてから。 成功を手にするまでに過ごしてきた半生は、実に壮絶なものだったようです。 そんな長い人生を駆け抜けてきた人生の大先輩からの貴重なアドバイス。 ぜひ、心に留めておきたいですね。 出典元:水木サンの幸福論 (角川文庫)
12月 2, 2015 大音量で音楽鳴らして走っている車からいい曲を聴いたことがないように、声がデカいやつの意見にはロクな意見がない。真実は常につぶやかれるものだ。
12月 5, 2015 アメリカでは、相続税が40%とられるはずなので、マーク・ザッカーバーグ氏の資産を計上すると、2兆円以上を支払わなければいけないという。しかも、ほかの税ももろもろ計上されてしまい、5・5兆円の株式資産があります、と言ったところで、実は手元に残るのは2兆円ほどと試算される、と。 しかし、創業者が自身の保有する株式を全部お金に換えてしまえば、価格崩壊が起き、会社は成り立たない。 何を言ってるか分からない? 要は、たった今、もし仮にの話だが、マーク・ザッカーバーグ氏が何らかの不幸に見舞われ、死亡したとしよう。生まれたばかりの娘は大量に自動発生する相続税を「事実上」支払うことができず、何にもできないままに「破産してしまう」可能性がある、というのだ。 ��はそれを回避するにはどのような方法があるのか? その回答の一つが今回のマーク・ザッカーバーグ氏のとった行動である。要は「寄付する」という名目で「新しい団体」を設立してしまうのだ。アメリカにはドネーション(寄付)文化が根付いている、という話が所々で聞かれるが、私もアメリカで生活して実感したことだが…これは寄付だけではない。 簡単に言ってしまえば、「節税対策」なのだ。 大量の資産を保持する人間は社会貢献のために「寄付」という形で何らかの「団体」を設立する。すると、あくまで社会に対する「寄付行為」でしかないので、その金額に該当する税金が免除されるという仕組みだ。なので、アメリカの多くの富豪たちがドネーションを行うのだが、実態はただの節税対策だったりするのが実態なのだ。 話をザッカーバーグ氏の件に戻そう。 このままでは、生まれたばかりの娘に、大変な税金が発生してしまうが、創業者の株式を税金を納付するためにそこまで一気に売却などできない。しかも、その金額が、2兆円以上ときたもんだ。 そこで、「世界の教育に役立てるため」とか何とか言って「慈善団体」を設立する。そこで、なんの仕事をしなくてもいいので、ザッカーバーグ氏本人や生まれたばかりの娘を… 役員として登録する。 すると、5・5兆円は入ることはないが、5・5兆円の基金の「利子分」は自分たちでお小遣いとして自由に動かすことができるようになるというからくりだ。もし預けた銀行の利息や何らかの運用で2%のゲインがあったと仮定しよう。5・5兆円の2%だ。 1100億円だ。 なんと、生まれたばかりの彼女の手元には、毎年、利息だけで1000億円以上のお金が転がり続けてくるのだ。この利回りが4%だった場合、年間2000億円以上だ。もはや、国でも運営してくれ、の世界である。 単純に「世界の教育のための、子供たちのための団体を作ってそこに寄付します」と言われると惑わされがちになるのだが、これはアメリカでは富豪たちが意外と誰でもやっているレベルの「ただの節税対策」だったりする。 Facebook創業者のM・ザッカーバーグ氏の寄付は「いい話」でもなんでもないという現実 (via c610) (flow7から)
12月 5, 2015 やってみせ 言って聞かせて させてみせ ほめてやらねば 人は動かじ 話し合い 耳を傾け 承認し 任せてやらねば 人は育たず やっている 姿を感謝で見守って 信頼せねば 人は実らず 山本五十六(1884-1943) ZDNet Japan Blog - 真水不足のミッドウェイ:貧乏だったワケじゃないけれど (via mnky) (via hustler4life)
12月 5, 2015 ●100年以上創業している企業の数 韓国・・・・5社 中国・・・・1000社 欧州・・・・4000社くらい 米国・・・・1万社 日本・・・・5~10万社 かんべえの不規則発言 (via pdl2h)
12月 5, 2015 1898年 日本の抗議にもかかわらず、アメリカが謀略によってハワイ王国を併合。 1899年01903年 アメリカ・フィリピン戦争。アメリカがスペインから独立させたフィリピンを植民地に。 1919年 日本は国際連盟規約宣言の中に人種平等の原則(人種差別撤廃条項)を挿入する事を提案し、17票中11票の賛成を得ましたが、委員長のアメリカ大統領ウィルソンは、「斯かる決議には全員一致を要する」との理由で拒絶。 1922年 アメリカ最高裁が「黄色人種(日本人)の帰化権はない」と判決。既に帰化した日本人の権利まで剥奪出来るとしました。 1924年 「絶対的排日移民法」が成立。アメリカは、ヨーロッパからは毎年何十万人もの移民を入れていた時、日本人移民を一人も入れない法律を作りました。 1939年3月 アメリカは、中国が軍用機や発動機を購入の為に1500万ドルを借款。 1939年7月26日 アメリカが日米通商航海条約を破棄。 1940年1月4日 アメリカが錫、屑鉄の対日輸出額を前年度の半分にすると通告。 1940年6月5日 アメリカが工作機械の対日輸出を禁止。 1940年7月31日 アメリカが航空機用ガソリンの東半球への輸出を禁止。 1940年9月25日 アメリカが重慶政権に2500万ドルの借款。 1940年9月26日 アメリカが屑鉄の輸出を全面禁止。 1940年11月3日 アメリカ大統領が重慶政権に更に5000万ドルの追加借款。 1940年12月2日 アメリカが蒋介石の重慶政府に一億ドルの借款供与。 1941年3月31日 ルーズベルト大統領が提出した武器貸与法案が成立。米海軍が護衛する輸送船団により連合国へ武器供与を開始。 1941年7月23日 ルーズベルト大統領など米国首脳が、フライング・タイガースによる日本本土爆撃計画に署名。 1941年7月25日 在米日本資産を凍結。 1941年8月1日 アメリカが対日石油輸出を全面禁止。 1941年11月26日 ハルノート提示。 1941年12月7日 真珠湾攻撃。 日米近代年表 米国が日本に戦争を仕掛けた事実|本当の日本の歴史: 2010-12-20 (via nandato) そら真珠湾やられても何も文句言えないだろ (via sierra7) 爽やかなぐらい明白な戦争行為 (toshikawaから)
12月 4, 2015 相手の全部を受け入れることと相手の中身を変えることの両方をやってのけないことにはアイシテルもヘチマもないのである。(富岡多恵子)
12月 15, 2015 息子が「とうちゃん、黒いネクタイ、買いに行こうよ」と言ってきたのです。 「黒いネクタイ? そんなもん、どうすんだ?」 「だからさぁ、疑似裁判で締めるんだよぉ」 アメリカの高校生たちの疑似裁判については昔、紹介しましたが、早い話、運動神経が鈍い「勉強お坊ちゃんたちの体育会」だと思って下さい。 「おまえのコーチは、そんな間抜けなコト言っているのか?」 ここで僕は三原山の噴火みたいに、カーッと頭に血が上ったわけです。 「貴様っ、法廷ではパワー・タイ(power tie)を締めるものなんだっ! 間違っても、葬式のネクタイ(funeral tie)じゃない」 横からワイフが「あら? でも先生からのメールで、白いシャツに黒いタイって、書いてあるじゃない?」 「ちがーう! 法廷では、ふてぶてしい自信(confidence)を、そこいらへんに振り撒く必要があんだ。黒いタイじゃ、お悔やみ(condolence)申し上げますになっちまうじゃないかっ!」 「あんたの言う事なんか、アテになんないわ。コーチの言う事の方が、正しいと思うけど?」 「ばかもん、おまえにビジネスの何がわかる! オレはこう見えても昔、JP fucking モルガンに居たんだ。パワー・タイが何を意味するかということぐらい、わきまえている。よし、これからメンズ・ウエアハウスにネクタイを買いに行こうじゃないか。そこで仕立師の主人に聞けば、誰が正しいか、わかるから」 そこで息子と僕は、クルマで近くのメンズ・ウエアハウスに行きました。 ところが出て来たのは二十歳くらいの短大出たばかりのようなクネクネしたオネエチャンです。(嗚呼、万事休す……) 案の定、オネエチャンは、オサレなネクタイを次々に広げ始めます。どれもこれもクソ軟弱な、ファッションボーイみたいな柄です。 「ちがーう。そうじゃない!」 その場の異様な雰囲気をセンサーでキャッチしたのか、店の裏から白髪の仕立師の老人が出てきました。 「どういう御用ですか?」 「あ、息子が疑似裁判で原告弁護士を務めるんです」 「ふむ、パワー・タイじゃな」 そう言うと、仕立師は、まるで手品のように5本ほどのネクタイを出してきました。真っ赤なものや、鮮やかなブルーも含まれています。そして息子に向かって「お若いの、大統領のネクタイを、テレビで観た事、あるかな?」 「………」 「大統領がテレビに出る時、締めているネクタイは、全てパワー・タイだ。悪い事は言わん。疑似裁判で勝ちたいと思うなら、コレとコレにしておき」 僕が大きく頷いたことは、言うまでもありません。 「ときに若いの、ちゃんとした靴は、もっているのか?」 ここで僕は得意になって、割り込みました。 「先日、新調しました。黒のキャップ・トウ、オックスフォードの6穴レース・アップです」 「キミの父上は、よくおわかりだ。で、スーツは?」 「黒です」 「よかろう。タイはウインザー・ノットに締めたまえ」
読者の皆さんは「なんで下らないファッションの事など、投資ブログに書いているの?」と思われるかもしれません。でも若しグローバル・エリートの話をするのであれば、少なくともコンサルタントや弁護士やバンカーの世界では、「服装の自由」という事は、ありえないのです。 グロマチョ筋トレ道場 服装編 - Market Hack (via itokonnyaku) (darksidejediから)
12月 15, 2015 自分の考えに気をつけよう。それは言葉になる。 自分の言葉に気をつけよう。それは行動になる。 自分の行動に気をつけよう。それは習慣になる。 自分の習慣に気をつけよう。それは人格になる。 自分の人格に気をつけよう。それは運命になる。
フランク・アウトロー(米国の実業家)の言葉より。 Ange 編集部:自戒を込めて。人格の出来方。 http://eyes.soreccha.jp/e191487.html (via kingcurtis) (iamhigeから)
12月 15, 2015 アメリカ帰化申請には5つの条件が���ります。 1つ目は、永住資格を取得後5年間居住すること。 これはその国に住まずしてその国の文化は理解できないからです。 2つ目は、道徳的人格を備えた者であること。 日本にも素行が善良であることという規定がありますが、アメリカは徹底しています。 過去5年に遡って、殺人、薬物所持、ギャンブルによる違法収入、売春、重婚といった具体的犯罪歴がないか、FBIが調査するのです。 3つ目は、読み、書き、話し、聴くといった英語能力で、英語能力なくしてアメリカを理解することはできないからです。 4つ目は、国旗に敬意を払い、国歌を歌い、戦没者に… (話の途中だが会場からかなり大きな拍手が沸き起こる) 戦没者に追悼に意を捧げることを始めとして、アメリカの歴史と文化、そして政府の仕組みに関する知識を取得することです。 これら4つがクリア出来て、最後に5つ目の忠誠宣言が行われます。 この宣言で、帰化申請をする外国人は、母国に対する忠誠を放棄し、もし要請があれば武器を持って合衆国軍の一員として戦うことを誓うのです。 (かなり大きな拍手と賛同の声) 母国とアメリカが一戦を交えることがあっても、アメリカ人として武器を持てるのか!こうした覚悟が無ければアメリカ人としての市民権つまり国籍は与えられない!ということです。 (大きな拍手) たかだか250年の歴史しかない移民大国のアメリカでさえ、自国の歴史に誇りを持ち、国家への忠誠心、具体的には国防の義務と参政権はセットとして考え、国籍のバーゲンセール、安売りは絶対にしません。 (かなり大きな拍手) 2600年も連綿と続く日本が、日本人としての生活習慣や文化、日本語の能力、日本の歴史や政府の���組みに関する知識の取得、そして日本に対する忠誠心をなぜ新しく日本人になる人に要求出来ないのでしょうか? (本日一番とも思える大きな拍手と賛同の声) 日本が今なすべきは、国籍取得のハードルをもっと高くして、 (話の途中だが会場から大きな拍手) 日本に忠誠を尽くすことを誓う外国人にだけ国籍を与えるように法律を改正することです。 (かなり大きな拍手と賛同の声) 歴史と伝統を誇るこの素晴らしい日本を守るために外国人参政権付与法案と国籍の安売りを絶対に阻止しましょう。 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現 河野太郎が売国法案提出へ「特別永住者等の国籍取得特例法案」在日は届出だけ審査なしで日本国籍 (via bochinohito) (tra249から)
12月 15, 2015 外国人に生活保護してるのは1950年11月27日、 在日朝鮮人が生活保護を要求して長田区役所を襲撃し、長田区役所襲撃事件の後も、 在日朝鮮人は、1951年の下里村役場集団恐喝事件、1952年の万来町事件など、生活保護費受給を求める騒乱事件を相次いで起こしたことなどによる これ、初めて聞いた。 Twitter / peponist: 外国人に生活保護してるのは1950年11月27日、 … (via gasarak) (muuuuから)
12月 26, 2015 鼻腔のひだひだが充血して膨らんで気道を狭めるからですよ。膨らむ理由は炎症とか、鼻の骨のゆがみとかがあるからと思います。左右の目の瞳の下の頬骨のとがった辺り(「しょうきゅう」って言う所あたり。)を人差し指と親指で右側左側をはさむようにしてマッサージして見てください。頬骨が開く方向になると息が少しし易くなります。鼻が詰まっていると血行が悪くてその指で押している所はかなり痛いですが、痛くならないくらいまでマッサージします。程よく血行がもどったら鼻の通りはそれよりもよくなると思います。 鼻が詰まる理由について - Yahoo!知恵袋
本当だ! (via kwwwsk)
12月 26, 2015 日本人の言う無宗教ってのは単に人間の作った宗教団体に所属する気は無いって言ってるだけだよ 社会や自然に対する帰属意識はちゃんと持ってて道徳や感謝はそれで維持出来てるから安心しろ 宗教全否定する奴ちょっと来いや - スチーム速報 VIP
12月 30, 2015 日本は教科書に韓国の歴代政権の言葉を載せた方がいいと思う。
朴正熙:完全かつ最終的な解決 金泳三:慰安婦の賠償は求めない 金大中:日本は謝罪した。私が謝罪を受けた 盧武鉉:任期中に過去史の話はしない 李明博:日本に謝罪は求めない 朴槿恵:最終的な解決
漫才教科書。 慰安婦問題が絶対に解決しない事が一目でわかる『息をするように嘘をつく韓国人』の習性 - ハムスター速報 (via darylfranz) (dormouse0から)
12月 29, 2015 見かけの効率と真の効率との違いを考えさせられる、こんな例もあります。人々に狭い出口から早く出てもらうには、出口付近に柱などの障害物を置くといいのです。歩行の妨げになると思うかもしれませんが、むしろ人の流れがよくなります。 これは一升瓶に入れたお米を出すとき、口に割り箸を差し込むと米がより多く流れ出るのと同じです。障害物がぶつかりを減らし、流れをよくするのです。 人が出口に殺到すると、ぶつかりあってその度に0.3秒くらい通常より時間がかかります。これに対して手すりや柱を置くと流れが分割され、互いにぶつからずに済むのです。 “アリの行列”と“蛍の光”から考える効率性:NBonline(日経ビジネス オンライン) (via nakano)
12月 29, 2015 ■1.二人のインドネシア人■ 大東亜戦争というものは、本来なら私たちインドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。 1950年8月に成立したインドネシア共和国の首相モハマッド・ナチールはこう語る。 もう一人、日本軍の設立した青年道場で軍事訓練を受け、義勇軍設立と幹部教育に尽力し、独立戦争中は情報面の責任者として活躍したズルキフリ・ルビスの言葉を聞こう。 オランダに再植民地化をあきらめさせる中心となったのは義勇軍出身者でした。日本がインドネシアにもたらしたもの中で、最も素晴らしかったことは訓練ですが、それがインドネシアの独立にとって最も重要な要素となったのです。…もし義勇軍がなかったならば、インドネシアの独立は南米のスリナム共和国のように長期間かかっていたかもしれません。スリナム共和国は、オランダから独立するのにインドネシアの独立からさらに30年もかかりましたから。 インドネシアが独立の夜明けを迎えるのに、日本軍は大きな役割を果たした。それがどのようなものだったのか、この二人の証言を聞いてみよう。 ■2.日本軍にびっくり■ ルビスは大東亜戦争開戦時はジャワ島中部のジョグジャカルタの高校生だった。当時のほとんどの家庭は子供を学校に通わせる余裕はなかったが、裕福な旧家に生まれたルビスは限られた例外の一人だった。 1942年3月、突然、日本軍がジャワ島に攻めてきました。町が急にあわただしくなってきました。 それまでオランダ植民地政庁はインドネシア人にとって絶対的な力を持っておりましたから、たとえ日本軍が攻めてきたとしても微動だにしないものだと思われていました。 しかし、ジョグジャカルタがあわただしくなって数日もしないうちにオランダ植民地政庁は日本軍に降伏してしまいました。ジョグジャカルタでは戦闘もなく、あまりにも簡単にオランダが降伏したので、私たちはびっくりしてしまいました。 インドネシア総督のチャルダは逮捕され、町にいたオランダ人たちもどこかに逃亡した。 それまでインドネシアを支配していたオランダ人がいなくなり、インドネシア人ははじめて自由というものを感じました。大人も子供も訳もなくオランダが敗れたことを喜び、興奮し、やがて日本軍が町や村へ来ると大歓迎しました。インドネシアでこれほど歓迎された外国人は、これまでなかったでしょう。 ところが、ジョグジャカルタにやってきた日本軍を見ると、どの日本人も私たちと同じように小柄で、同じ色の肌をしているので、さらにびっくりしました。 ■3.画期的な教育政策■ 日本軍がやってきた時、ナチールは33才、イスラム協会の会長として社会改革運動に従事していた。日本軍はオランダ植民地政庁を倒してくれたが、単に支配者が交替しただけかもしれない、と疑っていた。 しかし、日本軍はナチールの予想もしなかった事を次々と始めた。第一に幽閉されていた独立運動の指導者スカルノ、ハッタを解放し、インドネシア側代表の位置につけた。第二にイスラム教に対する制約を撤廃し、マシュミ(インドネシア回教連合会)を作って、イスラム教の指導者達が初めて直接話ができるようにした。 日本軍のやったことで三番目に注目すべきことは、インドネシアの教育に力を入れたことでしょう。 これもオランダの政策とまったく違っていました。オランダの植民地政庁は長い間愚民政策を採ってきました。インドネシア人を教育すると、目覚めてオランダに反抗するかもしれませんし、また、農業に従事するだけなら教育は必要ありません。・・・学校に通うことのできるインドネシア人は全体の数%くらいではなかったでしょうか。・・・ ところが日本軍は、やって来ると、さっそく教育に力を入れ始めました。戦争でいったん休校になった学校を再開し、すぐに3年間の初等国民学校と、その上にさらに3年間勉強できる国民学校作りました。・・・日本軍がきてわずか1年あまりで、それまでの倍近くの子供が学校に通うようになりました。 日本軍は行政機構への現地人登用を進め、ナチールはバンドン市の教育部長に任命された。そして権限を与えられ、仕事を任せられた。これもオランダ時代にはなかった画期的なことだった。 教育に関する日本軍からの命令は、オランダ語の禁止と、日本語、唱歌、教練を含めることだけだったので、ナチールはインドネシア人としての自覚を持たせるようなカリキュラムを組んだ。本格的にインドネシアの歴史を教えるようにしたが、これもはじめてのことだった。また日本軍からインドネシア語の外に地方語の教育も勧められていたので、バンドンで広く使われていたスンダ語の授業を取り上げた。 ■4.熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない■ 半年ほどもすると、バンドン市の属するプリアンガン州の内政部長として姉歯準平が赴任してきた。戦前に長くスラバヤやジャカルタの総領事を務めて、インドネシアとは関係の深い外交官だった。 姉歯はよくナチールや市の有力者数人を集めては日本軍の軍政に関する意見を聞き、また自身の考えを語った。 日本がインドネシアにやって来た目的は、インドネシアの独立を支援することで、日本人がここにいるのはあとわずかだろう。まずこれをしっかり頭に入れてほしい。 次に、将来、インドネシアが独立したなら、インドネシア人の中で首相が選ばれるだろうが、私は皆さんの中から首相が出ることを期待している。 そう述べた上で、朝7時から午後2時までの定時間を務めればすぐに帰ってしまうナチールらを注意した。姉歯は6時頃まで仕事をし、さらに書類を家に持って帰って仕事を続けていたのである。 インドネシア人は独立、独立と叫んでいるようだが、熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない。独立してもきちんと行政ができるように今から準備すべきで、そうでなければ、独立国としてやっていけないだろう。他の人はどうあれ、まずみなさんが率先しなければならない。 ナチールは恥ずかしい思いをすると共に、姉歯の考え方に共鳴した。 ■5.「青年道場」■ ジョグジャカルタに日本軍がやってきて数ヶ月した時、日本の青年訓練所でインドネシアの青年に軍事訓練を施すから希望者は集まれ、というビラが貼り出された。日本軍がオランダ植民地政庁を倒すのを見て、独立のためには自らの軍隊を持たねばならない、と考えていたルビスは、絶好の機会だと思って、 すぐ応募した。 数百名の希望者の中から選抜で90名が選ばれ、ルビスも無事合格した。そこで3ヶ月の軍事訓練を受けた後、昭和18(1943)年1月、ルビスと3名はより本格的な訓練を受ける為に、ジャカルタ近郊のタンゲランに新しく設置された「青年道場」に派遣された。 青年道場には、インドネシア各地の青年訓練所から選りすぐった二十歳前後の青年47名が第一期生として入学し、現場の責任者の柳川宗成中尉の訓示を受けた。 訓示の内容は、アジアを解放するために日本軍はインドネシアに来たが、独立は自分の力で成し遂げるものである。 しかしインドネシアは教育や軍事などあらゆる面で遅れているので、いますぐ独立はできないだろう、日本軍は知っていることをすべて教えるので、一日も早く学んで立派に独立してほしい、というものでした。 訓示の中で、悠長に構えている暇はないと度々強調されましたので、私たちの間には、緊張感が漲り、一刻の猶予もないのだ、とにかく早くいろいろなことを習得しなければならないという思いがいっぱいになりました。 ■6.日本軍の率先垂範教育■ 青年道場では、朝5時から夜10時まで、軍事訓練、精神訓話、体育訓練、実地訓練などが行われた。精神訓話では、「正直であれ」、「勇気を持て」、「常に前進せよ」の3点を厳しく叩き込まれた。またインドネシアの歴史を初めて学んだ。 実地訓練は、教官が自ら率先してやってみせる、という教え方がとられ、自営農場での農作業では、柳川中尉自らふんどし姿で肥おけをかついだ。中上流の家庭出身者が多い訓練生たちは農作業の経験もなく、臭くていやがったが、やりながら自分のものにしていった。こうして教官と生徒の間の一体感も生まれていった。 ある時、午前中の野外訓練が終わった時、厳しさが欠けているというので、一人の小団長候補生が銃を持って立っているように命令された。午前中だけでもくたくたになり、その上の炎天下で直立不動というのは、大変な罰だった。その時、中隊長の土屋競中尉が、何も言わず、小団長候補生の隣で同じように 直立不動で立ち始めた。二人は一時間ほど、午後の訓練の合図まで立ち続けた。 私たちはそれをずっと見ていましたが、すばらしいことだと思いました。これまでインドネシアでこのような教育をする人はいませんでした。・・・インドネシアの若者全員に知れ渡り、全員感動しました。 土屋中隊長は、まだ20代半ばで、私たちとそれほど年齢は離れていませんが、常に私たちのことを考えていたと思います。訓練期間中、苦しくて倒れそうになると、いまはインドネシアが独立したときの要人を育成しているのだとか、インドネシア国軍が創設されたとき中心になる軍人を育成しているのだ、といって私たちを励ましてくれました。 同じ中隊にいたスハルトも土屋中隊長からは深い感銘を受け、大統領に就任してはじめて日本に行ったとき、土屋中隊長にだけはぜひ会いたいといって探してもらい、20数年ぶりに会っています。 ルビスは日本軍から受けた教育を次のように総括している。 そこでの教育はインドネシア人の民族精神を改革した画期的なものといえるのではないでしょうか。まず愛国心を育てたことであり、次に死を恐れぬ精神を植え付けたことです。さらにいえば、向上心を涵養したことなどもあげられると思います。 ■7.「ムルデカ17805」■ ナチールは独立後の首相となり、またルビスの青年道場での同期生スハルトは第2代大統領となった。独立は自らの力で勝ち取るものであり、そのための人材育成こそが急務であるという日本軍の方針は、見事に奏効したと言える。 この二人の証言に共通しているのは、姉歯準平氏、柳川宗成中尉、土屋競中尉らとの心の通った人間関係である。インドネシアの独立を願うこれらの日本人のまごころは、ナチールやルビスに伝わったのである。 日本軍の降伏した2日後、1945年8月17日に後の正副大統領スカルノとハッタは急遽インドネシア独立を宣言する。しかしオランダは再植民地化しようと軍隊を送り込み、インドネシアは4年5ヶ月もの独立戦争を戦わねばならなかった。 この中心となったのが、ルビスら、日本軍によって鍛えられた義勇軍だった。日本軍は彼らに大量の武器を渡し、また1~2千名の日本兵が、独立軍に身を投じて一緒に戦い、そのうち400名ほどの人々が戦死した。ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地にもインドネシア独立の戦士たちとともに11名の日本人が手厚く葬られている。[a,b] インドネシア独立に命を捧げた日本人将兵らは、現在上映中の映画「ムルデカ17805」[c]に描かれている。ムルデカとは「独立」、17805とは独立宣言の日付で、皇紀2605(西暦1945)年8月17日の事である。日本軍の独立支援への感謝として年号を日本の皇紀で表したのである。 我々の父祖の世代が、どのような思いでインドネシア独立に身命を投じていったのか、この映画を通じて偲ぶことができる。 JOG(193) 地球史探訪:インドネシアの夜明け (via chikuri) (rupazoから)
12月 29, 2015 アメリカの企業が、「クリスマスにサンタさんに電話しよう」と言うキャンペーンを開く
→広告に載った電話番号が間違っていた
→それどころか、アメリカ中央防衛空軍基地の、最重要ホットラインの番号だった
→総司令官が電話に出ると、小さい女の子からの「サンタさんですか?」
→最初はイタズラ電話だと思い冷徹に対応していたが
→事の重大さに気づいた女の子が泣き出してしまった
→慌てた司令官 「レーダーで調べた結果、サンタが北極から南に向かった形跡がある」
→以後、毎年クリスマスには、NORADがサンタさんの追跡をするのが恒例となる 今年で60回目 クリスマスにサンタさんに電話しよう - 続・妄想的日常 (via darylfranz) (fortyniner045から)
12月 28, 2015 1月1日0時0分0秒 宇宙誕生(137億年前)
元旦に宇宙誕生。めでたい。こんなときこそ明けましておめでとうと言いたいものだ。
2月 バレンタインデーですがまだ地球ができてません。 3月 卒業シーズンですがまだ地球ができてません。 4月 お花見にでも行きたいところですがまだ地球ができてません。 5月 新緑の季節なので友達とピクニックにでも行きたいですがまだ地球ができてません。 6月 梅雨の季節はジメジメしてイヤですがそもそも地球が存在しないので梅雨でもじめじめすることはありません。ヤッタネ!と言いたいところですが一緒に喜ぶ仲間は存在しないしそもそも嫌がる自分も存在しません。 7月 そろそろセミが鳴き始める季節かなと思いますがセミなど存在しません。なぜなら地球が存在しないからです。 8月 地球誕生 (46億年前) ついに地球ができました! 季節は夏真っさかり! みんなでプールに行きたいところですが地球ができただけでみんなもいないし私もいません。
9月中旬 原始生命誕生(38億年前) 原始生命が誕生しました! 原始生命とかいう響きは難しそうですが要するになんかアメーバみたいなやつです(※正確には違います)。 10月 アメーバ的な 11月 あまりにもアメーバ的な 12月 アメーバ的 12月1日 アメーバ 12月2日 アメーバじゃん 12月3日 あれ? アメーバさんですよね? 12月4日 アメーバかよ 12月5日 アメーバさん五番テーブル入りまーす! 12月6日 あ 12月7日 め 12月8日 え 12月9日 ば 12月10日 マジ一年終わ���ぞ 12月11日 アメーバ空気読めよ 12月12日 進化しろよボケ 12月13日 気持ち悪いんだよボケ 12月14日 単細胞野郎が 12月15日 うねうねすんな 12月16日 完全に水飴のパクリ 12月17日 アメーバさんの進化待ちです 12月18日 魚類誕生(5億年前) やっと魚。間に合うのかこれ。
12月19日 早く陸上がれよな空気読んで
12月20日 両生類誕生(4億年前) 頑張った、おまえ頑張ったよ。マジ呼吸とか大変だと思うけど頑張れ
12月21日 両生類とか 12月22日 魚類もいるよ!
12月23日 恐竜誕生(3億年前) クリスマスを目前にして恐竜がきた! プレゼントに恐竜がほしいよパパ!
12月24日 恐竜 12月25日 ダイナソー
12月26日 哺乳類、鳥類誕生(2億年前) やっと哺乳類がきた。駄目な小学生の夏休みみたいなプランだな 12月27日 恐竜黄金時代 12月28日 地球の支配者ダイナソー
12月29日 恐竜滅亡(6500万年前) 早すぎ。セミ以下。見損なった。
12月30日 そんで人類は 12月31日0時 いやマジで 12月31日1時 終わるから 12月31日2時 一年終わるからさあ 12月31日3時 大晦日なんですけど 12月31日4時 早く二足歩行しろや 12月31日5時 火とか発見しろって 12月31日6時 何やってんの? 12月31日7時 ほら、大晦日の朝ですよ! 12月31日8時 石器とか超便利だから 12月31日9時 進化しろって 12月31日10時 猿とかいいから 12月31日11時 マジでほら 12月31日12時 もう昼になったから 12月31日13時 悪いこと言わないでほら進化 12月31日14時 なんか忘れてない? 12月31日15時 そうそう進化だよ進化! 12月31日16時 忘れてるって! 12月31日17時 ほら、マジで日が暮れてきたから! 12月31日18時 紅白始まるっつーの 12月31日19時 ほんと頑固だな 12月31日20時 もういい 12月31日21時 勝手にしろ
12月31日21時30分 ヒト誕生 (400万年前) やっとヒト。遅すぎる。そしてヒトだといってもアウストラロピテクスとかであり、半裸でマンモスを追いかけるタイプの人類なのであまり共感はできません。
12月31日22時 ほら、 12月31日22時10分 まだまだやることあるだろ 12月31日22時20分 おまえら文明とか知らねえだろ 12月31日22時30分 めっちゃ便利なんだぞ 12月31日22時40分 石器はいいから 12月31日22時50分 すげーんだよ新幹線とか 12月31日23時00分 早く! 12月31日23時10分 エジソンまだ? 12月31日23時20分 馬鹿じゃねーの 12月31日23時30分 ウホウホじゃねーよ 12月31日23時40分 インターネットとか発明しろよ 12月31日23時50分 除夜の鐘鳴ってるから! 12月31日23時51分 発明しろって 12月31日23時52分 何でも良いから 12月31日23時53分 恥ずかしいでしょ 12月31日23時54分 いつまでも半裸だと 12月31日23時55分 だからウホウホじゃねーよ 12月31日23時56分 あと4分だから 12月31日23時57分 年明けまで! 12月31日23時58分 おまえ猿丸出しじゃねーか 12月31日23時59分 もういい 12月31日23時59分1秒 知らん 12月31日23時59分2秒 12月31日23時59分3秒 12月31日23時59分4秒 12月31日23時59分5秒 12月31日23時59分6秒 12月31日23時59分7秒 12月31日23時59分8秒 12月31日23時59分9秒 12月31日23時59分10秒 好きにしろ 12月31日23時59分11秒 12月31日23時59分12秒 12月31日23時59分13秒 12月31日23時59分14秒 後悔するのはお前だからな 12月31日23時59分15秒 12月31日23時59分16秒 12月31日23時59分17秒 12月31日23時59分18秒 俺言ったし 12月31日23時59分19秒 すげー言ったし 12月31日23時59分20秒 マジアドバイスしたし 12月31日23時59分21秒 12月31日23時59分22秒 12月31日23時59分23秒 12月31日23時59分24秒 12月31日23時59分25秒 12月31日23時59分26秒 12月31日23時59分27秒 12月31日23時59分28秒 いや 12月31日23時59分29秒 12月31日23時59分30秒 マジ? 12月31日23時59分31秒 12月31日23時59分32秒 12月31日23時59分33秒 12月31日23時59分34秒 アホなん? 12月31日23時59分35秒 12月31日23時59分36秒
12月31日23時59分37秒 縄文時代(10000年前) やっと縄文!? 馬鹿じゃねーの!? 土器とか作ってる場合じゃないだろ
12月31日23時59分38秒 いやほんと 12月31日23時59分39秒 マジで年明け間近なんですけど 12月31日23時59分40秒 あれでしょまだ原始人でしょ 12月31日23時59分41秒 ヤバいって 12月31日23時59分42秒 間に合わないから 12月31日23時59分43秒 とりあえずさ 12月31日23時59分44秒 森繁久彌とかもう作っとかないと 12月31日23時59分45秒 間に合わないって 12月31日23時59分46秒 ていうか織田信長とかもまだか 12月31日23時59分47秒 せめて聖徳太子をそろそろ 12月31日23時59分48秒 マジで 12月31日23時59分49秒 あ、卑弥呼! 卑弥呼つくろ! 12月31日23時59分50秒 ね、ほら、機嫌なおしてさ 12月31日23時59分51秒 俺も言い過ぎたって 12月31日23時59分52秒 あと10秒切ってんじゃねーか 12月31日23時59分53秒 ちょっと下手に出たら調子に乗って 12月31日23時59分54秒 おい!
12月31日23時59分55.4秒 西暦0年(約2000年前) やっとキリストとか生まれた! 12月31日23時59分56秒 頑張ったよ 12月31日23時59分57秒 なんとかなるもんだね 12月31日23時59分58.12秒 鎌倉幕府誕生 12月31日23時59分58.45秒 鎌倉幕府滅亡 鎌倉幕府が0.33秒で滅亡。良い国つくれるはずもない
12月31日23時59分58.95秒 ザビエル ザビエル遅すぎ
12月31日23時59分59.07秒 江戸幕府 12月31日23時59分59.65秒 ペリー 日本の鎖国が0.58秒で終わったよ 12月31日23時59分59.945秒 上田(私)、生まれる ついに俺が生まれた! 12月31日23時59分59.957秒 上田、小学校入学
12月31日23時59分59.971秒 上田、小学校卒業
12月31日23時59分59.977秒 上田、中学校卒業
0.020秒で義務教育が終わった。 12月31日23時59分59.99885秒 上田、バイトをやめる(半年前) 12月31日24時00分00秒 現在
やっと現在に辿り着いた。つまり、宇宙の歴史を一年だとすると、俺が働いてない期間は0.00115秒だってことだ。 よーし、まだまだ大丈夫だぞー! No.13500 宇宙の歴史を1年であらわすと - コピペ運動会 (via edieelee) (clann-jpから)
1月 4, 2016 ストークスさんも堂々と真実を述べているが、愚かな連中に真実を述べても 豚に真珠を与えるようなものだということも、また真理であるといえるね http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1451795640/ 【政治】「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した★2 c2ch.net (via worldwalker2) (toutiku-m44から)
1月 4, 2016 自分が常識と思っていた事、そうして見えない枠として自分をしばっていた事、それを共有しない人が現れる。最初、それは非常識な人、変な人に思えるかもしれない。だけど、それが変だと感じることで、自分が当たり前だと思っていた事を自覚するようになる。見えない枠が見えるようになる。(野矢茂樹)
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■「仮面ライダーアマゾンズ season2」のメモ
■「仮面ライダーアマゾンズ season2」を観た。前作でなんとか生み出しかけた「正義の種」すらも粉みじんにし、見る者を「正義の奈落」へと引きずり込んでいく壮絶な物語に圧倒された。「もう、行くところまで行ってやる」という制作陣の狂気に震撼させられた。
■だが、その感想をまとめる前に、「season1」のおさらいもかねて、ちょっとばかり長めの「寄り道」をする。
■人間=ホモサピエンスは、大きな脳を持ってしまったせいで、他の動物よりも早く生まれてくる。他の動物のように自分で自分のことができるようになるまで母体で育ってしまうと、産道に頭がひっかかりお産が困難になるからだ。
■そんな未熟な存在の子育ては当然大変だ。だから母親は1人で子育てをして生きていくことができず家族・親族・仲間を作って共同生活を送らねばならな��なる。
■だが、ミツバチなど他の生き物とは違い、人間は集団での協力が遺伝子にプログラムされていない。
■そのため、仲間との共同生活の必要性から巨大な脳を生かした「共感力」が発達した。仲間の痛みをまるで自分のこととして共感できることで、仲間を守ろうと思えるし、逆に仲間からも守ってもらえるからだ。
■だが、この「共感力」は「どこからどこまで」通用するのか、あらかじめ決まっているわけではない。だから同じホモ・サピエンスでも共感力が通じないことがある。実際に狩猟採集時代には群れの足手まといとなる老人や障碍者は躊躇なく置き去りにされたし、女性は生贄にされることも多かった。
■また、逆に犬や家畜、場合によっては植物であっても共感できることもある。そのことが、この世にあるものには皆「霊魂」が宿っているので、人間だけが特別なのではないとするアニミズムの基礎ともなったのだろう。
■そして、その「共感力」が突然変異的に拡張することで起きたのがユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」で言うところの「認知革命」だ。
■「認知革命」とは言語を編み出すことで、目に見える事柄に関するコミュニケーションだけでなく、目にみえないもの=「虚構」をホモ・サピエンス同士で共有することができるようになったことを指す。なお、それは7万年ほど前に起きたとされる。
■神、国家、法人…などは抽象的で目には見えないし「あるかないか」でいえば、そんなものは「ない」。にもかかわらず、文字を編み出したことで目に見えない抽象的なことも考えられるようになった人間は、「そういうものがある」と互いに想像し合えるようになった。
■そしてこの革命により、見ず知らずの人間同士が「我々は神Aに選ばれた民なのだ」「我々は国家Aの国民という仲間なのだ」と、協力関係を結べるようになったという。
■これこそが人間=ホモ・サピエンスが、ネアンデルタール人など他にも6種類ほどいた「ホモ族」を押しのけ繁栄することができた最も大きな理由だという。人間は「単体」では攻撃力も、防御力も弱いにもかかわらず「虚構」の力で大規模な協力関係を築き、その「団結力」で他を駆逐したのだ、と。
■とはいえその過程で、たとえばオーストラリア大陸では大型哺乳類24種のうち23種が、アメリカ大陸では107属のうち84属が人間のせいで絶滅したのだが。。
(※いや、実際にはハラリ自身は共感→虚構を直結させていない。が、共感がなければ協力しようと思わないし、協力しようと思うから虚構が生み出されるのではないか。よって、以降、乱暴ではあるが「共感」「虚構」を陸続きのものとする)
■ともあれ、「虚構」の力で繁栄した人類は、その能力で協力できる「仲間」たちの数を飛躍的に増加させた。特に大きな役割を果たしたのが、「帝国」「宗教」「貨幣」だという。これらの「虚構」により、人類は世界規模で見知らぬ者たちとの間に協力関係を築くことができるようになった。
■そして、グローバルな規模での人類の協力関係を後押しする「虚構(思想)」として「あらゆる人間にあらゆる権利が等しく認められるべきであり、あらゆる人間のあらゆる尊厳が尊重されるべきだ(「ゲンロン0」p154)」とするリベラリズムが生み出された。
■しかし、今、現実に起きていることは「意気揚々とグローバル化から撤退するトランプ主義」であり、「ブレグジット」であり、欧州の移民制限であった。つまりは、「リベラリズムの崩壊」であった。
■これがなぜ起きているのか?「人類みんな」が信じることのできる「虚構」は原理的に作り出せないのか?それとも一時的にできていないだけなのか?自分には答える能力はない。
■ただ、「共感」「虚構」はホモ・サピエンスが「仲間との協力関係」を作るために生み出されたものなので、必然的に「仲間」と「そうでないもの」を分けてしまう。そのため「全員が仲間」ということになったら「そうでないもの」もなくなってしまい、結局は「仲間」自体もなくなってしまう。そのため、グローバル化が進み「全員が仲間」になろうとすればするほど、「そうでないもの」を作ることで「仲間」を維持するようになってしまうのかもしれない。
■いずれにせよ「リベラリズムの崩壊」により人は「全員が仲間」だとは思えなくなった(なっている)。そして「虚構A」を信じられる範囲=仲間A、「虚構B」を信じられる範囲=仲間B…となり、仲間Aと仲間Bが協力関係を取り結ぶことが困難になった。仲間Aはどうしても仲間Bに「共感」を抱くことができなくなっている。
■一方…大きな脳がもたらす「共感力」と、その拡張形態である「虚構」の力により繁栄した人類だが、その原動力となった「共感力」は「どこからどこまで通用するのか、あらかじめ決まっているわけではない」と先述した。
■だから、共感力は人間以外の生物に対しても引き出されてしまうことがある。
■人間は生きるためには他の生物を殺して食わねばならないにもかかわらず、そのことに「罪悪感」や「イヤな感じ」を覚えることがある。それはここに震源地があるからだろう。
■つまりは、食われる存在に「恐怖」「痛み」「苦痛」などを「共感してしまう」から。食われる存在の痛みを「我がことのように」感じてしまうから。
■それだから、人間は「生きるために殺す」ことから逃げ回ってしまう。それしか生きていく方法がないのだから、そこに「罪悪感」など覚えなくてもよいかもしれないにもかかわらず。
■そして「生きるために殺す」ことから逃げ回るべく、権力を使ったり、他人の弱みに付け込んだりして「生きるために殺す」ことを別の人間にアウトソースする。
■最初は強制的かもしれないが、次第にその作業は「洗練」されていき、貨幣経済や分業などが生み出される。「他人に殺すことを強制的にやらせている」のではなく「彼はお金がほしいからやっているのであって強制はしていない」、「生きるために殺しているのではなく、肉を売りたいという業者がいるから彼のために肉を解体しているだけだ」…という具合に。
■こうして、「生きるために殺して食う」という「苦痛(むごたらしさ)」からの回避が「分業」「資本主義経済」など高度に発達した文明を生み出すに至る
■また、「共感力」が引き起こす「苦痛からの回避」は、自分にも跳ね返ってくる。生きるために殺して食う時に「食われる側」がみせる「苦痛」が我がことのように跳ね返ってくる。
■だから、死ぬことが怖くて苦痛になる。そして「死にたくない」と思うようになる。この「死にたくない」「死の苦痛からの回避」もまた高度な文明を生み出す原動力となる。
■その帰結が「死の苦痛」から人を解放する「不死の技術」=バイオテクノロジーの発達だった。そして、そのバイオテクノロジーは、クローンなど「新たな人類」を生み出すことができるようになった。
■また、先述のユヴァル・ノア・ハラリによれば、こうした「新たな人類」は、遺伝子移植など「生物工学」、バイオニック・ハンド(義手)や脳とコンピューターを直接結ぶような「サイボーグ工学」、コンピュータープログラムのような「非有機的生命工学」などの力によって、今後も急速に進化を遂げていくという。
■その結果「(彼ら新たな人類は)私たちがネアンデルタール人を見るのと同じぐらい見下した目で私たちのことを見る」ようになるかもしれないとも言う。
■そんな「新しい人類」たちと、ホモ・サピエンスは協力関係をとり結ぶことができるのか?彼らとの間に新たな「虚構」を立ち上げることができるのか?
■こうして人類は、人間内でも同じ虚構を共有することが困難になり、「新たな人類」とも虚構を共有できるか不安な状態となった。人類の繁栄を後押しした「共感力」「虚構」は、その「内側」からも「外側」からも掘り崩されそうになっている。
■「仮面ライダーアマゾンズ」シリーズは、そんな現代の状況を鋭く反映する作品となっている。
■「season1」では、先述した「死の苦痛から人間を解放するバイオテクノロジー」が暴走。逆に人々は死の恐怖へと引きずり込まれた。
■巨大製薬会社「野座間製薬」は、生物研究の一環として「ある細胞」の培養を行っていた。その細胞とは、人の肉を食う細胞。通称「アマゾン細胞」だ。
■アマゾン細胞は、培養されると途中までは人間の姿で成長するが、その後「覚醒」。怪人のような姿になってしまう。その性質を利用し、同社はこの細胞を「生物兵器」として他国に輸出しようと計画していた。他国に「人間」としてアマゾンを紛れ込ませ、途中で覚醒させれば、その国をパニックに陥れることができる…ということだろう。
■しかし、研究中に大事故が起こり、細胞約6000体が空中に飛散。東京の?街に紛れこんでしまうのだった。
■人間を食う「化け物」などまとめて始末するべき?だったら人間も他の生き物を食うが…。しかも、彼らは途中までは人間と変わらぬ姿で、感じ、考え、生きている。中には「自分は人を食いたいわけではない。それでも…」と悩んでいる「アマゾン人間」すら存在する。そんな存在をみれば人間ならではの「共感力」が引き出されてしまう。彼らの苦しみを自分の苦しみとして感じとってしまう。
■それでも、「共感」したまま放置しておけば、今度は、人間たちが食われてしまう。ならばどうすれば…
■「人は生きるためには他の生き物を殺し食わねばならない。そういう仕組みなのだから」…ならば、自分が「食われる側」になってもそれが言えるか?「そういう仕組みなんだからしょうがないね」と素直に食われるか?自分が嫌な事を「しょうがないでしょ」と押し通して生きている人間に正義など語れるか?
■こうして、飛散したアマゾン細胞をどうするべきかを巡りドラマでは、いくつもの正義がぶつかりあうこととなる。
■「アマゾン細胞は人を食う。こんな存在とは協力関係を築いてはいけない。こんな存在を生み出してしまったことが間違い。それゆえ、アマゾンは1匹残らず処理をする!」と主張するのが「赤いアマゾン」・鷹山仁。
■彼は、もともと野座間製薬でアマゾン研究にたずさわっていた科学者だったが、自ら��研究が生んだ結果に責任をとるべく、自分の体内にアマゾン細胞を注入。「赤い仮面ライダーアマゾン」に変身し、「アマゾンの全駆除」へと突き進む。そして、飛散した6000体を処理したのち「この世から1匹残らずアマゾン細胞を消す」ため、自らの命を絶つ…これが彼の考える「正義」だ。
■それに対して「人間が自分の都合で人を食う細胞を生み出しておいて、都合が悪くなったら全駆除とは身勝手すぎる。狩るべき者は狩るが、守るべき者は守るべき」と主張するのが「緑のアマゾン」・悠。
■彼は、仁と同じく野座間製薬でアマゾン研究をしていた水澤冷華の「息子」。彼女が培養したアマゾン細胞に彼女自身の細胞を注入することで生み出された「アマゾン人間」だ。
■彼は物語が進む中で、アマゾンに共感することもできるし、同じ虚構を共有することもできるかもしれないと気づいていく。もちろん、共感が通じ、協力関係が結べるのは「ずっと」ではない。彼らが覚醒すれば、人間たちを襲ってしまう。
■しかし、それまでは…「共感が通じ」「虚構が共有できる」間は、できる限り共存の道を探るべきではないか…これが「緑のアマゾン」の正義だ。
■そして、そのはざまで、「この状況で誰もが納得できる“正解”などない。だから自分たちは“正義”を目指さない。俺たちが動くのは金になるか?ならないか?だ」と主張するのが、志藤真をリーダーとする「駆除班」。
■彼らは野座間製薬の命を受け、「セキュリティ会社」の名目で飛散したアマゾン細胞の全駆除に動いている。彼らが危険な仕事を引き受けたのは「金がいるから」。娘の移植手術の費用、母の介護費用、人をだましたツケで必要になった金…皆、背に腹は変えられぬ事情で金が必要となり「駆除班」に参加した。
■だが、物語が進むにつれ「単なる金目当て」ではない彼らなりの正義のあり方が浮かび上がってくる。
■この状況は、人間の「死の苦痛からの回避」がもたらした。「生きるために殺すことの苦痛」から逃れ回るための洗練された高度文明が引き起こした。ならば、俺たちは、その逃げ回りから「逃げ回らない」。「生きるために殺す」ことを自らの手で引き受ける。その「罪悪感」を自ら背負って生きる…これが彼らなりの「スジの通し方」=正義のようなものだと分かってくる。
■こうして3つの正義が火花を散らしながら、ストーリーは展開。その後、三者は、野座間製薬による「アマゾン細胞駆除のための薬剤散布作戦」、通称「トラロック作戦」の実行後、それでも生き残ったアマゾンたちを殺すため/守るため、彼らが集まる浜辺へと乗り込んでいく。
■そして…赤と緑のアマゾンは壮絶な殺し合いを演じた後、同士討ち!あまりの陰惨さに何もできず呆然と立ち尽くすしかない駆除班の面々をよそに、かろうじて生き残った赤いアマゾンはその場を去り、そして、同じくなんとか生き延びた緑のアマゾンも、他のアマゾンたちを引き連れ浜辺を去っていく…
■「人間」と「新しい人類」との共存は可能か?「人間」と「新しい人類」との共存は可能だという人間と、「人間」と「新しい人類」の共存は不可能だという人間同士の共存は可能か?
■そんな問いに対し、ドラマはこう答えていたように思う。
■偶然出会ったにもかかわらず、同じ任務に命をかけるうち「仲間」となった駆除班の面々のように「人間」と「新しい人類」―志藤・望・福田・三崎 / 悠・マモル—の共感は可能だ。ドラマの名シーンに例えれば、見も知らぬ「売り手」と「買い手」を偶然結びつけける貨幣(5円玉)を、かけがえのない「仲間の証」に変えることは可能だ。
■だから、そんな共感可能性を軸にした「食わせ合い」により両者は共存できないか?具体的には、覚醒し腕に食らいついてしまったマモル隊員に対し「マモルを撃つな!俺なら大丈夫だ!」とそれを受け入れた三崎のように、「自分の一部を食わせ合う」ことで両者の共存がはかれないか?人間は「新しい人類」に「肉の一部」を提供し「新しい人類」は「生体データの一部」を人間に提供することで両者を生かしあうような。
■それでも、共感は「どこからどこまで可能なのか」があらかじめ決まっていない。ならば共感が可能となるまでは両者距離をとることで「時間をかせぐ」ことができないか?生き残ったアマゾン達を引き連れ浜辺を去った悠のように。
■「人類」と「新しい人類」の「共感」は可能だ(リチャード・ローティのいう「感情教育」「偶然による連帯」は可能だ)。その共感可能性を担保に両者の「距離の設定」「時間稼ぎ」「食わせ合い」で共存をはかること。
■のたうち回るような展開を繰り返した末、ドラマは、こうして「正義の種」のようなものをかろうじて撒いた。
■だが、先述したように「seazon2」はそうやってなんとか生み出した「正義の種」ですらも粉々にし「正義の奈落」へと観るものを引きずり込んでいく。
■「seazon2」では「season1」で共存の核となっていた「共感力」「同じ虚構を信じる力」こそが「人間」と「新しい人類」を苦しめ、追い詰める元凶となっていく様を描き出す。
■というわけで、ようやく長い寄り道から戻る。今作のあらましはこうだ。
■物語の舞台は「トラロック作戦」から5年後の世界。作戦によりアマゾンの大部分は死滅したが、それでもなお一部は生存。そのため政府と野座間製薬は今後起きうる��マゾン被害の対策と研究のための施設「特定有害生物対策センター」、通称4Cを設立していた。
■そして某日その4Cに1人の少年が運び込まれてくる。彼の名は千尋(前嶋曜)。彼はある事件の現場に1人残されていたところを捕獲されたが「アマゾン怪人に育てられていたのではないか?」として、この施設に送られてきた。
■そこで4C所長・橘らは、彼の身体を調査。すると、千尋の体内にアマゾン遺伝子が確認された。これを知った橘は、彼を仮面ライダーとして育てることでアマゾン残党たちの駆除に役立てようと考えるのだった。
■だが、ある日の調査中、「俺はアマゾンとして扱われたくない!」と千尋は施設を脱走。そして、街で人に紛れて暮らすアマゾンに暴行を加える「オヤジ狩り」ならぬ「アマゾン狩り」に明け暮れていた長瀬裕樹率いる不良集団「チームX」に拾われ、彼らの一員となる。その後、彼らのアジトである常連のクラブに住まわせてもらうことになった千尋。そのクラブのマスターの名は志藤真。「season1」で活躍した旧駆除班のリーダー。今は駆除班をクビになりここでマスターをしていたのだった。
■一方、4Cでは逃げた千尋の足取りを追うとともに「新たな事件」の対策に乗り出していた。なんと人に感染する「新種のアマゾン細胞」(溶源性細胞と呼ばれている)が確認されたのだった。これまで怪人となって人を食うのはアマゾン細胞の持ち主だけ。だが、今度は普通の人間がアマゾンと化し人を食うようになる。速めに対策を打たねばとんでもないことになる。
■こうして4Cはお抱えの特殊部隊を使って調査を開始。そして後日「感染源」が特定される。あるメーカーのウォーターサーバーの水だった。そこで4Cは、特殊部隊の1つ黒崎武率いる「黒崎隊」に、逃げた千尋の回収→彼の隊への編入、ならびにサーバー水の水源調査にあたらせる。
■なお、この「黒崎隊」には元駆除班メンバーの福田隊員も所属。さらに回が進むうちアマゾン研究者で野座間製薬本部長・水澤令華の娘、水月も参戦。彼女は母・令華が生み出した「緑のアマゾン=悠」の「妹」だったが、「この状況では闘う選択肢もアリだと思う」という「兄」の言葉に心を動かされ入隊を決意した。もし「兄」がアマゾン怪人となり「人間の敵」となった時は、自らの手で愛する家族を楽にしてあげたい。それが彼女なりの「正義」なのだろう。
■ちなみに、この黒崎隊長役の三浦孝太さんは、初めて見た役者さんだがなかなかカッコイイ。物憂げな中に殺気が漂う演技に惹かれる。系譜でいえば、染谷将太、池松亮らの「死んだ目」系なのだろうが、年代が少し上なのでより凄みがあっていい。
■さておき、命を受けた黒崎隊は、すぐさま千尋の居場所を特定。そして現場に直行し、千尋と対峙することとなる。相対する千尋は、いきなり目の前に黒崎隊が現れ意表を突かれる中、ある存在に目がとまる。それは黒崎隊の女性隊員・イユ(白本彩奈)。見た目は女子高生のようだが片目は黄色の義眼で、終始「心ここにあらず」なたたずまい。そして「アマゾン」の声とともに怪人のような姿に変身してしまう。「自分と同じ種族なのか…」と驚く千尋。だが、同時に彼女に心惹かれてしまう。
■そんな彼は、その後、黒崎隊に回収され部隊の一員として働くことになるのだが、そこで不思議な少女「イユの真実」を知ることとなる。
■彼女は「死体にアマゾン細胞を埋め込むことで誕生した新しい生命体」だった
■イユは、アマゾン化した実の父親に殺されてしまい食われそうになっていた(彼女が義眼なのは父に目玉を食われたため。「やがて~星が降る~」と鼻歌を歌いながら実の娘の目玉に食らいつく父の姿は、どうしようもなくグロテスクだ、、)。だが、駆けつけた黒崎と、なぜかそこに現れた悠により、父親は駆除。肉体はかろうじて残っていたため、そこにアマゾン細胞が注入され「新たな生命体」として「生き返る」こととなった。
■なお、隊長・黒崎は、ドラマ内では終始アマゾンに冷淡な態度を示すがその原点はここにある。「わが娘を食う父」という人間にとって最もおぞましい事態を引き起こした「アマゾン」になど絶対に共感できない。そんな「新しい生命との共感不可能性」が彼の態度の核にある。
■だが。「生き返った」とはいうものの、イユは痛みも感じなければ、感情もない。ただただ命令を「了解」と受け入れるだけ。それでも、彼女に心ひかれた千尋は、なんとかして「生前の姿」、つまり「意志や感情を持った一人の少女・イユ」を取り戻したいと考えるようになる。とはいえ、彼女を遊園地に連れ出すなど千尋は試行錯誤を重ねるがイユは一向に「死体」のまま。さらには、黒崎に「あいつはアマゾンだが駆除しちゃいけないやつなんだ」と教えられ、「千尋、駆除しちゃいけないやつ」の「名ゼリフ」が飛び出す状態。自分が心惹かれた少女から「駆除しちゃいけないやつ」というあんまりな覚え方をされる男子の心中を察するや胸が痛む(笑)
■一方…「アマゾン-人感染」の感染源を特定した黒崎隊だったが、時を同じくして、山中の水源に向かおうとしている者たちが。志藤、望、三崎…旧駆除班の面々だった。彼らもまた「新種のアマゾン細胞」の存在を知り、再び「アマゾン狩り」に立ち上がる。「自分でもなぜ立ち上がるのか分からない。でも放ってもおけない。俺達はそれくらいアマゾンに関わりすぎてしまった」と漏らす志藤。
■だが、水源にたどり着いた彼らの前に現れたのはマモル隊員。アマゾン細胞の持ち主でありながら、かつて駆除班で志藤たちと共に「アマゾン駆除」を行ってきた「仲間」だった。水源に「新種のアマゾン細胞」を混入した悪魔の正体は彼。ある場所で「新細胞を持つ生物の肉片」を見つけた彼は、これを使い、自分たちの仲間を大量虐殺した人間への復讐を企てたのだった。
■前作では、体は青年でも小学生程度の知能しかなかった彼が「邪魔しないでもらえないかな、志藤くん!」とすごむ姿はかなりの超展開だ。
■こうしてかつての「仲間たち」、旧駆除班とマモル率いるアマゾン軍は5年の時を経て、今度は互いに互いの命を狙い合う「敵同士」になってしまう…。それでも…命を奪おうと旧駆除班に食らいつくも、嘔吐してしまうマモル。かつて培った「共感可能性」が邪魔をする。「敵」なのにどうしても「殺せない」。
■それに加えて、この両者の間に、突然現れた悠が介入し始め、事態は複雑化の一途をたどっていく…
■さらに…複雑化する事態をさらに複雑にする存在が。突如、千尋の目の前に現れた「赤いアマゾン」鷹山仁だった。彼こそ、千尋の実の父。「season1」での悠との壮絶な戦いの後、生死の境をさまよい錯乱状態となった彼は、狂いゆく意識の中で、同行していた七羽との間に子供を作ってしまう。
■その後、錯乱状態を脱した彼だが事態を知ると絶望の淵に叩き落される。「アマゾンを1匹残らず消去して自分も消えようと思っていたのに…そんな自分が新たなアマゾンを生み出してしまうなんて…」
■そんな仁が何をするか察した七羽は、無言でおなかの子供とともに彼の前から姿を消す。そして、数か月後、彼女から生まれたのが千尋だった(なお、仁の大学時代の恩師がイユの父親。そして仁を追っていた悠は、その過程でイユの父と出会う。アマゾン化した父によるイユ殺しの現場に悠が居合わせたのはそのためだった)。
■千尋は人間とアマゾンが融合した特殊な細胞を持つ少年。おどろくべき速度で成長し、わずか5年で高校生のような姿にまでなった。
■そして後に明らかになるが、彼の特殊な細胞こそ「溶源性細胞」。マモルがみつけた「新細胞でできた生物の肉片」は、千尋のものだったようなのだ。
■「千尋、お前を殺す!」、突然現れた仁は狂ったように「我が子」に襲い掛かる。前作では、一貫した論理に基づき自らの罪の清算を行う彼の方が、その時々で感情に流され「狩るべきもの/守るべきもの」の姿を見失う悠に比べ、とても倫理的にみえた。だが、今作ではかつて倫理的にみえていた仁が、もはや「論理にからめとられた狂人」のようにしかみえない。逆に「合意できる正義」など容易に見出しようのない状況の中、その場、その場で、悲しみを最小限に食い止めようとアドホックに動く悠の方に頼もしさを覚えてしまう。非常によく考えられた描き方だと思う。
■「仁さん、もう罪は十分償いましたよ。自分が壊れてるのが気づかないんですか?自分の家族でしょ」と諭す悠に「家族?そんな上等なもんが俺に持てるかよ!」と耳を貸さない仁。「俺は罪深い存在なんだ。だから最愛の家族を殺すほど罪深いことをするのだ」と自分に言い聞かせるように、自分を罰して、罰して、その果てに息子を殺めようとする仁…「論理にからめとられた狂人」の背後に透かし見られる深い悲しみに胸が締め付けられる。
■こうして、前作以上に分岐するいくつもの「正義」が時に交わり、時にぶつかり合いながら物語は展開。もはや「合意点」をそこに見出すことなど不可能な状態に。「熟議」などおもちゃでしかないような状態に。そして、死んだと思われていた千尋の母、七羽が「新種のアマゾン怪人」として皆の目の前に現れるという「超超展開」を挟みつつ、ドラマは、悲しみ、切なさ、希望?…いくつもの感情を喚起する「得も言われぬ」結末へとなだれ込んでいく…
■人間をどうするか?アマゾンをどうするか?新種のアマゾンをどうするか?…登場人物が増えるにつれ、立場は次々と分岐していく。しかも、時間が経つにつれ思いも変転していく…だから、ざっと図示しただけでも分かるとおり、誰ひとりとして立場が重ならない。
◆図の説明◆
➀「緑のアマゾン」悠
→アマゾン族は、攻撃してこないなら守る。攻撃してくるなら殺す。人間も攻撃してこないなら守る。攻撃してくるなら殺す。新アマゾン族も、攻撃してこないなら守る。だが、ラストに態度変更…?
②「赤のアマゾン」仁
→人間は守る。だが、アマゾン族、新アマゾン族ともに、無条件で全部殺す。息子だろうと七羽だろうと殺す。そして自殺。手続き的正義の自動機械=リベラルの狂気。
③「青のアマゾン」・千尋。
→自分が新種アマゾンだとしても生きたい。イユを守りたい。そして、自分とイユを攻撃してくるならアマゾン族も人間も殺す。
④「黒いアマゾン」・イユ。
→意思はない。どんなものでも命令に従うのみ。だが途中で自我が回復?命令があれば人間、アマゾン、新アマゾンともに殺す。だが、千尋は殺さない。
⑤「モグラアマゾン」・マモル。
→アマゾン族を絶滅に追いやる人間は全員殺す。全員か条件つきかで悠と敵対だが、共同生活した旧駆除班は殺せない。
⑥黒崎(派)
→人間は守る。人間を攻撃する恐れのあるアマゾン族は、攻撃してこようが来まいが全て殺す。新アマゾンは「上の命令」なので殺さない。「死にたくない」が原理だったが…
⑦旧駆除班(志藤、望、三崎)
→人間は守る。人間を攻撃するアマゾン族、新アマゾン族は「金になるなら」殺す。 だが、共同生活をしていたマモルは金でも殺せない。「正義になるな」が正義。
⑧福田隊員(旧駆除班→黒崎派)
→人間は守る。人間を攻撃するアマゾン族は殺す。新アマゾンは命令で殺さない。 だが、母が新アマゾン化し、我が手で殺めてからは、アマゾン族は、攻撃してこようが来まいが全て殺すに変わる。「人/アマゾンの分離共存は、自分の手で殺めることから逃げる責任逃れだった。」
⑨水月(悠→新駆除班)
→人間を攻撃する恐れのあるアマゾン族、新アマゾン族は、攻撃してこようが来まいが全て殺すが原則。よって悠も殺しのターゲットとなるが、結論がでない自分が生き残るためには自分の手で自分の生き残りの敵を殺めることが正義
⑩水澤令華(悠の「母」)
→人間は守る。アマゾン族はできのいい「悠」のみ守り、残りは殲滅。新アマゾンも殲滅。
⑪ノザマ製薬会長
→生物は生き残ろうと思えば、その阻害要因になる敵を殲滅するのは「自然の理」。強い生物が勝って生き残れば、どれが滅び、どれが生き残ろうがよい。たとえ自分が食われる側になっても「自然の理」を推し進めるのなら本望。
■さらに。「season1」では、こうした正義の分岐を“とりあえず”食い止める鍵を握るものとして「共感」「虚構」が描かれていた。だが本作ではその「共感」「虚構」こそが登場人物たちを苦悩へと追いやっていく。
■自分たちを絶滅に追いやる人間が憎くて仕方ないのに、「共感」ゆえに殺せず苦悩するマモル(逆も真なり。旧駆除班も同様だ)。
■最も「共感」を寄せていた悠を殺すことになり苦悩する水月(逆も真なり。悠も苦悩する)。
■マモルに「共感」を寄せていたせいで「殺すべき時に殺せなかった」。それゆえ彼の復讐のせいで最愛の母がアマゾン化し、自らの手で親を殺さねばならなくなった福田。その苦悩たるや計り知れない。
■そして「共感不能な敵」���生み出したことが罪なのではない。むしろ「敵なのに共感可能」なものを生み出したことが大罪なのだとして狂気に追いやられていく仁…
■では、どうすればよいのか?極論すれば「生きるために虚構を捨てる」か「虚構のために生きることを捨てる」か、ではないか?
■そのことは本作のラストで描かれた「生きたいか?死にたくないか?」を巡る印象的なシーンでも示唆されていないか?
■最終話で野座間製薬会長から「生物は生き残ろうと思えば、その阻害要因になる敵を殲滅するのは自然の理。強い生物が勝って生き残れば、どれが滅び、どれが生き残ろうがよい。たとえ自分が食われる側になっても“自然の理”を推し進めるのならそれは本望。」という言葉を聞いた黒崎は、部下の植盛とこんな会話を交わす。
■「お前、死にたくないって思ったことがあるか?」「今がそうですけど」
■「じゃあお前、生きたいと思ったことがあるか?」「同じじゃないですか?」
■首をかしげる植盛を前に、黒崎は銃を置きどこかに行ってしまう。
■「生きたい」と「死にたくない」…どう違うのか?自分にもよく分からない。ただ、「死にたくない」には「苦痛の回避」のニュアンスがある。それに対し「生きたい」には「苦痛の回避」をも厭わない衝動を感じる。それは本作でも何度も描かれる「食べたい」にも似ている。「食べたい」ときは「これを食べないと餓死するし、それは不利だ」などと論理的に考えてはいない。とにかく食べたい。
■この違いによるならば、「生きたい」は「生きるために虚構を捨てる」に対応し「死にたくない」は「虚構のために生きることを捨てる」に対応しないか。
■「共感」「虚構」を守れば、「生きるために殺す」ことが「苦痛」や「罪」だと感じられるようになり、ポジティブに「生きる」ことができない。だから「生きたい」を徹底するなら「虚構」を捨てなくてはいけない。
■一方、人間は単体では生きられない。だから「共感」「虚構」が必要とされた。だがその「共感」が「他者を殺して生きることの苦痛」を引き起こしてしまう。だからその苦痛を回避するべく、先述したようなやり方で苦痛をアウトソースする。そして「苦痛の回避」=「死にたくない」の原理で生きるようになる。つまりは、ポジティブに「生きる」ことを捨てなくてはならなくなる。
■もちろん、「生きるために虚構を捨てる」も「虚構のために生きることを捨てる」先述したように極論であって、本当に実行すれば、いずれにしても死んでしまう。もしくは、「共感」は守りつつも、それが引き起こす「他者を殺して生きることの苦痛」を他者に押し付けて回避し「不正義」に生きるしかなくなる(今の我々だ)。
■だから程度問題になるしかないが、逆に「どの程度、誰がどっち側なのか?」で各登場人物の立場を整理できると思う。
A:人間との共感(虚構)を捨てて生きる(生きたい)
B:人間との共感(虚構)を持って「生きる」を捨てる(死にたくない)
…として、登場人物を図示すると…
■ここから、何を読み取るべきか?やはり際立った立場に注目するべきだろう。とすれば、会長、千尋、仁…ということになる。
■やはり、ここはドラマの主人公、千尋に注目したい。
■「生きたい」はドラマの中で、彼が何度も叫び続けた言葉でもある。人を見ると食いたくなってしまう自分、自分の意志でなく覚醒してしまい4C内を地獄絵図にしてしまう自分、そして人類に有害な存在だとして追い立てられる自分…新種のアマゾンという自らの境遇を嫌悪し、呪いながらもその言葉を叫び続けた。
■そして、ラストで仁と悠に追い詰められ「自分は人類と共存不可能な存在だ」と自ら悟った時でさえ「それでも俺は生きたい。だから闘う!」と叫び、2人に襲い掛かり、散って行った…。
■その姿は、「生物は生き残ろうと思えば、その阻害要因になる敵を殲滅するのは自然の理」と言い放つクレイジーな会長の言葉に限りなくにじり寄っていく
■たしかに、生きよう、生きようとして目の前の相手に挑みかかる姿には「他者を殺して生きることの苦痛」を乗り越える強い衝動を感じる。
■だが彼は生きようとすればするほど目の前の相手を殺すしかなくなり、人との共存可能性(虚構の共有可能性)を失っていく。
■やはり「生きるために虚構を捨て」ても絶望…「死にたくないために虚構を守って」も「他者を殺して生きることの苦痛」にさいなまれ「この世に生まれたことが消えない罪」となり絶望…しかないのか?
■だが、教会でのシーンをみると少し印象が変わる。
■そこは七羽が千尋を産み落とした場所だが、祭壇の上には散っていった千尋のベルトと同じく彼との逃亡中に命を落としたイユの腕輪が。
■ドラマの中で何度も「意志や感情を持った一人の少女・イユ」を取り戻そうとして失敗し続けた千尋。だが、最後の最期でイユは意志を取り戻したかにみえ、千尋との間に「共感可能性」が生まれたかにみえた。
■その後、あえなく死んでしまったが(といっても元から死んでいたのだが)、ベルトと腕輪のシーンをみると「その続き」が別の世界(来世?)で始まっているようにもみえる。
■「一体、おまえは何が言いたいのか?」と思うかもしれない。何が言いたい��といえばこうだ。つまり、現世+来世という今とは別の時間感覚を導入することで、千尋は「生きたい」を貫徹しながらも「(イユとの)共感可能性」を確保したようにみえる、と言いたい。
■今とは別の時間感覚(たとえば輪廻転生)を導入すれば「生きるために虚構を捨て」ても絶望…「死にたくないために虚構を守って」も「この世に生まれたことが消えない罪」となり絶望…を乗り越えられるのではないか、と。
■いや、すごいところまで来てしまった…と我ながら思う。しかし、たとえば近年、人工知能研究が発達したことで、AIに機械学習をさせればレンブラントの"新作"を出力させることができるようになった。生前の彼の作品からいくつものデータを取り込むことで、「今彼が生きていたら、たとえばリンゴをこういう風に描くだろう」という作風の再現が可能になったというのだ。そうだとするなら、彼は人工知能という形で「今も生きている」と言えなくもない。そして、こうしたことがやがて常態化していけば、人間の死生観や、生と死の時間感覚も変化するかもしれない。
■だとするなら、これからどんな世界がやってくるか分からない以上「宗教だから」「○○だから」といって「思考のカード」は捨てるべきではない、と思う。どうやらドラマは「season3」に続くことが決まったようだ。だから、今後も、あらゆる「思考のカード」を用意して、次作の配信を待ちたい。
◆エンディングテーマ「DIE SET DOWN」
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144:紅葉の真っ赤な絨毯がお出迎えしてくれます。 東京大学大学院理学系研究科付属植物園/小石川植物園(東京都文京区)
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